よめる文庫

セロ弾きのゴーシュ

宮沢賢治みやざわけんじ)・1989

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

原文: ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。
ゴーシュは町の映画館でチェロを弾く担当でした。
原文: けれどもあんまり上手でないという評判でした。
でも、あまり上手じゃないという評判でした。
原文: 上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
上手じゃないどころか、実は仲間の楽団員の中でいちばん下手だったので、いつも楽長にどやされていました。
原文: ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲こうきょうきょくの練習をしていました。
昼すぎ、みんなは楽屋に丸く並んで、今度の町の音楽会に出す第六交響曲の練習をしていました。
原文: トランペットは一生けん命歌っています。
トランペットは一生懸命歌っています。
原文: ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
バイオリンも二声、風のように鳴っています。
原文: クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
クラリネットもボーボーとそれに加わっています。
原文: ゴーシュも口をりんと結んでさらのようにして楽譜がくふを見つめながらもう一心に弾いています。
ゴーシュも口をきつく結んで目を皿のようにして楽譜を見つめながら、もう必死に弾いています。
原文: にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。
突然、パタッと楽長が両手を打ちました。
原文: みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。
みんなぴたりと演奏をやめて、静まりかえりました。
原文: 楽長がどなりました。
楽長が怒鳴りました。
原文: 「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
「チェロが遅れた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
原文: みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。
みんなは今の少し前のところからやり直しました。
原文: ゴーシュは顔をまっ赤にして額にあせを出しながらやっといまわれたところを通りました。
ゴーシュは顔を真っ赤にして額に汗をかきながら、やっと今言われたところを乗り越えました。
原文: ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっとちました。
ほっと安心しながら続けて弾いていると、楽長がまた手をパッと打ちました。
原文: 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」
「チェロっ。音程が合っていない。困るなあ。僕はきみにドレミファを教えるような暇はないんだがなあ。」
原文: みんなは気の毒そうにしてわざとじぶんの譜をのぞきんだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。
みんなは気の毒そうにしながら、わざと自分の楽譜をのぞき込んだり自分の楽器をはじいてみたりしています。
原文: ゴーシュはあわてて糸を直しました。
ゴーシュはあわてて弦を調整しました。
原文: これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。
これは実はゴーシュも悪いのですが、チェロ自体もずいぶんひどいものでした。
原文: 「今の前の小節から。はいっ。」
「今の前の小節から。はいっ。」
原文: みんなはまたはじめました。
みんなはまた始めました。
原文: ゴーシュも口をまげて一生けん命です。
ゴーシュも口をへの字に曲げて必死です。
原文: そしてこんどはかなり進みました。
そして今度はかなり進みました。
原文: いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。
いい感じだと思っていると、楽長が脅すような格好でまたパタッと手を打ちました。
原文: またかとゴーシュはどきっとしましたがありがたいことにはこんどは別の人でした。
またかとゴーシュはドキッとしましたが、ありがたいことに今度は別の人でした。
原文: ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたようにわざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考えるふりをしていました。
ゴーシュはそこで、さっき自分のときにみんながしたように、わざと自分の楽譜に目を近づけて何か考えるふりをしていました。
原文: 「ではすぐ今の次。はいっ。」
「ではすぐ今の次。はいっ。」
原文: そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんとんでどなり出しました。
よしと思って弾き出したかと思うと、いきなり楽長が足をドンと踏んで怒鳴り出しました。
原文: 「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶かなぐつかじだの砂糖屋の丁稚でっちなんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目めんもくはどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。おこるも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでもきみだけとけたくつのひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝こうきあるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。では今日は練習はここまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれたまえ。」
「だめだ。まるでなっていない。このあたりは曲の心臓なんだ。それがこんなにガサガサした音で。みんな、演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっている僕らが、あの金物屋の職人や砂糖屋の丁稚なんかの寄り集まりに負けてしまったら、いったい僕らの面目はどうなるんだ。おいゴーシュ君、きみには困るんだがなあ。表現というものがまるでできていない。怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと他の楽器と合わないんだよなあ。いつでもきみだけ靴ひもをほどいたままみんなの後をついて歩いているみたいなんだ。困るよ、しっかりしてくれないとね。輝かしい僕らの金星音楽団がきみ一人のせいで悪評をとるようなことになったら、みんなにも本当に申し訳ないからな。では今日の練習はここまで、休んで六時にはきっかりボックスへ入ってくれ。」
原文: みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。
みんなはおじぎをして、それからタバコをくわえてマッチをすったり、どこかへ出て行ったりしました。
原文: ゴーシュはその粗末そまつはこみたいなセロをかかえてかべの方へ向いて口をまげてぼろぼろなみだをこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもいちど弾きはじめました。
ゴーシュはそのボロボロの箱みたいなチェロを抱えて壁の方を向き、口をへの字にしてぽろぽろ涙をこぼしましたが、気を取り直して、自分一人だけで今やったところをはじめから静かにもう一度弾き始めました。
原文: その晩おそくゴーシュは何かおおきな黒いものをしょってじぶんの家へ帰ってきました。
その晩遅く、ゴーシュは何か大きな黒いものを背負って自分の家へ帰ってきました。
原文: 家といってもそれは町はずれの川ばたにあるこわれた水車小屋で、ゴーシュはそこにたった一人ですんでいて午前は小屋のまわりの小さな畑でトマトのえだをきったり甘藍キャベジの虫をひろったりしてひるすぎになるといつも出て行っていたのです。
家といっても、それは町はずれの川べりにある壊れかけた水車小屋で、ゴーシュはそこにたった一人で暮らしていて、午前中は小屋の周りの小さな畑でトマトの枝を切ったりキャベツの虫を取ったりして、昼すぎになるといつも出かけて行くのでした。
原文: ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけるとさっきの黒い包みをあけました。
ゴーシュが家に入って明かりをつけると、さっきの黒い包みを開けました。
原文: それは何でもない。
中には大したものは入っていません。
原文: あの夕方のごつごつしたセロでした。
あの夕方のごつごつしたチェロでした。
原文: ゴーシュはそれをゆかの上にそっと置くと、いきなりたなからコップをとってバケツの水をごくごくのみました。
ゴーシュはそれを床の上にそっと置くと、いきなり棚からコップを取ってバケツの水をごくごく飲みました。
原文: それから頭を一つふって椅子いすへかけるとまるでとらみたいないきおいでひるの譜を弾きはじめました。
それから頭を一つ振って椅子に座ると、まるでトラみたいな勢いで昼間の楽譜を弾き始めました。
原文: 譜をめくりながら弾いては考え考えては弾き一生けん命しまいまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごうごうごう弾きつづけました。
楽譜をめくりながら弾いては考え、考えては弾き、一生懸命最後まで行くと、またはじめからいくどもいくどもゴウゴウ弾き続けました。
原文: 夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄ものすごい顔つきになりいまにもたおれるかと思うように見えました。
夜中もとうに過ぎて、もう自分が弾いているのかどうかもわからないようになり、顔も真っ赤になり目もすっかり充血して、とても恐ろしい顔つきになり、今にも倒れそうに見えました。
原文: そのときたれかうしろのをとんとんとたたくものがありました。
そのとき誰かが後ろの扉をトントンと叩きました。
原文: 「ホーシュ君か。」
「ゴーシュ君か。」
原文: ゴーシュはねぼけたようにさけびました。
ゴーシュは寝ぼけたように叫びました。
原文: ところがすうと扉をしてはいって来たのはいままで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫みけねこでした。
ところがスウッと扉を押して入ってきたのは、今まで五、六回見たことのある大きな三毛猫でした。
原文: ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重そうに持って来てゴーシュの前におろして云いました。
ゴーシュの畑から取ってきた半分しか熟していないトマトをいかにも重そうに持ってきて、ゴーシュの前に置いて言いました。
原文: 「ああくたびれた。なかなか運搬うんぱんはひどいやな。」
「ああ疲れた。なかなか運ぶのはきついもんだな。」
原文: 「何だと」
「何だと」
原文: ゴーシュがききました。
ゴーシュが聞きました。
原文: 「これおみやです。たべてください。」
「これ、お土産です。食べてください。」
原文: 三毛猫が云いました。
三毛猫が言いました。
原文: ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。
ゴーシュは昼間からのイライラを一気にどなりつけました。
原文: 「誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いままでもトマトのくきをかじったりけちらしたりしたのはおまえだろう。行ってしまえ。ねこめ。」
「誰がお前にトマトなんか持ってこいと言った。第一、おれがお前らの持ってきたものなんか食うか。それにそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもなってないやつをもぎ取って。今までもトマトの茎をかじったりけちらかしたりしたのはお前だろう。出て行け。猫め。」
原文: すると猫はかたをまるくして眼をすぼめてはいましたが口のあたりでにやにやわらって云いました。
すると猫は肩を丸めて目を細めてはいましたが、口のあたりでニヤニヤ笑って言いました。
原文: 「先生、そうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「先生、そんなにお怒りになっては、お体に障ります。それよりシューマンのトロイメライを弾いてごらんなさい。聞いてあげますから。」
原文: 「生意気なことを云うな。ねこのくせに。」
「生意気なことを言うな。猫のくせに。」
原文: セロ弾きはしゃくにさわってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考えました。
チェロ弾きはしゃくにさわって、この猫をどうしてやろうかとしばらく考えました。
原文: 「いやご遠慮えんりょはありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです。」
「いや、ご遠慮はありません。どうぞ。私はどうも先生の音楽を聞かないと眠れないんです。」
原文: 「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」
原文: ゴーシュはすっかりまっ赤になってひるま楽長のしたように足ぶみしてどなりましたがにわかに気を変えて云いました。
ゴーシュはすっかり真っ赤になって、昼間の楽長のように足踏みして怒鳴りましたが、急に気を変えて言いました。
原文: 「では弾くよ。」
「では弾くよ。」
原文: ゴーシュは何と思ったかにかぎをかって窓もみんなしめてしまい、それからセロをとりだしてあかしを消しました。
ゴーシュはどう思ったのか、扉に鍵をかけて窓も全部閉めてしまい、それからチェロを取り出して明かりを消しました。
原文: すると外から二十日過ぎの月のひかりがへやのなかへ半分ほどはいってきました。
すると外から二十日過ぎの月の光が部屋の中に半分ほど差し込んできました。
原文: 「何をひけと。」
「何を弾けと。」
原文: 「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」
「トロイメライ、ロマンチック、シューマン作曲。」
原文: 猫は口をいて済まして云いました。
猫は口を拭いてすまして言いました。
原文: 「そうか。トロメライというのはこういうのか。」
「そうか。トロイメライというのはこういうのか。」
原文: セロ弾きは何と思ったかまずはんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめました。
チェロ弾きはどう思ったのか、まずハンカチを引き裂いて自分の耳の穴にぎっしり詰めました。
原文: それからまるであらしのようないきおいで「印度インド虎狩とらがり
それからまるで嵐のような勢いで「インドの虎狩り」
原文: という譜を弾きはじめました。
という楽譜を弾き始めました。
原文: すると猫はしばらく首をまげて聞いていましたがいきなりパチパチパチッと眼をしたかと思うとぱっと扉の方へ飛びのきました。
すると猫はしばらく首をかしげて聞いていましたが、いきなりパチパチパチッと目をしたかと思うと、パッと扉の方へ飛びのきました。
原文: そしていきなりどんと扉へからだをぶっつけましたが扉はあきませんでした。
そしていきなりドンと扉に体をぶつけましたが、扉は開きませんでした。
原文: 猫はさあこれはもう一生一代の失敗をしたという風にあわてだして眼や額からぱちぱち火花を出しました。
猫はさあこれはもう一生一代の失敗をしたという様子であわて出して、目や額からパチパチ火花を出しました。
原文: するとこんどは口のひげからも鼻からも出ましたから猫はくすぐったがってしばらくくしゃみをするような顔をしてそれからまたさあこうしてはいられないぞというようにはせあるきだしました。
すると今度は口のひげからも鼻からも火花が出たので、猫はくすぐったがってしばらくくしゃみをするような顔をして、それからまたさあこうしてはいられないぞというようにかけ回り出しました。
原文: ゴーシュはすっかり面白おもしろくなってますます勢よくやり出しました。
ゴーシュはすっかり面白くなって、ますます勢いよく弾き出しました。
原文: 「先生もうたくさんです。たくさんですよ。ご生ですからやめてください。これからもう先生のタクトなんかとりませんから。」
「先生もうたくさんです。たくさんですよ。苦しいですからやめてください。これからもう先生のタクトなんか取りませんから。」
原文: 「だまれ。これから虎をつかまえる所だ。」
「黙れ。これから虎を捕まえるところだ。」
原文: 猫はくるしがってはねあがってまわったり壁にからだをくっつけたりしましたが壁についたあとはしばらく青くひかるのでした。
猫は苦しがって跳ね上がって回ったり壁に体をぶつけたりしましたが、壁についた跡はしばらく青く光るのでした。
原文: しまいは猫はまるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュをまわりました。
最後には猫はまるで風車のようにグルグルグルグルゴーシュのまわりを回りました。
原文: ゴーシュもすこしぐるぐるして来ましたので、
ゴーシュも少しくるくるしてきたので、
原文: 「さあこれで許してやるぞ」
「さあ、これで許してやるぞ」
原文: と云いながらようようやめました。
と言いながらようやくやめました。
原文: すると猫もけろりとして
すると猫もけろりとして
原文: 「先生、こんやの演奏はどうかしてますね。」
「先生、今夜の演奏はどうかしていますね。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: セロ弾きはまたぐっとしゃくにさわりましたが何気ない風で巻たばこを一本だして口にくわえそれからマッチを一本とって
チェロ弾きはまたグッとしゃくにさわりましたが、何気ない顔で巻きタバコを一本出して口にくわえ、それからマッチを一本取って
原文: 「どうだい。工合ぐあいをわるくしないかい。舌を出してごらん。」
「どうだい。具合が悪くならないかい。舌を出してごらん。」
原文: 猫はばかにしたようにとがった長い舌をベロリと出しました。
猫はバカにしたように尖った長い舌をベロリと出しました。
原文: 「ははあ、少しれたね。」
「ははあ、少し荒れているね。」
原文: セロ弾きは云いながらいきなりマッチを舌でシュッとすってじぶんのたばこへつけました。
チェロ弾きはそう言いながら、いきなりマッチを舌でシュッとすって自分のタバコに火をつけました。
原文: さあ猫はおどろいたの何の舌を風車のようにふりまわしながら入り口のへ行って頭でどんとぶっつかってはよろよろとしてまたもどって来てどんとぶっつかってはよろよろまた戻って来てまたぶっつかってはよろよろにげみちをこさえようとしました。
さあ猫は驚いたの何の、舌を風車のように振り回しながら入り口の扉へ行って頭でドンとぶつかっては、よろよろしながらまた戻ってきてドンとぶつかっては、よろよろまた戻ってきてまたぶつかってはよろよろと、逃げ道を作ろうとしました。
原文: ゴーシュはしばらく面白そうに見ていましたが
ゴーシュはしばらく面白そうに見ていましたが
原文: 「出してやるよ。もう来るなよ。ばか。」
「出してやるよ。もう来るなよ。ばか。」
原文: セロ弾きは扉をあけて猫が風のようにかやのなかを走って行くのを見てちょっとわらいました。
チェロ弾きは扉を開けて、猫が風のように草むらの中を走って行くのを見てちょっと笑いました。
原文: それから、やっとせいせいしたというようにぐっすりねむりました。
それから、やっとせいせいしたというようにぐっすり眠りました。
原文: 次の晩もゴーシュがまた黒いセロの包みをかついで帰ってきました。
次の晩もゴーシュがまた黒いチェロの包みを背負って帰ってきました。
原文: そして水をごくごくのむとそっくりゆうべのとおりぐんぐんセロを弾きはじめました。
そして水をごくごく飲むと、そっくり昨晩のとおりぐんぐんチェロを弾き始めました。
原文: 十二時は間もなく過ぎ一時もすぎ二時もすぎてもゴーシュはまだやめませんでした。
十二時はすぐ過ぎ、一時も過ぎ、二時も過ぎてもゴーシュはまだやめませんでした。
原文: それからもう何時だかもわからず弾いているかもわからずごうごうやっていますとたれか屋根裏をこっこっと叩くものがあります。
それからもう何時かもわからず弾いているかどうかもわからずゴウゴウやっていると、誰かが屋根裏をコッコッと叩くものがいます。
原文: 「猫、まだこりないのか。」
「猫、まだこりないのか。」
原文: ゴーシュが叫びますといきなり天井てんじょうの穴からぽろんと音がして一ぴきの灰いろの鳥が降りて来ました。
ゴーシュが叫ぶと、いきなり天井の穴からポロンと音がして一羽の灰色の鳥が降りてきました。
原文: 床へとまったのを見るとそれはかっこうでした。
床に止まったのを見ると、それはカッコウでした。
原文: 「鳥まで来るなんて。何の用だ。」
「鳥まで来るなんて。何の用だ。」
原文: ゴーシュが云いました。
ゴーシュが言いました。
原文: 「音楽を教わりたいのです。」
「音楽を教わりたいのです。」
原文: かっこう鳥はすまして云いました。
カッコウはすまして言いました。
原文: ゴーシュは笑って
ゴーシュは笑って
原文: 「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」
「音楽だと。お前の歌は、カッコウ、カッコウというだけじゃないか。」
原文: するとかっこうが大へんまじめに
するとカッコウがとても真剣に
原文: 「ええ、それなんです。けれどもむずかしいですからねえ。」
「ええ、それなんです。でも難しいんですよ。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: 「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさんくのがひどいだけで、なきようは何でもないじゃないか。」
「難しいもんか。お前たちのはたくさん鳴くのが大変なだけで、鳴き方は何でもないじゃないか。」
原文: 「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」
「ところがそれが難しいんです。たとえばカッコウとこう鳴くのと、カッコウとこう鳴くのとでは、聞いていてもずいぶん違うでしょう。」
原文: 「ちがわないね。」
「違わないね。」
原文: 「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。」
「ではあなたにはわからないんです。私たちの仲間なら、カッコウと一万回言えば一万回全部違うんです。」
原文: 「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれのところへ来なくてもいいではないか。」
「好きにしろよ。そんなにわかっているなら何もおれのところへ来なくてもいいじゃないか。」
原文: 「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」
「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」
原文: 「ドレミファもくそもあるか。」
「ドレミファも何もあるか。」
原文: 「ええ、外国へ行く前にぜひ一度いるんです。」
「ええ、外国へ行く前にぜひ一度必要なんです。」
原文: 「外国もくそもあるか。」
「外国も何もあるか。」
原文: 「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」
「先生、どうかドレミファを教えてください。私がついて歌いますから。」
原文: 「うるさいなあ。そら三べんだけいてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」
「うるさいなあ。じゃあ三回だけ弾いてやるから、終わったらさっさと帰るんだぞ。」
原文: ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。
ゴーシュはチェロを取り上げてボロンボロンと弦を合わせて、ドレミファソラシドと弾きました。
原文: するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。
するとカッコウはあわてて羽をバタバタしました。
原文: 「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「違います、違います。そんなのじゃないんです。」
原文: 「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」
「うるさいなあ。ではお前やってごらん。」
原文: 「こうですよ。」
「こうですよ。」
原文: かっこうはからだをまえに曲げてしばらく構えてから
カッコウは体を前に曲げてしばらく構えてから
原文: 「かっこう」
「カッコウ」
原文: と一つなきました。
と一つ鳴きました。
原文: 「何だい。それがドレミファかい。おまえたちには、それではドレミファも第六交響楽こうきょうがくも同じなんだな。」
「何だい。それがドレミファかい。お前たちには、それではドレミファも第六交響楽も同じなんだな。」
原文: 「それはちがいます。」
「それは違います。」
原文: 「どうちがうんだ。」
「どう違うんだ。」
原文: 「むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」
「難しいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」
原文: 「つまりこうだろう。」
「つまりこうだろう。」
原文: セロ弾きはまたセロをとって、かっこうかっこうかっこうかっこうかっこうとつづけてひきました。
チェロ弾きはまたチェロを取って、カッコウカッコウカッコウカッコウカッコウと続けて弾きました。
原文: するとかっこうはたいへんよろこんで途中とちゅうからかっこうかっこうかっこうかっこうとついてさけびました。
するとカッコウはとても喜んで途中からカッコウカッコウカッコウカッコウとついて叫びました。
原文: それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。
それももう一生懸命体を曲げていつまでも叫び続けるのです。
原文: ゴーシュはとうとう手が痛くなって
ゴーシュはとうとう手が痛くなって
原文: 「こら、いいかげんにしないか。」
「こら、いいかげんにしないか。」
原文: と云いながらやめました。
と言いながらやめました。
原文: するとかっこうは残念そうにをつりあげてまだしばらくないていましたがやっと
するとカッコウは残念そうに目を吊り上げてまだしばらく鳴いていましたが、やっと
原文: 「……かっこうかくうかっかっかっかっか」
「……カッコウカクウカッカッカッカッカ」
原文: と云ってやめました。
と言ってやめました。
原文: ゴーシュがすっかりおこってしまって、
ゴーシュはすっかり怒ってしまって、
原文: 「こらとり、もう用が済んだらかえれ」
「こら鳥、もう用が済んだら帰れ」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: 「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです。」
「どうかもう一度弾いてください。あなたのはいいようだけれど、少し違うんです。」
原文: 「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「何だと、おれがお前に教わっているんじゃないんだぞ。帰らないか。」
原文: 「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」
「どうかたった一度だけお願いです。どうか。」
原文: かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。
カッコウは頭を何度もコンコン下げました。
原文: 「ではこれっきりだよ。」
「ではこれっきりだよ。」
原文: ゴーシュは弓をかまえました。
ゴーシュは弓を構えました。
原文: かっこうは「くっ」
カッコウは「くっ」
原文: とひとつ息をして
と一つ息をして
原文: 「ではなるべく永くおねがいいたします。」
「ではなるべく長くお願いいたします。」
原文: といってまた一つおじぎをしました。
と言ってまた一つお辞儀をしました。
原文: 「いやになっちまうなあ。」
「いやになっちまうなあ。」
原文: ゴーシュはにが笑いしながら弾きはじめました。
ゴーシュは苦笑いしながら弾き始めました。
原文: するとかっこうはまたまるで本気になって「かっこうかっこうかっこう」
するとカッコウはまたまるで本気になって「カッコウカッコウカッコウ」
原文: とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。
と体を曲げて、じつに一生懸命叫びました。
原文: ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたがいつまでもつづけて弾いているうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。
ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたが、いつまでも続けて弾いているうちに、ふっと何だかこの鳥の方が本当のドレミファにはまっているかなという気がしてきました。
原文: どうも弾けば弾くほどかっこうの方がいいような気がするのでした。
弾けば弾くほどカッコウの方がいいような気がするのでした。
原文: 「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」
「えい、こんなばかなことをしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」
原文: とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
とゴーシュはいきなりぴたりとチェロをやめました。
原文: するとかっこうはどしんと頭をたたかれたようにふらふらっとしてそれからまたさっきのように
するとカッコウはドシンと頭を叩かれたようにフラフラッとして、それからまたさっきのように
原文: 「かっこうかっこうかっこうかっかっかっかっかっ」
「カッコウカッコウカッコウカッカッカッカッカッ」
原文: ってやめました。
と言ってやめました。
原文: それからうらめしそうにゴーシュを見て
それから恨めしそうにゴーシュを見て
原文: 「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」
「なぜやめたんですか。僕たちならどんな意気地のないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: 「何を生意気な。こんなばかなまねをいつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんじゃないか。」
「何を生意気な。こんなばかなまねをいつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜が明けるんじゃないか。」
原文: ゴーシュは窓を指さしました。
ゴーシュは窓を指さしました。
原文: 東のそらがぼうっと銀いろになってそこをまっ黒な雲が北の方へどんどん走っています。
東の空がぼんやりと銀色になり、そこを真っ黒な雲が北の方へどんどん走っています。
原文: 「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」
「ではお日さまが出るまでどうぞ。もう一度。ちょっとですから。」
原文: かっこうはまた頭を下げました。
カッコウはまた頭を下げました。
原文: だまれっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」
「黙れっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かないと、むしって朝飯に食ってしまうぞ。」
原文: ゴーシュはどんと床をふみました。
ゴーシュはドンと床を踏みました。
原文: するとかっこうはにわかにびっくりしたようにいきなり窓をめがけて飛び立ちました。
するとカッコウは急にびっくりしたようにいきなり窓をめがけて飛び立ちました。
原文: そして硝子ガラスにはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落ちました。
そしてガラスに激しく頭をぶつけて、バタッと下へ落ちました。
原文: 「何だ、硝子へばかだなあ。」
「何だ、ガラスへとびこむなんてばかだなあ。」
原文: ゴーシュはあわてて立って窓をあけようとしましたが元来この窓はそんなにいつでもするする開く窓ではありませんでした。
ゴーシュはあわてて立って窓を開けようとしましたが、もともとこの窓はそんなにいつでもスルスル開く窓ではありませんでした。
原文: ゴーシュが窓のわくをしきりにがたがたしているうちにまたかっこうがばっとぶっつかって下へ落ちました。
ゴーシュが窓枠をしきりにガタガタしているうちに、またカッコウがバッとぶつかって下へ落ちました。
原文: 見るとくちばしのつけねからすこし血が出ています。
見るとくちばしの付け根から少し血が出ています。
原文: 「いまあけてやるから待っていろったら。」
「今あけてやるから待っていろったら。」
原文: ゴーシュがやっと二寸ばかり窓をあけたとき、かっこうは起きあがって何が何でもこんどこそというようにじっと窓の向うの東のそらをみつめて、あらん限りの力をこめた風でぱっと飛びたちました。
ゴーシュがやっと六センチほど窓を開けたとき、カッコウは起き上がって何が何でも今度こそというようにじっと窓の向こうの東の空を見つめて、あらん限りの力をこめた様子でパッと飛び立ちました。
原文: もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたってかっこうは下へ落ちたまましばらく身動きもしませんでした。
もちろん今度は前よりひどくガラスにぶつかって、カッコウは下へ落ちたまましばらく身動きもしませんでした。
原文: つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出しましたらいきなりかっこうは眼をひらいて飛びのきました。
つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出したら、いきなりカッコウは目を開けて飛びのきました。
原文: そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。
そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。
原文: ゴーシュは思わず足を上げて窓をばっとけりました。
ゴーシュは思わず足を上げて窓をバッと蹴りました。
原文: ガラスは二三枚物すごい音してくだけ窓はわくのまま外へ落ちました。
ガラスが二、三枚ものすごい音で砕け、窓は枠ごと外へ落ちました。
原文: そのがらんとなった窓のあとをかっこうが矢のように外へ飛びだしました。
その大きく開いた窓の穴をカッコウが矢のように外へ飛び出しました。
原文: そしてもうどこまでもどこまでもまっすぐに飛んで行ってとうとう見えなくなってしまいました。
そしてどこまでもどこまでもまっすぐ飛んで行って、とうとう見えなくなってしまいました。
原文: ゴーシュはしばらくあきれたように外を見ていましたが、そのままたおれるようにへやのすみへころがってねむってしまいました。
ゴーシュはしばらくあっけにとられたように外を見ていましたが、そのまま倒れるように部屋の隅へ転がって眠ってしまいました。
原文: 次の晩もゴーシュは夜中すぎまでセロを弾いてつかれて水を一杯いっぱいのんでいますと、またをこつこつたたくものがあります。
次の晩もゴーシュは夜中過ぎまでチェロを弾いて疲れ、水を一杯飲んでいると、また扉をコツコツ叩くものがいます。
原文: 今夜は何が来てもゆうべのかっこうのようにはじめからおどかして追いはらってやろうと思ってコップをもったまま待ち構えてりますと、扉がすこしあいて一疋のたぬきの子がはいってきました。
今夜は何が来ても昨夜のカッコウのように最初からおどかして追い払ってやろうと思って、コップを持ったまま待ち構えていると、扉が少し開いて一匹の子タヌキが入ってきました。
原文: ゴーシュはそこでその扉をもう少し広くひらいて置いてどんと足をふんで、
ゴーシュはそこでその扉をもう少し広く開けておいて、ドンと足を踏んで、
原文: 「こら、狸、おまえは狸汁たぬきじるということを知っているかっ。」
「こら、タヌキ、お前はタヌキ汁ということを知っているかっ。」
原文: とどなりました。
と怒鳴りました。
原文: すると狸の子はぼんやりした顔をしてきちんと床へすわったままどうもわからないというように首をまげて考えていましたが、しばらくたって
するとタヌキの子はぼんやりした顔をして、きちんと床に座ったまま、どうもわからないというように首をかしげて考えていましたが、しばらくして
原文: 「狸汁ってぼく知らない。」
「タヌキ汁って、ぼく知らない。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: ゴーシュはその顔を見て思わずき出そうとしましたが、まだ無理にこわい顔をして、
ゴーシュはその顔を見て思わず吹き出しそうになりましたが、それでも無理に怖い顔をして、
原文: 「では教えてやろう。狸汁というのはな。おまえのような狸をな、キャベジや塩とまぜてくたくたとておれさまの食うようにしたものだ。」
「では教えてやろう。タヌキ汁というのはな、お前みたいなタヌキをな、キャベツや塩と混ぜてくたくたと煮ておれさまが食べるようにしたものだ。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: すると狸の子はまたふしぎそうに
するとタヌキの子はまた不思議そうに
原文: 「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人でこわくないから行って習えと云ったよ。」
「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人で怖くないから行って習えと言ったよ。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: そこでゴーシュもとうとう笑い出してしまいました。
そこでゴーシュもとうとう笑い出してしまいました。
原文: 「何を習えと云ったんだ。おれはいそがしいんじゃないか。それに睡いんだよ。」
「何を習えと言ったんだ。おれは忙しいんじゃないか。それに眠いんだよ。」
原文: 狸の子はにわかいきおいがついたように一足前へ出ました。
タヌキの子は急に勢いがついたように一歩前へ出ました。
原文: 「ぼくは小太鼓こだいこの係りでねえ。セロへ合わせてもらって来いと云われたんだ。」
「ぼくは小太鼓の担当でね。チェロに合わせてもらって来いと言われたんだ。」
原文: 「どこにも小太鼓がないじゃないか。」
「どこにも小太鼓がないじゃないか。」
原文: 「そら、これ」
「そら、これ」
原文: 狸の子はせなかから棒きれを二本出しました。
タヌキの子は背中から棒切れを二本出しました。
原文: 「それでどうするんだ。」
「それでどうするんだ。」
原文: 「ではね、『愉快ゆかいな馬車屋』を弾いてください。」
「ではね、『愉快な馬車屋』を弾いてください。」
原文: 「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。」
「何だ、愉快な馬車屋ってジャズか。」
原文: 「ああこのだよ。」
「ああ、この楽譜だよ。」
原文: 狸の子はせなかからまた一枚の譜をとり出しました。
タヌキの子は背中からまた一枚の楽譜を取り出しました。
原文: ゴーシュは手にとってわらい出しました。
ゴーシュは手に取って笑い出しました。
原文: 「ふう、変な曲だなあ。よし、さあ弾くぞ。おまえは小太鼓を叩くのか。」
「ふう、変な曲だなあ。よし、さあ弾くぞ。お前は小太鼓を叩くのか。」
原文: ゴーシュは狸の子がどうするのかと思ってちらちらそっちを見ながら弾きはじめました。
ゴーシュはタヌキの子がどうするのかと思ってチラチラそっちを見ながら弾き始めました。
原文: すると狸の子は棒をもってセロのこまの下のところを拍子ひょうしをとってぽんぽん叩きはじめました。
するとタヌキの子は棒を持ってチェロの駒の下のところを拍子を取りながらポンポン叩き始めました。
原文: それがなかなかうまいので弾いているうちにゴーシュはこれは面白おもしろいぞと思いました。
それがなかなかうまいので弾いているうちに、ゴーシュはこれは面白いぞと思いました。
原文: おしまいまでひいてしまうと狸の子はしばらく首をまげて考えました。
最後まで弾き終えると、タヌキの子はしばらく首をかしげて考えました。
原文: それからやっと考えついたというように云いました。
それからやっと考えがまとまったというように言いました。
原文: 「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいにおくれるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」
「ゴーシュさんはこの二番目の弦を弾くときに、不思議なくらい遅れるんだよね。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」
原文: ゴーシュははっとしました。
ゴーシュはハッとしました。
原文: たしかにその糸はどんなに手早く弾いてもすこしたってからでないと音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。
確かにその弦はどんなに素早く弾いても少ししてからでないと音が出ないような気が、昨夜からしていたのでした。
原文: 「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」
「いや、そうかもしれない。このチェロが悪いんだよ。」
原文: とゴーシュはかなしそうに云いました。
とゴーシュは悲しそうに言いました。
原文: すると狸は気の毒そうにしてまたしばらく考えていましたが
するとタヌキは気の毒そうにしてまたしばらく考えていましたが
原文: 「どこが悪いんだろうなあ。ではもう一ぺん弾いてくれますか。」
「どこが悪いんだろうなあ。ではもう一度弾いてくれますか。」
原文: 「いいとも弾くよ。」
「いいとも、弾くよ。」
原文: ゴーシュははじめました。
ゴーシュは始めました。
原文: 狸の子はさっきのようにとんとん叩きながら時々頭をまげてセロに耳をつけるようにしました。
タヌキの子はさっきのようにトントン叩きながら、時々頭を傾けてチェロに耳をつけるようにしました。
原文: そしておしまいまで来たときは今夜もまた東がぼうと明るくなっていました。
そして最後まで来たときは、今夜もまた東がぼんやりと明るくなっていました。
原文: 「ああ夜が明けたぞ。どうもありがとう。」
「ああ夜が明けた。どうもありがとう。」
原文: 狸の子は大へんあわてて譜や棒きれをせなかへしょってゴムテープでぱちんととめておじぎを二つ三つすると急いで外へ出て行ってしまいました。
タヌキの子はとても慌てて楽譜や棒切れを背中にしょってゴムテープでパチンと止め、二、三度お辞儀をすると急いで外へ出て行ってしまいました。
原文: ゴーシュはぼんやりしてしばらくゆうべのこわれたガラスからはいってくる風を吸っていましたが、町へ出て行くまで睡って元気をとりもどそうと急いでねどこへもぐりみました。
ゴーシュはぼんやりしてしばらく昨夜壊れたガラスから入ってくる風を吸っていましたが、町へ出て行くまで眠って元気を取り戻そうと急いで寝床に潜り込みました。
原文: 次の晩もゴーシュは夜通しセロを弾いて明方近く思わずつかれて楽譜をもったままうとうとしていますとまたたれをこつこつと叩くものがあります。
次の晩もゴーシュは夜通しチェロを弾いて、明け方近く思わず疲れて楽譜を持ったままうとうとしていると、また誰かが扉をコツコツ叩くものがいます。
原文: それもまるで聞えるか聞えないかの位でしたが毎晩のことなのでゴーシュはすぐ聞きつけて「おはいり。」
それもまるで聞こえるか聞こえないかくらいの音でしたが、毎晩のことなのでゴーシュはすぐ気づいて「お入り。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: すると戸のすきまからはいって来たのは一ぴきの野ねずみでした。
すると戸のすき間から入ってきたのは一匹の野ネズミでした。
原文: そして大へんちいさなこどもをつれてちょろちょろとゴーシュの前へ歩いてきました。
そしてとても小さな子どもを連れてチョロチョロとゴーシュの前へ歩いてきました。
原文: そのまた野ねずみのこどもときたらまるでけしごむのくらいしかないのでゴーシュはおもわずわらいました。
またその野ネズミの子どもときたら、まるで消しゴムくらいしかないので、ゴーシュは思わず笑いました。
原文: すると野ねずみは何をわらわれたろうというようにきょろきょろしながらゴーシュの前に来て、青いくりの実を一つぶ前においてちゃんとおじぎをして云いました。
すると野ネズミは何を笑われたんだろうというようにキョロキョロしながらゴーシュの前に来て、青いクリの実を一粒前に置いてきちんとお辞儀をして言いました。
原文: 「先生、このがあんばいがわるくて死にそうでございますが先生お慈悲じひになおしてやってくださいまし。」
「先生、この子の具合が悪くて死にそうでございますが、先生、どうかお慈悲で治してやってくださいまし。」
原文: 「おれが医者などやれるもんか。」
「おれが医者なんかできるもんか。」
原文: ゴーシュはすこしむっとして云いました。
ゴーシュは少しムッとして言いました。
原文: すると野ねずみのお母さんは下を向いてしばらくだまっていましたがまた思い切ったように云いました。
すると野ネズミのお母さんは下を向いてしばらく黙っていましたが、また思い切ったように言いました。
原文: 「先生、それはうそでございます、先生は毎日あんなに上手にみんなの病気をなおしておいでになるではありませんか。」
「先生、それはうそでございます。先生は毎日あんなに上手にみんなの病気を治しておいでになるではありませんか。」
原文: 「何のことだかわからんね。」
「何のことだかわからないね。」
原文: 「だって先生先生のおかげで、うさぎさんのおばあさんもなおりましたし狸さんのお父さんもなおりましたしあんな意地悪のみみずくまでなおしていただいたのにこの子ばかりお助けをいただけないとはあんまり情ないことでございます。」
「だって先生、先生のおかげで、ウサギさんのおばあさんも治りましたし、タヌキさんのお父さんも治りましたし、あんな意地悪のフクロウまで治していただいたのに、この子だけお助けいただけないとはあんまりひどいことでございます。」
原文: 「おいおい、それは何かの間ちがいだよ。おれはみみずくの病気なんどなおしてやったことはないからな。もっとも狸の子はゆうべ来て楽隊のまねをして行ったがね。ははん。」
「おいおい、それは何かの間違いだよ。おれはフクロウの病気なんか治してやったことはないからな。もっともタヌキの子は昨夜来て楽隊のまねをして行ったけどね。ははん。」
原文: ゴーシュはあきれてその子ねずみを見おろしてわらいました。
ゴーシュはあきれてその子ネズミを見下ろして笑いました。
原文: すると野鼠のねずみのお母さんは泣きだしてしまいました。
すると野ネズミのお母さんは泣き出してしまいました。
原文: 「ああこのはどうせ病気になるならもっと早くなればよかった。さっきまであれ位ごうごうと鳴らしておいでになったのに、病気になるといっしょにぴたっと音がとまってもうあとはいくらおねがいしても鳴らしてくださらないなんて。何てふしあわせな子どもだろう。」
「ああ、この子はどうせ病気になるならもっと早くなればよかった。さっきまであれだけゴウゴウと鳴らしておいでになったのに、病気になるとたちまち音がぴたっと止まって、もうあとはいくらお願いしても鳴らしてくださらないなんて。何てかわいそうな子どもだろう。」
原文: ゴーシュはびっくりしてさけびました。
ゴーシュはびっくりして叫びました。
原文: 「何だと、ぼくがセロを弾けばみみずくや兎の病気がなおると。どういうわけだ。それは。」
「何だと、ぼくがチェロを弾けばフクロウやウサギの病気が治ると。どういうわけだ、それは。」
原文: 野ねずみはを片手でこすりこすり云いました。
野ネズミは目を片手でこすりこすり言いました。
原文: 「はい、ここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはいってなおすのでございます。」
「はい、この辺のものは病気になるとみんな先生のお家の床下に入って治すのでございます。」
原文: 「すると療るのか。」
「すると治るのか。」
原文: 「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって大へんいい気持ちですぐ療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。」
「はい。体中とても血の巡りがよくなってとても気持ちよく、すぐ治る方もいれば、家に帰ってから治る方もいます。」
原文: 「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」
「ああそうか。おれのチェロの音がゴウゴウ響くと、それがマッサージの代わりになってお前たちの病気が治るというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」
原文: ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せてそれからいきなりのねずみのこどもをつまんでセロのあなから中へ入れてしまいました。
ゴーシュはちょっとギウギウと弦を合わせてから、いきなりその子ネズミをつまんでチェロの穴から中へ入れてしまいました。
原文: 「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもそうですから。」
「わたしも一緒についていきます。どこの病院でもそうですから。」
原文: おっかさんの野ねずみはきちがいのようになってセロに飛びつきました。
お母さんの野ネズミは気が狂ったようになってチェロに飛びつきました。
原文: 「おまえさんもはいるかね。」
「お前さんも入るかね。」
原文: セロ弾きはおっかさんの野ねずみをセロの孔からくぐしてやろうとしましたが顔が半分しかはいりませんでした。
チェロ弾きはお母さんの野ネズミをチェロの穴からくぐらせてやろうとしましたが、顔が半分しか入りませんでした。
原文: 野ねずみはばたばたしながら中のこどもに叫びました。
野ネズミはバタバタしながら中の子どもに叫びました。
原文: 「おまえそこはいいかい。落ちるときいつも教えるように足をそろえてうまく落ちたかい。」
「お前、そこはいいかい。落ちるときはいつも教えるように足をそろえてうまく落ちたかい。」
原文: 「いい。うまく落ちた。」
「いいよ。うまく落ちた。」
原文: こどものねずみはまるでのような小さな声でセロの底で返事しました。
子どものネズミはまるで蚊のような小さな声でチェロの底から返事しました。
原文: 大丈夫だいじょうぶさ。だから泣き声出すなというんだ。」
「大丈夫だ。だから泣き声を出すなというんだ。」
原文: ゴーシュはおっかさんのねずみを下におろしてそれから弓をとって何とかラプソディとかいうものをごうごうがあがあ弾きました。
ゴーシュはお母さんのネズミを下に降ろして、それから弓を取って何かラプソディとかいうものをゴウゴウガアガア弾きました。
原文: するとおっかさんのねずみはいかにも心配そうにその音の工合ぐあいをきいていましたがとうとうこらえ切れなくなったふうで
するとお母さんのネズミはとても心配そうにその音の様子を聞いていましたが、とうとう我慢できなくなった様子で
原文: 「もう沢山たくさんです。どうか出してやってください。」
「もうたくさんです。どうか出してやってください。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: 「なあんだ、これでいいのか。」
「なあんだ、これでいいのか。」
原文: ゴーシュはセロをまげて孔のところに手をあてて待っていましたら間もなくこどものねずみが出てきました。
ゴーシュはチェロを傾けて穴のところに手を当てて待っていたら、まもなく子どものネズミが出てきました。
原文: ゴーシュは、だまってそれをおろしてやりました。
ゴーシュは黙ってそれを降ろしてやりました。
原文: 見るとすっかり目をつぶってぶるぶるぶるぶるふるえていました。
見ると目をすっかり閉じてブルブルブルブル震えていました。
原文: 「どうだったの。いいかい。気分は。」
「どうだった。いいかい。気分は。」
原文: こどものねずみはすこしもへんじもしないでまだしばらく眼をつぶったままぶるぶるぶるぶるふるえていましたがにわかに起きあがって走りだした。
子どものネズミは少しも返事をしないでまだしばらく目をつぶったままブルブルブルブル震えていましたが、急に起き上がって走り出しました。
原文: 「ああよくなったんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。」
「ああよくなったんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。」
原文: おっかさんのねずみもいっしょに走っていましたが、まもなくゴーシュの前に来てしきりにおじぎをしながら
お母さんのネズミも一緒に走っていましたが、まもなくゴーシュの前に来てしきりにお辞儀をしながら
原文: 「ありがとうございますありがとうございます」
「ありがとうございますありがとうございます」
原文: と十ばかり云いました。
と十回ほど言いました。
原文: ゴーシュは何がなかあいそうになって
ゴーシュは何となくかわいそうになって
原文: 「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」
「おい、お前たちはパンは食べるのか。」
原文: とききました。
と聞きました。
原文: すると野鼠はびっくりしたようにきょろきょろあたりを見まわしてから
すると野ネズミはびっくりしたようにキョロキョロあたりを見回してから
原文: 「いえ、もうおパンというものは小麦の粉をこねたりむしたりしてこしらえたものでふくふくふくらんでいておいしいものなそうでございますが、そうでなくても私どもはおうちの戸棚とだなへなど参ったこともございませんし、ましてこれ位お世話になりながらどうしてそれを運びになんど参れましょう。」
「いえ、もうパンというものは小麦の粉をこねたり蒸したりして作ったもので、ふっくら膨らんでいておいしいものだそうでございますが、そうでなくても私どもはお家の戸棚などに参ったこともございませんし、ましてこれほどお世話になりながら、どうしてそれを運びになんか参れましょう。」
原文: と云いました。
と言いました。
原文: 「いや、そのことではないんだ。ただたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」
「いや、そのことではないんだ。ただ食べるかと聞いたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の具合の悪い子どもへやるからな。」
原文: ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。
ゴーシュはチェロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみちぎって野ネズミの前へ置きました。
原文: 野ねずみはもうまるでばかのようになって泣いたり笑ったりおじぎをしたりしてから大じそうにそれをくわえてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。
野ネズミはもうまるでどうかしたように泣いたり笑ったりお辞儀をしたりしてから、大事そうにそれをくわえて子どもを先に立てて外へ出て行きました。
原文: 「あああ。鼠と話するのもなかなかつかれるぞ。」
「ああああ。ネズミと話するのもなかなか疲れるぞ。」
原文: ゴーシュはねどこへどっかりたおれてすぐぐうぐうねむってしまいました。
ゴーシュは寝床へどっかり倒れてすぐグウグウ眠ってしまいました。
原文: それから六日目の晩でした。
それから六日目の晩でした。
原文: 金星音楽団の人たちは町の公会堂のホールの裏にある控室ひかえしつへみんなぱっと顔をほてらしてめいめい楽器をもって、ぞろぞろホールの舞台ぶたいから引きあげて来ました。
金星音楽団の人たちは町の公会堂のホール裏にある控室へ、みんな顔を紅潮させてそれぞれ楽器を持ち、ゾロゾロとホールの舞台から引き上げてきました。
原文: 首尾よく第六交響曲を仕上げたのです。
うまく第六交響曲をやり遂げたのです。
原文: ホールでは拍手はくしゅの音がまだあらしのように鳴ってります。
ホールでは拍手の音がまだ嵐のように鳴り響いています。
原文: 楽長はポケットへ手をつっ込んで拍手なんかどうでもいいというようにのそのそみんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうしてうれしさでいっぱいなのでした。
楽長はポケットに手を突っ込んで拍手なんかどうでもいいというようにノソノソとみんなの間を歩き回っていましたが、じつはどれほど嬉しさでいっぱいかわからないほどでした。
原文: みんなはたばこをくわえてマッチをすったり楽器をケースへ入れたりしました。
みんなはタバコをくわえてマッチをすったり楽器をケースに入れたりしました。
原文: ホールはまだぱちぱち手が鳴っています。
ホールではまだパチパチ手が鳴っています。
原文: それどころではなくいよいよそれが高くなって何だかこわいような手がつけられないような音になりました。
それどころかいよいよそれが高くなって、何だか恐ろしいような手がつけられないような音になりました。
原文: 大きな白いリボンを胸につけた司会者がはいって来ました。
大きな白いリボンを胸につけた司会者が入ってきました。
原文: 「アンコールをやっていますが、何かみじかいものでもきかせてやってくださいませんか。」
「アンコールをやっていますが、何か短いものでも聞かせてやってくださいませんか。」
原文: すると楽長がきっとなって答えました。
すると楽長がきっとなって答えました。
原文: 「いけませんな。こういう大物のあとへ何を出したってこっちの気の済むようには行くもんでないんです。」
「いけませんな。こういう大きな曲のあとへ何を出したって、こちらの気の済むようにはいかないんです。」
原文: 「では楽長さん出て一寸ちょっと挨拶あいさつしてください。」
「では楽長さんが出てきてちょっと挨拶してください。」
原文: 「だめだ。おい、ゴーシュ君、何か出て弾いてやってくれ。」
「だめだ。おい、ゴーシュ君、何か出て弾いてやってくれ。」
原文: 「わたしがですか。」
「わたしがですか。」
原文: ゴーシュは呆気あっけにとられました。
ゴーシュはあっけにとられました。
原文: 「君だ、君だ。」
「君だ、君だ。」
原文: ヴァイオリンの一番の人がいきなり顔をあげて云いました。
バイオリンの一番の人がいきなり顔を上げて言いました。
原文: 「さあ出て行きたまえ。」
「さあ出て行きたまえ。」
原文: 楽長が云いました。
楽長が言いました。
原文: みんなもセロをむりにゴーシュに持たせてをあけるといきなり舞台へゴーシュをし出してしまいました。
みんなもチェロを無理にゴーシュに持たせて扉を開けると、いきなり舞台へゴーシュを押し出してしまいました。
原文: ゴーシュがその孔のあいたセロをもってじつに困ってしまって舞台へ出るとみんなはそら見ろというように一そうひどく手をたたきました。
ゴーシュがその穴の開いたチェロを持ってじつに困り果てながら舞台へ出ると、みんなはそらみろとばかりに一層ひどく手を叩きました。
原文: わあと叫んだものもあるようでした。
わあと叫んだ人もいるようでした。
原文: 「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度インド虎狩とらがりをひいてやるから。」
「どこまで人をバカにするんだ。よし見ていろ。インドの虎狩りを弾いてやるから。」
原文: ゴーシュはすっかり落ちついて舞台のまん中へ出ました。
ゴーシュはすっかり落ち着いて舞台の真ん中へ出ました。
原文: それからあのねこの来たときのようにまるでおこった象のようないきおいで虎狩りを弾きました。
それからあの猫が来たときのように、まるで怒った象のような勢いで虎狩りを弾きました。
原文: ところが聴衆ちょうしゅうはしいんとなって一生けん命聞いています。
ところが聴衆はシーンとなって一生懸命聞いています。
原文: ゴーシュはどんどん弾きました。
ゴーシュはどんどん弾きました。
原文: 猫が切ながってぱちぱち火花を出したところも過ぎました。
猫が苦しがってパチパチ火花を出したところも過ぎました。
原文: 扉へからだを何べんもぶっつけた所も過ぎました。
扉に体を何度もぶつけたところも過ぎました。
原文: 曲が終るとゴーシュはもうみんなの方などは見もせずちょうどその猫のようにすばやくセロをもって楽屋へげ込みました。
曲が終わるとゴーシュはもうみんなの方などは見もせず、ちょうどあの猫のようにすばやくチェロを持って楽屋へ逃げ込みました。
原文: すると楽屋では楽長はじめ仲間がみんな火事にでもあったあとのように眼をじっとしてひっそりとすわり込んでいます。
すると楽屋では楽長をはじめ仲間がみんな火事にでも遭ったあとのように目をじっとさせてひっそりと座り込んでいます。
原文: ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間をさっさとあるいて行って向うの長椅子ながいすへどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
ゴーシュはやけくそだと思って、みんなの間をさっさと歩いて行って向こうの長椅子へどっかりと体をおろして足を組んで座りました。
原文: するとみんなが一ぺんに顔をこっちへ向けてゴーシュを見ましたがやはりまじめでべつにわらっているようでもありませんでした。
するとみんなが一斉に顔をこちらへ向けてゴーシュを見ましたが、やはり真剣な顔で特に笑っているようでもありませんでした。
原文: 「こんやは変な晩だなあ。」
「今夜は変な晩だなあ。」
原文: ゴーシュは思いました。
ゴーシュは思いました。
原文: ところが楽長は立って云いました。
ところが楽長は立って言いました。
原文: 「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前と比べたらまるで赤ちゃんと兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
原文: 仲間もみんな立って来て「よかったぜ」
仲間もみんな立ってきて「よかったぜ」
原文: とゴーシュに云いました。
とゴーシュに言いました。
原文: 「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通ふつうの人なら死んでしまうからな。」
「いや、体が丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな。」
原文: 楽長が向うで云っていました。
楽長が向こうで言っていました。
原文: その晩おそくゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
その晩遅くゴーシュは自分の家へ帰ってきました。
原文: そしてまた水をがぶがぶみました。
そしてまた水をがぶがぶ飲みました。
原文: それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
それから窓を開けて、あのときカッコウが飛んで行ったと思った遠くの空を眺めながら
原文: 「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」
「ああカッコウ。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」
原文: と云いました。
と言いました。