AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
原文: 一
一
原文: あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
玄関のドアが慌ただしく開く音がして、私はその音で目を覚ましました。でも、どうせ深夜に泥酔した夫が帰ってきたのに決まっているので、そのまま黙って寝ていました。
原文: 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、
夫は隣の部屋の電気をつけて、はあっはあっとひどく荒い息をしながら、机の引き出しや本箱をあけてかき回し、何かを探している様子でした。やがて、どたりと畳に腰をおろしたような音がして、あとはただはあっはあっという荒い息だけで、いったい何をしているのかと、寝たまま私が、
原文: 「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」
「お帰りなさいませ。ごはんはもうおすみですか? お戸棚におむすびがありますけど」
原文: と申しますと、
と言いますと、
原文: 「や、ありがとう」
「や、ありがとう」
原文: といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」
といつになく優しい返事をして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」
原文: とたずねます。
とたずねます。
原文: これも珍らしい事でございました。
これも珍しいことでした。
原文: 坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩せているので、凄しくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。
坊やは来年で四つになるのですが、栄養不足のせいか、夫の飲酒のせいか、それとも病気のせいか、よその二歳の子よりも小さいくらいで、歩く足元もおぼつかなく、「ウマウマ」とか「イヤイヤ」とか言えるくらいが精いっぱいで、脳に問題があるのではないかと思われるほどでした。銭湯に連れて行って裸にして抱き上げると、あまりにも小さく痩せていて、大勢の人の前で思わず泣いてしまったことさえありました。
原文: そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。
この子はしょっちゅうお腹を壊したり熱を出したりしていました。夫はほとんど家にいることがなく、子どものことをどう思っているのかわかりません。「坊やが熱を出しました」と伝えても、「あ、そう、お医者に連れて行けばいいでしょう」と言って、忙しそうに外套を羽織ってどこかへ出かけてしまうのです。
原文: お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙って撫でてやっているより他は無いのでございます。
お医者に連れて行きたくても、お金が全くないので、私は坊やに添い寝をして、頭を黙って撫でてやるしかないのです。
原文: けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。
でもその夜はどういうわけか、いやに優しくして、坊やの熱はどうだなどと珍しくたずねてくれたので、うれしいよりも何だか恐ろしい予感がして、背筋が冷たくなりました。
原文: 何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫の烈しい呼吸ばかり聞えていましたが、
何と返事していいかわからず黙っていると、しばらくは夫の激しい息だけが聞こえていましたが、
原文: 「ごめん下さい」
「ごめんください」
原文: と、女のほそい声が玄関で致します。
と、細い女の声が玄関でしました。
原文: 私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。
私は全身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。
原文: 「ごめん下さい。大谷さん」
「ごめんください。大谷さん」
原文: こんどは、ちょっと鋭い語調でした。
今度は少し鋭い口調でした。
原文: 同時に、玄関のあく音がして、
同時に玄関が開く音がして、
原文: 「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」
「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」
原文: と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。
とはっきり怒っている声が聞こえました。
原文: 夫は、その時やっと玄関に出た様子で、
夫はその時やっと玄関に出た様子で、
原文: 「なんだい」
「なんだい」
原文: と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。
とひどくおどおどしているような、間の抜けた返事をしました。
原文: 「なんだいではありませんよ」
「なんだいではありませんよ」
原文: と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」
と女は声をひそめて言い、「こんなちゃんとしたお家があるくせに、盗みを働くなんてどうしたことです。人の悪い冗談はよして、あれを返してください。でなければ、私はすぐ警察に訴えます」
原文: 「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」
「何を言うんだ。失礼なことを言うな。ここはお前たちが来るところじゃない。帰れ! 帰らなければ、こっちからお前たちを訴えるぞ」
原文: その時、もうひとりの男の声が出ました。
その時、もう一人の男の声がしました。
原文: 「先生、いい度胸だね。お前たちの来るところではない、とは出かした。呆れてものが言えねえや。他の事とは違う。よその家の金を、あんた、冗談にも程度がありますよ。いままでだって、私たち夫婦は、あんたのために、どれだけ苦労をさせられて来たか、わからねえのだ。それなのに、こんな、今夜のような情ねえ事をし出かしてくれる。先生、私は見そこないましたよ」
「先生、よい度胸だね。お前たちの来るところではない、とはよく言った。呆れてものも言えない。他のこととは違う。よその家のお金をね、冗談にも程度がありますよ。これまでだって、私たち夫婦はあなたのために、どれだけ苦労させられてきたかわからないのです。それなのに、今夜のようなひどいことをしてくれる。先生、私は見くびりましたよ」
原文: 「ゆすりだ」
「ゆすりだ」
原文: と夫は、威たけ高に言うのですが、その声は震えていました。
と夫は威張った様子で言うのですが、その声は震えていました。
原文: 「恐喝だ。帰れ! 文句があるなら、あした聞く」
「脅迫だ。帰れ! 文句があるなら、あした聞く」
原文: 「たいへんな事を言いやがるなあ、先生、すっかりもう一人前の悪党だ。それではもう警察へお願いするより手がねえぜ」
「たいへんなことを言いやがるな、先生、すっかりもう一人前の悪党だ。それではもう警察にお願いするより手がないぞ」
原文: その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの凄い憎悪がこもっていました。
その言葉の響きには、私の全身に鳥肌が立つほどの強い憎しみがこもっていました。
原文: 「勝手にしろ!」
「勝手にしろ!」
原文: と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。
と叫ぶ夫の声はすでに上ずって、中身のない感じのものでした。
原文: 私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、
私は起きて、寝巻きの上に羽織をひっかけ、玄関に出て二人のお客に、
原文: 「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいませ」
原文: と挨拶しました。
と挨拶しました。
原文: 「や、これは奥さんですか」
「や、これは奥さんですか」
原文: 膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの丸顔の男のひとが、少しも笑わずに私に向ってちょっと首肯くように会釈しました。
ひざ丈の短い外套を着た五十過ぎくらいの丸顔の男性が、少しも笑わずに私に向かって軽くうなずくようにお辞儀しました。
原文: 女のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。
女性のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。
原文: 「こんな夜中にあがりまして」
「こんな夜中にあがりまして」
原文: とその女のひとは、やはり少しも笑わずにショールをはずして私にお辞儀をかえしました。
とその女性は、やはり少しも笑わずにショールをはずして私にお辞儀を返しました。
原文: その時、矢庭に夫は、下駄を突っかけて外に飛び出ようとしました。
その時、いきなり夫は下駄をはいて外に飛び出そうとしました。
原文: 「おっと、そいつあいけない」
「おっと、それはいけない」
原文: 男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。
男性はその夫の片腕をつかみ、二人は一瞬もみ合いました。
原文: 「放せ! 刺すぞ」
「放せ! 刺すぞ」
原文: 夫の右手にジャックナイフが光っていました。
夫の右手にジャックナイフが光っていました。
原文: そのナイフは、夫の愛蔵のものでございまして、たしか夫の机の引出しの中にあったので、それではさっき夫が家へ帰るなり何だか引出しを掻きまわしていたようでしたが、かねてこんな事になるのを予期して、ナイフを捜し、懐にいれていたのに、違いありません。
そのナイフは夫が大切にしていたもので、たしか机の引き出しの中にあったはずです。さっき夫が帰るなり引き出しをかき回していたのはこのためで、こんな事態になることをあらかじめ予期して、ナイフを探して懐に入れていたに違いありません。
原文: 男のひとは身をひきました。
男性は身を引きました。
原文: そのすきに夫は大きい鴉のように二重廻しの袖をひるがえして、外に飛び出しました。
そのすきに夫は大きなカラスのように外套の袖をひるがえして、外に飛び出しました。
原文: 「どろぼう!」
「泥棒!」
原文: と男のひとは大声を挙げ、つづいて外に飛び出そうとしましたが、私は、はだしで土間に降りて男を抱いて引きとめ、
と男性は大声を上げ、続いて外に飛び出そうとしましたが、私は裸足で土間に降りて男性を抱いて引きとめ、
原文: 「およしなさいまし。どちらにもお怪我があっては、なりませぬ。あとの始末は、私がいたします」
「おやめください。どちらにもけががあってはなりません。後の始末は私がします」
原文: と申しますと、傍から四十の女のひとも、
と言いますと、そばにいた四十歳の女性も、
原文: 「そうですね、とうさん。気ちがいに刃物です。何をするかわかりません」
「そうですね、あなた。気のふれた人に刃物です。何をするかわかりません」
原文: と言いました。
と言いました。
原文: 「ちきしょう! 警察だ。もう承知できねえ」
「ちくしょう! 警察だ。もう許せない」
原文: ぼんやり外の暗闇を見ながら、ひとりごとのようにそう呟き、けれども、その男のひとの総身の力は既に抜けてしまっていました。
ぼんやりと外の暗闇を見ながら、独り言のようにそうつぶやきましたが、その男性の体の力はすでに抜けてしまっていました。
原文: 「すみません。どうぞ、おあがりになって、お話を聞かして下さいまし」
「すみません。どうぞ上がっていただいて、話を聞かせてください」
原文: と言って私は式台にあがってしゃがみ、
と言って私は式台に上がってしゃがみ、
原文: 「私でも、あとの始末は出来るかも知れませんから。どうぞ、おあがりになって、どうぞ。きたないところですけど」
「私でも後の始末はできるかもしれませんから。どうぞ上がっていただいて、どうぞ。汚いところですけど」
原文: 二人の客は顔を見あわせ、幽かに首肯き合って、それから男のひとは様子をあらため、
二人のお客は顔を見合わせ、かすかにうなずき合って、それから男性は態度を改め、
原文: 「何とおっしゃっても、私どもの気持は、もうきまっています。しかし、これまでの経緯は一応、奥さんに申し上げて置きます」
「何とおっしゃっても、私どもの気持はもう決まっています。しかし、これまでの経緯は一応、奥さんに申し上げておきます」
原文: 「はあ、どうぞ。おあがりになって。そうして、ゆっくり」
「はあ、どうぞ。上がっていただいて。そうして、ゆっくり」
原文: 「いや、そんな、ゆっくりもしておられませんが」
「いや、そんなゆっくりもしておられませんが」
原文: と言い、男のひとは外套を脱ぎかけました。
と言い、男性は外套を脱ぎかけました。
原文: 「そのままで、どうぞ。お寒いんですから、本当に、そのままで、お願いします。家の中には火の気が一つも無いのでございますから」
「そのままで、どうぞ。寒いですから、本当に、そのままで、お願いします。家の中には暖を取るものが一つもないのですから」
原文: 「では、このままで失礼します」
「では、このままで失礼します」
原文: 「どうぞ。そちらのお方も、どうぞ、そのままで」
「どうぞ。そちらの方も、どうぞそのままで」
原文: 男のひとがさきに、それから女のひとが、夫の部屋の六畳間にはいり、腐りかけているような畳、破れほうだいの障子、落ちかけている壁、紙がはがれて中の骨が露出している襖、片隅に机と本箱、それもからっぽの本箱、そのような荒涼たる部屋の風景に接して、お二人とも息を呑んだような様子でした。
男性が先に、それから女性が、夫の部屋の六畳間に入り、腐りかけているような畳、破れ放題の障子、落ちかけている壁、紙がはがれて骨組みがむき出しになっている襖、隅に机と本箱、それもからっぽの本箱、そのような荒れ果てた部屋の様子に接して、お二人とも息をのんだようでした。
原文: 破れて綿のはみ出ている座蒲団を私はお二人にすすめて、
破れて綿がはみ出ている座布団を私はお二人にすすめて、
原文: 「畳が汚うございますから、どうぞ、こんなものでも、おあてになって」
「畳が汚うございますから、どうぞ、こんなものでも当ててください」
原文: と言い、それから改めてお二人に御挨拶を申しました。
と言い、それから改めてお二人に挨拶をしました。
原文: 「はじめてお目にかかります。主人がこれまで、たいへんなご迷惑ばかりおかけしてまいりましたようで、また、今夜は何をどう致しました事やら、あのようなおそろしい真似などして、おわびの申し上げ様もございませぬ。何せ、あのような、変った気象の人なので」
「はじめまして。主人がこれまで、たいへんなご迷惑ばかりおかけしてきたようで、また今夜は何をどうしてしまったやら、あのような恐ろしいことをして、お詫びの申しようもありません。何せ、あのような変わった気質の人なので」
原文: と言いかけて、言葉がつまり、落涙しました。
と言いかけて、言葉につまり、涙が出ました。
原文: 「奥さん。まことに失礼ですが、いくつにおなりで?」
「奥さん。まことに失礼ですが、おいくつですか?」
原文: と男のひとは、破れた座蒲団に悪びれず大あぐらをかいて、肘をその膝の上に立て、こぶしで顎を支え、上半身を乗り出すようにして私に尋ねます。
と男性は、破れた座布団に遠慮なく大あぐらをかいて、ひじをひざの上に立て、こぶしであごを支え、上半身を乗り出すようにして私にたずねます。
原文: 「あの、私でございますか?」
「あの、私でございますか?」
原文: 「ええ。たしか旦那は三十、でしたね?」
「ええ。たしか旦那は三十、でしたね?」
原文: 「はあ、私は、あの、……四つ下です」
「はあ、私は、あの……四つ下です」
原文: 「すると、二十、六、いやこれはひどい。まだ、そんなですか? いや、その筈だ。旦那が三十ならば、そりゃその筈だけど、おどろいたな」
「すると二十、六、いやこれはひどい。まだそんなですか? いや、そのはずだ。旦那が三十ならそりゃそのはずだけど、驚いたな」
原文: 「私も、さきほどから」
「私も、さっきから」
原文: と女のひとは、男のひとの脊中の蔭から顔を出すようにして、「感心しておりました。こんな立派な奥さんがあるのに、どうして大谷さんは、あんなに、ねえ」
と女性は、男性の背中の陰から顔を出すようにして、「感心しておりました。こんな立派な奥さんがあるのに、どうして大谷さんは、あんなに、ねえ」
原文: 「病気だ。病気なんだよ。以前はあれほどでもなかったんだが、だんだん悪くなりやがった」
「病気だ。病気なんだよ。以前はあれほどでもなかったんだが、だんだん悪くなりやがった」
原文: と言って大きい溜息をつき、
と言って大きなため息をついて、
原文: 「実は、奥さん」
「実は、奥さん」
原文: とあらたまった口調になり、「私ども夫婦は、中野駅の近くに小さい料理屋を経営していまして、私もこれも上州の生れで、私はこれでも堅気のあきんどだったのでございますが、道楽気が強い、というのでございましょうか、田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさして、かれこれ二十年前、この女房を連れて東京へ出て来まして、浅草の、或る料理屋に夫婦ともに住込みの奉公をはじめまして、まあ人並に浮き沈みの苦労をして、すこし蓄えも出来ましたので、いまのあの中野の駅ちかくに、昭和十一年でしたか、六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして、一度の遊興費が、せいぜい一円か二円の客を相手の、心細い飲食店を開業いたしまして、それでもまあ夫婦がぜいたくもせず、地道に働いて来たつもりで、そのおかげか焼酎やらジンやらを、割にどっさり仕入れて置く事が出来まして、その後の酒不足の時代になりましてからも、よその飲食店のように転業などせずに、どうやら頑張って商売をつづけてまいりまして、また、そうなると、ひいきのお客もむきになって応援をして下さって、所謂あの軍官の酒さかなが、こちらへも少しずつ流れて来るような道を、ひらいて下さるお方もあり、対米英戦がはじまって、だんだん空襲がはげしくなって来てからも、私どもには足手まといの子供は無し、故郷へ疎開などする気も起らず、まあこの家が焼ける迄は、と思って、この商売一つにかじりついて来て、どうやら罹災もせず終戦になりましたのでほっとして、こんどは大ぴらに闇酒を仕入れて売っているという、手短かに語ると、そんな身の上の人間なのでございます。けれども、こうして手短かに語ると、さして大きな難儀も無く、割に運がよく暮して来た人間のようにお思いになるかも知れませんが、人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔、とは、まったく本当の事でございますね。一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっついてまいります。
と改まった口調になり、「私ども夫婦は、中野駅の近くに小さな料理屋を経営していまして、私もこれも上州の生まれで、私はこれでも堅実な商人だったのですが、遊び好きというか、田舎のお百姓を相手にしたけちな商売にも嫌気がさして、かれこれ二十年前にこの女房を連れて東京に出てまいりまして、浅草の或る料理屋に夫婦で住み込みで奉公をはじめ、まあ人並みに浮き沈みの苦労をして少し蓄えも出来ましたので、今の中野駅近くに昭和十一年でしたか、六畳一間に狭い土間付きのまことにこぢんまりとした家を借りまして、一度の遊び代がせいぜい一円か二円のお客を相手にした頼りない飲食店を開業いたしまして、それでもまあ夫婦が贅沢もせず地道に働いてきたつもりで、そのおかげか焼酎やジンをかなりたくさん仕入れておくことができまして、その後の酒不足の時代になっても、よその飲食店のように転業などせず、どうやら頑張って商売を続けてまいりまして、またそうなるとひいきのお客も本気で応援してくれて、いわゆる軍や官のお酒と肴がこちらにも少しずつ流れてくるよう道を開いてくださる方もあり、対米英戦が始まって空襲がひどくなってからも、私どもには足手まといの子供はなし、故郷へ疎開する気も起らず、この家が焼けるまではと思って、この商売一つにしがみついてきて、どうやら被災もせず終戦になりましたのでほっとして、今度は堂々と闇酒を仕入れて売っているという、手短かに言えばそんな身の上の人間なのです。けれどもこうして手短かに語ると、さほど大きな苦労もなく、まずまず運よく暮らしてきた人間のようにお思いになるかもしれませんが、人間の一生は地獄でして、寸善尺魔とはまったく本当のことですね。わずかな幸せには必ず大きな災いがついてまいります。
原文: 人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です。
人間三百六十五日、何の心配もない日が一日、いや半日あったなら、それは幸せな人間です。
原文: あなたの旦那の大谷さんが、はじめて私どもの店に来ましたのは、昭和十九年の、春でしたか、とにかくその頃はまだ、対米英戦もそんなに負けいくさでは無く、いや、そろそろもう負けいくさになっていたのでしょうが、私たちにはそんな、実体、ですか、真相、ですか、そんなものはわからず、ここ二、三年頑張れば、どうにかこうにか対等の資格で、和睦が出来るくらいに考えていまして、大谷さんがはじめて私どもの店にあらわれた時にも、たしか、久留米絣の着流しに二重廻しを引っかけていた筈で、けれども、それは大谷さんだけでなく、まだその頃は東京でも防空服装で身をかためて歩いている人は少く、たいてい普通の服装でのんきに外出できた頃で
あなたの旦那の大谷さんが初めて私どもの店に来たのは、昭和十九年の春でしたか、とにかくその頃はまだ対米英戦もそんなに負け戦ではなく、いや、そろそろもう負け戦になっていたのでしょうが、私たちにはその実情というか真相というかそんなものはわからず、あと二、三年頑張ればどうにかこうにか対等の立場で和解ができると考えていまして、大谷さんが初めて私どもの店に現れた時には、たしか久留米絣の着流しに二重廻しを引っかけていたはずで、けれどもそれは大谷さんだけでなく、まだその頃は東京でも防空服装で身を固めて歩いている人は少なく、たいてい普通の服装でのんきに外出できた頃で
原文: したので、私どもも、その時の大谷さんの身なりを、別段だらし無いとも何とも感じませんでした。
したので、私どもも、その時の大谷さんの身なりを、特にだらしないとも何とも感じませんでした。
原文: 大谷さんは、その時、おひとりではございませんでした。
大谷さんは、その時、お一人ではございませんでした。
原文: 奥さんの前ですけれども、いや、もう何も包みかくし無く洗いざらい申し上げましょう、旦那は、或る年増女に連れられて店の勝手口からこっそりはいってまいりましたのです。
奥さんの前ですけれども、いや、もう何も包み隠さず洗いざらい申し上げましょう、旦那はある年増の女性に連れられて店の勝手口からこっそり入ってきたのです。
原文: もっとも、もうその頃は、私どもの店も、毎日おもての戸は閉めっきりで、その頃のはやり言葉で言うと閉店開業というやつで、ほんの少数の馴染客だけ、勝手口からこっそりはいり、そうしてお店の土間の椅子席でお酒を飲むという事は無く、奥の六畳間で電気を暗くして大きい声を立てずに、こっそり酔っぱらうという仕組になっていまして、また、その年増女というのは、そのすこし前まで、新宿のバアで女給さんをしていたひとで、その女給時代に、筋のいいお客を私の店に連れて来て飲ませて、私の家の馴染にしてくれるという、まあ蛇の道はへび、という工合いの附合いをしておりまして、そのひとのアパートはすぐ近くでしたので、新宿のバアが閉鎖に
もっとも、もうその頃は私どもの店も毎日表の戸は閉めたままで、その頃の流行り言葉で言えば「閉店開業」というやつで、ほんの少数の常連客だけが勝手口からこっそり入ってきて、お店の土間の椅子席で飲むことはなく、奥の六畳間で電気を暗くして大きい声を立てずにこっそり酔うという仕組みになっていまして、また、その年増の女性というのは、少し前まで新宿のバーで女給をしていたひとで、その女給時代に筋のいいお客を私の店に連れて来て飲ませ、うちの常連にしてくれるという、いわば業界内のつき合いをしておりまして、そのひとのアパートはすぐ近くでしたので、新宿のバーが閉鎖されて女給をやめてからも
原文: なって女給をよしましてからも、ちょいちょい知合いの男のひとを連れてまいりまして、私どもの店にもだんだん酒が少くなり、どんなに筋のいいお客でも、飲み手がふえるというのは、以前ほど有難くないばかりか、迷惑にさえ思われたのですが、しかし、その前の四、五年間、ずいぶん派手な金遣いをするお客ばかり、たくさん連れて来てくれたのでございますから、その義理もあって、その年増のひとから紹介された客には、私どもも、いやな顔をせずお酒を差し上げる事にしていたのでした。
ちょいちょい知り合いの男性を連れてまいりまして、私どもの店にも酒がだんだん少なくなり、どんなに筋のいいお客でも飲み手が増えるというのは以前ほど有難くないばかりか迷惑にさえ思われましたが、しかし、その前の四、五年間ずいぶん派手な金遣いをするお客をたくさん連れてきてくれたのですから、その義理もあって、その年増の方から紹介されたお客には私どもも嫌な顔をせずお酒を出すことにしていたのでした。
原文: だから旦那がその時、その年増のひと、秋ちゃん、といいますが、そのひとに連れられて裏の勝手口からこっそりはいって来ても、別に私どもも怪しむ事なく、れいのとおり、奥の六畳間に上げて、焼酎を出しました。
だから旦那がその時、その年増の方、秋ちゃんといいますが、そのひとに連れられて裏の勝手口からこっそり入って来ても、別に私どもも怪しむことなく、いつものとおり奥の六畳間に上げて焼酎を出しました。
原文: 大谷さんは、その晩はおとなしく飲んで、お勘定は秋ちゃんに払わせて、また裏口からふたり一緒に帰って行きましたが、私には奇妙にあの晩の、大谷さんのへんに静かで上品な素振りが忘れられません。
大谷さんはその晩はおとなしく飲んで、お勘定は秋ちゃんに払わせて、また裏口から二人一緒に帰って行きましたが、私には不思議なことに、あの晩の大谷さんのへんに静かで上品な様子が忘れられません。
原文: 魔物がひとの家にはじめて現われる時には、あんなひっそりした、ういういしいみたいな姿をしているものなのでしょうか。
魔物が人の家に初めて現れる時には、あんなひっそりとした初々しいような姿をしているものなのでしょうか。
原文: その夜から、私どもの店は大谷さんに見込まれてしまったのでした。
その夜から、私どもの店は大谷さんに目をつけられてしまったのでした。
原文: それから十日ほど経って、こんどは大谷さんがひとりで裏口からまいりまして、いきなり百円紙幣を一枚出して、いやその頃はまだ百円と言えば大金でした、いまの二、三千円にも、それ以上にも当る大金でした、それを無理矢理、私の手に握らせて、たのむ、と言って、気弱そうに笑うのです。
それから十日ほど経って、今度は大谷さんが一人で裏口からやってきて、いきなり百円紙幣を一枚出して、いやその頃はまだ百円といえば大金でした、今の二、三千円にも、それ以上にも当たる大金でした、それを無理やり私の手に握らせて、「頼む」と言って、気弱そうに笑うのです。
原文: もう既に、だいぶ召上っている様子でしたが、とにかく、奥さんもご存じでしょう、あんな酒の強いひとはありません。
もうすでにだいぶ召し上がっている様子でしたが、とにかく奥さんもご存じでしょう、あんなにお酒が強いひとはありません。
原文: 酔ったのかと思うと、急にまじめな、ちゃんと筋のとおった話をするし、いくら飲んでも、足もとがふらつくなんて事は、ついぞ一度も私どもに見せた事は無いのですからね。
酔ったかと思うと急にまじめな、ちゃんと筋の通った話をするし、いくら飲んでも足元がふらつくなんてことは、ついぞ一度も私どもに見せた事はないのですからね。
原文: 人間三十前後は謂わば血気のさかりで、酒にも強い年頃ですが、しかし、あんなのは珍らしい。
人間三十前後はいわば血気の盛りで、酒にも強い年頃ですが、しかし、あんなのは珍しい。
原文: その晩も、どこかよそで、かなりやって来た様子なのに、それから私の家で、焼酎を立てつづけに十杯も飲み、まるでほとんど無口で、私ども夫婦が何かと話しかけても、ただはにかむように笑って、うん、うん、とあいまいに首肯き、突然、何時ですか、と時間をたずねて立ち上り、お釣を、と私が言いますと、いや、いい、と言い、それは困ります、と私が強く言いましたら、にやっと笑って、それではこの次まであずかって置いて下さい、また来ます、と言って帰りましたが、奥さん、私どもがあのひとからお金をいただいたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちど切り、それからはもう、なんだかんだとごまかして、三年間、一銭のお金も払わずに、私ど
その晩も、どこかよそでかなり飲んで来た様子なのに、それから私の家で焼酎を立て続けに十杯も飲み、ほとんど無口で、私ども夫婦が何かと話しかけても、ただはにかむように笑ってうんうんとあいまいにうなずき、突然「何時ですか」と時間をたずねて立ち上り、「お釣りを」と私が言いますと、「いや、いい」と言い、「それは困ります」と私が強く言いましたら、にやっと笑って「それではこの次まで預けておいてください、また来ます」と言って帰りましたが、奥さん、私どもがあのひとからお金をいただいたのは、後にも先にもただこの一度きり、それからはもうなんだかんだとごまかして、三年間、一銭のお金も払わずに、私ど
原文: ものお酒をほとんどひとりで、飲みほしてしまったのだから、呆れるじゃありませんか」
ものお酒をほとんど一人で飲みほしてしまったのだから、呆れるじゃありませんか」
原文: 思わず、私は、噴き出しました。
思わず私は吹き出しました。
原文: 理由のわからない可笑しさが、ひょいとこみ上げて来たのです。
わけのわからないおかしさが、ひょいとこみ上げてきたのです。
原文: あわてて口をおさえて、おかみさんのほうを見ると、おかみさんも妙に笑ってうつむきました。
あわてて口をおさえて、おかみさんのほうを見ると、おかみさんも妙に笑ってうつむきました。
原文: それから、ご亭主も、仕方無さそうに苦笑いして、
それからご亭主も、仕方なさそうに苦笑いして、
原文: 「いや、まったく、笑い事では無いんだが、あまり呆れて、笑いたくもなります。じっさい、あれほどの腕前を、他のまともな方面に用いたら、大臣にでも、博士にでも、なんにでもなれますよ。私ども夫婦ばかりでなく、あの人に見込まれて、すってんてんになってこの寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。げんにあの秋ちゃんなど、大谷さんと知合ったばかりに、いいパトロンには逃げられるし、お金も着物も無くしてしまうし、いまはもう長屋の汚い一部屋で乞食みたいな暮しをしているそうだが、じっさい、あの秋ちゃんは、大谷さんと知合った頃には、あさましいくらいのぼせて、私たちにも何かと吹聴していたものです。だいいち、ご身分が凄い。四国の或る殿様の別家の、大谷男爵の次男で、いまは不身持のため勘当せられているが、いまに父の男爵が死ねば、長男と二人で、財産をわける事になっている。頭がよくて、天才、というものだ。二十一で本を書いて、それが石川啄木という大天才の書いた本よりも、もっと上手で、それからまた十何冊だかの本を書いて、としは若いけれども、日本一の詩人、という事になっている。おまけに大学者で、学習院から一高、帝大とすすんで、ドイツ語フランス語、いやもう、おっそろしい、何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人で、しかし、それもまた、まんざら皆うそではないらしく、他のひとから聞いても、大谷男爵の次男で、有名な詩人だという事に変りはないので、こんな、うちの婆まで、いいとしをして、秋ちゃんと競争してのぼせ上って、さすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃる、なんて言って大谷さんのおいでを心待ちにしているていたらくなんですから、たまりません。いまはもう、華族もへったくれも無くなったようですが、終戦前までは、女を口説くには、とにかくこの華族の勘当息子という手に限るようでした。へんに女が、くわっとなるらしいんです。
「いや、まったく笑い事ではないんだが、あまり呆れて笑いたくもなります。じっさい、あれほどの腕前を、他のまともな方向に使ったら、大臣にでも博士にでも、なんにでもなれますよ。私ども夫婦ばかりでなく、あの人に目をつけられて、すってんてんになってこの寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。げんに秋ちゃんなど、大谷さんと知り合ったばかりに、いいパトロンには逃げられるし、お金も着物もなくしてしまうし、今はもう長屋の汚い一部屋で乞食みたいな暮らしをしているそうだが、じっさい、秋ちゃんは大谷さんと知り合った頃には、みっともないくらいのぼせて、私たちにも何かと吹聴していたものです。だいいち、ご身分が凄い。四国の或る殿様の分家の、大谷男爵の次男で、今は不身持のため勘当されているが、いまに父の男爵が死ねば、長男と二人で財産をわけることになっている。頭がよくて天才というものだ。二十一で本を書いて、それが石川啄木という大天才の書いた本よりももっと上手で、それからまた十何冊かの本を書いて、歳は若いけれども日本一の詩人ということになっている。おまけに大学者で、学習院から一高、帝大とすすんで、ドイツ語フランス語、いやもう、おっそろしい、何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人で、しかし、それもまたまんざら皆うそではないらしく、他のひとから聞いても、大谷男爵の次男で有名な詩人だということに変わりはないので、こんな、うちの婆まで、いい歳をして秋ちゃんと競争してのぼせ上がって、さすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃる、なんて言って大谷さんのお越しを心待ちにしているていたらくなのですから、たまりません。今はもう、華族もへったくれもなくなったようですが、終戦前までは、女性を口説くには、とにかくこの華族の勘当息子という手に限るようでした。へんに女性が、くわっとなるらしいんです。
原文: やっぱりこれは、その、いまはやりの言葉で言えば奴隷根性というものなんでしょうね。
やはりこれは、その、今はやりの言葉で言えば奴隷根性というものなんでしょうね。
原文: 私なんぞは、男の、それも、すれっからしと来ているのでございますから、たかが華族の、いや、奥さんの前ですけれども、四国の殿様のそのまた分家の、おまけに次男なんて、そんなのは何も私たちと身分のちがいがあろう筈が無いと思っていますし、まさかそんな、あさましく、くわっとなったりなどはしやしません。
私なんぞは、男で、それもすれっからしと来ているのですから、たかが華族の、いや、奥さんの前ですけれども、四国の殿様のそのまた分家の、おまけに次男なんて、そんなのは何も私たちと身分の違いがあるはずがないと思っていますし、まさかそんな、みっともなく、くわっとなったりなどはしやしません。
原文: ですけれども、やはり、何だかどうもあの先生は、私にとっても苦手でして、もうこんどこそ、どんなにたのまれてもお酒は飲ませまいと固く決心していても、追われて来た人のように、意外の時刻にひょいとあらわれ、私どもの家へ来てやっとほっとしたような様子をするのを見ると、つい決心もにぶってお酒を出してしまうのです。
ですけれども、やはり、何だかどうもあの先生は、私にとっても苦手でして、もうこんどこそ、どんなに頼まれてもお酒は飲ませまいと固く決心していても、追われてきた人のように意外な時刻にひょいと現れ、私どもの家に来てやっとほっとしたような様子をするのを見ると、つい決心もにぶってお酒を出してしまうのです。
原文: 酔っても、別に馬鹿騒ぎをするわけじゃないし、あれでお勘定さえきちんとしてくれたら、いいお客なんですがねえ。
酔っても別に馬鹿騒ぎをするわけでもないし、あれでお勘定さえきちんとしてくれたら、いいお客なんですがねえ。
原文: 自分で自分の身分を吹聴するわけでもないし、天才だのなんだのとそんな馬鹿げた自慢をした事もありませんし、秋ちゃんなんかが、あの先生の傍で、私どもに、あの人の偉さに就いて広告したりなどすると、僕はお金がほしいんだ、ここの勘定を払いたいんだ、とまるっきり別な事を言って座を白けさせてしまいます。
自分で自分の身分を吹聴するわけでもないし、天才だのなんだのとそんな馬鹿げた自慢をしたこともありませんし、秋ちゃんなんかが、あの先生のそばで私どもにあの人の偉さについて宣伝したりなどすると、「僕はお金がほしいんだ、ここの勘定を払いたいんだ」とまったく別のことを言って座を白けさせてしまいます。
原文: あの人が私どもに今までお酒の代を払った事はありませんが、あのひとのかわりに、秋ちゃんが時々支払って行きますし、また、秋ちゃんの他にも、秋ちゃんに知られては困るらしい内緒の女のひともありまして、そのひとはどこかの奥さんのようで、そのひとも時たま大谷さんと一緒にやって来まして、これもまた大谷さんのかわりに、過分のお金を置いて行く事もありまして、私どもだって、商人でございますから、そんな事でもなかった日には、いくら大谷先生であろうが宮様であろうが、そんなにいつまでも、ただで飲ませるわけにはまいりませんのです。
あの人が私どもに今までお酒の代を払ったことはありませんが、あのひとのかわりに秋ちゃんが時々支払って行きますし、また秋ちゃんの他にも秋ちゃんに知られては困るらしい内緒の女性もいまして、そのひとはどこかの奥さんのようで、そのひとも時たま大谷さんと一緒にやってきまして、これもまた大谷さんのかわりに多めのお金を置いて行くこともありまして、私どもだって商売人ですから、そんなことでもなければ、いくら大谷先生であろうが宮様であろうが、そんなにいつまでもただで飲ませるわけにはまいりませんのです。
原文: けれども、そんな時たまの支払いだけでは、とても足りるものではなく、もう私どもの大損で、なんでも小金井に先生の家があって、そこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるという事を聞いていましたので、いちどそちらへお勘定の相談にあがろうと思って、それとなく大谷さんにお宅はどのへんでしょうと、たずねる事もありましたが、すぐ勘附いて、無いものは無いんだよ、どうしてそんなに気をもむのかね、喧嘩わかれは損だぜ、などと、いやな事を言います。
けれどもそんな時たまの支払いだけでは、とても足りるものではなく、もう私どもの大損で、なんでも小金井に先生の家があって、そこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるということを聞いていましたので、一度そちらへお勘定の相談に行こうと思って、それとなく大谷さんにお宅はどのあたりかとたずねることもありましたが、すぐ勘付いて、「ないものはないんだよ、どうしてそんなに気をもむのかね、喧嘩別れは損だぜ」などと、いやなことを言います。
原文: それでも、私どもは何とかして、先生のお家だけでも突きとめて置きたくて、二、三度あとをつけてみた事もありましたが、そのたんびに、うまく巻かれてしまうのです。
それでも私どもは何とかして、先生のお家だけでも突き止めておきたくて、二、三度あとをつけてみたこともありましたが、そのたびに、うまく巻かれてしまうのです。
原文: そのうちに東京は大空襲の連続という事になりまして、何が何やら、大谷さんが戦闘帽などかぶって舞い込んで来て、勝手に押入れの中からブランデイの瓶なんか持ち出して、ぐいぐい立ったまま飲んで風のように立ち去ったりなんかして、お勘定も何もあったものでなく、やがて終戦になりましたので、こんどは私どもも大っぴらで闇の酒さかなを仕入れて、店先には新しいのれんを出し、いかに貧乏の店でも張り切って、お客への愛嬌に女の子をひとり雇ったり致しましたが、またもや、あの魔物の先生があらわれまして、こんどは女連れでなく、必ず二、三人の新聞記者や雑誌記者と一緒にまいりまして、なんでもこれからは、軍人が没落して今まで貧乏してい
そのうちに東京は大空襲の連続ということになりまして、何が何やら、大谷さんが戦闘帽などかぶって飛び込んできて、勝手に押し入れの中からブランデーの瓶なんか持ち出して、ぐいぐい立ったまま飲んで風のように立ち去ったりなんかして、お勘定も何もあったものではなく、やがて終戦になりましたので、今度は私どもも堂々と闇のお酒と肴を仕入れて、店先には新しいのれんを出し、いかに貧乏な店でも張り切って、お客への愛想に女の子を一人雇ったりいたしましたが、またもや、あの魔物の先生が現れまして、今度は女連れでなく、必ず二、三人の新聞記者や雑誌記者と一緒にやってきまして、なんでも、これからは軍人が没落して今まで貧乏していた
原文: た詩人などが世の中からもてはやされるようになったとかいうその記者たちの話でございまして、大谷先生は、その記者たちを相手に、外国人の名前だか、英語だか、哲学だか、何だかわけのわからないような、へんな事を言って聞かせて、そうしてひょいと立って外へ出て、それっきり帰りません。
詩人などが世の中からもてはやされるようになったとかいうその記者たちの話でして、大谷先生はその記者たちを相手に、外国人の名前だか英語だか哲学だか何だかわけのわからないようなことを言って聞かせて、そうしてひょいと立って外に出て、それっきり帰りません。
原文: 記者たちは、興覚め顔に、あいつどこへ行きやがったんだろう、そろそろおれたちも帰ろうか、など帰り支度をはじめ、私は、お待ち下さい、先生はいつもあの手で逃げるのです、お勘定はあなたたちから戴きます、と申します。
記者たちは興ざめした顔で、「あいつどこへ行きやがったんだろう、そろそろ帰ろうか」などと帰り支度をはじめ、私は「お待ちください、先生はいつもあの手で逃げるのです、お勘定はあなたたちからいただきます」と申します。
原文: おとなしく皆で出し合って支払って帰る連中もありますが、大谷に払わせろ、おれたちは五百円生活をしているんだ、と言って怒る人もあります。
おとなしく皆で出し合って支払って帰る連中もありますが、「大谷に払わせろ、おれたちは五百円生活をしているんだ」と言って怒るひともあります。
原文: 怒られても私は、いいえ、大谷さんの借金が、いままでいくらになっているかご存じですか?
怒られても私は、「いいえ、大谷さんの借金が、いままでいくらになっているかご存じですか?
原文: もしあなたたちが、その借金をいくらでも大谷さんから取って下さったら、私は、あなたたちに、その半分は差し上げます、と言いますと、記者たちも呆れた顔を致しまして、なんだ、大谷がそんなひでえ野郎とは思わなかった、こんどからはあいつと飲むのはごめんだ、おれたちには今夜は金は百円も無い、あした持って来るから、それまでこれをあずかって置いてくれ、と威勢よく外套を脱いだりなんかするのでございます。
もしあなたたちが、その借金をいくらでも大谷さんから取ってくださったら、私はあなたたちにその半分は差し上げます」と言いますと、記者たちも呆れた顔をして、「なんだ、大谷がそんなひどい野郎とは思わなかった、こんどからはあいつと飲むのはごめんだ、おれたちには今夜は百円も金がない、あした持ってくるから、それまでこれを預かっておいてくれ」と威勢よく外套を脱いだりなんかするのです。
原文: 記者というものは柄が悪い、と世間から言われているようですけれども、大谷さんにくらべると、どうしてどうして、正直であっさりして、大谷さんが男爵の御次男なら、記者たちのほうが、公爵の御総領くらいの値打があります。
記者というものは柄が悪いと世間から言われているようですけれども、大谷さんにくらべると、どうしてどうして、正直であっさりしていて、大谷さんが男爵の御次男なら、記者たちのほうが公爵の御総領くらいの値打があります。
原文: 大谷さんは、終戦後は一段と酒量もふえて、人相がけわしくなり、これまで口にした事の無かったひどく下品な冗談などを口走り、また、連れて来た記者を矢庭に殴って、つかみ合いの喧嘩をはじめたり、また、私どもの店で使っているまだはたち前の女の子を、いつのまにやらだまし込んで手に入れてしまった様子で、私どもも実に驚き、まったく困りましたが、既にもう出来てしまった事ですから泣き寝入りの他は無く、女の子にもあきらめるように言いふくめて、こっそり親御の許にかえしてやりました。
大谷さんは終戦後は一段とお酒の量も増えて、顔つきがけわしくなり、これまで口にしたことのなかったひどく下品な冗談などを口走り、また連れてきた記者をいきなり殴ってつかみ合いの喧嘩をはじめたり、また私どもの店で使っているまだ二十歳前の女の子をいつの間にかだまし込んで手に入れてしまった様子で、私どもも実に驚き、まったく困りましたが、すでにもう起きてしまったことですから泣き寝入りするしかなく、女の子にもあきらめるよう言い聞かせて、こっそり親御のところへ帰してやりました。
原文: 大谷さん、何ももう言いません、拝むから、これっきり来ないで下さい、と私が申しましても、大谷さんは、闇でもうけているくせに人並の口をきくな、僕はなんでも知っているぜ、と下司な脅迫がましい事など言いまして、またすぐ次の晩に平気な顔してまいります。
大谷さんに「何ももう言いません、拝むから、これっきり来ないでください」と私が申しましても、大谷さんは「闇で儲けているくせに人並みの口をきくな、僕はなんでも知っているぞ」と下品な脅しみたいなことを言いまして、またすぐ次の晩に平気な顔でやってきます。
原文: 私どもも、大戦中から闇の商売などして、その罰が当って、こんな化け物みたいな人間を引受けなければならなくなったのかも知れませんが、しかし、今晩のような、ひどい事をされては、もう詩人も先生もへったくれもない、どろぼうです、私どものお金を五千円ぬすんで逃げ出したのですからね。
私どもも、大戦中から闇の商売などして、その罰が当たって、こんな化け物みたいな人間を引き受けなければならなくなったのかもしれませんが、しかし今晩のようなひどいことをされては、もう詩人も先生もへったくれもない、泥棒です、私どものお金を五千円盗んで逃げ出したのですからね。
原文: いまはもう私どもも、仕入れに金がかかって、家の中にはせいぜい五百円か千円の現金があるくらいのもので、いや本当の話、売り上げの金はすぐ右から左へ仕入れに注ぎ込んでしまわなければならないんです。
今はもう私どもも、仕入れにお金がかかって、家の中にはせいぜい五百円か千円の現金があるくらいのもので、いや本当の話、売り上げの金はすぐ右から左へ仕入れに注ぎ込んでしまわなければならないんです。
原文: 今夜、私どもの家に五千円などという大金があったのは、もうことしも大みそかが近くなって来ましたし、私が常連のお客さんの家を廻ってお勘定をもらって歩いて、やっとそれだけ集めてまいりましたのでして、これはすぐ今夜にでも仕入れのほうに手渡してやらなければ、もう来年の正月からは私どもの商売をつづけてやって行かれなくなるような、そんな大事な金で、女房が奥の六畳間で勘定して戸棚の引出しにしまったのを、あのひとが土間の椅子席でひとりで酒を飲みながらそれを見ていたらしく、急に立ってつかつかと六畳間にあがって、無言で女房を押しのけ引出しをあけ、その五千円の札束をわしづかみにして二重まわしのポケットにねじ込み、私ど
今夜、私どもの家に五千円などという大金があったのは、もうことしも大みそかが近くなってきましたし、私が常連のお客さんの家を回ってお勘定をもらって歩いて、やっとそれだけ集めてまいりましたのでして、これはすぐ今夜にでも仕入れのほうに渡してやらなければ、もう来年の正月からは私どもの商売を続けてやっていけなくなるような、そんな大事なお金で、女房が奥の六畳間で勘定して戸棚の引き出しにしまったのを、あのひとが土間の椅子席で一人でお酒を飲みながらそれを見ていたらしく、急に立ってつかつかと六畳間に上がって、無言で女房を押しのけ引き出しをあけ、その五千円の札束をわしづかみにして外套のポケットにねじ込み、私ど
原文: もがあっけにとられているうちに、さっさと土間に降りて店から出て行きますので、私は大声を挙げて呼びとめ、女房と一緒に後を追い、私はこうなればもう、どろぼう!
もがあっけにとられているうちに、さっさと土間に降りて店から出て行きますので、私は大声を挙げて呼びとめ、女房と一緒に後を追い、私はこうなれば、もう「泥棒!」
原文: と叫んで、往来のひとたちを集めてしばってもらおうかとも思ったのですが、とにかく大谷さんは私どもとは知合いの間柄ですし、それもむごすぎるように思われ、今夜はどんな事があっても大谷さんを見失わないようにどこまでも後をつけて行き、その落ちつく先を見とどけて、おだやかに話してあの金をかえてしてもらおう、とまあ私どもも弱い商売でございますから、私ども夫婦は力を合せ、やっと今夜はこの家をつきとめて、かんにん出来ぬ気持をおさえて、金をかえして下さいと、おんびんに申し出たのに、まあ、何という事だ、ナイフなんか出して、刺すぞだなんて、まあ、なんという」
と叫んで、往来の人たちを集めて縛ってもらおうかとも思ったのですが、とにかく大谷さんは私どもとは知り合いの間柄ですし、それもむごすぎるように思われ、今夜はどんなことがあっても大谷さんを見失わないようにどこまでも後をつけて行き、その落ち着く先を見届けて、穏やかに話してあのお金を返してもらおうと、まあ私どもも弱い商売人ですから、私ども夫婦は力を合わせ、やっと今夜はこの家を突き止めて、許せない気持をおさえて、お金を返してくださいと穏便に申し出たのに、まあ何ということだ、ナイフなんか出して、刺すぞだなんて、まあ、なんという」
原文: またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。
またもや、わけのわからないおかしさがこみ上げてきて、私は声を上げて笑ってしまいました。
原文: おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。
おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。
原文: 私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果の大笑い」
私は笑いがなかなか止まらず、ご亭主に悪いと思いましたが、何だか奇妙におかしくて、いつまでも笑い続けて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果の大笑い」
原文: というのは、こんな気持の事を言っているのかしらと、ふと考えました。
というのは、こんな気持のことを言っているのかしらと、ふと考えました。
原文: 二
二
原文: とにかく、しかし、そんな大笑いをして、すまされる事件ではございませんでしたので、私も考え、その夜お二人に向って、それでは私が何とかしてこの後始末をする事に致しますから、警察沙汰にするのは、もう一日お待ちになって下さいまし、明日そちらさまへ、私のほうからお伺い致します、と申し上げまして、その中野のお店の場所をくわしく聞き、無理にお二人にご承諾をねがいまして、その夜はそのままでひとまず引きとっていただき、それから、寒い六畳間のまんなかに、ひとり坐って物案じいたしましたが、べつだん何のいい工夫も思い浮びませんでしたので、立って羽織を脱いで、坊やの寝ている蒲団にもぐり、坊やの頭を撫でながら、いつまでも
とにかく、しかし、そんな大笑いですまされる事件ではございませんでしたので、私も考え、その夜お二人に向かって、「それでは私が何とかしてこの後始末をすることにしますから、警察沙汰にするのはもう一日お待ちください、明日そちらへ私のほうからお伺いします」と申し上げまして、その中野のお店の場所をくわしく聞き、無理にお二人にご承諾をねがいまして、その夜はそのままでひとまず引き取っていただき、それから寒い六畳間のまんなかに一人で座って考えましたが、別段何のいい工夫も思い浮かびませんでしたので、立って羽織を脱いで、坊やの寝ている布団にもぐり、坊やの頭を撫でながら、いつまでも
原文: 、いつまで経っても、夜が明けなければいい、と思いました。
いつまで経っても、夜が明けなければいいと思いました。
原文: 私の父は以前、浅草公園の瓢箪池のほとりに、おでんの屋台を出していました。
私の父は以前、浅草公園の瓢箪池のほとりにおでんの屋台を出していました。
原文: 母は早くなくなり、父と私と二人きりで長屋住居をしていて、屋台のほうも父と二人でやっていましたのですが、いまのあの人がときどき屋台に立ち寄って、私はそのうちに父をあざむいて、あの人と、よそで逢うようになりまして、坊やがおなかに出来ましたので、いろいろごたごたの末、どうやらあの人の女房というような形になったものの、もちろん籍も何もはいっておりませんし、坊やは、てて無し児という事になっていますし、あの人は家を出ると三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、どこで何をしている事やら、帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔で、はあっはあっと、くるしそうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろ
母は早くなくなり、父と私と二人きりで長屋住まいをしていて、屋台のほうも父と二人でやっていましたのですが、今のあの人がときどき屋台に立ち寄って、私はそのうちに父をあざむいて、あの人とよそで会うようになりまして、坊やがおなかに出来ましたので、いろいろごたごたの末、どうやらあの人の女房というような形になったものの、もちろん籍も何もはいっておりませんし、坊やは父無し子ということになっていますし、あの人は家を出ると三晩も四晩も、いいえ、ひと月も帰らぬこともございまして、どこで何をしているのやら、帰る時はいつも泥酔していて、真っ青な顔で、はあっはあっとくるしそうな息をして、私の顔を黙って見て、ぽろ
原文: ぽろ涙を流す事もあり、またいきなり、私の寝ている蒲団にもぐり込んで来て、私のからだを固く抱きしめて、
ぽろ涙を流すこともあり、またいきなり私の寝ている布団にもぐり込んできて、私のからだを固く抱きしめて、
原文: 「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! たすけてくれ!」
「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! 助けてくれ!」
原文: などと言いまして、がたがた震えている事もあり、眠ってからも、うわごとを言うやら、呻くやら、そうして翌る朝は、魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた三晩も四晩も帰らず、古くからの夫の知合いの出版のほうのお方が二、三人、そのひとたちが私と坊やの身を案じて下さって、時たまお金を持って来てくれますので、どうやら私たちも飢え死にせずにきょうまで暮してまいりましたのです。
などと言いまして、がたがた震えていることもあり、眠ってからも、うわごとを言うやら、うめくやら、そうして翌る朝は魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた三晩も四晩も帰らず、古くからの夫の知り合いの出版関係の方が二、三人、そのひとたちが私と坊やの身を案じてくださって時たまお金を持ってきてくれますので、どうやら私たちも飢え死にせずに今日まで暮らしてまいりましたのです。
原文: とろとろと、眠りかけて、ふと眼をあけると、雨戸のすきまから、朝の光線がさし込んでいるのに気附いて、起きて身支度をして坊やを脊負い、外に出ました。
うとうとと眠りかけて、ふと目をあけると、雨戸のすきまから朝の光が差し込んでいるのに気づいて、起きて身支度をして坊やをおぶい、外に出ました。
原文: もうとても黙って家の中におられない気持でした。
もうとても黙って家の中にいられない気持でした。
原文: どこへ行こうというあてもなく、駅のほうに歩いて行って、駅の前の露店で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それから、ふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、吊皮にぶらさがって何気なく電車の天井にぶらさがっているポスターを見ますと、夫の名が出ていました。
どこへ行こうというあてもなく、駅のほうに歩いて行って、駅の前の露店で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それからふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、つり革につかまって何気なく電車の天井にぶら下がっているポスターを見ますと、夫の名前が出ていました。
原文: それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」
それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」
原文: という題の長い論文を発表している様子でした。
という題の長い論文を発表している様子でした。
原文: 私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。
私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜかわからないけれども、とてもつらい涙がわいてきて、ポスターがかすんで見えなくなりました。
原文: 吉祥寺で降りて、本当にもう何年振りかで井の頭公園に歩いて行って見ました。
吉祥寺で降りて、本当にもう何年振りかで井の頭公園に歩いて行ってみました。
原文: 池のはたの杉の木が、すっかり伐り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々した感じで、昔とすっかり変っていました。
池のほとりの杉の木が、すっかり切り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々した感じで、昔とすっかり変わっていました。
原文: 坊やを背中からおろして、池のはたのこわれかかったベンチに二人ならんで腰をかけ、家から持って来たおいもを坊やに食べさせました。
坊やを背中からおろして、池のほとりの壊れかかったベンチに二人ならんで腰をかけ、家から持ってきたおいもを坊やに食べさせました。
原文: 「坊や。綺麗なお池でしょ? 昔はね、このお池に鯉トトや金トトが、たくさんたくさんいたのだけれども、いまはなんにも、いないわねえ。つまんないねえ」
「坊や。きれいなお池でしょ? 昔はね、このお池に鯉や金魚がたくさんたくさんいたのだけれど、今はなんにもいないわね。つまんないねえ」
原文: 坊やは、何と思ったのか、おいもを口の中に一ぱい頬張ったまま、けけ、と妙に笑いました。
坊やは何と思ったのか、おいもを口の中いっぱいほおばったまま、けけ、と妙に笑いました。
原文: わが子ながら、ほとんど阿呆の感じでした。
わが子ながら、ほとんど知恵遅れのような感じでした。
原文: その池のはたのベンチにいつまでいたって、何のらちのあく事では無し、私はまた坊やを背負って、ぶらぶら吉祥寺の駅のほうへ引返し、にぎやかな露店街を見て廻って、それから、駅で中野行きの切符を買い、何の思慮も計画も無く、謂わばおそろしい魔の淵にするすると吸い寄せられるように、電車に乗って中野で降りて、きのう教えられたとおりの道筋を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどりつきました。
その池のほとりのベンチにいつまでいたって何の解決にもなりはしない、私はまた坊やをおぶって、ぶらぶら吉祥寺の駅のほうへ引き返し、にぎやかな露店街を見て回って、それから駅で中野行きの切符を買い、何の考えも計画もなく、いわば恐ろしい魔の淵にするすると吸い寄せられるように、電車に乗って中野で降りて、昨日教えられたとおりの道を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどり着きました。
原文: 表の戸は、あきませんでしたので、裏へまわって勝手口からはいりました。
表の戸は開きませんでしたので、裏へ回って勝手口から入りました。
原文: ご亭主さんはいなくて、おかみさんひとり、お店の掃除をしていました。
ご亭主はいなくて、おかみさんが一人でお店の掃除をしていました。
原文: おかみさんと顔が合ったとたんに私は、自分でも思いがけなかった嘘をすらすらと言いました。
おかみさんと顔が合ったとたんに私は、自分でも思いがけなかった嘘をすらすらと言いました。
原文: 「あの、おばさん、お金は私が綺麗におかえし出来そうですの。今晩か、でなければ、あした、とにかく、はっきり見込みがついたのですから、もうご心配なさらないで」
「あの、おばさん、お金は私がきちんとお返しできそうですの。今晩か、でなければあした、とにかく、はっきり見込みがついたのですから、もうご心配なさらないで」
原文: 「おや、まあ、それはどうも」
「おや、まあ、それはどうも」
原文: と言って、おかみさんは、ちょっとうれしそうな顔をしましたが、それでも何か腑に落ちないような不安な影がその顔のどこやらに残っていました。
と言って、おかみさんは少しうれしそうな顔をしましたが、それでも何か腑に落ちないような不安な影がその顔のどこかに残っていました。
原文: 「おばさん、本当よ。かくじつに、ここへ持って来てくれるひとがあるのよ。それまで私は、人質になって、ここにずっといる事になっていますの。それなら、安心でしょう? お金が来るまで、私はお店のお手伝いでもさせていただくわ」
「おばさん、本当よ。確かに、ここへ持ってきてくれるひとがあるのよ。それまで私は人質になって、ここにずっといることになっていますの。それなら安心でしょう? お金が来るまで、私はお店のお手伝いでもさせていただくわ」
原文: 私は坊やを背中からおろし、奥の六畳間にひとりで遊ばせて置いて、くるくると立ち働いて見せました。
私は坊やを背中からおろし、奥の六畳間に一人で遊ばせておいて、くるくると立ち働いて見せました。
原文: 坊やは、もともとひとり遊びには馴れておりますので、少しも邪魔になりません。
坊やは、もともと一人遊びには慣れておりますので、少しも邪魔になりません。
原文: また頭が悪いせいか、人見知りをしないたちなので、おかみさんにも笑いかけたりして、私がおかみさんのかわりに、おかみさんの家の配給物をとりに行ってあげている留守にも、おかみさんからアメリカの罐詰の殻を、おもちゃ代りにもらって、それを叩いたりころがしたりしておとなしく六畳間の隅で遊んでいたようでした。
また頭が悪いせいか人見知りをしない性質なので、おかみさんにも笑いかけたりして、私がおかみさんのかわりにお店の配給品をもらいに行ってあげている留守にも、おかみさんからアメリカの缶詰の空き缶をおもちゃ代わりにもらって、それを叩いたりころがしたりしておとなしく六畳間の隅で遊んでいたようでした。
原文: お昼頃、ご亭主がおさかなや野菜の仕入れをして帰って来ました。
お昼頃、ご亭主がお魚や野菜の仕入れをして帰ってきました。
原文: 私は、ご亭主の顔を見るなり、また早口に、おかみさんに言ったのと同様の嘘を申しました。
私はご亭主の顔を見るなり、また早口に、おかみさんに言ったのと同じ嘘を申しました。
原文: ご亭主は、きょとんとした顔になって、
ご亭主は、きょとんとした顔になって、
原文: 「へえ? しかし、奥さん、お金ってものは、自分の手に、握ってみないうちは、あてにならないものですよ」
「へえ? しかし、奥さん、お金というものは、自分の手に握ってみないうちは、あてにならないものですよ」
原文: と案外、しずかな、教えさとすような口調で言いました。
と案外、静かな、諭すような口調で言いました。
原文: 「いいえ、それがね、本当にたしかなのよ。だから、私を信用して、おもて沙汰にするのは、きょう一日待って下さいな。それまで私は、このお店でお手伝いしていますから」
「いいえ、それがね、本当に確かなのよ。だから、私を信用して、表沙汰にするのはきょう一日待ってくださいな。それまで私は、このお店でお手伝いしていますから」
原文: 「お金が、かえって来れば、そりゃもう何も」
「お金がかえってくれば、そりゃもう何も」
原文: とご亭主は、ひとりごとのように言い、「何せことしも、あと五、六日なのですからね」
とご亭主は独り言のように言い、「何せことしも、あと五、六日なのですからね」
原文: 「ええ、だから、それだから、あの私は、おや? お客さんですわよ。いらっしゃいまし」
「ええ、だから、それだから、あの私は、おや? お客さんですわよ。いらっしゃいませ」
原文: と私は、店へはいって来た三人連れの職人ふうのお客に向って笑いかけ、それから小声で、「おばさん、すみません。エプロンを貸して下さいな」
と私は、店に入ってきた三人連れの職人風のお客に向かって笑いかけ、それから小声で「おばさん、すみません。エプロンを貸してくださいな」
原文: 「や、美人を雇いやがった。こいつあ、凄い」
「や、美人を雇いやがった。こいつは、すごい」
原文: と客のひとりが言いました。
とお客の一人が言いました。
原文: 「誘惑しないで下さいよ」
「誘惑しないでくださいよ」
原文: とご亭主は、まんざら冗談でもないような口調で言い、「お金のかかっているからだですから」
とご亭主は、まんざら冗談でもないような口調で言い、「お金のかかっているからだですから」
原文: 「百万ドルの名馬か?」
「百万ドルの名馬か?」
原文: ともうひとりの客は、げびた洒落を言いました。
ともう一人のお客は、野暮な冗談を言いました。
原文: 「名馬も、雌は半値だそうです」
「名馬も、雌は半値だそうです」
原文: と私は、お酒のお燗をつけながら、負けずに、げびた受けこたえを致しますと、
と私は、お酒を燗をつけながら、負けずに野暮な返しをいたしますと、
原文: 「けんそんするなよ。これから日本は、馬でも犬でも、男女同権だってさ」
「けんそんするなよ。これから日本は、馬でも犬でも、男女同権だってさ」
原文: と一ばん若いお客が、呶鳴るように言いまして、「ねえさん、おれは惚れた。一目惚れだ。が、しかし、お前は、子持ちだな?」
と一番若いお客が怒鳴るように言いまして、「ねえさん、おれは惚れた。一目惚れだ。が、しかし、お前は、子持ちだな?」
原文: 「いいえ」
「いいえ」
原文: と奥から、おかみさんは、坊やを抱いて出て来て、「これは、こんど私どもが親戚からもらって来た子ですの。これでもう、やっと私どもにも、あとつぎが出来たというわけですわ」
と奥から、おかみさんは坊やを抱いて出てきて、「これは、こんど私どもが親戚からもらってきた子ですの。これでやっと私どもにも、跡継ぎができたというわけですわ」
原文: 「金も出来たし」
「金もできたし」
原文: と客のひとりが、からかいますと、ご亭主はまじめに、
とお客の一人がからかいますと、ご亭主はまじめに、
原文: 「いろも出来、借金も出来」
「色もでき、借金もでき」
原文: と呟き、それから、ふいと語調をかえて、「何にしますか? よせ鍋でも作りましょうか?」
とつぶやき、それからふいに語調を変えて「何にしますか? よせ鍋でも作りましょうか?」
原文: と客にたずねます。
とお客にたずねます。
原文: 私には、その時、或る事が一つ、わかりました。
私には、その時、或ることが一つわかりました。
原文: やはりそうか、と自分でひとり首肯き、うわべは何気なく、お客にお銚子を運びました。
やはりそうかと、自分で一人うなずき、うわべは何気なく、お客にお銚子を運びました。
原文: その日は、クリスマスの、前夜祭とかいうのに当っていたようで、そのせいか、お客が絶えること無く、次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかったのでございますが、胸に思いがいっぱい籠っているためか、おかみさんから何かおあがりと勧められても、いいえ沢山と申しまして、そうしてただもう、くるくると羽衣一まいを纏って舞っているように身軽く立ち働き、自惚れかも知れませぬけれども、その日のお店は異様に活気づいていたようで、私の名前をたずねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人、三人どころではございませんでした。
その日はクリスマスの前夜祭とかいうのに当たっていたようで、そのせいかお客が絶えることなく次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ食べていなかったのですが、胸に思いがいっぱい詰まっているためか、おかみさんから何かお召し上がりと勧められても「いいえ、結構です」と申しまして、そうしてただもう、くるくると羽衣一枚をまとって舞っているように身軽く立ち働き、うぬぼれかもしれませんけれども、その日のお店は異様に活気づいていたようで、私の名前をたずねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人、三人どころではございませんでした。
原文: けれども、こうしてどうなるのでしょう。
けれども、こうしてどうなるのでしょう。
原文: 私には何も一つも見当が附いていないのでした。
私には何一つ見当がついていないのでした。
原文: ただ笑って、お客のみだらな冗談にこちらも調子を合せて、更にもっと下品な冗談を言いかえし、客から客へ滑り歩いてお酌して廻って、そうしてそのうちに、自分のこのからだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、などと考えるだけでございました。
ただ笑って、お客の下品な冗談にこちらも調子を合わせて、さらにもっと下品な冗談を言い返し、客から客へと渡り歩いてお酌して回って、そうしてそのうちに自分のこのからだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、などと考えるだけでございました。
原文: 奇蹟はやはり、この世の中にも、ときたま、あらわれるものらしゅうございます。
奇跡はやはり、この世の中にも、時たま現れるものらしゅうございます。
原文: 九時すこし過ぎくらいの頃でございましたでしょうか。
九時少し過ぎくらいの頃でございましたでしょうか。
原文: クリスマスのお祭りの、紙の三角帽をかぶり、ルパンのように顔の上半分を覆いかくしている黒の仮面をつけた男と、それから三十四、五の痩せ型の綺麗な奥さんと二人連れの客が見えまして、男のひとは、私どもには後向きに、土間の隅の椅子に腰を下しましたが、私はその人がお店にはいってくると直ぐに、誰だか解りました。
クリスマスのお祝いの、紙の三角帽をかぶり、ルパンのように顔の上半分を覆い隠している黒の仮面をつけた男と、それから三十四、五の痩せ型のきれいな奥さんと二人連れのお客が見えまして、男性は私どもには後ろ向きに、土間の隅の椅子に腰を下しましたが、私はその人が店に入ってくるとすぐに、誰だかわかりました。
原文: どろぼうの夫です。
泥棒の夫です。
原文: 向うでは、私のことに何も気附かぬようでしたので、私も知らぬ振りして他のお客とふざけ合い、そうして、その奥さんが夫と向い合って腰かけて、
向こうでは、私のことに何も気づかない様子でしたので、私も知らぬ振りをして他のお客とふざけ合い、そうして、その奥さんが夫と向き合って腰かけて、
原文: 「ねえさん、ちょっと」
「ねえさん、ちょっと」
原文: と呼びましたので、
と呼びましたので、
原文: 「へえ」
「へえ」
原文: と返辞して、お二人のテーブルのほうに参りまして、
と返事して、お二人のテーブルのほうへ参りまして、
原文: 「いらっしゃいまし。お酒でございますか?」
「いらっしゃいませ。お酒でございますか?」
原文: と申しました時に、ちらと夫は仮面の底から私を見て、さすがに驚いた様子でしたが、私はその肩を軽く撫でて、
と申しました時に、ちらと夫は仮面の下から私を見て、さすがに驚いた様子でしたが、私はその肩を軽く撫でて、
原文: 「クリスマスおめでとうって言うの? なんていうの? もう一升くらいは飲めそうね」
「クリスマスおめでとうって言うの? なんて言うの? もう一升くらいは飲めそうね」
原文: と申しました。
と申しました。
原文: 奥さんはそれには取り合わず、改まった顔つきをして、
奥さんはそれには取り合わず、改まった顔つきをして、
原文: 「あの、ねえさん、すみませんがね、ここのご主人にないないお話し申したい事がございますのですけど、ちょっとここへご主人を」
「あの、ねえさん、すみませんがね、ここのご主人にこっそりお話し申したいことがございますのですけど、ちょっとここへご主人を」
原文: と言いました。
と言いました。
原文: 私は奥で揚物をしているご亭主のところへ行き、
私は奥で揚げ物をしているご亭主のところへ行き、
原文: 「大谷が帰ってまいりました。会ってやって下さいまし。でも、連れの女のかたに、私のことは黙っていて下さいね。大谷が恥かしい思いをするといけませんから」
「大谷が帰ってまいりました。会ってやってください。でも、連れの女の方に、私のことは黙っていてくださいね。大谷が恥ずかしい思いをするといけませんから」
原文: 「いよいよ、来ましたね」
「いよいよ、来ましたね」
原文: ご亭主は、私の、あの嘘を半ばは危みながらも、それでもかなり信用していてくれたもののようで、夫が帰って来たことも、それも私の何か差しがねに依っての事と単純に合点している様子でした。
ご亭主は、私のあの嘘を半分は怪しみながらも、それでもかなり信用していてくれたもののようで、夫が帰ってきたことも、それも私の何か差し金によるものと単純に合点している様子でした。
原文: 「私のことは、黙っててね」
「私のことは黙っててね」
原文: と重ねて申しますと、
と重ねて申しますと、
原文: 「そのほうがよろしいのでしたら、そうします」
「そのほうがよろしいのでしたら、そうします」
原文: と気さくに承知して、土間に出て行きました。
と気さくに承知して、土間に出て行きました。
原文: ご亭主は土間のお客を一わたりざっと見廻し、それから真っ直ぐに夫のいるテーブルに歩み寄って、その綺麗な奥さんと何か二言、三言話を交して、それから三人そろって店から出て行きました。
ご亭主は土間のお客をざっと見渡し、それから真っすぐに夫のいるテーブルに歩み寄って、その綺麗な奥さんと何か二言三言話を交わして、それから三人そろって店から出て行きました。
原文: もういいのだ。
もういいのだ。
原文: 万事が解決してしまったのだと、なぜだかそう信ぜられて、流石にうれしく、紺絣の着物を着たまだはたち前くらいの若いお客さんの手首を、だしぬけに強く掴んで、
万事が解決してしまったのだと、なぜかそう信じられて、さすがにうれしく、紺絣の着物を着たまだ二十歳前くらいの若いお客さんの手首を、だしぬけに強くつかんで、
原文: 「飲みましょうよ、ね、飲みましょう。クリスマスですもの」
「飲みましょうよ、ね、飲みましょう。クリスマスですもの」
原文: 三
三
原文: ほんの三十分、いいえ、もっと早いくらい、おや、と思ったくらいに早く、ご亭主がひとりで帰って来まして、私の傍に寄り、
ほんの三十分、いいえ、もっと早いくらい、おや、と思ったくらいに早く、ご亭主が一人で帰ってきまして、私のそばに寄り、
原文: 「奥さん、ありがとうございました。お金はかえして戴きました」
「奥さん、ありがとうございました。お金はかえしていただきました」
原文: 「そう。よかったわね。全部?」
「そう。よかったわね。全部?」
原文: ご亭主は、へんな笑い方をして、
ご亭主は、変な笑い方をして、
原文: 「ええ、きのうの、あの分だけはね」
「ええ、昨日のあの分だけはね」
原文: 「これまでのが全部で、いくらなの? ざっと、まあ、大負けに負けて」
「これまでのが全部で、いくらなの? ざっと、まあ、大まけに負けて」
原文: 「二万円」
「二万円」
原文: 「それだけでいいの?」
「それだけでいいの?」
原文: 「大負けに負けました」
「大まけに負けました」
原文: 「おかえし致します。おじさん、あすから私を、ここで働かせてくれない? ね、そうして! 働いて返すわ」
「お返しします。おじさん、あすから私を、ここで働かせてくれない? ね、そうして! 働いて返すわ」
原文: 「へえ? 奥さん、とんだ、おかるだね」
「へえ? 奥さん、とんだ、おかるだね」
原文: 私たちは、声を合せて笑いました。
私たちは声を合わせて笑いました。
原文: その夜、十時すぎ、私は中野の店をおいとまして、坊やを背負い、小金井の私たちの家にかえりました。
その夜、十時過ぎ、私は中野の店をおいとまして、坊やをおぶい、小金井の私たちの家に帰りました。
原文: やはり夫は帰って来ていませんでしたが、しかし私は、平気でした。
やはり夫は帰ってきていませんでしたが、しかし私は平気でした。
原文: あすまた、あのお店へ行けば、夫に逢えるかも知れない。
あすまた、あのお店に行けば、夫に会えるかもしれない。
原文: どうして私はいままで、こんないい事に気づかなかったのかしら。
どうして私は今まで、こんないいことに気づかなかったのかしら。
原文: きのうまでの私の苦労も、所詮は私が馬鹿で、こんな名案に思いつかなかったからなのだ。
昨日までの私の苦労も、結局は私が馬鹿で、こんな名案に思いつかなかったからなのだ。
原文: 私だって昔は浅草の父の屋台で、客あしらいは決して下手ではなかったのだから、これからあの中野のお店できっと巧く立ちまわれるに違いない。
私だって昔は浅草の父の屋台で、お客の扱いは決して下手ではなかったのだから、これからあの中野のお店できっとうまく立ち回れるに違いない。
原文: 現に今夜だって私は、チップを五百円ちかくもらったのだもの。
現に今夜だって私は、チップを五百円近くもらったのだもの。
原文: ご亭主の話に依ると、夫は昨夜あれから何処か知合いの家へ行って泊ったらしく、それから、けさ早く、あの綺麗な奥さんの営んでいる京橋のバーを襲って、朝からウイスキーを飲み、そうして、そのお店に働いている五人の女の子に、クリスマス・プレゼントだと言って無闇にお金をくれてやって、それからお昼頃にタキシーを呼び寄せさせて何処かへ行き、しばらくたって、クリスマスの三角帽やら仮面やら、デコレーションケーキやら七面鳥まで持ち込んで来て、四方に電話を掛けさせ、お知合いの方たちを呼び集め、大宴会をひらいて、いつもちっともお金を持っていない人なのにと、バーのマダムが不審がって、そっと問いただしてみたら、夫は平然と、昨
ご亭主の話によると、夫は昨夜あれからどこか知り合いの家へ行って泊まったらしく、それから今朝早く、あの綺麗な奥さんの営んでいる京橋のバーを訪ねて、朝からウイスキーを飲み、そうして、そのお店に働いている五人の女の子にクリスマス・プレゼントだと言って無闇にお金をあげて、それからお昼頃にタクシーを呼ばせてどこかへ行き、しばらくしてクリスマスの三角帽や仮面やデコレーションケーキや七面鳥まで持ち込んできて、四方に電話をかけさせ、お知り合いの方たちを呼び集め、大宴会を開いて、いつもちっともお金を持っていない人なのにとバーのマダムが不審がって、そっと問いただしてみたら、夫は平然と昨
原文: 夜のことを洗いざらいそのまま言うので、そのマダムも前から大谷とは他人の仲では無いらしく、とにかくそれは警察沙汰になって騒ぎが大きくなっても、つまらないし、かえさなければなりませんと親身に言って、お金はそのマダムがたてかえて、そうして夫に案内させ、中野のお店に来てくれたのだそうで、中野のお店のご亭主は私に向って、
夜のことを洗いざらいそのまま言うので、そのマダムも前から大谷さんとは他人の仲ではないらしく、とにかくそれは警察沙汰になって騒ぎが大きくなってもつまらないし、返さなければなりませんと親身に言って、お金はそのマダムが立て替えて、そうして夫に案内させ、中野のお店に来てくれたのだそうで、中野のお店のご亭主は私に向かって、
原文: 「たいがい、そんなところだろうとは思っていましたが、しかし、奥さん、あなたはよくその方角にお気が附きましたね。大谷さんのお友だちにでも頼んだのですか」
「たいがい、そんなところだろうとは思っていましたが、しかし奥さん、あなたはよくその方向にお気が付きましたね。大谷さんのお友だちにでも頼んだのですか」
原文: とやはり私が、はじめからこうしてかえって来るのを見越して、このお店に先廻りして待っていたもののように考えているらしい口振りでしたから、私は笑って、
とやはり私が、はじめからこうして戻ってくるのを見越して、このお店に先回りして待っていたもののように考えているらしい口振りでしたから、私は笑って、
原文: 「ええ、そりゃもう」
「ええ、そりゃもう」
原文: とだけ、答えて置きましたのです。
とだけ答えておきましたのです。
原文: その翌る日からの私の生活は、今までとはまるで違って、浮々した楽しいものになりました。
その翌日からの私の生活は、今までとはまるで違って、浮き浮きとした楽しいものになりました。
原文: さっそく電髪屋に行って、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろえまして、着物を縫い直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭い去られた感じでした。
さっそく美容院に行って、髪の手入れもいたしましたし、化粧品も取りそろえまして、着物を縫い直したり、またおかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭い去られた感じでした。
原文: 朝起きて坊やと二人で御飯をたべ、それから、お弁当をつくって坊やを脊負い、中野にご出勤ということになり、大みそか、お正月、お店のかきいれどきなので、椿屋の、さっちゃん、というのがお店での私の名前なのでございますが、そのさっちゃんは毎日、眼のまわるくらいの大忙しで、二日に一度くらいは夫も飲みにやって参りまして、お勘定は私に払わせて、またふっといなくなり、夜おそく私のお店を覗いて、
朝起きて坊やと二人でごはんを食べ、それからお弁当を作って坊やをおぶい、中野にご出勤ということになり、大みそか、お正月、お店の書き入れ時なので、椿屋の「さっちゃん」というのがお店での私の名前なのですが、そのさっちゃんは毎日目が回るくらいの大忙しで、二日に一度くらいは夫も飲みにやってまいりまして、お勘定は私に払わせて、またふっといなくなり、夜遅く私のお店をのぞいて、
原文: 「帰りませんか」
「帰りませんか」
原文: とそっと言い、私も首肯いて帰り支度をはじめ、一緒にたのしく家路をたどる事も、しばしばございました。
とそっと言い、私もうなずいて帰り支度をはじめ、一緒に楽しく家路をたどることも、しばしばございました。
原文: 「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸せよ」
原文: 「女には、幸福も不幸も無いものです」
「女には、幸福も不幸もないものです」
原文: 「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
「そうなの? そう言われると、そんな気もしてくるけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
原文: 「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
原文: 「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、こんな生活をつづけて行きとうございますわ。椿屋のおじさんも、おばさんも、とてもいいお方ですもの」
「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、こんな生活を続けて行きとうございますわ。椿屋のおじさんも、おばさんも、とてもいい方ですもの」
原文: 「馬鹿なんですよ、あのひとたちは。田舎者ですよ。あれでなかなか慾張りでね。僕に飲ませて、おしまいには、もうけようと思っているのです」
「馬鹿なんですよ、あのひとたちは。田舎者ですよ。あれでなかなか欲張りでね。僕に飲ませて、おしまいには儲けようと思っているのです」
原文: 「そりゃ商売ですもの、当り前だわ。だけど、それだけでも無いんじゃない? あなたは、あのおかみさんを、かすめたでしょう」
「そりゃ商売ですもの、当たり前だわ。だけど、それだけでもないんじゃない? あなたは、あのおかみさんを、かすめたでしょう」
原文: 「昔ね。おやじは、どう? 気附いているの?」
「昔ね。おやじは、どう? 気づいているの?」
原文: 「ちゃんと知っているらしいわ。いろも出来、借金も出来、といつか溜息まじりに言ってたわ」
「ちゃんと知っているらしいわ。色もでき、借金もでき、といつかため息まじりに言ってたわ」
原文: 「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
「僕はね、気取ったように聞こえるかもしれないけれど、死にたくて仕方がないんです。生まれた時から、死ぬことばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう確かなんだ。それでいて、なかなか死ねない。不思議な、恐ろしい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
原文: 「お仕事が、おありですから」
「お仕事が、おありですから」
原文: 「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」
「仕事なんてものは、何でもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えばよくなるし、悪いと言えば悪くなるんです。ちょうど吐く息と引く息みたいなものなんです。恐ろしいのはね、この世の中のどこかに神がいる、ということなんです。いるんでしょうね?」
原文: 「え?」
「え?」
原文: 「いるんでしょうね?」
「いるんでしょうね?」
原文: 「私には、わかりませんわ」
「私には、わかりませんわ」
原文: 「そう」
「そう」
原文: 十日、二十日とお店にかよっているうちに、私には、椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんがひとり残らず犯罪人ばかりだという事に、気がついてまいりました。
十日、二十日とお店に通っているうちに、私には、椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんが一人残らず犯罪者ばかりだということに、気がついてまいりました。
原文: 夫などはまだまだ、優しいほうだと思うようになりました。
夫などはまだまだ、やさしいほうだと思うようになりました。
原文: また、お店のお客さんばかりでなく、路を歩いている人みなが、何か必ずうしろ暗い罪をかくしているように思われて来ました。
また、お店のお客さんばかりでなく、道を歩いている人みんなが、何か必ずうしろ暗い罪を隠しているように思われてきました。
原文: 立派な身なりの、五十年配の奥さんが、椿屋の勝手口にお酒を売りに来て、一升三百円、とはっきり言いまして、それはいまの相場にしては安いほうですので、おかみさんがすぐに引きとってやりましたが、水酒でした。
立派な身なりの五十年配の奥さんが、椿屋の勝手口にお酒を売りに来て、「一升三百円」とはっきり言いまして、それは今の相場にしては安いほうですので、おかみさんがすぐに引き取ってやりましたが、水で割ったお酒でした。
原文: あんな上品そうな奥さんさえ、こんな事をたくらまなければならなくなっている世の中で、我が身にうしろ暗いところが一つも無くて生きて行く事は、不可能だと思いました。
あんな上品そうな奥さんさえ、こんなことをしなければならなくなっている世の中で、自分にうしろ暗いところが一つもなくて生きて行くことは不可能だと思いました。
原文: トランプの遊びのように、マイナスを全部あつめるとプラスに変るという事は、この世の道徳には起り得ない事でしょうか。
トランプの遊びのように、マイナスを全部集めるとプラスに変わるということは、この世の道徳には起り得ないことでしょうか。
原文: 神がいるなら、出て来て下さい!
神がいるなら、出てきてください!
原文: 私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました。
私は、お正月の末に、お店のお客に体を汚されました。
原文: その夜は、雨が降っていました。
その夜は、雨が降っていました。
原文: 夫は、あらわれませんでしたが、夫の昔からの知合いの出版のほうの方で、時たま私のところへ生活費をとどけて下さった矢島さんが、その同業のお方らしい、やはり矢島さんくらいの四十年配のお方と二人でお見えになり、お酒を飲みながら、お二人で声高く、大谷の女房がこんなところで働いているのは、よろしくないとか、よろしいとか、半分は冗談みたいに言い合い、私は笑いながら、
夫は現れませんでしたが、夫の昔からの知り合いの出版関係の方で、時たま私のところへ生活費を届けてくださった矢島さんが、その同業らしい、やはり矢島さんくらいの四十年配の方と二人でお見えになり、お酒を飲みながら、お二人で声高く、大谷の女房がこんなところで働いているのはよろしくないとか、よろしいとか、半分は冗談みたいに言い合い、私は笑いながら、
原文: 「その奥さんは、どこにいらっしゃるの?」
「その奥さんは、どこにいらっしゃるの?」
原文: とたずねますと、矢島さんは、
とたずねますと、矢島さんは、
原文: 「どこにいるのか知りませんがね、すくなくとも、椿屋のさっちゃんよりは、上品で綺麗だ」
「どこにいるのか知りませんがね、少なくとも、椿屋のさっちゃんよりは、上品できれいだ」
原文: と言いますので、
と言いますので、
原文: 「やけるわね。大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添ってみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」
「やけるわね。大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、そばにいてみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」
原文: 「これだからねえ」
「これだからねえ」
原文: と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。
と矢島さんは、連れの方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。
原文: その頃になると、私が大谷という詩人の女房だという事が、夫と一緒にやって来る記者のお方たちにも知られていましたし、またそのお方たちから聞いてわざわざ私をからかいにおいでになる物好きなお方などもありまして、お店はにぎやかになる一方で、ご亭主のご機嫌もいよいよ、まんざらでございませんでしたのです。
その頃になると、私が大谷という詩人の女房だということが、夫と一緒にやってくる記者の方たちにも知られていましたし、またその方たちから聞いてわざわざ私をからかいにおいでになる物好きな方などもありまして、お店はにぎやかになる一方で、ご亭主のご機嫌もいよいよ悪くはないのでした。
原文: その夜は、それから矢島さんたちは紙の闇取引の商談などして、お帰りになったのは十時すぎで、私も今夜は雨も降るし、夫もあらわれそうもございませんでしたので、お客さんがまだひとり残っておりましたけれども、そろそろ帰り支度をはじめて、奥の六畳の隅に寝ている坊やを抱き上げて脊負い、
その夜は、それから矢島さんたちは紙の闇取引の商談などして、お帰りになったのは十時過ぎで、私も今夜は雨も降るし、夫も現れそうもありませんでしたので、お客さんがまだ一人残っておりましたけれども、そろそろ帰り支度をはじめて、奥の六畳の隅に寝ている坊やを抱き上げておぶい、
原文: 「また、傘をお借りしますわ」
「また、傘をお借りしますわ」
原文: と小声でおかみさんにお頼みしますと、
と小声でおかみさんにお頼みしますと、
原文: 「傘なら、おれも持っている。お送りしましょう」
「傘なら、おれも持っている。お送りしましょう」
原文: とお店に一人のこっていた二十五、六の、痩せて小柄な工員ふうのお客さんが、まじめな顔をして立ち上りました。
とお店に一人残っていた二十五、六の痩せて小柄な工員風のお客さんが、まじめな顔をして立ち上りました。
原文: それは、私には今夜がはじめてのお客さんでした。
それは、私には今夜が初めてのお客さんでした。
原文: 「はばかりさま。ひとり歩きには馴れていますから」
「おかまいなく。一人歩きには慣れていますから」
原文: 「いや、お宅は遠い。知っているんだ。おれも、小金井の、あの近所の者なんだ。お送りしましょう。おばさん、勘定をたのむ」
「いや、お宅は遠い。知っているんだ。おれも、小金井の、あの近所の者なんだ。お送りしましょう。おばさん、勘定をたのむ」
原文: お店では三本飲んだだけで、そんなに酔ってもいないようでした。
お店では三本飲んだだけで、そんなに酔ってもいないようでした。
原文: 一緒に電車に乗って、小金井で降りて、それから雨の降るまっくらい路を相合傘で、ならんで歩きました。
一緒に電車に乗って、小金井で降りて、それから雨の降る真っ暗な道を相合い傘で、並んで歩きました。
原文: その若いひとは、それまでほとんど無言でいたのでしたが、ぽつりぽつり言いはじめ、
その若い人は、それまでほとんど無言でいたのでしたが、ぽつりぽつりと言い始め、
原文: 「知っているのです。おれはね、あの大谷先生の詩のファンなのですよ。おれもね、詩を書いているのですがね。そのうち、大谷先生に見ていただこうと思っていたのですがね。どうもね、あの大谷先生が、こわくてね」
「知っているのです。おれはね、あの大谷先生の詩のファンなのですよ。おれもね、詩を書いているのですがね。そのうち、大谷先生に見ていただこうと思っていたのですがね。どうもね、あの大谷先生が、こわくてね」
原文: 家につきました。
家に着きました。
原文: 「ありがとうございました。また、お店で」
「ありがとうございました。また、お店で」
原文: 「ええ、さようなら」
「ええ、さようなら」
原文: 若いひとは、雨の中を帰って行きました。
若い人は、雨の中を帰って行きました。
原文: 深夜、がらがらと玄関のあく音に、眼をさましましたが、れいの夫の泥酔のご帰宅かと思い、そのまま黙って寝ていましたら、
深夜、がらがらと玄関が開く音に目を覚ましましたが、いつもの夫の泥酔のご帰宅かと思い、そのまま黙って寝ていましたら、
原文: 「ごめん下さい。大谷さん、ごめん下さい」
「ごめんください。大谷さん、ごめんください」
原文: という男の声が致します。
という男の声がします。
原文: 起きて電燈をつけて玄関に出て見ますと、さっきの若いひとが、ほとんど直立できにくいくらいにふらふらして、
起きて電灯をつけて玄関に出てみますと、さっきの若い人が、ほとんどまっすぐ立っていられないくらいふらふらして、
原文: 「奥さん、ごめんなさい。かえりにまた屋台で一ぱいやりましてね、実はね、おれの家は立川でね、駅へ行ってみたらもう、電車がねえんだ。奥さん、たのみます。泊めて下さい。ふとんも何も要りません。この玄関の式台でもいいのだ。あしたの朝の始発が出るまで、ごろ寝させて下さい。雨さえ降ってなけや、その辺の軒下にでも寝るんだが、この雨では、そうもいかねえ。たのみます」
「奥さん、ごめんなさい。帰りにまた屋台で一杯やりましてね、実はね、おれの家は立川でね、駅へ行ってみたらもう電車がないんだ。奥さん、頼みます。泊めてください。布団も何も要りません。この玄関の式台でもいいんだ。明日の朝の始発が出るまで、ごろ寝させてください。雨さえ降っていなけりゃ、その辺の軒下にでも寝るんだが、この雨では、そうもいかない。頼みます」
原文: 「主人もおりませんし、こんな式台でよろしかったら、どうぞ」
「主人もおりませんし、こんな式台でよろしかったら、どうぞ」
原文: と私は言い、破れた座蒲団を二枚、式台に持って行ってあげました。
と私は言い、破れた座布団を二枚、式台に持って行ってあげました。
原文: 「すみません。ああ酔った」
「すみません。ああ酔った」
原文: と苦しそうに小声で言い、すぐにそのまま式台に寝ころび、私が寝床に引返した時には、もう高い鼾が聞えていました。
と苦しそうに小声で言い、すぐにそのまま式台に横になり、私が寝床に引き返した時にはもう高いいびきが聞こえていました。
原文: そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。
そうして、その翌日の明け方、私はあっけなくその男の手に落ちました。
原文: その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
その日も私は、うわべはやはり同じように、坊やをおぶって、お店の勤めに出かけました。
原文: 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。
中野のお店の土間で、夫がお酒の入ったコップをテーブルの上に置いて、一人で新聞を読んでいました。
原文: コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。
コップに午前の日の光が当たって、きれいだと思いました。
原文: 「誰もいないの?」
「誰もいないの?」
原文: 夫は、私のほうを振り向いて見て、
夫は、私のほうを振り向いて見て、
原文: 「うん。おやじはまだ仕入れから帰らないし、ばあさんは、ちょっといままでお勝手のほうにいたようだったけど、いませんか?」
「うん。おやじはまだ仕入れから帰らないし、ばあさんは、ちょっとさっきまでお勝手のほうにいたようだったけど、いませんか?」
原文: 「ゆうべは、おいでにならなかったの?」
「ゆうべは、おいでにならなかったの?」
原文: 「来ました。椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくなってね、十時すぎにここを覗いてみたら、いましがた帰りましたというのでね」
「来ました。椿屋のさっちゃんの顔を見ないと、このごろ眠れなくなってね、十時過ぎにここをのぞいてみたら、いましがた帰りましたというのでね」
原文: 「それで?」
「それで?」
原文: 「泊っちゃいましたよ、ここへ。雨はざんざ降っているし」
「泊まっちゃいましたよ、ここへ。雨はざんざ降っているし」
原文: 「あたしも、こんどから、このお店にずっと泊めてもらう事にしようかしら」
「あたしも、こんどから、このお店にずっと泊めてもらうことにしようかしら」
原文: 「いいでしょう、それも」
「いいでしょう、それも」
原文: 「そうするわ。あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの」
「そうするわ。あの家をいつまでも借りているのは、意味ないもの」
原文: 夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
夫は、黙ってまた新聞に目をそそぎ、
原文: 「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンの偽貴族だってさ。こいつは当たっていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらいいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人でなしなんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人でなしでないから、あんなこともしてしまうのです」
原文: 私は格別うれしくもなく、
私は格別うれしくもなく、
原文: 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
「人でなしでもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
原文: と言いました。
と言いました。