AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
原文: 上
上
原文: 「あの泥坊が羨しい」
「あの泥棒がうらやましい」
原文: 二人の間にこんな言葉が交される程、其頃は窮迫していた。
二人の間でこんな言葉が交わされるくらい、そのころは追い詰められていた。
原文: 場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただ一間しかない六畳に、一閑張りの破れ机を二つ並べて、松村武とこの私とが、変な空想ばかり逞しゅうして、ゴロゴロしていた頃のお話である。
場末の貧しい下駄屋の二階の、たった一間しかない六畳間に、古ぼけた一閑張りの机を二つ並べて、松村武とこの私とが、変な空想ばかり膨らませてごろごろしていたころの話だ。
原文: もう何もかも行詰って了って、動きの取れなかった二人は、丁度その頃世間を騒がせた大泥坊の、巧みなやり口を羨む様な、さもしい心持になっていた。
もう何もかも行き詰まって身動きが取れなくなった二人は、ちょうどそのころ世間を騒がせた大泥棒の、鮮やかな手口をうらやむような、さもしい気持ちになっていた。
原文: その泥坊事件というのが、このお話の本筋に大関係を持っているので、茲にザッとそれをお話して置くことにする。
その泥棒事件というのが、この話の本筋と深く関わっているので、ここで大まかにその経緯をお話しておくことにする。
原文: 芝区のさる大きな電気工場の職工給料日当日の出来事であった。
芝区のある大きな電気工場で、職工への給料日当日に起きた出来事だった。
原文: 十数名の賃銀計算係が、一万に近い職工のタイム・カードから、夫々一ヶ月の賃銀を計算して、山と積まれた給料袋の中へ、当日銀行から引出された、一番の支那鞄に一杯もあろうという、二十円、十円、五円などの紙幣を汗だくになって詰込んでいる最中に、事務所の玄関へ一人の紳士が訪れた。
十数名の賃金計算係が、一万人近い職工のタイムカードから一か月分の賃金を計算して、山積みになった給料袋の中へ、その日銀行から引き出した大きな支那鞄いっぱいの二十円札・十円札・五円札などを汗だくになって詰め込んでいた最中に、事務所の玄関へ一人の紳士がやってきた。
原文: 受付の女が来意を尋ねると、私は朝日新聞の記者であるが、支配人に一寸お眼にかかり度いという。
受付の女性が用件を尋ねると、朝日新聞の記者だが支配人にちょっとお会いしたいという。
原文: そこで女が、東京朝日新聞社会部記者と肩書のある名刺を持って、支配人にこの事を通じた。
そこで女性は「東京朝日新聞社会部記者」と肩書の入った名刺を持って、支配人にこの旨を伝えた。
原文: 幸なことには、この支配人は、新聞記者操縦法がうまいことを、一つの自慢にしている男であった。
幸いなことに、この支配人は新聞記者の扱いがうまいことを自慢にしている男だった。
原文: のみならず、新聞記者を相手に、法螺を吹いたり、自分の話が何々氏談などとして、新聞に載せられたりすることは、大人気ないとは思いながら、誰しも悪い気持はしないものである。
それだけでなく、新聞記者を相手に大きなことを言ったり、自分の話が「何々氏談」として新聞に載ったりするのは大人気ないとは思いながら、誰でも悪い気はしないものだ。
原文: 社会部記者と称する男は、寧ろ快く支配人の部屋へ請じられた。
社会部記者と名乗るその男は、むしろ快く支配人の部屋へ通された。
原文: 大きな鼈甲縁の眼鏡をかけ、美しい口髭をはやし、気の利いた黒のモーニングに、流行の折鞄という扮装のその男は、如何にも物慣れた調子で、支配人の前の椅子に腰を下した。
大きな鼈甲縁の眼鏡をかけ、きれいな口髭をたくわえ、こぎれいな黒いモーニングに流行りの折鞄という格好のその男は、いかにも慣れた様子で、支配人の前の椅子に腰を下ろした。
原文: そしてシガレット・ケースから、高価な埃及の紙巻煙草を取出して、卓上の灰皿に添えられた燐寸を手際よく擦ると、青味がかった煙を、支配人の鼻先へフッと吹出した。
そしてシガレットケースから高価なエジプト産の紙巻き煙草を取り出し、テーブルの灰皿に添えてあったマッチを手際よく擦ると、青みがかった煙を支配人の鼻先にふっと吹きかけた。
原文: 「貴下の職工待遇問題に関する御意見を」
「貴社の職工待遇問題についてのご意見を」
原文: とか、何とか、新聞記者特有の、相手を呑んでかかった様な、それでいて、どこか無邪気な、人懐っこい調子で、その男はこう切出した。
とか何とか、新聞記者特有の、相手を飲み込んでかかるような、それでいてどこか無邪気で人懐っこい口調で、その男はこう話を切り出した。
原文: そこで支配人は、労働問題について、多分は労資協調、温情主義という様なことを、大いに論じた訳であるが、それはこの話に関係がないから略するとして、約三十分ばかり支配人の室に居った所の、その新聞記者が、支配人が一席弁じ終ったところで「一寸失敬」
そこで支配人は、労働問題について、おそらく労資協調や温情主義といったことを大いに語ったわけだが、それはこの話に関係がないので省くとして、約三十分ほど支配人の部屋にいたその新聞記者は、支配人がひとくさり話し終えたところで「ちょっと失礼」
原文: といって便所に立った間に、姿を消して了ったのである。
と言ってトイレに立った隙に、姿を消してしまったのである。
原文: 支配人は、無作法な奴だ位で、別に気にもとめないで、丁度昼食の時間だったので、食堂へと出掛けて行ったが、暫くすると近所の洋食屋から取ったビフテキか何かを頬張っていた所の支配人の前へ、会計主任の男が、顔色を変えて、飛んで来て、報告することには、
支配人は、失礼な奴だ程度にしか思わず、ちょうど昼食の時間だったので食堂へ出かけていったが、しばらくすると近所の洋食屋からとったビフテキか何かをほおばっていた支配人の前へ、会計主任の男が血相を変えて飛んできて、こう報告した。
原文: 「賃銀支払の金がなくなりました。とられました」
「賃金支払用のお金がなくなりました。盗まれました」
原文: と云うのだ。
というのだ。
原文: 驚いた支配人が、食事などはその儘にして、金のなくなったと云う現場へ来て調べて見ると、この突然の盗難の仔細は、大体次の様に想像することが出来たのである。
驚いた支配人が食事もそのままにして現場へ来て調べてみると、この突然の盗難の詳しい経緯は、おおよそ次のように想像できた。
原文: 丁度其当時、その工場の事務室が改築中であったので、いつもなれば、厳重に戸締りの出来る特別の部屋で行われる筈の賃銀計算の仕事が、其日は、仮に支配人室の隣の応接間で行われたのであるが、昼食の休憩時間に、どうした物の間違いか、其応接間が空になって了ったのである。
ちょうどそのころ工場の事務室が改築中だったため、普段なら厳重に施錠できる専用の部屋で行われるはずの賃金計算の作業が、その日は仮に支配人室の隣の応接間で行われていた。ところが昼食の休憩時間に、どういう手違いか、その応接間が無人になってしまったのだ。
原文: 事務員達は、お互に誰か残って呉れるだろうという様な考えで、一人残らず食堂へ行って了って、後には支那鞄に充満した札束が、ドアには鍵もかからないその部屋に、約半時間程も、抛り出されてあったのだ。
事務員たちは、お互いに誰かが残ってくれるだろうという考えで、一人残らず食堂へ行ってしまい、支那鞄にいっぱいの札束が、鍵もかからないその部屋に、約三十分ほど放置されていたのだ。
原文: その隙に、何者かが忍入って、大金を持去ったものに相違ない。
その隙に、何者かが忍び込んで大金を持ち去ったに違いない。
原文: それも、既に給料袋に入れられた分や、細い紙幣には手もつけないで、支那鞄の中の二十円札と十円札の束丈けを持去ったのである。
しかも、すでに給料袋に入れられた分や小額の紙幣には手を触れず、支那鞄の中の二十円札と十円札の束だけを持ち去ったのだ。
原文: 損害高は約五万円であった。
被害額は約五万円だった。
原文: 色々調べて見たが、結局、どうも先程の新聞記者が怪しいということになった。
色々調べた結果、どうやらあの新聞記者が怪しいということになった。
原文: 新聞社へ電話をかけて見ると、案の定、そういう男は本社員の中にはないという返事だ。
新聞社に電話してみると、案の定、そういう人物は社員の中にはいないという返事だ。
原文: そこで、警察へ電話をかけるやら、賃銀支払を延す訳には行かぬので、銀行へ改めて二十円札と十円札の準備を頼むやら、大変な騒ぎになったのである。
そこで警察に電話するやら、賃金の支払いを延ばすわけにはいかないので銀行に改めて二十円札と十円札の手配を頼むやら、大変な騒ぎになったのだ。
原文: 彼の新聞記者と自称して、お人よしの支配人に無駄な議論をさせた男は、実に、当時新聞が、紳士盗賊という尊称を以て書き立てた所の大泥坊であったのだ。
新聞記者を名乗ってお人よしの支配人に無駄な議論をさせた男は、まさに当時新聞が「紳士盗賊」という呼び名で書き立てていた大泥棒だったのだ。
原文: さて、管轄警察署の司法主任其他が臨検して調べて見ると、手懸りというものが一つもない。
さて、管轄警察署の司法主任などが現場を調べてみると、手がかりというものが何一つない。
原文: 新聞社の名刺まで用意して来る程の賊だから、なかなか一筋繩で行く奴ではない。
新聞社の名刺まで用意してくるほどの賊だから、なかなか一筋縄では行かない。
原文: 遺留品などあろう筈もない。
遺留品などあるはずもない。
原文: ただ一つ分っていた事は、支配人の記憶に残っているその男の容貌風采であるが、それが甚だ便りないのである。
ただ一つわかっていたことは、支配人の記憶に残っているその男の顔立ちと風采だったが、それが非常に頼りないものだった。
原文: というのは、服装などは無論取替えることが出来るし、支配人がこれこそ手懸りだと申出た所の、鼈甲縁の眼鏡にしろ、口髭にしろ、考えて見れば、変装には最もよく使われる手段なのだから、これも当てにはならぬ。
というのも、服装などはもちろん着替えられるし、支配人がこれが手がかりだと申し出た鼈甲縁の眼鏡にしろ口髭にしろ、考えてみれば変装に最もよく使われる手段なので、これも当てにはならない。
原文: そこで、仕方がないので、盲目探しに、近所の車夫だとか、煙草屋のお上さんだとか、露天商人などいう連中に、かくかくの風采の男を見かけなかったか、若し見かけたらどの方角へ行ったかと、一々尋ね廻る。
そこで仕方なく、やみくもに近所の車夫や煙草屋のおかみさん、露天商などといった人たちに、こういう風采の男を見かけなかったか、もし見かけたならどの方角へ行ったかと一軒一軒尋ね回った。
原文: 無論市内の各巡査派出所へも、この人相書きが廻る。
もちろん市内の各交番にも、この人相書きが回った。
原文: つまり非常線が張られた訳であるが、何の手ごたえもない。
つまり非常線が張られたわけだが、何の手がかりもない。
原文: 一日、二日、三日、あらゆる手段が尽された。
一日、二日、三日と、あらゆる手を尽くした。
原文: 各停車場には見張りがつけられた。
各駅には見張りが置かれた。
原文: 各府県の警察署へ依頼の電報が発せられた。
各都道府県の警察署へ依頼の電報が打たれた。
原文: 斯様にして、一週間は過ぎたけれども賊は挙がらない。
こうして一週間が過ぎたが、賊は捕まらない。
原文: もう絶望かと思われた。
もう絶望かと思われた。
原文: 彼の泥坊が、何か他の罪をでも犯して挙げられるのを待つより外はないかと思われた。
あの泥棒が何か別の罪でも犯して捕まるのを待つしかないかとも思われた。
原文: 工場の事務所からは、其筋の怠慢を責める様に、毎日毎日警察署へ電話がかかった。
工場の事務所からは、警察の怠慢を責めるように、毎日毎日電話がかかってきた。
原文: 署長は自分の罪ででもある様に頭を悩した。
署長は自分のせいであるかのように頭を悩ませた。
原文: そうした絶望状態の中に、一人の、同じ署に属する刑事が、市内の煙草屋の店を、一軒ずつ、丹念に歩き廻っていた。
そうした絶望的な状況の中、同じ署に属する一人の刑事が、市内の煙草屋を一軒ずつ丹念に歩き回っていた。
原文: 市内には、舶来の煙草を一通り備付けていようという煙草屋が、各区に、多いのは数十軒、少い所でも十軒内外はあった。
市内には、外国産の煙草を一通り取りそろえようという煙草屋が、各区に多いところで数十軒、少ないところでも十軒前後はあった。
原文: 刑事は殆どそれを廻り尽して、今は、山の手の牛込と四谷の区内が残っているばかりであった。
刑事はほとんどそれを回り終え、今は山の手の牛込と四谷の区内が残っているだけだった。
原文: 今日はこの両区を廻って、それで目的を果さなかったら、もう愈々絶望だと思った刑事は、富鬮の当り番号を読む時の様な、楽しみとも恐れともつかぬ感情を以て、テクテク歩いていた。
今日この両区を回って、それでも目的を果たせなかったらもう絶望だと思った刑事は、宝くじの当たり番号を読む時のような、楽しみとも恐れともつかない気持ちを抱えながら、てくてく歩いていた。
原文: 時々交番の前で立止っては、巡査に煙草店の所在を聞訊しながら、テクテクと歩いていた。
時々交番の前で立ち止まっては、巡査に煙草屋の場所を聞きながら、てくてくと歩いていた。
原文: 刑事の頭の中は FIGARO. FIGARO. FIGARO. と埃及煙草の名前で一杯になっていた。
刑事の頭の中は「FIGARO、FIGARO、FIGARO」というエジプト煙草の名前でいっぱいになっていた。
原文: ところが、牛込の神楽坂に一軒ある煙草店を尋ねる積りで、飯田橋の電車停留所から神楽坂下へ向って、あの大通りを歩いている時であった。
ところが、牛込の神楽坂にある一軒の煙草屋を訪ねようと、飯田橋の電車停留所から神楽坂下へ向かってあの大通りを歩いていた時のことだった。
原文: 刑事は、一軒の旅館の前で、フト立止ったのである。
刑事は、一軒の旅館の前でふと立ち止まった。
原文: というのは、その旅館の前の、下水の蓋を兼ねた、御影石の敷石の上に、余程注意深い人でなければ、眼にとまらない様な、一つの煙草の吸殻が落ちていた。
というのも、その旅館の前の、下水の蓋を兼ねた御影石の敷石の上に、よほど注意深い人でなければ目に留まらないような煙草の吸い殻が一本落ちていた。
原文: そして、何んと、それが刑事の探し廻っていた所の埃及煙草と同じものであったのである。
そして、なんとそれが、刑事が探し回っていたエジプト煙草と同じものだったのだ。
原文: さて、この一つの煙草の吸殻から足がついて、さしもの紳士盗賊も遂に獄裡の人となったのであるが、その煙草の吸殻から盗賊逮捕までの径路に一寸探偵小説じみた興味があるので、当時のある新聞には、続き物になって、その時の何某刑事の手柄話が載せられた程であるが――この私の記述も、実はその新聞記事に拠ったものである――私は茲には、先を急ぐ為に、極く簡単に結論丈けしかお話している暇がないことを遺憾に思う。
さて、この一本の煙草の吸い殻から手がかりが見つかり、あの紳士盗賊もとうとう獄中の身となったのだが、その吸い殻から逮捕までの経緯にちょっとした探偵小説的な面白さがあるため、当時のある新聞には連載記事として、あの刑事の活躍が載ったほどだった――この私の記述も実はその新聞記事によるものだ――ここでは先を急ぐため、ごく簡単に結論だけお話するしかないことを残念に思う。
原文: 読者も想像されたであろう様に、この感心な刑事は、盗賊が工場の支配人の部屋に残して行った所の、珍らしい煙草の吸殻から探偵の歩を進めたのである。
読者もすでに想像されたように、この優秀な刑事は、盗賊が工場の支配人の部屋に残していった珍しい煙草の吸い殻から捜査を進めたのだ。
原文: そして、各区の大きな煙草屋を殆んど廻り尽したが、仮令おなじ煙草を備えてあっても、埃及の中でも比較的売行きのよくない、FIGARO を最近に売ったという店は極く僅かで、それが悉く、どこの誰それと疑うまでもない様な買手に売られていたのである。
そして各区の大きな煙草屋をほとんど回り尽くしたが、たとえ同じ煙草を置いていても、エジプト煙草の中でも比較的売れ行きの悪いFIGAROを最近売ったという店は極めて少なく、しかもそのすべてが、どこの誰かと疑うまでもない客に売られていたのだ。
原文: ところが愈々最終という日になって、今もお話した様に、偶然にも、飯田橋附近の一軒の旅館の前で、同じ吸殻を発見して、実は、あてずっぽうに、その旅館に探りを入れて見たのであるが、それがなんと僥倖にも、犯人逮捕の端緒となったのである。
ところが、いよいよ最終日という日になって、さきほどお話したように、偶然にも飯田橋付近の旅館の前で同じ吸い殻を発見し、当てずっぽうにその旅館に探りを入れてみたところ、これが幸運にも犯人逮捕の糸口となったのだ。
原文: そこで、色々、苦心の末、例えば、その旅館に投宿して居った、その煙草の持主が、工場の支配人から聞いた人相とはまるで違っていたり、なにかして、大分苦心したのであるが、結局、その男の部屋の火鉢の底から、犯行に用いたモーニング其他の服装だとか、鼈甲縁の眼鏡だとか、つけ髭だとかを発見して、逃れぬ証拠によって、所謂紳士泥坊を逮捕することが出来たのである。
そこで色々と苦心した末、例えばその旅館に宿泊していたその煙草の持ち主が、工場の支配人から聞いた人相とはまったく違っていたりと、かなり苦労したのだが、結局その男の部屋の火鉢の底から、犯行に使ったモーニングやその他の服装、鼈甲縁の眼鏡、付け髭などを発見し、動かぬ証拠によっていわゆる紳士泥棒を逮捕することができたのだ。
原文: で、その泥坊が取調べを受けて白状した所によると、犯行の当日――勿論、その日は職工の給料日と知って訪問したのだが――支配人の留守の間に、隣の計算室に這入って例の金を取ると、折鞄の中にただそれ丈けを入れて居った所の、レーンコートとハンチングを取出して、その代りに、鞄の中へは、盗んだ紙幣の一部分を入れて、眼鏡をはずし、口髭をとり、レーンコートでモーニング姿を包み、中折の代りにハンチングを冠って、来た時とは別の出口から、何食わぬ顔をして逃げ出したのであった。
で、その泥棒が取り調べを受けて自白した内容によると、犯行当日――もちろん、その日が職工の給料日だと知って訪問したのだが――支配人の留守の間に隣の計算室に入って例の金を取ると、折鞄の中にそれだけが入っていたレーンコートとハンチングを取り出し、その代わりに鞄の中には盗んだ紙幣の一部を入れ、眼鏡を外し口髭を取り、レーンコートでモーニング姿を包み、中折れ帽の代わりにハンチングをかぶって、来た時とは別の出口から何食わぬ顔で逃げ出したのだった。
原文: あの小額の紙幣で五万円という金額を、どうして、誰にも疑われぬ様に、持出すことが出来たかという訊問に対して、紳士泥坊が、ニヤリと得意らしい笑いを浮べて答えたことには、
あの小額の紙幣で五万円という大金を、どうして誰にも疑われずに持ち出せたのかという問いに対し、紳士泥棒はにやりと得意そうな笑みを浮かべてこう答えた。
原文: 「私共は、からだ中が袋で出来上っています。その証拠には、押収されたモーニングを調べて御覧なさい。一寸見ると普通のモーニングだが、実は手品使いの服の様に、附けられる丈けの隠し袋が附いているんです。五万円位の金を隠すのは訳はありません。支那人の手品使いは、大きな、水の這入った丼鉢でさえからだの中へ隠すではありませんか」
「私たちは体中が袋で出来ています。その証拠に、押収されたモーニングを調べてごらんなさい。ちょっと見ると普通のモーニングですが、実は手品師の服のように、付けられるだけの隠しポケットが付いているんです。五万円くらいの金を隠すのはわけありません。中国人の手品師は、水の入った大きな丼鉢でさえ体の中に隠すじゃないですか」
原文: さて、この泥坊事件がこれ丈けでおしまいなら、別段の興味もないのであるが、茲に一つ普通の泥坊と違った、妙な点があった。
さて、この泥棒事件がこれだけで終わりなら、特に面白みもないのだが、ここに一つ普通の泥棒とは違う奇妙な点があった。
原文: そして、それが私のお話の本筋に、大いに関係がある訳なのである。
そして、それが私の話の本筋と大いに関係があるというわけだ。
原文: というのは、この紳士泥坊は、盗んだ五万円の隠し場所について、一言も白状しなかったのである。
というのも、この紳士泥棒は、盗んだ五万円の隠し場所について、一言も自白しなかったのだ。
原文: 警察と、検事廷と、公判廷と、この三つの関所で、手を換え品を換えて責め問われても、彼はただ知らないの一点張りで通した。
警察と検察庁と裁判所という三つの関所で、手を替え品を替えて責め立てられても、彼はただ「知らない」の一点張りで通した。
原文: そして、おしまいには、その僅か一週間ばかりの間に、使い果して了ったのだという様な、出鱈目をさえ云い出したのである。
そして最後には、わずか一週間ほどの間に使い果たしてしまったなどという、でたらめを言い出したのだ。
原文: 其筋としては、探偵の力によって、その金のありかを探し出す外はなかった。
当局としては、捜査の力でその金のありかを探し出すしかなかった。
原文: そして、随分探したらしいのであるが、一向見つからなかった。
そして随分探したようだが、まったく見つからなかった。
原文: そこで、その紳士泥坊は、五万円隠匿の廉によって、窃盗犯としては可也重い懲役に処せられたのである。
そこでその紳士泥棒は、五万円を隠匿した罪により、窃盗犯としてはかなり重い懲役に処せられたのだ。
原文: 困ったのは被害者の工場である。
困ったのは被害を受けた工場だった。
原文: 工場としては、犯人よりは五万円が発見して欲しかったのである。
工場としては、犯人よりも五万円が見つかる方がよかったのだ。
原文: 勿論、警察の方でもその金の捜索を止めた訳ではないが、どうも手ぬるい様な気がする。
もちろん警察の方でもその金の捜索をやめたわけではないが、どうも手ぬるい気がする。
原文: そこで、工場の当の責任者たる支配人は、その金を発見したものには、発見額の一割の賞を懸けるということを発表した。
そこで工場の責任者である支配人は、その金を発見した者には発見額の一割を賞金として出すと発表した。
原文: つまり五千円の懸賞である。
つまり五千円の懸賞だ。
原文: これからお話しようとする、松村武と私自身とに関する、一寸興味のある物語は、この泥坊事件がこういう風に発展している時に起ったことなのである。
これからお話しようとする、松村武と私自身に関するちょっと面白い話は、この泥棒事件がこのような形で展開していた時に起きたことだ。
原文: 中
中
原文: この話の冒頭にも一寸述べた様に、その頃、松村武と私とは、場末の下駄屋の二階の六畳に、もうどうにもこうにも動きがとれなくなって、窮乏のどん底にのたうち廻っていたのである。
この話の冒頭にも少し触れたように、そのころ松村武と私は、場末の下駄屋の二階の六畳間で、もうどうにもこうにも身動きが取れなくなって、貧乏のどん底でもがいていたのだ。
原文: でも、あらゆるみじめさの中にも、まだしも幸運であったのは、丁度時候が春であったことだ。
でも、あらゆるみじめさの中でもまだしも幸運だったのは、ちょうど季節が春だったことだ。
原文: これは貧乏人丈けにしか分らない一つの秘密であるが、冬の終から夏の初にかけて、貧乏人は、大分儲けるのである。
これは貧乏人だけにわかる一つの秘密だが、冬の終わりから夏の始めにかけて、貧乏人は大分「もうかる」のだ。
原文: いや、儲けたと感じるのである。
いや、もうかったと感じるのだ。
原文: というのは、寒い時丈け必要であった、羽織だとか、下着だとか、ひどいのになると、夜具、火鉢の類に至るまで、質屋の蔵へ運ぶことが出来るからである。
というのも、寒い時だけ必要だった羽織や下着、ひどいときには夜具・火鉢の類まで、質屋の蔵へ運べるからだ。
原文: 私共も、そうした気候の恩恵に浴して、明日はどうなることか、月末の間代の支払はどこから捻出するか、という様な先の心配を除いては、先ず一寸いきをついたのである。
私たちもそうした気候の恩恵を受けて、明日はどうなるか、月末の家賃をどこから工面するかという先々の心配を除けば、ひとまずほっと一息ついたのだ。
原文: そして、暫く遠慮して居った銭湯へも行けば、床屋へも行く、飯屋ではいつもの味噌汁と香の物の代りに、さしみで一合かなんかを奮発するといった鹽梅であった。
そして、しばらく遠慮していた銭湯にも行けば、床屋にも行く、食堂ではいつもの味噌汁と漬け物の代わりに刺身で一杯奮発するといった具合だった。
原文: ある日のこと、いい心持に煠って、銭湯から帰って来た私が、傷だらけの、毀れかかった一閑張の机の前に、ドッカと坐った時、一人残っていた松村武が、妙な、一種の興奮した様な顔付を以て、私にこんなことを聞いたのである。
ある日のこと、いい気持ちにゆだって銭湯から帰ってきた私が、傷だらけで壊れかけた一閑張りの机の前にどっかと座った時、一人残っていた松村武が妙に興奮したような顔つきで、こんなことを聞いてきた。
原文: 「君、この、僕の机の上に二銭銅貨をのせて置いたのは君だろう。あれは、どこから持って来たのだ」
「ねえ、僕の机の上に二銭銅貨を置いておいたのは君だろう。あれはどこから持ってきたんだ」
原文: 「アア、俺だよ。さっき煙草を買ったおつりさ」
「ああ、俺だよ。さっき煙草を買ったお釣りだよ」
原文: 「どこの煙草屋だ」
「どこの煙草屋だ」
原文: 「飯屋の隣の、あの婆さんのいる不景気なうちさ」
「食堂の隣のあのおばあさんがいる、さびれた家だよ」
原文: 「フーム、そうか」
「ふむ、そうか」
原文: と、どういう訳か、松村はひどく考え込んだのである。
と、なぜかひどく考え込んだ松村だった。
原文: そして、尚も執拗にその二銭銅貨について尋ねるのであった。
そして、なおも執拗にその二銭銅貨について尋ねてきた。
原文: 「君、その時、君が煙草を買った時だ、誰か外にお客はいなかったかい」
「ねえ、その時、煙草を買った時だけど、他に客はいなかったか」
原文: 「確か、いなかった様だ。そうだ。いる筈がない。その時あの婆さんは居眠りをしていたんだ」
「確かいなかったと思う。そうだ、いるはずがない。その時あのおばあさんは居眠りをしていたんだ」
原文: この答を聞いて、松村は何か安心した様子であった。
この答えを聞いて、松村は何か安心した様子だった。
原文: 「だが、あの煙草屋には、あの婆さんの外に、どんな連中がいるんだろう。君は知らないかい」
「でも、あの煙草屋には、あのおばあさんの他にどんな人がいるんだろう。知らないか」
原文: 「俺は、あの婆さんとは仲よしなんだ。あの不景気な仏頂面が、俺のアブノーマルな嗜好に適したという訳でね。だから、俺は相当あの煙草屋については詳しいんだ。あそこには婆さんの外に、婆さんよりはもっと不景気な爺さんがいる切りだ。併し君はそんなことを聞いてどうしようというのだ。どうかしたんじゃないかい」
「俺はあのおばあさんと仲よしなんだ。あの不愛想な顔が俺の変わった好みに合ってるというわけでね。だから俺は相当あの煙草屋については詳しいんだ。あそこはおばあさんの他に、おばあさんよりもっと不愛想なおじいさんがいるだけだ。でも君はそんなことを聞いてどうするんだ。どうかしたのか」
原文: 「マアいい。一寸訳があるんだ。ところで君が詳しいというのなら、も少しあの煙草屋のことを話さないか」
「まあいい。ちょっとわけがあるんだ。ところで詳しいというなら、もう少しあの煙草屋のことを話してくれないか」
原文: 「ウン、話してもいい。爺さんと婆さんとの間に一人の娘がある。俺は一度か二度その娘を見かけたが、そう悪くない容色だぜ。それがなんでも、監獄の差入屋とかへ嫁いているという話だ。その差入屋が相当に暮しているので、その仕送りで、あの不景気な煙草屋も、つぶれないで、どうかこうかやっているのだと、いつか婆さんが話していたっけ。……」
「うん、話してもいい。おじいさんとおばあさんの間に娘が一人いる。俺は一度か二度その娘を見かけたが、そう悪くない器量だぞ。なんでも、監獄の差し入れ屋とかへ嫁いでいるという話だ。その差し入れ屋がそこそこ暮らしているので、その仕送りで、あの冴えない煙草屋もつぶれないでどうにかやっているのだと、いつかおばあさんが話していたっけ……」
原文: こう、私が煙草屋に関する知識について話し始めた時に、驚いたことには、それを話して呉れと頼んで置きながら、もう聞き度くないと云わぬばかりに、松村武が立上ったのである。
こうして私が煙草屋について話し始めた時、驚いたことに、話してくれと頼んでおきながら、もう聞きたくないと言わんばかりに松村武が立ち上がったのだ。
原文: そして、広くもない座敷を、隅から隅へ丁度動物園の熊の様に、ノソリノソリと歩き始めたのである。
そして、広くもない部屋を端から端まで、まるで動物園の熊のようにのそりのそりと歩き始めたのだ。
原文: 私共は、二人共、日頃から随分気まぐれな方であった。
私たちは二人とも、日頃からずいぶん気まぐれな方だった。
原文: 話の間に突然立上るなどは、そう珍しいことでもなかった。
話の途中で突然立ち上がることなどは、そう珍しいことでもなかった。
原文: けれども、この場合の松村の態度は、私をして沈黙せしめた程も、変っていたのである。
けれども、この時の松村の態度は、私を黙らせるほど変わっていた。
原文: 松村はそうして、部屋の中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、約三十分位歩き廻っていた。
松村はそうして部屋の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりと、約三十分ほど歩き回った。
原文: 私は黙って、一種の興味を以て、それを眺めていた。
私は黙って、ある種の興味を持ってそれを眺めていた。
原文: その光景は、若し傍観者があって、之を見たら、余程狂気じみたものであったに相違ないのである。
その光景は、もし外から見ている人がいたら、かなり狂気じみたものに見えたに違いない。
原文: そうこうする内に、私は腹が減って来たのである。
そうこうしているうちに、私はお腹が減ってきた。
原文: 丁度夕食時分ではあったし、湯に入った私は余計に腹が減った様が気がしたのである。
ちょうど夕食の時間でもあったし、湯に入った後だったのでよけいにお腹が減った気がした。
原文: そこで、まだ狂気じみた歩行を続けている松村に、飯屋に行かぬかと勧めて見た所が、「済まないが、君一人で行って呉れ」
そこで、まだ狂気じみた歩き回りを続けている松村に、食堂に行かないかと勧めてみたところ、「悪いが君一人で行ってくれ」
原文: という返事だ。
という返事だ。
原文: 仕方なく、私はその通りにした。
仕方なく、私はその通りにした。
原文: さて、満腹した私が、飯屋から帰って来ると、なんと珍らしいことには、松村が按摩を呼んで、もませていた。
さて、腹いっぱい食べた私が食堂から帰ってくると、なんと珍しいことに、松村がマッサージ師を呼んで揉んでもらっていた。
原文: 以前は私共のお馴染であった、若い盲唖学校の生徒が、松村の肩につかまって、しきりと何か、持前のお喋りをやっているのであった。
以前から私たちのお気に入りだった若い盲唖学校の生徒が、松村の肩につかまって、しきりと何かいつもの調子でしゃべっていた。
原文: 「君、贅沢だと思っちゃいけない。これには訳があるんだ。マア、暫く黙って見ていて呉れ。その内に分るから」
「ねえ、贅沢だと思っちゃいけないよ。これにはわけがあるんだ。まあしばらく黙って見ていてくれ。そのうちわかるから」
原文: 松村は、私の機先を制して、非難を予防する様に云った。
松村は私に先手を打って、文句を言われないよう予防線を張るように言った。
原文: 昨日、質屋の番頭を説きつけて、寧ろ強奪して、やっと手に入れた二十円なにがしの共有財産の寿命が、按摩賃六十銭丈け縮められることは、此際、確かに贅沢に相違なかったからである。
昨日、質屋の番頭を口説きつけてほとんど強引に借り出し、やっと手に入れた二十円ほどの共有財産の寿命がマッサージ代六十銭分だけ縮まることは、この際確かに贅沢に違いなかったからだ。
原文: 私は、これらの、ただならぬ松村の態度について、ある、言い知れぬ興味を覚えた。
私は、こうした尋常でない松村の様子について、言いようのない興味を覚えた。
原文: そこで、私は自分の机の前に坐って、古本屋で買って来た講談本か何かを、読耽っている様子をした。
そこで私は自分の机の前に座って、古本屋で買ってきた講談本でも読みふけっているふりをした。
原文: そして、実は松村の挙動をソッと盗み見ていたのである。
そして実は松村の動きをこっそり盗み見ていたのだ。
原文: 按摩が帰って了うと、松村も彼の机の前に坐って、何か紙切れに書いたものを読んでいる様であったが、軈て彼は懐中から、もう一枚の紙切れを取出して机の上に置いた。
マッサージ師が帰ってしまうと、松村も自分の机の前に座って、何か紙切れに書いたものを読んでいるようだったが、やがて懐から、もう一枚の紙切れを取り出して机の上に置いた。
原文: それは、極く薄く、二寸四方程の、小さいもので、細い文字が一面に認めてあった。
それはごく薄く、二寸四方ほどの小さいもので、細かい字が一面に書いてあった。
原文: 彼は、この二枚の紙片れを、熱心に比較研究している様であった。
彼はこの二枚の紙切れを熱心に見比べて研究しているようだった。
原文: そして、鉛筆を以て、新聞紙の余白に、何か書いては消し、書いては消していた。
そして鉛筆で、新聞の余白に何か書いては消し、書いては消していた。
原文: そんなことをしている間に、電燈が点いたり、表通りを豆腐屋のラッパが通過ぎたり、縁日にでも行くらしい人通りが、暫く続いたり、それが途絶えると、支那蕎麦屋の哀れげなチャルメラの音が聞えたりして、いつの間にか夜が更けたのである。
そんなことをしているうちに電灯がついたり、通りを豆腐屋のラッパが通り過ぎたり、縁日にでも行くらしい人通りがしばらく続いたりと、それが途絶えると中華そば屋の哀れなチャルメラの音が聞こえたりして、いつの間にか夜が更けていった。
原文: それでも松村は、食事さえ忘れて、この妙な仕事に没頭していた。
それでも松村は、食事さえ忘れてこの奇妙な作業に没頭していた。
原文: 私は黙って、自分の床を敷いて、ゴロリ横になると、退屈にも、一度読んだ講談を、更らに読み返しでもする外はなかったのである。
私は黙って自分の布団を敷いてごろりと横になり、退屈しのぎに一度読んだ講談をまた読み返すしかなかった。
原文: 「君、東京地図はなかったかしら」
「ねえ、東京の地図はないかな」
原文: 突然、松村がこういって、私の方を振向いた。
突然、松村がこういって私の方を振り向いた。
原文: 「サア、そんなものはないだろう。下のお上さんにでも聞いて見たらどうだ」
「さあ、そんなものはないだろう。下のおかみさんに聞いてみたらどうだ」
原文: 「ウン、そうだな」
「うん、そうだな」
原文: 彼は直ぐに立上って、ギシギシいう梯子段を下へ降りて行ったが、軈て、一枚の折目から破れ相になった東京地図を借りて来た。
彼はすぐに立ち上がり、ギシギシと鳴る梯子段を下りて行ったが、やがて折り目から破れかけた東京の地図を一枚借りてきた。
原文: そして、又机の前に坐ると、熱心な研究を続けるのであった。
そしてまた机の前に座ると、熱心な研究を続けた。
原文: 私は益々募る好奇心を以て彼の様子を眺めていた。
私はますます募る好奇心を抱えながら彼の様子を眺めていた。
原文: 下の時計が九時を打った。
下の時計が九時を打った。
原文: 松村は、長い間の研究が、一段落を告げたと見えて、机の前から立上って私の枕頭へ坐った。
松村は、長い研究が一段落したと見えて、机の前から立ち上がって私の枕元に座った。
原文: そして少し言いにく相に、
そして少し言いにくそうに、
原文: 「君、一寸、十円ばかり出して呉れないか」
「ねえ、ちょっと十円ほど出してくれないか」
原文: と云うのだ。
と言うのだ。
原文: 私は、松村のこの不思議な挙動については、読者にはまだ明してない所の、私丈けの深い興味を持っていた。
私は、松村のこの不思議な行動については、読者にはまだ明かしていない私だけの深い関心があった。
原文: それ故、彼に十円という、当時の私共に取っては、全財産の半分であったところの大金を与えることに、少しも異議を唱えなかった。
だから、彼に十円という、当時の私たちにとって全財産の半分だった大金を渡すことに、まったく異議を唱えなかった。
原文: 松村は、私から十円札を受取ると、古袷一枚に、皺くちゃのハンチングという扮装で、何も云わずに、プイとどこかへ出て行った。
松村は私から十円札を受け取ると、古い袷一枚に、しわくちゃのハンチングというかっこうで、何も言わずにぷいとどこかへ出て行った。
原文: 一人取残された私は、松村の其後の行動について、色々想像を廻らした。
一人取り残された私は、松村のその後の行動について、あれこれと想像を巡らせた。
原文: そして独りほくそ笑んでいる内に、いつか、うとうとと夢路に入った。
そして一人でほくそ笑んでいるうちに、いつの間にかうとうとと眠ってしまった。
原文: 暫くして松村が帰って来たのを、夢現に覚えていたが、それからは、何も知らずに、グッスリと朝まで寝込んで了ったのである。
しばらくして松村が帰ってきたのを夢うつつに気づいていたが、そのあとは何も知らずにぐっすりと朝まで眠ってしまった。
原文: 随分寝坊の私は、十時頃でもあったろうか、眼を醒して見ると、枕頭に妙なものが立っているのに驚かされた。
ひどく寝坊の私は、十時ごろにでもなっただろうか、目を覚ましてみると、枕元に妙なものが立っているので驚いた。
原文: というのは、そこには、縞の着物に角帯を締めて、紺の前垂れをつけた一人の商人風の男が、一寸した風呂敷包を背負って立っていたのである。
というのも、そこには縞の着物に角帯を締めて、紺の前掛けをつけた一人の商人風の男が、小さな風呂敷包を背負って立っていたのだ。
原文: 「なにを妙な顔をしているんだ。俺だよ」
「何を変な顔しているんだ。俺だよ」
原文: 驚いたことには、その男が、松村武の声を以て、こういったのである。
驚いたことに、その男が松村武の声でこう言ったのだ。
原文: よくよく見ると、それは如何にも松村に相違ないのだが、服装がまるで変っていたので、私は暫くの間、何が何だか、訳がわからなかったのである。
よく見るとそれはたしかに松村に違いないのだが、服装がまったく変わっていたので、私はしばらくの間何が何だかわからなかった。
原文: 「どうしたんだ。風呂敷包なんか背負って。それに、そのなりはなんだ。俺はどこの番頭さんかと思った」
「どうしたんだ。風呂敷包なんか背負って。それにその格好はなんだ。どこかの番頭さんかと思ったよ」
原文: 「シッ、シッ、大きな声だなあ」
「しっ、しっ、大きな声だなあ」
原文: 松村は両手で抑えつける様な恰好をして、囁く様な小声で、「大変なお土産を持って来たよ」
松村は両手で押さえつけるような仕草をして、囁くような小声で、「大変なお土産を持ってきたよ」
原文: というのである。
と言うのだ。
原文: 「君はこんなに早く、どっかへ行って来たのかい」
「こんなに早くどこかへ行ってきたのか」
原文: 私も、彼の変な挙動につられて、思わず声を低くして聞いた。
私も、彼の変な様子につられて、思わず声を低くして聞いた。
原文: すると、松村は、抑えつけても抑えつけても、溢れて来る様な、ニタニタ笑いを顔一杯に漲らせながら、彼の口を私の耳の側まで持って来て、前よりは一層低い、あるかなきかの声で、こういったのである。
すると松村は、抑えても抑えても溢れてくるようなにたにた笑いを顔いっぱいに浮かべながら、彼の口を私の耳元まで近づけて、前よりもさらに低い、かすかな声でこう言ったのだ。
原文: 「この風呂敷包の中には、君、五万円という金が這入っているのだよ」
「この風呂敷包の中には、ねえ君、五万円というお金が入っているんだよ」
原文: 下
下
原文: 読者も既に想像されたであろう様に、松村武は、問題の紳士泥坊の隠して置いた五万円を、どこからか持って来たのであった。
読者もすでに想像されたように、松村武は問題の紳士泥棒が隠しておいた五万円を、どこかから持ってきたのだった。
原文: それは、彼の電気工場へ持参すれば、五千円の懸賞金に与ることの出来る五万円であった。
それは、電気工場へ持参すれば五千円の懸賞金がもらえる五万円だった。
原文: だが、松村はそうしない積りだと云った。
だが、松村はそうするつもりはないと言った。
原文: そして、その理由を次の様に説明した。
そして、その理由を次のように説明した。
原文: 彼に云わせると、その金を馬鹿正直に届け出るのは、愚なことであるばかりでなく、同時に、非常に危険なことでもあるというのであった。
彼に言わせると、その金を正直に届け出るのは愚かなことであるばかりか、同時に非常に危険なことでもあるというのだった。
原文: 其筋の専門の刑事達が、約一箇月もかかって探し廻っても、発見されなかったこの金である。
当局の専門の刑事たちが約一か月もかけて探し回っても見つからなかったこの金だ。
原文: 仮令このまま我々が頂戴して置いた所で、誰が疑うものか、我々にしたって、五千円よりは五万円の方が有難いではないか。
たとえこのまま俺たちがいただいておいたとしても、誰が疑うというのか、それに俺たちとしても五千円より五万円の方が有難いじゃないか。
原文: それよりも恐しいのは、彼奴、紳士泥坊の復讐である。
それよりも怖いのは、あいつ、紳士泥棒の復讐だ。
原文: こいつが恐しい。
こいつが怖い。
原文: 刑期の延びるのを犠牲にしてまで隠して置いたこの金を、横取りされたと知ったら、彼奴、あの悪事にかけては天才といってもよい所の彼奴が、見逃して置こう筈がない――松村は寧ろ泥坊を畏敬している口調であった――このまま黙って居ってさえ危いのに、これを持主に届けて、懸賞金を貰いなどしようものなら、直ぐ松村武の名が新聞に出る。
刑期が延びるのを犠牲にしてまで隠しておいたこの金を横取りされたと知ったら、あいつ、悪事においては天才と言ってもいいあいつが、見逃しておくはずがない――松村はむしろ泥棒を畏敬している口調だった――このまま黙っていてさえ危ないのに、これを持ち主に届けて懸賞金をもらいでもしたら、すぐ松村武の名前が新聞に出る。
原文: それは、態々彼奴に敵のありかを教える様なものではないかというのである。
それはわざわざあいつに敵の居場所を教えるようなものではないかというのだ。
原文: 「だが少くとも現在に於ては、俺は彼奴に打勝ったのだ。エヽ君、あの天才泥坊に打勝ったのだ。この際、五万円も無論有難いが、それよりも、俺はこの勝利の快感でたまらないんだ。俺の頭はいい。少くとも貴公よりはいいということを認めて呉れ。俺をこの大発見に導いて呉れたものは、昨日君が俺の机の上にのせて置いた、煙草のつり銭の二銭銅貨なんだ。あの二銭銅貨の一寸した点について、君が気づかないで、俺が気づいたということはだ。そして、たった一枚の二銭銅貨から、五万円という金を、エ、君、二銭の二百五十万倍である所の五万円という金を探し出したのは、これは何だ。少くとも、君の頭よりは、俺の頭の方が優れているということじゃないかね」
「でも少なくとも今現在は、俺はあいつに勝ったんだ。ねえ君、あの天才泥棒に勝ったんだ。この際、五万円ももちろん有難いが、それよりも俺はこの勝利の快感でたまらないんだ。俺の頭はいい。少なくとも君よりはいいということを認めてくれ。俺をこの大発見に導いてくれたのは、昨日君が俺の机の上に置いておいた煙草のお釣りの二銭銅貨なんだ。あの二銭銅貨のちょっとした点について、君が気づかないで俺が気づいたということはだ。そして、たった一枚の二銭銅貨から五万円という金を、ねえ君、二銭の二百五十万倍である五万円という金を探し出したのは、これは何だ。少なくとも、君の頭より俺の頭の方が優れているということじゃないかね」
原文: 二人の多少知識的な青年が、一間の内に生活していれば、其処に、頭のよさについての競争が行われるのは、至極あたり前のことであった。
二人のまあ知識的な青年が一つ部屋に暮らしていれば、頭のよさについての競争が起きるのはごく自然なことだった。
原文: 松村武と私とは、その日頃、暇にまかせて、よく議論を戦わしたものであった。
松村武と私とは、その日ごろ、暇に飽かせてよく議論を交わしたものだった。
原文: 夢中になって喋っている内に、いつの間にか夜が明けて了う様なことも珍しくなかった。
夢中になって喋っているうちに、いつの間にか夜が明けてしまうことも珍しくなかった。
原文: そして、松村も私も、互に譲らず、「俺の方が頭がいい」
そして松村も私も互いに譲らず、「俺の方が頭がいい」
原文: ことを主張していたものである。
と主張し続けていたものだ。
原文: そこで、松村がこの手柄――それは如何にも大きな手柄であった――を以て、我々の頭の優劣を証拠立てようとした訳である。
そこで松村は、この手柄――それはなんとも大きな手柄だった――をもって、二人の頭の優劣を証明しようとしたわけだ。
原文: 「分った、分った。威張るのは抜きにして、どうしてその金を手に入れたか、その筋道を話して見ろ」
「わかった、わかった。自慢はいいから、どうしてその金を手に入れたか、その経緯を話してみろ」
原文: 「マア急くな。俺は、そんなことよりも、五万円の使途について考えたいと思っているんだ。だが、君の好奇心を充す為に、一寸、簡単に苦心談をやるかな」
「まあ急ぐな。俺はそんなことよりも、五万円の使い道について考えたいと思っているんだ。でも君の好奇心を満たすために、ちょっと簡単に苦労話をするかな」
原文: 併し、それは決して私の好奇心を充す為ばかりではなくて、寧ろ彼自身の名誉心を満足させる為であったことはいうまでもない。
しかし、それは決して私の好奇心を満たすためだけでなく、むしろ彼自身の名誉心を満足させるためだったことは言うまでもない。
原文: それは兎も角、彼は次の様に、所謂苦心談を語り出したのである。
それはともかく、彼は次のように、いわゆる苦労話を語り始めたのだ。
原文: 私は、それを、心安だてに、蒲団の中から、得意そうに動く彼の顎の辺を見上げて、聞いていた。
私はそれを、気楽に布団の中から、得意そうに動く彼の顎のあたりを見上げながら聞いていた。
原文: 「俺は、昨日君が湯へ行った後で、あの二銭銅貨を弄んでいる内に、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思って、調べて居ると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見給えこれだ」
「俺は昨日君が風呂へ行った後で、あの二銭銅貨をいじっているうちに、不思議なことに、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。これはおかしいと思って調べていると、なんと驚いたことに、あの銅貨が二つに割れたんだ。見てくれ、これだ」
原文: 彼は、机の抽斗から、その二銭銅貨を取出して、丁度、宝丹の容器を開ける様に、ネジを廻しながら、上下に開いた。
彼は机の引き出しからその二銭銅貨を取り出して、ちょうど薬の容器を開けるようにねじを回しながら上下に開いた。
原文: 「これ、ね、中が空虚になっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか、一寸見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、俺は思当ったことがあるんだ。俺はいつか、牢破りの名人が用いるという、鋸の話を聞いたことがある。それは、懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸見た様なものを、二枚の銅貨を擦り減らして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な牢屋の鉄の棒でも、何なく切破って脱牢するんだ相だ。なんでも元は外国の泥坊から伝ったものだ相だがね。そこで、俺は、この二銭銅貨も、そうした泥坊の手から、どうかして紛れ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。というのは、俺の好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発した所の、一枚の紙切がその中から出て来たんだ。それはこれだ」
「ほら、中が空洞になっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか、ちょっと見ただけでは普通の二銭銅貨とちっとも変わりがないからね。これを見て俺は思い当たることがあったんだ。俺はいつか、脱獄の名人が使うという鋸の話を聞いたことがある。それは懐中時計のぜんまいに歯をつけた、ミニチュアの帯鋸みたいなものを、二枚の銅貨を削り合わせて作った容器の中に入れたもので、これさえあればどんな厳重な牢屋の鉄の棒でも難なく切って脱獄できるんだそうだ。もとは外国の泥棒から伝わったものだそうだけどね。そこで俺は、この二銭銅貨も、そうした泥棒の手から何かの拍子に出回ったものだろうと想像したんだ。だけど、不思議なのはそれだけじゃなかった。というのは、俺の好奇心を、二銭銅貨そのものよりもっとかき立てた一枚の紙切れが中から出てきたんだ。それがこれだ」
原文: それは、昨夜松村が一生懸命に研究していた、あの薄い小さな紙切であった。
それは、昨夜松村が一生懸命に研究していた、あの薄い小さな紙切れだった。
原文: その二寸四方程の薄葉らしい日本紙には、細い字で次の様に、訳の分らぬものが書きつけてあった。
その二寸四方ほどの薄葉のような和紙には、細い字で次のような、意味のわからないものが書き付けてあった。
原文: 陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、弥、無阿弥陀、無陀、弥、無弥陀仏、無陀、陀、南無陀仏、南無仏、陀、無阿弥陀、無陀、南仏、南陀、無弥、無阿弥陀仏、弥、南阿陀、無阿弥、南陀仏、南阿弥陀、阿陀、南弥、南無弥仏、無阿弥陀、南無弥陀、南弥、南無弥仏、無阿弥陀、南無陀、南無阿、阿陀仏、無阿弥、南阿、南阿仏、陀、南阿陀、南無、無弥仏、南弥仏、阿弥、弥、無弥陀仏、無陀、南無阿弥陀、阿陀仏、
陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、弥、無阿弥陀、無陀、弥、無弥陀仏、無陀、陀、南無陀仏、南無仏、陀、無阿弥陀、無陀、南仏、南陀、無弥、無阿弥陀仏、弥、南阿陀、無阿弥、南陀仏、南阿弥陀、阿陀、南弥、南無弥仏、無阿弥陀、南無弥陀、南弥、南無弥仏、無阿弥陀、南無陀、南無阿、阿陀仏、無阿弥、南阿、南阿仏、陀、南阿陀、南無、無弥仏、南弥仏、阿弥、弥、無弥陀仏、無陀、南無阿弥陀、阿陀仏、
原文: 「この坊主の寝言見たようなものは、なんだと思う。俺は最初は、いたずら書きだと思った。前非を悔いた泥坊かなんかが、罪亡ぼしに南無阿弥陀仏を沢山並べて書いたのかと思った。そして、牢破りの道具の代りに銅貨の中へ入れて置いたのじゃないかと思った。が、それにしては、南無阿弥陀仏と続けて書いてないのがおかしい。陀とか、無弥仏とか、悉く南無阿弥陀仏の六字の範囲内ではあるが、完全に書いたのは一つもない。一字切りの奴もあれば、四字五字の奴もある。俺は、こいつはただの悪戯書きではないなと感づいた。
「この坊主の寝言みたいなもの、何だと思う。俺は最初は落書きだと思った。前非を悔いた泥棒かなんかが、罪滅ぼしに南無阿弥陀仏をたくさん並べて書いたのかと思った。そして脱獄道具の代わりに銅貨の中に入れておいたのじゃないかと思った。でも、それにしては南無阿弥陀仏と続けて書いていないのがおかしい。陀とか無弥仏とか、すべて南無阿弥陀仏の六字の範囲内ではあるが、完全に書いてあるものは一つもない。一字だけのものもあれば、四字五字のものもある。俺は、これはただの落書きじゃないなと気づいた。
原文: 丁度その時、君が湯屋から帰って来た跫音がしたんだ。
ちょうどその時、君が銭湯から帰ってくる足音がしたんだ。
原文: 俺は急いで、二銭銅貨とその紙片を隠した。
俺は急いで、二銭銅貨とその紙切れを隠した。
原文: どうして隠したというのか。
なぜ隠したかって。
原文: 俺にもはっきり分らないが、多分この秘密を独占したかったのだろう。
俺にもはっきりわからないが、多分この秘密を独り占めにしたかったのだろう。
原文: そして凡てが明かになってから君に見せて、自慢したかったのだろう。
そしてすべてが明らかになってから君に見せて、自慢したかったのだろう。
原文: ところが、君が梯子段を上っている間に、俺の頭に、ハッとする様なすばらしい考が閃いたんだ。
ところが君が梯子段を上っている間に、俺の頭にはっとするようなすばらしい考えが閃いたんだ。
原文: というのは、例の紳士泥坊のことだ。
というのは、例の紳士泥棒のことだ。
原文: 五万円の紙幣をどこへ隠したのか知らないが、まさか、刑期が満るまで其儘でいようとは、彼奴だって考えないだろう。
五万円の紙幣をどこへ隠したのか知らないが、まさか刑期が満ちるまでそのままにしておこうとは、あいつだって考えないだろう。
原文: そこで、彼奴には、あの金を保管させる所の、手下乃至は相棒といった様なものがあるに相違ない。
そこで、あいつには、あの金を管理させる手下か仲間というようなものがいるに違いない。
原文: 今仮にだ、彼奴が不意の捕縛の為に、五万円の隠し場所を相棒に知らせる暇がなかったとしたらどうだ。
今仮に、あいつが突然捕まってしまって、五万円の隠し場所を仲間に知らせる暇がなかったとしたらどうだ。
原文: 彼奴としては、未決監に居る間に、何かの方法でその仲間に通信する外はないのだ。
あいつとしては、拘置所にいる間に何かの方法でその仲間に連絡するしかないのだ。
原文: このえたいの知れない紙切が、若しもその通信文であったら……
このわけのわからない紙切れが、もしその連絡文だったとしたら……
原文: こういう考が俺の頭に閃いたんだ。
こういう考えが俺の頭に閃いたんだ。
原文: 無論空想さ。
もちろん空想だよ。
原文: だが一寸甘い空想だからね。
でも、ちょっと甘い空想だからね。
原文: そこで、君に二銭銅貨の出所についてあんな質問をした訳だ。
そこで、君に二銭銅貨の出所についてああいう質問をしたわけだ。
原文: ところが君は、煙草屋の娘が監獄の差入屋へ嫁いているというではないか。
ところが君は、煙草屋の娘が監獄の差し入れ屋へ嫁いでいるというじゃないか。
原文: 未決監に居る泥坊が外部と通信しようとすれば、差入屋を媒介者にするのが最も容易だ。
拘置所にいる泥棒が外部と連絡しようとすれば、差し入れ屋を仲介役にするのが一番簡単だ。
原文: そして、若しその目論見が何かの都合で手違いになったとしたら、その通信は差入屋の手に残っている筈だ。
そして、もしその計画が何かの事情で狂ってしまったとしたら、その連絡文は差し入れ屋の手元に残っているはずだ。
原文: それが、その家の女房によって親類の家に運ばれないと、どうして云えよう。
それが、その家の女房によって親戚の家に持ち込まれないとどうして言えよう。
原文: さあ、俺は夢中になって了った。
もう、俺は夢中になってしまった。
原文: さて、若しこの紙切の無意味な文字が一つの暗号文であるとしたら、それを解くキイは何だろう。
さて、この紙切れの意味不明な文字が一つの暗号文だとしたら、それを解く鍵は何だろう。
原文: 俺はこの部屋の中を歩き廻って考えた。
俺はこの部屋の中を歩き回って考えた。
原文: 可也難しい、全部拾って見ても、南無阿弥陀仏の六字と読点だけしかない。
かなり難しい。全部拾ってみても、南無阿弥陀仏の六字と読点しかない。
原文: この七つの記号を以て、どういう文句が綴れるだろう。
この七つの記号を使って、どんな文章が綴れるだろう。
原文: 俺は暗号文については、以前に一寸研究したことがあるんだ。
俺は暗号文については以前にちょっと研究したことがあるんだ。
原文: シャーロック・ホームズじゃないが、百六十種位の暗号の書き方は俺だって知っているんだ。
シャーロック・ホームズじゃないが、百六十種くらいの暗号の書き方は俺だって知っているんだ。
原文: (Dancing Men 参照)
(Dancing Men 参照)
原文: で、俺は、俺の知っている限りの暗号記法を、一つ一つ頭に浮べて見た。
そこで俺は、自分が知っている限りの暗号記法を一つ一つ頭に浮かべてみた。
原文: そして、この紙片れの奴に似ているのを探した。
そして、この紙切れのものに似ているものを探した。
原文: 随分手間取った。
ずいぶん手間取った。
原文: 確か、その時君が飯屋へ行くことを勧めたっけ。
確かその時、君が食堂に行くことを勧めてきたっけ。
原文: 俺はそれを断って一生懸命考えた。
俺はそれを断って一生懸命考えた。
原文: で、とうとう少しは似た点があると思うのを二つ丈け発見した。
で、とうとう少し似た点があると思うのを二つだけ見つけた。
原文: その一つは Bacon の発明した two letter 暗号法という奴で、それはaとbとのたった二字の色々な組合せで、どんな文句でも綴ることが出来るのだ。
その一つは、ベーコンが発明したtwo letter暗号法というやつで、aとbのたった二文字のいろいろな組み合わせで、どんな文章でも綴ることができるのだ。
原文: 例えば fly という言葉を現す為には aabab, aabba, ababa と綴るといった調子のものだ。
例えば「fly」という言葉を表すには、aabab・aabba・ababaと綴るといった具合のものだ。
原文: も一つは、チャールス一世の王朝時代に、政治上の秘密文書に盛んに用いられた奴で、アルファベットの代りに、一組の数字を用いる方法だ。
もう一つは、チャールズ一世の王朝時代に政治上の秘密文書に盛んに使われたやつで、アルファベットの代わりに、一組の数字を使う方法だ。
原文: 例えば」
例えば」
原文: 松村は机の隅に紙片れをのべて、左の様なものを書いた。
松村は机の隅に紙切れを広げて、次のようなものを書いた。
原文: A B C D …………………………
A B C D ……………………
原文: 1111 1112 1121 1211…………………………
1111 1112 1121 1211……………………
原文: 「つまり、Aの代りには一千百十一を置き、Bの代りには一千百十二を置くといった風のやり方だ。俺は、この暗号も、それらの例と同じ様に、いろは四十八字を、南無阿弥陀仏を色々に組合せて置換えたものだろうと想像した。
「つまり、Aの代わりには1111を置き、Bの代わりには1112を置くというやり方だ。俺は、この暗号も、それらの例と同じように、いろは四十八字を南無阿弥陀仏をいろいろ組み合わせて置き換えたものだろうと想像した。
原文: さて、こいつを解く方法だが、これが英語か仏蘭西語か独逸語なら、ポオの Gold bug にある様にeを探しさえすれば訳はないんだが、困ったことに、こいつは日本語に相違ないんだ。
さて、これを解く方法だが、英語かフランス語かドイツ語なら、ポオの「黄金虫」にあるようにeを探しさえすれば話は早いのだが、困ったことにこれは日本語に違いないんだ。
原文: 念の為に一寸ポオ式のディシファリングを試みて見たが、少しも解けない。
念のためにちょっとポオ式の解読を試みてみたが、まったく解けない。
原文: 俺はここでハタと行詰って了った。
俺はここでぴたりと行き詰まってしまった。
原文: 六字の組合せ六字の組合せ、俺はそれ計り考えて又座敷を歩き廻った。
六字の組み合わせ、六字の組み合わせ、俺はそればかり考えてまた部屋を歩き回った。
原文: 俺は六字という点に何か暗示がないかと考えた。
俺は六字という点に何か手がかりがないかと考えた。
原文: そして六つの数で出来ているものを、思い出せる丈け思い出して見た。
そして六つの数で出来ているものを、思い出せるだけ思い出してみた。
原文: 滅多矢鱈に六という字のつくものを並べている内に、ふと、講談本で覚えた所の真田幸村の旗印の六連銭を思い浮べた。
やみくもに六という字のつくものを並べているうちに、ふと、講談本で覚えた真田幸村の旗印の六連銭を思い浮かべた。
原文: そんなものが暗号に何の関係もある筈はないのだが、どういう訳か「六連銭」
そんなものが暗号に何の関係もあるはずはないのだが、なぜか「六連銭」
原文: と、口の中で呟いた。
と口の中でつぶやいた。
原文: すると、するとだ。
すると、するとだ。
原文: インスピレーションの様に、俺の記憶から飛び出したものがある。
インスピレーションのように、俺の記憶から飛び出したものがある。
原文: それは、六連銭をそのまま縮小した様な形をしている、盲人の使う点字であった。
それは、六連銭をそのまま縮小したような形をしている、目の見えない人が使う点字だった。
原文: 俺は思わず、「うまい」
俺は思わず「うまい」
原文: と叫んだよ。
と叫んだよ。
原文: だって、なにしろ五万円の問題だからなあ。
だって、なにしろ五万円の問題だからな。
原文: 俺は点字について詳しくは知らなかったが、六つの点の組合せということ丈けは記憶していた。
俺は点字については詳しくは知らなかったが、六つの点の組み合わせということだけは覚えていた。
原文: そこで、早速按摩を呼んで来て伝授に与ったという訳だ。
そこで、さっそくマッサージ師を呼んできて教えてもらったというわけだ。
原文: これが按摩の教えて呉れた点字のいろはだ」
これがマッサージ師が教えてくれた点字のいろはだ」
原文: そういって松村は、机の抽斗から一枚の紙片を取出した。
そういって松村は、机の引き出しから一枚の紙切れを取り出した。
原文: それには、点字の五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、促音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった。
そこには、点字の五十音・濁音符・半濁音符・拗音符・促音符・長音符・数字などが、ずらりと並べて書いてあった。
原文: 「今、南無阿弥陀仏を、左から始めて、三字ずつ二行に並べれば、この点字と同じ配列になる。南無阿弥陀仏の一字ずつが、点字の各々の一点に符合する訳だ。そうすれば、点字のアは南、イは南無という工合に当嵌めることが出来る。この調子で解けばいいのだ。そこで、これは、俺が昨夜この暗号を解いた結果だがね。一番上の行が原文の南無阿弥陀仏を点字と同じ配列にしたもの、真中の行がそれに符合する点字、そして一番下の行が、それを飜訳したものだ」
「今、南無阿弥陀仏を、左から始めて三字ずつ二行に並べれば、この点字と同じ配列になる。南無阿弥陀仏の一字ずつが、点字の各々の一点に対応するわけだ。そうすれば、点字のアは南、イは南無といった具合に当てはめることができる。この調子で解けばいいんだ。そこで、これが俺が昨夜この暗号を解いた結果だがね。一番上の行が原文の南無阿弥陀仏を点字と同じ配列にしたもの、真ん中の行がそれに対応する点字、そして一番下の行がそれを翻訳したものだ」
原文: こういって、松村は又もや上の様な紙切を取出したのである。
こういって、松村はまたさきほどのような紙切れを取り出した。
原文: 「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤシヨーテン。つまり、五軒町の正直堂から玩具の札を受取れ、受取人の名は大黒屋商店というのだ。意味はよく分る。だが、何の為に玩具の紙幣なんかを受取るのだろう。そこで、俺は又考えさせられた。併し、この謎は割合簡単に解くことが出来た。そして、俺はつくづくその紳士泥坊の、頭がよくって敏捷で、尚お其上に小説家の様なウイットを持っていることに感心して了った。エ、君、玩具の紙幣とはすてきじゃないか。
「ゴケンチョーショージキドーカラオモチャノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤショーテン。つまり、五軒町の正直堂から玩具のお札を受け取れ、受取人の名は大黒屋商店というわけだ。意味はよくわかる。でも、なぜ玩具の紙幣なんかを受け取るのだろう。そこで俺はまた考えさせられた。しかし、この謎は割と簡単に解くことができた。そして俺は、つくづくその紳士泥棒の頭のよさ、敏捷さ、そのうえ小説家のようなウィットを持っていることに感心してしまった。ねえ君、玩具の紙幣とはすごいじゃないか。
原文: 俺はこう想像したんだ。
俺はこう想像したんだ。
原文: そして、それが幸にも悉く適中した訳だがね。
そして、それが幸いにもすべて当たったというわけだがね。
原文: 紳士泥坊は、万一を慮って、盗んだ金の最も安全な隠し場所を、予め用意して置いたに相違ないんだ。
紳士泥棒は、万一に備えて、盗んだ金の最も安全な隠し場所を、あらかじめ用意しておいたに違いないんだ。
原文: さて、世の中に一番安全な隠し方は、隠さないで隠すことだ。
さて、世の中で一番安全な隠し方は、隠さずに隠すことだ。
原文: 衆人の目の前に曝して置いて、しかも誰もがそれに気づかないという様な隠し方が最も安全なんだ。
大勢の目の前にさらしておいて、しかも誰もがそれに気づかないという隠し方が最も安全なんだ。
原文: 恐るべきあいつは、この点に気づいたんだ。
恐ろしいあいつは、この点に気づいたんだ。
原文: と、想像するのだがね。
と、想像するんだがね。
原文: で、玩具の紙幣という巧妙なトリックを考え出した。
そこで、玩具の紙幣という巧妙なトリックを考え出した。
原文: 俺は、この正直堂というのは、多分玩具の札なんかを印刷する店だと想像した。――
俺は、この正直堂というのは、多分玩具のお札を印刷する店だろうと想像した。――
原文: これも当って居ったがね。――
これも当たっていたがね。――
原文: そこへ、彼奴は大黒屋商店という名で、予め玩具の札を註文して置いたんだ。
そこへ、あいつは大黒屋商店という名で、あらかじめ玩具のお札を注文しておいたんだ。
原文: 近頃、本物と寸分違わない様な玩具の紙幣が、花柳界などで流行している相だ。
最近、本物と寸分違わない玩具の紙幣が、花柳界などで流行っているそうだ。
原文: それは誰かから聞いたっけ。
それは誰かから聞いたっけ。
原文: アア、そうだ。
ああ、そうだ。
原文: 君がいつか話したんだ。
君がいつか話していたんだ。
原文: ビックリ函だとか、本物とちっとも違わない、泥で作った菓子や果物だとか、蛇の玩具だとか、ああしたものと同じ様に、女の子を吃驚させて喜ぶ粋人の玩具だといってね。
びっくり箱だとか、本物とちっとも違わない泥で作ったお菓子や果物だとか、蛇の玩具だとか、そういったものと同じように、女の子を驚かせて楽しむ粋人の遊び道具だと言ってね。
原文: だから、彼奴が本物と同じ大きさの札を註文した所で、ちっとも疑を受ける筈はないんだ。
だから、あいつが本物と同じ大きさのお札を注文したところで、まったく疑われるはずはないんだ。
原文: こうして置いて、彼奴は、本物の紙幣をうまく盗み出すと、多分その印刷屋へ忍び込んで、自分の註文した玩具の札と擦り換えて置いたんだ。
こうしておいて、あいつは本物の紙幣をうまく盗み出すと、多分その印刷屋に忍び込んで、自分の注文した玩具のお札とすり替えておいたんだ。
原文: そうすれば、註文主が受取に行くまでは、五万円という天下通用の紙幣が、玩具の札として、安全に印刷屋の物置に残っている訳だからね。
そうすれば、注文主が受け取りに行くまでは、五万円という天下通用の紙幣が、玩具のお札として安全に印刷屋の物置に残っているというわけだからね。
原文: これは単に俺の想像かも知れない。
これは単に俺の想像かもしれない。
原文: だが、随分可能性のある想像だ。
でも、かなり可能性のある想像だ。
原文: 俺は兎に角当って見ようと決心した。
俺はとにかく当たってみようと決心した。
原文: 地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることが分った。
地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわかった。
原文: そこで愈々玩具の札を受取に行くのだが、こいつが一寸難しい。
そこでいよいよ玩具のお札を受け取りに行くわけだが、これがちょっと難しい。
原文: というのは、この俺が受取に行ったという痕跡を、少しだって残してはならないんだ。
というのは、この俺が受け取りに行ったという痕跡を、少しも残してはならないんだ。
原文: もしそれが分ろうものなら、あの恐ろしい悪人がどんな復讐をするか、思った丈けで気の弱い俺はゾッとするからね。
もしそれがわかれば、あの恐ろしい悪人がどんな復讐をするかと考えるだけで、気の弱い俺はぞっとするからね。
原文: 兎に角、出来る丈け俺でない様に見せなければいけない。
とにかく、できるだけ俺でないように見せなければいけない。
原文: そういう訳で、あんな変装をしたんだ。
そういうわけで、ああいう変装をしたんだ。
原文: 俺はあの十円で、頭の先から足の先まで身なりを変えた。
俺はあの十円で、頭の先から足の先まで身なりを変えた。
原文: これ見給え、これなんか一寸いい思つきだろう」
見てくれ、これなんかちょっといい思いつきだろう」
原文: そういって、松村はそのよく揃った前歯を出して見せた。
そう言って、松村はそのよく揃った前歯を出して見せた。
原文: そこには、私が先程から気づいていた所の、一本の金歯が光っていた。
そこには、私が先ほどから気づいていた金歯が一本光っていた。
原文: 彼は得意そうに、指の先でそれをはずして、私の眼の前へつき出した。
彼は得意そうに、指先でそれを外して私の目の前に突き出した。
原文: 「これは夜店で売っている、ブリキに鍍金した奴だ。ただ歯の上に冠せて置く丈けの代物さ。僅か二十銭のブリキのかけらが大した役に立つからね。金歯という奴はひどく人の注意を惹くものだ。だから、後日俺を探す奴があるとしたら、先ずこの金歯を眼印にするだろうじゃないか。さてこれ丈けの用意が出来ると、俺は今朝早く五軒町へ出掛けた。一つ心配だったのは、玩具の札の代金のことだった。泥坊の奴、きっと、転売なんかされることを恐れて、前金で支払って置いただろうとは思ったが、若しもまだだったら、少くとも二三十円は入用だからね。生憎我々にはそんな金の持合せがない。ナアニ、何とかごまかせばいいと高を括って出掛けた。――案の定印刷屋は、金のことなんかは一言も云わないで、品物を渡して呉れたよ。――かようにして、まんまと首尾よく五万円を横取りした訳さ。……さてその使途だ。どうだ。何か、考はないかね」
「これは夜店で売っているブリキにメッキしたやつだ。ただ歯の上にかぶせておくだけのものさ。わずか二十銭のブリキのかけらが大した役に立つからね。金歯というのはひどく人の注意を引くものだ。だから後日俺を探す奴があるとしたら、まずこの金歯を目印にするだろうじゃないか。さて、これだけの準備ができると、俺は今朝早く五軒町へ出かけた。一つ心配だったのは、玩具のお札の代金のことだった。泥棒の奴、きっと転売などされることを恐れて前払いにしてあるだろうとは思ったが、もしもまだだったら少なくとも二三十円は必要だからね。あいにく俺たちにはそんな金の持ち合わせがない。まあ何とかごまかせばいいとたかをくくって出かけた。――案の定、印刷屋は金のことなんかは一言も言わないで品物を渡してくれたよ。――こうして、まんまとうまく五万円を横取りしたというわけさ。……さてその使い道だ。どうだ、何か考えはないかね」
原文: 松村が、これ程興奮して、これ程雄弁に喋ったことは珍しい。
松村がこれほど興奮して、これほど雄弁にしゃべったことは珍しかった。
原文: 私はつくづく五万円という金の偉力に驚嘆した。
私はつくづく、五万円という金の威力に感嘆した。
原文: 私は其都度形容する煩を避けたが、松村がこの苦心談をしている間の、嬉し相な様というものは、全く見物であった。
私はその都度形容するのが面倒で省いたが、松村がこの苦労話をしている間の嬉しそうな様子といったら、まったく見物だった。
原文: 彼ははしたなく喜ぶ顔を見せまいとして、大いに努力して居った様であるが、努めても、努めても、腹の底から込み上げて来る、何とも云えぬ嬉し相な笑顔は隠すことが出来なかった。
彼は見苦しく喜ぶ顔を見せまいと大いに努力していたようだが、いくら努めても努めても、腹の底から込み上げてくる何ともいえない嬉しそうな笑顔は隠すことができなかった。
原文: 話の間々にニヤリと洩らす、その形容のし様もない、狂気の様な笑いは、私は寧ろ凄いと思った。
話の合間にふっと漏らす、なんとも表現しようのない、狂気のような笑いを、私はむしろ怖いと思った。
原文: 併し、昔千両の富籤に当って発狂した貧乏人があったという話もあるのだから、松村が五万円に狂喜するのは決して無理ではなかった。
しかし、昔、千両の富くじに当たって発狂した貧乏人がいたという話もあるのだから、松村が五万円に狂喜するのは決して無理ではなかった。
原文: 私はこの喜びがいつまでも続けかしと願った。
私はこの喜びがいつまでも続けばいいと思った。
原文: 松村の為にそれを願った。
松村のためにそれを願った。
原文: だが、私には、どうすることも出来ぬ一つの事実があった。
だが、私にはどうすることもできない一つの事実があった。
原文: 止めようにも止めることの出来ない笑いが爆発した。
止めようにも止めることのできない笑いが爆発した。
原文: 私は笑うんじゃないと自分自身を叱りつけたけれども、私の中の、小さな悪戯好きの悪魔が、そんなことには閉口たれないで私をくすぐった。
私は笑うんじゃないと自分自身を叱りつけたが、私の中の小さないたずら好きの悪魔は、そんなことには屈せず私をくすぐった。
原文: 私は一段と高い声で、最もおかしい笑劇を見ている人の様に笑った。
私は一段と高い声で、最もおかしい喜劇を見ている人のように笑った。
原文: 松村はあっけにとられて、笑い転ける私を見ていた。
松村はあっけにとられて、笑い転げる私を見ていた。
原文: そして、一寸変なものにぶっつかった様な顔をして云った。
そして、ちょっと変なものにぶつかったような顔をして言った。
原文: 「君、どうしたんだ」
「君、どうしたんだ」
原文: 私はやっと笑いを噛み殺してそれに答えた。
私はやっと笑いを噛み殺してそれに答えた。
原文: 「君の想像力は実にすばらしい。よくこれ丈けの大仕事をやった。俺はきっと今迄の数倍も君の頭を尊敬する様になるだろう。成程君の云う様に、頭のよさでは敵わない。だが、君は、現実というものがそれ程ロマンチックだと信じているのかい」
「君の想像力は本当にすばらしい。よくこれほどの大仕事をやりとげた。俺はきっとこれまでの何倍も君の頭を尊敬するようになるだろう。なるほど君の言う通り、頭のよさでは敵わない。でも君は、現実というものがそれほどロマンチックだと信じているのか」
原文: 松村は返事もしないで、一種異様の表情を以て私を見詰めた。
松村は返事もしないで、一種異様な表情で私をじっと見つめた。
原文: 「言い換えれば、君は、あの紳士泥坊にそれ程のウイットがあると思うのかい。君の想像は、小説としては実に申分がないことを認める。けれども世の中は小説よりはもっと現実的だからね。そして、若し小説について論じるのなら、俺は少し君の注意を惹き度い点がある。それは、この暗号文には、もっと外の解き方はないかということだ。君の飜訳したものを、もう一度飜訳する可能性はないかということだ。例えばだ、この文句を八字ずつ飛ばして読むという様なことは出来ないことだろうか」
「言い換えれば、君はあの紳士泥棒にそれほどのウィットがあると思うのか。君の想像は、小説としては本当に申し分ないことを認める。けれども世の中は小説よりもっと現実的だからね。そして、もし小説について論じるなら、俺は少し君に注意したい点がある。それは、この暗号文には、もっと別の解き方はないかということだ。君が翻訳したものを、もう一度翻訳する可能性はないかということだ。例えばだ、この文句を八字ずつ飛ばして読むということはできないだろうか」
原文: 私はこういって、松村の書いた暗号の飜訳文に左の様な印をつけた。
私はこういって、松村が書いた暗号の翻訳文に次のような印をつけた。
原文: ゴケンチョーショージキドーカラオモチャノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤショーテン
ゴケンチョーショー・ジキドーカラオモチ・ャノサツヲウケトレ・ウケトリニンノナハ・ダイコクヤショーテ・ン(八字ごとに最初の文字を拾うとゴ・ジ・ャ・ウ・ダ・ン)
原文: 「ゴジャウダン。君、この『御冗談』というのは何だろう。エ、これが偶然だろうか。誰かの悪戯だという意味ではないだろうか」
「ゴジャウダン。君、この『御冗談』というのは何だろう。ねえ、これが偶然だろうか。誰かのいたずらだという意味ではないだろうか」
原文: 松村は物をも云わずに立上った。
松村は何も言わずに立ち上がった。
原文: そして、五万円の札束だと信じ切っている所の、かの風呂敷包を私の前へ持って来た。
そして、五万円の札束だとすっかり信じ込んでいる風呂敷包を私の前へ持ってきた。
原文: 「だが、この大事実をどうする。五万円という金は、小説の中からは生れないぞ」
「でも、この大事実をどうする。五万円という金は、小説の中から生まれないぞ」
原文: 彼の声には、果し合をする時の様な真剣さが籠っていた。
彼の声には、決闘に臨むような真剣さが込もっていた。
原文: 私は恐ろしくなった。
私は怖くなった。
原文: そして、私の一寸したいたずらの、予想外に大きな効果を、後悔しないではいられなかった。
そして、自分のちょっとしたいたずらの予想外に大きな効果を、後悔せずにはいられなかった。
原文: 「俺は、君に対して実に済まぬことをした。どうか許して呉れ。君がそんなに大切にして持って来たのは、矢張り玩具の札なんだ。マア、それを開いてよく調べて見給え」
「俺は君に対して本当に申し訳ないことをした。どうか許してくれ。君がそんなに大切にして持ってきたのは、やはり玩具のお札なんだ。まあ、それを開いてよく調べてみてくれ」
原文: 松村は、丁度暗の中で物を探る様な、一種異様の手附で――それを見て、私は益々気の毒になった――長い間かかって風呂敷包を解いた。
松村は、ちょうど暗闇の中で物を探るような、一種異様な手つきで――それを見て私はますます気の毒になった――長い時間をかけて風呂敷包を解いた。
原文: そこには、新聞紙で丁寧に包んだ、二つの四角な包みがあった。
そこには、新聞紙で丁寧に包んだ、二つの四角い包みがあった。
原文: その内の一つは新聞が破れて中味が現れていた。
その中の一つは新聞紙が破れて中身が見えていた。
原文: 「俺は途中でこれを開いて、この眼で見たんだ」
「俺は途中でこれを開いて、この目で見たんだ」
原文: 松村は喉に閊えた様な声で云って、尚おも新聞紙をすっかり取り去った。
松村は喉につかえたような声で言って、なおも新聞紙をすっかり取り去った。
原文: それは、如何にも真にせまった贋物であった。
それは、いかにも本物そっくりな偽物だった。
原文: 一寸見たのでは、凡ての点が本物であった。
ちょっと見ただけでは、すべての点が本物だった。
原文: けれども、よく見ると、それらの札の表面には、圓という字の代りに團という字が、大きく印刷されてあった。
しかし、よく見ると、それらのお札の表面には、「圓」という字の代わりに「團」という字が大きく印刷されていた。
原文: 二十圓、十圓ではなくて、二十團、十團であった。
二十圓・十圓ではなく、二十團・十團だったのだ。
原文: 松村はそれを信ぜぬように、幾度も幾度も見直していた。
松村は信じられないように、何度も何度も見直した。
原文: そうしている内に、彼の顔からは、あの笑いの影がすっかり消去って了った。
そうしているうちに、彼の顔からはあの笑いの影がすっかり消え去ってしまった。
原文: そして、後には深い深い沈黙が残った。
そして、後には深い深い沈黙だけが残った。
原文: 私は済まぬという心持で一杯であった。
私は申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
原文: 私は、私の遣り過ぎたいたずらについて説明した。
私は自分のやり過ぎたいたずらについて説明した。
原文: けれども、松村はそれを聞こうともしなかった。
けれども、松村はそれを聞こうとしなかった。
原文: その日一日はただ唖者の様に黙り込んでいた。
その日一日、まるで口のきけない人のように黙り込んでいた。
原文: これで、このお話はおしまいである。
これで、この話はおしまいだ。
原文: けれども、読者諸君の好奇心を充す為に、私のいたずらについて、一言説明して置かねばならぬ。
けれども、読者の皆さんの好奇心を満たすために、私のいたずらについて一言説明しておかなければならない。
原文: 正直堂という印刷屋は、実は私の遠い親戚であった。
正直堂という印刷屋は、実は私の遠い親戚だった。
原文: 私はある日、せっぱ詰った苦しまぎれに、そのふだんは不義理を重ねている所の親戚のことを思出した。
私はある日、切羽詰まった苦しまぎれに、普段は不義理を重ねているその親戚のことを思い出した。
原文: そして、いくらでも金の都合がつけばと思って、進まぬながら久し振りでそこを訪問した。――
そして、いくらでも金の都合をつけてもらえればと思って、気が進まないながらも久しぶりにそこを訪問した。――
原文: 無論このことについては松村は少しも知らなかった。――
もちろんこのことは松村はまったく知らなかった。――
原文: 借金の方は予想通り失敗であったが、その時図らずも、あの本物と少しも違わない様な、其時は印刷中であった所の、玩具の札を見たのである。
借金の方は予想通りうまくいかなかったが、その時思いがけなも、本物とまったく違わないような、その時印刷中だった玩具のお札を見たのだ。
原文: そしてそれが、大黒屋という長年の御得意先の註文品だということを聞いたのである。
そしてそれが、大黒屋という長年の得意先からの注文品だということを聞いたのだ。
原文: 私はこの発見を、我々の毎日の話柄となっていた、あの紳士泥坊の一件と結びつけて、一芝居打って見ようと、下らぬいたずらを思いついたのであった。
私はこの発見を、私たちが毎日話題にしていたあの紳士泥棒の一件と結びつけて、一芝居打ってみようと、くだらないいたずらを思いついたのだった。
原文: それは、私も松村と同様に、頭のよさについて、私の優越を示す様な材料が掴み度いと、日頃から熱望していたからであった。
それは、私も松村と同じように、頭のよさについて自分の優位を示せるような材料が欲しいと、日ごろから熱望していたからだった。
原文: あのぎこちない暗号文は、勿論私の作ったものであった。
あのぎこちない暗号文は、もちろん私が作ったものだった。
原文: 併し、私は松村の様に外国の暗号史に通じていた訳ではない。
しかし、私は松村のように外国の暗号の歴史に通じていたわけではない。
原文: ただ一寸した思いつきに過ぎなかったのだ。
ただちょっとした思いつきに過ぎなかったのだ。
原文: 煙草屋の娘が差入屋へ嫁いでいるという様なことも、矢張り出鱈目であった。
煙草屋の娘が差し入れ屋へ嫁いでいるというようなことも、やはりでたらめだった。
原文: 第一、その煙草屋に娘があるかどうかさえ怪しかった。
そもそも、その煙草屋に娘がいるかどうかさえ怪しかった。
原文: ただ、このお芝居で、私の最も危んだのは、これらのドラマチックな方面ではなくて、最も現実的な併し全体から見ては極めて些細な、少し滑稽味を帯びた、一つの点であった。
ただ、このお芝居で私が最も心配したのは、これらのドラマチックな部分ではなく、最も現実的なのにしかし全体から見ればごく些細な、ちょっとおかしみを帯びた一点だった。
原文: それは、私が見た所のあの玩具の札が、松村が受取りに行くまで、配達されないで、印刷屋に残っているかどうかということであった。
それは、私が見たあの玩具のお札が、松村が受け取りに行くまで配達されずに印刷屋に残っているかどうかということだった。
原文: 玩具の代金については、私は少しも心配しなかった。
玩具の代金については、私はまったく心配しなかった。
原文: 私の親戚と大黒屋とは延取引であったし、其上もっといい事は、正直堂が極めて原始的な、ルーズな商売のやり方をして居ったことで、松村は別段、大黒屋の主人の受取証を持参しないでも失敗する筈はなかったからである。
私の親戚と大黒屋とは掛け取引だったし、そのうえもっといいことに、正直堂が極めて原始的でルーズな商売のやり方をしていたので、松村は別に大黒屋の主人の受取証を持参しなくても失敗するはずはなかったからだ。
原文: 最後に、彼のトリックの出発点となった二銭銅貨については、私は茲に詳しい説明を避けねばならぬことを遺憾に思う。
最後に、あのトリックの出発点となった二銭銅貨については、ここでは詳しい説明を避けなければならないことを残念に思う。
原文: 若し、私がへまなことを書いては、後日、あの品を私に呉れたある人が、飛んだ迷惑を蒙るかも知れないからである。
もし私がうかつなことを書けば、後日あの品を私にくれたある人が、とんだ迷惑をこうむるかもしれないからだ。
原文: 読者は、私が偶然それを所持していたと思って下さればよいのである。
読者の皆さんは、私がたまたまそれを持っていたと思っていただければいい。