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人間椅子 現代語訳

江戸川乱歩えどがわらんぽ)・1931

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

佳子は毎朝、夫が役所に出かけるのを見送ると――いつも十時を過ぎてしまうのだが――ようやく自分の時間になって、洋館の、夫と共用の書斎に閉じこもるのが習慣になっていた。

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佳子よしこは、毎朝、夫の登庁とうちょうを見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。

今、彼女はそこで、K雑誌のこの夏の増大号に載せるための長編小説に取り組んでいるところだった。

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そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。

美しい女性作家として、彼女はこのごろ、外務省書記官である夫の影を薄くするほど有名になっていた。

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美しい閨秀けいしゅう作家としての彼女は、ごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。

彼女のもとには、毎日のように見知らぬファンからの手紙が何通も届いた。

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彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。

今朝も彼女は、書斎の机に座ると、仕事を始める前にまず、そういった見知らぬ人たちからの手紙に目を通さなければならなかった。

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今朝けさとても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、ず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。

どれもきまりきった、つまらない文句ばかりだったが、彼女は女性らしい優しさから、どんな手紙であっても、自分に宛てられたものはとにかく一通りは読むことにしていた。

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それはいずれも、きまり切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣こころづかいから、どの様な手紙であろうとも、自分にあてられたものは、かくも、一通りは読んで見ることにしていた。

短いものから先に済ませ、封書二通とはがき一枚を読み終えると、あとにはかさばった原稿らしいものが一通残った。

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簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。

事前に連絡もなく、突然原稿を送ってくることはこれまでもよくあることだった。

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別段通知の手紙はもらっていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。

たいていは長々しくて退屈なものだったが、彼女はとにかくタイトルだけでも見ておこうと、封を切って中の紙束を取り出してみた。

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それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題だけでも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。

思った通り、原稿用紙を綴じたものだった。

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それは、思った通り、原稿用紙をじたものであった。

ところが、どうしたことか、タイトルも署名もなく、いきなり「奥様」

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が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」

という呼びかけの言葉で始まっていた。

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という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。

おかしいな、やっぱり手紙なのかしら――そう思って何気なく二行三行と目を走らせていくうちに、彼女はそこから何となく異様な、妙に気味の悪いものを予感した。

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ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。

そして、持ち前の好奇心が、彼女をぐんぐん先へと読み進ませていった。

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そして、持前もちまえの好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。

奥様、

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奥様、

奥様はまったくご存じない男から、突然このような無礼なお手紙を差し上げますことを、幾重にもお許しください。

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奥様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様このよう無躾ぶしつけな御手紙を、差上げます罪を、幾重いくえにもお許し下さいませ。

こんなことを申し上げると、奥様はさぞかしびっくりなさることでしょうが、私は今、あなたの前に、私が犯してまいりました世にも不思議な罪を、告白しようとしているのでございます。

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こんなことを申上げますと、奥様は、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。

私は数か月の間、まったく人の世から姿を消して、本当に悪魔のような生活を続けてまいりました。

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私は数ヶ月の間、全く人間界から姿を隠して、本当に、悪魔の様な生活を続けて参りました。

もちろん、広い世界に誰一人、私のしてきたことを知る者はいません。

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勿論もちろん、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。

もし何事もなければ、私はこのまま永遠に、人の世に戻ることはなかったかもしれないのでございます。

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し、何事もなければ、私は、このまま永久に、人間界に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。

ところが、近ごろになって、私の心にある不思議な変化が起きました。

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ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。

そして、どうしても、この自分の因果な身の上を告白せずにはいられなくなりました。

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そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔ざんげしないではいられなくなりました。

ただ、こう申しただけでは、いろいろとご不審に思われる点もございましょうが、どうかとにかく、この手紙を最後まで読んでください。

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ただ、かように申しましたばかりでは、色々御不審ごふしん思召おぼしめす点もございましょうが、どうか、兎も角も、この手紙を終りまで御読み下さいませ。

そうすれば、なぜ私がそんな気持ちになったのか。

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そうすれば、何故なぜ、私がそんな気持になったのか。

また、なぜこの告白をわざわざ奥様に聞いていただかなければならないのか、そのすべてが明らかになるでしょう。

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又何故、この告白を、殊更ことさら奥様に聞いて頂かねばならぬのか、それらのことが、ことごとく明白になるでございましょう。

さて、何から書き始めたらよいのか、あまりにも人間離れした奇怪な話なので、こうした人間の世で使われる手紙というような方法では、どこか気恥ずかしくて、筆が進みません。

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さて、何から書き初めたらいいのか、余りに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、人間世界で使われる、手紙という様な方法では、妙におもはゆくて、筆の鈍るのを覚えます。

でも、迷っていても仕方ありません。

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でも、迷っていても仕方がございません。

とにかく、ことの始まりから順を追って書いていくことにしましょう。

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兎も角も、事の起りから、順を追って、書いて行くことに致しましょう。

私は生まれつき、世にも醜い顔の持ち主でございます。

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私は生れつき、世にも醜い容貌の持主でございます。

このことをどうかはっきりと覚えていてください。

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これをどうか、はっきりと、お覚えなすっていて下さいませ。

そうでないと、もしあなたがこの無礼なお願いを受け入れて私に会ってくださったとき、ただでさえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活のせいでまともに見ていられないほどひどい姿になっているのを、何の心構えもなしに見られることは、私としてはとても耐えられないことでございます。

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そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いをれて、私におい下さいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活のために、た目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、がたいことでございます。

私という男は、なんと因果な生まれつきなのでしょう。

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私という男は、何と因果な生れつきなのでありましょう。

そんな醜い顔を持ちながら、胸の中では人知れず、世にも激しい情熱を燃やしていたのでございます。

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そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にもはげしい情熱を、もやしていたのでございます。

私は、化け物のような顔をした、しかも極めて貧乏な一職人に過ぎない自分の現実を忘れて、身の程知らずな、甘美で贅沢な、さまざまな「夢」

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私は、おばけのような顔をした、その上く貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢ぜいたくな、種々様々の「夢」

にあこがれていたのでございます。

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にあこがれていたのでございます。

もし私がもっと裕福な家に生まれていたなら、金の力でいろいろな遊びに浸り、醜い顔のやるせなさを紛らわすこともできたでしょう。

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私が若し、もっと豊な家に生れていましたなら、金銭の力によって、色々の遊戯にけり、醜貌しゅうぼうのやるせなさを、まぎらすことが出来たでもありましょう。

あるいは、もし私にもっと芸術的な才能があったなら、例えば美しい詩歌によって、この世の味気なさを忘れることもできたでしょう。

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それとも又、私に、もっと芸術的な天分が、与えられていましたなら、例えば美しい詩歌によって、此世このよ味気あじきなさを、忘れることが出来たでもありましょう。

しかし不幸な私はどちらの恵みも受けられず、哀れな一家具職人の子として、親から引き継いだ仕事でその日その日の生活を立てていくほかありませんでした。

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しかし、不幸な私は、いずれの恵みにも浴することが出来ず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、其日そのひ其日の暮しを、立てて行くほかはないのでございました。

私の専門はさまざまな椅子を作ることでした。

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私の専門は、様々の椅子いすを作ることでありました。

私が作った椅子はどんな気難しい注文主にも必ず気に入られるということで、会社でも私には特別に目をかけてくれ、仕事も高級品ばかりを回してくれていました。

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私の作った椅子は、どんな難しい註文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物じょうものばかりを、廻してれて居りました。

そういった高級品になると、背もたれや肘掛けの彫刻にいろいろ難しい注文があったり、クッションの具合や各部の寸法に細かいこだわりがあったりして、作る側にはちょっと素人には想像できないような苦労が必要なのですが、それだけに完成したときの喜びはたまりません。

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そんな上物になりますと、もたれや肘掛ひじかけの彫りものに、色々むずかしい註文があったり、クッションの工合ぐあい、各部の寸法などに、微妙な好みがあったりして、それを作る者には、一寸ちょっと素人の想像出来ない様な苦心が要るのでございますが、でも、苦心をすればした丈け、出来上った時の愉快というものはありません。

生意気なことを言うようですが、その気持ちは、芸術家が立派な作品を完成したときの喜びに匹敵するのではないかと思います。

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生意気を申す様ですけれど、その心持ちは、芸術家が立派な作品を完成した時の喜びにも、比ぶべきものではないかと存じます。

椅子が一つできあがると、私はまず自分でそれに腰かけて、座り心地を試してみます。

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一つの椅子が出来上ると、私は先ず、自分で、それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。

そして、味気ない職人生活の中でも、そのときだけは何ともいえない得意な気分になるのです。

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そして、味気ない職人生活の内にも、その時ばかりは、何とも云えぬ得意を感じるのでございます。

そこにはどのような高貴な方が、あるいはどのような美しい方が腰かけるのだろう。こんな立派な椅子を注文されるほどのお屋敷だから、きっとこの椅子にふさわしい贅沢な部屋があるはずだ。

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そこへは、どの様な高貴の方が、あるいはどの様な美しい方がおかけなさることか、こんな立派な椅子を、註文なさる程のおやしきだから、そこには、きっと、この椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるだろう。

壁にはきっと有名な画家の油絵がかかり、天井からは大きな宝石のようなシャンデリアがさがっているに違いない。

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壁間かべには定めし、有名な画家の油絵がかかり、天井からは、偉大な宝石の様な装飾電燈シャンデリヤが、さがっているに相違ない。

床には高価な絨毯が敷き詰めてあるだろう。

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床には、高価な絨氈じゅうたんが、敷きつめてあるだろう。

そして、この椅子の前のテーブルには、目が覚めるような西洋の花が甘い香りを放って咲き乱れていることだろう。

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そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、西洋草花が、甘美なかおりを放って、咲き乱れていることであろう。

そんな妄想に浸っていると、何だか自分がその立派な部屋の主にでもなったような気がして、ほんの一瞬ではありますが、何とも形容できない愉快な気持ちになるのです。

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そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、自分が、その立派な部屋のあるじにでもなった様な気がして、ほんの一瞬間ではありますけれど、何とも形容の出来ない、愉快な気持になるのでございます。

私の儚い妄想は、さらに止めどなく広がっていきます。

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私の果敢はかない妄想は、なおとめどもなく増長して参ります。

この私が、貧乏で醜い一職人に過ぎない私が、妄想の世界では気高い貴公子になって、自分が作った立派な椅子に腰かけているのです。

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この私が、貧乏な、醜い、一職人に過ぎない私が、妄想の世界では、気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に、腰かけているのでございます。

そして、その傍らにはいつも夢に登場する、美しい恋人が艶やかに微笑みながら、私の話に聞き入っています。

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そして、そのかたわらには、いつも私の夢に出て来る、美しい私の恋人が、におやかにほほえみながら、私の話に聞入って居ります。

それだけではありません。

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そればかりではありません。

私は妄想の中でその人と手を取り合って、甘い恋の言葉をささやき交わしさえするのです。

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私は妄想の中で、その人と手をとり合って、甘い恋の睦言むつごとを、ささやかわしさえするのでございます。

ところが、いつも決まって、私のこのふわりとした紫の夢は、たちまち近所のおかみさんのうるさい話し声や、ヒステリーのように泣き叫ぶ近所の病気の子供の声に邪魔されて、また目の前に醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのです。

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ところが、いつの場合にも、私のこの、フーワリとした紫の夢は、たちまちにして、近所のおかみさんのかしましい話声や、ヒステリーの様に泣き叫ぶ、其辺そのあたり病児びょうじの声にさまたげられて、私の前には、又しても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。

現実に戻った私は、そこに夢の貴公子とは似ても似つかない、哀れで醜い自分の姿を見つけます。

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現実に立帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、哀れにも醜い、自分自身の姿を見出みいだします。

そして、さっきまで私に微笑んでくれていた、あの美しい人は……

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そして、今の先、私にほほえみかけて呉れた、あの美しい人は。……

そんなものが、一体どこにいるのでしょう。

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そんなものが、全体どこにいるのでしょう。

あたりで埃まみれになって遊んでいる汚い子守の女の子さえ、私なんかには見向きもしないのです。

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その辺に、ほこりまみれになって遊んでいる、汚らしい子守こもり女でさえ、私なぞには、見向いても呉れはしないのでございます。

ただ一つ、自分が作った椅子だけが、今の夢の名残りのように、そこにぽつんと残っています。

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ただ一つ、私の作った椅子丈けが、今の夢の名残なごりの様に、そこに、ポツネンと残って居ります。

でも、その椅子はやがて、どこかまったく別の世界へ運ばれていってしまうではないですか。

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でも、その椅子は、やがて、いずことも知れぬ、私達のとは全く別な世界へ、運び去られて了うのではありませんか。

私はこうして、椅子を一つ仕上げるたびに、言いようのない空虚さに襲われるのです。

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私は、そうして、一つ一つ椅子を仕上げる度毎たびごとに、いい知れぬ味気なさに襲われるのでございます。

その何ともいえない嫌な嫌な気持ちは、月日が経つにつれてだんだん、私にはどうにも耐えられないものになっていきました。

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その、何とも形容の出来ない、いやあな、いやあな心持は、月日が経つに従って、段々、私には堪え切れないものになって参りました。

「こんなうじ虫のような生活を続けるくらいなら、いっそのこと死んでしまった方がましだ」

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「こんな、うじ虫の様な生活を、続けて行く位なら、いっそのこと、死んで了った方が増しだ」

私は真剣にそんなことを思います。

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私は、真面目に、そんなことを思います。

仕事場でコツコツとのみを使いながら、釘を打ちながら、あるいは刺激の強い塗料をこね回しながら、その同じことを執ように考え続けるのです。

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仕事場で、コツコツとのみを使いながら、釘を打ちながら、或は、刺戟しげきの強い塗料をこね廻しながら、その同じことを、執拗しつように考え続けるのでございます。

「だが、待てよ。死んでしまうくらいの覚悟があるなら、もっと他に方法があるんじゃないか。例えば……」

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「だが、待てよ、死んで了う位なら、それ程の決心が出来るなら、もっと外に、方法がないものであろうか。例えば……」

そうして私の考えは、だんだん恐ろしい方向へ向いていくのでした。

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そうして、私の考えは、段々恐ろしい方へ、向いて行くのでありました。

ちょうどその頃、私はかつて手がけたことのない、大きな皮張りの肘掛け椅子の製作を頼まれていました。

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丁度その頃、私は、つて手がけたことのない、大きな皮張りの肘掛椅子の、製作を頼まれて居りました。

この椅子は、同じY市で外国人が経営するあるホテルに納める品で、本来はその本国から取り寄せるはずのところを、私が雇われていた商会が働きかけて、日本にも輸入品に劣らない椅子職人がいるということでやっと注文を取ったものでした。

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此椅子は、同じY市で外人の経営している、あるホテルへ納める品で、一体なら、その本国から取寄せるはずのを、私の雇われていた、商会が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、やっと註文を取ったものでした。

それだけに、私としても寝食を忘れてその製作に取り組みました。

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それ丈けに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。

本当に魂を込めて夢中になってやったのです。

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本当に魂をこめて、夢中になってやったものでございます。

さて、できあがった椅子を見ると、私はかつて感じたことのない満足を覚えました。

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さて、出来上った椅子を見ますと、私は嘗つて覚えない満足を感じました。

我ながら見とれるほどの、見事な出来栄えだったのです。

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それは、我乍われながら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。

私はいつものように、四脚一組のうちの一つを日当たりのよい板の間へ持ち出して、ゆったりと腰を下ろしました。

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私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。

なんという座り心地の良さでしょう。

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何という坐り心地のよさでしょう。

ふっくらと、硬すぎず柔らかすぎないクッションの弾力、わざと染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた鞣し革の手触り、適度な傾きを保ってそっと背中を支えてくれる豊かな背もたれ、繊細な曲線を描いてこんもりと膨らんだ両側の肘掛け――それらすべてが不思議な調和を保って、ひとつの「くつろぎ」

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フックラと、こわすぎずやわらかすぎぬクッションのねばり工合、わざと染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、鞣革なめしがわの肌触り、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えて呉れる、豊満なもたれ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、両側の肘掛け、それらのすべてが、不思議な調和を保って、渾然こんぜんとして「安楽コンフォート

という言葉をそのまま形に表しているように見えます。

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という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。

私はそこへ深々と身を沈め、両手で丸々とした肘掛けをなでながら、うっとりとしていました。

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私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。

すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色の虹のようにまぶしいほどの色彩をもって、次々と湧き上がってくるのです。

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すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色ごしきの虹の様に、まばゆいばかりの色彩をもって、次から次へとき上って来るのです。

あれを幻というのでしょうか。

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あれをまぼろしというのでしょうか。

心に思うことがあまりにもはっきりと目の前に浮かんでくるので、私はもしや気がおかしくなったのではないかと、空恐ろしくなったほどでございます。

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心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、私は、若しや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなった程でございます。

そうしているうちに、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮かんできました。

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そうしています内に、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮んで参りました。

悪魔のささやきというのは、多分ああいうことを指すのではないでしょうか。

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悪魔の囁きというのは、多分ああした事を指すのではありますまいか。

それは、夢のように荒唐無稽で、非常に不気味な考えでした。

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それは、夢の様に荒唐無稽こうとうむけいで、非常に不気味な事柄でした。

でも、その不気味さがいいしれない魅力になって、私をそそのかすのです。

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でも、その不気味さが、いいしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。

最初は、ただただ、自分が丹精込めて作ったこの美しい椅子を手放したくない、できることならこの椅子と一緒にどこまでもついていきたい、そんな単純な願いでした。

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最初は、ただただ、私の丹誠たんせいめた美しい椅子を、手離し度くない、出来ることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい、そんな単純な願いでした。

それが、うとうとと妄想の翼を広げているうちに、いつの間にか、日ごろ私の頭の中で発酵していたある恐ろしい考えと結びついてしまったのです。

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それが、うつらうつらと妄想の翼を拡げて居ります内に、いつの間にやら、その日頃私の頭に醗酵はっこうして居りました、ある恐ろしい考えと、結びついて了ったのでございます。

そして、私はまあ、なんという気違いでしょう。

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そして、私はまあ、何という気違いでございましょう。

その奇怪極まる妄想を、実際にやってみようと思い立ったのでした。

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その奇怪極まる妄想を、実際におこなって見ようと思い立ったのでありました。

私は大急ぎで、四脚のうちで一番よくできたと思う肘掛け椅子を、バラバラに壊してしまいました。

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私は大急ぎで、四つの内で一番よく出来たと思う肘掛椅子を、バラバラにこわしてしまいました。

そして改めて、私の奇妙な計画を実行するのに都合のよいように作り直しました。

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そして、改めて、それを、私の妙な計画を実行するに、都合のよい様に造り直しました。

それは極めて大型のアームチェアなので、座る部分は床すれすれまで革で張り詰めてありますし、その他、背もたれも肘掛けも非常に分厚く作られていて、内部には人間一人が隠れていても外からは決してわからないくらいの、つながった大きな空洞があるのです。

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それは、極く大型のアームチェーアですから、掛ける部分は、床にすれすれまで皮で張りつめてありますし、其外、もたれも肘掛けも、非常に部厚に出来ていて、その内部には、人間一人が隠れていても、決して外から分らない程の、共通した、大きな空洞うつろがあるのです。

もちろん、そこには頑丈な木の枠と数多くのスプリングが取り付けてありますが、私はそれらに適当な細工を施して、人が座る部分に膝を入れ、背もたれの中へ首と胴を入れ、ちょうど椅子の形に座れば、その中に潜んでいられるくらいの余裕を作ったのです。

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無論、そこには、巌丈がんじょうな木の枠と、沢山なスプリングが取りつけてありますけれど、私はそれらに、適当な細工を施して、人間が掛ける部分に膝を入れ、凭れの中へ首と胴とを入れ、丁度椅子の形に坐れば、その中にしのんでいられる程の、余裕を作ったのでございます。

そういった細工は得意中の得意ですから、十分に手際よく便利に仕上げました。

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そうした細工は、お手のものですから、十分手際よく、便利に仕上げました。

例えば、呼吸をしたり外の物音を聞いたりするために革の一部に外からは全くわからない隙間を作ったり、背もたれの内部の、ちょうど頭の横の部分に小さな棚をつけて何かを蓄えられるようにしたり、そこへ水筒と軍用の堅パンを詰め込みました。

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例えば、呼吸いきをしたり外部の物音を聞く為に皮の一部に、外からは少しも分らぬ様な隙間をこしらえたり、凭れの内部の、丁度頭のわきの所へ、小さな棚をつけて、何かを貯蔵出来る様にしたり、ここへ水筒と、軍隊用のかたパンとを詰め込みました。

ある用途のために大きなゴムの袋を備えつけたり、その他さまざまな工夫を凝らして、食料さえあればその中に二日三日入り続けていても決して不便を感じないように作りました。

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ある用途の為めに大きなゴムの袋を備えつけたり、そのほか様々の考案をめぐらして、食料さえあれば、その中に、二日三日這入はいりつづけていても、決して不便を感じない様にしつらえました。

つまり、その椅子が人間一人の部屋になったわけです。

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わば、その椅子が、人間一人の部屋になった訳でございます。

私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入口のふたを開けて、椅子の中へすっぽりともぐり込みました。

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私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入口のふたを開けて、椅子の中へ、すっぽりと、もぐりこみました。

それは実に変な気持ちでした。

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それは、実に変てこな気持でございました。

真っ暗で息苦しく、まるでお墓の中に入ったような、不思議な感じがします。

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まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入った様な、不思議な感じが致します。

考えてみれば、お墓に違いありません。

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考えて見れば、墓場に相違ありません。

私は椅子の中に入ると同時に、ちょうど隠れ蓑でも着たように、この人間の世界から消えてしまうわけですから。

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私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ簑でも着た様に、この人間世界から、消滅して了う訳ですから。

やがて、商会から使いの者が、四脚の肘掛け椅子を受け取るために大きな荷車を持ってやってきました。

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間もなく、商会から使つかいのものが、四脚の肘掛椅子を受取る為に、大きな荷車を持って、やって参りました。

私の内弟子が(私はその男とたった二人暮らしだったのです)何も知らないで、使いの者と応対しています。

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私の内弟子うちでしが(私はその男と、たった二人暮しだったのです)何も知らないで、使のものと応待して居ります。

車に積み込むとき、一人の人夫が「こいつは馬鹿に重いぞ」

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車に積み込む時、一人の人夫が「こいつは馬鹿に重いぞ」

と怒鳴りましたので、椅子の中の私は思わずドキッとしましたが、そもそも肘掛け椅子自体が非常に重いので、特に怪しまれることもなく、やがてガタガタという荷車の振動が、私の体にまで一種異様の感触を伝えてきました。

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怒鳴どなりましたので、椅子の中の私は、思わずハッとしましたが、一体、肘掛椅子そのものが、非常に重いのですから、別段あやしまれることもなく、やがて、ガタガタという、荷車の振動が、私の身体からだにまで、一種異様の感触を伝えて参りました。

非常に心配しましたが、結局何事もなく、その日の午後にはもう私の入った肘掛け椅子はホテルの一室に、どっかりと据えられていました。

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非常に心配しましたけれど、結局、何事もなく、その日の午後には、もう私の這入った肘掛椅子は、ホテルの一室に、どっかりと、据えられて居りました。

後でわかったのですが、そこは個室ではなく、人を待ち合わせたり、新聞を読んだり、タバコを吸ったり、いろいろな人が頻繁に出入りするラウンジとでもいうような部屋でした。

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後で分ったのですが、それは、私室ではなくて、人を待合せたり、新聞を読んだり、煙草たばこをふかしたり、色々の人が頻繁ひんぱんに出入りする、ローンジとでもいう様な部屋でございました。

もうとっくにお気づきでしょうが、私のこの奇妙な行動の第一の目的は、人がいない隙を見計らって椅子の中から抜け出し、ホテルの中をうろつき回って盗みを働くことでした。

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もうとっくに、御気づきでございましょうが、私の、この奇妙な行いの第一の目的は、人のいない時を見すまして、椅子の中から抜け出し、ホテルの中をうろつき廻って、盗みを働くことでありました。

椅子の中に人間が隠れているなどという馬鹿げたことを、誰が想像するでしょう。

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椅子の中に人間が隠れていようなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことを、誰が想像致しましょう。

私は影のように、自由自在に部屋から部屋を荒らし回ることができます。

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私は、影の様に、自由自在に、部屋から部屋を、荒し廻ることが出来ます。

そして、人々が騒ぎ始めるころには椅子の中の隠れ家へ逃げ帰って、息を潜めて彼らの間の抜けた捜索を眺めていればいいのです。

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そして、人々が、騒ぎ始める時分には、椅子の中の隠家かくれがへ逃げ帰って、息をひそめて、彼等の間抜けな捜索を、見物していればよいのです。

あなたは、海岸の波打ち際などに「ヤドカリ」

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あなたは、海岸の波打際なみうちぎわなどに、「やどかり」

という一種の蟹がいるのをご存じでしょう。

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という一種のかにのいるのを御存じでございましょう。

大きなクモのような格好をしていて、人がいないとあたりを我が物顔にのさばり歩いていますが、少しでも人の足音がすると、恐ろしい速さで貝殻の中へ逃げ込みます。

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大きな蜘蛛くもの様な恰好をしていて、人がいないと、その辺を我物顔に、のさばり歩いていますが、一寸でも人の跫音あしおとがしますと、恐ろしい速さで、貝殻かいがらの中へ逃げ込みます。

そして、気味の悪い毛むくじゃらの前足を少しばかり貝殻から出して、敵の動きをうかがっています。

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そして、気味の悪い、毛むくじゃらの前足を、少しばかり貝殻から覗かせて、敵の動静を伺って居ります。

私はちょうどあの「ヤドカリ」

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私は丁度あの「やどかり」

でした。

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でございました。

貝殻の代わりに椅子という隠れ家を持ち、海岸ではなくホテルの中を我が物顔にのさばり歩くのです。

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貝殻の代りに、椅子という隠家を持ち、海岸ではなくて、ホテルの中を、我物顔に、のさばり歩くのでございます。

さて、この突飛な計画は、突飛だっただけに人々の予想をはるかに上回り、見事に成功しました。

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さて、この私の突飛とっぴな計画は、それが突飛であった丈け、人々の意表外にでて、見事に成功致しました。

ホテルに着いて三日目には、もうたっぷりと一仕事済ませていたほどです。

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ホテルに着いて三日目には、もう、たんまりと一仕事済ませて居た程でございます。

盗みをするときの恐ろしくも楽しい気持ち、うまくいったときの何ともいえない嬉しさ、そして人々が私のすぐ鼻先で「あっちへ逃げた」「こっちへ逃げた」と大騒ぎしているのを、じっと見ている可笑しさ。

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いざ盗みをするという時の、恐ろしくも、楽しい心持、うまく成功した時の、何とも形容しがたい嬉しさ、それから、人々が私のすぐ鼻の先で、あっちへ逃げた、こっちへ逃げたと大騒ぎをやっているのを、じっと見ているおかしさ。

それが、まあどれほど不思議な魅力をもって私を楽しませてくれたことでしょう。

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それがまあ、どの様な不思議な魅力を持って、私を楽しませたことでございましょう。

でも私は今、残念ながらそれを詳しくお話している暇はありません。

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でも、私は今、残念ながら、それを詳しくお話している暇はありません。

私はそこで、そんな盗みなどより十倍も二十倍も私を喜ばせた、奇怪極まる快楽を発見したのです。

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私はそこで、そんな盗みなどよりは、十倍も二十倍も、私を喜ばせた所の、奇怪極まる快楽を発見したのでございます。

そして、それについて告白することが、実はこの手紙の本当の目的なのでございます。

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そして、それについて、告白することが、実は、この手紙の本当の目的なのでございます。

話を戻して、私の椅子がホテルのラウンジに置かれたときのことから始めなければなりません。

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お話を、前に戻して、私の椅子が、ホテルのローンジに置かれた時のことから、始めなければなりません。

椅子が着くと、しばらくホテルの主人たちが座り心地を見て回っていきましたが、あとはひっそりとして物音一つしません。

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椅子が着くと、ひとしきり、ホテルの主人達が、その坐り工合を見廻って行きましたが、あとは、ひっそりとして、物音一つ致しません。

おそらく部屋には誰もいないのでしょう。

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多分部屋には、誰もいないのでしょう。

でも、到着早々椅子から出るなど、とても恐ろしくてできるものではありません。

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でも、到着匆々そうそう、椅子から出ることなど、とても恐ろしくて出来るものではありません。

私は非常に長い間(ただそう感じただけかもしれませんが)、少しの物音も聞き逃すまいと全神経を耳に集めて、じっとあたりの様子をうかがっていました。

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私は、非常に長い間(ただそんなに感じたのかも知れませんが)少しの物音も聞きもらすまいと、全神経を耳に集めて、じっとあたりの様子を伺って居りました。

そうしているうちに、おそらく廊下の方からでしょう、コツコツと重苦しい足音が聞こえてきました。

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そうして、しばらくしますと、多分廊下の方からでしょう、コツコツと重苦しい跫音が響いて来ました。

それが二三間ほど近づいてくると、部屋に敷かれた絨毯のせいでほとんど聞き取れないほどの低い音に変わりましたが、やがて荒々しい男の鼻息が聞こえ、ハッと思う間に、西洋人らしい大きな体が私の膝の上にドサリと落ちて、ふかふかと二三度弾みました。

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それが、二三間向うまで近付くと、部屋に敷かれた絨氈の為に、ほとんど聞きとれぬ程の低い音に代りましたが、間もなく、荒々しい男の鼻息が聞え、ハッと思う間に、西洋人らしい大きな身体が、私の膝の上に、ドサリと落ちてフカフカと二三度はずみました。

私の太ももとその男のがっしりした大きな臀部とは、薄い鞣し革一枚を隔てて、温もりを感じるほど密着しています。

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私の太腿ふとももと、その男のガッシリした偉大な臀部でんぶとは、薄い鞣皮一枚を隔てて、暖味あたたかみを感じる程も密接しています。

幅の広い彼の肩は、ちょうど私の胸のところへもたれかかり、重い両手は、革を隔てて私の手と重なり合っています。

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幅の広い彼の肩は、丁度私の胸の所へ凭れかかり、重い両手は、革を隔てて、私の手と重なり合っています。

そして、男は葉巻をくゆらしているのでしょう。

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そして、男がシガーをくゆらしているのでしょう。

男性的な豊かな香りが、革の隙間を通して漂ってきます。

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男性的な、豊なかおりが、革の隙間を通してただよって参ります。

奥様、仮にあなたが私の立場にいるとして、その場の様子を想像してみてください。

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奥様、仮にあなたが、私の位置にあるものとして、其場の様子を想像してごらんなさいませ。

それは、まあなんという不思議千万な光景でしょう。

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それは、まあ何という、不思議千万な情景でございましょう。

私はもう、あまりの恐ろしさに、椅子の中の暗闇で固く固く身を縮めて、わきの下からは冷たい汗をたらたら流しながら、思考力も何も失ってしまって、ただぼんやりしていたのでございます。

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私はもう、余りの恐ろしさに、椅子の中の暗闇で、堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、冷い汗をタラタラ流しながら、思考力もなにも失って了って、ただもう、ボンヤリしていたことでございます。

その男を皮切りに、その日一日、私の膝の上にはいろいろな人が入れ替わり立ち替わり腰を下ろしました。

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その男を手始めに、その日一日、私の膝の上には、色々な人が入り替り立替り、腰を下しました。

そして誰も、私がそこにいることを――彼らが柔らかいクッションだと信じ切っているものが、実は私という人間の、血の通った太ももであるということを――少しも気づかなかったのでございます。

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そして、誰も、私がそこにいることを――彼等が柔いクッションだと信じ切っているものが、実は私という人間の、血の通った太腿であるということを――少しも悟らなかったのでございます。

真っ暗で身動きもできない革張りの中の世界。

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まっ暗で、身動きも出来ない革張りの中の天地。

それがまあ、どれほど怪しくも魅力ある世界でしょう。

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それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。

そこでは、人間というものが、日ごろ目で見ているあの人間とはまったく別な、不思議な生きものとして感じられます。

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そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生きものとして感ぜられます。

彼らは声と、鼻息と、足音と、衣擦れの音と、そしていくつかの丸々とした弾力に富む肉の塊に過ぎないのです。

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彼等は声と、鼻息と、跫音と、きぬずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊にくかいに過ぎないのでございます。

私は彼らの一人一人を、顔立ちの代わりに体の感触によって識別することができます。

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私は、彼等の一人一人を、その容貌の代りに、肌触りによって識別することが出来ます。

ある人は、デブデブと太って、腐った魚のような感触を与えます。

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あるものは、デブデブとえ太って、腐ったさかなの様な感触を与えます。

それとは正反対に、ある人はコチコチに痩せこけて、骸骨のような感じがします。

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それとは正反対に、あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨がいこつのような感じが致します。

その他、背骨の曲がり方、肩甲骨の開き具合、腕の長さ、太ももの太さ、あるいは尾骶骨の長短など、それらすべてを総合してみると、どんなに体格の似た人でも、どこか違うところがあります。

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その外、背骨せぼねの曲り方、肩胛骨けんこうこつの開き工合、腕の長さ、太腿の太さ、或は尾骶骨びていこつの長短など、それらの凡ての点を綜合して見ますと、どんな似寄った背恰好の人でも、どこか違った所があります。

人間というものは、顔立ちや指紋の他に、こうした体全体の感触によっても、完全に識別できるに違いありません。

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人間というものは、容貌や指紋の外に、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することが出来るに相違ありません。

異性についても同じことがいえます。

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異性についても、同じことが申されます。

普通は主として顔の美醜によって判断するのでしょうが、この椅子の中の世界では、そんなものはまるで問題外なのです。

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普通の場合は、主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものは、まるで問題外なのでございます。

そこには、まる裸の肉体と、声と、匂いとがあるだけなのです。

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そこには、まる裸の肉体と、声音こわねと、においとがあるばかりでございます。

奥様、あまりにも露骨な描写に、どうか気を悪くしないでください。私はそこで、一人の女性の体に(それは私の椅子に腰かけた最初の女性でした)

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奥様、余りにあからさまな私の記述に、どうか気を悪くしないで下さいまし、私はそこで、一人の女性の肉体に、(それは私の椅子に腰かけた最初の女性でありました。)

激しい愛着を感じたのでございます。

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烈しい愛着を覚えたのでございます。

声から想像すると、それはまだ若い異国の乙女でした。

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声によって想像すれば、それは、まだうら若い異国の乙女おとめでございました。

ちょうどそのとき部屋の中には誰もいなかったのですが、彼女は何か嬉しいことでもあったのか、小声で不思議な歌を歌いながら、踊るような足取りでそこへ入ってきました。

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丁度その時、部屋の中には誰もいなかったのですが、彼女は、何か嬉しいことでもあった様子で、小声で、不思議な歌を歌いながら、おどる様な足どりで、そこへ這入って参りました。

そして私の潜んでいる肘掛け椅子の前まで来たかと思うと、いきなり豊満な、それでいて非常にしなやかな体を、私の上へ投げつけました。

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そして、私のひそんでいる肘掛椅子の前まで来たかと思うと、いきなり、豊満な、それでいて、非常にしなやかな肉体を、私の上へ投げつけました。

しかも、彼女は何がおかしいのか、突然アハアハと笑い出し、手足をバタバタさせて、網の中の魚のようにピチピチとはね回るのです。

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しかも、彼女は何がおかしいのか、突然アハアハ笑い出し、手足をバタバタさせて、網の中の魚の様に、ピチピチとはね廻るのでございます。

それから、ほぼ半時間ほども、彼女は私の膝の上で、時々歌を歌いながら、その歌に合わせるようにくねくねと重い体を動かしていました。

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それから、殆ど半時間ばかりも、彼女は私の膝の上で、時々歌を歌いながら、その歌に調子を合せでもする様に、クネクネと、重い身体を動かして居りました。

これは本当に、私にとってはまったく予期しなかった天地を揺るがすほどの大事件でした。

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これは実に、私に取っては、まるで予期しなかった驚天動地きょうてんどうちの大事件でございました。

女は神聖なもの、いやむしろ恐いものとして、顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。

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女は神聖なもの、いやむしこわいものとして、顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。

その私が今、見も知らない異国の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころか薄い鞣し革一枚を隔てて肌の温もりを感じるほど密接しているのです。

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その私が、今、身も知らぬ異国の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません、薄い鞣皮なめしがわ一重を隔てて肌のぬくみを感じる程も、密接しているのでございます。

それにもかかわらず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委ねて、見る人のない気安さに、勝手気ままな姿勢をしています。

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それにもかかわらず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上にゆだねて、見る人のない気安さに、勝手気儘きままな姿体を致して居ります。

私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることもできます。

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私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることも出来ます。

革の後ろから、その豊かな首筋に口づけをすることもできます。

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皮のうしろから、その豊な首筋に接吻せっぷんすることも出来ます。

その他、どんなことをしようと、自由自在なのです。

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その外、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。

この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的だった盗みなどは二の次にして、ただもうその不思議な感触の世界にのめり込んでしまったのです。

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この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に、惑溺わくできして了ったのでございます。

私は考えました。

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私は考えました。

これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた本当のすみかではないかと。

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これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、本当のすみかではないかと。

私のような醜い、そして気の弱い男は、明るい光の世界ではいつもひけ目を感じながら、恥ずかしく惨めな生活を続けていくほかない体なのです。

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私の様な醜い、そして気の弱い男は、明るい、光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥かしい、みじめな生活を続けて行く外に、能のない身体でございます。

それが、一度住む世界を変えて、こうして椅子の中で窮屈な辛抱をしていさえすれば、明るい世界では話しかけることはもちろん、そばに寄ることさえ許されなかった美しい人に近づいて、その声を聞き、肌に触れることもできるのです。

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それが、一度ひとたび、住む世界を換えて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱しんぼうをしていさえすれば、明るい世界では、口を利くことは勿論、側へよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き肌に触れることも出来るのでございます。

椅子の中の恋(!)

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椅子の中の恋(!)

それがまあ、どれほど不思議な、陶酔的な魅力をもつか、実際に椅子の中に入ってみた人でなくてはわかるものではありません。

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それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的とうすいてきな魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入って見た人でなくては、分るものではありません。

それは、ただ触覚と、聴覚と、かすかな嗅覚だけの恋でございます。

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それは、ただ、触覚と、聴覚と、そしてわずか嗅覚きゅうかくのみの恋でございます。

暗闇の世界の恋でございます。

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暗闇の世界の恋でございます。

決してこの世のものではありません。

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決してこの世のものではありません。

これこそ悪魔の国の愛欲ではないでしょうか。

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これこそ、悪魔の国の愛慾なのではございますまいか。

考えてみれば、この世界の人目につかない隅々では、どれほど異形で恐ろしいことが行われているか、本当に想像の外です。

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考えて見れば、この世界の、人目につかぬ隅々では、どの様に異形な、恐ろしい事柄が、行われているか、ほんとうに想像のほかでございます。

もちろん最初の予定では、盗みの目的を果たしさえすればすぐにでもホテルを逃げ出すつもりでいたのですが、世にも奇怪な喜びに夢中になった私は、逃げ出すどころか、いつまでもいつまでも椅子の中を永住の住処にして、その生活を続けていたのです。

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無論始めの予定では、盗みの目的を果しさえすれば、すぐにもホテルを逃げ出すつもりでいたのですが、世にも奇怪な喜びに、夢中になった私は、逃げ出すどころか、いつまでもいつまでも、椅子の中を永住のすみかにして、その生活を続けていたのでございます。

夜ごとの外出には注意に注意を重ねて、少しも物音を立てず、また人目に触れないようにしていたので、当然危険はありませんでしたが、それにしても数か月という長い月日を、そうして少しも見つからず椅子の中で暮らしていたというのは、我ながら実に驚くべきことでした。

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夜々よなよなの外出には、注意に注意を加えて、少しも物音を立てず、又人目に触れない様にしていましたので、当然、危険はありませんでしたが、それにしても、数ヶ月という、長い月日を、そうして少しも見つからず、椅子の中に暮していたというのは、我ながら実に驚くべき事でございました。

ほぼ一日中、椅子の中の狭い場所で腕を曲げ膝を折っているために、体中がしびれたようになって完全に直立することができず、最後には料理場や洗面所への往復を、立てない人のように這って行くほどでございました。

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殆ど二六時中、椅子の中の窮屈な場所で、腕を曲げ、膝を折っている為に、身体中がしびれた様になって、完全に直立することが出来ず、しまいには、料理場や化粧室への往復を、躄の様に、這って行った程でございます。

私という男は、なんという気違いでしょう。

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私という男は、何という気違いでありましょう。

それほどの苦しみを忍んでも、不思議な感触の世界を捨てる気になれなかったのです。

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それ程の苦しみを忍んでも、不思議な感触の世界を見捨てる気になれなかったのでございます。

中には一か月も二か月もそこを住まいのようにして泊まり続けている人もいましたが、元来ホテルのことですから絶えず客の出入りがあります。

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中には、一ヶ月も二ヶ月も、そこを住居すまいのようにして、泊りつづけている人もありましたけれど、元来ホテルのことですから絶えず客の出入りがあります。

したがって、私の奇妙な恋も、時とともに相手が変わっていくのをどうすることもできませんでした。

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したがって私の奇妙な恋も、時と共に相手が変って行くのを、どうすることも出来ませんでした。

そして、その数々の不思議な恋人の記憶は、普通の場合のようにその顔立ちによってではなく、主として体の形によって、私の心に刻み込まれているのです。

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そして、その数々の不思議な恋人の記憶は、普通の場合の様に、その容貌によってではなく、主として身体の恰好によって、私の心に刻みつけられているのでございます。

ある人は子馬のように精悍ですらりと引き締まった体を持ち、ある人は蛇のように妖艶でくねくねと自在に動く体を持ち、ある人はゴムまりのように太って脂肪と弾力に富む体を持ち、また別の人はギリシャの彫刻のようにがっしりと力強く、均整よく発達した体を持っていました。

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あるものは、仔馬こうまの様に精悍せいかんで、すらりと引き締った肉体を持ち、あるものは、蛇の様に妖艶ようえんで、クネクネと自在に動く肉体を持ち、あるものは、ゴムまりの様に肥え太って、脂肪と弾力に富む肉体を持ち、又あるものは、ギリシャの彫刻の様に、ガッシリと力強く、円満に発達した肉体を持って居りました。

その他、どの女性の体にもそれぞれの特徴と魅力がありました。

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その外、どの女の肉体にも、一人一人、それぞれの特徴があり魅力があったのでございます。

そうして女から女へと移っていく間に、私はまた、それとは別な不思議な経験もしました。

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そうして、女から女へと移って行く間に、私は又、それとは別な、不思議な経験をも味いました。

その一つは、あるとき、ヨーロッパのある大国の大使が(日本人のボーイの噂話で知ったのですが)、その偉大な体を私の膝の上に乗せたことでございます。

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その一つは、ある時、欧洲のある強国の大使が(日本人のボーイの噂話によって知ったのですが)其偉大な体躯を、私の膝の上にのせたことでございます。

その人は政治家としてよりも世界的な詩人として一層よく知られていた人ですが、だからこそ私は、その偉人の肌を知ったことが、わくわくするほど誇らしく感じられたのです。

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それは、政治家としてよりも、世界的な詩人として、一層よく知られていた人ですが、それ丈けに、私は、その偉人の肌を知ったことが、わくわくする程も、誇らしく思われたのでございます。

彼は私の上で二三人の同国人を相手に十分ほど話をすると、そのまま立ち去ってしまいました。

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彼は私の上で、二三人の同国人を相手に、十分ばかり話をすると、そのまま立去たちさって了いました。

もちろん何を言っていたのか私にはさっぱりわかりませんでしたが、身振りをするたびにむくむくと動く、普通の人より温かいかと思われる体のくすぐるような感触が、私に言いようのない刺激を与えたのでございます。

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無論、何を云っていたのか、私にはさっぱり分りませんけれど、ジェステュアをする度に、ムクムクと動く、常人よりも暖いかと思われる肉体の、くすぐる様な感触が、私に一種名状すべからざる刺戟を、与えたのでございます。

そのとき、私はふとこんなことを想像しました。

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その時、私はふとこんなことを想像しました。

もし!

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若し!

この革の後ろから、鋭いナイフで彼の心臓を狙ってグサリと一突きしたなら、どんな結果を引き起こすだろう。

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 この革のうしろから、鋭いナイフで、彼の心臓を目がけて、グサリと一突きしたなら、どんな結果を惹起ひきおこすであろう。

もちろん、それは彼が二度と立ち上がれない致命傷を与えるに違いない。

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無論、それは彼に再び起つことの出来ぬ致命傷を与えるに相違ない。

彼の本国はもちろん、日本の政界は、そのためにどんな大騒ぎを演じることだろう。

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彼の本国はもとより、日本の政治界は、その為に、どんな大騒ぎを演じることであろう。

新聞は、どんな激烈な記事を掲げることだろう。

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新聞は、どんな激情的な記事を掲げることであろう。

それは日本と彼の本国との外交関係にも大きな影響を与えるだろうし、また芸術の立場から見ても、彼の死は世界の一大損失に違いない。

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それは、日本と彼の本国との外交関係にも、大きな影響を与えようし、又芸術の立場から見ても、彼の死は世界の一大損失に相違ない。

そんな大事件が、自分の一挙手によって簡単に実現できるのだ。

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そんな大事件が、自分の一挙手によって、易々やすやすと実現出来るのだ。

それを思うと、私は不思議な得意を感じずにはいられませんでした。

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それを思うと、私は、不思議な得意を感じないではいられませんでした。

もう一つは、有名なある国のダンサーが来日したとき、偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度でしたが、私の椅子に腰かけたことでございます。

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もう一つは、有名なある国のダンサーが来朝した時、偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度ではありましたが、私の椅子に腰かけたことでございます。

そのときも私は大使のときと似た感銘を受けましたが、その上、彼女は私にかつて経験したことのない理想的な肉体美の感触を与えてくれました。

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その時も、私は、大使の場合と似た感銘を受けましたが、その上、彼女は私に、つて経験したことのない理想的な肉体美の感触を与えて呉れました。

私はその余りの美しさに、卑しい考えなど起こす間もなく、ただもう芸術品に対するときのような敬虔な気持ちで、彼女を称賛したのでございます。

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私はそのあまりの美しさに卑しい考えなどは起すひまもなく、ただもう、芸術品に対する時の様な、敬虔けいけんな気持で、彼女を讃美したことでございます。

その他、私はまだいろいろと珍しい、不思議な、あるいは気味の悪い数々の経験をしましたが、それらをここで細かく述べることはこの手紙の目的ではありませんし、かなり長くなりましたから、急いで肝心な点へ話を進めることにしましょう。

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その外、私はまだ色々と、珍しい、不思議な、或は気味悪い、数々の経験を致しましたが、それらを、ここに細叙さいじょすることは、この手紙の目的でありませんし、それに大分だいぶ長くなりましたから、急いで、肝心の点にお話を進めることに致しましょう。

さて、私がホテルへ来てから何か月かの後、私の身の上に一つの変化が起きたのでございます。

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さて、私がホテルへ参りましてから、何ヶ月かの後、私の身の上に一つの変化が起ったのでございます。

というのも、ホテルの経営者が何かの都合で帰国することになり、あとを店ごとそのままある日本人の会社に譲り渡したのです。

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といいますのは、ホテルの経営者が、何かの都合で帰国することになり、あとを居抜きのまま、ある日本人の会社に譲り渡したのであります。

すると、日本人の会社は従来の贅沢な経営方針を改め、もっと一般向けの旅館として有利な経営を目論むことになりました。

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すると、日本人の会社は、従来の贅沢な営業方針を改め、もっと一般向きの旅館として、有利な経営を目論もくろむことになりました。

そのために不要になった調度などはある大きな家具商に委託して競売させたのですが、その競売目録の中に私の椅子も加わっていたのです。

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その為に不用になった調度などは、ある大きな家具商に委託して、競売せしめたのでありますが、その競売目録の内に、私の椅子も加わっていたのでございます。

私はそれを知ると、一時はがっかりしました。

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私は、それを知ると、一時はガッカリ致しました。

そして、それを機にもう一度世の中へ戻り、新しい生活を始めようかと思ったほどでございます。

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そして、それをとして、もう一度娑婆しゃばへ立帰り、新しい生活を始めようかと思った程でございます。

そのころには盗みためたお金がかなりの額になっていましたから、たとえ世の中へ出ても、以前のように惨めな暮らしをすることはないのでした。

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その時分には、盗みためた金が相当の額に上っていましたから、仮令たとい、世の中へ出ても、以前の様に、みじめな暮しをすることはないのでした。

しかし、また考え直してみると、外国人のホテルを出ることは、一方では大きな失望でしたが、他方では一つの新しい希望を意味するものでもありました。

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が、又思い返して見ますと、外人のホテルを出たということは、一方においては、大きな失望でありましたけれど、他方に於ては、一つの新しい希望を意味するものでございました。

というのも、私は数か月もの間それほどいろいろな異性を愛したにもかかわらず、相手が全員外国人だったために、それがどれほど立派で魅力的な体の持ち主であっても、精神的に何か物足りなさを感じないわけにはいきませんでした。

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といいますのは、私は数ヶ月の間も、それ程色々の異性を愛したにも拘らず、相手が凡て異国人であった為に、それがどんな立派な、好もしい肉体の持主であっても、精神的に妙な物足りなさを感じない訳には行きませんでした。

やはり、日本人は同じ日本人に対してでなければ、本当の恋を感じることができないのではないだろうか。

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やっぱり、日本人は、同じ日本人に対してでなければ、本当の恋を感じることが出来ないのではあるまいか。

私はだんだんそんなふうに考えていたのでございます。

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私は段々、そんな風に考えていたのでございます。

そこへちょうど、私の椅子が競売に出たのです。

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そこへ、丁度私の椅子が競売に出たのであります。

今度は、ひょっとすると日本人に買い取られるかもしれない。

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今度は、ひょっとすると、日本人に買いとられるかも知れない。

そして日本人の家庭に置かれるかもしれない。

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そして、日本人の家庭に置かれるかも知れない。

それが私の新しい希望でした。

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それが、私の新しい希望でございました。

私は、とにかくもう少し椅子の中の生活を続けてみることにしました。

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私は、兎も角も、もう少し椅子の中の生活を続けて見ることに致しました。

家具屋の店先で二三日の間、非常に苦しい思いをしましたが、競売が始まると幸いなことに、私の椅子にはすぐ買い手がつきました。

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道具屋の店先で、二三日の間、非常に苦しい思いをしましたが、でも、競売が始まると、仕合しあわせなことには、私の椅子は早速さっそく買手がつきました。

古くなっても十分人目を引くほど立派な椅子だったからでしょう。

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古くなっても、十分人目を引く程、立派な椅子だったからでございましょう。

買い手はY市からそれほど遠くない大都市に住んでいた、あるお役人でした。

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買手はY市から程遠からぬ、大都会に住んでいた、ある官吏かんりでありました。

家具屋の店先からその人の屋敷まで、何里かの道を振動の激しいトラックで運ばれたときには、私は椅子の中で死ぬほどの苦しみを味わいましたが、それでも、買い手が私の望み通り日本人だったという喜びに比べれば、ものの数でもありません。

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道具屋の店先から、その人の邸まで、何里かの道を、非常に震動の烈しいトラックで運ばれた時には、私は椅子の中で死ぬ程の苦しみをめましたが、でも、そんなことは、買手が、私の望み通り日本人であったという喜びに比べては、物の数でもございません。

買い手のお役人はかなり立派な屋敷の持ち主で、私の椅子はそこの洋館の広い書斎に置かれましたが、私にとって非常に満足だったことには、その書斎は主人よりも、むしろその家の若く美しい奥様が使うものだったのでございます。

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買手のお役人は、可成かなり立派な邸の持主で、私の椅子は、そこの洋館の、広い書斎に置かれましたが、私にとって非常に満足であったことには、その書斎は、主人よりは、寧ろ、その家の、若く美しい夫人が使用されるものだったのでございます。

それ以来、約一か月の間、私は絶えず奥様と一緒にいました。

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それ以来、約一ヶ月の間、私は絶えず、夫人と共に居りました。

奥様の食事と就寝の時間を除いては、奥様のしなやかな体はいつも私の上にありました。

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夫人の食事と、就寝の時間を除いては、夫人のしなやかな身体は、いつも私の上にりました。

というのも、奥様はその間、書斎に居続けて、ある著作に没頭していらっしゃったからでございます。

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それというのが、夫人は、そのあいだ、書斎につめきって、ある著作に没頭していられたからでございます。

私がどれほど彼女を愛したか、それはここでくどくどしく申し上げるまでもありません。

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私がどんなに彼女を愛したか、それは、ここに管々くだくだしく申し上げるまでもありますまい。

彼女は私が初めて接した日本人で、しかも十分美しい体の持ち主でした。

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彼女は、私の始めて接した日本人で、しかも十分美しい肉体の持主でありました。

私は、そこで初めて本当の恋を感じました。

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私は、そこに、始めて本当の恋を感じました。

それに比べれば、ホテルでの数多い経験などは、決して恋と呼ぶべきものではありません。

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それに比べては、ホテルでの、数多い経験などは、決して恋と名づくべきものではございません。

その証拠に、これまで一度もそんなことを感じなかったのに、その奥様に対してだけは、秘密の愛撫を楽しむだけでは物足りず、どうにかして私の存在を知らせようと、いろいろ苦心したことからも明らかでしょう。

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その証拠には、これまで一度も、そんなことを感じなかったのに、その夫人に対して丈け私は、ただ秘密の愛撫を楽しむのみではあき足らず、どうかして、私の存在を知らせようと、色々苦心したのでも明かでございましょう。

私は、できるならば奥様の方でも、椅子の中の私を意識してほしかったのです。

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私は、出来るならば、夫人の方でも、椅子の中の私を意識して欲しかったのでございます。

そして、虫のいい話ですが、私を愛してもらいたいと思ったのでございます。

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そして、虫のいい話ですが、私を愛して貰い度く思ったのでございます。

でも、それをどうやって合図しましょう。

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でも、それをどうして合図致しましょう。

もしそこに人間が隠れているということをあからさまに知らせたなら、彼女はきっと驚きのあまり、主人や使用人たちにそのことを告げるに違いありません。

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若し、そこに人間が隠れているということを、あからさまに知らせたなら、彼女はきっと、驚きの余り、主人や召使達に、その事を告げるに相違ありません。

それではすべてが駄目になってしまうだけでなく、私は恐ろしい罪名を着せられて、法律上の刑罰さえ受けなければなりません。

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それではすべてが駄目になって了うばかりか、私は、恐ろしい罪名を着て、法律上の刑罰をさえ受けなければなりません。

そこで、私は少なくとも奥様に、私の椅子をこれ以上ないくらい居心地よく感じてもらい、椅子に愛着を持ってもらおうと努めました。

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そこで、私は、せめて夫人に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起させようと努めました。

芸術家である彼女は、きっと普通の人以上の繊細な感覚を持っているに違いありません。

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芸術家である彼女は、きっと常人以上の、微妙な感覚を備えているに相違ありません。

もし彼女が私の椅子に命を感じてくれたなら、ただの物質としてではなく、一つの生き物として愛着を感じてくれたなら、それだけでも私は十分満足なのです。

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若しも、彼女が、私の椅子に生命を感じて呉れたなら、ただの物質としてではなく、一つの生きものとして愛着を覚えてくれたなら、それ丈けでも、私は十分満足なのでございます。

私は、彼女が私の上に体を投げかけたときには、できるだけふわりと優しく受けるように心がけました。

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私は、彼女が私の上に身を投げた時には、出来る丈けフーワリと優しく受ける様に心掛けました。

彼女が私の上で疲れたころには、気づかれないようにそっとそっと膝を動かして、彼女の体の位置を変えるようにしました。

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彼女が私の上で疲れた時分には、分らぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女の身体の位置を換える様に致しました。

そして、彼女がうとうとと居眠りを始めるような場合には、私は極めてかすかに膝を揺らして、揺りかごの役目を果たしたのでございます。

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そして、彼女が、うとうとと、居眠りを始める様な場合には、私は、極く極くかすかに、膝をゆすって、揺籃ようらんの役目を勤めたことでございます。

その心配りが報われたのか、それとも単に私の気のせいか、近ごろでは奥様は何となく私の椅子を愛してくださっているように思われます。

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その心遣こころやりがむくいられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、夫人は、何となく私の椅子を愛している様に思われます。

彼女は、ちょうど赤ちゃんが母親の胸に抱かれるときのような、あるいは乙女が恋人の抱擁に応じるときのような、甘い優しさをもって私の椅子に体を沈めます。

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彼女は、丁度嬰児あかんぼが母親のふところに抱かれる時の様な、又は、処女おとめが恋人の抱擁ほうように応じる時の様な、甘い優しさを以て私の椅子に身を沈めます。

そして、私の膝の上で体を動かす様子までが、いかにも懐かしげに見えるのでございます。

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そして、私の膝の上で、身体を動かす様子までが、さもなつかしげに見えるのでございます。

こうして、私の情熱は日ごとに激しく燃えていきました。

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かようにして、私の情熱は、日々に烈しく燃えて行くのでした。

そしてついには、ああ奥様、ついには、私は身の程も弁えない大それた願いを抱くようになったのでございます。

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そして、遂には、ああ奥様、遂には、私は、身の程もわきまえぬ、大それた願いを抱く様になったのでございます。

たった一目、私の恋人の顔を見て、そして言葉を交わすことができたなら、そのまま死んでもいいとまで、私は思い詰めたのでございます。

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たった一目、私の恋人の顔を見て、そして、言葉を交すことが出来たなら、そのまま死んでもいいとまで、私は、思いつめたのでございます。

奥様、あなたはもちろん、とっくにお気づきでしょう。

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奥様、あなたは、無論、とっくに御悟おさとりでございましょう。

その私の恋人と申しますのは、余りの失礼をお許しください。

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その私の恋人と申しますのは、余りの失礼をお許し下さいませ。

実は、あなたなのでございます。

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実は、あなたなのでございます。

あなたのご主人があのY市の道具屋で私の椅子を買い取られて以来、私はあなたに、叶わぬ恋をささげていた哀れな男でございます。

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あなたの御主人が、あのY市の道具店で、私の椅子を御買取りになって以来、私はあなたに及ばぬ恋をささげていた、哀れな男でございます。

奥様、一生のお願いでございます。

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奥様、一生の御願いでございます。

たった一度、私にお会いくださるわけにはいかないでしょうか。

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たった一度、私にお逢い下さるわけには行かぬでございましょうか。

そして、一言でも、この哀れで醜い男に、慰めのお言葉をかけてくださるわけにはいかないでしょうか。

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そして、一言でも、この哀れな醜い男に、慰めのお言葉をおかけ下さる訳には行かぬでございましょうか。

私は決してそれ以上を望むものではありません。

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私は決してそれ以上を望むものではありません。

そんなことを望むには、あまりにも醜く、汚れ果てた私でございます。

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そんなことを望むには、余りに醜く、けがれ果てた私でございます。

どうぞどうぞ、世にも不幸な男の切なる願いをお聞き届けください。

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どうぞどうぞ、世にも不幸な男の、切なる願いを御聞き届け下さいませ。

私は昨夜、この手紙を書くために、お屋敷を抜け出しました。

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私は昨夜、この手紙を書く為に、お邸を抜け出しました。

面と向かって奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、かつ私にはとてもできないことでございます。

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面と向って、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、つ私には迚も出来ないことでございます。

そして今、あなたがこの手紙をお読みになるころには、私は心配のあまり青い顔をして、お屋敷のまわりをうろついています。

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そして、今、あなたがこの手紙をお読みなさる時分には、私は心配の為に青い顔をして、お邸のまわりを、うろつき廻って居ります。

もし、この世にも無礼なお願いをお聞き届けくださいますなら、どうか書斎の窓のなでしこの鉢植えに、あなたのハンカチをかけてください。それを合図に、私は何気ない一人の訪問者としてお屋敷の玄関を訪れるでしょう。

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若し、この、世にも無躾なお願いをお聞き届け下さいますなら、どうか書斎の窓の撫子なでしこ鉢植はちうえに、あなたのハンカチをおかけ下さいまし、それを合図に、私は、何気なき一人の訪問者としてお邸の玄関を訪れるでございましょう。

そして、この不思議な手紙はある熱烈な祈りの言葉をもって結ばれていた。

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そして、このふしぎな手紙は、ある熱烈な祈りの言葉を以て結ばれていた。

佳子は手紙の半ばまで読んだとき、すでに恐ろしい予感のせいで真っ青になってしまった。

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佳子は、手紙の半程なかほどまで読んだ時、すでに恐しい予感の為に、まっ青になって了った。

そして無意識に立ち上がると、気味の悪い肘掛け椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ来ていた。

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そして、無意識に立上ると、気味悪い肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ来ていた。

手紙の後の方は、いっそ読まないで破り捨ててしまおうかと思ったけれど、何となく気がかりなままに、居間の小机の上でとにかく読み続けた。

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手紙の後の方は、いっそ読まないで、破りてて了おうかと思ったけれど、どうやら気懸きがかりなままに、居間の小机の上で、兎も角も、読みつづけた。

彼女の予感はやはり当たっていた。

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彼女の予感はやっぱり当っていた。

これはまあ、なんという恐ろしい事実だろう。

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これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。

彼女が毎日腰かけていた、あの肘掛け椅子の中には、見も知らぬ一人の男が入っていたのか。

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彼女が毎日腰かけていた、あの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男が、入っていたのであるか。

「ああ、気味が悪い」

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「オオ、気味の悪い」

彼女は背中から冷水を浴びせられたような悪寒を感じた。

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彼女は、背中から冷水をあびせられた様な、悪寒おかんを覚えた。

そして、いつまで経っても不思議な身震いがやまなかった。

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そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。

彼女は、あまりのことにぼんやりしてしまって、これをどう処置すべきかまるで見当がつかなかった。

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彼女は、あまりのことに、ボンヤリして了って、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。

椅子を調べてみる(?)

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椅子を調べて見る(?)

どうして、そんな気味の悪いことができるものか。

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どうしてどうして、そんな気味の悪いことが出来るものか。

そこには、たとえもう人間がいなくても、食べ物やその他の、彼に関わる汚いものがまだ残されているに違いないのだ。

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そこには仮令、もう人間がいなくても、食物その他の、彼に附属した汚いものが、まだ残されているに相違ないのだ。

「奥様、お手紙でございます」

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「奥様、お手紙でございます」

ハッとして振り向くと、それは一人の女中が今届いたらしい封書を持ってきたのだった。

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ハッとして、振り向くと、それは、一人の女中が、今届いたらしい封書をもって来たのだった。

佳子は無意識にそれを受け取って開封しようとしたが、ふとその宛名を見ると、彼女は思わずその手紙を取り落とすほどのひどい驚きに打たれた。

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佳子は、無意識にそれを受取って、開封しようとしたが、ふと、その上書うわがきを見ると、彼女は、思わずその手紙を取りおとした程も、ひどい驚きに打たれた。

そこには、さっきの不気味な手紙と寸分違わない筆癖をもって、彼女の名前が書かれてあったのだ。

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そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖ふでぐせをもって、彼女の名宛なあてが書かれてあったのだ。

彼女は長い間、それを開封しようかどうかと迷っていた。

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彼女は、長い間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。

が、とうとう最後にそれを破り開けて、ビクビクしながら中身を読んでいった。

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が、とうとう、最後にそれを破って、ビクビクしながら、中身を読んで行った。

手紙はごく短いものだったが、そこには彼女をもう一度ドキッとさせるような、奇妙な文句が記されていた。

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手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせた様な、奇妙な文言もんごんしるされていた。

突然お手紙を差し上げます無礼を、幾重にもお許しください。

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突然御手紙を差上げます無躾を、幾重にもお許し下さいまし。

私は日ごろ、先生のお作を愛読しているものでございます。

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私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。

別封でお送りしましたのは、私の拙い創作でございます。

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別封お送り致しましたのは、私のつたない創作でございます。

ご一覧の上、ご批評をいただけますれば、これ以上の幸いはございません。

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御一覧の上、御批評が頂けますれば、此上のさいわいはございません。

ある理由により、原稿の方はこの手紙を書く前に投函しましたので、すでにご覧済みかと拝察いたします。

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ある理由の為に、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函致しましたから、已に御覧済みかと拝察致します。

いかがでございましたでしょうか。

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如何いかがでございましたでしょうか。

もし、この拙作がいくらかでも先生に感銘を与えることができたとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。

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若し、拙作せっさくがいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。

原稿にはわざと省いておきましたが、タイトルは「人間椅子」

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原稿には、わざと省いて置きましたが、表題は「人間椅子」

とつけたいと考えております。

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とつけたい考えでございます。

では、失礼を顧みず、お願いまで。

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では、失礼をかえりみず、お願いまで。

草々。

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匆々そうそう