断片 小学生向け
河上肇(かわかみはじめ)・1920年
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一
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一
京都帝大(きょうとていだい)という大学で経済学の教授をしていたころ、大正九年の九月から新学期が始まり、私は経済学部の部長に任命された。
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京都帝大の経済学部教授をしてゐた頃、大正九年九月の新学期から、私は経済学部の部長に補せられた。
たいていの教授はこの役職をほしがるのだが、私にとってはとても迷惑だった。
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この地位には大概の教授がなりたがるのだが、私にとつて之は頗る迷惑であつた。
なぜかというと、私はすでにその前の年の一月に個人でつくる雑誌『社会問題研究』
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と云ふのは、私はすでにその前年の一月に個人雑誌『社会問題研究』
を創刊し、毎月一冊ずつ出していたので、講義の準備だけでもう手いっぱいだった。その上に学校の事務仕事まで引き受けたくはなかった。
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を創刊し、大概毎月一冊づつ之を刊行して居たから、いつも講義の準備に追はれてゐる私は、殆ど手一杯の仕事をして居るので、この上学校行政の俗務に携はりたくはなかつた。
ただ、学部の決まりとして教授が就職した順番に一か月ずつ部長を務めることになっていたので、私一人が断るわけにもいかなかった。
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ただ学部の内規として、教授は就職順に一ヶ月づつ部長を勤めることになつて居たので、私一人がそれを断る訳にも行かなかつた。
ところが都合よいことに、一か月もたたないうちに私は病気になった。
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ところが都合の好いことには、一月もたたないうちに私は病気に罹かつた。
かぜをひいて寝込んだあと、微熱が続いたので、当時医学部で内科の教授をしていた島薗(しまぞの)博士に診てもらうと、病気はたいしたことはないが、とにかく痩せていて体がよくないから、場所を変えて少し休養したほうがいい、私が診断書を書いてあげる、とのことだった。
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感冒で寝込んだ後、微熱が去らないので、当時医学部の内科教授をして居られた島薗博士に診察して貰ふと、病気はたいしたこともないが、なんにしても痩せてゐて、よくないからだだから、転地して少し休養されるが可からう、私が診断書を書いて上げるから、とのことであつた。
私はこの思いがけない幸運を喜んで、すぐに部長の職をやめ、紀州(きしゅう・今の和歌山県)の田辺町という南の海辺にある小さな町へ、養生に出かけることにした。
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私はこのもつけの幸を歓び迎へ、すぐに部長の職を辞して紀州の田辺町といふ南海の浜辺にある小都会へ、転地療養に出掛けることにした。
紀州の出身だった島薗博士があらかじめそこの女学校の校長に頼む手紙を出してくれた。
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紀州人であつた島薗博士が予めそこの女学校長に依頼の手紙を出してくれられた。
到着するとすぐ、船まで迎えに来てくれたその校長さんの世話で、小さな宿屋の一部屋に落ち着くことができた。
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で私は、着くと直ぐに、船まで出迎へてくれられた其の校長さんの世話で、小さな宿屋の一室に身を落ち付けることが出来た。
大きな松林が砂地に並ぶ、海に近い場所だった。宿は安宿で、あてがわれた暗い部屋には、床の間に粗末な掛け軸がかかっていた。
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大きな松林が砂地の上に並んでゐる海浜に近い所であつたが、宿は安宿で、私に当てがはれた陰気な部屋には、床に粗末な軸物が懸かつてゐた。
ちょうど真南の松林の中には立派な旅館が見えていたが、まじめな校長さんは、長く泊まる予定の私のために費用のことを考えてくれたのだろう、立派な方の旅館は避けて、安宿に部屋を取っておいてくれた。
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丁度真南に当つた所の松林の中には立派な旅館が見えて居たが、律義な校長さんは、長く滞留する筈になつてゐる私のために、費用の点を顧慮されたのであらう、その立派な方の旅館は避けて、貧弱な安宿の方に私の部屋を取つて置いてくれられた。
一日の宿泊料もかなり安く予約されていた。
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一日分の宿泊料も相当格安に予約されてゐた。
少し安すぎると思ったが、実際に出てくるお茶道具も食器も寝具も、家で質素な生活に慣れている私でさえ、少し粗末すぎると感じるほどだった。
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すこし安過ぎると思つたが、果して出してくる茶器にしても、食器にしても、夜具にしても、平生家に居て簡素な生活に甘んじてゐる私ですら、少し粗末過ぎると思ふほどであつた。
道具類はともかく、食事が粗末なのでは養生に来た意味がないと思い、私はすぐに宿泊料を上げてもらったが、それもあまり効果はなく、新鮮でない青魚を食べさせられて、体中に発疹が出たこともあった。
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器具類はともかく、食事の粗末なのは、折角転地療養に来てゐてその甲斐がないと思つたから、私は間もなく宿泊料の値上げをして見たが、それもさした効果はなく、青魚の腐敗したのを食べさせられ、全身に発疹したやうなこともあつた。
しかし私は、もともとどんな境遇でも満足できる人間なので、暖かい日には海岸を散歩したり、半里(約二キロ)ほど奥にある田辺の町へ行って菓子を買ってきたりした。(甘いものが好きな私は、田舎に行くとおいしい菓子が食べられないので、いつも困っていた。
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しかし私は、元来どんな境遇にでも満足し得る人間だから、暖い日には海岸を散歩したり、半里ばかり奥にある田辺の町を訪ねて、菓子を買うて来たり(甘党の私は田舎へ行くと、うまい菓子が食べられぬので、いつも弱つた。
田辺町の大通りまで買いに出ても、田舎町のことで気のきいた菓子は手に入らなかった。)
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田辺町の本通りまで買ひに出て見ても、田舎町のこととて気の利いた菓子は得られなかつた。)
絵の具を持って写生に出かけたりもした。(私は長男が使っていた絵の具と二、三枚の板を持ってきていた。
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絵具を持つて写生に出掛けたり、(私は長男の使つてゐた絵具と二三枚の板を持つて来て居た。
庭に柑橘類が黄色く実り、軒下に大根を干している農家を写生した絵が一枚、鉢に入れたりんごの静物画が一枚、自画像が一枚、これがその時私が描いたもので、後にも先にも私の描いた油絵といえば、一生のうちにこの三枚だけである。)
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庭には柑橘類が黄いろく実り、軒下には大根の干してある百姓家を写生したのが一枚、鉢に入れた林檎の静物が一枚、自画像が一枚、これがその時私の描いたもので、後にも先にも私の描いた油絵といへば、一生のうち此の三枚があるだけである。)
ときには本を読んだりして、十二月から一月にかけて、この寂しい町の寂しい宿で、ちょうど一か月を過ごした。
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たまには本を読んだりして、十二月から一月にかけ、この寂しい町の寂しい宿で、丁度一ヶ月の間、日を過ごした。
持っていった本は二、三冊だったと思うが、その中にロシア革命のことを書いたサックという人の「ロシア民主主義の誕生」
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私の携へた書物は二三冊に過ぎなかつたと思ふが、その中に一つ、ロシヤ革命のことを書いたサックの『ロシヤ民主主義の誕生』
という本があった。
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といふ本があつた。
私はそれをおもしろく読んだ。
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私はそれをおもしろく読んだ。
(あとで述べるように、これがこの話全体を生むきっかけとなった。
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(あとで述べるやうに、このことが此の物語全体を生む機縁となつた。
当時の私は、病気でもしてこんなところへ来ていなければ、こんな本をゆっくり読む余裕はとてもなかったのだが。)
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当時の私は、病気でもしてこんな所へ来て居なかつたなら、とてもこんな本に読み耽ける余裕は有つて居なかつたのだが。)
そして京都に帰ってから、二月に私はその本を材料にして「断片」
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で、京都に帰つてから、二月に私はそれを材料にして「断片」
と題する随筆を書き、雑誌『改造』
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と題する随筆を書き、これを雑誌『改造』
に送った。
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に寄せた。
その文章は全部SとBという二人の問答からなり、この二人が故人Kという人の残した文章の断片を整理しながら、感想を語り合う形にしたものだった。(SだのBだのKだのというのは、まったくでたらめに選んだのだが、世間の一部では、Sは堺利彦(さかいとしひこ)、Bは馬場孤蝶(ばばこちょう)、Kは幸徳秋水(こうとくしゅうすい)のことだろうなどとうわさされた。
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それは全部SとBとの問答から成り、この二人が故人Kなるものの遺稿の断片を整理しながら、感想を語り合ふ形にしたもので、(SだのBだのKだの云ふのは、全く出たらめに選んだのだが、世間の一部では、Sは堺利彦、Bは馬場孤蝶、Kは幸徳秋水のことだらうなどと噂された。
)小説の欄に入れるわけにもいかないにしても、せいぜいいわゆる読み物に過ぎないので、論説として扱われる性質のものではなかった。
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)小説欄に入れる訳に行かないにしても、せいぜい謂はゆる中間の読物に過ぎないので、論説として扱はるべき性質のものではなかつた。
しかし『改造』
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しかし『改造』
はこれを四月号の巻頭に掲載した。
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はこれを四月号の巻頭に載せた。
それは三月中旬に発売されたが、発売と同時に、「社会の安全と秩序を乱す」という理由で、すぐに発売禁止の処分を受けた。
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それは三月中旬に発売されたが、発売と同時に、安寧秩序を妨害する廉を以て、忽ち差押を喰つた。
私の書いたものがそのような目に遭ったのは、これが初めてだった。
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私の書いたものでさうした厄に遇つたのは、これがそもそもの初めである。
二
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二
めったに旅行しない私が、当時は山口に出張していた。
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めつたに旅行することのない私が、当時は偶〻山口に出張してゐた。
山口高等商業学校の教授だった作田荘一(さくたそういち)君(後に京都帝大の教授となり、やめてからは満洲建国大学の副総長になった人)を京都帝大に迎えるため、学校の校長に直接交渉しに出かけたのだった。
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山口高等商業学校の教授であつた作田荘一君(後に京都帝大の教授となり、退官後は満洲建国大学の副総長となつた人)を京都帝大に迎へるため、校長に直接談判をしに出掛けたのである。
作田君は東京帝大の出身で、当時はまとまった著書もなく、発表した論文も非常に少なく、あまり世に知られていなかった。
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同君は東京帝大の出身であり、当時はまだ纏つた著述も出されて居ず、発表された論文も極めて少く、余り人に知られては居なかつた。
しかし昔から付き合いのある私はその能力を信じていたので、助教授として作田君を京大に迎えることを教授会に提案し、熱心に主張して、ついに教授会の承認を得るに至った。
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しかし古くから交際してゐる私は、その能力を信じて居たので、助教授として同君を京大に迎へんことを教授会に提議し、熱心にこれを主張して、遂に教授会の承認を経るに至つた。
しかし作田君は山口では大切な人だったので、横地という校長がなかなか手放そうとしなかった。
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しかし同君は山口の方で大事な人だつたので、横地といふ校長が容易に手離さうとしなかつた。
そこで旅行嫌いの私も思い切って山口まで出向いたのだった。
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で旅行嫌ひの私も奮発して山口まで出向いたのである。
用件もほぼ済み、翌夕には立って帰ろうとしていた夜、すでに眠っていた私は、真夜中に電報が来たと言われて目を覚まされた。
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ほぼ用件を了へ明夕は立つて帰らうとしてゐた日の夜、すでに眠つてゐた私は、真夜中に電報が来たと云つて眼を覚まさされた。
改造社からのもので、四月号の『改造』
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改造社からのもので、四月号の『改造』
が発売禁止になったという知らせだった。
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が発売禁止になつたといふ知らせなのである。
間もなくまた一通の電報が来た。
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間もなくまた一通の電報が来た。
同僚の河田嗣郎(かわたじろう)君が同じことを京都から打電してくれたものだった。
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同僚の河田嗣郎君が同じことを京都から打電されたものである。
雑誌が発売禁止になったといって、それを真夜中に電報で知らせるなどというのは、いかにも大げさに聞こえるだろうが、当時の状況は必ずしもそうではなかったのだった。
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雑誌が発売禁止になつたとて、それを真夜中に打電するなど云ふことは、如何にも大袈裟に聞こえるであらうが、当時の情勢は必ずしもさうでなかつたのである。
私は、すでに述べたように、一昨年の一月から『社会問題研究』
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私は、既に述べたやうに、前々年の一月から『社会問題研究』
を刊行していたが、そもそもこんなものを創刊したのは、今後できる限り、大学教授の地位を利用しながら社会主義の宣伝をしようと腹を決めたからであり、当然、創刊後まもなく、それは権力者の間で問題の種となった。
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を刊行して居たが、元来こんなものを私が創刊したのは、今後出来得るかぎり、大学教授の地位を利用しながら、社会主義の宣伝をしてやらうと腹を決めたからのことで、自然、創刊後間もなく、それは権力階級の間において物議の種子となつた。
私が以前京都で親しくしていた滝正雄(たきまさお)君は(後に近衛内閣の時、法制局長官を経て企画院総裁となり、やめてから貴族院議員に勅選された人。
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私が以前京都で懇意にしてゐた滝正雄君は、(後に近衛内閣の時、法制局長官を経て企画院総裁となり、退官後、貴族院議員に勅選された人。
滝君が京都帝大経済学部の講師をやめ、初めて衆議院議員の候補者として立候補した時は、演説嫌いの私が、その選挙区である愛知県まで出向いて、何日間も応援演説をして回ったほど、私はそれまで彼と親しくしていたのだった。
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同君が京都帝大経済学部の講師を辞し、初めて衆議院議員の候補者に打つて出た時は、演説嫌ひの私が、その選挙区たる愛知県下に出張して、何日間か応援演説をして廻つたほど、私はそれまで同君と懇意にして居たのである。
当時彼はすでに床次(とこなみ)内相の秘書官になっていた。)
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当時同君はすでに床次内相の秘書官になつてゐた。)
私に手紙を寄越して、先生の『社会問題研究』
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私に書面を寄せて、先生の『社会問題研究』
は今しきりに問題にされている、面倒なことが起きないうちに、一日も早く刊行をやめるようお勧めする、などと言ってきた。
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はいま頻りに問題にされてゐる、面倒な事態の起らぬ中に、一日も早く刊行を中止するやうお勧めする、などと言つて寄越した。
私はその手紙を見て思った。親しい人ではあるが、今は政党員で内務大臣のかばん持ちをしている男のことだ、面倒なことが起きるといっても、首になるくらいが関の山だ、むやみに脅しに乗って自分から引っ込むことはあるまいと思って、表面上は親切なこの忠告を冷たく無視した。
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私はその書面を見て思つた、懇意にしてゐた人ではあるが、何にしても今は政党員で、内務大臣の鞄持ちをしてゐる男のことだ、面倒なことが起ると云つたところで、首になる位が関の山だ、下手に脅かしに乗つて自分から引込むでもあるまい、私はさう思つて、表面上親切な此の忠言を冷然と黙殺した。
また同じころに福田徳三(ふくだとくぞう)君は、私が『社会問題研究』
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また同じ頃に福田徳三君は、私が『社会問題研究』
の第四冊を、マルクスの「賃労働と資本」
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の第四冊を、マルクスの『賃労働と資本』
のエンゲルス版の全訳にあてたのを見て、河上は研究という名目に隠れて主義の宣伝をしている、内務省はなぜあれを発売禁止にしないのか、などと盛んに騒ぎ立てた。
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のエンゲルス版の全訳に献げたのを見て、河上は研究の名に隠れて主義の宣伝をしてゐる、内務省はなぜあれを発売禁止にしないのか、などと盛んに咆哮した。
それでも無事に大正八年が過ぎ、大正九年も過ぎ、今は大正十年三月である。
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でも無事に大正八年が過ぎ、大正九年も過ぎ、今は大正十年三月である。
ところがこのころになると、私はますますその方面から、大学教授中の「危険な思想を持つ首領」
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ところで、この頃になると、私は愈〻その筋から、大学教授中の「危険思想家の巨頭」
と見なされ、いつ問題にされるかわからない状態になっていた。
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だと極印づけられ、いつ問題にされるか知れない状態になつてゐた。
少なくとも、私の書いたものが発売禁止になったその時こそ、すぐに免官(めんかん・公職をやめさせられること)になるはずだといううわさが、まことしやかに立てられており、私自身もすでにその覚悟を決めていた。
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少くとも私の書いたものが発売禁止になつたら最後、その時こそは直ぐに免官になる筈だといふ噂が、まことしやかに立てられて居り、私自身も已にその覚悟を決めてゐた。
(私の場合に限らず、大学教授の書いたものが社会の安全と秩序を乱すと認められ、発売を禁止されると、その地位が問題にされる理由になりうる恐れがある。
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(私の場合には限らない、総じて大学教授の書いたものが安寧秩序を妨害すと認められ、発売を禁止されると云ふことは、その地位が問題とされる事由となり得る虞れがある。
だから、そういう心配のある場合は、著者自身が発売禁止の処分に先立って、自分の著書を市場から引き上げ絶版にするのが習わしだった。
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だから、さういふ危惧のある場合は、著者自身が発売禁止の処分に先だち、市場からの自著の引上げ並びに絶版を決行する習はしである。
京都帝大の経済学教授では、ずっと以前に河田嗣郎氏が、近ごろでは石川興二氏が、そのような処置を取られた。)
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京都帝大の経済学教授では、ずつと以前に河田嗣郎氏が、近頃では石川興二氏が、さうした処置を取られた。)
こうした事情を考えれば、旅先の枕元に二通の電報が届いたのも、無意味なことではないとわかるだろう。
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かうした事情を考慮に入れたなら、旅先の枕許へ二通の電報が舞ひ込んだのも無意味でないことが分からう。
大学教授の書いたものが、社会の安全と秩序を乱すと認定されて発売を禁止されたのは、おそらくこれが初めてだっただろう。
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大学教授の書いたもので、社会の安寧秩序を妨害すと認定され、発売を禁止されたのは、多分これが初めてであつたであらう。
そこで、警保局(けいほきょく・治安を担当する機関)検閲課の役人も遠慮がちな態度をとり、「断片」
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で、警保局検閲課の役人も遠慮がちな態度を採り、「断片」
以外の論文や小説にも二、三か所よくない部分があると言って、なるべく問題を曖昧にしようとした。
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以外の論文や小説にも二三いけない個所があると言つて、なるべく事態を漠然たらしめようとした。
大学教授は研究発表の自由を持っているから、あのような形で物を言わなくてもすむはずだ、などという言い訳めいた当局者談も新聞に載せられた。
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大学教授は研究発表の自由を有つてゐるのだから、何もあのやうな形式で物を言はれなくとも済む筈だ、などいふ言ひ訳らしい当局者談なるものも、新聞に載せられた。
今となっては夢のような話だが、二十年余り前の大学教授というものは、それほどの権威を持ち、軍や警察が支配する帝国主義の世の中にありながら、大学の一角に拠って、堂々と言論の自由を享受していたのだった。
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今になつては夢のやうな話だが、二十年余り前の大学教授といふものは、それほどの権威を有ち、軍部的警察的帝国主義の治下に在りながら、大学の一角に拠り、敢然として言論の自由を享受してゐたのである。
(当時私は、民間の社会主義者よりもはるかに広い言論の自由を持っていた。
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(当時私は民間の社会主義者よりも遥に広い言論の自由を有つてゐた。
堺利彦、山川均(やまかわひとし)などという人が筆にすればすぐに発売禁止になるようなことでも、私は伏字も使わずに平気で書いていた。
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堺利彦、山川均などいふ人が筆にすれば直ぐに発売禁止になるやうなことでも、私は伏字も使はずに平気に書いてゐた。
昭和二年末、日本共産党が公然と姿を民衆の前に現すまでは、日本の資本家階級はまだ自信を失っておらず、大学における学問研究の自由については、まだ比較的寛大だった。
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昭和二年末、日本共産党が公然その姿を民衆の前に現はすに至るまでは、日本の資本家階級はまだ自信を失はずに居たので、大学における学問研究の自由については、まだ比較的寛大であつた。
それに大正の初めに行われた同盟辞職という威かくによって京都帝大が勝ち取った研究の自由は、しっかりこの大学の伝統となり、私はその恩恵をかなり受けたのだった。)
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それに大正の初年に起された同盟辞職の威嚇によつて京都帝大の贏ち得た研究の自由は、牢乎として此の大学の伝統となり、私は少からず其の恩恵に浴したのである。)
さて、山口の旅館の二階で電報のために目を覚まされた私は、ついに来たかと思ったが、電灯を消すとそのままぐっすり眠ることができた。
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さて山口の一旅館の二階で電報のため眼を覚まさされた私は、愈〻来たなと思つたが、電灯を消すとそのままぐつすり寝込むことが出来た。
朝、目を覚まして、案外落ち着いているなと、自分ながら感心した。
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朝、眼を覚まして、案外落ち着いてゐるなと、自分ながら感心した。
その夜に私は山口を立った。
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その晩に私は山口を立つた。
もうこれで大学教授という自分もおしまいだろうし、一生のうちに二度とこんな機会はあるまいと思ったので、私は奮発して一等の寝台車に乗った。
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もうこれで大学教授といふ自分もおしまひだらうし、一生のうち再び機会はあるまいと思つたので、私は一等の寝台車を奮発した。
発車ぎりぎりに飛び乗ったので、私があわてている様子が不慣れに見えたのか、それとも私の見た目が貧弱だったからか、寝台車に入るとすぐボーイがやって来て、ここは一等だと言った。
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辛うじて発車間際に乗り込んだので、私の慌てた様が物慣れぬ風に見えたのか、それとも私の風采が貧弱であつたためか、寝台車に入ると、すぐボーイがやつて来て、ここは一等だと云ふ。
ふんふんと返事をするだけで、立ち退く様子も見せないので、ボーイはとうとう私に寝台券を見せるよう求めた。
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フムフムと返事をするだけで、一向に立ち退く様子も見せないので、ボーイはたうとう私に寝台券を見せろと要求した。
予想に反して、ちゃんと一等の乗車券と寝台券をポケットから出して見せたものだから、彼は黙ったまま、しぶしぶ私のために寝台を用意してくれた。
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案に相違して、ちやんと一等の乗車券と寝台券をポケットから出して見せたものだから、彼は無言のまま、渋々ながらも私のために寝台を用意してくれた。
私は腹が立ったので、チップは一銭もやらなかった。
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私は癪に障つたから三文もチップはやらなかつた。
京都駅に着いてみると、急いで下ってきた改造社の山本社長が、プラットホームに立って私を待ちかまえていた。
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京都駅に着いて見ると、急に西下した改造社の山本社長が、プラットフォームに立つて私を待ち受けてゐた。
駅前には自動車が待たせてあった。
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駅前には自動車が待たせてあつた。
すぐそれに同乗して、社長は私を吉田二本松(よしだにほんまつ)の自宅まで送り届けてくれた。
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すぐそれに同乗して、氏は私を吉田二本松の寓居に送り込んだ。
それから私は東京方面の情報を聞いたに違いないのだが、どんな話を聞いたのか、今では全部忘れてしまった。
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それから私は東京方面の情報を聴いたに相違ないのだが、どんな話を聞いたのか、今は総て忘れた。
その後、改造社から送ってきた何百円かの原稿料は、すぐに返した。
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その後改造社から送つて来た何百円かの原稿料は、すぐに返した。
四月は大衆雑誌の稼ぎ時の一つで、どの社でもいつもより多く刷る。
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四月は大衆雑誌の書入れ時の一つで、どこの社でもいつもよりは部数を余計に刷る。
特にこの時の『改造』
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殊にこの時の『改造』
は三周年記念の特別号として編集されたもので、ページ数も多く、部数もうんと増刷されていた。
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は三周年記念特別号として編集されたもので、頁数も多く、部数もうんと増刷された。
それが全部だめになったのだから、私が改造社にかけた損害は少なくない。
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それがみな駄目になつたのだから、私が改造社にかけた損害は少くない。
それを賠償することはできないが、相手に大きな損害をかけながら自分は懐を肥やすというのでは気が済まないから、せめて原稿料だけでも受け取らずにおこうと、私はそう思ったのだった。
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それを賠償することは出来ないが、相手に大きな損害をかけながら、自分は懐を肥やすと云ふのでは気が済まないから、せめて原稿料だけでも犠牲にしようと、私はさう思つたのである。
ところが改造社は東京から一人の記者を寄越して、この小切手だけは受け取っておいてもらわないと困る、とのことだった。
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ところが改造社は東京から一人の記者を寄越して、この小切手だけは納めておいて貰はぬと困るとのことであつた。
いくら私が自分の気持ちを話してみても、これをそのまま持ち帰ったのでは子供の使いみたいで立場がなくなると言い張り、相手もどうしても折れなかった。
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いくら私が自分の気持を話して見ても、之をそのまま持つて還つたのでは子供の使みたいで立場がなくなると言ひ張り、相手も亦たどうしても折れなかつた。
二人は大きな瀬戸物の火鉢を挟んで話していたが、私はとうとう腹を立てて、それなら仕方がない、この小切手は焼いてしまおうと言って、火にくべかけると、相手は私の手を押さえて、焼いたところで誰の得にもなりません。
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二人は大きな瀬戸物の火鉢を挟んで話してゐたが、私はたうとう癇癪を起して、それなら仕方がない、この小切手は焼いてしまはふと云つて、火にくべかけると、相手は私の手を抑へて、焼いたところで誰の得にもなりません。
そこまでおっしゃるなら頂いて帰ります、ということになった。
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さうまで仰しやるのなら之は頂いて帰ります、と云ふことになつた。
発売禁止後に起きた出来事といえば、それだけで、私は別に免官にもならず、休職にもならず、戒告一つ受けることもなく終わった。
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発売禁止後に起つた事件と云へば、ただそれ位のもので、私は別に免官にもならず、休職にもならず、戒告一つ受けるでもなしに終つた。
私がついに辞表を出さなければならなくなったのは、昭和三年四月のことで、それからもあと七年間、私は大学教授として無事に生き延びることができたのだった。
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私が愈々辞表を出さねばならなくなつたのは、昭和三年四月のことで、此時からあとまだ七年の間、私は大学教授として無事に生き延びることが出来たのである。
(ただし一等の寝台車の方は、この時が最初で、また最後になった。)
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(尤も一等の寝台車の方は、この時が最初で、また最後になつた。)
三
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三
さて「断片」
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さて「断片」
がもたらした騒動が以上で終わったなら、私はわざわざこの思い出を書かなかっただろう。
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の齎らした波瀾が以上に終つたのなら、私は別にこの思ひ出を書かなかつたであらう。
ところが、当時の私はもちろん夢にも思っていなかったことだが、この一文は思いがけず一人の青年の心に決定的な影響を与え、それが世に出てからおよそ二年半後には、いわゆる虎の門事件と呼ばれる重大な事件が起こるに至った。
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ところが、当時の私はむろん夢想だもしなかつたことだが、この一文は計らずも一人の青年の頭脳に決定的な影響を与へ、それが公にされてから略ぼ二ヶ年半の後には、かの虎の門事件と称される重大事件が起るに至つた。
かねてから革命の思想を抱き、天皇に向かって危害を加え、これによって天皇制に対する疑問を民衆の心に植え付けようという、大胆きわまりない計画を胸に描いていた難波大助(なんばだいすけ)は、「断片」
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かねてより革命思想を抱き、至尊に向つて危害を加へ、これによつて天皇制に対する疑惑を民衆の心に植ゑ付けんとの、大胆極まる計画を胸に描きつつあつた難波大助は、「断片」
を読んでいよいよその最後の決意をなし、それから熱心に準備に取りかかったのだった。
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を読んで愈〻その最後の決意をなし、それより熱心にその準備行為に取り掛かつたのである。
彼の郷里は山口県熊毛郡(くまげぐん)岩田村である。
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彼の郷里は山口県熊毛郡岩田村である。
実はそこの地方の旧家で大地主であり、当時彼の父は衆議院議員に選ばれていた。
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実はその地方の旧家で大地主であり、当時彼の父は衆議院議員に選出されてゐた。
故・伊藤博文(いとうひろぶみ)公と古くから縁のある家で(伊藤公もまた熊毛の出身である)、家の道具の一つに、かつて伊藤公がイギリスのロンドンで手に入れたというピストル仕掛けのステッキがあった。
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故伊藤博文公と古くから近い関係のあつた家で、(伊藤公も亦た熊毛の産である、)家の什器の一つに、往年同公が英京ロンドンで手に入れたといふピストル仕掛けのステッキがあつた。
見事によくできていて、外見はどう見ても普通のステッキと少しも違わなかったが、折り曲げてみると、中には非常に精巧なピストルが仕込まれていた。
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さすがに巧妙に出来てゐて、外形はどう見ても普通のステッキと少しも違はなかつたが、折り曲げて見ると、中には極めて精巧なピストルが装置されてあつた。
大助は狩りを始めたいからとして、そのステッキの使用を父に頼んだ。
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大助は猟を始めたいからと称して、その使用を父に請うた。
かねてから一室にばかりこもって、何か物を考えているらしい様子を見て、あれでは体を壊すだろうと心配していた父は、大助が気持ちを切り替えたらしいのを見て、喜んでその申し出を許した。
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かねてから一室にばかり蟄居してゐて、何だか物を考へてゐるらしい様子を見て、あれでは健康を害するであらうと気遣つてゐた父は、大助が心機一転したらしいのを見て、喜んでその申出を許した。
そこで大助は公然と火薬購入の許可を得、そのピストル銃を持って山に入り、長い間射撃の練習をした。
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で大助は公然火薬購入の免許を得、そのピストル銃を持つて山にはいり、長い間射撃の練習をした。
そして十分自信を得たので、今度は東京の情勢や地理などを調べるために、しばらく東京に出ていた。
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そして漸く自信を得たので、今度は東京の情勢や地理などを研究するために、暫く東京に出てゐた。
ところが大正十二年の九月一日、(それは「断片」
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ところが大正十二年の九月一日には、(それは「断片」
が出てから二年余り過ぎたころのこと、)関東に大震災が起きて、東京はたちまち焼け野原となり、多くの人々が惨死し、損害は五十五億円の巨額に達した。
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が出てから二ヶ年余り過ぎた頃のこと、)関東に大震災が起つて、東京は忽ち焼野原となり、夥しい人々が惨死を遂げ、損害は五十五億円の巨額に達した。
この時、無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)は甘粕(あまかす)という憲兵大尉に惨殺され、また南葛(みなみかつ)労働組合の幹部だった平沢計七(ひらさわけいしち)、河合義虎(かわいよしとら)ら数名も亀戸で惨殺され、さらに無名の朝鮮人で何の理由もなく惨殺された人は無数にのぼったが、こうした事件はおそらく難波大助に少なからぬ刺激を与えたことだろう。
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この時、無政府主義者大杉栄は甘粕といふ憲兵大尉に惨殺され、また南葛労働組合の幹部であつた平沢計七、河合義虎等数名の者も亀戸で惨殺され、更に無名の朝鮮人で何の謂はれもなく惨殺された者は無数に上ぼつたが、かうした事件は恐らく難波大助に少からざる刺戟を与へたものであらう。
彼はいよいよかねてからの志を実行するため、震災後東京を出て郷里に向かった。
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彼は愈〻その宿志を決行するため、震災後東京を立つて郷里に向つた。
例のステッキを取りに帰ったのだった。
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例のステッキを取りに帰つたのである。
ちょうど震災後まもなくのことだった。まだ交通や運輸の状態も元に戻っておらず、ときに被災者と称してお金を無心する人が訪ねてきたり、何となくざわざわとした雰囲気の漂っていたころ、一人の青年が吉田二本松の私の家を訪れた。
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丁度震災後間もなくのことであつた、まだ交通運輸の状態も平生に復して居らず、時折罹災者と称して金の無心をする者が訪ねて来たり、何となく物情騒然たる雰囲気の漂つてゐた頃、一人の青年が吉田二本松の私の寓居をおとづれた。
妻が出ると、自分は山口県熊毛郡岩田村の難波という者だが、東京から帰る途中で旅費がなくなって困っているから、一時立て替えてくれないか、とのことだった。
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妻が取次に出ると、自分は山口県熊毛郡岩田村の難波といふ者だが、東京から帰国の途中、旅費がなくなつて困つて居るから、一時取り替へてくれぬか、とのことであつた。
妻はその時、岩田村というのは自分の弟が養子に行っている村の名だと思ったが、その親戚に難波という家があることには気づかなかった。
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妻はその時、岩田村といふのは、自分の弟が養子に行つてゐる村の名であるとは思つたが、その親戚に難波といふ家のあることには気付かなかつた。
青年は先生に見せてくれと言って、一枚の紙を渡した。
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青年は之を先生に見せてくれと言つて、一片の紙片を渡した。
私はその時、二階の応接間で友人の小島祐馬(こじまゆうま)君と話をしていたが、妻が持ってきた紙を見ると、氏名住所はなく、自分は共産主義者であるが、とあるだけで、あとは口で言ったのと同じようなことが鉛筆で走り書きしてあった。
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私はその時二階の応接間で友人の小島祐馬君と話をしてゐたが、妻の持つて来た紙片を見ると、姓名住所はなく、自分は共産主義者であるがとあるだけで、あとは口頭で言つたのと同じやうなことが、鉛筆で走り書きしてあつた。
どうしたものでしょうと小島君に相談すると、共産主義者などと書いていなければよいが、スパイのような人間でないとも限らないし、まあ断った方が無難でしょう、との意見だった。
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どうしたものでせうと小島君に相談すると、共産主義者などと書いてなければよいが、スパイみたいな人間でないとも限らぬし、まあ断つた方が無難でせう、との意見であつた。
私ももっともと思ってその通りにした。
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私も尤もと思つてその通りにした。
青年は強く求めることもなく、そのまま帰って行った。
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青年は強要もせず、そのまま辞去した。
ずっと後になってわかったことだが、この青年がほかならぬ難波大助だった。
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ずつと後になつて分かつたことだが、この青年が計らずも難波大助であつた。
彼は私のところで断られたものだから、次には親戚関係のある医学部の市川教授を訪ね、そこで必要な旅費を工面した。
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彼は私の所で断られたものだから、次には親戚関係のある医学部の市川教授を訪ね、そこで所要の旅費を調達した。
そんな関係で、事件後に市川教授は裁判所に召喚されて一応の取り調べを受けたりした。
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そんな関係で、事件後市川教授は、裁判所に召喚されて一応の取調を受けたりした。
それがもし私だったならば、「断片」
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それがもし私であつたならば、「断片」
と二重の関係になるので、かなり面倒なことになっていたかもしれない。
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と二重の関係になるので、相当面倒なことになつたかも知れない。
しかし難波が近い親戚を差し置いてまず私のところを訪ねたのは、「断片」
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しかし難波が近い親戚を差しおいて先づ私の所を訪ねたのは、「断片」
の書き手に一筋の親しみを感じていたためだろう。
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の筆者に一脈の友情を感じてゐたためであらう。
それを失望させたのは、今考えると、申し訳なかったことのようにも思われる。
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それを失望させたのは、今考へると、済まなかつた事のやうにも思はれる。
いったん郷里に帰った難波は、例のステッキを携えて再び上京し、年末の十二月二十七日、議会の開会式に天皇が出向かれた折の行列を待ち伏せして、狙い撃ちをした。
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一旦郷里に帰つた難波は、例のステッキを携へて再び上京し、年末の十二月二十七日、議会の開会式に行幸のあつた折の鹵簿を待ち伏せて、狙ひ撃ちをした。
沿道の警戒はいつも通り厳重を極めていたけれども、彼の持っていたピストルの外見は完全に普通のステッキだったので、誰も疑う者はいなかった。
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沿道の警戒は例によつて厳重を極めて居たけれども、彼の携へゐたピストルの外形は完全に普通のステッキだつたので、誰も疑ふ者はなかつたのである。
弾は天皇の乗る鳳輦(ほうれん・天皇のお乗り物)のガラス窓に当たった。
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丸は鳳輦のガラス窓に的中した。
しかしガラスは特別製のものであり、弾は直線的に貫通しなかったので、天皇には何の御けがもなかった。
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しかしガラスは特別製のものであり、丸は直線的に貫通しなかつたので、玉体には何の御恙もなかつた。
これがいわゆる虎の門事件というものであり、その責任を取って、約三か月前の九月二日、大震災の惨禍のまっただ中に成立した山本権兵衛(やまもとごんべい)内閣は、その日のうちに総辞職をなし、当時の警視総監・湯浅倉平(ゆあさくらへい、後の宮内大臣、内大臣)は懲戒免官に処せられた。
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これが謂はゆる虎の門事件なるものであり、その責を負うて、約三ヶ月前の九月二日、大震災の惨禍の真只中に成立した山本権兵衛内閣は、その日のうちに総辞職をなし、時の警視総監湯浅倉平(後の宮内大臣、内大臣)は懲戒免官に処せられた。
当時私はこの事件が自分に何らかの関係があろうとは、夢にも思っていなかった。
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当時私はこの事件が自分に何等かの関係があらうとは、夢にも思はなかつた。
しかし難波家は、私の義弟・大塚有章(おおつかゆうしょう)が養子に行っている国光家と姻戚関係があったので、予審の内容は一切極秘とされていたにもかかわらず、難波の陳述の中に「断片」
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しかし難波家は、私の義弟大塚有章が養子に行つてゐる国光家と姻戚関係があつたので、予審の内容は一切極秘に附せられて居たにも拘らず、難波の陳述中に「断片」
が自分にとって最後の決意をさせたという自白のあることがわかった。
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が自分のために最後の決意をなさしめたといふ自白のあることが分かつた。
初めてそのことを聞き知った義兄の大塚武松(おおつかたけまつ)は、当時文部省の維新史料編纂官を勤めていたが、事の重大さを心配し、東京にいた私の末の弟・左京に事情を含めて京都まで知らせに寄越した。
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初めてその事を聞き知つた義兄の大塚武松は、当時文部省の維新史料編纂官を勤めてゐたが、事の重大なるを憂慮し、東京に居た私の末の弟、左京に旨を含めて京都まで知らせに寄越した。
手紙に書くことすら用心したのだった。
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手紙に書くことをすら用心したのである。
この難波大助という青年は――後年の共産党員が、一度捕まると、有名な中心人物から無名の下っ端まで、次々に主義を捨てる誓いを敢えてしたのとは反対に――最後までその信念を曲げず、徹頭徹尾毅然とした態度を保った、世にも珍しいしっかりした男だった。
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この難波大助といふ青年は、――後年の共産党員が、一たび検挙されると、有名な巨頭から無名の末輩に至るまで、相次いで転向の誓約を敢てしたのとは反対に、――最後までその自信を曲げず、徹頭徹尾、毅然たる態度を持した、世にも珍らしい、しつかりした男であつた。
彼の裁判長をした当時の大審院長(今その名を失念した)は、後年退官してから、何十年にもわたる司法官生活の回顧の中で、自分が扱った被告は無数だが、その多くの被告の中で、難波ほどしっかりした男を見たことがない、と語った。
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彼のために裁判長をした当時の大審院長(今その名を逸す)は、後年退官後、何十年かに亘る彼の司法官生活の回顧の中で、自分の取扱つた被告は無数であるが、その数多き被告の中で、自分は難波くらゐしつかりした男を見たことがない、と言つた。
大逆人と見なされるべき人間について彼がこのようなことを書いているのは、難波の態度がいかに立派なものだったかを感じさせる。
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大逆人と目さるべき人間について彼がこのやうな事を書いてゐるのは、難波の態度がよくよく立派なものであつたことを思はしめる。
(その文章は、「法窓回顧(ほうそうかいこ)」
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(その文章は、「法窓回顧」
とかいうような題で『大阪毎日』
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とか云ふやうな題で『大阪毎日』
に連載されたものの中にあった、と記憶する。
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に連載されたものの中に在つた、と記憶する。
もし好奇心のある人が図書館にでも行って調べたなら、きっと見つかるだろうが、今の私にはそのような面倒を見る余力がない。)
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もし好事の人が図書館にでも行つて調べたなら、きつと見付かるだらうが、今の私にはさうした面倒を見る余力がない。)
難波は決して自分の行為を後悔するとは言わなかった。
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難波は決して自分の行為を後悔すると言はなかつた。
しかしそんな人間が一人でも皇国日本に生まれ出たということになっては、皇室の尊厳にとって非常に忌まわしい不祥事であったから、当局者は裁判を行う前に、あらゆる手段を尽くして被告に悔い改めるよう勧めた。
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しかしそんな人間が一人でも皇国日本に生まれ出たと云ふことになつては、皇室の尊厳にとつて甚だ忌むべき、由々しき不祥事であつたから、当局者は、裁判を行ふ前、百方手をつくして、被告に悔悟を勧めた。
そのためにあらゆる苦肉の策が施された。
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それには有らゆる苦肉の策が施された。
難波も最初はかたくしてこれに応じなかったが、彼が最も愛していた妹を差し向け、何度でも彼の目の前で泣かせるようにしてから、とうとう閉口して、ともかく表面上は当局者の要求通りにすると約束することになった。
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難波も最初の中は頑として之に応じなかつたが、彼の最も愛してゐた妹を差し向け、何遍でも彼の面前で泣かしめるやうになつてから、遂に閉口して、ともかく表面上では、当局者の注文通りにしようと約束することになつた。
そこで裁判の当日は、まず被告が、自分のした行為は全く間違っていました、今では本当に後悔しています、という趣旨の陳述をなし、それによって裁判長は悔い改めの気持ちが明らかにあると認め、情状を酌量して、死刑を一等減じて無期懲役の判決を下すことに、すべての段取りが決まっていた。
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そこで裁判の当日は、先づ被告が、自分の所業は全く間違つて居りました、今では本当に後悔いたして居ります、といふ趣旨の陳述をなし、それによつて、裁判長は悔悛の情顕著なるものありと認め、情状を酌量し、死一等を減じて無期懲役の判決を下すことに、一切の手筈が決まつてゐた。
そうすれば、皇室に向かって本気で弓矢をひく者は、やはり日本中に一人もいないのだということになり、さらに死刑を一等減ずることによって、天皇の名において行われる裁判の上に、皇室の限りない仁慈を示すこともできる、と考えられたのだった。
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さうすれば、皇室に向つて本気の沙汰で弓矢をひく者は、やはり日本中に一人も居ないのだ、と云ふことになり、更に死一等を減ずることによつて、天皇の名において行はれる裁判の上に、皇室の限りなき仁慈を現はすことも出来る、と考へられたのである。
そこで判事も検事も弁護士も親兄弟も、みなそのつもりで一応安心していた。
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で、判事も検事も弁護士も親兄弟も、みなそのつもりで、一応の安心をしてゐた。
ところが裁判の当日、法廷に立った難波は、その場にいたすべての人々の予想を裏切って、意外にも堂々と自分の変わることのない信念を述べ、最後に声を張り上げてコミンテルン万歳を三唱した。
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ところが、裁判の当日、法廷に立つた難波は、その場に居た総ての人々の予期を破つて、意外にも堂々と自分の変はることなき確信を述べ、最後に声を張り上げてコミンテルン万歳を三唱した。
判事も検事も弁護士も、一座の者はみな顔色を失い、初めて自分たちがだまされていたことを悟り、愕然と驚いたが、もはやどうしようもなかった。
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判事も検事も弁護士も、一座の者は尽く色を失ひ、初めて自分たちがだまされてゐたことを悟り、愕然として驚いたが、もはやどうしようもなかつた。
かくして難波は、自分の望み通り、若くして刑場の露と消えたのだった。
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かくて難波は、彼の希望通り、年若くして刑場の露と消え去つたのである。
(ついでに言っておくと、コミンテルンは早くから個人に対するテロを否定している。
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(序に言つておくが、コミンテルンは早くから個人に対するテロを排斥してゐる。
しかし大正十年代の日本における共産主義の思想はまだ非常に幼稚であって、コミンテルンの方針などまだ十分には知られていなかった。
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しかし大正十年代の日本における共産主義の思想はなほ極めて幼稚であつて、コミンテルンの政策などまだ十分には知られて居なかつた。
思うに難波がもっと後の時期に出ていたなら、彼は必ず別の行動を取ったに違いない。)
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思ふに難波がもつと後の時期に出て居たなら、彼は必ず別種の行動を採つたに相違ない。)
四
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四
以上の事実を詳しく知っている者は、ごく少数だろう。
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以上の事実を委しく知つてゐる者は、極めて少数であらう。
偶然にも私は、難波が私の義弟の家と姻戚関係があったために、これらの事実を詳しく伝え聞くことができたのだった。
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偶然にも私は、難波が私の義弟の家と姻戚関係があつたばかりに、これらの事実を委細伝聞することが出来たのである。
ところで、さらにまた偶然の巡り合わせで、私は難波大助の遺体が葬られた当時の様子を、ある時詳しく知ることができた。
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ところで、更にまた偶然の廻り合せで、私は難波大助の屍体が葬られた当時の有様をも、或時委しく知ることが出来た。
昭和十年の冬、小菅刑務所で服役中だった私は、ひどい胃の痛みに襲われたため、しばらく病舎に収容されていた。
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昭和十年の冬、小菅刑務所に服役中だつた私は、ひどい胃痛に襲はれたため、暫く病舎に収容されてゐた。
この病舎には独居房が一つしかなく、当時それは死に瀕した重病人で塞がれていたために、私のような治安維持法違反の受刑者は、本来なら他と隔離して独居房に収容されるべきところ、差し当たり十数台のベッドの並んでいる大部屋に入れられた。
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この病舎には独居房は一つしかなく、当時それは瀕死の重病人で塞がれてゐたために、私のやうな治安維持法違反の受刑者は、本来ならば他と隔離して独居房に収容さるべき筈のところ、差当り十数台のベットの並べてある雑居房に入れられた。
そこで私は――雑談の取り締まりが病舎では案外に緩やかだったおかげで――隣のベッドに寝ていた一人の受刑者から、難波のために墓を掘った日の出来事を、詳しく聞くことができた。
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で私は、――雑談の取締が病舎では案外に寛大であつたおかげで、――側のベットに寝てゐた一人の受刑者から、難波のために墓を掘つた日の出来事を、委しく聞くことが出来た。
難波が死刑に処せられたのは、おそらく市ヶ谷監獄だっただろう。
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難波が死刑に処せられたのは、恐らく市ヶ谷監獄であつたであらう。
小菅には死刑台の設備はなかった。
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小菅には死刑台の設備はなかつた。
しかし荒川放水路を隔てた向こうの岸には一つの小さな寺院があって、そこにこの刑務所附属の墓地があった。
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しかし荒川放水路を隔てた向ふの河岸には、一つの小さな寺院があつて、そこにこの刑務所附属の墓地があつた。
難波の遺体はそこへ葬られたのだった。
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難波の屍体はそこへ葬られたのである。
当時は社会主義者の一派が途中で彼の遺体を奪い取る計画をしているといううわさがあったので、当局者は神経をとがらせ、色々なことに特別の警戒を施した。
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当時は社会主義者の一味が途中を擁して彼の屍体を奪ひ取る計画をしてゐるといふ噂があつたので、当局者は神経を尖らし、色々な事に特別の警戒を施した。
私に話をした男は、ある日の昼間、仲間と一緒に件(くだん)の共同墓地に連れて行かれ(刑務所の囲いの外で働くこうした受刑者のことを、刑務所用語では外役(そとえき)という)、穴を掘らされたが、どうしてこんなに深い穴を掘るのかと、不思議でならなかった。
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私に話をした男は、或日の昼間、仲間と一緒に件の共同墓地に連れて行かれ、(刑務所の囲の外で働くかうした受刑者のことを、刑務所用語では外役といふ、)穴を掘らされたが、どうしてこんなに深い穴を掘るのかと、不思議でならなかつた。
五寸角(約十五センチ角)の大きな木材も何本か用意されていた。
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五寸角の大きな木材も何本か用意されてゐた。
埋葬は夜になって行われたが、その時もこの男は仕事を手伝った。
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埋葬は夜分になつて行はれたが、その時もこの男は仕事を手伝つた。
荒川の堤防の上には、ちょうちんをつけた巡査や憲兵があちこちにたむろしていた。
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荒川の堤防の上には、提灯をつけた巡査や憲兵が所々にたむろしてゐた。
棺は深く地中に埋め、その上を、あらかじめ用意してあった木材を縦横に組んで堅固に固め、最後に土砂をかけて仕事を終えたが、その時初めて担当の看守から事情を聞かされた。
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棺は深く地中に埋め、その上を、かねて用意してあつた木材を縦横に組んで堅牢に固め上げ、最後に土砂をかけて仕事を終へたが、その時初めて担当看守から事情を聞かされた。
春と秋のお彼岸と、毎年十月二十日に行われる刑務所内で亡くなった人たちの法要のたびには、いつも外役の者が共同墓地の掃除に行くが、今でも難波大助という墓標がありますよ、などと言っていた。
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春の彼岸と、秋の彼岸と、毎年十月二十日に行はれる獄中死歿者法会の折とには、いつも外役の者が共同墓地の掃除に行くが、今でも難波大助といふ墓標がありますぜ、などと言つてゐた。
私が熱心に聞くものだから、相手は調子に乗って、もっと細かく手に取るように話してくれたが、今では記憶が薄れて、以上の程度にしか再現できない。
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私が熱心に聞くものだから、相手は調子に乗つて、もつと事細かく手に取るやうに話してくれたが、今では記憶がうすれて、以上の程度にしか再現できない。
私はこの話を聞いて、出獄したあかつきには、ぜひ一度くだんの墓地を訪ねてみたいと思っていたが、さて出てみると、それも思うようにはいかなかった。
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私はこの話を聞いて、出獄の暁には、ぜひ一度くだんの墓地を訪ねて見たいと思つて居たが、さて出て見ると、それも思ふやうには行かなかつた。
最後に私は難波に対する判決文のことを書いておこう。
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最後に私は難波に対する判決文のことを書いておかう。
裁判は傍聴禁止のもとに極秘のうちに行われたから、裁判長が被告に読み聞かせた判決文もまた極秘とされた。
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裁判は傍聴禁止のもとに極秘の裡に行はれたから、裁判長が被告に読み聞かせた判決文もまた極秘に附せられた。
もちろん司法部その他の高官たちは、すべての事情を聞き知っただろうが、事は皇室に関する問題であり、とりわけ被告の態度には皇室の尊厳を傷つけるものがあったので、慎み深い高官たちの中には、誰一人として余計なおしゃべりをする者はいなかった。
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もちろん司法部その他の高官たちは、総ての事情を聞き知つたであらうが、事は皇室に関する問題であり、殊に被告の態度には皇室の尊厳を汚すものがあつたので、慎み深い高官たちの中には、誰一人として余計なおしやべりなどする者は居なかつた。
幸運な私はそのおかげで助かった。
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幸運な私は、おかげで助かつた。
もしこの判決文が新聞にでも掲載されようものなら、私はとっくの昔に甘粕大尉のような人に、何度殺されていたかわからないのだ。
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もし此の判決文が新聞紙にでも掲載されようものなら、私はとくの昔し甘粕大尉のやうな人に、何遍殺されてゐるか知れないのだ。
というのは、判決文はごく短いものだが、その一節には、河上肇の「断片」
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と云ふのは、判決文はごく短いものだが、その一節には、河上肇の「断片」
を読んでついに最後の決意をなし云々ということが、明記されているのだった。
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を読みて遂に最後の決意をなし云々といふことが、明記されて居るのである。
以前京都帝大の教授をしていたころ、親しくしていた同僚の一人である××(滝川)教授が、司法省に保存されている秘密文書の中からそれを書き抜いてきて、私に見せてくれたことがある。
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以前京都帝大の教授をしてゐた頃、親しくしてゐた同僚の一人である××教授が、司法省に保存してある秘密文書の中から、それを書き抜いて来て、私に見せてくれられたことがある。
短いものだからその全文を写し取っておけばよかったのに、今では惜しいことをしたと思う。
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短いものだから其の全文を写し取つて置けばよかつたのに、今では惜しいことをしたと思ふ。
惜しいといえば、「断片」
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惜しいと云へば、「断片」
の原稿がなくなったのも残念だ。
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の原稿の無くなつたのも残念である。
私は改造社に頼んで、一度印刷所へ回されて活字の号数などが赤インクで指定してあるその草稿を送り返してもらった。
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私は改造社に頼んで、一旦印刷所へ廻されて活字の号数などが赤インキで指定してある其の草稿を、送り返して貰つた。
私はそれを特別に大切なものだと思い、大切にしすぎるあまり、家宅捜索などを受けた時に没収されてはと別に置いていたものだから、書類整理箱のどの引き出しを調べてみても、今は見つからない。
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私はそれを特別に大事なものに思ひ、余り大事にし過ぎ、家宅捜索など受けるやうな場合に没収されてはと、別置きにして居たものだから、書類整理箱のどの抽出しを調べて見ても、今は見付からない。
五
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五
さて以上の思い出を書き終えて、私がつくづく思うことは、私は実に運のよい男だということだ。
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さて以上の思ひ出を書き了へて、私のつくづく思ふことは、私は実に運の善い男だと云ふことである。
もう今では紙の縁が黄色くなっている当年の『改造』
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もう今では紙の縁が黄いろくなつてゐる当年の『改造』
を出してみると、「断片」
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を出して見ると、「断片」
の中には、一九〇四年に内務大臣シピアギン、ウーファ知事ボグダノウ※チ、カールコフ知事オボレンスキー公などの暗殺を計画し指揮した青年テロリスト、グリゴリ・ゲルシュニーが死刑の宣告を受けた場合のことが最初の方に記されているが(このゲルシュニーは一度死刑の宣告を受けたけれども、その後脱獄に成功し、日本、米国を経由してフランスに渡ってから病死した。
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の中には、一九〇四年に内務大臣シピアギン、ウーファ知事ボグダノウ※チ、カールコフ知事オボレンスキー公などの暗殺を計画し指揮した青年テロリスト、グリゴリ・ゲルシュニーが死刑の宣告を受けた場合のことが、最初の方に誌されてゐるが、(このゲルシュニーは一旦死刑の宣告を受けたけれども、その後脱獄に成効し、日本、米国を経由し、仏国に渡つてから病死した。
彼が長崎から東京に行った折には、日本の社会主義者は彼の名誉のために厳粛な歓迎会を催し、また彼が横浜を出る前には特に送別会を開いた。)
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彼が長崎から東京に行つた折には、日本の社会主義者は彼の名誉のため厳粛な歓迎会を催し、また彼が横浜を立つ前には特に送別会を開いた。)
私はそこへ、「暗殺される者よりも、暗殺する者の方が、より鋭い良心の持ち主であることがあり得ることに注意せよ。」
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私はそこへ、「暗殺さるる者よりも、暗殺する者の方が、より鋭き良心の所有者たること在り得るを注意せよ。」
というような感想を書き加えている。
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といふやうな感想を書き加へてゐる。
また一九〇六年、二十八歳の若さで断頭台の露と消えたコノプリアンニコーファという女性の裁判廷での陳述の中には、「あなたがたは私に死刑を宣告するだろう。しかしどのような場所で私は死ぬにしろ――絞首台にしろ、流刑地にしろ、その他どのような場所であっても――私はただ一つの思いを持って死に行く。「許してください、私の人々よ!私があなたたちに与えることのできるものは、わずかに私の命、ただそれだけです。」かくて私は、かつて詩人が歌ったように、「□□はよろめき倒れるだろう、そして自由の太陽が、ロシアの全平野に上るだろう。」という日の来るべきことへの、固い信念を持って死に行くだろう。」
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また一九〇六年、二十八歳の妙齢を以て断頭台の露と消えたコノプリアンニコーファといふ婦人の裁判廷における陳述の中には、「汝等は余に死刑を宣告するであらう。しかし如何なる場所で余は死ぬるにしろ、――絞首台にしろ、流刑地にしろ、その他如何なる場所であつても、――余はただ一つの考を以て死にゆく。「許せ我が人々! 我の汝に与へ得るところのものは、僅に我がいのち、ただこれしかない。」かくて余は、嘗て詩人の歌ひけるやう、「□□はよろめき倒れるであらう、そして自由の太陽が、ロシヤの全平野に上ぼるであらう。」といふ日の来るべきことの、固き信念を以て死にゆくであらう。」
とか、「生活そのものが私に次のように教えた、……あなたは銃剣で思想を刺し殺すことができないのと同様に、あなたはまた思想だけで銃剣の力に対抗することもできないはずだ。」
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とか、「生活そのものが私に次の如く教へた、……汝は銃剣を以て思想を刺し殺すことが出来ないと同様に、汝はまた思想のみを以て銃剣の力に対抗することも出来ない筈だ。」
とかいうような言葉もある。
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とか云ふやうな言葉もある。
思うに、誰がどこで言ったことにしろ、こんな言葉を活字にすることは、今はいかなる人にも絶対に許されないだろう。
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思ふに、どこの誰が言つたことにしろ、こんな言葉を活字に附することは、今は何人にも絶対に許されぬであらう。
二十余年も前のことだとはいえ、私はそれを敢えてしながら、ついに少しの咎めも受けなかったのだった。
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二十余年も以前のことだとは云へ、私はそれを敢てしながら、遂に聊かの咎めをも受けなかつたのである。
このころの人に話したら、おそらく不思議に感じるだろう。
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この頃の人に話したら、恐らく不思議に感ずるであらう。
つい近ごろのことである、京都帝大経済学部の教授・石川興二(いしかわこうじ)君は、その著書のために休職になったが――その著書というのも、両三年前、著者自ら市場から引き上げ絶版にしていたものである――もともと石川君のような人は、盛んに国体主義を振り回し、天皇中心の思想を宣伝していたのに、たまたま資本主義の制度を不用意に批判しすぎたという理由で、たちまちこの災難に遭った。
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つい近頃のことである、京都帝大経済学部の教授石川興二君は、その著書に禍されて休職になつたが、――その著書といふのも、両三年前、著者自ら市場より引上げ且つ絶版に附して居たものである、――元来同君の如きは、盛んに国体主義を振り廻はし、天皇中心の思想を宣伝これ努めて居たのであるのに、偶〻資本主義制を不用意に非難し過ぎたといふ廉を以て、忽ちこの災に遇つた。
問題にされた著書にしても、かつて発売禁止にもならず、しばらくの間無事に世に出回っていたものが、突然この災難に遭った筆者は、さぞかし意外に感じただろう。
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問題にされた著書の如きも、嘗て発売禁止にもならず、暫くの間無事世上に流布されて居たものであるが、一朝にしてこの災に遇つた筆者は、さぞかし意外とされたであらう。
これに比べれば、私などは、ただ「断片」
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これに比べれば、私などは、ただ「断片」
一つを書いただけでも、その当時すでに首にされていて当然だったのに、その後も引き続き七年間大学にいて、相変わらず思う存分のことを書き、大学をやめてからも、勝手放題のことをしでかしながら、今もなお無事に生き長らえていて、この世界大乱の時節に、貧乏はしながらも悠々と、気の向くままに時にはこんな思い出など書きながら、余生を楽しむことができるというのは、考えてみると、実に過分な幸福と言わなければならない。
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一つを書いただけでも、その当時已に馘首されてゐて然るべきであつたのに、その後引続き七年間も大学に居て、相変らず思ふ存分のことを書き、大学をやめてからも、勝手放題のことを仕出かしながら、今も尚ほ無事に生きながらへてゐて、この世界大乱の時節に、貧乏はしながらも悠々自適、気の向くままに時にはこんな思ひ出など書きながら、余生を楽むことが出来ると云ふのは、考へて見ると、実に過分の幸福と謂はねばならぬ。
そう思いながら、私はここにこの思い出、第十一の筆を置く。
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さう思ひながら、私はここにこの思ひ出、第十一の筆を擱く。