秋 小学生向け
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1968年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
一
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一
信子(のぶこ)は女子大学にいたころから、頭のいい才女として有名だった。
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信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
彼女がいずれ作家として文壇(ぶんだん・作家たちの世界)に出ていくことを、ほとんど誰も疑わなかった。
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彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
中には、彼女が在学中にすでに三百何枚かの自伝的な小説を書き上げたなどと言いふらして回る人もいた。
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中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
しかし、学校を卒業してみると、まだ女学校も出ていない妹の照子(てるこ)と自分を養いながら、夫を亡くしたあとひとりで生きてきたお母さんの手前、そうわがままも言えない、複雑な事情もなくはなかった。
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が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
そこで彼女は小説を書き始める前に、まずは世間の習慣どおり、結婚の話から決めなければならなくなった。
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そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
彼女には俊吉(しゅんきち)といういとこがいた。
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彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
彼は当時まだ大学の文学部に籍を置いていたが、やはり将来は作家になりたい気持ちがあるようだった。
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彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
信子はこのいとこの大学生と、昔から仲よく行き来していた。
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信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
それがお互いに文学という共通の話題ができてからは、ますます親しみが増したようだった。
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それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
ただ、彼は信子と違って、当時流行していたトルストイの考え方などにはまったく興味を示さなかった。
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唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
そしていつもフランス風の皮肉や気の利いた言葉ばかり並べていた。
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さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
こういう俊吉の冷めた態度は、何でも真剣に受け止める信子を時々怒らせてしまうことがあった。
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かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
しかし彼女は怒りながらも、俊吉の皮肉や気の利いた言葉の中に、馬鹿にしきれない何かを感じずにはいられなかった。
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が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
だから彼女は在学中も、彼と一緒に展覧会や音楽会へ行くことが珍しくなかった。
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だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
もっとも、たいていそんな時は、妹の照子も一緒だった。
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尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
三人は行きも帰りも、気兼ねなく笑ったり話したりした。
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彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
しかし妹の照子だけは、時々話の輪の外に取り残されることもあった。
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が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
それでも照子は子どもらしく、お店のショーウィンドウの中の日傘や絹のショールを覗いて歩き、特に仲間外れにされたことを不満に思ってもいないようだった。
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それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
信子はしかしそれに気づくと、必ず話題を変えて、すぐにまた妹にも話に加わってもらおうとした。
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信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
その癖、最初に照子のことを忘れてしまうのは、いつも信子自身だった。
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その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
俊吉は何もかも気にしないのか、相変わらず気の利いた冗談ばかり言いながら、にぎやかな往来の人混みの中を、大股でゆっくりと歩いて行った。……
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俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
信子といとこの関係は、もちろん誰の目にも、やがて二人が結婚するだろうと思わせるのに十分だった。
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信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
同じ学校の仲間たちは、彼女の将来をそれぞれ羨んだりねたんだりした。
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同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
特に俊吉を知らない人ほど(おかしなことだが)、それがいっそうひどかった。
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殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)一層これが甚しかつた。
信子もまた一方では仲間たちの推測を打ち消しながら、もう一方ではそれがほんとうであることをそれとなくわざとほのめかしたりした。
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信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
そのため仲間たちの頭の中には、学校を出るまでの間に、いつしか彼女と俊吉の姿が、まるで新婦と新郎の写真のように、一緒にはっきりと焼き付けられていた。
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従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
ところが学校を卒業すると、信子は仲間たちの予想に反して、大阪のある商事会社に最近勤め始めた、高商(商業学校)出身の青年と、突然結婚してしまった。
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所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
そして式の二、三日後に、新しい夫と一緒に、勤め先の大阪へと旅立ってしまった。
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さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
その時、中央停車場(東京駅)へ見送りに行った人の話によると、信子はいつもと変わらず晴れやかな笑みを浮かべながら、ともすれば涙を流してしまいそうな妹の照子をいろいろと慰めていたということだった。
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その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
仲間たちは皆、不思議に思った。
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同窓たちは皆不思議がつた。
その不思議に思う気持ちの中には、妙にうれしい感情と、以前とはまったく違う意味でねたましい感情とが入り交じっていた。
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その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
ある人は彼女を信じて、すべてをお母さんの意志によるものだと思った。
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或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
またある人は彼女を疑って、気が変わったのだと言いふらした。
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又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
しかし、それらの解釈が結局は想像にすぎないことは、彼らも自分でわかっていないわけではなかった。
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が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
彼女はなぜ俊吉と結婚しなかったのか?
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彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
彼らはその後しばらくの間、集まるたびに大げさに、必ずこの疑問を話題にした。
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彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
そして二か月ほどたつと――すっかり信子のことを忘れてしまった。
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さうして彼是二月ばかり経つと――全く信子を忘れてしまつた。
もちろん、彼女が書くはずだった長編小説の噂なども。
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勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
信子はその間に大阪の郊外へ、幸せであるはずの新しい家庭を作った。
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信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
二人の家は、その界隈(かいわい・あたり)でも最も静かな松林の中にあった。
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彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
松やにの香りと日の光と――それがいつも夫の留守の間は、二階建ての新しい借家の中に、生き生きとした静けさをつくりだしていた。
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松脂の匂と日の光と、――それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
信子はそのような寂しい午後、時々わけもなく気が沈むと、必ず針箱の引き出しを開けては、その底に折りたたんでしまってある桃色の便箋を広げて見た。便箋の上にはこんなことが、細かくペンで書いてあった。
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信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
「――もう今日かぎりお姉様と一緒にいることができないと思うと、これを書いている間でさえ、止めどなく涙があふれてきます。お姉様。どうか、どうか私をお許しください。照子は、もったいないお姉様の犠牲(ぎせい)の前に、何と申し上げればいいかもわからずにいます。
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「――もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。御姉様。どうか、どうか私を御赦し下さい。照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
「お姉様は私のために、今回のご縁談をお決めになりました。そうではないとおっしゃっても、私にはよくわかっています。いつかご一緒に帝劇(ていげき・帝国劇場)を見物した晩、お姉様は私に俊さんが好きかとお聞きになりました。それからまた好きならば、お姉様がきっと間を取り持つから、俊さんのところへ行けともおっしゃいました。あの時もうお姉様は、私が俊さんにさし上げるはずの手紙を読んでいらしたのでしょう。あの手紙がなくなった時、ほんとうに私はお姉様をうらめしく思いました。(ごめんなさい。このことだけでも私はどのくらい申し訳ないかわかりません。)ですからその晩も私には、お姉様の親切なお言葉も、皮肉のような気さえしました。私が怒ってまともなお返事もろくにしなかったことは、もちろんお忘れになりもしないでしょう。けれどもあれから二、三日たって、お姉様のご縁談が急に決まってしまった時、私はそれこそ死んででもお詫びをしようかと思いました。お姉様も俊さんがお好きなのでございますもの。(お隠しになってはいや。私はよく存じていますよ。)私のことさえおかまいにならなければ、きっとご自分が俊さんのところへいらしたに違いございません。それでもお姉様は私に、俊さんなどは思っていないと、何度も繰り返しておっしゃいました。そしてとうとう気持ちでもない結婚をなさってしまいました。私の大事なお姉様。私が今日にわとりを抱いてきて、大阪へいらっしゃるお姉様に、ご挨拶(ごあいさつ)をしなさいと言ったことをまだ覚えていらっして? 私は飼っているにわとりにも、私と一緒にお姉様へお詫びを申してもらいたかったの。そうしたら、何もご存知ないお母様まで泣かれましたのね。
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「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。(御免遊ばせ。この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。(御隠しになつてはいや。私はよく存じて居りましてよ。)私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。私の大事な御姉様。私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて? 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
「お姉様。もう明日は大阪へいってしまわれるでしょう。けれどもどうかいつまでも、お姉様の照子を見捨てずにいてください。照子は毎朝にわとりに餌をやりながら、お姉様のことを思い出して、誰にも知られずに泣いています。……」
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「御姉様。もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
信子はこの少女らしい手紙を読むたびに、必ず涙がにじんできた。
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信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
特に、中央停車場から汽車に乗ろうとする直前に、そっとこの手紙を渡してくれた照子の姿を思い出すと、なんとも言えないほどいじらしかった。
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殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
しかし彼女の結婚は、果たして妹が想像したとおり、すっかり犠牲的なものだったのだろうか。
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が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
そう疑いを差し挟むことは、涙の後の彼女の心に、重苦しい気持ちを広げがちだった。
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さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
信子はこの重苦しさを避けるために、たいていはじっと心地よい感傷の中に浸っていた。
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信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
そのうちに外の松林に一面に当たった日の光が、だんだん黄みがかった夕方の色に変わっていくのを眺めながら。
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そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
二
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二
結婚してから二、三か月ほどは、どんな新婚夫婦と同じように、二人も幸せな日を送った。
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結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
夫はどこか女性的な、口数の少ない人物だった。
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夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
それが毎日会社から帰ってくると、必ず夕食後の何時間かは、信子と一緒に過ごすようにしていた。
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それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
信子は編み物の針を動かしながら、最近世間で話題になっている小説や戯曲の話などもした。
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信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
その話の中には時によると、キリスト教の影響を受けた女子大学らしい人生観が織り込まれていることもあった。
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その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
夫は晩酌で頬を赤らめたまま、読みかけた夕刊を膝の上に置いて、珍しそうに耳を傾けていた。
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夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
しかし彼自身の意見らしいものは、ひと言も口にしたことがなかった。
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が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
二人はまたほぼ毎週日曜日に、大阪やその近郊の観光地へ気晴らしの一日を過ごしに行った。
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彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
信子は汽車や電車に乗るたびに、どこでも食べたり飲んだりすることをはばからない関西の人が皆、品がなく見えた。
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信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
それだけ物静かな夫の態度が、格段に上品なのをうれしく感じた。
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それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
実際、清潔感のある夫の姿は、そういう人々の中に交じっていると、帽子からも、背広からも、あるいは赤い革の編み上げ靴からも、化粧石けんの香りに似た、一種さわやかな空気を漂わせているようだった。
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実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
特に夏の休暇中、舞子(まいこ・神戸近くの海辺)まで足を延ばした時には、同じ茶屋に来た夫の同僚たちと比べてみて、一層誇らしいような気持ちにならずにはいられなかった。
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殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
しかし夫は、その品のない同僚たちに、意外なほど親しみを持っているようだった。
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が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
そのうちに信子は、長い間放っていた小説を書くことを思い出した。
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その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
そこで夫の留守の間だけ、一、二時間ずつ机に向かうことにした。
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そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
夫はその話を聞くと、「いよいよ女流作家になるかね。」
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夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
と言って、やさしい口元に薄笑いを見せた。
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と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
しかし机に向かっても、思いのほかペンは進まなかった。
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しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
彼女はぼんやりほおづえをついて、炎天の松林から聞こえてくるセミの声に、知らず知らず耳を傾けている自分自身を見出しがちだった。
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彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
ところが残暑が初秋に変わろうとするころ、夫はある日会社に出かけようとして、汗で汚れた襟を取り換えようとした。
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所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
しかし、あいにく襟は一本残らず洗濯屋に出されていた。
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が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
夫は日ごろ清潔好きなだけに、不機嫌そうに顔を曇らせた。
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夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
そしてズボンつりをかけながら、「小説ばかり書いていては困る。」
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さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
といつになくいやみを言った。
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と何時になく厭味を云つた。
信子は黙って目を伏せて、上着のほこりをはらっていた。
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信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
それから二、三日過ぎたある夜、夫は夕刊に載っていた食料問題から、毎月の生活費をもう少し減らせないかと言い出した。
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それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
「おまえだっていつまでも女学生じゃあるまいし。」
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「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」
――そんなことも口に出した。
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――そんな事も口へ出した。
信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾りの刺繍(ししゅう)をしていた。
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信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
すると夫は意外なほどしつこく、「その襟飾りにしてもさ、買う方がかえって安くつくじゃないか。」
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すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
と、やはりねちねちした調子で言った。
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と、やはりねちねちした調子で云つた。
彼女はますます口がきけなくなった。
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彼女は猶更口が利けなくなつた。
夫もしまいには白けた顔をして、つまらなそうに仕事関係の雑誌か何かばかり読んでいた。
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夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
しかし、寝室の電灯を消してから、信子は夫に背を向けたまま、「もう小説なんか書きません。」
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が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
と、ささやくような声で言った。
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と、囁くやうな声で云つた。
夫はそれでも黙っていた。
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夫はそれでも黙つてゐた。
しばらくして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰り返した。
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暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
それからまもなく泣く声が漏れた。
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それから間もなく泣く声が洩れた。
夫は二言三言彼女を叱った。
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夫は二言三言彼女を叱つた。
その後でも彼女のすすり泣きは、まだ途切れ途切れに聞こえていた。
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その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
しかし信子はいつの間にか、しっかりと夫にすがっていた。……
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が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
翌日、二人はまた元どおり、仲のいい夫婦に戻っていた。
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翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
と思うと今度は夜中の十二時を過ぎても、まだ夫が会社から帰ってこない晩があった。
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と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
しかもやっと帰ってくると、レインコートも一人では脱げないほど、お酒のにおいを漂わせていた。
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しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着替えさせた。
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信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
夫はそれにもかかわらず、まわらない舌でいやみさえ言った。
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夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
「今夜は僕が帰らなかったから、よほど小説が進んだだろう。」
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「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」
――そういう言葉が、何度となく女性的な口から出た。
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――さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
彼女はその晩床に入ると、思わず涙がほろほろと落ちた。
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彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
こんなところを照子が見たら、どんなに一緒に泣いてくれることだろう。
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こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
照子。
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照子。
照子。
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照子。
私が頼りにするのは、ただおまえ一人だけだ。――
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私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
信子は何度も心の中でこう妹に呼びかけながら、夫のお酒くさい寝息に苦しめられて、ほとんど夜通し眠れずに、寝返りばかり打っていた。
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信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
しかしそれもまた翌日になると、自然と仲直りができあがっていた。
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が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
そんなことが何度か繰り返されるうちに、だんだん秋が深くなってきた。
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そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
信子はいつしか机に向かって、ペンを執ることが少なくなった。
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信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
その頃にはもう夫の方も、以前ほど彼女の文学の話を珍しがらなくなっていた。
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その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
二人は夜ごとに囲炉裏(いろり)を挟んで、くだらない家庭の生活費の話で時間をつぶすことを覚え出した。
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彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
その上、こういう話題は少なくとも夕食後お酒を飲んだ夫にとって、いちばん興味があるらしかった。
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その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
それでも信子は気の毒そうに、時々夫の顔色をうかがってみることがあった。
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それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
しかし彼は何も知らず、最近伸ばしたひげをかみながら、いつもより余程元気に、「これで子どもでも生まれてみると――」
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が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
などと、考え考え話していた。
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なぞと、考へ考へ話してゐた。
するとその頃から毎月の雑誌に、いとこの名前が見えるようになった。
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するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
信子は結婚後、忘れたかのように、俊吉との文通(手紙のやり取り)を絶っていた。
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信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
ただ、彼の動きは――大学の文学部を卒業したとか、仲間で雑誌を始めたとかいうことは、妹からの手紙で知るだけだった。
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唯、彼の動静は、――大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
またそれ以上彼のことを知りたいという気も起こさなかった。
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又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
しかし彼の小説が雑誌に載っているのを見ると、懐かしさは昔と同じだった。
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が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
彼女はそのページをめくりながら、何度も独りほほ笑みを漏らした。
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彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
俊吉はやはり小説の中でも、冷笑とユーモアという二つの武器を宮本武蔵(みやもとむさし)のように使っていた。
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俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
彼女にはしかし気のせいか、その軽快な皮肉の裏に、何か今までのいとこにはない、寂しそうな、やけっぱちな調子が潜んでいるように思われた。
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彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
と同時にそう思うことが、後ろめたいような気もしないではなかった。
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と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
信子はそれ以来夫に対して、一層やさしく振る舞うようになった。
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信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
夫は寒い夜に囲炉裏の向こうに、いつも晴れやかに微笑している彼女の顔を見出した。
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夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
その顔は以前より若々しく、化粧をしているのが常だった。
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その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
彼女は針仕事の道具を広げながら、二人が東京で式を挙げた当時の思い出なども話したりした。
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彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
夫にはその思い出の細かいことが、意外でもあり、うれしいようでもあった。
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夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。
「おまえはよくそんなことまで覚えているね。」
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「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」
――夫にこうからかわれると、信子は必ず無言のまま、目にだけ愛情のある返事を見せた。
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――夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
しかし、なぜそれほど覚えているのか、彼女自身も心の内では不思議に思うことが度々あった。
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が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
それからまもなく、お母さんの手紙が、信子に妹の結納(ゆいのう・結婚の約束として品を交わす行事)が済んだということを知らせてきた。
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それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
その手紙の中にはまた、俊吉が照子を迎えるために、山の手のある郊外に新居を設けたことも書き添えてあった。
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その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
彼女はさっそくお母さんと妹へ、長いお祝いの手紙を書いた。
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彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
「当方には人手がないため、式には残念ながら参りかねますが……」
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「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
そんな文句を書いているうちに、(彼女には何故かわからなかったが、)ペンが滞ることも再三あった。
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そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)筆の渋る事も再三あつた。
するとそのたびに彼女は目を上げて、外の松林を眺めた。
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すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
松は初冬の空の下に、びっしりと暗い緑色に茂っていた。
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松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
その晩、信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
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その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
夫はいつもの薄笑いを浮かべながら、彼女が妹のまねをするのを、面白そうに聞いていた。
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夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
しかし彼女には何となく、自分が照子のことではなく、自分自身のことを話しているような気がした。
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が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
「さあ、寝るか。」
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「どれ、寝るかな。」
――二、三時間後、夫はやわらかいひげを撫でながら、面倒くさそうに囲炉裏の前を離れた。
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――二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
信子はまだ妹へ贈るものを決めかねて、火箸で灰に文字を書いていたが、この時急に顔を上げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人できるのだと思うと。」
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信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
と言った。
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と云つた。
「当たり前じゃないか、妹もいるんだから。」
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「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」
――彼女は夫にこう言われても、物思いに沈んだ目つきのまま、何とも返事をしなかった。
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――彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
照子と俊吉とは、十二月の中旬に式を挙げた。
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照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
当日は昼少し前から、ちらちらと白いものが降り始めた。
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当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
信子は独りで昼の食事をすませた後、いつまでもその時の魚のにおいが、口の中から離れなかった。
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信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
「東京も雪が降っているかしら。」
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「東京も雪が降つてゐるかしら。」
――こんなことを考えながら、信子はじっと薄暗い居間の囲炉裏にもたれていた。
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――こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
雪がいよいよ激しくなった。
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雪が愈烈しくなつた。
しかし、口の中の生臭さは、やはりしつこく消えなかった。……
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が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
三
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三
信子はその翌年の秋、会社の用事で来た夫と一緒に、久しぶりで東京の土を踏んだ。
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信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
しかし、短い日数の中にこなすべき用事が多かった夫は、ただ彼女のお母さんのところへ、急ぎ足で顔を出した時のほか、ほとんど一日も彼女を連れて外出する機会を見つけられなかった。
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が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来匇々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を訪ねる時も、開発されたばかりの電車の終点から、たった一人で人力車(じんりきしゃ)に揺られて行った。
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彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
二人の家は、町並みがネギ畑に変わる近くにあった。
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彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
しかし隣近所には、いずれも借家らしい新築の家が、窮屈そうに軒を並べていた。
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しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
軒先の門、カナメモチの垣根、それから竿に干した洗濯物――どの家も変わりはなかった。
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のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――すべてがどの家も変りはなかつた。
この平凡な住まいの様子は、信子を少し失望させた。
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この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
しかし彼女が声をかけた時、返事をして出てきたのは、意外にもいとこの俊吉の方だった。
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が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。
俊吉は以前と同じように、この珍しい客の顔を見ると、「やあ。」
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俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
と元気な声を上げた。
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と快活な声を挙げた。
彼女は彼がいつの間にか、短く刈ったいが栗頭でなくなっているのを見た。
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彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
「久しぶり。」
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「暫らく。」
「さあ、上がって。あいにく僕一人だけど。」
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「さあ、御上り。生憎僕一人だが。」
「照子は? 留守?」
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「照子は? 留守?」
「使いに行った。女中も。」
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「使に行つた。女中も。」
――信子は妙に恥ずかしさを感じながら、派手な裏地のついたコートをそっと玄関の隅に脱いだ。
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――信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳の部屋に座らせた。
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俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
部屋の中はどこを見ても、本ばかり乱雑に積んであった。
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座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
特に午後の日が当たった障子(しょうじ)のそば、小さな紫檀(したん・木の種類)の机のまわりには、新聞・雑誌・原稿用紙が、手のつけようもないほど散らかっていた。
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殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
その中で若い奥さんの存在を語っているものは、ただ床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけだった。
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その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。
信子はこのような周囲から、しばらく物珍しい目を離さなかった。
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信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
「来ることは手紙で知っていたけれど、今日来るとは思わなかった。」
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「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」
――俊吉は巻きたばこに火をつけると、さすがに懐かしそうな目つきをした。
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――俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
「どうです、大阪での生活は?」
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「どうです、大阪の御生活は?」
「俊さんこそいかが? 幸せ?」
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「俊さんこそ如何? 幸福?」
――信子も二言三言話すうちに、やはり昔のような懐かしさが、よみがえってくるのを感じた。
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――信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
手紙さえろくにしなかった、かれこれ二年越しのよそよそしい記憶は、思ったより彼女を悩ませなかった。
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文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
二人は一つの火鉢(ひばち)に手をかざしながら、いろいろなことを話し合った。
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彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
俊吉の小説のことだの、共通の知人の噂だの、東京と大阪の比較だの、話題はいくら話しても尽きないほどたくさんあった。
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俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
しかし二人とも示し合わせたように、生活のお金のことには全然触れなかった。
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が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
それが信子には一層、いとこと話しているという感じを強くさせた。
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それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
時々しかし、沈黙が二人の間に来ることもあった。
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時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
そのたびに彼女は微笑したまま、目を火鉢の灰に落とした。
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その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
そこには「待つ」とは言えないほど、かすかに何かを待つ気持ちがあった。
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其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
すると故意(わざと)か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、いつもその気持ちを打ち破った。
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すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
彼女はだんだんいとこの顔をうかがわずにはいられなくなった。
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彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
しかし彼は平然と巻きたばこの煙を吸いながら、特に不自然な表情を作っている様子も見えなかった。
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が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
そのうちに照子が帰ってきた。
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その内に照子が帰つて来た。
彼女は姉の顔を見ると、手を取り合わないばかりに喜んだ。
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彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
信子も唇は笑いながら、目にはいつしかもう涙があった。
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信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
二人はしばらく俊吉のことも忘れて、去年以来の生活をお互いに尋ねたり尋ねられたりしていた。
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二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
特に照子は生き生きと、頬に血の色を透かせながら、今でも飼っているにわとりのことまで、話して聞かせることを忘れなかった。
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殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
俊吉は巻きたばこをくわえたまま、満足そうに二人を眺めて、相変わらずにやにや笑っていた。
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俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
そこへ女中も帰ってきた。
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其処へ女中も帰つて来た。
俊吉はその女中の手から何枚かのはがきを受け取ると、さっそく近くの机に向かって、せっせとペンを動かし始めた。
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俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
照子は女中も留守だったことが、意外そうな様子を見せた。
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照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
「じゃお姉様がいらした時は、誰も家にいなかったの。」
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「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
「ええ、俊さんだけ。」
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「ええ、俊さんだけ。」
――信子はこう答えることが、平気を無理に装っているような気がした。
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――信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
すると俊吉が向こうを向いたまま、「ご主人様に感謝しろ。そのお茶も僕が入れたんだ。」
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すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。その茶も僕が入れたんだ。」
と言った。
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と云つた。
照子は姉と目を見合わせて、いたずらっぽくくすりと笑った。
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照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
しかし夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかった。
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が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
まもなく信子は、妹夫婦と一緒に、夕食のテーブルを囲むことになった。
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間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
照子の説明するところによると、食卓に上った卵は皆、家のにわとりが産んだものだった。
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照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
俊吉は信子にワインをすすめながら、「人間の生活は奪い取ることで成り立っているんだね。小さくはこの卵から」
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俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。小はこの玉子から」
――などと社会主義的な理屈を並べたりした。
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――なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
その癖、ここにいる三人の中で、いちばん卵に愛着があるのは俊吉自身に違いなかった。
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その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
照子はそれがおかしいと言って、子どものような笑い声を立てた。
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照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
信子はこういう食卓の雰囲気の中でも、遠い松林の中にある、寂しい居間の夕暮れを思い出さずにいられなかった。
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信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
話は食後の果物を平らげた後も尽きなかった。
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話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
少し酔った俊吉は、夜長の電灯の下であぐらをかいて、盛んに彼らしいとぼけた屁理屈(へりくつ)を言い立てた。
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微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
その熱のこもった話が、もう一度信子を若返らせた。
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その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
彼女は熱のある目つきをして、「私も小説を書き出そうかしら。」
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彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
と言った。
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と云つた。
すると従兄は返事をする代わりに、グウルモン(フランスの作家)の気の利いた言葉を投げつけた。
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すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
それは「ミューズたち(芸術の女神たち)は女だから、彼女たちを自由に虜(とりこ)にできるのは、男だけだ。」
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それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
という言葉だった。
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と云ふ言葉であつた。
信子と照子とは手を組んで、グウルモンの権威を認めなかった。
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信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
「じゃ女でなければ、音楽家になれなくて? アポロは男じゃありませんか。」
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「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて? アポロは男ぢやありませんか。」
――照子は真面目にこんなことまで言った。
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――照子は真面目にこんな事まで云つた。
その間に夜が更けた。
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その暇に夜が更けた。
信子はとうとう泊まることになった。
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信子はとうとう泊る事になつた。
寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着のまま狭い庭へ下りた。
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寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
それから誰に呼びかけるともなく「ちょいと出てごらん。いい月だから。」
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それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。好い月だから。」
と声をかけた。
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と声をかけた。
信子は独り彼の後から、玄関口の庭下駄(にわげた)に足を下ろした。
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信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
足袋(たび)を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感触があった。
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足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
月は庭の隅にある、やせた檜(ひのき)の梢(こずえ)にあった。
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月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
いとこはその檜の下に立って、ぼんやり明るい夜空を眺めていた。
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従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
「ずいぶん草が生えているのね。」
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「大へん草が生えてゐるのね。」
――信子は荒れた庭を気味悪そうに、おそるおそる彼のいる方へ歩み寄った。
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――信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。
しかし彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
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が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
とつぶやいただけだった。
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と呟いただけであつた。
しばらく沈黙が続いた後、俊吉は静かに目を返して、「鶏小屋(とりごや)へ行って見ようか。」
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暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
と言った。
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と云つた。
信子は黙ってうなずいた。
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信子は黙つて頷いた。
鶏小屋はちょうど檜とは反対の庭の隅にあった。
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鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
二人は肩を並べながら、ゆっくりそこまで歩いて行った。
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二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
しかしむしろ囲いの中には、ただにわとりのにおいのする、ぼんやりとした光と影ばかりがあった。
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しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
俊吉はその小屋を覗いてみて、ほとんど独り言かと思うように、「寝ている。」
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俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
と彼女にささやいた。
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と彼女に囁いた。
「卵を人に取られたにわとりが。」
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「玉子を人に取られた鶏が。」
――信子は草の中に立ったまま、そう考えずにはいられなかった。……
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――信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
二人が庭から戻ってくると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電灯を見つめていた。
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二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
青いカナブン(虫)がたった一匹、ランプのかさに這っている電灯を。
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青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
四
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四
翌朝、俊吉は一張羅(いっちょうら・一番いい)の背広を着て、食後さっさと玄関へ行った。
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翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後匇々玄関へ行つた。
何でも亡くなった友人の一周忌のお墓参りをするということだった。
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何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
「いいかい。待っているんだぞ。昼ごろまでにはきっと帰ってくるから。」
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「好いかい。待つてゐるんだぜ。午頃までにやきつと帰つて来るから。」
――彼はコートをはおりながら、こう信子に念を押した。
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――彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
しかし彼女は細い手に彼の折れ目帽子を持ったまま、黙って微笑しただけだった。
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が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
照子は夫を送り出すと、姉を囲炉裏の向こうに招いて、甲斐甲斐しくお茶をすすめるなどした。
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照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
隣の奥さんの話、取材記者の話、それから俊吉と見に行ったある外国の歌劇団の話――その他楽しそうな話題が、彼女にはまだいろいろあるようだった。
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隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
しかし、信子の心は沈んでいた。
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が、信子の心は沈んでゐた。
彼女はふと気づくと、いつもいい加減な返事ばかりしている自分がそこにいた。
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彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
それがとうとうしまいには、照子の目にも止まるようになった。
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それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
妹は心配そうに彼女の顔を覗き込んで、「どうして?」
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妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
と尋ねてくれたりした。
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と尋ねてくれたりした。
しかし信子にも、どうしたのか、はっきりしたことはわからなかった。
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しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
柱時計が十時を打った時、信子はものうそうな目を上げて、「俊さんはなかなか帰りそうもないわね。」
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柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
と言った。
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と云つた。
照子も姉の言葉につられて、ちょいと時計を仰いだが、これはひどく冷淡に、「まだ――」
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照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
とだけしか答えなかった。
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とだけしか答へなかつた。
信子にはその言葉の中に、夫の愛情に満ち足りている新妻の心があるような気がした。
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信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
そう思うといよいよ彼女の気持ちは、憂うつになっていかずにはいられなかった。
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さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
「照さんは幸せね。」
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「照さんは幸福ね。」
――信子はあごを半衿(はんえり)に埋めながら、冗談のようにこう言った。
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――信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。
しかし自然とそこへ忍び込んだ、真剣なうらやましさの調子だけは、どうすることもできなかった。
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が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。
照子はしかし無邪気そうに、やはり生き生きと微笑しながら、「覚えていなさい。」
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照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」
とにらむまねをした。
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と睨む真似をした。
それからすぐにまた「お姉様だって幸せなくせに。」
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それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」
と、甘えるようにつけ加えた。
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と、甘えるやうにつけ加へた。
その言葉がぴしりと信子を打った。
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その言葉がぴしりと信子を打つた。
彼女はやや目を上げて、「そう思って?」
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彼女は心もち眶を上げて、「さう思つて?」
と聞き返した。
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と問ひ返した。
聞き返して、すぐに後悔した。
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問ひ返して、すぐに後悔した。
照子は一瞬間変な顔をして、姉と目を見合わせた。
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照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。
その顔にもまた、隠しきれない後悔の気持ちが動いていた。
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その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。
信子は無理に微笑した。――
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信子は強ひて微笑した。――
「そう思われるだけでも幸せね。」
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「さう思はれるだけでも幸福ね。」
二人の間に沈黙が来た。
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二人の間には沈黙が来た。
二人は柱時計の時を刻む音の下で、囲炉裏の鉄瓶(てつびん)が沸く音をともなく聞き澄ませていた。
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彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
「でも旦那様はやさしくはないの?」
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「でも御兄様は御優しくはなくつて?」
――やがて照子は小さな声で、恐る恐るこう尋ねた。
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――やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
その声の中には明らかに、気の毒そうな響きがこもっていた。しかしこの場合、信子の心は、何よりもかわいそうに思われることを拒んだ。
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その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
彼女は新聞を膝の上に乗せて、それに目を落としたまま、わざと何とも答えなかった。
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彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
新聞には大阪と同じように、米の値段の問題が載っていた。
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新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
そのうちに静かな居間の中には、かすかに人の泣く気配が聞こえ出した。
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その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
信子は新聞から目を離して、袖を顔に当てた妹を、囲炉裏の向こうに見出した。
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信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
「泣かなくていいのよ。」
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「泣かなくつたつて好いのよ。」
――照子は姉にそう慰められても、なかなか泣き止もうとはしなかった。
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――照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
信子は残酷な喜びを感じながら、しばらくは妹の震える肩へ無言の視線を注いでいた。
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信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
それから女中の耳を気にするように、照子の方へ顔を向けながら、「悪かったら、私が謝るわ。私は照さんさえ幸せなら、何よりありがたいと思っているの。ほんとうよ。俊さんが照さんを愛してくれれば――」
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それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。ほんたうよ。俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
と、低い声で言い続けた。
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と、低い声で云ひ続けた。
言い続けるうちに、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感情的になり始めた。
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云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
すると突然照子は袖を落として、涙に濡れている顔を上げた。
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すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
彼女の目の中には、意外なことに、悲しみも怒りも見えなかった。
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彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
ただ、抑えきれないやきもちの気持ちが、燃えるように瞳を熱くさせていた。
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が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
「じゃお姉様は――お姉様はなぜ昨夜も――」
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「ぢや御姉様は――御姉様は何故昨夜も――」
照子は最後まで言わないうちに、また顔を袖に埋めて、発作的に激しく泣き始めた。……
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照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
二、三時間後、信子は電車の終点に急ごうと、幌(ほろ)のついた人力車の上に揺られていた。
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二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
彼女の目に入る外の世界は、前面の幌を切り抜いた四角いセルロイドの窓だけだった。
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彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
そこには場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、ゆっくりとしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行った。
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其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄い雲をたなびかせた、冷たい秋の空だけだった。
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もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
彼女の心は静かだった。
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彼女の心は静かであつた。
しかしその静かさを支配するものは、寂しいあきらめに他ならなかった。
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が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
照子の発作が終わった後、仲直りは新しい涙とともに、たやすく二人を元どおり仲のいい姉妹に戻していた。
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照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかった。
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しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
彼女はいとこの帰りも待たずにこの人力車に身を任せた時、すでに妹とは永遠に他人になったような気持ちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせていたのだった。――
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彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
信子はふと目を上げた。
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信子はふと眼を挙げた。
その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いてくる、杖を抱えたいとこの姿が見えた。
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その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
彼女の心は揺れた。
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彼女の心は動揺した。
人力車を止めようか。
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俥を止めようか。
それともこのまますれ違ってしまおうか。
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それともこの儘行き違はうか。
彼女は胸の高まりを抑えながら、しばらくはただ幌の下で、むなしいためらいを繰り返していた。
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彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
しかし俊吉と彼女との距離は、見る見るうちに近くなってきた。
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が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
彼は薄い日差しを浴びて、水たまりの多い道をゆっくりと靴を運んでいた。
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彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
「俊さん。」
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「俊さん。」
――そういう声が一瞬間、信子の唇から漏れようとした。
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――さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。
実際俊吉はその時もう、彼女の人力車のすぐそばに、見覚えのある姿を現していた。
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実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。
しかし彼女はまたためらった。
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が、彼女は又ためらつた。
その間に何も知らない彼は、とうとうこの幌(ほろ)付き人力車とすれ違ってしまった。
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その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。
薄くにごった空、まばらな家並み、高い木々の黄ばんだ梢――後ろには相変わらず人通りの少ない場末の町があるばかりだった。
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薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。
「秋――」
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「秋――」
信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみとこう思わずにいられなかった。
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信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。
(大正九年三月)
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(大正九年三月)