AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
原文: 一
一
原文: 堀川の大殿様のやうな方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。
堀川の大殿様のようなお方は、これまではもちろん、これから先の世にも、おそらく二人とはいらっしゃらないでしょう。
原文: 噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、大威徳明王の御姿が御母君の夢枕にお立ちになつたとか申す事でございますが、兎に角御生れつきから、並々の人間とは御違ひになつてゐたやうでございます。
噂に聞きますと、あの方がお生まれになる前には、大威徳明王のお姿がお母上の夢枕にお立ちになったとか申しますが、とにかく生まれつきから、並の人間とは違っていらっしゃったようでございます。
原文: でございますから、あの方の為さいました事には、一つとして私どもの意表に出てゐないものはございません。
ですから、あの方のなさったことには、一つとして私どもの予想の内に収まるものはございません。
原文: 早い話が堀川のお邸の御規模を拝見致しましても、壮大と申しませうか、豪放と申しませうか、到底私どもの凡慮には及ばない、思ひ切つた所があるやうでございます。
手近な話が、堀川のお邸の規模を拝見しましても、壮大と申しましょうか、豪放と申しましょうか、とうてい私どものような凡人には及びもつかない、思い切ったところがあるようでございます。
原文: 中にはまた、そこを色々とあげつらつて大殿様の御性行を始皇帝や煬帝に比べるものもございますが、それは諺に云ふ群盲の象を撫でるやうなものでもございませうか。
中にはまた、そこをあれこれ言い立てて、大殿様のお人柄を始皇帝や煬帝になぞらえる者もございますが、それは諺に言う、盲人が大勢で象を撫でるようなものでございましょう。
原文: あの方の御思召は、決してそのやうに御自分ばかり、栄耀栄華をなさらうと申すのではございません。
あの方のお心づもりは、決してそのようにご自分だけが栄華を極めようというのではございません。
原文: それよりはもつと下々の事まで御考へになる、云はば天下と共に楽しむとでも申しさうな、大腹中の御器量がございました。
それよりもっと下々の者のことまでお考えになる、いわば天下の人々と共に楽しもうとでも申しましょうか、そういう度量の大きさがおありでした。
原文: それでございますから、二条大宮の百鬼夜行に御遇ひになつても、格別御障りがなかつたのでございませう。
ですからこそ、二条大宮で百鬼夜行にお遇いになっても、格別お障りがなかったのでございましょう。
原文: 又陸奥の塩竈の景色を写したので名高いあの東三条の河原院に、夜な/\現はれると云ふ噂のあつた融の左大臣の霊でさへ、大殿様のお叱りを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。
また、陸奥の塩竈の景色を写したことで名高い、あの東三条の河原院に夜な夜な現れるという噂のあった融の左大臣の霊でさえ、大殿様にお叱りを受けては、姿を消したに違いございません。
原文: かやうな御威光でございますから、その頃洛中の老若男女が、大殿様と申しますと、まるで権者の再来のやうに尊み合ひましたも、決して無理ではございません。
これほどのご威光でございますから、その頃の都じゅうの老いも若きも男も女も、大殿様と申しますと、まるで仏の生まれ変わりのように敬い合っておりましたのも、決して無理ではございません。
原文: 何時ぞや、内の梅花の宴からの御帰りに御車の牛が放れて、折から通りかゝつた老人に怪我をさせました時でさへ、その老人は手を合せて、大殿様の牛にかけられた事を難有がつたと申す事でございます。
いつぞや、宮中の梅花の宴からのお帰りに、お車の牛が放れて、折から通りかかった老人に怪我をさせましたときでさえ、その老人は手を合わせて、大殿様の牛にかけられたことをありがたがったと申します。
原文: さやうな次第でございますから、大殿様御一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が、随分沢山にございました。
そのような次第でございますから、大殿様のご一代のあいだには、後々まで語り草になるようなことが、ずいぶんたくさんございました。
原文: 大饗の引出物に白馬ばかりを三十頭、賜つたこともございますし、長良の橋の橋柱に御寵愛の童を立てた事もございますし、それから又華陀の術を伝へた震旦の僧に、御腿の瘡を御切らせになつた事もございますし、――一々数へ立てゝ居りましては、とても際限がございません。
大饗の引き出物に白馬ばかりを三十頭お与えになったこともございますし、長良の橋の橋柱にご寵愛の童を人柱として立てたこともございますし、それからまた、華陀の術を伝えたという中国の僧に、お腿のできものを切らせなさったこともございますし――一つ一つ数え立てておりましたら、とても際限がございません。
原文: が、その数多い御逸事の中でも、今では御家の重宝になつて居ります地獄変の屏風の由来程、恐ろしい話はございますまい。
が、その数多いご逸話の中でも、今ではお家の宝になっております地獄変の屏風の由来ほど、恐ろしい話はございますまい。
原文: 日頃は物に御騒ぎにならない大殿様でさへ、あの時ばかりは、流石に御驚きになつたやうでございました。
日頃は物に動じない大殿様でさえ、あのときばかりは、さすがにお驚きになったようでございました。
原文: まして御側に仕へてゐた私どもが、魂も消えるばかりに思つたのは、申し上げるまでもございません。
まして、おそばに仕えていた私どもが、魂も消えるほどの思いをしたのは、申し上げるまでもございません。
原文: 中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年来御奉公申して居りましたが、それでさへ、あのやうな凄じい見物に出遇つた事は、ついぞ又となかつた位でございます。
中でもこの私などは、大殿様に二十年来ご奉公申しておりましたが、それでさえ、あのようなすさまじい見ものに出遇ったことは、後にも先にもございませんでした。
原文: しかし、その御話を致しますには、予め先づ、あの地獄変の屏風を描きました、良秀と申す画師の事を申し上げて置く必要がございませう。
しかし、そのお話をいたしますには、まず前もって、あの地獄変の屏風を描きました、良秀という絵師のことを申し上げておく必要がございましょう。
原文: 二
二
原文: 良秀と申しましたら、或は唯今でも猶、あの男の事を覚えていらつしやる方がございませう。
良秀と申しましたら、あるいは今でもなお、あの男のことを覚えていらっしゃる方がございましょう。
原文: その頃絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師でございます。
その頃、絵筆をとっては良秀の右に出る者は一人もあるまいと言われたほど、名高い絵師でございます。
原文: あの時の事がございました時には、彼是もう五十の阪に、手がとゞいて居りましたらうか。
あのことがございましたときには、かれこれもう五十の坂に手が届いておりましたでしょうか。
原文: 見た所は唯、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪さうな老人でございました。
見たところはただ、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪そうな老人でございました。
原文: それが大殿様の御邸へ参ります時には、よく丁字染の狩衣に揉烏帽子をかけて居りましたが、人がらは至つて卑しい方で、何故か年よりらしくもなく、唇の目立つて赤いのが、その上に又気味の悪い、如何にも獣めいた心もちを起させたものでございます。
それが大殿様のお邸へ参りますときには、よく丁字染の狩衣に揉烏帽子をかぶっておりましたが、人柄はいたって卑しいほうで、なぜか年寄りらしくもなく唇が目立って赤いのが、その上また気味の悪い、いかにも獣めいた感じを起こさせたものでございます。
原文: 中にはあれは画筆を舐めるので紅がつくのだなどゝ申した人も居りましたが、どう云ふものでございませうか。
中には、あれは絵筆を舐めるので紅がつくのだなどと申した人もおりましたが、どんなものでございましょうか。
原文: 尤もそれより口の悪い誰彼は、良秀の立居振舞が猿のやうだとか申しまして、猿秀と云ふ諢名までつけた事がございました。
もっとも、それより口の悪い誰彼は、良秀の立ち居振る舞いが猿のようだとか申しまして、猿秀という綽名までつけたことがございました。
原文: いや猿秀と申せば、かやうな御話もございます。
いや、猿秀と申せば、こんなお話もございます。
原文: その頃大殿様の御邸には、十五になる良秀の一人娘が、小女房に上つて居りましたが、これは又生みの親には似もつかない、愛嬌のある娘でございました。
その頃、大殿様のお邸には、十五になる良秀のひとり娘が、若い女房として上がっておりましたが、これはまた生みの親には似ても似つかない、愛嬌のある娘でございました。
原文: その上早く女親に別れましたせゐか、思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつくものでございますから、御台様を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。
その上、早くに母親と死に別れたせいか、思いやりが深く、年よりませた、賢い生まれつきで、若いのにも似ず何かとよく気がつくものでございますから、奥方様をはじめほかの女房たちにも、可愛がられていたようでございます。
原文: すると何かの折に、丹波の国から人馴れた猿を一匹、献上したものがございまして、それに丁度悪戯盛りの若殿様が、良秀と云ふ名を御つけになりました。
そんなある折に、丹波の国から人に馴れた猿を一匹、献上した者がございまして、それにちょうど悪戯盛りの若殿様が、良秀という名をおつけになりました。
原文: 唯でさへその猿の容子が可笑しい所へ、かやうな名がついたのでございますから、御邸中誰一人笑はないものはございません。
ただでさえその猿の様子がおかしいところへ、こんな名がついたのでございますから、お邸じゅう誰ひとり笑わない者はございません。
原文: それも笑ふばかりならよろしうございますが、面白半分に皆のものが、やれ御庭の松に上つたの、やれ曹司の畳をよごしたのと、その度毎に、良秀々々と呼び立てゝは、兎に角いぢめたがるのでございます。
それも笑うだけならよろしゅうございますが、面白半分に皆の者が、やれお庭の松に上ったの、やれ部屋の畳を汚したのと、そのたびごとに良秀、良秀と呼び立てては、とにかくいじめたがるのでございます。
原文: 所が或日の事、前に申しました良秀の娘が、御文を結んだ寒紅梅の枝を持つて、長い御廊下を通りかゝりますと、遠くの遣戸の向うから、例の小猿の良秀が、大方足でも挫いたのでございませう、何時ものやうに柱へ駆け上る元気もなく、跛を引き/\、一散に、逃げて参るのでございます。
ところがある日のこと、さきほど申しました良秀の娘が、手紙を結んだ寒紅梅の枝を持って長い廊下を通りかかりますと、遠くの引き戸の向こうから、例の小猿の良秀が、大方足でも挫いたのでございましょう、いつものように柱へ駆け上る元気もなく、びっこを引き引き、一目散に逃げてまいるのでございます。
原文: しかもその後からは楚をふり上げた若殿様が「柑子盗人め、待て。待て。」
しかもそのあとからは、細い枝の鞭を振り上げた若殿様が「みかん泥棒め、待て。待て。」
原文: と仰有りながら、追ひかけていらつしやるのではございませんか。
とおっしゃりながら、追いかけていらっしゃるではございませんか。
原文: 良秀の娘はこれを見ますと、ちよいとの間ためらつたやうでございますが、丁度その時逃げて来た猿が、袴の裾にすがりながら、哀れな声を出して啼き立てました――と、急に可哀さうだと思ふ心が、抑へ切れなくなつたのでございませう。
良秀の娘はこれを見ますと、ちょっとのあいだためらったようでございますが、ちょうどそのとき逃げてきた猿が、袴の裾にすがりながら哀れな声を出して啼き立てました――と、急に可哀そうだと思う心が抑えきれなくなったのでございましょう。
原文: 片手に梅の枝をかざした儘、片手に紫匂の袿の袖を軽さうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿様の御前に小腰をかゞめながら「恐れながら畜生でございます。どうか御勘弁遊ばしまし。」
片手に梅の枝をかざしたまま、片手に紫匂の袿の袖を軽そうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿様の御前に小腰をかがめながら「恐れながら畜生でございます。どうかお許しくださいませ。」
原文: と、涼しい声で申し上げました。
と、涼しい声で申し上げました。
原文: が、若殿様の方は、気負つて駆けてお出でになつた所でございますから、むづかしい御顔をなすつて、二三度御み足を御踏鳴しになりながら、
が、若殿様のほうは、勢い込んで駆けていらしたところでございますから、難しいお顔をなさって、二、三度足を踏み鳴らしながら、
原文: 「何でかばふ。その猿は柑子盗人だぞ。」
「なぜかばう。その猿はみかん泥棒だぞ。」
原文: 「畜生でございますから、……」
「畜生でございますから、……」
原文: 娘はもう一度かう繰返しましたがやがて寂しさうにほほ笑みますと、
娘はもう一度こう繰り返しましたが、やがて寂しそうに微笑みますと、
原文: 「それに良秀と申しますと、父が御折檻を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。」
「それに良秀と申しますと、父がお仕置きを受けているようで、どうもただ見てはおられません。」
原文: と、思ひ切つたやうに申すのでございます。
と、思い切ったように申すのでございます。
原文: これには流石の若殿様も、我を御折りになつたのでございませう。
これにはさすがの若殿様も、我をお折りになったのでございましょう。
原文: 「さうか。父親の命乞なら、枉げて赦してとらすとしよう。」
「そうか。父親の命乞いなら、まげて許してやるとしよう。」
原文: 不承無承にかう仰有ると、楚をそこへ御捨てになつて、元いらしつた遣戸の方へ、その儘御帰りになつてしまひました。
不承不承にこうおっしゃると、鞭をその場にお捨てになって、もと来た引き戸のほうへ、そのままお帰りになってしまいました。
原文: 三
三
原文: 良秀の娘とこの小猿との仲がよくなつたのは、それからの事でございます。
良秀の娘とこの小猿との仲がよくなったのは、それからのことでございます。
原文: 娘は御姫様から頂戴した黄金の鈴を、美しい真紅の紐に下げて、それを猿の頭へ懸けてやりますし、猿は又どんな事がございましても、滅多に娘の身のまはりを離れません。
娘はお姫様から頂戴した黄金の鈴を、美しい真紅の紐に下げて、それを猿の首にかけてやりますし、猿のほうもどんなことがございましても、めったに娘のそばを離れません。
原文: 或時娘の風邪の心地で、床に就きました時なども、小猿はちやんとその枕もとに坐りこんで、気のせゐか心細さうな顔をしながら、頻に爪を噛んで居りました。
あるとき、娘が風邪気味で床についたときなども、小猿はきちんとその枕もとに坐り込んで、気のせいか心細そうな顔をしながら、しきりに爪を噛んでおりました。
原文: かうなると又妙なもので、誰も今までのやうにこの小猿を、いぢめるものはございません。
こうなるとまた妙なもので、誰も今までのようにこの小猿をいじめる者はございません。
原文: いや、反つてだん/\可愛がり始めて、しまひには若殿様でさへ、時々柿や栗を投げて御やりになつたばかりか、侍の誰やらがこの猿を足蹴にした時なぞは、大層御立腹にもなつたさうでございます。
いや、かえってだんだん可愛がりはじめて、しまいには若殿様でさえ、ときどき柿や栗を投げてやられたばかりか、侍の誰やらがこの猿を足蹴にしたときなどは、たいそうご立腹にもなったそうでございます。
原文: その後大殿様がわざ/\良秀の娘に猿を抱いて、御前へ出るやうと御沙汰になつたのも、この若殿様の御腹立になつた話を、御聞きになつてからだとか申しました。
その後、大殿様がわざわざ良秀の娘に、猿を抱いて御前へ出るようにとお命じになったのも、この若殿様が腹を立てられた話をお聞きになってからだとか申しました。
原文: その序に自然と娘の猿を可愛がる所由も御耳にはいつたのでございませう。
そのついでに、自然と娘が猿を可愛がるいわれもお耳に入ったのでございましょう。
原文: 「孝行な奴ぢや。褒めてとらすぞ。」
「孝行な者だ。褒めてつかわすぞ。」
原文: かやうな御意で、娘はその時、紅の袙を御褒美に頂きました。
というお言葉で、娘はそのとき、紅の袙をご褒美に頂きました。
原文: 所がこの袙を又見やう見真似に、猿が恭しく押頂きましたので、大殿様の御機嫌は、一入よろしかつたさうでございます。
ところがこの袙を、また見よう見まねで猿がうやうやしく押し頂きましたので、大殿様のご機嫌はひとしおよろしかったそうでございます。
原文: でございますから、大殿様が良秀の娘を御贔屓になつたのは、全くこの猿を可愛がつた、孝行恩愛の情を御賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた訳ではございません。
ですから、大殿様が良秀の娘をご贔屓になったのは、まったくこの猿を可愛がった、その孝行と情け深さをお褒めになったからで、決して世間があれこれ申しますように、色をお好みになったわけではございません。
原文: 尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になつて、ゆつくり御話し致しませう。
もっとも、そんな噂の立った起こりにも、無理のないところがございますが、それはまた後になって、ゆっくりお話しいたしましょう。
原文: こゝでは唯大殿様が、如何に美しいにした所で、絵師風情の娘などに、想ひを御懸けになる方ではないと云ふ事を、申し上げて置けば、よろしうございます。
ここではただ、大殿様は、どれほど美しいにしたところで、絵師風情の娘などに思いをおかけになる方ではないということを、申し上げておけばよろしゅうございます。
原文: さて良秀の娘は、面目を施して御前を下りましたが、元より悧巧な女でございますから、はしたない外の女房たちの妬を受けるやうな事もございません。
さて、良秀の娘は面目を施して御前を下がりましたが、もともと賢い女でございますから、はしたないほかの女房たちの妬みを受けるようなこともございません。
原文: 反つてそれ以来、猿と一しよに何かといとしがられまして、取分け御姫様の御側からは御離れ申した事がないと云つてもよろしい位、物見車の御供にもついぞ欠けた事はございませんでした。
かえってそれ以来、猿と一緒に何かといとしがられまして、とりわけお姫様のおそばを離れたことがないと言ってもよいほど、物見車のお供にも一度として欠けたことはございませんでした。
原文: が、娘の事は一先づ措きまして、これから又親の良秀の事を申し上げませう。
が、娘のことはひとまず置きまして、これからまた親の良秀のことを申し上げましょう。
原文: 成程猿の方は、かやうに間もなく、皆のものに可愛がられるやうになりましたが、肝腎の良秀はやはり誰にでも嫌はれて、相不変陰へまはつては、猿秀呼りをされて居りました。
なるほど猿のほうは、このように間もなく皆に可愛がられるようになりましたが、肝心の良秀はやはり誰にでも嫌われて、相変わらず陰へまわっては猿秀呼ばわりをされておりました。
原文: しかもそれが又、御邸の中ばかりではございません。
しかもそれがまた、お邸の中ばかりではございません。
原文: 現に横川の僧都様も、良秀と申しますと、魔障にでも御遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、御憎み遊ばしました。
現に横川の僧都様も、良秀と申しますと、魔物にでも出遇われたように顔色を変えて、お憎みになりました。
原文: (尤もこれは良秀が僧都様の御行状を戯画に描いたからだなどと申しますが、何分下ざまの噂でございますから、確に左様とは申されますまい。)
(もっとも、これは良秀が僧都様のふるまいを戯画に描いたからだなどと申しますが、なにぶん下々の噂でございますから、確かにそうだとは申せますまい。)
原文: 兎に角、あの男の不評判は、どちらの方に伺ひましても、さう云ふ調子ばかりでございます。
とにかく、あの男の評判の悪さは、どちらのほうへ伺いましても、そういう調子ばかりでございます。
原文: もし悪く云はないものがあつたと致しますと、それは二三人の絵師仲間か、或は又、あの男の絵を知つてゐるだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございませう。
もし悪く言わない者があったとしますと、それは二、三人の絵師仲間か、あるいはまた、あの男の絵を知っているだけで、あの男の人となりを知らない者ばかりでございましょう。
原文: しかし実際、良秀には、見た所が卑しかつたばかりでなく、もつと人に嫌がられる悪い癖があつたのでございますから、それも全く自業自得とでもなすより外に、致し方はございません。
しかし実際、良秀には見た目が卑しかったばかりでなく、もっと人に嫌われる悪い癖があったのでございますから、それもまったく自業自得とでも言うよりほかに、仕方はございません。
原文: 四
四
原文: その癖と申しますのは、吝嗇で、慳貪で、恥知らずで、怠けもので、強慾で――いやその中でも取分け甚しいのは、横柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げてゐる事でございませう。
その癖と申しますのは、けちで、強欲で、恥知らずで、怠け者で、欲張りで――いや、その中でもとりわけひどいのは、横柄で高慢で、いつも我が国第一の絵師だということを、鼻の先へぶら下げていることでございましょう。
原文: それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣とか慣例とか申すやうなものまで、すべて莫迦に致さずには置かないのでございます。
それも絵の道の上だけならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみとなりますと、世間のしきたりや慣例と申すようなものまで、すべて馬鹿にせずにはおかないのでございます。
原文: これは永年良秀の弟子になつてゐた男の話でございますが、或日さる方の御邸で名高い檜垣の巫女に御霊が憑いて、恐しい御託宣があつた時も、あの男は空耳を走らせながら、有合せた筆と墨とで、その巫女の物凄い顔を、丁寧に写して居つたとか申しました。
これは長年良秀の弟子になっていた男の話でございますが、ある日さるお邸で、名高い檜垣の巫女に死霊が憑いて、恐ろしいお告げがあったときも、あの男は聞こえないふりをして、有り合わせの筆と墨で、その巫女のすさまじい顔を丁寧に写していたとか申しました。
原文: 大方御霊の御祟りも、あの男の眼から見ましたなら、子供欺し位にしか思はれないのでございませう。
大方、死霊の祟りも、あの男の目から見ましたら、子供だましぐらいにしか思われないのでございましょう。
原文: さやうな男でございますから、吉祥天を描く時は、卑しい傀儡の顔を写しましたり、不動明王を描く時は、無頼の放免の姿を像りましたり、いろ/\の勿体ない真似を致しましたが、それでも当人を詰りますと「良秀の描いた神仏が、その良秀に冥罰を当てられるとは、異な事を聞くものぢや」
そういう男でございますから、吉祥天を描くときには卑しい旅芸人の女の顔を写したり、不動明王を描くときには無頼な放免の姿をかたどったり、いろいろと恐れ多い真似をいたしましたが、それでも当人を問い詰めますと「良秀の描いた神仏が、その良秀に罰を当てるとは、おかしなことを聞くものだ」
原文: と空嘯いてゐるではございませんか。
と、そらとぼけているではございませんか。
原文: これには流石の弟子たちも呆れ返つて、中には未来の恐ろしさに、匆々暇をとつたものも、少くなかつたやうに見うけました。――
これにはさすがの弟子たちも呆れ返って、中には来世の恐ろしさに、そそくさと暇をとった者も少なくなかったように見受けました。――
原文: 先づ一口に申しましたなら、慢業重畳とでも名づけませうか。
まず一言で申しましたなら、思い上がりの罪の積み重ねとでも名づけましょうか。
原文: 兎に角当時天が下で、自分程の偉い人間はないと思つてゐた男でございます。
とにかく当時、この世で自分ほど偉い人間はいないと思っていた男でございます。
原文: 従つて良秀がどの位画道でも、高く止つて居りましたかは、申し上げるまでもございますまい。
したがって、良秀が絵の道においてもどれほど高くとまっていたかは、申し上げるまでもございますまい。
原文: 尤もその絵でさへ、あの男のは筆使ひでも彩色でも、まるで外の絵師とは違つて居りましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、大分あつたやうでございます。
もっとも、その絵にしてからが、あの男のは筆づかいでも彩色でも、まるでほかの絵師とは違っておりましたから、仲の悪い絵師仲間では、いかさま師だなどと申す評判もだいぶあったようでございます。
原文: その連中の申しますには、川成とか金岡とか、その外昔の名匠の筆になつた物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の大宮人が、笛を吹く音さへ聞えたのと、優美な噂が立つてゐるものでございますが、良秀の絵になりますと、何時でも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。
その連中の申しますには、川成とか金岡とか、そのほか昔の名匠の筆になったものと申しますと、やれ板戸の梅の花が月の夜ごとに香ったの、やれ屏風の宮廷人が笛を吹く音まで聞こえたのと、優美な噂が立っているものでございますが、良秀の絵となりますと、いつでも必ず気味の悪い、妙な評判しか伝わりません。
原文: 譬へばあの男が龍蓋寺の門へ描きました、五趣生死の絵に致しましても、夜更けて門の下を通りますと、天人の嘆息をつく音や啜り泣きをする声が、聞えたと申す事でございます。
たとえば、あの男が龍蓋寺の門に描きました五趣生死の絵にしましても、夜更けに門の下を通りますと、天人がため息をつく音や、すすり泣きをする声が聞こえたと申すことでございます。
原文: いや、中には死人の腐つて行く臭気を、嗅いだと申すものさへございました。
いや、中には死人の腐っていく臭いを嗅いだと申す者さえございました。
原文: それから大殿様の御云ひつけで描いた、女房たちの似絵なども、その絵に写されたゞけの人間は、三年と尽たない中に、皆魂の抜けたやうな病気になって、死んだと申すではございませんか。
それから、大殿様のお言いつけで描いた女房たちの似顔絵なども、その絵に写された者はみな、三年と経たないうちに魂の抜けたような病気になって死んだと申すではございませんか。
原文: 悪く云ふものに申させますと、それが良秀の絵の邪道に落ちてゐる、何よりの証拠ださうでございます。
悪く言う者に言わせますと、それが良秀の絵が邪道に落ちている、何よりの証拠だそうでございます。
原文: が、何分前にも申し上げました通り、横紙破りな男でございますから、それが反つて良秀は大自慢で、何時ぞや大殿様が御冗談に、「その方は兎角醜いものが好きと見える。」
が、なにぶん前にも申し上げたとおり、常識はずれの男でございますから、それがかえって良秀には大自慢で、いつぞや大殿様がご冗談に「そちはどうも醜いものが好きと見える。」
原文: と仰有つた時も、あの年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑ひながら、「さやうでござりまする。かいなでの絵師には総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ。」
とおっしゃったときも、あの年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑いながら「さようでございます。並の絵師には、およそ醜いものの美しさなどということは、わかるはずがございません。」
原文: と、横柄に御答へ申し上げました。
と、横柄にお答え申し上げました。
原文: 如何に本朝第一の絵師に致せ、よくも大殿様の御前へ出て、そのやうな高言が吐けたものでございます、先刻引合に出しました弟子が、内々師匠に「智羅永寿」
いくら我が国第一の絵師にしろ、よくも大殿様の御前に出て、そのような大口が叩けたものでございます。さきほど引き合いに出しました弟子が、内々で師匠に「智羅永寿」
原文: と云ふ諢名をつけて、増長慢を譏つて居りましたが、それも無理はございません。
という綽名をつけて、その思い上がりぶりをそしっておりましたが、それも無理はございません。
原文: 御承知でもございませうが、「智羅永寿」
ご承知でもございましょうが、「智羅永寿」
原文: と申しますのは、昔震旦から渡つて参りました天狗の名でございます。
と申しますのは、昔、中国から渡ってまいりました天狗の名でございます。
原文: しかしこの良秀にさへ――この何とも云ひやうのない、横道者の良秀にさへ、たつた一つ人間らしい、情愛のある所がございました。
しかし、この良秀にさえ――この何とも言いようのない、ひねくれ者の良秀にさえ、たった一つ人間らしい、情愛のあるところがございました。
原文: 五
五
原文: と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違ひのやうに可愛がつてゐた事でございます。
と申しますのは、良秀があのひとり娘の若い女房を、まるで気が違ったように可愛がっていたことでございます。
原文: 先刻申し上げました通り、娘も至つて気のやさしい、親思ひの女でございましたが、あの男の子煩悩は、決してそれにも劣りますまい。
さきほど申し上げたとおり、娘もいたって気のやさしい、親思いの女でございましたが、あの男の子煩悩ぶりも、決してそれに劣りますまい。
原文: 何しろ娘の着る物とか、髪飾とかの事と申しますと、どこの御寺の勧進にも喜捨をした事のないあの男が、金銭には更に惜し気もなく、整へてやると云ふのでございますから、嘘のやうな気が致すではございませんか。
なにしろ娘の着る物とか髪飾りとかのこととなりますと、どこのお寺の寄進にも施しをしたことのないあの男が、金にはまるで惜し気もなく整えてやるというのでございますから、嘘のような気がするではございませんか。
原文: が、良秀の娘を可愛がるのは、唯可愛がるだけで、やがてよい聟をとらうなどと申す事は、夢にも考へて居りません。
が、良秀が娘を可愛がるのは、ただ可愛がるだけで、そのうち良い婿を取ろうなどということは、夢にも考えておりません。
原文: それ所か、あの娘へ悪く云ひ寄るものでもございましたら、反つて辻冠者ばらでも駆り集めて、暗打位は喰はせ兼ねない量見でございます。
それどころか、あの娘へ悪く言い寄る者でもございましたら、かえって町のならず者でも駆り集めて、闇討ちぐらいは食わせかねない了見でございます。
原文: でございますから、あの娘が大殿様の御声がゝりで、小女房に上りました時も、老爺の方は大不服で、当座の間は御前へ出ても、苦り切つてばかり居りました。
ですから、あの娘が大殿様のお声がかりで若い女房に上がりましたときも、親父のほうは大不服で、しばらくのあいだは御前へ出ても、苦り切ってばかりおりました。
原文: 大殿様が娘の美しいのに御心を惹かされて、親の不承知なのもかまはずに、召し上げたなどと申す噂は、大方かやうな容子を見たものゝ当推量から出たのでございませう。
大殿様が娘の美しさに心を惹かれて、親が承知しないのもかまわずに召し上げたなどという噂は、大方そういう様子を見た者の当て推量から出たのでございましょう。
原文: 尤も其噂は嘘でございましても、子煩悩の一心から、良秀が始終娘の下るやうに祈つて居りましたのは確でございます。
もっとも、その噂は嘘でございましても、子煩悩の一心から、良秀が始終、娘が下がれるようにと祈っておりましたのは確かでございます。
原文: 或時大殿様の御云ひつけで、稚児文殊を描きました時も、御寵愛の童の顔を写しまして、見事な出来でございましたから、大殿様も至極御満足で、
あるとき、大殿様のお言いつけで稚児文殊を描きましたときも、ご寵愛の童の顔を写しまして見事な出来でございましたから、大殿様も至極ご満足で、
原文: 「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」
「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」
原文: と云ふ難有い御言が下りました。
というありがたいお言葉が下りました。
原文: すると良秀は畏まつて、何を申すかと思ひますと、
すると良秀はかしこまって、何を申すかと思いますと、
原文: 「何卒私の娘をば御下げ下さいまするやうに。」
「どうか私の娘をお下げくださいますように。」
原文: と臆面もなく申し上げました。
と、臆面もなく申し上げました。
原文: 外のお邸ならば兎も角も、堀河の大殿様の御側に仕へてゐるのを、如何に可愛いからと申しまして、かやうに無躾に御暇を願ひますものが、どこの国に居りませう。
ほかのお邸ならともかく、堀川の大殿様のおそばに仕えているのを、いくら可愛いからと申して、こんなに不躾に暇を願う者が、どこの国におりましょう。
原文: これには大腹中の大殿様も聊か御機嫌を損じたと見えまして、暫くは唯、黙つて良秀の顔を眺めて御居でになりましたが、やがて、
これには度量の大きい大殿様も、いささかご機嫌を損じたと見えまして、しばらくはただ黙って良秀の顔を眺めていらっしゃいましたが、やがて、
原文: 「それはならぬ。」
「それはならぬ。」
原文: と吐出すやうに仰有ると、急にその儘御立になつてしまひました。
と吐き出すようにおっしゃると、急にそのままお立ちになってしまいました。
原文: かやうな事が、前後四五遍もございましたらうか。
こんなことが、前後四、五回もございましたでしょうか。
原文: 今になつて考へて見ますと、大殿様の良秀を御覧になる眼は、その都度にだんだんと冷やかになつていらしつたやうでございます。
今になって考えてみますと、大殿様が良秀をご覧になる目は、そのたびごとにだんだん冷ややかになっていらしたようでございます。
原文: すると又、それにつけても、娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか、曹司へ下つてゐる時などは、よく袿の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました。
すると、それにつけても娘のほうは、父親の身が案じられるせいででもございましょうか、部屋に下がっているときなどは、よく袿の袖を噛んで、しくしくと泣いておりました。
原文: そこで大殿様が良秀の娘に懸想なすつたなどと申す噂が、愈々拡がるやうになつたのでございませう。
そこで、大殿様が良秀の娘に懸想なさったなどと申す噂が、いよいよ広まるようになったのでございましょう。
原文: 中には地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に従はなかつたからだなどと申すものも居りますが、元よりさやうな事がある筈はございません。
中には、地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様のお心に従わなかったからだなどと申す者もおりますが、もとよりそんなことのあるはずはございません。
原文: 私どもの眼から見ますと、大殿様が良秀の娘を御下げにならなかつたのは、全く娘の身の上を哀れに思召したからで、あのやうに頑な親の側へやるよりは御邸に置いて、何の不自由なく暮させてやらうと云ふ難有い御考へだつたやうでございます。
私どもの目から見ますと、大殿様が良秀の娘をお下げにならなかったのは、まったく娘の身の上を哀れにお思いになったからで、あのように頑固な親のそばへやるよりは、お邸に置いて何の不自由もなく暮らさせてやろうという、ありがたいお考えだったようでございます。
原文: それは元より気立ての優しいあの娘を、御贔屓になつたのには間違ひございません。
もちろん、気立てのやさしいあの娘をご贔屓になったのには間違いございません。
原文: が、色を御好みになつたと申しますのは、恐らく牽強附会の説でございませう。
が、色をお好みになったと申しますのは、おそらく無理にこじつけた説でございましょう。
原文: いや、跡方もない嘘と申した方が、宜しい位でございます。
いや、跡形もない嘘と申したほうがよろしいくらいでございます。
原文: それは兎も角もと致しまして、かやうに娘の事から良秀の御覚えが大分悪くなつて来た時でございます。
それはともかくといたしまして、こうして娘のことから良秀のお覚えがだいぶ悪くなってきたときでございます。
原文: どう思召したか、大殿様は突然良秀を御召になつて、地獄変の屏風を描くやうにと、御云ひつけなさいました。
どうお思いになったか、大殿様は突然良秀をお召しになって、地獄変の屏風を描くようにとお言いつけなさいました。
原文: 六
六
原文: 地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色が、ありありと眼の前へ浮んで来るやうな気が致します。
地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の光景が、ありありと目の前に浮かんでくるような気がいたします。
原文: 同じ地獄変と申しましても、良秀の描きましたのは、外の絵師のに比べますと、第一図取りから似て居りません。
同じ地獄変と申しましても、良秀が描いたものは、ほかの絵師のものに比べますと、まず構図から似ておりません。
原文: それは一帖の屏風の片隅へ、小さく十王を始め眷属たちの姿を描いて、あとは一面に紅蓮大紅蓮の猛火が剣山刀樹も爛れるかと思ふ程渦を巻いて居りました。
それは一双の屏風の片隅に、小さく十王をはじめその配下の姿を描いて、あとは一面に紅蓮・大紅蓮の猛火が、剣の山も刀の樹もただれるかと思うほど渦を巻いておりました。
原文: でございますから、唐めいた冥官たちの衣裳が、点々と黄や藍を綴つて居ります外は、どこを見ても烈々とした火焔の色で、その中をまるで卍のやうに、墨を飛ばした黒煙と金粉を煽つた火の粉とが、舞ひ狂つて居るのでございます。
ですから、中国風の冥界の役人たちの衣装が、点々と黄や藍を綴っているほかは、どこを見ても燃えさかる炎の色で、その中をまるで卍のように、墨を飛ばした黒煙と金粉を煽り上げた火の粉とが、舞い狂っているのでございます。
原文: こればかりでも、随分人の目を驚かす筆勢でございますが、その上に又、業火に焼かれて、転々と苦しんで居ります罪人も、殆ど一人として通例の地獄絵にあるものはございません。
これだけでもずいぶん人の目を驚かす筆の勢いでございますが、その上また、業火に焼かれて転げまわり苦しんでいる罪人も、ほとんど一人として通常の地獄絵にあるようなものはございません。
原文: 何故かと申しますと良秀は、この多くの罪人の中に、上は月卿雲客から下は乞食非人まで、あらゆる身分の人間を写して来たからでございます。
なぜかと申しますと、良秀はこの多くの罪人の中に、上は高位の貴族から下は乞食や賤しい者まで、あらゆる身分の人間を写してきたからでございます。
原文: 束帯のいかめしい殿上人、五つ衣のなまめかしい青女房、珠数をかけた念仏僧、高足駄を穿いた侍学生、細長を着た女の童、幣をかざした陰陽師――一々数へ立てゝ居りましたら、とても際限はございますまい。
束帯のいかめしい殿上人、五つ衣のなまめかしい若い女房、数珠をかけた念仏僧、高下駄を履いた侍学生、細長を着た少女、幣をかざした陰陽師――一つ一つ数え立てておりましたら、とても際限はございますまい。
原文: 兎に角さう云ふいろ/\の人間が、火と煙とが逆捲く中を、牛頭馬頭の獄卒に虐まれて、大風に吹き散らされる落葉のやうに、紛々と四方八方へ逃げ迷つてゐるのでございます。
とにかく、そういういろいろな人間が、火と煙とが逆巻く中を、牛頭馬頭の獄卒にさいなまれて、大風に吹き散らされる落ち葉のように、ばらばらと四方八方へ逃げ惑っているのでございます。
原文: 鋼叉に髪をからまれて、蜘蛛よりも手足を縮めてゐる女は、神巫の類でゞもございませうか。
刺股に髪を絡めとられて、蜘蛛よりも手足を縮めている女は、巫女のたぐいででもございましょうか。
原文: 手矛に胸を刺し通されて、蝙蝠のやうに逆になつた男は、生受領か何かに相違ございますまい。
手矛に胸を刺し通されて、蝙蝠のように逆さになった男は、地方役人あがりか何かに違いございますまい。
原文: その外或は鉄の笞に打たれるもの、或は千曳の磐石に押されるもの、或は怪鳥の嘴にかけられるもの、或は又毒龍の顎に噛まれるもの――、呵責も亦罪人の数に応じて、幾通りあるかわかりません。
そのほか、あるいは鉄の鞭に打たれる者、あるいは千人がかりで引くような大岩に押しつぶされる者、あるいは怪鳥のくちばしにかけられる者、あるいはまた毒龍の顎に噛まれる者――責め苦もまた、罪人の数に応じて何通りあるかわかりません。
原文: が、その中でも殊に一つ目立つて凄じく見えるのは、まるで獣の牙のやうな刀樹の頂きを半ばかすめて(その刀樹の梢にも、多くの亡者が纍々と、五体を貫かれて居りましたが)中空から落ちて来る一輛の牛車でございませう。
が、その中でも特に一つ目立ってすさまじく見えるのは、まるで獣の牙のような刀の樹の頂きを半ばかすめて(その刀の樹の梢にも、多くの亡者が幾重にも五体を貫かれておりましたが)、空から落ちてくる一台の牛車でございましょう。
原文: 地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、女御、更衣にもまがふばかり、綺羅びやかに装つた女房が、丈の黒髪を炎の中になびかせて、白い頸を反らせながら、悶え苦しんで居りますが、その女房の姿と申し、又燃えしきつてゐる牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦を偲ばせないものはございません。
地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、女御や更衣かと見まがうばかりに華やかに装った女房が、丈なす黒髪を炎の中になびかせ、白いうなじを反らせながら悶え苦しんでおりますが、その女房の姿といい、また燃えさかっている牛車といい、何一つとして炎熱地獄の責め苦を思わせないものはございません。
原文: 云はゞ広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に輳つてゐるとでも申しませうか。
いわば、広い画面全体の恐ろしさが、この一人の人物に集まっているとでも申しましょうか。
原文: これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映えでございました。
これを見る者の耳の底には、おのずと恐ろしい叫び声が伝わってくるかと疑うほど、神が乗り移ったような出来映えでございました。
原文: あゝ、これでございます、これを描く為めに、あの恐ろしい出来事が起つたのでございます。
ああ、これでございます、これを描くために、あの恐ろしい出来事が起こったのでございます。
原文: 又さもなければ如何に良秀でも、どうしてかやうに生々と奈落の苦艱が画かれませう。
またそうでなければ、いくら良秀でも、どうしてこんなに生き生きと地獄の苦しみが描けましょう。
原文: あの男はこの屏風の絵を仕上げた代りに、命さへも捨てるやうな、無惨な目に出遇ひました。
あの男はこの屏風の絵を仕上げた代わりに、命さえも捨てるような、むごたらしい目に遭いました。
原文: 云はゞこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か墜ちて行く地獄だつたのでございます。……
いわばこの絵の地獄は、我が国第一の絵師である良秀が、自分でいつか堕ちていく地獄だったのでございます。……
原文: 私はあの珍しい地獄変の屏風の事を申上げますのを急いだあまりに、或は御話の順序を顛倒致したかも知れません。
私はあの珍しい地獄変の屏風のことを申し上げるのを急いだあまり、あるいはお話の順序をひっくり返してしまったかも知れません。
原文: が、これからは又引き続いて、大殿様から地獄絵を描けと申す仰せを受けた良秀の事に移りませう。
が、これからはまた引き続いて、大殿様から地獄絵を描けという仰せを受けた良秀のことに移りましょう。
原文: 七
七
原文: 良秀はそれから五六箇月の間、まるで御邸へも伺はないで、屏風の絵にばかりかゝつて居りました。
良秀はそれから五、六か月のあいだ、まるでお邸へも伺わないで、屏風の絵にばかりかかっておりました。
原文: あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云ふ段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。
あれほどの子煩悩が、いざ絵を描くという段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。
原文: 先刻申し上げました弟子の話では、何でもあの男は仕事にとりかゝりますと、まるで狐でも憑いたやうになるらしうございます。
さきほど申し上げました弟子の話では、どうもあの男は仕事にとりかかりますと、まるで狐でも憑いたようになるらしゅうございます。
原文: いや実際当時の風評に、良秀が画道で名を成したのは、福徳の大神に祈誓をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いてゐる所を、そつと物陰から覗いて見ると、必ず陰々として霊狐の姿が、一匹ならず前後左右に、群つてゐるのが見えるなどと申す者もございました。
いや、実際当時の噂に、良秀が絵の道で名を成したのは福徳の神に願をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いているところをそっと物陰から覗いてみると、必ず薄暗い中に霊狐の姿が一匹ならず前後左右に群がっているのが見える、などと申す者もございました。
原文: その位でございますから、いざ画筆を取るとなると、その絵を描き上げると云ふより外は、何も彼も忘れてしまふのでございませう。
それほどでございますから、いざ絵筆を取るとなると、その絵を描き上げるということのほかは、何もかも忘れてしまうのでございましょう。
原文: 昼も夜も一間に閉ぢこもつたきりで、滅多に日の目も見た事はございません。――
昼も夜も一間に閉じこもったきりで、めったに日の目を見たこともございません。――
原文: 殊に地獄変の屏風を描いた時には、かう云ふ夢中になり方が、甚しかつたやうでございます。
特に地獄変の屏風を描いたときには、こういう夢中になり方が、ひどかったようでございます。
原文: と申しますのは何もあの男が、昼も蔀も下した部屋の中で、結燈台の火の下に、秘密の絵の具を合せたり、或は弟子たちを、水干やら狩衣やら、さま/″\に着飾らせて、その姿を、一人づゝ丁寧に写したり、――さう云ふ事ではございません。
と申しますのは、なにもあの男が、昼も蔀戸を下ろした部屋の中で、灯台の火のもとで秘密の絵の具を合わせたり、あるいは弟子たちを水干やら狩衣やらさまざまに着飾らせて、その姿を一人ずつ丁寧に写したり、――そういうことではございません。
原文: それ位の変つた事なら、別にあの地獄変の屏風を描かなくとも、仕事にかゝつてゐる時とさへ申しますと、何時でもやり兼ねない男なのでございます。
それくらいの変わったことなら、別にあの地獄変の屏風を描かなくても、仕事にかかっているときとさえ申しますと、いつでもやりかねない男なのでございます。
原文: いや、現に龍蓋寺の五趣生死の図を描きました時などは、当り前の人間なら、わざと眼を外らせて行くあの往来の屍骸の前へ、悠々と腰を下して、半ば腐れかかつた顔や手足を、髪の毛一すぢも違へずに、写して参つた事がございました。
いや、現に龍蓋寺の五趣生死の図を描きましたときなどは、普通の人間ならわざと目をそらして通るあの往来の死骸の前に、悠々と腰を下ろして、半ば腐りかけた顔や手足を、髪の毛一筋も違えずに写してきたことがございました。
原文: では、その甚しい夢中になり方とは、一体どう云ふ事を申すのか、流石に御わかりにならない方もいらつしやいませう。
では、そのひどい夢中になり方とは、いったいどういうことを申すのか、さすがにおわかりにならない方もいらっしゃいましょう。
原文: それは唯今詳しい事は申し上げてゐる暇もございませんが、主な話を御耳に入れますと、大体先かやうな次第なのでございます。
それは今、詳しいことを申し上げている暇もございませんが、主だった話をお耳に入れますと、だいたいまずこういう次第なのでございます。
原文: 良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)或日絵の具を溶いて居りますと、急に師匠が参りまして、
良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)、ある日絵の具を溶いておりますと、急に師匠がやってきまして、
原文: 「己は少し午睡をしようと思ふ。がどうもこの頃は夢見が悪い。」
「わしは少し昼寝をしようと思う。だがどうもこの頃は夢見が悪い。」
原文: とかう申すのでございます。
と、こう申すのでございます。
原文: 別にこれは珍しい事でも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、唯、
別にこれは珍しいことでも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、ただ、
原文: 「さやうでございますか。」
「さようでございますか。」
原文: と一通りの挨拶を致しました。
と、ひととおりの返事をいたしました。
原文: 所が、良秀は、何時になく寂しさうな顔をして、
ところが良秀は、いつになく寂しそうな顔をして、
原文: 「就いては、己が午睡をしてゐる間中、枕もとに坐つてゐて貰ひたいのだが。」
「ついては、わしが昼寝をしているあいだじゅう、枕もとに坐っていてもらいたいのだが。」
原文: と、遠慮がましく頼むではございませんか。
と、遠慮がちに頼むではございませんか。
原文: 弟子は何時になく、師匠が夢なぞを気にするのは、不思議だと思ひましたが、それも別に造作のない事でございますから、
弟子は、いつになく師匠が夢などを気にするのは不思議だと思いましたが、それも別に面倒なことではございませんから、
原文: 「よろしうございます。」
「よろしゅうございます。」
原文: と申しますと、師匠はまだ心配さうに、
と申しますと、師匠はまだ心配そうに、
原文: 「では直に奥へ来てくれ。尤も後で外の弟子が来ても、己の睡つてゐる所へは入れないやうに。」
「では、すぐに奥へ来てくれ。もっとも、後でほかの弟子が来ても、わしの寝ているところへは入れないように。」
原文: と、ためらひながら云ひつけました。
と、ためらいながら言いつけました。
原文: 奥と申しますのは、あの男が画を描きます部屋で、その日も夜のやうに戸を立て切つた中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだ焼筆で図取りだけしか出来てゐない屏風が、ぐるりと立て廻してあつたさうでございます。
奥と申しますのは、あの男が絵を描く部屋で、その日も夜のように戸を閉め切った中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだ焼き筆で下絵だけしかできていない屏風が、ぐるりと立てまわしてあったそうでございます。
原文: さてこゝへ参りますと、良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切つた人間のやうに、すや/\、睡入つてしまひましたが、ものゝ半時とたちません中に、枕もとに居ります弟子の耳には、何とも彼とも申しやうのない、気味の悪い声がはいり始めました。
さて、ここへ参りますと、良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切った人間のようにすやすやと寝入ってしまいましたが、一時間も経たないうちに、枕もとにいる弟子の耳に、何とも言いようのない気味の悪い声が入りはじめました。
原文: 八
八
原文: それが始めは唯、声でございましたが、暫くしますと、次第に切れ/″\な語になつて、云はゞ溺れかゝつた人間が水の中で呻るやうに、かやうな事を申すのでございます。
それははじめはただの声でございましたが、しばらくすると次第に切れ切れの言葉になって、いわば溺れかかった人間が水の中でうなるように、こんなことを申すのでございます。
原文: 「なに、己に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら」
「なに、わしに来いと言うのだな。――どこへ――どこへ来いと。地獄の底へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。そう言うおまえは。――おまえは誰だ――誰だと思ったら」
原文: 弟子は思はず絵の具を溶く手をやめて、恐る/\師匠の顔を、覗くやうにして透して見ますと、皺だらけな顔が白くなつた上に大粒な汗を滲ませながら、唇の干いた、歯の疎な口を喘ぐやうに大きく開けて居ります。
弟子は思わず絵の具を溶く手をやめて、恐る恐る師匠の顔を覗き込むようにして透かして見ますと、皺だらけの顔が白くなった上に大粒の汗をにじませながら、唇の乾いた、歯のまばらな口を、喘ぐように大きく開けております。
原文: さうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。
そして、その口の中で、何か糸でもつけて引っ張っているのかと疑うほど目まぐるしく動くものがあると思いますと、それがあの男の舌だったと申すではございませんか。
原文: 切れ切れな語は元より、その舌から出て来るのでございます。
切れ切れの言葉は、もちろんその舌から出てくるのでございます。
原文: 「誰だと思つたら――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」
「誰だと思ったら――うん、おまえだな。わしもおまえだろうと思っていた。なに、迎えに来たと。だから来い。地獄の底へ来い。地獄の底には――地獄の底にはわしの娘が待っている。」
原文: その時、弟子の眼には、朦朧とした異形の影が、屏風の面をかすめてむらむらと下りて来るやうに見えた程、気味の悪い心もちが致したさうでございます。
そのとき弟子の目には、ぼんやりとした異形の影が、屏風の面をかすめてむらむらと下りてくるように見えたほど、気味の悪い心地がしたそうでございます。
原文: 勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り揺り起しましたが、師匠は猶夢現に独り語を云ひつゞけて、容易に眼のさめる気色はございません。
もちろん弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のかぎり揺り起こしましたが、師匠はなおも夢うつつで独り言を言い続けて、なかなか目の覚める気配はございません。
原文: そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。
そこで弟子は思い切って、そばにあった筆洗いの水を、ざぶりとあの男の顔に浴びせかけました。
原文: 「待つてゐるから、この車へ乗つて来い――この車へ乗つて、奈落へ来い――」
「待っているから、この車に乗って来い――この車に乗って、地獄の底へ来い――」
原文: と云ふ語がそれと同時に、喉をしめられるやうな呻き声に変つたと思ひますと、やつと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌しく、矢庭にそこへ刎ね起きましたが、まだ夢の中の異類異形が、眶の後を去らないのでございませう。
という言葉が、それと同時に喉を絞められるようなうめき声に変わったと思いますと、やっと良秀は目を開いて、針で刺されたよりも慌ただしく、いきなりその場に跳ね起きましたが、まだ夢の中の異形のものが、まぶたの裏を去らないのでございましょう。
原文: 暫くは唯恐ろしさうな眼つきをして、やはり大きく口を開きながら、空を見つめて居りましたが、やがて我に返つた容子で、
しばらくはただ恐ろしそうな目つきをして、やはり大きく口を開いたまま宙を見つめておりましたが、やがて我に返った様子で、
原文: 「もう好いから、あちらへ行つてくれ」
「もういいから、あちらへ行ってくれ」
原文: と、今度は如何にも素つ気なく、云ひつけるのでございます。
と、今度はいかにも素っ気なく言いつけるのでございます。
原文: 弟子はかう云ふ時に逆ふと、何時でも大小言を云はれるので、匆々師匠の部屋から出て参りましたが、まだ明い外の日の光を見た時には、まるで自分が悪夢から覚めた様な、ほつとした気が致したとか申して居りました。
弟子は、こういうときに逆らうといつでもひどく小言を言われるので、そそくさと師匠の部屋から出てまいりましたが、まだ明るい外の日の光を見たときには、まるで自分が悪夢から覚めたような、ほっとした気がしたとか申しておりました。
原文: しかしこれなぞはまだよい方なので、その後一月ばかりたつてから、今度は又別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはりうす暗い油火の光りの中で、絵筆を噛んで居りましたが、いきなり弟子の方へ向き直つて、
しかしこれなどはまだよいほうで、その後一か月ばかり経ってから、今度はまた別の弟子がわざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはり薄暗い油火の光の中で絵筆を噛んでおりましたが、いきなり弟子のほうへ向き直って、
原文: 「御苦労だが、又裸になつて貰はうか。」
「ご苦労だが、また裸になってもらおうか。」
原文: と申すのでございます。
と申すのでございます。
原文: これはその時までにも、どうかすると師匠が云ひつけた事でございますから、弟子は早速衣類をぬぎすてて、赤裸になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、
これはそのときまでにも、ときどき師匠が言いつけたことでございますから、弟子はさっそく着物を脱ぎ捨てて真っ裸になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、
原文: 「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思ふのだが、気の毒でも暫くの間、わしのする通りになつてゐてはくれまいか。」
「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思うのだが、気の毒でもしばらくのあいだ、わしのするとおりになっていてはくれまいか。」
原文: と、その癖少しも気の毒らしい容子などは見せずに、冷然とかう申しました。
と、そのくせ少しも気の毒そうな様子など見せずに、冷たくこう申しました。
原文: 元来この弟子は画筆などを握るよりも、太刀でも持つた方が好ささうな、逞しい若者でございましたが、これには流石に驚いたと見えて、後々までもその時の話を致しますと、「これは師匠が気が違つて、私を殺すのではないかと思ひました」
もともとこの弟子は、絵筆などを握るよりも太刀でも持ったほうがよさそうな、たくましい若者でございましたが、これにはさすがに驚いたと見えて、後々までもそのときの話をしますと、「これは師匠が気が違って、私を殺すのではないかと思いました」
原文: と繰返して申したさうでございます。
と繰り返して申したそうでございます。
原文: が、良秀の方では、相手の愚図々々してゐるのが、燥つたくなつて参つたのでございませう。
が、良秀のほうでは、相手がぐずぐずしているのがじれったくなってきたのでございましょう。
原文: どこから出したか、細い鉄の鎖をざら/\と手繰りながら、殆ど飛びつくやうな勢ひで、弟子の背中へ乗りかかりますと、否応なしにその儘両腕を捻ぢあげて、ぐる/\巻きに致してしまひました。
どこから出したのか、細い鉄の鎖をざらざらとたぐりながら、ほとんど飛びつくような勢いで弟子の背中に乗りかかりますと、否応なしにそのまま両腕をねじ上げて、ぐるぐる巻きにしてしまいました。
原文: さうして又その鎖の端を邪慳にぐいと引きましたからたまりません。
そしてまた、その鎖の端を情け容赦なくぐいと引いたのですから、たまりません。
原文: 弟子の体ははづみを食つて、勢よく床を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまつたのでございます。
弟子の体ははずみを食って、勢いよく床を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまったのでございます。
原文: 九
九
原文: その時の弟子の恰好は、まるで酒甕を転がしたやうだとでも申しませうか。
そのときの弟子の格好は、まるで酒甕を転がしたようだとでも申しましょうか。
原文: 何しろ手も足も惨たらしく折り曲げられて居りますから、動くのは唯首ばかりでございます。
なにしろ手も足もむごたらしく折り曲げられておりますから、動くのは首ばかりでございます。
原文: そこへ肥つた体中の血が、鎖に循環を止められたので、顔と云はず胴と云はず、一面に皮膚の色が赤み走つて参るではございませんか。
そこへ、太った体じゅうの血が鎖にめぐりを止められたので、顔といわず胴といわず、一面に皮膚の色が赤みを帯びてくるではございませんか。
原文: が、良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、その酒甕のやうな体のまはりを、あちこちと廻つて眺めながら、同じやうな写真の図を何枚となく描いて居ります。
が、良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、その酒甕のような体のまわりをあちこち回って眺めながら、同じような写生の図を何枚となく描いております。
原文: その間、縛られてゐる弟子の身が、どの位苦しかつたかと云ふ事は、何もわざ/\取り立てゝ申し上げるまでもございますまい。
そのあいだ、縛られている弟子の身がどれほど苦しかったかということは、わざわざ取り立てて申し上げるまでもございますまい。
原文: が、もし何事も起らなかつたと致しましたら、この苦しみは恐らくまだその上にも、つゞけられた事でございませう。
が、もし何事も起こらなかったとしましたら、この苦しみはおそらくまだその上にも、続けられたことでございましょう。
原文: 幸(と申しますより、或は不幸にと申した方がよろしいかも知れません。)
幸い(と申しますより、あるいは不幸にと申したほうがよろしいかも知れません。)
原文: 暫く致しますと、部屋の隅にある壺の蔭から、まるで黒い油のやうなものが、一すぢ細くうねりながら、流れ出して参りました。
しばらくしますと、部屋の隅にある壺の陰から、まるで黒い油のようなものが、一筋細くうねりながら流れ出してまいりました。
原文: それが始の中は余程粘り気のあるものゝやうに、ゆつくり動いて居りましたが、だん/\滑らかに、辷り始めて、やがてちら/\光りながら、鼻の先まで流れ着いたのを眺めますと、弟子は思はず、息を引いて、
それははじめのうちは、よほど粘り気のあるもののようにゆっくり動いておりましたが、だんだん滑らかに滑りはじめて、やがてちらちら光りながら鼻の先まで流れ着いたのを見ますと、弟子は思わず息を呑んで、
原文: 「蛇が――蛇が。」
「蛇が――蛇が。」
原文: と喚きました。
とわめきました。
原文: その時は全く体中の血が一時に凍るかと思つたと申しますが、それも無理はございません。
そのときは、まったく体じゅうの血が一度に凍るかと思ったと申しますが、それも無理はございません。
原文: 蛇は実際もう少しで、鎖の食ひこんでゐる、頸の肉へその冷い舌の先を触れようとしてゐたのでございます。
蛇は実際もう少しで、鎖の食い込んでいる首の肉に、その冷たい舌の先を触れようとしていたのでございます。
原文: この思ひもよらない出来事には、いくら横道な良秀でも、ぎよつと致したのでございませう。
この思いもよらない出来事には、いくらひねくれ者の良秀でも、ぎょっとしたのでございましょう。
原文: 慌てて画筆を投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思ふと、素早く蛇の尾をつかまへて、ぶらりと逆に吊り下げました。
慌てて絵筆を投げ捨てながら、とっさに身をかがめたと思うと、素早く蛇の尾をつかまえて、ぶらりと逆さに吊り下げました。
原文: 蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きり/\と自分の体へ巻つきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。
蛇は吊り下げられながらも頭を上げて、きりきりと自分の体に巻きつきましたが、どうしてもあの男の手のところまでは届きません。
原文: 「おのれ故に、あつたら一筆を仕損じたぞ。」
「おまえのせいで、惜しい一筆を仕損じたぞ。」
原文: 良秀は忌々しさうにかう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それからさも不承無承に、弟子の体へかゝつてゐる鎖を解いてくれました。
良秀は忌々しそうにこう呟くと、蛇はそのまま部屋の隅の壺の中へ放り込んで、それからいかにも不承不承に、弟子の体にかかっている鎖を解いてくれました。
原文: それも唯解いてくれたと云ふ丈で、肝腎の弟子の方へは、優しい言葉一つかけてはやりません。
それもただ解いてくれたというだけで、肝心の弟子のほうへは、やさしい言葉一つかけてやりません。
原文: 大方弟子が蛇に噛まれるよりも、写真の一筆を誤つたのが、業腹だつたのでございませう。――
大方、弟子が蛇に噛まれることよりも、写生の一筆を誤ったほうが腹立たしかったのでございましょう。――
原文: 後で聞きますと、この蛇もやはり姿を写す為にわざ/\あの男が飼つてゐたのださうでございます。
後で聞きますと、この蛇もやはり姿を写すために、わざわざあの男が飼っていたのだそうでございます。
原文: これだけの事を御聞きになつたのでも、良秀の気違ひじみた、薄気味の悪い夢中になり方が、略御わかりになつた事でございませう。
これだけのことをお聞きになったのでも、良秀の気違いじみた、薄気味の悪い夢中になり方が、おおよそおわかりになったことでございましょう。
原文: 所が最後に一つ、今度はまだ十三四の弟子が、やはり地獄変の屏風の御かげで、云はゞ命にも関はり兼ねない、恐ろしい目に出遇ひました。
ところが最後にもう一つ、今度はまだ十三、四の弟子が、やはり地獄変の屏風のおかげで、いわば命にも関わりかねない恐ろしい目に遭いました。
原文: その弟子は生れつき色の白い女のやうな男でございましたが、或夜の事、何気なく師匠の部屋へ呼ばれて参りますと、良秀は燈台の火の下で掌に何やら腥い肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を養つてゐるのでございます。
その弟子は生まれつき色の白い、女のような男でございましたが、ある夜のこと、何気なく師匠の部屋へ呼ばれてまいりますと、良秀は灯台の火のもとで、手のひらに何やら生臭い肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を飼っているのでございます。
原文: 大きさは先、世の常の猫ほどもございませうか。
大きさは、まず世間並みの猫ほどもございましょうか。
原文: さう云へば、耳のやうに両方へつき出た羽毛と云ひ、琥珀のやうな色をした、大きな円い眼と云ひ、見た所も何となく猫に似て居りました。
そう言えば、耳のように両方へ突き出た羽毛といい、琥珀のような色をした大きな丸い目といい、見たところも何となく猫に似ておりました。
原文: 十
十
原文: 元来良秀と云ふ男は、何でも自分のしてゐる事に嘴を入れられるのが大嫌ひで、先刻申し上げた蛇などもさうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、一切さう云ふ事は弟子たちにも知らせた事がございません。
もともと良秀という男は、何でも自分のしていることに口をはさまれるのが大嫌いで、さきほど申し上げた蛇などもそうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、そういうことは一切、弟子たちにも知らせたことがございません。
原文: でございますから、或時は机の上に髑髏がのつてゐたり、或時は又、銀の椀や蒔絵の高坏が並んでゐたり、その時描いてゐる画次第で、随分思ひもよらない物が出て居りました。
ですから、あるときは机の上に髑髏がのっていたり、あるときはまた、銀の椀や蒔絵の高坏が並んでいたりと、そのとき描いている絵しだいで、ずいぶん思いもよらない物が出ておりました。
原文: が、ふだんはかやうな品を、一体どこにしまつて置くのか、それは又誰にもわからなかつたさうでございます。
が、ふだんはこういう品を、いったいどこにしまっておくのか、それはまた誰にもわからなかったそうでございます。
原文: あの男が福徳の大神の冥助を受けてゐるなどゝ申す噂も、一つは確にさう云ふ事が起りになつてゐたのでございませう。
あの男が福徳の神の加護を受けているなどと申す噂も、一つには確かにそういうことが起こりになっていたのでございましょう。
原文: そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに入用なのに違ひないと、かう独り考へながら、師匠の前へ畏まつて、「何か御用でございますか」
そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに必要なのに違いないと、ひとりそう考えながら、師匠の前にかしこまって「何かご用でございますか」
原文: と、恭々しく申しますと、良秀はまるでそれが聞えないやうに、あの赤い唇へ舌なめずりをして、
とうやうやしく申しますと、良秀はまるでそれが聞こえないように、あの赤い唇へ舌なめずりをして、
原文: 「どうだ。よく馴れてゐるではないか。」
「どうだ。よく馴れているではないか。」
原文: と、鳥の方へ頤をやります。
と、鳥のほうへ顎をしゃくります。
原文: 「これは何と云ふものでございませう。私はついぞまだ、見た事がございませんが。」
「これは何と申すものでございましょう。私はまだ一度も見たことがございませんが。」
原文: 弟子はかう申しながら、この耳のある、猫のやうな鳥を、気味悪さうにじろじろ眺めますと、良秀は不相変何時もの嘲笑ふやうな調子で、
弟子がこう申しながら、この耳のある猫のような鳥を気味悪そうにじろじろ眺めますと、良秀は相変わらずいつもの嘲るような調子で、
原文: 「なに、見た事がない? 都育ちの人間はそれだから困る。これは二三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた耳木兎と云ふ鳥だ。唯、こんなに馴れてゐるのは、沢山あるまい。」
「なに、見たことがない。都育ちの人間はそれだから困る。これは二、三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた、みみずくという鳥だ。ただ、こんなに馴れているのは、そう多くはあるまい。」
原文: かう云ひながらあの男は、徐に手をあげて、丁度餌を食べてしまつた耳木兎の背中の毛を、そつと下から撫で上げました。
こう言いながらあの男は、ゆっくりと手を上げて、ちょうど餌を食べ終えたみみずくの背中の毛を、そっと下から撫で上げました。
原文: するとその途端でございます。
するとその途端でございます。
原文: 鳥は急に鋭い声で、短く一声啼いたと思ふと、忽ち机の上から飛び上つて、両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へとびかゝりました。
鳥は急に鋭い声で短く一声鳴いたと思うと、たちまち机の上から飛び上がって、両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へ飛びかかりました。
原文: もしその時、弟子が袖をかざして、慌てゝ顔を隠さなかつたなら、きつともう疵の一つや二つは負はされて居りましたらう。
もしそのとき、弟子が袖をかざして慌てて顔を隠さなかったなら、きっと傷の一つや二つは負わされていたことでしょう。
原文: あつと云ひながら、その袖を振つて、逐ひ払はうとする所を、耳木兎は蓋にかかつて、嘴を鳴らしながら、又一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立つては防ぎ、坐つては逐ひ、思はず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑ひました。
あっと言いながらその袖を振って追い払おうとするところを、みみずくはここぞとばかりに、くちばしを鳴らしながらまた一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立っては防ぎ、坐っては追い払い、思わず狭い部屋の中をあちらこちらと逃げ惑いました。
原文: 怪鳥も元よりそれにつれて、高く低く翔りながら、隙さへあれば驀地に眼を目がけて飛んで来ます。
怪鳥ももちろんそれにつれて、高く低く飛び回りながら、隙さえあればまっしぐらに目をめがけて飛んできます。
原文: その度にばさ/\と、凄じく翼を鳴すのが、落葉の匂だか、滝の水沫とも或は又猿酒の饐ゑたいきれだか何やら怪しげなものゝけはひを誘つて、気味の悪さと云つたらございません。
そのたびにばさばさとすさまじく翼を鳴らすのが、落ち葉の匂いだか、滝のしぶきだか、あるいはまた猿酒の饐えた熱気だか、何やら怪しげなものの気配を誘って、その気味の悪さといったらございません。
原文: さう云へばその弟子も、うす暗い油火の光さへ朧げな月明りかと思はれて、師匠の部屋がその儘遠い山奥の、妖気に閉された谷のやうな、心細い気がしたとか申したさうでございます。
そう言えばその弟子も、薄暗い油火の光さえおぼろげな月明かりかと思われて、師匠の部屋がそのまま遠い山奥の、妖気に閉ざされた谷のような、心細い気がしたとか申したそうでございます。
原文: しかし弟子が恐しかつたのは、何も耳木兎に襲はれると云ふ、その事ばかりではございません。
しかし弟子が恐ろしかったのは、なにもみみずくに襲われるという、そのことばかりではございません。
原文: いや、それよりも一層身の毛がよだつたのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷然と眺めながら、徐に紙を展べ筆を舐つて、女のやうな少年が異形な鳥に虐まれる、物凄い有様を写してゐた事でございます。
いや、それよりも一層身の毛がよだったのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷たく眺めながら、ゆっくりと紙を広げ筆を舐めて、女のような少年が異形の鳥にさいなまれる、そのすさまじい有様を写していたことでございます。
原文: 弟子は一目それを見ますと、忽ち云ひやうのない恐ろしさに脅かされて、実際一時は師匠の為に、殺されるのではないかとさへ、思つたと申して居りました。
弟子はひと目それを見ますと、たちまち言いようのない恐ろしさに脅かされて、実際一時は師匠に殺されるのではないかとさえ思ったと申しておりました。
原文: 十一
十一
原文: 実際師匠に殺されると云ふ事も、全くないとは申されません。
実際、師匠に殺されるということも、まったくないとは申せません。
原文: 現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさへ、実は耳木兎を唆かけて、弟子の逃げまはる有様を写さうと云ふ魂胆らしかつたのでございます。
現にその晩わざわざ弟子を呼び寄せたのでさえ、実はみみずくをけしかけて、弟子の逃げまわる有様を写そうという魂胆らしかったのでございます。
原文: でございますから、弟子は、師匠の容子を一目見るが早いか、思はず両袖に頭を隠しながら、自分にも何と云つたかわからないやうな悲鳴をあげて、その儘部屋の隅の遣戸の裾へ、居すくまつてしまひました。
ですから弟子は、師匠の様子をひと目見るが早いか、思わず両袖に頭を隠しながら、自分でも何と言ったかわからないような悲鳴を上げて、そのまま部屋の隅の引き戸のきわに、すくみ込んでしまいました。
原文: とその拍子に、良秀も何やら慌てたやうな声をあげて、立上つた気色でございましたが、忽ち耳木兎の羽音が一層前よりもはげしくなつて、物の倒れる音や破れる音が、けたゝましく聞えるではございませんか。
とその拍子に、良秀も何やら慌てたような声を上げて立ち上がった様子でございましたが、たちまちみみずくの羽音が前よりも一層激しくなって、物の倒れる音や破れる音が、けたたましく聞こえるではございませんか。
原文: これには弟子も二度、度を失つて、思はず隠してゐた頭を上げて見ますと、部屋の中は何時かまつ暗になつてゐて、師匠の弟子たちを呼び立てる声が、その中で苛立しさうにして居ります。
これには弟子も再び度を失って、思わず隠していた頭を上げて見ますと、部屋の中はいつのまにか真っ暗になっていて、師匠が弟子たちを呼び立てる声が、その中で苛立たしそうにしております。
原文: やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、急いでやつて参りましたが、その煤臭い明りで眺めますと、結燈台が倒れたので、床も畳も一面に油だらけになつた所へ、さつきの耳木兎が片方の翼ばかり、苦しさうにはためかしながら、転げまはつてゐるのでございます。
やがて弟子の一人が遠くのほうで返事をして、それから灯をかざしながら急いでやってまいりましたが、その煤臭い明かりで眺めますと、灯台が倒れたので床も畳も一面に油だらけになったところへ、さっきのみみずくが片方の翼ばかりを苦しそうにはためかせながら、転げまわっているのでございます。
原文: 良秀は机の向うで半ば体を起した儘、流石に呆気にとられたやうな顔をして、何やら人にはわからない事を、ぶつ/\呟いて居りました。――
良秀は机の向こうで半ば体を起こしたまま、さすがに呆気にとられたような顔をして、何やら人にはわからないことをぶつぶつ呟いておりました。――
原文: それも無理ではございません。
それも無理はございません。
原文: あの耳木兎の体には、まつ黒な蛇が一匹、頸から片方の翼へかけて、きりきりと捲きついてゐるのでございます。
あのみみずくの体には、真っ黒な蛇が一匹、首から片方の翼にかけて、きりきりと巻きついているのでございます。
原文: 大方これは弟子が居すくまる拍子に、そこにあつた壺をひつくり返して、その中の蛇が這ひ出したのを、耳木兎がなまじひに掴みかゝらうとしたばかりに、とう/\かう云ふ大騒ぎが始まつたのでございませう。
大方これは、弟子がすくみ込む拍子にそこにあった壺をひっくり返して、その中の蛇が這い出したのを、みみずくが下手に掴みかかろうとしたばかりに、とうとうこんな大騒ぎが始まったのでございましょう。
原文: 二人の弟子は互に眼と眼とを見合せて、暫くは唯、この不思議な光景をぼんやり眺めて居りましたが、やがて師匠に黙礼をして、こそ/\部屋へ引き下つてしまひました。
二人の弟子は互いに目と目を見合わせて、しばらくはただ、この不思議な光景をぼんやり眺めておりましたが、やがて師匠に黙礼をして、こそこそと部屋へ引き下がってしまいました。
原文: 蛇と耳木兎とがその後どうなつたか、それは誰も知つてゐるものはございません。――
蛇とみみずくとがその後どうなったか、それは誰も知っている者はございません。――
原文: かう云ふ類の事は、その外まだ、幾つとなくございました。
こういう類のことは、そのほかにもまだ、いくつとなくございました。
原文: 前には申し落しましたが、地獄変の屏風を描けと云ふ御沙汰があつたのは、秋の初でございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず師匠の怪しげな振舞に脅かされてゐた訳でございます。
前には申し落としましたが、地獄変の屏風を描けというお言いつけがあったのは秋の初めでございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは絶えず師匠の怪しげなふるまいに脅かされていたわけでございます。
原文: が、その冬の末に良秀は何か屏風の画で、自由にならない事が出来たのでございませう、それまでよりは、一層容子も陰気になり、物云ひも目に見えて、荒々しくなつて参りました。
が、その冬の末に、良秀は何か屏風の絵で思うようにならないことが出てきたのでございましょう、それまでよりも一層様子が陰気になり、物の言い方も目に見えて荒々しくなってまいりました。
原文: と同時に又屏風の画も、下画が八分通り出来上つた儘、更に捗どる模様はございません。
と同時に、屏風の絵のほうも、下絵が八分どおりできあがったまま、それ以上はかどる様子はございません。
原文: いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない気色なのでございます。
いや、どうかすると、今までに描いたところさえ塗りつぶしてしまいかねない気配なのでございます。
原文: その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。
そのくせ、屏風の何が思うようにならないのだか、それは誰にもわかりません。
原文: 又、誰もわからうとしたものもございますまい。
また、誰もわかろうとした者もございますまい。
原文: 前のいろ/\な出来事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つ檻にでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。
前のいろいろな出来事に懲りている弟子たちは、まるで虎や狼と一つの檻にでもいるような心地で、その後は師匠の身のまわりへは、なるべく近づかない算段をしておりましたから。
原文: 十二
十二
原文: 従つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。
したがって、そのあいだのことについては、別に取り立てて申し上げるほどのお話もございません。
原文: もし強ひて申し上げると致しましたら、それはあの強情な老爺が、何故か妙に涙脆くなつて、人のゐない所では時々独りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。
もし強いて申し上げるとしましたら、それはあの強情な親父が、なぜか妙に涙もろくなって、人のいないところでは時々ひとりで泣いていたというお話ぐらいなものでございましょう。
原文: 殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ参りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。
特にある日、何かの用で弟子の一人が庭先へまいりましたときなどは、廊下に立ってぼんやりと春の近い空を眺めている師匠の目が、涙でいっぱいになっていたそうでございます。
原文: 弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな気がしたので、黙つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、五趣生死の図を描く為には、道ばたの屍骸さへ写したと云ふ、傲慢なあの男が、屏風の画が思ふやうに描けない位の事で、子供らしく泣き出すなどと申すのは、随分異なものでございませんか。
弟子はそれを見ますと、かえってこちらが恥ずかしいような気がしたので、黙ってこそこそと引き返したと申すことでございますが、五趣生死の図を描くためには道ばたの死骸さえ写したという傲慢なあの男が、屏風の絵が思うように描けないぐらいのことで子供のように泣き出すなどと申すのは、ずいぶん妙なものではございませんか。
原文: 所が一方良秀がこのやうに、まるで正気の人間とは思はれない程夢中になつて、屏風の絵を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだん/\気鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて参りました。
ところが一方で、良秀がこのように、まるで正気の人間とは思えないほど夢中になって屏風の絵を描いているうちに、もう一方ではあの娘が、なぜかだんだん気鬱になって、私どもにさえ涙をこらえている様子が、目立ってまいりました。
原文: それが元来愁顔の、色の白い、つゝましやかな女だけに、かうなると何だか睫毛が重くなつて、眼のまはりに隈がかゝつたやうな、余計寂しい気が致すのでございます。
それがもともと憂い顔の、色の白い、つつましやかな女だけに、こうなると何だか睫毛が重くなって、目のまわりに隈がかかったような、いっそう寂しい感じがするのでございます。
原文: 初はやれ父思ひのせゐだの、やれ恋煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、夫からは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。
はじめは、やれ父を思うせいだの、やれ恋煩いをしているからだのと、いろいろ憶測をした者がございますが、中ごろから、なにあれは大殿様がお心に従わせようとなさっているのだという評判が立ちはじめて、それからは誰も忘れたように、ぱったりとあの娘の噂をしなくなってしまいました。
原文: 丁度その頃の事でございませう。
ちょうどその頃のことでございましょう。
原文: 或夜、更が闌けてから、私が独り御廊下を通りかゝりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで参りまして、私の袴の裾を頻りにひつぱるのでございます、確、もう梅の匂でも致しさうな、うすい月の光のさしてゐる、暖い夜でございましたが、其明りですかして見ますと、猿はまつ白な歯をむき出しながら、鼻の先へ皺をよせて、気が違はないばかりにけたゝましく啼き立てゝゐるではございませんか。
ある夜、夜も更けてから私がひとり廊下を通りかかりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んでまいりまして、私の袴の裾をしきりに引っ張るのでございます。たしか、もう梅の香りでもしそうな、薄い月の光のさしている暖かい夜でございましたが、その明かりで透かして見ますと、猿は真っ白な歯をむき出しながら、鼻の先に皺を寄せて、気が違わんばかりにけたたましく鳴き立てているではございませんか。
原文: 私は気味の悪いのが三分と、新しい袴をひつぱられる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放して、その儘通りすぎようかとも思ひましたが、又思ひ返して見ますと、前にこの猿を折檻して、若殿様の御不興を受けた侍の例もございます。
私は気味の悪さが三分と、新しい袴を引っ張られる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放してそのまま通り過ぎようかとも思いましたが、また思い返してみますと、以前この猿を折檻して若殿様のご不興を買った侍の例もございます。
原文: それに猿の振舞が、どうも唯事とは思はれません。
それに猿のふるまいが、どうもただごととは思われません。
原文: そこでとう/\私も思ひ切つて、そのひつぱる方へ五六間歩くともなく歩いて参りました。
そこでとうとう私も思い切って、その引っ張るほうへ十メートルばかり、歩くともなく歩いてまいりました。
原文: すると御廊下が一曲り曲つて、夜目にもうす白い御池の水が枝ぶりのやさしい松の向うにひろ/″\と見渡せる、丁度そこ迄参つた時の事でございます。
すると廊下がひと曲がり曲がって、夜目にも薄白い池の水が、枝ぶりのやさしい松の向こうに広々と見渡せる、ちょうどそこまでまいったときのことでございます。
原文: どこか近くの部屋の中で人の争つてゐるらしいけはひが、慌しく、又妙にひつそりと私の耳を脅しました。
どこか近くの部屋の中で人が争っているらしい気配が、慌ただしく、また妙にひっそりと、私の耳を脅かしました。
原文: あたりはどこも森と静まり返つて、月明りとも靄ともつかないものゝ中で、魚の跳る音がする外は、話し声一つ聞えません。
あたりはどこもしんと静まり返って、月明かりとも靄ともつかないものの中で、魚の跳ねる音がするほかは、話し声一つ聞こえません。
原文: そこへこの物音でございますから。
そこへこの物音でございますから。
原文: 私は思はず立止つて、もし狼藉者でゞもあつたなら、目にもの見せてくれようと、そつとその遣戸の外へ、息をひそめながら身をよせました。
私は思わず立ち止まって、もし狼藉者ででもあったなら目にもの見せてくれようと、そっとその引き戸の外へ、息をひそめながら身を寄せました。
原文: 十三
十三
原文: 所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。
ところが猿は、私のやり方がまだるっこかったのでございましょう。
原文: 良秀はさもさももどかしさうに、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるで咽を絞められたやうな声で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛に飛び上りました。
良秀はいかにももどかしそうに、二、三度私の足のまわりを駆けまわったと思いますと、まるで喉を絞められたような声で鳴きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛びに飛び上がりました。
原文: 私は思はず頸を反らせて、その爪にかけられまいとする、猿は又水干の袖にかじりついて、私の体から辷り落ちまいとする、――その拍子に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、その遣り戸へ後ざまに、したゝか私の体を打ちつけました。
私は思わず首を反らせて、その爪にかけられまいとする、猿はまた水干の袖にかじりついて、私の体から滑り落ちまいとする、――その拍子に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、その引き戸へ後ろざまに、したたか体を打ちつけました。
原文: かうなつてはもう一刻も躊躇してゐる場合ではございません。
こうなってはもう、一刻もためらっている場合ではございません。
原文: 私は矢庭に遣り戸を開け放して、月明りのとどかない奥の方へ跳りこまうと致しました。
私はいきなり引き戸を開け放って、月明かりの届かない奥のほうへ躍り込もうといたしました。
原文: が、その時私の眼を遮つたものは――いや、それよりももつと私は、同時にその部屋の中から、弾かれたやうに駈け出さうとした女の方に驚かされました。
が、そのとき私の目をさえぎったものは――いや、それよりももっと私は、同時にその部屋の中から、弾かれたように駆け出そうとした女のほうに驚かされました。
原文: 女は出合頭に危く私に衝き当らうとして、その儘外へ転び出ましたが、何故かそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るやうに、戦き/\見上げてゐるのでございます。
女は出合い頭に危うく私に突き当たろうとして、そのまま外へ転び出ましたが、なぜかそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るように、おののきおののき見上げているのでございます。
原文: それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。
それが良秀の娘だったことは、わざわざ申し上げるまでもございますまい。
原文: が、その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、生々と私の眼に映りました。
が、その晩のあの女は、まるで人間が違ったように、生き生きと私の目に映りました。
原文: 眼は大きくかゞやいて居ります。
目は大きく輝いております。
原文: 頬も赤く燃えて居りましたらう。
頬も赤く燃えていたことでしょう。
原文: そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さとは打つて変つた艶しささへも添へてをります。
そこへ、しどけなく乱れた袴や袿が、いつもの幼さとは打って変わった艶かしささえ添えております。
原文: これが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。――
これが実際、あの弱々しい、何事にも控えめがちな良秀の娘でございましょうか。――
原文: 私は遣り戸に身を支へて、この月明りの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと静に眼で尋ねました。
私は引き戸に身を支えて、この月明かりの中にいる美しい娘の姿を眺めながら、慌ただしく遠のいていくもう一人の足音を、指させるもののように指さして、誰ですと静かに目で尋ねました。
原文: すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。
すると娘は唇を噛みながら、黙って首を振りました。
原文: その容子が如何にも亦、口惜しさうなのでございます。
その様子が、いかにもまた悔しそうなのでございます。
原文: そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」
そこで私は身をかがめながら、娘の耳へ口をつけるようにして、今度は「誰です」
原文: と小声で尋ねました。
と小声で尋ねました。
原文: が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。
が、娘はやはり首を振ったばかりで、何とも返事をいたしません。
原文: いや、それと同時に長い睫毛の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊く唇を噛みしめてゐるのでございます。
いや、それと同時に、長い睫毛の先に涙をいっぱいためながら、前よりも固く唇を噛みしめているのでございます。
原文: 性得愚な私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、生憎何一つ呑みこめません。
生まれつき愚かな私には、わかりすぎているほどわかっていることのほかは、あいにく何一つ呑み込めません。
原文: でございますから、私は言のかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。
ですから私は言葉のかけようも知らないで、しばらくはただ、娘の胸の動悸に耳を澄ませるような心地で、じっとそこに立ちすくんでおりました。
原文: 尤もこれは一つには、何故かこの上問ひ訊すのが悪いやうな、気咎めが致したからでもございます。――
もっともこれは、一つには、なぜかこの上問い質すのが悪いような、気咎めがしたからでもございます。――
原文: それがどの位続いたか、わかりません。
それがどれくらい続いたか、わかりません。
原文: が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上気の褪めたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司へ御帰りなさい」
が、やがて開け放した引き戸を閉めながら、少しはのぼせの醒めたらしい娘のほうを振り返って、「もうお部屋へお帰りなさい」
原文: と出来る丈やさしく申しました。
と、できるだけやさしく申しました。
原文: さうして私も自分ながら、何か見てはならないものを見たやうな、不安な心もちに脅されて、誰にともなく恥しい思ひをしながら、そつと元来た方へ歩き出しました。
そして私も、自分ながら何か見てはならないものを見たような不安な心地に脅かされて、誰にともなく恥ずかしい思いをしながら、そっともと来たほうへ歩き出しました。
原文: 所が十歩と歩かない中に、誰か又私の袴の裾を、後から恐る/\、引き止めるではございませんか。
ところが十歩と歩かないうちに、誰かがまた私の袴の裾を、後ろから恐る恐る引き止めるではございませんか。
原文: 私は驚いて、振り向きました。
私は驚いて振り向きました。
原文: あなた方はそれが何だつたと思召します?
あなた方は、それが何だったとお思いになりますか。
原文: 見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のやうに両手をついて、黄金の鈴を鳴しながら、何度となく丁寧に頭を下げてゐるのでございました。
見ると、それは私の足もとに、あの猿の良秀が人間のように両手をついて、黄金の鈴を鳴らしながら、何度となく丁寧に頭を下げているのでございました。
原文: 十四
十四
原文: するとその晩の出来事があつてから、半月ばかり後の事でございます。
さて、その晩の出来事があってから、半月ばかり後のことでございます。
原文: 或日良秀は突然御邸へ参りまして、大殿様へ直の御眼通りを願ひました。
ある日、良秀は突然お邸へまいりまして、大殿様への直々のお目通りを願いました。
原文: 卑しい身分のものでございますが、日頃から格別御意に入つてゐたからでございませう。
卑しい身分の者でございますが、日頃から格別お気に入っていたからでございましょう。
原文: 誰にでも容易に御会ひになつた事のない大殿様が、その日も快く御承知になつて、早速御前近くへ御召しになりました。
誰にでも容易にお会いになったことのない大殿様が、その日も快くご承知になって、さっそく御前近くへお召しになりました。
原文: あの男は例の通り、香染めの狩衣に萎えた烏帽子を頂いて、何時もよりは一層気むづかしさうな顔をしながら、恭しく御前へ平伏致しましたが、やがて嗄れた声で申しますには
あの男はいつものとおり、香染めの狩衣に萎えた烏帽子をかぶって、いつもより一層気難しそうな顔をしながら、うやうやしく御前に平伏いたしましたが、やがてしわがれた声で申しますには、
原文: 「兼ね/″\御云ひつけになりました地獄変の屏風でございますが、私も日夜に丹誠を抽んでて、筆を執りました甲斐が見えまして、もはやあらましは出来上つたのも同前でございまする。」
「かねがねお言いつけになりました地獄変の屏風でございますが、私も日夜、心を尽くして筆を執りました甲斐が見えまして、もはやあらましは出来上がったも同然でございます。」
原文: 「それは目出度い。予も満足ぢや。」
「それはめでたい。予も満足だ。」
原文: しかしかう仰有る大殿様の御声には、何故か妙に力の無い、張合のぬけた所がございました。
しかし、こうおっしゃる大殿様のお声には、なぜか妙に力のない、張り合いの抜けたところがございました。
原文: 「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。」
「いえ、それが一向にめでたくはございません。」
原文: 良秀は、稍腹立しさうな容子で、ぢつと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。」
良秀はやや腹立たしそうな様子で、じっと目を伏せながら、「あらましは出来上がりましたが、ただ一つ、今もって私には描けないところがございます。」
原文: 「なに、描けぬ所がある?」
「なに、描けぬところがある。」
原文: 「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」
「さようでございます。私はおよそ、見たものでなければ描けません。よしんば描けても、納得がまいりません。それでは描けないのと同じことではございませんか。」
原文: これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るやうな御微笑が浮びました。
これをお聞きになると、大殿様のお顔には、嘲るような微笑が浮かびました。
原文: 「では地獄変の屏風を描かうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」
「では地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」
原文: 「さやうでござりまする。が、私は先年大火事がございました時に、炎熱地獄の猛火にもまがふ火の手を、眼のあたりに眺めました。「よぢり不動」の火焔を描きましたのも、実はあの火事に遇つたからでございまする。御前もあの絵は御承知でございませう。」
「さようでございます。が、私は先年大火事がございましたときに、炎熱地獄の猛火にもまがう火の手を、目のあたりに眺めました。「よじり不動」の火炎を描きましたのも、実はあの火事に遭ったからでございます。御前もあの絵はご存じでございましょう。」
原文: 「しかし罪人はどうぢや。獄卒は見た事があるまいな。」
「しかし罪人はどうだ。獄卒は見たことがあるまいな。」
原文: 大殿様はまるで良秀の申す事が御耳にはいらなかつたやうな御容子で、かう畳みかけて御尋ねになりました。
大殿様は、まるで良秀の申すことがお耳に入らなかったようなご様子で、こう畳みかけてお尋ねになりました。
原文: 「私は鉄の鎖に縛られたものを見た事がございまする。怪鳥に悩まされるものゝ姿も、具に写しとりました。されば罪人の呵責に苦しむ様も知らぬと申されませぬ。又獄卒は――」
「私は鉄の鎖で縛られた者を見たことがございます。怪鳥に苦しめられる者の姿も、詳しく写し取りました。ですから、罪人が責め苦に苦しむ様も知らないとは申せません。また獄卒は――」
原文: と云つて、良秀は気味の悪い苦笑を洩しながら、「又獄卒は、夢現に何度となく、私の眼に映りました。或は牛頭、或は馬頭、或は三面六臂の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を虐みに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしうございませう。――私の描かうとして描けぬのは、そのやうなものではございませぬ。」
と言って、良秀は気味の悪い苦笑を漏らしながら、「また獄卒は、夢うつつに何度となく私の目に映りました。あるいは牛頭、あるいは馬頭、あるいは三面六臂の鬼の姿が、音のしない手を打ち、声の出ない口を開いて、私をさいなみにまいりますのは、ほとんど毎日毎夜のことと申してもよろしゅうございましょう。――私が描こうとして描けないのは、そのようなものではございません。」
原文: それには大殿様も、流石に御驚きになつたでございませう。
それには大殿様も、さすがにお驚きになったのでございましょう。
原文: 暫くは唯苛立たしさうに、良秀の顔を睨めて御出になりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、
しばらくはただ苛立たしそうに良秀の顔を睨んでいらっしゃいましたが、やがて眉を険しくお動かしになりながら、
原文: 「では何が描けぬと申すのぢや。」
「では何が描けぬと申すのだ。」
原文: と打捨るやうに仰有いました。
と、投げ出すようにおっしゃいました。
原文: 十五
十五
原文: 「私は屏風の唯中に、檳榔毛の車が一輛空から落ちて来る所を描かうと思つて居りまする。」
「私は屏風の真ん中に、檳榔毛の車が一台、空から落ちてくるところを描こうと思っております。」
原文: 良秀はかう云つて、始めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。
良秀はこう言って、はじめて鋭く大殿様のお顔を見つめました。
原文: あの男は画の事と云ふと、気違ひ同様になるとは聞いて居りましたが、その時の眼のくばりには確にさやうな恐ろしさがあつたやうでございます。
あの男は絵のこととなると気違い同然になるとは聞いておりましたが、そのときの目つきには、確かにそのような恐ろしさがあったようでございます。
原文: 「その車の中には、一人のあでやかな上﨟が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐるのでございまする。顔は煙に烟びながら、眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いで居りませう。手は下簾を引きちぎつて、降りかゝる火の粉の雨を防がうとしてゐるかも知れませぬ。さうしてそのまはりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、嘴を鳴らして紛々と飛び繞つてゐるのでございまする。――あゝ、それが、その牛車の中の上﨟が、どうしても私には描けませぬ。」
「その車の中には、一人のあでやかな高貴の女が、猛火の中に黒髪を乱しながら悶え苦しんでいるのでございます。顔は煙にむせびながら、眉をひそめて、空ざまに車の屋根を仰いでいることでしょう。手は下簾を引きちぎって、降りかかる火の粉の雨を防ごうとしているかも知れません。そしてそのまわりには、怪しげな猛禽が十羽となく二十羽となく、くちばしを鳴らしてばらばらと飛びめぐっているのでございます。――ああ、それが、その牛車の中の女が、どうしても私には描けません。」
原文: 「さうして――どうぢや。」
「そして――どうだ。」
原文: 大殿様はどう云ふ訳か、妙に悦ばしさうな御気色で、かう良秀を御促しになりました。
大殿様はどういうわけか、妙に嬉しそうなご様子で、こう良秀をお促しになりました。
原文: が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のやうに震はせながら、夢を見てゐるのかと思ふ調子で、
が、良秀は例の赤い唇を、熱でも出たときのように震わせながら、夢を見ているのかと思う調子で、
原文: 「それが私には描けませぬ。」
「それが私には描けません。」
原文: と、もう一度繰返しましたが、突然噛みつくやうな勢ひになつて、
と、もう一度繰り返しましたが、突然噛みつくような勢いになって、
原文: 「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。さうしてもし出来まするならば――」
「どうか檳榔毛の車を一台、私の見ている前で火をかけていただきとうございます。そしてもしできますならば――」
原文: 大殿様は御顔を暗くなすつたと思ふと、突然けたたましく御笑ひになりました。
大殿様はお顔を暗くなさったと思うと、突然けたたましくお笑いになりました。
原文: さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、
そしてその笑い声に息を詰まらせながら、おっしゃいますには、
原文: 「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや。」
「おお、万事そちの申すとおりにしてつかわそう。できるできぬの詮議は無用のことだ。」
原文: 私はその御言を伺ひますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。
私はそのお言葉を伺いますと、虫の知らせか、何となくすさまじい気がいたしました。
原文: 実際又大殿様の御容子も、御口の端には白く泡がたまつて居りますし、御眉のあたりにはびく/\と電が走つて居りますし、まるで良秀のもの狂ひに御染みなすつたのかと思ふ程、唯ならなかつたのでございます。
実際また大殿様のご様子も、お口の端には白く泡がたまっておりますし、お眉のあたりにはぴくぴくと稲妻が走っておりますし、まるで良秀の狂気がお移りになったのかと思うほど、ただごとではなかったのでございます。
原文: それがちよいと言を御切りになると、すぐ又何かが爆ぜたやうな勢ひで、止め度なく喉を鳴らして御笑ひになりながら、
それがちょっと言葉をお切りになると、すぐまた何かが爆ぜたような勢いで、止め処なく喉を鳴らしてお笑いになりながら、
原文: 「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装をさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」
「檳榔毛の車にも火をかけよう。またその中には、あでやかな女を一人、高貴の装いをさせて乗せてつかわそう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が悶え死にをする――それを描こうと思いついたのは、さすがに天下第一の絵師だ。褒めてつかわす。おお、褒めてつかわすぞ。」
原文: 大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つて喘ぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、
大殿様のお言葉を聞きますと、良秀は急に顔色を失って、喘ぐようにただ唇ばかり動かしておりましたが、やがて体じゅうの筋が緩んだように、べたりと畳へ両手をつくと、
原文: 「難有い仕合でございまする。」
「ありがたい仕合わせでございます。」
原文: と、聞えるか聞えないかわからない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。
と、聞こえるか聞こえないかわからないほど低い声で、丁寧にお礼を申し上げました。
原文: これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか。
これは大方、自分が考えていた目論見の恐ろしさが、大殿様のお言葉につれてありありと目の前に浮かんできたからでございましょうか。
原文: 私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました。
私は一生のうちにただ一度、このときだけは良秀が気の毒な人間に思われました。
原文: 十六
十六
原文: それから二三日した夜の事でございます。
それから二、三日した夜のことでございます。
原文: 大殿様は御約束通り、良秀を御召しになつて、檳榔毛の車の焼ける所を、目近く見せて御やりになりました。
大殿様はお約束どおり良秀をお召しになって、檳榔毛の車の焼けるところを、間近に見せておやりになりました。
原文: 尤もこれは堀河の御邸であつた事ではございません。
もっとも、これは堀川のお邸であったことではございません。
原文: 俗に雪解の御所と云ふ、昔大殿様の妹君がいらしつた洛外の山荘で、御焼きになつたのでございます。
俗に雪解の御所という、昔、大殿様の妹君がいらした都のはずれの山荘で、お焼きになったのでございます。
原文: この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたも御住ひにはならなかつた所で、広い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人気のない御容子を拝見した者の当推量でございませう。
この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたもお住まいにならなかったところで、広いお庭も荒れ放題に荒れ果てておりましたが、大方この人気のない有様を見た者の当て推量でございましょう。
原文: こゝで御歿くなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪しい御袴の緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどと云ふ取沙汰を致すものもございました。――
ここでお亡くなりになった妹君の身の上にもあれこれ噂が立ちまして、中にはまた、月のない夜ごとに、今でも怪しい緋の袴の色が、地にも着かずに廊下を歩むなどと取り沙汰する者もございました。――
原文: それも無理ではございません。
それも無理はございません。
原文: 昼でさへ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、遣り水の音が一際陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、怪形の物かと思ふ程、気味が悪いのでございますから。
昼でさえ寂しいこの御所は、いったん日が暮れたとなりますと、遣り水の音がひときわ陰にこもって響いて、星明かりに飛ぶ五位鷺も化け物かと思うほど、気味が悪いのでございますから。
原文: 丁度その夜はやはり月のない、まつ暗な晩でございましたが、大殿油の灯影で眺めますと、縁に近く座を御占めになつた大殿様は、浅黄の直衣に濃い紫の浮紋の指貫を御召しになつて、白地の錦の縁をとつた円座に、高々とあぐらを組んでいらつしやいました。
ちょうどその夜もやはり月のない、真っ暗な晩でございましたが、灯火の明かりで眺めますと、縁に近く座をお占めになった大殿様は、浅葱の直衣に濃い紫の浮き紋の指貫をお召しになって、白地の錦の縁をとった円座に、高々とあぐらを組んでいらっしゃいました。
原文: その前後左右に御側の者どもが五六人、恭しく居並んで居りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。
その前後左右にお側の者どもが五、六人、うやうやしく居並んでおりましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。
原文: が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年陸奥の戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の生角さへ裂くやうになつたと云ふ強力の侍が、下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を鴎尻に佩き反らせながら、御縁の下に厳しくつくばつてゐた事でございます。――
が、中に一人、目立って何かありげに見えたのは、先年、陸奥の戦いで飢えて人の肉を食って以来、鹿の生角さえ引き裂くようになったという剛力の侍が、下に腹巻を着込んだ格好で、太刀を尻を上げて反らせるように佩きながら、縁の下にいかめしくうずくまっていたことでございます。――
原文: それが皆、夜風に靡く灯の光で、或は明るく或は暗く、殆ど夢現を分たない気色で、何故かもの凄く見え渡つて居りました。
それがみな、夜風になびく灯の光で、あるいは明るくあるいは暗く、ほとんど夢か現かも分かたぬ有様で、なぜかもの凄く見渡されておりました。
原文: その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い車蓋にのつしりと暗を抑へて、牛はつけず黒い轅を斜に榻へかけながら、金物の黄金を星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものゝ何となく肌寒い気が致します。
その上さらに、お庭に据えられた檳榔毛の車が、高い屋形でどっしりと闇を押さえつけ、牛はつけずに黒い轅を斜めに台へ掛けたまま、金具の金を星のようにちらちら光らせているのを眺めますと、春とはいうものの、何となく肌寒い気がいたします。
原文: 尤もその車の内は、浮線綾の縁をとつた青い簾が、重く封じこめて居りますから、輫には何がはいつてゐるか判りません。
もっともその車の中は、浮線綾の縁をとった青い簾が重く封じ込めておりますから、箱の中に何が入っているかはわかりません。
原文: さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる松明を執つて、煙が御縁の方へ靡くのを気にしながら、仔細らしく控へて居ります。
そしてそのまわりには下働きの男たちが、めいめい燃えさかる松明を手にして、煙が縁のほうへなびくのを気にしながら、かしこまって控えております。
原文: 当の良秀は稍離れて、丁度御縁の真向に、跪いて居りましたが、これは何時もの香染めらしい狩衣に萎えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。
当の良秀はやや離れて、ちょうど縁の真向かいに跪いておりましたが、これはいつもの香染めらしい狩衣に萎えた揉烏帽子をかぶって、星空の重みに押しつぶされたかと思うほど、いつもよりなお小さく、みすぼらしげに見えました。
原文: その後に又一人、同じやうな烏帽子狩衣の蹲つたのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございませうか。
そのうしろにもう一人、同じような烏帽子と狩衣でうずくまっているのは、たぶん連れてきた弟子の一人ででもございましょうか。
原文: それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。
それがちょうど二人とも、遠い薄暗がりの中にうずくまっておりますので、私のいた縁の下からは、狩衣の色さえはっきりとはわかりません。
原文: 十七
十七
原文: 時刻は彼是真夜中にも近かつたでございませう。
時刻はかれこれ真夜中にも近かったでございましょう。
原文: 林泉をつゝんだ暗がひつそりと声を呑んで、一同のする息を窺つてゐると思ふ中には、唯かすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がその度に煤臭い匂を送つて参ります。
庭園を包んだ闇がひっそりと声を呑んで、一同の息づかいをうかがっていると思ううちには、ただかすかに夜風の渡る音がして、松明の煙がそのたびに煤臭い匂いを送ってまいります。
原文: 大殿様は暫く黙つて、この不思議な景色をぢつと眺めていらつしやいましたが、やがて膝を御進めになりますと、
大殿様はしばらく黙って、この不思議な光景をじっと眺めていらっしゃいましたが、やがて膝をお進めになりますと、
原文: 「良秀、」
「良秀、」
原文: と、鋭く御呼びかけになりました。
と、鋭くお呼びかけになりました。
原文: 良秀は何やら御返事を致したやうでございますが、私の耳には唯、唸るやうな声しか聞えて参りません。
良秀は何やらお返事をしたようでございますが、私の耳にはただ、うなるような声しか聞こえてまいりません。
原文: 「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣はさう。」
「良秀。今宵はそちの望みどおり、車に火をかけて見せてつかわそう。」
原文: 大殿様はかう仰有つて、御側の者たちの方を流し眄に御覧になりました。
大殿様はこうおっしゃって、お側の者たちのほうを流し目にご覧になりました。
原文: その時何か大殿様と御側の誰彼との間には、意味ありげな微笑が交されたやうにも見うけましたが、これは或は私の気のせゐかも分りません。
そのとき、何か大殿様とお側の誰彼とのあいだには、意味ありげな微笑が交わされたようにも見受けましたが、これはあるいは私の気のせいかも知れません。
原文: すると良秀は畏る畏る頭を挙げて御縁の上を仰いだらしうございますが、やはり何も申し上げずに控へて居ります。
すると良秀は恐る恐る頭を上げて縁の上を仰いだらしゅうございますが、やはり何も申し上げずに控えております。
原文: 「よう見い。それは予が日頃乗る車ぢや。その方も覚えがあらう。――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現ぜさせる心算ぢやが。」
「よく見よ。それは予が日頃乗る車だ。そちも覚えがあろう。――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現じさせるつもりだが。」
原文: 大殿様は又言を御止めになつて、御側の者たちに眴せをなさいました。
大殿様はまた言葉をお止めになって、お側の者たちに目配せをなさいました。
原文: それから急に苦々しい御調子で、「その内には罪人の女房が一人、縛めた儘、乗せてある。されば車に火をかけたら、必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであらう。その方が屏風を仕上げるには、又とないよい手本ぢや。雪のやうな肌が燃え爛れるのを見のがすな。黒髪が火の粉になつて、舞ひ上るさまもよう見て置け。」
それから急に苦々しいご調子で、「その中には罪人の女が一人、縛られたまま乗せてある。だから車に火をかけたら、必ずやその女めは肉を焼き骨を焦がして、四苦八苦の最期を遂げるであろう。そちが屏風を仕上げるには、またとないよい手本だ。雪のような肌が燃えただれるのを見のがすな。黒髪が火の粉になって舞い上がるさまも、よく見ておけ。」
原文: 大殿様は三度口を御噤みになりましたが、何を御思ひになつたのか、今度は唯肩を揺つて、声も立てずに御笑ひなさりながら、
大殿様は三たび口をおつぐみになりましたが、何をお思いになったのか、今度はただ肩を揺すって、声も立てずにお笑いになりながら、
原文: 「末代までもない観物ぢや。予もここで見物しよう。それ/\、簾を揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか。」
「末代までもないほどの見ものだ。予もここで見物しよう。それそれ、簾を上げて、良秀に中の女を見せてやらぬか。」
原文: 仰を聞くと仕丁の一人は、片手に松明の火を高くかざしながら、つか/\と車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。
仰せを聞くと、下働きの一人は片手に松明の火を高くかざしながら、つかつかと車に近づいて、いきなり片手をさし伸ばし、簾をさらりと上げて見せました。
原文: けたゝましく音を立てて燃える松明の光は、一しきり赤くゆらぎながら、忽ち狭い輫の中を鮮かに照し出しましたが、𨋳の上に惨らしく、鎖にかけられた女房は――あゝ、誰か見違へを致しませう。
けたたましく音を立てて燃える松明の光は、ひとしきり赤くゆらぎながら、たちまち狭い箱の中を鮮やかに照らし出しましたが、床の上にむごたらしく鎖にかけられた女は――ああ、誰が見違えましょう。
原文: きらびやかな繍のある桜の唐衣にすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の釵子も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違へ、小造りな体つきは、色の白い頸のあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。
きらびやかな刺繍のある桜の唐衣に、垂らした黒髪が艶やかに流れて、傾いた黄金の釵子も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違え、小造りな体つきといい、色の白いうなじのあたりといい、そしてあの寂しいほどつつましやかな横顔といい、良秀の娘に相違ございません。
原文: 私は危く叫び声を立てようと致しました。
私は危うく叫び声を立てようといたしました。
原文: その時でございます。
そのときでございます。
原文: 私と向ひあつてゐた侍は慌しく身を起して、柄頭を片手に抑へながら、屹と良秀の方を睨みました。
私と向かい合っていた侍が慌ただしく身を起こして、刀の柄頭を片手に押さえながら、きっと良秀のほうを睨みました。
原文: それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正気を失つたのでございませう。
それに驚いて眺めますと、あの男はこの光景に、半ば正気を失ったのでございましょう。
原文: 今まで下に蹲つてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと致しました。
今まで下にうずくまっていたのが、急に飛び立ったと思いますと、両手を前へ伸ばしたまま、車のほうへ思わず知らず走りかかろうといたしました。
原文: 唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に居りますので、顔貌ははつきりと分りません。
ただ、あいにく前にも申しましたとおり、遠い影の中におりますので、顔かたちははっきりとわかりません。
原文: しかしさう思つたのはほんの一瞬間で、色を失つた良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたやうな良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り抜いてあり/\と眼前へ浮び上りました。
しかし、そう思ったのはほんの一瞬で、色を失った良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が宙へ吊り上げたような良秀の姿は、たちまち薄暗がりを切り抜いて、ありありと目の前に浮かび上がりました。
原文: 娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」
娘を乗せた檳榔毛の車が、このとき「火をかけよ」
原文: と云ふ大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上つたのでございます。
という大殿様のお言葉とともに、下働きたちの投げる松明の火を浴びて、炎々と燃え上がったのでございます。
原文: 十八
十八
原文: 火は見る/\中に、車蓋をつゝみました。
火は見る見るうちに、車の屋形を包みました。
原文: 庇についた紫の流蘇が、煽られたやうにさつと靡くと、その下から濛々と夜目にも白い煙が渦を巻いて、或は簾、或は袖、或は棟の金物が、一時に砕けて飛んだかと思ふ程、火の粉が雨のやうに舞ひ上る――その凄じさと云つたらございません。
庇についた紫の房が、煽られたようにさっとなびくと、その下からもうもうと、夜目にも白い煙が渦を巻いて、あるいは簾、あるいは袖、あるいは棟の金具が、一度に砕けて飛んだかと思うほど、火の粉が雨のように舞い上がる――そのすさまじさといったらございません。
原文: いや、それよりもめらめらと舌を吐いて袖格子に搦みながら、半空までも立ち昇る烈々とした炎の色は、まるで日輪が地に落ちて、天火が迸つたやうだとでも申しませうか。
いや、それよりも、めらめらと舌を吐いて袖格子に絡みながら、中空までも立ち昇る燃えさかる炎の色は、まるで太陽が地に落ちて、天の火がほとばしったようだとでも申しましょうか。
原文: 前に危く叫ばうとした私も、今は全く魂を消して、唯茫然と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るより外はございませんでした。
さきほど危うく叫ぼうとした私も、今はまったく魂が消えてしまって、ただ茫然と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るよりほかはございませんでした。
原文: しかし親の良秀は――
しかし、親の良秀は――
原文: 良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。
良秀のそのときの顔つきを、今でも私は忘れません。
原文: 思はず知らず車の方へ駆け寄らうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ焔煙を吸ひつけられたやうに眺めて居りましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけな醜い顔は、髭の先までもよく見えます。
思わず知らず車のほうへ駆け寄ろうとしたあの男は、火が燃え上がると同時に足を止めて、やはり手をさし伸ばしたまま、食い入るような目つきで、車を包む炎と煙を吸いつけられたように眺めておりましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけの醜い顔は髭の先までもよく見えます。
原文: が、その大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた唇のあたりと云ひ、或は又絶えず引き攣つてゐる頬の肉の震へと云ひ、良秀の心に交々往来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれました。
が、その大きく見開いた目の中といい、引き歪めた唇のあたりといい、あるいはまた絶えず引きつっている頬の肉の震えといい、良秀の心にかわるがわる去来する恐れと悲しみと驚きとは、ありありと顔に描き出されました。
原文: 首を刎ねられる前の盗人でも、乃至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、あゝまで苦しさうな顔を致しますまい。
首を刎ねられる前の盗人でも、あるいは閻魔の庁へ引き出された十逆五悪の罪人でも、あそこまで苦しそうな顔はいたしますまい。
原文: これには流石にあの強力の侍でさへ、思はず色を変へて、畏る/\大殿様の御顔を仰ぎました。
これにはさすがのあの剛力の侍でさえ、思わず顔色を変えて、恐る恐る大殿様のお顔を仰ぎました。
原文: が、大殿様は緊く唇を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑ひになつて、眼も放さずぢつと車の方を御見つめになつていらつしやいます。
が、大殿様は固く唇をお噛みになりながら、ときどき気味悪くお笑いになって、目も放さずじっと車のほうを見つめていらっしゃいます。
原文: さうしてその車の中には――あゝ、私はその時、その車にどんな娘の姿を眺めたか、それを詳しく申し上げる勇気は、到底あらうとも思はれません。
そしてその車の中には――ああ、私はそのとき、その車にどんな娘の姿を眺めたか、それを詳しく申し上げる勇気は、とうていあろうとも思われません。
原文: あの煙に咽んで仰向けた顔の白さ、焔を掃つてふり乱れた髪の長さ、それから又見る間に火と変つて行く、桜の唐衣の美しさ、――何と云ふ惨たらしい景色でございましたらう。
あの煙にむせんで仰向けた顔の白さ、炎を払ってふり乱れた髪の長さ、それからまた、見るまに火と変わっていく桜の唐衣の美しさ、――何というむごたらしい光景でございましたろう。
原文: 殊に夜風が一下しして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に金粉を撒いたやうな、焔の中から浮き上つて、髪を口に噛みながら、縛の鎖も切れるばかり身悶えをした有様は、地獄の業苦を目のあたりへ写し出したかと疑はれて、私始め強力の侍までおのづと身の毛がよだちました。
特に夜風がひとしきり吹き下ろして、煙が向こうへなびいたとき、赤い上に金粉を撒いたような炎の中から浮き上がって、髪を口に噛みながら、縛めの鎖も切れんばかりに身悶えをした有様は、地獄の責め苦を目のあたりに写し出したかと疑われて、私をはじめ剛力の侍まで、おのずと身の毛がよだちました。
原文: するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさつと通ふ――と誰でも、思ひましたらう。
すると、その夜風がまたひとわたり、お庭の木々の梢をさっと吹き渡る――と誰でも思ったことでしょう。
原文: さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠のやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。
そういう音が暗い空をどことも知れず走ったと思うと、たちまち何か黒いものが、地にも着かず宙にも飛ばず、鞠のように躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一直線に飛び込みました。
原文: さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と焼け落ちる中に、のけ反つた娘の肩を抱いて、帛を裂くやうな鋭い声を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。
そして、朱塗りのような袖格子がばらばらと焼け落ちる中で、のけ反った娘の肩を抱いて、絹を裂くような鋭い声を、何とも言えず苦しそうに、長く煙の外へ響かせました。
原文: 続いて又、二声三声――私たちは我知らず、あつと同音に叫びました。
続いてまた、二声三声――私たちはわれ知らず、あっと声を揃えて叫びました。
原文: 壁代のやうな焔を後にして、娘の肩に縋つてゐるのは、堀河の御邸に繋いであつた、あの良秀と諢名のある、猿だつたのでございますから。
壁掛けのような炎を背にして、娘の肩にすがっているのは、堀川のお邸に繋いであった、あの良秀という綽名のある猿だったのでございますから。
原文: その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にもわかりません。
その猿がどこをどうして、この御所まで忍んできたのか、それはもちろん誰にもわかりません。
原文: が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう。
が、日頃可愛がってくれた娘だからこそ、猿も一緒に火の中へ入ったのでございましょう。
原文: 十九
十九
原文: が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。
が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬でございました。
原文: 金梨子地のやうな火の粉が一しきり、ぱつと空へ上つたかと思ふ中に、猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隠されて、御庭のまん中には唯、一輛の火の車が凄じい音を立てながら、燃え沸つてゐるばかりでございます。
金梨子地のような火の粉がひとしきり、ぱっと空へ上がったかと思ううちに、猿はもとより娘の姿も黒煙の底に隠されて、お庭の真ん中にはただ、一台の火の車がすさまじい音を立てながら、燃えたぎっているばかりでございます。
原文: いや、火の車と云ふよりも、或は火の柱と云つた方が、あの星空を衝いて煮え返る、恐ろしい火焔の有様にはふさはしいかも知れません。
いや、火の車と言うよりも、あるいは火の柱と言ったほうが、あの星空を衝いて煮え返る、恐ろしい炎の有様にはふさわしいかも知れません。
原文: その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事でございませう。
その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、――何という不思議なことでございましょう。
原文: あのさつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではございませんか。
あのさっきまで地獄の責め苦に苦しんでいたような良秀は、今は言いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを皺だらけの満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで佇んでいるではございませんか。
原文: それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。
それがどうも、あの男の目の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。
原文: 唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
ただ美しい炎の色と、その中で苦しむ女の姿とが、限りなく心を喜ばせる――そういう様子に見えました。
原文: しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。
しかも不思議なのは、なにもあの男がひとり娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた、そればかりではございません。
原文: その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳さがございました。
そのときの良秀には、なぜか人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りにも似た、怪しげな厳かさがございました。
原文: でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。
ですから、不意の火の手に驚いて、鳴き騒ぎながら飛びまわる数知れない夜鳥でさえ、気のせいか良秀の揉烏帽子のまわりへは近づかなかったようでございます。
原文: 恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。
おそらくは何も知らない鳥の目にも、あの男の頭の上に後光のようにかかっている、不可思議な威厳が見えたのでございましょう。
原文: 鳥でさへさうでございます。
鳥でさえそうでございます。
原文: まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。
まして私たちは、下働きの者までもみな息をひそめながら、身のうちも震えるばかりに、異様な喜びの心に満ち満ちて、まるで開眼したばかりの仏でも見るように、目も離さず良秀を見つめました。
原文: 空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪はれて、立ちすくんでゐる良秀と――何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜でございませう。
空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪われて立ちすくんでいる良秀と――何という荘厳、何という歓喜でございましょう。
原文: が、その中でたつた、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫の膝を両手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獣のやうに喘ぎつゞけていらつしやいました。……
が、その中でただ一人、縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思われるほどお顔の色も青ざめて、口もとに泡をおためになりながら、紫の指貫の膝を両手でしっかりお掴みになって、ちょうど喉の渇いた獣のように喘ぎ続けていらっしゃいました。……
原文: 二十
二十
原文: その夜雪解の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろ/\な批判を致すものも居つたやうでございます。
その夜、雪解の御所で大殿様が車をお焼きになったことは、誰の口からともなく世間へ漏れましたが、それについてはずいぶんいろいろな批判をする者もいたようでございます。
原文: 先第一に何故大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすつたか、――これは、かなはぬ恋の恨みからなすつたのだと云ふ噂が、一番多うございました。
まず第一に、なぜ大殿様が良秀の娘をお焼き殺しになったか、――これは、叶わぬ恋の恨みからなさったのだという噂が、一番多うございました。
原文: が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性の曲なのを懲らす御心算だつたのに相違ございません。
が、大殿様のお心づもりは、まったく、車を焼き人を殺してまでも屏風の絵を描こうとする、その絵師根性のよこしまなのを懲らしめようというおつもりだったに相違ございません。
原文: 現に私は、大殿様が御口づからさう仰有るのを伺つた事さへございます。
現に私は、大殿様がご自身の口からそうおっしゃるのを伺ったことさえございます。
原文: それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云ふその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらはれたやうでございます。
それから、あの良秀が目の前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の絵を描きたいという、その木石のような心持ちも、やはり何かと取り沙汰されたようでございます。
原文: 中にはあの男を罵つて、画の為には親子の情愛も忘れてしまふ、人面獣心の曲者だなどと申すものもございました。
中にはあの男を罵って、絵のためには親子の情愛も忘れてしまう、人面獣心の曲者だなどと申す者もございました。
原文: あの横川の僧都様などは、かう云ふ考へに味方をなすつた御一人で、「如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常を弁へねば、地獄に堕ちる外はない」
あの横川の僧都様などは、こういう考えに味方をなさったお一人で、「いかに一芸一能に秀でようとも、人として人の道をわきまえなければ、地獄に堕ちるほかはない」
原文: などと、よく仰有つたものでございます。
などと、よくおっしゃったものでございます。
原文: 所がその後一月ばかり経つて、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供へました。
ところがその後一か月ばかり経って、いよいよ地獄変の屏風が出来上がりますと、良秀はさっそくそれをお邸へ持って出て、うやうやしく大殿様のご覧に入れました。
原文: 丁度その時は僧都様も御居合はせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石にあの一帖の天地に吹き荒んでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。
ちょうどそのときは僧都様も居合わせておいででしたが、屏風の絵をひと目ご覧になりますと、さすがにあの一双の画面いっぱいに吹き荒れている火の嵐の恐ろしさに、お驚きになったのでございましょう。
原文: それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろ/\睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」
それまでは苦い顔をなさりながら、良秀のほうをじろじろ睨めつけていらしたのが、思わず知らず膝を打って「よくやった」
原文: と仰有いました。
とおっしゃいました。
原文: この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。
この言葉をお聞きになって、大殿様が苦笑なさったときのご様子も、いまだに私は忘れません。
原文: それ以来あの男を悪く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。
それ以来、あの男を悪く言う者は、少なくともお邸の中だけでは、ほとんど一人もいなくなりました。
原文: 誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を如実に感じるからでもございませうか。
誰でもあの屏風を見る者は、どれほど日頃良秀を憎く思っているにせよ、不思議に厳かな心持ちに打たれて、炎熱地獄の大きな苦しみをまざまざと感じるからでもございましょうか。
原文: しかしさうなつた時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいつて居りました。
しかし、そうなった時分には、良秀はもうこの世にない人の数に入っておりました。
原文: それも屏風の出来上つた次の夜に、自分の部屋の梁へ縄をかけて、縊れ死んだのでございます。
それも屏風の出来上がった次の夜に、自分の部屋の梁へ縄をかけて、首をくくって死んだのでございます。
原文: 一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらへるのに堪へなかつたのでございませう。
ひとり娘に先立たれたあの男は、おそらくのうのうと生き長らえるのに堪えられなかったのでございましょう。
原文: 屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まつて居ります。
亡骸は今でも、あの男の家の跡に埋まっております。
原文: 尤も小さな標の石は、その後何十年かの雨風に曝されて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸してゐるにちがひございません。
もっとも、小さな目印の石は、その後何十年かの雨風にさらされて、とうの昔に誰の墓とも知れないように、苔むしているに違いございません。
原文: ――大正七年四月――
――大正七年四月――