地獄変 小学生向け
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1995年
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一
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一
堀川(ほりかわ)の大殿様(おおとのさま)のような方は、昔からいままでも、これから先の世にも、きっと二人とはいらっしゃらないでしょう。
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堀川の大殿様のやうな方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。
噂に聞きますと、あの方がお生まれになる前には、大威徳明王(だいいとくみょうおう・恐ろしい姿をした仏様の一つ)のお姿が、お母様の夢枕にお立ちになったとかいうことでございますが、とにかく生まれつきから、並みの人間とは違っていらっしゃったようでございます。
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噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、大威徳明王の御姿が御母君の夢枕にお立ちになつたとか申す事でございますが、兎に角御生れつきから、並々の人間とは御違ひになつてゐたやうでございます。
ですから、あの方のなさったことには、一つとして私どもの思いもよらないものはございません。
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でございますから、あの方の為さいました事には、一つとして私どもの意表に出てゐないものはございません。
早い話が、堀川のお邸(やしき)のつくりを拝見いたしましても、壮大と申しましょうか、豪快と申しましょうか、とても私どもの浅い考えでは思いつかない、思い切ったところがあるようでございます。
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早い話が堀川のお邸の御規模を拝見致しましても、壮大と申しませうか、豪放と申しませうか、到底私どもの凡慮には及ばない、思ひ切つた所があるやうでございます。
中にはまた、あれこれと言い立てて、大殿様のなさりようを始皇帝(しこうてい・中国の昔の皇帝)や煬帝(ようだい・中国の昔の皇帝)に比べる人もございますが、それは目の見えない人たちが象のあちこちを触って、それぞれ違うことを言うということわざのようなものでございましょう。
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中にはまた、そこを色々とあげつらつて大殿様の御性行を始皇帝や煬帝に比べるものもございますが、それは諺に云ふ群盲の象を撫でるやうなものでもございませうか。
あの方のお考えは、決してそのように御自分ばかりが贅沢(ぜいたく)をしようというのではございません。
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あの方の御思召は、決してそのやうに御自分ばかり、栄耀栄華をなさらうと申すのではございません。
それよりももっと下々の者のことまでお考えになる、いわば天下の人々と共に楽しもうとでもいうような、心の広いご器量がございました。
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それよりはもつと下々の事まで御考へになる、云はば天下と共に楽しむとでも申しさうな、大腹中の御器量がございました。
それでございますから、二条大宮(にじょうおおみや)の百鬼夜行(ひゃっきやぎょう・たくさんの化け物が夜に列をなして歩くこと)にお遇いになっても、格別お障(さわ)りがなかったのでございましょう。
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それでございますから、二条大宮の百鬼夜行に御遇ひになつても、格別御障りがなかつたのでございませう。
また陸奥(みちのく・東北地方の昔の呼び名)の塩竈(しおがま)の景色を写したので名高い、あの東三条の河原院(かわらのいん)に、夜な夜な現れると噂のあった、融(とおる)の左大臣(さだいじん)の霊でさえ、大殿様のお叱りを受けては、姿を消したに違いございません。
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又陸奥の塩竈の景色を写したので名高いあの東三条の河原院に、夜な/\現はれると云ふ噂のあつた融の左大臣の霊でさへ、大殿様のお叱りを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。
このようなご威光でございますから、その頃都じゅうの老いも若きも、大殿様と申しますと、まるで権者(ごんじゃ・仏様が姿を変えてこの世に現れた方)の生まれ変わりのように尊び合いましたのも、決して無理ではございません。
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かやうな御威光でございますから、その頃洛中の老若男女が、大殿様と申しますと、まるで権者の再来のやうに尊み合ひましたも、決して無理ではございません。
いつぞや、お邸の梅の花の宴からのお帰りに、お車を引く牛が放れて、たまたま通りかかった老人に怪我をさせましたときでさえ、その老人は手を合わせて、大殿様の牛にかけられたことを有り難がったということでございます。
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何時ぞや、内の梅花の宴からの御帰りに御車の牛が放れて、折から通りかゝつた老人に怪我をさせました時でさへ、その老人は手を合せて、大殿様の牛にかけられた事を難有がつたと申す事でございます。
そのような次第でございますから、大殿様が生きていらっしゃる間には、後々まで語り草になるようなことが、ずいぶんたくさんございました。
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さやうな次第でございますから、大殿様御一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が、随分沢山にございました。
大饗(おおみうけ・盛大な宴会)の引き出物に、白馬(あおうま・お祝いの白い馬)ばかりを三十頭お与えになったこともございますし、長良(ながら)の橋の橋柱に、ご寵愛(ちょうあい)の子どもを人柱として立てられたこともございますし、それからまた華陀(かだ・中国の有名な医者)の術を伝えた震旦(しんたん・昔の中国の呼び名)の僧に、ご自分の腿(もも)のできものを切らせたこともございますし――いちいち数え立てておりましては、とても切りがございません。
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大饗の引出物に白馬ばかりを三十頭、賜つたこともございますし、長良の橋の橋柱に御寵愛の童を立てた事もございますし、それから又華陀の術を伝へた震旦の僧に、御腿の瘡を御切らせになつた事もございますし、――一々数へ立てゝ居りましては、とても際限がございません。
ですが、その数多いご逸話(いつわ)の中でも、今ではお家の宝物になっております「地獄変(じごくへん)」の屏風(びょうぶ)のいわれほど、恐ろしい話はございますまい。
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が、その数多い御逸事の中でも、今では御家の重宝になつて居ります地獄変の屏風の由来程、恐ろしい話はございますまい。
日頃は物事に驚かれない大殿様でさえ、あのときばかりは、さすがにお驚きになったようでございました。
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日頃は物に御騒ぎにならない大殿様でさへ、あの時ばかりは、流石に御驚きになつたやうでございました。
まして御側(おそば)にお仕えしていた私どもが、魂も消えるばかりに思いましたのは、申し上げるまでもございません。
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まして御側に仕へてゐた私どもが、魂も消えるばかりに思つたのは、申し上げるまでもございません。
中でもこの私などは、大殿様に二十年来ご奉公申しておりましたが、それでさえ、あのようなすさまじい見物に出遇ったことは、ついぞまたとなかったほどでございます。
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中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年来御奉公申して居りましたが、それでさへ、あのやうな凄じい見物に出遇つた事は、ついぞ又となかつた位でございます。
しかし、そのお話をいたしますには、あらかじめまず、あの地獄変の屏風を描きました、良秀(よしひで)と申す絵師(えし)のことを申し上げておく必要がございましょう。
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しかし、その御話を致しますには、予め先づ、あの地獄変の屏風を描きました、良秀と申す画師の事を申し上げて置く必要がございませう。
二
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二
良秀と申しましたら、あるいは今でもなお、あの男のことを覚えていらっしゃる方がございましょう。
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良秀と申しましたら、或は唯今でも猶、あの男の事を覚えていらつしやる方がございませう。
その頃、絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと言われたほど、名高い絵師でございます。
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その頃絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師でございます。
あの出来事がございましたときには、かれこれもう五十の坂に手が届いておりましたでしょうか。
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あの時の事がございました時には、彼是もう五十の阪に、手がとゞいて居りましたらうか。
見たところはただ、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪そうな老人でございました。
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見た所は唯、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪さうな老人でございました。
それが大殿様のお邸へ参りますときには、よく丁字染(ちょうじぞめ・茶色っぽく染めた色)の狩衣(かりぎぬ・貴族の着る服)に揉烏帽子(もみえぼし・やわらかい帽子)をかぶっておりましたが、人柄は至って卑しい方で、なぜか年よりらしくもなく、唇の目立って赤いのが、その上また気味の悪い、いかにも獣めいた感じを起こさせたものでございます。
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それが大殿様の御邸へ参ります時には、よく丁字染の狩衣に揉烏帽子をかけて居りましたが、人がらは至つて卑しい方で、何故か年よりらしくもなく、唇の目立つて赤いのが、その上に又気味の悪い、如何にも獣めいた心もちを起させたものでございます。
中にはあれは絵筆を舐(な)めるので紅がつくのだなどと言った人もおりましたが、どうなのでございましょうか。
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中にはあれは画筆を舐めるので紅がつくのだなどゝ申した人も居りましたが、どう云ふものでございませうか。
もっともそれより口の悪い誰かは、良秀の立ち居振る舞いが猿のようだとか申しまして、「猿秀(さるひで)」というあだ名までつけたことがございました。
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尤もそれより口の悪い誰彼は、良秀の立居振舞が猿のやうだとか申しまして、猿秀と云ふ諢名までつけた事がございました。
いや猿秀と申せば、このようなお話もございます。
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いや猿秀と申せば、かやうな御話もございます。
その頃大殿様のお邸には、十五になる良秀のひとり娘が、小女房(こにょうぼう・若い女官)に上がっておりましたが、これがまた生みの親には似もつかない、愛嬌のある娘でございました。
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その頃大殿様の御邸には、十五になる良秀の一人娘が、小女房に上つて居りましたが、これは又生みの親には似もつかない、愛嬌のある娘でございました。
その上、早くに母親と死に別れましたせいか、思いやりの深い、年のわりにませた、賢い生まれつきで、若いのに似ず何かとよく気がつくものでございますから、御台様(みだいさま・大殿様の奥様)をはじめほかの女房たちにも、かわいがられていたようでございます。
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その上早く女親に別れましたせゐか、思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつくものでございますから、御台様を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。
すると何かの折に、丹波の国から人に馴れた猿を一匹献上したものがございまして、それにちょうどいたずら盛りの若殿様が、良秀という名をおつけになりました。
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すると何かの折に、丹波の国から人馴れた猿を一匹、献上したものがございまして、それに丁度悪戯盛りの若殿様が、良秀と云ふ名を御つけになりました。
ただでさえその猿の様子がおかしいところへ、こんな名がついたのでございますから、お邸じゅう誰一人笑わないものはございません。
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唯でさへその猿の容子が可笑しい所へ、かやうな名がついたのでございますから、御邸中誰一人笑はないものはございません。
それも笑うだけならよろしいのですが、面白半分に皆のものが、やれお庭の松に上ったの、やれ曹司(ぞうし・部屋)の畳を汚したのと、そのたびに、良秀良秀と呼び立てては、とにかくいじめたがるのでございます。
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それも笑ふばかりならよろしうございますが、面白半分に皆のものが、やれ御庭の松に上つたの、やれ曹司の畳をよごしたのと、その度毎に、良秀々々と呼び立てゝは、兎に角いぢめたがるのでございます。
ところがある日のこと、前に申しました良秀の娘が、お手紙を結んだ寒紅梅の枝を持って、長いお廊下を通りかかりますと、遠くの遣戸(やりど・引き戸)の向こうから、あの子猿の良秀が、大方足でもくじいたのでございましょう、いつものように柱へ駆け上る元気もなく、足を引きずりながら、一目散に逃げてまいるのでございます。
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所が或日の事、前に申しました良秀の娘が、御文を結んだ寒紅梅の枝を持つて、長い御廊下を通りかゝりますと、遠くの遣戸の向うから、例の小猿の良秀が、大方足でも挫いたのでございませう、何時ものやうに柱へ駆け上る元気もなく、跛を引き/\、一散に、逃げて参るのでございます。
しかもその後ろからは、むちを振り上げた若殿様が「みかん泥棒め、待て。待て。」
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しかもその後からは楚をふり上げた若殿様が「柑子盗人め、待て。待て。」
とおっしゃりながら、追いかけていらっしゃるではございませんか。
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と仰有りながら、追ひかけていらつしやるのではございませんか。
良秀の娘はこれを見ますと、ちょっとの間ためらったようでございますが、ちょうどそのとき逃げてきた猿が、袴の裾にすがりながら、哀れな声を出して鳴き立てました――と、急にかわいそうだと思う気持ちが、抑えきれなくなったのでございましょう。
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良秀の娘はこれを見ますと、ちよいとの間ためらつたやうでございますが、丁度その時逃げて来た猿が、袴の裾にすがりながら、哀れな声を出して啼き立てました――と、急に可哀さうだと思ふ心が、抑へ切れなくなつたのでございませう。
片手に梅の枝をかざしたまま、片手に紫色のグラデーションの袿(うちぎ・着物の一種)の袖を、軽そうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿様の御前に小腰をかがめながら「恐れながら畜生でございます。どうかご勘弁くださいませ。」
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片手に梅の枝をかざした儘、片手に紫匂の袿の袖を軽さうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿様の御前に小腰をかゞめながら「恐れながら畜生でございます。どうか御勘弁遊ばしまし。」
と、涼しい声で申し上げました。
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と、涼しい声で申し上げました。
しかし若殿様の方は、勢い込んで駆けていらっしゃったところでございますから、むずかしいお顔をなさって、二、三度お足を踏み鳴らしになりながら、
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が、若殿様の方は、気負つて駆けてお出でになつた所でございますから、むづかしい御顔をなすつて、二三度御み足を御踏鳴しになりながら、
「なぜかばうのだ。その猿はみかん泥棒だぞ。」
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「何でかばふ。その猿は柑子盗人だぞ。」
「畜生でございますから、……」
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「畜生でございますから、……」
娘はもう一度こう繰り返しましたが、やがて寂しそうにほほ笑みますと、
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娘はもう一度かう繰返しましたがやがて寂しさうにほほ笑みますと、
「それに良秀と申しますと、父が折檻(せっかん・ひどく叱られたり罰を受けたりすること)を受けますようで、どうもただ見てはいられません。」
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「それに良秀と申しますと、父が御折檻を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。」
と、思い切ったように申すのでございます。
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と、思ひ切つたやうに申すのでございます。
これには、さすがの若殿様も、折れるしかなかったのでございましょう。
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これには流石の若殿様も、我を御折りになつたのでございませう。
「そうか。父親の命乞いなら、曲げて許してやるとしよう。」
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「さうか。父親の命乞なら、枉げて赦してとらすとしよう。」
不承不承にこう仰いますと、むちをそこにお捨てになって、もといらした遣戸の方へ、そのままお帰りになってしまいました。
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不承無承にかう仰有ると、楚をそこへ御捨てになつて、元いらしつた遣戸の方へ、その儘御帰りになつてしまひました。
三
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三
良秀の娘とこの子猿との仲がよくなったのは、それからのことでございます。
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良秀の娘とこの小猿との仲がよくなつたのは、それからの事でございます。
娘はお姫様からいただいた黄金の鈴を、美しい真っ赤な紐に下げて、それを猿の首にかけてやりますし、猿もまた、どんなことがございましても、めったに娘のそばを離れません。
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娘は御姫様から頂戴した黄金の鈴を、美しい真紅の紐に下げて、それを猿の頭へ懸けてやりますし、猿は又どんな事がございましても、滅多に娘の身のまはりを離れません。
あるとき、娘が風邪の具合で床についたときなども、子猿はちゃんとその枕もとに座りこんで、気のせいか心細そうな顔をしながら、しきりに爪を噛んでおりました。
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或時娘の風邪の心地で、床に就きました時なども、小猿はちやんとその枕もとに坐りこんで、気のせゐか心細さうな顔をしながら、頻に爪を噛んで居りました。
こうなるとまた妙なもので、誰も今までのようにこの子猿を、いじめるものはございません。
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かうなると又妙なもので、誰も今までのやうにこの小猿を、いぢめるものはございません。
いや、かえってだんだんかわいがり始めて、しまいには若殿様でさえ、時々柿や栗を投げておやりになったばかりか、侍の誰かがこの猿を足で蹴ったときなどは、たいそうお腹立ちになったそうでございます。
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いや、反つてだん/\可愛がり始めて、しまひには若殿様でさへ、時々柿や栗を投げて御やりになつたばかりか、侍の誰やらがこの猿を足蹴にした時なぞは、大層御立腹にもなつたさうでございます。
その後、大殿様がわざわざ良秀の娘に猿を抱いて御前へ出るようにと仰せになったのも、この若殿様がお腹立ちになった話をお聞きになってからだとか申しました。
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その後大殿様がわざ/\良秀の娘に猿を抱いて、御前へ出るやうと御沙汰になつたのも、この若殿様の御腹立になつた話を、御聞きになつてからだとか申しました。
そのついでに、自然と娘が猿をかわいがるいわれも、お耳にはいったのでございましょう。
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その序に自然と娘の猿を可愛がる所由も御耳にはいつたのでございませう。
「孝行な奴じゃ。褒めてとらすぞ。」
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「孝行な奴ぢや。褒めてとらすぞ。」
このような仰せで、娘はそのとき、紅(くれない)の袙(あこめ・着物の一種)をご褒美にいただきました。
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かやうな御意で、娘はその時、紅の袙を御褒美に頂きました。
ところがこの袙を、また見よう見真似に猿がうやうやしく押しいただきましたので、大殿様のご機嫌は、ひとしおよろしかったそうでございます。
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所がこの袙を又見やう見真似に、猿が恭しく押頂きましたので、大殿様の御機嫌は、一入よろしかつたさうでございます。
ですから、大殿様が良秀の娘をご贔屓(ひいき)になったのは、まったくこの猿をかわいがった、親孝行と情け深さをおほめになったからで、決して世間でとやかく申しますように、色恋をお好みになったわけではございません。
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でございますから、大殿様が良秀の娘を御贔屓になつたのは、全くこの猿を可愛がつた、孝行恩愛の情を御賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた訳ではございません。
もっともこのような噂の立ちましたわけも、無理のないところがございますが、それはまた後になって、ゆっくりお話しいたしましょう。
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尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になつて、ゆつくり御話し致しませう。
ここではただ、大殿様が、どんなに美しいにしたところで、絵師風情の娘などに、想いをおかけになる方ではないということを、申し上げておけば、よろしゅうございます。
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こゝでは唯大殿様が、如何に美しいにした所で、絵師風情の娘などに、想ひを御懸けになる方ではないと云ふ事を、申し上げて置けば、よろしうございます。
さて良秀の娘は、面目をほどこして御前を下がりましたが、もとより賢い女でございますから、意地の悪いほかの女房たちのねたみを受けるようなこともございません。
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さて良秀の娘は、面目を施して御前を下りましたが、元より悧巧な女でございますから、はしたない外の女房たちの妬を受けるやうな事もございません。
かえってそれ以来、猿と一緒に何かといとしがられまして、とりわけお姫様のおそばからはお離れ申したことがないと言ってもよいくらい、物見車のお供にもついぞ欠けたことはございませんでした。
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反つてそれ以来、猿と一しよに何かといとしがられまして、取分け御姫様の御側からは御離れ申した事がないと云つてもよろしい位、物見車の御供にもついぞ欠けた事はございませんでした。
しかし娘のことはひとまず置きまして、これからまた父親の良秀のことを申し上げましょう。
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が、娘の事は一先づ措きまして、これから又親の良秀の事を申し上げませう。
なるほど猿の方は、こうしてまもなく、皆のものにかわいがられるようになりましたが、肝心の良秀はやはり誰にでも嫌われて、相変わらず陰へまわっては、猿秀呼ばわりをされておりました。
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成程猿の方は、かやうに間もなく、皆のものに可愛がられるやうになりましたが、肝腎の良秀はやはり誰にでも嫌はれて、相不変陰へまはつては、猿秀呼りをされて居りました。
しかもそれがまた、お邸の中ばかりではございません。
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しかもそれが又、御邸の中ばかりではございません。
現に横川(よかわ)の僧都様(そうずさま・位の高いお坊さん)も、良秀と申しますと、魔物にでもお遇いになったように顔色を変えて、お憎みなさいました。
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現に横川の僧都様も、良秀と申しますと、魔障にでも御遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、御憎み遊ばしました。
(もっともこれは、良秀が僧都様の日ごろの行いを戯画(ざれえ・おどけた絵)に描いたからだなどと申しますが、なにぶん身分の低い者たちの噂でございますから、確かにそうとは申されますまい。)
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(尤もこれは良秀が僧都様の御行状を戯画に描いたからだなどと申しますが、何分下ざまの噂でございますから、確に左様とは申されますまい。)
とにかく、あの男の不評判は、どちらの方へうかがいましても、そういう調子ばかりでございます。
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兎に角、あの男の不評判は、どちらの方に伺ひましても、さう云ふ調子ばかりでございます。
もし悪く言わないものがあったとしますと、それは二、三人の絵師仲間か、あるいはまた、あの男の絵を知っているだけで、あの男の人柄は知らないものばかりでございましょう。
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もし悪く云はないものがあつたと致しますと、それは二三人の絵師仲間か、或は又、あの男の絵を知つてゐるだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございませう。
しかし実際、良秀には、見たところが卑しかっただけでなく、もっと人に嫌がられる悪い癖があったのでございますから、それもまったく自業自得とでも申すよりほかに、仕方はございません。
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しかし実際、良秀には、見た所が卑しかつたばかりでなく、もつと人に嫌がられる悪い癖があつたのでございますから、それも全く自業自得とでもなすより外に、致し方はございません。
四
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四
その癖と申しますのは、けちで、無情で、恥知らずで、怠け者で、欲深で――いやその中でもとりわけひどいのは、横柄で高慢で、いつも「この国いちばんの絵師」ということを、鼻先にぶら下げていることでございましょう。
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その癖と申しますのは、吝嗇で、慳貪で、恥知らずで、怠けもので、強慾で――いやその中でも取分け甚しいのは、横柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げてゐる事でございませう。
それも絵の道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間のならわしとかしきたりとかいうようなものまで、すべてばかにせずにはいられないのでございます。
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それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣とか慣例とか申すやうなものまで、すべて莫迦に致さずには置かないのでございます。
これは長年良秀の弟子になっていた男の話でございますが、ある日、さるお方のお邸で名高い檜垣(ひがき)の巫女(みこ)に御霊(ごりょう・恨みを持って亡くなった人の霊)が憑いて、恐ろしいお告げがあったときも、あの男は空耳のふりをしながら、有り合わせた筆と墨とで、その巫女の物凄い顔を、丁寧に写しておったとか申しました。
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これは永年良秀の弟子になつてゐた男の話でございますが、或日さる方の御邸で名高い檜垣の巫女に御霊が憑いて、恐しい御託宣があつた時も、あの男は空耳を走らせながら、有合せた筆と墨とで、その巫女の物凄い顔を、丁寧に写して居つたとか申しました。
大方、御霊のお祟(たた)りも、あの男の目から見ましたら、子供だましくらいにしか思われないのでございましょう。
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大方御霊の御祟りも、あの男の眼から見ましたなら、子供欺し位にしか思はれないのでございませう。
そのような男でございますから、吉祥天(きっしょうてん・美しい女神)を描くときは、卑しい傀儡(くぐつ・人形回しをする女)の顔を写しましたり、不動明王(ふどうみょうおう・恐ろしい姿をした仏様)を描くときは、荒くれ者の放免(ほうめん・元罪人の下級役人)の姿をかたどりましたり、いろいろともったいない真似をいたしましたが、それでも本人をなじりますと「良秀の描いた神仏が、その良秀に罰を当てるとは、妙な話を聞くものじゃ」
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さやうな男でございますから、吉祥天を描く時は、卑しい傀儡の顔を写しましたり、不動明王を描く時は、無頼の放免の姿を像りましたり、いろ/\の勿体ない真似を致しましたが、それでも当人を詰りますと「良秀の描いた神仏が、その良秀に冥罰を当てられるとは、異な事を聞くものぢや」
と、平気な顔でうそぶいているではございませんか。
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と空嘯いてゐるではございませんか。
これにはさすがの弟子たちもあきれ返って、中には将来の恐ろしさに、そそくさと暇を取ったものも、少なくなかったように見受けました。――
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これには流石の弟子たちも呆れ返つて、中には未来の恐ろしさに、匆々暇をとつたものも、少くなかつたやうに見うけました。――
一口に申しましたなら、慢業重畳(まんごうちょうじょう・悪い行いや思い上がりが積み重なっていること)とでも名づけましょうか。
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先づ一口に申しましたなら、慢業重畳とでも名づけませうか。
とにかく当時、この世の中で、自分ほど偉い人間はいないと思っていた男でございます。
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兎に角当時天が下で、自分程の偉い人間はないと思つてゐた男でございます。
したがって良秀が、どれほど絵の道でも、高くとまっておりましたかは、申し上げるまでもございますまい。
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従つて良秀がどの位画道でも、高く止つて居りましたかは、申し上げるまでもございますまい。
もっともその絵でさえ、あの男のは筆使いでも彩色でも、まるでほかの絵師とは違っておりましたから、仲の悪い絵師仲間では、いかさま師だなどと申す評判も、だいぶあったようでございます。
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尤もその絵でさへ、あの男のは筆使ひでも彩色でも、まるで外の絵師とは違つて居りましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、大分あつたやうでございます。
その連中の申しますには、川成(かわなり)とか金岡(かなおか)とか、そのほか昔の名匠の筆になったものと申しますと、やれ板戸の梅の花が月の夜ごとに匂ったの、やれ屏風の大宮人(おおみやびと・宮中に仕える人)が笛を吹く音まで聞こえたのと、優美な噂が立つものでございますが、良秀の絵になりますと、いつでも必ず気味の悪い、妙な評判ばかりしか伝わりません。
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その連中の申しますには、川成とか金岡とか、その外昔の名匠の筆になつた物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の大宮人が、笛を吹く音さへ聞えたのと、優美な噂が立つてゐるものでございますが、良秀の絵になりますと、何時でも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。
たとえばあの男が龍蓋寺(りゅうがいじ)の門へ描きました、五趣生死(ごしゅしょうじ・生き物が生まれ変わる六つの世界を描いた絵)の絵にいたしましても、夜更けて門の下を通りますと、天人(てんにん)の嘆息をつく音や、すすり泣きをする声が聞こえたと申すことでございます。
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譬へばあの男が龍蓋寺の門へ描きました、五趣生死の絵に致しましても、夜更けて門の下を通りますと、天人の嘆息をつく音や啜り泣きをする声が、聞えたと申す事でございます。
いや、中には死人の腐っていく臭いを、嗅いだと申すものさえございました。
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いや、中には死人の腐つて行く臭気を、嗅いだと申すものさへございました。
それから大殿様のお言いつけで描いた、女房たちの似絵(にせえ・似顔絵)なども、その絵に写されただけの人間は、三年とたたないうちに、皆魂の抜けたような病気になって、死んだと申すではございませんか。
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それから大殿様の御云ひつけで描いた、女房たちの似絵なども、その絵に写されたゞけの人間は、三年と尽たない中に、皆魂の抜けたやうな病気になって、死んだと申すではございませんか。
悪く言うものに言わせますと、それが良秀の絵が邪道に落ちている、何よりの証拠だそうでございます。
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悪く云ふものに申させますと、それが良秀の絵の邪道に落ちてゐる、何よりの証拠ださうでございます。
しかし何しろ前にも申し上げましたとおり、横紙破りな男でございますから、それがかえって良秀は大自慢で、いつぞや大殿様がご冗談に、「その方はとかく醜いものが好きと見える。」
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が、何分前にも申し上げました通り、横紙破りな男でございますから、それが反つて良秀は大自慢で、何時ぞや大殿様が御冗談に、「その方は兎角醜いものが好きと見える。」
とおっしゃったときも、あの年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑いながら、「さようでございます。並みの絵師には、総じて醜いものの美しさなどということは、わかるはずがございません。」
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と仰有つた時も、あの年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑ひながら、「さやうでござりまする。かいなでの絵師には総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ。」
と、横柄にお答え申し上げました。
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と、横柄に御答へ申し上げました。
いかに国いちばんの絵師にせよ、よくも大殿様の御前へ出て、そのような大きな口がきけたものでございます。先ほど引き合いに出しました弟子が、内々師匠に「智羅永寿(ちらえいじゅ)」
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如何に本朝第一の絵師に致せ、よくも大殿様の御前へ出て、そのやうな高言が吐けたものでございます、先刻引合に出しました弟子が、内々師匠に「智羅永寿」
という綽名(あだな)をつけて、思い上がりをそしっておりましたが、それも無理はございません。
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と云ふ諢名をつけて、増長慢を譏つて居りましたが、それも無理はございません。
ご承知でもございましょうが、「智羅永寿」
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御承知でもございませうが、「智羅永寿」
と申しますのは、昔、震旦(しんたん・昔の中国の呼び名)から渡ってまいりました天狗の名でございます。
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と申しますのは、昔震旦から渡つて参りました天狗の名でございます。
しかしこの良秀にさえ――このなんとも言いようのない、ひねくれ者の良秀にさえ、たった一つ人間らしい、情け深いところがございました。
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しかしこの良秀にさへ――この何とも云ひやうのない、横道者の良秀にさへ、たつた一つ人間らしい、情愛のある所がございました。
五
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五
と申しますのは、良秀があの一人娘の小女房を、他のことが目に入らないほどかわいがっていたことでございます。
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と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違ひのやうに可愛がつてゐた事でございます。
先ほど申し上げましたとおり、娘もいたって気立てのやさしい、親思いの女でございましたが、あの男の子煩悩(こぼんのう・子どもをむやみにかわいがること)は、決してそれにも劣らなかったでしょう。
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先刻申し上げました通り、娘も至つて気のやさしい、親思ひの女でございましたが、あの男の子煩悩は、決してそれにも劣りますまい。
何しろ娘の着る物とか、髪飾りとかのこととなりますと、どこのお寺の勧進(かんじん・寄付集め)にも寄付をしたことのないあの男が、お金には少しも惜しげもなく用意してやるというのでございますから、嘘のような気がいたすではございませんか。
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何しろ娘の着る物とか、髪飾とかの事と申しますと、どこの御寺の勧進にも喜捨をした事のないあの男が、金銭には更に惜し気もなく、整へてやると云ふのでございますから、嘘のやうな気が致すではございませんか。
しかし良秀が娘をかわいがるのは、ただかわいがるだけで、やがてよい婿をとろうなどということは、夢にも考えておりません。
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が、良秀の娘を可愛がるのは、唯可愛がるだけで、やがてよい聟をとらうなどと申す事は、夢にも考へて居りません。
それどころか、あの娘に悪く言い寄るものでもございましたら、かえって荒くれ者たちでもかき集めて、闇討ちくらいは食わせかねない了見でございます。
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それ所か、あの娘へ悪く云ひ寄るものでもございましたら、反つて辻冠者ばらでも駆り集めて、暗打位は喰はせ兼ねない量見でございます。
ですから、あの娘が大殿様のお声がかりで小女房に上がりましたときも、親父の方は大不満で、当座の間は御前へ出ても、苦り切ってばかりおりました。
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でございますから、あの娘が大殿様の御声がゝりで、小女房に上りました時も、老爺の方は大不服で、当座の間は御前へ出ても、苦り切つてばかり居りました。
大殿様が娘の美しいのにお心を引かれて、親の不承知なのもかまわずに召し上げたなどと申す噂は、大方このような様子を見たものの当て推量から出たのでございましょう。
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大殿様が娘の美しいのに御心を惹かされて、親の不承知なのもかまはずに、召し上げたなどと申す噂は、大方かやうな容子を見たものゝ当推量から出たのでございませう。
もっともその噂は嘘でございましても、子煩悩の一心から、良秀がいつも娘が下がるようにと祈っておりましたのは確かでございます。
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尤も其噂は嘘でございましても、子煩悩の一心から、良秀が始終娘の下るやうに祈つて居りましたのは確でございます。
あるとき大殿様のお言いつけで、稚児文殊(ちごもんじゅ・子どもの姿をした文殊菩薩の絵)を描きましたときも、ご寵愛の子どもの顔を写しまして、見事な出来でございましたから、大殿様もいたってご満足で、
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或時大殿様の御云ひつけで、稚児文殊を描きました時も、御寵愛の童の顔を写しまして、見事な出来でございましたから、大殿様も至極御満足で、
「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」
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「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」
という有り難いお言葉が下りました。
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と云ふ難有い御言が下りました。
すると良秀はかしこまって、何を申すかと思いますと、
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すると良秀は畏まつて、何を申すかと思ひますと、
「どうか私の娘を、お下げくださいますように。」
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「何卒私の娘をば御下げ下さいまするやうに。」
と臆面もなく申し上げました。
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と臆面もなく申し上げました。
ほかのお邸ならばともかく、堀川の大殿様のおそばにお仕えしているのを、どんなにかわいいからと申しまして、このように無作法にお暇を願うものが、どこの国におりましょう。
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外のお邸ならば兎も角も、堀河の大殿様の御側に仕へてゐるのを、如何に可愛いからと申しまして、かやうに無躾に御暇を願ひますものが、どこの国に居りませう。
これには度量の広い大殿様も、いささかご機嫌を損じたと見えまして、しばらくはただ黙って良秀の顔を眺めていらっしゃいましたが、やがて、
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これには大腹中の大殿様も聊か御機嫌を損じたと見えまして、暫くは唯、黙つて良秀の顔を眺めて御居でになりましたが、やがて、
「それはならぬ。」
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「それはならぬ。」
と吐き出すようにおっしゃると、急にそのままお立ちになってしまいました。
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と吐出すやうに仰有ると、急にその儘御立になつてしまひました。
このようなことが、前後四、五回もございましたでしょうか。
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かやうな事が、前後四五遍もございましたらうか。
今になって考えてみますと、大殿様が良秀をご覧になる目は、そのたびにだんだんと冷ややかになっていらしたようでございます。
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今になつて考へて見ますと、大殿様の良秀を御覧になる眼は、その都度にだんだんと冷やかになつていらしつたやうでございます。
するとまた、それにつけても、娘の方は父親の身が案じられるせいでございましょうか、曹司(ぞうし・部屋)へ下がっているときなどは、よく袿(うちぎ・着物の一種)の袖を噛んで、しくしく泣いておりました。
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すると又、それにつけても、娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか、曹司へ下つてゐる時などは、よく袿の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました。
そこで大殿様が良秀の娘に懸想(けそう・恋い慕うこと)なさったなどと申す噂が、いよいよ広がるようになったのでございましょう。
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そこで大殿様が良秀の娘に懸想なすつたなどと申す噂が、愈々拡がるやうになつたのでございませう。
中には地獄変の屏風のいわれも、実は娘が大殿様のお心に従わなかったからだなどと申すものもおりますが、もとよりそのようなことがあるはずはございません。
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中には地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に従はなかつたからだなどと申すものも居りますが、元よりさやうな事がある筈はございません。
私どもの目から見ますと、大殿様が良秀の娘をお下げにならなかったのは、まったく娘の身の上を哀れにお思いになったからで、あのように頑(かたく)なな親のもとへやるよりは、お邸に置いて何の不自由もなく暮らさせてやろうという有り難いお考えだったようでございます。
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私どもの眼から見ますと、大殿様が良秀の娘を御下げにならなかつたのは、全く娘の身の上を哀れに思召したからで、あのやうに頑な親の側へやるよりは御邸に置いて、何の不自由なく暮させてやらうと云ふ難有い御考へだつたやうでございます。
それはもとより気立ての優しいあの娘を、ご贔屓になったのには間違いございません。
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それは元より気立ての優しいあの娘を、御贔屓になつたのには間違ひございません。
しかし、色をお好みになったと申しますのは、恐らくこじつけの説でございましょう。
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が、色を御好みになつたと申しますのは、恐らく牽強附会の説でございませう。
いや、跡形もない嘘と申した方が、よろしいくらいでございます。
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いや、跡方もない嘘と申した方が、宜しい位でございます。
それはともかくといたしまして、こうして娘のことから良秀のお覚えがだいぶ悪くなってきたときでございます。
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それは兎も角もと致しまして、かやうに娘の事から良秀の御覚えが大分悪くなつて来た時でございます。
どうお思いになったか、大殿様は突然良秀をお呼びになって、地獄変の屏風を描くようにと、お言いつけなさいました。
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どう思召したか、大殿様は突然良秀を御召になつて、地獄変の屏風を描くやうにと、御云ひつけなさいました。
六
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六
地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色が、ありありと目の前に浮かんでくるような気がいたします。
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地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色が、ありありと眼の前へ浮んで来るやうな気が致します。
同じ地獄変と申しましても、良秀の描きましたのは、ほかの絵師のものと比べますと、まず絵の構図からして似ておりません。
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同じ地獄変と申しましても、良秀の描きましたのは、外の絵師のに比べますと、第一図取りから似て居りません。
それは一そろいの屏風の片隅に、小さく十王(じゅうおう・地獄で死者を裁く十人の王)をはじめ、その家来たちの姿を描いて、あとは一面に紅蓮・大紅蓮(ぐれん・だいぐれん・燃えさかる炎の色をたとえた言葉)の激しい炎が、剣の山も刀の林も焼けただれるかと思うほど、渦を巻いておりました。
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それは一帖の屏風の片隅へ、小さく十王を始め眷属たちの姿を描いて、あとは一面に紅蓮大紅蓮の猛火が剣山刀樹も爛れるかと思ふ程渦を巻いて居りました。
ですから、中国風の冥官(めいかん・地獄で死者を裁く役人)たちの衣装が、点々と黄色や藍色を散らしております他は、どこを見ても激しく燃える炎の色で、その中をまるで卍(まんじ)のように、墨を飛ばしたような黒煙と、金粉をあおったような火の粉とが、舞い狂っているのでございます。
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でございますから、唐めいた冥官たちの衣裳が、点々と黄や藍を綴つて居ります外は、どこを見ても烈々とした火焔の色で、その中をまるで卍のやうに、墨を飛ばした黒煙と金粉を煽つた火の粉とが、舞ひ狂つて居るのでございます。
これだけでも、ずいぶん人の目を驚かす筆の勢いでございますが、その上にまた、業火(ごうか・地獄の激しい炎)に焼かれて、転げまわり苦しんでおります罪人も、ほとんど一人として、ふつうの地獄絵にあるようなものはございません。
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こればかりでも、随分人の目を驚かす筆勢でございますが、その上に又、業火に焼かれて、転々と苦しんで居ります罪人も、殆ど一人として通例の地獄絵にあるものはございません。
なぜかと申しますと良秀は、この多くの罪人の中に、上は身分の高い公家(くげ)から下は物乞いまで、あらゆる身分の人間を写してきたからでございます。
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何故かと申しますと良秀は、この多くの罪人の中に、上は月卿雲客から下は乞食非人まで、あらゆる身分の人間を写して来たからでございます。
束帯(そくたい・貴族の正装)姿の厳めしい殿上人(てんじょうびと・宮中に上がることを許された貴族)、五つ衣(いつつぎぬ)の艶やかな若い女房、数珠をかけた念仏僧、高足駄(たかあしだ・背の高い下駄)を履いた学生の侍、細長(ほそなが・着物の一種)を着た幼い女の子、幣(みてぐら・神へのお供え物)をかざした陰陽師(おんみょうじ)――いちいち数え立てておりましたら、とても切りはございますまい。
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束帯のいかめしい殿上人、五つ衣のなまめかしい青女房、珠数をかけた念仏僧、高足駄を穿いた侍学生、細長を着た女の童、幣をかざした陰陽師――一々数へ立てゝ居りましたら、とても際限はございますまい。
とにかくそういういろいろな人間が、火と煙とが渦巻く中を、牛頭(ごず)馬頭(めず・牛や馬の頭を持つ地獄の鬼)の獄卒(ごくそつ・地獄で罪人を責める鬼)にいじめられて、大風に吹き散らされる落ち葉のように、あちこち四方八方へ逃げ惑っているのでございます。
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兎に角さう云ふいろ/\の人間が、火と煙とが逆捲く中を、牛頭馬頭の獄卒に虐まれて、大風に吹き散らされる落葉のやうに、紛々と四方八方へ逃げ迷つてゐるのでございます。
鋼叉(さすまた・先の分かれた武器)に髪をからめとられて、蜘蛛よりも手足を縮めている女は、巫女(みこ)の類ででもございましょうか。
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鋼叉に髪をからまれて、蜘蛛よりも手足を縮めてゐる女は、神巫の類でゞもございませうか。
手矛(てほこ・手に持つ短い槍)に胸を刺し通されて、こうもりのように逆さになった男は、いんちきな地方役人か何かに相違ございますまい。
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手矛に胸を刺し通されて、蝙蝠のやうに逆になつた男は、生受領か何かに相違ございますまい。
そのほか、ある者は鉄のむちに打たれ、ある者は千人がかりでも動かせないほどの大岩に押しつぶされ、ある者は怪鳥のくちばしにかけられ、あるいはまた毒龍のあごに噛まれる者――責め苦もまた、罪人の数に応じて、幾通りあるかわかりません。
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その外或は鉄の笞に打たれるもの、或は千曳の磐石に押されるもの、或は怪鳥の嘴にかけられるもの、或は又毒龍の顎に噛まれるもの――、呵責も亦罪人の数に応じて、幾通りあるかわかりません。
しかしその中でも、とりわけ一つ目立ってすさまじく見えますのは、まるで獣の牙のような刀樹(とうじゅ・刀の生えた木)の頂きをかすめるように(その刀樹の梢にも、多くの亡者が数えきれないほど、体を貫かれておりましたが)、中空から落ちてくる一台の牛車でございましょう。
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が、その中でも殊に一つ目立つて凄じく見えるのは、まるで獣の牙のやうな刀樹の頂きを半ばかすめて(その刀樹の梢にも、多くの亡者が纍々と、五体を貫かれて居りましたが)中空から落ちて来る一輛の牛車でございませう。
地獄の風に吹き上げられた、その車の簾(すだれ)の中には、女御(にょうご)や更衣(こうい・帝の后たち)と見まがうばかり、きらびやかに装った女房が、長い黒髪を炎の中になびかせて、白いうなじをそらせながら、悶え苦しんでおりますが、その女房の姿と申し、また燃えさかっている牛車と申し、何一つとして炎熱地獄(えんねつじごく)の責め苦をしのばせないものはございません。
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地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、女御、更衣にもまがふばかり、綺羅びやかに装つた女房が、丈の黒髪を炎の中になびかせて、白い頸を反らせながら、悶え苦しんで居りますが、その女房の姿と申し、又燃えしきつてゐる牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦を偲ばせないものはございません。
言わば、広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に集まっているとでも申しましょうか。
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云はゞ広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に輳つてゐるとでも申しませうか。
これを見るものの耳の底には、自然と物凄い叫び声が伝わってくるかと疑うほど、神業(かみわざ)のような出来映えでございました。
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これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映えでございました。
ああ、これでございます、これを描くために、あの恐ろしい出来事が起こったのでございます。
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あゝ、これでございます、これを描く為めに、あの恐ろしい出来事が起つたのでございます。
またそうでなければ、いかに良秀でも、どうしてこのように生き生きと地獄の苦しみが描けましょう。
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又さもなければ如何に良秀でも、どうしてかやうに生々と奈落の苦艱が画かれませう。
あの男はこの屏風の絵を仕上げた代わりに、命さえも捨てるような、無惨な目に出遇いました。
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あの男はこの屏風の絵を仕上げた代りに、命さへも捨てるやうな、無惨な目に出遇ひました。
言わばこの絵の地獄は、国いちばんの絵師良秀が、自分でいつか堕ちていく地獄だったのでございます。……
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云はゞこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か墜ちて行く地獄だつたのでございます。……
私はあの珍しい地獄変の屏風のことを申し上げますのを急いだあまり、あるいはお話の順序をひっくり返したかもしれません。
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私はあの珍しい地獄変の屏風の事を申上げますのを急いだあまりに、或は御話の順序を顛倒致したかも知れません。
しかしこれからはまた引き続いて、大殿様から地獄絵を描けというお言いつけを受けた良秀のことに移りましょう。
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が、これからは又引き続いて、大殿様から地獄絵を描けと申す仰せを受けた良秀の事に移りませう。
七
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七
良秀はそれから五、六か月の間、まるでお邸へも伺わないで、屏風の絵にばかりかかっておりました。
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良秀はそれから五六箇月の間、まるで御邸へも伺はないで、屏風の絵にばかりかゝつて居りました。
あれほどの子煩悩が、いざ絵を描くという段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。
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あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云ふ段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。
先ほど申し上げました弟子の話では、なんでもあの男は仕事にとりかかりますと、まるで狐でも憑いたようになるらしゅうございます。
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先刻申し上げました弟子の話では、何でもあの男は仕事にとりかゝりますと、まるで狐でも憑いたやうになるらしうございます。
いや実際、当時の噂では、良秀が絵の道で名を成したのは、福徳の神様に願をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いているところを、そっと物陰からのぞいてみると、必ずぼんやりと、霊狐(れいこ・不思議な力を持つ狐)の姿が、一匹ならず前後左右に群がっているのが見えるなどと申す者もございました。
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いや実際当時の風評に、良秀が画道で名を成したのは、福徳の大神に祈誓をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いてゐる所を、そつと物陰から覗いて見ると、必ず陰々として霊狐の姿が、一匹ならず前後左右に、群つてゐるのが見えるなどと申す者もございました。
それほどでございますから、いざ絵筆を取るとなると、その絵を描き上げるということより外は、何もかも忘れてしまうのでございましょう。
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その位でございますから、いざ画筆を取るとなると、その絵を描き上げると云ふより外は、何も彼も忘れてしまふのでございませう。
昼も夜も一部屋に閉じこもったきりで、めったに日の光も見たことはございません。――
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昼も夜も一間に閉ぢこもつたきりで、滅多に日の目も見た事はございません。――
特に地獄変の屏風を描いたときには、こういう夢中になり方が、はなはだしかったようでございます。
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殊に地獄変の屏風を描いた時には、かう云ふ夢中になり方が、甚しかつたやうでございます。
と申しますのは、何もあの男が、昼も蔀(しとみ・格子状の板戸)を下ろした部屋の中で、結灯台(ゆいとうだい・灯りをともす台)の火の下で秘密の絵の具を合わせたり、あるいは弟子たちを水干(すいかん)やら狩衣(かりぎぬ)やら、さまざまに着飾らせて、その姿を一人ずつ丁寧に写したり――そういうことではございません。
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と申しますのは何もあの男が、昼も蔀も下した部屋の中で、結燈台の火の下に、秘密の絵の具を合せたり、或は弟子たちを、水干やら狩衣やら、さま/″\に着飾らせて、その姿を、一人づゝ丁寧に写したり、――さう云ふ事ではございません。
それくらいの変わったことなら、別にあの地獄変の屏風を描かなくとも、仕事にかかっているときとさえ申しますと、いつでもやりかねない男なのでございます。
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それ位の変つた事なら、別にあの地獄変の屏風を描かなくとも、仕事にかゝつてゐる時とさへ申しますと、何時でもやり兼ねない男なのでございます。
いや、現に龍蓋寺(りゅうがいじ)の五趣生死(ごしゅしょうじ)の図を描きましたときなどは、当たり前の人間なら、わざと目をそらせて通るあの道端の死体の前に、悠々と腰を下ろして、半ば腐りかかった顔や手足を、髪の毛一筋も違えずに、写してまいったことがございました。
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いや、現に龍蓋寺の五趣生死の図を描きました時などは、当り前の人間なら、わざと眼を外らせて行くあの往来の屍骸の前へ、悠々と腰を下して、半ば腐れかかつた顔や手足を、髪の毛一すぢも違へずに、写して参つた事がございました。
では、その甚だしい夢中になり方とは、いったいどういうことを申すのか、さすがにおわかりにならない方もいらっしゃいましょう。
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では、その甚しい夢中になり方とは、一体どう云ふ事を申すのか、流石に御わかりにならない方もいらつしやいませう。
それはただいま詳しいことは申し上げている暇もございませんが、主な話をお耳に入れますと、だいたいまずこのような次第なのでございます。
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それは唯今詳しい事は申し上げてゐる暇もございませんが、主な話を御耳に入れますと、大体先かやうな次第なのでございます。
良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)ある日絵の具を溶いておりますと、急に師匠がまいりまして、
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良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)或日絵の具を溶いて居りますと、急に師匠が参りまして、
「わしは少し昼寝をしようと思う。だがどうもこの頃は夢見が悪い。」
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「己は少し午睡をしようと思ふ。がどうもこの頃は夢見が悪い。」
とこう申すのでございます。
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とかう申すのでございます。
別にこれは珍しいことでも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、ただ、
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別にこれは珍しい事でも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、唯、
「さようでございますか。」
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「さやうでございますか。」
と一通りの挨拶をいたしました。
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と一通りの挨拶を致しました。
ところが、良秀は、いつになく寂しそうな顔をして、
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所が、良秀は、何時になく寂しさうな顔をして、
「ついては、わしが昼寝をしている間中、枕もとに座っていてもらいたいのだが。」
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「就いては、己が午睡をしてゐる間中、枕もとに坐つてゐて貰ひたいのだが。」
と、遠慮がちに頼むではございませんか。
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と、遠慮がましく頼むではございませんか。
弟子はいつになく、師匠が夢などを気にするのは、不思議だと思いましたが、それも別に造作のないことでございますから、
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弟子は何時になく、師匠が夢なぞを気にするのは、不思議だと思ひましたが、それも別に造作のない事でございますから、
「よろしゅうございます。」
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「よろしうございます。」
と申しますと、師匠はまだ心配そうに、
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と申しますと、師匠はまだ心配さうに、
「ではすぐに奥へ来てくれ。もっとも後でほかの弟子が来ても、わしの眠っているところへは入れないように。」
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「では直に奥へ来てくれ。尤も後で外の弟子が来ても、己の睡つてゐる所へは入れないやうに。」
と、ためらいながら言いつけました。
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と、ためらひながら云ひつけました。
奥と申しますのは、あの男が絵を描く部屋で、その日も夜のように戸を閉め切った中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだ焼筆(やきふで・下絵の線を描く道具)で下絵だけしかできていない屏風が、ぐるりと立て回してあったそうでございます。
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奥と申しますのは、あの男が画を描きます部屋で、その日も夜のやうに戸を立て切つた中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだ焼筆で図取りだけしか出来てゐない屏風が、ぐるりと立て廻してあつたさうでございます。
さてここへまいりますと、良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切った人間のように、すやすやと眠り込んでしまいましたが、ものの半時(はんとき・約一時間)とたたないうちに、枕もとにおります弟子の耳には、何ともかとも言いようのない、気味の悪い声がはいり始めました。
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さてこゝへ参りますと、良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切つた人間のやうに、すや/\、睡入つてしまひましたが、ものゝ半時とたちません中に、枕もとに居ります弟子の耳には、何とも彼とも申しやうのない、気味の悪い声がはいり始めました。
八
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八
それが初めはただ声でございましたが、しばらくしますと、次第に切れ切れな言葉になって、言わば溺れかかった人間が水の中でうなるように、こんなことを申すのでございます。
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それが始めは唯、声でございましたが、暫くしますと、次第に切れ/″\な語になつて、云はゞ溺れかゝつた人間が水の中で呻るやうに、かやうな事を申すのでございます。
「なに、わしに来いと言うのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落(ならく・地獄)へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。そう言う貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思ったら」
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「なに、己に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら」
弟子は思わず絵の具を溶く手を止めて、恐る恐る師匠の顔を、のぞくようにして透かして見ますと、しわだらけな顔が白くなった上に大粒な汗をにじませながら、唇の乾いた、歯のまばらな口を、あえぐように大きく開けております。
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弟子は思はず絵の具を溶く手をやめて、恐る/\師匠の顔を、覗くやうにして透して見ますと、皺だらけな顔が白くなつた上に大粒な汗を滲ませながら、唇の干いた、歯の疎な口を喘ぐやうに大きく開けて居ります。
そしてその口の中で、何か糸でもつけて引っ張っているかと疑うほど、目まぐるしく動くものがあると思いますと、それがあの男の舌だったと申すではございませんか。
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さうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。
切れ切れな言葉はもちろん、その舌から出てくるのでございます。
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切れ切れな語は元より、その舌から出て来るのでございます。
「誰だと思ったら――うん、貴様だな。わしも貴様だろうと思っていた。なに、迎えに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落にはわしの娘が待っている。」
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「誰だと思つたら――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」
そのとき、弟子の目には、ぼんやりとした異形(いぎょう・普通ではない恐ろしい姿)の影が、屏風の面をかすめて、むらむらと下りてくるように見えたほど、気味の悪い心持ちがしたそうでございます。
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その時、弟子の眼には、朦朧とした異形の影が、屏風の面をかすめてむらむらと下りて来るやうに見えた程、気味の悪い心もちが致したさうでございます。
もちろん弟子はすぐに良秀に手をかけて、力の限り揺り起こしましたが、師匠はなお夢うつつにひとり言を言い続けて、なかなか目の覚める様子はございません。
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勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り揺り起しましたが、師匠は猶夢現に独り語を云ひつゞけて、容易に眼のさめる気色はございません。
そこで弟子は思い切って、そばにあった筆洗の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。
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そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。
「待っているから、この車へ乗って来い――この車へ乗って、奈落へ来い――」
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「待つてゐるから、この車へ乗つて来い――この車へ乗つて、奈落へ来い――」
という言葉が、それと同時に喉を締められるようなうめき声に変わったと思いますと、やっと良秀は目を開いて、針で刺されたよりも慌ただしく、いきなりそこへ跳ね起きましたが、まだ夢の中の恐ろしいものたちが、まぶたの裏から去らないのでございましょう。
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と云ふ語がそれと同時に、喉をしめられるやうな呻き声に変つたと思ひますと、やつと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌しく、矢庭にそこへ刎ね起きましたが、まだ夢の中の異類異形が、眶の後を去らないのでございませう。
しばらくはただ恐ろしそうな目つきをして、やはり大きく口を開けながら、空を見つめておりましたが、やがて我に返った様子で、
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暫くは唯恐ろしさうな眼つきをして、やはり大きく口を開きながら、空を見つめて居りましたが、やがて我に返つた容子で、
「もういいから、あちらへ行ってくれ」
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「もう好いから、あちらへ行つてくれ」
と、今度は実にそっけなく、言いつけるのでございます。
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と、今度は如何にも素つ気なく、云ひつけるのでございます。
弟子はこういうときに逆らうと、いつでもひどく叱られるので、そそくさと師匠の部屋から出てまいりましたが、まだ明るい外の日の光を見たときには、まるで自分が悪夢から覚めたような、ほっとした気がしたとか申しておりました。
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弟子はかう云ふ時に逆ふと、何時でも大小言を云はれるので、匆々師匠の部屋から出て参りましたが、まだ明い外の日の光を見た時には、まるで自分が悪夢から覚めた様な、ほつとした気が致したとか申して居りました。
しかしこれなどはまだよい方なので、その後一か月ばかりたってから、今度はまた別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはり薄暗い油火の光の中で、絵筆を噛んでおりましたが、いきなり弟子の方へ向き直って、
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しかしこれなぞはまだよい方なので、その後一月ばかりたつてから、今度は又別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはりうす暗い油火の光りの中で、絵筆を噛んで居りましたが、いきなり弟子の方へ向き直つて、
「ご苦労だが、また裸になってもらおうか。」
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「御苦労だが、又裸になつて貰はうか。」
と申すのでございます。
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と申すのでございます。
これはそのときまでにも、どうかすると師匠が言いつけたことでございますから、弟子は早速衣類を脱ぎ捨てて、まる裸になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、
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これはその時までにも、どうかすると師匠が云ひつけた事でございますから、弟子は早速衣類をぬぎすてて、赤裸になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、
「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思うのだが、気の毒でもしばらくの間、わしのする通りになっていてはくれまいか。」
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「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思ふのだが、気の毒でも暫くの間、わしのする通りになつてゐてはくれまいか。」
と、その癖少しも気の毒らしい様子などは見せずに、冷たくこう申しました。
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と、その癖少しも気の毒らしい容子などは見せずに、冷然とかう申しました。
もとよりこの弟子は、絵筆などを握るよりも、太刀でも持った方が似合いそうな、たくましい若者でございましたが、これにはさすがに驚いたと見えて、後々までもそのときの話をいたしますと、「これは師匠が気が違って、私を殺すのではないかと思いました」
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元来この弟子は画筆などを握るよりも、太刀でも持つた方が好ささうな、逞しい若者でございましたが、これには流石に驚いたと見えて、後々までもその時の話を致しますと、「これは師匠が気が違つて、私を殺すのではないかと思ひました」
と繰り返して申したそうでございます。
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と繰返して申したさうでございます。
しかし良秀の方では、相手がぐずぐずしているのが、じれったくなってまいったのでございましょう。
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が、良秀の方では、相手の愚図々々してゐるのが、燥つたくなつて参つたのでございませう。
どこから出したか、細い鉄の鎖をざらざらと手繰りながら、まるで飛びつくような勢いで、弟子の背中へ乗りかかりますと、いやおうなしにそのまま両腕をねじり上げて、ぐるぐる巻きにしてしまいました。
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どこから出したか、細い鉄の鎖をざら/\と手繰りながら、殆ど飛びつくやうな勢ひで、弟子の背中へ乗りかかりますと、否応なしにその儘両腕を捻ぢあげて、ぐる/\巻きに致してしまひました。
そしてまたその鎖の端を無情にぐいと引きましたからたまりません。
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さうして又その鎖の端を邪慳にぐいと引きましたからたまりません。
弟子の体は勢いあまって、勢いよく床を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまったのでございます。
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弟子の体ははづみを食つて、勢よく床を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまつたのでございます。
九
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九
そのときの弟子の格好は、まるで酒がめを転がしたようだとでも申しましょうか。
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その時の弟子の恰好は、まるで酒甕を転がしたやうだとでも申しませうか。
何しろ手も足もむごたらしく折り曲げられておりますから、動くのはただ首ばかりでございます。
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何しろ手も足も惨たらしく折り曲げられて居りますから、動くのは唯首ばかりでございます。
そこへ太った体中の血が、鎖に流れを止められたので、顔といわず胴といわず、一面に皮膚の色が赤みを帯びてまいるではございませんか。
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そこへ肥つた体中の血が、鎖に循環を止められたので、顔と云はず胴と云はず、一面に皮膚の色が赤み走つて参るではございませんか。
しかし良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、その酒がめのような体のまわりを、あちこちと回って眺めながら、同じような写生の絵を何枚となく描いております。
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が、良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、その酒甕のやうな体のまはりを、あちこちと廻つて眺めながら、同じやうな写真の図を何枚となく描いて居ります。
その間、縛られている弟子の身が、どれほど苦しかったかということは、何もわざわざ取り立てて申し上げるまでもございますまい。
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その間、縛られてゐる弟子の身が、どの位苦しかつたかと云ふ事は、何もわざ/\取り立てゝ申し上げるまでもございますまい。
しかしもし何事も起こらなかったといたしましたら、この苦しみは恐らくまだその上にも、続けられたことでございましょう。
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が、もし何事も起らなかつたと致しましたら、この苦しみは恐らくまだその上にも、つゞけられた事でございませう。
幸い(と申しますより、あるいは不幸にと申した方がよろしいかもしれません。)
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幸(と申しますより、或は不幸にと申した方がよろしいかも知れません。)
しばらくいたしますと、部屋の隅にある壺の陰から、まるで黒い油のようなものが、一筋細くうねりながら、流れ出してまいりました。
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暫く致しますと、部屋の隅にある壺の蔭から、まるで黒い油のやうなものが、一すぢ細くうねりながら、流れ出して参りました。
それが初めのうちはよほど粘り気のあるもののように、ゆっくり動いておりましたが、だんだん滑らかに滑り始めて、やがてちらちら光りながら、鼻の先まで流れ着いたのを眺めますと、弟子は思わず息をのんで、
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それが始の中は余程粘り気のあるものゝやうに、ゆつくり動いて居りましたが、だん/\滑らかに、辷り始めて、やがてちら/\光りながら、鼻の先まで流れ着いたのを眺めますと、弟子は思はず、息を引いて、
「蛇が――蛇が。」
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「蛇が――蛇が。」
とわめきました。
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と喚きました。
そのときはまったく体中の血が一時に凍るかと思ったと申しますが、それも無理はございません。
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その時は全く体中の血が一時に凍るかと思つたと申しますが、それも無理はございません。
蛇は実際もう少しで、鎖の食い込んでいる首の肉へ、その冷たい舌の先を触れようとしていたのでございます。
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蛇は実際もう少しで、鎖の食ひこんでゐる、頸の肉へその冷い舌の先を触れようとしてゐたのでございます。
この思いもよらない出来事には、いくらひねくれ者の良秀でも、ぎょっといたしたのでございましょう。
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この思ひもよらない出来事には、いくら横道な良秀でも、ぎよつと致したのでございませう。
慌てて絵筆を投げ捨てながら、とっさに身をかがめたと思うと、素早く蛇の尾をつかまえて、ぶらりと逆さに吊り下げました。
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慌てて画筆を投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思ふと、素早く蛇の尾をつかまへて、ぶらりと逆に吊り下げました。
蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きりきりと自分の体へ巻きつきましたが、どうしてもあの男の手のところまでは届きません。
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蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きり/\と自分の体へ巻つきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。
「おのれのせいで、惜しい一筆をしくじったぞ。」
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「おのれ故に、あつたら一筆を仕損じたぞ。」
良秀は忌々しそうにこうつぶやくと、蛇はそのまま部屋の隅の壺の中へ放り込んで、それからさもいやいやながら、弟子の体にかかっている鎖を解いてくれました。
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良秀は忌々しさうにかう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それからさも不承無承に、弟子の体へかゝつてゐる鎖を解いてくれました。
それもただ解いてくれたというだけで、肝心の弟子の方へは、優しい言葉一つかけてはやりません。
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それも唯解いてくれたと云ふ丈で、肝腎の弟子の方へは、優しい言葉一つかけてはやりません。
大方弟子が蛇に噛まれるよりも、写生の一筆を誤ったことの方が、腹立たしかったのでございましょう。――
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大方弟子が蛇に噛まれるよりも、写真の一筆を誤つたのが、業腹だつたのでございませう。――
あとで聞きますと、この蛇もやはり姿を写すためにわざわざあの男が飼っていたのだそうでございます。
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後で聞きますと、この蛇もやはり姿を写す為にわざ/\あの男が飼つてゐたのださうでございます。
これだけのことをお聞きになっただけでも、良秀の、頭がどうかしてしまったような、薄気味の悪い夢中になり方が、ほぼおわかりになったことでございましょう。
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これだけの事を御聞きになつたのでも、良秀の気違ひじみた、薄気味の悪い夢中になり方が、略御わかりになつた事でございませう。
ところが最後に一つ、今度はまだ十三、四の弟子が、やはり地獄変の屏風のおかげで、言わば命にもかかわりかねない、恐ろしい目に出遇いました。
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所が最後に一つ、今度はまだ十三四の弟子が、やはり地獄変の屏風の御かげで、云はゞ命にも関はり兼ねない、恐ろしい目に出遇ひました。
その弟子は生まれつき色の白い、女のような男でございましたが、ある夜のこと、何気なく師匠の部屋へ呼ばれてまいりますと、良秀は灯台の火の下で、手のひらに何やら生臭い肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を養っているのでございます。
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その弟子は生れつき色の白い女のやうな男でございましたが、或夜の事、何気なく師匠の部屋へ呼ばれて参りますと、良秀は燈台の火の下で掌に何やら腥い肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を養つてゐるのでございます。
大きさはまず、世の常の猫ほどもございましょうか。
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大きさは先、世の常の猫ほどもございませうか。
そういえば、耳のように両方へ突き出た羽毛といい、琥珀(こはく)のような色をした、大きな丸い目といい、見た目も何となく猫に似ておりました。
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さう云へば、耳のやうに両方へつき出た羽毛と云ひ、琥珀のやうな色をした、大きな円い眼と云ひ、見た所も何となく猫に似て居りました。
十
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十
もともと良秀という男は、何でも自分のしていることに口出しされるのが大嫌いで、先ほど申し上げた蛇などもそうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、一切そういうことは弟子たちにも知らせたことがございません。
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元来良秀と云ふ男は、何でも自分のしてゐる事に嘴を入れられるのが大嫌ひで、先刻申し上げた蛇などもさうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、一切さう云ふ事は弟子たちにも知らせた事がございません。
ですから、あるときは机の上にしゃれこうべ(髑髏・頭の骨)がのっていたり、あるときはまた、銀の椀や蒔絵(まきえ)の高坏(たかつき・脚のついた盆)が並んでいたり、そのとき描いている絵次第で、ずいぶん思いもよらないものが出ておりました。
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でございますから、或時は机の上に髑髏がのつてゐたり、或時は又、銀の椀や蒔絵の高坏が並んでゐたり、その時描いてゐる画次第で、随分思ひもよらない物が出て居りました。
しかしふだんはこのような品を、いったいどこにしまっておくのか、それは誰にもわからなかったそうでございます。
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が、ふだんはかやうな品を、一体どこにしまつて置くのか、それは又誰にもわからなかつたさうでございます。
あの男が福徳の神様のご加護を受けているなどと申す噂も、一つは確かにそういうことがきっかけになっていたのでございましょう。
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あの男が福徳の大神の冥助を受けてゐるなどゝ申す噂も、一つは確にさう云ふ事が起りになつてゐたのでございませう。
そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに入用なのに違いないと、こう独り考えながら、師匠の前にかしこまって、「何かご用でございますか」
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そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに入用なのに違ひないと、かう独り考へながら、師匠の前へ畏まつて、「何か御用でございますか」
と、うやうやしく申しますと、良秀はまるでそれが聞こえないように、あの赤い唇へ舌なめずりをして、
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と、恭々しく申しますと、良秀はまるでそれが聞えないやうに、あの赤い唇へ舌なめずりをして、
「どうだ。よく馴れているではないか。」
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「どうだ。よく馴れてゐるではないか。」
と、鳥の方へあごをやります。
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と、鳥の方へ頤をやります。
「これは何と申すものでございましょう。私はまだついぞ、見たことがございませんが。」
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「これは何と云ふものでございませう。私はついぞまだ、見た事がございませんが。」
弟子はこう申しながら、この耳のある、猫のような鳥を、気味悪そうにじろじろ眺めますと、良秀は相変わらずいつもの人を見下したような調子で、
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弟子はかう申しながら、この耳のある、猫のやうな鳥を、気味悪さうにじろじろ眺めますと、良秀は不相変何時もの嘲笑ふやうな調子で、
「なに、見たことがない? 都育ちの人間はそれだから困る。これは二、三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた、耳木兎(みみずく・ふくろうの仲間)という鳥だ。ただ、こんなに馴れているのは、そう多くはあるまい。」
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「なに、見た事がない? 都育ちの人間はそれだから困る。これは二三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた耳木兎と云ふ鳥だ。唯、こんなに馴れてゐるのは、沢山あるまい。」
こう言いながらあの男は、おもむろに手をあげて、ちょうど餌を食べてしまった耳木兎の背中の毛を、そっと下から撫で上げました。
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かう云ひながらあの男は、徐に手をあげて、丁度餌を食べてしまつた耳木兎の背中の毛を、そつと下から撫で上げました。
するとその途端でございます。
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するとその途端でございます。
鳥は急に鋭い声で、短く一声鳴いたと思うと、たちまち机の上から飛び上がって、両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へ飛びかかりました。
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鳥は急に鋭い声で、短く一声啼いたと思ふと、忽ち机の上から飛び上つて、両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へとびかゝりました。
もしそのとき、弟子が袖をかざして、慌てて顔を隠さなかったなら、きっともう傷の一つや二つは負わされておりましたでしょう。
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もしその時、弟子が袖をかざして、慌てゝ顔を隠さなかつたなら、きつともう疵の一つや二つは負はされて居りましたらう。
あっと言いながら、その袖を振って、追い払おうとするところを、耳木兎はしつこく襲いかかって、くちばしを鳴らしながら、また一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立っては防ぎ、座っては追い、思わず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑いました。
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あつと云ひながら、その袖を振つて、逐ひ払はうとする所を、耳木兎は蓋にかかつて、嘴を鳴らしながら、又一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立つては防ぎ、坐つては逐ひ、思はず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑ひました。
怪鳥ももとよりそれにつれて、高く低く飛び回りながら、隙さえあれば一目散に目をめがけて飛んでまいります。
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怪鳥も元よりそれにつれて、高く低く翔りながら、隙さへあれば驀地に眼を目がけて飛んで来ます。
そのたびにばさばさと、すさまじく翼を鳴らすのが、落ち葉の匂いだか、滝のしぶきだか、あるいはまた猿酒(さるざけ・猿が作るという伝説の酒)の饐(す)えたにおいだか、何やら怪しげなもののけはいを誘って、気味の悪さといったらございません。
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その度にばさ/\と、凄じく翼を鳴すのが、落葉の匂だか、滝の水沫とも或は又猿酒の饐ゑたいきれだか何やら怪しげなものゝけはひを誘つて、気味の悪さと云つたらございません。
そういえばその弟子も、薄暗い油火の光さえおぼろげな月明かりかと思われて、師匠の部屋がそのまま遠い山奥の、妖しい気配に閉ざされた谷のような、心細い気がしたとか申したそうでございます。
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さう云へばその弟子も、うす暗い油火の光さへ朧げな月明りかと思はれて、師匠の部屋がその儘遠い山奥の、妖気に閉された谷のやうな、心細い気がしたとか申したさうでございます。
しかし弟子が恐ろしかったのは、何も耳木兎に襲われるという、そのことばかりではございません。
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しかし弟子が恐しかつたのは、何も耳木兎に襲はれると云ふ、その事ばかりではございません。
いや、それよりも一層身の毛がよだったのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷たく眺めながら、おもむろに紙を広げ、筆をなめて、女のような少年が異形な鳥にいじめられる、物凄いありさまを写していたことでございます。
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いや、それよりも一層身の毛がよだつたのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷然と眺めながら、徐に紙を展べ筆を舐つて、女のやうな少年が異形な鳥に虐まれる、物凄い有様を写してゐた事でございます。
弟子は一目それを見ますと、たちまち言いようのない恐ろしさに脅かされて、実際一時は師匠に殺されるのではないかとさえ、思ったと申しておりました。
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弟子は一目それを見ますと、忽ち云ひやうのない恐ろしさに脅かされて、実際一時は師匠の為に、殺されるのではないかとさへ、思つたと申して居りました。
十一
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十一
実際師匠に殺されるということも、まったくないとは申されません。
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実際師匠に殺されると云ふ事も、全くないとは申されません。
現にその晩わざわざ弟子を呼び寄せたのでさえ、実は耳木兎をけしかけて、弟子の逃げ回るありさまを写そうという魂胆らしかったのでございます。
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現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさへ、実は耳木兎を唆かけて、弟子の逃げまはる有様を写さうと云ふ魂胆らしかつたのでございます。
ですから、弟子は、師匠の様子を一目見るが早いか、思わず両袖に頭を隠しながら、自分でも何と言ったかわからないような悲鳴をあげて、そのまま部屋の隅の遣戸(やりど・引き戸)のそばへ、座り込んでしまいました。
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でございますから、弟子は、師匠の容子を一目見るが早いか、思はず両袖に頭を隠しながら、自分にも何と云つたかわからないやうな悲鳴をあげて、その儘部屋の隅の遣戸の裾へ、居すくまつてしまひました。
とその拍子に、良秀も何やら慌てたような声をあげて、立ち上がった様子でございましたが、たちまち耳木兎の羽音が一層前よりも激しくなって、物の倒れる音や破れる音が、けたたましく聞こえるではございませんか。
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とその拍子に、良秀も何やら慌てたやうな声をあげて、立上つた気色でございましたが、忽ち耳木兎の羽音が一層前よりもはげしくなつて、物の倒れる音や破れる音が、けたゝましく聞えるではございませんか。
これには弟子も再び我を忘れて、思わず隠していた頭を上げてみますと、部屋の中はいつのまにか真っ暗になっていて、師匠が弟子たちを呼び立てる声が、その中でいらだたしそうにしております。
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これには弟子も二度、度を失つて、思はず隠してゐた頭を上げて見ますと、部屋の中は何時かまつ暗になつてゐて、師匠の弟子たちを呼び立てる声が、その中で苛立しさうにして居ります。
やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、急いでやってまいりましたが、そのすすくさい明かりで眺めますと、結灯台(ゆいとうだい)が倒れたので、床も畳も一面に油だらけになったところへ、さっきの耳木兎が片方の翼ばかり、苦しそうにはためかせながら、転げまわっているのでございます。
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やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、急いでやつて参りましたが、その煤臭い明りで眺めますと、結燈台が倒れたので、床も畳も一面に油だらけになつた所へ、さつきの耳木兎が片方の翼ばかり、苦しさうにはためかしながら、転げまはつてゐるのでございます。
良秀は机の向こうで半ば体を起こしたまま、さすがにあっけにとられたような顔をして、何やら人にはわからないことを、ぶつぶつつぶやいておりました。――
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良秀は机の向うで半ば体を起した儘、流石に呆気にとられたやうな顔をして、何やら人にはわからない事を、ぶつ/\呟いて居りました。――
それも無理ではございません。
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それも無理ではございません。
あの耳木兎の体には、真っ黒な蛇が一匹、首から片方の翼にかけて、きりきりと巻きついているのでございます。
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あの耳木兎の体には、まつ黒な蛇が一匹、頸から片方の翼へかけて、きりきりと捲きついてゐるのでございます。
大方これは弟子が座り込む拍子に、そこにあった壺をひっくり返して、その中の蛇が這い出したのを、耳木兎が生半可につかみかかろうとしたばかりに、とうとうこういう大騒ぎが始まったのでございましょう。
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大方これは弟子が居すくまる拍子に、そこにあつた壺をひつくり返して、その中の蛇が這ひ出したのを、耳木兎がなまじひに掴みかゝらうとしたばかりに、とう/\かう云ふ大騒ぎが始まつたのでございませう。
二人の弟子はお互いに目と目を見合わせて、しばらくはただ、この不思議な光景をぼんやり眺めておりましたが、やがて師匠に黙礼をして、こそこそ部屋へ引き下がってしまいました。
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二人の弟子は互に眼と眼とを見合せて、暫くは唯、この不思議な光景をぼんやり眺めて居りましたが、やがて師匠に黙礼をして、こそ/\部屋へ引き下つてしまひました。
蛇と耳木兎とがその後どうなったか、それは誰も知っているものはございません。――
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蛇と耳木兎とがその後どうなつたか、それは誰も知つてゐるものはございません。――
こういう類のことは、そのほかまだ、いくつとなくございました。
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かう云ふ類の事は、その外まだ、幾つとなくございました。
前には申し落としましたが、地獄変の屏風を描けというお言いつけがあったのは、秋の初めでございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず師匠の怪しげな振る舞いに脅かされていたわけでございます。
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前には申し落しましたが、地獄変の屏風を描けと云ふ御沙汰があつたのは、秋の初でございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず師匠の怪しげな振舞に脅かされてゐた訳でございます。
しかしその冬の末に良秀は何か屏風の絵で、思うようにいかないことができたのでございましょう、それまでよりは、一層様子も陰気になり、物言いも目に見えて、荒々しくなってまいりました。
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が、その冬の末に良秀は何か屏風の画で、自由にならない事が出来たのでございませう、それまでよりは、一層容子も陰気になり、物云ひも目に見えて、荒々しくなつて参りました。
と同時にまた屏風の絵も、下絵が八分どおりできあがったまま、それ以上はかどる様子はございません。
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と同時に又屏風の画も、下画が八分通り出来上つた儘、更に捗どる模様はございません。
いや、どうかすると今までに描いたところさえ、塗り消してしまいかねない様子なのでございます。
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いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない気色なのでございます。
その癖、屏風の何が思うようにいかないのか、それは誰にもわかりません。
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その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。
また、誰もわかろうとしたものもございますまい。
原文を見る
又、誰もわからうとしたものもございますまい。
前のいろいろな出来事に懲りている弟子たちは、まるで虎や狼と一つ檻(おり)にでもいるような心持ちで、その後師匠の身のまわりへは、なるべく近づかない算段をしておりましたから。
原文を見る
前のいろ/\な出来事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つ檻にでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。
十二
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十二
したがってその間のことについては、別に取り立てて申し上げるほどのお話もございません。
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従つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。
もし強いて申し上げるといたしましたら、それはあの強情な親父が、なぜか妙に涙もろくなって、人のいないところでは時々ひとりで泣いていたというお話くらいのものでございましょう。
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もし強ひて申し上げると致しましたら、それはあの強情な老爺が、何故か妙に涙脆くなつて、人のゐない所では時々独りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。
特にある日、何かの用で弟子の一人が庭先へまいりましたときなどは、廊下に立ってぼんやり春の近い空を眺めている師匠の目が、涙でいっぱいになっていたそうでございます。
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殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ参りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。
弟子はそれを見ますと、かえってこちらが恥ずかしいような気がしたので、黙ってこそこそ引き返したと申すことでございますが、五趣生死の図を描くためには、道端の死体さえ写したという、傲慢なあの男が、屏風の絵が思うように描けないくらいのことで、子供らしく泣き出すなどと申すのは、ずいぶん妙なことではございませんか。
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弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな気がしたので、黙つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、五趣生死の図を描く為には、道ばたの屍骸さへ写したと云ふ、傲慢なあの男が、屏風の画が思ふやうに描けない位の事で、子供らしく泣き出すなどと申すのは、随分異なものでございませんか。
ところが一方良秀がこのように、まるで正気の人間とは思われないほど夢中になって、屏風の絵を描いておりますうちに、また一方ではあの娘が、なぜかだんだん気がふさぐようになって、私どもにさえ涙をこらえている様子が、目立ってまいりました。
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所が一方良秀がこのやうに、まるで正気の人間とは思はれない程夢中になつて、屏風の絵を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだん/\気鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて参りました。
それがもともと憂い顔の、色の白い、つつましやかな女だけに、こうなると何だかまつげが重くなって、目のまわりに隈(くま)がかかったような、いっそう寂しい気がいたすのでございます。
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それが元来愁顔の、色の白い、つゝましやかな女だけに、かうなると何だか睫毛が重くなつて、眼のまはりに隈がかゝつたやうな、余計寂しい気が致すのでございます。
初めはやれ父親思いのせいだの、やれ恋煩いをしているからだの、いろいろ憶測をしたものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様がお心に従わせようとしていらっしゃるのだという評判が立ち始めて、それからは誰も忘れたようにぱったりあの娘の噂をしなくなってしまいました。
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初はやれ父思ひのせゐだの、やれ恋煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、夫からは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。
ちょうどその頃のことでございましょう。
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丁度その頃の事でございませう。
ある夜、夜が更けてから、私がひとり御廊下を通りかかりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んでまいりまして、私の袴の裾をしきりに引っぱるのでございます。確か、もう梅の匂いでもしそうな、薄い月の光の差している、暖かい夜でございましたが、その明かりで透かして見ますと、猿は真っ白な歯をむき出しながら、鼻先にしわを寄せて、気が違わんばかりにけたたましく鳴き立てているではございませんか。
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或夜、更が闌けてから、私が独り御廊下を通りかゝりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで参りまして、私の袴の裾を頻りにひつぱるのでございます、確、もう梅の匂でも致しさうな、うすい月の光のさしてゐる、暖い夜でございましたが、其明りですかして見ますと、猿はまつ白な歯をむき出しながら、鼻の先へ皺をよせて、気が違はないばかりにけたゝましく啼き立てゝゐるではございませんか。
私は気味の悪いのが三分と、新しい袴を引っぱられる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放して、そのまま通り過ぎようかとも思いましたが、また思い返してみますと、前にこの猿を折檻して、若殿様のご不興を受けた侍の例もございます。
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私は気味の悪いのが三分と、新しい袴をひつぱられる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放して、その儘通りすぎようかとも思ひましたが、又思ひ返して見ますと、前にこの猿を折檻して、若殿様の御不興を受けた侍の例もございます。
それに猿の振る舞いが、どうもただ事とは思われません。
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それに猿の振舞が、どうも唯事とは思はれません。
そこでとうとう私も思い切って、その引っぱる方へ五、六間(けん・約九〜十一メートル)歩くともなく歩いてまいりました。
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そこでとう/\私も思ひ切つて、そのひつぱる方へ五六間歩くともなく歩いて参りました。
すると御廊下がひとつ曲がって、夜目にも薄白い御池の水が、枝ぶりのやさしい松の向こうに広々と見渡せる、ちょうどそこまでまいりましたときのことでございます。
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すると御廊下が一曲り曲つて、夜目にもうす白い御池の水が枝ぶりのやさしい松の向うにひろ/″\と見渡せる、丁度そこ迄参つた時の事でございます。
どこか近くの部屋の中で、人の争っているらしい気配が、慌ただしく、また妙にひっそりと私の耳を脅かしました。
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どこか近くの部屋の中で人の争つてゐるらしいけはひが、慌しく、又妙にひつそりと私の耳を脅しました。
あたりはどこもしんと静まり返って、月明かりとも靄(もや)ともつかないものの中で、魚の跳ねる音がするほかは、話し声一つ聞こえません。
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あたりはどこも森と静まり返つて、月明りとも靄ともつかないものゝ中で、魚の跳る音がする外は、話し声一つ聞えません。
そこへこの物音でございますから。
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そこへこの物音でございますから。
私は思わず立ち止まって、もし乱暴者ででもあったなら目にもの見せてくれようと、そっとその遣戸の外へ、息をひそめながら身を寄せました。
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私は思はず立止つて、もし狼藉者でゞもあつたなら、目にもの見せてくれようと、そつとその遣戸の外へ、息をひそめながら身をよせました。
十三
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十三
ところが猿は私のやり方がまだるっこかったのでございましょう。
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所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。
良秀はさもさもじれったそうに、二、三度私の足のまわりを駆けまわったと思いますと、まるで喉を絞められたような声で鳴きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛びに飛び上がりました。
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良秀はさもさももどかしさうに、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるで咽を絞められたやうな声で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛に飛び上りました。
私は思わずうなじをそらせて、その爪にかけられまいとする、猿はまた水干(すいかん)の袖にかじりついて、私の体から滑り落ちまいとする、――その拍子に、私はわれ知らず二、三歩よろめいて、その遣戸へ後ろざまに、したたか私の体を打ちつけました。
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私は思はず頸を反らせて、その爪にかけられまいとする、猿は又水干の袖にかじりついて、私の体から辷り落ちまいとする、――その拍子に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、その遣り戸へ後ざまに、したゝか私の体を打ちつけました。
こうなってはもう一刻もためらっている場合ではございません。
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かうなつてはもう一刻も躊躇してゐる場合ではございません。
私はいきなり遣戸を開け放って、月明かりの届かない奥の方へ躍り込もうといたしました。
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私は矢庭に遣り戸を開け放して、月明りのとどかない奥の方へ跳りこまうと致しました。
しかしそのとき私の目をさえぎったものは――いや、それよりももっと私は、同時にその部屋の中から、弾かれたように駆け出そうとした女の方に驚かされました。
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が、その時私の眼を遮つたものは――いや、それよりももつと私は、同時にその部屋の中から、弾かれたやうに駈け出さうとした女の方に驚かされました。
女は出会い頭に危うく私にぶつかりそうになって、そのまま外へ転び出ましたが、なぜかそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るように、おののきながら見上げているのでございます。
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女は出合頭に危く私に衝き当らうとして、その儘外へ転び出ましたが、何故かそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るやうに、戦き/\見上げてゐるのでございます。
それが良秀の娘だったことは、何もわざわざ申し上げるまでもございますまい。
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それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。
しかし、その晩のあの女は、まるで人が違ったように、生き生きと私の目に映りました。
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が、その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、生々と私の眼に映りました。
目は大きく輝いております。
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眼は大きくかゞやいて居ります。
頬も赤く燃えておりましたでしょう。
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頬も赤く燃えて居りましたらう。
そこへしどけなく乱れた袴や袿(うちぎ)が、いつもの幼さとは打って変わった艶(なまめ)かしささえも添えております。
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そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さとは打つて変つた艶しささへも添へてをります。
これが実際あの弱々しい、何事にも控えめがちな良秀の娘でございましょうか。――
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これが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。――
私は遣戸に身を支えて、この月明かりの中にいる美しい娘の姿を眺めながら、慌ただしく遠のいていくもう一人の足音を、指させるもののように指さして、誰ですかと静かに目で尋ねました。
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私は遣り戸に身を支へて、この月明りの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと静に眼で尋ねました。
すると娘は唇を噛みながら、黙って首を振りました。
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すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。
その様子がいかにもまた、悔しそうなのでございます。
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その容子が如何にも亦、口惜しさうなのでございます。
そこで私は身をかがめながら、娘の耳へ口をつけるようにして、今度は「誰です」
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そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」
と小声で尋ねました。
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と小声で尋ねました。
しかし娘はやはり首を振っただけで、何とも返事をいたしません。
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が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。
いや、それと同時に長いまつげの先へ、涙をいっぱいためながら、前よりも固く唇を噛みしめているのでございます。
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いや、それと同時に長い睫毛の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊く唇を噛みしめてゐるのでございます。
生まれつき愚かな私には、わかりすぎているほどわかっていること以外は、あいにく何一つ飲み込めません。
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性得愚な私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、生憎何一つ呑みこめません。
ですから、私は言葉のかけようも知らないで、しばらくはただ、娘の胸の動悸に耳を澄ませるような心持ちで、じっとそこに立ちすくんでおりました。
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でございますから、私は言のかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。
もっともこれは一つには、なぜかこの上問いただすのが悪いような、気咎めがいたしたからでもございます。――
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尤もこれは一つには、何故かこの上問ひ訊すのが悪いやうな、気咎めが致したからでもございます。――
それがどれくらい続いたか、わかりません。
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それがどの位続いたか、わかりません。
しかしやがて開け放した遣戸を閉じながら、少しは上気の冷めたらしい娘の方を見返って、「もう曹司へお帰りなさい」
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が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上気の褪めたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司へ御帰りなさい」
とできるだけやさしく申しました。
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と出来る丈やさしく申しました。
そうして私も自分ながら、何か見てはならないものを見たような、不安な心持ちに脅かされて、誰にともなく恥ずかしい思いをしながら、そっと元来た方へ歩き出しました。
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さうして私も自分ながら、何か見てはならないものを見たやうな、不安な心もちに脅されて、誰にともなく恥しい思ひをしながら、そつと元来た方へ歩き出しました。
ところが十歩と歩かないうちに、誰かまた私の袴の裾を、後ろから恐る恐る引き止めるではございませんか。
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所が十歩と歩かない中に、誰か又私の袴の裾を、後から恐る/\、引き止めるではございませんか。
私は驚いて、振り向きました。
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私は驚いて、振り向きました。
あなた方は、それが何だったとお思いになりますか。
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あなた方はそれが何だつたと思召します?
見るとそれは私の足もとに、あの猿の良秀が、人間のように両手をついて、黄金の鈴を鳴らしながら、何度となく丁寧に頭を下げているのでございました。
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見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のやうに両手をついて、黄金の鈴を鳴しながら、何度となく丁寧に頭を下げてゐるのでございました。
十四
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十四
するとその晩の出来事があってから、半月ばかり後のことでございます。
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するとその晩の出来事があつてから、半月ばかり後の事でございます。
ある日良秀は突然お邸へまいりまして、大殿様へじきじきのお目通りを願いました。
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或日良秀は突然御邸へ参りまして、大殿様へ直の御眼通りを願ひました。
身分の低いものでございますが、日頃から格別お気に入っていたからでございましょう。
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卑しい身分のものでございますが、日頃から格別御意に入つてゐたからでございませう。
誰にでも容易にお会いになったことのない大殿様が、その日も快くお聞き入れになって、早速御前近くへお呼びになりました。
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誰にでも容易に御会ひになつた事のない大殿様が、その日も快く御承知になつて、早速御前近くへ御召しになりました。
あの男はいつものとおり、香染めの狩衣に、しなびた烏帽子をかぶって、いつもよりは一層気むずかしそうな顔をしながら、うやうやしく御前に平伏いたしましたが、やがてしわがれた声で申しますには
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あの男は例の通り、香染めの狩衣に萎えた烏帽子を頂いて、何時もよりは一層気むづかしさうな顔をしながら、恭しく御前へ平伏致しましたが、やがて嗄れた声で申しますには
「かねてお言いつけになりました地獄変の屏風でございますが、私も日夜に精を出して筆を執りました甲斐がございまして、もはやあらましはできあがったのも同じことでございまする。」
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「兼ね/″\御云ひつけになりました地獄変の屏風でございますが、私も日夜に丹誠を抽んでて、筆を執りました甲斐が見えまして、もはやあらましは出来上つたのも同前でございまする。」
「それはめでたい。予も満足じゃ。」
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「それは目出度い。予も満足ぢや。」
しかしこうおっしゃる大殿様のお声には、なぜか妙に力のない、張り合いの抜けたところがございました。
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しかしかう仰有る大殿様の御声には、何故か妙に力の無い、張合のぬけた所がございました。
「いえ、それが一向にめでたくはございませぬ。」
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「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。」
良秀は、やや腹立たしそうな様子で、じっと目を伏せながら、「あらましはできあがりましたが、ただ一つ、今もって私には描けぬところがございまする。」
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良秀は、稍腹立しさうな容子で、ぢつと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。」
「なに、描けぬところがある?」
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「なに、描けぬ所がある?」
「さようでございまする。私はすべて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、納得がいきませぬ。それでは描けぬも同じことでございませぬか。」
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「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」
これをお聞きになると、大殿様のお顔には、あざけるような微笑が浮かびました。
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これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るやうな御微笑が浮びました。
「では地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」
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「では地獄変の屏風を描かうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」
「さようでございまする。しかし私は先年大火事がございましたときに、炎熱地獄の激しい炎にもまがう火の手を、目のあたりに眺めました。「よじり不動」の火焔を描きましたのも、実はあの火事に遭ったからでございまする。御前もあの絵はご存じでございましょう。」
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「さやうでござりまする。が、私は先年大火事がございました時に、炎熱地獄の猛火にもまがふ火の手を、眼のあたりに眺めました。「よぢり不動」の火焔を描きましたのも、実はあの火事に遇つたからでございまする。御前もあの絵は御承知でございませう。」
「しかし罪人はどうじゃ。獄卒は見たことがあるまいな。」
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「しかし罪人はどうぢや。獄卒は見た事があるまいな。」
大殿様はまるで良秀の申すことがお耳にはいらなかったようなご様子で、こう畳みかけてお尋ねになりました。
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大殿様はまるで良秀の申す事が御耳にはいらなかつたやうな御容子で、かう畳みかけて御尋ねになりました。
「私は鉄の鎖に縛られたものを見たことがございまする。怪鳥に悩まされるものの姿も、詳しく写し取りました。されば罪人が責め苦に苦しむさまも知らぬとは申されませぬ。また獄卒は――」
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「私は鉄の鎖に縛られたものを見た事がございまする。怪鳥に悩まされるものゝ姿も、具に写しとりました。されば罪人の呵責に苦しむ様も知らぬと申されませぬ。又獄卒は――」
と言って、良秀は気味の悪い苦笑をもらしながら、「また獄卒は、夢うつつに何度となく、私の目に映りました。あるいは牛頭(ごず)、あるいは馬頭(めず)、あるいは三面六臂(さんめんろっぴ・顔が三つ、腕が六本ある姿)の鬼の形が、音のせぬ手をたたき、声の出ぬ口を開いて、私を責めさいなみにまいりますのは、ほとんど毎日毎夜のことと申してもよろしゅうございましょう。――私が描こうとして描けぬのは、そのようなものではございませぬ。」
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と云つて、良秀は気味の悪い苦笑を洩しながら、「又獄卒は、夢現に何度となく、私の眼に映りました。或は牛頭、或は馬頭、或は三面六臂の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を虐みに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしうございませう。――私の描かうとして描けぬのは、そのやうなものではございませぬ。」
それには大殿様も、さすがにお驚きになったでございましょう。
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それには大殿様も、流石に御驚きになつたでございませう。
しばらくはただいらだたしそうに、良秀の顔をにらんでいらっしゃいましたが、やがて眉を険しくお動かしになりながら、
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暫くは唯苛立たしさうに、良秀の顔を睨めて御出になりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、
「では何が描けぬと申すのじゃ。」
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「では何が描けぬと申すのぢや。」
と突き放すようにおっしゃいました。
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と打捨るやうに仰有いました。
十五
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十五
「私は屏風のまん中に、檳榔毛(びろうげ・貴族が乗る牛車の一種)の車が一台、空から落ちてくるところを描こうと思っておりまする。」
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「私は屏風の唯中に、檳榔毛の車が一輛空から落ちて来る所を描かうと思つて居りまする。」
良秀はこう言って、初めて鋭く大殿様のお顔を眺めました。
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良秀はかう云つて、始めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。
あの男は絵のこととなると、気が違ったようになるとは聞いておりましたが、そのときの目の配りには確かにそういう恐ろしさがあったようでございます。
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あの男は画の事と云ふと、気違ひ同様になるとは聞いて居りましたが、その時の眼のくばりには確にさやうな恐ろしさがあつたやうでございます。
「その車の中には、一人のあでやかな身分の高い女性が、激しい炎の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでいるのでございまする。顔は煙にむせびながら、眉をひそめて、空の方へ車の屋根を仰いでおりましょう。手は下簾(したすだれ)を引きちぎって、降りかかる火の粉の雨を防ごうとしているかもしれませぬ。そうしてそのまわりには、怪しげな猛禽(もうきん)が十羽となく、二十羽となく、くちばしを鳴らして、乱れ飛び回っているのでございまする。――ああ、それが、その牛車の中の女性が、どうしても私には描けませぬ。」
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「その車の中には、一人のあでやかな上﨟が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐるのでございまする。顔は煙に烟びながら、眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いで居りませう。手は下簾を引きちぎつて、降りかゝる火の粉の雨を防がうとしてゐるかも知れませぬ。さうしてそのまはりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、嘴を鳴らして紛々と飛び繞つてゐるのでございまする。――あゝ、それが、その牛車の中の上﨟が、どうしても私には描けませぬ。」
「そうして――どうじゃ。」
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「さうして――どうぢや。」
大殿様はどういうわけか、妙にうれしそうなご様子で、こう良秀をお促しになりました。
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大殿様はどう云ふ訳か、妙に悦ばしさうな御気色で、かう良秀を御促しになりました。
しかし良秀は、いつもの赤い唇を、熱でも出たときのように震わせながら、夢を見ているのかと思う調子で、
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が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のやうに震はせながら、夢を見てゐるのかと思ふ調子で、
「それが私には描けませぬ。」
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「それが私には描けませぬ。」
と、もう一度繰り返しましたが、突然噛みつくような勢いになって、
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と、もう一度繰返しましたが、突然噛みつくやうな勢ひになつて、
「どうか檳榔毛の車を一台、私の見ている前で、火をかけていただきとうございまする。そうしてもしできますならば――」
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「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。さうしてもし出来まするならば――」
大殿様はお顔を暗くなさったと思うと、突然けたたましくお笑いになりました。
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大殿様は御顔を暗くなすつたと思ふと、突然けたたましく御笑ひになりました。
そしてそのお笑い声に息をつまらせながら、おっしゃいますには、
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さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、
「おお、万事その方が申すとおりにしてやろう。できるできぬの詮議は無駄なことじゃ。」
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「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや。」
私はそのお言葉をうかがいますと、虫の知らせか、何となくすさまじい気がいたしました。
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私はその御言を伺ひますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。
実際また大殿様のご様子も、お口の端には白く泡がたまっておりますし、お眉のあたりにはびくびくと稲妻が走っておりますし、まるで良秀の狂気にお染まりになったのかと思うほど、ただならなかったのでございます。
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実際又大殿様の御容子も、御口の端には白く泡がたまつて居りますし、御眉のあたりにはびく/\と電が走つて居りますし、まるで良秀のもの狂ひに御染みなすつたのかと思ふ程、唯ならなかつたのでございます。
それがちょっと言葉をお切りになると、すぐまた何かが爆発したような勢いで、際限なく喉を鳴らしてお笑いになりながら、
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それがちよいと言を御切りになると、すぐ又何かが爆ぜたやうな勢ひで、止め度なく喉を鳴らして御笑ひになりながら、
「檳榔毛の車にも火をかけよう。またその中にはあでやかな女を一人、身分の高い女性の装いをさせて乗せてやろう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が悶え死にをする――それを描こうと思いついたのは、さすがに天下第一の絵師じゃ。褒めてとらす。おお、褒めてとらすぞ。」
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「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上﨟の装をさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」
大殿様のお言葉を聞きますと、良秀は急に顔色を失って、あえぐようにただ唇ばかり動かしておりましたが、やがて体中の筋が緩んだように、べたりと畳へ両手をつくと、
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大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つて喘ぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、
「有り難い仕合わせでございまする。」
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「難有い仕合でございまする。」
と、聞こえるか聞こえないかわからないほど低い声で、丁寧にお礼を申し上げました。
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と、聞えるか聞えないかわからない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。
これは大方自分の考えていたたくらみの恐ろしさが、大殿様のお言葉につれて、ありありと目の前へ浮かんできたからでございましょうか。
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これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか。
私は一生のうちにただ一度、このときだけは良秀が、気の毒な人間に思われました。
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私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました。
十六
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十六
それから二、三日した夜のことでございます。
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それから二三日した夜の事でございます。
大殿様はお約束どおり、良秀をお呼びになって、檳榔毛の車の焼けるところを、間近に見せておやりになりました。
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大殿様は御約束通り、良秀を御召しになつて、檳榔毛の車の焼ける所を、目近く見せて御やりになりました。
もっともこれは堀川のお邸であったことではございません。
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尤もこれは堀河の御邸であつた事ではございません。
俗に雪解(ゆきげ)の御所という、昔大殿様の妹君がいらっしゃった、都の外にある山荘で、お焼きになったのでございます。
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俗に雪解の御所と云ふ、昔大殿様の妹君がいらしつた洛外の山荘で、御焼きになつたのでございます。
この雪解の御所と申しますのは、長く誰もお住まいにはならなかったところで、広いお庭も荒れ放題に荒れ果てておりましたが、大方この人気のないご様子を拝見した者の当て推量でございましょう。
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この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたも御住ひにはならなかつた所で、広い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人気のない御容子を拝見した者の当推量でございませう。
ここでお亡くなりになった妹君の身の上にも、とかくの噂が立ちまして、中にはまた月のない夜ごとに、今でも怪しいお袴の緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどという話をするものもございました。――
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こゝで御歿くなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪しい御袴の緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどと云ふ取沙汰を致すものもございました。――
それも無理ではございません。
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それも無理ではございません。
昼でさえ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、遣り水の音がひときわ陰気に響いて、星明かりに飛ぶ五位鷺(ごいさぎ)も、怪しい姿の物かと思うほど、気味が悪いのでございますから。
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昼でさへ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、遣り水の音が一際陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、怪形の物かと思ふ程、気味が悪いのでございますから。
ちょうどその夜はやはり月のない、真っ暗な晩でございましたが、大殿油(おおとのあぶら・灯り)の灯影で眺めますと、縁近くに座を占められた大殿様は、浅黄色の直衣(のうし)に、濃い紫の浮紋の指貫(さしぬき)をお召しになって、白地の錦の縁をとった円座に、高々とあぐらを組んでいらっしゃいました。
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丁度その夜はやはり月のない、まつ暗な晩でございましたが、大殿油の灯影で眺めますと、縁に近く座を御占めになつた大殿様は、浅黄の直衣に濃い紫の浮紋の指貫を御召しになつて、白地の錦の縁をとつた円座に、高々とあぐらを組んでいらつしやいました。
その前後左右にお側の者どもが五、六人、うやうやしく居並んでおりましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。
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その前後左右に御側の者どもが五六人、恭しく居並んで居りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。
しかし中に一人、目立って何かありそうに見えたのは、先年陸奥の戦いで飢えて人の肉を食って以来、鹿の生角さえ裂くようになったという力自慢の侍が、下に腹巻を着込んだ様子で、太刀を反らせて腰に佩き、御縁の下にいかめしくつくばっていたことでございます。――
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が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年陸奥の戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の生角さへ裂くやうになつたと云ふ強力の侍が、下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を鴎尻に佩き反らせながら、御縁の下に厳しくつくばつてゐた事でございます。――
それが皆、夜風になびく灯の光で、あるいは明るくあるいは暗く、ほとんど夢かうつつか見分けがつかない様子で、なぜかもの凄く見え渡っておりました。
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それが皆、夜風に靡く灯の光で、或は明るく或は暗く、殆ど夢現を分たない気色で、何故かもの凄く見え渡つて居りました。
その上にまた、お庭に引き据えた檳榔毛の車が、高い車の屋根でどっしりと闇を押さえて、牛はつけず黒い轅(ながえ)を斜めに榻(しじ・台)へかけながら、金物の金色を星のように、ちらちら光らせているのを眺めますと、春とはいうもののなんとなく肌寒い気がいたします。
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その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い車蓋にのつしりと暗を抑へて、牛はつけず黒い轅を斜に榻へかけながら、金物の黄金を星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものゝ何となく肌寒い気が致します。
もっともその車の中は、浮線綾(ふせんりょう)の縁をとった青い簾が、重く封じ込めておりますから、中に何が入っているかわかりません。
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尤もその車の内は、浮線綾の縁をとつた青い簾が、重く封じこめて居りますから、輫には何がはいつてゐるか判りません。
そしてそのまわりには下働きの者たちが、それぞれ手に燃えさかる松明を持って、煙が御縁の方へなびくのを気にしながら、いかにも用心深そうに控えております。
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さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる松明を執つて、煙が御縁の方へ靡くのを気にしながら、仔細らしく控へて居ります。
当の良秀はやや離れて、ちょうど御縁の真向かいに、ひざまずいておりましたが、これはいつもの香染めらしい狩衣に、しなびた揉烏帽子をかぶって、星空の重みに押しつぶされたかと思うくらい、いつもよりはなお小さく、みすぼらしげに見えました。
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当の良秀は稍離れて、丁度御縁の真向に、跪いて居りましたが、これは何時もの香染めらしい狩衣に萎えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。
その後ろにまた一人、同じような烏帽子狩衣姿でうずくまっていたのは、多分連れてきた弟子の一人ででもございましょうか。
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その後に又一人、同じやうな烏帽子狩衣の蹲つたのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございませうか。
それがちょうど二人とも、遠い薄暗がりの中にうずくまっておりますので、私のいた御縁の下からは、狩衣の色さえはっきりとはわかりません。
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それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。
十七
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十七
時刻はかれこれ真夜中にも近かったでございましょう。
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時刻は彼是真夜中にも近かつたでございませう。
林泉(りんせん・庭の木立や池)を包んだ闇がひっそりと声をのんで、一同のする息をうかがっていると思ううちには、ただかすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がそのたびに煤臭い匂いを送ってまいります。
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林泉をつゝんだ暗がひつそりと声を呑んで、一同のする息を窺つてゐると思ふ中には、唯かすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がその度に煤臭い匂を送つて参ります。
大殿様はしばらく黙って、この不思議な景色をじっと眺めていらっしゃいましたが、やがて膝をお進めになりますと、
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大殿様は暫く黙つて、この不思議な景色をぢつと眺めていらつしやいましたが、やがて膝を御進めになりますと、
「良秀、」
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「良秀、」
と、鋭くお呼びかけになりました。
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と、鋭く御呼びかけになりました。
良秀は何やらお返事をいたしたようでございますが、私の耳にはただ、うなるような声しか聞こえてまいりません。
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良秀は何やら御返事を致したやうでございますが、私の耳には唯、唸るやうな声しか聞えて参りません。
「良秀。今宵はその方の望みどおり、車に火をかけて見せてやろう。」
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「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣はさう。」
大殿様はこうおっしゃって、お側の者たちの方を流し目でご覧になりました。
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大殿様はかう仰有つて、御側の者たちの方を流し眄に御覧になりました。
そのとき何か大殿様とお側の誰かとの間には、意味ありげな微笑が交わされたようにも見受けましたが、これはあるいは私の気のせいかもわかりません。
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その時何か大殿様と御側の誰彼との間には、意味ありげな微笑が交されたやうにも見うけましたが、これは或は私の気のせゐかも分りません。
すると良秀は恐る恐る頭をあげて御縁の上を仰いだらしゅうございますが、やはり何も申し上げずに控えております。
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すると良秀は畏る畏る頭を挙げて御縁の上を仰いだらしうございますが、やはり何も申し上げずに控へて居ります。
「よう見よ。それは予が日頃乗る車じゃ。その方も見覚えがあろう。――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現じさせるつもりじゃが。」
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「よう見い。それは予が日頃乗る車ぢや。その方も覚えがあらう。――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現ぜさせる心算ぢやが。」
大殿様はまた言葉をお止めになって、お側の者たちに目くばせをなさいました。
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大殿様は又言を御止めになつて、御側の者たちに眴せをなさいました。
それから急に苦々しいご調子で、「その中には罪人の女房が一人、縛られたまま、乗せてある。されば車に火をかけたら、必ずその女めは肉を焼き骨を焦がして、苦しみ抜いた最期を遂げるであろう。その方が屏風を仕上げるには、またとないよい手本じゃ。雪のような肌が燃えただれるのを見のがすな。黒髪が火の粉になって、舞い上がるさまもよう見ておけ。」
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それから急に苦々しい御調子で、「その内には罪人の女房が一人、縛めた儘、乗せてある。されば車に火をかけたら、必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであらう。その方が屏風を仕上げるには、又とないよい手本ぢや。雪のやうな肌が燃え爛れるのを見のがすな。黒髪が火の粉になつて、舞ひ上るさまもよう見て置け。」
大殿様は三度お口をおつぐみになりましたが、何をお思いになったのか、今度はただ肩を揺すって、声も立てずにお笑いになりながら、
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大殿様は三度口を御噤みになりましたが、何を御思ひになつたのか、今度は唯肩を揺つて、声も立てずに御笑ひなさりながら、
「末代までもない見ものじゃ。予もここで見物しよう。それそれ、簾を揚げて、良秀に中の女を見せてやらぬか。」
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「末代までもない観物ぢや。予もここで見物しよう。それ/\、簾を揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか。」
お言葉を聞くと、下働きの一人は片手に松明の火を高くかざしながら、つかつかと車に近づくと、いきなり片手を差し伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。
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仰を聞くと仕丁の一人は、片手に松明の火を高くかざしながら、つか/\と車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。
けたたましく音を立てて燃える松明の光は、一しきり赤くゆらぎながら、たちまち狭い車の中を鮮やかに照らし出しましたが、床の上にむごたらしく鎖にかけられた女房は――ああ、誰が見違えをいたしましょう。
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けたゝましく音を立てて燃える松明の光は、一しきり赤くゆらぎながら、忽ち狭い輫の中を鮮かに照し出しましたが、𨋳の上に惨らしく、鎖にかけられた女房は――あゝ、誰か見違へを致しませう。
きらびやかな刺繍のある桜の唐衣(からぎぬ)に、なめらかな黒髪が艶やかに垂れて、傾いた黄金の釵子(さいし・髪飾り)も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違え、小柄な体つきは、色の白いうなじのあたりは、そうしてあの寂しいほどつつましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。
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きらびやかな繍のある桜の唐衣にすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の釵子も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違へ、小造りな体つきは、色の白い頸のあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。
私は危うく叫び声をあげようといたしました。
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私は危く叫び声を立てようと致しました。
そのときでございます。
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その時でございます。
私と向かい合っていた侍は、慌ただしく身を起こして、柄頭(つかがしら)を片手で押さえながら、きっと良秀の方をにらみました。
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私と向ひあつてゐた侍は慌しく身を起して、柄頭を片手に抑へながら、屹と良秀の方を睨みました。
それに驚いて眺めますと、あの男はこの光景に、半ば正気を失っていたのでございましょう。
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それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正気を失つたのでございませう。
今まで下にうずくまっていたのが、急に飛び立ったと思いますと、両手を前へ伸ばしたまま、車の方へ思わず知らず走りかかろうといたしました。
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今まで下に蹲つてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと致しました。
ただあいにく前にも申しましたとおり、遠い陰の中におりますので、顔かたちははっきりとわかりません。
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唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に居りますので、顔貌ははつきりと分りません。
しかしそう思ったのはほんの一瞬間で、顔色を失った良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたような良秀の姿は、たちまち薄暗がりを切り抜いて、ありありと目の前に浮かび上がりました。
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しかしさう思つたのはほんの一瞬間で、色を失つた良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたやうな良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り抜いてあり/\と眼前へ浮び上りました。
娘を乗せた檳榔毛の車が、このとき、「火をかけい」
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娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」
という大殿様のお言葉とともに、下働きの者たちが投げる松明の火を浴びて、炎々と燃え上がったのでございます。
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と云ふ大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上つたのでございます。
十八
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十八
火は見る見るうちに、車の屋根を包みました。
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火は見る/\中に、車蓋をつゝみました。
庇についた紫の房が、あおられたようにさっとなびくと、その下からもうもうと夜目にも白い煙が渦を巻いて、あるいは簾、あるいは袖、あるいは棟の金物が、一時に砕けて飛んだかと思うほど、火の粉が雨のように舞い上がる――そのすさまじさといったらございません。
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庇についた紫の流蘇が、煽られたやうにさつと靡くと、その下から濛々と夜目にも白い煙が渦を巻いて、或は簾、或は袖、或は棟の金物が、一時に砕けて飛んだかと思ふ程、火の粉が雨のやうに舞ひ上る――その凄じさと云つたらございません。
いや、それよりもめらめらと舌を吐いて格子窓にからみながら、中空までも立ち昇る激しい炎の色は、まるで太陽が地に落ちて、天の火が迸(ほとばし)ったようだとでも申しましょうか。
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いや、それよりもめらめらと舌を吐いて袖格子に搦みながら、半空までも立ち昇る烈々とした炎の色は、まるで日輪が地に落ちて、天火が迸つたやうだとでも申しませうか。
前に危うく叫ぼうとした私も、今はまったく魂を消して、ただ茫然と口を開けながら、この恐ろしい光景を見守るよりほかはございませんでした。
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前に危く叫ばうとした私も、今は全く魂を消して、唯茫然と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るより外はございませんでした。
しかし親の良秀は――
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しかし親の良秀は――
良秀のそのときの顔つきは、今でも私は忘れません。
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良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。
思わず知らず車の方へ駆け寄ろうとしたあの男は、火が燃え上がると同時に、足を止めて、やはり手を差し伸ばしたまま、食い入るばかりの目つきをして、車を包む炎と煙を、吸いつけられたように眺めておりましたが、全身に浴びた火の光で、しわだらけな醜い顔は、髭の先までもよく見えます。
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思はず知らず車の方へ駆け寄らうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ焔煙を吸ひつけられたやうに眺めて居りましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけな醜い顔は、髭の先までもよく見えます。
しかしその大きく見開いた目の中といい、引きゆがめた唇のあたりといい、あるいはまた絶えず引きつっている頬の肉の震えといい、良秀の心にかわるがわる行き来する恐れと悲しみと驚きとは、はっきりと顔に現れていました。
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が、その大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた唇のあたりと云ひ、或は又絶えず引き攣つてゐる頬の肉の震へと云ひ、良秀の心に交々往来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれました。
首をはねられる前の盗人でも、あるいは十王の裁きの庁へ引き出された、この上ない大罪を犯した罪人でも、あそこまで苦しそうな顔はいたしますまい。
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首を刎ねられる前の盗人でも、乃至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、あゝまで苦しさうな顔を致しますまい。
これにはさすがにあの力自慢の侍でさえ、思わず顔色を変えて、恐る恐る大殿様のお顔を仰ぎました。
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これには流石にあの強力の侍でさへ、思はず色を変へて、畏る/\大殿様の御顔を仰ぎました。
しかし大殿様は固く唇をお噛みになりながら、時々気味悪くお笑いになって、目も離さずじっと車の方をお見つめになっていらっしゃいます。
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が、大殿様は緊く唇を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑ひになつて、眼も放さずぢつと車の方を御見つめになつていらつしやいます。
そしてその車の中には――ああ、私はそのとき、その車にどんな娘の姿を眺めたか、それを詳しく申し上げる勇気は、到底あろうとも思われません。
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さうしてその車の中には――あゝ、私はその時、その車にどんな娘の姿を眺めたか、それを詳しく申し上げる勇気は、到底あらうとも思はれません。
あの煙にむせんであおむけた顔の白さ、炎をはらってふり乱れた髪の長さ、それからまた見る間に火と変わっていく、桜の唐衣の美しさ、――何というむごたらしい光景でございましたでしょう。
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あの煙に咽んで仰向けた顔の白さ、焔を掃つてふり乱れた髪の長さ、それから又見る間に火と変つて行く、桜の唐衣の美しさ、――何と云ふ惨たらしい景色でございましたらう。
特に夜風がひとしきり吹き下ろして、煙が向こうへなびいたとき、赤い上に金粉をまいたような、炎の中から浮き上がって、髪を口に噛みながら、縛めの鎖も切れるばかり身悶えをした様子は、地獄の苦しみを目のあたりに写し出したかと疑われて、私をはじめ力自慢の侍まで、おのずと身の毛がよだちました。
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殊に夜風が一下しして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に金粉を撒いたやうな、焔の中から浮き上つて、髪を口に噛みながら、縛の鎖も切れるばかり身悶えをした有様は、地獄の業苦を目のあたりへ写し出したかと疑はれて、私始め強力の侍までおのづと身の毛がよだちました。
するとその夜風がまたひとわたり、お庭の木々の梢にさっと通う――と、誰でも、思いましたでしょう。
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するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさつと通ふ――と誰でも、思ひましたらう。
そういう音が暗い空を、どこともなく走ったと思うと、たちまち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、まりのように躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一直線に飛び込みました。
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さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠のやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。
そして朱塗りのような格子窓が、ばらばらと焼け落ちる中に、のけぞった娘の肩を抱いて、絹を裂くような鋭い声を、何とも言えず苦しそうに、長く煙の外へ響かせました。
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さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と焼け落ちる中に、のけ反つた娘の肩を抱いて、帛を裂くやうな鋭い声を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。
続いてまた、二声三声――私たちは我知らず、あっと同時に叫びました。
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続いて又、二声三声――私たちは我知らず、あつと同音に叫びました。
壁代(かべしろ)のような炎を背にして、娘の肩にすがっているのは、堀川のお邸につないであった、あの良秀とあだ名のある、猿だったのでございますから。
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壁代のやうな焔を後にして、娘の肩に縋つてゐるのは、堀河の御邸に繋いであつた、あの良秀と諢名のある、猿だつたのでございますから。
その猿がどこをどうしてこの御所まで、忍んでまいったか、それはもちろん誰にもわかりません。
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その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にもわかりません。
しかし日頃かわいがってくれた娘なればこそ、猿も一緒に火の中へはいったのでございましょう。
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が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう。
十九
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十九
しかし猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。
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が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。
金色に光る蒔絵のような火の粉がひとしきり、ぱっと空へ上がったかと思ううちに、猿はもちろん娘の姿も、黒煙の底に隠されて、お庭のまん中にはただ、一台の火の車がすさまじい音を立てながら、燃えたぎっているばかりでございます。
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金梨子地のやうな火の粉が一しきり、ぱつと空へ上つたかと思ふ中に、猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隠されて、御庭のまん中には唯、一輛の火の車が凄じい音を立てながら、燃え沸つてゐるばかりでございます。
いや、火の車と申しますよりも、あるいは火の柱と申した方が、あの星空を突いて煮えかえる、恐ろしい炎のありさまにはふさわしいかもしれません。
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いや、火の車と云ふよりも、或は火の柱と云つた方が、あの星空を衝いて煮え返る、恐ろしい火焔の有様にはふさはしいかも知れません。
その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、――何という不思議なことでございましょう。
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その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事でございませう。
あのさっきまで地獄の責め苦に悩んでいたような良秀は、今は言いようのない輝きを、さながら恍惚とした喜びの輝きを、しわだらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、たたずんでいるではございませんか。
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あのさつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではございませんか。
それがどうもあの男の目の中には、娘の悶え死ぬありさまが映っていないようなのでございます。
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それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。
ただ美しい炎の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を喜ばせる――そういう光景に見えました。
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唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた、それだけではございません。
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しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。
そのときの良秀には、なぜか人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳(おごそ)かさがございました。
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その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳さがございました。
ですから不意の火の手に驚いて、鳴き騒ぎながら飛びまわる数え切れない夜鳥でさえ、気のせいか良秀の揉烏帽子のまわりへは、近づかなかったようでございます。
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でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。
恐らくは何も知らない鳥の目にも、あの男の頭の上に、光の輪のようにかかっている、不思議な威厳が見えたのでございましょう。
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恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。
鳥でさえそうでございます。
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鳥でさへさうでございます。
まして私たち下働きの者までも、皆息をひそめながら、身の内も震えるばかり、異様な喜びの心に満ちあふれて、まるで開眼の仏でも見るように、目も離さず、良秀を見つめました。
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まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。
空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪われて、立ちすくんでいる良秀と――何という荘厳、何という歓喜でございましょう。
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空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪はれて、立ちすくんでゐる良秀と――何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜でございませう。
しかしその中でただ、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思われるほど、お顔の色も青ざめて、口元に泡をお溜めになりながら、紫の指貫の膝を両手にしっかりおつかみになって、ちょうど喉の渇いた獣のようにあえぎ続けていらっしゃいました。……
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が、その中でたつた、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫の膝を両手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獣のやうに喘ぎつゞけていらつしやいました。……
二十
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二十
その夜、雪解の御所で大殿様が車をお焼きになったことは、誰の口からともなく世間へもれましたが、それについてはずいぶんいろいろな批判をするものもいたようでございます。
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その夜雪解の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろ/\な批判を致すものも居つたやうでございます。
まず第一に、なぜ大殿様が良秀の娘を焼き殺しなさったか、――これは、かなわぬ恋の恨みからなさったのだという噂が、いちばん多うございました。
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先第一に何故大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすつたか、――これは、かなはぬ恋の恨みからなすつたのだと云ふ噂が、一番多うございました。
しかし大殿様のお心は、まったく車を焼き人を殺してまでも、屏風の絵を描こうとする絵師根性のよこしまなのを懲らしめるおつもりだったのに相違ございません。
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が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性の曲なのを懲らす御心算だつたのに相違ございません。
現に私は、大殿様がご自分の口からそうおっしゃるのをうかがったことさえございます。
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現に私は、大殿様が御口づからさう仰有るのを伺つた事さへございます。
それからあの良秀が、目の前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の絵を描きたいというその木石のような心持ちが、やはり何かとあげつらわれたようでございます。
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それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云ふその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらはれたやうでございます。
中にはあの男をののしって、絵のためには親子の情愛も忘れてしまう、人の顔をした獣の心を持つ曲者だなどと申すものもございました。
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中にはあの男を罵つて、画の為には親子の情愛も忘れてしまふ、人面獣心の曲者だなどと申すものもございました。
あの横川の僧都様などは、こういう考えに味方をなさったお一人で、「いかに一つの芸や才能に秀でていようとも、人として五常(ごじょう・人が守るべき五つの道徳)をわきまえねば、地獄に堕ちるほかはない」
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あの横川の僧都様などは、かう云ふ考へに味方をなすつた御一人で、「如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常を弁へねば、地獄に堕ちる外はない」
などと、よくおっしゃったものでございます。
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などと、よく仰有つたものでございます。
ところがその後一か月ばかりたって、いよいよ地獄変の屏風ができあがりますと、良秀は早速それをお邸へ持ってきて、うやうやしく大殿様のお目にかけました。
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所がその後一月ばかり経つて、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供へました。
ちょうどそのときは僧都様もお居合わせになりましたが、屏風の絵を一目ご覧になりますと、さすがにあの一枚の屏風の天地に吹き荒れている火の嵐の恐ろしさに、お驚きなさったのでございましょう。
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丁度その時は僧都様も御居合はせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石にあの一帖の天地に吹き荒んでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。
それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろじろにらみつけていらしたのが、思わず知らず膝を打って、「よくやった」
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それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろ/\睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」
とおっしゃいました。
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と仰有いました。
この言葉をお聞きになって、大殿様が苦笑なさったときのご様子も、いまだに私は忘れません。
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この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。
それ以来あの男を悪く言うものは、少なくともお邸の中だけでは、ほとんど一人もいなくなりました。
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それ以来あの男を悪く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。
誰でもあの屏風を見るものは、どんなに日頃良秀を憎らしく思っていたにせよ、不思議に厳(おごそ)かな心持ちに打たれて、炎熱地獄の大きな苦しみを、そのままに感じるからでもございましょうか。
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誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を如実に感じるからでもございませうか。
しかしそうなった時分には、良秀はもうこの世にいない人の数にはいっておりました。
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しかしさうなつた時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいつて居りました。
それも屏風のできあがった次の夜に、自分の部屋の梁(はり)へ縄をかけて、首をくくって死んだのでございます。
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それも屏風の出来上つた次の夜に、自分の部屋の梁へ縄をかけて、縊れ死んだのでございます。
一人娘を先立たせたあの男は、恐らく何事もなかったかのように生き長らえることに、耐えられなかったのでございましょう。
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一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらへるのに堪へなかつたのでございませう。
亡きがらは今でもあの男の家の跡に埋まっております。
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屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まつて居ります。
もっとも小さな目印の石は、その後何十年もの雨風にさらされて、とうの昔、誰の墓ともわからないほど、苔むしているに違いございません。
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尤も小さな標の石は、その後何十年かの雨風に曝されて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸してゐるにちがひございません。
――大正七年四月――
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――大正七年四月――