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河童 現代語訳

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1966

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

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これはある精神病院の患者――第二十三号が誰にでもしゃべる話である。

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これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。

彼はもう三十を越しているだろう。

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彼はもう三十を越しているであろう。

が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。

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が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。

彼の半生の経験は――いや、そんなことはどうでもよい。

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彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。

彼はただじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には、枯れ葉さえ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。)

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彼はただじっと両膝りょうひざをかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子てつごうしをはめた窓の外には枯れ葉さえ見えないかしの木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。)

院長のS博士や僕を相手に、長々とこの話をしゃべり続けた。

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院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。

もっとも、身ぶりをしなかったわけではない。

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もっとも身ぶりはしなかったわけではない。

彼はたとえば「驚いた」

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彼はたとえば「驚いた」

と言う時には、急に顔をのけぞらせたりした。……

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と言う時には急に顔をのけぞらせたりした。……

僕はこういう彼の話を、かなり正確に写したつもりである。

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僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。

もしまた誰か僕の筆記に物足りない人がいるとすれば、東京市外××村のS精神病院を訪ねてみるといい。

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もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。

年よりも若く見える第二十三号は、まず丁寧に頭を下げ、座布団のない椅子を指さすだろう。

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年よりも若い第二十三号はまず丁寧ていねいに頭を下げ、蒲団ふとんのない椅子いすを指さすであろう。

それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すだろう。

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それから憂鬱ゆううつな微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。

最後に――僕はこの話を終えた時の彼の顔色を覚えている。

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最後に、――僕はこの話を終わった時の彼の顔色を覚えている。

彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳をふりまわしながら、誰にでもこう怒鳴りつけるだろう。――

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彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳骨げんこつをふりまわしながら、だれにでもこう怒鳴どなりつけるであろう。――

「出て行け! この悪党めが! 貴様も馬鹿な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出て行け! この悪党めが!」

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「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦ばかな、嫉妬しっと深い、猥褻わいせつな、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」

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三年前の夏のことです。

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三年まえの夏のことです。

僕は人並みにリュックサックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。

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僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地かみこうちの温泉宿やどから穂高山ほたかやまへ登ろうとしました。

穂高山へ登るには、ご存じのとおり梓川をさかのぼるほかありません。

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穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川あずさがわをさかのぼるほかはありません。

僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内人も連れずに登っていきました。

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僕は前に穂高山はもちろん、やりたけにも登っていましたから、朝霧のりた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。

朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧は、いつまでたっても晴れる気配が見えません。

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朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる景色けしきは見えません。

それどころか、かえって深くなるのです。

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のみならずかえって深くなるのです。

僕は一時間ほど歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返そうかと思いました。

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僕は一時間ばかり歩いたのち、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。

けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧が晴れるのを待ってからでなければなりません。

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けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。

といって霧は、一刻ごとにどんどん深くなるばかりなのです。

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といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。

「ええい、いっそ登ってしまえ。」

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「ええ、いっそ登ってしまえ。」

――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けていきました。

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――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹くまざさの中を分けてゆきました。

しかし僕の目をさえぎるものは、やはり深い霧ばかりです。

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しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。

もっとも時々、霧の中から太いぶなや樅の枝が青々と葉を垂らしているのが見えなかったわけではありません。

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もっとも時々霧の中から太い毛生欅ぶなもみの枝が青あおと葉をらしたのも見えなかったわけではありません。

それからまた、放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。

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それからまた放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。

けれどもそれらは、見えたと思うとたちまちもうもうとした霧の中に隠れてしまうのです。

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けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛々もうもうとした霧の中に隠れてしまうのです。

そのうちに足も疲れてくれば、腹もだんだん減りはじめる――おまけに霧に濡れ通った登山服や毛布なども、並たいていの重さではありません。

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そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧にぬれとおった登山服や毛布なども並みたいていの重さではありません。

僕はとうとう我を折りましたから、岩にせき止められている水の音をたよりに、梓川の谷へ下りることにしました。

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僕はとうとうを折りましたから、岩にせかれている水の音をたよりに梓川の谷へりることにしました。

僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。

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僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。

コンビーフの缶を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり――そんなことをしているうちに、かれこれ十分はたったでしょう。

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コオンド・ビイフのかんを切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。

その間に、どこまでも意地の悪い霧はいつのまにかほのぼのと晴れかかりました。

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そのあいだにどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。

僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時計をのぞいてみました。

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僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時計どけいをのぞいてみました。

時刻はもう一時二十分過ぎです。

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時刻はもう一時二十分過ぎです。

が、それよりも驚いたのは、何か気味の悪い顔が一つ、丸い腕時計のガラスの上へちらりと影を落としたことです。

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が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、まるい腕時計の硝子ガラスの上へちらりと影を落としたことです。

僕は驚いてふり返りました。

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僕は驚いてふり返りました。

すると――僕が河童というものを見たのは、実にこの時がはじめてだったのです。

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すると、――僕が河童かっぱというものを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。

僕の後ろにある岩の上には、絵にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺の幹をかかえ、片手は目の上にかざしたまま、珍しそうに僕を見おろしていました。

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僕の後ろにある岩の上にはにあるとおりの河童が一匹、片手は白樺しらかばの幹をかかえ、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。

僕はあっけにとられたまま、しばらくは身動きもせずにいました。

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僕はにとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。

河童もやはり驚いたと見え、目の上の手さえ動かしません。

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河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。

そのうちに僕は飛び起きるが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。

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そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。

同時にまた河童も逃げ出しました。

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同時にまた河童も逃げ出しました。

いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。

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いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。

実はひらりと身をかわしたと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。

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実はひらりと身をかわしたと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。

僕はいよいよ驚きながら、熊笹の中を見まわしました。

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僕はいよいよ驚きながら、熊笹くまざさの中を見まわしました。

すると河童は逃げ腰のまま、二、三メートル離れた向こうから僕を振り返って見ているのです。

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すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔たった向こうに僕を振り返って見ているのです。

それは不思議でもなんでもありません。

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それは不思議でもなんでもありません。

しかし僕に意外だったのは、河童の体の色のことです。

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しかし僕に意外だったのは河童のからだの色のことです。

岩の上で僕を見ていた河童は、一面に灰色を帯びていました。

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岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色を帯びていました。

けれども今は体中すっかり緑色に変わっているのです。

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けれども今は体中すっかり緑いろに変わっているのです。

僕は「畜生!」

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僕は「畜生!」

と大声をあげ、もう一度河童へ飛びかかりました。

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とおお声をあげ、もう一度河童かっぱへ飛びかかりました。

河童が逃げ出したのはもちろんです。

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河童が逃げ出したのはもちろんです。

それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、しゃにむに河童を追い続けました。

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それから僕は三十分ばかり、熊笹くまざさを突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二しゃにむに河童を追いつづけました。

河童もまた、足の速いことでは決して猿などに劣りません。

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河童もまた足の早いことは決してさるなどに劣りません。

僕は夢中になって追いかける間に、何度もその姿を見失いそうになりました。

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僕は夢中になって追いかけるあいだに何度もその姿を見失おうとしました。

それどころか、足をすべらせて転んだこともたびたびです。

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のみならず足をすべらしてころがったこともたびたびです。

が、大きい橡の木が一本、太々と枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の行く先へ立ちふさがりました。

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が、大きいとちの木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童のく先へ立ちふさがりました。

しかもそれは角の太い、目を血走らせた雄牛なのです。

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しかもそれはつのの太い、目を血走らせた牡牛おうしなのです。

河童はこの雄牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。

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河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。

僕は――僕も「しめた」

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僕は、――僕も「しめた」

と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。

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と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。

するとそこには、僕の知らない穴でも開いていたのでしょう。

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するとそこには僕の知らない穴でもあいていたのでしょう。

僕はなめらかな河童の背中にやっと指先が触れたと思うと、たちまち深い闇の中へまっさかさまに転げ落ちました。

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僕はなめらかな河童の背中にやっと指先がさわったと思うと、たちまち深いやみの中へまっさかさまに転げ落ちました。

が、我々人間の心は、こういう危機一髪の時にも途方もないことを考えるものです。

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が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途方とほうもないことを考えるものです。

僕は「あっ」

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僕は「あっ」

と思った拍子に、あの上高地の温泉宿のそばに「河童橋」

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と思う拍子にあの上高地かみこうちの温泉宿のそばに「河童橋かっぱばし

という橋があるのを思い出しました。

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という橋があるのを思い出しました。

それから――それから先のことは覚えていません。

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それから、――それから先のことは覚えていません。

僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたきり、いつの間にか正気を失っていました。

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僕はただ目の前に稲妻いなずまに似たものを感じたぎり、いつのにか正気しょうきを失っていました。

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そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。

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そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰向あおむけに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。

それどころか、太いくちばしの上に鼻眼鏡をかけた河童が一匹、僕のそばにひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。

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のみならず太いくちばしの上に鼻目金はなめがねをかけた河童が一匹、僕のそばへひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。

その河童は僕が目を開けたのを見ると、僕に「静かに」

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その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」

という手真似をし、それから誰か後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。

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という手真似てまねをし、それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。

するとどこからか河童が二匹、担架を持って歩いてきました。

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するとどこからか河童が二匹、担架たんかを持って歩いてきました。

僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童が群がった中を静かに何町か進んでいきました。

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僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を静かに何町か進んでゆきました。

僕の両側に並んでいる町は、少しも銀座通りと違いありません。

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僕の両側に並んでいる町は少しも銀座通りと違いありません。

やはりぶなの並木のかげにいろいろの店が日除けを並べ、そのまた並木にはさまれた道を、自動車が何台も走っているのです。

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やはり毛生欅ぶなの並み木のかげにいろいろの店が日除ひよけを並べ、そのまた並み木にはさまれた道を自動車が何台も走っているのです。

やがて僕を載せた担架は、細い横町を曲がったと思うと、ある家の中へかつぎ込まれました。

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やがて僕を載せた担架は細い横町よこちょうを曲ったと思うと、あるうちの中へかつぎこまれました。

それは後に知ったところによれば、あの鼻眼鏡をかけた河童の家――チャックという医者の家だったのです。

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それはのちに知ったところによれば、あの鼻目金をかけた河童の家、――チャックという医者の家だったのです。

チャックは僕を小ぎれいなベッドの上へ寝かせました。

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チャックは僕を小ぎれいなベッドの上へ寝かせました。

それから何か透明な水薬を一杯飲ませました。

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それから何か透明な水薬みずぐすりを一杯飲ませました。

僕はベッドの上に横たわったまま、チャックのするままになっていました。

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僕はベッドの上に横たわったなり、チャックのするままになっていました。

実際また僕の体は、ろくに身動きもできないほど節々が痛んでいたのですから。

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実際また僕のからだはろくに身動きもできないほど、節々ふしぶしが痛んでいたのですから。

チャックは一日に二、三度は必ず僕を診察に来ました。

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チャックは一日に二三度は必ず僕を診察にきました。

また三日に一度くらいは、僕が最初に見かけた河童――バッグという漁師も訪ねてきました。

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また三日に一度ぐらいは僕の最初に見かけた河童、――バッグという漁夫りょうしも尋ねてきました。

河童は、我々人間が河童のことを知っているよりも、はるかに人間のことを知っています。

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河童は我々人間が河童のことを知っているよりもはるかに人間のことを知っています。

それは我々人間が河童を捕まえることよりも、ずっと河童が人間を捕まえることのほうが多いためでしょう。

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それは我々人間が河童を捕獲することよりもずっと河童が人間を捕獲することが多いためでしょう。

捕獲というのは当たらないまでも、我々人間は僕の前にもたびたび河童の国へ来ているのです。

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捕獲というのは当たらないまでも、我々人間は僕の前にもたびたび河童の国へ来ているのです。

それどころか、一生河童の国に住んでいた者も多かったのです。

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のみならず一生河童の国に住んでいたものも多かったのです。

なぜだと思いますか。

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なぜと言ってごらんなさい。

僕らはただ河童ではない、人間であるという特権のために、働かずに食っていられるのです。

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僕らはただ河童かっぱではない、人間であるという特権のために働かずに食っていられるのです。

現にバッグの話によれば、ある若い道路工夫などは、やはり偶然この国へ来た後、雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。

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現にバッグの話によれば、ある若い道路工夫こうふなどはやはり偶然この国へ来たのちめすの河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。

もっとも、そのまた雌の河童はこの国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも並外れて巧みだったということです。

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もっともそのまた雌の河童はこの国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも妙をきわめていたということです。

僕は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、「特別保護住民」

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僕は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、「特別保護住民」

としてチャックの隣に住むことになりました。

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としてチャックの隣に住むことになりました。

僕の家は小さい割に、いかにも洒落たつくりに仕上がっていました。

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僕のうちは小さい割にいかにも瀟洒しょうしゃとできあがっていました。

もちろんこの国の文明は、我々人間の国の文明――少なくとも日本の文明などとあまり大差はありません。

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もちろんこの国の文明は我々人間の国の文明――少なくとも日本の文明などとあまり大差はありません。

往来に面した客間の隅には小さいピアノが一台あり、それからまた壁には、額縁へ入れたエッチングなども掛かっていました。

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往来に面した客間のすみには小さいピアノが一台あり、それからまた壁には額縁がくぶちへ入れたエッティングなどもかかっていました。

ただ肝心の家をはじめ、テーブルや椅子の寸法も河童の身長に合わせてありますから、子どもの部屋に入れられたようで、それだけは不便に思いました。

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ただ肝腎かんじんの家をはじめ、テエブルや椅子いすの寸法も河童の身長に合わせてありますから、子どもの部屋へやに入れられたようにそれだけは不便に思いました。

僕はいつも日暮れ方になると、この部屋にチャックやバッグを迎え、河童の言葉を習いました。

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僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチャックやバッグを迎え、河童の言葉を習いました。

いや、彼らばかりではありません。

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いや、彼らばかりではありません。

特別保護住民だった僕には誰も皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいにわざわざチャックを呼び寄せる、ゲエルというガラス会社の社長などもやはりこの部屋へ顔を出したものです。

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特別保護住民だった僕にだれも皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざチャックを呼び寄せるゲエルという硝子ガラス会社の社長などもやはりこの部屋へ顔を出したものです。

しかし最初の半月ほどの間に一番僕と親しくしたのは、やはりあのバッグという漁師だったのです。

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しかし最初の半月ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあのバッグという漁夫りょうしだったのです。

ある生暖かい日の暮れです。

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ある生暖なまあたたかい日の暮れです。

僕はこの部屋のテーブルをはさんで、漁師のバッグと向かい合っていました。

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僕はこの部屋のテエブルを中に漁夫のバッグと向かい合っていました。

するとバッグはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目をいっそう大きくしてじっと僕を見つめました。

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するとバッグはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目をいっそう大きくしてじっと僕を見つめました。

僕はもちろん妙に思いましたから、「Quax, Bag, quo quel, quan?」

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僕はもちろん妙に思いましたから、「Quax, Bag, quo quel, quan?」

と言いました。

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と言いました。

これは日本語に翻訳すれば、「おい、バッグ、どうしたんだ」

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これは日本語に翻訳すれば、「おい、バッグ、どうしたんだ」

ということです。

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ということです。

が、バッグは返事をしません。

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が、バッグは返事をしません。

それどころか、いきなり立ち上がると、べろりと舌を出したまま、ちょうど蛙が跳ねるように飛びかかりそうな様子さえ示しました。

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のみならずいきなり立ち上がると、べろりと舌を出したなり、ちょうどかえるねるように飛びかかる気色けしきさえ示しました。

僕はいよいよ不気味になり、そっと椅子から立ち上がると、一足飛びに戸口へ飛び出そうとしました。

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僕はいよいよ無気味になり、そっと椅子いすから立ち上がると、一足いっそく飛びに戸口へ飛び出そうとしました。

ちょうどそこへ顔を出したのは、幸いにも医者のチャックです。

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ちょうどそこへ顔を出したのは幸いにも医者のチャックです。

「こら、バッグ、何をしているのだ?」

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「こら、バッグ、何をしているのだ?」

チャックは鼻眼鏡をかけたまま、こう言ってバッグをにらみつけました。

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チャックは鼻目金はなめがねをかけたまま、こういうバッグをにらみつけました。

するとバッグは恐れ入ったと見え、何度も頭へ手をやりながら、こう言ってチャックにあやまるのです。

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するとバッグは恐れいったとみえ、何度も頭へ手をやりながら、こう言ってチャックにあやまるのです。

「どうもまことに申し訳ありません。実はこの旦那が気味悪がるのが面白かったものですから、つい調子に乗っていたずらをしたのです。どうか旦那も勘弁してください。」

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「どうもまことにあいすみません。実はこの旦那だんなの気味悪がるのがおもしろかったものですから、つい調子に乗って悪戯いたずらをしたのです。どうか旦那も堪忍かんにんしてください。」

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僕はこの先を話す前に、ちょっと河童というものを説明しておかなければなりません。

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僕はこの先を話す前にちょっと河童というものを説明しておかなければなりません。

河童は、いまだに実在するかどうかも疑問になっている動物です。

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河童はいまだに実在するかどうかも疑問になっている動物です。

が、それは僕自身が彼らの間に住んでいた以上、少しも疑う余地はないはずです。

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が、それは僕自身が彼らの間に住んでいた以上、少しも疑う余地はないはずです。

ではどういう動物かと言えば、頭に短い毛のあるのはもちろん、手足に水かきのついていることも「水虎考略」

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ではまたどういう動物かと言えば、頭に短い毛のあるのはもちろん、手足に水掻みずかきのついていることも「水虎考略すいここうりゃく

などに出ているのと大きな違いはありません。

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などに出ているのと著しい違いはありません。

身長も、ざっと一メートルを越えるか越えないかくらいでしょう。

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身長もざっと一メエトルを越えるか越えぬくらいでしょう。

体重は医者のチャックによれば、二十ポンドから三十ポンドまで――まれには五十何ポンドくらいの大河童もいると言っていました。

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体重は医者のチャックによれば、二十ポンドから三十ポンドまで、――まれには五十何ポンドぐらいの大河童おおかっぱもいると言っていました。

それから頭のまん中には楕円形の皿があり、そのまた皿は年齢につれて、だんだん固さを増すようです。

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それから頭のまん中には楕円形だえんけいさらがあり、そのまた皿は年齢により、だんだんかたさを加えるようです。

現に年をとったバッグの皿は、若いチャックの皿などとは手ざわりがまるで違うのです。

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現に年をとったバッグの皿は若いチャックの皿などとは全然手ざわりも違うのです。

しかし一番不思議なのは、河童の皮膚の色のことでしょう。

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しかし一番不思議なのは河童の皮膚の色のことでしょう。

河童は我々人間のように、一定の皮膚の色を持っていません。

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河童は我々人間のように一定の皮膚の色を持っていません。

どうやらその周囲の色と同じ色に変わってしまう――たとえば草の中にいる時には草のように緑色に変わり、岩の上にいる時には岩のように灰色に変わるのです。

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なんでもその周囲の色と同じ色に変わってしまう、――たとえば草の中にいる時には草のように緑色に変わり、岩の上にいる時には岩のように灰色に変わるのです。

これはもちろん河童に限らず、カメレオンにもあることです。

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これはもちろん河童に限らず、カメレオンにもあることです。

あるいは河童は皮膚組織の上に、何かカメレオンに近いところを持っているのかもしれません。

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あるいは河童は皮膚組織の上に何かカメレオンに近いところを持っているのかもしれません。

僕はこの事実を発見した時、西国の河童は緑色であり、東北の河童は赤いという民俗学上の記録を思い出しました。

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僕はこの事実を発見した時、西国さいこくの河童は緑色であり、東北とうほくの河童は赤いという民俗学上の記録を思い出しました。

それどころか、バッグを追いかける時、突然どこへ行ったのか見えなくなったことを思い出しました。

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のみならずバッグを追いかける時、突然どこへ行ったのか、見えなくなったことを思い出しました。

しかも河童は皮膚の下によほど厚い脂肪を持っていると見え、この地下の国の温度は比較的低いのにもかかわらず、(平均で華氏五十度前後です。)

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しかも河童は皮膚の下によほど厚い脂肪を持っているとみえ、この地下の国の温度は比較的低いのにもかかわらず、(平均華氏かっし五十度前後です。)

着物というものを知らずにいるのです。

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着物というものを知らずにいるのです。

もちろんどの河童も、眼鏡をかけたり、紙巻きたばこの箱を携えたり、財布を持ったりはしているでしょう。

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もちろんどの河童も目金めがねをかけたり、巻煙草まきたばこの箱を携えたり、金入かねいれを持ったりはしているでしょう。

しかし河童はカンガルーのように腹に袋を持っていますから、それらのものをしまう時にも格別不便はしないのです。

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しかし河童はカンガルウのように腹に袋を持っていますから、それらのものをしまう時にも格別不便はしないのです。

ただ僕におかしかったのは、腰のまわりさえ覆わないことです。

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ただ僕におかしかったのは腰のまわりさえおおわないことです。

僕はある時、この習慣はなぜかとバッグに尋ねてみました。

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僕はある時この習慣をなぜかとバッグに尋ねてみました。

するとバッグはのけぞったまま、いつまでもげらげら笑っていました。

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するとバッグはのけぞったまま、いつまでもげらげら笑っていました。

おまけに「わたしはお前さんが隠しているほうがおかしい」

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おまけに「わたしはお前さんの隠しているのがおかしい」

と返事をしました。

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と返事をしました。

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僕はだんだん、河童の使う日常の言葉を覚えてきました。

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僕はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。

したがって河童の風俗や習慣も、のみ込めるようになってきました。

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従って河童の風俗や習慣ものみこめるようになってきました。

その中でも一番不思議だったのは、河童は我々人間が真面目に思うことをおかしがり、同時に我々人間がおかしがることを真面目に思う――こういうとんちんかんな習慣です。

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その中でも一番不思議だったのは河童は我々人間の真面目まじめに思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを真面目に思う――こういうとんちんかんな習慣です。

たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。

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たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。

つまり彼らの滑稽という観念は、我々の滑稽という観念とまったく基準を異にしているのでしょう。

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つまり彼らの滑稽こっけいという観念は我々の滑稽という観念と全然標準をことにしているのでしょう。

僕はある時、医者のチャックと産児制限の話をしていました。

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僕はある時医者のチャックと産児制限の話をしていました。

するとチャックは大口をあけて、鼻眼鏡が落ちるほど笑い出しました。

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するとチャックは大口をあいて、鼻目金はなめがねの落ちるほど笑い出しました。

僕はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいのかと問い詰めました。

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僕はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいかと詰問しました。

チャックの返答はだいたいこうだったように覚えています。

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なんでもチャックの返答はだいたいこうだったように覚えています。

もっとも、多少細かいところは間違っているかもしれません。

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もっとも多少細かいところは間違まちがっているかもしれません。

なにしろまだそのころは、僕も河童の使う言葉をすっかり理解していなかったのですから。

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なにしろまだそのころは僕も河童の使う言葉をすっかり理解していなかったのですから。

「しかし両親の都合ばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」

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「しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」

その代わりに我々人間から見れば、実際また河童のお産くらいおかしいものはありません。

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その代わりに我々人間から見れば、実際また河童かっぱのお産ぐらい、おかしいものはありません。

現に僕はしばらくたってから、バッグの奥さんがお産をするところを、バッグの小屋へ見物に行きました。

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現に僕はしばらくたってから、バッグの細君のお産をするところをバッグの小屋へ見物にゆきました。

河童もお産をする時には、我々人間と同じことです。

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河童もお産をする時には我々人間と同じことです。

やはり医者や助産婦などの助けを借りてお産をするのです。

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やはり医者や産婆さんばなどの助けを借りてお産をするのです。

けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器へ口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」

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けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」

と大きな声で尋ねるのです。

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と大きな声で尋ねるのです。

バッグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。

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バッグもやはりひざをつきながら、何度も繰り返してこう言いました。

それからテーブルの上にあった消毒用の水薬でうがいをしました。

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それからテエブルの上にあった消毒用の水薬すいやくでうがいをしました。

すると奥さんの腹の中の子は、多少気兼ねでもしていると見え、こう小声で返事をしました。

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すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。

「僕は生まれたくはありません。第一、僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大変です。その上、僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」

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「僕は生まれたくはありません。第一僕のおとうさんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」

バッグはこの返事を聞いた時、照れくさそうに頭をかいていました。

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バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。

が、そこに居合わせた助産婦は、たちまち奥さんの生殖器へ太いガラスの管を突き込み、何か液体を注射しました。

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が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太い硝子ガラスかんを突きこみ、何か液体を注射しました。

すると奥さんはほっとしたように、太い息をもらしました。

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すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。

同時にまた、今まで大きかった腹は、水素ガスを抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。

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同時にまた今まで大きかった腹は水素瓦斯すいそガスを抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。

こんな返事をするくらいですから、河童の子どもは生まれるとすぐに、もちろん歩いたりしゃべったりするのです。

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こういう返事をするくらいですから、河童の子どもは生まれるが早いか、もちろん歩いたりしゃべったりするのです。

なんでもチャックの話では、出産後二十六日目に神の有無について講演をした子どももあったとかいうことです。

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なんでもチャックの話では出産後二十六日目に神の有無うむについて講演をした子どももあったとかいうことです。

もっとも、その子どもは二か月目には死んでしまったということですが。

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もっともその子どもは二月目ふたつきめには死んでしまったということですが。

お産の話をしたついでですから、僕がこの国へ来て三か月目に、偶然ある街角で見かけた大きいポスターの話をしましょう。

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お産の話をしたついでですから、僕がこの国へ来た三月目みつきめに偶然あるまちかどで見かけた、大きいポスタアの話をしましょう。

その大きいポスターの下には、ラッパを吹いている河童や剣を持っている河童などが、十二、三匹描いてありました。

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その大きいポスタアの下には喇叭らっぱを吹いている河童だの剣を持っている河童だのが十二三匹いてありました。

それからまた上には、河童の使う、ちょうど時計のゼンマイに似た螺旋文字が一面に並べてありました。

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それからまた上には河童の使う、ちょうど時計とけいのゼンマイに似た螺旋らせん文字が一面に並べてありました。

この螺旋文字を翻訳すると、だいたいこういう意味になるのです。

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この螺旋文字を翻訳すると、だいたいこういう意味になるのです。

これもあるいは、細かいところは間違っているかもしれません。

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これもあるいは細かいところは間違まちがっているかもしれません。

が、とにかく僕としては、僕といっしょに歩いていたラップという河童の学生が大声で読み上げてくれる言葉を、いちいちノートにとっておいたのです。

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が、とにかく僕としては僕といっしょに歩いていた、ラップという河童の学生が大声に読み上げてくれる言葉をいちいちノオトにとっておいたのです。

遺伝的義勇隊を募る※

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遺伝的義勇隊をつのる※

健全なる男女の河童よ※

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健全なる男女の河童よ※

悪遺伝を撲滅するために

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悪遺伝を撲滅ぼくめつするために

不健全なる男女の河童と結婚せよ※

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不健全なる男女の河童と結婚せよ※

僕はもちろんその時にも、そんなことは実行されはしないとラップに話して聞かせました。

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僕はもちろんその時にもそんなことの行なわれないことをラップに話して聞かせました。

するとラップばかりではない、ポスターの近くにいた河童はことごとくげらげら笑い出しました。

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するとラップばかりではない、ポスタアの近所にいた河童はことごとくげらげら笑い出しました。

「実行されない? だってあなたの話では、あなたがたもやはり我々のように実行していると思いますがね。あなたは、ご子息が女中に惚れたり、お嬢さんが運転手に惚れたりするのは何のためだと思っているのです? あれは皆、無意識のうちに悪遺伝を撲滅しているのですよ。第一、この間あなたが話したあなたがた人間の義勇隊よりも――一本の鉄道を奪うために互いに殺し合う義勇隊ですね――ああいう義勇隊に比べれば、ずっと僕たちの義勇隊のほうが高尚ではないかと思いますがね。」

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「行なわれない? だってあなたの話ではあなたがたもやはり我々のように行なっていると思いますがね。あなたは令息が女中にれたり、令嬢が運転手に惚れたりするのはなんのためだと思っているのです? あれは皆無意識的に悪遺伝を撲滅しているのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鉄道を奪うために互いに殺し合う義勇隊ですね、――ああいう義勇隊に比べれば、ずっと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思いますがね。」

ラップは真面目にこう言いながら、しかも太い腹だけはおかしそうに、絶えず波打たせていました。

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ラップは真面目まじめにこう言いながら、しかも太い腹だけはおかしそうに絶えず浪立なみだたせていました。

が、僕は笑うどころか、あわててある河童をつかまえようとしました。

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が、僕は笑うどころか、あわててある河童かっぱをつかまえようとしました。

それは僕の油断を見すまして、その河童が僕の万年筆を盗んだことに気がついたからです。

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それは僕の油断を見すまし、その河童が僕の万年筆を盗んだことに気がついたからです。

しかし皮膚のなめらかな河童は、容易に我々にはつかまりません。

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しかし皮膚のなめらかな河童は容易に我々にはつかまりません。

その河童も、ぬらりとすべり抜けるが早いか、一目散に逃げ出してしまいました。

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その河童もぬらりとすべり抜けるが早いかいっさんに逃げ出してしまいました。

ちょうど蚊のようにやせた体を、倒れるかと思うくらいのめらせながら。

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ちょうど蚊のようにやせたからだを倒れるかと思うくらいのめらせながら。

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僕はこのラップという河童に、バッグにも劣らないくらい世話になりました。

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僕はこのラップという河童にバッグにも劣らぬ世話になりました。

が、その中でも忘れられないのは、トックという河童に紹介されたことです。

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が、その中でも忘れられないのはトックという河童に紹介されたことです。

トックは河童仲間の詩人です。

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トックは河童仲間の詩人です。

詩人が髪を長くしているのは、我々人間と変わりません。

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詩人が髪を長くしていることは我々人間と変わりません。

僕は時々、トックの家へ退屈しのぎに遊びに行きました。

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僕は時々トックのうちへ退屈しのぎに遊びにゆきました。

トックはいつも狭い部屋に高山植物の鉢植えを並べ、詩を書いたりたばこを吸ったり、いかにも気楽そうに暮らしていました。

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トックはいつも狭い部屋へやに高山植物の鉢植はちうえを並べ、詩を書いたり煙草たばこをのんだり、いかにも気楽そうに暮らしていました。

そのまた部屋の隅には雌の河童が一匹、(トックは自由恋愛家ですから、妻というものは持たないのです。)

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そのまた部屋のすみにはめすの河童が一匹、(トックは自由恋愛家ですから、細君というものは持たないのです。)

編み物か何かをしていました。

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編み物か何かしていました。

トックは僕の顔を見ると、いつも微笑してこう言うのです。

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トックは僕の顔を見ると、いつも微笑してこう言うのです。

(もっとも河童が微笑するのは、あまりいいものではありません。

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(もっとも河童の微笑するのはあまりいいものではありません。

少なくとも僕は最初のうち、むしろ不気味に感じたものです。)

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少なくとも僕は最初のうちはむしろ無気味に感じたものです。)

「やあ、よく来たね。まあ、その椅子にかけたまえ。」

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「やあ、よく来たね。まあ、その椅子いすにかけたまえ。」

トックはよく、河童の生活や河童の芸術の話をしました。

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トックはよく河童の生活だの河童の芸術だのの話をしました。

トックの信じるところによれば、当たり前の河童の生活くらい馬鹿げているものはありません。

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トックの信ずるところによれば、当たり前の河童の生活ぐらい、莫迦ばかげているものはありません。

親子夫婦兄弟などというのは、ことごとく互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです。

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親子夫婦兄弟などというのはことごとく互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです。

ことに家族制度というものは、馬鹿げている以上に馬鹿げているのです。

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ことに家族制度というものは莫迦げている以上にも莫迦げているのです。

トックはある時窓の外を指さし、「見たまえ。あの馬鹿げ加減を!」

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トックはある時窓の外を指さし、「見たまえ。あの莫迦げさ加減を!」

と吐き出すように言いました。

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と吐き出すように言いました。

窓の外の往来には、まだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童をはじめ、七、八匹の雌雄の河童を首のまわりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。

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窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童をはじめ、七八匹の雌雄めすおすの河童をくびのまわりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。

しかし僕は年の若い河童の犠牲的精神に感心しましたから、かえってその健気さをほめ立てました。

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しかし僕は年の若い河童の犠牲的精神に感心しましたから、かえってその健気けなげさをほめ立てました。

「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。……ときに君は社会主義者かね?」

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「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。……時に君は社会主義者かね?」

僕はもちろん qua(これは河童の使う言葉では「そのとおり」

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僕はもちろん qua(これは河童の使う言葉では「しかり」

という意味を表すのです。)

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という意味を現わすのです。)

と答えました。

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と答えました。

「では百人の凡人のために、甘んじて一人の天才を犠牲にすることも構わないはずだ。」

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「では百人の凡人のために甘んじてひとりの天才を犠牲にすることも顧みないはずだ。」

「では君は何主義者だ? 誰かトック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……」

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「では君は何主義者だ? だれかトック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……」

「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」

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「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」

トックは昂然と言い放ちました。

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トックは昂然こうぜんと言い放ちました。

こういうトックは、芸術の上にも独特な考えを持っています。

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こういうトックは芸術の上にも独特な考えを持っています。

トックの信じるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、したがって芸術家たる者は何よりも先に善悪を超えた超人でなければならない、というのです。

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トックの信ずるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪をぜっした超人でなければならぬというのです。

もっともこれは、必ずしもトック一匹の意見ではありません。

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もっともこれは必ずしもトック一匹の意見ではありません。

トックの仲間の詩人たちは、たいてい同じ意見を持っているようです。

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トックの仲間の詩人たちはたいてい同意見を持っているようです。

現に僕はトックといっしょに、たびたび超人倶楽部へ遊びに行きました。

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現に僕はトックといっしょにたびたび超人倶楽部クラブへ遊びにゆきました。

超人倶楽部に集まってくるのは、詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人などです。

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超人倶楽部に集まってくるのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人しろうと等です。

しかしいずれも超人です。

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しかしいずれも超人です。

彼らは電灯の明るいサロンで、いつも快活に話し合っていました。

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彼らは電燈の明るいサロンにいつも快活に話し合っていました。

それどころか時には、得々と彼らの超人ぶりを見せ合っていました。

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のみならず時には得々とくとくと彼らの超人ぶりを示し合っていました。

たとえばある彫刻家などは、大きい鬼シダの鉢植えの間に年の若い河童をつかまえながら、しきりに男色にふけっていました。

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たとえばある彫刻家などは大きい鬼羊歯おにしだ鉢植はちうえの間に年の若い河童かっぱをつかまえながら、しきりに男色だんしょくをもてあそんでいました。

またある雌の小説家などは、テーブルの上に立ち上がったまま、アブサンを六十本飲んで見せました。

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またあるめすの小説家などはテエブルの上に立ち上がったなり、アブサントを六十本飲んで見せました。

もっともこれは、六十本目にテーブルの下へ転げ落ちるが早いか、たちまち死んでしまいましたが。

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もっともこれは六十本目にテエブルの下へころげ落ちるが早いか、たちまち往生してしまいましたが。

僕はある月のいい晩、詩人のトックと腕を組んだまま、超人倶楽部から帰ってきました。

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僕はある月のいい晩、詩人のトックとひじを組んだまま、超人倶楽部から帰ってきました。

トックはいつになく沈み込んで、ひとことも口をきかずにいました。

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トックはいつになく沈みこんでひとことも口をきかずにいました。

そのうちに僕らは、明かりのさした小さい窓の前を通りかかりました。

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そのうちに僕らはかげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。

そのまた窓の向こうには、夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子どもの河童といっしょに、夕食のテーブルに向かっているのです。

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そのまた窓の向こうには夫婦らしい雌雄めすおすの河童が二匹、三匹の子どもの河童といっしょに晩餐ばんさんのテエブルに向かっているのです。

するとトックはため息をつきながら、突然こう僕に話しかけました。

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するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけました。

「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の様子を見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。」

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「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の容子ようすを見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。」

「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」

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「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」

けれどもトックは月明かりの下でじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを――平和な五匹の河童たちの夕食のテーブルを見守っていました。

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けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守っていました。

それからしばらくして、こう答えました。

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それからしばらくしてこう答えました。

「あそこにある卵焼きは、なんと言っても恋愛などより衛生的だからね。」

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「あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね。」

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実際また、河童の恋愛は我々人間の恋愛とはよほど趣を異にしています。

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実際また河童の恋愛は我々人間の恋愛とはよほど趣をことにしています。

雌の河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をつかまえるためにはどんな手段も辞さないのです。一番正直な雌の河童は、しゃにむに雄の河童を追いかけるのです。

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雌の河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をとらえるのにいかなる手段も顧みません、一番正直な雌の河童は遮二無二しゃにむに雄の河童を追いかけるのです。

現に僕は、気違いのように雄の河童を追いかけている雌の河童を見かけました。

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現に僕は気違いのように雄の河童を追いかけている雌の河童を見かけました。

いや、そればかりではありません。

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いや、そればかりではありません。

若い雌の河童はもちろん、その河童の両親や兄弟までいっしょになって追いかけるのです。

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若い雌の河童はもちろん、その河童の両親や兄弟までいっしょになって追いかけるのです。

雄の河童こそみじめです。

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雄の河童こそみじめです。

なにしろさんざん逃げまわったあげく、運よくつかまらずにすんだとしても、二、三か月は寝込んでしまうのですから。

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なにしろさんざん逃げまわったあげく、運よくつかまらずにすんだとしても、二三か月はとこについてしまうのですから。

僕はある時、僕の家でトックの詩集を読んでいました。

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僕はある時僕の家にトックの詩集を読んでいました。

するとそこへ駆け込んできたのは、あのラップという学生です。

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するとそこへ駆けこんできたのはあのラップという学生です。

ラップは僕の家へ転げ込むと、床の上へ倒れたまま、息も切れ切れにこう言うのです。

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ラップは僕の家へ転げこむと、ゆかの上へ倒れたなり、息も切れ切れにこう言うのです。

「大変だ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!」

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大変たいへんだ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!」

僕はとっさに詩集を投げ出し、戸口の錠をおろしてしまいました。

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僕はとっさに詩集を投げ出し、戸口のじょうをおろしてしまいました。

しかし鍵穴からのぞいてみると、硫黄の粉を顔に塗った背の低い雌の河童が一匹、まだ戸口をうろついているのです。

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しかし鍵穴かぎあなからのぞいてみると、硫黄いおうの粉末を顔に塗った、せいの低いめす河童かっぱが一匹、まだ戸口にうろついているのです。

ラップはその日から何週間か、僕の寝床の上に寝ていました。

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ラップはその日から何週間か僕のとこの上に寝ていました。

それどころか、いつのまにかラップのくちばしはすっかり腐って落ちてしまいました。

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のみならずいつかラップのくちばしはすっかり腐って落ちてしまいました。

もっともまた時には、雌の河童を一生懸命に追いかける雄の河童もないではありません。

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もっともまた時には雌の河童を一生懸命いっしょうけんめいに追いかけるおすの河童もないではありません。

しかしそれも本当のところは、追いかけずにはいられないように雌の河童が仕向けるのです。

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しかしそれもほんとうのところは追いかけずにはいられないように雌の河童が仕向けるのです。

僕はやはり、気違いのように雌の河童を追いかけている雄の河童も見かけました。

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僕はやはり気違いのように雌の河童を追いかけている雄の河童も見かけました。

雌の河童は逃げていく途中にも、時々わざと立ち止まってみたり、四つん這いになったりして見せるのです。

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雌の河童は逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、つんいになったりして見せるのです。

おまけにちょうどいい頃合いになると、さもがっかりしたように、楽々とつかまえさせてしまうのです。

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おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように楽々とつかませてしまうのです。

僕の見かけた雄の河童は、雌の河童を抱いたまま、しばらくそこに転がっていました。

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僕の見かけた雄の河童は雌の河童を抱いたなり、しばらくそこにころがっていました。

が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかく何とも形容できない気の毒な顔をしていました。

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が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。

しかしそれはまだいいほうです。

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しかしそれはまだいいのです。

これも僕の見かけた中に、小さい雄の河童が一匹、雌の河童を追いかけていました。

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これも僕の見かけた中に小さい雄の河童が一匹、雌の河童を追いかけていました。

雌の河童はいつものとおり、誘惑的な逃走をしているのです。

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雌の河童は例のとおり、誘惑的遁走とんそうをしているのです。

するとそこへ向こうの街から、大きい雄の河童が一匹、鼻息を鳴らして歩いてきました。

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するとそこへ向こうのまちから大きい雄の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いてきました。

雌の河童は何かの拍子にふとこの雄の河童を見ると、「大変です! 助けてください! あの河童はわたしを殺そうとするのです!」

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雌の河童はなにかの拍子にふとこの雄の河童を見ると「大変たいへんです! 助けてください! あの河童はわたしを殺そうとするのです!」

と金切り声を出して叫びました。

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金切かなきり声を出して叫びました。

もちろん大きい雄の河童は、たちまち小さい河童をつかまえ、往来のまん中へねじ伏せました。

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もちろん大きい雄の河童はたちまち小さい河童をつかまえ、往来のまん中へねじ伏せました。

小さい河童は水かきのある手で二、三度空をつかんだきり、とうとう死んでしまいました。

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小さい河童は水掻みずかきのある手に二三度くうをつかんだなり、とうとう死んでしまいました。

けれどももうその時には、雌の河童はにやにやしながら、大きい河童の首っ玉へしっかりしがみついてしまっていたのです。

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けれどももうその時には雌の河童はにやにやしながら、大きい河童のくびっ玉へしっかりしがみついてしまっていたのです。

僕の知っていた雄の河童は、誰も皆申し合わせたように雌の河童に追いかけられました。

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僕の知っていたおす河童かっぱはだれも皆言い合わせたようにめすの河童に追いかけられました。

もちろん妻子を持っているバッグでも、やはり追いかけられたのです。

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もちろん妻子を持っているバッグでもやはり追いかけられたのです。

それどころか、二、三度はつかまったのです。

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のみならず二三度はつかまったのです。

ただマッグという哲学者だけは(これはあのトックという詩人の隣にいる河童です。)

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ただマッグという哲学者だけは(これはあのトックという詩人の隣にいる河童です。)

一度もつかまったことはありません。

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一度もつかまったことはありません。

これは一つには、マッグくらい醜い河童も少ないためでしょう。

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これは一つにはマッグぐらい、醜い河童も少ないためでしょう。

しかしまた一つには、マッグだけはあまり往来へ顔を出さず、家にばかりいるためです。

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しかしまた一つにはマッグだけはあまり往来へ顔を出さずにうちにばかりいるためです。

僕はこのマッグの家へも、時々話しに出かけました。

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僕はこのマッグの家へも時々話しに出かけました。

マッグはいつも薄暗い部屋に七色の色ガラスのランタンをともし、脚の高い机に向かいながら、厚い本ばかり読んでいるのです。

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マッグはいつも薄暗うすぐら部屋へや七色なないろ色硝子いろガラスのランタアンをともし、あしの高い机に向かいながら、厚い本ばかり読んでいるのです。

僕はある時、こういうマッグと河童の恋愛を論じ合いました。

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僕はある時こういうマッグと河童の恋愛を論じ合いました。

「なぜ政府は、雌の河童が雄の河童を追いかけるのをもっと厳重に取り締まらないのです?」

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「なぜ政府は雌の河童が雄の河童を追いかけるのをもっと厳重に取り締まらないのです?」

「それは一つには、役人の中に雌の河童が少ないためですよ。雌の河童は雄の河童よりもいっそう嫉妬心が強いものですからね、雌の河童の役人さえ増えれば、きっと今よりも雄の河童は追いかけられずに暮らせるでしょう。しかしその効き目もしれたものですね。なぜだと思いますか。役人同士でも、雌の河童は雄の河童を追いかけますからね。」

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「それは一つには官吏の中に雌の河童の少ないためですよ。雌の河童は雄の河童よりもいっそう嫉妬心しっとしんは強いものですからね、雌の河童の官吏さええれば、きっと今よりも雄の河童は追いかけられずに暮らせるでしょう。しかしその効力もしれたものですね。なぜと言ってごらんなさい。官吏同志でも雌の河童は雄の河童を追いかけますからね。」

「じゃあ、あなたのように暮らしているのが一番幸福なわけですね。」

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「じゃあなたのように暮らしているのは一番幸福なわけですね。」

するとマッグは椅子を離れ、僕の両手を握ったまま、ため息といっしょにこう言いました。

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するとマッグは椅子いすを離れ、僕の両手を握ったまま、ため息といっしょにこう言いました。

「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのももっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気になるのですよ。」

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「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのももっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こるのですよ。」

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僕はまた、詩人のトックとたびたび音楽会へも出かけました。

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僕はまた詩人のトックとたびたび音楽会へも出かけました。

が、いまだに忘れられないのは、三度目に聴きに行った音楽会のことです。

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が、いまだに忘れられないのは三度目にきにいった音楽会のことです。

もっとも会場の様子などは、あまり日本と変わっていません。

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もっとも会場の容子ようすなどはあまり日本と変わっていません。

やはりだんだんせり上がった席に雌雄の河童が三、四百匹、いずれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。

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やはりだんだんせり上がった席に雌雄の河童が三四百匹、いずれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。

僕はこの三度目の音楽会の時には、トックやトックの雌の河童のほかに哲学者のマッグともいっしょになり、一番前の席に座っていました。

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僕はこの三度目の音楽会の時にはトックやトックの雌の河童のほかにも哲学者のマッグといっしょになり、一番前の席にすわっていました。

するとチェロの独奏が終わった後、妙に目の細い河童が一匹、無造作に楽譜をかかえたまま、壇の上へ上がってきました。

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するとセロの独奏が終わったのち、妙に目の細い河童が一匹、無造作むぞうさに譜本をかかえたまま、壇の上へ上がってきました。

この河童はプログラムが教えるとおり、名高いクラバックという作曲家です。

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この河童はプログラムの教えるとおり、名高いクラバックという作曲家です。

プログラムが教えるとおり――いや、プログラムを見るまでもありません。

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プログラムの教えるとおり、――いや、プログラムを見るまでもありません。

クラバックはトックが属している超人倶楽部の会員ですから、僕もまた顔だけは知っているのです。

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クラバックはトックが属している超人倶楽部クラブの会員ですから、僕もまた顔だけは知っているのです。

「Lied――Craback」

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「Lied――Craback」

(この国のプログラムも、たいていはドイツ語を並べていました。)

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(この国のプログラムもたいていは独逸ドイツ語を並べていました。)

クラバックは盛んな拍手のうちにちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。

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クラバックは盛んな拍手のうちにちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。

それからやはり無造作に、自作のリートを弾きはじめました。

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それからやはり無造作に自作のリイドをきはじめました。

クラバックはトックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家の中でも、前にも後にも比類のない天才だそうです。

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クラバックはトックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才だそうです。

僕はクラバックの音楽はもちろん、そのまた余技の抒情詩にも興味を持っていましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けていました。

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僕はクラバックの音楽はもちろん、そのまた余技の抒情じょじょう詩にも興味を持っていましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けていました。

トックやマッグがうっとりしていたことは、あるいは僕以上だったでしょう。

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トックやマッグも恍惚こうこつとしていたことはあるいは僕よりもまさっていたでしょう。

が、あの美しい(少なくとも河童たちの話によれば)雌の河童だけは、しっかりプログラムを握ったまま、時々さもいらだたしそうに長い舌をべろべろ出していました。

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が、あの美しい(少なくとも河童かっぱたちの話によれば)めすの河童だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに長い舌をべろべろ出していました。

これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年ほど前にクラバックをつかまえそこなったものだから、いまだにこの音楽家を目の敵にしているのだとかいうことです。

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これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年ぜんにクラバックをつかまえそこなったものですから、いまだにこの音楽家を目のかたきにしているのだとかいうことです。

クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを弾き続けました。

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クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノをきつづけました。

すると突然、会場の中に雷のように響き渡ったのは「演奏禁止」

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すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」

という声です。

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という声です。

僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。

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僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。

声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる背丈抜群の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よりも大声で「演奏禁止」

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声の主は紛れもない、一番後ろの席にいるたけ抜群の巡査です、巡査は僕がふり向いた時、悠然ゆうぜんと腰をおろしたまま、もう一度前よりもおお声に「演奏禁止」

と怒鳴りました。

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怒鳴どなりました。

それから――

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それから、――

それから先は大混乱です。

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それから先は大混乱です。

「警官横暴!」

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「警官横暴!」

「クラバック、弾け! 弾け!」

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「クラバック、弾け! 弾け!」

「馬鹿!」

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莫迦ばか!」

「畜生!」

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「畜生!」

「引っ込め!」

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「ひっこめ!」

「負けるな!」

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「負けるな!」

――こういう声のわき上がった中に、椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイダーの空き瓶や石ころや、かじりかけのきゅうりさえ降ってくるのです。

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――こういう声のわき上がった中に椅子いすは倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけにだれが投げるのか、サイダアの空罎あきびんや石ころやかじりかけの胡瓜きゅうりさえ降ってくるのです。

僕はあっけにとられましたから、トックにその理由を尋ねようとしました。

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僕はにとられましたから、トックにその理由を尋ねようとしました。

が、トックも興奮したと見え、椅子の上に突っ立ちながら、「クラバック、弾け! 弾け!」

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が、トックも興奮したとみえ、椅子の上に突っ立ちながら、「クラバック、弾け! 弾け!」

とわめき続けています。

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とわめきつづけています。

それどころか、トックの雌の河童もいつの間に敵意を忘れたのか、「警官横暴」

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のみならずトックの雌の河童もいつのに敵意を忘れたのか、「警官横暴」

と叫んでいることは、少しもトックと変わりません。

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と叫んでいることは少しもトックに変わりません。

僕はやむを得ずマッグに向かい、「どうしたのです?」

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僕はやむを得ずマッグに向かい、「どうしたのです?」

と尋ねてみました。

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と尋ねてみました。

「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。もともと絵だの文芸だのは……」

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「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来だの文芸だのは……」

マッグは何か飛んでくるたびにちょっと首を縮めながら、相変わらず静かに説明しました。

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マッグは何か飛んでくるたびにちょっとくびを縮めながら、相変わらず静かに説明しました。

「もともと絵だの文芸だのは、誰の目にも何を表しているかはとにかくちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行われません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけは、どんなに風俗を乱す曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」

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「元来画だの文芸だのはだれの目にも何を表わしているかはとにかくちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」

「しかしあの巡査は耳があるのですか?」

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「しかしあの巡査は耳があるのですか?」

「さあ、それは疑問ですね。たぶん今の旋律を聞いているうちに、妻といっしょに寝ている時の心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。」

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「さあ、それは疑問ですね。たぶん今の旋律を聞いているうちに細君といっしょに寝ている時の心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。」

こうしている間にも、大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。

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こういう間にも大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。

クラバックはピアノに向かったまま、傲然と我々をふり返っていました。

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クラバックはピアノに向かったまま、傲然ごうぜんと我々をふり返っていました。

が、いくら傲然としていても、いろいろのものが飛んでくるのはよけないわけにいきません。

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が、いくら傲然としていても、いろいろのものの飛んでくるのはよけないわけにゆきません。

したがってつまり、二、三秒おきにせっかくの態度も崩れたわけです。

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従ってつまり二三秒置きにせっかくの態度も変わったわけです。

しかしとにかく、だいたいのところは大音楽家の威厳を保ちながら、細い目をすさまじく輝かせていました。

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しかしとにかくだいたいとしては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目をすさまじくかがやかせていました。

僕は――僕ももちろん危険を避けるために、トックを盾に取っていたものです。

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僕は――僕ももちろん危険を避けるためにトックを小楯こだてにとっていたものです。

が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマッグと話し続けました。

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が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマッグと話しつづけました。

「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」

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「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」

「なに、どの国の検閲よりもかえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい一か月ばかり前にも、……」

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「なに、どの国の検閲よりもかえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい一月ひとつきばかり前にも、……」

ちょうどこう言いかけたとたんです。

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ちょうどこう言いかけたとたんです。

マッグはあいにく脳天に空き瓶が落ちたものですから、quack(これはただの間投詞です)と一声叫んだきり、とうとう気を失ってしまいました。

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マッグはあいにく脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これはただ間投詞かんとうしです)と一声叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。

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僕はガラス会社の社長のゲエルに、不思議にも好意を持っていました。

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僕は硝子ガラス会社の社長のゲエルに不思議にも好意を持っていました。

ゲエルは資本家の中の資本家です。

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ゲエルは資本家中の資本家です。

おそらくはこの国の河童の中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もいなかったに違いありません。

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おそらくはこの国の河童かっぱの中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もいなかったのに違いありません。

しかしライチに似た妻や、きゅうりに似た子どもを左右にしながら、安楽椅子に座っているところは、ほとんど幸福そのものです。

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しかし茘枝れいしに似た細君や胡瓜きゅうりに似た子どもを左右にしながら、安楽椅子いすにすわっているところはほとんど幸福そのものです。

僕は時々、裁判官のペップや医者のチャックに連れられて、ゲエル家の晩餐に出かけました。

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僕は時々裁判官のペップや医者のチャックにつれられてゲエル晩餐ばんさんへ出かけました。

またゲエルの紹介状を持って、ゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持っているいろいろの工場も見て歩きました。

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またゲエルの紹介状を持ってゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持っているいろいろの工場も見て歩きました。

そのいろいろの工場の中でも、ことに僕に面白かったのは書籍製造会社の工場です。

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そのいろいろの工場の中でもことに僕におもしろかったのは書籍製造会社の工場です。

僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へ入り、水力発電を動力にした大きい機械を眺めた時、今さらのように河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。

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僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電気を動力にした、大きい機械をながめた時、今さらのように河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。

なんでもそこでは、一年間に七百万部の本を製造するそうです。

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なんでもそこでは一年間に七百万部の本を製造するそうです。

が、僕を驚かせたのは本の部数ではありません。

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が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。

それだけの本を製造するのに、少しも手間がかからないことです。

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それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。

なにしろこの国では本を作るのに、ただ機械の漏斗形の口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。

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なにしろこの国では本を造るのにただ機械の漏斗形じょうごがたの口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。

それらの原料は機械の中へ入ると、ほとんど五分とたたないうちに、菊判、四六判、菊半裁判などの無数の本になって出てくるのです。

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それらの原料は機械の中へはいると、ほとんど五分とたたないうちに菊版きくばん四六版しろくばん菊半裁版きくはんさいばんなどの無数の本になって出てくるのです。

僕は滝のように流れ落ちるいろいろの本を眺めながら、そり身になった河童の技師に、その灰色の粉末は何かと尋ねてみました。

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僕はたきのように流れ落ちるいろいろの本をながめながら、り身になった河童の技師にその灰色の粉末はなんと言うものかと尋ねてみました。

すると技師は黒光りに光った機械の前にたたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。

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すると技師は黒光りに光った機械の前にたたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。

「これですか? これはロバの脳みそですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉にしただけのものです。時価は一トン二、三銭ですがね。」

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「これですか? これは驢馬ろばの脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一とん二三銭ですがね。」

もちろんこういう工業上の奇跡は、書籍製造会社にばかり起こっているわけではありません。

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もちろんこういう工業上の奇蹟は書籍製造会社にばかり起こっているわけではありません。

絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。

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絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。

実際またゲエルの話によれば、この国では平均して一か月に七、八百種の機械が新しく考案され、なんでもどんどん人手を借りずに大量生産が行われるそうです。

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実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行なわれるそうです。

したがってまた、解雇される職工も四、五万匹を下らないそうです。

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従ってまた職工の解雇かいこされるのも四五万匹を下らないそうです。

そのくせこの国では、毎朝新聞を読んでいても、一度もストライキという字に出会いません。

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そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も罷業ひぎょうという字に出会いません。

僕はこれを妙に思いましたから、ある時またペップやチャックとゲエル家の晩餐に招かれた機会に、これはなぜかと尋ねてみました。

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僕はこれを妙に思いましたから、ある時またペップやチャックとゲエル家の晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねてみました。

「それはみんな食ってしまうのですよ。」

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「それはみんな食ってしまうのですよ。」

食後の葉巻をくわえたゲエルは、いかにも無造作にこう言いました。

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食後の葉巻をくわえたゲエルはいかにも無造作むぞうさにこう言いました。

しかし「食ってしまう」

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しかし「食ってしまう」

というのは何のことだかわかりません。

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というのはなんのことだかわかりません。

すると鼻眼鏡をかけたチャックは、僕の不審を察したと見え、横から説明を加えてくれました。

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すると鼻目金はなめがねをかけたチャックは僕の不審を察したとみえ、横あいから説明を加えてくれました。

「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」

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「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解雇かいこされましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」

「職工は黙って殺されるのですか?」

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「職工は黙って殺されるのですか?」

「それは騒いでもしかたがありません。職工屠殺法があるのですから。」

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「それは騒いでもしかたはありません。職工屠殺法しょっこうとさつほうがあるのですから。」

これは、やまももの鉢植えを背にして苦い顔をしていたペップの言葉です。

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これは山桃やまもも鉢植はちうえを後ろに苦い顔をしていたペップの言葉です。

僕はもちろん不快を感じました。

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僕はもちろん不快を感じました。

しかし主人役のゲエルはもちろん、ペップやチャックも、そんなことは当然と思っているらしいのです。

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しかし主人公のゲエルはもちろん、ペップやチャックもそんなことは当然と思っているらしいのです。

現にチャックは笑いながら、あざけるように僕に話しかけました。

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現にチャックは笑いながら、あざけるように僕に話しかけました。

「つまり餓死したり自殺したりする手間を、国家的に省いてやるのですね。ちょっと有毒ガスをかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」

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「つまり餓死がししたり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒瓦斯ガスをかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」

「けれどもその肉を食うというのは、……」

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「けれどもその肉を食うというのは、……」

「冗談を言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いするでしょう。あなたの国でも、第四階級の娘たちは売春婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨するのは感傷主義ですよ。」

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常談じょうだんを言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」

こういう問答を聞いていたゲエルは、手近いテーブルの上にあったサンドイッチの皿を勧めながら、平然と僕にこう言いました。

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こういう問答を聞いていたゲエルは手近いテエブルの上にあったサンドウィッチの皿を勧めながら、恬然てんぜんと僕にこう言いました。

「どうです? 一ついかがですか? これも職工の肉ですがね。」

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「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」

僕はもちろん閉口しました。

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僕はもちろん辟易へきえきしました。

いや、そればかりではありません。

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いや、そればかりではありません。

ペップやチャックの笑い声を後ろに、ゲエル家の客間を飛び出しました。

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ペップやチャックの笑い声を後ろにゲエルの客間を飛び出しました。

それはちょうど、家々の空に星明かりも見えない荒れ模様の夜です。

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それはちょうど家々の空に星明かりも見えない荒れ模様の夜です。

僕はその闇の中を僕の住まいへ帰りながら、ひっきりなしに吐きました。

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僕はそのやみの中を僕の住居すまいへ帰りながら、のべつ幕なしに嘔吐へどを吐きました。

夜目にも白々と流れる吐いたものを。

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夜目にもしらじらと流れる嘔吐を。

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しかしガラス会社の社長のゲエルは、人なつこい河童だったのに違いありません。

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しかし硝子ガラス会社の社長のゲエルは人なつこい河童かっぱだったのに違いません。

僕はたびたびゲエルといっしょに、ゲエルの属している倶楽部へ行き、愉快に一晩を過ごしました。

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僕はたびたびゲエルといっしょにゲエルの属している倶楽部クラブへ行き、愉快に一晩を暮らしました。

これは一つには、その倶楽部がトックの属している超人倶楽部よりも、はるかに居心地がよかったためです。

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これは一つにはその倶楽部はトックの属している超人倶楽部よりもはるかに居心いごころのよかったためです。

それどころかまた、ゲエルの話は哲学者のマッグの話のような深みは持っていなかったにせよ、僕にはまったく新しい世界を――広い世界をのぞかせました。

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のみならずまたゲエルの話は哲学者のマッグの話のように深みを持っていなかったにせよ、僕には全然新しい世界を、――広い世界をのぞかせました。

ゲエルはいつも純金のスプーンでコーヒーの茶碗をかきまわしながら、快活にいろいろの話をしたものです。

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ゲエルは、いつも純金のさじ珈琲カッフェ茶碗ちゃわんをかきまわしながら、快活にいろいろの話をしたものです。

なんでもある霧の深い晩、僕は冬のばらを盛った花瓶をはさんで、ゲエルの話を聞いていました。

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なんでもある霧の深い晩、僕は冬薔薇ふゆそうびを盛った花瓶かびんを中にゲエルの話を聞いていました。

それはたしか、部屋全体はもちろん、椅子やテーブルも白い上に細い金の縁をとった、セセッション風の部屋だったように覚えています。

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それはたしか部屋へや全体はもちろん、椅子いすやテエブルも白い上に細い金のふちをとったセセッション風の部屋だったように覚えています。

ゲエルはふだんよりも得意そうに顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ天下を取っていた Quorax 党内閣のことなどを話しました。

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ゲエルはふだんよりも得意そうに顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ天下を取っていた Quorax 党内閣のことなどを話しました。

クオラックスという言葉はただの意味のない間投詞ですから、「おや」

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クオラックスという言葉はただ意味のない間投詞かんとうしですから、「おや」

とでも訳すほかはありません。

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とでも訳すほかはありません。

が、とにかく何よりも先に「河童全体の利益」

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が、とにかく何よりも先に「河童全体の利益」

ということを掲げていた政党だったのです。

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ということを標榜ひょうぼうしていた政党だったのです。

「クオラックス党を支配しているのは、名高い政治家のロッペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは正直を内政の上にも及ぼしているのです。……」

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「クオラックス党を支配しているものは名高い政治家のロッペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは正直を内治ないちの上にも及ぼしているのです。……」

「けれどもロッペの演説は……」

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「けれどもロッペの演説は……」

「まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろん、ことごとく嘘です。が、嘘だということは誰でも知っていますから、結局は正直と変わらないでしょう。それを一概に嘘と言うのは、あなたがただけの偏見ですよ。我々河童はあなたがたのように、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのはロッペのことです。ロッペはクオラックス党を支配している、そのまたロッペを支配しているのは Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』という言葉も、やはり意味のない間投詞です。もし強いて訳すなら、『ああ』とでも言うほかはありません。)社長のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主人というわけにはいきません。クイクイを支配しているのは、あなたの前にいるゲエルです。」

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「まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろんことごとくうそです。が、譃ということはだれでも知っていますから、畢竟ひっきょう正直と変わらないでしょう、それを一概に譃と言うのはあなたがただけの偏見ですよ。我々河童かっぱはあなたがたのように、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのはロッペのことです。ロッペはクオラックス党を支配している、そのまたロッペを支配しているものは Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』という言葉もやはり意味のない間投詞かんとうしです。もしいて訳すれば、『ああ』とでも言うほかはありません。)社長のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主人というわけにはゆきません。クイクイを支配しているものはあなたの前にいるゲエルです。」

「けれども――これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味方をする新聞でしょう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けているというのは、……」

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「けれども――これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でしょう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けているというのは、……」

「プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味方です。しかし記者たちを支配するものは、クイクイのほかにはありますまい。しかもクイクイは、このゲエルの後援を受けずにはいられないのです。」

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「プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものはクイクイのほかはありますまい。しかもクイクイはこのゲエルの後援を受けずにはいられないのです。」

ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金のスプーンをおもちゃにしています。

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ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金のさじをおもちゃにしています。

僕はこういうゲエルを見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情がわいてくるのを感じました。

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僕はこういうゲエルを見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情の起こるのを感じました。

するとゲエルは僕の無言からたちまちこの同情を感じ取ったと見え、大きい腹をふくらませてこう言うのです。

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するとゲエルは僕の無言にたちまちこの同情を感じたとみえ、大きい腹をふくらませてこう言うのです。

「なに、プウ・フウ新聞の記者たちも全部が労働者の味方ではありませんよ。少なくとも我々河童というものは、誰の味方をするよりも先に、我々自身の味方をしますからね。……しかしさらに厄介なことには、このゲエル自身さえやはり他人の支配を受けているのです。あなたはそれを誰だと思いますか? それはわたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」

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「なに、プウ・フウ新聞の記者たちも全部労働者の味かたではありませんよ。少なくとも我々河童というものはだれの味かたをするよりも先に我々自身の味かたをしますからね。……しかしさらに厄介やっかいなことにはこのゲエル自身さえやはり他人の支配を受けているのです。あなたはそれをだれだと思いますか? それはわたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」

ゲエルは大声で笑いました。

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ゲエルはおお声に笑いました。

「それはむしろ幸せでしょう。」

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「それはむしろしあわせでしょう。」

「とにかくわたしは満足しています。しかしこれもあなたの前だけで――河童でないあなたの前だけで、手放しで言えることなのです。」

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「とにかくわたしは満足しています。しかしこれもあなたの前だけに、――河童でないあなたの前だけに手放しで吹聴ふいちょうできるのです。」

「するとつまり、クオラックス内閣はゲエル夫人が支配しているのですね。」

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「するとつまりクオラックス内閣はゲエル夫人が支配しているのですね。」

「さあ、そうも言えますかね。……しかし七年前の戦争などは、たしかにある雌の河童のために始まったものに違いありません。」

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「さあそうも言われますかね。……しかし七年まえの戦争などはたしかにあるめすの河童のために始まったものに違いありません。」

「戦争? この国にも戦争はあったのですか?」

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「戦争? この国にも戦争はあったのですか?」

「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……」

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「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……」

僕は実際この時はじめて、河童の国も国家として孤立してはいないことを知りました。

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僕は実際この時はじめて河童の国も国家的に孤立していないことを知りました。

ゲエルの説明するところによれば、河童はいつもカワウソを仮想敵にしているということです。

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ゲエルの説明するところによれば、河童かっぱはいつもかわうそを仮設敵にしているということです。

しかもカワウソは、河童に負けない軍備を備えているということです。

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しかも獺は河童に負けない軍備をそなえているということです。

僕はこのカワウソを相手に河童が戦争した話に、少なからず興味を感じました。

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僕はこの獺を相手に河童の戦争した話に少なからず興味を感じました。

(なにしろ河童の強敵にカワウソがいるなどということは、「水虎考略」

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(なにしろ河童の強敵に獺のいるなどということは「水虎考略すいここうりゃく

の著者はもちろん、「山島民譚集」

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の著者はもちろん、「山島民譚集さんとうみんたんしゅう

の著者の柳田国男さんさえ知らずにいたらしい新事実ですから。)

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の著者柳田国男やなぎだくにおさんさえ知らずにいたらしい新事実ですから。)

「あの戦争の起こる前には、もちろん両国とも油断せずにじっと相手をうかがっていました。というのは、どちらも同じように相手を恐れていたからです。そこへこの国にいたカワウソが一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまた雌の河童というのは、亭主を殺すつもりでいたのです。なにしろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険がついていたことも、多少の誘惑になったかもしれません。」

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「あの戦争の起こる前にはもちろん両国とも油断せずにじっと相手をうかがっていました。というのはどちらも同じように相手を恐怖していたからです。そこへこの国にいた獺が一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまためすの河童というのは亭主を殺すつもりでいたのです。なにしろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険のついていたことも多少の誘惑になったかもしれません。」

「あなたはその夫婦をご存じですか?」

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「あなたはその夫婦を御存じですか?」

「ええ――いや、雄の河童だけは知っています。わたしの妻などはこの河童を悪人のように言っていますがね。しかしわたしに言わせれば、悪人よりもむしろ、雌の河童につかまることを恐れている被害妄想の強い狂人です。……そこでこの雌の河童は、亭主のココアの茶碗の中へ青酸カリを入れておいたのです。それをまたどう間違えたか、客のカワウソに飲ませてしまったのです。カワウソはもちろん死んでしまいました。それから……」

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「ええ、――いや、おすの河童だけは知っています。わたしの妻などはこの河童を悪人のように言っていますがね。しかしわたしに言わせれば、悪人よりもむしろ雌の河童につかまることを恐れている被害妄想ひがいもうぞうの多い狂人です。……そこでこの雌の河童は亭主のココアの茶碗ちゃわんの中へ青化加里せいかかりを入れておいたのです。それをまたどう間違まちがえたか、客の獺に飲ませてしまったのです。獺はもちろん死んでしまいました。それから……」

「それから戦争になったのですか?」

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「それから戦争になったのですか?」

「ええ、あいにくそのカワウソは勲章を持っていたものですからね。」

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「ええ、あいにくその獺は勲章を持っていたものですからね。」

「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」

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「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」

「もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちが、そのために健気にも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害は何ともありません。この国にある毛皮という毛皮は、たいていカワウソの毛皮です。わたしもあの戦争の時には、ガラスを製造するほかに石炭がらを戦地へ送りました。」

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「もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちはそのために健気けなげにも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害はなんともありません。この国にある毛皮という毛皮はたいてい獺の毛皮です。わたしもあの戦争の時には硝子ガラスを製造するほかにも石炭がらを戦地へ送りました。」

「石炭がらを何にするのですか?」

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「石炭殻を何にするのですか?」

「もちろん食糧にするのです。我々河童は腹さえ減れば、何でも食うと決まっていますからね。」

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「もちろん食糧にするのです。我々は、河童は腹さえ減れば、なんでも食うのにきまっていますからね。」

「それは――どうか怒らずに聞いてください。それは戦地にいる河童たちには……我々の国ではスキャンダルになりますがね。」

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「それは――どうかおこらずにください。それは戦地にいる河童たちには……我々の国では醜聞しゅうぶんですがね。」

「この国でもスキャンダルには違いありません。しかしわたし自身がこう言っていれば、誰もスキャンダルにはしないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。『汝の悪は汝自らが言え。悪はおのずと消滅するだろう。』……しかもわたしは利益のほかにも、愛国心に燃え立っていたのですからね。」

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「この国でも醜聞には違いありません。しかしわたし自身こう言っていれば、だれも醜聞にはしないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。『なんじの悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。』……しかもわたしは利益のほかにも愛国心に燃え立っていたのですからね。」

ちょうどそこへ入ってきたのは、この倶楽部の給仕です。

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ちょうどそこへはいってきたのはこの倶楽部クラブの給仕です。

給仕はゲエルにお辞儀をした後、朗読でもするようにこう言いました。

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給仕はゲエルにお時宜じぎをしたのち、朗読でもするようにこう言いました。

「お宅のお隣に火事がございます。」

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「お宅のお隣に火事がございます。」

「火――火事!」

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「火――火事!」

ゲエルは驚いて立ち上がりました。

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ゲエルは驚いて立ち上がりました。

僕も立ち上がったのはもちろんです。

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僕も立ち上がったのはもちろんです。

が、給仕は落ち着き払って、次の言葉をつけ加えました。

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が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。

「しかしもう消し止めました。」

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「しかしもう消し止めました。」

ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。

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ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。

僕はこういう顔を見ると、いつのまにかこのガラス会社の社長を憎んでいたことに気づきました。

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僕はこういう顔を見ると、いつかこの硝子ガラス会社の社長を憎んでいたことに気づきました。

が、ゲエルはもう今では、大資本家でも何でもない、ただの河童になって立っているのです。

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が、ゲエルはもう今では大資本家でもなんでもないただの河童かっぱになって立っているのです。

僕は花瓶の中の冬のばらの花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。

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僕は花瓶かびんの中の冬薔薇ふゆそうびの花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。

「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」

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「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」

「ありがとう。」

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「ありがとう。」

ゲエルは僕の手を握りました。

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ゲエルは僕の手を握りました。

それから急ににやりと笑い、小声でこう僕に話しかけました。

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それから急ににやりと笑い、小声にこう僕に話しかけました。

「隣はわたしの持ち家ですからね。火災保険の金だけは取れるのですよ。」

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「隣はわたしの家作かさくですからね。火災保険の金だけはとれるのですよ。」

僕はこの時のゲエルの微笑を――軽蔑することもできなければ、憎むこともできないゲエルの微笑を、いまだにありありと覚えています。

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僕はこの時のゲエルの微笑を――軽蔑けいべつすることもできなければ、憎悪ぞうおすることもできないゲエルの微笑をいまだにありありと覚えています。

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「どうしたね? 今日はまた妙にふさいでいるじゃないか?」

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「どうしたね? きょうはまた妙にふさいでいるじゃないか?」

その火事のあった翌日です。

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その火事のあった翌日です。

僕は紙巻きたばこをくわえながら、僕の客間の椅子に腰をおろした学生のラップにこう言いました。

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僕は巻煙草まきたばこをくわえながら、僕の客間の椅子いすに腰をおろした学生のラップにこう言いました。

実際またラップは右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐ったくちばしも見えないほど、ぼんやり床の上ばかり見ていたのです。

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実際またラップは右のあしの上へ左の脚をのせたまま、腐ったくちばしも見えないほど、ぼんやりゆかの上ばかり見ていたのです。

「ラップ君、どうしたね。」

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「ラップ君、どうしたね。」

と言うと、

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と言えば、

「いや、なに、つまらないことなのですよ。――」

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「いや、なに、つまらないことなのですよ。――」

ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。

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ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。

「僕は今日、窓の外を見ながら、『おや、虫取りすみれが咲いた』と何気なくつぶやいたのです。すると僕の妹は急に顔色を変えたと思うと、『どうせわたしは虫取りすみれよ』と当たり散らすじゃありませんか? おまけにまた僕のおふくろも大の妹びいきですから、やはり僕に食ってかかるのです。」

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「僕はきょう窓の外を見ながら、『おや虫取りすみれが咲いた』と何気なにげなしにつぶやいたのです。すると僕の妹は急に顔色を変えたと思うと、『どうせわたしは虫取り菫よ』と当たり散らすじゃありませんか? おまけにまた僕のおふくろもだいの妹贔屓びいきですから、やはり僕に食ってかかるのです。」

「虫取りすみれが咲いたということが、どうして妹さんには不愉快なのだね?」

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「虫取り菫が咲いたということはどうして妹さんには不快なのだね?」

「さあ、たぶん雄の河童をつかまえるという意味にでも取ったのでしょう。そこへおふくろと仲の悪い叔母も喧嘩に加わったのですから、いよいよ大騒動になってしまいました。しかも年中酔っ払っている親父はこの喧嘩を聞きつけると、誰彼の見境なしに殴り出したのです。それだけでも始末のつかないところへ、僕の弟はその間におふくろの財布を盗むが早いか、映画か何かを見に行ってしまいました。僕は……本当に僕はもう、……」

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「さあ、たぶんおすの河童をつかまえるという意味にでもとったのでしょう。そこへおふくろと仲悪い叔母おば喧嘩けんかの仲間入りをしたのですから、いよいよ大騒動になってしまいました。しかも年中酔っ払っているおやじはこの喧嘩を聞きつけると、たれかれの差別なしになぐり出したのです。それだけでも始末のつかないところへ僕の弟はそのあいだにおふくろの財布さいふを盗むが早いか、キネマか何かを見にいってしまいました。僕は……ほんとうに僕はもう、……」

ラップは両手に顔をうずめ、何も言わずに泣いてしまいました。

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ラップは両手に顔をうずめ、何も言わずに泣いてしまいました。

僕が同情したのはもちろんです。

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僕の同情したのはもちろんです。

同時にまた、家族制度に対する詩人のトックの軽蔑を思い出したのももちろんです。

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同時にまた家族制度に対する詩人のトックの軽蔑を思い出したのももちろんです。

僕はラップの肩をたたき、一生懸命に慰めました。

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僕はラップの肩をたたき、一生懸命いっしょうけんめいに慰めました。

「そんなことはどこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。」

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「そんなことはどこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。」

「しかし……しかしくちばしでも腐っていなければ、……」

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「しかし……しかしくちばしでも腐っていなければ、……」

「それはあきらめるほかはないさ。さあ、トック君の家へでも行こう。」

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「それはあきらめるほかはないさ。さあ、トック君のうちへでも行こう。」

「トックさんは僕を軽蔑しています。僕はトックさんのように、大胆に家族を捨てることができませんから。」

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「トックさんは僕を軽蔑けいべつしています。僕はトックさんのように大胆に家族を捨てることができませんから。」

「じゃあ、クラバック君の家へ行こう。」

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「じゃクラバック君の家へ行こう。」

僕はあの音楽会以来クラバックとも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へラップを連れ出すことにしました。

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僕はあの音楽会以来、クラバックにも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へラップをつれ出すことにしました。

クラバックはトックに比べれば、はるかに贅沢に暮らしています。

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クラバックはトックに比べれば、はるかに贅沢ぜいたくに暮らしています。

というのは、資本家のゲエルのように暮らしているという意味ではありません。

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というのは資本家のゲエルのように暮らしているという意味ではありません。

ただいろいろの骨董を――タナグラの人形やペルシャの陶器を部屋いっぱいに並べた中にトルコ風の長椅子を据え、クラバック自身の肖像画の下で、いつも子どもたちと遊んでいるのです。

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ただいろいろの骨董こっとうを、――タナグラの人形やペルシアの陶器を部屋へやいっぱいに並べた中にトルコ風の長椅子ながいすえ、クラバック自身の肖像画の下にいつも子どもたちと遊んでいるのです。

が、今日はどうしたのか、両腕を胸に組んだまま、苦い顔をして座っていました。

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が、きょうはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をしてすわっていました。

それどころか、そのまた足もとには紙くずが一面に散らばっていました。

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のみならずそのまた足もとには紙屑かみくずが一面に散らばっていました。

ラップも詩人のトックといっしょに、たびたびクラバックには会っているはずです。

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ラップも詩人トックといっしょにたびたびクラバックには会っているはずです。

しかしこの様子に恐れをなしたと見え、今日は丁寧にお辞儀をしたきり、黙って部屋の隅に腰をおろしました。

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しかしこの容子ようすに恐れたとみえ、きょうは丁寧ていねいにお時宜じぎをしたなり、黙って部屋のすみに腰をおろしました。

「どうしたね? クラバック君。」

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「どうしたね? クラバック君。」

僕はほとんど挨拶の代わりに、こう大音楽家へ問いかけました。

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僕はほとんど挨拶あいさつの代わりにこう大音楽家へ問いかけました。

「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕の抒情詩はトックの抒情詩と比べものにならないと言いやがるんだ。」

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「どうするものか? 批評家の阿呆あほうめ! 僕の抒情じょじょう詩はトックの抒情詩と比べものにならないと言やがるんだ。」

「しかし君は音楽家だし、……」

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「しかし君は音楽家だし、……」

「それだけならば我慢もできる。僕はロックに比べれば音楽家の名に値しないと言いやがるじゃないか?」

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「それだけならば我慢がまんもできる。僕はロックに比べれば、音楽家の名に価しないと言やがるじゃないか?」

ロックというのは、クラバックとたびたび比べられる音楽家です。

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ロックというのはクラバックとたびたび比べられる音楽家です。

が、あいにく超人倶楽部の会員になっていない関係上、僕は一度も話したことはありません。

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が、あいにく超人倶楽部クラブの会員になっていない関係上、僕は一度も話したことはありません。

もっとも、くちばしのそり上がった一癖ありそうな顔だけは、たびたび写真で見かけていました。

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もっとも嘴のり上がった、一癖ひとくせあるらしい顔だけはたびたび写真でも見かけていました。

「ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は、君の音楽にあふれている近代的な情熱を持っていない。」

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「ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は君の音楽にあふれている近代的情熱を持っていない。」

「君は本当にそう思うか?」

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「君はほんとうにそう思うか?」

「そう思うとも。」

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「そう思うとも。」

するとクラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなり床の上にたたきつけました。

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するとクラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなりゆかの上にたたきつけました。

ラップはよほど驚いたと見え、何か声をあげて逃げようとしました。

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ラップはよほど驚いたとみえ、何か声をあげて逃げようとしました。

が、クラバックはラップや僕にはちょっと「驚くな」

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が、クラバックはラップや僕にはちょっと「驚くな」

という手真似をした上、今度は冷ややかにこう言うのです。

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という手真似てまねをした上、今度は冷やかにこう言うのです。

「それは君もまた俗人のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……」

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「それは君もまた俗人のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……」

「君が? 謙遜家を気取るのはやめたまえ。」

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「君が? 謙遜家けんそんかを気どるのはやめたまえ。」

「誰が謙遜家を気取るものか? 第一、君たちに気取って見せるくらいなら、批評家たちの前で気取って見せている。僕は――クラバックは天才だ。その点ではロックを恐れていない。」

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「だれが謙遜家けんそんかを気どるものか? 第一君たちに気どって見せるくらいならば、批評家たちの前に気どって見せている。僕は――クラバックは天才だ。その点ではロックを恐れていない。」

「では何を恐れているのだ?」

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「では何を恐れているのだ?」

「何か正体の知れないものを――言わばロックを支配している星を。」

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「何か正体しょうたいの知れないものを、――言わばロックを支配している星を。」

「どうも僕には腑に落ちないがね。」

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「どうも僕にはに落ちないがね。」

「ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間にかロックの影響を受けてしまうのだ。」

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「ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつのにかロックの影響を受けてしまうのだ。」

「それは君の感受性の……。」

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「それは君の感受性の……。」

「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安心して、あいつにしかできない仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十マイルも違うのだ。」

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「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安んじてあいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十マイルも違うのだ。」

「しかし先生の英雄曲は……」

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「しかし先生の英雄曲は……」

クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。

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クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。

「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりもロックを知っているのだ。」

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「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりもロックを知っているのだ。」

「まあ少し静かにしたまえ。」

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「まあ少し静かにしたまえ。」

「もし静かにしていられるならば……僕はいつもこう思っている。――僕らの知らない何ものかが、僕を――クラバックをあざけるために、ロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことを何もかも承知している。いつもあの色ガラスのランタンの下で、古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。」

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「もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。――僕らの知らない何ものかは僕を、――クラバックをあざけるためにロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことをなにもかも承知している。いつもあの色硝子いろガラスのランタアンの下に古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。」

「どうして?」

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「どうして?」

「この近ごろマッグの書いた『阿呆の言葉』という本を見たまえ。――」

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「この近ごろマッグの書いた『阿呆あほうの言葉』という本を見たまえ。――」

クラバックは僕に一冊の本を渡す――というよりも投げつけました。

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クラバックは僕に一冊の本を渡す――というよりも投げつけました。

それからまた腕を組んだまま、つっけんどんにこう言い放ちました。

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それからまた腕を組んだまま、つっけんどんにこう言い放ちました。

「じゃあ今日はこれで失敬しよう。」

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「じゃきょうは失敬しよう。」

僕はしょげ返ったラップといっしょに、もう一度往来へ出ることにしました。

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僕はしょげ返ったラップといっしょにもう一度往来へ出ることにしました。

人通りの多い往来は相変わらず、ぶなの並木のかげにいろいろの店を並べています。

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人通りの多い往来は相変わらず毛生欅ぶなの並み木のかげにいろいろの店を並べています。

僕らは何ということもなしに、黙って歩いていきました。

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僕らはなんということもなしに黙って歩いてゆきました。

するとそこへ通りかかったのは、髪の長い詩人のトックです。

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するとそこへ通りかかったのは髪の長い詩人のトックです。

トックは僕らの顔を見ると、腹の袋からハンカチを出し、何度も額をぬぐいました。

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トックは僕らの顔を見ると、腹の袋から手巾ハンケチを出し、何度も額をぬぐいました。

「やあ、しばらく会わなかったね。僕は今日、久しぶりにクラバックを訪ねようと思うのだが、……」

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「やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりにクラバックを尋ねようと思うのだが、……」

僕はこの芸術家たちを喧嘩させては悪いと思い、クラバックがいかにも不機嫌だったことを遠回しにトックに話しました。

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僕はこの芸術家たちを喧嘩けんかさせては悪いと思い、クラバックのいかにも不機嫌ふきげんだったことを婉曲えんきょくにトックに話しました。

「そうか。じゃあやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二、三週間は眠れないので弱っているのだ。」

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「そうか。じゃやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。」

「どうだね、僕らといっしょに散歩をしては?」

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「どうだね、僕らといっしょに散歩をしては?」

「いや、今日はやめにしよう。おや!」

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「いや、きょうはやめにしよう。おや!」

トックはこう叫ぶが早いか、しっかり僕の腕をつかみました。

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トックはこう叫ぶが早いか、しっかり僕の腕をつかみました。

しかも、いつのまにか体中に冷や汗を流しているのです。

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しかもいつか体中からだじゅうに冷汗を流しているのです。

「どうしたのだ?」

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「どうしたのだ?」

「どうしたのです?」

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「どうしたのです?」

「なに、あの自動車の窓の中から、緑色の猿が一匹首を出したように見えたのだよ。」

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「なにあの自動車の窓の中から緑いろのさるが一匹首を出したように見えたのだよ。」

僕は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに診察してもらうように勧めました。

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僕は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに診察してもらうように勧めました。

しかしトックは何と言っても、承知する様子さえ見せません。

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しかしトックはなんと言っても、承知する気色けしきさえ見せません。

それどころか何か疑わしそうに僕らの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。

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のみならず何か疑わしそうに僕らの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。

「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。――ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。」

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「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。――ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。」

僕らはぼんやりたたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。

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僕らはぼんやりたたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。

僕らは――いや、「僕ら」

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僕らは――いや、「僕ら」

ではありません。

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ではありません。

学生のラップはいつの間にか往来のまん中に脚を広げ、ひっきりなしの自動車や人通りを、股のぞきに見ているのです。

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学生のラップはいつの間にか往来のまん中にあしをひろげ、しっきりない自動車や人通りを股目金まためがねにのぞいているのです。

僕はこの河童も発狂したかと思い、驚いてラップを引き起こしました。

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僕はこの河童かっぱも発狂したかと思い、驚いてラップを引き起こしました。

「冗談じゃない。何をしている?」

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常談じょうだんじゃない。何をしている?」

しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。

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しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。

「いえ、あまり憂鬱ですから、さかさまに世の中を眺めてみたのです。けれどもやはり同じことですね。」

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「いえ、あまり憂鬱ゆううつですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」

十一

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十一

これは哲学者のマッグの書いた「阿呆の言葉」

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これは哲学者のマッグの書いた「阿呆あほうの言葉」

の中の何章かです。――

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の中の何章かです。――

×

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×

阿呆はいつも、自分以外のものを阿呆だと信じている。

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阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。

×

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×

我々が自然を愛するのは、自然が我々を憎んだり嫉妬したりしないためでもある。

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我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬しっとしたりしないためもないことはない。

×

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×

もっとも賢い生活は、一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。

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もっとも賢い生活は一時代の習慣を軽蔑けいべつしながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。

×

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×

我々がもっとも誇りたいものは、我々が持っていないものだけである。

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我々のもっとも誇りたいものは我々の持っていないものだけである。

×

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×

偶像を破壊することに異存を持つ者は誰もいない。

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なんびとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。

同時にまた、偶像になることに異存を持つ者も誰もいない。

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同時にまた何びとも偶像になることに異存を持っているものはない。

しかし偶像の台座の上に安んじて座っていられる者は、もっとも神々に恵まれた者――阿呆か、悪人か、英雄かである。

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しかし偶像の台座の上に安んじてすわっていられるものはもっとも神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。

(クラバックはこの章の上へ爪の跡をつけていました。)

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(クラバックはこの章の上へつめあとをつけていました。)

×

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×

我々の生活に必要な思想は、三千年前に尽きたのかもしれない。

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我々の生活に必要な思想は三千年ぜんに尽きたかもしれない。

我々はただ、古い薪に新しい炎を加えるだけだろう。

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我々はただ古いたきぎに新しい炎を加えるだけであろう。

×

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×

我々の特色は、我々自身の意識を超えているのが常である。

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我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている。

×

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×

幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴うとすれば――?

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幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠けんたいを伴うとすれば、――?

×

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×

自分を弁護することは、他人を弁護することよりも難しい。

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自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。

疑う者は弁護士を見よ。

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疑うものは弁護士を見よ。

×

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×

誇り、愛欲、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三つから生じている。

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矜誇きょうか、愛欲、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。

同時にまた、おそらくはあらゆる徳も。

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同時にまたおそらくはあらゆる徳も。

×

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×

物質的欲望を減らすことは、必ずしも平和をもたらさない。

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物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。

我々は平和を得るためには、精神的欲望も減らさなければならない。

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我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。

(クラバックはこの章の上にも爪の跡を残していました。)

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(クラバックはこの章の上にもつめあとを残していました。)

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×

我々は人間よりも不幸である。

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我々は人間よりも不幸である。

人間は河童ほど進化していない。

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人間は河童かっぱほど進化していない。

(僕はこの章を読んだ時、思わず笑ってしまいました。)

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(僕はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいました。)

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×

為すことは為し得ることであり、為し得ることは為すことである。

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成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。

結局のところ、我々の生活はこういう循環論法を抜け出すことはできない。――

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畢竟ひっきょう我々の生活はこういう循環論法を脱することはできない。――

つまり不合理に終始している。

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すなわち不合理に終始している。

×

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×

ボードレールは白痴になった後、彼の人生観をたった一語に――女陰の一語に言い表した。

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ボオドレエルは白痴になったのち、彼の人生観をたった一語に、――女陰の一語に表白した。

しかし彼自身を語るものは、必ずしもこう言ったことではない。

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しかし彼自身を語るものは必ずしもこう言ったことではない。

むしろ彼の天才に――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼したために、胃袋の一語を忘れたことである。

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むしろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼したために胃袋の一語を忘れたことである。

(この章にもやはり、クラバックの爪の跡は残っていました。)

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(この章にもやはりクラバックの爪の痕は残っていました。)

×

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×

もし理性に終始するとすれば、我々は当然、我々自身の存在を否定しなければならない。

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もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。

理性を神にしたヴォルテールが幸福に一生を終えたのは、つまり人間が河童ほど進化していないことを示すものである。

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理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生をおわったのはすなわち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。

十二

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十二

ある割合に寒い午後です。

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ある割合に寒い午後です。

僕は「阿呆の言葉」

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僕は「阿呆あほうの言葉」

を読み飽きましたから、哲学者のマッグを訪ねに出かけました。

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を読み飽きましたから、哲学者のマッグを尋ねに出かけました。

するとある寂しい町角に、蚊のようにやせた河童が一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。

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するとある寂しい町のかどに蚊のようにやせた河童かっぱが一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。

しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んでいった河童なのです。

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しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んでいった河童なのです。

僕はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかったたくましい巡査を呼び止めました。

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僕はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、たくましい巡査を呼びとめました。

「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど一か月ばかり前に、わたしの万年筆を盗んだのですから。」

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「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど一月ひとつきばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。」

巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は剣の代わりに、いちいの棒を持っているのです。)

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巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査はけんの代わりに水松いちいの棒を持っているのです。)

「おい、君」

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「おい、君」

と、その河童へ声をかけました。

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とその河童へ声をかけました。

僕は、あるいはその河童は逃げ出しはしないかと思っていました。

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僕はあるいはその河童は逃げ出しはしないかと思っていました。

が、思いのほか落ち着き払って、巡査の前へ歩み寄りました。

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が、存外落ち着き払って巡査の前へ歩み寄りました。

それどころか腕を組んだまま、いかにも傲然と僕の顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。

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のみならず腕を組んだまま、いかにも傲然ごうぜんと僕の顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。

しかし巡査は怒りもせず、腹の袋から手帳を出して、さっそく尋問にとりかかりました。

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しかし巡査はおこりもせず、腹の袋から手帳を出してさっそく尋問にとりかかりました。

「お前の名は?」

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「お前の名は?」

「グルック。」

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「グルック。」

「職業は?」

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「職業は?」

「つい二、三日前までは郵便配達夫をしていました。」

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「つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。」

「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」

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「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」

「ええ、一か月ばかり前に盗みました。」

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「ええ、一月ばかり前に盗みました。」

「何のために?」

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「なんのために?」

「子どものおもちゃにしようと思ったのです。」

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「子どもの玩具おもちゃにしようと思ったのです。」

「その子どもは?」

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「その子どもは?」

巡査ははじめて、相手の河童へ鋭い目を注ぎました。

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巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。

「一週間前に死んでしまいました。」

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「一週間前に死んでしまいました。」

「死亡証明書を持っているかね?」

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「死亡証明書を持っているかね?」

やせた河童は腹の袋から、一枚の紙をとり出しました。

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やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。

巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。

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巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。

「よろしい。どうもご苦労だったね。」

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「よろしい。どうも御苦労だったね。」

僕はあっけにとられたまま、巡査の顔を眺めていました。

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僕は呆気あっけにとられたまま、巡査の顔をながめていました。

しかもそのうちに、やせた河童は何かぶつぶつつぶやきながら、僕らを後にして行ってしまうのです。

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しかもそのうちにやせた河童は何かぶつぶつつぶやきながら、僕らを後ろにして行ってしまうのです。

僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。

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僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。

「どうしてあの河童をつかまえないのです?」

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「どうしてあの河童をつかまえないのです?」

「あの河童は無罪ですよ。」

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「あの河童は無罪ですよ。」

「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」

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「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」

「子どものおもちゃにするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何かご不審でしたら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」

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「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」

巡査はこう言い捨てたきり、さっさとどこかへ行ってしまいました。

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巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。

僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」

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僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」

と口の中で繰り返しながら、マッグの家へ急いでいきました。

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を口の中に繰り返し、マッグのうちへ急いでゆきました。

哲学者のマッグは客好きです。

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哲学者のマッグは客好きです。

現に今日も薄暗い部屋には、裁判官のペップや医者のチャックやガラス会社の社長のゲエルなどが集まり、七色の色ガラスのランタンの下にたばこの煙を立ちのぼらせていました。

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現にきょうも薄暗い部屋へやには裁判官のペップや医者のチャックや硝子ガラス会社の社長のゲエルなどが集まり、七色なないろの色硝子のランタアンの下に煙草たばこの煙を立ちのぼらせていました。

そこに裁判官のペップが来ていたのは、何よりも僕には好都合です。

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そこに裁判官のペップが来ていたのは何よりも僕にはこうつごうです。

僕は椅子にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を調べる代わりに、さっそくペップへ問いかけました。

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僕は椅子いすにかけるが早いか、刑法第千二百八十五条をしらべる代わりにさっそくペップへ問いかけました。

「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」

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「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」

ペップは金口のたばこの煙をまず悠々と吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。

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ペップは金口きんぐちの煙草の煙をまず悠々ゆうゆうと吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。

「罰しますとも。死刑さえ行われるくらいですからね。」

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「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」

「しかし僕は一か月ばかり前に、……」

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「しかし僕は一月ひとつきばかり前に、……」

僕は一部始終を話した後、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。

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僕は委細を話したのち、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。

「ふむ、それはこういうものです。――『いかなる犯罪を行ったとしても、その犯罪を行わせた事情が消滅した後は、その犯罪者を処罰することはできない』つまりあなたの場合で言えば、その河童はかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」

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「ふむ、それはこういうのです。――『いかなる犯罪を行ないたりといえども、がい犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言えば、その河童かっぱはかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」

「それはどうも不合理ですね。」

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「それはどうも不合理ですね。」

「冗談を言ってはいけません。親だった河童と親である河童とを同一に見るほうこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑稽です。ふふふふふふふふふふ。」

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常談じょうだんを言ってはいけません。親だった河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑稽こっけいです。ふふふふふふふふふふ。」

ペップは紙巻きたばこを放り出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。

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ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。

そこへ口を出したのは、法律には縁の遠いチャックです。

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そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチャックです。

チャックはちょっと鼻眼鏡を直し、こう僕に質問しました。

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チャックはちょっと鼻目金はなめがねを直し、こう僕に質問しました。

「日本にも死刑はありますか?」

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「日本にも死刑はありますか?」

「ありますとも。日本では絞首刑です。」

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「ありますとも。日本では絞罪こうざいです。」

僕は冷然と構え込んだペップに多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。

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僕は冷然と構えこんだペップに多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。

「この国の死刑は、日本よりも文明的にできているでしょうね?」

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「この国の死刑は日本よりも文明的にできているでしょうね?」

「それはもちろん文明的です。」

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「それはもちろん文明的です。」

ペップはやはり落ち着いていました。

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ペップはやはり落ち着いていました。

「この国では絞首刑などは使いません。まれには電気を使うこともあります。しかしたいていは電気も使いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」

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「この国では絞罪などは用いません。まれには電気を用いることもあります。しかしたいていは電気も用いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」

「それだけで河童は死ぬのですか?」

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「それだけで河童は死ぬのですか?」

「死にますとも。我々河童の神経作用は、あなたがたのよりも微妙ですからね。」

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「死にますとも。我々河童の神経作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」

「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります――」

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「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります――」

社長のゲエルは色ガラスの光に顔中を紫に染めながら、人なつこい笑顔をして見せました。

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社長のゲエルは色硝子いろガラスの光に顔中紫に染まりながら、人なつこい笑顔えがおをして見せました。

「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は盗人だ』と言われたために、心臓麻痺を起こしかけたものです。」

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「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は盗人ぬすびとだ』と言われたために心臓痲痺まひを起こしかかったものです。」

「それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士なども、やはりそのために死んでしまったのですからね。」

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「それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士などはやはりそのために死んでしまったのですからね。」

僕はこう口を入れた河童――哲学者のマッグをふり返りました。

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僕はこう口を入れた河童かっぱ、――哲学者のマッグをふりかえりました。

マッグはやはりいつものように皮肉な微笑を浮かべたまま、誰の顔も見ずにしゃべっているのです。

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マッグはやはりいつものように皮肉な微笑を浮かべたまま、だれの顔も見ずにしゃべっているのです。

「その河童は誰かに蛙だと言われ――もちろんあなたもご存じでしょう、この国で蛙だと言われるのは人でなしという意味になることくらいは。――俺は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちに、とうとう死んでしまったものです。」

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「その河童はだれかにかえるだと言われ、――もちろんあなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言われるのは人非人にんぴにんという意味になることぐらいは。――おれは蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちにとうとう死んでしまったものです。」

「それはつまり自殺ですね。」

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「それはつまり自殺ですね。」

「もっとも、その河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」

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「もっともその河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」

ちょうどマッグがこう言った時です。

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ちょうどマッグがこう言った時です。

突然その部屋の壁の向こうに――たしかに詩人のトックの家に、鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。

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突然その部屋へやの壁の向こうに、――たしかに詩人のトックの家に鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。

十三

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十三

僕らはトックの家へ駆けつけました。

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僕らはトックの家へ駆けつけました。

トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を流したまま、高山植物の鉢植えの中に仰向けになって倒れていました。

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トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植はちうえの中に仰向あおむけになって倒れていました。

そのまたそばには雌の河童が一匹、トックの胸に顔をうずめ、大声をあげて泣いていました。

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そのまたそばにはめすの河童が一匹、トックの胸に顔をうずめ、大声をあげて泣いていました。

僕は雌の河童を抱き起こしながら、(いったい僕は、ぬらぬらする河童の皮膚に手を触れるのはあまり好んではいないのですが。)

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僕は雌の河童を抱き起こしながら、(いったい僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることをあまり好んではいないのですが。)

「どうしたのです?」

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「どうしたのです?」

と尋ねました。

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と尋ねました。

「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を撃ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」

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「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」

(これは河童の泣き声です。)

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(これは河童の泣き声です。)

「なにしろトック君はわがままだったからね。」

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「なにしろトック君はわがままだったからね。」

ガラス会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。

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硝子ガラス会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。

しかしペップは何も言わずに、金口の紙巻きたばこに火をつけていました。

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しかしペップは何も言わずに金口きんぐち巻煙草まきたばこに火をつけていました。

すると今までひざまずいてトックの傷口などを調べていたチャックは、いかにも医者らしい態度のまま、僕ら五人に宣言しました。

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すると今までひざまずいて、トックの創口きずぐちなどを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。

(実は一人と四匹です。)

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(実はひとりと四匹しひきとです。)

「もう駄目です。トック君はもともと胃病でしたから、それだけでも憂鬱になりやすかったのです。」

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「もう駄目だめです。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱ゆううつになりやすかったのです。」

「何か書いていたということですが。」

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「何か書いていたということですが。」

哲学者のマッグは弁解するようにこう独り言をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。

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哲学者のマッグは弁解するようにこうひとごとをもらしながら、机の上の紙をとり上げました。

僕らは皆首をのばし、(もっとも僕だけは例外です。)

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僕らは皆くびをのばし、(もっとも僕だけは例外です。)

幅の広いマッグの肩越しに、一枚の紙をのぞき込みました。

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幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。

「さあ、立って行こう。俗世を隔てる谷へ。

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「いざ、立ちてゆかん。娑婆界しゃばかいを隔つる谷へ。

岩々は険しく、山の水は清く、

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岩むらはこごしく、やま水は清く、

薬草の花が香る谷へ。」

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薬草の花はにおえる谷へ。」

マッグは僕らをふり返りながら、苦笑まじりにこう言いました。

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マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。

「これはゲーテの『ミニヨンの歌』の盗作ですよ。するとトック君が自殺したのは、詩人としても疲れていたのですね。」

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「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃ひょうせつですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」

そこへ偶然自動車を乗りつけたのは、あの音楽家のクラバックです。

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そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバックです。

クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。

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クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。

が、僕らの前へ歩み寄ると、怒鳴りつけるようにマッグに話しかけました。

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が、僕らの前へ歩み寄ると、怒鳴どなりつけるようにマッグに話しかけました。

「それはトックの遺書ですか?」

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「それはトックの遺言状ゆいごんじょうですか?」

「いや、最後に書いていた詩です。」

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「いや、最後に書いていた詩です。」

「詩?」

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「詩?」

やはり少しも騒がないマッグは、髪を逆立てたクラバックにトックの詩の原稿を渡しました。

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やはり少しも騒がないマッグは髪を逆立さかだてたクラバックにトックの詩稿を渡しました。

クラバックはあたりには目もくれずに、熱心にその原稿を読み出しました。

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クラバックはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。

しかもマッグの言葉には、ほとんど返事さえしないのです。

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しかもマッグの言葉にはほとんど返事さえしないのです。

「あなたはトック君の死をどう思いますか?」

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「あなたはトック君の死をどう思いますか?」

「さあ、立って、……僕もまた、いつ死ぬかわかりません。……俗世を隔てる谷へ。……」

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「いざ、立ちて、……僕もまたいつ死ぬかわかりません。……娑婆界しゃばかいを隔つる谷へ。……」

「しかしあなたはトック君とは、やはり親友の一人だったのでしょう?」

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「しかしあなたはトック君とはやはり親友のひとりだったのでしょう?」

「親友? トックはいつも孤独だったのです。……俗世を隔てる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩々は険しく……」

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「親友? トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩むらはこごしく……」

「不幸にも?」

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「不幸にも?」

「山の水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩々は険しく。……」

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「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」

僕はいまだに泣き声をやめない雌の河童に同情しましたから、そっと肩を抱えるようにし、部屋の隅の長椅子へ連れていきました。

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僕はいまだに泣き声を絶たないめす河童かっぱに同情しましたから、そっと肩をかかえるようにし、部屋へやすみ長椅子ながいすへつれていきました。

そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑っているのです。

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そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑っているのです。

僕は雌の河童の代わりに、子どもの河童をあやしてやりました。

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僕は雌の河童の代わりに子どもの河童をあやしてやりました。

するといつのまにか、僕の目にも涙がたまるのを感じました。

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するといつか僕の目にも涙のたまるのを感じました。

僕が河童の国に住んでいるうちに涙というものをこぼしたのは、前にも後にもこの時だけです。

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僕が河童の国に住んでいるうちに涙というものをこぼしたのは前にもあとにもこの時だけです。

「しかしこういうわがままな河童といっしょになった家族は気の毒ですね。」

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「しかしこういうわがままの河童といっしょになった家族は気の毒ですね。」

「なにしろ後のことも考えないのですから。」

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「なにしろあとのことも考えないのですから。」

裁判官のペップは相変わらず新しい紙巻きたばこに火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしていました。

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裁判官のペップは相変わらず、新しい巻煙草まきたばこに火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしていました。

すると僕らを驚かせたのは、音楽家のクラバックの大声です。

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すると僕らを驚かせたのは音楽家のクラバックのおお声です。

クラバックは詩の原稿を握ったまま、誰にともなく呼びかけました。

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クラバックは詩稿を握ったまま、だれにともなしに呼びかけました。

「しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。」

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「しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。」

クラバックは細い目を輝かせたまま、ちょっとマッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。

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クラバックは細い目をかがやかせたまま、ちょっとマッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。

もちろんもうこの時には、隣近所の河童が大勢トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。

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もちろんもうこの時には隣近所の河童が大勢、トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。

しかしクラバックはこの河童たちをしゃにむに左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。

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しかしクラバックはこの河童たちを遮二無二しゃにむに左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。

同時にまた自動車は爆音を立て、たちまちどこかへ行ってしまいました。

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同時にまた自動車は爆音を立ててたちまちどこかへ行ってしまいました。

「こら、こら、そうのぞいてはいかん。」

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「こら、こら、そうのぞいてはいかん。」

裁判官のペップは巡査の代わりに大勢の河童を押し出した後、トックの家の戸を閉めてしまいました。

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裁判官のペップは巡査の代わりに大勢の河童かっぱを押し出したのち、トックの家の戸をしめてしまいました。

部屋の中はそのせいか、急にひっそりとしたものです。

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部屋へやの中はそのせいか急にひっそりなったものです。

僕らはこういう静けさの中で――高山植物の花の香りに混じったトックの血の匂いの中で、後始末のことなどを相談しました。

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僕らはこういう静かさの中に――高山植物の花の香に交じったトックの血のにおいの中に後始末あとしまつのことなどを相談しました。

しかしあの哲学者のマッグだけは、トックの死体を眺めたまま、ぼんやり何か考えています。

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しかしあの哲学者のマッグだけはトックの死骸しがいをながめたまま、ぼんやり何か考えています。

僕はマッグの肩をたたき、「何を考えているのです?」

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僕はマッグの肩をたたき、「何を考えているのです?」

と尋ねました。

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と尋ねました。

「河童の生活というものをね。」

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「河童の生活というものをね。」

「河童の生活がどうなるのです?」

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「河童の生活がどうなるのです?」

「我々河童は何と言っても、河童の生活をまっとうするためには、……」

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「我々河童はなんと言っても、河童の生活をまっとうするためには、……」

マッグは多少恥ずかしそうに、こう小声でつけ加えました。

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マッグは多少はずかしそうにこう小声でつけ加えました。

「とにかく我々河童以外の何ものかの力を信じることですね。」

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「とにかく我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね。」

一四

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一四

僕に宗教というものを思い出させたのは、こういうマッグの言葉です。

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僕に宗教というものを思い出させたのはこういうマッグの言葉です。

僕はもちろん物質主義者ですから、真面目に宗教を考えたことは一度もなかったに違いありません。

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僕はもちろん物質主義者ですから、真面目まじめに宗教を考えたことは一度もなかったのに違いありません。

が、この時はトックの死にある感動を受けていたために、いったい河童の宗教は何なのかと考え出したのです。

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が、この時はトックの死にある感動を受けていたためにいったい河童の宗教はなんであるかと考え出したのです。

僕はさっそく、学生のラップにこの問題を尋ねてみました。

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僕はさっそく学生のラップにこの問題を尋ねてみました。

「それはキリスト教、仏教、イスラム教、拝火教なども行われています。まず一番勢力のあるものは、何といっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」

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「それは基督教キリストきょう、仏教、モハメット教、拝火教はいかきょうなども行なわれています。まず一番勢力のあるものはなんといっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」

(「生活教」

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(「生活教」

という訳語は当たっていないかもしれません。

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という訳語は当たっていないかもしれません。

この原語は Quemoocha です。

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この原語は Quemoocha です。

cha は英語の ism という意味に当たるでしょう。

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cha は英吉利イギリス語の ism という意味に当たるでしょう。

quemoo の原形 quemal の訳は、単に「生きる」

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quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」

というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交わったり」

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というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合こうごうを行なったり」

する意味です。)

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する意味です。)

「じゃあ、この国にも教会や寺院はあるわけだね?」

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「じゃこの国にも教会だの寺院だのはあるわけなのだね?」

「冗談を言ってはいけません。近代教の大寺院などは、この国第一の大建築ですよ。どうです、ちょっと見物に行っては?」

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常談じょうだんを言ってはいけません。近代教の大寺院などはこの国第一の大建築ですよ。どうです、ちょっと見物に行っては?」

ある生暖かい曇りの午後、ラップは得意げに僕といっしょに、この大寺院へ出かけました。

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ある生温なまあたたかい曇天の午後、ラップは得々とくとくと僕といっしょにこの大寺院へ出かけました。

なるほどそれは、ニコライ堂の十倍もある大建築です。

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なるほどそれはニコライ堂の十倍もある大建築です。

それどころか、あらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。

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のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。

僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や丸屋根を眺めた時、なにか不気味にさえ感じました。

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僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔やまる屋根をながめた時、なにか無気味にさえ感じました。

実際それらは、天に向かって伸びた無数の触手のように見えたものです。

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実際それらは天に向かって伸びた無数の触手しょくしゅのように見えたものです。

僕らは玄関の前にたたずんだまま、(そのまた玄関に比べてみても、どのくらい僕らは小さかったのでしょう!)

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僕らは玄関の前にたたずんだまま、(そのまた玄関に比べてみても、どのくらい僕らは小さかったのでしょう!)

しばらくこの、建築というよりむしろ途方もない怪物に近い、たぐいまれな大寺院を見上げていました。

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しばらくこの建築よりもむしろ途方もない怪物に近い稀代きだいの大寺院を見上げていました。

大寺院の内部もまた広大です。

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大寺院の内部もまた広大です。

そのコリント風の円柱が立った中には、参拝人が何人も歩いていました。

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そのコリント風の円柱の立った中には参詣さんけい人が何人も歩いていました。

しかしそれらは、僕らのように非常に小さく見えたものです。

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しかしそれらは僕らのように非常に小さく見えたものです。

そのうちに僕らは、腰の曲がった一匹の河童に出会いました。

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そのうちに僕らは腰の曲がった一匹の河童かっぱに出合いました。

するとラップはこの河童にちょっと頭を下げた上、丁寧にこう話しかけました。

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するとラップはこの河童にちょっと頭を下げた上、丁寧ていねいにこう話しかけました。

「長老、お元気そうで何よりです。」

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「長老、達者なのは何よりもです。」

相手の河童もお辞儀をした後、やはり丁寧に返事をしました。

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相手の河童もお時宜じぎをしたのち、やはり丁寧に返事をしました。

「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、――(と言いかけながら、ちょっと言葉を継がなかったのは、ラップのくちばしが腐っているのにやっと気がついたためだったでしょう。)――ああ、とにかくお丈夫そうですね。が、今日はどうしてまた……」

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「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、――(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかったのはラップのくちばしの腐っているのにやっと気がついたためだったでしょう。)――ああ、とにかく御丈夫らしいようですね。が、きょうはどうしてまた……」

「今日はこの方のお供をしてきたのです。この方はたぶんご存じのとおり、――」

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「きょうはこのかたのお伴をしてきたのです。この方はたぶん御承知のとおり、――」

それからラップは、とうとうと僕のことを話しました。

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それからラップは滔々とうとうと僕のことを話しました。

どうもまたそれは、この大寺院へラップがめったに来ないことの弁解にもなっていたらしいのです。

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どうもまたそれはこの大寺院へラップがめったに来ないことの弁解にもなっていたらしいのです。

「ついては、どうかこの方のご案内をお願いしたいと思うのですが。」

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「ついてはどうかこの方の御案内を願いたいと思うのですが。」

長老はおおらかに微笑しながら、まず僕に挨拶をし、静かに正面の祭壇を指さしました。

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長老は大様おおように微笑しながら、まず僕に挨拶あいさつをし、静かに正面しょうめんの祭壇を指さしました。

「ご案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒が礼拝するのは、正面の祭壇にある『生命の樹』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑の実がなっています。あの金の実を『善の実』と言い、あの緑の実を『悪の実』と言います。……」

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「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の礼拝らいはいするのは正面の祭壇にある『生命の』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑とのがなっています。あの金の果を『善の果』と言い、あの緑の果を『悪の果』と言います。……」

僕はこういう説明のうちに、もう退屈を感じ出しました。

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僕はこういう説明のうちにもう退屈を感じ出しました。

それはせっかくの長老の言葉も、古い例え話のように聞こえたからです。

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それはせっかくの長老の言葉も古い比喩ひゆのように聞こえたからです。

僕はもちろん、熱心に聞いている様子を装っていました。

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僕はもちろん熱心に聞いている容子ようすを装っていました。

が、時々は大寺院の内部へそっと目をやるのを忘れずにいました。

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が、時々は大寺院の内部へそっと目をやるのを忘れずにいました。

コリント風の柱、ゴシック風の丸天井、アラビアじみた市松模様の床、セセッションまがいの祈祷机――こういうものが作っている調和は、妙に野蛮な美を備えていました。

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コリント風の柱、ゴシック風の穹窿きゅうりゅう、アラビアじみた市松いちまつ模様のゆか、セセッションまがいの祈祷机きとうづくえ、――こういうものの作っている調和は妙に野蛮な美をそなえていました。

しかし僕の目をひいたのは、何よりも両側の厨子の中にある大理石の胸像です。

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しかし僕の目をひいたのは何よりも両側のがんの中にある大理石の半身像です。

僕は、なにかそれらの像を見知っているように思いました。

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僕は何かそれらの像を見知っているように思いました。

それもまた不思議ではありません。

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それもまた不思議ではありません。

あの腰の曲がった河童は「生命の樹」

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あの腰の曲った河童かっぱは「生命の樹」

の説明を終えると、今度は僕やラップといっしょに右側の厨子の前へ歩み寄り、その厨子の中の胸像にこういう説明を加え出しました。

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の説明をおわると、今度は僕やラップといっしょに右側の龕の前へ歩み寄り、その龕の中の半身像にこういう説明を加え出しました。

「これは我々の聖徒の一人――あらゆるものに反逆した聖徒ストリンドベリです。この聖徒はさんざん苦しんだあげく、スウェーデンボルグの哲学によって救われたように言われています。が、実は救われなかったのです。この聖徒はただ我々のように生活教を信じていました。――というよりも、信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒が我々に残した『伝説』という本を読んでごらんなさい。この聖徒も自殺未遂者だったことは、聖徒自身が告白しています。」

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「これは我々の聖徒のひとり、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだあげく、スウェデンボルグの哲学のために救われたように言われています。が、実は救われなかったのです。この聖徒はただ我々のように生活教を信じていました。――というよりも信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒の我々に残した『伝説』という本を読んでごらんなさい。この聖徒も自殺未遂者だったことは聖徒自身告白しています。」

僕はちょっと憂鬱になり、次の厨子へ目をやりました。

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僕はちょっと憂鬱ゆううつになり、次のがんへ目をやりました。

次の厨子にある胸像は、口髭の太いドイツ人です。

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次の龕にある半身像は口髭くちひげの太い独逸ドイツ人です。

「これはツァラトゥストラの詩人ニーチェです。この聖徒は聖徒自身が作った超人に救いを求めました。が、やはり救われずに、気が狂ってしまったのです。もし気が狂わなかったとすれば、あるいは聖徒の数に入ることもできなかったかもしれません。……」

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「これはツァラトストラの詩人ニイチェです。その聖徒は聖徒自身の造った超人に救いを求めました。が、やはり救われずに気違いになってしまったのです。もし気違いにならなかったとすれば、あるいは聖徒のかずへはいることもできなかったかもしれません。……」

長老はちょっと黙った後、第三の厨子の前へ案内しました。

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長老はちょっと黙ったのち、第三のがんの前へ案内しました。

「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒は誰よりも苦行をしました。それはもともと貴族だったために、好奇心の強い公衆に苦しみを見せることを嫌ったからです。この聖徒は、事実上信じられないキリストを信じようと努力しました。いや、信じているようにさえ公言したこともあったのです。しかしとうとう晩年には、悲壮な嘘つきだったことに耐えられないようになりました。この聖徒も時々書斎の梁に恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数に入っているくらいですから、もちろん自殺したのではありません。」

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「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒はだれよりも苦行をしました。それは元来貴族だったために好奇心の多い公衆に苦しみを見せることをきらったからです。この聖徒は事実上信ぜられない基督キリストを信じようと努力しました。いや、信じているようにさえ公言したこともあったのです。しかしとうとう晩年には悲壮なうそつきだったことにえられないようになりました。この聖徒も時々書斎のはりに恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にはいっているくらいですから、もちろん自殺したのではありません。」

第四の厨子の中の胸像は、我々日本人の一人です。

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第四の龕の中の半身像は我々日本人のひとりです。

僕はこの日本人の顔を見た時、さすがに懐かしさを感じました。

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僕はこの日本人の顔を見た時、さすがになつかしさを感じました。

「これは国木田独歩です。列車にひかれて死ぬ人足の心もちをはっきり知っていた詩人です。しかしそれ以上の説明は、あなたには不必要に違いありません。では五番目の厨子の中をごらんください。――」

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「これは国木田独歩くにきだどっぽです。轢死れきしする人足にんそくの心もちをはっきり知っていた詩人です。しかしそれ以上の説明はあなたには不必要に違いありません。では五番目の龕の中をごらんください。――」

「これはワーグナーではありませんか?」

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「これはワグネルではありませんか?」

「そうです。国王の友だちだった革命家です。聖徒ワーグナーは晩年には食前の祈りさえしていました。しかしもちろん、キリスト教よりも生活教の信徒の一人だったのです。ワーグナーの残した手紙によれば、この世の苦しみが何度この聖徒を死の前へ追いやったかわかりません。」

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「そうです。国王の友だちだった革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の祈祷きとうさえしていました。しかしもちろん基督教よりも生活教の信徒のひとりだったのです。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆苦しゃばくは何度この聖徒を死の前に駆りやったかわかりません。」

僕らはもうその時には、第六の厨子の前に立っていました。

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僕らはもうその時には第六のがんの前に立っていました。

「これは聖徒ストリンドベリの友だちです。子どもの大勢いる妻の代わりに、十三、四のタヒチの女をめとった、商売人上がりのフランスの画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流していました。が、唇をごらんなさい。砒素か何かの跡が残っています。第七の厨子の中にあるのは……もうあなたはお疲れでしょう。ではどうか、こちらへおいでください。」

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「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子どもの大勢ある細君の代わりに十三四のクイティの女をめとった商売人上がりの仏蘭西フランスの画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流していました。が、くちびるをごらんなさい。砒素ひそか何かのあとが残っています。第七の龕の中にあるのは……もうあなたはお疲れでしょう。ではどうかこちらへおいでください。」

僕は実際疲れていましたから、ラップといっしょに長老に従い、香の匂いのする廊下伝いにある部屋へ入りました。

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僕は実際疲れていましたから、ラップといっしょに長老に従い、こうにおいのする廊下伝いにある部屋へやへはいりました。

そのまた小さい部屋の隅には、黒いヴィーナスの像の下に山ぶどうが一房供えてあるのです。

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そのまた小さい部屋のすみには黒いヴェヌスの像の下に山葡萄やまぶどうが一ふさ献じてあるのです。

僕は何の飾りもない僧房を想像していただけに、ちょっと意外に感じました。

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僕はなんの装飾もない僧房を想像していただけにちょっと意外に感じました。

すると長老は僕の様子からこういう気もちを感じ取ったと見え、僕らに椅子を勧める前に、半ば気の毒そうに説明しました。

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すると長老は僕の容子ようすにこういう気もちを感じたとみえ、僕らに椅子いすすすめる前に半ば気の毒そうに説明しました。

「どうか我々の宗教が生活教であることを忘れずにいてください。我々の神――『生命の樹』の教えは『旺盛に生きよ』というのですから。……ラップさん、あなたはこの方に我々の聖書をお見せしましたか?」

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「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずにください。我々の神、――『生命の』の教えは『旺盛おうせいに生きよ』というのですから。……ラップさん、あなたはこのかたに我々の聖書をごらんにいれましたか?」

「いえ、……実はわたし自身も、ほとんど読んだことはないのです。」

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「いえ、……実はわたし自身もほとんど読んだことはないのです。」

ラップは頭の皿をかきながら、正直にこう返事をしました。

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ラップは頭のさらきながら、正直にこう返事をしました。

が、長老は相変わらず静かに微笑して話し続けました。

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が、長老は相変わらず静かに微笑して話しつづけました。

「それではおわかりになりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹』は樹とはいうものの、成し得ないことはないのです。)それどころか雌の河童を造りました。すると雌の河童は退屈のあまり、雄の河童を求めました。我々の神はこの嘆きを憐れみ、雌の河童の脳みそを取って、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交われよ、旺盛に生きよ』という祝福を与えました。……」

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「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の』は樹というものの、成しあたわないことはないのです。)のみならずめす河童かっぱを造りました。すると雌の河童は退屈のあまり、おすの河童を求めました。我々の神はこの嘆きをあわれみ、雌の河童の脳髄のうずいを取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交合せよ、旺盛おうせいに生きよ』という祝福を与えました。……」

僕は長老の言葉のうちに、詩人のトックを思い出しました。

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僕は長老の言葉のうちに詩人のトックを思い出しました。

詩人のトックは不幸にも、僕のように無神論者です。

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詩人のトックは不幸にも僕のように無神論者です。

僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無理はありません。

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僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無理はありません。

けれども河童の国に生まれたトックは、もちろん「生命の樹」

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けれども河童の国に生まれたトックはもちろん「生命の樹」

を知っていたはずです。

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を知っていたはずです。

僕はこの教えに従わなかったトックの最期を憐れみましたから、長老の言葉をさえぎるようにトックのことを話し出しました。

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僕はこの教えに従わなかったトックの最後を憐れみましたから、長老の言葉をさえぎるようにトックのことを話し出しました。

「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」

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「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」

長老は僕の話を聞き、深いため息をもらしました。

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長老は僕の話を聞き、深い息をもらしました。

「我々の運命を定めるものは、信仰と境遇と偶然だけです。(もっともあなたがたは、そのほかに遺伝をお数えになるでしょう。)トックさんは不幸にも、信仰をお持ちにならなかったのです。」

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「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(もっともあなたがたはそのほかに遺伝をお数えなさるでしょう。)トックさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかったのです。」

「トックはあなたをうらやんでいたでしょう。いや、僕もうらやんでいます。ラップ君などは年も若いし、……」

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「トックはあなたをうらやんでいたでしょう。いや、僕もうらやんでいます。ラップ君などは年も若いし、……」

「僕もくちばしさえちゃんとしていれば、あるいは楽天的だったかもしれません。」

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「僕もくちばしさえちゃんとしていればあるいは楽天的だったかもしれません。」

長老は僕らにこう言われると、もう一度深いため息をもらしました。

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長老は僕らにこう言われると、もう一度深い息をもらしました。

しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴィーナスを見つめているのです。

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しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴェヌスを見つめているのです。

「わたしも実は――これはわたしの秘密ですから、どうか誰にもおっしゃらずにいてください。――わたしも実は、我々の神を信じるわけにはいかないのです。しかしいつかわたしの祈りは、――」

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「わたしも実は、――これはわたしの秘密ですから、どうかだれにもおっしゃらずにください。――わたしも実は我々の神を信ずるわけにいかないのです。しかしいつかわたしの祈祷きとうは、――」

ちょうど長老がこう言った時です。

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ちょうど長老のこう言った時です。

突然部屋の戸が開いたと思うと、大きい雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。

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突然部屋へやの戸があいたと思うと、大きい雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。

僕らがこの雌の河童を抱きとめようとしたのはもちろんです。

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僕らがこの雌の河童を抱きとめようとしたのはもちろんです。

が、雌の河童はとっさのうちに、床の上へ長老を投げ倒しました。

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が、雌の河童はとっさのあいだゆかの上へ長老を投げ倒しました。

「この親父め! 今日もまたわたしの財布から、一杯やる金を盗んでいったな!」

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「このおやじめ! きょうもまたわたしの財布さいふから一杯やるかねを盗んでいったな!」

十分ばかりたった後、僕らは実際逃げ出さんばかりに長老夫婦を後に残し、大寺院の玄関を下りていきました。

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十分ばかりたったのち、僕らは実際逃げ出さないばかりに長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関をりていきました。

「あれではあの長老も、『生命の樹』を信じないはずですね。」

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「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」

しばらく黙って歩いた後、ラップは僕にこう言いました。

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しばらく黙って歩いた後、ラップは僕にこう言いました。

が、僕は返事をするよりも、思わず大寺院を振り返りました。

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が、僕は返事をするよりも思わず大寺院を振り返りました。

大寺院はどんより曇った空に、やはり高い塔や丸屋根を無数の触手のように伸ばしています。

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大寺院はどんより曇った空にやはり高い塔や円屋根まるやねを無数の触手のように伸ばしています。

なにか砂漠の空に見える蜃気楼の不気味さを漂わせたまま。……

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なにか沙漠さばくの空に見える蜃気楼しんきろうの無気味さを漂わせたまま。……

一五

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一五

それからかれこれ一週間後、僕はふと医者のチャックに珍しい話を聞きました。

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それからかれこれ一週間の後、僕はふと医者のチャックに珍しい話を聞きました。

というのは、あのトックの家に幽霊が出るという話なのです。

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というのはあのトックのうちに幽霊の出るという話なのです。

そのころにはもう雌の河童はどこかよそへ行ってしまい、僕らの友だちの詩人の家も、写真師のスタジオに変わっていました。

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そのころにはもうめす河童かっぱはどこかほかへ行ってしまい、僕らの友だちの詩人の家も写真師のステュディオに変わっていました。

なんでもチャックの話によれば、このスタジオでは写真をとると、トックの姿もいつの間にか必ずぼんやりと客の後ろに映っているとかいうことです。

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なんでもチャックの話によれば、このステュディオでは写真をとると、トックの姿もいつのにか必ず朦朧もうろうと客の後ろに映っているとかいうことです。

もっともチャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。

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もっともチャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。

現にその話をした時にも、悪意のある微笑を浮かべながら、「やはり霊魂というものも物質的存在と見えますね」

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現にその話をした時にも悪意のある微笑を浮かべながら、「やはり霊魂というものも物質的存在とみえますね」

などと、註釈めいたことをつけ加えていました。

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などと註釈めいたことをつけ加えていました。

僕も幽霊を信じない点では、チャックとあまり変わりません。

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僕も幽霊を信じないことはチャックとあまり変わりません。

けれども詩人のトックには親しみを感じていましたから、さっそく本屋の店へ駆けつけ、トックの幽霊に関する記事やトックの幽霊の写真が出ている新聞や雑誌を買ってきました。

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けれども詩人のトックには親しみを感じていましたから、さっそく本屋の店へ駆けつけ、トックの幽霊に関する記事やトックの幽霊の写真の出ている新聞や雑誌を買ってきました。

なるほどそれらの写真を見ると、どこかトックらしい河童が一匹、老若男女の河童の後ろにぼんやりと姿を現していました。

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なるほどそれらの写真を見ると、どこかトックらしい河童が一匹、老若男女ろうにゃくなんにょの河童の後ろにぼんやりと姿を現わしていました。

しかし僕を驚かせたのは、トックの幽霊の写真よりもトックの幽霊に関する記事――ことにトックの幽霊に関する心霊学協会の報告です。

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しかし僕を驚かせたのはトックの幽霊の写真よりもトックの幽霊に関する記事、――ことにトックの幽霊に関する心霊学協会の報告です。

僕はかなり逐語的にその報告を訳しておきましたから、以下に大略を掲げることにしましょう。

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僕はかなり逐語的にその報告を訳しておきましたから、しもに大略を掲げることにしましょう。

ただし括弧の中にあるのは、僕自身が加えた註釈です。――

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ただし括弧かっこの中にあるのは僕自身の加えた註釈なのです。――

詩人トック君の幽霊に関する報告。

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詩人トック君の幽霊に関する報告。

(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)

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(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)

わが心霊学協会は、先般自殺した詩人トック君の旧居であり現在は××写真師のスタジオである□□街第二百五十一号において、臨時調査会を開催した。

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わが心霊学協会は先般自殺したる詩人トック君の旧居にして現在は××写真師のステュディオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を開催せり。

出席した会員は以下のとおりである。

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列席せる会員はしものごとし。

(氏名は省略する。)

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(氏名を略す。)

我ら十七名の会員は、心霊協会会長ペック氏とともに九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼する霊媒ホップ夫人を同伴し、当該スタジオの一室に集まった。

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我ら十七名の会員は心霊協会会長ペック氏とともに九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼するメディアム、ホップ夫人を同伴し、がいステュディオの一室に参集せり。

ホップ夫人は当該スタジオに入るや、すでに心霊的空気を感じ、全身に痙攣を起こしながら、数回にわたって嘔吐した。

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ホップ夫人は該ステュディオにはいるや、すでに心霊的空気を感じ、全身に痙攣けいれんを催しつつ、嘔吐おうとすること数回に及べり。

夫人の語るところによれば、これは詩人トック君が強烈なたばこを愛した結果、その心霊的空気にもニコチンが含まれているためだという。

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夫人の語るところによれば、こは詩人トック君の強烈なる煙草たばこを愛したる結果、その心霊的空気もまたニコティンを含有するためなりという。

我ら会員はホップ夫人とともに、円卓を囲んで黙って座った。

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我ら会員はホップ夫人とともに円卓をめぐりて黙坐もくざしたり。

夫人は三分二十五秒の後、きわめて急激な夢遊状態に陥り、かつ詩人トック君の心霊に憑依されるに至った。

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夫人は三分二十五秒ののち、きわめて急劇なる夢遊状態に陥り、かつ詩人トック君の心霊の憑依ひょういするところとなれり。

我ら会員は年齢順に従い、夫人に憑依したトック君の心霊と、次のような問答を開始した。

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我ら会員は年齢順に従い、夫人に憑依せるトック君の心霊と左のごとき問答を開始したり。

問 君は何ゆえに幽霊となって出るのか?

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問 君は何ゆえに幽霊にずるか?

答 死後の名声を知るためである。

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答 死後の名声を知らんがためなり。

問 君――あるいは心霊の諸君は、死後もなお名声を欲するのか?

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問 君――あるいは心霊諸君は死後もなお名声を欲するや?

答 少なくとも私は欲せずにはいられない。

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答 少なくともは欲せざるあたわず。

しかし私が出会った日本のある詩人などは、死後の名声を軽蔑していた。

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しかれども予の邂逅かいこうしたる日本の一詩人のごときは死後の名声を軽蔑けいべつしいたり。

問 君はその詩人の姓名を知っているか?

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問 君はその詩人の姓名を知れりや?

答 私は不幸にも忘れてしまった。

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答 予は不幸にも忘れたり。

ただ彼が好んで作った十七字詩の一章を記憶しているだけである。

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ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。

問 その詩はどのようなものか?

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問 その詩は如何いかん

答「古池や蛙飛びこむ水の音」

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答「古池やかわず飛びこむ水の音」

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問 君はその詩を佳作とみなすか?

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問 君はその詩を佳作なりとなすや?

答 私は必ずしも駄作とはみなさない。

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答 は必ずしも悪作なりとなさず。

ただ「蛙」

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ただ「かわず

を「河童」

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を「河童かっぱ

としたなら、さらにきらびやかになるだろう。

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とせんか、さらに光彩陸離こうさいりくりたるべし。

問 ではその理由は何か?

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問 しからばその理由は如何いかん

答 我ら河童は、いかなる芸術にも河童を求める気持ちが切実だからである。

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答 我ら河童はいかなる芸術にも河童を求むること痛切なればなり。

会長ペック氏はこの時、我ら十七名の会員に、これは心霊学協会の臨時調査会であって合評会ではないと注意した。

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会長ペック氏はこの時にあたり、我ら十七名の会員にこは心霊学協会の臨時調査会にして合評会がっぴょうかいにあらざるを注意したり。

問 心霊の諸君の生活はどのようなものか?

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問 心霊諸君の生活は如何?

答 諸君の生活と変わることはない。

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答 諸君の生活と異なることなし。

問 では君は、君自身が自殺したことを後悔しているか?

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問 しからば君は君自身の自殺せしを後悔するや?

答 必ずしも後悔していない。

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答 必ずしも後悔せず。

私は心霊的生活に飽きたなら、さらにピストルを取って自活するだろう。

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予は心霊的生活にまば、さらにピストルを取りて自活すべし。

問 自活するのは容易かどうか?

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問 自活するは容易なりや否や?

トック君の心霊は、この問いに答える代わりにさらに問いを返した。

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トック君の心霊はこの問に答うるにさらに問をもってしたり。

これはトック君を知る者にはきわめて自然な応酬であろう。

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こはトック君を知れるものにはすこぶる自然なる応酬おうしゅうなるべし。

答 自殺するのは容易かどうか?

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答 自殺するは容易なりや否や?

問 諸君の生命は永遠か?

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問 諸君の生命は永遠なりや?

答 我らの生命に関しては諸説紛々として、信じるに足りない。

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答 我らの生命に関しては諸説紛々ふんぷんとして信ずべからず。

幸いに我らの間にも、キリスト教、仏教、イスラム教、拝火教などの諸宗派があることを忘れてはならない。

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幸いに我らの間にも基督教キリストきょう、仏教、モハメット教、拝火教はいかきょう等の諸宗あることを忘るるなかれ。

問 君自身の信じるところは?

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問 君自身の信ずるところは?

答 私は常に懐疑主義者である。

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答 予は常に懐疑主義者なり。

問 しかし君は、少なくとも心霊の存在は疑わないだろう?

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問 しかれども君は少なくとも心霊の存在を疑わざるべし?

答 諸君のように確信することはできない。

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答 諸君のごとく確信するあたわず。

問 君の交友の多さはどれほどか?

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問 君の交友の多少は如何?

答 私の交友は古今東西にわたり、三百人を下らないだろう。

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答 予の交友は古今東西にわたり、三百人を下らざるべし。

その著名な者を挙げれば、クライスト、マインレンダー、ワイニンガー……

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その著名なるものをあぐれば、クライスト、マインレンデル、ワイニンゲル……

問 君の交友は自殺者だけか?

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問 君の交友は自殺者のみなりや?

答 必ずしもそうとは限らない。

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答 必ずしもしかりとせず。

自殺を弁護したモンテーニュなどは、私の敬愛する友の一人である。

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自殺を弁護せるモンテェニュのごときは予が畏友いゆう一人いちにんなり。

ただ私は、自殺しなかった厭世主義者――ショーペンハウアーの類とはつきあわない。

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ただ予は自殺せざりし厭世えんせい主義者、――ショオペンハウエルのはいとは交際せず。

問 ショーペンハウアーは元気か?

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問 ショオペンハウエルは健在なりや?

答 彼は目下、心霊的厭世主義を打ち立て、自活する是非を論じているところである。

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答 彼は目下もっか心霊的厭世主義を樹立し、自活する可否を論じつつあり。

しかしコレラも細菌による病気だったことを知り、すこぶる安心しているようである。

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しかれどもコレラも黴菌病ばいきんびょうなりしを知り、すこぶる安堵あんどせるもののごとし。

我ら会員は次々に、ナポレオン、孔子、ドストエフスキー、ダーウィン、クレオパトラ、釈迦、デモステネス、ダンテ、千利休などの心霊の消息を質問した。

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我ら会員は相次いでナポレオン、孔子こうし、ドストエフスキイ、ダアウィン、クレオパトラ、釈迦しゃか、デモステネス、ダンテ、せん利休りきゅう等の心霊の消息を質問したり。

しかしトック君は不幸にも詳細に答えることをせず、かえってトック君自身に関するさまざまなゴシップを質問してきた。

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しかれどもトック君は不幸にも詳細に答うることをなさず、かえってトック君自身に関する種々のゴシップを質問したり。

問 私の死後の名声はどうなっているか?

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問 の死後の名声は如何いかん

答 ある批評家は「群小詩人の一人」

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答 ある批評家は「群小詩人のひとり」

と言っている。

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と言えり。

問 彼は私が詩集を贈らなかったことを恨んでいる一人だろう。

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問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨えんこんを含めるひとりなるべし。

私の全集は出版されたか?

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予の全集は出版せられしや?

答 君の全集は出版されたが、売れ行きははなはだ振るわないようである。

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答 君の全集は出版せられたれども、売行きはなはだ振わざるがごとし。

問 私の全集は三百年後――つまり著作権が消滅した後には、万人が買い求めるものになるだろう。

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問 予の全集は三百年ののち、――すなわち著作権の失われたる後、万人ばんにんあがなうところとなるべし。

私が同棲していた女友だちはどうしているか?

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予の同棲どうせいせる女友だちは如何?

答 彼女は書店主のラック君の夫人となっている。

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答 彼女は書肆しょしラック君の夫人となれり。

問 彼女はまだ不幸にも、ラックが義眼であることを知らないのだろう。

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問 彼女はいまだ不幸にもラックの義眼なるを知らざるなるべし。

私の子はどうしているか?

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予が子は如何?

答 国立孤児院にいると聞いている。

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答 国立孤児院にありと聞けり。

トック君はしばらく沈黙した後、新たに質問を開始した。

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トック君はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。

問 私の家はどうなっているか?

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問 予が家は如何?

答 某写真師のスタジオになっている。

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答 某写真師のステュディオとなれり。

問 私の机はどうなったか?

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問 予の机はいかになれるか?

答 どうなったかを知る者はいない。

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答 いかなれるかを知るものなし。

問 私は私の机の引き出しに、私が秘蔵していた一束の手紙を――しかしこれは幸いにも、多忙な諸君の関わるところではない。

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問 予は予の机の抽斗ひきだしに予の秘蔵せる一束ひとたばの手紙を――しかれどもこは幸いにも多忙なる諸君の関するところにあらず。

今やわが心霊界は、しだいに夕闇に沈もうとしている。

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今やわが心霊界はおもむろに薄暮に沈まんとす。

私は諸君と別れなければならない。

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予は諸君と訣別けつべつすべし。

さらば。

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さらば。

諸君。

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諸君。

さらば。

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さらば。

わが善良なる諸君。

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わが善良なる諸君。

ホップ夫人は最後の言葉とともに、再び急激に目を覚ました。

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ホップ夫人は最後の言葉とともにふたたび急劇に覚醒かくせいしたり。

我ら十七名の会員は、この問答が真実であったことを天上の神に誓って保証する。

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我ら十七名の会員はこの問答の真なりしことを上天の神に誓って保証せんとす。

(なおまた、我らが信頼するホップ夫人への報酬は、かつて夫人が女優だった時の日当に従って支払った。)

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(なおまた我らの信頼するホップ夫人に対する報酬ほうしゅうはかつて夫人が女優たりし時の日当にっとうに従いて支弁したり。)

一六

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一六

僕はこういう記事を読んだ後、だんだんこの国にいることも憂鬱になってきましたから、どうにかして我々人間の国へ帰ることにしたいと思いました。

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僕はこういう記事を読んだのち、だんだんこの国にいることも憂鬱ゆううつになってきましたから、どうか我々人間の国へ帰ることにしたいと思いました。

しかしいくら探して歩いても、僕の落ちた穴は見つかりません。

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しかしいくらさがして歩いても、僕の落ちた穴は見つかりません。

そのうちにあのバッグという漁師の河童の話では、なんでもこの国の街はずれに年をとった河童が一匹、本を読んだり笛を吹いたりして静かに暮らしているということです。

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そのうちにあのバッグという漁夫りょうしの河童の話には、なんでもこの国のまちはずれにある年をとった河童が一匹、本を読んだり、ふえを吹いたり、静かに暮らしているということです。

僕はこの河童に尋ねてみれば、あるいはこの国を逃げ出す道もわかりはしないかと思いましたから、さっそく街はずれへ出かけていきました。

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僕はこの河童に尋ねてみれば、あるいはこの国を逃げ出すみちもわかりはしないかと思いましたから、さっそく街はずれへ出かけてゆきました。

しかしそこへ行ってみると、いかにも小さい家の中に、年をとった河童どころか、頭の皿も固まっていない、やっと十二、三の河童が一匹、悠々と笛を吹いていました。

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しかしそこへ行ってみると、いかにも小さい家の中に年をとった河童どころか、頭の皿も固まらない、やっと十二三の河童が一匹、悠々ゆうゆうと笛を吹いていました。

僕はもちろん、間違った家へ入ったのではないかと思いました。

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僕はもちろん間違まちがった家へはいったではないかと思いました。

が、念のために名を聞いてみると、やはりバッグの教えてくれた年寄りの河童に違いないのです。

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が、念のために名をきいてみると、やはりバッグの教えてくれた年よりの河童に違いないのです。

「しかしあなたは子どものようですが……」

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「しかしあなたは子どものようですが……」

「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には白髪頭をしていたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子どもになったのだよ。けれども年を数えれば、生まれる前を六十としても、かれこれ百十五、六にはなるかもしれない。」

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「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には白髪頭しらがあたまをしていたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子どもになったのだよ。けれども年を勘定すれば生まれる前を六十としても、かれこれ百十五六にはなるかもしれない。」

僕は部屋の中を見まわしました。

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僕は部屋へやの中を見まわしました。

そこには僕の気のせいか、質素な椅子やテーブルの間に、何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。

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そこには僕の気のせいか、質素な椅子いすやテエブルの間に何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。

「あなたはどうも、ほかの河童よりも幸せに暮らしているようですね?」

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「あなたはどうもほかの河童よりもしあわせに暮らしているようですね?」

「さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年寄りだったし、年をとった時は若い者になっている。したがって年寄りのように欲にも渇かず、若い者のように色にもおぼれない。とにかくわたしの生涯は、たとえ幸せではないにしても、安らかだったのには違いあるまい。」

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「さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年よりだったし、年をとった時は若いものになっている。従って年よりのように欲にもかわかず、若いもののように色にもおぼれない。とにかくわたしの生涯はたといしあわせではないにもしろ、安らかだったのには違いあるまい。」

「なるほど、それでは安らかでしょう。」

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「なるほどそれでは安らかでしょう。」

「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは体も丈夫だったし、一生食うに困らないくらいの財産を持っていたのだよ。しかし一番幸せだったのは、やはり生まれてきた時に年寄りだったことだと思っている。」

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「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしはからだ丈夫じょうぶだったし、一生食うに困らぬくらいの財産を持っていたのだよ。しかし一番しあわせだったのはやはり生まれてきた時に年よりだったことだと思っている。」

僕はしばらくこの河童と、自殺したトックの話や、毎日医者に診てもらっているゲエルの話などをしていました。

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僕はしばらくこの河童かっぱと自殺したトックの話だの毎日医者に見てもらっているゲエルの話だのをしていました。

が、なぜか年をとった河童は、あまり僕の話などに興味のないような顔をしていました。

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が、なぜか年をとった河童はあまり僕の話などに興味のないような顔をしていました。

「ではあなたは、ほかの河童のように格別生きていることへの執着を持ってはいないのですね?」

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「ではあなたはほかの河童のように格別生きていることに執着しゅうじゃくを持ってはいないのですね?」

年をとった河童は僕の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。

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年をとった河童は僕の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。

「わたしもほかの河童のように、この国へ生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」

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「わたしもほかの河童のようにこの国へ生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」

「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまったのです。どうか僕に、この国から出ていける道を教えてください。」

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「しかし僕はふとした拍子に、この国へころげ落ちてしまったのです。どうか僕にこの国から出ていかれるみちを教えてください。」

「出ていける道は一つしかない。」

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「出ていかれる路は一つしかない。」

「というのは?」

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「というのは?」

「それはお前さんがここへ来た道だ。」

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「それはお前さんのここへ来た路だ。」

僕はこの答えを聞いた時、なぜか身の毛がよだちました。

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僕はこの答えを聞いた時になぜか身の毛がよだちました。

「その道があいにく見つからないのです。」

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「その路があいにく見つからないのです。」

年をとった河童はみずみずしい目で、じっと僕の顔を見つめました。

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年をとった河童は水々しい目にじっと僕の顔を見つめました。

それからやっと体を起こし、部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下がっていた一本の綱を引きました。

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それからやっとからだを起こし、部屋へやすみへ歩み寄ると、天井からそこに下がっていた一本のつなを引きました。

すると今まで気のつかなかった天窓が一つ開きました。

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すると今まで気のつかなかった天窓が一つ開きました。

そのまた丸い天窓の外には、松やヒノキが枝を張った向こうに、大空が青々と晴れ渡っています。

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そのまたまるい天窓の外には松やひのきが枝を張った向こうに大空が青あおと晴れ渡っています。

いや、大きい矢尻に似た槍ヶ岳の峰もそびえています。

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いや、大きいやじりに似たやりたけの峯もそびえています。

僕は飛行機を見た子どものように、実際飛び上がって喜びました。

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僕は飛行機を見た子どものように実際飛び上がって喜びました。

「さあ、あそこから出ていくがいい。」

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「さあ、あすこから出ていくがいい。」

年をとった河童はこう言いながら、さっきの綱を指さしました。

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年をとった河童はこう言いながら、さっきの綱を指さしました。

今まで僕が綱だと思っていたのは、実は縄ばしごにできていたのです。

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今まで僕の綱と思っていたのは実は綱梯子つなばしごにできていたのです。

「ではあそこから出させてもらいます。」

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「ではあすこから出さしてもらいます。」

「ただわたしは前もって言っておくがね。出ていって後悔しないように。」

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「ただわたしは前もって言うがね。出ていって後悔しないように。」

「大丈夫です。僕は後悔などしません。」

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大丈夫だいじょうぶです。僕は後悔などはしません。」

僕はこう返事をするが早いか、もう縄ばしごをよじ登っていました。

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僕はこう返事をするが早いか、もう綱梯子をよじ登っていました。

年をとった河童の頭の皿を、はるか下に眺めながら。

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年をとった河童の頭の皿をはるか下にながめながら。

一七

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一七

僕は河童の国から帰ってきた後、しばらくは我々人間の皮膚の匂いに閉口しました。

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僕は河童かっぱの国から帰ってきたのち、しばらくは我々人間の皮膚のにおいに閉口しました。

我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。

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我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。

それどころか我々人間の頭は、河童ばかり見ていた僕には、いかにも気味の悪いものに見えました。

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のみならず我々人間の頭は河童ばかり見ていた僕にはいかにも気味の悪いものに見えました。

これはあるいは、あなたにはおわかりにならないかもしれません。

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これはあるいはあなたにはおわかりにならないかもしれません。

しかし目や口はともかく、この鼻というものは妙に恐ろしい気を起こさせるものです。

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しかし目や口はともかくも、この鼻というものは妙に恐ろしい気を起こさせるものです。

僕はもちろんできるだけ、誰にも会わない工夫をしました。

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僕はもちろんできるだけ、だれにも会わない算段をしました。

が、我々人間にもいつのまにか次第に慣れてきたと見え、半年ばかりたつうちに、どこへでも出るようになりました。

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が、我々人間にもいつか次第に慣れ出したとみえ、半年ばかりたつうちにどこへでも出るようになりました。

ただそれでも困ったことは、何か話をしているうちに、うっかり河童の国の言葉を口に出してしまうことです。

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ただそれでも困ったことは何か話をしているうちにうっかり河童の国の言葉を口に出してしまうことです。

「君は明日は家にいるかね?」

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「君はあしたはうちにいるかね?」

「Qua」

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「Qua」

「何だって?」

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「なんだって?」

「いや、いるということだよ。」

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「いや、いるということだよ。」

だいたいこういう調子だったものです。

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だいたいこういう調子だったものです。

しかし河童の国から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、僕はある事業に失敗したために……(S博士は彼がこう言った時、「その話はおよしなさい」

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しかし河童の国から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、僕はある事業の失敗したために……(S博士はかせは彼がこう言った時、「その話はおよしなさい」

と注意をした。

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と注意をした。

なんでも博士の話によれば、彼はこの話をするたびに、看護人の手にも負えないくらい乱暴になるとかいうことである。)

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なんでも博士の話によれば、彼はこの話をするたびに看護人の手にもおえないくらい、乱暴になるとかいうことである。)

ではその話はやめましょう。

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ではその話はやめましょう。

しかしある事業に失敗したために、僕はまた河童の国へ帰りたいと思い出しました。

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しかしある事業の失敗したために僕はまた河童の国へ帰りたいと思い出しました。

そうです。

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そうです。

「行きたい」

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きたい」

のではありません。

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のではありません。

「帰りたい」

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「帰りたい」

と思い出したのです。

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と思い出したのです。

河童の国は当時の僕には、故郷のように感じられましたから。

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河童の国は当時の僕には故郷のように感ぜられましたから。

僕はそっと家を抜け出し、中央線の汽車へ乗ろうとしました。

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僕はそっとうちを脱け出し、中央線の汽車へ乗ろうとしました。

そこをあいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。

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そこをあいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。

僕はこの病院へ入った当座も、河童の国のことを思い続けました。

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僕はこの病院へはいった当座も河童の国のことをおもいつづけました。

医者のチャックはどうしているでしょう?

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医者のチャックはどうしているでしょう?

哲学者のマッグも相変わらず、七色の色ガラスのランタンの下で何か考えているかもしれません。

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 哲学者のマッグも相変わらず七色なないろ色硝子いろガラスのランタアンの下に何か考えているかもしれません。

ことに僕の親友だった、くちばしの腐った学生のラップは――ある、今日のように曇った午後です。

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ことに僕の親友だったくちばしの腐った学生のラップは、――あるきょうのように曇った午後です。

こんな追憶にふけっていた僕は、思わず声をあげようとしました。

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こんな追憶にふけっていた僕は思わず声をあげようとしました。

それはいつの間に入ってきたのか、バッグという漁師の河童が一匹、僕の前にたたずみながら、何度も頭を下げていたからです。

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それはいつのにはいってきたか、バッグという漁夫りょうしの河童が一匹、僕の前にたたずみながら、何度も頭を下げていたからです。

僕は気をとり直した後――泣いたか笑ったかも覚えていません。

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僕は心をとり直したのち、――泣いたか笑ったかも覚えていません。

が、とにかく久しぶりに河童の国の言葉を使うことに感動していたのはたしかです。

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が、とにかく久しぶりに河童の国の言葉を使うことに感動していたことはたしかです。

「おい、バッグ、どうして来た?」

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「おい、バッグ、どうして来た?」

「へい、お見舞いに上がったのです。なんでもご病気だとかいうことですから。」

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「へい、お見舞いに上がったのです。なんでも御病気だとかいうことですから。」

「どうしてそんなことを知っている?」

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「どうしてそんなことを知っている?」

「ラジオのニュースで知ったのです。」

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「ラディオのニウスで知ったのです。」

バッグは得意そうに笑っているのです。

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バッグは得意そうに笑っているのです。

「それにしてもよく来られたね?」

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「それにしてもよく来られたね?」

「なに、造作もありません。東京の川や堀割は、河童には往来も同然ですから。」

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「なに、造作ぞうさはありません。東京の川や掘割りは河童には往来も同様ですから。」

僕は河童も蛙のように水陸両生の動物だったことに、今さらのように気がつきました。

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僕は河童かっぱかえるのように水陸両棲りょうせいの動物だったことに今さらのように気がつきました。

「しかしこの辺には川はないがね。」

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「しかしこの辺には川はないがね。」

「いえ、こちらへ上がったのは水道の鉄管を抜けてきたのです。それからちょっと消火栓を開けて……」

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「いえ、こちらへ上がったのは水道の鉄管を抜けてきたのです。それからちょっと消火栓しょうかせんをあけて……」

「消火栓を開けて?」

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「消火栓をあけて?」

「旦那はお忘れになったのですか? 河童にも機械屋がいるということを。」

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旦那だんなはお忘れなすったのですか? 河童にも機械屋のいるということを。」

それから僕は二、三日ごとに、いろいろの河童の訪問を受けました。

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それから僕は二三日ごとにいろいろの河童の訪問を受けました。

僕の病気はS博士によれば、早発性痴呆症ということです。

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僕の病はS博士はかせによれば早発性痴呆症そうはつせいちほうしょうということです。

しかしあの医者のチャックは(これははなはだあなたにも失礼に当たるに違いありません。)

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しかしあの医者のチャックは(これははなはだあなたにも失礼に当たるのに違いありません。)

僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。

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僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。

医者のチャックも来るくらいですから、学生のラップや哲学者のマッグが見舞いに来たことはもちろんです。

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医者のチャックも来るくらいですから、学生のラップや哲学者のマッグの見舞いにきたことはもちろんです。

が、あの漁師のバッグのほかには、昼間は誰も訪ねてきません。

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が、あの漁夫りょうしのバッグのほかに昼間はだれも尋ねてきません。

ことに二、三匹いっしょに来るのは夜――それも月のある夜です。

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ことに二三匹いっしょに来るのは夜、――それも月のある夜です。

僕は昨夜も月明かりの中で、ガラス会社の社長のゲエルや哲学者のマッグと話をしました。

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僕はゆうべも月明りの中に硝子ガラス会社の社長のゲエルや哲学者のマッグと話をしました。

それどころか、音楽家のクラバックにもヴァイオリンを一曲弾いてもらいました。

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のみならず音楽家のクラバックにもヴァイオリンを一曲いてもらいました。

ほら、向こうの机の上に黒百合の花束がのっているでしょう?

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そら、向こうの机の上に黒百合くろゆりの花束がのっているでしょう?

あれも昨夜クラバックが土産に持ってきてくれたものです。……

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 あれもゆうべクラバックが土産みやげに持ってきてくれたものです。……

(僕は後ろを振り返ってみた。

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(僕は後ろを振り返ってみた。

が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)

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が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)

それからこの本も、哲学者のマッグがわざわざ持ってきてくれたものです。

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それからこの本も哲学者のマッグがわざわざ持ってきてくれたものです。

ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。

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ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。

いや、あなたは河童の国の言葉をご存じのはずはありません。

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いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になるはずはありません。

では代わりに読んでみましょう。

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では代わりに読んでみましょう。

これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。――

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これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。――

(彼は古い電話帳を広げ、こういう詩を大声で読みはじめた。)

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(彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。)

――やしの花や竹の中で

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――椰子やしの花や竹の中に

仏陀はとうに眠っている。

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仏陀ぶっだはとうに眠っている。

道ばたに枯れたいちじくといっしょに

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みちばたに枯れた無花果いちじゅくといっしょに

キリストももう死んだらしい。

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基督キリストももう死んだらしい。

しかし我々は休まなければならない

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しかし我々は休まなければならぬ

たとえ芝居の背景の前でも。

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たとい芝居しばいの背景の前にも。

(そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンバスばかりだ?)――

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(そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)――

けれども僕は、この詩人のように厭世的ではありません。

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けれども僕はこの詩人のように厭世的えんせいてきではありません。

河童たちが時々来てくれる限りは――ああ、このことは忘れていました。

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河童たちの時々来てくれる限りは、――ああ、このことは忘れていました。

あなたは僕の友だちだった裁判官のペップを覚えているでしょう。

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あなたは僕の友だちだった裁判官のペップを覚えているでしょう。

あの河童は職を失った後、本当に発狂してしまいました。

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あの河童は職を失ったのち、ほんとうに発狂してしまいました。

なんでも今は、河童の国の精神病院にいるということです。

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なんでも今は河童の国の精神病院にいるということです。

僕はS博士さえ承知してくれれば、見舞いに行ってやりたいのですがね……。

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僕はS博士はかせさえ承知してくれれば、見舞いにいってやりたいのですがね……。

(昭和二年二月十一日)

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(昭和二年二月十一日)