藪の中 小学生向け
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1987年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
けびいし(昔の警察官)に話を聞かれた木こりの話
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検非違使に問われたる木樵りの物語
はい、そうでございます。
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さようでございます。
あの死体を見つけたのは、まちがいなくわたしです。
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あの死骸を見つけたのは、わたしに違いございません。
わたしは今朝、いつものように裏山の杉を切りに行きました。
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わたしは今朝いつもの通り、裏山の杉を伐りに参りました。
すると、山の陰にある竹やぶの中に、あの死体があったのです。
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すると山陰の藪の中に、あの死骸があったのでございます。
どこで見つけたのですか?
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あった処でございますか?
山科(やましな)という宿場から、四、五町(約400〜500メートル)ほど離れた場所です。
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それは山科の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。
竹の中にやせた杉が交じった、人のいない場所です。
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竹の中に痩せ杉の交った、人気のない所でございます。
死体は水色の着物を着て、都ふうのさびた帽子をかぶったまま、あおむけに倒れていました。
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死骸は縹の水干に、都風のさび烏帽子をかぶったまま、仰向けに倒れて居りました。
一太刀とはいっても胸を刺された傷なので、死体のまわりの竹の葉は、血で深紅に染まっているようでした。
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何しろ一刀とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳に滲みたようでございます。
いえ、血はもう流れていませんでした。
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いえ、血はもう流れては居りません。
傷口も乾いているようでした。
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傷口も乾いて居ったようでございます。
おまけにそこには、大きなハエが一匹、わたしの足音も聞こえないかのように、べったりとくっついていました。
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おまけにそこには、馬蠅が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
刀か何かは見なかったか?
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太刀か何かは見えなかったか?
いえ、何もありませんでした。
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いえ、何もございません。
ただそばの杉の根元に、縄が一本落ちていました。
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ただその側の杉の根がたに、縄が一筋落ちて居りました。
それから、――そうそう、縄のほかにも櫛(くし)が一つありました。
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それから、――そうそう、縄のほかにも櫛が一つございました。
死体のまわりにあったのは、この二つだけです。
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死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。
でも、草や竹の葉は一面に踏み荒らされていたので、きっとあの男は殺される前に、かなり激しく戦ったにちがいありません。
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が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。
馬はいなかったか?
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何、馬はいなかったか?
あそこはそもそも馬など入れない場所です。
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あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。
なにしろ馬の通る道とは、竹やぶ一つ隔てているのですから。
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何しろ馬の通う路とは、藪一つ隔たって居りますから。
けびいしに話を聞かれた旅のお坊さんの話
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検非違使に問われたる旅法師の物語
あの死体の男には、たしかに昨日会っています。
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あの死骸の男には、確かに昨日遇って居ります。
昨日の、――さあ、お昼ごろでしょう。
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昨日の、――さあ、午頃でございましょう。
場所は関山(せきやま)から山科へ向かう途中です。
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場所は関山から山科へ、参ろうと云う途中でございます。
あの男は馬に乗った女と一緒に、関山の方へ歩いていました。
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あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。
女は顔を隠す布を垂らしていたので、顔はわたしにはわかりませんでした。
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女は牟子を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。
見えたのは、萩(はぎ)色の重ね着のような着物の色だけです。
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見えたのはただ萩重ねらしい、衣の色ばかりでございます。
馬は薄い黄色で、――たしか首のあたりの毛が丸く刈られた馬のようでした。
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馬は月毛の、――確か法師髪の馬のようでございました。
背丈でございますか?
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丈でございますか?
背丈は四寸(約12センチ)もありましたか?
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丈は四寸もございましたか?
――なにしろお坊さんのことで、その辺はよく存じません。
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――何しろ沙門の事でございますから、その辺ははっきり存じません。
男は、――いえ、刀も腰に差していれば、弓矢も持っていました。
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男は、――いえ、太刀も帯びて居れば、弓矢も携えて居りました。
とくに黒い塗りの矢入れに、二十本以上の矢を差していたのは、今でもはっきり覚えています。
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殊に黒い塗り箙へ、二十あまり征矢をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
あの男がこんなことになろうとは、夢にも思いませんでしたが、ほんとうに人間の命というのは、露のようにはかないものにちがいありません。
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あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真に人間の命なぞは、如露亦如電に違いございません。
やれやれ、何とも言いようのない、気の毒なことをしました。
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やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。
けびいしに話を聞かれた捕り方(とりかた)の話
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検非違使に問われたる放免の物語
わたしが捕まえた男でございますか?
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わたしが搦め取った男でございますか?
これはたしかに多襄丸(たじょうまる)という、名の知れた盗賊です。
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これは確かに多襄丸と云う、名高い盗人でございます。
もっともわたしが捕まえた時には、馬から落ちたのでしょう、粟田口(あわだぐち)の石橋の上で、うんうんとうめいていました。
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もっともわたしが搦め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口の石橋の上に、うんうん呻って居りました。
時刻でございますか?
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時刻でございますか?
時刻は昨夜の夜の初め頃(午後八時ごろ)です。
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時刻は昨夜の初更頃でございます。
以前にわたしが捕まえ損ねた時にも、やはりこの紺色の着物に、飾りのついた刀を腰に差していました。
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いつぞやわたしが捉え損じた時にも、やはりこの紺の水干に、打出しの太刀を佩いて居りました。
今はそのほかにも、ご覧の通り弓矢の類まで持っています。
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ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携えて居ります。
そうですか?
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さようでございますか?
あの死体の男が持っていたのも、――では人殺しをしたのは、この多襄丸にちがいありません。
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あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。
革(かわ)を巻いた弓、黒塗りの矢入れ、鷹(たか)の羽の矢が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでしょう。
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革を巻いた弓、黒塗りの箙、鷹の羽の征矢が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。
はい。
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はい。
馬もおっしゃる通り、薄黄色のものです。
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馬もおっしゃる通り、法師髪の月毛でございます。
その馬に落とされるとは、何かの縁(えん)にちがいありません。
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その畜生に落されるとは、何かの因縁に違いございません。
その馬は石橋の少し先で、長い手綱を引いたまま、道のはたのススキを食っていました。
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それは石橋の少し先に、長い端綱を引いたまま、路ばたの青芒を食って居りました。
この多襄丸というやつは、京の町をうろつく盗賊の中でも、女好きのやつです。
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この多襄丸と云うやつは、洛中に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。
去年の秋、お寺の裏山へお参りに来たらしい女性が一人、子どもと一緒に殺されていたのは、こいつの仕業だとか言っていました。
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昨年の秋鳥部寺の賓頭盧の後の山に、物詣でに来たらしい女房が一人、女の童と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業だとか申して居りました。
その薄黄色の馬に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうなったかわかりません。
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その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。
出すぎたことかもしれませんが、それもどうかお調べ下さいまし。
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差出がましゅうございますが、それも御詮議下さいまし。
けびいしに話を聞かれた老女(ろうじょ)の話
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検非違使に問われたる媼の物語
はい、あの死体は、わたしの娘が嫁いだ男でございます。
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はい、あの死骸は手前の娘が、片附いた男でございます。
でも、都のものではございません。
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が、都のものではございません。
若狭(わかさ)の国府(こくふ)の侍でございます。
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若狭の国府の侍でございます。
名は金沢の武弘(たけひろ)、年は二十六歳でした。
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名は金沢の武弘、年は二十六歳でございました。
いえ、穏やかな性格ですから、恨みをかうはずはございません。
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いえ、優しい気立でございますから、遺恨なぞ受ける筈はございません。
娘でございますか?
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娘でございますか?
娘の名は真砂(まさご)、年は十九歳でございます。
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娘の名は真砂、年は十九歳でございます。
これは男にも負けないくらい、気の強い女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、夫を持ったことはございません。
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これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。
顔は色が少し浅黒く、左の目じりにほくろのある、小さな面長(おもながな)顔でございます。
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顔は色の浅黒い、左の眼尻に黒子のある、小さい瓜実顔でございます。
武弘は昨日娘と一緒に、若狭へ出発したのでございますが、こんなことになりますとは、何という不幸でしょう。
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武弘は昨日娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。
でも娘はどうなりましたやら、婿(むこ)のことはあきらめましても、これだけは心配でなりません。
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しかし娘はどうなりましたやら、壻の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。
どうかこのわたしの一生のお願いでございますから、草木をかき分けてでも、娘の行方を探して下さいまし。
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どうかこの姥が一生のお願いでございますから、たとい草木を分けましても、娘の行方をお尋ね下さいまし。
何にせよ憎いのは、その多襄丸とか何とか申す、盗賊のやつでございます。
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何に致せ憎いのは、その多襄丸とか何とか申す、盗人のやつでございます。
婿ばかりか、娘までも………(後は泣き入って言葉なし)
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壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
× × ×
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× × ×
多襄丸の自白
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多襄丸の白状
あの男を殺したのはわたしです。
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あの男を殺したのはわたしです。
しかし女は殺していません。
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しかし女は殺しはしません。
ではどこへ行ったのか?
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ではどこへ行ったのか?
それはわたしにもわからないのです。
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それはわたしにもわからないのです。
まあ、お待ちなさい。
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まあ、お待ちなさい。
いくら拷問(ごうもん・痛めつけて白状させること)にかけられても、知らないことは言えません。
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いくら拷問にかけられても、知らない事は申されますまい。
それにわたしもこうなったからには、ひきょうな隠し立てはしないつもりです。
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その上わたしもこうなれば、卑怯な隠し立てはしないつもりです。
わたしは昨日の昼過ぎ、あの夫婦に出会いました。
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わたしは昨日の午少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。
その時、風が吹いた拍子に、顔を隠す布が上がったので、ちらりと女の顔が見えたのです。
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その時風の吹いた拍子に、牟子の垂絹が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。
ちらりと、――見えたと思った瞬間には、もう見えなくなっていたのですが、それもあったせいでしょう、わたしにはあの女の顔が、仏様のように美しく見えたのです。
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ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩のように見えたのです。
わたしはその一瞬のうちに、たとえ男は殺しても、女は奪おうと決めました。
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わたしはその咄嗟の間に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
何、男を殺すなどということは、あなた方が思っているように、大したことではありません。
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何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。
どうせ女を奪うとなれば、必ず男は殺されるのです。
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どうせ女を奪うとなれば、必ず、男は殺されるのです。
ただわたしは殺す時に、腰の刀を使いますが、あなた方は刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、時には甘い言葉だけでも殺すでしょう。
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ただわたしは殺す時に、腰の太刀を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。
なるほど血は流れない、男は立派に生きている、――しかしそれでも殺したのです。
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なるほど血は流れない、男は立派に生きている、――しかしそれでも殺したのです。
罪の重さを考えてみれば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。
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罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。
(皮肉な笑い)
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(皮肉なる微笑)
しかし男を殺さなくても、女を奪うことができれば、別に不満はないわけです。
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しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。
いや、その時の気持ちでは、できるだけ男を殺さずに、女を奪おうと決めていたのです。
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いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。
でも、あの山科の宿場道では、とてもそんなことはできません。
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が、あの山科の駅路では、とてもそんな事は出来ません。
そこでわたしは山の中へ、あの夫婦を引き込む方法を考えました。
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そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫をしました。
これも難しくはありません。
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これも造作はありません。
わたしはあの夫婦と道連れになると、向こうの山には古い塚(つか)がある、この塚を掘り返してみたら、鏡や刀がたくさん出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の竹やぶの中へ、そういう物を埋めてある、もし買いたい人がいれば、どれでも安く売り渡したい、――という話をしたのです。
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わたしはあの夫婦と途づれになると、向うの山には古塚がある、この古塚を発いて見たら、鏡や太刀が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪の中へ、そう云う物を埋めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。
男はいつしかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。
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男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。
それから、――どうです。
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それから、――どうです。
欲(よく)というものは恐ろしいではありませんか?
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欲と云うものは恐しいではありませんか?
それから一時間もたたない内に、あの夫婦はわたしと一緒に、山道へ馬を向けていたのです。
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それから半時もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路へ馬を向けていたのです。
わたしは竹やぶの前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと言いました。
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わたしは藪の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。
男は宝が欲しくてたまりませんから、断るはずがありません。
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男は欲に渇いていますから、異存のある筈はありません。
でも、女は馬から下りずに、待っていると言うのです。
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が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。
あの竹やぶが深く茂っているのを見ては、そう言うのも無理はないでしょう。
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またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。
わたしはこれもじつは思い通りになったので、女一人を残したまま、男と竹やぶの中へ入りました。
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わたしはこれも実を云えば、思う壺にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
やぶはしばらくの間は竹ばかりです。
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藪はしばらくの間は竹ばかりです。
でも、百メートルほど行った所に、少し開けた杉林がある、――わたしの仕事をやり遂げるのには、これほど都合のよい場所はありません。
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が、半町ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合の好い場所はありません。
わたしはやぶを押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。
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わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。
男はわたしにそう言われると、もうやせた杉が透けて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。
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男はわたしにそう云われると、もう痩せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。
その内に竹がまばらになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るやいなや、いきなり相手を組み伏せました。
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その内に竹が疎らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。
男も刀を差しているだけに、力はそれなりにあったようですが、不意打ちにはかないません。
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男も太刀を佩いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。
たちまち一本の杉の根元に、縛りつけられてしまいました。
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たちまち一本の杉の根がたへ、括りつけられてしまいました。
縄ですか?
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縄ですか?
縄は盗賊のありがたいことに、いつ塀を越えるかわからないから、ちゃんと腰につけていたのです。
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縄は盗人の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。
もちろん声を出させないために、竹の葉を口にほおばらせれば、ほかに面倒はありません。
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勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張らせれば、ほかに面倒はありません。
わたしは男を片付けてしまうと、今度はまた女のところへ、男が急に具合が悪くなったようだから、見に来てくれと言いに行きました。
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わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。
これもうまくいったのは、言うまでもないでしょう。
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これも図星に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。
女はかさを脱いだまま、わたしに手をとられながら、やぶの奥へ入って来ました。
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女は市女笠を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。
ところがそこへ来てみると、男は杉の根に縛られている、――女はそれを一目見るなり、いつの間に懐から出していたか、きらりと小刀(さすが)を引き抜きました。
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ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐から出していたか、きらりと小刀を引き抜きました。
わたしはまだこれまでに、あれほど気性の激しい女は、一人も見たことがありません。
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わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈しい女は、一人も見た事がありません。
もしその時でも油断していたら、一突きに脇腹を刺されたでしょう。
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もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹を突かれたでしょう。
いや、身をかわしたとしても、むやみやたらに斬り立てられる内には、どんな怪我をしたかもわかりませんでした。
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いや、それは身を躱したところが、無二無三に斬り立てられる内には、どんな怪我も仕兼ねなかったのです。
でも、わたしも多襄丸ですから、どうにかこうにか刀も抜かずに、とうとう小刀を打ち落としました。
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が、わたしも多襄丸ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀を打ち落しました。
いくら気の強い女でも、武器がなければどうにもなりません。
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いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。
わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れることができたのです。
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わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
男の命は取らずとも、――そうです。
原文を見る
男の命は取らずとも、――そうです。
わたしはそれ以上にも、男を殺すつもりはなかったのです。
原文を見る
わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。
ところが泣き伏した女を後に、やぶの外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気が狂ったようにしがみついてきました。
原文を見る
所が泣き伏した女を後に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。
しかも途切れ途切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと言うのです。
原文を見る
しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。
いや、その内どちらにしろ、生き残った男と一緒にいたい、――そうも息を切らしながら言うのです。
原文を見る
いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘ぎ喘ぎ云うのです。
わたしはその時、猛烈に男を殺したい気持ちになりました。
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わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。
(暗く興奮した様子)
原文を見る
(陰鬱なる興奮)
こんなことを申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷な人間に見えるでしょう。
原文を見る
こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷な人間に見えるでしょう。
しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。
原文を見る
しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。
とくにその一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。
原文を見る
殊にその一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。
わたしは女と目を合わせた時、たとえ雷に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。
原文を見る
わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。
妻にしたい、――わたしの頭にあったのは、ただこの一つのことだけです。
原文を見る
妻にしたい、――わたしの念頭にあったのは、ただこう云う一事だけです。
これはあなた方の思うような、浅ましい欲ではありません。
原文を見る
これはあなた方の思うように、卑しい色欲ではありません。
もしその時そういう欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴り倒して、きっと逃げてしまったでしょう。
原文を見る
もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒しても、きっと逃げてしまったでしょう。
男もそうすれば、わたしの刀で血を流すことにはならなかったのです。
原文を見る
男もそうすればわたしの太刀に、血を塗る事にはならなかったのです。
でも薄暗いやぶの中で、じっと女の顔を見たその瞬間、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
原文を見る
が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
しかし男を殺すにしても、ひきょうな殺し方はしたくありません。
原文を見る
しかし男を殺すにしても、卑怯な殺し方はしたくありません。
わたしは男の縄を解いた上、刀で戦えと言いました。
原文を見る
わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。
(杉の根元に落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)
原文を見る
(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)
男は顔色を変えたまま、太い刀を引き抜きました。
原文を見る
男は血相を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。
と思うと一言も言わず、怒り狂ってわたしへ飛びかかってきました。――
原文を見る
と思うと口も利かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――
その刀の戦いがどうなったかは、申し上げるまでもないでしょう。
原文を見る
その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。
わたしの刀は二十三度目の打ち合いで、相手の胸を貫きました。
原文を見る
わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。
二十三度目に、――どうかそれを忘れずに下さい。
原文を見る
二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。
わたしは今でもこのことだけは、すごいと思っているのです。
原文を見る
わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。
わたしと二十合も斬り合ったのは、この世にあの男一人だけですから。
原文を見る
わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。
(明るい笑い)
原文を見る
(快活なる微笑)
わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたまま、女の方を振り返りました。
原文を見る
わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。
すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか?
原文を見る
すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか?
わたしは女がどちらへ逃げたか、杉林の間を探してみました。
原文を見る
わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。
でも、竹の葉の上には、それらしい足跡も残っていません。
原文を見る
が、竹の落葉の上には、それらしい跡も残っていません。
また耳を澄ませてみても、聞こえるのはただ男の喉に、死ぬ間際の音がするだけです。
原文を見る
また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉に、断末魔の音がするだけです。
もしかするとあの女は、わたしが刀の戦いを始めるやいなや、人の助けでも呼ぶために、やぶをくぐって逃げたのかもしれない。――
原文を見る
事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――
わたしはそう考えると、今度はわたしの命がかかっていますから、刀や弓矢を奪ったまま、すぐにまたもとの山道へ出ました。
原文を見る
わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路へ出ました。
そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。
原文を見る
そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。
その後のことは申し上げても、無駄な言葉に過ぎないでしょう。
原文を見る
その後の事は申し上げるだけ、無用の口数に過ぎますまい。
ただ、都へ入る前に、刀だけはもう手放していました。――
原文を見る
ただ、都へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――
わたしの白状はこれだけです。
原文を見る
わたしの白状はこれだけです。
どうせいずれは、木の梢(こずえ)に懸ける首と思っていますから、どうか最も重い罰を与えて下さい。
原文を見る
どうせ一度は樗の梢に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑に遇わせて下さい。
(胸を張った態度)
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(昂然たる態度)
清水寺(きよみずでら)に来た女の懺悔(ざんげ・罪の告白)
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清水寺に来れる女の懺悔
――あの紺色の着物を着た男は、わたしを無理やりに手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、あざけるように笑いました。
原文を見る
――その紺の水干を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲るように笑いました。
夫はどんなに悔しかったでしょう。
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夫はどんなに無念だったでしょう。
でも、いくら身をよじっても、体中に巻き付いた縄は、一層きつく食い込むだけです。
原文を見る
が、いくら身悶えをしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひしと食い入るだけです。
わたしは思わず夫のそばへ、転ぶように走り寄りました。
原文を見る
わたしは思わず夫の側へ、転ぶように走り寄りました。
いえ、走り寄ろうとしたのです。
原文を見る
いえ、走り寄ろうとしたのです。
しかし男はとっさに、わたしをそこへ蹴り倒しました。
原文を見る
しかし男は咄嗟の間に、わたしをそこへ蹴倒しました。
ちょうどその時です。
原文を見る
ちょうどその途端です。
わたしは夫の目の中に、何とも言いようのない輝きが、宿っているのを感じました。
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わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚りました。
何とも言いようのない、――わたしはあの目を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。
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何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。
口さえ一言も利けない夫は、その一瞬の目の中に、すべての気持ちを伝えたのです。
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口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。
しかしそこに光っていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを見下した、冷たい光だったではありませんか?
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しかしそこに閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?
わたしは男に蹴られたよりも、その目の色に打たれたように、我知らず何か叫んだきり、とうとう気を失ってしまいました。
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わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
その内にやっと気がついてみると、あの紺色の着物の男は、もうどこかへ行っていました。
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その内にやっと気がついて見ると、あの紺の水干の男は、もうどこかへ行っていました。
後にはただ杉の根元に、夫が縛られているだけです。
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跡にはただ杉の根がたに、夫が縛られているだけです。
わたしは竹の葉の上に、やっと体を起こしたまま、夫の顔を見つめました。
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わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。
でも、夫の目の色は、少しも先ほどと変わりません。
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が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。
やはり冷たい見下しの底に、憎しみの色を見せているのです。
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やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せているのです。
恥ずかしさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中は、何と言えばよいかわかりません。
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恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中は、何と云えば好いかわかりません。
わたしはよろよろと立ち上がりながら、夫のそばへ近寄りました。
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わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと一緒にはいられません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたも死んでください。あなたはわたしの恥をご覧になりました。わたしはこのままあなた一人、残すわけにはいきません。」
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「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
わたしは一生懸命に、これだけのことを言いました。
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わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。
それでも夫はいまわしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。
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それでも夫は忌わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。
わたしは裂けそうな胸を抑えながら、夫の刀を探しました。
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わたしは裂けそうな胸を抑えながら、夫の太刀を探しました。
でも、あの盗賊に奪われたのでしょう、刀はもちろん弓矢さえも、やぶの中には見当たりません。
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が、あの盗人に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。
しかし幸い小刀(さすが)だけは、わたしの足元に落ちているのです。
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しかし幸い小刀だけは、わたしの足もとに落ちているのです。
わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう言いました。
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わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
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「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。
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夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。
もちろん口には笹の葉が一杯につまっていますから、声は少しも聞こえません。
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勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。
でも、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を悟りました。
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が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。
夫はわたしを見下したまま、「殺せ。」
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夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」
と一言言ったのです。
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と一言云ったのです。
わたしはほとんど夢を見ているように、夫の水色の着物の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。
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わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。
わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。
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わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。
やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。
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やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。
その青ざめた顔の上には、竹に交じった杉林の空から、夕日が一筋差し込んでいるのです。
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その蒼ざめた顔の上には、竹に交った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。
わたしは泣き声を飲み込みながら、死体の縄を解き捨てました。
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わたしは泣き声を呑みながら、死骸の縄を解き捨てました。
そうして、――そうしてわたしがどうなったか?
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そうして、――そうしてわたしがどうなったか?
それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。
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それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。
とにかくわたしはどうしても、死にきる力がなかったのです。
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とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。
小刀を喉に突き立てたり、山のふもとの池に身を投げたり、いろいろなこともしてみましたが、死にきれずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。
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小刀を喉に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。
(寂しい笑い)わたしのように気が弱いものは、大慈大悲の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ・人を救う仏様)も、お見捨てになったのかもしれません。
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(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ないものは、大慈大悲の観世音菩薩も、お見放しなすったものかも知れません。
しかし夫を殺したわたしは、盗賊に無理やりにされたわたしは、一体どうすればよいのでしょう?
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しかし夫を殺したわたしは、盗人の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好いのでしょう?
一体わたしは、――わたしは、――(突然激しいすすり泣き)
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一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷)
巫女(みこ)の口を借りた死霊(しりょう)の話
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巫女の口を借りたる死霊の物語
――盗賊は妻を無理やりにすると、そこに腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。
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――盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。
おれはもちろん口が利けない。
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おれは勿論口は利けない。
体も杉の根に縛られている。
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体も杉の根に縛られている。
でもおれはその間に、何度も妻へ目くばせをした。
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が、おれはその間に、何度も妻へ目くばせをした。
この男の言うことを真に受けるな、何を言っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。
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この男の云う事を真に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。
しかし妻はしょんぼりと笹の葉の上に座ったまま、じっと膝へ目をやっている。
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しかし妻は悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。
それがどうも盗賊の言葉に、聞き入っているように見えるではないか?
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それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか?
おれは嫉妬(しっと)に身をよじった。
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おれは妬しさに身悶えをした。
でも盗賊はそれからそれへと、うまく話を進めている。
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が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。
一度でも体を汚したとなれば、夫とは元通りにはなれまい。
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一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。
そんな夫のそばにいるより、自分の妻になる気はないか?
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そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか?
自分はいとしいと思えばこそ、大それたことまでしてしまったのだ、――盗賊はとうとう大胆にも、そんな話さえ持ち出した。
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自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。
盗賊にこう言われると、妻はうっとりと顔を持ち上げた。
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盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。
おれはまだあの時ほど、美しい妻を見たことがない。
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おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。
しかしその美しい妻は、目の前で縛られたおれを前に、何と盗賊に返事をしたか?
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しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか?
おれは死後の闇をさまよっていても、妻の返事を思い出すたびに、怒りに燃えずにいられたことはない。
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おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。
妻はたしかにこう言った、――「ではどこへでも連れて行って下さい。」
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妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」
(長い沈黙)
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(長き沈黙)
妻の罪はそれだけではない。
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妻の罪はそれだけではない。
それだけならばこの闇の中に、今ほどおれも苦しみはしまい。
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それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。
しかし妻は夢を見るように、盗賊に手をとられながら、やぶの外へ行こうとすると、たちまち顔色を失ったまま、杉の根に縛られたおれを指さした。
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しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色を失ったなり、杉の根のおれを指さした。
「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一緒にはいられません。」
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「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」
――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。
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――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。
「あの人を殺して下さい。」
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「あの人を殺して下さい。」
――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆さまにおれを吹き落そうとする。
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――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様におれを吹き落そうとする。
一度でもこれほど憎むべき言葉が、人間の口から出たことがあろうか?
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一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか?
一度でもこれほど呪(のろ)わしい言葉が、人間の耳に触れたことがあろうか?
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一度でもこのくらい呪わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか?
一度でもこれほど、――(突然吹き出すような嘲笑)その言葉を聞いた時は、盗賊さえ顔色を失ってしまった。
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一度でもこのくらい、――(突然迸るごとき嘲笑)その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。
「あの人を殺して下さい。」
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「あの人を殺して下さい。」
――妻はそう叫びながら、盗賊の腕にしがみついている。
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――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋っている。
盗賊はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――
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盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――
と思うか思わない内に、妻は竹の葉の上へ、ただ一蹴りで蹴り倒された、(再び吹き出すような嘲笑)盗賊は静かに両腕を組むと、おれの姿へ目をやった。
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と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒された、(再び迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。
「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はうなずくだけでいい。殺すか?」
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「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷けば好い。殺すか?」
――おれはこの言葉だけでも、盗賊の罪は許してやりたい。
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――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦してやりたい。
(再び、長い沈黙)
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(再び、長き沈黙)
妻はおれがためらう間に、何か一声叫ぶやいなや、たちまちやぶの奥へ走り出した。
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妻はおれがためらう内に、何か一声叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。
盗賊もとっさに飛びかかったが、袖(そで)さえつかめなかったらしい。
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盗人も咄嗟に飛びかかったが、これは袖さえ捉えなかったらしい。
おれはただ幻のように、そういう光景を眺めていた。
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おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
盗賊は妻が逃げ去った後、刀や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄を切った。
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盗人は妻が逃げ去った後、太刀や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄を切った。
「今度はおれの身の上だ。」
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「今度はおれの身の上だ。」
――おれは盗賊がやぶの外へ、姿を隠してしまう時に、こうつぶやいたのを覚えている。
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――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟いたのを覚えている。
その後はどこも静かだった。
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その跡はどこも静かだった。
いや、まだ誰かの泣く声がする。
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いや、まだ誰かの泣く声がする。
おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませてみた。
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おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。
でも、その声も気がついてみれば、おれ自身の泣いている声だったではないか?
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が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか?
(三度目の、長い沈黙)
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(三度、長き沈黙)
おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起こした。
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おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。
おれの前には妻が落とした、小刀(さすが)が一つ光っている。
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おれの前には妻が落した、小刀が一つ光っている。
おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。
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おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。
何か生臭いものがおれの口へこみ上げてくる。
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何か腥い塊がおれの口へこみ上げて来る。
でも、苦しみは少しもない。
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が、苦しみは少しもない。
ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。
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ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。
ああ、何という静かさだろう。
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ああ、何と云う静かさだろう。
この山陰のやぶの空には、小鳥一羽もさえずりに来ない。
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この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに来ない。
ただ杉や竹の梢(こずえ)に、寂しい日の光が漂っている。
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ただ杉や竹の杪に、寂しい日影が漂っている。
日の光が、――それも次第に薄れてくる。――
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日影が、――それも次第に薄れて来る。――
もう杉や竹も見えない。
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もう杉や竹も見えない。
おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
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おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
その時誰かが忍び足で、おれのそばへ来たものがある。
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その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。
おれはそちらを見ようとした。
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おれはそちらを見ようとした。
でも、おれのまわりには、いつか薄暗い闇が立ちこめている。
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が、おれのまわりには、いつか薄闇が立ちこめている。
誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。
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誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。
同時におれの口の中には、もう一度血が溢れてくる。
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同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢れて来る。
おれはそれきり永久に、死後の闇の中へ沈んでしまった。………
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おれはそれぎり永久に、中有の闇へ沈んでしまった。………
(大正十年十二月)
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(大正十年十二月)