グッド・バイ 現代語訳
太宰治(だざいおさむ)・1989年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
変心 (一)
原文を見る
変心 (一)
文壇のある老大家が亡くなって、その告別式が終わる頃から、雨が降りはじめた。
原文を見る
文壇の、或る老大家が亡くなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。
早春の雨である。
原文を見る
早春の雨である。
その帰り道、二人の男が相合傘で歩いている。
原文を見る
その帰り、二人の男が相合傘で歩いている。
どちらも、亡くなった老大家には義理で顔を出しただけで、話題は女のこと、それもきわめて不謹慎な話。
原文を見る
いずれも、その逝去した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就いての、極めて不きんしんな事。
紋付きの礼服を着た初老の大男は、文士。
原文を見る
紋服の初老の大男は、文士。
それよりずっと若い、丸眼鏡に縞ズボンの美男子は、編集者。
原文を見る
それよりずっと若いロイド眼鏡、縞ズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」
原文を見る
「あいつも、」
と文士は言う。
原文を見る
と文士は言う。
「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢の納め時じゃねえのか。やつれたぜ。」
原文を見る
「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢のおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
原文を見る
「全部、やめるつもりでいるんです。」
その編集者は、顔を赤くして答える。
原文を見る
その編集者は、顔を赤くして答える。
この文士はひどく露骨で下品な口をきくので、その美男子の編集者は前々から敬遠していたのだが、きょうは自分に傘の用意がなかったので、仕方なく文士の蛇の目傘に入れてもらい、こうして油をしぼられる結果となった。
原文を見る
この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士の蛇の目傘にいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
全部、やめるつもりでいるんです。
原文を見る
全部、やめるつもりでいるんです。
しかし、それは、まったくの嘘というわけでもなかった。
原文を見る
しかし、それは、まんざら嘘で無かった。
何かしら、変わってきていたのである。
原文を見る
何かしら、変って来ていたのである。
終戦から三年経って、どこかしら、変わった。
原文を見る
終戦以来、三年経って、どこやら、変った。
三十四歳、雑誌「オベリスク」
原文を見る
三十四歳、雑誌「オベリスク」
編集長、田島周二。言葉に少し関西なまりがあるようだが、自分の生まれについてはほとんど語らない。
原文を見る
編集長、田島周二、言葉に少し関西なまりがあるようだが、自身の出生に就いては、ほとんど語らぬ。
もともと抜け目のない男で、「オベリスク」
原文を見る
もともと、抜け目の無い男で、「オベリスク」
の編集は世間への体裁で、実は闇商売の手伝いをして、いつもしこたま儲けている。
原文を見る
の編集は世間へのお体裁、実は闇商売のお手伝いして、いつも、しこたま、もうけている。
けれども、悪銭身につかずのたとえどおり、酒はそれこそ浴びるほど飲み、愛人を十人近く養っているという噂。
原文を見る
けれども、悪銭身につかぬ例えのとおり、酒はそれこそ、浴びるほど飲み、愛人を十人ちかく養っているという噂。
彼は、しかし、独身ではない。
原文を見る
かれは、しかし、独身では無い。
独身どころか、いまの奥さんは後妻である。
原文を見る
独身どころか、いまの細君は後妻である。
先妻は、知的障害のある女の子ひとりを残して肺炎で死に、それから彼は東京の家を売って埼玉県の友人の家に疎開し、疎開中にいまの奥さんをものにして結婚した。
原文を見る
先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開し、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。
奥さんのほうはもちろん初婚で、その実家はかなり裕福な農家である。
原文を見る
細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。
終戦になり、奥さんと女の子を奥さんの実家にあずけ、彼は単身で東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借りた。そこはもうただ寝るだけの場所で、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま儲けた。
原文を見る
終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあずけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、もうけた。
けれども、それから三年経ち、何だか気持ちが変わってきた。
原文を見る
けれども、それから三年経ち、何だか気持が変って来た。
世の中が何かしら微妙に変わってきたせいか、それとも彼の体が日頃の不節制のせいで最近めっきり痩せ細ってきたせいか、いや、いや、単に「とし」
原文を見る
世の中が、何かしら微妙に変って来たせいか、または、彼のからだが、日頃の不節制のために最近めっきり痩せ細って来たせいか、いや、いや、単に「とし」
のせいか、色即是空、酒もつまらない、小さな家を一軒買って田舎から女房子供を呼び寄せて……という里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通ることが多くなった。
原文を見る
のせいか、色即是空、酒もつまらぬ、小さい家を一軒買い、田舎から女房子供を呼び寄せて、……という里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通る事が多くなった。
もう、この辺で闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。
原文を見る
もう、この辺で、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。
それについて、……。
原文を見る
それに就いて、……。
それについて、さし当たっての難関。
原文を見る
それに就いて、さし当っての難関。
まず、女たちと上手に別れなければならない。
原文を見る
まず、女たちと上手に別れなければならぬ。
考えがそこに至ると、さすがに抜け目のない彼も途方にくれて、溜息が出るのだ。
原文を見る
思いがそこに到ると、さすが、抜け目の無い彼も、途方にくれて、溜息が出るのだ。
「全部、やめるつもり、……」
原文を見る
「全部、やめるつもり、……」
大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には女が何人いるんだい?」
原文を見る
大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」
変心 (二)
原文を見る
変心 (二)
田島は、泣きべそ顔になる。
原文を見る
田島は、泣きべその顔になる。
考えれば考えるほど、自分ひとりの力ではとても処理の仕様がない。
原文を見る
思えば、思うほど、自分ひとりの力では、到底、処理の仕様が無い。
金ですむことなら簡単だけれども、女たちがそれだけで引き下がるようにも思えない。
原文を見る
金ですむ事なら、わけないけれども、女たちが、それだけで引下るようにも思えない。
「いま考えると、まるで僕は狂っていたみたいなんですよ。とんでもなく手をひろげすぎて、……」
原文を見る
「いま考えると、まるで僕は狂っていたみたいなんですよ。とんでもなく、手をひろげすぎて、……」
この初老の不良文士に全部打ち明けて、相談してみようかしらと、ふと思う。
原文を見る
この初老の不良文士にすべて打ち明け、相談してみようかしらと、ふと思う。
「案外、感心なことを言いやがる。もっとも、多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえていて、そこがまた女に好かれる理由でもあるのだがね。男振りがよくて、金があって、若くて、おまけに道徳的で優しいと来たら、そりゃ、もてるよ。当たり前の話だ。お前のほうでやめるつもりでも、先方が承知しないぜ、これは。」
原文を見る
「案外、殊勝な事を言いやがる。もっとも、多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえて、そこがまた、女に好かれる所以でもあるのだがね。男振りがよくて、金があって、若くて、おまけに道徳的で優しいと来たら、そりゃ、もてるよ。当り前の話だ。お前のほうでやめるつもりでも、先方が承知しないぜ、これは。」
「そこなんです。」
原文を見る
「そこなんです。」
ハンカチで顔を拭く。
原文を見る
ハンケチで顔を拭く。
「泣いてるんじゃねえだろうな。」
原文を見る
「泣いてるんじゃねえだろうな。」
「いいえ、雨で眼鏡のレンズが曇って、……」
原文を見る
「いいえ、雨で眼鏡の玉が曇って、……」
「いや、その声は泣いてる声だ。とんだ色男さ。」
原文を見る
「いや、その声は泣いてる声だ。とんだ色男さ。」
闇商売の手伝いをしていて道徳的も何もあったものではないが、その文士が指摘したように、田島という男は多情なくせに女にはへんに律儀な一面も持っていて、女たちはそれゆえ、少しも心配せずに田島に深くたよっているらしい様子。
原文を見る
闇商売の手伝いをして、道徳的も無いものだが、その文士の指摘したように、田島という男は、多情のくせに、また女にへんに律儀な一面も持っていて、女たちは、それ故、少しも心配せずに田島に深くたよっているらしい様子。
「何か、いい手はないものでしょうか。」
原文を見る
「何か、いい工夫が無いものでしょうか。」
「ないね。お前が五、六年、外国にでも行って来たらいいだろうが、しかし、いまは簡単に洋行なんか出来ない。いっそ、その女たちを全部一室に呼び集めて、蛍の光でも歌わせて、いや、仰げば尊し、のほうがいいかな、お前が一人ひとりに卒業証書を授与してね、それからお前は発狂の真似をして、まっぱだかで表に飛び出し、逃げる。これなら、たしかだ。女たちも、さすがに呆れてあきらめるだろうさ。」
原文を見る
「無いね。お前が五、六年、外国にでも行って来たらいいだろうが、しかし、いまは簡単に洋行なんか出来ない。いっそ、その女たちを全部、一室に呼び集め、蛍の光でも歌わせて、いや、仰げば尊し、のほうがいいかな、お前が一人々々に卒業証書を授与してね、それからお前は、発狂の真似をして、まっぱだかで表に飛び出し、逃げる。これなら、たしかだ。女たちも、さすがに呆れて、あきらめるだろうさ。」
まるで相談にも何にもならない。
原文を見る
まるで相談にも何もならぬ。
「失礼します。僕は、あの、ここから電車で、……」
原文を見る
「失礼します。僕は、あの、ここから電車で、……」
「まあ、いいじゃないか。次の停留場まで歩こう。何せ、これはお前にとって重大問題だろうからな。二人で対策を研究してみようじゃないか。」
原文を見る
「まあ、いいじゃないか。つぎの停留場まで歩こう。何せ、これは、お前にとって重大問題だろうからな。二人で、対策を研究してみようじゃないか。」
文士はその日、退屈していたものと見えて、なかなか田島を放さない。
原文を見る
文士は、その日、退屈していたものと見えて、なかなか田島を放さぬ。
「いいえ、もう、僕ひとりで、何とか、……」
原文を見る
「いいえ、もう、僕ひとりで、何とか、……」
「いや、いや、お前ひとりでは解決できない。まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に、心配になって来た。女に惚れられて死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽の極みだね。誰も同情しやしない。死ぬのはやめたほうがよい。うむ、名案。すごい美人をどこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話して、お前の女房という形になってもらって、それを連れてお前のその女たちを一人ひとり歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引き下がる。どうだ、やってみないか。」
原文を見る
「いや、いや、お前ひとりでは解決できない。まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に、心配になって来た。女に惚れられて、死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽の極だね。誰も同情しやしない。死ぬのはやめたほうがよい。うむ、名案。すごい美人を、どこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか。」
おぼれる者のワラ。
原文を見る
おぼれる者のワラ。
田島は少し気が動いた。
原文を見る
田島は少し気が動いた。
行進 (一)
原文を見る
行進 (一)
田島は、やってみる気になった。
原文を見る
田島は、やってみる気になった。
しかし、ここにも難関がある。
原文を見る
しかし、ここにも難関がある。
すごい美人。
原文を見る
すごい美人。
醜くてすごい女なら、電車の停留場ひと区間を歩くたびに三十人くらいは見つけられるが、すごいほど美しいという女は、伝説以外に存在しているものかどうか疑わしい。
原文を見る
醜くてすごい女なら、電車の停留場の一区間を歩く度毎に、三十人くらいは発見できるが、すごいほど美しい、という女は、伝説以外に存在しているものかどうか、疑わしい。
もともと田島は器量自慢、おしゃれで虚栄心が強いので、美人でない女と一緒に歩くと急に腹が痛くなったと言い出してこれを避けるほどで、彼の現在のいわゆる愛人たちもそれぞれかなりの美人ばかりではあったが、しかし、すごいほどの美人というほどのものはいないようであった。
原文を見る
もともと田島は器量自慢、おしゃれで虚栄心が強いので、不美人と一緒に歩くと、にわかに腹痛を覚えると称してこれを避け、かれの現在のいわゆる愛人たちも、それぞれかなりの美人ばかりではあったが、しかし、すごいほどの美人、というほどのものは無いようであった。
あの雨の日に、初老の不良文士から口から出まかせの「秘訣」
原文を見る
あの雨の日に、初老の不良文士の口から出まかせの「秘訣」
をさずけられて、何とばからしいと内心いちおうは反発してみたものの、しかし、自分にもちっとも名案らしいものは浮かばない。
原文を見る
をさずけられ、何のばからしいと内心一応は反撥してみたものの、しかし、自分にも、ちっとも名案らしいものは浮ばない。
まず、試してみよ。
原文を見る
まず、試みよ。
ひょっとしたら、どこかの人生の片すみにそんなすごい美人がころがっているかも知れない。
原文を見る
ひょっとしたらどこかの人生の片すみに、そんなすごい美人がころがっているかも知れない。
眼鏡の奥の彼の眼は、急にキョロキョロといやらしく動きはじめる。
原文を見る
眼鏡の奥のかれの眼は、にわかにキョロキョロいやらしく動きはじめる。
ダンス・ホール。
原文を見る
ダンス・ホール。
喫茶店。
原文を見る
喫茶店。
待合。
原文を見る
待合。
いない、いない。
原文を見る
いない、いない。
醜くてすごいものばかり。
原文を見る
醜くてすごいものばかり。
オフィス、デパート、工場、映画館、はだかレヴュー。
原文を見る
オフィス、デパート、工場、映画館、はだかレヴュウ。
いるはずがない。
原文を見る
いるはずが無い。
女子大の校庭を垣根の外からのぞくというあさましい真似をしたり、ミス何とかの美人コンテストの会場にかけつけたり、映画のニューフェースとやらの選考会場に見学と称してまぎれ込んだり、やたらと歩き廻ってみたが、いない。
原文を見る
女子大の校庭のあさましい垣のぞきをしたり、ミス何とかの美人競争の会場にかけつけたり、映画のニューフェースとやらの試験場に見学と称してまぎれ込んだり、やたらと歩き廻ってみたが、いない。
獲物は帰り道にあらわれる。
原文を見る
獲物は帰り道にあらわれる。
彼はもう絶望しかけて、夕暮れの新宿駅裏の闇市をすこぶる憂鬱な顔をして歩いていた。
原文を見る
かれはもう、絶望しかけて、夕暮の新宿駅裏の闇市をすこぶる憂鬱な顔をして歩いていた。
彼のいわゆる愛人たちのところを訪ねてみる気も起こらない。
原文を見る
彼のいわゆる愛人たちのところを訪問してみる気も起らぬ。
思い出すだけでも、ぞっとする。
原文を見る
思い出すさえ、ぞっとする。
別れなければならない。
原文を見る
別れなければならぬ。
「田島さん!」
原文を見る
「田島さん!」
出しぬけに背後から呼ばれて、飛び上がりそうなほど、ぎょっとした。
原文を見る
出し抜けに背後から呼ばれて、飛び上らんばかりに、ぎょっとした。
「ええっと、どなたでしたかな?」
原文を見る
「ええっと、どなただったかな?」
「あら、いやだ。」
原文を見る
「あら、いやだ。」
声が悪い。
原文を見る
声が悪い。
カラスみたいな声というやつだ。
原文を見る
鴉声というやつだ。
「へえ?」
原文を見る
「へえ?」
と見直した。
原文を見る
と見直した。
まさに、お見それしていたわけであった。
原文を見る
まさに、お見それ申したわけであった。
彼は、その女を知っていた。
原文を見る
彼は、その女を知っていた。
闇屋、いや、かつぎ屋である。
原文を見る
闇屋、いや、かつぎ屋である。
彼はこの女と、ほんの二、三度、闇の物資の取引きをしたことがあるだけだが、しかし、この女のカラスみたいな声と、それから、おどろくべき怪力によって、この女を記憶している。
原文を見る
彼はこの女と、ほんの二、三度、闇の物資の取引きをした事があるだけだが、しかし、この女の鴉声と、それから、おどろくべき怪力に依って、この女を記憶している。
痩せた女ではあるが、四十キロは楽に背負う。
原文を見る
やせた女ではあるが、十貫は楽に背負う。
魚くさくて、ドロドロのものを着て、モンペにゴム長、男だか女だかわけがわからず、ほとんど乞食のような感じで、おしゃれな彼はその女と取引きしたあとで、いそいで手を洗ったくらいであった。
原文を見る
さかなくさくて、ドロドロのものを着て、モンペにゴム長、男だか女だか、わけがわからず、ほとんど乞食の感じで、おしゃれの彼は、その女と取引きしたあとで、いそいで手を洗ったくらいであった。
とんでもないシンデレラ姫。
原文を見る
とんでもないシンデレラ姫。
洋服の趣味も上品。
原文を見る
洋装の好みも高雅。
体はほっそりして、手足がかわいらしく小さく、二十三、四、いや、五、六、顔は憂いを含んで梨の花のようにかすかに青く、まさしく高貴、すごい美人、これがあの四十キロを楽に背負うかつぎ屋とは。
原文を見る
からだが、ほっそりして、手足が可憐に小さく、二十三、四、いや、五、六、顔は愁いを含んで、梨の花の如く幽かに青く、まさしく高貴、すごい美人、これがあの十貫を楽に背負うかつぎ屋とは。
声が悪いのは傷だが、それは固く黙らせておけばいい。
原文を見る
声の悪いのは、傷だが、それは沈黙を固く守らせておればいい。
使える。
原文を見る
使える。
行進 (二)
原文を見る
行進 (二)
馬子にも衣装というが、ことに女は装い一つで、何が何やらわけのわからないくらいに変わる。
原文を見る
馬子にも衣裳というが、ことに女は、その装い一つで、何が何やらわけのわからぬくらいに変る。
もともと化け物なのかも知れない。
原文を見る
元来、化け物なのかも知れない。
しかし、この女(永井キヌ子という)のように、こんなに見事に変身できる女も珍しい。
原文を見る
しかし、この女(永井キヌ子という)のように、こんなに見事に変身できる女も珍らしい。
「さては、相当ため込んだね。いやに、めかし込んでいるじゃないか。」
原文を見る
「さては、相当ため込んだね。いやに、りゅうとしてるじゃないか。」
「あら、いやだ。」
原文を見る
「あら、いやだ。」
どうも、声が悪い。
原文を見る
どうも、声が悪い。
高貴さも何も、一ぺんに吹き飛ぶ。
原文を見る
高貴性も何も、一ぺんに吹き飛ぶ。
「君に、たのみたいことがあるのだがね。」
原文を見る
「君に、たのみたい事があるのだがね。」
「あなたは、ケチで値切ってばかりいるから、……」
原文を見る
「あなたは、ケチで値切ってばかりいるから、……」
「いや、商売の話じゃない。ぼくはもう、そろそろ足を洗うつもりでいるんだ。君は、まだ相変わらず、かついでいるのか。」
原文を見る
「いや、商売の話じゃない。ぼくはもう、そろそろ足を洗うつもりでいるんだ。君は、まだ相変らず、かついでいるのか。」
「あたりまえよ。かつがなきゃ、おまんまが食べられませんからね。」
原文を見る
「あたりまえよ。かつがなきゃおまんまが食べられませんからね。」
言うことが、いちいち下品である。
原文を見る
言うことが、いちいちゲスである。
「でも、そんな身なりでもないじゃないか。」
原文を見る
「でも、そんな身なりでも無いじゃないか。」
「そりゃ、女性ですもの。たまには着飾って映画も見たいわ。」
原文を見る
「そりゃ、女性ですもの。たまには、着飾って映画も見たいわ。」
「きょうは、映画か?」
原文を見る
「きょうは、映画か?」
「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかしら、アシクリゲ、……」
原文を見る
「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかしら、アシクリゲ、……」
「膝栗毛だろう。ひとりでかい?」
原文を見る
「膝栗毛だろう。ひとりでかい?」
「あら、いやだ。男なんて、おかしくって。」
原文を見る
「あら、いやだ。男なんて、おかしくって。」
「そこを見込んで、頼みがあるんだ。一時間、いや、三十分でいい、顔を貸してくれ。」
原文を見る
「そこを見込んで、頼みがあるんだ。一時間、いや、三十分でいい、顔を貸してくれ。」
「いい話?」
原文を見る
「いい話?」
「君に損はかけない。」
原文を見る
「君に損はかけない。」
二人並んで歩いていると、すれ違う人の十人のうち八人は、振り返って見る。
原文を見る
二人ならんで歩いていると、すれ違うひとの十人のうち、八人は、振りかえって、見る。
田島を見るのではなく、キヌ子を見るのだ。
原文を見る
田島を見るのでは無く、キヌ子を見るのだ。
さすがの美男子の田島も、それこそすごいほどのキヌ子の気品に押されて、ゴミっぽく、貧弱に見える。
原文を見る
さすが好男子の田島も、それこそすごいほどのキヌ子の気品に押されて、ゴミっぽく、貧弱に見える。
田島はなじみの闇の料理屋へキヌ子を案内する。
原文を見る
田島はなじみの闇の料理屋へキヌ子を案内する。
「ここ、何か、自慢の料理でもあるの?」
原文を見る
「ここ、何か、自慢の料理でもあるの?」
「そうだな、トンカツが自慢らしいよ。」
原文を見る
「そうだな、トンカツが自慢らしいよ。」
「いただくわ。私、おなかが空いてるの。それから、何が出来るの?」
原文を見る
「いただくわ。私、おなかが空いてるの。それから、何が出来るの?」
「たいてい出来るだろうけど、いったい、どんなものを食べたいんだい。」
原文を見る
「たいてい出来るだろうけど、いったい、どんなものを食べたいんだい。」
「ここの自慢のもの。トンカツの他に何かないの?」
原文を見る
「ここの自慢のもの。トンカツの他に何か無いの?」
「ここのトンカツは、大きいよ。」
原文を見る
「ここのトンカツは、大きいよ。」
「ケチねえ。あなたは、だめ。私、奥へ行って聞いて来るわ。」
原文を見る
「ケチねえ。あなたは、だめ。私奥へ行って聞いて来るわ。」
怪力、大食い、これが、しかし、全くのすごい美人なのだ。
原文を見る
怪力、大食い、これが、しかし、全くのすごい美人なのだ。
取り逃がしてはならない。
原文を見る
取り逃がしてはならぬ。
田島はウイスキーを飲み、キヌ子がいくらでもいくらでも澄まして食べるのを、すこぶる腹立たしい気持ちでながめながら、彼のいわゆる頼み事について語った。
原文を見る
田島はウイスキイを飲み、キヌ子のいくらでもいくらでも澄まして食べるのを、すこぶるいまいましい気持でながめながら、彼のいわゆる頼み事について語った。
キヌ子は、ただ食べながら、聞いているのかいないのか、ほとんど彼の話には興味を覚えない様子であった。
原文を見る
キヌ子は、ただ食べながら、聞いているのか、いないのか、ほとんど彼の物語りには興味を覚えぬ様子であった。
「引受けてくれるね?」
原文を見る
「引受けてくれるね?」
「バカだわ、あなたは。まるでなってやしないじゃないの。」
原文を見る
「バカだわ、あなたは。まるでなってやしないじゃないの。」
行進 (三)
原文を見る
行進 (三)
田島は敵の意外に鋭い切り返しにたじろぎながらも、
原文を見る
田島は敵の意外の鋭鋒にたじろぎながらも、
「そうさ、全くなってやしないから、君にこうして頼むんだ。往生しているんだよ。」
原文を見る
「そうさ、全くなってやしないから、君にこうして頼むんだ。往生しているんだよ。」
「何もそんな面倒なことをしなくても、いやになったら、ふっとそれっきり会わなければいいじゃないの。」
原文を見る
「何もそんな、めんどうな事をしなくても、いやになったら、ふっとそれっきりあわなけれあいいじゃないの。」
「そんな乱暴なことは出来ない。相手の人たちだって、これから結婚するかも知れないし、また、新しい愛人をつくるかも知れない。相手の人たちの気持ちをちゃんときめさせるようにするのが、男の責任さ。」
原文を見る
「そんな乱暴な事は出来ない。相手の人たちだって、これから、結婚するかも知れないし、また、新しい愛人をつくるかも知れない。相手のひとたちの気持をちゃんときめさせるようにするのが、男の責任さ。」
「ぷ! とんだ責任だ。別れ話だの何だのと言って、またイチャつきたいのでしょう? ほんとに助平そうなツラをしている。」
原文を見る
「ぷ! とんだ責任だ。別れ話だの何だのと言って、またイチャつきたいのでしょう? ほんとに助平そうなツラをしている。」
「おいおい、あまり失敬なことを言ったら怒るぜ。失敬にも程度があるよ。食ってばかりいるじゃないか。」
原文を見る
「おいおい、あまり失敬な事を言ったら怒るぜ。失敬にも程度があるよ。食ってばかりいるじゃないか。」
「キントンが出来ないかしら。」
原文を見る
「キントンが出来ないかしら。」
「まだ、何か食う気かい? 胃拡張とちがうか。病気だぜ、君は。いちど医者に見てもらったらどうだい。さっきから、ずいぶん食ったぜ。もういい加減によせ。」
原文を見る
「まだ、何か食う気かい? 胃拡張とちがうか。病気だぜ、君は。いちど医者に見てもらったらどうだい。さっきから、ずいぶん食ったぜ。もういい加減によせ。」
「ケチねえ、あなたは。女は、たいてい、これくらい食うのが普通だわよ。もうたくさん、なんて断っているお嬢さんや何か、あれは、ただ、色気があるから体裁をつくろっているだけなのよ。私なら、いくらでも食べられるわよ。」
原文を見る
「ケチねえ、あなたは。女は、たいてい、これくらい食うの普通だわよ。もうたくさん、なんて断っているお嬢さんや何か、あれは、ただ、色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。私なら、いくらでも、食べられるわよ。」
「いや、もういいだろう。ここの店は、あまり安くないんだよ。君は、いつも、こんなにたくさん食べるのかね。」
原文を見る
「いや、もういいだろう。ここの店は、あまり安くないんだよ。君は、いつも、こんなにたくさん食べるのかね。」
「じょうだんじゃない。人にごちそうしてもらう時だけよ。」
原文を見る
「じょうだんじゃない。ひとのごちそうになる時だけよ。」
「それじゃね、これから、いくらでも君に食べさせるから、ぼくの頼み事も聞いてくれ。」
原文を見る
「それじゃね、これから、いくらでも君に食べさせるから、ぼくの頼み事も聞いてくれ。」
「でも、私の仕事を休まなければならないんだから、損よ。」
原文を見る
「でも、私の仕事を休まなければならないんだから、損よ。」
「それは別に支払う。君のあの商売で儲けるぶんくらいは、その都度きちんと支払う。」
原文を見る
「それは別に支払う。君のれいの商売で、儲けるぶんくらいは、その都度きちんと支払う。」
「ただ、あなたについて歩いていたら、いいの?」
原文を見る
「ただ、あなたについて歩いていたら、いいの?」
「まあ、そうだ。ただし、条件が二つある。よその女の人の前では一言もものを言ってくれるな。たのむぜ。笑ったり、うなずいたり、首を振ったり、まあ、せいぜいそれくらいのところにしていただく。もう一つは、人の前でものを食べないこと。ぼくと二人きりになったら、そりゃ、いくら食べてもかまわないけど、人の前では、まずお茶一杯くらいのところにしてもらいたい。」
原文を見る
「まあ、そうだ。ただし、条件が二つある。よその女のひとの前では一言も、ものを言ってくれるな。たのむぜ。笑ったり、うなずいたり、首を振ったり、まあ、せいぜいそれくらいのところにしていただく。もう一つは、ひとの前で、ものを食べない事。ぼくと二人きりになったら、そりゃ、いくら食べてもかまわないけど、ひとの前では、まずお茶一ぱいくらいのところにしてもらいたい。」
「その他、お金もくれるんでしょう? あなたは、ケチで、ごまかすから。」
原文を見る
「その他、お金もくれるんでしょう? あなたは、ケチで、ごまかすから。」
「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
原文を見る
「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
「フクスイの陣って、とこね。」
原文を見る
「フクスイの陣って、とこね。」
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
原文を見る
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
「あら、そう?」
原文を見る
「あら、そう?」
けろりとしている。
原文を見る
けろりとしている。
田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。
原文を見る
田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。
しかし、美しい。
原文を見る
しかし、美しい。
りんとして、この世のものとも思えない気品がある。
原文を見る
りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。
トンカツ。
原文を見る
トンカツ。
鶏のコロッケ。
原文を見る
鶏のコロッケ。
マグロの刺身。
原文を見る
マグロの刺身。
イカの刺身。
原文を見る
イカの刺身。
中華そば。
原文を見る
支那そば。
ウナギ。
原文を見る
ウナギ。
よせなべ。
原文を見る
よせなべ。
牛の串焼き。
原文を見る
牛の串焼。
にぎりずしの盛合わせ。
原文を見る
にぎりずしの盛合せ。
海老サラダ。
原文を見る
海老サラダ。
イチゴミルク。
原文を見る
イチゴミルク。
その上、キントンをご所望とは。
原文を見る
その上、キントンを所望とは。
まさか女は誰でも、こんなに食べはしないだろう。
原文を見る
まさか女は誰でも、こんなに食うまい。
いや、それとも?
原文を見る
いや、それとも?
行進 (四)
原文を見る
行進 (四)
キヌ子のアパートは世田谷方面にあって、朝はいつものかつぎの商売に出るので、午後二時以降ならたいていひまだという。
原文を見る
キヌ子のアパートは、世田谷方面にあって、朝はれいの、かつぎの商売に出るので、午後二時以後なら、たいていひまだという。
田島は、そこへ一週間にいちどくらい、お互いの都合のいい日に電話をかけて連絡をし、そうしてどこかで落ち合って、二人そろって別離の相手の女のところへ向かって行進することをキヌ子と約束する。
原文を見る
田島は、そこへ、一週間にいちどくらい、みなの都合のいいような日に、電話をかけて連絡をして、そうしてどこかで落ち合せ、二人そろって別離の相手の女のところへ向って行進することをキヌ子と約す。
そうして数日後、二人の行進は、日本橋のあるデパート内の美容室に向かって開始されることになる。
原文を見る
そうして、数日後、二人の行進は、日本橋のあるデパート内の美容室に向って開始せられる事になる。
おしゃれな田島は、一昨年の冬、ふらりとこの美容室に立ち寄って、パーマをかけてもらったことがある。
原文を見る
おしゃれな田島は、一昨年の冬、ふらりとこの美容室に立ち寄って、パーマネントをしてもらった事がある。
そこの「先生」
原文を見る
そこの「先生」
は、青木さんといって三十歳前後の、いわゆる戦争未亡人である。
原文を見る
は、青木さんといって三十歳前後の、いわゆる戦争未亡人である。
ひっかけるなどというのではなく、むしろ女のほうから田島について来たような形であった。
原文を見る
ひっかけるなどというのではなく、むしろ女のほうから田島について来たような形であった。
青木さんはそのデパートの築地の寮から日本橋のお店に通っているのだが、収入は女ひとりの生活にやっとというところ。
原文を見る
青木さんは、そのデパートの築地の寮から日本橋のお店にかよっているのであるが、収入は、女ひとりの生活にやっとというところ。
そこで田島がその生活費の補助をすることになり、いまでは築地の寮でも、田島と青木さんとの仲は公認されている。
原文を見る
そこで、田島はその生活費の補助をするという事になり、いまでは、築地の寮でも、田島と青木さんとの仲は公認せられている。
けれども田島は、青木さんの働いている日本橋のお店に顔を出すことはめったにない。
原文を見る
けれども、田島は、青木さんの働いている日本橋のお店に顔を出す事はめったに無い。
田島のようなあか抜けた美男子が出入りしては、やはり彼女の営業を妨げるに違いないと、田島自身が考えているのである。
原文を見る
田島の如きあか抜けた好男子の出没は、やはり彼女の営業を妨げるに違いないと、田島自身が考えているのである。
それが、いきなり、すごい美人を連れて彼女のお店にあらわれる。
原文を見る
それが、いきなり、すごい美人を連れて、彼女のお店にあらわれる。
「こんちは。」
原文を見る
「こんちは。」
というあいさつさえもよそよそしく、「きょうは女房を連れて来ました。疎開先から、こんど呼び寄せたのです。」
原文を見る
というあいさつさえも、よそよそしく、「きょうは女房を連れて来ました。疎開先から、こんど呼び寄せたのです。」
それだけで十分。
原文を見る
それだけで十分。
青木さんも目もと涼しく、肌が白くやわらかで、愚かしいところのないかなりの美人ではあったが、キヌ子と並べると、まるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。
原文を見る
青木さんも、目もと涼しく、肌が白くやわらかで、愚かしいところの無いかなりの美人ではあったが、キヌ子と並べると、まるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。
二人の美人は、無言であいさつを交わした。
原文を見る
二人の美人は、無言で挨拶を交した。
青木さんは、もう卑屈な泣きべそのような顔になっている。
原文を見る
青木さんは、既に卑屈な泣きべそみたいな顔になっている。
もはや、勝敗は明らかであった。
原文を見る
もはや、勝敗の数は明かであった。
前にも言ったように、田島は女に対して律儀な一面も持っていて、これまで女に、自分が独身だなどとウソをついたことがない。
原文を見る
前にも言ったように、田島は女に対して律儀な一面も持っていて、いまだ女に、自分が独身だなどとウソをついた事が無い。
田舎に妻子を疎開させてあるということは、はじめから皆に打ち明けてある。
原文を見る
田舎に妻子を疎開させてあるという事は、はじめから皆に打明けてある。
それが、いよいよ夫のもとに帰って来た。
原文を見る
それが、いよいよ夫の許に帰って来た。
しかも、その奥さんというのが、若くて、高貴で、教養もゆたかそうな絶世の美人。
原文を見る
しかも、その奥さんたるや、若くて、高貴で、教養のゆたからしい絶世の美人。
さすがの青木さんも、泣きべそ以外に手がなかった。
原文を見る
さすがの青木さんも、泣きべそ以外、てが無かった。
「女房の髪をね、一つ、いじってやって下さい。」
原文を見る
「女房の髪をね、一つ、いじってやって下さい。」
と田島は調子に乗り、完全にとどめを刺そうとする。
原文を見る
と田島は調子に乗り、完全にとどめを刺そうとする。
「銀座にも、どこにも、あなたほどの腕前の人はいないってうわさですからね。」
原文を見る
「銀座にも、どこにも、あなたほどの腕前のひとは無いってうわさですからね。」
それは、しかし、まるっきりお世辞でもなかった。
原文を見る
それは、しかし、あながちお世辞でも無かった。
事実、すばらしく腕のいい美容師であった。
原文を見る
事実、すばらしく腕のいい美容師であった。
キヌ子は鏡に向かって腰をおろす。
原文を見る
キヌ子は鏡に向って腰をおろす。
青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほど一杯。
原文を見る
青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほど一ぱい。
キヌ子は平然。
原文を見る
キヌ子は平然。
かえって、田島は席をはずした。
原文を見る
かえって、田島は席をはずした。
行進 (五)
原文を見る
行進 (五)
セットの終わった頃、田島は、そっとまた美容室に入って来て、三センチくらいの厚さの紙幣の束を、美容師の白い上着のポケットに滑りこませ、ほとんど祈るような気持ちで、
原文を見る
セットの終ったころ、田島は、そっとまた美容室にはいって来て、一すんくらいの厚さの紙幣のたばを、美容師の白い上衣のポケットに滑りこませ、ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
原文を見る
「グッド・バイ。」
とささやき、その声は自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。
原文を見る
とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。
キヌ子は無言で立ち上がる。
原文を見る
キヌ子は無言で立上る。
青木さんも無言で、キヌ子のスカートなど直してやる。
原文を見る
青木さんも無言で、キヌ子のスカートなど直してやる。
田島は、一足さきに外に飛び出す。
原文を見る
田島は、一足さきに外に飛び出す。
ああ、別れは、くるしい。
原文を見る
ああ、別離は、くるしい。
キヌ子は無表情で、あとからやって来て、
原文を見る
キヌ子は無表情で、あとからやって来て、
「そんなに、うまくもないじゃないの。」
原文を見る
「そんなに、うまくも無いじゃないの。」
「何が?」
原文を見る
「何が?」
「パーマ。」
原文を見る
「パーマ。」
バカ野郎!
原文を見る
バカ野郎!
とキヌ子を怒鳴ってやりたくなったが、しかし、デパートの中なので、こらえた。
原文を見る
とキヌ子を怒鳴ってやりたくなったが、しかし、デパートの中なので、こらえた。
青木という女は、他人の悪口など決して言わなかった。
原文を見る
青木という女は、他人の悪口など決して言わなかった。
お金もほしがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。
原文を見る
お金もほしがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。
「これで、もう、おしまい?」
原文を見る
「これで、もう、おしまい?」
「そう。」
原文を見る
「そう。」
田島は、ただもう、やたらにわびしい。
原文を見る
田島は、ただもう、やたらにわびしい。
「あんなことで、もう、わかれてしまうなんて、あの子も意気地がないね。ちょっと、べっぴんさんじゃないか。あのくらいの器量なら、……」
原文を見る
「あんな事で、もう、わかれてしまうなんて、あの子も、意久地が無いね。ちょっと、べっぴんさんじゃないか。あのくらいの器量なら、……」
「やめろ! あの子だなんて、失敬な呼び方は、よしてくれ。おとなしい人なんだよ、あの人は。君なんかとは、違うんだ。とにかく、黙っていてくれ。君のそのカラスの声みたいなのを聞いていると、気が狂いそうになる。」
原文を見る
「やめろ! あの子だなんて、失敬な呼び方は、よしてくれ。おとなしいひとなんだよ、あのひとは。君なんかとは、違うんだ。とにかく、黙っていてくれ。君のその鴉の声みたいなのを聞いていると、気が狂いそうになる。」
「おやおや、おそれいりまめ。」
原文を見る
「おやおや、おそれいりまめ。」
わあ!
原文を見る
わあ!
何という下品な駄じゃれ。
原文を見る
何というゲスな駄じゃれ。
全く、田島は気が狂いそう。
原文を見る
全く、田島は気が狂いそう。
田島は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には彼の財布をあらかじめ女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、大らかな態度を装うのである。
原文を見る
田島は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には、彼の財布を前以て女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、おうようの態度を装うのである。
しかし、いままで、どの女も彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。
原文を見る
しかし、いままで、どの女も、彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。
けれども、おそれいりまめ女史は、平気でそれをやった。
原文を見る
けれども、おそれいりまめ女史は、平気でそれをやった。
デパートには、いくらでも高価なものがある。
原文を見る
デパートには、いくらでも高価なものがある。
堂々と、ためらわず、いわゆる高級品を選び出し、しかも、それは不思議なくらい優雅で、趣味のよい品物ばかりである。
原文を見る
堂々と、ためらわず、いわゆる高級品を選び出し、しかも、それは不思議なくらい優雅で、趣味のよい品物ばかりである。
「いい加減に、やめてくれねえかなあ。」
原文を見る
「いい加減に、やめてくれねえかなあ。」
「ケチねえ。」
原文を見る
「ケチねえ。」
「これから、また何か、食うんだろう?」
原文を見る
「これから、また何か、食うんだろう?」
「そうね、きょうは、我慢してあげるわ。」
原文を見る
「そうね、きょうは、我慢してあげるわ。」
「財布をかえしてくれ。これからは、五千円以上、使ってはいかん。」
原文を見る
「財布をかえしてくれ。これからは、五千円以上、使ってはならん。」
いまは、虚栄もクソもあったものではない。
原文を見る
いまは、虚栄もクソもあったものでない。
「そんなには、使わないわ。」
原文を見る
「そんなには、使わないわ。」
「いや、使った。あとでぼくが残金を調べてみれば、わかる。一万円以上は、たしかに使った。こないだの料理だって安くなかったんだぜ。」
原文を見る
「いや、使った。あとでぼくが残金を調べてみれば、わかる。一万円以上は、たしかに使った。こないだの料理だって安くなかったんだぜ。」
「そんなら、やめたら、どう? 私だって何も、すき好んで、あなたについて歩いているんじゃないわよ。」
原文を見る
「そんなら、よしたら、どう? 私だって何も、すき好んで、あなたについて歩いているんじゃないわよ。」
脅迫にちかい。
原文を見る
脅迫にちかい。
田島は、ため息をつくばかり。
原文を見る
田島は、ため息をつくばかり。
怪力 (一)
原文を見る
怪力 (一)
しかし、田島だって、もともとただ者ではないのである。
原文を見る
しかし、田島だって、もともとただものでは無いのである。
闇商売の手伝いをして、一挙に数十万は楽に儲けるという、いわば目から鼻へ抜けるほどの切れ者であった。
原文を見る
闇商売の手伝いをして、一挙に数十万は楽にもうけるという、いわば目から鼻に抜けるほどの才物であった。
キヌ子にさんざんムダ使いされて、黙って広い心で許すという美徳を示しているなんて、とてもそんなことの出来る性格ではなかった。
原文を見る
キヌ子にさんざんムダ使いされて、黙って海容の美徳を示しているなんて、とてもそんな事の出来る性格ではなかった。
何か、それ相当のお返しをいただかなければ、どうしたって、気がすまない。
原文を見る
何か、それ相当のお返しをいただかなければ、どうしたって、気がすまない。
あんちきしょう!
原文を見る
あんちきしょう!
生意気だ。
原文を見る
生意気だ。
ものにしてやれ。
原文を見る
ものにしてやれ。
別離の行進は、それから後のことだ。
原文を見る
別離の行進は、それから後の事だ。
まず、あいつを完全に征服して、遠慮深くて従順で質素で小食の女に変えてしまい、そのうえでまた行進を続行する。
原文を見る
まず、あいつを完全に征服し、あいつを遠慮深くて従順で質素で小食の女に変化させ、しかるのちにまた行進を続行する。
いまのままだと、とにかく金がかかって、行進の続行が不可能だ。
原文を見る
いまのままだと、とにかく金がかかって、行進の続行が不可能だ。
勝負の秘訣。
原文を見る
勝負の秘訣。
敵をこちらに近づけてはならない、こちらから敵に近づくべし。
原文を見る
敵をして近づかしむべからず、敵に近づくべし。
彼は、電話帳でキヌ子のアパートの住所を調べ、ウイスキー一本とピーナツを二袋だけ買い求め、腹がへったらキヌ子に何かおごらせてやろうという下心、そうしてウイスキーをがぶがぶ飲んで、酔いつぶれた振りをして寝てしまえば、あとは、こっちのものだ。
原文を見る
彼は、電話の番号帳により、キヌ子のアパートの所番地を調べ、ウイスキイ一本とピイナツを二袋だけ買い求め、腹がへったらキヌ子に何かおごらせてやろうという下心、そうしてウイスキイをがぶがぶ飲んで、酔いつぶれた振りをして寝てしまえば、あとは、こっちのものだ。
だいいち、ひどく安上がりである。
原文を見る
だいいち、ひどく安上りである。
部屋代も要らない。
原文を見る
部屋代も要らない。
女に対して常に自信満々の田島ともあろう者が、こんな乱暴で恥知らずの、えげつない攻略の仕方を考えつくとは、よっぽど彼はどうかしている。
原文を見る
女に対して常に自信満々の田島ともあろう者が、こんな乱暴な恥知らずの、エゲツない攻略の仕方を考えつくとは、よっぽど、かれ、どうかしている。
あまりにキヌ子にむだ使いされたので、狂うような気持ちになっているのかも知れない。
原文を見る
あまりに、キヌ子にむだ使いされたので、狂うような気持になっているのかも知れない。
色欲を慎むべきなのはもちろんだが、人間、あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取ることばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。
原文を見る
色慾のつつしむべきも、さる事ながら、人間あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取る事ばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。
田島は、キヌ子を憎むあまりに、ほとんど人間ばなれのしたケチで卑しい計画を立て、その結果、死ぬほどの大難に遭うことになった。
原文を見る
田島は、キヌ子を憎むあまりに、ほとんど人間ばなれのしたケチな卑しい計画を立て、果して、死ぬほどの大難に逢うに到った。
夕方、田島は、世田谷のキヌ子のアパートを捜し当てた。
原文を見る
夕方、田島は、世田谷のキヌ子のアパートを捜し当てた。
古い木造の陰気くさい二階建てのアパートである。
原文を見る
古い木造の陰気くさい二階建のアパートである。
キヌ子の部屋は、階段をのぼってすぐ突き当たりにあった。
原文を見る
キヌ子の部屋は、階段をのぼってすぐ突当りにあった。
ノックする。
原文を見る
ノックする。
「だれ?」
原文を見る
「だれ?」
中から、いつものカラス声。
原文を見る
中から、れいの鴉声。
ドアをあけて、田島はおどろき、立ちすくむ。
原文を見る
ドアをあけて、田島はおどろき、立ちすくむ。
乱雑。
原文を見る
乱雑。
悪臭。
原文を見る
悪臭。
ああ、荒涼。
原文を見る
ああ、荒涼。
四畳半。
原文を見る
四畳半。
その畳の表は真っ黒く光り、波のように高低があり、縁なんてその痕跡さえとどめていない。
原文を見る
その畳の表は真黒く光り、波の如く高低があり、縁なんてその痕跡をさえとどめていない。
部屋いっぱいに、いつものかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場もないくらいに、ぬらぬらと散らばっている。
原文を見る
部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場も無いくらいに、ぬらついて散らばっている。
「なんだ、あなたか。なぜ、来たの?」
原文を見る
「なんだ、あなたか。なぜ、来たの?」
そのまた、キヌ子の服装ときたら、数年前に見た時のあの乞食姿、ドロドロによごれたモンペをはき、まったく、男か女か、わからないような感じ。
原文を見る
そのまた、キヌ子の服装たるや、数年前に見た時の、あの乞食姿、ドロドロによごれたモンペをはき、まったく、男か女か、わからないような感じ。
部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスターがたった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。
原文を見る
部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスター、たった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。
カーテンさえない。
原文を見る
カーテンさえ無い。
これが、二十五、六の娘の部屋か。
原文を見る
これが、二十五、六の娘の部屋か。
小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。
原文を見る
小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。
怪力 (二)
原文を見る
怪力 (二)
「あそびに来たのだけどね、」
原文を見る
「あそびに来たのだけどね、」
と田島は、むしろ恐怖におそわれ、キヌ子と同じようなカラス声になり、「でも、また出直して来てもいいんだよ。」
原文を見る
と田島は、むしろ恐怖におそわれ、キヌ子同様の鴉声になり、「でも、また出直して来てもいいんだよ。」
「何か、魂胆があるんだわ。むだには歩かない人なんだから。」
原文を見る
「何か、こんたんがあるんだわ。むだには歩かないひとなんだから。」
「いや、きょうは、本当に、……」
原文を見る
「いや、きょうは、本当に、……」
「もっと、さっぱりなさいよ。あなた、少しニヤけすぎてよ。」
原文を見る
「もっと、さっぱりなさいよ。あなた、少しニヤケ過ぎてよ。」
それにしても、ひどい部屋だ。
原文を見る
それにしても、ひどい部屋だ。
ここで、あのウイスキーを飲まなければならないのか。
原文を見る
ここで、あのウイスキイを飲まなければならぬのか。
ああ、もっと安いウイスキーを買って来るべきであった。
原文を見る
ああ、もっと安いウイスキイを買って来るべきであった。
「ニヤけているんじゃない。キレイというものなんだ。君は、きょうはまた、きたな過ぎるじゃないか。」
原文を見る
「ニヤケているんじゃない。キレイというものなんだ。君は、きょうはまた、きたな過ぎるじゃないか。」
にがり切って言った。
原文を見る
にがり切って言った。
「きょうはね、ちょっと重いものを背負ったから、少し疲れて、いままで昼寝をしていたの。ああ、そう、いいものがある。お部屋へあがったらどう? 割に安いのよ。」
原文を見る
「きょうはね、ちょっと重いものを背負ったから、少し疲れて、いままで昼寝をしていたの。ああ、そう、いいものがある。お部屋へあがったらどう? 割に安いのよ。」
どうやら商売の話らしい。
原文を見る
どうやら商売の話らしい。
儲け口なら、部屋の汚さなど問題でない。
原文を見る
もうけ口なら、部屋の汚なさなど問題でない。
田島は、靴を脱ぎ、畳の比較的無難なところを選んで、コートのままあぐらをかいて座る。
原文を見る
田島は、靴を脱ぎ、畳の比較的無難なところを選んで、外套のままあぐらをかいて坐る。
「あなた、カラスミなんか、好きでしょう? 酒飲みだから。」
原文を見る
「あなた、カラスミなんか、好きでしょう? 酒飲みだから。」
「大好物だ。ここにあるのかい? ごちそうになろう。」
原文を見る
「大好物だ。ここにあるのかい? ごちそうになろう。」
「冗談じゃない。お出しなさい。」
原文を見る
「冗談じゃない。お出しなさい。」
キヌ子は、臆面もなく、右の手のひらを田島の鼻先に突き出す。
原文を見る
キヌ子は、おくめんも無く、右の手のひらを田島の鼻先に突き出す。
田島は、うんざりしたように口をゆがめて、
原文を見る
田島は、うんざりしたように口をゆがめて、
「君のすることなすことを見ていると、まったく、人生がはかなくなるよ。その手は、ひっこめてくれ。カラスミなんて、要らねえや。あれは、馬が食うもんだ。」
原文を見る
「君のする事なす事を見ていると、まったく、人生がはかなくなるよ。その手は、ひっこめてくれ。カラスミなんて、要らねえや。あれは、馬が食うもんだ。」
「安くしてあげるったら、ばかねえ。おいしいのよ、本場ものだから。じたばたしないで、お出し。」
原文を見る
「安くしてあげるったら、ばかねえ。おいしいのよ、本場ものだから。じたばたしないで、お出し。」
体をゆすって、手のひらを引っ込めそうもない。
原文を見る
からだをゆすって、手のひらを引込めそうも無い。
不幸にして、田島はカラスミが実に全く大好物で、ウイスキーのつまみにあれがあると、もう何も要らない。
原文を見る
不幸にして、田島は、カラスミが実に全く大好物、ウイスキイのさかなに、あれがあると、もう何も要らん。
「少し、もらおうか。」
原文を見る
「少し、もらおうか。」
田島は腹立たしそうに、キヌ子の手のひらに、大きい紙幣を三枚、載せてやる。
原文を見る
田島はいまいましそうに、キヌ子の手のひらに、大きい紙幣を三枚、載せてやる。
「もう四枚。」
原文を見る
「もう四枚。」
キヌ子は平然という。
原文を見る
キヌ子は平然という。
田島はおどろき、
原文を見る
田島はおどろき、
「バカ野郎、いい加減にしろ。」
原文を見る
「バカ野郎、いい加減にしろ。」
「ケチねえ、一ハラ気前よく買いなさい。鰹節を半分に切って買うみたい。ケチねえ。」
原文を見る
「ケチねえ、一ハラ気前よく買いなさい。鰹節を半分に切って買うみたい。ケチねえ。」
「よし、一ハラ買う。」
原文を見る
「よし、一ハラ買う。」
さすがのニヤけ男の田島も、ここに至って心から怒り、
原文を見る
さすが、ニヤケ男の田島も、ここに到って、しんから怒り、
「そら、一枚、二枚、三枚、四枚。これでいいだろう。手をひっこめろ。君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見たいや。」
原文を見る
「そら、一枚、二枚、三枚、四枚。これでいいだろう。手をひっこめろ。君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見たいや。」
「私も見たいわ。そうして、ぶってやりたいわ。捨てりゃ、ネギでも、しおれて枯れる、ってさ。」
原文を見る
「私も見たいわ。そうして、ぶってやりたいわ。捨てりゃ、ネギでも、しおれて枯れる、ってさ。」
「なんだ、身の上話はつまらん。コップを貸してくれ。これから、ウイスキーとカラスミだ。うん、ピーナツもある。これは、君にあげる。」
原文を見る
「なんだ、身の上話はつまらん。コップを借してくれ。これから、ウイスキイとカラスミだ。うん、ピイナツもある。これは、君にあげる。」
怪力 (三)
原文を見る
怪力 (三)
田島は、ウイスキーを大きいコップで、ぐい、ぐい、と二息で飲みほす。
原文を見る
田島は、ウイスキイを大きいコップで、ぐい、ぐい、と二挙動で飲みほす。
きょうこそは、何とかしてキヌ子におごらせてやろうという下心で来たのに、逆にいわゆる「本場もの」
原文を見る
きょうこそは、何とかしてキヌ子におごらせてやろうという下心で来たのに、逆にいわゆる「本場もの」
のおそろしく高いカラスミを買わされ、しかも、キヌ子は惜しげもなくその一ハラのカラスミを全部、あっと思う間もなくざくざく切ってしまって汚いドンブリに山盛りにして、それに代用味の素をどっさり振りかけ、
原文を見る
のおそろしく高いカラスミを買わされ、しかも、キヌ子は惜しげも無くその一ハラのカラスミを全部、あっと思うまもなくざくざく切ってしまって汚いドンブリに山盛りにして、それに代用味の素をどっさり振りかけ、
「召し上がれ。味の素は、サービスよ。気にしなくたっていいわよ。」
原文を見る
「召し上れ。味の素は、サーヴィスよ。気にしなくたっていいわよ。」
カラスミを、こんなにたくさん、とても食べられるものではない。
原文を見る
カラスミ、こんなにたくさん、とても食べられるものでない。
それにまた、味の素を振りかけるとは滅茶苦茶だ。
原文を見る
それにまた、味の素を振りかけるとは滅茶苦茶だ。
田島は悲痛な顔つきになる。
原文を見る
田島は悲痛な顔つきになる。
七枚の紙幣をろうそくの火で燃やしたって、これほど痛烈な損失感は覚えないだろう。
原文を見る
七枚の紙幣をろうそくの火でもやしたって、これほど痛烈な損失感を覚えないだろう。
実に、ムダだ。
原文を見る
実に、ムダだ。
意味がない。
原文を見る
意味無い。
山盛りの底のほうの、代用味の素の振りかかっていない一片のカラスミを、田島は、泣きたいような気持ちで、つまみ上げて食べながら、
原文を見る
山盛りの底のほうの、代用味の素の振りかかっていない一片のカラスミを、田島は、泣きたいような気持で、つまみ上げて食べながら、
「君は、自分で料理をしたことある?」
原文を見る
「君は、自分でお料理した事ある?」
と、いまはおっかなびっくりで尋ねる。
原文を見る
と今は、おっかなびっくりで尋ねる。
「やれば出来るわよ。めんどうくさいからしないだけ。」
原文を見る
「やれば出来るわよ。めんどうくさいからしないだけ。」
「お洗濯は?」
原文を見る
「お洗濯は?」
「バカにしないでよ。私は、どっちかと言えば、きれい好きなほうだわ。」
原文を見る
「バカにしないでよ。私は、どっちかと言えば、きれいずきなほうだわ。」
「きれい好き?」
原文を見る
「きれいずき?」
田島はぼう然と、荒涼、悪臭の部屋を見回す。
原文を見る
田島はぼう然と、荒涼、悪臭の部屋を見廻す。
「この部屋は、もとから汚くて、手がつけられないのよ。それに私の商売が商売だから、どうしたって、部屋の中がちらかってね。見せましょうか、押入れの中を。」
原文を見る
「この部屋は、もとから汚くて、手がつけられないのよ。それに私の商売が商売だから、どうしたって、部屋の中がちらかってね。見せましょうか、押入れの中を。」
立って押入れを、さっとあけて見せる。
原文を見る
立って押入れを、さっとあけて見せる。
田島は眼をみはる。
原文を見る
田島は眼をみはる。
清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくとした香りが立ちのぼるくらい。
原文を見る
清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくたる香気が発するくらい。
タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、かわいらしく小さい靴が三足、つまりその押入れこそ、カラス声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。
原文を見る
タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、可憐に小さい靴が三足、つまりその押入れこそ、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。
すぐにまた、ぴしゃりと押入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れてだらしなく座り、
原文を見る
すぐにまた、ぴしゃりと押入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れて居汚く坐り、
「おしゃれなんか、一週間にいちどくらいでたくさん。べつに男に好かれようとも思わないし、ふだん着は、これくらいで、ちょうどいいのよ。」
原文を見る
「おしゃれなんか、一週間にいちどくらいでたくさん。べつに男に好かれようとも思わないし、ふだん着は、これくらいで、ちょうどいいのよ。」
「でも、そのモンペは、ひどすぎるんじゃないか? 非衛生的だ。」
原文を見る
「でも、そのモンペは、ひどすぎるんじゃないか? 非衛生的だ。」
「なぜ?」
原文を見る
「なぜ?」
「くさい。」
原文を見る
「くさい。」
「上品ぶったって、ダメよ。あなただって、いつも酒くさいじゃないの。いやな、におい。」
原文を見る
「上品ぶったって、ダメよ。あなただって、いつも酒くさいじゃないの。いやな、におい。」
「くさい仲、というものさね。」
原文を見る
「くさい仲、というものさね。」
酔うにつれて、荒涼とした部屋の有様も、またキヌ子の乞食のような姿もあまり気にならなくなり、ひとつこれは、当初のあのプランを実行してみようかという悪心がむらむら起こる。
原文を見る
酔うにつれて、荒涼たる部屋の有様も、またキヌ子の乞食の如き姿も、あまり気にならなくなり、ひとつこれは、当初のあのプランを実行して見ようかという悪心がむらむら起る。
「ケンカするほど深い仲、ってね。」
原文を見る
「ケンカするほど深い仲、ってね。」
とは、また、下手な口説き方。
原文を見る
とはまた、下手な口説きよう。
しかし、男はこんな場合、たとえ大人物、大学者と言われているほどの人でも、こういうアホらしい口説き方をして、しかも案外に成功しているものである。
原文を見る
しかし、男は、こんな場合、たとい大人物、大学者と言われているほどのひとでも、かくの如きアホーらしい口説き方をして、しかも案外に成功しているものである。
怪力 (四)
原文を見る
怪力 (四)
「ピアノが聞こえるね。」
原文を見る
「ピアノが聞えるね。」
彼は、いよいよキザになる。
原文を見る
彼は、いよいよキザになる。
眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
原文を見る
眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」
原文を見る
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らないな、君は。名曲ならば、一日中でも聞いていたい。」
原文を見る
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」
「あの曲は、何?」
原文を見る
「あの曲は、何?」
「ショパン。」
原文を見る
「ショパン。」
でたらめ。
原文を見る
でたらめ。
「へえ? 私は越後獅子かと思った。」
原文を見る
「へえ? 私は越後獅子かと思った。」
音痴同士のトンチンカンな会話。
原文を見る
音痴同志のトンチンカンな会話。
どうも、気持ちが浮き立たないので、田島は、すばやく話題を変える。
原文を見る
どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛したことは、あるだろうね。」
原文を見る
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」
原文を見る
「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。下品なやつだ。」
原文を見る
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
急に不快になって、さらにウイスキーをがぶりと飲む。
原文を見る
急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。
こりゃ、もう駄目かも知れない。
原文を見る
こりゃ、もう駄目かも知れない。
しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。
原文を見る
しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。
どうしても、ねばって成功しなければならない。
原文を見る
どうしても、ねばって成功しなければならぬ。
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らないらしいね。教えてあげましょうかね。」
原文を見る
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。
原文を見る
自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。
これは、いかん。
原文を見る
これは、いかん。
少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
原文を見る
少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっ腹に飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
原文を見る
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
原文を見る
「だめよ!」
カラス声が、野太い怒鳴り声に変わった。
原文を見る
鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」
原文を見る
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」
すべて、失敗である。
原文を見る
すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒ることは無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
原文を見る
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
原文を見る
「だめ、だめ、お帰り。」
キヌ子は立って、ドアを開け放す。
原文を見る
キヌ子は立って、ドアを開け放す。
田島は追い詰められて、最もぶざまで下手くそな手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。
原文を見る
田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。
グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという、はなはだ奇怪な悲鳴を挙げた。
原文を見る
グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。
その瞬間、田島は、四十キロを楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、ぞっとして、
原文を見る
その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
原文を見る
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
とわけのわからないことを叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
原文を見る
とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
原文を見る
キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
しばらくして、ドアの外で、
原文を見る
しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」
原文を見る
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」
色男としての歴史において、かつてなかった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えながら、彼はキヌ子から恵んでもらった赤いテープで眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
原文を見る
色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがとう!」
原文を見る
「ありがとう!」
ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
原文を見る
ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
コールド・ウォー (一)
原文を見る
コールド・ウォー (一)
田島は、しかし、永井キヌ子に投じた資本が、惜しくてならない。
原文を見る
田島は、しかし、永井キヌ子に投じた資本が、惜しくてならぬ。
こんな、割の合わない商売をしたことが無い。
原文を見る
こんな、割の合わぬ商売をした事が無い。
何とかして、彼女を利用し活用し、モトをとらなければ、ウソだ。
原文を見る
何とかして、彼女を利用し活用し、モトをとらなければ、ウソだ。
しかし、あの怪力、あの大食い、あの強欲。
原文を見る
しかし、あの怪力、あの大食い、あの強慾。
暖かくなり、さまざまな花が咲きはじめたが、田島ひとりは、すこぶる憂鬱。
原文を見る
あたたかになり、さまざまの花が咲きはじめたが、田島ひとりは、頗る憂鬱。
あの大失敗の夜から、四、五日経ち、眼鏡も新調し、頬のはれも引いてから、彼は、とにかくキヌ子のアパートに電話をかけた。
原文を見る
あの大失敗の夜から、四、五日経ち、眼鏡も新調し、頬のはれも引いてから、彼は、とにかくキヌ子のアパートに電話をかけた。
ひとつ、思想戦に訴えてみようと考えたのである。
原文を見る
ひとつ、思想戦に訴えて見ようと考えたのである。
「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」
原文を見る
「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」
「女がひとりでいるとね、いろんなことがあるわ。気にしてやしません。」
原文を見る
「女がひとりでいるとね、いろんな事があるわ。気にしてやしません。」
「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎から妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、ということですね、これは、道徳上、悪いことでしょうか。」
原文を見る
「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎から妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、という事ですね、これは、道徳上、悪い事でしょうか。」
「あなたの言うこと、何だか、わけがわからないけど、男の人は誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさいことを考えるようになるらしいわ。」
原文を見る
「あなたの言う事、何だか、わけがわからないけど、男のひとは誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。」
「それが、だから、悪いことでしょうか。」
原文を見る
「それが、だから、悪い事でしょうか。」
「けっこうなことじゃないの。どうも、よっぽどあなたは、ためたな?」
原文を見る
「けっこうな事じゃないの。どうも、よっぽどあなたは、ためたな?」
「お金のことばかり言ってないで、……道徳のね、つまり、思想上のね、その問題なんですがね、君はどう考えますか?」
原文を見る
「お金の事ばかり言ってないで、……道徳のね、つまり、思想上のね、その問題なんですがね、君はどう考えますか?」
「何も考えないわ。あなたのことなんか。」
原文を見る
「何も考えないわ。あなたの事なんか。」
「それは、まあ、もちろんそういうものでしょうが、僕はね、これはね、いいことだと思うんです。」
原文を見る
「それは、まあ、無論そういうものでしょうが、僕はね、これはね、いい事だと思うんです。」
「そんなら、それで、いいじゃないの? 電話を切るわよ。そんな無駄話は、いや。」
原文を見る
「そんなら、それで、いいじゃないの? 電話を切るわよ。そんな無駄話は、いや。」
「しかし、僕にとっては、本当に死活の大問題なんです。僕は、道徳は、やはり重んじなければならない、と思っているんです。たすけて下さい、僕を、たすけて下さい。僕は、いいことをしたいんです。」
原文を見る
「しかし、僕にとっては、本当に死活の大問題なんです。僕は、道徳は、やはり重んじなけりゃならん、と思っているんです。たすけて下さい、僕を、たすけて下さい。僕は、いい事をしたいんです。」
「へんねえ。また酔った振りなんかして、ばかな真似をしようとしているんじゃないでしょうね。あれは、ごめんですよ。」
原文を見る
「へんねえ。また酔った振りなんかして、ばかな真似をしようとしているんじゃないでしょうね。あれは、ごめんですよ。」
「からかっちゃいけません。人間には皆、善いことを行おうとする本能がある。」
原文を見る
「からかっちゃいけません。人間には皆、善事を行おうとする本能がある。」
「電話を切ってもいいんでしょう? 他にもう用なんか無いんでしょう? さっきから、おしっこが出たくて、足踏みしているのよ。」
原文を見る
「電話を切ってもいいんでしょう? 他にもう用なんか無いんでしょう? さっきから、おしっこが出たくて、足踏みしているのよ。」
「ちょっと待って下さい、ちょっと。一日、三千円でどうです。」
原文を見る
「ちょっと待って下さい、ちょっと。一日、三千円でどうです。」
思想戦が、にわかに金の話に変わった。
原文を見る
思想戦にわかに変じて金の話になった。
「ごちそうが、つくの?」
原文を見る
「ごちそうが、つくの?」
「いや、そこを、たすけて下さい。僕もこの頃どうも収入が少なくてね。」
原文を見る
「いや、そこを、たすけて下さい。僕もこの頃どうも収入が少くてね。」
「一本(一万円のこと)でなくちゃ、いや。」
原文を見る
「一本(一万円のこと)でなくちゃ、いや。」
「それじゃ、五千円。そうして下さい。これは、道徳の問題ですからね。」
原文を見る
「それじゃ、五千円。そうして下さい。これは、道徳の問題ですからね。」
「おしっこが出たいのよ。もう、かんにんして。」
原文を見る
「おしっこが出たいのよ。もう、かんにんして。」
「五千円で、たのみます。」
原文を見る
「五千円で、たのみます。」
「ばかねえ、あなたは。」
原文を見る
「ばかねえ、あなたは。」
くつくつ笑う声が聞こえる。
原文を見る
くつくつ笑う声が聞える。
承知の気配だ。
原文を見る
承知の気配だ。
コールド・ウォー (二)
原文を見る
コールド・ウォー (二)
こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与えるほかは、パン一かけら、水一杯もふるまわず、思い切り酷使しなければ、損だ。
原文を見る
こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも饗応せず、思い切り酷使しなければ、損だ。
温情は大の禁物、わが身の破滅。
原文を見る
温情は大の禁物、わが身の破滅。
キヌ子に殴られ、ぎゃっという奇妙な悲鳴を挙げても、田島は、しかし、そのキヌ子の怪力を逆に利用する方法を発見した。
原文を見る
キヌ子に殴られ、ぎゃっという奇妙な悲鳴を挙げても、田島は、しかし、そのキヌ子の怪力を逆に利用する術を発見した。
彼のいわゆる愛人たちの中のひとりに、水原ケイ子という、まだ三十前の、あまり上手でない洋画家がいた。
原文を見る
彼のいわゆる愛人たちの中のひとりに、水原ケイ子という、まだ三十前の、あまり上手でない洋画家がいた。
田園調布のアパートの二部屋を借りて、一つは居間、一つはアトリエに使っていて、田島は、その水原さんがある画家の紹介状を持って、「オベリスク」
原文を見る
田園調布のアパートの二部屋を借りて、一つは居間、一つはアトリエに使っていて、田島は、その水原さんが或る画家の紹介状を持って、「オベリスク」
に、さし絵でもカットでも何でも描かせてほしいと顔を赤らめ、おどおどしながら申し出たのを可愛く思い、わずかずつ彼女の生活を助けてやることにしたのである。
原文を見る
に、さし画でもカットでも何でも描かせてほしいと顔を赤らめ、おどおどしながら申し出たのを可愛く思い、わずかずつ彼女の生計を助けてやる事にしたのである。
物腰がやわらかで、無口で、そうして、ひどい泣き虫の女であった。
原文を見る
物腰がやわらかで、無口で、そうして、ひどい泣き虫の女であった。
けれども、吠え狂うような、はしたない泣き方などは決してしない。
原文を見る
けれども、吠え狂うような、はしたない泣き方などは決してしない。
幼い女の子のようなかわいらしい泣き方なので、まんざらでもない。
原文を見る
童女のような可憐な泣き方なので、まんざらでない。
しかし、たった一つ非常な難点があった。
原文を見る
しかし、たった一つ非常な難点があった。
彼女には、兄があった。
原文を見る
彼女には、兄があった。
長く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者だという話で、骨組みもなかなか頑丈な大男らしく、彼は、はじめてその話をケイ子から聞かされた時には、実に、いやあな気持ちがした。
原文を見る
永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者の由で、骨組もなかなか頑丈の大男らしく、彼は、はじめてその話をケイ子から聞かされた時には、実に、いやあな気持がした。
どうも、この、恋人の兄の軍曹とか伍長とかいうものは、ファウストの昔から、色男にとってはなはだ不吉な存在だということになっている。
原文を見る
どうも、この、恋人の兄の軍曹とか伍長とかいうものは、ファウストの昔から、色男にとって甚だ不吉な存在だという事になっている。
その兄が、最近、シベリア方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に居すわっているらしいのである。
原文を見る
その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。
田島は、その兄と顔を合わせるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、
原文を見る
田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、
「自分は、ケイ子の兄でありますが。」
原文を見る
「自分は、ケイ子の兄でありますが。」
という、いかにも力のありそうな男の強い声。
原文を見る
という、いかにも力のありそうな男の強い声。
やはり、いたのだ。
原文を見る
はたして、いたのだ。
「雑誌社のものですけど、水原先生に、ちょっと、絵の相談、……」
原文を見る
「雑誌社のものですけど、水原先生に、ちょっと、画の相談、……」
語尾が震えている。
原文を見る
語尾が震えている。
「ダメです。風邪をひいて寝ています。仕事は、当分ダメでしょう。」
原文を見る
「ダメです。風邪をひいて寝ています。仕事は、当分ダメでしょう。」
運が悪い。
原文を見る
運が悪い。
ケイ子を引っぱり出すことは、まず不可能らしい。
原文を見る
ケイ子を引っぱり出す事は、まず不可能らしい。
しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。
原文を見る
しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。
それに、ケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が居候しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。
原文を見る
それに、ケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が寄宿しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。
かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。
原文を見る
かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。
病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。
原文を見る
病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。
兵隊の兄も、まさか殴りはしないだろう。
原文を見る
兵隊の兄も、まさか殴りやしないだろう。
あるいは、ケイ子以上に、感激して握手など求めるかも知れない。
原文を見る
或いは、ケイ子以上に、感激し握手など求めるかも知れない。
もし万一、自分に乱暴を働くようだったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。
原文を見る
もし万一、自分に乱暴を働くようだったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。
まさに百パーセントの利用、活用である。
原文を見る
まさに百パーセントの利用、活用である。
「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
原文を見る
「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。
原文を見る
彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。
(未完)
原文を見る
(未完)