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富嶽百景 小学生向け

太宰治だざいおさむ)・1975

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

富士山の頂上の角度は、広重(ひろしげ)の描いた富士山では八十五度、文晁(ぶんちょう)の富士山でも八十四度くらいだ。けれども、陸軍の測量図をもとに東西と南北の断面図を作ってみると、東西の頂角は百二十四度、南北は百十七度になる。

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富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁ぶんてうの富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。

広重や文晁に限らず、たいていの絵に描かれる富士山は、とがった形をしている。

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広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。

頂上が細く、高く、きゃしゃ(ほっそりして弱々しい感じ)に描かれているのだ。

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いただきが、細く、高く、華奢きやしやである。

北斎(ほくさい)にいたっては、頂上の角度がほとんど三十度くらいの、まるでエッフェル塔のような富士山まで描いている。

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北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。

けれども、本当の富士山は鈍角もいいところで、のんびりと広がった形をしている。東西百二十四度、南北百十七度で、決してすらりと高くそびえる山ではない。

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けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。

たとえば私が、インドかどこかの国から突然わし(大きな鳥)にさらわれて、日本の沼津(ぬまづ)あたりの海岸にすとんと落とされ、ふとこの山を見たとしても、それほど驚きはしないだろう。

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たとへば私が、印度インドかどこかの国から、突然、わしにさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。

「ニッポンのフジヤマ」をあらかじめ憧れているからこそ「ワンダフル」なのであって、そうではなく、そんな世間の宣伝をまったく知らない、素朴で純粋な、まっさらな心に、いったいどれだけ訴えかけられるかとなると、この山は少し心細いのである。

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ニツポンのフジヤマを、あらかじめあこがれてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。

低い。

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低い。

すそ野が広がっている割には、低い。

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裾のひろがつてゐる割に、低い。

あれくらいのすそ野を持っている山なら、少なくともあと一・五倍は高くなければいけないはずだ。

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あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。

十国峠(じっこくとうげ)から見た富士山だけは、高かった。

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十国峠から見た富士だけは、高かつた。

あれは、よかった。

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あれは、よかつた。

はじめは雲のせいで頂上が見えず、私はすそ野の傾き具合から判断して、たぶんあのあたりが頂上だろうと、雲の一点に印をつけておいた。そのうち雲が切れて見てみると、違っていた。

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はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。

私があらかじめ印をつけておいたところより、その倍も高いところに、青い頂上がすっと見えたのだ。

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私が、あらかじめしるしをつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。

驚いたというよりも、私は変にくすぐったい気持ちになって、げらげら笑ってしまった。

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おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。

やってくれるな、と思った。

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やつてゐやがる、と思つた。

人は、完全に頼もしいものに出会うと、まずだらしなくげらげら笑ってしまうものらしい。

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人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。

全身のねじがあっけなくゆるんでしまって、変な言い方だが、帯紐(おびひも)をといて笑うといったような感じなのだ。

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全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐おびひもといて笑ふといつたやうな感じである。

皆さんも、もし恋人に会って、会ったとたんに恋人がげらげら笑い出したら、それはめでたいことだ。

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諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。

決して、恋人の失礼な態度をとがめてはいけない。

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必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。

恋人は、君に会って、君の完全な頼もしさを全身に浴びているのだから。

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恋人は、君に逢つて、君の完全のたのもしさを、全身に浴びてゐるのだ。

東京のアパートの窓から見る富士山は、見ていて苦しくなる。

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東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。

冬にはくっきりとよく見える。

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冬には、はつきり、よく見える。

小さくて真っ白な三角が地平線にちょこんと出ていて、それが富士山だ。

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小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。

なんのことはない、クリスマスの飾り菓子のようなものだ。

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なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。

しかも左のほうに肩が傾いていて心細く、船尾のほうからだんだん沈んでいく軍艦の姿に似ている。

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しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。

三年前の冬、私はある人から意外な事実を打ち明けられて、途方に暮れてしまった。

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三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。

その夜、アパートの一部屋で、ひとりでがぶがぶと酒を飲んだ。

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その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。

一睡もせずに、酒を飲み続けた。

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一睡もせず、酒のんだ。

明け方、トイレに立って、アパートのトイレの金網が張られた四角い窓から、富士山が見えた。

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あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。

小さくて真っ白で、左のほうにちょっと傾いていた。あの富士山を私は忘れない。

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小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。

窓の下のアスファルトの道を、魚屋の自転車が勢いよく走っていき、「おう、今朝はやけに富士がはっきり見えるじゃねえか、ひどく寒いや」などとつぶやきを残していった。私は暗いトイレの中に立ちつくし、窓の金網をなでながらじめじめと泣いた。あんな思いは、もう二度と繰り返したくない。

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窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、などつぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。

昭和十三年の初秋、気持ちを新しくする覚悟で、私はかばんひとつを下げて旅に出た。

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昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。

甲州(こうしゅう)。

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甲州。

ここの山々の特徴は、その起伏の線が、なんだか変にむなしいほどなだらかなところにある。

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ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんにむなしい、なだらかさに在る。

小島烏水(こじまうすい)という人の「日本山水論」にも、「山のへそ曲がり者は多く、この土地で気ままに遊んでいるようなものだ」

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小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山のね者は多く、此土に仙遊するが如し。」

と書いてあった。

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と在つた。

甲州の山々は、もしかしたら山の中でも変わり者、いわば「げてもの」なのかもしれない。

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甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。

私は甲府市からバスに揺られること一時間。

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私は、甲府市からバスにゆられて一時間。

御坂峠(みさかとうげ)へたどりつく。

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御坂峠みさかたうげへたどりつく。

御坂峠は、海抜千三百メートル。

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御坂峠、海抜千三百メエトル

この峠の頂上に「天下茶屋」という小さな茶店があって、井伏鱒二(いぶせますじ)氏が初夏のころから、この二階にこもって仕事をしておられる。

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この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。

私はそれを知ってここへ来た。

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私は、それを知つてここへ来た。

井伏氏のお仕事の邪魔にならないようなら、隣の部屋でも借りて、私もしばらくそこで気ままに過ごそうと思っていた。

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井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。

井伏氏は、仕事をしておられた。

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井伏氏は、仕事をして居られた。

私は井伏氏の許しを得て、しばらくその茶屋に落ちつくことになった。それから毎日、いやでも富士山と真正面から向き合っていなければならなくなった。

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私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。

この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還(かまくらおうかん・昔の街道)の要所にあたっていて、富士山を北側から見る代表的な展望台だと言われている。ここから見た富士山は、昔から「富士三景」の一つに数えられているのだそうだが、私はあまり好きではなかった。

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この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還のしように当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。

好きではないばかりか、軽蔑(けいべつ・見下すこと)さえしていた。

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好かないばかりか、軽蔑けいべつさへした。

あまりにも「注文どおり」といった感じの富士山なのだ。

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あまりに、おあつらひむきの富士である。

真ん中に富士山があって、その下に河口湖(かわぐちこ)が白く寒々と広がり、手前の山々がその両側にひっそりとうずくまって、湖を抱きかかえるようにしている。

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まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそりうづくまつて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。

私はひと目見て、うろたえ、顔を赤らめた。

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私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。

これはまるで、銭湯のペンキ絵だ。

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これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。

芝居の書割(かきわり・舞台のうしろに置く絵の背景)だ。

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芝居の書割だ。

どうにも注文どおりの景色で、私は恥ずかしくてたまらなかった。

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どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。

私がその峠の茶屋へ来て二、三日たったころ、井伏氏の仕事も一段落し、ある晴れた午後、私たちは三ツ峠(みつとうげ)へのぼった。

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私が、その峠の茶屋へ来て二、三日経つて、井伏氏の仕事も一段落ついて、或る晴れた午後、私たちは三ツ峠へのぼつた。

三ツ峠は、海抜千七百メートル。

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三ツ峠、海抜千七百米。

御坂峠より、少し高い。

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御坂峠より、少し高い。

急な坂をはうようにしてよじ登り、一時間ほどで三ツ峠の頂上に着く。

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急坂をふやうにしてよぢ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する。

蔦(つた)やかずらをかき分けて、細い山道をはうようによじ登る私の姿は、決して見た目のいいものではなかった。

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つたかづら掻きわけて、細い山路、這ふやうにしてよぢ登る私の姿は、決して見よいものではなかつた。

井伏氏はちゃんと登山服を着ておられて、軽やかな姿だったが、私には登山服の持ち合わせがなく、どてら(綿の入った着物)姿だった。

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井伏氏は、ちやんと登山服着て居られて、軽快の姿であつたが、私には登山服の持ち合せがなく、ドテラ姿であつた。

茶屋のどてらは丈が短く、私の毛の生えたすね(けづね)が一尺(約三十センチ)以上もむき出しになった。そのうえ茶屋のおじいさんから借りたゴム底の地下足袋(じかたび)をはいたので、われながらむさ苦しい格好になった。少し工夫して角帯をしめ、茶屋の壁にかかっていた古い麦わら帽子(むぎわらぼう)をかぶってみたが、それでもいよいよ変な格好になった。井伏氏は人の身なりを決して馬鹿にしない人だが、このときばかりはさすがに少し気の毒そうな顔をして、「男は、身なりなんか気にしないほうがいいよ」と小声でつぶやき、私をいたわってくれた。それを私は忘れない。

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茶屋のドテラは短く、私の毛臑けづねは、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶屋の壁にかかつてゐた古い麦藁帽むぎわらばうをかぶつてみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石さすがに少し、気の毒さうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないはうがいい、と小声で呟いて私をいたはつてくれたのを、私は忘れない。

どうにか頂上についたのだが、急に濃い霧が吹き流れてきて、頂上の「パノラマ台」という崖(がけ)のふちに立ってみても、まったく景色が見えなかった。

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とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台といふ、断崖だんがいへりに立つてみても、いつかうに眺望がきかない。

何も見えない。

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何も見えない。

井伏氏は濃い霧の底で岩に腰をおろし、ゆっくりたばこを吸いながら、おならをなさった。

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井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。

いかにも、つまらなそうであった。

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いかにも、つまらなさうであつた。

パノラマ台には、茶店が三軒並んで立っている。

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パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立つてゐる。

そのうちの一軒、おじいさんとおばあさんの二人だけでやっている地味な店を選んで、そこで熱いお茶を飲んだ。

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そのうちの一軒、老爺と老婆と二人きりで経営してゐるじみな一軒を選んで、そこで熱い茶を呑んだ。

茶店のおばあさんは気の毒がって、「本当にあいにくの霧で。もう少ししたら霧も晴れると思いますが、富士山はほんのすぐそこに、くっきり見えるんですよ」と言った。そして茶店の奥から富士山の大きな写真を持ち出し、崖のはしに立ってその写真を両手で高くかかげ、「ちょうどこのあたりに、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えるんです」と、一生懸命に説明するのだった。

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茶店の老婆は気の毒がり、ほんたうに生憎あいにくの霧で、もう少し経つたら霧もはれると思ひますが、富士は、ほんのすぐそこに、くつきり見えます、と言ひ、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立つてその写真を両手で高く掲示して、ちやうどこの辺に、このとほりに、こんなに大きく、こんなにはつきり、このとほりに見えます、と懸命に註釈するのである。

私たちは番茶をすすりながら、その写真の富士山を眺めて、笑った。

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私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑つた。

いい富士を見た。

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いい富士を見た。

霧が深かったことを、残念にも思わなかった。

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霧の深いのを、残念にも思はなかつた。

その翌々日だっただろうか、井伏氏は御坂峠を引きあげることになり、私も甲府までお供した。

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その翌々日であつたらうか、井伏氏は、御坂峠を引きあげることになつて、私も甲府までおともした。

甲府で私は、ある娘さんとお見合いすることになっていた。

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甲府で私は、或る娘さんと見合ひすることになつてゐた。

井伏氏に連れられて、甲府の町はずれにあるその娘さんのお宅へうかがった。

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井伏氏に連れられて甲府のまちはづれの、その娘さんのお家へお伺ひした。

井伏氏は、気取らない登山服姿だった。

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井伏氏は、無雑作な登山服姿である。

私は角帯に、夏羽織(なつばおり)を着ていた。

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私は、角帯に、夏羽織を着てゐた。

娘さんの家のお庭には、バラがたくさん植えられていた。

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娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた。

娘さんのお母様に迎えられて客間に通され、挨拶をした。そのうちに娘さんも出てきたが、私は娘さんの顔を見なかった。

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母堂に迎へられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかつた。

井伏氏とお母様は、大人同士の世間話をしていたが、ふと井伏氏が、

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井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、

「おや、富士山だ。」

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「おや、富士。」

とつぶやいて、私の背後の長押(なげし・かべの上のほうにある横木)を見あげた。

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と呟いて、私の背後の長押なげしを見あげた。

私も体をねじ曲げて、うしろの長押を見あげた。

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私も、からだをぢ曲げて、うしろの長押を見上げた。

富士山の頂上にある大きな噴火口を上から見おろした写真(鳥瞰・ちょうかん写真)が、額縁に入れられてかけられていた。

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富士山頂大噴火口の鳥瞰てうかん写真が、額縁にいれられて、かけられてゐた。

真っ白なすいれんの花に似ていた。

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まつしろい睡蓮すゐれんの花に似てゐた。

私はそれを見とどけて、またゆっくり体をもとに戻すとき、娘さんをちらりと見た。

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私は、それを見とどけ、また、ゆつくりからだを捻ぢ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。

決めた。

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きめた。

多少の困難があっても、この人と結婚したいものだと思った。

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多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。

あの富士山の写真は、ありがたかった。

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あの富士は、ありがたかつた。

井伏氏はその日のうちに東京へ帰られ、私はふたたび御坂へ引き返した。

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井伏氏は、その日に帰京なされ、私は、ふたたび御坂にひきかへした。

それから九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で少しずつ少しずつ仕事を進め、あまり好きではないこの「富士三景の一つ」

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それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しづつ、少しづつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」

と、へとへとになるまで向き合い続けた。

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と、へたばるほど対談した。

一度、大笑いしたことがあった。

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いちど、大笑ひしたことがあつた。

大学の講師か何かをしているロマン派の友人が一人、ハイキングの途中で私の宿に立ち寄った。そのとき、ふたりで二階の廊下に出て富士山を見ながら、

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大学の講師か何かやつてゐる浪漫派の一友人が、ハイキングの途中、私の宿に立ち寄つて、そのときに、ふたり二階の廊下に出て、富士を見ながら、

「どうも俗っぽいねえ。『お富士さん』っていう感じじゃないか。」

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「どうも俗だねえ。お富士さん、といふ感じぢやないか。」

「見ているこっちが、かえって照れるね。」

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「見てゐるはうで、かへつて、てれるね。」

などと生意気なことを言ってたばこをふかしていたが、そのうち友人は、ふと、

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などと生意気なこと言つて、煙草をふかし、そのうちに、友人は、ふと、

「おや、あのお坊さんのような格好(僧形・そうぎょう)のものは、何だい?」

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「おや、あの僧形そうぎやうのものは、なんだね?」

とあごでしゃくった。

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と顎でしやくつた。

墨染め(すみぞめ)の破れた衣を身にまとい、長い杖を引きずり、富士山を何度も振り仰ぎながら、峠をのぼってくる五十歳くらいの小柄な男がいた。

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墨染の破れたころもを身にまとひ、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼつて来る五十歳くらゐの小男がある。

「『富士見西行(ふじみさいぎょう)』といったところだね。格好ができているじゃないか。」

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「富士見西行、といつたところだね。かたちが、できてる。」

私は、そのお坊さんを懐かしく思った。

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私は、その僧をなつかしく思つた。

「もしかしたら、名のある聖僧かもしれないね。」

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「いづれ、名のある聖僧かも知れないね。」

「ばか言うなよ、乞食(こじき)だよ。」

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「ばか言ふなよ、乞食こじきだよ。」

友人は、冷たかった。

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友人は、冷淡だつた。

「いや、いや。俗世を離れたところがあるよ。歩き方なんか、なかなか様になっているじゃないか。昔、能因法師(のういんほうし)が、この峠で富士山をほめた歌を作ったそうだが――」

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「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」

私が話しているうちに、友人は笑い出した。

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私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。

「おい、見てごらん。全然できてないよ。」

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「おい、見給へ。できてないよ。」

「能因法師」は、茶店で飼われている犬のハチにほえられて、あわてふためいていた。

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能因法師は、茶店のハチといふ飼犬に吠えられて、周章狼狽しうしやうらうばいであつた。

その様子は、嫌になるほど、みっともなかった。

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その有様は、いやになるほど、みつともなかつた。

「だめだねえ、やっぱり。」

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「だめだねえ。やつぱり。」

私は、がっかりした。

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私は、がつかりした。

乞食のあわてぶりは、むしろ見苦しいほどに右往左往し、ついには杖を投げ捨て、取り乱しに取り乱して、もうだめだとばかりに逃げていった。

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乞食の狼狽は、むしろ、あさましいほどに右往左往、つひには杖をかなぐり捨て、取り乱し、取り乱し、いまはかなはずと退散した。

本当に、それはまったく様になっていなかった。

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実に、それは、できてなかつた。

富士山も俗っぽければ、法師も俗っぽい、ということになって、いま思い出してもばかばかしい。

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富士も俗なら、法師も俗だ、といふことになつて、いま思ひ出しても、ばかばかしい。

新田という二十五歳のおだやかな青年が、峠を降りきった山のふもとにある「吉田」という細長い町の郵便局に勤めていた。その人が、郵便物によって私がここに来ていることを知った、と言って、峠の茶屋をたずねてきた。

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新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。

二階の私の部屋でしばらく話をして、ようやく打ち解けてきたころ、新田は笑いながら、実は、もう二、三人、僕の仲間がおりまして、みんなで一緒にお邪魔するつもりだったのですが、いざとなると、どうもみんな尻込みしてしまって、太宰さんはひどい退廃的(デカダン)な人で、それに性格破産者だと佐藤春夫先生の小説に書いてありましたし、まさかこんなに真面目な、ちゃんとした方だとは思っていませんでしたから、僕も無理にみんなを連れてくるわけにはいきませんでした。

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二階の私の部屋で、しばらく話をして、やうやく馴れて来たころ、新田は笑ひながら、実は、もう二、三人、僕の仲間がありまして、皆で一緒にお邪魔にあがるつもりだつたのですが、いざとなると、どうも皆、しりごみしまして、太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説に書いてございましたし、まさか、こんなまじめな、ちやんとしたお方だとは、思ひませんでしたから、僕も、無理に皆を連れて来るわけには、いきませんでした。

こんどは、みんなを連れて来ます。

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こんどは、皆を連れて来ます。

かまわないでしょうか。

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かまひませんでせうか。

「それは、かまいませんけれど。」

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「それは、かまひませんけれど。」

私は、苦笑いをしていた。

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私は、苦笑してゐた。

「それでは、君は必死の勇気をふるって、仲間を代表して僕を偵察に来たわけですね。」

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「それでは、君は、必死の勇をふるつて、君の仲間を代表して僕を偵察に来たわけですね。」

「決死隊でした。」

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「決死隊でした。」

新田は、正直だった。

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新田は、率直だつた。

「ゆうべも、佐藤先生のあの小説をもう一度読み返して、いろいろ覚悟を決めてきました。」

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「ゆうべも、佐藤先生のあの小説を、もういちど繰りかへして読んで、いろいろ覚悟をきめて来ました。」

私は部屋のガラス戸ごしに、富士山を見ていた。

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私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。

富士山は、のっそりと黙って立っていた。

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富士は、のつそり黙つて立つてゐた。

偉いなあ、と思った。

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偉いなあ、と思つた。

「いいねえ。富士山は、やっぱりいいところがあるねえ。よくやってるなあ。」

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「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。」

富士山にはかなわないと思った。

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富士には、かなはないと思つた。

次から次へと移り変わる自分の好き嫌いの感情が恥ずかしく、富士山はやっぱり偉い、と思った。

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念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。

よくやっている、と思った。

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よくやつてる、と思つた。

「よくやっていますか。」

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「よくやつてゐますか。」

新田には私の言葉がおかしかったらしく、賢そうに笑っていた。

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新田には、私の言葉がをかしかつたらしく、聡明に笑つてゐた。

新田は、それからいろいろな青年を連れてきた。

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新田は、それから、いろいろな青年を連れて来た。

皆、物静かな人だった。

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皆、静かなひとである。

皆は、私を「先生」と呼んだ。

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皆は、私を、先生、と呼んだ。

私はまじめにそれを受け止めた。

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私はまじめにそれを受けた。

私には、誇れるものが何もない。

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私には、誇るべき何もない。

学問もない。

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学問もない。

才能もない。

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才能もない。

体は汚れ、心も貧しい。

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肉体よごれて、心もまづしい。

けれども苦しみだけは、その青年たちに「先生」と言われて、黙ってそれを受け止めていいくらいの苦しみは、経験してきた。

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けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。

たったそれだけ。

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たつたそれだけ。

わら一本ほどの、ささやかな自負である。

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わら一すぢの自負である。

けれども私は、この自負だけははっきりと持っていたいと思っている。

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けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる。

わがままな駄々っ子のように言われてきた私の、その裏にある苦しみを、いったい何人が知っていただろう。

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わがままな駄々つ子のやうに言はれて来た私の、裏の苦悩を、一たい幾人知つてゐたらう。

新田と、それから田辺という短歌の上手な青年、この二人は井伏氏の読者だった。その安心感もあって、私はこの二人と一番仲良くなった。

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新田と、それから田辺といふ短歌の上手な青年と、二人は、井伏氏の読者であつて、その安心もあつて、私は、この二人と一ばん仲良くなつた。

一度、吉田に連れていってもらった。

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いちど吉田に連れていつてもらつた。

おそろしく細長い町だった。

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おそろしく細長い町であつた。

山のふもとらしい感じがあった。

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岳麓の感じがあつた。

富士山に日の光も風もさえぎられて、ひょろひょろと伸びた草の茎のようで、暗く、うすら寒い感じの町だった。

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富士に、日も、風もさへぎられて、ひよろひよろに伸びた茎のやうで、暗く、うすら寒い感じの町であつた。

道路にそって、きれいな水が流れている。

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道路に沿つて清水が流れてゐる。

これは山のふもとの町の特徴らしく、三島(みしま)でもこんな具合に、町じゅうをきれいな水がどんどん流れている。

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これは、岳麓の町の特徴らしく、三島でも、こんな工合ひに、町ぢゆうを清水が、どんどん流れてゐる。

富士山の雪が溶けて流れてくるのだ、と、その地方の人たちはまじめに信じている。

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富士の雪が溶けて流れて来るのだ、とその地方の人たちが、まじめに信じてゐる。

吉田の水は、三島の水に比べると、量も少ないし、汚い。

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吉田の水は、三島の水に較べると、水量も不足だし、汚い。

水を眺めながら、私は話した。

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水を眺めながら、私は、話した。

「モーパッサンの小説に、どこかのお嬢さんが、貴公子のところへ毎晩、川を泳いで会いに行ったと書いてあったが、着物はどうしたんだろうね。まさか、裸ではないだろう。」

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「モウパスサンの小説に、どこかの令嬢が、貴公子のところへ毎晩、河を泳いで逢ひにいつたと書いて在つたが、着物は、どうしたのだらうね。まさか、裸ではなからう。」

「そうですね。」

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「さうですね。」

青年たちも考えた。

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青年たちも、考へた。

「海水着じゃないでしょうか。」

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「海水着ぢやないでせうか。」

「頭の上に着物を載せて、結びつけて、そうして泳いでいったのかな?」

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「頭の上に着物を載せて、むすびつけて、さうして泳いでいつたのかな?」

青年たちは、笑った。

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青年たちは、笑つた。

「それとも、着物のまま川に入って、ずぶ濡れの姿で貴公子と会って、ふたりでストーブで乾かしたのかな? そうすると、帰るときにはどうするんだろう。せっかく乾かした着物を、また、ずぶ濡れにして泳がなくちゃいけない。心配だね。貴公子のほうが泳いで来ればいいのに。男なら猿股(さるまた)一枚で泳いでも、そんなにみっともなくないからね。貴公子は、泳げなかったのかな(鉄鎚・かなづち=泳げない人のこと)?」

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「それとも、着物のままはひつて、ずぶ濡れの姿で貴公子と逢つて、ふたりでストオヴでかわかしたのかな? さうすると、かへるときには、どうするだらう。せつかく、かわかした着物を、またずぶ濡れにして、泳がなければいけない。心配だね。貴公子のはうで泳いで来ればいいのに。男なら、猿股一つで泳いでも、そんなにみつともなくないからね。貴公子、鉄鎚かなづちだつたのかな?」

「いや、お嬢さんのほうが、うんと惚れていたからだと思います。」

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「いや、令嬢のはうで、たくさん惚れてゐたからだと思ひます。」

新田は、まじめだった。

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新田は、まじめだつた。

「そうかもしれないね。外国の物語のお嬢さんは、勇敢で、可愛いね。好きだとなったら、川を泳いででも会いに行くんだからな。日本では、そうはいかない。何とかいう芝居があるじゃないか。真ん中に川が流れて、両方の岸で男と姫君とが、悲しみ嘆いて(愁嘆・しゅうたん)いる芝居が。あんなとき、何も姫君が悲しみ嘆く必要はないんだ。泳いでいけばどうということもないだろう。芝居で見ると、とても狭い川なんだよ。じゃぶじゃぶ渡っていったら、どんなものだろう。あんな悲しみ嘆きなんて、意味ないね。同情しないよ。『朝顔』の大井川(おおいがわ)は、あれは大水(おおみず)だし、それに朝顔は目の見えない身の上だから、あれには多少同情するけれど、けれども、あれだって泳いで泳げないことはない。大井川の杭(くい)にしがみついて、お天道(てんとう)さまをうらんでいたんじゃ、意味ないよ。あ、一人いるよ。日本にも、勇敢なやつが一人いたぞ。あいつは、すごい。知ってるかい?」

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「さうかも知れないね。外国の物語の令嬢は、勇敢で、可愛いね。好きだとなつたら、河を泳いでまで逢ひに行くんだからな。日本では、さうはいかない。なんとかいふ芝居があるぢやないか。まんなかに川が流れて、両方の岸で男と姫君とが、愁嘆しうたんしてゐる芝居が。あんなとき、何も姫君、愁嘆する必要がない。泳いでゆけば、どんなものだらう。芝居で見ると、とても狭い川なんだ。ぢやぶぢやぶ渡つていつたら、どんなもんだらう。あんな愁嘆なんて、意味ないね。同情しないよ。朝顔の大井川は、あれは大水で、それに朝顔は、めくらの身なんだし、あれには多少、同情するが、けれども、あれだつて、泳いで泳げないことはない。大井川の棒杭ぼうぐひにしがみついて、天道てんだうさまを、うらんでゐたんぢや、意味ないよ。あ、ひとり在るよ。日本にも、勇敢なやつが、ひとり在つたぞ。あいつは、すごい。知つてるかい?」

「いるんですか。」

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「ありますか。」

青年たちも、目を輝かせた。

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青年たちも、眼を輝かせた。

「清姫(きよひめ)。安珍(あんちん)を追いかけて、日高川(ひだかがわ)を泳いだ。泳ぎまくった。あいつは、すごい。ある本によると、清姫はあのとき十四歳だったんだってね。」

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「清姫。安珍を追ひかけて、日高川を泳いだ。泳ぎまくつた。あいつは、すごい。ものの本によると、清姫は、あのとき十四だつたんだつてね。」

道を歩きながら、ばかな話をして、町はずれにある田辺の知り合いらしい、ひっそりとした古い宿屋に着いた。

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路を歩きながら、ばかな話をして、まちはづれの田辺の知合ひらしい、ひつそり古い宿屋に着いた。

そこで酒を飲んで、その夜の富士山がよかった。

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そこで飲んで、その夜の富士がよかつた。

夜の十時ごろ、青年たちは私ひとりを宿に残して、それぞれ家へ帰っていった。

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夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰つていつた。

私は眠れず、どてら姿のまま外へ出てみた。

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私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。

おそろしく明るい月夜だった。

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おそろしく、明るい月夜だつた。

富士山が、よかった。

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富士が、よかつた。

月の光を受けて、青く透きとおるようで、私は狐にばかされているような気がした。

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月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。

富士山が、したたるように青いのだ。

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富士が、したたるやうに青いのだ。

燐(りん)が燃えているような感じだった。

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燐が燃えてゐるやうな感じだつた。

鬼火。

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鬼火。

狐火。

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狐火。

ほたる。

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ほたる。

すすき。

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すすき。

葛(くず)の葉。

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くずの葉。

私は足がないような気持ちで、夜道をまっすぐに歩いた。

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私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。

下駄の音だけが、自分のものではないように、まるで別の生き物のように、からんころんからんころんと、とても澄んで響いた。

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下駄の音だけが、自分のものでないやうに、他の生きもののやうに、からんころんからんころん、とても澄んで響く。

そっと振り向くと、富士山がある。

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そつと、振りむくと、富士がある。

青く燃えて、空に浮かんでいる。

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青く燃えて空に浮んでゐる。

私はため息をつく。

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私は溜息をつく。

維新の志士(明治維新のころに活躍した若者たち)。

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維新の志士。

鞍馬天狗(くらまてんぐ・物語に出てくる正義の剣士)。

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鞍馬天狗くらまてんぐ

私は、自分をそれだと思った。

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私は、自分を、それだと思つた。

ちょっと気取って、ふところ手(両手を着物のふところに入れること)をして歩いた。

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ちよつと気取つて、ふところ手して歩いた。

ずいぶん自分が、いい男のように思われた。

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ずゐぶん自分が、いい男のやうに思はれた。

ずいぶん歩いた。

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ずゐぶん歩いた。

財布を落とした。

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財布を落した。

五十銭銀貨が二十枚くらい入っていたので、重すぎて、それで懐(ふところ)からするりと抜け落ちたのだろう。

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五十銭銀貨が二十枚くらゐはひつてゐたので、重すぎて、それで懐からするつと脱け落ちたのだらう。

私は、不思議と平気だった。

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私は、不思議に平気だつた。

お金がなかったら、御坂まで歩いて帰ればいい。

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金がなかつたら、御坂まで歩いてかへればいい。

そのまま歩いた。

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そのまま歩いた。

ふと、いま来た道をそのとおりにもう一度歩けば、財布は見つかるはずだ、ということに気がついた。

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ふと、いま来た路を、そのとほりに、もういちど歩けば、財布は在る、といふことに気がついた。

ふところ手のまま、ぶらぶらと引き返した。

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懐手のまま、ぶらぶら引きかへした。

富士山。

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富士。

月夜。

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月夜。

維新の志士。

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維新の志士。

財布を落とした。

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財布を落した。

おもしろい物語のようだと思った。

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興あるロマンスだと思つた。

財布は道の真ん中で光っていた。

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財布は路のまんなかに光つてゐた。

あるに決まっている。

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在るにきまつてゐる。

私はそれを拾って、宿へ帰って、寝た。

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私は、それを拾つて、宿へ帰つて、寝た。

富士山にばかされたのである。

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富士に、化かされたのである。

私は、あの夜、あほうだった。

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私は、あの夜、阿呆あはうであつた。

完全に、自分の意志がなかった。

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完全に、無意志であつた。

あの夜のことを、いま思い出しても、変にだるい気持ちになる。

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あの夜のことを、いま思ひ出しても、へんに、だるい。

吉田に一泊して、翌日御坂へ帰ってきたら、茶店のおかみさんはにやにや笑い、十五歳の娘さんはつんとしていた。

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吉田に一泊して、あくる日、御坂へ帰つて来たら、茶店のおかみさんは、にやにや笑つて、十五の娘さんは、つんとしてゐた。

私は、いかがわしいことをしてきたのではないということをそれとなく知らせたくて、昨日一日の行動を、聞かれもしないのに、ひとりで細かに話し立てた。

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私は、不潔なことをして来たのではないといふことを、それとなく知らせたく、きのふ一日の行動を、聞かれもしないのに、ひとりでこまかに言ひたてた。

泊まった宿屋の名前、吉田のお酒の味、月夜の富士山、財布を落としたこと、みんな話した。

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泊つた宿屋の名前、吉田のお酒の味、月夜富士、財布を落したこと、みんな言つた。

娘さんも、機嫌が直った。

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娘さんも、機嫌が直つた。

「お客さん! 起きて見てください!」

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「お客さん! 起きて見よ!」

ある朝、かん高い声で茶店の外から娘さんが叫んだので、私はしぶしぶ起きて、廊下へ出てみた。

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かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。

娘さんは興奮して、頬を真っ赤にしていた。

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娘さんは、興奮して頬をまつかにしてゐた。

黙って空を指さした。

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だまつて空を指さした。

見ると、雪だった。

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見ると、雪。

はっとした。

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はつと思つた。

富士山に雪が降ったのだ。

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富士に雪が降つたのだ。

山頂が真っ白に、光り輝いていた。

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山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。

御坂の富士山も、ばかにできないぞと思った。

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御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。

「いいね。」

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「いいね。」

とほめてやると、娘さんは得意そうに、

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とほめてやると、娘さんは得意さうに、

「すばらしいでしょう?」

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「すばらしいでせう?」

と、よそいきの言葉を使って、「御坂の富士は、これでもだめ?」

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といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」

としゃがんで言った。

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としやがんで言つた。

私が前々から、こんな富士山は俗っぽくてだめだ、と教えていたので、娘さんは内心しょげていたのかもしれない。

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私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。

「やはり富士山は、雪が降らなければだめなものだ。」

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「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」

もっともらしい顔をして、私はそう教えなおした。

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もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。

私はどてらを着て山を歩きまわり、月見草の種を両手のひらいっぱいに集めてきて、それを茶店の裏口にまいてやり、

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私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとつて来て、それを茶店の背戸にいてやつて、

「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るんだからね、ここへ洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」

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「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」

娘さんは、うなずいた。

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娘さんは、うなづいた。

わざわざ月見草を選んだわけは、富士山には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。

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ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふと、思ひ込んだ事情があつたからである。

御坂峠のその茶店は、言ってみれば山の中の一軒家なので、郵便物は配達されない。

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御坂峠のその茶店は、はば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。

峠の頂上からバスで三十分ほど揺られて、峠のふもと、河口湖のほとりにある「河口村」という文字通りの寒村(さびしい村)にたどり着くのだが、その河口村の郵便局に私あての郵便物が留め置かれていて、私は三日に一度くらいの割合で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。

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峠の頂上から、バスで三十分程ゆられて峠の麓、河口湖畔の、河口村といふ文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらゐの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。

天気のいい日を選んで出かける。

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天気の良い日を選んで行く。

ここのバスの女性の車掌さんは、観光客のために、特に景色の説明をしてくれない。

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ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をして呉れない。

それでも時々、思い出したように、まったく味気ない口調で、「あれが三ツ峠、向こうが河口湖、わかさぎという魚がいます」などと、けだるそうな、つぶやきに似た説明をしてくれることもある。

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それでもときどき、思ひ出したやうに、甚だ散文的な口調で、あれが三ツ峠、向ふが河口湖、わかさぎといふ魚がゐます、など、物憂さうな、呟きに似た説明をして聞かせることもある。

河口局(かわぐちきょく)で郵便物を受け取り、またバスに揺られて峠の茶屋へ引き返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ・上に羽織る和服の上着)を着た、青白くきちんとした顔の、六十歳くらいの、私の母によく似たおばあさんが、しゃんとすわっていた。女性の車掌さんが、ふと思い出したように、「みなさん、今日は富士山がよく見えますね」と、説明ともつかない、また自分ひとりの感嘆ともつかない言葉を、突然言い出した。すると、リュックサックを背負った若いサラリーマンや、大きく日本髪を結い、口もとを大事にハンカチでおおい隠した、絹物をまとった芸者風の女の人などが、体をねじ曲げて、いっせいに車の窓から首を出し、今さらのようにその変哲もない三角の山を眺めては、「やあ」とか「まあ」とか間の抜けた声をあげて、車内はひとし

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河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布ひふを着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆えいたんともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとし

きり、ざわめいた。

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きり、ざわめいた。

けれども、私のとなりのおばあさんは、胸の中に深い悩み事でもあるのか、ほかの観光客と違って、富士山にはちらりとも目を向けず、かえって富士山と反対側の、山道にそった崖をじっと見つめていた。私にはその様子が、体がしびれるほど気持ちよく感じられた。私もまた、「富士山なんて、あんな俗っぽい山、見たくもない」という、上品な虚無(きょむ・何もかもむなしいという気持ち)の心を、そのおばあさんに見せてやりたく思って、「あなたの苦しみも、寂しさも、みんなよくわかりますよ」と、頼まれもしないのに共感しているふりをしたくなり、おばあさんに甘えかかるようにそっとすり寄って、おばあさんと同じ姿勢で、ぼんやりと崖のほうを眺めてやった。

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けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶いうもんでもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥いちべつも与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。

おばあさんも何か私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりとひとこと、

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老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、

「おや、月見草。」

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「おや、月見草。」

そう言って、細い指で道ばたの一か所を指さした。

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さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。

さっとバスは通り過ぎていったが、私の目には、いまちらりとひと目見た黄金色の月見草の花がひとつ、花びらの色もあざやかなまま消えずに残った。

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さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。

三七七八メートルの富士山と、堂々と向かい合い、少しもゆるがず、なんと言えばいいのか、「金剛力草(こんごうりきそう)」とでも呼びたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。

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三七七八米の富士の山と、立派に相対峙あひたいぢし、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。

富士山には、月見草がよく似合う。

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富士には、月見草がよく似合ふ。

十月の半ばを過ぎても、私の仕事はなかなか進まなかった。

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十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。

人が恋しい。

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人が恋しい。

夕焼けで赤く染まった、雁(がん)の腹のような形の雲を見ながら、二階の廊下でひとりたばこを吸い、わざと富士山には目もくれず、それこそ血がしたたるように真っ赤な山の紅葉を、じっと見つめていた。

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夕焼け赤きがん腹雲はらぐも、二階の廊下で、ひとり煙草を吸ひながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血のしたたるやうな真赤な山の紅葉を、凝視してゐた。

茶店の前の落ち葉を掃き集めているおかみさんに、声をかけた。

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茶店のまへの落葉を掃きあつめてゐる茶店のおかみさんに、声をかけた。

「おばさん! 明日は天気がいいね。」

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「をばさん! あしたは、天気がいいね。」

自分でもびっくりするほど、うわずった、歓声にも似た声だった。

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自分でも、びつくりするほど、うはずつて、歓声にも似た声であつた。

おばさんはほうきの手を休め、顔をあげて、不審そうに眉をひそめ、

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をばさんははうきの手をやすめ、顔をあげて、不審げに眉をひそめ、

「明日、何かあるんですか?」

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「あした、何かおありなさるの?」

そう聞かれて、私は困った。

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さう聞かれて、私は窮した。

「なにもない。」

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「なにもない。」

おかみさんは笑い出した。

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おかみさんは笑ひ出した。

「おさびしいんでしょう。山へでも登られたら?」

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「おさびしいのでせう。山へでもおのぼりになつたら?」

「山は、登ってもすぐまた降りなければいけないから、つまらない。どの山に登っても、同じ富士山が見えるだけで、それを思うと気が重くなります。」

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「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」

私の言葉が変だったのだろう。

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私の言葉が変だつたのだらう。

おばさんはただあいまいにうなずいただけで、また枯れ葉を掃いた。

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をばさんはただ曖昧あいまいにうなづいただけで、また枯葉を掃いた。

寝る前に、部屋のカーテンをそっと開けて、ガラス窓ごしに富士山を見る。

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ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。

月のある夜は、富士山が青白く、水の精のような姿で立っている。

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月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。

私はため息をつく。

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私は溜息をつく。

ああ、富士山が見える。

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ああ、富士が見える。

星が大きい。

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星が大きい。

「明日は、いい天気だな」と、それだけがかすかに生きている喜びだった。そうしてまた、そっとカーテンを閉めて、そのまま寝るのだが、明日が天気だからといって、別にこの身には何ということもないのに、と思うと、おかしくなって、ひとりで布団の中で苦笑いするのだ。

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あしたは、お天気だな、とそれだけが、かすかに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。

苦しいのである。

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くるしいのである。

仕事が――ただ文字を書くことの苦しさよりも、いや、字を書くことはむしろ私の楽しみでさえあったのだが、そういうことではなく、私の世界観、芸術というもの、これからの文学というもの、言ってみれば「新しさ」というもの、私はそれらについて、まだぐずぐずと思い悩み、大げさではなく、身もだえするほど苦しんでいた。

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仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかへつて私の楽しみでさへあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術といふもの、あすの文学といふもの、はば、新しさといふもの、私はそれらに就いて、だ愚図愚図、思ひ悩み、誇張ではなしに、身悶えしてゐた。

素朴で、自然のままのもの、だから簡潔ではっきりしたもの、それをさっとひとつの動きでつかまえて、そのまま紙に写しとること、それしかないと思った。そう思うときには、目の前の富士山の姿も、別の意味をもって目に映る。

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素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思ひ、さう思ふときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。

この姿は、この表現は、結局、私の考えている「単一表現」

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この姿は、この表現は、結局、私の考へてゐる「単一表現」

の美しさなのかもしれない、と少し富士山に歩み寄りかけるのだが、けれどもやはり、どこかこの富士山の、あまりにも棒のような素朴さには参ってしまうところもあり、「これがいいなら、布袋(ほてい)さまの置物だっていいはずだ。布袋さまの置物は、どうにも我慢できない。あんなもの、とてもいい表現とは思えない」となると、この富士山の姿も、やっぱりどこか間違っている、これは違う、とまた思い迷うのである。

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の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思へない、この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。

朝に、夕に、富士山を見ながら、気の重い日々を送っていた。

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朝に、夕に、富士を見ながら、陰欝な日を送つてゐた。

十月の末に、ふもとの吉田の町の、遊女(ゆうじょ)たちの一団が、御坂峠へやって来た。おそらく年に一度くらいの、休みの日だったのだろう。自動車五台に分かれて乗って来た。

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十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらゐの開放の日なのであらう、自動車五台に分乗してやつて来た。

私は二階から、その様子を見ていた。

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私は二階から、その様を見てゐた。

自動車から降ろされて、色とりどりの遊女たちは、かごからぶちまけられた一群の伝書鳩(でんしょばと)のように、はじめは歩く方向もわからず、ただ固まってうろうろし、黙ったまま押し合いへし合いしていた。だが、やがてその異様な緊張がだんだんとほどけて、それぞれ勝手にぶらぶら歩きはじめた。

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自動車からおろされて、色さまざまの遊女たちは、バスケットからぶちまけられた一群の伝書鳩のやうに、はじめは歩く方向を知らず、ただかたまつてうろうろして、沈黙のまま押し合ひ、へし合ひしてゐたが、やがてそろそろ、その異様の緊張がほどけて、てんでにぶらぶら歩きはじめた。

茶店の店先に並べられている絵葉書を、おとなしく選んでいる者、立ち止まって富士山を眺めている者、暗くわびしくて、見ていられない光景だった。

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茶店の店頭に並べられて在る絵葉書を、おとなしく選んでゐるもの、たたずんで富士を眺めてゐるもの、暗く、わびしく、見ちや居れない風景であつた。

二階にいるひとりの男が、命がけで共感したところで、この遊女たちの幸せに、何のたしにもならない。

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二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。

私は、ただ見ていなければならないのだ。

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私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。

苦しむ者は苦しめ。

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苦しむものは苦しめ。

落ちる者は落ちよ。

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落ちるものは落ちよ。

私に関係したことではない。

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私に関係したことではない。

それが世の中だ。

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それが世の中だ。

そう無理に冷たく装って彼女たちを見下ろしていたのだが、私は、かなり苦しかった。

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さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。

富士山に頼もう。

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富士にたのまう。

突然、それを思いついた。

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突然それを思ひついた。

「おい、こいつらを、よろしく頼むぜ」、そんな気持ちで見上げると、寒空のなか、のっそりと突っ立っている富士山、そのときの富士山はまるで、どてら姿でふところ手をして、いばりくさってかまえている大親分のようにさえ見えた。私は、そうやって富士山に頼んで、大いに安心し、気が軽くなって、茶店の六歳の男の子と、ハチという毛のふさふさした犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠の近くのトンネルのほうへ遊びに出かけた。

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おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然がうぜんとかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのであるが、私は、さう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなつて茶店の六歳の男の子と、ハチといふむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出掛けた。

トンネルの入り口のところで、三十歳くらいのやせた遊女がひとり、何やらつまらない草花を、黙って摘み集めていた。

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トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた。

私たちがそばを通っても、振り向きもせず熱心に草花を摘んでいる。

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私たちが傍を通つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる。

「この人のことも、ついでにお願いします」と、また見上げて富士山にお願いしておいて、私は子どもの手を引き、さっさとトンネルの中に入っていった。

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この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願ひして置いて、私は子供の手をひき、とつとと、トンネルの中にはひつて行つた。

トンネルの冷たい地下水を、頬に、首すじに、ぽたぽたと受けながら、「おれの知ったことじゃない」と、わざと大股で歩いてみた。

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トンネルの冷い地下水を、頬に、首筋に、滴々と受けながら、おれの知つたことぢやない、とわざと大股に歩いてみた。

そのころ、私の結婚の話も、一度つまずいた形になっていた。

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そのころ、私の結婚の話も、一頓挫いちとんざのかたちであつた。

私のふるさとからは、まったく力を貸してもらえないということがはっきりわかってきたので、私は困り果ててしまった。

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私のふるさとからは、全然、助力が来ないといふことが、はつきり判つてきたので、私は困つて了つた。

せめて百円くらいは助けてもらえるだろうと、虫のいい思い込みをして、それで、ささやかでもきちんとした結婚式を挙げ、そのあとの、所帯を持つための費用は、自分の仕事で稼いでしようと思っていた。

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せめて百円くらゐは、助力してもらへるだらうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもつて、ささやかでも、厳粛な結婚式を挙げ、あとの、世帯を持つに当つての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思つてゐた。

けれども、二、三度手紙をやりとりするうちに、実家からの助けはまったくない、ということがはっきりして、私は途方に暮れていたのである。

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けれども、二、三の手紙の往復に依り、うちから助力は、全く無いといふことが明らかになつて、私は、途方にくれてゐたのである。

こうなっては、縁談を断られても仕方がないと覚悟を決め、とにかく先方に、事情をすべて話してみようと、私はひとりで峠を下り、甲府の娘さんのお宅へうかがった。

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このうへは、縁談ことわられても仕方が無い、と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺ひした。

幸い、娘さんも家にいた。

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さいはひ娘さんも、家にゐた。

私は客間に通され、娘さんとお母様の二人を前にして、すべての事情を打ち明けた。

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私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆しつかいの事情を告白した。

ときどき演説のような口調になってしまい、自分でも困った。

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ときどき演説口調になつて、閉口した。

けれども、わりと素直に語りつくせたように思われた。

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けれども、割に素直に語りつくしたやうに思はれた。

娘さんは、落ちついて、

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娘さんは、落ちついて、

「それで、お宅では反対なのでしょうか。」

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「それで、おうちでは、反対なのでございませうか。」

と首をかしげて私にたずねた。

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と、首をかしげて私にたづねた。

「いいえ、反対というのではなく、」

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「いいえ、反対といふのではなく、」

私は右の手のひらをそっと机の上に押し当て、「お前ひとりでやれ、という感じのようです。」

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私は右の手のひらを、そつと卓の上に押し当て、「おまへひとりで、やれ、といふ工合ひらしく思はれます。」

「結構でございます。」

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「結構でございます。」

お母様は上品に笑いながら、「私たちも、ご覧のとおりお金持ちではございませんし、大げさな式などは、かえって困ってしまうようなものです。ただ、あなたおひとりが、愛情と、お仕事に対する熱意さえお持ちならば、それで私たちは結構でございます。」

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母堂は、品よく笑ひながら、「私たちも、ごらんのとほりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」

私は、お辞儀をするのも忘れて、しばらくぼんやりと庭を眺めていた。

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私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めてゐた。

目が熱くなっているのを感じた。

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眼の熱いのを意識した。

このお母様に、親孝行しようと思った。

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この母に、孝行しようと思つた。

帰りに、娘さんはバスの発着所まで送ってきてくれた。

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かへりに、娘さんは、バスの発着所まで送つて来て呉れた。

歩きながら、

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歩きながら、

「どうです。もう少しおつきあいしてみますか?」

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「どうです。もう少し交際してみますか?」

気取ったことを言ったものである。

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きざなことを言つたものである。

「いいえ。もう、じゅうぶんです。」

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「いいえ。もう、たくさん。」

娘さんは、笑っていた。

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娘さんは、笑つてゐた。

「何か、質問はありませんか?」

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「なにか、質問ありませんか?」

いよいよ、ばかげている。

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いよいよ、ばかである。

「ございます。」

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「ございます。」

私は何を聞かれても、ありのままに答えようと思っていた。

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私は何を聞かれても、ありのまま答へようと思つてゐた。

「富士山には、もう雪が降ったでしょうか。」

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「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」

私は、その質問に拍子抜けした。

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私は、その質問に拍子抜けがした。

「降りました。頂上のほうに、――」

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「降りました。いただきのはうに、――」

と言いかけて、ふと前のほうを見ると、富士山が見える。

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と言ひかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。

変な気がした。

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へんな気がした。

「なあんだ。甲府からでも富士山が見えるじゃないか。ばかにしてやがる。」

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「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるぢやないか。ばかにしてゐやがる。」

ふてくされた口調になってしまい、「いまのは、ばかな質問でした。ばかにしてやがる。」

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やくざな口調になつてしまつて、「いまのは、愚問です。ばかにしてゐやがる。」

娘さんはうつむいて、くすくす笑って、

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娘さんは、うつむいて、くすくす笑つて、

「だって、御坂峠にいらっしゃるんですし、富士山のことでもお聞きしないと悪いと思って。」

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「だつて、御坂峠にいらつしやるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思つて。」

おかしな娘さんだと思った。

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をかしな娘さんだと思つた。

甲府から帰ってくると、やはり息ができないくらいひどく肩がこっているのに気づいた。

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甲府から帰つて来ると、やはり、呼吸ができないくらゐにひどく肩がつてゐるのを覚えた。

「いいねえ、おばさん。やっぱり御坂はいいよ。自分の家に帰ってきたような気さえするんだ。」

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「いいねえ、をばさん。やつぱし御坂は、いいよ。自分のうちに帰つて来たやうな気さへするのだ。」

夕食のあと、おかみさんと娘さんが、代わる代わる私の肩をたたいてくれる。

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夕食後、おかみさんと、娘さんと、交る交る、私の肩をたたいてくれる。

おかみさんのこぶしは固く、鋭い。

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おかみさんのこぶしは固く、鋭い。

娘さんのこぶしは柔らかく、あまり効き目がない。

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娘さんのこぶしは柔かく、あまり効きめがない。

もっと強く、もっと強くと私に言われて、娘さんはまきを持ち出し、それで私の肩をとんとんとたたいた。

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もつと強く、もつと強くと私に言はれて、娘さんはまきを持ち出し、それでもつて私の肩をとんとん叩いた。

それくらいしてもらわなければ肩のこりがとれないほど、私は甲府で緊張し、一心に頑張っていたのである。

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それ程にしてもらはなければ、肩の凝りがとれないほど、私は甲府で緊張し、一心に努めたのである。

甲府へ行ってきてから二、三日は、さすがに私はぼんやりして、仕事をする気も起きず、机の前に座って、とりとめのない落書きをしながら、たばこ(バット)を七箱も八箱も吸い、また寝ころんで、「金剛石も磨かずば」という唱歌を、何度も何度も歌ってみたりしているばかりで、小説は一枚も書き進めることができなかった。

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甲府へ行つて来て、二、三日、流石さすがに私はぼんやりして、仕事する気も起らず、机のまへに坐つて、とりとめのない楽書をしながら、バットを七箱も八箱も吸ひ、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、といふ唱歌を、繰り返し繰り返し歌つてみたりしてゐるばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかつた。

「お客さん。甲府へ行ったら、悪くなったわね。」

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「お客さん。甲府へ行つたら、わるくなつたわね。」

朝、私が机にほおづえをついて、目を閉じ、いろいろなことを考えていたら、私の背後で、床の間をふきながら、十五歳の娘さんが、心の底からいまいましそうに、少しとげとげしい口調でそう言った。

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朝、私が机に頬杖つき、目をつぶつて、さまざまのことを考へてゐたら、私の背後で、床の間ふきながら、十五の娘さんは、しんからいまいましさうに、多少、とげとげしい口調で、さう言つた。

私は振り向きもせず、

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私は、振りむきもせず、

「そうかね。悪くなったかね。」

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「さうかね。わるくなつたかね。」

娘さんは、拭き掃除の手を休めずに、

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娘さんは、拭き掃除の手を休めず、

「ああ、悪くなった。ここ二、三日、ちっとも勉強が進んでないじゃないの。あたしは毎朝、お客さんが書き散らした原稿用紙を、番号順にそろえるのが、とっても楽しいの。たくさんお書きになっていれば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそっと様子を見に来たの、知ってる? お客さん、布団を頭からかぶって寝てたじゃないの。」

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「ああ、わるくなつた。この二、三日、ちつとも勉強すすまないぢやないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろへるのが、とつても、たのしい。たくさんお書きになつて居れば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそつと様子を見に来たの、知つてる? お客さん、ふとん頭からかぶつて、寝てたぢやないか。」

私は、ありがたいことだと思った。

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私は、ありがたい事だと思つた。

大げさな言い方をすれば、これは人間が生き抜こうとする努力に対しての、純粋な声援である。

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大袈裟な言ひかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。

何の見返りも考えていない。

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なんの報酬も考へてゐない。

私は、娘さんを美しいと思った。

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私は、娘さんを、美しいと思つた。

十月の終わりになると、山の紅葉も黒ずんで汚くなり、とたんにひと晩あらしがあって、みるみるうちに山は真っ黒な冬の木立に変わってしまった。

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十月末になると、山の紅葉も黒ずんで、汚くなり、とたんに一夜あらしがあつて、みるみる山は、真黒い冬木立に化してしまつた。

観光の客も、いまはほとんど数えるほどしかいない。

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遊覧の客も、いまはほとんど、数へるほどしかない。

茶店もさびれて、ときどきおかみさんが、六歳になる男の子を連れて、峠のふもとの船津(ふなつ)や吉田へ買い物に出かけていき、あとには娘さんひとり。観光の客もなく、一日中、私と娘さんの二人きりで、峠の上でひっそりと過ごすことがある。

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茶店もさびれて、ときたま、おかみさんが、六つになる男の子を連れて、峠のふもとの船津、吉田に買物をしに出かけて行つて、あとには娘さんひとり、遊覧の客もなし、一日中、私と娘さんと、ふたり切り、峠の上で、ひつそり暮すことがある。

私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまわり、茶店の裏口で洗濯をしている娘さんのそばへ近寄って、

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私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまはり、茶店の背戸で、お洗濯してゐる娘さんの傍へ近寄り、

「退屈だね。」

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「退屈だね。」

と大声で言って、ふと笑いかけたら、娘さんはうつむいた。私はその顔をのぞいてみて、はっとした。

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と大声で言つて、ふと笑ひかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔をのぞいてみて、はつと思つた。

泣きべそをかいているのだ。

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泣きべそかいてゐるのだ。

あきらかに恐怖の気持ちだった。

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あきらかに恐怖の情である。

そうか、と苦々しい気持ちで、私はくるりと回れ右をして、落ち葉が敷きつめられた細い山道を、まったく嫌な気持ちで、どんどん荒々しく歩きまわった。

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さうか、と苦が苦がしく私は、くるりと廻れ右して、落葉しきつめた細い山路を、まつたくいやな気持で、どんどん荒く歩きまはつた。

それからは、気をつけた。

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それからは、気をつけた。

娘さんがひとりきりのときには、なるべく二階の部屋から出ないように努めた。

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娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室から出ないやうにつとめた。

茶店にお客が来たときには、私がその娘さんを守る意味もあって、のしのしと二階から降りていき、茶店の片すみに腰をおろして、ゆっくりお茶を飲むのだった。

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茶店にお客でも来たときには、私がその娘さんを守る意味もあり、のしのし二階から降りていつて、茶店の一隅に腰をおろしゆつくりお茶を飲むのである。

いつか花嫁姿のお客が、紋付き(もんつき)を着たおじいさん二人に付き添われて、自動車に乗ってやって来て、この峠の茶屋でひと休みしたことがある。

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いつか花嫁姿のお客が、紋附を着た爺さんふたりに附き添はれて、自動車に乗つてやつて来て、この峠の茶屋でひと休みしたことがある。

そのときも、娘さんひとりしか茶店にいなかった。

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そのときも、娘さんひとりしか茶店にゐなかつた。

私はやはり二階から降りていって、隅の椅子に腰をおろし、たばこをふかした。

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私は、やはり二階から降りていつて、隅の椅子に腰をおろし、煙草をふかした。

花嫁はすそに模様のある長い着物を着て、金襴(きんらん・金糸を使った豪華な織物)の帯を結び、角隠し(つのかくし・花嫁がかぶる白い布)をつけて、堂々とした正式の礼装だった。

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花嫁は裾模様の長い着物を着て、金襴きんらんの帯を背負ひ、角隠しつけて、堂々正式の礼装であつた。

まったく普段とは違うお客様だったので、娘さんもどう対応していいのかわからず、花嫁さんと二人の老人にお茶をついであげただけで、私の背後にひっそりと隠れるように立ったまま、黙って花嫁の様子を見ていた。

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全く異様のお客様だつたので、娘さんもどうあしらひしていいのかわからず、花嫁さんと、二人の老人にお茶をついでやつただけで、私の背後にひつそり隠れるやうに立つたまま、だまつて花嫁のさまを見てゐた。

一生に一度の晴れの日に――峠の向こう側から、反対側の船津か吉田の町へお嫁に行くのだろうが、その途中、この峠の頂上でひと休みして、富士山を眺めるということは、そばで見ていてもくすぐったいほどロマンチックだった。そのうちに花嫁は、そっと茶店から出て、茶店の前の崖のふちに立ち、ゆっくり富士山を眺めた。

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一生にいちどの晴の日に、――峠の向ふ側から、反対側の船津か、吉田のまちへ嫁入りするのであらうが、その途中、この峠の頂上で一休みして、富士を眺めるといふことは、はたで見てゐても、くすぐつたい程、ロマンチックで、そのうちに花嫁は、そつと茶店から出て、茶店のまへの崖のふちに立ち、ゆつくり富士を眺めた。

脚をXの字に組んで立っていて、大胆なポーズだった。

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脚をX形に組んで立つてゐて、大胆なポオズであつた。

余裕のある人だな、と、なおも花嫁を、富士山と花嫁の組み合わせを、私は眺めていたのだが、間もなく花嫁は、富士山に向かって大きなあくびをした。

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余裕のあるひとだな、となほも花嫁を、富士と花嫁を、私は観賞してゐたのであるが、間もなく花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸あくびをした。

「あら!」

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「あら!」

と、背後で小さな叫び声をあげた。

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と背後で、小さい叫びを挙げた。

娘さんも、すばやくそのあくびを見つけたらしいのである。

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娘さんも、素早くその欠伸を見つけたらしいのである。

やがて花嫁の一行は、待たせておいた自動車に乗り、峠を降りていったが、あとで花嫁さんはさんざんな言われようだった。

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やがて花嫁の一行は、待たせて置いた自動車に乗り、峠を降りていつたが、あとで花嫁さんは、さんざんだつた。

「慣れてやがる。あいつは、きっと二度目、いや三度目くらいだよ。おむこさんが峠の下で待っているだろうに、自動車から降りて富士山を眺めるなんて、はじめてのお嫁さんだったら、そんな図太いこと、できるわけがない。」

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「馴れてゐやがる。あいつは、きつと二度目、いや、三度目くらゐだよ。おむこさんが、峠の下で待つてゐるだらうに、自動車から降りて、富士を眺めるなんて、はじめてのお嫁だつたら、そんな太いこと、できるわけがない。」

「あくびしたのよ。」

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「欠伸したのよ。」

娘さんも、力をこめて賛成した。

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娘さんも、力こめて賛意を表した。

「あんな大きい口をあけてあくびして、図々しいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらっちゃいけないよ。」

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「あんな大きい口あけて欠伸して、図々しいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらつちや、いけない。」

私は年がいもなく、顔を赤くした。

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私は年甲斐もなく、顔を赤くした。

私の結婚の話も、だんだんうまく進んでいき、ある先輩に、すべてお世話になることになった。

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私の結婚の話も、だんだん好転していつて、或る先輩に、すべてお世話になつてしまつた。

結婚式も、ほんの身内の二、三人にだけ立ち会ってもらって、貧しくても厳かに、その先輩のお宅でしていただけるようになり、私は人の情けに、少年のように心を奮い立たせていた。

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結婚式も、ほんの身内の二、三のひとにだけ立ち会つてもらつて、まづしくとも厳粛に、その先輩の宅で、していただけるやうになつて、私は人の情に、少年の如く感奮してゐた。

十一月に入ると、もう御坂の寒さは、こらえきれないほどになった。

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十一月にはひると、もはや御坂の寒気、堪へがたくなつた。

茶店では、ストーブを備えた。

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茶店では、ストオヴを備へた。

「お客さん、二階は寒いでしょう。お仕事のときは、ストーブのそばでなさったら。」

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「お客さん、二階はお寒いでせう。お仕事のときは、ストオヴの傍でなさつたら。」

と、おかみさんは言うのだが、私は人が見ている前では仕事ができないたちなので、それは断った。

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と、おかみさんは言ふのであるが、私は、人の見てゐるまへでは、仕事のできないたちなので、それは断つた。

おかみさんは心配して、峠のふもとの吉田へ行き、こたつをひとつ買ってきた。

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おかみさんは心配して、峠の麓の吉田へ行き、炬燵こたつをひとつ買つて来た。

私は二階の部屋でそのこたつにもぐりながら、この茶店の人たちの親切には、心の底からお礼を言いたいと思った。けれども、もう全体の三分の二ほど雪をかぶった富士山の姿を眺め、また近くの山々の、もの寂しい冬の木立にふれると、これ以上この峠で、肌を刺すような寒さにがまんしていることも意味がないように思われ、山を下りることに決めた。

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私は二階の部屋でそれにもぐつて、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言ひたく思つて、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶつた富士の姿を眺め、また近くの山々の、蕭条せうでうたる冬木立に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱してゐることも無意味に思はれ、山を下ることに決意した。

山を下るその前日、私はどてらを二枚重ねて着て、茶店の椅子に腰かけ、熱い番茶をすすっていた。すると、冬の外套を着た、タイピストか何かだろうか、若い知的な感じの娘さんが二人、トンネルのほうから、何かきゃっきゃっと笑いながら歩いてきて、ふと目の前に真っ白な富士山を見つけ、打たれたように立ち止まった。それから、ひそひそと相談する様子で、そのうちのひとり、眼鏡をかけた色白の子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやって来た。

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山を下る、その前日、私は、どてらを二枚かさねて着て、茶店の椅子に腰かけて、熱い番茶をすすつてゐたら、冬の外套着た、タイピストでもあらうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルの方から、何かきやつきやつ笑ひながら歩いて来て、ふと眼前に真白い富士を見つけ、打たれたやうに立ち止り、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑ひながら、私のはうへやつて来た。

「すみません。シャッターを切ってくださいな。」

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「相すみません。シャッタア切つて下さいな。」

私は、しどろもどろになった。

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私は、へどもどした。

私は機械のことにはあまり詳しくないし、写真の趣味もまったくない。しかも、どてらを二枚も重ねて着ていて、茶店の人たちからも「山賊みたいだ」と笑われるような、そんなむさくるしい姿でもあった。おそらく東京から来たような、そんな華やかな娘さんから、しゃれた用事を頼まれて、内心ひどくうろたえたのである。

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私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚もかさねて着てゐて、茶店の人たちさへ、山賊みたいだ、といつて笑つてゐるやうな、そんなむさくるしい姿でもあり、多分は東京の、そんな華やかな娘さんから、はいからの用事を頼まれて、内心ひどく狼狽したのである。

けれども、また思い直して、こんな格好をしていても、やはり見る人が見れば、どこかしらほっそりとした面影もあって、写真のシャッターくらい器用に扱えるような男に見えるのかもしれない、などと少し浮き浮きした気持ちも手伝って、私は平静を装い、娘さんが差し出すカメラを受け取った。そして何気ない口調でシャッターの切り方をちょっとたずねてみてから、震える手でレンズをのぞいた。

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けれども、また思ひ直し、こんな姿はしてゐても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、きやしやなおもかげもあり、写真のシャッタアくらゐ器用に手さばき出来るほどの男に見えるのかも知れない、などと少し浮き浮きした気持も手伝ひ、私は平静を装ひ、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なささうな口調で、シャッタアの切りかたを鳥渡ちよつとたづねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。

真ん中に大きな富士山、その下に小さな、けしの花が二つ。

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まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟けしの花ふたつ。

二人はおそろいの赤い外套を着ているのだ。

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ふたり揃ひの赤い外套を着てゐるのである。

二人は、ぴったりと抱き合うように寄り添い、きりっとまじめな顔になった。

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ふたりは、ひしと抱き合ふやうに寄り添ひ、つとまじめな顔になつた。

私は、おかしくてたまらない。

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私は、をかしくてならない。

カメラを持つ手がふるえて、どうにもならない。

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カメラ持つ手がふるへて、どうにもならぬ。

笑いをこらえてレンズをのぞくと、けしの花は、いよいよすまして、こわばっている。

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笑ひをこらへて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなつてゐる。

どうにも狙いがつけにくく、私は二人の姿をレンズから追い出して、ただ富士山だけをレンズいっぱいにとらえ、「富士山、さようなら、お世話になりました」。

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どうにも狙ひがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。

パチリ。

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パチリ。

「はい、写りました。」

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「はい、うつりました。」

「ありがとう。」

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「ありがたう。」

二人は声をそろえてお礼を言う。

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ふたり声をそろへてお礼を言ふ。

家に帰って現像してみたときには、きっと驚くだろう。

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うちへ帰つて現像してみた時には驚くだらう。

富士山だけが大きく写っていて、二人の姿はどこにも見えない。

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富士山だけが大きく写つてゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。

その翌日、山を下りた。

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その翌る日に、山を下りた。

まず、甲府の安宿に一泊して、その翌朝、安宿の廊下の汚い手すりによりかかって富士山を見ると、甲府の富士山は、山々のうしろから三分の一ほど顔を出している。

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まづ、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。

ほおずきに似ていた。

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酸漿ほほづきに似てゐた。

(昭和十四年二月―三月)

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(昭和十四年二月―三月)