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女生徒 小学生向け

太宰治だざいおさむ)・1954

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

朝、目をさますときの気持ちは、おもしろい。

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あさ、眼をさますときの気持は、面白い。

かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、とつぜん、でこちゃんに、がらっと襖(ふすま)をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」

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かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっとふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」

と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合わせたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出てきて、急にむかむか腹が立って、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。

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と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。

箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出てきて、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。

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箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。

パチッと目がさめるなんて、あれはうそだ。

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パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。

にごって にごって、そのうちに、だんだん澱粉(でんぷん)が下にしずみ、少しずつ上澄み(うわずみ・にごった水の上のすんだ部分)ができて、やっと疲れて目がさめる。

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濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。

朝は、なんだか、しらじらしい。

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朝は、なんだか、しらじらしい。

悲しいことが、たくさんたくさん胸にうかんで、やりきれない。

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悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。

いやだ。

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いやだ。

いやだ。

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いやだ。

朝の私は一ばん醜い(みにくい)。

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朝の私は一ばんみにくい。

両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。

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両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。

ぐっすり眠っていないせいかしら。

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熟睡していないせいかしら。

朝は健康だなんて、あれはうそ。

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朝は健康だなんて、あれは嘘。

朝は灰色。

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朝は灰色。

いつもいつも同じ。

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いつもいつも同じ。

一ばん虚無(きょむ・むなしい気持ち)だ。

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一ばん虚無だ。

朝のふとんの中で、私はいつも厭世的(えんせいてき・世の中がいやになる気持ち)だ。

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朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。

いやになる。

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いやになる。

いろいろみにくい後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶え(みもだえ・体をよじって苦しむこと)しちゃう。

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いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶みもだえしちゃう。

朝は、意地悪。

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朝は、意地悪いじわる

「お父さん」

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「お父さん」

と小さい声で呼んでみる。

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と小さい声で呼んでみる。

へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団(ふとん)をたたむ。

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へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団ふとんをたたむ。

蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、とかけ声をかけて、はっと思った。

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蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。

私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言う女だとは、思っていなかった。

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私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。

よいしょ、なんて、おばあさんのかけ声みたいで、いやらしい。

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よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。

どうして、こんなかけ声を出したのだろう。

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どうして、こんな掛声を発したのだろう。

私のからだの中の、どこかに、おばあさんがひとりいるようで、気持ちがわるい。

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私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気持がわるい。

これからは、気をつけよう。

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これからは、気をつけよう。

人の下品な歩き方(かっこう)を見て顰蹙(ひんしゅく・いやな顔をすること)していながら、ふと、自分も、そんな歩き方をしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。

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ひとの下品な歩き恰好かっこう顰蹙ひんしゅくしていながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。

朝は、いつでも自信がない。

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朝は、いつでも自信がない。

寝間着のままで鏡台(きょうだい・鏡のついた台)のまえに座る。

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寝巻のままで鏡台のまえに坐る。

眼鏡をかけないで、鏡をのぞくと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。

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眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。

自分の顔の中で一ばん眼鏡がいやなのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。

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自分の顔の中で一ばん眼鏡がいやなのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。

眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。

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眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。

全体がかすんで、夢のように、のぞき絵(え・小さな穴からのぞいて見る絵)みたいに、すばらしい。

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全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。

きたないものなんて、何も見えない。

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汚ないものなんて、何も見えない。

大きいものだけ、はっきりした、強い色、光だけが目にはいってくる。

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大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいって来る。

眼鏡をとって人を見るのも好き。

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眼鏡をとって人を見るのも好き。

相手の顔が、みんな、やさしく、きれいに、笑って見える。

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相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。

それに、眼鏡をはずしている時は、決して人と喧嘩をしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。

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それに、眼鏡をはずしている時は、決して人と喧嘩けんかをしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。

ただ、黙って、ぽかんとしているだけ。

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ただ、黙って、ポカンとしているだけ。

そうして、そんな時の私は、人にもおひとよしに見えるだろうと思うと、なおのこと、ぽかんと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。

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そうして、そんな時の私は、人にもおひとよしに見えるだろうと思えば、なおのこと、私は、ポカンと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。

だけど、やっぱり眼鏡は、いや。

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だけど、やっぱり眼鏡は、いや。

眼鏡をかけたら顔という感じがなくなってしまう。

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眼鏡をかけたら顔という感じが無くなってしまう。

顔から生まれる、いろいろの気持ち、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁(あいしゅう・もの悲しい気持ち)、そんなもの、眼鏡がみんなさえぎってしまう。

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顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんなさえぎってしまう。

それに、目でお話をするということも、おかしいくらい出来ない。

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それに、目でお話をするということも、可笑おかしなくらい出来ない。

眼鏡は、お化け。

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眼鏡は、お化け。

自分で、いつも自分の眼鏡がいやだと思っているせいか、目の美しいことが、一ばんいいと思われる。

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自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思っているゆえか、目の美しいことが、一ばんいいと思われる。

鼻がなくても、口がかくされていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。

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鼻が無くても、口が隠されていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。

私の目は、ただ大きいだけで、なんにもならない。

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私の目は、ただ大きいだけで、なんにもならない。

じっと自分の目を見ていると、がっかりする。

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じっと自分の目を見ていると、がっかりする。

お母さんでさえ、つまらない目だと言っている。

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お母さんでさえ、つまらない目だと言っている。

こんな目を光のない目と言うのだろう。

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こんな目を光の無い目と言うのであろう。

たどん(炭団・まっ黒い炭のかたまり)、と思うと、がっかりする。

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たどん、と思うと、がっかりする。

これですからね。

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これですからね。

ひどいですよ。

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ひどいですよ。

鏡に向かうと、そのたびに、うるおいのあるいい目になりたいと、つくづく思う。

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鏡に向うと、そのたんびに、うるおいのあるいい目になりたいと、つくづく思う。

青い湖のような目、青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れてうつる。

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青い湖のような目、青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。

鳥の影まで、はっきりうつる。

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鳥の影まで、はっきり写る。

美しい目の人とたくさん会ってみたい。

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美しい目のひととたくさん逢ってみたい。

けさから五月、そう思うと、なんだか少しうきうきしてきた。

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けさから五月、そう思うと、なんだか少し浮き浮きして来た。

やっぱりうれしい。

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やっぱりうれしい。

もう夏も近いと思う。

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もう夏も近いと思う。

庭に出ると苺(いちご)の花が目にとまる。

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庭に出るといちごの花が目にとまる。

お父さんが死んだという事実(じじつ)が、不思議になる。

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お父さんの死んだという事実が、不思議になる。

死んで、いなくなる、ということは、わかりにくいことだ。

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死んで、いなくなる、ということは、理解できにくいことだ。

腑(ふ)に落ちない(納得できない)。

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に落ちない。

お姉さんや、別れた人や、長いあいだ会わずにいる人たちがなつかしい。

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お姉さんや、別れた人や、長いあいだ逢わずにいる人たちがなつかしい。

どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちのことが、いやに身近に、おタクアンのにおいのように味気なく思い出されて、かなわない。

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どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちの事が、いやに身近に、おタクワンのにおいのように味気なく思い出されて、かなわない。

ジャピイと、カア(かわいそうな犬だから、カアと呼ぶんだ)と、二匹もつれ合いながら、走ってきた。

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ジャピイと、カア(可哀想かわいそうな犬だから、カアと呼ぶんだ)と、二匹もつれ合いながら、走って来た。

二匹をまえに並べておいて、ジャピイだけを、うんとかわいがってやった。

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二匹をまえに並べて置いて、ジャピイだけを、うんと可愛がってやった。

ジャピイの真っ白い毛は光って美しい。

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ジャピイの真白い毛は光って美しい。

カアは、きたない。

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カアは、きたない。

ジャピイをかわいがっていると、カアがそばで泣きそうな顔をしているのを、ちゃんと知っている。

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ジャピイを可愛がっていると、カアは、傍で泣きそうな顔をしているのをちゃんと知っている。

カアが片輪(かたわ・体の一部が不自由なこと)だということも知っている。

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カアが片輪だということも知っている。

カアは、悲しくて、いやだ。

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カアは、悲しくて、いやだ。

かわいそうでかわいそうでたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。

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可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。

カアは、野良犬(のらいぬ)みたいに見えるから、いつ犬殺し(犬をつかまえて殺す仕事の人)にやられるか、わからない。

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カアは、野良犬みたいに見えるから、いつ犬殺しにやられるか、わからない。

カアは、足がこんなだから、逃げるのがおそいことだろう。

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カアは、足が、こんなだから、逃げるのに、おそいことだろう。

カア、早く、山の中にでも行きなさい。

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カア、早く、山の中にでも行きなさい。

おまえは誰にもかわいがられないのだから、早く死ねばいい。

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おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。

私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。

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私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。

人を困らせて、刺戟(しげき・わざと刺激すること)する。

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人を困らせて、刺戟する。

ほんとうにいやな子なんだ。

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ほんとうに厭な子なんだ。

縁側に腰かけて、ジャピイの頭をなでてやりながら、目にしみる青葉を見ていると、情けなくなって、土の上に座りたいような気持ちになった。

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縁側に腰かけて、ジャピイの頭をでてやりながら、目にみる青葉を見ていると、情なくなって、つちの上に坐りたいような気持になった。

泣いてみたくなった。

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泣いてみたくなった。

うんと息をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかもしれないと思って、やってみたが、だめだった。

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うんといきをつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。

もう、涙のない女になったのかもしれない。

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もう、涙のない女になったのかも知れない。

あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。

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あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。

お掃除しながら、ふと「唐人お吉(とうじんおきち・幕末の女性を歌った俗謡)」

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お掃除しながら、ふと「唐人お吉」

を唄う。

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を唄う。

ちょっとあたりを見まわしたような感じ。

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ちょっとあたりを見廻したような感じ。

ふだん、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」

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普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」

を唄ったのが、おもしろい。

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を唄ったのが、面白い。

蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。

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蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。

こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なことを言い出すか、不安でならない。

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こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なこと言い出すか、不安でならない。

でも、なんだかおかしくなって、箒(ほうき)の手を休めて、ひとりで笑う。

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でも、なんだか可笑しくなって、ほうきの手を休めて、ひとりで笑う。

きのう縫い上げた新しい下着を着る。

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きのう縫い上げた新しい下着を着る。

胸のところに、小さい白い薔薇(ばら)の花を刺繍(ししゅう)しておいた。

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胸のところに、小さい白い薔薇ばらの花を刺繍ししゅうして置いた。

上着を着ちゃうと、この刺繍は見えなくなる。

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上衣を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。

誰にもわからない。

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誰にもわからない。

得意である。

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得意である。

お母さんは、誰かの縁談(えんだん・結婚の話)のために大童(おおわらわ・大いそがし)、朝早くからお出かけ。

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お母さん、誰かの縁談のために大童おおわらわ、朝早くからお出掛け。

私が小さい時からお母さんは、人のために尽くすので、なれっこだけれど、本当におどろくほど、いつも動いているお母さんだ。

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私の小さい時からお母さんは、人のために尽すので、なれっこだけれど、本当に驚くほど、始終うごいているお母さんだ。

感心する。

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感心する。

お父さんが、あまりにも勉強ばかりしていたから、お母さんは、お父さんのぶんもするのである。

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お父さんが、あまりにも勉強ばかりしていたから、お母さんは、お父さんのぶんもするのである。

お父さんは、社交(しゃこう・人づきあい)とかからは、およそ縁が遠いけれど、お母さんは、本当に気持ちのよい人たちの集まりを作る。

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お父さんは、社交とかからは、およそ縁が遠いけれど、お母さんは、本当に気持のよい人たちの集まりを作る。

二人ともちがったところを持っているけれど、お互いに、尊敬し合っていたらしい。

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二人とも違ったところを持っているけれど、お互いに、尊敬し合っていたらしい。

みにくいところのない、美しい安らかな夫婦、とでも言うのだろうか。

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醜いところの無い、美しい安らかな夫婦、とでも言うのであろうか。

ああ、生意気、生意気。

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ああ、生意気、生意気。

おみおつけがあたたまるまで、台所口に腰かけて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。

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おみおつけのあたたまるまで、台所口に腰掛けて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。

そうしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢で、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、ような気がして、過去、現在、未来、それが一しゅんの間に感じられるような、変な気持ちがした。

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そしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢でもって、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、ような気がして、過去、現在、未来、それが一瞬間のうちに感じられるような、変な気持がした。

こんなことは、時々ある。

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こんな事は、時々ある。

誰かと部屋に座って話をしている。

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誰かと部屋に坐って話をしている。

目が、テーブルのすみに行って、コトンと止まって動かない。

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目が、テエブルのすみに行ってコトンとまって動かない。

口だけが動いている。

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口だけが動いている。

こんな時に、変な錯覚(さっかく・かんちがい)を起こすのだ。

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こんな時に、変な錯覚を起すのだ。

いつだったか、こんな同じ状態で、同じことを話しながら、やはり、テーブルのすみを見ていた、また、これから先も、いまのことが、そっくりそのままに自分にやって来るのだ、と信じてしまう気持ちになるのだ。

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いつだったか、こんな同じ状態で、同じ事を話しながら、やはり、テエブルのすみを見ていた、また、これからさきも、いまのことが、そっくりそのままに自分にやって来るのだ、と信じちゃう気持になるのだ。

どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。

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どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。

歩きながら道ばたの豆の葉を、さっとむしりとっても、やはり、この道のここのところで、この葉をむしりとったことがある、と思う。

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歩きながら道傍みちばたの豆の葉を、さっとむしりとっても、やはり、この道のここのところで、この葉を毟りとったことがある、と思う。

そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉をむしるのだ、と信じるのである。

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そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉を毟るのだ、と信じるのである。

また、こんなこともある。

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また、こんなこともある。

あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。

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あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。

そうしたら、これから先、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく手を見たことを、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すにちがいない、と思ってしまった。

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そしたら、これからさき、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく、手を見た事を、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すに違いない、と思ってしまった。

そう思ったら、なんだか、暗い気がした。

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そう思ったら、なんだか、暗い気がした。

また、ある夕方、ご飯をおひつに移している時、インスピレーション(ひらめき)、と言っては大げさだけれど、何か体の中をピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きていくことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、トコロテンがそろっと押し出される時のようなやわらかさで、このまま波のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。

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また、ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟おおげさだけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きて行くことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、トコロテンがそろっと押し出される時のような柔軟性でもって、このまま浪のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。

このときは、哲学どころのさわぎではない。

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このときは、哲学どころのさわぎではない。

盗み猫のように、音も立てずに生きていく予感なんて、ろくなことはないと、むしろ、おそろしかった。

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盗み猫のように、音も立てずに生きて行く予感なんて、ろくなことはないと、むしろ、おそろしかった。

あんな気持ちの状態が、長くつづくと、人は、神がかりみたいになっちゃうのではないかしら。

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あんな気持の状態が、永くつづくと、人は、神がかりみたいになっちゃうのではないかしら。

キリスト。

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キリスト。

でも、女のキリストなんてのは、いやらしい。

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でも、女のキリストなんてのは、いやらしい。

けっきょくは、私がひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、何百、何千という見たり聞いたりしたことの感じ方の処理ができなくなって、ぽかんとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってぽかぽか浮いて来るのではないのかしら。

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結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。

食堂で、ごはんを、ひとりで食べる。

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食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。

ことし、はじめて、きゅうりを食べる。

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ことし、はじめて、キウリをたべる。

きゅうりの青さから、夏が来る。

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キウリの青さから、夏が来る。

五月のきゅうりの青みには、胸がからっぽになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさがある。

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五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。

ひとりで食堂でごはんを食べていると、やたらむしょうに旅行に出たい。

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ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。

汽車に乗りたい。

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汽車に乗りたい。

新聞を読む。

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新聞を読む。

近衛(このえ)さんの写真が出ている。

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近衛さんの写真が出ている。

近衛さんて、いい男なのかしら。

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近衛さんて、いい男なのかしら。

私は、こんな顔が好きではない。

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私は、こんな顔を好かない。

額(ひたい)がいけない。

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ひたいがいけない。

新聞では、本の広告文が一ばん楽しい。

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新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。

一字一行で、百円、二百円と広告料をとられるのだろうから、みんな、一生懸命だ。

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一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。

一字一句、最大の効果をあげようと、うんうんうなって、しぼり出したような名文だ。

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一字一句、最大の効果を収めようと、うんうんうなって、しぼり出したような名文だ。

こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少ないだろう。

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こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少いであろう。

なんだか、気味がよい。

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なんだか、気味がよい。

痛快(つうかい・とても愉快)だ。

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痛快だ。

ごはんをすまして、戸じまりして、登校。

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ごはんをすまして、戸じまりして、登校。

大丈夫、雨が降らないとは思うけれど、それでも、きのうお母さんからもらったよい雨傘をどうしても持って歩きたくて、そいつを持っていく。

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大丈夫、雨が降らないとは思うけれど、それでも、きのうお母さんから、もらったよき雨傘どうしても持って歩きたくて、そいつを携帯。

このアンブレラ(傘)は、お母さんが、昔、娘さん時代に使ったもの。

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このアンブレラは、お母さんが、昔、娘さん時代に使ったもの。

おもしろい傘を見つけて、私は、少し得意。

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面白い傘を見つけて、私は、少し得意。

こんな傘を持って、パリの下町を歩きたい。

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こんな傘を持って、パリイの下町を歩きたい。

きっと、いまの戦争が終わったころ、こんな、夢を持ったような古風の傘が流行するだろう。

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きっと、いまの戦争が終ったころ、こんな、夢を持ったような古風のアンブレラが流行するだろう。

この傘には、ボンネット風の帽子が、きっと似合う。

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この傘には、ボンネット風の帽子が、きっと似合う。

ピンクの裾(すそ)の長い、えりの大きく開いた着物に、黒い絹レースで編んだ長い手袋をして、大きなつばの広い帽子には、美しい紫のすみれをつける。

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ピンクのすその長い、えりの大きく開いた着物に、黒い絹レエスで編んだ長い手袋をして、大きなつばの広い帽子には、美しい紫のすみれをつける。

そうして深緑(しんりょく・初夏の緑)のころに、パリのレストランに昼食をしに行く。

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そうして深緑のころにパリイのレストランに昼食をしに行く。

ものうそうに軽く頬杖(ほおづえ)をついて、外を通る人の流れを見ていると、誰かが、そっと私の肩をたたく。

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ものそうに軽く頬杖して、外を通る人の流れを見ていると、誰かが、そっと私の肩をたたく。

急に音楽、薔薇(ばら)のワルツ。

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急に音楽、薔薇のワルツ。

ああ、おかしい、おかしい。

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ああ、おかしい、おかしい。

現実は、この古ぼけた奇態(きたい・へんてこ)な、柄(え)のひょろ長い雨傘一本。

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現実は、この古ぼけた奇態な、のひょろ長い雨傘一本。

自分が、みじめでかわいそう。

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自分が、みじめで可哀想。

マッチ売りの娘さん。

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マッチ売りの娘さん。

どれ、草でも、むしって行きましょう。

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どれ、草でも、むしって行きましょう。

出がけに、うちの門のまえの草を、少しむしって、お母さんへの勤労奉仕(きんろうほうし・お手伝い)。

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出がけに、うちの門のまえの草を、少しむしって、お母さんへの勤労奉仕。

きょうは何かいいことがあるかもしれない。

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きょうは何かいいことがあるかも知れない。

同じ草でも、どうしてこんな、むしりとりたい草と、そっと残しておきたい草と、いろいろあるのだろう。

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同じ草でも、どうしてこんな、むしりとりたい草と、そっと残して置きたい草と、いろいろあるのだろう。

かわいい草と、そうでない草と、形は、ちっともちがっていないのに、それでも、いじらしい草と、にくらしい草と、どうしてこう、ちゃんとわかれているのだろう。

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可愛い草と、そうでない草と、形は、ちっとも違っていないのに、それでも、いじらしい草と、にくにくしい草と、どうしてこう、ちゃんとわかれているのだろう。

理屈(りくつ)はないんだ。

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理窟はないんだ。

女の好ききらいなんて、ずいぶんいい加減なものだと思う。

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女の好ききらいなんて、ずいぶんいい加減なものだと思う。

十分間の勤労奉仕をすまして、停車場(ていしゃば・駅)へ急ぐ。

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十分間の勤労奉仕をすまして、停車場へ急ぐ。

畑道を通りながら、しきりと絵が描きたくなる。

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畠道を通りながら、しきりと絵が画きたくなる。

途中、神社の森の小道を通る。

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途中、神社の森の小路を通る。

これは、私ひとりで見つけておいた近道である。

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これは、私ひとりで見つけて置いた近道である。

森の小道を歩きながら、ふと下を見ると、麦が二寸(すん・約六センチ)ばかり、あちこちにかたまって育っている。

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森の小路を歩きながら、ふと下を見ると、麦が二寸ばかりあちこちに、かたまって育っている。

その青々した麦を見ていると、ああ、ことしも兵隊さんが来たのだと、わかる。

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その青々した麦を見ていると、ああ、ことしも兵隊さんが来たのだと、わかる。

去年も、たくさんの兵隊さんと馬がやって来て、この神社の森の中に休んで行った。

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去年も、たくさんの兵隊さんと馬がやって来て、この神社の森の中に休んで行った。

しばらくたってそこを通ってみると、麦が、きょうのように、すくすくしていた。

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しばらく経ってそこを通ってみると、麦が、きょうのように、すくすくしていた。

けれども、その麦は、それ以上育たなかった。

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けれども、その麦は、それ以上育たなかった。

ことしも、兵隊さんの馬の桶からこぼれて生えて、ひょろひょろ育ったこの麦は、この森がこんなに暗く、まったく日が当たらないものだから、かわいそうに、これだけ育って死んでしまうのだろう。

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ことしも、兵隊さんの馬の桶からこぼれて生えて、ひょろひょろ育ったこの麦は、この森はこんなに暗く、全く日が当らないものだから、可哀想に、これだけ育って死んでしまうのだろう。

神社の森の小道を抜けて、駅近くで、労働者四、五人と一緒になる。

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神社の森の小路を抜けて、駅近く、労働者四、五人と一緒になる。

その労働者たちは、いつものとおり、口に出せないようないやな言葉を私に向かって投げかける。

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その労働者たちは、いつもの例で、言えないような厭な言葉を私に向かって吐きかける。

私は、どうしたらよいかと迷ってしまった。

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私は、どうしたらよいかと迷ってしまった。

その労働者たちを追いぬいて、どんどん先に行ってしまいたいのだが、そうするには、労働者たちの間を縫ってくぐり抜け、すり抜けしなければならない。

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その労働者たちを追い抜いて、どんどんさきに行ってしまいたいのだが、そうするには、労働者たちの間を縫ってくぐり抜け、すり抜けしなければならない。

おっかない。

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おっかない。

それと言って、黙って立ちんぼして、労働者たちを先に行かせて、うんと距離ができるまで待っているのは、もっともっと胆力(たんりょく・度胸)のいることだ。

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それと言って、黙って立ちんぼして、労働者たちをさきに行かせて、うんと距離のできるまで待っているのは、もっともっと胆力のることだ。

それは失礼なことなのだから、労働者たちは怒るかもしれない。

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それは失礼なことなのだから、労働者たちは怒るかも知れない。

からだは、カッカしてくるし、泣きそうになってしまった。

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からだは、カッカして来るし、泣きそうになってしまった。

私は、その泣きそうになるのが恥ずかしくて、その人たちに向かって笑ってやった。

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私は、その泣きそうになるのが恥ずかしくて、その者達に向かって笑ってやった。

そして、ゆっくりと、その人たちのあとについて歩いていった。

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そして、ゆっくりと、その者達のあとについて歩いていった。

そのときは、それきりになってしまったけれど、そのくやしさは、電車に乗ってからも消えなかった。

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そのときは、それ限りになってしまったけれど、その口惜くやしさは、電車に乗ってからも消えなかった。

こんなくだらないことに平然となれるように、早く強く、清く、なりたかった。

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こんなくだらない事に平然となれるように、早く強く、清く、なりたかった。

電車の入口のすぐ近くに空いている席があったから、私はそこへそっと自分の道具を置いて、スカートのひだをちょっと直して、そうして座ろうとしたら、眼鏡の男の人が、ちゃんと私の道具をどけて席に腰かけてしまった。

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電車の入口のすぐ近くに空いている席があったから、私はそこへそっと私のお道具を置いて、スカアトのひだをちょっと直して、そうして坐ろうとしたら、眼鏡の男の人が、ちゃんと私のお道具をどけて席に腰かけてしまった。

「あの、そこは私が見つけた席ですの」

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「あの、そこは私、見つけた席ですの」

と言ったら、男は苦笑いして平気で新聞を読み出した。

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と言ったら、男は苦笑して平気で新聞を読み出した。

よく考えてみると、どっちが図々しいのかわからない。

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よく考えてみると、どっちが図々しいのかわからない。

こっちのほうが図々しいのかもしれない。

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こっちの方が図々しいのかも知れない。

仕方なく、傘と道具を、網棚に乗せ、私はつり革にぶらさがって、いつものとおり、雑誌を読もうと、パラパラ片手でページをめくっているうちに、ひょんなことを思った。

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仕方なく、アンブレラとお道具を、網棚に乗せ、私は吊り革にぶらさがって、いつもの通り、雑誌を読もうと、パラパラ片手でペエジを繰っているうちに、ひょんな事を思った。

自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験のない私は、泣きべそをかくことだろう。

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自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。

それほど私は、本に書かれてあることに頼っている。

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それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。

一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化(どうか・そっくり同じになること)し、共鳴(きょうめい・気持ちが同じになること)し、それに生活をくっつけてみるのだ。

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一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。

また、他の本を読むと、たちまち、くるっとかわって、すましている。

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また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。

人のものを盗んできて自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私のただ一つの特技だ。

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人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。

本当に、このずるさ、いんちきにはいやになる。

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本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。

毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、あか恥ばかりかいていたら、少しは重厚(じゅうこう・どっしりと落ちついていること)になるかもしれない。

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毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、あか恥ばかりかいていたら、少しは重厚になるかも知れない。

けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理屈をこじつけて、上手につくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々(とくとく・得意げに)とやりそうだ。

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けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理窟をこじつけて、上手につくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とくとくとやりそうだ。

(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)

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(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)

ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。

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ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。

読む本がなくなって、まねするお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、いったいどうするだろう。

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読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、いったいどうするだろう。

手も足も出ない、萎縮(いしゅく・ちぢこまること)した様子で、むやみに鼻をかんでばかりいるかもしれない。

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手も足も出ない、萎縮いしゅくの態で、むやみに鼻をかんでばかりいるかも知れない。

何しろ電車の中で、毎日こんなにふらふら考えているばかりでは、だめだ。

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何しろ電車の中で、毎日こんなにふらふら考えているばかりでは、だめだ。

からだに、いやなあたたかさが残って、やりきれない。

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からだに、厭な温かさが残って、やりきれない。

何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきりつかめるのか。

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何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきりつかめるのか。

これまでの私の自己批判なんて、まるで意味のないものだったと思う。

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これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。

批判をしてみて、いやな、弱いところに気づくと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角(つの)をためて牛を殺す(小さな欠点を直そうとして全体をだめにすること)のはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものではない。

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批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、つのをためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。

何も考えないほうが、むしろ良心的だ。

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何も考えない方が、むしろ良心的だ。

この雑誌にも、「若い女の欠点」

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この雑誌にも、「若い女の欠点」

という見出しで、いろんな人が書いてある。

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という見出しで、いろんな人が書いて在る。

読んでいるうちに、自分のことを言われたような気がして恥ずかしい気にもなる。

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読んでいるうちに、自分のことを言われたような気がして恥ずかしい気にもなる。

それに書く人、人によって、ふだんばかだと思っている人は、そのとおりに、ばかな感じがするようなことを言っているし、写真で見て、おしゃれな感じのする人は、おしゃれな言葉づかいをしているので、おかしくて、ときどきくすくす笑いながら読んでいく。

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それに書く人、人によって、ふだんばかだと思っている人は、そのとおりに、ばかの感じがするようなことを言っているし、写真で見て、おしゃれの感じのする人は、おしゃれの言葉遣いをしているので、可笑おかしくて、ときどきくすくす笑いながら読んで行く。

宗教家は、すぐに信仰を持ち出すし、教育家は、はじめから終わりまで恩、恩、と書いてある。

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宗教家は、すぐに信仰を持ち出すし、教育家は、始めから終りまで恩、恩、と書いてある。

政治家は、漢詩を持ち出す。

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政治家は、漢詩を持ち出す。

作家は、気取って、おしゃれな言葉を使っている。

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作家は、気取って、おしゃれな言葉を使っている。

しょっている(かっこうつけている)。

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しょっている。

でも、みんな、なかなか確実なことばかり書いてある。

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でも、みんな、なかなか確実なことばかり書いてある。

個性のないこと。

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個性の無いこと。

深み(ふかみ)のないこと。

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深味の無いこと。

正しい希望、正しい野心、そんなものから遠く離れていること。

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正しい希望、正しい野心、そんなものから遠く離れている事。

つまり、理想のないこと。

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つまり、理想の無いこと。

批判はあっても、自分の生活に直接むすびつける積極性(せっきょくせい・自分から進んでやろうとする気持ち)のないこと。

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批判はあっても、自分の生活に直接むすびつける積極性の無いこと。

無反省。

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無反省。

本当の自覚、自愛、自重(じちょう・自分をたいせつにすること)がない。

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本当の自覚、自愛、自重がない。

勇気のある行動をしても、そのあらゆる結果について、責任が持てるかどうか。

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勇気のある行動をしても、そのあらゆる結果について、責任が持てるかどうか。

自分のまわりの生活のしかたには順応(じゅんのう・うまく合わせること)し、これをうまく処理するが、自分、そして自分のまわりの生活に、正しい強い愛情を持っていない。

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自分の周囲の生活様式には順応し、これを処理することに巧みであるが、自分、ならびに自分の周囲の生活に、正しい強い愛情を持っていない。

本当の意味の謙遜(けんそん・ひかえめな態度)がない。

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本当の意味の謙遜がない。

独創性(どくそうせい・自分らしい新しい考え)にとぼしい。

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独創性にとぼしい。

模倣(もほう・まねをすること)だけだ。

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模倣だけだ。

人間本来(ほんらい)の「愛」

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人間本来の「愛」

の感覚が欠如(けつじょ・欠けていること)してしまっている。

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の感覚が欠如してしまっている。

お上品ぶっていながら、気品がない。

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お上品ぶっていながら、気品がない。

そのほか、たくさんのことが書かれている。

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そのほか、たくさんのことが書かれている。

本当に、読んでいて、はっとすることが多い。

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本当に、読んでいて、はっとすることが多い。

決して否定できない。

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決して否定できない。

けれどもここに書かれてある言葉全部が、なんだか、楽観的な、この人たちのふだんの気持ちとは離れて、ただ書いてみたというような感じがする。

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けれどもここに書かれてある言葉全部が、なんだか、楽観的な、この人たちの普段の気持とは離れて、ただ書いてみたというような感じがする。

「本当の意味の」

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「本当の意味の」

とか、「本来の」

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とか、「本来の」

とかいう形容詞(けいようし・言葉のかざり方)がたくさんあるけれど、「本当の」

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とかいう形容詞がたくさんあるけれど、「本当の」

愛、「本当の」

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愛、「本当の」

自覚、とは、どんなものか、はっきり手にとるようには書かれていない。

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自覚、とは、どんなものか、はっきり手にとるようには書かれていない。

この人たちには、わかっているのかもしれない。

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この人たちには、わかっているのかも知れない。

それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威(けんい・力ある立場)をもって指で示してくれたほうが、どんなにありがたいかわからない。

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それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難ありがたいかわからない。

私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。

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私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。

誰も自信がないのかしら。

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誰も自信が無いのかしら。

ここに意見を発表している人たちも、いつでも、どんな場合にでも、こんな意見を持っている、というわけではないのかもしれない。

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ここに意見を発表している人たちも、いつでも、どんな場合にでも、こんな意見を持っている、というわけでは無いのかもしれない。

正しい希望、正しい野心を持っていない、としかっておられるけれども、そんなら私たち、正しい理想を追って行動した場合、この人たちはどこまでも私たちを見守り、導いていってくれるだろうか。

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正しい希望、正しい野心を持っていない、と叱って居られるけれども、そんなら私たち、正しい理想を追って行動した場合、この人たちはどこまでも私たちを見守り、導いていってくれるだろうか。

私たちには、自分が行くべき一番よい場所、行きたいと思う美しい場所、自分を伸ばしていくべき場所が、おぼろげながらわかっている。

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私たちには、自身の行くべき最善の場所、行きたく思う美しい場所、自身を伸ばして行くべき場所、おぼろげながら判っている。

よい生活を持ちたいと思っている。

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よい生活を持ちたいと思っている。

それこそ正しい希望、野心を持っている。

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それこそ正しい希望、野心を持っている。

頼れるだけの動かない信念をも持ちたいと、あせっている。

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頼れるだけの動かない信念をも持ちたいと、あせっている。

しかし、これら全部を、娘なら娘としての生活の上に具現(ぐげん・実際の形にすること)しようとかかったら、どんなに努力が必要なことだろう。

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しかし、これら全部、娘なら娘としての生活の上に具現しようとかかったら、どんなに努力が必要なことだろう。

お母さん、お父さん、姉、兄たちの考え方もある。

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お母さん、お父さん、姉、兄たちの考えかたもある。

(口だけでは、やれ古いのなんのって言うけれども、決して人生の先輩、老人、結婚している人たちを軽蔑なんかしていない。

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(口だけでは、やれ古いのなんのって言うけれども、決して人生の先輩、老人、既婚の人たちを軽蔑なんかしていない。

それどころか、いつでも二目(にもく)も三目(さんもく)も置いている(ふだん以上に相手を認めて敬っている)はずだ)いつも生活と関係のある親類というものも、ある。

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それどころか、いつでも二目にもく三目さんもくも置いているはずだ)始終生活と関係のある親類というものも、ある。

知人もある。

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知人もある。

友達もある。

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友達もある。

それから、いつも大きな力で私たちを押し流す「世の中」

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それから、いつも大きな力で私たちを押し流す「世の中」

というものもあるのだ。

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というものもあるのだ。

これらすべてのことを思ったり見たり考えたりすると、自分の個性を伸ばすどころのさわぎではない。

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これらすべての事を思ったり見たり考えたりすると、自分の個性を伸ばすどころの騒ぎではない。

まあ、まあ目立たずに、ふつうの多くの人たちの通る道をだまって進んでいくのが、一ばん利口(りこう)なのでしょう、くらいに思わずにはいられない。

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まあ、まあ目立たずに、普通の多くの人たちの通る路をだまって進んで行くのが、一ばん利巧なのでしょうくらいに思わずにはいられない。

少数の人のための教育を、みんなに向けて行うなんて、ずいぶんむごいことだとも思われる。

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少数者への教育を、全般へほどこすなんて、ずいぶんむごいことだとも思われる。

学校の修身(しゅうしん・道徳の授業)と、世の中の掟(おきて)と、すごくちがっているのが、だんだん大きくなるにつれてわかってきた。

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学校の修身と、世の中のおきてと、すごく違っているのが、だんだん大きくなるにつれてわかって来た。

学校の修身を絶対に守っていると、その人はばかを見る。

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学校の修身を絶対に守っていると、その人はばかを見る。

変人と言われる。

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変人と言われる。

出世しないで、いつも貧乏だ。

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出世しないで、いつも貧乏だ。

うそをつかない人なんて、いるかしら。

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嘘をつかない人なんて、あるかしら。

いたら、その人は、永遠に敗北者だ。

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あったら、その人は、永遠に敗北者だ。

私の身内の中にも、ひとり、行いが正しく、固い信念を持って、理想を追い求めて、それこそ本当の意味で生きている人がいるのだけれど、親類の人はみんな、その人を悪く言っている。

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私の肉親関係のうちにも、ひとり、行い正しく、固い信念を持って、理想を追及してそれこそ本当の意味で生きているひとがあるのだけれど、親類のひとみんな、そのひとを悪く言っている。

ばかあつかいしている。

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馬鹿あつかいしている。

私なんか、そんなばかあつかいされて負けるのがわかっていながら、お母さんやみんなに反対してまで自分の考え方を伸ばすことは、できない。

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私なんか、そんな馬鹿あつかいされて敗北するのがわかっていながら、お母さんや皆に反対してまで自分の考えかたを伸ばすことは、できない。

おっかないのだ。

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おっかないのだ。

小さいころには、私も、自分の気持ちと人の気持ちがまったくちがってしまったときには、お母さんに、

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小さい時分には、私も、自分の気持とひとの気持と全く違ってしまったときには、お母さんに、

「なぜ?」

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「なぜ?」

と聞いたものだ。

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いたものだ。

そのときには、お母さんは、何か一言で片づけて、そうして怒ったものだ。

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そのときには、お母さんは、何か一言ひとことで片づけて、そうして怒ったものだ。

悪い、不良みたいだ、と言って、お母さんは悲しがっていたようだった。

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悪い、不良みたいだ、と言って、お母さんは悲しがっていたようだった。

お父さんに言ったこともある。

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お父さんに言ったこともある。

お父さんは、そのときただ黙って笑っていた。

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お父さんは、そのときただ黙って笑っていた。

そしてあとでお母さんに「中心はずれの子だ」

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そしてあとでお母さんに「中心はずれの子だ」

とおっしゃっていたそうだ。

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とおっしゃっていたそうだ。

だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。

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だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。

洋服一枚作るのにも、人々の思惑(おもわく・どう思われるか)を考えるようになってしまった。

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洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。

自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛していきたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現(たいげん・形にすること)するのは、おっかないのだ。

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自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。

人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。

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人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。

たくさんの人たちが集まったとき、どんなに自分は卑屈(ひくつ・自分を必要以上に低く見せること)になることだろう。

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たくさんの人たちが集まったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。

口に出したくもないことを、気持ちとぜんぜんはなれたことを、うそをついてペチャペチャやっている。

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口に出したくも無いことを、気持と全然はなれたことを、嘘ついてペチャペチャやっている。

そのほうが得だ、得だと思うからなのだ。

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そのほうがとくだ、得だと思うからなのだ。

いやなことだと思う。

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いやなことだと思う。

早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。

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早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。

そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をぽたぽた生活することもなくなるだろう。

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そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも無くなるだろう。

おや、あそこ、席が空いた。

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おや、あそこ、席が空いた。

いそいで網棚から、道具と傘をおろし、すばやく割りこむ。

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いそいで網棚から、お道具と傘をおろし、すばやく割りこむ。

右隣は中学生、左隣は、子どもを背負って、ねんねこ(おんぶ用の綿入れ半纏)を着ているおばさん。

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右隣は中学生、左隣は、子供背負ってねんねこ着ているおばさん。

おばさんは、年よりのくせに厚化粧をして、髪を流行のまき方にしている。

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おばさんは、年よりのくせに厚化粧をして、髪を流行まきにしている。

顔はきれいなのだけれど、のどのところにしわが黒く寄っていて、あさましく、ぶってやりたいほどいやだった。

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顔は綺麗なのだけれど、のどの所にしわが黒く寄っていて、あさましく、ぶってやりたいほど厭だった。

人間は、立っているときと、座っているときと、まるっきり考えることがちがってくる。

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人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。

座っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。

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坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。

私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年ごろのサラリーマンが、ぼんやり座っている。

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私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢とし恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。

三十ぐらいだろうか。

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三十ぐらいであろうか。

みんな、いやだ。

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みんな、いやだ。

目が、どろんとにごっている。

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眼が、どろんと濁っている。

覇気(はき・元気や意気ごみ)がない。

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覇気はきが無い。

けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならない羽目(はめ・困った状況)におちるかもしれないのだ。

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けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。

女は、自分の運命を決めるのに、微笑(ほほえみ)一つでたくさんなのだ。

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女は、自分の運命を決するのに、微笑一つでたくさんなのだ。

おそろしい。

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おそろしい。

不思議なくらいだ。

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不思議なくらいだ。

気をつけよう。

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気をつけよう。

けさは、ほんとに妙なことばかり考える。

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けさは、ほんとに妙なことばかり考える。

二、三日まえから、うちのお庭の手入れに来ている植木屋(うえきや)さんの顔が目にちらついて、しかたがない。

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二、三日まえから、うちのお庭を手入れしに来ている植木屋さんの顔が目にちらついて、しかたがない。

どこからどこまで植木屋さんなのだけれど、顔の感じが、どうしてもちがう。

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どこからどこまで植木屋さんなのだけれど、顔の感じが、どうしてもちがう。

大げさに言えば、思索家(しさくか・考えごとをする人)みたいな顔をしている。

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大袈裟に言えば、思索家みたいな顔をしている。

色は黒いだけに、引きしまって見える。

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色は黒いだけにしまって見える。

目がよいのだ。

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目がよいのだ。

眉(まゆ)もせまっている。

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眉もせまっている。

鼻は、すごく獅子っぱな(ししっぱな・獅子の顔のように大きく高い鼻)だけれど、それがまた、色の黒いのに合っていて、意志が強そうに見える。

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鼻は、すごく獅子っぱなだけれど、それがまた、色の黒いのにマッチして、意志が強そうに見える。

唇のかたちも、なかなかよい。

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唇のかたちも、なかなかよい。

耳は少しきたない。

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耳は少し汚い。

手といったら、それこそ植木屋さんに逆もどりだけれど、黒い帽子(ソフト帽)を深くかぶった、日かげの顔は、植木屋さんにしておくのは惜しい気がする。

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手といったら、それこそ植木屋さんに逆もどりだけれど、黒いソフトを深くかぶった日蔭の顔は、植木屋さんにして置くのは惜しい気がする。

お母さんに、三度も四度も、あの植木屋さんは、はじめから植木屋さんだったのかしら、とたずねて、しまいにしかられてしまった。

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お母さんに、三度も四度も、あの植木屋さん、はじめから植木屋さんだったのかしら、とたずねて、しまいに叱られてしまった。

きょう、道具を包んで来たこの風呂敷(ふろしき)は、ちょうど、あの植木屋さんがはじめて来た日に、お母さんからもらったのだ。

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きょう、お道具を包んで来たこの風呂敷は、ちょうど、あの植木屋さんがはじめて来た日に、お母さんからもらったのだ。

あの日は、うちのほうの大掃除だったので、台所直しさんや、畳屋さんもはいっていて、お母さんもたんすのものを整理して、そのときに、この風呂敷が出てきて、私がもらった。

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あの日は、うちのほうの大掃除だったので、台所直しさんや、畳屋さんもはいっていて、お母さんも箪笥たんすのものを整理して、そのときに、この風呂敷が出て来て、私がもらった。

きれいな女らしい風呂敷。

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綺麗な女らしい風呂敷。

きれいだから、結ぶのが惜しい。

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綺麗だから、結ぶのが惜しい。

こうして座って、膝の上にのせて、何度もそっと見てみる。

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こうして坐って、膝の上にのせて、何度もそっと見てみる。

なでる。

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撫でる。

電車の中のみんなの人にも見てもらいたいけれど、誰も見ない。

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電車の中の皆の人にも見てもらいたいけれど、誰も見ない。

このかわいい風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえくださったら、私は、その人のところへお嫁に行くことにきめてもいい。

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この可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところへお嫁に行くことにきめてもいい。

本能(ほんのう)、という言葉につき当たると、泣いてみたくなる。

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本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。

本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことからわかってくると、気が狂いそうな気持ちになる。

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本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。

どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。

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どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。

否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさってきたようなものだ。

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否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。

そして私を自由に引きずりまわしているのだ。

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そして私を自由に引きずりまわしているのだ。

引きずられながら満足している気持ちと、それを悲しい気持ちで眺めている別の感情と。

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引きずられながら満足している気持と、それを悲しい気持で眺めている別の感情と。

なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛していけないのだろう。

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なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。

本能が、私のいままでの感情、理性を食っていくのを見るのは、情けない。

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本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。

ちょっとでも自分を忘れることがあったあとは、ただ、がっかりしてしまう。

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ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。

あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知ってくるのは、泣けそうだ。

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あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。

お母さん、お父さんと呼びたくなる。

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お母さん、お父さんと呼びたくなる。

けれども、また、真実というものは、案外、自分がいやだと思っているところにあるのかもしれないのだから、いよいよ情けない。

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けれども、また、真実というものは、案外、自分が厭だと思っているところに在るのかも知れないのだから、いよいよ情ない。

もう、お茶の水。

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もう、お茶の水。

プラットフォームに降り立ったら、なんだかすべて、けろりとしていた。

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プラットフォムに降り立ったら、なんだかすべて、けろりとしていた。

いま過ぎたことを、いそいで思い返そうとしたけれど、いっこうに思い浮かばない。

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いま過ぎたことを、いそいで思いかえしたく努めたけれど、いっこうに思い浮かばない。

あの、つづきを考えようと、あせったけれど、何も思うことがない。

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あの、つづきを考えようと、あせったけれど、何も思うことがない。

からっぽだ。

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からっぽだ。

その時、時には、ずいぶんと自分の気持ちを打ったものもあったようだし、苦しい恥ずかしいこともあったはずなのに、過ぎてしまえば、何もなかったのとまったく同じだ。

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その時、時には、ずいぶんと自分の気持を打ったものもあったようだし、くるしい恥ずかしいこともあったはずなのに、過ぎてしまえば、何もなかったのと全く同じだ。

いま、という瞬間(しゅんかん)は、おもしろい。

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いま、という瞬間は、面白い。

いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、新しい「いま」

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いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」

が来ている。

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が来ている。

ブリッジの階段をコトコト昇りながら、なんじゃらほい、と思った。

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ブリッジの階段をコトコト昇りながら、ナンジャラホイと思った。

ばかばかしい。

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ばかばかしい。

私は、少し幸福すぎるのかもしれない。

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私は、少し幸福すぎるのかも知れない。

けさの小杉(こすぎ)先生はきれい。

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けさの小杉先生は綺麗。

私の風呂敷みたいにきれい。

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私の風呂敷みたいに綺麗。

美しい青色の似合う先生。

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美しい青色の似合う先生。

胸の真紅(しんく・まっ赤)のカーネーションも目立つ。

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胸の真紅のカーネーションも目立つ。

「つくる」

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「つくる」

ということが、なかったら、もっともっとこの先生が好きなのだけれど。

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ということが、無かったら、もっともっとこの先生すきなのだけれど。

あまりにポーズをつけすぎる。

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あまりにポオズをつけすぎる。

どこか、無理がある。

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どこか、無理がある。

あれじゃあ疲れることだろう。

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あれじゃあ疲れることだろう。

性格も、どこかむずかしくてわかりにくいところがある。

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性格も、どこか難解なところがある。

わからないところをたくさん持っている。

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わからないところをたくさん持っている。

暗い性質なのに、無理に明るく見せようとしているところも見える。

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暗い性質なのに、無理に明るく見せようとしているところも見える。

しかし、なんといってもひかれる女の人だ。

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しかし、なんといってもかれる女のひとだ。

学校の先生なんてさせておくのは惜しい気がする。

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学校の先生なんてさせて置くの惜しい気がする。

お教室では、まえほど人気がなくなったけれど、私は、私ひとりは、まえと同じようにひかれている。

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お教室では、まえほど人気が無くなったけれど、私は、私ひとりは、まえと同様にかれている。

山の中、湖のほとりの古いお城に住んでいるお嬢さん、そんな感じがある。

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山中、湖畔の古城に住んでいる令嬢、そんな感じがある。

いやに、ほめてしまったものだ。

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厭に、ほめてしまったものだ。

小杉先生のお話は、どうして、いつもこんなに堅苦しいのだろう。

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小杉先生のお話は、どうして、いつもこんなに固いのだろう。

頭がわるいのじゃないかしら。

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頭がわるいのじゃないかしら。

悲しくなっちゃう。

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悲しくなっちゃう。

さっきから、愛国心について長々と説いて聞かせているのだけれど、そんなこと、わかりきっているじゃないか。

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さっきから、愛国心について永々ながながと説いて聞かせているのだけれど、そんなこと、わかりきっているじゃないか。

どんな人にだって、自分の生まれたところを愛する気持ちはあるのに。

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どんな人にだって、自分の生まれたところを愛する気持はあるのに。

つまらない。

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つまらない。

机に頬杖(ほおづえ)をついて、ぼんやり窓の外を眺める。

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机に頬杖ついて、ぼんやり窓のそとを眺める。

風が強いせいか、雲がきれいだ。

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風の強いゆえか、雲が綺麗だ。

お庭のすみに、薔薇の花が四つ咲いている。

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お庭の隅に、薔薇の花が四つ咲いている。

黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。

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黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。

ぽかんと花を眺めながら、人間にも、本当によいところがある、と思った。

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ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。

花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。

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花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。

お昼ご飯のときは、お化け話が出る。

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お昼御飯のときは、お化け話が出る。

ヤスベエねえちゃんの、一高(いちこう・旧制第一高等学校)七不思議の一つ、「開かずの扉」

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ヤスベエねえちゃんの、一高いちこう七不思議の一つ、「かずの扉」

には、もう、みんな、きゃあ、きゃあ。

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には、もう、みんな、きゃあ、きゃあ。

ドロンドロン式(幽霊が出るようなお化け話の型)でなく、心理的なので、おもしろい。

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ドロンドロン式でなく、心理的なので、面白い。

あんまり騒いだので、いま食べたばかりなのに、もうおなかがペコペコになってしまった。

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あんまり騒いだので、いま食べたばかりなのに、もうペコになってしまった。

さっそくアンパン夫人から、キャラメルをごちそうになる。

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さっそくアンパン夫人から、キャラメル御馳走になる。

それからまた、ひとしきり恐怖物語にみなさん夢中。

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それからまた、ひとしきり恐怖物語にみなさん夢中。

誰でもかれでも、このお化け話とやらには、興味がわくらしい。

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誰でもかれでも、このお化け話とやらには、興味がくらしい。

一つの刺激(しげき)でしょうかな。

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一つの刺戟でしょうかな。

それから、これは怪談ではないけれど、「久原房之助(くはらふさのすけ・実業家)」

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それから、これは怪談ではないけれど、「久原房之助」

の話、おかしい、おかしい。

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の話、おかしい、おかしい。

午後の図画の時間には、みんな、校庭に出て、写生のお稽古。

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午後の図画の時間には、皆、校庭に出て、写生のお稽古。

伊藤先生は、どうして私を、いつも意味もなく困らせるのだろう。

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伊藤先生は、どうして私を、いつも無意味に困らせるのだろう。

きょうも私に、先生ご自身の絵のモデルになるよう言いつけた。

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きょうも私に、先生ご自身の絵のモデルになるよう言いつけた。

私がけさ持ってきた古い雨傘が、クラスの大歓迎を受けて、みなさん騒ぎたてるものだから、とうとう伊藤先生にもわかってしまって、その雨傘を持って、校庭のすみの薔薇のそばに立っているよう、言いつけられた。

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私のけさ持参した古い雨傘が、クラスの大歓迎を受けて、皆さん騒ぎたてるものだから、とうとう伊藤先生にもわかってしまって、その雨傘持って、校庭の隅の薔薇の傍に立っているよう、言いつけられた。

先生は、私のこんな姿を描いて、こんど展覧会に出すのだそうだ。

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先生は、私のこんな姿を画いて、こんど展覧会に出すのだそうだ。

三十分間だけ、モデルになってあげることを承諾(しょうだく)する。

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三十分間だけ、モデルになってあげることを承諾する。

すこしでも、人のお役に立つことは、うれしいものだ。

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すこしでも、人のお役に立つことは、うれしいものだ。

けれども、伊藤先生と二人で向かい合っていると、とても疲れる。

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けれども、伊藤先生と二人で向かい合っていると、とても疲れる。

話がねちねちして理屈が多すぎるし、あまりにも私を意識しているせいか、スケッチしながらでも話すことが、みんな私のことばかり。

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話がねちねちして理窟が多すぎるし、あまりにも私を意識しているゆえか、スケッチしながらでも話すことが、みんな私のことばかり。

返事するのもめんどうくさく、わずらわしい。

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返事するのも面倒くさく、わずらわしい。

はっきりしない人である。

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ハッキリしない人である。

変に笑ったり、先生のくせに恥ずかしがったり、何しろさっぱりしないのには、げっとなりそうだ。

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変に笑ったり、先生のくせに恥ずかしがったり、何しろサッパリしないのには、ゲッとなりそうだ。

「死んだ妹を、思い出します」

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「死んだ妹を、思い出します」

なんて、やりきれない。

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なんて、やりきれない。

人は、いい人なんだろうけれど、身ぶり(ゼスチュア)が多すぎる。

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人は、いい人なんだろうけれど、ゼスチュアが多すぎる。

身ぶりといえば、私だって、負けないでたくさん持っている。

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ゼスチュアといえば、私だって、負けないでたくさんに持っている。

私のは、その上、ずるくて利口に立ちまわる。

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私のは、その上、ずるくて利巧に立ちまわる。

本当にキザなのだから始末に困る。

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本当にキザなのだから始末に困る。

「自分は、ポーズをつくりすぎて、ポーズに引きずられているうそつきの化けものだ」

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「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」

なんて言って、これがまた、一つのポーズなのだから、動きがとれない。

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なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。

こうして、おとなしく先生のモデルになってあげていながらも、つくづく、「自然になりたい、素直になりたい」

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こうして、おとなしく先生のモデルになってあげていながらも、つくづく、「自然になりたい、素直になりたい」

とねがっているのだ。

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と祈っているのだ。

本なんか読むのやめてしまえ。

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本なんか読むの止めてしまえ。

頭の中の考えだけの生活で、意味もない、高慢ちき(こうまんちき・えらそうな態度)の知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。

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観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。

やれ生活の目標がないの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷(かんしょう・気分にひたること)だけさ。

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やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。

自分をかわいがって、なぐさめているだけなのさ。

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自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。

それからずいぶん自分を買いかぶっているのですよ、ああ、こんな心のきたない私をモデルにしたりなんかして、先生の絵は、きっと落選だ。

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それからずいぶん自分を買いかぶっているのですよ、ああ、こんな心の汚い私をモデルにしたりなんかして、先生の画は、きっと落選だ。

美しいはずがないもの。

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美しいはずがないもの。

いけないことだけれど、伊藤先生がばかに見えてしようがない。

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いけないことだけれど、伊藤先生がばかに見えてしようがない。

先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない。

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先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない。

だまって同じ姿勢で立っていると、やたら無性に、お金がほしくなってくる。

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だまって同じ姿勢で立っていると、やたら無性むしょうに、お金が欲しくなって来る。

十円あれば、よいのだけれど。

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十円あれば、よいのだけれど。

「マダム・キュリー」

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「マダム・キュリイ」

が一ばん読みたい。

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が一ばん読みたい。

それから、ふっと、お母さんが長生きするように、と思う。

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それから、ふっと、お母さん長生きするように、と思う。

先生のモデルになっていると、へんに、つらい。

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先生のモデルになっていると、へんに、つらい。

くたくたに疲れた。

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くたくたに疲れた。

放課後は、お寺の娘さんのキン子さんと、こっそり、ハリウッド(美容院の名前)へ行って、髪をやってもらう。

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放課後は、お寺の娘さんのキン子さんと、こっそり、ハリウッドへ行って、髪をやってもらう。

できあがったのを見ると、頼んだようにできていないので、がっかりだ。

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できあがったのを見ると、頼んだようにできていないので、がっかりだ。

どう見たって、私は、ちっともかわいくない。

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どう見たって、私は、ちっとも可愛くない。

あさましい気がした。

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あさましい気がした。

ひどく、しょげちゃった。

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したたかに、しょげちゃった。

こんなところへ来て、こっそり髪をつくってもらうなんて、すごくきたならしい一羽のめんどりみたいな気さえしてきて、つくづくいまは後悔した。

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こんな所へ来て、こっそり髪をつくってもらうなんて、すごく汚らしい一羽の雌鶏めんどりみたいな気さえして来て、つくづくいまは後悔した。

私たち、こんなところへ来るなんて、自分自身を軽蔑していることだと思った。

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私たち、こんなところへ来るなんて、自分自身を軽蔑していることだと思った。

お寺さんは、大はしゃぎ。

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お寺さんは、大はしゃぎ。

「このまま、見合いに行こうかしら」

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「このまま、見合いに行こうかしら」

なぞと乱暴なことを言い出して、そのうちに、なんだかお寺さんご自身、見合いに、ほんとうに行くことにきまってしまったような錯覚を起こしたらしく、

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なぞと乱暴なこと言い出して、そのうちに、なんだかお寺さんご自身、見合いに、ほんとうに行くことにきまってしまったような錯覚を起したらしく、

「こんな髪には、どんな色の花をさしたらいいの?」

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「こんな髪には、どんな色の花をしたらいいの?」

とか、「和服のときには、帯は、どんなのがいいの?」

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とか、「和服のときには、帯は、どんなのがいいの?」

なんて、本気にやり出す。

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なんて、本気にやり出す。

ほんとに、何も考えないかわいらしい人。

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ほんとに、何も考えない可愛らしいひと。

「どなたと見合いなさるの?」

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「どなたと見合いなさるの?」

と私も、笑いながらたずねると、

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と私も、笑いながら尋ねると、

「もち屋は、もち屋と言いますからね」

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「もち屋は、もち屋と言いますからね」

と、すまして答えた。

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と、澄まして答えた。

それどういう意味なの、と私も少し驚いて聞いてみたら、お寺の娘はお寺へお嫁入りするのが一ばんいいのよ、一生食べるのに困らないし、と答えて、また私を驚かせた。

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それどういう意味なの、と私も少し驚いて聴いてみたら、お寺の娘はお寺へお嫁入りするのが一ばんいいのよ、一生食べるのに困らないし、と答えて、また私を驚かせた。

キン子さんは、まったく無性格みたいで、それゆえ、女らしさでいっぱいだ。

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キン子さんは、全く無性格みたいで、それゆえ、女らしさで一ぱいだ。

学校で私と席がお隣同士だというだけで、そんなに私は親しくしてあげているわけでもないのに、お寺さんのほうでは、私のことを、あたしの一ばんの親友です、なんてみんなに言っている。

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学校で私と席がお隣同士だというだけで、そんなに私は親しくしてあげているわけでもないのに、お寺さんのほうでは、私のことを、あたしの一ばんの親友です、なんて皆に言っている。

かわいい娘さんだ。

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可愛い娘さんだ。

一日おきに手紙をよこしたり、なんとなくよく世話をしてくれて、ありがたいのだけれど、きょうは、あんまり大げさにはしゃいでいるので、私も、さすがにいやになった。

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一日置きに手紙をよこしたり、なんとなくよく世話をしてくれて、ありがたいのだけれど、きょうは、あんまり大袈裟にはしゃいでいるので、私も、さすがにいやになった。

お寺さんとわかれて、バスに乗ってしまった。

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お寺さんとわかれて、バスに乗ってしまった。

なんだか、なんだか憂鬱(ゆううつ)だ。

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なんだか、なんだか憂鬱ゆううつだ。

バスの中で、いやな女の人を見た。

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バスの中で、いやな女のひとを見た。

えりのよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪をくし一本に巻きつけている。

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えりのよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪をくし一本に巻きつけている。

手も足もきたない。

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手も足もきたない。

それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。

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それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。

それに、ああ、胸がむかむかする。

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それに、ああ、胸がむかむかする。

その女は、大きいおなかをしているのだ。

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その女は、大きいおなかをしているのだ。

ときどき、ひとりで、にやにや笑っている。

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ときどき、ひとりで、にやにや笑っている。

めんどり。

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雌鶏。

こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女の人と変わらないのだ。

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こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変らないのだ。

けさ、電車で隣り合わせた厚化粧のおばさんをも思い出す。

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けさ、電車で隣り合せた厚化粧のおばさんをも思い出す。

ああ、きたない、きたない。

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ああ、汚い、汚い。

女は、いやだ。

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女は、いやだ。

自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、いやだ。

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自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。

金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだいっぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌(めす)のにおいを発散させるようになっていくのかと思えば、また、思い当たることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。

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金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。

ふと、病気になりたいと思う。

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ふと、病気になりたく思う。

うんと重い病気になって、汗を滝のように流して細くやせたら、私も、すっきり清浄(せいじょう・けがれのないきれいなこと)になれるかもしれない。

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うんと重い病気になって、汗を滝のように流して細くせたら、私も、すっきり清浄になれるかも知れない。

生きているかぎりは、とてものがれられないことなのだろうか。

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生きている限りは、とてものがれられないことなのだろうか。

しっかりした宗教の意味もわかりかけてきたような気がする。

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しっかりした宗教の意味もわかりかけて来たような気がする。

バスから降りると、少しほっとした。

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バスから降りると、少しほっとした。

どうも乗り物は、いけない。

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どうも乗り物は、いけない。

空気が、なまぬるくて、やりきれない。

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空気が、なまぬるくて、やりきれない。

大地は、いい。

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大地は、いい。

土をふんで歩いていると、自分を好きになる。

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土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。

どうも私は、少しおっちょこちょいだ。

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どうも私は、少しおっちょこちょいだ。

極楽(ごくらく)トンボ(のんきな人)だ。

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極楽トンボだ。

かえろかえろと何見てかえる、畑の玉ねぎ見い見いかえろ、かえろが鳴くからかえろ。

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かえろかえろと何見てかえる、畠の玉ねぎ見い見いかえろ、かえろが鳴くからかえろ。

と小さい声で歌ってみて、この子は、なんてのんきな子だろう、と自分ながら歯がゆくなって、背ばかり伸びるこのボーボーが憎らしくなる。

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と小さい声で唄ってみて、この子は、なんてのんきな子だろう、と自分ながら歯がゆくなって、背ばかり伸びるこのボーボーが憎らしくなる。

いい娘さんになろうと思った。

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いい娘さんになろうと思った。

このお家に帰る田舎道は、毎日毎日、あんまり見なれているので、どんな静かな田舎だか、わからなくなってしまった。

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このお家に帰る田舎道は、毎日毎日、あんまり見なれているので、どんな静かな田舎だか、わからなくなってしまった。

ただ、木、道、畑、それだけなのだから。

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ただ、木、道、畠、それだけなのだから。

きょうは、ひとつ、よそからはじめてこの田舎にやって来た人のまねをしてみよう。

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きょうは、ひとつ、よそからはじめてこの田舎にやって来た人の真似をして見よう。

私は、まあ、神田あたりの下駄屋さんのお嬢さんで、生まれてはじめて郊外の土をふむのだ。

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私は、ま、神田あたりの下駄屋さんのお嬢さんで、生まれてはじめて郊外の土を踏むのだ。

すると、この田舎は、いったいどんなに見えるだろう。

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すると、この田舎は、いったいどんなに見えるだろう。

すばらしい思いつき。

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すばらしい思いつき。

かわいそうな思いつき。

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可哀想な思いつき。

私は、あらたまった顔つきになって、わざと、大げさにきょろきょろしてみる。

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私は、あらたまった顔つきになって、わざと、大袈裟にきょろきょろしてみる。

小さい並木道を下るときには、ふりあおいで新緑の枝々を眺め、まあ、と小さい叫び声をあげてみて、土橋をわたるときには、しばらく小川をのぞいて、水鏡(みずかがみ)に顔をうつして、ワンワンと、犬のまねをして吠えてみたり、遠くの畑を見るときは、目を小さくして、うっとりしたふうをして、いいわねえ、とつぶやいてため息。

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小さい並木路を下るときには、振り仰いで新緑の枝々を眺め、まあ、と小さい叫びをげてみて、土橋を渡るときには、しばらく小川をのぞいて、水鏡に顔をうつして、ワンワンと、犬の真似してえてみたり、遠くの畠を見るときは、目を小さくして、うっとりしたふうをして、いいわねえ、とつぶやいて溜息。

神社では、また一休み。

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神社では、また一休み。

神社の森の中は、暗いので、あわてて立ち上がって、おお、こわこわ、と言い肩を小さくすぼめて、そそくさと森を通りぬけ、森の外の明るさに、わざとおどろいたようなふうをして、いろいろ新しく新しく、と心がけて田舎の道を、こって歩いているうちに、なんだか、たまらなくさびしくなってきた。

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神社の森の中は、暗いので、あわてて立ち上って、おお、こわこわ、と言い肩を小さくすぼめて、そそくさ森を通り抜け、森のそとの明るさに、わざと驚いたようなふうをして、いろいろ新しく新しく、と心掛けて田舎の道を、って歩いているうちに、なんだか、たまらなく淋しくなって来た。

とうとう道ばたの草原に、ぺたりと座ってしまった。

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とうとう道傍の草原に、ペタリと坐ってしまった。

草の上に座ったら、ついいましがたまでのうきうきした気持ちが、コトンと音を立てて消えて、ぎゅっとまじめになってしまった。

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草の上に坐ったら、つい今しがたまでの浮き浮きした気持が、コトンと音たてて消えて、ぎゅっとまじめになってしまった。

そうして、このごろの自分を、静かに、ゆっくり思ってみた。

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そうして、このごろの自分を、静かに、ゆっくり思ってみた。

なぜ、このごろの自分が、いけないのか。

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なぜ、このごろの自分が、いけないのか。

どうして、こんなに不安なのだろう。

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どうして、こんなに不安なのだろう。

いつでも、何かにおびえている。

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いつでも、何かにおびえている。

このあいだも、誰かに言われた。

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この間も、誰かに言われた。

「あなたは、だんだん俗っぽく(ぞくっぽく・ありふれた感じに)なるのね」

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「あなたは、だんだん俗っぽくなるのね」

そうかもしれない。

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そうかも知れない。

私は、たしかに、いけなくなった。

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私は、たしかに、いけなくなった。

くだらなくなった。

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くだらなくなった。

いけない、いけない。

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いけない、いけない。

弱い、弱い。

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弱い、弱い。

だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。

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だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。

ちぇっ、そんな叫び声をあげたくらいで、自分の弱虫を、ごまかそうたって、だめだぞ。

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ちぇっ、そんな叫び声あげたくらいで、自分の弱虫を、ごまかそうたって、だめだぞ。

もっとどうにかなれ。

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もっとどうにかなれ。

私は、恋をしているのかもしれない。

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私は、恋をしているのかも知れない。

青草原にあおむけに寝ころがった。

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青草原に仰向あおむけに寝ころがった。

「お父さん」

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「お父さん」

と呼んでみる。

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と呼んでみる。

お父さん、お父さん。

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お父さん、お父さん。

夕焼けの空はきれいです。

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夕焼の空は綺麗です。

そうして、夕もやは、ピンク色。

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そうして、夕もやは、ピンク色。

夕日の光がもやの中に溶けて、にじんで、そのためにもやがこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。

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夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。

そのピンクのもやがゆらゆら流れて、木立の間にもぐっていったり、道の上を歩いたり、草原をなでたり、そうして、私のからだを、ふんわり包んでしまいます。

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そのピンクの靄がゆらゆら流れて、木立の間にもぐっていったり、路の上を歩いたり、草原を撫でたり、そうして、私のからだを、ふんわり包んでしまいます。

私の髪の毛一本一本まで、ピンクの光は、そっとかすかにてらして、そうしてやわらかくなでてくれます。

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私の髪の毛一本一本まで、ピンクの光は、そっとかすかにてらして、そうしてやわらかく撫でてくれます。

それよりも、この空は、美しい。

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それよりも、この空は、美しい。

このお空には、私、生まれてはじめて頭を下げたいのです。

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このお空には、私うまれてはじめて頭を下げたいのです。

私は、いま神様を信じます。

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私は、いま神様を信じます。

これは、この空の色は、なんという色なのかしら。

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これは、この空の色は、なんという色なのかしら。

薔薇(ばら)。

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薔薇。

火事。

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火事。

虹(にじ)。

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虹。

天使の翼(つばさ)。

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天使の翼。

大伽藍(だいがらん・大きなお寺の建物)。

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伽藍がらん

いいえ、そんなんじゃない。

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いいえ、そんなんじゃない。

もっと、もっと神々しい。

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もっと、もっと神々こうごうしい。

「みんなを愛したい」

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「みんなを愛したい」

と涙が出そうなくらい思いました。

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と涙が出そうなくらい思いました。

じっと空を見ていると、だんだん空が変わってゆくのです。

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じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。

だんだん青みがかってゆくのです。

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だんだん青味がかってゆくのです。

ただ、ため息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。

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ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。

それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。

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それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。

そっと草に、さわってみました。

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そっと草に、さわってみました。

美しく生きたいと思います。

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美しく生きたいと思います。

家へ帰ってみると、お客様。

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家へ帰ってみると、お客様。

お母さんも、もうかえっておられる。

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お母さんも、もうかえって居られる。

いつものように、何か、にぎやかな笑い声。

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れいに依って、何か、にぎやかな笑い声。

お母さんは、私と二人きりのときには、顔がどんなに笑っていても、声をたてない。

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お母さんは、私と二人きりのときには、顔がどんなに笑っていても、声をたてない。

けれども、お客様とお話ししているときには、顔は、ちっとも笑ってなくて、声ばかり、かん高く笑っている。

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けれども、お客様とお話しているときには、顔は、ちっとも笑ってなくて、声ばかり、かん高く笑っている。

あいさつして、すぐ裏へまわり、井戸端で手を洗い、靴下をぬいで、足を洗っていたら、さかなやさんが来て、お待ちどおさま、まいど、ありがとうと言って、大きなお魚を一匹、井戸端へ置いていった。

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挨拶して、すぐ裏へまわり、井戸端で手を洗い、靴下脱いで、足を洗っていたら、さかなやさんが来て、お待ちどおさま、まいど、ありがとうと言って、大きなおさかなを一匹、井戸端へ置いていった。

なんという、おさかなか、わからないけれど、うろこのこまかいところ、これは北の海のものの感じがする。

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なんという、おさかなか、わからないけれど、うろこのこまかいところ、これは北海のものの感じがする。

お魚を、お皿に移して、また手を洗っていたら、北海道の夏のにおいがした。

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お魚を、お皿に移して、また手を洗っていたら、北海道の夏の臭いがした。

おととしの夏休みに、北海道のお姉さんの家へ遊びに行ったときのことを思い出す。

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おととしの夏休みに、北海道のお姉さんの家へ遊びに行ったときのことを思い出す。

苫小牧(とまこまい)のお姉さんの家は、海岸に近いせいか、いつもお魚のにおいがしていた。

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苫小牧とまこまいのお姉さんの家は、海岸に近いゆえか、始終お魚の臭いがしていた。

お姉さんが、あのお家のがらんと広いお台所で、夕方ひとり、白い女らしい手で、上手にお魚を料理していた様子も、はっきり浮かぶ。

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お姉さんが、あのお家のがらんと広いお台所で、夕方ひとり、白い女らしい手で、上手にお魚をお料理していた様子も、はっきり浮かぶ。

私は、あのとき、なぜかお姉さんに甘えたくて、たまらなくあこがれて、でもお姉さんには、あのころ、もう年(とし)ちゃんも生まれていて、お姉さんは、私のものではなかったのだから、それを思えば、ヒュウと冷たいすきま風が感じられて、どうしても、姉さんの細い肩に抱きつくことができなくて、死ぬほどさびしい気持ちで、じっと、あのほの暗いお台所のすみに立ったまま、気の遠くなるほどお姉さんの白くやさしく動く指先を見つめていたことも、思い出される。

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私は、あのとき、なぜかお姉さんに甘えたくて、たまらなくがれて、でもお姉さんには、あのころ、もうとしちゃんも生まれていて、お姉さんは、私のものではなかったのだから、それを思えば、ヒュウと冷いすきま風が感じられて、どうしても、姉さんの細い肩に抱きつくことができなくて、死ぬほど寂しい気持で、じっと、あのほの暗いお台所の隅に立ったまま、気の遠くなるほどお姉さんの白くやさしく動く指先を見つめていたことも、思い出される。

過ぎ去ったことは、みんななつかしい。

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過ぎ去ったことは、みんな懐かしい。

肉親(にくしん・血のつながった家族)って、不思議なもの。

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肉親って、不思議なもの。

他人ならば、遠く離れるとしだいにうすれて、忘れてゆくものなのに、肉親は、なおさら、なつかしい美しいところばかり思い出されるのだから。

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他人ならば、遠く離れるとしだいに淡く、忘れてゆくものなのに、肉親は、なおさら、懐かしい美しいところばかり思い出されるのだから。

井戸端の茱萸(ぐみ・小さな赤い実のなる木)の実が、ほんのりあかく色づいている。

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井戸端の茱萸ぐみの実が、ほんのりあかく色づいている。

もう二週間もしたら、食べられるようになるかもしれない。

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もう二週間もしたら、たべられるようになるかも知れない。

去年は、おかしかった。

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去年は、おかしかった。

私が夕方ひとりで茱萸をとって食べていたら、ジャピイが黙って見ているので、かわいそうで一つやった。

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私が夕方ひとりで茱萸をとってたべていたら、ジャピイ黙って見ているので、可哀想で一つやった。

そしたら、ジャピイが食べちゃった。

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そしたら、ジャピイ食べちゃった。

また二つやったら、食べた。

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また二つやったら、食べた。

あんまりおもしろくて、この木をゆすぶって、ポタポタ落としたら、ジャピイが夢中になって食べはじめた。

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あんまり面白くて、この木をゆすぶって、ポタポタ落としたら、ジャピイ夢中になって食べはじめた。

ばかなやつ。

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ばかなやつ。

茱萸を食べる犬なんて、はじめてだ。

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茱萸を食べる犬なんて、はじめてだ。

私も背伸びしては、茱萸をとって食べている。

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私も背伸びしては、茱萸をとって食べている。

ジャピイも下で食べている。

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ジャピイも下で食べている。

おかしかった。

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可笑しかった。

そのこと、思い出したら、ジャピイがなつかしくて、

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そのこと、思い出したら、ジャピイを懐かしくて、

「ジャピイ!」

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「ジャピイ!」

と呼んだ。

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と呼んだ。

ジャピイは、玄関のほうから、気取って走って来た。

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ジャピイは、玄関のほうから、気取って走って来た。

急に、歯ぎしりするほどジャピイがかわいくなっちゃって、しっぽを強くつかむと、ジャピイは私の手をやわらかくかんだ。

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急に、歯ぎしりするほどジャピイを可愛くなっちゃって、シッポを強くつかむと、ジャピイは私の手を柔かく噛んだ。

涙が出そうな気持ちになって、頭をぶってやる。

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涙が出そうな気持になって、頭をってやる。

ジャピイは、平気で、井戸端の水を音をたてて飲む。

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ジャピイは、平気で、井戸端の水を音をたてて呑む。

お部屋へはいると、ぼっと電灯が、ともっている。

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お部屋へはいると、ぼっと電燈が、ともっている。

しんとしている。

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しんとしている。

お父さんいない。

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お父さんいない。

やっぱり、お父さんがいないと、家の中に、どこか大きい空席が、ぽかんと残っているような気がして、身悶え(みもだえ)したくなる。

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やっぱり、お父さんがいないと、家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在るような気がして、身悶えしたくなる。

和服に着がえ、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいなキスをして、それから鏡台のまえに座ったら、客間のほうからお母さんたちの笑い声が、どっと起こって、私は、なんだか、むかっとなった。

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和服に着換え、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいなキスして、それから鏡台のまえに坐ったら、客間のほうからお母さんたちの笑い声が、どっと起って、私は、なんだか、むかっとなった。

お母さんは、私と二人きりのときはいいけれど、お客が来たときには、へんに私から遠くなって、冷たくよそよそしく、私はそんな時に、一ばんお父さんがなつかしく悲しくなる。

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お母さんは、私と二人きりのときはいいけれど、お客が来たときには、へんに私から遠くなって、冷くよそよそしく、私はそんな時に、一ばんお父さんが懐かしく悲しくなる。

鏡をのぞくと、私の顔は、おや、と思うほど生き生きしている。

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鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほどき活きしている。

顔は、他人だ。

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顔は、他人だ。

私自身の悲しさや苦しさや、そんな気持ちとは、ぜんぜん関係なく、別に自由に生きている。

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私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている。

きょうは頬紅(ほおべに)も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、かわいい。

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きょうは頬紅も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、可愛い。

眼鏡をはずして、そっと笑ってみる。

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眼鏡をはずして、そっと笑ってみる。

目が、とってもいい。

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眼が、とってもいい。

青く青く、澄んでいる。

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青く青く、澄んでいる。

美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。

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美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。

しめたものだ。

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しめたものだ。

少しうきうきして台所へ行き、お米をといでいるうちに、また悲しくなってしまった。

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少し浮き浮きして台所へ行き、お米をといでいるうちに、また悲しくなってしまった。

まえの小金井の家がなつかしい。

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せんの小金井の家が懐かしい。

胸が焼けるほど恋しい。

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胸が焼けるほど恋しい。

あの、いいお家には、お父さんもいらっしゃったし、お姉さんもいた。

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あの、いいお家には、お父さんもいらしったし、お姉さんもいた。

お母さんだって、若かった。

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お母さんだって、若かった。

私が学校から帰って来ると、お母さんと、お姉さんと、何かおもしろそうに台所か、茶の間で話をしている。

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私が学校から帰って来ると、お母さんと、お姉さんと、何か面白そうに台所か、茶の間で話をしている。

おやつをもらって、ひとしきり二人に甘えたり、お姉さんに喧嘩をふっかけたり、それからきまってしかられて、外へ飛び出して遠くへ遠くへ自転車乗り。

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おやつをもらって、ひとしきり二人に甘えたり、お姉さんに喧嘩ふっかけたり、それからきまって叱られて、外へ飛び出して遠くへ遠くへ自転車乗り。

夕方には帰って来て、それから楽しくご飯だ。

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夕方には帰って来て、それから楽しく御飯だ。

本当に楽しかった。

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本当に楽しかった。

自分を見つめたり、うしろめたくぎくしゃくすることもなく、ただ、甘えていればよかったのだ。

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自分を見詰めたり、不潔にぎくしゃくすることも無く、ただ、甘えて居ればよかったのだ。

なんという大きい特権(とっけん・特別な権利)を私は受けていたことだろう。

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なんという大きい特権を私は享受していたことだろう。

しかも平気で。

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しかも平気で。

心配もなく、さびしさもなく、苦しみもなかった。

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心配もなく、寂しさもなく、苦しみもなかった。

お父さんは、立派なよいお父さんだった。

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お父さんは、立派なよいお父さんだった。

お姉さんは、やさしく、私は、いつもお姉さんにぶらさがってばかりいた。

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お姉さんは、優しく、私は、いつもお姉さんにぶらさがってばかりいた。

けれども、すこしずつ大きくなるにつれて、だいいち私が自分自身いやらしくなって、私の特権はいつの間にか消えてなくなって、あかはだか、みにくいみにくい。

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けれども、すこしずつ大きくなるにつれて、だいいち私が自身いやらしくなって、私の特権はいつの間にか消失して、あかはだか、醜い醜い。

ちっとも、人に甘えることができなくなって、考えこんでばかりいて、苦しいことばかり多くなった。

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ちっとも、ひとに甘えることができなくなって、考えこんでばかりいて、くるしいことばかり多くなった。

お姉さんは、お嫁にいってしまったし、お父さんは、もういない。

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お姉さんは、お嫁にいってしまったし、お父さんは、もういない。

たったお母さんと私だけになってしまった。

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たったお母さんと私だけになってしまった。

お母さんもおさびしいことばかりなのだろう。

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お母さんもお淋しいことばかりなのだろう。

こないだもお母さんは、「もうこれから先は、生きる楽しみがなくなってしまった。あなたを見たって、私は、ほんとうは、あまり楽しみを感じない。ゆるしておくれ。幸福も、お父さんがいらっしゃらなければ、来ないほうがよい」

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こないだもお母さんは、「もうこれからさきは、生きる楽しみがなくなってしまった。あなたを見たって、私は、ほんとうは、あまり楽しみを感じない。ゆるしてお呉れ。幸福も、お父さんがいらっしゃらなければ、来ないほうがよい」

とおっしゃった。

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とおっしゃった。

蚊が出て来ると、ふとお父さんを思い出し、ほどきものをすると、お父さんを思い出し、爪を切るときにもお父さんを思い出し、お茶がおいしいときにも、きっとお父さんを思い出すそうである。

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蚊が出て来ると、ふとお父さんを思い出し、ほどきものをすると、お父さんを思い出し、爪を切るときにもお父さんを思い出し、お茶がおいしいときにも、きっとお父さんを思い出すそうである。

私が、どんなにお母さんの気持ちをいたわって、話し相手になってあげても、やっぱりお父さんとはちがうのだ。

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私が、どんなにお母さんの気持をいたわって、話し相手になってあげても、やっぱりお父さんとは違うのだ。

夫婦愛というものは、この世の中で一ばん強いもので、肉親の愛よりも、尊いものにちがいない。

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夫婦愛というものは、この世の中で一ばん強いもので、肉親の愛よりも、尊いものにちがいない。

生意気なことを考えたので、ひとりで顔があかくなって来て、私は、ぬれた手で髪をかきあげる。

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生意気なこと考えたので、ひとりで顔があかくなって来て、私は、れた手で髪をかきあげる。

しゅっしゅっとお米をとぎながら、私は、お母さんがかわいく、いじらしくなって、大事にしようと、しんから思う。

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しゅっしゅっとお米をとぎながら、私は、お母さんが可愛く、いじらしくなって、大事にしようと、しんから思う。

こんなウェーブかけた髪なんか、さっそく解きほぐしてしまって、そうして髪の毛をもっと長く伸ばそう。

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こんなウェーヴかけた髪なんか、さっそく解きほぐしてしまって、そうして髪の毛をもっと長く伸ばそう。

お母さんは、まえから、私の髪の短いのをいやがっていらしたから、うんと伸ばして、きちんと結って見せたら、よろこぶだろう。

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お母さんは、せんから、私の髪の短いのを厭がっていらしたから、うんと伸ばして、きちんと結って見せたら、よろこぶだろう。

けれども、そんなことまでして、お母さんを、いたわるのもいやだな。

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けれども、そんなことまでして、お母さんを、いたわるのも厭だな。

いやらしい。

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いやらしい。

考えてみると、このごろの、私のいらいらは、ずいぶんお母さんと関係がある。

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考えてみると、このごろの、私のいらいらは、ずいぶんお母さんと関係がある。

お母さんの気持ちに、ぴったり添ったいい娘でありたいし、それだからとて、へんに機嫌をとるのもいやなのだ。

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お母さんの気持に、ぴったり添ったいい娘でありたいし、それだからとて、へんに御機嫌とるのもいやなのだ。

だまっていても、お母さんが、私の気持ちをちゃんとわかって安心していらしったら、一番いいのだ。

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だまっていても、お母さん、私の気持をちゃんとわかって安心していらしったら、一番いいのだ。

私は、どんなに、わがままでも、決して世間の物笑いになるようなことはしないのだし、つらくても、さびしくっても、だいじなところは、きちんと守って、そうしてお母さんと、この家とを、愛して愛して、愛しているのだから、お母さんも、私を絶対に信じて、ぼんやりのんきにしていらしったら、それでいいのだ。

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私は、どんなに、わがままでも、決して世間の物笑いになるようなことはしないのだし、つらくても、淋しくっても、だいじのところは、きちんと守って、そうしてお母さんと、この家とを、愛して愛して、愛しているのだから、お母さんも、私を絶対に信じて、ぼんやりのんきにしていらしったら、それでいいのだ。

私は、きっと立派にやる。

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私は、きっと立派にやる。

身を粉(こ)にしてつとめる(一生けんめい働く)。

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身をにしてつとめる。

それがいまの私にとっても、一ばん大きいよろこびなんだし、生きる道だと思っているのに、お母さんたら、ちっとも私を信頼しないで、まだまだ、子どもあつかいにしている。

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それがいまの私にとっても、一ばん大きいよろこびなんだし、生きる道だと思っているのに、お母さんたら、ちっとも私を信頼しないで、まだまだ、子供あつかいにしている。

私が子どもっぽいことを言うと、お母さんはよろこんで、こないだも、私が、ばからしい、わざとウクレレを持ち出して、ポンポンやってはしゃいで見せたら、お母さんは、しんからうれしそうにして、

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私が子供っぽいこと言うと、お母さんはよろこんで、こないだも、私が、ばからしい、わざとウクレレ持ち出して、ポンポンやってはしゃいで見せたら、お母さんは、しんから嬉しそうにして、

「おや、雨かな? 雨だれの音が聞こえるね」

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「おや、雨かな? 雨だれの音が聞えるね」

と、とぼけて言って、私をからかって、私が、本気でウクレレなんかに熱中しているとでも思っているらしい様子なので、私は、あさましくて、泣きたくなった。

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と、とぼけて言って、私をからかって、私が、本気でウクレレなんかに熱中して居るとでも思っているらしい様子なので、私は、あさましくて、泣きたくなった。

お母さん、私は、もう大人なのですよ。

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お母さん、私は、もう大人おとななのですよ。

世の中のこと、なんでも、もう知っているのですよ。

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世の中のこと、なんでも、もう知っているのですよ。

安心して、私になんでも相談してください。

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安心して、私になんでも相談して下さい。

うちの経済のことなんかでも、私に全部打ち明けて、こんな状態だから、おまえもと言ってくださったなら、私は決して、靴なんかねだりはしません。

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うちの経済のことなんかでも、私に全部打ち明けて、こんな状態だから、おまえもと言って下さったなら、私は決して、靴なんかねだりはしません。

しっかりした、つましい(むだ使いをしない)、つましい娘になります。

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しっかりした、つましい、つましい娘になります。

ほんとうに、それは、たしかなのです。

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ほんとうに、それは、たしかなのです。

それなのに。

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それなのに。

ああ、それなのに、という歌があったのを思い出して、ひとりでくすくす笑ってしまった。

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ああ、それなのに、という歌があったのを思い出して、ひとりでくすくす笑ってしまった。

気がつくと、私はぼんやりお鍋に両手をつっこんだままで、ばかみたいに、あれこれ考えていたのである。

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気がつくと、私はぼんやりおなべに両手をつっこんだままで、ばかみたいに、あれこれ考えていたのである。

いけない、いけない。

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いけない、いけない。

お客様へ、早く夕食を差し上げなければ。

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お客様へ、早く夕食差し上げなければ。

さっきの大きいお魚は、どうするのだろう。

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さっきの大きいお魚は、どうするのだろう。

とにかく三枚におろして、お味噌につけておくことにしよう。

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とにかく三枚におろして、お味噌につけて置くことにしよう。

そうして食べると、きっとおいしい。

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そうして食べると、きっとおいしい。

料理は、すべて、勘でいかなければいけない。

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料理は、すべて、勘で行かなければいけない。

きゅうりが少し残っているから、あれでもって、三杯酢(さんばいず)。

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キウリが少し残っているから、あれでもって、三杯酢。

それから、私の自慢の卵焼き。

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それから、私の自慢の卵焼き。

それから、もう一品。

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それから、もう一品。

あ、そうだ。

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あ、そうだ。

ロココ料理にしよう。

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ロココ料理にしよう。

これは、私の考案したものでございまして。

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これは、私の考案したものでございまして。

お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残っているもの一切合切(いっさいがっさい・ぜんぶ)、いろとりどりに、美しく組み合わせて、手際よく並べて出すのであって、手間はいらず、節約になるし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶんにぎやかに華麗(かれい)になって、何だか、たいへんぜいたくなごちそうのように見えるのだ。

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お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切いっさいがっさい、いろとりどりに、美しく配合させて、手際てぎわよく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶんにぎやかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢ぜいたくな御馳走のように見えるのだ。

卵のかげにパセリの青草、そのそばに、ハムの赤い珊瑚礁(さんごしょう)がちらと顔を出していて、キャベツの黄色い葉は、牡丹(ぼたん)の花びらのように、鳥の羽の扇子のようにお皿に敷かれて、緑したたるほうれんそうは、牧場か湖水か。

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卵のかげにパセリの青草、その傍に、ハムの赤い珊瑚礁さんごしょうがちらと顔を出していて、キャベツの黄色い葉は、牡丹ぼたん花瓣かべんのように、鳥の羽の扇子のようにお皿に敷かれて、緑したたる菠薐草ほうれんそうは、牧場か湖水か。

こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様は思いがけず、ルイ王朝を思い出す。

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こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様はゆくりなく、ルイ王朝を思い出す。

まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしいごちそうなんて作れないのだから、せめて、見た目だけでも美しくして、お客様の目をくらませて、ごまかしてしまうのだ。

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まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしい御馳走なんて作れないのだから、せめて、ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑げんわくさせて、ごまかしてしまうのだ。

料理は、見かけが第一である。

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料理は、見かけが第一である。

たいてい、それで、ごまかせます。

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たいてい、それで、ごまかせます。

けれども、このロココ料理には、よほど絵心(えごころ・絵を描くようなセンス)が必要だ。

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けれども、このロココ料理には、よほど絵心えごころが必要だ。

色の組み合わせについて、人一倍、敏感でなければ、失敗する。

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色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。

せめて私くらいの繊細さ(デリカシー)がなければね。

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せめて私くらいのデリカシイが無ければね。

ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗なだけで中身のない飾り方、と定義されていたので、笑っちゃった。

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ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。

名答である。

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名答である。

美しさに、中身なんてあってたまるものか。

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美しさに、内容なんてあってたまるものか。

純粋の美しさは、いつも意味がなくて、道徳もない。

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純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。

きまっている。

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きまっている。

だから、私は、ロココが好きだ。

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だから、私は、ロココが好きだ。

いつもそうだが、私はお料理して、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無(きょむ)にやられる。

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いつもそうだが、私はお料理して、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。

死にそうに疲れて、陰鬱(いんうつ・気持ちが暗くふさぐこと)になる。

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死にそうに疲れて、陰鬱になる。

あらゆる努力の飽和状態(ほうわじょうたい・もうこれ以上できないくらいいっぱいの状態)におちいるのである。

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あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。

もう、もう、なんでも、どうでも、よくなってくる。

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もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。

ついには、ええっ!

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ついには、ええっ!

と、やけくそになって、味でも見た目でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔をして、お客に差し出す。

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 と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔して、お客に差し出す。

きょうのお客様は、ことのほか憂うつ。

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きょうのお客様は、ことにも憂うつ。

大森の今井田さんご夫婦に、ことし七つの良夫さん。

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大森の今井田さん御夫婦に、ことし七つの良夫さん。

今井田さんは、もう四十ちかいのに、いい男みたいに色が白くて、いやらしい。

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今井田さんは、もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白くて、いやらしい。

なぜ、敷島(しきしま・煙草の銘柄)なぞを吸うのだろう。

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なぜ、敷島なぞを吸うのだろう。

両切り(りょうぎり・フィルターのない煙草)でないと、なんだか、不潔な感じがする。

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両切の煙草でないと、なんだか、不潔な感じがする。

煙草は、両切りに限る。

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煙草は、両切に限る。

敷島なぞを吸っていると、その人の人格までが、疑わしくなるのだ。

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敷島なぞを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。

いちいち天井を向いて煙を吐いて、はあ、はあ、なるほど、なんて言っている。

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いちいち天井を向いて煙を吐いて、はあ、はあ、なるほど、なんて言っている。

いまは、夜学の先生をしているそうだ。

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いまは、夜学の先生をしているそうだ。

奥さんは、小さくて、おどおどして、そして下品だ。

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奥さんは、小さくて、おどおどして、そして下品だ。

つまらないことにでも、顔を畳にくっつけるようにして、からだをくねらせて、笑いむせぶのだ。

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つまらないことにでも、顔を畳にくっつけるようにして、からだをくねらせて、笑いむせぶのだ。

おかしいことなんてあるものか。

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可笑しいことなんてあるものか。

そうして大げさに笑い伏すのが、何か上品なことだろうと、思いちがいしているのだ。

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そうして大袈裟に笑い伏すのが、何か上品なことだろうと、思いちがいしているのだ。

いまのこの世の中で、こんな階級の人たちが、一ばん悪いのではないかしら。

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いまのこの世の中で、こんな階級の人たちが、一ばん悪いのではないかしら。

一ばんきたない。

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一ばん汚い。

プチ・ブル(小市民)というのかしら。

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プチ・ブルというのかしら。

小役人というのかしら。

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小役人というのかしら。

子どもなんかも、へんにこましゃくれて(子どもらしくなく大人びていて)、素直な元気なところが、ちっともない。

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子供なんかも、へんにましゃくれて、素直な元気なところが、ちっともない。

そう思っていながらも、私はそんな気持ちを、みんな抑えて、お辞儀をしたり、笑ったり、話したり、良夫さんをかわいいかわいいと言って頭をなでてやったり、まるでうそをついてみんなをだましているのだから、今井田ご夫婦なんかでも、まだまだ、私よりは清純かもしれない。

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そう思っていながらも、私はそんな気持を、みんな抑えて、お辞儀をしたり、笑ったり、話したり、良夫さんを可愛い可愛いと言って頭を撫でてやったり、まるで嘘ついて皆をだましているのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ、私よりは清純かも知れない。

みなさん私のロココ料理を食べて、私の腕前をほめてくれて、私はわびしいやら、腹立たしいやら、泣きたい気持ちなのだけれど、それでも、つとめて、うれしそうな顔をして見せて、やがて私もごしょうばん(お相伴・一緒に食べること)して一緒にごはんを食べたのであるが、今井田さんの奥さんの、しつこい無知なお世辞には、さすがにむかむかして、よし、もううそは、つくまいと、きっとなって、

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みなさん私のロココ料理をたべて、私の腕前をほめてくれて、私はわびしいやら、腹立たしいやら、泣きたい気持なのだけれど、それでも、努めて、嬉しそうな顔をして見せて、やがて私も御相伴ごしょうばんして一緒にごはんを食べたのであるが、今井田さんの奥さんの、しつこい無智なお世辞には、さすがにむかむかして、よし、もう嘘は、つくまいとっとなって、

「こんなお料理、ちっともおいしくございません。なんにもないので、私の窮余(きゅうよ)の一策(こまってしぼり出した苦しまぎれの方法)なんですよ」

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「こんなお料理、ちっともおいしくございません。なんにもないので、私の窮余の一策なんですよ」

と、私は、ありのままの事実を、言ったつもりなのに、今井田さんご夫婦は、窮余の一策とは、うまいことをおっしゃる、と手をたたかんばかりに笑い興じるのである。

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と、私は、ありのまま事実を、言ったつもりなのに、今井田さん御夫婦は、窮余の一策とは、うまいことをおっしゃる、と手をたんばかりに笑い興じるのである。

私は、くやしくて、お箸とお茶碗をほうり出して、大声をあげて泣こうかしらと思った。

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私は、口惜しくて、お箸とお茶碗ほおり出して、大声あげて泣こうかしらと思った。

じっとこらえて、無理に、にやにや笑って見せたら、お母さんまでが、

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じっとこらえて、無理に、にやにや笑って見せたら、お母さんまでが、

「この子も、だんだん役に立つようになりましたよ」

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「この子も、だんだん役に立つようになりましたよ」

と、お母さんは、私のかなしい気持ちを、ちゃんとわかっていらっしゃるくせに、今井田さんの気持ちに合わせるために、そんなくだらないことを言って、ほほと笑った。

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と、お母さん、私のかなしい気持、ちゃんとわかっていらっしゃる癖に、今井田さんの気持を迎えるために、そんなくだらないことを言って、ほほと笑った。

お母さん、そんなにまでして、こんな今井田なんかの機嫌をとることは、ないんだ。

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お母さん、そんなにまでして、こんな今井田なんかの御機嫌とることは、ないんだ。

お客さんと向かい合っているときのお母さんは、お母さんじゃない。

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お客さんと対しているときのお母さんは、お母さんじゃない。

ただの弱い女だ。

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ただの弱い女だ。

お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。

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お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。

情けなくなって、何も言えなくなっちゃった。

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情なくなって、何も言えなくなっちゃった。

帰ってください、帰ってください。

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帰って下さい、帰って下さい。

私の父は、立派なお方だ。

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私の父は、立派なお方だ。

やさしくて、そうして人格が高いんだ。

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やさしくて、そうして人格が高いんだ。

お父さんがいないからって、そんなに私たちをばかにするんだったら、いますぐ帰ってください。

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お父さんがいないからって、そんなに私たちをばかにするんだったら、いますぐ帰って下さい。

よっぽど今井田に、そう言ってやろうと思った。

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よっぽど今井田に、そう言ってやろうと思った。

それでも私は、やっぱり弱くて、良夫さんにハムを切ってあげたり、奥さんにお漬物をとってあげたり、お世話をするのだ。

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それでも私は、やっぱり弱くて、良夫さんにハムを切ってあげたり、奥さんにお漬物とってあげたり奉仕をするのだ。

ごはんがすんでから、私はすぐに台所へひっこんで、あと片づけをはじめた。

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ごはんがすんでから、私はすぐに台所へひっこんで、あと片附けをはじめた。

早くひとりになりたかったのだ。

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早くひとりになりたかったのだ。

何も、お高くとまっているのではないけれども、あんな人たちとこれ以上、無理に話を合わせてみたり、一緒に笑ってみたりする必要もないように思われる。

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何も、お高くとまっているのではないけれども、あんな人たちとこれ以上、無理に話を合せてみたり、一緒に笑ってみたりする必要もないように思われる。

あんな人たちにも、礼儀を、いやいや、へつらう必要なんて絶対にない。

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あんな者にも、礼儀を、いやいや、へつらいを致す必要なんて絶対にない。

いやだ。

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いやだ。

もう、これ以上はいやだ。

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もう、これ以上は厭だ。

私は、つとめられるだけは、つとめたのだ。

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私は、つとめられるだけは、つとめたのだ。

お母さんだって、きょうの私のがまんして愛想よくしている態度を、うれしそうに見ていたじゃないか。

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お母さんだって、きょうの私のがまんして愛想あいそよくしている態度を、嬉しそうに見ていたじゃないか。

あれだけでも、よかったんだろうか。

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あれだけでも、よかったんだろうか。

はっきりと、世間のつきあいは、つきあい、自分は自分と、区別しておいて、てきぱき気持ちよく物事に対応して処理していくほうがいいのか、または、人に悪く言われても、いつでも自分を失わず、韜晦(とうかい・自分の本心をかくすこと)しないでいくほうがいいのか、どっちがいいのか、わからない。

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強く、世間のつきあいは、つきあい、自分は自分と、はっきり区別して置いて、ちゃんちゃん気持よく物事に対応して処理して行くほうがいいのか、または、人に悪く言われても、いつでも自分を失わず、韜晦とうかいしないで行くほうがいいのか、どっちがいいのか、わからない。

一生、自分と同じくらい弱いやさしいあたたかい人たちの中でだけ生活していける身分の人は、うらやましい。

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一生、自分と同じくらい弱いやさしい温かい人たちの中でだけ生活して行ける身分の人は、うらやましい。

苦労なんて、苦労せずに一生すませるんだったら、わざわざ求めて苦労する必要なんてないんだ。

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苦労なんて、苦労せずに一生すませるんだったら、わざわざ求めて苦労する必要なんて無いんだ。

そのほうが、いいんだ。

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そのほうが、いいんだ。

自分の気持ちを殺して、人につとめることは、きっといいことにちがいないんだけれど、これから先、毎日、今井田ご夫婦みたいな人たちに無理に笑いかけたり、相槌をうたなければならないのだったら、私は、気がおかしくなるかもしれない。

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自分の気持を殺して、人につとめることは、きっといいことに違いないんだけれど、これからさき、毎日、今井田御夫婦みたいな人たちに無理に笑いかけたり、相槌あいづちうたなければならないのだったら、私は、気ちがいになるかも知れない。

自分なんて、とても監獄には入れないな、と、おかしいことを、ふと思う。

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自分なんて、とても監獄に入れないな、と可笑しいことを、ふと思う。

監獄どころか、女中さんにもなれない。

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監獄どころか、女中さんにもなれない。

奥さんにもなれない。

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奥さんにもなれない。

いや、奥さんの場合は、ちがうんだ。

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いや、奥さんの場合は、ちがうんだ。

この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、どんなに苦しくとも、まっ黒になって働いて、そうして十分に生きがいがあるのだから、希望があるのだから、私だって、立派にやれる。

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この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、どんなに苦しくとも、真黒になって働いて、そうして充分に生き甲斐がいがあるのだから、希望があるのだから、私だって、立派にやれる。

あたりまえのことだ。

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あたりまえのことだ。

朝から晩まで、くるくるコマねずみのように働いてあげる。

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朝から晩まで、くるくるコマ鼠のように働いてあげる。

じゃんじゃんお洗濯をする。

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じゃんじゃんお洗濯をする。

たくさんよごれものがたまった時ほど、不愉快なことがない。

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たくさんよごれものがたまった時ほど、不愉快なことがない。

いらいらして、ヒステリーになったみたいに落ちつかない。

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らして、ヒステリイになったみたいに落ちつかない。

死んでも死にきれない思いがする。

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死んでも死にきれない思いがする。

よごれものを、全部、一つものこさず洗ってしまって、物干し竿にかけるときは、私は、もうこれで、いつ死んでもいいと思うのである。

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よごれものを、全部、一つものこさず洗ってしまって、物干竿にかけるときは、私は、もうこれで、いつ死んでもいいと思うのである。

今井田さん、おかえりになる。

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今井田さん、おかえりになる。

何やら用事があるとかで、お母さんを連れて出かけてしまう。

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何やら用事があるとかで、お母さんを連れて出掛けてしまう。

はいはいついて行くお母さんもお母さんだし、今井田が何かとお母さんを利用するのは、こんどだけではないけれど、今井田ご夫婦のあつかましさが、いやでいやで、ぶんなぐりたい気持ちがする。

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はいはい附いて行くお母さんもお母さんだし、今井田が何かとお母さんを利用するのは、こんどだけでは無いけれど、今井田御夫婦のあつかましさが、厭で厭で、ぶんなぐりたい気持がする。

門のところまで、みなさんをお送りして、ひとりぼんやり夕闇の道を眺めていたら、泣いてみたくなってしまう。

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門のところまで、皆さんをお送りして、ひとりぼんやり夕闇の路を眺めていたら、泣いてみたくなってしまう。

郵便箱には、夕刊と、お手紙二通。

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郵便函には、夕刊と、お手紙二通。

一通はお母さんへ、松坂屋(まつざかや)から夏物売り出しのご案内。

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一通はお母さんへ、松坂屋から夏物売出しのご案内。

一通は、私へ、いとこの順二さんから。

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一通は、私へ、いとこの順二さんから。

こんど前橋の連隊へ転任することになりました。

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こんど前橋の連隊へ転任することになりました。

お母さんによろしく、と簡単な知らせである。

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お母さんによろしく、と簡単な通知である。

将校さんだって、そんなにすばらしい生活内容などは、期待できないけれど、でも、毎日毎日、きびしく無駄なくくらすその規律がうらやましい。

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将校さんだって、そんなに素晴らしい生活内容などは、期待できないけれど、でも、毎日毎日、厳酷に無駄なく起居するその規律がうらやましい。

いつも身の回りが、ちゃんちゃんと決まっているのだから、気持ちの上から楽なことだろうと思う。

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いつも身が、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。

私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、また、勉強しようと思えば、無限といっていいくらいに勉強の時間があるのだし、欲を言ったら、よほどの望みでもかなえてもらえるような気がするし、ここからここまでという努力の限界をあたえられたら、どんなに気持ちが助かるかわからない。

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私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、また、勉強しようと思えば、無限といっていいくらいに勉強の時間があるのだし、慾を言ったら、よほどの望みでもかなえてもらえるような気がするし、ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。

うんと固くしばってくれると、かえってありがたいのだ。

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うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。

戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれてあったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。

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戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。

いやらしい、煩瑣(はんさ・こまごまとわずらわしいこと)な堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと強くねがっている状態は、じつに清潔で、単純で、思うだけでも爽快(そうかい)を覚えるのだ。

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いやらしい、煩瑣はんさな堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと渇望している状態は、じつに清潔で、単純で、思うさえ爽快そうかいを覚えるのだ。

私など、これはいちど、軍隊生活でもして、さんざん鍛えられたら、少しは、はっきりした美しい娘になれるかもしれない。

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私など、これはいちど、軍隊生活でもして、さんざ鍛われたら、少しは、はっきりした美しい娘になれるかも知れない。

軍隊生活しなくても、新ちゃんみたいに、素直な人だっているのに、私は、よくよく、いけない女だ。

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軍隊生活しなくても、新ちゃんみたいに、素直な人だってあるのに、私は、よくよく、いけない女だ。

わるい子だ。

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わるい子だ。

新ちゃんは、順二さんの弟で、私とは同じ年なんだけれど、どうしてあんなに、いい子なんだろう。

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新ちゃんは、順二さんの弟で、私とは同じとしなんだけれど、どうしてあんなに、いい子なんだろう。

私は、親類の中で、いや、世界中で、一ばん新ちゃんが好きだ。

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私は、親類中で、いや、世界中で、一ばん新ちゃんを好きだ。

新ちゃんは、目が見えないんだ。

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新ちゃん、目が見えないんだ。

若いのに、失明するなんて、なんということだろう。

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わかいのに、失明するなんて、なんということだろう。

こんな静かな晩は、お部屋にお一人でいらして、どんな気持ちだろう。

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こんな静かな晩は、お部屋にお一人でいらして、どんな気持だろう。

私たちなら、わびしくても、本を読んだり、景色を眺めたりして、いくぶんそれをまぎらすことができるけれど、新ちゃんには、それができないんだ。

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私たちなら、びしくても、本を読んだり、景色を眺めたりして、幾分それをまぎらかすことが出来るけれど、新ちゃんには、それができないんだ。

ただ、黙っているだけなんだ。

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ただ、黙っているだけなんだ。

これまで人一倍、がんばって勉強して、それからテニスも、水泳もお上手だったのだもの、いまのさびしさ、苦しさはどんなだろう。

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これまで人一倍、がんばって勉強して、それからテニスも、水泳もお上手だったのだもの、いまの寂しさ、苦しさはどんなだろう。

ゆうべも新ちゃんのことを思って、床にはいってから五分間、目をつぶってみた。

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ゆうべも新ちゃんのことを思って、床にはいってから五分間、目をつぶってみた。

床にはいって目をつぶっているのでさえ、五分間は長く、胸苦しく感じられるのに、新ちゃんは、朝も昼も夜も、何日も何か月も、何も見ていないのだ。

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床にはいって目をつぶっているのでさえ、五分間は長く、胸苦しく感じられるのに、新ちゃんは、朝も昼も夜も、幾日も幾月も、何も見ていないのだ。

不平を言ったり、かんしゃくを起こしたり、わがままを言ったりしてくだされば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言わない。

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不平を言ったり、癇癪かんしゃくを起したり、わがまま言ったりして下されば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言わない。

新ちゃんが不平や人の悪口を言ったのを聞いたことがない。

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新ちゃんが不平や人の悪口言ったのを聞いたことがない。

その上いつも明るい言葉づかい、無心の顔つきをしているのだ。

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その上いつも明るい言葉遣い、無心の顔つきをしているのだ。

それがなおさら、私の胸に、ピンときてしまう。

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それがなおさら、私の胸に、ピンと来てしまう。

あれこれ考えながらお座敷をはいて、それから、お風呂をわかす。

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あれこれ考えながらお座敷をいて、それから、お風呂をわかす。

お風呂番をしながら、みかん箱に腰かけ、ちろちろ燃える石炭の火をたよりに学校の宿題を全部すましてしまう。

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お風呂番をしながら、蜜柑箱みかんばこに腰かけ、ちろちろ燃える石炭の灯をたよりに学校の宿題を全部すましてしまう。

それでも、まだお風呂がわかないので、濹東綺譚(ぼくとうきだん・永井荷風の小説)を読み返してみる。

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それでも、まだお風呂がわかないので、濹東綺譚を読み返してみる。

書かれてある事実は、決していやな、きたないものではないのだ。

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書かれてある事実は、決して厭な、汚いものではないのだ。

けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。

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けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。

お年寄りのせいであろうか。

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お年寄りのせいであろうか。

でも、外国の作家は、いくら年をとっても、もっと大胆に甘く、対象を愛している。

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でも、外国の作家は、いくらとしとっても、もっと大胆にあまく、対象を愛している。

そうして、かえっていやみがない。

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そうして、かえって厭味が無い。

けれども、この作品は、日本では、いいほうの部類なのではあるまいか。

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けれども、この作品は、日本では、いいほうの部類なのではあるまいか。

わりにうそのない、静かなあきらめが、作品の底に感じられてすがすがしい。

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わりに嘘のない、静かなあきらめが、作品の底に感じられてすがすがしい。

この作者のものの中でも、これが一ばん枯れていて、私は好きだ。

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この作者のものの中でも、これが一ばん枯れていて、私は好きだ。

この作者は、とっても責任感の強い人のような気がする。

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この作者は、とっても責任感の強いひとのような気がする。

日本の道徳に、とてもとても、こだわっているので、かえって反発(はんぱつ)して、へんにどぎつくなっている作品が多かったような気がする。

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日本の道徳に、とてもとても、こだわっているので、かえって反撥はんぱつして、へんにどぎつくなっている作品が多かったような気がする。

愛情の深すぎる人にありがちな偽悪趣味(ぎあくしゅみ・わざと悪ぶってみせる好み)。

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愛情の深すぎる人に有りがちな偽悪趣味。

わざと、あくどい鬼の面をかぶって、それでかえって作品を弱くしている。

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わざと、あくどい鬼の面をかぶって、それでかえって作品を弱くしている。

けれども、この濹東綺譚には、さびしさのある動かない強さがある。

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けれども、この濹東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。

私は、好きだ。

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私は、好きだ。

お風呂がわいた。

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お風呂がわいた。

お風呂場に電灯をつけて、着物を脱ぎ、窓をいっぱいに開け放してから、ひっそりお風呂にひたる。

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お風呂場に電燈をつけて、着物を脱ぎ、窓を一ぱいに開け放してから、ひっそりお風呂にひたる。

珊瑚樹(さんごじゅ)の青い葉が窓からのぞいていて、一枚一枚の葉が、電灯の光を受けて、強くかがやいている。

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珊瑚樹の青い葉が窓から覗いていて、一枚一枚の葉が、電燈の光を受けて、強く輝いている。

空には星がキラキラ。

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空には星がキラキラ。

なんど見直しても、キラキラ。

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なんど見直しても、キラキラ。

あおむいたまま、うっとりしていると、自分のからだのほの白さが、わざと見ないのだが、それでも、ぼんやり感じられ、視野のどこかに、ちゃんとはいっている。

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仰向いたまま、うっとりしていると、自分のからだのほの白さが、わざと見ないのだが、それでも、ぼんやり感じられ、視野のどこかに、ちゃんとはいっている。

なお、黙っていると、小さい時の白さとちがうように思われてくる。

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なお、黙っていると、小さい時の白さと違うように思われて来る。

いたたまれない。

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いたたまらない。

体が、自分の気持ちと関係なく、ひとりでに成長していくのが、たまらなく、困る。

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肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。

めきめきと、大人になってしまう自分を、どうすることもできなくて、悲しい。

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めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。

なりゆきにまかせて、じっとして、自分が大人になっていくのを見ているより仕方がないのだろうか。

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なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろうか。

いつまでも、お人形みたいなからだでいたい。

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いつまでも、お人形みたいなからだでいたい。

お湯をじゃぶじゃぶかきまわして、子どものふりをしてみても、なんとなく気が重い。

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お湯をじゃぶじゃぶきまわして、子供のりをしてみても、なんとなく気が重い。

これから先、生きていく理由がないような気がしてきて、くるしくなる。

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これからさき、生きてゆく理由が無いような気がして来て、くるしくなる。

庭の向こうの原っぱで、おねえちゃん!

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庭の向こうの原っぱで、おねえちゃん!

と、半分泣きかけて呼ぶよその子どもの声に、はっと胸を突かれた。

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 と、半分泣きかけて呼ぶ他所よその子供の声に、はっと胸を突かれた。

私を呼んでいるのではないけれども、いまのあの子に泣きながら慕われているその「おねえちゃん」

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私を呼んでいるのではないけれども、いまのあの子に泣きながらしたわれているその「おねえちゃん」

をうらやましく思うのだ。

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うらやましく思うのだ。

私にだって、あんなに慕って甘えてくれる弟が、ひとりでもあったなら、私は、こんなに一日一日、みっともなく、まごついて生きてはいない。

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私にだって、あんなに慕って甘えてくれる弟が、ひとりでもあったなら、私は、こんなに一日一日、みっともなく、まごついて生きてはいない。

生きることに、ずいぶん張り合いも出てくるだろうし、一生涯を弟にささげて、つくそうという覚悟だって、できるのだ。

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生きることに、ずいぶん張り合いも出て来るだろうし、一生涯を弟に捧げて、つくそうという覚悟だって、できるのだ。

ほんとうに、どんなつらいことでも、こらえてみせる。

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ほんとうに、どんなつらいことでも、堪えてみせる。

ひとりりきんで、それから、つくづく自分をかわいそうに思った。

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ひとりりきんで、それから、つくづく自分を可哀想に思った。

お風呂からあがって、なんだか今夜は、星が気にかかって、庭に出てみる。

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風呂からあがって、なんだか今夜は、星が気にかかって、庭に出てみる。

星が、降るようだ。

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星が、降るようだ。

ああ、もう夏が近い。

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ああ、もう夏が近い。

蛙(かえる)があちこちで鳴いている。

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蛙があちこちで鳴いている。

麦が、ざわざわいっている。

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麦が、ざわざわいっている。

何回、ふりあおいでみても、星がたくさん光っている。

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何回、振り仰いでみても、星がたくさん光っている。

去年のこと、いや去年じゃない、もう、おととしになってしまった。

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去年のこと、いや去年じゃない、もう、おととしになってしまった。

私が散歩に行きたいと無理を言っていると、お父さんは、病気だったのに、一緒に散歩に出てくださった。

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私が散歩に行きたいと無理言っていると、お父さん、病気だったのに、一緒に散歩に出て下さった。

いつも若かったお父さん。

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いつも若かったお父さん。

ドイツ語の「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」

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ドイツ語の「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」

という意味とやらの小唄を教えてくださったり、星のお話をしたり、即興の詩を作ってみせたり、ステッキをついて、つばをピュッピュッ出し出し、あのぱちくりをやりながら一緒に歩いてくださった、よいお父さん。

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という意味とやらの小唄を教えて下さったり、星のお話をしたり、即興の詩を作ってみせたり、ステッキついて、つばをピュッピュッ出し出し、あのパチクリをやりながら一緒に歩いて下さった、よいお父さん。

黙って星をあおいでいると、お父さんのこと、はっきり思い出す。

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黙って星を仰いでいると、お父さんのこと、はっきり思い出す。

あれから、一年、二年たって、私は、だんだんいけない娘になってしまった。

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あれから、一年、二年経って、私は、だんだんいけない娘になってしまった。

ひとりきりの秘密を、たくさんたくさん持つようになりました。

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ひとりきりの秘密を、たくさんたくさん持つようになりました。

お部屋へ戻って、机のまえに座って頬杖をつきながら、机の上の百合の花を眺める。

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お部屋へ戻って、机のまえに坐って頬杖つきながら、机の上の百合ゆりの花を眺める。

いいにおいがする。

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いいにおいがする。

百合のにおいをかいでいると、こうしてひとりで退屈していても、決してきたない気持ちが起きない。

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百合のにおいをかいでいると、こうしてひとりで退屈していても、決してきたない気持が起きない。

この百合は、きのうの夕方、駅のほうまで散歩していって、そのかえりに花屋さんから一本買って来たのだけれど、それからは、この私の部屋は、まるっきりちがった部屋みたいにすがすがしく、襖をするするとあけると、もう百合のにおいが、すっと感じられて、どんなに助かるかわからない。

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この百合は、きのうの夕方、駅のほうまで散歩していって、そのかえりに花屋さんから一本買って来たのだけれど、それからは、この私の部屋は、まるっきり違った部屋みたいにすがすがしく、ふすまをするするとあけると、もう百合のにおいが、すっと感じられて、どんなに助かるかわからない。

こうして、じっと見ていると、ほんとうにソロモン王の栄華(えいが・さかえ)以上だと、実感として、体の感覚として、うなずける。

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こうして、じっと見ていると、ほんとうにソロモンの栄華以上だと、実感として、肉体感覚として、首肯しゅこうされる。

ふと、去年の夏の山形を思い出す。

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ふと、去年の夏の山形を思い出す。

山に行ったとき、崖の中腹に、あんまりたくさん、百合が咲き乱れていたのでおどろいて、夢中になってしまった。

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山に行ったとき、崖の中腹に、あんまりたくさん、百合が咲き乱れていたので驚いて、夢中になってしまった。

でも、その急な崖には、とてもよじ登っていくことができないのが、わかっていたから、どんなにひかれても、ただ、見ているより仕方がなかった。

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でも、その急な崖には、とてもよじ登ってゆくことができないのが、わかっていたから、どんなにかれても、ただ、見ているより仕方がなかった。

そのとき、ちょうど近くに居合わせた見知らぬ坑夫(こうふ・鉱山で働く人)が、黙ってどんどん崖によじ登っていって、そしてまたたく間に、いっぱい、両手でかかえきれないほど、百合の花を折って来てくれた。

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そのとき、ちょうど近くに居合せた見知らぬ坑夫が、黙ってどんどん崖によじ登っていって、そしてまたたくうちに、いっぱい、両手で抱え切れないほど、百合の花を折って来て呉れた。

そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせた。

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そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせた。

それこそ、いっぱい、いっぱいだった。

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それこそ、いっぱい、いっぱいだった。

どんな豪勢な舞台でも、結婚式場でも、こんなにたくさんの花をもらった人はないだろう。

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どんな豪勢なステージでも、結婚式場でも、こんなにたくさんの花をもらった人はないだろう。

花でめまいがするって、そのとき初めて味わった。

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花でめまいがするって、そのとき初めて味わった。

その真っ白い大きい大きい花束を両腕をひろげてやっとこさかかえると、前がぜんぜん見えなかった。

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その真白い大きい大きい花束を両腕をひろげてやっとこさ抱えると、前が全然見えなかった。

親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。

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親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。

花を、あぶないところに行って取って来てくれた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。

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花を、あぶない所に行って取って来て呉れた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。

机の引き出しをあけて、かきまわしていたら、去年の夏の扇子が出て来た。

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机の引き出しをあけて、かきまわしていたら、去年の夏の扇子が出て来た。

白い紙に、元禄(げんろく)時代の女の人が行儀わるく座りくずれて、そのそばに、青いほおずきが二つ書き添えられている。

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白い紙に、元禄時代の女のひとが行儀わるく坐り崩れて、その傍に、青い酸漿ほおずきが二つ書き添えられて在る。

この扇子から、去年の夏が、ふうと煙みたいに立ちのぼる。

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この扇子から、去年の夏が、ふうと煙みたいに立ちのぼる。

山形の生活、汽車の中、浴衣、すいか、川、せみ、風鈴。

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山形の生活、汽車の中、浴衣ゆかた西瓜すいか、川、蝉、風鈴。

急に、これを持って汽車に乗りたくなってしまう。

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急に、これを持って汽車に乗りたくなってしまう。

扇子をひらく感じって、よいもの。

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扇子をひらく感じって、よいもの。

ぱらぱら骨がほどけていって、急にふわっと軽くなる。

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ぱらぱら骨がほどけていって、急にふわっと軽くなる。

くるくるもてあそんでいたら、お母さんが帰っていらした。

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クルクルもてあそんでいたら、お母さん帰っていらした。

ご機嫌がよい。

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御機嫌がよい。

「ああ、疲れた、疲れた」

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「ああ、疲れた、疲れた」

と言いながら、そんなに不愉快そうな顔もしていない。

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といいながら、そんなに不愉快そうな顔もしていない。

人の用事をしてあげるのがお好きなのだから仕方がない。

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ひとの用事をしてあげるのがお好きなのだから仕方がない。

「なにしろ、話がややこしくて」

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「なにしろ、話がややこしくて」

など言いながら着物を着がえてお風呂へはいる。

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など言いながら着物を着換えてお風呂へはいる。

お風呂から上がって、私と二人でお茶を飲みながら、へんににこにこ笑って、お母さんが何を言い出すかと思ったら、

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お風呂から上がって、私と二人でお茶を飲みながら、へんにニコニコ笑って、お母さん何を言い出すかと思ったら、

「あなたは、こないだから『裸足の少女』を見たい見たいと言ってたでしょう? そんなに行きたいなら、行ってもよござんす。そのかわり、今晩は、ちょっとお母さんの肩をもんでください。働いて行くのなら、なおさら楽しいでしょう?」

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「あなたは、こないだから『裸足はだしの少女』を見たい見たいと言ってたでしょう? そんなに行きたいなら、行ってもよござんす。そのかわり、今晩は、ちょっとお母さんの肩をもんで下さい。働いて行くのなら、なおさら楽しいでしょう?」

もう私はうれしくてたまらない。

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もう私は嬉しくてたまらない。

「裸足の少女」

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「裸足の少女」

という映画も見たいとは思っていたのだが、このごろ私は遊んでばかりいたので、遠慮していたのだ。

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という映画も見たいとは思っていたのだが、このごろ私は遊んでばかりいたので、遠慮していたのだ。

それをお母さんは、ちゃんと察して、私に用事を言いつけて、私が大手をふって映画を見に行けるように、しむけてくださった。

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それをお母さん、ちゃんと察して、私に用事を言いつけて、私に大手おおでをふって映画見にゆけるように、しむけて下さった。

ほんとうに、うれしく、お母さんが好きで、自然に笑ってしまった。

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ほんとうに、うれしく、お母さんが好きで、自然に笑ってしまった。

お母さんと、こうして夜ふたりきりで暮らすのも、ずいぶん久しぶりだったような気がする。

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お母さんと、こうして夜ふたりきりで暮すのも、ずいぶん久しぶりだったような気がする。

お母さんは、とても交際が多いのだから。

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お母さん、とても交際が多いのだから。

お母さんだって、いろいろ世間からばかにされまいと思って努めていられるのだろう。

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お母さんだって、いろいろ世間から馬鹿にされまいと思って努めて居られるのだろう。

こうして肩をもんでいると、お母さんのお疲れが、私のからだに伝わってくるほど、よくわかる。

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こうして肩をもんでいると、お母さんのお疲れが、私のからだに伝わって来るほど、よくわかる。

大事にしよう、と思う。

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大事にしよう、と思う。

さっき、今井田が来ていたときに、お母さんを、こっそりうらんだことを、恥ずかしく思う。

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先刻、今井田が来ていたときに、お母さんを、こっそりうらんだことを、恥ずかしく思う。

ごめんなさい、と口の中で小さく言ってみる。

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ごめんなさい、と口の中で小さく言ってみる。

私は、いつも自分のことだけを考え、思って、お母さんには、やはり、しんそこから甘えて乱暴な態度をとっている。

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私は、いつも自分のことだけを考え、思って、お母さんには、やはり、しん底から甘えて乱暴な態度をとっている。

お母さんは、そのたびに、どんなに痛い苦しい思いをするか、そんなものは、まったく、はねつけている自分だ。

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お母さんは、その都度つど、どんなに痛い苦しい思いをするか、そんなものは、てんで、はねつけている自分だ。

お父さんがいなくなってからは、お母さんは、ほんとうにお弱くなっているのだ。

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お父さんがいなくなってからは、お母さんは、ほんとうにお弱くなっているのだ。

私自身、くるしいの、やりきれないのと言ってお母さんに完全にぶらさがっているくせに、お母さんが少しでも私に寄りかかったりすると、いやらしく、うす汚いものを見たような気持ちがするのは、本当に、わがまますぎる。

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私自身、くるしいの、やりきれないのと言ってお母さんに完全にぶらさがっているくせに、お母さんが少しでも私に寄りかかったりすると、いやらしく、薄汚いものを見たような気持がするのは、本当に、わがまますぎる。

お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。

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お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。

これからは、お母さんと二人だけの生活に満足し、いつもお母さんの気持ちになってあげて、昔の話をしたり、お父さんの話をしたり、一日でもよい、お母さん中心の日を作れるようにしたい。

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これからは、お母さんと二人だけの生活に満足し、いつもお母さんの気持になってあげて、昔の話をしたり、お父さんの話をしたり、一日でもよい、お母さん中心の日を作れるようにしたい。

そうして、立派に生きがいを感じたい。

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そうして、立派に生き甲斐を感じたい。

お母さんのことを、心では、心配したり、よい娘になろうと思うのだけれど、行動や、言葉に出る私は、わがままな子どもばっかりだ。

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お母さんのことを、心では、心配したり、よい娘になろうと思うのだけれど、行動や、言葉に出る私は、わがままな子供ばっかりだ。

それに、このごろの私は、子どもみたいに、きれいなところさえない。

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それに、このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。

よごれて、恥ずかしいことばかりだ。

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よごれて、恥ずかしいことばかりだ。

くるしみがあるの、悩んでいるの、さびしいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。

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くるしみがあるの、悩んでいるの、寂しいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。

はっきり言ったら、死ぬる。

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はっきり言ったら、死ぬる。

ちゃんと知っていながら、一言だって、それに似た名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せないじゃないか。

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ちゃんと知っていながら、一ことだって、それに似た名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せないじゃないか。

ただ、どぎまぎして、おしまいには、かっとなって、まるでなにかみたいだ。

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ただ、どぎまぎして、おしまいには、かっとなって、まるでなにかみたいだ。

むかしの女は、奴隷とか、自分を無視している虫けらとか、人形とか、悪口を言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、しんぼうをさわやかにこなしていけるだけの叡智(えいち・かしこさ)もあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に見返りをもとめない、つくすよろこびもわきまえていたのだ。

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むかしの女は、奴隷とか、自己を無視している虫けらとか、人形とか、悪口言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、忍従をさわやかにさばいて行けるだけの叡智えいちもあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に無報酬の、奉仕のよろこびもわきまえていたのだ。

「ああ、いいあんまさんだ。天才ですね」

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「ああ、いいアンマさんだ。天才ですね」

お母さんは、いつものように私をからかう。

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お母さんは、れいによって私をからかう。

「そうでしょう? 心がこもっていますからね。でも、あたしのとりえは、あんまのやり方、それだけじゃないんですよ。それだけじゃ、心細いわねえ。もっと、いいとこもあるんです」

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「そうでしょう? 心がこもっていますからね。でも、あたしの取柄とりえは、アンマ上下かみしも、それだけじゃないんですよ。それだけじゃ、心細いわねえ。もっと、いいとこもあるんです」

素直に思っていることを、そのまま言ってみたら、それは私の耳にも、とってもさわやかに響いて、この二、三年、私が、こんなに、無邪気に、ものをはきはき言えたことは、なかった。

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素直に思っていることを、そのまま言ってみたら、それは私の耳にも、とっても爽やかに響いて、この二、三年、私が、こんなに、無邪気に、ものをはきはき言えたことは、なかった。

自分の分(ぶん・自分にふさわしいところ)を、はっきり知ってあきらめたときに、はじめて、平静な新しい自分が生まれて来るのかもしれない、とうれしく思った。

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自分のぶんを、はっきり知ってあきらめたときに、はじめて、平静な新しい自分が生れて来るのかも知れない、と嬉しく思った。

今夜はお母さんに、いろいろの意味でお礼もあって、あんまがすんでから、おまけとして、クオレ(イタリアの少年小説)を少し読んであげる。

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今夜はお母さんに、いろいろの意味でお礼もあって、アンマがすんでから、オマケとして、クオレを少し読んであげる。

お母さんは、私がこんな本を読んでいるのを知ると、やっぱり安心なような顔をなさるが、先日私が、ケッセルの「昼顔」(フランスの小説)を読んでいたら、そっと私から本を取りあげて、表紙をちらっと見て、とても暗い顔をなさって、けれども何も言わずに黙って、そのまますぐに本をかえしてくださったけれど、私もなんだか、いやになって続けて読む気がしなくなった。

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お母さんは、私がこんな本を読んでいるのを知ると、やっぱり安心なような顔をなさるが、先日私が、ケッセルの昼顔を読んでいたら、そっと私から本を取りあげて、表紙をちらっと見て、とても暗い顔をなさって、けれども何も言わずに黙って、そのまますぐに本をかえして下さったけれど、私もなんだか、いやになって続けて読む気がしなくなった。

お母さんは、「昼顔」を読んだことがないはずなのに、それでも勘で、わかるらしいのだ。

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お母さん、昼顔を読んだことが無いはずなのに、それでも勘で、わかるらしいのだ。

夜、静かな中で、ひとりで声を立ててクオレを読んでいると、自分の声がとても大きく間が抜けてひびいて、読みながら、ときどき、くだらなくなって、お母さんに恥ずかしくなってしまう。

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夜、静かな中で、ひとりで声たててクオレを読んでいると、自分の声がとても大きく間抜けてひびいて、読みながら、ときどき、くだらなくなって、お母さんに恥ずかしくなってしまう。

あたりが、あんまり静かなので、ばかばかしさが目立つ。

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あたりが、あんまり静かなので、ばかばかしさが目立つ。

クオレは、いつ読んでも、小さい時に読んで受けた感激とちっとも変わらない感激を受けて、自分の心も、素直に、きれいになるような気がして、やっぱりいいなと思うのであるが、どうも、声を出して読むのと、目で読むのとでは、ずいぶん感じがちがうので、おどろき、こまってしまう。

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クオレは、いつ読んでも、小さい時に読んで受けた感激とちっとも変らぬ感激を受けて、自分の心も、素直に、きれいになるような気がして、やっぱりいいなと思うのであるが、どうも、声を出して読むのと、目で読むのとでは、ずいぶん感じがちがうので、驚き、閉口の形である。

でも、お母さんは、エンリコのところや、ガロオンのところでは、うつむいて泣いておられた。

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でも、お母さんは、エンリコのところや、ガロオンのところでは、うつむいて泣いて居られた。

うちのお母さんも、エンリコのお母さんのように立派な美しいお母さんである。

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うちのお母さんも、エンリコのお母さんのように立派な美しいお母さんである。

お母さんは、先におやすみ。

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お母さんは、さきにおやすみ。

けさ早くからお出かけだったので、ずいぶん疲れたことと思う。

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けさ早くからお出掛けだったゆえ、ずいぶん疲れたことと思う。

お蒲団を直してあげて、お蒲団のすそのところをはたはたたたいてあげる。

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蒲団ふとんを直してあげて、お蒲団の裾のところをハタハタ叩いてあげる。

お母さんは、いつでも、お床へはいるとすぐ目をつぶる。

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お母さんは、いつでも、お床へはいるとすぐ眼をつぶる。

私は、それから風呂場でお洗濯。

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私は、それから風呂場でお洗濯。

このごろ、へんなくせで、十二時ちかくなってお洗濯をはじめる。

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このごろ、へんな癖で、十二時ちかくなってお洗濯をはじめる。

昼間じゃぶじゃぶやって時間をつぶすの、惜しいような気がするのだけれど、反対かもしれない。

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昼間じゃぶじゃぶやって時間をつぶすの、惜しいような気がするのだけれど、反対かも知れない。

窓からお月様が見える。

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窓からお月様が見える。

しゃがんで、しゃっしゃっと洗いながら、お月様に、そっと笑いかけてみる。

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しゃがんで、しゃッしゃッと洗いながら、お月様に、そっと笑いかけてみる。

お月様は、知らぬ顔をしていた。

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お月様は、知らぬ顔をしていた。

ふと、この同じ瞬間、どこかのかわいそうなさびしい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって家の裏でお洗濯している、くるしい娘さんが、いま、いるのだ、それから、パリの裏町のきたないアパートの廊下で、やはり私と同じ年の娘さんが、ひとりでこっそりお洗濯して、このお月様に笑いかけた、とちっとも疑うところなく、望遠鏡でほんとに見とどけてしまったように、色もはっきりくっきり思い浮かぶのである。

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ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって背戸せどでお洗濯している、くるしい娘さんが、いま、いるのだ、それから、パリイの裏町の汚いアパアトの廊下で、やはり私と同じとしの娘さんが、ひとりでこっそりお洗濯して、このお月様に笑いかけた、とちっとも疑うところなく、望遠鏡でほんとに見とどけてしまったように、色彩も鮮明にくっきり思い浮かぶのである。

私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。

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私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。

いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさわびしさは、おかしなものだった、となんでもなく思い出せるようになるかもしれないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長いいやな期間を、どうして暮らしていったらいいのだろう。

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いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。

誰も教えてくれないのだ。

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誰も教えて呉れないのだ。

ほうっておくよりしようのない、はしかみたいな病気なのかしら。

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ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。

でも、はしかで死ぬる人もあるし、はしかで目のつぶれる人だってあるのだ。

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でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。

ほうっておくのは、いけないことだ。

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放って置くのは、いけないことだ。

私たち、こんなに毎日、うつうつしたり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。

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私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。

また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。

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また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。

そうなってしまってから、世の中の人たちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかってくることなのにと、どんなにくやしがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまでこらえて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓をくり返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいすっぽかしをくっているのだ。

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そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。

私たちは、決して刹那主義(せつなしゅぎ・いまだけよければいいという考え方)ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見晴らしがいい、と、それは、きっとそのとおりで、みじんもうそのないことは、わかっているのだけれど、いまこんな激しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。

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私たちは、決して刹那主義せつなしゅぎではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんもうそのないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。

きっと、誰かが間違っている。

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きっと、誰かが間違っている。

わるいのは、あなただ。

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わるいのは、あなただ。

お洗濯をすまして、お風呂場のお掃除をして、それから、こっそりお部屋の襖をあけると、百合のにおい。

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お洗濯をすまして、お風呂場のお掃除をして、それから、こっそりお部屋の襖をあけると、百合のにおい。

すっとした。

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すっとした。

心の底まで透明になってしまって、崇高(すうこう・けだかい)な虚無(ニヒル)、とでもいったような具合になった。

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心の底まで透明になってしまって、崇高なニヒル、とでもいったような工合いになった。

しずかに寝巻きに着がえていたら、いままですやすや眠っているとばかり思っていたお母さんが、目をつぶったまま突然言い出したので、びくっとした。

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しずかに寝巻に着換えていたら、いままですやすや眠ってるとばかり思っていたお母さん、目をつぶったまま突然言い出したので、びくっとした。

お母さんは、ときどきこんなことをして、私をおどろかす。

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お母さん、ときどきこんなことをして、私をおどろかす。

「夏の靴がほしいと言っていたから、きょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。靴も、高くなったねえ」

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「夏の靴がほしいと言っていたから、きょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。靴も、高くなったねえ」

「いいの、そんなにほしくなくなったの」

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「いいの、そんなに欲しくなくなったの」

「でも、なければ、困るでしょう」

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「でも、なければ、困るでしょう」

「うん」

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「うん」

明日もまた、同じ日が来るのだろう。

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明日もまた、同じ日が来るのだろう。

幸福は一生、来ないのだ。

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幸福は一生、来ないのだ。

それは、わかっている。

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それは、わかっている。

けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。

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けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。

わざと、どさんと大きい音を立てて蒲団にたおれる。

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わざと、どさんと大きい音たてて蒲団にたおれる。

ああ、いい気持ちだ。

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ああ、いい気持だ。

蒲団が冷たいので、背中がほどよくひんやりして、ついうっとりなる。

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蒲団が冷いので、背中がほどよくひんやりして、ついうっとりなる。

幸福は一夜おくれて来る。

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幸福は一夜おくれて来る。

ぼんやり、そんな言葉を思い出す。

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ぼんやり、そんな言葉を思い出す。

幸福を待って待って、とうとうこらえきれずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、すばらしい幸福の知らせが、捨てた家をおとずれたが、もうおそかった。

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幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。

幸福は一夜おくれて来る。

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幸福は一夜おくれて来る。

幸福は、――

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幸福は、――

お庭をカアの歩く足音がする。

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お庭をカアの歩く足音がする。

パタパタパタパタ、カアの足音には、特徴がある。

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パタパタパタパタ、カアの足音には、特徴がある。

右の前足が少し短く、それに前足はO脚でがにまただから、足音にもさびしいくせがあるのだ。

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右の前足が少し短く、それに前足はO型でガニだから、足音にも寂しい癖があるのだ。

よくこんな真夜中に、お庭を歩きまわっているけれど、何をしているのかしら。

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よくこんな真夜中に、お庭を歩きまわっているけれど、何をしているのかしら。

カアは、かわいそう。

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カアは、可哀想。

けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます。

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けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます。

私は悲しいくせで、顔を両手でぴったりおおっていなければ、眠れない。

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私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。

顔をおおって、じっとしている。

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顔を覆って、じっとしている。

眠りに落ちるときの気持ちって、へんなものだ。

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眠りに落ちるときの気持って、へんなものだ。

鮒(ふな)か、うなぎか、ぐいぐい釣り糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。

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ふなか、うなぎか、ぐいぐい釣糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。

すると、私は、はっと気を取り直す。

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すると、私は、はっと気を取り直す。

また、ぐっと引く。

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また、ぐっと引く。

とろとろ眠る。

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とろとろ眠る。

また、ちょっと糸を放す。

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また、ちょっと糸を放す。

そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、はじめて、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。

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そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、はじめて、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。

おやすみなさい。

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おやすみなさい。

私は、王子さまのいないシンデレラ姫。

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私は、王子さまのいないシンデレラ姫。

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

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あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

もう、ふたたびお目にかかりません。

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 もう、ふたたびお目にかかりません。