女生徒 現代語訳
太宰治(だざいおさむ)・1954年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
朝、目をさますときの気持は、面白い。
原文を見る
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。
かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」
原文を見る
かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」
と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合わせたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。
原文を見る
と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。
箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。
原文を見る
箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。
パチッと目がさめるなんて、あれは嘘だ。
原文を見る
パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。
濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少しずつ上澄みが出来て、やっと疲れて目がさめる。
原文を見る
濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少しずつ上澄が出来て、やっと疲れて眼がさめる。
朝は、なんだか、しらじらしい。
原文を見る
朝は、なんだか、しらじらしい。
悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。
原文を見る
悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。
いやだ。
原文を見る
いやだ。
いやだ。
原文を見る
いやだ。
朝の私はいちばん醜い。
原文を見る
朝の私は一ばん醜い。
両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。
原文を見る
両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。
熟睡していないせいかしら。
原文を見る
熟睡していないせいかしら。
朝は健康だなんて、あれは嘘。
原文を見る
朝は健康だなんて、あれは嘘。
朝は灰色。
原文を見る
朝は灰色。
いつもいつも同じ。
原文を見る
いつもいつも同じ。
いちばん虚無だ。
原文を見る
一ばん虚無だ。
朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。
原文を見る
朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。
いやになる。
原文を見る
いやになる。
いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。
原文を見る
いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。
朝は、意地悪。
原文を見る
朝は、意地悪。
「お父さん」
原文を見る
「お父さん」
と小さい声で呼んでみる。
原文を見る
と小さい声で呼んでみる。
へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと布団をたたむ。
原文を見る
へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団をたたむ。
布団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛け声して、はっと思った。
原文を見る
蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。
私は、いままで、自分が、よいしょなんて、下品な言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。
原文を見る
私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。
よいしょ、なんて、お婆さんの掛け声みたいで、いやらしい。
原文を見る
よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。
どうして、こんな掛け声を出したのだろう。
原文を見る
どうして、こんな掛声を発したのだろう。
私のからだの中に、どこかに、お婆さんがひとり居るようで、気持がわるい。
原文を見る
私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気持がわるい。
これからは、気をつけよう。
原文を見る
これからは、気をつけよう。
ひとの下品な歩き方に眉をひそめていながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
原文を見る
ひとの下品な歩き恰好を顰蹙していながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
朝は、いつでも自信がない。
原文を見る
朝は、いつでも自信がない。
寝巻のままで鏡台のまえに坐る。
原文を見る
寝巻のままで鏡台のまえに坐る。
眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。
原文を見る
眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。
自分の顔の中でいちばん眼鏡が嫌なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。
原文を見る
自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。
眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。
原文を見る
眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。
全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。
原文を見る
全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。
汚ないものなんて、何も見えない。
原文を見る
汚ないものなんて、何も見えない。
大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいって来る。
原文を見る
大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいって来る。
眼鏡をとって人を見るのも好き。
原文を見る
眼鏡をとって人を見るのも好き。
相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。
原文を見る
相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。
それに、眼鏡をはずしている時は、決して人と喧嘩をしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。
原文を見る
それに、眼鏡をはずしている時は、決して人と喧嘩をしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。
ただ、黙って、ポカンとしているだけ。
原文を見る
ただ、黙って、ポカンとしているだけ。
そうして、そんな時の私は、人にもお人好しに見えるだろうと思えば、なおのこと、私は、ポカンと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。
原文を見る
そうして、そんな時の私は、人にもおひとよしに見えるだろうと思えば、なおのこと、私は、ポカンと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。
だけど、やっぱり眼鏡は、いや。
原文を見る
だけど、やっぱり眼鏡は、いや。
眼鏡をかけたら顔という感じが無くなってしまう。
原文を見る
眼鏡をかけたら顔という感じが無くなってしまう。
顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。
原文を見る
顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。
それに、目でお話をするということも、おかしなくらい出来ない。
原文を見る
それに、目でお話をするということも、可笑しなくらい出来ない。
眼鏡は、お化け。
原文を見る
眼鏡は、お化け。
自分で、いつも自分の眼鏡が嫌だと思っているせいか、目の美しいことが、いちばんいいと思われる。
原文を見る
自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思っているゆえか、目の美しいことが、一ばんいいと思われる。
鼻が無くても、口が隠されていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。
原文を見る
鼻が無くても、口が隠されていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。
私の目は、ただ大きいだけで、なんにもならない。
原文を見る
私の目は、ただ大きいだけで、なんにもならない。
じっと自分の目を見ていると、がっかりする。
原文を見る
じっと自分の目を見ていると、がっかりする。
お母さんでさえ、つまらない目だと言っている。
原文を見る
お母さんでさえ、つまらない目だと言っている。
こんな目を光の無い目と言うのだろう。
原文を見る
こんな目を光の無い目と言うのであろう。
炭団、と思うと、がっかりする。
原文を見る
たどん、と思うと、がっかりする。
これですからね。
原文を見る
これですからね。
ひどいですよ。
原文を見る
ひどいですよ。
鏡に向うと、そのたびに、うるおいのあるいい目になりたいと、つくづく思う。
原文を見る
鏡に向うと、そのたんびに、うるおいのあるいい目になりたいと、つくづく思う。
青い湖のような目、青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。
原文を見る
青い湖のような目、青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。
鳥の影まで、はっきり写る。
原文を見る
鳥の影まで、はっきり写る。
美しい目のひととたくさん逢ってみたい。
原文を見る
美しい目のひととたくさん逢ってみたい。
けさから五月、そう思うと、なんだか少し浮き浮きして来た。
原文を見る
けさから五月、そう思うと、なんだか少し浮き浮きして来た。
やっぱり嬉しい。
原文を見る
やっぱり嬉しい。
もう夏も近いと思う。
原文を見る
もう夏も近いと思う。
庭に出ると苺の花が目にとまる。
原文を見る
庭に出ると苺の花が目にとまる。
お父さんの死んだという事実が、不思議になる。
原文を見る
お父さんの死んだという事実が、不思議になる。
死んで、いなくなる、ということは、理解しにくいことだ。
原文を見る
死んで、いなくなる、ということは、理解できにくいことだ。
腑に落ちない。
原文を見る
腑に落ちない。
お姉さんや、別れた人や、長いあいだ逢わずにいる人たちが懐かしい。
原文を見る
お姉さんや、別れた人や、長いあいだ逢わずにいる人たちが懐かしい。
どうも朝は、過ぎ去ったこと、ずっと前の人たちの事が、いやに身近に、たくあんの匂いのように味気なく思い出されて、かなわない。
原文を見る
どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちの事が、いやに身近に、おタクワンの臭いのように味気なく思い出されて、かなわない。
ジャピイと、カア(可哀想な犬だから、カアと呼ぶんだ)と、二匹もつれ合いながら、走って来た。
原文を見る
ジャピイと、カア(可哀想な犬だから、カアと呼ぶんだ)と、二匹もつれ合いながら、走って来た。
二匹をまえに並べて置いて、ジャピイだけを、うんと可愛がってやった。
原文を見る
二匹をまえに並べて置いて、ジャピイだけを、うんと可愛がってやった。
ジャピイの真白い毛は光って美しい。
原文を見る
ジャピイの真白い毛は光って美しい。
カアは、きたない。
原文を見る
カアは、きたない。
ジャピイを可愛がっていると、カアは、傍で泣きそうな顔をしているのをちゃんと知っている。
原文を見る
ジャピイを可愛がっていると、カアは、傍で泣きそうな顔をしているのをちゃんと知っている。
カアの足が悪いということも知っている。
原文を見る
カアが片輪だということも知っている。
カアは、悲しくて、いやだ。
原文を見る
カアは、悲しくて、いやだ。
可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。
原文を見る
可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。
カアは、野良犬みたいに見えるから、いつ犬殺しにやられるか、わからない。
原文を見る
カアは、野良犬みたいに見えるから、いつ犬殺しにやられるか、わからない。
カアは、足が、こんなだから、逃げるのが、おそいことだろう。
原文を見る
カアは、足が、こんなだから、逃げるのに、おそいことだろう。
カア、早く、山の中にでも行きなさい。
原文を見る
カア、早く、山の中にでも行きなさい。
おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。
原文を見る
おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。
私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。
原文を見る
私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。
人を困らせて、刺戟する。
原文を見る
人を困らせて、刺戟する。
ほんとうに嫌な子なんだ。
原文を見る
ほんとうに厭な子なんだ。
縁側に腰かけて、ジャピイの頭を撫でてやりながら、目に染みる青葉を見ていると、情なくなって、土の上に坐りたいような気持になった。
原文を見る
縁側に腰かけて、ジャピイの頭を撫でてやりながら、目に浸みる青葉を見ていると、情なくなって、土の上に坐りたいような気持になった。
泣いてみたくなった。
原文を見る
泣いてみたくなった。
うんと息をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。
原文を見る
うんと息をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。
もう、涙のない女になったのかも知れない。
原文を見る
もう、涙のない女になったのかも知れない。
あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。
原文を見る
あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。
お掃除しながら、ふと「唐人お吉」
原文を見る
お掃除しながら、ふと「唐人お吉」
を唄う。
原文を見る
を唄う。
ちょっとあたりを見廻したような感じ。
原文を見る
ちょっとあたりを見廻したような感じ。
普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」
原文を見る
普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」
を唄ったのが、面白い。
原文を見る
を唄ったのが、面白い。
布団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。
原文を見る
蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。
こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なこと言い出すか、不安でならない。
原文を見る
こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なこと言い出すか、不安でならない。
でも、なんだかおかしくなって、箒の手を休めて、ひとりで笑う。
原文を見る
でも、なんだか可笑しくなって、箒の手を休めて、ひとりで笑う。
きのう縫い上げた新しい下着を着る。
原文を見る
きのう縫い上げた新しい下着を着る。
胸のところに、小さい白い薔薇の花を刺繍して置いた。
原文を見る
胸のところに、小さい白い薔薇の花を刺繍して置いた。
上着を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。
原文を見る
上衣を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。
誰にもわからない。
原文を見る
誰にもわからない。
得意である。
原文を見る
得意である。
お母さん、誰かの縁談のために大わらわ、朝早くからお出掛け。
原文を見る
お母さん、誰かの縁談のために大童、朝早くからお出掛け。
私の小さい時からお母さんは、人のために尽すので、なれっこだけれど、本当に驚くほど、始終うごいているお母さんだ。
原文を見る
私の小さい時からお母さんは、人のために尽すので、なれっこだけれど、本当に驚くほど、始終うごいているお母さんだ。
感心する。
原文を見る
感心する。
お父さんが、あまりにも勉強ばかりしていたから、お母さんは、お父さんのぶんもするのである。
原文を見る
お父さんが、あまりにも勉強ばかりしていたから、お母さんは、お父さんのぶんもするのである。
お父さんは、社交とかからは、およそ縁が遠いけれど、お母さんは、本当に気持のよい人たちの集まりを作る。
原文を見る
お父さんは、社交とかからは、およそ縁が遠いけれど、お母さんは、本当に気持のよい人たちの集まりを作る。
二人とも違ったところを持っているけれど、お互いに、尊敬し合っていたらしい。
原文を見る
二人とも違ったところを持っているけれど、お互いに、尊敬し合っていたらしい。
醜いところの無い、美しい安らかな夫婦、とでも言うのだろうか。
原文を見る
醜いところの無い、美しい安らかな夫婦、とでも言うのであろうか。
ああ、生意気、生意気。
原文を見る
ああ、生意気、生意気。
お味噌汁の温まるまで、台所口に腰掛けて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。
原文を見る
おみおつけの温まるまで、台所口に腰掛けて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。
そしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢でもって、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、ような気がして、過去、現在、未来、それが一瞬のうちに感じられるような、変な気持がした。
原文を見る
そしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢でもって、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、ような気がして、過去、現在、未来、それが一瞬間のうちに感じられるような、変な気持がした。
こんな事は、時々ある。
原文を見る
こんな事は、時々ある。
誰かと部屋に坐って話をしている。
原文を見る
誰かと部屋に坐って話をしている。
目が、テエブルのすみに行ってコトンと停まって動かない。
原文を見る
目が、テエブルのすみに行ってコトンと停まって動かない。
口だけが動いている。
原文を見る
口だけが動いている。
こんな時に、変な錯覚を起すのだ。
原文を見る
こんな時に、変な錯覚を起すのだ。
いつだったか、こんな同じ状態で、同じ事を話しながら、やはり、テエブルのすみを見ていた、また、これから先も、いまのことが、そっくりそのままに自分にやって来るのだ、と信じちゃう気持になるのだ。
原文を見る
いつだったか、こんな同じ状態で、同じ事を話しながら、やはり、テエブルのすみを見ていた、また、これからさきも、いまのことが、そっくりそのままに自分にやって来るのだ、と信じちゃう気持になるのだ。
どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。
原文を見る
どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。
歩きながら道ばたの豆の葉を、さっと毟りとっても、やはり、この道のここのところで、この葉を毟りとったことがある、と思う。
原文を見る
歩きながら道傍の豆の葉を、さっと毟りとっても、やはり、この道のここのところで、この葉を毟りとったことがある、と思う。
そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉を毟るのだ、と信じるのである。
原文を見る
そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉を毟るのだ、と信じるのである。
また、こんなこともある。
原文を見る
また、こんなこともある。
あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。
原文を見る
あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。
そしたら、これから先、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく、手を見た事を、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すに違いない、と思ってしまった。
原文を見る
そしたら、これからさき、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく、手を見た事を、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すに違いない、と思ってしまった。
そう思ったら、なんだか、暗い気がした。
原文を見る
そう思ったら、なんだか、暗い気がした。
また、ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟だけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きて行くことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、ところてんがそろっと押し出される時のような柔軟さでもって、このまま波のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。
原文を見る
また、ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟だけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きて行くことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、トコロテンがそろっと押し出される時のような柔軟性でもって、このまま浪のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。
このときは、哲学どころの騒ぎではない。
原文を見る
このときは、哲学どころのさわぎではない。
盗み猫のように、音も立てずに生きて行く予感なんて、ろくなことはないと、むしろ、おそろしかった。
原文を見る
盗み猫のように、音も立てずに生きて行く予感なんて、ろくなことはないと、むしろ、おそろしかった。
あんな気持の状態が、永くつづくと、人は、神がかりみたいになっちゃうのではないかしら。
原文を見る
あんな気持の状態が、永くつづくと、人は、神がかりみたいになっちゃうのではないかしら。
キリスト。
原文を見る
キリスト。
でも、女のキリストなんてのは、いやらしい。
原文を見る
でも、女のキリストなんてのは、いやらしい。
結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。
原文を見る
結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。
食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。
原文を見る
食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。
ことし、はじめて、きゅうりをたべる。
原文を見る
ことし、はじめて、キウリをたべる。
きゅうりの青さから、夏が来る。
原文を見る
キウリの青さから、夏が来る。
五月のきゅうりの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。
原文を見る
五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。
ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。
原文を見る
ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。
汽車に乗りたい。
原文を見る
汽車に乗りたい。
新聞を読む。
原文を見る
新聞を読む。
近衛さんの写真が出ている。
原文を見る
近衛さんの写真が出ている。
近衛さんて、いい男なのかしら。
原文を見る
近衛さんて、いい男なのかしら。
私は、こんな顔を好かない。
原文を見る
私は、こんな顔を好かない。
額がいけない。
原文を見る
額がいけない。
新聞では、本の広告文がいちばんたのしい。
原文を見る
新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。
一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。
原文を見る
一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。
一字一句、最大の効果を上げようと、うんうん唸って、絞り出したような名文だ。
原文を見る
一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸って、絞り出したような名文だ。
こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少ないだろう。
原文を見る
こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少いであろう。
なんだか、気味がよい。
原文を見る
なんだか、気味がよい。
痛快だ。
原文を見る
痛快だ。
ごはんをすまして、戸じまりして、登校。
原文を見る
ごはんをすまして、戸じまりして、登校。
大丈夫、雨が降らないとは思うけれど、それでも、きのうお母さんから、もらったいい雨傘をどうしても持って歩きたくて、そいつを携帯。
原文を見る
大丈夫、雨が降らないとは思うけれど、それでも、きのうお母さんから、もらったよき雨傘どうしても持って歩きたくて、そいつを携帯。
このアンブレラは、お母さんが、昔、娘さん時代に使ったもの。
原文を見る
このアンブレラは、お母さんが、昔、娘さん時代に使ったもの。
面白い傘を見つけて、私は、少し得意。
原文を見る
面白い傘を見つけて、私は、少し得意。
こんな傘を持って、パリイの下町を歩きたい。
原文を見る
こんな傘を持って、パリイの下町を歩きたい。
きっと、いまの戦争が終ったころ、こんな、夢を持ったような古風のアンブレラが流行するだろう。
原文を見る
きっと、いまの戦争が終ったころ、こんな、夢を持ったような古風のアンブレラが流行するだろう。
この傘には、ボンネット風の帽子が、きっと似合う。
原文を見る
この傘には、ボンネット風の帽子が、きっと似合う。
ピンクの裾の長い、衿の大きく開いた着物に、黒い絹レエスで編んだ長い手袋をして、大きな鍔の広い帽子には、美しい紫のすみれをつける。
原文を見る
ピンクの裾の長い、衿の大きく開いた着物に、黒い絹レエスで編んだ長い手袋をして、大きな鍔の広い帽子には、美しい紫のすみれをつける。
そうして深緑のころにパリイのレストランに昼食をしに行く。
原文を見る
そうして深緑のころにパリイのレストランに昼食をしに行く。
もの憂そうに軽く頬杖して、外を通る人の流れを見ていると、誰かが、そっと私の肩を叩く。
原文を見る
もの憂そうに軽く頬杖して、外を通る人の流れを見ていると、誰かが、そっと私の肩を叩く。
急に音楽、薔薇のワルツ。
原文を見る
急に音楽、薔薇のワルツ。
ああ、おかしい、おかしい。
原文を見る
ああ、おかしい、おかしい。
現実は、この古ぼけた奇妙な、柄のひょろ長い雨傘一本。
原文を見る
現実は、この古ぼけた奇態な、柄のひょろ長い雨傘一本。
自分が、みじめで可哀想。
原文を見る
自分が、みじめで可哀想。
マッチ売りの娘さん。
原文を見る
マッチ売りの娘さん。
どれ、草でも、むしって行きましょう。
原文を見る
どれ、草でも、むしって行きましょう。
出がけに、うちの門のまえの草を、少しむしって、お母さんへの勤労奉仕。
原文を見る
出がけに、うちの門のまえの草を、少しむしって、お母さんへの勤労奉仕。
きょうは何かいいことがあるかも知れない。
原文を見る
きょうは何かいいことがあるかも知れない。
同じ草でも、どうしてこんな、むしりとりたい草と、そっと残して置きたい草と、いろいろあるのだろう。
原文を見る
同じ草でも、どうしてこんな、むしりとりたい草と、そっと残して置きたい草と、いろいろあるのだろう。
可愛い草と、そうでない草と、形は、ちっとも違っていないのに、それでも、いじらしい草と、憎らしい草と、どうしてこう、ちゃんとわかれているのだろう。
原文を見る
可愛い草と、そうでない草と、形は、ちっとも違っていないのに、それでも、いじらしい草と、にくにくしい草と、どうしてこう、ちゃんとわかれているのだろう。
理屈はないんだ。
原文を見る
理窟はないんだ。
女の好ききらいなんて、ずいぶんいい加減なものだと思う。
原文を見る
女の好ききらいなんて、ずいぶんいい加減なものだと思う。
十分間の勤労奉仕をすまして、駅へ急ぐ。
原文を見る
十分間の勤労奉仕をすまして、停車場へ急ぐ。
畑道を通りながら、しきりと絵が描きたくなる。
原文を見る
畠道を通りながら、しきりと絵が画きたくなる。
途中、神社の森の小道を通る。
原文を見る
途中、神社の森の小路を通る。
これは、私ひとりで見つけて置いた近道である。
原文を見る
これは、私ひとりで見つけて置いた近道である。
森の小道を歩きながら、ふと下を見ると、麦が二寸ばかりあちこちに、かたまって育っている。
原文を見る
森の小路を歩きながら、ふと下を見ると、麦が二寸ばかりあちこちに、かたまって育っている。
その青々した麦を見ていると、ああ、ことしも兵隊さんが来たのだと、わかる。
原文を見る
その青々した麦を見ていると、ああ、ことしも兵隊さんが来たのだと、わかる。
去年も、たくさんの兵隊さんと馬がやって来て、この神社の森の中に休んで行った。
原文を見る
去年も、たくさんの兵隊さんと馬がやって来て、この神社の森の中に休んで行った。
しばらく経ってそこを通ってみると、麦が、きょうのように、すくすくしていた。
原文を見る
しばらく経ってそこを通ってみると、麦が、きょうのように、すくすくしていた。
けれども、その麦は、それ以上育たなかった。
原文を見る
けれども、その麦は、それ以上育たなかった。
ことしも、兵隊さんの馬の桶からこぼれて生えて、ひょろひょろ育ったこの麦は、この森はこんなに暗く、全く日が当らないものだから、可哀想に、これだけ育って死んでしまうのだろう。
原文を見る
ことしも、兵隊さんの馬の桶からこぼれて生えて、ひょろひょろ育ったこの麦は、この森はこんなに暗く、全く日が当らないものだから、可哀想に、これだけ育って死んでしまうのだろう。
神社の森の小道を抜けて、駅近く、労働者四、五人と一緒になる。
原文を見る
神社の森の小路を抜けて、駅近く、労働者四、五人と一緒になる。
その労働者たちは、いつものことで、口に出せないような嫌な言葉を私に向かって吐きかける。
原文を見る
その労働者たちは、いつもの例で、言えないような厭な言葉を私に向かって吐きかける。
私は、どうしたらよいかと迷ってしまった。
原文を見る
私は、どうしたらよいかと迷ってしまった。
その労働者たちを追い抜いて、どんどんさきに行ってしまいたいのだが、そうするには、労働者たちの間を縫ってくぐり抜け、すり抜けしなければならない。
原文を見る
その労働者たちを追い抜いて、どんどんさきに行ってしまいたいのだが、そうするには、労働者たちの間を縫ってくぐり抜け、すり抜けしなければならない。
おっかない。
原文を見る
おっかない。
それと言って、黙って立ちんぼして、労働者たちをさきに行かせて、うんと距離のできるまで待っているのは、もっともっと度胸の要ることだ。
原文を見る
それと言って、黙って立ちんぼして、労働者たちをさきに行かせて、うんと距離のできるまで待っているのは、もっともっと胆力の要ることだ。
それは失礼なことなのだから、労働者たちは怒るかも知れない。
原文を見る
それは失礼なことなのだから、労働者たちは怒るかも知れない。
からだは、カッカして来るし、泣きそうになってしまった。
原文を見る
からだは、カッカして来るし、泣きそうになってしまった。
私は、その泣きそうになるのが恥ずかしくて、その人たちに向かって笑ってやった。
原文を見る
私は、その泣きそうになるのが恥ずかしくて、その者達に向かって笑ってやった。
そして、ゆっくりと、その人たちのあとについて歩いていった。
原文を見る
そして、ゆっくりと、その者達のあとについて歩いていった。
そのときは、それきりになってしまったけれど、その悔しさは、電車に乗ってからも消えなかった。
原文を見る
そのときは、それ限りになってしまったけれど、その口惜しさは、電車に乗ってからも消えなかった。
こんなくだらない事に平然としていられるように、早く強く、清く、なりたかった。
原文を見る
こんなくだらない事に平然となれるように、早く強く、清く、なりたかった。
電車の入口のすぐ近くに空いている席があったから、私はそこへそっと私の持ち物を置いて、スカアトのひだをちょっと直して、そうして坐ろうとしたら、眼鏡の男の人が、ちゃんと私の持ち物をどけて席に腰かけてしまった。
原文を見る
電車の入口のすぐ近くに空いている席があったから、私はそこへそっと私のお道具を置いて、スカアトのひだをちょっと直して、そうして坐ろうとしたら、眼鏡の男の人が、ちゃんと私のお道具をどけて席に腰かけてしまった。
「あの、そこは私が見つけた席ですの」
原文を見る
「あの、そこは私、見つけた席ですの」
と言ったら、男は苦笑して平気で新聞を読み出した。
原文を見る
と言ったら、男は苦笑して平気で新聞を読み出した。
よく考えてみると、どっちが図々しいのかわからない。
原文を見る
よく考えてみると、どっちが図々しいのかわからない。
こっちの方が図々しいのかも知れない。
原文を見る
こっちの方が図々しいのかも知れない。
仕方なく、アンブレラと持ち物を、網棚に乗せ、私は吊り革にぶらさがって、いつもの通り、雑誌を読もうと、パラパラ片手でページを繰っているうちに、ひょんな事を思った。
原文を見る
仕方なく、アンブレラとお道具を、網棚に乗せ、私は吊り革にぶらさがって、いつもの通り、雑誌を読もうと、パラパラ片手でペエジを繰っているうちに、ひょんな事を思った。
自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。
原文を見る
自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。
それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。
原文を見る
それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。
一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。
原文を見る
一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。
また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。
原文を見る
また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。
人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。
原文を見る
人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。
本当に、このずるさ、いんちきには嫌になる。
原文を見る
本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。
毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、赤恥ばかりかいていたら、少しは重厚になるかも知れない。
原文を見る
毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、あか恥ばかりかいていたら、少しは重厚になるかも知れない。
けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理屈をこじつけて、上手にとりつくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。
原文を見る
けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理窟をこじつけて、上手につくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。
(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)
原文を見る
(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)
ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。
原文を見る
ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。
読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、いったいどうするだろう。
原文を見る
読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、いったいどうするだろう。
手も足も出ない、萎縮しきった様子で、むやみに鼻をかんでばかりいるかも知れない。
原文を見る
手も足も出ない、萎縮の態で、むやみに鼻をかんでばかりいるかも知れない。
何しろ電車の中で、毎日こんなにふらふら考えているばかりでは、だめだ。
原文を見る
何しろ電車の中で、毎日こんなにふらふら考えているばかりでは、だめだ。
からだに、嫌な温かさが残って、やりきれない。
原文を見る
からだに、厭な温かさが残って、やりきれない。
何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきり掴めるのか。
原文を見る
何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきり掴めるのか。
これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。
原文を見る
これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。
批判をしてみて、嫌な、弱いところに気がつくと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角をためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。
原文を見る
批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角をためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。
何も考えない方が、むしろ良心的だ。
原文を見る
何も考えない方が、むしろ良心的だ。
この雑誌にも、「若い女の欠点」
原文を見る
この雑誌にも、「若い女の欠点」
という見出しで、いろんな人が書いて在る。
原文を見る
という見出しで、いろんな人が書いて在る。
読んでいるうちに、自分のことを言われたような気がして恥ずかしい気にもなる。
原文を見る
読んでいるうちに、自分のことを言われたような気がして恥ずかしい気にもなる。
それに書く人、人によって、ふだんばかだと思っている人は、そのとおりに、ばかの感じがするようなことを言っているし、写真で見て、おしゃれの感じのする人は、おしゃれの言葉遣いをしているので、おかしくて、ときどきくすくす笑いながら読んで行く。
原文を見る
それに書く人、人によって、ふだんばかだと思っている人は、そのとおりに、ばかの感じがするようなことを言っているし、写真で見て、おしゃれの感じのする人は、おしゃれの言葉遣いをしているので、可笑しくて、ときどきくすくす笑いながら読んで行く。
宗教家は、すぐに信仰を持ち出すし、教育家は、始めから終りまで恩、恩、と書いてある。
原文を見る
宗教家は、すぐに信仰を持ち出すし、教育家は、始めから終りまで恩、恩、と書いてある。
政治家は、漢詩を持ち出す。
原文を見る
政治家は、漢詩を持ち出す。
作家は、気取って、おしゃれな言葉を使っている。
原文を見る
作家は、気取って、おしゃれな言葉を使っている。
自惚れている。
原文を見る
しょっている。
でも、みんな、なかなか確実なことばかり書いてある。
原文を見る
でも、みんな、なかなか確実なことばかり書いてある。
個性の無いこと。
原文を見る
個性の無いこと。
深みの無いこと。
原文を見る
深味の無いこと。
正しい希望、正しい野心、そんなものから遠く離れている事。
原文を見る
正しい希望、正しい野心、そんなものから遠く離れている事。
つまり、理想の無いこと。
原文を見る
つまり、理想の無いこと。
批判はあっても、自分の生活に直接むすびつける積極性の無いこと。
原文を見る
批判はあっても、自分の生活に直接むすびつける積極性の無いこと。
無反省。
原文を見る
無反省。
本当の自覚、自愛、自重がない。
原文を見る
本当の自覚、自愛、自重がない。
勇気のある行動をしても、そのあらゆる結果について、責任が持てるかどうか。
原文を見る
勇気のある行動をしても、そのあらゆる結果について、責任が持てるかどうか。
自分の周囲の生活様式には順応し、これを処理することに巧みであるが、自分、ならびに自分の周囲の生活に、正しい強い愛情を持っていない。
原文を見る
自分の周囲の生活様式には順応し、これを処理することに巧みであるが、自分、ならびに自分の周囲の生活に、正しい強い愛情を持っていない。
本当の意味の謙遜がない。
原文を見る
本当の意味の謙遜がない。
独創性にとぼしい。
原文を見る
独創性にとぼしい。
模倣だけだ。
原文を見る
模倣だけだ。
人間本来の「愛」
原文を見る
人間本来の「愛」
の感覚が欠けてしまっている。
原文を見る
の感覚が欠如してしまっている。
お上品ぶっていながら、気品がない。
原文を見る
お上品ぶっていながら、気品がない。
そのほか、たくさんのことが書かれている。
原文を見る
そのほか、たくさんのことが書かれている。
本当に、読んでいて、はっとすることが多い。
原文を見る
本当に、読んでいて、はっとすることが多い。
決して否定できない。
原文を見る
決して否定できない。
けれどもここに書かれてある言葉全部が、なんだか、楽観的な、この人たちの普段の気持とは離れて、ただ書いてみたというような感じがする。
原文を見る
けれどもここに書かれてある言葉全部が、なんだか、楽観的な、この人たちの普段の気持とは離れて、ただ書いてみたというような感じがする。
「本当の意味の」
原文を見る
「本当の意味の」
とか、「本来の」
原文を見る
とか、「本来の」
とかいう形容詞がたくさんあるけれど、「本当の」
原文を見る
とかいう形容詞がたくさんあるけれど、「本当の」
愛、「本当の」
原文を見る
愛、「本当の」
自覚、とは、どんなものか、はっきり手にとるようには書かれていない。
原文を見る
自覚、とは、どんなものか、はっきり手にとるようには書かれていない。
この人たちには、わかっているのかも知れない。
原文を見る
この人たちには、わかっているのかも知れない。
それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。
原文を見る
それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。
私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。
原文を見る
私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。
誰も自信が無いのかしら。
原文を見る
誰も自信が無いのかしら。
ここに意見を発表している人たちも、いつでも、どんな場合にでも、こんな意見を持っている、というわけでは無いのかもしれない。
原文を見る
ここに意見を発表している人たちも、いつでも、どんな場合にでも、こんな意見を持っている、というわけでは無いのかもしれない。
正しい希望、正しい野心を持っていない、と叱っていらっしゃるけれども、そんなら私たち、正しい理想を追って行動した場合、この人たちはどこまでも私たちを見守り、導いていってくれるだろうか。
原文を見る
正しい希望、正しい野心を持っていない、と叱って居られるけれども、そんなら私たち、正しい理想を追って行動した場合、この人たちはどこまでも私たちを見守り、導いていってくれるだろうか。
私たちには、自分の行くべき最善の場所、行きたく思う美しい場所、自分を伸ばして行くべき場所が、おぼろげながら判っている。
原文を見る
私たちには、自身の行くべき最善の場所、行きたく思う美しい場所、自身を伸ばして行くべき場所、おぼろげながら判っている。
よい生活を持ちたいと思っている。
原文を見る
よい生活を持ちたいと思っている。
それこそ正しい希望、野心を持っている。
原文を見る
それこそ正しい希望、野心を持っている。
頼れるだけの動かない信念をも持ちたいと、あせっている。
原文を見る
頼れるだけの動かない信念をも持ちたいと、あせっている。
しかし、これら全部、娘なら娘としての生活の上に実現しようとかかったら、どんなに努力が必要なことだろう。
原文を見る
しかし、これら全部、娘なら娘としての生活の上に具現しようとかかったら、どんなに努力が必要なことだろう。
お母さん、お父さん、姉、兄たちの考えかたもある。
原文を見る
お母さん、お父さん、姉、兄たちの考えかたもある。
(口だけでは、やれ古いのなんのって言うけれども、決して人生の先輩、老人、既婚の人たちを軽蔑なんかしていない。
原文を見る
(口だけでは、やれ古いのなんのって言うけれども、決して人生の先輩、老人、既婚の人たちを軽蔑なんかしていない。
それどころか、いつでも一目も二目も置いているはずだ)始終生活と関係のある親類というものも、ある。
原文を見る
それどころか、いつでも二目も三目も置いているはずだ)始終生活と関係のある親類というものも、ある。
知人もある。
原文を見る
知人もある。
友達もある。
原文を見る
友達もある。
それから、いつも大きな力で私たちを押し流す「世の中」
原文を見る
それから、いつも大きな力で私たちを押し流す「世の中」
というものもあるのだ。
原文を見る
というものもあるのだ。
これらすべての事を思ったり見たり考えたりすると、自分の個性を伸ばすどころの騒ぎではない。
原文を見る
これらすべての事を思ったり見たり考えたりすると、自分の個性を伸ばすどころの騒ぎではない。
まあ、まあ目立たずに、普通の多くの人たちの通る道をだまって進んで行くのが、いちばん利口なのでしょうくらいに思わずにはいられない。
原文を見る
まあ、まあ目立たずに、普通の多くの人たちの通る路をだまって進んで行くのが、一ばん利巧なのでしょうくらいに思わずにはいられない。
少数者への教育を、全体に押しつけるなんて、ずいぶんむごいことだとも思われる。
原文を見る
少数者への教育を、全般へ施すなんて、ずいぶんむごいことだとも思われる。
学校の修身と、世の中の掟と、すごく違っているのが、だんだん大きくなるにつれてわかって来た。
原文を見る
学校の修身と、世の中の掟と、すごく違っているのが、だんだん大きくなるにつれてわかって来た。
学校の修身を絶対に守っていると、その人はばかを見る。
原文を見る
学校の修身を絶対に守っていると、その人はばかを見る。
変人と言われる。
原文を見る
変人と言われる。
出世しないで、いつも貧乏だ。
原文を見る
出世しないで、いつも貧乏だ。
嘘をつかない人なんて、あるかしら。
原文を見る
嘘をつかない人なんて、あるかしら。
あったら、その人は、永遠に敗北者だ。
原文を見る
あったら、その人は、永遠に敗北者だ。
私の肉親関係のうちにも、ひとり、行い正しく、固い信念を持って、理想を追及してそれこそ本当の意味で生きているひとがあるのだけれど、親類のひとみんな、そのひとを悪く言っている。
原文を見る
私の肉親関係のうちにも、ひとり、行い正しく、固い信念を持って、理想を追及してそれこそ本当の意味で生きているひとがあるのだけれど、親類のひとみんな、そのひとを悪く言っている。
馬鹿あつかいしている。
原文を見る
馬鹿あつかいしている。
私なんか、そんな馬鹿あつかいされて敗北するのがわかっていながら、お母さんや皆に反対してまで自分の考えかたを伸ばすことは、できない。
原文を見る
私なんか、そんな馬鹿あつかいされて敗北するのがわかっていながら、お母さんや皆に反対してまで自分の考えかたを伸ばすことは、できない。
おっかないのだ。
原文を見る
おっかないのだ。
小さい時分には、私も、自分の気持とひとの気持と全く違ってしまったときには、お母さんに、
原文を見る
小さい時分には、私も、自分の気持とひとの気持と全く違ってしまったときには、お母さんに、
「なぜ?」
原文を見る
「なぜ?」
と聞いたものだ。
原文を見る
と聴いたものだ。
そのときには、お母さんは、何かひと言で片づけて、そうして怒ったものだ。
原文を見る
そのときには、お母さんは、何か一言で片づけて、そうして怒ったものだ。
悪い、不良みたいだ、と言って、お母さんは悲しがっていたようだった。
原文を見る
悪い、不良みたいだ、と言って、お母さんは悲しがっていたようだった。
お父さんに言ったこともある。
原文を見る
お父さんに言ったこともある。
お父さんは、そのときただ黙って笑っていた。
原文を見る
お父さんは、そのときただ黙って笑っていた。
そしてあとでお母さんに「中心はずれの子だ」
原文を見る
そしてあとでお母さんに「中心はずれの子だ」
とおっしゃっていたそうだ。
原文を見る
とおっしゃっていたそうだ。
だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。
原文を見る
だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。
洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。
原文を見る
洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。
自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。
原文を見る
自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。
人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。
原文を見る
人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。
たくさんの人たちが集まったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。
原文を見る
たくさんの人たちが集まったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。
口に出したくも無いことを、気持と全然はなれたことを、嘘ついてペチャペチャやっている。
原文を見る
口に出したくも無いことを、気持と全然はなれたことを、嘘ついてペチャペチャやっている。
そのほうが得だ、得だと思うからなのだ。
原文を見る
そのほうが得だ、得だと思うからなのだ。
いやなことだと思う。
原文を見る
いやなことだと思う。
早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。
原文を見る
早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。
そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも無くなるだろう。
原文を見る
そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも無くなるだろう。
おや、あそこ、席が空いた。
原文を見る
おや、あそこ、席が空いた。
いそいで網棚から、持ち物と傘をおろし、すばやく割りこむ。
原文を見る
いそいで網棚から、お道具と傘をおろし、すばやく割りこむ。
右隣は中学生、左隣は、子供背負ってねんねこ着ているおばさん。
原文を見る
右隣は中学生、左隣は、子供背負ってねんねこ着ているおばさん。
おばさんは、年よりのくせに厚化粧をして、髪を流行の巻き方にしている。
原文を見る
おばさんは、年よりのくせに厚化粧をして、髪を流行まきにしている。
顔は綺麗なのだけれど、のどの所に皺が黒く寄っていて、あさましく、ぶってやりたいほど嫌だった。
原文を見る
顔は綺麗なのだけれど、のどの所に皺が黒く寄っていて、あさましく、ぶってやりたいほど厭だった。
人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。
原文を見る
人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。
坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。
原文を見る
坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。
私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。
原文を見る
私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。
三十ぐらいだろうか。
原文を見る
三十ぐらいであろうか。
みんな、いやだ。
原文を見る
みんな、いやだ。
眼が、どろんと濁っている。
原文を見る
眼が、どろんと濁っている。
覇気が無い。
原文を見る
覇気が無い。
けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならない破目におちるかも知れないのだ。
原文を見る
けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。
女は、自分の運命を決めるのに、微笑ひとつでたくさんなのだ。
原文を見る
女は、自分の運命を決するのに、微笑一つでたくさんなのだ。
おそろしい。
原文を見る
おそろしい。
不思議なくらいだ。
原文を見る
不思議なくらいだ。
気をつけよう。
原文を見る
気をつけよう。
けさは、ほんとに妙なことばかり考える。
原文を見る
けさは、ほんとに妙なことばかり考える。
二、三日まえから、うちのお庭を手入れしに来ている植木屋さんの顔が目にちらついて、しかたがない。
原文を見る
二、三日まえから、うちのお庭を手入れしに来ている植木屋さんの顔が目にちらついて、しかたがない。
どこからどこまで植木屋さんなのだけれど、顔の感じが、どうしてもちがう。
原文を見る
どこからどこまで植木屋さんなのだけれど、顔の感じが、どうしてもちがう。
大袈裟に言えば、思索家みたいな顔をしている。
原文を見る
大袈裟に言えば、思索家みたいな顔をしている。
色は黒いだけにしまって見える。
原文を見る
色は黒いだけにしまって見える。
目がよいのだ。
原文を見る
目がよいのだ。
眉もせまっている。
原文を見る
眉もせまっている。
鼻は、すごく獅子鼻だけれど、それがまた、色の黒いのにマッチして、意志が強そうに見える。
原文を見る
鼻は、すごく獅子っぱなだけれど、それがまた、色の黒いのにマッチして、意志が強そうに見える。
唇のかたちも、なかなかよい。
原文を見る
唇のかたちも、なかなかよい。
耳は少し汚い。
原文を見る
耳は少し汚い。
手といったら、それこそ植木屋さんに逆もどりだけれど、黒いソフト帽を深くかぶった日蔭の顔は、植木屋さんにして置くのは惜しい気がする。
原文を見る
手といったら、それこそ植木屋さんに逆もどりだけれど、黒いソフトを深くかぶった日蔭の顔は、植木屋さんにして置くのは惜しい気がする。
お母さんに、三度も四度も、あの植木屋さん、はじめから植木屋さんだったのかしら、とたずねて、しまいに叱られてしまった。
原文を見る
お母さんに、三度も四度も、あの植木屋さん、はじめから植木屋さんだったのかしら、とたずねて、しまいに叱られてしまった。
きょう、持ち物を包んで来たこの風呂敷は、ちょうど、あの植木屋さんがはじめて来た日に、お母さんからもらったのだ。
原文を見る
きょう、お道具を包んで来たこの風呂敷は、ちょうど、あの植木屋さんがはじめて来た日に、お母さんからもらったのだ。
あの日は、うちのほうの大掃除だったので、台所直しさんや、畳屋さんもはいっていて、お母さんも箪笥のものを整理して、そのときに、この風呂敷が出て来て、私がもらった。
原文を見る
あの日は、うちのほうの大掃除だったので、台所直しさんや、畳屋さんもはいっていて、お母さんも箪笥のものを整理して、そのときに、この風呂敷が出て来て、私がもらった。
綺麗な女らしい風呂敷。
原文を見る
綺麗な女らしい風呂敷。
綺麗だから、結ぶのが惜しい。
原文を見る
綺麗だから、結ぶのが惜しい。
こうして坐って、膝の上にのせて、何度もそっと見てみる。
原文を見る
こうして坐って、膝の上にのせて、何度もそっと見てみる。
撫でる。
原文を見る
撫でる。
電車の中の皆の人にも見てもらいたいけれど、誰も見ない。
原文を見る
電車の中の皆の人にも見てもらいたいけれど、誰も見ない。
この可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところへお嫁に行くことにきめてもいい。
原文を見る
この可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところへお嫁に行くことにきめてもいい。
本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。
原文を見る
本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。
本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。
原文を見る
本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。
どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。
原文を見る
どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。
否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。
原文を見る
否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。
そして私を自由に引きずりまわしているのだ。
原文を見る
そして私を自由に引きずりまわしているのだ。
引きずられながら満足している気持と、それを悲しい気持で眺めている別の感情と。
原文を見る
引きずられながら満足している気持と、それを悲しい気持で眺めている別の感情と。
なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。
原文を見る
なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。
本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。
原文を見る
本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。
ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。
原文を見る
ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。
あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。
原文を見る
あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。
お母さん、お父さんと呼びたくなる。
原文を見る
お母さん、お父さんと呼びたくなる。
けれども、また、真実というものは、案外、自分が嫌だと思っているところに在るのかも知れないのだから、いよいよ情ない。
原文を見る
けれども、また、真実というものは、案外、自分が厭だと思っているところに在るのかも知れないのだから、いよいよ情ない。
もう、お茶の水。
原文を見る
もう、お茶の水。
プラットフォムに降り立ったら、なんだかすべて、けろりとしていた。
原文を見る
プラットフォムに降り立ったら、なんだかすべて、けろりとしていた。
いま過ぎたことを、いそいで思いかえそうと努めたけれど、いっこうに思い浮かばない。
原文を見る
いま過ぎたことを、いそいで思いかえしたく努めたけれど、いっこうに思い浮かばない。
あの、つづきを考えようと、あせったけれど、何も思うことがない。
原文を見る
あの、つづきを考えようと、あせったけれど、何も思うことがない。
からっぽだ。
原文を見る
からっぽだ。
その時、時には、ずいぶんと自分の気持を打ったものもあったようだし、くるしい恥ずかしいこともあったはずなのに、過ぎてしまえば、何もなかったのと全く同じだ。
原文を見る
その時、時には、ずいぶんと自分の気持を打ったものもあったようだし、くるしい恥ずかしいこともあったはずなのに、過ぎてしまえば、何もなかったのと全く同じだ。
いま、という瞬間は、面白い。
原文を見る
いま、という瞬間は、面白い。
いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」
原文を見る
いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」
が来ている。
原文を見る
が来ている。
陸橋の階段をコトコト昇りながら、ナンジャラホイと思った。
原文を見る
ブリッジの階段をコトコト昇りながら、ナンジャラホイと思った。
ばかばかしい。
原文を見る
ばかばかしい。
私は、少し幸福すぎるのかも知れない。
原文を見る
私は、少し幸福すぎるのかも知れない。
けさの小杉先生は綺麗。
原文を見る
けさの小杉先生は綺麗。
私の風呂敷みたいに綺麗。
原文を見る
私の風呂敷みたいに綺麗。
美しい青色の似合う先生。
原文を見る
美しい青色の似合う先生。
胸の真紅のカーネーションも目立つ。
原文を見る
胸の真紅のカーネーションも目立つ。
「つくる」
原文を見る
「つくる」
ということが、無かったら、もっともっとこの先生すきなのだけれど。
原文を見る
ということが、無かったら、もっともっとこの先生すきなのだけれど。
あまりにポオズをつけすぎる。
原文を見る
あまりにポオズをつけすぎる。
どこか、無理がある。
原文を見る
どこか、無理がある。
あれじゃあ疲れることだろう。
原文を見る
あれじゃあ疲れることだろう。
性格も、どこか難解なところがある。
原文を見る
性格も、どこか難解なところがある。
わからないところをたくさん持っている。
原文を見る
わからないところをたくさん持っている。
暗い性質なのに、無理に明るく見せようとしているところも見える。
原文を見る
暗い性質なのに、無理に明るく見せようとしているところも見える。
しかし、なんといっても惹かれる女のひとだ。
原文を見る
しかし、なんといっても魅かれる女のひとだ。
学校の先生なんてさせて置くの惜しい気がする。
原文を見る
学校の先生なんてさせて置くの惜しい気がする。
お教室では、まえほど人気が無くなったけれど、私は、私ひとりは、まえと同様に惹かれている。
原文を見る
お教室では、まえほど人気が無くなったけれど、私は、私ひとりは、まえと同様に魅かれている。
山の中の、湖畔の古城に住んでいる令嬢、そんな感じがある。
原文を見る
山中、湖畔の古城に住んでいる令嬢、そんな感じがある。
いやに、ほめてしまったものだ。
原文を見る
厭に、ほめてしまったものだ。
小杉先生のお話は、どうして、いつもこんなに固いのだろう。
原文を見る
小杉先生のお話は、どうして、いつもこんなに固いのだろう。
頭がわるいのじゃないかしら。
原文を見る
頭がわるいのじゃないかしら。
悲しくなっちゃう。
原文を見る
悲しくなっちゃう。
さっきから、愛国心について長々と説いて聞かせているのだけれど、そんなこと、わかりきっているじゃないか。
原文を見る
さっきから、愛国心について永々と説いて聞かせているのだけれど、そんなこと、わかりきっているじゃないか。
どんな人にだって、自分の生まれたところを愛する気持はあるのに。
原文を見る
どんな人にだって、自分の生まれたところを愛する気持はあるのに。
つまらない。
原文を見る
つまらない。
机に頬杖ついて、ぼんやり窓のそとを眺める。
原文を見る
机に頬杖ついて、ぼんやり窓のそとを眺める。
風の強いせいか、雲が綺麗だ。
原文を見る
風の強いゆえか、雲が綺麗だ。
お庭の隅に、薔薇の花が四つ咲いている。
原文を見る
お庭の隅に、薔薇の花が四つ咲いている。
黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。
原文を見る
黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。
原文を見る
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。
花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。
原文を見る
花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。
お昼御飯のときは、お化け話が出る。
原文を見る
お昼御飯のときは、お化け話が出る。
ヤスベエねえちゃんの、一高七不思議の一つ、「開かずの扉」
原文を見る
ヤスベエねえちゃんの、一高七不思議の一つ、「開かずの扉」
には、もう、みんな、きゃあ、きゃあ。
原文を見る
には、もう、みんな、きゃあ、きゃあ。
ドロンドロン式でなく、心理的なので、面白い。
原文を見る
ドロンドロン式でなく、心理的なので、面白い。
あんまり騒いだので、いま食べたばかりなのに、もうお腹がぺこぺこになってしまった。
原文を見る
あんまり騒いだので、いま食べたばかりなのに、もうペコになってしまった。
さっそくアンパン夫人から、キャラメルを御馳走になる。
原文を見る
さっそくアンパン夫人から、キャラメル御馳走になる。
それからまた、ひとしきり恐怖物語にみなさん夢中。
原文を見る
それからまた、ひとしきり恐怖物語にみなさん夢中。
誰でもかれでも、このお化け話とやらには、興味が湧くらしい。
原文を見る
誰でもかれでも、このお化け話とやらには、興味が湧くらしい。
一つの刺戟でしょうかな。
原文を見る
一つの刺戟でしょうかな。
それから、これは怪談ではないけれど、「久原房之助」
原文を見る
それから、これは怪談ではないけれど、「久原房之助」
の話、おかしい、おかしい。
原文を見る
の話、おかしい、おかしい。
午後の図画の時間には、皆、校庭に出て、写生のお稽古。
原文を見る
午後の図画の時間には、皆、校庭に出て、写生のお稽古。
伊藤先生は、どうして私を、いつも無意味に困らせるのだろう。
原文を見る
伊藤先生は、どうして私を、いつも無意味に困らせるのだろう。
きょうも私に、先生ご自身の絵のモデルになるよう言いつけた。
原文を見る
きょうも私に、先生ご自身の絵のモデルになるよう言いつけた。
私のけさ持って来た古い雨傘が、クラスの大歓迎を受けて、皆さん騒ぎたてるものだから、とうとう伊藤先生にもわかってしまって、その雨傘持って、校庭の隅の薔薇の傍に立っているよう、言いつけられた。
原文を見る
私のけさ持参した古い雨傘が、クラスの大歓迎を受けて、皆さん騒ぎたてるものだから、とうとう伊藤先生にもわかってしまって、その雨傘持って、校庭の隅の薔薇の傍に立っているよう、言いつけられた。
先生は、私のこんな姿を描いて、こんど展覧会に出すのだそうだ。
原文を見る
先生は、私のこんな姿を画いて、こんど展覧会に出すのだそうだ。
三十分間だけ、モデルになってあげることを承知する。
原文を見る
三十分間だけ、モデルになってあげることを承諾する。
すこしでも、人のお役に立つことは、うれしいものだ。
原文を見る
すこしでも、人のお役に立つことは、うれしいものだ。
けれども、伊藤先生と二人で向かい合っていると、とても疲れる。
原文を見る
けれども、伊藤先生と二人で向かい合っていると、とても疲れる。
話がねちねちして理屈が多すぎるし、あまりにも私を意識しているせいか、スケッチしながらでも話すことが、みんな私のことばかり。
原文を見る
話がねちねちして理窟が多すぎるし、あまりにも私を意識しているゆえか、スケッチしながらでも話すことが、みんな私のことばかり。
返事するのも面倒くさく、わずらわしい。
原文を見る
返事するのも面倒くさく、わずらわしい。
ハッキリしない人である。
原文を見る
ハッキリしない人である。
変に笑ったり、先生のくせに恥ずかしがったり、何しろサッパリしないのには、ゲッとなりそうだ。
原文を見る
変に笑ったり、先生のくせに恥ずかしがったり、何しろサッパリしないのには、ゲッとなりそうだ。
「死んだ妹を、思い出します」
原文を見る
「死んだ妹を、思い出します」
なんて、やりきれない。
原文を見る
なんて、やりきれない。
人は、いい人なんだろうけれど、ゼスチュアが多すぎる。
原文を見る
人は、いい人なんだろうけれど、ゼスチュアが多すぎる。
ゼスチュアといえば、私だって、負けないでたくさんに持っている。
原文を見る
ゼスチュアといえば、私だって、負けないでたくさんに持っている。
私のは、その上、ずるくて利口に立ちまわる。
原文を見る
私のは、その上、ずるくて利巧に立ちまわる。
本当にキザなのだから始末に困る。
原文を見る
本当にキザなのだから始末に困る。
「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」
原文を見る
「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」
なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。
原文を見る
なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。
こうして、おとなしく先生のモデルになってあげていながらも、つくづく、「自然になりたい、素直になりたい」
原文を見る
こうして、おとなしく先生のモデルになってあげていながらも、つくづく、「自然になりたい、素直になりたい」
と祈っているのだ。
原文を見る
と祈っているのだ。
本なんか読むの止めてしまえ。
原文を見る
本なんか読むの止めてしまえ。
観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。
原文を見る
観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。
やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。
原文を見る
やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。
自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。
原文を見る
自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。
それからずいぶん自分を買いかぶっているのですよ、ああ、こんな心の汚い私をモデルにしたりなんかして、先生の絵は、きっと落選だ。
原文を見る
それからずいぶん自分を買いかぶっているのですよ、ああ、こんな心の汚い私をモデルにしたりなんかして、先生の画は、きっと落選だ。
美しいはずがないもの。
原文を見る
美しいはずがないもの。
いけないことだけれど、伊藤先生がばかに見えてしようがない。
原文を見る
いけないことだけれど、伊藤先生がばかに見えてしようがない。
先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない。
原文を見る
先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない。
だまって同じ姿勢で立っていると、やたらむしょうに、お金が欲しくなって来る。
原文を見る
だまって同じ姿勢で立っていると、やたら無性に、お金が欲しくなって来る。
十円あれば、よいのだけれど。
原文を見る
十円あれば、よいのだけれど。
「マダム・キュリイ」
原文を見る
「マダム・キュリイ」
がいちばん読みたい。
原文を見る
が一ばん読みたい。
それから、ふっと、お母さん長生きするように、と思う。
原文を見る
それから、ふっと、お母さん長生きするように、と思う。
先生のモデルになっていると、へんに、つらい。
原文を見る
先生のモデルになっていると、へんに、つらい。
くたくたに疲れた。
原文を見る
くたくたに疲れた。
放課後は、お寺の娘さんのキン子さんと、こっそり、ハリウッドへ行って、髪をやってもらう。
原文を見る
放課後は、お寺の娘さんのキン子さんと、こっそり、ハリウッドへ行って、髪をやってもらう。
できあがったのを見ると、頼んだようにできていないので、がっかりだ。
原文を見る
できあがったのを見ると、頼んだようにできていないので、がっかりだ。
どう見たって、私は、ちっとも可愛くない。
原文を見る
どう見たって、私は、ちっとも可愛くない。
あさましい気がした。
原文を見る
あさましい気がした。
すっかり、しょげちゃった。
原文を見る
したたかに、しょげちゃった。
こんな所へ来て、こっそり髪をつくってもらうなんて、すごく汚らしい一羽の雌鶏みたいな気さえして来て、つくづくいまは後悔した。
原文を見る
こんな所へ来て、こっそり髪をつくってもらうなんて、すごく汚らしい一羽の雌鶏みたいな気さえして来て、つくづくいまは後悔した。
私たち、こんなところへ来るなんて、自分自身を軽蔑していることだと思った。
原文を見る
私たち、こんなところへ来るなんて、自分自身を軽蔑していることだと思った。
お寺さんは、大はしゃぎ。
原文を見る
お寺さんは、大はしゃぎ。
「このまま、見合いに行こうかしら」
原文を見る
「このまま、見合いに行こうかしら」
などと乱暴なこと言い出して、そのうちに、なんだかお寺さんご自身、見合いに、ほんとうに行くことにきまってしまったような錯覚を起したらしく、
原文を見る
なぞと乱暴なこと言い出して、そのうちに、なんだかお寺さんご自身、見合いに、ほんとうに行くことにきまってしまったような錯覚を起したらしく、
「こんな髪には、どんな色の花を挿したらいいの?」
原文を見る
「こんな髪には、どんな色の花を挿したらいいの?」
とか、「和服のときには、帯は、どんなのがいいの?」
原文を見る
とか、「和服のときには、帯は、どんなのがいいの?」
なんて、本気にやり出す。
原文を見る
なんて、本気にやり出す。
ほんとに、何も考えない可愛らしいひと。
原文を見る
ほんとに、何も考えない可愛らしいひと。
「どなたとお見合いなさるの?」
原文を見る
「どなたと見合いなさるの?」
と私も、笑いながら尋ねると、
原文を見る
と私も、笑いながら尋ねると、
「もち屋は、もち屋と言いますからね」
原文を見る
「もち屋は、もち屋と言いますからね」
と、澄まして答えた。
原文を見る
と、澄まして答えた。
それどういう意味なの、と私も少し驚いて聞いてみたら、お寺の娘はお寺へお嫁入りするのがいちばんいいのよ、一生食べるのに困らないし、と答えて、また私を驚かせた。
原文を見る
それどういう意味なの、と私も少し驚いて聴いてみたら、お寺の娘はお寺へお嫁入りするのが一ばんいいのよ、一生食べるのに困らないし、と答えて、また私を驚かせた。
キン子さんは、全く無性格みたいで、それゆえ、女らしさで一ぱいだ。
原文を見る
キン子さんは、全く無性格みたいで、それゆえ、女らしさで一ぱいだ。
学校で私と席がお隣同士だというだけで、そんなに私は親しくしてあげているわけでもないのに、お寺さんのほうでは、私のことを、あたしのいちばんの親友です、なんて皆に言っている。
原文を見る
学校で私と席がお隣同士だというだけで、そんなに私は親しくしてあげているわけでもないのに、お寺さんのほうでは、私のことを、あたしの一ばんの親友です、なんて皆に言っている。
可愛い娘さんだ。
原文を見る
可愛い娘さんだ。
一日置きに手紙をよこしたり、なんとなくよく世話をしてくれて、ありがたいのだけれど、きょうは、あんまり大袈裟にはしゃいでいるので、私も、さすがに嫌になった。
原文を見る
一日置きに手紙をよこしたり、なんとなくよく世話をしてくれて、ありがたいのだけれど、きょうは、あんまり大袈裟にはしゃいでいるので、私も、さすがにいやになった。
お寺さんとわかれて、バスに乗ってしまった。
原文を見る
お寺さんとわかれて、バスに乗ってしまった。
なんだか、なんだか憂鬱だ。
原文を見る
なんだか、なんだか憂鬱だ。
バスの中で、いやな女のひとを見た。
原文を見る
バスの中で、いやな女のひとを見た。
襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけている。
原文を見る
襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけている。
手も足もきたない。
原文を見る
手も足もきたない。
それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。
原文を見る
それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。
それに、ああ、胸がむかむかする。
原文を見る
それに、ああ、胸がむかむかする。
その女は、大きいおなかをしているのだ。
原文を見る
その女は、大きいおなかをしているのだ。
ときどき、ひとりで、にやにや笑っている。
原文を見る
ときどき、ひとりで、にやにや笑っている。
雌鶏。
原文を見る
雌鶏。
こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変らないのだ。
原文を見る
こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変らないのだ。
けさ、電車で隣り合せた厚化粧のおばさんをも思い出す。
原文を見る
けさ、電車で隣り合せた厚化粧のおばさんをも思い出す。
ああ、汚い、汚い。
原文を見る
ああ、汚い、汚い。
女は、いやだ。
原文を見る
女は、いやだ。
自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、嫌だ。
原文を見る
自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。
金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。
原文を見る
金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。
ふと、病気になりたく思う。
原文を見る
ふと、病気になりたく思う。
うんと重い病気になって、汗を滝のように流して細く痩せたら、私も、すっきり清らかになれるかも知れない。
原文を見る
うんと重い病気になって、汗を滝のように流して細く痩せたら、私も、すっきり清浄になれるかも知れない。
生きている限りは、とてものがれられないことなのだろうか。
原文を見る
生きている限りは、とてものがれられないことなのだろうか。
しっかりした宗教の意味もわかりかけて来たような気がする。
原文を見る
しっかりした宗教の意味もわかりかけて来たような気がする。
バスから降りると、少しほっとした。
原文を見る
バスから降りると、少しほっとした。
どうも乗り物は、いけない。
原文を見る
どうも乗り物は、いけない。
空気が、なまぬるくて、やりきれない。
原文を見る
空気が、なまぬるくて、やりきれない。
大地は、いい。
原文を見る
大地は、いい。
土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。
原文を見る
土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。
どうも私は、少しおっちょこちょいだ。
原文を見る
どうも私は、少しおっちょこちょいだ。
極楽トンボだ。
原文を見る
極楽トンボだ。
かえろかえろと何見てかえる、畑の玉ねぎ見い見いかえろ、かえるが鳴くからかえろ。
原文を見る
かえろかえろと何見てかえる、畠の玉ねぎ見い見いかえろ、かえろが鳴くからかえろ。
と小さい声で唄ってみて、この子は、なんてのんきな子だろう、と自分ながら歯がゆくなって、背ばかり伸びるこのボーボーが憎らしくなる。
原文を見る
と小さい声で唄ってみて、この子は、なんてのんきな子だろう、と自分ながら歯がゆくなって、背ばかり伸びるこのボーボーが憎らしくなる。
いい娘さんになろうと思った。
原文を見る
いい娘さんになろうと思った。
このお家に帰る田舎道は、毎日毎日、あんまり見なれているので、どんな静かな田舎だか、わからなくなってしまった。
原文を見る
このお家に帰る田舎道は、毎日毎日、あんまり見なれているので、どんな静かな田舎だか、わからなくなってしまった。
ただ、木、道、畑、それだけなのだから。
原文を見る
ただ、木、道、畠、それだけなのだから。
きょうは、ひとつ、よそからはじめてこの田舎にやって来た人の真似をして見よう。
原文を見る
きょうは、ひとつ、よそからはじめてこの田舎にやって来た人の真似をして見よう。
私は、ま、神田あたりの下駄屋さんのお嬢さんで、生まれてはじめて郊外の土を踏むのだ。
原文を見る
私は、ま、神田あたりの下駄屋さんのお嬢さんで、生まれてはじめて郊外の土を踏むのだ。
すると、この田舎は、いったいどんなに見えるだろう。
原文を見る
すると、この田舎は、いったいどんなに見えるだろう。
すばらしい思いつき。
原文を見る
すばらしい思いつき。
可哀想な思いつき。
原文を見る
可哀想な思いつき。
私は、あらたまった顔つきになって、わざと、大袈裟にきょろきょろしてみる。
原文を見る
私は、あらたまった顔つきになって、わざと、大袈裟にきょろきょろしてみる。
小さい並木道を下るときには、振り仰いで新緑の枝々を眺め、まあ、と小さい叫びを挙げてみて、土橋を渡るときには、しばらく小川をのぞいて、水鏡に顔をうつして、ワンワンと、犬の真似して吠えてみたり、遠くの畑を見るときは、目を小さくして、うっとりした様子をして、いいわねえ、と呟いて溜息。
原文を見る
小さい並木路を下るときには、振り仰いで新緑の枝々を眺め、まあ、と小さい叫びを挙げてみて、土橋を渡るときには、しばらく小川をのぞいて、水鏡に顔をうつして、ワンワンと、犬の真似して吠えてみたり、遠くの畠を見るときは、目を小さくして、うっとりした風をして、いいわねえ、と呟いて溜息。
神社では、また一休み。
原文を見る
神社では、また一休み。
神社の森の中は、暗いので、あわてて立ち上って、おお、こわこわ、と言い肩を小さくすぼめて、そそくさ森を通り抜け、森のそとの明るさに、わざと驚いたような様子をして、いろいろ新しく新しく、と心掛けて田舎の道を、凝って歩いているうちに、なんだか、たまらなく淋しくなって来た。
原文を見る
神社の森の中は、暗いので、あわてて立ち上って、おお、こわこわ、と言い肩を小さく窄めて、そそくさ森を通り抜け、森のそとの明るさに、わざと驚いたようなふうをして、いろいろ新しく新しく、と心掛けて田舎の道を、凝って歩いているうちに、なんだか、たまらなく淋しくなって来た。
とうとう道ばたの草原に、ペタリと坐ってしまった。
原文を見る
とうとう道傍の草原に、ペタリと坐ってしまった。
草の上に坐ったら、つい今しがたまでの浮き浮きした気持が、コトンと音たてて消えて、ぎゅっとまじめになってしまった。
原文を見る
草の上に坐ったら、つい今しがたまでの浮き浮きした気持が、コトンと音たてて消えて、ぎゅっとまじめになってしまった。
そうして、このごろの自分を、静かに、ゆっくり思ってみた。
原文を見る
そうして、このごろの自分を、静かに、ゆっくり思ってみた。
なぜ、このごろの自分が、いけないのか。
原文を見る
なぜ、このごろの自分が、いけないのか。
どうして、こんなに不安なのだろう。
原文を見る
どうして、こんなに不安なのだろう。
いつでも、何かにおびえている。
原文を見る
いつでも、何かにおびえている。
この間も、誰かに言われた。
原文を見る
この間も、誰かに言われた。
「あなたは、だんだん俗っぽくなるのね」
原文を見る
「あなたは、だんだん俗っぽくなるのね」
そうかも知れない。
原文を見る
そうかも知れない。
私は、たしかに、いけなくなった。
原文を見る
私は、たしかに、いけなくなった。
くだらなくなった。
原文を見る
くだらなくなった。
いけない、いけない。
原文を見る
いけない、いけない。
弱い、弱い。
原文を見る
弱い、弱い。
だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。
原文を見る
だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。
ちぇっ、そんな叫び声あげたくらいで、自分の弱虫を、ごまかそうたって、だめだぞ。
原文を見る
ちぇっ、そんな叫び声あげたくらいで、自分の弱虫を、ごまかそうたって、だめだぞ。
もっとどうにかなれ。
原文を見る
もっとどうにかなれ。
私は、恋をしているのかも知れない。
原文を見る
私は、恋をしているのかも知れない。
青草原に仰向けに寝ころがった。
原文を見る
青草原に仰向けに寝ころがった。
「お父さん」
原文を見る
「お父さん」
と呼んでみる。
原文を見る
と呼んでみる。
お父さん、お父さん。
原文を見る
お父さん、お父さん。
夕焼の空は綺麗です。
原文を見る
夕焼の空は綺麗です。
そうして、夕靄は、ピンク色。
原文を見る
そうして、夕靄は、ピンク色。
夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。
原文を見る
夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。
そのピンクの靄がゆらゆら流れて、木立の間にもぐっていったり、道の上を歩いたり、草原を撫でたり、そうして、私のからだを、ふんわり包んでしまいます。
原文を見る
そのピンクの靄がゆらゆら流れて、木立の間にもぐっていったり、路の上を歩いたり、草原を撫でたり、そうして、私のからだを、ふんわり包んでしまいます。
私の髪の毛一本一本まで、ピンクの光は、そっとかすかにてらして、そうしてやわらかく撫でてくれます。
原文を見る
私の髪の毛一本一本まで、ピンクの光は、そっと幽かにてらして、そうしてやわらかく撫でてくれます。
それよりも、この空は、美しい。
原文を見る
それよりも、この空は、美しい。
このお空には、私うまれてはじめて頭を下げたいのです。
原文を見る
このお空には、私うまれてはじめて頭を下げたいのです。
私は、いま神様を信じます。
原文を見る
私は、いま神様を信じます。
これは、この空の色は、なんという色なのかしら。
原文を見る
これは、この空の色は、なんという色なのかしら。
薔薇。
原文を見る
薔薇。
火事。
原文を見る
火事。
虹。
原文を見る
虹。
天使の翼。
原文を見る
天使の翼。
大伽藍。
原文を見る
大伽藍。
いいえ、そんなんじゃない。
原文を見る
いいえ、そんなんじゃない。
もっと、もっと神々しい。
原文を見る
もっと、もっと神々しい。
「みんなを愛したい」
原文を見る
「みんなを愛したい」
と涙が出そうなくらい思いました。
原文を見る
と涙が出そうなくらい思いました。
じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。
原文を見る
じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。
だんだん青味がかってゆくのです。
原文を見る
だんだん青味がかってゆくのです。
ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。
原文を見る
ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。
それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。
原文を見る
それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。
そっと草に、さわってみました。
原文を見る
そっと草に、さわってみました。
美しく生きたいと思います。
原文を見る
美しく生きたいと思います。
家へ帰ってみると、お客様。
原文を見る
家へ帰ってみると、お客様。
お母さんも、もう帰っていらっしゃる。
原文を見る
お母さんも、もうかえって居られる。
いつものとおり、何か、にぎやかな笑い声。
原文を見る
れいに依って、何か、にぎやかな笑い声。
お母さんは、私と二人きりのときには、顔がどんなに笑っていても、声をたてない。
原文を見る
お母さんは、私と二人きりのときには、顔がどんなに笑っていても、声をたてない。
けれども、お客様とお話しているときには、顔は、ちっとも笑ってなくて、声ばかり、かん高く笑っている。
原文を見る
けれども、お客様とお話しているときには、顔は、ちっとも笑ってなくて、声ばかり、かん高く笑っている。
挨拶して、すぐ裏へまわり、井戸端で手を洗い、靴下脱いで、足を洗っていたら、さかなやさんが来て、お待ちどおさま、まいど、ありがとうと言って、大きなお魚を一匹、井戸端へ置いていった。
原文を見る
挨拶して、すぐ裏へまわり、井戸端で手を洗い、靴下脱いで、足を洗っていたら、さかなやさんが来て、お待ちどおさま、まいど、ありがとうと言って、大きなお魚を一匹、井戸端へ置いていった。
なんという、おさかなか、わからないけれど、鱗のこまかいところ、これは北海のものの感じがする。
原文を見る
なんという、おさかなか、わからないけれど、鱗のこまかいところ、これは北海のものの感じがする。
お魚を、お皿に移して、また手を洗っていたら、北海道の夏の匂いがした。
原文を見る
お魚を、お皿に移して、また手を洗っていたら、北海道の夏の臭いがした。
おととしの夏休みに、北海道のお姉さんの家へ遊びに行ったときのことを思い出す。
原文を見る
おととしの夏休みに、北海道のお姉さんの家へ遊びに行ったときのことを思い出す。
苫小牧のお姉さんの家は、海岸に近いせいか、始終お魚の匂いがしていた。
原文を見る
苫小牧のお姉さんの家は、海岸に近いゆえか、始終お魚の臭いがしていた。
お姉さんが、あのお家のがらんと広いお台所で、夕方ひとり、白い女らしい手で、上手にお魚をお料理していた様子も、はっきり浮かぶ。
原文を見る
お姉さんが、あのお家のがらんと広いお台所で、夕方ひとり、白い女らしい手で、上手にお魚をお料理していた様子も、はっきり浮かぶ。
私は、あのとき、なぜかお姉さんに甘えたくて、たまらなく焦がれて、でもお姉さんには、あのころ、もう年ちゃんも生まれていて、お姉さんは、私のものではなかったのだから、それを思えば、ヒュウと冷たいすきま風が感じられて、どうしても、姉さんの細い肩に抱きつくことができなくて、死ぬほど寂しい気持で、じっと、あのほの暗いお台所の隅に立ったまま、気の遠くなるほどお姉さんの白くやさしく動く指先を見つめていたことも、思い出される。
原文を見る
私は、あのとき、なぜかお姉さんに甘えたくて、たまらなく焦がれて、でもお姉さんには、あのころ、もう年ちゃんも生まれていて、お姉さんは、私のものではなかったのだから、それを思えば、ヒュウと冷いすきま風が感じられて、どうしても、姉さんの細い肩に抱きつくことができなくて、死ぬほど寂しい気持で、じっと、あのほの暗いお台所の隅に立ったまま、気の遠くなるほどお姉さんの白くやさしく動く指先を見つめていたことも、思い出される。
過ぎ去ったことは、みんな懐かしい。
原文を見る
過ぎ去ったことは、みんな懐かしい。
肉親って、不思議なもの。
原文を見る
肉親って、不思議なもの。
他人ならば、遠く離れるとしだいに淡く、忘れてゆくものなのに、肉親は、なおさら、懐かしい美しいところばかり思い出されるのだから。
原文を見る
他人ならば、遠く離れるとしだいに淡く、忘れてゆくものなのに、肉親は、なおさら、懐かしい美しいところばかり思い出されるのだから。
井戸端のぐみの実が、ほんのりあかく色づいている。
原文を見る
井戸端の茱萸の実が、ほんのりあかく色づいている。
もう二週間もしたら、たべられるようになるかも知れない。
原文を見る
もう二週間もしたら、たべられるようになるかも知れない。
去年は、おかしかった。
原文を見る
去年は、おかしかった。
私が夕方ひとりでぐみをとってたべていたら、ジャピイ黙って見ているので、可哀想で一つやった。
原文を見る
私が夕方ひとりで茱萸をとってたべていたら、ジャピイ黙って見ているので、可哀想で一つやった。
そしたら、ジャピイ食べちゃった。
原文を見る
そしたら、ジャピイ食べちゃった。
また二つやったら、食べた。
原文を見る
また二つやったら、食べた。
あんまり面白くて、この木をゆすぶって、ポタポタ落としたら、ジャピイ夢中になって食べはじめた。
原文を見る
あんまり面白くて、この木をゆすぶって、ポタポタ落としたら、ジャピイ夢中になって食べはじめた。
ばかなやつ。
原文を見る
ばかなやつ。
ぐみを食べる犬なんて、はじめてだ。
原文を見る
茱萸を食べる犬なんて、はじめてだ。
私も背伸びしては、ぐみをとって食べている。
原文を見る
私も背伸びしては、茱萸をとって食べている。
ジャピイも下で食べている。
原文を見る
ジャピイも下で食べている。
おかしかった。
原文を見る
可笑しかった。
そのこと、思い出したら、ジャピイが懐かしくて、
原文を見る
そのこと、思い出したら、ジャピイを懐かしくて、
「ジャピイ!」
原文を見る
「ジャピイ!」
と呼んだ。
原文を見る
と呼んだ。
ジャピイは、玄関のほうから、気取って走って来た。
原文を見る
ジャピイは、玄関のほうから、気取って走って来た。
急に、歯ぎしりするほどジャピイが可愛くなっちゃって、シッポを強く掴むと、ジャピイは私の手を柔かく噛んだ。
原文を見る
急に、歯ぎしりするほどジャピイを可愛くなっちゃって、シッポを強く掴むと、ジャピイは私の手を柔かく噛んだ。
涙が出そうな気持になって、頭をぶってやる。
原文を見る
涙が出そうな気持になって、頭を打ってやる。
ジャピイは、平気で、井戸端の水を音をたてて飲む。
原文を見る
ジャピイは、平気で、井戸端の水を音をたてて呑む。
お部屋へはいると、ぼっと電燈が、ともっている。
原文を見る
お部屋へはいると、ぼっと電燈が、ともっている。
しんとしている。
原文を見る
しんとしている。
お父さんいない。
原文を見る
お父さんいない。
やっぱり、お父さんがいないと、家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在るような気がして、身悶えしたくなる。
原文を見る
やっぱり、お父さんがいないと、家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在るような気がして、身悶えしたくなる。
和服に着換え、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいなキスして、それから鏡台のまえに坐ったら、客間のほうからお母さんたちの笑い声が、どっと起って、私は、なんだか、むかっとなった。
原文を見る
和服に着換え、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいなキスして、それから鏡台のまえに坐ったら、客間のほうからお母さんたちの笑い声が、どっと起って、私は、なんだか、むかっとなった。
お母さんは、私と二人きりのときはいいけれど、お客が来たときには、へんに私から遠くなって、冷たくよそよそしく、私はそんな時に、いちばんお父さんが懐かしく悲しくなる。
原文を見る
お母さんは、私と二人きりのときはいいけれど、お客が来たときには、へんに私から遠くなって、冷くよそよそしく、私はそんな時に、一ばんお父さんが懐かしく悲しくなる。
鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。
原文を見る
鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。
顔は、他人だ。
原文を見る
顔は、他人だ。
私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に生きている。
原文を見る
私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている。
きょうは頬紅も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、可愛い。
原文を見る
きょうは頬紅も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、可愛い。
眼鏡をはずして、そっと笑ってみる。
原文を見る
眼鏡をはずして、そっと笑ってみる。
眼が、とってもいい。
原文を見る
眼が、とってもいい。
青く青く、澄んでいる。
原文を見る
青く青く、澄んでいる。
美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。
原文を見る
美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。
しめたものだ。
原文を見る
しめたものだ。
少し浮き浮きして台所へ行き、お米をといでいるうちに、また悲しくなってしまった。
原文を見る
少し浮き浮きして台所へ行き、お米をといでいるうちに、また悲しくなってしまった。
まえの小金井の家が懐かしい。
原文を見る
せんの小金井の家が懐かしい。
胸が焼けるほど恋しい。
原文を見る
胸が焼けるほど恋しい。
あの、いいお家には、お父さんもいらしたし、お姉さんもいた。
原文を見る
あの、いいお家には、お父さんもいらしったし、お姉さんもいた。
お母さんだって、若かった。
原文を見る
お母さんだって、若かった。
私が学校から帰って来ると、お母さんと、お姉さんと、何か面白そうに台所か、茶の間で話をしている。
原文を見る
私が学校から帰って来ると、お母さんと、お姉さんと、何か面白そうに台所か、茶の間で話をしている。
おやつを貰って、ひとしきり二人に甘えたり、お姉さんに喧嘩ふっかけたり、それからきまって叱られて、外へ飛び出して遠くへ遠くへ自転車乗り。
原文を見る
おやつを貰って、ひとしきり二人に甘えたり、お姉さんに喧嘩ふっかけたり、それからきまって叱られて、外へ飛び出して遠くへ遠くへ自転車乗り。
夕方には帰って来て、それから楽しく御飯だ。
原文を見る
夕方には帰って来て、それから楽しく御飯だ。
本当に楽しかった。
原文を見る
本当に楽しかった。
自分を見詰めたり、不潔にぎくしゃくすることも無く、ただ、甘えて居ればよかったのだ。
原文を見る
自分を見詰めたり、不潔にぎくしゃくすることも無く、ただ、甘えて居ればよかったのだ。
なんという大きい特権を私は与えられていたことだろう。
原文を見る
なんという大きい特権を私は享受していたことだろう。
しかも平気で。
原文を見る
しかも平気で。
心配もなく、寂しさもなく、苦しみもなかった。
原文を見る
心配もなく、寂しさもなく、苦しみもなかった。
お父さんは、立派なよいお父さんだった。
原文を見る
お父さんは、立派なよいお父さんだった。
お姉さんは、優しく、私は、いつもお姉さんにぶらさがってばかりいた。
原文を見る
お姉さんは、優しく、私は、いつもお姉さんにぶらさがってばかりいた。
けれども、すこしずつ大きくなるにつれて、だいいち私が自分でいやらしくなって、私の特権はいつの間にか消えてしまって、まる裸、醜い醜い。
原文を見る
けれども、すこしずつ大きくなるにつれて、だいいち私が自身いやらしくなって、私の特権はいつの間にか消失して、あかはだか、醜い醜い。
ちっとも、ひとに甘えることができなくなって、考えこんでばかりいて、くるしいことばかり多くなった。
原文を見る
ちっとも、ひとに甘えることができなくなって、考えこんでばかりいて、くるしいことばかり多くなった。
お姉さんは、お嫁にいってしまったし、お父さんは、もういない。
原文を見る
お姉さんは、お嫁にいってしまったし、お父さんは、もういない。
たったお母さんと私だけになってしまった。
原文を見る
たったお母さんと私だけになってしまった。
お母さんもお淋しいことばかりなのだろう。
原文を見る
お母さんもお淋しいことばかりなのだろう。
こないだもお母さんは、「もうこれから先は、生きる楽しみがなくなってしまった。あなたを見たって、私は、ほんとうは、あまり楽しみを感じない。ゆるしておくれ。幸福も、お父さんがいらっしゃらなければ、来ないほうがよい」
原文を見る
こないだもお母さんは、「もうこれからさきは、生きる楽しみがなくなってしまった。あなたを見たって、私は、ほんとうは、あまり楽しみを感じない。ゆるしてお呉れ。幸福も、お父さんがいらっしゃらなければ、来ないほうがよい」
とおっしゃった。
原文を見る
とおっしゃった。
蚊が出て来ると、ふとお父さんを思い出し、着物をほどいているとお父さんを思い出し、爪を切るときにもお父さんを思い出し、お茶がおいしいときにも、きっとお父さんを思い出すそうである。
原文を見る
蚊が出て来ると、ふとお父さんを思い出し、ほどきものをすると、お父さんを思い出し、爪を切るときにもお父さんを思い出し、お茶がおいしいときにも、きっとお父さんを思い出すそうである。
私が、どんなにお母さんの気持をいたわって、話し相手になってあげても、やっぱりお父さんとは違うのだ。
原文を見る
私が、どんなにお母さんの気持をいたわって、話し相手になってあげても、やっぱりお父さんとは違うのだ。
夫婦愛というものは、この世の中でいちばん強いもので、肉親の愛よりも、尊いものにちがいない。
原文を見る
夫婦愛というものは、この世の中で一ばん強いもので、肉親の愛よりも、尊いものにちがいない。
生意気なこと考えたので、ひとりで顔があかくなって来て、私は、濡れた手で髪をかきあげる。
原文を見る
生意気なこと考えたので、ひとりで顔があかくなって来て、私は、濡れた手で髪をかきあげる。
しゅっしゅっとお米をとぎながら、私は、お母さんが可愛く、いじらしくなって、大事にしようと、しんから思う。
原文を見る
しゅっしゅっとお米をとぎながら、私は、お母さんが可愛く、いじらしくなって、大事にしようと、しんから思う。
こんなウェーヴかけた髪なんか、さっそく解きほぐしてしまって、そうして髪の毛をもっと長く伸ばそう。
原文を見る
こんなウェーヴかけた髪なんか、さっそく解きほぐしてしまって、そうして髪の毛をもっと長く伸ばそう。
お母さんは、まえから、私の髪の短いのを嫌がっていらしたから、うんと伸ばして、きちんと結って見せたら、よろこぶだろう。
原文を見る
お母さんは、せんから、私の髪の短いのを厭がっていらしたから、うんと伸ばして、きちんと結って見せたら、よろこぶだろう。
けれども、そんなことまでして、お母さんを、いたわるのも嫌だな。
原文を見る
けれども、そんなことまでして、お母さんを、いたわるのも厭だな。
いやらしい。
原文を見る
いやらしい。
考えてみると、このごろの、私のいらいらは、ずいぶんお母さんと関係がある。
原文を見る
考えてみると、このごろの、私のいらいらは、ずいぶんお母さんと関係がある。
お母さんの気持に、ぴったり添ったいい娘でありたいし、それだからといって、へんに御機嫌とるのもいやなのだ。
原文を見る
お母さんの気持に、ぴったり添ったいい娘でありたいし、それだからとて、へんに御機嫌とるのもいやなのだ。
だまっていても、お母さんが、私の気持をちゃんとわかって安心していらしたら、一番いいのだ。
原文を見る
だまっていても、お母さん、私の気持をちゃんとわかって安心していらしったら、一番いいのだ。
私は、どんなに、わがままでも、決して世間の物笑いになるようなことはしないのだし、つらくても、淋しくっても、だいじのところは、きちんと守って、そうしてお母さんと、この家とを、愛して愛して、愛しているのだから、お母さんも、私を絶対に信じて、ぼんやりのんきにしていらしたら、それでいいのだ。
原文を見る
私は、どんなに、わがままでも、決して世間の物笑いになるようなことはしないのだし、つらくても、淋しくっても、だいじのところは、きちんと守って、そうしてお母さんと、この家とを、愛して愛して、愛しているのだから、お母さんも、私を絶対に信じて、ぼんやりのんきにしていらしったら、それでいいのだ。
私は、きっと立派にやる。
原文を見る
私は、きっと立派にやる。
身を粉にしてつとめる。
原文を見る
身を粉にしてつとめる。
それがいまの私にとっても、いちばん大きいよろこびなんだし、生きる道だと思っているのに、お母さんたら、ちっとも私を信頼しないで、まだまだ、子供あつかいにしている。
原文を見る
それがいまの私にとっても、一ばん大きいよろこびなんだし、生きる道だと思っているのに、お母さんたら、ちっとも私を信頼しないで、まだまだ、子供あつかいにしている。
私が子供っぽいこと言うと、お母さんはよろこんで、こないだも、私が、ばからしい、わざとウクレレ持ち出して、ポンポンやってはしゃいで見せたら、お母さんは、しんから嬉しそうにして、
原文を見る
私が子供っぽいこと言うと、お母さんはよろこんで、こないだも、私が、ばからしい、わざとウクレレ持ち出して、ポンポンやってはしゃいで見せたら、お母さんは、しんから嬉しそうにして、
「おや、雨かな? 雨だれの音が聞えるね」
原文を見る
「おや、雨かな? 雨だれの音が聞えるね」
と、とぼけて言って、私をからかって、私が、本気でウクレレなんかに熱中して居るとでも思っているらしい様子なので、私は、あさましくて、泣きたくなった。
原文を見る
と、とぼけて言って、私をからかって、私が、本気でウクレレなんかに熱中して居るとでも思っているらしい様子なので、私は、あさましくて、泣きたくなった。
お母さん、私は、もう大人なのですよ。
原文を見る
お母さん、私は、もう大人なのですよ。
世の中のこと、なんでも、もう知っているのですよ。
原文を見る
世の中のこと、なんでも、もう知っているのですよ。
安心して、私になんでも相談して下さい。
原文を見る
安心して、私になんでも相談して下さい。
うちの経済のことなんかでも、私に全部打ち明けて、こんな状態だから、おまえもと言って下さったなら、私は決して、靴なんかねだりはしません。
原文を見る
うちの経済のことなんかでも、私に全部打ち明けて、こんな状態だから、おまえもと言って下さったなら、私は決して、靴なんかねだりはしません。
しっかりした、つましい、つましい娘になります。
原文を見る
しっかりした、つましい、つましい娘になります。
ほんとうに、それは、たしかなのです。
原文を見る
ほんとうに、それは、たしかなのです。
それなのに。
原文を見る
それなのに。
ああ、それなのに、という歌があったのを思い出して、ひとりでくすくす笑ってしまった。
原文を見る
ああ、それなのに、という歌があったのを思い出して、ひとりでくすくす笑ってしまった。
気がつくと、私はぼんやりお鍋に両手をつっこんだままで、ばかみたいに、あれこれ考えていたのである。
原文を見る
気がつくと、私はぼんやりお鍋に両手をつっこんだままで、ばかみたいに、あれこれ考えていたのである。
いけない、いけない。
原文を見る
いけない、いけない。
お客様へ、早く夕食差し上げなければ。
原文を見る
お客様へ、早く夕食差し上げなければ。
さっきの大きいお魚は、どうするのだろう。
原文を見る
さっきの大きいお魚は、どうするのだろう。
とにかく三枚におろして、お味噌につけて置くことにしよう。
原文を見る
とにかく三枚におろして、お味噌につけて置くことにしよう。
そうして食べると、きっとおいしい。
原文を見る
そうして食べると、きっとおいしい。
料理は、すべて、勘で行かなければいけない。
原文を見る
料理は、すべて、勘で行かなければいけない。
きゅうりが少し残っているから、あれでもって、三杯酢。
原文を見る
キウリが少し残っているから、あれでもって、三杯酢。
それから、私の自慢の卵焼き。
原文を見る
それから、私の自慢の卵焼き。
それから、もう一品。
原文を見る
それから、もう一品。
あ、そうだ。
原文を見る
あ、そうだ。
ロココ料理にしよう。
原文を見る
ロココ料理にしよう。
これは、私の考案したものでございまして。
原文を見る
これは、私の考案したものでございまして。
お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手間は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。
原文を見る
お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。
卵のかげにパセリの青草、その傍に、ハムの赤い珊瑚礁がちらと顔を出していて、キャベツの黄色い葉は、牡丹の花びらのように、鳥の羽の扇子のようにお皿に敷かれて、緑したたるほうれんそうは、牧場か湖水か。
原文を見る
卵のかげにパセリの青草、その傍に、ハムの赤い珊瑚礁がちらと顔を出していて、キャベツの黄色い葉は、牡丹の花瓣のように、鳥の羽の扇子のようにお皿に敷かれて、緑したたる菠薐草は、牧場か湖水か。
こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様は思いがけずルイ王朝を思い出す。
原文を見る
こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様はゆくりなく、ルイ王朝を思い出す。
まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしい御馳走なんて作れないのだから、せめて、体裁だけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかしてしまうのだ。
原文を見る
まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしい御馳走なんて作れないのだから、せめて、ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかしてしまうのだ。
料理は、見かけが第一である。
原文を見る
料理は、見かけが第一である。
たいてい、それで、ごまかせます。
原文を見る
たいてい、それで、ごまかせます。
けれども、このロココ料理には、よほど絵心が必要だ。
原文を見る
けれども、このロココ料理には、よほど絵心が必要だ。
色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。
原文を見る
色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。
せめて私くらいのデリカシイが無ければね。
原文を見る
せめて私くらいのデリカシイが無ければね。
ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗なだけで内容の空っぽな装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。
原文を見る
ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。
名答である。
原文を見る
名答である。
美しさに、内容なんてあってたまるものか。
原文を見る
美しさに、内容なんてあってたまるものか。
純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。
原文を見る
純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。
きまっている。
原文を見る
きまっている。
だから、私は、ロココが好きだ。
原文を見る
だから、私は、ロココが好きだ。
いつもそうだが、私はお料理して、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。
原文を見る
いつもそうだが、私はお料理して、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。
死にそうに疲れて、陰鬱になる。
原文を見る
死にそうに疲れて、陰鬱になる。
あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。
原文を見る
あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。
もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。
原文を見る
もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。
ついには、ええっ!
原文を見る
ついには、ええっ!
と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔して、お客に差し出す。
原文を見る
と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔して、お客に差し出す。
きょうのお客様は、ことにも憂うつ。
原文を見る
きょうのお客様は、ことにも憂うつ。
大森の今井田さん御夫婦に、ことし七つの良夫さん。
原文を見る
大森の今井田さん御夫婦に、ことし七つの良夫さん。
今井田さんは、もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白くて、いやらしい。
原文を見る
今井田さんは、もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白くて、いやらしい。
なぜ、敷島なんかを吸うのだろう。
原文を見る
なぜ、敷島なぞを吸うのだろう。
両切りの煙草でないと、なんだか、不潔な感じがする。
原文を見る
両切の煙草でないと、なんだか、不潔な感じがする。
煙草は、両切りに限る。
原文を見る
煙草は、両切に限る。
敷島なんかを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。
原文を見る
敷島なぞを吸っていると、そのひとの人格までが、疑わしくなるのだ。
いちいち天井を向いて煙を吐いて、はあ、はあ、なるほど、なんて言っている。
原文を見る
いちいち天井を向いて煙を吐いて、はあ、はあ、なるほど、なんて言っている。
いまは、夜学の先生をしているそうだ。
原文を見る
いまは、夜学の先生をしているそうだ。
奥さんは、小さくて、おどおどして、そして下品だ。
原文を見る
奥さんは、小さくて、おどおどして、そして下品だ。
つまらないことにでも、顔を畳にくっつけるようにして、からだをくねらせて、笑いむせぶのだ。
原文を見る
つまらないことにでも、顔を畳にくっつけるようにして、からだをくねらせて、笑いむせぶのだ。
おかしいことなんてあるものか。
原文を見る
可笑しいことなんてあるものか。
そうして大袈裟に笑い伏すのが、何か上品なことだろうと、思いちがいしているのだ。
原文を見る
そうして大袈裟に笑い伏すのが、何か上品なことだろうと、思いちがいしているのだ。
いまのこの世の中で、こんな階級の人たちが、いちばん悪いのではないかしら。
原文を見る
いまのこの世の中で、こんな階級の人たちが、一ばん悪いのではないかしら。
いちばん汚い。
原文を見る
一ばん汚い。
プチ・ブルというのかしら。
原文を見る
プチ・ブルというのかしら。
小役人というのかしら。
原文を見る
小役人というのかしら。
子供なんかも、へんにこましゃくれて、素直な元気なところが、ちっともない。
原文を見る
子供なんかも、へんに小ましゃくれて、素直な元気なところが、ちっともない。
そう思っていながらも、私はそんな気持を、みんな抑えて、お辞儀をしたり、笑ったり、話したり、良夫さんを可愛い可愛いと言って頭を撫でてやったり、まるで嘘ついて皆をだましているのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ、私よりは清らかかも知れない。
原文を見る
そう思っていながらも、私はそんな気持を、みんな抑えて、お辞儀をしたり、笑ったり、話したり、良夫さんを可愛い可愛いと言って頭を撫でてやったり、まるで嘘ついて皆をだましているのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ、私よりは清純かも知れない。
みなさん私のロココ料理をたべて、私の腕前をほめてくれて、私はわびしいやら、腹立たしいやら、泣きたい気持なのだけれど、それでも、努めて、嬉しそうな顔をして見せて、やがて私も御相伴して一緒にごはんを食べたのであるが、今井田さんの奥さんの、しつこい無知なお世辞には、さすがにむかむかして、よし、もう嘘は、つくまいときっとなって、
原文を見る
みなさん私のロココ料理をたべて、私の腕前をほめてくれて、私はわびしいやら、腹立たしいやら、泣きたい気持なのだけれど、それでも、努めて、嬉しそうな顔をして見せて、やがて私も御相伴して一緒にごはんを食べたのであるが、今井田さんの奥さんの、しつこい無智なお世辞には、さすがにむかむかして、よし、もう嘘は、つくまいと屹っとなって、
「こんなお料理、ちっともおいしくないんです。なんにもないので、私の窮余の一策なんですよ」
原文を見る
「こんなお料理、ちっともおいしくございません。なんにもないので、私の窮余の一策なんですよ」
と、私は、ありのまま事実を、言ったつもりなのに、今井田さん御夫婦は、窮余の一策とは、うまいことをおっしゃる、と手を打たんばかりに笑い興じるのである。
原文を見る
と、私は、ありのまま事実を、言ったつもりなのに、今井田さん御夫婦は、窮余の一策とは、うまいことをおっしゃる、と手を拍たんばかりに笑い興じるのである。
私は、悔しくて、お箸とお茶碗ほうり出して、大声あげて泣こうかしらと思った。
原文を見る
私は、口惜しくて、お箸とお茶碗ほおり出して、大声あげて泣こうかしらと思った。
じっとこらえて、無理に、にやにや笑って見せたら、お母さんまでが、
原文を見る
じっとこらえて、無理に、にやにや笑って見せたら、お母さんまでが、
「この子も、だんだん役に立つようになりましたよ」
原文を見る
「この子も、だんだん役に立つようになりましたよ」
と、お母さん、私のかなしい気持、ちゃんとわかっていらっしゃる癖に、今井田さんの気持に調子を合わせるために、そんなくだらないことを言って、ほほと笑った。
原文を見る
と、お母さん、私のかなしい気持、ちゃんとわかっていらっしゃる癖に、今井田さんの気持を迎えるために、そんなくだらないことを言って、ほほと笑った。
お母さん、そんなにまでして、こんな今井田なんかの御機嫌とることは、ないんだ。
原文を見る
お母さん、そんなにまでして、こんな今井田なんかの御機嫌とることは、ないんだ。
お客さんと向き合っているときのお母さんは、お母さんじゃない。
原文を見る
お客さんと対しているときのお母さんは、お母さんじゃない。
ただの弱い女だ。
原文を見る
ただの弱い女だ。
お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。
原文を見る
お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。
情なくなって、何も言えなくなっちゃった。
原文を見る
情なくなって、何も言えなくなっちゃった。
帰って下さい、帰って下さい。
原文を見る
帰って下さい、帰って下さい。
私の父は、立派なお方だ。
原文を見る
私の父は、立派なお方だ。
やさしくて、そうして人格が高いんだ。
原文を見る
やさしくて、そうして人格が高いんだ。
お父さんがいないからって、そんなに私たちをばかにするんだったら、いますぐ帰って下さい。
原文を見る
お父さんがいないからって、そんなに私たちをばかにするんだったら、いますぐ帰って下さい。
よっぽど今井田に、そう言ってやろうと思った。
原文を見る
よっぽど今井田に、そう言ってやろうと思った。
それでも私は、やっぱり弱くて、良夫さんにハムを切ってあげたり、奥さんにお漬物とってあげたり奉仕をするのだ。
原文を見る
それでも私は、やっぱり弱くて、良夫さんにハムを切ってあげたり、奥さんにお漬物とってあげたり奉仕をするのだ。
ごはんがすんでから、私はすぐに台所へひっこんで、あと片附けをはじめた。
原文を見る
ごはんがすんでから、私はすぐに台所へひっこんで、あと片附けをはじめた。
早くひとりになりたかったのだ。
原文を見る
早く独りになりたかったのだ。
何も、お高くとまっているのではないけれども、あんな人たちとこれ以上、無理に話を合せてみたり、一緒に笑ってみたりする必要もないように思われる。
原文を見る
何も、お高くとまっているのではないけれども、あんな人たちとこれ以上、無理に話を合せてみたり、一緒に笑ってみたりする必要もないように思われる。
あんな人にも、礼儀を、いやいや、へつらいをする必要なんて絶対にない。
原文を見る
あんな者にも、礼儀を、いやいや、へつらいを致す必要なんて絶対にない。
いやだ。
原文を見る
いやだ。
もう、これ以上は嫌だ。
原文を見る
もう、これ以上は厭だ。
私は、つとめられるだけは、つとめたのだ。
原文を見る
私は、つとめられるだけは、つとめたのだ。
お母さんだって、きょうの私のがまんして愛想よくしている態度を、嬉しそうに見ていたじゃないか。
原文を見る
お母さんだって、きょうの私のがまんして愛想よくしている態度を、嬉しそうに見ていたじゃないか。
あれだけでも、よかったんだろうか。
原文を見る
あれだけでも、よかったんだろうか。
強く、世間のつきあいは、つきあい、自分は自分と、はっきり区別して置いて、ちゃんちゃん気持よく物事に対応して処理して行くほうがいいのか、または、人に悪く言われても、いつでも自分を失わず、自分をごまかさないで行くほうがいいのか、どっちがいいのか、わからない。
原文を見る
強く、世間のつきあいは、つきあい、自分は自分と、はっきり区別して置いて、ちゃんちゃん気持よく物事に対応して処理して行くほうがいいのか、または、人に悪く言われても、いつでも自分を失わず、韜晦しないで行くほうがいいのか、どっちがいいのか、わからない。
一生、自分と同じくらい弱いやさしい温かい人たちの中でだけ生活して行ける身分の人は、うらやましい。
原文を見る
一生、自分と同じくらい弱いやさしい温かい人たちの中でだけ生活して行ける身分の人は、うらやましい。
苦労なんて、苦労せずに一生すませるんだったら、わざわざ求めて苦労する必要なんて無いんだ。
原文を見る
苦労なんて、苦労せずに一生すませるんだったら、わざわざ求めて苦労する必要なんて無いんだ。
そのほうが、いいんだ。
原文を見る
そのほうが、いいんだ。
自分の気持を殺して、人につとめることは、きっといいことに違いないんだけれど、これから先、毎日、今井田御夫婦みたいな人たちに無理に笑いかけたり、相槌うたなければならないのだったら、私は、気が変になるかも知れない。
原文を見る
自分の気持を殺して、人につとめることは、きっといいことに違いないんだけれど、これからさき、毎日、今井田御夫婦みたいな人たちに無理に笑いかけたり、相槌うたなければならないのだったら、私は、気ちがいになるかも知れない。
自分なんて、とても監獄に入れないな、とおかしいことを、ふと思う。
原文を見る
自分なんて、とても監獄に入れないな、と可笑しいことを、ふと思う。
監獄どころか、お手伝いさんにもなれない。
原文を見る
監獄どころか、女中さんにもなれない。
奥さんにもなれない。
原文を見る
奥さんにもなれない。
いや、奥さんの場合は、ちがうんだ。
原文を見る
いや、奥さんの場合は、ちがうんだ。
この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、どんなに苦しくとも、真黒になって働いて、そうして充分に生き甲斐があるのだから、希望があるのだから、私だって、立派にやれる。
原文を見る
この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、どんなに苦しくとも、真黒になって働いて、そうして充分に生き甲斐があるのだから、希望があるのだから、私だって、立派にやれる。
あたりまえのことだ。
原文を見る
あたりまえのことだ。
朝から晩まで、くるくるこま鼠のように働いてあげる。
原文を見る
朝から晩まで、くるくるコマ鼠のように働いてあげる。
じゃんじゃんお洗濯をする。
原文を見る
じゃんじゃんお洗濯をする。
たくさんよごれものがたまった時ほど、不愉快なことがない。
原文を見る
たくさんよごれものがたまった時ほど、不愉快なことがない。
いらいらして、ヒステリイになったみたいに落ちつかない。
原文を見る
焦ら焦らして、ヒステリイになったみたいに落ちつかない。
死んでも死にきれない思いがする。
原文を見る
死んでも死にきれない思いがする。
よごれものを、全部、一つものこさず洗ってしまって、物干竿にかけるときは、私は、もうこれで、いつ死んでもいいと思うのである。
原文を見る
よごれものを、全部、一つものこさず洗ってしまって、物干竿にかけるときは、私は、もうこれで、いつ死んでもいいと思うのである。
今井田さん、お帰りになる。
原文を見る
今井田さん、おかえりになる。
何やら用事があるとかで、お母さんを連れて出掛けてしまう。
原文を見る
何やら用事があるとかで、お母さんを連れて出掛けてしまう。
はいはい附いて行くお母さんもお母さんだし、今井田が何かとお母さんを利用するのは、こんどだけでは無いけれど、今井田御夫婦のあつかましさが、嫌で嫌で、ぶんなぐりたい気持がする。
原文を見る
はいはい附いて行くお母さんもお母さんだし、今井田が何かとお母さんを利用するのは、こんどだけでは無いけれど、今井田御夫婦のあつかましさが、厭で厭で、ぶんなぐりたい気持がする。
門のところまで、皆さんをお送りして、ひとりぼんやり夕闇の道を眺めていたら、泣いてみたくなってしまう。
原文を見る
門のところまで、皆さんをお送りして、ひとりぼんやり夕闇の路を眺めていたら、泣いてみたくなってしまう。
郵便受けには、夕刊と、お手紙二通。
原文を見る
郵便函には、夕刊と、お手紙二通。
一通はお母さんへ、松坂屋から夏物売出しのご案内。
原文を見る
一通はお母さんへ、松坂屋から夏物売出しのご案内。
一通は、私へ、いとこの順二さんから。
原文を見る
一通は、私へ、いとこの順二さんから。
こんど前橋の連隊へ転任することになりました。
原文を見る
こんど前橋の連隊へ転任することになりました。
お母さんによろしく、と簡単な通知である。
原文を見る
お母さんによろしく、と簡単な通知である。
将校さんだって、そんなに素晴らしい生活内容などは、期待できないけれど、でも、毎日毎日、厳しく無駄なく起き伏しするその規律がうらやましい。
原文を見る
将校さんだって、そんなに素晴らしい生活内容などは、期待できないけれど、でも、毎日毎日、厳酷に無駄なく起居するその規律がうらやましい。
いつも身の置きどころが、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。
原文を見る
いつも身が、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。
私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、また、勉強しようと思えば、無限といっていいくらいに勉強の時間があるのだし、慾を言ったら、よほどの望みでもかなえてもらえるような気がするし、ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。
原文を見る
私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、また、勉強しようと思えば、無限といっていいくらいに勉強の時間があるのだし、慾を言ったら、よほどの望みでもかなえてもらえるような気がするし、ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。
うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。
原文を見る
うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。
戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。
原文を見る
戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。
いやらしい、わずらわしい堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと渇望している状態は、じつに清潔で、単純で、思うだけでも爽快を覚えるのだ。
原文を見る
いやらしい、煩瑣な堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと渇望している状態は、じつに清潔で、単純で、思うさえ爽快を覚えるのだ。
私など、これはいちど、軍隊生活でもして、さんざん鍛えられたら、少しは、はっきりした美しい娘になれるかも知れない。
原文を見る
私など、これはいちど、軍隊生活でもして、さんざ鍛われたら、少しは、はっきりした美しい娘になれるかも知れない。
軍隊生活しなくても、新ちゃんみたいに、素直な人だってあるのに、私は、よくよく、いけない女だ。
原文を見る
軍隊生活しなくても、新ちゃんみたいに、素直な人だってあるのに、私は、よくよく、いけない女だ。
わるい子だ。
原文を見る
わるい子だ。
新ちゃんは、順二さんの弟で、私とは同じ年なんだけれど、どうしてあんなに、いい子なんだろう。
原文を見る
新ちゃんは、順二さんの弟で、私とは同じとしなんだけれど、どうしてあんなに、いい子なんだろう。
私は、親類中で、いや、世界中で、いちばん新ちゃんを好きだ。
原文を見る
私は、親類中で、いや、世界中で、一ばん新ちゃんを好きだ。
新ちゃん、目が見えないんだ。
原文を見る
新ちゃん、目が見えないんだ。
わかいのに、失明するなんて、なんということだろう。
原文を見る
わかいのに、失明するなんて、なんということだろう。
こんな静かな晩は、お部屋にお一人でいらして、どんな気持だろう。
原文を見る
こんな静かな晩は、お部屋にお一人でいらして、どんな気持だろう。
私たちなら、侘びしくても、本を読んだり、景色を眺めたりして、幾分それをまぎらすことが出来るけれど、新ちゃんには、それができないんだ。
原文を見る
私たちなら、侘びしくても、本を読んだり、景色を眺めたりして、幾分それをまぎらかすことが出来るけれど、新ちゃんには、それができないんだ。
ただ、黙っているだけなんだ。
原文を見る
ただ、黙っているだけなんだ。
これまで人一倍、がんばって勉強して、それからテニスも、水泳もお上手だったのだもの、いまの寂しさ、苦しさはどんなだろう。
原文を見る
これまで人一倍、がんばって勉強して、それからテニスも、水泳もお上手だったのだもの、いまの寂しさ、苦しさはどんなだろう。
ゆうべも新ちゃんのことを思って、床にはいってから五分間、目をつぶってみた。
原文を見る
ゆうべも新ちゃんのことを思って、床にはいってから五分間、目をつぶってみた。
床にはいって目をつぶっているのでさえ、五分間は長く、胸苦しく感じられるのに、新ちゃんは、朝も昼も夜も、幾日も幾月も、何も見ていないのだ。
原文を見る
床にはいって目をつぶっているのでさえ、五分間は長く、胸苦しく感じられるのに、新ちゃんは、朝も昼も夜も、幾日も幾月も、何も見ていないのだ。
不平を言ったり、癇癪を起こしたり、わがままを言ったりしてくだされば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言わない。
原文を見る
不平を言ったり、癇癪を起したり、わがまま言ったりして下されば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言わない。
新ちゃんが不平や人の悪口言ったのを聞いたことがない。
原文を見る
新ちゃんが不平や人の悪口言ったのを聞いたことがない。
その上いつも明るい言葉遣い、無心の顔つきをしているのだ。
原文を見る
その上いつも明るい言葉遣い、無心の顔つきをしているのだ。
それがなおさら、私の胸に、ピンと来てしまう。
原文を見る
それがなおさら、私の胸に、ピンと来てしまう。
あれこれ考えながらお座敷を掃いて、それから、お風呂をわかす。
原文を見る
あれこれ考えながらお座敷を掃いて、それから、お風呂をわかす。
お風呂番をしながら、蜜柑箱に腰かけ、ちろちろ燃える石炭の灯をたよりに学校の宿題を全部すましてしまう。
原文を見る
お風呂番をしながら、蜜柑箱に腰かけ、ちろちろ燃える石炭の灯をたよりに学校の宿題を全部すましてしまう。
それでも、まだお風呂がわかないので、濹東綺譚を読み返してみる。
原文を見る
それでも、まだお風呂がわかないので、濹東綺譚を読み返してみる。
書かれてある事実は、決して嫌な、汚いものではないのだ。
原文を見る
書かれてある事実は、決して厭な、汚いものではないのだ。
けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。
原文を見る
けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。
お年寄りのせいだろうか。
原文を見る
お年寄りのせいであろうか。
でも、外国の作家は、いくら年とっても、もっと大胆に甘く、対象を愛している。
原文を見る
でも、外国の作家は、いくらとしとっても、もっと大胆に甘く、対象を愛している。
そうして、かえって嫌味が無い。
原文を見る
そうして、かえって厭味が無い。
けれども、この作品は、日本では、いいほうの部類なのではないだろうか。
原文を見る
けれども、この作品は、日本では、いいほうの部類なのではあるまいか。
わりに嘘のない、静かな諦めが、作品の底に感じられてすがすがしい。
原文を見る
わりに嘘のない、静かな諦めが、作品の底に感じられてすがすがしい。
この作者のものの中でも、これがいちばん枯れていて、私は好きだ。
原文を見る
この作者のものの中でも、これが一ばん枯れていて、私は好きだ。
この作者は、とっても責任感の強いひとのような気がする。
原文を見る
この作者は、とっても責任感の強いひとのような気がする。
日本の道徳に、とてもとても、こだわっているので、かえって反発して、へんにどぎつくなっている作品が多かったような気がする。
原文を見る
日本の道徳に、とてもとても、こだわっているので、かえって反撥して、へんにどぎつくなっている作品が多かったような気がする。
愛情の深すぎる人に有りがちな偽悪趣味。
原文を見る
愛情の深すぎる人に有りがちな偽悪趣味。
わざと、あくどい鬼の面をかぶって、それでかえって作品を弱くしている。
原文を見る
わざと、あくどい鬼の面をかぶって、それでかえって作品を弱くしている。
けれども、この濹東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。
原文を見る
けれども、この濹東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。
私は、好きだ。
原文を見る
私は、好きだ。
お風呂がわいた。
原文を見る
お風呂がわいた。
お風呂場に電燈をつけて、着物を脱ぎ、窓を一ぱいに開け放してから、ひっそりお風呂にひたる。
原文を見る
お風呂場に電燈をつけて、着物を脱ぎ、窓を一ぱいに開け放してから、ひっそりお風呂にひたる。
珊瑚樹の青い葉が窓から覗いていて、一枚一枚の葉が、電燈の光を受けて、強く輝いている。
原文を見る
珊瑚樹の青い葉が窓から覗いていて、一枚一枚の葉が、電燈の光を受けて、強く輝いている。
空には星がキラキラ。
原文を見る
空には星がキラキラ。
なんど見直しても、キラキラ。
原文を見る
なんど見直しても、キラキラ。
仰向いたまま、うっとりしていると、自分のからだのほの白さが、わざと見ないのだが、それでも、ぼんやり感じられ、視野のどこかに、ちゃんとはいっている。
原文を見る
仰向いたまま、うっとりしていると、自分のからだのほの白さが、わざと見ないのだが、それでも、ぼんやり感じられ、視野のどこかに、ちゃんとはいっている。
なお、黙っていると、小さい時の白さと違うように思われて来る。
原文を見る
なお、黙っていると、小さい時の白さと違うように思われて来る。
いたたまらない。
原文を見る
いたたまらない。
肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。
原文を見る
肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。
めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。
原文を見る
めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。
なりゆきにまかせて、じっとして、自分が大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろうか。
原文を見る
なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろうか。
いつまでも、お人形みたいなからだでいたい。
原文を見る
いつまでも、お人形みたいなからだでいたい。
お湯をじゃぶじゃぶ掻きまわして、子供の振りをしてみても、なんとなく気が重い。
原文を見る
お湯をじゃぶじゃぶ掻きまわして、子供の振りをしてみても、なんとなく気が重い。
これから先、生きてゆく理由が無いような気がして来て、くるしくなる。
原文を見る
これからさき、生きてゆく理由が無いような気がして来て、くるしくなる。
庭の向こうの原っぱで、おねえちゃん!
原文を見る
庭の向こうの原っぱで、おねえちゃん!
と、半分泣きかけて呼ぶよその子供の声に、はっと胸を突かれた。
原文を見る
と、半分泣きかけて呼ぶ他所の子供の声に、はっと胸を突かれた。
私を呼んでいるのではないけれども、いまのあの子に泣きながら慕われているその「おねえちゃん」
原文を見る
私を呼んでいるのではないけれども、いまのあの子に泣きながら慕われているその「おねえちゃん」
を羨ましく思うのだ。
原文を見る
を羨しく思うのだ。
私にだって、あんなに慕って甘えてくれる弟が、ひとりでもあったなら、私は、こんなに一日一日、みっともなく、まごついて生きてはいない。
原文を見る
私にだって、あんなに慕って甘えてくれる弟が、ひとりでもあったなら、私は、こんなに一日一日、みっともなく、まごついて生きてはいない。
生きることに、ずいぶん張り合いも出て来るだろうし、一生涯を弟に捧げて、つくそうという覚悟だって、できるのだ。
原文を見る
生きることに、ずいぶん張り合いも出て来るだろうし、一生涯を弟に捧げて、つくそうという覚悟だって、できるのだ。
ほんとうに、どんなつらいことでも、堪えてみせる。
原文を見る
ほんとうに、どんなつらいことでも、堪えてみせる。
ひとり力んで、それから、つくづく自分を可哀想に思った。
原文を見る
ひとり力んで、それから、つくづく自分を可哀想に思った。
風呂からあがって、なんだか今夜は、星が気にかかって、庭に出てみる。
原文を見る
風呂からあがって、なんだか今夜は、星が気にかかって、庭に出てみる。
星が、降るようだ。
原文を見る
星が、降るようだ。
ああ、もう夏が近い。
原文を見る
ああ、もう夏が近い。
蛙があちこちで鳴いている。
原文を見る
蛙があちこちで鳴いている。
麦が、ざわざわいっている。
原文を見る
麦が、ざわざわいっている。
何回、振り仰いでみても、星がたくさん光っている。
原文を見る
何回、振り仰いでみても、星がたくさん光っている。
去年のこと、いや去年じゃない、もう、おととしになってしまった。
原文を見る
去年のこと、いや去年じゃない、もう、おととしになってしまった。
私が散歩に行きたいと無理言っていると、お父さん、病気だったのに、一緒に散歩に出て下さった。
原文を見る
私が散歩に行きたいと無理言っていると、お父さん、病気だったのに、一緒に散歩に出て下さった。
いつも若かったお父さん。
原文を見る
いつも若かったお父さん。
ドイツ語の「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」
原文を見る
ドイツ語の「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」
という意味だとかいう小唄を教えて下さったり、星のお話をしたり、即興の詩を作ってみせたり、ステッキついて、唾をピュッピュッ出し出し、あのパチクリをやりながら一緒に歩いて下さった、よいお父さん。
原文を見る
という意味とやらの小唄を教えて下さったり、星のお話をしたり、即興の詩を作ってみせたり、ステッキついて、唾をピュッピュッ出し出し、あのパチクリをやりながら一緒に歩いて下さった、よいお父さん。
黙って星を仰いでいると、お父さんのこと、はっきり思い出す。
原文を見る
黙って星を仰いでいると、お父さんのこと、はっきり思い出す。
あれから、一年、二年経って、私は、だんだんいけない娘になってしまった。
原文を見る
あれから、一年、二年経って、私は、だんだんいけない娘になってしまった。
ひとりきりの秘密を、たくさんたくさん持つようになりました。
原文を見る
ひとりきりの秘密を、たくさんたくさん持つようになりました。
お部屋へ戻って、机のまえに坐って頬杖つきながら、机の上の百合の花を眺める。
原文を見る
お部屋へ戻って、机のまえに坐って頬杖つきながら、机の上の百合の花を眺める。
いいにおいがする。
原文を見る
いいにおいがする。
百合のにおいをかいでいると、こうしてひとりで退屈していても、決してきたない気持が起きない。
原文を見る
百合のにおいをかいでいると、こうしてひとりで退屈していても、決してきたない気持が起きない。
この百合は、きのうの夕方、駅のほうまで散歩していって、そのかえりに花屋さんから一本買って来たのだけれど、それからは、この私の部屋は、まるっきり違った部屋みたいにすがすがしく、襖をするするとあけると、もう百合のにおいが、すっと感じられて、どんなに助かるかわからない。
原文を見る
この百合は、きのうの夕方、駅のほうまで散歩していって、そのかえりに花屋さんから一本買って来たのだけれど、それからは、この私の部屋は、まるっきり違った部屋みたいにすがすがしく、襖をするするとあけると、もう百合のにおいが、すっと感じられて、どんなに助かるかわからない。
こうして、じっと見ていると、ほんとうにソロモンの栄華以上だと、実感として、肉体の感覚として、うなずける。
原文を見る
こうして、じっと見ていると、ほんとうにソロモンの栄華以上だと、実感として、肉体感覚として、首肯される。
ふと、去年の夏の山形を思い出す。
原文を見る
ふと、去年の夏の山形を思い出す。
山に行ったとき、崖の中腹に、あんまりたくさん、百合が咲き乱れていたので驚いて、夢中になってしまった。
原文を見る
山に行ったとき、崖の中腹に、あんまりたくさん、百合が咲き乱れていたので驚いて、夢中になってしまった。
でも、その急な崖には、とてもよじ登ってゆくことができないのが、わかっていたから、どんなに惹かれても、ただ、見ているより仕方がなかった。
原文を見る
でも、その急な崖には、とてもよじ登ってゆくことができないのが、わかっていたから、どんなに魅かれても、ただ、見ているより仕方がなかった。
そのとき、ちょうど近くに居合せた見知らぬ坑夫が、黙ってどんどん崖によじ登っていって、そしてまたたく間に、いっぱい、両手で抱え切れないほど、百合の花を折って来てくれた。
原文を見る
そのとき、ちょうど近くに居合せた見知らぬ坑夫が、黙ってどんどん崖によじ登っていって、そしてまたたく中に、いっぱい、両手で抱え切れないほど、百合の花を折って来て呉れた。
そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせた。
原文を見る
そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせた。
それこそ、いっぱい、いっぱいだった。
原文を見る
それこそ、いっぱい、いっぱいだった。
どんな豪勢なステージでも、結婚式場でも、こんなにたくさんの花をもらった人はないだろう。
原文を見る
どんな豪勢なステージでも、結婚式場でも、こんなにたくさんの花をもらった人はないだろう。
花でめまいがするって、そのとき初めて味わった。
原文を見る
花でめまいがするって、そのとき初めて味わった。
その真白い大きい大きい花束を両腕をひろげてやっとこさ抱えると、前が全然見えなかった。
原文を見る
その真白い大きい大きい花束を両腕をひろげてやっとこさ抱えると、前が全然見えなかった。
親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。
原文を見る
親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。
花を、危ない所に行って取って来てくれた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。
原文を見る
花を、危ない所に行って取って来て呉れた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。
机の引き出しをあけて、かきまわしていたら、去年の夏の扇子が出て来た。
原文を見る
机の引き出しをあけて、かきまわしていたら、去年の夏の扇子が出て来た。
白い紙に、元禄時代の女のひとが行儀わるく坐り崩れて、その傍に、青いほおずきが二つ描き添えられて在る。
原文を見る
白い紙に、元禄時代の女のひとが行儀わるく坐り崩れて、その傍に、青い酸漿が二つ書き添えられて在る。
この扇子から、去年の夏が、ふうと煙みたいに立ちのぼる。
原文を見る
この扇子から、去年の夏が、ふうと煙みたいに立ちのぼる。
山形の生活、汽車の中、浴衣、西瓜、川、蝉、風鈴。
原文を見る
山形の生活、汽車の中、浴衣、西瓜、川、蝉、風鈴。
急に、これを持って汽車に乗りたくなってしまう。
原文を見る
急に、これを持って汽車に乗りたくなってしまう。
扇子をひらく感じって、よいもの。
原文を見る
扇子をひらく感じって、よいもの。
ぱらぱら骨がほどけていって、急にふわっと軽くなる。
原文を見る
ぱらぱら骨がほどけていって、急にふわっと軽くなる。
クルクルもてあそんでいたら、お母さん帰っていらした。
原文を見る
クルクルもてあそんでいたら、お母さん帰っていらした。
御機嫌がよい。
原文を見る
御機嫌がよい。
「ああ、疲れた、疲れた」
原文を見る
「ああ、疲れた、疲れた」
といいながら、そんなに不愉快そうな顔もしていない。
原文を見る
といいながら、そんなに不愉快そうな顔もしていない。
ひとの用事をしてあげるのがお好きなのだから仕方がない。
原文を見る
ひとの用事をしてあげるのがお好きなのだから仕方がない。
「なにしろ、話がややこしくて」
原文を見る
「なにしろ、話がややこしくて」
などと言いながら着物を着換えてお風呂へはいる。
原文を見る
など言いながら着物を着換えてお風呂へはいる。
お風呂から上がって、私と二人でお茶を飲みながら、へんにニコニコ笑って、お母さん何を言い出すかと思ったら、
原文を見る
お風呂から上がって、私と二人でお茶を飲みながら、へんにニコニコ笑って、お母さん何を言い出すかと思ったら、
「あなたは、こないだから『裸足の少女』を見たい見たいと言ってたでしょう? そんなに行きたいなら、行ってもよろしい。そのかわり、今晩は、ちょっとお母さんの肩をもんで下さい。働いて行くのなら、なおさら楽しいでしょう?」
原文を見る
「あなたは、こないだから『裸足の少女』を見たい見たいと言ってたでしょう? そんなに行きたいなら、行ってもよござんす。そのかわり、今晩は、ちょっとお母さんの肩をもんで下さい。働いて行くのなら、なおさら楽しいでしょう?」
もう私は嬉しくてたまらない。
原文を見る
もう私は嬉しくてたまらない。
「裸足の少女」
原文を見る
「裸足の少女」
という映画も見たいとは思っていたのだが、このごろ私は遊んでばかりいたので、遠慮していたのだ。
原文を見る
という映画も見たいとは思っていたのだが、このごろ私は遊んでばかりいたので、遠慮していたのだ。
それをお母さん、ちゃんと察して、私に用事を言いつけて、私が大手をふって映画見にゆけるように、しむけて下さった。
原文を見る
それをお母さん、ちゃんと察して、私に用事を言いつけて、私に大手をふって映画見にゆけるように、しむけて下さった。
ほんとうに、うれしく、お母さんが好きで、自然に笑ってしまった。
原文を見る
ほんとうに、うれしく、お母さんが好きで、自然に笑ってしまった。
お母さんと、こうして夜ふたりきりで暮すのも、ずいぶん久しぶりだったような気がする。
原文を見る
お母さんと、こうして夜ふたりきりで暮すのも、ずいぶん久しぶりだったような気がする。
お母さん、とても付き合いが多いのだから。
原文を見る
お母さん、とても交際が多いのだから。
お母さんだって、いろいろ世間から馬鹿にされまいと思って努めていらっしゃるのだろう。
原文を見る
お母さんだって、いろいろ世間から馬鹿にされまいと思って努めて居られるのだろう。
こうして肩をもんでいると、お母さんのお疲れが、私のからだに伝わって来るほど、よくわかる。
原文を見る
こうして肩をもんでいると、お母さんのお疲れが、私のからだに伝わって来るほど、よくわかる。
大事にしよう、と思う。
原文を見る
大事にしよう、と思う。
さっき、今井田が来ていたときに、お母さんを、こっそり恨んだことを、恥ずかしく思う。
原文を見る
先刻、今井田が来ていたときに、お母さんを、こっそり恨んだことを、恥ずかしく思う。
ごめんなさい、と口の中で小さく言ってみる。
原文を見る
ごめんなさい、と口の中で小さく言ってみる。
私は、いつも自分のことだけを考え、思って、お母さんには、やはり、しん底から甘えて乱暴な態度をとっている。
原文を見る
私は、いつも自分のことだけを考え、思って、お母さんには、やはり、しん底から甘えて乱暴な態度をとっている。
お母さんは、そのたびに、どんなに痛い苦しい思いをするか、そんなものは、てんで、はねつけている自分だ。
原文を見る
お母さんは、その都度、どんなに痛い苦しい思いをするか、そんなものは、てんで、はねつけている自分だ。
お父さんがいなくなってからは、お母さんは、ほんとうにお弱くなっているのだ。
原文を見る
お父さんがいなくなってからは、お母さんは、ほんとうにお弱くなっているのだ。
私自身、くるしいの、やりきれないのと言ってお母さんに完全にぶらさがっているくせに、お母さんが少しでも私に寄りかかったりすると、いやらしく、薄汚いものを見たような気持がするのは、本当に、わがまますぎる。
原文を見る
私自身、くるしいの、やりきれないのと言ってお母さんに完全にぶらさがっているくせに、お母さんが少しでも私に寄りかかったりすると、いやらしく、薄汚いものを見たような気持がするのは、本当に、わがまますぎる。
お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。
原文を見る
お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。
これからは、お母さんと二人だけの生活に満足し、いつもお母さんの気持になってあげて、昔の話をしたり、お父さんの話をしたり、一日でもよい、お母さん中心の日を作れるようにしたい。
原文を見る
これからは、お母さんと二人だけの生活に満足し、いつもお母さんの気持になってあげて、昔の話をしたり、お父さんの話をしたり、一日でもよい、お母さん中心の日を作れるようにしたい。
そうして、立派に生き甲斐を感じたい。
原文を見る
そうして、立派に生き甲斐を感じたい。
お母さんのことを、心では、心配したり、よい娘になろうと思うのだけれど、行動や、言葉に出る私は、わがままな子供ばっかりだ。
原文を見る
お母さんのことを、心では、心配したり、よい娘になろうと思うのだけれど、行動や、言葉に出る私は、わがままな子供ばっかりだ。
それに、このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。
原文を見る
それに、このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。
汚れて、恥ずかしいことばかりだ。
原文を見る
汚れて、恥ずかしいことばかりだ。
くるしみがあるの、悩んでいるの、寂しいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。
原文を見る
くるしみがあるの、悩んでいるの、寂しいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。
はっきり言ったら、死ぬ。
原文を見る
はっきり言ったら、死ぬる。
ちゃんと知っていながら、ひと言だって、それに似た名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せないじゃないか。
原文を見る
ちゃんと知っていながら、一ことだって、それに似た名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せないじゃないか。
ただ、どぎまぎして、おしまいには、かっとなって、まるでなにかみたいだ。
原文を見る
ただ、どぎまぎして、おしまいには、かっとなって、まるでなにかみたいだ。
むかしの女は、奴隷とか、自己を無視している虫けらとか、人形とか、悪口言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、忍従を爽やかにさばいて行けるだけの知恵もあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に無報酬の、奉仕のよろこびもわきまえていたのだ。
原文を見る
むかしの女は、奴隷とか、自己を無視している虫けらとか、人形とか、悪口言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、忍従を爽やかにさばいて行けるだけの叡智もあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に無報酬の、奉仕のよろこびもわきまえていたのだ。
「ああ、いいアンマさんだ。天才ですね」
原文を見る
「ああ、いいアンマさんだ。天才ですね」
お母さんは、いつものように私をからかう。
原文を見る
お母さんは、れいによって私をからかう。
「そうでしょう? 心がこもっていますからね。でも、あたしの取柄は、アンマ上下、それだけじゃないんですよ。それだけじゃ、心細いわねえ。もっと、いいとこもあるんです」
原文を見る
「そうでしょう? 心がこもっていますからね。でも、あたしの取柄は、アンマ上下、それだけじゃないんですよ。それだけじゃ、心細いわねえ。もっと、いいとこもあるんです」
素直に思っていることを、そのまま言ってみたら、それは私の耳にも、とっても爽やかに響いて、この二、三年、私が、こんなに、無邪気に、ものをはきはき言えたことは、なかった。
原文を見る
素直に思っていることを、そのまま言ってみたら、それは私の耳にも、とっても爽やかに響いて、この二、三年、私が、こんなに、無邪気に、ものをはきはき言えたことは、なかった。
自分の分を、はっきり知ってあきらめたときに、はじめて、平静な新しい自分が生れて来るのかも知れない、と嬉しく思った。
原文を見る
自分のぶんを、はっきり知ってあきらめたときに、はじめて、平静な新しい自分が生れて来るのかも知れない、と嬉しく思った。
今夜はお母さんに、いろいろの意味でお礼もあって、アンマがすんでから、オマケとして、クオレを少し読んであげる。
原文を見る
今夜はお母さんに、いろいろの意味でお礼もあって、アンマがすんでから、オマケとして、クオレを少し読んであげる。
お母さんは、私がこんな本を読んでいるのを知ると、やっぱり安心なような顔をなさるが、先日私が、ケッセルの昼顔を読んでいたら、そっと私から本を取りあげて、表紙をちらっと見て、とても暗い顔をなさって、けれども何も言わずに黙って、そのまますぐに本をかえして下さったけれど、私もなんだか、いやになって続けて読む気がしなくなった。
原文を見る
お母さんは、私がこんな本を読んでいるのを知ると、やっぱり安心なような顔をなさるが、先日私が、ケッセルの昼顔を読んでいたら、そっと私から本を取りあげて、表紙をちらっと見て、とても暗い顔をなさって、けれども何も言わずに黙って、そのまますぐに本をかえして下さったけれど、私もなんだか、いやになって続けて読む気がしなくなった。
お母さん、昼顔を読んだことが無いはずなのに、それでも勘で、わかるらしいのだ。
原文を見る
お母さん、昼顔を読んだことが無いはずなのに、それでも勘で、わかるらしいのだ。
夜、静かな中で、ひとりで声たててクオレを読んでいると、自分の声がとても大きく間抜けてひびいて、読みながら、ときどき、くだらなくなって、お母さんに恥ずかしくなってしまう。
原文を見る
夜、静かな中で、ひとりで声たててクオレを読んでいると、自分の声がとても大きく間抜けてひびいて、読みながら、ときどき、くだらなくなって、お母さんに恥ずかしくなってしまう。
あたりが、あんまり静かなので、ばかばかしさが目立つ。
原文を見る
あたりが、あんまり静かなので、ばかばかしさが目立つ。
クオレは、いつ読んでも、小さい時に読んで受けた感激とちっとも変らない感激を受けて、自分の心も、素直に、きれいになるような気がして、やっぱりいいなと思うのであるが、どうも、声を出して読むのと、目で読むのとでは、ずいぶん感じがちがうので、驚き、閉口の形である。
原文を見る
クオレは、いつ読んでも、小さい時に読んで受けた感激とちっとも変らぬ感激を受けて、自分の心も、素直に、きれいになるような気がして、やっぱりいいなと思うのであるが、どうも、声を出して読むのと、目で読むのとでは、ずいぶん感じがちがうので、驚き、閉口の形である。
でも、お母さんは、エンリコのところや、ガロオンのところでは、うつむいて泣いていらした。
原文を見る
でも、お母さんは、エンリコのところや、ガロオンのところでは、うつむいて泣いて居られた。
うちのお母さんも、エンリコのお母さんのように立派な美しいお母さんである。
原文を見る
うちのお母さんも、エンリコのお母さんのように立派な美しいお母さんである。
お母さんは、さきにおやすみ。
原文を見る
お母さんは、さきにおやすみ。
けさ早くからお出掛けだったから、ずいぶん疲れたことと思う。
原文を見る
けさ早くからお出掛けだったゆえ、ずいぶん疲れたことと思う。
お布団を直してあげて、お布団の裾のところをハタハタ叩いてあげる。
原文を見る
お蒲団を直してあげて、お蒲団の裾のところをハタハタ叩いてあげる。
お母さんは、いつでも、お床へはいるとすぐ眼をつぶる。
原文を見る
お母さんは、いつでも、お床へはいるとすぐ眼をつぶる。
私は、それから風呂場でお洗濯。
原文を見る
私は、それから風呂場でお洗濯。
このごろ、へんな癖で、十二時ちかくなってお洗濯をはじめる。
原文を見る
このごろ、へんな癖で、十二時ちかくなってお洗濯をはじめる。
昼間じゃぶじゃぶやって時間をつぶすの、惜しいような気がするのだけれど、反対かも知れない。
原文を見る
昼間じゃぶじゃぶやって時間をつぶすの、惜しいような気がするのだけれど、反対かも知れない。
窓からお月様が見える。
原文を見る
窓からお月様が見える。
しゃがんで、しゃッしゃッと洗いながら、お月様に、そっと笑いかけてみる。
原文を見る
しゃがんで、しゃッしゃッと洗いながら、お月様に、そっと笑いかけてみる。
お月様は、知らぬ顔をしていた。
原文を見る
お月様は、知らぬ顔をしていた。
ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって裏口でお洗濯している、くるしい娘さんが、いま、いるのだ、それから、パリイの裏町の汚いアパアトの廊下で、やはり私と同じ年の娘さんが、ひとりでこっそりお洗濯して、このお月様に笑いかけた、とちっとも疑うところなく、望遠鏡でほんとに見とどけてしまったように、色彩も鮮明にくっきり思い浮かぶのである。
原文を見る
ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって背戸でお洗濯している、くるしい娘さんが、いま、いるのだ、それから、パリイの裏町の汚いアパアトの廊下で、やはり私と同じとしの娘さんが、ひとりでこっそりお洗濯して、このお月様に笑いかけた、とちっとも疑うところなく、望遠鏡でほんとに見とどけてしまったように、色彩も鮮明にくっきり思い浮かぶのである。
私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。
原文を見る
私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。
いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、おかしなものだった、となんでもなく思い出せるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い嫌な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。
原文を見る
いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。
誰も教えてくれないのだ。
原文を見る
誰も教えて呉れないのだ。
ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。
原文を見る
ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。
でも、ハシカで死ぬ人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。
原文を見る
でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。
放って置くのは、いけないことだ。
原文を見る
放って置くのは、いけないことだ。
私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。
原文を見る
私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。
また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。
原文を見る
また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。
そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに悔しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいすっぽかしをくっているのだ。
原文を見る
そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。
私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。
原文を見る
私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。
きっと、誰かが間違っている。
原文を見る
きっと、誰かが間違っている。
わるいのは、あなただ。
原文を見る
わるいのは、あなただ。
お洗濯をすまして、お風呂場のお掃除をして、それから、こっそりお部屋の襖をあけると、百合のにおい。
原文を見る
お洗濯をすまして、お風呂場のお掃除をして、それから、こっそりお部屋の襖をあけると、百合のにおい。
すっとした。
原文を見る
すっとした。
心の底まで透明になってしまって、崇高なニヒル、とでもいったような具合いになった。
原文を見る
心の底まで透明になってしまって、崇高なニヒル、とでもいったような工合いになった。
しずかに寝巻に着換えていたら、いままですやすや眠ってるとばかり思っていたお母さん、目をつぶったまま突然言い出したので、びくっとした。
原文を見る
しずかに寝巻に着換えていたら、いままですやすや眠ってるとばかり思っていたお母さん、目をつぶったまま突然言い出したので、びくっとした。
お母さん、ときどきこんなことをして、私をおどろかす。
原文を見る
お母さん、ときどきこんなことをして、私をおどろかす。
「夏の靴がほしいと言っていたから、きょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。靴も、高くなったねえ」
原文を見る
「夏の靴がほしいと言っていたから、きょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。靴も、高くなったねえ」
「いいの、そんなに欲しくなくなったの」
原文を見る
「いいの、そんなに欲しくなくなったの」
「でも、なければ、困るでしょう」
原文を見る
「でも、なければ、困るでしょう」
「うん」
原文を見る
「うん」
明日もまた、同じ日が来るのだろう。
原文を見る
明日もまた、同じ日が来るのだろう。
幸福は一生、来ないのだ。
原文を見る
幸福は一生、来ないのだ。
それは、わかっている。
原文を見る
それは、わかっている。
けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。
原文を見る
けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。
わざと、どさんと大きい音たてて布団にたおれる。
原文を見る
わざと、どさんと大きい音たてて蒲団にたおれる。
ああ、いい気持だ。
原文を見る
ああ、いい気持だ。
布団が冷たいので、背中がほどよくひんやりして、ついうっとりなる。
原文を見る
蒲団が冷いので、背中がほどよくひんやりして、ついうっとりなる。
幸福は一夜おくれて来る。
原文を見る
幸福は一夜おくれて来る。
ぼんやり、そんな言葉を思い出す。
原文を見る
ぼんやり、そんな言葉を思い出す。
幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。
原文を見る
幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。
幸福は一夜おくれて来る。
原文を見る
幸福は一夜おくれて来る。
幸福は、――
原文を見る
幸福は、――
お庭をカアの歩く足音がする。
原文を見る
お庭をカアの歩く足音がする。
パタパタパタパタ、カアの足音には、特徴がある。
原文を見る
パタパタパタパタ、カアの足音には、特徴がある。
右の前足が少し短く、それに前足はO型でがに股だから、足音にも寂しい癖があるのだ。
原文を見る
右の前足が少し短く、それに前足はO型でガニだから、足音にも寂しい癖があるのだ。
よくこんな真夜中に、お庭を歩きまわっているけれど、何をしているのかしら。
原文を見る
よくこんな真夜中に、お庭を歩きまわっているけれど、何をしているのかしら。
カアは、可哀想。
原文を見る
カアは、可哀想。
けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます。
原文を見る
けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます。
私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。
原文を見る
私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。
顔を覆って、じっとしている。
原文を見る
顔を覆って、じっとしている。
眠りに落ちるときの気持って、へんなものだ。
原文を見る
眠りに落ちるときの気持って、へんなものだ。
鮒か、うなぎか、ぐいぐい釣糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。
原文を見る
鮒か、うなぎか、ぐいぐい釣糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。
すると、私は、はっと気を取り直す。
原文を見る
すると、私は、はっと気を取り直す。
また、ぐっと引く。
原文を見る
また、ぐっと引く。
とろとろ眠る。
原文を見る
とろとろ眠る。
また、ちょっと糸を放す。
原文を見る
また、ちょっと糸を放す。
そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、はじめて、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。
原文を見る
そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、はじめて、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。
おやすみなさい。
原文を見る
おやすみなさい。
私は、王子さまのいないシンデレラ姫。
原文を見る
私は、王子さまのいないシンデレラ姫。
あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?
原文を見る
あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?
もう、ふたたびお目にかかりません。
原文を見る
もう、ふたたびお目にかかりません。