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人間失格 小学生向け

太宰治だざいおさむ)・1952

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

はしがき

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はしがき

私は、その男の写真を三枚、見たことがある。

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私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

一枚目は、その男の子どものころ、十歳くらいのときの写真だろう。その子は大勢の女の人にかこまれて(お姉さんたち、妹たち、いとこたちだろうと思われる)、庭の池のそばに、あらい縞(しま)の袴(はかま・和服のズボンのようなもの)をはいて立ち、首を三十度くらい左にかたむけて、醜く(みにくく)笑っている写真である。

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一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞のはかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。

みにくく?

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醜く?

けれども、鈍い(にぶい)人たち、つまり、顔が美しいかどうかなど気にしない人たちは、おもしろくも何ともないような顔をして、

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 けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、

「かわいい坊ちゃんですね」

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「可愛い坊ちゃんですね」

と、いいかげんなお世辞を言っても、まるっきりのうそには聞こえないくらいの、いわばふつうの「かわいらしさ」

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といい加減なお世辞を言っても、まんざらからお世辞に聞えないくらいの、わば通俗の「可愛らしさ」

みたいなかげも、その子どもの笑顔に無いわけではない。しかし、少しでも、顔の美しさ・みにくさを見分ける目を持っている人なら、ひと目見てすぐ、

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みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、

「なんて、いやな子どもだ」

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「なんて、いやな子供だ」

と、とても不快そうにつぶやき、毛虫でも払いのけるときのような手つきで、その写真をほうり投げるかもしれない。

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すこぶる不快そうにつぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

まったく、その子どもの笑顔は、よく見れば見るほど、何ともいえず、いやな薄気味悪い(うすきみわるい)ものが感じられてくる。

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まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。

そもそも、それは、笑顔ではない。

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どだい、それは、笑顔でない。

この子は、少しも笑ってはいないのだ。

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この子は、少しも笑ってはいないのだ。

その証拠に、この子は、両方のこぶしをかたく握って立っている。

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その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。

人間は、こぶしをかたく握りながら笑えるものではないのである。

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人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。

猿だ。

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猿だ。

猿の笑顔だ。

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猿の笑顔だ。

ただ、顔にみにくい皺(しわ)を寄せているだけなのである。

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ただ、顔に醜いしわを寄せているだけなのである。

「しわくちゃ坊ちゃん」

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「皺くちゃ坊ちゃん」

とでも言いたくなるくらいの、実に奇妙(きみょう)な、そして、どこかけがらわしく、へんに人をムカムカさせる表情の写真であった。

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とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。

私はこれまで、こんな不思議な表情の子どもを見たことが、一度もなかった。

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私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。

二枚目の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変わっていた。

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第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。

学生の姿である。

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学生の姿である。

高等学校のころの写真か、大学のころの写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく顔立ちの美しい学生である。

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高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。

しかし、これもまた、不思議なことに、生きている人間の感じはしなかった。

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しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。

学生服を着て、胸のポケットから白いハンカチをのぞかせ、籐椅子(とういす・籐というつるでできたいす)に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。

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学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチをのぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。

今度の笑顔は、しわくちゃの猿の笑いではなく、かなり上手な微笑(びしょう)になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこか違う。

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こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。

血の重さ、とでも言おうか、命の渋み(しぶみ・深みのある味わい)、とでも言おうか、そのような充実感は少しもなく、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白い紙一枚のようで、そうして、笑っている。

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血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。

つまり、何から何まで作り物の感じなのである。

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つまり、一から十まで造り物の感じなのである。

キザと言っても足りない。

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キザと言っても足りない。

軽薄(けいはく・ちゃらちゃらして中身がないこと)と言っても足りない。

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軽薄と言っても足りない。

ニヤケと言っても足りない。

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ニヤケと言っても足りない。

おしゃれと言っても、もちろん足りない。

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おしゃれと言っても、もちろん足りない。

しかも、よく見ていると、やはりこの美しい学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感じられてくるのである。

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しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。

私はこれまで、こんな不思議なほど美しい青年を見たことが、一度もなかった。

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私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。

もう一枚の写真は、最も奇怪(きかい・とても不思議で気味が悪いこと)なものである。

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もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。

まるでもう、年のころがわからない。

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まるでもう、としの頃がわからない。

頭はいくぶん白髪(しらが)のようである。

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頭はいくぶん白髪のようである。

それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三か所ほど崩れ落ちているのが、その写真にはっきり写っている)の片すみで、小さい火鉢(ひばち・炭で手を温める道具)に両手をかざし、今度は笑っていない。

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それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。

どんな表情もない。

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どんな表情も無い。

いわば、すわって火鉢に両手をかざしながら、そのまま自然に死んでいるような、実にいまわしい(いやな感じのする)、不吉なにおいのする写真であった。

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謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。

奇怪なのは、それだけではない。

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奇怪なのは、それだけでない。

その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔のつくりを調べることができたのだが、額はふつう、額の皺(しわ)もふつう、眉もふつう、目もふつう、鼻も口も顎(あご)も、ああ、この顔には表情がないばかりか、印象さえない。

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その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口もあごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。

特徴がないのだ。

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特徴が無いのだ。

たとえば、私がこの写真を見て、目をつぶる。

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たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。

もう私はこの顔を忘れている。

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既に私はこの顔を忘れている。

部屋の壁や、小さい火鉢は思い出すことができるけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと消えてしまって、どうしても、何としても思い出せない。

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部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。

絵にならない顔である。

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画にならない顔である。

漫画にも何にもならない顔である。

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漫画にも何もならない顔である。

目をひらく。

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眼をひらく。

ああ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえない。

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あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。

思いきった言い方をすれば、目をひらいてその写真をもう一度見ても、思い出せない。

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極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。

そうして、ただもう不愉快で、イライラして、つい目をそむけたくなる。

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そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。

いわゆる「死相(しそう・死ぬ間際の人の顔つき)」

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所謂いわゆる「死相」

というものにだって、もっと何か表情や印象があるものだろうに。人間のからだに、つまらない馬の首でもくっつけたなら、こんな感じになるのだろうか。とにかく、どこがどうというわけでもなく、見る人をぞっとさせ、いやな気持ちにさせるのだ。

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というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。

私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見たことが、やはり、一度もなかった。

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私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。

第一の手記

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第一の手記

恥の多い一生を送ってきました。

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恥の多い生涯を送って来ました。

自分には、人間の暮らしというものが、見当がつかないのです。

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自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

自分は東北の田舎に生まれましたので、汽車をはじめて見たのは、だいぶ大きくなってからでした。

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自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。

自分は駅の陸橋(りっきょう・線路をまたぐ橋)を、上って、降りて、それが線路をまたぎ越えるために造られたものだとは全然気づかず、ただそれは駅の中を外国の遊び場みたいに、複雑で楽しく、しゃれた感じにするためだけに、造られているものだとばかり思っていました。

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自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。

しかも、かなり長い間そう思っていたのです。

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しかも、かなり永い間そう思っていたのです。

陸橋を上ったり降りたりするのは、自分にはむしろ、ずいぶんおしゃれな遊びで、それは鉄道のサービスの中でも、いちばん気の利いたサービスの一つだと思っていたのですが、あとでそれはただ乗客が線路をまたぎ越えるための、とても実用的な階段に過ぎないと知って、急に興ざめしました。

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ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

また、自分は子どもの頃、絵本で地下鉄というものを見て、これもやはり、実用的な必要から考え出されたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが変わっていておもしろい遊びだから、とばかり思っていました。

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また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。

自分は子どもの頃から体が弱く、よく寝込みましたが、寝ながら、シーツや、枕カバー、掛け布団のカバーを、つくづく、つまらない飾りだと思っていました。それが案外に実用品だったことを、二十歳近くになってわかって、人間の暮らしのつつましさ(つましさ・むだをしないこと)に、がっかりして、悲しい思いをしました。

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自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

また、自分は、空腹ということを知りませんでした。

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また、自分は、空腹という事を知りませんでした。

いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんなばかな意味ではなく、自分には「空腹」

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いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」

という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。

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という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。

へんな言い方ですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。

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へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。

小学校、中学校のころ、自分が学校から帰ってくると、周りの人たちが、それ、おなかが空いただろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰ってきたときの空腹は本当にひどいからな、甘納豆(あまなっとう)はどう?

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小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう?

カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぐので、自分は生まれつきの人にこびる気持ちを発揮して、おなかが空いた、とつぶやいて、甘納豆を十粒ほど口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていなかったのです。

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 カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

自分だって、もちろん、たくさんものを食べますが、しかし、空腹を感じて、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。

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自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。

めずらしいと思ったものを食べます。

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めずらしいと思われたものを食べます。

ぜいたくだと思ったものを食べます。

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豪華と思われたものを食べます。

また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。

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また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。

そうして、子どもの頃の自分にとって、いちばんつらい時間は、実は、自分の家の食事の時間でした。

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そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。

自分の田舎の家では、十人くらいの家族全員が、それぞれのお膳(ぜん・食事を乗せる小さい台)を二列に向かい合わせに並べて食事をしました。末っ子の自分は、もちろんいちばん下の席でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんのときなど、十何人もの家族が、ただ黙々とごはんを食べている様子には、自分はいつも肌寒い思いをしました。

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自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのおぜんを二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。

それに田舎の昔ながらの家でしたので、おかずも、たいてい決まっていて、めずらしいもの、ぜいたくなもの、そんなものは望めなかったので、ますます自分は食事の時間がこわくなりました。

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それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。

自分はその薄暗い部屋のいちばん下の席で、寒さにがたがた震える思いで、口にごはんを少しずつ運び、押し込みました。人間は、どうして一日に三度も三度もごはんを食べるのだろう、みな本当にまじめな顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が一日に三度、時間を決めて薄暗い一部屋に集まり、お膳を順序よく並べ、食べたくなくても黙ってごはんをかみながら、うつむいて、家じゅうにうごめいている霊たちに祈るためのものかもしれない、とさえ考えたことがあるくらいでした。

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自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんをみながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。

ごはんを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただいやなおどかしとしか聞こえませんでした。

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めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。

その迷信(めいしん・根拠のない思いこみ)は、(今でも自分には、何だか迷信のように思えてならないのですが)しかし、いつも自分に不安とおそろしさを与えました。

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その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。

人間は、ごはんを食べなければ死ぬから、そのために働いて、ごはんを食べなければならない、という言葉ほど、自分にとってわかりにくく、おどしめいた響きを感じさせる言葉は、ありませんでした。

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人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

つまり自分には、人間の暮らしというものが、いまだに何もわかっていない、ということになりそうです。

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つまり自分には、人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。

自分の幸福についての考えと、世の中のすべての人たちの幸福についての考えとが、まるで食いちがっているような不安。自分はその不安のために毎晩、ねむれずに寝返りを打ち、うなり苦しみ、気が狂いかけたことさえあります。

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自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。

自分は、いったい幸福なのでしょうか。

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自分は、いったい幸福なのでしょうか。

自分は小さい時から、実によく、幸せ者だと人に言われてきましたが、自分ではいつも地獄のような気持ちで、かえって、自分を幸せ者だと言った人たちのほうが、くらべものにならないくらい、ずっとずっと楽そうに自分には見えるのです。

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自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

自分には、災い(わざわい)のかたまりが十個あって、その中の一個だけでも、隣の人が背負ったら、それだけで十分に、隣の人の命を奪うことになるのではないかと、思ったことさえありました。

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自分には、わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。

つまり、わからないのです。

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つまり、わからないのです。

隣の人の苦しみがどんなもので、どれくらいなのか、まるで見当がつかないのです。

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隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。

実際に役立つだけの苦しみ、ただ、ごはんが食べられればそれで解決できる苦しみ。しかし、それこそがいちばん強い苦しみで、自分のあの十個の災いなど、吹き飛んでしまうほどの、むごたらしい地獄なのかもしれない。それは、わからない。しかし、それにしては、よく自殺もせず、気も狂わず、政治の話をし、絶望せず、くじけずに暮らしのたたかいを続けていける、苦しくないんじゃないか?

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プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?

エゴイスト(自分のことしか考えない人)になりきって、しかもそれを当然のことだと信じきって、一度も自分を疑ったことがないんじゃないか?

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 エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?

それなら、楽だ。しかし、人間というものは、みんなそんなもので、またそれで十分なのではないかしら。わからない。……夜はぐっすり眠り、朝はさわやかな気持ちなのかしら。どんな夢を見ているのだろう。道を歩きながら何を考えているのだろう。お金?

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 それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金?

まさか、それだけでもないだろう。人間は、ごはんを食べるために生きているのだ、という考え方は聞いたことがあるような気がするけれど、お金のために生きている、という言葉は、耳にしたことがない。いや、しかし、場合によっては、……いや、それもわからない。……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとりだけまったく変わっているような、不安とおそろしさに襲われるばかりなのです。

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 まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。

自分は隣の人と、ほとんど会話ができません。

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自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。

何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

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何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

そこで考え出したのは、道化(どうけ・おどけてみんなを笑わせること)でした。

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そこで考え出したのは、道化でした。

それは、自分が、人間に対して行う最後の求愛でした。

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それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

自分は、人間をこの上なくおそれていながら、それでいて、人間のことを、どうしてもあきらめきれなかったようなのです。

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自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。

そうして自分は、この道化という一本の糸で、かろうじて人間とつながることができたのでした。

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そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。

表では、絶えず笑顔をつくりながらも、心の中は必死で、それこそ千回に一回の綱わたりとでもいうべき、あぶない、冷や汗を流してのサービスでした。

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おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

自分は子どもの頃から、自分の家族に対してさえ、彼らがどんなに苦しく、またどんなことを考えて生きているのか、まるでちっとも見当がつかず、ただおそろしく、その気まずさにたえることができず、もう道化がうまくなっていました。

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自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。

つまり、自分は、いつの間にか、一言も本当のことを言わない子になっていたのです。

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つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

その頃の、家族と一緒に写した写真などを見ると、ほかの人たちはみんなまじめな顔をしているのに、自分ひとりだけ、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。

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その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。

これもまた、自分の幼く悲しい道化の一つでした。

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これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。

また自分は、家族に何か言われて、口答えしたことは一度もありませんでした。

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また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。

そのわずかなお小言(こごと)は、自分には雷が落ちたかのように強く感じられ、気が狂うみたいになり、口答えどころか、そのお小言こそ、いわば昔から変わらぬ人間の「真理」

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そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」

とかいうものに違いない。自分にはその真理を行う力がないのだから、もう人間と一緒に暮らせないのではないかしら、と思いこんでしまうのでした。

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とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。

だから自分には、言い争いも言い訳もできないのでした。

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だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。

人から悪く言われると、いかにも、もっともだ、自分がひどい思い違いをしているような気がしてきて、いつもその攻撃を黙って受け、心の中では、気が狂うほどのおそろしさを感じました。

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人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。

それは誰でも、人から責められたり、怒られたりして、いい気持ちがするものではないかもしれませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子(しし・ライオン)よりも鰐(わに)よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。

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それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりもわによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。

ふだんは、その本性を隠しているようですけれども、何かのきっかけで、たとえば、牛が草原でのんびりと寝ていて、突然、尻尾でピシッとお腹の虻(あぶ)を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りによってあらわにする様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどのおそろしさを覚え、この本性もまた人間が生きていくための資格の一つなのかもしれないと思うと、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。

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ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹のあぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。

人間に対して、いつもおそろしさに震えおののき、また、人間としての自分の言葉や行いに、少しも自信が持てず、そうして自分ひとりの悩み苦しみは胸の中の小箱にしまいこみ、その憂鬱(ゆううつ)、神経質さを、ひたすら隠して、ひたすら無邪気な明るさを装い、自分はおどけた変わり者として、次第にできあがっていきました。

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人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

何でもいいから、笑わせておけばいいのだ。そうすると、人間たちは、自分が彼らのいわゆる「生活」

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何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」

の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら。とにかく、彼ら人間たちの邪魔になってはいけない。自分は無だ、風だ、空だ、というような思いばかりがつのり、自分は道化によって家族を笑わせ、また、家族よりも、もっとわけがわからずおそろしい、家で働く男や女の使用人にまで、必死の道化のサービスをしたのです。

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の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。

自分は夏に、浴衣(ゆかた)の下に赤い毛糸のセーターを着て廊下を歩き、家じゅうの者を笑わせました。

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自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。

めったに笑わない長男の兄も、それを見て吹き出し、

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めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、

「それあ、葉ちゃん、似合わない」

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「それあ、葉ちゃん、似合わない」

と、かわいくてたまらないような口調で言いました。

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と、可愛くてたまらないような口調で言いました。

なに、自分だって、真夏に毛糸のセーターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを感じない変わり者ではありません。

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なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。

姉の脚絆(レギンス)を両腕にはめて、浴衣の袖口からのぞかせて、それでセーターを着ているように見せかけていたのです。

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姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、もってセエターを着ているように見せかけていたのです。

自分の父は、東京に用事の多い人でしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月のほとんどを東京のその別荘で暮らしていました。

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自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。

そうして帰るときには、家族はもちろん、親戚の人たちにまで、実にたくさんのお土産を買ってくるのが、まあ、父の趣味のようなものでした。

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そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。

ある年、父が東京へ行く前の晩、父は子どもたちを客間に集めて、今度帰るときには、どんなお土産がいいか、一人一人に笑いながらたずね、その答えをいちいち手帳に書きとめるのでした。

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いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。

父が、こんなに子どもたちと親しくするのは、めずらしいことでした。

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父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。

「葉蔵は?」

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「葉蔵は?」

と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

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と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。

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何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。

どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんかないんだ、という思いが、ちらりと胸をよぎるのです。

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どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。

それと同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、断ることもできませんでした。

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と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。

いやなことを、いやと言えず、また、好きなことも、おずおずと盗むように、ひどく苦く味わい、そうして言いようのないおそろしさに、もだえるのでした。

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イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがくあじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。

つまり、自分には、二つのうちからどちらかを選ぶ力さえ、なかったのです。

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つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。

これが、のちのちになって、いよいよ自分のいわゆる「恥の多い一生」

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これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」

の、重大な原因ともなる性質の一つだったように思われます。

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の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。

自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、

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自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、

「やはり、本か。浅草の仲店(なかみせ・浅草寺の参道の店並み)に、お正月の獅子舞いの獅子頭、子どもがかぶって遊ぶのにちょうどいい大きさのものが売っていたけど、欲しくないか」

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「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」

欲しくないか、と言われると、もうだめなんです。

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欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。

おどけた返事も何もできやしないんです。

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お道化た返事も何も出来やしないんです。

道化役者としては、完全に落第でした。

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お道化役者は、完全に落第でした。

「本が、いいでしょう」

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「本が、いいでしょう」

長男の兄は、まじめな顔をして言いました。

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長兄は、まじめな顔をして言いました。

「そうか」

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「そうか」

父は、興ざめした顔で、手帳に書きとめもせず、パチンと手帳を閉じました。

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父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。

何という失敗、自分は父を怒らせた、父のしかえしは、きっと、おそろしいものに違いない、今のうちに何とかして取りかえしをつけられないものか、とその夜、布団の中でがたがた震えながら考えました。そっと起きて客間に行き、父がさっき手帳をしまいこんだはずの机の引き出しをあけて、手帳を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文を書きこんだところを見つけ、手帳の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。

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何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。

自分はその獅子舞いの獅子頭を、ちっとも欲しくはなかったのです。

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自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。

かえって、本のほうがいいくらいでした。

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かえって、本のほうがいいくらいでした。

けれども、自分は、父がその獅子頭を自分に買って与えたいのだということに気がついて、父のその望みに合わせて、父の機嫌を直したいばかりに、真夜中、客間に忍びこむという冒険を、あえておかしたのでした。

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けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。

そうして、自分のこの思いきった手段は、はたして思いどおりの大成功で報われました。

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そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。

やがて、父は東京から帰ってきて、母に大声で言っているのを、自分は子ども部屋で聞いていました。

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やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。

「仲店のおもちゃ屋で、この手帳を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当たりました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いたときには、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしても獅子頭が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変わった坊主ですからね。知らんふりして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばいいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」

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「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」

また一方で、自分は、家の使用人たちを洋室に集めて、男の使用人のひとりに、めちゃくちゃにピアノの鍵盤をたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものがそろっていました)自分はそのでたらめな曲に合わせて、インディアンの踊りを踊ってみせて、みんなを大笑いさせました。

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また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。

次男の兄は、フラッシュをたいて、自分のインディアン踊りを撮影しました。その写真ができたのを見ると、自分の腰に巻いた布(それは更紗(さらさ・色や模様を染めた布)の風呂敷でした)の合わせ目から、小さいおちんちんが見えていたので、これがまた家じゅうの大笑いでした。

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次兄は、フラッシュをいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。

自分にとって、これもまた思いがけない成功というべきものだったかもしれません。

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自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。

自分は毎月、新しく出る少年雑誌を十冊以上もとっていて、またそのほかにも、さまざまな本を東京から取り寄せて、黙って読んでいました。ですから、メチャラクチャラ博士だの、ナンジャモンジャ博士だの(当時の雑誌に出てきた、こっけいな博士のキャラクター)とは、たいへん仲良しで、また、怪談、講談、落語、江戸の小噺(こばなし)などの類にも、かなり通じていましたから、おかしなことをまじめな顔で言って、家の者たちを笑わせることには困りませんでした。

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自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またそのほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。

しかし、ああ、学校!

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しかし、嗚呼ああ、学校!

自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。

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自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。

尊敬されるという考えもまた、ひどく自分を、おびえさせました。

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尊敬されるという観念もまた、はなはだ自分を、おびえさせました。

ほとんど完璧に近く人をだまして、そうして、あるひとりの何でも知っている力を持った者に見破られ、こなごなにやられて、死ぬ以上の大恥をかかされる。それが、「尊敬される」

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ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」

という状態についての、自分なりの意味づけでした。

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という状態の自分の定義でありました。

人間をだまして、「尊敬され」

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人間をだまして、「尊敬され」

ても、誰かひとりは知っている。そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされたことに気づいたとき、そのときの人間たちの怒り、しかえしは、いったい、まあ、どんなでしょうか。

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ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。

想像しただけでも、身の毛がよだつ気持ちがするのです。

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想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

自分は、お金持ちの家に生まれたということよりも、世間でよく言う「できる」

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自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」

ことによって、学校じゅうの尊敬を集めそうになりました。

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事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。

自分は、子どもの頃から体が弱く、よく一か月、二か月、また一学年近くも寝込んで学校を休んだことさえあったのですが、それでも、病み上がりのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも、いわゆる「できて」

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自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」

いるようでした。

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いるようでした。

からだの具合のよいときでも、自分は、ちっとも勉強せず、学校へ行っても授業中に漫画などを描き、休み時間にはそれをクラスの子たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。

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からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。

また、作文には、おかしな話ばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。

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また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。

先生が、実はこっそり自分のそのおかしな話を楽しみにしていることを、自分は知っていたからでした。

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先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。

ある日、自分は、いつものように、母に連れられて東京へ行く途中の汽車の中で、おしっこを客車の通路にある痰壺(たんつぼ・つばを吐き入れるつぼ)にしてしまった失敗談を書きました。(しかし、その東京へ行くときに、自分は痰壺と知らずにおしっこをしたのではありませんでした。

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或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。

子どもらしい無邪気さをよそおって、わざと、そうしたのでした。)それを、わざと悲しそうな書き方で書いて提出しました。先生はきっと笑うという自信がありましたので、職員室に戻っていく先生のあとを、そっとつけていきましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその作文を、ほかのクラスの子たちの作文の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室に入って読み終えたのか、顔を真っ赤にして大声で笑い、ほかの先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけて、自分は、たいへん満足でした。

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子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。

お茶目。

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お茶目。

自分は、いわゆるお茶目な子に見られることに成功しました。

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自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。

尊敬されることから、逃げることに成功しました。

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尊敬される事から、のがれる事に成功しました。

通知表は全教科とも十点満点でしたが、行いの点数だけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家じゅうの大笑いの種でした。

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通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。

けれども自分の本当の姿は、そんなお茶目な子とは、まるで正反対のものでした。

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けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、およ対蹠たいせき的なものでした。

その頃、すでに自分は、女中や下男から、悲しいことを教えられ、体を汚されていました。

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その頃、既に自分は、女中や下男から、かなしい事を教えられ、犯されていました。

幼い者に対して、そのようなことをするのは、人間が行いうる犯罪の中で、最も醜く、卑しく、残酷な犯罪だと、自分は今では思っています。

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幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。

しかし、自分は、じっとがまんしました。

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しかし、自分は、忍びました。

これでまた一つ、人間というものの性質を見たというような気持ちさえして、そうして、力なく笑っていました。

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これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。

もし自分に、本当のことを言う習慣がついていたなら、堂々と、彼らの犯罪を父や母にうったえることができたのかもしれませんが、しかし、自分は、その父や母のことも、すべては理解することができなかったのです。

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もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。

人間にうったえる、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。

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人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。

父にうったえても、母にうったえても、お巡りさんにうったえても、政府にうったえても、結局は世渡りの上手な人の、世間で通りのいい言い分に、言い負かされるだけのことではないかしら。

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父に訴えても、母に訴えても、おまわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。

必ず不公平な扱いがあるのは、わかりきっている。しょせん、人間にうったえるのは無駄である。自分はやはり、本当のことは何も言わず、じっとがまんして、道化をつづけているよりほかに、道がない気持ちだったのです。

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必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。

なんだ、人間への不信を言っているのか?

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なんだ、人間への不信を言っているのか?

へえ?

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 へえ?

お前はいつクリスチャンになったんだい、とばかにして笑う人もあるいはあるかもしれませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道につながっているとは限らないと、自分には思えるのですが。

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 お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。

現にそのばかにして笑う人も含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバ(キリスト教の神様の呼び名)も何も気にせず、平気で生きているではありませんか。

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現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。

やはり、自分が幼かった頃のことでしたが、父が入っていたある政党の有名人が、この町に演説をしに来て、自分は下男たちに連れられて劇場へ聞きに行きました。

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やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。

会場は満員で、そして、この町で特に父と親しくしている人たちの顔がみんな見えて、さかんに拍手などしていました。

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満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。

演説が終わって、聞いていた人たちは雪の夜道を三々五々(さんさんごご・数人ずつ)にかたまって家路につき、こきおろすように今夜の演説会の悪口を言っているのでした。

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演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。

中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。

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中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。

父の開会のあいさつも下手だったし、あの有名人の演説も何が何やら、わけがわからない、と、その父のいわゆる「仲間たち」

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父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」

が、怒ったような口調で言っているのです。

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が怒声に似た口調で言っているのです。

そうしてその人たちは、自分の家に立ち寄って客間に上がりこみ、今夜の演説会は大成功だったと、心から嬉しそうな顔をして父に言っていました。

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そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。

下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれて、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。

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下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。

演説会ほどつまらないものはない、と帰る道々、下男たちが嘆き合っていたのです。

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演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。

しかし、こんなのは、ほんのささやかな一つの例に過ぎません。

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しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。

お互いにだまし合って、しかもどちらも不思議に何の傷も負わず、だまし合っていることにさえ気がついていないような、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の暮らしにあふれているように思われます。

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互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。

けれども、自分には、だまし合っているということに、さして特別の興味もありません。

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けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。

自分だって、道化によって、朝から晩まで人間をだましているのです。

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自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。

自分は、修身(しゅうしん・むかしの道徳の授業)の教科書に出てくるような正義とか何とかいう道徳には、あまり関心が持てないのです。

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自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。

自分には、だまし合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、あるいは生きられる自信を持っているような人間が、理解できないのです。

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自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。

人間は、とうとう自分にその大切な真理を教えてはくれませんでした。

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人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。

それさえわかったら、自分は、人間をこんなにおそれたり、また、必死のサービスなどしなくて、すんだのでしょう。

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それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。

人間の暮らしと対立してしまって、毎晩の地獄のこれほどの苦しみを味わわずにすんだのでしょう。

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人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみをめずにすんだのでしょう。

つまり、自分が下男や女中たちの、憎むべきあの犯罪でさえ、誰にもうったえなかったのは、人間への不信からではなく、また、もちろんキリスト教の教えのためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して、心を開いてくれる殻をかたく閉じていたからだったと思います。

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つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。

父や母でさえ、自分にとって理解できないところを、時おり見せることがあったのですから。

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父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。

そうして、その、誰にもうったえない、自分の孤独のにおいが、多くの女性に、本能でかぎ当てられ、のちのち、いろいろと自分がつけこまれる原因の一つになったような気もするのです。

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そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依ってぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。

つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であった、というわけなのでした。

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つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。

第二の手記

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第二の手記

海の波打ちぎわ、と言ってもいいくらいに海に近い岸辺に、真っ黒い木肌の山桜の、かなり大きいものが二十本以上も立ちならんでいました。新学年がはじまると、山桜は、茶色っぽいねばねばした若葉とともに、青い海を背景にして、その豪華な花をひらき、やがて花吹雪のときには、花びらがおびただしく海に散りこみ、海面をちりばめて漂い、波に乗せられて、また波打ちぎわに打ち返されました。その桜の砂浜が、そのまま校庭として使われている東北のある中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうにか無事に入学できました。

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海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面をちりばめて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。

そうして、その中学の制帽の徽章(きしょう・帽子につける記章)にも、制服のボタンにも、桜の花が図案になって咲いていました。

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そうして、その中学の制帽の徽章きしょうにも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。

その中学校のすぐ近くに、自分の家の遠い親戚にあたる人の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。

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その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。

自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘が鳴るのを聞いてから、走って登校するという、かなりなまけ者の中学生でしたが、それでも、いつもの道化によって、日に日にクラスの人気を得ていました。

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自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。

生まれてはじめて、いわば知らない土地へ出たわけなのですが、自分には、その知らない土地のほうが、自分の生まれ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思えました。

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生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。

それは、自分の道化もその頃にはますますぴったり身についてきて、人をだますのに以前ほどの苦労がいらなくなっていたからだ、と説明してもいいでしょう。しかし、それよりも、家族と他人、故郷と知らない土地、そこには消すことのできない、演技のしやすさ・しにくさの違いが、どんな天才にとっても、たとえ神の子であるイエスにとっても、あるものなのではないでしょうか。

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それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。

俳優にとって、いちばん演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも身内が全部そろって座っている部屋の中では、どんな名優も、演技どころではなくなるのではないでしょうか。

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俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。

けれども自分は演じてきました。

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けれども自分は演じて来ました。

しかも、それが、かなりの成功をおさめたのです。

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しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。

それほどのくせ者が、知らない土地に出て、万が一にも演じそこなうなどということは、ないわけでした。

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それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。

自分の人間へのおそろしさは、それは以前にも増して激しく胸の底でうごめいていましたが、しかし、演技は実にのびのびとしてきて、教室では、いつもクラスの子たちを笑わせ、先生も、このクラスは大庭さえいなければ、とてもいいクラスなんだが、と言葉ではなげきながら、手で口をおおって笑っていました。

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自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。

自分は、あの雷のような荒々しい声を張り上げる配属将校(軍事教練の先生)でさえ、実にたやすく吹き出させることができたのです。

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自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。

もう、自分の正体を完全に隠しきれたのではないだろうか、とほっとしかけたそのとき、自分は実に思いがけなくも、背後から突き刺されました。

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もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。

それは、背後から突き刺す男の例にもれず、クラスでいちばん貧弱なからだつきで、顔も青ぶくれで、そうして、たしかに親の古着と思われる、袖が長すぎる上着を着て、勉強は少しもできず、教練や体操はいつも見学という、知的な発達がゆっくりな生徒でした。

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それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。

自分もさすがに、その生徒にまで警戒する必要があるとは、思っていなかったのでした。

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自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。

その日、体操の時間に、その生徒(名字は今おぼえていませんが、名前は竹一といったと覚えています)、その竹一は、いつものように見学していて、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。

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その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。

自分は、わざとできるだけまじめな顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅跳びのように前へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻もちをつきました。

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自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。

すべて、計画どおりの失敗でした。

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すべて、計画的な失敗でした。

果たしてみんなの大笑いになり、自分も苦笑いしながら起き上がってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこうささやきました。

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果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこうささやきました。

「ワザ。ワザ」

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「ワザ。ワザ」

自分は激しくゆさぶられるようなショックを受けました。

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自分は震撼しんかんしました。

わざと失敗したということを、よりによって、竹一に見破られるとは、まったく思いもかけないことでした。

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ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。

自分は、世界が一瞬にして地獄の火に包まれて燃え上がるのを、目の前で見るような気持ちがして、わあっ!

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自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ!

と叫んで、気が狂いそうになるのを必死の力でおさえました。

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 と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

それからの毎日の、自分の不安とおそろしさ。

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それからの日々の、自分の不安と恐怖。

表面は相変わらず悲しい道化を演じてみんなを笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しいため息が出て、何をしたって、すべて竹一にこなごなに見破られていて、そうしてあいつは、そのうちきっと誰かれかまわず、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとりと冷や汗がわいてきて、狂人みたいに妙な目つきで、あたりをキョロキョロと、むなしく見まわしたりしました。

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表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。

できることなら、朝、昼、晩、一日じゅう、竹一のそばから離れず、彼が秘密を口走らないように見張っていたい気持ちでした。

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できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一のそばから離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。

そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分の道化は、いわゆる「ワザ」

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そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」

ではなくて、本物であったと思いこませるように、あらゆる努力をはらい、うまくいけば、彼とかけがえのない親友になってしまいたいものだ、もし、それがすべて不可能なら、もう、彼の死を祈るよりほかはない、とさえ思いつめました。

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では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。

しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起こりませんでした。

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しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。

自分は、これまでの一生の中で、人に殺されたいと願ったことは、何度もありましたが、人を殺したいと思ったことは、一度もありませんでした。

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自分は、これまでの生涯にいて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。

それは、おそろしい相手に、かえって幸福を与えるだけのことだと、考えていたからです。

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それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。

自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に、うわべだけのクリスチャンのような「優しい」

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自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」

こびるような笑い(媚笑・びしょう)をたたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫なで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の下宿している家に遊びに来るよう、たびたび誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした目つきをして、黙っていました。

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媚笑びしょうたたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。

しかし、自分は、ある日の放課後、たしか初夏の頃のことでした。夕立ちが白く降って、生徒たちは帰るのに困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけました。行こう、傘を貸してあげる、と言い、ためらう竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上着をおばさんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘いこむのに成功しました。

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しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。

その家には、五十すぎのおばさんと、三十くらいの、眼鏡をかけた、体が弱そうな背の高い姉娘(この娘は、一度よそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰ってきている人でした。

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その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。

自分は、この人を、この家の人たちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという、姉に似ず背が低く丸顔の妹娘の、三人だけの家族でした。下の店には、文房具やら運動用具を少しばかり並べていましたが、主な収入は、亡くなったご主人が建てて残していった五、六棟の長屋の家賃のようでした。

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自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。

「耳が痛い」

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「耳が痛い」

竹一は、立ったままでそう言いました。

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竹一は、立ったままでそう言いました。

「雨に濡れたら、痛くなったよ」

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「雨に濡れたら、痛くなったよ」

自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。

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自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。

うみが、今にも耳の外に流れ出ようとしていました。

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うみが、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。

「これは、いけない。痛いだろう」

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「これは、いけない。痛いだろう」

と自分は大げさに驚いて見せて、

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と自分は大袈裟おおげさにおどろいて見せて、

「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」

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「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」

と女の子の言葉みたいな言葉を使って「優しく」

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と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」

謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらってきて、竹一を自分のひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。

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謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分のひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。

竹一も、さすがに、これが見せかけの親切のたくらみであることには、気づかなかったようで、

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竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、

「お前は、きっと、女に惚れられるよ」

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「お前は、きっと、女にれられるよ」

と自分のひざ枕で寝ながら、無邪気なお世辞を言ったくらいでした。

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と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。

しかしこれは、おそらく、あの竹一自身も気づいていなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったということを、自分はのちのちになって思い知りました。

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しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。

「惚れる」と言い、「惚れられる」と言い、その言葉はひどく下品で、ふざけていて、いかにも、にやけた感じで、どんなに、いわゆる「まじめ」

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惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」

な場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱という名の大きな建物(伽藍・がらん)が崩れ落ちて、ただのっぺらぼうになってしまうような気がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗な言い方ではなく、愛される不安、とでもいう文学的な言い方を使うと、必ずしもその建物をぶちこわすことにはならないようですから、不思議なものだと思います。

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の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍がらんが崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。

竹一が、自分に耳だれのうみの始末をしてもらって、お前は惚れられるというばかなお世辞を言い、自分はそのとき、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、かすかに思い当たるところもあったのでした。

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竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、かすかに思い当るところもあったのでした。

でも、「惚れられる」

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でも、「惚れられる」

というような下品な言葉によって生まれる、にやけた雰囲気に対して、そう言われると、思い当たるところもある、などと書くのは、落語に出てくる若旦那のせりふにさえならないくらい、ばかげた感想を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、にやけた気持ちで、「思い当たるところもあった」

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というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」

わけではないのです。

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わけでは無いのです。

自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに何倍も理解しにくいものでした。

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自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。

自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんいて、また、あの「犯罪」

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自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」

の女中などもいて、自分は幼い頃から、女性とばかり遊んで育ったと言っても言いすぎではないと思っていますが、それはまた、しかし、実に、薄い氷の上を歩くような思いで、その女の人たちと付き合ってきたのです。

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の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。

ほとんど、まるで見当がつかないのです。

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ほとんど、まるで見当が、つかないのです。

五里霧中(ごりむちゅう・先がまったくわからないこと)で、そうして時たま、虎の尾を踏むような失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受けるむちとちがって、内出血みたいにひどく不快に体の中に残って、なかなか治りにくい傷でした。

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五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受けるむちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。

女は引き寄せておいて、突き放す。あるいはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、冷たくし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる。女は死んだように深く眠る。女は眠るために生きているのではないかしら。そのほか、女についてのさまざまな観察を、すでに自分は、幼い頃から得ていたのですが、同じ人間のようでありながら、男とはまた、まったく違った生きもののような感じで、そうしてまた、この理解しがたい、油断のならない生きものは、不思議と自分にかまってくるのでした。

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女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。

「惚れられる」

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「惚れられる」

なんていう言葉も、また「好かれる」

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なんていう言葉も、また「好かれる」

という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」

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という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」

とでも言ったほうが、まだしも本当のことをうまく言い表しているかもしれません。

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とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。

女は、男よりもさらに、道化には、くつろぐようでした。

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女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。

自分が道化を演じても、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってはいませんし、それに自分も男の人に対しては、調子に乗ってあまり道化を演じすぎると失敗するということを知っていましたので、必ずちょうどいいところで切り上げるように気をつけていましたが、女はちょうどいい加減ということを知らず、いつまでもいつまでも、自分に道化を求めてきて、自分はその果てしないアンコールに応えて、へとへとになるのでした。

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自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。

実に、よく笑うのです。

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実に、よく笑うのです。

だいたい、女は、男よりも楽しみをたくさん味わうことができるようです。

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いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。

自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はそのたびに飛び上がらんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、

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自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、

「お勉強?」

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「御勉強?」

「いいえ」

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「いいえ」

とほほえんで本を閉じ、

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と微笑して本を閉じ、

「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」

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「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」

と、するすると口から流れ出るものは、心にもないおかしな話でした。

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とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。

「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」

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「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」

ある晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分に道化を演じさせたあげくに、そんなことを言い出しました。

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或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。

「なぜ?」

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「なぜ?」

「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」

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「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」

いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。

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いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。

道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。

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道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。

とたんに、二人の娘は、笑いころげました。

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とたんに、二人の娘は、笑いころげました。

「そっくり。ロイドに、そっくり」

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「そっくり。ロイドに、そっくり」

当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。

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当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。

自分は立って片手を挙げ、

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自分は立って片手を挙げ、

「諸君(しょくん・みなさん)」

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「諸君」

と言い、

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と言い、

「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」

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「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」

と、ひとくさりのあいさつをしてみせ、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がその町の劇場に来るたびに見に行って、こっそり彼の表情などを研究しました。

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と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。

また、ある秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のようにすばやく部屋へ入ってきて、いきなり自分の掛け布団の上に倒れて泣き、

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また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、

「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」

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「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」

などと、はげしいことを口走っては、また泣くのでした。

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などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。

けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが初めてではありませんでしたので、アネサの激しい言葉にも、さして驚かず、かえってその、ありきたりで中身のない感じに興ざめした気持ちで、そっと布団からぬけ出し、机の上の柿をむいて、その一切れをアネサに手渡してやりました。

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けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。

すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、

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すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、

「何かおもしろい本ない? 貸してよ」

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「何か面白い本が無い? 貸してよ」

と言いました。

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と言いました。

自分は漱石(そうせき)の「吾輩は猫である」

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自分は漱石の「吾輩は猫である」

という本を、本棚から選んであげました。

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という本を、本棚から選んであげました。

「ごちそうさま」

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「ごちそうさま」

アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、そもそも女は、どんな気持ちで生きているのかを考えることは、自分にとって、みみずの心の中をさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、うす気味悪いものに感じられていました。

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アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。

ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりしたときには、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すということだけは、幼い頃から、自分の経験によって知っていました。

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ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。

また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れてきて、自分がいつものように分けへだてなくみんなを笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。

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また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。

あの人は不良少女だから気をつけるように、と、きまって言うのでした。

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あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。

それなら、わざわざ連れてこなければいいのに。おかげで自分の部屋に来る客は、ほとんど全部が女、ということになってしまいました。

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そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。

しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」

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しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」

ということの実現では、まだ決してなかったのでした。

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事の実現では未だ決して無かったのでした。

つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。

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つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。

竹一の無邪気なお世辞が、いまわしい予言として、生々しく現実になり、不吉な姿を見せるようになったのは、さらにそれから、数年たったあとのことでした。

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竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。

竹一は、また、自分にもう一つ、大切な贈り物をしていました。

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竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。

「お化けの絵だよ」

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「お化けの絵だよ」

いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来たとき、持ってきた一枚の色刷りの口絵を、得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

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いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

おや?

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おや?

と思いました。

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 と思いました。

その瞬間、自分の落ちていく道が決まったような、のちになって、そんな気がしてならないのです。

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その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。

自分は、知っていました。

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自分は、知っていました。

それは、ゴッホのあの自画像に過ぎないことを知っていました。

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それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。

自分たちの少年の頃には、日本ではフランスのいわゆる印象派の絵が大流行していて、西洋画を見て楽しむ第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルノアールなどという人の絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。

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自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。

自分なども、ゴッホの色刷りの絵をかなりたくさん見て、筆づかいのおもしろさ、色の鮮やかさにおもしろみを感じてはいたのですが、しかし、お化けの絵だとは、一度も考えたことがなかったのでした。

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自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。

「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」

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「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」

自分は本棚から、モディリアニの画集を出し、日に焼けた赤銅のような肌の、あの裸婦の絵を竹一に見せました。

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自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。

「すげえなあ」

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「すげえなあ」

竹一は目を丸くして感心しました。

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竹一は眼を丸くして感嘆しました。

「地獄の馬みたい」

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「地獄の馬みたい」

「やっぱり、お化けかね」

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「やっぱり、お化けかね」

「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」

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「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」

あまりに人間をおそれている人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪をはっきりとこの目で見たいと願うようになる心理。神経質で、ものにおびえやすい人ほど、暴風雨がもっと激しくなればいいと祈る心理。ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物にいためつけられ、おびやかされたあげく、ついに幻を信じ、真昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ。しかも彼らは、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ。竹一の言うように、思いきって「お化けの絵」

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あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪ようかいを確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物にいためつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」

をかいてしまったのだ。ここに、将来の自分の仲間がいる、と自分は、涙が出るほどに興奮し、

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をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、

「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」

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「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」

と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。

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と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。

自分は、小学校の頃から、絵をかくのも、見るのも好きでした。

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自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。

けれども、自分のかいた絵は、自分の作文ほどには、周りの評判が、よくありませんでした。

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けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。

自分は、そもそも人間の言葉をまったく信用していませんでしたので、作文などは、自分にとって、ただ道化のあいさつみたいなもので、小学校、中学校とずっと先生たちを大喜びさせてきましたが、しかし、自分ではちっともおもしろくなく、絵だけは(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、少しは苦心をしていました。

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自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。

学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、まったくでたらめに、さまざまな表現の仕方を自分で工夫して試さなければならないのでした。

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学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。

中学校へ入って、自分は油絵の道具も一そろい持っていましたが、しかし、その筆づかいの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。

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中学校へはいって、自分は油絵の道具も一そろい持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。

けれども自分は、竹一の言葉によって、自分のそれまでの絵に対する心構えが、まるで間違っていたことに気がつきました。

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けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。

美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する、甘さ、おろかしさ。

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美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。

巨匠(マイスター)たちは、何でもないものを、自分の見方によって美しく創造し、あるいは醜いものに、はき気をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている。つまり、人の思わくに少しも頼っていないらしいという、絵のかき方の基本の秘けつを、竹一からさずけられて、あの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。

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マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐おうとをもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。

自分でも、ぎょっとしたほど、暗くむごたらしい絵ができあがりました。

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自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。

しかし、これこそ胸の底にひたすら隠している自分の正体なのだ、表では陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな暗く重い心を自分は持っているのだ、仕方がない、とひそかに認め、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。

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しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。

自分の道化の底にある暗さを見破られて、急にみみっちく警戒されるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかれず、やっぱり新しい趣向の道化とみなされて、大笑いの種にされるかもしれないという心配もあり、それは何よりもつらいことでしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くにしまいこみました。

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自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。

また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式のやり方」

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また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」

は秘めておいて、いままでどおりの、美しいものを美しく画くだけの、ありきたりな筆づかいで画いていました。

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は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。

自分は竹一にだけは、前から自分の傷つきやすい神経を平気で見せていましたし、今度の自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、

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自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、

「お前は、偉い絵かきになる」

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「お前は、偉い絵画きになる」

という予言をもらったのでした。

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という予言を得たのでした。

惚れられるという予言と、偉い絵かきになるという予言。この二つの予言を、ばか正直な竹一によって額に刻みこまれて、やがて、自分は東京へ出てきました。

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惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。

自分は、美術学校に入りたかったのですが、父は、前から自分を高等学校に入れて、ゆくゆくは役人にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口答え一つできない性分の自分は、ぼんやりとそれに従ったのでした。

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自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。

四年から受けてみよ、と言われたので、自分も桜と海の中学にはもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のまま、東京の高等学校を受験して合格し、すぐに寮生活に入りましたが、その不潔さと荒っぽさにうんざりして、道化どころではなく、医者に肺浸潤(はいしんじゅん・肺の病気の一つ)の診断書を書いてもらい、寮を出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。

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四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易へきえきして、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。

自分には、集団生活というものが、どうしてもできません。

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自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。

それにまた、青春の感激だとか、若者の誇りだとかいう言葉は、聞くと寒気がしてきて、とても、あの、ハイスクール・スピリット(学生らしい元気な心がまえ)とかいうものには、ついていけなかったのです。

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それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。

教室も寮も、ゆがんだ性的な欲望の、ごみ捨て場みたいな気さえして、自分の完璧に近い道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。

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教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧かんぺきに近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。

父は議会のないときは、月に一週間か二週間しかその家に泊まっていませんでしたので、父の留守のときは、かなり広いその家に、別荘の管理をする老夫婦と自分と、三人だけでした。自分は、ちょいちょい学校を休んで、かといって東京見物などをする気も起こらず(自分はとうとう、明治神宮も、楠木正成(くすのきまさしげ)の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終わりそうです)、家で一日じゅう、本を読んだり、絵をかいたりしていました。

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父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成くすのきまさしげの銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。

父が東京へ来ると、自分は、毎朝そそくさと学校へ行くのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしていることもあったのです。

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父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。

高等学校の寮を出たら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生(正式な学生ではなく、授業だけ聞きに来る人)みたいな特別な立場にいるような、それは自分のひがみかもしれなかったのですが、何とも自分自身でしらじらしい気持ちがしてきて、ますます学校へ行くのが、おっくうになったのでした。

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高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。

自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、とうとう愛校心というものが理解できずに終わりました。

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自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。

校歌などというものも、一度も覚えようとしたことがありません。

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校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。

自分は、やがて画塾で、ある画学生から、お酒とたばこと売春婦と質屋と、左翼思想(世の中の不平等をなくそうとする考え方)とを教えられました。

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自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦いんばいふと質屋と左翼思想とを知らされました。

妙な取り合わせでしたが、しかし、それは事実でした。

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妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。

その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生まれ、自分より六つ年上で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエがないので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。

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その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。

「五円、貸してくれないか」

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「五円、貸してくれないか」

お互い、ただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話し合ったことがなかったのです。

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お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。

自分は、あわてふためいて五円差し出しました。

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自分は、へどもどして五円差し出しました。

「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう(九州の方言で「いい男だなあ」という意味)」

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「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」

自分は断りきれず、その画塾の近くの、蓬莱町のカフェーに引っぱって行かれたのが、彼との付き合いのはじまりでした。

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自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱ほうらい町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。

「前から、お前に目をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二位の美男子ということになった」

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「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」

堀木は、色が浅黒く整った顔をしていて、画学生には珍しく、ちゃんとした背広を着て、ネクタイの好みも地味で、そうして髪も整髪料をつけて、まん中からぺったりと分けていました。

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堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広せびろを着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。

自分は慣れない場所でもあり、ただもうおそろしくて、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビールを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放されたような軽さを感じてきたのです。

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自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。

「僕は、美術学校に入ろうと思っていたんですけど、……」

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「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」

「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対する情熱(パトス)!」

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「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」

しかし、自分は、彼の言うことに、まったく敬意を感じませんでした。

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しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。

ばかな人だ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かもしれないと考えました。

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馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。

つまり、自分はそのとき、生まれてはじめて、本物の都会のならず者を見たのでした。

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つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。

それは、自分とは形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全にかけ離れてしまって、とまどっている点でだけは、たしかに同類だったのです。

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それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。

そうして、彼はその道化を、意識せずに行い、しかも、その道化のみじめさにまったく気がついていないのが、自分と根本的に違うところでした。

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そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。

ただ遊ぶだけだ、遊び相手として付き合っているだけだ、と、つねに彼を軽蔑し、時には彼との付き合いを恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ、うち負かされました。

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ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑けいべつし、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。

しかし、はじめは、この男をいい人、めったにいないいい人とばかり思いこみ、さすが人間をおそれる自分も、まったく油断をして、東京のよい案内人ができた、くらいに思っていました。

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しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。

自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へ入りたくても、あの正面玄関の赤いじゅうたんが敷かれている階段の両側に並んで立っている案内係のお姉さんたちがおそろしく、レストランへ入ると、自分の後ろにひっそり立って、お皿があくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、特にお金を払うとき、ああ、ぎこちない自分の手つき。自分は買い物をしてお金を手渡すときには、けちだからではなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安とおそろしさに、くらくらとめまいがして、世界が真っ暗になり、ほとんど半狂乱の気持ちになってしまって、値切るどころか、お釣りを受け取るのを忘れるばかりか、買った品物を持ち帰るのを忘れたことさえ、

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自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の絨緞じゅうたんが敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇りんしょくゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しば

たびたびあったほどなので、とても、ひとりで東京の町を歩けず、それで仕方なく、一日じゅう家の中で、ごろごろしていたという事情もあったのでした。

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しばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。

それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果があるような払い方を発揮し、また、高い円タクシーは避けて、電車、バス、蒸気船など、それぞれをうまく使い分けて、最短時間で目的地に着くという手腕も見せ、売春婦のところから朝帰る途中には、どこそこの料亭に立ち寄って朝風呂に入り、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地に教えてくれたり、そのほか、屋台の牛めし・焼き鳥が安くて栄養に富むものだということを説き、酔いが早くまわるのは、電気ブラン(当時人気だったお酒)にかなうものはないと保証したり、とにかくその勘定については自分に、一度

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それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つ

も不安やおそろしさを感じさせたことがありませんでした。

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も不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。

さらにまた、堀木と付き合って救われるのは、堀木が聞き手の思わくなどをまったく無視して、そのいわゆる情熱(パトス)のふき出すままに、(あるいは、情熱とは、相手の立場を無視することかもしれませんが)一日じゅう、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れて、気まずい沈黙におちいる心配が、まったくないということでした。

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さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂情熱パトスの噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼きくが、全く無いという事でした。

人と会って、あのおそろしい沈黙がその場に現れることを警戒して、もともと口の重い自分が、ここぞとばかりに必死の道化を言ってきたものですが、いまこの堀木のばかが、意識せずに、その道化役を自分から進んでやってくれているので、自分は、返事もろくにせず、ただ聞き流し、時おり、まさか、などと言って笑っていればよかったのです。

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人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途せんどと必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。

お酒、たばこ、売春婦、それはみな、人間へのおそろしさを、たとえ一時的にでも、まぎらすことのできる、なかなかよい手段であることが、やがて自分にもわかってきました。

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酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。

それらの手段を求めるためには、自分の持ち物を全部売っても悔いない気持ちさえ、抱くようになりました。

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それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。

自分には、売春婦というものが、人間でも、女性でもない、何もわからない人か、心を病んでいる人のように見え、その懐の中で、自分はかえってすっかり安心して、ぐっすり眠ることができました。

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自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。

みんな、悲しいくらい、実に少しも欲というものがないのでした。

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みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。

そうして、自分に、同じ仲間としての親しみとでもいったようなものを感じるのか、自分は、いつも、その売春婦たちから、窮屈でない程度の自然な好意を示されました。

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そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。

何の損得もない好意、押し売りではない好意、二度と来ないかもしれない人への好意。自分には、その、何もわからない人か心を病んでいる人のような売春婦たちに、聖母マリアの後光を、本当に見た夜もあったのです。

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何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。

しかし、自分は、人間へのおそろしさから逃れ、かすかな一夜の休息を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」

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しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」

の売春婦たちと遊んでいるうちに、いつの間にか無意識に、あるいまわしい雰囲気を、いつも身のまわりにただよわせるようになった様子で、これは自分にもまったく思いがけなかった、いわゆる「おまけの付録」

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の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」

でしたが、次第にその「付録」

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でしたが、次第にその「附録」

が、はっきりと表面に浮き上がってきて、堀木にそれを指摘され、はっとおどろき、そうして、いやな気持ちがしました。

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が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、愕然がくぜんとして、そうして、いやな気が致しました。

はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、売春婦によって女の扱いを覚えて、しかも、最近めっきり腕を上げ、女性についての修行は、売春婦によるのがいちばん厳しく、またそれだけに効果があがるものだそうで、すでに自分には、あの、「女に手慣れている」

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はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」

というにおいがつきまとい、女性は、(売春婦に限らず)本能でそれをかぎ当てて、寄り添ってくる。そのような、下品で不名誉な雰囲気を、「おまけの付録」

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という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、卑猥ひわいで不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」

としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休息などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。

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としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。

堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当たることがあり、たとえば、喫茶店の女の人から下手な字の手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣の、ある将軍の家の二十歳くらいの娘さんが、毎朝、自分の登校する時刻には、用もなさそうなのに、うすく化粧をして、自分の家の門を出たり入ったりしていたし、牛肉を食べに行くと、自分が黙っていても、そこの女中さんが、……また、いつも買っている、たばこ屋の娘さんから手渡されたたばこの箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣の席の人に、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘さんから、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからない娘さん

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堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘

が、自分の留守中に、手作りらしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ切れ切れで、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女性に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっていることは、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談ではなく、否定できないのでした。

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が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。

自分は、それを堀木ごとき者に指摘されて、屈辱に似た苦さを感じるとともに、売春婦と遊ぶことにも、急に興ざめしました。

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自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似たにがさを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。

堀木は、また、その見えっ張りな最新流行好きから(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今でも考えられないのですが)、ある日、自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとか言っていたか、記憶がはっきりしません)、そんな秘密の研究会に連れて行きました。

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堀木は、また、その見栄坊みえぼうのモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとかいっていたか、記憶がはっきり致しません)そんな、秘密の研究会に連れて行きました。

堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密の集まりも、いつもの「東京案内」

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堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」

の一つくらいのものだったのかもしれません。

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の一つくらいのものだったのかも知れません。

自分は、いわゆる「同志」

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自分は所謂「同志」

に紹介され、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどくみにくい顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。

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に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。

しかし、自分には、それはわかりきったことのように思われました。

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しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。

それは、そのとおりに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。

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それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。

欲、と言っても、まだ足りない。虚栄心(ヴァニティ)と言っても、まだ足りない。色と欲、とこう二つ並べても、まだ足りない。何だか自分にもわからないが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談にすっかりおびえている自分には、いわゆる唯物論を、水が低いほうへ流れるように自然に受け入れながらも、しかし、それによって、人間に対するおそろしさから解放されて、青葉に向かって目をひらき、希望のよろこびを感じるなどということは、できないのでした。

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慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。

けれども、自分は、一度も欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかもしれません)なるものに出席し、「同志」

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けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」

たちが、いやに大変なことのように、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど小学校の算数みたいな理論の研究にふけっているのが、こっけいに見えてたまらず、いつもの自分の道化で、会合をくつろいだ雰囲気にすることに努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な感じもほぐれて、自分はその会合になくてはならない人気者、という形にさえなってきたようでした。

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たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。

この、単純そうな人たちは、自分のことを、やはりこの人たちと同じように単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」

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この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」

くらいに考えていたかもしれませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを何から何まで、だましていたわけです。

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くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。

自分は、同志ではなかったんです。

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自分は、同志では無かったんです。

けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、みんなに道化のサービスをしてきました。

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けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。

好きだったからなのです。

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好きだったからなのです。

自分には、その人たちが、気に入っていたからなのです。

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自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。

しかし、それは必ずしも、マルクスによって結ばれた親しみの気持ちではなかったのです。

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しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。

非合法(ひごうほう・法律に違反していること)。

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非合法。

自分には、それがかすかに楽しかったのです。

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自分には、それが幽かに楽しかったのです。

むしろ、居心地がよかったのです。

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むしろ、居心地がよかったのです。

世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが感じられます)そのしくみが理解できず、とてもその窓のない、底冷えのする部屋には座っていられず、外は非合法の海であっても、それに飛びこんで泳いで、やがて死にいたるほうが、自分には、いっそ気楽なようでした。

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世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。

日陰者(ひかげもの)、という言葉があります。

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日蔭者ひかげもの、という言葉があります。

人間の世の中で、みじめな、負け組、悪人を指して言う言葉のようですが、自分は、自分のことを、生まれたときからの日陰者のような気がしていて、世間から、あれは日陰者だと指をさされているような人と出会うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。

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人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。

そうして、その自分の「優しい心」

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そうして、その自分の「優しい心」

は、自分でもうっとりするくらい優しい心でした。

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は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。

また、犯人意識、という言葉もあります。

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また、犯人意識、という言葉もあります。

自分は、この人間の世の中で、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分にとって、貧しい時から連れ添った妻のような、よき伴侶で、そいつと二人きりで、わびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかもしれません。また、俗に、すねに傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方のすねにあらわれて、大人になるにつれて治るどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、毎晩の痛み苦しみは、さまざまに姿を変える地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん不思議な言い方ですけれど)その傷は、次第に自分にとって、血や肉よりも親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷が生きている感情、または愛情のささやきのよ

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自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠そうこうの妻の如き好伴侶はんりょで、そいつと二人きりでびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、すねに傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情のささやきのよ

うにさえ思われる。そんな男にとって、あの地下運動のグループの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌合いのほうが、自分に合った感じなのでした。

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うにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのでした。

堀木の場合は、ただもうばかなひやかしで、一度自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルクス主義者は、生産の面の研究と同時に、消費の面の視察も必要だなどと、下手なしゃれを言って、その会合には近寄らず、何かというと自分を、その消費の面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。

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堀木の場合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時に、消費面の視察も必要だなどと下手な洒落しゃれを言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。

思えば、当時は、さまざまなタイプのマルクス主義者がいたものです。

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思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。

堀木のように、見えっ張りな流行好きから、自分をそう名乗る者もいれば、また自分のように、ただ非合法のにおいが気に入って、そこに座りこんでいる者もいて、もしもこれらの正体が、マルクス主義の本当の信者に見破られたら、堀木も自分も、火のように怒られ、卑劣な裏切り者として、たちまち追い払われたことでしょう。

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堀木のように、虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。

しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、特に自分は、その非合法の世界においては、合法の紳士たちの世界においてよりも、かえってのびのびと、いわゆる「健康」

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しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康」

にふるまうことができましたので、見込みのある「同志」

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に振舞う事が出来ましたので、見込みのある「同志」

として、吹き出したくなるほど、大げさに秘密めかした、さまざまな用事を頼まれるほどになったのです。

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として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。

また、事実、自分は、そんな用事を一度も断ったことはなく、平気で何でも引き受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志たちは、警察官をそう呼んでいました)に怪しまれて職務質問などを受け、しくじるようなこともなかったし、笑いながら、また、人を笑わせながら、その、あぶない(その運動の連中は、大変なことのように緊張し、探偵小説の下手なまねみたいなことまでして、この上ない警戒をして、そうして自分に頼む仕事は、実に、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼らは、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼らが呼んでいた仕事を、とにかく正確にやってのけていました。

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また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれ不審訊問じんもんなどを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運動の連中は、一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな事までして、極度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。

自分のその当時の気持ちとしては、党員になって捕まって、たとえ一生、刑務所で暮らすようになったとしても、平気だったのです。

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自分のその当時の気持としては、党員になって捕えられ、たとい終身、刑務所で暮すようになったとしても、平気だったのです。

世の中の人間の「実生活」

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世の中の人間の「実生活」

というものをおそれながら、毎晩の眠れない地獄でうめいているよりは、いっそ牢屋のほうが、楽かもしれないとさえ考えていました。

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というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄でうめいているよりは、いっそ牢屋ろうやのほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。

父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やらで、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合わせることがないほどでしたが、しかし、どうにも、父がうっとうしく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらも、それを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売り払うつもりらしいということを、別荘番のおじいさんから聞きました。

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父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番の老爺ろうやから聞きました。

父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由があったに違いありませんが、もうこれきり選挙に出る気もない様子で、それに、故郷に一棟、隠居所などを建てたりして、東京に未練もないらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、屋敷と使用人を用意しておくのも、むだなことだとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同じように、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、まもなく人手に渡り、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引っ越して、そうして、たちまちお金に困りました。

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父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引越して、そうして、たちまち金に困りました。

それまで、父から毎月、決まった額のお小遣いを渡されて、それはもう、二、三日でなくなっても、しかし、たばこも、お酒も、チーズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具、そのほか服装に関するものなど、いっさい、いつでも、近所の店から、いわゆる「ツケ(後払い)」

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それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」

で買えたし、堀木におそばや天丼などをごちそうしても、父がひいきにしている町内の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。

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で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町内の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。

それが急に、下宿のひとり住まいになり、何もかも、毎月の決まった額の送金でやりくりしなければならなくなって、自分は、まごつきました。

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それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。

送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分はぞっとして、心細さのために気が狂いそうになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、事情をくわしく書いた手紙(その手紙で訴えている事情は、すべて、道化のうその話でした。

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送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は慄然りつぜんとし、心細さのために狂うようになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、イサイフミの手紙(その手紙に於いて訴えている事情は、ことごとく、お道化の虚構でした。

人にものを頼むには、まず、その人を笑わせるのがいちばんいい方法だと考えていたのです)を、次々に送る一方、また、堀木に教えられて、せっせと質屋通いをはじめ、それでも、いつもお金に不自由していました。

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人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです)を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせと質屋がよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。

しょせん、自分には、何のつながりもない下宿に、ひとりで「生活」

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所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで「生活」

していく力がなかったのです。

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して行く能力が無かったのです。

自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、今にも誰かに襲われて、一撃されるような気がしてきて、街へ飛び出しては、いつもの運動の手伝いをしたり、あるいは堀木と一緒に安いお酒を飲み歩いたりして、ほとんど学業も、また絵の勉強も放り出し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の、夫のいる女の人と心中未遂事件などを起こし、自分の身の上は、一変しました。

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自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を飲み廻ったりして、ほとんど学業も、また画の勉強も放棄し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。

学校は欠席するし、教科の勉強も、少しもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の家族をだましとおしてきたのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうからひそかに故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代わりに長男の兄が、かた苦しい文章の長い手紙を、自分によこすようになっていたのでした。

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学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。

けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、お金がないことと、それから、あの運動の用事が、とても遊び半分の気持ちではできないくらい、激しく、いそがしくなってきたことでした。

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けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。

中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あのあたりの学校全部の、マルクス主義学生の行動隊隊長というものに、自分はなっていたのでした。

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中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、自分はなっていたのでした。

武装蜂起(ほうき・武器を持って立ち上がること)、と聞き、小さいナイフを買い(今思えば、それは鉛筆をけずるのにも足りない、華奢なナイフでした)、それをレインコートのポケットに入れ、あちこち飛びまわって、いわゆる「連絡」

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武装蜂起ほうき、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂いわゆる聯絡れんらく

をつけるのでした。

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をつけるのでした。

お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい。しかし、お金がありません。

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お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。

しかも、P(党のことを、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、あるいは、違っているかもしれません)のほうからは、次々と息をつくひまもないくらい、用事の依頼がまいります。

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しかも、P(党の事を、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、或いは、違っているかも知れません)のほうからは、次々と息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。

自分の病弱なからだでは、とても務まりそうもなくなりました。

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自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。

もともと、非合法という興味だけから、そのグループの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から本気の話が出たように、いやにいそがしくなってくると、自分は、ひそかにPの人たちに、それはお門違いでしょう、あなたたちの直属の人たちにやらせたらどうですか、というような、腹立たしい気持ちを抱くのをおさえられず、逃げました。

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もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはおかどちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。

逃げて、さすがに、いい気持ちはせず、死ぬことにしました。

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逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。

その頃、自分に特別の好意を寄せている女性が、三人いました。

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その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。

ひとりは、自分が下宿している仙遊館の娘さんでした。

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ひとりは、自分の下宿している仙遊館の娘でした。

この娘さんは、自分がいつもの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず便箋と万年筆を持って自分の部屋にやって来て、

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この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず用箋ようせんと万年筆を持って自分の部屋にやって来て、

「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」

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「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」

と言って、何やら自分の机に向かって、一時間以上も書いているのです。

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と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。

自分もまた、知らんふりをして寝ていればいいのに、いかにもその娘さんが、何か自分に言ってもらいたそうな様子なので、いつもの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持ちなのだけれど、くたくたに疲れきっているからだに、ウムと気合いをかけて腹ばいになり、たばこを吸い、

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自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて腹這はらばいになり、煙草を吸い、

「女の人から来たラブレターで、お風呂をわかして入った男の人がいるそうですよ」

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「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」

「あら、いやだ。あなたでしょう?」

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「あら、いやだ。あなたでしょう?」

「ミルクをわかして飲んだことはあるんです」

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「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」

「光栄だわ、飲んでよ」

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「光栄だわ、飲んでよ」

早くこの人、帰らないかなあ。手紙だなんて、見えすいているのに。

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早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。

へのへのもへじでも書いているに違いないんです。

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へへののもへじでも書いているのに違いないんです。

「見せてよ」

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「見せてよ」

と、死んでも見たくない気持ちでそう言うと、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがりようが、ひどくみっともなく、興ざめするばかりなのです。

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と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。

そこで自分は、用事でも言いつけてやろう、と思うんです。

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そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。

「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチン(睡眠薬の名前)を買ってきてくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」

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「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って来てくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」

「いいわよ、お金なんか」

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「いいわよ、お金なんか」

喜んで立ちます。

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よろこんで立ちます。

用事を言いつけるというのは、決して女性をしょげさせることではなく、かえって女性は、男性に用事を頼まれると喜ぶものだということも、自分はちゃんと知っていたのでした。

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用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。

もうひとりは、女子高等師範学校の文科生の、いわゆる「同志」

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もうひとりは、女子高等師範の文科生の所謂「同志」

でした。

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でした。

この人とは、いつもの運動の用事で、いやでも毎日、顔を合わせなければならなかったのです。

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このひととは、れいの運動の用事で、いやでも毎日、顔を合せなければならなかったのです。

打ち合わせがすんでからも、その女性は、いつまでも自分についてきて歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。

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打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。

「私を本当のお姉さんだと思っていてくれていいわ」

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「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」

そのきざったらしさに身震いしながら、自分は、

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そのキザに身震いしながら、自分は、

「そのつもりでいるんです」

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「そのつもりでいるんです」

と、うれいを含んだ微笑みの表情を作って答えます。

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と、うれえを含んだ微笑の表情を作って答えます。

とにかく、怒らせては、こわい、何とかしてごまかさなければならない、という思いだけのために、自分はいよいよ、その醜い、いやな女性に、つくして、そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼き鳥屋の主人などにやってしまいました)うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、ある夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、その人に帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやったところ、みっともないほど気が狂ったように興奮し、自動車を呼んで、その人たちの運動のために、こっそり借りてあるらしいビルの事務所みたいな狭い洋室に連れていかれ、

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とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよその醜い、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋の親爺おやじなどにやってしまいました)うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、或る夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く興奮し、自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいな狭い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事にな

朝まで大騒ぎということになり、とんでもないお姉さんだ、と自分はひそかに苦笑しました。

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り、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。

下宿屋の娘さんと言い、またこの「同志」

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下宿屋の娘と言い、またこの「同志」

と言い、どうしたって毎日、顔を合わせなければならない具合になっていますので、これまでの、さまざまな女の人のように、うまく避けられず、つい、ずるずると、いつもの不安な心から、この二人のご機嫌をただ必死にとりつづけ、もはや自分は、金縛り同然の状態になっていました。

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と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のご機嫌をただ懸命に取り結び、もはや自分は、金縛り同様の形になっていました。

同じ頃また自分は、銀座のある大きなカフェーの女給さん(お店で接客する女性)から、思いがけない恩を受け、たった一度会っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動きできないほどの、心配やら、わけのわからないおそろしさを感じていたのでした。

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同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動き出来ないほどの、心配やら、そらおそろしさを感じていたのでした。

その頃になると、自分も、あえて堀木の案内に頼らなくても、ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、あるいは、絣(かすり・織り方の一種の模様)の着物を着て、カフェーにだって入れるくらいの、少しの図々しさを装えるようになっていたのです。

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その頃になると、自分も、敢えて堀木の案内に頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、かすりの着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、多少の図々しさを装えるようになっていたのです。

心では、相変わらず、人間の自信と暴力とをあやしみ、おそれ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔であいさつする、いや、ちがう、自分はやはり、負けを認めた道化の苦しい笑いをともなわずには、あいさつできない性分なのですが、とにかく、無我夢中でへどもどしたあいさつでも、どうにかできるくらいの「腕前」

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心では、相変らず、人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の挨拶、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、無我夢中のへどもどの挨拶でも、どうやら出来るくらいの「伎倆ぎりょう

を、あの運動で走りまわったおかげ?

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を、れいの運動で走り廻ったおかげ?

それとも、女の?

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 または、女の?

それとも、お酒?

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 または、酒?

けれども、おもにお金の不自由のおかげで、身につけかけていたのです。

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 けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。

どこにいても、おそろしくて、かえって大きなカフェーで、たくさんの酔ったお客さんや女給さん、ボーイたちにもまれて、まぎれこむことができたら、自分の、この絶えず追われているような心も、落ち着くのではないだろうか、と十円持って、銀座のその大きなカフェーに、ひとりで入って、笑いながら相手の女給さんに、

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どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女給、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女給に、

「十円しかないんだからね、そのつもりで」

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「十円しか無いんだからね、そのつもりで」

と言いました。

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と言いました。

「心配いりません」

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「心配要りません」

どこかに関西のなまりがありました。

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どこかに関西のなまりがありました。

そうして、その一言が、不思議と自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。

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そうして、その一言が、奇妙に自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。

いいえ、お金の心配がいらなくなったからではありません。その人のそばにいることに心配がいらないような気がしたのです。

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いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。

自分は、お酒を飲みました。

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自分は、お酒を飲みました。

その人に安心しているので、かえって道化など演じる気持ちも起こらず、自分のもともとの、無口で暗く重いところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。

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そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の地金じがねの無口で陰惨なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。

「こんなの、お好きか?」

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「こんなの、おすきか?」

女の人は、さまざまな料理を自分の前に並べました。

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女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。

自分は首を振りました。

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自分は首を振りました。

「お酒だけか? うちも飲もう」

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「お酒だけか? うちも飲もう」

秋の、寒い夜でした。

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秋の、寒い夜でした。

自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶がうすれ、たしかではありません。

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自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶が薄れ、たしかではありません。

心中の相手の名前さえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、銀座裏の、ある屋台のおすし屋で、少しもおいしくないすしを食べながら、(その人の名前は忘れても、その時のすしのまずさだけは、どうしたことか、はっきり記憶に残っています。

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情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台のおすしやで、少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。

そうして、青大将(ヘビの一種)の顔に似た顔つきの、坊主頭のおやじが、首を振り振り、いかにも上手そうにごまかしながらすしを握っている様子も、目の前で見るようにはっきりと思い出され、のちのち、電車などで、あれ、見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時のすし屋のおやじに似ているんだ、と気づいて苦笑いしたことも、何度もあったほどでした。

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そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あったほどでした。

あの人の名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている今でも、あのすし屋のおやじの顔だけは、絵にかけるほど正確に覚えているとは、よほどあの時のすしがまずくて、自分に寒さと苦しさを与えたものと思われます。

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あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。

もともと、自分は、おいしいすしを食べさせる店というところに、人に連れられて行って食べても、おいしいと思ったことは、一度もありませんでした。

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もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。

大きすぎるのです。

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大き過ぎるのです。

親指くらいの大きさに、きちんと握れないものかしら、といつも考えていました)その人を、待っていました。

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親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)そのひとを、待っていました。

本所の大工さんの二階を、その人が借りていました。

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本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。

自分は、その二階で、日頃の自分の暗く重い心を少しも隠さず、ひどい歯の痛みにおそわれてでもいるように、片手でほおをおさえながら、お茶を飲みました。

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自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。

そうして、自分のそんな様子が、かえって、その人には、気に入ったようでした。

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そうして、自分のそんな姿態が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。

その人も、身のまわりに冷たい木枯らしが吹いて、落ち葉だけが舞い狂い、まったくひとりぼっちでいる感じの女性でした。

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そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの女でした。

一緒に横になりながら、その人は、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには夫がいるのよ、広島で床屋さんをしていたの、去年の春、一緒に東京へ家出して逃げてきたのだけれど、夫は、東京で、まともな仕事をせず、そのうち詐欺罪に問われて、刑務所にいるのよ、あたしは毎日、あれこれ差し入れをしに、刑務所へ通っていたのだけれど、明日からは、やめます、などと語るのでしたが、自分は、どういうものか、女性の身の上話というものに、少しも興味が持てない性分で、それは女性の語り方が下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違えているせいなのか、とにかく、自分には、いつも、馬の耳に念仏(馬耳東風・ばじとうふう)でありました。

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一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上ばなしというものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました。

わびしい。

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侘びしい。

自分には、女性のどんな長い身の上話よりも、その一言のつぶやきのほうに、共感を覚えるに違いないと期待していても、この世の中の女性から、とうとう一度も自分は、その言葉を聞いたことがないのを、奇怪とも不思議とも感じております。

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自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言のつぶやきのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。

けれども、その人は、言葉で「わびしい」

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けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」

とは言いませんでしたが、無言のひどいわびしさを、からだの外側に、三センチくらいの幅の気の流れみたいに持っていて、その人に寄り添うと、こちらのからだもその気の流れに包まれ、自分の持っている、少しとげとげした暗く重い気の流れと、ちょうどよく溶け合い、「水底の岩に落ち着く枯れ葉」

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とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」

のように、わが身は、おそろしさからも不安からも、離れることができたのでした。

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のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。

あの、何もわからない人か心を病んでいる人のような売春婦たちの懐の中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、まったく違って、(だいいち、あの売春婦たちは、陽気でした)その詐欺罪の犯人の妻と過ごした一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、何のためらいもなく、肯定して使うことは、自分のこの全手記において、二度とないつもりです)解き放たれた夜でした。

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あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、なんの躊躇ちゅうちょも無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。

しかし、ただの一夜でした。

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しかし、ただ一夜でした。

朝、目が覚めて、はね起き、自分はもとの、軽薄な、演じるだけの道化者になっていました。

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朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。

弱虫は、幸福さえもおそれるものです。

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弱虫は、幸福をさえおそれるものです。

綿でけがをするんです。

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綿で怪我をするんです。

幸福に傷つけられることもあるんです。

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幸福に傷つけられる事もあるんです。

傷つけられないうちに、早く、このまま、別れたいとあせり、いつもの道化の煙幕を張りめぐらすのでした。

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傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。

「金の切れ目が縁の切れ目、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。お金がなくなると女にふられるって意味、じゃあないんだ。男にお金がなくなると、男は、ただ自然に元気をなくして、だめになり、笑う声にも力がなく、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには自暴自棄になり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振りぬくという意味なんだね、金沢大辞林という本によればね、かわいそうに。僕にも、その気持ちわかるがね」

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「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈しょうちんして、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」

たしか、そんなふうのばかげたことを言って、ツネ子を吹き出させたような記憶があります。

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たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、ツネ子を噴き出させたような記憶があります。

長居は無用、危険あり、と、顔も洗わずにすばやく引き上げたのですが、その時の自分の、「金の切れ目が縁の切れ目」

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長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く引上げたのですが、その時の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」

という、でたらめな放言が、のちになって、思いがけない引っかかりを生んだのです。

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という出鱈目でたらめの放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。

それから、一か月、自分は、その夜の恩人とは会いませんでした。

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それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。

別れて、日がたつにつれて、よろこびはうすれ、ほんの一時の恩を受けたことが、かえって、わけのわからないおそろしさになり、自分勝手にひどい束縛を感じてきて、あのカフェーのお勘定を、あの時、全部ツネ子に負担させてしまったという、俗な事情さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘さんや、あの女子高等師範学校の人と同じく、自分をおどかすだけの女性のように思われ、遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、そのうえ自分は、一緒に過ごしたことのある女性に、また会うと、その時にいきなり何か、火のように怒られそうな気がしてたまらず、会うのに、たいそうおっくうがる性質でしたので、いよいよ、銀座は避ける形になっていましたが、しかし、そのおっくうがるという性質は、決して

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別れて、日が経つにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を感じて来て、あのカフエのお勘定を、あの時、全部ツネ子の負担にさせてしまったという俗事さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、あの女子高等師範と同じく、自分を脅迫するだけの女のように思われ、遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、また逢うと、その時にいきなり何か烈火の如く怒られそうな気がしてたまらず、逢うのにすこぶるおっくうがる性質でしたので、いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性質は、決して

自分のずるさではなく、女性というものは、共に過ごしたあとのことと、朝、起きてからのことの間に、ほんのちりほどのつながりも持たせず、まるっきり忘れてしまったかのように、見事に二つの世界を切り離して生きているという不思議な現象を、まだよく飲みこめていなかったからなのでした。

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自分の狡猾こうかつさではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、ちりほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。

十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安いお酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと言い張り、もう自分たちにはお金がないのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。

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十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。

その時、自分は、酔って大胆になっていたからでもありましたが、

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その時、自分は、酔って大胆になっているからでもありましたが、

「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林(しゅちにくりん・お酒やごちそうが山ほどあること)という、……」

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「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」

「カフェーか?」

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「カフエか?」

「そう」

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「そう」

「行こう!」

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「行こう!」

というようなことになって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、

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というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、

「おれは、今夜は、女に飢え渇いているんだ。女給さんにキスしてもいいか」

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「おれは、今夜は、女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」

自分は、堀木がそんな酔っぱらった様子をすることを、あまり好きではなかったのでした。

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自分は、堀木がそんな酔態を演じる事を、あまり好んでいないのでした。

堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。

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堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。

「いいか。キスするぜ。おれの隣に座った女給さんに、きっとキスして見せる。いいか」

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「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる。いいか」

「かまわんだろう」

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「かまわんだろう」

「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」

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「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」

銀座四丁目で降りて、そのいわゆる酒池肉林の大きなカフェーに、ツネ子を頼みの綱として、ほとんど無一文で入り、あいているボックス席に堀木と向かい合って腰をおろしたとたん、ツネ子ともう一人の女給さんが走り寄ってきて、そのもう一人の女給さんが自分の隣に、そしてツネ子は、堀木の隣に、どさんと腰かけたので、自分は、はっとしました。

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銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、そのもう一人の女給が自分の傍に、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。

ツネ子は、今にもキスされる。

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ツネ子は、いまにキスされる。

惜しいという気持ちではありませんでした。

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惜しいという気持ではありませんでした。

自分には、もともと所有欲というものはうすく、また、たまにかすかに惜しむ気持ちはあっても、その所有権を思いきって主張し、人と争うほどの気力がなかったのでした。

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自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。

のちに、自分は、自分の内縁の妻(正式な結婚はしていないが、夫婦として暮らしている相手)がひどい目にあわされるのを、黙って見ていたことさえあったほどなのです。

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のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです。

自分は、人間のもめごとに、できるだけかかわりたくないのでした。

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自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。

その渦に巻きこまれるのが、おそろしかったのでした。

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その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。

ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。

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ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。

ツネ子は、自分のものではありません。

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ツネ子は、自分のものではありません。

惜しい、などという思い上がった欲を、自分が持てるはずはありません。

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惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈はありません。

けれども、自分は、はっとしました。

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けれども、自分は、ハッとしました。

自分の目の前で、堀木の激しいキスを受ける、そのツネ子の身の上を、かわいそうに思ったからでした。

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自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。

堀木によごされたツネ子は、自分と別れなければならなくなるだろう。しかも自分にも、ツネ子を引き留めるほどの前向きな情熱はない。ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬はっとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見比べて、にやにやと笑いました。

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堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな熱は無い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、にやにやと笑いました。

しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪いほうへ進みました。

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しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。

「やめた!」

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「やめた!」

と堀木は、口をゆがめて言い、

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と堀木は、口をゆがめて言い、

「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」

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「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」

すっかりへきえきしたように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑いするのでした。

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閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。

「お酒を。お金はない」

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「お酒を。お金は無い」

自分は、小声でツネ子に言いました。

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自分は、小声でツネ子に言いました。

それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持ちでした。

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それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持でした。

いわゆる俗っぽい人の目から見ると、ツネ子は酔っぱらいのキスにも値しない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。

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所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。

案外とも、意外とも、自分には、雷に打ちくだかれた思いでした。

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案外とも、意外とも、自分には霹靂へきれきに撃ちくだかれた思いでした。

自分は、これまで例のなかったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合わせ、悲しくほほえみ合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、お金のない者どうしの通じ合う気持ち(貧しさゆえの不仲は、ありふれた話のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)、それが、その通じ合う気持ちが、胸にこみ上げてきて、ツネ子がいとしく、生まれてこの時はじめて、自分から積極的に、わずかながら恋の心が動くのを自覚しました。

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自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、かなしく微笑ほほえみ合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。

吐きました。

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吐きました。

わけがわからなくなりました。

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前後不覚になりました。

お酒を飲んで、こんなに我を忘れるほど酔ったのも、その時がはじめてでした。

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お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時がはじめてでした。

目が覚めたら、枕もとにツネ子が座っていました。

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眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。

本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。

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本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。

「金の切れ目が縁の切れ目、なんておっしゃって、冗談かと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れ目やな。うちが、かせいであげても、だめか」

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「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、冗談かと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか」

「だめ」

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「だめ」

それから、女性も横になって、夜明け頃、女性の口から「死」

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それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」

という言葉がはじめて出て、女性も人間としての暮らしに疲れきっていたようでしたし、また、自分も、世の中へのおそろしさ、わずらわしさ、お金、あの運動、女性、学業、考えると、とてもこれ以上がまんして生きていけそうもなく、その人の提案に軽い気持ちで同意しました。

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という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。

けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」

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けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」

という覚悟は、できていなかったのです。

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という覚悟は、出来ていなかったのです。

どこかに「遊び」

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どこかに「遊び」

がひそんでいました。

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がひそんでいました。

その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。

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その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。

喫茶店に入り、牛乳を飲みました。

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喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。

「あなた、払うといて」

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「あなた、払うて置いて」

自分は立って、たもとから財布を出し、ひらくと、銅の小銭が三枚。恥ずかしさよりも、ぞっとするような思いにおそわれ、たちまち頭に浮かんだのは、仙遊館の自分の部屋、制服と布団だけが残されているだけで、あとはもう、質に入れられそうなものの一つもない、荒れはてた部屋。ほかには自分がいま着て歩いている絣の着物と、マント。これが自分の現実なのだ、生きていけない、とはっきり思い知りました。

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自分は立って、たもとからがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、羞恥しゅうちよりも凄惨せいさんの思いに襲われ、たちまち脳裡のうりに浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には自分のいま着て歩いている絣の着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。

自分がまごついているので、女性も立って、自分の財布をのぞいて、

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自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、

「あら、たったそれだけ?」

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「あら、たったそれだけ?」

何気ない声でしたが、これがまた、じんと骨身にしみるほどに痛かったのです。

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無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。

はじめて自分が、恋をした人の声だけに、痛かったのです。

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はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。

それだけも、これだけもない、銅の小銭三枚は、そもそもお金というものではありません。

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それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。

それは、自分がまだかつて味わったことのない、不思議な屈辱でした。

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それは、自分がいまだかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。

とても生きていられない屈辱でした。

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とても生きておられない屈辱でした。

しょせん、その頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種類から抜けきっていなかったのでしょう。

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所詮しょせんその頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。

その時、自分は、みずから進んでも死のうと、実感として決意したのです。

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その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として決意したのです。

その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛びこみました。

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その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。

女性は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、たたんで岩の上に置き、自分もマントを脱いで、同じところに置いて、一緒に海に入りました。

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女は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、一緒に入水じゅすいしました。

女の人は、死にました。

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女のひとは、死にました。

そうして、自分だけ助かりました。

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そうして、自分だけ助かりました。

自分が高等学校の生徒でもあり、また父の名前にもいくらか、いわゆるニュース・バリュー(記事になる価値)があったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。

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自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス・ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。

自分は海辺の病院に収容され、故郷から親戚の人がひとり駆けつけ、さまざまな後始末をしてくれて、そうして、故郷の父をはじめ一家じゅうが激しく怒っているから、これきり生まれた家とは縁を切ることになるかもしれない、と自分に言い渡して帰りました。

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自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から親戚しんせきの者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。

けれども自分は、そんなことより、死んだツネ子が恋しくて、めそめそ泣いてばかりいました。

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けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。

本当に、いままでの人の中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、好きだったのですから。

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本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。

下宿の娘さんから、短歌を五十首も書きつらねた長い手紙が来ました。

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下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。

「生きくれよ」

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「生きくれよ」

というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十首でした。

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というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした。

また、自分の病室に、看護婦さんたちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦さんもいました。

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また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦もいました。

自分の左の肺に、悪いところがあるのを、その病院で見つけられて、これがたいへん自分に都合のよいことになり、やがて自分が自殺幇助罪(じさつほうじょざい・人の自殺を手伝った罪)という罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特別に保護室に入れました。

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自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分に好都合な事になり、やがて自分が自殺幇助ほうじょ罪という罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保護室に収容しました。

深夜、保護室の隣の宿直室で、寝ずの番をしていた年寄りのお巡りさんが、間のドアをそっとあけ、

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深夜、保護室の隣りの宿直室で、寝ずの番をしていた年寄りのおまわりが、間のドアをそっとあけ、

「おい!」

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「おい!」

と自分に声をかけ、

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と自分に声をかけ、

「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ」

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「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ」

と言いました。

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と言いました。

自分は、わざとしおしおと宿直室に入っていき、椅子に腰かけて火鉢にあたりました。

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自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、椅子に腰かけて火鉢にあたりました。

「やはり、死んだ女が恋しいだろう」

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「やはり、死んだ女が恋いしいだろう」

「はい」

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「はい」

わざと、消え入るような細い声で返事しました。

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ことさらに、消え入るような細い声で返事しました。

「そこが、やはり人情というものだ」

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「そこが、やはり人情というものだ」

彼は次第に、大きく構えてきました。

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彼は次第に、大きく構えて来ました。

「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ」

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「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ」

ほとんど裁判官のように、もったいぶって尋ねるのでした。

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ほとんど裁判官の如く、もったいぶって尋ねるのでした。

彼は、自分を子ども扱いにして見くだし、秋の夜の退屈しのぎに、まるで自分自身が取り調べの主任ででもあるかのように装って、自分から、いやらしい話めいた告白を引き出そうという魂胆のようでした。

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彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調べの主任でもあるかのように装い、自分から猥談わいだんめいた述懐を引き出そうという魂胆のようでした。

自分はすばやくそれを察して、吹き出したいのをこらえるのに骨を折りました。

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自分は素早くそれを察し、噴き出したいのをこらえるのに骨を折りました。

そんなお巡りさんの「非公式な質問」

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そんなお巡りの「非公式な訊問」

には、いっさい答えを拒否してもかまわないのだということは、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜長に楽しみを添えるため、自分は、あくまでもおとなしく、そのお巡りさんこそ取り調べの主任であって、刑罰の重さの決定も、そのお巡りさんの考え一つにかかっているのだ、ということを固く信じて疑わないような、いわゆる誠意を表にあらわし、彼のいやらしい好奇心を、少し満足させる程度のいい加減な「陳述」

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には、いっさい答を拒否してもかまわないのだという事は、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜ながに興を添えるため、自分は、あくまでも神妙に、そのお巡りこそ取調べの主任であって、刑罰の軽重の決定もそのお巡りの思召おぼしめし一つに在るのだ、という事を固く信じて疑わないような所謂誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、やや満足させる程度のいい加減な「陳述」

をするのでした。

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をするのでした。

「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手加減する」

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「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

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「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

ほとんど神業のような演技でした。

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ほとんど入神の演技でした。

そうして、自分のためには、何も、一つも、得にならない熱演なのです。

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そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。

夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。

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夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。

今度は、本式の取り調べなのです。

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こんどは、本式の取調べなのです。

ドアをあけて、署長室に入ったとたん、

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ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、

「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」

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「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」

色の浅黒い、大学出のような感じの、まだ若い署長でした。

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色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い署長でした。

いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半分にべったり赤いあざでもあるような、消えない傷でもあるような、みじめな気がしました。

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いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったり赤痣あかあざでもあるような、みにくい不具者のような、みじめな気がしました。

この柔道か剣道の選手のような署長の取り調べは、実にあっさりしていて、あの深夜の年寄りのお巡りさんの、ひそかで、しつこいことこの上ない、いやらしい「取り調べ」

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この柔道か剣道の選手のような署長の取調べは、実にあっさりしていて、あの深夜の老巡査のひそかな、執拗しつようきわまる好色の「取調べ」

とは、雲泥の差がありました。

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とは、雲泥の差がありました。

質問がすんで、署長は、検事局に送る書類を書きながら、

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訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、

「からだを丈夫にしなけりゃ、いかんね。血のまじったたんが出ているようじゃないか」

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「からだを丈夫にしなけれゃ、いかんね。血痰けったんが出ているようじゃないか」

と言いました。

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と言いました。

その朝、へんにせきが出て、自分はせきが出るたびに、ハンカチで口をおおっていたのですが、そのハンカチに赤いあられが降ったみたいに血がついていたのです。

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その朝、へんにせきが出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤いあられが降ったみたいに血がついていたのです。

けれども、それは、のどから出た血ではなく、昨夜、耳の下にできた小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。

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けれども、それは、のどから出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。

しかし、自分は、それを言い明かさないほうが、都合のよいこともあるような気が、ふっとしたものですから、ただ、

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しかし、自分は、それを言い明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、

「はい」

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「はい」

と、目を伏せて、殊勝な様子で答えておきました。

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と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。

署長は書類を書き終えて、

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署長は書類を書き終えて、

「起訴になるかどうか、それは検事殿が決めることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、きょう横浜の検事局に来てもらうように、頼んだほうがいいな。誰か、あるだろう、お前の保護者とか保証人とかいうものが」

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「起訴になるかどうか、それは検事殿がきめることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、きょう横浜の検事局に来てもらうように、たのんだほうがいいな。誰か、あるだろう、お前の保護者とか保証人とかいうものが」

父の東京の別荘に出入りしていた、書画骨董商(しょがこっとうしょう・書や絵、古い美術品を売買する商人)の渋田という、自分たちと同じ故郷の人で、父のごきげんとりみたいな役もつとめていた、ずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。

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父の東京の別荘に出入りしていた書画骨董こっとう商の渋田という、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。

その男の顔が、特に目つきが、ヒラメ(魚の名前)に似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。

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その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。

自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号をさがし、見つかったので、ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変わったみたいな、威張った口調で、それでも、とにかく引き受けてくれました。

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自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号を捜し、見つかったので、ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいな威張った口調で、それでも、とにかく引受けてくれました。

「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血のまじったたんが出ているんだから」

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「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから」

自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りさんたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室に座っている自分の耳にまで、とどきました。

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自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室に坐っている自分の耳にまで、とどきました。

お昼すぎ、自分は、細い麻縄で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻縄のはしを若いお巡りさんが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向かいました。

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お昼すぎ、自分は、細い麻繩で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻繩の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。

けれども、自分には少しの不安もなく、あの警察の保護室も、年寄りのお巡りさんもなつかしく、ああ、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ち着いて、その時の思い出を、いま書くにあたっても、本当にのびのびした楽しい気持ちになるのです。

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けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼ああ、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、いま書くに当っても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。

しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷や汗をたっぷりかいた、一生忘れられない、みじめな失敗があったのです。

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しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。

自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取り調べを受けました。

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自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取調べを受けました。

検事は四十歳前後の物静かな人で、(もし自分が美貌だったとしても、それは、いわば、いやらしい美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、かしこそうな、静かな落ち着きを持っていました)せかせかしない人柄のようでしたので、自分もまったく警戒せず、ぼんやりと述べていたのですが、突然、いつものせきが出てきて、自分はたもとからハンカチを出し、ふとその血を見て、このせきもまた何かの役に立つかもしれないと、あさましいかけひきの心を起こし、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの、うそのせきを大げさに付け加えて、ハンカチで口をおおったまま検事の顔をちらと見た、その間一髪、

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検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それはわば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐せいひつの気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけのにせの咳を大袈裟おおげさに附け加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、

「ほんとうかい?」

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「ほんとうかい?」

もの静かな微笑みでした。

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ものしずかな微笑でした。

冷や汗たっぷり、いいえ、今思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。

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冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。

中学時代に、あのばかの竹一から、ワザ、ワザ、と言われて背中を突かれ、地獄にけ落とされた、その時の気持ち以上と言っても、決して言いすぎではない気持ちです。

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中学時代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて脊中せなかを突かれ、地獄に蹴落けおとされた、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持です。

あれと、これと、二つ、自分の一生における演技の大失敗の記録です。

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あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。

検事のあんな物静かな侮辱に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思うことさえ、時々あるほどなのです。

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検事のあんな物静かな侮蔑ぶべつに遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまある程なのです。

自分は起訴猶予(きそゆうよ・裁判にかけずに済ませること)になりました。

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自分は起訴猶予になりました。

けれども少しもうれしくなく、この世のものとも思えないほどみじめな気持ちで、検事局の控室のベンチに腰かけ、引き取り人のヒラメが来るのを待っていました。

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けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局の控室のベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが来るのを待っていました。

背後の高い窓から夕焼けの空が見え、かもめが、「女」

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背後の高い窓から夕焼けの空が見え、かもめが、「女」

という字みたいな形で飛んでいました。

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という字みたいな形で飛んでいました。

第三の手記

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第三の手記

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竹一の予言の、一つは当たり、一つは、はずれました。

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竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました。

惚れられるという、名誉ではない予言のほうは、当たりましたが、きっと偉い絵かきになるという、祝福の予言は、はずれました。

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れられるという、名誉で無い予言のほうは、あたりましたが、きっと偉い絵画きになるという、祝福の予言は、はずれました。

自分は、わずかに、粗末な雑誌の、無名の下手な漫画家になることができただけでした。

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自分は、わずかに、粗悪な雑誌の、無名の下手な漫画家になる事が出来ただけでした。

鎌倉の事件のために、高等学校からは追い出され、自分は、ヒラメの家の二階の、三畳の部屋で寝起きして、故郷からは毎月、ごくわずかなお金が、それも直接自分あてではなく、ヒラメのところにひそかに送られてきている様子でしたが、(しかも、それは故郷の兄たちが、父に隠して送ってくれているという形になっていたようでした)それきり、あとは故郷とのつながりをすっかり断ち切られてしまい、そうして、ヒラメはいつも不機嫌で、自分がお愛想笑いをしても、笑わず、人間というものはこんなにも簡単に、それこそ手のひらを返すように変化できるものかと、あさましく、いや、むしろこっけいに思われるくらいの、ひどい変わりようで、

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鎌倉の事件のために、高等学校からは追放せられ、自分は、ヒラメの家の二階の、三畳の部屋で寝起きして、故郷からは月々、極めて小額の金が、それも直接に自分宛ではなく、ヒラメのところにひそかに送られて来ている様子でしたが、(しかも、それは故郷の兄たちが、父にかくして送ってくれているという形式になっていたようでした)それっきり、あとは故郷とのつながりを全然、断ち切られてしまい、そうして、ヒラメはいつも不機嫌、自分があいそ笑いをしても、笑わず、人間というものはこんなにも簡単に、それこそ手のひらをかえすが如くに変化できるものかと、あさましく、いや、むしろ滑稽に思われるくらいの、ひどい変り様で、

「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないでくださいよ」

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「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないで下さいよ」

そればかり自分に言っているのでした。

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そればかり自分に言っているのでした。

ヒラメは、自分に自殺のおそれがあるとにらんでいるらしく、つまり、女のあとを追ってまた海へ飛びこんだりする危険があると見ているらしく、自分の外出を固く禁じているのでした。

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ヒラメは、自分に自殺のおそれありと、にらんでいるらしく、つまり、女の後を追ってまた海へ飛び込んだりする危険があると見てとっているらしく、自分の外出を固く禁じているのでした。

けれども、お酒も飲めないし、たばこも吸えないし、ただ、朝から晩まで二階の三畳のこたつにもぐって、古雑誌なんか読んで、ぼんやりした暮らしをしている自分には、自殺する気力さえ失われていました。

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けれども、酒も飲めないし、煙草も吸えないし、ただ、朝から晩まで二階の三畳のこたつにもぐって、古雑誌なんか読んで阿呆同然のくらしをしている自分には、自殺の気力さえ失われていました。

ヒラメの家は、大久保の医学専門学校の近くにあり、書画骨董商、青竜園、だなどと看板の文字だけは、ずいぶんと立派でも、一つの棟に二軒の家が並んだ、その片方で、店の間口もせまく、店の中はほこりだらけで、いい加減ながらくたばかり並べていました。(もっとも、ヒラメはその店のがらくたに頼って商売しているわけではなく、こっちの、いわゆる旦那の大切にしているものを、あっちの、いわゆる旦那にその所有権をゆずる場合などに活躍して、お金をもうけているらしいのです)店に座っていることはほとんどなく、たいてい朝から、むずかしそうな顔をしてそそくさと出かけ、留守は十七、八の小僧ひとり。これが自分の見張り番というわけで、ひまさえあれば近所の子どもたちと外でキャッチボールなどしていても、

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ヒラメの家は、大久保の医専の近くにあり、書画骨董商、青竜園、だなどと看板の文字だけは相当に気張っていても、一棟二戸の、その一戸で、店の間口も狭く、店内はホコリだらけで、いい加減なガラクタばかり並べ、(もっとも、ヒラメはその店のガラクタにたよって商売しているわけではなく、こっちの所謂旦那の秘蔵のものを、あっちの所謂旦那にその所有権をゆずる場合などに活躍して、お金をもうけているらしいのです)店に坐っている事は殆ど無く、たいてい朝から、むずかしそうな顔をしてそそくさと出かけ、留守は十七、八の小僧ひとり、これが自分の見張り番というわけで、ひまさえあれば近所の子供たちと外でキャッチボールなどしていても、

二階の居候を、まるでばかか、どうかした人くらいに思っているらしく、大人が言うような説教くさいことまで自分に言い聞かせ、自分は、人と言い争いのできない性分なので、疲れたような、また、感心したような顔をしてそれに耳を傾け、従っているのでした。

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二階の居候をまるで馬鹿か気違いくらいに思っているらしく、大人おとなの説教くさい事まで自分に言い聞かせ、自分は、ひとと言い争いの出来ないたちなので、疲れたような、また、感心したような顔をしてそれに耳を傾け、服従しているのでした。

この小僧は渋田の隠し子で、それでもへんな事情があって、渋田は、いわゆる親子だと名乗らず、また渋田がずっと独身なのも、何やらそのあたりに理由があってのことらしく、自分も以前、自分の家の人たちから、それについてのうわさを、ちょっと聞いたような気もするのですが、自分は、どうも他人の身の上には、あまり興味が持てないほうなので、くわしいことは何も知りません。

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この小僧は渋田のかくし子で、それでもへんな事情があって、渋田は所謂親子の名乗りをせず、また渋田がずっと独身なのも、何やらその辺に理由があっての事らしく、自分も以前、自分の家の者たちからそれに就いてのうわさを、ちょっと聞いたような気もするのですが、自分は、どうも他人の身の上には、あまり興味を持てないほうなので、深い事は何も知りません。

しかし、その小僧の目つきにも、妙に魚の目を思わせるところがありましたから、あるいは、本当にヒラメの隠し子、……でも、それならば、二人は実にさびしい親子でした。

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しかし、その小僧の眼つきにも、妙に魚の眼を聯想れんそうさせるところがありましたから、或いは、本当にヒラメのかくし子、……でも、それならば、二人は実に淋しい親子でした。

夜おそく、二階の自分には内緒で、二人でおそばなどを取り寄せて、無言で食べていることがありました。

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夜おそく、二階の自分には内緒で、二人でおそばなどを取寄せて無言で食べている事がありました。

ヒラメの家では食事はいつもその小僧が作り、二階の厄介者の食事だけは別にお膳にのせて、小僧が毎回二階に運んできてくれて、ヒラメと小僧は、階段の下のじめじめした四畳半で何やら、カチャカチャと皿小鉢の触れ合う音をさせながら、忙しそうに食事をしているのでした。

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ヒラメの家では食事はいつもその小僧がつくり、二階のやっかい者の食事だけは別におぜんに載せて小僧が三度々々二階に持ち運んで来てくれて、ヒラメと小僧は、階段の下のじめじめした四畳半で何やら、カチャカチャ皿小鉢の触れ合う音をさせながら、いそがしげに食事しているのでした。

三月末のある夕方、ヒラメは思わぬもうけ口にでもありついたのか、または何かほかに策略でもあったのか、(その二つの推測が、両方とも当たっていたとしても、おそらくは、さらにまたいくつかの、自分などにはとても推測のおよばない細かい理由もあったのでしょうが)自分を階下の、珍しくお銚子などが付いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの主人みずから感心し、ほめたたえ、ぼんやりしている居候にも少しお酒をすすめ、

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三月末の或る夕方、ヒラメは思わぬもうけ口にでもありついたのか、または何か他に策略でもあったのか、(その二つの推察が、ともに当っていたとしても、おそらくは、さらにまたいくつかの、自分などにはとても推察のとどかないこまかい原因もあったのでしょうが)自分を階下の珍らしくお銚子ちょうしなど附いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの主人あるじみずから感服し、賞讃しょうさんし、ぼんやりしている居候にも少しくお酒をすすめ、

「どうするつもりなんです、いったい、これから」

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「どうするつもりなんです、いったい、これから」

自分はそれに答えず、食卓の皿から畳鰯(たたみいわし・小魚を薄く干した食べ物)をつまみ上げ、その小魚たちの銀色の目玉をながめていたら、酔いがほんのりまわってきて、遊びまわっていた頃がなつかしく、堀木でさえなつかしく、つくづく「自由」

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自分はそれに答えず、卓上の皿から畳鰯たたみいわしをつまみ上げ、その小魚たちの銀の眼玉を眺めていたら、酔いがほのぼの発して来て、遊び廻っていた頃がなつかしく、堀木でさえなつかしく、つくづく「自由」

が欲しくなり、ふっと、かぼそく泣きそうになりました。

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が欲しくなり、ふっと、かぼそく泣きそうになりました。

自分がこの家へ来てからは、道化を演じるはりあいさえなく、ただもうヒラメと小僧の見くだす視線の中に身を横たえ、ヒラメのほうでもまた、自分と打ち解けて長話をするのを避けている様子でしたし、自分もそのヒラメを追いかけて何かをうったえる気などは起こらず、ほとんど自分は、間抜け面の居候になりきっていたのです。

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自分がこの家へ来てからは、道化を演ずる張合いさえ無く、ただもうヒラメと小僧の蔑視の中に身を横たえ、ヒラメのほうでもまた、自分と打ち解けた長噺をするのを避けている様子でしたし、自分もそのヒラメを追いかけて何かを訴える気などは起らず、ほとんど自分は、間抜けづらの居候になり切っていたのです。

「起訴猶予というのは、前科何犯とか、そんなものには、ならない模様です。だから、まあ、あなたの心がけ一つで、更生(こうせい・悪い生活からやり直すこと)できるわけです。あなたが、もし、改心して、あなたのほうから、まじめに私に相談を持ちかけてくれたら、私も考えてみます」

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「起訴猶予というのは、前科何犯とか、そんなものには、ならない模様です。だから、まあ、あなたの心掛け一つで、更生が出来るわけです。あなたが、もし、改心して、あなたのほうから、真面目に私に相談を持ちかけてくれたら、私も考えてみます」

ヒラメの話し方には、いや、世の中のすべての人の話し方には、このようにややこしく、どこかぼんやりしていて、逃げ腰とでもいったような、微妙な複雑さがあり、そのほとんど意味がないと思われるくらいの厳重な警戒と、数えきれないくらいの小うるさい駆け引きには、いつも自分はとまどい、どうでもいいやという気分になって、道化でごまかしたり、または無言でうなずいて、すべてお任せするという、いわば敗北の態度を取ってしまうのでした。

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ヒラメの話方には、いや、世の中の全部の人の話方には、このようにややこしく、どこか朦朧もうろうとして、逃腰とでもいったみたいな微妙な複雑さがあり、そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と、無数といっていいくらいの小うるさい駈引とには、いつも自分は当惑し、どうでもいいやという気分になって、お道化で茶化したり、または無言の首肯で一さいおまかせという、謂わば敗北の態度をとってしまうのでした。

この時もヒラメが、自分に向かって、だいたい次のように簡単に伝えれば、それですむことだったのを、自分はのちのちになって知り、ヒラメの必要のない用心、いや、世の中の人たちの理解できない見えっ張り、体裁に、何とも暗く重い思いをしました。

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この時もヒラメが、自分に向って、だいたい次のように簡単に報告すれば、それですむ事だったのを自分は後年に到って知り、ヒラメの不必要な用心、いや、世の中の人たちの不可解な見栄、おていさいに、何とも陰鬱な思いをしました。

ヒラメは、その時、ただこう言えばよかったのでした。

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ヒラメは、その時、ただこう言えばよかったのでした。

「国立でも私立でも、とにかく四月から、どこかの学校へ入りなさい。あなたの生活費は、学校へ入ると、くにから、もっと十分に送ってくることになっているのです」

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「官立でも私立でも、とにかく四月から、どこかの学校へはいりなさい。あなたの生活費は、学校へはいると、くにから、もっと充分に送って来る事になっているのです。」

ずっとあとになってわかったのですが、事実は、そのようになっていたのでした。

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ずっと後になってわかったのですが、事実は、そのようになっていたのでした。

そうして、自分もその言いつけに従ったでしょう。

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そうして、自分もその言いつけに従ったでしょう。

それなのに、ヒラメのいやに用心深く、回りくどい言い方のために、妙にこじれて、自分の生きていく方向もまるで変わってしまったのです。

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それなのに、ヒラメのいやに用心深く持って廻った言い方のために、妙にこじれ、自分の生きて行く方向もまるで変ってしまったのです。

「まじめに私に相談を持ちかけてくれる気持ちがなければ、仕方がないですが」

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「真面目に私に相談を持ちかけてくれる気持が無ければ、仕様がないですが」

「どんな相談?」

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「どんな相談?」

自分には、本当に何も見当がつかなかったのです。

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自分には、本当に何も見当がつかなかったのです。

「それは、あなたの胸にあることでしょう?」

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「それは、あなたの胸にある事でしょう?」

「たとえば?」

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「たとえば?」

「たとえばって、あなた自身、これからどうする気なんです」

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「たとえばって、あなた自身、これからどうする気なんです」

「働いたほうが、いいんですか?」

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「働いたほうが、いいんですか?」

「いや、あなたの気持ちは、いったいどうなんです」

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「いや、あなたの気持は、いったいどうなんです」

「だって、学校へ入るといったって、……」

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「だって、学校へはいるといったって、……」

「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金じゃない。あなたの気持ちです」

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「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持です」

お金は、くにから来ることになっているんだから、と、なぜひとこと、言わなかったのでしょう。

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お金は、くにから来る事になっているんだから、となぜ一こと、言わなかったのでしょう。

その一言によって、自分の気持ちも、決まったはずなのに、自分には、ただ五里霧中でした。

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その一言に依って、自分の気持も、きまった筈なのに、自分には、ただ五里霧中でした。

「どうですか? 何か、将来の希望、とでもいったものが、あるんですか? いったい、どうも、人をひとり世話しているというのは、どれだけむずかしいものだか、世話されている人には、わからないでしょう」

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「どうですか? 何か、将来の希望、とでもいったものが、あるんですか? いったい、どうも、ひとをひとり世話しているというのは、どれだけむずかしいものだか、世話されているひとには、わかりますまい」

「すみません」

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「すみません」

「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引き受けた以上、あなたにも、中途半端な気持ちでいてもらいたくないのです。立派に更生の道をたどる、という覚悟のほどを見せてもらいたいのです。たとえば、あなたの将来の方針、それについてあなたのほうから私に、まじめに相談を持ちかけてきたなら、私もその相談には応じるつもりでいます。それは、どうせこんな、貧乏なヒラメの援助なのですから、以前のようなぜいたくを望んだら、あてがはずれます。しかし、あなたの気持ちがしっかりしていて、将来の方針をはっきり打ち立て、そうして私に相談をしてくれたら、私は、たとえわずかずつでも、あなたの更生のために、お手伝いしようとさえ思っているんです。わかりますか? 私の気持ちが。いったい、あなたは、これから、どうするつもりでいるのです」

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「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引受けた以上、あなたにも、生半可なまはんかな気持でいてもらいたくないのです。立派に更生の道をたどる、という覚悟のほどを見せてもらいたいのです。たとえば、あなたの将来の方針、それに就いてあなたのほうから私に、まじめに相談を持ちかけて来たなら、私もその相談には応ずるつもりでいます。それは、どうせこんな、貧乏なヒラメの援助なのですから、以前のようなぜいたくを望んだら、あてがはずれます。しかし、あなたの気持がしっかりしていて、将来の方針をはっきり打ちて、そうして私に相談をしてくれたら、私は、たといわずかずつでも、あなたの更生のために、お手伝いしようとさえ思っているんです。わかりますか? 私の気持が。いったい、あなたは、これから、どうするつもりでいるのです」

「ここの二階に、置いてもらえなかったら、働いて、……」

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「ここの二階に、置いてもらえなかったら、働いて、……」

「本気で、そんなことを言っているのですか? いまのこの世の中に、たとえ帝国大学を出たって、……」

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「本気で、そんな事を言っているのですか? いまのこの世の中に、たとい帝国大学校を出たって、……」

「いいえ、サラリーマンになるんじゃないんです」

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「いいえ、サラリイマンになるんでは無いんです」

「それじゃ、何です」

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「それじゃ、何です」

「画家です」

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「画家です」

思いきって、それを言いました。

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思い切って、それを言いました。

「へええ?」

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「へええ?」

自分は、その時の、首をちぢめて笑ったヒラメの顔の、いかにもずるそうな影を忘れることができません。

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自分は、その時の、くびをちぢめて笑ったヒラメの顔の、いかにもずるそうな影を忘れる事が出来ません。

軽蔑の影にも似て、それとも違い、世の中を海にたとえると、その海のずっと深いところに、そんな奇妙な影がただよっていそうで、何か、大人の暮らしの奥底をちらとのぞかせたような笑いでした。

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軽蔑の影にも似て、それとも違い、世の中を海にたとえると、その海の千尋ちひろの深さの箇所に、そんな奇妙な影がたゆとうていそうで、何か、おとなの生活の奥底をチラとのぞかせたような笑いでした。

そんなことでは話にも何もならない、少しも気持ちがしっかりしていない、考えなさい、今夜一晩まじめに考えてみなさい、と言われ、自分は追われるように二階に上がって、寝ても、別に何の考えも浮かびませんでした。

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そんな事では話にも何もならぬ、ちっとも気持がしっかりしていない、考えなさい、今夜一晩まじめに考えてみなさい、と言われ、自分は追われるように二階に上って、寝ても、別に何の考えも浮びませんでした。

そうして、明け方になり、ヒラメの家から逃げました。

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そうして、あけがたになり、ヒラメの家から逃げました。

夕方、間違いなく帰ります。

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夕方、間違いなく帰ります。

下に書いた友人のところへ、将来の方針について相談に行ってくるのですから、ご心配なく。

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左記の友人のもとへ、将来の方針に就いて相談に行って来るのですから、御心配無く。

ほんとうに。

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ほんとうに。

と、便箋に鉛筆で大きく書き、それから、浅草の堀木正雄の住所と名前を書いて、こっそり、ヒラメの家を出ました。

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と、用箋に鉛筆で大きく書き、それから、浅草の堀木正雄の住所姓名を記して、こっそり、ヒラメの家を出ました。

ヒラメに説教されたのが、くやしくて逃げたわけではありませんでした。

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ヒラメに説教せられたのが、くやしくて逃げたわけではありませんでした。

まさしく自分は、ヒラメの言うとおり、気持ちのしっかりしていない男で、将来の方針も何も自分にはまるで見当がつかず、これ以上、ヒラメの家の世話になっているのは、ヒラメにも気の毒ですし、そのうちに、もし万一、自分にもやる気が起こって、志を立てたところで、その更生の資金を、あの貧乏なヒラメから毎月援助されるのかと思うと、とても心苦しくて、いたたまれない気持ちになったからでした。

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まさしく自分は、ヒラメの言うとおり、気持のしっかりしていない男で、将来の方針も何も自分にはまるで見当がつかず、この上、ヒラメの家のやっかいになっているのは、ヒラメにも気の毒ですし、そのうちに、もし万一、自分にも発奮の気持が起り、志を立てたところで、その更生資金をあの貧乏なヒラメから月々援助せられるのかと思うと、とても心苦しくて、いたたまらない気持になったからでした。

しかし、自分は、いわゆる「将来の方針」

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しかし、自分は、所謂「将来の方針」

を、堀木ごときに、相談に行こうなどと本気で思って、ヒラメの家を出たのではなかったのでした。

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を、堀木ごときに、相談に行こうなどと本気に思って、ヒラメの家を出たのでは無かったのでした。

それは、ただ、わずかでも、つかのまでも、ヒラメを安心させておきたくて、(その間に自分が、少しでも遠くへ逃げのびていたいという、探偵小説みたいな策略から、そんな置き手紙を書いた、というよりは、いや、そんな気持ちもかすかにあったに違いないのですが、それよりも、やはり自分は、いきなりヒラメにショックを与え、彼を混乱させ、とまどわせてしまうのが、おそろしかったばかりに、とでも言ったほうが、いくらか正確かもしれません。

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それは、ただ、わずかでも、つかのまでも、ヒラメに安心させて置きたくて、(その間に自分が、少しでも遠くへ逃げのびていたいという探偵小説的な策略から、そんな置手紙を書いた、というよりは、いや、そんな気持もかすかにあったに違いないのですが、それよりも、やはり自分は、いきなりヒラメにショックを与え、彼を混乱当惑させてしまうのが、おそろしかったばかりに、とでも言ったほうが、いくらか正確かも知れません。

どうせ、ばれるに決まっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の悲しい癖の一つで、それは世間の人が「うそつき」

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どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が「嘘つき」

と呼んで見下している性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとして、その飾りつけを行ったことはほとんどなく、ただ、その場の雰囲気が急に興ざめしてしまうことが、息が詰まるくらいにおそろしくて、あとで自分に不利益になるということがわかっていても、いつもの自分の「必死の奉仕」

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と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、ただ雰囲気ふんいきの興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の「必死の奉仕」

それはたとえゆがんでいて、弱々しく、ばかばかしいものであろうと、その奉仕の気持ちから、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが、しかし、この癖もまた、世間のいわゆる「正直者」

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それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、その奉仕の気持から、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが、しかし、この習性もまた、世間の所謂「正直者」

たちから、大いにつけこまれるところとなりました)その時、ふっと、記憶の底から浮かんできたままに、堀木の住所と名前を、便箋のはしに書きつけたまでのことだったのです。

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たちから、大いに乗ぜられるところとなりました)その時、ふっと、記憶の底から浮んで来たままに堀木の住所と姓名を、用箋の端にしたためたまでの事だったのです。

自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、懐に入れていた本を売り、そうして、やっぱりどうしたらいいかわからなくなってしまいました。

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自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、懐中の本を売り、そうして、やっぱり途方にくれてしまいました。

自分は、みんなに愛想がいいかわりに、「友情」

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自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」

というものを、一度も実感したことがなく、堀木のような遊び友達は別として、すべての付き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして、必死に道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知り合っている人の顔を、それに似た顔をさえ、通りなどで見かけても、ぎょっとして、一瞬、めまいがするほど不快な震えに襲われるありさまで、人に好かれることは知っていても、人を愛する力においては、欠けているところがあるようでした。

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というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別として、いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力にいては欠けているところがあるようでした。

(もっとも、自分は、世の中の人間にだって、はたして、「愛」

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(もっとも、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」

の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています)そのような自分に、いわゆる「親友」

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の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています)そのような自分に、所謂「親友」

など、できるはずはなく、そのうえ自分には、「訪問(ヴィジット)」

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など出来る筈は無く、そのうえ自分には、「訪問ヴィジット

の力さえ、なかったのです。

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の能力さえ無かったのです。

他人の家の門は、自分にとって、あの「神曲」(イタリアの有名な物語詩)に出てくる地獄の門以上に薄気味悪く、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い、見たこともない獣がうごめいている気配を、大げさにでなく、実感していたのです。

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他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張でなしに、実感せられていたのです。

誰とも、付き合いがない。

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誰とも、附き合いが無い。

どこへも、訪ねて行けない。

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どこへも、訪ねて行けない。

堀木。

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堀木。

それこそ、冗談から出た話が、本当になった形でした。

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それこそ、冗談から駒が出た形でした。

あの置き手紙に書いたとおりに、自分は浅草の堀木をたずねて行くことにしたのです。

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あの置手紙に、書いたとおりに、自分は浅草の堀木をたずねて行く事にしたのです。

自分はこれまで、自分のほうから堀木の家をたずねて行ったことは、一度もなく、たいてい電報で堀木を自分のほうに呼び寄せていたのですが、いまはその電報代さえ心細く、それに落ちぶれた身のひがみから、電報を打っただけでは、堀木は、来てくれないかもしれないと考えて、何よりも自分の苦手な「訪問」

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自分はこれまで、自分のほうから堀木の家をたずねて行った事は、いちども無く、たいてい電報で堀木を自分のほうに呼び寄せていたのですが、いまはその電報料さえ心細く、それに落ちぶれた身のひがみから、電報を打っただけでは、堀木は、来てくれぬかも知れぬと考えて、何よりも自分に苦手の「訪問」

を決意し、ため息をついて市電に乗り、自分にとって、この世の中でたった一つの頼みの綱は、あの堀木なのか、と思い知ったら、何だか背筋の寒くなるような、すさまじい気配に襲われました。

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を決意し、溜息ためいきをついて市電に乗り、自分にとって、この世の中でたった一つの頼みの綱は、あの堀木なのか、と思い知ったら、何か脊筋せすじの寒くなるようなすさまじい気配に襲われました。

堀木は、家にいました。

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堀木は、在宅でした。

汚い路地の奥の、二階建ての家で、堀木は二階のたった一部屋の六畳を使い、下では、堀木の年老いた両親と、それから若い職人と三人で、下駄の鼻緒を縫ったり叩いたりして作っているのでした。

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汚い露路の奥の、二階家で、堀木は二階のたった一部屋の六畳を使い、下では、堀木の老父母と、それから若い職人と三人、下駄の鼻緒を縫ったり叩いたりして製造しているのでした。

堀木は、その日、彼の都会人としての新しい一面を、自分に見せてくれました。

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堀木は、その日、彼の都会人としての新しい一面を自分に見せてくれました。

それは、俗に言う、ちゃっかりした性分でした。

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それは、俗にいうチャッカリ性でした。

田舎者の自分が、はっと目を見はったくらいの、冷たく、ずるい利己主義(エゴイズム)でした。

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田舎者の自分が、愕然がくぜんと眼をみはったくらいの、冷たく、ずるいエゴイズムでした。

自分のように、ただ、とめどなく流されるだけの性分の男ではなかったのです。

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自分のように、ただ、とめどなく流れるたちの男では無かったのです。

「お前には、まったく呆れた。親父さんから、お許しが出たかね。まだかい」

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「お前には、全くあきれた。親爺さんから、お許しが出たかね。まだかい」

逃げてきた、とは、言えませんでした。

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逃げて来た、とは、言えませんでした。

自分は、いつものように、ごまかしました。

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自分は、れいに依って、ごまかしました。

すぐに、堀木に気づかれるに違いないのに、ごまかしました。

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いまに、すぐ、堀木に気附かれるに違いないのに、ごまかしました。

「それは、どうにかなるさ」

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「それは、どうにかなるさ」

「おい、笑いごとじゃないぜ。忠告するけど、ばかもこのへんでやめるんだな。おれは、きょうは、用事があるんだがね。この頃、やたらといそがしいんだ」

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「おい、笑いごとじゃ無いぜ。忠告するけど、馬鹿もこのへんでやめるんだな。おれは、きょうは、用事があるんだがね。この頃、ばかにいそがしいんだ」

「用事って、どんな?」

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「用事って、どんな?」

「おい、おい、座布団の糸を切らないでくれよ」

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「おい、おい、座蒲団の糸を切らないでくれよ」

自分は話をしながら、自分の敷いている座布団の、とじ糸というのか、くくりひもというのか、あの房のような四すみの糸の一つを、無意識に指先でもてあそび、ぐいと引っぱったりなどしていたのでした。

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自分は話をしながら、自分の敷いている座蒲団の綴糸とじいとというのか、くくりひもというのか、あのふさのような四隅の糸の一つを無意識に指先でもてあそび、ぐいと引っぱったりなどしていたのでした。

堀木は、堀木の家の品物なら、座布団の糸一本でも惜しいらしく、恥じる様子もなく、それこそ、目に角を立てて、自分をとがめるのでした。

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堀木は、堀木の家の品物なら、座蒲団の糸一本でも惜しいらしく、恥じる色も無く、それこそ、眼にかどを立てて、自分をとがめるのでした。

考えてみると、堀木は、これまで自分との付き合いにおいて、何一つ失ってはいなかったのです。

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考えてみると、堀木は、これまで自分との附合いに於いて何一つ失ってはいなかったのです。

堀木の母親が、おしるこを二つお盆にのせて持ってきました。

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堀木の老母が、おしるこを二つお盆に載せて持って来ました。

「あ、これは」

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「あ、これは」

と堀木は、心からの親孝行息子のように、母親に向かって恐縮し、言葉づかいも不自然なくらい丁寧に、

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と堀木は、しんからの孝行息子のように、老母に向って恐縮し、言葉づかいも不自然なくらい丁寧に、

「すみません、おしるこですか。豪勢だなあ。こんな気づかいは、いらなかったんですよ。用事で、すぐ外出しなけりゃいけないんですから。いいえ、でも、せっかくの自慢のおしるこを、もったいない。いただきます。お前も一つ、どうだい。おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪勢だなあ」

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「すみません、おしるこですか。豪気だなあ。こんな心配は、要らなかったんですよ。用事で、すぐ外出しなけれゃいけないんですから。いいえ、でも、せっかくの御自慢のおしるこを、もったいない。いただきます。お前も一つ、どうだい。おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」

と、まったく芝居でもないみたいに、ひどく喜んで、おいしそうに食べるのです。

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と、まんざら芝居でも無いみたいに、ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。

自分もそれをすすりましたが、お湯のにおいがして、そうして、お餅を食べたら、それはお餅ではなく、自分にはわからないものでした。

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自分もそれをすすりましたが、お湯のにおいがして、そうして、お餅をたべたら、それはお餅でなく、自分にはわからないものでした。

決して、その貧しさを軽蔑したのではありません。

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決して、その貧しさを軽蔑したのではありません。

(自分は、その時それを、まずいとは思いませんでしたし、また、母親の心づくしも身にしみました。

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(自分は、その時それを、不味まずいとは思いませんでしたし、また、老母の心づくしも身にしみました。

自分には、貧しさへのおそろしさはあっても、軽蔑する気持ちは、ないつもりでいます)あのおしること、それから、そのおしるこを喜ぶ堀木によって、自分は、都会人のつつましい本当の姿、また、内と外をちゃんと区別して営んでいる東京の人の家庭の実体を、見せつけられました。内も外も変わりなく、ただひっきりなしに人間の暮らしから逃げまわってばかりいる、どこか間の抜けた自分ひとりだけが、すっかり取り残され、堀木にさえ見捨てられたような気配に、うろたえ、おしるこの塗りのはげたお箸を扱いながら、たまらなくわびしい思いをした、ということを、書いておきたいだけなのです。

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自分には、貧しさへの恐怖感はあっても、軽蔑感は、無いつもりでいます)あのおしること、それから、そのおしるこを喜ぶ堀木に依って、自分は、都会人のつましい本性、また、内と外をちゃんと区別していとなんでいる東京の人の家庭の実体を見せつけられ、内も外も変りなく、ただのべつ幕無しに人間の生活から逃げ廻ってばかりいる薄馬鹿の自分ひとりだけ完全に取残され、堀木にさえ見捨てられたような気配に、狼狽ろうばいし、おしるこのはげた塗箸ぬりばしをあつかいながら、たまらなくびしい思いをしたという事を、記して置きたいだけなのです。

「わるいけど、おれは、きょうは用事があるんでね」

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「わるいけど、おれは、きょうは用事があるんでね」

堀木は立って、上着を着ながらそう言い、

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堀木は立って、上衣を着ながらそう言い、

「失敬するぜ、わるいけど」

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「失敬するぜ、わるいけど」

その時、堀木に女性の訪問者があり、自分の身の上も急に変わりました。

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その時、堀木に女の訪問者があり、自分の身の上も急転しました。

堀木は、急に活気づいて、

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堀木は、にわかに活気づいて、

「や、すみません。いまね、あなたのほうへお伺いしようと思っていたのですがね、この人が突然やって来て、いや、かまわないんです。さあ、どうぞ」

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「や、すみません。いまね、あなたのほうへお伺いしようと思っていたのですがね、このひとが突然やって来て、いや、かまわないんです。さあ、どうぞ」

よほど、あわてているらしく、自分が自分の敷いている座布団をはずして、裏返しにして差し出したのを引ったくって、また裏返しにして、その女の人にすすめました。

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よほど、あわてているらしく、自分が自分の敷いている座蒲団をはずして裏がえしにして差し出したのを引ったくって、また裏がえしにして、その女のひとにすすめました。

部屋には、堀木の座布団のほかには、お客用の座布団がたった一枚しかなかったのです。

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部屋には、堀木の座蒲団の他には、客座蒲団がたった一枚しか無かったのです。

女の人は、やせて、背の高い人でした。

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女のひとはせて、脊の高いひとでした。

自分はその座布団はわきによけて、入口近くの片すみに座りました。

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その座蒲団は傍にのけて、入口ちかくの片隅に坐りました。

自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。

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自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。

女性は雑誌社の人のようで、堀木にカット(さし絵)だか、何だかを前から頼んでいたらしく、それを受け取りに来たみたいな様子でした。

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女は雑誌社のひとのようで、堀木にカットだか、何だかをかねて頼んでいたらしく、それを受取りに来たみたいな具合いでした。

「急ぎますので」

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「いそぎますので」

「できています。もうとっくにできています。これです、どうぞ」

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「出来ています。もうとっくに出来ています。これです、どうぞ」

電報が来ました。

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電報が来ました。

堀木が、それを読み、上機嫌だったその顔が、みるみる険悪になり、

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堀木が、それを読み、上機嫌のその顔がみるみる険悪になり、

「ちぇっ! お前、こりゃ、どうしたんだい」

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「ちぇっ! お前、こりゃ、どうしたんだい」

ヒラメからの電報でした。

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ヒラメからの電報でした。

「とにかく、すぐに帰ってくれ。おれが、お前を送りとどけるといいんだろうが、おれにはいま、そんなひまは、ねえや。家出していながら、その、のんきそうな顔ったら」

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「とにかく、すぐに帰ってくれ。おれが、お前を送りとどけるといいんだろうが、おれにはいま、そんなひまは、無えや。家出していながら、その、のんきそうなつらったら」

「お宅は、どちらなのですか?」

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「お宅は、どちらなのですか?」

「大久保です」

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「大久保です」

ふいと答えてしまいました。

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ふいと答えてしまいました。

「そんなら、会社の近くですから」

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「そんなら、社の近くですから」

女性は、甲州(今の山梨県)の生まれで二十八歳でした。

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女は、甲州の生れで二十八歳でした。

五歳になる女の子と、高円寺のアパートに住んでいました。

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五つになる女児と、高円寺のアパートに住んでいました。

夫と死に別れて、三年になると言っていました。

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夫と死別して、三年になると言っていました。

「あなたは、ずいぶん苦労して育ってきたみたいな人ね。よく気がきくわ。かわいそうに」

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「あなたは、ずいぶん苦労して育って来たみたいなひとね。よく気がきくわ。可哀そうに」

はじめて、男が女性に養われるような暮らしをしました。

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はじめて、男めかけみたいな生活をしました。

シヅ子(というのが、その女性記者の名前でした)が新宿の雑誌社に勤めに出たあとは、自分と、それからシゲ子という五歳の女の子と二人、おとなしくお留守番ということになりました。

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シヅ子(というのが、その女記者の名前でした)が新宿の雑誌社に勤めに出たあとは、自分とそれからシゲ子という五つの女児と二人、おとなしくお留守番という事になりました。

それまでは、母親の留守には、シゲ子はアパートの管理人の部屋で遊んでいたようでしたが、「気のきく」

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それまでは、母の留守には、シゲ子はアパートの管理人の部屋で遊んでいたようでしたが、「気のきく」

おじさんが遊び相手として現れたので、大いにご機嫌がいい様子でした。

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おじさんが遊び相手として現われたので、大いに御機嫌がいい様子でした。

一週間ほど、ぼんやり、自分はそこにいました。

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一週間ほど、ぼんやり、自分はそこにいました。

アパートの窓のすぐ近くの電線に、奴凧(やっこだこ・和服姿の人の形をした凧)が一つひっかかっていて、春のほこりっぽい風に吹かれ、破れながらも、それでもなかなか、しつこく電線にからみついて離れず、何やらうなずいたりなんかしているので、自分はそれを見るたびに苦笑いし、顔を赤らめ、夢にまで見て、うなされました。

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アパートの窓のすぐ近くの電線に、奴凧やっこだこが一つひっからまっていて、春のほこり風に吹かれ、破られ、それでもなかなか、しつっこく電線にからみついて離れず、何やら首肯うなずいたりなんかしているので、自分はそれを見る度毎に苦笑し、赤面し、夢にさえ見て、うなされました。

「お金が、ほしいな」

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「お金が、ほしいな」

「……いくらくらい?」

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「……いくら位?」

「たくさん。……金の切れ目が、縁の切れ目、って、本当のことだよ」

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「たくさん。……金の切れ目が、縁の切れ目、って、本当の事だよ」

「ばからしい。そんな、古くさい、……」

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「ばからしい。そんな、古くさい、……」

「そう? しかし、君には、わからないんだ。このままでは、僕は、逃げることになるかもしれない」

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「そう? しかし、君には、わからないんだ。このままでは、僕は、逃げる事になるかも知れない」

「いったい、どっちが貧乏なのよ。そうして、どっちが逃げるのよ。へんねえ」

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「いったい、どっちが貧乏なのよ。そうして、どっちが逃げるのよ。へんねえ」

「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、たばこを買いたい。絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ」

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「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、煙草を買いたい。絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ」

このような時、自分の頭に自然に浮かびあがってくるものは、あの中学時代に画いた、竹一のいわゆる「お化け」

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このような時、自分の脳裡におのずから浮びあがって来るものは、あの中学時代に画いた竹一の所謂「お化け」

の、数枚の自画像でした。

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の、数枚の自画像でした。

失われた傑作。

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失われた傑作。

それは、たびたびの引っ越しの間に、なくなってしまっていたのですが、あれだけは、たしかにすぐれている絵だったような気がするのです。

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それは、たびたびの引越しの間に、失われてしまっていたのですが、あれだけは、たしかに優れている絵だったような気がするのです。

その後、いろいろ画いてみても、その思い出の中の逸品には、遠く遠く及ばず、自分はいつも、胸がからっぽになるような、けだるい喪失感になやまされつづけてきたのでした。

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その後、さまざま画いてみても、その思い出の中の逸品には、遠く遠く及ばず、自分はいつも、胸がからっぽになるような、だるい喪失感になやまされ続けて来たのでした。

飲み残した一杯のアブサン(お酒の名前)。

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飲み残した一杯のアブサン。

自分は、その永遠に取り返しのつかないような喪失感を、こっそりそう名づけていました。

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自分は、その永遠に償い難いような喪失感を、こっそりそう形容していました。

絵の話が出ると、自分の目の前に、その飲み残した一杯のアブサンがちらついてきて、ああ、あの絵をこの人に見せてやりたい、そうして、自分の絵の才能を信じさせたい、というあせりにもだえるのでした。

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絵の話が出ると、自分の眼前に、その飲み残した一杯のアブサンがちらついて来て、ああ、あの絵をこのひとに見せてやりたい、そうして、自分の画才を信じさせたい、という焦燥しょうそうにもだえるのでした。

「ふふ、どうだか。あなたは、まじめな顔をして冗談を言うからかわいい」

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「ふふ、どうだか。あなたは、まじめな顔をして冗談を言うから可愛い」

冗談ではないのだ、本当なんだ、ああ、あの絵を見せてやりたい、と、から回りする悩みをかかえて、ふいと気を変えて、あきらめて、

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冗談ではないのだ、本当なんだ、ああ、あの絵を見せてやりたい、と空転の煩悶はんもんをして、ふいと気をかえ、あきらめて、

「漫画さ。少なくとも、漫画なら、堀木よりは、うまいつもりだ」

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「漫画さ。すくなくとも、漫画なら、堀木よりは、うまいつもりだ」

その、ごまかしの道化の言葉のほうが、かえってまじめに信じられました。

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その、ごまかしの道化の言葉のほうが、かえってまじめに信ぜられました。

「そうね。私も、実は感心していたの。シゲ子にいつも描いてやっている漫画、つい私まで吹き出してしまう。やってみたら、どう? 私の会社の編集長に、頼んでみてあげてもいいわ」

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「そうね。私も、実は感心していたの。シゲ子にいつもかいてやっている漫画、つい私まで噴き出してしまう。やってみたら、どう? 私の社の編輯長へんしゅうちょうに、たのんでみてあげてもいいわ」

その会社では、子ども向けの、あまり名前を知られていない月刊の雑誌を発行していたのでした。

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その社では、子供相手のあまり名前を知られていない月刊の雑誌を発行していたのでした。

……あなたを見ると、たいていの女の人は、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……

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……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……

いつも、おどおどしていて、それでいて、こっけいな人なんだもの。……

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いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。……

時たま、ひとりで、ひどく落ちこんでいるけれども、その様子が、いっそう女の人の心を、うずうずさせる。

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時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。

シヅ子に、そのほかさまざまなことを言われて、おだてられても、それはつまり、男が女性に養われる者の、けがらわしい性質なのだ、と思えば、それこそいよいよ「落ちこむ」

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シヅ子に、そのほかさまざまの事を言われて、おだてられても、それがすなわち男めかけのけがらわしい特質なのだ、と思えば、それこそいよいよ「沈む」

ばかりで、少しも元気が出ず、女性よりはお金、とにかくシヅ子から逃れて自分で暮らしを立てたいと、ひそかに願い、工夫しているものの、かえってだんだんシヅ子に頼らなければならない羽目になって、家出の後始末やら何やら、ほとんど全部、この男まさりの甲州女性の世話を受け、いっそう自分は、シヅ子に対して、いわゆる「おどおど」

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ばかりで、一向に元気が出ず、女よりは金、とにかくシヅ子からのがれて自活したいとひそかに念じ、工夫しているものの、かえってだんだんシヅ子にたよらなければならぬ破目になって、家出の後仕末やら何やら、ほとんど全部、この男まさりの甲州女の世話を受け、いっそう自分は、シヅ子に対し、所謂「おどおど」

しなければならない結果になったのでした。

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しなければならぬ結果になったのでした。

シヅ子の取り計らいで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子、三人の話し合いがまとまって、自分は、故郷からまったく縁を切られ、そうしてシヅ子と「堂々と」

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シヅ子の取計らいで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子、三人の会談が成立して、自分は、故郷から全く絶縁せられ、そうしてシヅ子と「天下晴れて」

一緒に暮らすことになり、これまた、シヅ子が走り回ってくれたおかげで、自分の漫画も案外お金になって、自分はそのお金で、お酒も、たばこも買いましたが、自分の心細さ、うっとうしさは、いよいよつのるばかりなのでした。

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同棲どうせいという事になり、これまた、シヅ子の奔走のおかげで自分の漫画も案外お金になって、自分はそのお金で、お酒も、煙草も買いましたが、自分の心細さ、うっとうしさは、いよいよつのるばかりなのでした。

それこそ「落ちこみ」

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それこそ「沈み」

に「落ちこみ」

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に「沈み」

きって、シヅ子の雑誌の毎月の連載漫画「キンタさんとオタさんの冒険」

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切って、シヅ子の雑誌の毎月の連載漫画「キンタさんとオタさんの冒険」

を画いていると、ふいと故郷の家が思い出され、あまりのわびしさに、ペンが動かなくなり、うつむいて涙をこぼしたこともありました。

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を画いていると、ふいと故郷の家が思い出され、あまりの侘びしさに、ペンが動かなくなり、うつむいて涙をこぼした事もありました。

そういう時の自分にとって、かすかな救いは、シゲ子でした。

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そういう時の自分にとって、幽かな救いは、シゲ子でした。

シゲ子は、その頃になって自分のことを、何もこだわらずに「お父ちゃん」

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シゲ子は、その頃になって自分の事を、何もこだわらずに「お父ちゃん」

と呼んでいました。

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と呼んでいました。

「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でもくださるって、ほんとう?」

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「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう?」

自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。

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自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。

ああ、われに冷たい意志をお与えください。

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ああ、われに冷き意志を与え給え。

われに、「人間」

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われに、「人間」

の本質を知らせてください。

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の本質を知らしめ給え。

人が人を押しのけても、罪ではないのだろうか。

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人が人を押しのけても、罪ならずや。

われに、怒りの仮面をお与えください。

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われに、怒りのマスクを与え給え。

「うん、そう。シゲちゃんには何でもくださるだろうけれども、お父ちゃんには、だめかもしれない」

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「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、駄目かも知れない」

自分は神様にさえ、おびえていました。

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自分は神にさえ、おびえていました。

神様の愛は信じられず、神様の罰だけを信じているのでした。

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神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。

信仰。

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信仰。

それは、ただ神様のむちを受けるために、うなだれて裁きの台に向かうことのような気がしているのでした。

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それは、ただ神のむちを受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。

地獄は信じられても、天国があることは、どうしても信じられなかったのです。

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地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。

「どうして、だめなの?」

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「どうして、ダメなの?」

「親の言いつけに、そむいたから」

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「親の言いつけに、そむいたから」

「そう? お父ちゃんはとてもいい人だって、みんな言うけどな」

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「そう? お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな」

それは、だましているからだ。このアパートの人たちみんなに、自分が好意を持たれているのは、自分も知っている。しかし、自分は、どれほどみんなをおそれているか。おそれればおそれるほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほどおそろしくなって、みんなから離れていかなければならない、この不幸な病気のような癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、とてもむずかしいことでした。

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それは、だましているからだ、このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている、しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか、恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。

「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」

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「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」

自分は、何気なさそうに話題を変えました。

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自分は、何気無さそうに話頭を転じました。

「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」

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「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」

ぎょっとして、くらくらとめまいがしました。

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ぎょっとして、くらくら目まいしました。

敵。

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敵。

自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ。他人、理解できない他人、秘密だらけの他人。シゲ子の顔が、急にそのように見えてきました。

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自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ、他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかにそのように見えて来ました。

シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この子も、あの「不意に虻(あぶ)を打ち殺す牛のしっぽ」

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シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、あの「不意にあぶを叩き殺す牛のしっぽ」

を持っていたのでした。

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を持っていたのでした。

自分は、それ以来、シゲ子にさえおどおどしなければならなくなりました。

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自分は、それ以来、シゲ子にさえおどおどしなければならなくなりました。

「色男! いるかい?」

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色魔しきま! いるかい?」

堀木が、また自分のところへたずねて来るようになっていたのです。

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堀木が、また自分のところへたずねて来るようになっていたのです。

あの家出の日に、あれほど自分をさびしくさせた男なのに、それでも自分は拒否できず、かすかに笑って迎えるのでした。

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あの家出の日に、あれほど自分を淋しくさせた男なのに、それでも自分は拒否できず、幽かに笑って迎えるのでした。

「お前の漫画は、なかなか人気が出ているそうじゃないか。素人(アマチュア)には、こわいもの知らずの度胸があるからかなわねえ。しかし、油断するなよ。デッサンが、ちっともなっちゃいないんだから」

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「お前の漫画は、なかなか人気が出ているそうじゃないか。アマチュアには、こわいもの知らずの糞度胸くそどきょうがあるからかなわねえ。しかし、油断するなよ。デッサンが、ちっともなってやしないんだから」

お師匠さんみたいな態度をさえ、見せるのです。

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お師匠みたいな態度をさえ示すのです。

自分のあの「お化け」

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自分のあの「お化け」

の絵を、こいつに見せたら、どんな顔をするだろう、と、いつもの、から回りする悶(もだ)えをしながら、

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の絵を、こいつに見せたら、どんな顔をするだろう、とれいの空転の身悶みもだえをしながら、

「それを言ってくれるな。ぎゃっという悲鳴が出る」

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「それを言ってくれるな。ぎゃっという悲鳴が出る」

堀木は、ますます得意そうに、

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堀木は、いよいよ得意そうに、

「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

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「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

世渡りの才能。……

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世渡りの才能。……

自分には、本当に苦笑いするほかありませんでした。

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自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。

自分に、世渡りの才能!

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自分に、世渡りの才能!

しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、あのことわざの「さわらぬ神にたたりなし」

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 しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺ぞくげんの「さわらぬ神にたたりなし」

とかいう、賢くてずるい世渡りの教えを、忠実に守っているのと、同じ形だ、ということになるのでしょうか。

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とかいう怜悧れいり狡猾こうかつの処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。

ああ、人間は、お互いに相手のことを何もわからず、まるっきり間違って見ていながら、かけがえのない親友のつもりでいて、一生、それに気づかず、相手が死ねば、泣いて弔辞(ちょうじ・死者に向けて読む別れの言葉)なんかを読んでいるのではないでしょうか。

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ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

堀木は、何せ、(それはシヅ子に強く頼まれて、しぶしぶ引き受けたに違いないのですが)自分の家出の後始末に立ち会った人なので、まるでもう、自分の更生の大恩人か、縁結びの仲人のようにふるまい、もっともらしい顔をして自分にお説教めいたことを言ったり、また、深夜、酔っぱらって訪ねてきて泊まったり、また、五円(決まって五円でした)借りて行ったりするのでした。

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堀木は、何せ、(それはシヅ子に押してたのまれてしぶしぶ引受けたに違いないのですが)自分の家出の後仕末に立ち合ったひとなので、まるでもう、自分の更生の大恩人か、月下氷人のように振舞い、もっともらしい顔をして自分にお説教めいた事を言ったり、また、深夜、酔っぱらって訪問して泊ったり、また、五円(きまって五円でした)借りて行ったりするのでした。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

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「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何のことでしょう。

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世間とは、いったい、何の事でしょう。

人間が集まったものでしょうか。

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人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの正体があるのでしょう。

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どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きてきたのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

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けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

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「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがいやで、ひっこめました。

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という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

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(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。

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(世間じゃない。

あなたが、ゆるさないのでしょう?)

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あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんなことをすると、世間からひどいめに遭うぞ)

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(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。

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(世間じゃない。

あなたでしょう?)

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あなたでしょう?)

(今に世間から葬られる)

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(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。

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(世間じゃない。

葬るのは、あなたでしょう?)

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葬むるのは、あなたでしょう?)

お前は、お前自身のおそろしさ、不気味さ、あくどさ、古だぬきのようなずるさ、老いた魔女のような性質を知れ!

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なんじは、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣あくらつ古狸ふるだぬき性、妖婆ようば性を知れ!

などと、さまざまな言葉が胸の中を行き来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンカチでふいて、

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 などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷や汗、冷や汗」

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冷汗ひやあせ、冷汗」

と言って笑っただけでした。

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と言って笑っただけでした。

けれども、その時以来、自分は、(世間とは、一人一人の人間のことじゃないか)という、考えめいたものを持つようになったのです。

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けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

そうして、世間というものは、一人一人の人間のことではないだろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動くことができるようになりました。

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そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。

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シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。

また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにけちになりました。

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また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。

また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子をかわいがらなくなりました。

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また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。

無口で、笑わず、毎日毎日、シゲ子の子守りをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」

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無口で、笑わず、毎日々々、シゲ子のおもりをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」

やら、また「のんきなトウサン」(有名な漫画)にはっきり似せた「ノンキ和尚(おしょう)」

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やら、またノンキなトウサンの歴然たる亜流の「ノンキ和尚おしょう

やら、また、「セッカチピンチャン」

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やら、また、「セッカチピンチャン」

という、自分でもわけのわからない、やけくその題の連載漫画やらを、各社からの注文(ぽつりぽつり、シヅ子の会社のほかからも注文が来るようになっていましたが、すべてそれは、シヅ子の会社よりも、もっと下品な、いわば三流出版社からの注文ばかりでした)に応じて、実に実に暗く重い気持ちで、のろのろと、(自分の絵を描く筆の運びは、非常に遅いほうでした)いまはただ、お酒代がほしいばかりに描いて、そうして、シヅ子が会社から帰ると、それと入れかわりにぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンドバーで、安くて強いお酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰り、

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という自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画やらを、各社の御注文(ぽつりぽつり、シヅ子の社の他からも注文が来るようになっていましたが、すべてそれは、シヅ子の社よりも、もっと下品な謂わば三流出版社からの注文ばかりでした)に応じ、実に実に陰鬱な気持で、のろのろと、(自分の画の運筆は、非常におそいほうでした)いまはただ、酒代がほしいばかりに画いて、そうして、シヅ子が社から帰るとそれと交代にぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンド・バアで安くて強い酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰り、

「見れば見るほど、へんな顔をしているねえ、お前は。ノンキ和尚の顔は、実は、お前の寝顔からヒントを得たのだ」

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「見れば見るほど、へんな顔をしているねえ、お前は。ノンキ和尚の顔は、実は、お前の寝顔からヒントを得たのだ」

「あなたの寝顔だって、ずいぶんお老けになりましてよ。四十男みたい」

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「あなたの寝顔だって、ずいぶんお老けになりましてよ。四十男みたい」

「お前のせいだ。吸い取られたんだ。水の流れと、人の身はあサ。何をくよくよ川端やなあぎいサ」

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「お前のせいだ。吸い取られたんだ。水の流れと、人の身はあサ。何をくよくよ川端やなあぎいサ」

「騒がないで、早くおやすみなさいよ。それとも、ごはんをあがりますか?」

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「騒がないで、早くおやすみなさいよ。それとも、ごはんをあがりますか?」

落ち着いていて、まるで相手にしません。

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落ちついていて、まるで相手にしません。

「酒なら飲むがね。水の流れと、人の身はあサ。人の流れと、いや、水の流れえと、水の身はあサ」

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「酒なら飲むがね。水の流れと、人の身はあサ。人の流れと、いや、水の流れえと、水の身はあサ」

歌いながら、シヅ子に服をぬがせられ、シヅ子の胸に自分のひたいを押しつけて眠ってしまう。それが自分の毎日でした。

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唄いながら、シヅ子に衣服をぬがせられ、シヅ子の胸に自分の額を押しつけて眠ってしまう、それが自分の日常でした。

そしてその次の日も同じことを繰り返して、

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してその翌日あくるひも同じ事を繰返して、

きのうと変わらない、いつものやり方に従えばよい。

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昨日きのうかわらぬ慣例しきたりに従えばよい。

つまり、激しく大きな喜びを避けてさえいれば、

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即ち荒っぽい大きな歓楽よろこびけてさえいれば、

自然と、大きな悲しみもやって来ないのだ。

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自然また大きな悲哀かなしみもやってないのだ。

行く手をふさぐ、じゃまな石を

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ゆくてをふさぐ邪魔な石を

ひきがえるは、回り道をして通る。

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蟾蜍ひきがえるは廻って通る。

上田敏(うえだびん)の訳した、ギイ・シャルル・クロオとかいう人の、こんな詩の言葉を見つけたとき、自分はひとりで、顔が燃えるくらいに赤くなりました。

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上田敏訳のギイ・シャルル・クロオとかいうひとの、こんな詩句を見つけた時、自分はひとりで顔を燃えるくらいに赤くしました。

ひきがえる。

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蟾蜍。

(それが、自分だ。

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(それが、自分だ。

世間が許すも許さないもない。

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世間がゆるすも、ゆるさぬもない。

葬るも葬らないもない。

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葬むるも、葬むらぬもない。

自分は、犬よりも猫よりも劣った動物なのだ。

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自分は、犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ。

ひきがえる。

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蟾蜍。

のそのそ動いているだけだ)

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のそのそ動いているだけだ)

自分のお酒は、次第に量がふえてきました。

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自分の飲酒は、次第に量がふえて来ました。

高円寺駅付近だけでなく、新宿、銀座のほうにまで出かけて飲み、外泊することさえあり、ただもう「いつものやり方」

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高円寺駅附近だけでなく、新宿、銀座のほうにまで出かけて飲み、外泊する事さえあり、ただもう「慣例しきたり

に従わないように、バーでならず者のふりをしたり、片っぱしからキスしたり、つまり、また、あの心中未遂以前の、いや、あの頃よりさらに荒れて下品な酒飲みになり、お金に困って、シヅ子の衣類を持ち出すほどになりました。

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に従わぬよう、バアで無頼漢の振りをしたり、片端からキスしたり、つまり、また、あの情死以前の、いや、あの頃よりさらにすさんで野卑な酒飲みになり、金に窮して、シヅ子の衣類を持ち出すほどになりました。

ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑いしてから一年以上たって、葉桜(若葉のついた桜)の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら襦袢(じゅばん・着物の下に着る肌着)やらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、二晩つづけて外泊して、三日目の晩、さすがにきまり悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞こえます。

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ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑してから一年以上経って、葉桜の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら襦袢じゅばんやらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、二晩つづけて外泊して、三日目の晩、さすがに具合い悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞えます。

「なぜ、お酒を飲むの?」

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「なぜ、お酒を飲むの?」

「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいい人だから、だから、……」

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「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」

「いい人は、お酒を飲むの?」

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「いいひとは、お酒を飲むの?」

「そうでもないけど、……」

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「そうでもないけど、……」

「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」

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「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」

「おきらいかもしれない。ほら、ほら、箱から飛び出した」

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「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した」

「セッカチピンチャンみたいね」

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「セッカチピンチャンみたいね」

「そうねえ」

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「そうねえ」

シヅ子の、心から幸福そうな低い笑い声が聞こえました。

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シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。

自分が、ドアを細くあけて中をのぞいてみますと、白いうさぎの子でした。

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自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。

ぴょんぴょん部屋じゅうを跳ねまわり、親子はそれを追いかけていました。

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ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。

(幸福なんだ、この人たちは。

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(幸福なんだ、この人たちは。

自分というばか者が、この二人の間に入って、今に二人をめちゃくちゃにするのだ。

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自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。

つつましい幸福。

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つつましい幸福。

いい親子。

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いい親子。

幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、一度だけ、一生に一度だけでいい、祈る)

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幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)

自分は、そこにうずくまって手を合わせたい気持ちでした。

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自分は、そこにうずくまって合掌したい気持でした。

そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。

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そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。

そうして、京橋のすぐ近くのスタンドバーの二階に自分は、またも男が女性に養われる形で、寝そべることになりました。

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そうして、京橋のすぐ近くのスタンド・バアの二階に自分は、またも男めかけの形で、寝そべる事になりました。

世間。

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世間。

どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけてきたような気がしていました。

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どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。

個人と個人の争いで、しかも、その場かぎりの争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ。人間は決して人間に従わない、奴隷でさえ奴隷らしい、卑屈なしっぺ返しをするものだ。だから、人間にはその場かぎりの一本勝負に頼るほか、生きのびる工夫がつかないのだ。りっぱな理由らしいものをとなえていながら、努力の目当ては必ず個人。個人を乗り越えてまた個人。世間のわかりにくさは、個人のわかりにくさ。大きな海(オーシャン)は世間ではなくて、個人なのだ、と、世の中という大きな海の幻におびえることから、多少解放されて、以前ほど、あれこれと限りない気づかいをすることなく、いわば、差し当たっての必要に応じて、いくぶん図々しくふるまうことを覚えてきたのです。

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個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものをとなえていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋オーシャンは世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。

高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンドバーのママに、

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高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、

「別れてきた」

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「わかれて来た」

それだけ言って、それで十分、つまり一本勝負は決まって、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊まりこむことになったのですが、しかし、おそろしいはずの「世間」

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それだけ言って、それで充分、つまり一本勝負はきまって、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊り込む事になったのですが、しかし、おそろしい筈の「世間」

は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」

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は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」

に対して何の言い訳もしませんでした。

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に対して何の弁明もしませんでした。

ママが、その気だったら、それですべてがよかったのです。

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マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。

自分は、その店のお客のようでもあり、ご主人のようでもあり、使い走りのようでもあり、親戚の者のようでもあり、はたから見て、ずいぶんわけのわからない存在だったはずなのに、「世間」

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自分は、その店のお客のようでもあり、亭主のようでもあり、走り使いのようでもあり、親戚の者のようでもあり、はたから見てはなは得態えたいの知れない存在だった筈なのに、「世間」

は少しもあやしまず、そうしてその店の常連客たちも、自分を、葉ちゃん、葉ちゃんと呼んで、ひどく優しく扱い、そうしてお酒を飲ませてくれるのでした。

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は少しもあやしまず、そうしてその店の常連たちも、自分を、葉ちゃん、葉ちゃんと呼んで、ひどく優しく扱い、そうしてお酒を飲ませてくれるのでした。

自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。

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自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。

世の中というところは、そんなに、おそろしいところではない、と思うようになりました。

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世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。

つまり、これまでの自分のおそろしさは、春の風には百日咳(ひゃくにちぜき・せきの出る病気)のばい菌が何十万、銭湯には、目がつぶれるばい菌が何十万、床屋には頭がはげる病気のばい菌が何十万、電車のつり革には皮膚病の虫がうようよ、または、お刺身、牛や豚の生焼け肉には、さなだ虫の幼虫やら、寄生虫の卵やら、何やらが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さいかけらが入って、そのかけらが体の中を駆けめぐって目玉を突き、失明させることもあるとかいう、いわば「科学のふりをした迷信」

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つまり、これまでの自分の恐怖感は、春の風には百日咳ひゃくにちぜき黴菌ばいきんが何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には禿頭とくとう病の黴菌が何十万、省線の吊皮つりかわには疥癬かいせんの虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駈けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」

に、おびやかされていたようなものだったのです。

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におびやかされていたようなものなのでした。

それは、たしかに何十万ものばい菌が浮かんで泳ぎ、うごめいているのは、「科学的」

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それは、たしかに何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」

にも、正確なことでしょう。

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にも、正確な事でしょう。

それと同時に、その存在を完全に無視してしまえば、それは自分とほんの少しのつながりもなくなって、たちまち消えてしまう「科学のおばけ」

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と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」

に過ぎないのだということも、自分は知るようになったのです。

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に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。

お弁当箱に食べ残したごはんが三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても、それはもう、お米何俵分もむだに捨てたことになる、とか、あるいは、一日に鼻紙一枚を千万人が節約すれば、どれだけの紙の原料(パルプ)が浮くか、などという「科学的な統計」

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お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる、とか、或いは、一日に鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」

に、自分は、どれだけおびやかされたことか。ごはんを一粒でも食べ残すたびに、また鼻をかむたびに、山ほどのお米、山ほどの紙の原料をむだにしているような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな、暗い気持ちになったものですが、しかし、それこそ「科学のうそ」

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に、自分は、どれだけおびやかされ、ごはんを一粒でも食べ残す度毎に、また鼻をかむ度毎に、山ほどの米、山ほどのパルプを空費するような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな暗い気持になったものですが、しかし、それこそ「科学の嘘」

「統計のうそ」

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「統計の嘘」

「数学のうそ」

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「数学の嘘」

で、三粒のごはんは、実際に集められるものではなく、かけ算・わり算の応用問題としても、まことに原始的で、あまり頭を使わないテーマで、電気のついていない暗いお便所の、あの穴に、人は何回に一回、片足をふみはずして落とすか、または、電車の出入り口と、プラットホームのはしとのあのすき間に、乗客の何人のうち何人が足を落とし込むか、そんな確率を計算するのと同じくらいばかばかしく、それは、いかにもありそうなことのようでありながら、お便所の穴をまたぎそこねてけがをしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮の話を「科学的な事実」

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で、三粒のごはんは集められるものでなく、掛算割算の応用問題としても、まことに原始的で低能なテーマで、電気のついてない暗いお便所の、あの穴に人は何度にいちど片脚を踏みはずして落下させるか、または、省線電車の出入口と、プラットホームのへりとのあの隙間に、乗客の何人中の何人が足を落とし込むか、そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく、それは如何いかにも有り得る事のようでもありながら、お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」

として教えこまれ、それをまったく現実として受け取り、おそれていた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの正体を、少しずつ知ってきたというわけなのでした。

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として教え込まれ、それを全く現実として受取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした。

そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客に会うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。

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そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と逢うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。

こわいもの見たさ。

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こわいもの見たさ。

自分は、毎晩、それでもお店に出て、子どもが、実は少しこわがっている小動物などを、かえって強くぎゅっと握ってしまうみたいに、店のお客に向かって、酔ってつたない芸術論をぶつけるようにさえなりました。

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自分は、毎晩、それでもお店に出て、子供が、実は少しこわがっている小動物などを、かえって強くぎゅっと握ってしまうみたいに、店のお客に向って酔ってつたない芸術論を吹きかけるようにさえなりました。

漫画家。

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漫画家。

ああ、しかし、自分は、大きな喜びも、また、大きな悲しみもない、無名の漫画家。

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ああ、しかし、自分は、大きな歓楽よろこびも、また、大きな悲哀かなしみもない無名の漫画家。

どんなに大きな悲しみが、あとでやって来てもいい、激しく大きな喜びが欲しいと心の中ではあせっていても、自分の今のよろこびといえば、お客とむだ話をして、お客のお酒を飲むことだけでした。

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いかに大きな悲哀かなしみがあとでやって来てもいい、荒っぽい大きな歓楽よろこびが欲しいと内心あせってはいても、自分の現在のよろこびたるや、お客とむだ事を言い合い、お客の酒を飲む事だけでした。

京橋へ来て、こういうくだらない暮らしを、もう一年近く続け、自分の漫画も、子ども向けの雑誌だけでなく、駅で売っている粗末で下品な雑誌などにも載るようになり、自分は、上司幾太(じょうし・いくた=「心中して、生き残った」という意味の言葉遊び)という、ふざけきったペンネームで、汚い裸の絵など描き、そこにたいてい、ルバイヤット(ペルシャの詩集)の詩の言葉を書き入れました。

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京橋へ来て、こういうくだらない生活を既に一年ちかく続け、自分の漫画も、子供相手の雑誌だけでなく、駅売りの粗悪で卑猥ひわいな雑誌などにも載るようになり、自分は、上司幾太(情死、生きた)という、ふざけ切った匿名で、汚いはだかの絵など画き、それにたいていルバイヤットの詩句を插入そうにゅうしました。

むだなお祈りなんて、やめてしまえ

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無駄な御祈りなんかせったら

涙を誘うものなんて、かなぐり捨てろ

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涙を誘うものなんか かなぐりすてろ

まあ一杯いこう いいことばかり思い出して

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まア一杯いこう 好いことばかり思出して

よけいな気づかいなんて忘れてしまいな

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よけいな心づかいなんか忘れっちまいな

不安やおそろしさで人をおどす連中は

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不安や恐怖もて人を脅やかす奴輩やから

自分の作った大それた罪におびえて

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みずからの作りし大それた罪におび

死んだ者のしかえしに備えようと

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死にしものの復讐ふくしゅうに備えんと

自分の頭で、いつもたくらみをめぐらす

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みずからの頭にたえず計いを

ゆうべ お酒に満ちて僕の心は喜びに満ち

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よべ 酒充ちて我ハートは喜びに充ち

今朝 さめて、ただただむなしい

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けさ さめてただに荒涼

不思議だ 一晩のうちに

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いぶかし 一夜ひとよさの中

すっかり変わってしまった、この気分よ

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様変りたるこの気分よ

たたりなんて思うのは、やめてくれ

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たたりなんて思うことめてくれ

遠くから響く太鼓のように

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遠くから響く太鼓のように

なんとなく、それが不安なんだ

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何がなしそいつは不安だ

おならをしたことまで、いちいち罪に数えられたら、たまったもんじゃない

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ひったことまで一々罪に勘定されたら助からんわい

正義は人生の道しるべだって?

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正義は人生の指針たりとや?

それなら、血にまみれた戦場に

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さらば血に塗られたる戦場に

暗殺者の刃の先に

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暗殺者の切尖きっさき

どんな正義が宿っているというのか?

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何の正義か宿れるや?

どこに、導いてくれる原理があるというのか?

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いずこに指導原理ありや?

どんな知恵の光があるというのか?

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いかなる叡智えいちの光ありや?

美しくも、おそろしいのが、この世というものだ

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うるわしくもおそろしきは浮世なれ

か弱い人の子は、背負いきれない荷物を背負わされ

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かよわき人の子は背負切れぬ荷をば負わされ

どうにもできない欲望の種を植えつけられたばかりに

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どうにもできない情慾の種子を植えつけられたばかりに

善だ悪だ、罪だ罰だと、のろわれるばかり

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善だ悪だ罪だ罰だとのろわるるばかり

どうにもできず、ただまごつくばかり

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どうにもできない只まごつくばかり

抑えつける力も意志も、与えられなかったばかりに

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抑えくだく力も意志も授けられぬ許りに

どこを、どう、うろつきまわってたんだい

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どこをどう彷徨うろつきまわってたんだい

何だ、批判、検討、考え直し?

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ナニ批判 検討 再認識?

ヘッ、むなしい夢を、ありもしない幻を

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ヘッ むなしき夢を ありもしない幻を

エヘッ、酒を忘れたから、みんなばかげた考えさ

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エヘッ 酒を忘れたんで みんな虚仮こけの思案さ

どうだ、この果てしない大空を見てみろよ

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どうだ 此はてもない大空を御覧よ

この中にぽつんと浮かんだ点じゃないか

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此中にポッチリ浮んだ点じゃい

この地球がなぜ回っているのか、わかるもんか

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此地球が何んで自転するのか分るもんか

自転も、公転も、逆回転も、勝手なもんだ

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自転 公転 反転も勝手ですわい

どこにでも、いちばん高い力を感じ

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至るところに 至高の力を感じ

あらゆる国の、あらゆる民族に

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あらゆる国にあらゆる民族に

同じ人間らしさを見つける

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同一の人間性を発見する

自分は異端者(普通と違う考えを持つ者)だというのか

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我は異端者なりとかや

みんな聖書を、読み違えているのよ

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みんな聖経をよみ違えてんのよ

でなければ、常識も知恵もないのよ

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でなきゃ常識も智慧ちえもないのよ

生きた体の喜びを禁じたり、お酒をやめさせたり

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生身いきみの喜びを禁じたり 酒を止めたり

いいわ、ムスタッファ、わたし、そんなの大嫌い

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いいわ ムスタッファ わたしそんなの 大嫌い

けれども、その頃、自分にお酒をやめなさい、とすすめる若い娘がいました。

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けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。

「いけないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」

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「いけないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」

バーの向かいの、小さいたばこ屋の、十七、八の娘さんでした。

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バアの向いの、小さい煙草屋の十七、八の娘でした。

ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でした。

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ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でした。

自分が、たばこを買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。

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自分が、煙草を買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。

「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒を飲んで、人の子よ、憎しみを消せ消せ消せ、ってね、昔のペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れた心に希望を持ってくるのは、ただ、ほろ酔いをもたらす酒の杯だけだ、ってね。わかるかい」

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「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハートに希望を持ち来すは、ただ微醺びくんをもたらす玉杯なれ、ってね。わかるかい」

「わからない」

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「わからない」

「この野郎。キスしてやるぞ」

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「この野郎。キスしてやるぞ」

「してよ」

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「してよ」

ちっとも悪びれず、下唇を突き出すのです。

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ちっとも悪びれず下唇を突き出すのです。

「ばか野郎。貞操観念(ていそうかんねん・自分の体を大切にする心)、……」

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「馬鹿野郎。貞操観念、……」

しかし、ヨシちゃんの表情には、あきらかに誰にも汚されていない、清らかな娘のにおいがしていました。

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しかし、ヨシちゃんの表情には、あきらかに誰にも汚されていない処女のにおいがしていました。

年が明けて、ひどく寒い夜、自分は酔ってたばこを買いに出て、そのたばこ屋の前のマンホールに落ち、ヨシちゃん、助けてくれえ、と叫び、ヨシちゃんに引き上げられ、右腕の傷の手当てを、ヨシちゃんにしてもらいました。その時ヨシちゃんは、しみじみと、

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としが明けて厳寒の夜、自分は酔って煙草を買いに出て、その煙草屋の前のマンホールに落ちて、ヨシちゃん、たすけてくれえ、と叫び、ヨシちゃんに引き上げられ、右腕の傷の手当を、ヨシちゃんにしてもらい、その時ヨシちゃんは、しみじみ、

「飲みすぎますわよ」

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「飲みすぎますわよ」

と、笑わずに言いました。

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と笑わずに言いました。

自分は死ぬのは平気なんだけど、けがをして血が出て、そうして体が不自由になったりするのは、まっぴらごめんのほうですので、ヨシちゃんに腕の傷の手当てをしてもらいながら、お酒も、もういい加減にやめようかしら、と思ったのです。

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自分は死ぬのは平気なんだけど、怪我をして出血してそうして不具者などになるのは、まっぴらごめんのほうですので、ヨシちゃんに腕の傷の手当をしてもらいながら、酒も、もういい加減によそうかしら、と思ったのです。

「やめる。あしたから、一滴も飲まない」

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「やめる。あしたから、一滴も飲まない」

「ほんとう?」

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「ほんとう?」

「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお嫁さんになってくれるかい?」

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「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお嫁になってくれるかい?」

しかし、お嫁さんの話は冗談でした。

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しかし、お嫁の件は冗談でした。

「モチよ」

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「モチよ」

モチとは、「もちろん」

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モチとは、「勿論」

を短くした言葉でした。

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の略語でした。

モボだの、モガだの(モダンボーイ・モダンガールの略)、その頃いろんな略語がはやっていました。

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モボだの、モガだの、その頃いろんな略語がはやっていました。

「よし。ゲンマンしよう。きっとやめる」

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「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる」

そうして次の日、自分は、やはり昼から飲みました。

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そうしてあくる日、自分は、やはり昼から飲みました。

夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちゃんの店の前に立ち、

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夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちゃんの店の前に立ち、

「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった」

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「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった」

「あら、いやだ。酔ったふりなんかして」

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「あら、いやだ。酔った振りなんかして」

はっとしました。

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ハッとしました。

酔いもさめた気持ちでした。

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酔いもさめた気持でした。

「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔ったふりなんかしてるんじゃない」

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「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔った振りなんかしてるんじゃない」

「からかわないでよ。人がわるい」

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「からかわないでよ。ひとがわるい」

まったく疑おうとしないのです。

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てんで疑おうとしないのです。

「見ればわかりそうなものだ。きょうも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね」

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「見ればわかりそうなものだ。きょうも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね」

「お芝居が、うまいのねえ」

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「お芝居が、うまいのねえ」

「芝居じゃあないよ、ばか野郎。キスしてやるぞ」

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「芝居じゃあないよ、馬鹿野郎。キスしてやるぞ」

「してよ」

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「してよ」

「いや、僕には資格がない。お嫁にもらうのもあきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう? 飲んだのだよ」

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「いや、僕には資格が無い。お嫁にもらうのもあきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう? 飲んだのだよ」

「それあ、夕陽が当たっているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲むはずがないじゃないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、うそ、うそ、うそ」

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「それあ、夕陽が当っているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲む筈が無いじゃないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ」

薄暗い店の中に座ってほほえんでいるヨシちゃんの白い顔。ああ、汚れを知らない清らかさは尊いものだ。自分はこれまで、自分より若い、清らかな娘と寝たことがない。結婚しよう。どんな大きな悲しみが、そのためにあとからやって来てもいい。激しいほどの大きな喜びを、一生に一度でいい。清らかさの美しさとは、それはばかな詩人の甘い感傷の幻に過ぎないと思っていたけれど、やはりこの世の中に、本当にあるものなのだ。結婚して、春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と、その場で決意し、いわゆる「一本勝負」

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薄暗い店の中に坐って微笑しているヨシちゃんの白い顔、ああ、よごれを知らぬヴァジニティは尊いものだ、自分は今まで、自分よりも若い処女と寝た事がない、結婚しよう、どんな大きな悲哀かなしみがそのために後からやって来てもよい、荒っぽいほどの大きな歓楽よろこびを、生涯にいちどでいい、処女性の美しさとは、それは馬鹿な詩人の甘い感傷の幻に過ぎぬと思っていたけれども、やはりこの世の中に生きて在るものだ、結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と、その場で決意し、所謂「一本勝負」

で、その花を盗むのに、ためらうことをしませんでした。

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で、その花を盗むのにためらう事をしませんでした。

そうして自分たちは、やがて結婚して、それによって得た喜びは、必ずしも大きくはありませんでしたが、そのあとに来た悲しみは、むごたらしいと言っても足りないくらい、実に想像を絶して、大きくやって来ました。

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そうして自分たちは、やがて結婚して、それに依って得た歓楽よろこびは、必ずしも大きくはありませんでしたが、その後に来た悲哀かなしみは、凄惨せいさんと言っても足りないくらい、実に想像を絶して、大きくやって来ました。

自分にとって、「世の中」

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自分にとって、「世の中」

は、やはり底知れず、おそろしいところでした。

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は、やはり底知れず、おそろしいところでした。

決して、そんな一本勝負などで、何から何まで決まってしまうような、なまやさしいところでもなかったのでした。

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決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かったのでした。

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堀木と自分。

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堀木と自分。

お互いに軽蔑しながら付き合い、そうしてお互いに自分自身をくだらなくしていく。それがこの世の、いわゆる「交友」

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互いに軽蔑けいべつしながら附き合い、そうして互いにみずからをくだらなくして行く、それがこの世の所謂「交友」

というものの姿だとするなら、自分と堀木との間柄も、まさしく「交友」

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というものの姿だとするなら、自分と堀木との間柄も、まさしく「交友」

に違いありませんでした。

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に違いありませんでした。

自分があの京橋のスタンドバーのママの、正義感からくる情けにすがり、(女の人の義侠心(ぎきょうしん・正義感からくる、人を助けようとする心)なんて、言葉の使い方が変に思えるかもしれませんが、しかし、自分の経験によると、少なくとも都会の男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心とでもいうべきものを、たっぷりと持っていました。

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自分があの京橋のスタンド・バアのマダムの義侠心ぎきょうしんにすがり、(女のひとの義侠心なんて、言葉の奇妙な遣い方ですが、しかし、自分の経験に依ると、少くとも都会の男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心とでもいうべきものをたっぷりと持っていました。

男はたいてい、おっかなびっくりで、体裁ばかり飾り、そうして、けちでした)あのたばこ屋のヨシ子を内縁の妻にすることができて、そうして築地、隅田川の近く、木造二階建ての小さいアパートの一階の一部屋を借り、二人で住み、お酒はやめて、そろそろ自分の決まった職業になりかけてきた漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などに入り、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分を心から信頼してくれているこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのが楽しく、これは自分もひょっとしたら、いまにだんだん人間らしいものになることができて、悲惨な死に方などせずにすむのではないだろうかと

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男はたいてい、おっかなびっくりで、おていさいばかり飾り、そうして、ケチでした)あの煙草屋のヨシ子を内縁の妻にする事が出来て、そうして築地つきじ、隅田川の近く、木造の二階建ての小さいアパートの階下の一室を借り、ふたりで住み、酒は止めて、そろそろ自分の定った職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはいり、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれているこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのが楽しく、これは自分もひょっとしたら、いまにだんだん人間らしいものになる事が出来て、悲惨な死に方などせずにすむのではなかろうかと

いう甘い思いを、かすかに胸にあたためはじめていたそのとき、堀木がまた自分の目の前に現れました。

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いう甘い思いを幽かに胸にあたためはじめていた矢先に、堀木がまた自分の眼前に現われました。

「よう! 色男。おや? これでも、いくらか分別くさい顔になりやがった。きょうは、高円寺女史からの使いなんだがね」

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「よう! 色魔。おや? これでも、いくらか分別くさい顔になりやがった。きょうは、高円寺女史からのお使者なんだがね」

と言いかけて、急に声をひそめ、台所でお茶の支度をしているヨシ子のほうを、あごでしゃくって、大丈夫かい?

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と言いかけて、急に声をひそめ、お勝手でお茶の仕度をしているヨシ子のほうをあごでしゃくって、大丈夫かい?

とたずねますので、

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 とたずねますので、

「かまわない。何を言ってもいい」

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「かまわない。何を言ってもいい」

と自分は落ち着いて答えました。

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と自分は落ちついて答えました。

実際、ヨシ子は、信頼の天才と言いたいくらい、京橋のバーのママとのことはもちろん、自分が鎌倉で起こした事件を知らせてやっても、ツネ子とのことを疑わず、それは自分がうそがうまいからというわけではなく、時には、あからさまな言い方をすることさえあったのに、ヨシ子には、それがみんな冗談としか聞き取れない様子でした。

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じっさい、ヨシ子は、信頼の天才と言いたいくらい、京橋のバアのマダムとの間はもとより、自分が鎌倉で起した事件を知らせてやっても、ツネ子との間を疑わず、それは自分が嘘がうまいからというわけでは無く、時には、あからさまな言い方をする事さえあったのに、ヨシ子には、それがみな冗談としか聞きとれぬ様子でした。

「相変わらず、気取っていやがる。なに、たいしたことじゃないがね、たまには、高円寺のほうへも遊びに来てくれっていう伝言さ」

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「相変らず、しょっていやがる。なに、たいした事じゃないがね、たまには、高円寺のほうへも遊びに来てくれっていう御伝言さ」

忘れかけると、あやしい鳥が羽ばたいてやって来て、記憶の傷口を、そのくちばしで突き破ります。

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忘れかけると、怪鳥が羽ばたいてやって来て、記憶の傷口をそのくちばしで突き破ります。

たちまち過去の恥と罪の記憶が、ありありと目の前によみがえり、わあっと叫びたいほどのおそろしさで、座っていられなくなるのです。

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たちまち過去の恥と罪の記憶が、ありありと眼前に展開せられ、わあっと叫びたいほどの恐怖で、坐っておられなくなるのです。

「飲もうか」

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「飲もうか」

と自分。

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と自分。

「よし」

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「よし」

と堀木。

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と堀木。

自分と堀木。

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自分と堀木。

形は、二人似ていました。

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形は、ふたり似ていました。

そっくりの人間のような気がすることもありました。

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そっくりの人間のような気がする事もありました。

もちろんそれは、安いお酒をあちこち飲み歩いているときだけのことでしたが、とにかく、二人顔を合わせると、みるみる同じ形の、同じ毛並みの犬に変わって、雪の降る町を駆けめぐるという具合になるのでした。

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もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み歩いている時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを駈けめぐるという具合いになるのでした。

その日以来、自分たちは再び昔の付き合いをあたためたという形になり、京橋のあの小さいバーにも一緒に行き、そうして、とうとう、高円寺のシヅ子のアパートにも、その泥酔した二匹の犬が訪問し、泊まって帰るなどということにさえなってしまったのです。

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その日以来、自分たちは再び旧交をあたためたという形になり、京橋のあの小さいバアにも一緒に行き、そうして、とうとう、高円寺のシヅ子のアパートにもその泥酔の二匹の犬が訪問し、宿泊して帰るなどという事にさえなってしまったのです。

忘れも、しません。

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忘れも、しません。

むし暑い夏の夜でした。

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むし暑い夏の夜でした。

堀木は日暮れ頃、よれよれの浴衣を着て、築地の自分のアパートにやって来て、きょう、ある必要があって夏服を質に入れたが、その質入れが母親に知れると、実に具合が悪い、すぐに受け出したいから、とにかくお金を貸してくれ、ということでした。

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堀木は日暮頃、よれよれの浴衣を着て築地の自分のアパートにやって来て、きょう或る必要があって夏服を質入したが、その質入が老母に知れるとまことに具合いが悪い、すぐ受け出したいから、とにかく金を貸してくれ、という事でした。

あいにく自分のところにも、お金がなかったので、いつものように、ヨシ子に言いつけ、ヨシ子の衣類を質屋に持って行かせてお金を作り、堀木に貸しても、まだ少し余るので、その残ったお金でヨシ子に焼酎を買わせ、アパートの屋上に行き、隅田川から時たまかすかに吹いてくる、どぶくさい風を受けて、実にうらぶれた、涼みの宴会を開きました。

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あいにく自分のところにも、お金が無かったので、例に依って、ヨシ子に言いつけ、ヨシ子の衣類を質屋に持って行かせてお金を作り、堀木に貸しても、まだ少し余るのでその残金でヨシ子に焼酎しょうちゅうを買わせ、アパートの屋上に行き、隅田川から時たま幽かに吹いて来るどぶ臭い風を受けて、まことに薄汚い納涼の宴を張りました。

自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。

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自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。

これは、自分が発明した遊びで、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの区別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があってしかるべきだ。たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞。なぜそうなるのか、それのわからない者は芸術を語る資格がない。喜劇に一つでも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、もうそれだけで落第。悲劇の場合もまたそうだ、といったようなわけなのでした。

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これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。

「いいかい? たばこは?」

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「いいかい? 煙草は?」

と自分がたずねます。

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と自分が問います。

「トラ。(悲劇(トラジディ)の略)」

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「トラ。(悲劇トラジディの略)」

と堀木が即座に答えます。

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と堀木が言下に答えます。

「薬は?」

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「薬は?」

「粉薬かい? 丸薬かい?」

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「粉薬かい? 丸薬かい?」

「注射」

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「注射」

「トラ」

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「トラ」

「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」

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「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」

「いや、断然トラだ。針がまず第一、お前、立派なトラじゃないか」

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「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」

「よし、負けておこう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇(コメディ)の略)なんだぜ。死は?」

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「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇コメディの略)なんだぜ。死は?」

「コメ。牧師もお坊さんも、そうじゃないか」

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「コメ。牧師も和尚おしょうも然りじゃね」

「大出来。そうして、生きることはトラだなあ」

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「大出来。そうして、生はトラだなあ」

「ちがう。それも、コメ」

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「ちがう。それも、コメ」

「いや、それでは、何でもかんでも、みんなコメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? まさか、コメとは言えませんでしょう?」

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「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもや、コメとは言えませんでしょう?」

「トラ、トラ。大悲劇名詞!」

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「トラ、トラ。大悲劇名詞!」

「なんだ、大トラは君のほうだぜ」

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「なんだ、大トラは君のほうだぜ」

こんな、下手なだじゃれみたいなことになってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊びを、世界のどんなサロンにもかつて存在しなかった、とても気の利いたものだと、得意がっていたのでした。

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こんな、下手な駄洒落だじゃれみたいな事になってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにもつて存しなかったすこぶる気のきいたものだと得意がっていたのでした。

またもう一つ、これに似た遊びを、当時、自分は発明していました。

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またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。

それは、対義語(はんたいの意味の言葉)の当てっこでした。

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それは、対義語アントニムの当てっこでした。

黒のアント(対義語(アントニム)の略)は、白。

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黒のアント(対義語アントニムの略)は、白。

けれども、白のアントは、赤。

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けれども、白のアントは、赤。

赤のアントは、黒。

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赤のアントは、黒。

「花のアントは?」

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「花のアントは?」

と自分がたずねると、堀木は口を曲げて考え、

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と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、

「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」

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「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」

「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語(似た意味の言葉・シノニム)だ。星とすみれだって、シノニムじゃないか。アントじゃない」

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「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語シノニムだ。星とすみれだって、シノニムじゃないか。アントでない」

「わかった、それはね、蜂だ」

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「わかった、それはね、はちだ」

「ハチ?」

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「ハチ?」

「牡丹(ぼたん)に、……蟻か?」

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牡丹ぼたんに、……ありか?」

「なあんだ、それは絵の題材(画題・モチーフ)だ。ごまかしちゃいけない」

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「なあんだ、それは画題モチイフだ。ごまかしちゃいけない」

「わかった! 花にむら雲、……」

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「わかった! 花にむら雲、……」

「月にむら雲だろう」

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「月にむら雲だろう」

「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」

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「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」

「まずいなあ、それは浪花節(なにわぶし・語りに節をつけた大衆芸能)の文句じゃないか。育ちがばれるぜ」

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「まずいなあ、それは浪花節なにわぶしの文句じゃないか。おさとが知れるぜ」

「いや、琵琶(びわ・楽器の名前)だ」

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「いや、琵琶びわだ」

「なおいけない。花のアントはね、……この世でいちばん花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」

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「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」

「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」

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「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」

「ついでに、女のシノニムは?」

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「ついでに、女のシノニムは?」

「臓物(ぞうもつ・内臓)」

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「臓物」

「君は、どうも、詩(ポエジー)を知らんね。それじゃあ、臓物のアントは?」

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「君は、どうも、ポエジイを知らんね。それじゃあ、臓物のアントは?」

「牛乳」

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「牛乳」

「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。恥のアント」

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「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント」

「恥知らずさ。流行漫画家、上司幾太」

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「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」

「堀木正雄は?」

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「堀木正雄は?」

このあたりから、二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あの、ガラスのかけらが頭にいっぱい詰まっているような、暗く重い気分になってきたのでした。

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この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。

「生意気言うな。おれはまだお前のように、縄で縛られる恥ずかしさなんか、受けたことがねえんだ」

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「生意気言うな。おれはまだお前のように、繩目の恥辱など受けた事が無えんだ」

ぎょっとしました。

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ぎょっとしました。

堀木は心の中で、自分を、まともな人間あつかいにしていなかったのだ。自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、あほうのばけものの、いわば「生きている死体」

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堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、わば「生けるしかばね

としか思ってくれておらず、そうして、彼の楽しみのために、自分を利用できるところだけは利用する、それだけの「交友」

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としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」

だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持ちはしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのように見ているのも、もっともな話で、自分は昔から、人間の資格がないみたいな子どもだったのだ、やっぱり堀木にさえ軽蔑されて当然なのかもしれない、と考え直し、

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だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持はしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのように見ているのも、もっともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だったのだ、やっぱり堀木にさえ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考え直し、

「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」

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「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」

と、何気なさそうな表情を装って、言うのでした。

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と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。

「法律さ」

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「法律さ」

堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。

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堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。

近くのビルの点滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、おそろしい刑事のように威厳がありそうに見えました。

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近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。

自分は、つくづくあきれかえり、

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自分は、つくづくあきれかえり、

「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」

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「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」

罪の対義語が、法律とは!

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罪の対義語が、法律とは!

しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、すましながら暮らしているのかもしれません。

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 しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。

刑事のいないところにこそ、罪がうごめいている、と。

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刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。

「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかキリスト教の坊さんくさいところがあるからな。いやみだぜ」

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「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」

「まあそんなに、軽く片づけるなよ。もう少し、二人で考えてみよう。これはでも、おもしろいテーマじゃないか。このテーマに対する答え一つで、その人の全部がわかるような気がするのだ」

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「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、そのひとの全部がわかるような気がするのだ」

「まさか。……罪のアントは、善さ。善良な市民。つまり、おれみたいなものさ」

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「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」

「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」

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「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」

「悪と罪とは違うのかい?」

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「悪と罪とは違うのかい?」

「違う、と思う。善悪という考え方は、人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」

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「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」

「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にしておけば間違いない。腹がへったなあ」

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「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ」

「いま、下でヨシ子がそら豆を煮ている」

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「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」

「ありがてえ。好物だ」

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「ありがてえ。好物だ」

両手を頭のうしろに組んで、あおむけにごろりと寝ました。

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両手を頭のうしろに組んで、仰向あおむけにごろりと寝ました。

「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」

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「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」

「そりゃそうさ、お前のように、罪人ではないんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女からお金を巻き上げたりなんかはしねえよ」

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「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」

死なせたのではない、巻き上げたのではない、と、心のどこかでかすかな、けれども必死の抗議の声があがっても、しかし、また、いや自分が悪いのだと、すぐに思い直してしまう、この癖。

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死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の何処どこかで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。

自分には、どうしても、正面切っての議論ができません。

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自分には、どうしても、正面切っての議論が出来ません。

焼酎の暗く重い酔いのために、一刻一刻、気持ちが険しくなってくるのを、懸命におさえて、ほとんど独り言のようにして言いました。

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焼酎の陰鬱な酔いのために刻一刻、気持が険しくなって来るのを懸命に抑えて、ほとんど独りごとのようにして言いました。

「しかし、牢屋に入れられることだけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の正体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦しみだろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……ああ、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」

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「しかし、牢屋ろうやにいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼ああ、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」

「ツミの対語は、ミツさ。蜜のように甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持ってこいよ」

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「ツミの対語は、ミツさ。みつの如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」

「君が持ってきたらいいじゃないか!」

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「君が持って来たらいいじゃないか!」

ほとんど生まれてはじめてと言っていいくらいの、激しい怒りの声が出ました。

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ほとんど生れてはじめてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出ました。

「ようし、それじゃ、下へ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯してこよう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」

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「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」

ほとんど、ろれつが回らないくらいに酔っているのでした。

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ほとんど、ろれつの廻らぬくらいに酔っているのでした。

「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」

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「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」

「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」

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「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」

でたらめを言いながら起き上がります。

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出鱈目でたらめを言いながら起き上ります。

罪と罰。

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罪と罰。

ドストエフスキー。

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ドストイエフスキイ。

ちらとそれが、頭の片すみをかすめて通り、はっと思いました。

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ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。

もしも、あのドストエフスキーが、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして並べたものだとしたら?

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もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?

罪と罰、絶対に相通じないもの、氷と炭のように、決して合わさらないもの。

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 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容あいいれざるもの。

罪と罰をアントとして考えたドストエフスキーの、青みどろの、腐った池、もつれた糸の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭の中で走馬灯がくるくる回っていた時に、

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罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に、

「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」

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「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」

堀木の声も顔色も変わっています。

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堀木の声も顔色も変っています。

堀木は、たったいまふらふら起きて下へ行った、かと思うと、また引き返してきたのです。

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堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。

「なんだ」

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「なんだ」

異様に殺気立って、二人、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の途中で、堀木は立ち止まり、

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異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、

「見ろ!」

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「見ろ!」

と小声で言って指差します。

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と小声で言って指差します。

自分の部屋の上の小さい窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。

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自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。

電気がついたままで、二匹の動物がいました。

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電気がついたままで、二匹の動物がいました。

自分は、ぐらぐらとめまいがしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろくことはない、などと、激しい呼吸とともに胸の中でつぶやき、ヨシ子を助けることも忘れて、階段に立ちつくしていました。

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自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、などはげしい呼吸と共に胸の中でつぶやき、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。

堀木は、大きなせきばらいをしました。

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堀木は、大きいせきばらいをしました。

自分は、ひとり逃げるようにまた屋上に駆け上がり、寝ころび、雨をふくんだ夏の夜空を見上げました。そのとき自分をおそった感情は、怒りでもなく、嫌悪でもなく、また、悲しみでもなく、ものすごいおそろしさでした。

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自分は、ひとり逃げるようにまた屋上に駈け上り、寝ころび、雨を含んだ夏の夜空を仰ぎ、そのとき自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、ものすさまじい恐怖でした。

それも、墓地の幽霊などに対するおそろしさではなく、神社の杉並木の中で、白い着物を着た御神体に出会ったときに感じるかもしれないような、有無を言わせない、大昔からの荒々しいおそろしさでした。

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それも、墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかも知れないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。

自分の若白髪(わかしらが・若いうちに生える白髪)は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、人を底知れず疑うようになり、この世の暮らしに対する、すべての期待、よろこび、共感などから、永遠に遠ざかるようになりました。

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自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれるようになりました。

実に、それは自分の一生において、決定的な出来事でした。

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実に、それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした。

自分は、まっこうから眉間(みけん・両目の間)を割られ、そうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも近づくたびに痛むのでした。

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自分は、まっこうから眉間みけんを割られ、そうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも接近する毎に痛むのでした。

「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ」

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「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ」

気まずい場所に、長くとどまっているほど間の抜けた堀木ではありませんでした。

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気まずい場所に、永くとどまっているほどの抜けた堀木ではありませんでした。

自分は起き上がって、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおいと声をあげて泣きました。

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自分は起き上って、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおい声を放って泣きました。

いくらでも、いくらでも泣けるのでした。

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いくらでも、いくらでも泣けるのでした。

いつの間にか、うしろに、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持って、ぼんやり立っていました。

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いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。

「なんにも、しないからって言って、……」

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「なんにも、しないからって言って、……」

「いい。何も言うな。お前は、人を疑うことを知らなかったんだ。お座り。豆を食べよう」

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「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」

並んで座って豆を食べました。

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並んで坐って豆を食べました。

ああ、信頼は罪なのだろうか?

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嗚呼、信頼は罪なりや?

相手の男は、自分に漫画を描かせては、わずかなお金を、もったいぶって置いていく、三十歳前後の、学のない小柄な商人でした。

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 相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。

さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する憎しみよりも、最初に見つけたすぐその時に、大きなせきばらいも何もせず、そのまま自分に知らせにまた屋上に引き返してきた堀木に対する憎しみと怒りが、眠れない夜などにむらむらとわきあがって、うめきました。

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さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する憎悪よりも、さいしょに見つけたすぐその時に大きい咳ばらいも何もせず、そのまま自分に知らせにまた屋上に引返して来た堀木に対する憎しみと怒りが、眠られぬ夜などにむらむら起ってうめきました。

ゆるすも、ゆるさないもありません。

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ゆるすも、ゆるさぬもありません。

ヨシ子は信頼の天才なのです。

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ヨシ子は信頼の天才なのです。

人を疑うことを知らなかったのです。

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ひとを疑う事を知らなかったのです。

しかし、それゆえの悲惨。

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しかし、それゆえの悲惨。

神に問う。

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神に問う。

信頼は罪なのか。

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信頼は罪なりや。

ヨシ子が汚されたということよりも、ヨシ子の信頼が汚されたということが、自分にとって、そののち長く、生きていられないほどの苦しみの種になりました。

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ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。

自分のような、いやらしくおどおどして、人の顔色ばかりうかがい、人を信じる力が、ひび割れてしまっている者にとって、ヨシ子の何も知らない清らかな信頼の心は、それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです。

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自分のような、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺い、人を信じる能力が、ひび割れてしまっているものにとって、ヨシ子の無垢むくの信頼心は、それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです。

それが一晩で、黄色いよごれた水に変わってしまいました。

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それが一夜で、黄色い汚水に変ってしまいました。

見よ、ヨシ子は、その夜から自分のちょっとした表情の変化にさえ、気をつかうようになりました。

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見よ、ヨシ子は、その夜から自分の一顰いっぴん一笑にさえ気を遣うようになりました。

「おい」

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「おい」

と呼ぶと、ぴくっとして、もう目のやり場に困っている様子です。

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と呼ぶと、ぴくっとして、もう眼のやり場に困っている様子です。

どんなに自分が笑わせようとして、道化を言っても、おろおろし、びくびくし、やたらに自分に敬語を使うようになりました。

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どんなに自分が笑わせようとして、お道化を言っても、おろおろし、びくびくし、やたらに自分に敬語を遣うようになりました。

はたして、清らかな信頼の心は、罪の源なのだろうか。

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果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。

自分は、人妻がひどい目にあわされる物語の本を、いろいろさがして読んでみました。

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自分は、人妻の犯された物語の本を、いろいろ捜して読んでみました。

けれども、ヨシ子ほど、むごたらしい目にあわされている女性は、ひとりもいないと思いました。

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けれども、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をしている女は、ひとりも無いと思いました。

そもそも、これは、まったく物語にも何にもなりません。

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どだい、これは、てんで物語にも何もなりません。

あの小柄な商人と、ヨシ子との間に、少しでも恋に似た感情でもあったなら、自分の気持ちもかえって救われるかもしれませんが、ただ、夏の一晩、ヨシ子が信頼して、そうして、それっきり。しかもそのために自分の眉間はまっこうから割られ、声がかすれて若白髪がはじまり、ヨシ子は一生おろおろしなければならなくなったのです。

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あの小男の商人と、ヨシ子とのあいだに、少しでも恋に似た感情でもあったなら、自分の気持もかえってたすかるかも知れませんが、ただ、夏の一夜、ヨシ子が信頼して、そうして、それっきり、しかもそのために自分の眉間は、まっこうから割られ声が嗄れて若白髪がはじまり、ヨシ子は一生おろおろしなければならなくなったのです。

たいていの物語は、その妻の「行い」

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たいていの物語は、その妻の「行為」

を夫が許すかどうか、そこに重点を置いていたようでしたが、それは自分にとっては、そんなに苦しい大問題ではないように思われました。

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を夫が許すかどうか、そこに重点を置いていたようでしたが、それは自分にとっては、そんなに苦しい大問題では無いように思われました。

許す、許さない、そのような権利を持っている夫こそ、幸せなものだ。とても許すことができないと思ったなら、何もそんなに大騒ぎしなくても、さっさと妻と離婚して、新しい妻を迎えたらどうだろう。それができなかったら、いわゆる「許して」

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許す、許さぬ、そのような権利を留保している夫こそ幸いなるかな、とても許す事が出来ぬと思ったなら、何もそんなに大騒ぎせずとも、さっさと妻を離縁して、新しい妻を迎えたらどうだろう、それが出来なかったら、所謂いわゆる「許して」

我慢するさ。いずれにしても、夫の気持ち一つで、すべてがまるく収まるだろうに、という気さえするのでした。

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我慢するさ、いずれにしても夫の気持一つで四方八方がまるく収るだろうに、という気さえするのでした。

つまり、そのような出来事は、たしかに夫にとって大きなショックであっても、しかし、それは「ショック」

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つまり、そのような事件は、たしかに夫にとって大いなるショックであっても、しかし、それは「ショック」

であって、いつまでも尽きることなく打ち返し打ち寄せる波とは違い、権利のある夫の怒りでもって、どうにでも処理できるトラブルのように、自分には思われたのでした。

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であって、いつまでも尽きること無く打ち返し打ち寄せる波と違い、権利のある夫の怒りでもってどうにでも処理できるトラブルのように自分には思われたのでした。

けれども、自分たちの場合、夫に何の権利もなく、考えると何もかも自分が悪いような気がしてきて、怒るどころか、お小言一つも言えず、また、その妻は、自分の持っている、めったにない美しい性質によって、ひどい目にあわされたのです。

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けれども、自分たちの場合、夫に何の権利も無く、考えると何もかも自分がわるいような気がして来て、怒るどころか、おこごと一つも言えず、また、その妻は、その所有しているまれな美質に依って犯されたのです。

しかも、その美しい性質は、夫がかねてからあこがれていた、清らかな信頼の心という、たまらなくいじらしいものだったのです。

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しかも、その美質は、夫のかねてあこがれの、無垢の信頼心というたまらなく可憐かれんなものなのでした。

清らかな信頼の心は、罪なのだろうか。

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無垢の信頼心は、罪なりや。

ただ一つのたよりだった美しい性質にさえ、疑いを抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、行きつく先は、ただアルコールだけになりました。

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唯一のたのみの美質にさえ、疑惑を抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、おもむくところは、ただアルコールだけになりました。

自分の顔つきは、この上なく卑しくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど、いやらしい絵に近いものを描くようになりました。

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自分の顔の表情は極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど猥画わいがに近いものを画くようになりました。

いいえ、はっきり言います。

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いいえ、はっきり言います。

自分はその頃から、春画(しゅんが・性的な絵)の写しを作って、こっそり売りました。

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自分はその頃から、春画のコピイをして密売しました。

焼酎を買うお金がほしかったのです。

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焼酎を買うお金がほしかったのです。

いつも自分から目をそらして、おろおろしているヨシ子を見ると、こいつはまったく用心を知らない女性だったから、あの商人と一度だけではなかったのではないだろうか、また、堀木は?

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いつも自分から視線をはずしておろおろしているヨシ子を見ると、こいつは全く警戒を知らぬ女だったから、あの商人といちどだけでは無かったのではなかろうか、また、堀木は?

いや、あるいは自分の知らない人とも?

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 いや、或いは自分の知らない人とも?

と、疑いは疑いを生み、そうかといって、思いきってそれを問いただす勇気もなく、いつもの不安とおそろしさにのたうちまわる思いで、ただ焼酎を飲んで酔っては、わずかに卑屈な誘導尋問みたいなものを、おっかなびっくり試み、心の中ではおろかしく一喜一憂し、うわべは、やたらに道化て、そうして、それから、ヨシ子にいまわしい地獄のような愛撫を加え、泥のように眠りこけるのでした。

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 と疑惑は疑惑を生み、さりとて思い切ってそれを問い正す勇気も無く、れいの不安と恐怖にのたうち廻る思いで、ただ焼酎を飲んで酔っては、わずかに卑屈な誘導訊問じんもんみたいなものをおっかなびっくり試み、内心おろかしく一喜一憂し、うわべは、やたらにお道化て、そうして、それから、ヨシ子にいまわしい地獄の愛撫あいぶを加え、泥のように眠りこけるのでした。

その年の暮れ、自分は夜おそく、ひどく酔って帰宅し、砂糖水を飲みたくなりました。ヨシ子は眠っているようでしたから、自分で台所へ行き、砂糖つぼをさがし出し、ふたを開けてみたら、砂糖は何も入っていなくて、黒く細長い紙の小箱が入っていました。

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その年の暮、自分は夜おそく泥酔して帰宅し、砂糖水を飲みたく、ヨシ子は眠っているようでしたから、自分でお勝手に行き砂糖壺を捜し出し、ふたを開けてみたら砂糖は何もはいってなくて、黒く細長い紙の小箱がはいっていました。

何気なく手に取り、その箱にはってあるラベルを見て、はっとしました。

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何気なく手に取り、その箱にはられてあるレッテルを見て愕然がくぜんとしました。

そのラベルは、つめで半分以上もかきはがされていましたが、アルファベットの部分が残っていて、そこにはっきり書かれていました。

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そのレッテルは、爪で半分以上もきはがされていましたが、洋字の部分が残っていて、それにはっきり書かれていました。

DIAL。

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DIAL。

ジアール。

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ジアール。

自分はその頃もっぱら焼酎で、睡眠薬は使っていませんでしたが、しかし、眠れないことは自分の持病のようなものでしたから、たいていの睡眠薬にはなじみがありました。

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自分はその頃もっぱら焼酎で、催眠剤を用いてはいませんでしたが、しかし、不眠は自分の持病のようなものでしたから、たいていの催眠剤にはお馴染なじみでした。

ジアールのこの箱一つは、たしかに命にかかわる量以上のはずでした。

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ジアールのこの箱一つは、たしかに致死量以上の筈でした。

まだ箱の封は切っていませんでしたが、しかし、いつかは、実行するつもりで、こんなところに、しかもラベルをかきはがしたりなどして隠していたのに違いありません。

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まだ箱の封を切ってはいませんでしたが、しかし、いつかは、やる気でこんなところに、しかもレッテルを掻きはがしたりなどして隠していたのに違いありません。

かわいそうに、あの子にはラベルのアルファベットが読めないので、つめで半分かきはがして、これで大丈夫と思っていたのでしょう。

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可哀想に、あの子にはレッテルの洋字が読めないので、爪で半分掻きはがして、これで大丈夫と思っていたのでしょう。

(お前に罪はない)

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(お前に罪は無い)

自分は、音を立てないようにそっとコップに水を満たし、それから、ゆっくり箱の封を切って、全部、一気に口の中にほうりこみ、コップの水を落ち着いて飲みほし、電灯を消して、そのまま寝ました。

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自分は、音を立てないようにそっとコップに水を満たし、それから、ゆっくり箱の封を切って、全部、一気に口の中にほうり、コップの水を落ちついて飲みほし、電燈を消してそのまま寝ました。

三日三晩、自分は死んだようになっていたそうです。

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三昼夜、自分は死んだようになっていたそうです。

医者は事故と見なして、警察にとどけるのを見合わせてくれたそうです。

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医者は過失と見なして、警察にとどけるのを猶予してくれたそうです。

目が覚めかけて、いちばん先につぶやいたうわ言は、うちへ帰る、という言葉だったそうです。

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覚醒かくせいしかけて、一ばんさきに呟いたうわごとは、うちへ帰る、という言葉だったそうです。

うちとは、どこのことを指して言ったのか、当の自分にも、よくわかりませんが、とにかく、そう言って、ひどく泣いたそうです。

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うちとは、どこの事を差して言ったのか、当の自分にも、よくわかりませんが、とにかく、そう言って、ひどく泣いたそうです。

次第に霧が晴れて、見ると、枕もとにヒラメが、ひどく不機嫌な顔をして座っていました。

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次第に霧がはれて、見ると、枕元にヒラメが、ひどく不機嫌な顔をして坐っていました。

「このまえも、年の暮れのことでしてね、お互いもう、目が回るくらいいそがしいのに、いつも、年の暮れをねらって、こんなことをやられたひには、こっちの命がたまらない」

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「このまえも、年の暮の事でしてね、お互いもう、目が廻るくらいいそがしいのに、いつも、年の暮をねらって、こんな事をやられたひには、こっちの命がたまらない」

ヒラメの話の聞き手になっているのは、京橋のバーのママでした。

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ヒラメの話の聞き手になっているのは、京橋のバアのマダムでした。

「ママ」

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「マダム」

と自分は呼びました。

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と自分は呼びました。

「うん、何? 気がついた?」

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「うん、何? 気がついた?」

ママは笑い顔を自分の顔の上にかぶせるようにして言いました。

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マダムは笑い顔を自分の顔の上にかぶせるようにして言いました。

自分は、ぽろぽろ涙を流し、

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自分は、ぽろぽろ涙を流し、

「ヨシ子と別れさせて」

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「ヨシ子とわかれさせて」

自分でも思いがけなかった言葉が出ました。

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自分でも思いがけなかった言葉が出ました。

ママは身を起こし、かすかなため息をもらしました。

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マダムは身を起し、幽かな溜息をもらしました。

それから自分は、これもまた実に思いがけない、こっけいとも、ばかばかしいとも、言い表しようのないほどの失言をしました。

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それから自分は、これもまた実に思いがけない滑稽とも阿呆らしいとも、形容に苦しむほどの失言をしました。

「僕は、女のいないところに行くんだ」

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「僕は、女のいないところに行くんだ」

うわっはっは、とまず、ヒラメが大声をあげて笑い、ママもクスクス笑い出し、自分も涙を流しながら赤くなって、苦笑いしました。

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うわっはっは、とまず、ヒラメが大声を挙げて笑い、マダムもクスクス笑い出し、自分も涙を流しながら赤面のていになり、苦笑しました。

「うん、そのほうがいい」

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「うん、そのほうがいい」

とヒラメは、いつまでもだらしなく笑いながら、

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とヒラメは、いつまでもだらし無く笑いながら、

「女のいないところに行ったほうがよい。女がいると、どうもいけない。女のいないところとは、いい思いつきです」

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「女のいないところに行ったほうがよい。女がいると、どうもいけない。女のいないところとは、いい思いつきです」

女のいないところ。

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女のいないところ。

しかし、この自分のばかばかしいうわ言は、のちになって、非常にむごたらしい形で実現しました。

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しかし、この自分の阿呆くさいうわごとは、のちに到って、非常に陰惨に実現せられました。

ヨシ子は、何か、自分がヨシ子の身代わりになって毒を飲んだとでも思いこんでいるらしく、以前よりもなおいっそう、自分に対して、おろおろして、自分が何を言っても笑わず、そうしてろくに口もきけないようなありさまなので、自分もアパートの部屋の中にいるのが、うっとうしく、つい外へ出て、相変わらず安いお酒をあおることになるのでした。

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ヨシ子は、何か、自分がヨシ子の身代りになって毒を飲んだとでも思い込んでいるらしく、以前よりもなおいっそう、自分に対して、おろおろして、自分が何を言っても笑わず、そうしてろくに口もきけないような有様なので、自分もアパートの部屋の中にいるのが、うっとうしく、つい外へ出て、相変らず安い酒をあおる事になるのでした。

しかし、あのジアールの一件以来、自分のからだがめっきりやせ細って、手足がだるく、漫画の仕事も怠けがちになり、ヒラメがあの時、お見舞いとして置いていったお金(ヒラメはそれを、渋田の気持ちです、と言って、いかにも自分から出したお金のようにして差し出しましたが、これも故郷の兄たちからのお金のようでした。

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しかし、あのジアールの一件以来、自分のからだがめっきりせ細って、手足がだるく、漫画の仕事も怠けがちになり、ヒラメがあの時、見舞いとして置いて行ったお金(ヒラメはそれを、渋田の志です、と言っていかにもご自身から出たお金のようにして差出しましたが、これも故郷の兄たちからのお金のようでした。

自分もその頃には、ヒラメの家から逃げ出したあの時とちがって、ヒラメのそんなもったいぶった芝居を、おぼろげながら見抜くことができるようになっていましたので、こちらもずるく、まったく気づかないふりをして、神妙にそのお金のお礼をヒラメに向かって申し上げたのでしたが、しかし、ヒラメたちが、なぜ、そんなややこしいからくりをやらかすのか、わかるような、わからないような、どうしても自分には、へんな気がしてなりませんでした)そのお金で、思いきってひとりで南伊豆の温泉に行ってみたりなどしましたが、とてもそんなのんびりした温泉めぐりなどできる柄ではなく、ヨシ子を思えばわびしさ限りなく、宿の部屋から山をながめるなどの落ち着いた心境に

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自分もその頃には、ヒラメの家から逃げ出したあの時とちがって、ヒラメのそんなもったい振った芝居を、おぼろげながら見抜く事が出来るようになっていましたので、こちらもずるく、全く気づかぬ振りをして、神妙にそのお金のお礼をヒラメに向って申し上げたのでしたが、しかし、ヒラメたちが、なぜ、そんなややこしいカラクリをやらかすのか、わかるような、わからないような、どうしても自分には、へんな気がしてなりませんでした)そのお金で、思い切ってひとりで南伊豆の温泉に行ってみたりなどしましたが、とてもそんな悠長な温泉めぐりなど出来るがらではなく、ヨシ子を思えばびしさ限りなく、宿の部屋から山を眺めるなどの落ちついた心境に

は、ほど遠く、丹前(たんぜん・綿入れの着物)にも着替えず、お湯にも入らず、外へ飛び出しては、薄汚い茶店みたいなところに飛びこんで、焼酎を、それこそ浴びるほど飲んで、からだの具合をいっそう悪くして、東京に帰っただけのことでした。

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は甚だ遠く、ドテラにも着換えず、お湯にもはいらず、外へ飛び出しては薄汚い茶店みたいなところに飛び込んで、焼酎を、それこそ浴びるほど飲んで、からだ具合いを一そう悪くして帰京しただけの事でした。

東京に大雪の降った夜でした。

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東京に大雪の降った夜でした。

自分は酔って銀座裏を、「ここはお国を何百里」、「ここはお国を何百里」(軍歌の一節)と、小声で繰り返し繰り返し、つぶやくように歌いながら、なおも降り積もる雪を靴先で蹴散らして歩いて、突然、吐きました。

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自分は酔って銀座裏を、ここはお国を何百里、ここはお国を何百里、と小声で繰り返し繰り返し呟くように歌いながら、なおも降りつもる雪を靴先で蹴散けちらして歩いて、突然、吐きました。

それは自分のはじめての喀血(かっけつ・肺などから血をはくこと)でした。

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それは自分の最初の喀血かっけつでした。

雪の上に、大きい日の丸の旗ができました。

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雪の上に、大きい日の丸の旗が出来ました。

自分は、しばらくしゃがんで、それから、よごれていないところの雪を両手ですくい取って、顔を洗いながら泣きました。

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自分は、しばらくしゃがんで、それから、よごれていない個所の雪を両手ですくい取って、顔を洗いながら泣きました。

こうこは、どうこの細道じゃ?

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こうこは、どうこの細道じゃ?

こうこは、どうこの細道じゃ?

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こうこは、どうこの細道じゃ?

あわれな幼い女の子の歌声が、幻の声のように、かすかに遠くから聞こえます。

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哀れな童女の歌声が、幻聴のように、かすかに遠くから聞えます。

不幸。

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不幸。

この世には、さまざまな不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても言いすぎではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、いわゆる世間に対して堂々と抗議ができ、また「世間」

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この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」

もその人たちの抗議を、たやすく理解し、同情します。

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もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。

しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪から来ているので、誰にも抗議のしようがないし、また口ごもりながら一言でも抗議めいたことを言いかけると、ヒラメでなくとも世間の人たち全部が、よくもまあそんな口がきけたものだとあきれかえるに違いないし、自分はいったい、俗に言う「わがままもの」

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しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだとあきれかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」

なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪のかたまりらしいので、どこまでも自然にどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体的な方法などないのです。

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なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでもおのずからどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。

自分は立って、とりあえず何か適当な薬を、と思い、近くの薬屋に入って、そこの奥さんと顔を見合わせました。その瞬間、奥さんは、フラッシュを浴びたみたいに首をあげ、目を見はり、棒立ちになりました。

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自分は立って、取り敢えず何か適当な薬をと思い、近くの薬屋にはいって、そこの奥さんと顔を見合せ、瞬間、奥さんは、フラッシュを浴びたみたいに首をあげ眼を見はり、棒立ちになりました。

しかし、その見はった目には、おどろきの色も嫌悪の色もなく、ほとんど救いを求めるような、慕うような色があらわれているのでした。

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しかし、その見はった眼には、驚愕の色も嫌悪の色も無く、ほとんど救いを求めるような、慕うような色があらわれているのでした。

ああ、この人も、きっと不幸な人なのだ、不幸な人は、人の不幸にも敏感なものなのだから、と思ったとき、ふと、その奥さんが松葉づえをついて、あぶなっかしく立っているのに気がつきました。

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ああ、このひとも、きっと不幸な人なのだ、不幸な人は、ひとの不幸にも敏感なものなのだから、と思った時、ふと、その奥さんが松葉杖まつばづえをついて危かしく立っているのに気がつきました。

駆け寄りたい思いをおさえて、なおもその奥さんと顔を見合わせているうちに、涙が出てきました。

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駈け寄りたい思いを抑えて、なおもその奥さんと顔を見合せているうちに涙が出て来ました。

すると、奥さんの大きい目からも、涙がぽろぽろとあふれて出ました。

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すると、奥さんの大きい眼からも、涙がぽろぽろとあふれて出ました。

それっきり、一言も口をきかずに、自分はその薬屋から出て、よろめいてアパートに帰り、ヨシ子に塩水を作らせて飲み、黙って寝て、次の日も、風邪気味だとうそをついて一日じゅう寝て、夜、自分の秘密の喀血がどうにも不安でたまらず、起きて、あの薬屋に行き、今度は笑いながら、奥さんに、実に素直に今までのからだの具合を打ち明け、相談しました。

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それっきり、一言も口をきかずに、自分はその薬屋から出て、よろめいてアパートに帰り、ヨシ子に塩水を作らせて飲み、黙って寝て、翌る日も、風邪気味だと嘘をついて一日一ぱい寝て、夜、自分の秘密の喀血がどうにも不安でたまらず、起きて、あの薬屋に行き、こんどは笑いながら、奥さんに、実に素直に今迄のからだ具合いを告白し、相談しました。

「お酒をおよしにならなければ」

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「お酒をおよしにならなければ」

自分たちは、まるで肉親のようでした。

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自分たちは、肉身のようでした。

「アル中になっているかもしれないんです。いまでも飲みたい」

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「アル中になっているかも知れないんです。いまでも飲みたい」

「いけません。私の主人も、結核(テーベ)のくせに、菌をお酒で殺すんだなんて言って、お酒びたりになって、自分から寿命をちぢめました」

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「いけません。私の主人も、テーベのくせに、菌を酒で殺すんだなんて言って、酒びたりになって、自分から寿命をちぢめました」

「不安でいけないんです。こわくて、とても、だめなんです」

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「不安でいけないんです。こわくて、とても、だめなんです」

「お薬を差し上げます。お酒だけは、およしなさい」

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「お薬を差し上げます。お酒だけは、およしなさい」

奥さん(未亡人で、男の子がひとり、それは千葉だかどこだかの医大に入って、まもなく父親と同じ病気にかかり、休学して入院中で、家には脳卒中(中風)で寝たきりの、しゅうと(夫の父親)がいて、奥さん自身は五歳のとき、小児麻痺で片方の脚がまったく動かないのでした)は、松葉づえをコトコトとつきながら、自分のために、あっちの棚、こっちの引き出し、いろいろと薬を取りそろえてくれるのでした。

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奥さん(未亡人で、男の子がひとり、それは千葉だかどこだかの医大にはいって、間もなく父と同じ病いにかかり、休学入院中で、家には中風のしゅうとが寝ていて、奥さん自身は五歳の折、小児痲痺まひで片方の脚が全然だめなのでした)は、松葉杖をコトコトと突きながら、自分のためにあっちの棚、こっちの引出し、いろいろと薬品を取そろえてくれるのでした。

これは、造血剤(血を作る薬)。

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これは、造血剤。

これは、ビタミンの注射液。

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これは、ヴィタミンの注射液。

注射器は、これ。

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注射器は、これ。

これは、カルシウムの錠剤。

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これは、カルシウムの錠剤。

胃腸をこわさないように、ジアスターゼ(消化を助ける薬)。

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胃腸をこわさないように、ジアスターゼ。

これは、何。

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これは、何。

これは、何、と五、六種類の薬の説明を、愛情をこめてしてくれたのですが、しかし、この不幸な奥さんの愛情もまた、自分にとって深すぎました。

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これは、何、と五、六種の薬品の説明を愛情こめてしてくれたのですが、しかし、この不幸な奥さんの愛情もまた、自分にとって深すぎました。

最後に奥さんが、これは、どうしても、なんとしてもお酒を飲みたくて、たまらなくなったときのお薬、と言って、すばやく紙に包んだ小箱。

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最後に奥さんが、これは、どうしても、なんとしてもお酒を飲みたくて、たまらなくなった時のお薬、と言って素早く紙に包んだ小箱。

モルヒネの注射液でした。

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モルヒネの注射液でした。

お酒よりは、害にならないと奥さんも言い、自分もそれを信じて、また一つには、お酒の酔いもさすがに汚らしく感じられてきたところでもあったし、久しぶりにアルコールという悪魔から逃れることのできる喜びもあり、何のためらいもなく、自分は自分の腕に、そのモルヒネを注射しました。

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酒よりは、害にならぬと奥さんも言い、自分もそれを信じて、また一つには、酒の酔いもさすがに不潔に感ぜられて来た矢先でもあったし、久し振りにアルコールというサタンからのがれる事の出来る喜びもあり、何の躊躇ちゅうちょも無く、自分は自分の腕に、そのモルヒネを注射しました。

不安も、あせりも、はにかみも、きれいに取り除かれ、自分はたいそう陽気な、よくしゃべる人間になるのでした。

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不安も、焦燥しょうそうも、はにかみも、綺麗きれいに除去せられ、自分は甚だ陽気な能弁家になるのでした。

そうして、その注射をすると自分は、からだの弱りも忘れて、漫画の仕事に精が出て、自分で描きながら吹き出してしまうほど、珍妙なアイデアが生まれるのでした。

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そうして、その注射をすると自分は、からだの衰弱も忘れて、漫画の仕事に精が出て、自分で画きながら噴き出してしまうほど珍妙な趣向が生れるのでした。

一日一本のつもりが、二本になり、四本になった頃には、自分はもうそれがなければ、仕事ができないようになっていました。

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一日一本のつもりが、二本になり、四本になった頃には、自分はもうそれが無ければ、仕事が出来ないようになっていました。

「いけませんよ、中毒になったら、そりゃもう、たいへんです」

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「いけませんよ、中毒になったら、そりゃもう、たいへんです」

薬屋の奥さんにそう言われると、自分はもう、かなりの中毒患者になってしまったような気がしてきて、(自分は、人の暗示に実にもろくひっかかる性分なのです。

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薬屋の奥さんにそう言われると、自分はもう可成りの中毒患者になってしまったような気がして来て、(自分は、ひとの暗示に実にもろくひっかかるたちなのです。

このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前のことだものなあ、なんて言われると、何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起こって、必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした)その中毒への不安のため、かえって薬をたくさん求めるようになったのでした。

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このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前の事だものなあ、なんて言われると、何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起って、必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした)その中毒の不安のため、かえって薬品をたくさん求めるようになったのでした。

「たのむ! もう一箱。勘定は月末にきっと払いますから」

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「たのむ! もう一箱。勘定は月末にきっと払いますから」

「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ」

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「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ」

ああ、いつでも自分の周りには、何やら、濁って暗く、うさんくさい日陰者の気配がつきまとうのです。

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ああ、いつでも自分の周囲には、何やら、濁って暗く、うさん臭い日蔭者の気配がつきまとうのです。

「そこを何とか、ごまかして、たのむよ、奥さん。キスしてあげよう」

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「そこを何とか、ごまかして、たのむよ、奥さん。キスしてあげよう」

奥さんは、顔を赤らめます。

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奥さんは、顔を赤らめます。

自分は、いよいよつけこみ、

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自分は、いよいよつけ込み、

「薬がないと仕事がちっとも、はかどらないんだよ。僕には、あれは強精剤(体を元気にする薬)みたいなものなんだ」

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「薬が無いと仕事がちっとも、はかどらないんだよ。僕には、あれは強精剤みたいなものなんだ」

「それじゃ、いっそ、ホルモン注射がいいでしょう」

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「それじゃ、いっそ、ホルモン注射がいいでしょう」

「ばかにしちゃいけません。お酒か、そうでなければ、あの薬か、どっちかでなければ仕事ができないんだ」

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「ばかにしちゃいけません。お酒か、そうでなければ、あの薬か、どっちかで無ければ仕事が出来ないんだ」

「お酒は、いけません」

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「お酒は、いけません」

「そうでしょう? 僕はね、あの薬を使うようになってから、お酒は一滴も飲まなかった。おかげで、からだの調子が、とてもいいんだ。僕だって、いつまでも、下手くそな漫画などを描いているつもりはない、これから、お酒をやめて、からだを治して、勉強して、きっと偉い絵かきになってみせる。いまが大事なところなんだ。だからさ、ね、おねがい。キスしてあげようか」

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「そうでしょう? 僕はね、あの薬を使うようになってから、お酒は一滴も飲まなかった。おかげで、からだの調子が、とてもいいんだ。僕だって、いつまでも、下手くそな漫画などをかいているつもりは無い、これから、酒をやめて、からだを直して、勉強して、きっと偉い絵画きになって見せる。いまが大事なところなんだ。だからさ、ね、おねがい。キスしてあげようか」

奥さんは笑い出し、

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奥さんは笑い出し、

「困るわねえ。中毒になっても知りませんよ」

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「困るわねえ。中毒になっても知りませんよ」

コトコトと松葉づえの音をさせて、その薬を棚から取り出し、

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コトコトと松葉杖の音をさせて、その薬品を棚から取り出し、

「一箱は、あげられませんよ。すぐ使ってしまうのだもの。半分ね」

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「一箱は、あげられませんよ。すぐ使ってしまうのだもの。半分ね」

「けちだなあ、まあ、仕方がないや」

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「ケチだなあ、まあ、仕方が無いや」

家へ帰って、すぐに一本、注射をします。

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家へ帰って、すぐに一本、注射をします。

「痛くないんですか?」

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「痛くないんですか?」

ヨシ子は、おどおど自分にたずねます。

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ヨシ子は、おどおど自分にたずねます。

「それあ痛いさ。でも、仕事の能率をあげるためには、いやでもこれをやらなければいけないんだ。僕はこの頃、とても元気だろう? さあ、仕事だ。仕事、仕事」

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「それあ痛いさ。でも、仕事の能率をあげるためには、いやでもこれをやらなければいけないんだ。僕はこの頃、とても元気だろう? さあ、仕事だ。仕事、仕事」

と、はしゃぐのです。

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とはしゃぐのです。

深夜、薬屋の戸をたたいたこともありました。

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深夜、薬屋の戸をたたいた事もありました。

寝巻き姿で、コトコト松葉づえをついて出てきた奥さんに、いきなり抱きついてキスして、泣くまねをしました。

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寝巻姿で、コトコト松葉杖をついて出て来た奥さんに、いきなり抱きついてキスして、泣く真似をしました。

奥さんは、黙って自分に一箱、手渡しました。

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奥さんは、黙って自分に一箱、手渡しました。

薬もまた、焼酎と同じように、いや、それ以上に、いまわしく汚らしいものだと、つくづく思い知ったときには、すでに自分は完全な中毒患者になっていました。

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薬品もまた、焼酎同様、いや、それ以上に、いまわしく不潔なものだと、つくづく思い知った時には、既に自分は完全な中毒患者になっていました。

まことに、恥知らずのきわみでした。

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真に、恥知らずのきわみでした。

自分はその薬を手に入れたいばかりに、またも春画の写しをはじめ、そうして、あの薬屋の、脚の不自由な奥さんと、文字どおりの、いやらしい関係さえ結びました。

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自分はその薬品を得たいばかりに、またも春画のコピイをはじめ、そうして、あの薬屋の不具の奥さんと文字どおりの醜関係をさえ結びました。

死にたい、いっそ、死にたい、もう取り返しがつかないんだ、どんなことをしても、何をしても、だめになるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくもないんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦しみが増えて強くなるだけなんだ、死にたい、死ななければならない、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を、半狂乱の姿で行ったり来たりしているばかりなのでした。

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死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした。

いくら仕事をしても、薬を使う量もそれにつれてふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると涙を浮かべ、自分も涙を流しました。

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いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがってふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると涙を浮べ、自分も涙を流しました。

地獄。

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地獄。

この地獄から逃れるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という、神様の存在をかけるほどの決意で、自分は、故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の本当の姿すべてを(女性のことは、さすがに書けませんでしたが)打ち明けることにしました。

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この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という神の存在をけるほどの決意をもって、自分は、故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の実情一さいを(女の事は、さすがに書けませんでしたが)告白する事にしました。

しかし、結果はいっそう悪く、待てど暮らせど何の返事もなく、自分はそのあせりと不安のために、かえって薬の量をふやしてしまいました。

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しかし、結果は一そう悪く、待てど暮せど何の返事も無く、自分はその焦燥と不安のために、かえって薬の量をふやしてしまいました。

今夜、十本、一気に注射して、そうして大川(隅田川)に飛びこもうと、ひそかに覚悟を決めたその日の午後、ヒラメが、悪魔のような勘でかぎつけたみたいに、堀木を連れて現れました。

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今夜、十本、一気に注射し、そうして大川に飛び込もうと、ひそかに覚悟を極めたその日の午後、ヒラメが、悪魔の勘でぎつけたみたいに、堀木を連れてあらわれました。

「お前は、喀血したんだってな」

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「お前は、喀血したんだってな」

堀木は、自分の前にあぐらをかいてそう言い、いままで見たこともないくらいに優しくほほえみました。

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堀木は、自分の前にあぐらをかいてそう言い、いままで見た事も無いくらいに優しく微笑ほほえみました。

その優しいほほえみが、ありがたくて、うれしくて、自分はつい顔をそむけて涙を流しました。

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その優しい微笑が、ありがたくて、うれしくて、自分はつい顔をそむけて涙を流しました。

そうして彼のその優しいほほえみ一つで、自分は完全にうち負かされ、葬り去られてしまったのです。

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そうして彼のその優しい微笑一つで、自分は完全に打ち破られ、葬り去られてしまったのです。

自分は自動車に乗せられました。

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自分は自動車に乗せられました。

とにかく入院しなければならない、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは慈悲深いとでも言いたいほど、もの静かな口調でした)自分にすすめ、自分は意志も判断も何もない者のように、ただメソメソ泣きながら、言われるがままに二人の言いつけに従うのでした。

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とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調でした)自分にすすめ、自分は意志も判断も何も無い者の如く、ただメソメソ泣きながら唯々諾々と二人の言いつけに従うのでした。

ヨシ子も入れて四人、自分たちは、ずいぶん長いこと自動車にゆられ、あたりが薄暗くなった頃、森の中の大きい病院の玄関に到着しました。

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ヨシ子もいれて四人、自分たちは、ずいぶん永いこと自動車にゆられ、あたりが薄暗くなった頃、森の中の大きい病院の、玄関に到着しました。

サナトリウム(療養所)とばかり思っていました。

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サナトリアムとばかり思っていました。

自分は若い医師の、いやに物柔らかで、丁寧な診察を受け、それから医師は、

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自分は若い医師のいやに物やわらかな、鄭重ていちょうな診察を受け、それから医師は、

「まあ、しばらくここで静養するんですね」

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「まあ、しばらくここで静養するんですね」

と、まるで、はにかむようにほほえんで言い、ヒラメと堀木とヨシ子は、自分ひとりを置いて帰ることになりましたが、ヨシ子は着替えの衣類を入れてある風呂敷包みを自分に手渡し、それから黙って帯の間から、注射器と、使い残りのあの薬を差し出しました。

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と、まるで、はにかむように微笑して言い、ヒラメと堀木とヨシ子は、自分ひとりを置いて帰ることになりましたが、ヨシ子は着換の衣類をいれてある風呂敷包を自分に手渡し、それから黙って帯の間から注射器と使い残りのあの薬品を差し出しました。

やはり、強精剤だとばかり思っていたのでしょうか。

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やはり、強精剤だとばかり思っていたのでしょうか。

「いや、もういらない」

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「いや、もう要らない」

実に、珍しいことでした。

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実に、珍らしい事でした。

すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの一生において、その時ただ一度、と言っても言いすぎでないくらいなのです。

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すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。

自分の不幸は、拒否する力のない者の不幸でした。

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自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。

すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に直すことのできない、しらじらしいひび割れができるようなおそろしさに、おびやかされていたのでした。

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すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。

けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。

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けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。

ヨシ子の、いわば「神様のような無邪気さ」

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ヨシ子の謂わば「神の如き無智」

に打たれたのでしょうか。

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に撃たれたのでしょうか。

自分は、あの瞬間、すでに中毒でなくなっていたのではないでしょうか。

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自分は、あの瞬間、すでに中毒でなくなっていたのではないでしょうか。

けれども、自分はそれからすぐに、あの、はにかむようにほほえむ若い医師に案内され、ある病棟に入れられて、ガチャンとかぎをおろされました。

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けれども、自分はそれからすぐに、あのはにかむような微笑をする若い医師に案内せられ、或る病棟にいれられて、ガチャンとかぎをおろされました。

精神科の病院でした。

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脳病院でした。

女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだときの自分の愚かなうわ言が、まことに奇妙な形で実現したわけでした。

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女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだ時の自分の愚かなうわごとが、まことに奇妙に実現せられたわけでした。

その病棟には、心を病んだ男の人ばかりで、看護する人も男の人でしたし、女性はひとりもいませんでした。

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その病棟には、男の狂人ばかりで、看護人も男でしたし、女はひとりもいませんでした。

いまはもう自分は、罪人どころではなく、心を病んだ人間でした。

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いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。

いいえ、断じて自分は、心を病んでなどいなかったのです。

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いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。

一瞬たりとも、心を病んだことはないんです。

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一瞬間といえども、狂った事は無いんです。

けれども、ああ、心を病んだ人は、たいてい自分のことをそう言うものだそうです。

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けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。

つまり、この病院に入れられた者は、心を病んだ人、入れられなかった者は、普通の人、ということになるようです。

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つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。

神に問う。

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神に問う。

抵抗しないことは、罪なのか?

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無抵抗は罪なりや?

堀木のあの不思議な美しいほほえみに自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、心を病んだ人ということになりました。

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堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。

今にここから出ても、自分はやっぱり心を病んだ人、いや、癈人(はいじん・世の中の役に立たなくなった人)という刻印を額に打たれることでしょう。

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いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人はいじんという刻印を額に打たれる事でしょう。

人間、失格。

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人間、失格。

もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。

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もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から、病院の庭の小さい池に、赤い睡蓮(すいれん)の花が咲いているのが見えましたが、それから三か月たち、庭にコスモスが咲きはじめた頃、思いがけなく故郷の長男の兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来ました。父が先月末に胃潰瘍で亡くなったこと、自分たちはもうお前の過去は問わない、暮らしの心配もかけないつもりだ、何もしなくていい、その代わり、いろいろ未練もあるだろうが、すぐに東京から離れて、田舎で療養生活をはじめてくれ、お前が東京でしでかしたことの後始末は、だいたい渋田がやってくれたはずだから、それは気にしなくていい、と、いつもの生まじめな、緊張したような口調で言うのでした。

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ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池にあかい睡蓮の花が咲いているのが見えましたが、それから三つき経ち、庭にコスモスが咲きはじめ、思いがけなく故郷の長兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来て、父が先月末に胃潰瘍いかいようでなくなったこと、自分たちはもうお前の過去は問わぬ、生活の心配もかけないつもり、何もしなくていい、その代り、いろいろ未練もあるだろうがすぐに東京から離れて、田舎で療養生活をはじめてくれ、お前が東京でしでかした事の後仕末は、だいたい渋田がやってくれた筈だから、それは気にしないでいい、とれいの生真面目な緊張したような口調で言うのでした。

故郷の山や川が、目の前に見えるような気がしてきて、自分はかすかにうなずきました。

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故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は幽かにうなずきました。

まさに癈人。

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まさに癈人。

父が死んだことを知ってから、自分はいよいよ腑抜け(ふぬけ・気力のない状態)のようになりました。

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父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜ふぬけたようになりました。

父が、もういない。自分の心から一時も離れなかった、あのなつかしくおそろしい存在が、もういない。自分の苦しみのつぼが、からっぽになったような気がしました。

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父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。

自分の苦しみのつぼが、やけに重かったのも、あの父のせいだったのではないだろうかとさえ思われました。

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自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。

まるで、はりあいが抜けました。

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まるで、張合いが抜けました。

苦しむ力さえ、失いました。

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苦悩する能力をさえ失いました。

長男の兄は、自分に対する約束を、正確に実行してくれました。

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長兄は自分に対する約束を正確に実行してくれました。

自分の生まれ育った町から汽車で四、五時間、南へ行ったところに、東北には珍しいほど暖かい海辺の温泉地があって、その村はずれの、部屋数は五つもあるのですが、かなり古い家らしく、壁ははげ落ち、柱は虫に食われ、ほとんど直しようもないほどの、かやぶきの粗末な家を買い取って自分に与え、六十近い、赤毛でみにくい女中さんをひとり、つけてくれました。

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自分の生れて育った町から汽車で四、五時間、南下したところに、東北には珍らしいほど暖かい海辺の温泉地があって、その村はずれの、間数は五つもあるのですが、かなり古い家らしく壁はげ落ち、柱は虫に食われ、ほとんど修理の仕様も無いほどの茅屋ぼうおくを買いとって自分に与え、六十に近いひどい赤毛の醜い女中をひとり附けてくれました。

それから三年と少したち、自分はその間、そのテツという年老いた女中さんに、何度かへんな目にあわされて、時たま夫婦げんかみたいなことをはじめ、胸の病気のほうは一進一退、やせたり太ったり、血のまじったたんが出たり、きのう、テツにカルモチンを買っておいで、と言って、村の薬屋にお使いにやったら、いつもの箱とちがう形の箱のカルモチンを買ってきて、別に自分も気にとめず、寝る前に十錠のんでも、まったく眠くならないので、おかしいなと思っているうちに、おなかの具合がへんになり、急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で、しかも、それから続けて三度も便所に通ったのでした。

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それから三年と少し経ち、自分はその間にそのテツという老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦喧嘩げんかみたいな事をはじめ、胸の病気のほうは一進一退、痩せたりふとったり、血痰けったんが出たり、きのう、テツにカルモチンを買っておいで、と言って、村の薬屋にお使いにやったら、いつもの箱と違う形の箱のカルモチンを買って来て、べつに自分も気にとめず、寝る前に十錠のんでも一向に眠くならないので、おかしいなと思っているうちに、おなかの具合がへんになり急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で、しかも、それから引続き三度も便所にかよったのでした。

不思議でたまらず、薬の箱をよく見ると、それはヘノモチンという下剤(げざい・おなかをくだす薬)でした。

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不審に堪えず、薬の箱をよく見ると、それはヘノモチンという下剤でした。

自分はあおむけに寝て、おなかに湯たんぽをのせながら、テツにお小言を言ってやろうと思いました。

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自分は仰向けに寝て、おなかに湯たんぽを載せながら、テツにこごとを言ってやろうと思いました。

「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」

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「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」

と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。

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と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。

「癈人」

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「癈人」

は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。

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は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。

眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。

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眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。

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いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、すべては過ぎていきます。

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ただ、一さいは過ぎて行きます。

自分がいままで、地獄のような叫び声をあげながら生きてきた、いわゆる「人間」

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自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」

の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

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の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

ただ、すべては過ぎていきます。

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ただ、一さいは過ぎて行きます。

自分はことし、二十七になります。

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自分はことし、二十七になります。

白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。

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白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。

あとがき

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あとがき

この手記を書きつづった、心を病んだ人を、私は、直接には知らない。

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この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない。

けれども、この手記に出てくる、京橋のスタンドバーのママらしき人物を、私はちょっと知っているのである。

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けれども、この手記に出て来る京橋のスタンド・バアのマダムともおぼしき人物を、私はちょっと知っているのである。

小柄で、顔色のよくない、目が細く吊り上がっていて、鼻の高い、美人というよりは、美青年といったほうがいいくらいの、かたい感じの人であった。

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小柄で、顔色のよくない、眼が細くり上っていて、鼻の高い、美人というよりは、美青年といったほうがいいくらいの固い感じのひとであった。

この手記には、どうやら、昭和五、六、七年、あの頃の東京の風景が、おもに描かれているように思われるが、私が、その京橋のスタンドバーに、友人に連れられて二、三度立ち寄り、ハイボールなど飲んだのは、あの日本の「軍部」

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この手記には、どうやら、昭和五、六、七年、あの頃の東京の風景がおもに写されているように思われるが、私が、その京橋のスタンド・バアに、友人に連れられて二、三度、立ち寄り、ハイボールなど飲んだのは、れいの日本の「軍部」

がそろそろ、あからさまに暴れはじめた昭和十年前後のことであったから、この手記を書いた男には、お目にかかることができなかったわけである。

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がそろそろ露骨にあばれはじめた昭和十年前後の事であったから、この手記を書いた男には、おめにかかる事が出来なかったわけである。

ところが、ことしの二月、私は千葉県船橋市に疎開しているある友人をたずねた。

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然るに、ことしの二月、私は千葉県船橋市に疎開している或る友人をたずねた。

その友人は、私の大学時代の、いわば学友で、いまは某女子大の講師をしているのであるが、実は私はこの友人に、私の身内の者の縁談を頼んでいたので、その用事もあり、ついでに何か新鮮な海産物でも仕入れて、私の家の者たちに食べさせてやろうと思い、リュックサックを背負って船橋市へ出かけて行ったのである。

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その友人は、私の大学時代の謂わば学友で、いまは某女子大の講師をしているのであるが、実は私はこの友人に私の身内の者の縁談を依頼していたので、その用事もあり、かたがた何か新鮮な海産物でも仕入れて私の家の者たちに食わせてやろうと思い、リュックサックを背負って船橋市へ出かけて行ったのである。

船橋市は、泥の海に面した、かなり大きい町であった。

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船橋市は、泥海に臨んだかなり大きいまちであった。

新しく引っ越してきた住民であるその友人の家は、その土地の人に住所を告げてたずねても、なかなかわからないのである。

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新住民たるその友人の家は、その土地の人に所番地を告げてたずねても、なかなかわからないのである。

寒いうえに、リュックサックを背負った肩が痛くなり、私はレコードのバイオリンの音にひかれて、ある喫茶店のドアを押した。

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寒い上に、リュックサックを背負った肩が痛くなり、私はレコードの提琴の音にひかれて、或る喫茶店のドアを押した。

そこのママに見覚えがあり、たずねてみたら、まさに、十年前のあの京橋の小さいバーのママであった。

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そこのマダムに見覚えがあり、たずねてみたら、まさに、十年前のあの京橋の小さいバアのマダムであった。

ママも、私をすぐに思い出してくれた様子で、お互いに大げさに驚き、笑い、それから、こんな時のお決まりの、あの、空襲で焼け出されたお互いの経験を、聞かれもしないのに、いかにも自慢らしく語り合い、

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マダムも、私をすぐに思い出してくれた様子で、互いに大袈裟おおげさに驚き、笑い、それからこんな時のおきまりの、れいの、空襲で焼け出されたお互いの経験を問われもせぬのに、いかにも自慢らしく語り合い、

「あなたは、しかし、変わらない」

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「あなたは、しかし、かわらない」

「いいえ、もうおばあさん。からだが、がたぴしです。あなたこそ、お若いわ」

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「いいえ、もうお婆さん。からだが、がたぴしです。あなたこそ、お若いわ」

「とんでもない、子どもがもう三人もあるんだよ。きょうはそいつらのために買い出し」

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「とんでもない、子供がもう三人もあるんだよ。きょうはそいつらのために買い出し」

などと、これもまた久しぶりに会った者どうしのお決まりのあいさつを交わし、それから、二人に共通の知り合いの、その後の様子をたずね合ったりして、そのうちに、ふとママは口調を改め、あなたは葉ちゃんを知っていたかしら、と言う。

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などと、これもまた久し振りで逢った者同志のおきまりの挨拶を交し、それから、二人に共通の知人のその後の消息をたずね合ったりして、そのうちに、ふとマダムは口調を改め、あなたは葉ちゃんを知っていたかしら、と言う。

それは知らない、と答えると、ママは、奥へ行って、三冊のノートと、三枚の写真を持ってきて私に手渡し、

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それは知らない、と答えると、マダムは、奥へ行って、三冊のノートブックと、三葉の写真を持って来て私に手渡し、

「何か、小説の材料になるかもしれませんわ」

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「何か、小説の材料になるかも知れませんわ」

と言った。

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と言った。

私は、人から押しつけられた材料でものを書けない性分なので、すぐにその場で返そうかと思ったが、(三枚の写真、その奇怪さについては、はしがきにも書いておいた)その写真に心をひかれ、とにかくノートを預かることにして、帰りにはまたここへ立ち寄りますが、何町何番地の何さん、女子大の先生をしている人の家をご存じないか、とたずねると、やはり新しく引っ越してきた住民どうし、知っていた。

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私は、ひとから押しつけられた材料でものを書けないたちなので、すぐにその場でかえそうかと思ったが、(三葉の写真、その奇怪さに就いては、はしがきにも書いて置いた)その写真に心をひかれ、とにかくノートをあずかる事にして、帰りにはまたここへ立ち寄りますが、何町何番地の何さん、女子大の先生をしているひとの家をご存じないか、と尋ねると、やはり新住民同志、知っていた。

時たま、この喫茶店にもお見えになるという。

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時たま、この喫茶店にもお見えになるという。

すぐ近所であった。

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すぐ近所であった。

その夜、友人とわずかなお酒をくみ交わし、泊めてもらうことにして、私は朝まで一睡もせずに、あのノートを読みふけった。

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その夜、友人とわずかなお酒をみ交し、泊めてもらう事にして、私は朝まで一睡もせずに、れいのノートに読みふけった。

その手記に書かれてあるのは、昔の話ではあったが、しかし、現代の人たちが読んでも、かなりの興味を持つに違いない。

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その手記に書かれてあるのは、昔の話ではあったが、しかし、現代の人たちが読んでも、かなりの興味を持つに違いない。

下手に私の筆を加えるよりは、これはこのまま、どこかの雑誌社に頼んで発表してもらったほうが、なお、意味のあることのように思われた。

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下手に私の筆を加えるよりは、これはこのまま、どこかの雑誌社にたのんで発表してもらったほうが、なお、有意義な事のように思われた。

子どもたちへのお土産の海産物は、干物だけ。

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子供たちへの土産の海産物は、干物ひものだけ。

私は、リュックサックを背負って友人のところを辞し、あの喫茶店に立ち寄り、

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私は、リュックサックを背負って友人のもとを辞し、れいの喫茶店に立ち寄り、

「きのうは、どうも。ところで、……」

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「きのうは、どうも。ところで、……」

とすぐに切り出し、

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とすぐに切り出し、

「このノートは、しばらく貸していただけませんか」

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「このノートは、しばらく貸していただけませんか」

「ええ、どうぞ」

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「ええ、どうぞ」

「この人は、まだ生きているのですか?」

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「このひとは、まだ生きているのですか?」

「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られてきて、差出人は葉ちゃんに決まっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲のとき、ほかのものにまぎれて、これも不思議に助かって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」

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「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」

「泣きましたか?」

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「泣きましたか?」

「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もうだめね」

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「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね」

「それから十年、とすると、もう亡くなっているかもしれないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、大げさに書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい目にあったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこの人の友人だったら、やっぱり精神科の病院に連れて行きたくなったかもしれない」

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「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」

「あの人のお父さんが悪いのですよ」

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「あのひとのお父さんが悪いのですよ」

何気なさそうに、そう言った。

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何気なさそうに、そう言った。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

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「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」