お伽草紙 小学生向け
太宰治(だざいおさむ)・1990年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
「あ、鳴った。」
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「あ、鳴つた。」
そう言って、父はペンを置いて立ち上がる。
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と言つて、父はペンを置いて立ち上る。
警報くらいでは立ち上がらないのだが、高射砲(こうしゃほう・敵の飛行機をうつ大砲)が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾(ぼうくうずきん・爆弾から頭を守るずきん)をかぶせ、抱きかかえて防空壕(ぼうくうごう・爆弾からにげるための地下の穴)に入る。
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警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。
母はもう、二歳の男の子を背負って、壕の奥にうずくまっている。
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既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いようだね。」
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「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈(きゅうくつ・せまくるしい)で。」
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「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「そうかね。」
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「さうかね。」
父は不満そうに、「しかし、これくらいで、ちょうどいいのだよ。あまり深いと生き埋めの危険があるのだよ。」
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と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もう少し広くしてもいいでしょう。」
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「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、そうだが、いまは土が凍って固くなっているから、掘るのが難しいのだ。そのうちにね、」
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「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」
などとあいまいなことを言って、母をだまらせ、ラジオの防空情報(ぼうくうじょうほう・空襲についての知らせ)に耳をすます。
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などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の文句がひと段落すると、こんどは五歳の女の子が、「もう壕から出ましょう」と言いはじめる。
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母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。
これをなだめる、たった一つの方法は絵本だ。
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これをなだめる唯一の手段は絵本だ。
桃太郎、カチカチ山、舌切雀(したきりすずめ)、瘤取り(こぶとり)、浦島さんなど、父は子どもに読んで聞かせる。
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桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は、服装もみすぼらしく、顔つきもどこか間の抜けたところがあるが、しかし、もともとただ者ではないのである。
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この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。
物語を作り出すという、じつに不思議な力を身につけている男なのだ。
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物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
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ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間(ま)の抜けたような変な声で絵本を読んでやりながらも、その胸の中には、またひとりでに別の物語ができあがっていくのである。
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などと、間の抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が醞醸せられてゐるのである。
瘤取り
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
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ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジャマッケナ
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ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
コブヲ モッテル オジイサン
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コブヲ モツテル オヂイサン
このおじいさんは、四国の阿波(あわ)、剣山(つるぎさん)のふもとに住んでいたのである。
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このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。
(というような気がするだけのことで、別に典拠(てんきょ・もとになる証拠)があるわけではない。
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(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。
もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり・昔の物語集)から生まれたものらしいが、防空壕の中で、あれこれ元の話を調べることはできない。
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もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。
この瘤取りの話だけでなく、次に語ろうと思う浦島さんの話にしても、まず日本書紀(にほんしょき・日本でいちばん古い歴史の本のひとつ)に、その出来事がちゃんと書かれている。また万葉集(まんようしゅう・昔の歌集)にも、浦島のことをうたった長い歌がある。そのほか、丹後風土記(たんごふどき)や本朝神仙伝(ほんちょうしんせんでん)といった本にも、それらしい話が伝えられているようだ。また、つい最近では鴎外(おうがい・明治時代の作家)の戯曲もあるし、逍遥(しょうよう・明治時代の作家)も、この物語を舞台の曲にしなかっただろうか。とにかく、能(のう)、歌舞伎(かぶき)、芸者の手踊り(げいしゃのておどり)にいたるまで、この浦島さんが出てくる話はとても多いのである。
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この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。
私には、読んだ本をすぐ人にあげたり、売り払ったりする癖があるので、蔵書(ぞうしょ・自分の持っている本)というようなものは、昔から持ったことがない。
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私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。
それで、こんな時には、あいまいな記憶をたよりに、むかし読んだはずの本を探して歩かなければならなくなるのだが、いまは、それも難しいだろう。
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それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。
私は、いま、壕の中にしゃがんでいるのである。
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私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。
そうして、私のひざの上には、一冊の絵本が開かれているだけなのである。
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さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。
私は、いまは物語の考証(こうしょう・もとになる資料を調べること)はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるだけにしなければならないだろう。
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私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。
いや、かえってそのほうが、生き生きとしておもしろいお話ができあがるかもしれない。
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いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。
などと、負け惜しみに似たような自問自答をして、さて、その父という奇妙な人物は、
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などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
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ムカシ ムカシノオ話ヨ
と、壕のすみっこで絵本を読みながら、その絵本の物語とはまったく別の、新しい物語を胸の中に描き出す。)
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と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このおじいさんは、お酒がとても好きなのである。
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このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。
お酒を飲む人というものは、家庭の中では、たいてい孤独(こどく・ひとりぼっち)なものである。
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酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。
孤独だからお酒を飲むのか、お酒を飲むから家族にきらわれて、自然に孤独になるのか。それはおそらく、両手のひらをぽんと打ち合わせて、どちらの手のひらが鳴ったのかを決めようとするような、気取った詮索(せんさく・こまかく調べること)に終わるだけのことだろう。
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孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。
とにかく、このおじいさんは、家庭の中では、いつも浮かない顔をしているのである。
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とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。
とはいっても、このおじいさんの家庭は、別に悪い家庭ではないのである。
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と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。
おばあさんは健在(けんざい・元気で暮らしている)である。
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お婆さんは健在である。
もう七十歳に近いけれども、このおばあさんは、腰も曲がっておらず、目もとも涼しげである。
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もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。
昔は、なかなかの美人であったそうである。
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昔は、なかなかの美人であつたさうである。
若いころから無口で、ただまじめに家の仕事にはげんでいる。
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若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」
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「もう、春だねえ。桜が咲いた。」
とおじいさんがはしゃいでも、
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とお爺さんがはしやいでも、
「そうですか。」
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「さうですか。」
と興味のなさそうな返事をして、「ちょっと、どいてください。ここを、お掃除しますから。」
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と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」
と言う。
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と言ふ。
おじいさんは浮かない顔になる。
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お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このおじいさんには息子がひとりあって、もうすでに四十歳近くになっているが、これが世にもめずらしいくらい品行方正(ひんこうほうせい・行いがきちんとしていて正しいこと)であった。お酒も飲まず、たばこも吸わない。それどころか、笑わず、怒らず、よろこびもせず、ただ黙々と畑仕事をしている。近所の人々もこれを畏敬(いけい・おそれうやまうこと)せずにはいられず、「阿波聖人(あわしょうにん)」という名前が知れわたっていた。妻をめとらず、ひげも剃らず、木や石ではないかと疑われるほどで、結局、このおじいさんの家庭は、まことに立派な家庭と言わざるを得ないものであった。
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また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、おじいさんは、なんだか浮かない気持ちである。
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けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。
そうして、家族に遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まずにはいられない気持ちになるのである。
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さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。
しかし、家で飲んでは、いっそう浮かない気持ちになるばかりであった。
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しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。
おばあさんも、また息子の阿波聖人も、おじいさんがお酒を飲んだって、別にそれをしからない。
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お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。
おじいさんが、ちびちびと晩酌(ばんしゃく・夕食のときにお酒を飲むこと)をやっているそばで、黙ってごはんを食べている。
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お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」
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「時に、なんだね、」
とおじいさんは、少し酔ってくると話し相手がほしくなり、つまらないことを言い出す。
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とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。
「いよいよ、春になったね。つばめも来た。」
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「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言わなくたっていいことである。
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言はなくたつていい事である。
おばあさんも息子も、黙っている。
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お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金(しゅんしょういっこく、あたいせんきん・春の夜のひとときは、お金にはかえられないほど値打ちがあるという意味の言葉)か。」
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「春宵一刻、価千金、か。」
と、また、言わなくてもいいことをつぶやいてみる。
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と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでございました。」
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「ごちそうさまでござりました。」
と阿波聖人は、ごはんを食べ終えて、お膳(ぜん・料理をのせる台)に向かってうやうやしく一礼して立つ。
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と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」
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「そろそろ、私もごはんにしよう。」
とおじいさんは、悲しそうに盃(さかずき・お酒を飲む小さな器)を伏せる。
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とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
家でお酒を飲むと、たいていそんな具合である。
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うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
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アルヒ アサカラ ヨイテンキ
ヤマヘ ユキマス シバカリニ
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ヤマヘ ユキマス シバカリニ
このおじいさんの楽しみは、天気のよい日に、腰に瓢箪(ひょうたん・お酒を入れる入れ物)をさげて剣山にのぼり、たきぎを拾い集めることである。
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このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。
いいかげん、たきぎ拾いに疲れると、岩の上に大あぐらをかき、えへん!
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いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん!
と偉そうに咳ばらいを一つして、
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と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めじゃのう。」
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「よい眺めぢやなう。」
と言い、それから、ゆっくりと腰の瓢箪のお酒を飲む。
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と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。
じつに、楽しそうな顔をしている。
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実に、楽しさうな顔をしてゐる。
家にいる時とは別人のようである。
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うちにゐる時とは別人の観がある。
ただ変わらないのは、右のほおの大きい瘤(こぶ)くらいのものである。
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ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。
この瘤は、いまから二十年ほど前、おじいさんが五十歳を越した年の秋、右のほおが変に温かくなって、むずがゆくなり、そのうちにほおが少しずつふくらんで、なでさすっているうちに、いよいよ大きくなった。おじいさんは、さびしそうに笑い、
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この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりゃ、いい孫ができた。」
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「こりや、いい孫が出来た。」
と言ったが、息子の聖人はひどくまじめに、
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と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「ほおから子どもが生まれることはございません。」
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「頬から子供が生れる事はござりません。」
と興ざめなことを言い、また、おばあさんも、
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と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「命にかかわるものではないでしょうね。」
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「いのちにかかはるものではないでせうね。」
と、にこりともせずひとこと尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。
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と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。
かえって、近所の人のほうが同情して、「どういうわけでそんな瘤ができたのでしょうね」「痛みませんか」「さぞやじゃまでしょうね」などと、お見舞いの言葉を述べる。
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かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。
しかし、おじいさんは、笑って首を振る。
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しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。
じゃまどころか、おじいさんは、いまではこの瘤を本当に、自分のかわいい孫のように思っている。自分の孤独をなぐさめてくれる、たった一人の相手として、朝起きて顔を洗うときにも、とくにていねいにこの瘤に清水をかけて洗い清めているのである。
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ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。
きょうのように、山でひとりでお酒を飲んで機嫌のいい時には、この瘤はとくに、おじいさんになくてはならない、ちょうどいい話し相手である。
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けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。
おじいさんは岩の上に大あぐらをかき、瓢箪のお酒を飲みながら、ほおの瘤をなで、
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お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、怖いことなんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間、すべからく酔うべきじゃ。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだってねえ。」
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「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」
など、誰かの悪口を瘤にささやき、そうして、えへん!
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など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん!
と高く咳ばらいをするのである。
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と高く咳ばらひをするのである。
ニハカニ クラク ナリマシタ
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ニハカニ クラク ナリマシタ
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
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カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
アメモ ザアザア フリマシタ
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アメモ ザアザア フリマシタ
春の夕立ちは、めずらしい。
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春の夕立ちは、珍しい。
しかし、剣山ほどの高い山では、このような天気の変化も、しばしばあると思わなければならないだろう。
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しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。
山は雨のために白くけむり、雉(きじ)や山鳥(やまどり)があちこちから、ぱっぱっと飛び立って、矢のように速く、雨をさけようとして林の中に逃げこむ。
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山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。
おじいさんは、あわてず、にこにこして、
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お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
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「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言い、なおもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま雨の景色をながめていたが、雨はいよいよ強くなり、いっこうに止みそうにも見えないので、
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と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりゃ、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなった。」
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「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」
と言って立ち上がり、大きいくしゃみを一つして、それから拾い集めた柴(しば・細い木の枝)を背負い、こそこそと林の中に入って行く。
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と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。
林の中は、雨宿りをする鳥やけもので大混雑である。
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林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちょっと、ごめんよ。」
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「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とおじいさんは、猿やうさぎや山鳩に、いちいち上機嫌であいさつして林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚(うろ・木の幹の中の空洞)になっているところに潜りこんで、
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とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚になつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」
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「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」
とうさぎたちに呼びかけ、「この座敷にはえらいおばあさんも聖人もいませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」
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と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」
などと、ひどくはしゃいで、そのうちに、すうすう小さいいびきをかいて寝てしまった。
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などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。
お酒を飲む人というものは、酔ってつまらないことも言うけれど、しかし、たいていはこのように罪のないものである。
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酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
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ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
ツカレガ デタカ オジイサン
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ツカレガ デタカ オヂイサン
イツカ グッスリ ネムリマス
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イツカ グツスリ ネムリマス
オヤマハ ハレテ クモモナク
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オヤマハ ハレテ クモモナク
アカルイ ツキヨニ ナリマシタ
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アカルイ ツキヨニ ナリマシタ
この月は、春の下弦の月(かげんのつき・半月)である。
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この月は、春の下弦の月である。
浅緑(あさみどり)とでもいうのか、水のような空に、その月が浮かび、林の中にも月の光が、松の葉のようにいっぱいこぼれ落ちている。
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浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。
しかし、おじいさんは、まだすやすや眠っている。
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しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。
蝙蝠(こうもり)が、はたはたと木の虚(うろ)から飛んで出た。
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蝙蝠が、はたはたと木の虚から飛んで出た。
おじいさんは、ふと目をさまし、もう夜になっているので驚き、
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お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
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「これは、いけない。」
すぐ目の前に浮かぶのは、あのまじめなおばあさんの顔と、おごそかな聖人の顔である。ああ、これは、とんでもないことになった。あの人たちはまだ私をしかったことは無いけれども、しかし、どうも、こんなに遅く帰ったのでは、気まずいことになりそうだ。えい、お酒はもう無いか、と瓢箪をふれば、底にかすかにピチャピチャという音がする。
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と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」
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「あるわい。」
と、にわかに勢いづいて、一滴残さず飲みほして、ほろりと酔い、「や、月が出ている。春宵一刻、――」
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と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」
などと、つまらないことをつぶやきながら木の虚(うろ)から這い出ると、
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などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚から這ひ出ると、
オヤ ナンデセウ サワグコヱ
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オヤ ナンデセウ サワグコヱ
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
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ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
ということになるのである。
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といふ事になるのである。
見よ。
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見よ。
林の奥の草原に、この世のものとも思えない不思議な光景が広がっているのである。
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林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。
鬼というものは、どんなものだか、私は知らない。
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鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。
見たことが無いからである。
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見た事が無いからである。
幼いころから、その絵の姿には、うんざりするくらいたくさん目にしてきたが、その実物に会う光栄には、まだあずかっていないのである。
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幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。
鬼にも、いろいろな種類があるらしい。
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鬼にも、いろいろの種類があるらしい。
××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜い性格を持つ生き物らしいと思っていると、また一方では、「文壇(ぶんだん・作家たちの世界)の鬼才(きさい・並外れた才能を持つ人)何某(なにがし・名前を言わない、ある人)先生の傑作」などという文句が、新聞の新刊書案内らんに出ていたりするので、まごついてしまう。
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××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。
まさか、その何某先生が鬼のような醜い才能を持っているという事実を暴露して、それによって世の人々に警告を発するつもりで、その案内らんに「鬼才」などという怪しむべき奇妙な言葉を使ったわけでもあるまい。
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まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。
はなはだしいときには、「文学の鬼」などという、ぶしつけでひどい言葉を何某先生に捧げたりしている。これではいくらなんでも、その何某先生もお怒りになるだろうと思うと、また、そうでもないらしい。その何某先生は、そんな大変失礼な醜い綽名(あだな)をつけられても、まんざらでもないらしく、ご自身ひそかにその奇怪な呼び名を認めているらしいという噂などを聞いて、愚かな私は、いよいよ戸惑うばかりである。
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甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。
あの、虎の皮のふんどしをした赤い顔の、そうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持った鬼が、さまざまな芸術の神様であるとは、どうしても私には考えられないのである。
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あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。
「鬼才」だの「文学の鬼」だのといった難しい言葉は、あまり使わないほうがいいのではあるまいか、とかねてから考えていた次第であるが、しかし、それは私の見聞が狭いせいであって、鬼にも、いろいろな種類があるのかもしれない。
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鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。
このへんで、日本百科辞典(にほんひゃっかじてん)でもちょっとのぞいてみれば、私もたちまち、老若男女から尊敬される博学(はくがく・物知りなこと)の人に早変わりして(世の物知りというものは、たいていそんなものである)、いかにも詳しそうな顔をして、鬼についてくどくどと何千何万の言葉を語れるのだろうが、あいにく私は壕の中にしゃがんでいて、しかもひざの上には、子どもの絵本が一冊ひろげられているだけなのである。
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このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。
私は、ただこの絵本の絵にたよって、判断するしかないのである。
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私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。
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見よ。
林の奥の、やや広い草原に、異様な姿の者が十数人、と言うのか、十数匹と言うのか、とにかく、まぎれもなく虎の皮のふんどしをした、あの赤くて巨大な生き物が、輪になって座り、月の下で宴(うたげ・にぎやかな酒盛り)のさいちゅうである。
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林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
おじいさんは、はじめはぎょっとしたが、しかし、お酒を飲む人というものは、お酒を飲んでいない時には意気地が無くてまるで駄目でも、酔っている時には、かえって人一倍度胸のいいところなどを見せてくれるものである。
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お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。
おじいさんは、いまはほろ酔いである。
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お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。
あの厳粛なおばあさんも、また品行方正の聖人も、何を恐れることがあろうかというような、かなりの勇者になっているのである。
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かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。
目の前の異様な光景を見ても、腰をぬかすなどというみっともないふるまいを見せることは無かった。
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眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。
虚(うろ)から出た四つ這いの形のままで、前方の怪しい酒盛りのようすをじっと見つめ、
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虚から出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持ちよさそうに、酔っている。」
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「気持よささうに、酔つてゐる。」
とつぶやき、そうしてなんだか、胸の奥底から、妙なうれしさがわいて出てきた。
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とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。
お酒を飲む人というものは、よその者たちが酔っているのを見ても、一種のうれしさを感じるものらしい。
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お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。
いわゆる利己主義者(りこしゅぎしゃ・自分のことしか考えない人)ではないのだろう。
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所謂利己主義者ではないのであらう。
つまり、隣の家の幸せに対して乾杯するといった、博愛心(はくあいしん・すべての人を広く愛する心)に似たものを持っているのかもしれない。
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つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。
自分も酔いたいが、隣の人もまた、いっしょに楽しく酔ってくれたら、そのよろこびは倍になるもののようである。
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自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。
おじいさんだって、知っている。
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お爺さんだつて、知つてゐる。
目の前の、その、人とも動物ともつかない赤くて巨大な生き物が、鬼というおそろしい種族のものであるということは、直感でわかっている。
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眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。
虎の皮のふんどし一つを見ても、それは間違いの無いことだ。
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虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。
しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔っている。
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しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。
おじいさんも酔っている。
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お爺さんも酔つてゐる。
これはどうしても、親しみの気持ちがわいてくるところだ。
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これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。
おじいさんは、四つ這いの形のままで、なおもよく月の下の異様な酒盛りを眺める。
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お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。
鬼と言っても、この目の前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などのように、佞悪(ねいあく・心がねじけて悪いこと)な性質を持っている種族のものではなく、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のようだ、とおじいさんは見てとった。
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鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。
おじいさんのこの判定は、だいたいにおいて当たっていた。
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お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。
つまり、この鬼どもは、剣山の隠者(いんじゃ・世間からはなれて静かに暮らす人)とでも呼ぶべき、たいへんおだやかな性格の鬼なのである。
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つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。
地獄の鬼などとは、まるっきり種族が違っているのである。
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地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。
だいいち、鉄棒などという物騒なものを持っていない。
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だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。
これはつまり、人を傷つけようという心を持っていない証拠と言ってよい。
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これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。
しかし、隠者とは言っても、あの竹林の賢者(けんじゃ・かしこい人たち)たちのように、ありあまる知識をもてあまして竹林に逃げこんだというようなものではなくて、この剣山の隠者の心は、はなはだ愚か(おろか)である。
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しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。
仙(せん)という字は「山の人」と書くから、何でもかまわず、山の奥に住んでいる人を仙人(せんにん)と呼んでよいという、ひどく簡単な学説を聞いたことがあるけれども、かりにその学説に従うなら、この剣山の隠者たちも、その心がどんなに愚かであっても、仙人という尊い呼び名をたてまつってよいものかもしれない。
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仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。
とにかく、いま月の下の宴(うたげ)で楽しんでいる、この一群の赤くて巨大な生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼ぶほうがふさわしいような者たちなのである。
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とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。
その心が愚かなことはすでに言ったが、その酒盛りのようすを見ると、ただ意味も無く奇妙な声を出し、ひざをたたいて大笑いし、または立ち上がってむやみにはねまわり、または巨大なからだを丸めて輪の端から端までごろごろところがっていく。それが踊りのつもりらしいのだから、その知能の程度は察するに余りあり、芸の無いことはなはだしい。
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その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。
この一つのことだけを見ても、「鬼才」とか「文学の鬼」とかいう言葉は、まるで意味の無いものだということを証明できるように思われる。
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この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。
こんな愚かな芸無したちが、さまざまな芸術の神様であるとは、どうしても私には考えられないのである。
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こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。
おじいさんも、この間の抜けた踊りにはあきれた。
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お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。
ひとりでくすくす笑い、
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ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげましょうかい。」
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「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」
とつぶやく。
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とつぶやく。
ヲドリノ スキナ オジイサン
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ヲドリノ スキナ オヂイサン
スグニ トビダシ ヲドッタラ
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スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
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コブガ フラフラ ユレルノデ
トテモ ヲカシイ オモシロイ
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トテモ ヲカシイ オモシロイ
おじいさんには、ほろ酔いの勇気がある。
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お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。
なおその上、鬼どもに対して親しみの気持ちを持っているのであるから、何の恐れるところもなく、輪のまんなかに飛びこんで、おじいさん自慢の阿波踊りをおどって、
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なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
むすめ島田で 年寄りやかつらじゃ
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むすめ島田で年寄りやかつらぢや
赤い襷(たすき)に迷うも無理やない
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赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
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嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいう阿波の俗謡(ぞくよう・その土地に伝わる歌)を、いい声で歌う。
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とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。
鬼どもは、喜んだのなんの、キャッキャッケタケタと奇妙な声を出し、よだれやら涙やらを流して笑いころげる。
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鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。
おじいさんは調子に乗って、
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お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
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大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
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笹山通れば笹ばかり
と、さらに一段と声をはり上げて歌いつづけ、いよいよ軽やかに踊りぬく。
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とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
オニドモ タイソウ ヨロコンデ
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オニドモ タイソウ ヨロコンデ
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
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ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドッテ ミセトクレ
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ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
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ソノ ヤクソクノ オシルシニ
ダイジナ モノヲ アヅカラウ
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ダイジナ モノヲ アヅカラウ
と言い出し、鬼たちはお互いにひそひそ小声で相談し合い、「どうもあのほおの瘤はてかてか光って、ただならぬ宝物のように見えるではないか。あれをあずかっておいたら、きっとまたやって来るに違いない」と、愚かな考えをして、いきなり瘤をむしり取る。
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と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。
無知ではあるが、やはり長く山奥に住んでいるおかげで、何か仙術(せんじゅつ・仙人の使う不思議な術)みたいなものを身につけていたのかもしれない。
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無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。
何の苦もなく、きれいに瘤をむしり取った。
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何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
おじいさんは驚き、
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お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」
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「や、それは困ります。私の孫ですよ。」
と言えば、鬼たちは得意そうに、わっと歓声をあげる。
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と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
アサデス ツユノ ヒカルミチ
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アサデス ツユノ ヒカルミチ
コブヲ トラレタ オジイサン
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コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
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ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
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オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独なおじいさんにとって、たった一人の話し相手だったのだから、その瘤を取られて、おじいさんは少しさびしい。
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瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。
しかしまた、軽くなったほおが朝風になでられるのも、悪い気持ちのものではない。
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しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。
結局まあ、損も得も無く、一長一短(いっちょういったん・よいところも悪いところもあること)というようなところか。久しぶりに思うぞんぶん歌ったり踊ったりしただけが得(とく)、ということになるかな?
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結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得、といふ事になるかな?
などと、のんきなことを考えながら山を降りてきたら、途中で、畑へ出かける息子の聖人とばったり出会う。
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など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはようござります。」
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「おはやうござります。」
と聖人は、頬被り(ほおかぶり・手ぬぐいなどで頭からほおをおおうこと)をとって、おごそかに朝のあいさつをする。
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と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」
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「いやあ。」
とおじいさんは、ただまごついている。
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とお爺さんは、ただまごついてゐる。
それだけで、左右に別れる。
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それだけで左右に別れる。
おじいさんの瘤が一晩のうちに消えているのを見てとって、さすがの聖人も、内心では少し驚いたのであるが、しかし、父母の顔つきについてあれこれ批評がましいことを言うのは、聖人の道にそむくと思い、気づかないふりをして黙って別れたのである。
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お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰ると、おばあさんは、
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家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」
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「お帰りなさいまし。」
と落ちついて言い、昨夜はどうしましたとか何とかいうことはいっさい問わず、「おみおつけが冷たくなりまして、」
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と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」
と低くつぶやいて、おじいさんの朝食の支度をする。
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と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」
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「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」
とおじいさんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。
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とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。
おばあさんにお給仕されてごはんを食べながら、おじいさんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくてしかたがない。
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お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。
しかし、おばあさんの厳しい態度に圧倒されて、言葉がのどのあたりにひっかかって何も言えない。
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しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。
うつむいて、わびしくごはんを食べている。
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うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたようですね。」
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「瘤が、しなびたやうですね。」
おばあさんは、ぽつんと言った。
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お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」
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「うむ。」
もう何も言いたくなかった。
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もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでしょう。」
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「破れて、水が出たのでせう。」
とおばあさんは何でもないように言って、澄ましている。
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とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
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「うむ。」
「また、水がたまってはれるんでしょうね。」
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「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「そうだろう。」
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「さうだらう。」
結局、このおじいさんの一家では、瘤のことなど、何の問題にもならなかったわけである。
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結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。
ところが、このおじいさんの近所に、もうひとり、左のほおにじゃまな瘤を持っているおじいさんがいたのである。
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ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。
そうして、このおじいさんこそ、その左のほおの瘤を、本当にじゃまなものとして憎んでいた。「とかくこの瘤が私の出世のさまたげだ。この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ、笑われてきたことか」と、一日に何度も鏡をのぞいてはため息をつき、ほおひげを長くのばして、その瘤をひげの中にうずめて見えなくしてしまおうとたくらんだ。ところが悲しいことに、瘤の頂きが白いひげの波の間から、初日の出(はつひので)のようにあざやかにあらわれて、かえって天下の見もの(みもの・めずらしい見せもの)になってしまったのである。
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さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。
もともと、このおじいさんの人品骨柄(じんぴんこつがら・人がら全体から受ける感じ)は、いやしくない。
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もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。
体格はどうどうとしていて、鼻も大きく、目つきも鋭い。
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体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。
話し方やしぐさは重々しく、考え深く分別(ふんべつ・物事を正しく判断する力)もじゅうぶんにあるように見える。
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言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。
服装だって、なかなか立派で、それに何やら学問もあるそうで、また財産も、あのお酒飲みのおじいさんなどとは比べものにならないくらい、どっさりあるとかいう話で、近所の人たちも皆、このおじいさんに一目(いちもく)置いて(=相手を認めて敬うこと)、「旦那(だんな)」
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服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目置いて、「旦那」
あるいは「先生」
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あるいは「先生」
などという尊い呼び名でうやまい、何もかも結構で立派なお方ではあったが、どうもその左のほおのじゃまな瘤のために、旦那は日夜、うっとうしい気持ちで楽しまない。
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などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。
このおじいさんのおかみさんは、ひどく若い。
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このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。
三十六歳である。
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三十六歳である。
そんなに美人でもないが、色白でぽっちゃりしていて、少しがさつなくらい、いつも陽気に笑ってはしゃいでいる。
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そんなに美人でもないが色白くぽつちやりして、少し蓮葉なくらゐいつも陽気に笑つてはしやいでゐる。
十二、三歳の娘がひとりいて、これはなかなかの美少女であるが、性質はいくらか生意気なところがある。
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十二、三の娘がひとりあつて、これはなかなかの美少女であるが、性質はいくらか生意気の傾向がある。
でも、この母と娘は気が合って、いつも何かと笑い騒いでいる。そのため、この家庭は、旦那の苦虫をかみつぶしたような表情にもかかわらず、まず明るい印象を人にあたえる。
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でも、この母と娘は気が合つて、いつも何かと笑ひ騒ぎ、そのために、この家庭は、お旦那の苦虫を噛みつぶしたやうな表情にもかかはらず、まづ明るい印象を人に与へる。
「お母さん。お父さんの瘤は、どうしてそんなに赤いのかしら。蛸(たこ)の頭みたいね。」
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「お母さん。お父さんの瘤は、どうしてそんなに赤いのかしら。蛸の頭みたいね。」
と生意気な娘は、遠慮なく率直な感想を述べる。
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と生意気な娘は、無遠慮に率直な感想を述べる。
母は叱りもせず、ほほほと笑い、
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母は叱りもせず、ほほほと笑ひ、
「そうね、でも、木魚(もくぎょ・お坊さんがお経を読むときにたたく木の道具)をほっぺたにつるしているようにも見えるわね。」
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「さうね、でも、木魚を頬ぺたに吊してゐるやうにも見えるわね。」
「うるさい!」
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「うるさい!」
と旦那は怒り、ぎょろりと妻子をにらんで、すっくと立ち上がり、奥の薄暗い部屋に引きさがって、そっと鏡をのぞき、がっかりして、
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と旦那は怒り、ぎよろりと妻子を睨んですつくと立ち上り、奥の薄暗い部屋に退却して、そつと鏡を覗き、がつかりして、
「これは、駄目だ。」
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「これは、駄目だ。」
とつぶやく。
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と呟く。
いっそもう、小刀で切り落とそうか、死んだっていい、とまで思いつめた時に、近所のあのお酒飲みのおじいさんの瘤が、このごろふっと無くなったといううわさを小耳にはさむ。
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いつそもう、小刀で切つて落さうか、死んだつていい、とまで思ひつめた時に、近所のあの酒飲みのお爺さんの瘤が、このごろふつと無くなつたといふ噂を小耳にはさむ。
夜こっそりと、旦那は酒飲みじいさんの粗末な家を訪ね、そうしてあの、月の下の不思議な宴の話を明かしてもらった。
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暮夜ひそかに、お旦那は、酒飲み爺さんの草屋を訪れ、さうしてあの、月下の不思議な宴の話を明かしてもらつた。
キイテ タイソウ ヨロコンデ
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キイテ タイソウ ヨロコンデ
「ヨシヨシ ワタシモ コノコブヲ
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「ヨシヨシ ワタシモ コノコブヲ
ゼヒトモ トツテ モラヒマセウ」
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ゼヒトモ トツテ モラヒマセウ」
と勇み立つ。
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と勇み立つ。
さいわい、その夜も月が出ていた。
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さいはひその夜も月が出てゐた。
旦那は、戦に出る武士のように、目を炯々(けいけい・鋭く光っていること)と光らせ、口をへの字にぎゅっと引き結び、「何としても今宵は、みごとな舞を一さし舞って、あの鬼どもを感服させてやろう。もし万一、感服しないなら、この鉄扇(てっせん・鉄でできた扇)で皆殺しにしてやろう。たかが酒くらいの愚かな鬼ども、何ほどのことがあろうか」と、鬼に踊りを見せに行くのだか、鬼退治に行くのだか、何が何やらわからないほどの、ひどい意気込みで、鉄扇を右手に、肩をいからせて剣山の奥深くに踏み入る。
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お旦那は、出陣の武士の如く、眼光炯々、口をへの字型にぎゆつと引き結び、いかにしても今宵は、天晴れの舞ひを一さし舞ひ、その鬼どもを感服せしめ、もし万一、感服せずば、この鉄扇にて皆殺しにしてやらう、たかが酒くらひの愚かな鬼ども、何程の事があらうや、と鬼に踊りを見せに行くのだか、鬼退治に行くのだか、何が何やら、ひどい意気込みで鉄扇右手に、肩いからして剣山の奥深く踏み入る。
このように、いわゆる「傑作意識(けっさくいしき・すごい作品を作ろうという意気込み)」
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このやうに、所謂「傑作意識」
にこり固まった人が行う芸事は、とかく下手にできあがるものである。
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にこりかたまつた人の行ふ芸事は、とかくまづく出来上るものである。
このおじいさんの踊りも、あまりにも意気込みがひどすぎて、ついに完全な失敗に終わった。
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このお爺さんの踊りも、あまりにどうも意気込みがひどすぎて、遂に完全の失敗に終つた。
おじいさんは、鬼どもの酒盛りの輪のまんなかに、うやうやしく、しずしずと歩みを進め、
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お爺さんは、鬼どもの酒宴の円陣のまんなかに恭々粛々と歩を運び、
「ふつつか(未熟で行き届かないこと)ながら。」
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「ふつつかながら。」
と会釈し、鉄扇をはらりと開き、きっと月を見上げて、大木のようにじっと動かない。
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と会釈し、鉄扇はらりと開き、屹つと月を見上げて、大樹の如く凝然と動かず。
しばらくして、とんと軽く足踏みをして、ゆっくりとうなるように語り出したのは、
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しばらく経つて、とんと軽く足踏みして、おもむろに呻き出すは、
「これは阿波の鳴門(なると)で、一夏(いちげ・お坊さんが夏の間お寺にこもって修行をすること)の修行をしている僧です。この浦は、平家(へいけ・昔の武士の一族)の一門が滅んでしまった場所ですので、痛ましく思い、毎晩この海辺に出てお経を読んでおります。磯の山で、しばらく岩の根に松の生えているあたりで、しばらく岩の根に松の生えているあたりで、だれの夜舟でしょうか、白波に、かじの音だけが響く鳴門の、静かな浜辺の今宵です、静かな浜辺の今宵です。昨日が過ぎ、今日も暮れて、明日もまた同じように過ぎていくことでしょう。」
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「是は阿波の鳴門に一夏を送る僧にて候。さても此浦は平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ、毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。磯山に、暫し岩根のまつ程に、暫し岩根のまつ程に、誰が夜舟とは白波に、楫音ばかり鳴門の、浦静かなる今宵かな、浦静かなる今宵かな。きのふ過ぎ、けふと暮れ、明日またかくこそ有るべけれ。」
そろりとわずかに動いて、またもきっと月を見上げて、きちんとかしこまって動かない。
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そろりとわづかに動いて、またも屹つと月を見上げて端凝たり。
オニドモ ヘイコウ
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オニドモ ヘイコウ
ジュンジュンニ タッテ ニゲマス
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ジユンジユンニ タツテ ニゲマス
ヤマオクヘ
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ヤマオクヘ
「待ってください!」
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「待つて下さい!」
と旦那は悲痛な声をあげて鬼の後を追い、「いま逃げられては、たまりません。」
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とお旦那は悲痛の声を挙げて鬼の後を追ひ、「いま逃げられては、たまりません。」
「逃げろ、逃げろ。鍾馗(しょうき・鬼をこらしめるという神様)かもしれねえ。」
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「逃げろ、逃げろ。鍾馗かも知れねえ。」
「いいえ、鍾馗ではございません。」
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「いいえ、鍾馗ではございません。」
と旦那も、ここは必死で追いすがり、「お願いがございます。この瘤を、どうか、どうかとってくださいまし。」
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とお旦那も、ここは必死で追ひすがり、「お願ひがございます。この瘤を、どうか、どうかとつて下さいまし。」
「何、瘤?」
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「何、瘤?」
鬼はうろたえていたので聞き違え、「なんだ、そうか、あれは、こないだのじいさんからあずかっている大事な品だが、しかし、お前さんがそんなに欲しいならやってもいい。とにかく、あの踊りは勘弁してくれ。せっかくの酔いがさめる。たのむ。放してくれ。これからまた、別なところへ行って飲み直さなくちゃいけねえ。たのむ。たのむから放せ。おい、誰か、この変な人に、こないだの瘤をかえしてやってくれ。欲しいんだそうだ。」
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鬼はうろたへてゐるので聞き違ひ、「なんだ、さうか、あれは、こなひだの爺さんからあづかつてゐる大事の品だが、しかし、お前さんがそんなに欲しいならやつてもいい。とにかく、あの踊りは勘弁してくれ。せつかくの酔ひが醒める。たのむ。放してくれ。これからまた、別なところへ行つて飲み直さなくちやいけねえ。たのむ。たのむから放せ。おい、誰か、この変な人に、こなひだの瘤をかへしてやつてくれ。欲しいんださうだ。」
オニハ コナヒダ アヅカツタ
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オニハ コナヒダ アヅカツタ
コブヲ ツケマス ミギノ ホホ
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コブヲ ツケマス ミギノ ホホ
オヤオヤ トウトウ コブ フタツ
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オヤオヤ トウトウ コブ フタツ
ブランブラント オモタイナ
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ブランブラント オモタイナ
ハヅカシサウニ オジイサン
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ハヅカシサウニ オヂイサン
ムラヘ カヘツテ ユキマシタ
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ムラヘ カヘツテ ユキマシタ
じつに、気の毒な結果になったものだ。
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実に、気の毒な結果になつたものだ。
お伽噺(おとぎばなし)においては、たいてい、悪いことをした人が悪い報いを受けるという結末になるものだが、しかし、このおじいさんは、別に悪いことをしたというわけではない。
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お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いたといふわけではない。
緊張のあまり、踊りが変な形になったというだけのことではないか。
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緊張のあまり、踊りがへんてこな形になつたといふだけの事ではないか。
それかといって、このおじいさんの家庭にも、これという悪人はいなかった。
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それかと言つて、このお爺さんの家庭にも、これといふ悪人はゐなかつた。
また、あのお酒飲みのおじいさんも、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだって、少しも悪いことはしていない。
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また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだつて、少しも悪い事はしてゐない。
つまり、この物語には、いわゆる「不正(ふせい・正しくないこと)」
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つまり、この物語には所謂「不正」
の出来事は、一つも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである。
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の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつたのである。
それゆえ、この瘤取り物語から、ふだんの生活の教え(倫理・りんり)を引き出そうとすると、たいへんややこしいことになってくるのである。
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それゆゑ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になつて来るのである。
それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰め寄って質問したなら、私はそれに対して、こう答えておくよりほかはないだろう。
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それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに対してかうでも答へて置くより他はなからう。
性格の悲喜劇(ひきげき・悲しくもあり、おかしくもある出来事)というものです。
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性格の悲喜劇といふものです。
人間の生活の底には、いつも、この問題が流れています。
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人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。
浦島さん
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浦島さん
浦島太郎という人は、丹後(たんご)の水江(みずのえ)とかいうところに、実在していたようである。
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浦島太郎といふ人は、丹後の水江とかいふところに実在してゐたやうである。
丹後といえば、いまの京都府の北部である。
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丹後といへば、いまの京都府の北部である。
あの北の海岸の、ある寒々とした村に、いまもなお、太郎をまつった神社があるとかいう話を聞いたことがある。
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あの北海岸の某寒村に、いまもなほ、太郎をまつつた神社があるとかいふ話を聞いた事がある。
私はその辺りに行ってみたことが無いけれども、人の話によると、何だかひどく荒涼(こうりょう・さびしくて何もない)とした海辺らしい。
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私はその辺に行つてみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海浜らしい。
そこに、わが浦島太郎が住んでいた。
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そこにわが浦島太郎が住んでゐた。
もちろん、ひとり暮らしをしていたわけではない。
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もちろん、ひとり暮しをしてゐたわけではない。
父も母もある。
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父も母もある。
弟も妹もある。
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弟も妹もある。
また、おおぜいの召使いもいる。
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また、おほぜいの召使ひもゐる。
つまり、この海岸で有名な、旧家(きゅうか・古くから続く家柄)の長男であったわけである。
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つまり、この海岸で有名な、旧家の長男であつたわけである。
旧家の長男というものには、昔もいまも変わらないある特徴があるようだ。
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旧家の長男といふものには、昔も今も一貫した或る特徴があるやうだ。
趣味性(しゅみせい・趣味に強く心をひかれる性質)、すなわち、これである。
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趣味性、すなはち、之である。
よく言えば、風流(ふうりゅう・物事を上品に味わう心)。
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善く言へば、風流。
悪く言えば、道楽(どうらく・遊びやおもしろいことに夢中になること)。
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悪く言へば、道楽。
しかし、道楽とは言っても、女遊びやお酒びたりの、いわゆる放蕩(ほうとう・お金や体を使いすぎてだらしない暮らしをすること)とは、大いにようすが違っている。
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しかし、道楽とは言つても、女狂ひや酒びたりの所謂、放蕩とは大いに趣きを異にしてゐる。
下品にがぶがぶと大酒を飲んで、素性の悪い女にひっかかり、親兄弟の顔に泥をぬるというような荒(すさ)んだ放蕩者は、次男や三男に多く見かけられるようである。
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下品にがぶがぶ大酒を飲んで素性の悪い女にひつかかり、親兄弟の顔に泥を塗るといふやうな荒んだ放蕩者は、次男、三男に多く見掛けられるやうである。
長男には、そんな野蛮な性質(野蛮性・やばんせい)が無い。
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長男にはそんな野蛮性が無い。
先祖から伝わる、いわゆる恒産(こうさん・生活を支える財産)があるものだから、自然と恒心(こうしん・変わらない正しい心)も生まれて、なかなか礼儀正しいものである。
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先祖伝来の所謂恒産があるものだから、おのづから恒心も生じて、なかなか礼儀正しいものである。
つまり、長男の道楽は、次男や三男の酒乱のようにムキになったものではなく、ほんの片手間の遊びである。
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つまり、長男の道楽は、次男三男の酒乱の如くムキなものではなく、ほんの片手間の遊びである。
そうして、その遊びによって、旧家の長男にふさわしい奥ゆかしさを人に認めてもらい、自分自身もその生活の品の良さにうっとりすることができたら、それでもうすべて満足なのである。
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さうして、その遊びに依つて、旧家の長男にふさはしいゆかしさを人に認めてもらひ、みづからもその生活の品位にうつとりする事が出来たら、それでもうすべて満足なのである。
「兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。」
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「兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。」
と、ことし十六歳のお転婆な妹が言う。
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とことし十六のお転婆の妹が言ふ。
「ケチだわ。」
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「ケチだわ。」
「いや、そうじゃない。」
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「いや、さうぢやない。」
と、十八歳の乱暴者の弟が反対して、「顔立ちがよすぎるんだよ。」
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と十八の乱暴者の弟が反対して、「男振りがよすぎるんだよ。」
この弟は、色が黒くて、器量のよくない顔つき(ぶおとこ)である。
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この弟は、色が黒くて、ぶをとこである。
浦島太郎は、弟や妹たちのそんな遠慮のない批評を聞いても、別に怒りもせず、ただ苦笑いして、
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浦島太郎は、弟妹たちのそんな無遠慮な批評を聞いても、別に怒りもせず、ただ苦笑して、
「好奇心を爆発させるのも冒険、また、好奇心をおさえるのも、やっぱり冒険、どちらも危険さ。人には、宿命(しゅくめい・生まれつき決まっている運命)というものがあるんだよ。」
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「好奇心を爆発させるのも冒険、また、好奇心を抑制するのも、やつぱり冒険、どちらも危険さ。人には、宿命といふものがあるんだよ。」
と、何のことやら、わけのわからないようなことを、すっかり悟りきったような口調で言い、両腕をうしろに組んで、ひとり家を出て、あちらこちらの海岸をぶらぶら歩き、
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と何の事やら、わけのわからんやうな事を悟り澄ましたみたいな口調で言ひ、両腕をうしろに組み、ひとり家を出て、あちらこちら海岸を逍遥し、
苅薦(かりごも・刈り取ったこも草)の
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苅薦の
乱れて現れる
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乱れ出づ
見える
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見ゆ
海人(あま・海で漁をする人)の釣り船
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海人の釣船
などと、いつもの風流ぶった詩の一部を口ずさみ、
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などと、れいの風流めいた詩句の断片を口ずさみ、
「人は、なぜお互いに批評し合わなければ、生きていけないのだろう。」
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「人は、なぜお互ひ批評し合はなければ、生きて行けないのだらう。」
という素朴な疑問について、ゆったりと首を振りながら考え、「砂浜の萩(はぎ)の花も、はい寄る小さいカニも、入り江で休む雁(かり)も、何もこの私を批評しない。人間も、当然そうであるべきだ。人はそれぞれ、生きるやり方を持っている。そのやり方を、お互いに尊重し合っていくことができないものか。誰にも迷惑をかけないように努めて、品のいい暮らしをしているのに、それでも人は、あれこれと文句を言う。うるさいものだ。」
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といふ素朴の疑問に就いて鷹揚に首を振つて考へ、「砂浜の萩の花も、這ひ寄る小蟹も、入江に休む鴈も、何もこの私を批評しない。人間も、須くかくあるべきだ。人おのおの、生きる流儀を持つてゐる。その流儀を、お互ひ尊敬し合つて行く事が出来ぬものか。誰にも迷惑をかけないやうに努めて上品な暮しをしてゐるのに、それでも人は、何のかのと言ふ。うるさいものだ。」
と、かすかなため息をつく。
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と幽かな溜息をつく。
「もし、もし、浦島さん。」
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「もし、もし、浦島さん。」
とその時、足もとで小さい声。
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とその時、足許で小さい声。
これが、いつもの問題の亀である。
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これが、れいの問題の亀である。
別に、物知りぶるわけではないが、亀にもいろいろな種類がある。
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別段、物識り振るわけではないが、亀にもいろいろの種類がある。
淡水(たんすい・塩けのない水)に住むものと、鹹水(かんすい・塩けのある水)に住むものとは、自然とその形も違っているようだ。
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淡水に住むものと、鹹水に住むものとは、おのづからその形状も異つてゐるやうだ。
弁天様の池のほとりなどで、ぐったり寝そべって甲羅を干しているのは、あれは、石亀(いしがめ)とでもいうのだろうか。絵本には時々、浦島さんが、あの石亀の背中に乗って手をかざし、はるか遠くの竜宮を眺めている絵があるようだが、あんな亀は、海に入ったとたんに、塩水にむせて急に死んでしまうだろう。
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弁天様の池畔などで、ぐつたり寝そべつて甲羅を干してゐるのは、あれは、いしがめとでもいふのであらうか、絵本には時々、浦島さんが、あの石亀の背に乗つて小手をかざし、はるか竜宮を眺めてゐる絵があるやうだが、あんな亀は、海へ這入つたとたんに鹹水にむせて頓死するだらう。
しかし、結婚式の時などにかざる島台(しまだい・お祝いの飾り物の台)の、いつもの蓬莱山(ほうらいさん・不老不死の仙人が住むという想像上の山)で、おじいさんとおばあさんのそばに鶴といっしょに控えていて、「鶴は千年、亀は万年」などと言われてめでたがられているのは、どうやらこの石亀のようで、すっぽんやたいまいなどがいる島台は、あまり見かけられない。
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しかし、お祝言の時などの島台の、れいの蓬莱山、尉姥の身辺に鶴と一緒に侍つて、鶴は千年、亀は万年とか言はれて目出度がられてゐるのは、どうやらこの石亀のやうで、すつぽん、たいまいなどのゐる島台はあまり見かけられない。
それゆえ、絵本の画伯(がはく・絵をかく人)もつい、(蓬莱も竜宮も、同じような場所なんだから)浦島さんの案内役も、この石亀に違いないと思いこむのも、無理のないことである。
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それゆゑ、絵本の画伯もつい、(蓬莱も竜宮も、同じ様な場所なんだから)浦島さんの案内役も、この石亀に違ひないと思ひ込むのも無理のない事である。
しかしどうも、あの爪の生えたぶざいくな手で水をかき、海底深くもぐっていくのは、不自然なように思われる。
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しかしどうも、あの爪の生えたぶざいくな手で水を掻き、海底深くもぐつて行くのは、不自然のやうに思はれる。
ここはどうしても、たいまいの手のような、広くひれのような形の手で、ゆうゆうと水をかきわけてもらわなくてはならないところだ。
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ここはどうしても、たいまいの手のやうな広い鰭状の手で悠々と水を掻きわけてもらはなくてはならぬところだ。
しかしまた、いや決して物知りぶるわけではないが、ここにもう一つ困った問題がある。
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しかしまた、いや決して物識り振るわけではないが、ここにもう一つ困つた問題がある。
たいまいの産地は、日本国内(本邦・ほんぽう)では、小笠原、琉球、台湾などの南の地方だという話を聞いている。
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たいまいの産地は、本邦では、小笠原、琉球、台湾などの南の諸地方だといふ話を聞いてゐる。
丹後の北の海岸、つまり日本海のあの辺りの浜には、たいまいは、残念ながらはい上がってきそうも無い。
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丹後の北海岸、すなはち日本海のあの辺の浜には、たいまいは、遺憾ながら這ひ上つて来さうも無い。
それでは、いっそ浦島さんを小笠原か琉球の人にしようかとも思ったが、しかし、浦島さんは昔から丹後の水江の人ときまっているらしく、その上、丹後の北海岸には浦島神社がいまも残っているようだから、いくらお伽噺は絵空事(えそらごと・実際にはありえない作り話)と決まっているとはいえ、日本の歴史を大切にするという理由からでも、そんなあまりに軽々しいでたらめは許されない。
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それでは、いつそ浦島さんを小笠原か、琉球のひとにしようかとも思つたが、しかし、浦島さんは昔から丹後の水江の人ときまつてゐるらしく、その上、丹後の北海岸には浦島神社が現存してゐるやうだから、いかにお伽噺は絵空事ときまつてゐるとは言へ、日本の歴史を尊重するといふ理由からでも、そんなあまりの軽々しい出鱈目は許されない。
どうしても、これは、小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになってもらわなければならない。
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どうしても、これは、小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになつてもらはなければならぬ。
しかしまた、それは困る、と生物学者のほうから抗議が出て、とかく文学者というものには科学的な精神が欠けている、などと軽蔑されるのも不本意(ふほんい・自分の思いとは違うこと)である。
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しかしまた、それは困る、と生物学者のはうから抗議が出て、とかく文学者といふものには科学精神が欠如してゐる、などと軽蔑せられるのも不本意である。
そこで、私は考えた。
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そこで、私は考へた。
たいまいのほかに、手のひらがひれのような形をしている、海に住む亀はいないものか。
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たいまいの他に、掌の鰭状を為してゐる鹹水産の亀は、無いものか。
赤海亀(あかうみがめ)とかいうものがなかったか。
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赤海亀、とかいふものが無かつたか。
十年ほど前、(私も、年をとったものだ)沼津の海辺の宿で一夏を過ごしたことがあったけれども、あの時、あの浜に、甲羅の直径が五尺(約1.5メートル)近い海亀があがったといって、漁師たちが騒いで、私もたしかにこの目で見た。
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十年ほど前、(私も、としをとつたものだ)沼津の海浜の宿で一夏を送つた事があつたけれども、あの時、あの浜に、甲羅の直径五尺ちかい海亀があがつたといつて、漁師たちが騒いで、私もたしかにこの眼で見た。
赤海亀、という名前だったと記憶している。
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赤海亀、といふ名前だつたと記憶する。
あれだ。
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あれだ。
あれにしよう。
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あれにしよう。
沼津の浜にあがったのならば、まあ、ぐるりと日本海のほうにまわって、丹後の浜においでになってもらっても、そんなに生物学界の大騒ぎにはならないだろうと思われる。
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沼津の浜にあがつたのならば、まあ、ぐるりと日本海のはうにまはつて、丹後の浜においでになつてもらつても、そんなに生物学界の大騒ぎにはなるまいだらうと思はれる。
それでも、潮の流れがどうのこうのと言って騒ぐのだったら、もう、私は知らない。
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それでも潮流がどうのかうのとか言つて騒ぐのだつたら、もう、私は知らぬ。
その、来るはずのない場所に現れたのが不思議さ、ただの海亀ではあるまい、と言って澄ますことにしよう。
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その、おいでになるわけのない場所に出現したのが、不思議さ、ただの海亀ではあるまい、と言つて澄ます事にしよう。
科学的な精神とかいうものも、あんまり、あてになるものじゃないんだ。
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科学精神とかいふものも、あんまり、あてになるものぢやないんだ。
定理(ていり)や公理(こうり)だって、仮説(かせつ・まだ確かめられていない考え)じゃないか。
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定理、公理も仮説ぢやないか。
威張っちゃいけねえ。
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威張つちやいけねえ。
ところで、その赤海亀は(赤海亀という名は、長ったらしくて舌にもつれるから、以下、単に亀と呼ぶことにする)、首を伸ばして浦島さんを見上げ、
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ところで、その赤海亀は、(赤海亀といふ名は、ながつたらしくて舌にもつれるから、以下、単に亀と呼称する)頸を伸ばして浦島さんを見上げ、
「もし、もし。」
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「もし、もし。」
と呼び、「無理もねえよ。わかるさ。」
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と呼び、「無理もねえよ。わかるさ。」
と言った。
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と言つた。
浦島は驚き、
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浦島は驚き、
「なんだ、お前。こないだ助けてやった亀ではないか。まだ、こんなところに、うろついていたのか。」
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「なんだ、お前。こなひだ助けてやつた亀ではないか。まだ、こんなところに、うろついてゐたのか。」
これがつまり、子どもがいじめている亀を見て、浦島さんが「かわいそうに」と言って買い取り、海へ放してやったという、あの亀なのである。
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これがつまり、子供のなぶる亀を見て、浦島さんは可哀想にと言つて買ひとり海へ放してやつたといふ、あの亀なのである。
「うろついていたのか、とは情け無い。恨むぜ、若旦那。私は、こう見えても、あなたにご恩返しをしたくて、あれから毎日毎晩、この浜へ来て若旦那のおいでを待っていたのだ。」
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「うろついてゐたのか、とは情無い。恨むぜ、若旦那。私は、かう見えても、あなたに御恩がへしをしたくて、あれから毎日毎晩、この浜へ来て若旦那のおいでを待つてゐたのだ。」
「それは、浅慮(せんりょ・考えが浅いこと)というものだ。あるいは、無謀とも言えるかもしれない。また子どもたちに見つかったら、どうする。こんどは、生きては帰れまい。」
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「それは、浅慮といふものだ。或いは、無謀とも言へるかも知れない。また子供たちに見つかつたら、どうする。こんどは、生きては帰られまい。」
「気取っていやがる。また捕まえられたら、また若旦那に買ってもらうつもりさ。浅慮で悪うござんしたね。私は、どうしたって若旦那に、もう一度お目にかかりたかったんだから仕方がねえ。この仕方がねえ、というところが惚れた弱みよ。心意気を買ってくんな。」
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「気取つてゐやがる。また捕まへられたら、また若旦那に買つてもらふつもりさ。浅慮で悪うござんしたね。私は、どうしたつて若旦那に、もう一度お目にかかりたかつたんだから仕様がねえ。この仕様がねえ、といふところが惚れた弱味よ。心意気を買つてくんな。」
浦島は苦笑いして、
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浦島は苦笑して、
「身勝手な奴だ。」
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「身勝手な奴だ。」
とつぶやく。
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と呟く。
亀は聞きとがめて、
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亀は聞きとがめて、
「なあんだ、若旦那。自家撞着(じかどうちゃく・自分の言うことのつじつまが合わないこと)してますぜ。さっきご自分で批評がきらいだなんておっしゃってたくせに、ご自分では、私のことを浅慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるじゃないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きるやり方があるんですからね。ちっとは、みとめてくださいよ。」
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「なあんだ、若旦那。自家撞着してゐますぜ。さつきご自分で批評がきらひだなんておつしやつてた癖に、ご自分では、私の事を浅慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるぢやないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きる流儀があるんですからね。ちつとは、みとめて下さいよ。」
と、見事に逆襲した。
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と見事に逆襲した。
浦島は赤面し、
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浦島は赤面し、
「私のは批評ではない、これは訓戒(くんかい・教え諭すこと)というものだ。諷諫(ふうかん・遠回しに忠告すること)、と言ってもよかろう。忠告というものは、耳には痛くても、その人のためになる、というわけのものだ。」
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「私のは批評ではない、これは、訓戒といふものだ。諷諫、といつてもよからう。諷諫、耳に逆ふもその行を利す、といふわけのものだ。」
と、もっともらしいことを言ってごまかした。
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ともつともらしい事を言つてごまかした。
「気取らなけりゃ、いい人なんだが。」
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「気取らなけれあ、いい人なんだが。」
と亀は小声で言い、「いや、もう私は、何も言わん。私のこの甲羅の上に腰かけてください。」
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と亀は小声で言ひ、「いや、もう私は、何も言はん。私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。」
浦島はあきれ、
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浦島は呆れ、
「お前は、まあ、何を言い出すのです。私はそんな野蛮なことはきらいです。亀の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態(きょうたい・見苦しく取り乱したふるまい)と言ってよかろう。決して風流なしぐさではない。」
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「お前は、まあ、何を言ひ出すのです。私はそんな野蛮な事はきらひです。亀の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態と言つてよからう。決して風流の仕草ではない。」
「どうだっていいじゃないか、そんなことは。こっちは、先日のお礼として、これから竜宮城へご案内しようとしているだけだ。さあ早く私の甲羅に乗ってください。」
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「どうだつていいぢやないか、そんな事は。こつちは、先日のお礼として、これから竜宮城へ御案内しようとしてゐるだけだ。さあ早く私の甲羅に乗つて下さい。」
「何、竜宮?」
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「何、竜宮?」
と言って噴き出し、「おふざけでない。お前はお酒でも飲んで酔っているのだろう。とんでもないことを言い出す。竜宮というのは昔から、歌に詠まれ、また神仙譚(しんせんたん・仙人についての不思議な話)として伝えられていますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、昔から、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言ってもいいでしょう。」
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と言つて噴き出し、「おふざけでない。お前はお酒でも飲んで酔つてゐるのだらう。とんでもない事を言ひ出す。竜宮といふのは昔から、歌に詠まれ、また神仙譚として伝へられてゐますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、古来、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言つてもいいでせう。」
上品すぎて、少しきざな口調になった。
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上品すぎて、少しきざな口調になつた。
こんどは亀のほうで噴き出して、
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こんどは亀のはうで噴き出して、
「たまらねえ。風流の講釈は、あとでゆっくり伺いますから、まあ、私の言うことを信じて、とにかく私の甲羅に乗ってください。あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。」
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「たまらねえ。風流の講釈は、あとでゆつくり伺ひますから、まあ、私の言ふ事を信じてとにかく私の甲羅に乗つて下さい。あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。」
「おや、お前もやっぱり、うちの妹と同じような失礼なことを言うね。いかにも私は、冒険というものはあまり好きでない。たとえば、あれは、曲芸のようなものだ。派手なようでも、やはり下品(げぼん・仏教の言葉で、いちばん低い位のこと。下品=げひん、とかけている)だ。邪道(じゃどう・正しくないやり方)、と言っていいかもしれない。宿命に対するあきらめ(諦観・ていかん)が無い。伝統についての教養が無い。知らぬ者、蛇に怖じず(=知らないから、こわいものなしにつっこんでいくこと)とでもいうような形だ。私ども正統の風流の士(ふうりゅうのし・風流を大切にする人たち)のいたく眉をひそめるところのものだ。軽蔑している、と言っていいかもしれない。私は先人のおだやかな道を、まっすぐに歩いて行きたい。」
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「おや、お前もやつぱり、うちの妹と同じ様な失礼な事を言ふね。いかにも私は、冒険といふものはあまり好きでない。たとへば、あれは、曲芸のやうなものだ。派手なやうでも、やはり下品だ。邪道、と言つていいかも知れない。宿命に対する諦観が無い。伝統に就いての教養が無い。めくら蛇におぢず、とでもいふやうな形だ。私ども正統の風流の士のいたく顰蹙するところのものだ。軽蔑してゐる、と言つていいかも知れない。私は先人のおだやかな道を、まつすぐに歩いて行きたい。」
「ぷ!」
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「ぷ!」
と亀はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冒険の道じゃありませんか。いや、冒険なんて下手な言葉を使うから何か血なまぐさくて、きたならしい無頼漢(ぶらいかん・ならず者)みたいな感じがしてくるけれども、信じる力とでも言い直したらどうでしょう。あの谷の向こう側に、たしかに美しい花が咲いていると信じられた人だけが、何のためらいもなく藤(ふじ)のつるにすがって向こう側に渡って行きます。それを人は曲芸かと思って、あるいは喝采し、あるいは何の人気取りめがと眉をひそめます。しかし、それは絶対に曲芸師の綱渡りとは違っているのです。藤のつるにすがって谷を渡っている人は、ただ向こう側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をしているなんて、そんな下品な見栄みたいなものは持ってやしないんです。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じているのです。花のあることを信じきっているのです。そんな姿を、まあ、仮に冒険と呼んでいるだけです。あなたに冒険心が無いというのは、あなたには信じる力が無いということです。信じることは、下品(げぼん)ですか。信じることは、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じないことを誇りにして生きているのだから、始末が悪いや。それはね、頭の良さじゃないんですよ。もっと卑しいものなのですよ。吝嗇(りんしょく・けちなこと)というものです。損をしたくないということばかり考えている証拠ですよ。ご安心なさい。誰も、あなたに、ものをねだりやしませんよ。人の親切をさえ、あなたたちは素直に受け取ることを知らないんだからなあ。あとのお返しが大変だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチなもんだ。」
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と亀はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冒険の道ぢやありませんか。いや、冒険なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども、信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。それを人は曲芸かと思つて、或いは喝采し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶対に曲芸師の綱渡りとは違つてゐるのです。藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をしてゐるなんて、そんな卑俗な見栄みたいなものは持つてやしないんです。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じてゐるのです。花のある事を信じ切つてゐるのです。そんな姿を、まあ、仮に冒険と呼んでゐるだけです。あなたに冒険心が無いといふのは、あなたには信じる能力が無いといふ事です。信じる事は、下品ですか。信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きてゐるのだから、しまつが悪いや。それはね、頭のよさぢやないんですよ。もつと卑しいものなのですよ。吝嗇といふものです。損をしたくないといふ事ばかり考へてゐる証拠ですよ。御安心なさい。誰も、あなたに、ものをねだりやしませんよ。人の深切をさへ、あなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。あとのお返しが大変だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチなもんだ。」
「ひどいことを言う。妹や弟にさんざん言われて、浜へ出ると、こんどは助けてやった亀にまで同じような失礼な批評を加えられる。どうも、自分自身に伝統の誇りを自覚していない奴は、好き勝手なことを言うものだ。一種のやけっぱちと言ってよかろう。私には何でもよくわかっているのだ。私の口から言うべきことでは無いが、お前たちの宿命と私の宿命には、たいへんな身分の差がある。生まれた時から、もう違っているのだ。私のせいではない。それは天から与えられたものだ。しかし、お前たちには、それがよっぽど悔(くや)しいらしい。何のかのと言って、私の宿命をお前たちの宿命にまで引き下げようとしているが、しかし、それは天のはからい、人の力の及ばないところさ。お前は私を竜宮へ連れて行くなどと大ぼらを吹いて、私と対等の付き合いをしようとたくらんでいるらしいが、もういい、私には何もかもよくわかっているのだから、あまり悪あがきしないで、さっさと海の底のお前の住まいへ帰れ。なんだ、せっかく私が助けてやったのに、また子どもたちに捕まったら何にもならぬ。お前たちこそ、人の親切を素直に受け取る方法を知らぬ。」
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「ひどい事を言ふ。妹や弟にさんざん言はれて、浜へ出ると、こんどは助けてやつた亀にまで同じ様な失敬な批評を加へられる。どうも、われとわが身に伝統の誇りを自覚してゐない奴は、好き勝手な事を言ふものだ。一種のヤケと言つてよからう。私には何でもよくわかつてゐるのだ。私の口から言ふべき事では無いが、お前たちの宿命と私の宿命には、たいへんな階級の差がある。生れた時から、もう違つてゐるのだ。私のせゐではない。それは天から与へられたものだ。しかし、お前たちには、それがよつぽど口惜しいらしい。何のかのと言つて、私の宿命をお前たちの宿命にまで引下さうとしてゐるが、しかし、天の配剤、人事の及ばざるところさ。お前は私を竜宮へ連れて行くなどと大法螺を吹いて、私と対等の附合ひをしようとたくらんでゐるらしいが、もういい、私には何もかもよくわかつてゐるのだから、あまり悪あがきしないでさつさと海の底のお前の住居へ帰れ。なんだ、せつかく私が助けてやつたのに、また子供たちに捕まつたら何にもならぬ。お前たちこそ、人の深切を素直に受け取る法を知らぬ。」
「えへへ、」
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「えへへ、」
と亀はふてぶてしく笑い、「せっかく助けてやった、とは恐れ入る。紳士は、これだから、いやさ。自分が人に親切をほどこすのは、たいへんな美徳で、そうして内心では少し恩返しを期待しているくせに、人の親切には、いやもうひどい警戒をして、あいつと対等の付き合いになってはかなわぬなどと考えているんだから、げっそりしますよ。それじゃ私だって言いますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が亀で、そうして、いじめている相手は子どもだったからでしょう。亀と子どもじゃあ、その間に入って仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子どもたちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切ったものだ。私は、もう少し出すかと思った。あなたのケチには、あきれましたよ。私のからだの値段が、たった五文かと思ったら、私は情け無かったね。それにしてもあの時、相手が亀と子どもだったから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ。まあ、気まぐれだね。しかし、あの時の相手が亀と子どもでなく、まあ、たとえば荒くれた漁師が病気の物乞い(ものごい)をいじめていたのだったら、あなたは五文はおろか、一文だって出さず、いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違いないんだ。あなたたちは、人生のせっぱつまった本当の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそご自分の高級な宿命に、糞尿(ふんにょう)を浴びせられたような気がするらしい。あなたたちの親切は、遊びだ。享楽(きょうらく・楽しみ)だ。亀だから助けたんだ。子どもだからお金をやったんだ。荒くれた漁師と病気の物乞いの場合は、まっぴらなんだ。本当の生活の生ぐさい風にお顔をなでられるのが、とてもとても、いやなんだ。お手を、よごすのがいやなのさ。なんてね、こんなのを、知ったかぶりの物言い、というんですよ、浦島さん。あなたは怒りやしませんね。だって、私はあなたを好きなんだもの、いや、怒るかな? あなたのように上流の宿命を持っているお方たちは、私たち身分の低い(下賤・げせん)ものに好かれることさえ不名誉だと思っているらしいのだから始末が悪い。
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と亀は不敵に笑ひ、「せつかく助けてやつたは恐れいる。紳士は、これだから、いやさ。自分がひとに深切を施すのは、たいへんの美徳で、さうして内心いささか報恩などを期待してゐるくせに、ひとの深切には、いやもうひどい警戒で、あいつと対等の附合ひになつてはかなはぬなどと考へてゐるんだから、げつそりしますよ。それぢや私だつて言ひますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が亀で、さうして、いぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。亀と子供ぢやあ、その間にはひつて仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切つたものだ。私は、も少し出すかと思つた。あなたのケチには、呆れましたよ。私のからだの値段が、たつた五文かと思つたら、私は情無かつたね。それにしてもあの時、相手が亀と子供だつたから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ。まあ、気まぐれだね。しかし、あの時の相手が亀と子供でなく、まあ、たとへば荒くれた漁師が病気の乞食をいぢめてゐたのだつたら、あなたは五文はおろか、一文だつて出さず、いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。あなたたちは、人生の切実の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿を浴びせられたやうな気がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享楽だ。亀だから助けたんだ。子供だからお金をやつたんだ。荒くれた漁師と病気の乞食の場合は、まつぴらなんだ。実生活の生臭い風にお顔を撫でられるのが、とてもとても、いやなんだ。お手を、よごすのがいやなのさ。なんてね、こんなのを、聞いたふうの事、と言ふんですよ、浦島さん。あなたは怒りやしませんね。だつて、私はあなたを好きなんだもの、いや、怒るかな? あなたのやうに上流の宿命を持つてゐるお方たちは、私たち下賤のものに好かれる事をさへ不名誉だと思つてゐるらしいのだから始末がわるい。
ことに私は亀なんだからな。
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殊に私は亀なんだからな。
亀に好かれたんじゃあ気味が悪いか、しかし、まあ勘弁してくださいよ、好き嫌いは理屈じゃ無いんだ。
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亀に好かれたんぢやあ気味がわるいか、しかし、まあ勘弁して下さいよ、好き嫌ひは理窟ぢや無いんだ。
あなたに助けられたから好きというわけでも無いし、あなたが風流人だから好きというのでも無い。
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あなたに助けられたから好きといふわけでも無いし、あなたが風流人だから好きといふのでも無い。
ただ、ふっと好きなんだ。
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ただ、ふつと好きなんだ。
好きだから、あなたの悪口を言って、あなたをからかってみたくなるんだ。
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好きだから、あなたの悪口を言つて、あなたをからかつてみたくなるんだ。
これがつまり、私たち爬虫類(はちゅうるい)の愛情の表し方なのさ。
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これがつまり私たち爬虫類の愛情の表現の仕方なのさ。
どうもね、爬虫類だからね、蛇の親類なんだからね、信用が無いのも無理がねえよ。
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どうもね、爬虫類だからね、蛇の親類なんだからね、信用のないのも無理がねえよ。
しかし私は、エデンの園の蛇じゃない、はばかりながら日本の亀だ。
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しかし私は、エデンの園の蛇ぢやない、はばかりながら日本の亀だ。
あなたに竜宮行きをそそのかして堕落させようなんて、たくらんでいるんじゃねえのだ。
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あなたに竜宮行きをそそのかして堕落させようなんて、たくらんでゐるんぢやねえのだ。
心意気を買ってくんな。
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心意気を買つてくんな。
私はただ、あなたと一緒に遊びたいのだ。
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私はただ、あなたと一緒に遊びたいのだ。
竜宮へ行って遊びたいのだ。
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竜宮へ行つて遊びたいのだ。
あの国には、うるさい批評なんか無いのだ。
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あの国には、うるさい批評なんか無いのだ。
みんな、のんびり暮らしているよ。
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みんな、のんびり暮してゐるよ。
だから、遊ぶにはもってこいのところなんだ。
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だから、遊ぶにはもつて来いのところなんだ。
私は陸にも、こうして上がってこられるし、また海の底へも、もぐって行けるから、両方の暮らしを比べて眺めることができるのだが、どうも、陸の上の生活は騒がしい。
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私は陸にもかうして上つて来れるし、また海の底へも、もぐつて行けるから、両方の暮しを比較して眺める事が出来るのだが、どうも、陸上の生活は騒がしい。
お互い、批評が多すぎるよ。
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お互ひ批評が多すぎるよ。
陸の上の生活の会話は、全部が人の悪口か、でなければ自分の宣伝だ。
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陸上生活の会話の全部が、人の悪口か、でなければ自分の広告だ。
うんざりするよ。
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うんざりするよ。
私もちょいちょい、こうして陸に上がって来たおかげで、陸の上の生活に少しかぶれて、それこそ知ったかぶりの批評なんかを口にするようになって、どうもこれはとんでもない悪い影響を受けたものだと思いながらも、この批評癖にも、やめられない味がありまして、批評の無い竜宮城の暮らしにも、ちょっと退屈を感じるようになったのです。
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私もちよいちよいかうして陸に上つて来たお蔭で、陸上生活に少しかぶれて、それこそ聞いたふうの批評なんかを口にするやうになつて、どうもこれはとんでもない悪影響を受けたものだと思ひながらも、この批評癖にも、やめられぬ味がありまして、批評の無い竜宮城の暮しにもちよつと退屈を感ずるやうになつたのです。
どうも、悪い癖を覚えたものです。
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どうも、悪い癖を覚えたものです。
文明病(ぶんめいびょう・文明が進んだ社会でかかりやすい心の病)の一種ですかね。
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文明病の一種ですかね。
いまでは私は、自分が海の魚だか陸の虫だか、わからなくなりましたよ。
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いまでは私は、自分が海の魚だか陸の虫だか、わからなくなりましたよ。
たとえばあの、鳥だか獣だかわからない蝙蝠(こうもり)のようなものですね。
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たとへばあの、鳥だか獣だかわからぬ蝙蝠のやうなものですね。
悲しい性(さが・生まれ持った性質)になりました。
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悲しき性になりました。
まあ、海底の異端者(いたんしゃ・みんなとは違う考えを持つ人)とでもいったようなところですかね。
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まあ海底の異端者とでもいつたやうなところですかね。
だんだん、ふるさとの竜宮城にも居づらくなりましてね、しかし、あそこは遊ぶには、いいところだ、それだけは保証します。
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だんだん故郷の竜宮城にも居にくくなりましてね、しかし、あそこは遊ぶには、いいところだ、それだけは保証します。
信じてください。
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信じて下さい。
歌と舞(まい)と、おいしい食べ物とお酒の国です。
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歌と舞ひと、美食と酒の国です。
あなたたち風流人には、もってこいの国です。
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あなたたち風流人には、もつて来いの国です。
あなたは、さっき批評はいやだとつくづく嘆いていたではありませんか、竜宮には批評はありませんよ。」
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あなたは、さつき批評はいやだとつくづく慨歎してゐたではありませんか、竜宮には批評はありませんよ。」
浦島は亀の驚くほどのおしゃべりにすっかり閉口していたが、しかし、その最後のひとことに、ふと心をひかれた。
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浦島は亀の驚くべき饒舌に閉口し切つてゐたが、しかし、その最後の一言に、ふと心をひかれた。
「本当になあ、そんな国があったらなあ。」
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「本当になあ、そんな国があつたらなあ。」
「あれ、まだ疑っていやがる。私は嘘をついているのじゃありません。なぜ私を信じないんです。怒りますよ。実行しないで、ただ、あこがれてため息をついているのが風流人ですか。いやらしいものだ。」
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「あれ、まだ疑つてゐやがる。私は嘘をついてゐるのぢやありません。なぜ私を信じないんです。怒りますよ。実行しないで、ただ、あこがれて溜息をついてゐるのが風流人ですか。いやらしいものだ。」
生まれつきおだやかな性格(性温厚・せいおんこう)の浦島も、そんなにまでひどく罵倒されては、このまま引き下がるわけにもいかなくなった。
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性温厚の浦島も、そんなにまでひどく罵倒されては、このまま引下るわけにも行かなくなつた。
「それじゃまあ仕方が無い。」
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「それぢやまあ仕方が無い。」
と苦笑いしながら、「仰せに従って、お前の甲羅に腰かけてみるか。」
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と苦笑しながら、「仰せに随つて、お前の甲羅に腰かけてみるか。」
「言うことすべて気にいらん。」
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「言ふ事すべて気にいらん。」
と亀は本気でふくれて、「腰かけてみるか、とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。疑いながら、ためしに右へ曲がるのも、信じてきっぱりと右へ曲がるのも、その運命は同じことです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは、往生際(おうじょうぎわ・あきらめがつかないこと)が悪い。引き返すことができるものだと思っている。」
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と亀は本気にふくれて、「腰かけてみるか、とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果に於いては同じぢやないか。疑ひながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どつちにしたつて引返すことは出来ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちやんときめられてしまふのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やつてみるのは、やつたのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引返す事が出来るものだと思つてゐる。」
「わかったよ、わかったよ。それでは信じて乗せてもらおう!」
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「わかつたよ、わかつたよ。それでは信じて乗せてもらはう!」
「よし来た。」
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「よし来た。」
亀の甲羅に浦島が腰をおろしたと思うと、みるみる亀の背中は広がって、畳二枚くらい敷けるくらいの大きさになり、ゆらりと動いて海に入る。
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亀の甲羅に浦島が腰をおろしたとみるみる亀の背中はひろがつて畳二枚くらゐ敷けるくらゐの大きさになり、ゆらりと動いて海にはひる。
波打ちぎわから一丁(いっちょう・約109メートル)ほど泳いで、それから亀は、
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汀から一丁ほど泳いで、それから亀は、
「ちょっと目をつぶって。」
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「ちよつと眼をつぶつて。」
ときびしい口調で命令し、浦島は素直に目をつぶると、夕立ちのような音がして、体のまわりがほんのりあたたかくなり、春風に似て、春風よりも少し重たい風が耳たぶをなでる。
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ときびしい口調で命令し、浦島は素直に眼をつぶると夕立ちの如き音がして、身辺ほのあたたかく、春風に似て春風よりも少し重たい風が耳朶をなぶる。
「水深千尋(せんひろ・水の深さの単位。一尋は約1.8メートル)。」
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「水深千尋。」
と亀が言う。
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と亀が言ふ。
浦島は船酔いに似た胸苦しさを覚えた。
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浦島は船酔ひに似た胸苦しさを覚えた。
「吐いてもいいか。」
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「吐いてもいいか。」
と目をつぶったまま亀に尋ねる。
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と眼をつぶつたまま亀に尋ねる。
「なんだ、へどを吐くのか。」
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「なんだ、へどを吐くのか。」
と亀は元のおどけた口調にもどって、「きたねえ船客だな。おや、馬鹿正直に、まだ目をつぶってやがる。これだから私は、太郎さんが好きさ。もう目をあいてもよござんすよ。目をあいて、四方(よも)の景色をごらんになったら、胸の悪いのなんかすぐになおってしまいます。」
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と亀は以前の剽軽な口調にかへつて、「きたねえ船客だな。おや、馬鹿正直に、まだ眼をつぶつてゐやがる。これだから私は、太郎さんが好きさ。もう眼をあいてもよござんすよ。眼をあいて、よもの景色をごらんになつたら、胸の悪いのなんかすぐになほつてしまひます。」
目を開くと、ぼんやりとかすんでいて、薄緑色の奇妙な明るさで、そうしてどこにも影が無く、ただ果てしなく広がっているだけである。
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眼をひらけば冥茫模糊、薄みどり色の奇妙な明るさで、さうしてどこにも影が無く、ただ茫々たるものである。
「竜宮か。」
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「竜宮か。」
と浦島は寝ぼけているような、間(ま)延びした口調で言った。
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と浦島は寝呆けてゐるやうな間伸びた口調で言つた。
「何を言ってるんだ。まだやっと水深千尋じゃないか。竜宮は海底一万尋だ。」
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「何を言つてるんだ。まだやつと水深千尋ぢやないか。竜宮は海底一万尋だ。」
「へええ。」
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「へええ。」
浦島は妙な声を出した。
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浦島は妙な声を出した。
「海ってものは、広いもんだねえ。」
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「海つてものは、広いもんだねえ。」
「浜育ちのくせに、山奥の猿みたいなことを言うなよ。あなたの家の泉水(せんすい・庭の池)よりは少し広いさ。」
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「浜育ちのくせに、山奥の猿みたいな事を言ふなよ。あなたの家の泉水よりは少し広いさ。」
前後左右、どちらを見ても、ただ果てしなく広がっているばかりで、足もとをのぞいても、やはりきりなく薄緑色のほのかな明るさが続いているばかりで、上を仰いでも、これまた青空ではない、ぼうっと広がる大きな洞穴(ほらあな)のようで、ふたりの話し声のほかには、物音ひとつ無く、春風に似て、春風よりも少しねっとりとした風が、浦島の耳たぶをくすぐっているだけである。
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前後左右どちらを見ても、ただ杳々茫々、脚下を覗いてもやはり際限なく薄みどり色のほの明るさが続いてゐるばかりで、上を仰いでも、これまた蒼穹に非ざる洸洋たる大洞、ふたりの話声の他には、物音一つ無く、春風に似て春風よりも少しねばつこいやうな風が浦島の耳朶をくすぐつてゐるだけである。
浦島はやがて、はるか右上のほうに、かすかな、一つかみの灰をまいたくらいのしみを見つけて、
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浦島はやがて遥か右上方に幽かな、一握りの灰を撒いたくらゐの汚点を認めて、
「あれは何だ。雲かね?」
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「あれは何だ。雲かね?」
と亀に尋ねる。
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と亀に尋ねる。
「冗談言っちゃいけねえ。海の中に雲なんか流れていやしねえ。」
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「冗談言つちやいけねえ。海の中に雲なんか流れてゐやしねえ。」
「それじゃ何だ。墨汁を一滴落としたような感じだ。ただのごみかね。」
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「それぢや何だ。墨汁一滴を落したやうな感じだ。単なる塵芥かね。」
「間抜けだね、あなたは。見たらわかりそうなものだ。あれは、鯛(たい)の大群じゃないか。」
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「間抜けだね、あなたは。見たらわかりさうなものだ。あれは、鯛の大群ぢやないか。」
「へえ? ほんのわずかなものだね。あれでも二、三百匹はいるんだろうね。」
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「へえ? 微々たるものだね。あれでも二、三百匹はゐるんだらうね。」
「馬鹿だな。」
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「馬鹿だな。」
と亀はせせら笑い、「本気で言っているのか?」
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と亀はせせら笑ひ、「本気で云つてゐるのか?」
「それじゃあ、二、三千か。」
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「それぢやあ、二、三千か。」
「しっかりしてくれ。まず、ざっと五、六百万。」
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「しつかりしてくれ。まづ、ざつと五、六百万。」
「五、六百万? おどかしちゃいけない。」
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「五、六百万? おどかしちやいけない。」
亀はにやにや笑って、
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亀はにやにや笑つて、
「あれは、鯛じゃないんだ。海の火事だ。ひどい煙だ。あれだけの煙だと、そうさね、日本の国を二十ほど寄せ集めたくらいの広い場所が燃えている。」
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「あれは、鯛ぢやないんだ。海の火事だ。ひどい煙だ。あれだけの煙だと、さうさね、日本の国を二十ほど寄せ集めたくらゐの広大の場所が燃えてゐる。」
「嘘をつけ。海の中で火が燃えるもんか。」
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「嘘をつけ。海の中で火が燃えるもんか。」
「浅慮、浅慮。水の中だって酸素があるんですからね。火が燃えないわけはない。」
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「浅慮、浅慮。水の中だつて酸素があるんですからね。火の燃えないわけはない。」
「ごまかすな。それは無知な詭弁(きべん・こじつけの言い方)だ。冗談はさておいて、いったいあの、ゴミのようなものは何だ。やっぱり、鯛かね? まさか、火事じゃあるまい。」
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「ごまかすな。それは無智な詭弁だ。冗談はさて置いて、いつたいあの、ゴミのやうなものは何だ。やつぱり、鯛かね? まさか、火事ぢやあるまい。」
「いや、火事だ。いったい、あなた、陸の世界の無数の川が昼も夜も休まず、海にそそぎこんでも、それでも海の水が増えもせず減りもせず、いつも同じ量をちゃんと保っていられるのは、どういうわけか、考えてみたことがありますか。海のほうだって困りますよ。あんなにじゃんじゃん水を注ぎこまれちゃ、始末に困りますよ。それでまあ時々、あんな具合にして不用な水を燃やして捨てるのですな。やあ、燃える、燃える、大火事だ。」
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「いや、火事だ。いつたい、あなた、陸の世界の無数の河川が昼夜をわかたず、海にそそぎ込んでも、それでも海の水が増しもせず減りもせず、いつも同じ量をちやんと保つて居られるのは、どういふわけか、考へてみた事がありますか。海のはうだつて困りますよ。あんなにじやんじやん水を注ぎ込まれちや、処置に窮しますよ。それでまあ時々、あんな工合ひにして不用な水を焼き捨てるのですな。やあ、燃える、燃える、大火事だ。」
「なに、ちっとも煙が広がりやしない。いったい、あれは、何さ。さっきから、少しも動かないところを見ると、さかなの大群でもなさそうだ。意地悪な冗談なんか言わないで、教えておくれ。」
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「なに、ちつとも煙が広がりやしない。いつたい、あれは、何さ。さつきから、少しも動かないところを見ると、さかなの大群でもなささうだ。意地わるな冗談なんか云はないで、教へておくれ。」
「それじゃ教えてあげましょう。あれはね、月の影法師(月の光が作るかげ)です。」
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「それぢや教へてあげませう。あれはね、月の影法師です。」
「また、かつぐんじゃないか?」
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「また、かつぐんぢやないか?」
「いいえ、海の底には、陸の影法師は何も映りませんが、天体(星や月)の影法師は、やはり真上から落ちてきますから映るのです。月の影法師だけでなく、星々の影法師もみんな映ります。だから、竜宮では、その影法師をたよりに暦(こよみ)を作り、四季を決めます。あの月の影法師は、まんまるより少し欠けていますから、きょうは十三夜(じゅうさんや・満月の少し前の夜)かな?」
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「いいえ、海の底には、陸の影法師は何も写りませんが、天体の影法師は、やはり真上から落ちて来ますから写るのです。月の影法師だけでなく、星辰の影法師も皆、写ります。だから、竜宮では、その影法師をたよりに暦を作り、四季を定めます。あの月の影法師は、まんまるより少し欠けてゐますから、けふは十三夜かな?」
まじめな口調でそう言うので、浦島も、あるいはそうかもしれないとも思ったが、しかし、何だか変だとも思った。
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真面目な口調でさういふので、浦島も、或いはさうかも知れぬとも思つたが、しかし、何だかへんだとも思つた。
でもまた、見わたすかぎり、ただ薄緑色の果てしなく広がる大きな空洞(くうどう)のすみに、かすかな黒い点をとどめているものが、たとえそれは嘘にしても月の影法師だと言われてみると、鯛の大群や火事だと思って眺めるよりは、風流人の浦島にとって、はるかに趣きがあり、ふるさとを思う気持ちをさそうものがあった。
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でもまた、見渡す限り、ただ薄みどり色の茫洋乎たる大空洞の片隅に、幽かな黒一点をとどめてゐるものが、たとひそれは嘘にしても月の影法師だと云はれて見ると、鯛の大群や火事だと思つて眺めるよりは、風流人の浦島にとつて、はるかに趣きがあり、郷愁をそそるに足るものがあつた。
そのうちに、あたりは異様に暗くなり、ごうというすさまじい音とともに、はげしい風のようなものが押し寄せて来て、浦島はもう少しで亀の背中からころげ落ちるところであった。
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そのうちに、あたりは異様に暗くなり、ごうといふ凄じい音と共に烈風の如きものが押し寄せて来て、浦島はもう少しで亀の背中からころげ落ちるところであつた。
「ちょっとまた目をつぶって。」
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「ちよつとまた眼をつぶつて。」
と亀はおごそかな口調で言い、「ここはちょうど、竜宮の入り口になっているのです。人間が海の底を探険しても、たいていここが海底のいちばん奥だと見きわめて、引き上げていくのです。ここを越えて行くのは、人間では、あなたが最初で、また最後かもしれません。」
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と亀は厳粛な口調で言ひ、「ここはちやうど、竜宮の入口になつてゐるのです。人間が海の底を探険しても、たいていここが海底のどんづまりだと見極めて引上げて行くのです。ここを越えて行くのは、人間では、あなたが最初で、また最後かも知れません。」
くるりと亀がひっくり返ったように、浦島には思われた。
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くるりと亀はひつくりかへつたやうに、浦島には思はれた。
ひっくり返ったまま、つまり、おなかを上にしたまま泳いで、そうして浦島は亀の甲羅にくっついて、宙返りを半分しかけたような形で、けれどもこぼれ落ちることもなく、さかさまにすっと亀とともに上のほうへ進んでいくような、まことに妙な錯覚を感じたのである。
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ひつくりかへつたまま、つまり、腹を上にしたまま泳いで、さうして浦島は亀の甲羅にくつついて、宙返りを半分しかけたやうな形で、けれどもこぼれ落ちる事もなく、さかさにすつと亀と共に上の方へ進行するやうな、まことに妙な錯覚を感じたのである。
「目をあいてごらん。」
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「眼をあいてごらん。」
と亀に言われた時には、しかし、もうそんな、さかさまの感じは無く、当たり前に亀の甲羅の上に座って、そうして、亀は下へ下へと泳いでいる。
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と亀に言はれた時には、しかし、もうそんな、さかさの感じは無く、当り前に亀の甲羅の上に坐つて、さうして、亀は下へ下へと泳いでゐる。
あたりは、あけぼの(夜明け)のような薄明かりで、足もとにぼんやり白いものが見える。
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あたりは、あけぼのの如き薄明で、脚下にぼんやり白いものが見える。
どうも、何だか、山のようだ。
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どうも、何だか、山のやうだ。
塔(とう)が立ち並んでいるようにも見えるが、塔にしては大きすぎる。
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塔が連立してゐるやうにも見えるが、塔にしては洪大すぎる。
「あれは何だ。山か。」
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「あれは何だ。山か。」
「そうです。」
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「さうです。」
「竜宮の山か。」
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「竜宮の山か。」
興奮のため声がかすれていた。
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興奮のため声が嗄れてゐた。
「そうです。」
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「さうです。」
亀は、せっせと泳ぐ。
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亀は、せつせと泳ぐ。
「まっ白じゃないか。雪が降っているのかしら。」
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「まつ白ぢやないか。雪が降つてゐるのかしら。」
「どうも、高級な宿命を持っている人は、考えることも違いますね。立派なものだ。海の底にも雪が降ると思っているんだからね。」
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「どうも、高級な宿命を持つてゐる人は、考へる事も違ひますね。立派なものだ。海の底にも雪が降ると思つてゐるんだからね。」
「しかし、海の底にも火事があるそうだし、」
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「しかし、海の底にも火事があるさうだし、」
と浦島は、さっきの仕返しをするつもりで、「雪だって降るだろうさ。何せ、酸素があるんだから。」
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と浦島は、さつきの仕返しをするつもりで、「雪だつて降るだらうさ。何せ、酸素があるんだから。」
「雪と酸素じゃ、縁が遠いや。縁があるといっても、まず、風が吹けば桶屋がもうかる、というくらいの遠い関係じゃないか。ばかばかしい。そんなことで私をやりこめようたって駄目さ。どうも、お上品なお方たちは、しゃれが下手だ。『雪』は『行きはよいよい、帰りはこわい』というのはどんなもんだい。あんまり、うまくもねえか。それでも酸素よりはいいだろう。『酸素』はしゃれにしようにも、歯くそみたいな洒落しか出てこねえ。酸素はどうも、助からねえ。」
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「雪と酸素ぢや縁が遠いや。縁があつても、まづ、風と桶屋くらゐの関係ぢやないか。ばかばかしい。そんな事で私をおさへようたつて駄目さ。どうも、お上品なお方たちは、洒落が下手だ。雪はよいよい帰りはこはいつてのはどんなもんだい。あんまり、うまくもねえか。それでも酸素よりはいいだらう。さんそネツと来るか。はくそみたいだ。酸素はどうも、助からねえ。」
やはり、口では亀にかなわない。
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やはり、口では亀にかなはない。
浦島は苦笑しながら、
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浦島は苦笑しながら、
「ところで、あの山は、」
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「ところで、あの山は、」
と言いかけると、亀はまたあざ笑い、
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と云ひかけると、亀はまたあざ笑ひ、
「ところで、とは大きく出たじゃないか。ところであの山は、雪が降っているのではないのです。あれは真珠の山です。」
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「ところで、とは大きく出たぢやないか。ところであの山は、雪が降つてゐるのではないのです。あれは真珠の山です。」
「真珠?」
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「真珠?」
と浦島は驚き、「いや、嘘だろう。たとえ真珠を十万粒、二十万粒積み重ねたって、あれくらいの高い山にはなるまい。」
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と浦島は驚き、「いや、嘘だらう。たとひ真珠を十万粒二十万粒積み重ねたつて、あれくらゐの高い山にはなるまい。」
「十万粒、二十万粒とは、ケチな勘定の仕方だ。竜宮では真珠を一粒二粒なんて、そんな細かい数え方はしませんよ。一山(ひとやま)、二山(ふたやま)、とやるね。一山は約三百億粒だとかいう話だが、誰もそれをいちいち数えたことも無い。それを約百万山(やま)くらい積み重ねると、まずざっとあれくらいの峰ができる。真珠の捨て場には困っているんだ。もとをただせば、魚のふんだからね。」
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「十万粒、二十万粒とは、ケチな勘定の仕方だ。竜宮では真珠を一粒二粒なんて、そんなこまかい算へ方はしませんよ。一山、二山、とやるね。一山は約三百億粒だとかいふ話だが、誰もそれをいちいち算へた事も無い。それを約百万山くらゐ積み重ねると、まづざつとあれくらゐの峰が出来る。真珠の捨場には困つてゐるんだ。もとをただせば、さかなの糞だからね。」
とかくして竜宮の正門に着く。
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とかくして竜宮の正門に着く。
案外に小さい。
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案外に小さい。
真珠の山のふもとに、光を放ちながら、ちょこんと立っている。
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真珠の山の裾に蛍光を発してちよこんと立つてゐる。
浦島は亀の甲羅からおりて、亀に案内されて、少し腰をかがめてその正門をくぐる。
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浦島は亀の甲羅から降りて、亀に案内をせられ、小腰をかがめてその正門をくぐる。
あたりは薄明かりである。
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あたりは薄明である。
そうして、しんと静まりかえっている。
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さうして森閑としてゐる。
「静かだね。おそろしいくらいだ。地獄じゃあるまいね。」
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「静かだね。おそろしいくらゐだ。地獄ぢやあるまいね。」
「しっかりしてくれ、若旦那。」
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「しつかりしてくれ、若旦那。」
と亀はひれで浦島の背中をたたき、「王宮というものは、みんなこのように静かなものだよ。丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを一年中やっているのが竜宮だなんて、ありきたりな空想をしていたんじゃねえのか。あわれなものだ。簡素幽邃(かんそゆうすい・かざりけがなく、静かで奥深いこと)というのが、あなたたちの風流の極み(きわみ)だろうじゃないか。地獄とは、あきれたもんだ。慣れてくると、この薄暗いのが、何とも言えずやわらかく心を休めてくれる。足もとに気をつけてくださいよ。すべってころんだりしては、みっともない。あれ、あなたはまだ草履をはいているね。脱ぎなさいよ、失礼な。」
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と亀は鰭でもつて浦島の背中を叩き、「王宮といふものは皆このやうに静かなものだよ。丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やつてゐるのが竜宮だなんて陳腐な空想をしてゐたんぢやねえのか。あはれなものだ。簡素幽邃といふのが、あなたたちの風流の極致だらうぢやないか。地獄とは、あさましい。馴れてくると、この薄暗いのが、何とも言へずやはらかく心を休めてくれる。足許に気をつけて下さいよ。滑つてころんだりしては醜態だ。あれ、あなたはまだ草履をはいてゐるね。脱ぎなさいよ、失礼な。」
浦島は赤面して草履を脱いだ。
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浦島は赤面して草履を脱いだ。
はだしで歩くと、足の裏がいやにぬらぬらする。
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はだしで歩くと、足の裏がいやにぬらぬらする。
「何だこの道は。気持ちが悪い。」
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「何だこの道は。気持が悪い。」
「道じゃない。ここは廊下ですよ。あなたは、もう竜宮城へ入っているのです。」
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「道ぢやない。ここは廊下ですよ。あなたは、もう竜宮城へはひつてゐるのです。」
「そうかね。」
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「さうかね。」
と驚いてあたりを見まわしたが、壁も柱も何も無い。
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と驚いてあたりを見廻したが、壁も柱も何も無い。
薄暗やみが、ただゆらゆらと体のまわりで動いている。
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薄闇が、ただ漾々と身辺に動いてゐる。
「竜宮には雨も降らなければ、雪も降りません。」
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「竜宮には雨も降らなければ、雪も降りません。」
と亀は変にやさしそうな口調で教える。
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と亀はへんに慈愛深げな口調で教へる。
「だから、陸の上の家のようにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。」
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「だから、陸上の家のやうにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。」
「でも、門には屋根があったじゃないか。」
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「でも、門には屋根があつたぢやないか。」
「あれは、目じるしです。門だけではなく、乙姫のお部屋にも、屋根や壁はあります。しかし、それもまた乙姫の尊厳(そんげん・気高くておごそかなこと)を保つために作られたもので、雨や露を防ぐためのものではありません。」
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「あれは、目じるしです。門だけではなく、乙姫のお部屋にも、屋根や壁はあります。しかし、それもまた乙姫の尊厳を維持するために作られたもので、雨露を防ぐためのものではありません。」
「そんなものかね。」
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「そんなものかね。」
と浦島はなおもけげんな顔つきで、「その乙姫の部屋というのは、どこにあるの? 見わたしたところ、あの世もこんな感じだろうかと思うほど、ものさびしく静かな場所で、木一本、草一本も見当たらないじゃないか。」
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と浦島はなほもけげんな顔つきで、「その乙姫の部屋といふのは、どこにあるの? 見渡したところ冥途もかくや、蕭寂たる幽境、一木一草も見当らんぢやないか。」
「どうも田舎者には困るね。でっかい建物(たてもの)や、ごてごてした飾りには口をあけて驚いても、こんな奥深く静かな美しさには、まるっきり感心しない。浦島さん、あなたの上品(じょうぼん・仏教の言葉でいちばん優れた位のこと。上品=じょうひん、とかけている)もあてにならんね。もっとも丹後の荒磯の風流人じゃ無理もないがね。伝統の教養とやらも、聞いて冷や汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言った。こうして実地に来てみると、田舎者まる出しなんだから恐れいる。人まねばかりの風流ごっこは、まあ、これからは、やめるんだね。」
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「どうも田舎者には困るね。でつかい建物や、ごてごてした装飾には口をあけておつたまげても、こんな幽邃の美には一向に感心しない。浦島さん、あなたの上品もあてにならんね。もつとも丹後の荒磯の風流人ぢや無理もないがね。伝統の教養とやらも、聞いて冷汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言つた。かうして実地に臨んでみると、田舎者まる出しなんだから恐れいる。人真似こまねの風流ごつこは、まあ、これからは、やめるんだね。」
亀の毒舌は、竜宮に着いたら、何だかまた一段とすごくなってきた。
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亀の毒舌は竜宮に着いたら、何だかまた一段と凄くなつて来た。
浦島は心細さ限りなく、
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浦島は心細さ限り無く、
「だって、何も見えやしないんだもの。」
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「だつて、何も見えやしないんだもの。」
と、ほとんど泣き声で言った。
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とほとんど泣き声で言つた。
「だから、足もとに気をつけなさいって、言ってるじゃありませんか。この廊下は、ただの廊下じゃないんですよ。魚の掛け橋ですよ。よく気をつけてごらんなさい。何億という魚がぎっしりとかたまって、廊下の床(ゆか)みたいな具合になっているのですよ。」
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「だから、足許に気をつけなさいつて、云つてるぢやありませんか。この廊下は、ただの廊下ぢやないんですよ。魚の掛橋ですよ。よく気をつけてごらんなさい。幾億といふ魚がひしとかたまつて、廊下の床みたいな工合ひになつてゐるのですよ。」
浦島はぎょっとしてつま先立った。
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浦島はぎよつとして爪先き立つた。
道理で、さっきから足の裏がぬらぬらすると思っていた。
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だうりで、さつきから足の裏がぬらぬらすると思つてゐた。
見ると、なるほど、大小無数の魚どもが、すきまもなく背中を並べて、身動きもせず、じっとしている。
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見ると、なるほど、大小無数の魚どもがすきまもなく背中を並べて、身動きもせず凝つとしてゐる。
「これは、ひどい。」
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「これは、ひどい。」
と浦島は、急におそるおそるという足取りになって、「悪い趣味だ。これがすなわち簡素幽邃の美かね。魚の背中を踏んづけて歩くなんて、野蛮きわまることじゃないか。だいいち、この魚たちに気の毒だ。こんな奇妙な風流は、私のような田舎者にはわかりませんねえ。」
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と浦島は、にはかにおつかなびつくりの歩調になつて、「悪い趣味だ。これがすなはち簡素幽邃の美かね。さかなの背中を踏んづけて歩くなんて、野蛮きはまる事ぢやないか。だいいちこのさかなたちに気の毒だ。こんな奇妙な風流は、私のやうな田舎者にはわかりませんねえ。」
と、さっき田舎者と言われた鬱憤(うっぷん・たまった腹立たしい気持ち)を、ここではらして、ちょっと溜飲(りゅういん・胸のつかえ)がさがった。
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とさつき田舎者と言はれた鬱憤をここに於いてはらして、ちよつと溜飲がさがつた。
「いいえ、」
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「いいえ、」
とその時、足もとで細い声がして、「私たちはここに毎日集まって、乙姫さまの琴の音(ね)に聞きほれているのです。魚の掛け橋は、風流のために作っているのではありません。かまわず、どうかお通りください。」
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とその時、足許で細い声がして、「私たちはここに毎日集つて、乙姫さまの琴の音に聞き惚れてゐるのです。魚の掛橋は風流のために作つてゐるのではありません。かまはず、どうかお通り下さい。」
「そうですか。」
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「さうですか。」
と浦島はひそかに苦笑いして、「私はまた、これも竜宮の飾りの一つかと思って。」
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と浦島はひそかに苦笑して、「私はまた、これも竜宮の装飾の一つかと思つて。」
「それだけじゃあるまい。」
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「それだけぢやあるまい。」
亀はすかさず口をはさんで、「ひょっとしたら、この掛け橋も浦島の若旦那を歓迎するために、乙姫さまが特に魚たちに命じて、」
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亀はすかさず口をはさんで、「ひよつとしたら、この掛橋も浦島の若旦那を歓迎のために、乙姫さまが特にさかなたちに命じて、」
「あ、これ、」
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「あ、これ、」
と浦島はうろたえ、赤面し、「まさか、それほど私はうぬぼれてはいません。でも、ね、お前はこれを廊下の床(ゆか)の代わりだなんて、いいかげんなことを言うものだから、私も、つい、その、魚たちが踏まれて痛いかと思ってね。」
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と浦島は狼狽し、赤面し、「まさか、それほど私は自惚れてはゐません。でも、ね、お前はこれを廊下の床のかはりだなんていい加減を言ふものだから、私も、つい、その、さかなたちが踏まれて痛いかと思つてね。」
「魚の世界には、床(ゆか)なんてものは必要がありません。これがまあ、陸の上の家にたとえたならば、廊下の床にでも当たるかと思って私はあんな説明をしてあげたので、決していいかげんなことを言ったんじゃない。なに、魚たちは痛いなんて思うもんですか。海の底では、あなたのからだだって紙一枚の重さくらいしか無いのですよ。何だか、ご自分のからだが、ふわふわ浮くような気がするでしょう?」
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「さかなの世界には、床なんてものは必要がありません。これがまあ、陸上の家にたとへたならば、廊下の床にでも当るかと思つて私はあんな説明をしてあげたので、決していい加減を言つたんぢやない。なに、さかなたちは痛いなんて思ふもんですか。海の底では、あなたのからだだつて紙一枚の重さくらゐしか無いのですよ。何だか、ご自分のからだが、ふはふは浮くやうな気がするでせう?」
そう言われてみると、ふわふわするような感じがしないでもない。
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さう言はれてみると、ふはふはするやうな感じがしないでもない。
浦島は、重ね重ね、亀から必要もないからかいを受けているような気がして、いまいましくてならない。
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浦島は、重ね重ね、亀から無用の嘲弄を受けてゐるやうな気がして、いまいましくてならぬ。
「私はもう何も信じる気がしなくなった。これだから私は、冒険というものはいやなんだ。だまされたって、それを見破る方法が無いんだからね。ただもう、道案内者の言うことに従っていなければいけない。これはこんなものだと言われたら、それっきりなんだからね。じつに、冒険は人をあざむく。琴の音(ね)も何も、ちっとも聞こえやしないじゃないか。」
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「私はもう何も信じる気がしなくなつた。これだから私は、冒険といふものはいやなんだ。だまされたつて、それを看破する法が無いんだからね。ただもう、道案内者の言ふ事に従つてゐなければいけない。これはこんなものだと言はれたら、それつきりなんだからね。実に、冒険は人を欺く。琴の音も何も、ちつとも聞えやしないぢやないか。」
と、ついに八つ当たりの理屈に変わった。
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とつひに八つ当りの論法に変じた。
亀は落ちついて、
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亀は落ちついて、
「あなたはどうも陸の上の平らな生活ばかりしているから、目標は東西南北のどれかにあるとばかり思っていらっしゃる。しかし、海には、もう一つの方向がある。すなわち、上と下です。あなたはさっきから、乙姫の住まいを前方にばかり求めていらっしゃる。ここに、あなたの大きな思い違いがあったわけだ。なぜ、あなたは頭の上を見ないのです。また、足もとを見ないのです。海の世界は浮いてただよっているものです。さっきの正門も、また、あの真珠の山だって、みんな少し浮いて動いているのです。あなた自身もまた上下左右にゆられているので、ほかのものが動いているのが、わからないだけなのです。あなたは、さっきからずいぶん前方に進んだように思っていらっしゃるかもしれないけれど、まあ、同じ位置ですね。かえって後ろに下がっているかもしれない。いまは潮の流れの関係で、ずんずんうしろに流されています。そうして、さっきから見ると、百尋(ひゃくひろ)くらい、みんな一緒に上のほうに浮きました。まあ、とにかくこの魚の掛け橋をもう少し渡ってみましょう。ほうら、魚の背中もだんだんまばらになってきたでしょう。足を踏みはずさないように気をつけてくださいよ。なに、踏みはずしたって、すとんと落ちる心配はありませんがね、何せ、あなたも紙一枚の重さなんだから。つまり、この橋は途切れた橋なのです。この廊下を渡っても、前方には何も無い。しかし、足もとを見よ、です。おい、魚たちも、少しどけ、若旦那が乙姫さまに会いに行くのだ。こいつらは、こうして竜宮城の本丸の天蓋(てんがい・上をおおう傘のようなもの)をなしているようなものです。海月(くらげ)のようにただよう天蓋、とでも言ったら、あなたたち風流人は喜びますかね。」
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「あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしてゐるから、目標は東西南北のいづれかにあるとばかり思つていらつしやる。しかし、海にはもう二元の方向がある。すなはち、上と下です。あなたはさつきから、乙姫の居所を前方にばかり求めていらつしやる。ここにあなたの重大なる誤謬が存在してゐたわけだ。なぜ、あなたは頭上を見ないのです。また、脚下を見ないのです。海の世界は浮いて漂つてゐるものです。さつきの正門も、また、あの真珠の山だつて、みんな少し浮いて動いてゐるのです。あなた自身がまた上下左右にゆられてゐるので、他の物の動いてゐるのが、わからないだけなのです。あなたは、さつきからずいぶん前方にお進みになつたやうに思つていらつしやるかも知れないけれど、まあ、同じ位置ですね。かへつて後退してゐるかも知れない。いまは潮の関係で、ずんずんうしろに流されてゐます。さうして、さつきから見ると、百尋くらゐみんな一緒に上方に浮きました。まあ、とにかくこの魚の掛橋をもう少し渡つてみませう。ほうら、魚の背中もだんだんまばらになつて来たでせう。足を踏みはづさないやうに気をつけて下さいよ。なに、踏みはづしたつて、すとんと落下する気づかひはありませんがね、何せ、あなたも紙一枚の重さなんだから。つまり、この橋は断橋なのです。この廊下を渡つても前方には何も無い。しかし、脚下を見よです。おい、さかなども、少しどけ、若旦那が乙姫さまに逢ひに行くのだ。こいつらは、かうして竜宮城の本丸の天蓋をなしてゐるやうなものです。海月なす漂へる天蓋、とでも言つたら、あなたたち風流人は喜びますかね。」
魚たちは、静かに無言で左右に散る。
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さかなたちは、静かに無言で左右に散る。
かすかに、琴の音が足もとに聞こえる。
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かすかに、琴の音が脚下に聞える。
日本の琴の音によく似ているが、しかし、あれほど強くはなく、もっとやわらかで、はかなく、そうして、へんに細く長く尾を引くような余韻がある。
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日本の琴の音によく似てゐるが、しかし、あれほど強くはなく、もつと柔かで、はかなく、さうしてへんに嫋々たる余韻がある。
菊の露。
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菊の露。
薄ごろも(うすい着物のこと)。
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薄ごろも。
夕空。
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夕空。
きぬた(布を打ってやわらかくする道具)。
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きぬた。
浮寝(うきね・水の上に浮かんだまま眠ること)。
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浮寝。
きぎす(雉(きじ)の古い呼び方)。
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きぎす。
どれでもない。
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どれでもない。
風流人の浦島にも、何だか見当のつかない、いじらしくて、たよりない、けれども陸の上では聞くことのできない気高い凄(さび)しさが、その底に流れている。
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風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出来ぬ気高い凄しさが、その底に流れてゐる。
「不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。」
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「不思議な曲ですね。あれは、何といふ曲ですか。」
亀もちょっと耳をすまして聞いて、
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亀もちよつと耳をすまして聞いて、
「聖諦(しょうたい)。」
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「聖諦。」
と一言、答えた。
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と一言、答へた。
「せいてい?」
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「せいてい?」
「神聖の聖の字に、あきらめ(諦)。」
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「神聖の聖の字に、あきらめ。」
「ああ、そう、聖諦(しょうたい)。」
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「ああ、さう、聖諦。」
とつぶやいて浦島は、はじめて海の底の竜宮の生活に、自分たちの趣味とはくらべものにならないほど崇高(すうこう・気高くて立派)なものを感じ取った。
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と呟いて浦島は、はじめて海の底の竜宮の生活に、自分たちの趣味と段違ひの崇高なものを感得した。
いかにも、自分の上品(じょうぼん)などは、あてにならない。
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いかにも自分の上品などは、あてにならぬ。
伝統の教養だの、正統の風流だのと自分が言うのを聞いて、亀が冷や汗をかくのも無理がない。
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伝統の教養だの、正統の風流だのと自分が云ふのを聞いて亀が冷汗をかくのも無理がない。
自分の風流は、人まねばかりだ。
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自分の風流は人真似こまねだ。
田舎の山猿に違いない。
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田舎の山猿にちがひない。
「これからは、お前の言うことは何でも信じるよ。聖諦。なるほどなあ。」
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「これからは、お前の言ふ事は何でも信じるよ。聖諦。なるほどなあ。」
浦島はぼんやりと立ちつくしたまま、なおもその不思議な聖諦の曲に耳を傾けた。
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浦島は呆然とつつ立つたまま、なほもその不思議な聖諦の曲に耳を傾けた。
「さあ、ここから飛び降りますよ。あぶないことはありません。こうして両腕をひろげて一歩足を踏み出すと、ゆらゆらと気持ちよく落ちていきます。この魚の掛け橋の尽きたところから真っすぐに降りていくと、ちょうど竜宮の正殿の階段の前に着くのです。さあ、何をぼんやりしているのです。飛び降りますよ、いいですか。」
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「さあ、ここから飛び降りますよ。あぶない事はありません。かうして両腕をひろげて一歩足を踏み出すと、ゆらゆらと気持よく落下します。この魚の掛橋の尽きたところから真つすぐに降りて行くと、ちやうど竜宮の正殿の階段の前に着くのです。さあ、何をぼんやりしてゐるのです。飛び降りますよ、いいですか。」
亀はゆらゆらと沈んでいく。
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亀はゆらゆら沈下する。
浦島も気を取り直して、両腕をひろげ、魚の掛け橋の外に一歩、足を踏み出すと、すっと下に気持ちよく吸いこまれ、ほおがそよ風に吹かれているように涼しく、やがてあたりが、緑の木かげのような色合いになり、琴の音もいよいよ近くに聞こえてきたと思ううちに、亀と並んで正殿の階段の前に立っていた。
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浦島も気をとり直して、両腕をひろげ、魚の掛橋の外に一歩、足を踏み出すと、すつと下に気持よく吸ひ込まれ、頬が微風に吹かれてゐるやうに涼しく、やがてあたりが、緑の樹陰のやうな色合ひになり、琴の音もいよいよ近くに聞えて来たと思ふうちに、亀と並んで正殿の階段の前に立つてゐた。
階段とは言っても、段々がひとつひとつはっきりしているわけではなく、灰色ににぶく光る小さい珠(たま)が敷きつめられた、ゆるい傾斜の坂のようなものである。
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階段とは言つても、段々が一つづつ分明になつてゐるわけではなく、灰色の鈍く光る小さい珠の敷きつめられたゆるい傾斜の坂のやうなものである。
「これも真珠かね。」
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「これも真珠かね。」
と浦島は小声で尋ねる。
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と浦島は小声で尋ねる。
亀は、あわれむような目で浦島の顔を見て、
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亀は、あはれむやうな眼で浦島の顔を見て、
「珠を見れば、何でも真珠だ。真珠は、捨てられて、あんなに高い山になっているじゃありませんか。まあ、ちょっとその珠を手ですくってごらんなさい。」
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「珠を見れば、何でも真珠だ。真珠は、捨てられて、あんなに高い山になつてゐるぢやありませんか。まあ、ちよつとその珠を手で掬つてごらんなさい。」
浦島は言われたとおりに両手で珠をすくおうとすると、ひやりと冷たい。
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浦島は言はれたとほりに両手で珠を掬はうとすると、ひやりと冷たい。
「あ、霰(あられ)だ!」
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「あ、霰だ!」
「冗談じゃない。ついでにそれを口の中に入れてごらん。」
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「冗談ぢやない。ついでにそれを口の中に入れてごらん。」
浦島は素直に、その氷のように冷たい珠を、五つ六つほおばった。
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浦島は素直に、その氷のやうに冷たい珠を、五つ六つ頬張つた。
「うまい。」
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「うまい。」
「そうでしょう? これは、海の桜桃(おうとう・さくらんぼ)です。これを食べると三百年間、老いることが無いのです。」
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「さうでせう? これは、海の桜桃です。これを食べると三百年間、老いる事が無いのです。」
「そうか、いくつ食べても同じことか。」
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「さうか、いくつ食べても同じ事か。」
と、風流人の浦島も、つい行儀を忘れて、もっとすくって食べようという勢いを見せた。
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と風流人の浦島も、ついたしなみを忘れて、もつと掬つて食べようといふ気勢を示した。
「私はどうも、老醜(ろうしゅう・年をとってみにくくなること)というものがきらいでね。死ぬのは、そんなにこわくもないけれど、どうも老醜だけは私の趣味に合わない。もっと、食べてみようかしら。」
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「私はどうも、老醜といふものがきらひでね。死ぬのは、そんなにこはくもないけれど、どうも老醜だけは私の趣味に合はない。もつと、食べて見ようかしら。」
「笑っていますよ。上をごらんなさい。乙姫さまがお迎えに出ています。やあ、きょうはまた一段とお綺麗。」
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「笑つてゐますよ。上をごらんなさい。乙姫さまがお迎へに出てゐます。やあ、けふはまた一段とお綺麗。」
桜桃の坂の尽きるところに、青いうすい布を身にまとった小柄な女性が、かすかに笑いながら立っている。
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桜桃の坂の尽きるところに、青い薄布を身にまとつた小柄の女性が幽かに笑ひながら立つてゐる。
うすい布を通して、真っ白な肌が見える。
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薄布をとほして真白い肌が見える。
浦島はあわてて目をそらし、
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浦島はあわてて眼をそらし、
「乙姫か。」
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「乙姫か。」
と亀にささやく。
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と亀に囁く。
浦島の顔は真っ赤である。
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浦島の顔は真赤である。
「決まっているじゃありませんか。何をおろおろしているのです。さあ、早くごあいさつをなさい。」
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「きまつてゐるぢやありませんか。何をへどもどしてゐるのです。さあ、早く御挨拶をなさい。」
浦島はいよいよまごつき、
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浦島はいよいよまごつき、
「でも、何と言ったらいいんだい。私のようなものが名乗りをあげてみたって、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪問は唐突(とうとつ・急でだしぬけなこと)だよ。意味が無いよ。帰ろうよ。」
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「でも、何と言つたらいいんだい。私のやうなものが名乗りを挙げてみたつて、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪問は唐突だよ。意味が無いよ。帰らうよ。」
と、上等な宿命を持っているはずの浦島も、乙姫の前では、すっかり卑屈(ひくつ・自分を必要以上に低く見せること)になって、逃げ支度をはじめた。
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と上級の宿命の筈の浦島も、乙姫の前では、すつかり卑屈になつて逃支度をはじめた。
「乙姫さまは、あなたのことなんか、もうとっくにご存じですよ。『階前万里(かいぜんばんり)』(すぐ近くにいながら、はるか遠くにいる人の心もわかる、という意味の言葉)と言うじゃありませんか。あきらめて、ただていねいにお辞儀しておけばいいのです。また、たとえ乙姫さまが、あなたのことを何もご存じ無くたって、乙姫さまは警戒なんてケチくさいことはまるで知らないお方ですから、何も遠慮には及びません。『遊びに来ましたよ』、と言えばいい。」
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「乙姫さまは、あなたの事なんか、もうとうにご存じですよ。階前万里といふぢやありませんか。観念して、ただていねいにお辞儀しておけばいいのです。また、たとひ乙姫さまが、あなたの事を何もご存じ無くつたつて、乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから、何も斟酌には及びません。遊びに来ましたよ、と言へばいい。」
「まさか、そんな失礼な。ああ、笑っていらっしゃる。とにかく、お辞儀をしよう。」
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「まさか、そんな失礼な。ああ、笑つていらつしやる。とにかく、お辞儀をしよう。」
浦島は、両手が自分の足のつま先に届くほどの、ていねいなお辞儀をした。
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浦島は、両手が自分の足の爪先にとどくほどのていねいなお辞儀をした。
亀は、はらはらして、
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亀は、はらはらして、
「ていねいすぎる。いやになるね。あなたは私の恩人じゃないか。もう少し威厳のある態度を示してくださいよ。へたへたと最敬礼なんかして、上品(じょうぼん)もくそもあったもんじゃない。それ、乙姫さまのお招きだ。行きましょう。さあ、ちゃんと胸を張って、おれは日本一の好男子で、そうして、最上級の風流人だというような顔をして、威張って歩くのですよ。あなたは私たちに対してはひどく高慢な、気取った構え方をするけれども、女には、まるで意気地が無いんですね。」
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「ていねいすぎる。いやになるね。あなたは私の恩人ぢやないか。も少し威厳のある態度を示して下さいよ。へたへたと最敬礼なんかして、上品もくそもあつたものぢやない。それ、乙姫さまのお招きだ。行きませう。さあ、ちやんと胸を張つて、おれは日本一の好男子で、さうして、最上級の風流人だといふやうな顔をして威張つて歩くのですよ。あなたは私たちに対してはひどく高慢な乙な構へ方をするけれども、女には、からきし意気地が無いんですね。」
「いやいや、高貴なお方には、それ相当の礼を尽くさなければ。」
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「いやいや、高貴なお方には、それ相当の礼を尽さなければ。」
と、緊張のあまり声がかすれて、足がもつれ、よろよろと千鳥足で階段をのぼり、見わたすと、そこは畳一万枚を敷いたと言ってもいいくらいの、広い座敷になっている。
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と緊張のあまり声がしやがれて、足がもつれ、よろよろと千鳥足で階段を昇り、見渡すと、そこは万畳敷とでも云つていいくらゐの広い座敷になつてゐる。
いや、座敷というよりは、庭園と言ったほうが正しいかもしれない。
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いや、座敷といふよりは、庭園と言つた方が適切かも知れない。
どこから射してくるのか、木かげのような緑色の光を受けて、ぼんやりとかすんでいる、その畳一万枚とでも言うべき広場には、やはり霰(あられ)のような小粒の珠が敷きつめられ、ところどころに黒い岩が、順序もなくころがっていて、そうしてそれだけである。
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どこから射して来るのか樹陰のやうな緑色の光線を受けて、模糊と霞んでゐるその万畳敷とでも言ふべき広場には、やはり霰のやうな小粒の珠が敷きつめられ、ところどころに黒い岩が秩序無くころがつてゐて、さうしてそれつきりである。
屋根はもちろん、柱一本も無く、見わたすかぎり、廃墟(はいきょ)と言っていいくらいの、荒涼とした大広場である。
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屋根はもちろん、柱一本も無く、見渡す限り廃墟と言つていいくらゐの荒涼たる大広場である。
気をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちょいちょい紫色の小さい花が顔を出しているのが見えて、それがまた、かえって寂しさを加え、これが幽邃(ゆうすい・静かで奥深いこと)の極みというものかもしれないが、しかし、よくもまあ、こんな心細いような場所で暮らしていけるものだ、と感心とため息が混じったようなものがふうと出て、さらにまた思いをあらたにして、乙姫の顔をそっと盗み見た。
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気をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちよいちよい紫色の小さい花が顔を出してゐるのが見えて、それがまた、かへつて淋しさを添へ、これが幽邃の極といふのかも知れないが、しかし、よくもまあ、こんな心細いやうな場所で生活が出来るものだ、と感歎の溜息に似たものがふうと出て、さらにまた思ひをあらたにして乙姫の顔をそつと盗み見た。
乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。
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乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。
その時はじめて気づいたのであるが、乙姫のうしろには、めだかよりも、もっと小さい金色の魚が無数にかたまってぴらぴら泳いでいて、乙姫が歩けばそのとおりについて動き、そのようすは金色の雨がたえず乙姫のまわりに降り注いでいるようにも見えて、さすがにこの世のものとは思えない、尊い気配が感じられた。
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その時はじめて気がついたのであるが、乙姫の背後には、めだかよりも、もつと小さい金色の魚が無数にかたまつてぴらぴら泳いで、乙姫が歩けばそのとほりに従つて移動し、そのさまは金色の雨がたえず乙姫の身辺に降り注いでゐるやうにも見えて、さすがにこの世のものならぬ貴い気配が感ぜられた。
乙姫は身にまとっているうすい布をなびかせ、はだしで歩いているが、よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではいない。
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乙姫は身にまとつてゐる薄布をなびかせ裸足で歩いてゐるが、よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではゐない。
足の裏と珠との間が、ほんのわずか、すいている。
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足の裏と珠との間がほんのわづか隙いてゐる。
あの足の裏は、いまだかつて一度も、ものを踏んだことが無いのかもしれない。
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あの足の裏は、いまだいちども、ものを踏んだ事が無いのかも知れぬ。
生まれたばかりの赤ん坊の足の裏と同じようにやわらかくて綺麗なのに違いない、と思えば、これといった目立つ飾りひとつも身につけていない乙姫のからだが、いよいよ本当の気品を持っているもののように、奥ゆかしく思われてきた。
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生れたばかりの赤ん坊の足の裏と同じやうにやはらかくて綺麗なのに違ひない、と思へば、これといふ目立つた粉飾一つも施してゐない乙姫のからだが、いよいよ真の気品を有してゐるものの如く、奥ゆかしく思はれて来た。
竜宮に来てみてよかった、と、だんだんこのたびの冒険に感謝したいような気持ちがわいてきて、うっとりと乙姫のあとについて歩いていると、
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竜宮に来てみてよかつた、と次第にこのたびの冒険に感謝したいやうな気持が起つて来て、うつとり乙姫のあとについて歩いてゐると、
「どうです、悪くないでしょう。」
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「どうです、悪くないでせう。」
と亀は、低く浦島の耳もとにささやき、ひれで浦島の横腹をちょこちょことくすぐった。
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と亀は、低く浦島の耳元に囁き、鰭でもつて浦島の横腹をちよこちよことくすぐつた。
「ああ、なに、」
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「ああ、なに、」
と浦島はうろたえて、「この花は、この紫の花は綺麗だね。」
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と浦島は狼狽して、「この花は、この紫の花は綺麗だね。」
と別のことを言った。
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と別の事を言つた。
「これですか。」
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「これですか。」
と亀はつまらなさそうに、「これは海の桜桃の花です。ちょっとすみれに似ていますね。この花びらを食べると、それは気持ちよく酔いますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のようなもの、あれは藻(も)です。何万年も経っているので、こんな岩みたいにかたまっていますが、でも、羊羹(ようかん)よりもやわらかいくらいのものです。あれは、陸の上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によって一つずつ、みんな味わいが違います。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔い、のどが乾けば桜桃を口に含み、乙姫さまの琴の音に聞きほれ、生きている花吹雪のような小さい魚たちの舞いをながめて暮らしているのです。どうですか、竜宮は歌と舞と、おいしい食べ物とお酒の国だと、私はお誘いする時にあなたに申し上げたはずですが、どうですか、ご想像と違いましたか?」
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と亀はつまらなささうに、「これは海の桜桃の花です。ちよつと菫に似てゐますね。この花びらを食べると、それは気持よく酔ひますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のやうなもの、あれは藻です。何万年も経つてゐるので、こんな岩みたいにかたまつてゐますが、でも、羊羹よりも柔いくらゐのものです。あれは、陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によつて一つづつみんな味はひが違ひます。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔ひ、のどが乾けば桜桃を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きてゐる花吹雪のやうな小魚たちの舞ひを眺めて暮してゐるのです。どうですか、竜宮は歌と舞ひと、美食と酒の国だと私はお誘ひする時にあなたに申し上げた筈ですが、どうですか、御想像と違ひましたか?」
浦島は答えず、深刻な苦笑いをした。
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浦島は答へず、深刻な苦笑をした。
「わかっていますよ。あなたのご想像は、まあドンチャンドンチャンの大騒ぎで、大きなお皿に鯛のさしみやらまぐろのさしみ、赤い着物を着た娘っ子の手踊り、そうしてやたらに金銀珊瑚綾錦(きんぎんさんごりんきん・金や銀や珊瑚や美しい織物のこと)のたぐいが、――」
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「わかつてゐますよ。あなたの御想像は、まあドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎで、大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ、赤い着物を着た娘つ子の手踊り、さうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐひが、――」
「まさか、」
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「まさか、」
と浦島もさすがに少し不愉快そうな顔になり、「私はそれほど下品な男ではありません。しかし、私は自分を孤独な男だと思っていたことなどありましたが、ここへ来て本当に孤独なお方にお目にかかり、私のいままでの気取った生活が恥ずかしくてならないのです。」
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と浦島もさすがに少し不愉快さうな顔になり、「私はそれほど卑俗な男ではありません。しかし、私は自分を孤独な男だと思つてゐた事などありましたが、ここへ来て真に孤独なお方にお目にかかり、私のいままでの気取つた生活が恥かしくてならないのです。」
「あのかたのことですか?」
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「あのかたの事ですか?」
と亀は小声で言って、無作法に乙姫のほうをあごでしゃくり、「あのかたは、何も孤独じゃありませんよ。平気なものです。野心があるから、孤独なんてことを気に病むので、ほかの世界のことなんかまるで問題にしていなかったら、百年千年ひとりでいたって楽なものです。それこそ、いつもの批評が気にならない者にとってはね。ところで、あなたは、どこへ行こうてんですか?」
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と亀は小声で言つて無作法に乙姫のはうを顎でしやくり、「あのかたは、何も孤独ぢやありませんよ。平気なものです。野心があるから、孤独なんて事を気に病むので、他の世界の事なんかてんで問題にしてなかつたら、百年千年ひとりでゐたつて楽なものです。それこそ、れいの批評が気にならない者にとつてはね。ところで、あなたは、どこへ行かうてんですか?」
「いや、なに、べつに、」
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「いや、なに、べつに、」
と浦島は、意外な問いに驚き、「だって、お前、あのお方が、――」
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と浦島は、意外の問に驚き、「だつて、お前、あのお方が、――」
「乙姫はべつにあなたを、どこかへ案内しようとしているわけじゃありません。あのかたは、もう、あなたのことなんか忘れていますよ。あのかたは、これからご自分のお部屋に帰るのでしょう。しっかりしてください。ここが竜宮なんです、この場所が。ほかにどこも、ご案内したいようなところもありません。まあ、ここで、お好きなようにして遊んでいるのですね。これだけじゃ、不足なんですか。」
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「乙姫はべつにあなたを、どこかへ案内しようとしてゐるわけぢやありません。あのかたは、もう、あなたの事なんか忘れてゐますよ。あのかたは、これからご自分のお部屋に帰るのでせう。しつかりして下さい。ここが竜宮なんです、この場所が。ほかにどこも、ご案内したいやうなところもありません。まあ、ここで、お好きなやうにして遊んでゐるのですね。これだけぢや、不足なんですか。」
「いじめないでくれよ。私は、いったいどうしたらいいんだ。」
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「いぢめないでくれよ。私は、いつたいどうしたらいいんだ。」
と浦島はべそをかいて、「だって、あのお方がお迎えに出てくださっていたので、べつに私はうぬぼれたわけじゃないけど、あのお方のあとについて行くのが礼儀だと思ったんだよ。べつに不足だなんて考えてやしないよ。それだのに私に何か、ほかのいやらしい下心でもあるみたいな変な言い方をするんだもの。お前は、じっさい意地が悪いよ。ひどいじゃないか。私は生まれてから、こんなに体裁(ていさい・人から見た自分の様子)の悪い思いをしたことは無いよ。本当にひどいよ。」
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と浦島はべそをかいて、「だつて、あのお方がお迎へに出て下さつてゐたので、べつに私は自惚れたわけぢやないけど、あのお方のあとについて行くのが礼儀だと思つたんだよ。べつに不足だなんて考へてやしないよ。それだのに私に何か、別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言ひ方をするんだもの。お前は、じつさい意地が悪いよ。ひどいぢやないか。私は生れてから、こんなに体裁の悪い思ひをした事は無いよ。本当にひどいよ。」
「そんなに気にしちゃいけない。乙姫は、おっとりしたものです。そりゃ、陸の上からはるばる訪ねて来た珍しいお客ですもの、それにあなたは、私の恩人ですからね、お出迎えするのは当たり前ですよ。さらにまた、あなたは、気持ちはさっぱりしているし、男ぶりはいい、と来ているから。いや、これは冗談ですよ、変にまたうぬぼれられちゃかなわない。とにかく、乙姫はご自分の家へやって来た珍しいお客を階段まで出迎えて、そうして安心して、あとはあなたのお気の向くままに勝手に何日でもここで遊んでいらっしゃるようにと、知らんぷりをしてああしてご自分のお部屋に引き上げて行くというわけのものじゃないんですかね。実は私たちにも、乙姫の考えていることはあまりよくわからないのです。何せ、どうにも、おっとりしていますから。」
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「そんなに気にしちやいけない。乙姫は、おつとりしたものです。そりや、陸上からはるばるたづねて来た珍客ですもの、それにあなたは、私の恩人ですからね、お出迎へするのは当り前ですよ。さらにまた、あなたは、気持はさつぱりしてゐるし、男つぷりは佳し、と来てゐるから。いや、これは冗談ですよ、へんにまた自惚れられちやかなはない。とにかく、乙姫はご自分の家へやつて来た珍客を階段まで出迎へて、さうして安心して、あとはあなたのお気の向くままに勝手に幾日でもここで遊んでいらつしやるやうにと、素知らぬ振りしてああしてご自分のお部屋に引上げて行くといふわけのものぢやないんですかね。実は私たちにも、乙姫の考へてゐる事はあまりよく判らないのです。何せ、どうにも、おつとりしてゐますから。」
「いや、そう言われてみると、私には、少しわかりそうな気がしてきたよ。お前の推察も、だいたいにおいて間違いはなさそうだ。つまり、こんなのが、本当の貴人(きじん・身分の高い人)のもてなし方なのかもしれない。客を迎えて、客を忘れる。しかも客のまわりには、おいしいお酒とごちそうが、まったく無造作に並べ置かれてある。歌や舞や音楽も、べつに客をもてなそうという露骨な意図で行われるのではない。乙姫は誰に聞かせようという心もなくて琴をひく。魚どもは誰に見せようという気取りもなく、自由に嬉しそうに舞い遊ぶ。客のほめ言葉をあてにしない。客もまた、それをことさらに気にして感心したような顔つきをする必要も無い。寝ころんで知らんぷりをしていたって構わないわけです。主人はもう客のことなんか忘れているのだ。しかも、自由にふるまってよいという許しは与えられているのだ。食べたければ食べるし、食べたくなければ食べなくていいんだ。酔って夢うつつに琴の音を聞いていたって、あえて失礼には当たらないわけだ。ああ、客をもてなすには、当然このようにありたい。何のかのと、ろくでもない料理をうるさくすすめて、くだらないお世辞を交わし、おかしくもないのに、やたらとおほほと笑い、『まあ!』なんて、めずらしくもない話に大げさに驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの付き合いを行い、みごとに上流の客あしらいをしているつもりの、ケチくさい小利口な大馬鹿野郎どもに、この竜宮のおおらかなもてなしぶりを見せてやりたい。あいつらはただ、自分の品位を落としやしないか、それだけを気にしてびくびくして、そうして妙に客を警戒して、ひとりで空回りして、まごころなんてものは、これっぽっちも持ってやしないんだ。なんだい、ありゃ。お酒一杯にも、『飲ませてやったぞ』『いただきましたぞ』というような証文をかわしていたんじゃ、かなわない。」
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「いや、さう言はれてみると、私には、少し判りさうな気がして来たよ。お前の推察も、だいたいに於いて間違ひはなささうだ。つまり、こんなのが、真の貴人の接待法なのかも知れない。客を迎へて客を忘れる。しかも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。歌舞音曲も別段客をもてなさうといふ露骨な意図でもつて行はれるのではない。乙姫は誰に聞かせようといふ心も無くて琴をひく。魚どもは誰に見せようといふ衒ひも無く自由に嬉々として舞ひ遊ぶ。客の讃辞をあてにしない。客もまた、それにことさらに留意して感服したやうな顔つきをする必要も無い。寝ころんで知らん振りしてゐたつて構はないわけです。主人はもう客の事なんか忘れてゐるのだ。しかも、自由に振舞つてよいといふ許可は与へられてゐるのだ。食ひたければ食ふし、食ひたくなければ食はなくていいんだ。酔つて夢うつつに琴の音を聞いてゐたつて、敢へて失礼には当らぬわけだ。ああ、客を接待するには、すべからくこのやうにありたい。何のかのと、ろくでも無い料理をうるさくすすめて、くだらないお世辞を交換し、をかしくもないのに、矢鱈におほほと笑ひ、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの社交を行ひ、天晴れ上流の客あしらひをしてゐるつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもに、この竜宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。あいつらはただ、自分の品位を落しやしないか、それだけを気にしてわくわくして、さうして妙に客を警戒して、ひとりでからまはりして、実意なんてものは爪の垢ほども持つてやしないんだ。なんだい、ありや。お酒一ぱいにも、飲ませてやつたぞ、いただきましたぞ、といふやうな証文を取かはしてゐたんぢや、かなはない。」
「そう、その調子。」
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「さう、その調子。」
と亀は大喜びで、「しかし、あまりそんなに興奮して心臓麻痺(しんぞうまひ)なんか起こされても困る。ま、この藻の岩に腰をおろして、桜桃のお酒でも飲むさ。桜桃の花びらだけでは、はじめての人には少し香りが強すぎるかもしれないから、桜桃五、六粒といっしょに舌の上にのせると、しゅっと溶けて、ちょうどよい、さわやかなお酒になります。まぜ合わせ方ひとつで、いろんな味に変わりますから、まあ、ご自分で工夫して、お好きなようなお酒を作ってお飲みなさい。」
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と亀は大喜びで、「しかし、あまりそんなに興奮して心臓痲痺なんか起されても困る。ま、この藻の岩に腰をおろして、桜桃の酒でも飲むさ。桜桃の花びらだけでは、はじめての人には少し匂ひが強すぎるかも知れないから、桜桃五、六粒と一緒に舌の上に載せると、しゆつと溶けて適当に爽涼のお酒になります。まぜ合せの仕方一つで、いろんな味に変化しますからまあ、ご自分で工夫して、お好きなやうなお酒を作つてお飲みなさい。」
浦島はいま、ちょっと強いお酒を飲みたかった。
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浦島はいま、ちよつと強いお酒を飲みたかつた。
花びら三枚に、桜桃二粒を添えて舌の先にのせると、たちまち口の中いっぱいのおいしいお酒になり、口に含んでいるだけでも、うっとりする。
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花びら三枚に、桜桃二粒を添へて舌端に載せるとたちまち口の中一ぱいの美酒、含んでゐるだけでも、うつとりする。
軽やかにのどをくすぐりながら通り過ぎて、体の中にぽっと灯(あか)りがともったような、うれしい気持ちになる。
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軽快に喉をくすぐりながら通過して、体内にぽつと灯りがともつたやうな嬉しい気持になる。
「これはいい。まさに、憂い(うれい・心配ごと)を払う玉帚(たまははき・心を清めるほうき)だ。」
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「これはいい。まさに、憂ひの玉帚だ。」
「憂い(うれい)?」
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「憂ひ?」
と亀はさっそく聞きとがめ、「何か憂鬱(ゆううつ)なことでもあるのですか?」
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と亀はさつそく聞きとがめ、「何か憂鬱な事でもあるのですか?」
「いや、べつに、そんなわけではないが、あははは、」
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「いや、べつに、そんなわけではないが、あははは、」
と照れ隠しに無理に笑い、それから、ほっと小さなため息をつき、ちらと乙姫のうしろ姿を眺める。
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とてれ隠しに無理に笑ひ、それから、ほつと小さな溜息をつき、ちらと乙姫のうしろ姿を眺める。
乙姫は、ひとりで黙って歩いている。
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乙姫は、ひとりで黙つて歩いてゐる。
薄緑色の光をあび、すきとおるような、いい香りのする海草のようにも見え、ゆらゆらとただよいながら、たったひとりで歩いている。
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薄みどり色の光線を浴び、すきとほるやうなかぐはしい海草のやうにも見え、ゆらゆら揺蕩しながらたつたひとりで歩いてゐる。
「どこへ行くんだろう。」
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「どこへ行くんだらう。」
と思わずつぶやく。
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と思はず呟く。
「お部屋でしょう。」
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「お部屋でせう。」
亀は、決まりきっているというような顔つきで、澄まして答える。
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亀は、きまりきつてゐるといふやうな顔つきで、澄まして答へる。
「さっきから、お前はお部屋お部屋と言っているが、そのお部屋はいったい、どこにあるの? 何も、どこにも、見えやしないじゃないか。」
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「さつきから、お前はお部屋お部屋と言つてゐるが、そのお部屋はいつたい、どこにあるの? 何も、どこにも、見えやしないぢやないか。」
見わたすかぎり平らな、広野(こうや)と言っていいくらいの、にぶく光る大広間で、御殿(ごてん)らしいものの影は、どこにも無い。
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見渡すかぎり平坦の、曠野と言つていいくらゐの鈍く光る大広間で、御殿らしいものの影は、どこにも無い。
「ずっと向こう、乙姫の歩いて行く方角の、ずっと向こうに、何か見えませんか。」
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「ずつと向う、乙姫の歩いて行く方角の、ずつと向うに、何か見えませんか。」
と亀に言われて、浦島は、眉をひそめてその方向をじっと見つめ、
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と亀に言はれて、浦島は、眉をひそめてその方向を凝視し、
「ああ、そう言われてみると、何かあるようだね。」
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「ああ、さう云はれて見ると、何かあるやうだね。」
ほとんど一里(約4キロメートル)も先と思われるほど遠く、深い淵(ふち)の底をのぞいた時のような、何やらぼんやりとかすんでゆらめいているあたりに、小さな真っ白な水中花みたいなものが見える。
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ほとんど一里も先と思はれるほどの遠方、幽潭の底を覗いた時のやうな何やら朦朧と烟つてたゆたうてゐるあたりに、小さな純白の水中花みたいなものが見える。
「あれか。小さいものだね。」
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「あれか。小さいものだね。」
「乙姫がひとりお休みになるのに、大きい御殿なんか要らないじゃありませんか。」
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「乙姫がひとりおやすみになるのに、大きい御殿なんか要らないぢやありませんか。」
「そう言えば、まあ、そうだが、」
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「さう言へば、まあ、さうだが、」
と浦島はさらに桜桃のお酒を調合して飲み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね。」
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と浦島はさらに桜桃の酒を調合して飲み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね。」
「ええ、そうです。言葉というものは、生きていることの不安から、芽ばえて来たものじゃないですかね。腐った土から赤い毒きのこが生えて出るように、いのちの不安が言葉をふくらませているのじゃないのですか。よろこびの言葉もあるにはありますが、それにさえなお、いやらしい工夫がほどこされているじゃありませんか。人間は、よろこびの中にさえ、不安を感じているのでしょうかね。人間の言葉はみんな工夫です。気取ったものです。不安の無いところには、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでしょう。私は乙姫が、ものを言ったのを聞いたことが無い。しかし、また、黙っている人によくありがちな、口では何も言わないが心の中では鋭く人を評しているというんですか、そんな胸の中でひそかにきびしい観察をするなんてことも、乙姫は決してなさらない。何も考えてやしないんです。ただああして、かすかに笑って琴をかき鳴らしたり、またこの広間をふらふら歩きまわって、桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでいます。じつに、のんびりしたものです。」
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「ええ、さうです。言葉といふものは、生きてゐる事の不安から、芽ばえて来たものぢやないですかね。腐つた土から赤い毒きのこが生えて出るやうに、生命の不安が言葉を醗酵させてゐるのぢやないのですか。よろこびの言葉もあるにはありますが、それにさへなほ、いやらしい工夫がほどこされてゐるぢやありませんか。人間は、よろこびの中にさへ、不安を感じてゐるのでせうかね。人間の言葉はみんな工夫です。気取つたものです。不安の無いところには、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでせう。私は乙姫が、ものを言つたのを聞いた事が無い。しかし、また、黙つてゐる人によくありがちの、皮裏の陽秋といふんですか、そんな胸中ひそかに辛辣の観察を行ふなんて事も、乙姫は決してなさらない。何も考へてやしないんです。ただああして幽かに笑つて琴をかき鳴らしたり、またこの広間をふらふら歩きまはつて、桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでゐます。実に、のんびりしたものです。」
「そうかね。あのお方も、やっぱりこの桜桃のお酒を飲むかね。まったく、これは、いいからなあ。これさえあれば、何も要らない。もっといただいてもいいかしら。」
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「さうかね。あのお方も、やつぱりこの桜桃の酒を飲むかね。まつたく、これは、いいからなあ。これさへあれば、何も要らない。もつといただいてもいいかしら。」
「ええ、どうぞ。ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げています。あなたは無限に許されているのです。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩、すべて珍味です。油っこいのがいいですか。軽くちょっと酸っぱいようなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」
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「ええ、どうぞ。ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げてゐます。あなたは無限に許されてゐるのです。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩すべて珍味です。油つこいのがいいですか。軽くちよつと酸つぱいやうなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」
「ああ、琴の音が聞こえる。寝ころんで聞いてもいいんだろうね。」
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「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだらうね。」
無限に許されているという考え方は、実のところ、生まれてはじめてのものであった。
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無限に許されてゐるといふ思想は、実のところ生れてはじめてのものであつた。
浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向けにながながと寝そべり、「ああ、あ、酔って寝ころぶのは、いい気持ちだ。ついでに何か、食べてみようかな。雉(きじ)の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
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浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべり、「ああ、あ、酔つて寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
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「あります。」
「それと、それから、桑(くわ)の実のような味の藻は?」
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「それと、それから、桑の実のやうな味の藻は?」
「あるでしょう。しかし、あなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
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「あるでせう。しかし、あなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
「本性がばれたのさ。私は田舎者だよ。」
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「本性暴露さ。私は田舎者だよ。」
と言葉つきさえ、どこやら変わってきて、「これが風流の極み(きわみ)だってさ。」
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と言葉つきさへ、どこやら変つて来て、「これが風流の極致だつてさ。」
目を上げて見ると、はるか上のほうに、魚の天蓋がのどかに浮かびただよっているのが、青くかすんで見える。
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眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂つてゐるのが、青く霞んで見える。
とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらと分かれて、それぞれ銀のうろこを光らせて、空いっぱいに雪の降り乱れるように舞い遊ぶ。
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とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて満天に雪の降り乱れるやうに舞ひ遊ぶ。
竜宮には夜も昼も無い。
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竜宮には夜も昼も無い。
いつも五月の朝のようにさわやかで、木かげのような緑の光でいっぱいで、浦島は何日をここで過ごしたか、見当もつかない。
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いつも五月の朝の如く爽やかで、樹陰のやうな緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつかぬ。
その間、浦島は、それこそ無限に許されていた。
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その間、浦島は、それこそ無限に許されてゐた。
浦島は、乙姫のお部屋にも、入った。
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浦島は、乙姫のお部屋にも、はひつた。
乙姫は何のいやな顔も見せなかった。
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乙姫は何の嫌悪も示さなかつた。
ただ、かすかに笑っている。
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ただ、幽かに笑つてゐる。
そうして、浦島は、やがて飽きた。
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さうして、浦島は、やがて飽きた。
許されることに飽きたのかもしれない。
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許される事に飽きたのかも知れない。
陸の上の貧しい生活が恋しくなった。
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陸上の貧しい生活が恋しくなつた。
お互いに他人の批評を気にして、泣いたり怒ったり、けちくさくこそこそ暮らしている陸の上の人たちが、たまらなくいじらしくて、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われてきた。
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お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。
浦島は乙姫に向かって、さようなら、と言った。
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浦島は乙姫に向つて、さやうなら、と言つた。
この突然のいとまごい(別れのあいさつ)もまた、無言のほほえみで許された。
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この突然の暇乞ひもまた、無言の微笑でもつて許された。
つまり、何でも許された。
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つまり、何でも許された。
はじめから終わりまで、許された。
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始めから終りまで、許された。
乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙って小さい貝殻を差し出す。
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乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙つて小さい貝殻を差し出す。
まぶしい五色の光を放っている、ぴったり合わさった二枚貝である。
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まばゆい五彩の光を放つてゐるきつちり合つた二枚貝である。
これが、いわゆる竜宮のおみやげの玉手箱であった。
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これが所謂、竜宮のお土産の玉手箱であつた。
行きはよいよい帰りはこはい。
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行きはよいよい帰りはこはい。
また亀の背に乗って、浦島はぼんやりと竜宮から離れた。
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また亀の背に乗つて、浦島はぼんやり竜宮から離れた。
変な憂愁(ゆうしゅう・もの悲しい気持ち)が浦島の胸の中にわいて出る。
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へんな憂愁が浦島の胸中に湧いて出る。
ああ、お礼を言うのを忘れた。
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ああ、お礼を言ふのを忘れた。
あんないいところは、ほかに無いのだ。
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あんないいところは、他に無いのだ。
ああ、いつまでも、あそこにいたほうがよかった。
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ああ、いつまでも、あそこにゐたはうがよかつた。
しかし、私は陸の上の人間だ。
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しかし、私は陸上の人間だ。
どんなに安楽な暮らしをしていても、自分の家が、自分の故郷(さと)が、自分の頭のすみにこびりついて離れない。
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どんなに安楽な暮しをしてゐても、自分の家が、自分の里が、自分の頭の片隅にこびりついて離れぬ。
おいしいお酒に酔って眠っても、夢は、ふるさとの夢なんだからなあ。
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美酒に酔つて眠つても、夢は、故郷の夢なんだからなあ。
げっそりするよ。
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げつそりするよ。
私には、あんないいところで遊ぶ資格は無かった。
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私には、あんないいところで遊ぶ資格は無かつた。
「わあ、どうも、いかん。さびしいわい。」
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「わあ、どうも、いかん。淋しいわい。」
と浦島は、やけくそに似た大きい声で叫んだ。
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と浦島はやけくそに似た大きい声で叫んだ。
「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、亀。何とか、また景気のいい悪口でも言ってくれ。お前は、さっきから、何もひとことも、ものを言わないじゃないか。」
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「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、亀。何とか、また景気のいい悪口でも言つてくれ。お前は、さつきから、何も一ことも、ものを言はんぢやないか。」
亀はさっきから、ただ黙々とひれを動かしているばかり。
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亀は先刻から、ただ黙々と鰭を動かしてゐるばかり。
「怒っているのかね。私が竜宮から食い逃げ同様で帰るのを、お前は、怒っているのかね。」
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「怒つてゐるのかね。私が竜宮から食ひ逃げ同様で帰るのを、お前は、怒つてゐるのかね。」
「ひがんじゃいけねえ。陸の上の人はこれだからいやさ。帰りたくなったら帰るさ。どうでも、あなたの気の向いたように、とはじめから何度も言ってるじゃないか。」
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「ひがんぢやいけねえ。陸上の人はこれだからいやさ。帰りたくなつたら帰るさ。どうでも、あなたの気の向いたやうに、とはじめから何度も言つてるぢやないか。」
「でも、何だかお前、元気が無いじゃないか。」
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「でも、何だかお前、元気が無いぢやないか。」
「そう言うあなたこそ、妙にしょんぼりしてるぜ。私や、どうも、お迎えはいいけれど、このお見送りってやつは苦手だ。」
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「さう言ふあなたこそ、妙にしよんぼりしてゐるぜ。私や、どうも、お迎へはいいけれど、このお見送りつてやつは苦手だ。」
「行きはよいよい、かね。」
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「行きはよいよい、かね。」
「洒落どころじゃありません。どうも、このお見送りってやつは、気のはずまねえものだ。ため息ばかり出て、何を言ってもしらじらしく、いっそもう、この辺でお別れしてしまいたいようなものだ。」
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「洒落どころぢやありません。どうも、このお見送りつてやつは、気のはづまねえものだ。溜息ばかり出て、何を言つてもしらじらしく、いつそもう、この辺でお別れしてしまひたいやうなものだ。」
「やっぱり、お前もさびしいのかね。」
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「やつぱり、お前も淋しいのかね。」
浦島は、ほろりとして、「こんどはずいぶん、お前のお世話にもなったね。お礼を言います。」
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浦島は、ほろりとして、「こんどはずいぶん、お前のお世話にもなつたね。お礼を言ひます。」
亀は返事をせず、「なんだそんなこと」と言わんばかりに、ちょっと甲羅をゆすって、そうしてただ、せっせと泳ぐ。
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亀は返事をせず、なんだそんなこと、と言はぬばかりにちよつと甲羅をゆすつて、さうしてただ、せつせと泳ぐ。
「あのお方は、やっぱりあそこで、たったひとりで遊んでいるのだろうね。」
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「あのお方は、やつぱりあそこで、たつたひとりで遊んでゐるのだらうね。」
浦島は、いかにもやるせないようなため息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものじゃないだろうな。」
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浦島は、いかにもやるせないやうな溜息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものぢやないだらうな。」
亀はくすくす笑い出し、
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亀はくすくす笑ひ出し、
「ちょっと竜宮にいるうちに、あなたも、ばかに食い意地が張ってきましたね。それだけは、食べるものでは無いようです。私にもよくわかりませんが、その貝の中に何か入っているのじゃないんですか?」
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「ちよつと竜宮にゐるうちに、あなたも、ばかに食ひ意地が張つて来ましたね。それだけは、食べるものでは無いやうです。私にもよくわかりませんが、その貝の中に何かはひつてゐるのぢやないんですか?」
と亀は、ここで、あのエデンの園の蛇のように、何やら人の好奇心をそそるような妙なことを、ふいと言った。
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と亀は、ここに於いて、かのエデンの園の蛇の如く、何やら人の好奇心をそそるやうな妙な事を、ふいと言つた。
やはりこれも、爬虫類共通の宿命なのだろうか。
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やはりこれも、爬虫類共通の宿命なのであらうか。
いやいや、そう決めてしまうのは、この善良な亀に対して気の毒だ。
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いやいや、さうきめてしまふのは、この善良の亀に対して気の毒だ。
亀自身も以前、浦島に向かって、「しかし、私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の亀だ。」
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亀自身も以前、浦島に向つて、「しかし、私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の亀だ。」
と豪語している。
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と豪語してゐる。
信じてやらなけりゃかわいそうだ。
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信じてやらなけりや可哀想だ。
それにまた、この亀のこれまでの浦島に対する態度から判断しても、決してあのエデンの園の蛇のように、佞奸邪智(ねいかんじゃち・悪知恵で人をだますこと)で、おそろしい破滅のさそいをささやくような性質のものでは無いように思われる。
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それにまた、この亀のこれまでの浦島に対する態度から判断しても、決してかのエデンの園の蛇の如く、佞奸邪智にして、恐ろしい破滅の誘惑を囁くやうな性質のものでは無いやうに思はれる。
それどころか、いわゆる、さっきの鯉のぼりの吹き流しのような、見かけだおしでも憎めない、おしゃべりに過ぎないのではないかと思われる。
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それどころか、所謂さつきの鯉の吹流しの、愛すべき多弁家に過ぎないのではないかと思はれる。
つまり、何の悪気も無かったのだ。
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つまり、何の悪気も無かつたのだ。
私は、そのように解釈したい。
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私は、そのやうに解したい。
亀は、さらにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないほうがいいかもしれません。きっとその中には竜宮の精気(せいき・不思議な力)みたいなものがこもっているのでしょうから。それを陸の上であけたら、奇怪な蜃気楼(しんきろう・空中にうつって見える不思議な景色)が立ちのぼり、あなたを発狂させたり何かするかもしれないし、あるいはまた、海の潮が噴き出して大洪水を起こすことなども無いとは限らないし、とにかく海底の酸素を陸の上に放ってしまっては、どうせ、ろくなことが起こらないような気がしますよ。」
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亀は、さらにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないはうがいいかも知れません。きつとその中には竜宮の精気みたいなものがこもつてゐるのでせうから。それを陸上であけたら、奇怪な蜃気楼が立ち昇り、あなたを発狂させたり何かするかも知れないし、或いはまた、海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないし、とにかく海底の酸素を陸上に放散させては、どうせ、ろくな事が起らないやうな気がしますよ。」
とまじめに言う。
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と真面目に言ふ。
浦島は亀の親切を信じた。
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浦島は亀の深切を信じた。
「そうかもしれないね。あんな高貴な竜宮の雰囲気が、もしこの貝の中にひめられてあるとしたら、陸の上の俗悪な空気にふれた時には、戸惑って、大爆発でも起こすかもしれない。まあ、これはこうして、いつまでも大事に、家の宝として保存しておくことにしよう。」
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「さうかも知れないね。あんな高貴な竜宮の雰囲気が、もしこの貝の中にひめられてあるとしたら、陸上の俗悪な空気にふれた時には、戸惑ひして、大爆発でも起すかも知れない。まあ、これはかうして、いつまでも大事に、家の宝として保存して置くことにしよう。」
すでに海の上に浮かぶ。
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既に海上に浮ぶ。
太陽の光がまぶしい。
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太陽の光がまぶしい。
ふるさとの浜が見える。
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ふるさとの浜が見える。
浦島はいまは一刻も早く、わが家に駆けこみ、父母や弟妹、また大勢の使用人たちを集めて、くわしく竜宮のようすを話して聞かせ、「冒険とは信じる力だ。この世の風流なんてものは、けちくさい猿まねだ。正統というのは、あれは通俗(つうぞく・ありきたりでつまらないこと)の別の言い方さ、わかるかね。本当の上品(じょうぼん)というのは聖諦の境地さ、ただのあきらめじゃ無いぜ、わかるかね。批評なんてうるさいものは無いんだ、無限に許されているんだ。そうしてただ、ほほえみがあるだけだ、わかるかね。客を忘れているのだ、わかるまい」などと、それこそ、たったいま聞いてきたばかりの新しい知識を、めちゃくちゃに振りまわして、そうしてあの現実主義の弟のやつが、もし少しでも疑うような顔つきを見せた時には、すなわちこの竜宮の美しい
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浦島はいまは一刻も早く、わが家に駈け込み、父母弟妹、また大勢の使用人たちを集めて、つぶさに竜宮の模様を物語り、冒険とは信じる力だ、この世の風流なんてものはケチくさい猿真似だ、正統といふのは、あれは通俗の別称さ、わかるかね、真の上品といふのは聖諦の境地さ、ただのあきらめぢや無いぜ、わかるかね、批評なんてうるさいものは無いんだ、無限に許されてゐるんだ、さうしてただ微笑があるだけだ、わかるかね、客を忘れてゐるのだ、わかるまい、などとそれこそ、たつたいま聞いて来たふうの新知識を、めちや苦茶に振りまはして、さうしてあの現実主義の弟のやつが、もし少しでも疑ふやうな顔つきを見せた時には、すなはちこの竜宮の美
お土産をあいつの鼻先に突きつけて、ぎゃふんと参らせてやろう、と意気込み、亀に別れのあいさつをするのも忘れて、波打ちぎわに飛び降り、あたふたと生まれた家に向かって急ぐと、
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しいお土産をあいつの鼻先につきつけて、ぎやふんと参らせてやらう、と意気込み、亀に別離の挨拶するのも忘れて汀に飛び降り、あたふたと生家に向つて急けば、
ドウシタンデセウ モトノサト
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ドウシタンデセウ モトノサト
ドウシタンデセウ モトノイヘ
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ドウシタンデセウ モトノイヘ
ミワタスカギリ アレノハラ
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ミワタスカギリ アレノハラ
ヒトノカゲナク ミチモナク
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ヒトノカゲナク ミチモナク
マツフクカゼノ オトバカリ
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マツフクカゼノ オトバカリ
という段取りになるのである。
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といふ段どりになるのである。
浦島は、さんざん迷った末に、とうとうあの竜宮のお土産の貝殻をあけて見るということになるのであるが、これについて、あの亀が責任を負う必要はないように思われる。
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浦島は、さんざん迷つた末に、たうとうかの竜宮のお土産の貝殻をあけて見るといふ事になるのであるが、これに就いて、あの亀が責任を負ふ必要はないやうに思はれる。
「あけてはならぬ」
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「あけてはならぬ」
と言われると、なお、あけて見たい誘惑を感じるという人間の弱さは、この浦島の物語に限らず、ギリシャ神話のパンドラの箱の物語においても、それと同じような心理があつかわれているようだ。
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と言はれると、なほ、あけて見たい誘惑を感ずると云ふ人間の弱点は、この浦島の物語に限らず、ギリシヤ神話のパンドラの箱の物語に於いても、それと同様の心理が取りあつかはれてゐるやうだ。
しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐がたくらまれていたのである。
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しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐が企図せられてゐたのである。
「あけてはならぬ」
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「あけてはならぬ」
というひとことが、パンドラの好奇心を刺激して、きっと後日パンドラが、その箱をあけて見るに違いないという意地悪な予想のもとに、「あけるな」
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といふ一言が、パンドラの好奇心を刺戟して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて見るにちがひないといふ意地悪い予想のもとに「あけるな」
という禁じ事を言い渡したのである。
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といふ禁制を宣告したのである。
それにひきかえ、われわれの善良な亀は、まったくの親切から浦島にそれを言ったのだ。
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それに引きかへ、われわれの善良な亀は、まつたくの深切から浦島にそれを言つたのだ。
あの時の亀の、ほかに何も考えていなさそうな言い方からしても、それは信じていいと思う。
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あの時の亀の、余念なささうな言ひ方に依つても、それは信じていいと思ふ。
あの亀は正直者だ。
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あの亀は正直者だ。
あの亀には責任が無い。
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あの亀には責任が無い。
それは私も確信をもって証言できるのであるが、さて、もう一つ、ここに妙な、納得のいかない問題が残っている。
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それは私も確信をもつて証言できるのであるが、さて、もう一つ、ここに妙な腑に落ちない問題が残つてゐる。
浦島は、その竜宮のお土産をあけてみると、中から白い煙が立ちのぼり、たちまち彼は三百歳ほどのおじいさんになって、「だから、あけなきゃよかったのに、つまらないことになった、お気の毒に」などというところで終わりになるのが、一般に伝えられている「浦島さん」
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浦島は、その竜宮のお土産をあけて見ると、中から白い煙が立ち昇り、たちまち彼は三百歳だかのお爺さんになつて、だから、あけなきやよかつたのに、つまらない事になつた、お気の毒に、などといふところでおしまひになるのが、一般に伝へられてゐる「浦島さん」
の物語であるが、私はそれについて深い疑いにとらわれている。
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物語であるが、私はそれに就いて深い疑念にとらはれてゐる。
するとこの竜宮のお土産も、あの人間のさまざまな禍(わざわい)の種でいっぱいのパンドラの箱のように、乙姫の深刻な復讐、あるいは罰の意味をひめた贈り物であったのか。
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するとこの竜宮のお土産も、あの人間のもろもろの禍の種の充満したパンドラの箱の如く、乙姫の深刻な復讐、或いは懲罰の意を秘めた贈り物であつたのか。
あのように何も言わず、ただほほえんで無限に許しているようなそぶりを見せながらも、心の中にはひそかに、きびしい評価をひめていて、浦島のわがままをひとつも許さず、厳しい罰を与えるつもりで、あの貝殻を与えたのか。
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あのやうに何も言はず、ただ微笑して無限に許してゐるやうな素振りを見せながらも、皮裏にひそかに峻酷の陽秋を蔵してゐて、浦島のわがままを一つも許さず、厳罰を課する意味であの貝殻を与へたのか。
いや、それほど極端な悲観論を唱えなくても、あるいは、貴人(きじん)というものは、しばしば、むごいからかいを平気でするものであるから、乙姫もまったく無邪気ないたずらのつもりで、こんな意地の悪い冗談をやらかしたのか。
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いや、それほど極端の悲観論を称へずとも、或いは、貴人といふものは、しばしば、むごい嘲弄を平気でするものであるから、乙姫もまつたく無邪気の悪戯のつもりで、こんなひとのわるい冗談をやらかしたのか。
いずれにしても、あの本当の上品(じょうぼん)であるはずの乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与えたとは、不可解きわまることである。
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いづれにしても、あの真の上品の筈の乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与へたとは、不可解きはまる事である。
パンドラの箱の中には、病気、恐怖、恨み、哀しみ、疑い、嫉妬(しっと)、怒り、憎しみ、のろい、あせり、後悔、卑屈(ひくつ)、欲深さ、うそ、怠け心、暴力などの、あらゆる不吉な妖魔(ようま)が入っていて、パンドラがその箱をそっとあけると同時に、羽アリの大群のように一斉に飛び出し、この世の隅から隅まで、残らずはびこるようになったということになっているが、しかし、ぼう然としたパンドラが、うなだれて、そのからっぽの箱の底をながめた時、その底の闇に、一つの星のように輝いている小さな宝石を見つけたというではないか。
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パンドラの箱の中には、疾病、恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪咀、焦慮、後悔、卑屈、貪慾、虚偽、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔がはひつてゐて、パンドラがその箱をそつとあけると同時に、羽蟻の大群の如く一斉に飛び出し、この世の隅から隅まで残るくまなくはびこるに到つたといふ事になつてゐるが、しかし、呆然たるパンドラが、うなだれて、そのからつぽの箱の底を眺めた時、その底の闇に一点の星のやうに輝いてゐる小さな宝石を見つけたといふではないか。
そうして、その宝石には、なんと、「希望」
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さうして、その宝石には、なんと、「希望」
という字が書かれていたという。
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といふ字がしたためられてゐたといふ。
これによって、パンドラの青白いほおにも、かすかに血の色がのぼったという。
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これに依つて、パンドラの蒼白の頬にも、幽かに血の色がのぼつたといふ。
それ以来、人間は、どんな苦痛の妖魔におそわれても、この「希望」
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それ以来、人間は、いかなる苦痛の妖魔に襲はれても、この「希望」
によって、勇気を得て、困難に耐え忍ぶことができるようになったという。
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に依つて、勇気を得、困難に堪へ忍ぶ事が出来るやうになつたといふ。
それに比べて、この竜宮のお土産は、愛嬌(あいきょう)も何もない。
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それに較べて、この竜宮のお土産は、愛嬌も何もない。
ただ、煙だ。
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ただ、煙だ。
そうして、たちまち三百歳のおじいさんである。
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さうして、たちまち三百歳のお爺さんである。
よしんば(たとえ)、その「希望」
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よしんば、その「希望」
の星が貝殻の底に残っていたとしたところで、浦島さんはすでに三百歳である。
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の星が貝殻の底に残つてゐたとしたところで、浦島さんは既に三百歳である。
三百歳のおじいさんに「希望」
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三百歳のお爺さんに「希望」
を与えたって、それは悪ふざけに似ている。
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を与へたつて、それは悪ふざけに似てゐる。
どだい、無理だ。
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どだい、無理だ。
それでは、ここで一つ、いつもの「聖諦」
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それでは、ここで一つ、れいの「聖諦」
を与えてみたらどうか。
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を与へてみたらどうか。
しかし、相手は三百歳である。
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しかし、相手は三百歳である。
いまさら、そんな気取ったきざったらしいものを与えなくたって、人間、三百歳にもなりゃ、いいかげん、あきらめているよ。
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いまさら、そんな気取つたきざつたらしいものを与へなくたつて、人間三百歳にもなりや、いい加減、諦めてゐるよ。
結局、何もかも駄目である。
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結局、何もかも駄目である。
救いの手の差しのべようが無い。
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救済の手の差伸べやうが無い。
どうにも、これはひどいお土産をもらってきたものだ。
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どうにも、これはひどいお土産をもらつて来たものだ。
しかし、ここで匙(さじ)を投げたら、あるいは、日本のお伽噺(おとぎばなし)はギリシャ神話よりも残酷である。
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しかし、ここで匙を投げたら、或いは、日本のお伽噺はギリシヤ神話よりも残酷である。
などと外国人に言われるかもしれない。
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などと外国人に言はれるかも知れない。
それはいかにも無念(むねん・くやしいこと)なことだ。
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それはいかにも無念な事だ。
また、あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして、この不可解なお土産に、尊い意義(いぎ・意味や値打ち)を見つけたいものである。
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また、あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を発見したいものである。
いくら竜宮の数日が、陸の上の数百年に当たるとは言え、何もその歳月を、ややこしいお土産などにして、浦島に持たせてよこさなくてもよさそうなものだ。
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いかに竜宮の数日が陸上の数百年に当るとは言へ、何もその歳月を、ややこしいお土産などにして浦島に持たせてよこさなくてもよささうなものだ。
浦島が竜宮から海の上に浮かび出たとたんに、白髪の三百歳に変わったというのなら、まだ話がわかる。
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浦島が竜宮から海の上に浮かび出たとたんに、白髪の三百歳に変化したといふのなら、まだ話がわかる。
また、乙姫のお情けで、浦島をいつまでも青年にしておくつもりだったのならば、そんな危険な「あけてはならぬ」
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また、乙姫のお情で、浦島をいつまでも青年にして置くつもりだつたのならば、そんな危険な「あけてはならぬ」
品物を、わざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。
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品物を、わざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。
竜宮のどこかのすみに、捨てておいたっていいじゃないか。
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竜宮のどこかの隅に捨てて置いたつていいぢやないか。
それとも、「お前のたれた糞尿(ふんにょう)は、お前が持って帰ったらいいだろう」という意味なのだろうか。
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それとも、お前のたれた糞尿は、お前が持つて帰つたらいいだらう、といふ意味なのだらうか。
それでは、何だかひどく下品な「面当(つらあ)て」
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それでは、何だかひどく下等な「面当て」
みたいだ。
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みたいだ。
まさかあの聖諦の乙姫が、そんな長屋の夫婦げんかみたいなことをたくらむとは考えられない。
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まさかあの聖諦の乙姫が、そんな長屋の夫婦喧嘩みたいな事をたくらむとは考へられない。
どうも、わからない。
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どうも、わからぬ。
私は、それについて長い間、思案した。
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私は、それに就いて永い間、思案した。
そうして、このごろになって、ようやく少しわかってきたような気がしてきたのである。
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さうして、このごろに到つて、やうやく少しわかつて来たやうな気がして来たのである。
つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとって不幸であったという先入観(せんにゅうかん・前から思いこんでいる考え)によって、間違った考えをさせられてきたのである。
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つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて来たのである。
絵本にも、浦島は三百歳になって、それから、「実に、悲惨な身の上になったものさ。気の毒だ。」
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絵本にも、浦島は三百歳になつて、それから、「実に、悲惨な身の上になつたものさ。気の毒だ。」
などというようなことは書かれていない。
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などといふやうな事は書かれてゐない。
タチマチ シラガノ オジイサン
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タチマチ シラガノ オヂイサン
それでおしまいである。
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それでおしまひである。
気の毒だ、馬鹿だ、などというのは、私たち俗人(ぞくじん・ふつうの人間)の勝手な思いこみに過ぎない。
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気の毒だ、馬鹿だ、などといふのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。
三百歳になったのは、浦島にとって、決して不幸ではなかったのだ。
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三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつたのだ。
貝殻の底に、「希望」
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貝殻の底に、「希望」
の星があって、それで救われたなんてのは、考えてみると、ちょっと少女趣味で、作りものの感じがしないでもない気もするが、浦島は、立ちのぼる煙それ自体で救われているのである。
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の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救はれてゐるのである。
貝殻の底には、何も残っていなくたっていい。
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貝殻の底には、何も残つてゐなくたつていい。
そんなものは問題でないのだ。
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そんなものは問題でないのだ。
いわく、
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曰く、
年月は、人間の救いである。
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年月は、人間の救ひである。
忘却(ぼうきゃく・忘れること)は、人間の救いである。
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忘却は、人間の救ひである。
竜宮の高貴なもてなしも、このすばらしいお土産によって、まさに最高潮に達したと言える。
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竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した観がある。
思い出は、遠くへだたるほど美しいというではないか。
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思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。
しかも、その三百年をむかえるかどうかさえ、浦島自身の気持ちにゆだねた。
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しかも、その三百年の招来をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。
ここに至っても、浦島は、乙姫から無限の許しを得ていたのである。
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ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。
さびしくなかったら、浦島は、貝殻をあけて見るようなことはしないだろう。
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淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。
どうしようもなく、この貝殻ひとつに救いを求めた時には、あけるかもしれない。
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どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。
あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却(ぼうきゃく)である。
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あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。
これ以上の説明はよそう。
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これ以上の説明はよさう。
日本のお伽噺には、このような深い慈悲(じひ・思いやりの心)がある。
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日本のお伽噺には、このやうな深い慈悲がある。
浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。
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浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。
カチカチ山
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カチカチ山
カチカチ山の物語に出てくるうさぎは少女、そうして、あのみじめな敗北を味わうたぬきは、そのうさぎの少女に恋をしている、みにくい男。
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カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。
これはもう、疑いようのないはっきりとした事実のように私には思われる。
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これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。
これは甲州(こうしゅう・いまの山梨県)、富士五湖の一つ、河口湖のほとり、いまの船津(ふなつ)の裏山あたりで起きた事件であるという。
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これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行はれた事件であるといふ。
甲州の人情は、荒っぽい。
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甲州の人情は、荒つぽい。
そのせいか、この物語も、他のお伽噺にくらべて、いくぶん荒っぽくできている。
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そのせゐか、この物語も、他のお伽噺に較べて、いくぶん荒つぽく出来てゐる。
だいいち、どうも、物語のはじまりからして、むごい。
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だいいち、どうも、物語の発端からして酷だ。
婆汁(ばばじる・おばあさんを煮て作った汁)なんてのは、ひどい。
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婆汁なんてのは、ひどい。
冗談にも洒落にもなってやしない。
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お道化にも洒落にもなつてやしない。
たぬきも、つまらないいたずらをしたものである。
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狸も、つまらない悪戯をしたものである。
縁の下におばあさんの骨が散らばっていたなんて場面になると、まさにむごたらしさの極みであって、いわゆる児童読み物としては、残念ながら発売禁止の憂き目に遭わざるを得ないところであろう。
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縁の下に婆さんの骨が散らばつてゐたなんて段に到ると、まさに陰惨の極度であつて、所謂児童読物としては、遺憾ながら発売禁止の憂目に遭はざるを得ないところであらう。
いま発行されているカチカチ山の絵本は、それゆえ、たぬきがおばあさんに怪我をさせて逃げた、というような具合に、賢くごまかしているようである。
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現今発行せられてゐるカチカチ山の絵本は、それゆゑ、狸が婆さんに怪我をさせて逃げたなんて工合に、賢明にごまかしてゐるやうである。
それはまあ、発売禁止も避けられるし、大いによいことであろうが、しかし、たったそれだけのいたずらに対する罰としては、どうも、うさぎのしうちは、しつこすぎる。
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それはまあ、発売禁止も避けられるし、大いによろしい事であらうが、しかし、たつたそれだけの悪戯に対する懲罰としてはどうも、兎の仕打は、執拗すぎる。
一撃のもとに倒すというような、さわやかな仕返しではない。
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一撃のもとに倒すといふやうな颯爽たる仇討ちではない。
半殺しの状態にして、いじめて、いじめて、そうして最後は泥の舟でぶくぶくである。
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生殺しにして、なぶつて、なぶつて、さうして最後は泥舟でぶくぶくである。
その手段は、一から十までだましごとである。
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その手段は、一から十まで詭計である。
これは日本の武士道のやり方ではない。
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これは日本の武士道の作法ではない。
しかし、たぬきが婆汁などという、たちの悪いだましごとを行ったのならば、そのしかえしとして、それくらいのしつこいいじめを受けるのは仕方の無いところでもあろうと、わからなくもないのだが、子どもの心に与える影響、ならびに発売禁止のおそれを考えて、たぬきがただおばあさんに怪我をさせて逃げただけの罰として、うさぎからあのようなかずかずの恥や苦痛と、やがて、みっともないことこの上ない溺死(できし・おぼれて死ぬこと)を与えられるのは、いささか不当なようにも思われる。
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しかし、狸が婆汁などといふ悪どい欺術を行つたのならば、その返報として、それくらゐの執拗のいたぶりを受けるのは致し方の無いところでもあらうと合点のいかない事もないのであるが、童心に与へる影響ならびに発売禁止のおそれを顧慮して、狸が単に婆さんに怪我をさせて逃げた罰として兎からあのやうなかずかずの恥辱と苦痛と、やがてぶていさい極まる溺死とを与へられるのは、いささか不当のやうにも思はれる。
もともとこのたぬきは、何の罪もなく、山でのんびり遊んでいたのを、おじいさんに捕まえられ、そうしてたぬき汁にされるという絶望的な運命にたどり着き、それでも何とかして生きる道を切りひらきたくて、もがき苦しみ、苦しまぎれの策としておばあさんをだまし、九死に一生(きゅうしにいっしょう・ほとんど助からない命を、やっと助けられること)を得たのである。
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もともとこの狸は、何の罪とがも無く、山でのんびり遊んでゐたのを、爺さんに捕へられ、さうして狸汁にされるといふ絶望的な運命に到達し、それでも何とかして一条の血路を切りひらきたく、もがき苦しみ、窮余の策として婆さんを欺き、九死に一生を得たのである。
婆汁なんかをたくらんだのは大いに悪いが、しかし、このごろの絵本のように、逃げるついでにおばあさんをひっかいて怪我をさせたくらいのことは、たぬきもその時は必死の努力で、いわば正当防衛のために無我夢中であがいて、気づかないうちにおばあさんに怪我をあたえたのかもしれないし、それはそんなに憎むべき罪でも無いように思われる。
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婆汁なんかをたくらんだのは大いに悪いが、しかし、このごろの絵本のやうに、逃げるついでに婆さんを引掻いて怪我させたくらゐの事は、狸もその時は必死の努力で、謂はば正当防衛のために無我夢中であがいて、意識せずに婆さんに怪我を与へたのかも知れないし、それはそんなに憎むべき罪でも無いやうに思はれる。
私の家の五歳の娘は、器量(きりょう・顔立ち)も父に似てひどく劣っているが、頭も、また不幸にも父に似て、へんなところがあるようだ。
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私の家の五歳の娘は、器量も父に似て頗るまづいが、頭脳もまた不幸にも父に似て、へんなところがあるやうだ。
私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやったら、
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私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやつたら、
「たぬきさん、かわいそうね。」
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「狸さん、可哀想ね。」
と意外なことを口走った。
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と意外な事を口走つた。
もっとも、この娘の「かわいそう」
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もつとも、この娘の「可哀想」
は、このごろの彼女の口癖(くちぐせ)で、何を見ても「かわいそう」
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は、このごろの彼女の一つ覚えで、何を見ても「可哀想」
を連発し、それによって子に甘い母のほめ言葉を得ようという下心が、あからさまに見え透いているのであるから、特に驚くには当たらない。
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を連発し、以て子に甘い母の称讃を得ようといふ下心が露骨に見え透いてゐるのであるから、格別おどろくには当らない。
あるいは、この子は、父に連れられて近所の井の頭(いのかしら)動物園に行った時、おりの中をたえずチョコチョコ歩きまわっているたぬきの一群をながめ、かわいらしい動物であると思いこみ、それゆえ、このカチカチ山の物語においても、理由のいかんを問わず、たぬきをひいきしていたのかもしれない。
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或いは、この子は、父に連れられて近所の井の頭動物園に行つた時、檻の中を絶えずチヨコチヨコ歩きまはつてゐる狸の一群を眺め、愛すべき動物であると思ひ込み、それゆゑ、このカチカチ山の物語に於いても、理由の如何を問はず、狸に贔屓してゐたのかも知れない。
いずれにしても、わが家の小さい同情者の言葉は、あまりあてにならない。
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いづれにしても、わが家の小さい同情者の言は、あまりあてにならない。
考えの根拠が、しっかりしていない。
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思想の根拠が、薄弱である。
同情する理由が、はっきりしない。
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同情の理由が、朦朧としてゐる。
どだい、何も、問題にする価値が無い。
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どだい、何も、問題にする価値が無い。
しかし私は、その娘の無責任きわまる放言を聞いて、あるヒントを与えられた。
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しかし私は、その娘の無責任きはまる放言を聞いて、或る暗示を与へられた。
この子は、何も知らずにただ、このごろ覚えた言葉をでたらめにつぶやいただけのことであるが、しかし、父はその言葉によって、あることに気づいた。なるほど、これでは少し、うさぎのしうちがひどすぎる。こんな小さい子どもたちなら、まあ何とか言ってごまかせるけれども、もっと大きい子どもで、武士道とか正々堂々とかの考えをすでに教えられている者には、このうさぎの懲罰(ちょうばつ・罰を与えること)は、いわゆる「やり方が汚い」
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この子は、何も知らずにただ、このごろ覚えた言葉を出鱈目に呟いただけの事であるが、しかし、父はその言葉に依つて、なるほど、これでは少し兎の仕打がひどすぎる、こんな小さい子供たちなら、まあ何とか言つてごまかせるけれども、もつと大きい子供で、武士道とか正々堂々とかの観念を既に教育せられてゐる者には、この兎の懲罰は所謂「やりかたが汚い」
と思われはしないか。これは問題だ、と愚かな父は眉をひそめたというわけである。
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と思はれはせぬか、これは問題だ、と愚かな父は眉をひそめたといふわけである。
このごろの絵本のように、たぬきがおばあさんに単なるひっかき傷を与えたくらいで、このようにうさぎに意地悪くもてあそばれ、背中は焼かれ、その焼かれた場所には唐辛子(とうがらし)を塗られ、あげくの果てには泥舟に乗せられて殺されるという悲惨な運命にたどりつくという筋書きでは、国民学校(いまの小学校)にかよっているほどの子どもならば、すぐに不審を抱くであろうことはもちろん、たとえたぬきが、けしからん婆汁などを試みたとしても、なぜ正々堂々と名乗りをあげて、こらしめの一太刀を加えなかったのか。
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このごろの絵本のやうに、狸が婆さんに単なる引掻き傷を与へたくらゐで、このやうに兎に意地悪く飜弄せられ、背中は焼かれ、その焼かれた個所には唐辛子を塗られ、あげくの果には泥舟に乗せられて殺されるといふ悲惨の運命に立ち到るといふ筋書では、国民学校にかよつてゐるほどの子供ならば、すぐに不審を抱くであらう事は勿論、よしんば狸が、不埒な婆汁などを試みたとしても、なぜ正々堂々と名乗りを挙げて彼に膺懲の一太刀を加へなかつたか。
うさぎが力が弱いから、などというのは、この場合、言いわけにならない。
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兎が非力であるから、などはこの場合、弁解にならない。
仇討ちは、当然、正々堂々とすべきである。
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仇討ちは須く正々堂々たるべきである。
神は正義に味方する。
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神は正義に味方する。
かなわないまでも、天誅(てんちゅう・天に代わって悪を罰すること)!
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かなはぬまでも、天誅!
と一声叫んで、真正面から躍りかかって行くべきである。
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と一声叫んで真正面からをどりかかつて行くべきである。
あまりにも腕前の差がひどかったならば、その時には臥薪嘗胆(がしんしょうたん・苦しみに耐えて努力を続けること)して、鞍馬山(くらまやま)にでも入って、一心に剣術の修行をすることだ。
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あまりにも腕前の差がひどかつたならば、その時には臥薪嘗胆、鞍馬山にでもはひつて一心に剣術の修行をする事だ。
昔から日本の偉い人たちは、たいていそれをやっている。
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昔から日本の偉い人たちは、たいていそれをやつてゐる。
どんな事情があろうと、だましごとを用いて、しかもなぶり殺しにするなどという仇討ちの物語は、日本にまだ無いようだ。
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いかなる事情があらうと、詭計を用ゐて、しかもなぶり殺しにするなどといふ仇討物語は、日本に未だ無いやうだ。
それをこのカチカチ山ばかりは、どうも、その仇討ちのやり方がよくない。
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それをこのカチカチ山ばかりは、どうも、その仇討の仕方が芳しくない。
どだい、男らしくないじゃないか、と、子どもでも、また大人でも、いやしくも正義にあこがれている人間ならば、誰でもこれについては、いささか不快な気持ちを覚えるのではあるまいか。
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どだい、男らしくないぢやないか、と子供でも、また大人でも、いやしくも正義にあこがれてゐる人間ならば、誰でもこれに就いてはいささか不快の情を覚えるのではあるまいか。
安心したまえ。
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安心し給へ。
私もそれについて、考えた。
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私もそれに就いて、考へた。
そうして、うさぎのやり方が男らしくないのは、それは当然だということがわかった。
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さうして、兎のやり方が男らしくないのは、それは当然だといふ事がわかつた。
このうさぎは男じゃないんだ。
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この兎は男ぢやないんだ。
それは、たしかだ。
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それは、たしかだ。
このうさぎは十六歳の少女(処女)だ。
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この兎は十六歳の処女だ。
まだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。
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いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。
そうして、人間のうちで最も残酷なのは、ともすれば、この手の女性である。
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さうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。
ギリシャ神話には美しい女神がたくさん出て来るが、その中でも、ヴィーナスを除いては、アルテミスという処女の女神が、最も魅力ある女神とされているようだ。
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ギリシヤ神話には美しい女神がたくさん出て来るが、その中でも、ヴイナスを除いては、アルテミスといふ処女神が最も魅力ある女神とせられてゐるやうだ。
ご存じのように、アルテミスは月の女神で、額(ひたい)には青白い三日月が輝き、そうしてすばしこくて気が強く、一口で言えば、アポロンをそのまま女にしたような神である。
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ご承知のやうに、アルテミスは月の女神で、額には青白い三日月が輝き、さうして敏捷できかぬ気で、一口で言へばアポロンをそのまま女にしたやうな神である。
そうして、下の世界のおそろしい猛獣は、全部この女神の家来である。
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さうして下界のおそろしい猛獣は全部この女神の家来である。
けれども、その姿は決して荒っぽくてがんじょうな大女ではない。
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けれども、その姿態は決して荒くれて岩乗な大女ではない。
むしろ小柄で、ほっそりとして、手足も華奢(きゃしゃ・ほっそりして繊細なこと)でかわいく、ぞっとするほどあやしく美しい顔をしているが、しかし、ヴィーナスのような「女らしさ」
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むしろ小柄で、ほつそりとして、手足も華奢で可愛く、ぞつとするほどあやしく美しい顔をしてゐるが、しかし、ヴイナスのやうな「女らしさ」
が無く、胸も小さい。
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が無く、乳房も小さい。
気にいらない者には平気で残酷なことをする。
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気にいらぬ者には平気で残酷な事をする。
自分が水浴びをしているところをのぞき見した男に、さっと水をぶっかけて、鹿にしてしまったことさえある。
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自分の水浴してゐるところを覗き見した男に、颯つと水をぶつかけて鹿にしてしまつた事さへある。
水浴びの姿をちらと見ただけでも、そんなに怒るのである。
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水浴の姿をちらと見ただけでも、そんなに怒るのである。
手なんか握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。
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手なんか握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。
こんな女に惚れたら、男は、みじめでひどい大恥をかくにきまっている。
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こんな女に惚れたら、男は惨憺たる大恥辱を受けるにきまつてゐる。
けれども、男は、それも愚か(おろか)な男ほど、こんな危険な女性に惚れこみやすいものである。
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けれども、男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易いものである。
そうして、その結果は、たいてい決まっているのである。
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さうして、その結果は、たいていきまつてゐるのである。
疑う者は、この気の毒なたぬきを見るがよい。
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疑ふものは、この気の毒な狸を見るがよい。
たぬきは、そのようなアルテミス型のうさぎの少女に、かねてひそかに思慕(しぼ・恋しく思う気持ち)の情を寄せていたのだ。
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狸は、そのやうなアルテミス型の兎の少女に、かねてひそかに思慕の情を寄せてゐたのだ。
うさぎが、このアルテミス型の少女だったと考えると、あのたぬきが婆汁か、ひっかき傷か、どちらの罪を犯した場合でも、その懲罰が、変にねじけて意地悪く、そうして「男らしく」
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兎が、このアルテミス型の少女だつたと規定すると、あの狸が婆汁か引掻き傷かいづれの罪を犯した場合でも、その懲罰が、へんに意地くね悪く、さうして「男らしく」
ないのが当然だと、ため息とともにうなずかざるを得ないわけである。
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ないのが当然だと、溜息と共に首肯せられなければならぬわけである。
しかも、このたぬきというのが、アルテミス型の少女に惚れる男のご多分にもれず、たぬき仲間でも見た目がぱっとせず、ただ丸々と太っていて、愚か(おろか)で大食いの野暮天(やぼてん・気のきかない者)であったというのだから、そのみじめななりゆきは、察するに余りある。
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しかも、この狸たるや、アルテミス型の少女に惚れる男のごたぶんにもれず、狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天であつたといふに於いては、その悲惨のなり行きは推するに余りがある。
たぬきはおじいさんに捕まえられ、もう少しのところでたぬき汁にされるところであったが、あのうさぎの少女にひと目また会いたくて、大いにあがいて、やっと逃れて山へ帰り、ぶつぶつ何か言いながら、うろうろとうさぎを捜し歩き、やっと見つけて、
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狸は爺さんに捕へられ、もう少しのところで狸汁にされるところであつたが、あの兎の少女にひとめまた逢ひたくて、大いにあがいて、やつと逃れて山へ帰り、ぶつぶつ何か言ひながら、うろうろ兎を捜し歩き、やつと見つけて、
「よろこんでくれ! おれは命拾いをしたぞ。おじいさんの留守をねらって、あのおばあさんを、えい、とばかりにやっつけて逃げて来た。おれは運の強い男さ。」
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「よろこんでくれ! おれは命拾ひをしたぞ。爺さんの留守をねらつて、あの婆さんを、えい、とばかりにやつつけて逃げて来た。おれは運の強い男さ。」
と得意満面、このたびの大厄難(だいやくなん・大変な災難)を切りぬけたてん末を、つばを飛ばし散らしながら物語る。
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と得意満面、このたびの大厄難突破の次第を、唾を飛ばし散らしながら物語る。
うさぎはぴょんと飛びしりぞいてつばを避け、「ふん」といったような顔つきで話を聞き、
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兎はぴよんと飛びしりぞいて唾を避け、ふん、といつたやうな顔つきで話を聞き、
「何も私が、よろこぶわけは無いじゃないの。きたないわよ、そんなにつばを飛ばして。それに、あのおじいさんおばあさんは、私のお友達よ。知らなかったの?」
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「何も私が、よろこぶわけは無いぢやないの。きたないわよ、そんなに唾を飛ばして。それに、あの爺さん婆さんは、私のお友達よ。知らなかつたの?」
「そうか、」
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「さうか、」
とたぬきは愕然(がくぜん)として、「知らなかった。かんべんしてくれ。そうと知っていたら、おれは、たぬき汁にでも何にでも、なってやったのに。」
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と狸は愕然として、「知らなかつた。かんべんしてくれ。さうと知つてゐたら、おれは、狸汁にでも何にでも、なつてやつたのに。」
と、しょんぼりする。
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と、しよんぼりする。
「いまさら、そんなことを言ったって、もうおそいわ。あのお家の庭先に私が時々あそびに行って、そうして、おいしいやわらかな豆なんかごちそうになったのを、あなただって知ってたじゃないの。それだのに、知らなかったなんて嘘ついて、ひどいわ。あなたは、私の敵よ。」
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「いまさら、そんな事を言つたつて、もうおそいわ。あのお家の庭先に私が時々あそびに行つて、さうして、おいしいやはらかな豆なんかごちそうになつたのを、あなただつて知つてたぢやないの。それだのに、知らなかつたなんて嘘ついて、ひどいわ。あなたは、私の敵よ。」
と、むごい宣告をする。
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とむごい宣告をする。
うさぎにはもうこの時すでに、たぬきに対してある種の復讐を加えてやろうという心が動いている。
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兎にはもうこの時すでに、狸に対して或る種の復讐を加へてやらうといふ心が動いてゐる。
少女の怒りは辛辣(しんらつ・きびしくて容赦がないこと)である。
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処女の怒りは辛辣である。
特に、みにくくておろかなものに対しては容赦(ようしゃ)が無い。
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殊にも醜悪な魯鈍なものに対しては容赦が無い。
「ゆるしてくれよ。おれは、ほんとに、知らなかったのだ。嘘なんかつかない。信じてくれよ。」
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「ゆるしてくれよ。おれは、ほんとに、知らなかつたのだ。嘘なんかつかない。信じてくれよ。」
と、いやにねばっこい口調で歎願(たんがん・お願いすること)して、首を長くのばしてうなだれて見せて、そばに木の実が一つ落ちているのを見つけ、ひょいと拾って食べて、もっと無いかとあたりをきょろきょろ見まわしながら、「本当にもう、お前にそんなに怒られると、おれはもう、死にたくなるんだ。」
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と、いやにねばつこい口調で歎願して、頸を長くのばしてうなだれて見せて、傍に木の実が一つ落ちてゐるのを見つけ、ひよいと拾つて食べて、もつと無いかとあたりをきよろきよろ見廻しながら、「本当にもう、お前にそんなに怒られると、おれはもう、死にたくなるんだ。」
「何を言ってるの。食べることばかり考えてるくせに。」
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「何を言つてるの。食べる事ばかり考へてるくせに。」
うさぎは、すっかり軽蔑しきったというように、つんとわきを向いてしまって、「いやしい上に、また、食い意地がきたないったらありゃしない。」
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兎は軽蔑し果てたといふやうに、つんとわきを向いてしまつて、「助平の上に、また、食ひ意地がきたないつたらありやしない。」
「見のがしてくれよ。おれは、腹がへっているんだ。」
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「見のがしてくれよ。おれは、腹がへつてゐるんだ。」
と、なおもその辺を、うろうろ捜しまわりながら、「まったく、いまのおれのこの心苦しさが、お前にわかってもらえたらなあ。」
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となほもその辺を、うろうろ捜し廻りながら、「まつたく、いまのおれのこの心苦しさが、お前にわかつてもらへたらなあ。」
「そばへ寄って来ちゃ駄目だって言ったら。くさいじゃないの。もっとあっちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだってね。私は聞いたわよ。それから、ああおかしい、うんこも食べたんだってね。」
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「傍へ寄つて来ちや駄目だつて言つたら。くさいぢやないの。もつとあつちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだつてね。私は聞いたわよ。それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだつてね。」
「まさか。」
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「まさか。」
とたぬきは力なく苦笑いした。
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と狸は力弱く苦笑した。
それでも、なぜだか、強く否定することができない様子で、さらにまた力なく、「まさかねえ。」
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それでも、なぜだか、強く否定する事の能はざる様子で、さらにまた力弱く、「まさかねえ。」
と口を曲げて言うだけであった。
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と口を曲げて言ふだけであつた。
「上品ぶったって駄目よ。あなたのそのにおいは、ただの臭(くさ)みじゃないんだから。」
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「上品ぶつたつて駄目よ。あなたのそのにほひは、ただの臭みぢやないんだから。」
とうさぎは平然と、手きびしい引導(いんどう・最後の宣告)をわたして、それから、ふいと別の何か素晴らしいことでも思いついたらしく急に目を輝かせ、笑いをかみ殺しているような顔つきでたぬきのほうに向き直り、「それじゃあね、こんど一ぺんだけ、ゆるしてあげる。あれ、寄って来ちゃ駄目だって言うのに。油断もすきもありゃしない。よだれをふいたらどう? 下あごがべろべろしてるじゃないの。落ちついて、よくお聞き。こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれど、でも、条件があるのよ。あのおじいさんは、いまごろはきっとひどく気を落として、山にしば刈りに行く気力も何も無くなっているでしょうから、私たちはその代わりにしば刈りに行ってあげましょうよ。」
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と兎は平然と手きびしい引導を渡して、それから、ふいと別の何か素晴らしい事でも思ひついたらしく急に眼を輝かせ、笑ひを噛み殺してゐるやうな顔つきで狸のはうに向き直り、「それぢやあね、こんど一ぺんだけ、ゆるしてあげる。あれ、寄つて来ちや駄目だつて言ふのに。油断もすきもなりやしない。よだれを拭いたらどう? 下顎がべろべろしてるぢやないの。落ついて、よくお聞き。こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれど、でも、条件があるのよ。あの爺さんは、いまごろはきつとひどく落胆して、山に柴刈りに行く気力も何も無くなつてゐるでせうから、私たちはその代りに柴刈りに行つてあげませうよ。」
「一緒に? お前も一緒に行くのか?」
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「一緒に? お前も一緒に行くのか?」
たぬきの小さいにごった目は、よろこびに燃えた。
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狸の小さい濁つた眼は歓喜に燃えた。
「お嫌(いや)?」
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「おいや?」
「いやなものか。きょうこれから、すぐに行こうよ。」
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「いやなものか。けふこれから、すぐに行かうよ。」
よろこびのあまり、声がかすれた。
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よろこびの余り、声がしやがれた。
「あしたにしましょう、ね、あしたの朝早く。きょうはあなたもお疲れでしょうし、それに、おなかも空(す)いているでしょうから。」
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「あしたにしませう、ね、あしたの朝早く。けふはあなたもお疲れでせうし、それに、おなかも空いてゐるでせうから。」
と、いやにやさしい。
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といやに優しい。
「ありがたい! おれは、あしたお弁当をたくさん作って持って行って、一心不乱に働いて十貫目(じゅっかんめ・約37.5キログラム)のしばを刈って、そうしておじいさんの家へとどけてあげる。そうしたら、お前は、おれをきっと許してくれるだろうな。仲よくしてくれるだろうな。」
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「ありがたい! おれは、あしたお弁当をたくさん作つて持つて行つて、一心不乱に働いて十貫目の柴を刈つて、さうして爺さんの家へとどけてあげる。さうしたら、お前は、おれをきつと許してくれるだらうな。仲よくしてくれるだらうな。」
「くどいわね。その時のあなたの成績次第でね。もしかしたら、仲よくしてあげるかもしれないわ。」
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「くどいわね。その時のあなたの成績次第でね。もしかしたら、仲よくしてあげるかも知れないわ。」
「えへへ、」
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「えへへ、」
とたぬきは急にいやらしく笑い、「その口が憎いや。苦労させるぜ、こんちきしょう。おれは、もう、」
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と狸は急にいやらしく笑ひ、「その口が憎いや。苦労させるぜ、こんちきしやう。おれは、もう、」
と言いかけて、はい寄って来た大きい蜘蛛(くも)をすばやくぺろりと食べ、「おれは、もう、どんなに嬉しいか、いっそ、男泣きに泣いてみたいくらいだ。」
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と言ひかけて、這ひ寄つて来た大きい蜘蛛を素早くぺろりと食べ、「おれは、もう、どんなに嬉しいか、いつそ、男泣きに泣いてみたいくらゐだ。」
と鼻をすすり、うそ泣きをした。
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と鼻をすすり、嘘泣きをした。
夏の朝は、すがすがしい。
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夏の朝は、すがすがしい。
河口湖の湖面は朝霧におおわれ、白く眼下(がんか・見おろした下のほう)にかすんでいる。
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河口湖の湖面は朝霧に覆はれ、白く眼下に烟つてゐる。
山の頂上では、たぬきとうさぎが朝つゆを全身にあびながら、せっせとしばを刈っている。
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山頂では狸と兎が朝露を全身に浴びながら、せつせと柴を刈つてゐる。
たぬきの働きぶりを見ると、一心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近い、みっともないありさまである。
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狸の働き振りを見るに、一心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近いあさましい有様である。
ううむ、ううむ、と大げさにうなりながら、めちゃくちゃに鎌を振りまわして、時々、「あいたたたた」などと、聞こえよがしの悲鳴をあげ、ただもう自分がこのように苦心惨憺(くしんさんたん・とても苦労すること)しているというところを、うさぎに見てもらいたげな様子で、あちこち縦横無尽に荒れ狂う。
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ううむ、ううむ、と大袈裟に唸りながら、めちや苦茶に鎌を振りまはして、時々、あいたたたた、などと聞えよがしの悲鳴を挙げ、ただもう自分がこのやうに苦心惨憺してゐるといふところを兎に見てもらひたげの様子で、縦横無尽に荒れ狂ふ。
ひとしきり、そのようにすさまじく暴れて、さすがにもうだめだ、というような、疲れきった顔つきをして鎌を投げすて、
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ひとしきり、そのやうに凄じくあばれて、さすがにもうだめだ、といふやうな疲れ切つた顔つきをして鎌を投げ捨て、
「これ、見ろ。手にこんなに豆(まめ・皮ふにできる水ぶくれ)ができた。ああ、手がひりひりする。のどが乾く。おなかも空(す)いた。とにかく、大労働だったからなあ。ちょっと休憩ということにしようじゃないか。お弁当でも開きましょうかね。うふふふ。」
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「これ、見ろ。手にこんなに豆が出来た。ああ、手がひりひりする。のどが乾く。おなかも空いた。とにかく、大労働だつたからなあ。ちよつと休息といふ事にしようぢやないか。お弁当でも開きませうかね。うふふふ。」
と、照れ隠しみたいに妙に笑って、大きいお弁当箱を開く。
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とてれ隠しみたいに妙に笑つて、大きいお弁当箱を開く。
ぐいと、その石油缶(せきゆかん)くらいの大きさのお弁当箱に鼻先を突っこんで、むしゃむしゃ、がつがつ、ぺつぺつ、という騒々しい音を立てながら、それこそ一心不乱に食べている。
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ぐいとその石油鑵ぐらゐの大きさのお弁当箱に鼻先を突込んで、むしやむしや、がつがつ、ぺつぺつ、といふ騒々しい音を立てながら、それこそ一心不乱に食べてゐる。
うさぎはあっけにとられたような顔をして、しば刈りの手を休め、ちょっとそのお弁当箱の中をのぞいて、あ!
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兎はあつけにとられたやうな顔をして、柴刈りの手を休め、ちよつとそのお弁当箱の中を覗いて、あ!
と小さい叫び声をあげ、両手で顔をおおった。
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と小さい叫びを挙げ、両手で顔を覆つた。
何だかわからないが、そのお弁当箱には、すごいものが入っていたようである。
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何だか知れぬが、そのお弁当箱には、すごいものがはひつてゐたやうである。
けれども、きょうのうさぎは、何か内緒の思惑(おもわく・心の中の考え)でもあるのか、いつものようにたぬきに向かって侮辱の言葉も吐かず、さっきから無言で、ただ作りものめいた微笑を口もとにただよわせて、せっせとしばを刈っているばかりで、調子に乗ったたぬきのいろいろなおかしなふるまいも、知らんぷりして見のがしてやっているのである。
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けれども、けふの兎は、何か内証の思惑でもあるのか、いつものやうに狸に向つて侮辱の言葉も吐かず、先刻から無言で、ただ技巧的な微笑を口辺に漂はせてせつせと柴を刈つてゐるばかりで、お調子に乗つた狸のいろいろな狂態をも、知らん振りして見のがしてやつてゐるのである。
たぬきの大きいお弁当箱の中をのぞいて、ぎょっとしたけれども、やはり何も言わず、肩をきゅっとすくめて、またもやしば刈りに取りかかる。
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狸の大きいお弁当箱の中を覗いて、ぎよつとしたけれども、やはり何も言はず、肩をきゆつとすくめて、またもや柴刈りに取かかる。
たぬきは、うさぎにきょうはひどく寛大にあつかわれるので、ただもうほくほくして、(とうとうこいつも、おれの元気なしば刈り姿には惚れ直したかな?
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狸は兎にけふはひどく寛大に扱はれるので、ただもうほくほくして、たうとうやつこさんも、おれのさかんな柴刈姿には惚れ直したかな?
おれの、この、男らしさには、まいらぬ女もあるまいて)などと思い、ああ、食った、眠くなった、どれ一眠り、と、すっかり気をゆるしてわがままいっぱいにふるまい、ぐうぐう大いびきをかいて寝てしまった。
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おれの、この、男らしさには、まゐらぬ女もあるまいて、ああ、食つた、眠くなつた、どれ一眠り、などと全く気をゆるしてわがままいつぱいに振舞ひ、ぐうぐう大鼾を掻いて寝てしまつた。
眠りながらも、何のばかげた夢を見ているのか、「惚れ薬(ほれぐすり)ってのは、あれは駄目だぜ、きかねえや」などと、わけのわからない寝言を言い、目をさましたのは、お昼近く。
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眠りながらも、何のたはけた夢を見てゐるのか、惚れ薬つてのは、あれは駄目だぜ、きかねえや、などわけのわからぬ寝言を言ひ、眼をさましたのは、お昼ちかく。
「ずいぶん眠ったのね。」
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「ずいぶん眠つたのね。」
とうさぎは、やはりやさしく、「もう私も、しばを一束こしらえたから、これから背負っておじいさんの庭先まで持って行ってあげましょうよ。」
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と兎は、やはりやさしく、「もう私も、柴を一束こしらへたから、これから背負つて爺さんの庭先まで持つて行つてあげませうよ。」
「ああ、そうしよう。」
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「ああ、さうしよう。」
とたぬきは大あくびをしながら腕をぽりぽりかいて、「やけにおなかが空(す)いた。こうおなかが空くと、もうとても、眠っていられるものじゃない。おれは敏感なんだ。」
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と狸は大あくびしながら腕をぽりぽり掻いて、「やけにおなかが空いた。かうおなかが空くと、もうとても、眠つて居られるものぢやない。おれは敏感なんだ。」
と、もっともらしい顔で言い、「どれ、それではおれも刈ったしばを大急ぎで集めて、下山としようか。お弁当も、もう、からになったし、この仕事を早く片づけて、それからすぐに食べ物を捜さなくちゃいけない。」
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ともつともらしい顔で言ひ、「どれ、それではおれも刈つた柴を大急ぎで集めて、下山としようか。お弁当も、もう、からになつたし、この仕事を早く片づけて、それからすぐに食べ物を捜さなくちやいけない。」
二人はそれぞれ刈ったしばを背負って、帰り道につく。
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二人はそれぞれ刈つた柴を背負つて、帰途につく。
「あなた、さきに歩いてよ。この辺には、蛇がいるんで、私こわくて。」
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「あなた、さきに歩いてよ。この辺には、蛇がゐるんで、私こはくて。」
「蛇? 蛇なんてこわいもんか。見つけ次第おれがとって、」
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「蛇? 蛇なんてこはいもんか。見つけ次第おれがとつて、」
「食べる」と言いかけて、口ごもり、「おれがとって、殺してやる。さあ、おれのあとについて来い。」
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食べる、と言ひかけて、口ごもり、「おれがとつて、殺してやる。さあ、おれのあとについて来い。」
「やっぱり、男のひとって、こんな時にはたのもしいものねえ。」
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「やつぱり、男のひとつて、こんな時にはたのもしいものねえ。」
「おだてるなよ。」
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「おだてるなよ。」
とやにさがり、「きょうはお前、ばかにしおらしいじゃないか。気味が悪いくらいだぜ。まさか、おれをこれからおじいさんのところに連れて行って、たぬき汁にするわけじゃあるまいな。あははは。そいつばかりは、ごめんだぜ。」
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とやにさがり、「けふはお前、ばかにしをらしいぢやないか。気味がわるいくらゐだぜ。まさか、おれをこれから爺さんのところに連れて行つて、狸汁にするわけぢやあるまいな。あははは。そいつばかりは、ごめんだぜ。」
「あら、そんなに変に疑うなら、もういいわよ。私がひとりで行くわよ。」
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「あら、そんなにへんに疑ふなら、もういいわよ。私がひとりで行くわよ。」
「いや、そんなわけじゃない。一緒に行くがね、おれは蛇だって何だってこの世の中にこわいものなんかありゃしないが、どうもあのおじいさんだけは苦手だ。たぬき汁にするなんて言いやがるから、いやだよ。どだい、下品じゃないか。少なくとも、いい趣味じゃないと思うよ。おれは、あのおじいさんの庭先の手前の一本榎(ひとつえのき)のところまで、このしばを背負って行くから、あとはお前が運んでくれよ。おれは、あそこで失礼しようと思うんだ。どうもあのおじいさんの顔を見ると、おれは何とも言えず不愉快になる。おや? 何だい、あれは。変な音がするね。なんだろう。お前にも、聞こえないか? 何だか、カチ、カチ、と音がする。」
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「いや、そんなわけぢやない。一緒に行くがね、おれは蛇だつて何だつてこの世の中にこはいものなんかありやしないが、どうもあの爺さんだけは苦手だ。狸汁にするなんて言ひやがるから、いやだよ。どだい、下品ぢやないか。少くとも、いい趣味ぢやないと思ふよ。おれは、あの爺さんの庭先の手前の一本榎のところまで、この柴を背負つて行くから、あとはお前が運んでくれよ。おれは、あそこで失敬しようと思ふんだ。どうもあの爺さんの顔を見ると、おれは何とも言へず不愉快になる。おや? 何だい、あれは。へんな音がするね。なんだらう。お前にも、聞えないか? 何だか、カチ、カチ、と音がする。」
「当たり前じゃないの? ここは、カチカチ山だもの。」
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「当り前ぢやないの? ここは、カチカチ山だもの。」
「カチカチ山? ここがかい?」
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「カチカチ山? ここがかい?」
「ええ、知らなかったの?」
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「ええ、知らなかつたの?」
「うん。知らなかった。この山に、そんな名前があるとは今日まで知らなかったね。しかし、変な名前だ。嘘じゃないか?」
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「うん。知らなかつた。この山に、そんな名前があるとは今日まで知らなかつたね。しかし、へんな名前だ。嘘ぢやないか?」
「あら、だって、山にはみんな名前があるものでしょう? あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山だし、みんなに名前があるじゃないの。だから、この山はカチカチ山っていう名前なのよ。ね、ほら、カチ、カチって音が聞こえる。」
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「あら、だつて、山にはみんな名前があるものでせう? あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山だし、みんなに名前があるぢやないの。だから、この山はカチカチ山つていふ名前なのよ。ね、ほら、カチ、カチつて音が聞える。」
「うん、聞こえる。しかし、変だな。いままで、おれはいちども、この山でこんな音を聞いたことが無い。この山で生まれて、三十何年かになるけれども、こんな、――」
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「うん、聞える。しかし、へんだな。いままで、おれはいちども、この山でこんな音を聞いた事が無い。この山で生れて、三十何年かになるけれども、こんな、――」
「まあ! あなたは、もうそんな年なの? こないだ私に十七だなんて教えたくせに、ひどいじゃないの。顔がしわくちゃで、腰も少し曲がっているのに、十七とは、変だと思っていたんだけど、それにしても、二十も年(とし)をかくしているとは思わなかったわ。それじゃあなたは、四十近いんでしょう、まあ、ずいぶんね。」
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「まあ! あなたは、もうそんな年なの? こなひだ私に十七だなんて教へたくせに、ひどいぢやないの。顔が皺くちやで、腰も少し曲つてゐるのに、十七とは、へんだと思つてゐたんだけど、それにしても、二十も年をかくしてゐるとは思はなかつたわ。それぢやあなたは、四十ちかいんでせう、まあ、ずいぶんね。」
「いや十七だ、十七。十七なんだ。おれがこう腰をかがめて歩くのは、決して年のせいじゃないんだ。おなかが空(す)いているから、自然にこんな格好になるんだ。三十何年、というのは、あれは、おれの兄のことだよ。兄がいつも口癖のようにそう言うので、つい、おれも、うっかり、あんなことを口走ってしまったんだ。つまり、ちょっと伝染したってわけさ。そんなわけなんだよ、君。」
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「いや十七だ、十七。十七なんだ。おれがかう腰をかがめて歩くのは、決してとしのせゐぢやないんだ。おなかが空いてゐるから、自然にこんな恰好になるんだ。三十何年、といふのは、あれは、おれの兄の事だよ。兄がいつも口癖のやうにさう言ふので、つい、おれも、うつかり、あんな事を口走つてしまつたんだ。つまり、ちよつと伝染したつてわけさ。そんなわけなんだよ、君。」
うろたえるあまり、「君」という言葉を使った。
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狼狽のあまり、君といふ言葉を使つた。
「そうですか。」
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「さうですか。」
とうさぎは冷静に、「でも、あなたにお兄さんがあるなんて、はじめて聞いたわ。あなたはいつか私に、『おれはさびしいんだ、孤独なんだよ、親も兄弟も無い、この孤独のさびしさが、お前、わからんかね』なんておっしゃってたじゃないの。あれは、どういうわけなの?」
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と兎は冷静に、「でも、あなたにお兄さんがあるなんて、はじめて聞いたわ。あなたはいつか私に、おれは淋しいんだ、孤独なんだよ、親も兄弟も無い、この孤独の淋しさが、お前、わからんかね、なんておつしやつてたぢやないの。あれは、どういふわけなの?」
「そう、そう、」
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「さう、さう、」
とたぬきは、自分でも何を言っているのか、わからなくなり、「まったく世の中は、これでなかなか複雑なものだからねえ、そんなに一概には行かないよ。兄があったり無かったり。」
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と狸は、自分でも何を言つてゐるのか、わからなくなり、「まつたく世の中は、これでなかなか複雑なものだからねえ、そんなに一概には行かないよ。兄があつたり無かつたり。」
「まるで、意味が無いじゃないの。」
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「まるで、意味が無いぢやないの。」
とうさぎもさすがにあきれ果て、「めちゃくちゃね。」
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と兎もさすがに呆れ果て、「めちや苦茶ね。」
「うん、実はね、兄はひとりあるんだ。これは言うのもつらいが、飲んだくれのならず者でね、おれはもう恥ずかしくて、面目なくて、生まれて三十何年間、いや、兄がだよ、兄が生まれて三十何年間というもの、このおれに、迷惑のかけどおしさ。」
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「うん、実はね、兄はひとりあるんだ。これは言ふのもつらいが、飲んだくれのならず者でね、おれはもう恥づかしくて、面目なくて、生れて三十何年間、いや、兄がだよ、兄が生れて三十何年間といふもの、このおれに、迷惑のかけどほしさ。」
「それも、変ね。十七のひとが、三十何年間も迷惑をかけられたなんて。」
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「それも、へんね。十七のひとが、三十何年間も迷惑をかけられたなんて。」
たぬきは、もう聞こえぬふりをして、
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狸は、もう聞えぬ振りして、
「世の中には、一口で言えないことが多いよ。いまじゃもう、おれのほうから、あれは無いものと思って、勘当して、おや? 変だね、きなくさい。お前、なんともないか?」
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「世の中には、一口で言へない事が多いよ。いまぢやもう、おれのはうから、あれは無いものと思つて、勘当して、おや? へんだね、キナくさい。お前、なんともないか?」
「いいえ。」
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「いいえ。」
「そうかね。」
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「さうかね。」
たぬきは、いつも臭いものを食べつけているので、鼻には自信が無い。
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狸は、いつも臭いものを食べつけてゐるので、鼻には自信が無い。
けげんな顔つきで首(くび)をひねり、「気のせいかなあ。あれあれ、何だか火が燃えているような、パチパチボウボウって音がするじゃないか。」
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けげんな面持で頸をひねり、「気のせゐかなあ。あれあれ、何だか火が燃えてゐるやうな、パチパチボウボウつて音がするぢやないか。」
「それやそのはずよ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」
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「それやその筈よ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」
「嘘つけ。お前は、ついさっき、ここはカチカチ山だって言ったくせに。」
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「嘘つけ。お前は、ついさつき、ここはカチカチ山だつて言つた癖に。」
「そうよ、同じ山でも、場所によって名前が違うのよ。富士山の中腹にも小富士という山があるし、それから大室山だって長尾山だって、みんな富士山と続いている山じゃないの。知らなかったの?」
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「さうよ、同じ山でも、場所に依つて名前が違ふのよ。富士山の中腹にも小富士といふ山があるし、それから大室山だつて長尾山だつて、みんな富士山と続いてゐる山ぢやないの。知らなかつたの?」
「うん、知らなかった。そうかなあ、ここがパチパチのボウボウ山とは、おれが三十何年間、いや、兄の話によれば、ここはただの裏山だったが、いや、これは、ばかに暖かくなってきた。地震でも起こるんじゃねえだろうか。何だかきょうは薄気味の悪い日だ。やあ、これは、ひどく暑い。きゃあっ! あちちちち、ひでえ、あちちちち、助けてくれ、しばが燃えてる。あちちちち。」
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「うん、知らなかつた。さうかなあ、ここがパチパチのボウボウ山とは、おれが三十何年間、いや、兄の話に依れば、ここはただの裏山だつたが、いや、これは、ばかに暖くなつて来た。地震でも起るんぢやねえだらうか。何だかけふは薄気味の悪い日だ。やあ、これは、ひどく暑い。きやあつ! あちちちち、ひでえ、あちちちち、助けてくれ、柴が燃えてる。あちちちち。」
その翌日、たぬきは自分の穴の奥にこもってうなり、
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その翌る日、狸は自分の穴の奥にこもつて唸り、
「ああ、くるしい。いよいよ、おれも死ぬかもしれねえ。思えば、おれほど不幸せな男は無い。なまじっか男ぶりが少しよく生まれてきたばっかりに、女どもが、かえって遠慮しておれに近寄らない。いったいに、どうも、上品に見える男は損だ。おれを女ぎらいかと思っているのかもしれねえ。なあに、おれだって決して聖人じゃない。女は好きさ。それだのに、女はおれを高い理想を持つ人間だと思っているらしく、なかなか誘惑してくれない。こうなればいっそ、大声で叫んで走り狂いたい。おれは女が好きなんだ! あ、いてえ、いてえ。どうも、この火傷(やけど)というものは始末が悪い。ずきずき痛む。やっとたぬき汁から逃れたかと思うと、こんどは、わけのわからねえボウボウ山とかいうのに足を踏み込んだのが、運のつきだ。あの山は、つまらねえ山であった。しばがボウボウ燃え上がるんだから、ひどい。三十何年、」
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「ああ、くるしい。いよいよ、おれも死ぬかも知れねえ。思へば、おれほど不仕合せな男は無い。なまなかに男振りが少し佳く生れて来たばかりに、女どもが、かへつて遠慮しておれに近寄らない。いつたいに、どうも、上品に見える男は損だ。おれを女ぎらひかと思つてゐるのかも知れねえ。なあに、おれだつて決して聖人ぢやない。女は好きさ。それだのに、女はおれを高邁な理想主義者だと思つてゐるらしく、なかなか誘惑してくれない。かうなればいつそ、大声で叫んで走り狂ひたい。おれは女が好きなんだ! あ、いてえ、いてえ。どうも、この火傷といふものは始末がわるい。づきづき痛む。やつと狸汁から逃れたかと思ふと、こんどは、わけのわからねえボウボウ山とかいふのに足を踏み込んだのが、運のつきだ。あの山は、つまらねえ山であつた。柴がボウボウ燃え上るんだから、ひどい。三十何年、」
と言いかけて、あたりをぎょろりと見まわし、「何を隠そう、おれあことし三十七さ、へへん、悪いか、もう三年経てば四十だ、わかりきったことだ、当然のことというものだ、見ればわかるじゃないか。あいたたた、それにしても、おれが生まれてから三十七年間、あの裏山で遊んで育ってきたのだが、ついぞ一度も、あんな変な目に遭ったことが無い。カチカチ山だの、ボウボウ山だの、名前からして妙にできてる。はて、不思議だ。」
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と言ひかけて、あたりをぎよろりと見廻し、「何を隠さう、おれあことし三十七さ、へへん、わるいか、もう三年経てば四十だ、わかり切つた事だ、理の当然といふものだ、見ればわかるぢやないか。あいたたた、それにしても、おれが生れてから三十七年間、あの裏山で遊んで育つて来たのだが、つひぞいちども、あんなへんな目に遭つた事が無い。カチカチ山だの、ボウボウ山だの、名前からして妙に出来てる。はて、不思議だ。」
と、自分の頭をなぐりつけて考えこんだ。
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とわれとわが頭を殴りつけて思案にくれた。
その時、外で行商の呼び売りの声がする。
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その時、表で行商の呼売りの声がする。
「仙金膏(せんきんこう)はいかが。やけど、切り傷、色黒に悩む方はいないか。」
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「仙金膏はいかが。やけど、切傷、色黒に悩むかたはゐないか。」
たぬきは、やけどや切り傷よりも、「色黒」と聞いて、はっとした。
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狸は、やけど切傷よりも、色黒と聞いてはつとした。
「おうい、仙金膏。」
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「おうい、仙金膏。」
「へえ、どちらさまで。」
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「へえ、どちらさまで。」
「こっちだ、穴の奥だよ。色黒にもきくかね。」
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「こつちだ、穴の奥だよ。色黒にもきくかね。」
「それはもう、一日で。」
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「それはもう、一日で。」
「ほほう、」
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「ほほう、」
とよろこび、穴の奥からいざり出て、「や! お前は、うさぎ。」
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とよろこび、穴の奥からゐざり出て、「や! お前は、兎。」
「ええ、うさぎには違いありませんが、私は男の薬売りです。ええ、もう三十何年間、この辺をこうして売り歩いています。」
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「ええ、兎には違ひありませんが、私は男の薬売りです。ええ、もう三十何年間、この辺をかうして売り歩いてゐます。」
「ふう、」
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「ふう、」
とたぬきはため息をついて首をかしげ、「しかし、似たうさぎもあるものだ。三十何年間、そうか、お前がねえ。いや、年月の話はよそう。くそ面白くもない。しつっこいじゃないか。まあ、そんなわけのものさ。」
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と狸は溜息をついて首をかしげ、「しかし、似た兎もあるものだ。三十何年間、さうか、お前がねえ。いや、歳月の話はよさう。糞面白くもない。しつつこいぢやないか。まあ、そんなわけのものさ。」
と、しどろもどろのごまかし方をして、「ところで、おれにその薬を少しゆずってくれないか。実はちょっと悩みのある身なのでな。」
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としどろもどろのごまかし方をして、「ところで、おれにその薬を少しゆづつてくれないか。実はちよつと悩みのある身なのでな。」
「おや、ひどい火傷ですねえ。これは、いけない。ほうっておいたら、死にますよ。」
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「おや、ひどい火傷ですねえ。これは、いけない。ほつて置いたら、死にますよ。」
「いや、おれはいっそ死にてえ。こんな火傷なんかどうだっていいんだ。それよりも、おれは、いま、その、容貌(ようぼう・顔つき)の、――」
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「いや、おれはいつそ死にてえ。こんな火傷なんかどうだつていいんだ。それよりも、おれは、いま、その、容貌の、――」
「何を言っていらっしゃるんです。生死のさかいじゃありませんか。やあ、背中が一ばんひどいですね。いったい、これはどうしたのです。」
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「何を言つていらつしやるんです。生死の境ぢやありませんか。やあ、背中が一ばんひどいですね。いつたい、これはどうしたのです。」
「それがねえ、」
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「それがねえ、」
とたぬきは口をゆがめて、「パチパチのボウボウ山とかいうきざな名前の山に踏みこんだばっかりにねえ、いやもう、とんだことになってねえ、おどろきましたよ。」
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と狸は口をゆがめて、「パチパチのボウボウ山とかいふきざな名前の山に踏み込んだばつかりにねえ、いやもう、とんだ事になつてねえ、おどろきましたよ。」
うさぎは思わず、くすくす笑ってしまった。
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兎は思はず、くすくす笑つてしまつた。
たぬきは、うさぎがなぜ笑ったのかわからなかったが、とにかく自分も一緒に、あははと笑い、
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狸は、兎がなぜ笑つたのかわからなかつたが、とにかく自分も一緒に、あははと笑ひ、
「まったくねえ。ばかばかしいったらありゃしないのさ。お前にも忠告しておきますがね、あの山へだけは行っちゃいけないぜ。はじめ、カチカチ山というのがあって、それからいよいよパチパチのボウボウ山ということになるんだが、あいつあいけない。ひでえことになっちゃう。まあ、いいかげんに、カチカチ山あたりでごめんこうむって来るんですな。へたにボウボウ山などに踏みこんだが最後、こういう始末だ。あいててて。いいですか。忠告しますよ。お前はまだ若いようだから、おれのような年寄りの言うことは、いや、年寄りでもないが、とにかく、ばかにしないで、この友人の言葉だけは尊重してくださいよ。何せ、体験者の言うことなのだから。あいてててて。」
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「まつたくねえ。ばかばかしいつたらありやしないのさ。お前にも忠告して置きますがね、あの山へだけは行つちやいけないぜ。はじめ、カチカチ山といふのがあつて、それからいよいよパチパチのボウボウ山といふ事になるんだが、あいつあいけない。ひでえ事になつちやふ。まあ、いい加減に、カチカチ山あたりでごめんかうむつて来るんですな。へたにボウボウ山などに踏み込んだが最期、かくの如き始末だ。あいててて。いいですか。忠告しますよ。お前はまだ若いやうだから、おれのやうな年寄りの言は、いや、年寄りでもないが、とにかく、ばかにしないで、この友人の言だけは尊重して下さいよ。何せ、体験者の言なのだから。あいてててて。」
「ありがとうございます。気をつけましょう。ところで、どうしましょう、お薬は。ご親切な忠告を聞かせていただいたお礼として、お薬代はいただきません。とにかく、その背中の火傷に塗ってあげましょう。ちょうど折よく私が来合わせたから、よかったようなものの、そうでもなかったら、あなたはもう命を落とすようなことになったかもしれないのです。これも何かのお導きでしょう。縁ですね。」
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「ありがたうございます。気をつけませう。ところで、どうしませう、お薬は。御深切な忠告を聞かしていただいたお礼として、お薬代は頂戴いたしません。とにかく、その背中の火傷に塗つてあげませう。ちやうど折よく私が来合せたから、よかつたやうなものの、さうでもなかつたら、あなたはもう命を落すやうな事になつたかも知れないのです。これも何かのお導きでせう。縁ですね。」
「縁かもしれねえ。」
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「縁かも知れねえ。」
とたぬきは低くうなるように言い、「ただなら塗ってもらおうか。おれもこのごろは貧乏でな、どうも、女に惚れると金がかかっていけねえ。ついでにその膏薬(こうやく)を一滴、おれの手のひらに載せて見せてくれねえか。」
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と狸は低く呻くやうに言ひ、「ただなら塗つてもらはうか。おれもこのごろは貧乏でな、どうも、女に惚れると金がかかつていけねえ。ついでにその膏薬を一滴おれの手のひらに載せて見せてくれねえか。」
「どうなさるのです。」
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「どうなさるのです。」
うさぎは、不安そうな顔になった。
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兎は、不安さうな顔になつた。
「いや、はあ、なんでもねえ。ただ、ちょっと見たいんだよ。どんな色合いのものだかな。」
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「いや、はあ、なんでもねえ。ただ、ちよつと見たいんだよ。どんな色合ひのものだかな。」
「色は別にほかの膏薬と変わってもいませんよ。こんなものですが。」
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「色は別に他の膏薬とかはつてもゐませんよ。こんなものですが。」
と、ほんの少量を、たぬきの差し出す手のひらに載せてやる。
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とほんの少量を、狸の差出す手のひらに載せてやる。
たぬきは素早くそれを顔に塗ろうとしたのでうさぎは驚き、そんなことでこの薬の正体がばれてはかなわないと、たぬきの手をさえぎり、
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狸は素早くそれを顔に塗らうとしたので兎は驚き、そんな事でこの薬の正体が暴露してはかなはぬと、狸の手を遮り、
「あ、それはいけません。顔に塗るには、その薬は少し強すぎます。とんでもない。」
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「あ、それはいけません。顔に塗るには、その薬は少し強すぎます。とんでもない。」
「いや、放してくれ。」
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「いや、放してくれ。」
たぬきはいまは破れかぶれになり、「後生(ごしょう・お願いだから)だから手を放せ。お前にはおれの気持ちがわからないんだ。おれはこの色黒のため、生まれて三十何年間、どのように味気ない思いをしてきたかわからない。放せ。手を放せ。後生だから塗らせてくれ。」
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狸はいまは破れかぶれになり、「後生だから手を放せ。お前にはおれの気持がわからないんだ。おれはこの色黒のため生れて三十何年間、どのやうに味気ない思ひをして来たかわからない。放せ。手を放せ。後生だから塗らせてくれ。」
ついにたぬきは足をあげてうさぎを蹴とばし、目にもとまらぬ早さで薬をぬりたくり、
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つひに狸は足を挙げて兎を蹴飛ばし、眼にもとまらぬ早さで薬をぬたくり、
「少なくともおれの顔は、目鼻立ちは決して悪くないと思うんだ。ただ、この色黒のために気がひけていたんだ。もう大丈夫だ。うわっ! これは、ひどい。どうもひりひりする。強い薬だ。しかし、これくらいの強い薬でなければ、おれの色黒はなおらないような気もする。わあ、ひどい。しかし、我慢するんだ。ちきしょうめ、こんどあいつが、おれと逢った時、うっとりおれの顔に見とれて、うふふ、おれはもう、あいつが、恋わずらいしたって知らないぞ。おれの責任じゃないからな。ああ、ひりひりする。この薬は、たしかに効(き)く。さあ、もうこうなったら、背中にでもどこにでも、からだ一面に塗ってくれ。おれは死んだってかまわん。色白にさえなったら死んだってかまわんのだ。さあ塗ってくれ。遠慮なくべたべたと威勢よくやってくれ。」
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「少くともおれの顔は、目鼻立ちは決して悪くないと思ふんだ。ただ、この色黒のために気がひけてゐたんだ。もう大丈夫だ。うわつ! これは、ひどい。どうもひりひりする。強い薬だ。しかし、これくらゐの強い薬でなければ、おれの色黒はなほらないやうな気もする。わあ、ひどい。しかし、我慢するんだ。ちきしやうめ、こんどあいつが、おれと逢つた時、うつとりおれの顔に見とれて、うふふ、おれはもう、あいつが、恋わづらひしたつて知らないぞ。おれの責任ぢやないからな。ああ、ひりひりする。この薬は、たしかに効く。さあ、もうかうなつたら、背中にでもどこにでも、からだ一面に塗つてくれ。おれは死んだつてかまはん。色白にさへなつたら死んだつてかまはんのだ。さあ塗つてくれ。遠慮なくべたべたと威勢よくやつてくれ。」
まことに悲壮な光景になってきた。
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まことに悲壮な光景になつて来た。
けれども、美しく高ぶった少女の残忍さ(ざんにんさ・むごいこと)には限りが無い。
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けれども、美しく高ぶつた処女の残忍性には限りが無い。
ほとんどそれは、悪魔に似ている。
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ほとんどそれは、悪魔に似てゐる。
平然と立ち上がって、たぬきの火傷に、いつもの唐辛子(とうがらし)をねったものを、こってりと塗る。
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平然と立ち上つて、狸の火傷にれいの唐辛子をねつたものをこつてりと塗る。
たぬきはたちまち七転八倒(しちてんばっとう・のたうちまわって苦しむこと)して、
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狸はたちまち七転八倒して、
「ううむ、何ともない。この薬は、たしかに効く。わああ、ひどい。水をくれ。ここはどこだ。地獄か。かんにんしてくれ。おれは地獄へ落ちる覚えは無えんだ。おれはたぬき汁にされるのがいやだったから、それでおばあさんをやっつけたんだ。おれに、とがは無えのだ。おれは生まれて三十何年間、色が黒いばっかりに、女にいちども、もてやしなかったんだ。それから、おれは、食欲が、ああ、そのために、おれはどんなにきまりの悪い思いをしてきたか。誰も知りゃしないのだ。おれは孤独だ。おれは善人だ。目鼻立ちは悪くないと思うんだ。」
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「ううむ、何ともない。この薬は、たしかに効く。わああ、ひどい。水をくれ。ここはどこだ。地獄か。かんにんしてくれ。おれは地獄へ落ちる覚えは無えんだ。おれは狸汁にされるのがいやだつたから、それで婆さんをやつつけたんだ。おれに、とがは無えのだ。おれは生れて三十何年間、色が黒いばつかりに、女にいちども、もてやしなかつたんだ。それから、おれは、食慾が、ああ、そのために、おれはどんなにきまりの悪い思ひをして来たか。誰も知りやしないのだ。おれは孤独だ。おれは善人だ。眼鼻立ちは悪くないと思ふんだ。」
と、苦しみのあまり哀れなうわ言(うわごと)を口走り、やがてぐったりと気を失った。
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と苦しみのあまり哀れな譫言を口走り、やがてぐつたり失神の有様となる。
しかし、たぬきの不幸は、まだ終わらない。
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しかし、狸の不幸は、まだ終らぬ。
作者の私でさえ、書きながらため息が出るくらいだ。
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作者の私でさへ、書きながら溜息が出るくらゐだ。
おそらく、日本の歴史においても、これほど不運な後半生を送った者は、あまり例が無いように思われる。
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おそらく、日本の歴史に於いても、これほど不振の後半生を送つた者は、あまり例が無いやうに思はれる。
たぬき汁の運命から逃れて、やれ嬉しやと思う間もなく、ボウボウ山で意味も無い大火傷をして九死に一生を得、はうようにしてどうやらわが巣にたどりつき、口をゆがめてうめいていると、こんどはその大火傷に唐辛子をべたべた塗られ、苦痛のあまり気を失い、さて、それからいよいよ泥の舟に乗せられて、河口湖の底に沈むのである。
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狸汁の運命から逃れて、やれ嬉しやと思ふ間もなく、ボウボウ山で意味も無い大火傷をして九死に一生を得、這ふやうにしてどうやらわが巣にたどりつき、口をゆがめて呻吟してゐると、こんどはその大火傷に唐辛子をべたべた塗られ、苦痛のあまり失神し、さて、それからいよいよ泥舟に乗せられ、河口湖底に沈むのである。
実に、何のいいところも無い。
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実に、何のいいところも無い。
これもまた一種の女難(じょなん・女性がらみの災難)にちがいないだろうが、しかし、それにしても、あまりに野暮(やぼ)な女難である。
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これもまた一種の女難にちがひ無からうが、しかし、それにしても、あまりに野暮な女難である。
粋(いき)なところが、ひとつも無い。
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粋なところが、ひとつも無い。
彼は穴の奥で三日間は虫の息で、生きているのだか死んでいるのだか、それこそまったく生と死のさかいをさまよい、四日目に、猛烈な空腹感におそわれ、杖をついて穴からよろめき出て、何やらぶつぶつ言いながら、あちらこちら食べ物を探し歩いているその姿の気の毒さといったら、たとえようが無かった。
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彼は穴の奥で三日間は虫の息で、生きてゐるのだか死んでゐるのだか、それこそ全く幽明の境をさまよひ、四日目に、猛烈の空腹感に襲はれ、杖をついて穴からよろばひ出て、何やらぶつぶつ言ひながら、かなたこなた食ひ捜して歩いてゐるその姿の気の毒さと来たら比類が無かつた。
しかし、根が骨太(ほねぶと)のがんじょうなからだであったから、十日も経たぬうちに全快し、食欲はもとのように旺盛で、色欲などもちょっと出てきて、よせばいいのに、またもやうさぎの庵(いおり・小さな住まい)にのこのこ出かける。
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しかし、根が骨太の岩乗なからだであつたから、十日も経たぬうちに全快し、食慾は旧の如く旺盛で、色慾などもちよつと出て来て、よせばよいのに、またもや兎の庵にのこのこ出かける。
「遊びに来ましたよ。うふふ。」
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「遊びに来ましたよ。うふふ。」
と、照れて、いやらしく笑う。
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と、てれて、いやらしく笑ふ。
「あら!」
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「あら!」
とうさぎは言い、ひどくあからさまにいやな顔をした。
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と兎は言ひ、ひどく露骨にいやな顔をした。
なあんだ、あなたなの?
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なあんだ、あなたなの?
という気持ち、いや、それよりもひどい。
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といふ気持、いや、それよりもひどい。
「なんだってまたやって来たの、図々しいじゃないの」という気持ち、いや、それよりもなおひどい。
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なんだつてまたやつて来たの、図々しいぢやないの、といふ気持、いや、それよりもなほひどい。
ああ、たまらない!
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ああ、たまらない!
厄病神(やくびょうがみ・不幸をもたらす神)が来た!
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厄病神が来た!
という気持ち、いや、それよりも、もっとひどい。
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といふ気持、いや、それよりも、もつとひどい。
きたない!
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きたない!
くさい!
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くさい!
死んじまえ!
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死んぢまへ!
というような、極度のいやな気持ちが、その時のうさぎの顔にありありと見えているのに、しかし、とかく招かれざる客というものは、その訪問先の主人の、こんな憎しみの気持ちに気づくことが、はなはだにぶいものである。
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といふやうな極度の嫌悪が、その時の兎の顔にありありと見えてゐるのに、しかし、とかく招かれざる客といふものは、その訪問先の主人の、こんな憎悪感に気附く事はなはだ疎いものである。
これは実に不思議な心理だ。
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これは実に不思議な心理だ。
読者のみなさんも気をつけるがよい。
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読者諸君も気をつけるがよい。
あそこの家へ行くのは、どうも面倒だ、窮屈だ、と思いながら、しぶしぶ出かけて行く時には、案外その家で、君たちの来訪を心から喜んでいるものである。
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あそこの家へ行くのは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思ひながら渋々出かけて行く時には、案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでゐるものである。
それに反して、「ああ、あの家はなんて気持ちのよい家だろう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩のただ一つの憩(いこ)いの巣だ」、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家においては、みなさんは、まずたいてい迷惑がられ、きたながられ、こわがられ、ふすまの陰にほうきなど立てられているものである。
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それに反して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だらう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩の唯一の憩ひの巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家に於いては、諸君は、まづたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ、襖の陰に箒など立てられてゐるものである。
他人の家に、憩いの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかもしれないが、とかくこの訪問ということにおいては、われわれは、驚くべき思い違いをしているものである。
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他人の家に、憩ひの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかも知れないが、とかくこの訪問といふ事に於いては、吾人は驚くべき思ひ違ひをしてゐるものである。
特別な用事でも無い限り、どんな親しい身内の家にでも、むやみに訪問などすべきものでは無いかもしれない。
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格別の用事でも無い限り、どんな親しい身内の家にでも、矢鱈に訪問などすべきものでは無いかも知れない。
作者のこの忠告を疑う者は、たぬきを見よ。
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作者のこの忠告を疑ふ者は、狸を見よ。
たぬきはいま明らかに、このおそるべき錯誤(さくご・間違い)をおかしているのだ。
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狸はいま明らかに、このおそるべき錯誤を犯してゐるのだ。
うさぎが、あら!
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兎が、あら!
と言い、そうして、いやな顔をしても、たぬきにはまるで気がつかない。
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と言ひ、さうして、いやな顔をしても、狸には一向に気がつかない。
たぬきには、その、あら!
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狸には、その、あら!
という叫びも、たぬきの不意の訪問に驚き、かつは喜んで、自然に出てきた少女の無邪気な声のように思われ、ぞくぞく嬉しく、また、うさぎの眉をひそめた表情も、これは自分の先日のボウボウ山の災難に、心を痛めているのに違いないと解釈し、
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といふ叫びも、狸の不意の訪問に驚き、かつは喜悦して、おのづから発せられた処女の無邪気な声の如くに思はれ、ぞくぞく嬉しく、また兎の眉をひそめた表情をも、これは自分の先日のボウボウ山の災難に、心を痛めてゐるのに違ひ無いと解し、
「や、ありがとう。」
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「や、ありがたう。」
と、お見舞いの言葉も何も言われないくせに、こちらからお礼を述べ、「心配無用だよ。もう大丈夫だ。おれには神さまがついてるんだ。運がいいのだ。あんなボウボウ山なんて屁の河童さ。河童の肉は、うまいそうで。何とかして、そのうち食べてみようと思ってるんだがね。それは余談だが、しかし、あの時は、驚いたよ。何せどうも、たいへんな火の勢いだったからね。お前のほうは、どうだったね。べつに怪我も無い様子だが、よくあの火の中を無事で逃げて来られたね。」
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とお見舞ひも何も言はれぬくせに、こちらから御礼を述べ、「心配無用だよ。もう大丈夫だ。おれには神さまがついてゐるんだ。運がいいのだ。あんなボウボウ山なんて屁の河童さ。河童の肉は、うまいさうで。何とかして、そのうち食べてみようと思つてゐるんだがね。それは余談だが、しかし、あの時は、驚いたよ。何せどうも、たいへんな火勢だつたからね。お前のはうは、どうだつたね。べつに怪我も無い様子だが、よくあの火の中を無事で逃げて来られたね。」
「無事でもないわよ。」
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「無事でもないわよ。」
とうさぎはつんとすねて見せて、「あなたったら、ひどいじゃないの。あのたいへんな火事場に、私ひとりを置いてどんどん逃げて行ってしまうんだもの。私は煙にむせて、もう少しで死ぬところだったのよ。私は、あなたを恨んだわ。やっぱりあんな時に、つい本心というものがあらわれるものらしいのね。私には、もう、あなたの本心というものが、こんど、はっきりわかったわ。」
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と兎はつんとすねて見せて、「あなたつたら、ひどいぢやないの。あのたいへんな火事場に、私ひとりを置いてどんどん逃げて行つてしまふんだもの。私は煙にむせて、もう少しで死ぬところだつたのよ。私は、あなたを恨んだわ。やつぱりあんな時に、つい本心といふものがあらはれるものらしいのね。私には、もう、あなたの本心といふものが、こんど、はつきりわかつたわ。」
「すまねえ。かんにんしてくれ。実はおれも、ひどい火傷をして、おれには、ひょっとしたら神さまも何もついてねえのかもしれない、さんざんな目に遭っちゃったんだ。お前はどうなったか、決してそれを忘れていたわけじゃなかったんだが、何せどうも、たちまちおれの背中が熱くなって、お前を助けに行くひまも何も無かったんだよ。わかってくれねえかなあ。おれは決して不実な男じゃねえのだ。火傷ってやつも、なかなか馬鹿にできねえものだぜ。それに、あの、仙金膏とか、疝気膏(せんきこう)とか、あいつあ、いけない。いやもう、ひどい薬だ。色黒にも何もききやしない。」
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「すまねえ。かんにんしてくれ。実はおれも、ひどい火傷をして、おれには、ひよつとしたら神さまも何もついてゐねえのかも知れない、さんざんの目に遭つちやつたんだ。お前はどうなつたか、決してそれを忘れてゐたわけぢやなかつたんだが、何せどうも、たちまちおれの背中が熱くなつて、お前を助けに行くひまも何も無かつたんだよ。わかつてくれねえかなあ。おれは決して不実な男ぢやねえのだ。火傷つてやつも、なかなか馬鹿にできねえものだぜ。それに、あの、仙金膏とか、疝気膏とか、あいつあ、いけない。いやもう、ひどい薬だ。色黒にも何もききやしない。」
「色黒?」
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「色黒?」
「いや、何。どろりとした黒い薬でね、こいつあ、強い薬なんだ。お前によく似た、小さい、奇妙な野郎が『薬代は要らねえ』と言うから、おれもつい、ものはためしだと思って、塗ってもらうことにしたのだが、いやはやどうも、ただの薬ってのも、あれはお前、気をつけたほうがいいぜ、油断も何もなりゃしねえ、おれはもう頭のてっぺんからキリキリと小さい竜巻が立ちのぼったような気がして、どうとばかりに倒れたんだ。」
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「いや、何。どろりとした黒い薬でね、こいつあ、強い薬なんだ。お前によく似た、小さい、奇妙な野郎が薬代は要らねえ、と言ふから、おれもつい、ものはためしだと思つて、塗つてもらふ事にしたのだが、いやはやどうも、ただの薬つてのも、あれはお前、気をつけたはうがいいぜ、油断も何もなりやしねえ、おれはもう頭のてつぺんからキリキリと小さい竜巻が立ち昇つたやうな気がして、どうとばかりに倒れたんだ。」
「ふん、」
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「ふん、」
とうさぎは軽蔑し、「自業自得(じごうじとく・自分のした悪い行いのために自分が苦しむこと)じゃないの。ケチんぼだから罰が当たったんだわ。ただの薬だから、ためしてみたなんて、よくもまあそんな下品なことを、恥ずかしくもなく言えたものねえ。」
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と兎は軽蔑し、「自業自得ぢやないの。ケチンボだから罰が当つたんだわ。ただの薬だから、ためしてみたなんて、よくもまあそんな下品な事を、恥づかしくもなく言へたものねえ。」
「ひでえことを言う。」
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「ひでえ事を言ふ。」
とたぬきは低い声で言い、けれども、別段何も感じないらしく、ただもう好きなひとのそばにいるという幸福感にぬくぬくとあたたまっている様子で、どっしりと腰を落ちつけ、死んだ魚のようににごった目であたりを見まわし、小虫を拾って食べたりしながら、「しかし、おれは運のいい男だなあ。どんな目に遭っても、死にやしない。神さまがついてるのかもしれねえ。お前も無事でよかったが、おれも何ということもなく火傷がなおって、こうしてまた二人でのんびり話ができるんだものなあ。ああ、まるで夢のようだ。」
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と狸は低い声で言ひ、けれども、別段何も感じないらしく、ただもう好きなひとの傍にゐるといふ幸福感にぬくぬくとあたたまつてゐる様子で、どつしりと腰を落ちつけ、死魚のやうに濁つた眼であたりを見廻し、小虫を拾つて食べたりしながら、「しかし、おれは運のいい男だなあ。どんな目に遭つても、死にやしない。神さまがついてゐるのかも知れねえ。お前も無事でよかつたが、おれも何といふ事もなく火傷がなほつて、かうしてまた二人でのんびり話が出来るんだものなあ。ああ、まるで夢のやうだ。」
うさぎはもうさっきから、早く帰ってもらいたくてたまらなかった。
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兎はもうさつきから、早く帰つてもらひたくてたまらなかつた。
いやでいやで、死にそうな気持ち。
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いやでいやで、死にさうな気持。
何とかしてこの自分の庵の近くから去ってもらいたくて、またもや悪魔のような一計を考え出す。
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何とかしてこの自分の庵の附近から去つてもらひたくて、またもや悪魔的の一計を案出する。
「ね、あなたはこの河口湖に、そりゃおいしい鮒(ふな)がうようよいることをご存じ?」
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「ね、あなたはこの河口湖に、そりやおいしい鮒がうようよゐる事をご存じ?」
「知らねえ。ほんとかね。」
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「知らねえ。ほんとかね。」
とたぬきは、たちまち目をかがやかして、「おれが三つの時、おふくろが鮒を一匹捕って来ておれに食べさせてくれたことがあったけれども、あれはおいしい。おれはどうも、不器用というわけではないが、決してそういうわけではないが、鮒なんて水の中のものを捕まえることができねえので、どうも、あいつはおいしいということだけは知っていながら、それ以来三十何年間、いや、はははは、つい兄の口まねをしちゃった。兄も鮒は好きでなあ。」
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と狸は、たちまち眼をかがやかして、「おれが三つの時、おふくろが鮒を一匹捕つて来ておれに食べさせてくれた事があつたけれども、あれはおいしい。おれはどうも、不器用といふわけではないが、決してさういふわけではないが、鮒なんて水の中のものを捕へる事が出来ねえので、どうも、あいつはおいしいといふ事だけは知つてゐながら、それ以来三十何年間、いや、はははは、つい兄の口真似をしちやつた。兄も鮒は好きでなあ。」
「そうですかね。」
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「さうですかね。」
とうさぎは上の空であいづちを打ち、「私はどうも、鮒など食べたくもないけれど、でも、あなたがそんなにお好きなのならば、これから一緒に捕りに行ってあげてもいいわよ。」
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と兎は上の空で合槌を打ち、「私はどうも、鮒など食べたくもないけれど、でも、あなたがそんなにお好きなのならば、これから一緒に捕りに行つてあげてもいいわよ。」
「そうかい。」
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「さうかい。」
とたぬきはほくほくして、「でも、あの鮒ってやつは、すばやいもんでなあ、おれはあいつを捕まえようとして、もう少しで土左衛門(どざえもん・水におぼれて死んだ人)になりかけたことがあるけれども、」
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と狸はほくほくして、「でも、あの鮒つてやつは、素早いもんでなあ、おれはあいつを捕へようとして、も少しで土左衛門になりかけた事があるけれども、」
と、つい自分の過去の失敗を告白し、「お前に何かいい方法があるのかね。」
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とつい自分の過去の失態を告白し、「お前に何かいい方法があるのかね。」
「網ですくったら、わけは無いわ。あの鸕鷀島(うがしま)の岸に、このごろとても大きい鮒が集まっているのよ。ね、行きましょう。あなた、舟は? 漕げるの?」
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「網で掬つたら、わけは無いわ。あの鸕鷀島の岸にこのごろとても大きい鮒が集つてゐるのよ。ね、行きませう。あなた、舟は? 漕げるの?」
「うむ、」
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「うむ、」
かすかなため息をついて、「漕げないことも無いがね。その気になりゃ、なあに。」
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幽かな溜息をついて、「漕げないことも無いがね。その気になりや、なあに。」
と、苦しいほらを吹いた。
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と苦しい法螺を吹いた。
「漕げるの?」
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「漕げるの?」
とうさぎは、それがほらだということを知っていながら、わざと信じたふりをして、「じゃ、ちょうどいいわ。私にはね、小さい舟が一艘あるけど、あんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。それに何せ、薄い板切れでいいかげんに作った舟だから、水がしみこんで来て危ないのよ。でも、私なんかどうなったって、あなたの身にもしものことがあってはいけないから、あなたの舟をこれから、ふたりで一緒に力を合わせて作りましょうよ。板切れの舟は危ないから、もっとがんじょうに、泥をこねって作りましょうよ。」
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と兎は、それが法螺だといふ事を知つてゐながら、わざと信じた振りをして、「ぢや、ちやうどいいわ。私にはね、小さい舟が一艘あるけど、あんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。それに何せ薄い板切れでいい加減に作つた舟だから、水がしみ込んで来て危いのよ。でも、私なんかどうなつたつて、あなたの身にもしもの事があつてはいけないから、あなたの舟をこれから、ふたりで一緒に力を合せて作りませうよ。板切れの舟は危いから、もつと岩乗に、泥をこねつて作りませうよ。」
「すまねえなあ。おれはもう、泣くぜ。泣かしてくれ。おれはどうしてこんなに涙もろいか。」
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「すまねえなあ。おれはもう、泣くぜ。泣かしてくれ。おれはどうしてこんなに涙もろいか。」
と言ってうそ泣きをしながら、「ついでにお前ひとりで、そのがんじょうないい舟を作ってくれないか。な、たのむよ。」
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と言つて嘘泣きをしながら、「ついでにお前ひとりで、その岩乗ないい舟を作つてくれないか。な、たのむよ。」
と、抜け目なくずうずうしい申し出をして、「おれは恩に着るぜ。お前がそのおれのがんじょうな舟を作ってくれている間に、おれは、ちょっとお弁当をこさえよう。おれはきっと立派な炊事係りになれるだろうと思うんだ。」
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と抜からず横着な申し出をして、「おれは恩に着るぜ。お前がそのおれの岩乗な舟を作つてくれてゐる間に、おれは、ちよつとお弁当をこさへよう。おれはきつと立派な炊事係りになれるだらうと思ふんだ。」
「そうね。」
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「さうね。」
とうさぎは、このたぬきの勝手な意見をも信じたふりして素直にうなずく。
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と兎は、この狸の勝手な意見をも信じた振りして素直に首肯く。
そうしてたぬきは、ああ世の中なんて甘いもんだと、ほくそ笑む。
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さうして狸は、ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む。
この間一髪(かんいっぱつ・ほんのわずかな差)において、たぬきの悲運は決まった。
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この間一髪に於いて、狸の悲運は決定せられた。
自分のでたらめを何でも信じてくれる者の心の中には、しばしば何かのおそるべき悪だくみがひそんでいるものだということを、愚かなたぬきは知らなかった。
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自分の出鱈目を何でも信じてくれる者の胸中には、しばしば何かのおそるべき悪計が蔵せられてゐるものだと云ふ事を、迂愚の狸は知らなかつた。
調子がいいぞ、とにやにやしている。
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調子がいいぞ、とにやにやしてゐる。
ふたりはそろって湖のほとりに出る。
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ふたりはそろつて湖畔に出る。
白い河口湖には波ひとつ無い。
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白い河口湖には波ひとつ無い。
うさぎはさっそく泥をこねて、いわゆるがんじょうな、いい舟の製作にとりかかり、たぬきは、「すまねえ、すまねえ」と言いながらあちこち飛びまわって、もっぱら自分のお弁当の中身をととのえることに気をつかい、夕風がかすかに吹き起こって湖の面いっぱいに小さい波が立ってきたころ、粘土の小さい舟が、つやつやと鋼鉄色に輝いて水に浮かんだ。
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兎はさつそく泥をこねて、所謂岩乗な、いい舟の製作にとりかかり、狸は、すまねえ、すまねえ、と言ひながらあちこち飛び廻つて専ら自分のお弁当の内容調合に腐心し、夕風が微かに吹き起つて湖面一ぱいに小さい波が立つて来た頃、粘土の小さい舟が、つやつやと鋼鉄色に輝いて進水した。
「ふむ、悪くない。」
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「ふむ、悪くない。」
とたぬきは、はしゃいで、石油缶くらいの大きさの、いつものお弁当箱を、まず舟に積みこみ、「お前は、しかし、ずいぶん器用な娘だねえ。またたく間にこんな綺麗な舟一艘つくり上げてしまうのだからねえ。神業(かみわざ)だ。」
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と狸は、はしやいで、石油鑵ぐらゐの大きさの、れいのお弁当箱をまづ舟に積み込み、「お前は、しかし、ずいぶん器用な娘だねえ。またたく間にこんな綺麗な舟一艘つくり上げてしまふのだからねえ。神技だ。」
と、歯の浮くような、見え透いたお世辞を言い、このように器用な働き者を女房にしたら、あるいはおれは、女房の働きによって遊んでいながら贅沢ができるかもしれないなどと、色気のほかにいまはむらむらと欲気さえ出てきて、いよいよこれは何としてもこの女にくっついて一生離れぬことだ、とひそかに覚悟を固めて、よいしょと泥の舟に乗り、「お前はきっと舟を漕ぐのも上手だろうねえ。おれだって、舟の漕ぎ方くらい知らないわけでは、まさか、そんな、知らないというわけでは決して無いんだが、きょうはひとつ、わが女房の腕前を拝見したい。」
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と歯の浮くやうな見え透いたお世辞を言ひ、このやうに器用な働き者を女房にしたら、或いはおれは、女房の働きに依つて遊んでゐながら贅沢ができるかも知れないなどと、色気のほかにいまはむらむら慾気さへ出て来て、いよいよこれは何としてもこの女にくつついて一生はなれぬ事だ、とひそかに覚悟のほぞを固めて、よいしよと泥の舟に乗り、「お前はきつと舟を漕ぐのも上手だらうねえ。おれだつて、舟の漕ぎ方くらゐ知らないわけでは、まさか、そんな、知らないと云ふわけでは決して無いんだが、けふはひとつ、わが女房のお手並を拝見したい。」
いやに言葉づかいが図々しくなってきた。
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いやに言葉遣ひが図々しくなつて来た。
「おれも昔は、舟の漕ぎ方にかけては名人とか、または達者とか言われたものだが、きょうはまあ寝転んで拝見ということにしようかな。かまわないから、おれの舟の舳先(へさき)を、お前の舟の艫(とも・舟の後ろの部分)にゆわえつけておくれ。舟も仲良くぴったりくっついて、死なばもろとも、見捨てちゃいやよ。」
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「おれも昔は、舟の漕ぎ方にかけては名人とか、または達者とか言はれたものだが、けふはまあ寝転んで拝見といふ事にしようかな。かまはないから、おれの舟の舳を、お前の舟の艫にゆはへ附けておくれ。舟も仲良くぴつたりくつついて、死なばもろとも、見捨てちやいやよ。」
などと、いやらしく、きざったらしいことを言って、ぐったり泥舟の底に寝そべる。
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などといやらしく、きざつたらしい事を言つてぐつたり泥舟の底に寝そべる。
うさぎは、舟をゆわえつけよと言われて、(さてはこの馬鹿も何か感づいたかな?
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兎は、舟をゆはへ附けよと言はれて、さてはこの馬鹿も何か感づいたかな?
とぎょっとして、たぬきの顔つきを盗み見たが、何のことは無い、たぬきは鼻の下を長くしてにやにや笑いながら、もはや夢路をたどっている。
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とぎよつとして狸の顔つきを盗み見たが、何の事は無い、狸は鼻の下を長くしてにやにや笑ひながら、もはや夢路をたどつてゐる。
鮒がとれたら起こしてくれ。
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鮒がとれたら起してくれ。
あいつあ、うめえからなあ。
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あいつあ、うめえからなあ。
おれは三十七だよ。
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おれは三十七だよ。
などと、馬鹿な寝言を言っている。
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などと馬鹿な寝言を言つてゐる。
うさぎは、ふんと笑ってたぬきの泥舟をうさぎの舟につないで、それから、櫂(かい)でぱちゃと水の面を打つ。
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兎は、ふんと笑つて狸の泥舟を兎の舟につないで、それから、櫂でぱちやと水の面を撃つ。
するすると二艘の舟は岸を離れる。
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するすると二艘の舟は岸を離れる。
鸕鷀島(うがしま)の松林は夕日をあびて、火事のようだ。
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鸕鷀島の松林は夕陽を浴びて火事のやうだ。
ここでちょっと作者は物知りぶるが、この島の松林を写生して図案にしたのが、たばこの「敷島(しきしま)」
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ここでちよつと作者は物識り振るが、この島の松林を写生して図案化したのが、煙草の「敷島」
の箱に描かれてある、あれだという話だ。
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の箱に描かれてある、あれだといふ話だ。
たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無いだろう。
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たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無からう。
もっとも、いまはもう「敷島」
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もつとも、いまはもう「敷島」
なんてたばこは無くなっているから、若い読者には何の興味も無い話である。
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なんて煙草は無くなつてゐるから、若い読者には何の興味も無い話である。
つまらない知識をふりまわしたものだ。
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つまらない知識を振りまはしたものだ。
とかく知ったかぶりは、このような馬鹿らしい結果に終わる。
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とかく識つたかぶりは、このやうな馬鹿らしい結果に終る。
まあ、生まれて三十何年以上にもなる読者だけが、「ああ、あの松か」と、芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんやり思い出して、つまらなさそうな顔をするくらいが関の山(せきのやま・それが精いっぱいであること)であろうか。
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まあ、生れて三十何年以上にもなる読者だけが、ああ、あの松か、と芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんやり思ひ出して、つまらなさうな顔をするくらゐが関の山であらうか。
さて、うさぎは、その鸕鷀島の夕方の景色をうっとりとながめて、
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さて兎は、その鸕鷀島の夕景をうつとり望見して、
「おお、いい景色。」
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「おお、いい景色。」
とつぶやく。
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と呟く。
これはいかにも奇怪である。
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これは如何にも奇怪である。
どんな極悪人でも、自分がこれから残虐な罪をおかそうというその直前に、山や水の美しさにうっとり見とれるほどの余裕なんて無いように思われるが、しかし、この十六歳の美しい少女は、目を細めて島の夕方の景色を見て楽しんでいる。
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どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行はうといふその直前に於いて、山水の美にうつとり見とれるほどの余裕なんて無いやうに思はれるが、しかし、この十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を観賞してゐる。
まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。
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まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。
苦労を知らないわがままな少女の、へどが出るような気取った姿に対して、「ああ青春は純真だ」なんて言ってよだれを流している男たちは、気をつけるがよい。
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苦労を知らぬわがままな処女の、へどが出るやうな気障つたらしい姿態に対して、ああ青春は純真だ、なんて言つて垂涎してゐる男たちは、気をつけるがよい。
その人たちのいわゆる「青春の純真」
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その人たちの所謂「青春の純真」
とかいうものは、しばしばこのうさぎの例のように、その胸の中に殺意(さつい・殺そうとする心)と陶酔(とうすい・うっとりすること)が隣り合わせに住んでいても平然としている、何が何やらわからない、感覚のごちゃまぜの乱舞である。
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とかいふものは、しばしばこの兎の例に於けるが如く、その胸中に殺意と陶酔が隣合せて住んでゐても平然たる、何が何やらわからぬ官能のごちやまぜの乱舞である。
危険この上ないビールの泡だ。
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危険この上ないビールの泡だ。
皮ふの感覚が倫理(りんり・正しい行いのきまり)をおおいかくしている状態、これを愚か、あるいは悪魔という。
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皮膚感覚が倫理を覆つてゐる状態、これを低能あるいは悪魔といふ。
ひところ世界中で流行したアメリカ映画、あれには、こんないわゆる「純真」
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ひところ世界中に流行したアメリカ映画、あれには、こんな所謂「純真」
な男や女がたくさん出て来て、皮ふの感触をもてあまして、くすぐったそうにちょこまかと、バネ仕掛けのように動きまわっていた。
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な雄や雌がたくさん出て来て、皮膚感触をもてあまして擽つたげにちよこまか、バネ仕掛けの如く動きまはつてゐた。
別にこじつけるわけではないが、いわゆる「青春の純真」
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別にこじつけるわけではないが、所謂「青春の純真」
というものの元祖は、あるいは、アメリカあたりにあったのではなかろうかと思われるくらいだ。
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といふものの元祖は、或いは、アメリカあたりにあつたのではなからうかと思はれるくらゐだ。
スキーでランラン、とかいうたぐいである。
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スキイでランラン、とかいふたぐひである。
そうしてその裏で、ひどく愚劣(ぐれつ・愚かでくだらないこと)な犯罪を平気で行っている。
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さうしてその裏で、ひどく愚劣な犯罪を平気で行つてゐる。
愚かでなければ悪魔である。
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低能でなければ悪魔である。
いや、悪魔というものは、もともと愚かなのかもしれない。
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いや、悪魔といふものは元来、低能なのかも知れない。
小柄でほっそりして手足が華奢で、あの月の女神アルテミスにもたとえられた十六歳の少女のうさぎも、ここでいっぺんに、とても興味のわかないつまらないものになってしまった。
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小柄でほつそりして手足が華奢で、かの月の女神アルテミスにも比較せられた十六歳の処女の兎も、ここに於いて一挙に頗る興味索然たるつまらぬものになつてしまつた。
愚かなのかい。
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低能かい。
それじゃあ仕方が無いねえ。
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それぢやあ仕様が無いねえ。
「ひやあ!」
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「ひやあ!」
と足もとに奇妙な声が起こる。
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と脚下に奇妙な声が起る。
わが親愛なる、そしてはなはだ純真ではない三十七歳の男性、たぬき君の悲鳴である。
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わが親愛なる而して甚だ純真ならざる三十七歳の男性、狸君の悲鳴である。
「水だ、水だ。これはいかん。」
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「水だ、水だ。これはいかん。」
「うるさいわね。泥の舟だもの、どうせ沈むわ。わからなかったの?」
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「うるさいわね。泥の舟だもの、どうせ沈むわ。わからなかつたの?」
「わからん。理解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは無理というものだ。お前はまさかこのおれを、いや、まさか、そんな鬼のような、いや、まるでわからん。お前はおれの女房じゃないか。やあ、沈む。少なくとも沈むということだけは目の前の真実だ。冗談にしたって、あくどすぎる。これはほとんど暴力だ。やあ、沈む。おい、お前どうしてくれるんだ。お弁当がむだになるじゃないか。このお弁当箱にはいたちのふんでまぶしたミミズのマカロニなんか入っているのだ。惜しいじゃないか。あっぷ! ああ、とうとう水を飲んじゃった。おい、たのむ、ひとの悪い冗談はいいかげんによせ。おいおい、その綱を切っちゃいかん。死なばもろとも、夫婦は二世、切っても切れねえ縁(えにし)の艫綱(ともづな)、あ、いけねえ、切っちゃった。助けてくれ! おれは泳ぎができねえのだ。白状する。昔は少し泳げたのだが、たぬきも三十七になると、あちこちの筋(すじ)が固くなって、とても泳げやしないのだ。白状する。おれは三十七なんだ。お前とは実際、年が違いすぎるのだ。年寄りを大事にしろ! 敬老の心がけを忘れるな! あっぷ! ああ、お前はいい子だ、な、いい子だから、そのお前の持っている櫂をこっちへ差しのべておくれ、おれはそれにつかまって、あいたたた、何をするんだ、痛いじゃないか、櫂でおれの頭をなぐりやがって、よし、そうか、わかった! お前はおれを殺す気だな、それでわかった。」
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「わからん。理解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは御無理といふものだ。お前はまさかこのおれを、いや、まさか、そんな鬼のやうな、いや、まるでわからん。お前はおれの女房ぢやないか。やあ、沈む。少くとも沈むといふ事だけは眼前の真実だ。冗談にしたつて、あくどすぎる。これはほとんど暴力だ。やあ、沈む。おい、お前どうしてくれるんだ。お弁当がむだになるぢやないか。このお弁当箱には鼬の糞でまぶした蚯蚓のマカロニなんか入つてゐるのだ。惜しいぢやないか。あつぷ! ああ、たうとう水を飲んぢやつた。おい、たのむ、ひとの悪い冗談はいい加減によせ。おいおい、その綱を切つちやいかん。死なばもろとも、夫婦は二世、切つても切れねえ縁の艫綱、あ、いけねえ、切つちやつた。助けてくれ! おれは泳ぎが出来ねえのだ。白状する。昔は少し泳げたのだが、狸も三十七になると、あちこちの筋が固くなつて、とても泳げやしないのだ。白状する。おれは三十七なんだ。お前とは実際、としが違ひすぎるのだ。年寄りを大事にしろ! 敬老の心掛けを忘れるな! あつぷ! ああ、お前はいい子だ、な、いい子だから、そのお前の持つてゐる櫂をこつちへ差しのべておくれ、おれはそれにつかまつて、あいたたた、何をするんだ、痛いぢやないか、櫂でおれの頭を殴りやがつて、よし、さうか、わかつた! お前はおれを殺す気だな、それでわかつた。」
とたぬきも、その死の直前になって、はじめてうさぎの悪だくみを見ぬいたが、すでにおそかった。
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と狸もその死の直前に到つて、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかつた。
ぽかん、ぽかん、と、無慈悲な櫂が頭の上に降る。
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ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。
たぬきは夕日にきらきら輝く湖の面に浮きつ沈みつ、
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狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
「あいたたた、あいたたた、ひどいじゃないか。おれは、お前にどんな悪いことをしたのだ。惚れたが悪いか。」
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「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」
と言って、ぐっと沈んでそれっきり。
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と言つて、ぐつと沈んでそれつきり。
うさぎは顔をふいて、
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兎は顔を拭いて、
「おお、ひどい汗。」
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「おお、ひどい汗。」
と言った。
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と言つた。
ところでこれは、好色(こうしょく・異性に強くひかれる心)へのいましめとでもいうものであろうか。
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ところでこれは、好色の戒めとでもいふものであらうか。
十六歳の美しい少女には近寄るなという、親切な忠告をにおわせた、こっけいな物語でもあろうか。
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十六歳の美しい処女には近寄るなといふ深切な忠告を匂はせた滑稽物語でもあらうか。
あるいはまた、気に入ったからといって、あまりしつこく訪ねていっては、ついには極度に嫌われ、殺されるほどのひどい目に遭うから、節度を守れ、という礼儀作法の教科書でもあろうか。
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或いはまた、気にいつたからとて、あまりしつこくお伺ひしては、つひには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭ふから節度を守れ、といふ礼儀作法の教科書でもあらうか。
あるいはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌いによって、世の中の人たちは、その日常生活において、お互いをののしり、または罰し、またはほめ、またはしたがっているものだということを暗示している笑い話であろうか。
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或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌ひに依つて世の中の人たちはその日常生活に於いて互ひに罵り、または罰し、または賞し、または服してゐるものだといふ事を暗示してゐる笑話であらうか。
いやいや、そのように評論家めいた結論をあせって出さなくても、たぬきの死ぬ間際のひとことにだけ気をとめておいたら、いいのではあるまいか。
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いやいや、そのやうに評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまはの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
いわく、惚れたが悪いか。
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曰く、惚れたが悪いか。
古来、世界中の文芸の哀しい物語の主題は、ひとえにここにかかっていると言っても言いすぎではあるまい。
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古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。
女性にはすべて、この無慈悲なうさぎが一匹住んでいるし、男性には、あの善良なたぬきが、いつもおぼれかかってあがいている。
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女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。
作者の、それこそ三十何年来の、まことにさえない経歴に照らしてみても、それは明々白々であった。
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作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。
おそらくは、また、君においても。
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おそらくは、また、君に於いても。
後略。
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後略。
舌切雀
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舌切雀
私はこの「お伽草紙」
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私はこの「お伽草紙」
という本を、日本の国難を切りひらくために力を尽くしている人々の、ほんのわずかなひまに、ちょっとした心のなぐさめとなる、ふさわしい読み物にしようと思い、このごろいつも微熱を出している不完全なからだながら、命じられては仕事のために出かけたり、また自分の家の空襲による後始末やら何やらをしながら、とにかく、そのあいまに少しずつ書きすすめて来たのである。
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といふ本を、日本の国難打開のために敢闘してゐる人々の寸暇に於ける慰労のささやかな玩具として恰好のものたらしむべく、このごろ常に微熱を発してゐる不完全のからだながら、命ぜられては奉公の用事に出勤したり、また自分の家の罹災の後始末やら何やらしながら、とにかく、そのひまに少しづつ書きすすめて来たのである。
瘤取り、浦島さん、カチカチ山、その次に、桃太郎と、舌切雀を書いて、ひとまずこの「お伽草紙」
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瘤取り、浦島さん、カチカチ山、その次に、桃太郎と、舌切雀を書いて、一応この「お伽草紙」
を完結させようと私は思っていたのであるが、桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりまで単純化されて、日本の男の子の象徴のようになっていて、物語というよりは詩や歌のおもむきさえ持っている。
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を完結させようと私は思つてゐたのであるが、桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりに単純化せられて、日本男児の象徴のやうになつてゐて、物語といふよりは詩や歌の趣きさへ呈してゐる。
もちろん私も、はじめのうちは、この桃太郎も、私なりの物語に作り直すつもりでいた。
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もちろん私も当初に於いては、この桃太郎をも、私の物語に鋳造し直すつもりでゐた。
すなわち私は、あの鬼ヶ島の鬼というものに、ある種の憎むべき性格を与えてやろうと思っていた。
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すなはち私は、あの鬼ヶ島の鬼といふものに、或る種の憎むべき性格を附与してやらうと思つてゐた。
どうしてもあれは、退治せずにはおけない、醜くて極悪な人間として、描くつもりであった。
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どうしてもあれは、征伐せずには置けぬ醜怪極悪無類の人間として、描写するつもりであつた。
それによって桃太郎の鬼退治も、大いに読者のみなさんの共感を呼び起こし、そしてその戦いも、読む者の手に汗をにぎらせるほどの、本当に危機一髪のものにしようとたくらんでいた。
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それに依つて桃太郎の鬼征伐も大いに読者諸君の共鳴を呼び起し、而してその戦闘も読む者の手に汗を握らせるほどの真に危機一髪のものたらしめようとたくらんでゐた。
(まだ書いていない自分の作品の計画を語る場合には、作者はたいていこのようにあどけないほらを吹くものである。
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(未だ書かぬ自分の作品の計画を語る場合に於いては、作者はたいていこのやうにあどけない法螺を吹くものである。
そんなに、うまくはいきませぬて。)
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そんなに、うまくは行きませぬて。)
まあさ、とにかく、まあ、聞きたまえ。
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まあさ、とにかく、まあ、聞き給へ。
どうせ、気焔(きえん・威勢のいい言葉)だがね。
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どうせ、気焔だがね。
とにかく、ひやかさずに聞いてくれたまえ。
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とにかく、ひやかさずに聞いてくれ給へ。
ギリシャ神話において、最も邪悪で醜い魔物は、やはりあの、頭が無数の蛇でできているメデューサであろう。
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ギリシヤ神話に於いて、最も佞悪醜穢の魔物は、やはりあの万蛇頭のメデウサであらう。
眉間(みけん・眉と眉の間)には疑い深い深いしわがきざまれ、小さい灰色の目には浅ましい殺意が燃え、真っ青なほおはおどす怒りに震えて、黒ずんだ薄いくちびるは、嫌悪と侮蔑にひきつったようにゆがんでいる。
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眉間には狐疑の深い皺がきざみ込まれ、小さい灰色の眼には浅間しい殺意が燃え、真蒼な頬は威嚇の怒りに震へて、黒ずんだ薄い唇は嫌悪と侮蔑にひきつつたやうにゆがんでゐる。
そうして、長い髪の毛の一本一本が、ことごとく腹の赤い毒蛇である。
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さうして長い頭髪の一本一本がことごとく腹の赤い毒蛇である。
敵に対して、この無数の毒蛇は、すばやく一斉に鎌首(かまくび・蛇が持ち上げた頭の部分)をもたげ、しゅっしゅっと気味悪い音を立てて立ち向かう。
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敵に対してこの無数の毒蛇は、素早く一様に鎌首をもたげ、しゆつしゆつと気味悪い音を立てて手向ふ。
このメデューサの姿をひとめ見た者は、何とも知れずいやな気持ちになって、そうして、心臓が凍り、からだ全体が冷たい石になったという。
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このメデウサの姿をひとめ見た者は、何とも知れずいやな気持になつて、さうして、心臓が凍り、からだ全体つめたい石になつたといふ。
恐怖というよりは、不快感である。
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恐怖といふよりは、不快感である。
人の肉体よりも、人の心に害を加える。
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人の肉体よりも、人の心に害を加へる。
このような魔物は、最も憎むべきものであり、かつまた、すみやかに退治しなければならないものである。
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このやうな魔物は、最も憎むべきものであり、かつまたすみやかに退治しなければならぬものである。
それに比べると、日本の化け物は単純で、そうして愛嬌がある。
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それに較べると、日本の化物は単純で、さうして愛嬌がある。
古いお寺の大入道(おおにゅうどう・大きな坊主の姿の化け物)や、一本足の傘の化け物などは、たいてい、お酒飲みの豪傑(ごうけつ)のために無邪気な舞いを見せてくれて、それによって豪傑の、夜ふけのひまでさびしい気持ちをなぐさめてくれるだけのものである。
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古寺の大入道や一本足の傘の化物などは、たいてい酒飲みの豪傑のために無邪気な舞ひをごらんに入れて以て豪傑の乙夜丑満の無聊を慰めてくれるだけのものである。
また、絵本の鬼ヶ島の鬼たちも、図体(ずうたい・からだの大きさ)ばかり大きくて、猿に鼻などひっかかれ、あっ!
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また、絵本の鬼ヶ島の鬼たちも、図体ばかり大きくて、猿に鼻など引掻かれ、あつ!
と言ってひっくり返って降参したりしている。
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と言つてひつくりかへつて降参したりしてゐる。
まったくおそろしくも何とも無い。
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一向におそろしくも何とも無い。
善良な性格のもののようにさえ思われる。
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善良な性格のもののやうにさへ思はれる。
それでは、せっかくの鬼退治も、はなはだ気ぬけした物語になるだろう。
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それでは折角の鬼退治も、甚だ気抜けのした物語になるだらう。
ここは、どうしてもメデューサの首以上のすごい、不愉快きわまる魔物を登場させなければならないところだ。
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ここは、どうしてもメデウサの首以上の凄い、不愉快きはまる魔物を登場させなければならぬところだ。
それでなければ、読者の手に汗をにぎらせるわけにはいかない。
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それでなければ読者の手に汗を握らせるわけにはいかぬ。
また、征服者の桃太郎が、あまりに強くては、読者はかえって鬼のほうを気の毒に思ったりなどして、その物語に危機一髪の醍醐味(だいごみ・本当のおもしろさ)はわいて出ない。
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また、征服者の桃太郎が、あまりに強くては、読者はかへつて鬼のはうを気の毒に思つたりなどして、その物語に危機一髪の醍醐味は湧いて出ない。
ジークフリートほどの不死身(ふじみ)の大勇者でも、その肩先に一か所の弱点を持っていたではないか。
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ジイグフリイドほどの不死身の大勇者でも、その肩先に一箇所の弱点を持つてゐたではないか。
弁慶にも泣きどころがあったというし、とにかく、完璧な絶対の強者は、どうも物語には向かない。
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弁慶にも泣きどころがあつたといふし、とにかく、完璧の絶対の強者は、どうも物語には向かない。
それに私は、自分が非力なせいか、弱者の心理には、いささか通じているつもりだが、どうも、強者の心理は、あまり詳しく知らない。
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それに私は、自身が非力のせゐか、弱者の心理にはいささか通じてゐるつもりだが、どうも、強者の心理は、あまりつまびらかに知つてゐない。
特に、誰にも絶対に負けない完璧な強者なんてのには、いままで一度も会ったことが無いし、また噂にさえ聞いたことが無い。
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殊にも、誰にも絶対に負けぬ完璧の強者なんてのには、いま迄いちども逢つた事が無いし、また噂にさへ聞いた事が無い。
私は、多少でも自分で実際に経験したことでなければ、一行も一字も書けない、はなはだ空想が貧しい物語作家である。
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私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である。
それで、この桃太郎物語を書くに当たっても、そんな見たことも無い絶対不敗の豪傑を登場させるのは、何としても不可能なのである。
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それで、この桃太郎物語を書くに当つても、そんな見た事も無い絶対不敗の豪傑を登場させるのは何としても不可能なのである。
やはり、私の桃太郎は、小さい時から泣き虫で、からだが弱くて、はにかみ屋で、さっぱり駄目な男だったのだが、人の心を打ちくだき、終わりの無い絶望とおそれとうらみの地獄にたたきこむ、たちの悪い、この上なく醜い妖鬼たちに出会って、「われ非力なりといえども、いまは黙って見過ごすことはできない」と、思いきって立ち上がり、きび団子を腰に、あの妖鬼たちの巣くつに向かって出発する、とでもいうようなことになりそうである。
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やはり、私の桃太郎は、小さい時から泣虫で、からだが弱くて、はにかみ屋で、さつぱり駄目な男だつたのだが、人の心情を破壊し、永遠の絶望と戦慄と怨嗟の地獄にたたき込む悪辣無類にして醜怪の妖鬼たちに接して、われ非力なりと雖もいまは黙視し得ずと敢然立つて、黍団子を腰に、かの妖鬼たちの巣窟に向つて発足する、とでもいふやうな事になりさうである。
またあの、犬、猿、雉の三匹の家来も、決して模範的な助っ人ではなく、それぞれに困った癖があって、たまにはけんかもはじめるであろうし、ほとんどあの西遊記の悟空、八戒、悟浄のようなものとして書くかもしれない。
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またあの、犬、猿、雉の三匹の家来も、決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困つた癖があつて、たまには喧嘩もはじめるであらうし、ほとんどかの西遊記の悟空、八戒、悟浄の如きもののやうに書くかも知れない。
しかし、私は、カチカチ山の次に、いよいよこの、「私の桃太郎」
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しかし、私は、カチカチ山の次に、いよいよこの、「私の桃太郎」
に取りかかろうとして、突然、ひどくものういい気持ちにおそわれたのである。
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に取りかからうとして、突然、ひどく物憂い気持に襲はれたのである。
せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残しておきたい。
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せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。
これは、もう物語ではない。
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これは、もう物語ではない。
昔から日本人みんなに歌い継がれて来た日本の詩である。
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昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩である。
物語の筋にどんな矛盾があったって、かまわない。
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物語の筋にどんな矛盾があつたつて、かまはぬ。
この詩の、明るくのびのびとした気分を、いまさら、いじくりまわすのは、日本に対してすまない。
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この詩の平明闊達の気分を、いまさら、いぢくり廻すのは、日本に対してすまぬ。
いやしくも桃太郎は、「日本一」という旗を持っている男である。
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いやしくも桃太郎は、日本一といふ旗を持つてゐる男である。
日本一はおろか、日本二も三も経験しない作者が、そんな日本一の快男子(かいだんし・気持ちのいい立派な男)を描けるはずが無い。
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日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。
私は桃太郎のあの「日本一」
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私は桃太郎のあの「日本一」
の旗を思い浮かべるにおよんで、いさぎよく「私の桃太郎物語」
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の旗を思ひ浮べるに及んで、潔く「私の桃太郎物語」
の計画を放棄したのである。
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の計画を放棄したのである。
そうして、すぐつぎに舌切雀の物語を書き、それだけでひとまず、この「お伽草紙」
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さうして、すぐつぎに舌切雀の物語を書き、それだけで一応、この「お伽草紙」
を結びたいと思い直したわけである。
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を結びたいと思ひ直したわけである。
この舌切雀にせよ、また前の瘤取り、浦島さん、カチカチ山、いずれも「日本一」
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この舌切雀にせよ、また前の瘤取り、浦島さん、カチカチ山、いづれも「日本一」
の登場は無いので、私の責任も軽く、自由に書くことができたのであるが、どうも、日本一ということになると、かりそめにも、この貴い国で第一ということになると、いくらお伽噺だからと言っても、でたらめな書き方は許されまい。
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の登場は無いので、私の責任も軽く、自由に書く事を得たのであるが、どうも、日本一と言ふ事になると、かりそめにもこの貴い国で第一と言ふ事になると、いくらお伽噺だからと言つても、出鱈目な書き方は許されまい。
外国の人が見て、「なんだ、これが日本一か」などと言ったら、その悔しさはどんなだろう。
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外国の人が見て、なんだ、これが日本一か、などと言つたら、その口惜しさはどんなだらう。
だから、私はここに、くどいくらいに念を押しておきたいのだ。
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だから、私はここにくどいくらゐに念を押して置きたいのだ。
瘤取りの二人のおじいさんも浦島さんも、またカチカチ山のたぬきさんも、決して日本一ではないんだぞ。桃太郎だけが日本一なんだぞ。そうしておれはその桃太郎を書かなかったんだぞ。だから、この「お伽草紙」
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瘤取りの二老人も浦島さんも、またカチカチ山の狸さんも、決して日本一ではないんだぞ、桃太郎だけが日本一なんだぞ、さうしておれはその桃太郎を書かなかつたんだぞ、だから、この「お伽草紙」
には、日本一なんか、もしお前の目の前に現れたら、お前の両目は、まぶしさのためにつぶれるかもしれない。
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には、日本一なんか、もしお前の眼前に現はれたら、お前の両眼はまぶしさのためにつぶれるかも知れない。
いいか、わかったか。
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いいか、わかつたか。
この私の「お伽草紙」
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この私の「お伽草紙」
に出て来る者は、日本一でも二でも三でも無いし、また、いわゆる「代表的人物」
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に出て来る者は、日本一でも二でも三でも無いし、また、所謂「代表的人物」
でも無い。
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でも無い。
これはただ、太宰という作家が、その愚かな経験と貧しい空想でもって作り出した、きわめて平凡な人物たちばかりである。
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これはただ、太宰といふ作家がその愚かな経験と貧弱な空想を以て創造した極めて凡庸の人物たちばかりである。
これらのいろいろな人物でもって、ただちに日本人の軽重(けいちょう・価値の大小)をはかろうとするのは、それこそ刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん・時代おくれの、見当違いなやり方)の、したり顔の詮索(せんさく)に近い。
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これらの諸人物を以て、ただちに日本人の軽重を推計せんとするのは、それこそ刻舟求剣のしたり顔なる穿鑿に近い。
私は日本を大事にしている。
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私は日本を大事にしてゐる。
それは言うまでも無いことだが、それゆえ、私は日本一の桃太郎を描くことは避け、また、ほかのいろいろな人物が決して日本一ではない理由も、くどくどと述べて来たのだ。
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それは言ふまでも無い事だが、それゆゑ、私は日本一の桃太郎を描写する事は避け、また、他の諸人物の決して日本一ではない所以をもくどくどと述べて来たのだ。
読者もまた、私のこんな変なこだわり方に大いに賛成してくださるのではあるまいか、と思われる。
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読者もまた、私のこんなへんなこだはり方に大いに賛意を表して下さるのではあるまいか、と思はれる。
さて、この舌切雀の主人公は、日本一どころか、逆に、日本で一番駄目な男と言ってよいかもしれない。
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さて、この舌切雀の主人公は、日本一どころか、逆に、日本で一ばん駄目な男と言つてよいかも知れぬ。
だいいち、からだが弱い。
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だいいち、からだが弱い。
からだの弱い男というものは、足の悪い馬よりも、もっと世間での値打ちが低いようである。
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からだの弱い男といふものは、足の悪い馬よりも、もつと世間的の価値が低いやうである。
いつも力の無いせきをして、そうして顔色も悪く、朝起きて部屋のしょうじにはたきをかけ、ほうきでちりを掃き出すと、もう、ぐったりして、あとは、一日じゅう机のそばで寝たり起きたり何やらもぞもぞ動いて、夕食をすますと、すぐ自分でさっさと布団を敷いて寝てしまう。
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いつも力無い咳をして、さうして顔色も悪く、朝起きて部屋の障子にはたきを掛け、箒で塵を掃き出すと、もう、ぐつたりして、あとは、一日一ぱい机の傍で寝たり起きたり何やら蠢動して、夕食をすますと、すぐ自分でさつさと蒲団を引いて寝てしまふ。
この男は、すでに十数年来、こんな情け無い生活を続けている。
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この男は、既に十数年来こんな情無い生活を続けてゐる。
まだ四十歳にもならないのだが、しかし、よほど前から自分のことを翁(おきな・老人の意味の書き方)と署名し、また自分の家の者にも「お爺さん」
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未だ四十歳にもならぬのだが、しかし、よほど前から自分の事を翁と署名し、また自分の家の者にも「お爺さん」
と呼べと命令している。
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と呼べと命令してゐる。
まあ、世捨人(よすてびと・世の中の暮らしをすてて静かに暮らす人)とでも言うべきものであろうか。
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まあ、世捨人とでも言ふべきものであらうか。
しかし、世捨人だって、お金が少しでもあるから、世を捨てられるので、一文無しのその日暮らしだったら、世を捨てようと思ったって、世の中のほうから追いかけて来て、とても捨てきれるものでない。
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しかし、世捨人だつて、お金が少しでもあるから、世を捨てられるので、一文無しのその日暮しだつたら、世を捨てようと思つたつて、世の中のはうから追ひかけて来て、とても捨て切れるものでない。
この「お爺さん」
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この「お爺さん」
も、いまはこんなささやかな草の庵をむすんでいるが、もとをただせば大金持ちの三男坊で、父母の期待にそむいて、これという職業も持たず、ぼんやり晴耕雨読(せいこううどく・晴れた日は畑を耕し、雨の日は本を読むような、のんびりした暮らし)などという生活をしているうちに病気になったりして、このごろは、父母をはじめ親戚一同も、これを病弱で困った者と呼んであきらめ、月々の暮らしに困らない小額のお金を仕送りしているというような状態なのである。
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も、いまはこんなささやかな草の庵を結んでゐるが、もとをただせば大金持の三男坊で、父母の期待にそむいて、これといふ職業も持たず、ぼんやり晴耕雨読などといふ生活をしてゐるうちに病気になつたりして、このごろは、父母をはじめ親戚一同も、これを病弱の馬鹿の困り者と称してあきらめ、月々の暮しに困らぬ小額の金を仕送りしてゐるといふやうな状態なのである。
だからこそ、こんな世捨人みたいな生活も可能なのである。
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さればこそ、こんな世捨人みたいな生活も可能なのである。
いくら、草の庵とはいえ、まあ、結構な身分と言わざるを得ないであろう。
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いかに、草の庵とはいへ、まあ、結構な身分と申さざるを得ないであらう。
そうして、そんな結構な身分の者に限って、あまり人の役に立たないものである。
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さうして、そんな結構な身分の者に限つて、あまりひとの役に立たぬものである。
からだが弱いのは事実のようであるが、しかし、寝ているほどの病人ではないのだから、何か一つくらい、積極的な仕事ができないわけはないはずである。
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からだが弱いのは事実のやうであるが、しかし、寝てゐるほどの病人では無いのだから、何か一つくらゐ積極的仕事の出来ぬわけはない筈である。
けれども、このお爺さんは何もしない。
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けれども、このお爺さんは何もしない。
本だけは、ずいぶんたくさん読んでいるようだが、読むそばから忘れていくのか、自分の読んだことを人に語って知らせるというわけでもない。
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本だけは、ずいぶんたくさん読んでゐるやうだが、読み次第わすれて行くのか、自分の読んだ事を人に語つて知らせるといふわけでもない。
ただ、ぼんやりしている。
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ただ、ぼんやりしてゐる。
これだけでも、すでに世間での値打ちがゼロに近いのに、さらにこのお爺さんには子どもが無い。
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これだけでも、既に世間的価値がゼロに近いのに、さらにこのお爺さんには子供が無い。
結婚してもう十年以上にもなるのだが、いまだに世継ぎ(よつぎ・跡をつぐ子ども)が無いのである。
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結婚してもう十年以上にもなるのだが、未だ世継が無いのである。
これでもう完全に彼は、世間の人としての義務を何一つ果たしていない、ということになる。
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これでもう完全に彼は、世間人としての義務を何一つ果してゐない、といふ事になる。
こんな張り合いの無い亭主に、よくもまあ十何年も連れそって来た奥さんというのは、どんな女か、多少の興味をそそられる。
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こんな張合の無い亭主に、よくもまあ十何年も連添うて来た細君といふのは、どんな女か、多少の興をそそられる。
しかし、その草の庵の垣根越しに、そっとのぞいてみた者は、「なあんだ」と、がっかりさせられる。
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しかし、その草庵の垣根越しに、そつと覗いてみた者は、なあんだ、とがつかりさせられる。
実に何とも、つまらない女だ。
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実に何とも、つまらない女だ。
色がまっくろで、目はぎょろりとして、手はしわだらけで大きく、その手をだらりと前にさげて少し腰をかがめて忙しそうに庭を歩いているさまを見ると、「お爺さん」
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色がまつくろで、眼はぎよろりとして、手は皺だらけで大きく、その手をだらりと前にさげて少し腰をかがめていそがしげに庭を歩いてゐるさまを見ると、「お爺さん」
よりも年上ではないかと思われるくらいである。
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よりも年上ではないかと思はれるくらゐである。
しかし、今年三十三の厄年(やくどし・悪いことが起こりやすいとされる年齢)だという。
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しかし、今年三十三の厄年だといふ。
このひとは、もと「お爺さん」
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このひとは、もと「お爺さん」
の生まれた家に召し使われていたのであるが、病弱なお爺さんの世話を受け持たされて、いつしかその生涯を受け持つようになってしまったのである。
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の生家に召使はれてゐたのであるが、病弱のお爺さんの世話を受持たされて、いつしかその生涯を受持つやうになつてしまつたのである。
無学である。
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無学である。
「さあ、下着類をみんな、脱いでここへ出してください。洗います。」
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「さあ、下着類を皆、脱いでここへ出して下さい。洗ひます。」
と、強く命令するように言う。
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と強く命令するやうに言ふ。
「この次。」
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「この次。」
お爺さんは、机にほおづえをついて低く答える。
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お爺さんは、机に頬杖をついて低く答へる。
お爺さんは、いつも、ひどく低い声で言う。
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お爺さんは、いつも、ひどく低い声で言ふ。
しかも、言葉の後半は、口の中でよどんで、「ああ」とか「うう」とかいうようにしか聞こえない。
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しかも、言葉の後半は、口の中で澱んで、ああ、とか、うう、とかいふやうにしか聞えない。
連れそって十何年になるお婆さんにさえ、このお爺さんの言うことがよく聞きとれない。
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連添うて十何年になるお婆さんにさへ、このお爺さんの言ふ事がよく聞きとれない。
まして、他人においては、なおさらである。
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いはんや、他人に於いてをや。
どうせ世捨人同然の人なのだから、自分の言うことが他人にわかったって、わからなくたって、どうだっていいようなものかもしれないが、定職にも就かず、読書はしても別段その知識でもって何かを書こうとする気配も見えず、そうして結婚後十数年たっているのに一人の子どももつくらず、そうして、その上、日常の会話においてさえ、はっきり言う手間を省いて、後半を口の中でむにゃむにゃ言ってすますとは、その骨惜しみ(ほねおしみ・面倒がって力を出さないこと)と言おうか何と言おうか、とにかくその消極性は、言葉では言い表せないものがあるように思われる。
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どうせ世捨人同然のひとなのだから、自分の言ふ事が他人にわかつたつて、わからなくたつてどうだつていいやうなものかも知れないが、定職にも就かず、読書はしても別段その知識でもつて著述などしようとする気配も見えず、さうして結婚後十数年経過してゐるのに一人の子供もまうけず、さうして、その上、日常の会話に於いてさへ、はつきり言ふ手数を省いて、後半を口の中でむにやむにや言つてすますとは、その骨惜しみと言はうか何と言はうか、とにかくその消極性は言語に絶するものがあるやうに思はれる。
「早く出してくださいよ。ほら、襦袢(じゅばん・着物の下に着るもの)の襟なんか、油じみて光っているじゃありませんか。」
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「早く出して下さいよ。ほら、襦袢の襟なんか、油光りしてゐるぢやありませんか。」
「この次。」
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「この次。」
やはり半分は口の中で、ぼそりと言う。
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やはり半分は口の中で、ぼそりと言ふ。
「え? 何ですって? わかるように言ってください。」
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「え? 何ですつて? わかるやうに言つて下さい。」
「この次。」
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「この次。」
と、ほおづえをついたまま、にこりともせずお婆さんの顔を、まじまじと見つめながら、こんどはやや、はっきりと言う。
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と頬杖をついたまま、にこりともせずお婆さんの顔を、まじまじと見つめながら、こんどはやや明瞭に言ふ。
「きょうは寒い。」
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「けふは寒い。」
「もう冬ですもの。きょうだけじゃなく、あしたもあさっても寒いに決まっています。」
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「もう冬ですもの。けふだけぢやなく、あしたもあさつても寒いにきまつてゐます。」
と子どもをしかるような口調で言い、「そんな具合に家の中で、じっと炉のそばに座っている人と、井戸端へ出て洗濯している人と、どっちが寒いか知っていますか。」
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と子供を叱るやうな口調で言ひ、「そんな工合ひに家の中で、じつと炉傍に坐つてゐる人と、井戸端へ出て洗濯してゐる人と、どつちが寒いか知つてゐますか。」
「わからない。」
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「わからない。」
と、かすかに笑って答える。
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と幽かに笑つて答へる。
「お前の井戸端は習慣になっているから。」
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「お前の井戸端は習慣になつてゐるから。」
「冗談じゃありません。」
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「冗談ぢやありません。」
とお婆さんは顔をしかめて、「私だって何も、洗濯をしに、この世に生まれて来たわけじゃないんですよ。」
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とお婆さんは顔をしかめて、「私だつて何も、洗濯をしに、この世に生れて来たわけぢやないんですよ。」
「そうかい。」
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「さうかい。」
と言って、澄ましている。
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と言つて、すましてゐる。
「さあ、早く脱いでよこしてくださいよ。代わりの下着類はいっさい、その押し入れの中に入っていますから。」
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「さあ、早く脱いで寄こして下さいよ。代りの下着類はいつさいその押入の中にはひつてゐますから。」
「風邪をひく。」
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「風邪をひく。」
「じゃあ、よござんす。」
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「ぢやあ、よござんす。」
いまいましそうに言い切って、お婆さんは引きさがる。
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いまいましさうに言ひ切つてお婆さんは退却する。
ここは東北の仙台郊外、愛宕山(あたごやま)のふもと、広瀬川の急流に面した大きな竹やぶの中である。
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ここは東北の仙台郊外、愛宕山の麓、広瀬川の急流に臨んだ大竹藪の中である。
仙台地方には昔から、すずめが多かったのか、仙台笹(せんだいざさ)とかいう家紋には、すずめが二羽、図案になっているし、また、芝居の「先代萩(せんだいはぎ)」にはすずめが千両役者(せんりょうやくしゃ・とても人気のある俳優)以上の重要な役として登場するのは、誰でもご存じのことと思う。
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仙台地方には昔から、雀が多かつたのか、仙台笹とかいふ紋所には、雀が二羽図案化されてゐるし、また、芝居の先代萩には雀が千両役者以上の重要な役として登場するのは誰しもご存じの事と思ふ。
また、去年、私が仙台地方を旅行した時にも、その土地のある友人から、仙台地方の古いわらべ歌として次のような歌を紹介された。
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また、昨年、私が仙台地方を旅行した時にも、その土地の一友人から仙台地方の古い童謡として次のやうな歌を紹介せられた。
カゴメ カゴメ
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カゴメ カゴメ
カゴノナカノ スズメ
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カゴノナカノ スズメ
イツ イツ デハル
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イツ イツ デハル
この歌は、しかし、仙台地方に限らず、日本全国の子どもの遊び歌になっているようであるが、
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この歌は、しかし、仙台地方に限らず、日本全国の子供の遊び歌になつてゐるやうであるが、
カゴノナカノ スズメ
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カゴノナカノ スズメ
と言って、わざわざ、かごの中の小鳥をすずめと限定しているところ、また、「デハル」という東北の方言が何の不自然な感じも無く入れられている点など、やはりこれは仙台地方の民謡と呼んでも大きな間違いではないのではなかろうかと私には思われた。
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と言つて、ことさらに籠の小鳥を雀と限定してゐるところ、また、デハルといふ東北の方言が何の不自然な感じも無く挿入せられてゐる点など、やはりこれは仙台地方の民謡と称しても大過ないのではなからうかと私には思はれた。
このお爺さんの草の庵のまわりの大きな竹やぶにも、無数のすずめが住んでいて、朝夕、耳をつんざかんばかりに騒ぎ立てる。
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このお爺さんの草庵の周囲の大竹藪にも、無数の雀が住んでゐて、朝夕、耳を聾せんばかりに騒ぎ立てる。
この年の秋の終わり、大きな竹やぶに霰(あられ)がさわやかな音を立てて走っている朝、庭の土の上に、脚をくじいて仰向けにあがいている小さいすずめを、お爺さんは見つけ、黙って拾って、部屋の炉のそばに置いて餌を与え、すずめは脚の怪我がなおっても、お爺さんの部屋で遊んで、たまに庭先へ飛び降りてみることもあるが、またすぐ縁側にあがって来て、お爺さんの投げ与える餌をついばみ、ふんをたれると、お婆さんは、
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この年の秋の終り、大竹藪に霰が爽やかな音を立てて走つてゐる朝、庭の土の上に、脚をくじいて仰向にあがいてゐる小雀をお爺さんは見つけ、黙つて拾つて、部屋の炉傍に置いて餌を与へ、雀は脚の怪我がなほつても、お爺さんの部屋で遊んで、たまに庭先へ飛び降りてみる事もあるが、またすぐ縁にあがつて来て、お爺さんの投げ与へる餌を啄み、糞をたれると、お婆さんは、
「あれ、きたない。」
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「あれ汚い。」
と言って追い払い、お爺さんは無言で立って懐紙(ふところがみ・和紙のハンカチ)で、その縁側のふんをていねいに拭き取る。
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と言つて追ひ、お爺さんは無言で立つて懐紙でその縁側の糞をていねいに拭き取る。
日がたつにつれて、すずめにも、甘えていい人と、そうでない人との見わけがついてきた様子で、家にお婆さんひとりしかいない時には、庭先や軒下にひなん(避難)し、そうしてお爺さんがあらわれると、すぐ飛んで来て、お爺さんの頭の上にちょんと止まったり、またお爺さんの机の上をはねまわり、すずりの水をのどをかすかに鳴らして飲んだり、筆立ての中に隠れたり、いろいろにたわむれて、お爺さんの勉強のじゃまをする。
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日数の経つにつれて雀にも、甘えていい人と、さうでない人との見わけがついて来た様子で、家にお婆さんひとりしかゐない時には、庭先や軒下に避難し、さうしてお爺さんがあらはれると、すぐ飛んで来て、お爺さんの頭の上にちよんと停つたり、またお爺さんの机の上をはねまはり、硯の水をのどを幽かに鳴らして飲んだり、筆立の中に隠れたり、いろいろに戯れてお爺さんの勉強の邪魔をする。
けれども、お爺さんはたいてい知らないふりをしている。
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けれども、お爺さんはたいてい知らぬ振りをしてゐる。
世の中にいる小鳥好きの人たちのように、自分の大切にしている小鳥に変な気取った名前をつけて、
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世にある愛禽家のやうに、わが愛禽にへんな気障つたらしい名前を附けて、
「ルミや、お前もさびしいかい。」
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「ルミや、お前も淋しいかい。」
などということは言わない。
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などといふ事は言はない。
すずめがどこで何をしようと、まったく無関心な様子を見せている。
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雀がどこで何をしようと、全然無関心の様子を示してゐる。
そうして時々、黙って台所から餌をひとつかみ持って来て、ばらりと縁側にまいてやる。
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さうして時々、黙つてお勝手から餌を一握り持つて来て、ばらりと縁側に撒いてやる。
そのすずめが、いまお婆さんが引きさがったあとに、はたはたと軒下から飛んで来て、お爺さんがほおづえをついている机のはしに、ちょんと止まる。
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その雀が、いまお婆さんの退場後に、はたはたと軒下から飛んで来て、お爺さんの頬杖ついてゐる机の端にちよんと停る。
お爺さんは少しも表情を変えず、黙ってすずめを見ている。
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お爺さんは少しも表情を変へず、黙つて雀を見てゐる。
このへんから、そろそろこの小さいすずめの身の上に悲劇がはじまる。
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このへんから、そろそろこの小雀の身の上に悲劇がはじまる。
お爺さんは、しばらくたってからひとこと、「そうか。」
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お爺さんは、しばらく経つてから一言、「さうか。」
と言った。
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と言つた。
それから深いため息をついて、机の上に本をひろげた。
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それから深い溜息をついて、机上に本をひろげた。
その本のページを一、二枚めくって、それからまた、ほおづえをついてぼんやり前のほうを見ながら、「洗濯をするために生まれて来たのではないと言いやがる。あれでも、まだ、色気があると見える。」
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その書物のペエジを一、二枚繰つて、それからまた、頬杖をついてぼんやり前方を見ながら、「洗濯をするために生れて来たのではないと言ひやがる。あれでも、まだ、色気があると見える。」
とつぶやいて、かすかに苦笑いする。
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と呟いて、幽かに苦笑する。
この時、突然、机の上の小さいすずめが人間の言葉を話した。
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この時、突然、机上の小雀が人語を発した。
「あなたは、どうなの?」
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「あなたは、どうなの?」
お爺さんは、特に驚かず、
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お爺さんは格別おどろかず、
「おれか、おれは、そうさな、本当のことを言うために生まれて来た。」
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「おれか、おれは、さうさな、本当の事を言ふために生れて来た。」
「でも、あなたは何も言いやしないじゃないの。」
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「でも、あなたは何も言ひやしないぢやないの。」
「世の中の人はみんな、嘘つきだから、話を交わすのがいやになったのさ。みんな、嘘ばっかりついている。そうしてさらに恐ろしいことは、その自分の嘘にご自身、お気づきになっていない。」
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「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交すのがいやになつたのさ。みんな、嘘ばつかりついてゐる。さうしてさらに恐ろしい事は、その自分の嘘にご自身お気附きになつてゐない。」
「それは怠け者の言いのがれよ。ちょっと学問なんかすると、誰でもそんな具合にずうずうしい気取り方をしてみたくなるものらしいのね。あなたは、なんにもしてやしないじゃないの。『寝ていて人を起こすなかれ』ということわざがあったわよ。人のことなど言える柄じゃ無いわ。」
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「それは怠け者の言ひのがれよ。ちよつと学問なんかすると、誰でもそんな工合に横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。あなたは、なんにもしてやしないぢやないの。寝てゐて人を起こすなかれ、といふ諺があつたわよ。人の事など言へるがらぢや無いわ。」
「それもそうだが、」
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「それもさうだが、」
とお爺さんはあわてず、「しかし、おれのような男もあっていいのだ。おれは何もしていないように見えるだろうが、まんざら、そうでもない。おれでなくちゃできないこともある。おれの生きている間、おれの本当の値打ちを発揮できる時機(じき)が来るかどうかわからないが、しかし、その時が来たら、おれだって大いに働く。その時までは、まあ、沈黙して、読書だ。」
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とお爺さんはあわてず、「しかし、おれのやうな男もあつていいのだ。おれは何もしてゐないやうに見えるだらうが、まんざら、さうでもない。おれでなくちや出来ない事もある。おれの生きてゐる間、おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬが、しかし、その時が来たら、おれだつて大いに働く。その時までは、まあ、沈黙して、読書だ。」
「どうだか。」
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「どうだか。」
とすずめは小首をかしげ、「意気地無しの陰弁慶(かげべんけい・家の中では強がるけれど、外では弱い人)に限って、よくそんな負け惜しみの威勢のいい言葉をあげるものだわ。落ちぶれたご隠居(いんきょ・仕事をやめて静かに暮らす人)、とでも言うのかしら、あなたのようなよぼよぼのご老体は、かえらぬ昔の夢を、未来の希望に置きかえて、そうしてご自身をなぐさめているんだわ。お気の毒みたいなものよ。そんなのは威勢のいい言葉にさえなってやしない。ゆがんだ愚痴(ぐち・言ってもしかたのない不満)よ。だって、あなたは、何もいいことをしてやしないんだもの。」
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と雀は小首を傾け、「意気地無しの陰弁慶に限つて、よくそんな負け惜しみの気焔を挙げるものだわ。廃残の御隠居、とでもいふのかしら、あなたのやうなよぼよぼの御老体は、かへらぬ昔の夢を、未来の希望と置きかへて、さうしてご自身を慰めてゐるんだわ。お気の毒みたいなものよ。そんなのは気焔にさへなつてやしない。変態の愚癡よ。だつて、あなたは、何もいい事をしてやしないんだもの。」
「そう言えば、まあ、そんなものかもしれないが、」
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「さう言へば、まあ、そんなものかも知れないが、」
と老人はいよいよ落ちついて、「しかし、おれだって、いま立派に実行していることが一つある。それは何かって言えば、無欲ということだ。言うはやすくして、行うは難いものだよ。うちのお婆さんなど、おれみたいな者ともう十何年も連れそって来たのだから、いいかげんに世間の欲を捨てているかと思っていたら、どうもそうでもないらしい。まだあれで、何か色気があるらしいんだね。それがおかしくて、つい、ひとりで噴き出したような次第だ。」
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と老人はいよいよ落ちついて、「しかし、おれだつて、いま立派に実行してゐる事が一つある。それは何かつて言へば、無慾といふ事だ。言ふは易くして、行ふは難いものだよ。うちのお婆さんなど、おれみたいな者ともう十何年も連添うて来たのだから、いい加減に世間の慾を捨ててゐるかと思つてゐたら、どうもさうでもないらしい。まだあれで、何か色気があるらしいんだね。それが可笑しくて、ついひとりで噴き出したやうな次第だ。」
そこへ、ぬっとお婆さんが顔を出す。
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そこへ、ぬつとお婆さんが顔を出す。
「色気なんかありませんよ。おや? あなたは、誰と話をしていたのです。誰か、若い娘さんの声がしていましたがね。あのお客さんは、どこへいらっしゃいました。」
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「色気なんかありませんよ。おや? あなたは、誰と話をしてゐたのです。誰か、若い娘さんの声がしてゐましたがね。あのお客さんは、どこへいらつしやいました。」
「お客さんか。」
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「お客さんか。」
お爺さんは、いつものように言葉をにごす。
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お爺さんは、れいに依つて言葉を濁す。
「いいえ、あなたは今たしかに誰かと話をしていましたよ。それも私の悪口をね。まあ、どうでしょう、私にものを言う時には、いつも口ごもって聞きとれないような面倒くさそうな言い方ばかりするくせに、あの娘さんには、まるで人が変わったみたいに、あんな若やいだ声を出して、たいへんごきげんそうに、おしゃべりしていらしたじゃないの。あなたこそ、まだ色気がありますよ。ありすぎて、べたべたです。」
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「いいえ、あなたは今たしかに誰かと話をしてゐましたよ。それも私の悪口をね。まあ、どうでせう、私にものを言ふ時には、いつも口ごもつて聞きとれないやうな大儀さうな言ひ方ばかりする癖に、あの娘さんには、まるで人が変つたみたいにあんな若やいだ声を出して、たいへんごきげんさうに、おしやべりしていらしたぢやないの。あなたこそ、まだ色気がありますよ。ありすぎて、べたべたです。」
「そうかな。」
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「さうかな。」
とお爺さんは、ぼんやり答えて、「しかし、誰もいやしない。」
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とお爺さんは、ぼんやり答へて、「しかし、誰もゐやしない。」
「からかわないでください。」
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「からかはないで下さい。」
とお婆さんは本気に怒ってしまった様子で、どさんと縁先に腰をおろし、「あなたはいったいこの私を、何だと思っていらっしゃるのです。私はずいぶん今までこらえて来ました。あなたはもう、てんで私を馬鹿にしてしまっているのですもの。そりゃもう私は、育ちもよくないし学問も無いし、あなたのお話相手ができないかもしれませんが、でも、あんまりですわ。私だって、若い時からあなたのお家へ奉公にあがって、あなたのお世話をさせてもらって、それがまあ、こんなことになって、あなたの親御さんも、『あれならばなかなかしっかり者だし、せがれと一緒にさせても、――』」
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とお婆さんは本気に怒つてしまつた様子で、どさんと縁先に腰をおろし、「あなたはいつたいこの私を、何だと思つていらつしやるのです。私はずいぶん今までこらへて来ました。あなたはもう、てんで私を馬鹿にしてしまつてゐるのですもの。そりやもう私は、育ちもよくないし学問も無いし、あなたのお話相手が出来ないかも知れませんが、でも、あんまりですわ。私だつて、若い時からあなたのお家へ奉公にあがつてあなたのお世話をさせてもらつて、それがまあ、こんな事になつて、あなたの親御さんも、あれならばなかなかしつかり者だし、せがれと一緒にさせても、――」
「嘘ばかり。」
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「嘘ばかり。」
「おや、どこが嘘なのです。私が、どんな嘘をつきました。だって、そうじゃありませんか。あのころ、あなたの気心を一番よく知っていたのは私じゃありませんか。私でなくちゃ駄目だったんです。だから私が、一生あなたのめんどうを見てあげることになったんじゃありませんか。どこが、どんな具合に嘘なのです。それを聞かせてください。」
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「おや、どこが嘘なのです。私が、どんな嘘をつきました。だつて、さうぢやありませんか。あの頃、あなたの気心を一ばんよく知つてゐたのは私ぢやありませんか。私でなくちや駄目だつたんです。だから私が、一生あなたのめんだうを見てあげる事になつたんぢやありませんか。どこが、どんな工合ひに嘘なのです。それを聞かして下さい。」
と顔色を変えてつめ寄る。
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と顔色を変へてつめ寄る。
「みんな嘘さ。あのころの、お前の色気ったら無かったぜ。それだけさ。」
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「みんな嘘さ。あの頃の、お前の色気つたら無かつたぜ。それだけさ。」
「それは、いったい、どんな意味です。私には、わかりゃしません。馬鹿にしないでください。私はあなたのためを思って、あなたと一緒になったのですよ。色気も何もありゃしません。あなたもずいぶん下品なことを言いますね。だいたい私が、あなたのような人と一緒になったばっかりに、朝夕どんなにさびしい思いをしているか、あなたはご存じ無いのです。たまには、優しい言葉の一つも掛けてくれるものです。ほかの夫婦をごらんなさい。どんなに貧乏をしていても、夕食の時などには楽しそうに世間話をして笑い合っているじゃありませんか。私は決して欲張り女ではないんです。あなたのためなら、どんなことでも耐えて見せます。ただ、時たま、あなたから優しい言葉の一つも掛けてもらえたら、私はそれで満足なのですよ。」
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「それは、いつたい、どんな意味です。私には、わかりやしません。馬鹿にしないで下さい。私はあなたの為を思つて、あなたと一緒になつたのですよ。色気も何もありやしません。あなたもずいぶん下品な事を言ひますね。ぜんたい私が、あなたのやうな人と一緒になつたばかりに、朝夕どんなに淋しい思ひをしてゐるか、あなたはご存じ無いのです。たまには、優しい言葉の一つも掛けてくれるものです。他の夫婦をごらんなさい。どんなに貧乏をしてゐても、夕食の時などには楽しさうに世間話をして笑ひ合つてゐるぢやありませんか。私は決して慾張り女ではないんです。あなたのためなら、どんな事でも忍んで見せます。ただ、時たま、あなたから優しい言葉の一つも掛けてもらへたら、私はそれで満足なのですよ。」
「つまらないことを言う。そらぞらしい。もういいかげんあきらめているかと思ったら、まだ、そんなきまりきった泣き言をならべて、局面転換をはかろうとしている。だめですよ。お前の言うことなんざ、みんなごまかしだ。その時々の安易な気分本位だ。おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。夕食の時の世間話なんて、たいていは近所の人の品評じゃないか。悪口じゃないか。それも、いつもの安易な気分本位で、やたらと人の陰口をきく。おれはいままで、お前が人をほめたのを聞いたことがない。おれだって、弱い心を持っている。お前にまきこまれて、つい人の品評をしたくなる。おれには、それがこわいのだ。だから、もう誰とも口をきくまいと思った。お前たちには、ひとの悪いところばかり目について、自分自身のおそろしさにまるで気がついていないのだからな。おれは、ひとがこわい。」
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「つまらない事を言ふ。そらぞらしい。もういい加減あきらめてゐるかと思つたら、まだ、そんなきまりきつた泣き言を並べて、局面転換を計らうとしてゐる。だめですよ。お前の言ふ事なんざ、みんなごまかしだ。その時々の安易な気分本位だ。おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。夕食の時の世間話なんて、たいていは近所の人の品評ぢやないか。悪口ぢやないか。それも、れいの安易な気分本位で、やたらと人の陰口をきく。おれはいままで、お前が人をほめたのを聞いた事がない。おれだつて、弱い心を持つてゐる。お前にまきこまれて、つい人の品評をしたくなる。おれには、それがこはいのだ。だから、もう誰とも口をきくまいと思つた。お前たちには、ひとの悪いところばかり眼について、自分自身のおそろしさにまるで気がついてゐないのだからな。おれは、ひとがこはい。」
「わかりました。あなたは、私にあきたのでしょう。こんな婆が、鼻について来たのでしょう。私には、わかっていますよ。さっきのお客さんは、どうしました。どこに隠れているのです。たしかに若い女の声でしたわね。あんな若いのができたら、私のような婆さんと話をするのがいやになるのも、もっともです。なんだい、無欲だの何だのと悟り顔なんかしていても、相手が若い女だと、すぐもうわくわくして、声まで変わって、ぺちゃくちゃとおしゃべりをはじめるのだからいやになります。」
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「わかりました。あなたは、私にあきたのでせう。こんな婆が、鼻について来たのでせう。私には、わかつてゐますよ。さつきのお客さんは、どうしました。どこに隠れてゐるのです。たしかに若い女の声でしたわね。あんな若いのが出来たら、私のやうな婆さんと話をするのがいやになるのも、もつともです。なんだい、無慾だの何だのと悟り顔なんかしてゐても、相手が若い女だと、すぐもうわくわくして、声まで変つて、ぺちやくちやとお喋りをはじめるのだからいやになります。」
「それなら、それでよい。」
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「それなら、それでよい。」
「よかありませんよ。あのお客さんは、どこにいるのです。私だって、あいさつを申さなければ、お客さんに失礼ですよ。こう見えても、私はこの家の主婦ですからね、あいさつをさせてくださいよ。あんまり私を踏みつけにしては、だめです。」
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「よかありませんよ。あのお客さんは、どこにゐるのです。私だつて、挨拶を申さなければ、お客さんに失礼ですよ。かう見えても、私はこの家の主婦ですからね、挨拶をさせて下さいよ。あんまり私を蹈みつけにしては、だめです。」
「これだ。」
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「これだ。」
とお爺さんは、机の上で遊んでいるすずめのほうを、あごでしゃくって見せる。
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とお爺さんは、机上で遊んでゐる雀のはうを顎でしやくつて見せる。
「え? 冗談じゃない。すずめがものを言いますか。」
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「え? 冗談ぢやない。雀がものを言ひますか。」
「言う。しかも、なかなか気のきいたことを言う。」
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「言ふ。しかも、なかなか気のきいた事を言ふ。」
「どこまでも、そんなに意地悪く私をからかうのですね。じゃあ、よござんす。」
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「どこまでも、そんなに意地悪く私をからかふのですね。ぢやあ、よござんす。」
いきなり腕をのばして、机の上の小さいすずめをむずとつかみ、「そんな気のきいたことを言わせないように、舌をむしり取ってしまいましょう。あなたは、ふだんからどうもこのすずめをかわいがりすぎます。私には、それがいやらしくて仕方が無かったんですよ。ちょうどいいあんばいだ。あなたが、あの若い女のお客さんを逃がしてしまったのなら、身代わりにこのすずめの舌を抜きます。いい気味だ。」
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矢庭に腕をのばして、机上の小雀をむずと掴み、「そんな気のきいた事を言はせないやうに、舌をむしり取つてしまひませう。あなたは、ふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。私には、それがいやらしくて仕様が無かつたんですよ。ちやうどいい案配だ。あなたが、あの若い女のお客さんを逃がしてしまつたのなら、身代りにこの雀の舌を抜きます。いい気味だ。」
手のひらの中のすずめのくちばしをこじあけて、小さい菜の花びらほどの舌を、きゅっとむしり取った。
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掌中の雀の嘴をこじあけて、小さい菜の花びらほどの舌をきゆつとむしり取つた。
すずめは、はたはたと空高く飛び去る。
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雀は、はたはたと空高く飛び去る。
お爺さんは、無言ですずめの行方をながめている。
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お爺さんは、無言で雀の行方を眺めてゐる。
そうして、その翌日から、お爺さんの大きな竹やぶ探しがはじまるわけである。
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さうして、その翌日から、お爺さんの大竹藪探索がはじまるわけである。
シタキリ スズメ
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オヤドハ ドコダ
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オヤドハ ドコダ
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オヤドハ ドコダ
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毎日毎日、雪が降り続ける。
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毎日毎日、雪が降り続ける。
それでもお爺さんは、何かに取りつかれたみたいに、深い大きな竹やぶの中を捜しまわる。
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それでもお爺さんは何かに憑かれたみたいに、深い大竹藪の中を捜しまはる。
やぶの中には、すずめは千も万もいる。
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藪の中には、雀は千も万もゐる。
その中から、舌を抜かれた小さいすずめを捜し出すのは、とても難しいことのように思われるが、しかし、お爺さんは異様な熱心さで、毎日毎日捜し歩く。
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その中から、舌を抜かれた小雀を捜し出すのは、至難の事のやうに思はれるが、しかし、お爺さんは異様な熱心さを以て、毎日毎日探索する。
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お爺さんにとって、こんな、がむしゃらな情熱をもって行動するのは、その生涯において、一度も無かったように見受けられた。
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お爺さんにとつて、こんな、がむしやらな情熱を以て行動するのは、その生涯に於いて、いちども無かつたやうに見受けられた。
お爺さんの胸の中に眠らされていた何ものかが、この時はじめて頭をもたげたようにも見えるが、しかし、それが何であるかは、筆者(太宰)にもわからない。
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お爺さんの胸中に眠らされてゐた何物かが、この時はじめて頭をもたげたやうにも見えるが、しかし、それは何であるか、筆者(太宰)にもわからない。
自分の家にいながら、他人の家にいるような浮かない気分になっている人が、ふっと自分にとって一番気楽な相手に出会い、これを追い求める、「恋」と言ってしまえばそれっきりであるが、しかし、一般にあっさり言われている「恋」という言葉によって表される心の動きよりは、このお爺さんの気持ちは、はるかにわびしいものであるかもしれない。
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自分の家にゐながら、他人の家にゐるやうな浮かない気分になつてゐるひとが、ふつと自分の一ばん気楽な性格に遭ひ、之を追ひ求める、恋、と言つてしまへば、それつきりであるが、しかし、一般にあつさり言はれてゐる心、恋、といふ言葉に依つてあらはされる心理よりは、このお爺さんの気持は、はるかに侘しいものであるかも知れない。
お爺さんは夢中で探した。
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お爺さんは夢中で探した。
生まれてはじめての、しつこいほどの積極性である。
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生れてはじめての執拗な積極性である。
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オヤドハ ドコダ
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まさか、これを口に出して歌いながら捜し歩いていたわけではない。
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まさか、これを口に出して歌ひながら捜し歩いてゐたわけではない。
しかし、風が自分の耳もとにそのようにひそひそとささやき、そうして、いつのまにやら自分の胸の中においても、その変てこな歌ともお念仏ともつかない文句が、一歩一歩、竹やぶの下の雪を踏みわけて行くのと同時にわいて出て、耳もとの風のささやきと重なる、というような具合なのである。
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しかし、風が自分の耳元にそのやうにひそひそ囁き、さうして、いつのまにやら自分の胸中に於いても、その変てこな歌ともお念仏ともつかぬ文句が一歩一歩竹藪の下の雪を蹈みわけて行くのと同時に湧いて出て、耳元の風の囁きと合致する、といふやうな工合ひなのである。
ある夜、この仙台地方でも珍しいほどの大雪があり、次の日はからりと晴れて、まぶしいくらいの銀世界が現れ、お爺さんは、この朝早く、わらぐつをはいて、相も変わらず竹やぶをさまよい歩き、
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或る夜、この仙台地方でも珍らしいほどの大雪があり、次の日はからりと晴れて、まぶしいくらゐの銀世界が現出し、お爺さんは、この朝早く、藁靴をはいて、相も変らず竹藪をさまよひ歩き、
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竹に積もった大きい雪のかたまりが、突然、どさりとお爺さんの頭の上に落ち、打ちどころが悪かったのか、お爺さんは気を失って雪の上に倒れる。
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竹に積つた大きい雪のかたまりが、突然、どさりとお爺さんの頭上に落下し、打ちどころが悪かつたのかお爺さんは失神して雪の上に倒れる。
夢とも現実ともつかないうちに、さまざまな声のささやきが聞こえてくる。
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夢幻の境のうちに、さまざまの声の囁きが聞えて来る。
「かわいそうに、とうとう死んでしまったじゃないの。」
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「可愛さうに、たうとう死んでしまつたぢやないの。」
「なに、死にやしない。気が遠くなっただけだよ。」
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「なに、死にやしない。気が遠くなつただけだよ。」
「でも、こうしていつまでも雪の上に倒れていると、こごえて死んでしまうわよ。」
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「でも、かうしていつまでも雪の上に倒れてゐると、こごえて死んでしまふわよ。」
「それはそうだ。どうにかしなくちゃいけない。困ったことになった。こんなことにならないうちに、あの子が早く出て行ってやればよかったのに。いったい、あの子は、どうしたのだ。」
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「それはさうだ。どうにかしなくちやいけない。困つた事になつた。こんな事にならないうちに、あの子が早く出て行つてやればよかつたのに。いつたい、あの子は、どうしたのだ。」
「お照さん?」
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「お照さん?」
「そう、誰かにいたずらされて口に怪我をしたようだが、あれから、さっぱりこのへんに姿を見せないじゃないか。」
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「さう、誰かにいたづらされて口に怪我をしたやうだが、あれから、さつぱりこのへんに姿を見せんぢやないか。」
「寝ているのよ。舌を抜かれてしまったので、なんにも言えず、ただ、ぽろぽろ涙を流して泣いているわよ。」
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「寝てゐるのよ。舌を抜かれてしまつたので、なんにも言へず、ただ、ぽろぽろ涙を流して泣いてゐるわよ。」
「そうか、舌を抜かれてしまったのか。ひどいいたずらをするやつもあったものだなあ。」
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「さうか、舌を抜かれてしまつたのか。ひどい悪戯をするやつもあつたものだなあ。」
「ええ、それはね、このひとのおかみさんよ。悪いおかみさんではないんだけれど、あの日は虫のいどころが変だったのでしょう、いきなり、お照さんの舌をひきむしってしまったの。」
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「ええ、それはね、このひとのおかみさんよ。悪いおかみさんではないんだけれど、あの日は虫のゐどころがへんだつたのでせう、いきなり、お照さんの舌をひきむしつてしまつたの。」
「お前、見てたのかい?」
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「お前、見てたのかい?」
「ええ、おそろしかったわ。人間って、あんな具合に出し抜けにむごいことをするものなのね。」
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「ええ、おそろしかつたわ。人間つて、あんな工合ひに出し抜けにむごい事をするものなのね。」
「やきもちだろう。おれもこのひとの家のことはよく知っているけれど、どうもこのひとは、おかみさんを馬鹿にしすぎていたよ。おかみさんをかわいがりすぎるのも見ちゃおられないものだが、あんなに無愛想なのもよろしくない。それをまたお照さんはいいことにして、いやにこの旦那といちゃついていたからね。まあ、みんな悪い。ほっておけ。」
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「やきもちだらう。おれもこのひとの家の事はよく知つてゐるけれど、どうもこのひとは、おかみさんを馬鹿にしすぎてゐたよ。おかみさんを可愛がりすぎるのも見ちやをられないものだが、あんなに無愛想なのもよろしくない。それをまたお照さんはいいことにして、いやにこの旦那といちやついてゐたからね。まあ、みんな悪い。ほつて置け。」
「あら、あなたこそ、やきもちを焼いているんじゃない? あなたは、お照さんを好きだったのでしょう? 隠したってだめよ。『この大きな竹やぶで一番の美声家はお照さんだ』って、いつかため息をついて言ってたじゃないの。」
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「あら、あなたこそ、やきもちを焼いてゐるんぢやない? あなたは、お照さんを好きだつたのでせう? 隠したつてだめよ。この大竹藪で一ばんの美声家はお照さんだつて、いつか溜息をついて言つてたぢやないの。」
「やきもちを焼くなんて、そんな下品なことをするおれではない。が、しかし、少なくともお前よりはお照のほうが声がよくて、しかも美人だ。」
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「やきもちを焼くなんてそんな下品な事をするおれではない。が、しかし、少くともお前よりはお照のはうが声が佳くて、しかも美人だ。」
「ひどいわ。」
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「ひどいわ。」
「けんかはおよし、つまらない。それよりも、このひとを、いったいどうするの? ほっておいたら死にますよ。かわいそうに。どんなにお照さんに会いたいのか、毎日毎日この竹やぶを捜して歩いて、そうしてとうとうこんなありさまになってしまって、気の毒じゃないの。このひとは、きっと、実(じつ・まごころ)のある人だわ。」
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「喧嘩はおよし、つまらない。それよりも、このひとを、いつたいどうするの? ほつて置いたら死にますよ。可哀想に。どんなにお照さんに逢ひたいのか、毎日毎日この竹藪を捜して歩いて、さうしてたうとうこんな有様になつてしまつて、気の毒ぢやないの。このひとは、きつと、実のあるひとだわ。」
「なに、ばかだよ。いい年をしてすずめの子のあとを追いまわすなんて、あきれたばかだよ。」
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「なに、ばかだよ。いいとしをして雀の子のあとを追ひ廻すなんて、呆れたばかだよ。」
「そんなことを言わないで、ね、会わせてあげましょうよ。お照さんだって、このひとに会いたがっているらしいわ。でも、もう舌を抜かれて口がきけないのだからねえ、このひとがお照さんを捜しているということを言って聞かせてあげても、やぶのあの奥で寝たまま、ぽろぽろ涙を流しているばかりなのよ。このひとも気の毒だけれども、お照さんだって、そりゃ気の毒よ。ね、あたしたちの力で何とかしてあげましょうよ。」
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「そんな事を言はないで、ね、逢はしてあげませうよ。お照さんだつて、このひとに逢ひたがつてゐるらしいわ。でも、もう舌を抜かれて口がきけないのだからねえ、このひとがお照さんを捜してゐるといふ事を言つて聞かせてあげても、藪のあの奥で寝たまま、ぽろぽろ涙を流してゐるばかりなのよ。このひとも可哀想だけれども、お照さんだつて、そりや可哀想よ。ね、あたしたちの力で何とかしてあげませうよ。」
「おれは、いやだ。おれはどうも色恋沙汰には同情を持てないたちでねえ。」
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「おれは、いやだ。おれはどうも色恋の沙汰には同情を持てないたちでねえ。」
「色恋じゃないわ。あなたには、わからない。ね、みなさん、何とかして会わせてあげたいものだわねえ。こんなことは、理屈じゃないんですもの。」
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「色恋ぢやないわ。あなたには、わからない。ね、みなさん、何とかして逢はせてあげたいものだわねえ。こんな事は、理窟ぢやないんですもの。」
「そうとも、そうとも。おれが引き受けた。なに、わけはない。神さまにたのむんだ。理屈抜きで、なんとかしてほかの者のために尽くしてやりたいと思った時には、神さまにたのむのが一番いいのだ。おれのおやじがいつかそう言って教えてくれた。そんな時には神さまは、どんなことでもかなえてくださるそうだ。まあ、みんな、ちょっとここで待っていてくれ。おれはこれから、鎮守(ちんじゅ)の森の神さまにたのんで来るから。」
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「さうとも、さうとも。おれが引受けた。なに、わけはない。神さまにたのむんだ。理窟抜きで、なんとかして他の者のために尽してやりたいと思つた時には、神さまにたのむのが一ばんいいのだ。おれのおやぢがいつかさう言つて教へてくれた。そんな時には神さまは、どんな事でも叶へて下さるさうだ。まあ、みんな、ちよつとここで待つてゐてくれ。おれはこれから、鎮守の森の神さまにたのんで来るから。」
お爺さんが、ふっと目の覚めたところは、竹の柱の小ぎれいな座敷である。
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お爺さんが、ふつと眼の覚めたところは、竹の柱の小綺麗な座敷である。
起き上がってあたりを見まわしていると、すっとふすまがあいて、身長二尺(約60センチメートル)くらいのお人形さんが出て来て、
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起き上つてあたりを見廻してゐると、すつと襖があいて、身長二尺くらゐのお人形さんが出て来て、
「あら、おめざめ?」
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「あら、おめざめ?」
「ああ、」
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「ああ、」
とお爺さんはゆったりと笑い、「ここはどこだろう。」
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とお爺さんは鷹揚に笑ひ、「ここはどこだらう。」
「すずめのお宿。」
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「すずめのお宿。」
と、そのお人形さんみたいなかわいい女の子が、お爺さんの前にお行儀よく座り、まんまるい目をぱちくりさせて答える。
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とそのお人形さんみたいな可愛い女の子が、お爺さんの前にお行儀よく坐り、まんまるい眼をぱちくりさせて答へる。
「そう。」
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「さう。」
とお爺さんは落ちついてうなずき、「お前は、それでは、あの、舌切雀?」
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とお爺さんは落ちついて首肯き、「お前は、それでは、あの、舌切雀?」
「いいえ、お照さんは奥の間で寝ています。私は、お鈴。お照さんとは一番の仲良し。」
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「いいえ、お照さんは奥の間で寝てゐます。私は、お鈴。お照さんとは一ばんの仲良し。」
「そうか。それでは、あの、舌を抜かれた小さいすずめの名は、お照というの?」
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「さうか。それでは、あの、舌を抜かれた小雀の名は、お照といふの?」
「ええ、とても優しい、いいかたよ。早く会っておあげなさい。かわいそうに口がきけなくなって、毎日ぽろぽろ涙を流して泣いています。」
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「ええ、とても優しい、いいかたよ。早く逢つておあげなさい。可哀想に口がきけなくなつて、毎日ぽろぽろ涙を流して泣いてゐます。」
「会いましょう。」
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「逢ひませう。」
とお爺さんは立ち上がり、「どこに寝ているのですか。」
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とお爺さんは立ち上り、「どこに寝てゐるのですか。」
「ご案内します。」
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「ご案内します。」
お鈴さんは、はらりと長いそでを振って立ち、縁側に出る。
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お鈴さんは、はらりと長い袖を振つて立ち、縁側に出る。
お爺さんは、青竹のせまい縁を、すべらぬように用心しながら、そっと渡る。
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お爺さんは、青竹の狭い縁を滑らぬやうに、用心しながらそつと渡る。
「ここです、お入りください。」
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「ここです、おはひり下さい。」
お鈴さんに連れられて、奥の一間に入る。
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お鈴さんに連れられて、奥の一間にはひる。
あかるい部屋だ。
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あかるい部屋だ。
庭には小さいささが一面に生い茂り、そのささの間を浅い清水がすばやく流れている。
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庭には小さい笹が一めんに生え繁り、その笹の間を浅い清水が素早く流れてゐる。
お照さんは小さい赤い絹のふとんをかけて寝ていた。
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お照さんは小さい赤い絹布団を掛けて寝てゐた。
お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かった。
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お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かつた。
大きい目でお爺さんの顔をじっと見つめて、そうして、ぽろぽろと涙を流した。
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大きい眼でお爺さんの顔をじつと見つめて、さうして、ぽろぽろと涙を流した。
お爺さんはその枕もとにあぐらをかいて座って、何も言わず、庭を走り流れる清水を見ている。
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お爺さんはその枕元にあぐらをかいて坐つて、何も言はず、庭を走り流れる清水を見てゐる。
お鈴さんは、そっと席をはずした。
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お鈴さんは、そつと席をはづした。
何も言わなくてもよかった。
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何も言はなくてもよかつた。
お爺さんは、かすかにため息をついた。
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お爺さんは、幽かに溜息をついた。
憂うつなため息ではなかった。
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憂鬱の溜息ではなかつた。
お爺さんは、生まれてはじめて、心の平安(へいあん・おだやかで落ちついた状態)を経験したのだ。
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お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。
そのよろこびが、かすかなため息となってあらわれたのである。
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そのよろこびが、幽かな溜息となつてあらはれたのである。
お鈴さんは静かにお酒とお肴(さかな・お酒のつまみ)を持ち運んで来て、
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お鈴さんは静かにお酒とお肴を持ち運んで来て、
「ごゆっくり。」
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「ごゆつくり。」
と言って立ち去る。
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と言つて立ち去る。
お爺さんはお酒をひとつ手酌(てじゃく・自分でついで飲むこと)で飲んで、また庭の清水をながめる。
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お爺さんはお酒をひとつ手酌で飲んで、また庭の清水を眺める。
お爺さんは、いわゆるお酒飲みではない。
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お爺さんは、所謂お酒飲みではない。
一杯だけで、うっとりと酔う。
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一杯だけで、陶然と酔ふ。
箸を持って、お膳のたけのこを一つだけつまんで食べる。
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箸を持つて、お膳のたけのこを一つだけつまんで食べる。
素敵においしい。
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素敵においしい。
しかし、お爺さんは、大食いではない。
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しかし、お爺さんは、大食ひではない。
それだけで箸を置く。
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それだけで箸を置く。
ふすまがあいて、お鈴さんがお酒のおかわりと、別の肴を持って来る。
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襖があいて、お鈴さんがお酒のおかはりと、別な肴を持つて来る。
お爺さんの前に座って、
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お爺さんの前に坐つて、
「いかが?」
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「いかが?」
とお酒をすすめる。
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とお酒をすすめる。
「いや、もうたくさん。しかし、これは、よいお酒だ。」
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「いや、もうたくさん。しかし、これは、よいお酒だ。」
お世辞を言ったのではない。
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お世辞を言つたのではない。
思わず、それが口に出たのだ。
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思はず、それが口に出たのだ。
「お気に召しましたか。笹の露です。」
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「お気に召しましたか。笹の露です。」
「よすぎる。」
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「よすぎる。」
「え?」
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「え?」
「よすぎる。」
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「よすぎる。」
お爺さんとお鈴さんの会話を寝ながら聞いていて、お照さんはほほえんだ。
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お爺さんとお鈴さんの会話を寝ながら聞いてゐて、お照さんは微笑んだ。
「あら、お照さんが笑っているわ。何か言いたいのでしょうけれど。」
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「あら、お照さんが笑つてゐるわ。何か言ひたいのでせうけれど。」
お照さんは首を振った。
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お照さんは首を振つた。
「言えなくたって、いいのさ。そうだね?」
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「言へなくたつて、いいのさ。さうだね?」
とお爺さんは、はじめてお照さんのほうを向いて話しかける。
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とお爺さんは、はじめてお照さんのはうを向いて話かける。
お照さんは、目をぱちぱちさせて、うれしそうに二三度うなずく。
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お照さんは、眼をぱちぱちさせて、嬉しさうに二三度うなづく。
「さ、それでは失礼しよう。また来る。」
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「さ、それでは失礼しよう。また来る。」
お鈴さんは、このあっさりしすぎる訪問客にはあきれた様子で、
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お鈴さんは、このあつさりしすぎる訪問客には呆れた様子で、
「まあ、もうお帰りになるの? こごえて死にそうになるまで、竹やぶの中を捜し歩いていらして、やっときょう会えたくせに、優しいお見舞いの言葉一つかけるではなし、――」
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「まあ、もうお帰りになるの? こごえて死にさうになるまで、竹藪の中を捜し歩いていらして、やつとけふ逢へたくせに、優しいお見舞ひの言葉一つかけるではなし、――」
「優しい言葉だけは、ごめんだ。」
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「優しい言葉だけは、ごめんだ。」
とお爺さんは苦笑いして、もう立ち上がる。
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とお爺さんは苦笑して、もう立ち上る。
「お照さん、いいの? お帰ししても。」
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「お照さん、いいの? おかへししても。」
とお鈴さんはあわててお照さんに尋ねる。
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とお鈴さんはあわててお照さんに尋ねる。
お照さんは笑ってうなずく。
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お照さんは笑つて首肯く。
「どっちも、どっちだわね。」
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「どつちも、どつちだわね。」
とお鈴さんも笑い出して、「それじゃあ、またどうぞいらしてくださいね。」
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とお鈴さんも笑ひ出して、「それぢやあ、またどうぞいらして下さいね。」
「来ます。」
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「来ます。」
とまじめに答え、座敷から出ようとして、ふと立ちどまり、「ここは、どこだね。」
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とまじめに答へ、座敷から出ようとして、ふと立ちどまり、「ここは、どこだね。」
「竹やぶの中です。」
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「竹藪の中です。」
「はて? 竹やぶの中に、こんな妙な家があったかしら。」
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「はて? 竹籔の中に、こんな妙な家があつたかしら。」
「あるんです。」
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「あるんです。」
と言ってお鈴さんは、お照さんと顔を見合わせてほほえみ、「でも、普通の人には見えないんです。竹やぶのあの入口のところで、けさのように雪の上にうつ伏せていらしたら、私たちは、いつでもここへご案内いたしますわ。」
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と言つてお鈴さんは、お照さんと顔を見合せて微笑み、「でも、普通のひとには見えないんです。竹藪のあの入口のところで、けさのやうに雪の上に俯伏していらしたら、私たちは、いつでもここへご案内いたしますわ。」
「それは、ありがたい。」
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「それは、ありがたい。」
と、思わずお世辞ではなく言い、青竹の縁側に出る。
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と思はずお世辞で無く言ひ、青竹の縁側に出る。
そうしてまた、お鈴さんに連れられて、もとの小ぎれいな茶の間にかえると、そこには、大小さまざまな葛籠(つづら・竹や柳で編んだ、ふたのある入れ物)が並べられてある。
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さうしてまた、お鈴さんに連れられて、もとの小綺麗な茶の間にかへると、そこには、大小さまざまの葛籠が並べられてある。
「せっかくおいでくださっても、おもてなしもできなくて恥ずかしゅう存じます。」
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「せつかくおいで下さつても、おもてなしも出来なくて恥かしう存じます。」
とお鈴さんは口調をあらためて言い、「せめて、すずめの里のお土産のおしるしに、この葛籠のうちどれでもお気に召したものを、お邪魔でございましょうが、お持ち帰りくださいまし。」
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とお鈴さんは口調を改めて言ひ、「せめて、雀の里のお土産のおしるしに、この葛籠のうちどれでもお気に召したものをお邪魔でございませうが、お持ち帰り下さいまし。」
「要らないよ、そんなもの。」
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「要らないよ、そんなもの。」
とお爺さんは不機嫌そうにつぶやき、そのたくさんの葛籠には目もくれず、「おれの履物はどこにあります。」
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とお爺さんは不機嫌さうに呟き、そのたくさんの葛籠には目もくれず、「おれの履物はどこにあります。」
「困りますわ。どれか一つ持って帰ってくださいよ。」
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「困りますわ。どれか一つ持つて帰つて下さいよ。」
とお鈴さんは泣き声になり、「あとで私は、お照さんに怒られます。」
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とお鈴さんは泣き声になり、「あとで私は、お照さんに怒られます。」
「怒りやしない。あの子は、決して怒りやしない。おれは知っている。ところで、履物はどこにあります。きたないわらぐつをはいて来たはずだが。」
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「怒りやしない。あの子は、決して怒りやしない。おれは知つてゐる。ところで、履物はどこにあります。きたない藁靴をはいて来た筈だが。」
「捨てちゃいました。はだしでお帰りになるといいわ。」
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「捨てちやひました。はだしでお帰りになるといいわ。」
「それは、ひどい。」
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「それは、ひどい。」
「それじゃ、何か一つお土産を持ってお帰りになってよ。後生(ごしょう)、お願い。」
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「それぢや、何か一つお土産を持つてお帰りになつてよ。後生、お願ひ。」
と小さい手を合わせる。
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と小さい手を合せる。
お爺さんは苦笑いして、座敷に並べられてある葛籠をちらと見て、
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お爺さんは苦笑して、座敷に並べられてある葛籠をちらと見て、
「みんな大きい。大きすぎる。おれは荷物を持って歩くのは、きらいです。ふところに入るくらいの小さいお土産はありませんか。」
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「みんな大きい。大きすぎる。おれは荷物を持つて歩くのは、きらひです。ふところにはひるくらゐの小さいお土産はありませんか。」
「そんなご無理をおっしゃったって、――」
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「そんなご無理をおつしやつたつて、――」
「そんなら帰る。はだしでもかまわない。荷物はごめんだ。」
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「そんなら帰る。はだしでもかまはない。荷物はごめんだ。」
と言ってお爺さんは、本当にはだしのままで、縁の外に飛び出そうとする気配を見せた。
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と言つてお爺さんは、本当にはだしのままで、縁の外に飛び出さうとする気配を示した。
「ちょっと待って、ね、ちょっと。お照さんに聞いて来るわ。」
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「ちよつと待つて、ね、ちよつと。お照さんに聞いて来るわ。」
はたはたとお鈴さんは奥の間に飛んで行き、そうして、間もなく、稲の穂を口にくわえて帰って来た。
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はたはたとお鈴さんは奥の間に飛んで行き、さうして、間もなく、稲の穂を口にくはへて帰つて来た。
「はい、これは、お照さんの簪(かんざし)。お照さんを忘れないでね。またいらっしゃい。」
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「はい、これは、お照さんの簪。お照さんを忘れないでね。またいらつしやい。」
ふと、われにかえる。
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ふと、われにかへる。
お爺さんは、竹やぶの入口にうつ伏せて寝ていた。
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お爺さんは、竹藪の入口に俯伏して寝てゐた。
なんだ、夢か。
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なんだ、夢か。
しかし、右手には稲の穂がにぎられている。
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しかし、右手には稲の穂が握られてある。
真冬の稲の穂はめずらしい。
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真冬の稲の穂は珍らしい。
そうして、バラの花のような、とてもよい香りがする。
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さうして、薔薇の花のやうな、とてもよい薫りがする。
お爺さんはそれを大事そうに家へ持って帰って、自分の机の上の筆立てにさす。
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お爺さんはそれを大事さうに家へ持つて帰つて、自分の机上の筆立に挿す。
「おや、それは何です。」
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「おや、それは何です。」
お婆さんは、家で針仕事をしていたが、目ざとくそれを見つけて問いただす。
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お婆さんは、家で針仕事をしてゐたが、眼ざとくそれを見つけて問ひただす。
「稲の穂。」
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「稲の穂。」
と、いつもの口ごもったような調子で言う。
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とれいの口ごもつたやうな調子で言ふ。
「稲の穂? いまどきめずらしいじゃありませんか。どこから拾って来たのです。」
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「稲の穂? いまどき珍らしいぢやありませんか。どこから拾つて来たのです。」
「拾って来たのじゃない。」
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「拾つて来たのぢやない。」
と低く言って、お爺さんは本を開いて黙読をはじめる。
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と低く言つて、お爺さんは書物を開いて黙読をはじめる。
「おかしいじゃありませんか。このごろ毎日、竹やぶの中をうろついて、ぼんやり帰って来て、きょうはまた何だか、いやにうれしそうな顔をしてそんなものを持ち帰り、もったいぶって筆立てにさしたりなんかして、あなたは、何か私に隠していますね。拾ったのでなければ、どうしたのです。ちゃんと教えてくださったっていいじゃありませんか。」
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「をかしいぢやありませんか。このごろ毎日、竹藪の中をうろついて、ぼんやり帰つて来て、けふはまた何だか、いやに嬉しさうな顔をしてそんなものを持ち帰り、もつたい振つて筆立に挿したりなんかして、あなたは、何か私に隠してゐますね。拾つたのでなければ、どうしたのです。ちやんと教へて下さつたつていいぢやありませんか。」
「すずめの里から、もらって来た。」
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「雀の里から、もらつて来た。」
お爺さんは、うるさそうに、ぷつんと言う。
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お爺さんは、うるささうに、ぷつんと言ふ。
けれども、そんなことで、現実主義のお婆さんを満足させることは、とてもできない。
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けれども、そんな事で、現実主義のお婆さんを満足させることはとても出来ない。
お婆さんは、なおもしつっこく次から次へと問いつめる。
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お婆さんは、なほもしつつこく次から次へと詰問する。
嘘を言うことのできないお爺さんは、仕方なく自分の不思議な経験を、ありのままに答える。
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嘘を言ふ事の出来ないお爺さんは、仕方なく自分の不思議な経験をありのままに答へる。
「まあ、そんなこと、本気であなたは言っているのですか。」
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「まあ、そんな事、本気であなたは言つてゐるのですか。」
とお婆さんは、最後にあきれて笑い出した。
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とお婆さんは、最後に呆れて笑ひ出した。
お爺さんは、もう答えない。
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お爺さんは、もう答へない。
ほおづえをついて、ぼんやり本に目をそそいでいる。
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頬杖ついて、ぼんやり書物に眼をそそいでゐる。
「そんなでたらめを、この私が信じると思っておいでなのですか。嘘に決まっていますさ。私は知っていますよ。こないだから、そう、こないだ、ほら、あの、若い娘のお客さんが来たころから、あなたはまるで違う人になってしまいました。妙にそわそわして、そうしてため息ばかりついて、まるでそれこそ恋のとりこみたいです。みっともない。いい年をしてさ。隠したって駄目ですよ。私にはわかっているのですから。いったい、その娘は、どこに住んでいるのです。まさか、やぶの中ではないでしょう。私はだまされませんよ。やぶの中に、小さいお家があって、そこにお人形みたいなかわいい娘さんがいて、うっふ、そんな子どもだましのようなことを言って、ごまかそうたって駄目ですよ。もしそれが本当ならば、こんどいらした時に、そのお土産の葛籠とかいうものでも一つ持って来て見せてくださいな。できないでしょう。どうせ、作りごとなんだから。その不思議な宿の大きい葛籠でも背負って来てくださったら、それを証拠に、私だって本当にしないものでもないが、そんな稲の穂などを持って来て、そのお人形さんの簪だなんて、よくもまあそのような、ばからしいでたらめが言えたもんだ。男らしく、あっさり白状なさいよ。私だって、わけのわからない女ではないつもりです。なんの、お妾(めかけ)さんの一人や二人。」
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「そんな出鱈目を、この私が信じると思つておいでなのですか。嘘にきまつてゐますさ。私は知つてゐますよ。こなひだから、さう、こなひだ、ほら、あの、若い娘のお客さんが来た頃から、あなたはまるで違ふ人になつてしまひました。妙にそはそはして、さうして溜息ばかりついて、まるでそれこそ恋のやつこみたいです。みつともない。いいとしをしてさ。隠したつて駄目ですよ。私にはわかつてゐるのですから。いつたい、その娘は、どこに住んでゐるのです。まさか、藪の中ではないでせう。私はだまされませんよ。藪の中に、小さいお家があつて、そこにお人形みたいな可愛い娘さんがゐて、うつふ、そんな子供だましのやうな事を言つて、ごまかさうたつて駄目ですよ。もしそれが本当ならば、こんどいらした時にそのお土産の葛籠とかいふものでも一つ持つて来て見せて下さいな。出来ないでせう。どうせ、作りごとなんだから。その不思議な宿の大きい葛籠でも背負つて来て下さつたら、それを証拠に、私だつて本当にしないものでもないが、そんな稲の穂などを持つて来て、そのお人形さんの簪だなんて、よくもまあそのやうな、ばからしい出鱈目が言へたもんだ。男らしく、あつさり白状なさいよ。私だつて、わけのわからぬ女ではないつもりです。なんのお妾さんの一人や二人。」
「おれは、荷物はいやだ。」
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「おれは、荷物はいやだ。」
「おや、そうですか。それでは、私が代わりにまいりましょうか。どうですか。竹やぶの入口でうつ伏せていればいいのでしょう? 私がまいりましょう。それでも、いいのですか。あなたは困りませんか。」
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「おや、さうですか。それでは、私が代りにまゐりませうか。どうですか。竹藪の入口で俯伏して居ればいいのでせう? 私がまゐりませう。それでも、いいのですか。あなたは困りませんか。」
「行くがいい。」
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「行くがいい。」
「まあ、図々しい。嘘に決まっているのに、行くがいいなんて。それでは、本当に私は、やってみますよ。いいのですか。」
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「まあ、図々しい。嘘にきまつてゐるのに、行くがいいなんて。それでは、本当に私は、やつてみますよ。いいのですか。」
と言って、お婆さんは意地悪そうにほほえむ。
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と言つて、お婆さんは意地悪さうに微笑む。
「どうやら、葛籠がほしいようだね。」
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「どうやら、葛籠がほしいやうだね。」
「ええ、そうですとも、そうですとも、私はどうせ、欲張りですからね。そのお土産がほしいのですよ。それではこれからちょっと出かけて、お土産の葛籠の中でも一番重い大きいやつをもらって来ましょう。おほほ。ばからしいが、行って来ましょう。私はあなたのその取り澄ましたみたいな顔つきが憎らしくて仕方が無いんです。いまにそのにせ聖者の顔の皮をひんむいてごらんにいれます。雪の上にうつ伏せていればすずめのお宿に行けるなんて、あははは、馬鹿なことだが、でも、どれ、それではひとつお言葉に従って、ちょっと行ってまいりましょうか。あとで、『あれは嘘だ』などと言っても、ききませんよ。」
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「ええ、さうですとも、さうですとも、私はどうせ、慾張りですからね。そのお土産がほしいのですよ。それではこれからちよつと出掛けて、お土産の葛籠の中でも一ばん重い大きいやつを貰つて来ませう。おほほ。ばからしいが、行つて来ませう。私はあなたのその取り澄したみたいな顔つきが憎らしくて仕様が無いんです。いまにその贋聖者のつらの皮をひんむいてごらんにいれます。雪の上に俯伏して居れば雀のお宿に行けるなんて、あははは、馬鹿な事だが、でも、どれ、それではひとつお言葉に従つて、ちよつと行つてまゐりませうか。あとで、あれは嘘だなどと言つても、ききませんよ。」
お婆さんは、乗りかかった舟(いまさら引き返せないこと)、お針の道具を片づけて庭へ下り、積もった雪を踏みわけて竹やぶの中へ入る。
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お婆さんは、乗りかかつた舟、お針の道具を片づけて庭へ下り、積雪を踏みわけて竹藪の中へはひる。
それから、どのようなことになったか、筆者も知らない。
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それから、どのやうなことになつたか、筆者も知らない。
たそがれ時、重い大きい葛籠を背負い、雪の上にうつ伏せたまま、お婆さんは冷たくなっていた。
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たそがれ時、重い大きい葛籠を背負ひ、雪の上に俯伏したまま、お婆さんは冷たくなつてゐた。
葛籠が重くて起き上がれず、そのまま凍死したものと見える。
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葛籠が重くて起き上れず、そのまま凍死したものと見える。
そうして、葛籠の中には、きらきらと輝く金貨がいっぱいつまっていたという。
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さうして、葛籠の中には、燦然たる金貨が一ぱいつまつてゐたといふ。
この金貨のおかげかどうか、お爺さんは、のち間もなく仕官(しかん・役人になること)して、やがて一国の宰相(さいしょう・国の政治を行う一番上の役人)の地位にまでのぼったという。
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この金貨のおかげかどうか、お爺さんは、のち間もなく仕官して、やがて一国の宰相の地位にまで昇つたといふ。
世の人はこれを、すずめ大臣と呼んで、この出世も、彼の昔のすずめに対する愛情の実りであるという具合にうわさしたが、しかし、お爺さんは、そのようなお世辞を聞くたびに、かすかに苦笑いして、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」
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世人はこれを、雀大臣と呼んで、この出世も、かれの往年の雀に対する愛情の結実であるといふ工合ひに取沙汰したが、しかし、お爺さんは、そのやうなお世辞を聞く度毎に、幽かに苦笑して、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」
と言ったそうだ。
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と言つたさうだ。