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檸檬

梶井基次郎かじいもとじろう)・1972

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

原文: えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。
正体のわからない不吉な塊が、ずっと私の心を押さえつけていた。
原文: 焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。
焦りとでも言おうか、嫌気とでも言おうか――お酒を飲んだあとに二日酔いがあるように、毎日飲み続けていると、二日酔いに似た時期がやってくる。
原文: それが来たのだ。
その時期がやってきたのだ。
原文: これはちょっといけなかった。
これはちょっとまずかった。
原文: 結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。
その結果として肺の病気や神経衰弱になったからまずいのではない。
原文: また背を焼くような借金などがいけないのではない。
背中が焼けるように重い借金があるからまずいのでもない。
原文: いけないのはその不吉な塊だ。
まずいのはあの不吉な塊だ。
原文: 以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
以前は私を喜ばせてくれた、どんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も、もう我慢できなくなっていた。
原文: 蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。
蓄音機を聴かせてもらいにわざわざ出かけていっても、最初の二、三小節で突然立ち上がりたくなってしまう。
原文: 何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。
何かが私をじっとしていられなくさせるのだ。
原文: それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
だから私はずっと、街から街へと漂い続けていた。
原文: 何故なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。
なぜかその頃、私はみすぼらしくて美しいものに強く引きつけられていたのを覚えている。
原文: 風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。
風景にしても、壊れかかった街だとか、その街にしても、よそよそしい表通りよりも、どこか親しみのある裏通り――汚れた洗濯物が干してあったり、がらくたが転がっていたり、むさくるしい部屋が見えていたりするような裏通りが好きだった。
原文: 雨や風がむしばんでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀どべいが崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵ひまわりがあったりカンナが咲いていたりする。
雨や風に侵食されて、やがて土に帰ってしまいそうな趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり――勢いがいいのは植物だけで、ときにはびっくりするような向日葵があったり、カンナが咲いていたりする。
原文: 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。
ときどき私はそんな路を歩きながら、ふと、ここは京都ではなく、京都から何百キロも離れた仙台とか長崎とか、そういう街に今自分がいるのだ、という錯覚を起こそうと努めた。
原文: 私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。
できることなら京都から逃げ出して、誰一人知らないような街へ行ってしまいたかった。
原文: 第一に安静。
まず安静。
原文: がらんとした旅館の一室。
がらんとした旅館の一室。
原文: 清浄な蒲団ふとん
清潔な布団。
原文: においのいい蚊帳かやのりのよくきいた浴衣ゆかた
いい匂いの蚊帳と、のりがよくきいた浴衣。
原文: そこで一月ほど何も思わず横になりたい。
そこで一ヶ月ほど、何も考えず横になっていたい。
原文: ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――
願わくは、いつの間にかここがその街になっていてくれたら。――
原文: 錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。
錯覚がようやく成功しはじめると、私はそこからさらに想像の絵の具を塗り重ねていく。
原文: なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。
なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しだ。
原文: そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
そして私は、その中に現実の自分自身を見失うのを楽しんだ。
原文: 私はまたあの花火というやつが好きになった。
私はまた、花火というものが好きになっていた。
原文: 花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様しまもようを持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。
花火そのものは二の次として、あの安っぽい絵の具で赤や紫や黄や青に、さまざまな縞模様をつけた花火の束――中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。
原文: それから鼠花火ねずみはなびというのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。
それから鼠花火というのは、一つずつ輪になって箱に詰めてある。
原文: そんなものが変に私の心をそそった。
そういうものが不思議と私の心をそそった。
原文: それからまた、びいどろという色硝子ガラスで鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉なんきんだまが好きになった。
それからまた、びいどろという色ガラスで鯛や花を打ち出したおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。
原文: またそれをめてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。
それをなめてみるのが、私にとってなんともいえない楽しみだったのだ。
原文: あのびいどろの味ほどかすかな涼しい味があるものか。
あのびいどろの味ほど、かすかで涼しい味があるものか。
原文: 私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ちれた私によみがえってくるせいだろうか、まったくあの味にはかすかなさわやかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
私は幼い頃よくそれを口に入れて親に叱られたものだが、その幼い頃の甘い記憶が、大人になって落ちぶれた私に蘇ってくるせいだろうか――まったくあの味には、かすかで爽やかな、何となく詩のような味わいが漂ってくる。
原文: 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。
察しはつくだろうが、私にはまるでお金がなかった。
原文: とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ぜいたくということが必要であった。
とはいえ、そんなものを見て少しでも心が動きかけたとき、自分を慰めるためには贅沢というものが必要だった。
原文: 二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。
二銭や三銭のもの――でも贅沢なもの。
原文: 美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろびて来るもの。――
美しいもの――でも無気力な私の感覚にむしろ自分から寄り添ってくるもの。――
原文: そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
そういうものが自然と私を慰めるのだ。
原文: 生活がまだむしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。
生活がまだ蝕まれていなかった以前、私が好きだった場所は、たとえば丸善だった。
原文: 赤や黄のオードコロンやオードキニン。
赤や黄のオーデコロンやオーデキニン。
原文: 洒落しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色ひすいいろ香水壜こうすいびん
しゃれた切子細工や、上品なロココ趣味の浮き模様を持った、琥珀色や翡翠色の香水瓶。
原文: 煙管きせる、小刀、石鹸せっけん煙草たばこ
キセル、小刀、石鹸、煙草。
原文: 私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。
私はそういうものを見るのに、一時間近く費やすこともあった。
原文: そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
そして結局、一番いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
原文: しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。
しかしここも、その頃の私にとってはもう重苦しい場所に過ぎなかった。
原文: 書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。
書籍も、学生も、レジも、みな借金取りの幽霊のように私には見えた。
原文: ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。
ある朝――その頃私はAという友達からBという友達へというふうに、友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出かけてしまったあとの、がらんとした空気の中に、ぽつんと一人取り残された。
原文: 私はまたそこから彷徨さまよい出なければならなかった。
私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。
原文: 何かが私を追いたてる。
何かが私を追い立てる。
原文: そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ちまったり、乾物屋の乾蝦ほしえび棒鱈ぼうだら湯葉ゆばを眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町をさがり、そこの果物屋で足をめた。
そして街から街へ、さっき言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち止まったり、乾物屋の干しエビや棒鱈や湯葉を眺めたりしながら、とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を止めた。
原文: ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。
ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っている範囲で最も好きな店だった。
原文: そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。
そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋ならではの美しさが最もあからさまに感じられた。
原文: 果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗うるしぬりの板だったように思える。
果物はかなり急な傾斜の台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。
原文: 何か華やかな美しい音楽の快速調アッレグロの流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムにり固まったというふうに果物は並んでいる。
華やかな美しい音楽のアレグロの流れが、見る者を石に変えたというゴルゴンの鬼面のようなものを突きつけられて、あんな色彩やあんなボリュームに凝り固まったというふうに、果物は並んでいる。
原文: 青物もやはり奥へゆけばゆくほどうず高く積まれている。――
野菜類もやはり奥へ行けば行くほど高く積み上げられている。――
原文: 実際あそこの人参葉にんじんばの美しさなどは素晴すばらしかった。
実際あそこのニンジンの葉の美しさなどは素晴らしかった。
原文: それから水にけてある豆だとか慈姑くわいだとか。
それから水に浸けてある豆だとかくわいだとか。
原文: またそこの家の美しいのは夜だった。
またその店が美しいのは夜だった。
原文: 寺町通はいったいににぎやかな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。
寺町通りはいったいに賑やかな通りで――といっても感じは東京や大阪よりずっと澄んでいるのだが――ショーウィンドウの光がたくさん街路に流れ出ている。
原文: それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。
それがどういうわけか、その店先の周囲だけが妙に暗いのだ。
原文: もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然はっきりしない。
もともと片方は暗い二条通りに面した街角になっているので暗いのは当然なのだが、その隣の家が寺町通りに面しているにもかかわらず暗かった理由ははっきりしない。
原文: しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。
しかしその家が暗くなかったら、あんなに私を引きつけるには至らなかったと思う。
原文: もう一つはその家の打ち出したひさしなのだが、その廂が眼深まぶかに冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」
もう一つはその店の突き出した庇なのだが、その庇が目深にかぶった帽子の庇のように――これは比喩というよりも、「おや、あそこの店は帽子の庇をやけに下げているぞ」
原文: と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。
と思わせるほどなので、庇の上はこれも真っ暗なのだ。
原文: そう周囲が真暗なため、店頭にけられた幾つもの電燈が驟雨しゅううのように浴びせかける絢爛けんらんは、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。
そのように周囲が真っ暗なため、店先に灯された幾つもの電球が夕立のように降り注ぐ絢爛さは、周囲の何者にも奪われることなく、思うままに美しい眺めを照らし出していた。
原文: 裸の電燈が細長い螺旋棒らせんぼうをきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋かぎやの二階の硝子ガラス窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でもまれだった。
裸の電球が細長い螺旋をきりきりと目の中に刺し込んでくる往来に立って、また近所にある錠前屋の二階のガラス窓越しに眺めたこの果物店の眺めほど、そのたびたびの私を喜ばせたものは、寺町の中でもめったになかった。
原文: その日私はいつになくその店で買物をした。
その日私はいつになくその店で買い物をした。
原文: というのはその店には珍しい檸檬れもんが出ていたのだ。
というのは、その店に珍しいレモンが出ていたのだ。
原文: 檸檬などごくありふれている。
レモンなどごくありふれている。
原文: がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。
がその店というのも、みすぼらしくはないまでもただ普通の八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。
原文: いったい私はあの檸檬が好きだ。
とにかく私はあのレモンが好きだ。
原文: レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあのたけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。――
レモンイエローの絵の具をチューブから絞り出して固めたようなあの単純な色も、それからあのずんぐりした紡錘形の形も。――
原文: 結局私はそれを一つだけ買うことにした。
結局私はそれを一つだけ買うことにした。
原文: それからの私はどこへどう歩いたのだろう。
それからの私はどこへどう歩いたのだろう。
原文: 私は長い間街を歩いていた。
私は長い間街を歩いていた。
原文: 始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらかゆるんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。
ずっと私の心を押さえつけていた不吉な塊が、それを握った瞬間からいくらか緩んできたとみえて、私は街の中で非常に幸せだった。
原文: あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。
あんなにしつこかった憂鬱が、そんな一個のもので紛れてしまう――不思議なことが、逆説的に本当のことだった。
原文: それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
それにしても、心というやつはなんて不思議なやつだろう。
原文: その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。
そのレモンの冷たさはたとえようもなくよかった。
原文: その頃私は肺尖はいせんを悪くしていていつも身体に熱が出た。
その頃私は肺の先端を悪くしていて、いつも体に熱があった。
原文: 事実友達の誰彼だれかれに私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。
実際、友達の誰かれに私の熱を見せびらかすために手を握り合ったりしてみるのだが、私の手のひらが誰のよりも熱かった。
原文: その熱いせいだったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
その熱のせいだったのだろう、握っている手のひらから体の中に染み透っていくようなその冷たさは、気持ちよかった。
原文: 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていってはいでみた。
私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。
原文: それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。
その産地だというカリフォルニアが頭に浮かんでくる。
原文: 漢文で習った「売柑者之言」
漢文で習った「売柑者之言」
原文: の中に書いてあった「鼻をつ」
の中に書いてあった「鼻を打つ」
原文: という言葉がれぎれに浮かんで来る。
という言葉が断片的に浮かんでくる。
原文: そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
そして深々と胸いっぱいに香りのある空気を吸い込むと、ついぞ胸いっぱいに息をしたことのなかった私の体や顔に温かい血の熱が上ってきて、なんだか体の中に元気が目覚めてきたのだった。……
原文: 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
実際あんな単純な冷たさや触感や匂いや見た目が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなるほど私にしっくりきたなんて、不思議に思える――それがあの頃のことなのだから。
原文: 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を𤄃歩かっぽした詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。
私はもう往来を軽やかな興奮に弾んで、一種の誇らしい気持ちさえ感じながら、美しい装いをして街を闊歩した詩人のことなどを思い浮かべながら歩いていた。
原文: 汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映をはかったり、またこんなことを思ったり、
汚れた手ぬぐいの上に載せてみたり、マントの上に当ててみたりして色の映り具合を確かめたり、またこんなことを思ったり、
原文: ――つまりはこの重さなんだな。――
――つまりはこの重さなんだな。――
原文: その重さこそつねづね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心かいぎゃくしんからそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
この重さこそ、ずっと探し求めていたものであって、疑いなくこの重さはすべての良いもの、すべての美しいものを重さに換算してきた重さだ、とか、思い上がったユーモアのセンスからそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにはともあれ私は幸せだったのだ。
原文: どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。
原文: 平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
普段あんなに避けていた丸善が、そのときの私には気軽に入れるように思えた。
原文: 「今日はひとつ入ってみてやろう」
「今日は一つ入ってみてやろう」
原文: そして私はずかずか入って行った。
そして私はずかずかと入っていった。
原文: しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。
しかしどうしたことだろう、私の心を満たしていた幸せな気持ちはだんだん逃げていった。
原文: 香水の壜にも煙管きせるにも私の心はのしかかってはゆかなかった。
香水の瓶にもキセルにも、私の心はのしかかっていかなかった。
原文: 憂鬱が立てめて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。
憂鬱が立ち込めてくる、私は歩き回った疲れが出てきたのだと思った。
原文: 私は画本の棚の前へ行ってみた。
私は画集の棚の前へ行ってみた。
原文: 画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな!
重い画集を取り出すのさえ、いつも以上に力が要るな!
原文:  と思った。
 と思った。
原文: しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。
しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、ていねいにめくっていく気持ちはまったく湧いてこない。
原文: しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。
しかも呪われたことに、また次の一冊を引き出してくる。
原文: それも同じことだ。
それも同じことだ。
原文: それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。
それでも一度パラパラとやってみないと気が済まないのだ。
原文: それ以上はたまらなくなってそこへ置いてしまう。
それ以上は我慢できなくなってそこへ置いてしまう。
原文: 以前の位置へ戻すことさえできない。
元の位置へ戻すことさえできない。
原文: 私は幾度もそれを繰り返した。
私は何度もそれを繰り返した。
原文: とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色だいだいろの重い本までなおいっそうのえがたさのために置いてしまった。――
とうとう最後には、日頃から大好きだったアングルのオレンジ色の重い本まで、さらに我慢できなくなって置いてしまった。――
原文: なんという呪われたことだ。
なんという呪われたことだ。
原文: 手の筋肉に疲労が残っている。
手の筋肉に疲れが残っている。
原文: 私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
私は憂鬱になってしまって、自分が抜き出したまま積み重ねた本の群れを眺めていた。
原文: 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。
以前はあんなに私を引きつけた画集が、どうしたことだろう。
原文: 一枚一枚に眼をさらし終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
一枚一枚に目を通し終わったあと、さてあまりに普通な周囲を見渡すときのあの変に場違いな気持ちを、私は以前には好んで味わっていたものだった。……
原文: 「あ、そうだそうだ」
「あ、そうだそうだ」
原文: その時私はたもとの中の檸檬れもんを憶い出した。
そのとき私は袖の中のレモンを思い出した。
原文: 本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。
本の色彩をごちゃごちゃに積み上げて、一度このレモンで試してみたら。
原文: 「そうだ」
「そうだ」
原文: 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。
私にまた先ほどの軽やかな興奮が戻ってきた。
原文: 私は手当たり次第に積みあげ、またあわただしく潰し、また慌しく築きあげた。
私は手当たり次第に積み上げ、また慌ただしく崩し、また慌ただしく築き上げた。
原文: 新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。
新しく引き抜いて付け加えたり、取り去ったりした。
原文: 奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
奇妙で幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
原文: やっとそれはでき上がった。
やっとそれはできあがった。
原文: そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを据えつけた。
そして跳び上がりそうな気持ちを抑えながら、その城壁の頂きに恐る恐るレモンを据えつけた。
原文: そしてそれは上出来だった。
そしてそれは上出来だった。
原文: 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
見渡すと、そのレモンの色彩はごちゃごちゃした色の階調をひっそりと紡錘形の体の中に吸収してしまって、きりっと冴え渡っていた。
原文: 私はほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。
私は埃っぽい丸善の中の空気が、そのレモンの周囲だけ変に張り詰めているような気がした。
原文: 私はしばらくそれを眺めていた。
私はしばらくそれを眺めていた。
原文: 不意に第二のアイディアが起こった。
不意に第二のアイデアが浮かんだ。
原文: その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
その奇妙な企みは、むしろ私をぎょっとさせた。
原文: ――それをそのままにしておいて私は、なにわぬ顔をして外へ出る。――
――それをそのままにしておいて私は、知らないふりをして外へ出る。――
原文: 私は変にくすぐったい気持がした。
私は変にむずむずした気持ちがした。
原文: 「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」
「出て行こうかな。そうだ出て行こう」
原文: そして私はすたすた出て行った。
そして私はさっさと出ていった。
原文: 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。
変にむずむずした気持ちが、街の上の私を微笑ませた。
原文: 丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発するのだったら、どんなに面白いだろう。
原文: 私はこの想像を熱心に追求した。
私はこの想像を熱心に追いかけた。
原文: 「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
「そうしたらあの息の詰まる丸善もこっぱみじんだろう」
原文: そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街をいろどっている京極を下って行った。
そして私は、映画の看板が不思議な趣きで街を彩っている京極を下っていった。