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恩讐の彼方に 小学生向け

菊池寛きくちかん)・1988

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

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市九郎(いちくろう)は、主人(しゅじん)が切りつけてきた刀を受け止めそこない、左のほおからあごにかけて、軽い傷ではあるが、一太刀(ひとたち)受けてしまった。

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いちろうは、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。

自分の罪を——たとえ相手からしかけられたことだとしても、主人の寵妾(ちょうしょう・主人に特別かわいがられていた女性)と、道ならぬ恋をしてしまったという、自分の重い罪を、市九郎はよくわかっていた。だから、主人がふりあげた刀を、当然受けるべき罰だと思い、その切っ先をよけようとはしても、さからう気持ちは少しも持っていなかった。

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自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。

ただ、こんな自分の迷いのために命を捨てるのが、どうしても惜しく思われたので、できるだけは逃げてみたいと思っていた。

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彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃れてみたいと思っていた。

そこで、主人から不義(ふぎ・道にはずれたこと)をとがめられて切りつけられたとき、そばにあった燭台(しょくだい・ろうそく立て)をとっさに手に取り、それで主人の鋭い刀の切っ先をよけていた。

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それで、主人から不義をいい立てられて切りつけられた時、あり合せた燭台を、早速の獲物として主人の鋭い太刀先を避けていた。

けれども、五十に近いとはいえ、まだ体つきのたくましい主人が、続けざまに切りかかってくる刀を、こちらから攻めることができない悲しさで、いつのまにか受け損ない、最初の一太刀を左のほおに受けてしまったのである。

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が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。

けれども、いったん血を見ると、市九郎の心はたちまち変わってしまった。

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が、一旦血を見ると、市九郎の心は、たちまちに変っていた。

分別(ふんべつ・ものごとを落ち着いて考える心)のあった彼の心は、闘牛士の槍を受けた牛のように荒れ狂ってしまった。

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彼の分別のあった心は、闘牛者の槍を受けた牡牛のように荒んでしまった。

どうせ死ぬのだと思うと、世間の目も、主人と家来の関係も、もう頭になかった。

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どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。

今までは主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の命をおびやかそうとしている一匹の動物——それも凶暴な動物としか見えなくなっていた。

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今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命を、おどそうとしている一個の動物――それも凶悪な動物としか、見えなかった。

彼は勢いをふるい起こして、こちらから攻めにかかった。

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彼は奮然として、攻撃に転じた。

彼は「おうお」

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彼は「おうお」

と叫びながら、手にしていた燭台を、相手の顔めがけて投げつけた。

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おめきながら、持っていた燭台を、相手の面上を目がけて投げ打った。

市九郎が、ただ身を守るためだけに刀を受けているのを見て、油断してかかっていた主人の三郎兵衛(さぶろうべえ)は、いきなり投げつけられた燭台をよけきれず、そのろうそく立ての一部が、したたかに右目に当たった。

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市九郎が、防御のための防御をしているのを見て、気を許してかかっていた主人の三郎兵衛ろうべえは、不意に投げつけられた燭台を受けかねて、その蝋受けの一角がしたたかに彼の右眼を打った。

市九郎は、相手がひるんだすきに、脇差(わきざし・短い刀)を抜くより早く飛びかかった。

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市九郎は、相手のたじろぐ隙に、脇差を抜くより早く飛びかかった。

「おのれ、手向かいするか!」

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「おのれ、手向いするか!」

と、三郎兵衛は激しく怒った。

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と、三郎兵衛は激怒した。

市九郎は、何も言わずになおも切りかかった。

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市九郎は無言で付け入った。

主人の三尺(さんじゃく・約九十センチ)近い刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度激しく打ち合った。

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主人の三尺に近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度激しく打ち合うた。

主人と家来が必死になって、十数回も刀を打ち合わせるうちに、主人の刀の先が、二、三度低い天井をかすり、何度も刀を思うように使えなくなりそうになった。

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主従が必死になって、十数合太刀を合わす間に、主人の太刀先が、二、三度低い天井をかすって、しばしば太刀を操る自由を失おうとした。

市九郎は、そのすきをついた。

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市九郎はそこへ付け入った。

主人は、自分が不利だと気づくと、自由に動ける外へ出ようとして、二、三歩あとずさりし、縁側の外へ出た。

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主人は、その不利に気がつくと、自由な戸外へ出ようとして、二、三歩後退あとずさりして縁の外へ出た。

そのすきに市九郎が、なおも切りこもうとするのを見て、主人は「えい」

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その隙に市九郎が、なおも付け入ろうとするのを、主人は「えい」

と、いらだって切り下ろした。

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と、苛だって切り下した。

しかし、いらだつあまり、その刀は縁側と座敷の間に垂れ下がっている鴨居(かもい・戸の上にわたした横木)に、うっかり二、三寸(六〜九センチくらい)切りこんでしまった。

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が、苛だったあまりその太刀は、縁側と、座敷との間に垂れ下っている鴨居に、不覚にも二、三寸切り込まれた。

「しまった」

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「しまった」

と、三郎兵衛が刀を引こうとするすきに、市九郎は踏みこんで、主人のわき腹を思いきり横に薙(な)いだのであった。

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と、三郎兵衛が太刀を引こうとする隙に、市九郎は踏み込んで、主人の脇腹を思うさま横にいだのであった。

相手が倒れたその瞬間、市九郎ははっと我に返った。

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敵手あいてが倒れてしまった瞬間に、市九郎は我にかえった。

今まで興奮してぼんやりしていた意識が、ようやく落ち着くと、彼は自分が主殺し(しゅじんごろし・仕えている主人を殺すこと。当時もっとも重い罪の一つとされた)という大きな罪を犯したことに気づき、後悔と恐ろしさのために、その場にへたりこんでしまった。

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今まで興奮して朦朧としていた意識が、ようやく落着くと、彼は、自分が主殺しの大罪を犯したことに気がついて、後悔と恐怖とのために、そこにへたばってしまった。

夜は初更(しょこう・午後八時ごろ)を過ぎていた。

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夜は初更を過ぎていた。

母屋(おもや)と、家来たちの部屋とは遠く離れていたので、主人と家来の恐ろしい斬り合いは、母屋にいた女中たち以外、まだだれにも知られていないらしかった。

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母屋おもやと、仲間部屋とは、遠く隔っているので、主従の恐ろしい格闘は、母屋に住んでいる女中以外、まだだれにも知られなかったらしい。

その女中たちは、この激しい斬り合いにおびえきってしまい、一つの部屋に集まって、ただ身を震わせているだけであった。

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その女中たちは、この激しい格闘に気を失い、一間のうちに集って、ただ身を震わせているだけであった。

市九郎は、深い後悔にとらわれていた。

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市九郎は、深い悔恨にとらわれていた。

遊び好きで、素行の悪い若い武士ではあったが、これまで悪事と呼べるようなことは、何一つしていなかった。

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一個の蕩児であり、無頼の若武士ではあったけれども、まだ悪事と名の付くことは、何もしていなかった。

ましてや、八逆(はちぎゃく・昔、いちばん重いとされた八つの罪)の第一とされる主殺しの大罪を犯すことになろうとは、彼には思いもよらないことだった。

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まして八逆の第一なる主殺しの大罪を犯そうとは、彼の思いも付かぬことだった。

彼は、血のついた脇差を持ち直した。

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彼は、血の付いた脇差を取り直した。

主人の妾(めかけ)と道ならぬ関係を結び、そのために罰を受けようとしていたところ、かえってその主人を殺してしまったということは、どう考えても、自分に非があるとしか思えなかった。

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主人の妾と慇懃を通じて、そのために成敗を受けようとした時、かえってその主人を殺すということは、どう考えても、彼にいいところはなかった。

彼は、まだびくびくと動いている主人の死体を横目に見ながら、静かに自害する覚悟を固めていた。

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彼は、まだびくびくと動いている主人の死体を尻眼にかけながら、静かに自殺の覚悟を固めていた。

するとそのとき、隣の部屋から、今までの重苦しさから解き放たれたような声がした。

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するとその時、次の間から、今までの大きい圧迫から逃れ出たような声がした。

「ほんとうに、どうなることかと思って心配したわ。お前がまっ二つに切られたら、次は私の番じゃないかと、さっきから屏風(びょうぶ)の後ろで息をひそめて見ていたのよ。でも、ほんとうにうまくいったわね。こうなったら、ぐずぐずしてはいられないから、あるだけのお金を持って逃げましょう。仲間たちはまだ気づいていないようだから、逃げるなら今のうちよ。乳母(うば)や女中たちは台所のほうでがたがた震えているようだから、私が行って、騒がないように言ってくるわ。さあ! お前はお金を探してちょうだい」

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「ほんとにまあ、どうなることかと思って心配したわ。お前がまっ二つにやられた後は、私の番じゃあるまいかと、さっきから、屏風びょうぶの後で息を凝らして見ていたのさ。が、ほんとうにいい塩梅あんばいだったね。こうなっちゃ、一ときも猶予はしていられないから、有り金をさらって逃げるとしよう。まだ仲間たちは気がついていないようだから、逃げるなら今のうちさ。乳母や女中などは、台所の方でがたがた震えているらしいから、私が行って、じたばた騒がないようにいってこようよ。さあ! お前は有り金を探して下さいよ」

そう言うその声には、確かに震えがまじっていた。

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というその声は、確かに震えを帯びていた。

けれども、その震えを、女らしい強い意地でおさえこみ、なんとか平気なふりをしようとしているらしかった。

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が、そうした震えを、女性としての強い意地で抑制して、努めて平気を装っているらしかった。

市九郎は——自分がなぜ動けばよいのか、すっかりわからなくなっていた市九郎は、女の声を聞くと、生き返ったように元気づいた。

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市九郎は――自分特有の動機を、すっかり失くしていた市九郎は、女の声をきくと、よみがえったように活気づいた。

彼は、自分の意志で動くというよりも、女の意志で動かされる傀儡(かいらい・あやつり人形)のように立ち上がると、座敷に置いてある桐の茶だんすに手をかけた。

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彼は、自分の意志で働くというよりも、女の意志によって働く傀儡かいらいのように立ち上ると、座敷に置いてある桐の茶箪笥に手をかけた。

そして、その真っ白な木目に、血で汚れた手のあとをつけながら、引き出しをあちこち探し始めた。

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そして、その真白い木目に、血に汚れた手形を付けながら、引出しをあちらこちらと探し始めた。

しかし、女——主人の妾(めかけ)のお弓が戻ってくるまでに、市九郎は、二朱銀(にしゅぎん・当時のお金)を五両分包んだものを、たった一つ見つけただけであった。

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が、女――主人の妾のお弓が帰ってくるまでに、市九郎は、二朱銀の五両包をただ一つ見つけたばかりであった。

お弓は、台所から戻ってきて、その金を見ると、

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お弓は、台所から引っ返してきて、その金を見ると、

「そんなはした金(少しばかりのお金)が、何になるものかね」

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「そんな端金はしたがねが、どうなるものかね」

と言いながら、今度は自分で、やけになって引き出しをかき回した。

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と、いいながら、今度は自分で、やけに引出しを引掻き回した。

しまいには鎧櫃(よろいびつ・よろいをしまう箱)の中まで探したが、小判は一枚も出てこなかった。

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しまいには鎧櫃よろいびつの中まで探したが、小判は一枚も出てきはしなかった。

「評判のけちん坊だから、瓶(かめ)にでも入れて、土の中に埋めてあるのかもしれない」

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「名うての始末屋だから、かめにでも入れて、土の中へでも埋めてあるのかも知れない」

そう腹立たしそうに言い切ると、お金になりそうな着物や印籠(いんろう・薬などを入れる小さな入れ物)を、手早く風呂敷に包んだ。

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そう忌々いまいましそうにいい切ると、金目のありそうな衣類や、印籠を、手早く風呂敷包にした。

こうして、この不義(ふぎ)を働いた男女が、浅草田原町の旗本(はたもと・将軍に仕える武士)、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永(あんえい)三年の秋の初めのことであった。

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こうして、この姦夫姦婦かんぷかんぷが、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永あんえい三年の秋の初めであった。

あとには、その年三歳になる三郎兵衛のひとり息子、実之助(さねのすけ)が、父の思いがけない死も知らず、乳母(うば)のふところですやすやと眠っているだけであった。

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後には、当年三歳になる三郎兵衛の一子実之助が、父の非業の死も知らず、乳母の懐ろにすやすや眠っているばかりであった。

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市九郎とお弓は、江戸から逃げ出したあと、東海道はわざと避け、人目をしのびながら、東山道(とうさんどう)を通って上方(かみがた・京都や大阪の方)を目指した。

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市九郎とお弓は、江戸を逐電してから、東海道はわざと避けて、人目を忍びながら、東山道とうさんどうを上方へと志した。

市九郎は、主人を殺した罪のせいで、いつも良心の苛責(かしゃく・自分を責める気持ち)に苦しめられていた。

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市九郎は、主殺しの罪から、絶えず良心の苛責を受けていた。

けれども、けんぺき茶屋で女中をしていたという、あばずれ者(世間ずれしてずうずうしい女)のお弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、

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が、けんぺき茶屋の女中上がりの、莫連者ばくれんもののお弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、

「どうせお尋ね者になったんだから、いくらくよくよしたってしかたないじゃないか。腹をすえて、世の中を面白く暮らすのがいちばんの分別(ふんべつ・かしこい考え)というものさ」

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「どうせ凶状持ちになったからには、いくらくよくよしてもしようがないじゃないか。度胸を据えて世の中を面白く暮すのが上分別さ」

と言って、朝から晩まで、市九郎の心に悪事へのはずみをつけた。

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と、市九郎の心に、明け暮れ悪の拍車を加えた。

しかし、信州から木曽の藪原(やぶはら)の宿場まで来たときには、二人の旅費は、百文も残っていなかった。

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が、信州から木曾の藪原やぶはらの宿まで来た時には、二人の路用の金は、百も残っていなかった。

二人は、生活に困るにつれて、悪事を働かなければならなくなった。

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二人は、窮するにつれて、悪事を働かねばならなかった。

最初は、こうした男女の組み合わせでいちばんやりやすい、美人局(つつもたせ・女が男を誘い出し、もう一人がそれを見つけたふりをして金をゆすること)を仕事にした。

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最初はこうした男女の組合せとしては、最もなしやすい美人局つつもたせを稼業とした。

そうして信州から尾州(びしゅう・今の愛知県あたり)にかけての宿場宿場で、行き来する町人や百姓の旅費を奪っていた。

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そうして信州から尾州へかけての宿々で、往来の町人百姓の路用の金を奪っていた。

初めのうちは、女からの激しいそそのかしで、つい悪事に手を出し始めた市九郎も、そのうちに悪事のおもしろさを味わい始めた。

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初めのほどは、女からの激しい教唆きょうさで、つい悪事を犯し始めていた市九郎も、ついには悪事の面白さを味わい始めた。

浪人の姿をした市九郎に対して、金を取られる町人や百姓たちは、たいそうおとなしく従った。

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浪人姿をした市九郎に対して、被害者の町人や百姓は、金を取られながら、すこぶる柔順であった。

悪事にだんだん手慣れていった市九郎は、美人局からもっと単純で手間のいらない強請(ゆすり)をするようになり、最後には人を切って金品を奪うことを、正当な仕事だとさえ思うようになった。

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悪事がだんだん進歩していった市九郎は、美人局からもっと単純な、手数のいらぬ強請ゆすりをやり、最後には、切取強盗を正当な稼業とさえ心得るようになった。

彼は、いつのまにか、信濃から木曽へと続く鳥居峠(とりいとうげ)に住みついた。

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彼は、いつとなしに信濃から木曾へかかる鳥居峠とりいとうげに土着した。

そして昼は茶店を開き、夜は強盗をはたらいた。

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そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。

彼はもう、そういう暮らしに、ためらいも不安もまったく感じなくなっていた。

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彼はもうそうした生活に、なんの躊躇をも、不安をも感じないようになっていた。

お金を持っていそうな旅人を狙い、殺すとたくみにその死体を片づけた。

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金のありそうな旅人を狙って、殺すと巧みにその死体を片づけた。

一年に三、四度、そうした罪を犯すだけで、彼は一年分の暮らしを楽に支えることができた。

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一年に三、四度、そうした罪を犯すと、彼は優に一年の生活を支えることができた。

それは、彼らが江戸を出てから、三年目になる春のことであった。

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それは、彼らが江戸を出てから、三年目になる春の頃であった。

参勤交代(さんきんこうたい・大名が江戸と自分の領地を行き来した制度)の北国大名の行列が、二つほど続けて通ったため、木曽街道の宿場宿場は、近ごろにないにぎわいを見せていた。

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参勤交代の北国大名の行列が、二つばかり続いて通ったため、木曾街道の宿々は、近頃になく賑わった。

特にこの頃は、信州をはじめ、越後や越中からの伊勢参り(いせまいり・伊勢神宮へのお参り)の客が街道を行き来していた。

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ことにこの頃は、信州を始め、越後や越中からの伊勢参宮の客が街道に続いた。

その中には、京都から大坂へと、遊びの旅を延ばす人も多かった。

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その中には、京から大坂へと、遊山の旅を延すのが多かった。

市九郎は、そのうちの二、三人を殺して、その年の生活費を手に入れたいと考えていた。

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市九郎は、彼らの二、三人をたおして、その年の生活費を得たいと思っていた。

木曽街道にも、杉や檜(ひのき)にまじって咲いた山桜が散り始める夕暮れのことであった。

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木曾街道にも、杉や檜に交って咲いた山桜が散り始める夕暮のことであった。

市九郎の店に、男女二人連れの旅人が立ち寄った。

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市九郎の店に男女二人の旅人が立ち寄った。

それは、明らかに夫婦であった。

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それは明らかに夫婦であった。

男は三十を超えていた。

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男は三十を越していた。

女は二十三、四くらいだっただろう。

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女は二十三、四であっただろう。

供も連れず、気楽な旅に出た、信州の豊かな農家の若夫婦らしかった。

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供を連れない気楽な旅に出た信州の豪農の若夫婦らしかった。

市九郎は、二人の身なりを見ると、この二人を今年の獲物にしようかと考えていた。

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市九郎は、二人の身形みなりを見ると、彼はこの二人を今年の犠牲者にしようかと、思っていた。

「もう藪原の宿まで、そんなにはないだろうな」

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「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」

こう言いながら、男のほうは、市九郎の店の前で、草鞋(わらじ)のひもを結び直そうとした。

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こういいながら、男の方は、市九郎の店の前で、草鞋わらじの紐を結び直そうとした。

市九郎が返事をしようとする前に、お弓が台所から出てきて、

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市九郎が、返事をしようとする前に、お弓が、台所から出てきながら、

「さようでございます。もうこの峠を降りますと、半道(はんみち・一里の半分、約二キロ)もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」

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「さようでございます、もうこの峠を降りますれば半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」

と言った。

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と、いった。

市九郎は、お弓のこの言葉を聞くと、お弓がもう恐ろしい計画を自分にすすめようとしているのを感じ取った。

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市九郎は、お弓のこの言葉を聞くと、お弓がすでに恐ろしい計画を、自分に勧めようとしているのを覚えた。

藪原の宿までにはまだ二里(にり・約八キロ)あまりの道があるのに、もう大した距離ではないと言いくるめて旅人を安心させ、彼らが夜道にかかるのにつけこんで、近道を走り、宿場の入り口で襲うのが、市九郎のいつものやり方であった。

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藪原の宿までにはまだ二里に余る道を、もう何ほどもないようにいいくるめて、旅人に気をゆるさせ、彼らの行程が夜に入るのに乗じて、間道を走って、宿の入口で襲うのが、市九郎の常套の手段であった。

その男は、お弓の言葉を聞くと、

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その男は、お弓の言葉をきくと、

「それならば、お茶でも一杯もらおうか」

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「それならば、茶なと一杯所望しようか」

と言いながら、もう二人の最初のわなにかかってしまった。

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といいながら、もう彼らの第一の罠に陥ってしまった。

女は、赤いひものついた旅用の菅笠(すげがさ)をはずしながら、夫のそばに寄りそって腰をかけた。

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女は赤い紐のついた旅の菅笠すげがさを取りはずしながら、夫のそばに寄り添うて、腰をかけた。

二人はここで小半刻(こはんとき・三十分くらい)ほど、峠を登りきった疲れを休めると、鳥目(ちょうもく・お金、銭)を置いて、紫色に暮れかかっている小木曽(おぎそ)の谷に向かって、鳥居峠を下っていった。

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彼らは、ここで小半刻も、峠を登り切った疲れを休めると、鳥目ちょうもくを置いて、紫に暮れかかっている小木曾おぎその谷に向って、鳥居峠を降りていった。

二人の姿が見えなくなると、お弓は、それっとばかりに合図をした。

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二人の姿が見えなくなると、お弓は、それとばかり合図をした。

市九郎は、獲物を追う猟師のように、脇差を腰に差すと、まっしぐらに二人のあとを追った。

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市九郎は、獲物を追う猟師のように、脇差を腰にすると、一散に二人の後を追うた。

本街道を右に折れ、木曽川の流れに沿って、険しい近道を急いだ。

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本街道を右に折れて、木曾川の流れに沿うて、険しい間道を急いだ。

市九郎が、藪原の宿の手前の並木道まで来たときには、春の長い一日もすっかり暮れ、十日ほどの月が木曽の山の向こうに昇ろうとして、ほの白い月しろ(つきしろ・月が昇る前の空の明るみ)だけが、木曽の山々をかすかに浮かび上がらせていた。

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市九郎が、藪原の宿手前の並木道に来た時は、春の長い日がまったく暮れて、十日ばかりの月が木曾の山の彼方に登ろうとして、ほの白い月しろのみが、木曾の山々を微かに浮ばせていた。

市九郎は、街道に沿って生えている、一かたまりの丸葉柳(まるばやなぎ)の下に身を隠しながら、夫婦が近づいてくるのを、じっと待っていた。

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市九郎は、街道に沿うて生えている、一むらの丸葉柳の下に身を隠しながら、夫婦の近づくのを、おもむろに待っていた。

彼も心の底では、幸せそうに旅をしているこの二人の命を、理由もなく奪うことが、どれほど罪深いことかを、考えずにはいられなかった。

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彼も心の底では、幸福な旅をしている二人の男女の生命を、不当に奪うということが、どんなに罪深いかということを、考えずにはいなかった。

しかし、いったんやりかけた仕事をやめて帰ることは、お弓の手前、彼の思いどおりにはできないことであった。

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が、一旦なしかかった仕事を中止して帰ることは、お弓の手前、彼の心にまかせぬことであった。

彼は、この夫婦の血を流したくはなかった。

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彼は、この夫婦の血を流したくはなかった。

できれば相手が、自分のおどしに文句も言わず従ってくれればいいと思っていた。

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なるべく相手が、自分の脅迫に二言もなく服従してくれればいいと、思っていた。

もし彼らが旅費のお金と着物を出してくれるなら、決して人を殺すようなことはしまいと思っていた。

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もし彼らが路用の金と衣装とを出すなら、決して殺生はしまいと思っていた。

彼の決心がようやく固まった頃、街道の向こうから、急ぎ足で近づいてくる男女の姿が見えた。

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彼の決心がようやく固まった頃に、街道の彼方から、急ぎ足に近づいてくる男女の姿が見えた。

二人は、峠からの道が思っていたより遠かったため、疲れきったようすで、お互いに助け合いながら、何も言わずに急いでやって来た。

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二人は、峠からの道が、覚悟のほかに遠かったため、疲れ切ったと見え、お互いに助け合いながら、無言のままに急いで来た。

二人が丸葉柳の茂みに近づくと、市九郎は、不意に街道の真ん中に立ちはだかった。

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二人が、丸葉柳の茂みに近づくと、市九郎は、不意に街道の真ん中に突っ立った。

そして、これまでに何度も言い慣れた、おどしの言葉を浴びせかけた。

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そして、今までに幾度も口にし馴れている脅迫の言葉を浴せかけた。

すると、男は必死になったらしく、道中差し(どうちゅうざし・旅の護身用の刀)を抜き、妻をかばいながら身構えた。

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すると、男は必死になったらしく、道中差を抜くと、妻を後にかばいながら身構えした。

市九郎は、少し出ばなをくじかれた。

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市九郎は、ちょっと出鼻を折られた。

しかし彼は、声を張りあげて、「いや、旅の人、逆らってむだに命を落とすでないぞ。命まで取ろうとは言わぬ。有り金と着物を、おとなしく出していけ!」

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が、彼は声を励まして、「いやさ、旅の人、手向いしてあたら命を落すまいぞ。命までは取ろうといわぬのじゃ。有り金と衣類とをおとなしく出して行け!」

と叫んだ。

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と、叫んだ。

その顔を、相手の男はじっと見つめていたが、

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その顔を、相手の男は、じいっと見ていたが、

「やあ! さっきの峠の茶屋の主人ではないか」

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「やあ! 先程の峠の茶屋の主人ではないか」

と言って、必死になって飛びかかってきた。

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と、その男は、必死になって飛びかかってきた。

市九郎は、もうこれまでだと思った。

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市九郎は、もうこれまでと思った。

自分の顔を覚えられてしまった以上、自分たちが安全でいるためには、もうこの男女を生かしておくことはできないと思った。

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自分の顔を見覚えられた以上、自分たちの安全のため、もうこの男女を生かすことはできないと思った。

相手が必死に切りこんでくるのを、たくみにかわしながら、一太刀を相手の首すじに浴びせた。

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相手が必死に切り込むのを、巧みに引きはずしながら、一刀を相手の首筋に浴びせた。

見ると、連れの女は、気を失いそうになりながら道のわきにうずくまり、ぶるぶると震えていた。

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見ると連れの女は、気を失ったように道の傍にうずくまりながら、ぶるぶると震えていた。

市九郎は、この女を殺すのがどうしても忍びなかった。

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市九郎は、女を殺すに忍びなかった。

しかし、自分の身の危険には代えられないと思った。

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が、彼は自分の危急には代えられぬと思った。

男を殺して気が荒立っているうちにと思い、血のついた刀を振りかざしながら、彼は女に近づいた。

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男の方を殺して殺気立っている間にと思って、血刀を振りかざしながら、彼は女に近づいた。

女は両手を合わせて、市九郎に命ごいをした。

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女は、両手を合わして、市九郎に命を乞うた。

市九郎は、その瞳に見つめられると、どうしても刀を振り下ろすことができなかった。

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市九郎は、その瞳に見つめられると、どうしても刀を下ろせなかった。

しかし、殺さなければならないと思った。

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が、彼は殺さねばならぬと思った。

このとき市九郎の欲深い心は、この女を刀で切って着物を台なしにしてしまってはもったいないと考えた。

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この時市九郎の欲心は、この女を切って女の衣装を台なしにしてはつまらないと思った。

そう思うと、彼は腰に下げていた手ぬぐいをはずし、女の首を絞めた。

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そう思うと、彼は腰に下げていた手拭をはずして女の首をくくった。

市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐ろしさを感じ、その場に一刻もいたたまれないように思った。

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市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖を感じて、一刻もいたたまらないように思った。

彼は、二人の胴巻(どうまき・お金を入れて腰に巻く帯)と着物を奪うと、あわてふためいて、その場からまっしぐらに逃げた。

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彼は、二人の胴巻と衣類とを奪うと、あたふたとしてその場から一散に逃れた。

彼は、これまで十人あまりの人を殺していたが、それは白髪まじりの年寄りや商人といった人たちばかりで、若々しい夫婦を二人とも自分の手で殺したことは、これまでなかった。

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彼は、今まで十人に余る人殺しをしたものの、それは半白の老人とか、商人とか、そうした階級の者ばかりで、若々しい夫婦づれを二人まで自分の手にかけたことはなかった。

彼は、深い良心の苛責(かしゃく・自分を責める気持ち)にとらわれながら、家へ帰ってきた。

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彼は、深い良心の苛責かしゃくにとらわれながら、帰ってきた。

そして家に入ると、すぐさま、男女の着物とお金とを、けがらわしいもののようにお弓のほうへ投げてよこした。

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そして家に入ると、すぐさま、男女の衣装と金とを、汚らわしいもののように、お弓の方へ投げやった。

女は、落ち着き払って、まずお金のほうを調べてみた。

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女は、悠然としてまず金の方を調べてみた。

お金は思ったより少なく、二十両をわずかに超えているだけであった。

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金は思ったより少なく、二十両をわずかに越しているばかりであった。

お弓は、殺された女の着物を手に取ると、「まあ、黄八丈(きはちじょう・黄色い縞模様の高級な絹織物)の着物に、紋縮緬(もんちりめん・柄のあるちりめん織り)の襦袢(じゅばん・着物の下に着る肌着)だね。だけどお前さん、この女の髪飾りは、どうしたんだい」

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お弓は殺された女の着物を手に取ると、「まあ、黄八丈の着物に紋縮緬もんちりめんの襦袢だね。だが、お前さん、この女の頭のものは、どうおしだい」

と、彼女は問いつめるように、市九郎を振り返った。

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と、彼女は詰問するように、市九郎をかえりみた。

「髪飾り!」

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「頭のもの!」

と、市九郎は、なかば聞き返すように口にした。

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と、市九郎は半ば返事をした。

「そうだよ。髪飾りだよ。黄八丈に紋縮緬という着付けなら、髪飾りだって、まがい物の櫛(くし)やこうがいのはずがないじゃないか。わたしは、さっきあの女が菅笠を取ったとき、ちらっと見ておいたのさ。瑇瑁(たいまい・高級なうみがめの甲羅で作った飾り)のそろいに間違いなかったよ」

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「そうだよ。頭のものだよ。黄八丈に紋縮緬の着付じゃ、頭のものだって、擬物まがいものくしこうがいじゃあるまいじゃないか。わたしは、さっきあの女が菅笠を取った時に、ちらと睨んでおいたのさ。瑇瑁たいまいの揃いに相違なかったよ」

と、お弓はのしかかるように言った。

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と、お弓はのしかかるようにいった。

殺した女の髪飾りのことなど、まったく思いつきもしなかった市九郎は、なんとも答えようがなかった。

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殺した女の頭のもののことなどは、夢にも思っていなかった市九郎は、なんとも答えるすべがなかった。

「お前さん! まさか、取るのを忘れたんじゃないだろうね。瑇瑁ならば、七両や八両は確実だよ。駆け出しの泥棒じゃあるまいし、なんのために人殺しをしているんだい。あれだけの着物を着た女を殺しておきながら、髪飾りに気がつかないなんて、お前はいつから泥棒稼業をしているんだえ。なんというへまをする泥棒だろう。なんとか言ってごらん!」

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「お前さん! まさか、取るのを忘れたのじゃあるまいね。瑇瑁だとすれば、七両や八両は確かだよ。駆け出しの泥棒じゃあるまいし、なんのために殺生をするのだよ。あれだけの衣装を着た女を、殺しておきながら、頭のものに気がつかないとは、お前は、いつから泥棒稼業におなりなのだえ。なんというどじをやる泥棒だろう。なんとか、いってごらん!」

と、お弓は、いばりちらすように、市九郎に食ってかかってきた。

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と、お弓は、威たけ高になって、市九郎に食ってかかってきた。

二人の若い男女を殺してしまった後悔に、心の底まで蝕(むしば)まれかけていた市九郎は、お弓の言葉によって深く傷つけられた。

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二人の若い男女を殺してしまった悔いに、心の底までおかされかけていた市九郎は、女の言葉から深く傷つけられた。

彼は、髪飾りを取り忘れたという泥棒としての失敗、あるいは無能さを、悔いる気持ちなど少しもなかった。

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彼は頭のものを取ることを、忘れたという盗賊としての失策を、或いは無能を、悔ゆる心は少しもなかった。

自分は、二人を殺したことを悪いことだと思えばこそ、殺すことに心を奪われて、女が頭に十両近くもする飾りを付けていることを、すっかり忘れていたのだ。

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自分は、二人を殺したことを、悪いことと思えばこそ、殺すことに気も転動して、女がその頭に十両にも近い装飾を付けていることをまったく忘れていた。

市九郎は、今になっても、忘れていたことを後悔する気持ちは起こらなかった。

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市九郎は、今でも忘れていたことを後悔する心は起らなかった。

強盗にまで身を落とし、お金のために人を殺しているとはいえ、鬼のように相手の骨までしゃぶるようなことはしなかったのだと考えると、市九郎は悪い気持ちにはならなかった。

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強盗に身を落して、利欲のために人を殺しているものの、悪鬼のように相手の骨まではしゃぶらなかったことを考えると、市九郎は悪い気持はしなかった。

それなのに、お弓は、自分と同じ女が無残にも殺され、その身につけていた肌着までが、殺した者への貢ぎ物として自分の目の前にさらされているのを見ながら、なおも満足しない欲深い心が、さすがに悪人の市九郎の目にも留まらなかった髪飾りにまで及んでいる——そう考えると、市九郎はお弓に対して、たまらないほどの浅ましさを感じた。

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それにもかかわらず、お弓は自分の同性が無残にも殺されて、その身に付けた下衣したぎまでが、殺戮者さつりくしゃに対する貢物として、自分の目の前にさらされているのを見ながら、なおその飽き足らない欲心は、さすが悪人の市九郎の目をこぼれた頭のものにまで及んでいる、そう考えると、市九郎はお弓に対して、いたたまらないような浅ましさを感じた。

お弓は、市九郎の心にこうした大きな変化が起きていることをまったく知らずに、

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お弓は、市九郎の心に、こうした激変が起っているのをまったく知らないで、

「さあ! お前さん! ひとっ走り行ってきておくれ。せっかくこっちの手に入るものを、遠慮することはないじゃないか」

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「さあ! お前さん! 一走り行っておくれ。せっかく、こっちの手に入っているものを遠慮するには、当らないじゃないか」

と、自分の言い分にじゅうぶんな理屈があると信じているように、勝ち誇った表情をした。

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と、自分の言い分に十分な条理があることを信ずるように、勝ち誇った表情をした。

しかし、市九郎は黙りこんだまま応じなかった。

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が、市九郎は黙々として応じなかった。

「おや! お前さんの仕事のあらを見つけたから、気にさわったと見えるね。本当に、お前さんは行く気はないのかい。十両近いもうけものを、みすみすふいにしてしまうつもりかい」

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「おや! お前さんの仕事のあらを拾ったので、お気に触ったと見えるね。本当に、お前さんは行く気はないのかい。十両に近いもうけものを、みすみすふいにしてしまうつもりかい」

と、お弓は何度も市九郎に迫った。

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と、お弓は幾度も市九郎に迫った。

いつもは、お弓の言うことを、逆らわずに聞いていた市九郎ではあったが、今の彼の心は激しく揺れ動いていて、お弓の言葉など耳に入らないほど考えこんでいたのである。

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いつもは、お弓のいうことを、唯々いいとしてきく市九郎ではあったが、今彼の心は激しい動乱の中にあって、お弓の言葉などは耳に入らないほど、考え込んでいたのである。

「いくら言っても、行かないんだね。それなら、わたしがひとっ走り行ってこようよ。場所はどこなの。やっぱりいつものところかい」

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「いくらいっても、行かないのだね。それじゃ、私が一走り行ってこようよ。場所はどこなの。やっぱりいつものところなのかい」

と、お弓が言った。

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と、お弓がいった。

お弓に対して、おさえきれない嫌悪を感じ始めていた市九郎は、お弓がほんの少しの間でも自分のそばからいなくなることを、むしろ喜んだ。

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お弓に対して、抑えがたい嫌悪を感じ始めていた市九郎は、お弓が一刻でも自分のそばにいなくなることを、むしろよろこんだ。

「知れたことよ。いつものとおり、藪原の宿の手前の松並木さ」

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「知れたことよ。いつもの通り、藪原の宿の手前の松並木さ」

と、市九郎は吐き捨てるように言った。

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と、市九郎は吐き出すようにいった。

「じゃ、ひとっ走り行ってくるから。ちょうど月夜で外は明るいし……。ほんとうに、へまな仕事をするったら、ありゃしないね」

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「じゃ、一走り行ってくるから。幸い月の夜でそとは明るいし……。ほんとうに、へまな仕事をするったら、ありゃしない」

と言いながら、お弓は着物のすそをたくし上げ、草履をつっかけると駆け出した。

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と、いいながら、お弓は裾をはしょって、草履をつっかけると駆け出した。

市九郎は、お弓の後ろ姿を見ていると、浅ましさで心がいっぱいになってきた。

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市九郎は、お弓の後姿を見ていると、浅ましさで、心がいっぱいになってきた。

死んだ人の髪飾りをはぎ取るために、目の色を変えて駆け出していく女の姿を見ると、市九郎は、かつてその女に愛情を持っていただけに、心の底から浅ましく思わずにはいられなかった。

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死人の髪のものを剥ぐために、血眼になって駆け出していく女の姿を見ると、市九郎はその女に、かつて愛情を持っていただけに、心の底から浅ましく思わずにはいられなかった。

その上、自分が悪事をしているときは、たとえ無残に人を殺しているときでも、お金を盗んでいるときでも、「自分がしていることだから」というのが、いつも不思議な言い訳になって、その浅ましさを感じることは少なかった。しかし、いったん他人が悪事をしているのを、そばで静かに見ていると、その恐ろしさ、浅ましさが、はっきりと市九郎の目に映って見えるのであった。

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その上、自分が悪事をしている時、たとい無残にも人を殺している時でも、金を盗んでいる時でも、自分がしているということが、常に不思議な言い訳になって、その浅ましさを感ずることが少なかったが、一旦人が悪事をなしているのを、静かに傍観するとなると、その恐ろしさ、浅ましさが、あくまで明らかに、市九郎の目に映らずにはいなかった。

自分が命がけで手に入れた女が、たった五両か十両の瑇瑁(たいまい)のために、女らしい優しさをすべて捨てて、死骸に群がる狼のように、殺された女の死骸を追いかけて駆けていくのを見ると、市九郎は、もうこの罪深いすみかに、この女と一緒に、一刻もいることができなくなった。

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自分が、命を賭してまで得た女が、わずか五両か十両の瑇瑁たいまいのために、女性の優しさのすべてを捨てて、死骸に付く狼のように、殺された女の死骸を慕うて駆けて行くのを見ると、市九郎は、もうこの罪悪の棲家すみかに、この女と一緒に一刻もいたたまれなくなった。

そう考え始めると、自分がこれまで犯した悪事が、次々によみがえって、彼の心を切り裂いた。

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そう考え出すと、自分の今までに犯した悪事がいちいちよみがえって自分の心を食い割いた。

絞め殺した女の瞳や、血まみれになった繭商人(まゆしょうにん・蚕の繭を売買する商人)のうめき声や、一太刀を浴びせた白髪の老人の悲鳴などが、いっせいに市九郎の良心に襲いかかってきた。

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絞め殺した女の瞳や、血みどろになった繭商人まゆしょうにんの呻き声や、一太刀浴せかけた白髪の老人の悲鳴などが、一団になって市九郎の良心を襲うてきた。

彼は、一刻も早く、自分の過去から逃れたかった。

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彼は、一刻も早く自分の過去から逃れたかった。

彼は、自分自身からさえも、逃れたいと思った。

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彼は、自分自身からさえも、逃れたかった。

ましてや、自分のすべての罪の始まりであった女からは、なんとしても逃れたかった。

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まして自分のすべての罪悪の萌芽であった女から、極力逃れたかった。

彼は、きっぱりと立ち上がった。

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彼は、決然として立ち上った。

彼は、二、三枚の着物を風呂敷に包んだ。

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彼は、二、三枚の衣類を風呂敷に包んだ。

さっき殺した男から奪った胴巻き(どうまき・お金を入れて腰に巻く帯)を、当面の旅費として懐に入れたまま、支度もろくにせずに外へ飛び出した。

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さっきの男から盗った胴巻を、当座の路用として懐ろに入れたままで、支度も整えずに、戸外に飛び出した。

しかし、十間(けん・一間は約一・八メートル)ほど走り出したとき、ふと自分が持っているお金も着物も、すべて盗んだものであることに気づくと、はね返されたように引き返し、自分の家の上がりかまち(玄関の段差)に、着物とお金を力いっぱい投げつけた。

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が、十間ばかり走り出した時、ふと自分の持っている金も、衣類も、ことごとく盗んだものであるのに気がつくと、跳ね返されたように立ち戻って、自分の家の上りがまちへ、衣類と金とを、力一杯投げつけた。

彼は、お弓に会わないように、道でない道を、木曽川に沿ってまっしぐらに走った。

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彼は、お弓に会わないように、道でない道を木曾川に添うて一散に走った。

どこへ行くというあてもなかった。

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どこへ行くという当てもなかった。

ただ、自分の罪深い暮らしの場所から、少しでも、ほんの少しでも遠いところへ逃げたかった。

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ただ自分の罪悪の根拠地から、一寸でも、一分でも遠いところへ逃れたかった。

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二十里(り・約八十キロ)あまりの道を、市九郎は、山も野原もかまわずただひたすら走り続け、次の日の昼過ぎに、美濃の国(今の岐阜県)の大垣の近くにある浄願寺(じょうがんじ)に駆けこんだ。

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二十里に余る道を、市九郎は、山野の別なく唯一息に馳せて、明くる日の昼下り、美濃国の大垣在の浄願寺じょうがんじに駆け込んだ。

彼は、最初からこの寺を目指してきたわけではなかった。

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彼は、最初からこの寺を志してきたのではない。

逃げる途中、たまたまこの寺の前に出たとき、乱れきった懺悔(ざんげ・自分の悪い行いを悔い、心から詫びること)の気持ちから、ふと宗教の光にすがってみたいという気になったのである。

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彼の遁走の中途、偶然この寺の前に出た時、彼の惑乱した懺悔の心は、ふと宗教的な光明にすがってみたいという気になったのである。

浄願寺は、美濃一帯の真言宗(しんごんしゅう・仏教の宗派の一つ)の寺々をまとめる、格の高い寺であった。

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浄願寺は、美濃一円真言宗の僧録であった。

市九郎は、この寺の住職である明遍(みょうへん)という徳の高い僧の袖にすがって、心から懺悔をした。

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市九郎は、現往明遍大徳衲げんおうみょうへんだいとくのうの袖に縋って、懺悔のまことをいたした。

上人(しょうにん・徳の高い僧への敬称)は、さすがにこの重い罪を犯した者をも見捨てはしなかった。

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上人しょうにんはさすがに、この極重悪人をも捨てなかった。

市九郎が、役人のもとへ自首しようかと言うのを止めて、

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市九郎が有司ゆうしの下に自首しようかというのを止めて、

「これほど重ねて悪事を重ねたおまえだから、役人の手にかかって首をさらされ、この世で報いを受けるのも一つのやり方じゃ。しかし、それでは死んだあとも、いつまでも焦熱地獄(しょうねつじごく・仏教で言う恐ろしい地獄の一つ)の苦しみを受け続けなければならぬぞ。それよりも、仏の道に帰依(きえ・信じてすがること)し、すべての人々を救うために、命を投げ出して人を助けながら、おまえ自身を救うことこそが大切なのじゃ」

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「重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手によって身を梟木きょうぼくに晒され、現在の報いを自ら受くるのも一法じゃが、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱くげんを受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依きえし、衆生済度しゅじょうさいどのために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」

と、教え導いた。

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と、教化した。

市九郎は、上人の言葉を聞いて、懺悔の思いをいっそう激しく燃え上がらせ、その場で出家(しゅっけ・僧になって仏の道に入ること)の決意を固めた。

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市九郎は、上人の言葉をきいて、またさらに懺悔の火に心をただらせて、当座に出家の志を定めた。

彼は、上人の手によって得度(とくど・出家して僧になること)し、了海(りょうかい)という僧としての名前をもらい、ひたすら仏道の修行に打ちこんだ。仏を求める心があまりに強かったため、わずか半年もたたない修行で、その行いは氷や霜よりも清らかになり、朝には決まった修行にはげみ、夕べには念仏をとなえる座を離れず、修行と学びの両方に励んで、迷いのない澄んだ心が芽生え、見事な高僧になりきっていた。

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彼は、上人の手によって得度とくどして、了海りょうかいと法名を呼ばれ、ひたすら仏道修行に肝胆を砕いたが、道心勇猛のために、わずか半年に足らぬ修行に、行業ぎょうごう氷霜ひょうそうよりもきよく、朝には三密の行法を凝らし、夕には秘密念仏の安座を離れず、二行彬々ぎょうひんぴんとして豁然智度かつぜんちどの心萌し、天晴れの知識となりすました。

彼は、自分の仏の道を求める心がしっかりと定まり、もう揺らがないことを自覚すると、師の僧の許しを得て、多くの人々を救うという大きな願いを立て、諸国をめぐる修行の旅に出たのであった。

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彼は自分の道心が定まって、もう動かないのを自覚すると、師の坊の許しを得て、諸人救済の大願を起し、諸国雲水の旅に出たのであった。

美濃の国をあとにして、まず京都の地を目指した。

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美濃の国を後にして、まず京洛の地を志した。

彼は、何人もの人を殺しておきながら、たとえ僧の姿になったとはいえ、自分が生き永らえていることが心苦しかった。

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彼は、幾人もの人を殺しながら、たとい僧形の姿なりとも、自分が生き永らえているのが心苦しかった。

多くの人々のために、身を粉々に砕くほど働いて、自分の犯した罪の万分の一でも償いたいと思っていた。

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諸人のため、身を粉々に砕いて、自分の罪障の万分の一をも償いたいと思っていた。

特に、自分が木曽の山の中で旅人たちを苦しめたことを思うと、道を行く人々に対して、償いきれない負い目を持っているように思われた。

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ことに自分が、木曾山中にあって、行人をなやませたことを思うと、道中の人々に対して、償い切れぬ負担を持っているように思われた。

立っているときも座っているときも、常に人のためを思わない時はなかった。

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行住座臥にも、人のためを思わぬことはなかった。

道で困っている人を見ると、彼は手を引き、腰を押して、その旅を助けた。

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道路に難渋の人を見ると、彼は、手を引き、腰を押して、その道中を助けた。

病気で苦しむ老人や子どもを背負って、何里もの道のりを遠いとも思わなかったこともあった。

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病に苦しむ老幼を負うて、数里に余る道を遠しとしなかったこともあった。

本街道からはずれた村の道の橋でも、こわれているときは、自分で山に入り、木を切り、石を運んで修理した。

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本街道を離れた村道の橋でも、破壊されている時は、彼は自ら山に入って、木を切り、石を運んで修繕した。

道が崩れているのを見れば、土や砂を運んできて直した。

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道の崩れたのを見れば、土砂を運び来って繕うた。

こうして、畿内(きない・京都・大阪あたり)から中国地方を通り、ひたすら善い行い(善根・ぜんこん)を積むことに心を砕いたが、自分の背負う罪は空よりも高く、積んだ善い行いは地面よりも低いと思うと、彼はあらためて、自分の半生の悪事の深さを悲しんだ。

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かくして、畿内から、中国を通して、ひたすら善根を積むことに腐心したが、身に重なれる罪は、空よりも高く、積む善根は土地よりも低きを思うと、彼は今更に、半生の悪業の深きを悲しんだ。

市九郎は、こうしたわずかな善い行いでは、自分の犯した重い悪事を償いきれないことを知り、心を暗くした。

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市九郎は、些細ささいな善根によって、自分の極悪が償いきれぬことを知って、心を暗うした。

旅先の宿での寝覚めに、こんなにも頼りない償いしかできないまま、それでも生きながらえていることが、ひどく情けなく思われて、自分で自分の命を絶ちたいと思ったことさえあった。

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逆旅げきりょの寝覚めにはかかる頼母たのもしからぬ報償をしながら、なお生を貪っていることが、はなはだ腑甲斐ないように思われて、自ら殺したいと思ったことさえあった。

しかし、そのたびに、決してひるまない強い心を奮い立たせ、多くの人々を救う大きな仕事をなしとげる機会がめぐってくるようにと祈った。

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が、そのたびごとに、不退転の勇を翻し、諸人救済の大業をなすべき機縁のいたらんことを祈念した。

享保(きょうほう)九年の秋のことであった。

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享保きょうほう九年の秋であった。

彼は、赤間ヶ関(あかまがせき・今の下関)から小倉へ渡り、豊前の国(今の福岡県東部・大分県北部)の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)にお参りし、山国川(やまくにがわ)をさかのぼって耆闍崛山羅漢寺(きしゃくつせんらかんじ)にお参りしようと、四日市から南へ赤土の広々とした野原を過ぎ、山国川の谷に沿って道をたどっていった。

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彼は、赤間ヶ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川やまくにがわをさかのぼって耆闍崛山羅漢寺きしゃくつせんらかんじに詣でんものと、四日市から南に赤土の茫々たる野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に添うて、辿った。

筑紫(つくし・九州北部)の秋は、宿場で泊まるたびに深まっていき、雑木の森では櫨(はぜ)の葉が赤く色づき、野原では稲が黄色く実り、農家の軒先には、この辺りの名物である柿が、真っ赤な玉のように連なっていた。

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筑紫の秋は、駅路の宿とまりごとに更けて、雑木の森にははじ赤くただれ、野には稲黄色く稔り、農家の軒には、この辺の名物の柿が真紅の珠を連ねていた。

それは八月に入って間もない、ある日のことであった。

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それは八月に入って間もないある日であった。

彼は、秋の朝の光に輝く、山国川の清らかな流れを右に見ながら、三口(みくち)から仏坂(ほとけざか)の山道を越え、昼近くに樋田(ひだ)の宿場に着いた。

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彼は秋の朝の光の輝く、山国川の清冽せいれつな流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近き頃樋田ひだの駅に着いた。

人気のない宿場で昼の食事(斎・とき、僧が食べる食事)をいただいたあと、再び山国谷(やまくにだに)に沿って南へ向かった。

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淋しい駅で昼食のときにありついた後、再び山国谷やまくにだにに添うて南を指した。

樋田の宿場を出はずれると、道はまた山国川に沿い、火山岩の続く川岸を伝って続いていた。

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樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて、火山岩の河岸を伝うて走っていた。

歩きにくい石だらけの道を、市九郎が杖を頼りにたどっていたとき、ふと道のそばで、この辺りの農民らしい四、五人の人々が、口々に騒ぎ立てているのを見た。

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歩みがたい石高道を、市九郎は、杖を頼りに辿っていた時、ふと道のそばに、この辺の農夫であろう、四、五人の人々が罵り騒いでいるのを見た。

市九郎が近づくと、その中の一人が、いち早く市九郎の姿を見つけて、

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市九郎が近づくと、その中の一人は、早くも市九郎の姿を見つけて、

「これは、ちょうどよいところへ来られた。思いがけない死に方をした、哀れな死人がおります。通りかかったのも何かの縁、一度、回向(えこう・死んだ人のために経を読んで冥福を祈ること)をしてくだされ」

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「これは、よいところへ来られた。非業の死を遂げた、哀れな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向えこうをして下され」

と言った。

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と、いった。

思いがけない死に方だと聞いたとき、盗賊に殺された旅人の死骸ではないかと思い、市九郎は過去の悪事を思い起こして、とっさにわき上がる後悔の気持ちに、両脚がすくむのを感じた。

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非業の死だときいた時、剽賊ひょうぞくのためにあやめられた旅人の死骸ではあるまいかと思うて、市九郎は過去の悪業を思い起して、刹那に湧く悔恨の心に、両脚のすくむのをおぼえた。

「見れば水死した人のようだが、ところどころ皮膚や肉が破れているのは、いったいどういうわけじゃ」

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「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのは、いかがした子細じゃ」

と、市九郎はおそるおそる尋ねた。

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と、市九郎は、恐る恐るきいた。

「お坊様は、旅のお方と見えてご存じないでしょうが、この川を半町(はんちょう・約五十五メートル)ほど上ったところに、鎖渡し(くさりわたし)という難所があります。山国谷でいちばんの危険な場所で、南北を行き来する人も馬も、みなここで難儀するのですが、この男はこの川上の柿坂郷に住んでいる馬子(まご・馬を引いて荷物や人を運ぶ仕事の人)でしてな、今朝、鎖渡しの途中で馬が暴れたため、五丈(じょう・一丈は約三メートル)近くの高さから真っ逆さまに落ちて、ご覧のとおりの無残な最期をとげたのです」

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「御出家は、旅の人と見えてご存じあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡しという難所がある。山国谷第一の切所きりしょで、南北往来の人馬が、ことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上柿坂郷に住んでいる馬子まごじゃが、今朝鎖渡しの中途で、馬が狂うたため、五丈に近いところを真っ逆様に落ちて、見られる通りの無残な最期じゃ」

と、その中の一人が言った。

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と、その中の一人がいった。

「鎖渡しといえば、かねがね難所だとは聞いていたが、このような悲しいことは、たびたび起こるのか」

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「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」

と、市九郎は、死骸を見つめながら、しんみりと尋ねた。

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と、市九郎は、死骸を見守りながら、打ちしめってきいた。

「一年に三、四人、多いときは十人も、思いがけない災難にあうことがあります。またとない難所なので、風や雨で桟道(さんどう・崖に沿ってかけ渡した細い道)が朽ちても、修理も思うようにはいかないのです」

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「一年に三、四人、多ければ十人も、思わぬ憂き目を見ることがある。無双の難所ゆえに、風雨にかけはしが朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」

と答えながら、百姓たちは死骸の始末にとりかかっていた。

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と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。

市九郎は、この不幸な死者のために経を一度読むと、足を速めてその鎖渡しへと急いだ。

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市九郎は、この不幸な遭難者に一遍の経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。

そこまでは、もう一町(ちょう・約百九メートル)もなかった。

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そこまでは、もう一町もなかった。

見ると、川の左にそびえる、荒く削られたような山が、山国川に面したところで、十丈(じょう・約三十メートル)近い絶壁として切り立ち、灰白色のぎざぎざとした、ひだの多い岩肌をむき出しにしていた。

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見ると、川の左にそびえる荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざしたひだの多い肌を露出しているのであった。

山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられるように、ここに集まってきて、絶壁の裾を洗いながら、濃い緑色をたたえて渦を巻いていた。

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山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾を洗いながら、濃緑の色を湛えて、渦巻いている。

村人たちが鎖渡しと言っていたのは、これのことだろうと彼は思った。

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里人らが、鎖渡しといったのはこれだろうと、彼は思った。

道はその絶壁でとぎれ、絶壁の中ほどを、松や杉の丸太を鎖でつなぎ合わせた桟道が、危なっかしく続いていた。

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道は、その絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道が、危げに伝っている。

か弱い女性や子どもでなくても、下を向いて五丈あまり下の水面を見、上を向いて頭にのしかかるような十丈近い絶壁を見るときは、肝をつぶし、心が震えるのももっともなことであった。

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かよわい婦女子でなくとも、俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心おののくもことわりであった。

市九郎は、岩壁にすがりつきながら、震える足を踏みしめて、ようやく渡り終え、その絶壁を振り返った瞬間、彼の心にはとっさに、ある大きな誓い(誓願・せいがん)が、むくむくと芽生えた。

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市九郎は、岩壁に縋りながら、戦く足を踏み締めて、ようやく渡り終ってその絶壁を振り向いた刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然としてきざした。

これまで積んできた贖罪(しょくざい・罪をつぐなうこと)があまりにも小さかった彼は、自分の精進しようとする強い気持ちを試せるような、難しい仕事にめぐりあうことを祈っていた。

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積むべき贖罪しょくざいのあまりに小さかった彼は、自分が精進勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。

今、目の前で旅人が苦しみ、一年に十人近い命を奪うこの難所を見たとき、彼の中に、自分の命を捨ててでもこの難所をなくそうという考えが、さかんに湧き上がったのも無理はなかった。

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今目前に行人が艱難し、一年に十に近い人の命を奪う難所を見た時、彼は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然として起ったのも無理ではなかった。

二百間(けん・一間は約一・八メートル)あまりのこの絶壁を、掘り貫いて道を通そうという、大胆な誓いが、彼の心に浮かんできたのである。

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二百余間に余る絶壁を掘貫ほりつらぬいて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのである。

市九郎は、自分が探し求めながら歩いてきたものが、ようやくここで見つかったと思った。

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市九郎は、自分が求め歩いたものが、ようやくここで見つかったと思った。

一年に十人を救えば、十年で百人、百年、千年とたつうちには、何千万もの人の命を救うことができると考えたのである。

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一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。

こう決心すると、彼は、ひたすらそれを実行に移し始めた。

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こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。

その日から、羅漢寺の宿坊(しゅくぼう・寺の宿泊施設)に泊まりながら、山国川に沿った村々を回って人々に説き、トンネルを掘るという大事業への寄付を求めた。

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その日から、羅漢寺の宿坊に宿とまりながら、山国川に添うた村々を勧化かんげして、隧道開鑿ずいどうかいさくの大業の寄進を求めた。

しかし、だれ一人として、このふらりとやってきた僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。

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が、何人なんびともこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。

「三町(ちょう・一町は約百九メートル)を超える大岩を掘り貫こうという、気の狂った男じゃ、はははは」

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「三町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人ふうきょうじんじゃ、はははは」

と、笑う者は、まだましなほうだった。

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と、わらうものは、まだよかった。

「大うそつきじゃ。針の穴から天をのぞくような、とんでもないことを口実にして、お金を集めようとする、大うそつきじゃ」

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大騙おおかたりじゃ。針のみぞから天を覗くようなことを言い前にして、金を集めようという、大騙りじゃ」

と、中には市九郎の説得に、いじめを加える者さえいた。

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と、中には市九郎の勧説かんぜいに、迫害を加うる者さえあった。

市九郎は、十日の間、むだな寄付集めに努めたが、だれも耳を貸さないことがわかると、勇気を奮い立たせ、自分一人の力でこの大事業に取り組む決心をした。

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市九郎は、十日の間、徒らな勧進に努めたが、何人なんびともが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力、この大業に当ることを決心した。

彼は、石工が使う槌(つち)とのみを手に入れて、この大きな絶壁の端に立った。

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彼は、石工の持つ槌とのみとを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。

それは、一つの風刺画(ふうしが・こっけいに大げさに描いた絵)のような光景であった。

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それは、一個のカリカチュアであった。

削り落としやすい火山岩とはいえ、川に迫るようにそびえ立ち、長々と続く大絶壁を、市九郎はたった一人の力で掘り貫こうとしているのであった。

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削り落しやすい火山岩であるとはいえ、川を圧して聳え立つ蜿蜒えんえんたる大絶壁を、市九郎は、己一人の力で掘貫こうとするのであった。

「とうとう気が狂った!」

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「とうとう気が狂った!」

と、道行く人々は、市九郎の姿を指さして笑った。

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と、行人は、市九郎の姿を指しながら嗤った。

しかし、市九郎はくじけなかった。

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が、市九郎は屈しなかった。

山国川の清らかな流れで身を清め、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に祈りながら、全身の力をこめて、最初の一打ちをふるった。

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山国川の清流に沐浴して、観世音菩薩を祈りながら、渾身の力を籠めて第一の槌を下した。

それに応じて、わずか二、三個の小さなかけらが、飛び散っただけであった。

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それに応じて、ただ二、三ひらの砕片が、飛び散ったばかりであった。

しかし、再び力をこめて、二打ち目をふるった。

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が、再び力を籠めて第二の槌を下した。

さらに二、三個の小さなかたまりが、巨大で果てしないほどの岩の塊から、はがれ落ちるだけであった。

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更に二、三片の小塊が、巨大なる無限大の大塊から、分離したばかりであった。

三打ち目、四打ち目、五打ち目と、市九郎は懸命に槌をふるい続けた。

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第三、第四、第五と、市九郎は懸命に槌を下した。

空腹を感じれば、近くの村々を托鉢(たくはつ・僧が家々を回ってお金や食べ物をもらうこと)し、腹が満ちれば絶壁に向かって槌をふるった。

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空腹を感ずれば、近郷を托鉢し、腹満つれば絶壁に向って槌を下した。

怠け心(懈怠・けたい)が起これば、ただ真言(しんごん・仏教の呪文のような言葉)を唱えて、強く勇ましい心を奮い立たせた。

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懈怠けたいの心を生ずれば、只真言を唱えて、勇猛の心を振い起した。

一日、二日、三日と、市九郎の努力は絶え間なく続いた。

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一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なく続いた。

旅人たちは、そのそばを通るたびに、あざけり笑う声を浴びせた。

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旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑の声を送った。

しかし、市九郎の心は、そのために少しもくじけることはなかった。

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が、市九郎の心は、そのために須臾しゅゆたゆむことはなかった。

あざけり笑う声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力をこめた。

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嗤笑ししょうの声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力を籠めた。

やがて、市九郎は、雨や露をしのぐために、絶壁の近くに木の小屋を建てた。

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やがて、市九郎は、雨露をしのぐために、絶壁に近く木小屋を立てた。

朝は、山国川の流れが星の光を映すころから起き出し、夕方は、川の瀬の音が静かな天地に澄みわたるころまで、槌を打つ手を止めなかった。

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朝は、山国川の流れが星の光を写す頃から起き出て、夕は瀬鳴せなりの音が静寂の天地に澄みかえる頃までも、止めなかった。

しかし、道を行く人々は、なおもあざけり笑う言葉をやめなかった。

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が、行路の人々は、なお嗤笑の言葉を止めなかった。

「身のほど知らずの、ばか者じゃ」

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「身のほどを知らぬたわけじゃ」

と言って、市九郎の努力をまったく相手にしなかった。

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と、市九郎の努力を眼中におかなかった。

しかし、市九郎は一心不乱に槌をふるい続けた。

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が、市九郎は一心不乱に槌を振った。

槌をふるってさえいれば、彼の心には何の雑念も起こらなかった。

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槌を振っていさえすれば、彼の心には何の雑念も起らなかった。

人を殺した後悔も、そこにはなかった。

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人を殺した悔恨も、そこには無かった。

極楽に生まれ変わりたいという願い(欣求・ごんぐ)も、そこにはなかった。

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極楽に生れようという、欣求ごんぐもなかった。

ただそこには、晴れ晴れとした、ひたすら励む心があるだけであった。

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ただそこに、晴々した精進の心があるばかりであった。

彼は、出家して以来、夜ごとの寝覚めに自分を苦しめていた悪事の記憶が、日ごとに薄らいでいくのを感じた。

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彼は出家して以来、夜ごとの寝覚めに、身を苦しめた自分の悪業の記憶が、日に薄らいでいくのを感じた。

彼はますます勇ましい心を奮い立たせ、ひたすら槌をふるうことに専念した。

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彼はますます勇猛の心を振い起して、ひたすら専念に槌を振った。

新しい年が来た。

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新しい年が来た。

春が来て、夏が来て、早くも一年がたった。

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春が来て、夏が来て、早くも一年が経った。

市九郎の努力は、むだではなかった。

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市九郎の努力は、空しくはなかった。

大きな絶壁のはしに、深さ一丈(じょう・約三メートル)近い穴が掘られていた。

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大絶壁の一端に、深さ一丈に近い洞窟が穿うがたれていた。

それは、ほんの小さな穴ではあったが、市九郎の強い意志が、最初の爪あとをはっきりと残していた。

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それは、ほんの小さい洞窟ではあったが、市九郎の強い意志は、最初の爪痕そうこんを明らかに止めていた。

しかし、近くの村の人々は、またも市九郎を笑った。

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が、近郷の人々はまた市九郎を嗤った。

「あれを見なされ! 気の狂った坊主が、あれだけしか掘れなんだ。一年の間もがいて、たったあれだけじゃ……」

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「あれ見られい! 狂人坊主が、あれだけ掘りおった。一年の間、もがいて、たったあれだけじゃ……」

と、笑った。

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と、嗤った。

しかし、市九郎は自分の掘った穴を見ると、涙が出るほどうれしかった。

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が、市九郎は自分の掘り穿った穴を見ると、涙の出るほど嬉しかった。

それがどんなに浅くても、自分が努力した力がありのままに現れたものに、間違いなかった。

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それはいかに浅くとも、自分が精進の力の如実にょじつに現れているものに、相違なかった。

市九郎は、一年また一年と重ねて、さらに気力を奮い立たせた。

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市九郎は年を重ねて、また更に振い立った。

夜はまったくの闇の中、昼もなお薄暗い穴の中に座りこんで、ただ右の腕だけを、狂ったように振り続けていた。

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夜は如法にょほうの闇に、昼もなお薄暗い洞窟のうちに端座して、ただ右の腕のみを、狂気のごとくに振っていた。

市九郎にとって、右の腕を振ることだけが、彼の信仰生活のすべてになってしまった。

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市九郎にとって、右の腕を振ることのみが、彼の宗教的生活のすべてになってしまった。

穴の外では、日が輝き、月が照り、雨が降り、嵐が荒れた。

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洞窟の外には、日が輝き月が照り、雨が降り嵐がすさんだ。

しかし、穴の中には、絶え間ない槌の音だけがあった。

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が、洞窟の中には、間断なき槌の音のみがあった。

二年目の終わりになっても、村人たちはまだあざけり笑うのをやめなかった。

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二年の終わりにも、里人はなお嗤笑を止めなかった。

しかし、それはもう、声には出さなくなっていた。

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が、それはもう、声にまでは出てこなかった。

ただ、市九郎の姿を見たあと、互いに顔を見合わせて、笑い合うだけであった。

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ただ、市九郎の姿を見た後、顔を見合せて、互いに嗤い合うだけであった。

しかし、さらに一年がたった。

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が、更に一年経った。

市九郎の槌の音は、山国川の水音と同じように、絶え間なく響いていた。

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市九郎の槌の音は山国川の水声と同じく、不断に響いていた。

村の人たちは、もう何も言わなくなった。

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村の人たちは、もうなんともいわなかった。

彼らのあざけり笑う表情は、いつのまにか、驚きの表情に変わっていた。

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彼らが嗤笑の表情は、いつの間にか驚異のそれに変っていた。

市九郎は髪をとかさないため、髪はいつのまにか伸びて両肩をおおい、体も洗わないため、垢だらけで、人間とも見えないほどであった。

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市九郎はくしけずらざれば、頭髪はいつの間にか伸びて双肩を覆い、ゆあみせざれば、垢づきて人間とも見えなかった。

しかし彼は、自分が掘った穴の中で、獣のようにうごめきながら、狂ったように槌を振り続けていたのである。

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が、彼は自分が掘り穿った洞窟のうちに、獣のごとくうごめきながら、狂気のごとくその槌を振いつづけていたのである。

村人たちの驚きは、いつのまにか同情に変わっていた。

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里人の驚異は、いつの間にか同情に変っていた。

市九郎が、少しの暇を盗むようにして托鉢に出かけようとすると、穴の出口に、思いがけず食事の入った椀が一つ置かれていることが多くなった。

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市九郎がしばしの暇をぬすんで、托鉢の行脚に出かけようとすると、洞窟の出口に、思いがけなく一椀のときを見出すことが多くなった。

市九郎はそのおかげで、托鉢に使うはずだった時間を、さらに絶壁に向かうことに使えるようになった。

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市九郎はそのために、托鉢に費やすべき時間を、更に絶壁に向うことができた。

四年目の終わりがきた。

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四年目の終りが来た。

市九郎の掘った穴は、もう五丈(じょう・約十五メートル)の深さに達していた。

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市九郎の掘り穿った洞窟は、もはや五丈の深さに達していた。

しかし、その三町(ちょう・約三百三十メートル)を超える絶壁と比べれば、そこにはまだ、道のはるかさに途方に暮れる思い(亡羊の嘆・ぼうようのたん)があった。

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が、その三町を超ゆる絶壁に比ぶれば、そこになお、亡羊ぼうようの嘆があった。

村人たちは市九郎の熱心さに驚いたものの、これほど無駄に見える仕事に力を貸そうという者は、まだ一人もいなかった。

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里人は市九郎の熱心に驚いたものの、いまだ、かくばかり見えすいた徒労に合力するものは、一人もなかった。

市九郎は、ただ一人でその努力を続けなければならなかった。

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市九郎は、ただ独りその努力を続けねばならなかった。

しかし、掘る仕事にすっかり没頭していた市九郎は、ただ槌を振るうこと以外に、何の思いもなかった。

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が、もう掘り穿つ仕事において、三昧に入った市九郎は、ただ槌を振うほかは何の存念もなかった。

ただ、もぐらのように、命のある限り掘り続けていくこと以外には、何の考えもなかった。

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ただ土鼠もぐらのように、命のある限り、掘り穿っていくほかには、何の他念もなかった。

彼はただ一人、力をつくして掘り進んだ。

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彼はただ一人拮々きつきつとして掘り進んだ。

穴の外では春が去り秋が来て、四季の景色が移り変わっていったが、穴の中には、絶え間ない槌の音だけが響いていた。

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洞窟の外には春去って秋来り、四時の風物が移り変ったが、洞窟の中には不断の槌の音のみが響いた。

「かわいそうなお坊様じゃ。気が狂ったとみえて、あの大きな岩を掘り続けておる。十分の一も掘れないうちに、自分の命が終わってしまうだろうに」

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「可哀そうな坊様じゃ。ものに狂ったとみえ、あの大盤石を穿っていくわ。十の一も穿ち得ないで、おのれが命を終ろうものを」

と、道行く人々は、市九郎のむなしい努力を、悲しむようになってきた。

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と、行路の人々は、市九郎の空しい努力を、悲しみ始めた。

しかし、一年たち、二年たち、ちょうど九年目の終わりには、穴の入口から奥まで、二十二間(けん・約四十メートル)を測るまでに掘り進んでいた。

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が、一年経ち二年経ち、ちょうど九年目の終りに、穴の入口より奥まで二十二間を計るまでに、掘り穿った。

樋田郷(ひだのごう)の村人たちは、初めて市九郎の事業が実現できるかもしれないと気づいた。

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樋田郷ひだのごうの里人は、初めて市九郎の事業の可能性に気がついた。

一人のやせた乞食僧(こじきそう・物ごいをして暮らす僧)が、九年の力でここまで掘れたのなら、人手を増やして年月を重ねれば、この大絶壁を掘り貫くことも、決して不思議なことではないという考えが、村人たちの心に刻まれてきた。

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一人の痩せた乞食僧が、九年の力でこれまで掘り穿ち得るものならば、人を増し歳月を重ねたならば、この大絶壁を穿ち貫くことも、必ずしも不思議なことではないという考えが、里人らの胸の中に銘ぜられてきた。

九年前、市九郎の寄付集めをこぞって断った、山国川に沿う七つの郷の村人たちは、今度は自分から進んで、掘削(くっさく・穴やトンネルを掘ること)の寄付をするようになった。

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九年前、市九郎の勧進をこぞってしりぞけた山国川に添う七郷の里人は、今度は自発的に開鑿かいさくの寄進に付いた。

数人の石工が、市九郎の事業を助けるために雇われた。

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数人の石工が市九郎の事業を援けるために雇われた。

もう、市九郎はひとりぼっちではなかった。

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もう、市九郎は孤独ではなかった。

岩壁に打ちおろす、たくさんの槌の音が、勇ましくにぎやかに、穴の中からもれ聞こえるようになった。

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岩壁に下す多数の槌の音は、勇ましく賑やかに、洞窟の中から、もれ始めた。

しかし、翌年になって、村人たちが工事の進みぐあいを測ってみると、まだ絶壁の四分の一にも達していないことがわかり、村人たちは再びがっかりして、疑う声をもらした。

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が、翌年になって、里人たちが、工事の進み方を測った時、それがまだ絶壁の四分の一にも達していないのを発見すると、里人たちは再び落胆疑惑の声をもらした。

「人を増やしても、とても成しとげられることではない。もったいなくも、了海どのにだまされて、いらない出費をしてしまった」

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「人を増しても、とても成就はせぬことじゃ。あたら、了海どのにたぶらかされて要らぬ物入りをした」

と、彼らは、はかどらない工事に、いつのまにかすっかり飽き飽きしていた。

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と、彼らははかどらぬ工事に、いつの間にか倦ききっておった。

市九郎は、また一人取り残されなければならなかった。

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市九郎は、また独り取り残されねばならなかった。

彼は、自分のそばで槌を振るう者が、一人減り、二人減り、ついには一人もいなくなったことに気づいた。

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彼は、自分のそばに槌を振る者が、一人減り二人減り、ついには一人もいなくなったのに気がついた。

しかし、彼は決して去っていく者を追いはしなかった。

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が、彼は決して去る者を追わなかった。

ただ黙々と、自分一人でその槌を振り続けるだけであった。

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黙々として、自分一人その槌を振い続けたのみである。

村人たちの関心は、すっかり市九郎の身辺から離れてしまった。

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里人の注意は、まったく市九郎の身辺から離れてしまった。

特に、穴が深く掘られれば掘られるほど、その奥深くで槌を振るう市九郎の姿は、道行く人々の目から遠ざかっていった。

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ことに洞窟が、深く穿たれれば穿たれるほど、その奥深く槌を振う市九郎の姿は、行人の目から遠ざかっていった。

人々は、闇に閉ざされた穴の中をのぞきこみながら、

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人々は、闇のうちに閉された洞窟の中を透し見ながら、

「了海さんは、まだやっているのかなあ」

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「了海さんは、まだやっているのかなあ」

と、いぶかしんだ。

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と、疑った。

しかし、そうした関心も、しまいにはだんだん薄れてしまい、市九郎の存在は、村人たちの頭からしばしば消えかけていた。

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が、そうした注意も、しまいにはだんだん薄れてしまって、市九郎の存在は、里人の念頭からしばしば消失せんとした。

しかし、市九郎の存在が村人たちにとって関わりのないものであったのと同じように、村人たちの存在もまた、市九郎にとって関わりのないものであった。

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が、市九郎の存在が、里人に対して没交渉であるがごとく、里人の存在もまた市九郎に没交渉であった。

彼には、ただ目の前の大きな岩壁だけが存在していた。

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彼にはただ、眼前の大岩壁のみが存在するばかりであった。

しかし、市九郎は、穴の中に座りこんでから、もう十年あまりもの間、暗くて冷たい石の上に座り続けていたために、顔の色は青ざめ、両目はくぼみ、肉が落ちて骨が浮き出て、この世に生きている人間とも見えないほどであった。

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しかし、市九郎は、洞窟の中に端座してからもはや十年にも余る間、暗澹たる冷たい石の上に座り続けていたために、顔は色蒼ざめ双の目が窪んで、肉は落ち骨あらわれ、この世に生ける人とも見えなかった。

しかし、市九郎の心には、決してひるまない勇ましい心がさかんに燃えさかっていて、ただひたすら掘り進むこと以外には、何もなかった。

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が、市九郎の心には不退転の勇猛心がしきりに燃え盛って、ただ一念に穿ち進むほかは、何物もなかった。

ほんのわずかでも、岩壁が削り取られるたびに、彼は喜びの声をあげた。

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一分でも一寸でも、岸壁の削り取られるごとに、彼は歓喜の声を揚げた。

市九郎は、ただ一人取り残されたまま、さらに三年がたった。

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市九郎は、ただ一人取り残されたままに、また三年を経た。

すると、村人たちの関心は、再び市九郎の方に戻りかけていた。

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すると、里人たちの注意は、再び市九郎の上に帰りかけていた。

彼らが、ほんの好奇心から穴の深さを測ってみると、全長六十五間(けん・約百十八メートル)、川に面した岩壁には、光を取り入れる窓が一つ開けられていて、もうこの大岩壁の三分の一は、主に市九郎の細い腕によって、掘り貫かれていることがわかった。

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彼らが、ほんの好奇心から、洞窟の深さを測ってみると、全長六十五間、川に面する岩壁には、採光の窓が一つ穿たれ、もはや、この大岩壁の三分の一は、主として市九郎の瘠腕やせうでによって、貫かれていることが分かった。

彼らは、再び驚きの目を見開いた。

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彼らは、再び驚異の目を見開いた。

彼らは、これまでの自分たちの無知を恥じた。

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彼らは、過去の無知を恥じた。

市九郎に対する尊敬の心が、再び彼らの心によみがえった。

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市九郎に対する尊崇の心は、再び彼らの心に復活した。

やがて、寄付によって集まった十人近い石工の槌の音が、再び市九郎のそれと重なるようになった。

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やがて、寄進された十人に近い石工の槌の音が、再び市九郎のそれに和した。

また一年がたった。

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また一年経った。

一年の月日がたつうちに、村人たちは、いつのまにか、なかなか実を結ばない出費を、悔やみ始めていた。

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一年の月日が経つうちに、里人たちは、いつかしら目先の遠い出費を、悔い始めていた。

寄付で集まった人夫は、いつのまにか一人減り、二人減って、しまいには市九郎の槌の音だけが、穴の闇を震わせていた。

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寄進の人夫は、いつの間にか、一人減り二人減って、おしまいには、市九郎の槌の音のみが、洞窟の闇を、打ち震わしていた。

しかし、そばに人がいても、いなくても、市九郎の槌の力は変わらなかった。

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が、そばに人がいても、いなくても、市九郎の槌の力は変らなかった。

彼は、ただ機械のように、全身の力をこめて槌を振り上げ、全身の力でこれを振り下ろした。

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彼は、ただ機械のごとく、渾身の力を入れて槌を挙げ、渾身の力をもってこれを振り降ろした。

彼は、自分自身のことさえ忘れていた。

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彼は、自分の一身をさえ忘れていた。

主人を殺したことも、盗みを働いたことも、人を殺したことも、すべては彼の記憶から薄れてしまっていた。

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主を殺したことも、剽賊を働いたことも、人を殺したことも、すべては彼の記憶のほかに薄れてしまっていた。

一年たち、二年がたった。

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一年経ち、二年経った。

ひたすらな思いが動くところ、彼のやせた腕は、鉄のように屈することがなかった。

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一念の動くところ、彼の瘠せた腕は、鉄のごとく屈しなかった。

ちょうど、十八年目の終わりのことであった。

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ちょうど、十八年目の終りであった。

彼は、いつのまにか、岩壁の半分を掘り抜いていた。

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彼は、いつの間にか、岩壁の二分の一を穿っていた。

村人たちは、この恐ろしいほどの奇跡を見ると、もう市九郎の仕事を、少しも疑わなくなった。

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里人は、この恐ろしき奇跡を見ると、もはや市九郎の仕事を、少しも疑わなかった。

彼らは、これまで二度、途中で投げ出してしまった怠け心(懈怠・けたい)を心から恥じ、七つの郷の人々が心を合わせて誠意を尽くし、みなで市九郎を助け始めた。

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彼らは、前二回の懈怠けたいを心から恥じ、七郷の人々合力の誠を尽くし、こぞって市九郎を援け始めた。

その年、中津藩の郡奉行(ぐんぶぎょう・村々を治める役人)が見回りに来て、市九郎に対して、感心したというお言葉をかけた。

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その年、中津藩の郡奉行が巡視して、市九郎に対して、奇特の言葉を下した。

近くの村々から、三十人近い石工が集められた。

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近郷近在から、三十人に近い石工があつめられた。

工事は、枯れ葉を焼く火のように、勢いよく進んだ。

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工事は、枯葉を焼く火のように進んだ。

人々は、やつれ果てて痛々しい姿の市九郎に、

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人々は、衰残の姿いたいたしい市九郎に、

「もう、あなた様は石工たちのまとめ役をなさってください。ご自分で槌を振るうには及びません」

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「もはや、そなたは石工共の統領たばねをなさりませ。自ら槌を振うには及びませぬ」

と勧めたが、市九郎は頑として聞き入れなかった。

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と、勧めたが、市九郎は頑として応じなかった。

彼は、倒れるときは槌を握ったままがよいと、思っているらしかった。

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彼は、たおるれば槌を握ったままと、思っているらしかった。

彼は、三十人の石工がそばで働いているのも知らないかのように、寝食を忘れ、懸命に力を尽くすことは、少しも前と変わらなかった。

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彼は、三十の石工がそばに働くのも知らぬように、寝食を忘れ、懸命の力を尽くすこと、少しも前と変らなかった。

しかし、人々が市九郎に休息をすすめたのも、無理はなかった。

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が、人々が市九郎に休息を勧めたのも、無理ではなかった。

二十年近くの間、日の光も差さない岩壁の奥深くに、座り続けたためであろう。

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二十年にも近い間、日の光も射さぬ岩壁の奥深く、座り続けたためであろう。

彼の両脚は、長い間座り続けたために痛み、いつのまにか自由に曲げ伸ばしできなくなっていた。

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彼の両脚は長い端座に傷み、いつの間にか屈伸の自在を欠いていた。

彼は、少し歩くだけでも、杖にすがらなければならなかった。

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彼は、わずかの歩行にも杖にすがらねばならなかった。

その上、長い間、暗闇に座って日の光を見なかったためでもあろう。

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その上、長い間、闇に座して、日光を見なかったためでもあろう。

また、いつも彼のそばに飛び散る、砕けた石のかけらが、その目を傷つけたためでもあろう。

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また不断に、彼の身辺に飛び散る砕けた石の砕片かけらが、その目を傷つけたためでもあろう。

彼の両目は、ぼんやりとかすんで光を失い、物の形もよくわからなくなっていた。

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彼の両目は、朦朧として光を失い、もののあいろもわきまえかねるようになっていた。

さすがに、決してくじけない市九郎も、身に迫る老いを痛ましく思う心はあった。

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さすがに、不退転の市九郎も、身に迫る老衰を痛む心はあった。

自分の命に執着はなかったけれど、途中で倒れてしまうことを、何よりも無念に思っていたからである。

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身命に対する執着はなかったけれど、中道にしてたおれることを、何よりも無念と思ったからであった。

「あと二年の辛抱じゃ」

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「もう二年の辛抱じゃ」

と、彼は心の中で叫んで、自分の老いを忘れようと、懸命に槌をふるうのであった。

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と、彼は心のうちに叫んで、身の老衰を忘れようと、懸命に槌を振うのであった。

侵しがたい大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ちはだかっていた岩壁は、いつのまにか、やつれ果てた一人の乞食僧の腕によって貫かれ、その中ほどを掘り進む穴は、まるで命あるもののように、まっすぐにその中心を貫こうとしていたのであった。

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おかしがたき大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ち塞がっていた岩壁は、いつの間にか衰残の乞食僧一人の腕に貫かれて、その中腹を穿つ洞窟は、命ある者のごとく、一路その核心を貫かんとしているのであった。

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市九郎の健康は、行きすぎた疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の命を狙っていたのであった。

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市九郎の健康は、過度の疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の生命を狙っているのであった。

市九郎のために、思いがけない死をとげた中川三郎兵衛は、自分の家臣に殺されたため、「家の中をきちんと治められなかった」という理由で、家はとりつぶされ、その時三歳だったひとり息子の実之助(さねのすけ)は、親戚の手で育てられることになった。

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市九郎のために非業の横死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣のために殺害されたため、家事不取締とあって、家は取り潰され、その時三歳であった一子実之助は、縁者のために養い育てられることになった。

実之助は、十三歳になったとき、初めて自分の父が思いがけない死に方をしたことを聞いた。

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実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。

しかも、相手が対等な武士ではなく、自分の家で使われていた下男(奴僕・ぬぼく、召し使いの男)であったと知ると、少年の心は、悔しさと怒りに燃えた。

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ことに、相手が対等の士人でなくして、自分の家に養われた奴僕ぬぼくであることを知ると、少年の心は、無念のいきどおりに燃えた。

彼は、その場で仇討ち(あだうち・親などを殺した相手に復讐すること)をすることを、心に深く刻みつけた。

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彼は即座に復讐の一義を、肝深く銘じた。

彼は、急いで柳生(やぎゅう)の剣術道場に入門した。

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彼は、馳せて柳生やぎゅうの道場に入った。

十九歳のとき、免許皆伝(めんきょかいでん・剣術のすべての技を身につけたと認められること)を許されると、彼はただちに、仇を討つための旅に出たのであった。

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十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに報復の旅に上ったのである。

もしも見事に本懐(ほんかい・かねてからの願いを果たすこと)を遂げて帰ってくれば、お家再興の世話もしようという、親類一同の励ましの言葉に送られながら。

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もし、首尾よく本懐を達して帰れば、一家再興の肝煎きもいりもしようという、親類一同の激励の言葉に送られながら。

実之助は、慣れない旅路で多くの苦しみを味わいながら、あちこちの国を巡り歩き、ひたすら仇である市九郎の居場所を探し求めた。

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実之助は、馴れぬ旅路に、多くの艱難を苦しみながら、諸国を遍歴して、ひたすらかたき市九郎の所在を求めた。

市九郎をただの一度も見たことのない実之助にとって、それは雲をつかむような、あてのない捜索であった。

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市九郎をただ一度さえ見たこともない実之助にとっては、それは雲をつかむがごときおぼつかなき捜索であった。

五畿内(ごきない・京都を中心とした五つの国)、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼はあてのないさすらいの旅を続けながら年を重ね、二十七歳になるまで、むなしい旅を続けた。

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畿内きない、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼は漂泊さすらいの旅路に年を送り年を迎え、二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。

仇に対する恨みも怒りも、旅路の苦しさの中で、何度も消えかけることがあった。

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敵に対する怨みも憤りも、旅路の艱難に消磨せんとすることたびたびであった。

しかし、思いがけない死を遂げた父の無念を思い、中川家を再興するという重い務めを考えると、彼は勇み立って志を奮い起こすのであった。

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が、非業にたおれた父の無念を思い、中川家再興の重任を考えると、奮然と志を奮い起すのであった。

江戸を出てからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下町で迎えた。

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江戸を立ってからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下に迎えた。

本州をむなしく探し歩いたあと、はるか遠い九州も探してみる気になったのである。

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本土を空しく尋ね歩いた後に、辺陲へんすいの九州をも探ってみる気になったのである。

福岡の城下から中津の城下に移った彼は、二月に入ったある日、宇佐八幡宮にお参りし、一日も早く本懐が遂げられるようにと祈った。

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福岡の城下から中津の城下に移った彼は、二月に入った一日、宇佐八幡宮にさいして、本懐の一日も早く達せられんことを祈念した。

実之助は、参拝を終えると、境内の茶店で一休みした。

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実之助は、参拝を終えてから境内の茶店に憩うた。

そのとき、ふと彼は、そばにいた百姓らしい男が、居合わせた参拝客に、

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その時に、ふと彼はそばの百姓ていの男が、居合せた参詣客に、

「そのお坊様は、もとは江戸から来たお人だそうじゃ。若い時分に人を殺したのを悔いて、多くの人を救おうという大きな願を立てたそうじゃが、今言うた樋田のトンネルは、そのお坊様一人の力でできたものじゃ」

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「その御出家は、元は江戸から来たお人じゃげな。若い時に人を殺したのを懺悔して、諸人済度の大願を起したそうじゃが、今いうた樋田の刳貫こかんは、この御出家一人の力でできたものじゃ」

と話しているのを耳にした。

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と語るのを耳にした。

この話を聞いた実之助は、この九年間、一度も感じたことのないような興味を覚えた。

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この話を聞いた実之助は、九年この方いまだ感じなかったような興味を覚えた。

彼はやや急きこみながら、「急に失礼ながら、少しものを尋ねたい。その出家というのは、年のころはどれくらいじゃ」

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彼はややき込みながら、「率爾そつじながら、少々ものを尋ねるが、その出家と申すは、年の頃はどれぐらいじゃ」

と尋ねた。

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と、きいた。

その男は、自分の話が武士の関心を引いたことを、光栄に思ったらしく、

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その男は、自分の談話が武士の注意をひいたことを、光栄であると思ったらしく、

「さようでございますな。私はそのお坊様を拝んだことはございませんが、人のうわさでは、もう六十に近いと申します」

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「さようでございますな。私はその御出家を拝んだことはございませぬが、人の噂では、もう六十に近いと申します」

「背丈は高いか、低いか」

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たけは高いか、低いか」

と、実之助はたたみかけて尋ねた。

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と、実之助はたたみかけてきいた。

「それもはっきりとは、わかりません。なにしろ、穴の奥深くにおられるので、はっきりとはわかりません」

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「それもしかとは、分かりませぬ。何様、洞窟の奥深くいられるゆえ、しかとは分かりませぬ」

「その者の出家する前の名前は、なんといったか知らないか」

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「その者の俗名は、なんと申したか存ぜぬか」

「それも、まったくわかりませんが、お生まれは越後の柏崎で、若いころに江戸へ出られたそうでございます」

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「それも、とんと分かりませんが、お生れは越後の柏崎で、若い時に江戸へ出られたそうでござります」

と、百姓は答えた。

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と、百姓は答えた。

ここまで聞いた実之助は、飛び上がって喜んだ。

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ここまできいた実之助は、躍り上ってよろこんだ。

彼が江戸を発つとき、親類の一人から、仇は越後柏崎の生まれだから、故郷に立ち寄るかもしれない、越後は特に念を入れて探すようにと、注意を受けていたのであった。

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彼が、江戸を立つ時に、親類の一人は、かたきは越後柏崎の生れゆえ、故郷へ立ち回るかも計りがたい、越後は一入ひとしお心を入れて探索せよという、注意を受けていたのであった。

実之助は、これこそまさに宇佐八幡宮のお告げだと、勇み立った。

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実之助は、これぞ正しく宇佐八幡宮の神託なりと勇み立った。

彼はその老僧の名前と、山国谷へ向かう道を尋ねると、もう八つ刻(やつどき・今の午後二時ごろ)を過ぎていたにもかかわらず、必死の力を両足にこめて、仇のいる場所へと急いだ。

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彼はその老僧の名と、山国谷に向う道をきくと、もはや八つ刻を過ぎていたにもかかわらず、必死の力を双脚に籠めて、敵の所在ありかへと急いだ。

その日の初更(しょこう・午後八時ごろ)近くに、樋田村に着いた実之助は、すぐにでも穴へ向かおうと思ったが、あせってはいけないと思い直し、その夜は樋田の宿場で、気持ちの落ち着かない一夜を明かした。そして翌日、早く起き出し、身軽な支度で樋田のトンネルへと向かった。

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その日の初更近く、樋田村に着いた実之助は、ただちに洞窟へ立ち向おうと思ったが、あせってはならぬと思い返して、その夜は樋田駅の宿に焦慮の一夜を明かすと、翌日は早く起き出でて、軽装して樋田の刳貫へと向った。

トンネルの入口に着いたとき、彼はそこで、砕けた石を運び出している石工に尋ねた。

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刳貫の入口に着いた時、彼はそこに、石の砕片かけらを運び出している石工に尋ねた。

「この穴の中に、了海と言われるお坊様がおられるそうじゃが、それに間違いないか」

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「この洞窟の中に、了海といわるる御出家がおわすそうじゃが、それに相違ないか」

「おられないでどうしましょう。了海様は、この穴のぬしのようなお方じゃ。はははは」

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「おわさないでなんとしょう。了海様は、このほこらの主も同様な方じゃ。はははは」

と、石工は何気なく笑った。

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と、石工は心なげに笑った。

実之助は、いよいよ本懐を遂げるときが目の前にあると、喜び勇んだ。

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実之助は、本懐を達すること、はや眼前にありと、欣び勇んだ。

しかし、彼はあわててはいけないと思った。

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が、彼はあわててはならぬと思った。

「して、出入り口はここ一か所だけか」

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「して、出入り口はここ一カ所か」

と尋ねた。

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と、きいた。

仇に逃げられてはならないと思ったからである。

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敵に逃げられてはならぬと思ったからである。

「それは決まっておる。向こう側に出口を開けるために、了海様はひどい苦しみをなさっているのじゃ」

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「それは知れたことじゃ。向うへ口を開けるために、了海様は塗炭の苦しみをなさっているのじゃ」

と、石工が答えた。

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と、石工が答えた。

実之助は、長年の仇が、袋の中のネズミのように、目の前に置かれているのを喜んだ。

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実之助は、多年の怨敵が、嚢中の鼠のごとく、目前に置かれてあるのを欣んだ。

たとえ、そこで使われている石工が何人いようとも、切り殺すのに何の造作もないと、勇み立った。

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たとい、その下に使わるる石工が幾人いようとも、切り殺すに何の造作もあるべきと、勇み立った。

「おまえに少し頼みがある。了海どのにお目にかかりたくて、はるばる訪ねてまいった者だと、伝えてくれ」

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其方そちに少し頼みがある。了海どのに御意得たいため、遥々と尋ねて参った者じゃと、伝えてくれ」

と言った。

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と、いった。

石工が穴の中に入っていったあと、実之助は刀の目くぎ(柄と刀身を固定するくぎ)を湿らせた。

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石工が、洞窟の中へはいった後で、実之助は一刀の目くぎを湿した。

彼は、心の中で、生まれて初めて出会う仇の顔かたちを想像した。

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彼は、心のうちで、生来初めてめぐりあう敵の容貌を想像した。

トンネルを掘る仕事をまとめているというのだから、五十は過ぎているとはいえ、筋骨たくましい男であろう。

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洞門の開鑿を統領しているといえば、五十は過ぎているとはいえ、筋骨たくましき男であろう。

特に、若いころには剣術にもくわしかったというのだから、ゆめゆめ油断してはならぬと思っていた。

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ことに若年じゃくねんの頃には、兵法にうとからざりしというのであるから、ゆめ油断はならぬと思っていた。

しかし、しばらくして、実之助の目の前に、トンネルから出てきた一人の乞食僧があった。

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が、しばらくして実之助の面前へと、洞門から出てきた一人の乞食僧があった。

それは、出てくるというよりも、ヒキガエルのように這い出てきたと言ったほうが、ふさわしかった。

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それは、出てくるというよりも、がまのごとく這い出てきたという方が、適当であった。

それは、人間というよりも、むしろ人間の成れの果てと言うべきであった。

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それは、人間というよりも、むしろ、人間の残骸というべきであった。

肉はすっかり落ちて骨が浮き出て、脚の関節から下はところどころただれ、長く見ていられないほどであった。

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肉ことごとく落ちて骨あらわれ、脚の関節以下はところどころただれて、長く正視するに堪えなかった。

破れた法衣(ほうえ・僧の着る衣服)によって、僧の姿だとはわかるものの、髪は長く伸びて、しわだらけの額をおおっていた。

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破れた法衣によって、僧形とは知れるものの、頭髪は長く伸びて皺だらけの額をおおっていた。

老いた僧は、灰色に濁った目をしばたたかせながら、実之助を見上げて、

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老僧は、灰色をなした目をしばたたきながら、実之助を見上げて、

「年をとって目がすっかり衰えてしまい、どなた様かわかりかねます」

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「老眼衰えはてまして、いずれの方ともわきまえかねまする」

と言った。

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と、いった。

実之助の、限界まで張りつめていた心は、この老いた僧を一目見た瞬間、たじろいでしまった。

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実之助の、極度にまで、張り詰めてきた心は、この老僧を一目見た刹那たじたじとなってしまっていた。

彼は、心の底から憎しみを感じられるような、悪い僧に会いたいと思っていた。

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彼は、心の底から憎悪を感じ得るような悪僧を欲していた。

それなのに、彼の目の前には、人間とも死骸ともつかない、半分死にかけた老僧が、うずくまっているのであった。

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しかるに彼の前には、人間とも死骸ともつかぬ、半死の老僧が蹲っているのである。

実之助は、がっかりし始めた自分の心を奮い立たせて、

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実之助は、失望し始めた自分の心を励まして、

「そなたが、了海と言われる者か」

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「そのもとが、了海といわるるか」

と、勢いこんで尋ねた。

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と、意気込んできいた。

「いかにも、さようでございます。して、そなたさまは」

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「いかにも、さようでござります。してそのもとは」

と、老僧はいぶかしげに実之助を見上げた。

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と、老僧はいぶかしげに実之助を見上げた。

「了海とやら、いくら僧の姿に身をやつしていても、まさか忘れてはおるまい。おまえは、市九郎と呼ばれていた若いころ、主人の中川三郎兵衛を殺して逃げ去った覚えがあろう。わたしは、三郎兵衛のひとり息子、実之助という者じゃ。もはや逃げられぬと覚悟いたせ」

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「了海とやら、いかに僧形に身をやつすとも、よも忘れはいたすまい。汝、市九郎と呼ばれし若年のみぎり、主人中川三郎兵衛を打って立ち退いた覚えがあろう。それがしは、三郎兵衛の一子実之助と申すものじゃ。もはや、逃れぬところと覚悟せよ」

実之助の言葉は、あくまで落ち着いていたが、そこには一歩も譲らない厳しさがあった。

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と、実之助の言葉は、あくまで落着いていたが、そこに一歩も、許すまじき厳正さがあった。

しかし、市九郎は実之助の言葉を聞いても、少しも驚かなかった。

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が、市九郎は実之助の言葉をきいて、少しもおどろかなかった。

「なるほど、中川様のご子息、実之助様か。いかにも、お父上を殺して逃げ去った者は、この了海に相違ございません」

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「いかさま、中川様の御子息、実之助様か。いやお父上を打って立ち退いた者、この了海に相違ござりませぬ」

と、彼は自分を仇として狙う者に会ったというよりも、昔の主人の忘れ形見に会ったような親しみをこめて答えたが、実之助は、市九郎の声の調子にだまされてはならぬと思った。

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と、彼は自分を敵と狙う者に会ったというよりも、旧主の遺児わすれごに会った親しさをもって答えたが、実之助は、市九郎の声音こわねに欺かれてはならぬと思った。

「主人を殺して逃げ去った、道にはずれたおまえを討つために、十年近くもの年月を、苦しみの中で過ごしてきたのだ。ここで会ったからには、もう逃げられぬと覚悟し、正々堂々と勝負せよ」

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「主を打って立ち退いた非道の汝を討つために、十年に近い年月を艱難のうちに過したわ。ここで会うからは、もはや逃れぬところと尋常に勝負せよ」

と言った。

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と、いった。

市九郎は、少しもひるまなかった。

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市九郎は、少しも悪怯わるびれなかった。

もうあと一年ほどで成しとげられるはずの大きな願いを、見届けずに死ぬことは、いくらか悲しく思われたが、それも自分の犯した悪事の報いだと思うと、彼は死ぬ覚悟を定めた。

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もはや期年のうちに成就すべき大願を見果てずして死ぬことが、やや悲しまれたが、それもおのれが悪業のむくいであると思うと、彼は死すべき心を定めた。

「実之助様、さあ、お切りなされ。お聞き及びかもしれませぬが、これは了海めが、罪ほろぼしのために掘り貫こうと思い立ったトンネルでございますが、十九年の歳月をかけて、九割方は出来上がりました。この了海の命が果てましょうとも、もう何年もかからずに完成いたしましょう。あなた様のお手にかかり、このトンネルの入口で血を流して人柱(ひとばしら・工事の無事を願って命を捧げる人)となりますれば、もはや思い残すこともございません」

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「実之助様、いざお切りなされい。おきき及びもなされたろうが、これは了海めが、罪亡しに掘り穿とうと存じた洞門でござるが、十九年の歳月を費やして、九分までは竣工いたした。了海、身を果つとも、もはや年を重ねずして成り申そう。御身の手にかかり、この洞門の入口に血を流して人柱となり申さば、はや思い残すこともござりませぬ」

と言いながら、彼は見えない目をしばたたかせたのである。

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と、いいながら、彼は見えぬ目をしばたたいたのである。

実之助は、この半分死にかけた老僧に接していると、親の仇に対して抱いていた憎しみが、いつのまにか消え失せているのを感じた。

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実之助は、この半死の老僧に接していると、親のかたきに対して懐いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。

仇は、父を殺した罪を悔いて、身も心も粉々になるほど働き、半生を苦しみ抜いている。

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敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。

しかも、自分が一度名乗りをあげただけで、素直に命を差し出そうとしているのである。

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しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々いいとして命を捨てようとしているのである。

このような半分死にかけた老僧の命を取ることが、いったい何の復讐になるのかと、実之助は考えたのである。

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かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。

しかし、この仇を討たない限り、長年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るすべはなかった。

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が、しかしこの敵を打たざる限りは、多年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るべきよすがはなかった。

まして、お家の再興などは、思いも及ばないことであったのである。

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まして家名の再興などは、思いも及ばぬことであったのである。

実之助は、憎しみよりも、むしろ損得を考える心から、この老僧の命を絶とうかと思った。

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実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。

しかし、激しく燃えるような憎しみを感じることなく、損得だけで人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。

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が、激しい燃ゆるがごとき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。

彼は、消えかかろうとする憎しみの心を奮い立たせながら、討つ甲斐もない仇を討とうとしたのであった。

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彼は、消えかかろうとする憎悪の心を励ましながら、打ち甲斐なき敵を打とうとしたのである。

そのときであった。

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その時であった。

穴の中から走り出てきた五、六人の石工は、市九郎の危険な様子を見ると、我が身を投げ出して彼をかばいながら、「了海様をどうするつもりじゃ」

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洞窟の中から走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身して彼をかばいながら「了海様をなんとするのじゃ」

と、実之助をとがめた。

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と、実之助を咎めた。

彼らの顔には、事の次第によっては許さないという気配が、ありありと表れていた。

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彼らの面には、仕儀によっては許すまじき色がありありと見えた。

「わけあって、その老僧を仇として狙い、思いがけず今日めぐりあって、本懐を遂げようとしているのじゃ。じゃまをすれば、たとえ他の者であろうと容赦はいたさぬぞ」

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「子細あって、その老僧を敵と狙い、端なくも今日めぐりおうて、本懐を達するものじゃ。妨げいたすと、余人なりとも容赦はいたさぬぞ」

と、実之助は毅然として言った。

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と、実之助は凜然といった。

しかし、そのうちに石工の数は増え、道を行く人々も何人となく立ち止まって、彼らは実之助を取り囲みながら、市九郎の体に指一本も触れさせまいと、めいめいに勢いこみ始めた。

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が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が幾人となく立ち止って、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の身体に指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまき始めた。

「仇を討つの討たぬのというのは、それはまだ普通の暮らしの中でのことじゃ。ご覧のとおり、了海どのは、染衣薙髪(せんいちはつ・墨染めの衣を着て髪をそった、僧としての姿)の身である上に、この山国谷七郷の者たちにとっては、持地菩薩(じじぼさつ・人々を助ける菩薩)の生まれ変わりとも仰がれるお方じゃ」

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「敵を討つ討たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるる通り、了海どのは、染衣薙髪せんいちはつの身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の再来とも仰がれる方じゃ」

と、その中のある者は、実之助の仇討ちを、かなうはずのない無理な望みであるかのように言い張った。

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と、そのうちのある者は、実之助の敵討ちを、叶わぬ非望であるかのようにいい張った。

しかし、こう周りの者から邪魔をされると、実之助の仇に対する怒りは、いつのまにかよみがえっていた。

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が、こう周囲の者から妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にかよみがえっていた。

彼は武士としての意地から、何もせずに立ち去るわけにはいかなかった。

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彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るべきではなかった。

「たとえ僧侶(沙門・しゃもん)の身であろうと、主殺しの大罪は逃れられぬぞ。親の仇を討とうとする者を邪魔する者は、だれ一人容赦はせぬ」

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「たとい沙門しゃもんの身なりとも、主殺しの大罪は免れぬぞ。親の敵を討つ者を妨げいたす者は、一人も容赦はない」

と、実之助は刀のさやを払った。

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と、実之助は一刀の鞘を払った。

実之助を取り囲む人々も、みなそろって身構えた。

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実之助を囲う群衆も、皆ことごとく身構えた。

すると、そのとき、市九郎はしわがれた声を張り上げた。

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すると、その時、市九郎はしわがれた声を張り上げた。

「皆の衆、お控えなされ。この了海、討たれるだけの覚えは十分にござる。このトンネルを掘っていることも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今、このような親孝行なお方のお手にかかり、この半分死にかけた身を終えることこそ、了海の一生の願いじゃ。皆の衆、邪魔だていたすでない」

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「皆の衆、お控えなされい。了海、討たるべき覚え十分ござる。この洞門を穿つことも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今かかる孝子のお手にかかり、半死の身を終ること、了海が一の願いじゃ。皆の衆妨げ無用じゃ」

こう言いながら市九郎は、我が身を投げ出すように、実之助のそばへにじり寄ろうとした。

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こういいながら市九郎は、身を挺して、実之助のそばにいざり寄ろうとした。

かねがね、市九郎の固い意志をよく知っている周りの人々は、彼の決心を変えさせる術がないことを知った。

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かねがね、市九郎の強剛なる意志を知りぬいている周囲の人々は、彼の決心をひるがえすべき由もないのを知った。

市九郎の命は、ここで終わるかと思われた。

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市九郎の命、ここに終るかと思われた。

そのとき、石工のかしらが、実之助の前に進み出て、

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その時、石工の統領が、実之助の前に進み出でながら、

「お武家様も、お聞き及びでございましょうが、このトンネルは、了海様が一生をかけた大きな誓いによるもので、二十年近くもご苦労なさって、身も心も砕いてこられたのでございます。いかにご自身の犯した悪事の報いとはいえ、大きな願いの成就を目前にしながら、お果てになることは、どれほど無念でございましょう。私どもみなのお願いは、長くとは申しません。このトンネルが向こう側まで通じるまでの間、了海様のお命を、私どもにお預けくださいませぬか。トンネルさえ通じましたら、その場ですぐに、了海様を思いのままになさってくださいませ」

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「御武家様も、おきき及びでもござろうが、この刳貫は了海様、一生の大誓願にて、二十年に近き御辛苦に身心を砕かれたのじゃ。いかに、御自身の悪業とはいえ、大願成就を目前に置きながら、お果てなさるること、いかばかり無念であろう。我らのこぞってのお願いは、長くとは申さぬ、この刳貫の通じ申す間、了海様のお命を、我らに預けては下さらぬか。刳貫さえ通じた節は、即座に了海様を存分になさりませ」

と、彼は真心をこめて願った。

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と、彼は誠を表して哀願した。

人々は口々に、

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群衆は口々に、

「もっともじゃ、もっともじゃ」

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「ことわりじゃ、ことわりじゃ」

と賛成した。

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と、賛成した。

実之助も、そう言われてみると、その願いを聞かないわけにはいかなかった。

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実之助も、そういわれてみると、その哀願をきかぬわけにはいかなかった。

今ここで仇を討とうとして、人々のじゃまを受けてしくじるよりも、トンネルの完成を待てば、今でさえ自分から進んで討たれようとしている市九郎が、義理を感じて素直に首を差し出すのは、まず間違いないと思った。

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今ここで敵を討とうとして、群衆の妨害を受けて不覚を取るよりも、刳通の竣工を待ったならば、今でさえ自ら進んで討たれようという市九郎が、義理に感じて首を授けるのは、必定であると思った。

また、そうした損得を離れても、仇とはいいながら、この老僧の大きな誓いを果たさせてやることも、決していやなことではなかった。

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またそうした打算から離れても、敵とはいいながらこの老僧の大誓願を遂げさしてやるのも、決して不快なことではなかった。

実之助は、市九郎と人々を等しく見渡しながら、

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実之助は、市九郎と群衆とを等分に見ながら、

「了海の僧の姿に免じて、その願いを聞き入れよう。約束した言葉は忘れるでないぞ」

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「了海の僧形にめでてその願い許して取らそう。つがえた言葉は忘れまいぞ」

と言った。

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と、いった。

「言うまでもございません。ほんのわずかでも、このトンネルが向こう側へ通じましたなら、その場を離れず、了海様を討たせましょう。それまでは、ごゆっくりこの辺りにご滞在くださいませ」

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「念もないことでござる。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向う側へ通じた節は、その場を去らず了海様を討たさせ申そう。それまではゆるゆると、この辺りに御滞在なされませ」

と、石工の棟梁は、穏やかな口調で言った。

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と、石工の棟梁は、穏やかな口調でいった。

市九郎は、このもめごとが無事に解決すると、それによって無駄にした時間が、いかにも惜しまれるように、にじりながら穴の中へ入っていった。

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市九郎は、この紛擾ふんじょうが無事に解決が付くと、それによって徒費した時間がいかにも惜しまれるように、にじりながら洞窟の中へ入っていった。

実之助は、大切な場面で思いがけない邪魔が入り、目的を果たせなかったことに腹を立てた。

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実之助は、大切の場合に思わぬ邪魔が入って、目的が達し得なかったことを憤った。

彼は、どうしようもない怒りを抑えながら、石工の一人に案内されて、木の小屋の中へ入った。

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彼はいかんともしがたい鬱憤を抑えながら、石工の一人に案内せられて、木小屋のうちへ入った。

自分一人になって考えてみると、仇を目の前にしながら討つことができなかった自分の情けなさを、無念に思わずにはいられなかった。

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自分一人になって考えると、敵を目前に置きながら、討ち得なかった自分の腑甲斐なさを、無念と思わずにはいられなかった。

彼の心は、いつのまにか、いらだたしい怒りでいっぱいになっていた。

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彼の心はいつの間にかいらだたしい憤りでいっぱいになっていた。

彼は、もうトンネルの完成を待つというような、仇に対するのんびりした気持ちを、すっかり失ってしまった。

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彼は、もう刳貫の竣成を待つといったような、敵に対するゆるやかな心をまったく失ってしまった。

彼は、今夜にも穴の中へ忍びこんで、市九郎を討って立ち去ろうという決心を固めた。

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彼は今宵にも洞窟の中へ忍び入って、市九郎を討って立ち退こうという決心のほぞを固めた。

しかし、実之助が市九郎の見張りをしているのと同じように、石工たちも実之助を見張っていた。

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が、実之助が市九郎の張り番をしているように、石工たちは実之助を見張っていた。

最初の二、三日は、不本意ながら何もせずに過ごしたが、ちょうど五日目の晩のことであった。

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最初の二、三日を、心にもなく無為に過したが、ちょうど五日目の晩であった。

毎晩のことなので、石工たちも見張りの目をゆるめたとみえ、丑の刻(うしのこく・今の午前二時ごろ)近くには、だれもがだらしなく眠りこんでいた。

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毎夜のことなので、石工たちも警戒の目を緩めたと見え、うしに近い頃に何人なんびともいぎたない眠りに入っていた。

実之助は、今夜こそはと思い立った。

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実之助は、今宵こそと思い立った。

彼は、がばっと起き上がると、枕元の刀を引き寄せ、静かに木の小屋の外に出た。

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彼は、がばと起き上ると、枕元の一刀を引き寄せて、静かに木小屋の外に出た。

それは、早春の夜の月が澄みわたった晩であった。

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それは早春の夜の月が冴えた晩であった。

山国川の水は、月の光の下で、青く渦巻きながら流れていた。

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山国川の水は月光の下に蒼く渦巻きながら流れていた。

しかし、周りの景色には目もくれず、実之助は、足音を忍ばせて、ひそかにトンネルに近づいた。

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が、周囲の風物には目もくれず、実之助は、足を忍ばせてひそかに洞門に近づいた。

削り取られた石のかたまりが、ところどころに散らばっていて、一歩進むたびに足を痛めた。

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削り取った石塊が、ところどころに散らばって、歩を運ぶたびごとに足を痛めた。

穴の中は、入口から差しこむ月の光と、ところどころ掘り開けられた窓から差しこむ月の光とで、あちこちがほの白く光っているだけであった。

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洞窟の中は、入口から来る月光と、ところどころにり明けられた窓から射し入る月光とで、ところどころほの白く光っているばかりであった。

彼は、右側の岩壁を手探りしながら、奥へ奥へと進んでいった。

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彼は右方の岩壁を手探たぐり手探り奥へ奥へと進んだ。

入口から二町(ちょう・約二百二十メートル)ほど進んだころ、ふと彼は、穴の奥から、コーン、コーンと間をおいて響いてくる音を耳にした。

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入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッと間を置いて響いてくる音を耳にした。

彼は最初、それが何の音かわからなかった。

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彼は最初それがなんであるか分からなかった。

しかし、一歩進むにつれて、その音は大きくなっていき、しまいには穴の中の夜の静けさの中に、こだまするまでになった。

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が、一歩進むに従って、その音は拡大していって、おしまいには洞窟の中の夜の寂静じゃくじょうのうちに、こだまするまでになった。

それは、明らかに岩壁に向かって鉄の槌を打ちおろす音に間違いなかった。

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それは、明らかに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。

実之助は、その悲しく、すさまじさを帯びた音によって、自分の胸が激しく打たれるのを感じた。

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実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音によって、自分の胸が激しく打たれるのを感じた。

奥に近づくにつれて、玉を砕くような鋭い音は、穴のまわりにこだまして、実之助の耳を、激しく襲ってくるのであった。

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奥に近づくに従って、玉を砕くような鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲ってくるのであった。

彼は、この音を頼りに、はうようにして近づいていった。

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彼は、この音をたよりに這いながら近づいていった。

この槌の音の主こそ、仇の了海に間違いあるまいと思った。

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この槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。

ひそかに刀の鯉口(こいぐち・刀のさやの口)を湿らせながら、息をひそめて近寄っていった。

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ひそかに一刀の鯉口こいぐちを湿しながら、息を潜めて寄り添うた。

そのとき、ふと彼は、槌の音の合間に、ささやくように、うめくように、了海がお経を唱える声を聞いたのである。

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その時、ふと彼は槌の音の間々にささやくがごとく、うめくがごとく、了海が経文をじゅする声をきいたのである。

そのしわがれた悲しみをおびた声が、水を浴びせるように実之助の心にしみこんできた。

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そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助に徹してきた。

深夜、人は去り、草や木も眠っている中で、ただ暗闇の中に座り、鉄の槌を振るっている了海の姿が、墨のような闇の中にあってもなお、実之助の心の目にありありと映ってきた。

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深夜、人去り、草木眠っている中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振っている了海の姿が、墨のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。

それは、もはや人間の心ではなかった。

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それは、もはや人間の心ではなかった。

喜びも怒りも悲しみも楽しみも超えたところにあって、ただ鉄の槌を振るう、勇ましくひたむきな、菩薩のような心であった。

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喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振っている勇猛精進の菩薩心であった。

実之助は、握りしめていた刀の柄が、いつのまにか緩んでいるのに気づいた。

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実之助は、握りしめた太刀の柄が、いつの間にか緩んでいるのを覚えた。

彼はふと、我に返った。

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彼はふと、われに返った。

すでに仏の心を得て、多くの人々のために、身を砕くような苦しみを味わっている徳の高い聖人に対して、深夜の闇に乗じて、追いはぎのように、獣のように、怒りの剣を抜きかけている自分を振り返ると、彼は強い震えが体を伝わって流れるのを感じた。

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すでに仏心を得て、衆生のために、砕身の苦を嘗めている高徳のひじりに対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚しんいの剣を抜きそばめている自分をかえりみると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。

穴を揺るがすその力強い槌の音と、悲しみをおびた念仏の声とは、実之助の心をすっかり打ち砕いてしまった。

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洞窟を揺がせるその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心を散々に打ち砕いてしまった。

彼は、いさぎよく完成の日を待ち、その約束が果たされるのを待つよりほかはないと思った。

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彼は、潔く竣成の日を待ち、その約束の果さるるのを待つよりほかはないと思った。

実之助は、深い感激を胸に抱きながら、穴の外の月の光を目指し、穴の外にはい出たのである。

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実之助は、深い感激を懐きながら、洞外の月光を目指し、洞窟の外に這い出たのである。

そのことがあってから間もなく、トンネルの工事に加わる石工たちの中に、武家の姿をした実之助の姿が見られるようになった。

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そのことがあってから間もなく、刳貫の工事に従う石工のうちに、武家姿の実之助の姿が見られた。

彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち去ろうというような、けわしい気持ちは、少しも持っていなかった。

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彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち退こうというような険しい心は、少しも持っていなかった。

了海が逃げも隠れもしないことを知ると、彼は好意をもって、了海が一生の大きな願いを成し遂げる日を、待ってやろうと思っていた。

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了海が逃げも隠れもせぬことを知ると、彼は好意をもって、了海がその一生の大願を成就する日を、待ってやろうと思っていた。

しかし、それにしても、ただぼんやりと待っているよりも、自分もこの大事業にわずかでも力を尽くすことで、いくらかでも復讐の日が早まるはずだと気づくと、実之助は自分から石工たちの仲間に入り、槌を振るい始めたのである。

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が、それにしても、茫然と待っているよりも、自分もこの大業に一の力を尽くすことによって、いくばくかでも復讐の期日が短縮せられるはずであることを悟ると、実之助は自ら石工に伍して、槌を振い始めたのである。

仇どうしが、並んで槌を打ちおろした。

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敵と敵とが、相並んで槌を下した。

実之助は、本懐を遂げる日が一日でも早く来るようにと、懸命に槌を振るった。

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実之助は、本懐を達する日の一日でも早かれと、懸命に槌を振った。

了海は、実之助が現れてからは、一日も早く大きな願いを成しとげて、この親孝行な若者の願いをかなえてやりたいと思ったのであろう。

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了海は実之助が出現してからは、一日も早く大願を成就して孝子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。

彼は、さらに励む力を奮い立たせて、気の狂ったように岩壁を打ち砕いていた。

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彼は、また更に精進の勇を振って、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。

そのうちに、月日が過ぎていった。

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そのうちに、月が去り月が来た。

実之助の心は、了海の大きな勇ましい心に動かされて、彼自身、トンネルを掘る大事業に打ちこむうちに、仇への恨みを忘れそうになることが多かった。

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実之助の心は、了海の大勇猛心に動かされて、彼自ら刳貫の大業に讐敵しゅうてきの怨みを忘れようとしがちであった。

石工たちが、昼間の疲れを休めている真夜中にも、仇どうしは並んで、黙々と槌を振るっていた。

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石工共が、昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。

それは、了海が樋田のトンネルに最初の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六か月を経た、延享(えんきょう)三年九月十日の夜のことであった。

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それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享えんきょう三年九月十日の夜であった。

この夜も、石工たちはみな小屋に引きあげ、了海と実之助だけが、一日の疲れにもめげず、懸命に槌を振るっていた。

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この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。

その夜、九つ刻(ここのつどき・今の午前零時ごろ)近くに、了海が力をこめて振りおろした槌が、朽ちた木を打つように、まったく手応えがなく力があまり、槌を持った右の手のひらが岩に当たったので、彼は「あっ」

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その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」

と、思わず声をあげた。

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と、思わず声を上げた。

そのときであった。

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その時であった。

了海の、ぼんやりとかすんだ老いた目にも、まぎれもなく、その槌で破られた小さな穴から、月の光に照らされた山国川の姿が、ありありと映ったのである。

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了海の朦朧たる老眼にも、まぎれなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。

了海は「おう」

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了海は「おう」

と、全身を震わせるような、言葉にできない叫び声をあげたかと思うと、それに続いて、気が狂ったかと思われるほどの、うれし泣きとうれし笑いが入りまじった声が、穴の中をものすごく揺り動かしたのである。

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と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺うごめかしたのである。

「実之助どの。ご覧なされ。二十一年の大きな誓いが、思いがけなくも今宵、成しとげられ申した」

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「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」

こう言いながら、了海は実之助の手を取って、小さな穴から山国川の流れを見せた。

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こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。

その穴の真下に黒ずんだ土が見えるのは、まぎれもなく、岸に沿う街道であった。

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その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。

仇どうしは、そこで手を取り合って、大きな喜びの涙にむせんだのであった。

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敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。

しかし、しばらくすると了海は身を引いて、

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が、しばらくすると了海は身を退すさって、

「さあ、実之助殿、約束の日でござる。お切りなされ。このような大きな喜びの真っただ中で死んでいけるならば、極楽浄土に生まれ変わることは、間違いございませぬ。さあ、お切りなされ。明日にでもなれば、石工どもがまた邪魔をいたしましょう。さあ、お切りなされ」

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「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」

と、彼のしわがれた声が、穴の中の夜の空気に響いた。

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と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。

しかし、実之助は、了海の前で腕を組んで座ったまま、涙にむせんでいるだけであった。

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が、実之助は、了海の前に手をこまねいて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。

心の底からわき出る喜びに泣いている、やせ衰えた老僧を見ていると、彼を仇として殺すことなど、思いもよらないことであった。

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心の底から湧き出ずる歓喜に泣くしなびた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。

仇を討とうという気持ちよりも、このか弱い一人の人間の両腕によって成しとげられた偉業に対する、驚きと感激の気持ちで、胸がいっぱいであった。

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敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双のかいなによって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。

彼はにじり寄りながら、再び老僧の手を取った。

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彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。

二人は、そこですべてを忘れて、感激の涙にむせび合ったのであった。

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二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。