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恩讐の彼方に 現代語訳

菊池寛きくちかん)・1988

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

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市九郎は、主人が切り込んでくる太刀を受けそこなって、左の頬から顎にかけて、かすり傷ではあるが一太刀を受けた。

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いちろうは、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。

自分の罪を――たとえ向こうから誘われたとはいえ、主人の寵愛する妾と道ならぬ恋をしたという、自分の致命的な罪を意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を当然の刑罰として受け止めていて、たとえその切っ先を避けようと努めることはあっても、それに逆らおうという気持ちは少しも持っていなかった。

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自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。

彼はただ、こんな自分の迷いのせいで命を捨てるのがいかにも惜しかったので、できるだけは逃げのびてみたいと思っていた。

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彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃れてみたいと思っていた。

それで、主人から不義を責め立てられて切りつけられたとき、そばにあった燭台をとっさの得物として、主人の鋭い太刀先をかわしていた。

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それで、主人から不義をいい立てられて切りつけられた時、あり合せた燭台を、早速の獲物として主人の鋭い太刀先を避けていた。

だが、五十に近いとはいえまだ体つきのたくましい主人が、たたみかけて切り込んでくる太刀を、こちらからは攻めに出られない悲しさで、いつのまにか受けそこない、最初の一太刀を左の頬に受けたのである。

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が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。

ところが、いったん血を見ると、市九郎の心はたちまち変わっていた。

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が、一旦血を見ると、市九郎の心は、たちまちに変っていた。

分別を保っていた彼の心は、闘牛士の槍を受けた雄牛のように荒れ狂ってしまった。

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彼の分別のあった心は、闘牛者の槍を受けた牡牛のように荒んでしまった。

どうせ死ぬのだと思うと、そこには世間もなければ主従の別もなかった。

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どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。

今まで主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の命を脅かそうとしている一匹の動物――それも凶暴な動物としか見えなかった。

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今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命を、おどそうとしている一個の動物――それも凶悪な動物としか、見えなかった。

彼は奮い立って、攻めに転じた。

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彼は奮然として、攻撃に転じた。

彼は「おうお」

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彼は「おうお」

と叫びながら、手にしていた燭台を相手の顔めがけて投げつけた。

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おめきながら、持っていた燭台を、相手の面上を目がけて投げ打った。

市九郎が身を守るためだけの守りをしているのを見て、油断してかかっていた主人の三郎兵衛は、不意に投げつけられた燭台を受け止めきれず、その蝋受けの角がしたたかに彼の右目を打った。

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市九郎が、防御のための防御をしているのを見て、気を許してかかっていた主人の三郎兵衛ろうべえは、不意に投げつけられた燭台を受けかねて、その蝋受けの一角がしたたかに彼の右眼を打った。

市九郎は、相手がたじろぐ隙に、脇差を抜くより早く飛びかかった。

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市九郎は、相手のたじろぐ隙に、脇差を抜くより早く飛びかかった。

「おのれ、手向かいするか!」

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「おのれ、手向いするか!」

と、三郎兵衛は激怒した。

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と、三郎兵衛は激怒した。

市九郎は無言で踏み込んだ。

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市九郎は無言で付け入った。

主人の三尺近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二度三度と激しく打ち合った。

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主人の三尺に近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度激しく打ち合うた。

主従が必死になって十数合も太刀を合わせるうちに、主人の太刀先が二度三度と低い天井をかすり、たびたび太刀を自由に振るえなくなりかけた。

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主従が必死になって、十数合太刀を合わす間に、主人の太刀先が、二、三度低い天井をかすって、しばしば太刀を操る自由を失おうとした。

市九郎はそこへ踏み込んだ。

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市九郎はそこへ付け入った。

主人は不利を悟ると、自由の利く戸外へ出ようとして、二、三歩あとずさりして縁の外へ出た。

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主人は、その不利に気がつくと、自由な戸外へ出ようとして、二、三歩後退あとずさりして縁の外へ出た。

その隙になおも踏み込もうとする市九郎に、主人は「えい」

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その隙に市九郎が、なおも付け入ろうとするのを、主人は「えい」

と、いらだって切り下ろした。

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と、苛だって切り下した。

だが、いらだったあまりその太刀は、縁側と座敷との境に下がっている鴨居に、不覚にも二、三寸食い込んでしまった。

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が、苛だったあまりその太刀は、縁側と、座敷との間に垂れ下っている鴨居に、不覚にも二、三寸切り込まれた。

「しまった」

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「しまった」

と、三郎兵衛が太刀を引き抜こうとする隙に、市九郎は踏み込んで、主人の脇腹を思うさま横に薙いだのであった。

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と、三郎兵衛が太刀を引こうとする隙に、市九郎は踏み込んで、主人の脇腹を思うさま横にいだのであった。

相手が倒れてしまった瞬間に、市九郎は我にかえった。

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敵手あいてが倒れてしまった瞬間に、市九郎は我にかえった。

今まで興奮でぼんやりしていた意識がようやく落ち着くと、彼は自分が主殺しという大罪を犯したことに気づいて、後悔と恐怖のためにその場にへたり込んでしまった。

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今まで興奮して朦朧としていた意識が、ようやく落着くと、彼は、自分が主殺しの大罪を犯したことに気がついて、後悔と恐怖とのために、そこにへたばってしまった。

夜は初更を過ぎていた。

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夜は初更を過ぎていた。

母屋と中間部屋とは遠く離れているので、主従の恐ろしい格闘は、母屋に住んでいる女中のほかには、まだ誰にも知られていないらしかった。

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母屋おもやと、仲間部屋とは、遠く隔っているので、主従の恐ろしい格闘は、母屋に住んでいる女中以外、まだだれにも知られなかったらしい。

その女中たちは、この激しい格闘に気を失わんばかりになり、ひと間に集まって、ただ身を震わせているだけであった。

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その女中たちは、この激しい格闘に気を失い、一間のうちに集って、ただ身を震わせているだけであった。

市九郎は、深い悔恨にとらわれていた。

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市九郎は、深い悔恨にとらわれていた。

放蕩者であり、無頼の若い武士ではあったけれども、まだ悪事と名の付くことは何ひとつしていなかった。

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一個の蕩児であり、無頼の若武士ではあったけれども、まだ悪事と名の付くことは、何もしていなかった。

まして八逆の第一とされる主殺しの大罪を犯そうとは、彼には思いもよらないことだった。

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まして八逆の第一なる主殺しの大罪を犯そうとは、彼の思いも付かぬことだった。

彼は、血の付いた脇差を握り直した。

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彼は、血の付いた脇差を取り直した。

主人の妾と情を通じ、そのために手討ちにされようとしたとき、逆にその主人を殺してしまうというのは、どう考えても彼に弁解の余地のないことだった。

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主人の妾と慇懃を通じて、そのために成敗を受けようとした時、かえってその主人を殺すということは、どう考えても、彼にいいところはなかった。

彼は、まだびくびくと動いている主人の死体を横目に見ながら、静かに自害する覚悟を固めていた。

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彼は、まだびくびくと動いている主人の死体を尻眼にかけながら、静かに自殺の覚悟を固めていた。

するとそのとき、隣の部屋から、今までの大きな重圧から逃れ出たような声がした。

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するとその時、次の間から、今までの大きい圧迫から逃れ出たような声がした。

「ほんとうにまあ、どうなることかと心配したわ。お前が真っ二つにやられた後は、私の番じゃないかしらと、さっきから屏風の後ろで息を殺して見ていたのさ。でも、ほんとうにうまくいったこと。こうなっては一時も猶予はしていられないから、有り金をさらって逃げるとしよう。まだ中間たちは気づいていないようだから、逃げるなら今のうちさ。乳母や女中などは台所のほうでがたがた震えているらしいから、私が行って、じたばた騒がないように言ってこようよ。さあ! お前は有り金を探しておくれ」

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「ほんとにまあ、どうなることかと思って心配したわ。お前がまっ二つにやられた後は、私の番じゃあるまいかと、さっきから、屏風びょうぶの後で息を凝らして見ていたのさ。が、ほんとうにいい塩梅あんばいだったね。こうなっちゃ、一ときも猶予はしていられないから、有り金をさらって逃げるとしよう。まだ仲間たちは気がついていないようだから、逃げるなら今のうちさ。乳母や女中などは、台所の方でがたがた震えているらしいから、私が行って、じたばた騒がないようにいってこようよ。さあ! お前は有り金を探して下さいよ」

というその声は、確かに震えを帯びていた。

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というその声は、確かに震えを帯びていた。

だがその震えを、女としての強い意地で押さえつけ、努めて平気を装っているらしかった。

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が、そうした震えを、女性としての強い意地で抑制して、努めて平気を装っているらしかった。

市九郎は――自分自身の思いというものをすっかり失っていた市九郎は、女の声を聞くと、生き返ったように活気づいた。

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市九郎は――自分特有の動機を、すっかり失くしていた市九郎は、女の声をきくと、よみがえったように活気づいた。

彼は、自分の意志で動くというより、女の意志で動く操り人形のように立ち上がると、座敷に置いてある桐の茶箪笥に手をかけた。

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彼は、自分の意志で働くというよりも、女の意志によって働く傀儡かいらいのように立ち上ると、座敷に置いてある桐の茶箪笥に手をかけた。

そして、その真っ白な木目に血に汚れた手形を付けながら、引き出しをあちらこちらと探し始めた。

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そして、その真白い木目に、血に汚れた手形を付けながら、引出しをあちらこちらと探し始めた。

だが、女――主人の妾のお弓が戻ってくるまでに、市九郎は二朱銀の五両包みをただ一つ見つけただけであった。

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が、女――主人の妾のお弓が帰ってくるまでに、市九郎は、二朱銀の五両包をただ一つ見つけたばかりであった。

お弓は台所から引き返してきて、その金を見ると、

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お弓は、台所から引っ返してきて、その金を見ると、

「そんなはした金が、どうなるものかね」

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「そんな端金はしたがねが、どうなるものかね」

と言いながら、今度は自分でやけに引き出しを引っかき回した。

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と、いいながら、今度は自分で、やけに引出しを引掻き回した。

しまいには鎧櫃の中まで探したが、小判は一枚も出てこなかった。

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しまいには鎧櫃よろいびつの中まで探したが、小判は一枚も出てきはしなかった。

「評判のけちん坊だから、瓶にでも入れて、土の中に埋めてあるのかもしれない」

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「名うての始末屋だから、かめにでも入れて、土の中へでも埋めてあるのかも知れない」

そう忌々しそうに言い捨てると、金目のありそうな着物や印籠を、手早く風呂敷包みにした。

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そう忌々いまいましそうにいい切ると、金目のありそうな衣類や、印籠を、手早く風呂敷包にした。

こうして、この不義の男女が浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永三年の秋の初めであった。

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こうして、この姦夫姦婦かんぷかんぷが、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永あんえい三年の秋の初めであった。

あとには、その年三歳になる三郎兵衛のひとり息子、実之助が、父の非業の死も知らず、乳母の懐ですやすやと眠っているばかりであった。

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後には、当年三歳になる三郎兵衛の一子実之助が、父の非業の死も知らず、乳母の懐ろにすやすや眠っているばかりであった。

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市九郎とお弓は、江戸から逃げ出してから、東海道はわざと避けて、人目を忍びながら東山道を上方へと目指した。

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市九郎とお弓は、江戸を逐電してから、東海道はわざと避けて、人目を忍びながら、東山道とうさんどうを上方へと志した。

市九郎は、主殺しの罪に、絶えず良心を責めさいなまれていた。

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市九郎は、主殺しの罪から、絶えず良心の苛責を受けていた。

だが、けんぺき茶屋の女中あがりで、すれっからしのお弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、

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が、けんぺき茶屋の女中上がりの、莫連者ばくれんもののお弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、

「どうせお尋ね者になったからには、いくらくよくよしたってしようがないじゃないか。度胸を据えて世の中を面白く暮らすのが利口ってものさ」

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「どうせ凶状持ちになったからには、いくらくよくよしてもしようがないじゃないか。度胸を据えて世の中を面白く暮すのが上分別さ」

と、市九郎の心に、明けても暮れても悪への拍車をかけた。

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と、市九郎の心に、明け暮れ悪の拍車を加えた。

だが、信州から木曾の藪原の宿まで来たときには、二人の旅費は百文も残っていなかった。

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が、信州から木曾の藪原やぶはらの宿まで来た時には、二人の路用の金は、百も残っていなかった。

二人は、金に詰まるにつれて、悪事を働かねばならなくなった。

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二人は、窮するにつれて、悪事を働かねばならなかった。

はじめは、こういう男女の組み合わせとしては最もやりやすい美人局を稼業にした。

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最初はこうした男女の組合せとしては、最もなしやすい美人局つつもたせを稼業とした。

そうして信州から尾州にかけての宿場宿場で、行き来する町人や百姓の路銀を奪っていた。

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そうして信州から尾州へかけての宿々で、往来の町人百姓の路用の金を奪っていた。

はじめのうちは、女の激しいそそのかしに乗せられて、つい悪事に手を染めていた市九郎も、しまいには悪事の面白さを味わい始めた。

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初めのほどは、女からの激しい教唆きょうさで、つい悪事を犯し始めていた市九郎も、ついには悪事の面白さを味わい始めた。

浪人姿の市九郎に対して、被害者の町人や百姓は、金を取られながらもずいぶん素直であった。

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浪人姿をした市九郎に対して、被害者の町人や百姓は、金を取られながら、すこぶる柔順であった。

悪事がだんだん腕を上げていった市九郎は、美人局からもっと単純で手間のいらないゆすりに移り、しまいには辻斬り強盗をまっとうな稼業とさえ思うようになった。

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悪事がだんだん進歩していった市九郎は、美人局からもっと単純な、手数のいらぬ強請ゆすりをやり、最後には、切取強盗を正当な稼業とさえ心得るようになった。

彼はいつのまにか、信濃から木曾へ差しかかる鳥居峠に住みついた。

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彼は、いつとなしに信濃から木曾へかかる鳥居峠とりいとうげに土着した。

そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。

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そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。

彼はもう、そういう暮らしに何のためらいも、不安も感じなくなっていた。

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彼はもうそうした生活に、なんの躊躇をも、不安をも感じないようになっていた。

金のありそうな旅人を狙って、殺してはその死体を巧みに始末した。

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金のありそうな旅人を狙って、殺すと巧みにその死体を片づけた。

一年に三、四度そういう罪を犯せば、彼は楽々と一年の暮らしを支えることができた。

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一年に三、四度、そうした罪を犯すと、彼は優に一年の生活を支えることができた。

それは、彼らが江戸を出てから三年目になる春のころであった。

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それは、彼らが江戸を出てから、三年目になる春の頃であった。

参勤交代の北国大名の行列が二つばかり続けて通ったので、木曾街道の宿場は、近ごろになく賑わった。

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参勤交代の北国大名の行列が、二つばかり続いて通ったため、木曾街道の宿々は、近頃になく賑わった。

ことにこのころは、信州をはじめ越後や越中からの伊勢参りの客が、街道に列をなした。

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ことにこの頃は、信州を始め、越後や越中からの伊勢参宮の客が街道に続いた。

その中には、京から大坂へと、遊山の旅を延ばす者が多かった。

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その中には、京から大坂へと、遊山の旅を延すのが多かった。

市九郎は、その二、三人を倒して、その年の生活費を手に入れたいと思っていた。

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市九郎は、彼らの二、三人をたおして、その年の生活費を得たいと思っていた。

木曾街道にも、杉や檜に交じって咲いた山桜が散り始める、そんな夕暮れのことであった。

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木曾街道にも、杉や檜に交って咲いた山桜が散り始める夕暮のことであった。

市九郎の店に、男女二人の旅人が立ち寄った。

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市九郎の店に男女二人の旅人が立ち寄った。

それは、見るからに夫婦であった。

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それは明らかに夫婦であった。

男は三十を越していた。

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男は三十を越していた。

女は二十三、四であっただろう。

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女は二十三、四であっただろう。

供も連れない気楽な旅に出た、信州の豪農の若夫婦らしかった。

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供を連れない気楽な旅に出た信州の豪農の若夫婦らしかった。

市九郎は、二人の身なりを見ると、この二人を今年の獲物にしようかと思っていた。

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市九郎は、二人の身形みなりを見ると、彼はこの二人を今年の犠牲者にしようかと、思っていた。

「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」

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「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」

そう言いながら、男のほうは市九郎の店の前で、草鞋の紐を結び直そうとした。

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こういいながら、男の方は、市九郎の店の前で、草鞋わらじの紐を結び直そうとした。

市九郎が返事をしようとする前に、お弓が台所から出てきながら、

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市九郎が、返事をしようとする前に、お弓が、台所から出てきながら、

「さようでございます、この峠を下りさえすれば、もう半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」

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「さようでございます、もうこの峠を降りますれば半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」

と言った。

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と、いった。

市九郎は、お弓のこの言葉を聞くと、お弓がもう恐ろしい計画を自分に勧めようとしているのを察した。

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市九郎は、お弓のこの言葉を聞くと、お弓がすでに恐ろしい計画を、自分に勧めようとしているのを覚えた。

藪原の宿までまだ二里あまりある道を、もう目と鼻の先のように言いくるめて旅人に気をゆるさせ、その道中が夜にかかるのに乗じて、抜け道を走り、宿場の入口で襲う――それが市九郎の常套手段であった。

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藪原の宿までにはまだ二里に余る道を、もう何ほどもないようにいいくるめて、旅人に気をゆるさせ、彼らの行程が夜に入るのに乗じて、間道を走って、宿の入口で襲うのが、市九郎の常套の手段であった。

その男は、お弓の言葉を聞くと、

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その男は、お弓の言葉をきくと、

「それなら、茶でも一杯もらおうか」

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「それならば、茶なと一杯所望しようか」

と言いながら、もう彼らの第一の罠にかかってしまった。

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といいながら、もう彼らの第一の罠に陥ってしまった。

女は赤い紐のついた旅の菅笠を外しながら、夫のそばに寄り添って腰をかけた。

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女は赤い紐のついた旅の菅笠すげがさを取りはずしながら、夫のそばに寄り添うて、腰をかけた。

彼らは、そこで小半刻ほど、峠を登りきった疲れを休めると、銭を置いて、紫色に暮れかかっている小木曾の谷に向かって、鳥居峠を下りていった。

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彼らは、ここで小半刻も、峠を登り切った疲れを休めると、鳥目ちょうもくを置いて、紫に暮れかかっている小木曾おぎその谷に向って、鳥居峠を降りていった。

二人の姿が見えなくなると、お弓は、それっとばかりに合図をした。

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二人の姿が見えなくなると、お弓は、それとばかり合図をした。

市九郎は、獲物を追う猟師のように脇差を腰にすると、一目散に二人の後を追った。

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市九郎は、獲物を追う猟師のように、脇差を腰にすると、一散に二人の後を追うた。

本街道を右に折れ、木曾川の流れに沿って、険しい抜け道を急いだ。

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本街道を右に折れて、木曾川の流れに沿うて、険しい間道を急いだ。

市九郎が藪原の宿の手前の並木道に来たときには、春の長い日もすっかり暮れて、十日ばかりの月が木曾の山の向こうに登ろうとして、ほの白い月明かりだけが木曾の山々をかすかに浮かび上がらせていた。

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市九郎が、藪原の宿手前の並木道に来た時は、春の長い日がまったく暮れて、十日ばかりの月が木曾の山の彼方に登ろうとして、ほの白い月しろのみが、木曾の山々を微かに浮ばせていた。

市九郎は、街道に沿って生えている一むらの丸葉柳の下に身を隠しながら、夫婦が近づいてくるのをじっと待っていた。

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市九郎は、街道に沿うて生えている、一むらの丸葉柳の下に身を隠しながら、夫婦の近づくのを、おもむろに待っていた。

彼も心の底では、幸せな旅をしている二人の男女の命を不当に奪うということが、どれほど罪深いかを考えずにはいられなかった。

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彼も心の底では、幸福な旅をしている二人の男女の生命を、不当に奪うということが、どんなに罪深いかということを、考えずにはいなかった。

だが、いったんかかった仕事を途中でやめて帰ることは、お弓の手前、彼の思うにまかせないことだった。

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が、一旦なしかかった仕事を中止して帰ることは、お弓の手前、彼の心にまかせぬことであった。

彼は、この夫婦の血を流したくはなかった。

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彼は、この夫婦の血を流したくはなかった。

できることなら相手が、自分の脅しに二の句もなく従ってくれればいいと思っていた。

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なるべく相手が、自分の脅迫に二言もなく服従してくれればいいと、思っていた。

もし彼らが路銀と着物を出すのなら、決して殺すまいと思っていた。

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もし彼らが路用の金と衣装とを出すなら、決して殺生はしまいと思っていた。

彼の決心がようやく固まったころ、街道の向こうから、急ぎ足で近づいてくる男女の姿が見えた。

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彼の決心がようやく固まった頃に、街道の彼方から、急ぎ足に近づいてくる男女の姿が見えた。

二人は、峠からの道が思いのほか遠かったせいで疲れきったらしく、互いに助け合いながら、無言のまま急いでやって来た。

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二人は、峠からの道が、覚悟のほかに遠かったため、疲れ切ったと見え、お互いに助け合いながら、無言のままに急いで来た。

二人が丸葉柳の茂みに近づくと、市九郎は不意に街道の真ん中に立ちはだかった。

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二人が、丸葉柳の茂みに近づくと、市九郎は、不意に街道の真ん中に突っ立った。

そして、これまでに何度も口にし慣れている脅しの言葉を浴びせかけた。

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そして、今までに幾度も口にし馴れている脅迫の言葉を浴せかけた。

すると男は必死になったらしく、道中差を抜くと、妻を後ろにかばいながら身構えた。

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すると、男は必死になったらしく、道中差を抜くと、妻を後にかばいながら身構えした。

市九郎は、ちょっと出鼻をくじかれた。

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市九郎は、ちょっと出鼻を折られた。

だが彼は声を励まして、「いやさ、旅の人、手向かいして惜しい命を落とすまいぞ。命までは取ろうとは言わぬのだ。有り金と着物をおとなしく出して行け!」

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が、彼は声を励まして、「いやさ、旅の人、手向いしてあたら命を落すまいぞ。命までは取ろうといわぬのじゃ。有り金と衣類とをおとなしく出して行け!」

と叫んだ。

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と、叫んだ。

その顔を、相手の男はじいっと見ていたが、

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その顔を、相手の男は、じいっと見ていたが、

「やあ! さっきの峠の茶屋の主人ではないか」

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「やあ! 先程の峠の茶屋の主人ではないか」

と、その男は必死になって飛びかかってきた。

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と、その男は、必死になって飛びかかってきた。

市九郎は、もうこれまでだと思った。

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市九郎は、もうこれまでと思った。

自分の顔を見覚えられた以上、自分たちの身の安全のために、もうこの男女を生かしてはおけないと思った。

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自分の顔を見覚えられた以上、自分たちの安全のため、もうこの男女を生かすことはできないと思った。

相手が必死に切り込んでくるのを巧みにかわしながら、一刀を相手の首筋に浴びせた。

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相手が必死に切り込むのを、巧みに引きはずしながら、一刀を相手の首筋に浴びせた。

見ると連れの女は、気を失ったように道端にうずくまりながら、ぶるぶると震えていた。

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見ると連れの女は、気を失ったように道の傍にうずくまりながら、ぶるぶると震えていた。

市九郎は、女を殺すのは忍びなかった。

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市九郎は、女を殺すに忍びなかった。

だが、自分の身の危うさには代えられないと思った。

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が、彼は自分の危急には代えられぬと思った。

男を殺して殺気立っているうちにと思い、血刀を振りかざしながら、彼は女に近づいた。

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男の方を殺して殺気立っている間にと思って、血刀を振りかざしながら、彼は女に近づいた。

女は両手を合わせて、市九郎に命乞いをした。

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女は、両手を合わして、市九郎に命を乞うた。

市九郎は、その目に見つめられると、どうしても刀を振り下ろせなかった。

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市九郎は、その瞳に見つめられると、どうしても刀を下ろせなかった。

だが、殺さねばならないと思った。

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が、彼は殺さねばならぬと思った。

このとき市九郎の欲心が、この女を斬って着物を台なしにしてはつまらないと言った。

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この時市九郎の欲心は、この女を切って女の衣装を台なしにしてはつまらないと思った。

そう思うと、彼は腰に下げていた手拭いを外して、女の首を絞めた。

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そう思うと、彼は腰に下げていた手拭をはずして女の首をくくった。

市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖に襲われて、一刻もその場にいたたまれない気がした。

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市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖を感じて、一刻もいたたまらないように思った。

彼は二人の胴巻きと着物を奪うと、あたふたとその場から一目散に逃げ出した。

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彼は、二人の胴巻と衣類とを奪うと、あたふたとしてその場から一散に逃れた。

彼はこれまで十人を越える人を殺してきたが、それは白髪まじりの老人とか商人とか、そういう者ばかりで、若い夫婦連れを二人まで手にかけたことはなかった。

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彼は、今まで十人に余る人殺しをしたものの、それは半白の老人とか、商人とか、そうした階級の者ばかりで、若々しい夫婦づれを二人まで自分の手にかけたことはなかった。

彼は、深く良心にさいなまれながら帰ってきた。

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彼は、深い良心の苛責かしゃくにとらわれながら、帰ってきた。

そして家に入ると、すぐさま男女の着物と金とを、汚らわしいもののようにお弓のほうへ投げやった。

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そして家に入ると、すぐさま、男女の衣装と金とを、汚らわしいもののように、お弓の方へ投げやった。

女は、悠然とまず金のほうを調べてみた。

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女は、悠然としてまず金の方を調べてみた。

金は思ったより少なく、二十両をわずかに越えているだけであった。

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金は思ったより少なく、二十両をわずかに越しているばかりであった。

お弓は殺された女の着物を手に取ると、「まあ、黄八丈の着物に紋縮緬の襦袢だね。だけどお前さん、この女の髪の飾りはどうしたんだい」

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お弓は殺された女の着物を手に取ると、「まあ、黄八丈の着物に紋縮緬もんちりめんの襦袢だね。だが、お前さん、この女の頭のものは、どうおしだい」

と、彼女は問い詰めるように市九郎を振り返った。

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と、彼女は詰問するように、市九郎をかえりみた。

「髪の飾り!」

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「頭のもの!」

と、市九郎は生返事をした。

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と、市九郎は半ば返事をした。

「そうだよ。髪の飾りだよ。黄八丈に紋縮緬の着付けなら、髪の飾りだって、まがい物の櫛や笄じゃあるまいじゃないか。私はさっき、あの女が菅笠を取ったときに、ちらりと目を付けておいたのさ。べっ甲の揃いに違いなかったよ」

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「そうだよ。頭のものだよ。黄八丈に紋縮緬の着付じゃ、頭のものだって、擬物まがいものくしこうがいじゃあるまいじゃないか。わたしは、さっきあの女が菅笠を取った時に、ちらと睨んでおいたのさ。瑇瑁たいまいの揃いに相違なかったよ」

と、お弓はのしかかるように言った。

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と、お弓はのしかかるようにいった。

殺した女の髪の飾りのことなど夢にも考えていなかった市九郎は、何とも答えようがなかった。

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殺した女の頭のもののことなどは、夢にも思っていなかった市九郎は、なんとも答えるすべがなかった。

「お前さん! まさか、取るのを忘れたんじゃあるまいね。べっ甲なら、七両や八両は確かだよ。駆け出しの泥棒でもあるまいし、何のために人を殺すんだよ。あれだけの着物を着た女を殺しておきながら、髪の飾りに気がつかないとは、お前はいつから泥棒稼業になったのだえ。何というへまをやる泥棒だろう。何とか言ってごらん!」

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「お前さん! まさか、取るのを忘れたのじゃあるまいね。瑇瑁だとすれば、七両や八両は確かだよ。駆け出しの泥棒じゃあるまいし、なんのために殺生をするのだよ。あれだけの衣装を着た女を、殺しておきながら、頭のものに気がつかないとは、お前は、いつから泥棒稼業におなりなのだえ。なんというどじをやる泥棒だろう。なんとか、いってごらん!」

と、お弓は頭ごなしに市九郎へ食ってかかってきた。

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と、お弓は、威たけ高になって、市九郎に食ってかかってきた。

若い男女二人を殺してしまった悔いに心の底まで冒されかけていた市九郎は、女の言葉に深く傷つけられた。

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二人の若い男女を殺してしまった悔いに、心の底までおかされかけていた市九郎は、女の言葉から深く傷つけられた。

彼は、髪の飾りを取り忘れたという盗賊としての手抜かりを、あるいは無能を、悔やむ気持ちなど少しもなかった。

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彼は頭のものを取ることを、忘れたという盗賊としての失策を、或いは無能を、悔ゆる心は少しもなかった。

自分は二人を殺したことを悪いと思えばこそ、殺すことに気を取られて、女が髪に十両近い飾りを付けていることをまったく忘れていたのだ。

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自分は、二人を殺したことを、悪いことと思えばこそ、殺すことに気も転動して、女がその頭に十両にも近い装飾を付けていることをまったく忘れていた。

市九郎は、今になっても、忘れていたことを後悔する気にはなれなかった。

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市九郎は、今でも忘れていたことを後悔する心は起らなかった。

強盗に身を落とし、欲のために人を殺してはいるものの、悪鬼のように相手の骨までしゃぶりはしなかった――そう考えると、市九郎は悪い気持ちがしなかった。

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強盗に身を落して、利欲のために人を殺しているものの、悪鬼のように相手の骨まではしゃぶらなかったことを考えると、市九郎は悪い気持はしなかった。

それなのにお弓は、同じ女が無残に殺され、その身に着けていた下着までが、人殺しへの貢ぎ物として自分の目の前にさらされているのを見ながら、なおその飽くことのない欲心を、悪人の市九郎の目からさえこぼれ落ちた髪の飾りにまで伸ばしている――そう考えると、市九郎はお弓に対して、いたたまれないほどの浅ましさを感じた。

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それにもかかわらず、お弓は自分の同性が無残にも殺されて、その身に付けた下衣したぎまでが、殺戮者さつりくしゃに対する貢物として、自分の目の前にさらされているのを見ながら、なおその飽き足らない欲心は、さすが悪人の市九郎の目をこぼれた頭のものにまで及んでいる、そう考えると、市九郎はお弓に対して、いたたまらないような浅ましさを感じた。

お弓は、市九郎の心にこんな激しい変化が起きているとはまったく知らないで、

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お弓は、市九郎の心に、こうした激変が起っているのをまったく知らないで、

「さあ! お前さん! ひとっ走り行っておくれ。せっかくこっちの手に入っているものを、遠慮することはないじゃないか」

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「さあ! お前さん! 一走り行っておくれ。せっかく、こっちの手に入っているものを遠慮するには、当らないじゃないか」

と、自分の言い分にはじゅうぶん筋が通っていると信じきったような、勝ち誇った顔をした。

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と、自分の言い分に十分な条理があることを信ずるように、勝ち誇った表情をした。

だが、市九郎は黙りこくったまま応じなかった。

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が、市九郎は黙々として応じなかった。

「おや! お前さんの仕事のあらを拾ったんで、お気に障ったと見えるね。本当に、お前さんは行く気がないのかい。十両近い儲けを、みすみす棒に振るつもりかい」

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「おや! お前さんの仕事のあらを拾ったので、お気に触ったと見えるね。本当に、お前さんは行く気はないのかい。十両に近いもうけものを、みすみすふいにしてしまうつもりかい」

と、お弓は何度も市九郎に迫った。

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と、お弓は幾度も市九郎に迫った。

いつもならお弓の言うことをはいはいと聞く市九郎ではあったが、今の彼の心は激しく荒れ狂っていて、お弓の言葉など耳に入らないほど考え込んでいたのである。

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いつもは、お弓のいうことを、唯々いいとしてきく市九郎ではあったが、今彼の心は激しい動乱の中にあって、お弓の言葉などは耳に入らないほど、考え込んでいたのである。

「いくら言っても、行かないのだね。それじゃあ、私がひとっ走り行ってこようよ。場所はどこなの。やっぱりいつものところなのかい」

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「いくらいっても、行かないのだね。それじゃ、私が一走り行ってこようよ。場所はどこなの。やっぱりいつものところなのかい」

と、お弓が言った。

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と、お弓がいった。

お弓に対して抑えがたい嫌悪を感じ始めていた市九郎は、お弓がひとときでも自分のそばからいなくなることを、むしろ喜んだ。

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お弓に対して、抑えがたい嫌悪を感じ始めていた市九郎は、お弓が一刻でも自分のそばにいなくなることを、むしろよろこんだ。

「決まっているさ。いつもどおり、藪原の宿の手前の松並木だ」

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「知れたことよ。いつもの通り、藪原の宿の手前の松並木さ」

と、市九郎は吐き出すように言った。

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と、市九郎は吐き出すようにいった。

「じゃあ、ひとっ走り行ってくるから。幸い月の夜で外は明るいし……。ほんとうに、へまな仕事をするったら、ありゃしない」

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「じゃ、一走り行ってくるから。幸い月の夜でそとは明るいし……。ほんとうに、へまな仕事をするったら、ありゃしない」

と言いながら、お弓は裾をはしょり、草履をつっかけて駆け出した。

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と、いいながら、お弓は裾をはしょって、草履をつっかけると駆け出した。

市九郎は、お弓の後ろ姿を見ていると、浅ましさで心がいっぱいになってきた。

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市九郎は、お弓の後姿を見ていると、浅ましさで、心がいっぱいになってきた。

死人の髪飾りを剥ぎ取るために血眼になって駆けていく女の姿を見ると、市九郎はかつてその女に愛情を持っていただけに、心の底から浅ましく思わずにはいられなかった。

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死人の髪のものを剥ぐために、血眼になって駆け出していく女の姿を見ると、市九郎はその女に、かつて愛情を持っていただけに、心の底から浅ましく思わずにはいられなかった。

その上、自分が悪事をしているとき、たとえ無残に人を殺しているときでも、金を盗んでいるときでも、自分がやっているのだということが常に不思議な言い訳になって、浅ましさを感じることは少なかったが、いったん他人の悪事を黙って傍から眺めるとなると、その恐ろしさ、浅ましさが、これ以上ないほどはっきりと市九郎の目に映らずにはいなかった。

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その上、自分が悪事をしている時、たとい無残にも人を殺している時でも、金を盗んでいる時でも、自分がしているということが、常に不思議な言い訳になって、その浅ましさを感ずることが少なかったが、一旦人が悪事をなしているのを、静かに傍観するとなると、その恐ろしさ、浅ましさが、あくまで明らかに、市九郎の目に映らずにはいなかった。

自分が命を賭けてまで手に入れた女が、わずか五両か十両のべっ甲のために、女らしい優しさをすべて捨てて、死骸に群がる狼のように、殺された女の亡骸を目指して駆けていく――それを見ると、市九郎はもう、この罪の巣に、この女と一緒に一刻もいたたまれなくなった。

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自分が、命を賭してまで得た女が、わずか五両か十両の瑇瑁たいまいのために、女性の優しさのすべてを捨てて、死骸に付く狼のように、殺された女の死骸を慕うて駆けて行くのを見ると、市九郎は、もうこの罪悪の棲家すみかに、この女と一緒に一刻もいたたまれなくなった。

そう考え出すと、これまで自分の犯した悪事がひとつひとつよみがえって、彼の心を食い裂いた。

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そう考え出すと、自分の今までに犯した悪事がいちいちよみがえって自分の心を食い割いた。

絞め殺した女の目や、血みどろになった繭商人のうめき声や、一太刀浴びせた白髪の老人の悲鳴などが、ひとかたまりになって市九郎の良心を襲ってきた。

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絞め殺した女の瞳や、血みどろになった繭商人まゆしょうにんの呻き声や、一太刀浴せかけた白髪の老人の悲鳴などが、一団になって市九郎の良心を襲うてきた。

彼は、一刻も早く自分の過去から逃れたかった。

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彼は、一刻も早く自分の過去から逃れたかった。

彼は、自分自身からさえも逃れたかった。

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彼は、自分自身からさえも、逃れたかった。

まして、自分のあらゆる罪の芽であった女からは、何としても逃れたかった。

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まして自分のすべての罪悪の萌芽であった女から、極力逃れたかった。

彼は、意を決して立ち上がった。

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彼は、決然として立ち上った。

彼は、二、三枚の着物を風呂敷に包んだ。

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彼は、二、三枚の衣類を風呂敷に包んだ。

さきほどの男から奪った胴巻きを当座の路銀として懐に入れたまま、身支度も整えずに外へ飛び出した。

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さっきの男から盗った胴巻を、当座の路用として懐ろに入れたままで、支度も整えずに、戸外に飛び出した。

だが、十間ばかり走り出したとき、ふと自分の持っている金も着物も、ことごとく盗んだものだと気づくと、跳ね返されたように引き返して、自分の家の上がり框へ、着物と金とを力いっぱい投げつけた。

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が、十間ばかり走り出した時、ふと自分の持っている金も、衣類も、ことごとく盗んだものであるのに気がつくと、跳ね返されたように立ち戻って、自分の家の上りがまちへ、衣類と金とを、力一杯投げつけた。

彼は、お弓に会わないように、道でもない道を木曾川に沿って一目散に走った。

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彼は、お弓に会わないように、道でない道を木曾川に添うて一散に走った。

どこへ行くという当てもなかった。

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どこへ行くという当てもなかった。

ただ、自分の罪の巣から、一寸でも一分でも遠いところへ逃れたかった。

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ただ自分の罪悪の根拠地から、一寸でも、一分でも遠いところへ逃れたかった。

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二十里を越える道を、市九郎は山も野も構わずひと息に駆け通し、翌日の昼下がりに、美濃国は大垣在の浄願寺に駆け込んだ。

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二十里に余る道を、市九郎は、山野の別なく唯一息に馳せて、明くる日の昼下り、美濃国の大垣在の浄願寺じょうがんじに駆け込んだ。

彼は、はじめからこの寺を目指してきたのではない。

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彼は、最初からこの寺を志してきたのではない。

逃げる途中、たまたまこの寺の前に出たとき、乱れきった懺悔の心が、ふと宗教の光にすがってみたいと思ったのである。

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彼の遁走の中途、偶然この寺の前に出た時、彼の惑乱した懺悔の心は、ふと宗教的な光明にすがってみたいという気になったのである。

浄願寺は、美濃一円の真言宗を束ねる寺であった。

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浄願寺は、美濃一円真言宗の僧録であった。

市九郎は、住職である明遍大徳の袖にすがって、心からの懺悔をした。

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市九郎は、現往明遍大徳衲げんおうみょうへんだいとくのうの袖に縋って、懺悔のまことをいたした。

上人は、さすがにこの救いがたい大悪人をも見捨てなかった。

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上人しょうにんはさすがに、この極重悪人をも捨てなかった。

市九郎が役人に自首しようかと言うのを押しとどめて、

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市九郎が有司ゆうしの下に自首しようかというのを止めて、

「重ね重ねの悪業を積んできたそなたのことじゃから、役人の手で首をさらされ、この世で報いを受けるのもひとつの道ではある。だがそれでは、未来永劫、焦熱地獄の苦しみを受け続けねばならぬぞ。それよりも仏道に帰依し、多くの人を救うために身も命も捨てて人々を助け、それによってそなた自身をも救うことが肝心じゃ」

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「重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手によって身を梟木きょうぼくに晒され、現在の報いを自ら受くるのも一法じゃが、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱くげんを受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依きえし、衆生済度しゅじょうさいどのために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」

と、諭した。

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と、教化した。

市九郎は上人の言葉を聞いて、いっそう懺悔の火に心を焼かれ、その場で出家の志を固めた。

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市九郎は、上人の言葉をきいて、またさらに懺悔の火に心をただらせて、当座に出家の志を定めた。

彼は上人の手で剃髪し、了海という法名を与えられ、ひたすら仏道修行に心血を注いだが、求道の心があまりに強かったため、わずか半年に足りない修行で、その行いは氷や霜よりも清らかとなり、朝には身と口と心の三つの行法を凝らし、夕べには秘密念仏の座を離れず、二つの行がともに見事に整って、はっと開けるような悟りの智慧が芽生え、みごとな高僧となりきった。

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彼は、上人の手によって得度とくどして、了海りょうかいと法名を呼ばれ、ひたすら仏道修行に肝胆を砕いたが、道心勇猛のために、わずか半年に足らぬ修行に、行業ぎょうごう氷霜ひょうそうよりもきよく、朝には三密の行法を凝らし、夕には秘密念仏の安座を離れず、二行彬々ぎょうひんぴんとして豁然智度かつぜんちどの心萌し、天晴れの知識となりすました。

彼は自分の道心が定まってもう揺るがないと自覚すると、師の許しを得て、あらゆる人を救うという大願を立て、諸国を巡る雲水の旅に出たのであった。

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彼は自分の道心が定まって、もう動かないのを自覚すると、師の坊の許しを得て、諸人救済の大願を起し、諸国雲水の旅に出たのであった。

美濃の国を後にして、まず京の都を目指した。

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美濃の国を後にして、まず京洛の地を志した。

彼は、何人もの人を殺しておきながら、たとえ僧の姿であっても、自分が生き永らえているのが心苦しかった。

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彼は、幾人もの人を殺しながら、たとい僧形の姿なりとも、自分が生き永らえているのが心苦しかった。

人々のために身を粉々に砕いて、自分の罪の万分の一でも償いたいと思っていた。

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諸人のため、身を粉々に砕いて、自分の罪障の万分の一をも償いたいと思っていた。

ことに自分が木曾の山中にあって旅人を苦しめたことを思うと、道行く人々に対して、償いきれない借りを負っているように思われた。

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ことに自分が、木曾山中にあって、行人をなやませたことを思うと、道中の人々に対して、償い切れぬ負担を持っているように思われた。

寝ても覚めても、人のためを思わないことはなかった。

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行住座臥にも、人のためを思わぬことはなかった。

道で難儀している人を見ると、彼は手を引き、腰を押して、その道中を助けた。

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道路に難渋の人を見ると、彼は、手を引き、腰を押して、その道中を助けた。

病に苦しむ老人や子どもを背負って、何里もの道を遠いとも思わなかったこともあった。

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病に苦しむ老幼を負うて、数里に余る道を遠しとしなかったこともあった。

本街道から外れた村道の橋でも、壊れていれば、彼は自分から山に入って木を切り、石を運んで直した。

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本街道を離れた村道の橋でも、破壊されている時は、彼は自ら山に入って、木を切り、石を運んで修繕した。

道が崩れているのを見れば、土砂を運んできて繕った。

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道の崩れたのを見れば、土砂を運び来って繕うた。

こうして畿内から中国筋にかけて、ひたすら善根を積むことに心を砕いたが、身に積み重なった罪は空よりも高く、積む善根は大地よりも低いと思うと、彼は改めて、これまでの半生の悪業の深さを悲しんだ。

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かくして、畿内から、中国を通して、ひたすら善根を積むことに腐心したが、身に重なれる罪は、空よりも高く、積む善根は土地よりも低きを思うと、彼は今更に、半生の悪業の深きを悲しんだ。

市九郎は、この程度のわずかな善根では自分の極悪は償いきれないと知って、心を暗くした。

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市九郎は、些細ささいな善根によって、自分の極悪が償いきれぬことを知って、心を暗うした。

旅の宿で夜半に目を覚ますたび、こんな心もとない償いをしながらなお生にしがみついているのが、ひどく情けなく思われて、自ら命を絶ちたいと思ったことさえあった。

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逆旅げきりょの寝覚めにはかかる頼母たのもしからぬ報償をしながら、なお生を貪っていることが、はなはだ腑甲斐ないように思われて、自ら殺したいと思ったことさえあった。

だが、そのたびに退くまじという勇気を奮い起こし、多くの人を救う大事業をなすべき機縁が訪れることを祈った。

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が、そのたびごとに、不退転の勇を翻し、諸人救済の大業をなすべき機縁のいたらんことを祈念した。

享保九年の秋であった。

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享保きょうほう九年の秋であった。

彼は赤間ヶ関から小倉に渡り、豊前の国の宇佐八幡宮を拝み、山国川をさかのぼって耆闍崛山羅漢寺に詣でようと、四日市から南へ、赤土の茫々とした野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に沿って辿った。

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彼は、赤間ヶ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川やまくにがわをさかのぼって耆闍崛山羅漢寺きしゃくつせんらかんじに詣でんものと、四日市から南に赤土の茫々たる野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に添うて、辿った。

筑紫の秋は、宿場に泊まるごとに深まって、雑木の森には櫨が赤く燃え、野には稲が黄色く実り、農家の軒には、この辺りの名物の柿が真紅の珠を連ねていた。

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筑紫の秋は、駅路の宿とまりごとに更けて、雑木の森にははじ赤くただれ、野には稲黄色く稔り、農家の軒には、この辺の名物の柿が真紅の珠を連ねていた。

それは八月に入って間もないある日のことであった。

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それは八月に入って間もないある日であった。

彼は秋の朝の光に輝く山国川の澄みきった流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近くに樋田の宿場に着いた。

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彼は秋の朝の光の輝く、山国川の清冽せいれつな流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近き頃樋田ひだの駅に着いた。

寂しい宿場で昼の食事にありついたあと、また山国谷に沿って南を目指した。

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淋しい駅で昼食のときにありついた後、再び山国谷やまくにだにに添うて南を指した。

樋田の宿場を出外れると、道はふたたび山国川に沿って、火山岩の岸を伝って走っていた。

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樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて、火山岩の河岸を伝うて走っていた。

歩きにくい石だらけの道を、市九郎が杖を頼りに辿っていたとき、ふと道端で、この辺りの農夫だろうか、四、五人の人々がわいわいと騒いでいるのを見た。

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歩みがたい石高道を、市九郎は、杖を頼りに辿っていた時、ふと道のそばに、この辺の農夫であろう、四、五人の人々が罵り騒いでいるのを見た。

市九郎が近づくと、その中の一人が早くも市九郎の姿を見つけて、

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市九郎が近づくと、その中の一人は、早くも市九郎の姿を見つけて、

「これは、よいところへ来られた。非業の死を遂げた、哀れな仏じゃ。通りかかられたご縁に、ひとつ回向をしてくだされ」

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「これは、よいところへ来られた。非業の死を遂げた、哀れな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向えこうをして下され」

と言った。

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と、いった。

非業の死と聞いたとき、追い剥ぎに殺された旅人の死骸ではあるまいかと思って、市九郎は過去の悪業を思い出し、とっさに湧き上がる悔恨に両脚がすくむのを覚えた。

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非業の死だときいた時、剽賊ひょうぞくのためにあやめられた旅人の死骸ではあるまいかと思うて、市九郎は過去の悪業を思い起して、刹那に湧く悔恨の心に、両脚のすくむのをおぼえた。

「見れば水死人のようじゃが、あちこち皮膚や肉が破れているのは、どういうわけか」

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「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのは、いかがした子細じゃ」

と、市九郎は恐る恐る尋ねた。

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と、市九郎は、恐る恐るきいた。

「お坊さまは旅の方と見えてご存じあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡しという難所がある。山国谷いちばんの難所で、南北を行き来する人も馬もことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上の柿坂郷に住む馬子でな、今朝、鎖渡しの途中で馬が暴れたために、五丈近いところを真っ逆さまに落ちて、ご覧のとおりの無残な最期じゃ」

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「御出家は、旅の人と見えてご存じあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡しという難所がある。山国谷第一の切所きりしょで、南北往来の人馬が、ことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上柿坂郷に住んでいる馬子まごじゃが、今朝鎖渡しの中途で、馬が狂うたため、五丈に近いところを真っ逆様に落ちて、見られる通りの無残な最期じゃ」

と、その中の一人が言った。

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と、その中の一人がいった。

「鎖渡しといえば、かねがね難所とは聞いていたが、こういう痛ましいことは、たびたびあるのか」

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「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」

と、市九郎は死骸を見つめながら、沈んだ声で尋ねた。

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と、市九郎は、死骸を見守りながら、打ちしめってきいた。

「一年に三、四人、多ければ十人も、思いがけない目に遭うことがある。またとない難所ゆえ、風雨で桟道が朽ちても、修繕さえ思うようにいかぬのじゃ」

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「一年に三、四人、多ければ十人も、思わぬ憂き目を見ることがある。無双の難所ゆえに、風雨にかけはしが朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」

と答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。

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と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。

市九郎は、この不幸な遭難者にひととおりの経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。

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市九郎は、この不幸な遭難者に一遍の経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。

そこまでは、もう一町もなかった。

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そこまでは、もう一町もなかった。

見ると、川の左にそびえる荒削りしたような山が、山国川に臨むところで十丈近い絶壁に切り立ち、そこに灰白色のぎざぎざした襞の多い肌をむき出しにしているのであった。

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見ると、川の左にそびえる荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざしたひだの多い肌を露出しているのであった。

山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたようにここへ寄り集まり、絶壁の裾を洗いながら、濃い緑をたたえて渦巻いている。

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山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾を洗いながら、濃緑の色を湛えて、渦巻いている。

里の人たちが鎖渡しと言ったのはこれだろうと、彼は思った。

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里人らが、鎖渡しといったのはこれだろうと、彼は思った。

道はその絶壁に断ち切られ、絶壁の中腹を、松や杉などの丸太を鎖でつないだ桟道が、危なっかしく伝っている。

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道は、その絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道が、危げに伝っている。

か弱い女子どもでなくとも、うつむいて五丈あまり下の水面を見、仰いで頭上にのしかかる十丈近い絶壁を見れば、魂も消え、心がおののくのも当然であった。

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かよわい婦女子でなくとも、俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心おののくもことわりであった。

市九郎は岩壁にすがりながら、震える足を踏みしめてようやく渡り終え、その絶壁を振り返った瞬間、彼の心にとっさに大きな誓願がむくむくと湧き起こった。

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市九郎は、岩壁に縋りながら、戦く足を踏み締めて、ようやく渡り終ってその絶壁を振り向いた刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然としてきざした。

積むべき償いがあまりに小さかった彼は、自分のひたむきで勇猛な心を試すにたる難業に出会うことを祈っていた。

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積むべき贖罪しょくざいのあまりに小さかった彼は、自分が精進勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。

今、目の前に、旅人が苦しみ、一年に十人近い命を奪う難所を見たとき、彼の中に、自分の身も命も捨ててこの難所を取り除こうという思いが燃え上がったのも無理はなかった。

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今目前に行人が艱難し、一年に十に近い人の命を奪う難所を見た時、彼は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然として起ったのも無理ではなかった。

二百間あまりもある絶壁を掘り貫いて道を通そうという、大胆不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのである。

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二百余間に余る絶壁を掘貫ほりつらぬいて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのである。

市九郎は、自分が求めて歩いてきたものが、ようやくここで見つかったと思った。

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市九郎は、自分が求め歩いたものが、ようやくここで見つかったと思った。

一年に十人を救えば、十年で百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。

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一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。

そう決心すると、彼はまっしぐらに実行に取りかかった。

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こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。

その日から羅漢寺の宿坊に泊まりながら、山国川に沿った村々を回って説き、トンネルを掘り抜く大事業への寄進を求めた。

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その日から、羅漢寺の宿坊に宿とまりながら、山国川に添うた村々を勧化かんげして、隧道開鑿ずいどうかいさくの大業の寄進を求めた。

だが、この流れ者の坊主の言葉に耳を貸す者は一人もいなかった。

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が、何人なんびともこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。

「三町を越える大岩を掘り抜こうという気違いじゃ、はははは」

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「三町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人ふうきょうじんじゃ、はははは」

と笑う者は、まだよかった。

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と、わらうものは、まだよかった。

「大詐欺じゃ。針の穴から天をのぞくような大法螺を触れ回って金を集めようという、大詐欺じゃ」

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大騙おおかたりじゃ。針のみぞから天を覗くようなことを言い前にして、金を集めようという、大騙りじゃ」

と、中には市九郎の勧めに対して、危害を加える者さえあった。

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と、中には市九郎の勧説かんぜいに、迫害を加うる者さえあった。

市九郎は十日のあいだ、むなしく勧進に努めたが、誰ひとり耳を貸さないと知ると、奮い立って、自分ひとりの力でこの大事業に当たろうと決心した。

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市九郎は、十日の間、徒らな勧進に努めたが、何人なんびともが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力、この大業に当ることを決心した。

彼は石工の使う槌と鑿を手に入れて、この大絶壁の一端に立った。

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彼は、石工の持つ槌とのみとを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。

それは、まるで一枚の戯画であった。

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それは、一個のカリカチュアであった。

削り落としやすい火山岩とはいえ、川を圧してそびえ立つ、はてしなく続く大絶壁を、市九郎はたった一人の力で掘り抜こうというのであった。

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削り落しやすい火山岩であるとはいえ、川を圧して聳え立つ蜿蜒えんえんたる大絶壁を、市九郎は、己一人の力で掘貫こうとするのであった。

「とうとう気が狂った!」

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「とうとう気が狂った!」

と、道行く人は市九郎の姿を指さして笑った。

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と、行人は、市九郎の姿を指しながら嗤った。

だが、市九郎はくじけなかった。

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が、市九郎は屈しなかった。

山国川の清流で身を清め、観世音菩薩に祈りながら、渾身の力を込めて第一の槌を下ろした。

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山国川の清流に沐浴して、観世音菩薩を祈りながら、渾身の力を籠めて第一の槌を下した。

それに応えて、ほんの二、三片のかけらが飛び散っただけであった。

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それに応じて、ただ二、三ひらの砕片が、飛び散ったばかりであった。

だが、ふたたび力を込めて第二の槌を下ろした。

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が、再び力を籠めて第二の槌を下した。

さらに二、三片の小さな塊が、巨大で果てしない岩の塊から離れただけであった。

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更に二、三片の小塊が、巨大なる無限大の大塊から、分離したばかりであった。

第三、第四、第五と、市九郎は懸命に槌を下ろした。

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第三、第四、第五と、市九郎は懸命に槌を下した。

腹が減れば近くの村を托鉢して回り、腹が満ちれば絶壁に向かって槌を下ろした。

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空腹を感ずれば、近郷を托鉢し、腹満つれば絶壁に向って槌を下した。

怠け心が起これば、ただ真言を唱えて、勇猛な心を奮い起こした。

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懈怠けたいの心を生ずれば、只真言を唱えて、勇猛の心を振い起した。

一日、二日、三日、市九郎の努力は絶え間なく続いた。

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一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なく続いた。

旅人はそのそばを通るたびに、あざけりの声を投げた。

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旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑の声を送った。

だが、市九郎の心はそのくらいで、ほんの一瞬もたゆむことはなかった。

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が、市九郎の心は、そのために須臾しゅゆたゆむことはなかった。

あざけりの声を聞けば、彼はいっそう槌を持つ手に力を込めた。

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嗤笑ししょうの声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力を籠めた。

やがて市九郎は、雨露をしのぐために、絶壁のそばに木の小屋を建てた。

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やがて、市九郎は、雨露をしのぐために、絶壁に近く木小屋を立てた。

朝は、山国川の流れが星の光を映すころから起き出し、夕べは、瀬の音が静まりかえった天地に澄みわたるころまで、手を止めなかった。

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朝は、山国川の流れが星の光を写す頃から起き出て、夕は瀬鳴せなりの音が静寂の天地に澄みかえる頃までも、止めなかった。

それでも、道行く人々はなお、あざけりの言葉をやめなかった。

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が、行路の人々は、なお嗤笑の言葉を止めなかった。

「身のほど知らずの大馬鹿者じゃ」

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「身のほどを知らぬたわけじゃ」

と、市九郎の努力など眼中になかった。

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と、市九郎の努力を眼中におかなかった。

だが、市九郎は一心不乱に槌を振った。

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が、市九郎は一心不乱に槌を振った。

槌を振ってさえいれば、彼の心には何の雑念も起こらなかった。

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槌を振っていさえすれば、彼の心には何の雑念も起らなかった。

人を殺した悔恨も、そこにはなかった。

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人を殺した悔恨も、そこには無かった。

極楽に生まれたいという願いもなかった。

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極楽に生れようという、欣求ごんぐもなかった。

ただそこには、晴れ晴れとしたひたむきな心があるばかりであった。

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ただそこに、晴々した精進の心があるばかりであった。

彼は出家して以来、夜ごとの寝覚めに自分を苦しめてきた悪業の記憶が、日に日に薄らいでいくのを感じた。

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彼は出家して以来、夜ごとの寝覚めに、身を苦しめた自分の悪業の記憶が、日に薄らいでいくのを感じた。

彼はますます勇猛な心を奮い起こして、ひたすら一心に槌を振った。

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彼はますます勇猛の心を振い起して、ひたすら専念に槌を振った。

新しい年が来た。

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新しい年が来た。

春が来て、夏が来て、早くも一年が経った。

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春が来て、夏が来て、早くも一年が経った。

市九郎の努力は、むなしくはなかった。

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市九郎の努力は、空しくはなかった。

大絶壁の一端に、深さ一丈近い洞窟が掘られていた。

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大絶壁の一端に、深さ一丈に近い洞窟が穿うがたれていた。

それはほんの小さな洞窟ではあったが、市九郎の強い意志が、最初の爪痕をはっきりと刻みつけていた。

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それは、ほんの小さい洞窟ではあったが、市九郎の強い意志は、最初の爪痕そうこんを明らかに止めていた。

だが、近くの村の人々はまた市九郎を笑った。

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が、近郷の人々はまた市九郎を嗤った。

「あれを見てみろ! 気違い坊主が、あれだけ掘りおった。一年ももがいて、たったあれだけじゃ……」

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「あれ見られい! 狂人坊主が、あれだけ掘りおった。一年の間、もがいて、たったあれだけじゃ……」

と笑った。

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と、嗤った。

だが、市九郎は自分の掘り抜いた穴を見ると、涙が出るほど嬉しかった。

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が、市九郎は自分の掘り穿った穴を見ると、涙の出るほど嬉しかった。

それがどんなに浅くとも、自分のひたむきな力がそのまま形になって現れたものに違いなかった。

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それはいかに浅くとも、自分が精進の力の如実にょじつに現れているものに、相違なかった。

市九郎は年を重ねて、さらにいっそう奮い立った。

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市九郎は年を重ねて、また更に振い立った。

夜は本物の闇の中、昼もなお薄暗い洞窟の中に座り込んで、ただ右腕だけを狂ったように振っていた。

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夜は如法にょほうの闇に、昼もなお薄暗い洞窟のうちに端座して、ただ右の腕のみを、狂気のごとくに振っていた。

市九郎にとって、右腕を振ることだけが、彼の信仰生活のすべてになってしまった。

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市九郎にとって、右の腕を振ることのみが、彼の宗教的生活のすべてになってしまった。

洞窟の外では、日が輝き月が照り、雨が降り嵐が吹き荒れた。

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洞窟の外には、日が輝き月が照り、雨が降り嵐がすさんだ。

だが、洞窟の中には、絶え間ない槌の音だけがあった。

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が、洞窟の中には、間断なき槌の音のみがあった。

二年目の終わりにも、里の人たちはまだ笑うのをやめなかった。

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二年の終わりにも、里人はなお嗤笑を止めなかった。

だが、それはもう声にまでは出なくなっていた。

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が、それはもう、声にまでは出てこなかった。

ただ、市九郎の姿を見送ったあと、顔を見合わせて互いに笑い合うだけであった。

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ただ、市九郎の姿を見た後、顔を見合せて、互いに嗤い合うだけであった。

だが、さらに一年経った。

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が、更に一年経った。

市九郎の槌の音は、山国川の水音と同じように、絶えることなく響いていた。

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市九郎の槌の音は山国川の水声と同じく、不断に響いていた。

村の人たちは、もう何も言わなくなった。

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村の人たちは、もうなんともいわなかった。

彼らの嘲りの表情は、いつのまにか驚きのそれに変わっていた。

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彼らが嗤笑の表情は、いつの間にか驚異のそれに変っていた。

市九郎は髪を梳かないので、頭髪はいつのまにか伸びて両肩を覆い、湯を浴びないので垢にまみれて、人間とも見えなかった。

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市九郎はくしけずらざれば、頭髪はいつの間にか伸びて双肩を覆い、ゆあみせざれば、垢づきて人間とも見えなかった。

だが彼は、自分の掘り抜いた洞窟の中で獣のようにうごめきながら、狂ったようにその槌を振り続けていたのである。

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が、彼は自分が掘り穿った洞窟のうちに、獣のごとくうごめきながら、狂気のごとくその槌を振いつづけていたのである。

里の人たちの驚きは、いつのまにか同情に変わっていた。

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里人の驚異は、いつの間にか同情に変っていた。

市九郎がわずかな暇を盗んで托鉢の行脚に出かけようとすると、洞窟の出口に思いがけず一杯の食事が置かれていることが多くなった。

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市九郎がしばしの暇をぬすんで、托鉢の行脚に出かけようとすると、洞窟の出口に、思いがけなく一椀のときを見出すことが多くなった。

市九郎はそのおかげで、托鉢に費やすはずの時間まで、絶壁に向かうことができた。

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市九郎はそのために、托鉢に費やすべき時間を、更に絶壁に向うことができた。

四年目の終わりが来た。

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四年目の終りが来た。

市九郎の掘り抜いた洞窟は、もはや五丈の深さに達していた。

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市九郎の掘り穿った洞窟は、もはや五丈の深さに達していた。

だが、その三町を越える絶壁に比べれば、そこにはまだ、途方に暮れるほどの隔たりがあった。

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が、その三町を超ゆる絶壁に比ぶれば、そこになお、亡羊ぼうようの嘆があった。

里の人たちは市九郎の熱心さに驚いたものの、これほど見えすいた無駄骨に力を貸そうという者は、まだ一人もいなかった。

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里人は市九郎の熱心に驚いたものの、いまだ、かくばかり見えすいた徒労に合力するものは、一人もなかった。

市九郎は、ただ独りでその努力を続けねばならなかった。

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市九郎は、ただ独りその努力を続けねばならなかった。

だが、もう掘り抜くという仕事そのものに没入しきった市九郎には、ただ槌を振るうほか、何の思いもなかった。

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が、もう掘り穿つ仕事において、三昧に入った市九郎は、ただ槌を振うほかは何の存念もなかった。

ただモグラのように、命のある限り掘り進んでいくほか、何の思いもなかった。

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ただ土鼠もぐらのように、命のある限り、掘り穿っていくほかには、何の他念もなかった。

彼はただ独り、こつこつと掘り進んだ。

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彼はただ一人拮々きつきつとして掘り進んだ。

洞窟の外では春が去って秋が来て、四季の風物が移り変わったが、洞窟の中には絶え間ない槌の音だけが響いていた。

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洞窟の外には春去って秋来り、四時の風物が移り変ったが、洞窟の中には不断の槌の音のみが響いた。

「気の毒な坊さまじゃ。何かに取り憑かれたと見えて、あの大岩を掘り続けておる。十分の一も掘り抜けないうちに、自分の命が尽きてしまうだろうに」

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「可哀そうな坊様じゃ。ものに狂ったとみえ、あの大盤石を穿っていくわ。十の一も穿ち得ないで、おのれが命を終ろうものを」

と、道行く人々は市九郎のむなしい努力を、悲しみ始めた。

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と、行路の人々は、市九郎の空しい努力を、悲しみ始めた。

だが、一年経ち二年経ち、ちょうど九年目の終わりには、穴の入口から奥まで二十二間を測るところまで掘り抜いた。

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が、一年経ち二年経ち、ちょうど九年目の終りに、穴の入口より奥まで二十二間を計るまでに、掘り穿った。

樋田郷の里人は、はじめて市九郎の事業が実現しうるものだと気がついた。

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樋田郷ひだのごうの里人は、初めて市九郎の事業の可能性に気がついた。

一人の痩せた乞食坊主が九年の力でここまで掘り抜けるのなら、人手を増やし年月を重ねれば、この大絶壁を掘り貫くことも、決して不思議なことではない――そういう考えが、里の人たちの胸に刻まれてきた。

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一人の痩せた乞食僧が、九年の力でこれまで掘り穿ち得るものならば、人を増し歳月を重ねたならば、この大絶壁を穿ち貫くことも、必ずしも不思議なことではないという考えが、里人らの胸の中に銘ぜられてきた。

九年前、市九郎の勧進をこぞって突っぱねた山国川沿いの七つの郷の里人は、今度は自分から進んで掘削の寄進をするようになった。

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九年前、市九郎の勧進をこぞってしりぞけた山国川に添う七郷の里人は、今度は自発的に開鑿かいさくの寄進に付いた。

何人もの石工が、市九郎の事業を助けるために雇われた。

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数人の石工が市九郎の事業を援けるために雇われた。

もう、市九郎は独りではなかった。

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もう、市九郎は孤独ではなかった。

岩壁に打ち下ろされる幾つもの槌の音が、勇ましく賑やかに、洞窟の中から漏れ始めた。

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岩壁に下す多数の槌の音は、勇ましく賑やかに、洞窟の中から、もれ始めた。

だが翌年になって、里人たちが工事の進み具合を測ったとき、それがまだ絶壁の四分の一にも達していないと分かると、彼らはふたたび落胆と疑いの声を漏らした。

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が、翌年になって、里人たちが、工事の進み方を測った時、それがまだ絶壁の四分の一にも達していないのを発見すると、里人たちは再び落胆疑惑の声をもらした。

「人を増やしても、とても成し遂げられはせぬことじゃ。惜しいことに、了海どのに騙されて要らぬ出費をした」

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「人を増しても、とても成就はせぬことじゃ。あたら、了海どのにたぶらかされて要らぬ物入りをした」

と、彼らははかどらない工事に、いつのまにかすっかり嫌気がさしていた。

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と、彼らははかどらぬ工事に、いつの間にか倦ききっておった。

市九郎は、また独り取り残されねばならなかった。

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市九郎は、また独り取り残されねばならなかった。

彼は、自分のそばで槌を振る者が一人減り二人減り、ついには一人もいなくなったことに気がついた。

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彼は、自分のそばに槌を振る者が、一人減り二人減り、ついには一人もいなくなったのに気がついた。

だが、彼は決して去る者を追わなかった。

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が、彼は決して去る者を追わなかった。

黙々と、自分ひとりでその槌を振り続けただけである。

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黙々として、自分一人その槌を振い続けたのみである。

里人の関心は、まったく市九郎の身辺から離れてしまった。

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里人の注意は、まったく市九郎の身辺から離れてしまった。

ことに、洞窟が深く掘られれば掘られるほど、その奥深くで槌を振るう市九郎の姿は、道行く人の目から遠ざかっていった。

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ことに洞窟が、深く穿たれれば穿たれるほど、その奥深く槌を振う市九郎の姿は、行人の目から遠ざかっていった。

人々は、闇に閉ざされた洞窟の中を透かし見ながら、

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人々は、闇のうちに閉された洞窟の中を透し見ながら、

「了海さんは、まだやっているのかなあ」

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「了海さんは、まだやっているのかなあ」

と、いぶかしんだ。

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と、疑った。

だが、そうした関心もしまいにはだんだん薄れてしまって、市九郎の存在は、里人の頭からたびたび消えかかった。

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が、そうした注意も、しまいにはだんだん薄れてしまって、市九郎の存在は、里人の念頭からしばしば消失せんとした。

だが、市九郎の存在が里人と関わりを持たなくなったのと同じように、里人の存在もまた市九郎とは関わりのないものになっていた。

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が、市九郎の存在が、里人に対して没交渉であるがごとく、里人の存在もまた市九郎に没交渉であった。

彼にはただ、目の前の大岩壁だけが存在しているのだった。

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彼にはただ、眼前の大岩壁のみが存在するばかりであった。

しかし市九郎は、洞窟の中に座り込んでからもう十年あまりのあいだ、真っ暗な冷たい石の上に座り続けていたために、顔は青ざめ、両の目は落ちくぼみ、肉は落ちて骨が浮き出し、この世に生きている人間とも見えなかった。

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しかし、市九郎は、洞窟の中に端座してからもはや十年にも余る間、暗澹たる冷たい石の上に座り続けていたために、顔は色蒼ざめ双の目が窪んで、肉は落ち骨あらわれ、この世に生ける人とも見えなかった。

だが、市九郎の心には決して退かぬという勇猛の心がさかんに燃え盛り、ただひたすら掘り進むほかは何もなかった。

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が、市九郎の心には不退転の勇猛心がしきりに燃え盛って、ただ一念に穿ち進むほかは、何物もなかった。

一分でも一寸でも岩壁が削り取られるたびに、彼は歓喜の声を上げた。

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一分でも一寸でも、岸壁の削り取られるごとに、彼は歓喜の声を揚げた。

市九郎は、ただ独り取り残されたまま、さらに三年を経た。

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市九郎は、ただ一人取り残されたままに、また三年を経た。

すると、里人たちの関心は、ふたたび市九郎に戻りかけていた。

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すると、里人たちの注意は、再び市九郎の上に帰りかけていた。

彼らがほんの好奇心から洞窟の深さを測ってみると、全長六十五間、川に面した岩壁には明かり取りの窓が一つ開けられ、もはやこの大岩壁の三分の一が、主として市九郎の痩せ腕によって貫かれていることが分かった。

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彼らが、ほんの好奇心から、洞窟の深さを測ってみると、全長六十五間、川に面する岩壁には、採光の窓が一つ穿たれ、もはや、この大岩壁の三分の一は、主として市九郎の瘠腕やせうでによって、貫かれていることが分かった。

彼らは、ふたたび驚きに目を見開いた。

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彼らは、再び驚異の目を見開いた。

彼らは、これまでの無知を恥じた。

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彼らは、過去の無知を恥じた。

市九郎に対する敬いの心が、ふたたび彼らの心によみがえった。

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市九郎に対する尊崇の心は、再び彼らの心に復活した。

やがて、寄進で雇われた十人近い石工の槌の音が、ふたたび市九郎の槌の音に唱和した。

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やがて、寄進された十人に近い石工の槌の音が、再び市九郎のそれに和した。

また一年経った。

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また一年経った。

一年の月日が経つうちに、里人たちはいつのまにか、先の見えない出費を悔やみ始めていた。

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一年の月日が経つうちに、里人たちは、いつかしら目先の遠い出費を、悔い始めていた。

寄進で雇われた人夫は、いつのまにか一人減り二人減って、しまいには市九郎の槌の音だけが洞窟の闇を震わせていた。

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寄進の人夫は、いつの間にか、一人減り二人減って、おしまいには、市九郎の槌の音のみが、洞窟の闇を、打ち震わしていた。

だが、そばに人がいてもいなくても、市九郎の槌の力は変わらなかった。

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が、そばに人がいても、いなくても、市九郎の槌の力は変らなかった。

彼はただ機械のように、渾身の力を込めて槌を振り上げ、渾身の力でそれを振り下ろした。

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彼は、ただ機械のごとく、渾身の力を入れて槌を挙げ、渾身の力をもってこれを振り降ろした。

彼は、自分自身のことさえ忘れていた。

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彼は、自分の一身をさえ忘れていた。

主を殺したことも、追い剥ぎを働いたことも、人を殺したことも、すべては彼の記憶の外へ薄れてしまっていた。

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主を殺したことも、剽賊を働いたことも、人を殺したことも、すべては彼の記憶のほかに薄れてしまっていた。

一年経ち、二年経った。

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一年経ち、二年経った。

一念のおもむくところ、彼の痩せた腕は鉄のように屈しなかった。

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一念の動くところ、彼の瘠せた腕は、鉄のごとく屈しなかった。

ちょうど、十八年目の終わりであった。

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ちょうど、十八年目の終りであった。

彼はいつのまにか、岩壁の二分の一を掘り抜いていた。

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彼は、いつの間にか、岩壁の二分の一を穿っていた。

里人は、この恐ろしいまでの奇跡を見ると、もはや市九郎の仕事を少しも疑わなかった。

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里人は、この恐ろしき奇跡を見ると、もはや市九郎の仕事を、少しも疑わなかった。

彼らは、これまで二度も怠けたことを心から恥じ、七つの郷の人々が力を合わせて誠を尽くし、こぞって市九郎を助け始めた。

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彼らは、前二回の懈怠けたいを心から恥じ、七郷の人々合力の誠を尽くし、こぞって市九郎を援け始めた。

その年、中津藩の郡奉行が巡視に来て、市九郎に対して感心のお言葉を与えた。

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その年、中津藩の郡奉行が巡視して、市九郎に対して、奇特の言葉を下した。

近くの村々から、三十人近い石工が集められた。

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近郷近在から、三十人に近い石工があつめられた。

工事は、枯れ葉を焼く火のように進んだ。

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工事は、枯葉を焼く火のように進んだ。

人々は、痛ましいほど衰えきった市九郎に、

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人々は、衰残の姿いたいたしい市九郎に、

「もう、あなたさまは石工どもの束ね役をなさいませ。自ら槌を振るうには及びませぬ」

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「もはや、そなたは石工共の統領たばねをなさりませ。自ら槌を振うには及びませぬ」

と勧めたが、市九郎は頑として聞き入れなかった。

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と、勧めたが、市九郎は頑として応じなかった。

彼は、倒れるときは槌を握ったまま倒れるのだと思っているらしかった。

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彼は、たおるれば槌を握ったままと、思っているらしかった。

彼は、三十人の石工がそばで働いているのも知らないかのように、寝食を忘れて力の限りを尽くすこと、少しも前と変わらなかった。

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彼は、三十の石工がそばに働くのも知らぬように、寝食を忘れ、懸命の力を尽くすこと、少しも前と変らなかった。

だが、人々が市九郎に休息を勧めたのも、無理はなかった。

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が、人々が市九郎に休息を勧めたのも、無理ではなかった。

二十年近いあいだ、日の光も差さない岩壁の奥深くに座り続けたためであろう。

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二十年にも近い間、日の光も射さぬ岩壁の奥深く、座り続けたためであろう。

彼の両脚は長い正座に傷んで、いつのまにか自由に曲げ伸ばしができなくなっていた。

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彼の両脚は長い端座に傷み、いつの間にか屈伸の自在を欠いていた。

彼は、わずかに歩くのにも杖にすがらねばならなかった。

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彼は、わずかの歩行にも杖にすがらねばならなかった。

その上、長いあいだ闇の中に座って日光を見なかったせいでもあろう。

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その上、長い間、闇に座して、日光を見なかったためでもあろう。

また、絶えず身の回りに飛び散る砕けた石のかけらが、その目を傷つけたせいでもあろう。

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また不断に、彼の身辺に飛び散る砕けた石の砕片かけらが、その目を傷つけたためでもあろう。

彼の両目はかすんで光を失い、物の見分けさえつかなくなっていた。

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彼の両目は、朦朧として光を失い、もののあいろもわきまえかねるようになっていた。

さすがに、決して退かぬ市九郎にも、身に迫る老いを痛む心はあった。

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さすがに、不退転の市九郎も、身に迫る老衰を痛む心はあった。

命への執着はなかったけれど、なかばで倒れることを、何よりも無念に思ったからであった。

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身命に対する執着はなかったけれど、中道にしてたおれることを、何よりも無念と思ったからであった。

「もう二年の辛抱じゃ」

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「もう二年の辛抱じゃ」

と、彼は心の中で叫んで、自分の老いを忘れようと、懸命に槌を振るうのであった。

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と、彼は心のうちに叫んで、身の老衰を忘れようと、懸命に槌を振うのであった。

侵しがたい大自然の威厳をもって市九郎の前に立ちはだかっていた岩壁は、いつのまにか衰えきった乞食坊主ひとりの腕に貫かれ、その中腹を穿つ洞窟は、命あるもののように、ひたすらその芯を貫こうとしているのであった。

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おかしがたき大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ち塞がっていた岩壁は、いつの間にか衰残の乞食僧一人の腕に貫かれて、その中腹を穿つ洞窟は、命ある者のごとく、一路その核心を貫かんとしているのであった。

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市九郎の体は度を越した疲労で痛ましいまでに傷めつけられていたが、彼にとって、それよりもっと恐ろしい敵が、その命を狙っているのであった。

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市九郎の健康は、過度の疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の生命を狙っているのであった。

市九郎のために非業の死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣に殺されたということで、家中の締まりがないとされ、家は取り潰され、そのとき三歳だったひとり息子の実之助は、縁者の手で養い育てられることになった。

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市九郎のために非業の横死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣のために殺害されたため、家事不取締とあって、家は取り潰され、その時三歳であった一子実之助は、縁者のために養い育てられることになった。

実之助は、十三になったとき、はじめて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。

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実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。

ことに、相手が対等の武士ではなく、自分の家に召し抱えられていた奉公人だと知ると、少年の心は無念の怒りに燃えた。

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ことに、相手が対等の士人でなくして、自分の家に養われた奴僕ぬぼくであることを知ると、少年の心は、無念のいきどおりに燃えた。

彼はその場で、仇を討つという一事を肝に銘じた。

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彼は即座に復讐の一義を、肝深く銘じた。

彼は、走るように柳生の道場に入門した。

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彼は、馳せて柳生やぎゅうの道場に入った。

十九の年に免許皆伝を許されると、彼はただちに仇討ちの旅に出たのである。

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十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに報復の旅に上ったのである。

もし首尾よく本懐を遂げて帰れば、一家再興の口添えもしようという、親類一同の励ましの言葉に送られながら。

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もし、首尾よく本懐を達して帰れば、一家再興の肝煎きもいりもしようという、親類一同の激励の言葉に送られながら。

実之助は、慣れない旅路で多くの苦難に苦しみながら諸国を巡り歩き、ひたすら仇の市九郎の居場所を探し求めた。

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実之助は、馴れぬ旅路に、多くの艱難を苦しみながら、諸国を遍歴して、ひたすらかたき市九郎の所在を求めた。

市九郎をただ一度も見たことのない実之助にとって、それは雲をつかむような頼りない捜索であった。

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市九郎をただ一度さえ見たこともない実之助にとっては、それは雲をつかむがごときおぼつかなき捜索であった。

五畿内、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼はさすらいの旅路で年を送り年を迎え、二十七の年まで実りのない遍歴の旅を続けた。

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畿内きない、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼は漂泊さすらいの旅路に年を送り年を迎え、二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。

仇に対する恨みも怒りも、旅路の苦しさにすり減って消えかかることが、たびたびであった。

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敵に対する怨みも憤りも、旅路の艱難に消磨せんとすることたびたびであった。

だが、非業の死を遂げた父の無念を思い、中川家再興という重い務めを考えると、奮然と志を奮い立たせるのであった。

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が、非業にたおれた父の無念を思い、中川家再興の重任を考えると、奮然と志を奮い起すのであった。

江戸を発ってからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下で迎えた。

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江戸を立ってからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下に迎えた。

本土をむなしく訪ね歩いたあとで、遠く離れた九州も探ってみる気になったのである。

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本土を空しく尋ね歩いた後に、辺陲へんすいの九州をも探ってみる気になったのである。

福岡の城下から中津の城下に移った彼は、二月に入ったある日、宇佐八幡宮に参って、本懐が一日も早く遂げられるようにと祈った。

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福岡の城下から中津の城下に移った彼は、二月に入った一日、宇佐八幡宮にさいして、本懐の一日も早く達せられんことを祈念した。

実之助は、参拝を終えてから境内の茶店で休んだ。

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実之助は、参拝を終えてから境内の茶店に憩うた。

そのとき、ふと彼は、そばにいた百姓らしい男が、居合わせた参詣客に、

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その時に、ふと彼はそばの百姓ていの男が、居合せた参詣客に、

「そのお坊さまは、もとは江戸から来たお人だそうじゃ。若いころ人を殺したのを悔いて、多くの人を救うという大願を立てたそうじゃが、今言うた樋田の刳貫は、このお坊さま一人の力でできたものじゃ」

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「その御出家は、元は江戸から来たお人じゃげな。若い時に人を殺したのを懺悔して、諸人済度の大願を起したそうじゃが、今いうた樋田の刳貫こかんは、この御出家一人の力でできたものじゃ」

と語るのを耳にした。

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と語るのを耳にした。

この話を聞いた実之助は、この九年というもの、まだ一度も感じたことのないほどの関心を覚えた。

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この話を聞いた実之助は、九年この方いまだ感じなかったような興味を覚えた。

彼はやや急き込みながら、「不躾ながら、少々ものを尋ねるが、そのお坊さまというのは、年のころはどれくらいか」

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彼はややき込みながら、「率爾そつじながら、少々ものを尋ねるが、その出家と申すは、年の頃はどれぐらいじゃ」

と聞いた。

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と、きいた。

その男は、自分の話が武士の関心を引いたことを名誉に思ったらしく、

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その男は、自分の談話が武士の注意をひいたことを、光栄であると思ったらしく、

「さようでございますな。私はそのお坊さまを拝んだことはございませぬが、人の噂では、もう六十に近いと申します」

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「さようでございますな。私はその御出家を拝んだことはございませぬが、人の噂では、もう六十に近いと申します」

「背は高いか、低いか」

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たけは高いか、低いか」

と、実之助はたたみかけて聞いた。

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と、実之助はたたみかけてきいた。

「それもはっきりとは分かりませぬ。なにしろ洞窟の奥深くにおられるので、はっきりとは分かりませぬ」

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「それもしかとは、分かりませぬ。何様、洞窟の奥深くいられるゆえ、しかとは分かりませぬ」

「その者の出家前の名は、何といったか存じておらぬか」

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「その者の俗名は、なんと申したか存ぜぬか」

「それもとんと分かりませんが、お生まれは越後の柏崎で、若いころ江戸へ出られたそうでございます」

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「それも、とんと分かりませんが、お生れは越後の柏崎で、若い時に江戸へ出られたそうでござります」

と、百姓は答えた。

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と、百姓は答えた。

ここまで聞いた実之助は、躍り上がって喜んだ。

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ここまできいた実之助は、躍り上ってよろこんだ。

彼が江戸を発つとき、親類の一人から、仇は越後柏崎の生まれだから故郷へ立ち寄るかもしれない、越後はことさら念を入れて探索せよ、という注意を受けていたのであった。

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彼が、江戸を立つ時に、親類の一人は、かたきは越後柏崎の生れゆえ、故郷へ立ち回るかも計りがたい、越後は一入ひとしお心を入れて探索せよという、注意を受けていたのであった。

実之助は、これこそまさに宇佐八幡宮のお告げだと勇み立った。

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実之助は、これぞ正しく宇佐八幡宮の神託なりと勇み立った。

彼はその老僧の名と、山国谷へ向かう道を聞くと、もう八つ刻を過ぎていたにもかかわらず、必死の力を両脚に込めて、仇の居場所へと急いだ。

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彼はその老僧の名と、山国谷に向う道をきくと、もはや八つ刻を過ぎていたにもかかわらず、必死の力を双脚に籠めて、敵の所在ありかへと急いだ。

その日の宵の口近くに樋田村に着いた実之助は、すぐにも洞窟へ向かおうと思ったが、焦ってはならぬと思い返し、その夜は樋田の宿場の宿でいらだちの一夜を明かすと、翌日は早く起き出して、身軽ないでたちで樋田の刳貫へと向かった。

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その日の初更近く、樋田村に着いた実之助は、ただちに洞窟へ立ち向おうと思ったが、あせってはならぬと思い返して、その夜は樋田駅の宿に焦慮の一夜を明かすと、翌日は早く起き出でて、軽装して樋田の刳貫へと向った。

刳貫の入口に着いたとき、彼はそこで石のかけらを運び出している石工に尋ねた。

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刳貫の入口に着いた時、彼はそこに、石の砕片かけらを運び出している石工に尋ねた。

「この洞窟の中に、了海と申されるお坊さまがおられるそうじゃが、間違いないか」

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「この洞窟の中に、了海といわるる御出家がおわすそうじゃが、それに相違ないか」

「おられないでどうしましょう。了海様は、この洞穴の主も同然の方じゃ。はははは」

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「おわさないでなんとしょう。了海様は、このほこらの主も同様な方じゃ。はははは」

と、石工は屈託なく笑った。

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と、石工は心なげに笑った。

実之助は、本懐を遂げるのはもう目の前だと、喜び勇んだ。

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実之助は、本懐を達すること、はや眼前にありと、欣び勇んだ。

だが彼は、慌ててはならぬと思った。

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が、彼はあわててはならぬと思った。

「して、出入り口はここ一カ所か」

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「して、出入り口はここ一カ所か」

と聞いた。

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と、きいた。

仇に逃げられてはならぬと思ったからである。

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敵に逃げられてはならぬと思ったからである。

「それは決まったことじゃ。向こう側へ口を開けるために、了海様はさんざんな苦しみをなさっているのじゃ」

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「それは知れたことじゃ。向うへ口を開けるために、了海様は塗炭の苦しみをなさっているのじゃ」

と、石工が答えた。

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と、石工が答えた。

実之助は、長年の仇が袋の中の鼠のように目の前に置かれていることを喜んだ。

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実之助は、多年の怨敵が、嚢中の鼠のごとく、目前に置かれてあるのを欣んだ。

たとえその下で働く石工が何人いようとも、切り殺すのに何の造作もあるものかと勇み立った。

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たとい、その下に使わるる石工が幾人いようとも、切り殺すに何の造作もあるべきと、勇み立った。

「そなたに少し頼みがある。了海どのにお目にかかりたく、はるばる訪ねて参った者だと伝えてくれ」

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其方そちに少し頼みがある。了海どのに御意得たいため、遥々と尋ねて参った者じゃと、伝えてくれ」

と言った。

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と、いった。

石工が洞窟の中へ入っていったあとで、実之助は刀の目釘を湿らせた。

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石工が、洞窟の中へはいった後で、実之助は一刀の目くぎを湿した。

彼は心の中で、生まれてはじめて出会う仇の顔かたちを思い描いた。

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彼は、心のうちで、生来初めてめぐりあう敵の容貌を想像した。

洞門の掘削を束ねているというからには、五十は過ぎているとはいえ、体つきのたくましい男であろう。

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洞門の開鑿を統領しているといえば、五十は過ぎているとはいえ、筋骨たくましき男であろう。

ことに若いころは剣術に疎くなかったというのだから、ゆめゆめ油断はならぬと思っていた。

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ことに若年じゃくねんの頃には、兵法にうとからざりしというのであるから、ゆめ油断はならぬと思っていた。

だが、しばらくして実之助の目の前へ、洞門から出てきた一人の乞食坊主があった。

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が、しばらくして実之助の面前へと、洞門から出てきた一人の乞食僧があった。

それは、出てきたというより、ヒキガエルのように這い出てきたと言うほうがふさわしかった。

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それは、出てくるというよりも、がまのごとく這い出てきたという方が、適当であった。

それは人間というよりも、むしろ人間の残骸と言うべきであった。

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それは、人間というよりも、むしろ、人間の残骸というべきであった。

肉はすっかり落ちて骨が浮き出し、脚の関節から下はところどころただれて、長くまともに見ていられなかった。

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肉ことごとく落ちて骨あらわれ、脚の関節以下はところどころただれて、長く正視するに堪えなかった。

破れた法衣から僧の姿とは分かるものの、髪は長く伸びて皺だらけの額を覆っていた。

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破れた法衣によって、僧形とは知れるものの、頭髪は長く伸びて皺だらけの額をおおっていた。

老僧は、灰色に濁った目をしばたたきながら実之助を見上げて、

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老僧は、灰色をなした目をしばたたきながら、実之助を見上げて、

「老いて目が衰えはてまして、どちらさまとも見分けがつきませぬ」

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「老眼衰えはてまして、いずれの方ともわきまえかねまする」

と言った。

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と、いった。

極限まで張り詰めていた実之助の心は、この老僧をひと目見た瞬間、たじたじとなってしまっていた。

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実之助の、極度にまで、張り詰めてきた心は、この老僧を一目見た刹那たじたじとなってしまっていた。

彼は、心の底から憎しみを感じられるような悪僧を求めていた。

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彼は、心の底から憎悪を感じ得るような悪僧を欲していた。

それなのに、彼の前には人間とも死骸ともつかない、半ば死んだような老僧がうずくまっているのである。

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しかるに彼の前には、人間とも死骸ともつかぬ、半死の老僧が蹲っているのである。

実之助は、失望しかけた自分の心を励まして、

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実之助は、失望し始めた自分の心を励まして、

「そなたが、了海と申される方か」

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「そのもとが、了海といわるるか」

と、意気込んで聞いた。

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と、意気込んできいた。

「いかにも、さようでございます。して、そなたさまは」

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「いかにも、さようでござります。してそのもとは」

と、老僧はいぶかしげに実之助を見上げた。

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と、老僧はいぶかしげに実之助を見上げた。

「了海とやら、いかに僧の姿に身をやつそうとも、まさか忘れはすまい。おのれが市九郎と呼ばれていた若いころ、主人の中川三郎兵衛を討って逐電した覚えがあろう。それがしは、三郎兵衛のひとり息子、実之助と申す者じゃ。もはや逃れられぬところと覚悟せよ」

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「了海とやら、いかに僧形に身をやつすとも、よも忘れはいたすまい。汝、市九郎と呼ばれし若年のみぎり、主人中川三郎兵衛を打って立ち退いた覚えがあろう。それがしは、三郎兵衛の一子実之助と申すものじゃ。もはや、逃れぬところと覚悟せよ」

実之助の言葉はあくまで落ち着いていたが、そこには一歩たりとも譲るまじき厳しさがあった。

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と、実之助の言葉は、あくまで落着いていたが、そこに一歩も、許すまじき厳正さがあった。

だが、市九郎は実之助の言葉を聞いても、少しも驚かなかった。

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が、市九郎は実之助の言葉をきいて、少しもおどろかなかった。

「なるほど、中川様のご子息、実之助様か。いかにも、お父上を討って逐電した者、この了海に相違ございませぬ」

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「いかさま、中川様の御子息、実之助様か。いやお父上を打って立ち退いた者、この了海に相違ござりませぬ」

と、彼は自分を仇と狙う者に会ったというより、かつての主人の忘れ形見に会った親しさをもって答えたが、実之助は、市九郎の声色にだまされてはならぬと思った。

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と、彼は自分を敵と狙う者に会ったというよりも、旧主の遺児わすれごに会った親しさをもって答えたが、実之助は、市九郎の声音こわねに欺かれてはならぬと思った。

「主を討って逐電した非道のおのれを討つために、十年近い年月を苦難のうちに過ごしてきたのだ。ここで会ったからには、もはや逃れられぬところ、尋常に勝負せよ」

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「主を打って立ち退いた非道の汝を討つために、十年に近い年月を艱難のうちに過したわ。ここで会うからは、もはや逃れぬところと尋常に勝負せよ」

と言った。

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と、いった。

市九郎は、少しも悪びれなかった。

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市九郎は、少しも悪怯わるびれなかった。

もうあと一年で成し遂げられるはずの大願を見届けずに死ぬことが、いささか悲しくはあったが、それも自分の悪業の報いだと思うと、彼は死ぬ覚悟を決めた。

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もはや期年のうちに成就すべき大願を見果てずして死ぬことが、やや悲しまれたが、それもおのれが悪業のむくいであると思うと、彼は死すべき心を定めた。

「実之助様、さあお斬りなされ。お聞き及びでもございましょうが、これは了海めが罪滅ぼしのために掘り抜こうと思い立った洞門でございますが、十九年の歳月をかけて、九分どおりは出来上がりました。了海が命を終えても、もう何年もかからずに成りましょう。あなたさまの手にかかり、この洞門の入口に血を流して人柱となりますなら、もう思い残すこともございませぬ」

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「実之助様、いざお切りなされい。おきき及びもなされたろうが、これは了海めが、罪亡しに掘り穿とうと存じた洞門でござるが、十九年の歳月を費やして、九分までは竣工いたした。了海、身を果つとも、もはや年を重ねずして成り申そう。御身の手にかかり、この洞門の入口に血を流して人柱となり申さば、はや思い残すこともござりませぬ」

と言いながら、彼は見えない目をしばたたいたのである。

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と、いいながら、彼は見えぬ目をしばたたいたのである。

実之助は、この半ば死んだような老僧に向き合っていると、親の仇に対して抱いていた憎しみが、いつのまにか消え失せているのを感じた。

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実之助は、この半死の老僧に接していると、親のかたきに対して懐いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。

仇は、父を殺した罪を悔いて、身も心も粉々に砕いて半生を苦しみ抜いている。

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敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。

しかも、自分がひとたび名乗りかけると、はいと素直に命を捨てようとしているのである。

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しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々いいとして命を捨てようとしているのである。

こんな半ば死んだような老僧の命を取ることの、どこが仇討ちなのかと、実之助は考えたのである。

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かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。

だが、それでもこの仇を討たないかぎり、長年の放浪を切り上げて江戸へ帰るよすがはなかった。

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が、しかしこの敵を打たざる限りは、多年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るべきよすがはなかった。

まして家名の再興などは、思いも寄らないことであった。

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まして家名の再興などは、思いも及ばぬことであったのである。

実之助は、憎しみからというより、むしろ損得の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。

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実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。

だが、燃えるような激しい憎しみもなしに、損得ずくで人を殺すことは、実之助には耐えがたいことであった。

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が、激しい燃ゆるがごとき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。

彼は、消えかかろうとする憎しみの心をかき立てながら、討ち甲斐のない仇を討とうとしたのである。

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彼は、消えかかろうとする憎悪の心を励ましながら、打ち甲斐なき敵を打とうとしたのである。

そのときであった。

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その時であった。

洞窟の中から走り出てきた五、六人の石工が、市九郎の危急を見ると、身を挺して彼をかばいながら「了海様をどうしようというのじゃ」

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洞窟の中から走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身して彼をかばいながら「了海様をなんとするのじゃ」

と、実之助を咎めた。

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と、実之助を咎めた。

彼らの顔には、事と次第によっては容赦せぬという色が、ありありと浮かんでいた。

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彼らの面には、仕儀によっては許すまじき色がありありと見えた。

「わけあってその老僧を仇と狙い、はからずも今日めぐり会って本懐を遂げるのだ。邪魔立てすれば、たとえ関わりのない者でも容赦はせぬぞ」

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「子細あって、その老僧を敵と狙い、端なくも今日めぐりおうて、本懐を達するものじゃ。妨げいたすと、余人なりとも容赦はいたさぬぞ」

と、実之助は毅然と言った。

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と、実之助は凜然といった。

だが、そのうちに石工の数は増え、道行く人々も何人となく足を止めて、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の体に指一本触れさせまいと、めいめいにいきり立ち始めた。

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が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が幾人となく立ち止って、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の身体に指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまき始めた。

「仇を討つの討たぬのというのは、それはまだこの世に身を置いている者どうしのことじゃ。ご覧のとおり、了海どのは墨染の衣に剃髪の身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の生まれ変わりとも仰がれる方じゃ」

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「敵を討つ討たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるる通り、了海どのは、染衣薙髪せんいちはつの身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の再来とも仰がれる方じゃ」

と、その中のある者は、実之助の仇討ちを、とうてい叶わぬ身勝手な望みであるかのように言い張った。

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と、そのうちのある者は、実之助の敵討ちを、叶わぬ非望であるかのようにいい張った。

だが、こうして周りの者から邪魔をされると、実之助の仇に対する怒りは、いつのまにかよみがえっていた。

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が、こう周囲の者から妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にかよみがえっていた。

彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るわけにはいかなかった。

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彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るべきではなかった。

「たとえ僧の身であろうと、主殺しの大罪は免れぬぞ。親の仇を討つ者の邪魔をする者は、一人も容赦せぬ」

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「たとい沙門しゃもんの身なりとも、主殺しの大罪は免れぬぞ。親の敵を討つ者を妨げいたす者は、一人も容赦はない」

と、実之助は刀の鞘を払った。

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と、実之助は一刀の鞘を払った。

実之助を囲む人々も、みなことごとく身構えた。

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実之助を囲う群衆も、皆ことごとく身構えた。

すると、そのとき、市九郎はしわがれた声を張り上げた。

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すると、その時、市九郎はしわがれた声を張り上げた。

「皆の衆、お控えなされ。了海には、討たれるだけの覚えがじゅうぶんござる。この洞門を掘るのも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今、これほどの孝行なお方の手にかかって、半ば死んだこの身を終えることは、了海が一生の願いじゃ。皆の衆、邪魔は無用じゃ」

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「皆の衆、お控えなされい。了海、討たるべき覚え十分ござる。この洞門を穿つことも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今かかる孝子のお手にかかり、半死の身を終ること、了海が一の願いじゃ。皆の衆妨げ無用じゃ」

こう言いながら、市九郎は身を投げ出すようにして、実之助のそばへいざり寄ろうとした。

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こういいながら市九郎は、身を挺して、実之助のそばにいざり寄ろうとした。

かねてから市九郎の強い意志を知り抜いている周りの人々は、彼の決心を翻させるすべなどないと悟った。

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かねがね、市九郎の強剛なる意志を知りぬいている周囲の人々は、彼の決心をひるがえすべき由もないのを知った。

市九郎の命も、ここで終わるかと思われた。

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市九郎の命、ここに終るかと思われた。

そのとき、石工の頭が実之助の前に進み出ながら、

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その時、石工の統領が、実之助の前に進み出でながら、

「お武家様も、お聞き及びでもござろうが、この刳貫は了海様一生の大誓願で、二十年近い辛苦に身も心も砕かれたのじゃ。いかにご自身の悪業とはいえ、大願成就を目の前にしながら命を終えられるのは、どれほど無念であろう。我らそろってのお願いじゃ、長くとは申さぬ、この刳貫が通じるまでのあいだ、了海様のお命を我らに預けてはくださらぬか。刳貫さえ通じたそのときは、即座に了海様をご存分になさりませ」

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「御武家様も、おきき及びでもござろうが、この刳貫は了海様、一生の大誓願にて、二十年に近き御辛苦に身心を砕かれたのじゃ。いかに、御自身の悪業とはいえ、大願成就を目前に置きながら、お果てなさるること、いかばかり無念であろう。我らのこぞってのお願いは、長くとは申さぬ、この刳貫の通じ申す間、了海様のお命を、我らに預けては下さらぬか。刳貫さえ通じた節は、即座に了海様を存分になさりませ」

と、彼は真心を込めて頼み込んだ。

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と、彼は誠を表して哀願した。

群衆は口々に、

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群衆は口々に、

「もっともじゃ、もっともじゃ」

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「ことわりじゃ、ことわりじゃ」

と、賛成した。

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と、賛成した。

実之助も、そう言われてみると、その願いを聞き入れないわけにはいかなかった。

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実之助も、そういわれてみると、その哀願をきかぬわけにはいかなかった。

今ここで仇を討とうとして群衆に邪魔をされ、不覚を取るよりも、刳貫の完成を待てば、今でさえ自ら進んで討たれようという市九郎が、義理に感じて首を差し出すのは間違いないと思った。

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今ここで敵を討とうとして、群衆の妨害を受けて不覚を取るよりも、刳通の竣工を待ったならば、今でさえ自ら進んで討たれようという市九郎が、義理に感じて首を授けるのは、必定であると思った。

また、そんな損得を離れても、仇とはいいながら、この老僧の大誓願を遂げさせてやるのは、決して不快なことではなかった。

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またそうした打算から離れても、敵とはいいながらこの老僧の大誓願を遂げさしてやるのも、決して不快なことではなかった。

実之助は、市九郎と群衆とを等しく見渡しながら、

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実之助は、市九郎と群衆とを等分に見ながら、

「了海の僧の姿に免じて、その願いを許してつかわす。交わした言葉は忘れるでないぞ」

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「了海の僧形にめでてその願い許して取らそう。つがえた言葉は忘れまいぞ」

と言った。

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と、いった。

「造作もないことでござる。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向こう側へ通じたそのときは、その場を去らずに了海様を討たせ申そう。それまではゆるゆると、この辺りにご滞在なされませ」

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「念もないことでござる。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向う側へ通じた節は、その場を去らず了海様を討たさせ申そう。それまではゆるゆると、この辺りに御滞在なされませ」

と、石工の棟梁は穏やかな口調で言った。

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と、石工の棟梁は、穏やかな口調でいった。

市九郎は、このもめごとが無事に片づくと、そのために費やした時間がいかにも惜しいというように、にじりながら洞窟の中へ入っていった。

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市九郎は、この紛擾ふんじょうが無事に解決が付くと、それによって徒費した時間がいかにも惜しまれるように、にじりながら洞窟の中へ入っていった。

実之助は、大事な場面で思わぬ邪魔が入り、目的を果たせなかったことに憤った。

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実之助は、大切の場合に思わぬ邪魔が入って、目的が達し得なかったことを憤った。

彼はどうにもしようのない鬱憤を抑えながら、石工の一人に案内されて木の小屋に入った。

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彼はいかんともしがたい鬱憤を抑えながら、石工の一人に案内せられて、木小屋のうちへ入った。

一人になって考えると、仇を目の前にしながら討てなかった自分の不甲斐なさを、無念に思わずにはいられなかった。

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自分一人になって考えると、敵を目前に置きながら、討ち得なかった自分の腑甲斐なさを、無念と思わずにはいられなかった。

彼の心は、いつのまにかいらだたしい怒りでいっぱいになっていた。

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彼の心はいつの間にかいらだたしい憤りでいっぱいになっていた。

彼はもう、刳貫の完成を待つなどという、仇に対する悠長な心をすっかり失ってしまった。

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彼は、もう刳貫の竣成を待つといったような、敵に対するゆるやかな心をまったく失ってしまった。

彼は今夜にでも洞窟の中へ忍び入り、市九郎を討って立ち退こうと、はらを固めた。

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彼は今宵にも洞窟の中へ忍び入って、市九郎を討って立ち退こうという決心のほぞを固めた。

だが、実之助が市九郎の見張りをしているように、石工たちも実之助を見張っていた。

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が、実之助が市九郎の張り番をしているように、石工たちは実之助を見張っていた。

最初の二、三日を、心ならずも何もせずに過ごしたが、ちょうど五日目の晩であった。

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最初の二、三日を、心にもなく無為に過したが、ちょうど五日目の晩であった。

毎夜のことなので石工たちも警戒をゆるめたと見えて、丑の刻近くには誰もがだらしなく眠りこけていた。

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毎夜のことなので、石工たちも警戒の目を緩めたと見え、うしに近い頃に何人なんびともいぎたない眠りに入っていた。

実之助は、今夜こそと思い立った。

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実之助は、今宵こそと思い立った。

彼はがばと起き上がると、枕元の刀を引き寄せ、静かに木の小屋の外へ出た。

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彼は、がばと起き上ると、枕元の一刀を引き寄せて、静かに木小屋の外に出た。

それは、早春の夜の月が冴えわたる晩であった。

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それは早春の夜の月が冴えた晩であった。

山国川の水は、月の光の下で青く渦巻きながら流れていた。

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山国川の水は月光の下に蒼く渦巻きながら流れていた。

だが、あたりの景色には目もくれず、実之助は足を忍ばせて、そっと洞門に近づいた。

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が、周囲の風物には目もくれず、実之助は、足を忍ばせてひそかに洞門に近づいた。

削り取った石くれがあちこちに散らばっていて、足を運ぶたびに足を痛めた。

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削り取った石塊が、ところどころに散らばって、歩を運ぶたびごとに足を痛めた。

洞窟の中は、入口から差す月の光と、ところどころに刳り抜かれた窓から射し込む月の光とで、あちこちがほの白く光っているだけであった。

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洞窟の中は、入口から来る月光と、ところどころにり明けられた窓から射し入る月光とで、ところどころほの白く光っているばかりであった。

彼は右の岩壁を手探りに手探りに、奥へ奥へと進んだ。

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彼は右方の岩壁を手探たぐり手探り奥へ奥へと進んだ。

入口から二町ばかり進んだころ、ふと彼は洞窟の底から、コッ、コッと、間を置いて響いてくる音を耳にした。

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入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッと間を置いて響いてくる音を耳にした。

彼は、はじめそれが何の音か分からなかった。

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彼は最初それがなんであるか分からなかった。

だが、一歩進むごとにその音は大きくなっていき、しまいには洞窟の中の夜の静けさに、こだまするほどになった。

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が、一歩進むに従って、その音は拡大していって、おしまいには洞窟の中の夜の寂静じゃくじょうのうちに、こだまするまでになった。

それは明らかに、岩壁に向かって鉄の槌を打ち下ろす音に違いなかった。

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それは、明らかに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。

実之助は、その悲壮で、凄みを帯びた音に、自分の胸が激しく打たれるのを感じた。

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実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音によって、自分の胸が激しく打たれるのを感じた。

奥に近づくにつれて、玉を砕くような鋭い音は、洞窟の壁にこだまして、実之助の耳を猛然と襲ってくるのであった。

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奥に近づくに従って、玉を砕くような鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲ってくるのであった。

彼は、この音を頼りに、這うようにして近づいていった。

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彼は、この音をたよりに這いながら近づいていった。

この槌の音の主こそ、仇の了海に違いあるまいと思った。

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この槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。

そっと刀の鯉口を湿しながら、息を潜めて寄り添った。

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ひそかに一刀の鯉口こいぐちを湿しながら、息を潜めて寄り添うた。

そのとき、ふと彼は、槌の音の合間合間に、ささやくように、うめくように、了海が経文を唱える声を聞いたのである。

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その時、ふと彼は槌の音の間々にささやくがごとく、うめくがごとく、了海が経文をじゅする声をきいたのである。

そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助の身に沁みてきた。

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そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助に徹してきた。

深夜、人は去り、草木も眠っている中で、ただ暗闇に座り込んで鉄の槌を振っている了海の姿が、墨のような闇の中にありながらなお、実之助の心の目にありありと浮かんできた。

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深夜、人去り、草木眠っている中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振っている了海の姿が、墨のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。

それは、もはや人間の心ではなかった。

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それは、もはや人間の心ではなかった。

喜怒哀楽を超えたところで、ただ鉄の槌を振っている、勇猛でひたむきな菩薩の心であった。

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喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振っている勇猛精進の菩薩心であった。

実之助は、握りしめた刀の柄が、いつのまにか緩んでいるのに気づいた。

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実之助は、握りしめた太刀の柄が、いつの間にか緩んでいるのを覚えた。

彼は、ふと我にかえった。

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彼はふと、われに返った。

すでに仏の心を得て、人々のために身を砕く苦しみを嘗めている高徳の聖に対し、深夜の闇に乗じて、追い剥ぎのように、獣のように、怒りの剣を抜きかけている自分を省みると、彼は強い戦慄が体を伝って流れるのを感じた。

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すでに仏心を得て、衆生のために、砕身の苦を嘗めている高徳のひじりに対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚しんいの剣を抜きそばめている自分をかえりみると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。

洞窟を揺るがすその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とが、実之助の心を粉々に打ち砕いてしまった。

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洞窟を揺がせるその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心を散々に打ち砕いてしまった。

彼は、いさぎよく完成の日を待ち、約束が果たされるのを待つよりほかはないと思った。

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彼は、潔く竣成の日を待ち、その約束の果さるるのを待つよりほかはないと思った。

実之助は、深い感激を抱きながら、洞窟の外の月の光を目指して、外へ這い出たのである。

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実之助は、深い感激を懐きながら、洞外の月光を目指し、洞窟の外に這い出たのである。

そのことがあってから間もなく、刳貫の工事に加わる石工たちの中に、武家姿の実之助の姿が見られるようになった。

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そのことがあってから間もなく、刳貫の工事に従う石工のうちに、武家姿の実之助の姿が見られた。

彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち退こうというような険しい心は、少しも持っていなかった。

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彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち退こうというような険しい心は、少しも持っていなかった。

了海が逃げも隠れもしないと知ると、彼は好意をもって、了海が一生の大願を成し遂げる日を待ってやろうと思っていた。

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了海が逃げも隠れもせぬことを知ると、彼は好意をもって、了海がその一生の大願を成就する日を、待ってやろうと思っていた。

だが、それにしても、ぼんやり待っているよりも、自分もこの大事業に一肌脱ぐことで、いくらかでも仇討ちの日を早められるはずだと悟ると、実之助は自ら石工に交じって槌を振り始めたのである。

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が、それにしても、茫然と待っているよりも、自分もこの大業に一の力を尽くすことによって、いくばくかでも復讐の期日が短縮せられるはずであることを悟ると、実之助は自ら石工に伍して、槌を振い始めたのである。

仇と仇とが、並んで槌を下ろした。

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敵と敵とが、相並んで槌を下した。

実之助は、本懐を遂げる日が一日でも早く来るようにと、懸命に槌を振った。

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実之助は、本懐を達する日の一日でも早かれと、懸命に槌を振った。

了海は、実之助が現れてからは、一日も早く大願を成就して、この孝行な息子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。

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了海は実之助が出現してからは、一日も早く大願を成就して孝子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。

彼は、またいっそう精進の勇を奮い起こして、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。

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彼は、また更に精進の勇を振って、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。

そのうちに、月が去り、月が来た。

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そのうちに、月が去り月が来た。

実之助の心は了海の大勇猛心に動かされ、彼自身、刳貫の大事業の中に仇への恨みを忘れかけることが多くなっていた。

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実之助の心は、了海の大勇猛心に動かされて、彼自ら刳貫の大業に讐敵しゅうてきの怨みを忘れようとしがちであった。

石工たちが昼の疲れを休めている真夜中にも、仇と仇とは並んで、黙々と槌を振っていた。

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石工共が、昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。

それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下ろしてから二十一年目、実之助が了海にめぐり会ってから一年六カ月を経た、延享三年九月十日の夜であった。

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それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享えんきょう三年九月十日の夜であった。

この夜も、石工たちはことごとく小屋に引き上げ、了海と実之助だけが、一日じゅうの疲れにも負けず懸命に槌を振っていた。

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この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。

その夜、九つ近いころ、了海が力を込めて振り下ろした槌が、朽ち木を打つように何の手ごたえもなく力余り、槌を持った右の手のひらが岩に当たったので、彼は「あっ」

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その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」

と、思わず声を上げた。

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と、思わず声を上げた。

そのときであった。

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その時であった。

了海のかすんだ老いた目にも、まぎれもなく、その槌が破った小さな穴から、月の光に照らされた山国川の姿が、ありありと映ったのである。

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了海の朦朧たる老眼にも、まぎれなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。

了海は「おう」

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了海は「おう」

と、全身を震わせるような、何とも言いようのない叫び声を上げたかと思うと、それに続いて、狂ったかと思われるほどの歓喜の泣き笑いが、洞窟をすさまじく揺さぶったのである。

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と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺うごめかしたのである。

「実之助どの。ご覧なされ。二十一年の大誓願、はからずも今宵、成就いたした」

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「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」

こう言いながら、了海は実之助の手を取って、小さな穴から山国川の流れを見せた。

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こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。

その穴の真下に黒ずんだ土が見えるのは、まぎれもなく岸に沿った街道であった。

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その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。

仇と仇とは、そこで手を取り合って、大きな歓喜の涙にむせんだのである。

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敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。

だが、しばらくすると了海は身を引いて、

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が、しばらくすると了海は身を退すさって、

「さあ、実之助殿、約束の日じゃ。お斬りなされ。これほどの法悦の真っただ中で往生するのなら、極楽浄土に生まれること、間違いござらぬ。さあ、お斬りなされ。明日にもなれば、石工どもが邪魔をいたそう、さあ、お斬りなされ」

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「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」

と、彼のしわがれた声が、洞窟の夜の空気に響いた。

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と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。

だが、実之助は了海の前に手をこまねいて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。

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が、実之助は、了海の前に手をこまねいて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。

心の底から湧き出す歓喜に泣くしなびた老僧を見ていると、彼を仇として殺すことなど、思いも寄らなかった。

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心の底から湧き出ずる歓喜に泣くしなびた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。

仇を討とうという心よりも、このか弱い人間の両の腕によって成し遂げられた偉業への驚きと感激とで、胸がいっぱいであった。

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敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双のかいなによって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。

彼はいざり寄りながら、ふたたび老僧の手を取った。

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彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。

二人はそこで、すべてを忘れて、感激の涙にむせび合ったのであった。

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二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。