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父帰る 小学生向け

菊池寛きくちかん)・1988

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

登場人物

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人物

黒田賢一郎(けんいちろう) 二十八歳

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黒田賢一郎     二十八歳

その弟 新二郎(しんじろう) 二十三歳

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その弟  新二郎  二十三歳

その妹 おたね 二十歳

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その妹  おたね  二十歳

三人の母 おたか 五十一歳

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彼らの母 おたか  五十一歳

三人の父 宗太郎(そうたろう)

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彼らの父 宗太郎

時代

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明治四十年ごろ

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明治四十年頃

場所

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南海道(なんかいどう)の海沿いにある小さな町

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南海道の海岸にある小都会

舞台の様子 ふつうの暮らし向きの家、六畳の部屋。正面にたんすがあり、その上に目覚まし時計が置いてある。

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情景 中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があって、その上に目覚時計が置いてある。

前に長火鉢(ながひばち)があり、やかんから湯気が立っている。

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前に長火鉢あり、薬缶から湯気が立っている。

ちゃぶ台が出してある。

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卓子台ちゃぶだいが出してある。

賢一郎は役所から帰って和服に着替えたばかりで、くつろいで新聞を読んでいる。

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賢一郎、役所から帰って和服に着替えたばかりと見え、くつろいで新聞を読んでいる。

母のおたかが縫い物をしている。

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母のおたかが縫物をしている。

夜の七時に近く、外は暗い。十月の初め。

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午後七時に近く戸外はくらし、十月の初め。

賢一郎 おかあさん、おたねはどこへ行ったの。

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賢一郎 おたあさん、おたねはどこへ行ったの。

母   仕立て物を届けに行ったよ。

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母   仕立物を届けに行った。

賢一郎 まだ仕立て物をしてるの。

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賢一郎 まだ仕立物をしとるの。

もう他所の家の仕事なんか、しなくていいのに。

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もう人のうちの仕事やこし、せんでもええのに。

母   そうやけど、嫁に行く時に一枚でも多く良い着物を持って行きたいんだろうよ。

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母   そうやけど嫁入りの時に、一枚でも余計ええ着物を持って行きたいのだろうわい。

賢一郎 (新聞を裏返しながら)この間言ってた縁談はどうなったの。

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賢一郎 (新聞の裏を返しながら)この間いうとった口はどうなったの。

母   たねが、少し相手が気に入らないんだろうよ。

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母   たねが、ちいと相手が気に入らんのだろうわい。

向こうはぜひにとせがんでいたんだけどねえ。

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向こうはくれくれいうてせがんどったんやけれどものう。

賢一郎 財産があるという人なんだから、いい縁談じゃないか。

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賢一郎 財産があるという人やけに、ええ口やがなあ。

母   でもね、一万や二万の財産は使い始めたら何の役にも立たないよ。

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母   けんど、一万や、二万の財産は使い出したら何の役にもたたんけえな。

うちだってお母さんが嫁に来た時には公債(こうさい)や土地で二、三万円はあったんだけど、お父さんが道楽(どうらく)して使い始めたら、笹の葉を振るようにあっという間になくなってしまったよ。

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うちでもおたあさんが来た時には公債や地所で、二、三万円はあったんやけど、お父さんが道楽して使い出したら、笹につけて振るごとしじゃ。

賢一郎 (嫌な記憶を思い出したように黙っている)……。

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賢一郎 (不快なる記憶を呼び起したるごとく黙している)……。

母   私は自分でこりごりしているから、たねには財産よりも人柄の良い人のところへやろうと思っている。

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母   私は自分で懲々こりごりしとるけに、たねは財産よりも人間のええ方へやろうと思うとる。

財産がなくても、夫(おっと)の心がけが良ければ一生苦労しないで済むからね。

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財産がのうても、亭主の心掛がよかったら一生苦労せいで済むけにな。

賢一郎 財産があって、人柄も良ければ、なおいいでしょう。

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賢一郎 財産があって、人間がよけりゃ、なおいいでしょう。

母   そんなことが望めるものかね。

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母   そんなことが望めるもんけ。

おたねがいくら器量よしでも、うちにはお金がないんだからね。

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おたねがなんぼ器量よしでも、うちには金がないんやけにな。

この頃のことだから、少し支度をしても三百円や五百円はすぐかかるからねえ。

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この頃のことやけに、少し支度をしても三百円や五百円はすぐかかるけにのう。

賢一郎 おたねも、お父さんのせいで子供の時にずいぶん苦労したんだから、嫁入りの支度だけでもできるだけのことはしてやらないといけない。

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賢一郎 おたねも、お父さんのために子供の時ずいぶん苦労をしたんやけに、嫁入りの支度だけでもできるだけのことはしてやらないかん。

僕たちの貯金が千円になったら半分はあの子にやってもいい。

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私たちの貯金が千円になったら半分はあれにやってもええ。

母   そんなにしなくていいよ、三百円かけてやればいい。

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母   そんなにせいでも、三百円かけてやったらええ。

その後でお前にも嫁をもらったら私も一安心だよ。

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その後でお前にも嫁を貰うたらわしも一安心するんや。

私は夫運は悪かったけど子供運はいいと皆が言ってくれる。

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わしは亭主運が悪かったけど子供運はええいうて皆いうてくれる。

お父さんに出て行かれた時はどうしようと思ったけどねえ……。

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お父さんに行かれた時はどうしようと思ったがのう……。

賢一郎 (話を変えるように)新はだいぶ遅いな。

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賢一郎 (話題を転ずるために)新は大分遅いな。

母   当直(とうちょく)だから遅くなるんだよ。

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母   宿直やけに、遅うなるんや。

新は今月からまた給料が上がるといっていたよ。

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新は今月からまた月給が上るというとった。

賢一郎 そうですか。

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賢一郎 そうですか。

あいつは中学校でよくできたから、小学校の先生をするのは不満だろうけど、自分で勉強さえすればいくらでも出世はできるんだから。

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あいつは中学校でよくできたけに、小学校の先生やこしするのは不満やろうけど、自分で勉強さえしたらなんぼでも出世はできるんやけに。

母   お前の嫁も探してもらっているんだけど、いい人がいなくてねえ。

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母   お前の嫁も探してもろうとんやけど、ええのがのうてのう。

園田(そのだ)さんの娘さんならいいけど、少し向こうの方が家柄が上だからくれないかもしれないしね。

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園田の娘ならええけど、少し向うの方が格式が上やけにくれんかも知れんでな。

賢一郎 まだ二、三年はいいでしょう。

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賢一郎 まだ二、三年はええでしょう。

母   でもおたねをよそへやるとなると、どうしてももらわないといけない。

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母   でもおたねをほかへやるとすると、ぜひにも貰わないかん。

それで決まるんだからね。

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それで片が付くんやけに。

お父さんが家出(いえで)した時には、三人の子供を抱えてどうしようと思ったものだが……。

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お父さんが出奔しゅっぽんした時には三人の子供を抱えてどうしようと思ったもんやが……。

賢一郎 もう昔のことをいっても仕方がないじゃないですか。

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賢一郎 もう昔のことをいうても仕方がないんやけえに。

(表の格子戸が開いて新二郎が帰って来る。

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(表の格子開き新二郎帰って来る。

小学校の先生をしている、顔立ちの良い若者だ)

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小学教師にして眉目秀れたる青年なり)

新二郎 ただいま。

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新二郎 ただいま。

母   ああ、おかえり。

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母   やあおかえり。

賢一郎 ずいぶん遅かったじゃないか。

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賢一郎 大変遅かったじゃないか。

新二郎 今日は調べ物がたくさんあって、参ってしまったよ。

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新二郎 今日は調べものがたくさんあって、閉口してしもうた。

ああ肩が凝った。

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ああ肩が凝った。

母   さっきからご飯にしようと思って待っていたんだよ。

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母   さっきから御飯にしようと思って待っとったんや。

賢一郎 ご飯が済んだらお風呂へ行ってくるといいよ。

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賢一郎 御飯がすんだら風呂へ行って来るとええ。

新二郎 (和服に着替えながら)おかあさん、たねは。

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新二郎 (和服に着替えながら)おたあさん、たねは。

母   仕立て物を持って行っているんだよ。

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母   仕立物を持って行っとんや。

新二郎 (和服になってくつろぎながら)兄さん!

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新二郎 (和服になってくつろぎながら)兄さん!

 今日僕は不思議なうわさを聞いたんですがね。

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 今日僕は不思議な噂をきいたんですがね。

杉田(すぎた)校長が古新町(こしんまち)で、うちのお父さんによく似た人に会ったというんですよ。

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杉田校長が古新町で、うちのお父さんによく似た人に会ったというんですがね。

母と兄 うーむ。

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母と兄 うーむ。

新二郎 杉田さんが、古新町の旅館(りょかん)が並んでいる所を歩いていると、前に六十歳くらいの老人がいた。

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新二郎 杉田さんが、古新町の旅籠屋はたごやが並んどる所を通っとると、前に行く六十ばかりの老人がある。

よく見るとどこかで見たことがあるような気がして、近づいて横顔を見ると、うちのお父さんに似ていたというんです。

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よく見るとどうも見たようなことがあると思って、近づいて横顔を見ると、うちのお父さんに似ていたというんです。

どうも宗太郎さんらしい、宗太郎さんなら右の頬(ほお)にほくろがあるはずだから、ほくろがあったら声をかけようと思って近づこうとすると、水神(すいじん)さんの横丁へこそこそと入ってしまったというんです。

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どうも宗太郎さんらしい、宗太郎さんなら右の頬にほくろがあるはずじゃけに、ほくろがあったら声をかけようと思って、近よろうとすると水神さんの横町へ、こそこそとはいってしもうたというんです。

母   杉田さんならお父さんの幼なじみで、一緒に槍(やり)の稽古をしていた人だから、見間違うことはないだろう。

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母   杉田さんなら、お父さんの幼な友達で、一緒に槍の稽古をしていた人やけに、見違うこともないやろう。

でももうお前、二十年にもなるんだからねえ。

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けどもうお前、二十年にもなるんやけにのう。

新二郎 杉田さんもそういっていましたよ。

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新二郎 杉田さんもそういうとったです。

何しろ二十年も会わないんだから確かなことはいえないけど、子供の時から付き合った宗太郎さんだから、まったく見間違えたともいえないって。

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何しろ二十年も会わんのやけに、しっかりしたことはいえんけど、子供の時から交際つきおうた宗太郎さんやけに、まるきり見違えたともいえんいうてな。

賢一郎 (不安そうに目を光らせて)じゃ、杉田さんは声をかけなかったんだね。

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賢一郎 (不安な瞳を輝かして)じゃ、杉田さんは言葉をかけなかったのだね。

新二郎 ほくろがあったら名乗るつもりでいたんだって。

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新二郎 ほくろがあったら名乗る心算つもりでいたのやって。

母   まあ、それは杉田さんの見間違いだろうよ。

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母   まあ、そりゃ杉田さんの見違いやろうな。

同じ町に帰ったなら、自分が生まれた家に帰らないことはないからねえ。

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同じ町へ帰ったら自分の生れたうちに帰らんことはないけにのう。

賢一郎 しかし、お父さんはうちの敷居(しきい)はちょっと越せないだろう。

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賢一郎 しかし、お父さんはうちの敷居はちょっと越せないやろう。

母   私はもう死んだと思っているよ、家出してから二十年になるんだから。

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母   私はもう死んだと思うとんや、家出してから二十年になるんやけえ。

新二郎 いつか、岡山で会った人があるというんでしょう。

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新二郎 いつか、岡山で会った人があるというんでしょう。

母   あれも、もう十年も前のことだよ。

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母   あれも、もう十年も前のことじゃ。

久保の忠太(ちゅうた)さんが岡山へ行った時、うちのお父さんがライオンや虎などの動物を連れて興行(こうぎょう)していたとかで、忠太さんを料理屋に呼んでご馳走をしてうちの様子を聞いたんだって。

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久保の忠太さんが岡山へ行った時、うちのお父さんが、獅子や虎の動物を連れて興行しとったとかで、忠太さんを料理屋へ呼んで御馳走をしてうちの様子をきいたんやて。

その時は金時計を帯(おび)に差したり、絹の着物ばかりで大変羽振りが良かったといっていた。

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その時は金時計を帯にさげたり、絹物ずくめでえらい勢いであったいうとった。

それからはなんの連絡もないんだよ。

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それからはなんの音沙汰もないんや。

あれは戦争のあった翌年だから、もう十二、三年になるねえ。

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あれは戦争のあった明くる年やけに、もう十二、三年になるのう。

新二郎 お父さんはなかなか変わった人だったんだね。

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新二郎 お父さんはなかなか変っとったんやな。

母   若い時からうちの学問はしないで、山師(やまし)みたいなことが好きだったんだよ。

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母   若い時からうちの学問はせんで、山師のようなことが好きであったんや。

あんなに借金ができたのも道楽ばかりじゃないんだよ。

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あんなに借金ができたのも道楽ばっかりではないんや。

中国へ薬を売り出すとかいって損をしたんだよ。

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支那へ千金丹を売り出すとかいうて損をしたんや。

賢一郎 (少し嫌そうな顔をして)おかあさん、ご飯を食べましょう。

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賢一郎 (やや不快な表情をして)おたあさんおまんまを食べましょう。

母   ああそうだそうだ。

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母   ああそうやそうや。

つい忘れていた。

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つい忘れとった。

(台所の方へ立って行く、姿は見えないで)杉田さんが見たというのも何かの間違いだろう。

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(台所の方へ立って行く、姿は見えずに)杉田さんが見たというのもなんぞの間違いやろ。

生きていたなら年が年だから、はがきの一枚でもよこすだろう。

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生きとったら年が年やけに、はがきの一本でもよこすやろ。

賢一郎 (少し真剣に)杉田さんがその男に会ったのはいつのことだ。

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賢一郎 (やや真面目に)杉田さんがその男に会うたのは何日いつのことや。

新二郎 昨日の晩の九時ごろだということです。

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新二郎 昨日の晩の九時頃じゃということです。

賢一郎 どんな身なりをしていたんだ。

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賢一郎 どんな身なりをしておったんや。

新二郎 あまり良い身なりじゃないそうです。

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新二郎 あんまり、ええなりじゃないそうです。

羽織(はおり)も着ていなかったということです。

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羽織も着ておらなんだということです。

賢一郎 そうか。

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賢一郎 そうか。

新二郎 兄さんが覚えているお父さんはどんな様子でしたか。

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新二郎 兄さんが覚えとるお父さんはどんな様子でした。

賢一郎 俺は覚えていない。

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賢一郎 わしは覚えとらん。

新二郎 そんなことはないでしょう。

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新二郎 そんなことはないでしょう。

兄さんは八歳だったんだから。

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兄さんは八つであったんやけに。

僕だってぼんやり覚えているのに。

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僕だってぼんやり覚えとるに。

賢一郎 俺は覚えていない。

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賢一郎 わしは覚えとらん。

昔は覚えていたけど、一生懸命忘れようとしたから。

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昔は覚えとったけど、一生懸命に忘れようと、かかったけに。

新二郎 杉田さんはよくお父さんの話をしますよ。

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新二郎 杉田さんは、よくお父さんの話をしますぜ。

お父さんは若い時は良い男だったそうですね。

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お父さんは若い時は、ええ男であったそうですな。

母   (台所から食事を運びながら)そうだよ、お父さんは評判の良い男だったんだよ。

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母   (台所から食事を運びながら)そうや、お父さんは評判のええ男であったんや。

お父さんが殿様(とのさま)のお小姓(こしょう)をしていた時に、奥女中(おくじょちゅう)がお箸箱(はしばこ)に恋の歌を添えて送って来たという話があるんだよ。

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お父さんが、大殿様のお小姓をしていた時に、奥女中がお箸箱に恋歌を添えて、送って来たという話があるんや。

新二郎 なんのために箸箱をくれたんだろう、ははははは。

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新二郎 なんのために、箸箱をくれたんやろう、ははははは。

母   丑(うし)の年だから、今年で五十八だよ。

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母   丑の年やけに、今年は五十八じゃ。

家にじっとしていれば、もう楽に隠居(いんきょ)している時分(じぶん)なのにねえ。

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家にじっとしておれば、もう楽隠居をしている時分じゃがな。

(三人で食事にかかる)

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(三人食事にかかる)

母   たねも、もう帰ってくるだろう。

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母   たねも、もう帰ってくるやろう。

もうめっきり寒くなったね。

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もうめっきり寒うなったな。

新二郎 おかあさん、今日浄願寺(じょうがんじ)のムクの木でモズが鳴いていましたよ。

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新二郎 おたあさん、今日浄願寺のむくの木で百舌もずが鳴いとりましたよ。

もう秋だ。……

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もう秋じゃ。……

兄さん、僕はやっぱり英語の検定をとることにしました。

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兄さん、僕はやっぱり、英語の検定をとることにしました。

数学には良い先生がいないから。

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数学にはええ先生がないけに。

賢一郎 いいだろう。

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賢一郎 ええやろう。

やはり、エレクソンさんのところへ通うのか。

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やはり、エレクソンさんとこへ通うのか。

新二郎 そうしようと思っているんです。

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新二郎 そうしようと、思っとるんです。

宣教師(せんきょうし)だと月謝がいらないし。

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宣教師じゃと月謝がいらんし。

賢一郎 うむ、何しろ一生懸命にやるんだな。父親の力を借りなくても一人前の人間になれるということを知らせるために勉強するんだぞ。

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賢一郎 うむ、何しろ一生懸命にやるんだな、父親てておやの力は借らんでも一人前の人間にはなれるということを知らせるために、勉強するんじゃな。

俺も高等文官(こうとうぶんかん)の試験を受けようと思っていたけど、規則が変わって中学校を出ていないと受けられなくなったから、諦めているんだ。

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わしも高等文官をやろうと思うとったけど、規則が改正になって、中学を出とらな受けられんいうことになったから、諦めとんや。

お前は中学校を卒業しているんだから、一生懸命やってくれないといけない。

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お前は中学校を卒業しとるんやけに、一生懸命やってくれないかん。

(この時、格子戸が開いて、おたねが帰って来る。

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(この時、格子が開いて、おたねが帰って来る。

色白で器量の良い娘だ)

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色白く十人並以上の娘なり)

おたね ただいま。

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おたね ただいま。

母   遅かったねえ。

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母   遅かったのう。

おたね また次の仕立て物を頼まれたりなにかしていたから。

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おたね また次のものを頼まれたり、何かしとったもんやけに。

母   さあご飯をお食べ。

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母   さあ御飯おたべ。

おたね (座りながら、少し不安そうな顔で)兄さん、今帰って来るとね、家の向かい側に年寄りの人がいて、うちの玄関の方をじっと見ているんだよ。

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おたね (座りながら、やや不安なる表情にて)兄さん、今帰って来るとな、うちの向う側に年寄の人がいて家の玄関の方をじーと見ているんや。

(三人とも不安な顔になる)

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(三人とも不安な顔になる)

賢一郎 うーむ。

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賢一郎 うーむ。

新二郎 どんな人だ。

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新二郎 どんな人だ。

おたね 暗くて分からなかったけど、背の高い人だよ。

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おたね 暗くて、分からなんだけど、背の高い人や。

新二郎 (立って隣の間へ行き、窓からのぞく)……。

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新二郎 (立って次の間へ行き、窓から覗く)……。

賢一郎 誰かいるか。

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賢一郎 誰かいるかい。

新二郎 いや、誰もいない。

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新二郎 いいや、誰もおらん。

(兄弟三人黙っている)

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(兄弟三人沈黙している)

母   あの人が家を出たのはお盆の三日後だったんだよ。

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母   あの人が家を出たのは盆の三日後であったんや。

賢一郎 おかあさん、昔のことはもう言わないようにしてください。

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賢一郎 おたあさん、昔のことはもういわんようにして下さい。

母   私も若い時は恨んでいたけど、年を取るとなんとなく気持ちが弱くなってきてね。

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母   わしも若い時は恨んでいたけども、年が寄るとなんとなしに心が弱うなってきてな。

(四人は黙って食事をしている。

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(四人は黙って、食事をしている。

突然表の戸がガラッと開く。賢一郎の顔と母の顔とに最も大きな衝撃(しょうげき)が走る。

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ふいに表の戸がガラッと開く、賢一郎の顔と、母の顔とが最も多く激動を受ける。

しかしその衝撃の中身はまったく違っている)

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しかしその激動の内容は著しく違っている)

男の声 ごめん!

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男の声 御免!

おたね はい!

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おたね はい!

 (しかし彼女も立ち上がろうとはしない)

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 (しかし彼女も立ち上ろうとはしない)

男の声 おたかはいないか?

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男の声 おたかはおらんかの?

母   はい!

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母   へえ!

 (引き寄せられるように玄関へ行く、以下は声だけ聞こえる)

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 (吸いつけられるように玄関へ行く、以下声ばかり聞える)

男の声 おたかか!

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男の声 おたかか!

母の声 まあ!

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母の声 まあ!

 お前さんか、ずいぶん!

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 お前さんか、えろう!

 変わったねえ。

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 変ったのう。

(二人とも涙ぐんだ声を出している)

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(二人とも涙ぐみたる声を出している)

男の声 まあ!

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男の声 まあ!

 達者で何よりだ。

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 丈夫たっしゃで何よりじゃ。

子供たちは大きくなっただろうな。

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子供たちは大きくなったやろうな。

母の声 大きくなったとも、みんなもう立派な大人だよ。

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母の声 大きゅうなったとも、もう皆立派な大人じゃ。

上がってお見なさい。

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上ってお見まあせ。

男の声 上がってもいいかい。

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男の声 上ってもええかい。

母の声 いいとも。

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母の声 ええとも。

(二十年ぶりに帰った父の宗太郎が、やつれ果てた様子で年老いた妻に連れられて部屋に入って来る。新二郎とおたねとは目をぱちぱきさせながら、父の姿をしみじみと見つめていたが)

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(二十年振りに帰れる父宗太郎、憔悴したる有様にて老いたる妻に導かれて室に入り来る、新二郎とおたねとは目をしばたたきながら、父の姿をしみじみ見つめていたが)

新二郎 お父さんですか、僕が新二郎です。

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新二郎 お父さんですか、僕が新二郎です。

父   立派な男になったな、お前に別れた時はまだちゃんと立てもしなかったが……。

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父   立派な男になったな、お前に別れた時はまだろくに立てもしなかったが……。

おたね お父さん、私がたねです。

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おたね お父さん、私がたねです。

父   女の子だということは聞いていたが、いい器量だねえ。

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父   女の子ということはきいていたが、ええ器量じゃなあ。

母   まあ、お前さん、何から話していいか。

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母   まあ、お前さん、何から話してええか。

子供もこんなに大きくなってね、何より嬉しいと思っているよ。

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子供もこんなに大きゅうなってな、何より結構やと思うとんや。

父   親なくとも子は育つというが、よく言ったものだな、ははははは。

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父   親はなくとも子は育つというが、よういうてあるな、ははははは。

(しかし誰もその笑いに合わせようとする者はいない。

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(しかし誰もその笑いに合せようとするものはない。

賢一郎は卓(つくえ)にもたれたまま、下を向いて黙っている)

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賢一郎は卓にったまま、下を向いて黙している)

母   お前さん、賢も新もよくできた子でね。

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母   お前さん、賢も新もようでけた子でな。

賢はね、二十歳の年に普通文官(ふつうぶんかん)の試験に受かるし、新は中学校へ行っていた時に三番を下回ったことがないんだよ。

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賢はな、二十の年に普通文官いうものが受かるし、新は中学校へ行っとった時に三番と降ったことがないんや。

今では二人で六十円も稼いでくれるし、おたねはおたねでこんな器量よしだから、いいところから縁談(えんだん)が来るしね。

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今では二人で六十円も取ってくれるし、おたねはおたねで、こんな器量よしやけに、ええ所から口がかかるしな。

父   それは何より嬉しいことだ。

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父   そら何より結構なことや。

俺も四、五年前までは、二、三十人も人を連れて、ずっと各地を回って興行していたんだがね。

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わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。

呉(くれ)で見世物小屋(みせものごや)が全焼(ぜんしょう)したために、大きな損害を受けてね。

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呉で見世物小屋が丸焼になったために、えらい損害を受けてな。

それからは何をしてもうまくいかないよ。

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それからは何をしても思わしくないわ。

そのうちに先が短くなってくる、女房や子供のいる所が恋しくなってふらりと帰って来たんだよ。

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その内に老先おいさきが短くなってくる、女房子のいる所が恋しゅうなってうかうかと帰って来たんや。

残りの人生も長くない者だから、みんなよく頼むぞ。

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老先の長いこともない者やけに皆よう頼むぜ。

(賢一郎をじっと見て)さあ賢一郎!

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(賢一郎を注視して)さあ賢一郎!

 その杯(さかずき)を一つ差してくれないか、お父さんも近頃はいい酒も飲めなくてね。

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 その杯を一つさしてくれんか、お父さんも近頃はええ酒も飲めんでのう。

うん、お前だけは顔に見覚えがあるよ。

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うん、お前だけは顔に見おぼえがあるわ。

(賢一郎は応じない)

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(賢一郎応ぜず)

母   さあ、賢や、お父さんがああおっしゃるんだから。

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母   さあ、賢や、お父さんが、ああおっしゃるんやけに。

さあ、久しぶりに親子が会うんだから祝ってね。

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さあ、久し振りに親子が会うんじゃけに祝うてな。

(賢一郎は応じない)

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(賢一郎応ぜず)

父   じゃ、新二郎、お前一つ、杯をくれ。

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父   じゃ、新二郎、お前一つ、杯をくれえ。

新二郎 はあ。

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新二郎 はあ。

(杯を取り上げて父に差そうとする)

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(杯を取り上げて父にささんとす)

賢一郎 (きっぱりと)やめろ。

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賢一郎 (決然として)止めとけ。

差すわけにはいかない。

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さすわけはない。

母   何を言うんだ、賢は。

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母   何をいうんや、賢は。

(父は激しい目で賢一郎をにらんでいる。

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(父親、激しい目にて賢一郎を睨んでいる。

新二郎もおたねも下を向いて黙っている)

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新二郎もおたねも下を向いて黙っている)

賢一郎 (堂々と)僕たちに父親がいるはずはない。

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賢一郎 (昂然と)僕たちに父親てておやがあるわけはない。

そんなものがいるものか。

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そんなものがあるもんか。

父   (激しい怒りをこらえながら)なんだと!

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父   (激しき憤怒を抑えながら)なんやと!

賢一郎 (少し冷たく)俺たちに父親がいれば、八歳の年に港(みなと)からおかあさんに手を引かれて身投げをしないで済んでいる。

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賢一郎 (やや冷やかに)俺たちに父親てておやがあれば、八歳やっつの年に築港からおたあさんに手を引かれて身投げをせいでも済んどる。

あの時おかあさんが間違えて水の浅い所に飛び込んだからこそ、助かっているんだ。

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あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。

俺たちに父親がいれば、十歳から給仕(きゅうじ)をしないで済んでいる。

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俺たちに父親てておやがあれば、十の年から給仕をせいでも済んどる。

俺たちは父親がいないために、子供の時に何の楽しみもなく暮らしてきたんだ。

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俺たちは父親てておやがないために、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。

新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えなくて泣いていたのを忘れたのか。

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新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いていたのを忘れたのか。

教科書さえ満足に買えなくて、書き写した本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか。

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教科書さえ満足に買えないで、写本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか。

俺たちに父親がいるものか、いればあんな苦労はしていない。

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俺たちに父親てておやがあるもんか、あればあんな苦労はしとりゃせん。

(おたかとおたねは泣いている。

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(おたか、おたね泣いている。

新二郎は涙ぐんでいる。

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新二郎涙ぐんでいる。

年老いた父も怒りから悲しみに変わりかけている)

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老いたる父も怒りから悲しみに移りかけている)

新二郎 しかし兄さん、おかあさんが第一ああして折れ合っているんだから、たいていのことは我慢してくれたらどうですか。

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新二郎 しかし、兄さん、おたあさんが、第一ああ折れ合っているんやけに、たいていのことは我慢してくれたらどうです。

賢一郎 (なお落ち着いて)おかあさんは女だからどう思っているか知らないが、俺に父親がいるとしたら、それは俺の仇(かたき)だ。

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賢一郎 (なお冷静に)おたあさんは女子やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親てておやがあるとしたら、それは俺のかたきじゃ。

俺たちが小さい時に、腹が減ったり辛いことがあって、おかあさんに不満を言うと、おかあさんは口ぐせのように「みんなお父さんのせいだ、恨むならお父さんを恨め」

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俺たちが小さい時に、ひもじいことや辛いことがあって、おたあさんに不平をいうと、おたあさんは口癖のように「皆お父さんのせいじゃ、恨むのならお父さんを恨め」

と言っていた。

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というていた。

俺にお父さんがいるとしたら、それは俺を子供の時からずっと苦しめた仇だ。

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俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵じゃ。

俺は十歳から県庁の給仕をするし、おかあさんはマッチの内職をするし、いつかおかあさんのマッチの仕事が一か月ばかりなかった時に、親子四人で昼ごはんを抜いたのを忘れたのか。

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俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。

俺が一生懸命に勉強したのはみんなその仇を取りたいからだ。

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俺が一生懸命に勉強したのは皆そのかたきを取りたいからじゃ。

俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。

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俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。

父親に捨てられても一人前の人間にはなれるということを知らせてやりたいからだ。

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父親てておやに捨てられても一人前の人間にはなれるということを知らしてやりたいからじゃ。

俺は父親から少しだって愛された覚えはない。

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俺は父親てておやから少しだって愛された覚えはない。

俺の父親は俺が八歳になるまで家を空けて飲み歩いていたのだ。

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俺の父親てておやは俺が八歳やっつになるまで家を外に飲み歩いていたのだ。

そのあげくに不正な借金を作り、愛人(あいじん)を連れて逃げ出したのだ。

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その揚げ句に不義理な借金をこさえ情婦を連れて出奔しゅっぽんしたのじゃ。

女房と子供三人への愛情を合わせても、その女には敵わなかったのだ。

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女房と子供三人の愛を合わしても、その女に叶わなかったのじゃ。

いや、俺の父親がいなくなった後には、おかあさんが俺のために預けておいてくれた十六円の貯金の通帳(つうちょう)までなくなっていたんだ。

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いや、俺の父親てておやがいなくなった後には、おたあさんが俺のために預けておいてくれた十六円の貯金の通帳かよいちょうまで無くなっておったもんじゃ。

新二郎 (涙をこらえながら)しかし兄さん、お父さんはあの通り、あの通りお年を召されているんだから……。

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新二郎 (涙を呑みながら)しかし兄さん、お父さんはあの通り、あの通りお年を召しておられるんじゃけに……。

賢一郎 新二郎!

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賢一郎 新二郎!

 お前はよくお父さんなどと白々(しらじら)しいことが言えるな。

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 お前はよくお父さんなどと空々しいことがいえるな。

見も知らない他人がひょっこり入って来て、俺たちの親だと言ったからといって、すぐに父に対する気持ちを持つことができるのか。

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見も知らない他人がひょっくり入ってきて、俺たちの親じゃというたからとて、すぐに父に対する感情を持つことができるんか。

新二郎 しかし兄さん、血のつながった子として、親がどうあろうとも養っていく……。

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新二郎 しかし兄さん、肉親の子として、親がどうあろうとも養うて行く……。

賢一郎 義務があるというのか。

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賢一郎 義務があるというのか。

自分でさんざん好き勝手なことをしておいて、年を取って動けなくなったといって帰ってくる。

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自分でさんざん面白いことをしておいて、年が寄って動けなくなったというて帰ってくる。

俺はお前が何と言っても父親はいない。

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俺はお前がなんといっても父親てておやはない。

父   (腹を立てて言う、しかしそれは見せかけの怒りで何の力も伴っていない)賢一郎!

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父   (憤然として物をいう、しかしそれは飾った怒りでなんの力も伴っていない)賢一郎!

 お前は生みの親に対してよくそんな口が利けるのう。

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 お前は生みの親に対してよくそんな口が利けるのう。

賢一郎 生みの親というのですか。

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賢一郎 生みの親というのですか。

あなたが生んだという賢一郎は二十年も前に港で死んでいる。

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あなたが生んだという賢一郎は二十年も前に築港で死んでいる。

あなたは二十年前に父としての権利を自分で捨てている。

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あなたは二十年前に父としての権利を自分で捨てている。

今の俺は自分で作り上げた俺だ。

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今のわしは自分で築きあげたわしじゃ。

俺は誰にだって世話になっていない。

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わしは誰にだって、世話になっておらん。

(全員無言、おたかとおたねのすすり泣く声が聞こえるだけ)

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(すべて無言、おたかとおたねのすすりなきの声がきこえるばかり)

父   いいよ、出て行く。

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父   ええわ、出て行く。

俺だって二万や三万の金を扱ってきた男だ。

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俺だって二万や三万の金は取り扱うてきた男じゃ。

どんなに落ちぶれたといって、食べるくらいのことはできるよ。

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どなに落ちぶれたかというて、食うくらいなことはできるわ。

えらく邪魔をしたな。

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えろう邪魔したな。

(しょんぼりと立ち去ろうとする)

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(悄然と行かんとす)

新二郎 まあ、お待ちください。

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新二郎 まあ、お待ちまあせ。

兄さんが嫌だというのなら僕がなんとかしてあげます。

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兄さんが厭だというのなら僕がどうにかしてあげます。

兄さんだって親子ですから、いつか気持ちが直ることがあるでしょう。

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兄さんだって親子ですから、今に機嫌の直ることがあるでしょう。

お待ちください。

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お待ちまあせ。

僕がどんなことをしても養ってあげますから。

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僕がどななことをしても養うて上げますから。

賢一郎 新二郎!

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賢一郎 新二郎!

 お前はその人に何か世話になったことがあるのか。

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 お前はその人になんぞ世話になったことがあるのか。

俺はまだその人からげんこつの一つや二つはもらったことがあるが、お前はほこり一つだってもらってはいないぞ。

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俺はまだその人から拳骨の一つや二つは貰ったことがあるが、お前は塵一つだって貰ってはいないぞ。

お前の小学校の月謝(げっしゃ)は誰が出したのだ。

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お前の小学校の月謝は誰が出したのだ。

お前は誰に育ててもらったのだ。

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お前は誰の養育を受けたのじゃ。

お前の学校の月謝は、兄さんがみすぼらしい給仕の給料から払ってやったのを忘れたのか。

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お前の学校の月謝は、兄さんがしがない給仕の月給から払ってやったのを忘れたのか。

お前やたねのほんとうの父親は俺だ。

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お前や、たねのほんとうの父親てておやは俺だ。

父親の役目をしたのは俺だ。

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父親てておやの役目をしたのは俺じゃ。

その人の世話をしたければすればいい。

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その人を世話したければするがええ。

その代わり兄さんはお前と口を利かないぞ。

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その代り兄さんはお前と口は利かないぞ。

新二郎 しかし……。

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新二郎 しかし……。

賢一郎 不服があれば、その人と一緒に出て行けばいい。

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賢一郎 不服があれば、その人と一緒に出て行くがええ。

(女二人とも泣き続けている。

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(女二人とも泣きつづけている。

新二郎は黙る)

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新二郎黙す)

賢一郎 俺は父親がいないために苦しんだから、弟や妹にその苦しみをさせまいと思って夜も寝ないで苦労したから、弟も妹も中等学校(ちゅうとうがっこう)は卒業させてある。

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賢一郎 俺は父親てておやがないために苦しんだけに、弟や妹にその苦しみをさせまいと思うて夜も寝ないで艱難したけに、弟も妹も中等学校は卒業させてある。

父   (力なく)もう何も言うな。

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父   (弱く)もう何もいうな。

俺が帰って邪魔なんだろう。

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わしが帰って邪魔なんだろう。

俺だって無理に子供の厄介(やっかい)になることはない。

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わしやって無理に子供の厄介にならんでもええ。

自分で食べていくくらいの知恵はある。

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自分で養うて行くぐらいの才覚はある。

さあもう行こう。

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さあもう行こう。

おたか!

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おたか!

 達者で暮らせよ。

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 丈夫で暮せよ。

お前は俺に捨てられてかえって幸せだったな。

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お前はわしに捨てられてかえって仕合せやな。

新二郎 (去ろうとする父を追いかけて)あなたはお金があるんですか。

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新二郎 (去らんとする父を追いて)あなたお金はあるのですか。

晩ごはんもまだ食べていないんじゃありませんか。

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晩の御飯もまだ食べとらんのじゃありませんか。

父   (哀願するように目を光らせながら)いいよいいよ。

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父   (哀願するがごとく瞳を光らせながら)ええわええわ。

(玄関に降りようとしてつまずいて、縁台(えんだい)の上に腰を落とす)

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(玄関に降りんとしてつまずいて、縁台の上に腰をつく)

おたか あっ、危ない。

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おたか あっ、あぶない。

新二郎 (父を抱き起こしながら)これから行く所があるんですか。

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新二郎 (父を抱き起しながら)これから行く所があるのですか。

父   (すっかりうなだれて腰かけたまま)野垂れ死(のたれじに)するには家はいらないからのう……(独り言のように)俺だってこの家に足を踏み入れる義理ではないんだけど、年を取って弱ってくると、故郷(ふるさと)の方へ自然と足が向いてね。

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父   (まったく悄沈として腰をかけたまま)のたれ死するにはうちは要らんからのう……(独言のごとく)俺やってこのうちに足踏ができる義理ではないんやけど、年が寄って弱ってくると、故郷の方へ自然と足が向いてな。

この町へ帰ってから、今日で三日なんだがな。

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この街へ帰ってから、今日で三日じゃがな。

夜になると毎晩家の前に立っていたんだが、敷居が高くて入れなかったのだ……しかしやっぱり入らない方が良かった。

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夜になると毎晩うちの前で立っていたんじゃが、敷居が高うて入れなかったのじゃ……しかしやっぱり入らん方がよかった。

一文なしで帰って来ては誰にだってばかにされる……俺も五十の声がかかると国が恋しくなって、せめて千と二千とまとまったお金を持って帰ってお前たちに詫びをしようと思ったが、年を取るとそれだけの働きもできなくてね……(ようやく立ち上がって)まあいい、自分の身体くらい始末のつかないことはないよ。

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一文なしで帰って来ては誰にやってばかにされる……俺も五十の声がかかると国が恋しくなって、せめて千と二千とまとまった金を持って帰ってお前たちに詫をしようと思ったが、年が寄るとそれだけの働きもできんでな……(ようやく立ち上って)まあええ、自分の身体ぐらい始末のつかんことはないわ。

(よろよろと立ち上がり、振り返って年老いた妻を一目見た後、戸を開けて立ち去る。

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蹌踉そうろうとして立ち上り、顧みて老いたる妻を一目見たる後、戸をあけて去る。

後に四人しばらく無言)

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後四人しばらく無言)

母   (訴えるように)賢一郎!

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母   (哀訴するがごとく)賢一郎!

おたね 兄さん!

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おたね 兄さん!

(しばらくの間、張り詰めた時が過ぎる)

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(しばらくのあいだ緊張した時が過ぎる)

賢一郎 新!

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賢一郎 新!

 行ってお父さんを呼び戻してこい。

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 行ってお父さんを呼び返してこい。

(新二郎、飛ぶように外へ出る。

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(新二郎、飛ぶがごとく戸外へ出る。

三人が緊張の中で待っている。

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三人緊張のうちに待っている。

新二郎がやや青ざめた顔をして帰って来る)

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新二郎やや蒼白な顔をして帰って来る)

新二郎 南の道を探したが見えない、北の方を探すから兄さんも来てください。

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新二郎 南の道を探したが見えん、北の方を探すから兄さんも来て下さい。

賢一郎 (驚いて)なに、見えない!

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賢一郎 (驚駭きょうがいして)なに見えん!

 見えないことがあるものか。

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 見えんことがあるものか。

(兄弟二人、気が狂ったように飛び出して行く)

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(兄弟二人狂気のごとく出で去る)

――幕――

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――幕――