夫婦善哉 小学生向け
織田作之助(おださくのすけ)・1993年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
一年中、借金取り(しゃっきんとり・お金を返せと言いに来る人)が家に出たり入ったりしていた。
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年中借金取が出はいりした。
年の暮れ(節季・せっき)だけでなく、まるで毎日のように、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋(いわしや)、乾物屋(かんぶつや)、炭屋、米屋、家主、その他みんなが、きびしくお金を返せと言いに来た。
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節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。
路地の入り口で、牛蒡(ごぼう)、蓮根(れんこん)、芋、三つ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(べにしょうが)、するめ、鰯(いわし)などを揚げて、一銭天ぷらとして売っている種吉(たねきち)は、借金取りの姿が見えると、下を向いて、急にうどん粉をこねるふりをした。
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路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げて商っている種吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉をこねる真似した。
近所の子どもたちも、「おっさん、はよ牛蒡(ごんぼ)揚げてんかいナ」
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近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡揚げてんかいナ」
と待ちきれないでいると、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」
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と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」
そう言うものの、すり鉢(すりばち)の底をごしごしこすっているだけで、鼻水(水洟・みずばな)が落ちたのにも気づかなかった。
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というものの擂鉢の底をごしごしやるだけで、水洟の落ちたのも気付かなかった。
種吉に言っても話にならないので、借金取りは素通りして路地の奥へ行き、種吉の女房(にょうぼう・妻)に掛け合った。女房のお辰(たつ)は種吉とはだいぶ違って、借金取りの動きに鋭く目を配った。
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種吉では話にならぬから素通りして路地の奥へ行き種吉の女房に掛け合うと、女房のお辰は種吉とは大分違って、借金取の動作に注意の目をくばった。
催促(さいそく・返せと言うこと)の身ぶりが大きくなって、腰かけている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」
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催促の身振りが余って腰掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」
と血相を変えるのだった。
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と血相かえるのだった。
「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
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「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
芝居(しばい)のつもりだが、それでもやはり興奮するのか、声に涙が混じるほどだったので、相手は驚いて、「無茶いいなはんナ、何も私(わて)はたたかしまへんぜ」
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芝居のつもりだがそれでもやはり興奮するのか、声に泪がまじる位であるから、相手は驚いて、「無茶いいなはんナ、何も私はたたかしまへんぜ」
とむしろ開き直り、二、三度言い合った末に、結局お辰は言い負けて、手ぶらでは帰せないことになり、五十銭か一円だけ、身を切られる思いで渡さなければならなかった。
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とむしろ開き直り、二三度押問答のあげく、結局お辰はいい負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だけ身を切られる想いで渡さねばならなかった。
それでも一度だけ、板の間のことをその場で指摘されると、何とも言い訳のできない困り方をして、いきなり頭を深く下げて謝り、ほうほうのていで逃げ帰った借金取りがいた。そんな話を、決まってあとでお辰の愚痴(ぐち)の聞き役になるのは、娘の蝶子(ちょうこ)だった。
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それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘されると、何ともいい訳けのない困り方でいきなり平身低頭して詫びを入れ、ほうほうの体で逃げ帰った借金取があったと、きまってあとでお辰の愚痴の相手は娘の蝶子であった。
そんな母親を、蝶子はみっともないとも、かわいそうだとも思った。
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そんな母親を蝶子はみっともないとも哀れとも思った。
それで、母親をだまして買い食いのお金をせしめたり、天ぷらの売上げ箱から小銭を盗んだりしてきたことが、少し後悔された。
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それで、母親を欺して買食いの金をせしめたり、天婦羅の売上箱から小銭を盗んだりして来たことが、ちょっと後悔された。
種吉の天ぷらは味のよさで評判だったが、そのせいで損をしているようだった。
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種吉の天婦羅は味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようだった。
蓮根でも蒟蒻でも、とても厚く切ってあって、お辰の目にも割に合わないと見えたが、種吉はそろばんをはじいてみて、「七厘(しちりん・一銭の十分の七ほど)の元手を一銭で売って損するわけはない」
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蓮根でも蒟蒻でもすこぶる厚身で、お辰の目にも引き合わぬと見えたが、種吉は算盤おいてみて、「七厘の元を一銭に商って損するわけはない」
家にお金が残らないのは、前からの借金のせいで毎日の売上げが食い込んでいくからだ、という種吉の言い分はもっともだった。しかし十二歳の蝶子には、父親のそろばんの計算に炭代や醤油代が入っていないことが分かっていた。
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家に金の残らぬのは前々の借金で毎日の売上げが喰込んで行くためだとの種吉の言い分はもっともだったが、しかし、十二歳の蝶子には、父親の算盤には炭代や醤油代がはいっていないと知れた。
天ぷらだけでは暮らしていけないから、近所で葬式があるたびに、駕籠かき(かごかき)の人足として雇われた。
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天婦羅だけでは立ち行かぬから、近所に葬式があるたびに、駕籠かき人足に雇われた。
氏神(うじがみ・その土地の神様)の夏祭りには、水着を着てお宮の大提灯(おおぢょうちん)を担いで練り歩くと、日当が九十銭になった。
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氏神の夏祭には、水着を着てお宮の大提燈を担いで練ると、日当九十銭になった。
鎧(よろい)を着ると、さらに三十銭上がった。
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鎧を着ると三十銭あがりだった。
種吉が留守のときは、お辰が天ぷらを揚げた。
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種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。
お辰は材料を思いきり節約したので、祭りの日に通りがかりにそれを見た種吉は肩身の狭い思いをし、鎧の下を汗が流れた。
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お辰は存分に材料を節約したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身の狭い想いをし、鎧の下を汗が走った。
よほど貧乏だったので、蝶子が小学校を卒業すると、あわてて女中奉公(じょちゅうぼうこう・よその家で家事の仕事をすること)に出した。
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よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒えると、あわてて女中奉公に出した。
俗に「河童横町(がたろよこちょう)」と呼ばれる場所の材木屋の主人から、かなりいい条件で話があったので、お辰の顔には思いがけない血色が出た。しかし、ゆくゆくは妾(めかけ)にする肚(はら・つもり)だと読めたので、父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へ、ひどく悪い条件で女中奉公させた。
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俗に、河童横町の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの肚が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へばかに悪い条件で女中奉公させた。
河童横町は、昔そこに河童(かっぱ)が棲んでいたと言われ、気味悪がられて二束三文(にそくさんもん・とても安い値段)だった土地を、材木屋の先代が買い取って借家を建てたところだった。今はきびしく高い家賃も取るのでお金ができ、「河童は材木屋だ」と陰口を叩かれていたが、妾を何人も持って若い娘の生き血を吸うからという意味もあるらしかった。
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河童横町は昔河童が棲んでいたといわれ、忌われて二束三文だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って、借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口きかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。
蝶子はぐんぐん娘らしくなり、顔立ちも小ぢんまりと整ってきていたので、材木屋はさすがに炯眼(けいがん・鋭い目利き)だった。
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蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼だった。
日本橋の古着屋での辛抱は、半年あまり続いた。
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日本橋の古着屋で半年余り辛抱が続いた。
冬のある朝、黒門市場(くろもんいちば)への買い出しに遠回りをして古着屋の前を通りかかった種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見た。そのまま店に入って掛け合い、蝶子を連れ戻した。
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冬の朝、黒門市場への買出しに廻り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連れ戻した。
そして望まれるままに、曾根崎新地(そねざきしんち)のお茶屋へ、おちょぼ(芸者見習いの女の子)として出した。
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そして所望されるままに曾根崎新地のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地ッ子)にやった。
種吉の手に五十円のお金が入り、これは借金払いでみるみる消えたが、まとまったお金を受け取ったのは、あとにも先にもそれきりだった。
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種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金払いでみるみる消えたが、あとにも先にも纏まって受けとったのはそれきりだった。
もともと左団扇(ひだりうちわ・楽な暮らし)でいい気持ちなどなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに慌てた。
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もとより左団扇の気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに狼狽した。
お披露目(ひろめ・デビューのあいさつまわり)をするといっても、まさか天ぷらを配って歩くわけにはいかず、祝儀(しゅうぎ)、衣裳、心づけなど大変な物入りだった。のみ込んで抱主(かかえぬし・芸者を雇う人)が出してくれるのはいいが、それは前借りになるから、いわば蝶子を縛りつける勘定になると、種吉は反対した。
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お披露目をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀、衣裳、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主が出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛る勘定になると、反対した。
が、結局もともとの陽気好きな気性が、まわりの環境に染まって、どうしても芸者になりたいと蝶子に駄々をこねられると、種吉は負けて、なんとかお金を工面した。
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が、結局持前の陽気好きの気性が環境に染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々をこねられると、負けて、種吉は随分工面した。
だから、「つらい勤めもみんな親のため」という決まり文句は、蝶子には当てはまらない。
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だから、辛い勤めも皆親のためという俗句は蝶子に当て嵌らぬ。
野暮な客から、「芸者になったのは、よほどの訳があってのことやろ。だいたいお前の父親は……」と聞かれると、父親は博奕打ち(ばくちうち)だとか、だまされて田畑を取られたためだとか、かわいそうっぽく話を持ちかけることは、土地柄も気性柄も、さすがに蝶子にはできなかった。かといって、「私を芸者にしてくれんようなそんな薄情な親てあるもんか」と泣いて頼み込み、あやうく勘当(かんどう・親子の縁を切ること)騒ぎになったとは、さすがに本当のことも言えなかった。
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不粋な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……と訊かれると、父親は博奕打ちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、私を芸者にしてくれんようなそんな薄情な親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当さわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。
「私のお父つぁんは旦さんみたいにええ男前や」
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「私のお父つぁんは旦さんみたいにええ男前や」
とはぐらかしたりして、ひどく悪趣味だったが、それが愛嬌になった。――
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と外らしたりして悪趣味極まったが、それが愛嬌になった。――
蝶子は声自慢で、どんなお座敷でも思いきり声を張り上げ、のどや額に筋を立てて、ふすまの紙がふるえるほどの、なりふりかまわない唄い方をした。陽気なお座敷には欠かせない妓(こ・芸者)だったので、「はっさい」(お転婆)で売っていたのだ。――
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蝶子は声自慢で、どんなお座敷でも思い切り声を張り上げて咽喉や額に筋を立て、襖紙がふるえるという浅ましい唄い方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬ妓であったから、はっさい(お転婆)で売っていたのだ。――
それでも、たった一人だけ、なじみの安化粧品問屋(やすけしょうひんどんや)の息子には、何もかも本当のことを言った。
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それでも、たった一人、馴染みの安化粧品問屋の息子には何もかも本当のことを言った。
名前は維康柳吉(これやすりゅうきち)といい、女房もいれば、今年四つになる子どももいる三十一歳の男だった。しかし出会って三か月でもうそんな仲になり、評判が立って、蝶子が一本(いっぽん・一人前の芸者)になったときの旦那をしくじってしまった。
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維康柳吉といい、女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、逢い初めて三月でもうそんな仲になり、評判立って、一本になった時の旦那をしくじった。
中風(ちゅうふう・体が麻痺する病気)で寝ている父親に代わって柳吉が切り盛りしている商売というのが、理髪店向けの石けん、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋(おろしどんや)だと聞いて、蝶子は散髪屋へ顔をそりに行くときも、その店で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。
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中風で寝ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店向きの石鹸、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋であると聞いて、散髪屋へ顔を剃りに行っても、其店で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。
ある日、梅田新道(うめだしんみち)にある柳吉の店の前を通りかかると、厚子(あつし・厚手の仕事着)を着た柳吉が、丁稚(でっち・見習いの若い店員)相手に地方送りの荷造りを監督していた。
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ある日、梅田新道にある柳吉の店の前を通り掛ると、厚子を着た柳吉が丁稚相手に地方送りの荷造りを監督していた。
耳に挟んだ筆を取ると、さらさらと帳面(ちょうめん)の上に走らせ、やがてその筆を口にくわえてそろばんを弾く。その姿がいかにもきびきびして見えた。
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耳に挟んだ筆をとると、さらさらと帖面の上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤を弾くその姿がいかにもかいがいしく見えた。
ふと目が合うと、蝶子は耳の付け根まで真っ赤になったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横目を使うだけだった。
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ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根まで真赧になったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼を使うだけであった。
それが律儀者(りちぎもの・まじめな人)らしく見えた。
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それが律儀者めいた。
柳吉はいくらか吃り(どもり)で、物を言うとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる。その恰好が、蝶子にはかねがね思慮深そうに見えていた。
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柳吉はいささか吃りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好がかねがね蝶子には思慮あり気に見えていた。
蝶子は柳吉をしっかりした頼もしい男だと思い、そのように言いふらしたが、そのせいで、二人の仲は蝶子の方からのぼせていったのだと言われても言い返せないはずだ、と人々はうわさした。
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蝶子は柳吉をしっかりした頼もしい男だと思い、そのように言い触らしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行ったといわれてもかえす言葉はないはずだと、人々は取沙汰した。
酔った癖で浄瑠璃(じょうるり)のサワリ(聞かせどころ)を泣き声でうなる、そのときの柳吉の顔を見て、人々は正しく判断していたのだ。
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酔い癖の浄瑠璃のサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。
夜店の二銭のドテ焼き(豚の皮身を味噌で煮つめたもの)が好きで、「ドテ焼きさん」とあだ名がついていたくらいだ。
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夜店の二銭のドテ焼(豚の皮身を味噌で煮つめたもの)が好きで、ドテ焼さんと渾名がついていたくらいだ。
柳吉はうまい物にかけては目がなくて、「うまいもん屋」
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柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」
へしばしば蝶子を連れて行った。
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へしばしば蝶子を連れて行った。
彼に言わせると、北(キタ)にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南(ミナミ)に限るそうで、それも一流の店は駄目や、きたないことを言うようやけど銭を捨てるだけの話や、ほんまにうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へついて……」
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彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へ随いて……」
行くと、もちろん一流の店へは入らず、よくて高津(こうづ)の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼き、粕饅頭(かすまんじゅう)から、戎橋筋(えびすばしすじ)そごう横の「しる市」
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行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」
のどじょう汁と皮鯨汁(ころじる)、道頓堀(どうとんぼり)相合橋東詰(あいおいばしひがしづめ)の「出雲屋(いずもや)」
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のどじょう汁と皮鯨汁、道頓堀相合橋東詰「出雲屋」
のまむし(うなぎ丼のこと)、日本橋の「たこ梅」
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のまむし、日本橋「たこ梅」
のたこ、法善寺(ほうぜんじ)境内の「正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)」
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のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭」
の関東煮(かんとだき・おでんのこと)、千日前(せんにちまえ)常盤座(ときわざ)横の「寿司捨(すしすて)」
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の関東煮、千日前常盤座横「寿司捨」
の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向かいの「だるまや」
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の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」
のかやく飯(かやくめし・具の入った炊き込みご飯)と粕じるなどで、いずれもお金のかからない、いわば下手もの(げてもの・気取らない安い)料理ばかりだった。
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のかやく飯と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手もの料理ばかりであった。
芸者を連れて行くような店構えでもなかったから、はじめは蝶子も、よりによってこんな所へと思った。しかし柳吉は、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」
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芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子も択りによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」
という自慢話を聞きながら食べると、なるほどうまかった。
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という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。
乱暴に白い足袋を踏みつけられて、キャッと声を上げる、それもかえって食欲が出るほどで、そんな下手もの料理の食べ歩きが、ちょっとした楽しみになった。
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乱暴に白い足袋を踏みつけられて、キャッと声を立てる、それもかえって食慾が出るほどで、そんな下手もの料理の食べ歩きがちょっとした愉しみになった。
混み合った客の隙間に腰を割り込ませていくのも、北新地の売れっ子芸者の沽券(こけん・面目)に関わるほどではなかった。
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立て込んだ客の隙間へ腰を割り込んで行くのも、北新地の売れっ妓の沽券に関わるほどではなかった。
第一、そんな安物ばかり食べさせられ続けているものの、帯、着物、長襦袢(ながじゅばん)から帯じめ、腰下げ、草履まで、柳吉はかなりお金を使ってくれていたから、けちくさいと言える義理ではなかった。
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第一、そんな安物ばかり食わせどおしでいるものの、帯、着物、長襦袢から帯じめ、腰下げ、草履までかなり散財してくれていたから、けちくさいといえた義理ではなかった。
クリーム、ふけとりなどはどうかと思ったが、これもこっそり愛用した。
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クリーム、ふけとりなどはどうかと思ったが、これもこっそり愛用した。
それに、父親は今もなお一銭天ぷらで苦労しているのだ。
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それに、父親は今なお一銭天婦羅で苦労しているのだ。
殿様のお忍びのようだったり、しんみり父親の油のしみ込んだ手を思い出したりして、柳吉の後についてまわっているうちに、だんだんと情(じょう)が湧いてきた。
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殿様のおしのびめいたり、しんみり父親の油滲んだ手を思い出したりして、後に随いて廻っているうちに、だんだんに情緒が出た。
新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向かいと相合橋東詰に、それぞれ一軒ずつある合計五軒の出雲屋の中で、まむしがうまいのは相合橋東詰の店や。ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」
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新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」
ものを、フーフーと口をとがらせて食べ、仲良くお腹がふくれてから、法善寺の「花月(かげつ)」
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のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月」
へ春団治(はるだんじ)の落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合っている手が汗をかいたりした。
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へ春団治の落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。
仲はますます深くなり、柳吉の通う頻度もどんどん増えていった。
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深くなり、柳吉の通い方は散々頻繁になった。
遠出をすることもあったりして、やがて柳吉がお金に困ってきていることが、蝶子にも分かった。
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遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。
父親は中風で寝付くとき、忘れずに銀行の通帳と実印を布団の下に隠していたので、柳吉も手のつけようがなかった。
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父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団の下に隠したので、柳吉も手のつけようがなかった。
所詮、自由になるお金はたかが知れていて、得意先の理髪店を駆け回って集めるお金だけで細かくやりくりしていたので、みるみる借金や約束を破ることが増え、顔が青くなっていた。
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所詮、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理が嵩んで、蒼くなっていた。
そんな柳吉のところへ、蝶子から男物の草履が贈られてきた。
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そんな柳吉のところへ蝶子から男履きの草履を贈って来た。
添えられた手紙には、「だいぶ長いこと来てくださらないので、心配しています。
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添えた手紙には、大分永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。
一同舌をしたいゆえ……」と書いてあった。
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一同舌をしたいゆえ……とあった。
「一度話をしたい」を書き間違えた「一同舌をしたい」という、柳吉だけが読み解けるその手紙が、いつの間にか病気の父親のところへ漏れてしまった。枕元に呼び寄せての度重なる意見も、これまでは効き目がないと諦めていた父親だったが、今度ばかりは、打つ、殴るの体の自由がきかないのが悔しいと、涙まで浮かべて腹を立てた。
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一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへ洩れてしまって、枕元へ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目なしと諦めていた父親も、今度ばかりは、打つ、撲るの体の自由が利かぬのが残念だと涙すら浮べて腹を立てた。
わざと五つの女の子をひざの上に抱き寄せて、柳吉の若い妻は上を向いていた。
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わざと五つの女の子を膝の上に抱き寄せて、若い妻は上向いていた。
実家へ帰る肚(はら・決心)を決めていたので、わずかに叫び出すのをこらえているようだった。
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実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫び出すのをこらえているようだった。
うなだれながら柳吉は、蝶子のでしゃばりめ、と肚の中でつぶやいたが、しかし、蝶子の気持ちを悪くは受け取れなかった。
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うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張り奴と肚の中で呟いたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。
草履はかなり無理をしたらしく、戎橋(えびすばし)「天狗(てんぐ)」
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草履は相当無理をしたらしく、戎橋「天狗」
の印がはいっており、鼻緒(はなお)は蛇の皮だった。
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の印がはいっており、鼻緒は蛇の皮であった。
「釜の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離(きゅうり・親子の縁を切ること)切っての勘当……」
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「釜の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離切っての勘当……」
そう言い渡した父親の頑固さには、死んだ母親もかねがね泣かされてきたくらいだったので、いったん家を出なければ収まりがつかなかった。
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を申し渡した父親の頑固は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。
家を出たとたんに、ふと東京で集金すべきお金がまだ残っていることを思い出した。
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家を出た途端に、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。
ざっと計算して四、五百円はあると分かって、急に心の曇りが晴れた。
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ざっと勘定して四五百円はあると知って、急に心の曇りが晴れた。
すぐに行きつけの茶屋へ上がって蝶子を呼び、「物は相談やが、駆け落ちせえへんか」
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すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やが駈落ちせえへんか。
明くる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカンと日の当たっている駅前の広場を、大股で横切ってやって来た。
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あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股で横切って来た。
髪をめがね(丸く結った髪型)に結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふといやな気がした。
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髪をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。
すぐに東京行きの汽車に乗った。
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すぐ東京行きの汽車に乗った。
八月の末で、ばかに蒸し暑い東京の町を駆けずり回り、月末にはまだ二、三日あるというのを拝み倒して三百円ほど集めた、その足で熱海(あたみ)へ行った。
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八月の末で馬鹿に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日間があるというのを拝み倒して三百円ほど集ったその足で、熱海へ行った。
温泉芸者を呼ぼうとするのを蝶子はたしなめて、「これからの二人の行く末のことを考えたら、そんな呑気な気イでいてられへん」と言った。もっともな話だったが、勘当といってもすぐに詫びを入れて帰り込むつもりの柳吉は、「かめへん、かめへん」
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温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人の行末のことを考えたら、そんな呑気な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。
無断で抱主のところを飛び出してきたことを気にしている蝶子の胸の内など、無視しているようだった。
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無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。
芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座をさらい、土地の芸者から「大阪(おおさか)の芸者衆にはかなわんわ」
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芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚い、土地の芸者から「大阪の芸者衆にはかなわんわ」
と言われて、わずかに心が慰められた。
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と言われて、わずかに心が慰まった。
そうして二日たち、昼ごろ、ごおッーと妙な音がしてきたとたん、激しく揺れ出した。
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二日そうして経ち、午頃、ごおッーと妙な音がして来た途端に、激しく揺れ出した。
「地震や」
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「地震や」
「地震や」
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「地震や」
同時に声が出て、蝶子はふすまに掴まったことは掴まったが、いきなり腰を抜かし、キャッと叫んで座り込んでしまった。
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同時に声が出て、蝶子は襖に掴まったことは掴まったが、いきなり腰を抜かし、キャッと叫んで坐り込んでしまった。
柳吉は反対側の壁にしがみついたまま離れず、口も利けなかった。
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柳吉は反対側の壁にしがみついたまま離れず、口も利けなかった。
お互いの心に、そのとき、とんでもない駆け落ちをしてしまったという悔いが一瞬よぎった。
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お互いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔が一瞬あった。
避難列車の中では、ろくに物も言わなかった。
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避難列車の中でろくろく物も言わなかった。
やっと梅田の駅に着くと、まっすぐ上塩町(かみしおまち)の種吉の家へ行った。
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やっと梅田の駅に着くと、真すぐ上塩町の種吉の家へ行った。
道々、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼られていた。
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途々、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼られていた。
西日の当たるところで天ぷらを揚げていた種吉は、二人の姿を見るとびっくりして、しばらくは口も利けなかった。
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西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚してしばらくは口も利けなんだ。
日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。
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日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。
立ち話でだんだんと聞いてみると、蝶子がいなくなったことはすぐに抱主から知らせがあり、どこでどうしているのやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きていてくれるんやろかと心配で、夜も眠れなかったという。
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立ち話でだんだんに訊けば、蝶子の失踪はすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠れなんだという。
悪い男うんぬんを聞きとがめて、蝶子は何はともあれ、扇子をパチパチさせて突っ立っている柳吉を、「この人、私(わて)の何や」
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悪い男云々を聴き咎めて蝶子は、何はともあれ、扇子をパチパチさせて突っ立っている柳吉を「この人私の何や」
と紹介した。
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と紹介した。
「へい、おこしやす」
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「へい、おこしやす」
種吉はそれ以上あいさつが続かず、そわそわしてろくに顔もよく見なかった。
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種吉はそれ以上挨拶が続かず、そわそわしてろくろく顔もよう見なかった。
お辰は娘の顔を見たとたんに、浴衣の袖を顔にあてた。
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お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣の袖を顔にあてた。
泣きやんで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」
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泣き止んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」
柳吉にあいさつし、「弟の信一(しんいち)は尋常四年(じんじょうよねん・今の小学四年)で学校へ上っとりますが、今日は、まだ退(ひ)けて来とりまへんので」
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柳吉に挨拶し、「弟の信一は尋常四年で学校へ上っとりますが、今日は、まだ退けて来とりまへんので」
などと言った。
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などと言うた。
あいさつのしようがなかったので、柳吉は天候のことなど、どもりがちに言った。
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挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。
種吉は氷水を注文しに行った。
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種吉は氷水を註文に行った。
銀蠅(ぎんばえ)が飛びまわる四畳の部屋は風も通らず、耳の奥でジーンと音がするように蒸し暑かった。
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銀蠅の飛びまわる四畳の部屋は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。
種吉が氷いちごを提げ箱(さげばこ)に入れて持ち帰り、皆は黙々とそれをすすった。
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種吉が氷いちごを提箱に入れて持ち帰り、皆は黙々とそれをすすった。
やがて、東京へ行ってきたことを蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」
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やがて、東京へ行って来た旨蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」
とびっくりしてしまったので、それで話の糸口がついた。
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吃驚してしまったので、それで話の糸口はついた。
避難列車で命からがら逃げてきたと聞いて、両親は、「えらい苦労したな」としきりに同情した。
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避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。
それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。
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それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。
「何とお詫びしてええやら」
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「何とお詫びしてええやら」
すらすらと彼は言葉が出て、種吉とお辰はすっかり恐縮した。
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すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮した。
母親の浴衣を借りて着替えると、蝶子の心は決まった。
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母親の浴衣を借りて着替えると、蝶子の肚はきまった。
いったん逐電(ちくでん・逃げ出すこと)したからには、おめおめと抱主のところへ帰れまい。同じく実家に足を踏み入れられない柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を辞めまっさ」
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いったん逐電したからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」
との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」
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との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」
と、子に甘いところを見せた。
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子に甘いところを見せた。
蝶子の前借りは三百円足らずで、種吉はもはや月賦(げっぷ・分割払い)で払う覚悟を決めていた。
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蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦で払う肚を決めていた。
「私(わて)が親爺(おやじ)に無心して払いまっさ」
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「私が親爺に無心して払いまっさ」
と柳吉も黙っているわけにいかなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」
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と柳吉も黙っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」
と手を振った。
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と手を振った。
「あんさんのお父つぁんに都合(ぐつ・具合)が悪うて、私は顔合わされしまへんがな」
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「あんさんのお父つぁんに都合が悪うて、私は顔合わされしまへんがな」
柳吉は特に異を唱えなかった。
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柳吉は別に異を樹てなかった。
お辰は柳吉の方を向いて、「蝶子ははしか以外には風邪一つひかせたことがない、また体のどこを探しても、かすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……」と言い出して、涙まで出す始末に、柳吉は耳が痛い気がした。
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お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄の他には風邪一つひかしたことはない、また身体のどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出して泪の一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。
二、三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて黒門市場の中の路地裏に二階を借りて、気兼ねのいらない世帯(しょたい・所帯)を持った。
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二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯を張った。
階下は弁当や寿司に使う折箱(おりばこ)の職人の家で、二階の六畳はもっぱら折箱の置き場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。
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階下は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。
たちまち、暮らしに困った。
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たちまち、暮しに困った。
柳吉に働きがないから、自然と蝶子が稼ぐことになる。しかし、もう一度お座敷勤めに出る気もないとなれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者(宴会に出張して働く臨時の芸者)と相場が決まっていた。
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柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。
もと北の新地でやはり芸者をしていたおきんという年増芸者が、今は高津(こうづ)に一軒構えて、ヤトナの周旋屋(しゅうせんや・仲介する人)みたいなことをしていた。
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もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋みたいなことをしていた。
ヤトナというのは、いわば臨時雇いで宴会や婚礼に出張する、芸事のできる仲居のことだった。芸者の花代よりはずいぶん安上がりなので、けちくさい宴会からの需要が多かった。おきんは芸者上がりのヤトナ数人と連絡を取り、派遣させて仲介料を取ると、なかなかの儲けになり、今では電話も一本引いていた。
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ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会や婚礼に出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡をとり、派出させて仲介の分をはねると相当な儲けになり、今では電話の一本も引いていた。
一宴会、夕方から夜更けまでで六円、そこから取り分を引いてヤトナの儲けは三円五十銭。しかし婚礼のときは式役代も取れるから儲けは六円、祝儀も合わせると悪い実入りではないとおきんから聞いて、蝶子は早速仲間に入った。
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一宴会、夕方から夜更けまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪い収入りではないとおきんから聴いて、早速仲間にはいった。
三味線を入れた小型のトランクを提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳(ぜん)の運びからお燗の世話にかかる。
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三味線をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部の運びから燗の世話に掛る。
三、四十人の客に、ヤトナ三人で一通り酌をして回るだけでも大変なのに、その後がしんどかった。
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三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。
お決まりの会費で、目いっぱい楽しむつもりの野暮な客を相手に、息をつく間もないほど三味線を弾かされ、歌を歌わされ、浪花節(なにわぶし)の三味線から声色(こわいろ・声まね)の合いの手までつとめて、くたくたになっているところを、安来節(やすぎぶし)まで踊らされた。
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おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾かされ歌わされ、浪花節の三味から声色の合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節を踊らされた。
それでも根が陽気好きなだけに、それほど苦にもならず身を入れてつとめていると、客が「芸者よりましや」
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それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。
と言うのを聞くと、やはり悲しかった。
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やはり悲しかった。
本当の年を聞けばびっくりするほどの大年増の朋輩(ほうばい・仲間)が、お開きの前に急に祝儀を当て込んで若い女めいたしぐさをするのも、同じヤトナである身にしてみれば、他人事ではなかった。
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本当の年を聞けば吃驚するほどの大年増の朋輩が、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。
夜がふけて、赤電車で帰った。
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夜更けて赤電車で帰った。
日本橋一丁目で降りて、野良犬や拾い屋(バタ屋・くず拾いの人)がごみ箱をあさっているほかは人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭いにおいが漂う黒門市場の中を通り、路地へ入るとプンプンいいにおいがした。
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日本橋一丁目で降りて、野良犬や拾い屋(バタ屋)が芥箱をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭い臭気が漂うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香いがした。
山椒昆布(さんしょこんぶ)を煮るにおいで、思い切り上等の昆布を五分(ぶ・約一・五センチ)四角ぐらいの大きさに細く切って山椒の実と一緒に鍋に入れ、亀甲万(きっこうまん)の濃口醤油をふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋(えびすばし)の「おぐらや」
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山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋にいれ、亀甲万の濃口醤油をふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋の「おぐらや」
で売っている山椒昆布と同じくらいのうまさになる、と柳吉は言い、退屈しのぎに昨日からそれに取りかかっていたのだ。
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で売っている山椒昆布と同じ位のうまさになると柳吉は言い、退屈しのぎに昨日からそれに掛り出していたのだ。
火種を切らさないことと、ときどきかき混ぜてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもは決まって使うはずの一日一円の小遣いに、少しも手をつけていなかった。
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火種を切らさぬことと、時々かきまわしてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもはきまって使うはずの日に一円の小遣いに少しも手をつけていなかった。
蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配(あんばい・具合)に煮えて来よったやろ」
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蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配に煮えて来よったやろ」
長い竹箸で鍋の中をかき回しながら言った。
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長い竹箸で鍋の中を掻き廻しながら言うた。
そんな柳吉に蝶子はひそかに、何ということもない恋しさを感じるのだが、癖でその甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾を開いた長襦袢の膝でぺたりと座るなり、「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」
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そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」
こんな口を利いた。
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こんな口を利いた。
柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」
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柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」
と呼ぶようになった。
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と呼ぶようになった。
「おばはん小遣い足らんぜ」
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「おばはん小遣い足らんぜ」
そして三円ぐらい手に握(にぎ)ると、昼間は将棋(しょうぎ)などをして時間をつぶし、夜は二ツ井戸(ふたついど)の「お兄ちゃん」
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そして三円ぐらい手に握ると、昼間は将棋などして時間をつぶし、夜は二ツ井戸の「お兄ちゃん」
という安カフェへ出かけて、女給(じょきゅう・カフェで働く女の人)の手にさわり、「僕と共鳴(きょうめい・気が合うこと)せえへんか」
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という安カフェへ出掛けて、女給の手にさわり、「僕と共鳴せえへんか」
そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想(かわいそう)やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊ん坊ん(ぼんぼん・甘やかされて育った人)やから当り前のこっちゃ」
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そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊ん坊んやから当り前のこっちゃ」
別に柳吉を非難もしなかった。
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別に柳吉を非難もしなかった。
どころか、「女房や子供捨てて二階ずまい(にかいずまい・実家を出て二階を間借りして住むこと)せんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」
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どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」
とかえって同情した。
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とかえって同情した。
そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉(うれ)しく、苦労の仕甲斐(しがい・やりがい)あると思った。
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そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉しく、苦労の仕甲斐あると思った。
「私のお父つぁん、ええところあるやろ」
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「私のお父つぁん、ええところあるやろ」
と思ってくれたのかくれないのか、「うん」
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と思ってくれたのかくれないのか、「うん」
と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。
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と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。
その年も暮に近づいた。
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その年も暮に近づいた。
押しつまって何となく慌(あわただ)しい気持のするある日、正月の紋附(もんつき・紋の付いた晴れ着)などを取りに行くと言って、柳吉は梅田新道(うめだしんみち)の家へ出かけて行った。
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押しつまって何となく慌しい気持のするある日、正月の紋附などを取りに行くと言って、柳吉は梅田新道の家へ出掛けて行った。
蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。
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蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。
その夜、宴会の口がかかって来たので、いつものように三味線を入れたトランクを提げて出かけたが、心は重かった。
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その夜、宴会の口が掛って来たので、いつものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。
柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけのこととして軽々しく考えられなかった。
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柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。
そこには妻もいれば子もいるのだ。
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そこには妻も居れば子もいるのだ。
三味線の音色は冴(さ)えなかった。
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三味線の音色は冴えなかった。
それでも、やはり襖紙(ふすまがみ)がふるえるほどの声で歌い、やっとお開きになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。
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それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。
火鉢(ひばち)の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり座っているその容子(ようす)が、いかにも元気がないと、一目でわかった。
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火鉢の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子が、いかにも元気がないと、一目でわかった。
蝶子はほっとした。――
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蝶子はほっとした。――
父親は柳吉の姿を見るなり、寝床(ねどこ)の中で、何しに来たと呶鳴(どな)りつけたそうである。
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父親は柳吉の姿を見るなり、寝床の中で、何しに来たと呶鳴りつけたそうである。
妻は籍(せき)を抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代わりに面倒(めんどう)みているが、その子供にも会わせてもらえなかった。
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妻は籍を抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒みているが、その子供にも会わせてもらえなかった。
柳吉が蝶子と世帯を持ったと聞いて、父親は怒(おこ)るというよりも柳吉をあざ笑い、また、蝶子のことについてかなりひどいことを言ったということだった。――
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柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒るというよりも柳吉を嘲笑し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――
蝶子は「私のこと悪う言わはんのは無理おまへん」
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蝶子は「私のこと悪う言やはんのは無理おまへん」
としんみりした。
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としんみりした。
が、肚(はら・心)の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向かって呟く気持ちを持った。
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が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。
自身にも言い聞かせて「私は何も前の奥さんの後釜(あとがま)に座るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望(ほんもう・望みがかなうこと)や」
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自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」
そう思うことは涙をそそる快感だった。
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そう思うことは涙をそそる快感だった。
その気持ちの張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、目をピカピカ光らせて低い天井(てんじょう)を睨(にら)んでいた。
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その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井を睨んでいた。
蝶子は前々から、チラシをとじて家計簿(かけいぼ・お金の出し入れを書く帳面)を作っていた。ほうれん草三銭、風呂銭(ふろせん)三銭、ちり紙四銭、というように毎日のお金の使いみちを書きこんで、暮らしを切りつめていた。柳吉の毎日の小遣い以外はむだづかいを慎(つつし)み、ヤトナで稼いだお金の半分くらいは貯金していた。だが、あのことがあってから、貯金への気のつかい方も変わってきた。
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まえまえから、蝶子はチラシを綴じて家計簿を作り、ほうれん草三銭、風呂銭三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎んで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。
一銭二銭のお金も使い惜(お)しみ、半襟(はんえり・着物のえりに重ねる布)も垢(あか)じみた。
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一銭二銭の金も使い惜しみ、半襟も垢じみた。
正月を当てこんでうんと材料(もと)を仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「私には金みたいなもんあらへん」
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正月を当てこんでうんと材料を仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「私には金みたいなもんあらへん」
種吉と入れ代わってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」
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種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」
と言いに来たが、うんと言わなかった。
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と言いに来たが、うんと言わなかった。
年が明け、松の内(まつのうち・正月のかざりを飾っておく期間)も過ぎた。
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年が明け、松の内も過ぎた。
はっきり勘当(かんどう・親から縁を切られること)だとわかってから、柳吉のしょげ方はすこぶる哀れなものだった。
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はっきり勘当だと分ってから、柳吉のしょげ方はすこぶる哀れなものだった。
父性愛(ふせいあい・父としての子への愛情)ということもあった。
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父性愛ということもあった。
蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参(きさん・もとの家に戻ること)がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがに淋(さび)しいと、これは人ごとでなかった。
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蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがに淋しいと、これは人ごとでなかった。
ある日、昔の遊び友達に会い、誘(さそ)われると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。
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ある日、昔の遊び友達に会い、誘われると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。
その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波新地(なんばしんち)へはまりこんで、二日、使い果たして魂(たましい)の抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。
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その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波新地へはまりこんで、二日、使い果して魂の抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。
「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」
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「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」
そう言って蝶子は頸筋(くびすじ)をつかんで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。
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そう言って蝶子は頸筋を掴んで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。
「おばはん、何すんねん、無茶しな」
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「おばはん、何すんねん、無茶しな」
しかし、抵抗(ていこう)する元気もないかのようだった。
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しかし、抵抗する元気もないかのようだった。
二日酔いで頭があばれとると、布団にくるまってうんうん唸(うな)っている柳吉の顔をピシャリと撲(なぐ)って、何となく外へ出た。
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二日酔いで頭があばれとると、蒲団にくるまってうんうん唸っている柳吉の顔をピシャリと撲って、何となく外へ出た。
千日前の愛進館(あいしんかん)で京山小円(きょうやまこえん)の浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日ご飯ものどへ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地(らくてんち)横の自由軒(じゆうけん)で玉子入りのライスカレーを食べた。
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千日前の愛進館で京山小円の浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。
「自由軒(ここ)のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょう(ちゃんと)ま、ま、ま、まむして(まぜて)あるよって、うまい」
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「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」
とかつて柳吉が言った言葉を思い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持ちが胸に湧(わ)いた。
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とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧いた。
こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。
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こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。
だし抜けに、荒々(あらあら)しく揺すぶって、柳吉が眠い目をあけると、「阿呆(あほ)んだら」
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だし抜けに、荒々しく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、「阿呆んだら」
そして唇(くちびる)をとがらして柳吉の顔へもって行った。
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そして唇をとがらして柳吉の顔へもって行った。
あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。
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あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。
ことを知っていたおきんは、柳吉に意見めいた口を利いた。
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ことを知っていたおきんは、柳吉に意見めいた口を利いた。
おきんの亭主(ていしゅ・夫)は、かつて北浜(きたはま)で羽振り(はぶり)がよく、おきんを落籍(ひか・お金を払って自由の身にすること)して、亡くなった前の妻の後釜(あとがま)に据(す)えた。ところがその途端に没落(ぼつらく・落ちぶれること)した。今のおきんはヤトナの周旋屋(しゅうせんや・仕事を紹介する人)、亭主は恥をしのんで北浜の取引所で書記として雇われ、いわば夫婦共稼ぎだった。亭主が落ちぶれたのはおきんのせいだなどと人に後ろ指をさされない今の暮らしだと、おきんはそれを引き合いに出したりした。
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おきんの亭主はかつて北浜で羽振りが良くおきんを落籍して死んだ女房の後釜に据えた途端に没落したが、おきんは現在のヤトナ周旋屋、亭主は恥をしのんで北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ今の暮しだと、引合いに出したりした。
「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」
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「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」
探す肚(はら・つもり)があるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。
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探す肚があるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。
維康さんの肚は分からんと、おきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。
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維康さんの肚は分らんとおきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。
が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。
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が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。
それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。
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それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。
千日前「いろは牛肉店」
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千日前「いろは牛肉店」
の隣にある剃刀屋(かみそりや)の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁(じべん・自分で弁当を用意すること)の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。
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の隣にある剃刀屋の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。
柳吉はいやとは言えなかった。
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柳吉はいやとは言えなかった。
安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪(りはつ)に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨を折ってくれた、その手前もあった。
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安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨折ってくれた、その手前もあった。
門口(かどぐち)の狭い割に馬鹿に奥行きのある細長い店だから、昼間なぞ日が十分に射(さ)さず、昼間の電灯を節約(しまつ)した薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りを眺(なが)めていると、そこの明るさが嘘のようだった。
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門口の狭い割に馬鹿に奥行のある細長い店だから昼間なぞ日が充分射さず、昼電を節約した薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りを眺めていると、そこの明るさが嘘のようだった。
ちょうど向かい側が共同便所で、そのいやなにおいがたまらなかった。
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ちょうど向い側が共同便所でその臭気がたまらなかった。
その隣は竹林寺(ちくりんじ)で、門の前の右側では鉄冷鉱泉(てつれいこうせん・鉄分をふくむ冷たい鉱泉水)を売っており、左側、つまり共同便所に近い方では餅(もち)を焼いて売っていた。
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その隣りは竹林寺で、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方では餅を焼いて売っていた。
醤油をたっぷりつけて狐色(きつねいろ)にこんがり焼けてふくれているところなど、いかにもうまそうだったが、買う気は起こらなかった。
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醤油をたっぷりつけて狐色にこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。
餅屋のおかみさんが共同便所から出ても手洗水(ちょうず・手を洗う水)を使わないみたいやったからや、と柳吉は帰って言うた。
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餅屋の主婦が共同便所から出ても手洗水を使わぬと覚しかったからや、と柳吉は帰って言うた。
また曰(いわ)く、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに体を動かして剃刀をといでいる格好が面白いとて飾窓(ウインドー・かざりまど)に吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。
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また曰く、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに身体を動かして剃刀をといでいる恰好が面白いとて飾窓に吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。
それだけの芸でこと足りた。
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それだけの芸でこと足りた。
蝶子は、「そら、よろしおまんな」
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蝶子は、「そら、よろしおまんな」
そう励(はげ)ました。
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そう励ました。
剃刀屋で三月(みつき)ほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩して癪(しゃく・腹が立つこと)やからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真(ほんま)だと思い、朝起こしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。
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剃刀屋で三月ほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩して癪やからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真だと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。
蝶子は一層ヤトナ稼業(かぎょう・仕事)に身を入れた。
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蝶子は一層ヤトナ稼業に身を入れた。
彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。
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彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。
祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、ずいぶんと割に合わない勘定だが、それだけに朋輩からの気受け(きうけ・評判)はよかった。
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祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。
蝶子はん蝶子はんと奉(たてまつ)られるので、良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を貸したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促できなかったから、何かとべんちゃら(お世辞)をして、早う返してくれという思いをそれとなく見せるのだった。
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蝶子はん蝶子はんと奉られるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を貸したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促出来なかったから、何かとべんちゃら(お世辞)して、はよ返してくれという想いをそれとなく見せるのだった。
五十銭のお金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。
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五十銭の金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。
柳吉は毎日がいかにも面白くないようで、とくにこっそり梅田新道へ出かけたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。
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柳吉は毎日がいかにも面白くないようで、殊にこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。
父の勘気(かんき・親のいかり)がとけないことが憂鬱(ゆううつ・気が晴れないこと)の原因らしく、そのことにひそかに安堵(あんど・ほっとすること)するよりも気持ちの負担の方が大きかった。
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父の勘気がとけぬことが憂鬱の原因らしく、そのことにひそかに安堵するよりも気持の負担の方が大きかった。
それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼き餅を焼かないように心がけた。
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それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。
黙って金を渡すときの気持ちは、人が思っているほどには平気ではなかった。
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黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほどには平気ではなかった。
実家に帰っているという柳吉の妻が、肺の病気で死んだという噂(うわさ)を聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結(えんむす)び」
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実家に帰っているという柳吉の妻が、肺で死んだという噂を聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結び」
に詣(まい)って蝋燭(ろうそく)など思い切った寄進をした。
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に詣って蝋燭など思い切った寄進をした。
その代わり、寝覚めの悪い気持ちがしたので、戒名(かいみょう・死んだ人につける名前)を聞いたりして棚に祭った。
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その代り、寝覚めの悪い気持がしたので、戒名を聞いたりして棚に祭った。
先妻の位牌(いはい・死んだ人の名を書いた札)が頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃばるなとも言わなかった。
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先妻の位牌が頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。
言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。
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言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。
蝶子は毎朝花をかえたりして、一分のすきもなくふるまった。
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蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞った。
二年経つと、貯金が三百円を少し超(こ)えた。
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二年経つと、貯金が三百円を少し超えた。
蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部払(はろ)うてくれたんかと種吉に訊くと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」
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蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部払うてくれたんかと種吉に訊くと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」
と証文(しょうもん・お金を返した証拠の書きつけ)を出して来て見せた。
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と証文出して来て見せた。
母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、まぶたが熱くなった。
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母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、瞼が熱くなった。
それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。
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それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。
そこで貯金はちょうど三百円になった。
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そこで貯金はちょうど三百円になった。
そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減った。
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そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減った。
蝶子は泣けもしなかった。
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蝶子は泣けもしなかった。
夕方、電灯もつけない暗い六畳の間の真ん中にぺたりと座りこみ、腕組みして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨(にら)んでいた。
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夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中にぺたりと坐り込み、腕ぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。
柳吉は三味線の撥(ばち・弦をはじく道具)で撲(なぐ)られた跡を押さえようともせず、ごろごろしていた。
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柳吉は三味線の撥で撲られた跡を押えようともせず、ごろごろしていた。
もうこれ以上節約のしようもなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。
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もうこれ以上節約の仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。
商売道具の着物も、よほど切羽(せっぱ)詰まったときだけ染め替えをするくらいですませた。あとは季節の変わり目ごとに質屋(しちや)へ出したり取り戻したりしてなんとかやりくりし、呉服屋(ごふくや・着物を売る店)に注文するのもはばかる(遠慮する)ほど切りつめた。おかげで半年たたないうちにやっと元の三百円にもどったのを機会(しお・きっかけ)に、蝶子は「いつまでも二階を借りて住んでいたら人に侮(あなど)られる。一軒借りて、焼き芋屋でも何でもいいから商売をしよう」とさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」
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商売道具の衣裳も、よほどせっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋に物言うのもはばかるほどであったお蔭で、半年経たぬうちにやっと元の額になったのを機会に、いつまでも二階借りしていては人に侮られる、一軒借りて焼芋屋でも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」
気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ち回り、高津神社坂下に間口一間(けん)、奥行き三間半の小さな商売用の家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってそれらしく改造し、もと勤めていたときの経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託(いたく・預かって売ること)をしてもらうと、またたく間に剃刀屋の新店ができ上がった。
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気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託をしてもらうと瞬く間に剃刀屋の新店が出来上った。
安全剃刀の替刃(かえば・取り替え用の刃)、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切りなどの小物から、レザー、ジャッキ、西洋剃刀まで扱う。商売がら、銭湯帰りの客をねらうのがいちばんだと、店も銭湯の真向かいに借りるほどの心くばりを柳吉はした。蝶子はそれにしきりに感心した。開店の前日、朋輩のヤトナたちが祝いの柱時計を持ってやって来ると、蝶子は「おいでやす」
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安全剃刀の替刃、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす」
声の張りも違った。
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声の張りも違った。
そして「主人(うち)がこまめにやってくれまっさかいな」
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そして「主人がこまめにやってくれまっさかいな」
と言い、これは柳吉のことを褒(ほ)めたつもりだった。
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と言い、これは柳吉のことを褒めたつもりだった。
襷(たすき)がけでこそこそ陳列棚(ちんれつだな)の拭(ふ)き掃除をしている柳吉の姿は、見ようによってはずいぶん男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんも欲が出るとなかなかの働き者だと思った。
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襷がけでこそこそ陳列棚の拭き掃除をしている柳吉の姿は見ようによっては、随分男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんも慾が出るとなかなかの働き者だと思った。
開店の朝、向こう鉢巻(はちまき)でもしたい気持ちで蝶子は店の間に座っていた。
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開店の朝、向う鉢巻でもしたい気持で蝶子は店の間に坐っていた。
昼ごろ、さっぱり客が来えへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、目を皿のようにして表を通る人を睨(にら)んでいた。
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午頃、さっぱり客が来えへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、眼を皿のようにして表を通る人を睨んでいた。
昼過ぎ、やっと客が来て安全の替刃一枚六銭の売り上げだった。
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午過ぎ、やっと客がきて安全の替刃一枚六銭の売上げだった。
「まいどおおけに」
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「まいどおおけに」
「どうぞごひいきに」
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「どうぞごひいきに」
夫婦がかりで薄気味(うすきみ)悪いほどサービスをよくしたが、人気(じんき・評判)が悪いのか新しい店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げは締(し)めて二円にも足りなかった。
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夫婦がかりで薄気味悪いほどサーヴィスをよくしたが、人気が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げは〆めて二円にも足らなかった。
客足がさっぱりつかず、ジレット(かみそりの名前)が一つでも出るのは良い方で、たいていは耳かきか替刃ばかりの情けない売り上げの日が何日も続いた。
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客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。
話の種も尽(つ)きて、退屈したお互いに顔を情けなく見交わしながら店番をしていると、いっそ恥ずかしい思いがした。
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話の種も尽きて、退屈したお互いに顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい想いがした。
退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間、浄瑠璃を稽古しに行きたいと柳吉は言い出したが、止める気も起こらなかった。
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退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古しに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。
これまでぶらぶらしているときにはいつでも行けたのに、さすがにはばかって、商売をするようになってから稽古したいという。
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これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがに憚って、商売をするようになってから稽古したいという。
その気持ちを、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。
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その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。
柳吉は近くの下寺町(したでらまち)の竹本組昇(たけもとそしょう)に月謝五円で弟子入りし、二ツ井戸の天牛書店(てんぎゅうしょてん)で稽古本の古いのをあさって、毎日ぶらりと出かけた。
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柳吉は近くの下寺町の竹本組昇に月謝五円で弟子入りし二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁って、毎日ぶらりと出掛けた。
商売に身を入れるといっても、客が来なければ仕方がないといった顔で、店番をするときも稽古本を開いて、ぼそぼそうなる。その声がいかにも情けなく、上達したとほめるのも何となく気が引けるくらいであった。
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商売に身をいれるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。
毎月やりくりが苦しくなっていったので、再びヤトナに出ることにした。
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毎月食い込んで行ったので、再びヤトナに出ることにした。
二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業(しょうばい・仕事)大事とつとめて、一人で座敷を浚(さら)って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。
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二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業大事とつとめて、一人で座敷を浚って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。
夕方、蝶子が出かけて行くと、柳吉はそわそわと店を早じまいして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店でかやく(具の入った)飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝(からすがい)の酢味噌で酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」
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夕方、蝶子が出掛けて行くと、柳吉はそわそわと店を早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店でかやく飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝の酢味噌で酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」
でビールやフルーツをとり、ひいきにしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。
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でビールやフルーツをとり、肩入れをしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。
ヤトナの儲けでどうにか暮らしを立ててはいるものの、柳吉の使い分がはげしいもので、だんだん問屋の借りもかさんで来て、一年辛抱したあげく、店の権利の買い手がついたのを幸い、思い切って店を閉めることにした。
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ヤトナの儲けでどうにか暮しを立ててはいるものの、柳吉の使い分がはげしいもので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱したあげく、店の権利の買手がついたのを幸い、思い切って店を閉めることにした。
店じまいメチャクチャ大投げ売りの二日間の売上げ百円あまりと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円あまりの金で問屋の払いやあちこちの支払いをすませると、しかし十円も残らなかった。
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店仕舞いメチャクチャ大投売りの二日間の売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった。
二階を借りるにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出入りして顔見知りの呉服屋の担(かつ)ぎ屋(うちに来て着物を売る行商人)が「うちの二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」
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二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋の担ぎ屋が「家の二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」
と言うたのをこれ倖(さいわ)いに、飛田(とびた)大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。
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と言うたのをこれ倖いに、飛田大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。
柳吉は相変わらず浄瑠璃の稽古に出かけたり、近所にある赤暖簾(あかのれん)の五銭喫茶店で何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。
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柳吉は相変らず浄瑠璃の稽古に出掛けたり、近所にある赤暖簾の五銭喫茶店で何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。
蝶子は口がかかると雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出かけた。
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蝶子は口が掛れば雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出掛けた。
もうヤトナたちの中でも古顔になった。
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もうヤトナ達の中でも古顔になった。
組合でもできるなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子姐(ねえ)さんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。
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組合でも出来るなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子姐さんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。
衣裳の裾なども恥ずかしいほどすり切れて、のどから手の出るほど新しいのが欲しかった。
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衣裳の裾なども恥かしいほど擦り切れて、咽喉から手の出るほど新しいのが欲しかった。
おまけに階下(した)が呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえ銘仙(めいせん・絹織物の一種)の一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。
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おまけに階下が呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえ銘仙の一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。
もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親の仇(かたき)をとるような気持ちで、われながら浅ましかった。
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もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親の仇をとるような気持で、われながら浅ましかった。
三年経つと、やっと二百円たまった。
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さん年経つと、やっと二百円たまった。
柳吉が腸(ちょう)が痛むというので時々医者通いし、そのため入費がかさんで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。
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柳吉が腸が痛むというので時々医者通いし、そのため入費が嵩んで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。
二百円できたので、柳吉に「なんぞええ商売ないやろか」
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二百円出来たので、柳吉に「なんぞええ商売ないやろか」
と相談したが、こんどは「そんな端金(はしたがね・少しばかりのお金)ではどないも仕様がない」
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と相談したが、こんどは「そんな端金ではどないも仕様がない」
と乗り気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田の廓(くるわ・遊女屋が集まる町)でまたたく間に使ってしまった。
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と乗気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田の廓で瞬く間に使ってしまった。
四、五日まえに、妹が近々聟養子(むこようし)を迎えて、梅田新道の家を切り回していくという噂が柳吉の耳に入っていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓(しょうぎ・遊女)を相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろ呆(あき)れてしまった。
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四五日まえに、妹が近々聟養子を迎えて、梅田新道の家を切り廻して行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓を相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろ呆れてしまった。
ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟をつかんで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締(し)めあげた。
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ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟を掴んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締めあげた。
「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」
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「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」
と柳吉は足をばたばたさせた。
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と柳吉は足をばたばたさせた。
蝶子は、もう思う存分折檻(せっかん・きびしく叱ること)しなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、なぐる、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」
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蝶子は、もう思う存分折檻しなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、撲る、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」
と悲鳴をあげた。
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と悲鳴をあげた。
蝶子はなかなか手をゆるめなかった。
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蝶子はなかなか手をゆるめなかった。
妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情(ちじょう・恋しさゆえの感情)めいた。
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妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情めいた。
隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へおり、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。
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隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。
さすがにそこまでは追わなかった。
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さすがにそこまでは追わなかった。
階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は何一つ言わず、袖に顔をあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。
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階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は物一つ言わず、袖に顔をあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。
年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。
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年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。
毎朝みそ汁をこしらえるとき、柳吉が襷(たすき)がけで鰹節(かつおぶし)をけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。
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毎朝味噌しるを拵えるとき、柳吉が襷がけで鰹節をけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。
好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食い意地の汚さなど、知らなかったのだ。
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好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。
担ぎ屋も同じ気持ちで、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花節を聴きに行ったとき、こんな話をした。混み合った寄席(よせ・落語や浪曲を聞かせる小屋)の中で、誰かにいたずらをされたとて、キャッーと大声を出して騒ぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思った。そして、きまり悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と家に帰って女房に言った。
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担ぎ屋も同感で、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花節を聴きに行ったとき、立て込んだ寄席の中で、誰かに悪戯をされたとて、キャッーと大声を出して騒ぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思い、体裁の悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と帰って女房に言った。
「あれでは今に維康さんに嫌われるやろ」
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「あれでは今に維康さんに嫌われるやろ」
夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日も帰って来なかった。
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夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日も帰って来なかった。
七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな様子かこっそり見て来てくれと頼んだ。
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七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼んだ。
種吉は、娘の頼みを撥(は)ねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手(へた)に顔を見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。
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種吉は、娘の頼みを撥ねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手に顔見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。
「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」
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「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」
などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮のあまり口げんかまでし、その足で新世界の八卦見(はっけみ・占い師)のところへ行った。
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などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余り口喧嘩までし、その足で新世界の八卦見のところへ行った。
「あんたが男はんのためにつくすその心が仇(あだ)になる。だいたいこの星の人は……」
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「あんたが男はんのためにつくすその心が仇になる。大体この星の人は……」
年を聞いて丙午(ひのえうま・気が強いと言われる生まれ年)だと知ると、八卦見はもう立て板に水を流すおしゃべりで、何もかも悪い運勢だった。
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年を聞いて丙午だと知ると、八卦見はもう立板に水を流すお喋りで、何もかも悪い運勢だった。
「男はんの心は北に傾(かたむ)いている」
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「男はんの心は北に傾いている」
と聴いて、ぞっとした。
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と聴いて、ぞっとした。
北とは梅田新道だ。
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北とは梅田新道だ。
金を払って外へ出ると、どこへ行くというあてもなく、真夏の日がカンカン当っている盛り場を足早に歩いた。
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金を払って外へ出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛り場を足早に歩いた。
熱海の宿で出くわした地震のことが思い出された。
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熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。
やはり暑い日だった。
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やはり暑い日だった。
十日目、ちょうど地蔵盆(じぞうぼん・地蔵をまつるお祭り)で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈(えあんどん・絵のついた灯り)の下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。
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十日目、ちょうど地蔵盆で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈の下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。
行燈の明かりに顔が映えて、まぶしそうに目をしょぼつかせていた。
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行燈の明りに顔が映えて、眩しそうに眼をしょぼつかせていた。
途端に三味線の糸が切れてはねた。
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途端に三味線の糸が切れて撥ねた。
すぐ二階へ連れ上がって、積もる話よりも先に身を投げかけた。
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すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。
二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。
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二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。
短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。
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短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。
この十日間梅田の家へいりびたっていたのは他(ほか)やない、むろん思うところあってのことや。
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この十日間梅田の家へいりびたっていたのは外やない、むろん思うところあってのことや。
妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡(はいちゃく・家をつぐ権利を取り消されること)と相場は決まっているが、それで泣き寝入りしろとはあまりの仕打ちやと、梅田の家へ駆けこむなり、毎日ひざ詰めの談判をやったところ、いっこうに効き目がない。
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妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡と相場は決っているが、それで泣寝入りしろとは余りの仕打やと、梅田の家へ駆け込むなり、毎日膝詰の談判をやったところ、一向に効目がない。
妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮らしている身に勝ち目はないが、廃嫡は廃嫡でももらうだけのものはもらわぬと、あとへは行けぬ思うてテコでも動かへんかったが、親父の言い分はどうや。
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妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮している身に勝目はないが、廃嫡は廃嫡でも貰うだけのものは貰わぬと、後へは行けぬ思て梃子でも動かへんなんだが、親父の言分はどうや。
蝶子、お前気にしたらあかんぜ。
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蝶子、お前気にしたあかんぜ。
「あんな女と一緒に暮らしている者に金をやっても死金(しにがね・むだになるお金)同然や、結局女にだまされて取られてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」
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「あんな女と一緒に暮している者に金をやっても死金同然や、結局女に欺されて奪られてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」
こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。
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こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。
そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。
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そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。
別れた、女も別れる言うてますとうまく親父をだまして、もらうだけのものをもろたら、あとは廃嫡でも灰神楽(はいかぐら・大騒ぎになること)でも、その金で気楽な商売でもやって二人末永(すえなご)う共白髪(ともしらが・夫婦そろって白髪になるまで連れ添うこと)まで暮らそうやないか。
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別れた、女も別れる言うてますと巧く親父を欺して貰うだけのものは貰たら、あとは廃嫡でも灰神楽でも、その金で気楽な商売でもやって二人末永う共白髪まで暮そうやないか。
いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。
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いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。
それで蝶子、明日家の使いの者が来よったら、別れまっさときっぱり言うてほしいんや。
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それで蝶子、明日家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。
本真(ほんま)の気持ちで言うのやないねんぜ。
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本真の気持で言うのやないねんぜ。
しし、芝居や。
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しし、芝居や。
芝居や。
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芝居や。
金さえもろたらわいはじきに帰って来る。――
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金さえ貰たらわいは直き帰って来る。――
蝶子の胸に甘い気持ちと不安な気持ちが残った。
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蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。
翌朝、高津のおきんを訪れた。
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翌朝、高津のおきんを訪れた。
話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんにだまされたはる」
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話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」
と、さすがに苦労人だった。
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と、さすがに苦労人だった。
おきんは、維康が最初蝶子に内緒(ないしょ)で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。
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おきんは、維康が最初蝶子に内緒で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。
柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ座りこんでしまうつもりかも知れぬ。
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柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ坐り込んでしまうつもりかも知れぬ。
とそこまではっきり悪くはとらなかった。また、いくら化粧問屋を始めるといっても、父親が品物を卸してくれなければ、そのときはそのときで、うまくいかなくても金だけは取れる。いわば二股をかけているのか、それとも柳吉自身、自分の気持ちがはっきりしていないのか。おきんは、柳吉には子供もあることだからと、そこまでは口に出さなかった。しかし、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家にいられない勘定だから、結局柳吉にもどってきてほしければ「別れると言うたらあきまへんぜ」
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とそうまではっきりと悪くとらず、またいくら化粧問屋でもそこは父親が卸してくれぬとすれば、その時はその時で悪く行っても金がとれるし、いわば二道を掛けているか、それとも自分で自分の気持がはっきりしてないか、何しろ、柳吉には子供もあることだと、そこまでは口に出さなかったが、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家におれぬ勘定だから結局は柳吉に戻って欲しければ「別れると言うたらあきまへんぜ」
蝶子はおきんの言う通りにした。
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蝶子はおきんの言う通りにした。
嘘にしろ別れると言うより、その方が言い易(やす)かった。
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嘘にしろ別れると言うより、その方が言い易かった。
それに、間もなく顔を見せた使いの者は手切金(てぎれきん・別れるときに払うお金)を用意しているらしく、もらえばそれきりで縁が切れそうだった。
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それに、間もなく顔を見せた使の者は手切金を用意しているらしく、貰えばそれきりで縁が切れそうだった。
三日経つと柳吉は帰って来た。
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三日経つと柳吉は帰って来た。
いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」
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いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」
不機嫌極まった。
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不機嫌極まった。
手切金うんぬんの気持ちを言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは欲を出さんかいや」
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手切金云々の気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは慾を出さんかいや」
なるほどと思った。
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なるほどと思った。
が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。
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が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。
父親からは取り損なったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。
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父親からは取り損ったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。
剃刀屋の苦い経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えたすえ、結局焼き芋屋でもやるよりほかには……と困っているうちに、ふと関東煮屋がいいと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」
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剃刀屋のにがい経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えた末、結局焼芋屋でもやるより外には……と困っているうちに、ふと関東煮屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」
ひどく乗り気になった。
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ひどく乗気になった。
適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。
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適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。
現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、おとなしい女子衆(おなごし・女中や女の店員)は続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった具合で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作(ぞうさく・店の設備)から道具一切付き三百五十円で譲ってくれた。
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現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人しい女子衆は続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作から道具一切附き三百五十円で譲ってくれた。
階下は全部漆喰(しっくい・壁に塗る白い材料)で商売に使うから、寝泊まりするところは二階の四畳半一間あるきり、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気くさかったが、廓(くるわ)の行き帰りで人通りも多く、それに角店(かどみせ・角にある店)で、店の段取りから出入り口の取り方など大変よかったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。
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階下は全部漆喰で商売に使うから、寝泊りするところは二階の四畳半一間あるきり、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭かったが、廓の往き帰りで人通りも多く、それに角店で、店の段取から出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。
新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋ののれんをくぐって、味加減や銚子(ちょうし・酒を入れるとっくり)の中身の具合、商売のやり口などを調べた。
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新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾をくぐって、味加減や銚子の中身の工合、商売のやり口などを調べた。
関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老でも烏賊でも天ぷらならわいに任しとくなはれ」
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関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老でも烏賊でも天婦羅ならわいに任しとくなはれ」
と手伝いの意を申し出たが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天ぷらは出しまへん」
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と手伝いの意を申し出でたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」
と体裁よく断った。
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と体裁よく断った。
種吉は残念だった。
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種吉は残念だった。
お辰は、それみたことかと種吉をあざけった。
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お辰は、それみたことかと種吉を嘲った。
「私らに手伝うてもろたら損や思たはるのや。誰が鐚一文(びたいちもん・わずかなお金)でも無心するもんか」
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「私らに手伝うてもろたら損や思たはるのや。誰が鐚一文でも無心するもんか」
お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」
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お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」
と屋号(やごう・店の名前)をつけ、いよいよ開店することになった。
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と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。
まだ暑さが去っていなかったこととて思い切って生ビールの樽(たる)を仕込んでいたゆえ、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。
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まだ暑さが去っていなかったこととて思いきって生ビールの樽を仕込んでいた故、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。
人手を借りず、夫婦だけで店を切り回したので、夜の十時から十二時ごろまでの一番立て込む時間は目のまわるほど忙しく、小便に立つ暇もなかった。
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人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙しく、小便に立つ暇もなかった。
柳吉は白い料理着に高下駄(たかげた)という粋(いき)な格好で、ときどき銭函(ぜにばこ・お金を入れる箱)をのぞいた。
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柳吉は白い料理着に高下駄という粋な恰好で、ときどき銭函を覗いた。
売上額が増えていると、「いらっしゃァい」
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売上額が増えていると、「いらっしゃァい」
剃刀屋のときと違って掛け声も勇ましかった。
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剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。
俗に「おかま」
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俗に「おかま」
という中性の流し芸人が流しに来て、青柳(あおやぎ)をにぎやかに弾いて行ったり、景気がよかった。
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という中性の流し芸人が流しに来て、青柳を賑やかに弾いて行ったり、景気がよかった。
その代わり、土地柄が悪く、たちの良くない酒飲み同士がけんかをはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とった杵柄(きねづか・むかし身につけた腕前)で、そんな客をうまくさばくのに別に秋波(しゅうは・色目、なまめかしい目つき)をつかったりする必要もなかった。
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その代り、土地柄が悪く、性質の良くない酒呑み同志が喧嘩をはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とった杵柄で、そんな客をうまくさばくのに別に秋波をつかったりする必要もなかった。
廓をひかえて夜おそくまで客があり、看板を入れるころはもう東の空が紫色に変っていた。
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廓をひかえて夜更くまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色に変っていた。
くたくたになって二階の四畳半で一刻(いっとき・少しの間)うとうとしたかと思うと、もう目覚ましがジジーと鳴った。
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くたくたになって二階の四畳半で一刻うとうとしたかと思うと、もう目覚ましがジジーと鳴った。
寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食できます、四品付十八銭」
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寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品付十八銭」
の立て看板を出した。
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の立看板を出した。
朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物(つけもの)、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡(たか・程度)をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢できた。
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朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。
秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋に「もって来い」
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秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋に「もって来い」
の季節で、ビールに代わって酒もよく出た。
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の季節で、ビールに代って酒もよく出た。
酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒(めいしゅ・名の知れたよい酒)の本鋪(ほんぽ・大元の店)から、看板を寄贈してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空(むな)しく押入れにしまったままだった。
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酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒の本鋪から、看板を寄贈してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空しく押入れにしまったままだった。
こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申し分なかった。
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こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。
公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄づかいもないままに、勢い溜まる一方だった。
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公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費いもないままに、勢い溜まる一方だった。
柳吉は毎日郵便局へ行った。
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柳吉は毎日郵便局へ行った。
体のえらい商売だから、柳吉は疲(つか)れると酒で元気をつけた。
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体のえらい商売だから、柳吉は疲れると酒で元気をつけた。
酒を飲むと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売り物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。
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酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。
そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ回っても心配は尽きなかった。
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そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。
大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやるときは元来どもりのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子(いす)に腰かけてぽかんと何か考えごとをしているらしい様子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
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大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子に腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
案の定、妹の婚礼への出席を撥(は)ねつけられたとて柳吉は気を腐(くさ)らせ、二百円ほど持ち出して出かけたまま、三日帰って来なかった。
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案の定、妹の婚礼に出席を撥ねつけられたとて柳吉は気を腐らせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。
ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日(もんび・特別に売上げが多い日)が続いて店を休むわけにいかず、てんてこ舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう欲など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。
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ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日が続いて店を休むわけに行かず、てん手古舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。
その夜おそく、帰って来た。
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その夜更く、帰って来た。
「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛(はんべえ)様もお通に免(めん)じ、子までなしたる三勝(さんかつ)どのを、疾(と)くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持ちも直り、ご勘当もあるまいに……」
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耳を澄ましていると、「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛様もお通に免じ、子までなしたる三勝どのを、疾くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」
と三勝半七(さんかつはんしち・古い浄瑠璃の演目名)のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。
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と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。
夜中に下手な浄瑠璃を語るなんて、近所の手前みっともないこっちゃと思いながらも、蝶子はほっとした。
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夜中に下手な浄瑠璃を語ったりして、近所の体裁も悪いこっちゃと、ほっとした。
「……お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻(りんね・前世からの因縁)ゆえ、そい臥(ふ)しは叶(かな)わずとも、お傍(そば)に居たいと辛抱して、これまで居たのがお身の仇……」
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「……お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻ゆえ、そい臥しは叶わずとも、お傍に居たいと辛抱して、これまで居たのがお身の仇……」
とこっちから後を続けてこましたろかという気持ちで、階下(した)へ降りた。
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とこっちから後を続けてこましたろかという気持で、階下へ降りた。
柳吉の足音は家の前で止まった。
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柳吉の足音は家の前で止った。
もう語りもせず、気兼ねした様子で、カタカタ戸を動かせているようだった。
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もう語りもせず、気兼ねした容子で、カタカタ戸を動かせているようだった。
「どなたッ?」
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「どなたッ?」
わざと言うと、「わいや」
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わざと言うと、「わいや」
「わいでは分りまへんぜ」
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「わいでは分りまへんぜ」
重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」
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重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」
と外の声は震(ふる)えていた。
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と外の声は震えていた。
「維康いう人はたんといたはります」
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「維康いう人は沢山いたはります」
にこりともせず言った。
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にこりともせず言った。
「維康柳吉や」
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「維康柳吉や」
もう蝶子の折檻を覚悟しているようだった。
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もう蝶子の折檻を観念しているようだった。
「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」
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「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」
となおもいじめにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生(せっしょう・むごいこと)やぜ」
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となおも苛めにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生やぜ」
と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずりこんだ。
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と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずり込んだ。
無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭をぶっつけた。
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無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭を打っつけた。
「痛ア!」
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「痛ア!」
も糞もあるもんかと、思う存分折檻した。
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も糞もあるもんかと、思う存分折檻した。
もう二度と浮気はしないと柳吉は誓ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。
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もう二度と浮気はしないと柳吉は誓ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。
しばらくすると、また放蕩(ほうとう・遊び暮らすこと)した。
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しばらくすると、また放蕩した。
そして帰るときは、やはり折檻を恐れて青くなった。
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そして帰るときは、やはり折檻を怖れて蒼くなった。
そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。
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そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。
柳吉が遊びに使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も青くなって、盃(さかずき)も手にしないで、黙々と鍋の中をかきまわしていた。
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柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞も手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。
が、四、五日たつと、やはり、客の酒の燗をするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺(どうこ・湯を沸かして酒をあたためる道具)の中へ浸(つ)けた。
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が、四五日たつと、やはり、客の酒の燗をするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺の中へ浸けた。
明らかに商売に飽(あ)いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。
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明らかに商売に飽いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。
紺屋(こうや)の白袴(しろばかま・自分のことはあと回しになるたとえ)どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。
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紺屋の白袴どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。
えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞(とどこお)りがちになり、結局、やめるにしかずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座に同意した。
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えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞り勝ちになり、結局、やめるに若かずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座に同意した。
「この店譲ります」
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「この店譲ります」
と貼(は)り出しをしたまま、陰気くさくずっと店を閉めたきりだった。
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と貼出ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めたきりだった。
柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。
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柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。
貯(たくわ)えの金も次第に薄くなっていくのに、いっこうに店の買い手がつかなかった。
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貯えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。
蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。
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蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。
ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも惜(お)しかった。
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ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも惜しかった。
向い側の五、六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲きこぼれていて、活気を見せた。
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向い側の五六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲きこぼれていて、活気を見せた。
客の出入りも多かった。
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客の出入りも多かった。
果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立ってもいられず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「果物屋(あかもんや)をやれへんか」
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果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立ってもいられず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「果物屋をやれへんか」
柳吉は乗り気にならなかった。
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柳吉は乗気にならなかった。
いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すればよしと考えていたのだ。
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いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。
ある日、どうやら梅田へ出かけたらしかった。
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ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。
帰って来ての話に、無心したところ妹の婿が出て応対したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局鐚一文も出さなかったとしきりに興奮した。
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帰って来ての話に、無心したところ妹の聟が出て応待したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局鐚一文も出さなかったとしきりに興奮した。
そして「果物屋をやろうやないか」
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そして「果物屋をやろうやないか」
顔は苦(にが)りきっていた。
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顔はにがりきっていた。
関東煮の道具一式を売り払った金で店を改造した。
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関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。
仕入れや何やかやで大分金が足りなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。
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仕入れや何やかやで大分金が足らなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。
おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」
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おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」
と百円貸してくれた。
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と百円貸してくれた。
その足で上塩町の種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二、三日手を貸してくれと頼んだ。
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その足で上塩町の種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二三日手を貸してくれと頼んだ。
西瓜(すいか)の切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要に迫(せま)られて、こんどは柳吉の口から「一つお父つぁんに頼もうやないか」
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西瓜の切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要に迫られて、こんどは柳吉の口から「一つお父つぁんに頼もうやないか」
と言い出していた。
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と言い出していた。
種吉は若い頃、お辰の国元の大和(やまと・今の奈良県あたり)から車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切り売りしたことがある。
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種吉は若い頃お辰の国元の大和から車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切売りしたことがある。
その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親子三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話をし、喜んで手伝うことを言った。
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その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親娘三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話し、喜んで手伝うことを言った。
関東煮屋のとき手伝おうと言って柳吉に撥ねつけられたことなど、根に持たなかった。
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関東煮屋のとき手伝おうと言って柳吉に撥ねつけられたことなど、根に持たなかった。
どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋ができて、西瓜同士(好いた同士)の差し向い」
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どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜同志(好いた同志)の差し向い」
と淡海節(たんかいぶし・当時流行った俗謡)の文句を言い出すほどの上機嫌だった。
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と淡海節の文句を言い出すほどの上機嫌だった。
向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強みで、氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切り身の厚さで対抗しなければならなかった。
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向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強味で氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切身の厚さで対抗しなければならなかった。
が、言われなくても種吉の切り方は、すこぶる気前がよかった。
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が、言われなくても種吉の切り方は、すこぶる気前がよかった。
一個八十銭の西瓜で十銭の切り身何個と胸算用(むなざんよう・心の中での見積もり)して、柳吉がハラハラすると、種吉は「切り身で釣(つ)って、丸口で儲けるんや。損して得とれや」
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一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用して、柳吉がハラハラすると、種吉は「切身で釣って、丸口で儲けるんや。損して得とれや」
と言った。
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と言った。
そして「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」
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そして「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」
と派手な呼び声を出した。
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と派手な呼び声を出した。
向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。
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向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。
蝶子も黙っていられず、「安い西瓜だっせ」
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蝶子も黙っていられず、「安い西瓜だっせ」
と金切り声を出した。
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と金切り声を出した。
それが愛嬌で、客が来た。
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それが愛嬌で、客が来た。
蝶子は、鞄(かばん)のような財布を首からつるして、売り上げを入れたり、釣り銭を出したりした。
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蝶子は、鞄のような財布を首から吊るして、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。
朝の間、蝶子は廓の中へ入って行き、軒ごとに西瓜を売ってまわった。
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朝の間、蝶子は廓の中へはいって行き軒ごとに西瓜を売ってまわった。
「うまい西瓜だっせ」
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「うまい西瓜だっせ」
と言う声がびっくりするほどきれいなのと、笑う顔が愛嬌があり、しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、娼妓たちがひいきにしてくれた。
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と言う声が吃驚するほど綺麗なのと、笑う顔が愛嬌があり、しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、娼妓達がひいきにしてくれた。
「明日も持って来とくなはれや」
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「明日も持って来とくなはれや」
そんな時柳吉が背に乗せて行くと、「姐(ねえ)ちゃんは……?」
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そんな時柳吉が背にのせて行くと、「姐ちゃんは……?」
ええ奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉は渋(しぶ)い顔であった。
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ええ奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉は渋い顔であった。
むしろ、むっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に羽目を外す男だとは見えなかった。
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むしろ、むっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に羽目を外す男だとは見えなかった。
割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。
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割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。
種吉はちょうど氏神の祭りで例年通りお渡りの人足に雇われたのを機会(しお・きっかけ)に、手を引いた。
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種吉はちょうど氏神の祭で例年通りお渡りの人足に雇われたのを機会に、手を引いた。
帰りしな、林檎はよくよくふきんで拭いてつやを出すこと、水密桃(すいみつとう・水気の多い桃)には手を触れぬこと、果物は埃(ほこり)をきらうゆえ始終掃塵(はたき・ほこりを払う道具)をかけることなど念を押して行った。
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帰りしな、林檎はよくよくふきんで拭いて艶を出すこと、水密桃には手を触れぬこと、果物は埃をきらうゆえ始終掃塵をかけることなど念押して行った。
その通りに心がけていたのだが、どういうものか足が早くて水密桃などまたたく間に腐敗(ふはい・くさること)した。
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その通りに心掛けていたのだが、どういうものか足が早くて水密桃など瞬く間に腐敗した。
店に飾(かざ)っておけぬから、辛い気持ちで捨てた。
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店へ飾っておけぬから、辛い気持で捨てた。
毎日、捨てる分が多かった。
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毎日、捨てる分が多かった。
といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうもいかず、うまくさばけないと焦(あせ)りが出た。
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といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧く捌けないと焦りが出た。
儲けも多いが損も勘定に入れねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。
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儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。
柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。
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柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。
がその心配より先に柳吉は病気になった。
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がその心配より先に柳吉は病気になった。
まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院(じっぴ・安い料金で診てもらう医院)へ通い通いしていたが、こんどは尿に血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。
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まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院へ通い通いしていたが、こんどは尿に血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。
前に怪しい病気にかかり、そのとき蝶子は「なんちう人やろ」
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前に怪しい病気に罹り、そのとき蝶子は「なんちう人やろ」
と怒りながらも、まじないに、屋根瓦にへばりついている猫の糞と明礬(みょうばん・薬に使う鉱物)を煎(せん)じてこっそり飲ませたところ効き目があったので、こんどもそれだと思って、黙って味噌汁の中に入れると、柳吉は啜(すす)ってみて、変な顔をしたが、それと気づかず、味の妙なのは病気のせいだと思ったらしかった。
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と怒りながらも、まじないに、屋根瓦にへばりついている猫の糞と明礬を煎じてこっそり飲ませたところ効目があったので、こんどもそれだと思って、黙って味噌汁の中に入れると、柳吉は啜ってみて、変な顔をしたが、それと気付かず、味の妙なのは病気のせいだと思ったらしかった。
気がつかねば、まじないは効くのだとひそかに現(げん・効き目)のあらわれるのを待っていたところ、さらに効き目はなかった。
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気が付かねば、まじないは効くのだとひそかに現のあらわれるのを待っていたところ更に効目はなかった。
小便のとき、泣き声を立てるようになり、島の内の華陽堂(かようどう)病院が泌尿科(ひにょうか・おしっこに関わる病気を診る科)専門なので、そこで診てもらうと、尿道に管を入れてのぞいたあげく、「膀胱(ぼうこう)が悪い」
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小便の時、泣き声を立てるようになり、島の内の華陽堂病院が泌尿科専門なので、そこで診てもらうと、尿道に管を入れて覗いたあげく、「膀胱が悪い」
十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。
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十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。
みるみる痩(や)せて行った。
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みるみる痩せて行った。
診立て違いということもあるからと、天王寺(てんのうじ)の市民病院で診てもらうと、果たして違っていた。
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診立て違いということもあるからと、天王寺の市民病院で診てもらうと、果して違っていた。
レントゲンをかけ腎臓結核(じんぞうけっかく)だと決まると、華陽堂病院が恨(うら)めしいよりも、むしろなつかしかった。
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レントゲンをかけ腎臓結核だときまると、華陽堂病院が恨めしいよりも、むしろなつかしかった。
命が惜しければ入院しなさいと言われた。
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命が惜しければ入院しなさいと言われた。
あわてて入院した。
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あわてて入院した。
付き添いのため、店を構っていられなかったので、蝶子はやむなく、店を閉めた。
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附添いのため、店を構っていられなかったので、蝶子はやむなく、店を閉めた。
果物が腐っていくことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったが、運の悪いときはどうにも仕方のないもので、母親のお辰が四、五日まえから寝ついていた。
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果物が腐って行くことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったが、運の悪い時はどうにも仕様のないもので、母親のお辰が四、五日まえから寝付いていた。
子宮癌(しきゅうがん)とのことだった。
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子宮癌とのことだった。
金光教(こんこうきょう・宗教の一つ)に凝(こ)って、お水をいただいたりしているうちに、衰弱(すいじゃく・体が弱ること)がはげしくて、寝ついたときはもう助からぬ状態だと町医者は診た。
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金光教に凝って、お水をいただいたりしているうちに、衰弱がはげしくて、寝付いた時はもう助からぬ状態だと町医者は診た。
手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。
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手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。
金のこともあった。
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金のこともあった。
注射もはじめはきらったが、体が二つに割れるような苦痛が注射で消えてとろとろと気持ちよく眠り込んでしまえる味を覚えると、痛みよりも先に「注射や、注射や」
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注射もはじめはきらったが、体が二つに割れるような苦痛が注射で消えてとろとろと気持よく眠り込んでしまえる味を覚えると、痛みよりも先に「注射や、注射や」
夜中でも構わず泣き叫んで、種吉を起こした。
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夜中でも構わず泣き叫んで、種吉を起した。
種吉は眠い目をこすって医者の所へ走った。
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種吉は眠い目をこすって医者の所へ走った。
「モルヒネだからたびたびの注射は危険だ」
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「モルヒネだからたびたびの注射は危険だ」
と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」
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と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」
と目をしばたいた。
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と眼をしばたいた。
弟の信一は京都下鴨(しもがも)の質屋へ年期奉公していたが、いざというときが来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。
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弟の信一は京都下鴨の質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。
だから、種吉の体はいくつあっても足らぬくらいで、蝶子もあきらめ、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。
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だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子も諦め、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。
こればっかりは運よく、すぐ買い手がついて、二百五十円の金が入ったが、すぐ消えた。
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こればっかりは運よく、すぐ買手がついて、二百五十円の金がはいったが、すぐ消えた。
手術と決まってはいたが、手術する前に体に力(りき)をつけておかねばならず、舶来(はくらい・外国から来たもの)の薬を毎日二本ずつ入れた。
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手術と決ってはいたが、手術するまえに体に力をつけておかねばならず、舶来の薬を毎日二本ずつ入れた。
一本五円もしたので、怖いほど病院代はかさんだのだ。
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一本五円もしたので、怖いほど病院代は嵩んだのだ。
蝶子は派出婦(はしゅつふ・頼まれて家に来て働く人)を雇って、夜の間だけ柳吉の看病をしてもらい、ヤトナに出ることにした。
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蝶子は派出婦を雇って、夜の間だけ柳吉の看病してもらい、ヤトナに出ることにした。
が、焼け石に水だった。
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が、焼石に水だった。
手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。
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手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。
蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影(おもかげ)を失うた。
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蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影を失うた。
赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。
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赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。
おきんに借りた百円もそのままだった。
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おきんに借りた百円もそのままだった。
重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。
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重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。
養子だけが会(お)うてくれた。
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養子だけが会うてくれた。
たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。
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たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。
自業自得(じごうじとく・自分のしたことの報い)、そんな言葉も彼は吐(は)いた。
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自業自得、そんな言葉も彼は吐いた。
「この家の身代(しんだい・財産)は僕が預っているのです。あなた方に指一本……」
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「この家の身代は僕が預っているのです。あなた方に指一本……」
差してもらいたくないのはこっちのことですと、尻を振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。
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差してもらいたくないのはこっちのことですと、尻を振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。
種吉の所へ行き、お辰の病床(びょうしょう)を見舞うと、お辰は「私に構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」
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種吉の所へ行き、お辰の病床を見舞うと、お辰は「私に構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」
そして、病気でご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん草炊いて持って帰れと、お辰は気持ちも仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。
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そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん草炊いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。
お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅いと散々小言を言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった。
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お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅いと散々叱言を言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった。
という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水をくれ」
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という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水をくれ」
とわめき散らした。
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とわめき散らした。
水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子は丹田(たんでん・へそのすぐ下あたり)に力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。
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水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子は丹田に力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。
あくる日、十二、三の女の子を連れて若い女が見舞いに来た。
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あくる日、十二三の女の子を連れて若い女が見舞に来た。
顔かたちを一目見るなり、柳吉の妹だと分った。
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顔かたちを一目見るなり、柳吉の妹だと分った。
はっと緊張し、「よう来てくれはりました」
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はっと緊張し、「よう来てくれはりました」
初対面のあいさつ代わりにそう言った。
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初対面の挨拶代りにそう言った。
連れて来た女の子は柳吉の娘だった。
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連れて来た女の子は柳吉の娘だった。
ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。
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ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。
頭をなでると、顔をしかめた。
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頭を撫でると、顔をしかめた。
一時間ほどして帰って行った。
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一時間ほどして帰って行った。
夫に内緒で来たと言った。
原文を見る
夫に内緒で来たと言った。
「あんな養子にき、き、気兼ねする奴があるか」
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「あんな養子にき、き、気兼ねする奴があるか」
妹の背中へ柳吉はそんな言葉を投げた。
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妹の背中へ柳吉はそんな言葉を投げた。
送って廊下へ出ると、妹は「姉(ねえ)はんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽くしてくれとる、こない言うたはります」
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送って廊下へ出ると、妹は「姉はんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽してくれとる、こない言うたはります」
と言い、そっと金を握らした。
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と言い、そっと金を握らした。
蝶子は白粉気(おしろいけ・化粧っけ)もなく、髪もバサバサで、着物はくたびれていた。
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蝶子は白粉気もなく、髪もバサバサで、着物はくたびれていた。
そんなところを同情しての言葉だったかも知らぬが、蝶子は本真(ほんま)のことと思いたかった。
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そんなところを同情しての言葉だったかも知らぬが、蝶子は本真のことと思いたかった。
柳吉の父親に分ってもらうまで十年かかったのだ。
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柳吉の父親に分ってもらうまで十年掛ったのだ。
姉さんと言われたことも嬉しかった。
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姉さんと言われたことも嬉しかった。
だから、金はいったん戻す気になった。
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だから、金はいったん戻す気になった。
が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。
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が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。
有難かった。
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有難かった。
そわそわして落ちつかなかった。
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そわそわして落ちつかなかった。
夕方、電話がかかって来た。
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夕方、電話が掛って来た。
弟の声だったから、ぎょっとした。
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弟の声だったから、ぎょっとした。
危篤(きとく・命があぶない状態)だと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに戻ると、柳吉は「水くれ」
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危篤だと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに戻ると、柳吉は「水くれ」
を叫んでいた。
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を叫んでいた。
そして、「お、お、お、親が大事か、わいが大事か」
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そして、「お、お、お、親が大事か、わいが大事か」
自分もいつ死ぬか分らへんと、そんな風にとれる声をうなり出した。
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自分もいつ死ぬか分らへんと、そんな風にとれる声をうなり出した。
蝶子は椅子に腰かけて、じっと腕組みした。
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蝶子は椅子に腰掛けて、じっと腕組みした。
そこへ涙が落ちるまで、大分時間があった。
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そこへ泪が落ちるまで、大分時間があった。
秋で、病院の庭から虫の声もした。
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秋で、病院の庭から虫の声もした。
どのくらい時間が経ったか、隙間風が肌寒くすっかり夜になっていた。
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どのくらい時間が経ったか、隙間風が肌寒くすっかり夜になっていた。
急に、「維康さん、お電話でっせ」
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急に、「維康さん、お電話でっせ」
胸さわぎしながら電話口に出てみると、こんどは誰か分らぬ女の声で、「息を引きとらはりましたぜ」
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胸さわぎしながら電話口に出てみると、こんどは誰か分らぬ女の声で、「息を引きとらはりましたぜ」
とのことだった。
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とのことだった。
そのまま病院を出て駆けつけた。
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そのまま病院を出て駆けつけた。
「蝶子はん、あんたのこと心配して蝶子は可哀想なやっちゃ言うて息引きとらはったんでっせ」
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「蝶子はん、あんたのこと心配して蝶子は可哀想なやっちゃ言うて息引きとらはったんでっせ」
近所の女たちの赤い目がこれ見よがしだった。
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近所の女達の赤い目がこれ見よがしだった。
三十歳の蝶子も母親の目から見れば子供だと種吉は男泣きした。
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三十歳の蝶子も母親の目から見れば子供だと種吉は男泣きした。
親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら、白い布を取って今さらの死水(しにみず・死ぬ間際に唇につける水)を唇につけるなど、蝶子は勢一杯(せいいっぱい・できる限り)にふるまった。
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親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら、白い布を取って今更の死水を唇につけるなど、蝶子は勢一杯に振舞った。
「わての亭主も病気や」
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「わての亭主も病気や」
それを自分の肚への言い訳にして、お通夜(つや)も早々に切り上げた。
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それを自分の肚への言訳にして、お通夜も早々に切り上げた。
夜ふけの街を歩いて病院へ帰る道々、それでもさすがに泣きに泣けた。
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夜更けの街を歩いて病院へ帰る途々、それでもさすがに泣きに泣けた。
病室へ入るなり柳吉は怖い目で「どこイ行って来たんや」
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病室へはいるなり柳吉は怖い目で「どこイ行って来たんや」
蝶子はたった一言、「死んだ」
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蝶子はたった一言、「死んだ」
そして二人とも黙りこんで、しばらくは睨み合っていた。
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そして二人とも黙り込んで、しばらくは睨み合っていた。
柳吉の冷ややかな視線は、なぜか蝶子を圧迫(あっぱく)した。
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柳吉の冷やかな視線は、なぜか蝶子を圧迫した。
蝶子はそれに負けまいとして、持ち前の勝ち気な気性が蛇のように頭をあげて来た。
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蝶子はそれに負けまいとして、持前の勝気な気性が蛇のように頭をあげて来た。
柳吉の妹がくれた百円の金を全部でなくとも、たとえ半分だけでも、母親の葬式の費用に当てようと、ほとんど気がきまった。
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柳吉の妹がくれた百円の金を全部でなくとも、たとえ半分だけでも、母親の葬式の費用に当てようと、ほとんど気がきまった。
ままよ、せめてもの親孝行だと、それを柳吉に言い出そうとしたが、痩せたその顔を見ては言えなかった。
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ままよ、せめてもの親孝行だと、それを柳吉に言い出そうとしたが、痩せたその顔を見ては言えなかった。
が、そんな心配は要らなかった。
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が、そんな心配は要らなかった。
種吉がかねがねかごかき人足に雇われていた葬儀屋(そうぎや)で、身内の者だとて無料で葬儀万端を引き受けてくれて、かなり盛大に葬式ができた。
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種吉がかねがね駕籠かき人足に雇われていた葬儀屋で、身内のものだとて無料で葬儀万端を引き受けてくれて、かなり盛大に葬式が出来た。
おまけにお辰がいつの間に入っていたのか、こっそり郵便局の簡易養老保険に一円かけで入っていたので五百円の保険料が流れこんだのだ。
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おまけにお辰がいつの間にはいっていたのか、こっそり郵便局の簡易養老保険に一円掛けではいっていたので五百円の保険料が流れ込んだのだ。
上塩町に三十年住んで顔が広かったからかなり多かった会葬者に市電のパスを山菓子に出し、香奠返(こうでんがえ)し(お香典のお返し)の義理もすませて、なお二百円ばかり残った。
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上塩町に三十年住んで顔が広かったからかなり多かった会葬者に市電のパスを山菓子に出し、香奠返しの義理も済ませて、なお二百円ばかり残った。
それで種吉は病院を訪ねて、見舞い金だと百円だけ蝶子に渡した。
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それで種吉は病院を訪ねて、見舞金だと百円だけ蝶子に渡した。
親のありがたさが身にしみた。
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親のありがたさが身に沁みた。
柳吉の父が蝶子の苦労をほめていると妹に聞いた旨言うと、種吉は「そらええ按配や」
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柳吉の父が蝶子の苦労を褒めていると妹に聞いた旨言うと、種吉は「そらええ按配や」
と、お辰が死んで以来はじめてのニコニコした顔を見せた。
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と、お辰が死んで以来はじめてのニコニコした顔を見せた。
柳吉はやがて退院して、湯崎温泉へ出養生(でようじょう・保養のため他の土地へ行くこと)した。
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柳吉はやがて退院して、湯崎温泉へ出養生した。
費用は蝶子がヤトナで稼いで仕送りした。
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費用は蝶子がヤトナで稼いで仕送りした。
二階を借りるのも不経済だったから、蝶子は種吉の所で寝泊りした。
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二階借りするのも不経済だったから、蝶子は種吉の所で寝泊りした。
種吉へは飯代を渡すことにしたのだが、種吉は水くさいといって受け取らなかった。
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種吉へは飯代を渡すことにしたのだが、種吉は水臭いといって受取らなかった。
仕送りに追われていることを知っていたのだ。
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仕送りに追われていることを知っていたのだ。
蝶子が親の所へ戻っていると知って、近所の金持ちから、妾になれと露骨(ろこつ)に言って来た。
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蝶子が親の所へ戻っていると知って、近所の金持から、妾になれと露骨に言って来た。
例の材木屋の主人は死んでいたが、その息子が柳吉と同じ年の四十一になっていて、そこからも話があった。
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例の材木屋の主人は死んでいたが、その息子が柳吉と同じ年の四十一になっていて、そこからも話があった。
蝶子は承っておくという顔をした。
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蝶子は承りおくという顔をした。
きっぱり断らなかったのは近所の間柄が気まずくならぬように思ったためだが、一つには芸者時代の駆け引きの名残(なご)りだった。
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きっぱり断らなかったのは近所の間柄気まずくならぬように思ったためだが、一つには芸者時代の駈引きの名残りだった。
まだまだ若いのだとそんな話のたびに、改めて自分を見直した。
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まだまだ若いのだとそんな話のたびに、改めて自分を見直した。
が、心はめったに動きはしなかった。
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が、心はめったに動きはしなかった。
湯崎にいる柳吉の夢を毎晩見た。
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湯崎にいる柳吉の夢を毎晩見た。
ある日、夢見が悪いと気にして、とうとう湯崎まで出かけて行った。
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ある日、夢見が悪いと気にして、とうとう湯崎まで出掛けて行った。
「毎日魚釣りをして淋しく暮している」
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「毎日魚釣りをして淋しく暮している」
はずの柳吉が、こともあろうに芸者を揚げて散財していた。
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はずの柳吉が、こともあろうに芸者を揚げて散財していた。
むろん酒も飲んでいた。
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むろん酒も飲んでいた。
女中を捉(とら)えて、根掘り聴くとここ一週間あまり毎日のことだという。
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女中を捉えて、根掘り聴くとここ一週間余り毎日のことだという。
そんな金がどこから入るのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、たばこ代にも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審に思った。
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そんな金がどこからはいるのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、煙草代にも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審に思った。
女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真っ暗になった。
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女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真暗になった。
自分の腕一つで柳吉を出養生させていればこそ、苦労の仕甲斐もあるのだと、柳吉の父親の思惑(おもわく)をも勘定に入れてかねがね思っていたのだ。
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自分の腕一つで柳吉を出養生させていればこそ、苦労の仕甲斐もあるのだと、柳吉の父親の思惑をも勘定に入れてかねがね思っていたのだ。
妹に無心などしてくれたばっかりに、自分の苦労も水の泡だと泣いた。
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妹に無心などしてくれたばっかりに、自分の苦労も水の泡だと泣いた。
が、何かにつけて蝶子は自分の甲斐性の上にどっかり腰を据えると、柳吉はわが身に甲斐性がないだけに、その点がほとほと虫が好かなかったのだ。
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が、何かにつけて蝶子は自分の甲斐性の上にどっかり腰を据えると、柳吉はわが身に甲斐性がないだけに、その点がほとほと虫好かなかったのだ。
しかし、その甲斐性を散々利用して来た手前、柳吉には面と向かっては言い返す言葉はなかった。
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しかし、その甲斐性を散々利用して来た手前、柳吉には面と向っては言いかえす言葉はなかった。
興ざめた顔で、蝶子の詰問(きつもん・厳しく問いつめること)をおとなしく聴いた。
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興ざめた顔で、蝶子の詰問を大人しく聴いた。
なお女中の話では、柳吉はひそかに娘を湯崎へ呼び寄せて、千畳敷や三段壁など名所を見物したとのことだった。
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なお女中の話では、柳吉はひそかに娘を湯崎へ呼び寄せて、千畳敷や三段壁など名所を見物したとのことだった。
その父性愛も柳吉の年になってみるともっともだったが、裏切られた気がした。
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その父性愛も柳吉の年になってみるともっともだったが、裏切られた気がした。
かねがね娘を引き取って三人暮らしをしようと柳吉に迫ったのだが、柳吉はうんと言わなかったのだ。
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かねがね娘を引きとって三人暮しをしようと柳吉に迫ったのだが、柳吉はうんと言わなかったのだ。
娘のことなどどうでもいい顔で、だからひそかに自分にうぬぼれていたのだった。
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娘のことなどどうでも良い顔で、だからひそかに自分に己惚れていたのだった。
何やかやで、蝶子は逆上した。
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何やかやで、蝶子は逆上した。
部屋のガラス障子に盃(さかずき)を投げた。
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部屋のガラス障子に盞を投げた。
芸者たちはこそこそと逃げ帰った。
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芸者達はこそこそと逃げ帰った。
が、間もなく蝶子は先刻の芸者たちを名指しで呼んだ。
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が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。
自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心(きょえいしん・見栄を張る気持ち)とも分らぬ心がかろうじて出た。
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自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛うじて出た。
自分への残酷めいた快感もあった。
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自分への残酷めいた快感もあった。
柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡(みくらあと)公園裏に二階借りした。
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柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡公園裏に二階借りした。
相変わらずヤトナに出た。
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相変らずヤトナに出た。
こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だとほめてくれ、天下晴れての夫婦になれるだろうとはげみを出した。
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こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だと褒めてくれ、天下晴れての夫婦になれるだろうとはげみを出した。
その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通ならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、目の黒いうちにと蝶子は焦った。
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その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通ならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、眼の黒いうちにと蝶子は焦った。
が、柳吉はまだ病後の体で、滋養剤(じようざい・体に栄養をつける薬)を飲んだり、注射を打ったりして、そのため厳しい物入りだったから、半年経っても三十円とまとまった金はたまらなかった。
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が、柳吉はまだ病後の体で、滋養剤を飲んだり、注射を打ったりして、そのためきびしい物入りだったから、半年経っても三十円と纏まった金はたまらなかった。
ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目の交叉点(こうさてん)で乗り換えの電車を待っていると、「蝶子はんと違いまっか」
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ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目の交叉点で乗換えの電車を待っていると、「蝶子はんと違いまっか」
と話しかけられた。
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と話しかけられた。
北の新地で同じ抱主の所で一つ釜の飯を食っていた金八という芸者だった。
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北の新地で同じ抱主の所で一つ釜の飯を食っていた金八という芸者だった。
出世しているらしいことはショール一つにも現われていた。
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出世しているらしいことはショール一つにも現われていた。
誘われて、戎橋(えびすばし)の丸万ですき焼きをした。
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誘われて、戎橋の丸万でスキ焼をした。
その日の稼ぎをフイにしなければならぬことが気になったが、出世している友達の手前、それと言って断ることは気がひけたのだ。
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その日の稼ぎをフイにしなければならぬことが気になったが、出世している友達の手前、それと言って断ることは気がひけたのだ。
抱主がけちんぼで、食事にも塩いわし一尾(び)という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇(きょうぐう)が恥ずかしかった。
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抱主がけちんぼで、食事にも塩鰯一尾という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇が恥かしかった。
金八は蝶子の駆け落ち後間もなく落籍(ひか)されて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻が死んで、後釜に据えられ、いまは鉱山の売り買いに口出しして、「言うちゃ何やけど……」
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金八は蝶子の駈落ち後間もなく落籍されて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻が死んで、後釜に据えられ、いまは鉱山の売り買いに口出しして、「言うちゃ何やけど……」
これ以上の出世も望まぬほどの暮らしをしている。
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これ以上の出世も望まぬほどの暮しをしている。
につけても、思い出すのは、「やっぱり、蝶子はん、あんたのことや」
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につけても、想い出すのは、「やっぱり、蝶子はん、あんたのことや」
抱主を見返すと誓った昔の夢を実現するには、ぜひ蝶子にも出世してもらわねばならぬと金八は言った。
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抱主を見返すと誓った昔の夢を実現するには、是非蝶子にも出世してもらわねばならぬと金八は言った。
千円でも二千円でも、あんたの要るだけの金は無利子の期間なしで貸すから、何か商売する気はないかと、事情を訊くなり、早速言ってくれた。
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千円でも二千円でも、あんたの要るだけの金は無利子の期間なしで貸すから、何か商売する気はないかと、事情を訊くなり、早速言ってくれた。
地獄で仏とはこのことや、蝶子は涙が出て改めて、金八が身につけるものを片っ端から褒めた。
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地獄で仏とはこのことや、蝶子は泪が出て改めて、金八が身につけるものを片ッ端から褒めた。
「何商売がよろしおまっしゃろか」
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「何商売がよろしおまっしゃろか」
言葉づかいも丁寧だった。
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言葉使いも丁寧だった。
「そうやなア」
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「そうやなア」
丸万を出ると、歌舞伎の横で八卦見に見てもらった。
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丸万を出ると、歌舞伎の横で八卦見に見てもらった。
水商売がよろしいと言われた。
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水商売がよろしいと言われた。
「あんたが水商売でわては鉱山(やま)商売や、水と山とで、なんぞこんな都々逸(どどいつ・七七七五の音の俗謡)ないやろか」
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「あんたが水商売でわては鉱山商売や、水と山とで、なんぞこんな都々逸ないやろか」
それで話はきっぱり決まった。
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それで話はきっぱり決った。
帰って柳吉に話すと、「お前もええ友達持ってるなア」
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帰って柳吉に話すと、「お前もええ友達持ってるなア」
とちょっぴり皮肉めいた言い方だったが、肚の中では満更(まんざら)でもないらしかった。
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とちょっぴり皮肉めいた言い方だったが、肚の中では万更でもないらしかった。
カフェを経営することに決め、翌日早速周旋屋をのぞきまわって、カフェの出物(でもの・売りに出ている物件)を探した。
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カフェを経営することに決め、翌日早速周旋屋を覗きまわって、カフェの出物を探した。
なかなか探せぬと思っていたところ、いくらでも売り物があり、盛業中のものもじゃんじゃん売りに出ているくらいで、これではカフェ商売の内幕もなかなか楽ではなさそうだと二の足を踏んだが、しかし蝶子の自信の方が勝った。
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なかなか探せぬと思っていたところ、いくらでも売物があり、盛業中のものもじゃんじゃん売りに出ているくらいで、これではカフェ商売の内幕もなかなか楽ではなさそうだと二の足を踏んだが、しかし蝶子の自信の方が勝った。
マダムの腕一つで女給の顔ぶれが少々悪くても結構はやらせて行けると意気込んだ。
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マダムの腕一つで女給の顔触れが少々悪くても結構流行らして行けると意気込んだ。
売りに出ている店を一軒一軒回ってみて、結局下寺町電停前の店が二ツ井戸から道頓堀、千日前へかけての盛り場に遠くない割に値段も手頃で、店の構えも小ぢんまりして、趣味に合っているとて、それに決めた。
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売りに出ている店を一軒一軒廻ってみて、結局下寺町電停前の店が二ツ井戸から道頓堀、千日前へかけての盛り場に遠くない割に値段も手頃で、店の構えも小ぢんまりして、趣味に適っているとて、それに決めた。
造作付き八百円で手を打ったが、飛田の関東煮屋のような古びた店とちがうから安い方であった。
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造作附八百円で手を打ったが、飛田の関東煮屋のような腐った店と違うから安い方であった。
念のため金八に見てもらうと、「ここならわても一ぺん遊んでみたい」
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念のため金八に見てもらうと、「ここならわても一ぺん遊んでみたい」
と文句はなかった。
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と文句はなかった。
そして、代替わりゆえ、思い切って店の内外を改装し、ネオンもつけて、派手に開店しなはれ、金はいくらでも出すと、ずいぶん乗り気になってくれた。
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そして、代替りゆえ、思い切って店の内外を改装し、ネオンもつけて、派手に開店しなはれ、金はいくらでも出すと、随分乗気になってくれた。
名前は相変わらずの「蝶柳」
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名前は相変らずの「蝶柳」
の上にサロンをつけて「サロン蝶柳」
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の上にサロンをつけて「サロン蝶柳」
とし、蓄音器(ちくおんき・レコードを鳴らす機械)は新内、端唄(はうた・短い俗曲)など粋向きなのをかけ、女給はすべて日本髪か地味なハイカラの娘ばかりで、下手に洋装した女や髪の縮れた女などは置かなかった。
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とし、蓄音器は新内、端唄など粋向きなのを掛け、女給はすべて日本髪か地味なハイカラの娘ばかりで、下手に洋装した女や髪の縮れた女などは置かなかった。
バーテンというよりは料理場といった方が似合うところで、柳吉はなまこの酢の物など付き出しの小鉢物を作り、蝶子はしきりに茶屋風の愛嬌をふりまいた。
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バーテンというよりは料理場といった方が似合うところで、柳吉はなまこの酢の物など附出しの小鉢物を作り、蝶子はしきりに茶屋風の愛嬌を振りまいた。
すべてこのように日本趣味で、それがかえって面白いと客種もよく、コーヒーだけの客など居づらかった。
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すべてこのように日本趣味で、それがかえって面白いと客種も良く、コーヒーだけの客など居辛かった。
半年経たぬうちに押しも押されぬ店となった。
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半年経たぬうちに押しも押されぬ店となった。
蝶子のマダムぶりも板についた。
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蝶子のマダム振りも板についた。
使ってくれと新しい女給が「顔見せ」
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使ってくれと新しい女給が「顔見せ」
に来れば頭のてっぺんから足の先まで素早く一目の観察で、女の素姓(すじょう・生まれ育ち)や腕が見抜けるようになった。
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に来れば頭のてっぺんから足の先まで素早く一目の観察で、女の素姓や腕が見抜けるようになった。
ひとり、どうやら怪しいと思われる女給が来た。
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ひとり、どうやら臭いと思われる女給が来た。
体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで目つきも据(すわ)っていて、気が進まなかったが、レッテル(顔)がよいので雇い入れた。
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体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで眼つきも据っていて、気が進まなかったが、レッテル(顔)が良いので雇い入れた。
べたべたと客にへばりつき、ひそひそ声の口説(くぜつ・甘い言葉をかけること)も何となく蝶子には気にくわなかったが、よい客が皆その女についてしまったので、追い出すわけにはいかなかった。
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べたべたと客にへばりつき、ひそひそ声の口説も何となく蝶子には気にくわなかったが、良い客が皆その女についてしまったので、追い出すわけには行かなかった。
時々、二、三時間暇をくれといって、客と出て行くのだった。
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時々、二、三時間暇をくれといって、客と出て行くのだった。
そんなことがしばしば続いて、客の足が遠のいた。
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そんなことがしばしば続いて、客の足が遠のいた。
てっきりどこかへ客をくわえこむらしく、客もなじみになるとわざわざ店へ出向いて来る必要もなかったわけだ。
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てっきりどこかへ客を食わえ込むらしく、客も馴染みになるとわざわざ店へ出向いて来る必要もなかったわけだ。
そのための家を借りてあることもあとで分った。
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そのための家を借りてあることもあとで分った。
いわばカフェを利用して、そんな妙なことをやっていたのだ。
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いわばカフェを利用して、そんな妙な事をやっていたのだ。
追い出したところ、他の女給たちが動揺(どうよう)した。
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追い出したところ、他の女給たちが動揺した。
ひとりひとり当たってみると、どの女給もその女を見習って一度ならずそんな道に足を入れているらしかった。
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ひとりひとり当ってみると、どの女給もその女を見習って一度ならずそんな道に足を入れているらしかった。
そうしなければ、その女に自分らの客を取られてしまってやっていけなかったのかも知れぬが、とにかく、蝶子はぞっと嫌気(いやけ)がさした。
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そうしなければ、その女に自分らの客をとられてしまってやって行けなかったのかも知れぬが、とにかく、蝶子はぞっと嫌気がさした。
その筋に分ったら大変だと、全部の女給に暇を出し、新しく温和(おとな)しい女ばかりを雇い入れた。
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その筋に分ったら大変だと、全部の女給に暇を出し、新しく温和しい女ばかりを雇い入れた。
それでやっと危機を切り抜けた。
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それでやっと危機を切り抜けた。
店で承知でやらすならともかく、女給たちに勝手にそんな真似をされたら、もうそのカフェは駄目になると、あとで前例も聞かされた。
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店で承知でやらすならともかく、女給たちに勝手にそんな真似をされたら、もうそのカフェは駄目になると、あとで前例も聞かされた。
女給が変ると、客種も変り、新聞社関係の人がよく来た。
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女給が変ると、客種も変り、新聞社関係の人がよく来た。
新聞記者は目つきが悪いからと思ったほどでなく、陽気に子供じみて、蝶子を呼ぶにもマダムでなくて「おばちゃん」
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新聞記者は眼つきが悪いからと思ったほどでなく、陽気に子供じみて、蝶子を呼ぶにもマダムでなくて「おばちゃん」
蝶子の機嫌はすこぶるよかった。
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蝶子の機嫌はすこぶる良かった。
マスターこと「おっさん」
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マスターこと「おっさん」
の柳吉もボックスに引き出されて一緒に遊んだり、ひどく家庭的な雰囲気(ふんいき)の店になった。
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の柳吉もボックスに引き出されて一緒に遊んだり、ひどく家庭的な雰囲気の店になった。
酔うと柳吉は「おい、こら、らっきょ」
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酔うと柳吉は「おい、こら、らっきょ」
などと記者のあだ名を呼んだりし、そのあげく、二次会だと連中とつるんで今里新地へ車を飛ばした。
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などと記者の渾名を呼んだりし、そのあげく、二次会だと連中とつるんで今里新地へ車を飛ばした。
蝶子も客の手前、粋をきかして笑っていたが、泊まって来たりすれば、やはり折檻の手はゆるめなかった。
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蝶子も客の手前、粋をきかして笑っていたが、泊って来たりすれば、やはり折檻の手はゆるめなかった。
近所では蝶子を鬼婆(おにばば)とかげ口たたいた。
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近所では蝶子を鬼婆と蔭口たたいた。
女給たちには面白い見もので、マスターが悪いと表面では女同士のひいきもあったが、しかし、肚の中ではどう思っているか分らなかった。
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女給たちには面白い見もので、マスターが悪いと表面では女同志のひいきもあったが、しかし、肚の中ではどう思っているか分らなかった。
蝶子は「娘さんを引き取ろうや」
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蝶子は「娘さんを引き取ろうや」
とそろそろ柳吉に持ちかけた。
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とそろそろ柳吉に持ちかけた。
柳吉は「もうちょっと待ちイな」
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柳吉は「もうちょっと待ちイな」
と言い逃(のが)れめいた。
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と言い逃れめいた。
「子供が可愛いことないのんか」
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「子供が可愛いことないのんか」
ないはずはなかったが、娘の方で来たがらぬのだった。
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ないはずはなかったが、娘の方で来たがらぬのだった。
女学生の身でカフェ商売を恥じるのは無理もなかったが、理由はそんな簡単なものだけではなかった。
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女学生の身でカフェ商売を恥じるのは無理もなかったが、理由はそんな簡単なものだけではなかった。
父親を悪い女に取られたと、死んだ母親は暇さえあれば、娘に言い聴かせていたのだ。
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父親を悪い女に奪られたと、死んだ母親は暇さえあれば、娘に言い聴かせていたのだ。
蝶子が無理にとせがむので、一、二度「サロン蝶柳」
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蝶子が無理にとせがむので、一、二度「サロン蝶柳」
へセーラー服の姿を現わしたが、にこりともしなかった。
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へセーラー服の姿を現わしたが、にこりともしなかった。
蝶子はおかしいほど機嫌をとって、「英語たらいうもんむつかしおまっしゃろな」
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蝶子はおかしいほど機嫌とって、「英語たらいうもんむつかしおまっしゃろな」
女学生は鼻で笑うのだった。
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女学生は鼻で笑うのだった。
ある日、こちらから頼みもしないのにだしぬけに白い顔を見せた。
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ある日、こちらから頼みもしないのにだしぬけに白い顔を見せた。
蝶子は顔じゅうしわだらけに笑って「いらっしゃい」
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蝶子は顔じゅう皺だらけに笑って「いらっしゃい」
駆け寄ったのへつんと頭を下げるなり、女学生は柳吉の所へ近寄って低い声で「お祖父(じい)さんの病気が悪い、すぐ来てください」
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駆け寄ったのへつんと頭を下げるなり、女学生は柳吉の所へ近寄って低い声で「お祖父さんの病気が悪い、すぐ来て下さい」
柳吉と一緒に駆けつけることにしていた。
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柳吉と一緒に駆けつける事にしていた。
が、柳吉は「お前は家におりイな。いま一緒に行ったら都合が悪い」
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が、柳吉は「お前は家に居りイな。いま一緒に行ったら都合が悪い」
蝶子は気抜けした気持ちでしばらく呆然(ぼうぜん)としたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――
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蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然としたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――
父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。
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父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。
父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。
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父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。
飛んで行くさかい。
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飛んで行くさかい。
蝶子は呉服屋へ駆けこんで、柳吉と自分と二人分の紋附を大急ぎでこしらえるように頼んだ。
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蝶子は呉服屋へ駆け込んで、柳吉と自分と二人分の紋附を大急ぎで拵えるように頼んだ。
吉報(きっぽう・よい知らせ)を待っていたが、なかなか来なかった。
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吉報を待っていたが、なかなか来なかった。
柳吉は顔も見せなかった。
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柳吉は顔も見せなかった。
二日経ち、紋附もできあがった。
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二日経ち、紋附も出来上った。
四日目の夕方、呼び出しの電話がかかった。
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四日目の夕方呼出しの電話が掛った。
話がついた、すぐ来いの電話だと顔を紅潮させ、「もし、もし、私維康です」
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話がついた、すぐ来いの電話だと顔を紅潮させ、「もし、もし、私維康です」
と言うと、柳吉の声で「ああ、お、お、お、おばはんか、親爺は今死んだぜ」
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と言うと、柳吉の声で「ああ、お、お、お、おばはんか、親爺は今死んだぜ」
「ああ、もし、もし」
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「ああ、もし、もし」
蝶子の声は癇高(かんだか・興奮して甲高いこと)く震えた。
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蝶子の声は癇高く震えた。
「そんなら、私はすぐそっちイ行きまっさ、紋附も二人分できてまんねん」
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「そんなら、私はすぐそっちイ行きまっさ、紋附も二人分出来てまんねん」
足元がぐらぐらしながらも、それだけははっきり言った。
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足元がぐらぐらしながらも、それだけははっきり言った。
が、柳吉の声は、「お前は来ん方がええ。来たら都合悪い。よ、よ、よ、養子が……」
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が、柳吉の声は、「お前は来ん方がええ。来たら都合悪い。よ、よ、よ、養子が……」
あと聞かなかった。
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あと聞かなかった。
葬式にも出たらいかんて、そんな話があるもんかと頭の中を火が走った。
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葬式にも出たらいかんて、そんな話があるもんかと頭の中を火が走った。
病院の廊下で柳吉の妹が言った言葉は嘘だったのか、それとも柳吉が頑固な養子にまるめこまれたのか、それを考える余裕もなかった。
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病院の廊下で柳吉の妹が言った言葉は嘘だったのか、それとも柳吉が頑固な養子にまるめ込まれたのか、それを考える余裕もなかった。
紋附のことが頭にこびりついた。
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紋附のことが頭にこびりついた。
店へ帰り二階へ閉じこもった。
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店へ帰り二階へ閉じ籠った。
やがて、戸を閉め切って、ガスのゴム管を引っぱり上げた。
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やがて、戸を閉め切って、ガスのゴム管を引っぱり上げた。
「マダム、今夜はすき焼きでっか」
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「マダム、今夜はスキ焼でっか」
階下から女給が声をかけた。
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階下から女給が声かけた。
栓(せん)をひねった。
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栓をひねった。
夜、柳吉が紋附をとりに帰って来ると、ガスのメーターがチンチンと高い音を立てていた。
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夜、柳吉が紋附をとりに帰って来ると、ガスのメーターがチンチンと高い音を立てていた。
異様な臭気(しゅうき・においのこと)がした。
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異様な臭気がした。
驚いて二階へ上がり、戸を開けた。
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驚いて二階へ上り、戸を開けた。
うちわでパタパタそこらをあおった。
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団扇でパタパタそこらをあおった。
医者を呼んだ。
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医者を呼んだ。
それで蝶子は助かった。
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それで蝶子は助かった。
新聞に出た。
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新聞に出た。
新聞記者は治(ち)に居て乱を忘れず(平和なときも用心をおこたらないということわざ)で、ちゃんと聞きつけていたのだ。
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新聞記者は治に居て乱を忘れなかったのだ。
日陰者自殺を図るなどと同情のある書き方だった。
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日蔭者自殺を図るなどと同情のある書き方だった。
柳吉は葬式があるからと逃げて行き、それきり戻って来なかった。
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柳吉は葬式があるからと逃げて行き、それきり戻って来なかった。
種吉が梅田へ訊ねに行くと、そこにもいないらしかった。
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種吉が梅田へ訊ねに行くと、そこにもいないらしかった。
起きられるようになって店へ出ると、客が慰めてくれて、よくはやった。
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起きられるようになって店へ出ると、客が慰めてくれて、よく流行った。
妾になれと客はさすがに時機を見逃さなかった。
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妾になれと客はさすがに時機を見逃さなかった。
毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出かけて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。
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毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出掛けて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。
が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へお詣りしていたのだった。
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が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へお詣りしていたのだった。
二十日あまり経つと、種吉のところへ柳吉の手紙が来た。
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二十日余り経つと、種吉のところへ柳吉の手紙が来た。
自分ももう四十三歳だ、一度大患(たいかん・重い病気)にかかった身ではそう長くも生きられまい。
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自分ももう四十三歳だ、一度大患に罹った身ではそう永くも生きられまい。
娘の愛にも惹(ひ)かされる。
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娘の愛にも惹かされる。
九州の土地でたとえ職工をしてでも自活し、娘を引き取って余生を暮らしたい。
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九州の土地でたとえ職工をしてでも自活し、娘を引き取って余生を暮したい。
蝶子にも重々気の毒だが、よろしく伝えてくれ。
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蝶子にも重々気の毒だが、よろしく伝えてくれ。
蝶子もまだ若いからこの先……などとあった。
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蝶子もまだ若いからこの先……などとあった。
見せたらことだと種吉は焼き捨てた。
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見せたらことだと種吉は焼き捨てた。
十日経ち、柳吉はひょっくり「サロン蝶柳」
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十日経ち、柳吉はひょっくり「サロン蝶柳」
へ戻って来た。
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へ戻って来た。
行方をくらましたのは策戦や、養子に蝶子と別れたと見せかけて金を取る肚やった、親爺が死ねば当然遺産の分け前にあずからねば損や、そう思て、わざと葬式にも呼ばなかったと言った。
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行方を晦ましたのは策戦や、養子に蝶子と別れたと見せかけて金を取る肚やった、親爺が死ねば当然遺産の分け前に与らねば損や、そう思て、わざと葬式にも呼ばなかったと言った。
蝶子は本当だと思った。
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蝶子は本当だと思った。
柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」
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柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」
と蝶子を誘った。
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と蝶子を誘った。
法善寺境内の「めおとぜんざい」
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法善寺境内の「めおとぜんざい」
へ行った。
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へ行った。
道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当たっているところに古びた阿多福人形(おたふくにんぎょう)が据えられ、その前に「めおとぜんざい」
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道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」
と書いた赤い大提灯がぶら下がっているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。
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と書いた赤い大提灯がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。
おまけに、ぜんざいを注文すると、女夫(めおと・夫婦)の意味で一人に二杯ずつ持って来た。
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おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人に二杯ずつ持って来た。
碁盤(ごばん)の目の敷き畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて啜(すす)りながら柳吉は言った。
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碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて啜りながら柳吉は言った。
「こ、こ、ここの善哉(ぜんざい)はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫(たゆう・浄瑠璃の語り手の敬称)ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛りにするより、ちょっとずつ二杯にする方がぎょうさん入ってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」
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「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」
蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」
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蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」
ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。
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ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。
蝶子はめっきり肥えて、そこの座布団が尻にかくれるくらいであった。
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蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。
蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝(こ)り出した。
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蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝り出した。
二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会(そぎたいかい・素人の浄瑠璃語りの発表会)で、柳吉は蝶子の三味線で「太十(たいじゅう・浄瑠璃の演目名)」
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二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十」
を語り、二等賞をもらった。
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を語り、二等賞を貰った。
景品の大きな座布団は蝶子が毎日使った。
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景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。
(昭和十五年八月)
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(昭和十五年八月)