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名人伝 現代語訳

中島敦(なかじまあつし)・1992年

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)

趙の邯鄲という都に紀昌という男が住んでいて、天下一の弓の名人になろうと決意した。

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趙ちょうの邯鄲かんたんの都に住む紀昌きしょうという男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。

師にするべき人物を探してみると、今の世で弓の腕前が飛衛という名手に並ぶ者はいないと思われた。

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己おのれの師と頼たのむべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛ひえいに及およぶ者があろうとは思われぬ。

百歩先の柳の葉を射て百発百中するという達人だそうだ。

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百歩を隔へだてて柳葉りゅうようを射るに百発百中するという達人だそうである。

紀昌ははるばる飛衛を訪ね、弟子入りした。

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紀昌は遥々はるばる飛衛をたずねてその門に入った。

飛衛は新しい弟子に、まず目をまばたきしないことを覚えるよう命じた。

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飛衛は新入の門人に、まず瞬またたきせざることを学べと命じた。

紀昌は家に帰り、妻が使っている機織り台の下にもぐり込んで、そこに仰向けに寝転んだ。

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紀昌は家に帰り、妻の機織台はたおりだいの下に潜もぐり込こんで、そこに仰向あおむけにひっくり返った。

目のすぐそばで機のペダルが忙しく上下に動くのを、まばたきせずにじっと見続けようという工夫だ。

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眼めとすれすれに機躡まねきが忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰みつめていようという工夫くふうである。

わけを知らない妻は大いに驚いた。

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理由を知らない妻は大いに驚おどろいた。

まず第一に、変な格好を変な角度から夫に見られるのは困るというのだ。

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第一、妙みょうな姿勢を妙な角度から良人おっとに覗のぞかれては困るという。

嫌がる妻を紀昌は叱りつけて、無理やり機を織り続けさせた。

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厭いやがる妻を紀昌は叱しかりつけて、無理に機を織り続けさせた。

来る日も来る日も、彼はこのおかしな格好でまばたきをしない修練を重ねた。

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来る日も来る日も彼かれはこの可笑おかしな恰好かっこうで、瞬きせざる修練を重ねる。

二年後には、素早く行き来するペダルがまつ毛をかすめても、まったくまばたきしなくなった。

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二年の後のちには、遽あわただしく往返する牽挺まねきが睫毛まつげを掠かすめても、絶えて瞬くことがなくなった。

彼はやっと機の下からはい出した。

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彼はようやく機の下から匍出はいだす。

もはや、鋭い錐の先でまぶたを突かれても、まばたきしないまでになっていた。

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もはや、鋭利えいりな錐きりの先をもって瞼まぶたを突つかれても、まばたきをせぬまでになっていた。

突然火の粉が目に飛び込もうとも、目の前に急に灰が舞い上がろうとも、彼は決して目をパチっとさせない。

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不意に火ひの粉こが目に飛入ろうとも、目の前に突然とつぜん灰神楽はいかぐらが立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。

彼のまぶたはもうそれを閉じるための筋肉の使い方を忘れてしまい、夜、ぐっすり眠っているときも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままだった。

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彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡じゅくすいしている時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。

ついに、彼のまつ毛とまつ毛の間に小さな蜘蛛が巣を張るようになったとき、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にそれを報告した。

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ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹ぴきの蜘蛛くもが巣すをかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。

それを聞いて飛衛が言った。

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それを聞いて飛衛がいう。

まばたきしないだけでは、まだ弓の技を教えるには足りない。

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瞬かざるのみではまだ射しゃを授けるに足りぬ。

次は、よく見ることを学べ。

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次には、視みることを学べ。

見ることに熟達して、小さいものが大きく見え、かすかなものがはっきり見えるようになったら、戻ってきて私に報告しなさいと。

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視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微びを見ること著ちょのごとくなったならば、来きたって我に告げるがよいと。

紀昌は再び家に戻り、下着の縫い目からシラミを一匹見つけ出して、自分の髪の毛でそれを結んだ。

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紀昌は再び家に戻もどり、肌着はだぎの縫目ぬいめから虱しらみを一匹探し出して、これを己おのが髪かみの毛をもって繋つないだ。

そしてそれを南向きの窓に吊るし、一日中にらみ続けることにした。

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そうして、それを南向きの窓に懸かけ、終日睨にらみ暮くらすことにした。

毎日毎日、彼は窓にぶら下がったシラミを見つめ続けた。

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毎日毎日彼は窓にぶら下った虱を見詰める。

最初は、もちろんそれは一匹のシラミに過ぎなかった。

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初め、もちろんそれは一匹の虱に過ぎない。

二、三日たっても、やはりシラミはシラミのままだ。

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二三日たっても、依然いぜんとして虱である。

ところが十日ほど過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少し大きく見えてきたように思われた。

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ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。

三か月目の終わりには、明らかに蚕くらいの大きさに見えてきた。

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三月目みつきめの終りには、明らかに蚕かいこほどの大きさに見えて来た。

シラミを吊るした窓の外の景色は、少しずつ移り変わっていく。

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虱を吊つるした窓の外の風物は、次第に移り変る。

明るく照っていた春の日差しはいつしか夏の強い光に変わり、澄んだ秋空を高く雁が渡っていくかと思えば、もう寒々とした灰色の空からみぞれが降り落ちてくる。

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煕々ききとして照っていた春の陽ひはいつか烈はげしい夏の光に変り、澄すんだ秋空を高く雁がんが渡わたって行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙みぞれが落ちかかる。

紀昌は根気よく、髪の毛の先にぶら下がった小さな虫を見続けた。

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紀昌は根気よく、毛髪もうはつの先にぶら下った有吻類ゆうふんるい・催痒性さいようせいの小節足動物を見続けた。

シラミも何十匹と取り替えながら、早くも三年の月日が流れた。

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その虱も何十匹となく取換とりかえられて行く中うちに、早くも三年の月日が流れた。

ある日ふと気がつくと、窓のシラミが馬ほどの大きさに見えていた。

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ある日ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。

しめたと、紀昌は膝を打ち、表に出た。

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占しめたと、紀昌は膝ひざを打ち、表へ出る。

彼は自分の目を疑った。

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彼は我が目を疑った。

人が高い塔のように見えた。

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人は高塔こうとうであった。

馬は山のように見えた。

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馬は山であった。

豚は丘のように、鶏は城の楼閣のように見える。

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豚ぶたは丘おかのごとく、雞は城楼じょうろうと見える。

躍り上がって喜んだ紀昌は家に飛び帰り、再び窓際のシラミに向かって、燕の角でつくった弓に北方の蓬で作った矢をつがえてこれを射ると、矢は見事にシラミの心臓を貫き、しかもシラミを結んでいた髪の毛さえ切れなかった。

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雀躍じゃくやくして家にとって返した紀昌は、再び窓際の虱に立向い、燕角えんかくの弧ゆみに朔蓬さくほうの簳やがらをつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心の臓を貫つらぬいて、しかも虱を繋いだ毛さえ断きれぬ。

紀昌はすぐに師の飛衛のもとへ行って報告した。

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紀昌は早速さっそく師の許もとに赴おもむいてこれを報ずる。

飛衛は跳び上がって胸を叩き、初めて「よくやった」

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飛衛は高蹈こうとうして胸を打ち、初めて「出かしたぞ」

と褒めた。

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と褒ほめた。

そして、すぐに弓の奥義と秘伝をすべて余すところなく紀昌に授け始めた。

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そうして、直ちに射術の奥儀秘伝おうぎひでんを剰あますところなく紀昌に授け始めた。

目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって、紀昌の腕前の上達は驚くほど速かった。

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目の基礎訓練に五年もかけた甲斐かいがあって紀昌の腕前うでまえの上達は、驚くほど速い。

奥義の伝授が始まって十日後、試しに紀昌が百歩先の柳の葉を射ると、もう百発百中だった。

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奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既すでに百発百中である。

二十日後、水をたっぷり入れた杯を右ひじの上に載せて強い弓を引くと、狙いが外れないのはもちろん、杯の中の水も微動だにしなかった。

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二十日の後、いっぱいに水を湛たたえた盃さかずきを右肱ひじの上に載のせて剛弓ごうきゅうを引くに、狙ねらいに狂くるいの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。

一か月後、百本の矢で速射を試みたところ、最初の矢が的に当たると、続けて飛んできた二本目の矢は必ず一本目の矢の末端に当たってそこに刺さり、さらに間髪を入れず三本目の矢の先端が二本目の末端にガッシとはまり込んだ。

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一月ひとつきの後、百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的まとに中あたれば、続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括やはずに中って突き刺ささり、更さらに間髪を入れず第三矢の鏃やじりが第二矢の括にガッシと喰くい込む。

矢はつぎつぎと続き、後の矢の先端は必ず前の矢の末端に食い込むので、矢はまったく地面に落ちることがなかった。

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矢矢しし相属し、発発はつはつ相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜おちることがない。

またたく間に、百本の矢は一本のように連なり、的から一直線に伸びたその最後の末端は、今なお弦をくわえているように見えた。

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瞬く中に、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括はなお弦げんを銜ふくむがごとくに見える。

傍で見ていた師の飛衛も思わず「見事!」

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傍で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」

と言った。

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と言った。

二か月後、たまたま家に帰って妻とけんかした紀昌が、妻を脅かそうとして烏号という弓に矢をつがえてきりりと引き絞り、妻の目めがけて射た。

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二月ふたつきの後、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威おどそうとて烏号うごうの弓に綦衛きえいの矢をつがえきりりと引絞ひきしぼって妻の目を射た。

矢は妻のまつ毛三本を射切って飛び去ったが、射られた本人はまったく気づかず、まばたきもしないで夫を罵り続けた。

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矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主ていしゅを罵ののしり続けた。

つまり彼の極みに達した技による矢の速さと狙いの精妙さは、実にここまでの域に達していたのだ。

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けだし、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。

師から学ぶべきことがもう何もなくなった紀昌は、ある日ふとよくない考えを起こした。

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もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。

彼がそのとき一人でじっくりと考えるに、今や弓で自分に敵う者は、師の飛衛をおいてほかにいない。

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彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外ほかに無い。

天下一の名人になるためには、どうしても飛衛を亡き者にしなければならないと思ったのだ。

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天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。

ひそかにその機会をうかがっているうち、ある日たまたま野原で向こうからたった一人で歩いてくる飛衛に出会った。

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秘ひそかにその機会を窺うかがっている中に、一日たまたま郊野こうやにおいて、向うからただ一人歩み来る飛衛に出遇であった。

とっさに決意した紀昌が矢をとって狙いをつけると、その気配を察した飛衛も弓を手にして構えた。

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とっさに意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配を察して飛衛もまた弓を執とって相応ずる。

二人が互いに射ると、矢はそのたびに途中でぶつかり、ともに地面に落ちた。

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二人互たがいに射れば、矢はその度に中道にして相当り、共に地に墜ちた。

地に落ちた矢が細かな塵一つも舞い上げなかったのは、両者の技がともに神の領域に入っていたからだろう。

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地に落ちた矢が軽塵けいじんをも揚あげなかったのは、両人の技がいずれも神しんに入っていたからであろう。

さて、飛衛の矢が尽きたとき、紀昌の方にはまだ一本残っていた。

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さて、飛衛の矢が尽つきた時、紀昌の方はなお一矢を余していた。

好機と張り切って紀昌がその矢を放つと、飛衛はとっさに近くの野いばらの枝を折り取り、その棘の先端で矢の先をはたき落とした。

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得たりと勢込んで紀昌がその矢を放てば、飛衛はとっさに、傍なる野茨のいばらの枝えだを折り取り、その棘とげの先端せんたんをもってハッシと鏃を叩たたき落した。

野望を遂げることができないとさとった紀昌の心に、成功していたなら決して生まれなかったはずの道義的な後ろめたさが、このとき突然わき上がった。

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ついに非望の遂とげられないことを悟さとった紀昌の心に、成功したならば決して生じなかったに違ちがいない道義的慚愧ざんきの念が、この時忽焉こつえんとして湧起わきおこった。

飛衛の方でも、危機を脱した安堵と自分の腕への満足感が、相手への憎しみをすっかり忘れさせた。

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飛衛の方では、また、危機を脱だっし得た安堵あんどと己が伎倆ぎりょうについての満足とが、敵に対する憎にくしみをすっかり忘れさせた。

二人は互いに駆け寄り、野原の真ん中で抱き合い、しばらく美しい師弟の情のなみだにくれた。

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二人は互いに駈寄かけよると、野原の真中まんなかに相抱あいいだいて、しばし美しい師弟愛の涙なみだにかきくれた。

(こうした出来事を現代の道徳観で見てはいけない。

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(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当らない。

美食家の斉の桓公がまだ食べたことのない珍味を求めたとき、料理番の易牙は自分の息子を蒸し焼きにして差し出した。

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美食家の斉せいの桓公かんこうが己のいまだ味わったことのない珍味ちんみを求めた時、厨宰ちゅうさいの易牙えきがは己が息子むすこを蒸焼むしやきにしてこれをすすめた。

十六歳の少年、秦の始皇帝は父が死んだその晩に、父の寵愛していた女性を三度も訪ねた。

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十六歳さいの少年、秦しんの始皇帝は父が死んだその晩に、父の愛妾あいしょうを三度襲おそうた。

すべてそのような時代の話だ。)

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すべてそのような時代の話である。)

なみだながらに抱き合いながらも、また弟子がこんな企てを抱くようでは大変危険だと思った飛衛は、紀昌に新しい目標を与えてその気持ちを変えさせるのが一番だと考えた。

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涙にくれて相擁あいようしながらも、再び弟子でしがかかる企たくらみを抱くようなことがあっては甚はなはだ危いと思った飛衛は、紀昌に新たな目標を与あたえてその気を転ずるにしくはないと考えた。

彼はこの危険な弟子に向かって言った。

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彼はこの危険な弟子に向って言った。

私が伝えられることはすべて伝えた。

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もはや、伝うべきほどのことはことごとく伝えた。

お前がこれ以上この道の極意を究めたいと望むなら、西の方にある大行山の険しい山を登り、霍山の頂上まで行くがよい。

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儞なんじがもしこれ以上この道の蘊奥うんのうを極めたいと望むならば、ゆいて西の方かた大行たいこうの嶮けんに攀よじ、霍山かくざんの頂を極めよ。

そこには甘蠅老師という、古今を通じて並ぶ者のないこの道の大家がおられるはずだ。

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そこには甘蠅かんよう老師とて古今ここんを曠むなしゅうする斯道しどうの大家がおられるはず。

老師の技に比べれば、我々の弓はほとんど子どもの遊びのようなものだ。

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老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯じぎに類する。

お前が今後師とするべき人は、甘蠅師をおいてほかにはいないと。

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儞の師と頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。

紀昌はすぐに西へ向けて旅立った。

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紀昌はすぐに西に向って旅立つ。

あの方の前では我々の技など子どもの遊びと同じだという師の言葉が、彼のプライドを傷つけた。

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その人の前に出ては我々の技のごとき児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。

もしそれが本当なら、天下一を目指す彼の望みはまだまだ遠いということだ。

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もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望も、まだまだ前途ぜんと程遠ほどとおい訳である。

自分の技が子どもの遊び程度かどうか、とにかく早くその人に会って腕を比べたいとあせりながら、彼はひたすら急いで進んだ。

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己が業わざが児戯に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。

足の裏を傷つけ脛に怪我をしながら、険しい岩を登り桟道を渡って、一か月後にやっと目指す山の頂上にたどり着いた。

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足裏を破り脛すねを傷つけ、危巌きがんを攀じ桟道さんどうを渡って、一月の後に彼はようやく目指す山顛さんてんに辿たどりつく。

意気込んで来た紀昌を迎えたのは、羊のような穏やかな目をした、ひどくよぼよぼの老人だった。

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気負い立つ紀昌を迎むかえたのは、羊のような柔和にゅうわな目をした、しかし酷ひどくよぼよぼの爺じいさんである。

年齢は百歳を超えているだろう。

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年齢は百歳をも超こえていよう。

腰が曲がっているせいで、白いひげは歩くときも地面に引きずっていた。

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腰こしの曲っているせいもあって、白髯はくぜんは歩く時も地に曳ひきずっている。

相手が耳が遠いかもしれないと思い、紀昌は大声でせかせかと来た目的を告げた。

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相手が聾ろうかも知れぬと、大声に遽だしく紀昌は来意を告げる。

自分の腕前を見てほしいという旨を話すと、焦っていた彼は相手の返事も待たず、いきなり背負ってきた弓を外して手に取った。

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己が技の程を見てもらいたいむねを述べると、あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋ようかんまきんの弓を外して手に執とった。

そして矢をつがえると、ちょうどそのとき空高くを飛んで行く渡り鳥の群れに向かって狙いを定めた。

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そうして、石碣せきけつの矢をつがえると、折から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向って狙いを定める。

弦の音とともに、一本の矢でたちまち五羽の大きな鳥が鮮やかに青空を切って落ちてきた。

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弦に応じて、一箭いっせんたちまち五羽わの大鳥が鮮あざやかに碧空へきくうを切って落ちて来た。

ひととおりできるようじゃな、と老人が穏やかな微笑みを浮かべて言った。

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一通り出来るようじゃな、と老人が穏おだやかな微笑を含ふくんで言う。

だがそれはしょせん「射る弓」というもの、あなたはまだ「射らない弓」を知らないようだと。

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だが、それは所詮しょせん射之射しゃのしゃというもの、好漢いまだ不射之射ふしゃのしゃを知らぬと見える。

むっとした紀昌を連れて、老隠者はそこから二百歩ほど離れた絶壁の上まで案内した。

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ムッとした紀昌を導いて、老隠者ろういんじゃは、そこから二百歩ばかり離はなれた絶壁ぜっぺきの上まで連れて来る。

足元はまさに屏風のように垂直にそそり立つ千仞の崖で、はるか真下に糸のように細く見える渓流をちょっと覗いただけでたちまちめまいを感じるほどの高さだった。

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脚下きゃっかは文字通りの屏風びょうぶのごとき壁立千仭へきりつせんじん、遥か真下に糸のような細さに見える渓流けいりゅうをちょっと覗いただけでたちまち眩暈めまいを感ずるほどの高さである。

その断崖から半ば宙に乗り出した危なっかしい岩の上に老人はさっさと乗り上がり、振り返って紀昌に言った。

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その断崖だんがいから半なかば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駈上り、振返ふりかえって紀昌に言う。

どうだ。

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どうじゃ。

この岩の上でさっきの腕前をもう一度見せてくれないか。

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この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。

今さら引っ込みもつかない。

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今更引込ひっこみもならぬ。

老人と入れ代わりに紀昌がその岩に乗ったとき、岩はかすかにグラリと揺れた。

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老人と入代りに紀昌がその石を履ふんだ時、石は微かすかにグラリと揺ゆらいだ。

無理に気持ちを奮い立たせて矢をつがえようとすると、ちょうど崖の端から小石が一つ転がり落ちた。

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強しいて気を励はげまして矢をつがえようとすると、ちょうど崖がけの端はしから小石が一つ転がり落ちた。

その行方を目で追ったとき、思わず紀昌は岩の上に伏してしまった。

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その行方ゆくえを目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏ふした。

足はわなわなと震え、汗は流れてかかとにまで達した。

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脚あしはワナワナと顫ふるえ、汗あせは流れて踵かかとにまで至った。

老人が笑いながら手を差し伸べて彼を岩から降ろし、自ら代わりに乗ると、では弓というものをお目にかけようかな、と言った。

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老人が笑いながら手を差し伸のべて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、では射というものをお目にかけようかな、と言った。

まだ動悸がおさまらず青ざめた顔をしていたが、紀昌はすぐに気づいて言った。

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まだ動悸どうきがおさまらず蒼あおざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気が付いて言った。

しかし、弓はどうなさるのですか?

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しかし、弓はどうなさる?

弓は?

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 弓は?

老人は素手だったのだ。

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 老人は素手すでだったのである。

弓?

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弓?

と老人は笑う。

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 と老人は笑う。

弓矢がいる間はまだ「射る弓」だ。

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弓矢の要いる中はまだ射之射じゃ。

「射らない弓」には、どんな弓も矢もいらない。

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不射之射には、烏漆うしつの弓も粛慎しゅくしんの矢もいらぬ。

ちょうど彼らの真上、空の非常に高いところを一羽のとびが悠々と輪を描いていた。

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ちょうど彼等らの真上、空の極めて高い所を一羽の鳶とびが悠々ゆうゆうと輪を画えがいていた。

ごま粒ほどに小さく見えるその姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて見えない矢を形のない弓につがえ、満月のように引き絞ってひょうと放つと、見よ、とびは羽ばたきもせず中空から石のように落ちてきたではないか。

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その胡麻粒ごまつぶほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとくに引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。

紀昌はぞっとした。

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紀昌は慄然りつぜんとした。

今になって初めて、この道の深さの底を覗いた気がした。

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今にして始めて芸道の深淵しんえんを覗き得た心地であった。

九年間、紀昌はこの老名人のもとに留まった。

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九年の間、紀昌はこの老名人の許に留とどまった。

その間どんな修業を積んだのか、それは誰にもわからない。

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その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰だれにも判わからぬ。

九年たって山を降りてきたとき、人々は紀昌の顔つきが変わったことに驚いた。

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九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。

以前の負けず嫌いで精悍な面構えはどこかに消え、なんの表情もない、木偶のように愚か者のような顔になっていた。

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以前の負けず嫌ぎらいな精悍せいかんな面魂つらだましいはどこかに影かげをひそめ、なんの表情も無い、木偶でくのごとく愚者ぐしゃのごとき容貌ようぼうに変っている。

久しぶりに昔の師の飛衛を訪ねたとき、しかし飛衛はこの顔つきをひと目見ると感嘆して叫んだ。

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久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆かんたんして叫さけんだ。

これでこそ初めて天下の名人だ。

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これでこそ初めて天下の名人だ。

私たちなど足元にも及ばないと。

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我儕われらのごとき、足下あしもとにも及ぶものでないと。

邯鄲の都は、天下一の名人となって戻ってきた紀昌を迎え、やがて見せてもらえるに違いないその妙技への期待に沸き返った。

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邯鄲の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎むかえて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返った。

ところが紀昌はいっこうにその期待に応えようとしない。

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ところが紀昌は一向にその要望に応こたえようとしない。

いや、弓さえまったく手に取ろうとしない。

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いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。

山に入るときに持っていった弓もどこかに捨ててきたようだった。

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山に入る時に携たずさえて行った楊幹麻筋の弓もどこかへ棄すてて来た様子である。

そのわけを尋ねた人に答えて、紀昌はものうげに言った。

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そのわけを訊たずねた一人に答えて、紀昌は懶ものうげに言った。

最高の行いとは何もしないことで、最高の言葉とは言葉を使わないことで、最高の射とは射ることがないことだと。

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至為しいは為なす無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。

なるほど、と物分かりのよい邯鄲の都の人々はすぐに納得した。

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なるほどと、至極しごく物分ものわかりのいい邯鄲の都人士はすぐに合点がてんした。

弓を持たない弓の名人は彼らの誇りとなった。

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弓を執らざる弓の名人は彼等の誇ほこりとなった。

紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵という評判はますます広まっていった。

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紀昌が弓に触ふれなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝けんでんされた。

さまざまな噂が人々の口から口へと伝わった。

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様々な噂うわさが人々の口から口へと伝わる。

毎夜夜中を過ぎるころ、紀昌の家の屋根の上で誰が鳴らすともしれない弓弦の音がする。

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毎夜三更さんこうを過ぎる頃ころ、紀昌の家の屋上おくじょうで何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。

名人の心に宿る弓の神が、主人が眠っている間に体から抜け出して、魔物を払うべく夜通し守護しているのだという。

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名人の内に宿る射道の神が主人公の睡ねむっている間に体内を脱ぬけ出し、妖魔ようまを払はらうべく徹宵てっしょう守護しゅごに当っているのだという。

彼の家の近くに住む商人がある夜、紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手に持ち、古の名人・羿と養由基の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。

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彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍めずらしくも弓を手にして、古いにしえの名人・羿げいと養由基の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。

そのとき三人の名人が放った矢はそれぞれ夜空に青白い光の尾を引きながら、ある星座と天狼星の間に消えていったと。

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その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒こうぼうを曳きつつ参宿さんしゅくと天狼星てんろうせいとの間に消去ったと。

紀昌の家に忍び込もうとしたところ、塀に足をかけた途端に一筋の殺気が静まり返った家の中から走り出てまともに額を打ったので、思わず外に転げ落ちたと白状した盗賊もいた。

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紀昌の家に忍しのび入ろうとしたところ、塀へいに足を掛かけた途端とたんに一道の殺気が森閑しんかんとした家の中から奔はしり出てまともに額ひたいを打ったので、覚えず外に顛落てんらくしたと白状した盗賊とうぞくもある。

それ以来、よこしまな心を持つ者たちは彼の家から十町四方を避けて遠回りし、賢い渡り鳥たちも彼の家の上空を通らなくなった。

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爾来じらい、邪心じゃしんを抱く者共は彼の住居の十町四方は避さけて廻まわり道をし、賢かしこい渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。

雲のように立ち込める名声のただ中で、名人の紀昌は少しずつ老いていった。

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雲と立罩たちこめる名声のただ中に、名人紀昌は次第に老いて行く。

すでに早くから弓を離れた彼の心は、ますます枯れて静かな境地に入っていったようだった。

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既に早く射を離れた彼の心は、ますます枯淡虚静こたんきょせいの域にはいって行ったようである。

木偶のような顔はさらに表情を失い、話すことも少なくなり、ついには息があるかどうかさえ疑われるようになった。

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木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀まれとなり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。

「もはや、自分と他者の区別も、正しいと間違いの違いも、私にはわからない。目は耳のように、耳は鼻のように、鼻は口のように感じられる。」

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「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」

というのが、老名人の晩年の述懐だった。

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というのが、老名人晩年の述懐じゅっかいである。

甘蠅師のもとを去ってから四十年後、紀昌は静かに、まるで煙のように静かにこの世を去った。

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甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙けむりのごとく静かに世を去った。

その四十年の間、彼はまったく弓のことを口にしなかった。

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その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かった。

口にさえしなかったくらいだから、弓矢を手にして何かをすることなどあるはずがない。

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口にさえしなかった位だから、弓矢を執っての活動などあろうはずが無い。

もちろん、寓話の作り手としてはここで老名人に最後の大活躍をさせて、名人が真の名人たるゆえんを明らかにしたいのはやまやまだが、一方また、どうしても古い書物に記された事実を曲げるわけにはいかない。

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もちろん、寓話ぐうわ作者としてはここで老名人に掉尾ちょうびの大活躍だいかつやくをさせて、名人の真に名人たるゆえんを明らかにしたいのは山々ながら、一方、また、何としても古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ。

実際、老後の彼については、ただ「何もせずに自然に化した」とだけあり、次のような妙な話のほかには何一つ伝わっていないのだから。

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実際、老後の彼についてはただ無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。

その話というのは、彼が死ぬ一、二年前のことらしい。

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その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。

ある日、年老いた紀昌が知人の家に招かれて行ったところ、その家で一つの道具を目にした。

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ある日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。

確かに見覚えのある道具なのだが、どうしてもその名前が思い出せないし、何に使うのかも思い当たらない。

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確かに見憶みおぼえのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途ようとも思い当らない。

老人はその家の主人に尋ねた。

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老人はその家の主人に尋たずねた。

それは何という品物で、また何に使うのかと。

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それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。

主人は、客が冗談を言っているのだとばかり思って、にやりとしらばくれた笑い方をした。

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主人は、客が冗談じょうだんを言っているとのみ思って、ニヤリととぼけた笑い方をした。

老いた紀昌は真剣になって再び尋ねた。

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老紀昌は真剣しんけんになって再び尋ねる。

それでも相手はあいまいな笑みを浮かべて、客の意図をはかりかねているようだった。

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それでも相手は曖昧あいまいな笑を浮うかべて、客の心をはかりかねた様子である。

三度、紀昌が真剣な顔で同じ問いを繰り返したとき、初めて主人の顔に驚きの色が現れた。

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三度紀昌が真面目まじめな顔をして同じ問を繰返くりかえした時、始めて主人の顔に驚愕きょうがくの色が現れた。

彼は客の目をじっと見つめた。

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彼は客の眼を凝乎じっと見詰める。

相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えているのでもないとわかると、彼はほとんど恐怖に近いうろたえを見せて、どもりながら叫んだ。

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相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖きょうふに近い狼狽ろうばいを示して、吃どもりながら叫んだ。

「ああ、先生が、――古今無双の弓の名人たる先生が、弓を忘れてしまわれたとでも? ああ、弓という名も、その使い道も!」

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「ああ、夫子ふうしが、――古今無双ここんむそうの射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途みちも!」

その後しばらくの間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、音楽家は琴の弦を切り、職人は定規を手にするのを恥じたということだ。

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その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠かくし、楽人は瑟しつの絃げんを断ち、工匠こうしょうは規矩きくを手にするのを恥はじたということである。

(昭和十七年十二月)

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(昭和十七年十二月)