よめる文庫

文字禍

中島敦(なかじまあつし)・1992年

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)

原文: 文字の霊れいなどというものが、一体、あるものか、どうか。
文字の霊なんてものが、はたして存在するのだろうか。
原文: アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。
アッシリア人は数えきれないほどの精霊を知っている。
原文: 夜、闇やみの中を跳梁ちょうりょうするリル、その雌めすのリリツ、疫病えきびょうをふり撒まくナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ゆうかいしゃラバス等など、数知れぬ悪霊あくりょう共がアッシリヤの空に充みち満ちている。
夜、闇の中を動き回るリル、その雌のリリツ、疫病をまき散らすナムタル、死者の霊エティンム、人をさらうラバスなど、無数の悪霊がアッシリアの空に満ちあふれている。
原文: しかし、文字の精霊については、まだ誰だれも聞いたことがない。
しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。
原文: その頃ころ――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷きゅうていに妙みょうな噂うわさがあった。
その頃――アシュル・バニ・アパル大王の治世二十年目の頃の話だが――ニネヴェの宮廷に奇妙な噂が立った。
原文: 毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪あやしい話し声がするという。
毎晩、図書館の暗がりの中で、ひそひそと不気味な話し声がするというのだ。
原文: 王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛むほんがバビロンの落城でようやく鎮しずまったばかりのこととて、何かまた、不逞ふていの徒の陰謀いんぼうではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。
王の兄シャマシュ・シュム・ウキンの反乱がバビロン陥落でようやく収まったばかりだったので、またどこかの不届き者が陰謀を企てているのではと調べてみたが、そういった気配はなかった。
原文: どうしても何かの精霊どもの話し声に違ちがいない。
どう考えても何かの精霊たちの話し声に違いない。
原文: 最近に王の前で処刑しょけいされたバビロンからの俘囚ふしゅう共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にも判わかる。
最近、王の前で処刑されたバビロンの捕虜たちの死霊の声だろうという者もいたが、それが違うことは誰にでも分かった。
原文: 千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜ぬいて殺され、その舌を集めたところ、小さな築山つきやまが出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。
千人以上のバビロンの捕虜はことごとく舌を抜かれて殺され、その舌を集めたら小さな築山ができるほどだった。それは誰もが知る事実だ。
原文: 舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。
舌のない死霊がしゃべれるはずがない。
原文: 星占ほしうらないや羊肝卜ようかんぼくで空むなしく探索たんさくした後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。
星占いや羊の肝臓占いで調べても無駄だったので、もうこれは書物や文字たちの話し声と考えるほかなくなった。
原文: ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目かいもく判らない。
ただ、文字の霊(というものが存在するとして)がどんな性質を持つものなのか、それがまったく分からない。
原文: アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪きょがんしゅくはつの老博士ナブ・アヘ・エリバを召めして、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。
アシュル・バニ・アパル大王は、目が大きく髪が縮れた老博士ナブ・アヘ・エリバを呼び寄せ、この未知の精霊について研究するよう命じた。
原文: その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没まいぼつし、更さらに二千三百年にして偶然ぐうぜん発掘はっくつされる運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽けんさんに耽ふけった。
その日から、ナブ・アヘ・エリバ博士は毎日問題の図書館(それはその後二百年で地下に埋まり、さらに二千三百年後に偶然発掘される運命を持つものだが)に通い、無数の書物に目を通しながら研究に没頭した。
原文: 両河地方メソポタミヤでは埃及エジプトと違って紙草パピルスを産しない。
メソポタミアではエジプトと違ってパピルスが取れない。
原文: 人々は、粘土ねんどの板に硬筆こうひつをもって複雑な楔形くさびがたの符号ふごうを彫ほりつけておった。
人々は粘土板に硬い筆で複雑な楔形の記号を刻んでいた。
原文: 書物は瓦かわらであり、図書館は瀬戸物屋せとものやの倉庫に似ていた。
書物は瓦であり、図書館は陶器屋の倉庫に似ていた。
原文: 老博士の卓子テーブル(その脚あしには、本物の獅子ししの足が、爪つめさえそのままに使われている)の上には、毎日、累々るいるいたる瓦の山がうずたかく積まれた。
老博士のテーブル(その脚には本物の獅子の足が、爪まで残ったまま使われている)の上には、毎日、重い瓦の山が高く積まれた。
原文: それら重量ある古知識の中から、彼かれは、文字の霊についての説を見出みいだそうとしたが、無駄むだであった。
それら重くて古い知識の中から、彼は文字の霊についての説を見つけ出そうとしたが、無駄だった。
原文: 文字はボルシッパなるナブウの神の司つかさどりたもう所とより外ほかには何事も記されていないのである。
文字はボルシッパのナブウ神が司るものだ、ということ以外には何も書かれていなかったのだ。
原文: 文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。
文字に霊があるかないかを、彼は自分の力で解決しなければならない。
原文: 博士は書物を離はなれ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨にらめっこをして過した。
博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前にして、一日中それとにらめっこして過ごした。
原文: 卜者ぼくしゃは羊の肝臓かんぞうを凝視ぎょうしすることによってすべての事象を直観する。
占い師は羊の肝臓をじっと見つめることで、すべての出来事を直感する。
原文: 彼もこれに倣ならって凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。
彼もそれにならって、じっと見つめ静かに観察することで真実を見つけようとしたのだ。
原文: その中うちに、おかしな事が起った。
そのうち、おかしなことが起きた。
原文: 一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯こうさくとしか見えなくなって来る。
一つの文字をじっと見ているうちに、いつの間にかその文字が崩れて、意味のない線と線の交わりにしか見えなくなってくる。
原文: 単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有もつことが出来るのか、どうしても解わからなくなって来る。
ただの線の集まりが、なぜそういう音とそういう意味を持てるのか、どうしても分からなくなってくる。
原文: 老儒ろうじゅナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚おどろいた。
老博士ナブ・アヘ・エリバは、生まれて初めてこの不思議な事実に気づいて、驚いた。
原文: 今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。
七十年間ずっと当たり前だと思ってほっておいたことが、決して当たり前でも必然でもない。
原文: 彼は眼めから鱗こけらの落ちた思がした。
彼は目から鱗が落ちたような気がした。
原文: 単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?
ただのバラバラの線に、決まった音と決まった意味を持たせているものは、何なのか?
原文:  ここまで思い到いたった時、老博士は躊躇ちゅうちょなく、文字の霊の存在を認めた。
ここまで考えが至ったとき、老博士はためらいなく、文字の霊の存在を認めた。
原文: 魂たましいによって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
魂によってまとめられていない手・足・頭・爪・腹などが人間でないのと同じように、一つの霊がまとめているのでなければ、どうして単なる線の集まりが音と意味を持てるというのか。
原文: この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。
この発見をきっかけに、今まで知られていなかった文字の霊の性質が少しずつ分かってきた。
原文: 文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のねずみのように仔こを産んで殖ふえる。
文字の精霊の数は地上の物事の数と同じくらい多く、文字の精は野ネズミのように子を産んで増えていく。
原文: ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻まわって、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋たずねた。
ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き回り、最近文字を覚えた人たちを捕まえては、根気強く一人一人に聞いて回った。
原文: 文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。
文字を知る前と比べて、何か変わったことはないかと。
原文: これによって文字の霊の人間に対する作用はたらきを明らかにしようというのである。
これによって、文字の霊が人間に与える影響を明らかにしようというわけだ。
原文: さて、こうして、おかしな統計が出来上った。
こうして、おかしな統計ができあがった。
原文: それによれば、文字を覚えてから急に蝨しらみを捕とるのが下手へたになった者、眼に埃ほこりが余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲わしの姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧あおくなくなったという者などが、圧倒的あっとうてきに多い。
それによると、文字を覚えてからシラミを取るのが急に下手になった者、目に埃が以前より多く入るようになった者、前はよく見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど青くなくなったという者などが、圧倒的に多かった。
原文: 「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰くイアラスコト、猶なお、蛆虫うじむしガ胡桃くるみノ固キ殻からヲ穿うがチテ、中ノ実ヲ巧たくみニ喰イツクスガ如ごとシ」
「文字の精が人間の目を喰い荒らすこと、ちょうど蛆虫が胡桃の固い殻を穿って中の実を巧みに喰い尽くすようなものだ」
原文: と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌しるした。
と、ナブ・アヘ・エリバは新しい粘土の備忘録に記した。
原文: 文字を覚えて以来、咳せきが出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢げりするようになった者なども、かなりの数に上る。
文字を覚えてから咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者なども、かなりの数にのぼる。
原文: 「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉のど・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」
「文字の精は人間の鼻・喉・腹なども侵すもののようだ」
原文: と、老博士はまた誌した。
と、老博士はまた記した。
原文: 文字を覚えてから、にわかに頭髪の薄うすくなった者もいる。
文字を覚えてから、急に髪が薄くなった者もいる。
原文: 脚の弱くなった者、手足の顫ふるえるようになった者、顎あごがはずれ易やすくなった者もいる。
足が弱くなった者、手足が震えるようになった者、顎が外れやすくなった者もいる。
原文: しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。
しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かなければならなかった。
原文: 「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ痲痺まひセシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」
「文字の害は、人間の頭脳を侵し精神を麻痺させるに至って、極まる。」
原文: 文字を覚える以前に比べて、職人は腕うでが鈍にぶり、戦士は臆病おくびょうになり、猟師りょうしは獅子を射損うことが多くなった。
文字を覚える前と比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射そこなうことが多くなった。
原文: これは統計の明らかに示す所である。
これは統計がはっきり示していることだ。
原文: 文字に親しむようになってから、女を抱だいても一向楽しゅうなくなったという訴うったえもあった。
文字に親しむようになってから、女を抱いてもちっとも楽しくなくなったという訴えもあった。
原文: もっとも、こう言出したのは、七十歳さいを越こした老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。
もっとも、そう言い出したのは七十歳を超えた老人だったから、これは文字のせいではないかもしれない。
原文: ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。
ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。
原文: 埃及人は、ある物の影かげを、その物の魂の一部と見做みなしているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
エジプト人は、ある物の影を、その物の魂の一部とみなしているようだが、文字というのはその影のようなものではないか。
原文: 獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。
「獅子」という字は、本物の獅子の影ではないか。
原文: それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙ねらい、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。
だから、「獅子」という字を覚えた猟師は本物の獅子ではなく獅子の影を狙い、「女」という字を覚えた男は本物の女ではなく女の影を抱くようになるのではないか。
原文: 文字の無かった昔むかし、ピル・ナピシュチムの洪水こうずい以前には、歓よろこびも智慧ちえもみんな直接に人間の中にはいって来た。
文字がなかった昔、ピル・ナピシュチムの洪水より前には、喜びも知恵も直接人間の中に入ってきた。
原文: 今は、文字の薄被ヴェイルをかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。
今は、文字というヴェールをかぶった喜びの影と知恵の影しか、我々は知らない。
原文: 近頃人々は物憶ものおぼえが悪くなった。
最近、人々は物覚えが悪くなった。
原文: これも文字の精の悪戯いたずらである。
これも文字の精のいたずらだ。
原文: 人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。
人々はもはや、書き留めておかなければ何一つ覚えていられない。
原文: 着物を着るようになって、人間の皮膚ひふが弱く醜みにくくなった。
衣服を着るようになって、人間の肌は弱く醜くなった。
原文: 乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。
乗り物が発明されて、人間の足は弱く醜くなった。
原文: 文字が普及ふきゅうして、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
文字が普及して、人々の頭はもはや働かなくなったのだ。
原文: ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂きょうの老人を知っている。
ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂の老人を知っている。
原文: その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。
その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりもさらに博学だ。
原文: 彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草パピルスや羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。
彼はシュメール語やアラム語だけでなく、パピルスや羊皮紙に書かれたエジプト文字までもすらすらと読む。
原文: およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。
文字に残された古代のことで、彼が知らないことはない。
原文: 彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。
彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世の何年目の何月何日の天気まで知っている。
原文: しかし、今日きょうの天気は晴か曇くもりか気が付かない。
しかし、今日の天気が晴れか曇りかには気がつかない。
原文: 彼は、少女サビツがギルガメシュを慰なぐさめた言葉をも諳そらんじている。
彼は、少女サビツがギルガメシュを慰めた言葉まで暗唱できる。
原文: しかし、息子むすこをなくした隣人りんじんを何と言って慰めてよいか、知らない。
しかし、息子を亡くした隣人を何と言って慰めればいいか知らない。
原文: 彼は、アダッド・ニラリ王の后きさき、サンムラマットがどんな衣装いしょうを好んだかも知っている。
彼は、アダッド・ニラリ王の后サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。
原文: しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。
しかし、自分が今どんな服を着ているかは、まるで気がついていない。
原文: 何と彼は文字と書物とを愛したであろう!
なんと彼は文字と書物を愛したことだろう!
原文:  読み、諳んじ、愛撫あいぶするだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕かみくだき、水に溶とかして飲んでしまったことがある。
読み、暗唱し、なでさするだけでは飽き足らず、あまりに愛するあまり、彼はギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛み砕き、水に溶かして飲んでしまったことがある。
原文: 文字の精は彼の眼を容赦ようしゃなく喰い荒あらし、彼は、ひどい近眼である。
文字の精は容赦なく彼の目を喰い荒らし、彼はひどい近眼になっている。
原文: 余り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲形の鼻の先は、粘土板と擦すれ合って固い胼胝たこが出来ている。
あまりに近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲のような鼻の先は粘土板とこすれて固いたこができている。
原文: 文字の精は、また、彼の脊骨せぼねをも蝕むしばみ、彼は、臍へそに顎のくっつきそうな傴僂せむしである。
文字の精はまた彼の背骨も蝕み、彼はへそに顎がくっつきそうなほどの猫背だ。
原文: しかし、彼は、恐おそらく自分が傴僂であることを知らないであろう。
しかし彼は、おそらく自分が猫背だということを知らないだろう。
原文: 傴僂という字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。
「猫背」という字なら、彼は五つの異なる国の文字で書けるのだが。
原文: ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者ぎせいしゃの第一に数えた。
ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を文字の精霊の犠牲者の筆頭に数えた。
原文: ただ、こうした外観の惨みじめさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨うらやましいほど――いつも幸福そうに見える。
ただ、外見がこれほど惨めであるにもかかわらず、この老人はいつも本当に――うらやましいほど――幸せそうに見える。
原文: これが不審ふしんといえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬びやくのごとき奸猾かんかつな魔力まりょくのせいと見做した。
それは不思議といえば不思議だったが、ナブ・アヘ・エリバはそれも文字の霊の惚れ薬のようなずる賢い魔力のせいだと考えた。
原文: たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹かかられた。
そのとき、たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病気にかかった。
原文: 侍医じいのアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王のご衣裳を借り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に扮ふんした。
侍医のアラッド・ナナはこの病が軽くないと見て、大王のご衣装を借りて自らそれを身にまとい、アッシリア王に扮した。
原文: これによって、死神エレシュキガルの眼を欺あざむき、病を大王から己おのれの身に転じようというのである。
これによって、死の神エレシュキガルの目をだまし、病気を大王から自分の身に移そうというのだ。
原文: この古来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信の眼を向ける者がある。
この古くからの医者のやり方に対して、若者の一部には疑いの目を向ける者がいる。
原文: これは明らかに不合理だ、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子供瞞だましの計に欺かれるはずがあるか、と、彼等らは言う。
これは明らかに理屈に合わない、エレシュキガル神ほどの者が、あんな子供だましの計略に騙されるはずがあるか、と彼らは言う。
原文: 碩学せきがくナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて厭いやな顔をした。
大学者のナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて嫌な顔をした。
原文: 青年等のごとく、何事にも辻褄つじつまを合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。
若者たちのように何事にも筋道を合わせたがることには、どこかおかしなところがある。
原文: 全身垢あかまみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾かざっているような、そういうおかしな所が。
体中垢だらけの男が、一か所だけ、たとえば足の爪先だけを、やたらと美しく飾っているような、そういうおかしさだ。
原文: 彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。
彼らは神秘の霧の中における人間の位置というものを分かっていないのだ。
原文: 老博士は浅薄せんぱくな合理主義を一種の病と考えた。
老博士は浅い合理主義を一種の病気と考えた。
原文: そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。
そしてその病気を流行らせたのは、疑いなく文字の精霊だ。
原文: ある日若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。
ある日、若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねてきて老博士に言った。
原文: 歴史とは何ぞや?
歴史とは何ですか?
原文:  と。
と。
原文: 老博士が呆あきれた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。
老博士が呆れた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。
原文: 先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期さいごについて色々な説がある。
先日のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期についてはいろいろな説がある。
原文: 自ら火に投じたことだけは確かだが、最後の一月ひとつきほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩いんとうの生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎けっさいしてシャマシュ神に祈いのり続けたというものもある。
自ら火の中に飛び込んだことだけは確かだが、最後の一か月ほどの間、絶望のあまり言葉にできないほど乱れた生活を送ったという者もいれば、毎日ひたすら身を清めてシャマシュ神に祈り続けたという者もいる。
原文: 第一の妃ひただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾ひしょうを薪まきの火に投じてから自分も火に入ったという説もある。
第一の妃ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の侍女を薪の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。
原文: 何しろ文字通り煙けむりになったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。
何しろ文字どおり煙になってしまったことなので、どれが正しいのか見当もつかない。
原文: 近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じたもうであろう。
近々、大王がその中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じるだろう。
原文: これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。
これはほんの一例だが、歴史というのはこれでいいのだろうか。
原文: 賢明けんめいな老博士が賢明な沈黙ちんもくを守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。
賢明な老博士が賢明に黙っているのを見て、若い歴史家は問いの形をこう変えた。
原文: 歴史とは、昔、在った事柄ことがらをいうのであろうか?
歴史とは、昔あった出来事のことでしょうか?
原文:  それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
それとも、粘土板に書かれた文字のことでしょうか?
原文: 獅子狩がりと、獅子狩の浮彫うきぼりとを混同しているような所がこの問の中にある。
獅子狩りと、獅子狩りの浮き彫りとを混同しているようなところが、この問いにはある。
原文: 博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。
博士はそれを感じたが、はっきり口に出せないので、次のように答えた。
原文: 歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。
歴史とは、昔あった出来事で、かつ粘土板に記されたものだ。
原文: この二つは同じことではないか。
この二つは同じことではないか。
原文: 書洩かきもらしは?
書き漏らしは?
原文:  と歴史家が聞く。
と歴史家が聞く。
原文: 書洩らし?
書き漏らし?
原文:  冗談じょうだんではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。
冗談ではない、書かれなかったことは、なかったことだ。
原文: 芽の出ぬ種子たねは、結局初めから無かったのじゃわい。
芽の出ない種は、結局最初からなかったのと同じだわい。
原文: 歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
原文: 若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。
若い歴史家はしょんぼりした顔で、指さされた瓦を見た。
原文: それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行せいとうこうの一枚である。
それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌが記したサルゴン王のハルディア征討記の一枚だ。
原文: 話しながら博士の吐はき棄すてた柘榴ざくろの種子がその表面に汚きたならしくくっついている。
話しながら博士が吐き捨てたザクロの種が、その表面に汚らしくくっついている。
原文: ボルシッパなる明智の神ナブウの召使めしつかいたもう文字の精霊共の恐おそろしい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。
ボルシッパの知恵の神ナブウが使わせる文字の精霊たちの恐ろしい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らないようだな。
原文: 文字の精共が、一度ある事柄を捉とらえて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅ふめつの生命を得るのじゃ。
文字の精たちがひとたびある出来事をとらえ、これを自分の姿で表すとなると、その出来事はもはや不滅の命を得るのだ。
原文: 反対に、文字の精の力ある手に触ふれなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。
反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、どんなものでも、その存在を失わなければならない。
原文: 太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか?
太古からのアヌ・エンリルの書に書き上げられていない星は、なぜ存在しないのか?
原文:  それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載のせられなかったからじゃ。
それは、それらがアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからだ。
原文: 大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒いかりが降くだるのも、月輪の上部に蝕しょくが現れればフモオル人が禍を蒙こうむるのも、皆みな、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。
大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒りが降るのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が災いをこうむるのも、みな古書に文字として記されているからこそだ。
原文: 古代スメリヤ人が馬という獣けものを知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。
古代シュメール人が馬という生き物を知らなかったのも、彼らの間に馬という字がなかったからだ。
原文: この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。
この文字の精霊の力ほど恐ろしいものはない。
原文: 君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。
君やわしらが文字を使って書き物をしていると思ったら大間違いだ。
原文: わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕しもべじゃ。
わしらこそ、彼ら文字の精霊にこき使われる下僕なのだ。
原文: しかし、また、彼等精霊の齎もたらす害も随分ずいぶんひどい。
しかしまた、彼ら精霊がもたらす害もずいぶんひどい。
原文: わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気どっきに中あたったためであろう。
わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を記した文字に疑いを感じるようになったのも、つまりは君が文字に親しみすぎて、その霊の毒気にやられたためだろう。
原文: 若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。
若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。
原文: 老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為ゆういな青年をも害そこなおうとしていることを悲しんだ。
老博士はしばらく、文字の霊の害毒があの有望な青年をも傷つけようとしていることを悲しんだ。
原文: 文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑を抱くことは、決して矛盾むじゅんではない。
文字に親しみすぎてかえって文字に疑いを抱くことは、決して矛盾ではない。
原文: 先日博士は生来の健啖けんたんに任せて羊の炙肉あぶりにくをほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。
先日博士は生まれつきの大食いぶりを発揮して羊の炙り肉をほぼ一頭分も平らげたが、その後しばらく、生きた羊の顔を見るのも嫌になったことがある。
原文: 青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮ちぢれっ毛の頭を抑おさえて考え込こんだ。
若い歴史家が帰ってからしばらくして、ふとナブ・アヘ・エリバは薄くなった縮れ毛の頭を抱えて考え込んだ。
原文: 今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力いりょくを讃美さんびしはせなんだか?
今日は、どうやら、わしはあの青年に向かって、文字の霊の威力を褒めたたえてしまったのではないか?
原文:  いまいましいことだ、と彼は舌打をした。
いまいましいことだ、と彼は舌打ちをした。
原文: わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。
わしまでが文字の霊にたぶらかされているわ。
原文: 実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。
実際、もうかなり前から、文字の霊はある恐ろしい病を老博士にもたらしていたのだ。
原文: それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮くらした時以来のことである。
それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を何日もじっとにらみ続けた時からのことだ。
原文: その時、今まで一定の意味と音とを有もっていたはずの字が、忽然こつぜんと分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。
その時、今まで決まった意味と音を持っていたはずの字が、突然バラバラになって単なる直線の集まりになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、同じような現象が文字以外のあらゆるものについても起きるようになった。
原文: 彼が一軒けんの家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦れんがと漆喰しっくいとの意味もない集合に化けてしまう。
一軒の家をじっと見ているうちに、その家が彼の目と頭の中で、木材と石とレンガと漆喰の意味のない集まりに変わってしまう。
原文: これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。
これがなぜ人間の住む場所でなければならないのか、分からなくなる。
原文: 人間の身体からだを見ても、その通り。
人間の体を見ても同じことだ。
原文: みんな意味の無い奇怪きかいな形をした部分部分に分析ぶんせきされてしまう。
みんな意味のない奇妙な形をした部分部分に分解されてしまう。
原文: どうして、こんな恰好かっこうをしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
どうしてこんな格好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
原文: 眼に見えるものばかりではない。
目に見えるものだけではない。
原文: 人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
人間の日常の営み、あらゆる習慣が、同じ奇妙な分解の病のために、これまでの意味を完全に失ってしまった。
原文: もはや、人間生活のすべての根柢こんていが疑わしいものに見える。
もはや、人間生活のすべての根っこが疑わしいものに見える。
原文: ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。
ナブ・アヘ・エリバ博士は気が狂いそうになってきた。
原文: 文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。
文字の霊の研究をこれ以上続けては、最後にはその霊に命を取られてしまうぞと思った。
原文: 彼は怖こわくなって、早々に研究報告を纏まとめ上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献けんじた。
彼は怖くなって、急いで研究報告をまとめ上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献上した。
原文: 但ただし、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。
ただし、その中に若干の政治的意見を加えたことはもちろんだ。
原文: 武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。
武の国アッシリアは今や、見えない文字の精霊によって、すっかり蝕まれてしまった。
原文: しかも、これに気付いている者はほとんど無い。
しかも、これに気づいている者はほとんどいない。
原文: 今にして文字への盲目的崇拝もうもくてきすうはいを改めずんば、後に臍ほぞを噬かむとも及およばぬであろう云々うんぬん。
今すぐ文字への盲目的な崇拝を改めなければ、後で後悔しても取り返しがつかないだろう、云々。
原文: 文字の霊が、この讒謗者ざんぼうしゃをただで置く訳が無い。
文字の霊が、この文字を悪く言った者をただで置くわけがない。
原文: ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌きげんを損じた。
ナブ・アヘ・エリバの報告は、大王のご機嫌をひどく損ねた。
原文: ナブウ神の熱烈ねつれつな讃仰者さんぎょうしゃで当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。
ナブウ神の熱烈な崇拝者で当時第一流の文化人でもある大王にしてみれば、これは当然のことだ。
原文: 老博士は即日そくじつ謹慎きんしんを命ぜられた。
老博士は即日謹慎を命じられた。
原文: 大王の幼時からの師傅しふたるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥かわはぎに処せられたであろう。
大王が幼い頃からの師匠であるナブ・アヘ・エリバでなかったら、おそらく生きたまま皮を剥がれる刑に処されただろう。
原文: 思わぬご不興に愕然がくぜんとした博士は、直ちに、これが奸譎かんけつな文字の霊の復讐ふくしゅうであることを悟さとった。
思わぬご不興に愕然とした博士は、すぐに、これがずる賢い文字の霊の復讐であることを悟った。
原文: しかし、まだこれだけではなかった。
しかし、まだこれだけではなかった。
原文: 数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲おそった大地震だいじしんの時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。
数日後、ニネヴェ・アルベラ地方を襲った大地震のとき、博士はたまたま自宅の書庫の中にいた。
原文: 彼の家は古かったので、壁かべが崩くずれ書架しょかが倒たおれた。
彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。
原文: 夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄すさまじい呪のろいの声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙むざんにも圧死した。
夥しい書物が――数百枚の重い粘土板が、文字たちの凄まじい呪いの声と共にこの文字の悪口を言った者の上に落ちかかり、彼は無残にも下敷きになって死んだ。
原文: (昭和十七年二月)
(昭和十七年二月)