文字禍 小学生向け
中島敦(なかじまあつし)・1992年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
文字の霊(れい)なんてものが、はたして本当にあるのだろうか。
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文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
アッシリヤ人は、数えきれないほどたくさんの精霊(せいれい)を知っている。
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アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。
夜、暗闇の中を飛び回るリル、その女のリリツ、病気をまき散らすナムタル、死んだ人の霊エティンム、人をさらうラバスなど、数知れない悪霊たちがアッシリヤの空に満ちあふれている。
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夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。
しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。
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しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。
そのころ――アシュル・バニ・アパル大王が国を治めて二十年目のころのことだが――ニネヴェの宮廷(きゅうてい・王様のお城)に、不思議なうわさが流れていた。
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その頃――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷に妙な噂があった。
毎晩、図書館の暗闇の中から、ひそひそと怪しい話し声がするというのだ。
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毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという。
王の兄シャマシュ・シュム・ウキンの反乱がバビロンの落城でようやく収まったばかりだったので、また何か悪者の陰謀(いんぼう)ではないかと調べてみたが、それらしい様子はなかった。
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王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛がバビロンの落城でようやく鎮まったばかりのこととて、何かまた、不逞の徒の陰謀ではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。
どう考えても、何かの精霊たちの話し声に違いない。
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どうしても何かの精霊どもの話し声に違いない。
最近、王の前で処刑されたバビロンの捕虜(ほりょ)たちの死霊の声だろうという者もいたが、それが違うことは誰でもわかる。
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最近に王の前で処刑されたバビロンからの俘囚共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にも判る。
千人を超えるバビロンの捕虜はみな舌(した)を抜かれて殺され、その舌を集めたら小さな丘ができたほどだったことは、誰もが知っている事実だ。
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千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜いて殺され、その舌を集めたところ、小さな築山が出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。
舌のない死霊が、しゃべれるはずがない。
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舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。
星占い(ほしうらない)や羊の肝臓(かんぞう)を使った占いで空しく調べた後、これはどうしても書物か文字たちの話し声と考えるしかなくなった。
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星占や羊肝卜で空しく探索した後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。
ただ、文字の霊(というものがあるとして)とはどんな性質のものなのか、まったくわからない。
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ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目判らない。
アシュル・バニ・アパル大王は、大きな目と縮れた白髪の老博士(ろうはかせ)ナブ・アヘ・エリバを呼んで、この知られていない精霊についての研究を命じた。
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アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。
その日から、ナブ・アヘ・エリバ博士は、毎日、問題の図書館(その図書館は、その後二百年で地下に埋まり、さらに二千三百年後に偶然掘り出される運命を持つのだが)に通って、膨大な数の書物を読みながら研究に打ち込んだ。
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その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没し、更に二千三百年にして偶然発掘される運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。
メソポタミヤ(チグリス川とユーフラテス川の間の地方)では、エジプトと違ってパピルス(紙の代わりに使う植物)が育たない。
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両河地方では埃及と違って紙草を産しない。
人々は、粘土(ねんど)の板に硬い筆(ふで)で複雑なくさび形の記号を彫りつけていた。
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人々は、粘土の板に硬筆をもって複雑な楔形の符号を彫りつけておった。
書物は瓦(かわら)でできており、図書館は陶器(とうき)屋の倉庫に似ていた。
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書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。
老博士の机(その脚には、本物のライオンの足が、爪(つめ)さえそのままに使われている)の上には、毎日、重い瓦の山が高く積み上げられた。
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老博士の卓子(その脚には、本物の獅子の足が、爪さえそのままに使われている)の上には、毎日、累々たる瓦の山がうずたかく積まれた。
その重くて古い知識の中から、彼は文字の霊についての説明を見つけようとしたが、むだだった。
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それら重量ある古知識の中から、彼は、文字の霊についての説を見出そうとしたが、無駄であった。
文字はボルシッパというところにある知恵の神ナブウが支配するものだということ以外、何も書かれていなかった。
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文字はボルシッパなるナブウの神の司りたもう所とより外には何事も記されていないのである。
文字に霊があるかどうかを、彼は自分の力で解決しなければならない。
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文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。
博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前に、一日中それとにらめっこして過ごした。
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博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨めっこをして過した。
占い師は羊の肝臓をじっと見つめることで、すべての出来事を直接感じ取る。
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卜者は羊の肝臓を凝視することによってすべての事象を直観する。
彼もこれにならって、じっと見つめ静かに観察することで、真実を見つけようとした。
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彼もこれに倣って凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。
そのうちに、おかしなことが起きた。
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その中に、おかしな事が起った。
一つの文字を長く見つめているうちに、いつの間にかその文字がばらばらになって、意味のない線が交わっているだけにしか見えなくなってくる。
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一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。
ただの線の集まりが、なぜそういう音とそういう意味を持てるのか、どうしてもわからなくなってくる。
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単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。
老学者のナブ・アヘ・エリバは、生まれて初めてこの不思議な事実を発見して、驚いた。
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老儒ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚いた。
これまで七十年間、当たり前だと思って見過ごしてきたことが、決して当たり前でも必然でもなかった。
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今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。
彼は目から鱗(うろこ)が落ちたような気がした。
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彼は眼から鱗の落ちた思がした。
ただのバラバラの線に、一定の音と一定の意味を持たせるものは、いったい何なのか?
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単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?
ここまで考えが至ったとき、老博士は迷わず、文字の霊の存在を認めた。
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ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。
魂(たましい)によってまとめられていない手・脚・頭・爪・腹などが人間でないように、一つの霊がまとめているのでなければ、どうしてただの線の集まりが音と意味を持てるだろうか。
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魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
この発見を手始めに、今まで知られていなかった文字の霊の性質が、少しずつわかってきた。
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この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。
文字の精霊の数は、世の中にある物事の数ほど多く、文字の精はネズミのように子を産んで増える。
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文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。
ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街を歩き回って、最近文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一人一人に尋ねた。
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ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。
文字を知る前と比べて、何か変わったことはないかと。
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文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。
これによって、文字の霊が人間に与える影響を明らかにしようというのだ。
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これによって文字の霊の人間に対する作用を明らかにしようというのである。
こうして、おかしな統計(とうけい・調べてまとめた数字)ができあがった。
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さて、こうして、おかしな統計が出来上った。
それによると、文字を覚えてからシラミをとるのが急に下手になった者、目にほこりがたくさん入るようになった者、これまでよく見えていた空のワシの姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど青くなくなったという者などが、圧倒的に多い。
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それによれば、文字を覚えてから急に蝨を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に多い。
「文字の精が人間の目を食い荒らすことは、まるでウジ虫がクルミの固い殻を穿(うが)って中の実を巧みに食いつくすようなものだ」
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「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰イアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ、中ノ実ヲ巧ニ喰イツクスガ如シ」
と、ナブ・アヘ・エリバは新しい粘土の備忘録(おぼえがき)に記した。
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と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌した。
文字を覚えてから咳(せき)が出始めた者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、お腹をこわすようになった者なども、かなりの数にのぼる。
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文字を覚えて以来、咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者なども、かなりの数に上る。
「文字の精は人間の鼻・のど・腹なども犯すもののようだ」
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「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」
と、老博士はまた記した。
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と、老博士はまた誌した。
文字を覚えてから、急に頭の毛が薄くなった者もいる。
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文字を覚えてから、にわかに頭髪の薄くなった者もいる。
脚が弱くなった者、手足が震えるようになった者、顎(あご)がはずれやすくなった者もいる。
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脚の弱くなった者、手足の顫えるようになった者、顎がはずれ易くなった者もいる。
しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かなければならなかった。
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しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。
「文字の害は、人間の頭(あたま)を犯し、精神(こころ)を動けなくするに至って、最悪となる。」
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「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ痲痺セシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」
文字を覚える前と比べて、職人(しょくにん)は腕が鈍くなり、戦士は臆病(おくびょう)になり、猟師(りょうし)はライオンを射(い)損なうことが多くなった。
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文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。
これは統計が明らかに示すことである。
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これは統計の明らかに示す所である。
文字に親しむようになってから、女性を抱いても少しも楽しくなくなったという訴えもあった。
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文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。
もっとも、こう言い出したのは七十歳を超えた老人だから、これは文字のせいではないかもしれない。
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もっとも、こう言出したのは、七十歳を越した老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。
ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。
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ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。
エジプト人は、ある物の影(かげ)を、その物の魂の一部と見ているようだが、文字は、その影のようなものではないだろうか。
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埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
「ライオン」という字は、本物のライオンの影ではないだろうか。
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獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。
だから、「ライオン」という字を覚えた猟師は、本物のライオンの代わりにライオンの影をねらい、「女」という字を覚えた男は、本物の女性の代わりに女性の影を抱くようになるのではないか。
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それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。
文字のなかった昔、ピル・ナピシュチムの大洪水(だいこうずい)の前には、喜びも知恵もみんな直接に人間の中に入ってきた。
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文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。
今は、文字というベール(薄い幕)をかぶった喜びの影と知恵の影しか、私たちは知らない。
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今は、文字の薄被をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。
近ごろ人々は物覚えが悪くなった。
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近頃人々は物憶えが悪くなった。
これも文字の精のいたずらである。
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これも文字の精の悪戯である。
人々は、もはや、書き留めておかなければ、何一つ覚えることができない。
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人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。
着物を着るようになって、人間の皮膚(ひふ)が弱く醜(みにく)くなった。
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着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。
乗り物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。
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乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。
文字が広まって、人々の頭はもはや働かなくなったのだ。
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文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
ナブ・アヘ・エリバは、ある書物(しょもつ)狂いの老人を知っている。
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ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂の老人を知っている。
その老人は、博学(はくがく・物知り)なナブ・アヘ・エリバよりもさらに物知りだ。
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その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。
彼は、シュメール語やアラム語だけでなく、パピルスや羊の皮に書かれたエジプト文字まですらすらと読む。
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彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草や羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。
文字として残っている古代のことで、彼の知らないことはない。
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およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。
彼はツクルチ・ニニブ一世王が国を治めた何年目の何月何日の天気まで知っている。
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彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。
しかし、今日の天気が晴れか曇りか、気がつかない。
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しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。
彼は、少女サビツがギルガメシュ(古代の英雄)を慰めた言葉まで暗記している。
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彼は、少女サビツがギルガメシュを慰めた言葉をも諳んじている。
しかし、息子をなくした隣人(となりの人)を何と言って慰めてよいか、知らない。
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しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。
彼は、アダッド・ニラリ王の后(きさき)、サンムラマットがどんな衣装(いしょう)を好んだかも知っている。
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彼は、アダッド・ニラリ王の后、サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。
しかし、彼自身が今どんな服を着ているか、まるで気がついていない。
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しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。
なんと彼は文字と書物とを愛したことだろう!
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何と彼は文字と書物とを愛したであろう!
読み、暗唱し、なでるだけでは物足りず、愛するあまりに、彼はギルガメシュ伝説の最も古い版(ばん)の粘土板をかみ砕いて水に溶かして飲んでしまったことがある。
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読み、諳んじ、愛撫するだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕き、水に溶かして飲んでしまったことがある。
文字の精は彼の目を容赦なく食い荒らし、彼はひどい近視(きんし・近くしか見えない)だ。
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文字の精は彼の眼を容赦なく喰い荒し、彼は、ひどい近眼である。
あまりにも目を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼のワシのような鼻の先は、粘土板と擦(す)れ合って固いたこができている。
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余り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲形の鼻の先は、粘土板と擦れ合って固い胼胝が出来ている。
文字の精は、また、彼の背骨(せぼね)もむしばみ、彼はお腹に顎(あご)がくっつきそうなほどひどいせむし(背中が大きく曲がった状態)だ。
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文字の精は、また、彼の脊骨をも蝕み、彼は、臍に顎のくっつきそうな傴僂である。
しかし、彼はおそらく自分がせむしであることを知らないだろう。
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しかし、彼は、恐らく自分が傴僂であることを知らないであろう。
せむしという字なら、彼は五つの違う国の文字で書くことができるのだが。
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傴僂という字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。
ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を文字の精霊の犠牲者(ぎせいしゃ)の第一番に数えた。
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ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者の第一に数えた。
ただ、そんな惨め(みじめ)な外見にもかかわらず、この老人は、本当に――まったく羨ましいほど――いつも幸せそうに見える。
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ただ、こうした外観の惨めさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨ましいほど――いつも幸福そうに見える。
これは不思議といえば不思議だったが、ナブ・アヘ・エリバはそれも文字の霊のほれ薬のようにずる賢い魔力のせいだと見なした。
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これが不審といえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬のごとき奸猾な魔力のせいと見做した。
ちょうどそのころ、アシュル・バニ・アパル大王が病気になられた。
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たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹られた。
侍医(じい・王付きの医者)のアラッド・ナナは、この病気は軽くないと見て、大王の衣装を借り、自らそれをまとってアッシリヤ王に扮(ふん・なりきること)した。
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侍医のアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王のご衣裳を借り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に扮した。
これによって、死の女神エレシュキガルの目をあざむき、病気を大王から自分の身に移そうというのだ。
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これによって、死神エレシュキガルの眼を欺き、病を大王から己の身に転じようというのである。
この古くからの医者の習わしに対して、若者の一部には、信じない目を向ける者がいる。
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この古来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信の眼を向ける者がある。
「これは明らかにおかしい、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子どもだましの計略に騙されるはずがあるか」と、彼らは言う。
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これは明らかに不合理だ、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子供瞞しの計に欺かれるはずがあるか、と、彼等は言う。
大学者のナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて嫌な顔をした。
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碩学ナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて厭な顔をした。
若者たちのように、何事にも辻褄(つじつま・筋道)を合わせたがることの中には、何かおかしなところがある。
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青年等のごとく、何事にも辻褄を合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。
全身垢(あか)まみれの男が、一か所だけ、たとえば足の爪先だけ、やたらに美しく飾っているような、そういうおかしなところが。
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全身垢まみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾っているような、そういうおかしな所が。
彼らは、神秘の霧の中における人間の立場というものをわきまえないのだ。
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彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。
老博士は、薄っぺらな合理主義(「何事も理屈で説明できる」という考え)を一種の病と考えた。
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老博士は浅薄な合理主義を一種の病と考えた。
そして、その病を広めたものは、まちがいなく文字の精霊だ。
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そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。
ある日、若い歴史家(または宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねてきて老博士に言った。
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ある日若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。
「歴史とは何か?」
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歴史とは何ぞや?
と。
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と。
老博士があきれた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。
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老博士が呆れた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。
先ごろのバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期(さいご)について、いろいろな説がある。
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先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期について色々な説がある。
自ら火に飛び込んだことだけは確かだが、最後の一か月ほどの間、絶望のあまり言葉では言えないほど乱れた生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら身を清めてシャマシュ神に祈り続けたというものもある。
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自ら火に投じたことだけは確かだが、最後の一月ほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩の生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎してシャマシュ神に祈り続けたというものもある。
第一の妃(きさき)ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、何百人もの召使いを薪(まき)の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。
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第一の妃ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾を薪の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。
何しろ文字通り煙になってしまったことなので、どれが正しいのか見当がつかない。
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何しろ文字通り煙になったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。
近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じるだろう。
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近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じたもうであろう。
これはほんの一例だが、歴史とはこれでよいのだろうか。
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これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。
賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は次のような形に問いを変えた。
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賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。
歴史とは、昔あった出来事をいうのだろうか?
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歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか?
それとも、粘土板の文字をいうのだろうか?
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それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
ライオン狩りと、ライオン狩りの浮き彫り(壁に刻んだ絵)とを混同しているようなところが、この問いの中にある。
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獅子狩と、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。
博士はそれを感じたが、はっきり口では言えないので、次のように答えた。
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博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。
「歴史とは、昔あった出来事で、かつ粘土板に記されたものだ。
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歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。
この二つは同じことではないか。」
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この二つは同じことではないか。
「書き漏らし(書かれなかったこと)は?」
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書洩らしは?
と歴史家が聞く。
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と歴史家が聞く。
「書き漏らし?
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書洩らし?
冗談(じょうだん)ではない、書かれなかった事は、なかった事だ。
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冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。
芽の出なかった種は、結局最初からなかったのと同じだよ。
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芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。
歴史とはな、この粘土板のことだ。」
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歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
若い歴史家は情けなさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。
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若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。
それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌが記したサルゴン王のハルディア遠征(えんせい・遠くへの戦い)の記録の一枚だ。
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それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行の一枚である。
話しながら博士が吐き捨てたザクロの種が、その表面に汚らしくついている。
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話しながら博士の吐き棄てた柘榴の種子がその表面に汚らしくくっついている。
「ボルシッパの知恵の神ナブウがお使いになる文字の精霊たちの恐ろしい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らないようだな。
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ボルシッパなる明智の神ナブウの召使いたもう文字の精霊共の恐しい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。
文字の精たちが、一度ある出来事をとらえて、自分たちの姿で表すとなると、その出来事はもはや滅びない命を得るのだ。
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文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。
反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、どんなものでも、その存在を失わなければならない。
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反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。
大昔からのアヌ・エンリルの書に書き上げられていない星は、なぜ存在しないのか?
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太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか?
それは、彼らがアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからだ。
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それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。
大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒りが降るのも、月の上部に欠けが現れればフモオル人が災いを受けるのも、みな古い書物に文字として記されているからこそだ。
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大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒が降るのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が禍を蒙るのも、皆、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。
古代シュメール人が馬という動物を知らなかったのも、彼らの間に馬という字がなかったからだ。
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古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。
この文字の精霊の力ほど恐ろしいものはない。
原文を見る
この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。
「君やわしらが、文字を使って書き物をしていると思ったら大間違いだ。
原文を見る
君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。
わしらこそ、あの文字の精霊にこき使われる下僕(しもべ・召使い)だ。
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わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕じゃ。
しかし、また、彼ら精霊のもたらす害もずいぶんひどい。
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しかし、また、彼等精霊の齎す害も随分ひどい。
わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を記した文字に疑いを感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみすぎて、その霊の毒気(どっき)にあたったためだろう。」
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わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気に中ったためであろう。
若い歴史家は不思議そうな顔をして帰っていった。
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若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。
老博士は、しばらくの間、文字の霊の害毒があの有望な青年をも傷つけようとしていることを悲しんだ。
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老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為な青年をも害おうとしていることを悲しんだ。
文字に親しみすぎてかえって文字に疑いを抱くことは、決して矛盾(むじゅん・おかしなこと)ではない。
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文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑を抱くことは、決して矛盾ではない。
先日、博士は生まれつきの食欲に任せて羊のあぶり肉をほとんど一頭分も平らげたが、その後しばらく、生きた羊の顔を見るのも嫌になったことがある。
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先日博士は生来の健啖に任せて羊の炙肉をほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。
若い歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは薄くなった縮れ毛の頭を押さえて考え込んだ。
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青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮れっ毛の頭を抑えて考え込んだ。
「今日は、どうやら、わしは、あの青年に向かって、文字の霊の力を褒め称(たた)えてしまったのではないか?」
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今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力を讃美しはせなんだか?
「しまった」と彼は舌打ちをした。
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いまいましいことだ、と彼は舌打をした。
「わしまでが文字の霊にだまされているわ。」
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わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。
実際、もうずっと前から、文字の霊がある恐ろしい病を老博士にもたらしていたのだった。
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実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。
それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を何日もじっとにらみ続けたときからのことだった。
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それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮した時以来のことである。
そのとき、今まで一定の意味と音を持っていたはずの字が、突然ばらばらになって、ただの直線の集まりになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起きるようになった。
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その時、今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。
彼が一軒の家をじっと見ているうちに、その家が、彼の目と頭の中で、木材と石とレンガと漆喰(しっくい)の意味のない集まりに変わってしまう。
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彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
これがどうして人間の住む場所でなければならないのか、わからなくなる。
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これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。
人間の体を見ても、同じことが起きる。
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人間の身体を見ても、その通り。
みんな意味のない奇妙(きみょう)な形をした部分部分にバラバラにされてしまう。
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みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。
どうして、こんな形をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
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どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
目に見えるものばかりではない。
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眼に見えるものばかりではない。
人間の日常のいとなみ、すべての習慣が、同じ奇妙なバラバラ病のために、これまでの意味を全て失ってしまった。
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人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
もはや、人間の生活すべての根本(こんぽん・土台)が疑わしいものに見える。
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もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。
ナブ・アヘ・エリバ博士は気が変になりそうになってきた。
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ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。
文字の霊の研究をこれ以上続けては、最後にはその霊のために命をとられてしまうぞと思った。
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文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。
彼は怖くなって、急いで研究報告をまとめ上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に差し出した。
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彼は怖くなって、早々に研究報告を纏め上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献じた。
ただし、その中にいくつかの政治的な意見を加えたことはもちろんだ。
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但し、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。
武の国アッシリヤは、今や、見えない文字の精霊によって、すっかりむしばまれてしまった。
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武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。
しかも、これに気づいている者はほとんどいない。
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しかも、これに気付いている者はほとんど無い。
今のうちに文字への盲目的な崇拝(すうはい・むやみに敬うこと)を改めなければ、後で後悔しても遅すぎるだろう、などと。
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今にして文字への盲目的崇拝を改めずんば、後に臍を噬むとも及ばぬであろう云々。
文字の霊が、この文字を悪く言った者をただで置くはずがない。
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文字の霊が、この讒謗者をただで置く訳が無い。
ナブ・アヘ・エリバの報告は、大王のご機嫌(きげん)をひどく損なった。
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ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌を損じた。
知恵の神ナブウの熱烈な崇拝者で、当時第一流の文化人であった大王にしてみれば、これは当然のことだった。
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ナブウ神の熱烈な讃仰者で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。
老博士はその日のうちに謹慎(きんしん・家に閉じこもること)を命じられた。
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老博士は即日謹慎を命ぜられた。
大王が幼いころからの師であるナブ・アヘ・エリバでなかったら、おそらく、生きたまま皮を剥がされる刑に処せられただろう。
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大王の幼時からの師傅たるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥に処せられたであろう。
思いがけないご不興(ふきげん・怒り)に驚いた博士は、すぐに、これがずる賢い文字の霊の復讐(ふくしゅう)であることを悟った。
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思わぬご不興に愕然とした博士は、直ちに、これが奸譎な文字の霊の復讐であることを悟った。
しかし、まだこれだけではなかった。
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しかし、まだこれだけではなかった。
数日後、ニネヴェ・アルベラの地方を大地震が襲ったとき、博士はたまたま自分の家の書庫の中にいた。
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数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。
彼の家は古かったので、壁が崩れ書棚(しょだな)が倒れた。
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彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。
夥しい(おびただしい)数の書物が――数百枚の重い粘土板が、文字たちのすさまじい呪い(のろい)の声とともにこの文字を批判した者の上に降りかかり、彼はあわれにも押しつぶされて死んだ。
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夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した。
(昭和十七年二月)
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(昭和十七年二月)