野菊の墓 小学生向け
伊藤左千夫(いとうさちお)・1969年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
「後(のち)の月」(旧暦九月十三日の月見の夜)という季節になると、どうしても思い出さずにはいられない。
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後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。
子どもの頃のことだからだと思うが、どうしても忘れることができない。
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幼い訣とは思うが何分にも忘れることが出来ない。
もう十年あまりも前の昔のことだから、細かいことはあまり覚えていないけれど、気持ちだけは今でも昨日のことのようだ。あの時のことを考えると、すっかりその時の気持ちにもどって、涙がとめどなくあふれてくるのだ。
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もはや十年余も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。
悲しくもあり楽しくもあるような気持ちで、忘れようと思うこともないわけではないが、それよりも何度も何度も思い出しては、夢のような不思議な気持ちを楽しんでいることが多い。
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悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪って居る事が多い。
そんなわけで、ちょっと文章に書いておこうという気になったのである。
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そんな訣から一寸物に書いて置こうかという気になったのである。
僕の家は、松戸(まつど)から二里(にり・約八キロ)ほど下って、矢切(やぎり)の渡し場を東へ渡り、小高い丘の上にある、同じく矢切村(やぎりむら)というところだ。
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僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。
「矢切の斎藤(さいとう)」といえば、この辺りでは古くからの家柄で、里見(さとみ)家がほろびたときに落ちのびてきた二、三人が百姓になった、その中の一人が斎藤と名乗ったのだと、祖父から聞いている。
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矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。
屋敷の西側には、幹の太さが一丈五、六尺(いちじょうごろくしゃく・約五メートル)もある椎(しい)の木が、四、五本重なり合うように立っている。
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屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎の樹が四五本重なり合って立って居る。
村で一番の忌森(いもり・神様をまつる大切な森)で、村じゅうからうらやましがられている。
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村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられて居る。
昔からどんなに激しい嵐が吹いても、この椎の森のおかげで、僕の家だけは屋根がはがれたことがただの一度もない、という話だ。
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昔から何ほど暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。
家もずいぶん古くて、柱はすべて椎の木でできている。
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家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。
それがまた煤(すす)やあかで何の木かも見分けがつかないほどで、奥の間の一番煙から遠いところでも、天井の板はまるで油や炭で塗ったように、木目(もくめ)もわからないほど黒い。
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それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目も判らぬほど黒い。
それでも建て方は割合に立派で、簡単な欄間(らんま・天井近くの飾り窓)もあり、銅(どう)の釘隠(くぎかくし・釘の頭をかくす飾り)なども付けてある。
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それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠なども打ってある。
その釘隠は、ばかに大きな雁(がん・水鳥の一種)の形をしていた。
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その釘隠が馬鹿に大きい雁であった。
もちろん、ちょっと見ただけでは木なのか金属なのかもわからないほど、古びている。
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勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。
僕の母なども、先祖から伝わる話だからといって、この戦国時代の名残のような古い家を、たいそう自慢にしていた。
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僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。
その頃、母は血の道(ちのみち・女の人の血のめぐりからくる病気)で長い間病気にかかっていて、黒くすすけた奥の一間が、いつも母の病床(びょうしょう・病人が寝る場所)になっていた。
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その頃母は血の道で久しく煩って居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥となって居た。
その隣の十畳の部屋の南のすみに、二畳の小さな座敷がある。
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その次の十畳の間の南隅に、二畳の小座敷がある。
僕がいない時は機織り場(はたおりば・布を織る場所)で、僕がいる間は僕の読書部屋にしていた。
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僕が居ない時は機織場で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。
手摺窓(てすりまど・手すりのついた窓)の障子(しょうじ)を開けて頭を出すと、椎の枝が青空をさえぎって、北の方をおおっている。
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手摺窓の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮って北を掩うている。
母が長い間病気でぶらぶらしていたので、市川(いちかわ)の親類で、僕には血のつながった従妹(いとこ)にあたる、民子という女の子が、仕事の手伝いや母の看病のために来ていた。
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母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。
僕が今でも忘れることができないというのは、その民子と僕との関係のことである。
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僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。
その関係といっても、僕は民子といやしい関係を持ったわけではない。
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その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月まで数えると十三歳何か月というころ、民子は十七だったが、それも生まれた月が遅いので、実際は十五と少しにしかならなかった。
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僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩いから、十五と少しにしかならない。
やせ気味だったけれど、顔は丸い方で、すきとおるほど白い肌に赤みがさした、とても色つやのよい女の子だった。
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痩せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味をおんだ、誠に光沢の好い児であった。
いつも生き生きとして元気がよく、それでいて気は弱く、にくらしいところが少しもない子だった。
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いつでも活々として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。
もちろん僕とは大の仲よしで、座敷を掃くといっては僕のところをのぞきにきたり、障子をはたくといっては僕の部屋に入ってきたりした。「私も本が読みたい」「手習い(てならい・字の練習)がしたい」などと言い、たまにはハタキの柄で僕の背中をつついたり、僕の耳をつまんだりして逃げていった。
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勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。
僕も民子の姿を見ると「来い、来い」と呼んで、二人で遊ぶのが何より楽しかった。
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僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。
いつも母から叱られた。
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母からいつでも叱られる。
「また民(たみ)やは政(まさ)のところに入っているな。こら、さっさと掃除をすませてしまえ。これからは政の読書のじゃまなどしてはいけません。民やは年上のくせに……」
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「また民やは政の所へ這入ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
などとしきりに小言を言うけれど、実は母も民子のことをとてもかわいがっていたので、まったく小言の効き目がなかった。
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などと頻りに小言を云うけれど、その実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。
「私にも少し手習いをさせて……」などと、民子は時々わがままを言った。
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私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。
そういう時の母の小言も決まっていた。
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そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習いより裁縫(さいほう・針仕事)です。着物がちゃんと縫えなくては、一人前の女としてお嫁に行けません」
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「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前として嫁にゆかれません」
この頃の僕に、少しもよこしまな気持ちがなかったのはもちろんだが、民子の方にも、いやな考えなどは少しもなかったに違いない。
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この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。
しかし、母がよく小言を言うにもかかわらず、民子はやはり「朝ごはんだ」「昼ごはんだ」と言っては僕を呼びにきた。
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しかし母がよく小言を云うにも拘らず、民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。
呼びにくるたびに、急いで部屋に入ってきて、「本を見せて」「筆を貸して」などと言っては、しばらく遊んでいった。
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呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。
その合間にも、母の薬を持ってきた帰りや、母の用事をすませた帰りには、きっと僕のところへ入ってきた。
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その間にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達した帰りには、きっと僕の所へ這入ってくる。
僕も、民子がのぞきに来ない日は、何となくさびしく物足りなく感じた。
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僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われた。
「今日は民さんは何をしているかな」と思い出すと、ふらふらっと書斎(しょさい・書物を読む部屋)を出るのだった。
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今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。
民子に会いに行くというほどの気持ちではないが、ちょっと民子の姿が目に入ると、気持ちが落ち着くのだった。
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民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。
「なんだ、やっぱり民子に会いに来たんじゃないか」と、自分で自分をからかうようなことが、たびたびあった。
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何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲った様なことがしばしばあったのである。
村のある家に瞽女(ごぜ・三味線を弾いて歌って回る目の不自由な女の人)が泊まったから聴きに行かないか、祭文(さいもん・語り物の芸)が来たから聴きに行こう、と近所の女の人たちが誘っても、民子は何かと理由をつけて断り、決して家を出なかった。
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村の或家さ瞽女がとまったから聴きにゆかないか、祭文がきたから聴きに行こうのと近所の女共が誘うても、民子は何とか断りを云うて決して家を出ない。
隣村のお祭りで花火や飾り物があるというので、いつもの向かいのお浜や隣のお仙たちが大騒ぎして見に行くというときも、家の者たちまで「民さんも一緒に行って見てきたら」と言うのに、民子は母の病気を理由にして行かなかった。
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隣村の祭で花火や飾物があるからとの事で、例の向うのお浜や隣のお仙等が大騒ぎして見にゆくというに、内のものらまで民さんも一所に行って見てきたらと云うても、民子は母の病気を言い前にして行かない。
僕も、あまりそういう所へ出かけるのは好きではなかったので、家にいた。
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僕も余りそんな所へ出るは嫌であったから家に居る。
民子はこそこそと僕のところへ入ってきて、小声で「私は家にいるのが一番楽しいわ」と言って、にっこり笑った。
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民子は狐鼠狐鼠と僕の所へ這入ってきて、小声で、私は内に居るのが一番面白いわと云ってニッコリ笑う。
僕もなんとなく、民子をそういう所へ行かせたくなかった。
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僕も何となし民子をばそんな所へやりたくなかった。
僕は三日おき四日おきに、母の薬を取りに松戸へ行った。
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僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。
どうかすると帰りが遅くなることがあった。
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どうかすると帰りが晩くなる。
民子は三度も四度も裏坂の上まで出て、渡し場の方を見ていたそうで、いつも家じゅうの人にからかわれていた。
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民子は三度も四度も裏坂の上まで出て渡しの方を見ていたそうで、いつでも家中のものに冷かされる。
民子はまじめな顔になって、「お母さんが心配して、見てきなさい見てきなさいと言うから」と言い訳をした。
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民子は真面目になって、お母さんが心配して、見てお出で見てお出でというからだと云い訣をする。
家の者はみんな、ひそひそ笑っているという話だった。
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家の者は皆ひそひそ笑っているとの話であった。
そういうわけだから、作女(さくおんな・農作業を手伝う女の人)のお増などは、やたらと民子を憎らしがって、何かというと、
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そういう次第だから、作おんなのお増などは、無上と民子を小面憎がって、何かというと、
「民子さんは政夫さんのところへばかり行きたがる。ひまさえあれば政夫さんにくっついている」
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「民子さんは政夫さんとこへ許り行きたがる、隙さえあれば政夫さんにこびりついている」
などとしきりに言いふらしていたらしく、隣のお仙や向かいのお浜たちまで、あれこれうわさをした。
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などと頻りに云いはやしたらしく、隣のお仙や向うのお浜等までかれこれ噂をする。
これを聞いてか、嫂(あによめ・兄の妻)が母に注意したらしく、ある日母はいつになくむずかしい顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ、何か意味ありげな小言を言った。
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これを聞いてか嫂が母に注意したらしく、或日母は常になくむずかしい顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ意味有り気な小言を云うた。
「男も女も十五、六になれば、もう子供ではありません。お前たち二人があまり仲がよすぎると、人がとやかく言うそうです。気をつけなくてはいけません。民子が年上のくせによくない。これからはもう決して政のところなどへ行ってはなりません。うちの子だから大目に見るわけではないが、政はまだ子供です。民やはもう十七ではないか。つまらないうわさをされると、お前の体にきずがつきます。政夫だって気をつけなさい……。来月から千葉の中学校へ行くのではないか」
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「男も女も十五六になればもはや児供ではない。お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人がかれこれ云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によくない。これからはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。吾子を許すではないが政は未だ児供だ。民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされるとお前の体に疵がつく。政夫だって気をつけろ……。来月から千葉の中学へ行くんじゃないか」
民子は、自分が年上であるうえに、何か意味があって僕のところへ行くのだろうと思われたのだと気づいたのか、たいそう恥ずかしがった様子で、顔を真っ赤にしてうつむいていた。
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民子は年が多いし且は意味あって僕の所へゆくであろうと思われたと気がついたか、非常に愧じ入った様子に、顔真赤にして俯向いている。
いつもなら母に少しくらい小言を言われても、ずいぶんわがままを言うのだけれど、この日はただ両手をついてうつむいたきり、一言も言わなかった。
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常は母に少し位小言云われても随分だだをいうのだけれど、この日はただ両手をついて俯向いたきり一言もいわない。
何もやましいところのない僕は、たいそう不満で、
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何の疚しい所のない僕は頗る不平で、
「お母さん、それはあんまりです。人が何と言おうと、私たちには何のわけもないのに、まるで何か大変悪いことでもしたようなお小言じゃありませんか。お母さんだっていつもそう言っていたじゃありませんか。『民子とお前とは兄弟も同じだ。お母さんの目からはお前も民子も少しも分けへだてはない。仲よくしなさいよ』といつも言っていたじゃありませんか」
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「お母さん、そりゃ余り御無理です。人が何と云ったって、私等は何の訣もないのに、何か大変悪いことでもした様なお小言じゃありませんか。お母さんだっていつもそう云ってたじゃありませんか。民子とお前とは兄弟も同じだ、お母さんの眼からはお前も民子も少しも隔てはない、仲よくしろよといつでも云ったじゃありませんか」
母の心配にももっともなところはあるが、僕たちもそんないやなことを言われるとは少しも思っていなかったので、僕の不満にもいくらかの理屈はあった。
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母の心配も道理のあることだが、僕等もそんないやらしいことを云われようとは少しも思って居なかったから、僕の不平もいくらかの理はある。
母は急にやさしくなって、
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母は俄にやさしくなって、
「お前たちに何のわけもないことは、お母さんも知っていますよ。でも人のうわさがうるさいから、これから少し気をつけてと言っているのです」
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「お前達に何の訣もないことはお母さんも知ってるがネ、人の口がうるさいから、ただこれから少し気をつけてと云うのです」
青ざめた母の顔にも、いつのまにか僕たちを心からかわいがる笑みがうかんでいた。
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色青ざめた母の顔にもいつしか僕等を真から可愛がる笑みが湛えて居る。
やがて、
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やがて、
「民やはまたあとで薬を持ってきて、それから縫いかけの袷(あわせ・裏地のついた着物)を今日中に仕上げてしまいなさい……。政は立ったついでに花を切って仏壇へお供えしてください。菊はまだ咲かないか、それなら紫苑(しおん・秋に咲く紫色の花)でも切ってくれよ」
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「民やはあのまた薬を持ってきて、それから縫掛けの袷を今日中に仕上げてしまいなさい……。政は立った次手に花を剪って仏壇へ捧げて下さい。菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑でも切ってくれよ」
本人たちには何の気もないのに、人があれこれ言うせいで、かえって無邪気でいられなくしてしまう。
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本人達は何の気なしであるのに、人がかれこれ云うのでかえって無邪気でいられない様にしてしまう。
僕は母の小言も、一日しか覚えていなかった。
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僕は母の小言も一日しか覚えていない。
二、三日たって、「民さんはなぜこの頃来ないのだろう」と思ったくらいだったが、民子の方では、それからというもの、様子がすっかり変わってしまった。
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二三日たって民さんはなぜ近頃は来ないのか知らんと思った位であったけれど、民子の方では、それからというものは様子がからっと変ってしもうた。
民子はその後、僕のところへは一切顔を出さないばかりでなく、座敷の中で出会っても、人のいる前などではめったに口をきかなかった。
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民子はその後僕の所へは一切顔出ししないばかりでなく、座敷の内で行逢っても、人のいる前などでは容易に物も云わない。
何となく気まずそうに、まぶしそうな様子で、急いで通り過ぎてしまう。
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何となく極りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。
どうしても話さなければならない時も、今までのような遠慮のない親しい様子はなく、やけにていねいに、あらたまった口のきき方をするのだった。
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拠処なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。
時には僕があまりに急にあらたまったのをおかしがって笑うと、民子もとうとう袖で笑いを隠して逃げてしまうというふうで、とにかく一枚のかきねが二人の間にできてしまったような感じになった。
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時には僕が余り俄に改まったのを可笑しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げてしまうという風で、とにかく一重の垣が二人の間に結ばれた様な気合になった。
それでも、ある日の四時過ぎに、母の言いつけで僕が裏の茄子畑(なすばたけ)で茄子をもいでいると、いつのまにか民子がざるを手に持って、僕の後ろに来ていた。
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それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑に茄子をもいで居ると、いつのまにか民子が笊を手に持って、僕の後にきていた。
「政夫さん……」
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「政夫さん……」
出し抜けに呼んで、笑っている。
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出し抜けに呼んで笑っている。
「私もお母さんから言いつかって来たのよ。『今日の縫い物は肩が凝っただろう、少し休みながら茄子をもいできてくれ。明日麹漬け(こうじづけ・こうじで漬けた漬物)をつけるから』って、お母さんがそう言うから、私飛んできました」
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「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝ったろう、少し休みながら茄子をもいできてくれ。明日麹漬をつけるからって、お母さんがそう云うから、私飛んできました」
民子はとても嬉しそうに元気いっぱいで、僕が、
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民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、
「それでは、僕が先に来ているのを、民さんは知らずに来たの」
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「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」
そう言うと、民子は
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と云うと民子は、
「知らなかったのよ」
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「知らなくてサ」
にこにこしながら、また茄子をもぎ始めた。
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にこにこしながら茄子を採り始める。
茄子畑は、椎の森の下からひとえの藪(やぶ)を通り抜けた先にある、家から北西に当たる裏の前栽畑(せんざいばたけ・庭先の畑)だ。
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茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑。
崖(がけ)の上になっているので、利根川(とねがわ)はもちろん、中川(なかがわ)までもかすかに見え、武蔵(むさし・今の東京や埼玉のあたり)一帯が見渡せる。
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崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。
秩父(ちちぶ)から足柄(あしがら)・箱根(はこね)の山々、富士(ふじ)の高い峰(たかね)も見える。
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秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯も見える。
東京の上野(うえの)の森だというのも、それらしく見える。
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東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。
水のように澄みきった秋の空。太陽は、地面から一間半(いっけんはん・約二・七メートル)くらいの高さまで傾いて、僕たち二人が立っている茄子畑を正面から照らしている。
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水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。
あたり一面がしんとして、それでいてくっきりとした景色だ。僕たち二人は、まるで絵の中の人物のようだった。
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あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。
「まあ、なんてきれいな景色でしょう」
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「マア何という好い景色でしょう」
民子も、しばらく手を止めて立っていた。
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民子もしばらく手をやめて立った。
ここで白状するが、この時の僕は、たしかに十日前の僕とは違っていた。
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僕はここで白状するが、この時の僕は慥に十日以前の僕ではなかった。
この時の二人は、もう無邪気な友達ではなかった。
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二人は決してこの時無邪気な友達ではなかった。
いつの間にそんな気持ちが生まれていたのか、自分でもまったくわからなかった。けれど、やはり母に叱られたころから、僕の胸の中にも、小さな恋の卵がいくつか生まれ始めていたに違いない。
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いつの間にそういう心持が起って居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸の中にも小さな恋の卵が幾個か湧きそめて居ったに違いない。
僕の気持ちがいつの間にか変わってきたのは、隠しようのない事実だった。
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僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。
この日、初めて民子を女性として意識したことこそ、僕の心に邪念(じゃねん・よこしまな気持ち)が芽生えていた何よりの証拠だ。
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この日初めて民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽ありし何よりの証拠じゃ。
民子が体を「く」の字に曲げて茄子をもいでいる、その横顔を見て、僕は今さらのように民子の美しさとかわいらしさに気づいた。
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民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。
これまでにもかわいいと思わなかったわけではないが、今日はしみじみと、その美しさが身にしみた。
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これまでにも可愛らしいと思わぬことはなかったが、今日はしみじみとその美しさが身にしみた。
しなやかでつやのある鬢(びん・耳ぎわの髪)の毛に包まれた耳たぶ、白くつやのある豊かな頬、顎(あご)の引き締まった愛らしい線、いかにも清らかな首もとの様子、藤色の半襟(はんえり・着物の襟にかける布)や、花染めのたすき、それらすべてが、上品で美しく僕の目に映った。
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しなやかに光沢のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、それらが悉く優美に眼にとまった。
そうなると恐ろしいもので、何かを言おうとしても、思い切ったことが言えなくなる。恥ずかしくなる、きまりが悪くなる。それもみな、あの恋の卵のせいなのだろう。
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そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言は云えなくなる、羞かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から起ることであろう。
このところ十日ほど、二人の間に垣根のような隔たりができて、ろくに話もしていなかった。今までなら、こんなことは考えもしなかったはずなのに、今日は、ここで何か話さなければいけないような気がした。
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ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。
僕は最初、何気なく「民さん」と呼びかけたけれど、そのあとの言葉が、すんなりとは続かなかった。
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僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無造作に詞が継がない。
おかしなことに、喉(のど)がつまって声が出ない。
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おかしく喉がつまって声が出ない。
民子は茄子を一つ手に持ったまま体を起こして、
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民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起して、
「政夫さん、なに……」
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「政夫さん、なに……」
「何でもないけど、民さんはこのごろ変だからさ。僕のことなんか、すっかり嫌いになったみたいだから」
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「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」
民子はさすがに女性(にょしょう・女の人)で、そういうことについては、僕などよりずっと敏感になっていた。
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民子はさすがに女性で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。
いかにも口惜しそう(くやしそう)な顔をして、すっと僕のそばへ寄ってきた。
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さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。
「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ、政夫さんによそよそしくしました……」
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「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」
「だって、このごろ民さんはすっかり変わっちゃって、僕になんか用はないみたいだからさ。でも、民さんに文句を言っているわけじゃないよ」
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「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」
民子は勢いこんで、
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民子はせきこんで、
「そんなことを言うなんて、政夫さんひどいわ、無理だわ。このあいだは二人を並べて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男だから平気でいられるでしょうけど、私は年も上だし女ですもの、あんなふうに言われたら、本当に面目がないじゃありませんか。だから私、一生懸命に気をつけていたんですよ。それなのに政夫さんは、私がよそよそしくなった、嫌になったんだろうって言うんだもの。私、本当につまらない……」
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「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あァ云われては実に面目がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほんとにつまらない……」
民子は泣き出しそうな顔で、僕の顔をじっと見つめている。
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民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視ている。
僕もただ話のきっかけにそう言っただけだったので、民子に泣きそうな顔をされると、かわいそうで気の毒になり、
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僕もただ話の小口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、
「僕は腹を立てて言ったんじゃないのに、民さんは怒ったの……。僕はただ、民さんが急に変わって、会っても口もきかず、遊びにも来ないから、なんだかさびしくて悲しくなっちゃったのさ。だから、これからも時々は遊びにおいでよ。お母さんに叱られたら、僕が代わりに叱られるから……。人が何と言ったっていいじゃないか」
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「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕はただ民さんが俄に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」
何と言っても子どもだけに、むちゃなことを言う。
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何というても児供だけに無茶なことをいう。
そんなむちゃなことを言われて、民子は心配やらうれしいやら、うれしいやら心配やらで、胸の中で気持ちがごちゃまぜになって争っていたが、とうとう、うれしい気持ちのほうが勝った。
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無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。
それから二言三言(ふたことみこと)話をしているうちに、民子はすっかり明るく、もとの元気な様子にもどった。
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なお三言四言話をするうちに、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。
僕ももちろん、うれしさがあふれてくる……。まるでこの世界に二人きりでいるような気持ちに、お互いになっていた。
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僕も勿論愉快が溢れる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。
やがて二人は、どちらがたくさん茄子をもげるか、競争を始めた。
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やがて二人は茄子のもぎくらをする。
大きな畑だけれど、十月も半ばを過ぎると、茄子もちらほらとしかなっていない。
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大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。
二人でようやく、二升(にしょう・約三・六リットル)ずつくらいを採ることができた。
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二人で漸く二升ばかり宛を採り得た。
「まあ民さん、ご覧なさい、夕日(いりひ)の立派なこと」
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「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」
民子はいつのまにかざるを下に置き、両手を鼻の前で合わせて太陽を拝んでいる。
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民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。
西の空は一面に、薄紫色をぼかしたような色になっていた。
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西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。
ひたすら赤く、まぶしい光を出さない太陽が、今ちょうど半分を山にうずめかけているところだった。一心に夕日を拝む民子のしおらしい姿は、いつまでも僕の目に残っている。
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ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。
二人が夢中で話をしながら帰ってくると、裏口の四つ目垣(よつめがき・竹などで四角く編んだ垣根)の外に、お増がぼんやりと立って、こちらを見ていた。
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二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。
民子は小声で、
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民子は小声で、
「お増がまた何か言いますよ」
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「お増がまた何とか云いますよ」
「二人ともお母さんに言いつけられて来たのだから、お増が何と言おうと、かまうことないさ」
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「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまやしないさ」
何か一つの出来事があるたびに、二人の胸の中に生まれた恋の卵は、少しずつ層を増していく。
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一事件を経る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層を増してくる。
ふとした折に交わす、たがいの気持ちは、そのままお互いの胸の中にある、あの恋の卵に大きな栄養を与えていく。
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機に触れて交換する双方の意志は、直に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。
今日の夕暮れは、たしかにそういう出来事だった。
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今日の日暮はたしかにその機であった。
ぞっと身震いするほど、はっきりとした変化が現れていたのだ。
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ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。
しかし何と言っても、二人の関係はまだ卵の時代で、はっきりとした形のないものだった。
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しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。
人に見られてみっともないようなこともせず、振り返ってみて、自分でやましく思うようなこともしない。
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人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なこともせぬ。
だから、まだまだのんきなもので、人前をとりつくろおうという気持ちは、ほとんどなかった。
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従ってまだまだ暢気なもので、人前を繕うと云う様な心持は極めて少なかった。
僕と民子の関係も、これくらいで終わっていたなら、十年たっても忘れられないというほどにはならなかっただろうに。
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僕と民子との関係も、この位でお終いになったならば、十年忘れられないというほどにはならなかっただろうに。
親というものはどこの親も同じで、自分の子どもをいつまでも子ども扱いしてしまうものだ。
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親というものはどこの親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うている。
僕の母も、その例外ではなかった。
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僕の母などもその一人に漏れない。
民子はその後も時々、僕の書斎(しょさい・本を読む部屋)へやってくるけれど、よほど人目を気にして、気をつかいながら来る様子で、来てもいつも少しも落ち着かなかった。
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民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。
前に僕にいやみを言われたから、仕方なく来るのかとも思ったが、それは間違いだった。
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先に僕に厭味を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。
僕たち二人の気持ちは、二、三日とは言えないほど、はっきりと変わっていった。
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僕等二人の精神状態は二三日と云われぬほど著しき変化を遂げている。
僕の変化は、いちばん激しかった。
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僕の変化は最も甚しい。
三日前には、「お母さんに叱られたら僕が代わりに叱られるから、遊びにおいでよ」と、むちゃなことまで言った僕が、今日はもう、とてもそんな気持ちではいられない。
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三日前には、お母さんが叱れば私が科を背負うから遊びにきてとまで無茶を云うた僕が、今日はとてもそんな訣のものでない。
民子が少し長居をすると、もう気が咎めて(とがめて)、心配でならなくなった。
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民子が少し長居をすると、もう気が咎めて心配でならなくなった。
「民さん、また来てね。あんまり長くいると、人につまらないことを言われるから」
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「民さん、またお出よ、余り長く居ると人がつまらぬことを云うから」
民子も気持ちは同じだけれど、僕に「もう帰って」と言われると、なぜかすねてしまう。
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民子も心持は同じだけれど、僕にもう行けと云われると妙にすねだす。
「あら、あなたはこの間、何と言いましたか。人が何と言おうといいから遊びにおいでって、言ったじゃありませんか。私はもう、人に笑われてもかまいませんもの」
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「あレあなたは先日何と云いました。人が何と云ったッてよいから遊びに来いと云いはしませんか。私はもう人に笑われてもかまいませんの」
困ったことになった。
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困った事になった。
二人の関係が近くなるほど、人の目が怖くなってくる。
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二人の関係が密接するほど、人目を恐れてくる。
人の目を恐れるようになると、もうまるで悪いことをしているかのように、心までおどおどしてしまうのだった。
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人目を恐れる様になっては、もはや罪悪を犯しつつあるかの如く、心もおどおどするのであった。
母は口では、男も女も十五、六になれば子どもではないと言うけれど、それは理屈の上でのことで、気持ちの上では、まだまだ二人をまるで子どものように思っていた。だから、その後民子が僕の部屋へ来て本を見たり話をしたりしているのを、すぐそばを通りながらも、まったく気にする様子もなかった。
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母は口でこそ、男も女も十五六になれば児供ではないと云っても、それは理窟の上のことで、心持ではまだまだ二人をまるで児供の様に思っているから、その後民子が僕の室へきて本を見たり話をしたりしているのを、直ぐ前を通りながら一向気に留める様子もない。
このあいだの小言も、実は嫂(あによめ・兄の妻)が言うから出たまでのことで、本当に心の底から出た小言ではなかった。
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この間の小言も実は嫂が言うから出たまでで、ほんとうに腹から出た小言ではない。
母のほうはそうだったけれど、兄や嫂やお増などは、さかんに陰口を言って笑っていたらしい。村じゅうのうわさでは、「二つも年上の娘を嫁にする気かしら」などと、もっぱら言われているという話だった。
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母の方はそうであったけれど、兄や嫂やお増などは、盛に蔭言をいうて笑っていたらしく、村中の評判には、二つも年の多いのを嫁にする気かしらんなどと専いうているとの話。
そういったことが、うすうす二人にも知れてきたので、僕のほうから言いだして、しばらくの間、二人は距離を置く相談をした。
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それやこれやのことが薄々二人に知れたので、僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。
人間の気持ちというものは、不思議なものだ。
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人間の心持というものは不思議なもの。
二人が少しもわだかまりなく、納得ずくで決めた相談だったのに、僕のほうから言いだしたばかりに、民子は妙にふさぎ込んでしまい、まるで元気がなくなって、しょんぼり(悄然・しょうぜん)としてしまうのだった。
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二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙に鬱ぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然としているのである。
それを見ると、僕もまたたまらなく気の毒になった。
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それを見ると僕もまたたまらなく気の毒になる。
気持ちが進んだり戻ったりするうちに、こんなふうにもつれて、危うくなっていくのだった。
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感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危くなるのである。
とにかく二人は、表面だけはきちんと距離を置いて、四、五日を過ごした。
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とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。
陰暦(旧暦)の九月十三日、今夜が「豆の月」と呼ばれる月見の夜だという日の朝は、露霜(つゆじも)が降りたかと思うほど冷たかった。
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陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。
その代わり、天気はきらきらと晴れわたっていた。
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その代り天気はきらきらしている。
十五日がこの村のお祭りで、明日はその前夜祭(宵祭・よいまつり)だというので、畑の仕事も今日じゅうに一通り片づけておかなければならない。それで家じゅうで手分けをして、野に出ることになった。
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十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故、野の仕事も今日一渡り極りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることになった。
それで、まるで甘い恵みのような命令が、僕たち二人に下ったのだった。
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それで甘露的恩命が僕等両人に下ったのである。
兄夫婦とお増と、もう一人の男の人は、中稲(なかて・稲の品種の一つ)の刈り残しを、どうしても刈り終えなければならない。
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兄夫婦とお増と外に男一人とは中稲の刈残りを是非刈って終わねばならぬ。
民子は僕を手伝いにして、山畑の棉(わた)を採ってくることになった。
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民子は僕を手伝いとして山畑の棉を採ってくることになった。
これはもともと母の指図なので、誰も文句は言えない。
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これはもとより母の指図で誰にも異議は云えない。
「まあ、あの二人を山の畑へやるなんて、親というものはよっぽどおめでたいものね」
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「マアあの二人を山の畑へ遣るッて、親というものよッぽどお目出たいものだ」
裏表のないお増と、意地悪な嫂(あによめ)は、きっと口をそろえてそう言ったに違いない。
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奥底のないお増と意地曲りの嫂とは口を揃えてそう云ったに違いない。
僕たち二人は、もちろん心の底ではうれしいに違いなかったが、こういう場合、二人で山畑へ行くとなると、人に見られているような気がして、とてもきまりが悪かった。
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僕等二人はもとより心の底では嬉しいに相違ないけれど、この場合二人で山畑へゆくとなっては、人に顔を見られる様な気がして大いに極りが悪い。
義理にも、進んで行きたがるようなそぶりは見せられない。
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義理にも進んで行きたがる様な素振りは出来ない。
僕は朝ご飯の前は、書斎から出ない。
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僕は朝飯前は書室を出ない。
民子も、なんだかぐずぐずして、支度もしていない様子だった。
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民子も何か愚図愚図して支度もせぬ様子。
「もう、うれしがって」と言われるのが、くやしかったのだ。
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もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。
母は起きてきて、
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母は起きてきて、
「政夫も支度をしなさい。民やもさっさと支度して早く行きなさい。二人で行けば、一日でできる楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になってしまう。なるべく日が暮れないうちに帰ってくるようにね。お増は二人のお弁当を作ってやっておくれ。おかずはこれこれの物で……」
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「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になる。なるたけ日の暮れない内に帰ってくる様によ。お増は二人の弁当を拵えてやってくれ。お菜はこれこれの物で……」
まことに、親の心というものだ。
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まことに親のこころだ。
民子に弁当を作らせては、自分の分だからと、おかずなどをろくな物にせずに持っていくだろうと気がついて、母はちゃんとお増に言いつけて作らせたのだった。
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民子に弁当を拵えさせては、自分のであるから、お菜などはロクな物を持って行かないと気がついて、ちゃんとお増に命じて拵えさせたのである。
僕はズボンの下に足袋(たび)をはいた裸足に、麦わら帽子といういでたち。民子は、手指(てさし・手を守る布のカバー)と股引(ももひき)もはいていきなさいと母が言うと、手指だけはめて、股引をはくのはぐずぐずしていた。
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僕はズボン下に足袋裸足麦藁帽という出で立ち、民子は手指を佩いて股引も佩いてゆけと母が云うと、手指ばかり佩いて股引佩くのにぐずぐずしている。
民子は僕のところへ来て、股引をはかなくてもいいように、お母さんにそう言ってほしいと頼む。
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民子は僕のところへきて、股引佩かないでもよい様にお母さんにそう云ってくれと云う。
僕は、民さんが自分でそう言いなさいと言う。
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僕は民さんがそう云いなさいと云う。
そんな押し問答をしているうちに、母がそれを聞きつけて、笑いながら、
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押問答をしている内に、母はききつけて笑いながら、
「民やは町場者(まちばもの・町育ちの人)だから、股引をはくのはきまりが悪いのかい。私はね、お前のやわらかい手足に、茨(いばら)や薄(すすき)で傷をつけるのがかわいそうだから、そう言ったんだけど、いやだというなら、お前の好きにするといいさ」
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「民やは町場者だから、股引佩くのは極りが悪いかい。私はまたお前が柔かい手足へ、茨や薄で傷をつけるが可哀相だから、そう云ったんだが、いやだと云うならお前のすきにするがよいさ」
それで民子は、いつものたすきに前掛け姿、麻裏草履(あさうらぞうり・麻の裏をつけた草履)という支度になった。
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それで民子は、例の襷に前掛姿で麻裏草履という支度。
二人はそれぞれ一斗笊(いっとざる・約十八リットル入る大きなざる)を一つずつ持ち、僕はさらに、片方だけの籠(かたかご)と天秤(てんびん)を肩にかついで出かけた。
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二人が一斗笊一個宛を持ち、僕が別に番ニョ片籠と天秤とを肩にして出掛ける。
民子が後から菅笠(すげがさ)をかぶって出ると、母が笑い声で呼びかけた。
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民子が跡から菅笠を被って出ると、母が笑声で呼びかける。
「民や、お前が菅笠をかぶって歩くと、ちょうどきのこが歩いているようで、みっともないよ。編笠(あみがさ)のほうがいいだろう。新しいのが一つあったはずだよ」
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「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあった筈だ」
稲刈りの一行はもう出かけてしまって、笑う人は他にいなかったけれど、民子はあわてて菅笠を脱いで、顔を赤くしたようだった。
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稲刈連は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあわてて菅笠を脱いで、顔を赤くしたらしかった。
今度は編笠をかぶらずに手に持って、「それじゃお母さん、いってまいります」とあいさつして、走って出ていった。
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今度は編笠を被らずに手に持って、それじゃお母さんいってまいりますと挨拶して走って出た。
村の人たちも、あれこれ言っていると聞いていたので、二人そろって行くのも人前で恥ずかしく、急いで村を通り抜けようと考えて、僕は一足先に出かけた。
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村のものらもかれこれいうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急いで村を通抜けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。
村はずれの坂の下り口にある、大きな銀杏(いちょう)の木の根もとで、民子が来るのを待った。
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村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。
ここから見下ろすと、少しばかりの田んぼがある。
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ここから見おろすと少しの田圃がある。
きれいに黄色く色づいた晩稲(おくて・実りの遅い稲)が露を含んで、しっとりと倒れ伏している光景は、気のせいか、いつもより清々しく、胸のすくような眺めだった。
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色よく黄ばんだ晩稲に露をおんで、シットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々しく、胸のすくような眺めである。
民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流された赤土の上に、二枚三枚と落ちてくる銀杏の葉を拾っていた。
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民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流した赤土の上に、二葉三葉銀杏の葉の落ちるのを拾っている。
「民さん、もう来たのかい。この天気のいいことといったら。ほんとに気持ちのいい朝だねえ」
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「民さん、もうきたかい。この天気のよいことどうです。ほんとに心持のよい朝だねイ」
「ほんとに天気がよくてうれしいわ。まあ、この銀杏の葉のきれいなこと。さあ、出かけましょう」
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「ほんとに天気がよくて嬉しいわ。このまア銀杏の葉の綺麗なこと。さア出掛けましょう」
民子の美しい手に持たれると、銀杏の葉も、いつもより一段ときれいに見える。
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民子の美しい手で持ってると銀杏の葉も殊に綺麗に見える。
二人は坂を下りて、ようやく窮屈な場所から広い場所へ出たような気持ちになった。
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二人は坂を降りてようやく窮屈な場所から広場へ出た気になった。
今日は大急ぎで棉を採り終えて、思いっきり面白いことをして遊ぼうなどと相談しながら歩いた。
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今日は大いそぎで棉を採り片付け、さんざん面白いことをして遊ぼうなどと相談しながら歩く。
道の真ん中は乾いているが、両側の田に近いところは、露でしっとりと濡れて、いろいろな草が花を咲かせている。
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道の真中は乾いているが、両側の田についている所は、露にしとしとに濡れて、いろいろの草が花を開いてる。
タウコギ(田や畑に生える草花)は先の方から枯れ始め、水蕎麦蓼(みずそばたで・水辺に生える蓼の一種)などがいちばん多く茂っている。
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タウコギは末枯れて、水蕎麦蓼など一番多く繁っている。
都草(みやこぐさ)も黄色い花を咲かせている。
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都草も黄色く花が見える。
野菊が、あちこちにゆらゆらと咲いている。
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野菊がよろよろと咲いている。
「民さん、これ、野菊が」と、僕は知らず知らず足を止めたけれど、民子は聞こえなかったのか、さっさと先へ行ってしまう。
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民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。
僕は荷物をちょっと脇に置いて、野菊の花をひとつかみ採った。
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僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。
民子は一町(いっちょう・約百九メートル)ほど先へ行ってから気がつき、振り返るなり「あれっ」と叫んで、駆け戻ってきた。
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民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんは、そんなに戻ってこなくたって、僕が行くのに……」
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「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
「まあ、政夫さんは何をしていたの。私びっくりして……。まあ、きれいな野菊。政夫さん、私にも半分ちょうだいよ。私、本当に野菊が好きなの」
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「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもともと、野菊が大好きなんだ。民さんも野菊が好き……」
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「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私、なんだか野菊の生まれ変わりなのよ。野菊の花を見ると、身震いが出るほど好きなの。どうしてこんなに好きなのかと、自分でも思うくらい」
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「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好きなの……。どうりで、民さんはどこか野菊のような人だね」
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「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は、分けてもらった半分の野菊を顔に押し当てて、うれしそうにした。
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民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
二人はまた歩きだす。
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二人は歩きだす。
「政夫さん……私が野菊のようだって、どうしてですか」
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「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さあ、これといった理由はないけど、民さんは、なんとなく野菊のような感じがするからさ」
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「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは、野菊が好きだって……」
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「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕、大好きさ」
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「僕大好きさ」
民子は「これからはあなたが先を歩いて」と言いながら、自分は後ろに回った。
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民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。
今のふとしたやりとりは、お互いの胸に強く、意味あるものとして響いた。
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今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。
民子もそう思ったことは、その様子でわかった。
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民子もそう思った事はその素振りで解る。
ここまで話が近づくと、もうその先を言いだすことはできなかった。
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ここまで話が迫ると、もうその先を言い出すことは出来ない。
話はしばらく途切れてしまった。
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話は一寸途切れてしまった。
何と言っても、まだ幼い二人は、今まさに恋の神様に翻弄(ほんろう・振り回されること)されつつあったのだが、「野菊のような人だ」と言った言葉に続けて、「その野菊が僕は大好きだ」と言った時でさえ、僕はもう胸がどきどきしていたくらいで、すぐにそれ以上のことを言いだせるほど、まだまだ図々しくはなっていなかった。
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何と言っても幼い両人は、今罪の神に翻弄せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞についで、その野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動悸を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない。
民子も同じで、何かにぶつかったような気持ちを、お互いに強く感じたとたん、声がつまってしまったのだ。
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民子も同じこと、物に突きあたった様な心持で強くお互に感じた時に声はつまってしまったのだ。
二人はしばらく、黙ったまま歩いた。
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二人はしばらく無言で歩く。
本当に、民子は野菊のような子だった。
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真に民子は野菊の様な児であった。
民子はまったくの田舎育ちではあったが、決して粗野ではなかった。
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民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。
かわいらしく優しくて、そして品もあった。
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可憐で優しくてそうして品格もあった。
いやみとか、憎らしいところなど、爪のあかほどもなかった。
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厭味とか憎気とかいう所は爪の垢ほどもなかった。
どう見ても、野菊のような雰囲気だった。
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どう見ても野菊の風だった。
しばらくは黙っていたけれど、いつまでも話をしないでいるのは、かえっておかしいように思えて、無理にでも話を考えだした。
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しばらくは黙っていたけれど、いつまで話もしないでいるはなおおかしい様に思って、無理と話を考え出す。
「民さんはさっき、何を考えて、あんなによそ見もしないで歩いていたの」
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「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」
「わたし、何も考えていませんよ」
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「わたし何も考えていやしません」
「民さん、それは嘘だよ。何か考えごとでもしていなければ、あんな様子になるわけがないさ。どんなことを考えていたのか知らないけれど、隠さなくたっていいじゃないか」
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「民さんはそりゃ嘘だよ。何か考えごとでもしなくてあんな風をする訣はないさ。どんなことを考えていたのか知らないけれど、隠さないだってよいじゃないか」
「政夫さん、ごめんなさい。私さっき、本当に考えごとをしていました。私、つくづく考えて、情けなくなったの。私はどうして、政夫さんより年が上なんでしょう。私は十七だっていうんだもの、本当に情けなくなるわ……」
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「政夫さん、済まない。私さっきほんとに考事していました。私つくづく考えて情なくなったの。わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」
「民さんは、何を言っているんだろう。先に生まれたから年が上なんだし、十七年育ったから十七になったんじゃないか。十七だからって、どうして情けないの。僕だって、再来年になれば十七歳さ。民さんは、本当に変なことを言う人だね」
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「民さんは何のこと言うんだろう。先に生れたから年が多い、十七年育ったから十七になったのじゃないか。十七だから何で情ないのですか。僕だって、さ来年になれば十七歳さ。民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
僕も、今民子が言ったことの意味がわからないほど、子どもではなかった。
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僕も今民子が言ったことの心を解せぬほど児供でもない。
わかってはいたけれど、わざとふざけて聞こえないふりをして、振り返って見ると、民子は本当に考え込んでいるようだったが、僕と目が合うと、きまり悪そうに、急に横を向いた。
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解ってはいるけど、わざと戯れの様に聞きなして、振りかえって見ると、民子は真に考え込んでいる様であったが、僕と顔合せて極りわるげににわかに側を向いた。
こうなってくると、何を言っても、すぐにその話に結びついてしまうので、話が行き詰まってしまう。
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こうなってくると何をいうても、直ぐそこへ持ってくるので話がゆきつまってしまう。
二人のうちどちらか一人が、ほんの少しでも押しが強ければ、こんなに話が行き詰まることはないのだ。
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二人の内でどちらか一人が、すこうしほんの僅かにでも押が強ければ、こんなに話がゆきつまるのではない。
お互いの気持ちは、心の奥底までわかっているのだから、吉野紙(よしのがみ・とても薄い和紙)を突き破るほどのわずかな力さえあれば、話を一歩進めて、お互いにすっかり打ち明けてしまうことができるのだ。
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お互に心持は奥底まで解っているのだから、吉野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放してしまうことが出来るのである。
しかし、根っから無邪気な(おぼこな)二人には、その吉野紙を破るほどの押しがないのだった。
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しかしながら真底からおぼこな二人は、その吉野紙を破るほどの押がないのである。
また、ここで話の皮を切って先へ進めなければならない、というはっきりした意識も、もちろんなかった。
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またここで話の皮を切ってしまわねばならぬと云う様な、はっきりした意識も勿論ないのだ。
言ってみれば、まだはっきりした形のない、卵のような恋だから、少し心の力が必要なところへくると、話が行き詰まってしまうのだった。
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言わば未だ取止めのない卵的の恋であるから、少しく心の力が必要な所へくると話がゆきつまってしまうのである。
お互いに、自分から話しだしては、自分できまり悪くなるようなことを繰り返しながら、何町かの道を歩いた。
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お互に自分で話し出しては自分が極りわるくなる様なことを繰返しつつ幾町かの道を歩いた。
言葉数こそ少なかったが、その言葉の奥には、二人ともはかりしれないほどの思いがこもっていて、きまり悪い気持ちの中にも、何とも言えない深い喜びをたたえていた。
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詞数こそ少なけれ、その詞の奥には二人共に無量の思いを包んで、極りがわるい感情の中には何とも云えない深き愉快を湛えて居る。
そんなふうに、いわゆる足も地につかないような気持ちで、いつのまにか田んぼも通り過ぎて、山道に入っていった。
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それでいわゆる足も空に、いつしか田圃も通りこし、山路へ這入った。
今度は民子が気を取り直したらしく、明るい声で、
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今度は民子が心を取り直したらしく鮮かな声で、
「政夫さん、もう半分くらい来たでしょうか。大長柵(おおながさく)へは一里(いちり・約四キロ)近くあるって言っていましたね」
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「政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵へは一里に遠いッて云いましたねイ」
「そうです、一里半近くあるそうだけど、もう半分以上は来たでしょうよ。少し休みましょうか」
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「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか」
「わたしは休まなくてもいいのですけど、さっそくお母さんの罰が当たったのか、薄(すすき)の葉でこんなに手を切ってしまいました。ちょっとこれで結んでくださいな」
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「わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」
親指の真ん中あたりに、傷は小さいけれど、思いのほか血が出ていた。
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親指の中ほどで疵は少しだが、血が意外に出た。
僕はさっそく紙を裂いて、結んでやった。
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僕は早速紙を裂いて結わえてやる。
民子が両手を赤くしているのを見た時、とてもかわいそうに思った。
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民子が両手を赤くしているのを見た時非常にかわいそうであった。
こんな山の中で休むより、畑に着いてから休もうということになり、今度は民子を先に、僕が後になって急いだ。
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こんな山の中で休むより、畑へ往ってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後になって急ぐ。
八時を少し過ぎたと思うころ、大長柵の畑に着いた。
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八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。
十年ほど前、父がまだ元気だったころ、隣村の親戚に頼まれて仕方なく買ったのだそうで、ここには畑が八反(はったん・約八千平方メートル)と、山林が二町(にちょう・約二万平方メートル)ほどあるのだ。
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十年許り前に親父が未だ達者な時分、隣村の親戚から頼まれて余儀なく買ったのだそうで、畑が八反と山林が二町ほどここにあるのである。
この辺りは一帯に、高台はみな山林で、その間の柵(さく・区切られた土地)が畑になっている。
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この辺一体に高台は皆山林でその間の柵が畑になって居る。
越石(こしこく・自分の村を越えたところに持つ田畑)を持っていると言えば聞こえはいいけれど、手間ばかりかかって割に合わないと、母がいつも言っている畑だ。
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越石を持っていると云えば、世間体はよいけど、手間ばかり掛って割に合わないといつも母が言ってる畑だ。
三方を林に囲まれ、南だけが開けていて、よその畑と続いている。
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三方林で囲まれ、南が開いて余所の畑とつづいている。
北が高く、南が低い傾斜(けいしゃ・かたむき)になっている。
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北が高く南が低い傾斜になっている。
母の予想どおり、棉は季節の終わりごろにはなっていたが、風が吹いたらこぼれ落ちそうなほど、棉はふくらんでいた。
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母の推察通り、棉は末にはなっているが、風が吹いたら溢れるかと思うほど棉はえんでいる。
点々と、畑一面が白くなっているその棉に朝日が差していると、まぶしいほどきれいだった。
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点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目ぶしい様に綺麗だ。
「まあ、よくふくらんでいること。今日採りに来て、よかったですね」
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「まアよくえんでること。今日採りにきてよい事しました」
民子は女だけあって、棉がきれいにふくらんでいるのを見て、うれしそうにそう言った。
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民子は女だけに、棉の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそう云った。
畑の真ん中あたりに、桐(きり)の木が二本、茂っている。
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畑の真中ほどに桐の樹が二本繁っている。
葉が落ちかけてはいるけれど、十月の暑さをしのぐには十分だった。
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葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌ぐには十分だ。
ここにあたりの黍殻(きびがら・きびの茎)を集めて、二人はそこに腰を落ち着けた。
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ここへあたりの黍殻を寄せて二人が陣どる。
弁当の包みを枝につるす。
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弁当包みを枝へ釣る。
天気がいい中を山道を急いだので、汗ばんで熱かった。
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天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。
着物を一枚ずつ脱ぐ。
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着物を一枚ずつ脱ぐ。
風をふところに入れ、足を伸ばして休む。
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風を懐へ入れ足を展して休む。
青く澄んだ空に、緑の松林。百舌(もず)もどこかで鳴いている。
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青ぎった空に翠の松林、百舌もどこかで鳴いている。
声が響くほど、山は静かだった。
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声の響くほど山は静かなのだ。
天と地の間、広い畑の真ん中で、二人は話をしているのだ。
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天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである。
「ほんとに民子さん、今日という今日は、極楽のような日ですねえ」
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「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」
顔から首すじにかけて汗をふいた後のつやつやしさに、僕は今さらのように民子の横顔を見つめた。
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顔から頸から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。
「そうですねえ、わたし、なんだか夢のような気がするの。今朝、家を出る時は本当にきまりが悪くて……。嫂(ねえ)さんには変な目つきで見られるし、お増にはからかわれるし、私、のぼせてしまいました。政夫さんは平気な顔をしているから、憎らしかったわ」
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「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」
「僕だって平気なもんですか。村の人たちに会うのがいやだから、僕は一足先に出て、銀杏の下で民さんを待っていたんですよ。それはそうと、民さん、今日は本当に楽しく遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くし、今月だってもう十五日しかないし、二人でしみじみ話ができるようなことは、これから先はむずかしくなる。あわれっぽいことを言うようだけど、二人がこんなふうにいられるのも、今日だけかもしれないと思うんだ。ねえ、民さん……」
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「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみじみ話の出来る様なことはこれから先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……」
「それは政夫さん、私、道々そのことばかり考えてきました。私がさっき、本当に情けなくなったと言ったら、政夫さんは笑ってしまいましたけど……」
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「そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっきほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」
「面白く遊ぼう、遊ぼう」と言っても、話を始めるとすぐにこうなってしまう。
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面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。
民子は涙をふいたようだった。
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民子は涙を拭うた様であった。
ちょうどよく、そこへ馬が見えてきた。
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ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。
西側の山道から、がさがさと笹にさわる音がして、薪(たきぎ)を背負わせた馬を引いた、頬かぶり(ほおかむり・手ぬぐいで頬をおおうこと)をした男が出てきた。
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西側の山路から、がさがさ笹にさわる音がして、薪をつけた馬を引いて頬冠の男が出て来た。
よく見ると、意外にも村の常吉だった。
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よく見ると意外にも村の常吉である。
こいつは、いつだったか向こうのお浜に、民子を遊びに連れだしてくれとしきりに頼んだという男だ。
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この奴はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだしてくれと頻りに頼んだという奴だ。
いやなやつが来やがったなと思っていると、
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いやな野郎がきやがったなと思うていると、
「やあ政夫さん。こんにちは、どうもけっこうなお天気ですな。今日はご夫婦で棉採りですかな。しゃれてますね。アハハハハハ」
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「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。洒落れてますね。アハハハハハ」
「おう常さん、今日は駄賃仕事かな。ずいぶん早くから精が出ますね」
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「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね」
「はあ、私らなんかは駄賃仕事でもして、たまに一杯やるより他に楽しみもないもんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。あんまり罪ですぜ。アハハハハハ」
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「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適に一盃やるより外に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。余り罪ですぜ。アハハハハハ」
この野郎、失礼なやつだと思ったけれど、僕たちもあまり威張れる立場ではないので、笑ってごまかして常吉をやり過ごした。
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この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけて常吉をやり過ごした。
「馬鹿野郎、まったくいやなやつだ。さあ民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気を出してよ。そんなにくよくよしないでよ。僕は学校へ行くといっても千葉だもの、お盆やお正月の他にも、来ようと思えば土曜の晩から日曜にかけて来られるさ……」
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「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だもの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」
「ほんとにすみません。泣き顔などして。あの常さんっていう人、なんていやな人でしょう」
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「ほんとに済みません。泣面などして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう」
民子はたすきをかけ、僕はシャツの肩を脱いで、一生懸命に採り続け、三時間ほどの間に七割方片づけてしまった。
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民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。
もう残りはわけないから、弁当にしようということになり、桐の木陰に戻った。
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もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。
僕は前もって用意していた水筒を持って、
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僕はかねて用意の水筒を持って、
「民さん、僕は水を汲んでくるから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をたくさんお土産に採ってきますよ」
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「民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産に採って来ます」
「私、一人でいるのはいやです。政夫さん、いっしょに連れていってください。さっきのような人にでも来られたら大変ですもの」
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「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの」
「だって民さん、清水のある所は、向こうの山を一つ越えた先ですよ。道らしい道もなくて、それこそ茨(いばら)や薄(すすき)で、足が傷だらけになりますよ。でも水がないと弁当が食べられないから、困ったなあ。民さん、待っていられるでしょう」
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「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」
「政夫さん、お願いだから連れていってください。あなたが歩ける道なら、私にも歩けます。一人でここにいるのは、私、どうしても……」
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「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……」
「民さんは、山へ来たらすっかり駄々っ子になりましたね。それじゃいっしょに行きましょう」
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「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう」
弁当は棉の中に隠し、着物はそれぞれ着てから出かけた。
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弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。
民子は、しきりに、にこにこしている。
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民子は頻りに、にこにこしている。
はたから見たら、ばかばかしくも、みっともなくも見えるだろうけれど、本人同士にとっては、そのとりとめのないやりとりの中にも、限りないうれしさを感じるのだった。
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端から見たならば、馬鹿馬鹿しくも見苦しくもあろうけれど、本人同志の身にとっては、そのらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみを感ずるのである。
そう高くはないけれど道のないところを行くので、笹原をかき分け、木の根につかまり、崖をよじ登る。
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高くもないけど道のない所をゆくのであるから、笹原を押分け樹の根につかまり、崖を攀ずる。
しばしば民子の手を取って、引っぱってやった。
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しばしば民子の手を採って曳いてやる。
ここ二、三日の二人の気持ちからすると、民子が求めるなら僕はどんなことでも断ることができないし、僕が求めるなら、やはりどんなことでも民子は決して拒みはしないだろう。
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近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれない、また僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはしない。
そういう間柄でありながらも、どこまでも臆病で、どこまでも気の小さい二人は、これまで一度も、意味あるかたちで手を取り合ったことはなかった。
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そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人は、嘗て一度も有意味に手などを採ったことはなかった。
ところが今日は、思いがけない出来事から、何度も手を取り合うことになった。
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しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。
このあたりの、何とも言えない楽しい気持ちは、経験した人でなければ語ることができない。
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這辺の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語ることが出来る。
「民さん、ここまで来れば、清水はあそこに見えます。これから僕が一人で行ってくるから、ここで待っていなさい。僕の姿が見えていれば、待っていられるでしょう」
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「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」
「ほんとに政夫さんのお世話になってばかりですね……。そんなにわがままを言っては申し訳ないから、ここで待ちましょう。あら、野葡萄(えびづる)があったわ」
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「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄があった」
僕は水を汲んでの帰りに、水筒を腰に結びつけ、あたりを少しばかり探して、『あけび』を
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僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、『あけび』
四、五十ほどと、野葡萄をひとかかえ採り、竜胆(りんどう)の美しい花を五、六本見つけて帰ってきた。
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四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆の花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。
帰りは下り坂だから、二人でわけなく降りていった。
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帰りは下りだから無造作に二人で降りる。
畑への出口で、僕は大きな春蘭(しゅんらん)を見つけた。
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畑へ出口で僕は春蘭の大きいのを見つけた。
「民さん、僕はちょっと『アックリ』を掘っていくから、この『あけび』と『えびづる』を持っていってください」
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「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」
「『アックリ』って何。あら、それ春蘭じゃありませんか」
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「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」
「民さんは町場者(まちばもの)だから、春蘭だなんて、品のいいことをおっしゃるんですよ。矢切の百姓なんかは『アックリ』と呼びましてね、皸(あかぎれ)の薬にするんです。ハハハハ」
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「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰しゃるのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸の薬に致します。ハハハハ」
「あら、口の悪いこと。政夫さんは、今日は本当に口が悪くなったのね」
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「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」
山で食べる弁当というのは、この土地の人たちにとって、たいてい楽しみの一つになっている。
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山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。
何か体のしくみの理由があるのかどうかは知らないが、とにかく、山の仕事をしてから食べる弁当が、不思議とおいしいということは、誰もが言うことだった。
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何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰も云う所だ。
今、僕たち二人は、くんできたばかりの清水と、母の心のこもった弁当を分け合って食べているのだ。
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今吾々二人は新らしき清水を汲み来り母の心を籠めた弁当を分けつつたべるのである。
その楽しさが並大抵でないことは、言うまでもないことだった。
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興味の尋常でないは言うも愚な次第だ。
僕は『あけび』を
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僕は『あけび』
好んで食べ、民子は野葡萄を食べながら、しばらく話をした。
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を好み民子は野葡萄をたべつつしばらく話をする。
民子は笑いながら、
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民子は笑いながら、
「政夫さんは、あかぎれの薬に『アックリ』とやらを採ってきて、学校へ持っていくの。学校であかぎれが切れたら、おかしいでしょうね……」
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「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」
僕はまじめに、
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僕は真面目に、
「なあに、これはお増にやるのさ。お増はもうとっくにあかぎれを切らしているだろう。このあいだも、お風呂に入る時にお増が火を焚きに来て、ひどくあかぎれを痛がっていたから、そのうち僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」
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「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしているでしょう。この間も湯に這入る時にお増が火を焚きにきて非常に皸を痛がっているから、その内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」
「まあ、あなたは親切な人ですこと……。お増は陰日向(かげひなた・裏表)のない、憎めない人だから、私も仲良くしていたんですけど、このごろは何だか私にぶつかってくるようなことばかり言って、なんだか私を憎んでいますよ」
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「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向のない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」
「アハハハ、それはお増どんが焼き餅(やきもち)をやくのさ。つまらないことにもすぐに焼き餅を焼くのは、女の癖さ。僕が『アックリ』を採っていってお増にやると言えば、民さんがすぐ、まああなたは親切な人とか何とか言うのと同じことさ」
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「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣さ」
「この人は、いつの間にこんなに口が悪くなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくら私だって、お増が何の根拠もない焼き餅だってことくらい、わかっていますよ……」
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「この人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は承知していますよ……」
「実はお増もかわいそうな人なんだよ。両親があんなことにならなければ、奉公人にまでなることはなかった。父親は戦争で死に、母親はそれを嘆いたことがもとで病気で死んで、たった一人の兄は素行の悪い人だったから、とうとうあんなことになってしまった。国のために死んだ人の娘なんだもの、民さん、いたわってやらなくちゃいけない。あれでも民さん、あなたのことをずいぶんほめているんだよ。意地悪な嫂にこき使われているんだから、なおさらかわいそうでね」
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「実はお増も不憫な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋はこれを嘆いたがもとでの病死、一人の兄がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家のために死んだ人の娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ」
「それは政夫さん、私もそう思っていますよ。お母さんもよくそうおっしゃいました。つまらない物ですけど、何かにつけて分けてあげてはいるんですが、また政夫さんのように情け深くされると……」
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「そりゃ政夫さん私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいました。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、また政夫さんの様に情深くされると……」
民子は言いかけてまた口をつぐんだが、桐の葉に包んでおいた竜胆の花を手に取ると、急に話を変えた。
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民子は云いさしてまた話を詰らしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。
「こんな美しい花、いつ採っていらしたの。りんどうは本当にいい花ですね。わたし、りんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし、急にりんどうが好きになった。まあ、いいお花……」
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「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」
花好きな民子は、いつもの癖で、色白の顔にその紫紺(しこん・むらさきがかった濃い青色)の花を押し当てた。
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花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。
やがて何を思い出したのか、ひとりでにこにこと笑いだした。
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やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
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「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんは、りんどうのような人だ」
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「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
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「どうして」
「さあ、これといった理由はないけど、政夫さんは、なんとなく竜胆のような感じがするからさ」
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「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終わると、顔を隠して笑った。
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民子は言い終って顔をかくして笑った。
「民さんも、よっぽど意地悪になったね。それで、さっきの仕返し(仇討・あだうち)というわけですか。口真似なんて恐れ入りますね。しかし、民さんが野菊で僕が竜胆とは、面白い組み合わせですね。僕は喜んでりんどうになりますよ。それで民さんがりんどうを好きになってくれれば、なおうれしいな」
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「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討という訣ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対ですね。僕は悦んでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」
二人は、こんなとりとめのないことを言って喜んでいた。
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二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。
秋の日は短い。太陽はもう傾き始めていた。
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秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。
「さあ」というかけ声とともに、棉もぎにかかった。
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さアとの掛声で棉もぎにかかる。
午後の分はわずかだったので、一時間半ほどでもぎ終えた。
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午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。
あれこれをそれぞれまとめて片籠(かたかご)に乗せ、二人で一緒にかついだ。
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何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。
民子を先に、僕を後にして、とぼとぼと畑を出かけたときには、太陽はもう松の梢のあたりまで沈みかけていた。
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民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。
半分ほど道を来たと思うころには、十三夜の月が木の間から光を差し込ませ、尾花(おばな・すすきの穂)を揺らす風もなく、露が置くのさえ見えるような夜になっていた。
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半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木の間から影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。
今朝は気がつかなかったが、道の西側の一段低い畑には、蕎麦(そば)の花が、薄い絹を張り渡したように白く見えた。
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今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦の花が薄絹を曳き渡したように白く見える。
こおろぎが寒そうに鳴いているのにも、心を留めずにはいられなかった。
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こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。
「民さん、疲れたでしょう。どうせ遅くなったんだから、この景色のいいところで、少し休んでいきましょう」
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「民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、この景色のよい所で少し休んで行きましょう」
「こんなに遅くなるなら、もう少し急げばよかったわ。家の人たちに、きっと何か言われる。政夫さん、私、それが心配だわ」
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「こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったに。家の人達にきっと何とか言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ」
「今さら心配しても間に合わないから、まあ少し休みましょう。こんなに景色のいいことは、めったにありませんよ。人に申し訳が立たないような悪いことをしているわけじゃないんだから、民さん、心配することはないよ」
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「今更心配しても追つかないから、まア少し休みましょう。こんなに景色のよいことは滅多にありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ」
月あかりが斜めに差し込んでいる、道端の松の切り株に、二人は腰をかけた。
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月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。
目の先、七、八間(しちはちけん・約十三〜十四メートル)のところは木陰で薄暗いが、それより向こうは、畑いっぱいに月の光が差して、蕎麦の花がひときわ白く浮き上がって見えた。
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目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際立って白い。
「何ていい景色でしょう。政夫さん、短歌とか俳句とかをやったら、こんな時に面白いことが言えるでしょうね。私みたいな無筆(むひつ・字の書けない者)でも、こんな時には心配も何も忘れてしまいますもの。政夫さん、あなた、短歌をおやりなさいよ」
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「何というえい景色でしょう。政夫さん歌とか俳句とかいうものをやったら、こんなときに面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」
「僕は実は少しやっているけど、むずかしくてなかなかできないのさ。山畑の蕎麦の花に月が差して、こおろぎが鳴くなんて、本当にいいですねえ。民さん、これから二人で短歌をやりましょうか」
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「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか」
お互いに、一つの心配ごとを抱えるようになった二人は、心の中に思うことが多くて、かえって話は少なかった。
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お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くてかえって話は少ない。
何となく先行きのおぼつかない二人の将来について、ここで少し話をしたかったのだ。
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何となく覚束ない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。
民子はもちろんのこと、僕よりもいっそう話したかったに違いないが、まだ年が若く、うわついた気持ちのない二人には、面と向かってそんな話をすることはなかなかできなかった。
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民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。
しばらくは黙ったまま、ぼんやり時間を過ごしていると、一列の雁(がん)が、二人を促すかのように、空近くを鳴きながら通り過ぎていった。
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しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。
ようやく田んぼへ降りて、銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じように、ある感情が胸にわいてきた。
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ようやく田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じ様に一種の感情が胸に湧いた。
それは他でもない、なんとなく家に入りづらいという気持ちだった。
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それは外でもない、何となく家に這入りづらいと言う心持である。
入りづらいわけはないと思っても、どうしても入りづらいのだった。
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這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。
ためらう間もなく、たちまち門の前近くまで来てしまった。
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躊躇する暇もない、忽門前近く来てしまった。
「政夫さん……あなた先に入ってください。私、きまりが悪くてしかたないわ」
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「政夫さん……あなた先になって下さい。私極りわるくてしょうがないわ」
「よし、それじゃ僕が先に入ろう」
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「よしとそれじゃ僕が先になろう」
僕はずいぶんと勇気をふるい起こし、特に平気なふりをして門を入った。
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僕は頗る勇気を鼓し殊に平気な風を装うて門を這入った。
家の人たちは今、ちょうど夕飯の最中で、話が盛り上がっているらしかった。
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家の人達は今夕飯最中で盛んに話が湧いているらしい。
庭のほうの雨戸はまだ開けたままで、月の光が軒先まで差し込んでいた。
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庭場の雨戸は未だ開いたなりに月が軒口までさし込んでいる。
僕が一つ咳払いをして庭のほうへ入ると、台所の話は急に止んでしまった。
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僕が咳払を一ツやって庭場へ這入ると、台所の話はにわかに止んでしまった。
民子は指の先で、僕の肩をつついた。
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民子は指の先で僕の肩を撞いた。
僕もわかっていたのだ、今の食事の席での話し合いで、二人のうわさがどれほど盛んだったか。
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僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如何に盛んであったか。
前夜祭でもあり、十三夜でもあったので、家じゅうが表座敷にそろった時、母も奥から起きてきた。
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宵祭ではあり十三夜ではあるので、家中表座敷へ揃うた時、母も奥から起きてきた。
母は、二人があまりに遅かったことを一通りとがめただけで、それ以上深くは言わなかったが、いつもとはまったく様子が違っていた。
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母は一通り二人の余り遅かったことを咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っていた。
何か考えているらしく、少しも打ち解けなかった。
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何か思っているらしく、少しも打解けない。
これまでは、口では小言を言っても、心の中では疑っていなかったのだが、今夜は口ではあまり言わないものの、心では十分に、二人を疑ったに違いなかった。
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これまでは口には小言を言うても、心中に疑わなかったのだが、今夜は口には余り言わないが、心では十分に二人に疑いを起したに違いない。
民子は、いよいよ小さくなって、座敷の中には出てこなかった。
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民子はいよいよ小さくなって座敷中へは出ない。
僕は、山から採ってきたあけびや野葡萄を、たくさん座敷じゅうに並べ立てて、暗に「僕はこんなことをしていたから遅くなったのだ」という意味を示し、無言の言い訳をしてみたが、何のききめもなかった。
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僕は山から採ってきた、あけびや野葡萄やを沢山座敷中へ並べ立てて、暗に僕がこんな事をして居たから遅くなったのだとの意を示し無言の弁解をやっても何のききめもない。
誰一人、それをそう受け取ってくれる者はいなかった。
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誰一人それをそうと見るものはない。
今夜は、どんな話にも僕たち二人はのけ者にされる始末で、もはや二人はすっかり罪のあるものと、黙って決めつけられてしまったのだった。
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今夜は何の話にも僕等二人は除けものにされる始末で、もはや二人は全く罪あるものと黙決されてしまったのである。
「お母さんが甘すぎるんだ。あんな様子の二人を、一緒に山畑へやるなんて、見る目がなさすぎる。まわりがいくら心配したって、お母さんがあれじゃ駄目だ」
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「お母さんがあんまり甘過ぎる。あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目のないにもほどがある。はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」
これが、台所での話し合いの結論だったらしい。
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これが台所会議の決定であったらしい。
母のほうでも、いつまでも子どもだと思っていたのが間違いで、自分が悪かった、というような考えに、今夜はなったのだろう。
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母の方でもいつまで児供と思っていたが誤りで、自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。
今さら二人を叱ってみても仕方がない。
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今更二人を叱って見ても仕方がない。
なに、政夫を学校へやってしまいさえすれば問題はないと、母の心の中ではもうちゃんと決まっていたらしく、
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なに政夫を学校へ遣ってしまいさえせば仔細はないと母の心はちゃんときまって居るらしく、
「政や、お前をね、十一月に入ってすぐ学校へやるつもりだったけれど、そうしてぶらぶらしていても、ためにならないから、お祭りが終わったら、もう学校へ行きなさい。十七日に出発することにしなさい……いいね、そのつもりで支度をしておきなさい」
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「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶらぶらして居ても為にならないから、お祭が終ったら、もう学校へゆくがよい。十七日にゆくとしろ……えいか、そのつもりで小支度して置け」
学校へ行くのは、もともと僕の望みだったし、十日や二十日早くても遅くても、それはかまわないことだったが、この場合、しかも今夜言い渡されたとなると、二人はもう罪を犯したものと決めつけられての罰であるから、民子はもちろん、僕にとっても、ずいぶん心苦しいところがあった。
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学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、この場合しかも今夜言渡があって見ると、二人は既に罪を犯したものと定められての仕置であるから、民子は勿論僕に取ってもすこぶる心苦しい処がある。
実際、二人はそれほど道を外れたわけではないのだから、頭からそう決めつけられると、なんとも妙な気持ちがする。
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実際二人はそれほどに堕落した訣でないから、頭からそうときめられては、聊か妙な心持がする。
そうかといって、弁解ができることでもなく、また強いことを言える資格も、実はなかった。
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さりとて弁解の出来ることでもなし、また強いことを言える資格も実は無いのである。
これが一か月前だったら、「それはお母さん、無理です。学校へ行くのは望みですけれど、罪を着せられての罰として学校へ行けというのは、あんまりでしょう……」などと、すぐに駄々をこねたはずだが、今夜はそんなわがままを言えるほど、無邪気ではなかった。
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これが一ヶ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望みであるけど、科を着せられての仕置に学校へゆけとはあんまりでしょう……などと直ぐだだを言うのであるが、今夜はそんな我儘を言えるほど無邪気ではない。
まったくのところ、二人はもう恋に落ちてしまっていた。
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全くの処、恋に陥ってしまっている。
あれほどかわいがってもらった、たった一人の母に隠しごとをする。なんとなく壁を作って、心のうちを何もかも言えないほどになっていた。
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あれほど可愛がられた一人の母に隠立てをする、何となく隔てを作って心のありたけを言い得ぬまでになっている。
おのずと人前をはばかり、人前ではことさらに、二人がよそよそしくふるまうようになっていた。
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おのずから人前を憚り、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。
ここまで自分だけの気持ち(私心・わたくしごころ)が育ってしまっては、どうして立派なことが言えるだろうか。
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かくまで私心が長じてきてどうして立派な口がきけよう。
僕はただ一言、
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僕はただ一言、
「はあ……」
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「はア……」
と答えたきり、何も言わず、母の言いつけにただ従うほかなかった。
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と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。
「僕は学校へ行ってしまえばそれでいいけど、民さんは、あとでどうなるんだろう」
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「僕は学校へ往ってしまえばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」
ふとそう思って、そっと民子のほうを見ると、お増が枝豆を選り分けている後ろで、民子はうつむいて、膝の上でたすきをもてあそびながら黙り込んでいた。
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不図そう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆をあさってる後に、民子はうつむいて膝の上に襷をこねくりつつ沈黙している。
いかにも元気のない様子で、夜のせいか、顔色も青白く見えた。
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如何にも元気のない風で夜のせいか顔色も青白く見えた。
民子の様子を見て、僕も急に悲しくなり、泣きたくなった。
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民子の風を見て僕も俄に悲しくなって泣きたくなった。
涙がまぶたを伝って、目がかすんだ。
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涙は瞼を伝って眼が曇った。
なぜ悲しくなったのか、理由ははっきりしない。
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なぜ悲しくなったか理由は判然しない。
ただ、民子がかわいそうでたまらなくなったのだった。
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ただ民子が可哀相でならなくなったのである。
民子と僕との楽しい間柄も、この日の夜までは続かず、十三日の昼の光とともに、すっかり消えうせてしまった。
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民子と僕との楽しい関係もこの日の夜までは続かなく、十三日の昼の光と共に全く消えうせてしまった。
うれしいことについても、思いのすべてを語りつくさず、つらく悲しいことについては、もちろん百分の一も語り合わないまま、二人の間柄は、闇の幕の中に入ってしまったのだった。
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嬉しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことについては勿論百分の一だも語りあわないで、二人の関係は闇の幕に這入ってしまったのである。
十四日は祭りの初日で、ただ何かとせわしく日が暮れた。
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十四日は祭の初日でただ物せわしく日がくれた。
お互いに気のない様子をしていても、手にせわしい仕事があるだけ、とにかく気を紛らすことができた。
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お互に気のない風はしていても、手にせわしい仕事のあるばかりに、とにかく思い紛らすことが出来た。
十五日と十六日は、食事以外に用事もないまま、書斎にこもりきりだった。
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十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠りとおしていた。
ぼんやり机にもたれたまま、何をするでもなく、また二人の関係をどうしようかというようなことすら、考えてはいなかった。
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ぼんやり机にもたれたなり何をするでもなく、また二人の関係をどうしようかという様なことすらも考えてはいない。
ただ民子のことが頭にいっぱいになっているだけで、ごく単純に民子のことを思っている以外、何も考えは働かなかった。
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ただ民子のことが頭に充ちているばかりで、極めて単純に民子を思うている外に考えは働いて居らぬ。
この二日の間に、民子とは三、四回は会ったけれど、話もできず、笑みを交わす元気もなく、うらさびしい気持ちを、お互いに目だけで訴え合うのみだった。
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この二日の間に民子と三四回は逢ったけれど、話も出来ず微笑を交換する元気もなく、うら淋しい心持を互に目に訴うるのみであった。
二人の気持ちが、もう少し大人びていたなら、この二日の間にも、将来のことなどをずいぶん話し合うことができただろうけれど、ねばり強さなど毛ほどもなかった二人には、そういう場面で、なかなかそんなことはできなかった。
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二人の心持が今少しませて居ったならば、この二日の間にも将来の事など随分話し合うことが出来たのであろうけれど、しぶとい心持などは毛ほどもなかった二人には、その場合になかなかそんな事は出来なかった。
それでも僕は、十六日の午後になって、何となく次のようなことを巻紙に書いて、夕暮れにちょっとやってきた民子に、「僕がいなくなってから見てほしい」と言って渡した。
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それでも僕は十六日の午後になって、何とはなしに以下のような事を巻紙へ書いて、日暮に一寸来た民子に僕が居なくなってから見てくれと云って渡した。
朝からここに入ったきり、何をする気にもならない。
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朝からここへ這入ったきり、何をする気にもならない。
外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、ただ何度も何度も、民さんのことばかり思っている。
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外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、ただ繰返し繰返し民さんの事ばかり思って居る。
民さんと一緒にいると、まるで神様に抱かれて、雲にでも乗っているようだ。
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民さんと一所に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。
僕はどうして、こんなふうになったんだろう。
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僕はどうしてこんなになったんだろう。
勉強をしなければならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。
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学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。
民さんは、自分の年が上なのを気にしているようだけど、僕はそんなこと、何とも思わない。
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民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそんなことは何とも思わない。
僕は民さんの思うとおりになるつもりだから、民さんもそう思っていてください。
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僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さんもそう思っていて下さい。
明日は早く出発します。
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明日は早く立ちます。
冬休みには帰ってきて、民さんに会うのを楽しみにしています。
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冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります。
十月十六日
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十月十六日
政夫
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政夫
民子様
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民子様
学校へ行くとはいっても、罪があって早く行かされる、という立場だったから、人の笑い声や話し声にも、いちいちひがんだ気持ちが起きる。
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学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話声にも一々ひがみ心が起きる。
みんな、二人に対する嘲笑(ちょうしょう・ばかにして笑うこと)のように聞こえた。
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皆二人に対する嘲笑かの様に聞かれる。
いっそ早く、学校へ行ってしまいたくなった。
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いっそ早く学校へ行ってしまいたくなった。
決心が定まると、元気も回復(かいふく)してきた。
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決心が定まれば元気も恢復してくる。
この夜は、頭も少しさえて、夕飯も気持ちよく食べられた。
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この夜は頭も少しくさえて夕飯も心持よくたべた。
学校のことを、あれこれと母と話をした。
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学校のこと何くれとなく母と話をする。
やがて床について寝てからも、
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やがて寝に就いてからも、
「何だ、ばかばかしい。十五かそこらの子どものくせに、女のことばかりくよくよ考えて……。そうだそうだ、明日の朝は、さっそく学校へ行こう。民子はかわいそうだけれど……もう考えまい。考えたって仕方がない。学校、学校……」
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「何だ馬鹿馬鹿しい、十五かそこらの小僧の癖に、女のことなどばかりくよくよ考えて……そうだそうだ、明朝は早速学校へ行こう。民子は可哀相だけれど……もう考えまい、考えたって仕方がない、学校学校……」
一人でつぶやきながら、眠りに入っていったのだった。
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独口ききつつ眠りに入った様な訣であった。
船で川から市川へ出るつもりだったので、十七日の朝、小雨が降る中、荷物を全部かばん一つに詰め込み、民子とお増に見送られて、矢切の渡し場へ降りていった。
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船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。
村の人の荷船に乗せてもらうことになっていたので、もう船は来ていた。
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村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。
僕は「民さん、それじゃ……」と言うつもりでも、喉がつまって声が出なかった。
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僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。
民子は僕に包みを渡してからは、自分の手をどこへ置いたらいいのかわからないように、胸をなでたり襟をなでたりして、下ばかり向いていた。
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民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟を撫でたりして、下ばかり向いている。
目にたまった涙をお増に見られまいとして、体を横にそらしている民子の、そのあわれな姿を見て、僕も涙をこらえきれなかった。
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眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。
民子は、今日を別れの日と思ったのか、髪はさっぱりとした銀杏返し(いちょうがえし・当時の女性の髪型)に結い、薄く化粧をしていた。
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民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。
煤色(すすいろ)と紺の細かい弁慶縞(べんけいじま・格子模様の一種)の、羽織も着物も同じ米沢紬(よねざわつむぎ・織物の一種)で、品のいい友禅縮緬(ゆうぜんちりめん・染めの一種)の帯を締めていた。
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煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬に、品のよい友禅縮緬の帯をしめていた。
たすきをかけた民子もよかったけれど、今日の民子は、また一段と引き立って見えた。
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襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。
僕の気のせいだろうか、民子は十三日の夜から一日一日とやつれてきて、この日の痛々しさに、僕は泣かずにはいられなかった。
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僕の気のせいででもあるか、民子は十三日の夜からは一日一日とやつれてきて、この日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。
虫が知らせるとでもいうのか、これが一生の別れになろうとは、僕はもちろん、民子だってまさかそうは思わなかっただろうけれど、この時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてもらえないだろうと思うほどだった。
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虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、この時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。
もっとも、民子の思いは、僕よりも深かったに違いない。
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尤も民子の思いは僕より深かったに相違ない。
僕は中学校を卒業するまでにも、まだ四、五年ある身だったが、民子は十七で、今年のうちにも縁談の話があって、両親からそう言われれば、簡単には断れない立場だったから、これから先のことをいろいろ考えてみると、心配なことが多かったのだ。
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僕は中学校を卒業するまでにも、四五年間のある体であるのに、民子は十七で今年の内にも縁談の話があって両親からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身であるから、行末のことをいろいろ考えて見ると心配の多い訣である。
当時の僕は、そこまでは考えなかったけれど、じかにこの目に焼きついた民子の痛々しい姿は、何年たっても、昨日のことのように目に浮かんでくるのだ。
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当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親しく目に染みた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮んでいるのである。
よそから見たなら、若いうちによくある、勝手ないたずら心の泣き顔と、見苦しく思われたかもしれないが、二人にとっては、本当にあわれで悲しい別れだった。
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余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。
お互いに手を取り合って、これからのことを語ることもできず、小雨がしょぼしょぼと降る渡し場で、泣く涙も人目をはばかり、一言の言葉も交わすことができないまま、永遠の別れをしてしまったのだった。
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互に手を取って後来を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。
情け容赦のない舟は、流れを下って速く進み、十分もたたないうちに、五町(ごちょう・約五百五十メートル)も下らないうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。
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無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられてしまった。
何も言えないまま、しょんぼりとしおれていた、かわいそうな民さんの面影を、どうして忘れることができようか。
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物も言い得ないで、しょんぼりと悄れていた不憫な民さんの俤、どうして忘れることが出来よう。
民さんを思うことで、神様の怒りにふれて、その場で打ち殺されるようなことがあったとしても、僕には民さんを思わずにはいられなかった。
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民さんを思うために神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。
年をとった今から思えば、ああすればよかった、こうすればよかったと思わないこともないが、当時の若い二人の考えには、何の工夫もなかったのだ。
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年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志の思慮には何らの工夫も無かったのである。
八百屋お七(やおやおしち・恋人に会いたい一心で放火した江戸時代の娘)は、家を焼けば、もう一度思う人に会えると考えたそうだが、僕たち二人は、戸を一枚こっそり開けるほどの知恵さえ出なかった。
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八百屋お七は家を焼いたらば、再度思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧も出なかった。
それほど無邪気でかわいらしい恋でありながら、それでも親を恐れ、兄弟をはばかり、他人の前で涙もふけなかったのだから、なんと気の弱い二人だったことだろう。
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それほどに無邪気な可憐な恋でありながら、なお親に怖じ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何に気の弱い同志であったろう。
僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり考えてしまって、仕方がなかった。
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僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。
学校にいて、こんなことを考えてどうするんだ、などと、自分で自分を叱り励ましてみても、何のかいもなかった。
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学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。
そう言った言葉のすぐあとから、また民子のことが浮かんでくる。
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そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。
たくさんの人の中にいれば、どうにか気が紛れるので、日中はなるべく一人でいないように心がけていた。
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多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。
夜になって寝ると、考えてしまって仕方がないから、なるべく人の中で騒いで、疲れて眠るように工夫していた。
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夜になっても寝ると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで居て疲れて寝る工夫をして居た。
そんなふうにして、ようやく年も暮れ、冬休みになった。
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そういう始末でようやく年もくれ冬期休業になった。
僕が十二月二十五日の午前中に帰ってみると、庭一面に籾(もみ)が干してあって、母は前の縁側に布団を敷いて、日向ぼっこをしていた。
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僕が十二月二十五日の午前に帰って見ると、庭一面に籾を干してあって、母は前の縁側に蒲団を敷いて日向ぼっこをしていた。
このごろは、体の具合もだいぶよいらしい。
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近頃はよほど体の工合もよい。
今日は、兄夫婦と男の人とお増は、山へ落ち葉をはきに行ったという話だった。
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今日は兄夫婦と男とお増とは山へ落葉をはきに行ったとの話である。
僕は「民さんは」と、口の先まで出かかったが、とうとう言い切れなかった。
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僕は民さんはと口の先まで出たけれど遂に言い切らなかった。
母も意地悪く、何も言わなかった。
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母も意地悪く何とも言わない。
僕は、帰ってすぐに民子のことを尋ねるのが、いかにもきまり悪くて、そのままいつもの書斎を片づけて、そこに落ち着いた。
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僕は帰り早々民子のことを問うのが如何にも極り悪く、そのまま例の書室を片づけてここに落着いた。
しかし、日暮れまでには民子も帰ってくるだろうと思いながら、おろおろしながら待っていた。
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しかし日暮までには民子も帰ってくることと思いながら、おろおろして待って居る。
みんなが帰ってきて、いよいよ夕飯ということになっても、民子の姿は見えない。誰も、民子のことを一言も言う者もなかった。
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皆が帰っていよいよ夕飯ということになっても民子の姿は見えない、誰もまた民子のことを一言も言うものもない。
僕はもう、民子は市川へ帰ったのだろうと察して、人に尋ねるのも腹立たしいから、他の話もせず、ご飯がすむと、そのまま書斎に入ってしまった。
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僕はもう民子は市川へ帰ったものと察して、人に問うのもいまいましいから、外の話もせず、飯がすむとそれなり書室へ這入ってしまった。
今日は必ず民子に会えると、ひとかたならず楽しみにして帰ってきたのに、この始末で、何とも言えず気が抜けて、さびしかった。
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今日は必ず民子に逢われることと一方ならず楽しみにして帰って来たのに、この始末で何とも言えず力が落ちて淋しかった。
そうかといって、誰にこの苦しみを話すこともできず、民子の写真などを取り出して見ていたが、ちっとも気が晴れなかった。
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さりとて誰にこの苦悶を話しようもなく、民子の写真などを取出して見て居ったけれど、ちっとも気が晴れない。
また、「あいつ、民子がいないから考え込んでいるな」と思われるのもくやしくて、ようやく気を取り直し、母の枕元へ行って、夜遅くまで学校の話をして聞かせた。
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またあの奴民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口惜しく、ようやく心を取直し、母の枕元へいって夜遅くまで学校の話をして聞かせた。
次の日は、九時ごろにようやく起きた。
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翌くる日は九時頃にようやく起きた。
母はまだ寝ている。
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母は未だ寝ている。
台所へ出てみると、他の人たちはみな、また山へ行ったとかで、お増が一人、台所の片づけに残っていた。
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台所へ出て見ると外の者は皆また山へ往ったとかで、お増が一人台所片づけに残っている。
僕は顔を洗ったまま、ご飯も食べずに、裏口の畑へ出てしまった。
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僕は顔を洗ったなり飯も食わずに、背戸の畑へ出てしまった。
この秋、民子と二人で茄子を採ったあの畑には、今は青々と菜が茂っていた。
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この秋、民子と二人で茄子をとった畑が今は青々と菜がほきている。
僕はしばらく立ったまま、どこを見るともなく、民子の面影を頭に描きながら、物思いに沈んでいた。
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僕はしばらく立って何所を眺めるともなく、民子の俤を脳中にえがきつつ思いに沈んでいる。
「政夫さん、何をそんなに考えているの」
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「政夫さん、何をそんなに考えているの」
お増が出し抜けに、後ろからそう言って、近くへ寄ってきた。
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お増が出し抜けに後からそいって、近くへ寄ってきた。
僕がいい加減なことを一言二言言うと、お増はいきなり僕の手を取って、「もう少しこっちに来て、ここに腰かけなさいな」と言いながら、藁を積んである所へ自分も腰をかけ、僕にも座らせた。
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僕がよい加減なことを一言二言いうと、お増はいきなり僕の手をとって、も少しこっちへきてここへ腰を掛けなさいまアと言いつつ、藁を積んである所へ自分も腰をかけて僕にも掛けさせた。
「政夫さん……お民さんは、本当にかわいそうでしたよ。うちの姉さんたら、本当に意地悪ですからね。何ていう根性の悪い人だか、私も、もうここの家にいるのがいやになってしまった。昨日、政夫さんが来るのはわかりきっているのに、姉さんがいろいろ言って、一昨日、お民さんを市川へ帰してしまったんですよ。『待っている人がいるんだろう』とか『会いたい人が待ち遠しいんだろう』とか、いやみを言ってお民さんを泣かせたりしてね。お母さんにも何やかやいろいろなことを言ったらしくて、とうとう一昨日のお昼前に帰してしまったんです。政夫さんが一昨日来ていたら、会えたんですよ。政夫さん、私はお民さんがかわいそうで、かわいそうでならないんだよ。だって、あなたがいなくなってからは、まるで泣いてばかりの毎日で。政夫さんに手紙を出したいけれど、自分にはうまく書けないから、くやしいと言ってね。私の部屋へ、三晩も硯(すずり)と紙を持ってきては泣いていました。お民さんも、初めは私にも隠していたけれど、あとになると隠していられなくなったのさ。私も、お民さんのために、どれだけ泣いたかわからないよ……」
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「政夫さん……お民さんはほんとに可哀相でしたよ。うちの姉さんたらほんとに意地曲りですからネ。何という根性の悪い人だか、私もはアここのうちに居るのは厭になってしまった。昨日政夫さんが来るのは解りきって居るのに、姉さんがいろんなことを云って、一昨日お民さんを市川へ帰したんですよ。待つ人があるだっぺとか逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当こすりを云ってお民さんを泣かせたりしてネ、お母さんにも何でもいろいろなこと言ったらしい、とうとう一昨日お昼前に帰してしまったのでさ。政夫さんが一昨日きたら逢われたんですよ。政夫さん、私はお民さんが可哀相で可哀相でならないだよ。何だってあなたが居なくなってからはまるで泣きの涙で日を暮らして居るんだもの、政夫さんに手紙をやりたいけれど、それがよく自分には出来ないから口惜しいと云ってネ。私の部屋へ三晩も硯と紙を持ってきては泣いて居ました。お民さんも始まりは私にも隠していたけれど、後には隠して居られなくなったのさ。私もお民さんのためにいくら泣いたか知れない……」
見れば、お増はもう、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
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見ればお増はもうぽろぽろ涙をこぼしている。
もともとお増は、とても気立てがよく親切な人で、僕と民子が目の前で仲よさそうにしていると、やきもちを起こすけれど、もともと執念深い性格ではないから、民子が一人になれば民子と仲よくし、僕が一人になれば僕のことを大騒ぎするのだった。
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一体お増はごく人のよい親切な女で、僕と民子が目の前で仲好い風をすると、嫉妬心を起すけれど、もとより執念深い性でないから、民子が一人になれば民子と仲が好く、僕が一人になれば僕を大騒ぎするのである。
それからさらにお増は、僕がいなくなった後で、民子がひどく母に叱られたことなどを話した。
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それからなおお増は、僕が居ない跡で民子が非常に母に叱られたことなどを話した。
それはだいたい、こういうことだった。
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それは概略こうである。
意地悪な嫂が何を言おうと、母が民子をかわいがる気持ちは少しも変わらなかったが、二つも年上の民子を僕の嫁にすることは、どうしてもいけないということになったらしい。それには嫂もいろいろ言ったようで、嫁にしないとなれば、二人の仲はなるべく引き離すように工夫しなければならない、ということになった。
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意地悪の嫂が何を言うても、母が民子を愛することは少しも変らないけれど、二つも年の多い民子を僕の嫁にすることはどうしてもいけぬと云うことになったらしく、それには嫂もいろいろ言うて、嫁にしないとすれば、二人の仲はなるたけ裂く様な工夫をせねばならぬ。
母も嫂もそういう気持ちになっていたから、民子への態度は、「政夫のことを思っていても、とうてい駄目だ」と、遠回しにほのめかすようなものになっていた。
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母も嫂もそういう心持になって居るから、民子に対する仕向けは、政夫のことを思うて居ても到底駄目であると遠廻しに諷示して居た。
そこへきて、民子が朝も晩もくよくよしていて、人の目にもとまるほどだったから、時々物忘れをしたり、呼んでも返事が遅かったりして、母の癇癪(かんしゃく)にさわったことも、たびたびあった。
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そこへきて民子が明けてもくれてもくよくよして、人の眼にもとまるほどであるから、時々は物忘れをしたり、呼んでも返辞が遅かったりして、母の疳癪にさわったことも度々あった。
僕がいなくなってから二十日ほどたった、十一月の初めごろ、民子も他の者たちと一緒に野へ出ることになった。母は民子に、「お前は少し遅れて、座敷のまわりを雑巾がけして、それから庭に広げてある蓆(むしろ)を倉に片づけてから、野へ行きなさい」と言いつけた。
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僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足跡になって、座敷のまわりを雑巾掛してそれから庭に広げてある蓆を倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。
民子は雑巾がけをしてから、うっかり忘れてしまい、蓆を片づけずに野へ出てしまった。ところが運悪くその日雨が降ったので、蓆を十枚ほど濡らしてしまった。
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民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてしまって、蓆を入れずに野へ出た処、間がわるくその日雨が降ったから、その蓆十枚ばかりを濡らしてしまった。
民子は雨が降ってから気がついたが、もう間に合わなかった。
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民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。
家へ帰って、さっそく母に謝ったけれど、母は日頃のことが胸にあったから、
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うちへ帰って早速母に詫びたけれど母は平日の事が胸にあるから、
「別に十枚ほどの蓆が惜しいわけじゃないけれど、そもそも私の言いつけをいいかげんに聞いているから、こんなことが起こるのだよ。もとの民子は、そんな子じゃなかった。自分勝手な考えごとばかりしているから、人の言うことも耳に入らないのだよ……」
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「何も十枚ばかりの蓆が惜しいではないけれど、一体私の言いつけを疎かに聞いているから起ったことだ。もとの民子はそうでなかった。得手勝手な考えごとなどしているから、人の言うことも耳へ這入らないのだ……」
という、なかなか手厳しい小言を言った。
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という様な随分痛い小言を云った。
民子は母の枕元近くへ行って、「どうか、私が悪かったのですから、堪忍してください……」と、両手をついて謝った。
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民子は母の枕元近くへいって、どうか私が悪かったのですから堪忍して……と両手をついてあやまった。
すると母はまた、「そんなに他人行儀に、あらたまって謝らなくてもいいのに」と叱ったそうで、民子はたまらなくなって、わっと泣き伏した。
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そうすると母はまたそう何も他人らしく改まってあやまらなくともだと叱ったそうで、民子はたまらなくなってワッと泣き伏した。
そのまま民子が泣きやんでしまえば、何ごともなくすんだのだろうが、民子はとうとう一晩中泣きとおしたので、翌朝は目を赤くしていた。
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そのまま民子が泣きやんでしまえば何のこともなく済んだであろうが、民子はとうとう一晩中泣きとおしたので翌朝は眼を赤くして居た。
母も、夜、時々目を覚ましてみると、民子はいつも、しくしく泣いている声がしていたというので、今度は母がひどく腹を立てて、お増と民子の二人を呼んで、震える声でこう言った。
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母も夜時々眼をさましてみると、民子はいつでも、すくすく泣いている声がしていたというので、今度は母が非常に立腹して、お増と民子と二人呼んで母が顫声になって云うには、
「二人だけで話すと、私がどんなわがままなことを言うかわからないから、お増は聞き役になっておくれ。民子はゆうべ、一晩中泣きとおした。きっと、私に言われたことが悔しくてたまらなかったんでしょう」
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「相対では私がどんな我儘なことを云うかも知れないからお増は聞人になってくれ。民子はゆうべ一晩中泣きとおした。定めし私に云われたことが無念でたまらなかったからでしょう」
民子はここで、「私はそうではありません」と泣き声で言ったけれど、母は聞く耳も持たず、
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民子はここで私はそうでありませんと泣声でいうたけれど、母は耳にもかけずに、
「なるほど、私の小言も少し言い過ぎだったかもしれないが、民子だって、何もそれほど悔しがらなくてもよさそうなものじゃないか。私は、本当に考えると情けなくなってしまった。かわいがったことを恩に着せるわけじゃないが、もとをいえば他人だけれど、赤ん坊のころから、民子はしょっちゅうこの家に来ていて、今の政夫と、この二つの乳房を一つずつ含ませていたくらいなんだよ。お増が来てからも同じで、二つある物は一つずつ、四つある物は二つずつ、着物を仕立てても、あれに一枚これに一枚と、少しも分け隔てをしないでやってきた。民子も本当の親のように思ってくれて、私も自分の子のように思っていて、よその人だって、誰一人、二人を兄弟だと思わない者はいなかったくらいなのに。今までにたった一度の小言を、あんなに悔しがって、夜中泣いてくれなくても、よさそうなものじゃないか。市川の人たちに聞かれたら、斎藤のばあさんがどんなにひどいことを言ったのかと思うだろう。十何年もの間、我が子のように思ってきたことも、たった一度の小言で忘れられてしまったのかと思うと、私はくやしい。人間というものは、そういうものなのかねえ。お増、よく聞いておくれ。私が無理を言っているのか、民子が無理を言っているのか。ねえお増」
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「なるほど私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、民子だって何もそれほど口惜しがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。私はほんとに考えると情なくなってしまった。かわいがったのを恩に着せるではないが、もとを云えば他人だけれど、乳呑児の時から、民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と二つの乳房を一つ宛含ませて居た位、お増がきてからもあの通りで、二つのものは一つ宛四つのものは二つ宛、着物を拵えてもあれに一枚これに一枚と少しも分け隔てをせないできた。民子も真の親の様に思ってくれ私も吾子と思って余所の人は誰だって二人を兄弟と思わないものはなかったほどであるのに、あとにも先にも一度の小言をあんなに悔しがって夜中泣いて呉れなくともよさそうなもの。市川の人達に聞かれたらば、斎藤の婆がどんな非度いことを云ったかと思うだろう。十何年という間我子の様に思ってきたこともただ一度の小言で忘れられてしまったかと思うと私は口惜しい。人間というものはそうしたものかしら。お増、よく聞いてくれ、私が無理か民子が無理か。なアお増」
母は目に涙をいっぱいにためて、そう言った。
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母は眼に涙を一ぱいに溜めてそういった。
民子は、身も世もない様子で、いきなりお増の膝にすがりつき、泣きながら、
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民子は身も世もあらぬさまでいきなりにお増の膝へすがりついて泣き泣き、
「お増や、お母さんに言い訳をしておくれ。私は、そんな大それた考えを持っているわけじゃないの。ゆうべあんなに泣いたのは、まったく私が悪かったから、まったく私の至らなさのせいなんだから、お増や、お前がよく、そう言い訳をしておくれ……」
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「お増や、お母さんに申訣をしておくれ。私はそんなだいそれた了簡ではない。ゆんべあんなに泣いたは全く私が悪かったから、全く私がとどかなかったのだから、お増や、お前がよく申訣をそういっておくれ……」
それからお増が、
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それからお増が、
「お母さんがお怒りになるのももっともですけれど、私が思うには、お母さんも少し勘違いをしていらっしゃいます。お母さんは長年お民さんをかわいがっていらっしゃるから、お民さんの気立てはご存じでしょう。私もこうして一年お世話になっていてみれば、お民さんは本当に優しくて素直な人です。お母さんに少しばかり叱られたからって、それを悔しがって泣いたりするような人ではありませんでしょう。私がこんなことを申しては変ですけれど、政夫さんとお民さんとは、あんなに仲良くしていらしたのに、何かのご都合で急にお別れになったものだから、それからというもの、お民さんはかわいそうなほど元気がないんです。木の葉が揺れる音にもため息をつき、烏(からす)が鳴くだけでも涙ぐんで、さわればすぐに泣きだしそうな様子でいたところへ、お母さんから少しきつく叱られたから、とめどなく泣いたのでしょう。お母さん、私は本当にそう思いますわ。お民さんは、決してあなたに叱られたからといって、悔しがるような人ではありません。お民さんのようなおとなしい人を、お母さんのようにあんなふうに叱っては、あんまりかわいそうですわ」
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「お母さんの御立腹も御尤もですけれど、私が思うにャお母さんも少し勘違いをして御いでなさいます。お母さんは永年お民さんをかわいがって御いでですから、お民さんの気質は解って居りましょう。私もこうして一年御厄介になって居てみれば、お民さんはほんと優しい温和しい人です。お母さんに少し許り叱られたって、それを悔しがって泣いたりなんぞする様な人ではありますまい。私がこんなことを申してはおかしいですが、政夫さんとお民さんとは、あアして仲好くして居たのを、何かの御都合で急にお別れなさったもんですから、それからというもの、お民さんは可哀相なほど元気がないのです。木の葉のそよぐにも溜息をつき烏の鳴くにも涙ぐんで、さわれば泣きそうな風でいたところへ、お母さんから少しきつく叱られたから留度なく泣いたのでしょう。お母さん、私は全くそう思いますわ。お民さんは決してあなたに叱られたとて悔しがるような人ではありません。お民さんの様な温和しい人を、お母さんの様にあアいって叱っては、あんまり可哀相ですわ」
お増がいっしょに泣きながら、そう言い訳をしてくれたので、もともと民子を憎んでいるわけではない母は、急に表情を和らげて、
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お増が共泣きをして言訣をいうたので、もとより民子は憎くない母だから、俄に顔色を直して、
「なるほど、お増がそう言ってくれると、私も少し勘違いをしていました。よくお増、そう言ってくれたね。私はもうすっかり気が晴れましたよ。民や、もう黙っておくれ、もう泣いてくれるな。民やもかわいそうだったね。なに、政夫は学校へ行っただけじゃないか。年の暮れには帰ってくるよ。なあお増、お前は今日は仕事を休んで、何かおいしい物でも作っておくれ」
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「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。よくお増そういうてくれた。私はもうすっかり心持がなおった。民や、だまっておくれ、もう泣いてくれるな。民やも可哀相であった。なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮には帰ってくるよ。なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵えてくれ」
その日は、三人が何度も集まっては、いろいろな物を作ってお茶を楽しみ、一日中、面白く話をした。
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その日は三人がいく度もよりあって、いろいろな物を拵えては茶ごとをやり、一日面白く話をした。
民子はこの日、いつになく高らかに笑い、元気よく過ごした。
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民子はこの日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。
何と言っても母のほうは、話せばすぐにわかってくれるけれど、嫂が、ことあるごとにいろいろなことを言うので、とうとう僕が帰らないうちに、民子を市川へ帰してしまった、という話だった。
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何と云っても母の方は直ぐ話が解るけれど、嫂が間がな隙がな種々なことを言うので、とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。
お増は長い話を終えるとすぐ、家へ帰っていった。
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お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。
なるほど、そうだったのか。嫂はもちろん、母までがそういう気持ちになっていたのでは、かすかな望みも絶たれたも同然だった。
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なるほどそうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望も絶えたも同様。
心細さのやりばがなく、泣くよりほかに、しかたがなかったのだろう。
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心細さの遣瀬がなく、泣くより外に詮がなかったのだろう。
そんなに母に叱られたのか……。一晩中泣きとおしたのか……。なるほど、と思うと、また熱い涙があふれ出して、とめどがなかった。
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そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、再び熱い涙が漲り出してとめどがない。
僕はしばらくの間、涙の出るままに、そこにぼんやりしていた。
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僕はしばらくの間、涙の出るがままにそこにぼんやりして居った。
その日はとうとう、朝ご飯も食べずに、昼過ぎまで畑のあたりをうろついてしまった。
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その日はとうとう朝飯もたべず、昼過ぎまで畑のあたりをうろついてしまった。
そうなると急に、家にいるのがいやでたまらなくなった。
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そうなると俄に家に居るのが厭でたまらない。
できるなら、年の暮れのうちに学校へ帰ってしまいたかったが、そういうわけにもいかず、ようやくこらえて年を越し、元日を一日過ごし、二日の日には朝早く、学校へ出発してしまった。
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出来るならば暮の内に学校へ帰ってしまいたかったけれど、そうもならないでようやくこらえて、年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立ってしまった。
今度は陸路で市川へ出て、市川から汽車に乗ったので、民子の家の近所を通ったのだが、僕はきまりが悪くて、どうしても民子の家に寄ることができなかった。
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今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったのであれど、僕は極りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。
また、僕が立ち寄ったら、民子が困るだろうとも思って、何度も寄ろうと思ったけれど、とうとう寄らなかった。
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また僕に寄られたらば、民子が困るだろうとも思って、いくたび寄ろうと思ったけれどついに寄らなかった。
思えば本当に、人の境遇というものは変わるものだ。
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思えば実に人の境遇は変化するものである。
その一年前までは、民子が僕のところへ来ていなければ、僕は日曜日のたびに、民子の家へ行っていたものだった。
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その一年前までは、民子が僕の所へ来て居なければ、僕は日曜のたびに民子の家へ行ったのである。
僕は民子の家へ行っても、他の人には用がなかった。
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僕は民子の家へ行っても外の人には用はない。
いつでも、
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いつでも、
「おばあさん、民さんは」
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「お祖母さん、民さんは」
ほら、「民さんは」
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そら「民さんは」
が来た、と言われるくらいで、ある時などは、僕が行くと、民子は庭で菊の花を摘んでいた。
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が来たといわれる位で、或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊の花を摘んで居た。
僕は「民さん、ちょっと来て」と、無理に裏口へ引っ張っていき、二間梯子(にけんばしご・長さ約三・六メートルの梯子)を二人で運び出して、柿の木にかけ、民子に押さえさせて、僕が登って柿を六個ほど採った。
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僕は民さん一寸御出でと無理に背戸へ引張って行って、二間梯子を二人で荷い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登って柿を六個許りとる。
民子に半分あげようとすると、民子は「一つで十分」と言うので、僕はその残りの五つを持って、そのまま裏から抜けて帰ってしまった。
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民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、僕はその五つを持ってそのまま裏から抜けて帰ってしまった。
さすがにこの時は、戸村の家でも家じゅうで僕のことを悪く言ったそうだが、民子だけは、ただにこにこと笑っていて、決して「政夫さんが悪い」とは言わなかったそうだ。
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さすがにこの時は戸村の家でも家中で僕を悪く言ったそうだけれど、民子一人はただにこにこ笑って居て、決して政夫さん悪いとは言わなかったそうだ。
これほど隔てのなかった間柄だったのに、恋というものを覚えてからは、市川の町を通るだけでも、恥ずかしくなってしまったのだった。
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これ位隔てなくした間柄だに、恋ということ覚えてからは、市川の町を通るすら恥かしくなったのである。
この年の夏休みには、家に帰らなかった。
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この年の暑中休みには家に帰らなかった。
年の暮れにも帰るまいと思ったが、年の暮れなのだから一日でも二日でも帰ってきなさい、と母から手紙が来たので、大晦日(おおみそか)の夜に帰ってきた。
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暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日の夜帰ってきた。
お増も、今年限りでこの家を辞めたという話で、いよいよ話し相手もなくなったから、また元日を一日過ごして、二日の日に出かけようとすると、母が、「お前にも言っておくが、民子は嫁に行ったよ。去年の十一月、やはり市川の中で、たいそう裕福な家だそうだ」と、あっさり言った。
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お増も今年きりで下ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往った、去年の霜月やはり市川の内で、大変裕福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。
僕は「はあ、そうですか」とあっさり答えて、出ていってしまった。
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僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。
民子は嫁に行った。
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民子は嫁に往った。
この一言を聞いた時の僕の気持ちは、自分でも不思議に思うほど、平気だった。
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この一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの平気であった。
僕が民子を思う気持ちには、何の動揺も起きなかった。
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僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかった。
これには何か、それなりの理由があるのかもしれないが、とにかく事実はそうだった。
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これには何か相当の理由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうである。
僕はただ、理屈ぬきに、民子はどんな境遇に入ろうとも、僕を思う気持ちは決して変わらないものだと信じていた。
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僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。
嫁に行こうがどうしようが、民子は相変わらず民子で、僕が民子を思う気持ちに少しも変わりがないように、民子の気持ちにも決して変わりがないように思われた。その考えは、まるで大きな岩の上に座っているように揺るぎなく、毛の先ほどの不安な気持ちもなかった。
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嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心もない。
だから、民子が嫁に行ったと聞いても、少しも驚かなかった。
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それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。
しかし、そのころから、これまでになかった考えも浮かんでくるようになった。
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しかしその頃から今までにない考えも出て来た。
民子は、ただただ少しも元気がなく、やせ衰えて、ふさぎこんでばかりいるだろうと、そう思われてならなかった。
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民子はただただ少しも元気がなく、痩衰えて鬱いで許り居るだろうとのみ思われてならない。
かわいそうな民さん、という思いばかりが、募ってくるのだった。
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可哀相な民さんという観念ばかり高まってきたのである。
そういうわけだから、学校へ行っても、以前とはほとんど逆になって、以前は努めて人の中に入り、苦しみを紛らそうとしたのに、今度はなるべく人を避けて、一人で民子のことに思いをはせて、それを楽しむようになっていた。
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そういう訣であるから、学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、以前は勉めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとしたけれど、今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳せて楽しんで居った。
茄子畑のことや、棉畑のことや、十三日の晩のさびしい風のことや、また矢切の渡し場で別れた時のことなどを、何度も何度も思い返しては、一人で心を慰めていた。
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茄子畑の事や棉畑の事や、十三日の晩の淋しい風や、また矢切の渡で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。
民子のことさえ考えれば、いつでも気分がよくなった。
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民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。
もちろん、悲しい気持ちになることもたびたびあったが、さんざん涙を流せば、やはりそのあとは気分がよくなった。
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勿論悲しい心持になることがしばしばあるけれど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。
民子のことを思っていると、かえって学校の成績も悪くないのだった。
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民子の事を思って居ればかえって学課の成績も悪くないのである。
これもまた不思議の一つで、どういう理由かはわからないが、僕は実際、そうだったのだ。
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これらも不思議の一つで、如何なる理由か知らねど、僕は実際そうであった。
いつしか月日もたって、忘れもしない六月二十二日、僕が算数の問題を解くのに苦労して考えていると、用務員が「斎藤さん、お家から電報です」と言って、机の端に置いていった。
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いつしか月も経って、忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題に苦んで考えて居ると、小使が斎藤さんおうちから電報です、と云って机の端へ置いて去った。
いつもの「スグカエレ」という電報だったので、さっそく寮長に話をして、その日のうちに帰省した。
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例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。
何事が起こったのかと、胸をどきどきさせながら帰ってみると、夕闇に包まれた家の様子は、意外に静かだった。
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何事が起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静かだ。
台所では、家じゅうがちょうど夕飯どきだったが、ただそこに母の姿が見えないだけで、他に変わった様子はなかった。
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台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った様子もない。
僕は台所には顔も出さず、まっすぐ母の寝間へ来た。
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僕は台所へは顔も出さず、直ぐと母の寝所へきた。
行灯(あんどん)の灯も薄暗く、母はぴったりと枕について、横になっていた。
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行燈の灯も薄暗く、母はひったり枕に就いて臥せって居る。
「お母さん、どうかしたんですか」
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「お母さん、どうかしましたか」
「ああ、政夫、よく早く帰ってきてくれたね。今、私も起きるから、お前、ご飯前ならご飯を済ませてしまいなさい」
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「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を済ましてしまえ」
僕は何のことなのか、しきりに気になったが、母がそう言うままに、急いでご飯を済ませて、また母のところへ来た。
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僕は何のことか頻りに気になるけれど、母がそういうままに早々に飯をすまして再び母の所へくる。
母は帯を結んで、布団の上に起き上がっていた。
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母は帯を結うて蒲団の上に起きていた。
僕が前に座っても、ただ黙っている。
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僕が前に坐ってもただ無言でいる。
見ると母は、雨のような涙を流しながら、うつむいていた。
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見ると母は雨の様な涙を落して俯向いている。
「お母さん、いったいどうしたんでしょう」
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「お母さん、まアどうしたんでしょう」
僕の言葉に励まされて、母はようやく涙をふき、
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僕の詞に励まされて母はようやく涙を拭き、
「政夫、堪忍しておくれ……。民子は死んでしまった……。私が殺したようなものだ……」
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「政夫、堪忍してくれ……民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……」
「それは、いつです。どうして民さんは死んだんですか」
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「そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです」
僕が夢中になって問い返すと、母は嗚咽(おえつ)にむせびながら、顔を押さえていた。
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僕が夢中になって問返すと、母は嗚咽び返って顔を抑えて居る。
「一部始終を聞いたら、きっとひどい親だと思うだろうが、こらえておくれ、政夫……。お前に一言も話をせず、どうしてもいやだという民子を無理に勧めて嫁にやったのが、こういうことになってしまった……。たとえ女のほうが年上であっても、本人同士が納得しているのなら、何も親だからといって余計な口出しをしなくてもよかったのに、この母が年がいもなく親ぶって、いらぬお節介を焼いて、取り返しのつかないことをしてしまった。民子は、私が手を下して殺したも同じことだ。どうか堪忍しておくれ、政夫……。私は民子のあとを追っていきたい……」
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「始終をきいたら、定めし非度い親だと思うだろうが、こらえてくれ、政夫……お前に一言の話もせず、たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやったのが、こういうことになってしまった……たとい女の方が年上であろうとも本人同志が得心であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、この母が年甲斐もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことをしてしまった。民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政夫……私は民子の跡追ってゆきたい……」
母はもう、おいおいと声を立てて泣いていた。
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母はもうおいおいおいおい声を立てて泣いている。
民子が死んだということだけはわかったが、何がどうしてそうなったのか、さっぱりわからなかった。
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民子の死ということだけは判ったけれど、何が何やら更に判らぬ。
僕にしても、民子の死と聞いて、気を失うほどの思いだったが、今、目の前で母の嘆きが並大抵でないのを見ては、泣くに泣けず、おろおろしているところへ、兄夫婦が出てきた。
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僕とて民子の死と聞いて、失神するほどの思いであれど、今目の前で母の嘆きの一通りならぬを見ては、泣くにも泣かれず、僕がおろおろしている所へ兄夫婦が出てきた。
「お母さん、まあそんなに泣いたって仕方がないでしょう」
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「お母さん、まアそう泣いたって仕方がない」
と言うと、母は「かまわないから泣かせておくれ、泣かせておくれ」と言うのだった。どうしようもなかった。
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と云えば母は、かまわずに泣かしておくれ泣かしておくれと云うのである、どうしようもない。
そんな中で、嫂がわずかに話すところを聞くと、市川のなにがしという家で、相手の男の気性もよく知られているうえ、財産も戸村の家の倍以上あり、それで向こうから民子をぜひにと望んできた。仲人というのも、戸村がお世話になっている人だったので、ぜひやりたい、ぜひ行ってほしい、ということになったらしい。
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その間で嫂が僅に話す所を聞けば、市川の某という家で先の男の気性も知れているに財産も戸村の家に倍以上であり、それで向うから民子を強っての所望、媒妁人というのも戸村が世話になる人である、是非やりたい是非往ってくれということになった。
民子は、どうしてもいやだと言った。
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民子はどうでもいやだと云う。
民子のいやだという気持ちはよくわかっているけれど、政夫さんのほうは年も違うし、まだ先の長いことだから、どうしてもその家へやりたい、というのが、戸村の人たちはもちろん、親類までの願いだった。
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民子のいやだという精神はよく判っているけれど、政夫さんの方は年も違い先の永いことだから、どうでも某の家へやりたいとは、戸村の人達は勿論親類までの希望であった。
それで、とうとう斎藤のお母さんに意見をしてもらうということに話が決まり、うちのお母さんが民子に何度意見をしても、泣いてばかりで承知しないから、しまいには、「お前がそう強情を張るのも、政夫のところへ行きたいという考えからだろうけれど、それはこの母が承知できないよ。お前はそれでも、今度の縁談が承知できないのかい」
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それでいよいよ斎藤のおッ母さんに意見をして貰うということに相談が極り、それで家のお母さんが民子に幾度意見をしても泣いてばかり承知しないから、とどのつまり、お前がそう剛情はるのも政夫の処へきたい考えからだろうけれど、それはこの母が不承知でならないよ、お前はそれでも今度の縁談が不承知か。
こんなふうに言われたので、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう「みなさんのいいようにしてください」と言って、承知した。
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こんな風に言われたから、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう皆様のよい様にといって承知をした。
それからは何もかも人の言うなりになって、十一月半ばに祝言(しゅうげん・結婚式)をあげたけれど、民子の気持ちが本当の承知ではないから、向こうでもいくらかいや気がさし、民子は身ごもったものの、六か月で流れてしまった。
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それからは何もかも他の言うなりになって、霜月半に祝儀をしたけれど、民子の心持がほんとうの承知でないから、向うでもいくらかいや気になり、民子は身持になったが、六月でおりてしまった。
その後の肥立ち(ひだち・お産のあとの体の回復)が非常に悪く、とうとう六月十九日に息を引き取った。
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跡の肥立ちが非常に悪くついに六月十九日に息を引き取った。
病気の間、僕に知らせようという話もあったが、今さら政夫に知らせる顔もない、ということで、知らせなかった。
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病中僕に知らせようとの話もあったが、今更政夫に知らせる顔もないという訣から知らせなかった。
うちのお母さんは、民子がまだ口をきけるうちから市川へ行っていて、民子が危なくなると、もう泣いて泣いて、泣き通しだった。
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家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。
事あるごとに、「民子は私が殺したようなものだ」とばかり言っていて、市川に置いたのではどうなるかわからないというので、昨日、車で家へ送られてきたのだ。
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一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、とばかりいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきたのだ。
何か話をすればすぐ泣き、泣けば「私が悪かった、悪かった」と言っている。
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話さえすれば泣く、泣けば私が悪かった悪かったと云って居る。
誰にもどうしようもないから、政夫さんのところへ電報を打った。
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誰にも仕様がないから、政夫さんの所へ電報を打った。
民子もかわいそうだし、お母さんもかわいそうだし、とんでもないことになってしまった。
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民子も可哀相だしお母さんも可哀相だし、飛んだことになってしまった。
政夫さん、どうしたらいいでしょう。
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政夫さん、どうしたらよいでしょう。
嫂の話で、だいたいのことはわかったが、僕もどうしていいのか、ほとんど途方に暮れてしまった。
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嫂の話で大方は判ったけれど、僕もどうしてよいやら殆ど途方にくれた。
母は、もう半分気が狂ったようになっていた。
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母はもう半気違いだ。
とにかく、ここでは母の心を静めるのが第一だと思ったけれど、慰めようがなかった。
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何しろここでは母の心を静めるのが第一とは思ったけれど、慰めようがない。
僕だって、いっそ気が狂ってしまいたいと思うほどだったから、母を慰めるだけの気力はなかった。
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僕だっていっそ気違いになってしまったらと思った位だから、母を慰めるほどの気力はない。
そうこうしているうちに、ようやく母も少し落ち着いてきて、また話し出した。
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そうこうしている内にようやく母も少し落着いてきて、また話し出した。
「政夫や、聞いておくれ。私はもう、自分の悪さにあきれてしまった。どうしてあんなひどいことを民子に言ったのだろう。今さらどれだけ悔やんでも仕方がないけれど、私は政夫……民子にこう言ったんだ。『政夫と夫婦にすることは、この母が承知しないから、お前は他へ嫁に行きなさい』と。なるほど民子は、私にそう言われてみれば、自分の身をあきらめるほかなかったわけだ。どうしてあんな酷いことを言ったのだろう。ああ、かわいそうなことをしてしまった。まったく、私が悪いことを言ったせいで、民子は死んだのだ。お前はね、明日の朝、夜が明けたらすぐに行って、よくよく民子のお墓にお参りしておくれ。それでお母さんが悪かったことを、よく詫びておくれ。ねえ、政夫」
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「政夫や、聞いてくれ。私はもう自分の悪党にあきれてしまった。何だってあんな非度いことを民子に言ったっけかしら。今更なんぼ悔いても仕方がないけど、私は政夫……民子にこう云ったんだ。政夫と夫婦にすることはこの母が不承知だからおまえは外へ嫁に往け。なるほど民子は私にそう云われて見れば自分の身を諦める外はない訣だ。どうしてあんな酷たらしいことを云ったのだろう。ああ可哀相な事をしてしまった。全く私が悪党を云うた為に民子は死んだ。お前はネ、明朝は夜が明けたら直ぐに往ってよオく民子の墓に参ってくれ。それでお母さんの悪かったことをよく詫びてくれ。ねイ政夫」
僕もようやく、泣くことができた。
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僕もようやく泣くことが出来た。
たとえどんな事情があったにせよ、いよいよ助かる見込みがなくなった時には、会わせてくれてもよかっただろうに、死んでから知らせるとは、ずいぶんひどい話だった。
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たといどういう都合があったにせよ、いよいよ見込がなくなった時には逢わせてくれてもよかったろうに、死んでから知らせるとは随分非度い訣だ。
民さんだって、僕に会いたかっただろう。
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民さんだって僕には逢いたかったろう。
嫁に行ってしまった身では、申し訳ないと思っただろうけれど、それでも、いよいよという真際(まぎわ)になっては、僕に会いたかったに違いない。
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嫁に往ってしまっては申訣がなく思ったろうけれど、それでもいよいよの真際になっては僕に逢いたかったに違いない。
実に情けないことだった。
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実に情ない事だ。
考えてみれば、僕もあまりに子どもだった。
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考えて見れば僕もあんまり児供であった。
その後、市川を三回も通りながら、訪ねなかったことが、今さら悔やまれてならなかった。
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その後市川を三回も通りながらたずねなかったは、今更残念でならぬ。
僕は、民子が嫁に行こうが行くまいが、ただ民子に会いさえすればよかったのだ。
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僕は民子が嫁にゆこうがゆくまいが、ただ民子に逢いさえせばよいのだ。
今一目、会いたかった……。次から次へと、果てしなく思いがあふれてきた。
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今一目逢いたかった……次から次と果てしなく思いは溢れてくる。
しかし、母にそんなことを言えば、今度は僕が母を殺すようなことになるかもしれない。
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しかし母にそういうことを言えば、今度は僕が母を殺す様なことになるかも知れない。
僕はきっと、気持ちを立て直した。
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僕は屹と心を取り直した。
「お母さん、本当に民子はかわいそうでした。しかし、取り返しのつかないことを、いくら悔やんでも仕方がありませんから、あとのことを、心を込めてしてあげるほかありません。お母さんは、ただただご自分が悪かったとばかり思っていらっしゃるけれど、お母さんの気持ちだって、ただ民子のため、政夫のためと、一途に思ってくださったことですから、たとえそれが思うようにならなかったとしても、民子や私が、どうしてお母さんを恨みましょう。お母さんの気持ちは、どこまでも思いやりの心からのものでしたから、民子も決して恨んではいないはずです。何もかも、こうなる運命だったのでしょう。私はもうあきらめました。どうか、この上はお母さんもあきらめてください。明日の朝は、夜が明けたら、すぐに市川へ参ります」
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「お母さん、真に民子は可哀相でありました。しかし取って返らぬことをいくら悔んでも仕方がないですから、跡の事を懇にしてやる外はない。お母さんはただただ御自分の悪い様にばかりとっているけれど、お母さんとて精神はただ民子のため政夫のためと一筋に思ってくれた事ですから、よしそれが思う様にならなかったとて、民子や私等が何とてお母さんを恨みましょう。お母さんの精神はどこまでも情心でしたものを、民子も決して恨んではいやしまい。何もかもこうなる運命であったのでしょう。私はもう諦めました。どうぞこの上お母さんも諦めて下さい。明日の朝は夜があけたら直ぐ市川へ参ります」
母はなおも言葉を続けて、
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母はなお詞を次いで、
「なるほど、何もかもこうなる運命だったのかもしれないけれど、今度という今度は、私はよくよく後悔しました。世間でよく『親馬鹿』と言うけれど、その親馬鹿が、とんでもない悪いことをした。親というものが、いつまでも物がわかったつもりでいるが、それは大変な間違いだった。私はもう、阿弥陀様におすがりして救っていただく以外に、助かる道はない。政夫や、お前は体を大事にしておくれ。思えば民子は、長い年月の間、ついぞ私に逆らったことはなかった。おとなしい子だっただけに、自分のしたことが悔やまれてならない。どうしても、かわいそうでたまらない。民子が最期の時のことも、お前に話して聞かせたいけれど、私にはとても、それができない」
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「なるほど何もかもこうなる運命かも知らねど今度という今度私はよくよく後悔しました。俗に親馬鹿という事があるが、その親馬鹿が飛んでもない悪いことをした。親がいつまでも物の解ったつもりで居るが、大へんな間違いであった。自分は阿弥陀様におすがり申して救うて頂く外に助かる道はない。政夫や、お前は体を大事にしてくれ。思えば民子はなが年の間にもついぞ私にさからったことはなかった、おとなしい児であっただけ、自分のした事が悔いられてならない、どうしても可哀相でたまらない。民子が今はの時の事もお前に話して聞かせたいけれど私にはとてもそれが出来ない」
などと、また声を曇らせた。
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などとまた声をくもらしてきた。
もう話せば話すほど悲しくなるからと、無理にでもみんなで寝ることにした。
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もう話せば話すほど悲しくなるからとて強いて一同寝ることにした。
母の手前、兄夫婦の手前、泣くまいとこらえて、ようやく持ちこたえていた僕は、自分の蚊帳(かや)へ入り、布団に倒れ込むと、もうたまらず、一度にこみ上げてきた。
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母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえてようやくこらえていた僕は、自分の蚊帳へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなく一度にこみ上げてくる。
口には手ぬぐいをかみしめて、涙を絞った。
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口へは手拭を噛んで、涙を絞った。
どれだけ涙が出ただろうか。隣の部屋の母から「夜が明けたようだよ」と声をかけられるまで、涙は少しも止まらなかった。
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どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるまで、少しも止まず涙が出た。
着物を着たまま寝ていた僕は、そのまま起きて顔を洗うと、まだほの暗いうちに家を出た。
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着たままで寝ていた僕はそのまま起きて顔を洗うや否や、未だほの闇いのに家を出る。
夢の中にいるように、二里(にり・約八キロ)の道を走って、太陽がようやく地平線に現れたころ、戸村の家の門前まで来た。
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夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現われた時分に戸村の家の門前まで来た。
この家のかまどのある場所は、庭から正面に見通せる。
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この家の竃のある所は庭から正面に見透して見える。
朝ご飯を炊くのに、麦わらを燃やして、パチパチと音がしていた。
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朝炊きに麦藁を焚いてパチパチ音がする。
僕が縁側の前に立つと、奥にいたおばあさんが、目ざとく見つけて出てきた。
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僕が前の縁先に立つと奥に居たお祖母さんが、目敏く見つけて出てくる。
「かねや、かねや、とみや……。政夫さんが来ましたよ。まあ、政夫さん、よく来てくれました。ずいぶん早くに。さあ、お上がりなさい。起きたばかりでしょう。さあ……かねや……」
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「かねや、かねや、とみや……政夫さんが来ました。まア政夫さんよく来てくれました。大そう早く。さアお上んなさい。起き抜きでしょう。さア……かねや……」
民子のお父さんとお母さん、民子のお姉さんもやってきた。
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民子のお父さんとお母さん、民子の姉さんも来た。
「まあ、よく来てくれました。あなたが来るのを待っていました。とにかく上がって、ご飯を食べて……」
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「まアよく来てくれました。あなたの来るのを待ってました。とにかくに上って御飯をたべて……」
僕は上がりもせず、腰もかけず、しばらく黙って立っていた。
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僕は上りもせず腰もかけず、しばらく無言で立っていた。
ようやくのことで、
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ようやくと、
「民さんのお墓に、お参りに来ました」
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「民さんのお墓に参りにきました」
その切なそうな様子は見ていられなかったのか、四人とも、口がきけなくなってしまった。……
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切なる様は目に余ったと見え、四人とも口がきけなくなってしまった。……
やがてお父さんが、
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やがてお父さんが、
「それでも、まあ、ちょっとご飯を済ませてから行ったら……。ああ、そうですか。それでは、みんなで一緒にお参りしてくるといいでしょう……。いや、着物など着替えなくていいじゃないか」
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「それでもまア一寸御飯を済して往ったら……あアそうですか。それでは皆して参ってくるがよかろう……いや着物など着替えんでよいじゃないか」
女の人たちは、もう鼻をすすりながら、「それじゃあ」と言って立ち上がった。
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女達は、もう鼻啜りをしながら、それじゃアとて立ちあがる。
水を持ち、線香を持ち、庭の花をたくさん摘んだ。
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水を持ち、線香を持ち、庭の花を沢山に採る。
小田巻草(おだまきそう)、千日草(せんにちそう)、天竺牡丹(てんじくぼたん・ダリア)と、それぞれ手に分けて持ち、出かけた。
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小田巻草千日草天竺牡丹と各々手にとり別けて出かける。
柿の木の下から裏口へ抜け、槇(まき)の生け垣の裏門を出ると、松林だった。
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柿の木の下から背戸へ抜け槇屏の裏門を出ると松林である。
桃畑や梨畑の間を行くと、わずかな田んぼがある。
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桃畑梨畑の間をゆくと僅の田がある。
その先の松林の片隅に雑木の森があって、たくさんの墓が見えた。
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その先の松林の片隅に雑木の森があって数多の墓が見える。
戸村家の墓地は、もちの木四、五本を中心にして、六坪(つぼ・約二十平方メートル)ほどが区切ってあった。
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戸村家の墓地は冬青四五本を中心として六坪許りを区別けしてある。
そのちょうどいい場所にある新しい墓が、民子の永遠のすみかだった。
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そのほどよい所の新墓が民子が永久の住家であった。
葬式をしてから雨にも遭わなかったので、まだ本当に新しいままで、力紙(ちからがみ・お墓に結ぶ紙)なども、今結んだばかりのようだった。
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葬りをしてから雨にも逢わないので、ほんの新らしいままで、力紙なども今結んだ様である。
おばあさんが先に出て、
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お祖母さんが先に出でて、
「さあ政夫さん、何もかも、あなたの手でやってください。民子にとっては、本当に千人のお坊さんの供養にもまさる、あなたのお花とお線香です。どうぞ政夫さん、よくよくお参りしてやってください……。今日は民子も、きっと草葉の陰で喜んでいるでしょう……。ねえ、この人に、せめて一度でも……目を閉じきれなかった民子に……。まあ、せめて一度でも会わせてやりたかった……」
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「さア政夫さん、何もかもあなたの手でやって下さい。民子のためには真に千僧の供養にまさるあなたの香花、どうぞ政夫さん、よオくお参りをして下さい……今日は民子も定めて草葉の蔭で嬉しかろう……なあ此人にせめて一度でも、目をねむらない民子に……まアせめて一度でも逢わせてやりたかった……」
三人は、目をこすっている様子だった。
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三人は眼をこすっている様子。
僕は線香をあげ、花を供え、水を注いでから、墓の前にしゃがみこんで、心のゆくまで拝んだ。
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僕は香を上げ花を上げ水を注いでから、前に蹲って心のゆくまで拝んだ。
本当に、情けないことだった。
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真に情ない訣だ。
寿命で死ぬのは仕方がないにしても、長く病気で寝ている間に、ああ、見舞ってやりたかった、一目会いたかった。
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寿命で死ぬは致方ないにしても、長く煩って居る間に、あア見舞ってやりたかった、一目逢いたかった。
僕も民さんに会いたかったし、民さんだって僕に会いたかったに違いない。
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僕も民さんに逢いたかったもの、民さんだって僕に逢いたかったに違いない。
無理やり強いられたとはいえ、嫁に行ってしまっては、僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。
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無理無理に強いられたとは云え、嫁に往っては僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。
思えばそれが、あわれでならなかった。
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思えばそれが愍然でならない。
あんなにおとなしい民さんなのだから、両親から親類じゅうまでかかって強いられたのでは、どうしてそれを拒めただろうか。
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あんな温和しい民さんだもの、両親から親類中かかって強いられ、どうしてそれが拒まれよう。
民さんが気の強い人だったら、きっと自殺をしただろうけれど、おとなしい人だっただけに、それもできなかったのだ。
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民さんが気の強い人ならきっと自殺をしたのだけれど、温和しい人だけにそれも出来なかったのだ。
民さんが嫁に行っても、僕の気持ちに変わりはないと、せめて僕の口から一言伝えて、死なせてやりたかった。
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民さんは嫁に往っても僕の心に変りはないと、せめて僕の口から一言いって死なせたかった。
世の中に、情けないといっても、これほど情けないことがあるだろうか。
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世の中に情ないといってこういう情ないことがあろうか。
もう僕も、生きていたくない……。思わず声を出して、僕は両膝と両手を地べたについてしまった。
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もう私も生きて居たくない……吾知らず声を出して僕は両膝と両手を地べたへ突いてしまった。
僕の様子を見て、後ろにいた人たちが、どれほど泣いたことだろうか。
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僕の様子を見て、後に居た人がどんなに泣いたか。
僕も、自分一人ではないことに気がついて、ようやく立ち上がった。
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僕も吾一人でないに気がついてようやく立ちあがった。
三人のうち誰が言うのか、
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三人の中の誰がいうのか、
「どうして民子は、政夫さんのことを、一言も言わなかったんだろう……」
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「なんだって民子は、政夫さんということをば一言も言わなかったのだろう……」
「それほど思い合っている仲だと知っていたら、あんなに嫁入りを勧めはしなかったのに」
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「それほどに思い合ってる仲と知ったらあんなに勧めはせぬものを」
「うすうすは、わかっていたことなのに。この方の気持ちも聞いてみないで、民子もあれほどいやがっていたのに……。いくら若いからといって、あんまりだった……。かわいそうに……」
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「うすうすは知れて居たのだに、この人の胸も聞いて見ず、民子もあれほどいやがったものを……いくら若いからとてあんまりであった……可哀相に……」
三人も、線香や花を供え、水を注いだ。
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三人も香花を手向け水を注いだ。
おばあさんがまた、
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お祖母さんがまた、
「政夫さん、あなた、力紙を結んでください。たくさん結んでください。民子は、あなたの情けの力を頼りに、あの世へ行くのですから。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
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「政夫さん、あなた力紙を結んで下さい。沢山結んで下さい。民子はあなたが情の力を便りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
僕は、ふところにあった紙をありったけ、力杖(ちからづえ・お墓に立てる杖)に結びつけた。
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僕は懐にあった紙の有りたけを力杖に結ぶ。
この時、ふと気がついた。
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この時ふっと気がついた。
民さんは、野菊がとても好きだったのに。野菊を掘ってきて、植えればよかった。
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民さんは野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。
いや、今すぐ掘ってきて植えよう。
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いや直ぐ掘ってきて植えよう。
そう考えてあたりを見ると、不思議なことに、野菊が茂っていた。
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こう考えてあたりを見ると、不思議に野菊が繁ってる。
弔いに来た人たちに踏まれたらしいが、それでも茎はまっすぐ立って、青々としていた。
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弔いの人に踏まれたらしいがなお茎立って青々として居る。
民さんは、野菊の中に葬られたのだった。
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民さんは野菊の中へ葬られたのだ。
僕は、ようやく少し落ち着いて、みんなと一緒に墓地をあとにした。
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僕はようやく少し落着いて人々と共に墓場を辞した。
「僕は、何も欲しくありません。」
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僕は何にもほしくありません。
「ご飯はもちろん、お茶も欲しくないです。このまま失礼します。明日はまた早くうかがいますから」と言って帰ろうとすると、家じゅうで引き留めた。
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御飯は勿論茶もほしくないです、このままお暇願います、明日はまた早く上りますからといって帰ろうとすると、家中で引留める。
民子のお母さんは、もうたまらなそうな様子で、
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民子のお母さんはもうたまらなそうな風で、
「政夫さん、あなたにそうして帰られては、私たちは居ても立ってもいられません。あなたが面白くないお気持ちでいらっしゃることは、重々察しています。考えてみれば、私たちが至らなかったために、民子にもかわいそうな死に方をさせ、政夫さんにも申し訳のないことをしてしまったのです。私たちは、どのようにでもあなたにお詫びをいたします。民子をかわいそうだとお思いになるなら、どうか、民子の最期の話も聞いていってくださいな。あなたがいらしたら、お話ししようと思って、今日いらっしゃるか、明日いらっしゃるかと、実は家じゅうでお待ちしていたのですから、どうぞ……」
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「政夫さん、あなたにそうして帰られては私等は居ても起ってもいられません。あなたが面白くないお心持は重々察しています。考えてみれば私どもの届かなかったために、民子にも不憫な死にようをさせ、政夫さんにも申訣のないことをしたのです。私共は如何様にもあなたにお詫びを致します。民子可哀相と思召したら、どうぞ民子が今はの話も聞いて行って下さいな。あなたがお出でになったら、お話し申すつもりで、今日はお出でか明日はお出でかと、実は家中がお待ち申したのですからどうぞ……」
そう言われては、僕も帰るわけにいかず、それに母もそう言っていたことを思い出して、座敷に上がった。
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そう言われては僕も帰る訣にゆかず、母もそう言ったのに気がついて座敷へ上った。
お茶やご飯などを出されたけれど、形だけで済ませた。
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茶や御飯やと出されたけれども真似ばかりで済ます。
そのうちに、みんなが奥へ集まり、おばあさんが話し出した。
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その内に人々皆奥へ集りお祖母さんが話し出した。
「政夫さん、民子のことについては、私たち一同、本当に申し訳がなく、あなたに合わせる顔がないのです。あなたには、いろいろ無念に思われるところもあるでしょうが、どうか政夫さん、過ぎ去ったこととあきらめて、お許しください。あなたにお詫びをすることが、何より民子の供養になるのです」
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「政夫さん、民子の事については、私共一同誠に申訣がなく、あなたに合せる顔はないのです。あなたに色々御無念な処もありましょうけれど、どうぞ政夫さん、過ぎ去った事と諦めて、御勘弁を願います。あなたにお詫びをするのが何より民子の供養になるのです」
僕はただもう、胸がいっぱいで、何も言うことができなかった。
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僕はただもう胸一ぱいで何も言うことが出来ない。
おばあさんは話を続けた。
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お祖母さんは話を続ける。
「実を申しますと、あなたのお母さんをはじめ、私も、また民子の両親も、あなたと民子がそれほど深い仲だったとは、知らなかったものですから」
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「実はと申すと、あなたのお母さん始め、私また民子の両親とも、あなたと民子がそれほど深い間であったとは知らなかったもんですから」
僕はここで一言、言い出した。
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僕はここで一言いいだす。
「民さんと私が深い仲とおっしゃっても、民さんと私は、何もしていません」
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「民さんと私と深い間とおっしゃっても、民さんと私とはどうもしやしません」
「いいえ、あなたと民子がどうこうしたと申すのではないのです。もともとあなたと民子は、たいそう仲がよかったですから、それがどうしてもわからなかったのです。それに民子は、あの通りの内気な子でしたから、あなたのことは一言も口に出しません。まったく知らなかったとは申せません。それですから、お詫びを申し上げるようなわけで……」
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「いイえ、あなたと民子がどうしたと申すではないのです。もとからあなたと民子は非常な仲好しでしたから、それが判らなかったんです。それに民子はあの通りの内気な児でしたから、あなたの事は一言も口に出さない。それはまるきり知らなかったとは申されません。それですからお詫びを申す様な訣……」
僕は、皆さんにそんなにお詫びを言われるいわれはありません、と言った。
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僕は皆さんにそんなにお詫びを云われる訣はないという。
民子のお父さんは、お詫びを言わせてほしい、と言った。
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民子のお父さんはお詫びを言わしてくれという。
「それは政夫さんの言うことはもっともです。私たちが勝手なことをして、勝手なことをお前さんに言う、というものですが、政夫さん、聞いてください。理屈の上のことではないのです。男親の口からこんなことを言うのもどうかと思いますが、民子は、命にも代えられない思いを捨てて、両親の望みに従ったのです。親の言いつけには背けないと思っても、道理で感情を抑えるのには、やはり無理なところもあったでしょう。民子の死は、まったくそれが原因ですから、親の身になってみると、どうも残念でならず、政夫さんが言う通り、お前さんたち二人には何の罪もないだけに、親の目から見ると、なおさらかわいそうでね。あの通りおとなしかった民子は、自分が死ぬのも自分の運命とあきらめたのか、ついぞ一度も不満らしい様子も見せなかったのです。あれやこれやを思うとね、どう考えても、少し親が無慈悲だったような気がして……。政夫さん、わかってください。ご覧の通り、家じゅうがもう、悲しみの闇に閉ざされているのです。愚かなことでしょうが、この場合、お前さんに民子の話を聞いてもらうのが、何よりの慰めに思われますから、年がいもないことを言うようですが、どうか聞いてやってください」
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「そりゃ政夫さんのいうのは御もっともです、私共が勝手なことをして、勝手なことをお前さんに言うというものですが、政夫さん聞いて下さい、理窟の上のことではないです。男親の口からこんなことをいうも如何ですが、民子は命に替えられない思いを捨てて両親の希望に従ったのです。親のいいつけで背かれないと思うても、道理で感情を抑えるは無理な処もありましょう。民子の死は全くそれ故ですから、親の身になって見ると、どうも残念でありまして、どうもしやしませんと政夫さんが言う通り、お前さん等二人に何の罪もないだけ、親の目からは不憫が一層でな。あの通り温和しかった民子は、自分の死ぬのは心柄とあきらめてか、ついぞ一度不足らしい風も見せなかったです。それやこれやを思いますとな、どう考えてもちと親が無慈悲であった様で……。政夫さん、察して下さい。見る通り家中がもう、悲しみの闇に鎖されて居るのです。愚かなことでしょうがこの場合お前さんに民子の話を聞いて貰うのが何よりの慰藉に思われますから、年がいもないこと申す様だが、どうぞ聞いて下さい」
おばあさんが、また話を続けた。
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お祖母さんがまた話を続ける。
結婚の話から、いよいよむずかしくなるまでの話は、嫂が家で話してくれたことと同じで、最期の日の話は、こうだった。
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結婚の話からいよいよむずかしくなったまでの話は嫂が家での話と同じで、今はという日の話はこうであった。
「六月十七日の午後に、お医者さんが来て、『もう一日二日のうちですから、親類などに知らせるなら、今日じゅうにも知らせるといいでしょう』と言いますから、それではと、取り急ぎあなたのお母さんに知らせに行くと、十八日の朝、飛んできてくれました。その日は民子も顔色がよく、はっきりと話もしました。あなたのお母さんが来て、『民や、決して気を弱くしてはいけないよ。どうしても、もう一度なおる気持ちになっておくれよ、民や……』と言うと、民子はにっこりと笑顔さえ見せて、『矢切のお母さん、いろいろとありがとうございます。長い間かわいがっていただいたご恩は、死んでも忘れません。私も、もう長くはないでしょう……』と言いました。『民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっかりしなくてはいけないよ』と、あなたのお母さんが言うと、民子はしばらくたってから、『矢切のお母さん、私は死ぬのが本望です。死ねば、それでいいのです……』と言って、それからなお口の中で何か言ったようで、たぶん政夫さん、あなたのことを言ったに違いないのですが、よく聞き取れませんでした。それきり口はきかないまま、その夜明けに息を引き取りました……。それから政夫さん、こういうわけなのです……。夜が明けてから、枕を直させる時、あの子の母が見つけたのですが、民子は左の手に、紅絹(もみ・赤く染めた絹の布)の切れに包んだ小さな物を握って、その手を胸の上に乗せていたのです。それで家じゅうの者が皆集まって、それをどうしようかと相談しましたが、かわいそうなような気もするけれど、見ないでおくのも気にかかる。とにかく開けて見るのがいいだろうと、あの子の父が言い出しまして、皆のいる前で開けました。それが政夫さん、あなたの写真と、あなたのお手紙でありまして……」
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「六月十七日の午後に医者がきて、もう一日二日の処だから、親類などに知らせるならば今日中にも知らせるがよいと言いますから、それではとて取敢ずあなたのお母さんに告げると十八日の朝飛んできました。その日は民子は顔色がよく、はっきりと話も致しました。あなたのおっかさんがきまして、民や、決して気を弱くしてはならないよ、どうしても今一度なおる気になっておくれよ、民や……民子はにっこり笑顔さえ見せて、矢切のお母さん、いろいろ有難う御座います。長長可愛がって頂いた御恩は死んでも忘れません。私も、もう長いことはありますまい……。民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっかりしなくてはいけないと、あなたのお母さんが云いましたら、民子はしばらくたって、矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります、死ねばそれでよいのです……といいましてからなお口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違いないですが、よく聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、その夜の明方に息を引取りました……。それから政夫さん、こういう訣です……夜が明けてから、枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹の切れに包んだ小さな物を握ってその手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集って、それをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置くのも気にかかる、とにかく開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……」
おばあさんが泣きだして、そこにいた人たちは皆、涙をふいていた。
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お祖母さんが、泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。
僕はひたすら、畳を見つめていた。
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僕は一心に畳を見つめていた。
やがて、おばあさんがようやく話を続けた。
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やがてお祖母さんがようよう話を次ぐ。
「そのお手紙を、お富が読みましたから、誰も彼も一度に声を立てて泣きました。あの子の父は、男でありながら、大声を出して泣くのです。あなたのお母さんは、気が変になってしまうのではないかと思うほど、繰り言を言いながら泣くのです。『お前たち二人が、これほどの深い仲だったとは知らずに、無理やり勧めて嫁にやったのが悪かった。ああ、悪いことをした。かわいそうなことをした。民や、堪忍して。私が悪かったから、堪忍しておくれ』と。急な騒ぎだったので、近所の人たちが、『どうしましたか』と言って、様子を見に来たほどでした。それでも、あなたのお母さんはどうしても泣きやまないのです。体にさわってはいけないと思いまして、葬式が済むと、車でお送り申し上げた次第です。自分の身をあきらめていた民子の気持ちが、こうしてわかってみると、誰も彼も同じ思いで、今さらのように、無理に嫁にやったことが悔やまれて、たまらないのです。考えれば考えるほど、あの子がかわいそうで、かわいそうで、いても立ってもいられない……。せめてあなたに来ていただいて、皆が悪かったことを十分にお詫びし、またあの子の墓にも、あなたの手からお花とお線香を手向けていただいたら、少しは家じゅうの気持ちも休まるかと思いまして……。今日のことを、どれほど待ったことでしょう。政夫さん、どうかわかってください。ねえ、民子はあなたに背いてはいません。どうか、かわいそうだと思ってやってください……」
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「そのお手紙をお富が読みましたから、誰も彼も一度に声を立って泣きました。あれの父は男ながら大声して泣くのです。あなたのお母さんは、気がふれはしないかと思うほど、口説いて泣く。お前達二人がこれほどの語らいとは知らずに、無理無体に勧めて嫁にやったは悪かった。あア悪いことをした、不憫だった。民や、堪忍して、私は悪かったから堪忍してくれ。俄の騒ぎですから、近隣の人達が、どうしましたと云って尋ねにきた位でありました。それであなたのお母さんはどうしても泣き止まないです。体に障ってはと思いまして葬式が済むと車で御送り申した次第です。身を諦めた民子の心持が、こう判って見ると、誰も彼も同じことで今更の様に無理に嫁にやった事が後悔され、たまらないですよ。考えれば考えるほどあの児が可哀相で可哀相で居ても起っても居られない……せめてあなたに来て頂いて、皆が悪かったことを十分あなたにお詫びをし、またあれの墓にも香花をあなたの手から手向けて頂いたら、少しは家中の心持も休まるかと思いまして……今日のことをなんぼう待ちましたろ。政夫さん、どうぞ聞き分けて下さい。ねイ民子はあなたにはそむいては居ません。どうぞ不憫と思うてやって下さい……」
一言一句、すべてが涙にくれた話で、僕もしばらくの間、泣き伏してしまった。
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一語一句皆涙で、僕も一時泣きふしてしまった。
民子は、死ぬのが本望だと言ったのか、そう言ったのか……。うちの母が、あんなに自分を責めて泣いていたのも、当然のことだった。
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民子は死ぬのが本望だと云ったか、そういったか……家の母があんなに身を責めて泣かれるのも、その筈であった。
僕は、
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僕は、
「おばあさん、よくわかりました。私は、民さんの気持ちはよくわかっています。去年の春、民さんが嫁に行かれたと聞いた時でさえ、私は民さんのことを、少しも疑いませんでしたもの。どんなことがあろうとも、私が民さんを思う気持ちは変わりません。うちの母なども、ただそれだけを言って嘆いていますが、それもみな、悪気があってのことではないのですから、私はもちろん、民さんだって、決して恨みには思わないでしょう。何もかも、定められた縁だとあきらめます。私は、しばらくの間、毎日お墓へ参ります……」
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「お祖母さん、よく判りました。私は民さんの心持はよく知っています。去年の春、民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛ほども疑わなかったですもの。どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りません。家の母などもただそればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があっての業でないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」
話しては泣き、泣いては話し、あちらが一言、こちらが一言と、いくら泣いても果てしがなかった。
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話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。
僕は、うちの母のことも気にかかったので、もうお昼だという時分に、戸村の家を辞した。
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僕は母のことも気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。
戸村のお母さんは、民子の墓の前での僕の様子があまりに痛々しかったので、道中が心配だと言って、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。
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戸村のお母さんは、民子の墓の前で僕の素振りが余り痛わしかったから、途中が心配になるとて、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。
民子のあわれさは、いくら思っても思い尽くせなかった。
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民子の愍然なことはいくら思うても思いきれない。
いくら泣いても泣ききれなかった。
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いくら泣いても泣ききれない。
しかしまた、目の前にいる母が、後悔の念に苦しめられ、自分が大きな罪を犯したと信じて嘆いている、そのあわれな姿を見ると、僕はどうしても、今は民子のために泣いてばかりはいられなかった。
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しかしながらまた目の前の母が、悔悟の念に攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いている愍然さを見ると、僕はどうしても今は民子を泣いては居られない。
僕がめそめそしていては、母の苦しみが増すばかりだと気がついた。
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僕がめそめそして居ったでは、母の苦しみは増すばかりと気がついた。
それから、一心に自分で自分を励まし、元気なふりをして、ひたすら母を慰める工夫をした。
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それから一心に自分で自分を励まし、元気をよそおうてひたすら母を慰める工夫をした。
それでも、心にないことはやはり無理があるもので、母はいつしか、それに気がついている様子だった。そうなっては、僕が家にいないほかなかった。
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それでも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気がついてる様子、そうなっては僕が家に居ないより外はない。
毎日、七日の間、市川へ通って、民子の墓のまわりには、野菊が一面に植えられた。
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毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。
その次の日に、僕は、母の気持ちが十分に休まるように、自分の思いを話して、きっぱりと学校へ出発した。
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その翌くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。
* * *
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民子はやむを得ない結婚をして、とうとうこの世を去り、僕はやむを得ない結婚をして、生きながらえている。
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民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。
民子は、僕の写真と僕の手紙とを、胸から離さずに持っていることだろう。
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民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。
あの世とこの世とで、はるかに隔たっていても、僕の心は一日たりとも、民子のことを離れない。
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幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。