山椒大夫 小学生向け
森鴎外(もりおうがい)・1972年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
越後(えちご)の春日(かすが)というところを通って今津へ向かう道を、めずらしい旅人の一行が歩いていた。
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越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。
母は三十歳を少し過ぎたばかりの女の人で、二人の子どもを連れていた。
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母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。
姉は十四歳、弟は十二歳だった。
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姉は十四、弟は十二である。
それに四十歳くらいの女中が一人ついていて、疲れきった二人のきょうだいに、「もうすぐ宿に着きますよ」
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それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」
と声をかけて、はげまして歩かせようとしていた。
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と言って励まして歩かせようとする。
二人のうち、姉のほうは足を引きずるようにして歩いていたが、それでも気が強く、疲れていることを母や弟に知られたくないので、時々思い出したように元気よく歩いてみせた。
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二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。
近くの道をお参りにでも歩くのなら、ふさわしく見えそうな一行だが、笠(かさ)や杖(つえ)を持ったしっかりした旅支度をしているのが、誰の目にもめずらしく、また気の毒に感じられるのだった。
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近い道を物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。
道は、農家が途切れたり続いたりする間を通っていた。
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道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。
砂や小石は多いが、秋らしいよく晴れた日にすっかり乾いていて、しかも粘土がまじっているのでよく固まっており、海のそばの道のようにくるぶしが埋まって歩きにくいということはなかった。
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砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝を埋めて人を悩ますことはない。
わらぶき屋根の家が何軒も立ち並んだ一角が、柞(ははそ・くぬぎに似た木)の林に囲まれていて、そこに夕日がまぶしく差しているところを通りかかった。
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藁葺きの家が何軒も立ち並んだ一構えが柞の林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉(もみじ)をごらんなさい」
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「まああの美しい紅葉をごらん」
と、先に立って歩いていた母が、指さして子どもに言った。
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と、先に立っていた母が指さして子供に言った。
子どもは母が指さすほうを見たが、何も言わなかったので、女中が言った。
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子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。
「木の葉があんなに色づくのですから、朝や晩が寒くなったのも当然ですね」
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「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
姉が急に弟のほうを振り返って言った。
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姉娘が突然弟を顧みて言った。
「早くお父様のいらっしゃるところへ行きたいわね」
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「早くお父うさまのいらっしゃるところへ往きたいわね」
「姉さん。まだなかなか行けないよ」
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「姉えさん。まだなかなか往かれはしないよ」
弟は、ものわかりがいい様子で答えた。
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弟は賢しげに答えた。
母が言い聞かせるように言った。
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母が諭すように言った。
「そうですよ。これまで越えてきたような山をたくさん越えて、川や海を船で何度も渡らなければ行けないのですよ。毎日がんばって、おとなしく歩かなくては」
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「そうですとも。今まで越して来たような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出しておとなしく歩かなくては」
「でも早く行きたいんですもの」
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「でも早く往きたいのですもの」
と、姉は言った。
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と、姉娘は言った。
一行はしばらく黙って歩いた。
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一群れはしばらく黙って歩いた。
向こうから、空の桶(おけ)をかついで来る女の人がいた。
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向うから空桶を担いで来る女がある。
塩を作る浜(塩浜)から帰る、潮汲み女(しおくみおんな・海水をくむ仕事の女の人)だった。
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塩浜から帰る潮汲み女である。
それに女中が声をかけた。
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それに女中が声をかけた。
「もしもし。このあたりに旅人を泊める宿はありませんか」
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「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」
潮汲み女は足を止めて、主人と使用人あわせて四人の一行を見渡した。
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潮汲み女は足を駐めて、主従四人の群れを見渡した。
そして、こう言った。
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そしてこう言った。
「まあ、お気の毒に。ちょうど困るところで日が暮れますね。この土地には、旅の人を泊めてあげる家は一軒もありませんよ」
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「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
女中が言った。
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女中が言った。
「それは本当ですか。どうしてそんなに人情のない土地なのでしょう」
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「それは本当ですか。どうしてそんなに人気が悪いのでしょう」
二人の子どもは、盛り上がってきた話の様子が気になって、潮汲み女のそばに寄ってきたので、女中と合わせて三人でその女の人を取り囲む形になった。
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二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
潮汲み女は言った。
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潮汲み女は言った。
「いいえ。信心深い人が多くて、人柄のいい土地なのですが、国守(くにのかみ・国を治める役人)の決まりだから仕方がありません。もうあそこに」
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「いいえ。信者が多くて人気のいい土地ですが、国守の掟だからしかたがありません。もうあそこに」
と言いかけて、女の人は自分が今来た道を指さした。
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と言いさして、女は今来た道を指さした。
「もうあそこに見えていますが、あの橋のところまで行くと、高札(たかふだ・お知らせを書いて立てておく札)が立っています。そこにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ、悪い人買い(人を売り買いする者)がこのあたりをうろついています。それで、旅人に宿を貸して長く泊まらせた者は罰を受けることになっていて、まわりの七軒の家まで巻きぞえになるそうです」
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「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札が立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはお咎めがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」
「それは困りますね。子どもたちもいらっしゃるし、もうそんなに遠くまでは行けません。何かいい方法はありませんでしょうか」
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「それは困りますね。子供衆もおいでなさるし、もうそう遠くまでは行かれません。どうにかしようはありますまいか」
「そうですね。わたしが毎日通う塩浜のあたりまで、あなた方が行かれると、夜になってしまうでしょう。どこかいい場所を見つけて、野宿をするよりほかに、しかたがないでしょう。わたしの考えでは、あそこの橋の下でお休みになるのがいいと思います。岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きな材木がたくさん立ててあります。荒川の上流から流されてきた材木です。昼間はその下で子どもが遊んでいますが、奥のほうには日もささず、暗くなっている場所があります。そこなら風も通らないでしょう。わたしはこうして毎日通っている塩浜の持ち主のところに住んでいます。すぐそこの柞(ははそ)の森の中です。夜になったら、藁(わら)や薦(こも)を持って行ってあげましょう」
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「そうですね。わたしの通う塩浜のあるあたりまで、あなた方がおいでなさると、夜になってしまいましょう。どうもそこらでいい所を見つけて、野宿をなさるよりほか、しかたがありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休みなさるがいいでしょう。岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川の上から流して来た材木です。昼間はその下で子供が遊んでいますが、奥の方には日もささず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜の持ち主のところにいます。ついそこの柞の森の中です。夜になったら、藁や薦を持って往ってあげましょう」
子どもたちの母は、少し離れたところに一人で立ってこの話を聞いていたが、このとき、潮汲み女のそばに進み寄って言った。
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子供らの母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、このとき潮汲み女のそばに進み寄って言った。
「よい方に出会えましたのは、わたしどもの幸せでございます。そこへ行って休みましょう。どうぞ藁や薦をお借りしたいのです。せめて子どもたちにだけでも、敷いたり掛けたりしてやりたいのです」
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「よい方に出逢いましたのは、わたしどもの為合せでございます。そこへ往って休みましょう。どうぞ藁や薦をお借り申しとうございます。せめて子供たちにでも敷かせたりきせたりいたしとうございます」
潮汲み女は引き受けて、柞(ははそ)の林のほうへ帰って行った。
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潮汲み女は受け合って、柞の林の方へ帰って行く。
主人と使用人あわせて四人は、橋のあるほうへ急いだ。
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主従四人は橋のある方へ急いだ。
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荒川にかけられた応化橋(おうげのはし)のたもとに、一行はやって来た。
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荒川にかけ渡した応化橋の袂に一群れは来た。
潮汲み女が言った通りに、新しい高札が立っていた。
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潮汲み女の言った通りに、新しい高札が立っている。
そこに書いてある国守の決まりも、女の人が言った通りだった。
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書いてある国守の掟も、女の詞にたがわない。
人買いがうろついているのなら、その人買いを取り調べればよさそうなものである。
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人買いが立ち廻るなら、その人買いの詮議をしたらよさそうなものである。
旅人を宿に泊まらせないようにして、日が暮れて困っている者を道に迷わせるような決まりを、国守はどうして定めたのだろうか。
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旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。
行き届かない、ひどいやり方である。
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ふつつかな世話の焼きようである。
しかし、昔の人にとっては、決まりは決まりだった。
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しかし昔の人の目には掟である。
子どもたちの母は、ただそのような決まりのある土地にめぐり合わせた運命を嘆くだけで、決まりが良いか悪いかは考えなかった。
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子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命を歎くだけで、掟の善悪は思わない。
橋のたもとに、河原へ洗濯をしに降りる人が通る道があった。
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橋の袂に、河原へ洗濯に降りるものの通う道がある。
そこから一行は河原に降りた。
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そこから一群れは河原に降りた。
なるほど、大きな材木が石垣に立てかけてあった。
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なるほど大層な材木が石垣に立てかけてある。
一行は石垣に沿って、材木の下へくぐって入って行った。
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一群れは石垣に沿うて材木の下へくぐってはいった。
男の子はおもしろがって、先に立って勢いよく入って行った。
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男の子は面白がって、先に立って勇んではいった。
奥深くもぐって入ると、洞穴(ほらあな)のようになった場所があった。
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奥深くもぐってはいると、洞穴のようになった所がある。
下には大きな材木が横になっていたので、まるで床を張ったようだった。
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下には大きい材木が横になっているので、床を張ったようである。
男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗り、一番奥の隅に入って、「姉さん、早くおいでよ」
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男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗って、一番隅へはいって、「姉えさん、早くおいでなさい」
と呼んだ。
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と呼ぶ。
姉はおそるおそる弟のそばへ行った。
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姉娘はおそるおそる弟のそばへ往った。
「まあ、お待ちくださいませ」
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「まあ、お待ち遊ばせ」
と女中が言って、背負っていた包みをおろした。
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と女中が言って、背に負っていた包みをおろした。
そして着替えの服を取り出し、子どもたちをわきへ寄らせて、隅のところに敷いた。
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そして着換えの衣類を出して、子供を脇へ寄らせて、隅のところに敷いた。
そこに親子を座らせた。
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そこへ親子をすわらせた。
母親が座ると、二人の子どもが左右からすがりついた。
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母親がすわると、二人の子供が左右からすがりついた。
岩代(いわしろ)の信夫郡(しのぶごおり)にあった住まいを出てから、親子はここまで来るあいだに、家の中であっても、この材木の陰よりひどい場所で寝たことがあった。
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岩代の信夫郡の住家を出て、親子はここまで来るうちに、家の中ではあっても、この材木の蔭より外らしい所に寝たことがある。
不自由な暮らしにもだんだん慣れて、もうそれほど苦にはならなかった。
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不自由にも次第に慣れて、もうさほど苦にはしない。
女中の包みから出てきたのは、衣類だけではなかった。
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女中の包みから出したのは衣類ばかりではない。
用心のために持っている食べ物もあった。
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用心に持っている食べ物もある。
女中はそれを親子の前に出して置いて言った。
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女中はそれを親子の前に出して置いて言った。
「ここでたき火をすることはできません。もし悪い人に見つかってはいけませんから。あの塩浜の持ち主とかいう人の家まで行って、お湯をもらってまいりましょう。それから、藁や薦のことも頼んでまいりましょう」
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「ここでは焚火をいたすことは出来ません。もし悪い人に見つけられてはならぬからでございます。あの塩浜の持ち主とやらの家まで往って、お湯をもらってまいりましょう。そして藁や薦のことも頼んでまいりましょう」
女中はきびきびと出かけて行った。
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女中はまめまめしく出て行った。
子どもたちは楽しそうに、おこし(干した米を固めた菓子)や干した果物を食べはじめた。
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子供は楽しげに粔籹やら、乾した果やらを食べはじめた。
しばらくすると、この材木の陰へ、人が入って来る足音がした。
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しばらくすると、この材木の蔭へ人のはいって来る足音がした。
「姥竹(うばたけ)かい」
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「姥竹かい」
と母親が声をかけた。
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と母親が声をかけた。
しかし心の中では、柞(ははそ)の森まで行って来たにしては、あまりに早いと不思議に思った。
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しかし心のうちには、柞の森まで往って来たにしては、あまり早いと疑った。
姥竹というのは、女中の名前である。
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姥竹というのは女中の名である。
入って来たのは、四十歳くらいの男だった。
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はいって来たのは四十歳ばかりの男である。
骨組みがたくましく、筋肉の一つ一つが肌の上から数えられるほど脂肪が少ない人で、牙彫(げぼり・象牙をほった彫刻)の人形のような顔に笑みを浮かべ、手に数珠(ずず)を持っていた。
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骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、牙彫の人形のような顔に笑みを湛えて、手に数珠を持っている。
自分の家の中を歩くような、慣れた足取りで、親子がひそんでいるところへ近づいて来た。
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我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。
そして、親子が座っている材木のはしに腰をかけた。
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そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。
親子はただ驚いて見ていた。
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親子はただ驚いて見ている。
危害を加えそうな様子も見えなかったので、恐ろしいとも思わなかった。
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仇をしそうな様子も見えぬので、恐ろしいとも思わぬのである。
男はこんなことを言った。
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男はこんなことを言う。
「わしは山岡大夫(やまおかだゆう)という船乗りじゃ。近ごろこの土地を人買いがうろつくというので、国守が旅人に宿を貸すことを差し止めた。人買いを捕まえることは、国守の手には負えないらしい。気の毒なのは旅人じゃ。そこでわしは、旅人を助けてやろうと思い立った。さいわいわしの家は街道から離れているので、こっそり人を泊めても、誰に遠慮もいらぬ。わしは人が野宿をしそうな森の中や橋の下を尋ね回って、これまで大勢の人を連れて帰った。見れば子どもたちがお菓子を食べていなさるが、そんなものは腹の足しにならないで、歯にさわるだけじゃ。わしのところでは大したもてなしはできぬが、芋粥(いもがゆ)でもさしあげましょう。どうぞ遠慮せずに来てくだされ」
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「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。このごろこの土地を人買いが立ち廻るというので、国守が旅人に宿を貸すことを差し止めた。人買いをつかまえることは、国守の手に合わぬと見える。気の毒なは旅人じゃ。そこでわしは旅人を救うてやろうと思い立った。さいわいわしが家は街道を離れているので、こっそり人を留めても、誰に遠慮もいらぬ。わしは人の野宿をしそうな森の中や橋の下を尋ね廻って、これまで大勢の人を連れて帰った。見れば子供衆が菓子を食べていなさるが、そんな物は腹の足しにはならいで、歯に障る。わしがところではさしたる饗応はせぬが、芋粥でも進ぜましょう。どうぞ遠慮せずに来て下されい」
男は、無理に誘うでもなく、ひとりごとのように言ったのだった。
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男は強いて誘うでもなく、独語のように言ったのである。
子どもたちの母はじっと聞いていたが、世の中の決まりにそむいてまでも人を助けようというありがたい心に、感じ入らずにはいられなかった。
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子供の母はつくづく聞いていたが、世間の掟にそむいてまでも人を救おうというありがたい志に感ぜずにはいられなかった。
そこで、こう言った。
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そこでこう言った。
「うかがっていて、とても立派なお心がけと思います。貸してはいけないという決まりのある宿をお借りして、もしや宿の主人にご迷惑をおかけするのではないかと、それが気がかりではございますが、わたくしはともかく、子どもたちにあたたかいお粥でも食べさせて、屋根の下で休ませることができましたら、そのご恩はのちの世までも忘れません」
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「承われば殊勝なお心がけと存じます。貸すなという掟のある宿を借りて、ひょっと宿主に難儀をかけようかと、それが気がかりでございますが、わたくしはともかくも、子供らに温いお粥でも食べさせて、屋根の下に休ませることが出来ましたら、そのご恩はのちの世までも忘れますまい」
山岡大夫はうなずいた。
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山岡大夫はうなずいた。
「さてさて、よく物のわかるご婦人じゃ。それなら、すぐに案内してさしあげましょう」
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「さてさてよう物のわかるご婦人じゃ。そんならすぐに案内をして進ぜましょう」
こう言って、立ち上がろうとした。
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こう言って立ちそうにした。
母親は申し訳なさそうに言った。
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母親は気の毒そうに言った。
「どうぞ少しお待ちくださいませ。わたくしども三人がお世話になるだけでも心苦しいのに、こんなことを申しますのはいかがかと思いますが、実はもう一人、連れがおります」
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「どうぞ少しお待ち下さいませ。わたくしども三人がお世話になるさえ心苦しゅうございますのに、こんなことを申すのはいかがと存じますが、実は今一人連れがございます」
山岡大夫は耳をそばだてた。
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山岡大夫は耳をそばだてた。
「連れがおありなさるか。それは男か女子(おなご)か」
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「連れがおありなさる。それは男か女子か」
「子どもたちの世話をさせるために連れて出た女中でございます。お湯をもらってくると言って、街道を三、四町ほど後ろへ引き返してまいりました。もうほどなく戻ってまいりましょう」
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「子供たちの世話をさせに連れて出た女中でございます。湯をもらうと申して、街道を三四町あとへ引き返してまいりました。もうほどなく帰ってまいりましょう」
「お女中でござるか。それなら待ってさしあげましょう」
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「お女中かな。そんなら待って進ぜましょう」
山岡大夫の落ち着いた、腹の底が知れないような顔に、なぜか喜びの色が浮かんだ。
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山岡大夫の落ち着いた、底の知れぬような顔に、なぜか喜びの影が見えた。
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ここは直江の浦だった。
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ここは直江の浦である。
日はまだ米山(よねやま)の後ろに隠れていて、紺青色(こんじょういろ・濃い青色)のような海の上には、薄い靄(もや)がかかっていた。
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日はまだ米山の背後に隠れていて、紺青のような海の上には薄い靄がかかっている。
一行の客を舟に乗せて、纜(ともづな・舟をつないでおく綱)を解いている船頭がいた。
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一群れの客を舟に載せて纜を解いている船頭がある。
船頭は山岡大夫で、客は、ゆうべ大夫の家に泊まった、主人と使用人あわせて四人の旅人だった。
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船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊った主従四人の旅人である。
応化橋(おうげのはし)の下で山岡大夫に出会った母親と二人の子どもは、女中の姥竹が、欠けて壊れた瓶子(へいし・とっくりのような入れ物)にお湯をもらって帰って来るのを待ってから、大夫に連れられて宿を借りに行った。
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応化橋の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中姥竹が欠け損じた瓶子に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。
姥竹は不安そうな顔をしながらついて行った。
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姥竹は不安らしい顔をしながらついて行った。
大夫は、街道から南へ入った松林の中にある、粗末な家に四人を泊まらせて、芋粥(いもがゆ)をすすめた。
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大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家に四人を留めて、芋粥をすすめた。
そして、どこからどこへ行く旅かとたずねた。
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そしてどこからどこへ往く旅かと問うた。
疲れた子どもたちを先に寝させて、母は宿の主人に、自分たちの身の上のあらましを、かすかな灯火(ともしび)のもとで話した。
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くたびれた子供らをさきへ寝させて、母は宿の主人に身の上のおおよそを、かすかな燈火のもとで話した。
自分は岩代(いわしろ)の者である。
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自分は岩代のものである。
夫が筑紫(つくし)へ行ったまま帰らないので、二人の子どもを連れて、たずねて行くところである。
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夫が筑紫へ往って帰らぬので、二人の子供を連れて尋ねに往く。
姥竹は姉娘が生まれたときから世話をしてくれた女中で、身寄りがないので、遠く、心もとない旅の供をすることになったと話したのだった。
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姥竹は姉娘の生まれたときから守りをしてくれた女中で、身寄りのないものゆえ、遠い、覚束ない旅の伴をすることになったと話したのである。
さて、ここまでは来たが、筑紫の果てまで行くことを思えば、まだ家を出たばかりと言ってよいくらいだった。
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さてここまでは来たが、筑紫の果てへ往くことを思えば、まだ家を出たばかりと言ってよい。
これから先は、陸(おか)を行けばよいのだろうか。
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これから陸を行ったものであろうか。
それとも、船路(ふなじ)を行けばよいのだろうか。
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または船路を行ったものであろうか。
宿の主人は船乗りなのだから、きっと遠い国のことをよく知っているだろう。
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主人は船乗りであってみれば、定めて遠国のことを知っているだろう。
どうぞ教えてもらいたいと、子どもたちの母が頼んだ。
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どうぞ教えてもらいたいと、子供らの母が頼んだ。
大夫は、わかりきったことを聞かれたかのように、少しもためらわず船路を行くことをすすめた。
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大夫は知れきったことを問われたように、少しもためらわずに船路を行くことを勧めた。
陸を行けば、すぐ隣の越中の国に入る境目にさえ、親不知子不知(おやしらずこしらず)という危険な場所がある。
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陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界にさえ、親不知子不知の難所がある。
切り立った岩の裾(すそ)には、荒波が打ち寄せる。
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削り立てたような巌石の裾には荒浪が打ち寄せる。
旅人は横穴に入って波が引くのを待ち、狭い岩の下の道を走り抜けるのである。
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旅人は横穴にはいって、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。
そのときは、親は子どもを気にかけていられず、子どもも親を気にかけていられない。
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そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。
それは海辺の危険な場所である。
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それは海辺の難所である。
また山を越えると、踏んだ石が一つゆらげば、ものすごく深い谷底に落ちてしまうような、危ない崖道(がけみち)もある。
原文を見る
また山を越えると、踏まえた石が一つ揺げば、千尋の谷底に落ちるような、あぶない岨道もある。
西国へ行くまでには、どれほど危険な場所があるか知れない。
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西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。
それとは違って、船の道は安全なものである。
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それとは違って、船路は安全なものである。
確かな船頭にさえ頼めば、じっと乗っているだけで、百里でも千里でも行くことができる。
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たしかな船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行かれる。
自分は西国まで行くことはできないが、いろいろな国の船頭を知っているから、舟に乗せて送り出して、西国へ行く舟に乗り換えさせることができる。
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自分は西国まで往くことは出来ぬが、諸国の船頭を知っているから、船に載せて出て、西国へ往く舟に乗り換えさせることが出来る。
明日の朝は、すぐに舟に乗せて送り出そうと、大夫は何でもないことのように言った。
原文を見る
あすの朝は早速船に載せて出ようと、大夫は事もなげに言った。
夜が明けかかると、大夫は主従四人をせき立てて家を出た。
原文を見る
夜が明けかかると、大夫は主従四人をせき立てて家を出た。
そのとき、子どもたちの母は小さい袋からお金を出して、宿代を払おうとした。
原文を見る
そのとき子供らの母は小さい嚢から金を出して、宿賃を払おうとした。
大夫はそれを止めて、宿代はもらわない、しかし、お金の入っている大切な袋は預かっておこうと言った。
原文を見る
大夫は留めて、宿賃はもらわぬ、しかし金の入れてある大切な嚢は預かっておこうと言った。
どんな大切な品でも、宿に着けば宿の主人に、舟に乗れば舟の持ち主に預けるものだ、というのである。
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なんでも大切な品は、宿に着けば宿の主人に、舟に乗れば舟の主に預けるものだというのである。
子どもたちの母は、最初に宿を借りることを許してもらってから、宿の主人である大夫の言うことを聞かなければならないような、そんな流れになっていった。
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子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。
決まりを破ってまで宿を貸してくれたことをありがたいとは思っていても、何でも言われるままになるほど、大夫を信じきってはいなかった。
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掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。
こういう流れになったのは、大夫の言葉に人を押さえつけるような強さがあって、母親がそれに逆らうことができないからだった。
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こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗うことが出来ぬからである。
その逆らうことができないのは、大夫のどこかに恐ろしいところがあるからだった。
原文を見る
その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。
しかし母親は、自分が大夫を恐れているとは思っていなかった。
原文を見る
しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。
自分の心が、自分でもはっきりわかっていなかった。
原文を見る
自分の心がはっきりわかっていない。
母親は、仕方のないことをするような気持ちで舟に乗った。
原文を見る
母親は余儀ないことをするような心持ちで舟に乗った。
子どもたちは、波が静かな海の、青いじゅうたんを敷いたような水面を見て、めずらしさに胸をおどらせて乗った。
原文を見る
子供らは凪いだ海の、青い氈を敷いたような面を見て、物珍しさに胸をおどらせて乗った。
ただ、姥竹の顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今、舟に乗るときまで、不安の色が消えなかった。
原文を見る
ただ姥竹が顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今舟に乗るときまで、不安の色が消え失せなかった。
山岡大夫は纜(ともづな)を解いた。
原文を見る
山岡大夫は纜を解いた。
さおで岸を一押しすると、舟はゆれながら岸を離れた。
原文を見る
㰏で岸を一押し押すと、舟は揺めきつつ浮び出た。
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原文を見る
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山岡大夫はしばらく岸に沿って南へ、越中境(えっちゅうざかい)の方角へ漕いで行った。
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山岡大夫はしばらく岸に沿うて南へ、越中境の方角へ漕いで行く。
靄はみるみる消えて、波が日の光にかがやいた。
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靄は見る見る消えて、波が日にかがやく。
人家のない岩かげに、波が砂を洗って、海藻を打ち上げているところがあった。
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人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海松や荒布を打ち上げているところがあった。
そこに舟が二艘(そう)とまっていた。
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そこに舟が二艘止まっている。
船頭が大夫を見て呼びかけた。
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船頭が大夫を見て呼びかけた。
「どうじゃ。あるか」
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「どうじゃ。あるか」
大夫は右手を挙げて、親指を折り曲げて見せた。
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大夫は右の手を挙げて、大拇を折って見せた。
そして、自分もそこへ舟をつないだ。
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そして自分もそこへ舟を舫った。
親指だけを折り曲げたのは、四人いるという合図だった。
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大拇だけ折ったのは、四人あるという相図である。
前からそこにいた船頭の一人は宮崎の三郎といって、越中宮崎の者だった。
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前からいた船頭の一人は宮崎の三郎といって、越中宮崎のものである。
左手のこぶしを開いて見せた。
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左の手の拳を開いて見せた。
右の手は売り物の数を表す合図になり、左の手は代金を表す合図になるのだった。
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右の手が貨の相図になるように、左の手は銭の相図になる。
これは五貫文(ごかんもん・昔のお金の単位)につけたのだった。
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これは五貫文につけたのである。
「もっと出すぞ」
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「気張るぞ」
と、もう一人の船頭が言って、左のひじをすっと伸ばし、一度こぶしを開いて見せ、続いて人差し指を立てて見せた。
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と今一人の船頭が言って、左の臂をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、ついで示指を竪てて見せた。
この男は佐渡の二郎(さどのじろう)といい、六貫文の値をつけたのだった。
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この男は佐渡の二郎で六貫文につけたのである。
「ずるいやつめ」
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「横着者奴」
と宮崎が叫んで立ちかかると、「出し抜こうとしたのはおぬしのほうじゃ」
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と宮崎が叫んで立ちかかれば、「出し抜こうとしたのはおぬしじゃ」
と佐渡が身構えをした。
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と佐渡が身構えをする。
二艘の舟がかたむいて、船べりが水をたたいた。
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二艘の舟がかしいで、舷が水を笞った。
大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見比べた。
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大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見較べた。
「あわてるな。どちらも手ぶらでは帰さぬ。お客様が窮屈でないように、お二人ずつに分けてさしあげよう。代金は、あとでつけた値段の割合どおりじゃ」
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「あわてるな。どっちも空手では還さぬ。お客さまがご窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭はあとでつけた値段の割じゃ」
こう言っておいて、大夫は客のほうを見た。
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こう言っておいて、大夫は客を顧みた。
「さあ、お二人ずつあの舟にお乗りなされ。どちらも西国へ行く舟じゃ。舟というものは、重すぎると走りが悪いのでな」
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「さあ、お二人ずつあの舟へお乗りなされ。どれも西国への便船じゃ。舟足というものは、重過ぎては走りが悪い」
二人の子どもは宮崎の舟へ、母親と姥竹は佐渡の舟へ、大夫が手を取って乗り移らせた。
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二人の子供は宮崎が舟へ、母親と姥竹とは佐渡が舟へ、大夫が手をとって乗り移らせた。
乗り移らせて引っこめる大夫の手に、宮崎も佐渡も、ひも通しの銭をいくらか握らせたのだった。
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移らせて引く大夫が手に、宮崎も佐渡も幾緡かの銭を握らせたのである。
「あの、ご主人にお預けになった袋は」
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「あの、主人にお預けなされた嚢は」
と、姥竹が主人の袖を引いたとき、山岡大夫は空になった舟をすっと押し出した。
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と、姥竹が主の袖を引くとき、山岡大夫は空舟をつと押し出した。
「わしはこれで失礼する。確かな手から確かな手へ渡すまでが、わしの役目じゃ。どうぞご無事でお行きなされ」
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「わしはこれでお暇をする。たしかな手からたしかな手へ渡すまでがわしの役じゃ。ご機嫌ようお越しなされ」
櫓(ろ)の音がせわしく響いて、山岡大夫の舟はみるみる遠ざかって行った。
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艣の音が忙しく響いて、山岡大夫の舟は見る見る遠ざかって行く。
母親は佐渡に言った。
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母親は佐渡に言った。
「同じ道を漕いで行けば、同じ港に着くのでございましょうね」
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「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
佐渡と宮崎は顔を見合わせて、声を立てて笑った。
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佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。
そして、佐渡が言った。
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そして佐渡が言った。
「乗る舟は弘誓(ぐぜい・仏さまの誓いの舟)、着くのは同じ彼岸(かのきし・あの世の岸)だと、蓮華峰寺(れんげぶじ)のお坊さんが言っていたそうな」
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「乗る舟は弘誓の舟、着くは同じ彼岸と、蓮華峰寺の和尚が言うたげな」
二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。
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二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。
佐渡の二郎は北へ漕いだ。
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佐渡の二郎は北へ漕ぐ。
宮崎の三郎は南へ漕いだ。
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宮崎の三郎は南へ漕ぐ。
「あれあれ」
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「あれあれ」
と呼び合う親子主従は、ただ遠ざかっていくばかりだった。
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と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。
母親は気が狂ったように船べりに手をかけて、体を伸び上がらせた。
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母親は物狂おしげに舷に手をかけて伸び上がった。
「もう仕方がない。これが別れだよ。安寿(あんじゅ)は、守り本尊(まもりほんぞん・自分を守ってくれる仏様)の地蔵様を大切にね。厨子王(ずしおう)は、お父様がくださった護り刀を大切にね。どうか二人が離れませんように」
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「もうしかたがない。これが別れだよ。安寿は守本尊の地蔵様を大切におし。厨子王はお父うさまの下さった護り刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」
安寿(あんじゅ)は姉の名、厨子王(ずしおう)は弟の名である。
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安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。
子どもたちはただ「お母様、お母様」
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子供はただ「お母あさま、お母あさま」
と呼ぶばかりだった。
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と呼ぶばかりである。
舟と舟とは、だんだん遠ざかっていった。
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舟と舟とは次第に遠ざかる。
後ろのほうには、餌(え)を待つひな鳥のように、二人の子どもの開いた口が見えていたが、もう声は聞こえなかった。
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後ろには餌を待つ雛のように、二人の子供があいた口が見えていて、もう声は聞えない。
姥竹は佐渡の二郎に「もし、船頭さん、もしもし」
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姥竹は佐渡の二郎に「もし船頭さん、もしもし」
と声をかけていたが、佐渡が構わないので、とうとう赤松の幹のような脚にすがりついた。
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と声をかけていたが、佐渡は構わぬので、とうとう赤松の幹のような脚にすがった。
「船頭さん。これはどうしたことでございます。あのお嬢様、若様と別れて、生きてどこへ行かれましょう。奥様も同じことでございます。これから何をたよりにお暮らしになりましょう。どうぞ、あの舟の行くほうへ漕いで行ってくださいまし。お願いでございます」
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「船頭さん。これはどうしたことでございます。あのお嬢さま、若さまに別れて、生きてどこへ往かれましょう。奥さまも同じことでございます。これから何をたよりにお暮らしなさいましょう。どうぞあの舟の往く方へ漕いで行って下さいまし。後生でございます」
「うるさい」
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「うるさい」
と佐渡は、後ろ向きのまま蹴とばした。
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と佐渡は後ろざまに蹴った。
姥竹は舟の底に倒れた。
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姥竹は舟笭に倒れた。
髪は乱れて、船べりにかかった。
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髪は乱れて舷にかかった。
姥竹は身を起こした。
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姥竹は身を起した。
「ええ、もうこれまでです。奥様、お許しくださいまし」
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「ええ。これまでじゃ。奥さま、ご免下さいまし」
こう言って、まっさかさまに海に飛び込んだ。
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こう言ってまっさかさまに海に飛び込んだ。
「こら」
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「こら」
と言って船頭はひじを差し伸ばしたが、間に合わなかった。
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と言って船頭は臂を差し伸ばしたが、まにあわなかった。
母親は上着を脱いで、佐渡の前に差し出した。
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母親は袿を脱いで佐渡が前へ出した。
「これは粗末なものでございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもう、これで失礼いたします」
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「これは粗末な物でございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもうこれでお暇を申します」
こう言って、船べりに手をかけた。
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こう言って舷に手をかけた。
「ばか者が」
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「たわけが」
と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。
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と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。
「おまえまで死なせてなるものか。大事な売り物じゃ」
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「うぬまで死なせてなるものか。大事な貨じゃ」
佐渡の二郎は綱を引き出して、母親をぐるぐる巻きにして転がした。
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佐渡の二郎は牽紱を引き出して、母親をくるくる巻きにして転がした。
そして、北へ北へと漕いで行った。
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そして北へ北へと漕いで行った。
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「お母様、お母様」
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「お母あさまお母あさま」
と呼び続けている姉と弟を乗せて、宮崎の三郎の舟は、岸に沿って南へ走って行った。
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と呼び続けている姉と弟とを載せて、宮崎の三郎が舟は岸に沿うて南へ走って行く。
「もう呼ぶな」
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「もう呼ぶな」
と宮崎が叱った。
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と宮崎が叱った。
「水の底の魚や貝には聞こえても、あの女子(おなご)には聞こえぬ。女子どもは佐渡へ渡って、粟(あわ)畑の鳥でも追わされることじゃろう」
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「水の底の鱗介には聞えても、あの女子には聞えぬ。女子どもは佐渡へ渡って粟の鳥でも逐わせられることじゃろう」
姉の安寿と弟の厨子王は、抱き合って泣いていた。
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姉の安寿と弟の厨子王とは抱き合って泣いている。
故郷を離れるのも、遠い旅をするのも、母と一緒にすることだと思っていたのに、今、思いがけず引き離されて、二人はどうしていいかわからなかった。
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故郷を離れるも、遠い旅をするも母と一しょにすることだと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、二人はどうしていいかわからない。
ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれほど変えてしまうのか、その大きささえわからないのだった。
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ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれだけ変らせるか、そのほどさえ弁えられぬのである。
昼になって、宮崎は餅を出して食べた。
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午になって宮崎は餅を出して食った。
そして、安寿と厨子王にも一つずつくれた。
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そして安寿と厨子王とにも一つずつくれた。
二人は餅を手に持ったまま食べようともせず、顔を見合わせて泣いた。
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二人は餅を手に持って食べようともせず、目を見合わせて泣いた。
夜は、宮崎がかぶせた苫(とま・むしろで作ったおおい)の下で、泣きながら眠りについた。
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夜は宮崎がかぶせた苫の下で、泣きながら寝入った。
こうして二人は、何日か舟の上で夜を明かし、日を過ごした。
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こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。
宮崎は、越中、能登(のと)、越前(えちぜん)、若狭(わかさ)の、あちこちの港や浦を売り歩いたのだった。
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宮崎は越中、能登、越前、若狭の津々浦々を売り歩いたのである。
しかし、二人が幼いうえに体も弱々しく見えるので、なかなか買おうという者がなかった。
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しかし二人がおさないのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうと言うものがない。
たまに買い手がいても、値段の相談がまとまらなかった。
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たまに買い手があっても、値段の相談が調わない。
宮崎はだんだん機嫌を悪くして、「いつまでも泣いているのか」
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宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」
と、二人を打つようになった。
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と二人を打つようになった。
宮崎の舟は、あちこちを回って、丹後(たんご)の由良(ゆら)の港に来た。
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宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良の港に来た。
ここには、石浦というところに大きな屋敷を構えて、田畑に米や麦を植えさせ、山では狩りをさせ、海では漁をさせ、蚕(かいこ)を飼わせ、機(はた)を織らせ、金物、陶器、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って作らせている、山椒大夫(さんしょうだゆう)という大金持ち(分限者・ぶげんしゃ)がいた。この大夫は、人ならいくらでも買った。
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ここには石浦というところに大きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさせ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者がいて、人なら幾らでも買う。
宮崎はこれまでも、よそに買い手のない売り物があると、山椒大夫のところへ持って来ることになっていた。
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宮崎はこれまでも、よそに買い手のない貨があると、山椒大夫がところへ持って来ることになっていた。
港に出向いていた大夫の奴頭(やっこがしら・買われてきた人々を取りしまる頭)は、安寿と厨子王を、すぐに七貫文で買い取った。
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港に出張っていた大夫の奴頭は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、がきどもを片づけて身が軽くなった」
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「やれやれ、餓鬼どもを片づけて身が軽うなった」
と言って、宮崎の三郎は受け取った銭を懐(ふところ)に入れた。
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と言って、宮崎の三郎は受け取った銭を懐に入れた。
そして、波止場の酒屋に入った。
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そして波止場の酒店にはいった。
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一抱えもある太い柱を立て並べて造った大きな屋敷の、奥深い広間に、一間四方(約一・八メートル四方)の炉を作らせて、炭火がおこしてあった。
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一抱えに余る柱を立て並べて造った大廈の奥深い広間に一間四方の炉を切らせて、炭火がおこしてある。
その向こうに敷物を三枚重ねて敷いて、山椒大夫はひじ掛けにもたれていた。
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その向うに茵を三枚畳ねて敷いて、山椒大夫は几にもたれている。
左右には、二郎、三郎の二人の息子が、狛犬(こまいぬ)のように並んでいた。
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左右には二郎、三郎の二人の息子が狛犬のように列んでいる。
もともと大夫には三人の息子がいたが、長男の太郎は十六歳のとき、逃げようとして捕まった奴(やっこ・買われて働かされる人)に、父が自分の手で焼き印を押すのをじっと見ていて、一言も口をきかずに、ふいと家を出て、行方がわからなくなった。
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もと大夫には三人の男子があったが、太郎は十六歳のとき、逃亡を企てて捕えられた奴に、父が手ずから烙印をするのをじっと見ていて、一言も物を言わずに、ふいと家を出て行くえが知れなくなった。
今から十九年前のことである。
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今から十九年前のことである。
奴頭(やっこがしら)が、安寿と厨子王を連れて前へ出た。
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奴頭が安寿、厨子王を連れて前へ出た。
そして、二人の子どもにお辞儀をしろと言った。
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そして二人の子供に辞儀をせいと言った。
二人の子どもは、奴頭の言葉が耳に入らないらしく、ただ目を見開いて大夫を見ていた。
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二人の子供は奴頭の詞が耳に入らぬらしく、ただ目をみはって大夫を見ている。
今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広く、あごが張っていて、髪もひげも銀色に光っていた。
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今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広く腭が張って、髪も鬚も銀色に光っている。
子どもたちは、恐ろしいというよりも不思議に思って、じっとその顔を見ているのだった。
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子供らは恐ろしいよりは不思議がって、じっとその顔を見ているのである。
大夫は言った。
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大夫は言った。
「買って来た子どもはそれか。いつも買う奴(やっこ)と違って、何に使ってよいかわからない、めずらしい子どもだというから、わざわざ連れて来させてみれば、青ざめた、か細い子どもたちじゃ。何に使ってよいか、わしにもわからぬ」
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「買うて来た子供はそれか。いつも買う奴と違うて、何に使うてよいかわからぬ、珍らしい子供じゃというから、わざわざ連れて来させてみれば、色の蒼ざめた、か細い童どもじゃ。何に使うてよいかは、わしにもわからぬ」
そばから三郎が口を出した。
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そばから三郎が口を出した。
末の息子ではあるが、もう三十になっていた。
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末の弟ではあるが、もう三十になっている。
「いや、お父っさん。さっきから見ていれば、お辞儀をしろと言われてもお辞儀もしない。ほかの奴(やっこ)のように名乗りもしない。弱々しく見えても、しぶとい者どもじゃ。奉公の初めは、男が柴刈り、女が潮汲みと決まっている。その通りにさせなさい」
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「いやお父っさん。さっきから見ていれば、辞儀をせいと言われても辞儀もせぬ。ほかの奴のように名のりもせぬ。弱々しゅう見えてもしぶとい者どもじゃ。奉公初めは男が柴苅り、女が汐汲みときまっている。その通りにさせなされい」
「おっしゃる通り、名はわたくしにも申しません」
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「おっしゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」
と、奴頭が言った。
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と、奴頭が言った。
大夫はあざ笑った。
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大夫は嘲笑った。
「愚か者と見える。名はわしがつけてやる。姉には、苦しみをしのべという意味で忍ぶ草(しのぶぐさ)、弟には、もとの名を忘れよという意味で萱草(わすれぐさ)という名をやろう。忍ぶ草は浜へ行って、一日に三荷(さんが・天びん棒で運ぶ荷の単位)の潮を汲め。萱草は山へ行って、一日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽くしてやろう」
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「愚か者と見える。名はわしがつけてやる。姉はいたつきを垣衣、弟は我が名を萱草じゃ。垣衣は浜へ往って、日に三荷の潮を汲め。萱草は山へ往って日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うして取らせる」
三郎が言った。
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三郎が言った。
「もったいないほどのいたわりようじゃ。これ、奴頭。早く連れて下がって、道具を渡してやれ」
原文を見る
「過分のいたわりようじゃ。こりゃ、奴頭。早く連れて下がって道具を渡してやれ」
奴頭は二人の子どもを新入り小屋に連れて行って、安寿には桶(おけ)とひしゃく、厨子王にはかごと鎌(かま)を渡した。
原文を見る
奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて往って、安寿には桶と杓、厨子王には籠と鎌を渡した。
どちらにも、昼の食事を入れる弁当箱が添えてあった。
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どちらにも午餉を入れる樏子が添えてある。
新入り小屋は、ほかの奴婢(ぬひ・売り買いされて働かされる人々)の住む場所とは、別になっているのだった。
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新参小屋はほかの奴婢の居所とは別になっているのである。
奴頭が出て行くころには、もうあたりが暗くなっていた。
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奴頭が出て行くころには、もうあたりが暗くなった。
この小屋には、明かりもなかった。
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この屋には燈火もない。
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翌日の朝は、ひどく寒かった。
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翌日の朝はひどく寒かった。
ゆうべは、小屋に用意してあった夜具があまりに汚かったので、厨子王が薦(こも)を探して来て、舟で苫(とま)をかぶったときのように、二人でかぶって寝たのだった。
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ゆうべは小屋に備えてある衾があまりきたないので、厨子王が薦を探して来て、舟で苫をかずいたように、二人でかずいて寝たのである。
きのう奴頭に教えられた通りに、厨子王は弁当箱を持って台所へ食事を受け取りに行った。
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きのう奴頭に教えられたように、厨子王は樏子を持って厨へ餉を受け取りに往った。
屋根の上や、地面に散らばった藁の上には、霜が降りていた。
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屋根の上、地にちらばった藁の上には霜が降っている。
台所は大きな土間で、もう大勢の奴婢(ぬひ)が来て待っていた。
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厨は大きい土間で、もう大勢の奴婢が来て待っている。
男と女とは食事を受け取る場所が違うのに、厨子王は姉の分と自分の分をいっしょにもらおうとしたので、一度は叱られたが、明日からはそれぞれがもらいに来ると約束して、ようやく弁当箱のほかに、木の器に入れたかたいおかゆと、木のお椀に入れた湯との、二人分を受け取った。
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男と女とは受け取る場所が違うのに、厨子王は姉のと自分のともらおうとするので、一度は叱られたが、あすからはめいめいがもらいに来ると誓って、ようよう樏子のほかに、面桶に入れた饘と、木の椀に入れた湯との二人前をも受け取った。
おかゆには、塩を入れて炊いてあった。
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饘は塩を入れて炊いである。
姉と弟は朝ごはんを食べながら、もうこうした身の上になったからには、運命に従うよりほかにないと、けなげにも話し合った。
原文を見る
姉と弟とは朝餉を食べながら、もうこうした身の上になっては、運命のもとに項を屈めるよりほかはないと、けなげにも相談した。
そして、姉は浜辺へ、弟は山道へと向かって行くのだった。
原文を見る
そして姉は浜辺へ、弟は山路をさして行くのである。
大夫の屋敷の三の木戸、二の木戸、一の木戸をいっしょに出て、二人は霜を踏みながら、何度も振り返りつつ、左右に別れた。
原文を見る
大夫が邸の三の木戸、二の木戸、一の木戸を一しょに出て、二人は霜を履んで、見返りがちに左右へ別れた。
厨子王が登る山は、由良(ゆら)が嶽(たけ)のふもとで、石浦からは少し南へ行って登るのだった。
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厨子王が登る山は由良が嶽の裾で、石浦からは少し南へ行って登るのである。
柴を刈る場所は、ふもとから遠くはなかった。
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柴を苅る所は、麓から遠くはない。
ところどころ紫色の岩が現れている場所を通って、やや広い平地に出る。
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ところどころ紫色の岩の露われている所を通って、やや広い平地に出る。
そこに雑木が茂っているのだった。
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そこに雑木が茂っているのである。
厨子王は雑木林の中に立って、あたりを見回した。
原文を見る
厨子王は雑木林の中に立ってあたりを見廻した。
しかし、柴はどうやって刈るものかわからず、しばらくは手を出せないまま、朝日に霜が融けかかる、敷物のような落ち葉の上に、ぼんやり座って時を過ごした。
原文を見る
しかし柴はどうして苅るものかと、しばらくは手を着けかねて、朝日に霜の融けかかる、茵のような落ち葉の上に、ぼんやりすわって時を過した。
ようやく気を取り直して、一枝二枝と刈るうちに、厨子王は指を痛めた。
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ようよう気を取り直して、一枝二枝苅るうちに、厨子王は指を傷めた。
そこでまた落ち葉の上に座って、山でさえこんなに寒いのだから、浜辺へ行った姉さまは、さぞ潮風が寒いだろうと、一人涙をこぼしていた。
原文を見る
そこでまた落ち葉の上にすわって、山でさえこんなに寒い、浜辺に行った姉さまは、さぞ潮風が寒かろうと、ひとり涙をこぼしていた。
日がだいぶ高く昇ってから、柴を背負ってふもとへ降りる、ほかの木こりが通りかかって、「お前も大夫のところの奴か。柴は一日に何荷刈るのか」
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日がよほど昇ってから、柴を背負って麓へ降りる、ほかの樵が通りかかって、「お前も大夫のところの奴か、柴は日に何荷苅るのか」
とたずねた。
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と問うた。
「一日に三荷刈るはずの柴を、まだ少しも刈っておりません」
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「日に三荷苅るはずの柴を、まだ少しも苅りませぬ」
と、厨子王は正直に言った。
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と厨子王は正直に言った。
「一日に三荷の柴ならば、昼までに二荷刈るがいい。柴はこうして刈るものじゃ」
原文を見る
「日に三荷の柴ならば、午までに二荷苅るがいい。柴はこうして苅るものじゃ」
木こりは自分の荷をおろしておいて、すぐに一荷刈ってくれた。
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樵は我が荷をおろして置いて、すぐに一荷苅ってくれた。
厨子王は気を取り直して、ようやく昼までに一荷刈り、昼からまた一荷刈った。
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厨子王は気を取り直して、ようよう午までに一荷苅り、午からまた一荷苅った。
浜辺へ行く姉の安寿は、川の岸を北へ行った。
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浜辺に往く姉の安寿は、川の岸を北へ行った。
さて、潮を汲む場所に降り立ったが、これも潮の汲み方を知らなかった。
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さて潮を汲む場所に降り立ったが、これも汐の汲みようを知らない。
心の中で自分を励まして、ようやくひしゃくを下ろすと、たちまち波がひしゃくをさらって行った。
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心で心を励まして、ようよう杓をおろすや否や、波が杓を取って行った。
隣で汲んでいた女の人が、すばやくひしゃくを拾って戻した。
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隣で汲んでいる女子が、手早く杓を拾って戻した。
そして、こう言った。
原文を見る
そしてこう言った。
「潮はそれでは汲めませんよ。ちょっと、汲み方を教えてあげましょう。右手のひしゃくでこう汲んで、左手の桶でこう受けるのです」
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「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手の杓でこう汲んで、左手の桶でこう受ける」
とうとう、一荷分を汲んでくれた。
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とうとう一荷汲んでくれた。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、汲み方がわかったようでございます。自分でも少し汲んでみましょう」
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「ありがとうございます。汲みようが、あなたのお蔭で、わかったようでございます。自分で少し汲んでみましょう」
安寿は潮の汲み方を覚えた。
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安寿は汐を汲み覚えた。
隣で汲んでいたその女の人は、無邪気な安寿を気に入った。
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隣で汲んでいる女子に、無邪気な安寿が気に入った。
二人は昼ごはんを食べながら、それぞれの身の上を打ち明けて、姉妹になる約束をした。
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二人は午餉を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹の誓いをした。
この女の人は伊勢の小萩(こはぎ)といって、二見が浦から買われて来たのだった。
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これは伊勢の小萩といって、二見が浦から買われて来た女子である。
最初の日は、こんな具合に、姉が言いつけられた三荷の潮も、弟が言いつけられた三荷の柴も、それぞれ一荷ずつ人から助けてもらって、日暮れまでに、どうにかそろえることができた。
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最初の日はこんな工合に、姉が言いつけられた三荷の潮も、弟が言いつけられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進を受けて、日の暮れまでに首尾よく調った。
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姉は潮を汲み、弟は柴を刈って、一日一日と暮らしていった。
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姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日と暮らして行った。
姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日が暮れるのを待って小屋に帰ると、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言うのだった。
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姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮れを待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。
そうこうするうちに、十日が過ぎた。
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とかくするうちに十日立った。
そして、新入り小屋を明け渡さなくてはならないときが来た。
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そして新参小屋を明けなくてはならぬときが来た。
小屋を明け渡せば、男は男の奴(やっこ)の組、女は女の婢(はしため)の組に、それぞれ入れられるのだった。
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小屋を明ければ、奴は奴、婢は婢の組に入るのである。
二人は、死んでも別れないと言った。
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二人は死んでも別れぬと言った。
奴頭が大夫にそのことを訴えた。
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奴頭が大夫に訴えた。
大夫は言った。
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大夫は言った。
「ばかな話じゃ。奴は奴の組へ引きずって行け。婢は婢の組へ引きずって行け」
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「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引きずって往け。婢は婢の組へ引きずって往け」
奴頭がそれを受けて立ち上がろうとしたとき、二郎がそばから呼び止めた。
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奴頭が承って起とうとしたとき、二郎がかたわらから呼び止めた。
そして、父に言った。
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そして父に言った。
「おっしゃる通りに子どもたちを引き離してもよろしいのですが、子どもたちは死んでも別れないと申しているそうです。愚かな者たちですから、本当に死んでしまうかもしれません。刈る柴はわずかでも、汲む潮はわずかでも、働き手を減らすのは損でございます。わたくしがうまく計らってやりましょう」
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「おっしゃる通りに童どもを引き分けさせてもよろしゅうございますが、童どもは死んでも別れぬと申すそうでございます。愚かなものゆえ、死ぬるかも知れません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗らすのは損でございます。わたくしがいいように計らってやりましょう」
「それもそうか。損になることはわしも嫌いじゃ。どうにでも好きにしておけ」
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「それもそうか。損になることはわしも嫌いじゃ。どうにでも勝手にしておけ」
大夫はこう言って、わきを向いた。
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大夫はこう言って脇へ向いた。
二郎は、三の木戸に小屋を建てさせて、姉と弟をいっしょに置いた。
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二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。
ある日の夕暮れに、二人の子どもは、いつものように父母のことを話していた。
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ある日の暮れに二人の子供は、いつものように父母のことを言っていた。
それを二郎が通りかかって聞いた。
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それを二郎が通りかかって聞いた。
二郎は屋敷の中を見回って、強い奴(やっこ)が弱い奴をいじめたり、けんかをしたり、盗みをしたりするのを取り締まっているのだった。
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二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐げたり、諍いをしたり、盗みをしたりするのを取り締まっているのである。
二郎は小屋に入って、二人に言った。
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二郎は小屋にはいって二人に言った。
「父母が恋しくても、佐渡は遠い。筑紫はそれよりもっと遠い。子どもが行ける場所ではない。父母に会いたいなら、大きくなる日を待つがいい」
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「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれよりまた遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つがよい」
こう言って、出て行った。
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こう言って出て行った。
しばらくして、またある日の夕暮れに、二人の子どもは父母のことを話していた。
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ほど経てまたある日の暮れに、二人の子供は父母のことを言っていた。
それを、今度は三郎が通りかかって聞いた。
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それを今度は三郎が通りかかって聞いた。
三郎は、眠っている鳥を捕まえることが好きで、屋敷の中の木立ちを、手に弓矢を持って見て回るのだった。
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三郎は寝鳥を取ることが好きで邸のうちの木立ち木立ちを、手に弓矢を持って見廻るのである。
二人は、父母のことを話すたびに、どうしようか、こうしようかと、会いたい気持ちのあまり、あらゆる方法を話し合って、夢のような相談までするのだった。
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二人は父母のことを言うたびに、どうしようか、こうしようかと、逢いたさのあまりに、あらゆる手立てを話し合って、夢のような相談をもする。
きょうは、姉がこう言った。
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きょうは姉がこう言った。
「大きくなってからでなくては、遠い旅ができないというのは、当たり前のことよ。わたしたちは、その出来ないことがしたいのだわ。でも、わたしよく考えてみたのだけれど、どうしても二人いっしょにここを逃げ出すのは駄目なの。わたしには構わないで、お前一人で逃げなくては。そして先に筑紫のほうへ行って、お父様にお目にかかって、どうしたらいいか伺うのよ。それから佐渡へ、お母様をお迎えに行くのがいいわ」
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「大きくなってからでなくては、遠い旅が出来ないというのは、それは当り前のことよ。わたしたちはその出来ないことがしたいのだわ。だがわたしよく思ってみると、どうしても二人一しょにここを逃げ出しては駄目なの。わたしには構わないで、お前一人で逃げなくては。そしてさきへ筑紫の方へ往って、お父うさまにお目にかかって、どうしたらいいか伺うのだね。それから佐渡へお母さまのお迎えに往くがいいわ」
三郎が立ち聞きしたのは、あいにくこの安寿の言葉だった。
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三郎が立聞きをしたのは、あいにくこの安寿の詞であった。
三郎は弓矢を持って、すっと小屋の中に入って来た。
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三郎は弓矢を持って、つと小屋のうちにはいった。
「こら。お前たちは逃げる相談をしておったな。逃げようとした者には焼き印を押す。それがこの屋敷の掟じゃ。赤くなった鉄は熱いぞよ」
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「こら。お主たちは逃げる談合をしておるな。逃亡の企てをしたものには烙印をする。それがこの邸の掟じゃ。赤うなった鉄は熱いぞよ。」
二人の子どもは真っ青になった。
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二人の子供は真っ蒼になった。
安寿は、三郎の前に進み出て言った。
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安寿は三郎が前に進み出て言った。
「あれは嘘でございます。弟が一人で逃げたって、まあ、どこまで行けましょう。あまりに親に会いたくて、あんなことを申しました。このあいだも弟といっしょに、鳥になって飛んで行こうと申したこともございます。口から出まかせでございます」
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「あれは譃でございます。弟が一人で逃げたって、まあ、どこまで往かれましょう。あまり親に逢いたいので、あんなことを申しました。こないだも弟と一しょに、鳥になって飛んで往こうと申したこともございます。出放題でございます」
厨子王は言った。
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厨子王は言った。
「姉さんの言う通りです。いつも二人で、今のような、できないことばかり言って、父母が恋しい気持ちをまぎらわしているのです」
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「姉えさんの言う通りです。いつでも二人で今のような、出来ないことばかし言って、父母の恋しいのを紛らしているのです」
三郎は二人の顔を見比べて、しばらくの間、黙っていた。
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三郎は二人の顔を見較べて、しばらくの間黙っていた。
「ふん。嘘なら嘘でもいい。お前たちがいっしょにいて、何の話をしているかということを、おれが確かに聞いておいたぞ」
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「ふん。譃なら譃でもいい。お主たちが一しょにおって、なんの話をするということを、おれがたしかに聞いておいたぞ」
こう言って、三郎は出て行った。
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こう言って三郎は出て行った。
その晩は、二人は気味悪く思いながら寝た。
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その晩は二人が気味悪く思いながら寝た。
それから、どれだけ眠ったかわからない。
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それからどれだけ寝たかわからない。
二人はふと物音を聞きつけて、目を覚ました。
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二人はふと物音を聞きつけて目をさました。
今の小屋に来てからは、明かりを置くことが許されていた。
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今の小屋に来てからは、燈火を置くことが許されている。
そのかすかな明かりで見ると、枕もとに三郎が立っていた。
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そのかすかな明りで見れば、枕もとに三郎が立っている。
三郎は、すっと近寄って、両手で二人の手をつかんだ。
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三郎は、つと寄って、両手で二人の手をつかまえる。
そして、引き立てて戸口を出た。
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そして引き立てて戸口を出る。
青ざめた月を見上げながら、二人は、初めて大夫に会ったときに通った、広い通路を引かれて行った。
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蒼ざめた月を仰ぎながら、二人は目見えのときに通った、広い馬道を引かれて行く。
階段を三段登った。
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階を三段登る。
渡り廊下を通った。
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廊を通る。
ぐるぐると回って、あの日に見た広間に入った。
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廻り廻ってさきの日に見た広間にはいる。
そこには、大勢の人が黙って並んでいた。
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そこには大勢の人が黙って並んでいる。
三郎は二人を、炭火が真っ赤におこった炉の前まで引きずって行った。
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三郎は二人を炭火の真っ赤におこった炉の前まで引きずって出る。
二人は、小屋で引き立てられたときから、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい」
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二人は小屋で引き立てられたときから、ただ「ご免なさいご免なさい」
と言っていたが、三郎が黙って引きずって行くので、しまいには二人も黙ってしまった。
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と言っていたが、三郎は黙って引きずって行くので、しまいには二人も黙ってしまった。
炉の向かい側には、敷物を三枚重ねて敷いて、山椒大夫が座っていた。
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炉の向い側には茵三枚を畳ねて敷いて、山椒大夫がすわっている。
大夫の赤い顔が、座の左右にたいてある松明(たいまつ)の光を照り返して、燃えているようだった。
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大夫の赤顔が、座の右左に焚いてある炬火を照り反して、燃えるようである。
三郎は炭火の中から、赤く焼けた火ばしを抜き出した。
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三郎は炭火の中から、赤く焼けている火筯を抜き出す。
それを手に持って、しばらく見ていた。
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それを手に持って、しばらく見ている。
初めは透き通るように赤くなっていた鉄が、だんだん黒ずんできた。
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初め透き通るように赤くなっていた鉄が、次第に黒ずんで来る。
そこで三郎は安寿を引き寄せて、火ばしを顔に当てようとした。
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そこで三郎は安寿を引き寄せて、火筯を顔に当てようとする。
厨子王は、その肘にからみついた。
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厨子王はその肘にからみつく。
三郎はそれを蹴倒して、右の膝の下に敷いた。
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三郎はそれを蹴倒して右の膝に敷く。
とうとう、火ばしを安寿の額に十文字に押し当てた。
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とうとう火筯を安寿の額に十文字に当てる。
安寿の悲鳴が、その場の沈黙を破って響き渡った。
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安寿の悲鳴が一座の沈黙を破って響き渡る。
三郎は安寿を突き放し、膝の下の厨子王を引き起こして、その額にも火ばしを十文字に押し当てた。
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三郎は安寿を衝き放して、膝の下の厨子王を引き起し、その額にも火筯を十文字に当てる。
新しく響いた厨子王の泣き声が、少しかすかになった姉の声と混じり合った。
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新たに響く厨子王の泣き声が、ややかすかになった姉の声に交じる。
三郎は火ばしを捨てて、初めに二人をこの広間へ連れて来たときのように、また二人の手をつかんだ。
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三郎は火筯を棄てて、初め二人をこの広間へ連れて来たときのように、また二人の手をつかまえる。
そして、その場を見渡したあと、広い母屋を回って、二人を三段の階段のところまで引き出し、凍った土の上に突き落とした。
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そして一座を見渡したのち、広い母屋を廻って、二人を三段の階の所まで引き出し、凍った土の上に衝き落す。
二人の子どもは、傷の痛みと心の恐ろしさとで気を失いそうになるのを、ようやくこらえて、どこをどう歩いたともわからないまま、三の木戸の小屋に帰った。
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二人の子供は創の痛みと心の恐れとに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家に帰る。
寝床の上に倒れた二人は、しばらく死んだように動かずにいたが、やがて厨子王が「姉さん、早くお地蔵様を」
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臥所の上に倒れた二人は、しばらく死骸のように動かずにいたが、たちまち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」
と叫んだ。
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と叫んだ。
安寿はすぐに起き直って、肌身につけていたお守り袋を取り出した。
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安寿はすぐに起き直って、肌の守袋を取り出した。
震える手でひもを解き、袋から出した仏像を枕もとに置いた。
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わななく手に紐を解いて、袋から出した仏像を枕もとに据えた。
二人は左右にひざまずいて、頭を下げた。
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二人は右左にぬかずいた。
そのとき、歯を食いしばってもこらえられなかった額の痛みが、消えるようになくなった。
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そのとき歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛みが、掻き消すように失せた。
手のひらで額をなでてみると、傷はあとかたもなくなっていた。
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掌で額を撫でてみれば、創は痕もなくなった。
はっと思って、二人は目を覚ました。
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はっと思って、二人は目をさました。
二人の子どもは起き直って、夢の話をした。
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二人の子供は起き直って夢の話をした。
同じ夢を、同じときに見ていたのだった。
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同じ夢を同じときに見たのである。
安寿は守り本尊を取り出して、夢の中で置いたのと同じように、枕もとに置いた。
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安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕もとに据えた。
二人はそれを伏し拝んで、かすかな明かりにすかして、地蔵様の額を見た。
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二人はそれを伏し拝んで、かすかな燈火の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。
白毫(びゃくごう・仏様の眉間にある白い毛の印)の左右に、のみで彫ったような十文字の傷が、くっきりと見えた。
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白毫の右左に、鏨で彫ったような十文字の疵があざやかに見えた。
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二人の子どもの話を三郎に立ち聞きされて、その晩、恐ろしい夢を見たときから、安寿の様子がひどく変わってきた。
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二人の子供が話を三郎に立聞きせられて、その晩恐ろしい夢を見たときから、安寿の様子がひどく変って来た。
顔には引き締まったような表情があって、眉の根元にはしわが寄り、目ははるか遠くを見つめていた。
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顔には引き締まったような表情があって、眉の根には皺が寄り、目ははるかに遠いところを見つめている。
そして、あまりものを言わなかった。
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そして物を言わない。
日暮れに浜から帰ると、これまでは弟が山から帰るのを待ち受けて、長い話をしていたのに、今はこんなときでも、口数が少なくなっていた。
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日の暮れに浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんなときにも詞少なにしている。
厨子王が心配して、「姉さん、どうしたのです」
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厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」
と言うと、「どうもしないの、大丈夫よ」
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と言うと「どうもしないの、大丈夫よ」
と言って、わざとらしく笑った。
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と言って、わざとらしく笑う。
安寿が前と変わったのはただこれだけで、言うことは間違っておらず、することもいつも通りだった。
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安寿の前と変ったのはただこれだけで、言うことが間違ってもおらず、することも平生の通りである。
しかし厨子王は、お互いに慰め合ってきたたった一人の姉が、変わった様子をするのを見て、どこまでもつらく思う気持ちを、誰にも打ち明けて話すことができなかった。
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しかし厨子王は互いに慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。
二人の子どもの境遇は、前よりもいっそう寂しいものになったのだった。
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二人の子供の境界は、前より一層寂しくなったのである。
雪が降ったりやんだりして、年が暮れかかった。
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雪が降ったり歇んだりして、年が暮れかかった。
奴(やっこ)も婢(はしため)も、外に出る仕事をやめて、家の中で働くことになった。
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奴も婢も外に出る為事を止めて、家の中で働くことになった。
安寿は糸を紡いだ。
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安寿は糸を紡ぐ。
厨子王は藁をたたいた。
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厨子王は藁を擣つ。
藁をたたくのに慣れはいらないが、糸を紡ぐのはむずかしかった。
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藁を擣つのは修行はいらぬが、糸を紡ぐのはむずかしい。
それを、夜になると伊勢の小萩が来て、手伝ったり教えたりした。
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それを夜になると伊勢の小萩が来て、手伝ったり教えたりする。
安寿は、弟に対する様子が変わっただけでなく、小萩に対しても口数が少なくなって、ともすると不愛想にした。
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安寿は弟に対する様子が変ったばかりでなく、小萩に対しても詞少なになって、ややもすると不愛想をする。
しかし小萩は機嫌を悪くすることもなく、いたわるようにしてつきあっていた。
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しかし小萩は機嫌を損せずに、いたわるようにしてつきあっている。
山椒大夫の屋敷の木戸にも、正月の松が立てられた。
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山椒大夫が邸の木戸にも松が立てられた。
しかし、ここの年の初めは、何のはなやかなこともなく、また一族の女の人たちは屋敷の奥深くに住んでいて、出入りすることがめったにないので、にぎやかなこともなかった。
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しかしここの年のはじめは何の晴れがましいこともなく、また族の女子たちは奥深く住んでいて、出入りすることがまれなので、賑わしいこともない。
ただ、上の人々も下の人々も酒を飲んで、奴(やっこ)の小屋には、けんかが起こるだけだった。
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ただ上も下も酒を飲んで、奴の小屋には諍いが起るだけである。
ふだんはけんかをすると厳しく罰せられるのに、こういうときは奴頭が大目に見た。
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常は諍いをすると、きびしく罰せられるのに、こういうときは奴頭が大目に見る。
血を流しても、知らぬ顔をしていることがあった。
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血を流しても知らぬ顔をしていることがある。
どうかすると、殺された者が出ても構わないのだった。
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どうかすると、殺されたものがあっても構わぬのである。
寂しい三の木戸の小屋へは、時々小萩が遊びに来た。
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寂しい三の木戸の小屋へは、折り折り小萩が遊びに来た。
婢の小屋のにぎやかさを持って来たかと思うほど、小萩が話している間は、陰気な小屋も春めいて、このごろ様子が変わっている安寿の顔にさえ、めったに見られない微笑みの影が浮かんだ。
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婢の小屋の賑わしさを持って来たかと思うように、小萩が話している間は、陰気な小屋も春めいて、このごろ様子の変っている安寿の顔にさえ、めったに見えぬ微笑みの影が浮ぶ。
三日たつと、また家の中の仕事が始まった。
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三日立つと、また家の中の為事が始まった。
安寿は糸を紡いだ。
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安寿は糸を紡ぐ。
厨子王は藁をたたいた。
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厨子王は藁を擣つ。
もう、夜になって小萩が来ても、手伝う必要がないほど、安寿は紡錘(つむ・糸をつむぐ道具)を回すことに慣れていた。
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もう夜になって小萩が来ても、手伝うにおよばぬほど、安寿は紡錘を廻すことに慣れた。
様子は変わっていても、こんな静かで同じことを繰り返すような仕事をするのには差し支えなく、また、仕事がかえって、一つのことばかり考えるようになった心を紛らわせ、落ち着きを与えているらしく見えた。
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様子は変っていても、こんな静かな、同じことを繰り返すような為事をするには差支えなく、また為事がかえって一向きになった心を散らし、落ち着きを与えるらしく見えた。
姉と前のように話ができない厨子王には、糸を紡いでいる姉に、小萩がそばにいて話しかけてくれることが、何よりも心強く思われた。
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姉と前のように話をすることの出来ぬ厨子王は、紡いでいる姉に、小萩がいて物を言ってくれるのが、何よりも心強く思われた。
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水がぬるみ、草が芽吹くころになった。
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水が温み、草が萌えるころになった。
明日から外の仕事が始まるという日に、二郎が屋敷を見回るついでに、三の木戸の小屋に来た。
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あすからは外の為事が始まるという日に、二郎が邸を見廻るついでに、三の木戸の小屋に来た。
「どうじゃな。明日、仕事に出られるかな。大勢の人の中には、病気の者もいる。奴頭の話を聞いただけではわからないから、きょうは小屋を全部見て回ったのじゃ」
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「どうじゃな。あす為事に出られるかな。大勢の人のうちには病気でおるものもある。奴頭の話を聞いたばかりではわからぬから、きょうは小屋小屋を皆見て廻ったのじゃ」
藁をたたいていた厨子王が返事をしようとして、まだ言葉を出さないうちに、このごろの様子には似合わず、安寿が糸を紡ぐ手を止めて、すっと二郎の前に進み出た。
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藁を擣っていた厨子王が返事をしようとして、まだ詞を出さぬ間に、このごろの様子にも似ず、安寿が糸を紡ぐ手を止めて、つと二郎の前に進み出た。
「それについて、お願いがございます。わたくしは弟と同じところで仕事がしたいのです。どうか、いっしょに山へやってくださるように、お取り計らいくださいまし」
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「それについてお願いがございます。わたくしは弟と同じ所で為事がいたしとうございます。どうか一しょに山へやって下さるように、お取り計らいなすって下さいまし」
青ざめた顔に赤みがさして、目がかがやいていた。
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蒼ざめた顔に紅がさして、目がかがやいている。
厨子王は、姉の様子がまた変わったらしく見えるのに驚き、また、自分に何の相談もせずに、突然、柴刈りに行きたいと言い出したことをも不思議に思って、ただ目を見開いて姉を見つめていた。
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厨子王は姉の様子が二度目に変ったらしく見えるのに驚き、また自分になんの相談もせずにいて、突然柴苅りに往きたいと言うのをも訝しがって、ただ目をみはって姉をまもっている。
二郎は何も言わずに、安寿の様子をじっと見ていた。
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二郎は物を言わずに、安寿の様子をじっと見ている。
安寿は、「ほかにはない、ただ一つのお願いでございます。どうぞ山へやってくださいまし」
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安寿は「ほかにない、ただ一つのお願いでございます、どうぞ山へおやりなすって」
と、繰り返して言っていた。
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と繰り返して言っている。
しばらくして、二郎は口を開いた。「この屋敷では、奴婢(ぬひ)の誰にどんな仕事をさせるかということは、重要なこととされていて、父が自分で決めるのだ。しかし、忍ぶ草(しのぶぐさ)、お前の願いは、よほど思い詰めてのことと見える。わしが引き受けて取りなして、きっと山へ行かれるようにしてやろう。安心しているがいい。まあ、二人の幼い者が、無事に冬を過ごせてよかった」
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しばらくして二郎は口を開いた「この邸では奴婢のなにがしになんの為事をさせるということは、重いことにしてあって、父がみずからきめる。しかし垣衣、お前の願いはよくよく思い込んでのことと見える。わしが受け合って取りなして、きっと山へ往かれるようにしてやる。安心しているがいい。まあ、二人のおさないものが無事に冬を過してよかった」
こう言って、小屋を出た。
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こう言って小屋を出た。
厨子王は杵を置いて、姉のそばに寄った。
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厨子王は杵を置いて姉のそばに寄った。
「姉さん。どうしたのです。それは、あなたがいっしょに山へ来てくださるのは、わたしもうれしいけれど、なぜ、いきなり頼んだのです。なぜ、わたしに相談しないのですか」
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「姉えさん。どうしたのです。それはあなたが一しょに山へ来て下さるのは、わたしも嬉しいが、なぜ出し抜けに頼んだのです。なぜわたしに相談しません」
姉の顔は、喜びにかがやいていた。
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姉の顔は喜びにかがやいている。
「本当にそう思うのはもっともだけれど、わたしだって、あの人の顔を見るまでは、頼もうとは思っていなかったの。急に思いついたのだもの」
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「ほんにそうお思いのはもっともだが、わたしだってあの人の顔を見るまで、頼もうとは思っていなかったの。ふいと思いついたのだもの」
「そうですか。変ですね」
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「そうですか。変ですなあ」
厨子王は、めずらしいものを見るように、姉の顔を眺めていた。
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厨子王は珍らしい物を見るように姉の顔を眺めている。
奴頭が、かごと鎌を持って入って来た。
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奴頭が籠と鎌とを持ってはいって来た。
「忍ぶ草(しのぶぐさ)さん。お前に潮汲みをやめさせて、柴刈りにやるのだそうで、わしは道具を持って来た。代わりに、桶とひしゃくをもらって行こう」
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「垣衣さん。お前に汐汲みをよさせて、柴を苅りにやるのだそうで、わしは道具を持って来た。代りに桶と杓をもらって往こう」
「これはどうも、お手数をおかけしました」
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「これはどうもお手数でございました」
安寿は身軽に立ち上がって、桶とひしゃくを出して返した。
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安寿は身軽に立って、桶と杓とを出して返した。
奴頭はそれを受け取ったが、まだ帰りそうにはしなかった。
原文を見る
奴頭はそれを受け取ったが、まだ帰りそうにはしない。
顔には、一種の苦笑いのような表情が浮かんでいた。
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顔には一種の苦笑いのような表情が現われている。
この男は、山椒大夫一家の言いつけを、まるで神のお告げを聞くように聞いた。
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この男は山椒大夫一家のものの言いつけを、神の託宣を聴くように聴く。
そのため、ずいぶんひどい、むごいこともためらわずにした。
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そこで随分情けない、苛酷なことをもためらわずにする。
しかし、生まれつき、人が苦しみもだえたり、泣き叫んだりするのを見たがるわけではなかった。
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しかし生得、人の悶え苦しんだり、泣き叫んだりするのを見たがりはしない。
物事がおだやかに運んで、そんな場面を見ずに済めば、そのほうが都合がよかった。
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物事がおだやかに運んで、そんなことを見ずに済めば、その方が勝手である。
今の苦笑いのような表情は、人につらい思いをさせないわけにはいかないとあきらめて、何かを言ったりしたりするときに、この男の顔に浮かぶのだった。
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今の苦笑いのような表情は人に難儀をかけずには済まぬとあきらめて、何か言ったり、したりするときに、この男の顔に現われるのである。
奴頭は安寿のほうを向いて言った。
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奴頭は安寿に向いて言った。
「さて、もう一つ用事があってな。実は、お前さんを柴刈りにやることは、二郎様が大夫様に申し上げて決めてくださったのじゃ。すると、その場に三郎様がおられて、それなら忍ぶ草を大童(おおわらわ・髪を短く切って、子どものような髪形にすること)にして山へやれとおっしゃった。大夫様は、それはよい思いつきじゃとお笑いになった。そこで、わしはお前さんの髪をもらって行かねばならぬ」
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「さて今一つ用事があるて。実はお前さんを柴苅りにやることは、二郎様が大夫様に申し上げて拵えなさったのじゃ。するとその座に三郎様がおられて、そんなら垣衣を大童にして山へやれとおっしゃった。大夫様は、よい思いつきじゃとお笑いなされた。そこでわしはお前さんの髪をもろうて往かねばならぬ」
そばで聞いていた厨子王は、この言葉を、胸を刺されるような思いで聞いた。
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そばで聞いている厨子王は、この詞を胸を刺されるような思いをして聞いた。
そして、目に涙を浮かべて姉を見た。
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そして目に涙を浮べて姉を見た。
意外にも、安寿の顔から喜びの色は消えなかった。
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意外にも安寿の顔からは喜びの色が消えなかった。
「本当にそうですね。柴刈りに行くからには、わたしも男の子と同じです。どうぞこの鎌で切ってくださいまし」
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「ほんにそうじゃ。柴苅りに往くからは、わたしも男じゃ。どうぞこの鎌で切って下さいまし」
安寿は、奴頭の前にうなじを伸ばした。
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安寿は奴頭の前に項を伸ばした。
つやのある、長い安寿の髪が、鋭い鎌のひと払いで、さっくりと切れた。
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光沢のある、長い安寿の髪が、鋭い鎌の一掻きにさっくり切れた。
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明くる朝、二人の子どもは、背にかごを背負い、腰に鎌をさして、手を取り合って木戸を出た。
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あくる朝、二人の子供は背に籠を負い腰に鎌を揷して、手を引き合って木戸を出た。
山椒大夫のところに来てから、二人がいっしょに歩くのは、これが初めてだった。
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山椒大夫のところに来てから、二人一しょに歩くのはこれがはじめである。
厨子王は、姉の心をはかりかねて、寂しいような、悲しいような思いで、胸がいっぱいになっていた。
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厨子王は姉の心を忖りかねて、寂しいような、悲しいような思いに胸が一ぱいになっている。
きのうも、奴頭が帰ったあとで、あれこれ言葉を選んで尋ねてみたが、姉は一人で何かを考えているらしく、それをはっきりとは打ち明けてくれなかった。
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きのうも奴頭の帰ったあとで、いろいろに詞を設けて尋ねたが、姉はひとりで何事をか考えているらしく、それをあからさまには打ち明けずにしまった。
山のふもとに来たとき、厨子王はこらえきれずに言った。
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山の麓に来たとき、厨子王はこらえかねて言った。
「姉さん。わたしはこうして久しぶりにいっしょに歩くのだから、うれしがらなくてはならないのに、どうも悲しくてなりません。わたしはこうして手を取り合っていながら、あなたのほうを向いて、その短くなった頭を見ることができません。姉さん。あなたはわたしに隠して、何か考えていますね。なぜそれをわたしに話して聞かせてくれないのですか」
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「姉えさん。わたしはこうして久しぶりで一しょに歩くのだから、嬉しがらなくてはならないのですが、どうも悲しくてなりません。わたしはこうして手を引いていながら、あなたの方へ向いて、その禿になったお頭を見ることが出来ません。姉えさん。あなたはわたしに隠して、何か考えていますね。なぜそれをわたしに言って聞かせてくれないのです」
安寿はけさも、光がさすような喜びを額にたたえて、大きな目をかがやかせていた。
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安寿はけさも毫光のさすような喜びを額にたたえて、大きい目をかがやかしている。
しかし、弟の言葉には答えなかった。
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しかし弟の詞には答えない。
ただ、握り合っている手に力を入れただけだった。
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ただ引き合っている手に力を入れただけである。
山に登ろうとするところに、沼があった。
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山に登ろうとする所に沼がある。
岸には、去年見たときのように、枯れた葦(あし)が縦横に乱れていたが、道端の草には、黄ばんだ葉の間に、もう青い芽が出ているものがあった。
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汀には去年見たときのように、枯れ葦が縦横に乱れているが、道端の草には黄ばんだ葉の間に、もう青い芽の出たのがある。
沼のほとりから右に折れて登ると、そこに、岩の隙間から清水が湧いている場所があった。
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沼の畔から右に折れて登ると、そこに岩の隙間から清水の湧く所がある。
そこを通り過ぎて、岩壁を右に見ながら、うねった道を登って行くのだった。
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そこを通り過ぎて、岩壁を右に見つつ、うねった道を登って行くのである。
ちょうど、岩の表面に朝日が一面にさしていた。
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ちょうど岩の面に朝日が一面にさしている。
安寿は、重なり合った岩の、風化したすき間に根を下ろして、小さいすみれの花が咲いているのを見つけた。
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安寿は畳なり合った岩の、風化した間に根をおろして、小さい菫の咲いているのを見つけた。
そして、それを指さして厨子王に見せて言った。
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そしてそれを指さして厨子王に見せて言った。
「ごらんなさい。もう春になるのね」
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「ごらん。もう春になるのね」
厨子王は黙ってうなずいた。
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厨子王は黙ってうなずいた。
姉は胸に秘密をしまい込み、弟は心配ばかりを抱えていたので、なかなか受け答えができず、話は水が砂に沁み込むように、とぎれてしまうのだった。
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姉は胸に秘密を蓄え、弟は憂えばかりを抱いているので、とかく受け応えが出来ずに、話は水が砂に沁み込むようにとぎれてしまう。
去年、柴を刈った木立ちのそばに来たので、厨子王は足を止めた。
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去年柴を苅った木立ちのほとりに来たので、厨子王は足を駐めた。
「姉さん。ここらで刈るのです」
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「ねえさん。ここらで苅るのです」
「まあ、もっと高いところへ登ってみましょうね」
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「まあ、もっと高い所へ登ってみましょうね」
安寿は先に立って、ずんずん登って行った。
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安寿は先に立ってずんずん登って行く。
厨子王は、不思議に思いながらついて行った。
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厨子王は訝りながらついて行く。
しばらくして、雑木林よりもずっと高い、前山の頂ともいうべき場所に来た。
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しばらくして雑木林よりはよほど高い、外山の頂とも言うべき所に来た。
安寿はそこに立って、南のほうをじっと見ていた。
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安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。
その目は、石浦を通って由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどり、一里ほど離れた川向こうに、こんもりと茂った木立ちの中から塔の先が見えている中山に止まった。
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目は、石浦を経て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った川向いに、こんもりと茂った木立ちの中から、塔の尖の見える中山に止まった。
そして、「厨子王や」
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そして「厨子王や」
と、弟に呼びかけた。
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と弟を呼びかけた。
「わたしが、ずっと前から考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もうきょうは、柴なんかは刈らなくてもいいから、わたしの言うことをよくお聞き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせてくれたのだけれど、あの中山を越えて行けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ行くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと行かれます。お母様といっしょに岩代を出てから、わたしたちは恐ろしい人にばかり出会ったけれど、人の運が開けるものなら、よい人に出会わないとは限りません。お前はこれから、思い切ってこの土地を逃げ出して、どうぞ都へ上っておくれ。神様や仏様のお導きで、よい人にさえ出会えたら、筑紫へお下りになったお父様のお身の上もわかるでしょう。佐渡へお母様をお迎えに行くこともできるでしょう。かごや鎌は捨てておいて、弁当箱だけ持って行くのですよ」
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「わたしが久しい前から考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もうきょうは柴なんぞは苅らなくてもいいから、わたしの言うことをよくお聞き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して往けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと往かれます。お母あさまとご一しょに岩代を出てから、わたしどもは恐ろしい人にばかり出逢ったが、人の運が開けるものなら、よい人に出逢わぬにも限りません。お前はこれから思いきって、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。神仏のお導きで、よい人にさえ出逢ったら、筑紫へお下りになったお父うさまのお身の上も知れよう。佐渡へお母あさまのお迎えに往くことも出来よう。籠や鎌は棄てておいて、樏子だけ持って往くのだよ」
厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬を伝って流れてきた。
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厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬を伝って流れて来た。
「それで、姉さん、あなたはどうしようというのです」
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「そして、姉えさん、あなたはどうしようというのです」
「わたしのことは構わないで、お前一人でやることを、わたしといっしょにやるつもりでしておくれ。お父様にもお目にかかり、お母様も島からお連れした上で、わたしを助けに来ておくれ」
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「わたしのことは構わないで、お前一人ですることを、わたしと一しょにするつもりでしておくれ。お父うさまにもお目にかかり、お母あさまをも島からお連れ申した上で、わたしをたすけに来ておくれ」
「でも、わたしがいなくなったら、あなたをひどい目に遭わせるでしょう」
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「でもわたしがいなくなったら、あなたをひどい目に逢わせましょう」
厨子王の心には、焼き印を押された、あの恐ろしい夢が浮かんだ。
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厨子王が心には烙印をせられた、恐ろしい夢が浮ぶ。
「それはいじめるかもしれないけれど、わたしは我慢してみせます。お金で買った婢(はしため)を、あの人たちは殺しはしません。たぶん、お前がいなくなったら、わたしを二人分働かせようとするでしょう。お前が教えてくれた木立ちのところで、わたしは柴をたくさん刈ります。六荷までは刈れなくても、四荷でも五荷でも刈りましょう。さあ、あそこまで降りて行って、かごや鎌をそこに置いて、お前をふもとまで送ってあげよう」
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「それはいじめるかも知れないがね、わたしは我慢して見せます。金で買った婢をあの人たちは殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。お前の教えてくれた木立ちの所で、わたしは柴をたくさん苅ります。六荷までは苅れないでも、四荷でも五荷でも苅りましょう。さあ、あそこまで降りて行って、籠や鎌をあそこに置いて、お前を麓へ送って上げよう」
こう言って、安寿は先に立って降りて行った。
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こう言って安寿は先に立って降りて行く。
厨子王は、どうしたらいいか決めかねて、ぼんやりしたままついて降りた。
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厨子王はなんとも思い定めかねて、ぼんやりしてついて降りる。
姉は今年十五になり、弟は十三になっていたが、女の子は早くおとなびるもので、その上、何かに取りつかれたように賢く物事がわかるようになっていたので、厨子王は姉の言葉にそむくことができないのだった。
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姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、その上物に憑かれたように、聡く賢しくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
木立ちのところまで降りて、二人はかごと鎌を落ち葉の上に置いた。
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木立ちの所まで降りて、二人は籠と鎌とを落ち葉の上に置いた。
姉は守り本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。
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姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。
「これは大事なお守りだけれど、今度会うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀といっしょにして、大事に持っていておくれ」
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「これは大事なお守だが、こんど逢うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀と一しょにして、大事に持っていておくれ」
「でも、姉さんにお守りがなくては」
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「でも姉えさんにお守がなくては」
「いいえ。わたしよりも危ない目に遭うお前に、お守りを預けます。晩にお前が帰らなければ、きっと追っ手がかかります。お前がいくら急いでも、普通に逃げて行っては、追いつかれるに決まっています。さっき見た川の上流のほうに、和江(わえ)というところがあるから、そこまで行って、うまく人に見つからずに、向こう岸へ渡ってしまえば、中山まではもう近いのです。そこへ着いたら、あの塔の見えていたお寺に入って、かくまってもらいなさい。しばらくそこに隠れていて、追っ手が帰って行ったあとで、お寺を出て逃げておいで」
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「いいえ。わたしよりはあぶない目に逢うお前にお守を預けます。晩にお前が帰らないと、きっと討手がかかります。お前がいくら急いでも、あたり前に逃げて行っては、追いつかれるにきまっています。さっき見た川の上手を和江という所まで往って、首尾よく人に見つけられずに、向う河岸へ越してしまえば、中山までもう近い。そこへ往ったら、あの塔の見えていたお寺にはいって隠しておもらい。しばらくあそこに隠れていて、討手が帰って来たあとで、寺を逃げておいで」
「でも、お寺のお坊さんがかくまっておいてくれるでしょうか」
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「でもお寺の坊さんが隠しておいてくれるでしょうか」
「さあ、それが運試しだよ。運が開けているなら、お坊さんがお前をかくまってくれるでしょう」
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「さあ、それが運験しだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれましょう」
「そうですね。姉さんが今日おっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃっているようです。わたしは決心しました。何でも、姉さんのおっしゃる通りにします」
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「そうですね。姉えさんのきょうおっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃるようです。わたしは考えをきめました。なんでも姉えさんのおっしゃる通りにします」
「ああ、よく聞いてくれましたね。お坊さんはよい人で、きっとお前をかくまってくれます」
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「おう、よく聴いておくれだ。坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます」
「そうです。わたしにも、そう思えてきました。逃げて都へも行けます。お父様やお母様にも会えます。姉さんを迎えにも来られます」
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「そうです。わたしにもそうらしく思われて来ました。逃げて都へも往かれます。お父うさまやお母あさまにも逢われます。姉えさんのお迎えにも来られます」
厨子王の目が、姉と同じようにかがやいてきた。
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厨子王の目が姉と同じようにかがやいて来た。
「さあ、ふもとまでいっしょに行くから、早くおいで」
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「さあ、麓まで一しょに行くから、早くおいで」
二人は急いで山を降りた。
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二人は急いで山を降りた。
足の運びも前とは違って、姉の熱した気持ちが、まるで暗示のように弟へ移っていったかのようだった。
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足の運びも前とは違って、姉の熱した心持ちが、暗示のように弟に移って行ったかと思われる。
泉が湧いているところへ来た。
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泉の湧く所へ来た。
姉は弁当箱に添えてある木のお椀を出して、清水を汲んだ。
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姉は樏子に添えてある木の椀を出して、清水を汲んだ。
「これが、お前の門出を祝うお酒だよ」
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「これがお前の門出を祝うお酒だよ」
こう言って一口飲んで、弟にさし出した。
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こう言って一口飲んで弟にさした。
弟はお椀を飲み干した。
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弟は椀を飲み干した。
「それでは姉さん、お元気で。きっと、人に見つからずに、中山まで参ります」
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「そんなら姉えさん、ご機嫌よう。きっと人に見つからずに、中山まで参ります」
厨子王は、十歩ほど残っていた坂道を一気に駆け降りて、沼に沿って街道に出た。
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厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、一走りに駆け降りて、沼に沿うて街道に出た。
そして、大雲川の岸を上流へ向かって急いだ。
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そして大雲川の岸を上手へ向かって急ぐのである。
安寿は泉のほとりに立って、並木の松に隠れては、また現れる弟の後ろ姿を、小さくなるまで見送った。
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安寿は泉の畔に立って、並木の松に隠れてはまた現われる後ろ影を小さくなるまで見送った。
そして、日はもう昼に近づいているのに、山に登ろうともしなかった。
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そして日はようやく午に近づくのに、山に登ろうともしない。
さいわい、今日はこの方角の山で木を切る人がいないらしく、坂道に立って時を過ごしている安寿を、見とがめる者もなかった。
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幸いにきょうはこの方角の山で木を樵る人がないと見えて、坂道に立って時を過す安寿を見とがめるものもなかった。
のちに、姉弟を捜しに出た山椒大夫一家の追っ手が、この坂の下の沼のはたで、小さい藁ぐつを一足拾った。
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のちに同胞を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端で、小さい藁履を一足拾った。
それは、安寿のくつだった。
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それは安寿の履であった。
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中山の国分寺の三門に、たいまつの火影が乱れて、大勢の人がなだれ込んで来た。
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中山の国分寺の三門に、松明の火影が乱れて、大勢の人が籠み入って来る。
先に立ったのは、白い柄の薙刀(なぎなた)を腰にさした、山椒大夫の息子の三郎だった。
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先に立ったのは、白柄の薙刀を手挾んだ、山椒大夫の息子三郎である。
三郎は堂の前に立って、大声で言った。
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三郎は堂の前に立って大声に言った。
「これへ参ったのは、石浦の山椒大夫の一族の者じゃ。大夫が使っている奴(やっこ)の一人が、この山に逃げ込んだのを、確かに見た者がおる。隠れ場所は、この寺の中よりほかにはない。すぐにここへ出してもらおう」
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「これへ参ったのは、石浦の山椒大夫が族のものじゃ。大夫が使う奴の一人が、この山に逃げ込んだのを、たしかに認めたものがある。隠れ場は寺内よりほかにはない。すぐにここへ出してもらおう」
ついて来た大勢の者たちが、「さあ、出してもらおう、出してもらおう」
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ついて来た大勢が、「さあ、出してもらおう、出してもらおう」
と叫んだ。
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と叫んだ。
本堂の前から門の外まで、広い石畳が続いていた。
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本堂の前から門の外まで、広い石畳が続いている。
その石の上には、今、手に手にたいまつを持った、三郎の手下たちが押し合っていた。
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その石の上には、今手に手に松明を持った、三郎が手のものが押し合っている。
また、石畳の両側には、境内に住んでいる僧やそこで働く人たちが、ほとんど一人残らず群がっていた。
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また石畳の両側には、境内に住んでいる限りの僧俗が、ほとんど一人も残らず簇っている。
これは、追っ手の一団が門の外で騒いだとき、本堂の中からも、庫裡(くり・お坊さんたちが暮らす建物)からも、何事が起きたのかとあやしんで出て来たのだった。
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これは討手の群れが門外で騒いだとき、内陣からも、庫裡からも、何事が起ったかと、怪しんで出て来たのである。
初め、追っ手が門の外から門を開けろと叫んだとき、開けて中に入れたら乱暴されるのではないかと心配して、開けまいとするお坊さんが多かった。
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初め討手が門外から門をあけいと叫んだとき、あけて入れたら、乱暴をせられはすまいかと心配して、あけまいとした僧侶が多かった。
それを、住職の曇猛律師(どんみょうりっし)が開けさせた。
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それを住持曇猛律師があけさせた。
しかし今、三郎が大声で、逃げた奴を出せと言っているのに、本堂は戸を閉じたまま、しばらくの間ひっそりとしていた。
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しかし今三郎が大声で、逃げた奴を出せと言うのに、本堂は戸を閉じたまま、しばらくの間ひっそりとしている。
三郎は足踏みをして、同じことを二、三度繰り返した。
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三郎は足踏みをして、同じことを二三度繰り返した。
手下たちの中から、「和尚さん、どうしたのだ」
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手のもののうちから「和尚さん、どうしたのだ」
と呼ぶ者があった。
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と呼ぶものがある。
それに、短い笑い声が混じった。
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それに短い笑い声が交じる。
ようやくのことで、本堂の戸が静かに開いた。
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ようようのことで本堂の戸が静かにあいた。
曇猛律師が、自分で開けたのだった。
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曇猛律師が自分であけたのである。
律師は、僧衣を一枚身にまとっただけで、何のいかめしい格好もせず、仏前にともした灯の薄明かりを背にして、本堂の階段の上に立った。
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律師は偏衫一つ身にまとって、なんの威儀をも繕わず、常燈明の薄明りを背にして本堂の階の上に立った。
背の高いがっしりした体と、眉がまだ黒い、角ばった顔とが、ゆらめく火に照らし出された。
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丈の高い巌畳な体と、眉のまだ黒い廉張った顔とが、揺めく火に照らし出された。
律師は、まだ五十歳を越えたばかりだった。
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律師はまだ五十歳を越したばかりである。
律師は静かに口を開いた。
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律師はしずかに口を開いた。
騒がしかった追っ手の者たちも、律師の姿を見ただけで黙ったので、その声は隅々まで聞こえた。
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騒がしい討手のものも、律師の姿を見ただけで黙ったので、声は隅々まで聞えた。
「逃げた下人(げにん・使用人)を捜しに来られたのじゃな。この寺では、住職のわしに断りなく人をかくまうことはせぬ。わしが知らないのだから、その者はこの寺にはおらぬ。それはそれとして、夜中に刀や槍を持って、大勢で押し寄せて来られ、三門を開けと言われた。さては国に大きな争いでも起きたか、朝廷にそむく者でも現れたかと思うて、三門を開けさせたのじゃ。それがどうじゃ。おぬしの家の使用人を調べるためであったか。この寺は、天皇のお願いによって建てられた寺院で、三門には天皇直筆の額がかけられ、七重の塔には天皇自らお書きになった金文字のお経が納めてある。ここで乱暴を働かれれば、国守(くにのかみ)は監督の責任を問われることになる。また、総本山の東大寺に訴え出れば、都からどのようなお咎めがあるかもわからぬ。そこをよく考えて、早々に引き取られるがよかろう。悪いようにはせぬ。お前たちのためを思っての話じゃ」
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「逃げた下人を捜しに来られたのじゃな。当山では住持のわしに言わずに人は留めぬ。わしが知らぬから、そのものは当山にいぬ。それはそれとして、夜陰に剣戟を執って、多人数押し寄せて参られ、三門を開けと言われた。さては国に大乱でも起ったか、公の叛逆人でも出来たかと思うて、三門をあけさせた。それになんじゃ。御身が家の下人の詮議か。当山は勅願の寺院で、三門には勅額をかけ、七重の塔には宸翰金字の経文が蔵めてある。ここで狼藉を働かれると、国守は検校の責めを問われるのじゃ。また総本山東大寺に訴えたら、都からどのような御沙汰があろうも知れぬ。そこをよう思うてみて、早う引き取られたがよかろう。悪いことは言わぬ。お身たちのためじゃ」
こう言って、律師は静かに戸を閉めた。
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こう言って律師はしずかに戸を締めた。
三郎は本堂の戸をにらんで、歯ぎしりをした。
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三郎は本堂の戸を睨んで歯咬みをした。
しかし、戸を打ち破って踏み込むだけの勇気もなかった。
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しかし戸を打ち破って踏み込むだけの勇気もなかった。
手下たちは、ただ風に木の葉がざわつくように、ひそひそとささやき合っていた。
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手のものどもはただ風に木の葉のざわつくようにささやきかわしている。
このとき、大声で叫ぶ者があった。
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このとき大声で叫ぶものがあった。
「その逃げたというのは、十二、三の小僧っこじゃろう。それなら、わしが知っておる」
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「その逃げたというのは十二三の小わっぱじゃろう。それならわしが知っておる」
三郎は驚いて、声の主を見た。
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三郎は驚いて声の主を見た。
父親の山椒大夫と見間違えそうな老人で、この寺の鐘つき番だった。
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父の山椒大夫に見まごうような親爺で、この寺の鐘楼守である。
老人は言葉を続けて言った。
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親爺は詞を続いで言った。
「その小僧はな、わしが昼ごろ鐘楼から見ておると、土塀(どべい)の外を通って南へ急いでおった。か弱い代わりに、身は軽い。もうだいぶ道を行っておるじゃろう」
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「そのわっぱはな、わしが午ごろ鐘楼から見ておると、築泥の外を通って南へ急いだ。かよわい代りには身が軽い。もう大分の道を行ったじゃろ」
「それじゃ。半日で子どもが行ける道など、たかが知れておる。続け」
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「それじゃ。半日に童の行く道は知れたものじゃ。続け」
と言って、三郎は引き返した。
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と言って三郎は取って返した。
たいまつの行列が寺の門を出て、土塀の外を南へ行くのを、鐘つき番は鐘楼から見て、大声で笑った。
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松明の行列が寺の門を出て、築泥の外を南へ行くのを、鐘楼守は鐘楼から見て、大声で笑った。
近くの木立ちの中で、ようやく落ち着いて寝ようとしていたカラスが二、三羽、また驚いて飛び立った。
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近い木立ちの中で、ようよう落ち着いて寝ようとした鴉が二三羽また驚いて飛び立った。
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明くる日、国分寺からは、あちこちへ人が出た。
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あくる日に国分寺からは諸方へ人が出た。
石浦へ行った者は、安寿が水に身を投げて亡くなったことを聞いて来た。
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石浦に往ったものは、安寿の入水のことを聞いて来た。
南のほうへ行った者は、三郎が率いた追っ手が、田辺まで行って引き返したことを聞いて来た。
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南の方へ往ったものは、三郎の率いた討手が田辺まで往って引き返したことを聞いて来た。
中二日おいて、曇猛律師が田辺のほうへ向かって寺を出た。
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中二日おいて、曇猛律師が田辺の方へ向いて寺を出た。
たらいほどもある鉄の鉢を持ち、腕の太さほどもある錫杖(しゃくじょう・僧が持つ杖)をついていた。
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盥ほどある鉄の受糧器を持って、腕の太さの錫杖を衝いている。
そのあとから、頭を丸めて僧の衣を着た厨子王がついて行った。
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あとからは頭を剃りこくって三衣を着た厨子王がついて行く。
二人は真昼に街道を歩き、夜はあちこちの寺に泊まった。
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二人は真昼に街道を歩いて、夜は所々の寺に泊った。
山城の朱雀野(しゅじゃくの)まで来ると、律師は権現堂で休み、厨子王に別れを告げた。
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山城の朱雀野に来て、律師は権現堂に休んで、厨子王に別れた。
「守り本尊を大切にして行きなさい。父母の消息は、きっとわかるだろう」
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「守本尊を大切にして往け。父母の消息はきっと知れる」
と言い聞かせて、律師はきびすを返した。
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と言い聞かせて、律師は踵を旋した。
亡くなった姉と同じことを言うお坊さんだと、厨子王は思った。
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亡くなった姉と同じことを言う坊様だと、厨子王は思った。
都に上った厨子王は、僧の姿になっていたので、東山の清水寺に泊まった。
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都に上った厨子王は、僧形になっているので、東山の清水寺に泊った。
籠堂(こもりどう・お参りの人が泊まって祈るお堂)に寝て、明くる朝目が覚めると、貴族の服を着て、烏帽子(えぼし・当時の貴族がかぶった帽子)をかぶり、指貫(さしぬき・すそをくくった袴)をはいた老人が、枕もとに立っていて言った。
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籠堂に寝て、あくる朝目がさめると、直衣に烏帽子を着て指貫をはいた老人が、枕もとに立っていて言った。
「お前は誰の子じゃ。何か大切な物を持っているなら、どうぞわしに見せてくれ。わしは娘の病気が治るように祈るために、ゆうべここに参籠(さんろう・お堂に泊まって祈ること)した。すると、夢にお告げがあった。左の格子に寝ている子どもが、よい守り本尊を持っている。それを借りて拝ませよ、ということじゃった。けさ、左の格子に来てみれば、お前がいる。どうか、わしに身の上を明かして、守り本尊を貸してくれ。わしは関白(かんぱく・天皇を助けて政治を行う最高の位)の師実(もろざね)じゃ」
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「お前は誰の子じゃ。何か大切な物を持っているなら、どうぞおれに見せてくれい。おれは娘の病気の平癒を祈るために、ゆうべここに参籠した。すると夢にお告げがあった。左の格子に寝ている童がよい守本尊を持っている。それを借りて拝ませいということじゃ。けさ左の格子に来てみれば、お前がいる。どうぞおれに身の上を明かして、守本尊を貸してくれい。おれは関白師実じゃ」
厨子王は言った。
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厨子王は言った。
「わたくしは、陸奥掾正氏(むつのじょうまさうじ)という者の子でございます。父は十二年前、筑紫の安楽寺へ行ったきり、帰らないそうでございます。母は、その年に生まれたわたくしと、三つになる姉とを連れて、岩代の信夫郡(しのぶごおり)に住むことになりました。それから、わたくしがだいぶ大きくなったので、姉とわたくしを連れて、父を訪ねる旅に出ました。越後まで来たところで、恐ろしい人買いに捕らえられて、母は佐渡へ、姉とわたくしとは丹後の由良へ売られました。姉は由良で亡くなりました。わたくしが持っている守り本尊は、この地蔵様でございます」
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「わたくしは陸奥掾正氏というものの子でございます。父は十二年前に筑紫の安楽寺へ往ったきり、帰らぬそうでございます。母はその年に生まれたわたくしと、三つになる姉とを連れて、岩代の信夫郡に住むことになりました。そのうちわたくしが大ぶ大きくなったので、姉とわたくしとを連れて、父を尋ねに旅立ちました。越後まで出ますと、恐ろしい人買いに取られて、母は佐渡へ、姉とわたくしとは丹後の由良へ売られました。姉は由良で亡くなりました。わたくしの持っている守本尊はこの地蔵様でございます」
こう言って、守り本尊を取り出して見せた。
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こう言って守本尊を出して見せた。
師実は仏像を手に取って、まず額に当てるようにして拝んだ。
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師実は仏像を手に取って、まず額に当てるようにして礼をした。
それから、表と裏を何度も返しながら、丁寧に見て言った。
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それから面背を打ち返し打ち返し、丁寧に見て言った。
「これは、以前から聞き及んでいた、尊い放光王地蔵菩薩(ほうこうおうじぞうぼさつ)の金の像じゃ。百済(くだら)の国から渡って来たものを、高見王という方が、ご自分の守り仏にしておられた。これを代々受け継いでいるからには、お前の家柄に間違いはあるまい。上皇がまだ天皇の位におられた永保(えいほう)の初めに、国守の不正な行いに巻き込まれて、筑紫へ左遷させられた平正氏(たいらのまさうじ)の跡取り息子に違いない。もし僧をやめて元の身分に戻りたいという望みがあるなら、いずれ国司に任じられることもあろう。まずは当分、わしの家の客人としよう。わしといっしょに屋敷へ来い」
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「これはかねて聞きおよんだ、尊い放光王地蔵菩薩の金像じゃ。百済国から渡ったのを、高見王が持仏にしておいでなされた。これを持ち伝えておるからは、お前の家柄に紛れはない。仙洞がまだ御位におらせられた永保の初めに、国守の違格に連座して、筑紫へ左遷せられた平正氏が嫡子に相違あるまい。もし還俗の望みがあるなら、追っては受領の御沙汰もあろう。まず当分はおれの家の客にする。おれと一しょに館へ来い」
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関白師実が「娘」と言ったのは、上皇にお仕えしている養女で、実は妻のめいだった。
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関白師実の娘といったのは、仙洞にかしずいている養女で、実は妻の姪である。
このきさきは、長い間病気でいらっしゃったのに、厨子王の守り本尊を借りて拝むと、すぐにぬぐうように病気が治られた。
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この后は久しい間病気でいられたのに、厨子王の守本尊を借りて拝むと、すぐに拭うように本復せられた。
師実は、厨子王を僧から元の身分に戻し、自分で冠を授けた。
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師実は厨子王に還俗させて、自分で冠を加えた。
同時に、正氏が流された場所へ、赦免状(しゃめんじょう・罪を許すという書状)を持たせて、無事かどうかを尋ねる使いをやった。
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同時に正氏が謫所へ、赦免状を持たせて、安否を問いに使いをやった。
しかし、この使いが着いたとき、正氏はもう亡くなっていた。
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しかしこの使いが往ったとき、正氏はもう死んでいた。
元服(げんぷく・大人になる儀式)をして正道と名乗っていた厨子王は、体がやつれるほど嘆き悲しんだ。
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元服して正道と名のっている厨子王は、身のやつれるほど歎いた。
その年の秋の除目(じもく・役人を任命する儀式)で、正道は丹後の国守に任じられた。
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その年の秋の除目に正道は丹後の国守にせられた。
これは遙授(ようじゅ)の官といって、任地には自分で行かず、代わりの役人を置いて治めさせるものだった。
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これは遙授の官で、任国には自分で往かずに、掾をおいて治めさせるのである。
しかし国守は、最初の政治として、丹後の国全体で人の売り買いを禁じた。
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しかし国守は最初の政として、丹後一国で人の売り買いを禁じた。
そこで、山椒大夫も、すべての奴婢(ぬひ)を自由にして、給料を払うことにした。
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そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。
大夫の家では、一時はそれを大きな損失のように思ったが、このときから農業も職人の仕事も、前よりいっそう盛んになって、一族はますます富み栄えた。
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大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠の業も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。
国守の恩人である曇猛律師は僧都(そうず・お坊さんの位の一つ)に任じられ、国守の姉をいたわってくれた小萩は、故郷へ帰された。
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国守の恩人曇猛律師は僧都にせられ、国守の姉をいたわった小萩は故郷へ還された。
安寿が亡くなったあとは、心を込めて弔われ、また、身を投げた沼のほとりには尼寺が建てられることになった。
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安寿が亡きあとはねんごろに弔われ、また入水した沼の畔には尼寺が立つことになった。
正道は、任国のためにこれだけのことをしたあと、特別に休暇を願い出て、身分を隠して佐渡へ渡った。
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正道は任国のためにこれだけのことをしておいて、特に仮寧を申し請うて、微行して佐渡へ渡った。
佐渡の国府(こくふ・国の役所のあるところ)は、雑太(さわた)というところにあった。
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佐渡の国府は雑太という所にある。
正道はそこへ行って、役人の手で国中を調べてもらったが、母の行方はなかなかわからなかった。
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正道はそこへ往って、役人の手で国中を調べてもらったが、母の行くえは容易に知れなかった。
ある日、正道は考えあぐねながら、一人で旅館を出て、町の中を歩いた。
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ある日正道は思案にくれながら、一人旅館を出て市中を歩いた。
そのうち、いつのまにか人家の立ち並んだところを離れて、畑の中の道にさしかかった。
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そのうちいつか人家の立ち並んだ所を離れて、畑中の道にかかった。
空はよく晴れて、日があかあかと照っていた。
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空はよく晴れて日があかあかと照っている。
正道は心の中で、「どうしてお母様の行方がわからないのだろう。もしかしたら、役人などに任せて調べさせて、自分で捜し歩かないのを、神様や仏様が快く思わず、会わせてくださらないのではないか」
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正道は心のうちに、「どうしてお母あさまの行くえが知れないのだろう、もし役人なんぞに任せて調べさせて、自分が捜し歩かぬのを神仏が憎んで逢わせて下さらないのではあるまいか」
などと思いながら歩いていた。
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などと思いながら歩いている。
ふと見ると、かなり大きな農家があった。
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ふと見れば、大ぶ大きい百姓家がある。
家の南側の、まばらな生け垣の内側が、土をたたき固めた広場になっていて、その上に一面、むしろが敷いてあった。
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家の南側のまばらな生垣のうちが、土をたたき固めた広場になっていて、その上に一面に蓆が敷いてある。
むしろには、刈り取った粟の穂が干してあった。
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蓆には刈り取った粟の穂が干してある。
その真ん中に、ぼろを着た女の人が座って、手に長い竿を持ち、雀が来てついばむのを追い払っていた。
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その真ん中に、襤褸を着た女がすわって、手に長い竿を持って、雀の来て啄むのを逐っている。
女の人は、何か歌のような調子でつぶやいていた。
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女は何やら歌のような調子でつぶやく。
正道はなぜか、この女の人に心が引かれて、立ち止まってのぞき込んだ。
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正道はなぜか知らず、この女に心が牽かれて、立ち止まってのぞいた。
女の人の乱れた髪は、ちりにまみれていた。
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女の乱れた髪は塵に塗れている。
顔を見ると、目が見えないようだった。
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顔を見れば盲である。
正道は、ひどく哀れに思った。
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正道はひどく哀れに思った。
そのうち、女の人がつぶやいている言葉が、だんだん耳に慣れて、聞き分けられるようになってきた。
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そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。
それと同時に、正道はマラリアの発作のように体が震え、目には涙があふれてきた。
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それと同時に正道は瘧病のように身うちが震って、目には涙が湧いて来た。
女の人は、こういう言葉を繰り返してつぶやいていたのだった。
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女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。
安寿(あんじゅ)が恋しい、ほうやれほ。
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安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王(ずしおう)が恋しい、ほうやれほ。
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厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も命のあるものなのだから、
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鳥も生あるものなれば、
早く早く逃げなさい、追われなくても。
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疾う疾う逃げよ、逐わずとも。
正道はうっとりとして、この言葉に聞き入った。
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正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。
そのうち、体の中が煮えくり返るようになって、獣のような叫び声が口から出そうになるのを、歯を食いしばってこらえた。
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そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。
たちまち、正道は縛られていた縄が解けたように、垣根の内側へ駆け込んだ。
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たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。
そして、足で粟の穂を踏み散らしながら、女の人の前にうつ伏した。
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そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏した。
右手には守り本尊を捧げ持って、うつ伏したときに、それを額に押し当てていた。
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右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。
女の人は、雀ではない、大きなものが粟を荒らしに来たことに気づいた。
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女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。
そして、いつもの言葉を唱えるのをやめて、見えない目でじっと前を見た。
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そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。
そのとき、干した貝が水でふやけるように、両方の目にうるおいが出た。
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そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。
女の人は、目が見えるようになった。
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女は目があいた。
「厨子王」
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「厨子王」
という叫びが、女の口から出た。
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という叫びが女の口から出た。
二人は、しっかりと抱き合った。
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二人はぴったり抱き合った。
大正四年一月
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大正四年一月