AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
原文: 一
一
原文: 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。
原文: 小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。
小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。
原文: なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。
なぜそんな無茶をしたと聞く人があるかも知れない。
原文: 別段深い理由でもない。
別段深い理由でもない。
原文: 新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。
新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることはできないだろう。
原文: 弱虫やーい。
弱虫やーい。
原文: と囃したからである。
とはやし立てたからである。
原文: 小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
小使いに負ぶさって帰って来たとき、おやじが大きな目をして、二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
原文: 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。
親類のものから西洋製のナイフをもらって、きれいな刃を日にかざして友達に見せていたら、一人が、光ることは光るが切れそうもないと言った。
原文: 切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。
切れないことがあるか、何でも切ってみせると受け合った。
原文: そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。
そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと、右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。
原文: 幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。
幸いナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今でも親指は手に付いている。
原文: しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
しかし傷あとは死ぬまで消えない。
原文: 庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。
庭を東へ二十歩に行き尽くすと、南上がりに少しばかりの菜園があって、真ん中に栗の木が一本立っている。
原文: これは命より大事な栗だ。
これは命より大事な栗だ。
原文: 実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。
実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て、落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。
原文: 菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。
菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四のせがれがいた。
原文: 勘太郎は無論弱虫である。
勘太郎はもちろん弱虫である。
原文: 弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。
弱虫のくせに四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。
原文: ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。
ある日の夕方、折戸の陰に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。
原文: その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。
そのとき勘太郎は逃げ道を失って、一生懸命に飛びかかってきた。
原文: 向うは二つばかり年上である。
向こうは二つばかり年上である。
原文: 弱虫だが力は強い。
弱虫だが力は強い。
原文: 鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中にはいった。
鉢の開いた頭を、こっちの胸へ当ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中に入った。
原文: 邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。
邪魔になって手が使えないから、むやみに手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら揺れた。
原文: しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。
しまいに苦しがって、袖の中からおれの二の腕へ食い付いた。
原文: 痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。
痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦みをかけて向こうへ倒してやった。
原文: 山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。
山城屋の地面は菜園より六尺ほど低い。
原文: 勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。
勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真っ逆さまに落ちて、ぐうと言った。
原文: 勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。
勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。
原文: その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。
その晩、母が山城屋に詫びに行ったついでに、袷の片袖も取り返して来た。
原文: この外いたずらは大分やった。
このほかいたずらは大分やった。
原文: 大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。
大工の兼公と魚屋の角をつれて、茂作の人参畑をあらしたことがある。
原文: 人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。
人参の芽が出そろわないところへ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。
原文: 古川の持っている田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。
古川の持っている田んぼの井戸を埋めて、文句を持ち込まれたこともある。
原文: 太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲にみずがかかる仕掛であった。
太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲に水がかかる仕掛けであった。
原文: その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。
その時分はどんな仕掛けか知らないから、石や棒きれをぎゅうぎゅう井戸の中へ差し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真っ赤になって怒鳴り込んで来た。
原文: たしか罰金を出して済んだようである。
たしか罰金を出して済んだようである。
原文: おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。
おやじはちっともおれをかわいがってくれなかった。
原文: 母は兄ばかり贔屓にしていた。
母は兄ばかりひいきにしていた。
原文: この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。
この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。
原文: おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。
おれを見るたびに、こいつはどうせろくなものにはならないと、おやじが言った。
原文: 乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。
乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が言った。
原文: なるほど碌なものにはならない。
なるほどろくなものにはならない。
原文: ご覧の通りの始末である。
ご覧の通りの始末である。
原文: 行く先が案じられたのも無理はない。
行く先が案じられたのも無理はない。
原文: ただ懲役に行かないで生きているばかりである。
ただ懲役に行かないで生きているばかりである。
原文: 母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。
母が病気で死ぬ二三日前、台所で宙返りをしてへっついの角であばら骨を打って、大いに痛かった。
原文: 母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊りに行っていた。
母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと言うから、親類へ泊まりに行っていた。
原文: するととうとう死んだと云う報知が来た。
するととうとう死んだという知らせが来た。
原文: そう早く死ぬとは思わなかった。
そう早く死ぬとは思わなかった。
原文: そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。
そんな大病なら、もう少しおとなしくすればよかったと思って帰って来た。
原文: そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。
そうしたら例の兄が、おれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと言った。
原文: 口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。
悔しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。
原文: 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮していた。
母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮らしていた。
原文: おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように云っていた。
おやじは何にもしない男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように言っていた。
原文: 何が駄目なんだか今に分らない。
何が駄目なんだか今でも分からない。
原文: 妙なおやじがあったもんだ。
妙なおやじがあったもんだ。
原文: 兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。
兄は実業家になるとか言って、しきりに英語を勉強していた。
原文: 元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。
もともと女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。
原文: 十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。
十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。
原文: ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。
あるとき将棋をさしたら卑怯な待ち駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。
原文: あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。
あんまり腹が立ったから、手にあった飛車を眉間へ叩きつけてやった。
原文: 眉間が割れて少々血が出た。
眉間が割れて少々血が出た。
原文: 兄がおやじに言付けた。
兄がおやじに言いつけた。
原文: おやじがおれを勘当すると言い出した。
おやじがおれを勘当すると言い出した。
原文: その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。
そのときはもう仕方がないと観念して、先方の言う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに謝って、ようやくおやじの怒りが解けた。
原文: それにもかかわらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。
それにもかかわらず、あまりおやじを怖いとは思わなかった。
原文: かえってこの清と云う下女に気の毒であった。
かえってこの清という下女に気の毒であった。
原文: この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。
この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに落ちぶれて、つい奉公までするようになったのだと聞いている。
原文: だから婆さんである。
だから婆さんである。
原文: この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。
この婆さんがどういう因縁か、おれを非常にかわいがってくれた。
原文: 不思議なものである。
不思議なものである。
原文: 母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。
母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎とつまはじきをする――このおれを、むやみに珍重してくれた。
原文: おれは到底人に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考えた。
おれはとても人に好かれる性分でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に思った。
原文: 清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」
清は時々台所で人のいないときに「あなたは真っ直ぐでよいご気性だ」
原文: と賞める事が時々あった。
とほめることが時々あった。
原文: しかしおれには清の云う意味が分からなかった。
しかしおれには清の言う意味が分からなかった。
原文: 好い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。
いい気性なら、清以外のものももう少しよくしてくれるだろうと思った。
原文: 清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。
清がこんなことを言うたびに、おれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。
原文: すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。
すると婆さんは、それだからいいご気性ですと言っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。
原文: 自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。
自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。
原文: 少々気味がわるかった。
少々気味がわるかった。
原文: 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。
母が死んでから、清はいよいよおれをかわいがった。
原文: 時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。
時々は子供心に、なぜあんなにかわいがるのかと不審に思った。
原文: つまらない、廃せばいいのにと思った。
つまらない、よせばいいのにと思った。
原文: 気の毒だと思った。
気の毒だと思った。
原文: それでも清は可愛がる。
それでも清はかわいがる。
原文: 折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。
折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。
原文: 寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。
寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。
原文: 時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。
時には鍋焼うどんさえ買ってくれた。
原文: ただ食い物ばかりではない。
ただ食い物ばかりではない。
原文: 靴足袋ももらった。
靴足袋ももらった。
原文: 鉛筆も貰った、帳面も貰った。
鉛筆ももらった、帳面ももらった。
原文: これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。
これはずっと後のことであるが、金を三円ばかり貸してくれたことさえある。
原文: 何も貸せと云った訳ではない。
何も貸せと言った訳ではない。
原文: 向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。
向こうで部屋へ持って来て、お小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと言ってくれたんだ。
原文: おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。
おれはもちろんいらないと言ったが、ぜひ使えと言うから、借りておいた。
原文: 実は大変嬉しかった。
実は大変嬉しかった。
原文: その三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。
その三円をがま口へ入れて、懐へ入れたまま便所へ行ったら、すぽりと便つぼの中へ落としてしまった。
原文: 仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。
仕方がないから、のそのそ出てきて、実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと言った。
原文: しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。
しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら、竹の先へがま口の紐を引っ掛けたのを水で洗っていた。
原文: それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。
それから口をあけて壱円札を改めたら、茶色になって模様が消えかかっていた。
原文: 清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。
清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。
原文: ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。
ちょっとかいでみて臭いやと言ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどうごまかしたか、札の代わりに銀貨を三円持って来た。
原文: この三円は何に使ったか忘れてしまった。
この三円は何に使ったか忘れてしまった。
原文: 今に返すよと云ったぎり、返さない。
今に返すよと言ったきり、返さない。
原文: 今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
原文: 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。
清が物をくれるときには、必ずおやじも兄もいないときに限る。
原文: おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。
おれは何が嫌いだと言って、人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いなことはない。
原文: 兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。
兄とはもちろん仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆をもらいたくはない。
原文: なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。
なぜ、おれ一人にくれて、兄さんにはやらないのかと清に聞くことがある。
原文: すると清は澄したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。
すると清は澄ましたもので、お兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと言う。
原文: これは不公平である。
これは不公平である。
原文: おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。
おやじは頑固だけれども、そんなえこひいきはしない男だ。
原文: しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。
しかし清の目から見るとそう見えるのだろう。
原文: 全く愛に溺れていたに違いない。
全く愛におぼれていたに違いない。
原文: 元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。
もとは身分のあるものでも、教育のない婆さんだから仕方がない。
原文: 単にこればかりではない。
単にこればかりではない。
原文: 贔負目は恐ろしいものだ。
ひいき目は恐ろしいものだ。
原文: 清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。
清はおれをもって、将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。
原文: その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。
そのくせ勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人で決めてしまった。
原文: こんな婆さんに逢っては叶わない。
こんな婆さんに会ってはかなわない。
原文: 自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。
自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いな人はきっと落ちぶれるものと信じている。
原文: おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。
おれはそのときから、別段何になるという料簡もなかった。
原文: しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。
しかし清がなるなると言うものだから、やっぱり何かになれるんだろうと思っていた。
原文: 今から考えると馬鹿馬鹿しい。
今から考えると馬鹿馬鹿しい。
原文: ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。
あるときなどは、清にどんなものになるだろうと聞いてみたことがある。
原文: ところが清にも別段の考えもなかったようだ。
ところが清にも別段の考えもなかったようだ。
原文: ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。
ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに違いないと言った。
原文: それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。
それから清は、おれがうちでも持って独立したら、一緒になる気でいた。
原文: どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。
どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。
原文: おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。
おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。
原文: ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。
ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと、勝手な計画を独りで並べていた。
原文: その時は家なんか欲しくも何ともなかった。
そのときは家なんか欲しくも何ともなかった。
原文: 西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。
西洋館も日本建ても全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。
原文: すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。
すると、あなたは欲が少なくって、心がきれいだと言って、またほめた。
原文: 清は何と云っても賞めてくれる。
清は何と言ってもほめてくれる。
原文: 母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。
母が死んでから五六年の間は、この状態で暮らしていた。
原文: おやじには叱られる。
おやじには叱られる。
原文: 兄とは喧嘩をする。
兄とは喧嘩をする。
原文: 清には菓子を貰う、時々賞められる。
清には菓子をもらう、時々ほめられる。
原文: 別に望みもない。
別に望みもない。
原文: これでたくさんだと思っていた。
これでたくさんだと思っていた。
原文: ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。
ほかの子供も一概にこんなものだろうと思っていた。
原文: ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。
ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合せだとむやみに言うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。
原文: その外に苦になる事は少しもなかった。
そのほかに苦になることは少しもなかった。
原文: ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。
ただ、おやじが小遣いをくれないのには閉口した。
原文: 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。
母が死んでから六年目の正月に、おやじも卒中で亡くなった。
原文: その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。
その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。
原文: 六月に兄は商業学校を卒業した。
六月に兄は商業学校を卒業した。
原文: 兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。
兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならない。
原文: おれは東京でまだ学問をしなければならない。
おれは東京でまだ学問をしなければならない。
原文: 兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。
兄は家を売って財産を片付けて、任地へ出立すると言い出した。
原文: おれはどうでもするがよかろうと返事をした。
おれは、どうでもするがよかろうと返事をした。
原文: どうせ兄の厄介になる気はない。
どうせ兄の厄介になる気はない。
原文: 世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すに極っている。
世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向こうでも何とか言い出すに決まっている。
原文: なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。
なまじ保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。
原文: 牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。
牛乳配達をしても食っていけると覚悟をした。
原文: 兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。
兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々のがらくたを二束三文に売った。
原文: 家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。
家屋敷はある人の周旋である金持ちに譲った。
原文: この方は大分金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。
この方は大分金になったようだが、詳しいことは一向に知らない。
原文: おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿していた。
おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで、神田の小川町へ下宿していた。
原文: 清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。
清は十何年いたうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、しようがなかった。
原文: あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。
あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続ができますものをと、しきりに口説いていた。
原文: もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。
もう少し年をとって相続ができるものなら、今でも相続ができるはずだ。
原文: 婆さんは何も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
婆さんは何も知らないから、年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
原文: 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。
兄とおれはこのように分かれたが、困ったのは清の行く先である。
原文: 兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。
兄はもちろん連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州くんだりまで出掛ける気は毛頭なし、と言ってこのときのおれは四畳半の安下宿に籠って、それすらもいざとなればただちに引き払わねばならない始末だ。
原文: どうする事も出来ん。
どうすることもできない。
原文: 清に聞いてみた。
清に聞いてみた。
原文: どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。
どこかへ奉公でもする気かねと言ったら、あなたがおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうと、ようやく決心した返事をした。
原文: この甥は裁判所の書記でまず今日には差支えなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。
この甥は裁判所の書記で、まず今日には差し支えなく暮らしていたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清は、たとえ下女奉公はしても年来住み慣れた家の方がいいと言って応じなかった。
原文: しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。
しかし今の場合、知らない屋敷へ奉公がえをしていらない気兼ねをし直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。
原文: それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、来て世話をするのと云う。
それにしても、早くうちを持ての、妻をもらえの、来て世話をするのと言う。
原文: 親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
原文: 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと云った。
九州へ立つ二日前、兄が下宿へ来て金を六百円出して、これを資本にして商売をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも好きに使うがいい、その代わりあとは構わないと言った。
原文: 兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。
兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらいもらわなくても困りはしないと思ったが、いつもに似ない淡泊な処置が気に入ったから、礼を言ってもらっておいた。
原文: 兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。
兄はそれから五十円出して、これをついでに清に渡してくれと言ったから、異議なく引き受けた。
原文: 二日立って新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。
二日たって新橋の停車場で分かれたきり、兄にはその後一遍も会わない。
原文: おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。
おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。
原文: 商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。
商売をしたって面倒くさくてうまくできるものじゃなし、ことに六百円の金で商売らしい商売がやれる訳でもなかろう。
原文: よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。
よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないから、つまり損になるばかりだ。
原文: 資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。
資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。
原文: 六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。
六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば、三年間は勉強ができる。
原文: 三年間一生懸命にやれば何か出来る。
三年間一生懸命にやれば何かできる。
原文: それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。
それからどこの学校へ入ろうと考えたが、学問は生まれつきどれもこれも好きでない。
原文: ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。
ことに語学とか文学とか言うものは真っ平ご免だ。
原文: 新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。
新体詩などと来ては、二十行あるうちで一行も分からない。
原文: どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。
どうせ嫌いなものなら何をやっても同じことだと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらって、すぐ入学の手続きをしてしまった。
原文: 今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
今考えると、これも親譲りの無鉄砲から起こった失敗だ。
原文: 三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。
三年間まあ人並みに勉強はしたが、別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から数える方が便利であった。
原文: しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。
しかし不思議なもので、三年たったらとうとう卒業してしまった。
原文: 自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
自分でもおかしいと思ったが、苦情を言う訳もないから、おとなしく卒業しておいた。
原文: 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。
卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って出掛けて行ったら、四国あたりのある中学校で数学の教師がいる。
原文: 月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。
月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。
原文: おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。
おれは三年間学問はしたが、実を言うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。
原文: もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。
もっとも教師以外に何をしようというあてもなかったから、この相談を受けたとき、行きましょうと即座に返事をした。
原文: これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
これも親譲りの無鉄砲がたたったのである。
原文: 引き受けた以上は赴任せねばならぬ。
引き受けた以上は赴任しなければならない。
原文: この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。
この三年間は四畳半に閉じこもって、小言はただの一度も聞いたことがない。
原文: 喧嘩もせずに済んだ。
喧嘩もせずに済んだ。
原文: おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。
おれの生涯のうちでは比較的のんきな時節であった。
原文: しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。
しかしこうなると四畳半も引き払わなければならない。
原文: 生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。
生まれてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一緒に鎌倉へ遠足したときばかりである。
原文: 今度は鎌倉どころではない。
今度は鎌倉どころではない。
原文: 大変な遠くへ行かねばならぬ。
大変な遠くへ行かねばならない。
原文: 地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。
地図で見ると海べりで、針の先ほど小さく見える。
原文: どうせ碌な所ではあるまい。
どうせろくな所ではあるまい。
原文: どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。
どんな町で、どんな人が住んでるか分からない。
原文: 分らんでも困らない。
分からなくても困らない。
原文: 心配にはならぬ。
心配にはならない。
原文: ただ行くばかりである。
ただ行くばかりである。
原文: もっとも少々面倒臭い。
もっとも少々面倒くさい。
原文: 家を畳んでからも清の所へは折々行った。
家を畳んでからも、清の所へは折々行った。
原文: 清の甥というのは存外結構な人である。
清の甥というのは、思いのほか結構な人である。
原文: おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。
おれが行くたびに、いさえすれば、何くれともてなしてくれた。
原文: 清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。
清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。
原文: 今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。
今に学校を卒業すると麹町あたりへ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴したこともある。
原文: 独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。
独りで決めて独りで喋るから、こっちは困って顔を赤くした。
原文: それも一度や二度ではない。
それも一度や二度ではない。
原文: 折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。
折々おれが小さいとき寝小便をしたことまで持ち出すには閉口した。
原文: 甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。
甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分からない。
原文: ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。
ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。
原文: 自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。
自分の主人なら甥のためにも主人に違いないと合点したものらしい。
原文: 甥こそいい面の皮だ。
甥こそいい面の皮だ。
原文: いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
いよいよ約束が決まって、もう立つという三日前に清を訪ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
原文: おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。
おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつうちをお持ちなさいますと聞いた。
原文: 卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。
卒業さえすれば金が自然とポケットの中に湧いて来ると思っている。
原文: そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
そんなにえらい人をつかまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのは、いよいよ馬鹿げている。
原文: おれは単簡に当分うちは持たない。
おれは簡単に、当分うちは持たない。
原文: 田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。
田舎へ行くんだと言ったら、非常に失望した様子で、ごま塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。
原文: あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」
あまり気の毒だから「行くことは行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」
原文: と慰めてやった。
と慰めてやった。
原文: それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」
それでも妙な顔をしているから「何をみやげに買って来てやろう、何が欲しい」
原文: と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」
と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」
原文: と云った。
と言った。
原文: 越後の笹飴なんて聞いた事もない。
越後の笹飴なんて聞いたこともない。
原文: 第一方角が違う。
第一方角が違う。
原文: 「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」
「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」
原文: と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」
と言って聞かせたら「そんなら、どっちの見当です」
原文: と聞き返した。
と聞き返した。
原文: 「西の方だよ」
「西の方だよ」
原文: と云うと「箱根のさきですか手前ですか」
と言うと「箱根の先ですか手前ですか」
原文: と問う。
と問う。
原文: 随分持てあました。
ずいぶん持てあました。
原文: 出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
原文: 来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。
来る途中、小間物屋で買って来た歯磨きと楊枝と手拭いを、ズックの鞄に入れてくれた。
原文: そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。
そんな物はいらないと言っても、なかなか承知しない。
原文: 車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」
車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出たとき、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。ずいぶんご機嫌よう」
原文: と小さな声で云った。
と小さな声で言った。
原文: 目に涙が一杯たまっている。
目に涙がいっぱいたまっている。
原文: おれは泣かなかった。
おれは泣かなかった。
原文: しかしもう少しで泣くところであった。
しかしもう少しで泣くところであった。
原文: 汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。
汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して振り向いたら、やっぱり立っていた。
原文: 何だか大変小さく見えた。
何だか大変小さく見えた。
原文: 二
二
原文: ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。
ぶうと言って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。
原文: 船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。
船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。
原文: 野蛮な所だ。
野蛮な所だ。
原文: もっともこの熱さでは着物はきられまい。
もっともこの暑さでは着物は着ていられないだろう。
原文: 日が強いので水がやに光る。
日が強いので水がやに光る。
原文: 見つめていても眼がくらむ。
見つめていても目がくらむ。
原文: 事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。
事務員に聞いてみると、おれはここへ降りるのだそうだ。
原文: 見るところでは大森ぐらいな漁村だ。
見るところでは大森ぐらいな漁村だ。
原文: 人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。
人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢ができるものかと思ったが仕方がない。
原文: 威勢よく一番に飛び込んだ。
威勢よく一番に飛び込んだ。
原文: 続づいて五六人は乗ったろう。
続いて五六人は乗っただろう。
原文: 外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。
ほかに大きな箱を四つばかり積み込んで、赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。
原文: 陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。
陸へ着いたときも、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつかまえて中学校はどこだと聞いた。
原文: 小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。
小僧はぼんやりして、知らんがの、と言った。
原文: 気の利かぬ田舎ものだ。
気の利かない田舎ものだ。
原文: 猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。
猫の額ほどな町内のくせに、中学校のありかも知らない奴があるものか。
原文: ところへ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。
そこへ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと言うから、ついて行ったら、港屋とかいう宿屋へ連れて来た。
原文: やな女が声を揃えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。
いやな女が声をそろえてお上がりなさいと言うので、上がるのがいやになった。
原文: 門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。
門口へ立ったまま中学校を教えろと言ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。
原文: おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。
おれは、筒っぽうを着た男から、おれの鞄を二つ引ったくって、のそのそ歩き出した。
原文: 宿屋のものは変な顔をしていた。
宿屋のものは変な顔をしていた。
原文: 停車場はすぐ知れた。
停車場はすぐ知れた。
原文: 切符も訳なく買った。
切符も訳なく買った。
原文: 乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。
乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。
原文: ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。
ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。
原文: 道理で切符が安いと思った。
道理で切符が安いと思った。
原文: たった三銭である。
たった三銭である。
原文: それから車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。
それから車を雇って、中学校へ来たら、もう放課後で誰もいない。
原文: 宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。
宿直はちょっと用足しに出たと小使いが教えた。
原文: 随分気楽な宿直がいるものだ。
ずいぶん気楽な宿直がいるものだ。
原文: 校長でも尋ねようかと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。
校長でも訪ねようかと思ったが、くたびれたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に言い付けた。
原文: 車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。
車夫は威勢よく山城屋といううちへ横付けにした。
原文: 山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだから、ちょっと面白く思った。
原文: 何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。
何だか二階のはしご段の下の暗い部屋へ案内した。
原文: 熱くって居られやしない。
暑くっていられやしない。
原文: こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。
こんな部屋はいやだと言ったら、あいにくみんなふさがっておりますからと言いながら、鞄を放り出したまま出て行った。
原文: 仕方がないから部屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。
仕方がないから部屋の中へ入って、汗をかいて我慢していた。
原文: やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。
やがて湯に入れと言うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。
原文: 帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。
帰りがけに覗いてみると、涼しそうな部屋がたくさん空いている。
原文: 失敬な奴だ。
失敬な奴だ。
原文: 嘘をつきゃあがった。
嘘をつきゃあがった。
原文: それから下女が膳を持って来た。
それから下女が膳を持って来た。
原文: 部屋は熱つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。
部屋は暑かったが、飯は下宿のよりも大分うまかった。
原文: 給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。
給仕をしながら下女が、どちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。
原文: すると東京はよい所でございましょうと云ったから当り前だと答えてやった。
すると東京はよい所でございましょうと言ったから、当たり前だと答えてやった。
原文: 膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。
膳を下げた下女が台所へ行った時分、大きな笑い声が聞こえた。
原文: くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。
くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。
原文: 熱いばかりではない。
暑いばかりではない。
原文: 騒々しい。
騒々しい。
原文: 下宿の五倍ぐらいやかましい。
下宿の五倍ぐらいやかましい。
原文: うとうとしたら清の夢を見た。
うとうとしたら清の夢を見た。
原文: 清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。
清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。
原文: 笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云って旨そうに食っている。
笹は毒だからよしたらよかろうと言うと、いえこの笹がお薬でございますと言って、うまそうに食っている。
原文: おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。
おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら、目が覚めた。
原文: 下女が雨戸を明けている。
下女が雨戸を開けている。
原文: 相変らず空の底が突き抜けたような天気だ。
相変わらず空の底が突き抜けたような天気だ。
原文: 道中をしたら茶代をやるものだと聞いていた。
道中をしたら茶代をやるものだと聞いていた。
原文: 茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。
茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。
原文: こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。
こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。
原文: 見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだろう。
見すぼらしいなりをして、ズックの鞄と毛繻子のこうもり傘を提げてるからだろう。
原文: 田舎者の癖に人を見括ったな。
田舎者のくせに人を見くびったな。
原文: 一番茶代をやって驚かしてやろう。
一番茶代をやって驚かしてやろう。
原文: おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。
おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。
原文: 汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。
汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。
原文: みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。
みんなやったって、これからは月給をもらうんだから構わない。
原文: 田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。
田舎者はしみったれだから、五円もやれば驚いて目を回すに決まっている。
原文: どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。
どうするか見ろと澄まして顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。
原文: 盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。
盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。
原文: 失敬な奴だ。
失敬な奴だ。
原文: 顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。
顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。
原文: これでもこの下女の面よりよっぽど上等だ。
これでもこの下女の面よりよっぽど上等だ。
原文: 飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。
飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行けと言ったら、下女は変な顔をしていた。
原文: それから飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。
それから飯を済ましてすぐ学校へ出掛けた。
原文: 靴は磨いてなかった。
靴は磨いてなかった。
原文: 学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分っている。
学校は昨日車で乗りつけたから、たいがいの見当は分かっている。
原文: 四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。
四つ角を二三度曲がったら、すぐ門の前へ出た。
原文: 門から玄関までは御影石で敷きつめてある。
門から玄関までは御影石で敷きつめてある。
原文: きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗に仰山な音がするので少し弱った。
きのうこの敷石の上を車でがらがらと通ったときは、むやみに仰々しい音がするので少し弱った。
原文: 途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん逢ったが、みんなこの門をはいって行く。
途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん会ったが、みんなこの門を入って行く。
原文: 中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。
中にはおれより背が高くって強そうなのがいる。
原文: あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪るくなった。
あんな奴を教えるのかと思ったら、何だか気味が悪くなった。
原文: 名刺を出したら校長室へ通した。
名刺を出したら校長室へ通した。
原文: 校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。
校長は薄髭のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。
原文: やにもったいぶっていた。
やにもったいぶっていた。
原文: まあ精出して勉強してくれと云って、恭しく大きな印の捺った、辞令を渡した。
まあ精出して勉強してくれと言って、恭しく大きな印の押った辞令を渡した。
原文: この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り込んでしまった。
この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ放り込んでしまった。
原文: 校長は今に職員に紹介してやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。
校長は、今に職員に紹介してやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと言って聞かせた。
原文: 余計な手数だ。
余計な手数だ。
原文: そんな面倒な事をするよりこの辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
そんな面倒なことをするより、この辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
原文: 教員が控所へ揃うには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。
教員が控所へそろうには、一時間目のラッパが鳴らなくてはならない。
原文: 大分時間がある。
大分時間がある。
原文: 校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。
校長は時計を出して見て、おいおいゆっくり話すつもりだが、まず大体のことを呑み込んでおいてもらおうと言って、それから教育の精神について長いお談義を聞かせた。
原文: おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。
おれはもちろんいい加減に聞いていたが、途中からこれはとんだ所へ来たと思った。
原文: 校長の云うようにはとても出来ない。
校長の言うようにはとてもできない。
原文: おれみたような無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。
おれみたいな無鉄砲なものをつかまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいけないの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と、むやみに法外な注文をする。
原文: そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。
そんなえらい人が月給四十円ではるばるこんな田舎へくるもんか。
原文: 人間は大概似たもんだ。
人間はたいがい似たもんだ。
原文: 腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。
腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩もできない。
原文: そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。
そんなむずかしい役なら、雇う前にこれこれだと話すがいい。
原文: おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。
おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断って帰っちまおうと思った。
原文: 宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにがししかない。
宿屋へ五円やったから、財布の中には九円なにがししかない。
原文: 九円じゃ東京までは帰れない。
九円じゃ東京までは帰れない。
原文: 茶代なんかやらなければよかった。
茶代なんかやらなければよかった。
原文: 惜しい事をした。
惜しいことをした。
原文: しかし九円だって、どうかならない事はない。
しかし九円だって、どうかならないことはない。
原文: 旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。
旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、とてもあなたのおっしゃる通りにゃできません、この辞令は返しますと言ったら、校長は狸のような目をぱちつかせて、おれの顔を見ていた。
原文: やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。
やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通りできないのはよく知っているから心配しなくってもいいと言いながら笑った。
原文: そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。
そのくらいよく知ってるなら、始めからおどさなければいいのに。
原文: そう、こうする内に喇叭が鳴った。
そう、こうするうちにラッパが鳴った。
原文: 教場の方が急にがやがやする。
教場の方が急にがやがやする。
原文: もう教員も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。
もう教員も控所へそろいましたでしょうと言うから、校長についで教員控所へ入った。
原文: 広い細長い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。
広い細長い部屋の周囲に机を並べて、みんな腰をかけている。
原文: おれがはいったのを見て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。
おれが入ったのを見て、みんな申し合わせたようにおれの顔を見た。
原文: 見世物じゃあるまいし。
見世物じゃあるまいし。
原文: それから申し付けられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。
それから申し付けられた通り、一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。
原文: 大概は椅子を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを恭しく返却した。
たいがいは椅子を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をして、それを恭しく返却した。
原文: まるで宮芝居の真似だ。
まるで宮芝居の真似だ。
原文: 十五人目に体操の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。
十五人目に体操の教師へと回って来たときには、同じことを何遍もやるので少々じれったくなった。
原文: 向うは一度で済む。
向こうは一度で済む。
原文: こっちは同じ所作を十五返繰り返している。
こっちは同じ所作を十五遍繰り返している。
原文: 少しはひとの了見も察してみるがいい。
少しは人の料簡も察してみるがいい。
原文: 挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしというのがいた。
原文: これは文学士だそうだ。
これは文学士だそうだ。
原文: 文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。
文学士と言えば大学の卒業生だから、えらい人なんだろう。
原文: 妙に女のような優しい声を出す人だった。
妙に女のような優しい声を出す人だった。
原文: もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。
もっとも驚いたのは、この暑いのにフランネルのシャツを着ている。
原文: いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。
いくらか薄い地には違いなくっても、暑いには決まってる。
原文: 文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。
文学士だけにご苦労千万ななりをしたもんだ。
原文: しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。
しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。
原文: あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。
あとから聞いたら、この男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。
原文: 妙な病気があった者だ。
妙な病気があったものだ。
原文: 当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂らえるんだそうだが、入らざる心配だ。
当人の説明では、赤は体に薬になるから、衛生のためにわざわざあつらえるんだそうだが、いらない心配だ。
原文: そんならついでに着物も袴も赤にすればいい。
そんならついでに着物も袴も赤にすればいい。
原文: それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪るい男が居た。
それから英語の教師に古賀とかいう、大変顔色の悪い男がいた。
原文: 大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。
たいがい顔の青い人は痩せてるもんだが、この男は青くふくれている。
原文: 昔小学校へ行く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。
昔小学校へ行く時分、浅井の民さんという子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。
原文: 浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。
浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、青くふくれるんですと教えてくれた。
原文: それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬いだと思う。
それ以来、青くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った報いだと思う。
原文: この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違いない。
この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違いない。
原文: もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。
もっともうらなりとは何のことか今もって知らない。
原文: 清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。
清に聞いてみたことはあるが、清は笑って答えなかった。
原文: 大方清も知らないんだろう。
大方清も知らないんだろう。
原文: それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。
それからおれと同じ数学の教師に堀田というのがいた。
原文: これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。
これはたくましいいがぐり坊主で、叡山の悪僧と言うべき面構えである。
原文: 人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。
人がていねいに辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来たまえアハハハと言った。
原文: 何がアハハハだ。
何がアハハハだ。
原文: そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。
そんな礼儀を心得ない奴の所へ、誰が遊びに行くものか。
原文: おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。
おれはこのときからこの坊主に山嵐というあだ名をつけてやった。
原文: 漢学の先生はさすがに堅いものだ。
漢学の先生はさすがに堅いものだ。
原文: 昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精で、――とのべつに弁じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。
昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精で、――とのべつに弁じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。
原文: 画学の教師は全く芸人風だ。
画学の教師は全く芸人風だ。
原文: べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え?
べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え?
原文: 東京?
東京?
原文: そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。
そりゃ嬉しい、お仲間ができて……私もこれで江戸っ子ですと言った。
原文: こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。
こんなのが江戸っ子なら江戸には生まれたくないもんだと心の中で考えた。
原文: そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。
そのほか一人一人についてこんなことを書けば、いくらでもある。
原文: しかし際限がないからやめる。
しかし際限がないからやめる。
原文: 挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、明後日から課業を始めてくれと云った。
挨拶が一通り済んだら、校長が、今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上のことは数学の主任と打ち合わせをしておいて、あさってから課業を始めてくれと言った。
原文: 数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。
数学の主任は誰かと聞いてみたら、例の山嵐であった。
原文: 忌々しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。
いまいましい、こいつの下に働くのか、おやおやと失望した。
原文: 山嵐は「おい君どこに宿ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」
山嵐は「おい君どこに泊まってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」
原文: と云い残して白墨を持って教場へ出て行った。
と言い残して白墨を持って教場へ出て行った。
原文: 主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。
主任のくせに向こうから来て相談するなんて不見識な男だ。
原文: しかし呼び付けるよりは感心だ。
しかし呼び付けるよりは感心だ。
原文: それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。
それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、むやみに足の向く方を歩き散らした。
原文: 県庁も見た。
県庁も見た。
原文: 古い前世紀の建築である。
古い前世紀の建築である。
原文: 兵営も見た。
兵営も見た。
原文: 麻布の聯隊より立派でない。
麻布の連隊より立派でない。
原文: 大通りも見た。
大通りも見た。
原文: 神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並はあれより落ちる。
神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で、町並みはあれより落ちる。
原文: 二十五万石の城下だって高の知れたものだ。
二十五万石の城下だって高の知れたものだ。
原文: こんな所に住んでご城下だなどと威張ってる人間は可哀想なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に出た。
こんな所に住んでご城下だなどと威張ってる人間は可哀想なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に出た。
原文: 広いようでも狭いものだ。
広いようでも狭いものだ。
原文: これで大抵は見尽したのだろう。
これでたいていは見尽くしたのだろう。
原文: 帰って飯でも食おうと門口をはいった。
帰って飯でも食おうと門口を入った。
原文: 帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り……と板の間へ頭をつけた。
帳場に座っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきて、お帰り……と板の間へ頭をつけた。
原文: 靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。
靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。
原文: 十五畳の表二階で大きな床の間がついている。
十五畳の表二階で、大きな床の間がついている。
原文: おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。
おれは生まれてからまだこんな立派な座敷へ入ったことはない。
原文: この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって座敷の真中へ大の字に寝てみた。
この後いつ入れるか分からないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって、座敷の真ん中へ大の字に寝てみた。
原文: いい心持ちである。
いい心持ちである。
原文: 昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。
昼飯を食ってから、早速清へ手紙をかいてやった。
原文: おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌いだ。
おれは文章がまずい上に字を知らないから、手紙を書くのが大嫌いだ。
原文: またやる所もない。
またやる所もない。
原文: しかし清は心配しているだろう。
しかし清は心配しているだろう。
原文: 難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、奮発して長いのを書いてやった。
難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、奮発して長いのを書いてやった。
原文: その文句はこうである。
その文句はこうである。
原文: 「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行って、みんなにあだ名をつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学は野だいこ。今にいろいろなことを書いてやる。さようなら」
原文: 手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって眠気がさしたから、最前のように座敷の真中へのびのびと大の字に寝た。
手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって眠気がさしたから、さっきのように座敷の真ん中へのびのびと大の字に寝た。
原文: 今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。
今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。
原文: この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山嵐がはいって来た。
この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山嵐が入って来た。
原文: 最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに狼狽した。
さっきは失敬、君の受持ちは……と、人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いにあわてた。
原文: 受持ちを聞いてみると別段むずかしい事もなさそうだから承知した。
受持ちを聞いてみると別段むずかしいこともなさそうだから承知した。
原文: このくらいの事なら、明後日は愚、明日から始めろと云ったって驚ろかない。
このくらいのことなら、あさってはおろか、あしたから始めろと言ったって驚かない。
原文: 授業上の打ち合せが済んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、僕がいい下宿を周旋してやるから移りたまえ。
授業上の打ち合わせが済んだら、君はいつまでこんな宿屋にいるつもりでもあるまい、僕がいい下宿を周旋してやるから移りたまえ。
原文: 外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。
ほかのものでは承知しないが、僕が話せばすぐできる。
原文: 早い方がいいから、今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けば極りがいいと一人で呑み込んでいる。
早い方がいいから、今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けば決まりがいいと、一人で呑み込んでいる。
原文: なるほど十五畳敷にいつまで居る訳にも行くまい。
なるほど十五畳敷にいつまでいる訳にも行くまい。
原文: 月給をみんな宿料に払っても追っつかないかもしれぬ。
月給をみんな宿料に払っても追っつかないかもしれない。
原文: 五円の茶代を奮発してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き越して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼む事にした。
五円の茶代を奮発してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移るものなら、早く引っ越して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼むことにした。
原文: すると山嵐はともかくもいっしょに来てみろと云うから、行った。
すると山嵐は、ともかくも一緒に来てみろと言うから、行った。
原文: 町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。
町はずれの岡の中腹にある家で、至極閑静だ。
原文: 主人は骨董を売買するいか銀と云う男で、女房は亭主よりも四つばかり年嵩の女だ。
主人は骨董を売買するいか銀という男で、女房は亭主よりも四つばかり年上の女だ。
原文: 中学校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事があるがこの女房はまさにウィッチに似ている。
中学校にいたときウィッチという言葉を習ったことがあるが、この女房はまさにウィッチに似ている。
原文: ウィッチだって人の女房だから構わない。
ウィッチだって人の女房だから構わない。
原文: とうとう明日から引き移る事にした。
とうとう明日から引き移ることにした。
原文: 帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。
帰りに山嵐は通町で氷水を一杯おごった。
原文: 学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。
学校で会ったときはやに横柄な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、悪い男でもなさそうだ。
原文: ただおれと同じようにせっかちで肝癪持らしい。
ただおれと同じようにせっかちで癇癪持ちらしい。
原文: あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。
あとで聞いたら、この男が一番生徒に人望があるのだそうだ。
原文: 三
三
原文: いよいよ学校へ出た。
いよいよ学校へ出た。
原文: 初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。
初めて教場へ入って高い所へ乗ったときは、何だか変だった。
原文: 講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。
講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。
原文: 生徒はやかましい。
生徒はやかましい。
原文: 時々図抜けた大きな声で先生と云う。
時々ずぬけた大きな声で先生と言う。
原文: 先生には応えた。
先生には応えた。
原文: 今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。
今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのとは雲泥の差だ。
原文: 何だか足の裏がむずむずする。
何だか足の裏がむずむずする。
原文: おれは卑怯な人間ではない。
おれは卑怯な人間ではない。
原文: 臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。
臆病な男でもないが、惜しいことに胆力が欠けている。
原文: 先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲を聞いたような気がする。
先生と大きな声をされると、腹の減ったときに丸の内でドンを聞いたような気がする。
原文: 最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。
最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。
原文: しかし別段困った質問も掛けられずに済んだ。
しかし別段困った質問もかけられずに済んだ。
原文: 控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。
控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。
原文: うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
うんと簡単に返事をしたら、山嵐は安心したらしかった。
原文: 二時間目に白墨を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込むような気がした。
二時間目に白墨を持って控所を出たときには、何だか敵地へ乗り込むような気がした。
原文: 教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。
教場へ出ると、今度の組は前より大きな奴ばかりである。
原文: おれは江戸っ子で華奢に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押しが利かない。
おれは江戸っ子できゃしゃに小作りにできているから、どうも高い所へ上がっても押しが利かない。
原文: 喧嘩なら相撲取とでもやってみせるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。
喧嘩なら相撲取りとでもやってみせるが、こんな大坊主を四十人も前へ並べて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。
原文: しかしこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。
しかしこんな田舎者に弱みを見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。
原文: 最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。
最初のうちは、生徒も煙に巻かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめえ調を用いてたら、一番前の列の真ん中にいた、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と言う。
原文: そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」
そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆるやって、おくれんかな、もし」
原文: と云った。
と言った。
原文: おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。
おくれんかな、もしは生ぬるい言葉だ。
原文: 早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない、分らなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。
早過ぎるなら、ゆっくり言ってやるが、おれは江戸っ子だから君らの言葉は使えない、分からなければ、分かるまで待ってるがいいと答えてやった。
原文: この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。
この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。
原文: ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何の問題を持って逼ったには冷汗を流した。
ただ帰りがけに生徒の一人が、ちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と、できそうもない幾何の問題を持って迫ったのには冷や汗を流した。
原文: 仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した。
仕方がないから、何だか分からない、この次教えてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあとはやし立てた。
原文: その中に出来ん出来んと云う声が聞える。
その中にできんできんと言う声が聞こえる。
原文: 箆棒め、先生だって、出来ないのは当り前だ。
べらぼうめ、先生だって、できないのは当たり前だ。
原文: 出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。
できないのをできないと言うのに不思議があるもんか。
原文: そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。
そんなものができるくらいなら、四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。
原文: 今度はどうだとまた山嵐が聞いた。
今度はどうだとまた山嵐が聞いた。
原文: うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。
うんと言ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分からずやだなと言ってやった。
原文: 山嵐は妙な顔をしていた。
山嵐は妙な顔をしていた。
原文: 三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。
三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。
原文: 最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。
最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。
原文: 教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。
教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。
原文: 授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ然として待ってなくてはならん。
授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつねんとして待ってなくてはならない。
原文: 三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にくるから検分をするんだそうだ。
三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して知らせにくるから、検分をするんだそうだ。
原文: それから、出席簿を一応調べてようやくお暇が出る。
それから、出席簿を一応調べて、ようやくお暇が出る。
原文: いくら月給で買われた身体だって、あいた時間まで学校へ縛りつけて机と睨めっくらをさせるなんて法があるものか。
いくら月給で買われた体だって、あいた時間まで学校へ縛りつけて机とにらめっこをさせるなんて法があるものか。
原文: しかしほかの連中はみんな大人しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏ねるのもよろしくないと思って我慢していた。
しかしほかの連中はみんなおとなしくご規則通りやってるから、新参のおればかりだだをこねるのもよろしくないと思って我慢していた。
原文: 帰りがけに、君何でもかんでも三時過まで学校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あとから真面目になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。
帰りがけに、君何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのは愚かだぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あとから真面目になって、君あまり学校の不平を言うと、いかんぜ。
原文: 云うなら僕だけに話せ、随分妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。
言うなら僕だけに話せ、ずいぶん妙な人もいるからなと、忠告がましいことを言った。
原文: 四つ角で分れたから詳しい事は聞くひまがなかった。
四つ角で分かれたから、詳しいことは聞くひまがなかった。
原文: それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと云ってやって来る。
それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと言ってやって来る。
原文: お茶を入れると云うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。
お茶を入れると言うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。
原文: この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょうを一人で履行しているかも知れない。
この様子では留守中も勝手に、お茶を入れましょうを一人で実行しているかも知れない。
原文: 亭主が云うには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。
亭主が言うには、手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商売を内々で始めるようになりました。
原文: あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。
あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。
原文: ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない勧誘をやる。
ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、とんでもない勧誘をやる。
原文: 二年前ある人の使に帝国ホテルへ行った時は錠前直しと間違えられた事がある。
二年前ある人の使いに帝国ホテルへ行ったときは、錠前直しと間違えられたことがある。
原文: ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。
ケットを被って、鎌倉の大仏を見物したときは車屋から親方と言われた。
原文: その外今日まで見損われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。
そのほか今日まで見損なわれたことはずいぶんあるが、まだおれをつかまえて大分ご風流でいらっしゃると言ったものはない。
原文: 大抵はなりや様子でも分る。
たいていはなりや様子でも分かる。
原文: 風流人なんていうものは、画を見ても、頭巾を被るか短冊を持ってるものだ。
風流人なんていうものは、絵を見ても、頭巾を被るか短冊を持ってるものだ。
原文: このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者じゃない。
このおれを風流人だなどと真面目に言うのは、ただの曲者じゃない。
原文: おれはそんな呑気な隠居のやるような事は嫌いだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飲んでいる。
おれはそんなのんきな隠居のやるようなことは嫌いだと言ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道に入るとなかなか出られませんと、一人で茶を注いで妙な手つきをして飲んでいる。
原文: 実はゆうべ茶を買ってくれと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。
実はゆうべ茶を買ってくれと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。
原文: 一杯飲むと胃に答えるような気がする。
一杯飲むと胃に応えるような気がする。
原文: 今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。
今度からもっと苦くないのを買ってくれと言ったら、かしこまりましたと、また一杯しぼって飲んだ。
原文: 人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。
人の茶だと思ってむやみに飲む奴だ。
原文: 主人が引き下がってから、明日の下読をしてすぐ寝てしまった。
主人が引き下がってから、明日の下読みをしてすぐ寝てしまった。
原文: それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。
それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。
原文: 一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分った。
一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは呑み込めたし、宿の夫婦の人物もたいがいは分かった。
原文: ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。
ほかの教師に聞いてみると、辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は、自分の評判がいいだろうか、悪いだろうかと非常に気にかかるそうであるが、おれは一向にそんな感じはなかった。
原文: 教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗に消えてしまう。
教場で折々しくじると、そのときだけはいやな心持ちだが、三十分ばかりたつときれいに消えてしまう。
原文: おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。
おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配ができない男だ。
原文: 教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。
教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するか、まるで無頓着であった。
原文: おれは前に云う通りあまり度胸の据った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。
おれは前に言う通りあまり度胸の据わった男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。
原文: この学校がいけなければすぐどっかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっとも恐しくはなかった。
この学校がいけなければすぐどこかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっとも恐ろしくはなかった。
原文: まして教場の小僧共なんかには愛嬌もお世辞も使う気になれなかった。
まして教場の小僧どもなんかには、愛嬌もお世辞も使う気になれなかった。
原文: 学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。
学校はそれでいいのだが、下宿の方はそうはいかなかった。
原文: 亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。
亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろなものを持ってくる。
原文: 始めに持って来たのは何でも印材で、十ばかり並べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。
始めに持って来たのは何でも印材で、十ばかり並べておいて、みんなで三円なら安いものだ、お買いなさいと言う。
原文: 田舎巡りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は華山とか何とか云う男の花鳥の掛物をもって来た。
田舎回りのへぼ絵師じゃあるまいし、そんなものはいらないと言ったら、今度は華山とか何とか言う男の花鳥の掛け物をもって来た。
原文: 自分で床の間へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。
自分で床の間へかけて、いい出来じゃありませんかと言うから、そうかなといい加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。
原文: お買いなさいと催促をする。
お買いなさいと催促をする。
原文: 金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固だ。
金がないと断ると、金なんか、いつでもようございますと、なかなか頑固だ。
原文: 金があつても買わないんだと、その時は追っ払っちまった。
金があっても買わないんだと、そのときは追っ払っちまった。
原文: その次には鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ。
その次には鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ。
原文: これは端渓です、端渓ですと二遍も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。
これは端渓です、端渓ですと二遍も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。
原文: 端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼をご覧なさい。
端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼をご覧なさい。
原文: 眼が三つあるのは珍らしい。
眼が三つあるのは珍しい。
原文: 溌墨の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。
墨のおりる具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。
原文: いくらだと聞くと、持主が支那から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。
いくらだと聞くと、持主が中国から持って帰って来てぜひ売りたいと言いますから、お安くして三十円にしておきましょうと言う。
原文: この男は馬鹿に相違ない。
この男は馬鹿に違いない。
原文: 学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそうにない。
学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責めに会ってはとても長く続きそうにない。
原文: そのうち学校もいやになった。
そのうち学校もいやになった。
原文: ある日の晩大町と云う所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
ある日の晩、大町という所を散歩していたら、郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
原文: おれは蕎麦が大好きである。
おれは蕎麦が大好きである。
原文: 東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。
東京にいたときでも蕎麦屋の前を通って薬味のにおいをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。
原文: 今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。
今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りができなくなる。
原文: ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。
ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。
原文: 見ると看板ほどでもない。
見ると看板ほどでもない。
原文: 東京と断わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない。
東京と断る以上はもう少しきれいにしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、めっぽうきたない。
原文: 畳は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。
畳は色が変わって、おまけに砂でざらざらしている。
原文: 壁は煤で真黒だ。
壁は煤で真っ黒だ。
原文: 天井はランプの油烟で燻ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。
天井はランプの油煙でくすぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。
原文: ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。
ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けた値段付けだけは全く新しい。
原文: 何でも古いうちを買って二三日前から開業したに違いなかろう。
何でも古いうちを買って二三日前から開業したに違いなかろう。
原文: ねだん付の第一号に天麩羅とある。
値段付けの第一号に天麩羅とある。
原文: おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
原文: するとこの時まで隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。
するとこのときまで隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。
原文: 部屋が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。
部屋が暗いので、ちょっと気がつかなかったが、顔を合わせると、みんな学校の生徒である。
原文: 先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。
先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。
原文: その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。
その晩は久しぶりに蕎麦を食ったので、うまかったから天麩羅を四杯平らげた。
原文: 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。
翌日何の気もなく教場へ入ると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。
原文: おれの顔を見てみんなわあと笑った。
おれの顔を見てみんなわあと笑った。
原文: おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。
おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃおかしいかと聞いた。
原文: すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。
すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と言った。
原文: 四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。
四杯食おうが五杯食おうが、おれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。
原文: 十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。
十分たって次の教場へ出ると、一つ、天麩羅四杯なり。
原文: 但し笑うべからず。
ただし笑うべからず。
原文: と黒板にかいてある。
と黒板にかいてある。
原文: さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。
さっきは別に腹も立たなかったが、今度は癪に障った。
原文: 冗談も度を過ごせばいたずらだ。
冗談も度を過ごせばいたずらだ。
原文: 焼餅の黒焦のようなもので誰も賞め手はない。
焼き餅の黒焦げのようなもので、誰もほめ手はない。
原文: 田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう。
田舎者はこの呼吸が分からないから、どこまで押して行っても構わないという料簡だろう。
原文: 一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。
一時間歩くと見物する町もないような狭い都に住んで、ほかに何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。
原文: 憐れな奴等だ。
哀れな奴らだ。
原文: 小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓みたような小人が出来るんだ。
子供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓みたような小人ができるんだ。
原文: 無邪気ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。
無邪気なら一緒に笑ってもいいが、こりゃなんだ。
原文: 小供の癖に乙に毒気を持ってる。
子供のくせに乙に毒気を持ってる。
原文: おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。
おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。
原文: 君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。
君らは卑怯という意味を知ってるか、と言ったら、自分がしたことを笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。
原文: やな奴だ。
いやな奴だ。
原文: わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。
わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情けなくなった。
原文: 余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。
余計な減らず口を利かないで勉強しろと言って、授業を始めてしまった。
原文: それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。
それから次の教場へ出たら、天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。
原文: どうも始末に終えない。
どうも始末に負えない。
原文: あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。
あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと言って、すたすた帰って来てやった。
原文: 生徒は休みになって喜んだそうだ。
生徒は休みになって喜んだそうだ。
原文: こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
原文: 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪に障らなくなった。
天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たら、そんなに癇癪に障らなくなった。
原文: 学校へ出てみると、生徒も出ている。
学校へ出てみると、生徒も出ている。
原文: 何だか訳が分らない。
何だか訳が分からない。
原文: それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。
それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田という所へ行って団子を食った。
原文: この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。
この住田という所は温泉のある町で、城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。
原文: おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。
おれの入った団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。
原文: 今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。
今度は生徒にも会わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へ入ると、団子二皿七銭と書いてある。
原文: 実際おれは二皿食って七銭払った。
実際おれは二皿食って七銭払った。
原文: どうも厄介な奴等だ。
どうも厄介な奴らだ。
原文: 二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。
二時間目にもきっと何かあると思うと、遊廓の団子うまいうまいと書いてある。
原文: あきれ返った奴等だ。
あきれ返った奴らだ。
原文: 団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭と云うのが評判になった。
団子がそれで済んだと思ったら、今度は赤手拭というのが評判になった。
原文: 何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。
何のことだと思ったら、つまらない来歴だ。
原文: おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。
おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに決めている。
原文: ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。
原文: せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛る。
せっかく来たものだから毎日入ってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける。
原文: ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。
ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。
原文: この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したのでちょっと見ると紅色に見える。
この手拭が湯に染まった上へ、赤い縞が流れ出したので、ちょっと見ると紅色に見える。
原文: おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。
おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗っても歩いても、常にぶら下げている。
原文: それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。
それで生徒がおれのことを赤手拭赤手拭と言うんだそうだ。
原文: どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。
どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。
原文: まだある。
まだある。
原文: 温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。
温泉は三階の新築で、上等は浴衣を貸して、流しをつけて八銭で済む。
原文: その上に女が天目へ茶を載せて出す。
その上に女が天目へ茶を載せて出す。
原文: おれはいつでも上等へはいった。
おれはいつでも上等へ入った。
原文: すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だと云い出した。
すると四十円の月給で毎日上等へ入るのは贅沢だと言い出した。
原文: 余計なお世話だ。
余計なお世話だ。
原文: まだある。
まだある。
原文: 湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。
湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。
原文: 大抵は十三四人漬ってるがたまには誰も居ない事がある。
たいていは十三四人漬かってるが、たまには誰もいないことがある。
原文: 深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。
深さは立って乳のあたりまであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。
原文: おれは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。
おれは人のいないのを見澄ましては、十五畳の湯壺を泳ぎ回って喜んでいた。
原文: ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。
ところがある日、三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。
原文: 湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。
湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼り札はおれのために特別に新調したのかも知れない。
原文: おれはそれから泳ぐのは断念した。
おれはそれから泳ぐのは断念した。
原文: 泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。
泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるのには驚いた。
原文: 何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。
何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。
原文: くさくさした。
くさくさした。
原文: 生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。
生徒が何を言ったって、やろうと思ったことをやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情けなくなった。
原文: それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。
それでうちへ帰ると、相変わらず骨董責めである。
原文: 四
四
原文: 学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。
学校には宿直があって、職員が代わる代わるこれをつとめる。
原文: 但し狸と赤シャツは例外である。
ただし狸と赤シャツは例外である。
原文: 何でこの両人が当然の義務を免かれるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと云う。
なんでこの二人が当然の義務を免れるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと言う。
原文: 面白くもない。
面白くもない。
原文: 月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。
月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃れるなんて不公平があるものか。
原文: 勝手な規則をこしらえて、それが当り前だというような顔をしている。
勝手な規則をこしらえて、それが当たり前だというような顔をしている。
原文: よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。
よくまああんなにずうずうしくできるものだ。
原文: これについては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。
これについてはだいぶ不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。
原文: 一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。
一人だって二人だって正しいことなら通りそうなものだ。
原文: 山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。
山嵐は might is right という英語を引いて説教を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利という意味だそうだ。
原文: 強者の権利ぐらいなら昔から知っている。
強者の権利ぐらいなら昔から知っている。
原文: 今さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。
今さら山嵐から講釈を聞かなくてもいい。
原文: 強者の権利と宿直とは別問題だ。
強者の権利と宿直とは別問題だ。
原文: 狸や赤シャツが強者だなんて、誰が承知するものか。
狸や赤シャツが強者だなんて、誰が承知するものか。
原文: 議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻って来た。
議論は議論として、この宿直がいよいよおれの番に回って来た。
原文: 一体疳性だから夜具蒲団などは自分のものへ楽に寝ないと寝たような心持ちがしない。
もともと神経質だから、夜具や布団は自分のもので楽に寝ないと寝た心持ちがしない。
原文: 小供の時から、友達のうちへ泊った事はほとんどないくらいだ。
子供の時から、友達のうちへ泊まったことはほとんどないくらいだ。
原文: 友達のうちでさえ厭なら学校の宿直はなおさら厭だ。
友達のうちでさえいやなら、学校の宿直はなおさらいやだ。
原文: 厭だけれども、これが四十円のうちへ籠っているなら仕方がない。
いやだけれども、これが四十円のうちに籠もっているなら仕方がない。
原文: 我慢して勤めてやろう。
我慢して勤めてやろう。
原文: 教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは随分間が抜けたものだ。
教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのはずいぶん間の抜けたものだ。
原文: 宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。
宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。
原文: ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。
ちょっと入ってみたが、西日をまともに受けて、苦しくて居たたまれない。
原文: 田舎だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。
田舎だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。
原文: 生徒の賄を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには恐れ入った。
生徒の賄いを取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには恐れ入った。
原文: よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。
よくあんなものを食って、あれだけ暴れられたもんだ。
原文: それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑に違いない。
それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑に違いない。
原文: 飯は食ったが、まだ日が暮れないから寝る訳に行かない。
飯は食ったが、まだ日が暮れないから寝るわけにいかない。
原文: ちょっと温泉に行きたくなった。
ちょっと温泉に行きたくなった。
原文: 宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪るい事だかしらないが、こうつくねんとして重禁錮同様な憂目に逢うのは我慢の出来るもんじゃない。
宿直をして外へ出るのがいいことだか、悪いことだか知らないが、こうつくねんとして重禁錮同然のつらい目に遭うのは我慢のできるもんじゃない。
原文: 始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと用達に出たと小使が答えたのを妙だと思ったが、自分に番が廻ってみると思い当る。
初めて学校へ来たとき、当直の人はと聞いたら、ちょっと用足しに出たと小使が答えたのを妙だと思ったが、自分に番が回ってみると思い当たる。
原文: 出る方が正しいのだ。
出る方が正しいのだ。
原文: おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛けた。
おれは小使にちょっと出てくると言ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へ入るんだと答えて、さっさと出掛けた。
原文: 赤手拭は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
赤手拭は宿へ忘れて来たのが残念だが、今日は先方で借りるとしよう。
原文: それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。
それからかなりゆっくりと、出たり入ったりして、ようやく日暮れ方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て降りた。
原文: 学校まではこれから四丁だ。
学校まではこれから四丁だ。
原文: 訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。
わけはないと歩き出すと、向こうから狸が来た。
原文: 狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。
狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうという計画なんだろう。
原文: すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
すたすた急ぎ足にやって来たが、すれ違ったときおれの顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
原文: すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目くさって聞いた。
すると狸は、あなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目くさって聞いた。
原文: なかったですかねえもないもんだ。
なかったですかねえもないもんだ。
原文: 二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。
二時間前におれに向かって、今夜は初めての宿直ですね。
原文: ご苦労さま。
ご苦労さま。
原文: と礼を云ったじゃないか。
と礼を言ったじゃないか。
原文: 校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。
校長なんかになると、いやに曲がりくねった言葉を使うもんだ。
原文: おれは腹が立ったから、ええ宿直です。
おれは腹が立ったから、ええ宿直です。
原文: 宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。
宿直ですから、これから帰って泊まることはたしかに泊まりますと言い捨てて、澄まして歩き出した。
原文: 竪町の四つ角までくると今度は山嵐に出っ喰わした。
竪町の四つ角まで来ると、今度は山嵐に出くわした。
原文: どうも狭い所だ。
どうも狭い所だ。
原文: 出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。
出て歩きさえすれば必ず誰かに会う。
原文: 「おい君は宿直じゃないか」
「おい君は宿直じゃないか」
原文: と聞くから「うん、宿直だ」
と聞くから「うん、宿直だ」
原文: と答えたら、「宿直が無暗に出てあるくなんて、不都合じゃないか」
と答えたら、「宿直がむやみに出て歩くなんて、不都合じゃないか」
原文: と云った。
と言った。
原文: 「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」
「ちっとも不都合なもんか、出て歩かない方が不都合だ」
原文: と威張ってみせた。
と威張ってみせた。
原文: 「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒だぜ」
「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出会うと面倒だぜ」
原文: と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」
と山嵐に似合わないことを言うから「校長にはたった今会った。暑いときには散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」
原文: と云って、面倒臭いから、さっさと学校へ帰って来た。
と言って、面倒くさいから、さっさと学校へ帰って来た。
原文: それから日はすぐくれる。
それから日はすぐ暮れる。
原文: くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寝られないまでも床へはいろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突いて、仰向けになった。
暮れてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寝られないまでも床へ入ろうと思って、寝巻に着替えて、蚊帳をまくって、赤い毛布をはねのけて、とんと尻もちを突いて、仰向けになった。
原文: おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。
おれが寝るときにとんと尻もちをつくのは子供の時からの癖だ。
原文: わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。
悪い癖だと言って、小川町の下宿にいた時分、二階の下にいた法律学校の書生が苦情を持ち込んだことがある。
原文: 法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。
法律の書生なんてものは弱いくせに、いやに口が達者なもので、くだらないことを長たらしく述べ立てるから、寝るときにどんどん音がするのはおれの尻が悪いんじゃない。
原文: 下宿の建築が粗末なんだ。
下宿の建築が粗末なんだ。
原文: 掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹ましてやった。
掛け合うなら下宿へ掛け合えと、へこましてやった。
原文: この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒れても構わない。
この宿直部屋は二階じゃないから、いくらどしんと倒れても構わない。
原文: なるべく勢よく倒れないと寝たような心持ちがしない。
なるべく勢いよく倒れないと寝た心持ちがしない。
原文: ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。
ああ愉快だと足をうんと伸ばすと、何だか両足へ飛びついた。
原文: ざらざらして蚤のようでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振ってみた。
ざらざらして蚤のようでもないから、こいつはと驚いて、足を二三度毛布の中で振ってみた。
原文: するとざらざらと当ったものが、急に殖え出して脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰したのが一つ、臍の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。
するとざらざらと当たったものが急に増え出して、脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰したのが一つ、へその所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚いた。
原文: 早速起き上って、毛布をぱっと後ろへ抛ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。
早速起き上がって、毛布をぱっと後ろへ放ると、布団の中から、バッタが五六十飛び出した。
原文: 正体の知れない時は多少気味が悪るかったが、バッタと相場が極まってみたら急に腹が立った。
正体の知れないときは多少気味が悪かったが、バッタと相場が決まってみたら急に腹が立った。
原文: バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取って、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。
バッタのくせに人を驚かしやがって、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取って、二三度叩きつけたが、相手が小さすぎるから、勢いよく投げつける割に効き目がない。
原文: 仕方がないから、また布団の上へ坐って、煤掃の時に蓙を丸めて畳を叩くように、そこら近辺を無暗にたたいた。
仕方がないから、また布団の上へ座って、すす掃きのときにござを丸めて畳を叩くように、そこら近辺をむやみに叩いた。
原文: バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。
バッタが驚いた上に、枕の勢いで飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの、鼻の先だのへくっついたり、ぶつかったりする。
原文: 顔へ付いた奴は枕で叩く訳に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける。
顔へ付いたやつは枕で叩くわけにいかないから、手でつかんで、一生懸命に叩きつける。
原文: 忌々しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。
いまいましいことに、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手応えがない。
原文: バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。
バッタは叩きつけられたまま蚊帳につかまっている。
原文: 死にもどうもしない。
死にもどうもしない。
原文: ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治た。
ようやくのことで、三十分ばかりでバッタを退治た。
原文: 箒を持って来てバッタの死骸を掃き出した。
箒を持って来てバッタの死骸を掃き出した。
原文: 小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼っとく奴がどこの国にある。
小使が来て何ですかと言うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼っておくやつがどこの国にある。
原文: 間抜め。
間抜けめ。
原文: と叱ったら、私は存じませんと弁解をした。
と叱ったら、私は存じませんと弁解をした。
原文: 存じませんで済むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
存じませんで済むかと箒を縁側へ放り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
原文: おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。
おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。
原文: すると六人出て来た。
すると六人出て来た。
原文: 六人だろうが十人だろうが構うものか。
六人だろうが十人だろうが構うものか。
原文: 寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。
寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。
原文: 「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
原文: 「バッタた何ぞな」
「バッタた何ぞな」
原文: と真先の一人がいった。
と真っ先の一人が言った。
原文: やに落ち付いていやがる。
いやに落ち着いていやがる。
原文: この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲がりくねった言葉を使うんだろう。
原文: 「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」
「バッタを知らないのか、知らなきゃ見せてやろう」
原文: と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。
と言ったが、あいにく掃き出してしまって一匹もいない。
原文: また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」
また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」
原文: と云ったら、「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」
と言ったら、「もう掃きだめへ捨ててしまいましたが、拾って参りましょうか」
原文: と聞いた。
と聞いた。
原文: 「うんすぐ拾って来い」
「うんすぐ拾って来い」
原文: と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」
と言うと小使は急いで駆け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、あいにく夜でこれだけしか見当たりません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」
原文: と云う。
と言う。
原文: 小使まで馬鹿だ。
小使まで馬鹿だ。
原文: おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」
おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何のことだ」
原文: と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」
と言うと、一番左の方にいた顔の丸いやつが「そりゃ、イナゴぞな、もし」
原文: と生意気におれを遣り込めた。
と生意気におれをやり込めた。
原文: 「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」
「べらぼうめ、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生をつかまえてなもしとは何だ。菜飯は田楽のときよりほかに食うもんじゃない」
原文: とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
とあべこべにやり込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
原文: と云った。
と言った。
原文: いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
いつまで行ってもなもしを使うやつだ。
原文: 「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
「イナゴでもバッタでも、なんでおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
原文: 「誰も入れやせんがな」
「誰も入れやせんがな」
原文: 「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「入れないものが、どうして床の中にいるんだ」
原文: 「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
原文: 「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「馬鹿あ言え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、言え」
原文: 「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
「言えてて、入れんものを説明しようがないがな」
原文: けちな奴等だ。
けちなやつらだ。
原文: 自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。
自分で自分のしたことが言えないくらいなら、はじめからしない方がいい。
原文: 証拠さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。
証拠さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。
原文: おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。
おれだって中学にいた時分は少しはいたずらもしたもんだ。
原文: しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯な事はただの一度もなかった。
しかし誰がしたと聞かれたときに、尻込みをするような卑怯なことはただの一度もなかった。
原文: したものはしたので、しないものはしないに極ってる。
したものはしたので、しないものはしないに決まってる。
原文: おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。
おれなんぞは、いくらいたずらをしたって潔白なものだ。
原文: 嘘を吐いて罰を逃げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。
嘘をついて罰を逃げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。
原文: いたずらと罰はつきもんだ。
いたずらと罰はつきもんだ。
原文: 罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。
罰があるからいたずらも心持ちよくできる。
原文: いたずらだけで罰はご免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。
いたずらだけで罰はご免こうむるなんて下劣な根性が、どこの国で流行ると思ってるんだ。
原文: 金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。
金は借りるが、返すことはご免だと言う連中はみんな、こんなやつらが卒業してやる仕事に違いない。
原文: 全体中学校へ何しにはいってるんだ。
全体中学校へ何しに入ってるんだ。
原文: 学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。
学校へ入って、嘘をついて、ごまかして、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと勘違いしていやがる。
原文: 話せない雑兵だ。
話せない雑兵だ。
原文: おれはこんな腐った了見の奴等と談判するのは胸糞が悪るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」
おれはこんな腐った了見のやつらと談判するのは胸くそが悪いから、「そんなに言えないなら、聞かなくっていい。中学校へ入って、上品も下品も区別ができないのは気の毒なものだ」
原文: と云って六人を逐っ放してやった。
と言って六人を追っ放してやった。
原文: おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥かに上品なつもりだ。
おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりもはるかに上品なつもりだ。
原文: 六人は悠々と引き揚げた。
六人は悠々と引き揚げた。
原文: 上部だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。
上辺だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。
原文: 実は落ち付いているだけなお悪るい。
実は落ち着いているだけなお悪い。
原文: おれには到底これほどの度胸はない。
おれにはとてもこれほどの度胸はない。
原文: それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動で蚊帳の中はぶんぶん唸っている。
それからまた床へ入って横になったら、さっきの騒動で蚊帳の中はぶんぶん唸っている。
原文: 手燭をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手をはずして、長く畳んでおいて部屋の中で横竪十文字に振ったら、環が飛んで手の甲をいやというほど撲った。
手燭をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒なことはできないから、釣り手をはずして、長くたたんでおいて部屋の中で縦横十文字に振ったら、環が飛んで手の甲をいやというほど打った。
原文: 三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。
三度目に床へ入ったときは少々落ち着いたが、なかなか寝られない。
原文: 時計を見ると十時半だ。
時計を見ると十時半だ。
原文: 考えてみると厄介な所へ来たもんだ。
考えてみると厄介な所へ来たもんだ。
原文: 一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。
一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。
原文: よく先生が品切れにならない。
よく先生が品切れにならない。
原文: よっぽど辛防強い朴念仁がなるんだろう。
よっぽど辛抱強い朴念仁がなるんだろう。
原文: おれには到底やり切れない。
おれにはとてもやり切れない。
原文: それを思うと清なんてのは見上げたものだ。
それを思うと清なんてのは見上げたものだ。
原文: 教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊とい。
教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊い。
原文: 今まではあんなに世話になって別段難有いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。
今まではあんなに世話になって別段ありがたいとも思わなかったが、こうして一人で遠国へ来てみると、初めてあの親切がわかる。
原文: 越後の笹飴が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分ある。
越後の笹飴が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わせてやっても、食わせるだけの値打ちは十分ある。
原文: 清はおれの事を欲がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。
清はおれのことを欲がなくって、まっすぐな気性だと言ってほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。
原文: 何だか清に逢いたくなった。
何だか清に会いたくなった。
原文: 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。
清のことを考えながら、そわそわしていると、突然おれの頭の上で、数で言ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。
原文: すると足音に比例した大きな鬨の声が起った。
すると足音に比例した大きなときの声が起こった。
原文: おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。
おれは何事が持ち上がったのかと驚いて飛び起きた。
原文: 飛び起きる途端に、ははあさっきの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。
飛び起きる途端に、ははあ、さっきの意趣返しに生徒が暴れるのだなと気がついた。
原文: 手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。
手前の悪いことは悪かったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。
原文: わるい事は、手前達に覚があるだろう。
悪いことは、手前たちに覚えがあるだろう。
原文: 本来なら寝てから後悔してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。
本来なら寝てから後悔して、あしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。
原文: たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛に寝ているべきだ。
たとえあやまらないまでも、恐れ入って静かに寝ているべきだ。
原文: それを何だこの騒ぎは。
それを何だこの騒ぎは。
原文: 寄宿舎を建てて豚でも飼っておきあしまいし。
寄宿舎を建てて豚でも飼っておくんじゃあるまいし。
原文: 気狂いじみた真似も大抵にするがいい。
気の変な真似も大抵にするがいい。
原文: どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段を三股半に二階まで躍り上がった。
どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、はしご段を三股半に二階まで躍り上がった。
原文: すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。
すると不思議なことに、今まで頭の上でたしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。
原文: これは妙だ。
これは妙だ。
原文: ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分らないが、人気のあるとないとは様子でも知れる。
ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何がいるかはっきり分からないが、人気のあるとないとは様子でも知れる。
原文: 長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隠れていない。
長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隠れていない。
原文: 廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。
廊下のはずれから月がさして、はるか向こうが際どく明るい。
原文: どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。
どうも変だ、おれは子供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中で跳ね起きて、わけの分からない寝言を言って、人に笑われたことがよくある。
原文: 十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらいだ。
十六七のときダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばにいた兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢いで尋ねたくらいだ。
原文: その時は三日ばかりうち中の笑い草になって大いに弱った。
そのときは三日ばかりうち中の笑い草になって大いに弱った。
原文: ことによると今のも夢かも知れない。
ことによると今のも夢かも知れない。
原文: しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板を踏み鳴らした。
しかしたしかに暴れたに違いないがと、廊下の真ん中で考え込んでいると、月のさしている向こうのはずれで、一、二、三、わあと、三四十人の声がかたまって響いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板を踏み鳴らした。
原文: それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。
それ見ろ夢じゃない、やっぱり事実だ。
原文: 静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳けだした。
静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けないくらいな声を出して、廊下を向こうへ駆け出した。
原文: おれの通る路は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標だ。
おれの通る道は暗い、ただはずれに見える月明かりが目印だ。
原文: おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛り出された。
おれが駆け出して二間も来たかと思うと、廊下の真ん中で、堅い大きなものに向こう脛をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、体はすとんと前へ放り出された。
原文: こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。
こん畜生と起き上がってみたが、駆けられない。
原文: 気はせくが、足だけは云う事を利かない。
気はせくが、足だけは言うことを利かない。
原文: じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。
じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、しんとしている。
原文: いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。
いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯にできるものじゃない。
原文: まるで豚だ。
まるで豚だ。
原文: こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。
こうなれば隠れているやつを引きずり出して、あやまらせてやるまでは引かないぞと心を決めて、寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。
原文: 錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。
錠をかけてあるのか、机か何か積んで立てかけてあるのか、押しても、押しても決して開かない。
原文: 今度は向う合せの北側の室を試みた。
今度は向かい合わせの北側の部屋を試みた。
原文: 開かない事はやっぱり同然である。
開かないことはやっぱり同じである。
原文: おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕らまえてやろうと、焦慮てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。
おれが戸を開けて中にいるやつを引っ捕まえてやろうといらいらしていると、また東のはずれでときの声と足拍子が始まった。
原文: この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。
この野郎、申し合わせて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったが、さてどうしていいか分からない。
原文: 正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。
正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に知恵が足りない。
原文: こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。
こんなときにはどうしていいかさっぱりわからない。
原文: わからないけれども、決して負けるつもりはない。
わからないけれども、決して負けるつもりはない。
原文: このままに済ましてはおれの顔にかかわる。
このままに済ましてはおれの顔にかかわる。
原文: 江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。
江戸っ子は意気地がないと言われるのは残念だ。
原文: 宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。
宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。
原文: これでも元は旗本だ。
これでも元は旗本だ。
原文: 旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。
旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。
原文: こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。
こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。
原文: ただ智慧のないところが惜しいだけだ。
ただ知恵のないところが惜しいだけだ。
原文: どうしていいか分らないのが困るだけだ。
どうしていいか分からないのが困るだけだ。
原文: 困ったって負けるものか。
困ったって負けるものか。
原文: 正直だから、どうしていいか分らないんだ。
正直だから、どうしていいか分からないんだ。
原文: 世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。
世の中に正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか、考えてみろ。
原文: 今夜中に勝てなければ、あした勝つ。
今夜中に勝てなければ、あした勝つ。
原文: あした勝てなければ、あさって勝つ。
あした勝てなければ、あさって勝つ。
原文: あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。
あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここにいる。
原文: おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。
おれはこう決心をしたから、廊下の真ん中へあぐらをかいて夜の明けるのを待っていた。
原文: 蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。
蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。
原文: さっき、ぶつけた向脛を撫でてみると、何だかぬらぬらする。
さっき、ぶつけた向こう脛を撫でてみると、何だかぬらぬらする。
原文: 血が出るんだろう。
血が出るんだろう。
原文: 血なんか出たければ勝手に出るがいい。
血なんか出たければ勝手に出るがいい。
原文: そのうち最前からの疲れが出て、ついうとうと寝てしまった。
そのうち最前からの疲れが出て、ついうとうと寝てしまった。
原文: 何だか騒がしいので、眼が覚めた時はえっ糞しまったと飛び上がった。
何だか騒がしいので目が覚めたときは、えっ、くそ、しまったと飛び上がった。
原文: おれの坐ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。
おれの座ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。
原文: おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引っ攫んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に倒れた。
おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引っつかんで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向けに倒れた。
原文: ざまを見ろ。
ざまを見ろ。
原文: 残る一人がちょっと狼狽したところを、飛びかかって、肩を抑えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。
残る一人がちょっと狼狽したところを、飛びかかって、肩を抑えて二三度こづき回したら、あっけに取られて、目をぱちぱちさせた。
原文: さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾いて来た。
さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなくついて来た。
原文: 夜はとうにあけている。
夜はとうに明けている。
原文: おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問し始めると、豚は、打っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。
おれが宿直部屋へ連れてきたやつを詰問し始めると、豚は、打っても叩いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、決して白状しない。
原文: そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。
そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。
原文: 見るとみんな眠そうに瞼をはらしている。
見るとみんな眠そうに瞼をはらしている。
原文: けちな奴等だ。
けちなやつらだ。
原文: 一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。
一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と言われるか。
原文: 面でも洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
面でも洗って議論に来いと言ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
原文: おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答をしていると、ひょっくり狸がやって来た。
おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押し問答をしていると、ひょっくり狸がやって来た。
原文: あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。
あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。
原文: これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。
これしきのことに、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。
原文: それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
原文: 校長はひと通りおれの説明を聞いた。
校長はひと通りおれの説明を聞いた。
原文: 生徒の言草もちょっと聞いた。
生徒の言い草もちょっと聞いた。
原文: 追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。
追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。
原文: 早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免した。
早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと言って寄宿生をみんな放免した。
原文: 手温るい事だ。
手ぬるいことだ。
原文: おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまう。
おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまう。
原文: こんな悠長な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。
こんな悠長なことをするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。
原文: その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及ばんと云うから、おれはこう答えた。
その上おれに向かって、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及ばんと言うから、おれはこう答えた。
原文: 「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴した月給を学校の方へ割戻します」
「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんなことが毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業ができないくらいなら、頂戴した月給を学校の方へ割り戻します」
原文: 校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。
校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔がだいぶはれていますよと注意した。
原文: なるほど何だか少々重たい気がする。
なるほど何だか少々重たい気がする。
原文: その上べた一面痒い。
その上べた一面かゆい。
原文: 蚊がよっぽと刺したに相違ない。
蚊がよっぽど刺したに違いない。
原文: おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら膨れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。
おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくらはれたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。
原文: 校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。
校長は笑いながら、だいぶ元気ですねとほめた。
原文: 実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
実を言うとほめたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
原文: 五
五
原文: 君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。
君、釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。
原文: 赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。
赤シャツは気味の悪いように優しい声を出す男である。
原文: まるで男だか女だか分りゃしない。
まるで男だか女だか分かりゃしない。
原文: 男なら男らしい声を出すもんだ。
男なら男らしい声を出すもんだ。
原文: ことに大学卒業生じゃないか。
ことに大学卒業生じゃないか。
原文: 物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃみっともない。
原文: おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。
おれはそうですなあと少し気の進まない返事をしたら、君、釣りをしたことがありますかと失敬なことを聞く。
原文: あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣った事がある。
あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣ったことがある。
原文: それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云ったら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑った。
それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったが、これは今考えても惜しいと言ったら、赤シャツは顎を前の方へ突き出してホホホホと笑った。
原文: 何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。
何もそう気取って笑わなくっても、よさそうなものだ。
原文: 「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」
「それじゃ、まだ釣りの味は分からんですな。お望みならちと伝授しましょう」
原文: とすこぶる得意である。
とすこぶる得意である。
原文: だれがご伝授をうけるものか。
誰がご伝授を受けるものか。
原文: 一体釣や猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。
一体釣りや猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。
原文: 不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。
不人情でなくって、殺生をして喜ぶわけがない。
原文: 魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極まってる。
魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に決まってる。
原文: 釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。
釣りや猟をしなくっちゃ暮らしが立たないなら格別だが、何不足なく暮らしている上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。
原文: こう思ったが向うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶わないと思って、だまってた。
こう思ったが、向こうは文学士だけに口が達者だから、議論じゃかなわないと思って、黙ってた。
原文: すると先生このおれを降参させたと疳違いして、早速伝授しましょう。
すると先生、このおれを降参させたと勘違いして、早速伝授しましょう。
原文: おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。
おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。
原文: 吉川君と二人ぎりじゃ、淋しいから、来たまえとしきりに勧める。
吉川君と二人ぎりじゃ寂しいから、来たまえとしきりに勧める。
原文: 吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。
吉川君というのは画学の教師で、例の野だいこのことだ。
原文: この野だは、どういう了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して、どこへでも随行して行く。
この野だは、どういう了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入りして、どこへでも随行して行く。
原文: まるで同輩じゃない。
まるで同輩じゃない。
原文: 主従みたようだ。
主従みたいなものだ。
原文: 赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極っているんだから、今さら驚ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想のおれへ口を掛けたんだろう。
赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに決まっているんだから、今さら驚きもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想なおれへ声を掛けたんだろう。
原文: 大方高慢ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘ったに違いない。
大方高慢ちきな釣り道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりか何かで誘ったに違いない。
原文: そんな事で見せびらかされるおれじゃない。
そんなことで見せびらかされるおれじゃない。
原文: 鮪の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。
鮪の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。
原文: おれだって人間だ、いくら下手だって糸さえ卸しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃないと邪推するに相違ない。
おれだって人間だ、いくら下手だって糸さえ下ろしゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツのことだから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃないと邪推するに違いない。
原文: おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。
おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。
原文: それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜へ行った。
それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合わせて浜へ行った。
原文: 船頭は一人で、船は細長い東京辺では見た事もない恰好である。
船頭は一人で、船は細長い、東京辺では見たこともない格好である。
原文: さっきから船中見渡すが釣竿が一本も見えない。
さっきから船中を見渡すが、釣竿が一本も見えない。
原文: 釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫でて黒人じみた事を云った。
釣竿なしで釣りができるものか、どうする了見だろうと野だに聞くと、沖釣りには竿は用いません、糸だけでげすと顎を撫でて玄人じみたことを言った。
原文: こう遣り込められるくらいならだまっていればよかった。
こうやり込められるくらいなら黙っていればよかった。
原文: 船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。
船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが、熟練は恐ろしいもので、見返すと、浜が小さく見えるくらいもう出ている。
原文: 高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針のように尖がってる。
高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針のようにとんがってる。
原文: 向側を見ると青嶋が浮いている。
向こう側を見ると青嶋が浮いている。
原文: これは人の住まない島だそうだ。
これは人の住まない島だそうだ。
原文: よく見ると石と松ばかりだ。
よく見ると石と松ばかりだ。
原文: なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。
なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。
原文: 赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。
赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言ってる。
原文: 野だは絶景でげすと云ってる。
野だは絶景でげすと言ってる。
原文: 絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。
絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには違いない。
原文: ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。
広々とした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。
原文: いやに腹が減る。
いやに腹が減る。
原文: 「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」
「あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」
原文: と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」
と赤シャツが野だに言うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」
原文: と心得顔である。
と心得顔である。
原文: ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。
ターナーとは何のことだか知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。
原文: 舟は島を右に見てぐるりと廻った。
舟は島を右に見てぐるりと回った。
原文: 波は全くない。
波は全くない。
原文: これで海だとは受け取りにくいほど平だ。
これで海だとは受け取りにくいほど平らだ。
原文: 赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。
赤シャツのおかげではなはだ愉快だ。
原文: 出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。
できることなら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。
原文: つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。
つけられんこともないですが、釣りをするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。
原文: おれは黙ってた。
おれは黙ってた。
原文: すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。
すると野だが、どうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。
原文: 赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。
赤シャツはそいつは面白い、我々はこれからそう言おうと賛成した。
原文: この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。
この我々のうちにおれも入ってるなら迷惑だ。
原文: おれには青嶋でたくさんだ。
おれには青嶋でたくさんだ。
原文: あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。
あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。
原文: いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。
いい画ができますぜと野だが言うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪い笑い方をした。
原文: なに誰も居ないから大丈夫ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。
なに誰もいないから大丈夫ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。
原文: おれは何だかやな心持ちがした。
おれは何だかいやな心持ちがした。
原文: マドンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。
マドンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係したことでないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分からないことを言って、分からないから聞いたって構やしませんてえような風をする。
原文: 下品な仕草だ。
下品な仕草だ。
原文: これで当人は私も江戸っ子でげすなどと云ってる。
これで当人は、私も江戸っ子でげすなどと言ってる。
原文: マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染の芸者の渾名か何かに違いないと思った。
マドンナというのは、何でも赤シャツの馴染みの芸者のあだ名か何かに違いないと思った。
原文: なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない。
馴染みの芸者を無人島の松の木の下に立たせて眺めていれば世話はない。
原文: それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
原文: ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨を卸した。
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨を下ろした。
原文: 幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらいだと云う。
幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらいだと言う。
原文: 六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。
六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へ投げ込んだ。
原文: 大将鯛を釣る気と見える、豪胆なものだ。
大将、鯛を釣る気と見える、豪胆なものだ。
原文: 野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。
野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。
原文: それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰り出して投げ入れる。
それになぎですからとお世辞を言いながら、これも糸を繰り出して投げ入れる。
原文: 何だか先に錘のような鉛がぶら下がってるだけだ。
何だか先に錘のような鉛がぶら下がってるだけだ。
原文: 浮がない。
浮きがない。
原文: 浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。
浮きがなくって釣りをするのは寒暖計なしで熱を測るようなものだ。
原文: おれには到底出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。
おれにはとてもできないと見ていると、さあ君もやりたまえ、糸はありますかと聞く。
原文: 糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人ですよ。
糸はあまるほどあるが、浮きがありませんと言ったら、浮きがなくっちゃ釣りができないのは素人ですよ。
原文: こうしてね、糸が水底へついた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――
こうしてね、糸が水底へついた時分に、船縁の所で人差し指で呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に応える。――
原文: そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。
そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。
原文: いい気味だ。
いい気味だ。
原文: 教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃げられちゃ、今日は油断ができませんよ。
教頭、残念なことをしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃げられちゃ、今日は油断ができませんよ。
原文: しかし逃げられても何ですね。
しかし逃げられても何ですね。
原文: 浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。
浮きとにらめっこをしている連中よりはましですね。
原文: ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。
ちょうど歯止めがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙なことばかりしゃべる。
原文: よっぽど撲りつけてやろうかと思った。
よっぽど殴りつけてやろうかと思った。
原文: おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。
おれだって人間だ、教頭一人で借り切った海じゃあるまいし。
原文: 広い所だ。
広い所だ。
原文: 鰹の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
鰹の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を放り込んで、いい加減に指の先であやつっていた。
原文: しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。
原文: おれは考えた。
おれは考えた。
原文: こいつは魚に相違ない。
こいつは魚に違いない。
原文: 生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。
生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつくわけがない。
原文: しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。
しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。
原文: おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸いておらん。
おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んで、ただ五尺ばかりしか水に浸かっていない。
原文: 船縁から覗いてみたら、金魚のような縞のある魚が糸にくっついて、右左へ漾いながら、手に応じて浮き上がってくる。
船縁から覗いてみたら、金魚のような縞のある魚が糸にくっついて、右左へ漂いながら、手に応じて浮き上がってくる。
原文: 面白い。
面白い。
原文: 水際から上げるとき、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。
水際から上げるとき、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。
原文: ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。
ようやくつかまえて、針を取ろうとするがなかなか取れない。
原文: 捕まえた手はぬるぬるする。
つかまえた手はぬるぬるする。
原文: 大いに気味がわるい。
大いに気味が悪い。
原文: 面倒だから糸を振って胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んでしまった。
面倒だから糸を振って胴の間へ叩きつけたら、すぐ死んでしまった。
原文: 赤シャツと野だは驚ろいて見ている。
赤シャツと野だは驚いて見ている。
原文: おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。
おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。
原文: まだ腥臭い。
まだ生臭い。
原文: もう懲り懲りだ。
もう懲り懲りだ。
原文: 何が釣れたって魚は握りたくない。
何が釣れたって魚は握りたくない。
原文: 魚も握られたくなかろう。
魚も握られたくなかろう。
原文: そうそう糸を捲いてしまった。
早々に糸を巻いてしまった。
原文: 一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落た。
一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を言うと、ゴルキと言うとロシアの文学者みたような名だねと赤シャツが洒落た。
原文: そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。
そうですね、まるでロシアの文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。
原文: ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。
ゴルキがロシアの文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。
原文: 一体この赤シャツはわるい癖だ。
一体この赤シャツは悪い癖だ。
原文: 誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。
誰をつかまえても片仮名の外国人の名を並べたがる。
原文: 人にはそれぞれ専門があったものだ。
人にはそれぞれ専門があったものだ。
原文: おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。
おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。
原文: 云うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。
言うならフランクリンの自伝だとか、プッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。
原文: 赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。
赤シャツは時々帝国文学とかいう真っ赤な雑誌を学校へ持って来てありがたそうに読んでいる。
原文: 山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。
山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。
原文: 帝国文学も罪な雑誌だ。
帝国文学も罪な雑誌だ。
原文: それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五六上げた。
それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五六上げた。
原文: 可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。
おかしいことに、釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。
原文: 鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。
鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。
原文: 今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。
今日はロシア文学の大当たりだと赤シャツが野だに話している。
原文: あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。
あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。
原文: 当り前ですなと野だが答えている。
当たり前ですなと野だが答えている。
原文: 船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。
船頭に聞くと、この小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。
原文: ただ肥料には出来るそうだ。
ただ肥やしにはできるそうだ。
原文: 赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。
赤シャツと野だは一生懸命に肥やしを釣っているんだ。
原文: 気の毒の至りだ。
気の毒の至りだ。
原文: おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになって、さっきから大空を眺めていた。
おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになって、さっきから大空を眺めていた。
原文: 釣をするよりこの方がよっぽど洒落ている。
釣りをするよりこの方がよっぽど洒落ている。
原文: すると二人は小声で何か話し始めた。
すると二人は小声で何か話し始めた。
原文: おれにはよく聞えない、また聞きたくもない。
おれにはよく聞こえない、また聞きたくもない。
原文: おれは空を見ながら清の事を考えている。
おれは空を見ながら清のことを考えている。
原文: 金があって、清をつれて、こんな奇麗な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。
金があって、清を連れて、こんなきれいな所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。
原文: いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。
いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。
原文: 清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥ずかしい心持ちはしない。
清はしわくちゃだらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥ずかしい心持ちはしない。
原文: 野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。
野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣へ登ろうが、とても寄り付けたものじゃない。
原文: おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷かすに違いない。
おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへつらってお世辞を使って、赤シャツを冷やかすに違いない。
原文: 江戸っ子は軽薄だと云うがなるほどこんなものが田舎巡りをして、私は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。
江戸っ子は軽薄だと言うが、なるほどこんなものが田舎回りをして、私は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄のことだと田舎者が思うに決まってる。
原文: こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。
こんなことを考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。
原文: 笑い声の間に何か云うが途切れ途切れでとんと要領を得ない。
笑い声の間に何か言うが、途切れ途切れでとんと要領を得ない。
原文: 「え? どうだか……」
「え? どうだか……」
原文: 「……全くです……知らないんですから……罪ですね」
「……全くです……知らないんですから……罪ですね」
原文: 「まさか……」
「まさか……」
原文: 「バッタを……本当ですよ」
「バッタを……本当ですよ」
原文: おれは外の言葉には耳を傾けなかったが、バッタと云う野だの語を聴いた時は、思わずきっとなった。
おれはほかの言葉には耳を傾けなかったが、バッタという野だの言葉を聞いたときは、思わずきっとなった。
原文: 野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。
野だは何のためかバッタという言葉だけことさら力を入れて、はっきりおれの耳に入るようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。
原文: おれは動かないでやはり聞いていた。
おれは動かないでやはり聞いていた。
原文: 「また例の堀田が……」
「また例の堀田が……」
原文: 「そうかも知れない……」
「そうかも知れない……」
原文: 「天麩羅……ハハハハハ」
「天麩羅……ハハハハハ」
原文: 「……煽動して……」
「……煽動して……」
原文: 「団子も?」
「団子も?」
原文: 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話しをしているに相違ない。
言葉はこのように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内緒話をしているに違いない。
原文: 話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。
話すならもっと大きな声で話すがいい、また内緒話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。
原文: いけ好かない連中だ。
いけ好かない連中だ。
原文: バッタだろうが雪踏だろうが、非はおれにある事じゃない。
バッタだろうが雪駄だろうが、非はおれにあることじゃない。
原文: 校長がひとまずあずけろと云ったから、狸の顔にめんじてただ今のところは控えているんだ。
校長がひとまず預けろと言ったから、狸の顔に免じてただ今のところは控えているんだ。
原文: 野だの癖に入らぬ批評をしやがる。
野だのくせに要らぬ批評をしやがる。
原文: 毛筆でもしゃぶって引っ込んでるがいい。
毛筆でもしゃぶって引っ込んでるがいい。
原文: おれの事は、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。
おれのことは、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから差し支えはないが、また例の堀田がとか、煽動してとか言う文句が気にかかる。
原文: 堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。
堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたという意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと言うのか、方角がわからない。
原文: 青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。
青空を見ていると、日の光がだんだん弱ってきて、少しはひやりとする風が吹き出した。
原文: 線香の烟のような雲が、透き徹る底の上を静かに伸して行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった。
線香の煙のような雲が、透き通る底の上を静かに伸びて行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった。
原文: もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。
もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように言うと、ええちょうど時分ですね。
原文: 今夜はマドンナの君にお逢いですかと野だが云う。
今夜はマドンナの君にお会いですかと野だが言う。
原文: 赤シャツは馬鹿あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚たした奴を、少し起き直る。
赤シャツは馬鹿あ言っちゃいけない、間違いになると、船縁にもたせていた体を少し起き直す。
原文: エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。
エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。
原文: 聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿のような眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。
聞いたって……と野だが振り返ったとき、おれは皿のような目を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。
原文: 野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻いた。
野だはまぶしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻いた。
原文: 何という猪口才だろう。
何というちょこざいだろう。
原文: 船は静かな海を岸へ漕ぎ戻る。
船は静かな海を岸へ漕ぎ戻る。
原文: 君釣はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で掻き分けられた浪の上を揺られながら漾っていった。
君、釣りはあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻煙草を海の中へ叩き込んだら、ジュと音がして、艪の足で掻き分けられた波の上を揺られながら漂っていった。
原文: 「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発してやってくれたまえ」
「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発してやってくれたまえ」
原文: と今度は釣にはまるで縁故もない事を云い出した。
と今度は釣りにはまるで縁のないことを言い出した。
原文: 「あんまり喜んでもいないでしょう」
「あんまり喜んでもいないでしょう」
原文: 「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」
「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」
原文: 「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」
「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」
原文: と野だはにやにやと笑った。
と野だはにやにやと笑った。
原文: こいつの云う事は一々癪に障るから妙だ。
こいつの言うことは一々癪に障るから妙だ。
原文: 「しかし君注意しないと、険呑ですよ」
「しかし君、注意しないと危ないですよ」
原文: と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟です」
と赤シャツが言うから「どうせ危ないです。こうなりゃ危ないのは覚悟です」
原文: と云ってやった。
と言ってやった。
原文: 実際おれは免職になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。
実際おれは免職になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。
原文: 「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」
「そう言っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから言うんだが、悪く取っちゃ困る」
原文: 「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力しているんですよ」
「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互いに力になろうと思って、これでも陰ながら尽力しているんですよ」
原文: と野だが人間並の事を云った。
と野だが人間並みのことを言った。
原文: 野だのお世話になるくらいなら首を縊って死んじまわあ。
野だのお世話になるくらいなら首をくくって死んじまわあ。
原文: 「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢だと思って、辛防してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つこともあるだろうが、ここが我慢だと思って、辛抱してくれたまえ。決して君のためにならないようなことはしないから」
原文: 「いろいろの事情た、どんな事情です」
「いろいろの事情って、どんな事情です」
原文: 「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分かりますよ。僕が話さないでも自然と分かって来るです、ね吉川君」
原文: 「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃとても分かりません。しかしだんだん分かります、僕が話さないでも自然と分かって来るです」
原文: と野だは赤シャツと同じような事を云う。
と野だは赤シャツと同じようなことを言う。
原文: 「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うんです」
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うんです」
原文: 「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊には行かないですからね」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけのことを言っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は初めての経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流にあっさりとは行かないですからね」
原文: 「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「あっさり行かなければ、どんな風に行くんです」
原文: 「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと言うんですがね……」
原文: 「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にも書いときましたが二十三年四ヶ月ですから」
原文: 「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられることがあるんです」
原文: 「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」
「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」
原文: 「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと言うんです」
原文: 野だが大人しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をしている。
野だが大人しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣りの話をしている。
原文: 野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
野だがいないんでよっぽど話しよくなった。
原文: 「僕の前任者が、誰れに乗ぜられたんです」
「僕の前任者が、誰に乗ぜられたんです」
原文: 「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「誰と指すと、その人の名誉に関係するから言えない。また、はっきり証拠のないことだから、言うとこっちの落ち度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕らも君を呼んだ甲斐がない。どうか気を付けてくれたまえ」
原文: 「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好いんでしょう」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。悪いことをしなけりゃいいんでしょう」
原文: 赤シャツはホホホホと笑った。
赤シャツはホホホホと笑った。
原文: 別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。
別段おれは笑われるようなことを言った覚えはない。
原文: 今日ただ今に至るまでこれでいいと堅く信じている。
今日ただ今に至るまで、これでいいと堅く信じている。
原文: 考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。
考えてみると世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う。
原文: わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。
悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。
原文: たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。
たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。
原文: それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。
それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。
原文: いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
原文: 赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。
赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。
原文: 単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。
単純や真率が笑われる世の中じゃ仕方がない。
原文: 清はこんな時に決して笑った事はない。
清はこんなときに決して笑ったことはない。
原文: 大いに感心して聞いたもんだ。
大いに感心して聞いたもんだ。
原文: 清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
原文: 「無論悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」
「無論悪いことをしなければいいんですが、自分だけ悪いことをしなくっても、人の悪いのが分からなくっちゃ、やっぱりひどい目に遭うでしょう。世の中には磊落なように見えても、あっさりしているように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断のできないのがありますから……。だいぶ寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」
原文: と大きな声を出して野だを呼んだ。
と大きな声を出して野だを呼んだ。
原文: なあるほどこりゃ奇絶ですね。
なあるほどこりゃ奇絶ですね。
原文: 時間があると写生するんだが、惜しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
時間があると写生するんだが、惜しいですね、このままにしておくのはと野だは大いに口をたたく。
原文: 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなった。
港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざぐりと、舳先を突っ込んで動かなくなった。
原文: お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶する。
お早うお帰りと、かみさんが浜に立って赤シャツに挨拶する。
原文: おれは船端から、やっと掛声をして磯へ飛び下りた。
おれは船端から、やっと掛け声をして磯へ飛び下りた。
原文: 六
六
原文: 野だは大嫌いだ。
野だは大嫌いだ。
原文: こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。
こんなやつは沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。
原文: 赤シャツは声が気に食わない。
赤シャツは声が気に食わない。
原文: あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。
あれは持ち前の声をわざと気取って、あんな優しいように見せてるんだろう。
原文: いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。
いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。
原文: 惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。
惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。
原文: しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云う。
しかし教頭だけに野だよりむずかしいことを言う。
原文: うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。
うちへ帰って、あいつの言い分を考えてみると一応もっともなようでもある。
原文: はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。
はっきりしたことは言わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐がよくないやつだから用心しろと言うのらしい。
原文: それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。
それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。
原文: そうして、そんな悪るい教師なら、早く免職さしたらよかろう。
そうして、そんな悪い教師なら、早く免職させたらよかろう。
原文: 教頭なんて文学士の癖に意気地のないもんだ。
教頭なんて文学士のくせに意気地のないもんだ。
原文: 蔭口をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極まってる。
陰口をきくのでさえ、公然と名前が言えないくらいな男だから、弱虫に決まってる。
原文: 弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。
弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切者なんだろう。
原文: 親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。
親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。
原文: それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。
それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かないやつが親切で、気の合った友達が悪者だなんて、人を馬鹿にしている。
原文: 大方田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。
大方田舎だから万事東京の逆に行くんだろう。
原文: 物騒な所だ。
物騒な所だ。
原文: 今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。
今に火事が凍って、石が豆腐になるかも知れない。
原文: しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。
しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。
原文: 一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻りくどい事をしないでも、じかにおれを捕まえて喧嘩を吹き懸けりゃ手数が省ける訳だ。
一番人望のある教師だと言うから、やろうと思ったら大抵のことはできるかも知れないが、――第一そんな回りくどいことをしないでも、じかにおれをつかまえて喧嘩を吹きかけりゃ手数が省けるわけだ。
原文: おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。
おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと言や、よさそうなもんだ。
原文: 物は相談ずくでどうでもなる。
物は相談ずくでどうでもなる。
原文: 向うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
向こうの言い分がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
原文: ここばかり米が出来る訳でもあるまい。
ここばかり米ができるわけでもあるまい。
原文: どこの果へ行ったって、のたれ死はしないつもりだ。
どこの果てへ行ったって、のたれ死にはしないつもりだ。
原文: 山嵐もよっぽど話せない奴だな。
山嵐もよっぽど話せないやつだな。
原文: ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。
ここへ来たとき第一番に氷水をおごったのは山嵐だ。
原文: そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。
そんな裏表のあるやつから、氷水でもおごってもらっちゃ、おれの顔にかかわる。
原文: おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。
おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わせちゃない。
原文: しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。
しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。
原文: あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
原文: おれは清から三円借りている。
おれは清から三円借りている。
原文: その三円は五年経った今日までまだ返さない。
その三円は五年経った今日までまだ返さない。
原文: 返せないんじゃない。
返せないんじゃない。
原文: 返さないんだ。
返さないんだ。
原文: 清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。
清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐をあてにしてはいない。
原文: おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。
おれも今に返そうなどと、他人がましい義理立てはしないつもりだ。
原文: こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。
こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑うようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じことになる。
原文: 返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。
返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片割れと思うからだ。
原文: 清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとえ氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵みを受けて黙っているのは、向こうをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
原文: 割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
割り前を出せばそれだけのことで済むところを、心のうちでありがたいと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
原文: 無位無冠でも一人前の独立した人間だ。
無位無冠でも一人前の独立した人間だ。
原文: 独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊いお礼と思わなければならない。
原文: おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊い返礼をした気でいる。
原文: 山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。
山嵐はありがたいと思ってしかるべきだ。
原文: それに裏へ廻って卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。
それに裏へ回って卑劣な振る舞いをするとは、けしからん野郎だ。
原文: あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。
あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。
原文: そうしておいて喧嘩をしてやろう。
そうしておいて喧嘩をしてやろう。
原文: おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。
おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。
原文: あくる日は思う仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。
あくる日は思う仔細があるから、いつもの時刻より早めに出校して山嵐を待ち受けた。
原文: ところがなかなか出て来ない。
ところがなかなか出て来ない。
原文: うらなりが出て来る。
うらなりが出て来る。
原文: 漢学の先生が出て来る。
漢学の先生が出て来る。
原文: 野だが出て来る。
野だが出て来る。
原文: しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本竪に寝ているだけで閑静なものだ。
しまいには赤シャツまで出て来たが、山嵐の机の上は白墨が一本縦に寝ているだけで閑静なものだ。
原文: おれは、控所へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握って来た。
おれは、控所へ入るや否や返そうと思って、うちを出るときから、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握って来た。
原文: おれは膏っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいている。
おれは脂っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいている。
原文: 汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。
汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか言うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。
原文: ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。
ところへ赤シャツが来て、昨日は失敬、迷惑でしたろうと言ったから、迷惑じゃありません、おかげで腹が減りましたと答えた。
原文: すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。
すると赤シャツは山嵐の机の上へ肘を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君、昨日返りがけに船の中で話したことは、秘密にしてくれたまえ。
原文: まだ誰にも話しやしますまいねと云った。
まだ誰にも話しやしますまいねと言った。
原文: 女のような声を出すだけに心配性な男と見える。
女のような声を出すだけに心配性な男と見える。
原文: 話さない事はたしかである。
話さないことはたしかである。
原文: しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。
しかしこれから話そうという心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。
原文: 赤シャツも赤シャツだ。
赤シャツも赤シャツだ。
原文: 山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。
山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察のできる謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。
原文: 元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬を削ってる真中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。
元来ならおれが山嵐と戦争をはじめてしのぎを削ってる真ん中へ出て、堂々とおれの肩を持つべきだ。
原文: それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている趣旨も立つというもんだ。
原文: おれは教頭に向って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちゃ困る。
おれは教頭に向かって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと言ったら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法なことをしちゃ困る。
原文: 僕は堀田君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。
僕は堀田君のことについて、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。
原文: 君は学校に騒動を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問をするから、当り前です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。
君は学校に騒動を起こすつもりで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問をするから、当たり前です、月給をもらったり、騒動を起こしたりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと言った。
原文: すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。
すると赤シャツは、それじゃ昨日のことは君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。
原文: 君大丈夫かいと赤シャツは念を押した。
君、大丈夫かいと赤シャツは念を押した。
原文: どこまで女らしいんだか奥行がわからない。
どこまで女らしいんだか奥行きがわからない。
原文: 文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。
文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。
原文: 辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして恬然としている。
辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして平然としている。
原文: しかもこのおれを疑ぐってる。
しかもこのおれを疑ってる。
原文: 憚りながら男だ。
はばかりながら男だ。
原文: 受け合った事を裏へ廻って反古にするようなさもしい了見はもってるもんか。
受け合ったことを裏へ回って反故にするような、さもしい了見は持ってるもんか。
原文: ところへ両隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。
ところへ両隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。
原文: 赤シャツは歩るき方から気取ってる。
赤シャツは歩き方から気取ってる。
原文: 部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴の底をそっと落す。
部屋の中を行き来するのでも、音を立てないように靴の底をそっと落とす。
原文: 音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始めて知った。
音を立てないで歩くのが自慢になるもんだとは、このとき初めて知った。
原文: 泥棒の稽古じゃあるまいし、当り前にするがいい。
泥棒の稽古じゃあるまいし、当たり前にするがいい。
原文: やがて始業の喇叭がなった。
やがて始業のラッパが鳴った。
原文: 山嵐はとうとう出て来ない。
山嵐はとうとう出て来ない。
原文: 仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
原文: 授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。
授業の都合で一時間目は少し遅れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。
原文: 山嵐もいつの間にか来ている。
山嵐もいつの間にか来ている。
原文: 欠勤だと思ったら遅刻したんだ。
欠勤だと思ったら遅刻したんだ。
原文: おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。
おれの顔を見るや否や、今日は君のおかげで遅刻したんだ。
原文: 罰金を出したまえと云った。
罰金を出したまえと言った。
原文: おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。
おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。
原文: 先達て通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目でいるので、つまらない冗談をするなと銭をおれの机の上に掃き返した。
先だって通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を言ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目でいるので、つまらない冗談をするなと銭をおれの机の上に掃き返した。
原文: おや山嵐の癖にどこまでも奢る気だな。
おや山嵐のくせにどこまでもおごる気だな。
原文: 「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水をおごられる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
原文: 「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
原文: 「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。おごられるのが、いやだから返すんだ」
原文: 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。
山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと言った。
原文: 赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。
赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。
原文: 人がこんなに真赤になってるのにふんという理窟があるものか。
人がこんなに真っ赤になってるのにふんという理屈があるものか。
原文: 「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
原文: 「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
原文: 「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと言うから、そのわけを聞いたら亭主の言うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
原文: おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
おれには山嵐の言うことが何の意味だか分からない。
原文: 「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで決めたって仕様があるか。わけがあるなら、わけを話すが順だ。てんから亭主の言う方がもっともだなんて失敬千万なことを言うな」
原文: 「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
「うん、そんなら言ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余されているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
原文: 「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
原文: 「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物を一幅売りゃ、すぐ浮いてくるって云ってたぜ」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向こうじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は掛け物を一幅売りゃ、すぐ浮いてくるって言ってたぜ」
原文: 「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「利いた風なことをぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
原文: 「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと言うんだろう。君出てやれ」
原文: 「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸りを云うような所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「当たり前だ。居てくれと手を合わせたって、居るものか。一体そんな言いがかりを言うような所へ周旋する君からしてがふとどきだ」
原文: 「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どっちかだろう」
「おれがふとどきか、君が大人しくないんだか、どっちかだろう」
原文: 山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌いな大きな声を出す。
山嵐もおれに劣らぬ癇癪持ちだから、負け嫌いな大きな声を出す。
原文: 控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりしている。
控所にいた連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顎を長くしてぼんやりしている。
原文: おれは、別に恥ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやった。
おれは、別に恥ずかしいことをした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見回してやった。
原文: みんなが驚ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。
みんなが驚いてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。
原文: おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然真面目な顔をして、大いにつつしんだ。
おれの大きな目が、貴様も喧嘩をするつもりかという権幕で、野だのかんぴょうづらを射貫いたときに、野だは突然真面目な顔をして、大いにつつしんだ。
原文: 少し怖わかったと見える。
少し怖かったと見える。
原文: そのうち喇叭が鳴る。
そのうちラッパが鳴る。
原文: 山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
原文: 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。
午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。
原文: 会議というものは生れて始めてだからとんと容子が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏めるのだろう。
会議というものは生まれて初めてだから、とんと様子が分からないが、職員が寄ってたかって自分勝手な説を立てて、それを校長がいい加減にまとめるのだろう。
原文: 纏めるというのは黒白の決しかねる事柄について云うべき言葉だ。
まとめるというのは、白黒の決しかねる事柄について言うべき言葉だ。
原文: この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰しだ。
この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇つぶしだ。
原文: 誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。
誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。
原文: こんな明白なのは即座に校長が処分してしまえばいいに。
こんな明白なのは即座に校長が処分してしまえばいいのに。
原文: 随分決断のない事だ。
ずいぶん決断のないことだ。
原文: 校長ってものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚図の異名だ。
校長ってものが、これならば、何のことはない、煮え切らないぐずの異名だ。
原文: 会議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。
会議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代わりを勤める。
原文: 黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。
黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周りに並んで、ちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。
原文: そのテーブルの端に校長が坐って、校長の隣りに赤シャツが構える。
そのテーブルの端に校長が座って、校長の隣りに赤シャツが構える。
原文: あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。
あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつも末席に謙遜するという話だ。
原文: おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込んだ。
おれは様子が分からないから、博物の教師と漢学の教師の間へ入り込んだ。
原文: 向うを見ると山嵐と野だが並んでる。
向こうを見ると山嵐と野だが並んでる。
原文: 野だの顔はどう考えても劣等だ。
野だの顔はどう考えても劣等だ。
原文: 喧嘩はしても山嵐の方が遥かに趣がある。
喧嘩はしても山嵐の方がはるかに趣がある。
原文: おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかってた懸物はこの顔によく似ている。
おやじの葬式のときに、小日向の養源寺の座敷にかかってた掛け物はこの顔によく似ている。
原文: 坊主に聞いてみたら韋駄天と云う怪物だそうだ。
坊主に聞いてみたら韋駄天という怪物だそうだ。
原文: 今日は怒ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。
今日は怒ってるから、目をぐるぐる回しちゃ、時々おれの方を見る。
原文: そんな事で威嚇かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。
そんなことで脅かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり目をぐりつかせて、山嵐をにらんでやった。
原文: おれの眼は恰好はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。
おれの目は格好はよくないが、大きいことにおいては大抵な人には負けない。
原文: あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
あなたは目が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく言ったくらいだ。
原文: もう大抵お揃いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定してみる。
もう大抵お揃いでしょうかと校長が言うと、書記の川村というのが一つ二つと頭数を勘定してみる。
原文: 一人足りない。
一人足りない。
原文: 一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。
一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。
原文: 唐茄子のうらなり君が来ていない。
唐茄子のうらなり君が来ていない。
原文: おれとうらなり君とはどう云う宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。
おれとうらなり君とは、どういう前世の因縁か知らないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。
原文: 控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮ぶ。
控所へくれば、すぐ、うらなり君が目に付く、道を歩いていても、うらなり先生の様子が心に浮かぶ。
原文: 温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をして湯壺のなかに膨れている。
温泉へ行くと、うらなり君が時々青い顔をして湯壺のなかにふくれている。
原文: 挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。
挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。
原文: 学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。
学校へ出て、うらなり君ほど大人しい人はいない。
原文: めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。
めったに笑ったこともないが、余計な口をきいたこともない。
原文: おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に会ってから初めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
原文: このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。
このくらい関係の深い人のことだから、会議室へ入るや否や、うらなり君のいないのは、すぐ気がついた。
原文: 実を云うと、この男の次へでも坐わろうかと、ひそかに目標にして来たくらいだ。
実を言うと、この男の次へでも座ろうかと、ひそかに目印にして来たくらいだ。
原文: 校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のような者を読んでいる。
校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫の袱紗包みをほどいて、こんにゃく版のようなものを読んでいる。
原文: 赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。
赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。
原文: この男はこれが道楽である。
この男はこれが道楽である。
原文: 赤シャツ相当のところだろう。
赤シャツ相当のところだろう。
原文: ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合っている。
ほかの連中は隣り同士で何だかささやき合っている。
原文: 手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いている、護謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。
手持ち無沙汰なのは鉛筆の尻に着いているゴムの頭で、テーブルの上へしきりに何か書いている。
原文: 野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。
野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。
原文: ただうんとかああと云うばかりで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。
ただうんとか、ああと言うばかりで、時々怖い目をして、おれの方を見る。
原文: おれも負けずに睨め返す。
おれも負けずににらみ返す。
原文: ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻致しましたと慇懃に狸に挨拶をした。
ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうに入って来て、少々用事がありまして、遅刻いたしましたと恭しく狸に挨拶をした。
原文: では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。
では会議を開きますと狸は、まず書記の川村君にこんにゃく版を配布させる。
原文: 見ると最初が処分の件、次が生徒取締の件、その他二三ヶ条である。
見ると最初が処分の件、次が生徒取締りの件、そのほか二三ヶ条である。
原文: 狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊という見えでこんな意味の事を述べた。
狸は例の通りもったいぶって、教育の生き霊という見えでこんな意味のことを述べた。
原文: 「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の徳の足りないところから来るもので、何か事件があるたびに、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに恥じ入る思いに堪えないが、不幸にして今回もまたこういう騒動を引き起こしたのは、深く諸君に向かって謝罪しなければならん。しかしひとたび起こった以上は仕方がない、どうにか処分をしなければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のないことを参考のためにお述べ下さい」
原文: おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのというものは、えらいことを言うもんだと感心した。
原文: こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。
こう校長が何もかも責任を受けて、自分のとがだとか、不徳だとか言うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。
原文: そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。
そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなるわけだ。
原文: 第一常識から云っても分ってる。
第一常識から言っても分かってる。
原文: おれが大人しく宿直をする。
おれが大人しく宿直をする。
原文: 生徒が乱暴をする。
生徒が乱暴をする。
原文: わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極ってる。
悪いのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに決まってる。
原文: もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。
もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。
原文: 人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。
人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかすやつが、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃできる芸当じゃない。
原文: 彼はこんな条理に適わない議論を吐いて、得意気に一同を見廻した。
彼はこんな筋の通らない議論を吐いて、得意気に一同を見回した。
原文: ところが誰も口を開くものがない。
ところが誰も口を開くものがない。
原文: 博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまってるのを眺めている。
博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまってるのを眺めている。
原文: 漢学の先生は蒟蒻版を畳んだり、延ばしたりしてる。
漢学の先生はこんにゃく版をたたんだり、伸ばしたりしてる。
原文: 山嵐はまだおれの顔をにらめている。
山嵐はまだおれの顔をにらんでいる。
原文: 会議と云うものが、こんな馬鹿気たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
会議というものが、こんな馬鹿げたものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
原文: おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。
おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か言い出したから、やめにした。
原文: 見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。
見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンケチで顔を拭きながら、何か言っている。
原文: あの手巾はきっとマドンナから巻き上げたに相違ない。
あのハンケチはきっとマドンナから巻き上げたに違いない。
原文: 男は白い麻を使うもんだ。
男は白い麻を使うもんだ。
原文: 「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚ずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく寛大なお取計を願いたいと思います」
「私も寄宿生の乱暴を聞いて、はなはだ教頭として行き届かず、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く恥じるのであります。でこういうことは、何か欠けたところがあると起こるもので、事件そのものを見ると何だか生徒だけが悪いようであるが、その真相を突き止めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんないたずらをやることはないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにあることだから、私の口出しする限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく寛大なお取り計らいを願いたいと思います」
原文: なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。
なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。
原文: 生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。
生徒が暴れるのは、生徒が悪いんじゃない、教師が悪いんだと公言している。
原文: 気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
気の変な人が人の頭を殴りつけるのは、殴られた人が悪いから、気の変な人が殴るんだそうだ。
原文: 難有い仕合せだ。
ありがたい仕合せだ。
原文: 活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。
活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。
原文: この様子じゃ寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
この様子じゃ寝首をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
原文: おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞ってしまう。
おれはこう考えて何か言おうかなと考えてみたが、言うなら人を驚かすように滔々と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き詰まってしまう。
原文: 狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌って揚足を取られちゃ面白くない。
狸でも赤シャツでも人物から言うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずいことをしゃべって揚げ足を取られちゃ面白くない。
原文: ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。
ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。
原文: すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。
すると前にいた野だが突然起立したには驚いた。
原文: 野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。
野だのくせに意見を述べるなんて生意気だ。
原文: 野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います」
野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件およびときの声事件は、我々心ある職員をして、ひそかに我が校将来の前途に危惧の念を抱かせるに足る珍事でありまして、我々職員たるものはこの際奮って自ら省みて、全校の風紀を引き締めなければなりません。それでただ今校長および教頭のお述べになったお説は、実に急所を突いた適切なお考えで、私は徹頭徹尾賛成いたします。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います」
原文: と云った。
と言った。
原文: 野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。
野だの言うことは言葉はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するだけでわけが分からない。
原文: 分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
分かったのは徹頭徹尾賛成いたしますという言葉だけだ。
原文: おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起ち上がってしまった。
おれは野だの言う意味は分からないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案もできないうちに立ち上がってしまった。
原文: 「私は徹頭徹尾反対です……」
「私は徹頭徹尾反対です……」
原文: と云ったがあとが急に出て来ない。
と言ったがあとが急に出て来ない。
原文: 「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」
「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」
原文: とつけたら、職員が一同笑い出した。
とつけたら、職員が一同笑い出した。
原文: 「一体生徒が全然悪るいです。どうしても詫まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」
「一体生徒が全然悪いです。どうしてもあやまらせなくっちゃ、癖になります。退校させても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」
原文: と云って着席した。
と言って着席した。
原文: すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」
すると右隣りにいる博物が「生徒が悪いことも、悪いが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起こしていけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛大な方に賛成します」
原文: と弱い事を云った。
と弱いことを言った。
原文: 左隣の漢学は穏便説に賛成と云った。
左隣の漢学は穏便説に賛成と言った。
原文: 歴史も教頭と同説だと云った。
歴史も教頭と同説だと言った。
原文: 忌々しい、大抵のものは赤シャツ党だ。
いまいましい、大抵のものは赤シャツ党だ。
原文: こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。
こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。
原文: おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟でいた。
おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに決めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟でいた。
原文: どうせ、こんな手合を弁口で屈伏させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。
どうせ、こんな手合いを弁舌で屈伏させる手際はなし、させたところでいつまでもご交際を願うのは、こっちでご免だ。
原文: 学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。
学校にいないとすればどうなったって構うもんか。
原文: また何か云うと笑うに違いない。
また何か言うと笑うに違いない。
原文: だれが云うもんかと澄していた。
誰が言うもんかと澄ましていた。
原文: すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。
すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、立ち上がった。
原文: 野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子窓を振わせるような声で「私は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした所為とより外には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛仮しては学校の威信に関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を掃蕩するにあると思います。もし反動が恐しいの、騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日にはこの弊風はいつ矯正出来るか知れません。かかる弊風を杜絶するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に、当該教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」
野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると、山嵐はガラス窓を震わせるような声で「私は教頭およびその他諸君のお説には全然不同意であります。というのはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新任の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした仕業としかほかには認められんのであります。教頭はその原因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが、失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着任早々のことで、まだ生徒に接せられてから二十日に満たない頃であります。この短い二十日間において、生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されるべき正当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが、何らの原因もないのに新任の先生を愚弄するような軽薄な生徒を大目に見ては学校の威信に関わることと思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元気を吹き込むと同時に、下品な、軽はずみな、横暴な悪風を一掃するにあると思います。もし反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと、その場しのぎのことを言った日には、この悪弊はいつ正せるか知れません。こういう悪弊を絶やすためにこそ我々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃がすくらいなら始めから教師にならない方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に、当該教師の面前において公けに謝罪の意を表させるのを至当な処置と心得ます」
原文: と云いながら、どんと腰を卸した。
と言いながら、どんと腰を下ろした。
原文: 一同はだまって何にも言わない。
一同はだまって何にも言わない。
原文: 赤シャツはまたパイプを拭き始めた。
赤シャツはまたパイプを拭き始めた。
原文: おれは何だか非常に嬉しかった。
おれは何だか非常に嬉しかった。
原文: おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。
おれの言おうと思うところを、おれの代わりに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。
原文: おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有いと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面をしている。
おれはこういう単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いにありがたいという顔をして、腰を下ろした山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん顔をしている。
原文: しばらくして山嵐はまた起立した。
しばらくして山嵐はまた起立した。
原文: 「ただ今ちょっと失念して言い落しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎める者のないのを幸に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
「ただ今ちょっと失念して言い落としましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中に外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもってのほかのことと考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、とがめる者のないのを幸いに、場所もあろうに温泉などへ入りに行くなどというのは大きな失態である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらんことを希望します」
原文: 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。
妙なやつだ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。
原文: おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。
おれは何の気もなく、前の宿直が出歩いたことを知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう言われてみると、これはおれが悪かった。
原文: 攻撃されても仕方がない。
攻撃されても仕方がない。
原文: そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」
そこでおれはまた立って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全く悪い。あやまります」
原文: と云って着席したら、一同がまた笑い出した。
と言って着席したら、一同がまた笑い出した。
原文: おれが何か云いさえすれば笑う。
おれが何か言いさえすれば笑う。
原文: つまらん奴等だ。
つまらんやつらだ。
原文: 貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
貴様らこれほど自分の悪いことを公けに悪かったと断言できるか、できないから笑うんだろう。
原文: それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。
それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと言った。
原文: ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。
ついでだからその結果を言うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。
原文: 謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。
謝罪をしなければそのとき辞職して帰るところだったが、なまじいおれの言う通りになったので、とうとう大変なことになってしまった。
原文: それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。
それはあとから話すが、校長はこのとき会議の引き続きだと号してこんなことを言った。
原文: 生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入しない事にしたい。
生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その第一歩として、教師はなるべく飲食店などに出入りしないことにしたい。
原文: もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――と云いかけたらまた一同が笑った。
もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――と言いかけたら、また一同が笑った。
原文: 野だが山嵐を見て天麩羅と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。
野だが山嵐を見て天麩羅と言って目くばせをしたが、山嵐は取り合わなかった。
原文: いい気味だ。
いい気味だ。
原文: おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒にゃ到底出来っ子ないと思った。
おれは脳が悪いから、狸の言うことなんか、よく分からないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食いしん坊にはとてもできっこないと思った。
原文: それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがいい。
それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがいい。
原文: だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。
だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお触れを出すのは、おれのようにほかに道楽のないものにとっては大変な打撃だ。
原文: すると赤シャツがまた口を出した。
すると赤シャツがまた口を出した。
原文: 「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底暮せるものではない。それで釣に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方にふけると、つい品性に悪い影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地ではとても暮らせるものではない。それで釣りに行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
原文: だまって聞いてると勝手な熱を吹く。
だまって聞いてると勝手な熱を吹く。
原文: 沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキが露西亜の文学者だったり、馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神的娯楽だ。
沖へ行って肥やしを釣ったり、ゴルキがロシアの文学者だったり、馴染みの芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神的娯楽だ。
原文: そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。
そんなくだらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。
原文: あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」
あんまり腹が立ったから「マドンナに会うのも精神的娯楽ですか」
原文: と聞いてやった。
と聞いてやった。
原文: すると今度は誰も笑わない。
すると今度は誰も笑わない。
原文: 妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。
妙な顔をして互いに目と目を見合わせている。
原文: 赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。
赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。
原文: それ見ろ。
それ見ろ。
原文: 利いたろう。
利いたろう。
原文: ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。
ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう言ったら青い顔をますます青くした。
原文: 七
七
原文: おれは即夜下宿を引き払った。
おれはその晩のうちに下宿を引き払った。
原文: 宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云っておくれたら改めますと云う。
宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つことがあるなら、言っておくれたら改めますと言う。
原文: どうも驚ろく。
どうも驚く。
原文: 世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃ってるんだろう。
世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃ってるんだろう。
原文: 出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか分りゃしない。
出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか分かりゃしない。
原文: まるで気狂だ。
まるで気の変な人だ。
原文: こんな者を相手に喧嘩をしたって江戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
こんな者を相手に喧嘩をしたって江戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
原文: 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。
出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。
原文: 車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまって尾いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。
車屋が、どちらへ参りますと言うから、だまってついて来い、今にわかる、と言って、すたすたやって来た。
原文: 面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。
面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手間だ。
原文: こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。
こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のある家を見付け出すだろう。
原文: そうしたら、そこが天意に叶ったわが宿と云う事にしよう。
そうしたら、そこが天意にかなったわが宿ということにしよう。
原文: とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまった。
とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所を歩いているうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまった。
原文: ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もっと賑やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。
ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もっと賑やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといいことを考え付いた。
原文: おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。
おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。
原文: うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違ない。
うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を構えているくらいだから、この辺の事情には通じているに違いない。
原文: あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。
あの人を訪ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。
原文: 幸一度挨拶に来て勝手は知ってるから、捜がしてあるく面倒はない。
幸い一度挨拶に来て勝手は知ってるから、捜して歩く面倒はない。
原文: ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご免ご免と二返ばかり云うと、奥から五十ぐらいな年寄が古風な紙燭をつけて、出て来た。
ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご免ご免と二度ばかり言うと、奥から五十ぐらいの年寄りが古風な紙燭をつけて、出て来た。
原文: おれは若い女も嫌いではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。
おれは若い女も嫌いではないが、年寄りを見ると何だかなつかしい心持ちがする。
原文: 大方清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乗り移るんだろう。
大方清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乗り移るんだろう。
原文: これは大方うらなり君のおっ母さんだろう。
これは大方うらなり君のおっ母さんだろう。
原文: 切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。
切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。
原文: まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。
まあお上がりと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して、実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。
原文: うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野と云って老人夫婦ぎりで暮らしているものがある、いつぞや座敷を明けておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋してくれと頼んだ事がある。
うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野と言って老人夫婦だけで暮らしている家がある、いつだったか座敷を空けておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから世話をしてくれと頼んだことがある。
原文: 今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
今でも貸すかどうか分からんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
原文: その夜から萩野の家の下宿人となった。
その夜から萩野の家の下宿人となった。
原文: 驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領した事だ。
驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領したことだ。
原文: さすがのおれもこれにはあきれた。
さすがのおれもこれにはあきれた。
原文: 世の中はいかさま師ばかりで、お互に乗せっこをしているのかも知れない。
世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかも知れない。
原文: いやになった。
いやになった。
原文: 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並にしなくちゃ、遣りきれない訳になる。
世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やりきれないことになる。
原文: 巾着切の上前をはねなければ三度のご膳が戴けないと、事が極まればこうして、生きてるのも考え物だ。
巾着切りの上前をはねなければ三度のご膳がいただけないと、事が決まればこうして、生きてるのも考え物だ。
原文: と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。
と言ってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。
原文: 考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。
考えると物理学校などへ入って、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。
原文: そうすれば清もおれの傍を離れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮される。
そうすれば清もおれの傍を離れずに済むし、おれも遠くから婆さんのことを心配せずに暮らせる。
原文: いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ。
いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ。
原文: あんな気立のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。
あんな気立てのいい女は日本中さがして歩いたってめったにはいない。
原文: 婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いていたが今頃はどうしてるか知らん。
婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いていたが今頃はどうしているだろう。
原文: 先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。
先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。
原文: それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんなことばかり考えて二三日暮していた。
原文: 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。
気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。
原文: ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方共上品だ。
ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方とも上品だ。
原文: 爺さんが夜るになると、変な声を出して謡をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗に出て来ないから大きに楽だ。
爺さんが夜になると、変な声を出して謡をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうとむやみに出て来ないから大いに楽だ。
原文: お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。
お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。
原文: どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。
どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。
原文: 奥さんがあるように見えますかね。
奥さんがあるように見えますかね。
原文: 可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁を試みたには恐れ入った。
可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと言ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと前置きを置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて言い返してきたには恐れ入った。
原文: それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
原文: 「本当の本当のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「本当の本当のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
原文: 「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」
原文: この挨拶には痛み入って返事が出来なかった。
この挨拶には痛み入って返事ができなかった。
原文: 「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどるぞなもし」
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどるぞなもし」
原文: 「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
原文: 「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし」
原文: 「こいつあ驚いた。大変な活眼だ」
「こいつあ驚いた。大変な活眼だ」
原文: 「中りましたろうがな、もし」
「中りましたろうがな、もし」
原文: 「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
原文: 「しかし今時の女子は、昔と違うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「しかし今時の女子は、昔と違うて油断ができんけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
原文: 「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
原文: 「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
原文: 「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
原文: 「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
原文: 「どこに不たしかなのが居ますかね」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
原文: 「ここ等にも大分居ります。先生、あの遠山のお嬢さんをご存知かなもし」
「ここらにも大分居ります。先生、あの遠山のお嬢さんをご存知かなもし」
原文: 「いいえ、知りませんね」
「いいえ、知りませんね」
原文: 「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
原文: 「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
原文: 「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「いいえ、あなた。マドンナと言うと唐人の言葉で、別嬪さんのことじゃろうがなもし」
原文: 「そうかも知れないね。驚いた」
「そうかも知れないね。驚いた」
原文: 「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
原文: 「野だがつけたんですかい」
「野だがつけたんですかい」
原文: 「いいえ、あの吉川先生がお付けたのじゃがなもし」
「いいえ、あの吉川先生がお付けたのじゃがなもし」
原文: 「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
原文: 「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
原文: 「厄介だね。渾名の付いてる女にゃ昔から碌なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「厄介だね。あだ名の付いてる女にゃ昔からろくなものはいませんからね。そうかも知れませんよ」
原文: 「ほん当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、妲妃のお百じゃのてて怖い女が居りましたなもし」
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、妲妃のお百じゃのてて怖い女が居りましたなもし」
原文: 「マドンナもその同類なんですかね」
「マドンナもその同類なんですかね」
原文: 「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁に行く約束が出来ていたのじゃがなもし――」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁に行く約束ができていたのじゃがなもし――」
原文: 「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男とは思わなかった。人は見懸けによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男とは思わなかった。人は見掛けによらないものだな。ちっと気を付けよう」
原文: 「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出るし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びているところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出るし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びているところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
原文: 「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
原文: 「人を頼んで懸合うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出たけれ、その方に替えよてて、それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」
「人を頼んで懸合うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事はできかねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪るく言いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出たけれ、その方に替えよてて、それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」
原文: 「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
原文: 「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいという評判ぞなもし」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まんこともなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいという評判ぞなもし」
原文: 「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまった」
「よくいろいろなことを知ってますね。どうして、そんな詳しいことが分かるんですか。感心しちまった」
原文: 「狭いけれ何でも分りますぞなもし」
「狭いけれ何でも分かりますぞなもし」
原文: 分り過ぎて困るくらいだ。
分かり過ぎて困るくらいだ。
原文: この容子じゃおれの天麩羅や団子の事も知ってるかも知れない。
この様子じゃおれの天麩羅や団子のことも知ってるかも知れない。
原文: 厄介な所だ。
厄介な所だ。
原文: しかしお蔭様でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。
しかしおかげさまでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。
原文: ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。
ただ困るのはどっちが悪者だかはっきりしないことだ。
原文: おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分からない。
原文: 「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
原文: 「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐て何ぞなもし」
原文: 「山嵐というのは堀田の事ですよ」
「山嵐というのは堀田のことですよ」
原文: 「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「そりゃ強いことは堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しいことも赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
原文: 「つまりどっちがいいんですかね」
「つまりどっちがいいんですかね」
原文: 「つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし」
「つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし」
原文: これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
原文: それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。
それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。
原文: やっと参りました。
やっと参りました。
原文: と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。
と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と言って出て行った。
原文: 取り上げてみると清からの便りだ。
取り上げてみると清からの便りだ。
原文: 符箋が二三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻して、いか銀から、萩野へ廻って来たのである。
付箋が二三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ回して、いか銀から、萩野へ回って来たのである。
原文: その上山城屋では一週間ばかり逗留している。
その上山城屋では一週間ばかり逗留している。
原文: 宿屋だけに手紙まで泊るつもりなんだろう。
宿屋だけに手紙まで泊めるつもりなんだろう。
原文: 開いてみると、非常に長いもんだ。
開いてみると、非常に長いもんだ。
原文: 坊っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝ていたものだから、つい遅くなって済まない。
坊っちゃんの手紙をいただいてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝ていたものだから、つい遅くなって済まない。
原文: その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。
その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。
原文: 甥に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下たがきを一返して、それから清書をした。
甥に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下書きを一度して、それから清書をした。
原文: 清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。
清書をするには二日で済んだが、下書きをするには四日かかった。
原文: 読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。
読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。
原文: という冒頭で四尺ばかり何やらかやら認めてある。
という書き出しで四尺ばかり何やらかやら書きつけてある。
原文: なるほど読みにくい。
なるほど読みにくい。
原文: 字がまずいばかりではない、大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのによっぽど骨が折れる。
字がまずいばかりではない、たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読点をつけるのによっぽど骨が折れる。
原文: おれは焦っ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目になって、始から終まで読み通した。
おれはせっかちな性分だから、こんな長くて、分かりにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、このときばかりは真面目になって、始めから終わりまで読み通した。
原文: 読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。
読み通したことは事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。
原文: 部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながら鄭寧に拝見した。
部屋のなかは少し暗くなって、前のときより見にくくなったから、とうとう縁鼻へ出て腰をかけながらていねいに拝見した。
原文: すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向うの生垣まで飛んで行きそうだ。
すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向こうの生垣まで飛んで行きそうだ。
原文: おれはそんな事には構っていられない。
おれはそんなことには構っていられない。
原文: 坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪が強過ぎてそれが心配になる。――
坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただかんしゃくが強過ぎてそれが心配になる。――
原文: ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――
ほかの人にむやみにあだ名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――
原文: 田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしろ。――
田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしろ。――
原文: 気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷をして風邪を引いてはいけない。
気候だって東京より不順に決まってるから、寝冷えをして風邪を引いてはいけない。
原文: 坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――
坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、様子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――
原文: 宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時に差支えないようにしなくっちゃいけない。――
宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼りになるのはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一のときに差し支えないようにしなくっちゃいけない。――
原文: お小遣がなくて困るかも知れないから、為替で十円あげる。――
お小遣いがなくて困るかも知れないから、為替で十円あげる。――
原文: 先だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――
先だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、家を持つときの足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――
原文: なるほど女と云うものは細かいものだ。
なるほど女というものは細かいものだ。
原文: おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりの襖をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。
おれが縁鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりの襖をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。
原文: まだ見てお出でるのかなもし。
まだ見ておいでるのかなもし。
原文: えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。
えっぽど長いお手紙じゃなもし、と言ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。
原文: 見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。
見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。
原文: ここのうちは、いか銀よりも鄭寧で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食い物がまずい。
ここの家は、いか銀よりもていねいで、親切で、しかも上品だが、惜しいことに食い物がまずい。
原文: 昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。
昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。
原文: おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。
おれは芋は大好きだと明言したには違いないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。
原文: うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。
うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。
原文: 清ならこんな時に、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ焼を食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊と来ちゃ仕方がない。
清ならこんなときに、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ焼を食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊と来ちゃ仕方がない。
原文: どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目だ。
どう考えても清といっしょでなくっちゃ駄目だ。
原文: もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から召び寄せてやろう。
もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から呼び寄せてやろう。
原文: 天麩羅蕎麦を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
天麩羅蕎麦を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
原文: 禅宗坊主だって、これよりは口に栄耀をさせているだろう。――
禅宗坊主だって、これよりは口にぜいたくをさせているだろう。――
原文: おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやく凌いだ。
おれは一皿の芋を平らげて、机の引き出しから生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやくしのいだ。
原文: 生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
生卵ででも栄養をとらなくっちゃ一週二十一時間の授業ができるものか。
原文: 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。
今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。
原文: しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。
しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。
原文: 汽車にでも乗って出懸けようと、例の赤手拭をぶら下げて停車場まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。
汽車にでも乗って出かけようと、例の赤手拭をぶら下げて停車場まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならない。
原文: ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かしていると、偶然にもうらなり君がやって来た。
ベンチへ腰を掛けて、敷島を吹かしていると、偶然にもうらなり君がやって来た。
原文: おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。
おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。
原文: 平常から天地の間に居候をしているように、小さく構えているのがいかにも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。
ふだんから天地の間に居候をしているように、小さく構えているのがいかにも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。
原文: 出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った体裁で、いえ構うておくれなさるな、と遠慮だか何だかやっぱり立ってる。
できるならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚させて、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお掛けなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った様子で、いえ構うておくれなさるな、と遠慮だか何だかやっぱり立ってる。
原文: 少し待たなくっちゃ出ません、草臥れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。
少し待たなくっちゃ出ません、くたびれますからお掛けなさいとまた勧めてみた。
原文: 実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。
実はどうかして、そばへ掛けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。
原文: それではお邪魔を致しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。
それではお邪魔をいたしましょうとようやくおれの言うことを聞いてくれた。
原文: 世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。
世の中には野だみたいに生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。
原文: 山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本が困るだろうと云うような面を肩の上へ載せてる奴もいる。
山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本が困るだろうというような面を肩の上へ載せてる奴もいる。
原文: そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。
そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。
原文: 教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸もいる。
教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと言わんばかりの狸もいる。
原文: 皆々それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人しくしているのは見た事がない。
みなみなそれ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のようにおとなしくしているのは見たことがない。
原文: 顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。
顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよっぽど気の知れないおきゃんだ。
原文: 赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様が出来るもんか。
赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様ができるもんか。
原文: 「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」
原文: 「いえ、別段これという持病もないですが……」
「いえ、別段これという持病もないですが……」
原文: 「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
原文: 「あなたは大分ご丈夫のようですな」
「あなたは大分ご丈夫のようですな」
原文: 「ええ瘠せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
「ええ痩せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
原文: うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
原文: ところへ入口で若々しい女の笑声が聞えたから、何心なく振り返ってみるとえらい奴が来た。
ところへ入口で若々しい女の笑い声が聞こえたから、何心なく振り返ってみるとえらい奴が来た。
原文: 色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。
色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。
原文: おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。
おれは美人の形容などができる男でないから何にも言えないが全く美人に違いない。
原文: 何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。
何だか水晶の珠を香水で温めて、掌へ握ってみたような心持ちがした。
原文: 年寄の方が背は低い。
年寄りの方が背は低い。
原文: しかし顔はよく似ているから親子だろう。
しかし顔はよく似ているから親子だろう。
原文: おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。
おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君のことはすっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。
原文: すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。
すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。
原文: マドンナじゃないかと思った。
マドンナじゃないかと思った。
原文: 三人は切符所の前で軽く挨拶している。
三人は切符所の前で軽く挨拶している。
原文: 遠いから何を云ってるのか分らない。
遠いから何を言ってるのか分からない。
原文: 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。
停車場の時計を見るともう五分で発車だ。
原文: 早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳け込んで来たものがある。
早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ駆け込んで来たものがある。
原文: 見れば赤シャツだ。
見れば赤シャツだ。
原文: 何だかべらべら然たる着物へ縮緬の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしている。
何だかべらべら然たる着物へ縮緬の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしている。
原文: あの金鎖りは贋物である。
あの金鎖りは偽物である。
原文: 赤シャツは誰も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。
赤シャツは誰も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。
原文: 赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃にお辞儀をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。
赤シャツは駆け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前で話している三人へ恭しくお辞儀をして、何か二こと、三こと、言ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足であるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。
原文: あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍へ腰を卸した。
あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがってると言いながら、おれの傍へ腰を下ろした。
原文: 女の方はちっとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めている。
女の方はちっとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めている。
原文: 年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。
年寄りの婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。
原文: いよいよマドンナに違いない。
いよいよマドンナに違いない。
原文: やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。
やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。
原文: 待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乗り込む。
待ち合せた連中はぞろぞろ我れ勝ちに乗り込む。
原文: 赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。
赤シャツはいの一番に上等へ飛び込んだ。
原文: 上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。
上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。
原文: こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。
こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。
原文: もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。
もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入りでもすこぶる苦になると見えて、たいていは下等へ乗る。
原文: 赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。
赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。
原文: うらなり君は活版で押したように下等ばかりへ乗る男だ。
うらなり君は活版で押したように下等ばかりへ乗る男だ。
原文: 先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇の体であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。
先生、下等の車室の入口へ立って、何だかためらっている様子だったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。
原文: おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。
おれはこのとき何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。
原文: 上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
上等の切符で下等へ乗るのに不都合はなかろう。
原文: 温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。
温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に会った。
原文: おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉が塞がって饒舌れない男だが、平常は随分弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。
おれは会議や何かでいざと決まると、のどが塞がってしゃべれない男だが、ふだんは随分弁じる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。
原文: 何だか憐れぽくってたまらない。
何だか憐れっぽくってたまらない。
原文: こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。
こんなときに一口でも相手の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。
原文: ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。
ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。
原文: 何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙った。
何を言っても、えとかいえとかだけで、しかもそのえといえが大分面倒くさそうなので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免こうむった。
原文: 湯の中では赤シャツに逢わなかった。
湯の中では赤シャツに会わなかった。
原文: もっとも風呂の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。
もっとも風呂の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で会うとは決まっていない。
原文: 別段不思議にも思わなかった。
別段不思議にも思わなかった。
原文: 風呂を出てみるといい月だ。
風呂を出てみるといい月だ。
原文: 町内の両側に柳が植って、柳の枝が丸るい影を往来の中へ落している。
町内の両側に柳が植わって、柳の枝が丸い影を往来の中へ落としている。
原文: 少し散歩でもしよう。
少し散歩でもしよう。
原文: 北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼である。
北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼である。
原文: 山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。
山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。
原文: ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。
ちょっと入ってみたいが、また狸から会議のときにやられるかも知れないから、やめて素通りにした。
原文: 門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。
門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。
原文: 丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。
丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。
原文: 食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
原文: 食いたい団子の食えないのは情ない。
食いたい団子の食えないのは情ない。
原文: しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。
しかし自分のいいなずけが他人に心を移したのは、なお情ないだろう。
原文: うらなり君の事を思うと、団子は愚か、三日ぐらい断食しても不平はこぼせない訳だ。
うらなり君のことを思うと、団子は愚か、三日ぐらい断食しても不平はこぼせないわけだ。
原文: 本当に人間ほどあてにならないものはない。
本当に人間ほどあてにならないものはない。
原文: あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。
あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情なことをしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断ができない。
原文: 淡泊だと思った山嵐は生徒を煽動したと云うし。
淡泊だと思った山嵐は生徒を煽動したと言うし。
原文: 生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼るし。
生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に迫るし。
原文: 厭味で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。
厭味で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれによそながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナをごまかしたり、ごまかしたのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。
原文: いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替ったり――どう考えてもあてにならない。
いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替わったり――どう考えてもあてにならない。
原文: こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。
こんなことを清にかいてやったら定めて驚くことだろう。
原文: 箱根の向うだから化物が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
箱根の向うだから化物が寄り合ってるんだと言うかも知れない。
原文: おれは、性来構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒に思い出した。
おれは、生まれつき構わない性分だから、どんなことでも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月経つか、経たないうちに、急に世のなかを物騒に思い出した。
原文: 別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。
別段際だった大事件にも出会わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。
原文: 早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。
早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。
原文: などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡って野芹川の堤へ出た。
などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡って野芹川の堤へ出た。
原文: 川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村へ出る。
川と言うとえらそうだが実は一間ぐらいの、ちょろちょろした流れで、土手に沿って十二丁ほど下ると相生村へ出る。
原文: 村には観音様がある。
村には観音様がある。
原文: 温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。
温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。
原文: 太鼓が鳴るのは遊廓に相違ない。
太鼓が鳴るのは遊廓に違いない。
原文: 川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。
川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。
原文: ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影が見え出した。
ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影が見え出した。
原文: 月に透かしてみると影は二つある。
月に透かしてみると影は二つある。
原文: 温泉へ来て村へ帰る若い衆かも知れない。
温泉へ来て村へ帰る若い衆かも知れない。
原文: それにしては唄もうたわない。
それにしては唄もうたわない。
原文: 存外静かだ。
存外静かだ。
原文: だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。
だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。
原文: 一人は女らしい。
一人は女らしい。
原文: おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離に逼った時、男がたちまち振り向いた。
おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離に迫ったとき、男がたちまち振り向いた。
原文: 月は後からさしている。
月は後ろからさしている。
原文: その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。
そのときおれは男の様子を見て、はてなと思った。
原文: 男と女はまた元の通りにあるき出した。
男と女はまた元の通りにあるき出した。
原文: おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸けた。
おれは考えがあるから、急に全速力で追っかけた。
原文: 先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。
先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。
原文: 今は話し声も手に取るように聞える。
今は話し声も手に取るように聞こえる。
原文: 土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。
土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。
原文: おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖を擦り抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顔を覗き込んだ。
おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖をすり抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顔を覗き込んだ。
原文: 月は正面からおれの五分刈の頭から顋の辺りまで、会釈もなく照す。
月は正面からおれの五分刈りの頭から顋のあたりまで、会釈もなく照らす。
原文: 男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促がすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
男はあっと小声に言ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促すが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
原文: 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損なったのかしら。
赤シャツは図太くてごまかすつもりか、気が弱くて名乗り損なったのかしら。
原文: ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。
ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。
原文: 八
八
原文: 赤シャツに勧められて釣に行った帰りから、山嵐を疑ぐり出した。
赤シャツに勧められて釣りに行った帰りから、山嵐を疑い出した。
原文: 無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒な奴だと思った。
ないことを種に下宿を出ろと言われたときは、いよいよふとどきな奴だと思った。
原文: ところが会議の席では案に相違して滔々と生徒厳罰論を述べたから、おや変だなと首を捩った。
ところが会議の席では思いのほか滔々と生徒厳罰論を述べたから、おや変だなと首をひねった。
原文: 萩野の婆さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍った。
萩野の婆さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いたときは、それは感心だと手を打った。
原文: この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減な邪推を実しやかに、しかも遠廻しに、おれの頭の中へ浸み込ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者だと極めてしまった。
この様子では悪者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、いい加減な邪推をまことしやかに、しかも遠回しに、おれの頭の中へ染み込ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者だと決めてしまった。
原文: 曲者だか何だかよくは分らないが、ともかくも善い男じゃない。
曲者だか何だかよくは分からないが、ともかくもいい男じゃない。
原文: 表と裏とは違った男だ。
表と裏とは違った男だ。
原文: 人間は竹のように真直でなくっちゃ頼もしくない。
人間は竹のようにまっすぐでなくっちゃ頼もしくない。
原文: 真直なものは喧嘩をしても心持ちがいい。
まっすぐなものは喧嘩をしても心持ちがいい。
原文: 赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。
赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢そうに見せびらかすのは油断ができない、めったに喧嘩もできないと思った。
原文: 喧嘩をしても、回向院の相撲のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。
喧嘩をしても、回向院の相撲のような心持ちのいい喧嘩はできないと思った。
原文: そうなると一銭五厘の出入で控所全体を驚ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。
そうなると一銭五厘の出入りで控所全体を驚かした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。
原文: 会議の時に金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声よりはましだ。
会議のときに金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めたときは憎い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫で声よりはましだ。
原文: 実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎返事もしないで、まだ眼を剥ってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎返事もしないで、まだ眼をむいてみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
原文: それ以来山嵐はおれと口を利かない。
それ以来山嵐はおれと口を利かない。
原文: 机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。
机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。
原文: ほこりだらけになって乗っている。
ほこりだらけになって乗っている。
原文: おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。
おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。
原文: この一銭五厘が二人の間の墻壁になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑として黙ってる。
この一銭五厘が二人の間の壁になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑として黙ってる。
原文: おれと山嵐には一銭五厘が祟った。
おれと山嵐には一銭五厘が祟った。
原文: しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
原文: 山嵐とおれが絶交の姿となったに引き易えて、赤シャツとおれは依然として在来の関係を保って、交際をつづけている。
山嵐とおれが絶交の姿となったのに引き替えて、赤シャツとおれは依然として今まで通りの関係を保って、交際をつづけている。
原文: 野芹川で逢った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜文学を釣りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。
野芹川で会った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょにロシア文学を釣りに行こうじゃないかのといろいろなことを話しかけた。
原文: おれは少々憎らしかったから、昨夜は二返逢いましたねと云ったら、ええ停車場で――君はいつでもあの時分出掛けるのですか、遅いじゃないかと云う。
おれは少々憎らしかったから、ゆうべは二度会いましたねと言ったら、ええ停車場で――君はいつでもあの時分出かけるのですか、遅いじゃないかと言う。
原文: 野芹川の土手でもお目に懸りましたねと喰らわしてやったら、いいえ僕はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。
野芹川の土手でもお目にかかりましたねと食らわしてやったら、いいえ僕はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。
原文: 何もそんなに隠さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。
何もそんなに隠さないでもよかろう、現に会ってるんだ。
原文: よく嘘をつく男だ。
よく嘘をつく男だ。
原文: これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。
これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。
原文: おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。
おれはこのときからいよいよ赤シャツを信用しなくなった。
原文: 信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。
信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。
原文: 世の中は随分妙なものだ。
世の中は随分妙なものだ。
原文: ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃出掛けて行った。
ある日のこと赤シャツがちょっと君に話があるから、僕の家まで来てくれと言うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃出掛けて行った。
原文: 赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き払って立派な玄関を構えている。
赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとっくの昔に引き払って立派な玄関を構えている。
原文: 家賃は九円五拾銭だそうだ。
家賃は九円五十銭だそうだ。
原文: 田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。
田舎へ来て九円五十銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。
原文: 頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。
頼むと言ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。
原文: この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。
この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。
原文: その癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪るい。
そのくせ渡りものだから、生まれ付いての田舎者よりも人がわるい。
原文: 赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭い烟草をふかしながら、こんな事を云った。
赤シャツに会って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭い煙草をふかしながら、こんなことを言った。
原文: 「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
原文: 「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強はできませんが――」
原文: 「今のくらいで充分です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「今のくらいで充分です。ただ先だってお話ししたことですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
原文: 「下宿の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか」
「下宿の世話なんかするものは危ないということですか」
原文: 「そう露骨に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「そう露骨に言うと、意味もないことになるが――まあいいさ――精神は君にもよく通じていることと思うから。そこで君が今のように精を出して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇のことも多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
原文: 「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
原文: 「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「それで幸い今度転任者が一人できるから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えないことだが――その俸給から少しは融通ができるかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
原文: 「どうも難有う。だれが転任するんですか」
「どうもありがとう。だれが転任するんですか」
原文: 「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」
「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」
原文: 「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
原文: 「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
原文: 「どこへ行くんです」
「どこへ行くんです」
原文: 「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上って行く事になりました」
「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上がって行くことになりました」
原文: 「誰か代りが来るんですか」
「誰か代りが来るんですか」
原文: 「代りも大抵極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「代りもたいてい決まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
原文: 「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
原文: 「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟をしてやってもらいたいですね」
「ともかくも僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いていただかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟をしてやってもらいたいですね」
原文: 「今より時間でも増すんですか」
「今より時間でも増すんですか」
原文: 「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
原文: 「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
原文: 「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
「ちょっと聞くと妙だが、――はっきりとは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
原文: おれには一向分らない。
おれには一向分からない。
原文: 今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣いはない。
今より重大な責任と言えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣いはない。
原文: それに、生徒の人望があるから転任や免職は学校の得策であるまい。
それに、生徒の人望があるから転任や免職は学校の得策であるまい。
原文: 赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。
赤シャツの話はいつでも要領を得ない。
原文: 要領を得なくっても用事はこれで済んだ。
要領を得なくっても用事はこれで済んだ。
原文: それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。
それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやることや、ついてはおれが酒を飲むかという問いや、うらなり先生は君子で愛すべき人だということや――赤シャツはいろいろ弁じた。
原文: しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
原文: 発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。
発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。
原文: 数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。
数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。
原文: 帰ってうんと考え込んだ。
帰ってうんと考え込んだ。
原文: 世間には随分気の知れない男が居る。
世間には随分気の知れない男が居る。
原文: 家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。
家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと言って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。
原文: それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。
それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何のことだ。
原文: おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。
おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月経たないうちにもう帰りたくなった。
原文: 延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。
延岡と言えば山の中も山の中も大変な山の中だ。
原文: 赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。
赤シャツの言うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。
原文: 名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
原文: 猿と人とが半々に住んでるような気がする。
猿と人とが半々に住んでるような気がする。
原文: いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇だ。
いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物好きだ。
原文: ところへあいかわらず婆さんが夕食を運んで出る。
ところへあいかわらず婆さんが夕飯を運んで出る。
原文: 今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云った。
今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと言った。
原文: どっちにしたって似たものだ。
どっちにしたって似たものだ。
原文: 「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
原文: 「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
原文: 「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
原文: 「好んで行くて、誰がぞなもし」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
原文: 「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物好きで行くんじゃありませんか」
原文: 「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
原文: 「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう言いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
原文: 「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往きともないのももっともぞなもし」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往きともないのももっともぞなもし」
原文: 「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
原文: 「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
原文: 「どんな訳をお話したんです」
「どんな訳をお話したんです」
原文: 「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向きが豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
原文: 「なるほど」
「なるほど」
原文: 「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと言われたげな。――」
原文: 「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
原文: 「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう決めたあとで、古賀さんの代りはできているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
原文: 「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木はまずないからね」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木はまずないからね」
原文: 「唐変木て、先生なんぞなもし」
「唐変木て、先生なんぞなもし」
原文: 「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの策略だね。よくない仕打ちだ。まるでだまし討ちですね。それでおれの月給を上げるなんて、ふとどきなことがあるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
原文: 「先生は月給がお上りるのかなもし」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
原文: 「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」
「上げてやると言うから、断わろうと思うんです」
原文: 「何で、お断わりるのぞなもし」
「何で、お断わりるのぞなもし」
原文: 「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
原文: 「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、おとなしく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しいことをした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言うことをきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、ありがとうと受けておおきなさいや」
原文: 「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
「年寄りの癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
原文: 婆さんはだまって引き込んだ。
婆さんはだまって引き込んだ。
原文: 爺さんは呑気な声を出して謡をうたってる。
爺さんは呑気な声を出して謡をうたってる。
原文: 謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。
謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分からなくする術だろう。
原文: あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの気が知れない。
あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの気が知れない。
原文: おれは謡どころの騒ぎじゃない。
おれは謡どころの騒ぎじゃない。
原文: 月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳ねるなんて不人情な事が出来るものか。
月給を上げてやろうと言うから、別段欲しくもなかったが、要らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前をはねるなんて不人情なことができるものか。
原文: 当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下りまで落ちさせるとは一体どう云う了見だろう。
当人がもとの通りでいいと言うのに延岡くんだりまで落ちさせるとは一体どういう了見だろう。
原文: 太宰権帥でさえ博多近辺で落ちついたものだ。
太宰権帥でさえ博多近辺で落ちついたものだ。
原文: 河合又五郎だって相良でとまってるじゃないか。
河合又五郎だって相良でとまってるじゃないか。
原文: とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちゃ気が済まない。
原文: 小倉の袴をつけてまた出掛けた。
小倉の袴をつけてまた出掛けた。
原文: 大きな玄関へ突っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。
大きな玄関へ突っ立って頼むと言うと、また例の弟が取次に出て来た。
原文: おれの顔を見てまた来たかという眼付をした。
おれの顔を見てまた来たかという眼付きをした。
原文: 用があれば二度だって三度だって来る。
用があれば二度だって三度だって来る。
原文: よる夜なかだって叩き起さないとは限らない。
真夜中だって叩き起こさないとは限らない。
原文: 教頭の所へご機嫌伺いにくるようなおれと見損ってるか。
教頭の所へご機嫌伺いにくるようなおれと見損なってるか。
原文: これでも月給が入らないから返しに来んだ。
これでも月給が要らないから返しに来たんだ。
原文: すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら奥へ引き込んだ。
すると弟が今来客中だと言うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと言ったら奥へ引き込んだ。
原文: 足元を見ると、畳付きの薄っぺらな、のめりの駒下駄がある。
足元を見ると、畳付きの薄っぺらな、のめりの駒下駄がある。
原文: 奥でもう万歳ですよと云う声が聞える。
奥でもう万歳ですよと言う声が聞こえる。
原文: お客とは野だだなと気がついた。
お客とは野だだなと気がついた。
原文: 野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。
野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を履くものはない。
原文: しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。
しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、ほかの人じゃない吉川君だ、と言うから、いえここでたくさんです。
原文: ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。
ちょっと話せばいいんです、と言って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。
原文: 野だ公と一杯飲んでると見える。
野だ公と一杯飲んでると見える。
原文: 「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
原文: 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然としている。
赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺めたが、とっさの場合返事をしかねてぼんやりとしている。
原文: 増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆れ返ったのか、または双方合併したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、あきれ返ったのか、または両方がいっしょになったのか、妙な口をして突っ立ったままである。
原文: 「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「あのとき承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
原文: 「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
原文: 「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
原文: 「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
原文: 「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
原文: 「じゃ誰からお聞きです」
「じゃ誰からお聞きです」
原文: 「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
原文: 「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「じゃ、下宿の婆さんがそう言ったのですね」
原文: 「まあそうです」
「まあそうです」
原文: 「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支えないでしょうか」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの言うことは信ずるが、教頭の言うことは信じないと言うように聞こえるが、そういう意味に解釈して差し支えないでしょうか」
原文: おれはちょっと困った。
おれはちょっと困った。
原文: 文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。
文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。
原文: 妙な所へこだわって、ねちねち押し寄せてくる。
妙な所へこだわって、ねちねち押し寄せてくる。
原文: おれはよく親父から貴様はそそっかしくて駄目だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。
おれはよくおやじから貴様はそそっかしくて駄目だ駄目だと言われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。
原文: 婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳しい事情は聞いてみなかったのだ。
婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも会って詳しい事情は聞いてみなかったのだ。
原文: だからこう文学士流に斬り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
だからこう文学士流に斬り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
原文: 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中で申し渡してしまった。
正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中で申し渡してしまった。
原文: 下宿の婆さんもけちん坊の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐かない女だ、赤シャツのように裏表はない。
下宿の婆さんもけちん坊の欲張り屋に違いないが、嘘はつかない女だ、赤シャツのように裏表はない。
原文: おれは仕方がないから、こう答えた。
おれは仕方がないから、こう答えた。
原文: 「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります」
「あなたの言うことは本当かも知れないですが――とにかく増給はご免こうむります」
原文: 「それはますます可笑しい。今君がわざわざお出になったのは増俸を受けるには忍びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「それはますますおかしい。今君がわざわざお出でになったのは増俸を受けるには忍びない、理由を見出したからのように聞こえたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を拒まれるのは少し解しかねるようですね」
原文: 「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
原文: 「そんなに否なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「そんなに嫌なら強いてとまでは言いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変しちゃ、将来君の信用にかかわる」
原文: 「かかわっても構わないです」
「かかわっても構わないです」
原文: 「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲って、下宿の主人が……」
「そんなことはないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲って、下宿の主人が……」
原文: 「主人じゃない、婆さんです」
「主人じゃない、婆さんです」
原文: 「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余を君に廻わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合のいい事はないと思うですがね。いやなら否でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話したことを事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その余りを君に回すと言うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合のいいことはないと思うですがね。いやなら嫌でもいいが、もう一度うちでよく考えてみませんか」
原文: おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙な弁舌を揮えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。
おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙な弁舌を振るえば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。
原文: ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。
ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。
原文: 途中で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭になっている。
途中で親切な女みたいな男だと思い返したことはあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど嫌になっている。
原文: だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。
だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞しくしようとも、堂々たる教頭流におれをやり込めようとも、そんなことは構わない。
原文: 議論のいい人が善人とはきまらない。
議論のいい人が善人とは決まらない。
原文: 遣り込められる方が悪人とは限らない。
やり込められる方が悪人とは限らない。
原文: 表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。
表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせるわけには行かない。
原文: 金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。
金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。
原文: 中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。
中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。
原文: 人間は好き嫌いで働くものだ。
人間は好き嫌いで働くものだ。
原文: 論法で働くものじゃない。
論法で働くものじゃない。
原文: 「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」
「あなたの言うことはもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じことです。さようなら」
原文: と云いすてて門を出た。
と言いすてて門を出た。
原文: 頭の上には天の川が一筋かかっている。
頭の上には天の川が一筋かかっている。
原文: 九
九
原文: うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼んだから、真面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪るい奴で、よく偽筆へ贋落款などを押して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目に違いない。
うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼んだから、真面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつはわるい奴で、よく偽筆へ贋落款などを押して売りつけるそうだから、全く君のことも出鱈目に違いない。
原文: 君に懸物や骨董を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化したのだ。
君に掛物や骨董を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらえてごまかしたのだ。
原文: 僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁したまえと長々しい謝罪をした。
僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁したまえと長々しい謝罪をした。
原文: おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘をとって、おれの蝦蟇口のなかへ入れた。
おれは何とも言わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘をとって、おれのがま口のなかへ入れた。
原文: 山嵐は君それを引き込めるのかと不審そうに聞くから、うんおれは君に奢られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。
山嵐は君それを引き込めるのかと不審そうに聞くから、うんおれは君に奢られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。
原文: 山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。
山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。
原文: 実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙だからそのままにしておいた。
実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙だからそのままにしておいた。
原文: 近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張りだと答えてやった。
近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと言ったら、君はよっぽど負け惜しみの強い男だと言うから、君はよっぽど強情っぱりだと答えてやった。
原文: それから二人の間にこんな問答が起った。
それから二人の間にこんな問答が起こった。
原文: 「君は一体どこの産だ」
「君は一体どこの産だ」
原文: 「おれは江戸っ子だ」
「おれは江戸っ子だ」
原文: 「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
原文: 「きみはどこだ」
「きみはどこだ」
原文: 「僕は会津だ」
「僕は会津だ」
原文: 「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
原文: 「行くとも、君は?」
「行くとも、君は?」
原文: 「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つときは、浜まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
原文: 「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
原文: 「勝手に飲むがいい。おれは肴を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿だ」
「勝手に飲むがいい。おれは肴を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿だ」
原文: 「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳な風を、よく、あらわしてる」
「君はすぐ喧嘩を吹き掛ける男だ。なるほど江戸っ子の軽はずみな風を、よく、あらわしてる」
原文: 「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話しがあるから」
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話があるから」
原文: 山嵐は約束通りおれの下宿へ寄った。
山嵐は約束通りおれの下宿へ寄った。
原文: おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。
おれはこの間から、うらなり君の顔を見るたびに気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐れっぽくって、できることなら、おれが代りに行ってやりたいような気がしだした。
原文: それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇って、一番赤シャツの荒肝を挫いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその門出を盛んにしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、とても物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇って、一番赤シャツの荒肝をひしいでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
原文: おれはまず冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知っている。
おれはまず手始めとしてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知っている。
原文: おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと云ったら、山嵐は君はだれを捕まえても馬鹿呼わりをする。
おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと言ったら、山嵐は君はだれを捕まえても馬鹿呼ばわりをする。
原文: 今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。
今日学校で自分のことを馬鹿と言ったじゃないか。
原文: 自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。
自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。
原文: 自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。
自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。
原文: それじゃ赤シャツは腑抜けの呆助だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。
それじゃ赤シャツは腑抜けの呆助だと言ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。
原文: 山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥かに字を知っていない。
山嵐は強いことは強いが、こんな言葉になると、おれより遥かに字を知っていない。
原文: 会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
原文: それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職する考えだなと云った。
それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが言った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職する考えだなと言った。
原文: 免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張った。
免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張った。
原文: どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。
どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。
原文: 山嵐は強そうだが、智慧はあまりなさそうだ。
山嵐は強そうだが、知恵はあまりなさそうだ。
原文: おれが増給を断わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞めてくれた。
おれが増給を断わったと話したら、大将大いに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと褒めてくれた。
原文: うらなりが、そんなに厭がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。
うらなりが、そんなに嫌がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いたときは、すでに決まってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうすることもできなかったと話した。
原文: それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。
それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。
原文: 赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
赤シャツから話があったとき、断然断わるか、一応考えてみますと逃げればいいのに、あの弁舌にごまかされて、即席に承諾したものだから、あとからおっ母さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
原文: 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが言ったら、無論そうに違いない。
原文: あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。
あいつはおとなしい顔をして、悪事を働いて、人が何か言うと、ちゃんと逃道をこしらえて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。
原文: あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。
あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。
原文: おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。
おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。
原文: すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと掴んでみろと言うから、指の先で揉んでみたら、何のことはない湯屋にある軽石のようなものだ。
原文: おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転する。
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと言いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで回転する。
原文: すこぶる愉快だ。
すこぶる愉快だ。
原文: 山嵐の証明する所によると、かんじん綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。
山嵐の証明する所によると、こよりを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。
原文: かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。
こよりなら、おれにもできそうだと言ったら、できるものか、できるならやってみろと来た。
原文: 切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
原文: 君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを撲ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。
君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを殴ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと言った。
原文: なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加した。
なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ殴るくらいなら、あいつらのわるい所を見届けて現場で殴らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうなことを付け加えた。
原文: 山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
原文: じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。
じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。
原文: そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲が起って咽喉の所へ、大きな丸が上がって来て言葉が出ないから、君に譲るからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
そうして、決まった所へ出ると、急に胸がつかえてのどの所へ、大きな玉が上がって来て言葉が出ないから、君に譲るからと言ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
原文: そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。
そうこうするうち時間が来たから、山嵐といっしょに会場へ行く。
原文: 会場は花晨亭といって、当地で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。
会場は花晨亭といって、ここで第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れたことがない。
原文: もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸からして厳めしい構えだ。
もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見掛けからしていかめしい構えだ。
原文: 家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫い直して、胴着にする様なものだ。
家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫い直して、胴着にするようなものだ。
原文: 二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊が出来ている。
二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊ができている。
原文: 五十畳だけに床は素敵に大きい。
五十畳だけに床は素敵に大きい。
原文: おれが山城屋で占領した十五畳敷の床とは比較にならない。
おれが山城屋で占領した十五畳敷の床とは比較にならない。
原文: 尺を取ってみたら二間あった。
尺を取ってみたら二間あった。
原文: 右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶を据えて、その中に松の大きな枝が挿してある。
右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶を据えて、その中に松の大きな枝が挿してある。
原文: 松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。
松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月経っても散る気遣いがないから、銭が掛らなくって、よかろう。
原文: あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里ですと云った。
あの瀬戸物はどこでできるんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里ですと言った。
原文: 伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。
伊万里だって瀬戸物じゃないかと、言ったら、博物はえへへへへと笑っていた。
原文: あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。
あとで聞いてみたら、瀬戸でできる焼物だから、瀬戸と言うのだそうだ。
原文: おれは江戸っ子だから、陶器の事を瀬戸物というのかと思っていた。
おれは江戸っ子だから、陶器のことを瀬戸物というのかと思っていた。
原文: 床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。
床の真中に大きな掛物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。
原文: どうも下手なものだ。
どうも下手なものだ。
原文: あんまり不味いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。
あんまりまずいから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々しく懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といって有名な書家のかいたものだと教えてくれた。
原文: 海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
海屋だか何だか、おれはいまだに下手だと思っている。
原文: やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって靠りかかるのに都合のいい所へ坐った。
やがて書記の川村がどうかお着席をと言うから、柱があって寄りかかるのに都合のいい所へ坐った。
原文: 海屋の懸物の前に狸が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取った。
海屋の掛物の前に狸が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取った。
原文: 右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控えている。
右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控えている。
原文: おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐ胡坐をかいた。
おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐあぐらをかいた。
原文: 隣りの体操教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。
隣りの体操教師は黒ズボンで、ちゃんとかしこまっている。
原文: 体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。
体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。
原文: やがてお膳が出る。
やがてお膳が出る。
原文: 徳利が並ぶ。
徳利が並ぶ。
原文: 幹事が立って、一言開会の辞を述べる。
幹事が立って、一言開会の辞を述べる。
原文: それから狸が立つ。
それから狸が立つ。
原文: 赤シャツが起つ。
赤シャツが立つ。
原文: ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致し方がないという意味を述べた。
ことごとく送別の辞を述べたが、三人とも申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物なことを言いふらして、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致し方がないという意味を述べた。
原文: こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥かしいとも思っていない。
こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥ずかしいとも思っていない。
原文: ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。
ことに赤シャツに至っては三人のうちで一番うらなり君をほめた。
原文: この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。
この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで言った。
原文: しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極ってる。
しかもその言い方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに決まってる。
原文: マドンナも大方この手で引掛けたんだろう。
マドンナも大方この手で引っ掛けたんだろう。
原文: 赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光をさした。
赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光をさした。
原文: おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
原文: 赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉しかったので、思わず手をぱちぱちと拍った。
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉しかったので、思わず手をぱちぱちと打った。
原文: すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。
すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。
原文: 山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望しております。
山嵐は何を言うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望しております。
原文: 延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。
延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。
原文: が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上代樸直の気風を帯びているそうである。
が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく昔ながらの素朴な気風を帯びているそうである。
原文: 心にもないお世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。
心にもないお世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歓迎を受けられるに違いない。
原文: 吾輩は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。
私は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。
原文: 終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆を事実の上において慚死せしめん事を希望します。
終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子のよき伴侶となるべき資格あるものを選んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆を事実の上において恥じ入って死ぬ思いをさせることを希望します。
原文: えへんえへんと二つばかり大きな咳払いをして席に着いた。
えへんえへんと二つばかり大きな咳払いをして席に着いた。
原文: おれは今度も手を叩こうと思ったが、またみんながおれの面を見るといやだから、やめにしておいた。
おれは今度も手を叩こうと思ったが、またみんながおれの顔を見るといやだから、やめにしておいた。
原文: 山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。
山嵐が坐ると今度はうらなり先生が立った。
原文: 先生はご鄭寧に、自席から、座敷の端の末座まで行って、慇懃に一同に挨拶をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘の至りに堪えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴して、大いに難有く服膺する訳であります。
先生はごていねいに、自席から、座敷の端の末座まで行って、恭しく一同に挨拶をした上、今般は一身上の都合で九州へ参ることになりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘の至りに堪えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞をいただいて、大いにありがたく心に刻む次第であります。
原文: 私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧のほどを願います。
私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧のほどを願います。
原文: とへえつく張って席に戻った。
とぺこぺこして席に戻った。
原文: うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。
うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。
原文: 自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭しくお礼を云っている。
自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭しくお礼を言っている。
原文: それも義理一遍の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心から感謝しているらしい。
それも義理一遍の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから言うと、心から感謝しているらしい。
原文: こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴しているばかりだ。
こんな聖人に真面目にお礼を言われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴しているばかりだ。
原文: 挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。
挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。
原文: おれも真似をして汁を飲んでみたがまずいもんだ。
おれも真似をして汁を飲んでみたがまずいもんだ。
原文: 口取に蒲鉾はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損ないである。
口取りに蒲鉾はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損ないである。
原文: 刺身も並んでるが、厚くって鮪の切り身を生で食うと同じ事だ。
刺身も並んでるが、厚くって鮪の切り身を生で食うと同じことだ。
原文: それでも隣り近所の連中はむしゃむしゃ旨そうに食っている。
それでも隣り近所の連中はむしゃむしゃ旨そうに食っている。
原文: 大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
大方江戸前の料理を食ったことがないんだろう。
原文: そのうち燗徳利が頻繁に往来し始めたら、四方が急に賑やかになった。
そのうち燗徳利が頻繁に往来し始めたら、四方が急に賑やかになった。
原文: 野だ公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。
野だ公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。
原文: いやな奴だ。
いやな奴だ。
原文: うらなり君は順々に献酬をして、一巡周るつもりとみえる。
うらなり君は順々に酒をやりとりして、一巡回るつもりとみえる。
原文: はなはだご苦労である。
はなはだご苦労である。
原文: うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃差し上げた。
うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一杯差し上げた。
原文: せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。
せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。
原文: ご出立はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、うらなり君はいえご用多のところ決してそれには及びませんと答えた。
ご出立はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと言ったら、うらなり君はいえご用の多いところ決してそれには及びませんと答えた。
原文: うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
うらなり君が何と言ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
原文: それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。
それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。
原文: まあ一杯、おや僕が飲めと云うのに……などと呂律の巡りかねるのも一人二人出来て来た。
まあ一杯、おや僕が飲めと言うのに……などと呂律の回りかねるのも一人二人出て来た。
原文: 少々退屈したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺めていると山嵐が来た。
少々退屈したから便所へ行って、昔風な庭を星明りに透かして眺めていると山嵐が来た。
原文: どうださっきの演説はうまかったろう。
どうださっきの演説はうまかったろう。
原文: と大分得意である。
と大分得意である。
原文: 大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
原文: 「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は云ったろう」
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は言ったろう」
原文: 「うん」
「うん」
原文: 「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
原文: 「じゃ何と云うんだ」
「じゃ何と言うんだ」
原文: 「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫っかぶりの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも言うがいい」
原文: 「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌が出来ないのは不思議だ」
「おれには、そう舌は回らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演説ができないのは不思議だ」
原文: 「なにこれは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「なにこれは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演説となっちゃ、こうは出ない」
原文: 「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一度やって見たまえ」
原文: 「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」
「何度でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」
原文: と云いかけていると、椽側をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳け出して来た。
と言いかけていると、縁側をどたばた言わして、二人ばかり、よろよろしながら駆け出して来た。
原文: 「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
原文: とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。
原文: 実はこの両人共便所に来たのだが、酔ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。
実はこの二人とも便所に来たのだが、酔ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれたちを引っ張るのだろう。
原文: 酔っ払いは目の中る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
酔っ払いは目の当たる所へ用事をこしらえて、前のことはすぐ忘れてしまうんだろう。
原文: 「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと言うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
原文: と逃げもせぬ、おれを壁際へ圧し付けた。
と逃げもせぬ、おれを壁際へ押し付けた。
原文: 諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。
諸方を見回してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。
原文: 自分の分を奇麗に食い尽して、五六間先へ遠征に出た奴もいる。
自分の分をきれいに食い尽くして、五六間先へ遠征に出た奴もいる。
原文: 校長はいつ帰ったか姿が見えない。
校長はいつ帰ったか姿が見えない。
原文: ところへお座敷はこちら?
ところへお座敷はこちら?
原文: と芸者が三四人はいって来た。
と芸者が三四人はいって来た。
原文: おれも少し驚ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。
おれも少し驚いたが、壁際へ押し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。
原文: すると今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢そうに啣えていた、赤シャツが急に起って、座敷を出にかかった。
すると今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢そうにくわえていた、赤シャツが急に立って、座敷を出にかかった。
原文: 向うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。
向うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。
原文: その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。
その一人は一番若くて一番きれいな奴だ。
原文: 遠くで聞えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。
遠くで聞こえなかったが、おや今晩はぐらい言ったらしい。
原文: 赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。
赤シャツは知らん顔をして出て行ったきり、顔を出さなかった。
原文: 大方校長のあとを追懸けて帰ったんだろう。
大方校長のあとを追いかけて帰ったんだろう。
原文: 芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨の声を揚げて歓迎したのかと思うくらい、騒々しい。
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨の声を揚げて歓迎したのかと思うくらい、騒々しい。
原文: そうしてある奴はなんこを攫む。
そうしてある奴はなんこを掴む。
原文: その声の大きな事、まるで居合抜の稽古のようだ。
その声の大きなこと、まるで居合抜きの稽古のようだ。
原文: こっちでは拳を打ってる。
こっちでは拳を打ってる。
原文: よっ、はっ、と夢中で両手を振るところは、ダーク一座の操人形よりよっぽど上手だ。
よっ、はっ、と夢中で両手を振るところは、ダーク一座の操り人形よりよっぽど上手だ。
原文: 向うの隅ではおいお酌だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。
向うの隅ではおいお酌だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。
原文: どうもやかましくて騒々しくってたまらない。
どうもやかましくて騒々しくってたまらない。
原文: そのうちで手持無沙汰に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。
そのうちで手持無沙汰に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。
原文: 自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜んでくれるんじゃない。
自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜しんでくれるんじゃない。
原文: みんなが酒を呑んで遊ぶためだ。
みんなが酒を飲んで遊ぶためだ。
原文: 自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。
自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。
原文: こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
原文: しばらくしたら、めいめい胴間声を出して何か唄い始めた。
しばらくしたら、めいめい胴間声を出して何か唄い始めた。
原文: おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。
おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと言ったら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。
原文: 叩いて廻って逢われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。
叩いて回って会われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて回って会いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと言った。
原文: おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
原文: すると、いつの間にか傍へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺し家みたような言葉使いをする。
すると、いつの間にか傍へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん会いたい人に会ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺し家みたような言葉使いをする。
原文: 知りまへんと芸者はつんと済ました。
知りまへんと芸者はつんと済ました。
原文: 野だは頓着なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫の真似をやる。
野だは頓着なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫の真似をやる。
原文: おきなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑ってる。
おきなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いたら野だは大喜びして笑ってる。
原文: この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。
この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。
原文: 芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。
芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。
原文: 鈴ちゃん僕が紀伊の国を踴るから、一つ弾いて頂戴と云い出した。
鈴ちゃん僕が紀伊の国を踊るから、一つ弾いて頂戴と言い出した。
原文: 野だはこの上まだ踴る気でいる。
野だはこの上まだ踊る気でいる。
原文: 向うの方で漢学のお爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞えません伝兵衛さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済したが、それから?
向うの方で漢学のお爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞こえません伝兵衛さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済ましたが、それから?
原文: と芸者に聞いている。
と芸者に聞いている。
原文: 爺さんなんて物覚えのわるいものだ。
爺さんなんて物覚えのわるいものだ。
原文: 一人が博物を捕まえて近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。
一人が博物を捕まえて近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。
原文: よう聞いて、いなはれや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
よう聞いて、いなはれや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
原文: 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるから、三味線を弾けと号令を下した。
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるから、三味線を弾けと号令を下した。
原文: 芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
原文: 山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟と真中へ出て独りで隠し芸を演じている。
山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟と真中へ出て独りで隠し芸を演じている。
原文: ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、棚の達磨さんを済して丸裸の越中褌一つになって、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。
ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、棚の達磨さんを済まして丸裸の越中褌一つになって、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。
原文: まるで気違いだ。
まるで気の変な奴だ。
原文: おれはさっきから苦しそうに袴も脱がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴まで羽織袴で我慢してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。
おれはさっきから苦しそうに袴も脱がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踊りまで羽織袴で我慢してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。
原文: するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮なくと動く景色もない。
するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮なくと動く気配もない。
原文: なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。
なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あのざまをご覧なさい。
原文: 気狂会です。
気の変な連中の会です。
原文: さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。
さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。
原文: 日清談判だ。
日清談判だ。
原文: 帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。
帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。
原文: おれはさっきから肝癪が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰わしてやった。
おれはさっきからかんしゃくが起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと食らわしてやった。
原文: 野だは二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。
野だは二三秒の間毒気を抜かれた様子で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。
原文: お撲ちになったのは情ない。
お殴りになったのは情ない。
原文: この吉川をご打擲とは恐れ入った。
この吉川をご打擲とは恐れ入った。
原文: いよいよもって日清談判だ。
いよいよもって日清談判だ。
原文: とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。
とわからぬことをならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり首筋をうんと掴んで引き戻した。
原文: 日清……いたい。
日清……いたい。
原文: いたい。
いたい。
原文: どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩ったら、すとんと倒れた。
どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横にねじったら、すとんと倒れた。
原文: あとはどうなったか知らない。
あとはどうなったか知らない。
原文: 途中でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
途中でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
原文: 十
十
原文: 祝勝会で学校はお休みだ。
祝勝会で学校はお休みだ。
原文: 練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。
練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。
原文: おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。
おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。
原文: 町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。
町へ出ると日の丸だらけで、まぶしいくらいである。
原文: 学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けである。
学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊列を整えて、一組一組の間を少しずつ空けて、そこへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けである。
原文: 仕掛だけはすこぶる巧妙なものだが、実際はすこぶる不手際である。
仕掛けだけはすこぶる巧妙なものだが、実際はすこぶる不手際である。
原文: 生徒は小供の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等だから、職員が幾人ついて行ったって何の役に立つもんか。
生徒は子供の上に、生意気で、規律を破らなくては生徒の体面にかかわると思ってる奴らだから、職員が何人ついて行ったって何の役に立つもんか。
原文: 命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨の声を揚げたり、まるで浪人が町内をねりあるいてるようなものだ。
命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのにときの声を上げたり、まるで浪人が町内を練り歩いてるようなものだ。
原文: 軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌ってる。
軍歌もときの声も上げないときはがやがや何かしゃべってる。
原文: 喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云ったって聞きっこない。
しゃべらないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生まれるのだから、いくら小言を言ったって聞きっこない。
原文: 喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。
しゃべるのもただしゃべるのではない、教師の悪口をしゃべるんだから、下等だ。
原文: おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。
おれは宿直事件で生徒に謝罪させて、まあこれならよかろうと思っていた。
原文: ところが実際は大違いである。
ところが実際は大違いである。
原文: 下宿の婆さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎である。
下宿の婆さんの言葉を借りて言えば、正に大違いの勘五郎である。
原文: 生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。
生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。
原文: ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。
ただ校長から命令されて、形式的に頭を下げたのである。
原文: 商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。
商人が頭ばかり下げて、ずるいことをやめないのと同じで、生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。
原文: よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。
よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものからできているのかも知れない。
原文: 人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。
人があやまったりわびたりするのを、まじめに受けて勘弁するのは正直すぎる馬鹿と言うんだろう。
原文: あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。
あやまるのも仮にあやまるので、勘弁するのも仮に勘弁するのだと思ってれば差し支えない。
原文: もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。
もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。
原文: おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅だの、団子だの、と云う声が絶えずする。
おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅だの、団子だの、と言う声が絶えずする。
原文: しかも大勢だから、誰が云うのだか分らない。
しかも大勢だから、誰が言うのだか分からない。
原文: よし分ってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うに極まってる。
よし分かってもおれのことを天麩羅と言ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱だから、ひがんで、そう聞こえるんだぐらい言うに決まってる。
原文: こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底直りっこない。
こんな卑劣な根性は封建時代から養成したこの土地の習慣なんだから、いくら言って聞かせたって、教えてやったって、とうてい直りっこない。
原文: こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなく、なるかも知れない。
こんな土地に一年もいると、潔白なおれも、この真似をしなければならなくなるかも知れない。
原文: 向うでうまく言い抜けられるような手段で、おれの顔を汚すのを抛っておく、樗蒲一はない。
向こうでうまく言い抜けられるような手段で、おれの顔を汚すのを放っておく手はない。
原文: 向こうが人ならおれも人だ。
向こうが人ならおれも人だ。
原文: 生徒だって、子供だって、ずう体はおれより大きいや。
生徒だって、子供だって、図体はおれより大きいや。
原文: だから刑罰として何か返報をしてやらなくっては義理がわるい。
だから刑罰として何か仕返しをしてやらなくっては義理が悪い。
原文: ところがこっちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向うから逆捩を食わして来る。
ところがこっちから仕返しをするときにまともな手段で行くと、向こうから逆ねじを食わせて来る。
原文: 貴様がわるいからだと云うと、初手から逃げ路が作ってある事だから滔々と弁じ立てる。
貴様が悪いからだと言うと、初めから逃げ道が作ってあることだから、とうとうと弁じ立てる。
原文: 弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃する。
弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にして、それからこっちの非を攻撃する。
原文: もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。
もともと仕返しでしたことだから、こっちの弁護は向こうの非が挙がらない上は弁護にならない。
原文: つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩のように、見傚されてしまう。
つまりは向こうから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩のように見なされてしまう。
原文: 大変な不利益だ。
大変な不利益だ。
原文: それなら向うのやるなり、愚迂多良童子を極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく云えば世の中のためにならない。
それなら向こうのやるなり、愚迂多良童子を決め込んでいれば、向こうはますます増長するばかり、大きく言えば世の中のためにならない。
原文: そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて捕まえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。
そこで仕方がないから、こっちも向こうの筆法を使って、捕まえられない、手の付けようのない仕返しをしなくてはならなくなる。
原文: そうなっては江戸っ子も駄目だ。
そうなっては江戸っ子も駄目だ。
原文: 駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。
駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。
原文: どうしても早く東京へ帰って清といっしょになるに限る。
どうしても早く東京へ帰って清といっしょになるに限る。
原文: こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ。
こんな田舎にいるのは堕落しに来ているようなものだ。
原文: 新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
原文: こう考えて、いやいや、附いてくると、何だか先鋒が急にがやがや騒ぎ出した。
こう考えて、いやいやついて行くと、何だか先頭が急にがやがや騒ぎ出した。
原文: 同時に列はぴたりと留まる。
同時に列はぴたりと止まる。
原文: 変だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町を突き当って薬師町へ曲がる角の所で、行き詰ったぎり、押し返したり、押し返されたりして揉み合っている。
変だから、列を右へはずして、向こうを見ると、大手町を突き当たって薬師町へ曲がる角のところで、行き詰まったきり、押し返したり、押し返されたりしてもみ合っている。
原文: 前方から静かに静かにと声を涸らして来た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と師範学校が衝突したんだと云う。
前の方から静かに静かにと声をからして来た体操教師に何ですと聞くと、曲がり角で中学校と師範学校が衝突したんだと言う。
原文: 中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲がわるいそうだ。
中学と師範とはどこの県でも犬と猿のように仲が悪いそうだ。
原文: なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。
なぜだか分からないが、まるで気風が合わない。
原文: 何かあると喧嘩をする。
何かあると喧嘩をする。
原文: 大方狭い田舎で退屈だから、暇潰しにやる仕事なんだろう。
大方狭い田舎で退屈だから、暇つぶしにやる仕事なんだろう。
原文: おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳け出して行った。
おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に駆け出して行った。
原文: すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引き込めと、怒鳴ってる。
すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税のくせに、引っ込めと、怒鳴ってる。
原文: 後ろからは押せ押せと大きな声を出す。
後ろからは押せ押せと大きな声を出す。
原文: おれは邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ!
おれは邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとしたときに、前へ!
原文: と云う高く鋭い号令が聞えたと思ったら師範学校の方は粛粛として行進を始めた。
という高く鋭い号令が聞こえたと思ったら、師範学校の方は粛々として行進を始めた。
原文: 先を争った衝突は、折合がついたには相違ないが、つまり中学校が一歩を譲ったのである。
先を争った衝突は、折り合いがついたには違いないが、つまり中学校が一歩を譲ったのである。
原文: 資格から云うと師範学校の方が上だそうだ。
資格から言うと師範学校の方が上だそうだ。
原文: 祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。
祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。
原文: 旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む、参列者が万歳を唱える。
旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む、参列者が万歳を唱える。
原文: それでおしまいだ。
それでおしまいだ。
原文: 余興は午後にあると云う話だから、ひとまず下宿へ帰って、こないだじゅうから、気に掛っていた、清への返事をかきかけた。
余興は午後にあるという話だから、ひとまず下宿へ帰って、この間じゅうから気にかかっていた、清への返事を書きかけた。
原文: 今度はもっと詳しく書いてくれとの注文だから、なるべく念入に認めなくっちゃならない。
今度はもっと詳しく書いてくれという注文だから、なるべく念入りに書かなくっちゃならない。
原文: しかしいざとなって、半切を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。
しかしいざとなって、半切を取り上げると、書くことはたくさんあるが、何から書き出していいか分からない。
原文: あれにしようか、あれは面倒臭い。
あれにしようか、あれは面倒くさい。
原文: これにしようか、これはつまらない。
これにしようか、これはつまらない。
原文: 何か、すらすらと出て、骨が折れなくって、そうして清が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。
何か、すらすらと出て、骨が折れなくて、そうして清が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。
原文: おれは墨を磨って、筆をしめして、巻紙を睨めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返も繰り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦めて硯の蓋をしてしまった。
おれは墨をすって、筆を湿して、巻紙をにらんで、――巻紙をにらんで、筆を湿して、墨をすって――同じ所作を同じように何返も繰り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、あきらめて硯の蓋をしてしまった。
原文: 手紙なんぞをかくのは面倒臭い。
手紙なんぞを書くのは面倒くさい。
原文: やっぱり東京まで出掛けて行って、逢って話をするのが簡便だ。
やっぱり東京まで出掛けて行って、会って話をするのが手っ取り早い。
原文: 清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食よりも苦しい。
清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食よりも苦しい。
原文: おれは筆と巻紙を抛り出して、ごろりと転がって肱枕をして庭の方を眺めてみたが、やっぱり清の事が気にかかる。
おれは筆と巻紙を放り出して、ごろりと転がって肘枕をして庭の方を眺めてみたが、やっぱり清のことが気にかかる。
原文: その時おれはこう思った。
そのときおれはこう思った。
原文: こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通じるに違いない。
こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通じるに違いない。
原文: 通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。
通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。
原文: やらなければ無事で暮してると思ってるだろう。
やらなければ無事で暮らしてると思ってるだろう。
原文: たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
便りは死んだときか病気のときか、何か事の起こったときにやりさえすればいい訳だ。
原文: 庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。
庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。
原文: ただ一本の蜜柑があって、塀のそとから、目標になるほど高い。
ただ一本の蜜柑があって、塀の外から目印になるほど高い。
原文: おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。
おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。
原文: 東京を出た事のないものには蜜柑の生っているところはすこぶる珍しいものだ。
東京を出たことのないものには蜜柑の生っているところはすこぶる珍しいものだ。
原文: あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗だろう。
あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、さぞきれいだろう。
原文: 今でももう半分色の変ったのがある。
今でももう半分色の変わったのがある。
原文: 婆さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、旨い蜜柑だそうだ。
婆さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、うまい蜜柑だそうだ。
原文: 今に熟たら、たんと召し上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。
今に熟したら、たんと召し上がれと言ったから、毎日少しずつ食ってやろう。
原文: もう三週間もしたら、充分食えるだろう。
もう三週間もしたら、十分食えるだろう。
原文: まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
まさか三週間以内にここを去ることもなかろう。
原文: おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。
おれが蜜柑のことを考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。
原文: 今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の包を袂から引きずり出して、座敷の真中へ抛り出した。
今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の包みを袂から引きずり出して、座敷の真ん中へ放り出した。
原文: おれは下宿で芋責豆腐責になってる上、蕎麦屋行き、団子屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋と砂糖をかり込んで、煮方に取りかかった。
おれは下宿で芋責め豆腐責めになってる上、蕎麦屋行き、団子屋行きを禁じられてるときだから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋と砂糖を借り込んで、煮方に取りかかった。
原文: 山嵐は無暗に牛肉を頬張りながら、君あの赤シャツが芸者に馴染のある事を知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろうと云ったら、そうだ僕はこの頃ようやく勘づいたのに、君はなかなか敏捷だと大いにほめた。
山嵐はむやみに牛肉をほおばりながら、君あの赤シャツが芸者になじみのあることを知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会のときに来た一人がそうだろうと言ったら、そうだ僕はこの頃ようやく勘づいたのに、君はなかなか目ざといと大いにほめた。
原文: 「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽だのと云う癖に、裏へ廻って、芸者と関係なんかつけとる、怪しからん奴だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容するならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上害になると云って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽だのと言うくせに、裏へ回って、芸者と関係なんかつけとる、けしからん奴だ。それもほかの人が遊ぶのを大目に見るならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取り締まり上害になると言って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」
原文: 「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様は。馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化す気だから気に食わない。そうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、露西亜文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人を烟に捲くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中の生れ変りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買いは精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大っぴらにやるがいい。何だあのざまは。なじみの芸者がはいってくると、入れ代わりに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人をごまかす気だから気に食わない。そうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、ロシア文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか言って、人を煙に巻くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。まったく御殿女中の生まれ変わりか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
原文: 「湯島のかげまた何だ」
「湯島のかげまって何だ」
原文: 「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと絛虫が湧くぜ」
「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うとサナダムシが湧くぜ」
原文: 「そうか、大抵大丈夫だろう。それで赤シャツは人に隠れて、温泉の町の角屋へ行って、芸者と会見するそうだ」
「そうか、たいてい大丈夫だろう。それで赤シャツは人に隠れて、温泉の町の角屋へ行って、芸者と会うそうだ」
原文: 「角屋って、あの宿屋か」
「角屋って、あの宿屋か」
原文: 「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰するんだね」
「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者を連れて、あそこへはいり込むところを見届けておいて、面と向かって問い詰めるんだね」
原文: 「見届けるって、夜番でもするのかい」
「見届けるって、夜番でもするのかい」
原文: 「うん、角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子へ穴をあけて、見ているのさ」
「うん、角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。あの表二階を借りて、障子へ穴をあけて、見ているのさ」
原文: 「見ているときに来るかい」
「見ているときに来るかい」
原文: 「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ」
「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ」
原文: 「随分疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱った事がある」
「随分疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病したことがあるが、あとでぼんやりして、大いに弱ったことがある」
原文: 「少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。あんな奸物をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代って誅戮を加えるんだ」
「少しぐらい体が疲れたって構わんさ。あんな悪党をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代わって成敗するんだ」
原文: 「愉快だ。そう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
「愉快だ。そう事が決まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
原文: 「まだ枡屋に懸合ってないから、今夜は駄目だ」
「まだ枡屋に掛け合ってないから、今夜は駄目だ」
原文: 「それじゃ、いつから始めるつもりだい」
「それじゃ、いつから始めるつもりだい」
原文: 「近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれたまえ」
「近いうちにやるさ。いずれ君に知らせるから、そうしたら、加勢してくれたまえ」
原文: 「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略は下手だが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
「よろしい、いつでも加勢する。僕ははかりごとは下手だが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
原文: おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略を相談していると、宿の婆さんが出て来て、学校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいててお出でたぞなもし。
おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治のはかりごとを相談していると、宿の婆さんが出て来て、学校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいててお出でたぞなもし。
原文: 今お宅へ参じたのじゃが、お留守じゃけれ、大方ここじゃろうてて捜し当ててお出でたのじゃがなもしと、閾の所へ膝を突いて山嵐の返事を待ってる。
今お宅へ参じたのじゃが、お留守じゃけれ、大方ここじゃろうてて捜し当ててお出でたのじゃがなもしと、敷居のところへ膝をついて山嵐の返事を待ってる。
原文: 山嵐はそうですかと玄関まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘いに来たんだ。
山嵐はそうですかと玄関まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘いに来たんだ。
原文: 今日は高知から、何とか踴りをしに、わざわざここまで多人数乗り込んで来ているのだから、是非見物しろ、めったに見られない踴だというんだ、君もいっしょに行ってみたまえと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。
今日は高知から、何とか踊りをしに、わざわざここまで大人数で乗り込んで来ているのだから、ぜひ見物しろ、めったに見られない踊りだというんだ、君もいっしょに行ってみたまえと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。
原文: おれは踴なら東京でたくさん見ている。
おれは踊りなら東京でたくさん見ている。
原文: 毎年八幡様のお祭りには屋台が町内へ廻ってくるんだから汐酌みでも何でもちゃんと心得ている。
毎年八幡様のお祭りには屋台が町内へ回ってくるんだから汐汲みでも何でもちゃんと心得ている。
原文: 土佐っぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。
土佐っぽの馬鹿踊りなんか、見たくもないと思ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。
原文: 山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。
山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。
原文: 妙な奴が来たもんだ。
妙な奴が来たもんだ。
原文: 会場へはいると、回向院の相撲か本門寺の御会式のように幾旒となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄から縄、綱から綱へ渡しかけて、大きな空が、いつになく賑やかに見える。
会場へはいると、回向院の相撲か本門寺のお会式のように長い旗を何本も所々に立てた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄から縄、綱から綱へ渡しかけて、大きな空が、いつになくにぎやかに見える。
原文: 東の隅に一夜作りの舞台を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだそうだ。
東の隅に一夜作りの舞台を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踊りをやるんだそうだ。
原文: 舞台を右へ半町ばかりくると葭簀の囲いをして、活花が陳列してある。
舞台を右へ半町ばかりくると葭簀の囲いをして、生け花が並べてある。
原文: みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。
みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。
原文: あんなに草や竹を曲げて嬉しがるなら、背虫の色男や、跛の亭主を持って自慢するがよかろう。
あんなに草や竹を曲げて嬉しがるなら、背中の曲がった色男や、足の不自由な亭主を持って自慢するがよかろう。
原文: 舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。
舞台とは反対の方角で、しきりに花火を上げる。
原文: 花火の中から風船が出た。
花火の中から風船が出た。
原文: 帝国万歳とかいてある。
帝国万歳と書いてある。
原文: 天主の松の上をふわふわ飛んで営所のなかへ落ちた。
天主の松の上をふわふわ飛んで営所の中へ落ちた。
原文: 次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を射抜くように揚がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い烟が傘の骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。
次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を射抜くように上がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い煙が傘の骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。
原文: 風船がまた上がった。
風船がまた上がった。
原文: 今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、温泉の町から、相生村の方へ飛んでいった。
今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、温泉の町から、相生村の方へ飛んでいった。
原文: 大方観音様の境内へでも落ちたろう。
大方観音様の境内へでも落ちたろう。
原文: 式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。
式のときはさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。
原文: 田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚ろいたぐらいうじゃうじゃしている。
田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚いたぐらいうじゃうじゃしている。
原文: 利口な顔はあまり見当らないが、数から云うとたしかに馬鹿に出来ない。
利口な顔はあまり見当たらないが、数から言うとたしかに馬鹿にできない。
原文: そのうち評判の高知の何とか踴が始まった。
そのうち評判の高知の何とか踊りが始まった。
原文: 踴というから藤間か何ぞのやる踴りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
踊りというから藤間か何かのやる踊りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
原文: いかめしい後鉢巻をして、立っ付け袴を穿いた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に並んで、その三十人がことごとく抜き身を携げているには魂消た。
いかめしい後鉢巻をして、立っつけ袴をはいた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に並んで、その三十人がことごとく抜き身をさげているにはたまげた。
原文: 前列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の間隔はそれより短いとも長くはない。
前列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の間隔はそれより短いとも長くはない。
原文: たった一人列を離れて舞台の端に立ってるのがあるばかりだ。
たった一人列を離れて舞台の端に立ってるのがあるばかりだ。
原文: この仲間外れの男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜身の代りに、胸へ太鼓を懸けている。
この仲間はずれの男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜き身の代わりに、胸へ太鼓をかけている。
原文: 太鼓は太神楽の太鼓と同じ物だ。
太鼓は太神楽の太鼓と同じ物だ。
原文: この男がやがて、いやあ、はああと呑気な声を出して、妙な謡をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。
この男がやがて、いやあ、はああとのんきな声を出して、妙な謡をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。
原文: 歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。
歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。
原文: 三河万歳と普陀洛やの合併したものと思えば大した間違いにはならない。
三河万歳と普陀洛やの合併したものと思えば大した間違いにはならない。
原文: 歌はすこぶる悠長なもので、夏分の水飴のように、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも拍子は取れる。
歌はすこぶる悠長なもので、夏場の水飴のように、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも拍子は取れる。
原文: この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速なお手際で、拝見していても冷々する。
この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる素早いお手際で、拝見していてもひやひやする。
原文: 隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振り舞わすのだから、よほど調子が揃わなければ、同志撃を始めて怪我をする事になる。
隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間がいて、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振り回すのだから、よほど調子がそろわなければ、同士討ちを始めて怪我をすることになる。
原文: それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険もないが、三十人が一度に足踏みをして横を向く時がある。
それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危なくもないが、三十人が一度に足踏みをして横を向くときがある。
原文: ぐるりと廻る事がある。
ぐるりと回ることがある。
原文: 膝を曲げる事がある。
膝を曲げることがある。
原文: 隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遅過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。
隣りのものが一秒でも早すぎるか、遅すぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。
原文: 隣りの頭はそがれるかも知れない。
隣りの頭はそがれるかも知れない。
原文: 抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。
抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱の内に限られた上に、前後左右のものと同じ方向に同じ速度でひらめかなければならない。
原文: こいつは驚いた、なかなかもって汐酌や関の戸の及ぶところでない。
こいつは驚いた、なかなかもって汐汲みや関の戸の及ぶところでない。
原文: 聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。
聞いてみると、これははなはだ熟練の要るもので、容易なことでは、こういう風に調子が合わないそうだ。
原文: ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。
ことにむずかしいのは、あの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。
原文: 三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。
三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで決まるのだそうだ。
原文: 傍で見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
はたで見ていると、この大将が一番のんきそうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くて非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
原文: おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、今まで穏やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに揺き始める。
おれと山嵐が感心のあまりこの踊りを余念なく見物していると、半町ばかり向こうの方で急にわっと言うときの声がして、今まで穏やかにあちこち見物していた連中が、にわかに波を打って、右左に揺れ始める。
原文: 喧嘩だ喧嘩だと云う声がすると思うと、人の袖を潜り抜けて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへ潜り込んでどっかへ行ってしまった。
喧嘩だ喧嘩だと言う声がすると思うと、人の袖をくぐり抜けて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと言いながらまた人の波の中へ潜り込んでどっかへ行ってしまった。
原文: 山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を避けながら一散に馳け出した。
山嵐は世話の焼ける小僧だ、また始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人をよけながら一散に駆け出した。
原文: 見ている訳にも行かないから取り鎮めるつもりだろう。
見ている訳にも行かないから取り鎮めるつもりだろう。
原文: おれは無論の事逃げる気はない。
おれは無論のこと逃げる気はない。
原文: 山嵐の踵を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。
山嵐のかかとを踏んであとからすぐ現場へ駆けつけた。
原文: 喧嘩は今が真最中である。
喧嘩は今が真っ最中である。
原文: 師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。
師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。
原文: 師範は制服をつけているが、中学は式後大抵は日本服に着換えているから、敵味方はすぐわかる。
師範は制服をつけているが、中学は式後たいていは和服に着替えているから、敵味方はすぐわかる。
原文: しかし入り乱れて組んづ、解れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。
しかし入り乱れて組んづほぐれつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分からない。
原文: 山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。
山嵐は困ったなと言う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。
原文: 巡査がくると面倒だ。
巡査がくると面倒だ。
原文: 飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しそうな所へ躍り込んだ。
飛び込んで分けようと、おれの方を見て言うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の激しそうなところへ躍り込んだ。
原文: 止せ止せ。
よせよせ。
原文: そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。
そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。
原文: よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突き貫けようとしたが、なかなかそう旨くは行かない。
よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の境目らしいところを突き抜けようとしたが、なかなかそううまくは行かない。
原文: 一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。
一二間はいったら、出ることも引くこともできなくなった。
原文: 目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。
目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。
原文: 止せと云ったら、止さないかと師範生の肩を持って、無理に引き分けようとする途端にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。
よせと言ったら、よさないかと師範生の肩を持って、無理に引き分けようとする途端に誰か知らないが、下からおれの足をすくった。
原文: おれは不意を打たれて握った、肩を放して、横に倒れた。
おれは不意を打たれて、握った肩を放して、横に倒れた。
原文: 堅い靴でおれの背中の上へ乗った奴がある。
堅い靴でおれの背中の上へ乗った奴がある。
原文: 両手と膝を突いて下から、跳ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。
両手と膝を突いて下から跳ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。
原文: 起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。
起き上がって見ると、三間ばかり向こうに山嵐の大きな体が生徒の間に挟まりながら、よせよせ、喧嘩はよせよせと揉み返されてるのが見えた。
原文: おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
おいとても駄目だと言ってみたが聞こえないのか返事もしない。
原文: ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨へ中ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。
ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨へ当たったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。
原文: 教師の癖に出ている、打て打てと云う声がする。
教師のくせに出ている、打て打てと言う声がする。
原文: 教師は二人だ。
教師は二人だ。
原文: 大きい奴と、小さい奴だ。
大きい奴と、小さい奴だ。
原文: 石を抛げろ。
石を投げろ。
原文: と云う声もする。
と言う声もする。
原文: おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやった。
おれは、なに生意気なことをぬかすな、田舎者のくせにと、いきなり、そばにいた師範生の頭を張りつけてやった。
原文: 石がまたひゅうと来る。
石がまたひゅうと来る。
原文: 今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行った。
今度はおれの五分刈りの頭をかすめて後ろの方へ飛んで行った。
原文: 山嵐はどうなったか見えない。
山嵐はどうなったか見えない。
原文: こうなっちゃ仕方がない。
こうなっちゃ仕方がない。
原文: 始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。
始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石を投げられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。
原文: おれを誰だと思うんだ。
おれを誰だと思うんだ。
原文: 身長は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。
体は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと言う声がした。
原文: 今まで葛練りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。
今まで葛練りの中で泳いでるように身動きもできなかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引き上げてしまった。
原文: 田舎者でも退却は巧妙だ。
田舎者でも退却は巧妙だ。
原文: クロパトキンより旨いくらいである。
クロパトキンよりうまいくらいである。
原文: 山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向うの方で鼻を拭いている。
山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向こうの方で鼻を拭いている。
原文: 鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。
鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。
原文: 鼻がふくれ上がって真赤になってすこぶる見苦しい。
鼻がふくれ上がって真っ赤になってすこぶる見苦しい。
原文: おれは飛白の袷を着ていたから泥だらけになったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。
おれは飛白の袷を着ていたから泥だらけになったけれども、山嵐の羽織ほどの損害はない。
原文: しかし頬ぺたがぴりぴりしてたまらない。
しかし頬っぺたがぴりぴりしてたまらない。
原文: 山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
原文: 巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕まったのは、おれと山嵐だけである。
巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方角から退却したので、捕まったのは、おれと山嵐だけである。
原文: おれらは姓名を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末を述べて下宿へ帰った。
おれらは姓名を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと言うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末を述べて下宿へ帰った。
原文: 十一
十一
原文: あくる日眼が覚めてみると、身体中痛くてたまらない。
あくる日目が覚めてみると、体中痛くてたまらない。
原文: 久しく喧嘩をしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。
久しく喧嘩をしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。
原文: これじゃあんまり自慢もできないと床の中で考えていると、婆さんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。
これじゃあんまり自慢もできないと床の中で考えていると、婆さんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。
原文: 実は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきの事に閉口たれて仕様があるものかと無理に腹這いになって、寝ながら、二頁を開けてみると驚ろいた。
実は新聞を見るのもおっくうなんだが、男がこれしきのことにへこたれて仕様があるものかと無理に腹ばいになって、寝ながら、二頁を開けてみると驚いた。
原文: 昨日の喧嘩がちゃんと出ている。
昨日の喧嘩がちゃんと出ている。
原文: 喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向って暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記してある。
喧嘩の出ているのは驚かないのだが、中学の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、おとなしい生徒をそそのかしてこの騒動を引き起こしたばかりでなく、二人は現場にいて生徒を指揮した上、みだりに師範生に向かって暴行をほしいままにしたと書いて、次にこんな意見が書き添えてある。
原文: 本県の中学は昔時より善良温順の気風をもって全国の羨望するところなりしが、軽薄なる二豎子のために吾校の特権を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起ってその責任を問わざるを得ず。
本県の中学は昔から善良温順の気風をもって全国から羨まれてきたが、軽薄な二人の若造のために我が校の特権を傷つけられ、この不面目を全市に受けた以上は、我々は奮然と立ち上がってその責任を問わずにはいられない。
原文: 吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼等をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。
我々は信じる、我々が手を下す前に、当局者が相当の処分をこの無頼漢どもに加えて、彼らが二度と教育界に足を入れる余地がないようにすることを。
原文: そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸を据えたつもりでいる。
そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸をすえたつもりでいる。
原文: おれは床の中で、糞でも喰らえと云いながら、むっくり飛び起きた。
おれは床の中で、糞でも食らえと言いながら、むっくり飛び起きた。
原文: 不思議な事に今まで身体の関節が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
不思議なことに今まで体の節々が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
原文: おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架へ持って行って棄てて来た。
おれは新聞を丸めて庭へ投げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ便所へ持って行って棄てて来た。
原文: 新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。
新聞なんてむやみな嘘をつくもんだ。
原文: 世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。
世の中に何が一番法螺を吹くと言って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。
原文: おれの云ってしかるべき事をみんな向うで並べていやがる。
おれの言ってしかるべきことをみんな向こうで並べていやがる。
原文: それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。
それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。
原文: 天下に某と云う名前の人があるか。
天下に某という名前の人があるか。
原文: 考えてみろ。
考えてみろ。
原文: これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。
これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。
原文: 系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ。――
系図が見たきゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ。――
原文: 顔を洗ったら、頬ぺたが急に痛くなった。
顔を洗ったら、頬っぺたが急に痛くなった。
原文: 婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。
婆さんに鏡を貸せと言ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。
原文: 読んで後架へ棄てて来た。
読んで便所へ棄てて来た。
原文: 欲しけりゃ拾って来いと云ったら、驚いて引き下がった。
欲しけりゃ拾って来いと言ったら、驚いて引き下がった。
原文: 鏡で顔を見ると昨日と同じように傷がついている。
鏡で顔を見ると昨日と同じように傷がついている。
原文: これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上に生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
原文: 今日の新聞に辟易して学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。
今日の新聞に辟易して学校を休んだなどと言われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。
原文: 出てくる奴も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。
出てくる奴も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。
原文: 何がおかしいんだ。
何がおかしいんだ。
原文: 貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。
貴様たちにこしらえてもらった顔じゃあるまいし。
原文: そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄で、――名誉のご負傷でげすか、と送別会の時に撲った返報と心得たのか、いやに冷かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも舐めていろと云ってやった。
そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄で、――名誉のご負傷でげすか、と送別会のときになぐった仕返しと心得たのか、いやに冷やかしたから、余計なことを言わずに絵筆でも舐めていろと言ってやった。
原文: するとこりゃ恐入りやした。
するとこりゃ恐れ入りやした。
原文: しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。
しかしさぞお痛いことでげしょうと言うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。
原文: 貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向う側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向こう側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何か内緒話をして笑っている。
原文: それから山嵐が出頭した。
それから山嵐が出頭した。
原文: 山嵐の鼻に至っては、紫色に膨張して、掘ったら中から膿が出そうに見える。
山嵐の鼻に至っては、紫色にふくれ上がって、掘ったら中から膿が出そうに見える。
原文: 自惚のせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどく遣られている。
うぬぼれのせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどくやられている。
原文: おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。
おれと山嵐は机を並べて、隣り同士の近しい仲で、おまけにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運が悪い。
原文: 妙な顔が二つ塊まっている。
妙な顔が二つ固まっている。
原文: ほかの奴は退屈にさえなるときっとこっちばかり見る。
ほかの奴は退屈にさえなるときっとこっちばかり見る。
原文: 飛んだ事でと口で云うが、心のうちではこの馬鹿がと思ってるに相違ない。
飛んだことでと口で言うが、心のうちではこの馬鹿がと思ってるに違いない。
原文: それでなければああいう風に私語合ってはくすくす笑う訳がない。
それでなければああいう風にささやき合ってはくすくす笑う訳がない。
原文: 教場へ出ると生徒は拍手をもって迎えた。
教場へ出ると生徒は拍手をもって迎えた。
原文: 先生万歳と云うものが二三人あった。
先生万歳と言うものが二三人あった。
原文: 景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。
景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。
原文: おれと山嵐がこんなに注意の焼点となってるなかに、赤シャツばかりは平常の通り傍へ来て、どうも飛んだ災難でした。
おれと山嵐がこんなに注意の焦点となってるなかに、赤シャツばかりは平常の通りそばへ来て、どうも飛んだ災難でした。
原文: 僕は君等に対してお気の毒でなりません。
僕は君らに対してお気の毒でなりません。
原文: 新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。
新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。
原文: 僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんな事が起ったので、僕は実に申し訳がない。
僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんなことが起こったので、僕は実に申し訳がない。
原文: それでこの件についてはあくまで尽力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。
それでこの件についてはあくまで尽力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。
原文: 校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。
校長は三時間目に校長室から出てきて、困ったことを新聞が書き出しましたね。
原文: むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。
むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。
原文: おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。
おれには心配なんかない、先方で免職をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。
原文: しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。
しかし自分が悪くないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋に正誤させて、おれが意地にも勤めるのが順当だと考えた。
原文: 帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消の手続きはしたと云うから、やめた。
帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取り消しの手続きはしたと言うから、やめた。
原文: おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計って、嘘のないところを一応説明した。
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計らって、嘘のないところを一応説明した。
原文: 校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだろうと論断した。
校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに載せたんだろうと論断した。
原文: 赤シャツはおれ等の行為を弁解しながら控所を一人ごとに廻ってあるいていた。
赤シャツはおれらの行為を弁解しながら控え所を一人ごとに回って歩いていた。
原文: ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴していた。
ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのように言いふらしていた。
原文: みんなは全く新聞屋がわるい、怪しからん、両君は実に災難だと云った。
みんなはまったく新聞屋が悪い、けしからん、両君は実に災難だと言った。
原文: 帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。
帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。
原文: どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲き込んだのは策だぜと教えてくれた。
どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと言うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕らを誘い出して喧嘩のなかへ巻き込んだのは策だぜと教えてくれた。
原文: なるほどそこまでは気がつかなかった。
なるほどそこまでは気がつかなかった。
原文: 山嵐は粗暴なようだが、おれより智慧のある男だと感心した。
山嵐は粗暴なようだが、おれより知恵のある男だと感心した。
原文: 「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物だ」
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を回してあんな記事を書かせたんだ。実に悪党だ」
原文: 「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易く聴くかね」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの言うことをそうたやすく聞くかね」
原文: 「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」
「聞かなくって。新聞屋に友達がいりゃ訳はないさ」
原文: 「友達が居るのかい」
「友達がいるのかい」
原文: 「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「いなくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
原文: 「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕らはこの事件で免職になるかも知れないね」
原文: 「わるくすると、遣られるかも知れない」
「悪くすると、やられるかも知れない」
原文: 「そんなら、おれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼んだって居るのはいやだ」
「そんなら、おれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等なところに頼まれたっているのはいやだ」
原文: 「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
原文: 「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
原文: 「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁するのはむずかしいね」
「あんな悪党のやることは、何でも証拠の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、言い返すのはむずかしいね」
原文: 「厄介だな。それじゃ濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」
「厄介だな。それじゃ濡れ衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」
原文: 「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取って抑えるより仕方がないだろう」
「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取り押さえるより仕方がないだろう」
原文: 「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
原文: 「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」
「そうさ。こっちはこっちで向こうの急所を押さえるのさ」
原文: 「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
原文: 俺と山嵐はこれで分れた。
おれと山嵐はこれで分かれた。
原文: 赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。
赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。
原文: 到底智慧比べで勝てる奴ではない。
とうてい知恵比べで勝てる奴ではない。
原文: どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。
どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。
原文: なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。
なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。
原文: 個人でも、とどの詰りは腕力だ。
個人でも、とどのつまりは腕力だ。
原文: あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、開いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。
原文: 学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと云う。
学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと言う。
原文: 明日になって六号活字で小さく取消が出た。
明日になって六号活字で小さく取り消しが出た。
原文: しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。
しかし新聞屋の方で正誤は無論していない。
原文: また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。
また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだという答えだ。
原文: 校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。
校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。
原文: 虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つ詫まらせる事が出来ない。
嘘の記事を載せた田舎新聞一つあやまらせることができない。
原文: あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。
あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると言ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。
原文: つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。
つまり新聞屋に書かれたことは、嘘にせよ、本当にせよ、つまりどうすることもできないものだ。
原文: あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。
あきらめるよりほかに仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。
原文: 新聞がそんな者なら、一日も早く打っ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。
新聞がそんな者なら、一日も早くぶっ潰してしまった方が、我々の利益だろう。
原文: 新聞にかかれるのと、泥鼈に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日ただ今狸の説明によって始めて承知仕った。
新聞に書かれるのと、すっぽんに食いつかれるのとが似たり寄ったりだとは今日ただ今狸の説明によって初めて承知した。
原文: それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと言うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。
原文: ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾けた。
ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾げた。
原文: なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかと尋ねるから、いや云われない。
なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと言われたかと尋ねるから、いや言われない。
原文: 君は?
君は?
原文: と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決してくれと云われたとの事だ。
と聞き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえないから身を処してくれと言われたとのことだ。
原文: 「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎の学校はそう理窟が分らないんだろう。焦慮いな」
「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓を叩きすぎて、胃の位置がひっくり返ったんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踊りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと言うがいい。なんで田舎の学校はそう理屈が分からないんだろう。じれったいな」
原文: 「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「それが赤シャツの差し金だよ。おれと赤シャツとは今までのいきがかり上とうてい両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
原文: 「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
原文: 「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化されると考えてるのさ」
「君はあまり単純すぎるから、置いたって、どうでもごまかされると考えてるのさ」
原文: 「なお悪いや。誰が両立してやるものか」
「なお悪いや。誰が両立してやるものか」
原文: 「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし支えるからな」
「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に空きができて、授業にさし支えるからな」
原文: 「それじゃおれを間のくさびに一席伺わせる気なんだな。こん畜生、だれがその手に乗るものか」
「それじゃおれを間のくさびに一席伺わせる気なんだな。こん畜生、誰がその手に乗るものか」
原文: 翌日おれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
翌日おれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
原文: 「何で私に辞表を出せと云わないんですか」
「何で私に辞表を出せと言わないんですか」
原文: 「へえ?」
「へえ?」
原文: と狸はあっけに取られている。
と狸はあっけに取られている。
原文: 「堀田には出せ、私には出さないで好いと云う法がありますか」
「堀田には出せ、私には出さないでいいと言う法がありますか」
原文: 「それは学校の方の都合で……」
「それは学校の方の都合で……」
原文: 「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
原文: 「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
「その辺は説明ができかねますが――堀田君は去られてもやむをえないのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
原文: なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き払ってる。
なるほど狸だ、要領を得ないことばかり並べて、しかも落ち着き払ってる。
原文: おれは仕様がないから
おれは仕様がないから
原文: 「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情なことはできません」
原文: 「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから……」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるでできなくなってしまうから……」
原文: 「出来なくなっても私の知った事じゃありません」
「できなくなっても私の知ったことじゃありません」
原文: 「君そう我儘を云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「君そう我がままを言うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月経つか経たないのに辞職したと言うと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
原文: 「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
原文: 「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
「そりゃごもっとも――君の言うところは一々ごもっともだが、わたしの言う方も少しは察して下さい。君がぜひ辞職すると言うなら辞職されてもいいから、代わりのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
原文: 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼くなったり、赤くなったりして、可愛想になったからひとまず考え直す事として引き下がった。
考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が青くなったり、赤くなったりして、かわいそうになったからひとまず考え直すこととして引き下がった。
原文: 赤シャツには口もきかなかった。
赤シャツには口もきかなかった。
原文: どうせ遣っつけるなら塊めて、うんと遣っつける方がいい。
どうせやっつけるなら固めて、うんとやっつける方がいい。
原文: 山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。
山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんなことだろうと思った。
原文: 辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支えあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。
辞表のことはいざとなるまでそのままにしておいても差し支えあるまいとの話だったから、山嵐の言う通りにした。
原文: どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
どうも山嵐の方がおれよりも利口らしいから万事山嵐の忠告に従うことにした。
原文: 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をして浜の港屋まで下ったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へ潜んで、障子へ穴をあけて覗き出した。
山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をして浜の港屋まで下がったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へ潜んで、障子へ穴をあけて覗き出した。
原文: これを知ってるものはおればかりだろう。
これを知ってるものはおればかりだろう。
原文: 赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。
赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。
原文: しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極ってる。
しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに決まってる。
原文: 最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。
最初の二晩はおれも十一時頃まで張り番をしたが、赤シャツの影も見えない。
原文: 三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。
三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。
原文: 駄目を踏んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。
駄目を踏んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿げたことはない。
原文: 四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。
四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。
原文: そんな夜遊びとは夜遊びが違う。
そんな夜遊びとは夜遊びが違う。
原文: こっちのは天に代って誅戮を加える夜遊びだ。
こっちのは天に代わって成敗する夜遊びだ。
原文: とはいうものの一週間も通って、少しも験が見えないと、いやになるもんだ。
とはいうものの一週間も通って、少しも効き目が見えないと、いやになるもんだ。
原文: おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。
おれはせっかちな性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代わり何によらず長持ちのしたためしがない。
原文: いかに天誅党でも飽きる事に変りはない。
いかに天誅党でも飽きることに変わりはない。
原文: 六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。
六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。
原文: そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。
そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。
原文: 宵から十二時過までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下を睨めっきりである。
宵から十二時過ぎまでは目を障子へつけて、角屋の丸ぼやのガス燈の下をにらめっきりである。
原文: おれが行くと今日は何人客があって、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。
おれが行くと今日は何人客があって、泊まりが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚いた。
原文: どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組をして溜息をつく。
どうも来ないようじゃないかと言うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組みをしてため息をつく。
原文: 可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加える事は出来ないのである。
かわいそうに、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加えることはできないのである。
原文: 八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵を八つ買った。
八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で卵を八つ買った。
原文: これは下宿の婆さんの芋責に応ずる策である。
これは下宿の婆さんの芋責めに応ずる策である。
原文: その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のような顔は急に活気を呈した。
その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋のはしご段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のような顔は急に活気づいた。
原文: 昨夜までは少し塞ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快愉快と云った。
ゆうべまでは少しふさぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気くさいと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快愉快と言った。
原文: 「今夜七時半頃あの小鈴と云う芸者が角屋へはいった」
「今夜七時半頃あの小鈴という芸者が角屋へはいった」
原文: 「赤シャツといっしょか」
「赤シャツといっしょか」
原文: 「いいや」
「いいや」
原文: 「それじゃ駄目だ」
「それじゃ駄目だ」
原文: 「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
原文: 「どうして」
「どうして」
原文: 「どうしてって、ああ云う狡い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「どうしてって、ああいうずるい奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
原文: 「そうかも知れない。もう九時だろう」
「そうかも知れない。もう九時だろう」
原文: 「今九時十二分ばかりだ」
「今九時十二分ばかりだ」
原文: と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐はすぐ疑ぐるから」
と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら言ったが「おいランプを消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐はすぐ疑ぐるから」
原文: おれは一貫張の机の上にあった置き洋燈をふっと吹きけした。
おれは一貫張りの机の上にあった置きランプをふっと吹き消した。
原文: 星明りで障子だけは少々あかるい。
星明かりで障子だけは少々明るい。
原文: 月はまだ出ていない。
月はまだ出ていない。
原文: おれと山嵐は一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らしている。
おれと山嵐は一生懸命に障子へ顔をつけて、息を凝らしている。
原文: チーンと九時半の柱時計が鳴った。
チーンと九時半の柱時計が鳴った。
原文: 「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭だぜ」
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもういやだぜ」
原文: 「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「おれは銭の続く限りやるんだ」
原文: 「銭っていくらあるんだい」
「銭っていくらあるんだい」
原文: 「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」
原文: 「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「それは手回しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
原文: 「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
原文: 「その代り昼寝をするだろう」
「その代わり昼寝をするだろう」
原文: 「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈でたまらない」
「昼寝はするが、外出ができないんで窮屈でたまらない」
原文: 「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして漏らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
原文: 「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」
原文: と小声になったから、おれは思わずどきりとした。
と小声になったから、おれは思わずどきりとした。
原文: 黒い帽子を戴いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。
黒い帽子をかぶった男が、角屋のガス燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。
原文: 違っている。
違っている。
原文: おやおやと思った。
おやおやと思った。
原文: そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打った。
そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打った。
原文: 今夜もとうとう駄目らしい。
今夜もとうとう駄目らしい。
原文: 世間は大分静かになった。
世間は大分静かになった。
原文: 遊廓で鳴らす太鼓が手に取るように聞える。
遊廓で鳴らす太鼓が手に取るように聞こえる。
原文: 月が温泉の山の後からのっと顔を出した。
月が温泉の山の後ろからのっと顔を出した。
原文: 往来はあかるい。
往来は明るい。
原文: すると、下の方から人声が聞えだした。
すると、下の方から人声が聞こえだした。
原文: 窓から首を出す訳には行かないから、姿を突き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。
窓から首を出す訳には行かないから、姿を突き止めることはできないが、だんだん近づいて来る模様だ。
原文: からんからんと駒下駄を引き擦る音がする。
からんからんと駒下駄を引きずる音がする。
原文: 眼を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるくらいに近づいた。
目を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるくらいに近づいた。
原文: 「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」
「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」
原文: 正しく野だの声である。
正しく野だの声である。
原文: 「強がるばかりで策がないから、仕様がない」
「強がるばかりで策がないから、仕様がない」
原文: これは赤シャツだ。
これは赤シャツだ。
原文: 「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」
「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」
原文: 「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」
「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異常があるに違いない」
原文: おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様打ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防した。
おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思うさまぶちのめしてやろうと思ったが、やっとのことで辛抱した。
原文: 二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜って、角屋の中へはいった。
二人はハハハハと笑いながら、ガス燈の下をくぐって、角屋の中へはいった。
原文: 「おい」
「おい」
原文: 「おい」
「おい」
原文: 「来たぜ」
「来たぜ」
原文: 「とうとう来た」
「とうとう来た」
原文: 「これでようやく安心した」
「これでようやく安心した」
原文: 「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった」
「野だの畜生、おれのことを勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった」
原文: 「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
「邪魔物と言うのは、おれのことだぜ。失敬千万な」
原文: おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。
おれと山嵐は二人の帰り道を待ち伏せしなければならない。
原文: しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。
しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。
原文: 山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼んで来た。
山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼んで来た。
原文: 今思うと、よく宿のものが承知したものだ。
今思うと、よく宿のものが承知したものだ。
原文: 大抵なら泥棒と間違えられるところだ。
たいていなら泥棒と間違えられるところだ。
原文: 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。
赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。
原文: 寝る訳には行かないし、始終障子の隙から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀な思いをした事はいまだにない。
寝る訳には行かないし、始終障子の隙からにらんでいるのもつらいし、どうも、こうも心が落ち着かなくって、これほど難儀な思いをしたことはいまだにない。
原文: いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑えようと発議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥けた。
いっそのこと角屋へ踏み込んで現場を取り押さえようと言い出したが、山嵐は一言でおれの申し出をしりぞけた。
原文: 自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中で遮られる。
自分たちが今時分飛び込んだって、乱暴者だと言って途中でさえぎられる。
原文: 訳を話して面会を求めれば居ないと逃げるか別室へ案内をする。
訳を話して面会を求めればいないと逃げるか別室へ案内をする。
原文: 不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢した。
不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこにいるか分かるものではない、退屈でも出るのを待つよりほかに策はないと言うから、ようやくのことでとうとう朝の五時まで我慢した。
原文: 角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。
角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。
原文: 一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。
一番汽車はまだないから、二人とも城下まで歩かなければならない。
原文: 温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田圃になる。
温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田んぼになる。
原文: それを通りこすとここかしこに藁葺があって、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。
それを通り越すとここかしこに藁葺きがあって、畑の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。
原文: 町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。
町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。
原文: 町を外れると急に馳け足の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。
町をはずれると急に駆け足の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。
原文: 何が来たかと驚ろいて振り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。
何が来たかと驚いて振り向く奴を待てと言って肩に手をかけた。
原文: 野だは狼狽の気味で逃げ出そうという景色だったから、おれが前へ廻って行手を塞いでしまった。
野だは狼狽の気味で逃げ出そうという様子だったから、おれが前へ回って行く手をふさいでしまった。
原文: 「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊まった」
原文: と山嵐はすぐ詰りかけた。
と山嵐はすぐなじりかけた。
原文: 「教頭は角屋へ泊って悪るいという規則がありますか」
「教頭は角屋へ泊まって悪いという規則がありますか」
原文: と赤シャツは依然として鄭寧な言葉を使ってる。
と赤シャツは相変わらずていねいな言葉を使ってる。
原文: 顔の色は少々蒼い。
顔の色は少々青い。
原文: 「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」
「取り締まり上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、言うくらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へ泊まり込んだ」
原文: 野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」
野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ちふさがって「べらんめえの坊っちゃんとは何だ」
原文: と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」
と怒鳴りつけたら、「いえ君のことを言ったんじゃないんです、まったくないんです」
原文: と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。
と鉄面皮に言い訳がましいことをぬかした。
原文: おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握ってる。
おれはこのとき気がついてみたら、両手で自分の袂を握ってる。
原文: 追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。
追っかけるときに袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。
原文: おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲きつけた。
おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと言いながら、野だの面へ叩きつけた。
原文: 玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。
玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄身がだらだら流れだした。
原文: 野だはよっぽど仰天した者と見えて、わっと言いながら、尻持をついて、助けてくれと云った。
野だはよっぽど仰天した者と見えて、わっと言いながら、尻もちをついて、助けてくれと言った。
原文: おれは食うために玉子は買ったが、打つけるために袂へ入れてる訳ではない。
おれは食うために玉子は買ったが、ぶつけるために袂へ入れてる訳ではない。
原文: ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。
ただ癇癪のあまりに、ついぶつけるともなしにぶつけてしまったのだ。
原文: しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔中黄色になった。
しかし野だが尻もちを突いたところを見て初めて、おれの成功したことに気がついたから、こん畜生、こん畜生と言いながら残る六つを無茶苦茶に叩きつけたら、野だは顔中黄色になった。
原文: おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
おれが玉子を叩きつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判の最中である。
原文: 「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」
「芸者を連れて僕が宿屋へ泊まったという証拠がありますか」
原文: 「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て言うことだ。ごまかせるものか」
原文: 「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「ごまかす必要はない。僕は吉川君と二人で泊まったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知ったことではない」
原文: 「だまれ」
「だまれ」
原文: と山嵐は拳骨を食わした。
と山嵐は拳骨を食わした。
原文: 赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
原文: 「無法でたくさんだ」
「無法でたくさんだ」
原文: とまたぽかりと撲ぐる。
とまたぽかりとなぐる。
原文: 「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」
「貴様のような悪党はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」
原文: とぽかぽかなぐる。
とぽかぽかなぐる。
原文: おれも同時に野だを散々に擲き据えた。
おれも同時に野だを散々に叩き据えた。
原文: しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
しまいには二人とも杉の根元にうずくまって動けないのか、目がちらちらするのか逃げようともしない。
原文: 「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだなぐってやる」
原文: とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」
とぽかんぽかんと二人でなぐったら「もうたくさんだ」
原文: と云った。
と言った。
原文: 野だに「貴様もたくさんか」
野だに「貴様もたくさんか」
原文: と聞いたら「無論たくさんだ」
と聞いたら「無論たくさんだ」
原文: と答えた。
と答えた。
原文: 「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」
「貴様らは悪党だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」
原文: と山嵐が云ったら両人共だまっていた。
と山嵐が言ったら二人ともだまっていた。
原文: ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
ことによると口をきくのがおっくうなのかも知れない。
原文: 「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」
「おれは逃げも隠れもしない。今夜五時までは浜の港屋にいる。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」
原文: と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」
と山嵐が言うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じところに待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」
原文: と云って、二人してすたすたあるき出した。
と言って、二人してすたすた歩き出した。
原文: おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。
おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。
原文: 部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。
部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。
原文: お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。
お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。
原文: おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辞職の上東京へ帰り申候につき左様御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分からないから、私こと、都合により辞職の上東京へ帰りますので、そのようにご承知ください、以上と書いて校長宛にして郵便で出した。
原文: 汽船は夜六時の出帆である。
汽船は夜六時の出帆である。
原文: 山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。
山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで目が覚めたら、午後二時であった。
原文: 下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
原文: 「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」
「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」
原文: と二人は大きに笑った。
と二人は大いに笑った。
原文: その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。
原文: 船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。
船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。
原文: 神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。
神戸から東京までは直行で新橋へ着いたときは、ようやく娑婆へ出たような気がした。
原文: 山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
山嵐とはすぐ分かれたきり今日まで会う機会がない。
原文: 清の事を話すのを忘れていた。――
清のことを話すのを忘れていた。――
原文: おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。
おれが東京へ着いて下宿へも行かず、鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落とした。
原文: おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと言った。
原文: その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。
その後ある人の世話で街鉄の技手になった。
原文: 月給は二十五円で、家賃は六円だ。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
原文: 清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。
清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。
原文: 死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
原文: お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと言った。
原文: だから清の墓は小日向の養源寺にある。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。
原文: (明治三十九年四月)
(明治三十九年四月)