坊っちゃん 小学生向け
夏目漱石(なつめそうせき)・1992年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
一
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一
親(おや)ゆずりの無鉄砲(むてっぽう・向こう見ずなこと)で、子どものころから損ばかりしている。
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親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
小学校にいたころ、学校の二階から飛び降りて、一週間ほど腰(こし)を抜かしたことがある。
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小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。
なぜそんな無闇(むやみ・むちゃ)なことをしたのかと聞く人がいるかもしれない。
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なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。
別に深い理由なんてない。
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別段深い理由でもない。
新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談(じょうだん)に、いくら威張(いば)っても、そこから飛び降りることはできまい。
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新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。
弱虫やーい。
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弱虫やーい。
と、はやし立てたからである。
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と囃したからである。
小使(こづかい・学校の用務員)さんにおぶさって帰って来たとき、おやじが大きな目をして、二階くらいから飛び降りて腰を抜かすやつがあるかと言ったので、この次は抜かさずに飛んでみせますと答えた。
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小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
親類の人から西洋製のナイフをもらって、きれいな刃(は)を日にかざして友達に見せていたら、一人が光ることは光るが、切れそうもないなと言った。
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親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。
切れないことがあるか、何でも切ってみせると、おれは請け合った。
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切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。
それなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと、右手の親指の甲(こう)をななめに切り込んだ。
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そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。
幸いナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今でも親指は手についている。
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幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。
しかし創痕(きずあと)は死ぬまで消えない。
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しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
庭を東へ二十歩歩いて行き着くと、南に上がったところに小さな菜園があって、真ん中に栗(くり)の木が一本立っている。
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庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。
これは命より大事な栗だ。
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これは命より大事な栗だ。
実が熟(じゅく)するころは、起きてすぐに背戸(せど・裏口)を出て、落ちた実を拾ってきて学校で食う。
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実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。
菜園の西側は、山城屋(やましろや)という質屋(しちや)の庭とつながっていて、この質屋に勘太郎(かんたろう)という十三、四歳のせがれがいた。
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菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。
勘太郎はもちろん弱虫だ。
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勘太郎は無論弱虫である。
弱虫のくせに、四つ目垣(よつめがき・竹で編んだ垣根)を乗りこえて栗を盗みにくる。
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弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。
ある日の夕方、折戸(おりど・開き戸)の陰に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。
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ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。
そのとき勘太郎は逃げ道を失って、一生懸命に飛びかかってきた。
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その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。
向こうは二つほど年上だ。
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向うは二つばかり年上である。
弱虫だが力は強い。
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弱虫だが力は強い。
鉢(はち)の開いた頭をこっちの胸に当てて、ぐいぐい押してきた拍子(ひょうし)に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷(あわせ・裏地つきの着物)の袖の中に入った。
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鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中にはいった。
邪魔(じゃま)で手が使えないから、めちゃくちゃに手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右へ左へぐらぐら揺れた。
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邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。
しまいに苦しがって、袖の中からおれの二の腕にかみついた。
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しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。
痛かったので勘太郎を垣根に押しつけておいて、足をからめて向こうへ倒してやった。
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痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。
山城屋の地面は、菜園より六尺(ろくしゃく・約一・八メートル)ほど低い。
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山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。
勘太郎は四つ目垣を半分こわして、自分の家の方へ真っ逆さまに落ち、ぐうとうめいた。
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勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。
勘太郎が落ちるとき、おれの袷の片袖がちぎれて、急に手が自由になった。
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勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。
その晩、母が山城屋にわびに行ったついでに、袷の片袖も取り返してきた。
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その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。
この他にも、いたずらはずいぶんやった。
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この外いたずらは大分やった。
大工の兼公(かねこう)と魚屋の角(かく)を連れて、茂作(もさく)の人参畑(にんじんばたけ)を荒らしたことがある。
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大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。
人参の芽がまだ出そろっていないところに、わらが一面に敷いてあったので、その上で三人が半日、ずっと相撲(すもう)を取っていたら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。
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人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。
古川(ふるかわ)の持っている田んぼの井戸を埋めて、文句を持ち込まれたこともある。
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古川の持っている田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。
太い孟宗竹(もうそうだけ)の節を抜いて、深く土に埋めた中から水がわき出て、そこらの稲(いね)に水がかかる仕掛け(しかけ)になっていた。
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太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲にみずがかかる仕掛であった。
そのころはどんな仕掛けか知らなかったから、石や棒切れをぎゅうぎゅう井戸の中に押し込んで、水が出なくなったのを見届けてから、うちに帰って飯を食っていたら、古川が真っ赤になってどなり込んできた。
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その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。
たしか罰金(ばっきん)を払って済んだようだ。
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たしか罰金を出して済んだようである。
おやじは、ちっともおれをかわいがってくれなかった。
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おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。
母は兄ばかりを贔屓(ひいき)にしていた。
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母は兄ばかり贔屓にしていた。
この兄はやけに色が白くて、芝居のまねをして女形(おんながた・女の役をする役者)になるのが好きだった。
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この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。
おれを見るたびに、こいつはどうせろくな者にはならないと、おやじが言った。
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おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。
乱暴で乱暴で、この先が思いやられると母が言った。
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乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。
なるほど、ろくな者にはならない。
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なるほど碌なものにはならない。
見ての通りのありさまである。
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ご覧の通りの始末である。
先が思いやられたのも無理はない。
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行く先が案じられたのも無理はない。
ただ懲役(ちょうえき・刑務所に入ること)に行かないで生きているだけである。
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ただ懲役に行かないで生きているばかりである。
母が病気で死ぬ二、三日前、台所で宙返りをして、かまどの角に肋骨(あばらぼね)をぶつけて、ひどく痛かった。
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母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。
母がひどく怒って、お前のような者の顔は見たくないと言うので、親類の家に泊まりに行っていた。
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母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊りに行っていた。
すると、とうとう死んだという知らせが来た。
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するととうとう死んだと云う報知が来た。
そんなに早く死ぬとは思わなかった。
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そう早く死ぬとは思わなかった。
そんな大病なら、もう少しおとなしくしていればよかったと思って帰って来た。
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そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。
そうしたら、あの兄が、おれを親不孝だ、おれのせいでおっかさんは早く死んだんだと言った。
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そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。
悔しかったから、兄のほっぺたをひっぱたいて、こっぴどく叱られた。
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口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。
母が死んでからは、おやじと兄とおれの三人で暮らしていた。
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母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮していた。
おやじは何にもしない男で、人の顔さえ見れば「貴様は駄目だ、駄目だ」と口癖のように言っていた。
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おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように云っていた。
何が駄目なのか、今でも分からない。
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何が駄目なんだか今に分らない。
妙なおやじがあったものだ。
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妙なおやじがあったもんだ。
兄は実業家になるとか言って、さかんに英語を勉強していた。
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兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。
もともと女のような気性で、ずるいところがあったから、仲がよくなかった。
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元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。
十日に一度くらいの割で喧嘩をしていた。
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十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。
ある時将棋を指していたら、兄が卑怯(ひきょう・ずるいこと)な待ち駒(まちごま・相手を動けなくしてじっと待つ手)をして、こっちが困ると嬉しそうにからかった。
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ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。
あんまり腹が立ったから、手にあった飛車を眉間(みけん・両目の間)にたたきつけてやった。
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あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。
眉間が割れて少し血が出た。
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眉間が割れて少々血が出た。
兄がおやじに言いつけた。
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兄がおやじに言付けた。
おやじが、おれを勘当(かんどう・家族の縁を切ること)すると言い出した。
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おやじがおれを勘当すると言い出した。
そのときはもう仕方がないと覚悟して、言われた通り勘当されるつもりでいたら、十年来うちで働いていた清という、お手伝いの女の人が、泣きながらおやじに謝って、ようやくおやじの怒りが解けた。
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その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。
それでも、あまりおやじを怖いとは思わなかった。
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それにもかかわらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。
かえって、この清が気の毒だった。
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かえってこの清と云う下女に気の毒であった。
この清は、もともと由緒(ゆいしょ・りっぱな家柄)のある家の出だったそうだが、瓦解(がかい・江戸幕府がほろびたこと)のときに落ちぶれて、とうとう奉公(ほうこう・よそで住み込みで働くこと)までするようになったのだと聞いている。
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この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。
だから、おばあさんだった。
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だから婆さんである。
このおばあさんが、どういうわけか、おれをひどくかわいがってくれた。
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この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。
不思議なものである。
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不思議なものである。
母も死ぬ三日前に愛想(あいそ)をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎とのけ者にされる――そんなおれを、わけもなく大事にしてくれた。
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母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。
おれは、どうせ人に好かれるたちではないとあきらめていたから、他人から木ぎれのように扱われても何とも思わなかった。かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不思議に思った。
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おれは到底人に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考えた。
清は、時々台所で人がいないときに、「あなたはまっすぐでよいご気性だ」
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清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」
とほめることが時々あった。
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と賞める事が時々あった。
しかし、おれには清の言う意味が分からなかった。
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しかしおれには清の云う意味が分からなかった。
よい気性なら、清以外の人ももう少しよくしてくれるだろうと思った。
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好い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。
清がこんなことを言うたびに、おれはお世辞は嫌いだと答えるのがいつもだった。
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清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。
すると、おばあさんは「それだからよいご気性です」と言っては、うれしそうにおれの顔をながめている。
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すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。
まるで自分の力でおれを作り上げたと誇っているように見える。
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自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。
少々気味が悪かった。
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少々気味がわるかった。
母が死んでから、清はいよいよおれをかわいがった。
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母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。
時々は子ども心に、なぜあんなにかわいがるのかと不思議に思った。
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時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。
つまらない、やめればいいのにと思った。
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つまらない、廃せばいいのにと思った。
気の毒だと思った。
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気の毒だと思った。
それでも清はかわいがる。
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それでも清は可愛がる。
時々は自分の小遣いで金鍔(きんつば)や紅梅焼(こうばいやき・どちらもお菓子の名前)を買ってくれる。
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折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。
寒い夜などはこっそりそば粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へそば湯を持って来てくれる。
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寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。
時には鍋焼きうどんさえ買ってくれた。
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時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。
ただ食べ物ばかりではない。
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ただ食い物ばかりではない。
靴下や足袋ももらった。
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靴足袋ももらった。
鉛筆ももらった、帳面ももらった。
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鉛筆も貰った、帳面も貰った。
これはずっと後のことだが、お金を三円ほど貸してくれたことさえある。
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これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。
何も貸してくれと言ったわけではない。
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何も貸せと云った訳ではない。
向こうが部屋へ持って来て、「お小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさい」と言ってくれたのだ。
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向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。
おれはもちろんいらないと言ったが、ぜひ使えと言うから、借りておいた。
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おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。
実はとてもうれしかった。
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実は大変嬉しかった。
その三円をがまぐち(口金のついた小さな財布)へ入れて、ふところに入れたまま便所へ行ったら、すぽんと便器の中へ落としてしまった。
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その三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。
仕方がないから、のそのそ出て来て、実はこれこれだと清に話したら、清はさっそく竹の棒をさがして来て、「取ってあげます」と言った。
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仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。
しばらくすると井戸端でざあざあ音がするので、出てみたら、竹の先にがまぐちのひもを引っかけたのを水で洗っていた。
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しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。
それから口をあけて一円札を見たら、茶色になって模様が消えかかっていた。
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それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。
清は火鉢で乾かして、「これでいいでしょう」と出した。
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清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。
ちょっとかいでみて「くさいや」と言ったら、「それじゃお出しなさい、取り替えて来てあげますから」と、どこでどうごまかしたのか、札の代わりに銀貨を三円持って来た。
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ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。
この三円は何に使ったか忘れてしまった。
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この三円は何に使ったか忘れてしまった。
「今に返すよ」と言ったきり、返さない。
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今に返すよと云ったぎり、返さない。
今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
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今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物をくれるときには、必ずおやじも兄もいないときに限る。
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清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。
おれは何が嫌いだと言って、人に隠れて自分だけ得をすることほど嫌いなことはない。
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おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。
兄とはもちろん仲がよくないけれど、兄に隠して清からお菓子や色鉛筆をもらいたくはない。
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兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。
「なぜ、おれ一人にくれて、兄さんにはやらないのか」と清に聞くことがある。
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なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。
すると清はすましたもので、「お兄様はお父様が買ってお上げになるから構いません」と言う。
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すると清は澄したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。
これは不公平である。
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これは不公平である。
おやじは頑固だけれど、そんなえこひいきはしない男だ。
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おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。
しかし清の目から見ると、そう見えるのだろう。
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しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。
まったく愛におぼれていたに違いない。
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全く愛に溺れていたに違いない。
もともと身分のある家の出でも、教育のないおばあさんだから仕方がない。
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元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。
ただこればかりではない。
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単にこればかりではない。
ひいき目というのは恐ろしいものだ。
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贔負目は恐ろしいものだ。
清は、おれが将来立派に出世して立派な人になると思い込んでいた。
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清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。
それなのに、勉強する兄のことは、色が白いだけで、とても役には立たないと一人で決めてしまった。
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その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。
こんなおばあさんに出会ったのではかなわない。
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こんな婆さんに逢っては叶わない。
自分の好きな人は必ずえらい人物になり、嫌いな人はきっと落ちぶれると信じている。
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自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。
おれはそのとき、別に何になろうという考えもなかった。
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おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。
しかし清が「なるなる」と言うものだから、やっぱり何かにはなれるんだろうと思っていた。
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しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。
今から考えるとばかばかしい。
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今から考えると馬鹿馬鹿しい。
ある時など、清に「どんなものになるだろう」と聞いてみたことがある。
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ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。
ところが清にも、これといった考えはなかったようだ。
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ところが清にも別段の考えもなかったようだ。
ただ、人力車に乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに違いないと言った。
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ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。
それから清は、おれが家でも持って独立したら、いっしょに暮らす気でいた。
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それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。
「どうか置いてください」と何度も繰り返して頼んだ。
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どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。
おれも何だか家が持てるような気がして、「うん、置いてやる」と返事だけはしておいた。
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おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。
ところがこの人はなかなか想像力の強い女の人で、「あなたはどこがお好き、麹町(こうじまち)ですか麻布(あざぶ)ですか、お庭にぶらんこをおこしらえなさいませ、洋間は一つでたくさんです」などと、勝手な計画を一人で並べていた。
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ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。
そのときは家なんて欲しくも何ともなかった。
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その時は家なんか欲しくも何ともなかった。
洋館も日本風の家もまったく必要なかったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。
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西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。
すると「あなたは欲がなくて、心がきれいだ」と言ってまたほめた。
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すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。
清は何と言ってもほめてくれる。
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清は何と云っても賞めてくれる。
母が死んでから五、六年の間はこの調子で暮らしていた。
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母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。
おやじには叱られる。
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おやじには叱られる。
兄とは喧嘩をする。
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兄とは喧嘩をする。
清にはお菓子をもらう、時々ほめられる。
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清には菓子を貰う、時々賞められる。
別に望みもない。
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別に望みもない。
これでたくさんだと思っていた。
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これでたくさんだと思っていた。
ほかの子どもも、たいていこんなものだろうと思っていた。
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ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。
ただ清が何かにつけて、「あなたはお可哀想だ、お気の毒だ」としきりに言うものだから、それじゃ可哀想で気の毒なんだろうと思った。
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ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。
そのほかに苦になることは少しもなかった。
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その外に苦になる事は少しもなかった。
ただ、おやじが小遣いをくれないのには困った。
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ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。
母が死んでから六年目の正月に、おやじも脳卒中で亡くなった。
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母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。
その年の四月に、おれはある私立の中学校を卒業する。
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その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。
六月に兄は商業学校を卒業した。
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六月に兄は商業学校を卒業した。
兄は何とか会社の九州の支店に働き口があって、そこへ行かなければならない。
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兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。
おれは東京で、まだ学問をしなければならない。
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おれは東京でまだ学問をしなければならない。
兄は家を売って財産を片付け、任地へ出発すると言い出した。
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兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。
おれはどうでもするがよかろうと返事をした。
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おれはどうでもするがよかろうと返事をした。
どうせ兄の世話になる気はない。
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どうせ兄の厄介になる気はない。
世話をしてくれるにしたって、喧嘩をするから、向こうでも何とか言い出すに決まっている。
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世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すに極っている。
なまじ世話になれば、こんな兄に頭を下げなければならなくなる。
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なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。
牛乳配達をしてでも食っていけると覚悟をした。
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牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。
兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々のがらくたを二束三文(にそくさんもん・とても安い値段)で売った。
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兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。
家や土地は、ある人の紹介で金持ちに譲った。
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家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。
この件は大分お金になったようだが、詳しいことは全く知らない。
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この方は大分金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。
おれは一ヶ月ほど前から、しばらく先の方向が決まるまで神田の小川町(おがわまち)に下宿していた。
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おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿していた。
清は、十何年も住んでいた家が人手に渡るのをとても残念がったが、自分のものではないから仕方がなかった。
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清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。
「あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここを継ぐことができましたのに」としきりに言っていた。
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あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。
もう少し年をとって継げるものなら、今でも継げるはずだ。
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もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。
おばあさんは何も知らないから、年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
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婆さんは何も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
兄とおれはこうして別れたが、困ったのは清の行く先である。
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兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。
兄はもちろん連れて行ける身分ではなく、清も兄の後について九州くんだりまで出かける気は少しもなく、それにこのときのおれは四畳半の安下宿に閉じこもっていて、それすらいざとなればすぐに引き払わなければならないありさまだ。
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兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。
どうすることもできない。
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どうする事も出来ん。
清に聞いてみた。
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清に聞いてみた。
「どこかへ奉公でもする気かね」と言ったら、「あなたがお家をお持ちになって、奥様をおもらいになるまでは仕方がないから、甥の世話になりましょう」と、ようやく決心した返事をした。
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どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。
この甥は裁判所の書記で、まずまず今日には困らずに暮らしていたから、今までも清に「来るなら来い」と二、三度勧めていたのだが、清は「たとえお手伝い奉公でも、長年住み慣れた家のほうがいい」と言って応じなかった。
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この甥は裁判所の書記でまず今日には差支えなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。
しかし今の場合、知らない屋敷へ奉公先を変えて、いらない気づかいをし直すより、甥の世話になるほうがましだと思ったのだろう。
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しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。
それにしても「早く家を持て」の、「妻をもらえ」の、「来て世話をする」のと言う。
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それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、来て世話をするのと云う。
実の甥よりも、他人のおれのほうが好きなのだろう。
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親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
九州へ発つ二日前、兄が下宿へ来て、金を六百円出して、「これを資本にして商売をするなり、学費にして勉強をするなり、どうでも好きに使うがいい、その代わりあとは知らない」と言った。
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九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと云った。
兄にしては感心なやり方だ。何も六百円くらいもらわなくても困りはしないと思ったが、いつもと違ってさっぱりした処置が気に入ったから、礼を言ってもらっておいた。
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兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。
兄はそれから五十円出して、「これをついでに清に渡してくれ」と言ったから、異議なく引き受けた。
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兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。
二日たって新橋の駅で別れたきり、兄にはその後一度も会っていない。
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二日立って新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。
おれは六百円の使い道について寝ながら考えた。
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おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。
商売をしたって面倒くさくてうまくできるものでもないし、それに六百円くらいのお金で商売らしい商売ができるわけでもなかろう。
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商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。
たとえできたとしても、今のようでは人の前に出て教育を受けたと胸を張れないから、結局損になるだけだ。
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よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。
資本などはどうでもいいから、これを学費にして勉強してやろう。
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資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。
六百円を三つに分けて、一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強ができる。
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六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。
三年間一生懸命にやれば何かになれる。
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三年間一生懸命にやれば何か出来る。
それからどこの学校に入ろうかと考えたが、学問は生まれつきどれもこれも好きではない。
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それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。
ことに語学とか文学とかいうものはまっぴらごめんだ。
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ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。
新体詩などとなると、二十行あるうち一行も分からない。
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新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。
どうせ嫌いなものなら何をやっても同じだと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたので、これも縁だと思ってすぐに規則書をもらい、入学の手続きをしてしまった。
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どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。
今考えると、これも親譲りの無鉄砲から起こった失敗だ。
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今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
三年間まあ人並みには勉強したが、特に成績のいいほうでもなかったから、席順はいつでも下から数えるほうが早かった。
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三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。
しかし不思議なもので、三年たったら、とうとう卒業してしまった。
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しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。
自分でもおかしいと思ったが、文句を言うわけもないから、大人しく卒業しておいた。
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自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
卒業してから八日目に校長が呼びに来たので、何か用だろうと思って出かけて行ったら、四国あたりのある中学校で数学の教師が必要だという話だった。
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卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。
「月給は四十円だが、行ってはどうか」という相談である。
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月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。
おれは三年間学問はしたが、実を言うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。
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おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。
もっとも教師以外に何をしようというあてもなかったから、この相談を受けたとき、「行きましょう」とその場で返事をした。
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もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。
これも親譲りの無鉄砲がたたったのである。
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これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
引き受けた以上は赴任しなければならない。
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引き受けた以上は赴任せねばならぬ。
この三年間は四畳半に引きこもって、小言はただの一度も聞いたことがない。
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この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。
喧嘩もせずに済んだ。
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喧嘩もせずに済んだ。
おれの生涯の中では比較的のんびりした時期であった。
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おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。
しかしこうなると四畳半も引き払わなければならない。
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しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。
生まれてから東京以外に出たのは、同級生といっしょに鎌倉へ遠足したときだけである。
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生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。
今度は鎌倉どころではない。
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今度は鎌倉どころではない。
たいへん遠くへ行かなければならない。
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大変な遠くへ行かねばならぬ。
地図で見ると海辺で針の先ほど小さく見える。
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地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。
どうせろくな所ではあるまい。
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どうせ碌な所ではあるまい。
どんな町で、どんな人が住んでいるか分からない。
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どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。
分からなくても困らない。
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分らんでも困らない。
心配にはならない。
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心配にはならぬ。
ただ行くだけである。
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ただ行くばかりである。
もっとも少々面倒くさい。
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もっとも少々面倒臭い。
家をたたんでからも、清の所へは時々行った。
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家を畳んでからも清の所へは折々行った。
清の甥というのは、思いのほかしっかりした人である。
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清の甥というのは存外結構な人である。
おれが行くたびに、家にいさえすれば、何くれとなくもてなしてくれた。
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おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。
清はおれを前に置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。
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清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。
「今に学校を卒業すると麹町あたりに屋敷を買って役所へ通うのだ」などとふれ回ったこともある。
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今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。
一人で決めて一人でしゃべるから、こっちは困って顔を赤くした。
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独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。
それも一度や二度ではない。
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それも一度や二度ではない。
時々、おれが小さいときに寝小便をしたことまで持ち出すのには参った。
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折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。
甥は何と思って清の自慢話を聞いていたのか分からない。
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甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。
ただ清は昔ふうの女だから、自分とおれの関係を、封建時代の主人と家来のように考えていた。
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ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。
「自分の主人なら、甥にとっても主人に違いない」と思い込んだらしい。
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自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。
甥こそいい迷惑だ。
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甥こそいい面の皮だ。
いよいよ約束が決まって、もう出発するという三日前に清を訪ねたら、北向きの三畳間に風邪を引いて寝ていた。
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いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
おれが来たのを見て、起き直るが早いか、「坊っちゃん、いつお家をお持ちなさいますか」と聞いた。
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おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。
卒業さえすれば、お金が自然とポケットの中にわいて来ると思っている。
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卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。
そんなにえらい人をつかまえて、まだ「坊っちゃん」と呼ぶのはますますおかしい。
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そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
おれはあっさり、当分家は持たない、
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おれは単簡に当分うちは持たない。
田舎へ行くんだと言ったら、ひどくがっかりした様子で、白髪まじり(胡麻塩=ごましお)のびん(耳ぎわの髪)の乱れをしきりになでた。
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田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。
あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」
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あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」
となぐさめてやった。
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と慰めてやった。
それでも変な顔をしているので、「お土産に何を買って来てやろう、何が欲しい」
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それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」
と聞いてみたら、「越後(えちご)の笹飴(ささあめ・笹の葉に包んだ飴)が食べたい」
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と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」
と言った。
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と云った。
越後の笹飴なんて聞いたこともない。
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越後の笹飴なんて聞いた事もない。
そもそも方角が違う。
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第一方角が違う。
「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」
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「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」
と言って聞かせたら、「それなら、どっちの見当です」
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と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」
と聞き返した。
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と聞き返した。
「西の方だよ」
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「西の方だよ」
と言うと、「箱根(はこね)の先ですか手前ですか」
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と云うと「箱根のさきですか手前ですか」
と聞く。
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と問う。
だいぶ手を焼いた。
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随分持てあました。
出発の日には朝から来て、いろいろ世話を焼いた。
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出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
来る途中、小間物屋で買って来た歯磨きとようじと手ぬぐいを、ズックのかばんに入れてくれた。
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来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。
そんな物はいらないと言っても、なかなか承知しない。
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そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。
車を並べて駅に着いて、プラットホームの上に出たとき、車に乗り込んだおれの顔をじっと見て、「もうお別れになるかも知れません。どうぞご機嫌よう」
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車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」
と小さな声で言った。
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と小さな声で云った。
目に涙がいっぱいたまっている。
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目に涙が一杯たまっている。
おれは泣かなかった。
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おれは泣かなかった。
しかし、もう少しで泣くところであった。
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しかしもう少しで泣くところであった。
汽車がだいぶ動き出してから、もう大丈夫だろうと思って窓から首を出し、振り向いたら、やっぱり立っていた。
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汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。
何だかとても小さく見えた。
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何だか大変小さく見えた。
二
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二
ぶうと鳴って汽船が止まると、はしけ(小舟)が岸を離れて、こぎ寄せて来た。
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ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。
船頭はまっ裸に赤いふんどしをしめている。
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船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。
野蛮な所だ。
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野蛮な所だ。
もっともこの暑さでは着物は着られまい。
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もっともこの熱さでは着物はきられまい。
日ざしが強いので、水がやけに光る。
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日が強いので水がやに光る。
見つめていても目がくらむ。
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見つめていても眼がくらむ。
事務員に聞いてみると、おれはここで降りるのだそうだ。
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事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。
見たところでは大森くらいの漁村だ。
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見るところでは大森ぐらいな漁村だ。
人を馬鹿にしていやがる、こんな所に我慢できるものかと思ったが、仕方がない。
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人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。
威勢よく一番に飛び込んだ。
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威勢よく一番に飛び込んだ。
続いて五、六人は乗ったろう。
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続づいて五六人は乗ったろう。
ほかに大きな箱を四つばかり積み込んで、赤ふんどしの男は岸へこぎ戻して行った。
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外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。
陸に着いたときも、いの一番に飛び上がって、いきなり磯に立っていた鼻たれ小僧をつかまえて、「中学校はどこだ」と聞いた。
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陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。
小僧はぼんやりして、「知らんがの」と言った。
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小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。
気の利かない田舎者だ。
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気の利かぬ田舎ものだ。
猫の額ほどの町のくせに、中学校のありかも知らない奴があるものか。
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猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。
そこへ妙な筒っぽう(袖の細い着物)を着た男が来て、「こっちへ来い」と言うから、ついて行ったら、港屋とかいう宿屋へ連れて行かれた。
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ところへ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。
いやな感じの女たちが声をそろえて「お上がりなさい」と言うので、上がるのがいやになった。
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やな女が声を揃えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。
玄関に立ったまま「中学校を教えろ」と言ったら、中学校はこれから汽車で二里(にり・約八キロメートル)ばかり行かなくてはいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。
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門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。
おれは筒っぽうを着た男から、自分のかばんを二つ取り返して、のそのそ歩き出した。
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おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。
宿屋の人たちは変な顔をしていた。
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宿屋のものは変な顔をしていた。
駅はすぐに分かった。
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停車場はすぐ知れた。
切符もわけなく買った。
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切符も訳なく買った。
乗り込んでみると、マッチ箱のような汽車だ。
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乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。
ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。
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ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。
道理で切符が安いと思った。
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道理で切符が安いと思った。
たった三銭である。
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たった三銭である。
それから人力車をやとって中学校へ行ったら、もう放課後で誰もいない。
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それから車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。
宿直はちょっと用事で出かけたと小使いさんが教えてくれた。
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宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。
ずいぶん気楽な宿直がいるものだ。
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随分気楽な宿直がいるものだ。
校長にでも会おうかと思ったが、疲れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に言いつけた。
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校長でも尋ねようかと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。
車夫は威勢よく山城屋という家へ横づけにした。
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車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。
山城屋とは、質屋の勘太郎の店の名前と同じだから、ちょっとおもしろく思った。
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山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
何だか二階のはしご段(階段)の下の暗い部屋へ案内した。
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何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。
暑くていられない。
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熱くって居られやしない。
こんな部屋はいやだと言ったら、「あいにくみんなふさがっておりますから」と言いながら、かばんを放り出したまま出て行った。
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こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。
仕方がないから部屋の中に入って、汗をかいてがまんしていた。
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仕方がないから部屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。
やがて風呂に入れと言うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。
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やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。
帰りがけにのぞいてみると、涼しそうな部屋がたくさん空いている。
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帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。
失礼な奴だ。
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失敬な奴だ。
うそをつきやがった。
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嘘をつきゃあがった。
それから下女が膳(ぜん・食事をのせる台)を持って来た。
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それから下女が膳を持って来た。
部屋は暑かったが、ご飯は下宿のよりだいぶうまかった。
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部屋は熱つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。
給仕をしながら下女が「どちらからおいでになりましたか」と聞くので、東京から来たと答えた。
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給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。
すると「東京はよい所でございましょう」と言うから、「当たり前だ」と答えてやった。
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すると東京はよい所でございましょうと云ったから当り前だと答えてやった。
膳を下げた下女が台所へ行ったとき、大きな笑い声が聞こえた。
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膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。
くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。
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くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。
暑いばかりではない。
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熱いばかりではない。
騒がしい。
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騒々しい。
下宿の五倍くらいやかましい。
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下宿の五倍ぐらいやかましい。
うとうとしたら清の夢を見た。
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うとうとしたら清の夢を見た。
清が越後の笹飴を、笹ごとむしゃむしゃ食っている。
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清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。
「笹は毒だからよしたらよかろう」と言うと、「いえ、この笹がお薬でございます」と言って、うまそうに食っている。
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笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云って旨そうに食っている。
おれがあきれ返って、大きな口を開いてハハハハと笑ったら、目が覚めた。
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おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。
下女が雨戸を開けている。
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下女が雨戸を明けている。
相変わらず空の底が抜けたような天気だ。
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相変らず空の底が突き抜けたような天気だ。
旅をしたら茶代をやるものだと聞いていた。
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道中をしたら茶代をやるものだと聞いていた。
茶代をやらないと粗末に扱われると聞いていた。
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茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。
こんな、狭くて暗い部屋へ押し込められるのも、茶代をやらないせいだろう。
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こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。
みすぼらしい身なりをして、ズックのかばんと安っぽい生地のこうもり傘(洋傘のこと)を提げているからだろう。
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見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだろう。
田舎者のくせに、人を見くびったな。
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田舎者の癖に人を見括ったな。
一番、茶代をやって驚かせてやろう。
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一番茶代をやって驚かしてやろう。
おれはこれでも、学費の余りを三十円ほどふところに入れて東京を出て来たのだ。
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おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。
汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。
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汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。
全部やったって、これからは月給をもらうんだから構わない。
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みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。
田舎者はけちだから、五円もやれば驚いて目を回すに決まっている。
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田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。
どうするか見ていろと、すまして顔を洗って、部屋へ帰って待っていると、夕べの下女が膳を持って来た。
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どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。
盆を持って給仕をしながら、やけににやにや笑っている。
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盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。
失礼な奴だ。
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失敬な奴だ。
顔の中をお祭りでも通るまいし。
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顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。
これでもこの下女の顔よりよっぽど上等だ。
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これでもこの下女の面よりよっぽど上等だ。
食事を済ましてからにしようと思っていたが、しゃくにさわったから、途中で五円札を一枚出して、「あとでこれを帳場へ持って行け」と言ったら、下女は変な顔をしていた。
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飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。
それから食事を済ましてすぐ学校へ出かけた。
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それから飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。
靴はみがいてなかった。
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靴は磨いてなかった。
学校はきのう車で乗りつけたから、だいたいの見当はついている。
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学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分っている。
四つ角を二、三度曲がったら、すぐ門の前へ出た。
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四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。
門から玄関までは御影石(みかげいし・灰色のかたい石)が敷きつめてある。
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門から玄関までは御影石で敷きつめてある。
きのうこの敷石の上を車でがらがらと通ったときは、やたらに大きな音がするので少し困った。
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きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗に仰山な音がするので少し弱った。
途中から小倉(こくら・木綿の丈夫な布)の制服を着た生徒にたくさん会ったが、みんなこの門を入って行く。
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途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん逢ったが、みんなこの門をはいって行く。
中にはおれより背が高くて強そうなのがいる。
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中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。
あんな奴を教えるのかと思ったら、何だか気味が悪くなった。
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あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪るくなった。
名刺を出したら校長室へ通された。
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名刺を出したら校長室へ通した。
校長はうすいひげのある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。
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校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。
やたらもったいぶっていた。
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やにもったいぶっていた。
「まあ精を出して勉強してくれ」と言って、うやうやしく大きな印の押してある辞令を渡した。
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まあ精出して勉強してくれと云って、恭しく大きな印の捺った、辞令を渡した。
この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ放り込んでしまった。
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この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り込んでしまった。
校長は「今に職員に紹介してやるから、一人一人その人にこの辞令を見せるんだ」と言って聞かせた。
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校長は今に職員に紹介してやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。
余計な手間だ。
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余計な手数だ。
そんな面倒なことをするより、この辞令を三日間職員室へ張り付けるほうがましだ。
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そんな面倒な事をするよりこの辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
教員が控え室にそろうには、一時間目の合図のラッパが鳴らなくてはならない。
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教員が控所へ揃うには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。
だいぶ時間がある。
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大分時間がある。
校長は時計を出して見て、「追々ゆっくり話すつもりだが、まず大体のことを分かっておいてもらおう」と言って、それから教育の精神について長いお説教を聞かせた。
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校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。
おれはもちろんいい加減に聞いていたが、途中からこれはとんでもない所へ来たと思った。
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おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。
校長の言うようにはとてもできない。
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校長の云うようにはとても出来ない。
おれのような無鉄砲な者をつかまえて、「生徒の模範になれ」だの、「学校中のお手本と仰がれなくてはいけない」だの、「学問以外に人としての人格でも生徒に影響を与えなくては教育者になれない」だのと、やたらに無理な注文をする。
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おれみたような無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。
そんなえらい人が月給四十円で、はるばるこんな田舎へ来るものか。
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そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。
人間はだいたい似たようなものだ。
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人間は大概似たもんだ。
腹が立てば喧嘩の一つくらいは誰でもするだろうと思っていたが、この様子ではめったに口も利けない、散歩もできない。
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腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。
そんなむずかしい役目なら、雇う前にそう話しておくべきだ。
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そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。
おれはうそをつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切って、ここで断って帰ってしまおうと思った。
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おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。
宿屋へ五円やったから、財布の中には九円いくらかしかない。
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宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにがししかない。
九円では東京までは帰れない。
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九円じゃ東京までは帰れない。
茶代なんてやらなければよかった。
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茶代なんかやらなければよかった。
惜しいことをした。
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惜しい事をした。
しかし九円でも、どうにかならないことはない。
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しかし九円だって、どうかならない事はない。
旅費が足りなくてもうそをつくよりましだと思って、「とても、あなたのおっしゃる通りにはできません、この辞令はお返しします」と言ったら、校長は狸のような目をぱちつかせて、おれの顔を見ていた。
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旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。
やがて、「今のはただの希望である。あなたが希望通りにできないのはよく分かっているから、心配しなくてもいい」と言いながら笑った。
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やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。
そんなによく分かっているなら、初めからおどかさなければいいのに。
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そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。
そうこうするうちに、ラッパが鳴った。
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そう、こうする内に喇叭が鳴った。
教室のほうが急にがやがやする。
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教場の方が急にがやがやする。
「もう教員も控え室にそろったでしょう」と言うから、校長について職員室に入った。
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もう教員も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。
広くて細長い部屋の周りに机を並べて、みんな腰をかけている。
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広い細長い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。
おれが入ったのを見て、みんな示し合わせたようにおれの顔を見た。
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おれがはいったのを見て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。
見世物ではあるまいし。
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見世物じゃあるまいし。
それから言いつけられた通り、一人一人の前へ行って辞令を出してあいさつをした。
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それから申し付けられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。
たいていはいすを離れて腰をかがめるだけだったが、念の入った人は差し出した辞令を受け取って一応目を通し、それをうやうやしく返した。
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大概は椅子を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを恭しく返却した。
まるで芝居の真似だ。
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まるで宮芝居の真似だ。
十五人目に体操の教師に回って来たときには、同じことを何度もやるので、少しじれったくなった。
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十五人目に体操の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。
向こうは一度で済む。
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向うは一度で済む。
こっちは同じ動作を十五回繰り返している。
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こっちは同じ所作を十五返繰り返している。
少しはこっちの気持ちも分かってほしいものだ。
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少しはひとの了見も察してみるがいい。
あいさつをした中に、教頭のなにがしという人がいた。
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挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。
これは文学士だそうだ。
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これは文学士だそうだ。
文学士といえば大学の卒業生だから、えらい人なのだろう。
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文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。
妙に女のようなやさしい声を出す人だった。
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妙に女のような優しい声を出す人だった。
もっとも驚いたのは、この暑いのにフランネル(毛織りの布)のシャツを着ている。
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もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。
いくらか薄い生地には違いなくても、暑いに決まっている。
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いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。
文学士だけに、ご苦労な格好をしたものだ。
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文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。
しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。
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しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。
あとで聞いたら、この男は一年中赤シャツを着ているのだそうだ。
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あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。
変な病気があったものだ。
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妙な病気があった者だ。
本人の説明では、「赤は体に薬になるから、衛生のためにわざわざあつらえるのだ」というが、余計な心配だ。
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当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂らえるんだそうだが、入らざる心配だ。
それなら、ついでに着物もはかまも赤にすればいい。
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そんならついでに着物も袴も赤にすればいい。
それから英語の教師に古賀とかいう、たいへん顔色の悪い男がいた。
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それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪るい男が居た。
たいてい顔の青い人はやせているものだが、この男は青くふくれている。
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大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。
昔、小学校へ通っていたころ、浅井の民さんという子が同級生にいたが、この浅井のおやじがちょうどこんな顔色だった。
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昔小学校へ行く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。
浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるのかと清に聞いてみたら、「そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子(とうなす・かぼちゃのこと)ばかり食べるから、青くふくれるんです」と教えてくれた。
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浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。
それ以来、青くふくれた人を見れば、必ずうらなりの唐茄子を食べた報いだと思う。
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それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬いだと思う。
この英語の教師も、うらなりばかり食べているに違いない。
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この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違いない。
もっとも「うらなり」とは何のことか、今もって知らない。
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もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。
清に聞いてみたことはあるが、清は笑って答えなかった。
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清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。
おそらく清も知らないのだろう。
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大方清も知らないんだろう。
それから、おれと同じ数学の教師に堀田(ほった)というのがいた。
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それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。
これはたくましい、いがぐり頭の坊主頭で、叡山(えいざん・比叡山のこと)の悪僧(あくそう・乱暴な僧)というべき顔つきである。
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これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。
人がていねいに辞令を見せたら、見向きもせず、「やあ、君が新任の人か、ちと遊びに来たまえ、アハハハ」と言った。
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人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。
何がアハハハだ。
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何がアハハハだ。
そんな礼儀を知らない奴の所へ、誰が遊びに行くものか。
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そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。
おれはこのとき、この坊主に山嵐というあだ名をつけてやった。
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おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。
漢学の先生は、さすがに堅苦しい人だ。
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漢学の先生はさすがに堅いものだ。
「昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、たいへんご精が出て」――と、とりとめもなくしゃべり続けたのは、愛嬌のあるおじいさんだ。
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昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精で、――とのべつに弁じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。
図画の教師は、まったく芸人風だ。
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画学の教師は全く芸人風だ。
ぺらぺらした薄物の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、「お国はどちらでげす、え?」
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べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え?
「東京?」
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東京?
「そりゃうれしい、お仲間ができて……私もこれで江戸っ子ですよ」と言った。
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そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。
こんなのが江戸っ子なら、江戸には生まれたくないものだと心の中で思った。
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こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。
そのほか一人一人についてこんなことを書けば、いくらでもある。
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そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。
しかしきりがないからやめる。
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しかし際限がないからやめる。
あいさつが一通り済んだら、校長が「今日はもう帰っていい、もっとも授業のことは数学の主任と打ち合わせをしておいて、明後日から授業を始めてくれ」と言った。
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挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、明後日から課業を始めてくれと云った。
数学の主任は誰かと聞いてみたら、あの山嵐であった。
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数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。
いまいましい、こいつの下で働くのか、おやおやとがっかりした。
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忌々しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。
山嵐は「おい君どこに宿っているか、山城屋か、うん、今に行って相談する」
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山嵐は「おい君どこに宿ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」
と言い残して、白墨(はくぼく・チョーク)を持って教場へ出て行った。
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と云い残して白墨を持って教場へ出て行った。
主任のくせに、向こうから来て相談するなんて、変わったやり方の男だ。
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主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。
しかし、呼びつけるよりは感心だ。
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しかし呼び付けるよりは感心だ。
それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、あてもなく足の向くほうを歩き回った。
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それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。
県庁も見た。
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県庁も見た。
古い前の時代の建物である。
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古い前世紀の建築である。
兵営も見た。
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兵営も見た。
麻布の連隊より立派でない。
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麻布の聯隊より立派でない。
大通りも見た。
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大通りも見た。
神楽坂(かぐらざか)を半分に狭くしたくらいの道幅で、町並みはあれより見劣りする。
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神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並はあれより落ちる。
二十五万石の城下だって、たかが知れたものだ。
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二十五万石の城下だって高の知れたものだ。
こんな所に住んで「城下町だ」などといばっている人間は気の毒なものだと考えながら歩いていると、いつの間にか山城屋の前に出た。
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こんな所に住んでご城下だなどと威張ってる人間は可哀想なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に出た。
広いようでも狭いものだ。
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広いようでも狭いものだ。
これでだいたいは見て回ったのだろう。
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これで大抵は見尽したのだろう。
帰って食事でもしようと門口に入った。
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帰って飯でも食おうと門口をはいった。
帳場に座っていたおかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出して来て、「お帰りなさい……」と、板の間に頭をつけた。
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帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り……と板の間へ頭をつけた。
靴を脱いで上がると、「お座敷があきましたから」と下女が二階へ案内をした。
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靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。
十五畳の表二階で、大きな床の間がついている。
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十五畳の表二階で大きな床の間がついている。
おれは生まれてからまだこんな立派な座敷に入ったことはない。
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おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。
この先いつ入れるか分からないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって、座敷の真ん中に大の字に寝てみた。
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この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって座敷の真中へ大の字に寝てみた。
いい気持ちである。
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いい心持ちである。
昼飯を食ってから、さっそく清へ手紙を書いてやった。
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昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。
おれは文章が下手な上に字を知らないから、手紙を書くのが大嫌いだ。
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おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌いだ。
それに書く相手もいない。
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またやる所もない。
しかし清は心配しているだろう。
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しかし清は心配しているだろう。
難船して死んだんじゃないかなどと思われては困るから、思い切って長いのを書いてやった。
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難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、奮発して長いのを書いてやった。
その文句はこうである。
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その文句はこうである。
「きのう着いた。つまらない所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。おかみさんが頭を板の間にすりつけた。ゆうべは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行って、みんなにあだ名をつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろなことを書いてやる。さようなら」
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「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」
手紙を書いてしまったら、いい気持ちになって眠くなったから、さっきのように座敷の真ん中にのびのびと大の字に寝た。
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手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって眠気がさしたから、最前のように座敷の真中へのびのびと大の字に寝た。
今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。
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今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。
「この部屋かい」と大きな声がするので目が覚めたら、山嵐が入って来た。
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この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山嵐がはいって来た。
「さっきは失礼、君の受け持ちは……」と、起き上がるやいなや話を切り出されたので、大いにあわてた。
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最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに狼狽した。
受け持ちを聞いてみると、特にむずかしいこともなさそうだから承知した。
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受持ちを聞いてみると別段むずかしい事もなさそうだから承知した。
このくらいのことなら、明後日どころか明日から始めろと言われても驚かない。
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このくらいの事なら、明後日は愚、明日から始めろと云ったって驚ろかない。
授業の打ち合わせが済んだら、「君はいつまでこんな宿屋にいるつもりでもあるまい。ぼくがいい下宿を紹介してやるから移りたまえ。
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授業上の打ち合せが済んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、僕がいい下宿を周旋してやるから移りたまえ。
ほかの人ではだめだが、ぼくが話せばすぐできる。
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外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。
早いほうがいいから、今日見て、明日移って、あさってから学校へ行けば都合がいい」と一人で決めている。
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早い方がいいから、今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けば極りがいいと一人で呑み込んでいる。
なるほど、十五畳敷きにいつまでもいるわけにもいかない。
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なるほど十五畳敷にいつまで居る訳にも行くまい。
月給を全部宿代に払っても足りないかもしれない。
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月給をみんな宿料に払っても追っつかないかもしれぬ。
五円の茶代をふるまってすぐ移るのはちょっと残念だが、どうせ移るなら、早く引っ越して落ち着くほうが都合がいいから、そこのところは山嵐に任せることにした。
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五円の茶代を奮発してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き越して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼む事にした。
すると山嵐は「とにかくいっしょに来てみろ」と言うから、行った。
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すると山嵐はともかくもいっしょに来てみろと云うから、行った。
町はずれの丘の中腹にある家で、とても静かだ。
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町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。
主人は骨董(こっとう・古い美術品や道具)を売買する「いか銀」という男で、奥さんは夫より四つほど年上の女だ。
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主人は骨董を売買するいか銀と云う男で、女房は亭主よりも四つばかり年嵩の女だ。
中学校にいたとき、「ウィッチ(魔女)」という言葉を習ったことがあるが、この奥さんはまさにウィッチに似ている。
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中学校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事があるがこの女房はまさにウィッチに似ている。
ウィッチだって人の奥さんだから構わない。
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ウィッチだって人の女房だから構わない。
とうとう明日から引っ越すことにした。
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とうとう明日から引き移る事にした。
帰りに山嵐は通町(とおりちょう)で氷水を一杯おごってくれた。
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帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。
学校で会ったときは、やけに横柄で失礼な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、悪い男でもなさそうだ。
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学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。
ただおれと同じように短気でかんしゃく持ちらしい。
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ただおれと同じようにせっかちで肝癪持らしい。
あとで聞いたら、この男が一番生徒に人気があるのだそうだ。
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あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。
三
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三
いよいよ学校へ出た。
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いよいよ学校へ出た。
初めて教室に入って、高い所に立ったときは、何だか変な感じだった。
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初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。
講義をしながら、おれでも先生が務まるのかと思った。
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講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。
生徒はやかましい。
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生徒はやかましい。
時々ずばぬけて大きな声で「先生」と呼ぶ。
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時々図抜けた大きな声で先生と云う。
「先生」には参った。
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先生には応えた。
今まで物理学校で毎日「先生、先生」と呼びかけていたが、先生と呼ぶのと呼ばれるのとでは雲泥の差だ。
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今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。
何だか足の裏がむずむずする。
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何だか足の裏がむずむずする。
おれは卑怯な人間ではない。
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おれは卑怯な人間ではない。
臆病な男でもないが、惜しいことに度胸が足りない。
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臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。
「先生」と大きな声をされると、腹の減ったときに丸の内で午砲(どん・昔、正午に鳴らした空砲)を聞いたような気がする。
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先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲を聞いたような気がする。
最初の一時間は何となくいい加減にやってしまった。
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最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。
しかし別段困った質問もされずに済んだ。
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しかし別段困った質問も掛けられずに済んだ。
控え室へ帰って来たら、山嵐が「どうだい」と聞いた。
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控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。
「うん」と簡単に返事をしたら、山嵐は安心したらしかった。
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うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
二時間目に白墨を持って控え室を出たときは、何だか敵地に乗り込むような気がした。
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二時間目に白墨を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込むような気がした。
教室へ出ると、今度のクラスは前より大きな奴ばかりである。
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教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。
おれは江戸っ子で、きゃしゃに小柄にできているから、どうも高い所に立っても押しが利かない。
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おれは江戸っ子で華奢に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押しが利かない。
喧嘩なら相撲取りとでもやってみせるが、こんな大男を四十人も前に並べて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる腕前はない。
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喧嘩なら相撲取とでもやってみせるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。
しかし、こんな田舎者に弱みを見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声を出して、少々巻き舌で講義してやった。
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しかしこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。
最初のうちは、生徒も煙に巻かれてぼんやりしていたから、それ見たことかとますます得意になって、べらんめえ調を使っていたら、一番前の列の真ん中にいた、一番強そうな奴が、いきなり立ち上がって「先生」と言う。
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最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。
そら来たと思いながら、「何だ」と聞いたら、「あんまり早くて分からんけれ、もちっとゆるゆるやって、おくれんかな、もし」
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そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」
と言った。
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と云った。
「おくれんかな、もし」は、なんとも間の抜けた言い方だ。
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おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。
「早すぎるなら、ゆっくり言ってやるが、おれは江戸っ子だから君たちの言葉は使えない、分からなければ分かるまで待っているがいい」と答えてやった。
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早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない、分らなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。
この調子で、二時間目は思ったよりうまくいった。
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この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。
ただ帰りがけに、生徒の一人が「ちょっとこの問題を解いておくれんかな、もし」と、できそうもない幾何の問題を持って迫って来たのには、冷や汗を流した。
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ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何の問題を持って逼ったには冷汗を流した。
仕方がないから、「よく分からない、この次教えてやる」と急いで引き上げたら、生徒がわあと囃した。
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仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した。
その中に「できん、できん」と言う声が聞こえる。
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その中に出来ん出来んと云う声が聞える。
べらぼうめ、先生だって、できないのは当たり前だ。
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箆棒め、先生だって、出来ないのは当り前だ。
できないのをできないと言うのに、何の不思議があるものか。
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出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。
そんなものができるくらいなら、四十円でこんな田舎へ来るものかと控え室へ帰って来た。
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そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。
「今度はどうだ」とまた山嵐が聞いた。
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今度はどうだとまた山嵐が聞いた。
「うん」と言ったが、それだけでは気が済まなかったから、「この学校の生徒はものが分からない奴だな」と言ってやった。
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うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。
山嵐は妙な顔をしていた。
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山嵐は妙な顔をしていた。
三時間目も、四時間目も、昼過ぎの一時間も、大同小異であった。
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三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。
最初の日に出た組は、どこも少しずつ失敗した。
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最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。
教師は端で見るほど楽ではないと思った。
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教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。
授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぼんやりと待っていなければならない。
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授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ然として待ってなくてはならん。
三時になると、受け持ちの生徒が自分の教室を掃除して知らせに来るから、それを確かめるんだそうだ。
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三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にくるから検分をするんだそうだ。
それから出席簿を一応調べて、ようやくお暇が出る。
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それから、出席簿を一応調べてようやくお暇が出る。
いくら月給で買われた体だって、あいた時間まで学校に縛りつけて、机とにらめっこをさせるなんて法があるものか。
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いくら月給で買われた身体だって、あいた時間まで学校へ縛りつけて机と睨めっくらをさせるなんて法があるものか。
しかしほかの先生たちはみんな大人しく規則通りやっているから、新参のおればかりだだをこねるのもよくないと思って、がまんしていた。
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しかしほかの連中はみんな大人しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏ねるのもよろしくないと思って我慢していた。
帰りがけに、「君、何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのはばかげているぜ」と山嵐に訴えたら、山嵐は「そうさ、アハハハ」と笑ったが、あとから真面目になって、「君、あまり学校の不満を言うといけないぜ。
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帰りがけに、君何でもかんでも三時過まで学校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あとから真面目になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。
言うならぼくだけに話せ、ずいぶん変わった人もいるからな」と忠告めいたことを言った。
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云うなら僕だけに話せ、随分妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。
四つ角で別れたから、詳しいことは聞くひまがなかった。
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四つ角で分れたから詳しい事は聞くひまがなかった。
それから家へ帰って来ると、宿の主人が「お茶を入れましょう」と言ってやって来る。
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それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと云ってやって来る。
お茶を入れると言うから、ごちそうをしてくれるのかと思ったら、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。
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お茶を入れると云うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。
この様子では、留守中も勝手に「お茶を入れましょう」を一人で実行しているかもしれない。
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この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょうを一人で履行しているかも知れない。
主人が言うには、「手前は書画骨董(しょがこっとう・書や絵、古い美術品のこと)が好きで、とうとうこんな商売を内緒で始めるようになりました。
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亭主が云うには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。
あなたもお見受けしたところ、だいぶ風流でいらっしゃるらしい。
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あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。
ちょっと道楽にお始めになってはいかがです」と、とんでもない勧誘をする。
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ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない勧誘をやる。
二年前、ある人の使いで帝国ホテルへ行ったときは、錠前直しと間違えられたことがある。
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二年前ある人の使に帝国ホテルへ行った時は錠前直しと間違えられた事がある。
毛布をかぶって鎌倉の大仏を見物したときは、車屋から親方と呼ばれた。
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ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。
そのほか今日まで見当違いをされたことはずいぶんあるが、まだおれをつかまえて「だいぶ風流でいらっしゃる」と言った者はいない。
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その外今日まで見損われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。
たいていは格好や様子でも分かる。
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大抵はなりや様子でも分る。
風流人というものは、絵を見ても、頭巾をかぶったり短冊を持ったりしているものだ。
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風流人なんていうものは、画を見ても、頭巾を被るか短冊を持ってるものだ。
このおれを風流人だなどと真面目に言うのは、ただ者ではない。
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このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者じゃない。
おれはそんなのんきな隠居のやるようなことは嫌いだと言ったら、主人はへへへへと笑いながら、「いえ、初めから好きな人はどなたもいませんが、いったんこの道に入るとなかなか抜けられません」と、一人で茶をついで、妙な手つきで飲んでいる。
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おれはそんな呑気な隠居のやるような事は嫌いだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飲んでいる。
実はゆうべ茶を買ってくれと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。
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実はゆうべ茶を買ってくれと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。
一杯飲むと胃にこたえるような気がする。
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一杯飲むと胃に答えるような気がする。
「今度からもっと苦くないのを買ってくれ」と言ったら、「かしこまりました」とまた一杯しぼって飲んだ。
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今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。
人の茶だと思ってやたらに飲む奴だ。
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人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。
主人が引き下がってから、明日の下読みをしてすぐ寝てしまった。
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主人が引き下がってから、明日の下読をしてすぐ寝てしまった。
それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人が「お茶を入れましょう」と出て来る。
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それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。
一週間ばかりしたら、学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人柄もだいたい分かった。
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一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分った。
ほかの教師に聞いてみると、辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は、自分の評判がいいだろうか悪いだろうかとても気になるそうであるが、おれは全くそんな感じはなかった。
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ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。
教室で時々失敗すると、そのときだけはいやな気分だが、三十分ほど経つときれいに消えてしまう。
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教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗に消えてしまう。
おれは何事によらず、長く心配しようと思っても心配ができない男だ。
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おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。
教室での失敗が生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応をもたらすか、まるで気にしなかった。
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教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。
おれは前に言った通り、あまり度胸の据わった男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。
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おれは前に云う通りあまり度胸の据った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。
この学校がだめならすぐどこかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっとも恐ろしくはなかった。
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この学校がいけなければすぐどっかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっとも恐しくはなかった。
まして教室の小僧どもなんかには、愛想もお世辞も使う気になれなかった。
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まして教場の小僧共なんかには愛嬌もお世辞も使う気になれなかった。
学校はそれでいいのだが、下宿のほうはそうはいかなかった。
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学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。
主人が茶を飲みに来るだけならがまんもするが、いろいろな物を持って来る。
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亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。
初めに持って来たのは何でも印材(はんこの材料)で、十ほど並べておいて、「みんなで三円なら安い物です、お買いなさい」と言う。
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始めに持って来たのは何でも印材で、十ばかり並べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。
田舎回りの下手な絵描きじゃあるまいし、そんな物はいらないと言ったら、今度は華山(かざん)とかいう人の花鳥の掛け軸を持って来た。
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田舎巡りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は華山とか何とか云う男の花鳥の掛物をもって来た。
自分で床の間にかけて、「いい出来じゃありませんか」と言うから、「そうかな」といい加減にあいさつをすると、「華山には二人いる、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅(ふく・掛け軸のこと)はその何とか華山のほうだ」と、くだらない説明をしたあとで、「どうです、あなたなら十五円にしておきます。
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自分で床の間へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。
お買いなさい」と催促をする。
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お買いなさいと催促をする。
金がないと断ると、「お金はいつでもいいです」となかなかしつこい。
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金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固だ。
「金があっても買わないんだ」と、そのときは追い払ってしまった。
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金があつても買わないんだと、その時は追っ払っちまった。
その次には鬼瓦(おにがわら・屋根の飾りにする恐い顔の瓦)くらい大きな硯を担ぎ込んだ。
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その次には鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ。
「これは端渓(たんけい・中国の名産の硯石)です、端渓です」と二度も三度も端渓端渓と言うから、おもしろ半分に「端渓とは何だい」と聞いたら、すぐ説明を始めた。
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これは端渓です、端渓ですと二遍も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。
「端渓には上層・中層・下層とあって、今どきの物はみんな上層ですが、これはたしかに中層です。この目をご覧なさい。
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端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼をご覧なさい。
目が三つあるのは珍しい。
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眼が三つあるのは珍らしい。
墨のはねぐあいも至極よろしい、試してご覧なさい」と、おれの前に大きな硯を突きつける。
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溌墨の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。
いくらだと聞くと、「持ち主が中国から持ち帰って、ぜひ売りたいと言いますから、お安くして三十円にしておきましょう」と言う。
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いくらだと聞くと、持主が支那から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。
この男はばかに違いない。
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この男は馬鹿に相違ない。
学校のほうはどうにかこうにか無事に勤まりそうだが、こう骨董攻めに遭ってはとても長く続きそうにない。
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学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそうにない。
そのうち学校もいやになった。
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そのうち学校もいやになった。
ある日の晩、大町(おおまち)という所を散歩していたら、郵便局の隣にそば屋と書いて、下に東京と注をつけた看板があった。
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ある日の晩大町と云う所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
おれはそばが大好きである。
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おれは蕎麦が大好きである。
東京にいたときでも、そば屋の前を通って薬味のにおいをかぐと、どうしてものれんをくぐりたくなった。
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東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。
今日までは数学と骨董でそばを忘れていたが、こうして看板を見ると素通りができなくなる。
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今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。
ついでだから一杯食べて行こうと思って上がり込んだ。
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ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。
見ると看板ほどでもない。
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見ると看板ほどでもない。
東京と断る以上はもう少しきれいにしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、ひどく汚い。
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東京と断わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない。
畳は色が変わって、おまけに砂でざらざらしている。
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畳は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。
壁はすすで真っ黒だ。
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壁は煤で真黒だ。
天井はランプのすすでくすんでいるだけでなく、低くて、思わず首を縮めるくらいだ。
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天井はランプの油烟で燻ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。
ただ、いかにも立派にそばの名前を書いて貼り付けた値段表だけは全く新しい。
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ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。
何でも古い家を買って、二、三日前から開業したに違いない。
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何でも古いうちを買って二三日前から開業したに違いなかろう。
値段表の第一号に天ぷらとある。
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ねだん付の第一号に天麩羅とある。
「おい、天ぷらを持って来い」と大きな声を出した。
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おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
するとこのとき、隅のほうに三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食べていた連中が、そろっておれのほうを見た。
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するとこの時まで隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。
部屋が暗いのでちょっと気づかなかったが、顔を合わせると、みんな学校の生徒である。
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部屋が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。
向こうがあいさつをしたから、おれもあいさつをした。
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先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。
その晩は久しぶりにそばを食べたので、うまかったから天ぷらを四杯平らげた。
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その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。
翌日、何気なく教室に入ると、黒板いっぱいくらいの大きな字で「天ぷら先生」と書いてある。
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翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。
おれの顔を見て、みんなわあと笑った。
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おれの顔を見てみんなわあと笑った。
おれはばかばかしいから、「天ぷらを食べたらおかしいか」と聞いた。
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おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。
すると生徒の一人が、「しかし四杯は多すぎるぞな、もし」と言った。
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すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。
「四杯食おうが五杯食おうが、おれの金でおれが食うのに文句があるものか」と、さっさと講義を済ませて控え室へ帰って来た。
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四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。
十分たって次の教室へ出ると、「一つ天ぷら四杯なり。
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十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。
但(ただ)し笑うべからず」
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但し笑うべからず。
と黒板に書いてある。
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と黒板にかいてある。
さっきは別に腹も立たなかったが、今度はしゃくにさわった。
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さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。
冗談も度を過ぎればいたずらだ。
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冗談も度を過ごせばいたずらだ。
焼き餅の黒焦げのようなもので、誰もほめる人はいない。
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焼餅の黒焦のようなもので誰も賞め手はない。
田舎者はこの呼吸が分からないから、どこまで押していってもいいと思っているのだろう。
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田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう。
一時間歩くと見物する町もないような狭い町に住んで、ほかに何も自慢の種がないから、天ぷら事件を日露戦争のように言いふらすのだろう。
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一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。
あわれな奴らだ。
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憐れな奴等だ。
子どもの時からこんな教育をされるから、いやにひねくれた、植木鉢のかえでのような小人物ができるんだ。
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小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓みたような小人が出来るんだ。
無邪気なら一緒に笑ってもいいが、これは何だ。
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無邪気ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。
子どものくせに、妙に意地悪な根性を持っている。
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小供の癖に乙に毒気を持ってる。
おれは黙って天ぷらの字を消して、「こんないたずらがおもしろいか、卑怯な冗談だ。
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おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。
君たちは卑怯という意味を知っているか」と言ったら、「自分がしたことを笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もし」と答えた奴がいる。
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君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。
いやな奴だ。
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やな奴だ。
わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら、情けなくなった。
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わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。
「余計な減らず口を利かないで勉強しろ」と言って、授業を始めてしまった。
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余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。
それから次の教室に出たら、「天ぷらを食べると減らず口が利きたくなるものなり」と書いてある。
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それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。
どうにも始末に負えない。
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どうも始末に終えない。
あんまり腹が立ったから、「そんな生意気な奴は教えない」と言ってすたすた帰って来てやった。
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あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。
生徒は授業が休みになって喜んだそうだ。
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生徒は休みになって喜んだそうだ。
こうなると学校より骨董のほうがまだましだ。
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こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
天ぷらそばもうちへ帰って一晩寝たら、そんなにしゃくに障らなくなった。
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天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪に障らなくなった。
学校へ出てみると、生徒も出ている。
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学校へ出てみると、生徒も出ている。
何だかわけが分からない。
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何だか訳が分らない。
それから三日ほどは無事だったが、四日目の晩に住田(すみた)という所へ行って団子を食べた。
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それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。
この住田という所は温泉のある町で、城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる。料理屋も温泉宿も公園もあるうえに遊郭(ゆうかく・遊び場が集まった町)がある。
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この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。
おれの入った団子屋は遊郭の入口にあって、たいへんうまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食べてみた。
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おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。
今度は生徒にも会わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って一時間目の教室に入ると、「団子二皿七銭」と書いてある。
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今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。
実際おれは二皿食べて七銭払った。
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実際おれは二皿食って七銭払った。
どうにも厄介な奴らだ。
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どうも厄介な奴等だ。
二時間目にもきっと何かあると思うと、「遊郭の団子うまいうまい」と書いてある。
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二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。
あきれ返った奴らだ。
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あきれ返った奴等だ。
団子がそれで済んだと思ったら、今度は「赤手ぬぐい」というのが評判になった。
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団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭と云うのが評判になった。
何のことかと思ったら、つまらないいわれだ。
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何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。
おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことにしている。
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おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。
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ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。
せっかく来たのだから毎日入ってやろうという気で、晩飯前に運動がてら出かける。
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せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛る。
ところが行くときは必ず西洋手ぬぐいの大きな奴をぶら下げて行く。
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ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。
この手ぬぐいが湯に染まったうえに赤い縞が流れ出したので、ちょっと見ると紅色(べにいろ)に見える。
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この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したのでちょっと見ると紅色に見える。
おれはこの手ぬぐいを、行きも帰りも、汽車に乗っても歩いても、いつもぶら下げている。
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おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。
それで生徒がおれのことを「赤手ぬぐい、赤手ぬぐい」と言うんだそうだ。
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それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。
どうも狭い土地に住んでいるとうるさいものだ。
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どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。
まだある。
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まだある。
温泉は三階建ての新築で、上等は浴衣を貸してくれて、湯上がりの世話までついて八銭で済む。
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温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。
そのうえ女の人が天目(てんもく・お茶を入れる小さな器)にお茶をのせて出す。
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その上に女が天目へ茶を載せて出す。
おれはいつも上等に入った。
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おれはいつでも上等へはいった。
すると、「四十円の月給で毎日上等に入るのはぜいたくだ」と言い出した。
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すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だと云い出した。
余計なお世話だ。
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余計なお世話だ。
まだある。
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まだある。
湯ぶねは花崗石(みかげいし)を積み上げて、十五畳敷きくらいの広さに仕切ってある。
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湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。
たいていは十三、四人つかっているが、たまには誰もいないことがある。
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大抵は十三四人漬ってるがたまには誰も居ない事がある。
深さは立って胸のあたりまであるから、運動のために湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。
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深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。
おれは人がいないのを見計らっては、十五畳の湯ぶねを泳ぎ回って喜んでいた。
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おれは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。
ところがある日、三階から威勢よく下りて、「今日も泳げるかな」とざくろ口(湯船の入口)をのぞいてみると、大きな札に黒々と「湯の中で泳ぐべからず」と書いて貼りつけてある。
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ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。
湯の中で泳ぐ者はあまりいないだろうから、この貼り紙はおれのために特別に新しく作ったのかもしれない。
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湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。
おれはそれから泳ぐのはあきらめた。
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おれはそれから泳ぐのは断念した。
泳ぐのはあきらめたが、学校へ出てみると、いつも通り黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書いてあるのには驚いた。
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泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。
何だか生徒全体がおれ一人を探偵(たんてい・こっそり見張ること)しているように思われた。
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何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。
気がめいった。
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くさくさした。
生徒が何を言ったって、やろうと思ったことをやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい、鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情けなくなった。
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生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。
それでうちへ帰ると、相変わらず骨董攻めである。
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それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。
四
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四
学校には「宿直(しゅくちょく・先生が交代で学校に泊まって夜番をすること)」というのがあって、先生たちが交代でつとめる。
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学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。
ただし狸と赤シャツは例外だった。
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但し狸と赤シャツは例外である。
なぜこの二人だけ当然の務め(つとめ)を免除されるのか聞いてみたら、「奏任待遇(そうにんたいぐう・上級役人並みの扱い)」だからだと言う。
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何でこの両人が当然の義務を免かれるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと云う。
ばかばかしい。
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面白くもない。
給料はたくさんもらって、勤める時間は少ない、その上に宿直まで逃げるとは、そんな不公平があるものか。
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月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。
勝手な規則をこしらえておいて、それが当たり前だという顔をしている。
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勝手な規則をこしらえて、それが当り前だというような顔をしている。
よくまああんなに図々しいことができるものだ。
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よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。
このことについては大いに不満だったが、山嵐に言わせると、一人でいくら文句を並べても通るものじゃないそうだ。
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これについては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。
一人だって二人だって、正しいことなら通りそうなものだ。
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一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。
山嵐は「might is right」という英語を持ち出して説諭(せつゆ・言い聞かせること)をしてきたが、何だかよくわからなかったので聞き返したら、「強い者が正しい」という意味だそうだ。
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山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。
強い者が正しいということぐらい、昔から知っている。
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強者の権利ぐらいなら昔から知っている。
今さら山嵐に講釈してもらわなくてもいい。
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今さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。
強い者が正しいという話と、宿直の話は別問題だ。
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強者の権利と宿直とは別問題だ。
狸や赤シャツが強い者だなんて、誰が納得するものか。
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狸や赤シャツが強者だなんて、誰が承知するものか。
議論は議論として、この宿直がとうとうおれの番に回ってきた。
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議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻って来た。
もともと神経質(疳性・かんしょう)なたちだから、夜具(やぐ)や蒲団(ふとん)は自分のものでないと、ぐっすり眠った気がしない。
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一体疳性だから夜具蒲団などは自分のものへ楽に寝ないと寝たような心持ちがしない。
子どものときから、友達の家に泊まったことはほとんどないくらいだ。
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小供の時から、友達のうちへ泊った事はほとんどないくらいだ。
友達の家でさえ厭(いや)なのだから、学校の宿直はなおさら厭だ。
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友達のうちでさえ厭なら学校の宿直はなおさら厭だ。
厭だけれども、これも月給四十円のうちに含まれているのなら仕方がない。
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厭だけれども、これが四十円のうちへ籠っているなら仕方がない。
我慢して勤めてやろう。
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我慢して勤めてやろう。
先生も生徒もみんな帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは、ずいぶん間の抜けたものだ。
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教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは随分間が抜けたものだ。
宿直部屋は、教室の裏手にある寄宿舎の西のはしにある一部屋だ。
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宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。
ちょっと入ってみたが、西日をまともに受けて、暑苦しくていたたまれない。
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ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。
田舎だけあって、秋になってものんびりと暑いものだ。
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田舎だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。
生徒用の賄(まかない・食事を用意すること)を取り寄せて晩飯をすませたが、そのまずさには参った。
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生徒の賄を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには恐れ入った。
よくあんなものを食べて、あれだけ暴れられるものだ。
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よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。
それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうのだから、豪傑(ごうけつ・たいした者)に違いない。
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それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑に違いない。
飯は食べたが、まだ日が暮れないので寝るわけにもいかない。
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飯は食ったが、まだ日が暮れないから寝る訳に行かない。
ちょっと温泉に行きたくなった。
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ちょっと温泉に行きたくなった。
宿直をしていて外に出るのが良いことか悪いことか知らないが、こうしてぼんやりと、重禁錮(じゅうきんこ・重い懲役刑)同然のつらい目にあうのは我慢できるものじゃない。
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宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪るい事だかしらないが、こうつくねんとして重禁錮同様な憂目に逢うのは我慢の出来るもんじゃない。
初めて学校へ来たとき、「宿直の人は」と聞いたら、「ちょっと用達し(ようたし・用事)に出ています」と小使いが答えたのを変だと思ったが、自分に番が回ってきてみると思い当たる。
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始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと用達に出たと小使が答えたのを妙だと思ったが、自分に番が廻ってみると思い当る。
出かけるほうが正しいのだ。
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出る方が正しいのだ。
おれは小使に「ちょっと出てくる」と言ったら、「何かご用ですか」と聞くので、「用じゃない、温泉に入るんだ」と答えて、さっさと出かけた。
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おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛けた。
赤手拭(あかてぬぐい)を下宿に忘れてきたのが残念だが、今日は温泉のほうで借りるとしよう。
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赤手拭は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
それからかなりゆっくりと、湯に出たり入ったりして、ようやく日暮れ方(ひぐれがた)になったので、汽車に乗って古町(こまち)の停車場まで来て降りた。
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それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。
学校まではここから四丁(ちょう・約四百四十メートル)だ。
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学校まではこれから四丁だ。
わけないと歩き出すと、向こうから狸がやって来た。
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訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。
狸はこれからこの汽車で温泉へ行くつもりなんだろう。
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狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。
すたすた急ぎ足にやってきたが、すれ違ったときおれの顔を見たので、ちょっとあいさつをした。
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すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
すると狸は「あなたは今日、宿直では*なかったですかねえ*」と、いかにもまじめくさって聞いた。
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すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目くさって聞いた。
「なかったですかねえ」もないものだ。
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なかったですかねえもないもんだ。
二時間前におれに向かって、「今夜は初めての宿直ですね。
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二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。
ご苦労さま」
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ご苦労さま。
とねぎらいの言葉をかけたじゃないか。
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と礼を云ったじゃないか。
校長なんかになると、やけにひねくれた物言いをするものだ。
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校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。
おれは腹が立ったので、「ええ、宿直です。
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おれは腹が立ったから、ええ宿直です。
宿直ですから、これから帰って泊まることは確かに泊まります」と言い捨てて、すましたまま歩き出した。
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宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。
竪町(たてまち)の四つ角まで来ると、今度は山嵐に出くわした。
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竪町の四つ角までくると今度は山嵐に出っ喰わした。
どうも狭い町だ。
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どうも狭い所だ。
出て歩きさえすれば、必ず誰かに会う。
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出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。
「おい、君は宿直じゃないか」
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「おい君は宿直じゃないか」
と聞くので、「うん、宿直だ」
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と聞くから「うん、宿直だ」
と答えたら、「宿直がむやみに出歩くなんて、不都合(ふつごう)じゃないか」
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と答えたら、「宿直が無暗に出てあるくなんて、不都合じゃないか」
と言った。
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と云った。
「ちっとも不都合なもんか、出て歩かないほうが不都合だ」
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「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」
と威張ってみせた。
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と威張ってみせた。
「君のずぼらにも困ったもんだな、校長か教頭に出会ったら面倒だぞ」
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「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒だぜ」
と山嵐に似合わないことを言うので、「校長にはたった今会った。暑いときには散歩でもしないと宿直もつらいでしょうと、校長がおれの散歩をほめてくれたよ」
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と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」
と言って、面倒くさいので、さっさと学校へ帰ってきた。
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と云って、面倒臭いから、さっさと学校へ帰って来た。
それから日はすぐに暮れる。
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それから日はすぐくれる。
暮れてから二時間ほどは小使いを宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたので、眠れないまでも床(とこ)に入ろうと思って、寝巻きに着替え、蚊帳(かや)をめくって、赤い毛布(けっと)をはねのけ、とんと尻もちをついて、仰向けになった。
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くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寝られないまでも床へはいろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突いて、仰向けになった。
おれが寝るときに、とんと尻もちをつくのは、子どものときからの癖だ。
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おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。
悪い癖だと言って、小川町(おがわまち)の下宿にいたころ、一階下にいた法律学校の書生が文句を持ち込んできたことがある。
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わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。
法律の書生というものは、弱いくせにやけに口が達者なもので、くだらないことを長々と述べ立てるから困る。寝るときにどんどん音がするのは、おれの尻が悪いんじゃない。
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法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。
下宿の建てつけが粗末なんだ。
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下宿の建築が粗末なんだ。
文句を言うなら下宿の建物に言え、とやり込めてやった。
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掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹ましてやった。
この宿直部屋は二階じゃないから、いくらどしんと倒れても構わない。
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この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒れても構わない。
できるだけ勢いよく倒れないと、寝た気がしない。
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なるべく勢よく倒れないと寝たような心持ちがしない。
ああ気持ちいいと足をぐっと伸ばすと、何だか両足に飛びついてくるものがあった。
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ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。
ざらざらしていて蚤(のみ)のようでもないので、こいつはと驚いて、足を二、三度毛布の中で振ってみた。
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ざらざらして蚤のようでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振ってみた。
するとざらざらと当たったものが急に増え出して、すねに五、六カ所、ももに二、三カ所、尻の下でぐちゃりと踏みつぶしたのが一つ、へその所まで飛び上がってきたのが一つ――いよいよ驚いた。
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するとざらざらと当ったものが、急に殖え出して脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰したのが一つ、臍の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。
すぐさま起き上がって毛布をぱっと後ろへ放ると、布団の中からバッタが五、六十匹飛び出した。
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早速起き上って、毛布をぱっと後ろへ抛ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。
正体がわからないときは多少気味が悪かったが、バッタとわかってみたら急に腹が立った。
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正体の知れない時は多少気味が悪るかったが、バッタと相場が極まってみたら急に腹が立った。
バッタのくせに人を驚かしやがって、どうしてやろうかと、いきなりくくり枕をつかんで二、三度たたきつけたが、相手が小さすぎるので、勢いよく投げつけたわりに効き目(ききめ)がない。
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バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取って、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。
仕方がないので、また布団の上に座って、煤掃(すすはき・大掃除)のときにござを丸めて畳をたたくように、そこらじゅうをむやみにたたいた。
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仕方がないから、また布団の上へ坐って、煤掃の時に蓙を丸めて畳を叩くように、そこら近辺を無暗にたたいた。
バッタが驚いたうえに枕の勢いで飛び上がるものだから、おれの肩だの頭だの鼻の先だのにくっついたり、ぶつかったりする。
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バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。
顔についた奴は枕でたたくわけにいかないから、手でつかんで一生懸命たたきつける。
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顔へ付いた奴は枕で叩く訳に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける。
忌々(いまいま)しいことに、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳(かや)だから、ふわりと動くだけで少しも手ごたえがない。
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忌々しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。
バッタはたたきつけられたまま蚊帳につかまっている。
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バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。
それでも死にもしない。
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死にもどうもしない。
ようやくのことで、三十分ほどかけてバッタを退治(たいじ)した。
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ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治た。
ほうきを持ってきて、バッタの死骸(しがい)を掃き出した。
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箒を持って来てバッタの死骸を掃き出した。
小使いが来て「何ですか」と言うから、「何ですかもあるもんか。バッタを布団の中に飼っておく奴が、どこの国にいるか」
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小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼っとく奴がどこの国にある。
この間抜けめ。
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間抜め。
と叱りつけたら、「私は存じません」と言い訳をした。
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と叱ったら、私は存じませんと弁解をした。
「存じませんで済むか」とほうきを縁側(えんがわ)へ放り出したら、小使いはおそるおそるほうきを担いで帰っていった。
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存じませんで済むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
おれはさっそく、寄宿生を三人ほど代表として呼び出した。
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おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。
すると六人出てきた。
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すると六人出て来た。
六人だろうが十人だろうが構うものか。
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六人だろうが十人だろうが構うものか。
寝巻きのまま腕まくりをして、談判を始めた。
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寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの布団の中へ入れたんだ」
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「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタて、何ですかいの」
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「バッタた何ぞな」
と、いちばん前にいた一人が言った。
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と真先の一人がいった。
やけに落ち着きはらっていやがる。
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やに落ち付いていやがる。
この学校では校長だけじゃなく、生徒まで回りくどい言葉づかいをするんだろう。
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この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らないなら見せてやろう」
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「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」
と言ったが、あいにく掃き出してしまって一匹もいない。
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と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。
また小使いを呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」
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また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」
と言ったら、「もうごみ捨て場(掃溜・はきだめ)に捨ててしまいましたが、拾って参りましょうか」
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と云ったら、「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」
と聞いた。
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と聞いた。
「うん、すぐ拾ってこい」
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「うんすぐ拾って来い」
と言うと、小使いは急いで駆け出したが、やがて半紙の上に十匹ほど載せて持ってきて、「どうもお気の毒ですが、あいにく夜なのでこれだけしか見つかりません。明日になりましたら、もっと拾って参ります」
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と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」
と言う。
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と云う。
小使いまで間の抜けたことを言う。
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小使まで馬鹿だ。
おれはバッタを一匹生徒に見せて、「バッタとはこれだ。大きなからだをして、バッタを知らないとは、どういうことだ」
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おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」
と言うと、いちばん左のほうにいた顔の丸い奴が、「それは、イナゴですよ」
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と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」
と、生意気にもおれをやりこめた。
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と生意気におれを遣り込めた。
「べらぼうめ、イナゴもバッタも同じものだ。だいたい、先生に向かって「なもし(松山の方言で「〜ですよ」のような言い方)」とは何だ。菜飯(なめし・具の入った混ぜご飯)は田楽(でんがく・みそをぬった豆腐料理)を食うときのほかに口にするもんじゃない」
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「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」
と逆にやりこめてやったら、「なもしと菜飯とは違いますよ」
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とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
と言った。
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と云った。
どこまでいっても「なもし」を使う奴だ。
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いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの布団の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
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「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
「誰も入れやしませんよ」
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「誰も入れやせんがな」
「入れていないものが、どうして布団の中にいるんだ」
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「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは暖かい所が好きじゃけん、だいたい自分で入ったんじゃろう」
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「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿を言え。バッタが自分でお入りになるなんて――バッタにお入りになられてたまるものか。――さあ、なぜこんないたずらをしたのか言え」
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「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「言えと言われても、入れていないものは説明のしようがないがな」
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「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
けちな奴らだ。
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けちな奴等だ。
自分でしたことを自分で言えないくらいなら、はじめからやらなければいい。
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自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。
証拠さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで、図太く構えていやがる。
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証拠さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。
おれだって中学にいたころは、少しはいたずらもしたものだ。
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おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。
しかし誰がしたと聞かれたときに、しり込みをするような卑怯(ひきょう)なまねは、ただの一度もしなかった。
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しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯な事はただの一度もなかった。
したものはした、しないものはしない、それだけのことだ。
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したものはしたので、しないものはしないに極ってる。
おれなんかは、いくらいたずらをしたって、心はいつも潔白なものだ。
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おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。
うそをついて罰を逃れるくらいなら、はじめからいたずらなんかやるものか。
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嘘を吐いて罰を逃げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。
いたずらと罰はつきものだ。
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いたずらと罰はつきもんだ。
罰があるからこそ、いたずらも気持ちよくできる。
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罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。
いたずらだけして罰はご免(めん)こうむるなんて、そんな下劣(げれつ)な根性が、どこの国ではやると思ってるんだ。
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いたずらだけで罰はご免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。
金は借りるが返すのはご免だという連中は、みんなこういう奴らが卒業してからやる仕事に違いない。
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金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。
だいたい中学校へ何をしに入っているんだ。
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全体中学校へ何しにはいってるんだ。
学校に入って、うそをついて、ごまかして、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、それで大きな顔をして卒業すれば教育を受けたことになると、勘違いしていやがる。
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学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。
話にならない雑兵(ぞうひょう・つまらない兵隊のような小者)だ。
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話せない雑兵だ。
おれはこんな腐った了見(りょうけん・考え)の奴らと話し合うのは胸糞(むなくそ)が悪いから、「そんなに言われなきゃわからないなら、もういい。中学校へ入っていながら、上品も下品も区別がつかないとは気の毒なものだ」
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おれはこんな腐った了見の奴等と談判するのは胸糞が悪るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」
と言って、六人を追い払ってやった。
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と云って六人を逐っ放してやった。
おれは言葉づかいや態度こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりずっと上品なつもりだ。
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おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥かに上品なつもりだ。
六人は悠々(ゆうゆう)と引き上げていった。
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六人は悠々と引き揚げた。
見た目だけは、教師のおれよりよっぽど偉そうに見える。
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上部だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。
実際、落ち着いているだけになおさら質(たち)が悪い。
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実は落ち付いているだけなお悪るい。
おれにはとてもこれほどの度胸はない。
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おれには到底これほどの度胸はない。
それからまた床に入って横になったら、さっきの騒動で蚊帳の中はぶんぶんうなっている。
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それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動で蚊帳の中はぶんぶん唸っている。
手燭(てしょく・持ち歩き用のろうそく立て)をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒なことはできないから、蚊帳の釣り手をはずして長くたたみ、部屋の中で縦横十文字にふり回したら、金具の輪が飛んで手の甲をいやというほど打った。
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手燭をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手をはずして、長く畳んでおいて部屋の中で横竪十文字に振ったら、環が飛んで手の甲をいやというほど撲った。
三度目に床へ入ったときは少し落ち着いたが、なかなか寝つけない。
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三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。
時計を見ると十時半だ。
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時計を見ると十時半だ。
考えてみると、厄介(やっかい)な所へ来たものだ。
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考えてみると厄介な所へ来たもんだ。
だいたい中学の先生なんて、どこへ行ってもこんな連中を相手にするなら、気の毒なものだ。
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一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。
よく先生のなり手が品切れにならないものだ。
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よく先生が品切れにならない。
よほど辛抱(しんぼう)強くて、頭の固い朴念仁(ぼくねんじん・融通のきかない人)でないと、務まらないんだろう。
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よっぽど辛防強い朴念仁がなるんだろう。
おれにはとてもやり切れない。
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おれには到底やり切れない。
それを思うと、清(きよ)なんかは見上げたものだ。
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それを思うと清なんてのは見上げたものだ。
教育もない、身分もないばあさんだが、人間としてはひどく尊い。
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教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊とい。
今まではあんなに世話になっても、別にありがたいとも思わなかったが、こうして一人で遠い国へ来てみると、初めてあの親切がわかる。
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今まではあんなに世話になって別段難有いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。
越後(えちご)の笹飴(ささあめ)が食べたいと言われたら、わざわざ越後まで買いに行って食べさせてやっても、食べさせるだけの値打ちは十分ある。
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越後の笹飴が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分ある。
清はおれのことを、欲がなくてまっすぐな気性だと言ってほめてくれるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人のほうがよほど立派な人間だ。
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清はおれの事を欲がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。
何だか清に会いたくなった。
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何だか清に逢いたくなった。
清のことを考えながら寝返りを打っていると、突然おれの頭の上で、人数にしたら三、四十人もいるだろうか、二階が落っこちるほど、どんどんどんと調子をとって床板を踏み鳴らす音がした。
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清の事を考えながら、のつそつしていると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。
すると、その足音に負けないくらい大きな鬨(とき)の声(大勢で叫ぶ声)が上がった。
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すると足音に比例した大きな鬨の声が起った。
おれは何事が起きたのかと驚いて飛び起きた。
原文を見る
おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。
飛び起きたとたん、ははあ、さっきの仕返し(意趣返し・いしゅがえし)に生徒が暴れているんだなと気がついた。
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飛び起きる途端に、ははあさっきの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。
自分の悪いことは、悪かったと言ってしまわないうちは、罪は消えないものだ。
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手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。
悪いことをしたという心当たりは、お前たちにあるだろう。
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わるい事は、手前達に覚があるだろう。
本来なら、寝てから後悔して、明日の朝にでもあやまりに来るのが筋だ。
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本来なら寝てから後悔してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。
たとえあやまらないまでも、恐れ入って静か(静粛・せいしゅく)に寝ているべきだ。
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たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛に寝ているべきだ。
それを何だ、この騒ぎは。
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それを何だこの騒ぎは。
寄宿舎を建てて豚でも飼っておくわけじゃあるまいし。
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寄宿舎を建てて豚でも飼っておきあしまいし。
気が狂ったようなまねも、いいかげんにするがいい。
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気狂いじみた真似も大抵にするがいい。
どうしてくれようかと、寝巻きのまま宿直部屋を飛び出し、はしご段を一段飛ばしで二階まで駆け上がった。
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どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段を三股半に二階まで躍り上がった。
すると不思議なことに、今まで頭の上で確かにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人の声どころか足音もしなくなった。
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すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。
これは妙(みょう)だ。
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これは妙だ。
ランプはもう消してあるから、暗くてどこに何がいるかはっきりわからないが、人の気配があるかないかは様子でわかる。
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ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分らないが、人気のあるとないとは様子でも知れる。
長く東から西へ通った廊下には、ネズミ一匹も隠れていない。
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長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隠れていない。
廊下のはしから月がさして、はるか向こうがぎりぎり明るい。
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廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。
どうも変だ。おれは子どものときから、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わけのわからない寝言を言い、人に笑われたことがよくある。
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どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。
十六、七のときダイヤモンドを拾った夢を見た晩などは、むくりと立ち上がって、そばにいた兄に「今のダイヤモンドはどうした」と、ものすごい勢いで聞いたくらいだ。
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十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらいだ。
そのときは三日ほど家じゅうの笑い話になって、大いに困った。
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その時は三日ばかりうち中の笑い草になって大いに弱った。
ひょっとすると、今のも夢かもしれない。
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ことによると今のも夢かも知れない。
しかし確かに暴れたに違いないがと、廊下の真ん中で考え込んでいると、月のさしている向こうのはしで「いち、に、さん、わあ」と三、四十人の声がかたまって響いたかと思う間もなく、さっきのように調子をとって、みんなが床板を踏み鳴らした。
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しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板を踏み鳴らした。
それ見ろ、夢じゃない、やっぱり本当だ。
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それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。
「静かにしろ、夜中だぞ」と、こっちも負けないくらいの声を出して、廊下を向こうへ駆け出した。
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静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳けだした。
おれの通る道は暗い。ただ、はしに見える月あかりだけが目印(めじるし)だ。
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おれの通る路は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標だ。
おれが駆け出して二間(約三・六メートル)も来たかと思うと、廊下の真ん中で堅い大きなものにすねをぶつけて、「あ、痛い」が頭にひびく間もなく、体はすとんと前へ放り出された。
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おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛り出された。
この畜生めと起き上がってみたが、駆けられない。
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こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。
気ばかりあせるが、足だけは言うことを聞かない。
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気はせくが、足だけは云う事を利かない。
じれったいので、片足で跳ねながら進んでいったら、もう足音も人の声も静まり返って、しんとしている。
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じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。
いくら人間が卑怯だといっても、こんなに卑怯にはなれないものだ。
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いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。
まるで豚だ。
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まるで豚だ。
こうなれば、隠れている奴を引きずり出してあやまらせるまでは引かないぞと心に決めて、寝室の一つを開けて中を調べようと思ったが、開かない。
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こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。
錠(じょう)をかけてあるのか、机か何かを積んで立てかけてあるのか、押しても押しても決して開かない。
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錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。
今度は向かい合った北側の部屋を試してみた。
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今度は向う合せの北側の室を試みた。
やっぱり同じように開かない。
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開かない事はやっぱり同然である。
おれが戸を開けて中にいる奴を引っつかまえてやろうと、いらいらしていると、また東のはしで鬨の声と足拍子が始まった。
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おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕らまえてやろうと、焦慮てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。
この野郎ども、申し合わせて東と西で呼応しておれを馬鹿にする気だなとは思ったが、さてどうしていいかわからない。
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この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。
正直に白状してしまうが、おれは勇気があるわりに知恵(ちえ)が足りない。
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正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。
こんなときにどうしていいか、さっぱりわからない。
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こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。
わからないけれども、決して負けるつもりはない。
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わからないけれども、決して負けるつもりはない。
このまま済ませては、おれの顔にかかわる。
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このままに済ましてはおれの顔にかかわる。
江戸っ子は意気地(いくじ)がないと言われるのは、残念だ。
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江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。
宿直をしていて鼻垂れ小僧(はなたれこぞう)にからかわれ、手のつけようがなくて、仕方なく泣き寝入りしたと思われては、一生の恥だ。
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宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。
これでも元は旗本(はたもと・将軍直属の武士)だ。
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これでも元は旗本だ。
旗本のもとをたどれば清和源氏(せいわげんじ)で、多田(ただ)の満仲(まんじゅう)の子孫(後裔・こうえい)だ。
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旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。
こんな土百姓(どびゃくしょう・田舎の農民)とは、生まれからして違うんだ。
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こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。
ただ知恵(ちえ)がないところが惜しいだけだ。
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ただ智慧のないところが惜しいだけだ。
どうしていいかわからないのが困るだけだ。
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どうしていいか分らないのが困るだけだ。
困ったって負けるものか。
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困ったって負けるものか。
正直だから、どうしていいかわからないんだ。
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正直だから、どうしていいか分らないんだ。
世の中で正直が勝たないで、ほかに何が勝つというんだ、考えてみろ。
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世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。
今夜のうちに勝てなければ、明日勝つ。
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今夜中に勝てなければ、あした勝つ。
明日勝てなければ、あさって勝つ。
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あした勝てなければ、あさって勝つ。
あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて、勝つまでここにいる。
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あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。
おれはこう決心したので、廊下の真ん中にあぐらをかいて、夜が明けるのを待っていた。
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おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。
蚊がぶんぶん来たけれども、何ともなかった。
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蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。
さっきぶつけたすねをなでてみると、何だかぬるぬるする。
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さっき、ぶつけた向脛を撫でてみると、何だかぬらぬらする。
血が出ているんだろう。
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血が出るんだろう。
血なんか出たければ、勝手に出るがいい。
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血なんか出たければ勝手に出るがいい。
そのうち、さっきからの疲れが出て、ついうとうと寝てしまった。
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そのうち最前からの疲れが出て、ついうとうと寝てしまった。
何だか騒がしいので目が覚めたときは、「えっ、しまった」と飛び上がった。
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何だか騒がしいので、眼が覚めた時はえっ糞しまったと飛び上がった。
おれが座っていた右側にある戸が半分開いて、生徒が二人、おれの前に立っている。
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おれの坐ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。
おれは正気に返って、はっと思ったとたん、鼻の先にあった生徒の足をつかんで、力まかせにぐいと引いたら、そいつはどたりと仰向けに倒れた。
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おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引っ攫んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に倒れた。
ざまを見ろ。
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ざまを見ろ。
残る一人がちょっとうろたえた(狼狽・ろうばい)ところに飛びかかって、肩を押さえて二、三度こづき回したら、あっけにとられて目をぱちぱちさせた。
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残る一人がちょっと狼狽したところを、飛びかかって、肩を抑えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。
「さあ、おれの部屋まで来い」と引っ立てると、弱虫と見えて、あれこれ言わずについてきた。
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さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾いて来た。
夜はとうに明けている。
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夜はとうにあけている。
おれが宿直部屋へ連れてきた奴を問いつめ(詰問・きつもん)始めると、豚は打っても叩いても豚だから、ただ「知りません」でどこまでも押し通すつもりらしく、決して白状しない。
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おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問し始めると、豚は、打っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。
そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。
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そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。
見るとみんな眠そうにまぶたをはらしている。
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見るとみんな眠そうに瞼をはらしている。
けちな奴らだ。
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けちな奴等だ。
一晩くらい寝ないで、そんな顔をして男と言えるか。
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一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。
顔でも洗って議論に来い、と言ってやったが、誰も顔を洗いに行かない。
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面でも洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
おれは五十人あまりを相手に、約一時間ほど押し問答(おしもんどう)をしていると、ひょっこり狸がやって来た。
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おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答をしていると、ひょっくり狸がやって来た。
あとから聞いたら、小使いが「学校に騒動があります」と、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。
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あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。
これしきのことで校長を呼ぶなんて、意気地がなさすぎる。
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これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。
それだから中学校の小使いなんかをしているんだ。
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それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
校長はひと通りおれの説明を聞いた。
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校長はひと通りおれの説明を聞いた。
生徒の言い分(言草・いいぐさ)もちょっと聞いた。
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生徒の言草もちょっと聞いた。
「追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。
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追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。
早く顔を洗って朝飯を食べないと時間に間に合わないから、早くしろ」と言って、寄宿生をみんな放免(ほうめん・許して自由にすること)した。
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早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免した。
ぬるいことだ。
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手温るい事だ。
おれなら、その場で寄宿生を全員退校させてしまう。
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おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまう。
こんなのんびりした(悠長・ゆうちょう)ことをするから、生徒が宿直の先生を馬鹿にするんだ。
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こんな悠長な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。
そのうえおれに向かって、「あなたもさぞご心配でお疲れでしょう。今日は授業をなさらなくてよろしい」と言うから、おれはこう答えた。
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その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及ばんと云うから、おれはこう答えた。
「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんなことが毎晩あっても、命のある間は平気です。授業はやります。一晩くらい寝なくて授業ができないくらいなら、いただいた月給を学校のほうへお返しします」
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「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴した月給を学校の方へ割戻します」
校長は何と思ったのか、しばらくおれの顔を見つめていたが、「しかし、顔がだいぶ腫れていますよ」と注意した。
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校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。
なるほど、何だか少し重たい気がする。
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なるほど何だか少々重たい気がする。
そのうえ、顔じゅうべたべたとかゆい。
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その上べた一面痒い。
蚊によほど刺されたに違いない。
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蚊がよっぽと刺したに相違ない。
おれは顔じゅうをぼりぼりかきながら、「顔はいくら腫れても、口はちゃんときけますから、授業には差し支えありません」と答えた。
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おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら膨れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。
校長は笑いながら、「だいぶ元気ですね」とほめた。
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校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。
実を言うと、ほめたんじゃあるまい、からかったんだろう。
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実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
五
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五
「君、釣りに行きませんか」と赤シャツがおれに聞いた。
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君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。
赤シャツは、気味が悪いくらいやさしい声を出す男である。
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赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。
まるで男だか女だかわかりゃしない。
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まるで男だか女だか分りゃしない。
男なら男らしい声を出すものだ。
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男なら男らしい声を出すもんだ。
それに、大学卒業生じゃないか。
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ことに大学卒業生じゃないか。
物理学校でさえ、おれくらいの声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
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物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
おれは「そうですなあ」と、あまり乗り気でない返事をしたら、「君、釣りをしたことがありますか」と失礼なことを聞く。
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おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。
あまりないが、子どものとき、小梅(こうめ)の釣り堀でフナを三匹釣ったことがある。
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あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣った事がある。
それから神楽坂(かぐらざか)の毘沙門(びしゃもん)の縁日(えんにち)で、八寸(すん)ほどのコイを針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまった。これは今考えても惜しいと言ったら、赤シャツはあごを前へ突き出して「ホホホホ」と笑った。
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それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云ったら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑った。
何もそんなに気取って笑わなくてもよさそうなものだ。
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何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。
「それじゃ、まだ釣りの味はわからんですな。お望みなら、ちょっと伝授しましょう」
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「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」
と、いかにも得意げである。
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とすこぶる得意である。
だれがご伝授を受けるものか。
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だれがご伝授をうけるものか。
だいたい釣りや猟(りょう)をする連中は、みんな不人情な人間ばかりだ。
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一体釣や猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。
不人情でなければ、生き物を殺す(殺生・せっしょう)ことを喜ぶわけがない。
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不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。
魚だって鳥だって、殺されるより生きているほうが楽に決まっている。
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魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極まってる。
釣りや猟をしなければ暮らし(活計・かっけい)が立たないというなら別だが、何不自由なく暮らしているうえに、生き物を殺さなくては眠れないなんて、贅沢(ぜいたく)な話だ。
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釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。
こう思ったが、向こうは文学士だけあって口が達者だから、議論ではかなわないと思って、黙っていた。
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こう思ったが向うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶わないと思って、だまってた。
すると先生は、このおれを降参させたと勘違いして、「早速伝授しましょう。
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すると先生このおれを降参させたと疳違いして、早速伝授しましょう。
お暇なら、今日どうです、いっしょに行っては」
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おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。
「吉川君と二人きりじゃ、寂しいから来たまえ」としきりに勧める。
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吉川君と二人ぎりじゃ、淋しいから、来たまえとしきりに勧める。
吉川君というのは、絵画の教師で、あの野だいこ(野幇間・お世辞ばかり言う人)のことだ。
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吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。
この野だは、どういうつもり(了見・りょうけん)か、赤シャツの家へ朝から晩まで出入りして、どこへでもついて行く。
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この野だは、どういう了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して、どこへでも随行して行く。
まるで同僚(同輩・どうはい)ではない。
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まるで同輩じゃない。
まるで主従(しゅうじゅう・主人と家来)のようだ。
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主従みたようだ。
赤シャツの行くところなら、野だは必ずついて行くに決まっているから、今さら驚きもしないが、二人で行けば済むところを、何でこの無愛想なおれに声をかけたんだろう。
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赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極っているんだから、今さら驚ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想のおれへ口を掛けたんだろう。
どうせ高慢ちきな釣り道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりか何かで誘ったに違いない。
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大方高慢ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘ったに違いない。
そんなことで見せびらかされるおれじゃない。
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そんな事で見せびらかされるおれじゃない。
マグロの二匹や三匹釣ったって、びくともするものか。
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鮪の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。
おれだって人間だ、いくら下手でも、糸さえ垂らせば何か釣れるだろう。ここでおれが行かないと、赤シャツのことだから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃないと勘ぐる(邪推・じゃすい)に違いない。
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おれだって人間だ、いくら下手だって糸さえ卸しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃないと邪推するに相違ない。
おれはこう考えたので、「行きましょう」と答えた。
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おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。
それから学校が終わって、いったん下宿に帰って支度をととのえ、停車場で赤シャツと野だと待ち合わせて浜へ行った。
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それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜へ行った。
船頭は一人で、船は東京あたりでは見たこともない、細長い形をしている。
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船頭は一人で、船は細長い東京辺では見た事もない恰好である。
さっきから船の中を見渡しているが、釣竿(つりざお)が一本も見えない。
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さっきから船中見渡すが釣竿が一本も見えない。
釣竿なしで釣りができるものか、どういうつもりだろうと野だに聞くと、「沖釣り(おきづり)には竿は使いません。糸だけでげす」と、あごをなでて、まるで玄人(黒人・くろうと)のようなことを言った。
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釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫でて黒人じみた事を云った。
こうやりこめられるくらいなら、黙っていればよかった。
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こう遣り込められるくらいならだまっていればよかった。
船頭はゆっくりゆっくりこいでいるが、熟練というのは恐ろしいもので、振り返ると浜が小さく見えるくらい、もう沖に出ている。
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船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。
高柏寺(こうはくじ)の五重の塔が森の上へ抜け出して、針のようにとがっている。
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高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針のように尖がってる。
向こう側を見ると青嶋(あおしま)が浮いている。
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向側を見ると青嶋が浮いている。
これは人の住まない島だそうだ。
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これは人の住まない島だそうだ。
よく見ると石と松ばかりだ。
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よく見ると石と松ばかりだ。
なるほど、石と松ばかりでは住めっこない。
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なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。
赤シャツは、しきりに景色をながめて「いい景色だ」と言っている。
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赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。
野だは「絶景でげす」と言っている。
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野だは絶景でげすと云ってる。
絶景だかどうだか知らないが、いい気持ちであることには違いない。
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絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。
広々とした海の上で潮風に吹かれるのは、薬のようなものだと思った。
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ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。
やけに腹が減る。
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いやに腹が減る。
「あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いて、ターナーの絵にありそうだね」
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「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」
と赤シャツが野だに言うと、野だは「まったくターナーですね。どうも、あの曲がり具合といったらありませんね。ターナーそっくりですよ」
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と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」
と、わけ知り顔をしている。
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と心得顔である。
ターナーとは何のことだか知らないが、聞かなくても困らないことだから黙っていた。
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ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。
舟は島を右に見ながら、ぐるりと回った。
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舟は島を右に見てぐるりと廻った。
波はまったくない。
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波は全くない。
これが海だとは思えないほど平らだ。
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これで海だとは受け取りにくいほど平だ。
赤シャツのおかげで、とても愉快だ。
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赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。
できることなら、あの島の上に上がってみたいと思ったので、「あの岩のある所へは舟をつけられないんですか」と聞いてみた。
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出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。
「つけられないこともないですが、釣りをするには、あまり岸に近いのはよくないですね」と赤シャツが異を唱えた。
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つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。
おれは黙っていた。
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おれは黙ってた。
すると野だが「どうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんか」と余計な提案(発議・ほつぎ)をした。
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すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。
赤シャツは「それは面白い、われわれはこれからそう呼ぼう」と賛成した。
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赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。
この「われわれ」の中におれも入っているなら迷惑だ。
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この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。
おれには青嶋で十分だ。
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おれには青嶋でたくさんだ。
「あの岩の上に、どうです、ラファエルのマドンナを置いては。
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あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。
いい絵ができますぜ」と野だが言うと、「マドンナの話はよそうじゃないか。ホホホホ」と赤シャツが気味の悪い笑い方をした。
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いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。
「なに、誰もいないから大丈夫ですよ」と、ちょっとおれのほうを見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。
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なに誰も居ないから大丈夫ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。
おれは何だか嫌な気がした。
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おれは何だかやな心持ちがした。
マドンナだろうが小旦那(こだんな)だろうが、おれには関係のないことだから、勝手に立たせるならそれでいいが、人にわからないことを言っておいて、わからないなら聞いてもらっても構わない、というような態度をとる。
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マドンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。
下品なやり方だ。
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下品な仕草だ。
それでいて本人は「私も江戸っ子でげす」などと言っている。
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これで当人は私も江戸っ子でげすなどと云ってる。
マドンナというのは、どうせ赤シャツのなじみの芸者のあだ名か何かに違いないと思った。
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マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染の芸者の渾名か何かに違いないと思った。
なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たせて眺めていれば、世話はない(気楽なものだ)。
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なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない。
それを野だが油絵にでも描いて展覧会へ出したらよかろう。
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それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
ここいらがいいだろうと船頭は船を止めて、錨(いかり)を下ろした。
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ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨を卸した。
「幾尋(いくひろ・深さの単位)あるかね」と赤シャツが聞くと、「六尋(むひろ)ぐらいだ」と言う。
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幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらいだと云う。
「六尋くらいじゃ、タイはむずかしいな」と、赤シャツは糸を海へ投げ込んだ。
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六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。
どうやらタイを釣る気らしい、大胆(豪胆・ごうたん)なものだ。
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大将鯛を釣る気と見える、豪胆なものだ。
野だは、「なに、教頭のお手並みならかかりますよ。
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野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。
それになぎ(風のない静かな海面)ですから」とお世辞を言いながら、これも糸を繰り出して投げ入れる。
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それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰り出して投げ入れる。
何だか先におもり(錘)のような鉛(なまり)がぶら下がっているだけだ。
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何だか先に錘のような鉛がぶら下がってるだけだ。
浮き(うき)がない。
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浮がない。
浮きなしで釣りをするのは、温度計なしで熱をはかるようなものだ。
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浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。
おれにはとてもできないと見ていると、「さあ君もやりたまえ、糸はありますか」と聞く。
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おれには到底出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。
糸は余るほどあるが浮きがありませんと言ったら、「浮きがなくちゃ釣りができないのは素人(しろうと)ですよ。
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糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人ですよ。
こうしてね、糸が水底についたころに、船べり(船縁・ふなべり)のところで人差し指で呼吸をはかるんです。食いつくとすぐ手に応える。――」
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こうしてね、糸が水底へついた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――
「それ、来た」と先生が急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何もかかっていない、餌(え)がなくなっていただけだ。
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そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。
いい気味だ。
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いい気味だ。
「教頭、残念なことをしましたね。今のは確かに大物に違いなかったんですが、どうも教頭のお手並みでさえ逃げられちゃ、今日は油断できませんよ。
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教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃げられちゃ、今日は油断ができませんよ。
しかし、逃げられても何ですね。
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しかし逃げられても何ですね。
浮きとにらめっこをしている連中よりはましですね。
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浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。
ちょうど歯止めがなくちゃ自転車に乗れないのと、同じ程度のことですからね」と、野だは妙なことばかりしゃべる。
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ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。
よっぽど殴りつけてやろうかと思った。
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よっぽど撲りつけてやろうかと思った。
おれだって人間だ。教頭一人で借り切った海じゃあるまいし。
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おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。
広い所だ。
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広い所だ。
カツオの一匹くらい、義理にでもかかってくれるだろうと、どぼんとおもりと糸を放り込んで、いいかげんに指先であやつっていた。
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鰹の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。
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しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。
おれは考えた。
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おれは考えた。
こいつは魚に違いない。
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こいつは魚に相違ない。
生きているものでなければ、こうぴくつくわけがない。
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生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。
しめた、釣れたと、ぐいぐいたぐり寄せた。
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しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。
「おや、釣れましたかね。後世恐るべしだ」と野だがひやかすうちに、糸はもう大方たぐり込んで、あと五尺(しゃく)ほどしか水につかっていない。
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おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸いておらん。
船べりからのぞいてみたら、金魚のようなしまのある魚が糸にくっついて、左右にただよいながら、手の動きに応じて浮き上がってくる。
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船縁から覗いてみたら、金魚のような縞のある魚が糸にくっついて、右左へ漾いながら、手に応じて浮き上がってくる。
おもしろい。
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面白い。
水際から上げるとき、ぽちゃりと跳ねたので、おれの顔は潮水だらけになった。
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水際から上げるとき、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。
ようやくつかまえて、針をとろうとするが、なかなかとれない。
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ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。
つかまえた手はぬるぬるする。
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捕まえた手はぬるぬるする。
大いに気味が悪い。
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大いに気味がわるい。
面倒だから糸をふって船の底(胴の間・どうのま)へたたきつけたら、すぐ死んでしまった。
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面倒だから糸を振って胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んでしまった。
赤シャツと野だは驚いて見ている。
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赤シャツと野だは驚ろいて見ている。
おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあててみた。
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おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。
まだ生ぐさい(腥臭・なまぐさい)。
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まだ腥臭い。
もう懲(こ)り懲りだ。
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もう懲り懲りだ。
何が釣れたって、魚なんか握りたくない。
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何が釣れたって魚は握りたくない。
魚だって握られたくないだろう。
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魚も握られたくなかろう。
それっきり糸を巻いてしまった。
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そうそう糸を捲いてしまった。
「一番槍(いちばんやり・一番乗り)はお手柄ですが、ゴルキじゃ」と野だがまた生意気なことを言うと、「ゴルキというとロシアの文学者みたいな名だね」と赤シャツが洒落(しゃれ)た。
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一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落た。
「そうですね、まるでロシアの文学者ですね」と野だはすぐに賛成しやがる。
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そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。
ゴルキがロシアの文学者で、丸木(まるき)が芝(しば)の写真師で、米のなる木(=稲)が命の親だろう。
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ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。
だいたいこの赤シャツは、悪い癖がある。
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一体この赤シャツはわるい癖だ。
誰をつかまえても、片仮名の異国人(唐人・とうじん)の名前を並べたがる。
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誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。
人にはそれぞれ専門というものがある。
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人にはそれぞれ専門があったものだ。
おれのような数学の教師に、ゴルキだか車力(しゃりき・荷車引き)だか見当がつくものか。少しは遠慮するがいい。
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おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。
言うなら、フランクリンの自伝だとか「プッシング・ツー・ザ・フロント」だとか、おれでも知っている名前を使うがいい。
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云うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。
赤シャツは時々「帝国文学」とかいう、真っ赤な表紙の雑誌を学校へ持ってきて、ありがたそうに読んでいる。
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赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。
山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から仕入れているんだそうだ。
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山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。
「帝国文学」も罪な雑誌だ。
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帝国文学も罪な雑誌だ。
それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていたが、約一時間ほどのうちに二人で十五、六匹上げた。
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それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五六上げた。
おかしなことに、釣れるのも釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。
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可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。
タイなんて、薬にしたくてもありゃしない。
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鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。
「今日はロシア文学の大当たりだ」と赤シャツが野だに話している。
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今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。
「あなたのお手並みでゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。
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あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。
当たり前ですな」と野だが答えている。
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当り前ですなと野だが答えている。
船頭に聞くと、この小魚は骨が多くてまずくて、とても食えないんだそうだ。
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船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。
ただ肥料(こやし)にはなるそうだ。
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ただ肥料には出来るそうだ。
赤シャツと野だは、一生懸命に肥料を釣っているんだ。
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赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。
気の毒の至りだ。
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気の毒の至りだ。
おれは一匹で懲りたので、船の底(胴の間)へ仰向けになって、さっきから大空を眺めていた。
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おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになって、さっきから大空を眺めていた。
釣りをするより、こっちのほうがよっぽど気がきいている(洒落・しゃれている)。
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釣をするよりこの方がよっぽど洒落ている。
すると二人は小声で何か話し始めた。
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すると二人は小声で何か話し始めた。
おれにはよく聞こえない。また聞きたくもない。
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おれにはよく聞えない、また聞きたくもない。
おれは空を見ながら、清のことを考えている。
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おれは空を見ながら清の事を考えている。
金があって、清を連れて、こんなきれいな所へ遊びに来たら、さぞ愉快だろう。
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金があって、清をつれて、こんな奇麗な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。
いくら景色がよくても、野だなんかと一緒じゃつまらない。
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いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。
清はしわくちゃだらけのばあさんだが、どんな所へ連れて出ても、恥ずかしい気持ちはしない。
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清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥ずかしい心持ちはしない。
野だのような奴は、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣(りょううんかく・浅草にあった高い塔)へ上ろうが、とても近寄れる相手じゃない。
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野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。
おれが教頭で、赤シャツがおれの立場だったら、野だはやっぱりおれのところへ駆けつけて、お世辞を使って赤シャツをからかうに違いない。
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おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷かすに違いない。
江戸っ子は軽薄(けいはく)だと言うが、なるほどこんな奴が田舎を回って「私は江戸っ子でげす」と繰り返していたら、軽薄イコール江戸っ子、江戸っ子イコール軽薄だと、田舎の人が思い込むに決まっている。
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江戸っ子は軽薄だと云うがなるほどこんなものが田舎巡りをして、私は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。
こんなことを考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。
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こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。
笑い声の合間に何か言っているが、途切れ途切れでさっぱり要領を得ない。
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笑い声の間に何か云うが途切れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」
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「え? どうだか……」
「……全くです……知らないんですから……罪ですね」
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「……全くです……知らないんですから……罪ですね」
「まさか……」
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「まさか……」
「バッタを……本当ですよ」
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「バッタを……本当ですよ」
おれはほかの言葉には耳を傾けなかったが、「バッタ」という野だの言葉を聞いたときは、思わずぎくりとなった。
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おれは外の言葉には耳を傾けなかったが、バッタと云う野だの語を聴いた時は、思わずきっとなった。
野だは何のためか「バッタ」という言葉だけことさら力を入れて、はっきりとおれの耳に入るように言い、そのあとをわざとぼかしてしまった。
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野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。
おれは動かずに、やはり聞いていた。
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おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田が……」
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「また例の堀田が……」
「そうかもしれない……」
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「そうかも知れない……」
「天ぷら……ハハハハハ」
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「天麩羅……ハハハハハ」
「……煽動(せんどう)して……」
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「……煽動して……」
「団子も?」
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「団子も?」
言葉はこんなふうに途切れ途切れだったが、バッタだの天ぷらだの団子だのというところから推し量ってみると、どうやらおれのことについて内緒話(内所話・ないしょばな)をしているに違いない。
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言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話しをしているに相違ない。
話すならもっと大きな声で話すがいい。また内緒話をするくらいなら、おれなんかを誘わなければいい。
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話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。
いけ好かない連中だ。
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いけ好かない連中だ。
バッタだろうが雪踏(せった・草履の一種)だろうが、非はおれにあることじゃない。
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バッタだろうが雪踏だろうが、非はおれにある事じゃない。
校長が「ひとまず預けておけ」と言ったから、狸の顔を立てて、今のところは控えているんだ。
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校長がひとまずあずけろと云ったから、狸の顔にめんじてただ今のところは控えているんだ。
野だのくせに、余計な批評をしやがる。
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野だの癖に入らぬ批評をしやがる。
筆(毛筆)でもしゃぶって引っ込んでいるがいい。
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毛筆でもしゃぶって引っ込んでるがいい。
おれのことは、遅かれ早かれ、おれ一人で片づけてみせるから構わないが、「また例の堀田が」とか「煽動して」とかいう言葉が気にかかる。
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おれの事は、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。
堀田がおれをそそのかして騒動を大きくしたという意味なのか、それとも堀田が生徒をそそのかしておれをいじめさせたというのか、見当がつかない。
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堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。
青空を見ていると、日の光がだんだん弱くなってきて、少しひんやりする風が吹き出した。
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青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。
線香の煙(けむり)のような雲が、透き通った空の底の上を静かに広がっていったと思ったら、いつのまにか空の奥に流れ込んで、うっすらもやをかけたようになった。
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線香の烟のような雲が、透き徹る底の上を静かに伸して行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった。
「もう帰ろうか」と赤シャツが思い出したように言うと、「ええ、ちょうどいい時分ですね。
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もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。
今夜はマドンナの君にお会いですか」と野だが言う。
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今夜はマドンナの君にお逢いですかと野だが云う。
赤シャツは「馬鹿を言っちゃいけない、間違いになる」と、船べりに身をもたせかけていたのを、少し起き直った。
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赤シャツは馬鹿あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚たした奴を、少し起き直る。
「エヘヘヘヘ、大丈夫ですよ。
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エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。
聞いたって……」と野だが振り返ったとき、おれは皿のような目を野だの頭の上へまともに浴びせかけてやった。
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聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿のような眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。
野だはまぶしそうにひっくり返って、「やあ、こいつは降参だ」と首をすくめて、頭をかいた。
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野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻いた。
何という猪口才(ちょこざい・生意気)な奴だろう。
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何という猪口才だろう。
船は静かな海を岸へこぎ戻る。
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船は静かな海を岸へ漕ぎ戻る。
「君は釣りがあまり好きじゃないと見えますね」と赤シャツが聞くから、「ええ、寝ていて空を見るほうがいいです」と答えて、吸いかけの巻きたばこを海の中へたたき込んだら、ジュッと音がして、艪(ろ)でかき分けられた波の上を揺られながらただよっていった。
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君釣はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で掻き分けられた浪の上を揺られながら漾っていった。
「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発してやってくれたまえ」
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「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発してやってくれたまえ」
と、今度は釣りとはまるで関係のないことを言い出した。
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と今度は釣にはまるで縁故もない事を云い出した。
「あんまり喜んでもいないでしょう」
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「あんまり喜んでもいないでしょう」
「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです。ね、吉川君」
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「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」
「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」
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「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」
と野だはにやにやと笑った。
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と野だはにやにやと笑った。
こいつの言うことは、いちいち癪(しゃく)に障るから妙だ。
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こいつの云う事は一々癪に障るから妙だ。
「しかし君、注意しないと危ない(険呑・けんのん)ですよ」
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「しかし君注意しないと、険呑ですよ」
と赤シャツが言うから、「どうせ危ないんです。こうなりゃ危ないのは覚悟の上です」
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と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟です」
と言ってやった。
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と云ってやった。
実際おれは、免職(めんしょく)になるか、寄宿生を残らずあやまらせるか、どちらか一つにするつもりでいた。
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実際おれは免職になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。
「そう言っちゃ、取りつく島もないが――実は僕も教頭として君のためを思って言うんだが、悪く取られちゃ困る」
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「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」
「教頭は本当に君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸っ子ですから、なるべく長くご在校願って、お互いに力になろうと思って、これでも陰ながら尽力(じんりょく)しているんですよ」
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「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力しているんですよ」
と野だが、人間らしい(人間並・ひとなみ)ことを言った。
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と野だが人間並の事を云った。
野だの世話になるくらいなら、首をくくって死んじまわあ。
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野だのお世話になるくらいなら首を縊って死んじまわあ。
「それでね、生徒は君が来たのを大変歓迎しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つこともあるだろうが、ここが我慢だと思って、辛抱(しんぼう)してくれたまえ。決して君のためにならないようなことはしないから」
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「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢だと思って、辛防してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情って、どんな事情です」
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「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだんわかりますよ。僕が話さなくても自然とわかってくるんです。ね、吉川君」
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「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええ、なかなか込み入ってますからね。一朝一夕にはとてもわかりません。しかしだんだんわかります。僕が話さなくても自然とわかってくるんです」
原文を見る
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」
と野だは赤シャツと同じようなことを言う。
原文を見る
と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたのほうから話し出したから伺うんです」
原文を見る
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切っておいて、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけのことを言っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は初めての経験だ。ところが学校というものは、なかなか義理や人情がからんでいるもので、そう書生気質(かたぎ)のようにさっぱりとはいかないですからね」
原文を見る
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊には行かないですからね」
「さっぱりといかなければ、どんなふうにいくんです」
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「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ、君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと言うんですがね……」
原文を見る
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にも書いておきましたが、二十三年四か月ですから」
原文を見る
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬところから付け込まれる(乗ぜられる)ことがあるんです」
原文を見る
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば、誰に付け込まれたって怖くはないです」
原文を見る
「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」
「もちろん怖くはない、怖くはないが、付け込まれるんです。現に君の前任者がやられたんだから、気をつけないといけないと言うんです」
原文を見る
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
野だがおとなしくなったなと気がついて、振り向いてみると、いつのまにか船尾(艫・とも)のほうで船頭と釣りの話をしている。
原文を見る
野だが大人しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をしている。
野だがいないので、よほど話しやすくなった。
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野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰に付け込まれたんです」
原文を見る
「僕の前任者が、誰れに乗ぜられたんです」
「誰それと名指しすると、その人の名誉に関わるから言えない。それにはっきりした証拠のないことだから、言うとこっちの落ち度になる。とにかく、せっかく君が来たんだから、ここで失敗しちゃ僕らも君を呼んだ甲斐(かい)がない。どうか気をつけてくれたまえ」
原文を見る
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気をつけろって言ったって、これ以上気のつけようはありません。悪いことをしなければいいんでしょう」
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「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好いんでしょう」
赤シャツはホホホホと笑った。
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赤シャツはホホホホと笑った。
別段おれは、笑われるようなことを言った覚えはない。
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別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。
今日ただいまに至るまで、これでいいと固く信じている。
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今日ただ今に至るまでこれでいいと堅く信じている。
考えてみると、世間の大部分の人は、悪くなることを奨励(しょうれい)しているように思う。
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考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。
悪くならなければ社会で成功しないものと信じているらしい。
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わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。
たまに正直で純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖(なんくせ)をつけて軽蔑(けいべつ)する。
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たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。
それなら小学校や中学校で「うそをつくな、正直にしろ」と、倫理(りんり・道徳)の先生が教えないほうがいい。
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それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。
いっそ思い切って、学校でうそのつき方とか、人を信じない術とか、人をだます手管とかを教えるほうが、世のためにも本人のためにもなるだろう。
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いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純さを笑ったのだ。
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赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。
単純さや正直(真率・しんそつ)さが笑われる世の中じゃ、しょうがない。
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単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。
清はこんなとき、決して笑ったことはない。
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清はこんな時に決して笑った事はない。
大いに感心して聞いたものだ。
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大いに感心して聞いたもんだ。
清のほうが赤シャツより、よっぽど上等だ。
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清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「もちろん悪いことをしなければいいんですが、自分だけ悪いことをしなくても、人の悪いことがわからなくちゃ、やっぱりひどい目にあうでしょう。世の中には、さっぱりして(磊落・らいらく)いるように見えても、さっぱりして見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断のできない人がいますから……。だいぶ寒くなった。もう秋ですね。浜のほうはもや(靄)でセピア色になった。いい景色だ。おい、吉川君、どうだい、あの浜の景色は……」
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「無論悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」
と大きな声を出して野だを呼んだ。
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と大きな声を出して野だを呼んだ。
「なるほど、こりゃ絶景(奇絶・きぜつ)ですね。
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なあるほどこりゃ奇絶ですね。
時間があると写生するんですが、惜しいですね、このままにしておくのは」と野だは大いにおだてる。
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時間があると写生するんだが、惜しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
港屋の二階に灯が一つともって、汽車の汽笛がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざくりと、舳先(へさき)をつっこんで動かなくなった。
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港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなった。
「お早いお帰りで」と、女将(かみさん)が浜に立って赤シャツにあいさつする。
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お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶する。
おれは船べり(船端・ふなばた)から、えいと掛け声をして、磯へ飛び下りた。
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おれは船端から、やっと掛声をして磯へ飛び下りた。
六
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六
野だは大嫌いだ。
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野だは大嫌いだ。
こんな奴は、たくあん石(沢庵石・重石)をつけて海の底に沈めてしまうほうが、日本のためだ。
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こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。
赤シャツは声が気に食わない。
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赤シャツは声が気に食わない。
あれは生まれつきの声を、わざと気取ってあんなにやさしく見せているんだろう。
原文を見る
あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。
いくら気取ったって、あの顔じゃだめだ。
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いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。
惚れる女がいたとしても、マドンナくらいなものだ。
原文を見る
惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。
しかし、教頭だけあって野だよりむずかしいことを言う。
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しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云う。
下宿へ帰って、あいつの言い分を考えてみると、一応もっともなようでもある。
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うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。
はっきりしたことは言わないから見当がつきかねるが、どうやら山嵐がよくない奴だから用心しろということらしい。
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はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。
それならそうと、はっきり言い切ればいい。男らしくもない。
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それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。
そして、そんな悪い教師なら、早く免職させたらいいだろう。
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そうして、そんな悪るい教師なら、早く免職さしたらよかろう。
教頭なんて、文学士のくせに意気地のないものだ。
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教頭なんて文学士の癖に意気地のないもんだ。
陰口をきくときでさえ、堂々と名前を言えないくらいの男だから、弱虫に決まっている。
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蔭口をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極まってる。
弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切者なんだろう。
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弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。
親切は親切、声は声だから、声が気に入らないからといって親切を無にしては筋が違う。
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親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。
それにしても世の中は不思議なものだ。虫の好かない奴が親切で、気の合った友達が悪者(悪漢・わるもの)だなんて、人を馬鹿にしている。
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それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。
どうせ田舎だから、何もかも東京とは逆に行くんだろう。
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大方田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。
物騒な所だ。
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物騒な所だ。
今に火事が凍って、石が豆腐になるかもしれない。
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今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。
しかし、あの山嵐が生徒をそそのかすなんて、いたずらをしそうもないがな。
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しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。
一番人望のある教師だというから、やろうと思えばたいていのことはできるかもしれないが、――第一そんな回りくどいことをしなくても、じかにおれをつかまえて喧嘩をふっかければ、手間が省けるはずだ。
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一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻りくどい事をしないでも、じかにおれを捕まえて喧嘩を吹き懸けりゃ手数が省ける訳だ。
おれが邪魔になるなら、「実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれ」と言えばよさそうなものだ。
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おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。
物事は話し合いしだいで、どうにでもなる。
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物は相談ずくでどうでもなる。
向こうの言い分がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
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向うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
ここでしか米ができないわけでもあるまい。
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ここばかり米が出来る訳でもあるまい。
どこの果てへ行ったって、のたれ死にはしないつもりだ。
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どこの果へ行ったって、のたれ死はしないつもりだ。
山嵐もよっぽど話のわからない奴だな。
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山嵐もよっぽど話せない奴だな。
ここへ来たとき、一番先に氷水をおごってくれたのは山嵐だ。
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ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。
そんな裏表のある奴から、氷水でもおごってもらっては、おれの顔に関わる。
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そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。
おれはたった一杯しか飲まなかったから、一銭五厘しか払わせていない。
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おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。
しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師(さぎし)の恩を受けては、死ぬまで気持ちがよくない。
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しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。
明日学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
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あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
おれは清から三円借りている。
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おれは清から三円借りている。
その三円は、五年たった今日まで、まだ返していない。
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その三円は五年経った今日までまだ返さない。
返せないんじゃない。
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返せないんじゃない。
返さないんだ。
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返さないんだ。
清は「今に返すだろう」などと、少しもおれのふところ(懐中・かいちゅう)をあてにしてはいない。
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清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。
おれも「今に返そう」などと、他人行儀な義理立てはしないつもりだ。
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おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。
こっちがこんな心配をすればするほど、清の心を疑うようなもので、清の美しい心にけちをつけるのと同じことになる。
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こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。
返さないのは清を踏みつけるのではない。清をおれの片割れ(片破れ・かたわれ・分身のような存在)だと思うからだ。
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返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。
清と山嵐とは、もとより比べものにならないが、たとえ氷水だろうが甘茶(あまちゃ)だろうが、他人から恵みを受けて黙っているのは、相手を一人前の人間と見なして、その人間に対する厚意のあらわれだ。
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清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
割り前を出せばそれだけで済むところを、心の中でありがたいと恩に着るのは、お金で買える返礼じゃない。
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割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
無位無冠(むいむかん・地位も肩書きもない)でも、一人前の独立した人間だ。
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無位無冠でも一人前の独立した人間だ。
独立した人間が頭を下げるのは、百万両よりも尊いお礼だと思わなければならない。
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独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
おれはこれでも、山嵐に一銭五厘を奮発させて、百万両より尊い返礼をしたつもりでいる。
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おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。
山嵐はありがたく思うべきだ。
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山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。
それなのに、裏に回って卑劣(ひれつ)なふるまいをするとは、けしからん野郎だ。
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それに裏へ廻って卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。
明日行って一銭五厘返してしまえば、借りも貸しもない。
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あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。
そうしておいて、喧嘩をしてやろう。
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そうしておいて喧嘩をしてやろう。
おれはここまで考えたら眠くなったので、ぐうぐう寝てしまった。
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おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。
翌日は考えがあったので、いつもの時刻より早めに登校して、山嵐を待ち受けた。
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あくる日は思う仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。
ところが、なかなか出てこない。
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ところがなかなか出て来ない。
うらなりが出てくる。
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うらなりが出て来る。
漢学の先生が出てくる。
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漢学の先生が出て来る。
野だが出てくる。
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野だが出て来る。
しまいには赤シャツまで出てきたが、山嵐の机の上は白墨(はくぼく・チョーク)が一本、縦に寝ているだけで、静か(閑静・かんせい)なものだ。
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しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本竪に寝ているだけで閑静なものだ。
おれは、控え所(職員室)に入ったらすぐ返そうと思って、下宿を出るときから、銭湯代のように手のひらに入れて、一銭五厘を学校まで握ってきた。
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おれは、控所へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握って来た。
おれは脂性(あぶらっしょう)の手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいている。
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おれは膏っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいている。
汗をかいた銭を返しては、山嵐が何とか言うだろうと思ったので、机の上へ置いてふうふう吹いて、また握った。
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汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。
そこへ赤シャツが来て、「昨日は失礼、迷惑でしたろう」と言ったから、「迷惑じゃありません。おかげで腹が減りました」と答えた。
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ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。
すると赤シャツは山嵐の机の上へひじをついて、あの盤台のような顔(盤台面・ばんだいづら)をおれの鼻の横まで持ってきたから、何をするのかと思ったら、「君、昨日帰りがけに船の中で話したことは秘密にしてくれたまえ。
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すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。
まだ誰にも話していないでしょうね」と言った。
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まだ誰にも話しやしますまいねと云った。
女のような声を出すだけあって、心配性な男と見える。
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女のような声を出すだけに心配性な男と見える。
話していないのは確かである。
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話さない事はたしかである。
しかしこれから話そうという気持ちで、すでに一銭五厘を手のひらに用意しているくらいだから、ここで赤シャツに口止めされては、ちょっと困る。
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しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。
赤シャツも赤シャツだ。
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赤シャツも赤シャツだ。
山嵐と名指しはしないにしろ、あれほど察しのつく謎をかけておきながら、今さらその謎を解かれては迷惑だとは、教頭とも思えない無責任さだ。
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山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。
本来なら、おれが山嵐と戦争を始めて激しくやりあっている(鎬を削る・しのぎをけずる)ところへ出てきて、堂々とおれの味方をするべきだ。
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元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬を削ってる真中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。
それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている甲斐(主意)もあるというものだ。
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それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
おれは教頭に向かって、「まだ誰にも話していませんが、これから山嵐と談判するつもりです」と言ったら、赤シャツは大いにうろたえて(狼狽・ろうばい)、「君、そんな無茶なことをしちゃ困る。
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おれは教頭に向って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちゃ困る。
僕は堀田君のことについて、別段君に何もはっきり言った覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。
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僕は堀田君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。
君は学校に騒動を起こすつもりで来たんじゃなかろうね」と、妙に常識はずれな質問をするので、「当たり前です。月給をもらいながら騒動を起こしたりしては、学校のほうでも困るでしょう」と言った。
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君は学校に騒動を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問をするから、当り前です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。
すると赤シャツは「それじゃ昨日のことは君の参考だけにとめて、口外しないでくれ」と、汗をかいて頼み込むから、「よろしい、僕も困るんですが、そんなにあなたが迷惑なら、やめておきましょう」と請け合った。
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すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。
「君、大丈夫かい」と赤シャツは念を押した。
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君大丈夫かいと赤シャツは念を押した。
どこまで女らしいのか、底(奥行・おくゆき)が知れない。
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どこまで女らしいんだか奥行がわからない。
文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらないものだ。
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文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。
つじつまの合わない、筋の通らない注文をしておいて、平気な顔(恬然・てんぜん)をしている。
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辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして恬然としている。
しかもこのおれを疑っている。
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しかもこのおれを疑ぐってる。
恐れながら、おれは男だ。
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憚りながら男だ。
一度請け合ったことを裏へ回って反故(ほご・帳消し)にするような、さもしい了見を持っているものか。
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受け合った事を裏へ廻って反古にするようなさもしい了見はもってるもんか。
そこへ両隣の机の主も出校してきたので、赤シャツはそそくさと自分の席へ帰っていった。
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ところへ両隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。
赤シャツは歩き方からして気取っている。
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赤シャツは歩るき方から気取ってる。
部屋の中を行き来するのでも、音を立てないように靴の底をそっと下ろす。
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部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴の底をそっと落す。
音を立てずに歩くのが自慢になるものだとは、このとき初めて知った。
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音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始めて知った。
泥棒の稽古(けいこ)じゃあるまいし、当たり前に歩けばいい。
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泥棒の稽古じゃあるまいし、当り前にするがいい。
やがて始業のラッパが鳴った。
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やがて始業の喇叭がなった。
山嵐はとうとう出てこない。
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山嵐はとうとう出て来ない。
仕方がないので、一銭五厘を机の上へ置いて、教室へ出かけた。
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仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
授業の都合で一時間目は少し遅れて、控え所へ帰ったら、ほかの先生はみんな机を前にして話をしている。
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授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。
山嵐もいつのまにか来ている。
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山嵐もいつの間にか来ている。
欠勤だと思ったら、遅刻したんだ。
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欠勤だと思ったら遅刻したんだ。
おれの顔を見るなり、「今日は君のおかげで遅刻したんだ。
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おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。
罰金を出したまえ」と言った。
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罰金を出したまえと云った。
おれは机の上にあった一銭五厘を出して、「これをやるから取っておけ。
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おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。
この前、通町(とおりちょう)で飲んだ氷水の代だ」と山嵐の前へ置くと、「何を言ってるんだ」と笑いかけたが、おれが思いのほか真面目でいるので、「つまらない冗談をするな」と銭をおれの机の上に払いのけて返した。
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先達て通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目でいるので、つまらない冗談をするなと銭をおれの机の上に掃き返した。
おや、山嵐のくせに、どこまでもおごる気だな。
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おや山嵐の癖にどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない、本当だ。おれは君に氷水をおごられるいわれ(因縁・いんえん)がないから、出すんだ。受け取らない法があるか」
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「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら受け取ってもいいが、なぜ思い出したように、今ごろ返すんだ」
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「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今ごろでも、いつでも、返すんだ。おごられるのがいやだから返すんだ」
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「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷ややかにおれの顔を見て、「ふん」と言った。
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山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。
赤シャツの頼みがなければ、ここで山嵐の卑劣さを暴いて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと請け合ったんだから身動きがとれない。
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赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。
人がこんなに真っ赤になっているのに、「ふん」で済ませる理屈があるものか。
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人がこんなに真赤になってるのにふんという理窟があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
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「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいが、おれの勝手だ」
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「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手じゃない。昨日、あそこの亭主が来て、君に出てもらいたいと言うから、その訳を聞いたら、亭主の言うのはもっともだ。それでももう一度確かめるつもりで、今朝あそこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
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「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
おれには、山嵐の言うことが何の意味だかわからない。
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おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知っているもんか。そう自分だけで決めつけたって仕方があるか。訳があるなら、訳を話すのが順序だ。頭から亭主の言うほうがもっともだなんて、失礼千万なことを言うな」
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「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら言ってやろう。君は乱暴で、あの下宿で持て余まされているんだ。いくら下宿のおかみさんだって、下女とは違うぞ。足を出して拭かせるなんて、威張りすぎだ」
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「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿のおかみさんに足を拭かせた」
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「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうか知らないが、とにかく向こうは君に困っているんだ。下宿代の十円や十五円は、掛け軸(懸物・かけもの)を一幅売れば、すぐ浮いてくるって言ってたぞ」
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「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物を一幅売りゃ、すぐ浮いてくるって云ってたぜ」
「利いたふうなことを言う野郎だ。それなら、なぜ置いたんだ」
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「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らない。置くことは置いたんだが、いやになったから出ろと言うんだろう。君、出てやれ」
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「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「当たり前だ。いてくれと手を合わせたって、いるものか。だいたいそんな言いがかりを言うような所を世話(周旋・しゅうせん)する君からして、けしからん(不埒・ふらち)」
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「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸りを云うような所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「おれがけしからんか、君がおとなしくないんだか、どっちかだろう」
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「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どっちかだろう」
山嵐もおれに劣らぬかんしゃく持ちだから、負けん気な大きな声を出す。
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山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌いな大きな声を出す。
控え所にいた連中は、何事が始まったかと思って、みんなおれと山嵐のほうを見て、あごを長くしてぼんやりしている。
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控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりしている。
おれは、別に恥ずかしいことをした覚えはないから、立ち上がりながら、部屋じゅうをひと通り見回してやった。
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おれは、別に恥ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやった。
みんなが驚いているなかで、野だだけはおもしろそうに笑っていた。
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みんなが驚ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。
おれの大きな目が、「貴様も喧嘩をするつもりか」という勢い(権幕・けんまく)で、野だのひょろりとした顔(干瓢づら・かんぴょうづら)をにらみつけたとき、野だは突然真面目な顔をして、大いにつつしんだ。
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おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然真面目な顔をして、大いにつつしんだ。
少し怖かったと見える。
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少し怖わかったと見える。
そのうちラッパが鳴る。
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そのうち喇叭が鳴る。
山嵐もおれも喧嘩を中止して、教室へ出た。
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山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分について会議があった。
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午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。
会議というものは生まれて初めてだから、まるで様子がわからないが、職員が寄ってたかって勝手な説を立てて、それを校長がいいかげんにまとめるのだろう。
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会議というものは生れて始めてだからとんと容子が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏めるのだろう。
まとめるというのは、白黒(黒白・こくびゃく)の決めがたい事柄について言うべき言葉だ。
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纏めるというのは黒白の決しかねる事柄について云うべき言葉だ。
この場合のような、誰が見たって不都合としか思えない事件で会議をするのは、暇つぶしだ。
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この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰しだ。
誰がどう解釈したって、違う意見が出るはずがない。
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誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。
こんなに明白なことは、その場で校長が処分してしまえばいいのに。
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こんな明白なのは即座に校長が処分してしまえばいいに。
ずいぶん決断のないことだ。
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随分決断のない事だ。
校長というものが、これならば、何のことはない、煮え切らない愚図(ぐず)の別名だ。
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校長ってものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚図の異名だ。
会議室は校長室の隣にある細長い部屋で、ふだんは食堂代わりに使われている。
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会議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。
黒い皮を張った椅子が二十脚ほど、長いテーブルの周りに並んでいて、ちょっと神田の西洋料理屋くらいの格式だ。
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黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。
そのテーブルの端に校長が座って、校長の隣に赤シャツが構えている。
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そのテーブルの端に校長が坐って、校長の隣りに赤シャツが構える。
あとは勝手に席に着くんだそうだが、体操の先生だけはいつも末席に遠慮する(謙遜・けんそん)という話だ。
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あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。
おれは様子がわからないから、博物の先生と漢学の先生の間へ入り込んだ。
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おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込んだ。
向こうを見ると山嵐と野だが並んでいる。
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向うを見ると山嵐と野だが並んでる。
野だの顔はどう考えても見劣りする。
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野だの顔はどう考えても劣等だ。
喧嘩はしても、山嵐のほうがはるかに趣がある。
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喧嘩はしても山嵐の方が遥かに趣がある。
おやじの葬式のとき、小日向(こびなた)の養源寺(ようげんじ)の座敷にかかっていた掛け軸は、この顔によく似ている。
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おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかってた懸物はこの顔によく似ている。
坊さんに聞いてみたら、韋駄天(いだてん)という怪物だそうだ。
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坊主に聞いてみたら韋駄天と云う怪物だそうだ。
今日は怒っているから、目をぐるぐる回しては、時々おれのほうを見る。
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今日は怒ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。
そんなことで脅されてたまるものかと、おれも負けん気で、やっぱり目をぎろつかせて、山嵐をにらんでやった。
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そんな事で威嚇かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。
おれの目は形はよくないが、大きさではたいていの人には負けない。
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おれの眼は恰好はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。
「あなたは目が大きいから、役者になったらきっと似合いますよ」と清がよく言ったくらいだ。
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あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
「もうたいていお揃いでしょうか」と校長が言うと、書記の川村というのが一つ二つと頭数を数えてみる。
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もう大抵お揃いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定してみる。
一人足りない。
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一人足りない。
「一人足りませんが」と考えていたが、これは足りないはずだ。
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一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。
かぼちゃ(唐茄子・とうなす)のようなうらなり君が来ていない。
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唐茄子のうらなり君が来ていない。
おれとうらなり君とは、どういう前世からの縁(宿世の因縁・すくせのいんえん)か知らないが、この人の顔を見て以来、どうしても忘れられない。
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おれとうらなり君とはどう云う宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。
控え所へ来れば、すぐうらなり君が目につく。道を歩いていても、うらなり先生の様子が心に浮かぶ。
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控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮ぶ。
温泉へ行くと、うらなり君が時々青い顔をして湯壺(ゆつぼ)の中でふくれている。
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温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をして湯壺のなかに膨れている。
あいさつをすると、「へえ」と恐縮して頭を下げるから、気の毒になる。
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挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。
学校じゅうで、うらなり君ほどおとなしい人はいない。
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学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。
めったに笑ったこともないが、余計な口をきいたこともない。
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めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。
おれは「君子」という言葉を書物の上で知っているが、これは辞書にあるだけで、実際に生きているものではないと思っていたが、うらなり君に会ってから初めて、やっぱり実体のある言葉だと感心したくらいだ。
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おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
これくらい縁の深い人のことだから、会議室に入るなり、うらなり君がいないのに、すぐ気がついた。
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このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。
実を言うと、この人の隣にでも座ろうかと、ひそかに目当てにしてきたくらいだ。
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実を云うと、この男の次へでも坐わろうかと、ひそかに目標にして来たくらいだ。
校長は「もうやがて見えるでしょう」と、自分の前にある紫のふろしき包み(袱紗包み・ふくさづつみ)をほどいて、謄写版刷り(蒟蒻版・こんにゃくばん)のようなものを読んでいる。
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校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のような者を読んでいる。
赤シャツは琥珀(こはく)のパイプを絹のハンカチで磨き始めた。
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赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。
この男は、これが道楽である。
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この男はこれが道楽である。
赤シャツにお似合いのことだろう。
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赤シャツ相当のところだろう。
ほかの連中は、隣同士で何やらささやき合っている。
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ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合っている。
することがなくて所在ない(手持無沙汰・てもちぶさた)人は、鉛筆の後ろについているゴムの頭で、テーブルの上へしきりに何か書いている。
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手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いている、護謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。
野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐はいっこうに応じない。
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野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。
ただ「うん」とか「ああ」とか言うばかりで、時々怖い目をして、おれのほうを見る。
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ただうんとかああと云うばかりで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。
おれも負けずににらみ返す。
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おれも負けずに睨め返す。
そこへ、待ちかねていたうらなり君が気の毒そうに入ってきて、「少々用事がありまして、遅刻いたしました」と、丁寧に(慇懃・いんぎん)狸にあいさつをした。
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ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻致しましたと慇懃に狸に挨拶をした。
「では会議を開きます」と、狸はまず書記の川村君に謄写版刷りを配らせる。
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では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。
見ると、最初が処分の件、次が生徒取り締まりの件、そのほか二、三か条である。
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見ると最初が処分の件、次が生徒取締の件、その他二三ヶ条である。
狸はいつものようにもったいぶって、教育の生き神様(生霊・いきりょう)のような顔で、こんな意味のことを述べた。
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狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊という見えでこんな意味の事を述べた。
「学校の職員や生徒に過失があるのは、みんな私の徳が足りない(寡徳・かとく)せいで、何か事件があるたびに、自分はよくこれで校長が務まるものだと、ひそかに恥じ入る(慚愧・ざんき)気持ちに堪えないのですが、不幸にして今回もまたこのような騒動を引き起こしたのは、深く諸君に向かって謝罪しなければなりません。しかし一度起こった以上は仕方がない、どうにか処分をしなければならない。事実はすでに諸君もご承知の通りですから、今後の対策について、隠さぬご意見を参考までにお述べください」
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「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのというものは、えらいことを言うものだと感心した。
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おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。
こう校長が何もかも責任を引き受けて、自分の落ち度(咎・とが)だとか、不徳だとか言うくらいなら、生徒を処分するのはやめにして、自分から先に免職になったらよさそうなものだ。
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こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。
そうすれば、こんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなるわけだ。
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そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。
だいいち、常識で考えたってわかっている。
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第一常識から云っても分ってる。
おれがおとなしく宿直をする。
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おれが大人しく宿直をする。
生徒が乱暴をする。
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生徒が乱暴をする。
悪いのは校長でもなければ、おれでもない。生徒に決まっている。
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わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極ってる。
もし山嵐がそそのかしたとすれば、生徒と山嵐を退治すればそれで十分だ。
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もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。
人の尻ぬぐいを自分で背負い込んで、「おれの尻だ、おれの尻だ」とふれ回る奴が、どこの国にいるものか。狸でなければできない芸当だ。
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人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。
彼はこんな筋(条理・じょうり)の通らない議論をぶって、得意げに一同を見回した。
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彼はこんな条理に適わない議論を吐いて、得意気に一同を見廻した。
ところが、誰も口を開く者がない。
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ところが誰も口を開くものがない。
博物の先生は、第一教場の屋根にカラスがとまっているのを眺めている。
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博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまってるのを眺めている。
漢学の先生は謄写版刷りをたたんだり伸ばしたりしている。
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漢学の先生は蒟蒻版を畳んだり、延ばしたりしてる。
山嵐はまだおれの顔をにらんでいる。
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山嵐はまだおれの顔をにらめている。
会議というものが、こんな馬鹿げたものなら、欠席して昼寝でもしているほうがましだ。
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会議と云うものが、こんな馬鹿気たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
おれはじれったくなったので、ひとつ大いにしゃべってやろうと思って、半分腰を上げかけたら、赤シャツが何か言い出したので、やめにした。
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おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。
見ると、パイプをしまって、しま模様のある絹ハンカチで顔をふきながら、何か言っている。
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見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。
あのハンカチ(手巾・はんけち)は、きっとマドンナから巻き上げたに違いない。
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あの手巾はきっとマドンナから巻き上げたに相違ない。
男は白い麻(あさ)のハンカチを使うものだ。
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男は白い麻を使うもんだ。
「私も、寄宿生の乱暴を聞いて、はなはだ教頭として行き届かず(不行届・ふゆきとどき)、かつ日ごろの感化(徳化)が少年たちに及ばなかったことを深く恥じております。こういうことは、何か欠陥(陥欠・かんけつ)があると起こるもので、事件そのものを見ると、何だか生徒だけが悪いようですが、その真相を突き詰めると、責任はむしろ学校にあるかもしれません。だから、表面にあらわれたところだけで厳しい制裁を加えるのは、かえって将来のためによくないとも思われます。かつ、少年は血気盛んなものですから活気があふれて、善悪の分別なく、半ば無意識にこんないたずらをやることもないとは限りません。もとより処分の方法は校長のお考えになることですから、私が口出し(容喙・ようかい)する筋合いではありませんが、どうかその辺をお考えいただいて(斟酌・しんしゃく)、なるべく寛大なお取り計らいを願いたいと思います」
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「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚ずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく寛大なお取計を願いたいと思います」
なるほど、狸が狸なら赤シャツも赤シャツだ。
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なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。
生徒が暴れるのは、生徒が悪いんじゃない、教師が悪いんだと公言している。
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生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。
気が狂った人が誰かの頭を殴りつけるのは、殴られた人が悪いから殴るんだそうだ。
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気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
ありがたい仕合わせだ。
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難有い仕合せだ。
活気があふれて困るなら、運動場へ出て相撲でも取ればいい。半ば無意識に布団の中へバッタを入れられてたまるものか。
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活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。
この様子では、寝首をかかれても、「半ば無意識だった」と放免するつもりだろう。
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この様子じゃ寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
おれはこう考えて、何か言おうかなと考えてみたが、言うなら人を驚かすくらいとうとうと(滔々・とうとう)述べ立てなくてはつまらない。おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず言葉に詰まってしまう。
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おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞ってしまう。
狸でも赤シャツでも、人物としてはおれよりも下等だが、弁が立つのはなかなかのものだから、まずいことをしゃべって揚げ足を取られては面白くない。
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狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌って揚足を取られちゃ面白くない。
ちょっと考え(腹案)をまとめてみようと、心の中で文章を組み立てている。
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ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。
すると前に座っていた野だが、突然立ち上がったのには驚いた。
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すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。
野だのくせに意見を述べるなんて、生意気だ。
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野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。
野だはいつものへらへら調で、「実に今回のバッタ事件、および鬨(とき)の声(咄喊・とっかん)事件は、われわれ心ある職員をして、ひそかに我が校の将来を危ぶませるに足る珍事でありまして、われわれ職員たるものは、この際奮って自らを省みて、全校の風紀を引き締めなければなりません。それでただいま校長および教頭のお述べになったお説は、実に急所をついた(肯綮・こうけい)適切(剴切・がいせつ)なお考えで、私は徹頭徹尾賛成いたします。どうかなるべく寛大なご処分を仰ぎたいと思います」
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野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います」
と言った。
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と云った。
野だの言うことは、言葉はあるが意味がない。難しい漢語をひたすら並べる(陳列・ちんれつ)だけで、わけがわからない。
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野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。
わかったのは、「徹頭徹尾賛成いたします」という言葉だけだ。
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分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
おれは野だの言う意味はわからないけれども、何だか非常に腹が立ったので、考え(腹案)もまとまらないうちに立ち上がってしまった。
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おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起ち上がってしまった。
「私は徹頭徹尾反対です……」
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「私は徹頭徹尾反対です……」
と言ったが、あとが急に出てこない。
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と云ったがあとが急に出て来ない。
「……そんなとんちんかんな処分は大嫌いです」
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「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」
とつけたら、職員が一同笑い出した。
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とつけたら、職員が一同笑い出した。
「だいたい生徒が全面的に悪いんです。どうしてもあやまらせなくちゃ、癖になります。退校させても構いません。……何だ、失礼な、新しく来た教師だと思って……」
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「一体生徒が全然悪るいです。どうしても詫まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」
と言って着席した。
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と云って着席した。
すると右隣にいる博物の先生が、「生徒が悪いことも悪いですが、あまり厳しい罰などをすると、かえって反発を招いていけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛大なほうに賛成します」
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すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」
と、弱腰なことを言った。
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と弱い事を云った。
左隣の漢学の先生は、穏便な処置に賛成だと言った。
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左隣の漢学は穏便説に賛成と云った。
歴史の先生も、教頭と同じ意見だと言った。
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歴史も教頭と同説だと云った。
忌々しい、たいていの者は赤シャツ派だ。
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忌々しい、大抵のものは赤シャツ党だ。
こんな連中が寄り集まって学校を運営しているのなら、世話はない(気楽なものだ)。
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こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。
おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか、二つのうち一つに決めているんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、すぐに下宿へ帰って荷造りをする覚悟でいた。
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おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟でいた。
どうせ、こんな連中(手合・てあい)を口先(弁口・べんこう)で屈服させる腕前はないし、させたところで、いつまでもおつきあい願うのは、こっちのほうでご免だ。
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どうせ、こんな手合を弁口で屈伏させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。
学校にいないとすれば、どうなったって構うものか。
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学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。
また何か言うと笑うに違いない。
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また何か云うと笑うに違いない。
誰が言うものかと、すましていた。
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だれが云うもんかと澄していた。
すると今まで黙って聞いていた山嵐が、奮然として立ち上がった。
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すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。
野郎、また赤シャツに賛成の意を表するな、どうせ貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると、山嵐はガラス窓を震わせるような声で、「私は教頭およびその他諸君のお説には、全然不同意であります。というのは、この事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新任の教師某氏を軽んじて(軽侮・けいぶ)、これをもてあそぼう(翻弄・ほんろう)とした仕業(所為・しょい)としか認められないのであります。教頭はその原因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが、失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着任してすぐのことで、まだ生徒に接してから二十日に満たないころであります。この短い二十日間において、生徒は君の学問や人物を評価しうる余地がないのであります。軽んじられて当然の理由があって軽んじられたのなら、生徒の行為をくんでやる(斟酌・しんしゃく)理由もありましょうが、何の原因もないのに新任の先生をばかにする(愚弄・ぐろう)ような軽薄な生徒を大目に見て(寛仮・かんか)いては、学校の威信(いしん)に関わることと思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではなく、気高く(高尚・こうしょう)、正直で、武士のような気概を吹き込む(鼓吹・こすい)と同時に、下品(野卑・やひ)で、軽はずみ(軽躁・けいそう)で、横暴(暴慢・ぼうまん)な悪い風潮を一掃する(掃蕩・そうとう)ことにあると思います。もし反発が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと、その場しのぎな(姑息・こそく)ことを言っていては、この悪い風潮(弊風・へいふう)はいつ正せる(矯正・きょうせい)かわかりません。こういう悪い風潮を根絶やしにする(杜絶・とぜつ)ためにこそ、われわれはこの学校に職を奉じているのですから、これを見逃すくらいなら、はじめから教師にならないほうがいいと思います。私は以上の理由で、寄宿生一同を厳罰に処するとともに、当該教師の面前で、公に謝罪の意を表させるのが、正当な処置と心得ます」
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野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子窓を振わせるような声で「私は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした所為とより外には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛仮しては学校の威信に関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を掃蕩するにあると思います。もし反動が恐しいの、騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日にはこの弊風はいつ矯正出来るか知れません。かかる弊風を杜絶するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に、当該教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」
と言いながら、どんと腰を下ろした。
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と云いながら、どんと腰を卸した。
一同は黙って、何も言わない。
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一同はだまって何にも言わない。
赤シャツはまたパイプを拭き始めた。
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赤シャツはまたパイプを拭き始めた。
おれは何だか、非常にうれしかった。
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おれは何だか非常に嬉しかった。
おれの言おうと思っていたことを、おれの代わりに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。
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おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。
おれはこういう単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いにありがたいという顔で、腰を下ろした山嵐のほうを見たら、山嵐はいっこうに知らん顔をしている。
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おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有いと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面をしている。
しばらくして、山嵐はまた立ち上がった。
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しばらくして山嵐はまた起立した。
「ただ今ちょっと失念して言い落としましたので、申します。当夜の宿直員は、宿直中に外出して温泉に行かれたようでありますが、あれはもってのほかのことと考えます。かりにも自分が一校の留守番を引き受けながら、とがめる者がいないのをいいことに、あろうことか温泉などへ入りに行くなどというのは、大きな不始末(失体)であります。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらんことを希望します」
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「ただ今ちょっと失念して言い落しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎める者のないのを幸に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失敗を暴いている。
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妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。
おれは何の気もなく、前の宿直が外を出歩いたことを知って、そういう習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう言われてみると、これはおれが悪かった。
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おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。
攻撃されても仕方がない。
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攻撃されても仕方がない。
そこでおれはまた立って、「私は確かに宿直中に温泉に行きました。これは全く悪いことです。あやまります」
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そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」
と言って着席したら、一同がまた笑い出した。
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と云って着席したら、一同がまた笑い出した。
おれが何か言いさえすれば、笑う。
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おれが何か云いさえすれば笑う。
つまらん奴らだ。
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つまらん奴等だ。
貴様たちは、これほど自分の悪いことを公然と「悪かった」と断言できるか。できないから笑うんだろう。
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貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
それから校長は、「もうたいていご意見もないようでありますから、よく考えたうえで処分しましょう」と言った。
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それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。
ついでだからその結果を言うと、寄宿生は一週間の外出禁止(禁足)になったうえに、おれの前へ出て謝罪をした。
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ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。
謝罪をしなければ、そのとき辞職して帰るところだったが、なまじおれの言う通りになったので、とうとう大変なことになってしまった。
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謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。
それはあとから話すが、校長はこのとき、会議の続きだと称して、こんなことを言った。
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それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。
「生徒の風紀は、教師の感化で正していかなくてはならない。その手始めとして、教師はなるべく飲食店などに出入りしないことにしたい。
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生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入しない事にしたい。
もっとも送別会などのときは特別だが、一人であまり上等でない場所へ行くのはよしてもらいたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――」と言いかけたら、また一同が笑った。
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もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――と云いかけたらまた一同が笑った。
野だが山嵐を見て「天ぷら」と言って目くばせをしたが、山嵐は取り合わなかった。
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野だが山嵐を見て天麩羅と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。
いい気味だ。
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いい気味だ。
おれは頭が悪いから、狸の言うことなんか、よくわからないが、蕎麦屋や団子屋へ行って中学の教師が務まらないというなら、おれみたいな食いしん坊(食い心棒・くいしんぼう)にはとても無理だと思った。
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おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒にゃ到底出来っ子ないと思った。
それならそれでいいから、初めから蕎麦と団子の嫌いな者を注文して雇うがいい。
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それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがいい。
黙って辞令だけ渡しておいて、あとから「蕎麦を食うな、団子を食うな」と罪なお触れ(布令・ふれ)を出すのは、おれのようにほかに道楽のない者にとっては大変な打撃だ。
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だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。
すると赤シャツがまた口を出した。
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すると赤シャツがまた口を出した。
「元来、中学の教師などというものは、社会の上流に位置するものですから、単に物質的な快楽ばかり求めるべきものではありません。そちらに耽(ふけ)ると、つい品性に悪い影響を及ぼすようになる。しかし人間ですから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地ではとても暮らせるものではない。それで釣りに行くとか、文学書を読むとか、あるいは新体詩や俳句を作るとか、何でも気高い(高尚・こうしょう)精神的娯楽を求めなくてはいけない……」
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「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底暮せるものではない。それで釣に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
黙って聞いていると、勝手なことを熱心にまくしたてる。
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だまって聞いてると勝手な熱を吹く。
沖へ行って肥料になる魚を釣ったり、ゴルキがロシアの文学者だったり、なじみの芸者が松の木の下に立ったり、古池にカエルが飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天ぷらを食って団子をのみこむのも精神的娯楽だ。
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沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキが露西亜の文学者だったり、馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神的娯楽だ。
そんなくだらない娯楽を授けるより、赤シャツの洗濯でもするがいい。
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そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。
あんまり腹が立ったので、「マドンナに会うのも精神的娯楽ですか」
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あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」
と聞いてやった。
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と聞いてやった。
すると今度は誰も笑わない。
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すると今度は誰も笑わない。
妙な顔をして、互いに目と目を見合わせている。
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妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。
赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。
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赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。
それ見ろ。
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それ見ろ。
効いただろう。
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利いたろう。
ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれがこう言ったら、青い顔をますます青くした。
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ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。
七
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七
おれはその夜のうちに下宿を引き払った。
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おれは即夜下宿を引き払った。
宿に帰って荷物をまとめていると、女房(にょうぼう・宿のおかみさん)が、何か不都合(ふつごう・都合の悪いこと)でもございましたか、腹の立つことがあるなら言ってくだされば改めますと言う。
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宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云っておくれたら改めますと云う。
どうにも驚く。
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どうも驚ろく。
世の中には、どうしてこんな要領を得ない者ばかりそろっているんだろう。
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世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃ってるんだろう。
出て行ってほしいんだか、いてほしいんだか分かりゃしない。
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出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか分りゃしない。
まるで訳の分からない人だ。
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まるで気狂だ。
こんな者を相手に喧嘩(けんか)をしたって江戸っ子の名折れ(なおれ・恥)だから、車屋(人力車の車夫)を連れてきて、さっさと出てきた。
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こんな者を相手に喧嘩をしたって江戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。
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出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。
車屋が、どちらへ参りますと言うので、だまってついて来い、今に分かる、と言って、すたすた歩いてきた。
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車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまって尾いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。
面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、結局手間だ。
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面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。
こうして歩いているうちには、下宿とか何とかいう看板のある家を見つけるだろう。
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こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。
そうしたら、そこが天の意にかなったわが家ということにしよう。
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そうしたら、そこが天意に叶ったわが宿と云う事にしよう。
と、ぐるぐる静かで住みよさそうな所を歩いているうち、とうとう鍛冶屋町(かじやちょう)へ出てしまった。
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とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまった。
ここは士族屋敷(しぞくやしき・もと武士の家が並ぶ屋敷町)で、下宿屋などのある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといいことを考えついた。
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ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もっと賑やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。
おれが敬愛するうらなり君は、この町内に住んでいる。
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おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。
うらなり君はこの土地の人で、先祖代々の屋敷を持っているくらいだから、この辺りの事情にはくわしいに違いない。
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うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違ない。
あの人を訪ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかもしれない。
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あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。
幸い一度あいさつに来て勝手は知っているから、捜し歩く面倒はない。
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幸一度挨拶に来て勝手は知ってるから、捜がしてあるく面倒はない。
ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ごめんごめんと二回ほど言うと、奥から五十くらいの年寄りが、古風な紙燭(しそく・紙をよって作った明かり)をともして出てきた。
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ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご免ご免と二返ばかり云うと、奥から五十ぐらいな年寄が古風な紙燭をつけて、出て来た。
おれは若い女も嫌いではないが、年寄りを見ると何だかなつかしい気持ちがする。
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おれは若い女も嫌いではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。
大方(おおかた・きっと)清(きよ)が好きだから、その魂があちこちのお婆さんに乗り移るんだろう。
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大方清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乗り移るんだろう。
これは、大方うらなり君のおっ母(かあ)さんだろう。
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これは大方うらなり君のおっ母さんだろう。
切り下げ髪(きりさげがみ・髪を切ってそのまま垂らした髪型)の品のある婦人だが、うらなり君によく似ている。
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切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。
まあお上がりと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、うらなり君を玄関まで呼び出して、実はこれこれだが、君、どこか心当たりはありませんかと尋ねてみた。
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まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。
うらなり先生は、それはさぞお困りでございましょうと、しばらく考えていたが、この裏町に萩野(はぎの)といって老人夫婦だけで暮らしている家がある、いつだったか、座敷を空けておいてもむだだから、たしかな人がいるなら貸してもいいから世話をしてくれと頼まれたことがある。
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うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野と云って老人夫婦ぎりで暮らしているものがある、いつぞや座敷を明けておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋してくれと頼んだ事がある。
今でも貸すかどうか分からないが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
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今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
その夜から、萩野の家の下宿人となった。
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その夜から萩野の家の下宿人となった。
驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日から入れ違いに野だいこが平気な顔をして、おれのいた部屋を占領したことだ。
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驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領した事だ。
さすがのおれも、これにはあきれた。
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さすがのおれもこれにはあきれた。
世の中はいかさま師ばかりで、お互いにだまし合いをしているのかもしれない。
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世の中はいかさま師ばかりで、お互に乗せっこをしているのかも知れない。
いやになった。
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いやになった。
世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やっていけないということになる。
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世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並にしなくちゃ、遣りきれない訳になる。
巾着切り(きんちゃくきり・すり)の上前(あがり)をはねなければ、三度のご飯もいただけないと、そう決まっているなら、こうして生きているのも考えものだ。
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巾着切の上前をはねなければ三度のご膳が戴けないと、事が極まればこうして、生きてるのも考え物だ。
とはいえ、ぴんぴんした丈夫な体で首をくくったら、先祖に申し訳が立たない上に、世間体(せけんてい)が悪い。
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と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。
考えてみれば、物理学校などに入って、数学なんて役にも立たない技を覚えるよりも、六百円を元手(もとで)にして牛乳屋でも始めればよかった。
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考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。
そうすれば清もおれのそばを離れずに済むし、おれも遠くから婆さんのことを心配せずに暮らせる。
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そうすれば清もおれの傍を離れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮される。
いっしょにいるうちは、それほどでもなかったが、こうして田舎へ来てみると、清はやっぱりいい人だ。
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いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ。
あんな気立て(きだて)のいい女は、日本中を探して歩いたって、めったにいない。
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あんな気立のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。
婆さんは、おれが発つときに少し風邪を引いていたが、今頃どうしているだろうか。
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婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いていたが今頃はどうしてるか知らん。
この前の手紙を見たら、さぞ喜んだだろう。
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先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。
それにしても、もう返事が来てもよさそうなものだが――おれはこんなことばかり考えて、二、三日を過ごしていた。
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それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたびに何も来ませんと気の毒そうな顔をする。
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気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。
ここの夫婦は、いか銀とは違って、もとが士族なだけに、二人とも上品だ。
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ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方共上品だ。
爺さんが夜になると、変な声で謡(うたい・能の歌)をうたうのには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうとむやみに出て来ないから、大いに楽だ。
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爺さんが夜るになると、変な声を出して謡をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗に出て来ないから大きに楽だ。
お婆さんは時々部屋に来て、いろいろな話をする。
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お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。
どうして奥さんをお連れなさらず、一人でおいでなさったのですぞなもし(=「〜ですね」という松山の言い方)、などと聞いてくる。
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どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。
奥さんがいるように見えますかね。
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奥さんがあるように見えますかね。
かわいそうに、これでもまだ二十四ですぜと言ったら、それでも、あなた、二十四で奥さんがおありなさるのは当たり前ぞなもしと切り出して、どこそこの誰さんは二十歳でお嫁をもらった、どこそこの何とかさんは二十二で子供を二人持っていた、と、何でも例を半ダースほど挙げて言い返してきたのには恐れ入った。
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可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁を試みたには恐れ入った。
それじゃ僕も二十四でお嫁をもらいたいから、世話をしておくれんかなと、田舎言葉をまねて頼んでみたら、お婆さんは正直に本当かなもしと聞いた。
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それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当だとも。僕は嫁がもらいたくって仕方がないんだ」
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「本当の本当のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」
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「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」
この言葉には恐れ入って、返事ができなかった。
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この挨拶には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに決まっとらい。私はちゃんと、もう、睨んどるぞなもし」
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「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどるぞなもし」
「へえ、活眼(かつがん・するどい見方)だね。どうして、見抜いているんですか」
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「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしてって。東京から便りはないか、便りはないかって、毎日便りを待ちこがれておいでるじゃないかなもし」
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「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし」
「こいつは驚いた。大変な活眼だ」
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「こいつあ驚いた。大変な活眼だ」
「当たりましたろうがな、もし」
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「中りましたろうがな、もし」
「そうですね。当たったかもしれませんよ」
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「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子(おなご)は、昔と違うて油断ができんけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
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「しかし今時の女子は、昔と違うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい。僕の奥さんが東京で間男(まおとこ・こっそりよその男と付き合うこと)でもこしらえていますかい」
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「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
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「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何に気を付けるんですかい」
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「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
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「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに、たしかじゃないのがいますかね」
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「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここらにも、だいぶ居ります。先生、あの遠山(とおやま)のお嬢さんをご存知かなもし」
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「ここ等にも大分居ります。先生、あの遠山のお嬢さんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
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「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた、一番の別嬪(べっぴん・美人)さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナ、マドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
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「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕は芸者の名前かと思った」
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「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと言うのは唐人の言葉で、別嬪さんのことじゃろうがなもし」
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「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかもしれないね。驚いた」
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「そうかも知れないね。驚いた」
「大方、絵の先生がお付けた名ぞなもし」
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「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だいこがつけたんですかい」
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「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川(よしかわ)先生がお付けたのじゃがなもし」
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「いいえ、あの吉川先生がお付けたのじゃがなもし」
「そのマドンナが、たしかじゃないんですかい」
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「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが、たしかじゃないマドンナさんでな、もし」
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「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「厄介だね。渾名の付いてる女には、昔からろくなものはいませんからね。そうかもしれませんよ」
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「厄介だね。渾名の付いてる女にゃ昔から碌なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「ほんとうにそうじゃなもし。鬼神(きじん・鬼のようにおそろしいこと)のお松じゃの、妲妃(だっき・昔の物語に出てくるおそろしい女性)のお百じゃのって、怖い女がおりましたなもし」
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「ほん当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、妲妃のお百じゃのてて怖い女が居りましたなもし」
「マドンナも、その仲間なんですかね」
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「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。それはあの、あなたをここへ世話してくれた古賀(こが)先生なもし――あの方のところへお嫁に行く約束ができていたのじゃがなもし――」
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「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁に行く約束が出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福(えんぷく・女性にもてる運)のある男とは思わなかった。人は見かけによらないものだな。ちっと気を付けよう」
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「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男とは思わなかった。人は見懸けによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「ところが、去年あすこのお父さんがお亡くなりて――それまではお金もあるし、銀行の株もお持ちで、何もかも都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうわけか急に暮らし向きがよくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、だまされたんぞなもし。それや、これやでお輿入れ(こしいれ・お嫁入り)も延びているところへ、あの教頭さんがお出でて、ぜひお嫁にほしいとお言いるのじゃがなもし」
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「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出るし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びているところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
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「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで掛け合ってもらうと、遠山さんの方でも古賀さんに義理があるから、すぐには返事ができかねて――まあよく考えてみようぐらいのお返事をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、つて(つながり)を求めて遠山さんの方へ出入りをおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手なずけておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃって、みんなが悪く言いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くって承知をしときながら、今さら学士さんがお出でたけれ、その方に替えようって、それじゃ今日様(こんにちさま・世間様)へ済むまいがなもし、あなた」
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「人を頼んで懸合うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出たけれ、その方に替えよてて、それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
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「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃって、お友達の堀田(ほった)さんが教頭のところへ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、わしは約束のあるものを横取りするつもりはない、破約になればもらうかもしれんが、今のところは遠山家とただお付き合いをしているだけじゃ、遠山家とお付き合いするのには別に古賀さんに済まないこともなかろうとお言いるけれ、堀田さんも仕方なくお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折り合いが悪いという評判ぞなもし」
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「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろなことを知ってますね。どうして、そんな詳しいことが分かるんですか。感心しちまった」
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「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまった」
「狭いところじゃけれ、何でも分かりますぞなもし」
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「狭いけれ何でも分りますぞなもし」
分かりすぎて困るくらいだ。
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分り過ぎて困るくらいだ。
この様子では、おれの天麩羅や団子の事も知っているかもしれない。
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この容子じゃおれの天麩羅や団子の事も知ってるかも知れない。
厄介な所だ。
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厄介な所だ。
しかしお蔭様(かげさま)で、マドンナの意味も分かるし、山嵐と赤シャツの関係も分かるし、大いに勉強になった。
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しかしお蔭様でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。
ただ困るのは、どっちが悪者だかはっきりしないことだ。
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ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。
おれのような単純な人間には、白か黒かはっきりさせてもらわないと、どっちに味方していいか分からない。
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おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
「赤シャツと山嵐じゃ、どっちがいい人ですかね」
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「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐って何ぞなもし」
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「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐というのは堀田のことですよ」
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「山嵐というのは堀田の事ですよ」
「そりゃ強いことは堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士(がくし・大学を出た人)さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しいことも赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
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「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまり、どっちがいいんですかね」
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「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方が偉いのじゃろうがなもし」
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「つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし」
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
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これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
それから二、三日して学校から帰ると、お婆さんがにこにこして、へえ、お待ち遠さま。
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それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。
やっと参りました。
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やっと参りました。
と一通の手紙を持ってきて、ゆっくりご覧なさいと言って出て行った。
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と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。
手に取ってみると、清からの便りだ。
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取り上げてみると清からの便りだ。
符箋(ふせん・貼り付ける小さな紙)が二、三枚ついているから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ回して、いか銀から萩野へ回ってきたのである。
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符箋が二三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻して、いか銀から、萩野へ廻って来たのである。
その上、山城屋では一週間ほど逗留(とうりゅう・足止め)していた。
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その上山城屋では一週間ばかり逗留している。
宿屋だけに、手紙まで泊まるつもりなんだろう。
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宿屋だけに手紙まで泊るつもりなんだろう。
開いてみると、ものすごく長い。
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開いてみると、非常に長いもんだ。
坊っちゃんの手紙をいただいてから、すぐ返事を書こうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ほど寝ていたものだから、つい遅くなってすまない。
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坊っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝ていたものだから、つい遅くなって済まない。
その上、今どきのお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、書くのによっぽど骨が折れる。
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その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。
甥(おい)に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分で書かなくちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下書きを一度書いて、それから清書をした。
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甥に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下たがきを一返して、それから清書をした。
清書をするのには二日で済んだが、下書きをするのには四日かかった。
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清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。
読みにくいかもしれないが、これでも一生懸命に書いたのだから、どうぞ終わりまで読んでくれ。
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読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。
という書き出しで、四尺(しゃく・約一・二メートル)ほどの長さに、いろいろとしたためてある。
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という冒頭で四尺ばかり何やらかやら認めてある。
なるほど読みにくい。
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なるほど読みにくい。
字がまずいばかりではない、たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか、句読点(くとうてん)をつけるのによっぽど骨が折れる。
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字がまずいばかりではない、大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのによっぽど骨が折れる。
おれはせっかちな性分だから、こんな長くて分かりにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断るのだが、このときばかりは真面目になって、初めから終わりまで読み通した。
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おれは焦っ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目になって、始から終まで読み通した。
読み通したことは事実だが、読むのに骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。
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読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。
部屋の中は少し暗くなって、前より見にくくなったから、とうとう椽鼻(えんばな・縁側のはし)へ出て腰をかけながら、丁寧(ていねい)に拝見した。
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部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながら鄭寧に拝見した。
すると初秋(はつあき)の風が芭蕉(ばしょう)の葉を動かして、素肌(すはだ)に吹きつけた帰りに、読みかけの手紙を庭の方へなびかせたので、終わりの方では四尺(しゃく)あまりの半分の紙がさらさらと鳴って、手を放すと向こうの生垣まで飛んで行きそうだ。
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すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向うの生垣まで飛んで行きそうだ。
おれはそんなことには構っていられない。
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おれはそんな事には構っていられない。
坊っちゃんは竹を割ったようなまっすぐな気性だが、ただかんしゃくが強すぎるのが心配になる。――
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坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪が強過ぎてそれが心配になる。――
ほかの人にむやみにあだ名なんかつけるのは、人に恨(うら)まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせなさい。――
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ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――
田舎の人は意地悪だそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしなさい。――
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田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしろ。――
気候だって東京より不順に決まっているから、寝冷えして風邪を引いてはいけない。
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気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷をして風邪を引いてはいけない。
坊っちゃんの手紙はあまり短すぎて、様子がよく分からないから、この次にはせめてこの手紙の半分くらいの長さのものを書いてくれ。――
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坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――
宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りはしないか、田舎へ行って頼りになるのはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一のときに困らないようにしなくちゃいけない。――
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宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時に差支えないようにしなくっちゃいけない。――
お小遣いがなくて困るかもしれないから、為替(かわせ・お金を送るしくみ)で十円あげる。――
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お小遣がなくて困るかも知れないから、為替で十円あげる。――
この前坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが東京へ帰って家を持つときの足しにと思って郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――
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先だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――
なるほど、女というものは細かいものだ。
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なるほど女と云うものは細かいものだ。
おれが椽鼻で清の手紙をひらひらさせながら考え込んでいると、仕切りのふすまを開けて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。
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おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりの襖をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。
まだご覧になっているのかなもし。
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まだ見てお出でるのかなもし。
よっぽど長いお手紙じゃなもし、と言ったので、ええ大事な手紙だから風に吹かせては見、吹かせては見るんですと、自分でも要領を得ない返事をして膳(ぜん)についた。
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えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。
見ると今夜もさつまいもの煮つけだ。
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見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。
ここのうちは、いか銀よりも丁寧で、親切で、しかも上品だが、惜しいことに食べ物がまずい。
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ここのうちは、いか銀よりも鄭寧で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食い物がまずい。
昨日も芋、おとといも芋で、今夜も芋だ。
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昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。
おれは芋が大好きだとはっきり言ったには違いないが、こう立て続けに芋を食わされては命が続かない。
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おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。
うらなり君を笑うどころか、おれ自身が近いうちに、芋のうらなり先生になってしまう。
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うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。
清ならこんなとき、おれの好きなまぐろの刺身か、蒲鉾(かまぼこ)の付け焼きを食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊とあっては仕方がない。
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清ならこんな時に、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ焼を食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊と来ちゃ仕方がない。
どう考えても、清といっしょでなくちゃ駄目だ。
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どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目だ。
もし、あの学校に長くいることになりそうなら、東京から呼び寄せてやろう。
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もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から召び寄せてやろう。
天ぷらそばを食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿にいて芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
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天麩羅蕎麦を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
禅宗(ぜんしゅう・お坊さんの宗派の一つ)の坊主だって、これよりは口に栄耀(えよう・ぜいたく)をさせているだろう。――
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禅宗坊主だって、これよりは口に栄耀をさせているだろう。――
おれは一皿の芋を平らげて、机の抽斗(ひきだし)から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやく空腹をしのいだ。
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おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやく凌いだ。
生卵ででも栄養をとらなくちゃ、一週二十一時間の授業ができるものか。
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生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
今日は清の手紙のせいで、湯に行く時間が遅くなった。
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今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。
しかし毎日行き慣れたのを一日でも欠かすのは、気持ちが悪い。
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しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。
汽車にでも乗って出かけようと、いつもの赤手ぬぐいをぶら下げて停車場まで来ると、二、三分前に発車したばかりで、少し待たなければならない。
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汽車にでも乗って出懸けようと、例の赤手拭をぶら下げて停車場まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。
ベンチに腰をかけて、敷島(しきしま・たばこの銘柄)を吹かしていると、偶然にもうらなり君がやって来た。
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ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かしていると、偶然にもうらなり君がやって来た。
おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。
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おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。
普段からこの世に居候(いそうろう)でもしているように、小さくかしこまっているのが、いかにも哀れに見えたが、今夜は哀れどころの騒ぎではない。
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平常から天地の間に居候をしているように、小さく構えているのがいかにも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。
できるなら月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚させて、一か月ほど東京へでも遊びに行かせてやりたい気がしていた矢先だったから、や、お湯ですか、さあ、こっちへお掛けなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐縮した様子で、いえ、お構いなく、と遠慮だか何だかやっぱり立っている。
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出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った体裁で、いえ構うておくれなさるな、と遠慮だか何だかやっぱり立ってる。
少し待たなくちゃ出ません、疲れますからお掛けなさいと、また勧めてみた。
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少し待たなくっちゃ出ません、草臥れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。
実は、何とかしてそばに掛けてもらいたかったくらい、気の毒でたまらない。
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実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。
それではお邪魔をいたしましょうと、ようやくおれの言うことを聞いてくれた。
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それではお邪魔を致しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。
世の中には、野だいこみたいに生意気で、出なくて済む所へ必ず顔を出すやつもいる。
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世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。
山嵐のように、おれがいなくちゃ日本が困るだろうと言わんばかりの顔を肩の上に載せているやつもいる。
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山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本が困るだろうと云うような面を肩の上へ載せてる奴もいる。
そうかと思うと、赤シャツのように、整髪料(コスメチック)と色男の元締めを自分で名乗っているのもいる。
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そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。
教育というものが生きてフロックコート(正装の上着)を着たら、おれになるんだと言わんばかりの狸もいる。
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教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸もいる。
みんな、それぞれ威張っているものだが、このうらなり先生のように、いてもいないかのように、人質に取られた人形みたいにおとなしくしているのは見たことがない。
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皆々それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人しくしているのは見た事がない。
顔はむくんでいるが、こんな立派な男を捨てて赤シャツになびくなんて、マドンナもよっぽど気の知れない、おきゃん(=そそっかしくて派手な女の子)だ。
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顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。
赤シャツが何ダース集まったって、これほど立派な旦那様ができるもんか。
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赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様が出来るもんか。
「あなたはどこか悪いんじゃありませんか。だいぶつらそうに見えますが……」
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「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」
「いえ、別にこれという持病もないんですが……」
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「いえ、別段これという持病もないですが……」
「それは結構です。体が悪いと人間もだめですね」
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「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたはだいぶご丈夫のようですな」
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「あなたは大分ご丈夫のようですな」
「ええ、痩せても病気はしません。病気なんてものは大嫌いですから」
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「ええ瘠せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
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うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
そこへ、入口で若々しい女の笑い声が聞こえたから、何気なく振り返ってみると、とんでもない人が来た。
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ところへ入口で若々しい女の笑声が聞えたから、何心なく振り返ってみるとえらい奴が来た。
色の白い、ハイカラ頭(当時の流行の髪型)の、背の高い美人と、四十五、六の奥さんとが並んで、切符を売る窓口の前に立っている。
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色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。
おれは美人を言葉で言い表せるような男じゃないから何とも言えないが、まったく美人には違いない。
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おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。
何だか水晶の珠を香水で温めて、手のひらに握ってみたような気持ちがした。
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何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。
年寄りの方が背は低い。
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年寄の方が背は低い。
しかし顔はよく似ているから、親子だろう。
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しかし顔はよく似ているから親子だろう。
おれは、や、来たなと思ったとたんに、うらなり君のことはすっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。
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おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。
すると、うらなり君が突然おれの隣から立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したので、少し驚いた。
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すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。
マドンナじゃないかと思った。
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マドンナじゃないかと思った。
三人は切符売り場の前で軽くあいさつしている。
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三人は切符所の前で軽く挨拶している。
遠いから何を言っているのか分からない。
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遠いから何を云ってるのか分らない。
停車場の時計を見ると、もう五分で発車だ。
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停車場の時計を見るともう五分で発車だ。
早く汽車が来ればいいがなと、話し相手がいなくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内に駆け込んで来た者がある。
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早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳け込んで来たものがある。
見れば赤シャツだ。
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見れば赤シャツだ。
何だかべらべらした着物に、縮緬(ちりめん・しぼのある絹織物)の帯をだらしなく巻きつけて、いつも通り金鎖り(きんぐさり・金の鎖の飾り)をぶらつかせている。
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何だかべらべら然たる着物へ縮緬の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしている。
あの金鎖りは贋物(にせもの)である。
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あの金鎖りは贋物である。
赤シャツは誰も気づくまいと思って見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。
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赤シャツは誰も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。
赤シャツは駆け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売り場の前で話している三人にていねいにお辞儀をして、何か二言、三言、言ったと思ったら、急にこっちを向いて、いつものように猫足(ねこあし・猫のような静かな足どり)で歩いてきて、や、君も湯ですか、僕は乗り遅れやしないかと心配して急いで来たら、まだ三、四分ある。
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赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃にお辞儀をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。
あの時計は正確かしらんと、自分の金側(きんがわ・金でできたふたつきの懐中時計)を出して、二分ほど違ってると言いながら、おれのそばへ腰を下ろした。
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あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍へ腰を卸した。
女の方はちっともこちらを見ないで、杖の上にあごを乗せて、正面ばかり眺めている。
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女の方はちっとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めている。
年寄りの婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままだ。
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年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。
いよいよマドンナに違いない。
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いよいよマドンナに違いない。
やがて、ピューと汽笛が鳴って、汽車がつく。
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やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。
待ち合わせていた連中は、ぞろぞろと我先に乗り込む。
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待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乗り込む。
赤シャツは真っ先に上等車へ飛び込んだ。
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赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。
上等に乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。
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上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。
こういうおれでさえ上等を奮発(ふんぱつ・思い切ってお金を出す)して、白い切符を握っているんでも分かる。
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こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。
もっとも田舎の人はけちだから、たった二銭の違いでもひどく気になると見えて、たいていは下等車に乗る。
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もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。
赤シャツのあとから、マドンナとマドンナのお袋が上等車に入り込んだ。
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赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。
うらなり君は、判で押したように下等車ばかりに乗る男だ。
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うらなり君は活版で押したように下等ばかりへ乗る男だ。
先生は下等の車室の入口に立って、何だか躊躇(ちゅうちょ)している様子だったが、おれの顔を見るなり、思い切って飛び込んでしまった。
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先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇の体であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。
おれはこのとき、何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。
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おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。
上等の切符で下等車に乗ったって、別に構わないだろう。
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上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
温泉に着いて、三階から浴衣(ゆかた)姿で湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に会った。
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温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。
おれは会議か何かでいざとなると、のどが詰まってしゃべれない男だが、普段はかなりよく話す方だから、いろいろ湯壺の中でうらなり君に話しかけてみた。
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おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉が塞がって饒舌れない男だが、平常は随分弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。
何だか哀れっぽくてたまらない。
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何だか憐れぽくってたまらない。
こんなとき、一言でも相手の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思っている。
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こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。
ところが、あいにくうらなり君の方は、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。
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ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。
何を言っても、「え」とか「いえ」とかばかりで、しかもその「え」と「いえ」がずいぶん面倒くさそうなので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちから失礼した。
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何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙った。
湯の中では赤シャツに会わなかった。
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湯の中では赤シャツに逢わなかった。
もっとも風呂の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で会うとは限らない。
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もっとも風呂の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。
別に不思議にも思わなかった。
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別段不思議にも思わなかった。
風呂を出てみると、いい月だ。
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風呂を出てみるといい月だ。
町内の両側に柳が植わっていて、柳の枝が丸い影を通りの中に落としている。
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町内の両側に柳が植って、柳の枝が丸るい影を往来の中へ落している。
少し散歩でもしよう。
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少し散歩でもしよう。
北へ上って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当たりがお寺で、左右が妓楼(ぎろう・遊女屋)である。
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北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼である。
山門の中に遊廓があるなんて、前代未聞のことだ。
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山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。
ちょっと入ってみたいが、また狸から会議のときにやられるかもしれないから、やめて素通りにした。
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ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。
門の並びに黒いのれんをかけた、小さな格子窓(こうしまど)の平屋は、おれが団子を食ってしくじった所だ。
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門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。
丸い提灯に「汁粉、お雑煮」と書いたのがぶら下がって、提灯の火が、軒端(のきば・軒の先)に近い一本の柳の幹を照らしている。
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丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。
食いたいなと思ったが、我慢して通り過ぎた。
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食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
食いたい団子が食えないのは情けない。
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食いたい団子の食えないのは情ない。
しかし、自分の許嫁(いいなずけ・結婚の約束をした相手)が他人に心を移したのは、もっと情けないだろう。
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しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。
うらなり君のことを思うと、団子どころか、三日くらい断食しても文句は言えないわけだ。
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うらなり君の事を思うと、団子は愚か、三日ぐらい断食しても不平はこぼせない訳だ。
本当に、人間ほどあてにならないものはない。
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本当に人間ほどあてにならないものはない。
あの顔を見ると、どうしたって、そんな薄情なことをしそうには思えないんだが――美しい人が薄情で、冬瓜(とうがん・うり科の野菜)の水ぶくれのような古賀さんが善良な君子だというのだから、油断ができない。
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あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。
さっぱりした人だと思った山嵐は、生徒をあおったと言うし。
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淡泊だと思った山嵐は生徒を煽動したと云うし。
生徒をあおったのかと思うと、生徒の処分を校長に迫るし。
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生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼るし。
いやみで練り固めたような赤シャツが案外親切で、おれにそれとなく注意をしてくれるかと思うと、マドンナをごまかしたり、ごまかしたのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。
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厭味で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。
いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だいこの野郎が入れ替わったり――どう考えてもあてにならない。
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いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替ったり――どう考えてもあてにならない。
こんなことを清に書いてやったら、さぞ驚くことだろう。
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こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。
箱根の向こうだから、化け物が寄り集まっているんだと言うかもしれない。
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箱根の向うだから化物が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
おれは、生まれつき物事を気にしない性分だから、どんなことでも苦にしないで今日まで過ごしてきたのだが、ここへ来てからまだ一か月たつかたたないうちに、急に世の中を物騒に思い出した。
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おれは、性来構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒に思い出した。
特に目立った大事件にも出会っていないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。
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別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。
早く切り上げて東京へ帰るのが一番いいだろう。
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早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。
などと、あれこれ考えているうちに、いつのまにか石橋を渡って野芹川(のぜりがわ)の土手へ出た。
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などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡って野芹川の堤へ出た。
川というとおおげさだが、実は一間(けん・約一・八メートル)くらいの、ちょろちょろした流れで、土手に沿って十二丁(ちょう・約一・三キロメートル)ほど下ると相生村(あいおいむら)へ出る。
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川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村へ出る。
村には観音様がある。
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村には観音様がある。
温泉の町を振り返ると、赤い灯が月の光の中に輝いている。
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温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。
太鼓が鳴るのは遊廓に違いない。
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太鼓が鳴るのは遊廓に相違ない。
川の流れは浅いけれど速いから、神経質な水のようにやたらに光る。
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川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。
ぶらぶら土手の上を歩きながら、三丁(ちょう・約三百三十メートル)ほど来たと思ったら、向こうに人影が見え出した。
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ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影が見え出した。
月にすかしてみると、影は二つある。
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月に透かしてみると影は二つある。
温泉に来て村へ帰る若い衆(しゅ・若者たち)かもしれない。
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温泉へ来て村へ帰る若い衆かも知れない。
それにしては歌もうたわない。
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それにしては唄もうたわない。
案外静かだ。
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存外静かだ。
だんだん歩いていくと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。
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だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。
一人は女らしい。
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一人は女らしい。
おれの足音を聞きつけて、十間(けん・約十八メートル)くらいの距離に近づいたとき、男がたちまち振り向いた。
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おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離に逼った時、男がたちまち振り向いた。
月は後ろから差している。
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月は後からさしている。
そのとき、おれは男の様子を見て、はてなと思った。
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その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。
男と女は、また元通りに歩き出した。
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男と女はまた元の通りにあるき出した。
おれは考えがあるから、急に全速力で追いかけた。
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おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸けた。
先方は何にも気づかずに、はじめの通り、ゆっくり歩いている。
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先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。
今は話し声も、手に取るように聞こえる。
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今は話し声も手に取るように聞える。
土手の幅は六尺(しゃく・約一・八メートル)くらいだから、並んで歩けば三人がやっとだ。
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土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。
おれは苦もなく後ろから追いついて、男の袖をすり抜けざま、二歩前へ出した踵(くびす・かかと)をぐるりと返して、男の顔をのぞき込んだ。
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おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖を擦り抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顔を覗き込んだ。
月は正面から、おれの五分刈りの頭からあごの辺りまで、遠慮もなく照らす。
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月は正面からおれの五分刈の頭から顋の辺りまで、会釈もなく照す。
男はあっと小声で言ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促すが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
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男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促がすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
赤シャツは図太くてごまかすつもりか、気が弱くて名乗りそこなったのかしら。
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赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損なったのかしら。
ところが、狭くて困っているのは、おればかりではなかった。
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ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。
八
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八
赤シャツに勧められて釣りに行った帰りから、山嵐を疑い出した。
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赤シャツに勧められて釣に行った帰りから、山嵐を疑ぐり出した。
身に覚えのないことを理由に下宿を出ろと言われたときは、いよいよふらちなやつだと思った。
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無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒な奴だと思った。
ところが会議の席では、予想に反してとうとうと生徒を厳しく罰するべきだという意見を述べたから、おや変だなと首をひねった。
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ところが会議の席では案に相違して滔々と生徒厳罰論を述べたから、おや変だなと首を捩った。
萩野の婆さんから、山嵐がうらなり君のために赤シャツと話をつけたと聞いたときは、それは感心だと手をたたいた。
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萩野の婆さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍った。
この様子では悪者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方がひねくれているんで、いいかげんな邪推を、いかにも本当らしく、しかも遠回しに、おれの頭の中へしみ込ませたのではあるまいかと迷っていた矢先に、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者(くせもの)だと決めてしまった。
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この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減な邪推を実しやかに、しかも遠廻しに、おれの頭の中へ浸み込ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者だと極めてしまった。
曲者だか何だかよくは分からないが、ともかくいい男じゃない。
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曲者だか何だかよくは分らないが、ともかくも善い男じゃない。
表と裏とが違う男だ。
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表と裏とは違った男だ。
人間は竹のようにまっすぐでなくちゃ頼もしくない。
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人間は竹のように真直でなくっちゃ頼もしくない。
まっすぐなものは、喧嘩をしても気持ちがいい。
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真直なものは喧嘩をしても心持ちがいい。
赤シャツのように、優しいのと親切なのと高尚(こうしょう・上品で気高いこと)なのと、琥珀(こはく)のパイプとを自慢そうに見せびらかすのは油断ができない、めったに喧嘩もできないと思った。
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赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。
喧嘩をしても、回向院(えこういん・東京にあった相撲の会場)の相撲のような気持ちのいい喧嘩はできないと思った。
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喧嘩をしても、回向院の相撲のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。
そうなると、一銭五厘のもめごとで控所(ひかえじょ・職員室)全体を驚かせた議論の相手、山嵐の方がはるかに人間らしい。
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そうなると一銭五厘の出入で控所全体を驚ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。
会議のときに金壺眼(かなつぼまなこ・丸くくぼんだ目)をぐりぐりさせて、おれをにらんだときは憎いやつだと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声(ねこなでごえ・猫をなでるときのようなやたら優しい声)よりはましだ。
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会議の時に金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声よりはましだ。
実は、あの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一言二言話しかけてみたが、あの野郎、返事もしないで、まだ目をむいてみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
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実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎返事もしないで、まだ眼を剥ってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
それ以来、山嵐はおれと口を利かない。
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それ以来山嵐はおれと口を利かない。
机の上へ返した一銭五厘は、いまだに机の上に乗っている。
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机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。
ほこりだらけになって乗っている。
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ほこりだらけになって乗っている。
おれはもちろん手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。
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おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。
この一銭五厘が二人の間の壁になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑固に黙っている。
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この一銭五厘が二人の間の墻壁になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑として黙ってる。
おれと山嵐には、一銭五厘がたたった。
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おれと山嵐には一銭五厘が祟った。
しまいには、学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
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しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
山嵐とおれが絶交したようなありさまなのに引きかえて、赤シャツとおれは相変わらず今まで通りの関係を保って、付き合いを続けている。
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山嵐とおれが絶交の姿となったに引き易えて、赤シャツとおれは依然として在来の関係を保って、交際をつづけている。
野芹川で会った翌日などは、学校へ出ると真っ先におれのそばへ来て、君、今度の下宿はいいですかとか、また一緒にロシア文学を釣りに行こうじゃないかとか、いろいろなことを話しかけた。
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野芹川で逢った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜文学を釣りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。
おれは少々憎らしかったから、昨夜は二回会いましたねと言ったら、ええ、停車場で――君はいつもあの時分に出掛けるんですか、遅いじゃないかと言う。
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おれは少々憎らしかったから、昨夜は二返逢いましたねと云ったら、ええ停車場で――君はいつでもあの時分出掛けるのですか、遅いじゃないかと云う。
野芹川の土手でもお目にかかりましたねと言ってやったら、いいえ、僕はあっちへは行かない、湯に入って、すぐ帰ったと答えた。
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野芹川の土手でもお目に懸りましたねと喰らわしてやったら、いいえ僕はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。
何もそんなに隠さなくてもよかろう、現に会っているんだ。
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何もそんなに隠さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。
よく嘘をつく男だ。
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よく嘘をつく男だ。
これで中学の教頭が務まるなら、おれなんか大学総長が務まる。
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これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。
おれはこのときから、いよいよ赤シャツを信用しなくなった。
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おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。
信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。
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信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。
世の中は、ずいぶん妙なものだ。
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世の中は随分妙なものだ。
ある日、赤シャツがちょっと君に話があるから僕のうちまで来てくれと言うので、惜しいとは思ったが温泉行きを休んで、四時ごろ出かけて行った。
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ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃出掛けて行った。
赤シャツは独り者だが、教頭だけあって下宿はとっくの昔に引き払い、立派な玄関を構えている。
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赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き払って立派な玄関を構えている。
家賃は九円五十銭だそうだ。
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家賃は九円五拾銭だそうだ。
田舎へ来て九円五十銭払えばこんな家に入れるなら、おれも一つ思い切って、東京から清を呼び寄せて喜ばせてやろうと思ったくらいの玄関だ。
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田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。
頼むと言ったら、赤シャツの弟が取り次ぎに出て来た。
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頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。
この弟は学校で、おれに代数と算数を教わる、ひどく出来の悪い子だ。
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この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。
その癖、渡り者(あちこち職を転々としている、素性のはっきりしない者)だから、生まれつきの田舎者よりも意地が悪い。
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その癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪るい。
赤シャツに会って用事を聞いてみると、あの大将、いつもの琥珀のパイプで、きな臭いたばこをふかしながら、こんなことを言った。
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赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭い烟草をふかしながら、こんな事を云った。
「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよく上がって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで頑張っていただきたい」
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「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか。勉強って言われても、今より頑張ることはできませんが――」
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「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで十分です。ただ、この前お話ししたことですね、あれを忘れずにいてくだされば、それでいいのです」
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「今のくらいで充分です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするのは剣呑(けんのん・危ないこと)だということですか」
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「下宿の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか」
「そう露骨(ろこつ)に言うと、意味もないことになるが――まあいいさ――言いたいことは君にもよく分かっていると思うから。そこで、君が今のように精を出してくださっていれば、学校の方でもちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇のこともいくらかはどうにかなるだろうと思うんですがね」
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「そう露骨に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、給料(俸給)ですか。給料なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
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「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い、今度転任する人が一人出るから――もっとも校長に相談してみないともちろん請け合えないことだが――その人の給料から少しは融通できるかもしれないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
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「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「どうもありがとう。誰が転任するんですか」
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「どうも難有う。だれが転任するんですか」
「もう発表になるから、話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」
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「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
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「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここの土地の人ですが、少し都合があって――半分は本人の希望なんです」
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「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行くんです」
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「どこへ行くんです」
「日向(ひゅうが)の延岡(のべおか)で――遠い土地だから、給料が一段上がって行くことになりました」
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「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上って行く事になりました」
「誰か代わりが来るんですか」
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「誰か代りが来るんですか」
「代わりも、だいたい決まっているんです。その代わりの具合で、君の待遇の都合もつくんです」
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「代りも大抵極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし、無理に上げてもらわなくても構いません」
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「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「とにかく僕は校長に話すつもりです。それで校長も同じ意見らしいが、そのうち君にもっと働いてもらわなくちゃならなくなるかもしれないから、どうか今からそのつもりで覚悟しておいてもらいたいですね」
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「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟をしてやってもらいたいですね」
「今より授業時間でも増えるんですか」
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「今より時間でも増すんですか」
「いいえ、時間は今より減るかもしれませんが――」
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「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか。妙だな」
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「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「ちょっと聞くと妙だが――はっきりとは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかもしれないという意味なんです」
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「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
おれにはさっぱり分からない。
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おれには一向分らない。
今より重大な責任と言えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、あいつがそう簡単に辞職する気遣い(きづかい・おそれ)はない。
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今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣いはない。
それに、生徒からの人望があるから、転任や免職は学校のためにもならないだろう。
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それに、生徒の人望があるから転任や免職は学校の得策であるまい。
赤シャツの話は、いつでも要領を得ない。
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赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。
要領を得なくても、用事はこれで済んだ。
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要領を得なくっても用事はこれで済んだ。
それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやることや、それについておれが酒を飲むかという質問や、うらなり先生は立派で愛すべき人だということや――赤シャツはいろいろとしゃべった。
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それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。
しまいに話を変えて、君は俳句をやりますかと聞いてきたから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
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しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
発句(ほっく・俳句のもとになった短い詩)は、芭蕉か髪結床(かみいどこ・昔の床屋)の親方がやるもんだ。
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発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。
数学の先生が「朝顔に釣瓶(つるべ・井戸で水をくむおけ)を取られて」なんて、風流なことをしていられるか。
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数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。
帰って、うんと考え込んだ。
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帰ってうんと考え込んだ。
世間には、ずいぶん気の知れない男がいる。
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世間には随分気の知れない男が居る。
家も屋敷ももちろん、勤める学校にも不足のない故郷がいやになったからと言って、知らない他国へ苦労を求めに出て行く。
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家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。
それも花の都、電車が通っている所ならまだしもだが、日向の延岡とは何のことだ。
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それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。
おれは船の便のいいこの町へ来てさえ、一か月たたないうちにもう帰りたくなった。
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おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。
延岡と言えば、山の中も山の中、とんでもない山の中だ。
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延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。
赤シャツの言うところによると、船から上がって一日馬車に乗って宮崎へ行き、宮崎からまた一日車に乗らないと着けないそうだ。
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赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。
名前を聞いただけでも、開けた所とは思えない。
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名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
猿と人とが半々に住んでいるような気がする。
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猿と人とが半々に住んでるような気がする。
いくら聖人のようなうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくはないだろうに、何という物好き(ものずき)だ。
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いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇だ。
そこへ相変わらず、婆さんが夕食を運んで来る。
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ところへあいかわらず婆さんが夕食を運んで出る。
今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ、今日はお豆腐ぞなもしと言った。
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今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云った。
どっちにしたって似たようなものだ。
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どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん、古賀さんは日向へ行くそうですね」
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「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「ほんとうにお気の毒じゃな、もし」
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「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
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「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
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「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、本人がさ。古賀先生が物好きで行くんじゃありませんか」
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「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎(かんごろう・「大変な思い違い」という意味の言い回し)ぞなもし」
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「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう言いましたぜ。それが勘違いなら、赤シャツは嘘つきの法螺右衛門(ほらえもん・「大うそつき」をからかって呼ぶ言い方)だ」
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「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
「教頭さんが、そうお言いなさるのはもっともじゃが、古賀さんの行きたくないのももっともぞなもし」
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「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往きともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういうわけなんですかい」
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「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝、古賀さんのお母さんがお見えになって、だんだんとわけをお話しなさったがなもし」
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「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんなわけをお話しになったんです」
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「どんな訳をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮らし向きが豊かになうて、お困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月いただくものを、今少し増やしておくれんかって、あなた」
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「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
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「なるほど」
「校長さんが、まあよく考えてみようとお言いなさったげな。それでお母さんも安心して、今に給料が上がるご沙汰(さた・知らせ)があろうぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお言いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げるわけにいかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと言われたげな。――」
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「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
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「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここにおりたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みなさったけれども、もうそう決めたあとで、古賀さんの代わりはもう決まっているけれ仕方がないと校長がお言いなさったげな」
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「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん、人を馬鹿にしてるな、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうりで変だと思った。五円くらい上がったって、あんな山の中へ猿の相手をしに行く唐変木(とうへんぼく・まぬけ、へんくつ者)は、まずいないからね」
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「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木はまずないからね」
「唐変木て、先生のことなもし」
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「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――まったく赤シャツの作略(さりゃく・悪だくみ)だね。よくない仕打ちだ。まるでだまし討ちですね。それでおれの月給を上げるなんて、そんな不都合な話があるものか。上げてやると言われたって、誰が上がってやるもんか」
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「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「先生は月給がお上がりるのかなもし」
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「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるって言うから、断ろうと思うんです」
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「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」
「何で、お断りるのぞなもし」
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「何で、お断わりるのぞなもし」
「何でもお断りだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
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「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、おとなしくいただいておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、もう少しの我慢じゃったのに惜しいことをした、腹を立てたためにこないな損をしたと悔やむのが当たり前じゃけれ、お婆の言うことを聞いて、赤シャツさんが月給を上げてやろとお言いたら、ありがとうと受けておおきなさいや」
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「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」
「年寄りのくせに余計な世話を焼かなくてもいい。おれの月給は上がろうと下がろうと、おれの月給だ」
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「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
婆さんはだまって引っ込んだ。
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婆さんはだまって引き込んだ。
爺さんはのんきな声を出して謡(うたい)をうたってる。
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爺さんは呑気な声を出して謡をうたってる。
謡というものは、読めば分かるところに、やたらむずかしい節をつけて、わざと分からなくする芸だろう。
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謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。
あんなものを毎晩飽きずにうなる爺さんの気が知れない。
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あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの気が知れない。
おれは謡どころの騒ぎじゃない。
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おれは謡どころの騒ぎじゃない。
月給を上げてやろうと言うから、別に欲しくもなかったが、要らない金を余らせておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくない者を無理に転任させて、その男の月給の一部をかすめ取るなんて、そんな薄情なことができるものか。
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月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳ねるなんて不人情な事が出来るものか。
本人がもとの通りでいいと言っているのに、延岡くんだりまで落ちさせるとは、一体どういう了見(りょうけん・考え)だろう。
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当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下りまで落ちさせるとは一体どう云う了見だろう。
太宰権帥(だざいごんのそつ・昔、都から遠くへ追いやられた身分の高い人)でさえ、博多(はかた)の近くで落ち着いたものだ。
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太宰権帥でさえ博多近辺で落ちついたものだ。
河合又五郎(かあいまたごろう・昔、遠くへ追われた人物の一人)だって、相良(さがら)で止まっているじゃないか。
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河合又五郎だって相良でとまってるじゃないか。
とにかく赤シャツのところへ行って断ってこなくちゃ気が済まない。
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とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
小倉(こくら)の袴をつけて、また出かけた。
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小倉の袴をつけてまた出掛けた。
大きな玄関へ突っ立って頼むと言うと、また例の弟が取り次ぎに出て来た。
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大きな玄関へ突っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。
おれの顔を見て、また来たかという目つきをした。
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おれの顔を見てまた来たかという眼付をした。
用があれば、二度だって三度だって来る。
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用があれば二度だって三度だって来る。
夜中だって、たたき起こさないとは限らない。
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よる夜なかだって叩き起さないとは限らない。
教頭のところへご機嫌伺い(きげんうかがい・相手の様子をうかがいに行くこと)に来るようなおれだと見くびっているのか。
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教頭の所へご機嫌伺いにくるようなおれと見損ってるか。
これでも、月給が要らないから返しに来たんだ。
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これでも月給が入らないから返しに来んだ。
すると弟が、今来客中だと言うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと言ったら、奥へ引っ込んだ。
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すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら奥へ引き込んだ。
足元を見ると、畳表(たたみおもて)を張った薄っぺらな、つま先の低い駒下駄(こまげた)がある。
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足元を見ると、畳付きの薄っぺらな、のめりの駒下駄がある。
奥で「もう万歳ですよ」と言う声が聞こえる。
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奥でもう万歳ですよと云う声が聞える。
客というのは野だいこだなと気がついた。
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お客とは野だだなと気がついた。
野だいこでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を履くものはない。
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野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。
しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、ほかの人じゃない吉川君だ、と言うから、いえここでたくさんです。
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しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。
ちょっと話せばいいんです、と言って赤シャツの顔を見ると、真っ赤な金時(きんとき・赤い顔で有名な人形の名前)のようだ。
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ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。
野だいこの野郎と一杯やっていると見える。
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野だ公と一杯飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変わったから断りに来たんです」
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「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺めたが、とっさのことで返事もできず、茫然(ぼうぜん)としている。
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赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然としている。
月給が上がるのを断るやつが世の中にたった一人飛び出して来たのを不審に思ったのか、断るにしても、今帰ったばかりで、すぐまた出直して来なくてもよさそうなものだとあきれ返ったのか、あるいはその両方が一緒になったのか、妙な顔をして突っ立ったままである。
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増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆れ返ったのか、または双方合併したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あのとき承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話だったからで……」
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「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は、まったく自分の希望で半ば転任するんです」
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「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここにいたいんです。元の月給でもいいから、郷里にいたいんです」
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「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
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「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「それは、本人から聞いたんじゃありません」
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「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃあ、誰から聞いたんですか」
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「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿のおばあさんが、古賀さんのお母さんから聞いた話を、今日教えてくれたんです」
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「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃあ、下宿のおばあさんがそう言ったんですね」
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「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあ、そうです」
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「まあそうです」
「それは失礼ですが、少し違うと思います。あなたの言う通りだとすると、下宿のおばあさんの言うことは信じるが、教頭の言うことは信じない、と聞こえます。そう考えていいんでしょうか」
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「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支えないでしょうか」
おれはちょっと困った。
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おれはちょっと困った。
大学で文学を学んだ人というのは、やっぱり頭がいいものだ。
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文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。
変なところにこだわって、しつこく攻めてくる。
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妙な所へこだわって、ねちねち押し寄せてくる。
おれはよく親父(おやじ)から、貴様はそそっかしくて駄目だ駄目だと言われたが、なるほど少しそそっかしいところがあるようだ。
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おれはよく親父から貴様はそそっかしくて駄目だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。
おばあさんの話を聞いてはっとして飛び出して来たが、実はうらなり君にも、うらなり君のお母さんにも会って、詳しい事情を聞いてはいなかったのだ。
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婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳しい事情は聞いてみなかったのだ。
だから、こう文学士らしいやり方で斬(き)りつけられると、ちょっと受け止めにくい。
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だからこう文学士流に斬り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
正面からは受け止めにくいが、おれはもう心の中(うち)で、赤シャツを信じないと決めてしまっていた。
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正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中で申し渡してしまった。
下宿のおばあさんも、けちで欲張りな人には違いないが、嘘をつかない人だ。赤シャツのように裏表はない。
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下宿の婆さんもけちん坊の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐かない女だ、赤シャツのように裏表はない。
おれは仕方がないから、こう答えた。
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おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの言うことは本当かもしれませんが――とにかく、給料が上がるのはお断りします」
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「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります」
「それはますますおかしいですね。今、君がわざわざここに来たのは、給料が上がるのを受け入れるには忍(しの)びない理由を見つけたからだと聞こえました。その理由を僕の説明で取り除いたのに、それでも給料が上がるのを断るというのは、少し理解できませんね」
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「それはますます可笑しい。今君がわざわざお出になったのは増俸を受けるには忍びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「理解できないかもしれませんね。とにかく、断ります」
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「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなに否(いや)なら、無理にとまでは言いませんが、二、三時間のうちに、これといった理由もなく豹変(ひょうへん・急に態度が変わること)しては、これから先、君の信用にかかわりますよ」
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「そんなに否なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構いません」
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「かかわっても構わないです」
「そんなことはないはずです。人間にとって、信用ほど大切なものはありませんよ。百歩譲って、下宿の主人が……」
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「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲って、下宿の主人が……」
「主人じゃありません、おばあさんです」
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「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもいいでしょう。下宿のおばあさんが君に話したことが本当だとしても、君の給料が上がるのは、古賀君の収入を削って得たものではないはずです。古賀君は延岡へ行かれる。その代わりの人が来る。その代わりの人は、古賀君より少し安い給料で来てくれる。その余り(剰余(じょうよ))を君に廻(ま)わすというのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡で、今より偉くなられる。新しく来る人は、最初からの約束で安く来る。それで君の給料が上がるなら、これほど都合のいいことはないと思うのですがね。いやならいやでいいですが、もう一度、家でよく考えてみませんか」
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「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余を君に廻わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合のいい事はないと思うですがね。いやなら否でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
おれの頭はあまり良くないから、いつもなら、相手がこんな巧妙(こうみょう)な話しぶりを揮(ふる)えば、おやそうかな、それじゃおれが間違っていたと恐れ入って引き下がるのだけれど、今夜はそうはいかない。
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おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙な弁舌を揮えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。
ここへ来た最初から、赤シャツは何だか虫が好かなかった。
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ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。
途中で、親切な女のような男だと思い直したこともあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、その反動で、今ではすっかり嫌になっている。
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途中で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭になっている。
だから、相手がどれほど筋道立てて論を逞(たくま)しくしようと、堂々とした教頭らしいやり方でおれを言い負かそうとも、そんなことは構わない。
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だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。
議論のうまい人が、いい人とは限らない。
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議論のいい人が善人とはきまらない。
言い負かされる方が、悪い人とは限らない。
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遣り込められる方が悪人とは限らない。
表向きは赤シャツの方がずっと理屈が通っているが、表向きがいくら立派でも、心の底から納得させることはできない。
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表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。
お金や威力(いりょく)や理屈(りくつ)で人の心が買えるなら、高利貸しでも巡査(じゅんさ・おまわりさん)でも大学教授でも、一番人に好かれなくてはならないはずだ。
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金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。
中学の教頭くらいの理屈で、おれの心がどう動くものか。
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中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。
人間は好き嫌いで動くものだ。
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人間は好き嫌いで働くものだ。
理屈で動くものじゃない。
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論法で働くものじゃない。
「あなたの言うことはもっともですが、僕は給料が上がるのが嫌になったんですから、まあ断ります。考えても同じことです。さようなら」
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「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」
と言い捨てて、門を出た。
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と云いすてて門を出た。
頭の上には、天の川が一筋かかっている。
原文を見る
頭の上には天の川が一筋かかっている。
九
原文を見る
九
うらなり君の送別会がある日の朝、学校へ行くと、山嵐が突然言い出した。この間、いか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼んだから、真面目に受け取って、君に出てやれと話したのだが、あとで聞いてみると、あいつは悪い奴で、よく偽物の書に偽筆(ぎひつ・にせものの筆あと)や贋落款(にせらっかん・にせものの落款、書画の作者印)を押して売りつけるそうだ。だから、君のことも全く出鱈目(でたらめ)に違いない。
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うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼んだから、真面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪るい奴で、よく偽筆へ贋落款などを押して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目に違いない。
君に掛け軸や骨董を売りつけて、商売にしようと思っていたところ、君が相手にせず、儲(もう)けがないものだから、あんな作り話をこしらえてごまかしたのだ。
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君に懸物や骨董を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化したのだ。
僕はあの人物を知らなかったので、君にはとても失礼をした。勘弁(かんべん)してくれ、と長々しい謝罪をした。
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僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁したまえと長々しい謝罪をした。
おれは何も言わずに、山嵐の机の上にあった一銭五厘を取って、自分のがま口の中へ入れた。
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おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘をとって、おれの蝦蟇口のなかへ入れた。
山嵐が、君はそれを取り戻すのかと不思議そうに聞くので、うん、おれは君にごちそうしてもらうのが嫌だったから、必ず返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱりごちそうしてもらう方がいいようだから、取り戻すんだと説明した。
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山嵐は君それを引き込めるのかと不審そうに聞くから、うんおれは君に奢られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。
山嵐は大きな声でアハハハと笑いながら、それなら、なぜもっと早く取らなかったんだと聞いた。
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山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。
実は、取ろう取ろうと思っていたが、何だか変な感じがして、そのままにしておいた。
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実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙だからそのままにしておいた。
近ごろは、学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるほど嫌だったと言ったら、君はよほど負け惜しみの強い男だと言うので、君はよほどの剛情張(ごうじょうっぱ)り(がんこ者)だと答えてやった。
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近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張りだと答えてやった。
それから、二人の間にこんなやり取りが始まった。
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それから二人の間にこんな問答が起った。
「君は一体どこの生まれだ」
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「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
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「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か。道理で負け惜しみが強いと思った」
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「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「君はどこだ」
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「きみはどこだ」
「僕は会津(あいづ)だ」
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「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
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「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも。君は?」
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「行くとも、君は?」
「おれはもちろん行くんだ。古賀さんが出発するときは、港まで見送りに行こうと思っているくらいだ」
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「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぞ、出てみたまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
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「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれはつまみの肴(さかな)を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿だ」
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「勝手に飲むがいい。おれは肴を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿だ」
「君はすぐ喧嘩をふっかける男だ。なるほど、江戸っ子の軽跳(けいちょう・軽はずみでせっかちな性質)を、よく表している」
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「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳な風を、よく、あらわしてる」
「何でもいい、送別会へ行く前に、ちょっとおれの家に寄ってくれ。話(はな)しがあるから」
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「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話しがあるから」
山嵐は約束通り、おれの下宿に寄った。
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山嵐は約束通りおれの下宿へ寄った。
おれはこの間から、うらなり君の顔を見るたびに気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となると、何だかかわいそうになって、できることなら、おれが代わりに行ってやりたいような気がしてきた。
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おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。
それで送別会の席で、思い切り演説をして、送別を盛(さかん)にしてやりたいと思うのだが、おれの江戸弁の口調ではとても務まらないから、大きな声を出す山嵐を頼んで、赤シャツの荒肝(あらぎも)を挫(ひし)いでやろうと考えついた。それでわざわざ山嵐を呼んだのである。
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それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇って、一番赤シャツの荒肝を挫いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
おれはまず、初めにマドンナ事件から話し始めたが、山嵐はもちろんマドンナ事件をおれより詳しく知っている。
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おれはまず冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知っている。
おれが野芹川の土手での話をして、あれは馬鹿野郎(ばかやろう)だと言ったら、山嵐は、君は誰をつかまえても馬鹿呼(よば)わりをすると言った。
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おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと云ったら、山嵐は君はだれを捕まえても馬鹿呼わりをする。
今日、学校で自分のことも馬鹿と言ったじゃないか。
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今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。
自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。
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自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。
自分は赤シャツの仲間じゃないと言い張った。
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自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。
それじゃ、赤シャツは腑抜(ふぬ)けの呆助(ほうすけ・間の抜けた人)だと言ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。
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それじゃ赤シャツは腑抜けの呆助だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。
山嵐は強いことは強いが、こういう言葉になると、おれよりずっと字を知らない。
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山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥かに字を知っていない。
会津っぽというのは、みんなこんなものなんだろう。
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会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
それから、給料が上がる話と、将来重く用いると赤シャツが言った話をしたら、山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ、僕を辞めさせる気だなと言った。
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それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職する考えだなと云った。
辞めさせるつもりだって、君は辞めさせられる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が辞めさせられるなら、赤シャツも一緒に辞めさせてやると大いに威張った。
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免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張った。
どうやって一緒に辞めさせる気かと重ねて尋ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。
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どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。
山嵐は強そうだが、知恵はあまりなさそうだ。
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山嵐は強そうだが、智慧はあまりなさそうだ。
おれが給料の増額を断ったと話したら、大将は大喜びで、さすが江戸っ子だ、えらいと褒めてくれた。
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おれが増給を断わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞めてくれた。
うらなりが、そんなに嫌がっているなら、なぜ残れるように動いてやらなかったのかと聞いてみたら、うらなりから話を聞いたときには、既(すで)に決まってしまっていて、校長のところへ二度、赤シャツのところへ一度行って掛け合ってみたが、どうすることもできなかったと話した。
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うらなりが、そんなに厭がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。
それにしても、古賀があまりお人よしすぎるから困る。
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それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。
赤シャツから話があったとき、きっぱり断るか、一応考えてみますと逃げればよかったのに、あの口達者な話にごまかされて、その場で許諾(きょだく・承知すること)してしまったものだから、あとからお母(っか)さんが泣きついても、自分が掛け合いに行っても、役に立たなかったと、山嵐はとても残念がった。
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赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
今度の事件は、全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを自分のものにするための策略なんだろうとおれが言ったら、もちろんそうに違いない。
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今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。
あいつはおとなしい顔をして悪いことをして、人が何か言うと、ちゃんと逃道(にげみち)を拵(こしら)えて待っているんだから、よほどの奸物(かんぶつ・心のねじけた悪い人)だ。
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あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。
あんな奴には、鉄拳制裁(てっけんせいさい・げんこつで思い知らせること)でなくちゃ効かないと、瘤(こぶ)だらけの腕をまくってみせた。
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あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。
おれはついでだから、君の腕は強そうだな、柔術(じゅうじゅつ)でもやるのかと聞いてみた。
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おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。
すると大将は二の腕に力こぶを入れて、ちょっとつかんでみろと言うので、指先でもんでみたら、何のことはない、銭湯にある軽石のようなものだ。
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すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
おれはあまり感心したので、君くらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばせるだろうと聞いたら、もちろんさと言いながら、曲げた腕を伸ばしたり縮めたりすると、力こぶが皮の中でぐるりぐるりと廻転(かいてん)する。
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おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転する。
とても愉快だ。
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すこぶる愉快だ。
山嵐が証明するところによると、かんじん綯(よ)り(こより、紙をよって作った細いひも)を二本より合わせて、この力こぶの出るところへ巻きつけて、思い切り腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。
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山嵐の証明する所によると、かんじん綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。
かんじん綯りなら、おれにもできそうだと言ったら、できるものか、できるならやってみろと言われた。
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かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。
切れないと格好が悪いから、おれはやめておいた。
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切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
君どうだ、今夜の送別会で大いに飲んだあと、赤シャツと野だを殴ってやらないかと面白半分に持ちかけてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと言った。
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君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを撲ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。
なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それに、どうせ殴るくらいなら、あいつらの悪いところを見届けて、現場で殴らなくちゃ、こっちの落ち度になるからと、分別のありそうなことを附加(つけた)した。
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なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加した。
山嵐でも、おれよりは考えがあるらしい。
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山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
じゃあ、演説をして古賀君を大いにほめてやれ。おれがやると江戸っ子らしくぺらぺらになって、重みがなくていけない。
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じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。
それに、いざという場面になると、急に溜飲(りゅういん・胸がむかつくこと)が起こって、のどのところへ大きな丸(たま)のようなものが上がって来て、言葉が出ないから、君に譲る、と言ったら、変な病気だな、じゃあ君は人前では口が利けないんだね、困るだろう、と聞くので、いや、そんなに困りはしないと答えておいた。
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そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲が起って咽喉の所へ、大きな丸が上がって来て言葉が出ないから、君に譲るからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
そうこうするうちに時間が来たので、山嵐と一緒に会場へ行く。
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そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。
会場は花晨亭(かしんてい)といって、当地(ここ)で一番の料理屋だそうだが、おれは一度も入ったことがない。
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会場は花晨亭といって、当地で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。
もとは家老とかいう人の屋敷を買い取って、そのまま開いたという話だが、なるほど見懸(みかけ)からして厳(いか)めしい構えだ。
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もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸からして厳めしい構えだ。
家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織(じんばおり・昔、武将が鎧の上に着た羽織)を縫(ぬ)い直して、胴着(どうぎ・胴を守る防具や上着)にするようなものだ。
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家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫い直して、胴着にする様なものだ。
二人が着いたころには、人数(にんず)ももう大方揃っていて、五十畳の広間に二つ三つ、人の塊(かたまり)ができている。
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二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊が出来ている。
五十畳だけあって、床の間はとても大きい。
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五十畳だけに床は素敵に大きい。
おれが山城屋で使った十五畳敷きの床の間とは比べものにならない。
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おれが山城屋で占領した十五畳敷の床とは比較にならない。
物差しで測ってみたら、二間(にけん・約三・六メートル)あった。
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尺を取ってみたら二間あった。
右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶(かめ)を据(す)えて、その中に松の大きな枝が挿してある。
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右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶を据えて、その中に松の大きな枝が挿してある。
松の枝を挿して何にするつもりか知らないが、何か月たっても散る心配がないから、お金がかからなくていいのだろう。
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松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。
あの瀬戸物はどこで作られるんだと博物の先生に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里(いまり)ですと言った。
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あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里ですと云った。
伊万里だって瀬戸物じゃないかと言ったら、博物の先生はえへへへへと笑っていた。
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伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。
あとで聞いてみたら、瀬戸で作られる焼き物だから、瀬戸と言うのだそうだ。
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あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。
おれは江戸っ子だから、陶器(とうき・焼き物)のことを何でも瀬戸物というのかと思っていた。
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おれは江戸っ子だから、陶器の事を瀬戸物というのかと思っていた。
床の間の真ん中に大きな掛け軸があって、おれの顔くらいの大きさの字が二十八字書いてある。
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床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。
どうも下手なものだ。
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どうも下手なものだ。
あまり不味(まず)いので、漢学の先生に、なぜあんな下手なものを麗々(れいれい)と(これ見よがしに)掛けておくんですかと尋ねたら、先生は、あれは海屋(かいおく)といって有名な書家が書いたものだと教えてくれた。
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あんまり不味いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。
海屋だか何だか知らないが、おれは今でも下手だと思っている。
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海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
やがて書記の川村が、どうかお着席をと言うので、柱があって靠(よ)りかかるのにちょうどいいところに座った。
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やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって靠りかかるのに都合のいい所へ坐った。
海屋の掛け軸の前に、狸が羽織(はおり)、袴で座ると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取(じんど)った。
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海屋の懸物の前に狸が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取った。
右の方は主人公だというので、うらなり先生も日本服で控えている。
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右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控えている。
おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈(きゅうくつ)だったので、すぐ胡坐(あぐら)をかいた。
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おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐ胡坐をかいた。
隣の体操の先生は黒いズボンで、ちゃんとかしこまっている。
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隣りの体操教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。
体操の先生だけあって、いやに修行を積んでいる。
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体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。
やがてお膳が出る。
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やがてお膳が出る。
徳利(とくり・お酒を入れる細長い器)が並ぶ。
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徳利が並ぶ。
幹事が立って、一言(いちごん)、開会のあいさつを述べる。
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幹事が立って、一言開会の辞を述べる。
それから狸が立つ。
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それから狸が立つ。
赤シャツが立つ。
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赤シャツが起つ。
みんな送別のあいさつを述べたが、三人とも申し合わせたように、うらなり君が良い先生でいい人だということを言い立てて、今回去られるのは本当に残念である、学校としてだけでなく、個人としても大いに惜しむところであるが、ご本人のご都合で、たっての希望で転任されるのだから仕方がない、という意味のことを述べた。
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ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致し方がないという意味を述べた。
こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥(はず)かしいとも思っていない。
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こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥かしいとも思っていない。
特に赤シャツにいたっては、三人のうちで一番うらなり君をほめた。
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ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。
この良い友人を失うのは、実に自分にとって大きな不幸であるとまで言った。
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この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。
しかもその言い方が、いかにももっともらしくて、いつものやさしい声を一段とやさしくして述べ立てるのだから、初めて聞いた者は、誰でもきっとだまされるに決まっている。
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しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極ってる。
マドンナも、大方この手で引掛(ひっか)けたんだろう。
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マドンナも大方この手で引掛けたんだろう。
赤シャツが送別のあいさつを述べ立てている最中、向側(むかいがわ)に座っていた山嵐が、おれの顔を見て、ちょっと稲光(いなびかり)のような目つきをした。
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赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光をさした。
おれは返事として、人差し指でべっかんこう(まぶたを指で下げて舌を出すおどけたしぐさ)をして見せた。
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おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
赤シャツが席に戻るのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったので、おれはうれしくなって、思わず手をぱちぱちとたたいた。
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赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉しかったので、思わず手をぱちぱちと拍った。
すると、狸をはじめ一同がみんなおれの方を見たので、少々困った。
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すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。
山嵐は何を言うかと思ったら、ただ今、校長をはじめ、特に教頭は古賀君の転任を非常に残念がっておられましたが、私は少し反対で、古賀君が一日(いちじつ)も早く当地を去られることを希望しております。
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山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望しております。
延岡は僻遠(へきえん・都会から遠く離れた土地)の地で、当地に比べたら、物の上での不便はあるだろう。
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延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。
が、聞くところによると、風俗が実に淳朴(じゅんぼく・すなおで飾り気のないこと)な土地で、職員も生徒もみな、上代樸直(じょうだいぼくちょく・昔の人のような素直で正直な気風)を持っているそうである。
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が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上代樸直の気風を帯びているそうである。
心にもないお世辞を振り蒔(ま)いたり、美しい顔をして立派な人を陥(おとしい)れたりするハイカラ野郎は一人もいないと信じているから、君のような温良篤厚(おんりょうとっこう・おだやかで人情に厚いこと)の人物は、必ずその地方の人々全体に歓迎されるに違いない。
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心にもないお世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。
吾輩(わがはい)は大いに、古賀君のためにこの転任を祝うのである。
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吾輩は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。
終わりに、君が延岡に赴任されたら、その地の淑女(しゅくじょ・上品な女性)で、りっぱな人物の好逑(こうきゅう・よい連れ合い)となる資格のある人を択(えら)んで、一日も早く円満な家庭を築き、あの不貞なお転婆(てんば・落ち着きのないわがままな娘)を、実際に慚死(ざんし・恥じて死にたくなるほど恥ずかしい思いをすること)させることを希望します。
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終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆を事実の上において慚死せしめん事を希望します。
えへんえへんと、二つほど大きな咳払(せきばら)いをして、席に着いた。
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えへんえへんと二つばかり大きな咳払いをして席に着いた。
おれは今度も手を叩こうと思ったが、またみんながおれの顔を見るのは嫌だから、やめておいた。
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おれは今度も手を叩こうと思ったが、またみんながおれの面を見るといやだから、やめにしておいた。
山嵐が座ると、今度はうらなり先生が立った。
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山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。
先生はとても丁寧に、自分の席から座敷の端の末席まで行って、うやうやしく一同にあいさつをした上で、このたびは一身上の都合で九州へ参ることになりましたことについて、諸先生方が私のために、この盛大(せいだい)な送別会を開いてくださったのは、まことに感銘(かんめい・心に深く感じ入ること)の至りに堪えない次第で――特にただ今は、校長、教頭、その他皆様の送別のごあいさつをいただき、大変ありがたく胸に刻んで服膺(ふくよう・心にとめて忘れないこと)する次第であります。
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先生はご鄭寧に、自席から、座敷の端の末座まで行って、慇懃に一同に挨拶をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘の至りに堪えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴して、大いに難有く服膺する訳であります。
私はこれから遠方へ参りますが、どうかこれまでどおり、お見捨てなくご愛顧(あいこ・目をかけてかわいがってくれること)のほどをお願いします。
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私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧のほどを願います。
と、へいこら頭を下げて席に戻った。
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とへえつく張って席に戻った。
うらなり君は、どこまでお人よしなのか、ほとんど底が知れない。
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うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。
自分がこんなに馬鹿にされている校長や教頭に、うやうやしくお礼を言っている。
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自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭しくお礼を云っている。
それも、形だけの義理のあいさつならまだしも、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから見ると、心(しん)から感謝しているらしい。
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それも義理一遍の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心から感謝しているらしい。
こんな聖人に真面目にお礼を言われたら、気の毒になって顔が赤くなりそうなものだが、狸も赤シャツも、真面目に謹聴(きんちょう・つつしんで聞くこと)しているばかりだ。
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こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴しているばかりだ。
あいさつが済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。
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挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。
おれも真似をして汁(しる)を飲んでみたが、まずいものだ。
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おれも真似をして汁を飲んでみたがまずいもんだ。
口取(くちとり・お祝いの膳につく取り合わせの料理)に蒲鉾はついているが、どす黒くて、竹輪の出来損(できそこ)ないのようだ。
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口取に蒲鉾はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損ないである。
刺身(さしみ)も並んでいるが、厚くて、まぐろの切り身をそのまま生で食うのと同じことだ。
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刺身も並んでるが、厚くって鮪の切り身を生で食うと同じ事だ。
それでも、隣や近くの人たちは、むしゃむしゃおいしそうに食っている。
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それでも隣り近所の連中はむしゃむしゃ旨そうに食っている。
大方、江戸前の料理を食べたことがないのだろう。
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大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
そのうち燗徳利(かんどくり・お酒を温めて入れる徳利)が頻繁(ひんぱん)に行き来し始めたら、あたりが急ににぎやかになった。
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そのうち燗徳利が頻繁に往来し始めたら、四方が急に賑やかになった。
野だ公はうやうやしく校長の前へ出て、盃(さかずき)をいただいている。
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野だ公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。
嫌な奴だ。
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いやな奴だ。
うらなり君は順々に献酬(けんしゅう・盃をやり取りしてお酒をつぐこと)をして、一巡周(いちじゅんめぐ)るつもりらしい。
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うらなり君は順々に献酬をして、一巡周るつもりとみえる。
ずいぶんご苦労なことだ。
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はなはだご苦労である。
うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴いたしましょうと、袴のひだを直して申し込まれたので、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃(いっぱい)差し上げた。
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うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃差し上げた。
せっかく来て、すぐお別れになるのは残念ですね。
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せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。
ご出発はいつですか、ぜひ港までお見送りをしましょうと言ったら、うらなり君は、いえ、お忙しい(用多(おお)い)ところ、決してそれには及びませんと答えた。
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ご出立はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、うらなり君はいえご用多のところ決してそれには及びませんと答えた。
うらなり君が何と言おうと、おれは学校を休んでも見送るつもりでいる。
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うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
それから一時間ほどするうちに、席の上は大分乱れてきた。
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それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。
まあ一杯、おや、僕が飲めと言うのに……などと呂律(ろれつ)が回らなくなる者も、一人二人(ひとりふたり)出てきた。
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まあ一杯、おや僕が飲めと云うのに……などと呂律の巡りかねるのも一人二人出来て来た。
少し退屈(たいくつ)したので便所へ行って、昔ふうの庭を星明かりに透かして眺めていると、山嵐が来た。
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少々退屈したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺めていると山嵐が来た。
どうだ、さっきの演説はうまかっただろう。
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どうださっきの演説はうまかったろう。
と、大分得意げである。
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と大分得意である。
大賛成だが、一か所気に入らないと抗議(こうぎ)を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
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大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡にいないから……と君は言っただろう」
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「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は云ったろう」
「うん」
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「うん」
「ハイカラ野郎だけでは足りないよ」
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「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃあ、何と言うんだ」
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「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこっかぶ)りの、香具師(やし・縁日などで物を売る人。ここでは人をだます者の意味)の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも言うがいい」
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「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「おれには、そんなに舌は回らない。君は話がうまい。第一、言葉をたくさん知っている。それなのに演舌(えんぜつ・演説)ができないのは不思議だ」
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「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌が出来ないのは不思議だ」
「なに、これは喧嘩のときに使おうと思って、用心のためにとっておく言葉さ。演舌となると、こうはいかない」
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「なにこれは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出てくるぞ。もう一度やってみたまえ」
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「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何度でもやるぞ、いいか。――ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の……」
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「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」
と言いかけていると、縁側をどたばた言わせて、二人ほど、よろよろしながら駆け出して来た。
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と云いかけていると、椽側をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳け出して来た。
「両君、それはひどい、――逃げるなんて、――僕がいるうちは決して逃(にが)さない、さあ飲みたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
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「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
と、おれと山嵐をぐいぐい引っ張っていく。
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とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。
実はこの二人とも便所に来たのだが、酔(よ)っているものだから、便所へ入るのを忘れて、おれたちを引っ張っているのだろう。
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実はこの両人共便所に来たのだが、酔ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。
酔っ払いは、目の前にあることに用事を作って、前のことはすぐ忘れてしまうのだろう。
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酔っ払いは目の中る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、みなさん、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ませてくれたまえ。いかさま師を、うんと言うほど酔わせてくれたまえ。君、逃げちゃいかん」
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「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と、逃げもしないおれを、壁際(かべぎわ)へ圧(お)し付けた。
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と逃げもせぬ、おれを壁際へ圧し付けた。
あちこち見回してみると、お膳の上にまともなつまみが残っているものは一つもない。
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諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。
自分の分をきれいに食べ尽くして、五、六間(けん)先まで遠征(えんせい)に出た奴もいる。
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自分の分を奇麗に食い尽して、五六間先へ遠征に出た奴もいる。
校長はいつ帰ったのか、姿が見えない。
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校長はいつ帰ったか姿が見えない。
そこへ、お座敷はこちら?
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ところへお座敷はこちら?
と、芸者が三、四人入って来た。
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と芸者が三四人はいって来た。
おれも少し驚いたが、壁際へ圧し付けられているのだから、じっとしてただ見ていた。
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おれも少し驚ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。
すると、今まで床柱(とこばしら)にもたれて、いつもの琥珀のパイプを自慢そうに啣(くわ)えていた赤シャツが、急に立って、座敷を出ようとした。
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すると今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢そうに啣えていた、赤シャツが急に起って、座敷を出にかかった。
向こうから入って来た芸者の一人が、すれ違いながら、笑ってあいさつをした。
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向うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。
その一人は、一番若くて一番きれいな娘だ。
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その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。
遠くて聞こえなかったが、おや今晩は、くらい言ったらしい。
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遠くで聞えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。
赤シャツは知らん顔をして出て行ったきり、顔を出さなかった。
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赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。
大方、校長のあとを追懸(おいか)けて帰ったのだろう。
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大方校長のあとを追懸けて帰ったんだろう。
芸者が来たら、座敷中が急に陽気になって、みんなが鬨(とき)の声を上げて歓迎したのかと思うくらい、騒々しい。
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芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨の声を揚げて歓迎したのかと思うくらい、騒々しい。
そして、ある奴は「なんこ」(両手に隠した物の数を当てる遊び)で遊んでいる。
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そうしてある奴はなんこを攫む。
その声の大きいことといったら、まるで居合抜(いあいぬき・刀をすばやく抜く武術)の稽古のようだ。
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その声の大きな事、まるで居合抜の稽古のようだ。
こっちでは拳(けん・手の形で勝負を決める遊び)を打っている。
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こっちでは拳を打ってる。
よっ、はっ、と夢中で両手を振るところは、ダーク一座の操人形(あやつりにんぎょう)より、よっぽど上手(じょうず)だ。
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よっ、はっ、と夢中で両手を振るところは、ダーク一座の操人形よりよっぽど上手だ。
向こうの隅では、おい、お酌(しゃく)だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。
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向うの隅ではおいお酌だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。
どうもやかましくて、騒々しくてたまらない。
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どうもやかましくて騒々しくってたまらない。
そのうちで、手持ち無沙汰に下を向いて考え込んでいるのは、うらなり君だけだ。
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そのうちで手持無沙汰に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。
自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜(おし)んでくれるからじゃない。
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自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜んでくれるんじゃない。
みんなが酒を飲んで遊ぶためだ。
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みんなが酒を呑んで遊ぶためだ。
自分一人が手持ち無沙汰で苦しむためだ。
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自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。
こんな送別会なら、開いてもらわない方が、よっぽどましだ。
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こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
しばらくしたら、みんなが胴間声(どうまごえ・太くて調子の外れた声)を出して、何か歌い始めた。
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しばらくしたら、めいめい胴間声を出して何か唄い始めた。
おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、何か歌いなさい、と三味線を抱(かか)えたので、おれは歌わない、貴様が歌ってみろと言ったら、金(かね)や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。
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おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。
叩いて回って会えるものなら、わたしも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて回って会いたい人がある、と一気に歌って、ああしんどい、と言った。
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叩いて廻って逢われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。
しんどいなら、もっと楽なものをやればいいのに。
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おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
すると、いつの間にかそばへ来て座った野だが、鈴ちゃん、会いたい人に会ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたいでげす、と相変わらず噺(はな)し家みたいな言葉づかいをする。
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すると、いつの間にか傍へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺し家みたような言葉使いをする。
知りまへんと、芸者はつんと澄ました。
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知りまへんと芸者はつんと済ました。
野だは頓着(とんじゃく)なく、たまたま会いは会いながら……と、嫌な声を出して義太夫(ぎだゆう・三味線に合わせて語る芸)の真似をやる。
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野だは頓着なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫の真似をやる。
おきなはれや、と芸者は平手で野だの膝(ひざ)を叩いたら、野だは恐悦(きょうえつ・とても喜ぶこと)して笑っている。
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おきなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑ってる。
この芸者は、赤シャツにあいさつをした娘だ。
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この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。
芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい奴だ。
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芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。
鈴ちゃん、僕が紀伊(き)の国(踊りの一種)を踴(おど)るから、一つ弾(ひ)いてちょうだいと言い出した。
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鈴ちゃん僕が紀伊の国を踴るから、一つ弾いて頂戴と云い出した。
野だは、この上まだ踊る気でいる。
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野だはこの上まだ踴る気でいる。
向こうの方で、漢学のおじいさんが歯のない口を歪(ゆが)めて、そりゃ聞こえません伝兵衛(でんべい)さん、お前とわたしのその仲は……とまでは無事に歌ったが、それから?
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向うの方で漢学のお爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞えません伝兵衛さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済したが、それから?
と、芸者に聞いている。
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と芸者に聞いている。
おじいさんというのは、物覚えの悪いものだ。
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爺さんなんて物覚えのわるいものだ。
一人が博物の先生をつかまえて、近頃(ちかごろ)こんなのができましたぜ、弾いてみましょうか。
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一人が博物を捕まえて近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。
よう聞いて、いなはれや――花月巻(かげつまき・当時の流行歌の一つ)、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可(はんか・中途半端)の英語でぺらぺらと、I am glad to see you、と歌うと、博物の先生は、なるほど面白い、英語入りだねと感心している。
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よう聞いて、いなはれや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
山嵐はやたらに大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞(けんぶ・刀を持って舞う踊り)をやるから、三味線を弾けと号令をかけた。
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山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるから、三味線を弾けと号令を下した。
芸者はあまりに乱暴な声なので、あっけにとられて返事もしない。
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芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
山嵐は構わずに、ステッキを持って来て、「踏破千山万岳烟(ふみやぶるせんざんばんがくのけむり)」(多くの山を踏み越えていくという意味の詩の一節)と真ん中へ出て、一人で隠し芸を演じている。
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山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟と真中へ出て独りで隠し芸を演じている。
そこへ野だが、もう紀伊の国を済ませて、かっぽれを済ませて、棚(たな)の達磨(だるま)さんを済ませて、丸裸(まるはだか)の越中褌(えっちゅうふんどし)一つになって、棕梠箒(しゅろぼうき・しゅろの毛で作ったほうき)を小脇に抱(か)い込んで、日清談判破裂(はれつ)して……と、座敷中を練り歩き出した。
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ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、棚の達磨さんを済して丸裸の越中褌一つになって、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。
まるで気違(きちが)いだ。
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まるで気違いだ。
おれはさっきから、苦しそうに袴も脱がずに控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、いくら自分の送別会だからといって、越中褌の裸踴(はだかおどり)まで羽織袴で我慢して見ている必要はあるまいと思ったので、そばへ行って、古賀さん、もう帰りましょうと帰るように勧めてみた。
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おれはさっきから苦しそうに袴も脱がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴まで羽織袴で我慢してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。
するとうらなり君は、今日は私の送別会だから、私が先に帰っては失礼です、どうぞご遠慮なく、と動く様子もない。
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するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮なくと動く景色もない。
いや、構うものですか、送別会なら送別会らしくすればいいんです、あのざまをご覧なさい。
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なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。
気狂会(きちがいかい・気の変な人たちの集まり)です。
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気狂会です。
さあ行きましょうと、気の進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だがほうきを振り振り進んで来て、やあご主人が先へ帰るとはひどい。
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さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。
日清談判だ。
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日清談判だ。
帰せないと、ほうきを横にして行く手を塞いだ。
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帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。
おれはさっきから肝癪が起きているところだから、日清談判なら、貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨(げんこつ)で、野だの頭をぽかりと食わしてやった。
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おれはさっきから肝癪が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰わしてやった。
野だは二、三秒の間、毒気を抜かれたようすで、ぼんやりしていたが、おや、これはひどい。
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野だは二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。
お殴りになったとは情けない。
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お撲ちになったのは情ない。
この吉川を打擲(ちょうちゃく・打ちたたくこと)とは、恐れ入った。
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この吉川をご打擲とは恐れ入った。
いよいよもって、日清談判だ。
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いよいよもって日清談判だ。
と、わけのわからないことを並べているところへ、うしろから山嵐が、何か騒動が始まったと見て取って、剣舞をやめて飛んで来たが、このていたらくを見て、いきなり頸筋(くびすじ)をうんとつかんで引き戻した。
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とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。
日清……いたい。
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日清……いたい。
いたい。
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いたい。
どうもこれは乱暴だと振りもがくところを、横に捩(ねじ)ったら、すとんと倒れた。
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どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩ったら、すとんと倒れた。
あとはどうなったか知らない。
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あとはどうなったか知らない。
途中でうらなり君と別れて、家へ帰ったら十一時過ぎだった。
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途中でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
十
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十
祝勝会(しゅくしょうかい・戦争に勝ったお祝いの会)で、学校は休みだ。
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祝勝会で学校はお休みだ。
練兵場(れんぺいば・軍隊の訓練場)で式があるというので、狸は生徒を引き連れて出なければならない。
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練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。
おれも先生の一人として、いっしょについて行くんだ。
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おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。
町へ出ると日の丸の旗だらけで、まぶしいくらいだ。
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町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。
学校の生徒は八百人もいるから、体操の先生が隊伍(たいご・行進の列)を整えて、組と組の間を少しずつ空け、そこへ先生が一人か二人ずつ監督(かんとく・見張り役)として入りこむ仕組みだ。
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学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けである。
仕組みだけはとても上手にできているが、実際はまるでうまくいかない。
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仕掛だけはすこぶる巧妙なものだが、実際はすこぶる不手際である。
生徒は子供のくせに生意気で、規則を破らなければ生徒の面目が立たないと思っている連中だから、先生が何人(いくたり)ついて行ったって何の役にも立ちはしない。
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生徒は小供の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等だから、職員が幾人ついて行ったって何の役に立つもんか。
命令もしないのに勝手に軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もなく鬨(とき)の声(戦いの前にあげる叫び声)をあげたり、まるで浪人(ろうにん・主のいない侍)が町を練り歩いているようなものだ。
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命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨の声を揚げたり、まるで浪人が町内をねりあるいてるようなものだ。
軍歌も鬨の声もあげない時は、がやがや何かしゃべっている。
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軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌ってる。
しゃべらなくても歩けそうなものだが、日本人はみんな口から先に生まれてくるようなものだから、いくら文句を言ったって聞くはずがない。
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喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云ったって聞きっこない。
しゃべるといっても、ただしゃべるんじゃない。先生の悪口をしゃべるんだから、下品だ。
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喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。
おれは宿直事件で生徒に謝らせて、まあこれで大丈夫だろうと思っていた。
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おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。
ところが実際はまるで違った。
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ところが実際は大違いである。
下宿の婆さんの言葉を借りて言えば、まさに大違いの勘五郎(かんごろう・「大違い」をふざけて人名みたいに言ったしゃれ)だ。
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下宿の婆さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎である。
生徒があやまったのは、心から後悔してあやまったのではない。
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生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。
ただ校長に命令されて、形だけ頭を下げただけだ。
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ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。
商人が頭ばかり下げて、ずるいことをやめないのと同じで、生徒も謝るだけは謝るが、いたずらは決してやめない。
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商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。
よく考えてみると、世の中はみんなこの生徒みたいな人間でできているのかもしれない。
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よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。
人があやまったり詫びたりするのを、まじめに受け取って許してやるのは、正直すぎる馬鹿というものなんだろう。
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人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。
あやまるのもうわべだけあやまり、許すのもうわべだけ許すのだと思っていれば差し支え(さしつかえ・問題)ない。
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あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。
もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きのめさなくてはいけない。
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もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。
おれが組と組の間に入って行くと、天ぷらだの、団子だのという声が絶えずする。
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おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅だの、団子だの、と云う声が絶えずする。
しかも大勢だから、誰が言っているのか分からない。
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しかも大勢だから、誰が云うのだか分らない。
たとえ分かったところで、『おれのことを天ぷらと言ったんじゃありません、団子と言ったんじゃありません、それは先生が神経衰弱(しんけいすいじゃく・神経が疲れて弱っている状態)だから、ひがんでそう聞こえるんです』ぐらい言うに決まってる。
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よし分ってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うに極まってる。
こんな卑怯な根性は、封建時代から育ってきたこの土地の習慣なんだから、いくら言って聞かせたって、教えてやったって、とても直りっこない。
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こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底直りっこない。
こんな土地に一年もいたら、潔白なおれも、この真似をしなければならなくなるかもしれない。
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こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなく、なるかも知れない。
向こうがうまく言い逃れできるやり方で、おれの顔に泥を塗るのを、黙って見逃してやるような甘い賭け事(樗蒲一・ちょぼいち、さいころ賭博の一種)はしない。
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向うでうまく言い抜けられるような手段で、おれの顔を汚すのを抛っておく、樗蒲一はない。
向こうが人間なら、おれも人間だ。
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向こうが人ならおれも人だ。
生徒だって、子供だって、図体(ずうたい・体つき)はおれより大きいんだ。
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生徒だって、子供だって、ずう体はおれより大きいや。
だから刑罰(けいばつ・仕返しの罰)として何か返報してやらなくては義理が悪い。
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だから刑罰として何か返報をしてやらなくっては義理がわるい。
ところが、こっちが仕返しをしようとして普通のやり方で行くと、向こうから逆捩じ(さかねじ・逆に文句を言い返されること)を食わされる。
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ところがこっちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向うから逆捩を食わして来る。
貴様が悪いからだと言うと、最初から逃げ道を作ってあるものだから、べらべらと言い訳を並べ立てる。
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貴様がわるいからだと云うと、初手から逃げ路が作ってある事だから滔々と弁じ立てる。
言い訳を並べ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派に見せて、それからこっちの非をせめてくる。
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弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃する。
もともと仕返しでやったことだから、向こうの非が明らかにならない限り、こっちの言い分は言い訳にすらならない。
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もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。
つまり、向こうが先に手を出しておいて、世間からはこっちが仕掛けたけんかのように見られてしまう。
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つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩のように、見傚されてしまう。
大変な損だ。
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大変な不利益だ。
それなら向こうのやりたい放題にさせて、愚迂多良童子(ぐうたらどうじ・ぼんやり者のふり)を決め込んでいれば、向こうはますますつけあがるばかりで、大げさに言えば世の中のためにならない。
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それなら向うのやるなり、愚迂多良童子を極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく云えば世の中のためにならない。
そこで仕方がないから、こっちも向こうのやり方をまねて、捕まえられないような、手のつけようのない仕返しをしなくてはならなくなる。
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そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて捕まえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。
そうなっては江戸っ子もおしまいだ。
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そうなっては江戸っ子も駄目だ。
おしまいだが、一年もこんなふうにやられたら、おれも人間だから、おしまいになろうがなるまいが、そうなるしかない。
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駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。
やっぱり早く東京へ帰って、清といっしょに暮らすのが一番だ。
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どうしても早く東京へ帰って清といっしょになるに限る。
こんな田舎にいるのは、堕落(だらく・悪くなること)しに来ているようなものだ。
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こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ。
新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
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新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
そう考えながら、いやいやついて行くと、何だか先頭(せんぽう・列の一番前)の方が急にがやがや騒ぎ出した。
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こう考えて、いやいや、附いてくると、何だか先鋒が急にがやがや騒ぎ出した。
同時に列がぴたりと止まった。
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同時に列はぴたりと留まる。
変だから、列を外れて右へ出て向こうを見ると、大手町(おおてまち)を突き当たって薬師町(やくしまち)へ曲がる角のところで、行き詰まったまま、押したり押し返されたりしてもみ合っている。
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変だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町を突き当って薬師町へ曲がる角の所で、行き詰ったぎり、押し返したり、押し返されたりして揉み合っている。
前の方から声をからして「静かに、静かに」とやって来た体操の先生に「何ですか」と聞くと、曲がり角で中学校と師範学校(しはんがっこう・先生を育てる学校)がぶつかったんだと言う。
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前方から静かに静かにと声を涸らして来た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と師範学校が衝突したんだと云う。
中学と師範は、どこの県でも犬と猿のように仲が悪いそうだ。
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中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲がわるいそうだ。
なぜだか分からないが、まるで気風が合わない。
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なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。
何かあるとけんかをする。
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何かあると喧嘩をする。
大方(おおかた・きっと)狭い田舎で退屈だから、暇つぶしにやることなんだろう。
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大方狭い田舎で退屈だから、暇潰しにやる仕事なんだろう。
おれはけんかが好きな方だから、ぶつかったと聞いて、面白半分に駆け出して行った。
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おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳け出して行った。
すると前の方にいる連中が、しきりに「何だ、地方税(ちほうぜい・県のお金)のくせに、引っ込め」と怒鳴っている。
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すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引き込めと、怒鳴ってる。
後ろからは「押せ、押せ」と大声を出す。
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後ろからは押せ押せと大きな声を出す。
おれは邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時、「前へ!」
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おれは邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ!
という高く鋭い号令が聞こえたと思ったら、師範学校の方は粛々(しゅくしゅく・静かにきちんと)として行進を始めた。
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と云う高く鋭い号令が聞えたと思ったら師範学校の方は粛粛として行進を始めた。
先を争ったぶつかり合いは、話がついたには違いないが、つまり中学校が一歩譲ったのだ。
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先を争った衝突は、折合がついたには相違ないが、つまり中学校が一歩を譲ったのである。
格から言うと、師範学校の方が上だそうだ。
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資格から云うと師範学校の方が上だそうだ。
祝勝の式はとても簡単なものだった。
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祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。
旅団長がお祝いの言葉を読む。知事がお祝いの言葉を読む。参列者が万歳を唱える。
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旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む、参列者が万歳を唱える。
それでおしまいだ。
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それでおしまいだ。
余興は午後にあるという話だから、ひとまず下宿へ帰って、この間からずっと気にかかっていた、清への返事を書きかけた。
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余興は午後にあると云う話だから、ひとまず下宿へ帰って、こないだじゅうから、気に掛っていた、清への返事をかきかけた。
今度はもっと詳しく書いてくれという注文だから、なるべく念入り(ねんいり・丁寧)に書かなくちゃならない。
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今度はもっと詳しく書いてくれとの注文だから、なるべく念入に認めなくっちゃならない。
しかし、いざとなって半切(はんきれ・半分に切った書き物用の紙)を手に取ると、書くことはたくさんあるのに、何から書き出していいか分からない。
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しかしいざとなって、半切を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。
あれにしようか、あれは面倒くさい。
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あれにしようか、あれは面倒臭い。
これにしようか、これはつまらない。
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これにしようか、これはつまらない。
何か、すらすら書けて、面倒じゃなくて、それでいて清が面白がるようなことはないかと考えてみたが、そんな都合のいい出来事は一つもなさそうだ。
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何か、すらすらと出て、骨が折れなくって、そうして清が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。
おれは墨(すみ)をすって、筆をしめして、巻紙をにらんで――巻紙をにらんで、筆をしめして、墨をすって――同じことを同じように何度も繰り返したあと、おれにはとても手紙は書けないと諦めて、硯(すずり・墨をする道具)の蓋(ふた)をしてしまった。
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おれは墨を磨って、筆をしめして、巻紙を睨めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返も繰り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦めて硯の蓋をしてしまった。
手紙なんてものを書くのは面倒くさい。
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手紙なんぞをかくのは面倒臭い。
やっぱり東京まで出かけて行って、会って話をする方が簡単だ。
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やっぱり東京まで出掛けて行って、逢って話をするのが簡便だ。
清の心配も分からないではないが、清の言う通りの手紙を書くのは、三七日(さんしちにち・二十一日間)の断食よりも苦しい。
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清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食よりも苦しい。
おれは筆と巻紙を放り出して、ごろりと転がり、肘枕(ひじまくら)をして庭の方を眺めてみたが、やっぱり清のことが気にかかる。
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おれは筆と巻紙を抛り出して、ごろりと転がって肱枕をして庭の方を眺めてみたが、やっぱり清の事が気にかかる。
そのとき、おれはこう思った。
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その時おれはこう思った。
こうして遠くへ来てまで清の身の上を心配していてやりさえすれば、おれの真心(まこと・本当の気持ち)は清に伝わるに違いない。
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こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通じるに違いない。
伝わりさえすれば、手紙なんて出す必要はない。
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通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。
出さなければ、無事で暮らしていると思ってくれるだろう。
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やらなければ無事で暮してると思ってるだろう。
便りは、死んだ時か病気の時か、何か事が起きた時にさえ出せばいいわけだ。
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たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
庭は十坪(とつぼ・約三十三平方メートル)ほどの平らな庭で、これといった植木もない。
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庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。
ただ一本の蜜柑(みかん)の木があって、塀の外から目印になるくらい高い。
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ただ一本の蜜柑があって、塀のそとから、目標になるほど高い。
おれはうちへ帰ると、いつもこの蜜柑を眺める。
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おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。
東京から出たことのない者には、蜜柑が実っているところはとても珍しいものだ。
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東京を出た事のないものには蜜柑の生っているところはすこぶる珍しいものだ。
あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、きっときれいだろう。
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あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗だろう。
今でももう半分色が変わったのがある。
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今でももう半分色の変ったのがある。
婆さんに聞いてみると、とても水気の多い、うまい蜜柑だそうだ。
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婆さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、旨い蜜柑だそうだ。
今に熟れたら、たくさん召し上がれと言ったから、毎日少しずつ食ってやろう。
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今に熟たら、たんと召し上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。
もう三週間もしたら、充分食べられるだろう。
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もう三週間もしたら、充分食えるだろう。
まさか三週間以内にここを去ることもなかろう。
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まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
おれが蜜柑のことを考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。
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おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。
「今日は祝勝会だから、君といっしょにごちそうを食おうと思って牛肉を買って来た」と、竹の皮の包みを袂(たもと・着物のそでの下のふくろの部分)から引っぱり出して、座敷の真ん中へ放り出した。
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今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の包を袂から引きずり出して、座敷の真中へ抛り出した。
おれは下宿で芋攻め(いもぜめ)豆腐攻めにされている上、そば屋行き、団子屋行きを禁じられている最中だから、そいつはありがたいと、すぐ婆さんから鍋と砂糖を借りて、煮方(にかた・煮る作業)に取りかかった。
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おれは下宿で芋責豆腐責になってる上、蕎麦屋行き、団子屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋と砂糖をかり込んで、煮方に取りかかった。
山嵐はやたらに牛肉を頬張り(ほおば)ながら、「君、あの赤シャツが芸者に馴染みがあるのを知ってるか」と聞くから、「知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろう」と言ったら、「そうだ、僕はこの頃ようやく気づいたのに、君はなかなか勘がいいな」と大いにほめた。
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山嵐は無暗に牛肉を頬張りながら、君あの赤シャツが芸者に馴染のある事を知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろうと云ったら、そうだ僕はこの頃ようやく勘づいたのに、君はなかなか敏捷だと大いにほめた。
「あいつは、口を開けば品性だの、精神的娯楽だのと言うくせに、裏へ回って芸者と付き合ってるんだから、けしからん奴だ。それも、ほかの人が遊ぶのを大目に見るならまだいいが、君がそば屋へ行ったり団子屋へ入ったりするのさえ、取り締まり(とりしまり)の邪魔になると言って、校長の口を通して注意させたじゃないか」
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「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽だのと云う癖に、裏へ廻って、芸者と関係なんかつけとる、怪しからん奴だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容するならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上害になると云って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」
「うん、あの野郎の考えじゃ、芸者遊びは精神的娯楽で、天ぷらや団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと堂々とやればいい。何だあのざまは。馴染みの芸者が入ってくると、入れ違いに席を外して逃げるなんて、どこまでも人をごまかす気だから気に食わない。それで人が問い詰めると、僕は知らないとか、ロシア文学だとか、俳句は新体詩の兄弟分だとか言って、人を煙(けむ)に巻くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。まるで御殿女中(ごてんじょちゅう・昔お城で働いた女性)の生まれ変わりか何かだぜ。ひょっとするとあいつの親父は湯島のかげま(昔いた、女性のように装った男の芸人)かもしれない」
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「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様は。馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化す気だから気に食わない。そうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、露西亜文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人を烟に捲くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中の生れ変りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
「湯島のかげまって何だ」
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「湯島のかげまた何だ」
「何でも男らしくないものなんだろう。――君、そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと絛虫(さなだむし・お腹の中に住みつく虫)がわくぜ」
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「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと絛虫が湧くぜ」
「そうか、大抵大丈夫だろう。それで赤シャツは人に隠れて、温泉町の角屋(かどや)へ行って、芸者と会っているそうだ」
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「そうか、大抵大丈夫だろう。それで赤シャツは人に隠れて、温泉の町の角屋へ行って、芸者と会見するそうだ」
「角屋って、あの宿屋か」
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「角屋って、あの宿屋か」
「宿屋兼料理屋さ。だから、あいつを一番へこますには、あいつが芸者を連れてあそこへ入り込むところを見届けておいて、面と向かって問い詰める(めんきつ)んだね」
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「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰するんだね」
「見届けるって、夜番(よばん・夜の見張り)でもするのかい」
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「見届けるって、夜番でもするのかい」
「うん、角屋の前に枡屋(ますや)という宿屋があるだろう。あの表の二階を借りて、障子(しょうじ)へ穴をあけて見張るのさ」
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「うん、角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子へ穴をあけて、見ているのさ」
「見張っているときに来るかい」
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「見ているときに来るかい」
「来るだろう。どうせ一晩じゃだめだ。二週間ぐらいやるつもりでなくちゃ」
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「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ」
「ずいぶん疲れるぜ。僕は、おやじが死ぬとき一週間ばかり徹夜(てつや)して看病したことがあるが、あとでぼんやりして、すっかり参ったことがある」
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「随分疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱った事がある」
「少しぐらい体が疲れたって構わんさ。あんな悪党をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代わって誅戮(ちゅうりく・悪人を成敗すること)を加えてやるんだ」
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「少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。あんな奸物をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代って誅戮を加えるんだ」
「愉快だ。そう決まったなら、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
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「愉快だ。そう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
「まだ枡屋に掛け合っていないから、今夜は駄目だ」
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「まだ枡屋に懸合ってないから、今夜は駄目だ」
「それじゃ、いつから始めるつもりだい」
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「それじゃ、いつから始めるつもりだい」
「近々やるさ。いずれ君に知らせるから、そうしたら加勢してくれたまえ」
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「近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれたまえ」
「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略(はかりごと)は下手だが、けんかとなるとこれでなかなかすばしこいぜ」
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「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略は下手だが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略を相談していると、宿の婆さんが出て来て、「学校の生徒さんが一人、堀田先生にお会いしたいと言うて、おいでになりましたぞなもし。
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おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略を相談していると、宿の婆さんが出て来て、学校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいててお出でたぞなもし。
今お宅へおいでたのじゃが、お留守じゃけん、大方ここじゃろうと捜し当てておいでたのじゃがなもし」と、敷居(しきい・部屋の出入り口の段)のところへ膝をついて、山嵐の返事を待っている。
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今お宅へ参じたのじゃが、お留守じゃけれ、大方ここじゃろうてて捜し当ててお出でたのじゃがなもしと、閾の所へ膝を突いて山嵐の返事を待ってる。
山嵐は「そうですか」と玄関まで出て行ったが、やがて帰って来て、「君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘いに来たんだ。
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山嵐はそうですかと玄関まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘いに来たんだ。
今日は高知(こうち)から、何とかいう踊りをしに、わざわざここまで多人数(たにんず・大勢の人数)で乗り込んで来ているのだから、ぜひ見物しろ、めったに見られない踊りだというんだ。君もいっしょに行ってみたまえ」と、山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。
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今日は高知から、何とか踴りをしに、わざわざここまで多人数乗り込んで来ているのだから、是非見物しろ、めったに見られない踴だというんだ、君もいっしょに行ってみたまえと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。
おれは踊りなら東京でたくさん見ている。
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おれは踴なら東京でたくさん見ている。
毎年八幡様(はちまんさま・八幡神社の神様)のお祭りには屋台が町内を回ってくるんだから、汐汲み(しおくみ・海水をくむ動きをまねた踊り)でも何でもちゃんと心得ている。
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毎年八幡様のお祭りには屋台が町内へ廻ってくるんだから汐酌みでも何でもちゃんと心得ている。
土佐っぽ(とさっぽ・土佐の人をからかった言い方)のつまらない踊りなんか、見たくもないと思ったけれど、せっかく山嵐が勧めるものだから、つい行く気になって門へ出た。
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土佐っぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。
山嵐を誘いに来たのは誰かと思ったら、赤シャツの弟だ。
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山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。
妙な奴が来たもんだ。
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妙な奴が来たもんだ。
会場へ入ると、回向院(えこういん)の相撲か本門寺(ほんもんじ)の御会式(おえしき・お寺の大きな行事)のように、幾旒(いくながれ・何本も)となく長い旗をあちこちに立てた上、世界中の国旗を残らず借りて来たくらい、縄から縄、綱から綱へ渡してあって、広い空が、いつになくにぎやかに見える。
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会場へはいると、回向院の相撲か本門寺の御会式のように幾旒となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄から縄、綱から綱へ渡しかけて、大きな空が、いつになく賑やかに見える。
東の隅に一晩でこしらえた舞台(ぶたい)を設けて、ここでいわゆる高知の何とかいう踊りをやるんだそうだ。
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東の隅に一夜作りの舞台を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだそうだ。
舞台を右へ半町(はんちょう・約五十五メートル)ばかり行くと、葭簀(よしず・葦で編んだすだれ)の囲いがあって、生け花が並べてある。
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舞台を右へ半町ばかりくると葭簀の囲いをして、活花が陳列してある。
みんなが感心して眺めているが、ちっともくだらないものだ。
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みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。
あんなに草や竹を曲げて喜ぶくらいなら、猫背の色男や、足の不自由な夫を持って自慢すればいい。
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あんなに草や竹を曲げて嬉しがるなら、背虫の色男や、跛の亭主を持って自慢するがよかろう。
舞台とは反対の方で、しきりに花火を打ち上げている。
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舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。
花火の中から風船が出た。
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花火の中から風船が出た。
帝国万歳(ていこくばんざい)と書いてある。
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帝国万歳とかいてある。
天守(てんしゅ・お城の一番高い建物)の松の上をふわふわ飛んで、兵営(へいえい・軍隊の建物)の中へ落ちた。
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天主の松の上をふわふわ飛んで営所のなかへ落ちた。
次はぽんと音がして、黒い団子のようなものが、すっと秋の空を射抜くように上がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い煙が傘の骨のように広がって、だらだらと空中に流れていった。
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次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を射抜くように揚がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い烟が傘の骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。
風船がまた上がった。
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風船がまた上がった。
今度は「陸海軍万歳」と赤地に白く染め抜いたのが風に揺られて、温泉町から相生村(あいおいむら)の方へ飛んでいった。
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今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、温泉の町から、相生村の方へ飛んでいった。
大方(おおかた)観音様の境内(けいだい・お寺の敷地)へでも落ちただろう。
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大方観音様の境内へでも落ちたろう。
式のときはさほどでもなかったが、今度はすごい人出だ。
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式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。
田舎にもこんなに人間が住んでいるのかと驚くくらい、うじゃうじゃしている。
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田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚ろいたぐらいうじゃうじゃしている。
利口そうな顔はあまり見当たらないが、数から言うと、たしかに馬鹿にはできない。
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利口な顔はあまり見当らないが、数から云うとたしかに馬鹿に出来ない。
そのうち、評判の高知の何とかいう踊りが始まった。
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そのうち評判の高知の何とか踴が始まった。
踊りというから藤間流(ふじまりゅう・日本舞踊の流派)か何かがやる踊りかと早合点していたが、これは大間違いだった。
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踴というから藤間か何ぞのやる踴りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
いかめしい後鉢巻(うしろはちまき・鉢巻を後ろで結ぶこと)をして、立っ付け袴(たっつけばかま・すそのすぼんだ袴)をはいた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に並んで、その三十人が全員抜き身(ぬきみ・さやから抜いた刀)を持っているのには魂消た(たまげた・びっくりした)。
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いかめしい後鉢巻をして、立っ付け袴を穿いた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に並んで、その三十人がことごとく抜き身を携げているには魂消た。
前列と後列の間は、わずか一尺五寸(約四十五センチ)ぐらいだろう。左右の間隔(かんかく)もそれより短くても長くはない。
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前列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の間隔はそれより短いとも長くはない。
たった一人だけ列を離れて、舞台の端に立っているのがあるだけだ。
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たった一人列を離れて舞台の端に立ってるのがあるばかりだ。
この仲間外れの男は、袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、刀の代わりに胸に太鼓をかけている。
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この仲間外れの男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜身の代りに、胸へ太鼓を懸けている。
太鼓は太神楽(だいかぐら・獅子舞などをする神楽の一種)の太鼓と同じものだ。
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太鼓は太神楽の太鼓と同じ物だ。
この男がやがて「いやあ、はああ」とのんきな声を出して、妙な歌をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。
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この男がやがて、いやあ、はああと呑気な声を出して、妙な謡をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。
歌の調子は聞いたこともないような、不思議なものだ。
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歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。
三河万歳(みかわまんざい・正月に家々を回る芸能)と普陀洛(ふだらく・お経のような節回しの歌)が合併したものだと思えば、大した間違いにはならない。
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三河万歳と普陀洛やの合併したものと思えば大した間違いにはならない。
歌はとてものんびりしたもので、夏場の水飴(みずあめ)のようにだらしがないが、区切りをつけるためにぼこぼんを入れるから、続けざまのようでも拍子は取れている。
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歌はすこぶる悠長なもので、夏分の水飴のように、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも拍子は取れる。
この拍子に合わせて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これがまたとても素早い(じんそく・すばやい)手際で、見ているだけでもひやひやする。
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この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速なお手際で、拝見していても冷々する。
隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間がいて、その人間がまた、切れる刀を自分と同じように振り回すのだから、よほど調子が揃わなければ、味方同士で斬り合う(どうしうち)ことになって怪我をする。
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隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振り舞わすのだから、よほど調子が揃わなければ、同志撃を始めて怪我をする事になる。
それも動かないで刀だけを前後とか上下とかに振るのなら、まだ危なくもないが、三十人が一度に足踏みをして横を向く時がある。
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それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険もないが、三十人が一度に足踏みをして横を向く時がある。
ぐるりと回ることがある。
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ぐるりと廻る事がある。
膝を曲げることがある。
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膝を曲げる事がある。
隣りの者が一秒でも早すぎるか遅すぎれば、自分の鼻が落ちるかもしれない。
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隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遅過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。
隣りの頭がそがれるかもしれない。
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隣りの頭はそがれるかも知れない。
刀の動きは自由自在だが、その動く範囲(はんい)は一尺五寸四方の柱の中に限られた上に、前後左右の者と同じ方向に同じ速さでひらめかなくてはならない。
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抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。
こいつは驚いた。とてもじゃないが汐汲みや関の戸(せきのと・歌舞伎や踊りの演目名)の及ぶところじゃない。
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こいつは驚いた、なかなかもって汐酌や関の戸の及ぶところでない。
聞いてみると、これはとても熟練のいるもので、簡単なことでは、こんなふうに調子は合わないそうだ。
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聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。
特にむずかしいのは、あの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。
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ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。
三十人の足の運びも、手の動きも、腰の曲げ方も、すべてこのぼこぼん君の拍子ひとつで決まるのだそうだ。
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三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。
そばで見ていると、この大将が一番のんきそうに「いやあ、はああ」と気楽にうたっているが、実はとても責任が重くて、非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
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傍で見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
おれと山嵐が感心のあまり、この踊りに夢中になって見物していると、半町ばかり向こうの方で急に「わっ」という鬨の声がして、今まで穏やか(おだやか)にあちこち見て回っていた連中が、急に波打つように、右へ左へと揺れ始めた。
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おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、今まで穏やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに揺き始める。
「喧嘩だ、喧嘩だ」という声がすると思ったら、人の袖をくぐり抜けて来た赤シャツの弟が、「先生、また喧嘩です。中学の方で、今朝の意趣返し(いしゅがえし・仕返し)をするというので、また師範の連中と決戦を始めたところです。早く来てください」と言いながら、また人の波の中へもぐり込んでどこかへ行ってしまった。
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喧嘩だ喧嘩だと云う声がすると思うと、人の袖を潜り抜けて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへ潜り込んでどっかへ行ってしまった。
山嵐は「世話の焼ける小僧だ、また始めたのか。いい加減にすればいいのに」と言いながら、逃げる人をよけて一目散に駆け出した。
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山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を避けながら一散に馳け出した。
見ているわけにもいかないから、仲を取り鎮めるつもりなんだろう。
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見ている訳にも行かないから取り鎮めるつもりだろう。
おれはもちろん逃げる気なんかない。
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おれは無論の事逃げる気はない。
山嵐のかかとを踏むくらいの勢いで、すぐあとから現場へ駆けつけた。
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山嵐の踵を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。
喧嘩は今が真最中(まっさいちゅう)だ。
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喧嘩は今が真最中である。
師範の方は五、六十人もいるだろうか。中学はたしかに三割ほど多い。
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師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。
師範は制服を着ているが、中学は式のあと大抵和服に着替えているから、敵味方はすぐ分かる。
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師範は制服をつけているが、中学は式後大抵は日本服に着換えているから、敵味方はすぐわかる。
しかし、入り乱れて組んづほぐれつ戦っているから、どこからどう手をつけて引き分けていいか分からない。
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しかし入り乱れて組んづ、解れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。
山嵐は「困ったな」という様子で、しばらくこの乱雑な有り様を眺めていたが、「こうなっちゃ仕方がない。
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山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。
巡査が来ると面倒だ。
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巡査がくると面倒だ。
飛び込んで分けよう」とおれの方を見て言うから、おれは返事もしないで、いきなり一番喧嘩の激しそうなところへ躍り込んだ。
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飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しそうな所へ躍り込んだ。
「よせよせ。
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止せ止せ。
そんな乱暴をすると学校の体面(たいめん・世間からの見え方)に関わる。
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そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。
よさないか」と、出るだけの声を出して、敵と味方の境目らしいところを突き抜けようとしたが、なかなかそう旨くはいかない。
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よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突き貫けようとしたが、なかなかそう旨くは行かない。
一、二間(約二、三メートル)入ったら、出ることも引くこともできなくなった。
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一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。
目の前に比較的大きな師範生が、十五、六の中学生と組み合っている。
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目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。
「止せ」と言ったら、「止さないか」と師範生の肩をつかんで、無理に引き分けようとしたとたん、誰だか知らないが、下からおれの足をすくった。
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止せと云ったら、止さないかと師範生の肩を持って、無理に引き分けようとする途端にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。
おれは不意を打たれて、つかんでいた肩を放し、横に倒れた。
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おれは不意を打たれて握った、肩を放して、横に倒れた。
堅い靴でおれの背中の上へ乗ってきた奴がいる。
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堅い靴でおれの背中の上へ乗った奴がある。
両手と膝を突いて下から跳ね起きたら、乗っていた奴は右の方へころがり落ちた。
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両手と膝を突いて下から、跳ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。
起き上がって見ると、三間(約五、六メートル)ばかり向こうに、山嵐の大きな体が生徒の間に挟まりながら、「よせよせ、喧嘩はよせよせ」ともみ返されているのが見えた。
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起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。
「おい、とても駄目だ」と言ってみたが、聞こえないのか返事もしない。
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おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨(ほおぼね)に当たったなと思ったら、後ろからも背中を棒でどやしつけた奴がいる。
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ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨へ中ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。
教師のくせに出しゃばって、「打て、打て」と言う声がする。
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教師の癖に出ている、打て打てと云う声がする。
教師は二人だ。
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教師は二人だ。
大きい奴と、小さい奴だ。
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大きい奴と、小さい奴だ。
「石を投げろ」
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石を抛げろ。
という声もする。
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と云う声もする。
おれは「何を生意気なことをぬかすか、田舎者のくせに」と、いきなりそばにいた師範生の頭を張りつけてやった。
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おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやった。
石がまたひゅうと来る。
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石がまたひゅうと来る。
今度はおれの五分刈り(ごぶがり・短く刈った髪)の頭をかすめて後ろの方へ飛んで行った。
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今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行った。
山嵐はどうなったか見えない。
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山嵐はどうなったか見えない。
こうなっちゃ仕方がない。
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こうなっちゃ仕方がない。
初めは喧嘩を止めに入ったんだが、どやされたり石を投げられたりして、恐れ入って引き下がるような腑抜け(ふぬけ・いくじなし)があるものか。
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始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。
おれを誰だと思ってるんだ。
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おれを誰だと思うんだ。
体(なり・体つき)は小さくても、喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだぞと、無茶苦茶に張り飛ばしたり張り飛ばされたりしていると、やがて「巡査だ、巡査だ、逃げろ、逃げろ」という声がした。
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身長は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。
今まで葛練り(くずねり・くず粉を煮て練ったどろりとしたもの)の中で泳いでいるように身動きもできなかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引き上げてしまった。
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今まで葛練りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。
田舎者でも退却(たいきゃく・引き上げること)は巧妙だ。
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田舎者でも退却は巧妙だ。
クロパトキン(日露戦争のときのロシア軍の将軍)より上手なくらいだ。
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クロパトキンより旨いくらいである。
山嵐はどうしたかと見ると、紋付き(もんつき・家紋の入った着物)の一重羽織(ひとえばおり・裏地のない羽織)をずたずたにして、向こうの方で鼻を拭いている。
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山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向うの方で鼻を拭いている。
鼻柱を殴られて、だいぶ血が出たんだそうだ。
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鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。
鼻がふくれ上がって真っ赤になって、ひどく見苦しい。
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鼻がふくれ上がって真赤になってすこぶる見苦しい。
おれは飛白(かすり・かすれた模様の織物)の袷(あわせ・裏地つきの着物)を着ていたから泥(どろ)だらけになったけれど、山嵐の羽織ほどの被害はない。
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おれは飛白の袷を着ていたから泥だらけになったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。
しかし頬っぺた(ほっぺた)がぴりぴりしてたまらない。
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しかし頬ぺたがぴりぴりしてたまらない。
山嵐が「だいぶ血が出てるぜ」と教えてくれた。
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山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
巡査は十五、六人来たのだが、生徒は反対の方から逃げてしまったので、捕まったのはおれと山嵐だけだ。
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巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕まったのは、おれと山嵐だけである。
おれたちは姓名(せいめい・名前)を名乗って、一部始終を話したら、とにかく警察まで来いと言うので、警察へ行って、署長の前で事の顛末(てんまつ・事の成り行き)を話して、下宿へ帰った。
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おれらは姓名を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末を述べて下宿へ帰った。
十一
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十一
あくる日、目が覚めてみると、身体中(からだじゅう)痛くてたまらない。
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あくる日眼が覚めてみると、身体中痛くてたまらない。
しばらくけんかをしていなかったから、こんなにこたえるんだろう。
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久しく喧嘩をしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。
これじゃあまり自慢もできないなと布団の中で考えていると、婆さんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。
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これじゃあんまり自慢もできないと床の中で考えていると、婆さんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。
実は新聞を見るのも退儀(たいぎ・面倒)なんだが、男がこれしきのことでへこたれて(閉口・へこ)どうする、と無理に腹ばい(はらばい)になって、寝ながら二ページを開けてみて驚いた。
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実は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきの事に閉口たれて仕様があるものかと無理に腹這いになって、寝ながら、二頁を開けてみると驚ろいた。
昨日のけんかがちゃんと載っている。
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昨日の喧嘩がちゃんと出ている。
けんかが載っていること自体は驚かないが、「中学校の教師、堀田某(ほったぼう・堀田という名前をぼかした言い方)と、近頃東京から赴任してきた生意気な某とが、素直な生徒をそそのかして(使嗾・しそう)この騒動を引き起こした(喚起・かんき)のみならず、二人は現場にいて生徒を指揮した上、むやみに師範学校の生徒に向かって暴力を振るった」と書いて、次にこんな意見が付け加えて(附記・ふき)ある。
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喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向って暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記してある。
「本県の中学は昔(昔時・せきじ)から素直でおとなしい気風で、全国からうらやましがられて(羨望・せんぼう)きたが、軽はずみな二人の若造(豎子・じゅし)のために、わが校(吾校・わがこう)の名誉を傷つけられ(毀損・きそん)、この不名誉を市じゅうに受けた以上、我々(吾人・ごじん)は奮然(ふんぜん・勢いよく)として立ち上がり、その責任を問わないわけにはいかない。」
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本県の中学は昔時より善良温順の気風をもって全国の羨望するところなりしが、軽薄なる二豎子のために吾校の特権を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起ってその責任を問わざるを得ず。
「我々は信じる。我々が手を下す前に、当局はしかるべき処分をこの無頼漢(ぶらいかん・ならず者)に加えて、彼らを二度と教育界に足を踏み入れられないようにすることを。」
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吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼等をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。
そうして一字ごとにみんな黒い点をつけて、お灸(きゅう・懲らしめ)を据えたつもりでいる。
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そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸を据えたつもりでいる。
おれは布団の中で「くそでも食らえ」と言いながら、むっくり飛び起きた。
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おれは床の中で、糞でも喰らえと云いながら、むっくり飛び起きた。
不思議なことに、今まで身体の関節(ふしぶし)がひどく痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
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不思議な事に今まで身体の関節が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
おれは新聞を丸めて庭へ放り投げたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架(こうか・便所)へ持って行って捨ててきた。
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おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架へ持って行って棄てて来た。
新聞なんてむやみに嘘をつくものだ。
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新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。
世の中で何が一番ほらを吹くかといえば、新聞ほどのほら吹き(法螺・ほら)はあるまい。
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世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。
おれが言うべきことを、みんな向こうが勝手に並べていやがる。
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おれの云ってしかるべき事をみんな向うで並べていやがる。
それに、近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。
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それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。
天下に「某」なんて名前の人間がいるか。
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天下に某と云う名前の人があるか。
考えてみろ。
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考えてみろ。
これでも、れっきとした姓(せい・苗字)もあり名もあるんだ。
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これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。
系図が見たけりゃ、多田満仲(ただのまんじゅう・源氏の先祖にあたる武将)以来の先祖を一人残らず拝ませてやらあ。――
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系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ。――
顔を洗ったら、頬っぺたが急に痛くなった。
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顔を洗ったら、頬ぺたが急に痛くなった。
婆さんに「鏡を貸せ」と言ったら、「けさの新聞をお見たかなもし」と聞く。
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婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。
「読んで便所へ捨ててきた」
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読んで後架へ棄てて来た。
「欲しけりゃ拾って来い」と言ったら、驚いて引き下がった。
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欲しけりゃ拾って来いと云ったら、驚いて引き下がった。
鏡で顔を見ると、昨日と同じように傷がついている。
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鏡で顔を見ると昨日と同じように傷がついている。
これでも大事な顔だ。顔に傷まで付けられた上、「生意気なる某」などと某呼ばわりをされればもうたくさんだ。
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これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
今日の新聞にへこたれて(辟易・へきえき)学校を休んだなどと言われては一生の恥だから、飯を食って真っ先に出頭した。
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今日の新聞に辟易して学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。
出てくる奴も出てくる奴も、おれの顔を見て笑っている。
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出てくる奴も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。
何がおかしいんだ。
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何がおかしいんだ。
貴様たちにこしらえてもらった顔じゃあるまいし。
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貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。
そのうち野だいこが出てきて、「いや昨日はお手柄で――名誉(めいよ)のご負傷でげすか」と、送別会の時に殴られた仕返しのつもりか、やけに冷やかしてきたから、「余計なことを言わずに絵筆でも舐めていろ」と言ってやった。
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そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄で、――名誉のご負傷でげすか、と送別会の時に撲った返報と心得たのか、いやに冷かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも舐めていろと云ってやった。
すると、「こりゃあ恐れ入りやした(おそれいりやした・すみませんでした、をからかい半分に言う言葉)」だと。
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するとこりゃ恐入りやした。
だが、「さぞお痛いことでございましょう」と言うから、痛かろうが痛くなかろうがおれの顔だ。
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しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。
貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向こう側の自分の席に着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の先生と何かひそひそ話をして笑っている。
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貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向う側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
それから山嵐が出てきた。
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それから山嵐が出頭した。
山嵐の鼻ときたら、紫色(むらさきいろ)に膨張(ぼうちょう・ふくれ上がること)して、つついたら中から膿(うみ)が出てきそうに見える。
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山嵐の鼻に至っては、紫色に膨張して、掘ったら中から膿が出そうに見える。
うぬぼれのせいか、おれの顔よりもよっぽどひどくやられているように見える。
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自惚のせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどく遣られている。
おれと山嵐は机を並べて、隣り同士の近い仲だ。おまけにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから、運が悪い。
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おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。
妙な顔が二つ、並んで固まっている。
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妙な顔が二つ塊まっている。
ほかの連中は退屈になるとすぐ、こっちばかり見る。
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ほかの奴は退屈にさえなるときっとこっちばかり見る。
口では「とんだことで」と言うが、心の中では「この馬鹿が」と思っているに違いない。
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飛んだ事でと口で云うが、心のうちではこの馬鹿がと思ってるに相違ない。
そうでなければ、あんなふうにささやき合ってはくすくす笑うわけがない。
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それでなければああいう風に私語合ってはくすくす笑う訳がない。
教室へ出ると、生徒は拍手で迎えた。
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教場へ出ると生徒は拍手をもって迎えた。
「先生、万歳」と言う者が二、三人あった。
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先生万歳と云うものが二三人あった。
威勢がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。
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景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。
おれと山嵐がこんなに注目の的(しょうてん・みんなの目が集まるところ)になっている中で、赤シャツだけはいつも通りそばへ来て、「どうもとんだ災難でした。
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おれと山嵐がこんなに注意の焼点となってるなかに、赤シャツばかりは平常の通り傍へ来て、どうも飛んだ災難でした。
僕は君たちに対して、お気の毒でなりません。
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僕は君等に対してお気の毒でなりません。
新聞の記事は校長とも相談して、訂正を申し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。
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新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。
僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんなことが起こったので、僕は実に申し訳がありません。
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僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんな事が起ったので、僕は実に申し訳がない。
それでこの件については、あくまで力を尽くすつもりだから、どうか悪くとらないでください」などと、半分謝るような言葉を並べている。
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それでこの件についてはあくまで尽力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。
校長は三時間目に校長室から出てきて、「困ったことを新聞が書き立てましたね。
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校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。
こじれなければいいですが」と、少し心配そうに見えた。
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むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。
おれには心配なんかない。向こうが免職(めんしょく・仕事をやめさせること)にするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。
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おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。
しかし、自分が悪くないのにこっちから身を引くのは、ほら吹きの新聞屋をますますつけあがらせることになる。だから新聞屋に訂正させて、おれが意地でも勤め続けるのが筋だと考えた。
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しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。
帰りがけに新聞屋に文句を言いに行こうと思ったが、学校から取り消しの手続きはしたと言うから、やめた。
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帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消の手続きはしたと云うから、やめた。
おれと山嵐は、校長と教頭に授業の合間を見計らって、うそのないところを一通り説明した。
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おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計って、嘘のないところを一応説明した。
校長と教頭は「そうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、わざとあんな記事を載せたんだろう」と結論づけた。
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校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだろうと論断した。
赤シャツはおれたちの行い(こうい)をかばいながら、控室(ひかえじょ)を一人ずつ回って歩いていた。
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赤シャツはおれ等の行為を弁解しながら控所を一人ごとに廻ってあるいていた。
特に、自分の弟が山嵐を誘い出したことを、まるで自分の過失であるかのように言い触らして(ふいちょう)いた。
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ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴していた。
みんなは「まったく新聞屋が悪い、けしからん、お二人は実に災難だ」と言った。
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みんなは全く新聞屋がわるい、怪しからん、両君は実に災難だと云った。
帰りがけに山嵐は、「君、赤シャツは臭いぜ。用心しないとやられるぜ」と注意した。
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帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。
「どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろう」と言うと、「君、まだ気がつかないか。昨日わざわざ僕らを誘い出して、けんかの中へ巻き込んだのは仕組んだことだぜ」と教えてくれた。
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どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲き込んだのは策だぜと教えてくれた。
なるほど、そこまでは気がつかなかった。
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なるほどそこまでは気がつかなかった。
山嵐は乱暴者のようだが、おれより頭のいい男だと感心した。
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山嵐は粗暴なようだが、おれより智慧のある男だと感心した。
「ああやってけんかをさせておいて、すぐあとから新聞屋に手を回して、あんな記事を書かせたんだ。実に悪党だ」
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「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物だ」
「新聞まで赤シャツの仲間か。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの言うことを、そう簡単に聞くかね」
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「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易く聴くかね」
「聞かないでどうする。新聞屋に友達がいりゃ、わけないさ」
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「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」
「友達がいるのかい」
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「友達が居るのかい」
「いなくてもわけないさ。うそをついて、事実はこれこれだと話せば、すぐ書くさ」
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「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの仕組んだことなら、僕らはこの事件で免職になるかもしれないね」
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「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「悪くすると、やられるかもしれない」
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「わるくすると、遣られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日辞表を出して、すぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に、頼まれたっているのはいやだ」
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「そんなら、おれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼んだって居るのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らないよ」
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「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
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「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな悪党のやることは、何でも証拠が挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、言い返す(はんばく)のはむずかしいね」
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「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁するのはむずかしいね」
「厄介だな。それじゃ濡衣(ぬれぎぬ・無実の罪)を着せられるんだね。面白くもない。天道是耶非(てんどうぜかひ・天は本当に正しいことをするのか、という疑いの言葉)ってやつだ」
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「厄介だな。それじゃ濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」
「まあ、もう二、三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉町で取っ捕まえるより仕方がないだろう」
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「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取って抑えるより仕方がないだろう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件として別にか」
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「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで、向こうの急所をつかむのさ」
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「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、あとは万事よろしく頼む。いざとなれば何でもするぞ」
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「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
おれと山嵐は、これで別れた。
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俺と山嵐はこれで分れた。
赤シャツが本当に山嵐の推察通りのことをやったのなら、実にひどい奴だ。
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赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。
とても知恵比べで勝てる相手じゃない。
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到底智慧比べで勝てる奴ではない。
どうしても腕力(わんりょく・力の強さ)でなくちゃ駄目だ。
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どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。
なるほど、世界に戦争が絶えないわけだ。
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なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。
個人同士でも、結局のところ腕力なんだ。
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個人でも、とどの詰りは腕力だ。
あくる日、新聞が来るのを待ちかねて開いてみると、正誤(せいご・間違いの訂正)どころか、取り消しも見えない。
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あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。
学校へ行って狸に催促すると、「あしたぐらい出すでしょう」と言う。
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学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと云う。
次の日になって、六号活字(ろくごうかつじ・とても小さな文字)で小さく取り消しが出た。
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明日になって六号活字で小さく取消が出た。
しかし新聞社の方で、間違いの訂正はもちろんしていない。
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しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。
また校長に文句を言うと、「あれより手続きのしようがない」という答えだ。
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また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。
校長なんて、狸のような顔をして、やたらとフロックコート(正式な礼服)を着こんでいるが、案外力のないものだ。
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校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。
嘘の記事(虚偽・きょぎ)を載せた田舎新聞ひとつ、謝らせることもできない。
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虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つ詫まらせる事が出来ない。
あんまり腹が立ったから、「それじゃ私が一人で行って、主筆(しゅひつ・新聞の責任者)に文句を言ってきます」と言ったら、「それはいかん。君が文句を言えば、また悪口を書かれるだけだ」。
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あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。
つまり、新聞に書かれたことは、嘘であろうと本当であろうと、どうすることもできないものなんだ。
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つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。
あきらめるよりほかに仕方がないと、坊さんの説教みたいな説諭(せつゆ・言い聞かせ)を加えた。
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あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。
新聞がそんなものなら、一日も早くつぶしてしまった方が、われわれのためだろう。
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新聞がそんな者なら、一日も早く打っ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。
新聞に書かれるのと、泥鼈(すっぽん)に食いつかれるのとが似たり寄ったりだとは、今日たった今、狸の説明によって初めて分かった。
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新聞にかかれるのと、泥鼈に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日ただ今狸の説明によって始めて承知仕った。
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然(ふんぜん・怒りに満ちて)とやって来て、「いよいよ時が来た。おれはあの計画を実行するつもりだ」と言うから、「そうか、それじゃおれもやろう」と、その場で仲間に加わった。
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それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。
ところが山嵐は、「君はやめておいた方がいいだろう」と首をかしげた。
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ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾けた。
なぜかと聞くと、「君は校長に呼ばれて、辞表を出せと言われたか」と尋ねるから、「いや、言われていない」。
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なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかと尋ねるから、いや云われない。
「君は?」
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君は?
と聞き返すと、今日校長室で「まことに気の毒だけれども、事情がやむを得ないから、処決(しょけつ・自分から身の振り方を決めること)してくれ」と言われたとのことだ。
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と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決してくれと云われたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。狸は大方(おおかた)腹鼓(はらつづみ・腹を太鼓のように叩くこと)を叩きすぎて、胃の位置が顛倒(てんどう・ひっくり返ること)したんだ。君とおれは、いっしょに祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踊りを見てさ、いっしょに喧嘩を止めに入ったんじゃないか。辞表を出せというなら、公平に両方へ出せと言えばいい。なんで田舎の学校はそう理屈が分からないんだろう。じれったいな」
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「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎の学校はそう理窟が分らないんだろう。焦慮いな」
「それが赤シャツの指金(さしがね・裏で操っていること)だよ。おれと赤シャツとは、今までのいきさつ(行懸り・ゆきがかり)から、とても両立しない人間だが、君の方は今のまま置いても害にならないと思ってるんだ」
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「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気な話だ」
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「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純すぎるから、置いておいたって、どうにでもごまかされると考えてるのさ」
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「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化されると考えてるのさ」
「それじゃなお悪いや。誰が両立してやるもんか」
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「なお悪いや。誰が両立してやるものか」
「それに、先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故で到着(とうちゃく)していないだろう。その上、君と僕を同時に追い出したら、生徒の授業時間に穴が空いて、授業に差し支えるからな」
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「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし支えるからな」
「それじゃ、おれを間のつなぎにしておく気なんだな。こん畜生、誰がその手に乗るもんか」
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「それじゃおれを間のくさびに一席伺わせる気なんだな。こん畜生、だれがその手に乗るものか」
次の日、おれは学校へ出て校長室へ入り、文句を言い始めた。
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翌日おれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
「どうして私に辞表を出せと言わないんですか」
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「何で私に辞表を出せと云わないんですか」
「へえ?」
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「へえ?」
と、狸はあっけにとられている。
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と狸はあっけに取られている。
「堀田には出せ、私には出さなくていいという理屈がありますか」
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「堀田には出せ、私には出さないで好いと云う法がありますか」
「それは学校の方の都合で……」
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「それは学校の方の都合で……」
「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくて済むなら、堀田だって出す必要はないでしょう」
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「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明しかねますが――堀田君は辞めてもらってもやむをえないのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
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「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
なるほど狸だ。要領を得ないことばかり並べて、それでいて落ち着き払っている。
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なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き払ってる。
おれは仕方がないから
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おれは仕様がないから
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人だけ辞職させて、私だけ安閑(あんかん・のんきに構えていること)として残っていられると思っていらっしゃるかもしれませんが、私にはそんな薄情なことはできません」
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「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それは困る。堀田も去り、あなたも去ったら、学校の数学の授業がまるでできなくなってしまうから……」
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「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから……」
「できなくなっても、私の知ったことじゃありません」
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「出来なくなっても私の知った事じゃありません」
「君、そうわがままを言うものじゃない。少しは学校の事情も察してくれなくちゃ困る。それに、来てから一か月経つか経たないのに辞職したというと、君の将来の履歴(りれき・これまでの経歴)に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
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「君そう我儘を云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「履歴なんか構うもんですか。履歴より義理が大切です」
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「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも――君の言うことは一々ごもっともだが、わたしの言う方も少しは察してください。君がぜひ辞職すると言うなら辞職されてもいいから、代わりが見つかるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一度考え直してみてください」
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「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
考え直すといっても、直しようのない、はっきりした理由なのだが、狸が青くなったり赤くなったりして、気の毒になったので、ひとまず考え直すということにして引き下がった。
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考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼くなったり、赤くなったりして、可愛想になったからひとまず考え直す事として引き下がった。
赤シャツには口もきかなかった。
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赤シャツには口もきかなかった。
どうせやっつけるなら、まとめてうんとやっつける方がいい。
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どうせ遣っつけるなら塊めて、うんと遣っつける方がいい。
山嵐に、狸と話し合った様子を話したら、「大方そんなことだろうと思った」と言う。
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山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。
辞表のことは、いざというときまでそのままにしておいても差し支えあるまいという話だったから、山嵐の言う通りにした。
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辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支えあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。
どうも山嵐の方がおれより利口らしいから、何でも山嵐の忠告に従うことにした。
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どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に別れの挨拶をして浜の港屋まで下ったが、人に知られないように引き返して、温泉町の枡屋の表二階へひそんで、障子へ穴をあけてのぞき出した。
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山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をして浜の港屋まで下ったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へ潜んで、障子へ穴をあけて覗き出した。
これを知っている者は、おればかりだろう。
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これを知ってるものはおればかりだろう。
赤シャツがこっそりやって来るなら、どうせ夜だ。
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赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。
しかも宵の口(よいのくち・日が暮れてすぐの時間)は生徒やほかの人の目があるから、少なくとも九時過ぎに決まっている。
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しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極ってる。
最初の二晩は、おれも十一時頃まで張番(はりばん・見張り)をしたが、赤シャツの影も見えない。
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最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。
三日目には九時から十時半までのぞいたが、やはり駄目だ。
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三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。
何の収穫もないまま夜中に下宿へ帰るほど、馬鹿げたことはない。
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駄目を踏んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。
四五日(しごんち・四、五日)すると、下宿の婆さんが少々心配を始めて、「奥さんがおありるのに(いらっしゃるのに)、夜遊びはおやめたがええぞなもし」と忠告した。
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四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。
そんな夜遊びとは、夜遊びの中身が違う。
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そんな夜遊びとは夜遊びが違う。
こっちのは、天に代わって誅戮(ちゅうりく・悪人を成敗すること)を加える夜遊びだ。
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こっちのは天に代って誅戮を加える夜遊びだ。
とはいうものの、一週間も通って少しも験(げん・効き目、成果)が見えないと、嫌になるものだ。
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とはいうものの一週間も通って、少しも験が見えないと、いやになるもんだ。
おれは性急(せっかち)な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代わり何によらず長続きしたためしがない。
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おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。
いくら天誅党でも、飽きることに変わりはない。
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いかに天誅党でも飽きる事に変りはない。
六日目には少々嫌になって、七日目にはもう休もうかと思った。
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六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。
そこへ行くと、山嵐は頑固なものだ。
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そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。
宵から十二時過ぎまでは目を障子へくっつけて、角屋の丸ぼんぼりのガス灯の下をにらみっぱなしである。
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宵から十二時過までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下を睨めっきりである。
おれが行くと、「今日は客が何人あって、泊まりが何人、女が何人」といろいろな数字を示すのには驚いた。
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おれが行くと今日は何人客があって、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。
「どうも来ないようじゃないか」と言うと、「うん、たしかに来るはずだが」と、時々腕組みをしてため息をつく。
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どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組をして溜息をつく。
気の毒に、もし赤シャツが一度もここへ来てくれなければ、山嵐は一生、天誅を加えることができないのである。
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可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加える事は出来ないのである。
八日目には七時ごろから下宿を出て、まずゆっくり温泉に入って、それから町で鶏卵(けいらん・たまご)を八つ買った。
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八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵を八つ買った。
これは下宿の婆さんの芋攻めに応じるための作戦だ。
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これは下宿の婆さんの芋責に応ずる策である。
その卵を四つずつ左右の袂(たもと)へ入れて、例の赤手拭いを肩にのせて、懐手(ふところで・両手をふところに入れること)をしながら、枡屋の階段を上って山嵐の座敷の障子をあけると、「おい、有望有望」と、韋駄天(いだてん・足の速い神様)のような顔が急に活気づいた。
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その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のような顔は急に活気を呈した。
昨夜までは少し塞ぎ込んでいる様子で、はたで見ているおれでさえ、陰気臭い(いんきくさい・暗く元気がない)と思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かないうちから「愉快愉快」と言った。
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昨夜までは少し塞ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快愉快と云った。
「今夜七時半ごろ、あの小鈴(こすず)という芸者が角屋へ入った」
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「今夜七時半頃あの小鈴と云う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
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「赤シャツといっしょか」
「いいや」
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「いいや」
「それじゃ駄目だ」
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「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人連れだが――どうも有望らしい」
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「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
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「どうして」
「どうしてって、ああいうずるい奴だから、芸者を先によこして、あとからこっそり忍んでくるかもしれない」
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「どうしてって、ああ云う狡い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「そうかもしれない。もう九時だろう」
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「そうかも知れない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」
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「今九時十二分ばかりだ」
と、帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら言ったが、「おい、洋燈(らんぷ)を消せ。障子に坊主頭が二つ映ってはおかしい。狐(きつね・ここではずる賢い赤シャツを指す)はすぐ疑うから」
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と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐はすぐ疑ぐるから」
おれは一貫張り(いっかんばり・紙を何枚も貼り重ねて作った丈夫な作り)の机の上にあった置きランプをふっと吹き消した。
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おれは一貫張の机の上にあった置き洋燈をふっと吹きけした。
星明かりで障子だけは少し明るい。
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星明りで障子だけは少々あかるい。
月はまだ出ていない。
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月はまだ出ていない。
おれと山嵐は一生懸命に障子へ顔をつけて、息を凝らして(こらして・じっと止めて)いる。
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おれと山嵐は一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らしている。
チーンと九時半の柱時計が鳴った。
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チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい、来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう嫌だぜ」
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「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭だぜ」
「おれは金の続く限りやるんだ」
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「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「金っていくらあるんだい」
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「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出してもいいように、毎晩勘定してるんだ」
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「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」
「それは手回しがいいな。宿屋の方で驚いてるだろう」
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「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気を抜けないから困る」
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「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代わり昼寝をするだろう」
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「その代り昼寝をするだろう」
「昼寝はするが、外出ができないんで窮屈でたまらない」
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「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈でたまらない」
「天誅(てんちゅう・天に代わって悪人を罰すること)も骨が折れるな。これじゃ天網恢々(てんもうかいかい・悪いことをした者は必ず天の網に捕らえられるということわざ)疎(そ・網の目が粗いこと)にして、取り逃がしちまったりなんかしたら、つまらないぜ」
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「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「なに、今夜はきっと来るよ。――おい、見ろ見ろ」
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「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」
と小声になったから、おれは思わずどきりとした。
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と小声になったから、おれは思わずどきりとした。
黒い帽子(ぼうし)をかぶった男が、角屋のガス灯を下から見上げたまま、暗い方へ通り過ぎた。
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黒い帽子を戴いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。
違っている。
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違っている。
おやおやと思った。
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おやおやと思った。
そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打った。
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そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打った。
今夜もとうとう駄目らしい。
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今夜もとうとう駄目らしい。
世間はだいぶ静かになった。
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世間は大分静かになった。
遊廓(ゆうかく・遊女屋が集まった町)で鳴らす太鼓が、手に取るように聞こえる。
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遊廓で鳴らす太鼓が手に取るように聞える。
月が温泉の山の後ろからのっと顔を出した。
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月が温泉の山の後からのっと顔を出した。
通りは明るい。
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往来はあかるい。
すると、下の方から人の声が聞こえ出した。
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すると、下の方から人声が聞えだした。
窓から首を出すわけにはいかないから、姿をはっきり見届けることはできないが、だんだん近づいて来る様子だ。
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窓から首を出す訳には行かないから、姿を突き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。
からんからんと駒下駄を引きずる音がする。
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からんからんと駒下駄を引き擦る音がする。
目を斜め(ななめ)にすると、やっと二人の影法師(かげぼうし・人影)が見えるくらいまで近づいた。
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眼を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるくらいに近づいた。
「もう大丈夫ですね。邪魔者は追っ払いましたから」
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「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」
正しく(まさしく)野だの声だ。
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正しく野だの声である。
「強がるばかりで策がないから、仕方がない」
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「強がるばかりで策がないから、仕様がない」
これは赤シャツだ。
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これは赤シャツだ。
「あの男もべらんめえ(江戸っ子の威勢のいい口調)に似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌(いさみはだ・威勢がよくて男気のある性格)の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」
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「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」
「増給がいやだの、辞表を出したいのって、あれはどうしても神経に異常があるに違いない」
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「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」
おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う存分打ちのめしてやろうと思ったが、やっとのことで辛抱した。
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おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様打ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防した。
二人はハハハハと笑いながら、ガス灯の下をくぐって、角屋の中へ入った。
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二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜って、角屋の中へはいった。
「おい」
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「おい」
「おい」
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「おい」
「来たぜ」
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「来たぜ」
「とうとう来た」
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「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
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「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれのことを勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった」
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「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった」
「邪魔者っていうのは、おれのことだぜ。失敬千万(しっけいせんばん・とても失礼)な」
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「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
おれと山嵐は、二人の帰り道を要撃(ようげき・待ち伏せして攻撃すること)しなければならない。
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おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。
しかし、二人がいつ出てくるか見当がつかない。
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しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。
山嵐は下へ行って、「今夜、ひょっとすると夜中に用事があって出かけるかもしれないから、出られるようにしておいてくれ」と頼んで来た。
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山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼んで来た。
今思うと、よく宿の者が承知したものだ。
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今思うと、よく宿のものが承知したものだ。
普通なら泥棒と間違えられるところだ。
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大抵なら泥棒と間違えられるところだ。
赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっと待っているのは、もっとつらい。
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赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。
寝るわけにもいかないし、ずっと障子の隙間(すき)からにらんでいるのもつらいし、どうにもこうにも心が落ち着かなくて、これほど難儀(なんぎ・つらく苦しいこと)な思いをしたことは今までにない。
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寝る訳には行かないし、始終障子の隙から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀な思いをした事はいまだにない。
いっそのこと角屋へ踏み込んで現場を取り押さえようと言い出したが、山嵐は一言で、おれの申し出を斥け(しりぞけ・断り)た。
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いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑えようと発議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥けた。
自分たちが今時分飛び込んだって、乱暴者だと言って途中で遮ら(さえぎら)れるだけだ。
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自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中で遮られる。
訳を話して面会を求めれば、いないと逃げるか、別の部屋へ案内される。
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訳を話して面会を求めれば居ないと逃げるか別室へ案内をする。
不意打ちで踏み込めたと仮定したところで、何十とある座敷のどこにいるか分かるものではない。退屈でも出て来るのを待つより他に手はないと言うから、ようやくのことで、とうとう朝の五時まで我慢した。
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不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢した。
角屋から出る二人の姿を見るなり、おれと山嵐はすぐあとをつけた。
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角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。
一番汽車はまだないから、二人とも城下まで歩かなければならない。
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一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。
温泉町をはずれると、一丁(ちょう・約百九メートル)ばかりの杉並木(すぎなみき)があって、左右は田んぼになる。
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温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田圃になる。
それを通り越すと、あちこちに藁葺き(わらぶき・わらでふいた屋根)の家があって、畑の中をまっすぐ城下まで通る土手へ出る。
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それを通りこすとここかしこに藁葺があって、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。
町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない杉並木で捕まえてやろうと、見え隠れについて来た。
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町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。
町を外れると、急に駆け足の姿勢で、疾風(はやて)のように後ろから追いついた。
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町を外れると急に馳け足の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。
何が来たかと驚いて振り向く奴に、「待て」と言って肩に手をかけた。
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何が来たかと驚ろいて振り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。
野だは狼狽(ろうばい・慌てふためくこと)気味で逃げ出そうという様子(けしき)だったから、おれが前へ回って行く手をふさいでしまった。
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野だは狼狽の気味で逃げ出そうという景色だったから、おれが前へ廻って行手を塞いでしまった。
「教頭の職にあるものが、何だって角屋へ行って泊まったんだ」
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「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」
と、山嵐はすぐに詰り(なじり)かけた。
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と山嵐はすぐ詰りかけた。
「教頭は角屋へ泊まって悪いという規則がありますか」
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「教頭は角屋へ泊って悪るいという規則がありますか」
と、赤シャツはあいかわらず丁寧な言葉を使っている。
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と赤シャツは依然として鄭寧な言葉を使ってる。
顔の色は少し青い。
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顔の色は少々蒼い。
「取り締まりの都合が悪いから、そば屋や団子屋へさえ入ってはいかんと言うくらい謹直(きんちょく・まじめでかたい)な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋に泊まり込んだんだ」
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「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」
野だは隙を見ては逃げ出そうとするから、おれはすぐ前に立ちふさがって「べらんめえの坊っちゃんとは何だ」
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野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」
と怒鳴りつけたら、「いえ、君のことを言ったんじゃないんです、全くないんです」
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と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」
と、ずうずうしく言い訳がましいことをぬかした。
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と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。
おれはこのとき気がついてみたら、両手で自分の袂(たもと)を握っている。
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おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握ってる。
追いかけるときに袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのだ。
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追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。
おれはいきなり袂へ手を入れて、卵を二つ取り出して、「やっ」と言いながら、野だの顔にたたきつけた。
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おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲きつけた。
卵がぐちゃりと割れて、鼻の先から黄身がだらだら流れ出した。
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玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。
野だはよほど仰天(ぎょうてん・びっくり仰天)したらしく、わっと言いながら尻もちをついて、「助けてくれ」と言った。
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野だはよっぽど仰天した者と見えて、わっと言いながら、尻持をついて、助けてくれと云った。
おれは食うために卵は買ったが、ぶつけるために袂へ入れておいたわけではない。
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おれは食うために玉子は買ったが、打つけるために袂へ入れてる訳ではない。
ただ、かんしゃくのあまりに、ついぶつけるつもりもなくぶつけてしまったのだ。
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ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。
しかし、野だが尻もちをついたのを見て初めて、おれは自分の成功に気がついたから、「こん畜生、こん畜生」と言いながら残る六つを無茶苦茶にたたきつけたら、野だは顔中黄色になった。
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しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔中黄色になった。
おれが卵をたたきつけている間、山嵐と赤シャツはまだ話し合いの最中だ。
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おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者を連れて僕が宿屋へ泊まったという証拠があるんですか」
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「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へ入ったのを見て言ってるんだ。ごまかせるものか」
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「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「ごまかす必要はない。僕は吉川君と二人で泊まったのである。芸者が宵に入ろうが入るまいが、僕の知ったことではない」
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「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」
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「だまれ」
と、山嵐は拳骨(げんこつ)を食わせた。
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と山嵐は拳骨を食わした。
赤シャツはよろよろしたが、「これは乱暴だ、狼藉(ろうぜき・荒々しい振る舞い)である。道理をわきまえずに力ずくで来るのは無法だ」
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赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」
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「無法でたくさんだ」
と、また、ぽかりと殴る。
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とまたぽかりと撲ぐる。
「貴様のような悪党は殴らなくちゃ、答えないんだ」
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「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」
と、ぽかぽか殴る。
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とぽかぽかなぐる。
おれも同時に野だをさんざんに殴りつけた。
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おれも同時に野だを散々に擲き据えた。
しまいには二人とも杉の根元にうずくまって、動けないのか目がちらちらするのか、逃げようともしない。
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しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか。たくさんでなけりゃ、まだ殴ってやる」
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「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」
と、ぽかんぽかんと二人(ふたり)で殴ったら、「もうたくさんだ」
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とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」
と言った。
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と云った。
野だに「貴様もたくさんか」
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野だに「貴様もたくさんか」
と聞いたら、「もちろんたくさんだ」
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と聞いたら「無論たくさんだ」
と答えた。
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と答えた。
「貴様たちは悪党だから、こうやって天罰(てんちゅう・天に代わっての罰)を加えるんだ。これに懲りて、これからは慎むがいい。いくら言葉巧み(たくみ)に言い訳をしたって、正義は許さんぞ」
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「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」
と山嵐が言ったら、二人とも(ふたりとも)だまっていた。
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と山嵐が云ったら両人共だまっていた。
ことによると、口をきくのが退儀(たいぎ・面倒でおっくう)なのかもしれない。
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ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋にいる。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」
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「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」
と山嵐が言うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じところで待ってるから、警察へ訴えたければ勝手に訴えろ」
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と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」
と言って、二人ですたすた歩き出した。
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と云って、二人してすたすたあるき出した。
おれが下宿へ帰ったのは七時少し前だった。
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おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。
部屋へ入るとすぐ荷造りを始めたら、婆さんが驚いて、「どうおしるのぞなもし(どうなさるのですか、という意味)」と聞いた。
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部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。
「お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだ」と答えて勘定をすませ、すぐ汽車に乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。
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お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。
おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分からないから、「私儀(わたくしぎ)都合有之(つごうこれあり)辞職の上東京へ帰り申候(もうしそろ)につき左様御承知被下度候(さようごしょうちくだされたくそろ)以上」(=一身上の都合により辞職し、東京へ帰ります。ご承知おきください、という意味の昔ふうの書き方)とかいて、校長あてにして郵便で出した。
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おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辞職の上東京へ帰り申候につき左様御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆(しゅっぱん・船が港を出ること)である。
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汽船は夜六時の出帆である。
山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで、目が覚めたら午後二時だった。
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山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。
下女に「巡査は来ないか」と聞いたら、「参りません」と答えた。
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下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
「赤シャツも野だいこも訴えなかったなあ」
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「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」
と、二人は大いに笑った。
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と二人は大きに笑った。
その夜、おれと山嵐はこの不浄(ふじょう・けがれた)な土地を離れた。
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その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。
船が岸を離れれば離れるほど、いい気持ちがした。
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船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。
神戸から東京までは直行で、新橋へ着いた時は、ようやく娑婆(しゃば・世間、自由な世界)へ出たような気がした。
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神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。
山嵐とはすぐ別れたきり、今日まで会う機会がない。
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山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
清のことを話すのを忘れていた。――
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清の事を話すのを忘れていた。――
おれが東京へ着いて下宿へも行かず、かばんを提げたまま、「清や、帰ったよ」と飛び込んだら、「あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来てくださった」と涙をぽたぽたと落とした。
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おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。
おれもあまり嬉しかったから、「もう田舎へは行かない。東京で清と家を持つんだ」と言った。
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おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後、ある人の周旋(しゅうせん・世話、仲立ち)で街鉄(がいてつ・東京市街鉄道、市内電車の会社)の技手(ぎしゅ・技術者)になった。
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その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
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月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は玄関付きの家でなくても、とても満足そうな様子だったが、気の毒なことに、今年の二月に肺炎(はいえん)にかかって死んでしまった。
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清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。
死ぬ前の日、おれを呼んで、「坊っちゃん、後生(ごしょう・お願いだから)ですから、清が死んだら坊っちゃんのお寺へ埋めてください。
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死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓の中で、坊っちゃんの来るのを楽しみに待っております」と言った。
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お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。
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だから清の墓は小日向の養源寺にある。
(明治三十九年四月)
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(明治三十九年四月)