AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
原文: 多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。
多摩川の二子の渡しを渡って少し行くと、溝口という宿場町がある。
原文: その中ほどに亀屋という旅人宿がある。
その真ん中あたりに、亀屋という旅館がある。
原文: ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。
ちょうど三月の初め頃のことだった。この日は空が一面に曇り、北風が強く吹いて、ただでさえ寂しいこの町がいっそう暗くて寒々しい雰囲気になっていた。
原文: 昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根の南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。
昨日降った雪がまだ残っていて、高さのそろわない藁葺き屋根の南側の軒先からは、雨だれが風に吹かれて舞いながら落ちていた。
原文: 草鞋の足痕にたまった泥水にすら寒そうな漣が立っている。
わらじの足跡にたまった泥水にさえ、寒そうな小さな波が立っていた。
原文: 日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めてしまった。
日が暮れると間もなく、ほとんどの店は戸を閉めてしまった。
原文: 闇い一筋町がひっそりとしてしまった。
一本道の暗い町が、しんと静まり返った。
原文: 旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火が明く射していたが、今宵は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸の太そうな煙管で火鉢の縁をたたく音がするばかりである。
旅館だけあって亀屋の障子には明かりが明るく映し出されていたが、今夜は客もあまりいないらしく中も静かで、ときおり大きなキセルで火鉢のふちをたたく音がするだけだった。
原文: 突然に障子をあけて一人の男がのっそり入ッて来た。
突然障子が開いて、一人の男がのっそりと入ってきた。
原文: 長火鉢に寄っかかッて胸算用に余念もなかった主人が驚いてこちらを向く暇もなく、広い土間を三歩ばかりに大股に歩いて、主人の鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆、草鞋の旅装で鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘を携え、左に小さな革包を持ってそれをわきに抱いていた。
長火鉢に寄りかかって算段のことに夢中になっていた主人が驚いて振り向く間もなく、広い土間を三歩ほどの大股で歩いて主人の鼻先に立ちはだかった男は、年齢は三十になるかならないくらいで、洋服に脚絆とわらじという旅姿で鳥打ち帽をかぶり、右手に折り畳み傘を持ち、左に小さな革のかばんを脇に抱えていた。
原文: 『一晩厄介になりたい。』
「一晩泊めてください。」
原文: 主人は客の風采を視ていてまだ何とも言わない、その時奥で手の鳴る音がした。
主人は客の身なりを見たままで何も言わない。そのとき奥から手を打つ音がした。
原文: 『六番でお手が鳴るよ。』
「六番のお客さんがお呼びだよ。」
原文: ほえるような声で主人は叫んだ。
怒鳴るような声で主人は叫んだ。
原文: 『どちらさまでございます。』
「どちら様でいらっしゃいますか。」
原文: 主人は火鉢に寄っかかったままで問うた。
主人は火鉢に寄りかかったままで尋ねた。
原文: 客は肩をそびやかしてちょっと顔をしがめたが、たちまち口の辺に微笑をもらして、
客は肩をいからせてちょっと顔をしかめたが、すぐに口元に微笑みを浮かべて、
原文: 『僕か、僕は東京。』
「僕か、僕は東京だよ。」
原文: 『それでどちらへお越しでございますナ。』
「それでどちらへお向かいですか。」
原文: 『八王子へ行くのだ。』
「八王子へ行くんだ。」
原文: と答えて客はそこに腰を掛け脚絆の緒を解きにかかった。
と答えて客はその場に腰を下ろし、脚絆の紐を解きはじめた。
原文: 『旦那、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』
「旦那、東京から八王子なら道が変ですね。」
原文: 主人は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした。
主人は不思議そうに客の様子をあらためて眺めて、何か言いたそうな口つきをした。
原文: 客はすぐ気が付いた。
客はすぐ気がついた。
原文: 『いや僕は東京だが、今日東京から来たのじゃアない、今日は晩くなって川崎を出発て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』
「いや、僕は東京だが、今日東京から来たんじゃない。今日は遅くなって川崎を出てきたからこんなに暗くなってしまったんだ。ちょっとお湯をくれ。」
原文: 『早くお湯を持って来ないか。ヘエ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだまだ寒うございます。』
「早くお湯を持ってきなさい。ええ、今日はずいぶんお寒かったでしょう。八王子の方はまだまだ寒いですよ。」
原文: という主人の言葉はあいそがあっても一体の風つきはきわめて無愛嬌である。
そう言う主人の言葉は愛想があるものの、全体の様子はひどく無愛想だった。
原文: 年は六十ばかり、肥満った体躯の上に綿の多い半纒を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目じりが下がっている。
年は六十ほどで、太った体に綿の厚い半纏を着ているので、肩のすぐ上に大きな頭が乗っているようで、幅の広いふくよかな顔の目じりが下がっていた。
原文: それでどこかに気むずかしいところが見えている。
それでいてどこか気難しそうなところが見えていた。
原文: しかし正直なお爺さんだなと客はすぐ思った。
でも正直なおやじさんだな、と客はすぐに思った。
原文: 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人は、
客が足を洗い終えてまだ拭き切らないうちに、主人は、
原文: 『七番へご案内申しな!』
「七番にご案内しなさい!」
原文: と怒鳴ッた。
と怒鳴った。
原文: それぎりで客へは何の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。
それきり客への挨拶は何もなく、後ろ姿を見送りもしなかった。
原文: 真っ黒な猫が厨房の方から来て、そッと主人の高い膝の上にはい上がって丸くなった。
真っ黒な猫が台所の方からやってきて、そっと主人の高い膝の上に乗り上がって丸くなった。
原文: 主人はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。
主人はそれに気づいているのかいないのか、じっと目をつぶっている。
原文: しばらくすると、右の手が煙草箱の方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
しばらくすると、右手がたばこ入れの方へ動いて、太い指がたばこを丸め始めた。
原文: 『六番さんのお浴湯がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
「六番のお客さんのお風呂が済んだら七番のお客さんをご案内しなさい!」
原文: 膝の猫がびっくりして飛び下りた。
膝の上の猫がびっくりして飛び降りた。
原文: 『ばか! 貴様に言ったのじゃないわ。』
「ばか! お前に言ったんじゃないよ。」
原文: 猫はあわてて厨房の方へ駆けていってしまった。
猫は慌てて台所の方へ駆けていってしまった。
原文: 柱時計がゆるやかに八時を打った。
柱時計がゆっくりと八時を打った。
原文: 『お婆さん、吉蔵が眠そうにしているじゃあないか、早く被中炉を入れてやってお寝かしな、かわいそうに。』
「おばあさん、吉蔵が眠そうにしているじゃないか。早くあんかを入れてやって寝かせてやりなさい、かわいそうに。」
原文: 主人の声の方が眠そうである、厨房の方で、
主人の声の方が眠そうだった。台所の方から、
原文: 『吉蔵はここで本を復習ていますじゃないかね。』
「吉蔵はここで本を復習していますよ。」
原文: お婆さんの声らしかった。
おばあさんの声らしかった。
原文: 『そうかな。吉蔵もうお寝よ、朝早く起きてお復習いな。お婆さん早く被中炉を入れておやんな。』
「そうかね。吉蔵、もう寝なさい。朝早く起きて復習しなさい。おばあさん、早くあんかを入れてやってください。」
原文: 『今すぐ入れてやりますよ。』
「今すぐ入れてやりますよ。」
原文: 勝手の方で下婢とお婆さんと顔を見合わしてくすくすと笑った。
台所の方で女中とおばあさんが顔を見合わせてくすくす笑った。
原文: 店の方で大きなあくびの声がした。
店の方で大きなあくびの声がした。
原文: 『自分が眠いのだよ。』
「自分が眠いんだよ。」
原文: 五十を五つ六つ越えたらしい小さな老母が煤ぶった被中炉に火を入れながらつぶやいた。
五十五か六十くらいに見える小柄な老母が、くすぶったあんかに火を入れながらつぶやいた。
原文: 店の障子が風に吹かれてがたがたすると思うとパラパラと雨を吹きつける音が微かにした。
店の障子が風に揺れてガタガタすると思ったら、パラパラと雨が吹きつける音がかすかにした。
原文: 『もう店の戸を引き寄せて置きな、』
「もう店の戸を引き寄せておきなさい。」
原文: と主人は怒鳴って、舌打ちをして、
と主人は怒鳴って、舌打ちをして、
原文: 『また降って来やあがった。』
「またぞろ降ってきやがった。」
原文: と独言のようにつぶやいた。
と独り言のようにつぶやいた。
原文: なるほど風が大分強くなって雨さえ降りだしたようである。
なるほど風がだいぶ強くなって、雨まで降り出したようだった。
原文: 春先とはいえ、寒い寒い霙まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜、真っ闇な溝口の町の上をほえ狂った。
春先とはいえ、冷たいみぞれ混じりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて、夜通し、真っ暗な溝口の町の上で吹き荒れた。
原文: 七番の座敷では十二時過ぎてもまだランプが耿々と輝いている。
七番の部屋では十二時を過ぎてもまだランプが煌々と輝いていた。
原文: 亀屋で起きている者といえばこの座敷の真ん中で、差し向かいで話している二人の客ばかりである。
亀屋で起きているのは、この部屋の真ん中で向かい合って話している二人の客だけだった。
原文: 戸外は風雨の声いかにもすさまじく、雨戸が絶えず鳴っていた。
外は風雨の音がひどく激しく、雨戸がずっと鳴り続けていた。
原文: 『この模様では明日のお立ちは無理ですぜ。』
「この様子では明日の出発は無理ですよ。」
原文: と一人が相手の顔を見て言った。
と一人が相手の顔を見て言った。
原文: これは六番の客である。
これは六番の客だった。
原文: 『何、別に用事はないのだから明日一日くらいここで暮らしてもいいんです。』
「何、別に用事はないから、明日一日くらいここで過ごしてもかまわないですよ。」
原文: 二人とも顔を赤くして鼻の先を光らしている。
二人とも顔を赤くして鼻の先を光らせていた。
原文: そばの膳の上には煖陶が三本乗っていて、杯には酒が残っている。
そばの膳の上には燗瓶が三本乗っていて、盃には酒が残っていた。
原文: 二人とも心地よさそうに体をくつろげて、あぐらをかいて、火鉢を中にして煙草を吹かしている、六番の客は袍巻の袖から白い腕を臂まで出して巻煙草の灰を落としては、喫っている。
二人とも気持ちよさそうに体をくつろがせ、あぐらをかいて、火鉢を間に置いてたばこを吸っていた。六番の客は掻巻の袖から白い腕を肘まで出して、巻きたばこの灰を落としながら吸っていた。
原文: 二人の話しぶりはきわめて卒直であるものの今宵初めてこの宿舎で出合って、何かの口緒から、二口三口襖越しの話があって、あまりのさびしさに六番の客から押しかけて来て、名刺の交換が済むや、酒を命じ、談話に実が入って来るや、いつしか丁寧な言葉とぞんざいな言葉とを半混ぜに使うようになったものに違いない。
二人の話しぶりはとても気さくだったが、今夜この宿で初めて出会って、何かの話のきっかけから、ふすま越しに二言三言言葉を交わし、あまりの寂しさに六番の客から押しかけてきて、名刺を交換するや酒を頼み、話が盛り上がるにつれていつの間にか丁寧な言葉と砕けた言葉を混ぜて使うようになっていたに違いない。
原文: 七番の客の名刺には大津弁二郎とある、別に何の肩書きもない。
七番の客の名刺には大津弁二郎とあって、特に肩書きは何もなかった。
原文: 六番の客の名刺には秋山松之助とあって、これも肩書きがない。
六番の客の名刺には秋山松之助とあって、こちらも肩書きはなかった。
原文: 大津とはすなわち日が暮れて着いた洋服の男である。
大津とは、日が暮れて入ってきた洋服の男のことだ。
原文: やせ形な、すらりとして色の白いところは相手の秋山とはまるで違っている。
やせた体つきで、すらりとして色白なところは相手の秋山とはまるで違っていた。
原文: 秋山は二十五か六という年輩で、丸く肥えて赤ら顔で、目元に愛嬌があって、いつもにこにこしているらしい。
秋山は二十五か六といった年頃で、丸くて肉付きがよく、赤ら顔で、目元に愛嬌があり、いつもにこにこしているようだった。
原文: 大津は無名の文学者で、秋山は無名の画家で不思議にも同種類の青年がこの田舎の旅宿で落ち合ったのであった。
大津は無名の文学者で、秋山は無名の画家で、同じ種類の若者が偶然この田舎の旅館で出会ったのだった。
原文: 『もう寝ようかねエ。随分悪口も言いつくしたようだ。』
「もう寝ようかな。ずいぶん悪口も言い尽くしたようだ。」
原文: 美術論から文学論から宗教論まで二人はかなり勝手にしゃべって、現今の文学者や画家の大家を手ひどく批評して十一時が打ったのに気が付かなかったのである。
美術論から文学論、宗教論まで二人はかなり勝手にしゃべって、今の文学者や画家の大家を手厳しく批評しているうちに十一時が打ったのにも気がつかなかったのだった。
原文: 『まだいいさ。どうせ明日はだめでしょうから夜通し話したってかまわないさ。』
「まだいいよ。どうせ明日は無理でしょうから、夜通し話してもかまわないよ。」
原文: 画家の秋山はにこにこしながら言った。
画家の秋山はにこにこしながら言った。
原文: 『しかし何時でしょう。』
「でも今何時でしょう。」
原文: と大津は投げ出してあった時計を見て、
と大津は放り出してあった時計を見て、
原文: 『おやもう十一時過ぎだ。』
「あれ、もう十一時過ぎだ。」
原文: 『どうせ徹夜でさあ。』
「どうせ徹夜ですよ。」
原文: 秋山は一向平気である。
秋山は全然平気だった。
原文: 杯を見つめて、
盃を見つめて、
原文: 『しかし君が眠けりゃあ寝てもいい。』
「でも君が眠ければ寝てもいいよ。」
原文: 『眠くはちっともない、君が疲れているだろうと思ってさ。僕は今日晩く川崎を立って三里半ばかしの道を歩いただけだから何ともないけれど。』
「眠くはちっともない、君が疲れているだろうと思ってさ。僕は今日遅くなって川崎を出て、三里半ほどの道を歩いてきただけだから別に何ともないけど。」
原文: 『なに僕だって何ともないさ、君が寝るならこれを借りていって読んで見ようと思うだけです。』
「いや僕だって何ともないよ。君が寝るなら、これを借りていって読んでみようと思ってただけです。」
原文: 秋山は半紙十枚ばかりの原稿らしいものを取り上げた。
秋山は半紙十枚ほどの原稿らしいものを手に取った。
原文: その表紙には『忘れ得ぬ人々』
その表紙には「忘れ得ぬ人々」
原文: と書いてある。
と書いてあった。
原文: 『それはほんとにだめですよ。つまり君の方でいうと鉛筆で書いたスケッチと同じことで他人にはわからないのだから。』
「それは正直ダメですよ。つまり君の方でいうと鉛筆で書いたスケッチと同じで、他人にはわからないんだから。」
原文: といっても大津は秋山の手からその原稿を取ろうとはしなかった。
そう言いながらも大津は秋山の手からその原稿を取ろうとはしなかった。
原文: 秋山は一枚二枚開けて見てところどころ読んで見て、
秋山は一枚二枚とめくって見て、ところどころを読んでみてから、
原文: 『スケッチにはスケッチだけのおもしろ味があるから少し拝見したいねエ。』
「スケッチにはスケッチだけのおもしろさがあるから、少し見せてほしいな。」
原文: 『まアちょっと借して見たまえ。』
「ちょっと貸してみてくれ。」
原文: と大津は秋山の手から原稿を取って、ところどころあけて見ていたが、二人はしばらく無言であった。
と大津は秋山の手から原稿を取って、ところどころめくって見ていたが、二人はしばらく黙っていた。
原文: 戸外の風雨の声がこの時今さらのように二人の耳に入った。
外の風雨の音が、このとき改めて二人の耳に入ってきた。
原文: 大津は自分の書いた原稿を見つめたままじっと耳を傾けて夢心地になった。
大津は自分の書いた原稿を見つめたまま、じっと耳を傾けてぼんやりとした気持ちになった。
原文: 『こんな晩は君の領分だねエ。』
「こんな夜は君の領分だね。」
原文: 秋山の声は大津の耳に入らないらしい。
秋山の声は大津の耳に入らないようだった。
原文: 返事もしないでいる。
返事もしないでいる。
原文: 風雨の音を聞いているのか、原稿を見ているのか、はた遠く百里のかなたの人を憶っているのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の目元はわが領分だなと思った。
風雨の音を聞いているのか、原稿を見ているのか、それとも遠く百里かなたの人のことを思っているのか。秋山は心の中で、大津の今の顔、今の目元は自分の描く世界だなと思った。
原文: 『君がこれを読むよりか、僕がこの題で話した方がよさそうだ。どうです、君は聴きますか。この原稿はほんの大要を書き止めて置いたのだから読んだってわからないからねエ。』
「君がこれを読むよりか、僕がこの題で話した方がよさそうだ。どうです、聴きますか。この原稿はほんと大まかなことだけ書き留めておいたものだから、読んでもわからないんだよ。」
原文: 夢からさめたような目つきをして大津は目を秋山の方に転じた。
夢から覚めたような目つきをして、大津は目を秋山の方に向けた。
原文: 『詳しく話して聞かされるならなおのことさ。』
「詳しく話してもらえるならなおさらさ。」
原文: と秋山が大津の目を見ると、大津の目は少し涙にうるんでいて、異様な光を放っていた。
と秋山が大津の目を見ると、大津の目は少し涙で潤んでいて、不思議な光を放っていた。
原文: 『僕はなるべく詳しく話すよ、おもしろくないと思ったら、遠慮なく注意してくれたまえ。その代わり僕も遠慮なく話すよ。なんだか僕の方で聞いてもらいたいような心持ちになって来たから妙じゃあないか。』
「なるべく詳しく話すよ。つまらないと思ったら遠慮なく言ってくれ。その代わり僕も遠慮なく話すよ。何だか僕の方で聴いてもらいたい気持ちになってきたから、変だよね。」
原文: 秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶の中へ冷めた煖陶を突っ込んだ。
秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶の中に冷めた燗瓶を突っ込んだ。
原文: 『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず、見たまえ僕のこの原稿の劈頭第一に書いてあるのはこの句である。』
「忘れ得ぬ人とは、必ずしも忘れてはならない人のことではない。見てください、この原稿の一番最初に書いてあるのはこの言葉です。」
原文: 大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。
大津はちょっと秋山の前にその原稿を差し出した。
原文: 『ね。それで僕はまずこの句の説明をしようと思う。そうすればおのずからこの文の題意がわかるだろうから。しかし君には大概わかっていると思うけれど。』
「ね。まずこの言葉の説明をしようと思うんだ。そうすれば自然とこの文章の題の意味がわかるだろうから。でも君には大体わかっていると思うけどね。」
原文: 『そんなことを言わないで、ずんずんやりたまえよ。僕は世間の読者のつもりで聴いているから。失敬、横になって聴くよ。』
「そんなことを言わないで、どんどんやってくれよ。僕は世間の読者のつもりで聴いているから。失礼だが、横になって聴くよ。」
原文: 秋山は煙草をくわえて横になった。
秋山はたばこをくわえて横になった。
原文: 右の手で頭を支えて大津の顔を見ながら目元に微笑をたたえている。
右手で頭を支えて大津の顔を見ながら、目元に微笑みを浮かべていた。
原文: 『親とか子とかまたは朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。』
「親とか子とか、あるいは友人知人、その他自分がお世話になった先生や先輩のような人は、単に忘れ得ぬ人とだけは言えない。忘れてはならない人と言わなければならない。では、恩義もなければ義理もない、まったくの赤の他人で、本来は忘れてしまっても人情にも義理にも欠けないのに、それでもついに忘れることのできない人がいる。世間一般の人にそういう人がいるとは言わないけれど、少なくとも僕にはいる。おそらく君にもいるだろう。」
原文: 秋山は黙ってうなずいた。
秋山は黙ってうなずいた。
原文: 『僕が十九の歳の春の半ごろと記憶しているが、少し体躯の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退いて国へ帰る、その帰途のことであった。大阪から例の瀬戸内通いの汽船に乗って春海波平らかな内海を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶えていない。多分僕に茶を注いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。
「僕が十九歳の春の中ごろだったと記憶しているが、少し体の具合が悪いのでしばらく療養するつもりで東京の学校を休んで国へ帰ることにした。その帰り道のことだった。大阪から例の瀬戸内航路の汽船に乗って、春の穏やかな海を航っていたのだが、ほとんど十年も前のことだから、そのとき一緒に乗り合わせた客がどんな人だったか、船長がどんな男だったか、お茶を運ぶボーイの顔がどんなだったか、そんなことは何も覚えていない。おそらく僕にお茶を注いでくれた客もいただろうし、甲板の上でいろいろと話しかけてくれた人もいただろうが、何も記憶に残っていない。
原文: 『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出で将来の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融けほとんど漣も立たぬ中を船の船首が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞たなびく島々を迎えては送り、右舷左舷の景色をながめていた。菜の花と麦の青葉とで錦を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心なくその島をながめていた。山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜を作っているばかりで、見たところ畑もなく家らしいものも見えない。しんとしてさびしい磯の退潮の痕が日に輝って、小さな波が水際をもてあそんでいるらしく長い線が白刃のように光っては消えている。無人島でない事はその山よりも高い空で雲雀が啼いているのが微かに聞こえるのでわかる。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮の痕の日に輝っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供でもない。何かしきりに拾っては籠か桶かに入れているらしい。二三歩あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。その後今日が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶い起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。
「ただ、そのときは体の調子が良くなかったので、あまり浮かれることなく物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出て将来の夢を描いたり、この世での人の運命のことなどを考え続けていたことだけは覚えている。もちろん若い者にはありがちなことだが。そこで僕は、春の日の穏やかな光が油のような海面に溶け込んで、ほとんど波も立たない中を船の船首が気持ちのいい音を立てて水を切って進んでいくにつれて、霞たなびく島々を迎えては見送り、右舷左舷の景色を眺めていた。菜の花と麦の青葉とで錦を敷いたような島々が、まるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見て、その磯から十町と離れないところを通ったので、僕は欄干に寄りかかって何気なくその島を眺めていた。山の麓あちこちに背の低い松が小さな木立を作っているだけで、見たところ畑もなく家らしいものも見えない。しんと静まり返った磯の引き潮の跡が日に輝いて、小さな波が水際をもてあそんでいるように長い線が白刃のように光っては消えていた。無人島でないことは、山よりも高い空でひばりが鳴いているのがかすかに聞こえるのでわかった。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の父の句だが、山の向こうには人家があるに違いないと僕は思った。するとそのうち、引き潮の跡が日に輝いているところに一人の人がいるのが目についた。確かに男で、子どもでもない。何かしきりに拾ってはかごか桶かに入れているようだった。二、三歩歩いてはしゃがんで、また何かを拾っている。僕はこの寂しい島陰の小さな磯を漁っているこの人をじっと眺めていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった。そのうち磯も山も島全体が霞の彼方に消えてしまった。その後今日まで、ほとんど十年の間、僕は何度このさびしい島陰の顔も知らないこの人のことを思い出しただろう。この人が僕の「忘れ得ぬ人々」の一人だ。
原文: 『その次は今から五年ばかり以前、正月元旦を父母の膝下で祝ってすぐ九州旅行に出かけて、熊本から大分へと九州を横断した時のことであった。
「次は今から五年ほど前、正月元日を父母のもとで祝ってすぐ九州旅行に出かけて、熊本から大分へと九州を横断したときのことだった。
原文: 『僕は朝早く弟と共に草鞋脚絆で元気よく熊本を出発った。その日はまだ日が高いうちに立野という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山の白煙を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山もさまでは寒く感じない。高嶽の絶頂は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯れ草白く風にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残をかしこここに止めて断崖をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口もかなわない、これを描くのはまず君の領分だと思う。
「僕は朝早く弟と一緒に、わらじと脚絆姿で元気よく熊本を出発した。その日はまだ日が高いうちに立野という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日は夜明け前に立野を出て、前から行きたかった阿蘇山の白煙を目指して霜を踏み桟橋を渡り、道を間違えたりしながらも、ようやく昼ごろに頂上近くまで登って、噴火口に着いたのは一時過ぎだっただろうか。熊本地方は温暖な上、風のないよく晴れた日だったから、冬とはいえ六千尺の高山もそれほど寒くは感じなかった。高岳の頂上は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたが、それ以外は山全体ほとんど雪は見られず、ただ枯れ草が白く風にそよぎ、焼けた土が赤かったり黒かったりと旧噴火口の名残をあちこちにとどめて断崖をなし、その荒涼とした光景は筆でも言葉でも表せない。これを描くのはまず君の領分だと思う。
原文: 『僕らは一度噴火口の縁まで登って、しばらくはすさまじい穴をのぞき込んだり四方の大観をほしいままにしたりしていたが、さすがに頂は風が寒くってたまらないので、穴から少し下りると阿蘇神社があるそのそばに小さな小屋があって番茶くらいはのませてくれる、そこへ逃げ込んで団飯をかじって元気をつけて、また噴火口まで登った。
「僕たちは一度噴火口のふちまで登って、しばらくあのすさまじい穴をのぞき込んだり四方の大きな眺めを堪能したりしていたが、さすがに頂上は風が寒くてたまらないので、穴から少し下ると阿蘇神社があって、そのそばに小さな小屋があり番茶くらいは飲ませてくれる。そこへ逃げ込んで握り飯をかじって元気をつけて、また噴火口まで登った。
原文: 『その時は日がもうよほど傾いて肥後の平野を立てこめている霧靄が焦げて赤くなってちょうどそこに見える旧噴火口の断崖と同じような色に染まった。円錐形にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯れ草が一面に夕陽を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を掠め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨といわんか、僕らは黙ったまま一言も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。
「そのときは日がだいぶ傾いていて、肥後の平野を覆っている霧が赤みがかった色に染まって、ちょうど目の前に見える旧噴火口の断崖と同じような色になっていた。円錐形にそびえて高く周りの山々を抜く九重嶺の裾野、数里にわたる高原の枯れ草が一面に夕陽を帯びていて、空気が水のように澄んでいるので人や馬が歩くのも見えそうだった。天地はどこまでも広く、しかし足もとでは激しい音を立てて白煙がもうもうと立ちのぼり、まっすぐ空を衝いて急に折れると高岳をかすめて空の彼方へと消えていった。壮観というか、美しいというか、壮絶というか、僕たちは黙ったまま一言も出さずにしばらく石像のように立ちつくしていた。このとき天地の悠々とした広さを感じ、人間が存在することの不思議さがこみあげてくるのは、自然のことだろうと思う。
原文: 『ところでもっとも僕らの感を惹いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重嶺の高原が急に頽こんでいて数里にわたる絶壁がこの窪地の西を回っているのが眼下によく見える。男体山麓の噴火口は明媚幽邃の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地という宿駅もこの窪地にあるのである。
「ところで、最も僕たちの感動を引いたのは、九重嶺と阿蘇山の間の大きなくぼ地だった。これはかねて世界最大の噴火口の跡と聞いていたが、なるほど、九重嶺の高原が急に落ち込んでいて数里にわたる絶壁がこのくぼ地の西を囲んでいるのが眼下によく見えた。男体山の麓の噴火口は美しく奥ゆかしい中禅寺湖に変わっているが、この大きな噴火口はいつしか五穀実る数千ヘクタールの田園に変わって、村落いくつかの樹林や麦畑が今まさに夕陽に静かに輝いていた。僕たちがその夜、疲れた足を伸ばして眠りについた宮地という宿場もこのくぼ地の中にある。
原文: 『いっそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという説も二人の間に出たが、先が急がれるのでいよいよ山を下ることに決めて宮地を指して下りた。下りは登りよりかずっと勾配が緩やかで、山の尾や谷間の枯れ草の間を蛇のようにうねっている路をたどって急ぐと、村に近づくにつれて枯れ草を着けた馬をいくつか逐いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬いくつとなく麓をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯れ草を着けている。麓はじきそこに見えていても容易には村へ出ないので、日は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いでしまいには走って下りた。
「いっそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという案も二人の間で出たが、先を急ぐ必要があるのでいよいよ山を下ることに決め、宮地を目指して下りた。下りは登りよりずっと勾配が緩やかで、山の尾根や谷間の枯れ草の間を蛇のようにうねる道をたどって急ぐと、村に近づくにつれて枯れ草を積んだ馬を何頭か追い越した。あたりを見渡すと、あちこちの山の尾根の小道を穏やかな鈴の音が夕陽を帯びて、人と馬が何組となく麓を目指して帰ってゆくのが数えられた。馬はどれも枯れ草を積んでいた。麓はすぐそこに見えているのになかなか村に出られないので、日は暮れかかるし僕たちは大急ぎで急いで、しまいには走って下りた。
原文: 『村に出た時はもう日が暮れて夕闇ほのぐらいころであった。村の夕暮れのにぎわいは格別で、壮年男女は一日の仕事のしまいに忙しく子供は薄暗い垣根の陰や竈の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これはどこの田舎も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰に投じた時ほど、これらの光景に搏たれたことはない。二人は疲れた足をひきずって、日暮れて路遠きを感じながらも、懐かしいような心持ちで宮地を今宵の当てに歩いた。
「村に出たときはもう日が暮れて夕闇がほのかに漂うころだった。村の夕暮れのにぎわいは格別で、壮年の男女は一日の仕事の片付けに忙しく、子どもたちは薄暗い垣根の陰や竃の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしていた。これはどこの田舎でも同じことだろうが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然この人の住む世界に飛び込んだときほど、こうした光景に心を打たれたことはなかった。二人は疲れた足を引きずって、暮れても道は遠いと感じながらも、なつかしいような気持ちで宮地を今夜の目的地として歩いた。
原文: 『一村離れて林や畑の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放っている。二人は気がついてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染まって碧瑠璃の大空を衝いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸いとその欄に倚っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまのさまざまに変化するをながめたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して虚空に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。
「一つの村を離れて林や畑の間をしばらく歩くと、日はすっかり暮れて二人の影がはっきりと地面に映るようになった。振り向いて西の空を仰ぐと、阿蘇の支脈の一峰の右に新月が出ていて、このくぼ地一帯の村落を我が物顔に澄んで、青みがかった水のような光を放っていた。二人が気づいてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼっていた噴煙が月の光を受けて灰色に染まり、青く澄んだ大空を突いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。幅よりも長さが長い橋にさしかかったから、幸いにもその欄干に寄りかかって疲れ切った足を休めながら、二人は噴煙のさまざまに変化するさまを眺めたり、聞くともなしに村落の人の声が遠くに聞こえるのを耳にしたりしていた。するとそのとき、二人が来た道の方から、空荷の荷車らしい車の音が林に反響して虚空に響き渡り、しだいに近づいてくるのが手に取るようにわかり始めた。
原文: 『しばらくすると朗々な澄んだ声で流して歩く馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙をながめたままで耳を傾けて、この声の近づくのを待つともなしに待っていた。
「しばらくすると、朗々とした澄んだ声で流して歩く馬子唄が、車の音とともにしだいに近づいてきた。僕は噴煙を眺めたまま耳を傾けて、この声が近づいてくるのを待つともなしに待っていた。
原文: 『人影が見えたと思うと「宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡を長く引いてちょうど僕らが立っている橋の少し手前まで流して来たその俗謡の意と悲壮な声とがどんなに僕の情を動かしたろう。二十四、五かと思われる屈強な壮漢が手綱を牽いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっとみつめていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もはっきりとは知れなかったがそのたくましげな体躯の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。
「人影が見えたと思ったら、「宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと」という民謡を長く引いて、ちょうど僕たちが立っている橋の少し手前まで歌いながらやってきた。その歌の意味と悲壮な声がどれほど僕の心を揺さぶったことか。二十四、五かと思われる体格のいい若者が手綱を引いて僕たちの方を見向きもせずに通っていくのを、僕はじっと見つめていた。夕月の光を背にしていたから、その横顔もはっきりとはわからなかったが、たくましい体の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。
原文: 『僕は壮漢の後ろ影をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見あげた。「忘れ得ぬ人々」の一人はすなわちこの壮漢である。
「僕はその若者の後ろ姿をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見上げた。「忘れ得ぬ人々」の一人は、すなわちこの若者だ。
原文: 『その次は四国の三津が浜に一泊して汽船便を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗かに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑踏の光景をさらに殷々しくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声嬉々としてここに起これば、歓呼怒罵乱れてかしこにわくというありさまで、売るもの買うもの、老若男女、いずれも忙しそうにおもしろそうにうれしそうに、駆けたり追ったりしている。露店が並んで立ち食いの客を待っている。売っている品は言わずもがなで、食ってる人は大概船頭船方の類にきまっている。鯛や比良目や海鰻や章魚が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭いが人々の立ち騒ぐ袖や裾にあおられて鼻を打つ。
「次は四国の三津ヶ浜に一泊して汽船の便を待ったときのことだった。夏の初めと記憶しているが、僕は朝早く宿を出て、汽船が来るのは午後と聞いていたので、この港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけに、この港のにぎわいは格別で、特に朝は魚市が立つので魚市場の周りの混雑は大変なものだった。大空は雲一つなく晴れ渡り、朝日が麗らかに輝いて、光るものには反射を与え、色のあるものには光を添えて、にぎやかな光景をさらに華やかにしていた。叫ぶ者呼ぶ者、笑い声がここに起これば、歓呼や怒号が乱れてそちらにわくというありさまで、売る者買う者、老若男女、どれも忙しそうに楽しそうに嬉しそうに、駆けたり追ったりしていた。露店が並んで立ち食いの客を待っていた。売っているものは言うまでもなく、食べているのはだいたい船頭や船乗りの類と決まっていた。鯛やヒラメや穴子やタコが、そこらに放り出してあった。なまぐさい匂いが人々のざわめく袖や裾にあおられて鼻を打つ。
原文: 『僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段鮮やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己をわすれてこの雑踏の中をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街の一端に出た。
「僕はまったくの旅人でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知った顔もなければ見覚えのある人もいない。そこで何となくこうした光景が異様な感じを起こさせて、世の中のさまをいつもより鮮やかに眺めるような気持ちがした。僕はほとんど自分を忘れてこの混雑の中をぶらぶらと歩き、やや静かな通りの一角に出た。
原文: 『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い肥えた漢子であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽ぶような糸の音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでいた。巷の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。
「するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音だった。そこの店先に一人の琵琶法師が立っていた。年のころ四十五、六と思われる、幅の広い四角な顔の、背の低い太った男だった。その顔色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽び泣くような弦の音につれて歌う声は沈んで濁って淀んでいた。街の人は一人もこの僧を振り返らず、家々の者は誰もこの琵琶に耳を傾けるそぶりも見せなかった。朝日は輝き、浮世はせわしい。
原文: 『しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端のそろわない、しかもせわしそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧の音と雑ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた、「忘れえぬ人々」の一人はすなわちこの琵琶僧である。』
「でも僕はじっとこの琵琶法師を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒先のそろわない、しかもせわしない街の光景が、この琵琶法師とこの琵琶の音とに調和しないようで、それでもどこかに深いつながりがあるように感じられた。あの嗚咽するような琵琶の音が街の軒から軒へと漂い、威勢のいい売り声や、やかましい金槌の音と混ざって、まるで別の澄んだ清水が濁った波の間を潜り抜けて流れているようなのを聞いていると、嬉しそうな、浮き浮きした、楽しそうな、忙しそうな顔つきをしている街の人々の心の底の琴線が、自然の調べを奏でているように思われた。「忘れ得ぬ人々」の一人は、すなわちこの琵琶法師だ。」
原文: ここまで話して来て大津は静かにその原稿を下に置いてしばらく考え込んでいた。
ここまで話してきて大津は静かにその原稿を下に置き、しばらく考え込んでいた。
原文: 戸外の雨風の響きは少しも衰えない。
外の雨風の音は少しも衰えなかった。
原文: 秋山は起き直って、
秋山は起き直って、
原文: 『それから。』
「それから。」
原文: 『もうよそう、あまりふけるから。まだいくらもある。北海道歌志内の鉱夫、大連湾頭の青年漁夫、番匠川の瘤ある舟子など僕が一々この原稿にあるだけを詳しく話すなら夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人々を忘るることができないかという、それは憶い起こすからである。なぜ僕が憶い起こすだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。
「もうやめておこう、あまり夜が更けるから。まだいくらでもある。北海道の歌志内の坑夫、大連の港の若い漁師、番匠川のこぶのある船乗りなど、僕がこの原稿にあるものを一つ一つ詳しく話していたら夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人々を忘れることができないか。それは思い出すからだ。なぜ思い出すのか。それを君に話してみたいんだが。
原文: 『要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでいる不幸な男である。
「つまり僕は絶えず人生の問題に苦しみながら、また自分の将来の大きな夢に押しつぶされそうになって、自ら苦しんでいる不幸な男だ。
原文: 『そこで僕は今夜のような晩に独り夜ふけて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角がぼきり折れてしまって、なんだか人懐かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時油然として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれらの人々である。われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬をつたうことがある。その時は実に我もなければ他もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、
「そこで僕は今夜のような夜に一人で夜更けに灯りに向かっていると、この命の孤独を感じて、堪えられないほどの哀しさが込み上げてくる。そのとき僕の自我の角がぼきりと折れてしまって、何だか人恋しくなってくる。いろいろな昔のことや友人のことを思い出す。そのとき自然と僕の心に浮かんでくるのが、まさにこれらの人々だ。いや、これらの人々を見たときの周りの光景の中に立つこれらの人々だ。自分と他人とに何の違いがあろうか、みんなこの命を天のどこか地のどこかに受けて、悠々とした旅路をたどり、共に果てしない天へと帰っていく者ではないか、というような感が心の底から湧いてきて、我知らず涙が頬を伝うことがある。そのときは本当に自分も他人もなく、ただ誰も彼もがなつかしく、しのばれてくる。
原文: 『僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。
「僕はそのときほど心が穏やかになることはなく、そのときほど自由を感じることもなく、そのときほど名誉や競争といった俗念が消えて、すべての人に対する同情の気持ちが深くなるときはない。
原文: 『僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる。』
「僕はどうにかしてこの題で思う存分書いてみたいと思っている。きっと世の中には同じように感じる人がいると信じている。」
原文: その後二年経った。
それから二年が経った。
原文: 大津は故あって東北のある地方に住まっていた。
大津はわけあって東北のある地方に住んでいた。
原文: 溝口の旅宿で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。
溝口の旅館で初めて会った秋山との交流は完全に途絶えていた。
原文: ちょうど、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。
ちょうど、大津が溝口に泊まったころと同じ季節で、雨の降る夜のことだった。
原文: 大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。
大津は一人机に向かって物思いに沈んでいた。
原文: 机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』
机の上には二年前秋山に見せた原稿と同じ「忘れ得ぬ人々」
原文: が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』
が置いてあって、その最後に書き加えられていたのは「亀屋の主人」
原文: であった。
だった。
原文: 『秋山』
「秋山」
原文: ではなかった。
ではなかった。