千曲川のスケッチ 現代語訳
島崎藤村(しまざきとうそん)・1955年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
序
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序
敬愛する吉村さん――樹さん――私は今、序に代えて君に宛てた一文をこの本のはじめに書くにあたっても、やはり呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。
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敬愛する吉村さん――樹さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。
私が長年心掛けて君に差し上げたいと思っていた、あの山の上の生活の記念を、ようやく今まとめることが出来た。
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私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。
樹さん、君と私との縁も深く久しい。
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樹さん、君と私との縁故も深く久しい。
私は君が生まれる前から君の家に少年の身を寄せていて、君が生まれてからは幼い君を抱き、君を背中に乗せて歩きました。
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私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。
君が日本橋久松町の小学校へ通っていた頃、私は白金の明治学院へ通った。
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君が日本橋久松町の小学校へ通われる頃は、私は白金の明治学院へ通った。
君と私とはほとんど兄弟のようにして育って来た。
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君と私とは殆んど兄弟のようにして成長して来た。
私が木曾の姉の家で一夏を過ごした時には、君も連れて行った。
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私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。
その時がたしか君にとっての初めての旅だったと覚えている。
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その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。
私は信州の小諸で所帯を持つようになってから、二夏ほどあの山の上で妻と一緒に君を迎えた。
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私は信州の小諸で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。
その頃の君はもう中学を終えようとするほどの立派な青年だった。
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その時の君は早や中学を卒えようとするほどの立派な青年であった。
君は一夏はお父さんを連れて来られ、一夏は君ひとりで来られた。
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君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君独りで来られた。
この本の中にある小諸城址の附近、中棚温泉、浅間一帯の傾斜地なども、君の記憶に親しいものがあるだろうと思う。
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この書の中にある小諸城址の附近、中棚温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。
私は序の代わりとしてこれを君に宛てるだけでなく、この本の全部を君に宛てて書いた。
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私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。
山の上に住んでいた時の私から、まだ中学の制服を着ていた頃の君へ。
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山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。
これが私には一番自然なことで、またあの当時の生活の一番好い記念になるような気持ちがする。
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これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地がする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
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「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
これは私が都会の空気の中から抜け出して、あの山国へ行った時の心だった。
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これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。
私は信州の百姓の中へ行っていろいろなことを学んだ。
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私は信州の百姓の中へ行って種々なことを学んだ。
田舎教師としての私は、小諸義塾で町の商人や旧士族や、それから百姓の子弟を教えるのが勤めだったけれども、一方から言えば私は学校の用務員からも生徒の父兄からも学んだ。
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田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。
とうとう七年の長い月日をあの山の上で送った。
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到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。
私の心は詩から小説の形式を選ぶようになった。
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私の心は詩から小説の形式を択ぶように成った。
この本の主な土台となったものは、三、四年ばかり地方に黙って住んでいた時の印象である。
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この書の主なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
樹さん、君のお父さんももういない人だし、私の妻もいない。
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樹さん、君のお父さんも最早居ない人だし、私の妻も居ない。
私が山から下りて来てから今日までの月日は、君や私の生活の様子を変えた。
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私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。
しかし七年間の小諸生活は、私にとって一生忘れることの出来ないものだ。
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しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。
今でも私は千曲川の川上から川下までを生き生きと目の前に見ることが出来る。
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今でも私は千曲川の川上から川下までを生々と眼の前に見ることが出来る。
あの浅間の麓の、岩の多い傾斜地に身を置いているような気がする。
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あの浅間の麓の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。
あの土のにおいを嗅ぐような気がする。
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あの土のにおいを嗅ぐような気がする。
私が次々に世に出した「破戒」
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私がつぎつぎに公けにした「破戒」
、「緑葉集」
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、「緑葉集」
、それから「藤村集」
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、それから「藤村集」
と「家」
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と「家」
の一部、最近の短篇など、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は、私がどれほどあの山の上から深い感化を受けたかを知っていてくださるだろうと思う。
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の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。
このスケッチの中で、友人の神津猛君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは心残りである。
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このスケッチの中で知友神津猛君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。
私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この本はいくらかそんなつもりで書いた。
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私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著した。
寂しく地方に住む人達のためにも、この本がいくらかの慰めになればなどとも思う。
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寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。
大正元年 冬
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大正元年 冬
藤村
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藤村
その一
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その一
学生の家
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学生の家
地久節には、私は二、三人の同僚と一緒に、御牧ヶ原の方へ山遊びに出掛けた。
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地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧ヶ原の方へ山遊びに出掛けた。
松林の間などを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上ではずいぶん蕨を採った。
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松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分蕨を採った。
それから鴇窪という村へ引き返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を過ごした。
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それから鴇窪という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
私は今、小諸の城址に近いところの学校で、君と同じ年頃の学生を教えている。
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私は今、小諸の城址に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。
君は、こういう山の上への春がどれほど待ち遠しく、そしてどれほど短いものだと思う。
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君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。
四月の二十日頃にならなければ、花が咲かない。
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四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。
梅も桜も李もほとんど同時に開く。
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梅も桜も李も殆んど同時に開く。
城址の懐古園には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。
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城址の懐古園には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。
すると、毎年決まったように風雨がやって来て、一度にすべての花を浚って行ってしまう。
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すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時にすべての花を浚って行って了う。
私達の教室は八重桜の樹に囲まれていて、三週間ばかり前には、ちょうど花束のように密集したのが教室の窓の近くで咲き乱れた。
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私達の教室は八重桜の樹で囲繞されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。
休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。
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休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。
学生達はその下を遊び廻ってはしゃいだ。
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学生等はその下を遊び廻って戯れた。
特に小学校から上がって来たばかりの若い生徒ときたら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。
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殊に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。
どうだろう、それがもうすっかり初夏の景色に変ってしまった。
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どうだろう、それが最早すっかり初夏の光景に変って了った。
一週間前、私は昼の弁当を食べた後、四、五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。
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一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。
荒廃した、高い石垣の間は、新緑に埋もれていた。
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荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れていた。
私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりではない。
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私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。
平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野、その他小諸附近に散らばる村々から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。
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平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。
こういう学生は多く農家の青年だ。
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こういう学生は多く農家の青年だ。
学校の日課が済むと、彼等はめいめいの家路をさして、松林の間を通り、鉄道の線路に沿い、あるいは千曲川の岸に沿って、蛙の声などを聞きながら帰って行く。
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学校の日課が済むと、彼等は各自の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川の岸に随いて、蛙の声などを聞きながら帰って行く。
山浦、大久保は対岸にある村々だ。
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山浦、大久保は対岸にある村々だ。
牛蒡、人参などの好い野菜を出す土地だ。
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牛蒡、人参などの好い野菜を出す土地だ。
滋野は北佐久の領分ではなく、小県の傾斜地にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
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滋野は北佐久の領分でなく、小県の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
ここでは男も女も激しく働く。
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ここでは男女が烈しく労働する。
君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどというものを知らないだろう。
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君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。
外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に取り入れ休みというものがあるとか。
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外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫休みというものがあるとか。
何かの本でそんなことを読んだことがあった。
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何かの本でそんなことを読んだことがあった。
私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。
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私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。
忙しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければならない。
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多忙しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。
彼等はまた、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
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彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
Sという学生は小原村から通って来る。
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Sという学生は小原村から通って来る。
ある日、私はSの家を訪ねる約束をした。
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ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。
私は小原のような村が好きだ。
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私は小原のような村が好きだ。
そこには生き生きとした木蔭が多いから。
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そこには生々とした樹蔭が多いから。
それに、小諸からその村へ通う畠の間の平らな道も好きだ。
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それに、小諸からその村へ通う畠の間の平かな道も好きだ。
私は盛んな青麦の香を嗅ぎながら出掛けて行った。
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私は盛んな青麦の香を嗅ぎながら出掛けて行った。
右にも左にも麦畠がある。
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右にも左にも麦畠がある。
風が来ると、緑の波のように揺れ動く。
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風が来ると、緑の波のように動揺する。
その間には、麦の穂が白く光るのが見える。
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その間には、麦の穂の白く光るのが見える。
こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は押しつけられるような気持ちになる。
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こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧しつけられるような心持に成る。
恐ろしい繁殖の声。
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可怖しい繁殖の声。
知らない不思議な生き物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
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知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
近頃Sの家では牛乳屋を始めた。
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近頃Sの家では牛乳屋を始めた。
かなり大きな百姓で、父も兄も土地では人望がある。
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可成大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。
こういう田舎へ来ると、七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。
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こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。
十人、十五人の大きな家族さえある。
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十人、十五人の大きな家族さえある。
Sの家では年寄から子供まで、田舎風に丁重な家族の人達が私の心を惹いた。
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Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃な家族の人達が私の心を惹いた。
君は農家を訪れたことがあるか。
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君は農家を訪れたことがあるか。
入口の庭が広く取ってあって、台所のわきから直に裏口へ通り抜けられる。
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入口の庭が広く取ってあって、台所の側から直に裏口へ通り抜けられる。
家の建物の前に、幾坪かの土間があることも、農家の特色だ。
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家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。
この家の土間は葡萄棚などに続いていて、その横に牛小屋が作ってある。
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この家の土間は葡萄棚などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。
三頭ばかりの乳牛が飼われている。
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三頭ばかりの乳牛が飼われている。
Sの兄は大きなバケツを提げて、牛小屋の方から出て来た。
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Sの兄は大きなバケツを提げて、牛小屋の方から出て来た。
戸口のところでは、Sが母と二人で腰をかがめて、新鮮な牛乳を瓶詰めにする支度をした。
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戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲めて、新鮮な牛乳を罎詰にする仕度をした。
しばらく、私は立って眺めていた。
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暫時、私は立って眺めていた。
やがて私は牛小屋の前で、Sの兄からいろいろな話を聞いた。
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やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々な話を聞いた。
牛の性質によって、おとなしく乳を搾らせるのもあれば、それを惜しむのもある。
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牛の性質によって温順しく乳を搾らせるのもあれば、それを惜むのもある。
暴れるやつ、落ち着いたやつ、いろいろある。
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アバレるやつ、沈着いたやつ、いろいろある。
牛はまた、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を聞き分ける。
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牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。
こんな話が出た後で、私はこういう乳牛を休養させるために西の入の牧場などが設けてあることを聞いた。
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こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西の入の牧場なぞが設けてあることを聞いた。
晩の乳を配達する用意が出来た。
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晩の乳を配達する用意が出来た。
Sの兄は小諸をさして出掛けた。
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Sの兄は小諸を指して出掛けた。
鉄砲虫
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鉄砲虫
この山の上で、私はよく艶の無い茶色の髪の娘に出会う。
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この山の上で、私はよく光沢の無い茶色な髪の娘に逢う。
どうかすると、灰色に近いものもある。
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どうかすると、灰色に近いものもある。
草葺きの小屋の前や、桑畠の多い石垣のわきなどに、そういう娘が立っている姿は、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
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草葺の小屋の前や、桑畠の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
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「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
学校の用務員が私にこんなことを言った。
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学校の小使が私にこんなことを言った。
烏帽子山麓の牧場
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烏帽子山麓の牧場
水彩画家のB君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。
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水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。
以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君はたくさん信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。
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以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。
今ではB君がその後を受けて生徒に絵を教えている。
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今ではB君がその後をうけて生徒に画学を教えている。
B君は制作の合間に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
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B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上った。
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土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上った。
根津村には私達の学校を卒業したOという青年がいる。
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根津村には私達の学校を卒業したOという青年が居る。
Oは兵学校の試験を受けたいと言っているが、もう一人前の農夫として恥ずかしくないくらいだ。
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Oは兵学校の試験を受けたいと言っているが、最早一人前の農夫として恥しからぬ位だ。
私はその家へも寄って、Oの母や姉に会った。
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私はその家へも寄って、Oの母や姉に逢った。
Oの母は肥った大きな体格の婦人で、赤い艶々とした頬の色などが素朴な快さを与える。
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Oの母は肥満した、大きな体格の婦人で、赤い艶々とした頬の色なぞが素樸な快感を与える。
だいたい千曲川の沿岸では女がよく働く、したがって気性も強い。
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一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随って気象も強い。
おそらく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君などには想像もつかないことだろう。
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恐らく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君なぞの想像もつかないことだろう。
私はまた、この土地で、野蛮な感じのする女に出会うこともある。
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私は又、この土地で、野蛮な感じのする女に遭遇うこともある。
Oの母にはそんな荒々しさが無い。
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Oの母にはそんな荒々しさが無い。
何しろこの婦人は驚くほど強健な体格だ。
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何しろこの婦人は驚くべき強健な体格だ。
Oの姉も労働に慣れた女らしい手をしていた。
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Oの姉も労働に慣れた女らしい手を有っていた。
私はB君や、B君の隣の家の主人に誘われて、根津村を見て廻った。
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私はB君や、B君の隣家の主人に誘われて、根津村を見て廻った。
隣の家の主人はB君の小学校時代からの友達だという。
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隣家の主人はB君が小学校時代からの友達であるという。
パノラマのような眺めは、この大きな傾斜地から思うぞんぶんに望むことが出来た。
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パノラマのような風光は、この大傾斜から擅に望むことが出来た。
遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
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遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
私達は村はずれの田圃道を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。
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私達は村はずれの田圃道を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。
谷川には鬼芹などの毒草が茂っていた。
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谷川には鬼芹などの毒草が茂っていた。
小山の裾を選んで、三人とも草の上に足を投げ出した。
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小山の裾を選んで、三人とも草の上に足を投出した。
そこでB君の友達は提げて来た焼酎を取り出した。
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そこでB君の友達は提げて来た焼酎を取出した。
この草の上の酒盛りの前を、時々若い女の連れが通った。
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この草の上の酒盛の前を、時々若い女の連が通った。
草刈に行く人達だ。
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草刈に行く人達だ。
B君の友達は思い出したように、
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B君の友達は思出したように、
「君とここで鉄砲打ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
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「君とここで鉄砲打ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思い出したらしい調子で、
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と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思出したらしい調子で、
「もう五年前だ――」
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「もう五年前だ――」
と答えた。
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と答えた。
B君は写生帳を取り出して、灰色のドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写しながら話した。
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B君は写生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写し写し話した。
ちょっと散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
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一寸散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
翌日は、私はB君と二人だけで、烏帽子ヶ岳の麓をさして出掛けた。
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翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子ヶ岳の麓を指して出掛けた。
私が牧場のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言い出したので、とうとう私は一晩世話になった。
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私が牧場のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言出したので、到頭私は一晩厄介に成った。
もっとも、この村から牧場のあるところへは、さらに一里半ばかり上らなければならない。
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尤も、この村から牧場のあるところへは、更に一里半ばかり上らなければ成らない。
案内なしに、私などが行ける場所ではなかった。
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案内なしに、私などの行かれる場処では無かった。
夏山――山鶺鴒――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。
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夏山――山鶺鴒――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。
「のっぺい」
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「のっぺい」
と呼ばれる土は乾いていて灰のよう。
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と称する土は乾いていて灰のよう。
それを踏んで雑木林の間にある一筋の細道を分けて行くと、黄色がかった涼しい若葉のかげで、私達は旅の商人に出会った。
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それを踏んで雑木林の間にある一条の細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
さらに山深く進んだ。
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更に山深く進んだ。
山鳩などが啼いていた。
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山鳩なぞが啼いていた。
B君は歩きながら飛騨の旅の話を始めて、十一という鳥の声を聞いた時の寂しかったことを言い出した。
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B君は歩きながら飛騨の旅の話を始めて、十一という鳥を聞いた時の淋しかったことを言出した。
「十一……十一……十一……」
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「十一……十一……十一……」
とB君はだんだん声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼き声を真似て聞かせた。
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とB君は段々声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼声を真似て聞かせた。
そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
原文を見る
そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
君、白い鈴のように垂れ下がった可憐な草花が一面に咲いた、初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。
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君、白い鈴のように垂下った可憐な草花の一面に咲いた初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。
私達は、あの香りの高い谷の百合がこんなに生えている場所があろうとは思いもよらなかった。
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私達は、あの香気の高い谷の百合がこんなに生えている場所があろうとは思いもよらなかった。
B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまりたくさんあるので、しまいには採る気もなかった。
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B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山あるので終には採る気もなかった。
二人とも足を投げ出して草の中に寝転んだ。
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二人とも足を投出して草の中に寝転んだ。
まるで花の寝床だ。
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まるで花の臥床だ。
谷の百合は別名を君影草とも言って、「幸福の帰来」
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谷の百合は一名を君影草とも言って、「幸福の帰来」
を意味するなどと、花好きなB君が話した。
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を意味するなどと、花好きなB君が話した。
話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は退屈することを知らなかった。
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話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦むことを知らなかった。
岡の上には至るところに躑躅の花が咲いていた。
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岡の上には到るところに躑躅の花が咲いていた。
この花は牛が食わないので、それでこう茂っているのだという。
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この花は牛が食わない為に、それでこう繁茂しているという。
一周すれば二里あまりもあるという、広々とした高原の一部が私達の目の前にあった。
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一周すれば二里あまりもあるという広々とした高原の一部が私達の眼にあった。
牛の群が見える。
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牛の群が見える。
何と思ったか、私達の方を目掛けて突進して来る牛もある。
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何と思ったか、私達の方を眼掛けて突進してくる牛もある。
こうして放し飼いにしてある牛の群のそばを通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。
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こうして放し飼にしてある牛の群の側を通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。
私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
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私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
番小屋は谷を下りたところにあった。
原文を見る
番小屋は谷を下りたところにあった。
そこへ行く前に、沢の流れで水を飲んでいる小牛や、蕨を採っている子供などに出会った。
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そこへ行く前に沢の流れに飲んでいる小牛、蕨を採っている子供などに逢った。
牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋のまわりには柵が作ってある。
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牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋の周囲には柵が作ってある。
年をとった牧夫が住んでいた。
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年をとった牧夫が住んでいた。
わずかばかりの痩せた畑も、この老人が作っているらしかった。
原文を見る
僅かばかりの痩せた畑もこの老爺が作るらしかった。
破れた屋根の下で、牧夫は私達のために湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
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破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
壁には鋸、鉈、鎌の類を入れた「山猫」
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壁には鋸、鉈、鎌の類を入れた「山猫」
というものが掛けてあった。
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というものが掛けてあった。
こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔つきで、牧夫は私達に牛飼いの経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手当を貰っていることや、自分は他の牧場からこの西の入の沢へ移って来たものであることなどを話した。
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こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛を貰っていることや、自分は他の牧場からこの西の入の沢へ移って来たものであることなどを話した。
牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を壊して困るとか言った。
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牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を破壊して困るとか言った。
今は草も短く、少ないから、草を食べながら進むという話もあった。
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今は草も短く、少いから、草を食い食い進むという話もあった。
牧夫はちょっと考えて、見えなくなった牛のことを言い出した。
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牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。
あの山あいの深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
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あの山間の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
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「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
こうまた考え直したように、その牛のことを言った。
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こう復た考え直したように、その牛のことを言った。
間もなく私達は牧夫に連れられて、この番小屋を出た。
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間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。
牧夫は、多くの牛が待っているという顔つきで、手に塩を提げて行った。
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牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。
道々私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛のために好いです」
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途次私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」
とか「今は木が低いから、夏は暑気がこもっていけません」
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とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」
とか、いろいろな事を言って聞かせた。
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とか、種々な事を言って聞かせた。
ここへ来て見ると、人と牛との一生がほとんど混じり合っているかのようである。
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ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆んど混り合っているかのようである。
この老人は、牛が塩を嘗めて清水を飲みさえすれば、病も治るということまで知り尽くしていた。
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この老爺は、牛が塩を嘗めて清水を飲みさえすれば、病も癒えるということまで知悉していた。
月経期の牝牛の鳴き声まで聞き分ける耳を持っていた。
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月経期の牝牛の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
アケビの花が紫色に咲いている谷を越して、また私達は牛の群の見えるところへ出た。
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アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。
牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛がまず耳を振りながらやって来た。
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牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。
続いて、額の広い、目つきの愛らしい赤牛や、首の長い斑などがぞろぞろやって来て、「御馳走」
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つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走」
とでも言いたげに頭を振ったり尻尾を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。
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と言わないばかりに頭を振ったり尻尾を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。
牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりの時は家を懐かしがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集まり、弱い牛は弱い牛と組になるなどと話した。
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牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐しがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。
向うの傾斜の方には、寝たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
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向うの傾斜の方には、臥たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
この牧場では月々五十銭ずつで、あちこちの持ち主から牝牛を預かっている。
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この牧場では月々五十銭ずつで諸方の持主から牝牛を預っている。
そういう牝牛が今五十頭ばかりいる。
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そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。
種牛は一頭置いてある。
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種牛は一頭置いてある。
牧夫の勤めの主なものは、牛の繁殖を見守ることであった。
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牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。
礼を言って、私達はこの番人と別れた。
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礼を言って、私達はこの番人に別れた。
その二
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その二
青麦の熟する時
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青麦の熟する時
学校の用務員は面白い男で、私にいろいろな話をしてくれる。
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学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。
この男は用務員のかたわら、自分の家では小作を作っている。
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この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。
それは主に年老いた父と、弟とがやっている。
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それは主に年老いた父と、弟とがやっている。
まったくの小作人の家族だ。
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純小作人の家族だ。
学校の日課が終って、用務員が教室教室の掃除をする頃には、頬の赤い彼の妻が子供をおぶってやって来て、夫の手伝いをすることもある。
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学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬の紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。
学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入れをしてやる。
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学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。
校長の家では毎年、かなりの農家ほどに野菜を作った。
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校長の家では毎年可成な農家ほどに野菜を作った。
燕麦なども作った。
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燕麦なども作った。
休みの時間になると、私はこの用務員をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
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休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。
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私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。
その部屋はある教室の二階にあたって、一方は幹事室、一方は校長室と接して、二階の一隅を占めている。
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その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。
窓は四つある。
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窓は四つある。
その一方の窓からは、群れ立った松林、校長の家の草屋根などが見える。
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その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。
一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。
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一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。
遠い山々の一部分も望まれる。
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遠い山々の一部分も望まれる。
粗末ではあるが眺めの好い、その窓の一つに寄りかかりながら、私は用務員から六月の豆蒔きの苦労を聞いた。
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粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔の労苦を聞いた。
地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のようになっている、素足で豆蒔きは出来かねる、草鞋を履いてようやくそれをやるという。
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地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋を穿いて漸くそれをやるという。
用務員はまた、麦作の話をしてくれた。
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小使は又、麦作の話をしてくれた。
麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料が要るとか。
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麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料を要するとか。
それには大麦の殻と、刈草とを腐らせて、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。
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それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。
麦はやはり小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦などが百姓の取り分になるとのことであった。
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麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。
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南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。
これは用務員が私に話したことだ。
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これは小使の私に話したことだ。
そう言えば、なまぬるい、かすかな西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候になって来た。
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そう言えば、なまぬるい、微な西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候に成って来た。
少年の群
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少年の群
学校の帰り道に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に出会った。
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学校の帰路に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に逢った。
色の黒い、二本棒を垂らした、藁草履を履いた子供達で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。
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色の黒い、二本棒の下った、藁草履を穿いた子供等で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。
「野郎」
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「野郎」
、「この野郎」
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、「この野郎」
、と互いに顔を引っ掻きながら、相撲を取って遊んでいた。
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、と互に顔を引掻きながら、相撲を取って遊んでいた。
どこの子供も一種の役者だ。
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何処の子供も一種の俳優だ。
私という見物人がそこに立って眺めると、彼等はいっそう調子づいた。
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私という見物がそこに立って眺めると、彼等は一層調子づいた。
これ見よがしに危ない石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」
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これ見よがしに危い石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」
と下にいて呼ぶのもある。
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と下に居て呼ぶのもある。
その中で、体の小さな子供にいくつになるかと聞いてみた。
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その中で、体躯の小な子供に何歳に成るかと聞いてみた。
「おら、五歳」
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「おら、五歳」
とその子供が答えた。
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とその子供が答えた。
水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。
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水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。
そこで遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に駆け出すのもあった。
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そこに遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に馳出すのもあった。
「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
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「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
とさすがに兄らしいのが、年下の子供の手を助けるように引いた。
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とさすがに兄らしいのが、年下の子供の手を助けるように引いた。
「やい、米でも食え」
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「やい、米でも食え」
こんなことを言って、いきなりそこにある草を毟って、仲間の口の中へねじ込むのもあった。
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こんなことを言って、いきなり其処にある草を毟って、朋輩の口の中へ捻込むのもあった。
すると、片方も黙ってはいない。
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すると、片方も黙ってはいない。
覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」
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覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」
と叫んだ。
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と叫んだ。
「畜生!」
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「畜生!」
一方は軽蔑した調子で。
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一方は軽蔑した調子で。
「ナニ? この野郎」
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「ナニ? この野郎」
片方は石を拾って投げつける。
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片方は石を拾って投げつける。
「いやだいやだ」
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「いやだいやだ」
と笑いながら逃げて行く子供を、片方は棒を持って追いかけた。
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と笑いながら逃げて行く子供を、片方は棒を持って追馳けた。
乳呑児をおぶったまま、その後を追って行くのもあった。
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乳呑児を背負ったまま、その後を追って行くのもあった。
君、こういうありさまを私は学校の行き帰りに毎日のように目にする。
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君、こういう光景を私は学校の往還に毎日のように目撃する。
どうかすると、大人が子供を目掛けて、石を振り上げて、「野郎――殺してくれるぞ」
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どうかすると、大人が子供をめがけて、石を振上げて、「野郎――殺してくれるぞ」
などとふざけているのを見ることもある。
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などと戯れるのを見ることもある。
これが、君、大人と子供の間でごく無邪気に、笑いながら交わされる言葉である。
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これが、君、大人と子供の間に極く無邪気に、笑いながら交換される言葉である。
東京の下町の空気の中で育った君などに、このありさまを見せたら、何と言うだろう。
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東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景を見せたら、何と言うだろう。
野蛮に違いない。
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野蛮に相違ない。
しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の感覚に活気と刺戟とを与えるような性質のものだ。
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しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の官能に活気と刺戟とを与えるような性質のものだ。
麦畠
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麦畠
青い野良には蒸すような光が満ちている。
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青い野面には蒸すような光が満ちている。
あちこちの畠のわきにある樹木も生き生きとした新しい葉をつけている。
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彼方此方の畠側にある樹木も活々とした新葉を着けている。
雲雀、雀の鳴き声に混じって、鋭いヨシキリの声も聞える。
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雲雀、雀の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞える。
火山の麓にある大きな傾斜地を耕して作ったこの辺の田畠は、すべて石垣によって支えられている。
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火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠はすべて石垣によって支えられる。
その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。
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その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。
石垣と並んで多いのは、柿の樹だ。
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石垣と共に多いのは、柿の樹だ。
黄色がかった、透き通るような柿の若葉のかげを通るのも気持ちが好い。
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黄勝な、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
小諸はこの傾斜に沿って、北国街道の両側に細長く発達した町だ。
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小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。
本町、荒町は光岳寺を境にして左右に折れ曲がった、主な商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている。
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本町、荒町は光岳寺を境にして左右に曲折した、主なる商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている。
私は本町の裏手から、停車場とともに開けた相生町の道路を横切り、古い士族屋敷の残った袋町を通り抜けて、田圃わきの細道へ出た。
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私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町を通りぬけて、田圃側の細道へ出た。
そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が、町の全景の一部として望まれる。
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そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。
白壁、土壁は青葉に埋もれていた。
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白壁、土壁は青葉に埋れていた。
田圃わきの草の上には、土だらけの足を投げ出して、仰向けに寝ている、働き疲れたらしい男がいた。
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田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労れたらしい男があった。
青麦の穂は黄緑に熟しかけていて、大根の花が白く咲き乱れているのも見える。
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青麦の穂は黄緑に熟しかけていて、大根の花の白く咲き乱れたのも見える。
私は石垣や草土手の間を通って、石ころの多い細道を歩いて行った。
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私は石垣や草土手の間を通って石塊の多い細道を歩いて行った。
そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
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そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
若い鷹は私の頭の上を舞っていた。
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若い鷹は私の頭の上に舞っていた。
私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅ぎながら、そこに寝そべった。
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私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅ぎながら、そこに寝そべった。
水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦れ合って、ささやくような音をさせる。
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水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦れ合って、私語くような音をさせる。
その間には、畠に出て「サク」
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その間には、畠に出て「サク」
を切っている百姓の鍬の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水の響きも伝わって来る。
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を切っている百姓の鍬の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水の響も伝わって来る。
その響きの中に、私は流れる砂を想像してみた。
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その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。
しばらく私はその音を聞いていた。
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しばらく私はその音を聞いていた。
しかし、私は野鼠のように、ひとりでそう長く草の中にはいられない。
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しかし、私は野鼠のように、独りでそう長く草の中には居られない。
乳色に曇りながら光る空などは、私の心を疲れさせた。
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乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。
自然は、私にとっては、どうしても長く見つめていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたくなるようなものだ。
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自然は、私に取っては、どうしても長く熟視めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ。
それで、また私は起き上った。
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で、復た私は起き上った。
なまぬるい風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ覆いかぶさるようになった。
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微温い風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ掩い冠さるように成った。
また帽子をかぶって、歩き廻った。
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復た帽子を冠って、歩き廻った。
畠の間には遊んでいる子供もあった。
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畠の間には遊んでいる子供もあった。
手甲をはめ、浅葱の襷を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。
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手甲をはめ、浅黄の襷を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。
草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に目を覚まして泣き出すと、若い母は鍬を置いて、その子の方へ駆けて来た。
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草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。
そして、畠の中で、大きな乳房の垂れ下がった懐をさぐらせた。
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そして、畠中で、大きな乳房の垂下った懐をさぐらせた。
私は無心な絵を見るような心地がして、しばらくそこに立って、この母子の方を眺めていた。
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私は無心な絵を見る心地がして、しばらくそこに立って、この母子の方を眺めていた。
草土手の雑草を刈り取って、それを背負って行く老婆もあった。
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草土手の雑草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。
与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に出会った。
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与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に逢った。
K君は背の低い、快活な調子の人で、若い奥さんを迎えたばかりであったが、行く行くは新しい時代の小諸を形づくる若者の一人として、土地の人々に望みを託されている。
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K君は背の低い、快活な調子の人で、若い細君を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年の一人として、土地のものに望を嘱されている。
こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
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こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
胡麻塩頭で、目が窪んで、鼻が高い、節々の浮き出たような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶して通った。
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胡麻塩頭で、目が凹んで、鼻の隆い、節々のあらわれたような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶して通った。
腰には角の根付の付いた、大きな煙草入れをぶら下げていた。
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腰には角の根つけの付いた、大きな煙草入をぶらさげていた。
K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。
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K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。
隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振り返って、白い短い髭を見せた。
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隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振返って、白い短い髭を見せた。
肥桶を担いだ男も畠の向うを通った。
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肥桶を担いだ男も畠の向を通った。
K君はその男の方も私に指して見せて、あの桶の底にはきっと葱などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。
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K君はその男の方をも私に指して見せて、あの桶の底には必と葱などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。
それから、私は髪の赤白髪の、目の色も灰色を帯びた、酒好きらしい赤ら顔の農夫にも出会った。
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それから、私は髪の赤白髪な、眼の色も灰色を帯びた、酒好らしい赤ら顔の農夫にも逢った。
古城の初夏
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古城の初夏
私の同僚に理学士がいる。
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私の同僚に理学士が居る。
物理、化学などを受け持っている。
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物理、化学なぞを受持っている。
学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室のそばを通った。
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学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。
戸口に立って眺めると、学士も授業を済ませたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒達に説明していた。
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戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。
机の上には、大理石の屑、塩酸の瓶、コップ、ガラス管などが置いてあった。
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机の上には、大理石の屑、塩酸の壜、コップ、玻璃管などが置いてあった。
蝋燭の火も燃えていた。
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蝋燭の火も燃えていた。
学士は、手にしたコップをすこし傾けて見せた。
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学士は、手にしたコップをすこし傾げて見せた。
炭素はそのガラス板の蓋の間から流れた。
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炭素はその玻璃板の蓋の間から流れた。
蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
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蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
無邪気な学生達は学士の机のまわりに集まって、口を開いたり、目を丸くしたりして眺めていた。
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無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開いたり、眼を円くしたりして眺めていた。
微笑むもの、腕組みするもの、頬杖を突くもの、いろいろな様子をしていた。
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微笑むもの、腕組するもの、頬杖突くもの、種々雑多の様子をしていた。
そのコップの中へ鳥か鼠を入れるとすぐに死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立ち上った。
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そのコップの中へ鳥か鼠を入れると直に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
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「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
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「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
質問した生徒は、ふいと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹のそばに現れた。
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問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
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「アア、虫を取りに行った」
と窓の方を見る生徒もある。
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と窓の方を見る生徒もある。
庭に出た青年は茂った桜の枝のかげを探し廻っていたが、間もなく何かつかまえて戻って来た。
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庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕えて戻って来た。
それを学士にすすめた。
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それを学士にすすめた。
「蜂ですか」
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「蜂ですか」
と学士は気味悪そうに言った。
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と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫すぞ螫すぞ」
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「ア、怒ってる――螫すぞ螫すぞ」
口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反らして、螫されまいとする様子をした。
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口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反らして、螫されまいとする様子をした。
その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒達は意味もなく笑った。
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その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。
「死んだ、死んだ」
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「死んだ、死んだ」
と言うものもあれば、「弱い奴」
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と言うものもあれば、「弱い奴」
というものもある。
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というものもある。
蜂は真理を証明するかのように、コップの中でぐるぐる廻って、身をもだえて、死んだ。
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蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶えて、死んだ。
「もうマイりましたかネ」
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「最早マイりましたかネ」
と学士も笑った。
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と学士も笑った。
その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園の方へ弓を引きに出掛けた。
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その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園の方へ弓をひきに出掛けた。
あの緑のかげには、同好の者が集まって十五間ばかりの矢場を作ってある。
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あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。
私も学士に誘われて、学校からじかに城址の方へ行くことにした。
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私も学士に誘われて、学校から直に城址の方へ行くことにした。
はじめて私が学士に会った時は、ただこんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しくなろうとは思わなかった。
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はじめて私が学士に逢った時は、唯こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。
私達は――三人の同僚を除いては、みな旅の鳥で、その中でも学士はいくたの辛酸を嘗め尽くして来たような人である。
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私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗め尽して来たような人である。
身なりなどにまったく構わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古い洋服をろくに払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎んじられた。
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服装なぞに極く関わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古洋服を碌に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎んぜられた。
服装と月給とで人間の値打ちを決めたがるのは、普通一般の人の相場だ。
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服装と月給とで人間の価値を定めたがるのは、普通一般の人の相場だ。
しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけにいかなかった。
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しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。
これほど何もかも外へさらけ出した人を、私もあまり見たことが無い。
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これ程何もかも外部へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。
いつの間にか私はこの老学士と仲好しになって、自分の身内からでも聞くように、その抑えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くようになった。
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何時の間にか私はこの老学士と仲好に成って自分の身内からでも聞くように、その制えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
私達はそろって出掛けた。
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私達は揃って出掛けた。
学士の口からは、時々軽いフランス語などが流れて来る。
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学士の口からは、時々軽い仏蘭西語なぞが流れて来る。
それを聞くたびに、私は学士の華やかな過去を思いやった。
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それを聞く度に、私は学士の華やかな過去を思いやった。
学士はまた、そんな構わない風采の中にも、どこか昔の洒落たところを失わないような人である。
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学士は又、そんな関わない風采の中にも、何処か往時の瀟洒なところを失わないような人である。
その胸にはネクタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留めなどが光ることがある。
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その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留なぞが光ることがある。
それを見ると、私は子供のように吹き出したくなる。
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それを見ると、私は子供のように噴飯したくなる。
白く黄ばんだ柿の花はもう至るところに落ちて、香りを放っていた。
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白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。
学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄を提げて歩きながら、
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学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄を提げて歩きながら、
「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲が取れるんですトサ。此頃もネ、弓の弦を褒美に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫」
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「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲が取れるんですトサ。此頃もネ、弓の弦を褒美に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫」
私は笑わずにいられなかった。
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私は笑わずにいられなかった。
学士も笑いを抑えかねるという風で、
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学士も笑を制えかねるという風で、
「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
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「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
こういう父親らしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと、馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
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こういう阿爺さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
学士は見送って、
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学士は見送って、
「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よくどこの田舎にも一人くらいはああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない』なんて、エライ気炎サ。でも、面白い気性の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受けが好い……」
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「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よく何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない』なんて、エライ気焔サ。でも、面白い気象の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受が好い……」
奇人はこの医者ばかりではない。
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奇人はこの医者ばかりでは無い。
旧士族で、暇な日を送りかねて千曲川へ釣りに行く隠士風の人もあれば、姉と二人だけで城門のかたわらに住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。
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旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。
旧士族には奇人が多い。
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旧士族には奇人が多い。
時世が、彼等を奇人にしてしまった。
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時世が、彼等を奇人にして了った。
もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎ばかり残った桑畠などを見、離散した多くの家族の痛ましい歴史を聞き、振り返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」
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もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」
の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられないだろう。
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の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。
しかし他の土地へ行って頭角を現すような新しい人物は、たいてい教育のある士族の子孫だともいう。
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しかし他の土地へ行って、頭角を顕すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
今、弓を提げて壊れた城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。
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今、弓を提げて破壊された城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。
校長は、江戸の御家人とかだ。
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校長は、江戸の御家人とかだ。
休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。
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休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。
学士などは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
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学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
私はこの古い城址に遊んで、君などの思いもよらないような景色を眺めた。
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私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。
それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。
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それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。
日本アルプスの谷々の雪は、ここから白壁を望むように見える。
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日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える。
懐古園内の藤、木蘭、躑躅、牡丹などは、一時は花と花とが映り合って盛んな香りを放ったが、今ではもう濃い新緑の香に変ってしまった。
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懐古園内の藤、木蘭、躑躅、牡丹なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。
千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。
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千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。
谷の深さは、それだけでも想像できるだろう。
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谷の深さは、それだけでも想像されよう。
海のような浅間一帯の大きな傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行けば、一筋に六月の空へ横たわる様子が見られる。
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海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横わる光景が見られる。
すでに君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村などは見えないまでも、そこから松林の向うに指し示すことが出来る。
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既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。
私達の矢場を覆う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に見下ろすことが出来る。
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私達の矢場を掩う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下すことが出来る。
境内には見晴らしの好い茶屋がある。
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境内には見晴しの好い茶屋がある。
そこに預けて置いた弓の道具を取り出して、私は学士と一緒に苔むした石段を下りた。
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そこに預けて置いた弓の道具を取出して、私は学士と一緒に苔蒸した石段を下りた。
静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
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静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
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「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
「一年の御稽古でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか冗談のようですナ」
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「一年の御稽古でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか串談のようですナ」
「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申しますぜ」
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「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申しますぜ」
「ボツン」
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「ボツン」
「そうはいかない――」
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「そうはいかない――」
こんな話が、強い弓を引く漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。
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こんな話が、強弓をひく漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。
理学士は一番弱い弓を引いたが、熱心でよく当った。
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理学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当った。
古い城址といえば、まったく人の住まないところのように君には想像されただろう。
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古城址といえば、全く人の住まないところのように君には想像されたろう。
私は残った城門のかたわらにある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。
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私は残った城門の傍にある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。
まだその外に、鶏を飼う人なども住んでいる。
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まだその外に、鶏を養う人なぞも住んでいる。
この人は病身で、退屈に苦しむものだから、私達の矢場の方へ遊びに来る。
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この人は病身で、無聊に苦むところから、私達の矢場の方へ遊びに来る。
そして、私達の弓がそろって引き絞られたり、矢の羽が頬をかすめたりする後ろにいて、奇抜な批評を浴びせかける。
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そして、私達の弓が揃って引絞られたり、矢の羽が頬を摺ったりする後方に居て、奇警な批評を浴せかける。
ふざけて、
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戯れに、
「どうです。先生、もう弓も飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方のものだ……しかしこの弓は、永代続きそうだテ」
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「どうです。先生、もう弓も飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方のものだ……しかしこの弓は、永代続きそうだテ」
こんなことを言って混ぜ返すので、せっかく入れた力が抜けて、弓も引けないものがあった。
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こんなことを言って混返すので、折角入れた力が抜けて、弓もひけないものが有った。
小諸へ来て隠れた学士にとって、この緑のかげはさらに奥の方の隠れ家のように見えた。
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小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。
大事にしている鷹の羽の矢がそろって白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
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愛蔵する鷹の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
急に、熱い雨が落ちて来た。
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急に、熱い雨が落ちて来た。
雷の音も聞えた。
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雷の音も聞えた。
浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。
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浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。
いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。
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いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。
雨は通り過ぎたかと思うと、また急に落ちて来た。
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雨は通過ぎたかと思うと復急に落ちて来た。
「いよいよ本物かナ」
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「いよいよ本物かナ」
と言って、学士は新しく自分で張った七寸的を取り外しに行った。
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と言って、学士は新しく自分で張った七寸的を取除しに行った。
城址の桑畠には、雨に濡れながら働いている人々もあった。
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城址の桑畠には、雨に濡れながら働いている人々もあった。
みなで雲行きを眺めていると、初夏らしい日の光がにわかに青葉を通して射して来た。
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皆なで雲行を眺めていると、初夏らしい日の光が遽かに青葉を通して射して来た。
弓仲間は勇んで一手ずつ射はじめた。
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弓仲間は勇んで一手ずつ射はじめた。
やがてまたザアと降って来た。
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やがて復たザアと降って来た。
とうとう一同はあきらめて、茶屋の方へ引き揚げた。
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到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚げた。
私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹を見た。
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私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹を見た。
実に、学士はユックリユックリ歩いた。
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実に、学士はユックリユックリ歩いた。
その三
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その三
山荘
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山荘
浅間の方から落ちて来る細い流れは、竹藪のところで二つに分かれて、一つは水車小屋のある窪んだ浅い谷の方へ私の家の裏を横切り、一つは馬場裏の町に沿って流れている。
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浅間の方から落ちて来る細流は竹藪のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。
その流れに沿う家々は私の家の組合だ。
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その流に添う家々は私の家の組合だ。
私は馬場裏へ移るとすぐにその組合に入れられた。
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私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。
だいたい、この小諸の町には、平地というものが無い。
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一体、この小諸の町には、平地というものが無い。
すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押し流すくらいの地形だ。
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すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。
私は本町へ買物に出るにも、組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らなければならない。
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私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ。
組合頭は勤勉な仕立屋の亭主だ。
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組合頭は勤勉な仕立屋の亭主だ。
この人が日頃出入りしている本町のある商家から、商売も暇な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
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この人が日頃出入する本町のある商家から、商売も閑な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
私は君に古城の附近をすこし紹介した。
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私は君に古城の附近をすこし紹介した。
町家の方の話はまだしなかった。
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町家の方の話はまだ為なかった。
仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
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仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
君は地方にある小さい都会へ旅したことがあるだろう。
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君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。
そこで行き会う人々の多くは
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そこで行き逢う人々の多くは
――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人が少ないのに気が付いたことがあるだろう。
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――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。
田舎の神経質はこんなところにも表れている。
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田舎の神経質はこんなところにも表れている。
小諸がそうだ。
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小諸がそうだ。
裏町や、小路や、田圃わきの細い道などを選んで、勝手を知った人々は多く行ったり来たりする。
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裏町や、小路や、田圃側の細い道なぞを択んで、勝手を知った人々は多く往ったり来たりする。
私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通りをちらりと見て、ちょうどそういう田圃わきの道へ出た。
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私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一瞥して、丁度そういう田圃側の道へ出た。
裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混じって、堅く石垣の上に築かれている。
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裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。
中には高い三層の窓が城郭のように曇りの日の光に映えている。
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中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。
その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾と対照を成して、土地の気質や豊かさを表している。
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その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾と対照を成して土地の気質や殷富を表している。
麦秋だ。
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麦秋だ。
一年に二度ずつ黄色くなる野良が、私達の両側にあった。
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一年に二度ずつ黄色くなる野面が、私達の両側にあった。
すでに刈り取られた麦畠も多かった。
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既に刈取られた麦畠も多かった。
半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包みを提げた百姓とも一緒になった。
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半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包を提げた百姓とも一緒に成った。
仕立屋は百姓を振り返って、
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仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付が済みましたかネ」
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「もうすっかり植付が済みましたかネ」
「はい、ようやく二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
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「はい、漸く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖くなった故かナ」
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「暖くなった故かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
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「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
百姓は眺め眺め答えた。
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百姓は眺め眺め答えた。
東沢の山荘には商家の人達が集まっていた。
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東沢の山荘には商家の人達が集っていた。
店の方にはおかみさん達と、二、三人の小僧とを残して置いて、みなここへ遊びに来ているという。
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店の方には内儀さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。
東京の下町で育った君は――日本橋天馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠居所とかは、君にも私にも懐かしい名だ――おそらく私が今どういう人達と一緒になったか、想像がつくだろうと思う。
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東京の下町に人となった君は――日本橋天馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠宅とかは、君にも私に可懐しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
山荘は二階建てで、池を前にして、静かな沢の入口にあった。
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山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。
左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。
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左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。
よく晴れた日は、富士の頂も望まれるという。
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快晴の日は、富士の山巓も望まれるという。
池のほとりに咲き乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。
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池の辺に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。
仕立屋は庭の高麗檜葉を指して見せて、特に東京から取り寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹かなかった。
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仕立屋は庭の高麗檜葉を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹かなかった。
私達は眺めのある二階の部屋へ案内された。
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私達は眺望のある二階の部屋へ案内された。
田舎縞の手織物を着て紺の前垂れを掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。
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田舎縞の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。
この人はいっさいの主導権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅実な大店の主人らしく見えた。
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この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店の主人らしく見えた。
でっぷり肥った番頭もそばへ来た。
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でっぷり肥った番頭も傍へ来た。
池の鯉の塩焼きで、主人は私達に酒を勧めた。
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池の鯉の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。
階下には五、六人の小僧がいて、料理をするものもあれば、給仕に通うものもあった。
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階下には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
ちょっとしたことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。
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一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。
番頭は、私達の前にある冷奴の皿にだけ花鰹が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節をすこしかいて来ておくれ」
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番頭は、私達の前にある冷豆腐の皿にのみ花鰹節が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節をすこしかいて来ておくれ」
と梯子段のところから階下を覗いて、小僧に言いつけた。
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と楼梯のところから階下を覗いて、小僧に吩咐けた。
間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹を二皿持って上って来た。
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間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。
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やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。
それを仕立屋の前に置いた。
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それを仕立屋の前に置いた。
二枚落しでいこうと番頭が言った。
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二枚落しでいこうと番頭が言った。
仕立屋は二十年このかたぱったり止めているが、まんざらでもないからそれじゃ一つやるか、などと笑った。
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仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。
主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか筋が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の負けとなった。
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主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。
番頭は盃を口に含んで、「さあ誰でも来い」
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番頭は盃を啣んで、「さあ誰でも来い」
という顔つきをした。
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という顔付をした。
「お貸しなさい、敵打だ」
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「お貸しなさい、敵打だ」
と主人は飛んで出て、番頭を相手に指し始める。
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と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。
どうやら主人の手も悪くなりかけた。
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どうやら主人の手も悪く成りかけた。
番頭はぴしゃりと自分の頭を叩いて、「恐れ入ったかな」
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番頭はぴッしゃり自分の頭を叩いて、「恐れ入ったかな」
と舌打ちした。
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と舌打した。
とうとう主人の負けとなった。
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到頭主人の敗と成った。
また二番目が始まった。
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復た二番目が始まった。
階下では、大きな巾着を腰に着けた男の子が、黒い洋犬とじゃれていたが、急に家の方へ帰るとだだをこね始めた。
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階下では、大きな巾着を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。
小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌を取りに階下へ降りた。
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小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌を取りに階下へ降りた。
その時、私も庭を歩いて見た。
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その時、私も庭を歩いて見た。
小手毬の花の遅いのも咲いていた。
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小手毬の花の遅いのも咲いていた。
藤棚の下へ行くと、池の中の鯉が躍るのも見えた。
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藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍るのも見えた。
「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」
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「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」
と言っている者もあった。
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と言っている者も有った。
池を一周りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
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池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」
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「先生、勝負はどうでしたネ」
と仕立屋が尋ねた。
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と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
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「二番とも、これサ」
番頭は鼻の先へ握り拳を重ねて、大天狗をして見せた。
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番頭は鼻の先へ握り拳を重ねて、大天狗をして見せた。
そして、高い、快活な声で笑った。
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そして、高い、快活な声で笑った。
こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を過ごした。
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こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。
ぽつぽつ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。
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ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。
番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘というやつはナカナカ意気なものですから」
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番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘というやつはナカナカ意気なものですから」
と番傘を出して貸してくれた。
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と番傘を出して貸してくれた。
私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
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私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」
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「もう一本お持ちなさい」
と言って、また小僧が追いかけて来た。
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と言って、復た小僧が追いかけて来た。
毒消売の女
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毒消売の女
「毒消は宜う御座んすかねえ」
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「毒消は宜う御座んすかねえ」
家々の門口に立って、鋭い越後訛りで呼ぶ女の声を聞くようになった。
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家々の門に立って、鋭い越後訛で呼ぶ女の声を聞くように成った。
黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷、日を受けて光る笠、ちょうど燕が同じような揃い方で、互いに群を成して時季をたがえず遠いところからやって来るように、彼女達もはるばるこの山の上まで旅して来る。
原文を見る
黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷、日をうけて光る笠、あだかも燕が同じような勢揃いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。
そして鳥の群があちら、こちらの軒に分かれて飛ぶように、彼女達もまた二人か三人ずつになって思い思いの家を訪れる。
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そして鳥の群が彼方、此方の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。
この頃私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に出会う。
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この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。
彼女達は血気盛んなところまで互いによく似ている。
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彼等は血気壮んなところまで互によく似ている。
銀馬鹿
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銀馬鹿
「どこの土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」
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「何処の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」
とある人が言った。
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とある人が言った。
貧しい町を通って、黒い髭の生えた飴屋に出会った。
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貧しい町を通って、黒い髭の生えた飴屋に逢った。
飴屋は高い石垣の下で唐人笛を吹いていた。
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飴屋は高い石垣の下で唐人笛を吹いていた。
その辺は停車場に近い裏町だ。
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その辺は停車場に近い裏町だ。
私が学校の行き帰りによく通るところだ。
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私が学校の往還によく通るところだ。
岩の多い桑畠の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を引いて押し流されるように降りて来た人があった。
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岩石の多い桑畠の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳いて押流されるように降りて来た人があった。
荷車には屠った豚の股が載せてあった。
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荷車には屠った豚の股が載せてあった。
後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。
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後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。
銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。
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銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。
この人はまた、自分の家屋敷を人に占領されて、それを知らずに働いているともいう。
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この人は又、自分の家屋敷を他に占領されてそれを知らずに働いているともいう。
祭の前夜
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祭の前夜
春蚕が済む頃は、やがて土地では祇園祭の季節を迎える。
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春蚕が済む頃は、やがて土地では、祇園祭の季節を迎える。
この町で養蚕をしない家は、指折り数えるほどしか無い。
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この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。
寺の僧侶ですら、それを一年の主な収入に数える。
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寺院の僧侶すらそれを一年の主なる収入に数える。
私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞えるくらいだ。
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私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。
こういう土地だから、暗い蚕棚と、襲いかかるような臭気と、蚕の眠りと、桑の出来不出来と、ある時はほとんど徹夜で働いている男や女のことを思ってみてもらわなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
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こういう土地だから、暗い蚕棚と、襲うような臭気と、蚕の睡眠と、桑の出来不出来と、ある時は殆んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
秤を腰に差して麻袋を背負ったような人達は、諏訪、松本あたりからこの町へ入り込んで来る。
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秤を腰に差して麻袋を負ったような人達は、諏訪、松本あたりからこの町へ入込んで来る。
宿屋は一時、繭買いの群でいっぱいになる。
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旅舎は一時繭買の群で満たされる。
そういう連中が、思い思いの宿屋をさして繭の収穫を運んで行く様子も、何となく町々に活気を添えるのである。
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そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景も、何となく町々に活気を添えるのである。
二十日ばかりもじめじめと降り続いた天気が、七月の十二日になってようやく晴れた。
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二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸く晴れた。
長雨の後の日光は特にきらめいた。
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霖雨の後の日光は殊にきらめいた。
長いこと煙るような霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗色に姿を現した。
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長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗色に顕われた。
この日は町の大人から子供まで、互いに新しい晴着を用意して待っていた日だ。
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この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。
私は町の団体どうしの暗い争いについて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。
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私は町の団体の暗闘に就いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。
ただ、祭の前にごたごたを重ねたと言うだけにして置こう。
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ただ、祭以前に紛擾を重ねたと言うだけにして置こう。
一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾りが、ようやく七日目に町々の空へ掛った。
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一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾りが漸く七日目に町々の空へ掛った。
その余波として、御輿を担ぎ込まれるのが煩わしくて移転したと言われる家すらあった。
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その余波として、御輿を担ぎ込まれるが煩さに移転したと言われる家すらあった。
そういう騒ぎが持ち上るというだけでも、この祭がいかに町の人から待ち受けられているかが分る。
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そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。
多くの商人は特に祭の賑わいを期待する。
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多くの商人は殊に祭の賑いを期待する。
養蚕から得た報酬が、すくなくともこの時には使われるのであるから。
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養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。
夜に入って、「湯立」
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夜に入って、「湯立」
という儀式があった。
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という儀式があった。
この晩は主な町の人々が提灯をつけて社の方へ集まる。
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この晩は主な町の人々が提灯つけて社の方へ集る。
それを見ようとして、私も家を出た。
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それを見ようとして、私も家を出た。
空には星も輝いた。
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空には星も輝いた。
社の前で飴菓子を売っている人に出会った。
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社頭で飴菓子を売っている人に逢った。
謡曲で一家を成した人物だとのことだが、もう長いことこの田舎に隠れている。
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謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
本町の通りには紅白の提灯が行き交う人の顔に映った。
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本町の通には紅白の提灯が往来の人の顔に映った。
その光の中で、私は鳩屋のI、紙店のKなどが手を引き合って来るのに出会った。
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その影で、私は鳩屋のI、紙店のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。
どちらも近所の快活な娘達だ。
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いずれも近所の快活な娘達だ。
十三日の祇園
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十三日の祇園
十三日には学校でも授業を休んだ。
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十三日には学校でも授業を休んだ。
この授業をやめる、やめないでは、いつでも議論があって、校長はたいていの場合には休む方針を取り、幹事先生はなるべく休まない方を主張した。
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この授業を止む休まないでは毎時論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。
が、祇園の休みは毎年の例であった。
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が、祇園の休業は毎年の例であった。
近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。
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近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。
戸板や樽を持ち出し、毛布をひろげ、その上に飲み食いする物を売り、急ごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人はそこにも、ここにもあった。
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戸板や樽を持出し、毛布をひろげ、その上に飲食する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人はそこにも、ここにもあった。
日頃顔を見知った八百屋夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って、青い顔の亭主と肥ったおかみさんとが互いに片肌脱ぎで、稲荷鮨を漬けたり、海苔巻を作ったりした。
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日頃顔を見知った八百屋夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀とが互に片肌抜で、稲荷鮨を漬けたり、海苔巻を作ったりした。
貧しい家の子が新調の単衣を着て、何か配って歩くような顔つきで町を歩いているのも祭の日らしい。
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貧しい家の児が新調の単衣を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
午後に、家の者はB姉妹のところへ招かれて御輿の通るのを見に行った。
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午後に、家のものはB姉妹の許へ招かれて御輿の通るのを見に行った。
Bは清少納言の「枕の草紙」
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Bは清少納言の「枕の草紙」
などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
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などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。
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光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。
この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞くことが許されていた。
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この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞くことを許してあった。
三時頃から、私も例の組合の家に沿って、夏の日のあたった道を上った。
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三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。
そこを上りきったところまで行くと、軒ごとに青簾を掛けた本町の角へ出る。
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そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾を掛けた本町の角へ出る。
この簾は七月の祭に特にふさわしい。
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この簾は七月の祭に殊に適わしい。
祭を見に来た人達は、鄙びた絵巻物を繰りひろげるように私の前を通った。
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祭を見に来た人達は鄙びた絵巻物を繰展げる様に私の前を通った。
近在の男女は身なりもまちまちで、紫色の唐縮緬の帯を幅広にぐるぐると巻き付けた男、大きな髷にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男のこうもり傘をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂れをして裾を折り上げた子もある。
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近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂をして尻端を折った児もある。
黒い、太い足に白足袋を履いて、裾の短い着物を着た小娘もある。
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黒い、太い足に白足袋を穿て、裾の短い着物を着た小娘もある。
一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。
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一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。
その中を、軽井沢あたりの客と見えて、めずらしそうに眺めて行く西洋の婦人もあった。
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その中を、軽井沢辺りの客と見えて、珍らしそうに眺めて行く西洋の婦人もあった。
町の子供はどれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。
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町の子供はいずれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。
やがて町の下の方から木の臼を転がして来た。
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やがて町の下の方から木の臼を転がして来た。
見物人はみな両側の軒下などへ逃げ込んだ。
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見物はいずれも両側の軒下なぞへ逃げ込んだ。
「ヨイヨ。ヨイヨ」
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「ヨイヨ。ヨイヨ」
と掛け声して、重い御輿が担がれて来た。
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と掛声して、重い御輿が担がれて来た。
狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。
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狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。
血気盛んな連中はそのまわりに取り付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。
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血気な連中はその周囲に取付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。
盛んな歓呼の中に、また御輿は担がれて行った。
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壮んな歓呼の中に、復た御輿は担がれて行った。
一種の調子は見物人の体にも流れ伝わった。
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一種の調律は見物の身に流れ伝わった。
私は戻りがけに、子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。
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私は戻りがけに子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。
この日は、町にごたごたのあった後で、何となく人の心が穏やかでなかった。
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この日は、町に紛擾のあった後で、何となく人の心が穏かでなかった。
六時頃にまた本町の角へ出て見た。
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六時頃に復た本町の角へ出て見た。
「ヨイヨヨイヨ」
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「ヨイヨヨイヨ」
という掛け声までしゃがれて「ギョイギョ、ギョイギョ」
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という掛声までシャガレて「ギョイギョ、ギョイギョ」
と物凄く聞える。
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と物凄く聞える。
人々は酒気を帯びて、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと、急にまた下って来る。
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人々は酒気を帯て、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと急に復た下って来る。
五、六十人の野次馬は狂ったように叫び廻る。
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五六十人の野次馬は狂するごとく叫び廻る。
大勢の巡査や祭事係は駆け足で一緒に付いて歩いた。
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多勢の巡査や祭事掛は駈足で一緒に附いて歩いた。
ちょうど夕飯時で、見物人はあちこちへ散ったが、御輿の勢いはかえって激しくなった。
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丁度夕飯時で、見物は彼方是方へ散じたが、御輿の勢は反って烈しく成った。
それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。
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それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。
急に御輿は一種の運動と化した。
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急に御輿は一種の運動と化した。
ある家の前で、衝突の先棒を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、大勢の勢いに駆られて、見る間に御輿は傾いて行った。
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ある家の前で、衝突の先棒を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、多勢の勢に駆られて見る間に御輿は傾いて行った。
その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛び付き押し廻そうとするものもあった。
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その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛付き押し廻そうとするものもあった。
騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。
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騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。
「御輿を下せ御輿を下せ」
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「御輿を下せ御輿を下せ」
と巡査が駆け集まって、激しい論争の末、とうとう輿丁のほかは許さないということになった。
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と巡査が馳せ集って、烈しい論判の末、到頭輿丁の外は許さないということに成った。
御輿のまわりは白帽白服の人で守られて、「さあ、よし、持ち上げろ」
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御輿の周囲は白帽白服の人で護られて、「さあ、よし、持ち上げろ」
などという声とともに、急にまた仲町の方角をさして担がれて行った。
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などという声と共に、急に復た仲町の方角を指して担がれて行った。
見物人の中には突き飛ばされて、仰向けに倒れた大の男もあった。
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見物の中には突き飛ばされて、あおのけさまに倒れた大の男もあった。
「それ早く逃げろ、子供々々」
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「それ早く逃げろ、子供々々」
皆な口々に罵った
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皆な口々に罵った
「巡査も随分御苦労なことですな」
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「巡査も随分御苦労なことですな」
「ほんとに好い迷惑サ」
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「ほんとに好い迷惑サ」
見物人は言い合っていた。
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見物は言い合っていた。
暮れてから町々の提灯は美しくともった。
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暮れてから町々の提灯は美しく点った。
簾を巻き上げ、店先に毛氈などを敷き、屏風を立て廻して、人々は端近くに座りながら涼んでいた。
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簾を捲上げ、店先に毛氈なぞを敷き、屏風を立て廻して、人々は端近く座りながら涼んでいた。
御輿は市町から新町の方へ移った。
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御輿は市町から新町の方へ移った。
ある坂道のところで、雨のように降った賽銭を手探りで拾う女の子などがあった。
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ある坂道のところで、雨のように降った賽銭を手探りに拾う女の児なぞが有った。
後には、提灯を手にして往来を探すような青砥の子孫も現れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土をつかんだりして見るのもあった。
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後には、提灯を手にして往来を探すような青砥の子孫も顕れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴んだりして見るのも有った。
抜け目のない欲の世だということを思わせた。
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さかしい慾の世ということを思わせた。
市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。
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市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。
私の親しいT君という医者の家にも近い。
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私の懇意なT君という医者の家にも近い。
その欄干の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽しんでいるものや、人の顔を覗くものや、胴間声で歌うものや、手を引かれて断りを言う女連れなどがあった。
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その欄干の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗くものや、胴魔声に歌うものや、手を引かれて断り言う女連なぞが有った。
夜の九時過ぎに、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。
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夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。
組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集まって、涼みがてら祭の噂をした。
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組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂をした。
この夜は星の姿を見ることが出来なかった。
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この夜は星の姿を見ることが出来なかった。
螢は暗い流れの方から迷って来て、町の中を飛んで、青い美しい光を放った。
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螢は暗い流の方から迷って来て、町中を飛んで、青い美しい光を放った。
後の祭
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後の祭
翌日は朝から涼しい雨が降った。
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翌日は朝から涼しい雨が降った。
家のまわりにある柿、李などの緑の葉からは雫が滴った。
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家の周囲にある柿、李なぞの緑葉からは雫が滴った。
李の葉が濡れているのは特に涼しい。
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李の葉の濡れたのは殊に涼しい。
本町の通りでは前の日の混雑した様子と打って変って、家ごとに祭の提灯を深く吊るしてある。
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本町の通では前の日の混雑した光景と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊してある。
紺暖簾の下に下げた簾も静かだ。
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紺暖簾の下にさげた簾も静かだ。
その奥で煙草盆の灰吹きを叩く音が響いて聞えるくらいだ。
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その奥で煙草盆の灰吹を叩く音が響いて聞える位だ。
往来には、娘や子供が傘をさして遊び歩いているだけだ。
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往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。
前の日に使った木の臼も町の片隅に転がしてある。
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前の日に用いた木の臼も町の片隅に転してある。
それが七月の雨に濡れている。
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それが七月の雨に濡れている。
この十四日には家々で強飯を蒸し、煮染めなどを祝って遊び暮らす日であるという。
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この十四日には家々で強飯を蒸し、煮染なぞを祝って遊び暮す日であるという。
午後の四時頃になっても、まだ空は晴れなかった。
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午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。
烏帽子をかぶり、古風な太刀を帯びて、芝居の「暫」
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烏帽子を冠り、古風な太刀を帯びて、芝居の「暫」
にでも出て来そうな男が、神官、祭事係、子供などと一緒に、どれも浅葱の直垂を着けて、小雨の降る町の中の〆飾りを切って歩いた。
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にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。
その四
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その四
中棚
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中棚
私達の教員室の窓から浅い谷が見える。
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私達の教員室の窓から浅い谷が見える。
そこは耕されて、桑などが植え付けてある。
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そこは耕されて、桑などが植付けてある。
こういう谷が松林の多い崖を挟んで、古城の附近に幾つとなくある。
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こういう谷が松林の多い崖を挟んで、古城の附近に幾つとなく有る。
それが千曲川の方へ落ちて行くにつれて、よほど深いものになっている。
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それが千曲川の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。
私達は城門の横手にある草地を掘り返して、テニスのグランドを作っているが、その辺もやはり谷の起点の一つだ。
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私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張谷の起点の一つだ。
M君が小諸にいた頃は、この谷あいで水彩画を描いたこともあった。
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M君が小諸に居た頃は、この谷間で水彩画を作ったこともあった。
学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐ろしい山崩れのあった時、浅間の方から押し寄せて来た水が、こういう変化のある地形を作ったとか。
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学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。
八月のはじめ、私はこの谷の一つを横切って、中棚の方へ出掛けた。
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八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。
私の足はよくそちらへ向いた。
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私の足はよく其方へ向いた。
そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くにはちょうど頃合いの距離にあったから。
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そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
中棚の附近には豊かな耕地も多い。
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中棚の附近には豊かな耕地も多い。
ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。
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ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。
その下に温泉場の旗が見える。
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その下に温泉場の旗が見える。
林檎畠が見える。
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林檎畠が見える。
千曲川はその向うを流れている。
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千曲川はその向を流れている。
午後の一時過ぎに、私は田圃わきの道を通って、千曲川の岸へ出た。
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午後の一時過に、私は田圃脇の道を通って、千曲川の岸へ出た。
蘆、蓬、それから短い楊などの多い石の間で、長野から来ている師範学校の学生と一緒になった。
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蘆、蓬、それから短い楊などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成た。
A、A、Wなどという連中だ。
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A、A、Wなどいう連中だ。
この人達は夏休みを利用して、本を読みに私の家へ通っている。
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この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。
岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。
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岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。
その中には私達の学校の生徒も混じっていた。
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その中には私達の学校の生徒も混っていた。
暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川などで泳いだことを思うと、水の流れからして違う。
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暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。
青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、目まいがするくらいだ。
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青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈がする位だ。
川上の方を見ると、暗い岩かげから白波を揚げて流れて来る。
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川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を揚げて流れて来る。
川下の方はまた、矢のように早い。
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川下の方は又、矢のように早い。
それが五里淵の赤い崖に突き当って、ものすごい勢いで落ちて行く。
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それが五里淵の赤い崖に突き当って、非常な勢で落ちて行く。
とても、この流れをこちらの岩から向うの崖下まで真っ直ぐに突っ切れるものではない。
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どうして、この水瀬が是処の岩から向うの崖下まで真直に突切れるものではない。
それに澄んだ水の中には、大きな岩が隠れているところがある。
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それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。
下手にまごつけば押し流されてしまう。
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下手をマゴつけば押流されて了う。
だからよほど上の方からでも泳いで行かなければ、目当ての岩に取り付いて上ることが出来ない。
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だから余程上の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上ることが出来ない。
平野を流れる利根などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく寄っている。
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平野を流れる利根などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。
私達は、この川底の現れた方にいて、溝萩の花などの咲いた岩のかげで、二時間ばかりを過ごした。
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私達は、この河底の露れた方に居て、溝萩の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過した。
熱い砂の上には腹這いになって、甲羅を干しているものもあった。
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熱い砂の上には這いのめって、甲羅を乾しているものもあった。
ザンブと水の中へ飛び込むものもあった。
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ザンブと水の中へ飛込むものもあった。
このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、裾をからげたりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
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このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
三つの麦藁帽子が石の間に現れた。
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三つの麦藁帽子が石の間にあらわれた。
師範学校の連中だ。
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師範校の連中だ。
「ちったア釣れましたかネ」
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「ちったア釣れましたかネ」
と私が聞いた。
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と私が聞いた。
「ええ、すっかり釣られて了いました」
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「ええ、すっかり釣られて了いました」
「どうだネ、君の方は」
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「どうだネ、君の方は」
「五尾ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺されて了いました」
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「五尾ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺されて了いました」
「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
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「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
こんなことを言って、仲間の話を混ぜ返すものもあった。
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こんなことを言って、仲間の話を混返すものもあった。
この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。
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この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。
沸かし湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外の景色を眺めるのも気持ちが好かった。
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沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。
湯から上っても、みなの楽しみは茶でも飲みながら、書生らしい雑談にふけることであった。
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湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。
林檎畠、葡萄棚などを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
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林檎畠、葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
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「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
と一人が言い出したのが始まりで、食欲の話が次から次と引き出された。
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と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
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「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
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「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
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「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
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「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
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「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行くそうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
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「此頃、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
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「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回におよそどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を壊さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
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「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
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「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
三人は何を言っても気が晴れるという風だ。
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三人は何を言っても気が晴れるという風だ。
中には、手を叩いて、踊り上って笑うものもあった。
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中には、手を叩いて、踊り上って笑うものもあった。
それを聞くと、私も吹き出さずにはいられなかった。
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それを聞くと、私も噴飯さずにはいられなかった。
やがて、三人は口笛を吹きながら、一緒に泊っている宿屋の方へ別れて行った。
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やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。
この温泉から石垣に沿って坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。
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この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。
楼の名を水明楼としてある。
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楼の名を水明楼としてある。
この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住めるようにしたものだ。
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この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。
静かで趣のある小さな楼で、崖に寄りかかって眺めの好い位置にある。
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閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。
先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。
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先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。
あの頃は先生も男盛りで、アーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」
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あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」
などを教えてくれたものだった。
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などを教えてくれたものだった。
その先生が今ではこういうところに隠れて、花を植えて楽しんだり、鉱泉で老いを養ったりするような、白い髭の老人だ。
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その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯の翁だ。
どうかすると先生の口から、先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような冗談を聞くこともある。
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どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談を聞くこともある。
でも先生の意気込みは年とともにすり減ってしまうようなものでもない。
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でも先生の雄心は年と共に銷磨し尽すようなものでもない。
客が訪ねて行くと、談論風発する。
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客が訪ねて行くと、談論風発する。
水明楼へ来るたびに、私は先生のよく整理された書斎を見るのを楽しみにする。
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水明楼へ来る度に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。
そればかりではない、千曲川の眺めはその楼上の手すりに寄りかかりながら思うぞんぶんに味わうことが出来る。
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そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄に倚りながら恣に賞することが出来る。
対岸に煙の見えるのは大久保村だ。
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対岸に煙の見えるのは大久保村だ。
その下に見える釣橋が戻り橋だ。
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その下に見える釣橋が戻り橋だ。
川向うから聞える朝ごとの鶏の鳴き声、毎晩農村にともる灯の色、いろいろと思いやられる。
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川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点く灯の色、種々思いやられる。
楢の樹蔭
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楢の樹蔭
楢の木蔭。
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楢の樹蔭。
そこは鹿島神社の境内だ。
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そこは鹿島神社の境内だ。
学校が休みになってからも、私はよくその木蔭を通る。
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学校が休みに成ってからも、私はよくその樹蔭を通る。
ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑の草の間の小径へ出た。
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ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑草の間の小径へ出た。
楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋いであった。
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楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋いであった。
しばらく私が立って眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い綱をあっちこっちの楢の幹へすっかり巻き付けてしまった。
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しばらく私が立って眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い綱を彼方此方の楢の幹へすっかり巻き付けて終った。
そして、身動きすることも出来ないようになった。
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そして、身動きすることも出来ないように成った。
向うの草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。
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向の草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。
その五
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その五
山の温泉
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山の温泉
夕立ともつかず、時雨ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。
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夕立ともつかず、時雨ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。
草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。
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草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。
もう初茸を箱に入れて、木の葉のついた樺色のものや、緑青がかったものなどを、近在の老婆達が売りに来る。
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最早初茸を箱に入れて、木の葉のついた樺色なやつや、緑青がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。
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一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。
あの話を君にするのを忘れた。
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あの話を君にするのを忘れた。
温泉地にもいろいろあるが、山の温泉は別種の趣がある。
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温泉地にも種々あるが、山の温泉は別種の趣がある。
上田町に近い別所温泉などは開けた方で、それだけいろいろの便利も備わっている。
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上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随って種々の便利も具わっている。
しかし山国らしい温泉の感じは、かえって不便な田沢、霊泉寺などに多く味わわれる。
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しかし山国らしい温泉の感じは、反って不便な田沢、霊泉寺などに多く味われる。
あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌や米を持って苦労を忘れに行くという場所だ。
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あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。
自炊する浴客が多い。
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自炊する浴客が多い。
宿では部屋だけでも貸す。
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宿では部屋だけでも貸す。
それに部屋付きの竃が備えてある。
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それに部屋付の竃が具えてある。
浴客は下駄履きのまま庭からすぐに梯子段を上って、二階の部屋へ通うことも出来る。
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浴客は下駄穿のまま庭から直に楼梯を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。
この土足で上り下りの出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿だという気がする。
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この土足で昇降の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。
鹿沢温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
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鹿沢温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
半ば緑の葉に包まれ、半ば赤い崖になった山脈に沿って、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。
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半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。
上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を目の下に眺めて行った。
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上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下に眺めて行った。
私は上田附近の平地にあるいくつもの村落の間を歩いて通った。
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私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。
あの辺はいかにも田舎道らしい気のするところだ。
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あの辺はいかにも田舎道らしい気のするところだ。
途中に木蔭もある。
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途中に樹蔭もある。
腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
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腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
青木村というところで、農夫達がどれほど苦労しているかを見た。
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青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。
彼等は背中に木の葉を挿して、それをわずかな日除けとしながら、田の草を取って働いていた。
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彼等の背中に木の葉を挿して、それを僅かの日除としながら、田の草を取って働いていた。
私などはこうもり傘でもなければ歩けないほどの、熱い日ざかりに。
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私なぞは洋傘でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。
この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に沿って、谷深く坂道を上るようになる。
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この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随いて、谷深く坂道を上るように成る。
川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことが分る。
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川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。
そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
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そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
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┃ 湯 ┃
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┃ 湯 ┃
┃ 〼 み や ば ら ┃
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┃ 〼 み や ば ら ┃
┃ 本 ┃
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┃ 本 ┃
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升屋というのは眺めの好い温泉宿だ。
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升屋というは眺望の好い温泉宿だ。
湯川の流れる音が聞える二階で、私達の学校の校長の奥さんが十四、五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに出会った。
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湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。
この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
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この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
二階から遠く浅間一帯の山々を望んだ。
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楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。
浅間の見えない日は心細い、などと校長の奥さんは話していた。
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浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
十九夜の月の光がこの谷あいに射し入った。
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十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。
人々の多くが寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞えた。
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人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞えた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
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「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
理屈っぽい人達の言いそうな言葉だ。
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理屈ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
翌日は朝霧のこもった渓谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く見え、家々から立ち上る煙は霧よりも白く見えた。
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翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。
浅間は隠れた。
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浅間は隠れた。
山のかなたは青がかった灰色に光った。
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山のかなたは青がかった灰色に光った。
白い雲が山脈に沿って起るのも望まれた。
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白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。
国さんという可憐な少年も姉娘に付いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
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国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
そこは保福寺峠と地蔵峠とに挟まれた谷あいだ。
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そこは保福寺峠と地蔵峠とに挟まれた谷間だ。
二十日の月はその晩も遅くなって上った。
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二十日の月はその晩も遅くなって上った。
水の流れが枕に響いて眠れないので、いったん寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味わった。
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水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味った。
高い手すりに寄りかかって聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒になって、この谷あいに満ちていた。
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高い欄に倚凭って聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。
その他、暗い沢の底の方にはいろいろな声があった。――
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その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――
遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話し声、犬の鳴き声、楽しそうな農夫の唄。
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遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声、楽しそうな農夫の唄。
四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明かりで支度して、だんだん夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。
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四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。
学窓の一
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学窓の一
夏休みも終って、また私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合わせるようになった。
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夏休みも終って、復た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
秋の授業を始める日に、まだ桜の葉が深く重なり合っているのが見える教室の窓のそばで、私は上級の生徒に釈迦の話をした。
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秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦の話をした。
私は『釈迦譜』
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私は『釈迦譜』
を選んだ。
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を選んだ。
あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲を読むように描き出してある。
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あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲を読むように写出してある。
あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話などを借りて来て話した。
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あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。
青年の王子が憂いに沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心も引いたらしい。
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青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。
一つの門を出たら、病人に出会った。
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一つの門を出たら、病人に逢った。
人は病まなければならないのかと王子は深く考え込んだ。
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人は病まなければ成らないかと王子は深思した。
他の二つの門を出ると、老人に出会い、死者に出会った。
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他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。
人は老いなければならないのか、人は死ななければならないのか。
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人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。
この王子がぶつかる人生の疑問が、いかにも簡素に表してある。
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この王子の逢着する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。
最後に出た門の外で修行者に出会った。
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最後に出た門の外で道者に逢った。
そこで王子は心を決めて、このLifeを解こうとして、あらゆるものを破り捨てて行った。
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そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
戯曲的ではないか。
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戯曲的ではないか。
少年の頭にも面白いように出来ているではないか。
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少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。
私はこんな話を生徒にした後で、大勢いる諸君の中には実業に志すものもあるだろうし、軍人になろうというものもあるだろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような一生を送るほどの意気込みもあって欲しい、と言って聞かせた。
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私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
私は生徒の方を見た。
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私は生徒の方を見た。
生徒は私の言った意味をどう受け取ったか、どれも顔を見合わせて笑った。
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生徒は私の言った意味を何と釈ったか、いずれも顔を見合せて笑った。
中には妙な顔をして、頭を抱えているものもあった。
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中には妙な顔をして、頭を擁えているものもあった。
学窓の二
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学窓の二
樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。
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樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。
今は九月の若葉の時だ。
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今は九月の若葉の時だ。
学校の校舎のまわりには、かなり多くの樹木を植えてある。
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学校の校舎の周囲には可成多くの樹木を植えてある。
大きな桜の実の熟する頃などには、自分達の青年時代のことまでも思い起こさせたが、こうして夏休み明けにまたこの庭へ来て見ると、何となく白っぽい林檎の葉や、赤みを含んだ桜や、あっさりした青桐などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向を作っている。
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大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向を作っている。
楽しそうに吹く生徒の口笛があちこちに起る。
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楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方に起る。
テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉かげで相撲を取るものも多い。
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テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力を取るものも多い。
学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。
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学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。
その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。
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その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。
そこにも初秋らしい日が当っていた。
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そこにも初秋らしい日が映っていた。
田舎教師
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田舎教師
朝顔の花を好んで毎年育てている理学士が、ある日学校の帰り道に、新しい弟子の話を私にして聞かせた。
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朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途に、新しい弟子の話を私にして聞かせた。
弟子と言っても朝顔を育てる方の弟子だ。
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弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。
その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」
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その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」
と懐かしがられている。
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と懐かしがられている。
この叔父さんの説教の最中に夕立が来た。
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この叔父さんの説教最中に夕立が来た。
まだ朝顔の弟子入りをしたばかりの時だ。
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まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。
彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。
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彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。
大事な貝割れ葉の方へ行った。
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大事な貝割葉の方へ行った。
雨に打たれる朝顔の鉢の方へ行った。
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雨に打たれる朝顔鉢の方へ行った。
説教もそこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駆け出した。
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説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出した。
「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」
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「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」
と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。
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と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。
その先生はまた、火事見舞に来て朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。
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その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。
九月の田圃道
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九月の田圃道
傾斜に沿って赤坂(小諸町の一部)の家並みの見えるところへ出た。
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傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
浅間の山麓にあるこの町々は眠りから覚めた時だ。
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浅間の山麓にあるこの町々は眠から覚めた時だ。
朝飯の煙は何となく湿った空気の中に上りつつある。
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朝餐の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。
鶏の声もあちらこちらに聞える。
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鶏の声も遠近に聞える。
熟しかけた稲田のまわりには、豆も莢を垂れていた。
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熟しかけた稲田の周囲には、豆も莢を垂れていた。
稲の中にはすでに下葉の黄色くなったのもあった。
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稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。
九月も半ば過ぎだ。
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九月も半ば過ぎだ。
稲穂はいろいろで、あるものは薄の穂の色に見え、あるものはまったく草の色、あるものは赤毛の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色のが糯米を作った田であることは、私にも見分けがつく。
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稲穂は種々で、あるものは薄の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色のが糯を作った田であることは、私にも見分けがつく。
朝日は谷々へ射して来た。
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朝日は谷々へ射して来た。
田圃道の草露は足を濡らして、かゆい。
原文を見る
田圃道の草露は足を濡らして、かゆい。
私はその間を歩き廻って、蟋蟀の啼くのを聞いた。
原文を見る
私はその間を歩き廻って、蟋蟀の啼くのを聞いた。
この頃、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。
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この節、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。
「ああまた浅間が焼ける」
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「ああ復た浅間が焼ける」
と土地の人は言い合うのが癖だ。
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と土地の人は言い合うのが癖だ。
男や女が仕事しかけた手を休めて、外へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の塊が望まれる。
原文を見る
男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団が望まれる。
そういう時だけ、火山の麓に住んでいるような気持ちを起こさせる。
原文を見る
そういう時だけ火山の麓に住んでいるような心地を起させる。
こういうところに住み慣れたものは、ふだんは、そんなことも忘れがちに暮している。
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こういうところに住み慣れたものは、平素は、そんなことも忘れ勝ちに暮している。
浅間は大きな爆発のために崩されたような山で、今いう牙歯山が昔の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。
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浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山が往時の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。
何か山の形に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、たいてい失望する。
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何か山の形状に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。
浅間ばかりでなく、蓼科山脈の方を眺めても、何の変ったところも無い山々ばかりだ。
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浅間ばかりでなく、蓼科山脈の方を眺めても、何の奇も無い山々ばかりだ。
ただ、面白いのは山の空気だ。
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唯、面白いのは山の空気だ。
昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、ほとんど毎日のように変っている。
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昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。
山中生活
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山中生活
理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵の窓などが見える。
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理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵の窓なぞが見える。
その横に沿って荒町の通りへ出ると、畳表、鰹節、茶、雑貨などを商う店々が軒を並べたところに、かなり大きな鍛冶屋がある。
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その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成大きな鍛冶屋がある。
高い暗い屋根の下で、古風な髷に結った老人が鉄槌の音をさせている。
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高い暗い屋根の下で、古風な髷に結った老爺が鉄槌の音をさせている。
この昔気質の老人が、学校の体操教師の父親だ。
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この昔気質の老爺が学校の体操教師の父親さんだ。
朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場のわきを裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹をさして出掛けた。
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朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場の側を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
山家と言っても、これから私達が行こうとしているところは本当の山の中だ。
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山家と言っても、これから私達が行こうとしているところは真実の山の中だ。
深い山林の中に住む人達のいる方だ。
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深い山林の中に住む人達の居る方だ。
粟、小豆、馬の飼料にするとかいう稗などの畠が、私達の歩いて行く岡べの道に連なっていた。
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粟、小豆、飼馬の料にするとかいう稗なぞの畠が、私達の歩るいて行く岡部の道に連なっていた。
花の白い、茎の赤い蕎麦の畠なども至るところにあった。
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花の白い、茎の紅い蕎麦の畠なぞも到るところにあった。
秋の盛りだ。
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秋のさかりだ。
体操の教師は耕作のことに詳しい人だから、あちこちに光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」
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体操の教師は耕作のことに委しい人だから、諸方に光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」
というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢を垂れたのが「こうれい小豆」
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というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢を垂れたのが「こうれい小豆」
という種類だとか、おかげで私はいろいろなことを教えてもらった。
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という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えて貰った。
この体操教師は稲田を眺めただけで、その種類を区別するほど詳しかった。
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この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。
五、六本の松が岡に寄り添って立っているのを望んだ。
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五六本松の岡に倚って立っているのを望んだ。
囁道祖神があるのはそこだ。
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囁道祖神のあるのは其処だ。
寺窪というところへ出た。
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寺窪というところへ出た。
農家が五、六軒ずつ、ところどころに散らばっているほどの、ごく辺鄙な山村だ。
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農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙な山村だ。
君に黒斑山のことはまだ話さなかったかと思うが、やはり浅間の山続きだ、ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒い斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。
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君に黒斑山のことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。
あの天主台から黒斑山の裾にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。
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あの天主台から黒斑山の裾にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。
その白壁の見えるのもこの山村だ。
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その白壁の見えるのもこの山村だ。
塩俵を背負って腰を曲げながら歩いて行く農夫があった。
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塩俵を負って腰を曲めながら歩いて行く農夫があった。
体操の教師は呼び掛けて、
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体操の教師は呼び掛けて、
「もう漬物ですか」
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「もう漬物ですか」
と聞いた。
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と聞いた。
「今やりやすと二割方得ですよ」
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「今やりやすと二割方得ですよ」
荒い気候と戦う人達は、今から野菜を蓄えることを考えると見える。
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荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。
前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈の獲物もあるだろう。
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前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈の獲物もあるだろう。
こういう体操教師の後に付いて、私は学生と一緒に松林の方へ入った。
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こういう体操教師の後に随いて、私は学生と共に松林の方へ入った。
この松林は体操教師の持ち山だ。
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この松林は体操教師の持山だ。
松葉の枯れ落ちた中に、わずかに数本の黄しめじと、牛額としか採れなかった。
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松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額としか得られなかった。
それから笹の葉の間などを分けて「部分木の林」
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それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木の林」
と呼ぶ方に進み入った。
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と称える方に進み入った。
私達はかなり深い松林の中へ来た。
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私達は可成深い松林の中へ来た。
若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下ろしたり、それを束ねたりして働いているのに出会った。
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若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。
女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染みた手拭をかぶり、襦袢の肌を脱いで裾をからげた風で、前垂れを下げて、藁草履を履いていた。
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女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染みた手拭を冠り、襦袢肌抜ぎ尻端折という風で、前垂を下げて、藁草履を穿いていた。
赤い荒れた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。
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赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。
どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
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どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
その弟らしいのが三、四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見えた。
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その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見えた。
でも、健やかな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
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でも、健かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
母らしい人も林の奥から歩いて来た。
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母らしい人も林の奥から歩いて来た。
一同仕事を休めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
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一同仕事を休めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
この人達の働くあたりから岡続きに上って行くと、こう平らな松林の中へ出た。
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この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦な松林の中へ出た。
刈草を背負った男が林の間の細道を帰って行った。
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刈草を負った男が林の間の細道を帰って行った。
日は漏れて、湿った草の上に当っていた。
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日は泄れて、湿った草の上に映っていた。
深い林の中の空気は、水の中を行く魚か何かのようにその草刈男を見せた。
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深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。
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がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。
その音は寂しい林の中に響き渡った。
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その音は寂しい林の中に響き渡った。
熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。
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熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。
枯葉を鎌でかき除けて見ると、たまにあるのは紅蕈という食べられないものか、腐りかけた初茸くらいのものだった。
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枯葉を鎌で掻除けて見ると稀にあるのは紅蕈という食われないのか、腐敗した初蕈位のものだった。
しまいには探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなくなった。
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終には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。
軽い腰籠を提げたまま、南瓜の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。
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軽い腰籠を提げたまま南瓜の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。
山番の小屋が見えた。
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山番の小屋が見えた。
山番
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山番
番小屋の立っているところは尾の石と言って、黒斑山のすぐ裾にあたる。
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番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山の直ぐ裾にあたる。
三峯神社と書いた盗難除けの御札を貼り付けた馬小屋や、萩などを刈って干してある母屋の前に立って、日の当った土壁の色などを見た時は、私はよほど人里から離れた気がした。
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三峯神社とした盗難除の御札を貼付けた馬小屋や、萩なぞを刈って乾してある母屋の前に立って、日の映った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
鋭い目つきの赤犬が飛んで来た。
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鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。
しきりと私達を怪しむように吠えた。
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しきりと私達を怪むように吠えた。
この犬は番人に飼われて、いろいろな役に立つと見えた。
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この犬は番人に飼われて、種々な役に立つと見えた。
番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫でさせるほどになった。
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番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫でさせるほどに成った。
主人は髭も剃らずに林の管理をやっているような人であった。
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主人は鬚も剃らずに林の監督をやっているような人であった。
奥さんは襷掛けで、この山の中に出来た南瓜などを切りながら働いていた。
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細君は襷掛で、この山の中に出来た南瓜なぞを切りながら働いていた。
四人の子供も庭へ出て来た。
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四人の子供も庭へ出て来た。
一番年上のはもう十四、五になる。
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一番年長のは最早十四五になる。
狭い帯を締めて藁草履などを履いた、しかし髪の毛の黒い娘だ。
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狭い帯を〆て藁草履なぞを穿いた、しかし髪の毛の黒い娘だ。
年下の子供は私達の方を見て、何となくきまりの悪そうな恥じらいを帯びた顔つきをしていた。
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年少の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞を帯びた顔付をしていた。
そのそばには、トサカの美しい、白い雄鶏が一羽と、灰色の雌鶏が三羽ばかり遊んでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れてしまった。
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その側には、トサカの美しい、白い雄鶏が一羽と、灰色な雌鶏が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了った。
小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際ふだんは寝室と言った方が当っているだろう。
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小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素は寝室と言った方が当っているだろう。
家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉ばたの板敷きには薄縁を敷いて、耕作の道具や食器の類はすべてそのあたりに置き並べてある。
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家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺の板敷には薄縁を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺に置き並べてある。
何一つ飾りの無い、煤けた壁に、石版画に色をつけたものや、木版刷りの模様のついた暦などが貼り付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも、どれほどかこの山の中に住む人達の目を喜ばせるだろうと思われた。
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何一つ飾りの無い、煤けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦ばすであろうと思われた。
暮れの売り出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
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暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
私達は草鞋履きのまま炉ばたで足を休めた。
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私達は草鞋掛のまま炉辺で足を休めた。
奥さんが辣韮の塩漬けにしたのと、茶を出して勧めてくれた。
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細君が辣韮の塩漬にしたのと、茶を出して勧めてくれた。
渇いた私達の口には、小屋で飲んだ茶がうまかった。
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渇いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。
冬はこの炉に焚火を絶やしたことが無いと、主人が言った。
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冬はこの炉に焚火を絶したことが無いと、主人が言った。
ここまで上ると、よほど気候も違う。
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ここまで上ると、余程気候も違う。
一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が抜けないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の土にも合うことなど、いろいろな話を主人から聞いて来た。
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一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
やがて昼飯時だ。
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やがて昼飯時だ。
庭の栗の樹のかげで、私達は小屋で分けてもらった蕈を焼いた。
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庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰った蕈を焼いた。
主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。
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主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。
そこで昼飯が始まった。
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そこで昼飯が始まった。
奥さんは別に鶏と茄子の汁、南瓜の煮付けを御馳走に勧めてくれた。
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細君は別に鶏と茄子の露、南瓜の煮付を馳走振に勧めてくれた。
どれも大鍋にウンとあった。
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いずれも大鍋にウンとあった。
私達はめいめい手盛りでやった。
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私達は各自手盛でやった。
学生は握飯、パンなどを取り出す。
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学生は握飯、パンなぞを取出す。
体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
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体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
この山の中で林檎を試しに植えたら、地梨の虫が上って花の蜜を吸うために、実らずに終ってしまった。
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この山の中で林檎を試植したら、地梨の虫が上って花の蜜を吸う為に、実らずに了った。
これは奥さんが私達の食事するそばへ来ての話だった。
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これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。
赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をしゃぶった。
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赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。
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食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。
主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって、おおよそ一万坪の広い地面があるが、自分の代となってからは家族も少なく、手も届きかねて、荒れたままになっているところもある、とのことだ。
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主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
私達が訪ねて来たことは、よほど主人の心を喜ばせたらしい。
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私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。
主人はむっつりとした髭のある顔に似合わず、いろいろな話をした。
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主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。
蕎麦は十俵の収穫があるとか、試しに植えた銀杏、杉、竹などは大半枯れて消えたとか、栗も十三俵ほど蒔いてみたが、十四度も山火事に遭ううちに残ったのはすでに五、六間の高さになってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少ないとか話した。
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蕎麦は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
落葉松の畠も見えた。
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落葉松の畠も見えた。
その苗は草のようにやわらかで、日を受けて美しく輝いていた。
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その苗は草のように嫩かで、日をうけて美しくかがやいていた。
畠のまわりには地梨も多い。
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畠の周囲には地梨も多い。
黄色に熟したものは草の中に隠れていても、すぐに私達の目についた。
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黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。
もっとも、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
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尤も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
主人はまた、山火事の恐ろしいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。
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主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。
これから一里ばかり上ったところに炭焼き小屋があって、今は椚の木炭を焼いているという話もした。
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これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚の木炭を焼いているという話もした。
この山番のいる尾の石は、高峰と呼ぶ場所の一部とか。
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この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。
尾の石から菱野の湯までは十町ばかりで、毎日湯に入りに通うことも出来るという。
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尾の石から菱野の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。
菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思い出した。
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菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。
あの田舎娘の村は菱野だから。
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あの田舎娘の村は菱野だから。
土地に詳しい体操教師のおかげで、めずらしいところを見た。
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土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。
こうした山の中は、めったに私などが来られる場所ではない。
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こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。
一度私は歴史の教師と連れ立って、ここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったこともある。
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一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
あそこはまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
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彼処はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振り返った。
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別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。
白樺などの混じった木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根などが見えた。
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白樺なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
白樺の幹はどこの林にあっても目につくものだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には、もう美しく黄ばんだのも混じっていた。
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白樺の幹は何処の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早美しく黄ばんだのも混っていた。
その六
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その六
秋の修学旅行
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秋の修学旅行
十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引き連れて、千曲川の上流をさして出掛けた。
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十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。
秋の好い天気で、楽しい旅を続けることが出来た。
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秋の日和で楽しい旅を続けることが出来た。
この修学旅行では、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待ち受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒になって、和田の方から小諸へ戻って来た。
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この修学旅行には、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸へ戻って来た。
この旅にはほとんど一週間を費やした。
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この旅には殆んど一週間を費した。
私達は蓼科、八つが岳の長い山脈に沿って、あのまわりを大きく一周りしたのだ。
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私達は蓼科、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
その中でも、千曲川の上流から野辺山が原へかけては、一度私が遊びに行ったことのあるところだ。
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その中でも、千曲川の上流から野辺山が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。
その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。
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その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。
この旅で、私は以前の記憶を新しくした。
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この旅で、私は以前の記憶を新しくした。
その話を君にしようと思う。
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その話を君にしようと思う。
甲州街道
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甲州街道
小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は、割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。
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小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。
黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の目の前に開けて来る。
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黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。
千曲川はこの田畠の多い谷あいを流れている。
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千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
だいたい、犀川に合流するまでの千曲川は、ほとんど船の影を見ない。
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一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。
ただ、流れるままに任せてある。
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唯、流れるままに任せてある。
この一事だけで、君はあの川の性質と景色とを想像することが出来るだろう。
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この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
私は、佐久、小県の高い傾斜から、主に谷底の方に見下ろした千曲川ばかりを君に語っていた。
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私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君に語っていた。
今、私達が歩いて行く地形は、それとは趣の違う河域だ。
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今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。
臼田、野沢の町々を通って、私達はすぐ川の流れに近いところへ出た。
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臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
馬流というところまで岸に沿って遡ると、川の勢いも確かに一変して見える。
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馬流というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。
その辺には、川上から押し流されて来た恐ろしく大きな石が埋まっている。
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その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。
その間を流れる千曲川は、大河というよりもむしろ大きな渓流に近い。
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その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に近い。
この渓流に面した休み茶屋には甲州屋と称するところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。
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この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。
山を越して入り込んで来るという甲州商人が行き来しているのも見られる。
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山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。
馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。
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馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。
Tの家は宮司で、街道からすこし離れた静かで奥深い松原湖のほとりにある。
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Tの家は宮司で、街道からすこし離れた幽邃な松原湖の畔にある。
Tは私達を待ち受けていたのだ。
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Tは私達を待受けていたのだ。
白楊、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く川岸に生い茂っていた。
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白楊、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。
両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。
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両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。
水に近く設けた小さな水車小屋も至るところに見られた。
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水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。
八つが岳の山続きにある赤々とした大崩れの跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高くそびえた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺めの中に入った。
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八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高く聳えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。
日が傾いて来た。
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日が傾いて来た。
次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
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次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
時々私はT君と二人で立ち止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。
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時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。
その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に、遠く炭焼きの煙の立ち上るのも見えた。
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その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟の立登るのも見えた。
この谷の尽きたところに海の口村がある。
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この谷の尽きたところに海の口村がある。
何となく川の音も耳について来た。
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何となく川の音も耳について来た。
暮れてから、私達はその村へ入った。
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暮れてから、私達はその村へ入った。
山村の一夜
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山村の一夜
この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことがあった。
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この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏戦争の後、フランス兵の使った軍馬はわが陸軍省の手で買い取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気性の雄々しく強いアルゼリイ種の馬が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日ひと口に雑種と呼んでいるのは、主にこのアルゼリイ種を指したものです。その後アメリカ産の浅間号という名高い種馬も入り込みました。それから次第に馬の改良が始まる、野辺山が原の馬市は年ごとに盛んになる、その噂がさる宮殿下の御耳まで届くようになりました。殿下は陸軍騎兵付きの大佐で、隠れもない馬好きですから、御寵愛のファラリイスというアラビア産を種馬として南佐久へ御貸し付けになりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼び声になりました。殿下の御喜びはどれほどでしたろう。とうとう野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
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「清仏戦争の後、仏蘭西兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専にこのアルゼリイ種を指したものです。その後亜米利加産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂さが某の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御寵愛のファラリイスと云亜刺比亜産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御喜悦は何程でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓の村で過ごしたのは、ちょうどその行啓があるという時だった。
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以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
静かな山村の夜――川の水の氾濫を避けてこの高原の裾へ移り住んだという家々――風雪を防ぐための、木曾路などに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯――鄙びた宿屋の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は前に来たことのある土地をもう一度見ることが出来た。
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静かな山村の夜――河水の氾濫を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯――鄙びた旅舎の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊の地をもう一度見ることが出来た。
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無いほどの産馬地だ。
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ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地だ。
馬が土地の人の主な財産だ。
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馬が土地の人の主なる財産だ。
娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通るほどの、荒く質朴な人達が住むところだ。
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娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
風呂桶が下水の溜めの上に設けてあるということは――この辺の人達がどれほど骨の折れる暮らしを営んでいるとはいえ――また、それほど生活を簡単にする必要があるとはいえ――来て見るたびに私を驚かす。
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風呂桶が下水の溜の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度に私を驚かす。
ここからさらに千曲川の上流にあたって、川上の八カ村というのがある。
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ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。
その辺は信州の中でも最も不便な、白米はただ病人に食べさせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
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その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類にあたる人が提灯をつけて宿屋へ訪ねて来た。
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私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯つけて旅舎へ訪ねて来た。
ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
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ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
その娘も今では養子を迎えて、子供までいるとか。
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その娘も今では養子して、子供まであるとか。
こういう山村と結びつけて、下女奉公する人達の一生なども何となく私の心を引いた。
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こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
君はまだ「ハリコシ」
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君はまだ「ハリコシ」
などという物を食べたことがないだろう。
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なぞという物を食ったことがあるまい。
おそらく名前も聞いたことがないだろう。
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恐らく名前も聞いたことがあるまい。
熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。
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熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。
草鞋履きで焚火にあたりながら、その「ハリコシ」
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草鞋穿で焚火に温りながら、その「ハリコシ」
を食べながら話すというのが、この辺での炉ばたの楽しいありさまなのだ。
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を食い食い話すというが、この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。
高原の上
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高原の上
翌朝私達は野辺山が原へ上った。
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翌朝私達は野辺山が原へ上った。
私の胸にはいろいろな記憶が浮かび上って来た。
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私の胸には種々な記憶が浮び揚って来た。
ファラリイスの駒三十四頭、牝馬二百四十頭、牡馬まで合わせて三百余頭の馬が列をつくって通り過ぎたのも、この原へ通う道だった。
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ファラリイスの駒三十四頭、牝馬二百四十頭、牡馬まで合せて三百余頭の馬匹が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。
馬市が立つというあたりに作られた御仮屋、紫と白との幕、あちこちに店を構えた商人、四千人余りの群集、そんなものがごちゃごちゃと胸に浮かんで来た。
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馬市の立つというあたりに作られた御仮屋、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。
あの時は、私は仕立屋と連れ立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の目に残っているのは長野の方から知事に付いて来た背の高い参事官だ。
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あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随いて来た背の高い参事官だ。
白いしなやかな手を振って、柔らかな靴音をさせる紳士だった。
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白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。
それでいて動作には敏捷なところもあった。
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それで居て動作には敏捷なところもあった。
ちょうどあの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」
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丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」
を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイのタイプをその参事官に当てはめてみたりなどした。
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を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型をその参事官に当嵌てみたりなぞした。
あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取り出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
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あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。
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あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。
もう霜が来るらしい雑草の葉が、あるものは黄色に、あるものは焦茶色になったのを踏んで、ぽつんぽつんと立っている白樺の幹に朝日の当る様子などを眺めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。
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最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺の幹に朝日の映るさまなぞを眺めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。
この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦などを蒔いたところもあって、それを耕す人達がところどころにわずかな村落を形づくっている。
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この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦なぞを蒔いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅かな村落を形造っている。
板橋村はその一番手前にある村だ。
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板橋村はその一番取付にある村だ。
以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
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以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾の見えた八つが岳が次第に険しい山の骨を現して来て、しまいには紅色の光を帯びた頂まで見られる頃は、影が山から山へ射しておりました。甲州にまたがる山脈の色は何度変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照らし始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮かんで、いつの間にか青空になりました。ああ朝です。
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「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾の見えた八つが岳が次第に険しい山骨を顕わして来て、終に紅色の光を帯びた巓まで見られる頃は、影が山から山へ映しておりました。甲州に跨る山脈の色は幾度変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
男山、金峯山、女山、甲武信岳、などの山々も残りなく現れました。
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男山、金峯山、女山、甲武信岳、などの山々も残りなく顕れました。
遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。
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遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。
千曲川は朝日を受けて白く光りました――」
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千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
夫婦とあるのは、私がその話の中に書こうとした人物だ。
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夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。
一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
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一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖の半天に、股引、草鞋履きで、頬かぶりした農夫が、幾組も夫婦のそばを通る。鍬を肩に掛けた男もあり、肥桶を担いで腰をひねって行く男もあり、父親の煙草入れを腰にぶら下げながら付いて行く子もありました。気候、雑草、荒廃、痩せた土などを相手に、秋の一日の激しい労働が今まさに始まるのでした。
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「筒袖の半天に、股引、草鞋穿で、頬冠りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬を肩に掛けた男もあり、肥桶を担いで腰を捻って行く男もあり、爺の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土などを相手に、秋の一日の烈しい労働が今は最早始まるのでした。
すでに働いている農夫もありました。
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既に働いている農夫もありました。
黒々とした「ノッペイ」
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黒々とした「ノッペイ」
の畠のそばを進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗みずくになって、わき目もふらずに畠を打っておりました。
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の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫に成って、傍目をふらずに畠を打っておりました。
大きな鍬を打ち込んで、体を横にして倒れるばかりに土の塊を起こす。
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大きな鍬を打込んで、身を横にして仆れるばかりに土の塊を起す。
気の遠くなるような黒土のにおいはぷんと鼻を突くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも出会いました。
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気の遠くなるような黒土の臭気は紛として、鼻を衝くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
高原の秋は今です。
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高原の秋は今です。
見渡せば木立もところどころ。
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見渡せば木立もところどころ。
枝という枝は南向きに伸びて、冬に吹く風の強さも思いやられる。
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枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁さも思いやられる。
白樺は多く葉を落として高く空に突っ立ち、細葉の楊はうずくまるように低く隠れている。
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白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹は踞るように低く隠れている。
秋の光を送る風が騒がしく吹き渡ると、草は黄色い波を打って、動きなびいて、柏の葉も裏返りました。
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秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡いて、柏の葉もうらがえりました。
ここかしこに見える大きな石には秋の日があたって、寂しい思いをさせるのでした。
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ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」
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「ありしおで」
の葉を垂れ、弘法菜の花をつけるのはここです。
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の葉を垂れ、弘法菜の花をもつのは爰です。
「かしばみ」
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「かしばみ」
の実が落ちこぼれるのもここです。
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の実の落ちこぼれるのも爰です。
ここにはまた、野の鳥も住み隠れました。
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爰には又、野の鳥も住み隠れました。
笹の葉かげに巣をつくる雲雀は、老いて春先ほどの勢いも無い。
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笹の葉蔭に巣をつくる雲雀は、老いて春先ほどの勢も無い。
鶉は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛び立つ。
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鶉は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。
見れば不格好な短い羽をひろげて、舞い上ろうとしてやがて、ぱったり落ちるように草の中へ隠れてしまうのでした。
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見れば不格好な短い羽をひろげて、舞揚ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
他の樹木が黄色く枯れがれとした中に、まだ緑の多いかげをとどめたところもある。
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外の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝な蔭をとどめたところも有る。
それは水の流れを旅人に教えるもので、そこには雑木が生い茂って、泉に沿って枝を垂れ、深く根を浸しているのです。
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それは水の流を旅人に教えるので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少ない。
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今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。
八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫だけは、冬の秣に乏しいので、遠くここまで馬を引いて来て、草を刈り集めておりました……」
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八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣に乏しいので、遠く爰まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
これは主に旧道から見た様子だ。
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これは主に旧道から見た光景だ。
趣の深いのも旧道だ。
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趣の深いのも旧道だ。
以前私は新道の方も通って、帰り道に原の中を抜けたこともある。
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以前私は新道の方をも取って、帰り路に原の中を通ったこともある。
その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに出会った。
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その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。
彼等は弁当を食べながら歩いていた。
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彼等は弁当を食いながら歩いていた。
聞いてみると、往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈り集めなければならない。
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聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。
朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食べている暇が無いという。
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朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。
馬を引いて歩きながらの弁当――実にせわしい暮らしの様子だと思った。
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馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙しい生活の光景だと思った。
こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を通って歩いて行った。
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こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。
三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
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三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。
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この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。
今は馬を見ることも少ないが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠くに見える。
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今は馬匹を見ることも少いが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
白樺の下葉はもう落ちていた。
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白樺の下葉は最早落ちていた。
枯葉や草のそよぐ音――特に槲の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅していることを思わせる。
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枯葉や草のそよぐ音――殊に槲の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹」
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「まぐそ鷹」
というのが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。
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というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。
私達はところどころにある茶色の楢の木立も見て通った。
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私達はところどころにある茶色な楢の木立をも見て通った。
それが遠い灰色の雲などを背景にして立つ様子は、何となく茫漠とした感じを与える。
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それが遠い灰色の雲なぞを背景にして立つさまは、何んとなく茫漠とした感じを与える。
原にある一筋の細い道のそばには、紫色に咲いた花もあった。
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原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。
T君に聞くと、それは松虫草とか言った。
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T君に聞くと、それは松虫草とか言った。
この辺は古い戦場の跡ででもあって、昔、海の口の城主が甲州の武士と戦って戦死したと言い伝えられる場所もある。
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この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨を見つけた。
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甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨を見つけた。
葉は落ち尽くして、小さな赤い実が残っていた。
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葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。
草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。
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草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。
中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするものもあった。
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中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。
間もなく私達は、甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。
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間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。
私達は樹木の少ない大きな傾斜、深い谷々などを目の下にして立った。
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私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
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「富士!」
と学生は互いに呼び交わして、そこから高く険しい坂道を甲州の方へ下りた。
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と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻しい坂道を甲州の方へ下りた。
その七
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その七
落葉の一
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落葉の一
毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。
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毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。
雑木林や平らな耕地の多い武蔵野へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。
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雑木林や平坦な耕地の多い武蔵野へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。
ここの桑畠へ三度や四度もあの霜が来て見たまえ、桑の葉はたちまち縮み上って焼け焦げたようになる、畠の土はぼろぼろに崩れてしまう……見ても恐ろしい。
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ここの桑畠へ三度や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽ち縮み上って焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛れて了う……見ても可恐しい。
猛烈な冬の力を示すものは、あの霜だ。
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猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。
そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔らかい。
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そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。
降り積る雪はむしろ平和な感じを抱かせる。
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降り積る雪はむしろ平和な感じを抱かせる。
十月末のある朝のことであった。
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十月末のある朝のことであった。
私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ落ちるのを見た。
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私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下るのを見た。
肉の厚い柿の葉は霜のために焼け傷んだり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪えられずもろく落ちる。
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肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪えないで脆く落ちる。
しばらく私はそこに立って、ぼんやりと眺めていたくらいだ。
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しばらく私はそこに立って、茫然と眺めていた位だ。
そして、その朝は特に激しい霜が来たことを思った。
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そして、その朝は殊に烈しい霜の来たことを思った。
落葉の二
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落葉の二
十一月に入って急に寒さを増した。
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十一月に入って急に寒さを増した。
天長節の朝、起き出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も、みな白く見渡される。
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天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。
裏口の柿の葉は一度に落ちて、道も埋まるばかりであった。
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裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋れるばかりであった。
すこしも風は無い。
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すこしも風は無い。
それでいて一葉二葉ずつ静かに地へ落ちる。
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それでいて一葉二葉ずつ静かに地へ下る。
屋根の上の方で鳴く雀も、いつもよりは高く勇ましそうに聞えた。
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屋根の上の方で鳴く雀も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
空はどんよりとして、霧のためにまったく灰色に見えるような日だった。
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空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。
私は台所の焚火に凍えた両手をかざしたくなった。
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私は勝手元の焚火に凍えた両手をかざしたく成った。
足袋を履いた爪先も寒くしみて、いかにも恐ろしい冬が近寄って来ることを感じた。
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足袋を穿いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐しい冬の近よって来ることを感じた。
この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、ほとんど五ヶ月の冬を過ごさなければならない。
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この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆んど五ヶ月の冬を過さねば成らぬ。
その長い冬ごもりの用意をしなければならない。
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その長い冬籠りの用意をせねば成らぬ。
落葉の三
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落葉の三
木枯が吹いて来た。
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木枯が吹いて来た。
十一月中旬のことであった。
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十一月中旬のことであった。
ある朝、私は潮の押し寄せて来るような音に驚かされて、目が覚めた。
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ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚かされて、眼が覚めた。
空を通る風の音だ。
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空を通る風の音だ。
時々それが静まったかと思うと、急にまた吹きつける。
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時々それが沈まったかと思うと、急に復た吹きつける。
戸も鳴れば障子も鳴る。
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戸も鳴れば障子も鳴る。
特に南向きの障子にはバラバラと木の葉のあたる音がして、その間には千曲川の川音もふだんより見るとずっと近く聞えた。
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殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素から見るとずっと近く聞えた。
障子を開けると、木の葉は部屋の中までも舞い込んで来る。
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障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで来る。
空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流れのところに立つ柳などは烈風に吹かれて髪を振るように見えた。
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空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流のところに立つ柳なぞは烈風に吹かれて髪を振うように見えた。
枯れがれとした桑畠に茶褐色に残った霜葉なども左右に吹きなびいていた。
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枯々とした桑畠に茶褐色に残った霜葉なぞも左右に吹き靡いていた。
その日、私は学校の行きと帰りとに停車場前の通りを横切って、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男や、手拭をかぶって両手を袖に隠した女などが行き過ぎるのに出会った。
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その日、私は学校の往と還とに停車場前の通を横ぎって、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男だの、手拭を冠って両手を袖に隠した女だのの行き過ぎるのに遭った。
行き交う人々は、どれも鼻をすすったり、まぶたを赤くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白っぽく、頬、耳、鼻の先だけは赤くなって、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。
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往来の人々は、いずれも鼻汁をすすったり、眼側を紅くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白ッぽく、頬、耳、鼻の先だけは赤く成って、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。
風を背にした人は飛ぶようで、風に向って行く人はまた、力を出して物を押すように見えた。
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風を背後にした人は飛ぶようで、風に向って行く人は又、力を出して物を押すように見えた。
土も、岩も、人の皮膚の色も、私の目には灰色に見えた。
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土も、岩も、人の皮膚の色も、私の眼には灰色に見えた。
日光そのものが黄ばんだ灰色だ。
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日光そのものが黄ばんだ灰色だ。
その日の木枯が野山を吹きまくる様子はすさまじく、激しく、また勇ましくもあった。
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その日の木枯が野山を吹きまくる光景は凄まじく、烈しく、又勇ましくもあった。
樹木という樹木の枝はたわみ、幹も揺れ動き、柳、竹の類は草のようになびいた。
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樹木という樹木の枝は撓み、幹も動揺し、柳、竹の類は草のように靡いた。
柿の実で梢に残ったのは吹き落された。
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柿の実で梢に残ったのは吹き落された。
梅、李、桜、欅、銀杏などの霜葉は、その一日でことごとく落ちた。
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梅、李、桜、欅、銀杏なぞの霜葉は、その一日で悉く落ちた。
そして、そこここにたまった落葉が風に吹かれては舞い上った。
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そして、そこここに聚った落葉が風に吹かれては舞い揚った。
急に山々の景色は寂しく、明るくなった。
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急に山々の景色は淋しく、明るく成った。
炬燵話
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炬燵話
私は君に、山の上の冬を待ち受けることがどれほど恐ろしいかを話した。
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私が君に山上の冬を待受けることの奈様に恐るべきかを話した。
しかしその長い寒い冬の季節が、また信濃における最も趣の多い、最も楽しい時であることも告げなければならない。
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しかしその長い寒い冬の季節が又、信濃に於ける最も趣の多い、最も楽しい時であることをも告げなければ成らぬ。
それにはまず自分の体のことを話そう。
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それには先ず自分の身体のことを話そう。
そうだ。
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そうだ。
この山国へ移り住んだ当時、土地に慣れない私は風邪を引きやすくて困った。
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この山国へ移り住んだ当時、土地慣れない私は風邪を引き易くて困った。
こんなことでしのいで行けるのかと思うくらいだった。
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こんなことで凌いで行かれるかと思う位だった。
実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、ちょうど私の体にもそれに合ったことが起って来た。
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実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、丁度私の身体にもそれに適したことが起って来た。
次第に私は激しい気候の刺激に抵抗できるようになった。
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次第に私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。
東京にいた頃と比べると、私は自分の皮膚が特に丈夫になったことを感じる。
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東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成ったことを感ずる。
私の肺はごく冷たい山の空気を呼吸するのに堪えられる。
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私の肺は極く冷い山の空気を呼吸するに堪えられる。
それだけでなく、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠を眺めたりして、家の外を歩き廻るたびに、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快さを覚えるようになった。
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のみならず、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠を眺めたりして、屋の外を歩き廻る度に、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快感を覚えるように成った。
草木までも、ここで育つものは、柔らかな気候の中にあるものとは違って見える。
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草木までも、ここに成長するものは、柔い気候の中にあるものとは違って見える。
多くの常緑樹の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。
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多くの常磐樹の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。
試みに君が武蔵野あたりの緑を見た目で、ここの石の多い土地に茂る赤松の林などを望んだなら、色合いの違いだけにも驚くだろう。
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試みに君が武蔵野辺の緑を見た眼で、ここの礫地に繁茂する赤松の林なぞを望んだなら、色相の相違だけにも驚くであろう。
ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことがあった。
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ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことが有った。
五、六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野良へ働きに行こうとする農夫、番小屋のそばにしょんぼり立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬の男などに出会った。
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五六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野面へ働きに行こうとする農夫、番小屋の側にションボリ立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬の男なぞに逢った。
そして私は――私自身それを感じるように――この人達の手などが真赤に腫れるほどの寒い朝でも、みな見かけほど気候に怯えてはいないということを知った。
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そして私は――私自身それを感ずるように――この人達の手なぞが真紅に腫れるほどの寒い朝でも、皆な見かけほど気候に臆してはいないということを知った。
「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
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「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
こんなことを言って、みな歩き廻る。
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こんなことを言って、皆な歩き廻る。
それでも暖かさが取れるという風だ。
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それでも温熱が取れるという風だ。
それから私は学校の連中と一緒になったが、朝霧は次第に晴れて行った。
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それから私は学校の連中と一緒に成ったが、朝霧は次第に晴れて行った。
そこいらは明るくなって来た。
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そこいらは明るく成って来た。
浅間の山の裾もすこし現れて来た。
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浅間の山の裾もすこし顕れて来た。
早く行く雲などが目に入る。
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早く行く雲なぞが眼に入る。
ところどころに濃い青空が見えて来る。
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ところどころに濃い青空が見えて来る。
そのうちに西の方は晴れて、ぽっと日が当って来る。
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そのうちに西の方は晴れて、ポッと日が映って来る。
浅間がすっかり見えるようになると、やはり冬らしくなったという気がする。
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浅間が全く見えるように成ると、でも冬らしく成ったという気がする。
もうあの山の頂には白髪のような雪が望まれる。
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最早あの山の巓には白髪のような雪が望まれる。
こんな風にして、冬が来る。
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こんな風にして、冬が来る。
激しい気候を相手に働くものにとって、一年中の楽しい休息の時が来る。
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激しい気候を相手に働くものに取って、一年中の楽しい休息の時が来る。
信州名物の炬燵の上には、茶盆だの、漬物鉢だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、そのまわりで炬燵話というやつが始まる。
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信州名物の炬燵の上には、茶盆だの、漬物鉢だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、その周囲で炬燵話というやつが始まる。
小六月
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小六月
気候は繰り返す。
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気候は繰返す。
暖かな平野の地方ではそれほど際立って感じないようなことを、ここでは切に感じる。
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温暖な平野の地方ではそれほど際立って感じないようなことを、ここでは切に感ずる。
寒い日があるかと思うと、また馬鹿に暖かい日がある。
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寒い日があるかと思うと、また莫迦に暖い日がある。
それからまた一層寒い日が来る。
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それから復た一層寒い日が来る。
いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでしまいはしない。
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いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでは了わない。
秋から冬になる頃の小春日和は、この地方での最も忘れ難い、最も気持ちの好い時の一つである。
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秋から冬に成る頃の小春日和は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。
俗に「小六月」
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俗に「小六月」
とはその楽しさを言い表した言葉だ。
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とはその楽しさを言い顕した言葉だ。
それで、私はいくらかこの話を引き戻して、もう一度十一月の上旬に立ち返って、そういう日あたりの中で農夫達が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。
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で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。
小春の岡辺
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小春の岡辺
風の少ない、雲の無い、暖かな日に外へ出て見ると、日光は眩しいほどぎらぎら輝いて、静かに眺めることも出来ないくらいだが、それでいながら日蔭へ寄ればやはり寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じり合ったのが、楽しい小春日和だ。
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風のすくない、雲の無い、温暖な日に屋外へ出て見ると、日光は眼眩しいほどギラギラ輝いて、静かに眺めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じ合ったのが、楽しい小春日和だ。
そういう日のある午後、私は小諸の町裏にある赤坂の田圃の中へ出た。
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そういう日のある午後、私は小諸の町裏にある赤坂の田圃中へ出た。
その辺は勾配のついた岡続きで、田と田の境は例の石垣になっている。
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その辺は勾配のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。
私は枯れがれとした草土手に身をもたせ掛けて、眺め入った。
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私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
手回しの好い農夫はすでに収穫を終えた頃だ。
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手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。
近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁はその辺に置き並べてあった。
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近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁はその辺に置き並べてあった。
二人の丸髷に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。
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二人の丸髷に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。
男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖という小作人らしい身なりで、女の機嫌を取りながら籾の俵を作っていた。
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男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖という小作人らしい風体で、女の機嫌を取り取り籾の俵を造っていた。
そのあたりの田の面には、この一家族のほかに、野に出て働いているものも見えなかった。
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そのあたりの田の面には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
古い釜形帽をかぶって、黄菊を一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
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古い釜形帽を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
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「まあ、一服お吸い」
と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽が一緒に、石垣に寄りかかりながら煙草をふかし始めた。
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と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚りながら煙草を燻し始めた。
女二人は話しながら働いた。
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女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」
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「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」
などと女の語る声が聞えた。
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などと女の語る声が聞えた。
私は外で日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。
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私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。
振り返って見ると、一方の畦の上には菅笠、下駄、弁当の包みらしい物などが置いてあって、そこで男のふかす煙草の煙が日の光に青く見えた。
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振返って見ると、一方の畦の上には菅笠、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
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「さいなら、それじゃお静かに」
と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
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と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
鳥打帽は鍬を取って田の土をすこしならし始めた。
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鳥打帽は鍬を執って田の土をすこしナラし始めた。
女二人がせっせと籾をふるったり、稲こきをしたりしているのに引き替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、すぐに鍬を杖にして、こちらを眺めてはぼんやりと立っていた。
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女二人が錯々と籾を振ったり、稲こきしたりしているに引替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直に鍬を杖にして、是方を眺めてはボンヤリと立っていた。
岡辺は光の海であった。
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岡辺は光の海であった。
黒ずんだ土、不揃いな石垣、枯れがれの桑の枝、畦の草、田の面に干した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢まで、小春の光の満ち溢れていないところは無かった。
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黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢まで、小春の光の充ち溢れていないところは無かった。
私の目に入る範囲にはよく働く男が二人までも入って来た。
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私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。
一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起こし始めた。
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一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。
もう一人はいかにも背の高い、痩せた、年若い農夫だ。
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今一人はいかにも背の高い、痩せた、年若な農夫だ。
高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を現して、モミを打ち始めた。
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高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕して、モミを打ち始めた。
遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌だけは見えた。
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遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌だけは見えた。
そして、その槌の音が遠い砧の音のように聞えた。
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そして、その槌の音が遠い砧の音のように聞えた。
午後の三時過ぎまで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
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午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
そのうちに、畠わきの柿や雑木に雀の群がやかましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。
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そのうちに、畠側の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。
刈り取られた田の面には、もう青い麦の芽が二寸ほども伸びていた。
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刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
急に私の後ろから下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立ち止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。
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急に私の背後から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。
見ると、茶色になった桑畠を隔てて、親子二人が取り入れを急いでいた。
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見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫を急いでいた。
子供はお茶が入ったことを知らせに来たのだ。
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子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。
信州の人ほど茶好きな人達も少ないだろうと思うが、その子供がまた駆け出して行った後でも、親子は時を惜しむという風で、母の方は稲穂をこき落すのに余念なく、息子はその籾を叩く方に廻ってすこしも手を休めなかった。
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信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息はその籾を叩く方に廻ってすこしも手を休めなかった。
遠く離れてはいたが、手拭をかぶった母が体を伸ばしたり縮めたりする様子も、息子がシャツ一枚になって後ろ向きに働いている様子も、よく見えた。
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遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
子供にあんなことを言われると、私も喉が渇いて来た。
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子供にあんなことを言われると、私も咽喉が乾いて来た。
家へ帰って濃い熱い茶にありつきたいと思いながら、元来た道を引き返そうとした。
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家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。
斜めに射して来た日光は黄色を帯びて、何となくあちこちの眺めが改まった。
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斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近の眺望が改まった。
岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集まったかと思うと、やがてまたパッと散って隠れた。
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岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。
農夫の生活
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農夫の生活
君はどれほど私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いただろう。
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君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。
私の話の中には、何度も農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く様子を眺めたりして、多くの時を過ごしたことが出て来る。
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私の話の中には、幾度か農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く光景を眺めたりして、多くの時を送ったことが出て来る。
それほど私は飽きない気持ちでいる。
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それほど私は飽きない心地で居る。
そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。
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そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。
見たところ、Openで、質素で、単純で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。
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見たところ、Openで、質素で、簡単で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。
しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。
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しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。
同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫達。
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同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫等。
たとえば、彼等の生活はごく地味な灰色だ。
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譬えば、彼等の生活は極く地味な灰色だ。
その灰色に幾通りあるか知れない。
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その灰色に幾通りあるか知れない。
私は学校の合間合間に、自分でも鍬を取ってすこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしてもまだ彼等の心には入れない。
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私は学校の暇々に、自分でも鍬を執って、すこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしても未だ彼等の心には入れない。
こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうにか機会を作って、彼等に近づくことを楽しみとする。
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こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうかいう機会を作って、彼等に近づくことを楽みとする。
赤い茅萱の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵を尻に敷き、田へ両足を投げ出しながら、ある日、私は小作をする人達のそばにいた。
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赤い茅萱の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵を尻に敷き、田へ両足を投出しながら、ある日、私は小作する人達の側に居た。
その一人は学校の用務員の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。
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その一人は学校の小使の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。
辰さん親子は麦畠の「サク」
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辰さん親子は麦畠の「サク」
を掛け起こしていたが、私の方へ来ては休み休みいろいろな話をした。
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を掛け起していたが、私の方へ来ては休み休み種々な話をした。
雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くては叶わないものでありながら、また百姓が敵として戦わなければならないものでもある。
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雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くて叶わぬものでありながら、又百姓が敵として戦わねば成らないものでもある。
そんなことから、この辺の百姓が苦しむというさまざまな雑草の話が出た。
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そんなことから、この辺の百姓が苦むという種々な雑草の話が出た。
水沢瀉、えご、夜這蔓、山牛蒡、つる草、蓬、蛇苺、あけびの蔓、がくもんじ(天王草)、その他田の草を取る時の邪魔ものは、私などが覚えきれないほどある。
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水沢瀉、えご、夜這蔓、山牛蒡、つる草、蓬、蛇苺、あけびの蔓、がくもんじ(天王草)その他田の草取る時の邪魔ものは、私なぞの記憶しきれないほど有る。
辰さんは田の中から一塊の土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に見せた。
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辰さんは田の中から、一塊の土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に示した。
それは「ひょうひょう草」
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それは「ひょうひょう草」
とか言った。
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とか言った。
この人達はまた、その中からいろいろな薬草を見分けることを知っていた。
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この人達は又、その中から種々な薬草を見分けることを知っていた。
「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろと御座います」
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「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろと御座います」
話好きな辰さんの父親は、女穂、男穂のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。
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話好きな辰さんの父親は、女穂、男穂のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。
「地獄蒔き」
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「地獄蒔」
と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地形に応じたことを考えるという話もした。
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と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地勢に応じたことを考えるという話もした。
小諸は東西の風を受けるから、南北に向って「ウネ」
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小諸は東西の風をうけるから、南北に向って「ウネ」
を作ると、日あたりも好いし、また風のために穂が擦れ落ちる心配が無い、自分達は絶えずそんなことを工夫しているとも話した。
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を造ると、日あたりも好し、又風の為に穂の擦れ落ちる憂が無い、自分等は絶えずそんなことを工夫しているとも話した。
「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂られます」
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「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂られます」
こう言って、隠居は笑った。
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こう言って、隠居は笑った。
「この阿爺さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
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「この阿爺さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
と辰さんは言い置いて、麦藁帽の古いのをかぶりながらまた畠へ出た。
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と辰さんは言い置いて、麦藁帽の古いのを冠りながら復た畠へ出た。
辰さんの弟も股引を膝までまくし上げ、素足を出して、兄と一緒に土を起こし始めた。
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辰さんの弟も股引を膝までまくし上げ、素足を顕して、兄と一緒に土を起し始めた。
二人は腰に差した鎌を取り出して、時々鍬にくっつく土をかき取って、それからまた腰をかがめてせっせとやった。
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二人は腰に差した鎌を取出して、時々鍬に附着する土を掻取って、それから復た腰を曲めて錯々とやった。
「浅間が焼けますナ」
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「浅間が焼けますナ」
とみな言い合った。
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と皆な言い合った。
私は掘り起こされる土の香を嗅ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身の上話を聞かされた。
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私は掘起される土の香を嗅ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身上話を聞かされた。
この人は六十三歳になって、まだ耕作を休まずにいるという。
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この人は六十三歳に成って、まだ耕作を休まずにいるという。
十四の時から灸、占いの道楽を覚え、三十代には十年も人力車を引いて、自分が小諸の車夫の始まりだということ、それから同居する夫婦の噂などもして、鉄道に親を轢き潰されてから、その男も次第に落ちぶれたことを話した。
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十四の時から灸、占の道楽を覚え、三十時代には十年も人力車を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂なぞもして、鉄道に親を引つぶされてからその男も次第に、零落したことを話した。
「お百姓なぞは、能の無いものの為るこんです……」
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「お百姓なぞは、能の無いものの為るこんです……」
と隠居は自分を嘲るように言った。
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と隠居は自ら嘲るように言った。
その時、髪の白い、背の高い、たくましい体格を備えた老いた農夫が、同じ年恰好の仲間と並んで、どちらも土の食い入った大きな手に鍬を携えながら、私達のそばを挨拶して通った。
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その時、髪の白い、背の高い、勇健な体格を具えた老農夫が、同じ年格好な仲間と並んで、いずれも土の喰い入った大きな手に鍬を携えながら、私達の側を挨拶して通った。
肥やし桶を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ若者もあった。
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肥し桶を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ壮年も有った。
収穫
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収穫
ある日、また私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
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ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
午後の四時頃だった。
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午後の四時頃だった。
私が出た岡の上はかなり眺めの好いところで、大きな波のような傾斜の下の方に小諸町の一部が見下ろされる位置にある。
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私が出た岡の上は可成眺望の好いところで、大きな波濤のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下される位置にある。
私のまわりには、すでに刈って干した田や、まだ刈り取らない田などが連なり続いて、その中である二家族だけが残って取り入れを急いでいた。
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私の周囲には、既に刈乾した田だの未だ刈取らない田だのが連なり続いて、その中である二家族のみが残って収穫を急いでいた。
雪の来ないうちに早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心せわしい様子が思われる。
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雪の来ない中に早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心忙しさが思われる。
私の目の前では胡麻塩頭の父と十四、五ばかりになる子とが、互いに長い槌を振り上げて籾を打った。
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私の眼前には胡麻塩頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長い槌を振上げて籾を打った。
その音がトントンと地に響いて、白い土埃が立ち上った。
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その音がトントンと地に響いて、白い土埃が立ち上った。
母は手拭をかぶり、手甲を着けて、稲の穂をこいては前にある箕の中へ落していた。
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母は手拭を冠り、手甲を着けて、稲の穂をこいては前にある箕の中へ落していた。
そのかたわらには、父子の叩いた籾を篩にすくい入れて、腰をかがめながら働いている、黒く日に焼けた顔つきの女もあった。
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その傍には、父子の叩いた籾を篩にすくい入れて、腰を曲めながら働いている、黒い日に焼けた顔付の女もあった。
それから赤い襷掛けに紺足袋履きという身なりで、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつふるい落すと、そのたびに粃と埃との混じり合った黄色い煙を送る女もあった。
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それから赤い襷掛に紺足袋穿という風俗で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつ振い落すと、その度に粃と塵埃との混り合った黄な煙を送る女もあった。
日が短いから、みな話もしないで、埃だらけになって働いた。
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日が短いから、皆な話もしないで、塵埃だらけに成って働いた。
岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦で笠をかぶって働いているのがある。
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岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。
特にその女房が箕を高く差し上げて風に立てているのが見える。
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殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。
風は身に染みて、ひやひやとして来た。
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風は身に染みて、冷々として来た。
私の目の前で働いていた男の子は、稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。
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私の眼前に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。
母も上っ張りの埃を払って着た。
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母も上着の塵埃を払って着た。
何となく私も体がゾクゾクして来たから、からげた裾を下ろして、着物の上から自分の膝をさすりながら、みなのすることを見ていた。
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何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬かぶりの男もあった。
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鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。
鎌を二挺持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」
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鎌を二挺持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」
と言いながら通り過ぎる女もあった。
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と言いつつ通過ぎる女もあった。
目の前の父子が打つ槌の音はトントンと忙しくなった。
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眼前の父子が打つ槌の音はトントンと忙しく成った。
「フン」
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「フン」
、「ヨウ」
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、「ヨウ」
の掛け声もかすかに漏れて来た。
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の掛声も幽かに泄れて来た。
そのうちに、父はへなへなした俵を取り出した。
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そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。
腰を伸ばして埃の中を眺める女もあった。
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腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。
田の中には黄色い籾の山が出来た。
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田の中には黄な籾の山を成した。
その時はもう暮色が薄く迫っていた。
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その時は最早暮色が薄く迫った。
小諸の町続きと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄が立ちこめた。
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小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄が立ち籠めた。
向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
原文を見る
向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾を詰めた俵に縄を掛けて、それを背負いながら家をさして運んで行く様子だ。
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私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負いながら家を指して運んで行く様子だ。
今は三人の女が主になって働いた。
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今は三人の女が主に成って働いた。
岡辺も暮れかかって来て、野良にいて働くものも無くなる。
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岡辺も暮れかかって来て、野面に居て働くものも無くなる。
向うの田の中にいる夫婦者の姿もよく見えないほどになった。
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向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
光岳寺の暮れの鐘が響き渡った。
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光岳寺の暮鐘が響き渡った。
浅間も次第に暮れ、紫色に夕映えした山々はいつしか暗い鉛色となって、ただ白い煙だけが暗い紫色の空に望まれた。
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浅間も次第に暮れ、紫色に夕映した山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。
急に野良がパッと明るくなったかと思うと、また響き渡る鐘の音を聞いた。
原文を見る
急に野面がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。
私のそばには、青々とした菜を背負って帰って行く子供もあり、男とも女とも後ろ姿の分らないようなのが足早に岡の道を下って行くのもあり、そうかと思うと、上っ張りのまま細帯も締めないで、まるで帯を解きひろげたように見える荒くれた女が、獣のように走って行くのもあった。
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私の側には、青々とした菜を負って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分らないようなのが足速に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣のように走って行くのもあった。
南の空には青光りのある星が一つ現れた。
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南の空には青光りのある星一つあらわれた。
すこし離れて、また一つ現れた。
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すこし離れて、また一つあらわれた。
この二つの星の姿が紫色の暮れの空にちらちらと光を見せた。
原文を見る
この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。
西の空はと見ると、山の端は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野良に投げた。
原文を見る
西の空はと見ると、山の端は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面に投げた。
働いている三人の女の頬かぶり、かがめた腰、みな一度に光った。
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働いている三人の女の頬冠り、曲めた腰、皆な一時に光った。
男の子の鼻の先まで光った。
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男の子の鼻の先まで光った。
もう稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜のこんもりとした欅の梢も暗い茶褐色に隠れてしまった。
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最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜のこんもりとした欅の梢も暗い茶褐色に隠れて了った。
町のかなたにはちらちら灯がともり始めた。
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町の彼方にはチラチラ燈火が点き始めた。
岡続きの山の裾にもともった。
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岡つづきの山の裾にも点いた。
父の農夫は引き返して来て、また一俵背負って行った。
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父の農夫は引返して来て復た一俵負って行った。
三人の女や男の子は急いで働いた。
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三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」
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「暗くなって、いけねえナア」
と母が子をいたわる声がした。
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と母の子をいたわる声がした。
「箒探しな――箒――」
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「箒探しな――箒――」
とまた母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
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と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵を揚げて取り集めなどする。
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やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵を揚げて取り集めなどする。
女達がこちらを向いた顔もはっきりとは分らないほどで、かぶっている手拭の色と顔とが同じくらいの暗さに見えた。
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女達が是方を向いた顔もハッキリとは分らないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
向うの田にいる夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色の稲田の中に暗く動く様子が、それとなく分る。
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向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く動くさまが、それとなく分る。
汽笛が寂しく響いて聞えた。
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汽笛が寂しく響いて聞えた。
風はにわかに私の身にしみて来た。
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風は遽然私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
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「待ちろ待ちろ」
母の声がする。
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母の声がする。
男の子はそのそばで、姉らしい女と一緒に籾を打った。
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男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。
かなたの岡の道を帰る人も暗く見えた。
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彼方の岡の道を帰る人も暗く見えた。
「おつかれでごわす」
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「おつかれでごわす」
と挨拶もそこそこに急いで通り過ぎるものもあった。
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と挨拶そこそこに急いで通過ぎるものもあった。
そのうちに、三人の女の働く様子もよくは見えないほどになって、かぶった手拭だけがほのかに白く残った。
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そのうちに、三人の女の働くさまもよくは見えない位に成って、冠った手拭のみが仄かに白く残った。
振り上げる槌までも暗かった。
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振り上ぐる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
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「藁をまつめろ」
という声もその中で聞える。
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という声もその中で聞える。
私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。
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私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。
私が振り返って彼等を見た時は、暗い影が動くとしか見えなかった。
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私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。
すっかり暮れ果てた。
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全く暮れ果てた。
巡礼の歌
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巡礼の歌
乳呑児をおぶった女の巡礼が私の家の門口に立った。
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乳呑児を負った女の巡礼が私の家の門に立った。
寒空には初冬らしい雲が望まれた。
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寒空には初冬らしい雲が望まれた。
一目見ただけで、みな氷だということが思われる。
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一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。
氷の線が群れ集まったとでも言いたい。
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氷線の群合とも言いたい。
白い、冷たい、透き通った先端は針のようだ。
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白い、冷い、透明な尖端は針のようだ。
この雲が出る頃になると、一日は一日より寒さを増して行く。
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この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
こうして山の上に来ている自分達のことを思うと、灰色の脚絆に古足袋を履いた、旅やつれのした女の物乞い姿にも、心を引かれる。
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こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆に古足袋を穿いた、旅窶れのした女の乞食姿にも、心を引かれる。
巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。
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巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。
私は家の者と一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨を一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」
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私は家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」
と尋ねた。
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と尋ねた。
「伊勢でござります」
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「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
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「随分遠方だネ」
「わしらの方はみんなこうして流しますでござります」
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「わしらの方は皆なこうして流しますでござります」
「何処の方から来たんだネ」
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「何処の方から来たんだネ」
「越後路から長野の方へ出まして、あちこちを廻って参りました。これから寒くなりますで、暖かい方へ参りますでござりますわい」
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「越後路から長野の方へ出まして、諸方を廻って参りました。これから寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
私は家の者に言いつけて、この女に柿をやった。
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私は家のものに吩咐けて、この女に柿をくれた。
女はそれを風呂敷包みにして、家の者にまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
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女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
夏の頃に比べると、日はよほど南寄りに沈むようになった。
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夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。
わが家の門口に出て初冬の落日を望むたびに、私はあの「浮雲似故丘」
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吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似故丘」
という古い詩の句を思い出す。
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という古い詩の句を思出す。
近くにある枯れがれの樹木の梢は、遠い蓼科の山々よりも高いところに見える。
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近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科の山々よりも高いところに見える。
近所の家々の屋根の間からそれを眺めると、ちょうど日は森の中に沈んで行くように見える。
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近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。
その八
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その八
一ぜんめし
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一ぜんめし
私は外出したついでに時々立ち寄って、焚火にあててもらう家がある。
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私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。
鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋と書いた看板の出してあるのがそれだ。
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鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には、ずいぶん知った顔に出会う。
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私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。
馬場裏の往来に近く、南向きの日あたりの好い障子のところで、男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に目を楽しませながら、せっせと着物をこしらえる仕立屋がいる。
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馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に眼を楽ませながら錯々と着物を造える仕立屋が居る。
すこし行くと、カステラや羊羹を店先に並べて売る菓子屋の夫婦がいる。
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すこし行くと、カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。
千曲川の方から投網を提げてよく帰って来る、髪の長い易者がいる。
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千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。
馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門だけが残った大手の通りへ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達がいる。
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馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。
それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を仕事にしている、頭を丸めた目の不自由な人がいる。
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それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を渡世にする頭を円めた盲人が居る。
駒鳥だの瑠璃だの、その他の小鳥が籠の中でさえずっている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居がいる。
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駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。
その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
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その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
揚羽屋では豆腐を作るから、身なりに構わず働くおかみさんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。
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揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。
朝晩の空に通る声を聞くと、ああ豆腐屋のおかみさんだとすぐに分る。
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朝晩の空に徹る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直に分る。
自分の家でもこの女から油揚げだの雁もどきだのを買う。
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自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。
近頃は息子も大きくなって、母親の代りに荷を担いで来て、八杯豆腐でも冷奴でもトントンとやるようになった。
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近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
揚羽屋には、うどんもある。
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揚羽屋には、うどんもある。
もっとも乾うどんを茹でたのだ。
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尤も乾うどんのうでたのだ。
だいたいこの辺では麺類を好んで食べる。
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一体にこの辺では麺類を賞美する。
私はある農家で、一週に一度ずつ上等の夕飯に麺類を出すという家を知っている。
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私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるという家を知っている。
蕎麦はもとより名物だ。
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蕎麦はもとより名物だ。
酒盛りの後の蕎麦振舞と言えば、本式の御馳走になっている。
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酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走に成っている。
それから、「お煮掛け」
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それから、「お煮掛」
と呼んで、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に使われる。
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と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。
揚羽屋へ寄って、大鍋の掛かっている炉ばたに腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままそこに集まりながら、好物の茹でだしうどんで暖を取るのを見かける。
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揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。
「お豆腐のたきたては奈何でごわす」
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「お豆腐のたきたては奈何でごわす」
などと言って、おかみさんが大丼に熱い豆腐の汁を盛って出す。
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などと言って、内儀さんが大丼に熱い豆腐の露を盛って出す。
亭主も手拭を腰にぶら下げて出て来て、自分の息子が子供相撲で弓を取った自慢話などを始める。
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亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。
そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓などが、酒を温めてもらうところだ。
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そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。
こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦にならなくなった。
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こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。
私は往来に繋いである馬の鳴き声などを聞きながら、そこで凍えた体を温める。
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私は往来に繋いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。
荒くれた人達の話や笑い声に耳を傾ける。
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荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。
次第に親しくなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張り替えたからと言って、それを書くことなどまで頼まれたりする。
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次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
松林の奥
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松林の奥
夷講の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山歩きに出掛けた。
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夷講の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。
W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を歩き回るには面白い道連れだ。
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W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉するには面白い道連だ。
小諸の町はずれに近い、与良町のある家の門口で、
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小諸の町はずれに近い、与良町のある家の門で、
「煮いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
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「煮いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
こう言ってくれる言葉を聞き捨てて、私達は頭陀袋に米を入れ、毛布を肩に掛け、股引に裾をからげるという面白い格好をして、こうもり傘を杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
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こう言ってくれる言葉を聞捨てて、私達は頭陀袋に米を入れ、毛布を肩に掛け、股引尻端折という面白い風をして、洋傘を杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。
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出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。
八幡の杜を離れたのが、午後の四時半だった。
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八幡の杜を離れたのが、午後の四時半だった。
日の暮れないうちにと、岡続きの細道をたどって、浅間の方をさして上った。
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日の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿って、浅間の方をさして上った。
ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、すでに暮色の迫るのを感じた。
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ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、既に暮色の迫るのを感じた。
西の山々のかなたには、日も隠れた。
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西の山々のかなたには、日も隠れた。
私達は後ろを振り返り振り返りして急いで行った。
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私達は後方を振返り振返りして急いで行った。
静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかりで、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。
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静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。
林の中を漏れて射し入る残りの光が私達の目に映った。
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林の中を泄れて射し入る残りの光が私達の眼に映った。
西の空にはわずかに黄色が残っていた。
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西の空には僅かに黄色が残っていた。
鳥の声一つ聞えなかった。
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鳥の声一つ聞えなかった。
そのうちに、一つの松林を通り越して、また別の松林の中へ入った。
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そのうちに、一つの松林を通越して、また他の松林の中へ入った。
その時は、西の空はまったく暗かった。
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その時は、西の空は全く暗かった。
月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄は煙るようであった。
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月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄は煙るようであった。
細長い幹と幹とが並び立つ様子は、この夕靄の灰色の中にも見えた。
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細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。
遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂しい。
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遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂しい。
宵の月は半分で、冴えてはいたが、光は薄かった。
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宵の月は半輪で、冴えてはいたが、光は薄かった。
私達がたどって行く道は松かげになって暗かった。
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私達が辿って行く道は松かげに成って暗かった。
けれども一筋黒く目に入って、松葉の散り敷いたところは特に見分けることが出来た。
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けれども一筋黒く眼にあって、松葉の散り敷いたところは殊に区別することが出来た。
そこまで行くと、もう人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。
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そこまで行くと、最早人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。
時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れないごくかすかな響きに耳を立てたり、暗い奥の方をうかがうようにして眺め入ったりした。
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時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極く幽かな響に耳を立てたり、暗い奥の方を窺うようにして眺め入ったりした。
先に進んで行くW君の姿も薄暗く、こちらを向いてもよく顔が分らないほどの光をたどって、なお奥深く進んだ。
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先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方を向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、猶奥深く進んだ。
すべての物は暗い夜の色に包まれた。
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すべての物は暗い夜の色に包まれた。
それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧と影のように見えた。
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それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧と影のように見えた。
ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を下ろし、足を投げ出して、しばらく休んで行った。
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ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。
私はすでにひどい疲れを覚えた。
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私は既に非常な疲労を覚えた。
というのは、腹具合が悪くて、飯を一度食べなかったから。
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というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。
それで、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。
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で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。
やがてまたこうもり傘に力を入れて、立ち上った。
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やがて復た洋傘に力を入れて、起ち上った。
いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。
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いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。
私達二人の影は地に映って見えた。
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私達二人の影は地に映って見えた。
月の光は明るくなったり暗くなったりした。
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月の光は明るくなったり暗くなったりした。
そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。
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そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。
七ひろ石だ。
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七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前へ出なくなった」
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「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前へ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
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「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
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「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
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「弱いナア。ああああ」
こう言い合って、勇気を奮って進もうとすると、疲れた足の指先は石につまずいて痛い。
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こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石に蹉いて痛い。
またぐったりと倒れるように、草の上へ横になって休んだ。
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復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。
そこは浅間の中腹にある大きな傾斜のところで、あたりは茫漠とした荒れた原のように見えた。
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そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠とした荒れた原のように見えた。
越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大きな石が夜の色に包まれて目に入るばかりだ。
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越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。
月の光も薄くこの山の端に満ちた。
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月の光も薄くこの山の端に満ちた。
空のかなたには青い星の光が三つばかり冴えて見えた。
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空の彼方には青い星の光が三つばかり冴えて見えた。
灰白い夜の雲も望まれた。
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灰白い夜の雲も望まれた。
深山の燈影
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深山の燈影
赤々と障子に映る灯を見た時の私達の喜びは、たとえようもなかった。
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赤々と障子に映る燈火を見た時の私達の喜びは譬えようもなかった。
私達はようやくのことで清水の山小屋にたどり着いた。
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私達は漸くのことで清水の山小屋に辿り着いた。
小屋の番人はまだ月明かりの中で何か片付けて働いている様子であった。
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小屋の番人はまだ月明りの中で何か取片付けて働いている様子であった。
私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆のままで炉ばたにくつろいだ。
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私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆のままで炉辺に寛いだ。
W君は毛布を身にまといながら、
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W君は毛布を身に纏いながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。それは立派なのが来ましたよ」
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「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。それは立派なのが来ましたよ」
お竹さんは番人の奥さんのことで、本家の小母さんとは、小諸を出がけに私達へ、すこしは多く米を持って行けと注意してくれた人だ。
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お竹さんは番人の細君のことで、本家の小母さんとは小諸を出がけに私達にすこしは多く米を持って行けと注意してくれた人だ。
W君はこの人達と親しくて、話し方もなれなれしい。
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W君はこの人達と懇意で、話し方も忸々しい。
米を入れた頭陀袋、牛肉の新聞紙包み、それから一かけの半襟などが、土産がわりにそこへ取り出された。
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米を入れた頭陀袋、牛肉の新聞紙包、それから一かけの半襟なぞが、土産がわりにそこへ取出された。
番人は小屋へ入りがけに、
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番人は小屋へ入りがけに、
「肉には葱が宜しゅうごわしょうナア」
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「肉には葱が宜しゅうごわしょうナア」
と言うと、W君も笑って、
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と言うと、W君も笑って、
「ああ葱は結構」
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「ああ葱は結構」
「ついでに、芋があったナア――そうだ、芋も入れるか」
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「序に、芋があったナア――そうだ、芋も入れるか」
と番人は外へ出て行って、蓄えてあった葱、芋を持って来た。
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と番人は屋外へ出て行って、葱、芋の貯えたのを持って来た。
やがて炉ばたへどっかと座り、ぶすぶす煙る雑木を大火箸でかき起こし、ぱっと燃えついたところへ櫟の枝を折ってくべた。
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やがて炉辺へドッカと座り、ぶすぶす煙る雑木を大火箸であらけ、ぱっと燃え付いたところへ櫟の枝を折りくべた。
火の勢いが盛んになると、みなの顔も赤々と見えた。
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火勢が盛んに成ると、皆なの顔も赤々と見えた。
番人はまだ年も若く、前の年の四月にここへ引き移って、五月に奥さんを迎えたという。
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番人はまだ年も若く、前の年の四月にここへ引移って、五月に細君を迎えたという。
火に映る顔は健やかに輝き、目は小さいけれど正直で働き好きな性質を表していた。
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火に映る顔は健かに輝き眼は小さいけれど正直な働き好きな性質を表していた。
話をしては大きく口を開いて、頭を振り、舌が見えるほどに笑うのが癖のようだ。
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話をしては大きく口を開いて、頭を振り、舌の見える程に笑うのが癖のようだ。
その笑い方はすこし無作法ではあるが、包み隠しの無いところは嫌味の無い面白い若者だ。
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その笑い方はすこし無作法ではあるが、包み隠しの無いところは嫌味の無い面白い若者だ。
すぐに親しくなれそうな人だ。
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直に懇意に成れそうな人だ。
奥さんはまた評判の働き者で、顔色の赤い、髪の厚く黒い、どこかにまだ娘らしいところの残った、若く肥った女だ。
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細君はまた評判の働き者で、顔色の赤い、髪の厚く黒い、どこかにまだ娘らしいところの残った、若く肥った女だ。
まことに似合った好い若夫婦だ。
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まことに似合った好い若夫婦だ。
部屋の方は暗いランプに照らされていて、炉ばただけが明るく見えた。
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部屋の方は暗いランプに照らされていて、炉辺のみ明るく見えた。
小屋の庭の隅には竃が置いてあって、そこから煙が上り始めた。
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小屋の庭の隅には竃が置いてあって、そこから煙が登り始めた。
飯を炊く音も聞えて来た。
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飯をたく音も聞えて来た。
奥さんはザクザクと葱を切りながら、
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細君はザクザクと葱を切りながら、
「私は幼少い時から寂しいところに育ちやしたが、この山へ来て慣れるまでには、真実に寂しい思をいたしやした」
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「私は幼少い時から寂しいところに育ちやしたが、この山へ来て慣れるまでには、真実に寂しい思をいたしやした」
こう山住まいの話をして聞かせる。
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こう山住の話をして聞かせる。
亭主も私達が訪ねて来たことを嬉しそうにして、その年作ったという葱の出来などを話し聞かせながら、夫婦で夕飯の支度をしてくれた。
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亭主も私達が訪ねて来たことを嬉しそうに、その年作ったという葱の出来などを話し聞かせて夫婦して夕飯の仕度をしてくれた。
炉には馬に食わせるとかの馬鈴薯を煮る大鍋が掛けてあったが、それが小鍋に取り替えられた。
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炉には馬に食わせるとかの馬鈴薯を煮る大鍋が掛けてあったが、それが小鍋に取替えられた。
奥さんが芋を入れれば、亭主はその上へ蓋を載せる。
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細君が芋を入れれば、亭主はその上へ蓋を載せる。
私達は「手鍋提げても」
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私達は「手鍋提げても」
という俗謡にあるような暮らしを目のあたりに見た。
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という俗謡にあるような生活を眼のあたり見た。
小猫は肉の香を嗅ぎつけて新聞紙包みのそばへ鼻を押しつけ、亭主に叱られた。
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小猫は肉の香を嗅ぎつけて新聞紙包の傍へ鼻を押しつけ、亭主に叱られた。
やがて私達の後ろを廻って、遠慮なくW君の膝に上った。
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やがて私達の後を廻って遠慮なくW君の膝に上った。
「野郎」
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「野郎」
とまた亭主に叱られて炉ばたに縮こまり、寒そうに火を眺めて目を細くした。
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と復た亭主に叱られて炉辺に縮み、寒そうに火を眺めて目を細くした。
「私はこの猫という奴が大嫌いですが、本家でもって無理に貰ってくれッて、連れて来やした」
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「私はこの猫という奴が大嫌いですが、本家でもって無理に貰ってくれッて、連れて来やした」
と亭主は言って、色の黒い野鼠がこの小屋へ来ていたずらすることなど、山の中らしい話をして笑った。
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と亭主は言って、色の黒い野鼠がこの小屋へ来ていたずらすることなど、山の中らしい話をして笑った。
「すこし煙たくなって来たナア。開けるか」
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「すこし煙たくなって来たナア。開けるか」
とW君は起き上って、細目に小屋の障子を開けた。
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とW君は起上って、細目に小屋の障子を開けた。
しばらく外を眺めて立っていた。
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しばらく屋外を眺めて立っていた。
「ああ好い月だ、冴え冴えとして」
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「ああ好い月だ、冴え冴えとして」
と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白い泡を吹いて、湯気も立ち上った。
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と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白い泡を吹いて、湯気も立のぼった。
「さア、もういいよ」
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「さア、もういいよ」
「肉を入れて下さい」
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「肉を入れて下さい」
「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て――」
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「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て――」
亭主は貝匙で芋を一つすくった。
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亭主は貝匙で芋を一つ掬った。
それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。
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それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。
芋は肉を入れてもいいほどに煮えた。
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芋は肉を入れても可い程に煮えた。
そこで新聞紙包みが解かれ、竹の皮が開かれた。
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そこで新聞紙包が解かれ、竹の皮が開かれた。
赤々とした牛の肉に、すこし白い脂も混じったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。
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赤々とした牛の肉のすこし白い脂肪も混ったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。
「どうも甘そうな匂いがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」
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「どうも甘そうな匂いがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」
と亭主がW君に言った。
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と亭主がW君に言った。
奥さんは戸棚から、膳、茶碗、塗箸などを取り出し、飯はじかに釜から盛って出した。
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細君は戸棚から、膳、茶碗、塗箸などを取出し、飯は直に釜から盛って出した。
「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしょう」
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「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしょう」
と奥さんに言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。
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と細君に言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。
その時はよほど空腹を感じていた。
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その時は余程空腹を感じていた。
「さア、肉も煮えやした」
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「さア、肉も煮えやした」
と奥さんは給仕しながら、もてなす顔で言った。
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と細君は給仕しながら款待顔に言った。
「お竹さん、勘定して下さい、沢山頂きますから」
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「お竹さん、勘定して下さい、沢山頂きますから」
とW君も気安い調子で、「うまい、この葱はうまい。熱、熱。フウフウ」
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とW君も心易い調子で、「うまい、この葱はうまい。熱、熱。フウフウ」
「どうも寒い時は肉に限りますナア」
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「どうも寒い時は肉に限りますナア」
と亭主も一緒にやった。
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と亭主は一緒にやった。
三杯ほど肉の汁を替えて、私も盛んな食欲を満たした。
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三杯ほど肉の汁をかえて、私も盛んな食欲を満たした。
私達二人は帯をゆるめるやら、洋服のズボンをゆるめるやらした。
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私達二人は帯をゆるめるやら、洋服のズボンをゆるめるやらした。
「さア、おかえなすって――山へ来て御飯がまずいなんて仰る方はありませんよ」
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「さア、おかえなすって――山へ来て御飯がまずいなんて仰る方はありませんよ」
と奥さんが言ううちに、ふいとW君の前にあった茶碗を引ったくった。
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と細君が言ううち、つとW君の前にあった茶碗を引きたくった。
W君はあわてて、奪い返そうとするように手を伸ばしたが、間に合わなかった。
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W君はあわてて、奪い返そうとするように手を延ばしたが、間に合わなかった。
奥さんはまた一ぱい飯を盛って勧めた。
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細君はまた一ぱい飯を盛って勧めた。
W君は笑いながら頭を抱えた。
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W君は笑いながら頭を抱えた。
「ひどいひどい――ひどくやられた」
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「ひどいひどい――ひどくやられた」
「えッ、やられた?」
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「えッ、やられた?」
と亭主も笑った。
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と亭主も笑った。
「その位はいけやしょう」
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「その位はいけやしょう」
「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」
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「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」
とW君は溜息をついた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
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とW君は溜息吐いた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
楽しい笑い声の中で、私は夕飯を済ませた。
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楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。
「お前も御馳走に成れ」
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「お前も御馳走に成れ」
という亭主の言葉のかげで、奥さんも飯を始めた。
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という亭主の蔭で、細君も飯を始めた。
戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。
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戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。
山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙もめずらしそうにひろげて、読んだ。
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山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙をもめずらしそうに展げて、読んだ。
W君はあまり詰め込み過ぎたのか、毛布をかぶったまましばらく仰向けに倒れていた。
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W君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠ったまま暫時あおのけに倒れていた。
炭焼き、兎狩りの話などが夫婦の口からかわるがわる話された。
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炭焼、兎狩の話なぞが夫婦の口からかわるがわる話された。
やがて奥さんも膳を片付け、馬の飲み物にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家が倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たら、その時は馬を引き出そうと用意したのに、あちらへ倒れて、恐ろしい思いをしたことを話した。
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やがて細君も膳を片付け、馬の飲料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方に倒れて、可恐しい思をしたことを話した。
めったに外へ泊ったことの無い夫が、その晩に限って本家で泊った、とも話した。
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めったに外へ泊ったことの無い夫がその晩に限って本家で泊った、とも話した。
新築の家というのは小屋の近くに建ててあった。
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新築の家というは小屋に近く建ててあった。
私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めてもらった。
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私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めて貰った。
ようやく普請が出来たばかりだとかで、戸のかわりに唐紙を押しつけてあり、その透き間から月の光も漏れた。
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漸く普請が出来たばかりだとか、戸のかわりに唐紙を押つけ、その透間から月の光も泄れた。
私達は毛布にくるまり、灯も消して、疲れて話もせずに眠った。
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私達は毛布にくるまり、燈火も消し、疲れて話もせずに眠った。
山の上の朝飯
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山の上の朝飯
翌朝の三時頃から、同じ家の中に泊っていた土方はもう起き出す様子だ。
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翌朝の三時頃から、同じ家の内に泊っていた土方は最早起き出す様子だ。
この人達の話し声は、前の晩遅くまで聞えていた。
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この人達の話声は、前の晩遅くまで聞えていた。
雉子の鳴き声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
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雉子の鳴声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
私達は重なり重なった山々を目の下に望むような場所へ来ていた。
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私達は重なり畳なった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。
谷底はまだ明けきらない。
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谷底はまだ明けきらない。
遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲がたなびいた。
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遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引いた。
次第に山の端も輝いて、紅い雲が淡い黄色に変る頃は、昨夜真黒であった落葉松の林も見えて来た。
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次第に山の端も輝いて、紅い雲が淡黄に変る頃は、夜前真黒であった落葉松の林も見えて来た。
亭主と連れ立って、私達は小屋のまわりにある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。
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亭主と連立って、私達は小屋の周囲にある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。
大根を干した下の箱の中から、家鴨が二羽ばかり這い出した。
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大根乾した下の箱の中から、家鴨が二羽ばかり這出した。
そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い嘴を振ったり、ひょろひょろと歩き廻ったりした。
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そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い口嘴を振ったり、ひょろひょろと歩き廻ったりした。
亭主は私達を馬小屋の前に連れて行った。
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亭主は私達を馬小屋の前に連れて行った。
赤い馬が首を出して、鼻をブルブル言わせた。
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赤い馬が首を出して、鼻をブルブル言わせた。
冬のことだから毛も長く伸び、背は高く、目は優しく、大きく肥えた骨格の馬だ。
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冬季のことだから毛も長く延び、背は高く、目は優しく、肥大な骨格の馬だ。
亭主は例のフスマに芋、葱の茹でたのを混ぜ、ツタを加えてかき回し、それを大桶に入れて、馬小屋の鉤に掛けてやった。
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亭主は例のフスマに芋、葱のうでたのを混ぜ、ツタを加えて掻廻し、それを大桶に入れて、馬小屋の鍵に掛けて遣った。
馬は甘えて、朝飯欲しそうな顔つきをした。
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馬はあまえて、朝飯欲しそうな顔付をした。
「廻って来い」
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「廻って来い」
と亭主が言うと、馬は主人の言葉を聞き分けて、ぐるりと一度小屋の中を廻った。
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と亭主が言うと、馬は主人の言葉を聞分けて、ぐるりと一度小屋の内を廻った。
「もう一度――」
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「もう一度――」
とまた亭主が馬の鼻面を押しやった。
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と復た亭主が馬の鼻面を押しやった。
それからこの可憐な動物は桶の中へ首を差し込むことを許された。
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それからこの可憐な動物は桶の中へ首を差込むことを許された。
馬がゴトゴトさせて食べるそばで、亭主は一斗五升の白水が一息に飲み尽くされることを話して、私達を驚かした。
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馬がゴトゴトさせて食う傍で、亭主は一斗五升の白水が一吸に尽されることを話して、私達を驚かした。
山の上の雲はようやく白くなって行った。
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山上の雲は漸く白く成って行った。
谷底も明けて行った。
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谷底も明けて行った。
光の触れるところは灰色に望まれた。
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光の触れるところは灰色に望まれた。
奥さんが膳の支度が出来たことを知らせに来た。
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細君が膳の仕度の出来たことを知らせに来た。
めずらしいところで、私達は朝の食事をした。
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めずらしいところで、私達は朝の食事をした。
亭主は食べ終った茶碗に湯を注ぎ、それを汁椀にあけて飲み尽くし、やがて箱膳の中から布巾を取り出して、茶碗も箸も自分で拭いて納めた。
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亭主は食べ了った茶碗に湯を注ぎ、それを汁椀にあけて飲み尽し、やがて箱膳の中から布巾を取出して、茶碗も箸も自分で拭いて納めた。
もう一度、私達は亭主と一緒に小屋を出て、朝日に光る山々を見上げ、見下ろした。
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もう一度、私達は亭主と一緒に小屋を出て、朝日に光る山々を見上げ、見下した。
亭主は望遠鏡まで取り出して来て、あそこに見えるのが渋の沢、その手前の窪みが霊泉寺の沢、と一つ一つ指して見せた。
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亭主は望遠鏡まで取出して来て、あそこに見えるのが渋の沢、その手前の窪みが霊泉寺の沢、と一々指して見せた。
八つが岳、蓼科の裾、御牧が原、すべて一望の中にあった。
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八つが岳、蓼科の裾、御牧が原、すべて一望の中にあった。
層を成して深い谷底の方へ落ちた断崖の間には、桔梗、山辺、横取、多計志、八重原などの村々を数えることが出来る。
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層を成して深い谷底の方へ落ちた断崖の間には、桔梗、山辺、横取、多計志、八重原などの村々を数えることが出来る。
白壁も遠くに見える。
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白壁も遠く見える。
千曲川も白く光って見える。
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千曲川も白く光って見える。
十二月に入ると山の雉は畠へ下りて来る、どうかすると人の足元から飛び立つことがある。
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十二月に入ると山の雉は畠へ下りて来る、どうかすると人の足許より飛び立つことがある。
兎も雪の中の麦を食べに寄る。
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兎も雪の中の麦を喰いに寄る。
こうした話が私達にはめずらしい。
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こうした話が私達にはめずらしい。
その九
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その九
雪国のクリスマス
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雪国のクリスマス
クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で過ごした。
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クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で送った。
長野測候所に技手を勤めている人から招きの手紙を受けて、私はまだ知らない人々に会うために、小諸を発ち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。
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長野測候所に技手を勤むる人から私は招きの手紙を受けて、未知の人々に逢うために、小諸を発ち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。
そこにある測候所を見たいと思ったのが、この小さな旅の目的の一つであった。
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そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅の目的の一つであった。
私はそれも果した。
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私はそれも果した。
雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何か君の想像を動かすものがあるだろう。
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雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何物か君の想像を動かすものがあるであろう。
しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
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しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。
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毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。
ある朝私は小諸の住まいで目が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。
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ある朝私は小諸の住居で眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。
塩のように細かい雪の降り積るのが、こういう土地の特色だ。
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塩のように細かい雪の降り積のが、こういう土地の特色だ。
あまりにあたりの景色が白々としていたためか、私の目にはいくらか青みを帯びて見えるくらいだった。
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あまりに周囲の光景が白々としていた為か、私の眼にはいくらか青みを帯びて見える位だった。
朝の通勤の人達が、下駄の歯につく雪に悩みながら往来をたどる様子は、ちょうど暗い夜道を行く人と変らない。
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朝通いの人達が、下駄の歯につく雪になやみながら往来を辿るさまは、あたかも暗夜を行く人に異ならない。
赤い毛布で頭を包んだ草鞋履きの小学生徒の群、町家の軒下にしょんぼりとたたずむ鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積った様子などを見ると、降った、降った、とそう思う。
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赤い毛布で頭を包んだ草鞋穿の小学生徒の群、町家の軒下にションボリと佇立む鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積ったさまなぞを見ると、降った、降った、とそう思う。
私は懐古園の松に掛った雪が、時々崩れ落ちるたびに、もうもうとした白い煙を揚げるのを見た。
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私は懐古園の松に掛った雪が、時々崩れ落ちる度に、濛々とした白い烟を揚げるのを見た。
谷底にある竹の林がみな草のように寝てしまったのも見た。
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谷底にある竹の林が皆な草のように臥て了ったのをも見た。
岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。
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岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。
馬丁の吹き鳴らす喇叭の音が起る。
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馬丁の吹き鳴らす喇叭の音が起る。
薄い蓙を掛けた馬の体はびっしょりと濡れて、粗く乱れたたてがみからは雫が滴る。
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薄い蓙を掛けた馬の身はビッショリと濡て、粗く乱れた鬣からは雫が滴る。
ザクザクと音のする雪の道を、馬車の輪が滑り始める。
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ザクザクと音のする雪の路を、馬車の輪が滑り始める。
白く降り埋まった道路の中には、人の行き来した跡だけが一筋赤く土の色になって、うねうねと印されている様子が眺められる。
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白く降り埋んだ道路の中には、人の往来の跡だけ一筋赤く土の色になって、うねうねと印したさまが眺られる。
家ごとに出て雪をかく人達の混雑した様子も、こういう土地でなければ見られないありさまだ。
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家ごとに出て雪をかく人達の混雑したさまも、こういう土地でなければ見られない光景だ。
薄い靄か霧かが来て、雪のあとの町々を立ちこめた。
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薄い靄か霧かが来て雪のあとの町々を立ち罩めた。
その日の黄昏時のことだ。
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その日の黄昏時のことだ。
晴れたなと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷たいものが襟にかかる。
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晴れたナと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷いのが襟にかかる。
ヤア降ってるのかと、思わず髪に触ると、霧のように見えたのはやはり細かい雪だということが分る。
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ヤア降ってるのかと、思わず髪に触ると、霧のように見えたのは矢張細かい雪だということが知れる。
二度ばかりかき取った道も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪を落す音が、ハタハタと聞える。
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二度ばかり掻取った路も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪の落す音が、ハタハタと聞える。
自分の家へ客でも訪ねて来るのかと思うと、それが往来の人々であるのには驚かされる。
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自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには驚かされる。
雪明かりで、暗い中でも道はたどることが出来る。
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雪明りで、暗いなかにも道は辿ることが出来る。
町を行く人々の提灯の光が、夜の雪に映って、華やかに明るく見えるのなどもPicturesqueだ。
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町を通う人々の提灯の光が、夜の雪に映って、花やかに明るく見えるなぞもPicturesqueだ。
君、私はこの国における雪の第一日のあらましを君に語った。
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君、私はこの国に於ける雪の第一日のあらましを君に語った。
この雪が残らず溶けてしまいはしないことを、君に思ってみてもらいたい。
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この雪が残らず溶けては了わないことを、君に思ってみて貰いたい。
特に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、いつまでも消え残って、降り積った上へとまた積るので、その雪の凍ったのが春まで持ち越すことを思ってみてもらいたい。
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殊に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、何時までも消え残って、降り積った上へと復た積るので、その雪の凍ったのが春までも持越すことを思ってみて貰いたい。
しかし、これだけではまだ、私がこういう雪国にいるという感じを君に伝えるには、不充分だ。
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しかし、これだけで未だ、私がこういう雪国に居るという感じを君に伝えるには、不充分だ。
その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったのは一尺ほどで、軒先には細いつららも垂れ下がり、庭の林檎も倒れ伏していた。
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その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったは一尺ほどで、軒先には細い氷柱も垂下り、庭の林檎も倒れ臥していた。
鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引きかぶせられたようになった。
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鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被せられたように成った。
雪の翌日には、決まって北の障子が明るくなる。
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雪の翌日には、きまりで北の障子が明るくなる。
灰色の空を通して日が照らし始めると、雪は光を含んでぎらぎら輝く。
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灰色の空を通して日が照し始めると雪は光を含んでギラギラ輝く。
見るのもまぶしい。
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見るもまぶしい。
軒から垂れる雫の音は、一日じゅう単調な、退屈な、わびしく静かな思いをさせる。
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軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、退屈な、侘しく静かな思をさせる。
さらに小諸の町裏の田圃わきへ出て見ると、浅々と芽を出した麦などはみな白く埋もれて、岡続きが起き伏す様子は、さながら雪の波が押し寄せて来るようである。
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更に小諸町裏の田圃側へ出て見ると、浅々と萌え出た麦などは皆な白く埋もれて、岡つづきの起き伏すさまは、さながら雪の波の押し寄せて来るようである。
さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も現れ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られないでもない。
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さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も顕われ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られぬでもない。
遠い森、枯れがれの梢、一帯の人家、すべて柔らかく深い鉛色を帯びて見える。
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遠い森、枯々な梢、一帯の人家、すべて柔かに深い鉛色を帯びて見える。
この鉛色――もしくはすこし紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。
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この鉛色――もしくはすこし紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。
朦朧として、いかにもおぼつかないような、言い表しがたい世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
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朦朧として、いかにもおぼつかないような名状し難い世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
翌々日に私はまた鶴沢という方の谷あいへ出たことがあった。
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翌々日に私はまた鶴沢という方の谷間へ出たことがあった。
日光が恐ろしく激しい勢いで私に迫って来た。
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日光が恐しく烈しい勢で私に迫って来た。
四方みな雪の反射はほとんど堪えられなかった。
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四面皆な雪の反射は殆んど堪えられなかった。
私は目を開いてはっきり物を見ることも出来なかった。
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私は眼を開いてハッキリ物を見ることも出来なかった。
まぶしいところは通り越して、私はほとんど痛いような日光の反射と熱とを感じた。
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まぶしいところは通り過して、私はほとほと痛いような日光の反射と熱とを感じた。
そこはだらだらと次第に下って谷の方へ落ちている地形で、高低の区別なく田畠もしくは桑畠になっている。
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そこはだらだらと次第下りに谷の方へ落ちている地勢で、高低の差別なく田畠もしくは桑畠に成っている。
一段一段と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草に覆われ、ところどころ赤黒い土の現れた場所もある。
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一段々々と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草に掩われ、ところどころ赤黝い土のあらわれた場所もある。
その赤土の大きな波の上は枯れがれの桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。
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その赤土の大波の上は枯々な桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。
その大きな波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、はるかに日本アルプスの遠い山々も見えた。
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その大波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、遙かに日本アルプスの遠い山々も見えた。
その日は私は千曲川がすさまじい音を立てて流れるのも聞いた。
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その日は私は千曲川の凄まじい音を立てて流れるのをも聞いた。
こんな風にして、溶けたと思う雪がまた積り、現れた道路の土はまた隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すようになれば、あたりは半ば凍りつめた世界である。
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こんな風にして、溶けたと思う雪が復た積り、顕れた道路の土は復た隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すように成れば、周囲は半ば凍りつめた世界である。
高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を現す日もまれだ。
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高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を顕す日も稀だ。
小諸の停車場に架けた筧からは水が溢れて、それが太い氷の柱のようになる。
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小諸の停車場に架けた筧からは水が溢れて、それが太い氷の柱のように成る。
小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根が白いのを見ると、ああ向うは降ってるなと思うこともある。
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小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方は降ってるナと思うこともある。
冬至近くになれば、雲ともつかない水蒸気の群れが細い線の集まりのように寒い空に懸かり、そのひっそりと寂しい趣は、日没などに特に私の心を引く。
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冬至近くに成れば、雲ともつかぬ水蒸気の群が細線の集合の如く寒い空に懸り、その蕭条とした趣は日没などに殊に私の心を引く。
その頃には、軒のつららも次第に長くなって、一尺余りに及ぶのもある。
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その頃には、軒の氷柱も次第に長くなって、尺余に及ぶのもある。
草葺きの屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。
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草葺の屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。
積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高くなる。
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積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高い。
その間から顔を出す石南木などを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強い蕾だけは大きく堅くくっついている。
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その間から顔を出す石南木なぞを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強い蕾だけは大きく堅く附着いている。
冬ごもりする土の中の虫と同じように、寒気の強い晩などは、私達の体も縮こまってしまう……
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冬籠りする土の中の虫同様に、寒気の強い晩なぞは、私達の身体も縮こまって了う……
こういう寒さと、凍った空気とを突いて、私はまだ知らない人々に会う楽しみを想像しながら、クリスマスがあるという日の夕方に長野へ入った。
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こういう寒さと、凍った空気とを衝いて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。
例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵にあたりながらの気象学の話や、文学上の詳しい引証の話などが、私の心を楽しませた。
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例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵にあたりながらの気象学の話や、文学上の精しい引証談なぞが、私の心を楽ませた。
ラスキンが「近代画家」
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ラスキンが「近代画家」
の中で書いている雲の研究の話なども出た。
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の中にある雲の研究の話なども出た。
ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近頃の雲形の研究は進んだものだ。
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ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。
こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
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こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人の親しい友達であるという。
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私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人が親しい友達であるという。
快活な声で笑う人だった。
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快活な声で笑う人だった。
その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手によるものもあるとのことだった。
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その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手に成ったものも有るとのことだった。
やがてクリスマスを祝う時刻も近づいたので、私達は連れ立って技手の家を出た。
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やがて降誕祭を祝う時刻も近づいたので、私達は連立って技手の家を出た。
私が案内されて行った会堂風の建物は、ちょうど坂になった町の中ほどにあった。
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私が案内されて行った会堂風の建物は、丁度坂に成った町の中途にあった。
そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。
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そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。
時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を止めて、後ろの方に起る女連れの笑い声を聞くこともあった。
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時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を留めて、後部の方に起る女連の笑声を聞くこともあった。
その高い楽しい笑い声が、寒い冬の空気に響いた時は、いっそう雪国の祭の夜らしい思いをさせた。
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その高い楽しい笑声が、寒い冬の空気に響いた時は、一層雪国の祭の夜らしい思をさせた。
後になって私は、若い牧師夫人が二度ほど滑って転んだことを知った。
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後に成って私は、若い牧師夫人が二度ほど滑って転んだことを知った。
赤々とした灯は会堂の窓から漏れていた。
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赤々とした燈火は会堂の窓を泄れていた。
そこに集まっていた大勢の子供と一緒に、私は田舎らしいクリスマスの晩を過ごした。
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そこに集っていた多勢の子供と共に、私は田舎らしいクリスマスの晩を送った。
長野測候所
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長野測候所
翌朝、私は親切な技手に連れられて、長野測候所のある岡の上に登った。
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翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
道々技手は私を振り返って、ある小説の中に、榛名の朝の飛雲が赤いと書いたところがあったと記憶するが、飛雲は低いところを行くのだから、赤くなるということはどうだろうかなどと話した。
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途次技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名の朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何などと話した。
さすが専門家だけあって、話すことがすべて詳しかった。
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さすが専門家だけあって話すことがすべて精しかった。
測候所は建物としては小さいが、眺めの好い位置にある。
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測候所は建物としては小さいが、眺望の好い位置にある。
そこは東京の気象台へ宛てて日ごとの報告を作る場所に過ぎないと言うけれども、いろいろの設備は初めての私にはめずらしく思われた。
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そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。
雲形や気温の表を作りながら日を送る人々の生活なども、私の心を引いた。
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雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
やがて私は技手の後に付いて、狭い階段を昇り、観測台の上へ出た。
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やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階を昇り、観測台の上へ出た。
朝の長野の町の一部がそこから見渡される。
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朝の長野の町の一部がそこから見渡される。
向うに連なる山の裾には、冬らしい靄が立ちこめて、その間の何も無いところだけ後ろの景色がはっきりと透けて見えた。
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向うに連なる山の裾には、冬らしい靄が立ち罩めて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
風力を測る器械のそばで、技手は私に、暴風雨の前の雲――たとえば広々とした海岸の地方で望まれるようなものは、その全体の形をこの信濃の地方で望むのは難しいことを話してくれた。
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風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨の前の雲――例えば広濶な海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃の地方で望み難いことを話してくれた。
その理由としては、山が高くて、気圧のぶつかり合いから雲はちぎれちぎれになるという説明も加えてくれた。
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その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
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「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
こう技手は言って、それから私達の頭の上に群がり集まる幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
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こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
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「あの雲は何と御覧ですか」
と私に指して尋ねた。
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と私に指して尋ねた。
私も旅の心を慰めるために、すこしばかり雲の日記などをつけて見ているが、こう的確に専門家から問いを出された時は、ちょっと返事に困った。
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私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。
鉄道草
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鉄道草
鉄道が今では中仙道でもあり、北国街道でもある。
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鉄道が今では中仙道なり、北国街道なりだ。
この千曲川の沿岸に及ぼす激しい影響には、驚かされるものがある。
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この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。
それは静かな農民の生活までも変えつつある。
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それは静かな農民の生活までも変えつつある。
鉄道は自然界にまで革命をもたらした。
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鉄道は自然界にまで革命を持来した。
その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種は、鉄道の開設とともに入り込んで来たものであるという。
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その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種子は鉄道の開設と共に進入し来ったものであるという。
野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草がはびこらないところは無い。
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野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草の蔓延しないところは無い。
そして土質を荒らしたり、もともとの草地を制圧したりしつつある。
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そして土質を荒したり、固有の草地を制服したりしつつある。
屠牛の一
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屠牛の一
上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたが、それを見る機会もなしに過ぎた。
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上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたがそれを見る機会もなしに過ぎた。
ちょうど上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
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丁度上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
正月の元日だ。
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正月の元日だ。
新年早々屠牛を見に行くとは、随分物好きな話だとは思ったが、しかし私の遊びたい気持ちはむらむらと湧いて抑えがたいものがあった。
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新年早々屠牛を見に行くとは、随分物数寄な話だとは思ったが、しかし私の遊意は勃々として制え難いものがあった。
朝早く私は上田をさして小諸の住まいを出た。
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朝早く私は上田をさして小諸の住居を出た。
小諸停車場には汽車を待つ客も少ない。
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小諸停車場には汽車を待つ客も少い。
駅夫達は集まって歌留多の遊びなどしていた。
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駅夫等は集って歌留多の遊びなぞしていた。
田中まで行くと、いくらか客が増えたが、その田舎らしい小さな駅はいつもよりさらに静かで、停車場の中で女や子供が羽子をつく様子も、汽車の窓から見えた。
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田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素より更に閑静で、停車場の内で女子供の羽子をつくさまも、汽車の窓から見えた。
初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓のガラスに射し入った。
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初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓の硝子に射し入った。
窓の外は、枯れがれの木立も寂しく、野に人の影もなく、ひっそりとして、雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠、茶色の櫟の枯葉などが、私の目に映った。
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窓の外は、枯々な木立もさびしく、野にある人の影もなく、ひっそりとして雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠、茶色な櫟の枯葉なぞが、私の眼に映った。
車中にも数えるほどしか乗客がない。
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車中にも数えるほどしか乗客がない。
隅のところには古い帽子をかぶり、古い外套を身にまとい、赤い毛布を敷いて、まだ十二月らしい顔つきをしながら、寂しそうに居眠りする鉄道員もあった。
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隅のところには古い帽子を冠り、古い外套を身に纏い赤い毛布を敷いて、まだ十二月らしい顔付しながら、さびしそうに居眠りする鉄道員もあった。
こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。
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こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。
(この山の上の単調な鉄道生活に堪えられるものは、実際は越後人ばかりであるとか)
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(この山の上の単調な鉄道生活に堪え得るものは、実際は越後人ばかりであるとか)
上田町に着いた。
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上田町に着いた。
上田は小諸の堅実さと引き替えに、機敏さで知られた土地だ。
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上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷を以て聞えた土地だ。
この全体の気風というものも、つまりは地形がそうさせるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いて、その上に骨の折れる暮らしを営む人達は、勢い質素にならざるを得ない。
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この一般の気風というものも畢竟地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を営む人達は、勢い質素に成らざるを得ない。
寒い気候と痩せた土地とは、自然に勤勉な人達を作り出した。
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寒い気候と痩せた土地とは自然に勤勉な人達を作り出した。
ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受け取れない。
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ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受取れない。
堅い地大根の沢庵を噛み、朝晩味噌汁で我慢して働くのが小諸である。
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堅い地大根の沢庵を噛み、朝晩味噌汁に甘んじて働くのは小諸である。
十年も昔に流行ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、いやむしろ粗末な服を誇りとするのが小諸の旦那衆である。
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十年も昔に流行ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那衆である。
けれども私は、小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。
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けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。
私は、よそで着て来た柔らかな絹物を脱いで、それを綿服に着替えながら小諸に入る若い謀反人がいることを知っている。
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私は、他所で着て来たやわらか物を脱いでそれを綿服に着更えながら小諸に入る若い謀反人のあることを知っている。
要するに、表面はつつましく見せてその実豊かに、表面は無愛想でもその実親切を尊ぶのが小諸だ。
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要するに、表面は空しく見せてその実豊かに、表面は無愛想でもその実親切を貴ぶのが小諸だ。
これが生活上の形式主義を生む理由だろうと思う。
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これが生活上の形式主義を産む所以であろうと思う。
上田へ来て見ると、都会としての規模の大小はさて置き、また実際の豊かさの程度はともかく、小諸ほど陰気で重々しくない。
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上田へ来て見ると、都会としての規模の大小はさて措き、又実際の殷富の程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。
小諸の商人は買いたければお買いなさいという無愛想な顔つきをしていて、それで割合に良い品を安く売る。
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小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想な顔付をしていて、それで割合に良い品を安く売る。
上田ではそれほどのんきにしていられない事情があると思う。
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上田ではそれほどノンキにしていられない事情があると思う。
絶えず周囲に心を配って、古い城下の繁昌を維持しなければならないのが上田の立場だ。
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絶えず周囲に心を配って、旧い城下の繁昌を維持しなければ成らないのが上田の位置だ。
店々の飾りつけを見ても、競って客の注意を引くように気持ちよく出来ている。
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店々の飾りつけを見ても、競って顧客の注意を引くように快く出来ている。
塩、鰹節、太物、その他上田で小売りする商品の中には、小諸から供給する荷物も少なくないという。
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塩、鰹節、太物、その他上田で小売する商品の中には、小諸から供給する荷物も少くないという。
思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。
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思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。
その日は牛のつぶし初めとかで、屠牛場の取り締まりをするという肉屋を訪ねると、例の籠を肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていてくれた。
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その日は牛のつぶし初めとかで、屠牛場の取締をするという肉屋を訪ねると、例の籠を肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていてくれた。
私は肉屋の亭主にも会った。
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私は肉屋の亭主にも逢った。
この人は口数は少ないが、何となく言葉に重みがあって、牛のことには詳しい人物だった。
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この人は口数は少いが、何となく言葉に重味があって、牛のことには明るい人物だった。
肉屋の若者達は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。
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肉屋の若者等は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。
私達もその後に付いて、細い流れを渡り、太郎山の裾へ出た。
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私達もその後に随いて、細い流を渡り、太郎山の裾へ出た。
新しい建物の前に、鋭い目つきの犬が五、六匹も群がっていた。
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新しい建物の前に、鋭い眼付の犬が五六匹も群がっていた。
そこが屠牛場だった。
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そこが屠牛場だった。
黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手がいた。
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黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手が居た。
その中でも中心になっている頭は年の頃五十あまり、万事に老練な物の言い振りをする男で、肥った頬に愛嬌を見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。
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その中でも重立った頭は年の頃五十あまり、万事に老練な物の言振りをする男で、肥った頬に愛嬌を見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。
検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場では赤い牝牛が一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
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検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場では赤い牝牛が一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。
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中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。
この庭は低い黒塗りの板塀を境にして、屠場に続いている。
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この庭は低い黒塗りの板塀を境にして、屠場に続いている。
屠牛の二
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屠牛の二
黒い外套に鳥打帽をかぶった獣医が入って来た。
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黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。
人々は互いに新年の挨拶を交わした。
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人々は互に新年の挨拶を取換した。
屠手の群はどれも白い上っ張りを着け、素足に冷飯草履という寒そうな身なりで、それぞれ支度を始める。
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屠手の群はいずれも白い被服を着け、素足に冷飯草履という寒そうな風体で、それぞれ支度を始める。
庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁を研ぐのもある。
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庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁を磨ぐのもある。
肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞を取って私に見せた。
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肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞を取って私に示した。
薪割りを見るような道具だ。
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薪割を見るような道具だ。
一方に五、六寸ほどの尖った鉄の管が付けてある。
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一方に五六寸ほどの尖った鉄管が附けてある。
その柄には乾いた牛の血が付いていた。
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その柄には乾いた牛の血が附着していた。
屠殺に使うのだそうだ。
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屠殺に用いるのだそうだ。
肉屋の亭主は落ち着いた調子で、以前は太い釘の形をしたものを使ったが、この管の方が丈夫で、打つ時に力が入ることなどを私に説明した。
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肉屋の亭主は沈着いた調子で、以前には太い釘の形状したのを用いたが、この管状の方が丈夫で、打撃に力が入ることなどを私に説明した。
南部産の黒い牡牛が、やがて中央の庭へ引き出されることになった。
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南部産の黒い牡牛が、やがて中央の庭へ引出されることに成った。
その鼻息も白く見えた。
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その鼻息も白く見えた。
繋いであった他の二頭はにわかに騒ぎ始めた。
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繋いであった他の二頭は遽かに騒ぎ始めた。
屠手の一人は赤い牡牛のそばへ寄り、鼻面を押えながら「ドウ、ドウ」
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屠手の一人は赤い牡牛の傍へ寄り、鼻面を押えながら「ドウ、ドウ」
と言って制する。
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と言って制する。
そのそばでは雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一周りして、しきりに逃れよう逃れようとしている。
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その側には雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一廻りして、しきりに逃れよう逃れようとしている。
ほとんど本能的に、最後の抵抗を試みようとするかのように見えた。
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殆んど本能的に、最後の抵抗を試みんとするがごとくに見えた。
死地に引かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。
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死地に牽かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。
みなが立って眺めている中で、獣医はあちこちと牛のまわりを廻って歩きながら、皮をつまみ、喉を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾を持ち上げて見た。
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皆な立って眺めている中で獣医は彼方此方と牛の周囲を廻って歩きながら、皮をつまみ、咽喉を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾を持上げて見た。
検査が済んだ。
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検査が済んだ。
屠手は大勢寄ってたかって、声を張り上げたり、叱ったりして、じっとそこを動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。
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屠手は多勢寄って群って、声を励ましたり、叱ったりして、じッとそこに動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。
屠場は板敷きで、ちょうど浴場の広い流し場のように造られている。
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屠場は板敷で、丁度浴場の広い流し場のように造られてある。
牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引きを前後の脚の間に投げた。
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牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引を前後の脚の間に投げた。
それをぐっと引き締めると、牛は体を支えられない姿勢になって、重い体を横倒しに板の間の上に倒した。
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それをぐッと引絞めると、牛は中心を保てない姿勢に成って、重い体躯を横倒しに板の間の上に倒れた。
その額のあたりを目掛けて、例の大鉞の鋭く尖った鉄の管を、骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。
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その前額のあたりを目がけて、例の大鉞の鋭い尖った鉄管を骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。
牛は目を回し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、かすかなうめき声を残して息も絶えようとした。
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牛は目を廻し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、幽かな呻き声を残して置いて気息も絶えんとした。
この南部牛のまだ息の残っているのを取り巻いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引きを引っ張り、あるものは出刃で喉のあたりを切った。
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この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引を引張り、あるものは出刃でもって咽喉のあたりを切った。
そのうちに大勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色の腹のあたりと言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた喉のところから流れ出した。
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そのうちに多勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色な腹の辺と言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた咽喉のところから流れ出した。
砕けた額の骨の間へは棒を深く差し込んでえぐり回すものもあった。
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砕けた前額の骨の間へは棒を深く差込んで抉り廻すものもあった。
息のあるうちは、牛は身をもだえて、うめいたり、足をヒクヒクさせたりして苦しんだが、血が流れ出した頃にはまったく息も絶えた。
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気息のあるうちは、牛は身を悶えて、呻いたり、足をヒクヒクさせたりして苦んだが、血が流れ出した頃には全く気息も絶えた。
黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の目の前に横たわっていた。
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黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前に横たわっていた。
屠手の一人はその茶色の腹の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥き始めた。
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屠手の一人はその茶色の腹部の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥き始めた。
また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。
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また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。
この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が現れて来たのは、間もなくであった。
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この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が顕われて来たのは、間もなくであった。
赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。
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赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。
屠牛の三
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屠牛の三
赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型どおりに瞬く間に倒された。
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赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬く間に倒された。
広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。
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広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。
ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。
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ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。
庭へ出て見ると、白い、肥った、脚の短い豚が死に物狂いになって、悲しく可笑しげな声を揚げながら、庭じゅう逃げ廻っていた。
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庭へ出て見ると、白い、肥った、脚の短い豚が死物狂いに成って、哀しく可笑しげな声を揚げながら、庭中逃げ廻っていた。
子供まで集まって来た。
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子供まで集って来た。
追うものもあれば、逃げるものもあった。
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追うものもあれば、逃げるものもあった。
肉屋の亭主が手早く細引きを投げ掛けると、数人がその上に馬乗りに乗って脚を締めた。
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肉屋の亭主が手早く細引を投げ掛けると、数人その上に馬乗りに乗って脚を締めた。
豚はそのまま屠場へ引きずられて行った。
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豚はそのまま屠場へ引摺られて行った。
「牛は宜う御座んすが、豚は喧しくって不可ません。危いことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」
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「牛は宜う御座んすが、豚は喧しくって不可ません。危いことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」
こういう肉屋の亭主に付いて、また私は屠場へ入って見た。
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こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。
豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、悲しげにうなって鳴いたりした。
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豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻って鳴いたりした。
牛の場合とは違って、大鉞などが使われるでもなかった。
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牛の場合とは違って、大鉞などが用いられるでも無かった。
屠手はいきなり出刃を振るって生きている豚の喉を突いた。
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屠手はいきなり出刃を揮って生きている豚の咽喉を突いた。
これに私は少なからず面食らって、眺めていると、豚はいっそう声を揚げて鳴いた。
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これに私はすくなからず面喰って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。
牛の冷静さとは大違いだ。
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牛の冷静とは大違いだ。
豚の喉からは赤い血が流れ出た。
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豚の咽喉からは赤い血が流れて出た。
その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の目に映った。
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その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。
三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、たちまち豚の息は絶えた。
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三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽ち豚の気息は絶えた。
年をとった屠手の頭はあちこちと屠場の中を廻って、指図しながら歩いていた。
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年をとった屠手の頭は彼方此方と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。
その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真赤に染まって見えた。
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その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅く染まって見えた。
最初に屠られた南部牛は、三人掛りで毛皮もほとんど剥ぎ取られた。
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最初に屠られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆んど剥ぎ取られた。
すこし離れてこのありさまを眺めると、生々とした毛皮からは白い湯気の立つのが見える。
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すこし離れてこの光景を眺めると、生々とした毛皮からは白い気の立つのが見える。
一方には竹箒で板の間の血を掃く男がある。
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一方には竹箒で板の間の血を掃く男がある。
しゃがんで出刃を磨くものもある。
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蹲踞んで出刃を磨くものもある。
寒い日の光は注連を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い上っ張りを着けた屠手達の肩などを照らしていた。
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寒い日の光は注連を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。
そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹のあたりに加えられた。
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そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部のあたりに加えられた。
卵色の膜に包まれた臓腑がべろべろと溢れ出た。
原文を見る
卵色の膜に包まれた臓腑がべろべろと溢れ出た。
屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ放り出すのもあり、胴の中ほどへ出刃を入れて肉を裂くものもあった。
原文を見る
屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ投出すのもあり、胴の中程へ出刃を入れて肉を裂くものもあった。
牛の体からは脂が流れて、それが血のにおいに混じって、屠場に満ちた。
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牛の体からは膏が流れて、それが血のにおいに混って、屠場に満ちた。
屠牛の四
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屠牛の四
私は赤い牝牛が「引割り」
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私は赤い牝牛が「引割」
という方法に掛けられるのを見た。
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という方法に掛けられるのを見た。
それは鋸で腰骨を切り開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後ろの脚に綱を繋いで、逆さに滑車で吊り上げるのだ。
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それは鋸で腰骨を切開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後部の脚に綱を繋いで逆さに滑車で釣し上げるのだ。
屠手は三人掛りでその綱を引いた。
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屠手は三人掛りでその綱を引いた。
「そら、巻くぜ」
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「そら、巻くぜ」
「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
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「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
屠手の頭は自分の手でその尻尾を切り放した。
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屠手の頭は手ずからその尻尾を切り放った。
「さあー車々」
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「さあー車々」
と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」
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と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」
と掛け声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。
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と掛声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。
背骨の中央から真二つにそれを鋸で引き割るのだ。
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脊髄の中央から真二つにそれを鋸で引割るのだ。
ザクザクと、まるで氷でも引くように。
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ザクザクと、まるで氷でも引くように。
「どうも切れなくて不可」
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「どうも切れなくて不可」
「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
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「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
と頭は頭らしいことを言って、笑いながら眺めていた。
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と頭は頭らしいことを言って、笑い眺めていた。
巡査が入って来た。
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巡査が入って来た。
子供達はおずおずと屠場を覗いていた。
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子供達はおずおずと屠場を覗いていた。
犬もぼんやり眺めていた。
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犬もボンヤリ眺めていた。
巡査は会う人ごとに「御目出度う」
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巡査は逢う人毎に「御目出度う」
と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。
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と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。
このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗にしよや」
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このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗にしよや」
古びた白の上っ張りを着けた屠手は獣医の方を見た。
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古びた白の被服を着けた屠手は獣医の方を見た。
「ハイ」
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「ハイ」
「醤油で煮染めたような物じゃ困るナ」
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「醤油で煮染めたような物じゃ困るナ」
南部牛はすでに四つの大きな肉の塊になって、その一つずつの股が屠場の奥の方に吊された。
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南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股が屠場の奥の方に釣された。
屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺して歩いた。
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屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺して歩いた。
不思議にも、屠られた牛の痛ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」
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不思議にも、屠られた牛の傷ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」
という感じに変って行った。
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という感じに変って行った。
豚ももう、一時間前まで鳴き騒いだ豚の形はなくて、赤みのある豚肉になって行った。
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豚も最早一時前まで鳴き騒いだ豚の形体はなくて、紅味のある豚肉に成って行った。
南部牛の頭蓋骨は赤い血に染みたままで、片隅に放り出してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。
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南部牛の頭蓋骨は赤い血に染みたままで、片隅に投出してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。
肉と別々にされた骨の主な部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断された。
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肉と別々にされた骨の主なる部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断せられた。
屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入れを取り出し、一服やりながら、みなの働く様子を眺めた。
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屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入を取出し、一服やりながら皆なの働くさまを眺めた。
「このダンベラは、どうかして其方へ片付けろ」
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「このダンベラは、どうかして其方へ片付けろ」
と獣医は屠手に言いつけて、大きな風呂敷包みを見るような臓腑を片付けさせたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角などが残っていた。
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と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷包を見るような臓腑を片付けさしたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角なぞが残っていた。
肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の中へ引き込んだ。
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肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。
箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投げ入れた。
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箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。
「十貫六百――八貫二百――」
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「十貫六百――八貫二百――」
などと読み上げる声が屠場の奥に起った。
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なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。
屠手は二人掛りで大きな秤を吊して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。
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屠手は二人掛りで大きな秤を釣して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。
肉屋の亭主は手帳を取り出し、一つ一つそれを鉛筆で書き留めた。
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肉屋の亭主は手帳を取出し一々それを鉛筆で書留めた。
肉と脂と生き血のにおいは屠場に満ち満ちていた。
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肉と膏と生血のにおいは屠場に満ち満ちていた。
板の間の片隅には手桶に足を差し入れて、牛の血を洗い落している人々もある。
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板の間の片隅には手桶に足を差入れて、牛の血を洗い落している人々もある。
牝牛の全部はもう車に積まれて門の外へ運び去られた。
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牝牛の全部は早や車に積まれて門の外へ運び去られた。
「三貫八百――」
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「三貫八百――」
それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。
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それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。
肉屋の亭主に言わせると、牛はほとんど捨てる部分が無い。
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肉屋の亭主に言わせると、牛は殆んど廃る部分が無い。
頭蓋骨は肥料に売る。
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頭蓋骨は肥料に売る。
臓腑と角とは屠手の儲けになる。
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臓腑と角とは屠手の利に成る。
こんな話を聞きながら、間もなく私は亭主と連れ立って屠牛場の門を出た、枯れがれの桑畠の間には、喜び騒ぐ犬の声々とともに、牛や豚の肉を満載した車の音が高く響き渡った。
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こんな話を聞きながら、間もなく私は亭主と連立って屠牛場の門を出た、枯々な桑畠の間には、喜び騒ぐ犬の声々と共に、牛豚の肉を満載した車の音が高く響き渡った。
その十
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その十
千曲川に沿うて
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千曲川に沿うて
これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科山脈との間に広がる大きな深い谷のありさまを、ほぼ想像することが出来ただろうと思う。
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これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科山脈との間に展開する大きな深い谷の光景を略想像することが出来たろうと思う。
私は君の心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行って、そこにある山々、村々の話もした。
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私は君の心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行ってそこにある山々、村々の話もした。
暇さえあれば、私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽しみとした。
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暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽みとした。
私は岩村田から香坂へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田川という千曲川の支流に沿って和田峠から諏訪の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木峠を旅して別所温泉の方へ廻ったこともある。
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私は岩村田から香坂へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田川という千曲川の支流に随いて和田峠から諏訪の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木峠を旅して別所温泉の方へ廻ったこともある。
田沢温泉のことは君にも話した。
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田沢温泉のことは君にも話した。
君は私と一緒に、千曲川の上流にある主な部分を見たというものだ。
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君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。
私はさらに下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう。
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私は更に下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう。
軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。
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軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。
この汽車が通って来た碓氷のトンネルには――ちょっとあの峠の関門とも言うべきところに――巨大なつららが群れ立つ様子を想像してみたまえ。
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この汽車が通って来た碓氷の隧道には――一寸あの峠の関門とも言うべきところに――巨大な氷柱の群立するさまを想像してみたまえ。
それから寒帯の地方と気候を同じくするという軽井沢附近の落葉松林に、俗に「ナゴ」
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それから寒帯の地方と気候を同じくするという軽井沢附近の落葉松林に俗に「ナゴ」
と呼ぶものが氷の花のように付く様子を想像してみたまえ。
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と称えるものが氷の花のように附着するさまを想像してみたまえ。
汽車が小諸を離れる時、プラットフォームの上に立つ駅夫達の息も白く見えた。
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汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸も白く見えた。
窓のガラス越しに眺めると、田、野菜畠、桑畠、みな雪に覆われて、谷の下の方を暗い藍色の千曲川の水が流れて行った。
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窓の硝子越に眺めると田、野菜畠、桑畠、皆な雪に掩われて、谷の下の方を暗い藍色な千曲川の水が流れて行った。
村落のあるところには人家の屋根も白く、土壁は暗く、肥桶を担いで麦畠の方へ通う農夫達も寒そうであった。
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村落のあるところには人家の屋根も白く、土壁は暗く、肥桶をかついで麦畠の方へ通う農夫等も寒そうであった。
田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑、烏帽子などの一帯の山脈の方を望むと、空は一面に灰色で、連なった山々に接した部分だけが朦朧と白く見えた。
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田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑、烏帽子等の一帯の山脈の方を望むと空は一面に灰色で、連続した山々に接した部分だけ朦朧と白く見えた。
Unseen Whiteness――そんな言葉よりほかに、あの深い空を形容してみようが無かった。
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Unseen Whiteness――そんな言葉より外にあの深い空を形容してみようが無かった。
窓ぎわに遠く近く見渡される麦畠のサクの窪みへは雪が積って、それがうねうねと並行した白い線を描いた中に、枯れがれの雑木などがぽつんぽつんと立つのも見えた。
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窓側に遠く近く見渡される麦畠のサクの窪みへは雪が積って、それがウネウネと並行した白い線を描いた中に、枯々な雑木なぞがポツンポツンと立つのも見えた。
雪国の鬱陶しさよ。
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雪国の鬱陶しさよ。
汽車は犀川を渡った。
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汽車は犀川を渡った。
あの水を合わせてから、千曲川はいっそう大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、岸にある低い楊も、白い土質の崖も、柿の樹の多い村落も、すべて雪に覆われて見えた。
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あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、岸にある低い楊も、白い土質の崖も、柿の樹の多い村落も、すべて雪に掩われて見えた。
その沈んだ眺めはただの白さではなくて、紫がかった灰色を帯びたものだった。
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その沈んだ眺望は唯の白さでなくて、紫がかった灰色を帯びたものだった。
遠い山々は重く暗い空に隠れて、かすかに姿を現して見せた。
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遠い山々は重く暗い空に隠れて、かすかに姿をあらわして見せた。
この一面の雪景色の中で、わずかに単調を破るものは、ところどころに見える暗い杜と、低く舞う飢えた烏の群だけだ。
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この一面の雪景色の中で、僅かに単調を破るものは、ところどころに見える暗い杜と、低く舞う餓えた烏の群とのみだ。
行く手には灰色の雪雲も垂れ下がって来た。
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行手には灰色な雪雲も垂下って来た。
次第に私は薄暗い雪国の底の方へ入って行く気がした。
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次第に私は薄暗い雪国の底の方へ入って行く気がした。
ある駅を離れる頃には雪も降って来た。
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ある駅を離れる頃には雪も降って来た。
この旅は私一人ではなく、小諸から二人の連れがあった。
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この旅は私独りでなく小諸から二人の連があった。
どちらも私の家に近いところの娘達で、I、Kという連中だ。
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いずれも私の家に近いところの娘達で、I、Kという連中だ。
この二人は小諸の小学校を終えて、師範学校の講習を受けるために飯山まで行くという。
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この二人は小諸の小学を卒えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという。
汽車の窓から親達の住む方を眺めて、目を泣きはらして来るほどの年頃で、知らない土地へ二人だけで出掛けるとは、よほどの奮発だ。
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汽車の窓から親達の住む方を眺めて、眼を泣きはらして来る程の年頃で、知らない土地へ二人ぎり出掛るとは余程の奮発だ。
でもまだ本当に娘娘したところのある人達で、互いに肘で突つき合ったり、黄ばんだ歯を出して快活に笑ったり、後ろから友達を抱いて車中の退屈を紛らしたりなどする。
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でもまだ真実に娘々したところのある人達で、互に肘で突付き合ったり、黄ばんだ歯をあらわして快活に笑ったり、背後から友達を抱いて車中の退屈を慰めたりなどする。
Naiveな、可憐な、見ていても吹き出したくなるような連中だ。
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Naiveな、可憐な、見ていても噴飯したくなるような連中だ。
おかげで私も気が紛れて行った。
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御蔭で私も紛れて行った。
Iの方は私の家の大家さんの娘だ。
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Iの方は私の家の大屋さんの娘だ。
豊野で汽車を降りた。
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豊野で汽車を下りた。
そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施の栗林もある。
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そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施の栗林もある。
その日は四阿、白根の山々も隠れてよく見えなかった。
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その日は四阿、白根の山々も隠れてよく見えなかった。
雪の道を踏んで行くうちに、道ばたに梨や柿の枯枝の見える、ある村の坂のところへ差しかかった。
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雪の道を踏んで行くうちに、路傍に梨や柿の枯枝の見える、ある村の坂のところへ掛った。
そこは水内の平野を見渡すような位置にある。
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そこは水内の平野を見渡すような位置にある。
私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊かに実った稲田は黄色い海を見るようだった。
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私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊饒な稲田は黄色い海を見るようだった。
向うの方には千曲川が光って流れて行くのを望んだこともあった。
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向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。
遠くに好い欅の杜を見て置いたが、黄緑の髪のような梢からこんもりと暗い幹の方まで、あの樹木の全体の姿は忘れられずにいる。
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遠く好い欅の杜を見て置いたが、黄緑な髪のような梢からコンモリと暗い幹の方まで、あの樹木の全景は忘られずにある。
雪の中を私達は蟹沢まで歩いた。
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雪の中を私達は蟹沢まで歩いた。
そこまで行くと、初めて千曲川に舟を見る。
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そこまで行くと、始めて千曲川に舟を見る。
川船
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川船
降ったり止んだりした雪は、やがて霙に変って来た。
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降ったり休んだりした雪は、やがて霙に変って来た。
あのしとしと降りそそぐ音を聞きながら、私達は飯山行きの便船が出るのを待っていた。
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あの粛々降りそそぐ音を聞きながら、私達は飯山行の便船が出るのを待っていた。
男は真綿帽子をかぶり、藁靴を履き、女は紺色染めの真綿を亀の甲のように背中に背負って、家の中でも手拭をかぶる。
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男は真綿帽子を冠り、藁靴を穿き、女は紺色染の真綿を亀の甲のように背中に負って家の内でも手拭を冠る。
それがこの辺で目につく風俗だ。
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それがこの辺で眼につく風俗だ。
休み茶屋を出て川の岸近くに立って眺めると、上高井の山脈、菅平の高原、高社山、その他の山々は遠く隠れ、対岸の蘆や荻も枯れて潜み、洲の形をした川の中ほどの砂の盛り上ったのも雪に埋もれていた。
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休茶屋を出て川の岸近く立って眺めると上高井の山脈、菅平の高原、高社山、その他の山々は遠く隠れ、対岸の蘆荻も枯れ潜み、洲の形した河心の砂の盛上ったのも雪に埋もれていた。
奥深く、果てもなく白々と続いた方から、暗い千曲川の水が油のように流れて来る。
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奥深く、果てもなく白々と続いた方から、暗い千曲川の水が油のように流れて来る。
これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げながら流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢いに変って見える。
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これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢に変って見える。
上流の方には、高い釣橋が多いが、ここへ来ると舟橋も見られる。
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上流の方には、高い釣橋が多いが、ここへ来ると舟橋も見られる。
そのうちに乗客が集まって来た。
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そのうちに乗客が集って来た。
私達は雪の積った崖に沿って乗り場の方へ降りた。
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私達は雪の積った崖に添うて乗場の方へ降りた。
屋根の低い川船で、人々はどれも膝を突き合わせて乗った。
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屋根の低い川船で、人々はいずれも膝を突合せて乗った。
水に響く艪の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話し声、そんなものがのんきな感じを与える。
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水に響く艪の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話声、そんなものがノンキな感じを与える。
船の窓から眺めていると、雪とも霙ともつかないものが水の上に落ちる。
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船の窓から眺めていると、雪とも霙ともつかないのが水の上に落ちる。
光線は波に銀色の反射を与えた。
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光線は波に銀色の反射を与えた。
こうして蟹沢を離れて行った。
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こうして蟹沢を離れて行った。
上今井というところで、船を待つ二、三人の客が岸に立っていた。
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上今井というところで、船を待つ二三の客が岸に立っていた。
船頭はジャブジャブ水の中へ入って行って、男や女の客をおぶって来た。
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船頭はジャブジャブ水の中へ入って行って、男や女の客を負って来た。
砂の上を離れる舟底の音がしたかと思うと、また艪の音が起った。
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砂の上を離れる舟底の音がしたかと思うと、又た艪の音が起った。
その音は千曲川の静かな水に響いて、ちょうど牛の鳴き声のように聞える。
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その音は千曲川の静かな水に響いてあだかも牛の鳴声の如く聞える。
舟が鳴くようにも。
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舟が鳴くようにも。
それを聞いていると、何とでもこちらの思ったように聞えて、同行のIの苗字を思い出せばそのように、Kの苗字を思い出せばまたそのように響いて来る。
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それを聞いていると、何とでも此方の思った様に聞えて、同行のIの苗字を思出せばそのように、Kの苗字を思出せば又そのように響いて来る。
無邪気な娘達は楽しそうに聞き入った。
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無邪気の娘達は楽しそうに聞き入った。
両岸は白い雪に包まれた中にも、ところどころに村々の人家、雑木林、森などを望み、雪支度をして岸の上を行く人の影も望んだ。
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両岸は白い雪に包まれた中にも、ところどころに村々の人家、雑木林、森なぞを望み、雪仕度して岸の上を行く人の影をも望んだ。
その岸の上を以前私が歩いた時は、豆や粟などの畠が熟する頃で、あの莢や穂が道ばたに垂れ下がっていた。
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その岸の上を以前私が歩いた時は、豆粟などの畠の熟する頃で、あの莢や穂が路傍に垂下っていた。
そう、そう、私はあの時、この岸の下の方に低い楊がたくさんうずくまっているのを見下ろして、秋の日にちらちらする雑木の霜葉のかげからそれを眺めた時は、ちょうど羊の群でも見るような気がした。
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そう、そう、私はあの時、この岸の下の方に低い楊の沢山蹲踞っているのを瞰下して、秋の日にチラチラする雑木の霜葉のかげからそれを眺めた時は、丁度羊の群でも見るような気がした。
川船は今、その下を通るのだ。
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川船は今、その下を通るのだ。
どうかすると、水に近い楊の枯枝が船の屋根に触れて、それを潜り抜けて行く時にはバラバラと音がした。
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どうかすると、水に近い楊の枯枝が船の屋根に触れて、それを潜り抜けて行く時にはバラバラ音がした。
船の中は割合に暖かだった。
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船の中は割合に暖かだった。
同じ雪国でも高原地に比べると気候の違いを感じる。
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同じ雪国でも高原地に比べると気候の相違を感ずる。
それだけ雪は深い。
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それだけ雪は深い。
午後の日ざしの加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。
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午後の日ざしの加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。
私は船の窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、船べりにあたる水を眺めたりして行った。
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私は船窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、舷にあたる水を眺めたりして行った。
この川船は白いペンキで塗って、赤い二本の筋を描いてある。
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この川船は白いペンキで塗って、赤い二本の筋をあらわしてある。
ある舟橋に差しかかった。
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ある舟橋に差掛った。
船は無造作にその下を潜り抜けて行った。
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船は無作法にその下を潜り抜けて行った。
黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の目の前に開けた。
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黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の眼前に展けた。
雪の中には鶏の鳴き声も聞える。
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雪の中には鶏の鳴声も聞える。
人家の煙も立ちこめている。
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人家の煙も立ちこめている。
それが古い飯山の城下だ。
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それが旧い飯山の城下だ。
雪の海
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雪の海
一晩に四尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。
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一晩に四尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。
飯山へ来て見ると、まったく雪に埋もれた町だ。
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飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。
あるいは雪の中から掘り出された町と言った方が適当かも知れない。
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あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。
この掘り出されたという感じを強く与えるものは、町の往来に高く築き上げてある雪の山だ。
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この掘出されたという感じを強く与えるものは、町の往来に高く築き上げてある雪の山だ。
屋根から下ろす大量の雪を、人々が集まって積み上げ積み上げするうちに、やがて人家の軒よりも高くなる。
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屋根から下す多量な雪を、人々が集って積み上げ積み上げするうちに、やがて人家の軒よりも高く成る。
それが往来の真中に白壁のように続いている。
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それが往来の真中に白壁の如く続いている。
家々の軒先には「ガンギ」
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家々の軒先には「ガンギ」
というものを渡して、その下を用事ありげな人達が行き来している。
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というものを渡して、その下を用事ありげな人達が往来している。
家の中の暗さもおおよそ想像がつくだろう。
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屋内の暗さも大凡想像されよう。
それに高い葭簾で家を囲うということが、いっそう家の中を暗くする。
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それに高い葭簾で家をかこうということが、一層屋内を暗くする。
私は娘達を残して置いて、一人で町へ出てみた。
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私は娘達を残して置いて、独りで町へ出てみた。
ちらちら雪の中で灯がともる頃だった。
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チラチラ雪の中で橙火の点く頃だった。
私は空の一方に、薄暗い灰色の空が紅色を帯びるのを望んだ。
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私は天の一方に、薄暗い灰色な空が紅色を帯びるのを望んだ。
ちょうど遠いところの火事が曇った空に映るように。
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丁度遠いところの火事が曇った空に映ずるように。
それが落日の反射だった。
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それが落日の反射だった。
雪煙もこの辺でなければ見られないものだ。
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雪煙もこの辺でなければ見られないものだ。
実に陰鬱な、頭の上から何か引きかぶせられているような気のするところだ。
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実に陰鬱な、頭の上から何か引冠せられているような気のするところだ。
土地の人が信心深いというのも、偶然ではないと思う。
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土地の人が信心深いというのも、偶然では無いと思う。
この町だけで二十何カ所の寺院がある。
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この町だけに二十何カ処の寺院がある。
同じ信州の中でも、ここはちょっと上方へでも行ったような気が起る。
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同じ信州の中でも、ここは一寸上方へでも行ったような気が起る。
言葉遣いからして高原の地方とは違う。
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言葉遣いからして高原の地方とは違う。
暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。
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暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。
荷車の代りに橇が使われ、雪の上を馬が引いて通るのもめずらしかった。
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荷車の代りに橇が用いられ、雪の上を馬が挽いて通るのもめずらしかった。
蒲で編んだ箕帽子をかぶり、色眼鏡を掛け、蒲脚絆を着け、爪掛けを掛け、それに毛布だの、ショールだので身を包んだ雪装束の人達が私のそばを通った。
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蒲で編んだ箕帽子を冠り、色目鏡を掛け、蒲脚絆を着け、爪掛を掛け、それに毛布だの、ショウルだので身を包んだ雪装束の人達が私の側を通った。
また霙が降って来た。
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復た霙が降って来た。
千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで、対岸へ通ううねうねと長い舟橋の上には、人の足跡だけが一筋茶色に雪の上に印されているのが望まれた。
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千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通うウネウネと長い舟橋の上には人の足跡だけ一筋茶色に雪の上に印されたのが望まれた。
時には雪靴を履いた男にも出会ったが、行き交う人の影はまれだった。
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時には雪鞋穿いた男にも逢ったが、往来の人の影は稀だった。
高社、風原、中の沢、その他信越の境にそびえる山々は、ただわずかに山の層の形を見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。
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高社、風原、中の沢、その他信越の境に聳ゆる山々は、唯僅かに山層のかたちを見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。
千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。
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千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。
しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、舟橋の上まで行って見ると、下を流れる水の勢いは矢のように早い。
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しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、舟橋の上まで行って見ると、下を流れる水勢は矢のように早い。
そこから河原を望んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。
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そこから河原を望んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。
その白さは、ただの白さではなく、ひっそりとした底の知れないような白さだった。
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その白さは、唯の白さでなく、寂莫とした底の知れないような白さだった。
見ているうちに、全身が震えて来るような白さだった。
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見ているうちに、全身顫えて来るような白さだった。
愛のしるし
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愛のしるし
飯山で手拭が愛のしるしに使われるという話を聞いた。
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飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。
縁を切るという場合には手拭を裂くという。
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縁を切るという場合には手拭を裂くという。
だからこの辺の近在の女はみな手拭を大切にして、落して置くことを嫌うとか。
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だからこの辺の近在の女は皆な手拭を大切にして、落して置くことを嫌うとか。
これは縁起が好いとか、悪いとかいう類の話に近い。
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これは縁起が好いとか、悪いとかいう類の話に近い。
でも優しい風習だ。
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でも優しい風俗だ。
山の上へ
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山の上へ
「水内は古代には一面の水沢であったろう――その証拠には、飯山あたりの町は砂石の上に出来ている。土を掘って見ると、それがよく分る」
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「水内は古代には一面の水沢であったろう――その証拠には、飯山あたりの町は砂石の上に出来ている。土を掘って見ると、それがよく分る」
いろいろな土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて、翌朝私は飯山を発った。
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種々の土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発った。
舟橋を渡って、対岸から町の方に城山などを望み、それから岸の上の桑畠が雪に埋もれた中を橇で走らせた。
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舟橋を渡って、対岸から町の方に城山なぞを望み、それから岸の上の桑畠の雪に埋れた中を橇で走らせた。
その橇は人力車の輪を取り外して、それに「いたや」
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その橇は人力車の輪を取除して、それに「いたや」
の堅い木片で作った橇を代用したようなものだ。
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の堅い木片で造った橇を代用したようなものだ。
梶棒と後押し棒とがあって、人夫が二人掛りで引いたり押したりする。
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梶棒と後押棒とあって人夫が二人掛りで引いたり押したりする。
低い橇の造りだから梶棒を高く揚げると、乗った客はいくらか尻餅をついた形になる。
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低い橇の構造だから梶棒を高く揚げると、乗った客はいくらか尻餅ついた形になる。
とは言え、この乗りにくい橇が私の旅の心を喜ばせた。
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とは言え、この乗りにくい橇が私の旅の心を喜ばせた。
私は子供のような物めずらしさで人夫達の激しい息を聞いた。
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私は子供のような物めずらしさを以て人夫達の烈しい呼吸を聞いた。
凍った雪の上を疾走して行った時は、どうかすると私は桑畠の中へ橇もろともぶちまけられそうな気がした。
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凍った雪の上を疾走して行った時は、どうかすると私は桑畠の中へ橇諸共ブチマケラレそうな気がした。
「ホウ――ヨウ――」
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「ホウ――ヨウ――」
という掛け声とともに、雪の上を滑る橇の音、人夫達がサクサク雪を踏んで行く音まで、私の耳に快さを起こさせた。
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という掛声と共に、雪の上を滑る橇の音、人夫達がサクサク雪を踏んで行く音まで私の耳に快感を起させた。
川船で通って来た岸の雪景色は私の前に静かに回転した。
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川船で通って来た岸の雪景色は私の前に静かに廻転した。
中野近くで橇を降りた。
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中野近くで橇を降りた。
道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道になって、冷たく、足の指もしびれた。
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道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道に成って、冷く、足の指も萎れた。
親切な飯山の宿で爪掛けをもらって、それを私は草鞋の先に掛けて履いて来た。
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親切な飯山の宿で、爪掛を貰って、それを私は草鞋の先に掛けて穿て来た。
一月十四日のことで、村々では「ものづくり」
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一月十四日のことで村々では「ものづくり」
というものを祝った。
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というものを祝った。
「みずくさ」
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「みずくさ」
という木の赤い枝に、米の粉をまるめて繭の形を作る。
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という木の赤い条に、米の粉をまるめて繭の形をつくる。
それを神棚に飾りつける。
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それを神棚に飾りつける。
養蚕の前祝いだという。
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養蚕の前祝だという。
帰りには、日光のために目もまぶしく、雪の反射に悩まされた。
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帰りには、日光の為に眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。
その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
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その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
豊野からまた汽車で、山の上の方へ戻って行った時は、次第に寒さが加わることを感じた。
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豊野から復た汽車で、山の上の方へ戻って行った時は次第に寒さの加わることを感じた。
けれども私は薄暗い陰気な雪の中から、いくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ほっと息をついた。
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けれども私は薄暗い陰気な雪の中からいくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ホッと息を吐いた。
その十一
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その十一
山に住む人々の一
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山に住む人々の一
以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇で帰ったのとは反対の側にある新道に沿って――黄ばんだ稲田の続いた静間平を通り、ある村はずれの休み茶屋に腰掛けたことがあった。
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以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇で帰ったとは反対の側にある新道に添うて――黄ばんだ稲田の続いた静間平を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。
その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」
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その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」
と聞かれて、意外な問いに笑い出したことがあった。
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と聞かれて意外の問に失笑した事が有った。
同行の画家B君は外国仕込みの洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、ふざけて「お寺さん」
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同行の画家B君は外国仕込の洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」
になりすまして、ちょっと休み茶屋のおかみをまごつかせた。
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に成り済まして一寸休茶屋の内儀をまごつかせた。
私が笑えば笑うほど、おかみは余計に私達を「お寺さん」
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私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」
にしてしまって、たとえ内実は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に備わったものであることなどを、半ば羨み、半ばからかうような調子で言った。
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にして了って、仮令内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具ったものであることなどを、半ば羨み、半ば調戯うような調子で言った。
このおかみの話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」
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この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」
の生活の一面を語るものだ。
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の生活の一面を語るものだ。
私は飯山行きの話の中で、土地の人が信心深いことや、あの山あいの小さな都会に二十何ヶ所の寺院があることや、そういう古い姿の保存されているところはちょっと上方へでも行ったような気がすることを、君に言って置いた。
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私は飯山行の話の中で、土地の人の信心深いことや、あの山間の小都会に二十何ヶ所の寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸上方へでも行ったような気のする事を君に言って置いた。
この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」
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この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」
の潮流の中で、いつまで突き崩されずに続くものだろうか。
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の潮流の中で、何時まで突き壊されずに続くものだろうか。
とにかく、長い冬を雪の中に過ごすような気候や地形と相まって、人々一般の心に宗教的なところがあるのは事実のようだ。
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とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待って、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。
これは千曲川の下流に行って特にそう感じられる。
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これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの中で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺めの好い往生寺の境内を歩いて見たくらいのもので、実際どういう人がいるのか、詳しくは知らない。
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長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもので、実際どういう人があるのか、精しくは知らない。
飯山の方では、私は何となく高い心を持った一人の老僧に会ってみた。
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飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。
連れ添う老婦人もなかなかのやり手だ。
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連添う老婦人もなかなかのエラ者だ。
この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとってもなお活動を忘れないでいるという風だ。
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この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶活動を忘れないでいるという風だ。
その寺では、ちょうど檀家に法事があるとやらで、御画像というものを箱に入れ、丁重な風呂敷包みにして借りて行く男などを見かけた。
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その寺では、丁度檀家に法事があるとやらで、御画像というものを箱に入れ鄭重な風呂敷包にして借りて行く男なぞを見かけた。
ちょっとしたことだが、古風に感じた。
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一寸したことだが、古風に感じた。
君はインドにおける仏跡探検の事実を聞いたことがあるか。
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君は印度に於ける仏蹟探検の事実を聞いたことがあるか。
その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の息子さんで、娘の婿にあたる学士もやはり一行の中に加わった人だ。
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その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。
学士は当時英国留学中であったが、病弱な体を引っ提げて一行に加わり、インド内地およびセイロンにおける阿育王の遺跡などを探り、さらに英国の方へ引き返して行く途中で客死した。
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学士は当時英国留学中であったが、病弱な体躯を提げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭に於ける阿育王の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。
この学士の記念の絵葉書が、たくさん飯山の寺に残っていたが、熱帯地方の旅の苦しみを書きつけてあったのなどは特に、私の心を引いた。
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この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなぞは殊に、私の心を引いた。
老僧の息子さんは兵役に服しているとかで、その人には私は会ってみなかった。
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老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。
古い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新しい人物が生れている。
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旧い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生れている。
そしてそういう人達の背後には、親であり、また舅・姑である老僧夫婦のような人達がいて、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。
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そしてそういう人達の背後には、親であり又た舅姑である老僧夫婦のような人達があって、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。
しかし飯山地方に古めかしい宗教的なにおいが残っていて、二十何ヵ所の寺院が、たとえ維持の方法に苦しみながらも古い姿を保存しているということは、偶然ではない。
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しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気が残っていて、二十何ヵ所の寺院が仮令維持の方法に苦みながらも旧態を保存しているということは、偶然でない。
私はその老僧から、飯山の古い城主の中には、若くして政治的な生涯を離れ、僧侶の服をまとい、一生仏教の伝道に身をゆだねた人がいたことを聞いた。
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私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委ねた人のあったことを聞いた。
また、白隠、恵端、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的な因縁を残していることも聞いた。
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又、白隠、恵端、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的の因縁を遺していることも聞いた。
こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。
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こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。
第一そういう土地柄でもないし、そういう歴史の背景も無いし、法の残り火を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。
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第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法の残燈を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。
私は小諸あたりで何人かの僧侶に会ってみたが、実際、世間の人達に会っているのとほとんど変りが無いように思った。
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私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りが無いように思った。
養蚕の時季が来れば、寺の本堂のわきに蚕の棚が吊られる。
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養蚕時が来れば、寺の本堂の側に蚕の棚が釣られる。
僧侶も働いて、長い冬ごもりの蓄えを作らなければならない。
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僧侶も労働して、長い冬籠の貯えを造らなければ成らない。
山に住む人々の二
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山に住む人々の二
学問の普及ということは、この国の誇りとするものの一つだ。
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学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。
多くの児童を収容する大きな校舎の建物をこうした山あいに望む景色は、ちょっと他の地方に見られない。
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多くの児童を収容する大校舎の建築物をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方に見られない。
そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。
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そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。
小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らないほどの大きな校舎を建てた。
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小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。
その高いガラス窓は町の額のところに光って見える。
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その高い玻璃窓は町の額のところに光って見える。
こういう土地だから、良い教育家になろうと思う青年の多いのも不思議はない。
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こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。
さまざまな家の事情から遠くへ行けないような学問好きな青年は、多くは国に残って身を立てることを考える。
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種々な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。
毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数はかなり多い。
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毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。
私達の学校にも、その準備のために一、二年在学する生徒がよくいる。
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私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。
だいたいこの山国では学者を尊重する気風がある。
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一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。
小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。
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小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。
また、社会的な地位から言っても割合に尊敬を払われている。
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又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。
その点は都会の教育家などの比ではない。
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その点は都会の教育家などの比でない。
新聞記者までも「先生」
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新聞記者までも「先生」
として立てられる。
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として立てられる。
長野あたりから新聞記者を招いて講演を聴くなどは、ここらでは珍しくない。
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長野あたりから新聞記者を聘して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。
何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新しい知識を吸い取ろうとする。
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何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。
小諸あたりのことで言ってみても、名士や先生を歓迎する会は実に多い。
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小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。
ちょうど昔の関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
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あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
おかげで私もここへ来てからいろいろな先生方の話を拝聴することが出来た。
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御蔭で私もここへ来てから種々な先生方の話を拝聴することが出来た。
故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。
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故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。
そのことは私は後で学校の校長から聞いた。
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その事は私は後で学校の校長から聞いた。
朝鮮からの亡命の客で、よく足を留めた人もある。
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朝鮮亡命の客でよく足を留めた人もある。
旅の書家などが困って来れば、相応に旅費を持たせて発たせるという風だ。
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旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。
おおむね、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、みな同じように迎えられる傾きがある。
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概して、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、皆な同じように迎えらるる傾きがある。
こうした熱心な、何もかも同じように受け入れようとする傾きは、一方では一種重苦しい空気を形づくっている。
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こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に於いて一種重苦しい空気を形造っている。
強いて言えば、地方的な単調さ……そのためには、まったく気質の違う人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。
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強いて言えば、地方的単調……その為には全く気質を異にする人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。
それから佐久あたりには、特に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。
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それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。
ここにはごくのんきな人もいるが、また非常に理屈っぽい人もいる。
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ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟ッぽい人もいる。
なぜこう信州人は理屈っぽいのだろう、とはよく聞く話だが、だいたいに人の心が激しいからだと思う。
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何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とはよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと思う。
槲の葉が北風に鳴るように、ちょっとしたことにもすぐに興奮して震えるような人がいる。
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槲の葉が北風に鳴るように、一寸したことにも直に激し顫えるような人がある。
それにつけて思い出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起こそうという話が町の有志の間にあった。
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それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者の間にあった。
一同が光岳寺の広間に集まった時は、盛んな議論が起った。
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一同光岳寺の広間に集った時は、盛んな議論が起った。
私達の学校のI先生などは、若い人達を相手に薄暗くなるまで火花を散らしたものだ。
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私達の学校のI先生なぞは、若い人達を相手に薄暗くなるまでも火花を散らしたものだ。
みな草臥れて、規則だけは出来たが、とうとうその青年会はお流れになってしまったことがあった。
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皆な草臥れて、規則だけは出来たが、到頭その青年会はお流れに成って了ったことが有った。
一方に、ごく静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受け持っているT君などがその一人だろう。
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一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。
ほんとうに学者らしい、そして静かな心だ。
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ほんとに学者らしい、そして静かな心だ。
どんな場合でも、私はT君の顔色が変ったのを見たことが無い。
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どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。
小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。
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小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。
T君の顔を見ると、私は学校中で誰に会うよりも安心する。
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T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。
山に住む人々の三
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山に住む人々の三
警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。
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警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。
町の平和を監督する署長さんと言えば、たいてい他の地方の人だ。
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町の平和を監督する署長さんと言えば、大抵他の地方の人だ。
ここの巡査の中にも土地から出て奉職する人などがいて、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
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ここの巡査の中にはでも土地から出て奉職する人なぞがあって、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
鉄道の方の人達は停車場のまわりにまったく別の世界を作っている。
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鉄道の方の人達は停車場の周囲に全く別に世界を造っている。
忍耐力の強い越後人よりほかに、この山の上の鉄道生活に堪えられるものは無いとも言われている。
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忍耐力の強い越後人より外に、この山の上の鉄道生活に堪え得るものは無いとも言われている。
大手に住む話好きな按摩から、今の駅長のことを聞いたことがあった。
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大手に住む話好きな按摩から、今の駅長のことを聞いたことが有った。
この人は新橋から直江津に移り、車掌を五年勤め、それから助役として七年の月日を送って来たという。
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この人は新橋から直江津に移り、車掌を五年勤め、それから助役に七年の月日を送って来たという。
同じ山の上に住んでも、こうしたかけ離れた生活を送っている人もいる。
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同じ山の上に住んでも、こうした懸け離れた生活を送っている人もある。
以前ある駅長が残して行った話だと言って、按摩はまた次のようなことを私に語って聞かせた。
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以前ある駅長が残して行った話だと言って、按摩はまた次のようなことを私に語って聞かせた。
「もと、越後の酒造りで、倉番をした人ということで御座います。にわかに出世致しまして、ここの駅長さんと御成んなさいました。ある時、電信掛の技手に向い、葡萄酒の瓶の貼紙を指しまして、どうだ君にこの英語が読めるかとそう申しました。読めるなら一升奢ろうというんで御座います。その駅長さんが無学なことは技手も承知しておりましたから、わざと私には読めません、貴方一つ御読みなすって下さい。それこそ私が酒でもこの葡萄酒でも奢りますからと申しました。フムそうか、君はよくこんなものが読めなくて鉄道が勤まるネ、そんな話でその場は分れてしまいました。技手はもし譴責でもされたら酒にかこつける下心で、すこし赤い顔をして駅長さんの前に出ました。先刻は大きに失礼致しました、憚りながらこんなものは英語のイロハだ、皆さんも聞いて下さい。この貼紙にはこういうことが書いてあると言って、ペロペロと読んで聞かせました。ウンそうかい、そういうことが書いてあるのかい、なるほど君はエライものだ、そういう学力があろうとは今まで思わなかった……」
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「もと、越後の酒造で、倉番した人ということで御座います。遽かに出世致しまして、ここの駅長さんと御成んなさいました。ある時、電信掛の技手に向い、葡萄酒罎の貼紙を指しまして、どうだ君にこの英語が読めるかとそう申しました。読めるなら一升奢ろうというんで御座います。その駅長さんの無学なことは技手も承知しておりましたから、わざと私には読めません、貴方一つ御読みなすって下さい。それこそ私が酒でもこの葡萄酒でも奢りますからと申しました。フムそうか、君はよくこんなものが読めなくて鉄道が勤まるネ、そんな話でその場は分れて了いました。技手はもし譴責でもされたら酒にかこつける下心で、すこし紅い顔をして駅長さんの前に出ました。先刻は大きに失礼致しました、憚りながらこんなものは英語のイロハだ、皆さんも聞いて下さい。この貼紙にはこう云うことが書いてあると言うて、ペロペロと読んで聞かせました。ウンそうかい、そういうことが書いてあるのかい、成程君はエライものだ、そういう学力があろうとは今まで思わなかった……」
こんな口論の末から、駅長と技手とは何事にも反対に出るようになった。
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こんな口論の末から駅長と技手とはすべて反対に出るように成った。
間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
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間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
線路のそばに立っているポイント・メンこそは、この山の上で寂しい生活を送る移住者の姿だろう。
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線路の側に立っているポイント・メンこそはこの山の上で寂しい生活を送る移住者の姿であろう。
勤めの時間は二昼夜にわたって、それで一日の休みにありつくという。
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勤めの時間は二昼夜にわたって、それで一日の休みにありつくという。
労働の長いのに苦しむとか。
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労働の長いのに苦むとか。
私は学校の行き帰りに、懐古園の踏切を通るが、あの見張番所のところには、ポイント・メンが一人でぽつんと立っているのをよく見かける。
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私は学校の往還に、懐古園の踏切を通るが、あの見張番所のところには、ポイント・メンが独りでポツンと立っているのをよく見かける。
柳田茂十郎
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柳田茂十郎
先代の柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引き合いに出される。
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先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。
茂十郎さんのような人は、極端に佐久気質を発揮した人の一人だ。
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茂十郎さんの如きは極端に佐久気質を発揮した人の一人だ。
諸国まで名を知られたこの商人も、一時は商売の手違いから、豆腐屋にまで身を落したことがある。
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諸国まで名を知られたこの商人も、一時は商法の手違いから、豆腐屋にまで身を落したことがある。
そこまで思い切って行ったところが茂十郎さんかも知れない。
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そこまで思い切って行ったところが茂十郎さんかも知れない。
でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かったとのことだ。
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でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かったとのことだ。
茂十郎さんの家では、もとは酒屋であったが、造り酒は金を寝かせて商売としては働きが少ないのを見て取り、それから茶商に転じたという。
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茂十郎さんの家では、もと酒屋であったが、造酒は金を寝かして商法に働きの少いのを見て取り、それから茶商に転じたという。
時間に正確な人で、すこしでも掛け値をすれば、さっさと帰って行くという風であったとか。
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時間の正しい人で、すこしでも掛値すれば、ずんずん帰って行くという風であったとか。
何人かの子に店を出させ、存命中はきちんきちんと店賃を取り、死に際にその店々を分けてくれて行った。
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幾人かの子に店を出させ、存命中はキチンキチンと屋賃を取り、死に際にその店々を分けてくれて行った。
一度でも茂十郎さんの家へ足を踏み入れたもののためには、死後に形見が用意してあったと言って驚いて、人に話した女がいたということも聞いた。
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一度でも茂十郎さんの家へ足踏したもののためには、死後に形見が用意してあったと言って驚いて、他に話した女があったということも聞いた。
私達の学校の校長に会うと、よく故人の話が出て、客に呼ばれて行って同席した時でも無駄には酒を飲まなかったと言って、徳利を控える手つきまでして聞かせる。
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私達の学校の校長に逢うと、よく故人の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄には酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。
「酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです」
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「酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです」
万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。
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万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。
小作人の家
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小作人の家
学校の用務員の家を訪ねる約束をした。
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学校の小使の家を訪ねる約束をした。
辰さんは年貢を納める日だから私に来て見ろと言ってくれた。
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辰さんは年貢を納める日だから私に来て見ろと言ってくれた。
小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。
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小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。
細い流れを隔てて水車小屋と向かい合っているのが、辰さんの家だ。
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細い流を隔てて水車小屋と対したのが、辰さんの家だ。
庭には筵を敷きつめ、籾を山のように積んで、辰さん兄弟がしきりと働いていた。
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庭には蓆を敷きつめ、籾を山のように積んで、辰さん兄弟がしきりと働いていた。
かねて親しい隠居に連れられて、私は暗い小作人の家へ入った。
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かねて懇意な隠居に伴われて私は暗い小作人の家へ入った。
猫の入れ物とかで、藁で作った行火のようなものが置いてある。
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猫の入物とかで、藁で造った行火のようなものが置いてある。
私にはめずらしかった。
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私には珍らしかった。
しるしばかりに持って行った手土産を隠居は床の間の神棚の前に供え、鈴を振り鳴らし、それから炬燵にあたりながらいろいろな話を始めた。
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しるしばかりに持って行った手土産を隠居は床の間の神棚の前に供え、鈴を振り鳴らし、それから炬燵にあたりながら種々な話を始めた。
ごく無愛想で無口な、五十ばかりの痩せた女も黙って炬燵にあたっていた。
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極く無愛想な無口な五十ばかりの痩せた女も黙って炬燵にあたっていた。
そのそばには辰さんの小さな娘も余念なく遊んでいた。
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その側には辰さんの小娘も余念なく遊んでいた。
この無口な女と、竈の前にうずくまっている細帯を締めた娘とは、隠居の家に同居する人らしかった。
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この無口な女と、竈の前に蹲踞っている細帯〆た娘とは隠居の家に同居する人らしかった。
それで、私はこれらの人に構わず隠居の話に耳を傾けた。
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で、私はこれらの人に関わず隠居の話に耳を傾けた。
話好きな面白い隠居は、上州と信州の農夫の比較などから、いろいろな農具のことや地主と小作人の関係などを私に語り聞かせた。
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話好きな面白い隠居は上州と信州の農夫の比較なぞから、種々な農具のことや地主と小作人の関係なぞを私に語り聞かせた。
この隠居の話で、私は新町あたりの小作人の間に、小さな同盟罷業とも言うべきものが時々持ち上ることを知った。
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この隠居の話で、私は新町辺の小作人の間に小さな同盟罷工ともいうべきが時々持ち上ることを知った。
隠居に言わせると、なぜ小作人が地主に対して不服があるかというと、だいたいこの辺では百坪を一升蒔きと呼び、一ツカを三百坪に数え、一升の籾は二百八十匁に量って取り立てる、一ツカと言っても実際三百坪は無い、三百坪なくて取り立てるのはその割で取る、地主と半々に分けるところは異例なくらいだ。
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隠居に言わせると、何故小作人が地主に対して不服があるかというに、一体にこの辺では百坪を一升蒔と称え、一ツカを三百坪に算し、一升の籾は二百八十目に量って取立てる、一ツカと言っても実際三百坪は無い、三百坪なくて取立てるのはその割で取る、地主と半々に分けるところは異数な位だ。
そこで小作人の苦情が起る。
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そこで小作人の苦情が起る。
知識の無い小作人がまた地主に対する態度としては、いろいろなところで人の知らない仕返しをする。
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無智な小作人がまた地主に対する態度は、種々なところで人の知らない復讐をする。
たとえば俵の中へ石を入れて目方を重くし、俵へ霧を吹いて目方をつけ、または稲の穂を顧みないで藁を大事にし、その他いろいろな悪戯をして地主を苦しめる。
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仮令ば俵の中へ石を入れて目方を重くし、俵へ霧を吹いて目をつけ、又は稲の穂を顧みないで藁を大事にし、その他種々な悪戯をして地主を苦める。
こんなことをしたところで、結局「三月四月は食いじまい」
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こんなことをしたところで、結局「三月四月は食いじまい」
だ。
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だ。
もっとも、そのうちには麦も取れる。
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尤も、そのうちには麦も取れる。
「しかし私の時には定屋様(地主)がお出なさると、必ず一升買って、何がなくとも香の物で一杯上げるという風でした。今年は悴に任しときましたから、彼奴はまたどんな風にするか……私の時には昔からそうでした」
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「しかし私の時には定屋様(地主)がお出なさると、必と一升買って、何がなくとも香の物で一杯上げるという風でした。今年は悴に任しときましたから、彼奴はまたどんな風にするか……私の時には昔からそうでした」
こう隠居は私に話して笑った。
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こう隠居は私に話して笑った。
そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなんしょって、早く行って来てくれや」
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そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなんしょって、早く行って来てくれや」
という辰さんの声がする。
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という辰さんの声がする。
日の光は急に戸口から射し入り、暗い南の明かり窓も明るくなった。
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日の光は急に戸口より射し入り、暗い南の明窓も明るくなった。
「ああ、日が射して来た、先刻までは雪模様でしたが、こりゃ好い塩梅だ」
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「ああ、日が射して来た、先刻までは雪模様でしたが、こりゃ好い塩梅だ」
とまた辰さんが言っていた。
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と復た辰さんが言っていた。
細帯を締めた娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。
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細帯締た娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。
炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
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炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
隠居は小声になって、
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隠居は小声に成って、
「私もたった一人ですし、平常は誰も訪ねて来るものが無いんです。年寄ですからねえ……ですから置いてくれというので、ああいうものを引受けて同居さしたところが忰が不服で黙ってあんなものを入れたって言いますのさ」
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「私も唯一人ですし、平常は誰も訪ねて来るものが無いんです。年寄ですからねえ……ですから置いてくれというので、ああいうものを引受けて同居さしたところが忰が不服で黙ってあんなものを入れたって言いますのさ」
「飯なぞは炊いてくれるんですか」
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「飯なぞは炊いてくれるんですか」
と私が聞いた。
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と私が聞いた。
「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡いや。だけれども世間の人はそう言わない。そこがねえ辛いと言うもんです」
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「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡いや。だけれども世間の人はそう言わない。そこがねえ辛いと言うもんです」
古いこうもり傘の毛繻子が今は炬燵掛けに化けたのを叩いて、隠居はかき口説いた。
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古い洋傘の毛繻子の今は炬燵掛と化けたのを叩いて、隠居は掻口説いた。
この人の老後の楽しみは、三世相に基づいて、隣近所の農夫達の吉凶を占うことであった。
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この人の老後の楽みは、三世相に基づいて、隣近所の農夫等が吉凶を卜うことであった。
六三のまじないと言って、体の痛みを治す祈祷などもする。
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六三の呪禁と言って、身体の痛みを癒す祈祷なぞもする。
近所で物識りと言われている老いた農夫である。
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近所での物識と言われている老農夫である。
私はこの人から「言海」
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私はこの人から「言海」
のことを聞かれて、ちょっと驚かされた。
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のことを聞かれて一寸驚かされた。
「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼いだことが有りましたよ。八両サ。それがねえ、もうぱっぱと湯水のように無くなって了う。どうして若い時の勢ですもの。私はこれで、どんなことでも人のすることは大概してみましたが、博奕と牢屋の味ばかしは知らない――ええこればかしは知らない」
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「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼いだことが有りましたよ。八両サ。それがねえ、もうぱっぱと湯水のように無くなって了う。どうして若い時の勢ですもの。私はこれで、どんなことでも人のすることは大概してみましたが、博奕と牢屋の味ばかしは知らない――ええこればかしは知らない」
こう隠居が笑っているところへ、黄色い真綿帽子をかぶった五十恰好の男が地味な羽織を着て入って来た。
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こう隠居が笑っているところへ、黄な真綿帽子を冠った五十恰好の男が地味な羽織を着て入って来た。
「定屋さんですよ」
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「定屋さんですよ」
と辰さんが呼んだ。
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と辰さんが呼んだ。
地主は家の中に入って炬燵で体を温めながら待っていた。
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地主は屋の内に入って炬燵に身を温めながら待っていた。
私が外の庭の方へ出ようとすると、ちょうど水車小屋の方から娘が橋を渡って来て、そこに積み重ねた籾の上へ桝を投げて行った。
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私が屋外の庭の方へ出ようとすると、丁度水車小屋の方から娘が橋を渡って来て、そこに積み重ねた籾の上へ桝を投げて行った。
辰さんは年貢の支度を始めた。
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辰さんは年貢の仕度を始めた。
五歳ばかりの小さな娘が来て、辰さんの袖にすがりついた。
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五歳ばかりの小娘が来て、辰さんの袖に取縋った。
辰さんが父親らしい情のこもった口調で慰めると、娘は頭から肩まで震わせて、泣くたびに言うこともよく分らないほどだった。
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辰さんが父親らしい情の籠った口調で慰めると、娘は頭から肩まで顫わせて、泣く度に言うこともよく解らない位だった。
「今に母さんが来るから泣くなよ」
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「今に母さんが来るから泣くなよ」
「手が冷たい……」
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「手が冷たい……」
「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵へあたれ」
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「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵へあたれ」
凍えた娘の手を握りながら、辰さんは家の中へ連れて行った。
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凍った娘の手を握りながら、辰さんは家の内へ連れて行った。
谷に面した狭い庭には枯れがれの柿の樹もあった。
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谷に面した狭い庭には枯々な柿の樹もあった。
向うの水車も藁囲いされる頃で、樋の雫は氷の柱になり、細谷川の水も白く凍って見える。
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向うの水車も藁囲いされる頃で、樋の雫は氷の柱に成り、細谷川の水も白く凍って見える。
黄ばんだ寒い日光は柿の枯枝を通して、籾を積み上げた庭の中を照らして見せた。
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黄ばんだ寒い日光は柿の枯枝を通して籾を積み上げた庭の内を照らして見せた。
年老いた地主は白髪頭を真綿帽子で包みながら、家の中から出て来た。
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年老いた地主は白髪頭を真綿帽子で包みながら、屋の内から出て来た。
南窓の外にある横木に寄りかかって、寒そうに袖口をかき合わせ、我と我が身を抱いて温めるようにして、辰さん兄弟が用意するのを待った。
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南窓の外にある横木に倚凭って、寒そうに袖口を掻合せ、我と我身を抱き温めるようにして、辰さん兄弟の用意するのを待った。
「どうで御座んすなア、籾の造え具合は」
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「どうで御座んすなア、籾の造え具合は」
と辰さんに言われて、地主は白い柔らかな手で籾をすくって見て、一粒口の中へ入れた。
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と辰さんに言われて、地主は白い柔かい手で籾を掬って見て一粒口の中へ入れた。
「空穂が有るねえ」
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「空穂が有るねえ」
と地主が言った。
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と地主が言った。
「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
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「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
地主は掌の籾をあけて、また袖口をかき合わせた。
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地主は掌中の籾をあけて、復た袖口を掻き合せた。
辰さんは弟に言いつけて籾を箕に入れさせ、弟はそれを丸い一斗桝に入れた。
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辰さんは弟に命じて籾を箕に入れさせ、弟はそれを円い一斗桝に入れた。
地主は腰をかがめながら、トボというもので、その桝の上を丁寧に撫でて量った。
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地主は腰を曲めながら、トボというものでその桝の上を丁寧に撫で量った。
「貴様入れろ、声掛けなくちゃ御年貢のようで無くて不可」
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「貴様入れろ、声掛けなくちゃ御年貢のようで無くて不可」
と辰さんは弟に言った。
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と辰さんは弟に言った。
「さあ、どっしり入れろ」
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「さあ、どっしり入れろ」
「一わたりよ、二わたりよ」
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「一わたりよ、二わたりよ」
と弟の呼ぶ声が起った。
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と弟の呼ぶ声が起った。
六つばかりの俵がそこに並んだ。
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六つばかりの俵がそこに並んだ。
一俵に六斗三升の籾が量り入れられた。
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一俵に六斗三升の籾が量り入れられた。
辰さんは桟俵を取って蓋をしたが、やがて俵の上に寄りかかって地主と押し問答を始めた。
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辰さんは桟俵を取って蓋をしたが、やがて俵の上に倚凭って地主と押問答を始めた。
地主は辰さんの言うことを聞いて、目を細め、無言で考えていた。
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地主は辰さんの言うことを聞いて、目を細め、無言で考えていた。
気の利いた弟は橋の向うへ走って行ったかと思ううちに、酒徳利を風呂敷包みにして、頬を赤くし、すこし微笑みながら戻って来た。
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気の利いた弟は橋の向うへ走って行ったかと思ううちに、酒徳利を風呂敷包にして、頬を紅くし、すこし微笑みながら戻って来た。
「御年貢ですか、御目出度う」
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「御年貢ですか、御目出度う」
と言って入って来たのは水車小屋の亭主だ。
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と言って入って来たのは水車小屋の亭主だ。
私は、藁仕事などをやりかけてある物置小屋の方に邪魔にならないようにいて、桟俵などを尻に敷きながら、この光景を眺めた。
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私は、藁仕事なぞの仕掛けてある物置小屋の方に邪魔にならないように居て、桟俵なぞを尻に敷きながら、この光景を眺めた。
辰さんは俵に足を掛けて藁縄で三か所ばかり縛っていた。
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辰さんは俵に足を掛けて藁縄で三ところばかり縛っていた。
弟も来てそれを手伝うと、乾いた縄は時々切れた。
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弟も来てそれを手伝うと、乾いた縄は時々切れた。
「俵を締るに縄が切れるようじゃ、まだ免状は覚束ないなア」
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「俵を締るに縄が切れるようじゃ、まだ免状は覚束ないなア」
と水車小屋の亭主も笑って見ていた。
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と水車小屋の亭主も笑って見ていた。
「一俵掛けて見やしょう」
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「一俵掛けて見やしょう」
「いくらありやす。出放題あるわ。十八貫八百――」
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「いくらありやす。出放題あるわ。十八貫八百――」
「これは魂消た」
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「これは魂消た」
「十八貫八百あれば、まあ好い籾です」
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「十八貫八百あれば、まあ好い籾です」
「俵にもある」
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「俵にもある」
「そうです、俵にもありやすが、それは知れたもんです」
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「そうです、俵にもありやすが、それは知れたもんです」
「おらがとこは十八貫あれば可いだ」
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「おらがとこは十八貫あれば可いだ」
「なにしろ坊主九分混りという籾ですからなア」
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「なにしろ坊主九分混りという籾ですからなア」
人々の間でこんな話が交わされた。
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人々の間にこんな話が交換された。
水車小屋の亭主は地主に向って米の値段のことを話し合って、やがて下駄履きのまま籾の上を越して別れて行った。
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水車小屋の亭主は地主に向って、米価のことを話し合って、やがて下駄穿のまま籾の上を越して別れて行った。
「どうだいお前の体格じゃ二俵位は大丈夫担げる」
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「どうだいお前の体格じゃ二俵位は大丈夫担げる」
と地主に言われて、辰さんの弟は一俵ずつ両手に抱え、顔を真赤にして持ち上げてみたりなどしてふざけた。
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と地主に言われて辰さんの弟は一俵ずつ両手に抱え、顔を真紅にして持ち上げてみたりなぞして戯れた。
「まあ、お茶一つお上り」
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「まあ、お茶一つお上り」
と辰さんは地主に言って、私にもそれを勧めた。
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と辰さんは地主に言って、私にもそれを勧めた。
真綿帽子を脱いで家の中に入る地主の後に付いて、私も凍えた体を暖めに行った。
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真綿帽子を脱いで屋の内に入る地主の後に随いて、私も凍えた身体を暖めに行った。
「六俵の二斗五升取りですか」
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「六俵の二斗五升取りですか」
こう辰さんが言ったのを、隠居は炬燵にあたりながら聞き咎めた。
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こう辰さんが言ったのを隠居は炬燵にあたりながら聞咎めた。
地主の前に酒徳利の包みを解きながら、
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地主の前に酒徳利の包を解きながら、
「二斗五升ってことが有るもんか。四斗五升よ」
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「二斗五升ってことが有るもんか。四斗五升よ」
「四斗……」
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「四斗……」
と地主は口ごもる。
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と地主は口籠る。
「四斗五升じゃないや。四斗七升サ。そうだ――」
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「四斗五升じゃないや。四斗七升サ。そうだ――」
とまた隠居が言った。
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と復た隠居が言った。
「四斗七升?」
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「四斗七升?」
と地主は隠居の顔を見た。
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と地主は隠居の顔を見た。
「ああ四斗七升か」
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「ああ四斗七升か」
と言い捨てて、辰さんは庭の方へ出て行った。
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と云い捨てて、辰さんは庭の方へ出て行った。
私達は炬燵のまわりに集まった。
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私達は炬燵の周囲に集った。
隠居は古い炬燵板を取り出して、それを蒲団の上に載せ、大丼に菎蒻と油揚げの煮付けを盛って出した。
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隠居は古い炬燵板を取出して、それを蒲団の上に載せ、大丼に菎蒻と油揚の煮付を盛って出した。
小皿には唐辛子の袋も添えて出した。
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小皿には唐辛の袋をも添えて出した。
古い布で盃を拭いて、酒は湯沸かしに入れて勧めてくれた。
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古い布で盃を拭いて、酒は湯沸に入れて勧めてくれた。
「冷ですよ。燗ではありませんよ――定屋様はこの方で被入っらしゃるから」
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「冷ですよ。燗ではありませんよ――定屋様はこの方で被入っらしゃるから」
こう隠居も気軽な調子で言った。
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こう隠居も気軽な調子で言った。
地主は煙管を炬燵板の間に差し込み、冷酒を舐め舐め隠居の顔を眺めて、
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地主は煙管を炬燵板の間に差込み、冷酒を舐め舐め隠居の顔を眺めて、
「こういう時には婆さんが居ると、都合が好いなア」
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「こういう時には婆さんが居ると、都合が好いなア」
地主の顔には初めてかすかな笑みが浮かんだ。
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地主の顔には始めて微かな笑が上った。
隠居はもてなす顔で、
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隠居は款待顔に、
「婆さんに別れてからねえ、今年で二十五年に成りますよ」
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「婆さんに別れてからねえ、今年で二十五年に成りますよ」
「もう好加減に家へ入れるが可いや」
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「もう好加減に家へ入れるが可いや」
「まあ聞いて下さい。婆さんには子供が七人も有りましたが、皆な死んで了った……今の辰は貰い子でサ……どうでしょう、婆さんが私の留守に、家の物を皆な運んで了う。そりゃ男と女の間ですから、大抵のことは納まりますサ……納まりますが……盗みばかりは駄目です。今ここで婆さんを入れる、あの隠居も神信心だなんて言いながら、婆さんの溜めたのを欲しいからと人が言う。それが厭でサ。婆さんが来ても、直に盗みの話に成ると納まらないや。モメて仕様が無い。ホラ、あの話ねえ――段々卜ってみると、盗人が出て来ましたぜ。可恐しいもんだねえ」
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「まあ聞いて下さい。婆さんには子供が七人も有りましたが、皆な死んで了った……今の辰は貰い子でサ……どうでしょう、婆さんが私の留守に、家の物を皆な運んで了う。そりゃ男と女の間ですから、大抵のことは納まりますサ……納まりますが……盗みばかりは駄目です。今ここで婆さんを入れる、あの隠居も神信心だなんて言いながら、婆さんの溜めたのを欲しいからと人が言う。それが厭でサ。婆さんが来ても、直に盗みの話に成ると納まらないや。モメて仕様が無い。ホラ、あの話ねえ――段々卜ってみると、盗人が出て来ましたぜ。可恐しいもんだねえ」
隠居の話し振りには実に面白い気っぷがあって、小作人仲間の物識りと立てられるだけのことがあった。
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隠居の話し振には実に気の面白い、小作人仲間の物識と立てられるだけのことがあった。
地主と隠居の間には、台所の方にいる同居人の母子についてこんな話も出た。
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地主と隠居の間には、台所の方に居る同居人母子のことに就いてこんな話も出た。
「へえ、あれが娘ですか」
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「へえ、あれが娘ですか」
「子も有るんでさあね。可哀そうだから置いて遣ろうと言うんですよ。妙に世間では取る……私だって今年六十七です……この年になって、あんな女を入れたなんて言われちゃ、つまらない――そこが口惜しいサ」
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「子も有るんでさあね。可哀そうだから置いて遣ろうと言うんですよ。妙に世間では取る……私だって今年六十七です……この年になって、あんな女を入れたなんて言われちゃ、つまらない――そこが口惜しいサ」
「幾歳に成ったって気は同じよ」
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「幾歳に成ったって気は同じよ」
おかげで私も、めったに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を過ごした。
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御蔭で私もめったに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を送った。
菎蒻と油揚げの御馳走になって、間もなく私はこの隠居の家を辞した。
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菎蒻と油揚の馳走に成って、間もなく私はこの隠居の家を辞した。
その十二
原文を見る
その十二
路傍の雑草
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路傍の雑草
学校の行き帰りに――すべての物が白い雪に覆われている中で――日の当った石垣の間などに春待ち顔の雑草を見つけることは、私の楽しみになって来た。
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学校の往還に――すべての物が白雪に掩われている中で――日の映った石垣の間などに春待顔な雑草を見つけることは、私の楽みに成って来た。
長い間の冬ごもりだ。
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長い間の冬籠りだ。
せめて道ばたの草に親しむ。
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せめて路傍の草に親しむ。
南向きもしくは西向きの桑畠の間を通ると、あの葉の縁だけ紫色の「かなむぐら」
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南向きもしくは西向の桑畠の間を通ると、あの葉の縁だけ紫色な「かなむぐら」
がよく顔を出している。
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がよく顔を出している。
「車花」
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「車花」
とも言う。
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ともいう。
あの車の形をした草が生えているような土手の雪間には、きっと「青はこべ」
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あの車の形した草が生えているような土手の雪間には、必と「青はこべ」
も這いのたくっている。
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も蔓いのたくっている。
「青はこべ」
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「青はこべ」
は百姓が鶏の雛にやるものだと学校の用務員が言った。
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は百姓が鶏の雛にくれるものだと学校の小使が言った。
石垣の間には、スプーンの形をした紫青色の葉を垂れた「鬼のはばき」
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石垣の間には、スプゥンの形した紫青色の葉を垂れた「鬼のはばき」
や、平べったい肉の厚い防寒服を着たような「きしゃ草」
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や、平べったい肉厚な防寒服を着たような「きしゃ草」
などもある。
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なぞもある。
蓬の枯れたものや、その他いろいろな雑草が枯れ死んだ中に、細く短い芝草が緑を保って、半ば黄色に、半ば枯れがれになっているのもある。
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蓬の枯れたのや、その他種々な雑草の枯れ死んだ中に、細く短い芝草が緑を保って、半ば黄に、半ば枯々としたのもある。
私達の学校のあるあたりから士族屋敷地へかけては水に乏しいので、至るところに細い流れを引いてある。
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私達が学校のあるあたりから士族屋敷地へかけては水に乏しいので、到るところに細い流を導いてある。
その水は学校の門前も流れている。
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その水は学校の門前をも流れている。
そこへ行って見ると、青い芝草が残って、他の場所で見るよりは生き生きとしている。
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そこへ行って見ると、青い芝草が残って、他の場所で見るよりは生々としている。
どういう世界の中にこれらの雑草が顔を出して、中にはごく小さな蕾の支度をしているか、それも君に聞いてもらいたい。
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どういう世界の中にこれ等の雑草が顔を出して、中には極く小さな蕾の支度をしているか、それも君に聞いて貰いたい。
一月の二十七日あたりから三十一日を越え、二月の六日頃までは、ほとんど寒さの絶頂に達した。
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一月の二十七日あたりから三十一日を越え、二月の六日頃までは、殆んど寒さの絶頂に達した。
山の上に住み慣れた私も、ある日は手の指が凍って縮むのを覚え、ある日は風邪のために熱を出して、気候の激しさに驚かされる。
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山の上に住み慣れた私も、ある日は手の指の凍り縮むのを覚え、ある日は風邪のために発熱して、気候の激烈なるに驚かされる。
降った雪は北向きの屋根や庭に凍って、来る日も来る日も溶ける気配もない……私は根太の下から土と一緒に持ち上って来た霜柱のために、戸の閉らなくなった古い部屋を見たことがある。
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降った雪は北向の屋根や庭に凍って、連日溶くべき気色もない……私は根太の下から土と共に持ち上って来た霜柱の為に戸の閉らなくなった古い部屋を見たことがある。
北向きの屋根の軒先から垂れ下がるつららは二尺、三尺に及ぶ。
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北向の屋根の軒先から垂下る氷柱は二尺、三尺に及ぶ。
身を包んで外を歩いていると、息がかかって外套の襟が白くなるのを見る。
原文を見る
身を包んで屋外を歩いていると気息がかかって外套の襟の白くなるのを見る。
こういう中で元気の好いのは、屋根の上を飛ぶ雀と、雪の中をあさり歩く犬だけだ。
原文を見る
こういう中で元気の好いのは屋根の上を飛ぶ雀と雪の中をあさり歩く犬とのみだ。
草木のことを言えば、福寿草を小鉢に植えて床の間に置いたところ、蕾が黄ばんで来る頃から寒さが強くなって、暖かい日は起き、寒い日は倒れてしおれるありさまである。
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草木のことを言えば、福寿草を小鉢に植えて床の間に置いたところが、蕾の黄ばんで来る頃から寒さが強くなって、暖い日は起き、寒い日は倒れ萎れる有様である。
驚くべきは南天だ。
原文を見る
驚くべきは南天だ。
花瓶の中の水は凍りつめているのに、買って挿した南天の実は赤々と垂れ下がって葉も青く、水気を失わず、生き生きとして変るところが無い。
原文を見る
花瓶の中の水は凍りつめているのに、買って挿した南天の実は赤々と垂下って葉も青く水気を失わず、活々と変るところが無い。
君は牛乳の凍ったのを見たことがないだろう。
原文を見る
君は牛乳の凍ったのを見たことがあるまい。
淡い緑色を帯びて、乳らしい香りもなくなる。
原文を見る
淡い緑色を帯びて、乳らしい香もなくなる。
ここでは鶏卵も凍る。
原文を見る
ここでは鶏卵も氷る。
それを割れば白身も黄身もザクザクになっている。
原文を見る
それを割れば白味も黄身もザクザクに成っている。
台所の流し元に流れる水はみな凍りつく。
原文を見る
台処の流許に流れる水は皆な凍り着く。
葱の根、茶がらまで凍りつく。
原文を見る
葱の根、茶滓まで凍り着く。
明かり窓へ薄日の射して来た頃、出刃包丁か何かで流し元の氷をかんかんと打ち割るというのは、暖かい国では見られない図だ。
原文を見る
明窓へ薄日の射して来た頃、出刃包丁か何かで流許の氷をかんかんと打割るというは暖い国では見られない図だ。
夜を越した手桶の水は、朝になって見ると半分は氷だ。
原文を見る
夜を越した手桶の水は、朝に成って見ると半分は氷だ。
それを日にあて、氷を叩き落し、それから水を汲み入れるという始末だ。
原文を見る
それを日にあて、氷を叩き落し、それから水を汲入れるという始末だ。
沢庵も、菜漬けもみな凍って、噛めばザクザク音がする。
原文を見る
沢庵も、菜漬も皆な凍って、噛めばザクザク音がする。
時には漬物まで湯ですすがなければならない。
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時には漬物まで湯ですすがねばならぬ。
奉公人の手などを見れば、黒く荒れ、皮膚は裂けてところどころ赤い血が流れ、水を汲むには頭巾をかぶって手袋をはめてやる。
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奉公人の手なぞを見れば、黒く荒れ、皮膚は裂けてところどころ紅い血が流れ、水を汲むには頭巾を冠って手袋をはめてやる。
板の間に掛けた雑巾の跡がすぐに白く凍る朝などはめずらしくない。
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板の間へ掛けた雑巾の跡が直に白く凍る朝なぞはめずらしくない。
夜更けて、部屋部屋の柱が凍み割れる音を聞きながら読書でもしていると、実に寒さが私達の骨まで滲み通るかと思われる……
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夜更けて、部屋々々の柱が凍み割れる音を聞きながら読書でもしていると、実に寒さが私達の骨まで滲透るかと思われる……
雪の襲って来る前はかえって暖かだ。
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雪の襲って来る前は反って暖かだ。
夜に入って雪の降る日などは、雨の夜の寂しさとは違って、また別の落ち着いた趣がある。
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夜に入って雪の降る日なぞは、雨夜のさびしさとは、違って、また別の沈静な趣がある。
どうかすると、梅も咲くかと疑われるほど、暖かな雪の夜を過ごすことがある。
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どうかすると、梅も咲くかと疑われる程、暖かな雪の夜を送ることがある。
そのかわり雪の積った後と来ては、堪えがたいほどの凍み方だ。
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そのかわり雪の積った後と来ては、堪えがたいほどの凍み方だ。
雪のある田畠へ出て見れば、まるで氷の野だ。
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雪のある田畠へ出て見れば、まるで氷の野だ。
こうなると、千曲川も白く凍りつめる。
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こうなると、千曲川も白く氷りつめる。
その氷の下を例の水の勢いで流れ下る音がする。
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その氷の下を例の水の勢で流れ下る音がする。
学生の死
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学生の死
私達の学校の生徒でOという青年が亡くなった。
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私達の学校の生徒でOという青年が亡くなった。
かつて私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に連なった当時のことなどを思い出しながら、同僚と一緒にOの家をさして出掛けた。
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曾て私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共にOの家をさして出掛けた。
若くして亡くなったいろいろな人達のことが私の胸を行き来した。
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若くて亡くなった種々な人達のことが私の胸を往来した。
Oの家は小諸の赤坂という町にある。
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Oの家は小諸の赤坂という町にある。
途中で同僚の老理学士と一緒になって、水彩画家M君が以前住んでいた家の前を通った。
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途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。
その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、やはり古めかしい門のある静かな住まいだ。
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その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居だ。
M君が小諸に足を留めた頃は非常な勉強ぶりで、松林の朝、その他の風景画をたくさん描かれた。
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M君が小諸に足を停めたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。
私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せてもらったり、ミレエの絵の話などをしたりして、時を過ごしたのもその古い家だ。
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私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの絵の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家だ。
細い流れに沿って坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君などが誘い合わせてやって来るのに出会う。
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細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。
Oは暮れに兄の仕立屋へ障子張りの手伝いに出掛け、体が冷えてゾクゾクするのも構わず入浴したのが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立ち合って心臓の水を取った時は、四合も出たという。
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Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。
四十日ほど病んで、十八歳で亡くなった。
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四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。
話好きな理学士を始め、同僚の間ではいろいろとOの話が出た。
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話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。
Oは十歳くらいの頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。
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Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。
病気の間も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
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病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内の者、町内の人達、教師、同窓の学生などが弔いに集まった。
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葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。
Oはキリスト教の信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹の造花を載せ、棺の前で讃美歌が信徒側の人々によって歌われた。
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Oは耶蘇信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹の造花を載せ、棺の前で讃美歌が信徒側の人々によって歌われた。
祈祷、履歴、聖書の朗読という順序で、コリント後書の第五章の一節が読まれた。
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祈祷、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多後書の第五章の一節が読まれた。
私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。
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私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。
人は誰でも死ぬ、この兄弟のように惜しまれることを願え、という意味の話などがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
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人誰か死なからん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。
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士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。
松の多い静かな小山の上にOの遺骸が埋められた。
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松の多い静な小山の上にOの遺骸が埋められた。
墓地でも讃美歌が歌われた。
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墓地でも賛美歌が歌われた。
そこの石塔のそば、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたりたたずんだりして、このありさまを眺めていた。
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そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立んだりして、この光景を眺めていた。
暖い雨
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暖い雨
二月に入って暖かい雨が来た。
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二月に入って暖い雨が来た。
灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、にわかに生き返るような暖かさを感じた。
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灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、遽かに復活るような温暖さを感じた。
こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達はたとえようの無い激しい春への飢えと渇きを癒すことが出来ない。
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こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達は譬えようの無い烈しい春の饑渇を癒すことが出来ない。
空は煙か雨かと思うほどで、傘をさして通る人や、濡れて行く馬などの姿が目につく。
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空は煙か雨かと思うほどで、傘さして通る人や、濡れて行く馬などの姿が眼につく。
単調な軒の玉水の音も楽しい。
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単調な軒の玉水の音も楽しい。
堅く縮こまっていた私の体もいくらか伸び伸びとして来た。
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堅く縮こまっていた私の身体もいくらか延び延びとして来た。
私は言いようのない快さを覚えた。
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私は言い難き快感を覚えた。
庭に行って見ると、汚れた雪の上に降りそそぐ音がする。
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庭に行って見ると、汚れた雪の上に降りそそぐ音がする。
外へ出て見ると、残った雪が雨のために溶けて、暗い色の土が現れている。
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屋外へ出て見ると、残った雪が雨のために溶けて、暗い色の土があらわれている。
田畠もようやく冬の眠りから覚めかけたように、砂まじりの土の顔を見せる。
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田畠も漸く冬の眠から覚めかけたように、砂まじりの土の顔を見せる。
黄ばんだ竹の林、まだ枯れがれの柿、李、その他目に入る木立の幹も枝も、みな雨に濡れて、黒々と汚れた寝ぼけ顔をしていない物は無い。
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黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李、その他眼にある木立の幹も枝も、皆な雨に濡れて、黒々と穢い寝恍顔をしていない物は無い。
流れの音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。
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流の音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。
桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。
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桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。
このぬかるみと雪解けと冬の崩れの中で、うれしいものはすこし伸びた柳の枝だ。
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この泥濘と雪解と冬の瓦解の中で、うれしいものは少し延びた柳の枝だ。
その枝を通して、夕方には黄ばんだ灰色の南の空を望んだ。
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その枝を通して、夕方には黄ばんだ灰色の南の空を望んだ。
夜に入って、寂しく暖かい雨垂れの音を聞いていると、何となく春の近づくことを思わせる。
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夜に入って、淋しく暖い雨垂の音を聞いていると、何となく春の近づくことを思わせる。
北山の狼、その他
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北山の狼、その他
生徒と一緒に歩いていると、土地のいろいろな話を聞く。
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生徒と一緒に歩いていると、土地の種々な話を聞く。
ある生徒が北山の狼の話を私にした。
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ある生徒が北山の狼の話を私にした。
その足跡は里の犬よりも大きく、糞は毛と骨で――雨ざらしになったのを農夫が熱の薬に使う。
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その足跡は里犬よりも大きく、糞は毛と骨で――雨晒しになったのを農夫が熱の薬に用いる。
それは兎や鳥などを捕えて食べるためだという。
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それは兎や鳥なぞを捕えて食うためだという。
お伽話の世界というものは、こうしたちょっとした話のはしにも表れているような気がする。
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お伽話の世界というものはこうした一寸した話のはしにも表れているような気がする。
野蛮な話を聞くこともある。
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野蛮な話を聞くこともある。
ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。
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ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。
雄鶏と雌鶏が遊んでいるところへ、釣針で餌をやり、鳥の喉に引っ掛けて釣り取るという。
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雄鶏と牝鶏と遊ぶところへ、釣針で餌をくれ、鳥の咽喉に引掛けて釣取るという。
犬を盗むものもある。
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犬を盗むものもある。
それは黒砂糖でよその家の犬を呼び出し、殺して煮て食べ、皮は張り付けて敷物に作るとか。
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それは黒砂糖で他の家の犬を呼び出し、殺して煮て食い、皮は張付けて敷物に造るとか。
土地の話のついでだ。
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土地の話の序だ。
この辺の神棚には大きな目無し達磨が飾ってあるのをよく見掛ける。
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この辺の神棚には大きな目無し達磨の飾ってあるのをよく見掛ける。
上田の八日堂と言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。
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上田の八日堂と言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。
ちょうど東京の酉の市の賑わいだ。
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丁度東京の酉の市の賑いだ。
願い事が叶えば、その達磨に目を入れて納める。
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願い事が叶えば、その達磨に眼を入れて納める。
私は海の口村の怪しげな温泉宿で一夜を過ごしたことがあったが、あんな奥にも達磨が置いてあるのを見た。
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私は海の口村の怪しげな温泉宿で一夜を送ったことがあったが、あんな奥にも達磨が置いてあるのを見た。
ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。
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ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。
その日は繭の形を米の粉で作り、笹の葉に載せて祭るのだ。
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その日は繭の形を米の粉で造り、笹の葉に載せて祭るのだ。
二月八日の道祖神の祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。
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二月八日の道祖神の祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。
土地の人は訛って「どうろく神」
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土地の人は訛って「どうろく神」
と呼んでいる。
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と呼んでいる。
あの子供好きだと言い伝えられる道ばたの神様の小さな祠のところへ、藁の馬に餅を載せて引いて行くのは、古めかしく無邪気な風習だ。
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あの子供の好きなと言い伝える路傍の神様の小さな祠のところへ藁の馬に餅を載せて曳いて行くのは、古めかしい無邪気な風俗だ。
幼いものの楽しみとする日だ。
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幼いものの楽みとする日だ。
御辞儀
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御辞儀
私達の学校の校長が、小諸小学校の講堂で演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。
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私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。
先生の演説は直接には聞かなかったが、それがやかましい問題を引き起こしたことを、後で私は理学士から聞いた。
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先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹起したことを、後で私は理学士から聞いた。
だいたい先生はこの地方に退いて青年の教育を始めるまでに長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも与っていろいろな方面に意見の立てられる人だし、守山あたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われているくらいだ。
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一体先生がこの地方に退いて青年の教育を始めるまでには長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも預って種々な方面に意見の立てられる人だし、守山あたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われている位だ。
とにかく、先生はエネルギッシュでたくましい体を備えた、何かせずにはいられないような人だ。
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とにかく、先生はエナアゼチックな勇健な体躯を具えた、何か為ずにはいられないような人だ。
こういう気性の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫が医者仲間などにまで飛んで行く。
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こういう気象の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫が医者仲間なぞにまで飛んで行く。
細心な理学士はまたそれを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
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細心な理学士は又それを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
ある晩、岡源という料理屋からの使いで、警察の署長さんの手紙を持って来た。
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ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。
開けて見ると、私に来てくれと書いてある。
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開けて見ると、私に来てくれとしてある。
私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。
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私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。
果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集まっていた。
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果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。
その時私は校長に代って、先の失言を謝ってもらいたいと言われた。
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その時私は校長に代って、さきの失言を謝して貰いたいと言われた。
なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝っていいものかどうかの判断もつきかねた。
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なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。
謝るべきものなら先生が来て謝る、ひとまず私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。
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謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。
この成り行きを見て取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というもののために、みなの方へ向いてお辞儀をした。
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この形成を看て取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というものの為に、皆なの方へ向いて御辞儀をした。
急に医者仲間も座り直した。
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急に医者仲間も坐り直した。
何も知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの厚意に対しても頭を下げずにはいられなかった。
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何事も知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの厚意に対しても頭を下げずにはいられなかった。
お辞儀をしてこの二階を引き取った時、つくづく私は田舎教師の勤めも辛いものだと思った。
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御辞儀をしてこの二階を引取った時、つくづく私は田舎教師の勤めもツライものだと思った。
その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のためにお辞儀をさせられたことを話して笑った。
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その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。
すると先生は先生で忌々しそうに、そんなお辞儀には及ばなかったという返事だ。
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すると先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。
実に、損な役回りを勤めたものだ。
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実に、損な役廻りを勤めたものだ。
春の先駆
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春の先駆
一雨ごとに暖かさを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて、桜、梅の蕾も次第にふくらみ、北向きの雪もようやく溶け、灰色の地には黄色が増して来た。
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一雨ごとに温暖さを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅の蕾も次第にふくらみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。
楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい赤みを帯びて見える。
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楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。
長い間雪の下になっていた草屋根の青苔も急に生き返る。
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長い間雪の下に成っていた草屋根の青苔も急に活き返る。
気持ちの好い風が吹いて来る。
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心地の好い風が吹いて来る。
青空の色も次第に濃くなる。
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青空の色も次第に濃くなる。
あの羊の群でも見るような、さまざまな形をした白く黄ばんだ雲が、ちょうど春の先駆けをするように、かすかな風に送られる。
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あの羊の群でも見るような、さまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、微かな風に送られる。
私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して眺めたことがあった。
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私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。
ぽっと雲の形が現れたかと思うと、それが次第に大きく、長く、はっきりと見えて、南へ動くにつれて消えて行く。
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ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随って消て行く。
するとまた、第二の雲の形が同じ位置に現れる。
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すると復た、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。
そして同じように広がって行く。
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そして同じように展開する。
柔らかな乳青色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮かんだのは美しい。
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柔かな乳青の色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。
星
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星
月が上るのは十二時頃だろうという夕方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。
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月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。
東の空には赤い光の星が一つ懸かった。
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東の空には赤い光の星が一つ掛った。
空にはこの二つの星があるだけだった。
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天にはこの二つの星があるのみだった。
山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。
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山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。
第一の花
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第一の花
「熱い寒いも彼岸まで」
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「熱い寒いも彼岸まで」
とは土地の人がよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ほっと溜息が出る。
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とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息が出る。
五ヶ月余りにわたる長い長い冬をようやく通り越したという気がする。
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五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。
その頃まで枯葉の落ちずにいる槲、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
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その頃まで枯葉の落ちずにいる槲、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
私達が学校の教室の窓から見る桜の樹は、幹にも枝にも赤い艶を帯びて来た。
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私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶を持って来た。
家へ帰って庭を眺めると、土塀に映る林檎や柿の木蔭は、いつまで見ていても飽きないほど面白味がある。
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家へ帰って庭を眺めると、土塀に映る林檎や柿の樹影は何時まで見ていても飽きないほど面白味がある。
暖かくなった気候のために生まれた羽虫が、もう軒端に群れを成す。
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暖くなった気候のために化生した羽虫が早や軒端に群を成す。
私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆草、蓬、蛇ぐさ、人参草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。
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私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆草、蓬、蛇ぐさ、人参草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。
私はまた三月の二十六日に、石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」
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私は又三月の二十六日に石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」
の花と、紫の斑のある名も知らない草の小さな花とを見つけた。
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の花と、紫の斑のある名も知らない草の小さな花とを見つけた。
それがこの山の上で見つけた第一の花だ。
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それがこの山の上で見つけた第一の花だ。
山上の春
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山上の春
蓄えた野菜は尽き、葱、馬鈴薯の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝毎朝若布の味噌汁でも吸うよりほかに仕方の無い時がある。
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貯えた野菜は尽き、葱、馬鈴薯の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々若布の味噌汁でも吸うより外に仕方の無い時がある。
春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁を這う青い煙を眺めると、好い陽気になって来たとは思うが、食べ物の乏しいのには閉口する。
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春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁を匍う青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物の乏しいには閉口する。
また油臭い凍豆腐かと思うと、あの黄色いやつが壁に吊されたのを見てもうんざりする。
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復た油臭い凍豆腐かと思うと、あの黄色いやつが壁に釣されたのを見てもウンザリする。
淡雪の後の道をびしょびしょ歩きながら、「草餅はいりませんか」
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淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅はいりませんか」
と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
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と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引き返して来る時ほど、気候の違いを感じるものは無い。
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三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。
東京では桜の時分に、汽車で上州あたりを通ると梅が咲いていて、碓氷峠を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。
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東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。
私はこの春の遅い山の上を見た目で、武蔵野の名残を汽車の窓から眺めて来ると、「ああ柔らかい雨が降るなあ」
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私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野の名残を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」
とそう思わないわけには行かない。
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とそう思わない訳には行かない。
でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るにつれて、枯れがれの感じの残った田畠の間には勢いよく芽を出した麦が見られる。
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でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌え出した麦が見られる。
黄色く枯れた麦の古い葉と、青々とした新しい葉とが混じったのも、離れて見るとなかなか好いものだ。
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黄に枯れた麦の旧葉と青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を思うぞんぶん楽しむことが出来る。
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四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を擅に楽むことが出来る。
それまでこらえていたような梅が一度に開く。
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それまで堪えていたような梅が一時に開く。
梅に続いてすぐ桜、桜から李、杏、茱萸などの花が白く私達のまわりに咲き乱れる。
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梅に続いて直ぐ桜、桜から李、杏、茱萸などの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。
台所の戸を開けても、庭へ出掛けて行っても、花の香りに満ち溢れていないところは無い。
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台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ち溢れていないところは無い。
懐古園の城址へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……
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懐古園の城址へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……
「千曲川のスケッチ」
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「千曲川のスケッチ」
奥書
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奥書
このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。
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このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。
まだこの外にも、わたしがあの信濃の山の上でつくったスケッチは少なくなかったが、人に見せるべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなものだけを選び出し、さらにそれを書き改めたりなどして、明治の末の年から大正のはじめへかけて、当時西村渚山君が編集している博文館の雑誌「中学世界」
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まだこの外にもわたしがあの信濃の山の上でつくったスケッチは少くなかったが、人に示すべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなもののみを選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明治の末の年から大正のはじめへかけ当時西村渚山君が編輯している博文館の雑誌「中学世界」
に毎月連載した。
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に毎月連載した。
「千曲川のスケッチ」
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「千曲川のスケッチ」
と題したのもその時であった。
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と題したのもその時であった。
大正一年の冬、佐久良書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。
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大正一年の冬、佐久良書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。
実際私が小諸に行って、飢え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白い雪の残った遠い山々――浅間、牙歯のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山頂の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の目に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。
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実際私が小諸に行って、饑え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。
何となく私の内には別のものが始まったような気がしました。
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何んとなく私の内部には別のものが始まったような気がしました。
これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。
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これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。
自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと物事を正しく見ることを学ぼうと思い立った。
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自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。
この心からの求めはかなり激しかったので、そのためにわたしは三年近くも黙って暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。
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この心からの要求はかなりはげしかったので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。
ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家三宅克巳君が、袋町というところに新しい家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒も教えに通われた。
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ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家三宅克巳君が袋町というところに新家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。
同君の画業は小諸時代に大いに進み、白馬会の展覧会に出した「朝」
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同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展覧会に出した「朝」
の図なども懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。
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の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。
わたしは同君に頼んで画家の使うような三脚を手に入れ、時にはそれを野外へ持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。
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わたしは同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外へ持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。
浅間山麓の高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。
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浅間山麓の高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。
過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。
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過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。
わたしたちの古い「文学界」
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わたしたちの旧い「文学界」
、あの同人の仕事も、わたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になってかえって意外な人々に認められ、若いロマンチックと呼ばれる声すら聞きつける。
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、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になって反って意外な人々に認められ、若いロマンチックと呼ばれる声をすら聞きつける。
今日からあの時代を振り返ってみたら、それも理由のあることだろう。
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今日からあの時代を振り返ってみたら、それも謂れのあることであろう。
どう言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、特に自分などは当時を思い返すたびに冷汗の出るようなことばかりだ。
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いかに言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、殊に自分なぞは当時を追想する度に冷汗の出るようなことばかり。
それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。
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それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。
もしその精神に欠けるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西欧ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行けただろう。
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もしその精神に欠くるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西欧ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行き得たであろう。
平田禿木君も言うように、上田敏君は「文学界」
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平田禿木君も言うように、上田敏君は「文学界」
が生んだ唯一の学者である。
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が生んだ唯一の学者である。
その上田君の学者的態度をもってしても、この国独自のギリシャ研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。
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その上田君の学者的態度を以てしてもこの国独自な希臘研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。
西欧ルネッサンスに行く道は、ギリシャに通じる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあっただろう。
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西欧ルネッサンスに行く道は、希臘に通ずる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあったろう。
しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳に歩みを転じられたように思われる。
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しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳に歩みを転ぜられたように思われる。
このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」
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このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」
の寄贈を受けたことがあった。
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の寄贈を受けたことがあった。
その新刊の号に斎藤緑雨君の寄せた文章が出ている。
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その新刊の号に斎藤緑雨君の寄せた文章が出ている。
緑雨君の筆はわたしのことにも言い及んでいる。
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緑雨君の筆はわたしのことにも言い及んである。
「彼も今では北佐久郡の居候、山猿にしてはちと色が白過ぎるまで」
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「彼も今では北佐久郡の居候、山猿にしてはちと色が白過ぎるまで」
緑雨君はこういう調子の人であった。
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緑雨君はこういう調子の人であった。
うまいとも、辛辣とも言いようのない、こんな言い回しにかけて、当時同君の右に出るものはなかった。
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うまいとも、辛辣とも言ってみようのない、こんな言い廻しにかけて当時同君の右に出るものはなかった。
しかし、東京の知人達からも離れて来ているわたしにとっては、おそらくそれが最後に聞きつけた緑雨君の声であったように思う。
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しかし、東京の知人等からも離れて来ているわたしに取っては、おそらくそれが最後に聴きつけた緑雨君の声であったように思う。
わたしは文学の上のことで直接に同君から学んだものはほとんどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少なくなかった。
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わたしは文学の上のことで直接に同君から学んだものとても殆んどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少くなかった。
鴎外、思軒、露伴、紅葉、その他諸家の消息などをよくわたしに語って聞かせたのも同君であった。
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鴎外、思軒、露伴、紅葉、その他諸家の消息なぞをよくわたしに語って聞かせたのも同君であった。
同君の没後に、馬場孤蝶君が交遊の日のことを思い返して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人と違ったところがあったと見えると言われたのも同感だ。
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同君歿後に、馬場孤蝶君は交遊の日のことを追想して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人と異なったところがあったと見えると言われたのも同感だ。
紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。
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紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。
わたしは一年に一度ぐらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることもまれになって行ったが、おそらく鴎外漁史などはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎とする観潮楼の窓から、文学の移り変りなどを心静かに、注意深く眺めておられたかと思う。
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わたしは一年に一度ぐらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることも稀になって行ったが、おそらく鴎外漁史なぞはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎とする観潮楼の窓から、文学の推し移りなどを心静かに、注意深くも眺めておられたかと思う。
そして柳浪、天外、風葉などの作者の新作にも注意し、また、後進のものの成長も見守っていてくれただろうと思う。
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そして柳浪、天外、風葉等の作者の新作にも注意し、又、後進のものの成長をも見まもっていてくれたろうと思う。
明治文学もようやく一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。
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明治文学も漸く一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。
古いものを壊そうとするのは無駄な骨折りだ。
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旧いものを毀そうとするのは無駄な骨折だ。
ほんとうに自分達が新しくなることが出来れば、古いものはすでに壊れている。
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ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている。
これが仙台以来のわたしの信条であった。
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これが仙台以来のわたしの信条であった。
来るべき時代のために支度するということも、わたしにとっては自分達を新しくするということにほかならない。
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来るべき時代のために支度するということも、わたしに取っては自分等を新しくするということに外ならない。
このわたしの前には次第に広い世界が開けて行った。
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このわたしの前には次第に広い世界が展けて行った。
不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶い、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。
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不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶い、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。
わたしはダーウィンの「種の起原」
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わたしはダルウィンが「種の起原」
や「人間と動物の表情」
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や「人間と動物の表情」
などの盛んな自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。
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なぞのさかんな自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。
その時になってみると、いつの間にかわたしの書架も面目を改め、近代の詩の本がそこに並んでいるばかりでなく、英訳で読める欧州大陸の小説や戯曲の類が一冊ずつ順に増えた。
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その時になってみると、いつの間にかわたしの書架も面目を改め、近代の詩書がそこに並んでいるばかりでなく、英訳で読める欧州大陸の小説や戯曲の類が一冊ずつ順にふえた。
トルストイの「コサックス」
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トルストイの「コサックス」
や「アンナ・カレニナ」
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や「アンナ・カレニナ」
、ドストイエフスキイの「罪と罰」
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、ドストイエフスキイの「罪と罰」
に「シベリアの記」
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に「シベリアの記」
、フロオベルの「ボヴァリイ夫人」
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、フロオベルの「ボヴァリイ夫人」
、それにイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」
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、それにイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」
はわたしの愛読書になった。
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はわたしの愛読書になった。
だいたい、わたしが初めてトルストイの著作に接したのは、その小説ではなく、明治学院の古い学窓を出た翌年かに巌本善治氏夫妻の蔵書の中に見つけた英訳の「労働」
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一体、わたしが初めてトルストイの著作に接したのは、その小説ではなく、明治学院の旧い学窓を出た翌年かに巌本善治氏夫妻の蔵書の中に見つけた英訳の「労働」
と題する一冊の小冊子であったが、そんな記憶があるだけでも旧知にめぐりあう思いをした上に、その正しい描写には心を引かれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折など、トルストイの作中の人物をいろいろ想像したり、見たこともないコーカサスの地方へまで思いを馳せたりしたものであった。
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と題する一小冊子であったが、そんな記憶があるだけでも旧知にめぐりあう思いをした上に、その正しい描写には心をひかれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折なぞ、トルストイ作中の人物をいろいろ想像したり、見ぬ高加索の地方へまで思いを馳せたりしたものであった。
当時わたしは横浜のケリイという店から主に洋書を求めていたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」
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当時わたしは横浜のケリイという店からおもに洋書を求めていたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」
も長くわたしの心に残った。
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も長くわたしの心に残った。
不思議にも、それらの近代文学に親しんでみることが、かえって古くから自分達の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。
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不思議にもそれらの近代文学に親しんでみることが反って古くから自分等の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。
あの溌剌として人に迫るような「枕の草紙」
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あの溌剌として人に迫るような「枕の草紙」
に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。
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に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。
今から明治二十年代を振り返ってみることは、私にとって自分達の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史などが「舞姫」
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今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史なぞが「舞姫」
の作によって文学の舞台に登場されたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」
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の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」
に「文づかい」
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に「文づかい」
が出たのも二十四年の頃であったと思う。
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が出たのも二十四年の頃であったと思う。
だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりとは伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧としたものになりがちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代に始まったと言っていい。
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だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧としたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。
今日明治文学として残っているものの半分は、ほとんどあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆を執り物を書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。
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今日明治文学として残っているものの一半は殆どあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。
これにはいろいろな理由があるだろう。
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これには種々な理由があろう。
当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求が強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。
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当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。
長谷川二葉亭の「浮雲」
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長谷川二葉亭の「浮雲」
があれほどの新しさを私達の胸の中に呼び起こしたのも、その要求を満たし得たからであって、あれほど鮮やかに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。
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があれほどの新しさを私達の胸中に喚び起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほど鮮かに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。
一方にはまた、鴎外漁史のような人がいて、レッシングの「俘」
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一方にはまた、鴎外漁史のような人があって、レッシングの「俘」
、アンデルセンの「即興詩人」
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、アンデルセンの「即興詩人」
、その他の名訳を次々に紹介されたことも、当時の文学の水準を高める上に、少なからぬ影響を多くの作者に与えた。
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、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時の文学の標準を高める上に、少からぬ影響を多くの作者に与えた。
「水沫集」
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「水沫集」
一巻は、青春の書というにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどのページにも残っている。
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一巻は、青春の書というにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどの頁にも残っている。
もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあっただろうに、それが最初のような純粋さを失い、新鮮さを失うようになって行ったについては、いろいろな原因がなくてはならない。
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もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事が、まだまだ不十分なものであったことも争えない。
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ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったことも争われない。
紅葉山人のような作者ですら、雅俗折衷の文体と言文一致の間を行き来した。
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紅葉山人のような作者ですら雅俗折衷の文体と言文一致の間を往来した。
何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流れ出しを妨げていた。
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何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流露を妨げていた。
この状態はどうしても行き詰る。
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この状態はどうしても行き詰る。
そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も、今までの表現の方法ではやりきれなくなって行ったかと思う。
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そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も今までの表現の方法では、やりきれなくなって行ったかと思う。
私は斉藤緑雨君のような頭の好い人が、そういう点で苦しみぬいたことを知っている。
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私は斉藤緑雨君のような頭の好い人がそういう点で苦しみぬいたことを知っている。
同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」
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同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」
や「かくれんぼ」
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や「かくれんぼ」
に見せたような作者としての天分を十分に伸ばし切ることが出来なかったのではなかろうかと思う。
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に見せたような作者としての天禀を十分に延ばし切ることが出来なかったのではなかろうかと思う。
その後に、鴎外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」
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その後に、鴎外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」
一篇を「新小説」
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一篇を「新小説」
誌上に発表した。
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誌上に発表した。
私はそれを読んで、漁史のような人の上にもある一転機が来たことを感じた。
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私はそれを読んで漁史のような人の上にもある一転機の来たことを感じた。
「そめちがえ」
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「そめちがえ」
の砕けた題目が示すように、漁史はもうあの「文づかい」
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の砕けた題目が示すように、漁史は最早あの「文づかい」
や「うたかたの記」
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や「うたかたの記」
に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなかったらしい。
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に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなかったらしい。
その頃には、透谷君や一葉女史の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主は「新羽衣物語」
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その頃には、透谷君や一葉女史の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主は「新羽衣物語」
を書き、紅葉山人は「金色夜叉」
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を書き、紅葉山人は「金色夜叉」
を書くほどの熟した創作の境地に達している。
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を書くほどの熟した創作境に達している。
鴎外漁史の「そめちがえ」
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鴎外漁史の「そめちがえ」
を出された頃に明治二十年代のはじめを顧みると、文壇は実に隔世の感があった。
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を出されたころに明治二十年代のはじめを顧みると、文壇は実に隔世の感があった。
十年の月日は明治の文学者にとって短い時ではなかった。
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十年の月日は明治の文学者に取って短い時ではなかった。
おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治の文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が鴎外漁史や幸田露伴氏などとの交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会などを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
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おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が鴎外漁史や幸田露伴氏等との交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会なぞを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、ヨーロッパからの文学を取り入れる上で、どれも要領の好い人達であった。
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思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴からの文学を取り入れる上に就いて、何れも要領の好い人達であった。
そこに自国の特色がある。
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そこに自国の特色がある。
これは徳川時代の文学者が遺産を受け継いだからでもあり、中国文学の長い素養からも来ていると思う。
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これは徳川時代の文学者が遺産を受けついだからでもあり、支那文学の長い素養からも来ていると思う。
ともあれ、他の当時の文学者の多くがまだ十八世紀のイギリス文学を目標としていた中で、ドイツ本国の方から十九世紀にあるものを感じ取って帰って来たところに、鴎外漁史の強みがあった。
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ともあれ、他の当時の文学者の多くがまだ十八世紀の英吉利文学を目標としていた中で、独逸本国の方から十九世紀にあるものを感知して帰って来たところに鴎外漁史の強味があった。
その人自身ですら、自国に芽ぐんで来た言文一致の試みを取り上げるのに躊躇していたほどの時代を考えると、山田美妙、長谷川二葉亭の二氏などの目のつけかたはさすがに早かったと思われる。
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その人自身ですら自国に芽ぐんで来た言文一致の試みを採りあげるに躊躇していたほどの時代を考えると、山田美妙、長谷川二葉亭二氏などの眼のつけかたはさすがに早かったと思われる。
私は明治の新しい文学と、言文一致の発達とを切り離しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。
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私は明治の新しい文学と、言文一致の発達とを切り離しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。
我々の書くものが、古い文章の約束や言い回しその他から解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものではない。
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我々の書くものが、古い文章の約束や云い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。
まず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人がやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たについては、かなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。
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先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。
何と言っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃の作者が現れて、縦横に日常の言葉や俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。
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何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃の作者があらわれて縦横に平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。
それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界をもう一度明るみへ持ち出したこと。
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それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界を今一度明るみへ持ち出したこと。
この二つの大きな仕事とともに、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折りというものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったと私には思われる。
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この二つの大きな仕事と共に、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢に横たわる基礎工事であったと私には思われる。
わたしがこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究を志すようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。
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わたしがこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。
とうとう、わたしは七年も山の上で暮した。
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到頭、わたしは七年も山の上で暮した。
その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。
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その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。
わたしはよく小諸義塾の鮫島理学士や水彩画家丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒達と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。
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わたしはよく小諸義塾の鮫島理学士や水彩画家丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。
このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。
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このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。