斜陽 小学生向け
太宰治(だざいおさむ)・1950年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
一
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一
朝、食堂でスープを一口すすって、お母さまが、
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朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
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「あ」
と、小さくかすかな声を上げた。
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と幽かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
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「髪の毛?」
スープに何か、いやなものが入っていたのかな、と私は思った。
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スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
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「いいえ」
お母さまは、何ごともなかったように、またひらりと一口、スープを口に流し込んだ。そして澄ました顔を横に向け、台所の窓の外に咲く満開の山桜を見つめた。そのまま顔を横に向けたまま、またひらりと一口、スープを小さな唇のあいだに流し込んだ。
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お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。
「ひらり」という言い方は、お母さまについて言うなら、けっして大げさではない。
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ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。
婦人雑誌に載っているような食事の作法とは、まるで違っていた。
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婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。
弟の直治(なおじ)が、いつかお酒を飲みながら、姉の私にこう言ったことがある。
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弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。
「爵位(しゃくい・貴族としての位)があるからといって、本当の貴族だとはかぎらないんだぜ。爵位が無くても、生まれつき立派な人はいるし、おれたちみたいに爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民(せんみん・身分の低いとされた人たち)に近いようなやつもいる。岩島なんてのは(と、直治の学友である伯爵の名前を挙げて)、あんなのはまったく、新宿の遊び場の客引きより、もっと下品な感じじゃないか。こないだも、柳井(やない)(と、これも弟の学友で、子爵(ししゃく・貴族の位のひとつ)の次男の名前を挙げて)の兄さんの結婚式に、あいつ、タキシードなんか着てきたんだぜ。なんだってまた、タキシードなんか着てくる必要があるんだ。それはまあいいとしても、テーブルスピーチのときに、あいつ、『ゴザイマスル』なんていう変な言葉をつかったのには、がっかりした。気取るということは、上品ということとは、ぜんぜん関係のない、みっともない見栄なんだ。『高等下宿』と書いてある看板が本郷のあたりによくあったけれど、じっさい華族なんてもののほとんどは、『高等御乞食(おんこじき)』とでもいったようなものなんだよ。本当の貴族は、あの岩島みたいな下手な気取り方なんて、しないんだ。おれたちの一族でも、本物の貴族といえるのは、まあ、ママくらいのものだろうな。あれは、本物だよ。かなわないところがある」
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「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、まったく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃねえか。こないだも、柳井(と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんか着て、なんだってまた、タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」
スープの飲み方にしても、私たちなら、お皿の上に少しうつむいて、スプーンを横に持ってスープをすくい、スプーンを横にしたまま口元に運んでいただく。けれどもお母さまは、左手の指を軽くテーブルのふちにかけて、体をかがめることもなく、顔をまっすぐに上げたまま、お皿をろくに見もしないでスプーンを横にしてさっとすくう。そして、まるでツバメのようだと言いたいくらい軽やかに、スプーンを口と直角になるように運び、スプーンの先からスープを唇のあいだに流し込むのだった。
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スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。
そうして、何も考えていないようにあちこちよそ見をしながら、ひらりひらりと、まるで小さな羽のようにスプーンを動かし、スープを一滴もこぼすことなく、すする音もお皿の音も、まったく立てないのだった。
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そうして、無心そうにあちこち傍見などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。
それは、いわゆる正式な作法にかなった飲み方ではないかもしれないけれど、私の目には、とてもかわいらしく、まるで本物みたいに見える。
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それは所謂正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可愛らしく、それこそほんものみたいに見える。
実際、飲み物は、口に流し込むようにして飲んだほうが、不思議なくらいおいしいものなのだ。
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また、事実、お飲物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだ。
けれども私は、直治が言うような『高等御乞食』なのだから、お母さまのようにあんなに軽く無造作にスプーンを使うことができない。仕方なくあきらめて、お皿の上にうつむき、いわゆる正式な作法どおりの、暗い感じの飲み方をしているのだった。
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けれども、私は直治の言うような高等御乞食なのだから、お母さまのようにあんなに軽く無雑作にスプウンをあやつる事が出来ず、仕方なく、あきらめて、お皿の上にうつむき、所謂正式礼法どおりの陰気ないただき方をしているのである。
スープに限らず、お母さまの食事の仕方は、作法からずいぶん外れている。
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スウプに限らず、お母さまの食事のいただき方は、頗る礼法にはずれている。
お肉が出ると、ナイフとフォークで、さっさと全部小さく切り分けてしまう。それからナイフを置き、フォークを右手に持ちかえて、その一きれ一きれをフォークに刺して、ゆっくり楽しそうに食べていらっしゃる。
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お肉が出ると、ナイフとフオクで、さっさと全部小さく切りわけてしまって、それからナイフを捨て、フオクを右手に持ちかえ、その一きれ一きれをフオクに刺してゆっくり楽しそうに召し上がっていらっしゃる。
また、骨つきのチキンなどが出て、私たちがお皿を鳴らさずに骨から肉を切り離そうと苦労しているとき、お母さまは平気な顔で、ひょいと指先で骨のところをつまんで持ち上げ、口で骨と肉を離して、澄ました顔をしていらっしゃる。
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また、骨つきのチキンなど、私たちがお皿を鳴らさずに骨から肉を切りはなすのに苦心している時、お母さまは、平気でひょいと指先で骨のところをつまんで持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄ましていらっしゃる。
そんな乱暴な仕草も、お母さまがすると、かわいらしいだけでなく、なぜか色っぽくさえ見えるのだから、さすがに本物の育ちは違うものだ。
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そんな野蛮な仕草も、お母さまがなさると、可愛らしいばかりか、へんにエロチックにさえ見えるのだから、さすがにほんものは違ったものである。
骨つきのチキンのときだけでなく、お母さまは、お昼のおかずのハムやソーセージなども、ひょいと指先でつまんで食べることさえ、時々あった。
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骨つきのチキンの場合だけでなく、お母さまは、ランチのお菜のハムやソセージなども、ひょいと指先でつまんで召し上る事さえ時たまある。
「おにぎりが、どうしておいしいか、知っていますか。あれはね、人間の指でにぎって作るからですよ」
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「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」
と言ったこともある。
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とおっしゃった事もある。
本当に、手で食べたらおいしいだろうな、と私も思うことがあるけれど、私のような『高等御乞食』が、下手にまねしてそれをやったら、それこそ本物の乞食のように見えてしまいそうな気がするので、がまんしている。
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本当に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手に真似してそれをやったら、それこそほんものの乞食の図になってしまいそうな気もするので我慢している。
弟の直治でさえ、『ママにはかなわない』と言っているが、私もつくづく、お母さまのまねは難しいと感じ、絶望に近いものさえ感じることがある。
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弟の直治でさえ、ママにはかなわねえ、と言っているが、つくづく私も、お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある。
いつか、西片町のうちの奥庭で、秋のはじめの月のきれいな夜のことだった。私はお母さまと二人で、池のそばのあずまやでお月見をして、キツネのお嫁入りとネズミのお嫁入りとでは、お嫁さんの支度がどう違うか、などと笑いながら話していた。そのうちにお母さまは、すっと立ち上がって、あずまやのそばの萩(はぎ)の茂みの奥へ入っていった。それから、萩の白い花のあいだから、もっとくっきり白い顔を出して、少し笑って、
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いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
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「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
と言った。
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とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
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「お花を折っていらっしゃる」
と答えたら、小さな声を上げて笑い、
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と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
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「おしっこよ」
と言った。
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とおっしゃった。
ぜんぜんしゃがんでいなかったのには驚いたけれど、私にはとてもまねできない、心の底からかわいらしい感じがあった。
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ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスープの話から、だいぶ話がそれてしまったけれど、こないだある本で、ルイ王朝のころの貴族の女性たちは、宮殿の庭や廊下のすみなどで、平気でおしっこをしていたということを読んで知った。その何も考えていない感じが、本当にかわいらしく、私のお母さまも、そういう本物の貴族の女性の最後のひとりなのではないだろうか、と思った。
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けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ或る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。
さて、けさは、スープを一口すすって、『あ』と小さな声を上げたので、『髪の毛?』
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さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛?
とたずねると、『いいえ』と答えた。
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とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。
「塩辛かったかしら」
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「塩辛かったかしら」
けさのスープは、こないだアメリカから配給された缶詰のグリンピースを裏ごしして、私がポタージュのように作ったものだった。もともと料理には自信がないので、お母さまに『いいえ』と言われても、まだはらはらして、そうたずねたのだった。
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けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった罐詰のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作ったもので、もともとお料理には自信が無いので、お母さまに、いいえ、と言われても、なおも、はらはらしてそうたずねた。
「お上手に出来ました」
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「お上手に出来ました」
お母さまは、まじめな顔でそう言って、スープを飲み終え、それから海苔で包んだおにぎりを手でつまんで食べた。
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お母さまは、まじめにそう言い、スウプをすまして、それからお海苔で包んだおむすびを手でつまんでおあがりになった。
私は小さいころから朝ごはんがおいしく感じられず、十時ごろにならないとおなかがすかない。そのときもスープだけはどうにか飲み終えたけれど、食べるのが面倒で、おにぎりをお皿にのせて箸を突き刺し、ぐしゃぐしゃにくずしてしまった。それから、そのひとかけらを箸でつまみ上げ、お母さまがスープを飲むときのスプーンのように、箸を口と直角にして、まるで小鳥にえさをやるようなやり方で口に押し込み、のろのろと食べていた。そのうちにお母さまはもう食事をすっかり終えて、そっと立ち上がり、朝日の当たっている壁に背中をもたせかけ、しばらく黙って私の食べ方を見ていて、
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私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお箸を突込み、ぐしゃぐしゃにこわして、それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸をお口と直角にして、まるで小鳥に餌をやるような工合いにお口に押し込み、のろのろといただいているうちに、お母さまはもうお食事を全部すましてしまって、そっとお立ちになり、朝日の当っている壁にお背中をもたせかけ、しばらく黙って私のお食事の仕方を見ていらして、
「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」
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「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」
と言った。
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とおっしゃった。
「お母さまは? おいしいの?」
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「お母さまは? おいしいの?」
「そりゃもう。私は病人じゃないもの」
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「そりゃもう。私は病人じゃないもの」
「かず子だって、病人じゃないわ」
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「かず子だって、病人じゃないわ」
「だめ、だめ」
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「だめ、だめ」
お母さまは、さびしそうに笑って首を振った。
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お母さまは、淋しそうに笑って首を振った。
私は五年前に、肺の病気だということになって寝込んだことがあったけれど、あれはわがままから来た病気だったのだと、私は知っている。
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私は五年前に、肺病という事になって、寝込んだ事があったけれども、あれは、わがまま病だったという事を私は知っている。
けれども、お母さまがこのあいだかかった病気は、本当に心配な、悲しい病気だった。
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けれども、お母さまのこないだの御病気は、あれこそ本当に心配な、哀しい御病気だった。
それなのに、お母さまは私のことばかり心配している。
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だのに、お母さまは、私の事ばかり心配していらっしゃる。
「あ」
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「あ」
と私が言った。
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と私が言った。
「なに?」
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「なに?」
こんどは、お母さまのほうがたずねた。
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とこんどは、お母さまのほうでたずねる。
顔を見合わせ、なんだかすっかりわかり合ったものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、にっこり笑った。
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顔を見合せ、何か、すっかりわかり合ったものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、にっこりお笑いになった。
何か、たまらなく恥ずかしい思いにおそわれたときに、あの、『あ』という不思議で小さな声が出るものなのだ。
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何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。
私の胸に、いま急に、六年前に離婚したときのことが色あざやかに思い浮かんできて、たまらなくなり、思わず『あ』と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうだったのだろう。
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私の胸に、いま出し抜けにふうっと、六年前の私の離婚の時の事が色あざやかに思い浮んで来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうなのだろう。
まさかお母さまに、私のような恥ずかしい過去があるはずはないけれど、いや、それとも、何かあるのだろうか。
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まさかお母さまに、私のような恥ずかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。
「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう? どんな事?」
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「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう? どんな事?」
「忘れたわ」
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「忘れたわ」
「私の事?」
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「私の事?」
「いいえ」
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「いいえ」
「直治の事?」
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「直治の事?」
「そう」
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「そう」
と言いかけて、首をかしげ、
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と言いかけて、首をかしげ、
「かも知れないわ」
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「かも知れないわ」
と言った。
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とおっしゃった。
弟の直治は大学の途中で兵隊に取られ、南の島へ行ったのだが、その後たよりが絶えてしまい、戦争が終わっても行方がわからなかった。お母さまは、『もう直治には会えないと覚悟している』と言っているけれど、私は、そんな『覚悟』
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弟の直治は大学の中途で召集され、南方の島へ行ったのだが、消息が絶えてしまって、終戦になっても行先が不明で、お母さまは、もう直治には逢えないと覚悟している、とおっしゃっているけれども、私は、そんな、「覚悟」
なんて一度もしたことがなく、きっと会えるとばかり思っている。
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なんかした事は一度もない、きっと逢えるとばかり思っている。
「あきらめたつもりだったのだけど、おいしいスープをいただいて直治のことを思ったら、たまらなくなったの。もっと、直治によくしてあげればよかった」
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「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった」
直治は高等学校に入ったころから、やたら文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活を始め、どれだけお母さまに苦労をかけたかわからない。
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直治は高等学校にはいった頃から、いやに文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦労をかけたか、わからないのだ。
それなのにお母さまは、スープを一口すするたびに直治のことを思い、『あ』と声を上げるのだった。
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それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。
私はごはんを口に押し込みながら、目が熱くなった。
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私はごはんを口に押し込み眼が熱くなった。
「大丈夫よ。直治は大丈夫。直治みたいな悪者は、なかなか死ぬものじゃないわ。死ぬ人はきまって、おとなしくて、きれいで、やさしいものよ。直治なんて、棒でたたいたって死にやしないわ」
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「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな悪漢は、なかなか死ぬものじゃないわよ。死ぬひとは、きまって、おとなしくて、綺麗で、やさしいものだわ。直治なんて、棒でたたいたって、死にやしない」
お母さまは笑って、
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お母さまは笑って、
「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな」
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「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな」
と私をからかった。
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と私をからかう。
「あら、どうして? 私なんて、悪者でおでこの女なんだから、八十歳までは大丈夫よ」
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「あら、どうして? 私なんか、悪漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ」
「そうなの? そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」
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「そうなの? そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」
「ええ」
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「ええ」
と言いかけて、少し困った。
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と言いかけて、少し困った。
悪者は長生きする。
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悪漢は長生きする。
きれいな人は早く死ぬ。
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綺麗なひとは早く死ぬ。
お母さまは、きれいだ。
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お母さまは、お綺麗だ。
けれども、長生きしてもらいたい。
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けれども、長生きしてもらいたい。
私はすっかりまごついた。
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私は頗るまごついた。
「意地わるね!」
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「意地わるね!」
と言ったら、下くちびるがぷるぷる震えてきて、涙が目からあふれて落ちた。
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と言ったら、下唇がぷるぷる震えて来て、涙が眼からあふれて落ちた。
蛇の話をしようかしら。
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蛇の話をしようかしら。
その四、五日前の午後、近所の子どもたちが、お庭の垣根の竹やぶから、蛇の卵を十個くらい見つけてきたのだった。
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その四、五日前の午後に、近所の子供たちが、お庭の垣の竹藪から、蛇の卵を十ばかり見つけて来たのである。
子どもたちは、
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子供たちは、
「蝮(まむし)の卵だ」
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「蝮の卵だ」
と言い張った。
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と言い張った。
私は、あの竹やぶにマムシが十匹も生まれたら、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、
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私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、
「焼いちゃおう」
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「焼いちゃおう」
と言うと、子どもたちは飛び上がって喜び、私のあとについてきた。
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と言うと、子供たちはおどり上がって喜び、私のあとからついて来る。
竹やぶの近くに、木の葉や小枝を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一つずつ投げ入れた。
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竹藪の近くに、木の葉や柴を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一つずつ投げ入れた。
卵は、なかなか燃えなかった。
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卵は、なかなか燃えなかった。
子どもたちが、さらに木の葉や小枝を炎の上にかぶせて火を強くしても、卵は燃えそうになかった。
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子供たちが、更に木の葉や小枝を焔の上にかぶせて火勢を強くしても、卵は燃えそうもなかった。
下の農家の娘さんが、垣根の外から、
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下の農家の娘さんが、垣根の外から、
「何をしていらっしゃるのですか?」
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「何をしていらっしゃるのですか?」
と笑いながらたずねた。
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と笑いながらたずねた。
「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの」
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「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの」
「大きさは、どれくらいですか?」
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「大きさは、どれくらいですか?」
「うずらの卵くらいで、真白なんです」
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「うずらの卵くらいで、真白なんです」
「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう。生の卵は、なかなか燃えませんよ」
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「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう。生の卵は、なかなか燃えませんよ」
娘さんは、いかにもおかしそうに笑って、行ってしまった。
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娘さんは、さも可笑しそうに笑って、去った。
三十分ほど火を燃やしていたのだけれど、どうしても卵は燃えないので、子どもたちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めさせた。私は小石を集めて、お墓のしるしを作ってあげた。
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三十分ばかり火を燃やしていたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標を作ってやった。
「さあ、みんな、拝むのよ」
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「さあ、みんな、拝むのよ」
私がしゃがんで手を合わせると、子どもたちもおとなしく私のうしろにしゃがんで、手を合わせたようだった。
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私がしゃがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしゃがんで合掌したようであった。
そうして子どもたちと別れて、私ひとりで石段をゆっくりのぼっていくと、石段の上の藤棚のかげにお母さまが立っていて、
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そうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆっくりのぼって来ると、石段の上の、藤棚の蔭にお母さまが立っていらして、
「かわいそうなことをする人ね」
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「可哀そうな事をするひとね」
と言った。
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とおっしゃった。
「マムシかと思ったら、ただの蛇だったの。でも、ちゃんとお墓に入れてあげたから、大丈夫」
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「蝮かと思ったら、ただの蛇だったの。けれど、ちゃんと埋葬してやったから、大丈夫」
とは言ったものの、これはお母さまに見られて、まずかったかなと思った。
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とは言ったものの、こりゃお母さまに見られて、まずかったかなと思った。
お母さまは決して迷信深い人ではないけれど、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなってから、蛇をとても恐れるようになった。
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お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらっしゃる。
お父上が亡くなる直前に、お母さまが、お父上のまくらもとに細い黒いひもが落ちているのを見て、何気なく拾おうとしたら、それが蛇だった。
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お父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の枕元に細い黒い紐が落ちているのを見て、何気なく拾おうとなさったら、それが蛇だった。
その蛇はするすると逃げて、廊下に出てから、どこへ行ったかわからなくなった。それを見たのは、お母さまと和田の叔父さまの二人だけで、二人は顔を見合わせたけれど、お父上が亡くなる場が騒ぎにならないよう、こらえて黙っていたのだという。
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するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行ったかわからなくなったが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりで、お二人は顔を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬよう、こらえて黙っていらしたという。
私たちもその場にいたのだが、その蛇のことは、だからまったく知らなかった。
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私たちも、その場に居合せていたのだが、その蛇の事は、だから、ちっとも知らなかった。
けれども、お父上が亡くなった日の夕方、お庭の池のそばの木という木に蛇がのぼっていたことは、私も実際に見て知っている。
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けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。
私は二十九のおばさんだから、十年前にお父上がご逝去(せいきょ・お亡くなりになること)になったときには、もう十九にもなっていたのだ。
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私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の御逝去の時は、もう十九にもなっていたのだ。
もう子どもではなかったのだから、十年たっても、そのときの記憶は今でもはっきりしていて、間違いはないはずだ。私がお供えの花を切りに、お庭の池のほうへ歩いていって、池のふちのつつじのところで立ち止まり、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さな蛇がまきついていた。
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もう子供では無かったのだから、十年経っても、その時の記憶はいまでもはっきりしていて、間違いは無い筈だが、私がお供えの花を剪りに、お庭のお池のほうに歩いて行って、池の岸のつつじのところに立ちどまって、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がまきついていた。
少し驚いて、次のヤマブキの花の枝を折ろうとすると、その枝にも蛇がまきついていた。
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すこしおどろいて、つぎの山吹の花枝を折ろうとすると、その枝にも、まきついていた。
隣のキンモクセイにも、若いカエデにも、エニシダにも、藤にも、桜にも、どの木にも、どの木にも、蛇がまきついていたのだった。
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隣りの木犀にも、若楓にも、えにしだにも、藤にも、桜にも、どの木にも、どの木にも、蛇がまきついていたのである。
けれども私には、そんなにこわく思われなかった。
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けれども私には、そんなにこわく思われなかった。
蛇たちも、私と同じようにお父上が亡くなったのを悲しんで、穴からはい出してお父上のたましいを拝んでいるのだろう、という気がしただけだった。
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蛇も、私と同様にお父上の逝去を悲しんで、穴から這い出てお父上の霊を拝んでいるのであろうというような気がしただけであった。
そうして私は、その庭の蛇のことを、お母さまにそっと知らせたら、お母さまは落ち着いて、少し首をかしげて何か考えるような様子をしたが、特に何も言わなかった。
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そうして私は、そのお庭の蛇の事を、お母さまにそっとお知らせしたら、お母さまは落ちついて、ちょっと首を傾けて何か考えるような御様子をなさったが、べつに何もおっしゃりはしなかった。
けれども、この二つの蛇の出来事が、それからお母さまをひどい蛇ぎらいにしてしまったのは事実だった。
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けれども、この二つの蛇の事件が、それ以来お母さまを、ひどい蛇ぎらいにさせたのは事実であった。
蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめながらおそれる、つまり畏怖(いふ・おそれうやまう気持ち)の気持ちを持つようになったようだ。
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蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり畏怖の情をお持ちになってしまったようだ。
蛇の卵を焼いたのをお母さまに見られてしまい、お母さまはきっと何かひどく縁起の悪いものを感じたに違いないと思ったら、私も急に、蛇の卵を焼いたのがとても恐ろしいことだったような気がしてきた。このことがお母さまに悪いたたりをするのではないかと心配で心配で、次の日も、その次の日も忘れることができずにいた。それなのにけさは食堂で、『美しい人は早く死ぬ』などと、とんでもないことをつい口走ってしまい、あとでどうしても言いつくろうことができず、泣いてしまった。朝食のあと片づけをしながら、なんだか自分の胸の奥に、お母さまの命をちぢめる気味の悪い小さな蛇が一匹入りこんでいるようで、いやでいやでたまらなかった。
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蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い祟りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい口走って、あとで、どうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまったのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。
そうしてその日、私はお庭で蛇を見た。
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そうして、その日、私はお庭で蛇を見た。
その日は、とても穏やかないいお天気だったので、私は台所の仕事をすませて、それから庭の芝生の上に籐(とう)いすを運び、そこで編み物をしようと思って、籐いすを持って庭に降りたら、庭石の笹のところに蛇がいた。
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その日は、とてもなごやかないいお天気だったので、私はお台所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に籐椅子をはこび、そこで編物を仕様と思って、籐椅子を持ってお庭に降りたら、庭石の笹のところに蛇がいた。
おお、いやだ。
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おお、いやだ。
私はただそう思っただけで、それ以上深くは考えず、籐いすを持って引き返して縁側にあがり、縁側にいすを置いてそれに腰かけて、編み物にとりかかった。
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私はただそう思っただけで、それ以上深く考える事もせず、籐椅子を持って引返して縁側にあがり、縁側に椅子を置いてそれに腰かけて編物にとりかかった。
午後になって、私はお庭のすみのお堂の奥にしまってある本の中から、ローランサンという画家の画集を取り出そうと思って庭に降りたら、芝生の上を蛇が、ゆっくりゆっくりはっていた。
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午後になって、私はお庭の隅の御堂の奥にしまってある蔵書の中から、ローランサンの画集を取り出して来ようと思って、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆっくりゆっくり這っている。
朝の蛇と同じだった。
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朝の蛇と同じだった。
ほっそりした、上品な蛇だった。
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ほっそりした、上品な蛇だった。
私は、女の蛇だ、と思った。
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私は、女蛇だ、と思った。
その蛇は、芝生を静かに横切って野ばらのかげまで行くと、立ち止まって首を上げ、細い炎のような舌をふるわせた。
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彼女は、芝生を静かに横切って野ばらの蔭まで行くと、立ちどまって首を上げ、細い焔のような舌をふるわせた。
そうして、あたりを見わたすような様子をしたが、しばらくすると首をたれ、いかにもだるそうにうずくまった。
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そうして、あたりを眺めるような恰好をしたが、しばらくすると、首を垂れ、いかにも物憂げにうずくまった。
私はそのときも、ただ美しい蛇だ、という思いばかりが強く、やがてお堂に行って画集を持ち出し、帰りにさっきの蛇がいたところをそっと見たが、もういなかった。
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私はその時にも、ただ美しい蛇だ、という思いばかりが強く、やがて御堂に行って画集を持ち出し、かえりにさっきの蛇のいたところをそっと見たが、もういなかった。
夕方近く、お母さまと中国間でお茶を飲みながら庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりと現れた。
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夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりとあらわれた。
お母さまもそれを見つけ、
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お母さまもそれを見つけ、
「あの蛇は?」
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「あの蛇は?」
と言うなり立ち上がって私のほうに走り寄り、私の手をとったまま、立ちすくんでしまった。
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とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。
そう言われて、私も、はっと思い当り、
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そう言われて、私も、はっと思い当り、
「卵の母親?」
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「卵の母親?」
と口に出して言ってしまった。
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と口に出して言ってしまった。
「そう、そうよ」
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「そう、そうよ」
お母さまの声は、かすれていた。
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お母さまのお声は、かすれていた。
私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を見守った。
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私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を見護った。
石の上に、だるそうにうずくまっていた蛇は、よろめくようにまた動きはじめ、力なさそうに石段を横切って、かきつばたのほうに入っていった。
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石の上に、物憂げにうずくまっていた蛇は、よろめくようにまた動きはじめ、そうして力弱そうに石段を横切り、かきつばたのほうに這入って行った。
「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」
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「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」
と私が小声で言ったら、お母さまは、ためいきをついてくたりといすに座り込んでしまい、
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と私が小声で申し上げたら、お母さまは、溜息をついてくたりと椅子に坐り込んでおしまいになって、
「そうでしょう? 卵を探しているのですよ。かわいそうに」
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「そうでしょう? 卵を捜しているのですよ。可哀そうに」
と沈んだ声で言った。
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と沈んだ声でおっしゃった。
私は仕方なく、ふふと笑った。
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私は仕方なく、ふふと笑った。
夕日がお母さまの顔に当たって、お母さまの目が青いくらいに光って見え、そのかすかに怒りを帯びたような顔は、飛びつきたいほどに美しかった。
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夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。
そうして私は、ああ、お母さまの顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ている、と思った。
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そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。
そうして私の胸の中に住むマムシみたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい母蛇を、いつか食い殺してしまうのではないだろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。
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そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。
私はお母さまの柔らかな細い肩に手を置いて、理由のわからない身もだえをした。
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私はお母さまの軟らかなきゃしゃなお肩に手を置いて、理由のわからない身悶えをした。
私たちが、東京の西片町の家を捨て、伊豆(いず)のこの、ちょっと中国風の山荘に引っ越してきたのは、日本が無条件降伏をした年の、十二月のはじめだった。
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私たちが、東京の西片町のお家を捨て、伊豆のこの、ちょっと支那ふうの山荘に引越して来たのは、日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめであった。
お父上が亡くなってから、私たちの家のお金のことは、お母さまの弟で、いまではお母さまのたった一人の身内である和田の叔父さまが、全部世話をしてくれていた。けれども戦争が終わって世の中が変わり、和田の叔父さまが、『もうだめだ、家を売るしかない。女中もみんな辞めてもらって、親子二人で、どこか田舎のこぢんまりした家を買って、気ままに暮らしたほうがいい』とお母さまに言い渡した様子だった。お母さまは、お金のことは子どもよりももっと何もわからない人だったので、和田の叔父さまにそう言われて、『それでは、どうかよろしく』とお願いしてしまったようだった。
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お父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう駄目だ、家を売るより他は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、お母さまは、お金の事は子供よりも、もっと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからそう言われて、それではどうかよろしく、とお願いしてしまったようである。
十一月の末に叔父さまから速達が来て、駿豆(すんず)鉄道の沿線に河田子爵の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴らしがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で冬は暖かく夏は涼しく、住めばきっと気に入る場所だと思う、先方と直接会って話をする必要もあると思うから、明日、とにかく銀座の私の事務所まで来てほしい、という内容だった。
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十一月の末に叔父さまから速達が来て、駿豆鉄道の沿線に河田子爵の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきっと、お気に召すところと思う、先方と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを乞う、という文面で、
「お母さま、行くの?」
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「お母さま、おいでなさる?」
と私がたずねると、
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と私がたずねると、
「だって、お願いしていたのだもの」
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「だって、お願いしていたのだもの」
と、とてもたまらなくさびしそうに笑って言った。
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と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。
翌日、もとの運転手の松山さんに付き添いを頼んで、お母さまはお昼を少し過ぎたころに出かけ、夜の八時ごろ、松山さんに送られて帰ってきた。
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翌る日、もとの運転手の松山さんにお伴をたのんで、お母さまは、お昼すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった。
「きめましたよ」
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「きめましたよ」
かず子の部屋へ入ってきて、かず子の机に手をついて、そのまま崩れるように座り込み、そう一言だけ言った。
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かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう一言おっしゃった。
「きめたって、何を?」
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「きめたって、何を?」
「全部」
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「全部」
「だって」
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「だって」
と私は驚き、
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と私はおどろき、
「どんな家だか、見もしないうちに、……」
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「どんなお家だか、見もしないうちに、……」
お母さまは机の上に片ひじを立て、額に軽く手を当て、小さなためいきをついて、
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お母さまは机の上に片肘を立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、
「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま目をつぶってそのお家へ移っていってもいいような気がする」
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「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」
と言って顔を上げ、かすかに笑った。
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とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。
その顔は、少しやつれて、美しかった。
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そのお顔は、少しやつれて、美しかった。
「そうね」
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「そうね」
と私も、お母さまの和田の叔父さまへの信頼の美しさに負けて、うなずき、
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と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、合槌を打ち、
「それでは、かず子も目をつぶるわ」
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「それでは、かず子も眼をつぶるわ」
二人で声を立てて笑ったけれど、笑ったあとが、すごくさびしくなった。
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二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
それから毎日、家に人夫が来て、引っ越しの荷造りが始まった。
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それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。
和田の叔父さまもやって来て、売り払うものはそれぞれ手配してくれた。
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和田の叔父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。
私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、いらないものを庭先で燃やしたりして忙しい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理の手伝いも指図もせず、毎日部屋で、なんとなくぐずぐずしているのだった。
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私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お指図もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐずぐずしていらっしゃるのである。
「どうしたの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
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「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
と思い切って、少しきつくたずねても、
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と思い切って、少しきつくお訊ねしても、
「いいえ」
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「いいえ」
とぼんやりした顔で答えるだけだった。
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とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。
十日ばかりして、整理が終わった。
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十日ばかりして、整理が出来上った。
私は、夕方お君と二人で、紙くずやわらを庭先で燃やしていると、お母さまも部屋から出てきて、縁側に立って黙って私たちのたき火を見ていた。
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私は、夕方お君と二人で、紙くずや藁を庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちの焚火を見ていらした。
灰色っぽい寒い西風が吹いて、煙が低く地面をはっていた。私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまの顔色が、いままで見たこともないくらい悪いのにびっくりして、
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灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を這っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのお顔色が、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、
「お母さま! 顔色がお悪いわ」
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「お母さま! お顔色がお悪いわ」
と叫ぶと、お母さまはうすく笑って、
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と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、
「なんでもないの」
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「なんでもないの」
と言って、そっとまた部屋に入っていった。
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とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。
その夜、ふとんはもう荷造りをすませてしまっていたので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまの部屋に、お隣りから借りた一組のふとんを敷いて、二人一緒に休んだ。
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その夜、お蒲団はもう荷造りをすましてしまったので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。
お母さまは、おや?
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お母さまは、おや?
と思うくらいに老いた弱々しい声で、
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と思ったくらいに老けた弱々しいお声で、
「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」
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「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」
と意外なことを言った。
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と意外な事をおっしゃった。
私は、どきんとして、
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私は、どきんとして、
「かず子がいなかったら?」
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「かず子がいなかったら?」
と思わずたずねた。
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と思わずたずねた。
お母さまは、急に泣き出して、
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お母さまは、急にお泣きになって、
「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」
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「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」
と、とぎれとぎれに言って、いよいよはげしく泣いた。
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と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。
お母さまは、今まで私に向かって一度もこんな弱音を言ったことがなかったし、こんなにはげしく泣いているところを私に見せたこともなかった。
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お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに烈しくお泣きになっているところを私に見せた事も無かった。
お父上が亡くなったときも、私がお嫁に行くときも、赤ちゃんをおなかに入れてお母さまのもとへ帰ってきたときも、赤ちゃんが病院で死んで生まれたときも、私が病気になって寝込んでしまったときも、直治が悪いことをしたときも、お母さまは、決してこんな弱い態度を見せることはなかった。
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お父上がお亡くなりになった時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちゃんをおなかにいれてお母さまの許へ帰って来た時も、そして、赤ちゃんが病院で死んで生れた時も、それから私が病気になって寝込んでしまった時も、また、直治が悪い事をした時も、お母さまは、決してこんなお弱い態度をお見せになりはしなかった。
お父上が亡くなって十年間、お母さまは、お父上が生きていたころと少しも変わらない、のんきでやさしいお母さまだった。
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お父上がお亡くなりになって十年間、お母さまは、お父上の在世中と少しも変らない、のんきな、優しいお母さまだった。
そうして私たちも、いい気になって甘えて育ってきたのだ。
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そうして、私たちも、いい気になって甘えて育って来たのだ。
けれども、お母さまには、もうお金がなくなってしまった。
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けれども、お母さまには、もうお金が無くなってしまった。
みんな私たちのために、私と直治のために、少しも惜しまずに使ってしまったのだ。
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みんな私たちのために、私と直治のために、みじんも惜しまずにお使いになってしまったのだ。
そうしてもう、この長年住みなれた家から出ていって、伊豆の小さい山荘で私とたった二人きりで、わびしい生活を始めなければならなくなった。
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そうしてもう、この永年住みなれたお家から出て行って、伊豆の小さい山荘で私とたった二人きりで、わびしい生活をはじめなければならなくなった。
もしお母さまが意地悪でケチケチして、私たちをしかって、こっそり自分だけのお金を増やすことを考えるような人だったら、どんなに世の中が変わっても、こんな死にたくなるような気持ちにはならなかっただろうに。ああ、お金がなくなるということは、なんという恐ろしい、みじめな、救いのない地獄だろう、と生まれてはじめて気づいた思いで、胸がいっぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の厳しさとは、こんなときの感じを言うのだろうか、と身動き一つできない気持ちで、あおむけに寝たまま、私は石のようにじっとしていた。
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もしお母さまが意地悪でケチケチして、私たちを叱って、そうして、こっそりご自分だけのお金をふやす事を工夫なさるようなお方であったら、どんなに世の中が変っても、こんな、死にたくなるようなお気持におなりになる事はなかったろうに、ああ、お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と生れてはじめて気がついた思いで、胸が一ぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の厳粛とは、こんな時の感じを言うのであろうか、身動き一つ出来ない気持で、仰向に寝たまま、私は石のように凝っとしていた。
翌日、お母さまは、やはり顔色が悪く、なお何やらぐずぐずして、少しでも長くこの家にいたい様子だったが、和田の叔父さまが来て、もう荷物はほとんど送ってしまったし、きょう伊豆に出発、と言いつけたので、お母さまはしぶしぶコートを着て、お別れのあいさつをするお君や、出入りの人たちに無言で会釈して、叔父さまと私と三人、西片町の家を出た。
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翌る日、お母さまは、やはりお顔色が悪く、なお何やらぐずぐずして、少しでも永くこのお家にいらっしゃりたい様子であったが、和田の叔父さまが見えられて、もう荷物はほとんど発送してしまったし、きょう伊豆に出発、とお言いつけになったので、お母さまは、しぶしぶコートを着て、おわかれの挨拶を申し上げるお君や、出入のひとたちに無言でお会釈なさって、叔父さまと私と三人、西片町のお家を出た。
汽車は割にすいていて、三人とも座ることができた。
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汽車は割に空いていて、三人とも腰かけられた。
汽車の中では、叔父さまはとても上機嫌でうたなど歌っていたが、お母さまは顔色が悪く、うつむいて、とても寒そうにしていた。
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汽車の中では、叔父さまは非常な上機嫌でうたいなど唸っていらっしゃったが、お母さまはお顔色が悪く、うつむいて、とても寒そうにしていらした。
三島で駿豆鉄道に乗り換え、伊豆長岡で降りて、それからバスで十五分くらいで降りてから山のほうに向かって、ゆるやかな坂道をのぼっていくと、小さい集落があって、その集落のはずれに、中国風の、少し凝った作りの山荘があった。
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三島で駿豆鉄道に乗りかえ、伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらいで降りてから山のほうに向って、ゆるやかな坂道をのぼって行くと、小さい部落があって、その部落のはずれに、支那ふうの、ちょっとこった山荘があった。
「お母さま、思ったよりもいい所ね」
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「お母さま、思ったよりもいい所ね」
と私は息をはずませて言った。
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と私は息をはずませて言った。
「そうね」
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「そうね」
とお母さまも、山荘の玄関の前に立って、一瞬うれしそうな目つきをした。
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とお母さまも、山荘の玄関の前に立って、一瞬うれしそうな眼つきをなさった。
「だいいち、空気がいい。清らかな空気です」
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「だいいち、空気がいい。清浄な空気です」
と叔父さまは、自慢した。
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と叔父さまは、ご自慢なさった。
「本当に」
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「本当に」
とお母さまはほほえんで、
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とお母さまは微笑まれて、
「おいしい。ここの空気は、おいしい」
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「おいしい。ここの空気は、おいしい」
と言った。
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とおっしゃった。
そうして、三人で笑った。
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そうして、三人で笑った。
玄関に入ってみると、もう東京からの荷物が着いていて、玄関から部屋まで荷物でいっぱいになっていた。
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玄関にはいってみると、もう東京からのお荷物が着いていて、玄関からお部屋からお荷物で一ぱいになっていた。
「次には、座敷からのながめがよい」
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「次には、お座敷からの眺めがよい」
叔父さまは浮かれて、私たちを座敷に引っぱっていって座らせた。
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叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引っぱって行って坐らせた。
午後の三時ごろで、冬の日が庭の芝生にやわらかく当たっていて、芝生から石段を降りきったあたりに小さい池があり、梅の木がたくさんあって、庭の下にはみかん畑が広がり、それから村道があって、その向こうは水田で、それからずっと向こうに松林があって、その松林の向こうに海が見える。
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午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやわらかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、お庭の下には蜜柑畑がひろがり、それから村道があって、その向うは水田で、それからずっと向うに松林があって、その松林の向うに、海が見える。
海は、こうして座敷に座っていると、ちょうど私の胸のあたりに水平線が触れるくらいの高さに見えた。
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海は、こうしてお座敷に坐っていると、ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さに見えた。
「やわらかな景色ねえ」
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「やわらかな景色ねえ」
とお母さまは、けだるそうに言った。
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とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。
「空気のせいかしら。日の光が、まるで東京と違うじゃないの。光が絹でこされているみたい」
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「空気のせいかしら。陽の光が、まるで東京と違うじゃないの。光線が絹ごしされているみたい」
と私は、はしゃいで言った。
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と私は、はしゃいで言った。
十畳間と六畳間と、それから中国式の応接間と、それから玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂と台所と、それから二階に大きいベッドのついた来客用の洋間が一部屋、それだけの部屋数だったけれど、私たち二人、いや、直治が帰って三人になっても、別に窮屈ではないと思った。
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十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの附いた来客用の洋間が一間、それだけの間数だけれども、私たち二人、いや、直治が帰って三人になっても、別に窮屈でないと思った。
叔父さまは、この村でたった一軒だという宿屋へ、食事を頼みに出かけ、やがて届けられたお弁当を座敷に広げて、持ってきたウイスキーを飲みながら、この山荘の前の持ち主だった河田子爵と中国で遊んだころの失敗談などを話して、とても陽気だった。けれどもお母さまは、お弁当にもほんのちょっとお箸をつけただけで、やがてあたりが薄暗くなってきたころ、
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叔父さまは、この部落でたった一軒だという宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、やがてとどけられたお弁当を、お座敷にひろげて御持参のウイスキイをお飲みになり、この山荘の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など語って、大陽気であったが、お母さまは、お弁当にもほんのちょっとお箸をおつけになっただけで、やがて、あたりが薄暗くなって来た頃、
「すこし、このまま寝かして」
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「すこし、このまま寝かして」
と小さな声で言った。
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と小さい声でおっしゃった。
私が荷物の中からふとんを出して寝かせてあげ、なんだかひどく気になってきたので、荷物から体温計を探し出して熱を計ってみたら、三十九度あった。
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私がお荷物の中からお蒲団を出して、寝かせてあげ、何だかひどく気がかりになって来たので、お荷物から体温計を捜し出して、お熱を計ってみたら、三十九度あった。
叔父さまも驚いた様子で、とにかく下の村まで、お医者を探しに出かけた。
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叔父さまもおどろいたご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。
「お母さま!」
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「お母さま!」
と呼びかけても、ただ、うとうとしているだけだった。
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とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。
私はお母さまの小さな手を握りしめて、すすり泣いた。
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私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。
お母さまが、かわいそうで、かわいそうで、いいえ、私たち二人がかわいそうで、かわいそうで、いくら泣いても、とまらなかった。
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お母さまが、お可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらなかった。
泣きながら、本当にこのままお母さまと一緒に死にたいと思った。
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泣きながら、ほんとうにこのままお母さまと一緒に死にたいと思った。
もう私たちは、何もいらない。
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もう私たちは、何も要らない。
私たちの人生は、西片町の家を出たときに、もう終わったのだと思った。
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私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終ったのだと思った。
二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れてきた。
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二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて来られた。
村の先生は、もうだいぶお年寄りのようで、上等な絹の袴をつけ、白い足袋をはいていた。
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村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして仙台平の袴を着け、白足袋をはいておられた。
診察が終わって、
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ご診察が終って、
「肺炎になるかもしれませんでございます。けれども、肺炎になりましても、ご心配はございません」
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「肺炎になるかも知れませんでございます。けれども、肺炎になりましても、御心配はございません」
と、なんだか頼りないことを言って、注射をしてくれて帰っていった。
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と、何だかたより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。
翌日になっても、お母さまの熱は下がらなかった。
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翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった。
和田の叔父さまは、私に二千円を渡して、もし万一、入院などしなければならなくなったら、東京へ電報を打つように、と言い残して、ひとまずその日に東京へ帰った。
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和田の叔父さまは、私に二千円お手渡しになって、もし万一、入院などしなければならぬようになったら、東京へ電報を打つように、と言い残して、ひとまずその日に帰京なされた。
私は荷物の中から最低限必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作ってお母さまにすすめた。
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私はお荷物の中から最小限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作ってお母さまにすすめた。
お母さまは、横になったまま三さじほど食べて、それから首を振った。
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お母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになって、それから、首を振った。
お昼すこし前に、下の村の先生がまた来てくれた。
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お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。
こんどは袴はつけていなかったが、白い足袋は、やはりはいていた。
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こんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。
「入院したほうが、……」
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「入院したほうが、……」
と私が言ったら、
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と私が申し上げたら、
「いや、その必要はございませんでしょう。きょうは一つ、強い注射をしてさしあげますから、熱も下がることでしょう」
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「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」
と、相変わらず頼りない返事で、そういういわゆる強い注射をして帰っていった。
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と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、所謂その強い注射をしてお帰りになられた。
けれども、その強い注射がよく効いたのか、その日の昼過ぎに、お母さまの顔が真っ赤になって、汗がひどく出て、寝間着を着替えるとき、お母さまは笑って、
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けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまのお顔が真赤になって、そうしてお汗がひどく出て、お寝巻を着かえる時、お母さまは笑って、
「名医かもしれないわ」
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「名医かも知れないわ」
と言った。
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とおっしゃった。
熱は三十七度台に下がっていた。
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熱は七度にさがっていた。
私はうれしくて、この村にたった一軒の宿屋に走っていき、そこのおかみさんに頼んで、卵を十個ほど分けてもらい、さっそく半熟にしてお母さまに差し上げた。
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私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこのおかみさんに頼んで、鶏卵を十ばかりわけてもらい、さっそく半熟にしてお母さまに差し上げた。
お母さまは半熟卵を三つと、おかゆを茶碗に半分ほど食べた。
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お母さまは半熟を三つと、それからおかゆをお茶碗に半分ほどいただいた。
あくる日、村の名医が、また白い足袋をはいてやって来て、私が昨日の強い注射のお礼を言ったら、効くのは当然というような顔で深くうなずき、ていねいに診察して、私のほうに向き直り、
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あくる日、村の名医が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注射の御礼を申し上げたら、効くのは当然、というようなお顔で深くうなずき、ていねいにご診察なさって、そうして私のほうに向き直り、
「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは、何をお召し上がりになっても、何をなさってもよろしゅうございます」
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「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは、何をおあがりになっても、何をなさってもよろしゅうございます」
と、やはり変な言い方をするので、私は吹き出したいのをこらえるのに苦労した。
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と、やはり、へんな言いかたをなさるので、私は噴き出したいのを怺えるのに骨が折れた。
先生を玄関まで見送って、座敷に戻ってみると、お母さまは、床の上に座っていて、
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先生を玄関までお送りして、お座敷に引返して来て見ると、お母さまは、お床の上にお坐りになっていらして、
「本当に名医だわ。私は、もう、病気じゃない」
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「本当に名医だわ。私は、もう、病気じゃない」
と、とても楽しそうな顔をして、うっとりとひとりごとのように言った。
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と、とても楽しそうなお顔をして、うっとりとひとりごとのようにおっしゃった。
「お母さま、障子をあけましょうか。雪が降っているのよ」
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「お母さま、障子をあけましょうか。雪が降っているのよ」
花びらのような大きなぼたん雪が、ふわりふわりと降りはじめていたのだ。
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花びらのような大きい牡丹雪が、ふわりふわり降りはじめていたのだ。
私は障子をあけ、お母さまと並んで座り、ガラス戸ごしに伊豆の雪をながめた。
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私は、障子をあけ、お母さまと並んで坐り、硝子戸越しに伊豆の雪を眺めた。
「もう病気じゃない」
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「もう病気じゃない」
と、お母さまはまたひとりごとのように言って、
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と、お母さまは、またひとりごとのようにおっしゃって、
「こうして座っていると、以前のことが、みんな夢だったような気がする。私は本当は、引っ越し間際になって、伊豆へ来るのが、どうしても、なんとしても、いやになってしまったの。西片町のあの家に、一日でも半日でも長くいたかったの。汽車に乗ったときには、半分死んでいるような気持ちで、ここに着いたときも、はじめちょっと楽しいような気分がしたけれど、薄暗くなったら、もう東京がこいしくて、胸がこげるようで、気が遠くなってしまったの。ふつうの病気じゃないんです。神さまが私をいちど殺して、それから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせてくれたのだわ」
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「こうして坐っていると、以前の事が、皆ゆめだったような気がする。私は本当は、引越し間際になって、伊豆へ来るのが、どうしても、なんとしても、いやになってしまったの。西片町のあのお家に、一日でも半日でも永くいたかったの。汽車に乗った時には、半分死んでいるような気持で、ここに着いた時も、はじめちょっと楽しいような気分がしたけど、薄暗くなったら、もう東京がこいしくて、胸がこげるようで、気が遠くなってしまったの。普通の病気じゃないんです。神さまが私をいちどお殺しになって、それから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせて下さったのだわ」
それから今日まで、私たち二人きりの山荘生活が、まあ、どうやら何ごともなく、穏やかに続いてきたのだ。
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それから、きょうまで、私たち二人きりの山荘生活が、まあ、どうやら事も無く、安穏につづいて来たのだ。
村の人たちも私たちに親切にしてくれた。
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部落の人たちも私たちに親切にしてくれた。
ここへ引っ越してきたのは、去年の十二月、それから、一月、二月、三月、四月の今日まで、私たちは食事の支度のほかは、たいてい縁側で編み物をしたり、中国間で本を読んだり、お茶を飲んだり、ほとんど世の中と離れてしまったような生活をしていたのだった。
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ここへ引越して来たのは、去年の十二月、それから、一月、二月、三月、四月のきょうまで、私たちはお食事のお支度の他は、たいていお縁側で編物したり、支那間で本を読んだり、お茶をいただいたり、ほとんど世の中と離れてしまったような生活をしていたのである。
二月には梅が咲き、この村全体が梅の花で埋まった。
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二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。
そうして三月になっても、風のない穏やかな日が多かったので、満開の梅は少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた。
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そうして三月になっても、風のないおだやかな日が多かったので、満開の梅は少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた。
朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、ためいきの出るほど美しかった。
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朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息の出るほど美しかった。
そうして縁側のガラス戸をあけると、いつでも花のにおいが部屋にすっと流れてきた。
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そうしてお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の匂いがお部屋にすっと流れて来た。
三月の終わりには、夕方になると、きっと風が出て、私が夕暮れの食堂で茶碗を並べていると、窓から梅の花びらが吹き込んできて、茶碗の中に入ってぬれた。
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三月の終りには、夕方になると、きっと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べていると、窓から梅の花びらが吹き込んで来て、お茶碗の中にはいって濡れた。
四月になって、私とお母さまが縁側で編み物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計画だった。
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四月になって、私とお母さまがお縁側で編物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計画であった。
お母さまも手伝いたいと言った。
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お母さまもお手伝いしたいとおっしゃる。
ああ、こうして書いてみると、いかにも私たちは、いつかお母さまが言ったように、いちど死んで、違う私たちになってよみがえったようでもあるが、しかし、イエスさまのような復活は、しょせん人間にはできないのではないだろうか。
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ああ、こうして書いてみると、いかにも私たちは、いつかお母さまのおっしゃったように、いちど死んで、違う私たちになってよみがえったようでもあるが、しかし、イエスさまのような復活は、所詮、人間には出来ないのではなかろうか。
お母さまは、あんなふうに言ったけれど、それでもやはり、スープを一口すするたびに、直治のことを思い、『あ』と声を上げるのだった。
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お母さまは、あんなふうにおっしゃったけれども、それでもやはり、スウプを一さじ吸っては、直治を思い、あ、とお叫びになる。
そうして私の過去の傷あとも、実はちっとも治ってはいないのだ。
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そうして私の過去の傷痕も、実は、ちっともなおっていはしないのである。
ああ、何もひとつも隠さず、はっきり書きたい。
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ああ、何も一つも包みかくさず、はっきり書きたい。
この山荘の穏やかさは、全部うそで、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思うときさえあるのだ。
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この山荘の安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思う時さえあるのだ。
これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄ってきているような気がしてならない。
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これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄って来ているような気がしてならない。
お母さまは、幸福を装いながらも、日に日に衰え、そうして私の胸にはマムシが宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太っていく。ああ、これがただ季節のせいだけであってくれたらよいのに、私にはこのごろ、こんな生活が、とてもたまらなくなることがあるのだ。
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お母さまは、幸福をお装いになりながらも、日に日に衰え、そうして私の胸には蝮が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。
蛇の卵を焼くなどというはしたないことをしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったに違いないのだ。
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蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。
そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、弱らせるばかりなのだ。
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そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。
恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
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恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
二
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二
蛇の卵のことがあってから十日ほどたち、不吉なことが続いて起こり、いよいよお母さまの悲しみを深くさせ、命を縮めることになった。
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蛇の卵の事があってから、十日ほど経ち、不吉な事がつづいて起り、いよいよお母さまの悲しみを深くさせ、そのお命を薄くさせた。
私が、火事を起こしかけたのだ。
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私が、火事を起しかけたのだ。
私が火事を起こす。
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私が火事を起す。
自分の人生にそんな恐ろしいことが起きようとは、小さいころから今まで、一度も夢にさえ思ったことがなかったのに。
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私の生涯にそんなおそろしい事があろうとは、幼い時から今まで、一度も夢にさえ考えた事が無かったのに。
火を粗末にすれば火事が起きる、というごく当たり前のことにも気づかないくらい、私はあの、いわゆる『おひめさま』
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お火を粗末にすれば火事が起る、というきわめて当然の事にも、気づかないほどの私はあの所謂「おひめさま」
だったのだろうか。
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だったのだろうか。
夜中にお手洗いに起きて、玄関のついたてのそばまで行くと、お風呂場のほうが明るい。
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夜中にお手洗いに起きて、お玄関の衝立の傍まで行くと、お風呂場のほうが明るい。
何気なくのぞいてみると、お風呂場のガラス戸が真っ赤で、パチパチという音が聞こえる。
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何気なく覗いてみると、お風呂場の硝子戸が真赤で、パチパチという音が聞える。
小走りに走っていってお風呂場の小さな戸をあけ、はだしで外に出てみたら、お風呂のかまどのそばに積み上げてあった薪の山が、すごい勢いで燃えている。
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小走りに走って行ってお風呂場のくぐり戸をあけ、はだしで外に出てみたら、お風呂のかまどの傍に積み上げてあった薪の山が、すごい火勢で燃えている。
庭続きの下の農家に飛んでいき、力いっぱい戸をたたいて、
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庭つづきの下の農家に飛んで行き、力一ぱいに戸を叩いて、
「中井さん! 起きて下さい、火事です!」
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「中井さん! 起きて下さい、火事です!」
と叫んだ。
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と叫んだ。
中井さんは、もう寝ていたらしかったが、
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中井さんは、もう、寝ていらっしゃったらしかったが、
「はい、すぐ行きます」
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「はい、直ぐ行きます」
と返事をして、私が、お願いします、早くお願いします、と言っているうちに、浴衣の寝間着のまま家から飛び出してきた。
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と返事して、私が、おねがいします、早くおねがいします、と言っているうちに、浴衣の寝巻のままでお家から飛び出て来られた。
二人で火のそばに駆け戻り、バケツで池の水をくんでかけていると、座敷の廊下のほうから、お母さまの、ああっ、という叫びが聞こえた。
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二人で火の傍に駈け戻り、バケツでお池の水を汲んでかけていると、お座敷の廊下のほうから、お母さまの、ああっ、という叫びが聞えた。
私はバケツを投げ捨て、庭から廊下に上がって、
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私はバケツを投げ捨て、お庭から廊下に上って、
「お母さま、心配しないで、大丈夫、休んでいらして」
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「お母さま、心配しないで、大丈夫、休んでいらして」
と、倒れかかるお母さまを抱きとめ、寝床に連れていって寝かせ、また火のところに飛んでかえって、こんどはお風呂の水をくんでは中井さんに手渡した。中井さんはそれを薪の山にかけたが、火の勢いは強く、とてもそんなことでは消えそうもなかった。
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と、倒れかかるお母さまを抱きとめ、お寝床に連れて行って寝かせ、また火のところに飛んでかえって、こんどはお風呂の水を汲んでは中井さんに手渡し、中井さんはそれを薪の山にかけたが火勢は強く、とてもそんな事では消えそうもなかった。
「火事だ。火事だ。お別荘が火事だ」
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「火事だ。火事だ。お別荘が火事だ」
という声が下のほうから聞こえて、たちまち四、五人の村の人たちが、垣根をこわして飛び込んできた。
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という声が下のほうから聞えて、たちまち四五人の村の人たちが、垣根をこわして、飛び込んでいらした。
そうして、垣根の下の用水の水を、リレー式にバケツで運んで、二、三分のあいだに消し止めてくれた。
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そうして、垣根の下の、用水の水を、リレー式にバケツで運んで、二、三分のあいだに消しとめて下さった。
もう少しで、お風呂場の屋根に燃え移ろうとするところだった。
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もう少しで、お風呂場の屋根に燃え移ろうとするところであった。
よかった、と思ったとたんに、私はこの火事の原因に気づいてぎょっとした。
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よかった、と思ったとたんに、私はこの火事の原因に気づいてぎょっとした。
本当に、私はそのときはじめて、この火事騒ぎは、私が夕方、お風呂のかまどの燃え残りの薪を、かまどから引き出して消したつもりで、薪の山のそばに置いたことから起こったのだ、ということに気づいたのだ。
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本当に、私はその時はじめて、この火事騒ぎは、私が夕方、お風呂のかまどの燃え残りの薪を、かまどから引き出して消したつもりで、薪の山の傍に置いた事から起ったのだ、という事に気づいたのだ。
そう気づいて、泣き出したくなって立ちつくしていたら、前の家の西山さんのお嫁さんが垣根の外で、『お風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ』と大きな声で話すのが聞こえた。
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そう気づいて、泣き出したくなって立ちつくしていたら、前のお家の西山さんのお嫁さんが垣根の外で、お風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ、と声高に話すのが聞えた。
村長の藤田さん、二宮巡査、警防団長の大内さんなどがやってきて、藤田さんはいつものやさしい笑顔で、
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村長の藤田さん、二宮巡査、警防団長の大内さんなどが、やって来られて、藤田さんは、いつものお優しい笑顔で、
「おどろいたでしょう。どうしたのですか?」
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「おどろいたでしょう。どうしたのですか?」
とたずねた。
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とおたずねになる。
「私が、いけなかったのです。消したつもりの薪を、……」
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「私が、いけなかったのです。消したつもりの薪を、……」
と言いかけて、自分があまりにみじめで、涙があふれてきて、それきりうつむいて黙った。
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と言いかけて、自分があんまりみじめで、涙がわいて出て、それっきりうつむいて黙った。
警察に連れていかれて、罪人になるのかもしれない、とそのとき思った。
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警察に連れて行かれて、罪人になるのかも知れない、とそのとき思った。
はだしで、寝間着のままの、取り乱した自分の姿が急に恥ずかしくなり、つくづく、落ちぶれたと思った。
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はだしで、お寝巻のままの、取乱した自分の姿が急にはずかしくなり、つくづく、落ちぶれたと思った。
「わかりました。お母さんは?」
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「わかりました。お母さんは?」
と藤田さんは、いたわるような口調で、静かに聞いた。
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と藤田さんは、いたわるような口調で、しずかにおっしゃる。
「座敷で休ませております。ひどくおどろいて、……」
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「お座敷にやすませておりますの。ひどくおどろいていらして、……」
「しかし、まあ」
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「しかし、まあ」
と若い二宮巡査も、
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とお若い二宮巡査も、
「家に火がつかなくて、よかった」
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「家に火がつかなくて、よかった」
となぐさめるように言った。
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となぐさめるようにおっしゃる。
すると、そこへ下の農家の中井さんが、服装を整えて出直してきて、
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すると、そこへ下の農家の中井さんが、服装を改めて出直して来られて、
「なにね、薪がちょっと燃えただけなんです。ボヤとまでも行きません」
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「なにね、薪がちょっと燃えただけなんです。ボヤ、とまでも行きません」
と息をはずませて言い、私の愚かな過ちをかばってくれた。
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と息をはずませて言い、私のおろかな過失をかばって下さる。
「そうですか。よくわかりました」
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「そうですか。よくわかりました」
と村長の藤田さんは二度も三度もうなずいて、それから二宮巡査と何か小声で相談していたが、
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と村長の藤田さんは二度も三度もうなずいて、それから二宮巡査と何か小声で相談をなさっていらしたが、
「では、帰りますから、どうぞ、お母さんによろしく」
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「では、帰りますから、どうぞ、お母さんによろしく」
と言って、そのまま、警防団長の大内さんやほかの人たちと一緒に帰っていった。
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とおっしゃって、そのまま、警防団長の大内さんやその他の方たちと一緒にお帰りになる。
二宮巡査だけ残って、私のすぐ前まで歩み寄ってきて、息だけのような低い声で、
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二宮巡査だけ、お残りになって、そうして私のすぐ前まで歩み寄って来られて、呼吸だけのような低い声で、
「それではね、今夜のことは、べつに、届けないことにしますから」
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「それではね、今夜の事は、べつに、とどけない事にしますから」
と言った。
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とおっしゃった。
二宮巡査が帰っていったら、下の農家の中井さんが、
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二宮巡査がお帰りになったら、下の農家の中井さんが、
「二宮さんは、どう言われました?」
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「二宮さんは、どう言われました?」
と、本当に心配そうな、緊張した声でたずねた。
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と、実に心配そうな、緊張のお声でたずねる。
「届けないって、おっしゃいました」
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「とどけないって、おっしゃいました」
と私が答えると、垣根のほうにまだ近所の人がいて、その私の返事を聞き取った様子で、そうか、よかった、よかった、と言いながら、ぞろぞろ引き上げていった。
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と私が答えると、垣根のほうにまだ近所のお方がいらして、その私の返事を聞きとった様子で、そうか、よかった、よかった、と言いながら、ぞろぞろ引上げて行かれた。
中井さんも、おやすみなさいを言って帰っていき、あとには私ひとり、ぼんやり焼けた薪の山のそばに立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明け近い空の気配だった。
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中井さんも、おやすみなさい、を言ってお帰りになり、あとには私ひとり、ぼんやり焼けた薪の山の傍に立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明けちかい空の気配であった。
お風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに会うのが何だかこわくて、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずしていた。それから台所に行き、夜がすっかり明けるまで、台所の食器の必要もない整理などをしていた。
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風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに逢うのが何だかおっかなくって、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずして、それからお勝手に行き、夜のまったく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしていた。
夜が明けて、座敷のほうにそっと足音をしのばせて行ってみると、お母さまはもうちゃんと着替えをすませていて、中国間のいすに、疲れ切ったように腰かけていた。
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夜が明けて、お座敷のほうに、そっと足音をしのばせて行って見ると、お母さまは、もうちゃんとお着換えをすましておられて、そうして支那間のお椅子に、疲れ切ったようにして腰かけていらした。
私を見て、にっこり笑ったが、その顔は、びっくりするほど青ざめていた。
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私を見て、にっこりお笑いになったが、そのお顔は、びっくりするほど蒼かった。
私は笑わず、黙って、お母さまのいすのうしろに立った。
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私は笑わず、黙って、お母さまのお椅子のうしろに立った。
しばらくしてお母さまが、
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しばらくしてお母さまが、
「なんでもないことだったのね。燃やすための薪だもの」
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「なんでもない事だったのね。燃やすための薪だもの」
と言った。
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とおっしゃった。
私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。
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私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。
『時にかなって語る言葉は、銀の彫り物に金のリンゴをはめたようなものだ』という聖書の言葉を思い出し、こんなやさしいお母さまを持っている自分の幸せを、つくづく神さまに感謝した。
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機にかないて語る言は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し、という聖書の箴言を思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さまに感謝した。
ゆうべのことは、ゆうべのこと。
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ゆうべの事は、ゆうべの事。
もうくよくよすまい、と思って、私は中国間のガラス戸ごしに、朝の伊豆の海をながめ、いつまでもお母さまのうしろに立っていた。おしまいには、お母さまの静かな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。
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もうくよくよすまい、と思って、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を眺め、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。
朝の食事を軽くすませてから、私は焼けた薪の山の片づけに取りかかっていると、この村でたった一軒の宿屋のおかみさんであるお咲さんが、
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朝のお食事を軽くすましてから、私は、焼けた薪の山の整理にとりかかっていると、この村でたった一軒の宿屋のおかみさんであるお咲さんが、
「どうしたのよ? どうしたのよ? いま、私、はじめて聞いて、まあ、ゆうべは、いったい、どうしたのよ?」
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「どうしたのよ? どうしたのよ? いま、私、はじめて聞いて、まあ、ゆうべは、いったい、どうしたのよ?」
と言いながら庭の枝折戸から小走りにやってきて、その目には涙が光っていた。
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と言いながら庭の枝折戸から小走りに走ってやって来られて、そうしてその眼には、涙が光っていた。
「すみません」
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「すみません」
と私は小声でわびた。
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と私は小声でわびた。
「すみませんも何も。それよりも、お嬢さん、警察のほうは?」
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「すみませんも何も。それよりも、お嬢さん、警察のほうは?」
「いいんですって」
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「いいんですって」
「まあよかった」
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「まあよかった」
と、心から嬉しそうな顔をしてくれた。
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と、しんから嬉しそうな顔をして下さった。
私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形でお礼とおわびをしたらいいか、相談した。
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私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形で、お礼とお詫びをしたらいいか、相談した。
お咲さんは、やはりお金がいいでしょう、と言い、それを持ってわびて回るべき家々を教えてくれた。
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お咲さんは、やはりお金がいいでしょう、と言い、それを持ってお詫びまわりをすべき家々を教えて下さった。
「でも、お嬢さんがひとりで回るのがいやだったら、私も一緒についていってあげますよ」
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「でも、お嬢さんがおひとりで廻るのがおいやだったら、私も一緒について行ってあげますよ」
「ひとりで行ったほうが、いいのでしょう?」
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「ひとりで行ったほうが、いいのでしょう?」
「ひとりで行ける? そりゃ、ひとりで行ったほうがいいの」
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「ひとりで行ける? そりゃ、ひとりで行ったほうがいいの」
「ひとりで行くわ」
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「ひとりで行くわ」
それからお咲さんは、焼け跡の片づけを少し手伝ってくれた。
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それからお咲さんは、焼跡の整理を少し手伝って下さった。
片づけがすんでから、私はお母さまからお金をもらい、百円紙幣を一枚ずつ和紙に包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた。
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整理がすんでから、私はお母さまからお金をいただき、百円紙幣を一枚ずつ美濃紙に包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた。
まず一番に役場へ行った。
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まず一ばんに役場へ行った。
村長の藤田さんは留守だったので、受付の娘さんに紙包みを差し出し、
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村長の藤田さんはお留守だったので、受附の娘さんに紙包を差し出し、
「昨夜は、申し訳ないことをいたしました。これから気をつけますから、どうぞお許し下さいませ。村長さんに、よろしく」
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「昨夜は、申しわけない事を致しました。これから、気をつけますから、どうぞおゆるし下さいまし。村長さんに、よろしく」
とわびを言った。
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とお詫びを申し上げた。
それから、警防団長の大内さんの家へ行き、大内さんが玄関に出てきて、私を見て黙って悲しそうにほほえんでいた。私は、なぜだか急に泣きたくなり、
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それから、警防団長の大内さんのお家へ行き、大内さんがお玄関に出て来られて、私を見て黙って悲しそうに微笑んでいらして、私は、どうしてだか、急に泣きたくなり、
「ゆうべは、ごめんなさい」
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「ゆうべは、ごめんなさい」
と言うのがやっとで、急いでいとまごいをして、道々、涙があふれてきて顔がだめになったので、いったん家へ帰って、洗面所で顔を洗い、お化粧をし直して、また出かけようと玄関で靴をはいていると、お母さまが出てきて、
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と言うのが、やっとで、いそいでおいとまして、道々、涙があふれて来て、顔がだめになったので、いったんお家へ帰って、洗面所で顔を洗い、お化粧をし直して、また出かけようとして玄関で靴をはいていると、お母さまが、出ていらして、
「まだ、どこかへ行くの?」
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「まだ、どこかへ行くの?」
と言った。
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とおっしゃる。
「ええ、これからよ」
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「ええ、これからよ」
私は顔を上げないで答えた。
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私は顔を挙げないで答えた。
「ご苦労さまね」
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「ご苦労さまね」
しんみりと言った。
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しんみりおっしゃった。
お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部を回ることができた。
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お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部をまわる事が出来た。
区長さんの家に行ったら、区長さんは留守で、息子さんのお嫁さんが出てきたが、私を見るなりかえって向こうで涙ぐんでしまい、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかった、よかった、と言ってくれるし、みんなやさしい人たちばかりで、それから近所の家を回っても、やはりみんなから同情され、なぐさめられた。
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区長さんのお家に行ったら、区長さんはお留守で、息子さんのお嫁さんが出ていらしたが、私を見るなりかえって向うで涙ぐんでおしまいになり、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかった、よかった、とおっしゃってくれるし、みんなお優しいお方たちばかりで、それからご近所のお家を廻って、やはり皆さまから、同情され、なぐさめられた。
ただ、前の家の西山さんのお嫁さん、といってももう四十くらいのおばさんだが、その人にだけは、びしびししかられた。
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ただ、前のお家の西山さんのお嫁さん、といっても、もう四十くらいのおばさんだが、そのひとにだけは、びしびし叱られた。
「これからも気をつけて下さいよ。宮様だか何様だか知らないけれど、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮らし方を、はらはらしながら見ていたんです。子どもが二人で暮らしているみたいなんだから、いままで火事を起こさなかったのが不思議なくらいのものだ。本当にこれからは、気をつけて下さいよ。ゆうべだって、あんた、あれで風が強かったら、この村全部が燃えたのですよ」
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「これからも気をつけて下さいよ。宮様だか何さまだか知らないけれども、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮し方を、はらはらしながら見ていたんです。子供が二人で暮しているみたいなんだから、いままで火事を起さなかったのが不思議なくらいのものだ。本当にこれからは、気をつけて下さいよ。ゆうべだって、あんた、あれで風が強かったら、この村全部が燃えたのですよ」
この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんが村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、『ボヤとまでも行きません』と言ってかばってくれたのに、垣根の外で『お風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ』と大きい声で言っていた人である。
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この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんなどは村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、ボヤとまでも行きません、と言ってかばって下さったのに、垣根の外で、風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ、と大きい声で言っていらしたひとである。
けれども、私は西山さんのお嫁さんのお小言にも、本当のことだと感じた。
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けれども、私は西山さんのお嫁さんのおこごとにも、真実を感じた。
本当にそのとおりだと思った。
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本当にそのとおりだと思った。
少しも、西山さんのお嫁さんを恨むことはない。
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少しも、西山さんのお嫁さんを恨む事は無い。
お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談を言って私をなぐさめてくれたが、しかし、あのとき風が強かったら、西山さんのお嫁さんの言うとおり、この村全体が焼けたのかもしれない。
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お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談をおっしゃって私をなぐさめて下さったが、しかし、あの時に風が強かったら、西山さんのお嫁さんのおっしゃるとおり、この村全体が焼けたのかも知れない。
そうなったら私は、死んでわびしても間に合わない。
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そうなったら私は、死んでおわびしたっておっつかない。
私が死んだら、お母さまも生きてはいないだろうし、また亡くなったお父上の名前をけがしてしまうことにもなる。
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私が死んだら、お母さまも生きては、いらっしゃらないだろうし、また亡くなったお父上のお名前をけがしてしまう事にもなる。
いまはもう、宮様も華族もあったものではないけれど、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って美しくほろびたい。
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いまはもう、宮様も華族もあったものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って華麗にほろびたい。
火事を出してそのおわびに死ぬなんて、そんなみじめな死に方では、死んでも死にきれないだろう。
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火事を出してそのお詫びに死ぬなんて、そんなみじめな死に方では、死んでも死に切れまい。
とにかく、もっと、しっかりしなければならない。
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とにかく、もっと、しっかりしなければならぬ。
私は翌日から、畑仕事に力を入れた。
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私は翌日から、畑仕事に精を出した。
下の農家の中井さんの娘さんが、時々手伝ってくれた。
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下の農家の中井さんの娘さんが、時々お手伝いして下さった。
火事を出すなどというみっともないことをしてからは、私の体の血が何だか少し赤黒くなったような気がした。それより前には、私の胸に意地悪なマムシが住んでいて、こんどは血の色まで少し変わったのだから、いよいよ野性の田舎娘になっていくような気分で、お母さまと縁側で編み物などをしていても、へんに窮屈で息苦しく、むしろ畑に出て土を掘り起こしたりしているほうが気楽なくらいだった。
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火事を出すなどという醜態を演じてからは、私のからだの血が何だか少し赤黒くなったような気がして、その前には、私の胸に意地悪の蝮が住み、こんどは血の色まで少し変ったのだから、いよいよ野性の田舎娘になって行くような気分で、お母さまとお縁側で編物などをしていても、へんに窮屈で息苦しく、かえって畑へ出て、土を掘り起したりしているほうが気楽なくらいであった。
筋肉労働、というのかしら。
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筋肉労働、というのかしら。
このような力仕事は、私にとって今がはじめてではない。
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このような力仕事は、私にとっていまがはじめてではない。
私は戦争のときに徴用されて、力仕事の綱引きまでさせられた。
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私は戦争の時に徴用されて、ヨイトマケまでさせられた。
いま畑をはくときに使っている地下足袋も、そのとき軍から配られたものである。
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いま畑にはいて出ている地下足袋も、その時、軍のほうから配給になったものである。
地下足袋というものを、そのとき、本当に生まれてはじめてはいてみたのだが、びっくりするほどはき心地がよく、それをはいて庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地面を歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど嬉しかった。
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地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。
戦争中の、楽しい記憶は、たったそれ一つきり。
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戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。
思えば、戦争なんて、つまらないものだった。
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思えば、戦争なんて、つまらないものだった。
「去年は、何もなかった。
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昨年は、何も無かった。
おととしは、何もなかった。
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一昨年は、何も無かった。
その前の年も、何もなかった」
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その前のとしも、何も無かった。
そんな面白い詩が、終戦直後のある新聞に載っていたが、本当に、いま思い出してみても、いろいろなことがあったような気がしながら、やはり、何もなかったのと同じような気もする。
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そんな面白い詩が、終戦直後の或る新聞に載っていたが、本当に、いま思い出してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。
私は、戦争の思い出は、話すのも聞くのもいやだ。
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私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。
人がたくさん死んだのに、それでもありきたりで退屈だ。
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人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。
けれども、私は、やはり自分勝手なのだろうか。
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けれども、私は、やはり自分勝手なのであろうか。
私が徴用されて地下足袋をはき、力仕事の綱引きをやらされたときのことだけは、そんなにありきたりだとも思えない。
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私が徴用されて地下足袋をはき、ヨイトマケをやらされた時の事だけは、そんなに陳腐だとも思えない。
ずいぶんいやな思いもしたが、しかし、私はあの力仕事のおかげで、すっかり体が丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困ったら、あの力仕事をやって生きていこうと思うことがあるくらいなのだ。
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ずいぶんいやな思いもしたが、しかし、私はあのヨイトマケのおかげで、すっかりからだが丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困ったら、ヨイトマケをやって生きて行こうと思う事があるくらいなのだ。
戦局がそろそろ絶望的になってきたころ、軍服みたいなものを着た男が西片町の家へやってきて、私に徴用の紙と、労働の日割りを書いた紙を渡した。
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戦局がそろそろ絶望になって来た頃、軍服みたいなものを着た男が、西片町のお家へやって来て、私に徴用の紙と、それから労働の日割を書いた紙を渡した。
日割りの紙を見ると、私はその翌日から一日おきに立川の奥の山へ通わなければならなくなっていたので、思わず私の目から涙があふれた。
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日割の紙を見ると、私はその翌日から一日置きに立川の奥の山へかよわなければならなくなっていたので、思わず私の眼から涙があふれた。
「代わりの人では、いけないのでしょうか」
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「代人では、いけないのでしょうか」
涙が止まらず、すすり泣きになってしまった。
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涙がとまらず、すすり泣きになってしまった。
「軍から、あなたに徴用が来たのだから、必ず、本人でなければいけない」
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「軍から、あなたに徴用が来たのだから、必ず、本人でなければいけない」
とその男は、強く答えた。
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とその男は、強く答えた。
私は行く決心をした。
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私は行く決心をした。
その翌日は雨で、私たちは立川の山のふもとに整列させられ、まず将校のお説教があった。
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その翌日は雨で、私たちは立川の山の麓に整列させられ、まず将校のお説教があった。
「戦争には、必ず勝つ」
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「戦争には、必ず勝つ」
と話しはじめて、
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と冒頭して、
「戦争には必ず勝つが、しかし、皆さんが軍の命令どおりに仕事をしなければ、作戦に支障が出て、沖縄のような結果になる。必ず、言われただけの仕事はやってほしい。それから、この山にも、スパイが入っているかもしれないから、お互いに注意すること。皆さんもこれからは、兵隊と同じに陣地の中に入って仕事をするのだから、陣地の様子は絶対にほかの人に話さないように、十分注意してほしい」
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「戦争には必ず勝つが、しかし、皆さんが軍の命令通りに仕事しなければ、作戦に支障を来し、沖縄のような結果になる。必ず、言われただけの仕事は、やってほしい。それから、この山にも、スパイが這入っているかも知れないから、お互いに注意すること。皆さんもこれからは、兵隊と同じに、陣地の中へ這入って仕事をするのであるから、陣地の様子は、絶対に、他言しないように、充分に注意してほしい」
と言った。
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と言った。
山には雨がけむり、男女合わせて五百人近い隊員が、雨にぬれながら立ってその話を聞いていた。
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山には雨が煙り、男女とりまぜて五百ちかい隊員が、雨に濡れながら立ってその話を拝聴しているのだ。
隊員の中には、国民学校の男子生徒や女子生徒も混じっていて、みな寒そうな泣きべその顔をしていた。
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隊員の中には、国民学校の男生徒女生徒もまじっていて、みな寒そうな泣きべその顔をしていた。
雨は私のレインコートをとおして上着にしみてきて、やがて肌着までぬらしたほどだった。
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雨は私のレインコートをとおして、上衣にしみて来て、やがて肌着までぬらしたほどであった。
その日は一日、もっこをかつぐ仕事をして、帰りの電車の中で涙が出てきて仕方がなかったが、その次のときは、力仕事の綱引きだった。
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その日は一日、モッコかつぎをして、帰りの電車の中で、涙が出て来て仕様が無かったが、その次の時には、ヨイトマケの綱引だった。
そうして、私にはその仕事が一番おもしろかった。
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そうして、私にはその仕事が一ばん面白かった。
二度、三度、山へ行くうちに、国民学校の男子生徒たちが、私の姿をやたらじろじろ見るようになった。
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二度、三度、山へ行くうちに、国民学校の男生徒たちが私の姿を、いやにじろじろ見るようになった。
ある日、私がもっこをかついでいると、男子生徒が二、三人、私とすれちがって、そのうちの一人が、
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或る日、私がモッコかつぎをしていると、男生徒が二三人、私とすれちがって、それから、そのうちの一人が、
「あいつが、スパイか」
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「あいつが、スパイか」
と小声で言ったのを聞き、私はびっくりしてしまった。
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と小声で言ったのを聞き、私はびっくりしてしまった。
「なぜ、あんなことを言うのかしら」
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「なぜ、あんな事を言うのかしら」
と私は、私と並んでもっこをかついで歩いている若い娘さんにたずねた。
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と私は、私と並んでモッコをかついで歩いている若い娘さんにたずねた。
「外国人みたいだから」
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「外人みたいだから」
若い娘さんは、まじめに答えた。
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若い娘さんは、まじめに答えた。
「あなたも、あたしをスパイだと思っていらっしゃる?」
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「あなたも、あたしをスパイだと思っていらっしゃる?」
「いいえ」
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「いいえ」
こんどは少し笑って答えた。
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こんどは少し笑って答えた。
「私、日本人ですわ」
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「私、日本人ですわ」
と言って、その自分の言葉が、われながらばかばかしい意味のないものに思われて、ひとりでくすくす笑った。
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と言って、その自分の言葉が、われながら馬鹿らしいナンセンスのように思われて、ひとりでくすくす笑った。
あるお天気のいい日に、私は朝から男の人たちと一緒に丸太運びをしていると、見張り当番の若い将校が顔をしかめて、私を指さし、
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或るお天気のいい日に、私は朝から男の人たちと一緒に丸太はこびをしていると、監視当番の若い将校が顔をしかめて、私を指差し、
「おい、君。君は、こっちへ来なさい」
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「おい、君。君は、こっちへ来給え」
と言って、さっさと松林のほうへ歩いていった。私が不安と恐怖で胸をどきどきさせながら、そのあとについていくと、林の奥に製材所から来たばかりの板が積んであって、将校はその前まで行って立ち止まり、くるりと私のほうに向き直って、
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と言って、さっさと松林のほうへ歩いて行き、私が不安と恐怖で胸をどきどきさせながら、その後について行くと、林の奥に製材所から来たばかりの板が積んであって、将校はその前まで行って立ちどまり、くるりと私のほうに向き直って、
「毎日、つらいでしょう。きょうは一つ、この材木の見張り番をしていて下さい」
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「毎日、つらいでしょう。きょうは一つ、この材木の見張番をしていて下さい」
と白い歯を出して笑った。
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と白い歯を出して笑った。
「ここに、立っているのですか?」
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「ここに、立っているのですか?」
「ここは、涼しくて静かだから、この板の上でお昼寝でもしていて下さい。もし、退屈だったら、これは、お読みかもしれないけど」
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「ここは、涼しくて静かだから、この板の上でお昼寝でもしていて下さい。もし、退屈だったら、これは、お読みかも知れないけど」
と言って、上着のポケットから小さな文庫本を取り出し、照れたように板の上に放り、
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と言って、上衣のポケットから小さい文庫本を取り出し、てれたように、板の上にほうり、
「こんなものでも、読んでいて下さい」
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「こんなものでも、読んでいて下さい」
文庫本には、「トロイカ」
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文庫本には、「トロイカ」
と書かれていた。
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と記されていた。
私はその文庫本を取り上げ、
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私はその文庫本を取り上げ、
「ありがとうございます。うちにも、本の好きなのがいまして、いま、南方に行っていますけど」
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「ありがとうございます。うちにも、本のすきなのがいまして、いま、南方に行っていますけど」
と言ったら、聞き違いしたらしく、
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と申し上げたら、聞き違いしたらしく、
「ああ、そう。あなたのご主人なのですね。南方じゃあ、たいへんだ」
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「ああ、そう。あなたの御主人なのですね。南方じゃあ、たいへんだ」
と首を振ってしんみり言い、
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と首を振ってしんみり言い、
「とにかく、きょうはここで見張り番ということにして、あなたのお弁当は、あとで自分が持ってきてあげますから、ゆっくり、休んでいらっしゃい」
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「とにかく、きょうはここで見張番という事にして、あなたのお弁当は、あとで自分が持って来てあげますから、ゆっくり、休んでいらっしゃい」
と言い捨て、急ぎ足で帰っていった。
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と言い捨て、急ぎ足で帰って行かれた。
私は、材木に腰かけて、文庫本を読み、半分ほど読んだころ、あの将校が、こつこつと靴の音をさせてやってきて、
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私は、材木に腰かけて、文庫本を読み、半分ほど読んだ頃、あの将校が、こつこつと靴の音をさせてやって来て、
「お弁当を持ってきました。おひとりで、つまらないでしょう」
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「お弁当を持って来ました。おひとりで、つまらないでしょう」
と言って、お弁当を草原の上に置いて、また大急ぎで引き返していった。
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と言って、お弁当を草原の上に置いて、また大急ぎで引返して行かれた。
私は、お弁当を食べ終えてから、こんどは材木の上にはい上がって横になって本を読み、全部読み終えてから、うとうととお昼寝を始めた。
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私は、お弁当をすましてから、こんどは、材木の上に這い上って、横になって本を読み、全部読み終えてから、うとうととお昼寝をはじめた。
目がさめたのは、午後の三時過ぎだった。
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眼がさめたのは、午後の三時すぎだった。
私は、ふとあの若い将校を、前にどこかで見かけたことがあるような気がしてきて、考えてみたが、思い出せなかった。
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私は、ふとあの若い将校を、前にどこかで見かけた事があるような気がして来て、考えてみたが、思い出せなかった。
材木から降りて、髪をなでつけていたら、また、こつこつと靴の音が聞こえてきて、
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材木から降りて、髪を撫でつけていたら、また、こつこつと靴の音が聞えて来て、
「やあ、きょうはご苦労さまでした。もう、お帰りになってよろしい」
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「やあ、きょうは御苦労さまでした。もう、お帰りになってよろしい」
私は将校のほうに走り寄って、文庫本を差し出し、お礼を言おうと思ったが、言葉が出ず、黙って将校の顔を見上げ、二人の目が合ったとき、私の目からぽろぽろ涙が出た。
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私は将校のほうに走り寄って、そうして文庫本を差し出し、お礼を言おうと思ったが、言葉が出ず、黙って将校の顔を見上げ、二人の眼が合った時、私の眼からぽろぽろ涙が出た。
すると、その将校の目にも、きらりと涙が光った。
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すると、その将校の眼にも、きらりと涙が光った。
そのまま黙ってお別れしたが、その若い将校は、それっきり一度も、私たちの働いているところに顔を見せず、私は、あの日にたった一日、楽をすることができただけで、それからは、やはり一日おきに立川の山で、苦しい作業をした。
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そのまま黙っておわかれしたが、その若い将校は、それっきりいちども、私たちの働いているところに顔を見せず、私は、あの日に、たった一日遊ぶ事が出来ただけで、それからは、やはり一日置きに立川の山で、苦しい作業をした。
お母さまは、私の体をしきりに心配してくれたが、私はかえって丈夫になり、いまではあの力仕事にもひそかに自信を持っているし、また、畑仕事にも別に苦痛を感じない女になった。
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お母さまは、私のからだを、しきりに心配して下さったが、私はかえって丈夫になり、いまではヨイトマケ商売にもひそかに自信を持っているし、また、畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女になった。
戦争のことは、話すのも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の『貴重な体験談』
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戦争の事は、語るのも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の「貴重なる経験談」
などを語ってしまったが、しかし、私の戦争の思い出の中で、少しでも語りたいと思うのは、ざっとこれくらいのことで、あとはもう、いつかのあの詩のように、
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など語ってしまったが、しかし、私の戦争の追憶の中で、少しでも語りたいと思うのは、ざっとこれくらいの事で、あとはもう、いつかのあの詩のように、
「去年は、何もなかった。
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昨年は、何も無かった。
おととしは、何もなかった。
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一昨年は、何も無かった。
その前の年も、何もなかった」
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その前のとしも、何も無かった。
とでも言いたいくらいで、ただ、ばかばかしく、わが身に残っているものは、この地下足袋いっそく、というはかなさである。
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とでも言いたいくらいで、ただ、ばかばかしく、わが身に残っているものは、この地下足袋いっそく、というはかなさである。
地下足袋の話から、つい寄り道をしてしまったけれど、私は、この、戦争のただ一つの記念品ともいうべき地下足袋をはいて、毎日のように畑に出て、胸の奥のひそかな不安やいらだちを紛らわしているのだけれど、お母さまは、このごろ、目立って日に日に弱っていくように見える。
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地下足袋の事から、ついむだ話をはじめて脱線しちゃったけれど、私は、この、戦争の唯一の記念品とでもいうべき地下足袋をはいて、毎日のように畑に出て、胸の奥のひそかな不安や焦躁をまぎらしているのだけれども、お母さまは、この頃、目立って日に日にお弱りになっていらっしゃるように見える。
蛇の卵。
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蛇の卵。
火事。
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火事。
あのころから、どうもお母さまは、めっきり病人らしくなった。
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あの頃から、どうもお母さまは、めっきり御病人くさくおなりになった。
そうして私のほうは、その反対に、だんだん粗野で下品な女になっていくような気もする。
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そうして私のほうでは、その反対に、だんだん粗野な下品な女になって行くような気もする。
なんだかどうも私が、お母さまからどんどん元気を吸い取って太っていくような気がしてならない。
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なんだかどうも私が、お母さまからどんどん生気を吸いとって太って行くような心地がしてならない。
火事のときだって、お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談を言って、それきり火事のことについては一言も言わず、かえって私をいたわるようにしていたが、しかし、内心お母さまの受けたショックは、私の十倍も強かったに違いない。
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火事の時だって、お母さまは、燃やすための薪だもの、と御冗談を言って、それっきり火事のことに就いては一言もおっしゃらず、かえって私をいたわるようにしていらしたが、しかし、内心お母さまの受けられたショックは、私の十倍も強かったのに違いない。
あの火事があってから、お母さまは、夜中に時々うめくことがあるし、また、風の強い夜などは、お手洗いに行くふりをして、深夜何度もふとんから抜け出して家中を見回るのである。
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あの火事があってから、お母さまは、夜中に時たま呻かれる事があるし、また、風の強い夜などは、お手洗いにおいでになる振りをして、深夜いくどもお床から脱けて家中をお見廻りになるのである。
そうして顔色はいつもさえず、歩くのさえやっとのように見える日もある。
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そうしてお顔色はいつも冴えず、お歩きになるのさえやっとのように見える日もある。
畑も手伝いたいと前は言っていたが、いちど私が、おやめなさいと言ったのに、井戸から大きい手おけで畑に水を五、六杯運び、翌日、息ができないくらいに肩がこる、と言って一日、寝たきりで、そんなことがあってからは、さすがに畑仕事はあきらめた様子で、時々畑へ出てきても、私の働きぶりを、ただ、じっと見ているだけである。
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畑も手伝いたいと、前はおっしゃっていたが、いちど私が、およしなさいと申し上げたのに、井戸から大きい手桶で畑に水を五、六ぱいお運びになり、翌日、いきの出来ないくらいに肩がこる、とおっしゃって一日、寝たきりで、そんな事があってからは流石に畑仕事はあきらめた御様子で、時たま畑へ出て来られても、私の働き振りを、ただ、じっと見ていらっしゃるだけである。
「夏の花が好きな人は、夏に死ぬっていうけれど、本当かしら」
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「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」
きょうもお母さまは、私の畑仕事をじっと見ていて、ふいとそんなことを言った。
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きょうもお母さまは、私の畑仕事をじっと見ていらして、ふいとそんな事をおっしゃった。
私は黙ってナスに水をやっていた。
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私は黙っておナスに水をやっていた。
ああ、そういえば、もう初夏だ。
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ああ、そういえば、もう初夏だ。
「私は、ねむの花が好きなんだけれど、ここのお庭には、一本もないのね」
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「私は、ねむの花が好きなんだけれども、ここのお庭には、一本も無いのね」
と、お母さまは、また、静かに言った。
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と、お母さまは、また、しずかにおっしゃる。
「キョウチクトウがたくさんあるじゃないの」
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「夾竹桃がたくさんあるじゃないの」
私は、わざと、そっけない口調で言った。
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私は、わざと、つっけんどんな口調で言った。
「あれは、きらいなの。夏の花は、たいてい好きだけど、あれは、はでで乱暴すぎて」
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「あれは、きらいなの。夏の花は、たいていすきだけど、あれは、おきゃんすぎて」
「私ならバラがいいな。だけど、あれは春から冬まで何度も咲くから、バラの好きな人は、春に死んで、夏に死んで、秋に死んで、冬に死んで、四度も死に直さなければいけないの?」
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「私なら薔薇がいいな。だけど、あれは四季咲きだから、薔薇の好きなひとは、春に死んで、夏に死んで、秋に死んで、冬に死んで、四度も死に直さなければいけないの?」
二人、笑った。
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二人、笑った。
「すこし、休まない?」
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「すこし、休まない?」
とお母さまは、なお笑いながら、
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とお母さまは、なおお笑いになりながら、
「きょうは、ちょっとかず子さんと相談したいことがあるの」
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「きょうは、ちょっとかず子さんと相談したい事があるの」
「なあに? 死ぬお話なんかは、まっぴらよ」
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「なあに? 死ぬお話なんかは、まっぴらよ」
私はお母さまのあとについていって、藤棚の下のベンチに並んで腰をおろした。
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私はお母さまの後について行って、藤棚の下のベンチに並んで腰をおろした。
藤の花はもう終わって、やわらかな午後の日差しが、その葉をとおして私たちのひざの上に落ち、私たちのひざを緑色に染めた。
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藤の花はもう終って、やわらかな午後の日ざしが、その葉をとおして私たちの膝の上に落ち、私たちの膝をみどりいろに染めた。
「前から聞いてほしいと思っていたことですけどね、お互いに気分のいいときに話そうと思って、きょうまで機会を待っていたの。どうせ、いい話ではないのよ。でも、きょうは何だか私もすらすら話せるような気がするものだから、まあ、あなたも、我慢して最後まで聞いて下さいね。実はね、直治は、生きているのです」
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「前から聞いていただきたいと思っていた事ですけどね、お互いに気分のいい時に話そうと思って、きょうまで機会を待っていたの。どうせ、いい話じゃあ無いのよ。でも、きょうは何だか私もすらすら話せるような気がするもんだから、まあ、あなたも、我慢しておしまいまで聞いて下さいね。実はね、直治は、生きているのです」
私は、体を固くした。
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私は、からだを固くした。
「五、六日前に、和田の叔父さまからおたよりがあってね、叔父さまの会社に以前つとめていた人で、最近南方から帰ってきて、叔父さまのところにあいさつにきて、そのとき、いろいろな話の末に、その人が偶然にも直治と同じ部隊で、そうして直治は無事で、もうすぐ帰ってくるだろうということがわかったの。でも、ね、一ついやなことがあるの。その人の話では、直治はかなりひどい阿片(アヘン)中毒になっているらしい、と……」
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「五、六日前に、和田の叔父さまからおたよりがあってね、叔父さまの会社に以前つとめていらしたお方で、さいきん南方から帰還して、叔父さまのところに挨拶にいらして、その時、よもやまの話の末に、そのお方が偶然にも直治と同じ部隊で、そうして直治は無事で、もうすぐ帰還するだろうという事がわかったの。でも、ね、一ついやな事があるの。そのお方の話では、直治はかなりひどい阿片中毒になっているらしい、と……」
「また!」
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「また!」
私はにがいものを食べたみたいに、口をゆがめた。
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私はにがいものを食べたみたいに、口をゆがめた。
直治は、高等学校のころに、ある小説家のまねをして、麻薬中毒にかかり、そのために、薬屋からおそろしい金額の借りを作って、お母さまは、その借りを薬屋に全部支払うのに二年もかかったのである。
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直治は、高等学校の頃に、或る小説家の真似をして、麻薬中毒にかかり、そのために、薬屋からおそろしい金額の借りを作って、お母さまは、その借りを薬屋に全部支払うのに二年もかかったのである。
「そう。また、はじめたらしいの。けれども、それが治らないうちは、帰ることも許されないだろうから、きっと治して帰ってくるだろうと、その人も言っていたそうです。叔父さまのお手紙では、治って帰ってきたとしても、そんな心がけの者では、すぐどこかへ勤めさせるというわけにはいかない、いまのこの混乱した東京で働いては、まともな人間でさえ少し気がおかしくなったような気分になる、中毒が治ったばかりの半病人なら、すぐおかしくなりかけて、何をしでかすかわかったものではない、それで、直治が帰ってきたら、すぐこの伊豆の山荘に引き取って、どこへも出さずに、しばらくここで静養させたほうがよい、それが一つ。それから、ねえ、かず子、叔父さまがねえ、もう一つ言いつけているのだよ。叔父さまの話では、もう私たちのお金が、何にもなくなってしまったんだって。貯金が自由に使えなくなったことや税金のことで、もう叔父さまも、これまでのように私たちにお金を送ってよこすことがめんどうになったのだそうです。それでね、直治が帰ってきて、お母さまと、直治と、かず子と三人で遊んで暮らしていては、叔父さまもその生活費を工面するのにたいへんな苦労をしなければならないから、いまのうちに、かず子のお嫁入り先を探すか、または、お屋敷勤めの家を探すか、どちらかにしなさい、という、まあ、言いつけなの」
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「そう。また、はじめたらしいの。けれども、それのなおらないうちは、帰還もゆるされないだろうから、きっとなおして来るだろうと、そのお方も言っていらしたそうです。叔父さまのお手紙では、なおして帰って来たとしても、そんな心掛けの者では、すぐどこかへ勤めさせるというわけにはいかぬ、いまのこの混乱の東京で働いては、まともの人間でさえ少し狂ったような気分になる、中毒のなおったばかりの半病人なら、すぐ発狂気味になって、何を仕出かすか、わかったものでない、それで、直治が帰って来たら、すぐこの伊豆の山荘に引取って、どこへも出さずに、当分ここで静養させたほうがよい、それが一つ。それから、ねえ、かず子、叔父さまがねえ、もう一つお言いつけになっているのだよ。叔父さまのお話では、もう私たちのお金が、なんにも無くなってしまったんだって。貯金の封鎖だの、財産税だので、もう叔父さまも、これまでのように私たちにお金を送ってよこす事がめんどうになったのだそうです。それでね、直治が帰って来て、お母さまと、直治と、かず子と三人あそんで暮していては、叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦労をしなければならぬから、いまのうちに、かず子のお嫁入りさきを捜すか、または、御奉公のお家を捜すか、どちらかになさい、という、まあ、お言いつけなの」
「お屋敷勤めって、女中のこと?」
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「御奉公って、女中の事?」
「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、駒場(こまば)の」
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「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、駒場の」
とある宮様の名前を挙げて、
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と或る宮様のお名前を挙げて、
「あの宮様なら、私たちとも血のつながりがあるし、姫宮さまの家庭教師をかねて、お屋敷にあがっても、かず子が、そんなにさびしく窮屈な思いをせずにすむだろう、とおっしゃっているのです」
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「あの宮様なら、私たちとも血縁つづきだし、姫宮の家庭教師をかねて、御奉公にあがっても、かず子が、そんなに淋しく窮屈な思いをせずにすむだろう、とおっしゃっているのです」
「他に、勤め口がないものかしら」
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「他に、つとめ口が無いものかしら」
「他の仕事は、かず子には、とても無理だろう、とおっしゃっていました」
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「他の職業は、かず子には、とても無理だろう、とおっしゃっていました」
「なぜ無理なの? ね、なぜ無理なの?」
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「なぜ無理なの? ね、なぜ無理なの?」
お母さまは、さびしそうにほほえんでいるだけで、何とも答えなかった。
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お母さまは、淋しそうに微笑んでいらっしゃるだけで、何ともお答えにならなかった。
「いやだわ! 私、そんな話」
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「いやだわ! 私、そんな話」
自分でも、あらぬことを口走った、と思った。
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自分でも、あらぬ事を口走った、と思った。
が、止まらなかった。
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が、とまらなかった。
「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を」
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「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を」
と言ったら、涙が出てきて、思わずわっと泣き出した。
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と言ったら、涙が出て来て、思わずわっと泣き出した。
顔を上げて、涙を手の甲で払いのけながら、お母さまに向かって、いけない、いけない、と思いながら、言葉が無意識のように、体とはまるで関係なく、次々と続いて出た。
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顔を挙げて、涙を手の甲で払いのけながら、お母さまに向って、いけない、いけない、と思いながら、言葉が無意識みたいに、肉体とまるで無関係に、つぎつぎと続いて出た。
「いつだか、言ったじゃないの。かず子がいるから、かず子がいてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、と言ったじゃないの。かず子がいないと、死んでしまうと言ったじゃないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのそばにいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、それだけを考えているのに、直治が帰ってくるとお聞きになったら、急に私を邪魔にして、宮様の女中に行けなんて、あんまりだわ、あんまりだわ」
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「いつだか、おっしゃったじゃないの。かず子がいるから、かず子がいてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、とおっしゃったじゃないの。かず子がいないと、死んでしまうとおっしゃったじゃないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのお傍にいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、そればっかり考えているのに、直治が帰って来るとお聞きになったら、急に私を邪魔にして、宮様の女中に行けなんて、あんまりだわ、あんまりだわ」
自分でも、ひどいことを口走ると思いながら、言葉が別の生き物のように、どうしても止まらないのだ。
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自分でも、ひどい事を口走ると思いながら、言葉が別の生き物のように、どうしてもとまらないのだ。
「貧乏になって、お金がなくなったら、私たちの着物を売ったらいいじゃないの。この家も、売ってしまったらいいじゃないの。私には、何だってできるわよ。この村の役場の女の事務員にだって何にだってなれるわよ。役場で使ってくれなかったら、あの力仕事にだってなれるわよ。貧乏なんて、なんでもない。お母さまさえ、私をかわいがってくれたら、私は一生お母さまのそばにいようとばかり考えていたのに、お母さまは、私よりも直治のほうがかわいいのね。出ていくわ。私は出ていく。どうせ私は、直治とは昔から性格が合わないのだから、三人一緒に暮らしていたら、お互いに不幸よ。私はこれまで長いことお母さまと二人きりで暮らしたのだから、もう思い残すことはない。これから直治がお母さまと二人だけで暮らして、そうして直治がたくさん親孝行をするといい。私はもう、いやになった。これまでの暮らしが、いやになった。出ていきます。きょうこれから、すぐに出ていきます。私には、行くところがあるの」
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「貧乏になって、お金が無くなったら、私たちの着物を売ったらいいじゃないの。このお家も、売ってしまったら、いいじゃないの。私には、何だって出来るわよ。この村の役場の女事務員にだって何にだってなれるわよ。役場で使って下さらなかったら、ヨイトマケにだってなれるわよ。貧乏なんて、なんでもない。お母さまさえ、私を可愛がって下さったら、私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えていたのに、お母さまは、私よりも直治のほうが可愛いのね。出て行くわ。私は出て行く。どうせ私は、直治とは昔から性格が合わないのだから、三人一緒に暮していたら、お互いに不幸よ。私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだから、もう思い残すことは無い。これから直治がお母さまとお二人で水いらずで暮して、そうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。私はもう、いやになった。これまでの生活が、いやになった。出て行きます。きょうこれから、すぐに出て行きます。私には、行くところがあるの」
私は立った。
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私は立った。
「かず子!」
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「かず子!」
お母さまはきびしく言い、そうして、これまで私に見せたことのなかったほど、威厳に満ちた顔つきで、すっと立ち上がり、私と向き合って、私よりも少し背が高いくらいに見えた。
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お母さまはきびしく言い、そうしてかつて私に見せた事の無かったほど、威厳に満ちたお顔つきで、すっとお立ちになり、私と向い合って、そうして私よりも少しお背が高いくらいに見えた。
私は、ごめんなさい、とすぐに言いたいと思ったが、それがどうしても口に出せないで、かえって別の言葉が出てしまった。
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私は、ごめんなさい、とすぐに言いたいと思ったが、それが口にどうしても出ないで、かえって別の言葉が出てしまった。
「だましたのよ。お母さまは、私をだましたのよ。直治が来るまで、私を利用していたのよ。私は、お母さまの女中さん。用がすんだから、こんどは宮様のところに行けって」
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「だましたのよ。お母さまは、私をおだましになったのよ。直治が来るまで、私を利用していらっしゃったのよ。私は、お母さまの女中さん。用がすんだから、こんどは宮様のところに行けって」
わっと声が出て、私は立ったまま、思いきり泣いた。
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わっと声が出て、私は立ったまま、思いきり泣いた。
「お前は、ばかだねえ」
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「お前は、馬鹿だねえ」
と低く言ったお母さまの声は、怒りに震えていた。
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と低くおっしゃったお母さまのお声は、怒りに震えていた。
私は顔を上げ、
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私は顔を挙げ、
「そうよ、ばかよ。ばかだから、だまされるのよ。ばかだから、邪魔にされるのよ。いないほうがいいのでしょう? 貧乏って、どんなこと? お金って、なんのこと? 私には、わからないわ。愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きてきたのです」
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「そうよ、馬鹿よ。馬鹿だから、だまされるのよ。馬鹿だから、邪魔にされるのよ。いないほうがいいのでしょう? 貧乏って、どんな事? お金って、なんの事? 私には、わからないわ。愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きて来たのです」
とまた、ばかな、あらぬことを口走った。
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とまた、ばかな、あらぬ事を口走った。
お母さまは、ふっと顔をそむけた。
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お母さまは、ふっとお顔をそむけた。
泣いているのだ。
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泣いておられるのだ。
私は、ごめんなさい、と言い、お母さまに抱きつきたいと思ったが、畑仕事で手がよごれているのが、かすかに気になり、へんによそよそしくなって、
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私は、ごめんなさい、と言い、お母さまに抱きつきたいと思ったが、畑仕事で手がよごれているのが、かすかに気になり、へんに白々しくなって、
「私さえ、いなかったらいいのでしょう? 出ていきます。私には、行くところがあるの」
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「私さえ、いなかったらいいのでしょう? 出て行きます。私には、行くところがあるの」
と言い捨て、そのまま小走りに走って、お風呂場に行き、泣きじゃくりながら、顔と手足を洗い、それから部屋へ行って、洋服に着替えているうちに、またわっと大きな声が出て泣き崩れ、思いのたけをもっともっと泣いてみたくなって二階の洋間に駆け上がり、ベッドに体を投げて、毛布を頭からかぶり、やせるほどひどく泣いて、そのうちに気が遠くなるみたいになって、だんだん、あるひとが恋しくて、恋しくて、顔を見て、声を聞きたくてたまらなくなり、両足の裏に熱いお灸をすえ、じっとこらえているような、特別な気持ちになっていった。
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と言い捨て、そのまま小走りに走って、お風呂場に行き、泣きじゃくりながら、顔と手足を洗い、それからお部屋へ行って、洋服に着換えているうちに、またわっと大きい声が出て泣き崩れ、思いのたけもっともっと泣いてみたくなって二階の洋間に駈け上り、ベッドにからだを投げて、毛布を頭からかぶり、痩せるほどひどく泣いて、そのうちに気が遠くなるみたいになって、だんだん、或るひとが恋いしくて、恋いしくて、お顔を見て、お声を聞きたくてたまらなくなり、両足の裏に熱いお灸を据え、じっとこらえているような、特殊な気持になって行った。
夕方近く、お母さまは、静かに二階の洋間に入ってきて、パチと電灯に明かりを入れて、それから、ベッドのほうに近寄ってきて、
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夕方ちかく、お母さまは、しずかに二階の洋間にはいっていらして、パチと電燈に灯をいれて、それから、ベッドのほうに近寄って来られ、
「かず子」
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「かず子」
と、とてもやさしく呼んだ。
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と、とてもお優しくお呼びになった。
「はい」
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「はい」
私は起きて、ベッドの上に座り、両手で髪をかきあげ、お母さまの顔を見て、ふふと笑った。
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私は起きて、ベッドの上に坐り、両手で髪を掻きあげ、お母さまのお顔を見て、ふふと笑った。
お母さまも、かすかに笑い、それから、窓の下のソファに深く体を沈め、
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お母さまも、幽かにお笑いになり、それから、お窓の下のソファに、深くからだを沈め、
「私は、生まれてはじめて、和田の叔父さまの言いつけに、そむいた。……お母さまはね、いま、叔父さまにお返事の手紙を書いたの。私の子どもたちのことは、私におまかせ下さい、と書いたの。かず子、着物を売りましょうよ。二人の着物をどんどん売って、思いきりぜいたくに使って、ぜいたくな暮らしをしましょうよ。私はもう、あなたに、畑仕事などさせたくない。高いお野菜を買ったっていいじゃないの。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です」
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「私は、生れてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた。……お母さまはね、いま、叔父さまに御返事のお手紙を書いたの。私の子供たちの事は、私におまかせ下さい、と書いたの。かず子、着物を売りましょうよ。二人の着物をどんどん売って、思い切りむだ使いして、ぜいたくな暮しをしましょうよ。私はもう、あなたに、畑仕事などさせたくない。高いお野菜を買ったって、いいじゃないの。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です」
実は私も、毎日の畑仕事が、少しつらくなりかけていたのだ。
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実は私も、毎日の畑仕事が、少しつらくなりかけていたのだ。
さっきあんなに、気が狂ったみたいに泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと悲しみがごっちゃになって、何もかも、うらめしく、いやになったからなのだ。
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さっきあんなに、狂ったみたいに泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと、悲しみがごっちゃになって、何もかも、うらめしく、いやになったからなのだ。
私はベッドの上で、うつむいて、黙っていた。
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私はベッドの上で、うつむいて、黙っていた。
「かず子」
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「かず子」
「はい」
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「はい」
「行くところがある、というのは、どこ?」
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「行くところがある、というのは、どこ?」
私は自分が、首すじまで赤くなったのを感じた。
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私は自分が、首すじまで赤くなったのを意識した。
「細田さま?」
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「細田さま?」
私は黙っていた。
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私は黙っていた。
お母さまは、深いためいきをついて、
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お母さまは、深い溜息をおつきになり、
「昔のことを言ってもいい?」
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「昔の事を言ってもいい?」
「どうぞ」
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「どうぞ」
と私は小声で言った。
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と私は小声で言った。
「あなたが、山木さまの家から出て、西片町の家へ帰ってきたとき、お母さまは何もあなたをとがめるようなことは言わなかったつもりだけど、でも、たった一言だけ、(お母さまはあなたに裏切られました)って言ったわね。おぼえている? そしたら、あなたは泣き出しちゃって、……私も、裏切ったなんてひどい言葉を使って悪かったと思ったけれど、……」
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「あなたが、山木さまのお家から出て、西片町のお家へ帰って来た時、お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけど、でも、たった一ことだけ、(お母さまはあなたに裏切られました)って言ったわね。おぼえている? そしたら、あなたは泣き出しちゃって、……私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど、……」
けれども、私はあのとき、お母さまにそう言われて、なんだかありがたくて、うれし泣きに泣いたのだ。
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けれども、私はあの時、お母さまにそう言われて、何だか有難くて、うれし泣きに泣いたのだ。
「お母さまがね、あのとき、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまの家を出てきたことじゃなかったの。山木さまから、かず子は実は、細田と恋仲だったのです、と言われたときなの。そう言われたときには、本当に、私は顔色が変わる思いでした。だって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、どんなにこちらが思いを寄せたって、どうにもならないことだし、……」
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「お母さまがね、あの時、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの。山木さまから、かず子は実は、細田と恋仲だったのです、と言われた時なの。そう言われた時には、本当に、私は顔色が変る思いでした。だって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、どんなにこちらがお慕いしたって、どうにもならぬ事だし、……」
「恋仲だなんて、ひどいこと。山木さまのほうで、ただそう邪推していただけなのよ」
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「恋仲だなんて、ひどい事を。山木さまのほうで、ただそう邪推なさっていただけなのよ」
「そうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思いつづけているのではないでしょうね。行くところって、どこ?」
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「そうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思いつづけているのじゃないでしょうね。行くところって、どこ?」
「細田さまのところなんかじゃないわ」
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「細田さまのところなんかじゃないわ」
「そう? そんなら、どこ?」
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「そう? そんなら、どこ?」
「お母さま、私ね、こないだ考えたことだけれど、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう。言葉も知恵も、考える力も、社会の決まりも、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だってみんな持っているでしょう? 信じるものも持っているかもしれないわ。人間は、生き物の中で一番えらいなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的な違いがないみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対になくて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが?」
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「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう? 信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが?」
お母さまは、ほんのり顔を赤くして、美しく笑い、
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お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、
「ああ、そのかず子のひめごとが、よい実を結んでくれたらいいけどねえ。お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸せにしてくれるようにお祈りしているのですよ」
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「ああ、そのかず子のひめごとが、よい実を結んでくれたらいいけどねえ。お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ」
私の胸にふうっと、お父上と那須野(なすの)をドライブして、途中で降りて、そのときの秋の野の景色が浮かんできた。
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私の胸にふうっと、お父上と那須野をドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た。
萩、なでしこ、りんどう、女郎花(おみなえし)などの秋の草花が咲いていた。
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萩、なでしこ、りんどう、女郎花などの秋の草花が咲いていた。
野ぶどうの実は、まだ青かった。
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野葡萄の実は、まだ青かった。
それから、お父上と琵琶湖(びわこ)でモーターボートに乗り、私が水に飛び込み、藻にすむ小魚が私の脚に当たり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと映っていて、そうして動いている、その様子が、前後に何のつながりもなく、ふっと胸に浮かんで、消えた。
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それから、お父上と琵琶湖でモーターボートに乗り、私が水に飛び込み、藻に棲む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと写っていて、そうしてうごいている、そのさまが前後と何の聯関も無く、ふっと胸に浮んで、消えた。
私はベッドから滑り降りて、お母さまのひざに抱きつき、はじめて、
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私はベッドから滑り降りて、お母さまのお膝に抱きつき、はじめて、
「お母さま、さっきはごめんなさい」
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「お母さま、さっきはごめんなさい」
と言うことができた。
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と言う事が出来た。
思うと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火の光が輝いたころで、それから、直治が南方から帰ってきて、私たちの本当の地獄が始まった。
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思うと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火の光が輝いた頃で、それから、直治が南方から帰って来て、私たちの本当の地獄がはじまった。
三
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三
どうしても、もう、とても、生きていられないような心細さ。
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どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。
これが、あの、不安、とかいう感情なのだろうか、胸に苦しい波が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がやんだあとの空を、あわただしく白い雲が次々と走りすぎていくように、私の心臓をしめつけたりゆるめたりした。脈が飛び飛びになり、息が浅くなって、目の前がもやもやと暗くなり、体じゅうの力が、手の指の先からふっと抜けてしまう感じがして、編み物を続けることができなくなった。
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これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しい浪が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄になり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事が出来なくなった。
このごろは雨が陰気に降り続いて、何をするのもだるくて、きょうは座敷の縁側に籐いすを持ち出し、この春にいちど編みかけてそのままにしていたセーターを、また編み続けてみる気になったのだった。
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このごろは雨が陰気に降りつづいて、何をするにも、もの憂くて、きょうはお座敷の縁側に籐椅子を持ち出し、ことしの春にいちど編みかけてそのままにしていたセエタを、また編みつづけてみる気になったのである。
淡い牡丹色のぼんやりした毛糸で、それにコバルトブルーの糸を足して、セーターにするつもりなのだ。
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淡い牡丹色のぼやけたような毛糸で、私はそれに、コバルトブルウの糸を足して、セエタにするつもりなのだ。
この淡い牡丹色の毛糸は、いまからもう二十年前、私がまだ小学校に通っていたころ、お母さまがこれで私のマフラーを編んでくれた毛糸だった。
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そうして、この淡い牡丹色の毛糸は、いまからもう二十年の前、私がまだ初等科にかよっていた頃、お母さまがこれで私の頸巻を編んで下さった毛糸だった。
そのマフラーの端がずきんになっていて、私はそれをかぶって鏡をのぞいてみたら、小鬼のようだった。
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その頸巻の端が頭巾になっていて、私はそれをかぶって鏡を覗いてみたら、小鬼のようであった。
それに、色が、他の友達のマフラーの色とまるで違っていたので、私はいやでいやでたまらなかった。
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それに、色が、他の学友の頸巻の色と、まるで違っているので、私は、いやでいやで仕様が無かった。
関西の、お金持ちの家の友達が、「いいマフラーしてはるな」
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関西の多額納税の学友が、「いい頸巻してはるな」
と、大人びた口調でほめてくれたが、私はますます恥ずかしくなって、それからはもう一度もこのマフラーをすることがなく、長いあいだしまいこんだままにしていたのだ。
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と、おとなびた口調でほめて下さったが、私は、いよいよ恥ずかしくなって、もうそれからは、いちどもこの頸巻をした事が無く、永い事うち棄ててあったのだ。
それを、この春、しまいこんでいたものを生かそうという気持ちでほどいて、私のセーターにしようと取りかかってみたのだが、どうも、このぼんやりした色合いが気に入らず、また放り出してしまった。きょうはあまりにも手持ちぶさたなまま、ふと取り出して、のろのろと編み続けてみたのだ。
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それを、ことしの春、死蔵品の復活とやらいう意味で、ときほぐして私のセエタにしようと思ってとりかかってみたのだが、どうも、このぼやけたような色合いが気に入らず、また打ちすて、きょうはあまりに所在ないまま、ふと取り出して、のろのろと編みつづけてみたのだ。
けれども、編んでいるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と灰色の雨空とが、一つに溶け合って、なんとも言えないくらい柔らかくおだやかな色合いを作り出していることに気がついた。
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けれども、編んでいるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つに溶け合って、なんとも言えないくらい柔かくてマイルドな色調を作り出している事に気がついた。
私は知らなかったのだ。
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私は知らなかったのだ。
服というものは、空の色との調和を考えなければいけないものだという大事なことを、知らなかったのだ。
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コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。
調和って、なんて美しくてすばらしいことなんだろうと、少し驚き、ぼんやりしてしまった。
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調和って、なんて美しくて素晴しい事なんだろうと、いささか驚き、呆然とした形だった。
灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組み合わせると、両方が同時にいきいきしてくるから不思議である。
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灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合せると両方が同時にいきいきして来るから不思議である。
手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく感じられ、冷たい雨空もビロードみたいに柔らかく感じられる。
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手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく、つめたい雨空もビロウドみたいに柔かく感ぜられる。
そうして、モネという画家が描いた、霧の中の寺院の絵を思い出させる。
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そうして、モネーの霧の中の寺院の絵を思い出させる。
私はこの毛糸の色によって、はじめて「グウ」
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私はこの毛糸の色に依って、はじめて「グウ」
というものを知らされたような気がした。
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というものを知らされたような気がした。
よい好み、ということ。
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よいこのみ。
そうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丹色がどんなに美しく調和するか、ちゃんと知っていて、わざわざ選んでくれたのに、私はばかでいやがっていた。けれども、それを子どもの私に無理強いしようともせず、私の好きなようにさせておいてくれたお母さま。
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そうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丹色が、どんなに美しく調和するかちゃんと識っていらしてわざわざ選んで下さったのに、私は馬鹿でいやがって、けれども、それを子供の私に強制しようともなさらず、私のすきなようにさせて置かれたお母さま。
私がこの色の美しさを本当にわかるまで、二十年間も、この色について一言も説明せず、黙って、知らないふりをして待っていてくれたお母さま。
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私がこの色の美しさを、本当にわかるまで、二十年間も、この色に就いて一言も説明なさらず、黙って、そしらぬ振りをして待っていらしたお母さま。
しみじみ、いいお母さまだと思うと同時に、こんないいお母さまを、私と直治の二人でいじめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまうのではないだろうかと、ふうっとたまらない恐怖と心配の雲が胸に湧いてきた。あれこれ考えれば考えるほど、これから先にとても恐ろしい、悪いことばかり思い浮かんで、もう、とても、生きていられないくらい不安になり、指先の力も抜けて、編み棒をひざに置き、大きなためいきをついて、顔を上に向け目をつぶって、
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しみじみ、いいお母さまだと思うと同時に、こんないいお母さまを、私と直治と二人でいじめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまうのではなかろうかと、ふうっとたまらない恐怖と心配の雲が胸に湧いて、あれこれ思いをめぐらせばめぐらすほど、前途にとてもおそろしい、悪い事ばかり予想せられ、もう、とても、生きておられないくらいに不安になり、指先の力も抜けて、編棒を膝に置き、大きい溜息をついて、顔を仰向け眼をつぶって、
「お母さま」
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「お母さま」
と思わず言った。
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と思わず言った。
お母さまは、座敷のすみの机によりかかって、本を読んでいたのだが、
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お母さまは、お座敷の隅の机によりかかって、ご本を読んでいらしたのだが、
「はい?」
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「はい?」
と、不思議そうに返事をした。
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と、不審そうに返事をなさった。
私は、まごつき、それからわざと大声で、
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私は、まごつき、それから、ことさらに大声で、
「とうとうバラが咲きました。お母さま、知っていた? 私は、いま気がついた。とうとう咲いたわ」
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「とうとう薔薇が咲きました。お母さま、ご存じだった? 私は、いま気がついた。とうとう咲いたわ」
座敷の縁側のすぐ前のバラ。
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お座敷のお縁側のすぐ前の薔薇。
それは、和田の叔父さまが、むかし、フランスだかイギリスだか、ちょっと忘れたけれど、とにかく遠いところから持ち帰ったバラで、二、三か月前に、叔父さまが、この山荘の庭に移し植えてくれたバラである。
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それは、和田の叔父さまが、むかし、フランスだかイギリスだか、ちょっと忘れたけれど、とにかく遠いところからお持帰りになった薔薇で、二、三箇月前に、叔父さまが、この山荘の庭に移し植えて下さった薔薇である。
けさそれが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれど、照れ隠しに、たったいま気づいたみたいに大げさに騒いで見せたのである。
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けさそれが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれども、てれ隠しに、たったいま気づいたみたいに大げさに騒いで見せたのである。
花は、濃い紫色で、りんとした誇りと強さがあった。
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花は、濃い紫色で、りんとした傲りと強さがあった。
「知っていました」
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「知っていました」
とお母さまは静かに言って、
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とお母さまはしずかにおっしゃって、
「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね」
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「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね」
「そうかもしれないわ。かわいそう?」
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「そうかも知れないわ。可哀そう?」
「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。台所のマッチ箱にルナールという人の絵をはったり、お人形のハンカチを作ってみたり、そういうことが好きなのね。それに、庭のバラのことだって、あなたの言うことを聞いていると、生きている人のことを言っているみたい」
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「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。お勝手のマッチ箱にルナアルの絵を貼ったり、お人形のハンカチイフを作ってみたり、そういう事が好きなのね。それに、お庭の薔薇のことだって、あなたの言うことを聞いていると、生きている人の事を言っているみたい」
「子どもがいないからよ」
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「子供が無いからよ」
自分でもまったく思いがけなかった言葉が、口から出た。
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自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。
言ってしまって、はっとして、気まずい思いでひざの編み物をいじっていたら、
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言ってしまって、はっとして、まの悪い思いで膝の編物をいじっていたら、
――二十九だからなあ。
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――二十九だからなあ。
そう言う男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったい低い声で、はっきり聞こえたような気がして、私は恥ずかしさで、ほおが焼けるみたいに熱くなった。
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そうおっしゃる男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、はっきり聞えたような気がして、私は恥ずかしさで、頬が焼けるみたいに熱くなった。
お母さまは、何も言わず、また、本を読んだ。
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お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。
お母さまは、このあいだからガーゼのマスクをかけていて、そのせいか、このごろめっきり無口になった。
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お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、そのせいか、このごろめっきり無口になった。
そのマスクは、直治の言いつけにしたがって、かけているのである。
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そのマスクは、直治の言いつけに従って、おかけになっているのである。
直治は、十日ほど前に、南の島から青黒い顔になって帰ってきたのだ。
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直治は、十日ほど前に、南方の島から蒼黒い顔になって還って来たのだ。
何の前触れもなく、夏の夕暮れ、裏の木戸から庭へ入ってきて、
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何の前触れも無く、夏の夕暮、裏の木戸から庭へはいって来て、
「わあ、ひどい。趣味の悪い家だ。中華料理屋みたいだ。『シューマイあります』って貼り紙でも出しとけよ」
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「わあ、ひでえ。趣味のわるい家だ。来々軒。シュウマイあります、と貼りふだしろよ」
それが私とはじめて顔を合わせたときの、直治のあいさつだった。
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それが私とはじめて顔を合せた時の、直治の挨拶であった。
その二、三日前からお母さまは、舌の具合が悪くて寝ていた。
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その二、三日前からお母さまは、舌を病んで寝ていらした。
舌の先が、見た目には何の変わりもないのに、動かすととても痛いと言って、食事もうすいおかゆだけで、お医者さんに診てもらったら?
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舌の先が、外見はなんの変りも無いのに、うごかすと痛くてならぬとおっしゃって、お食事も、うすいおかゆだけで、お医者さまに見ていただいたら?
と言っても、首を振って、
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と言っても、首を振って、
「笑われます」
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「笑われます」
と苦笑いしながら、言う。
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と苦笑いしながら、おっしゃる。
薬を塗ってあげたけれど、少しも効き目がないようで、私は妙にいらいらしていた。
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ルゴールを塗ってあげたけれども、少しもききめが無いようで、私は妙にいらいらしていた。
そこへ、直治が帰ってきたのだ。
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そこへ、直治が帰還して来たのだ。
直治はお母さまのまくらもとに座って、ただいま、と言ってお辞儀をし、すぐに立ち上がって、小さい家の中をあちこち見て回った。私はそのあとについて歩いて、
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直治はお母さまの枕元に坐って、ただいま、と言ってお辞儀をし、すぐに立ち上って、小さい家の中をあちこちと見て廻り、私がその後をついて歩いて、
「どう? お母さまは、変わった?」
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「どう? お母さまは、変った?」
「変わった、変わった。やつれてしまった。早く死ねばいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きていけやしないんだ。あんまりみじめで、見ていられねえ」
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「変った、変った。やつれてしまった。早く死にゃいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きて行けやしねえんだ。あまりみじめで、見ちゃおれねえ」
「私は?」
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「私は?」
「下品になった。男が二、三人もいるような顔をしていやがる。酒は? 今夜は飲むぜ」
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「げびて来た。男が二三人もあるような顔をしていやがる。酒は? 今夜は飲むぜ」
私はこの村でたった一軒の宿屋へ行って、おかみさんのお咲さんに、弟が帰ってきたから、お酒を少し分けて下さい、と頼んでみたけれど、お咲さんは、お酒はあいにく、いま切らしています、と言うので、帰って直治にそう伝えたら、直治は、見たこともない他人のような顔つきになって、『ちえっ、交渉が下手だからそうなんだ』と言い、私から宿屋のある場所を聞いて、庭下駄をつっかけて外に飛び出し、それっきり、いくら待っても家へ帰ってこなかった。
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私はこの部落でたった一軒の宿屋へ行って、おかみさんのお咲さんに、弟が帰還したから、お酒を少しわけて下さい、とたのんでみたけれども、お咲さんは、お酒はあいにく、いま切らしています、というので、帰って直治にそう伝えたら、直治は、見た事も無い他人のような表情の顔になって、ちえっ、交渉が下手だからそうなんだ、と言い、私から宿屋の在る場所を聞いて、庭下駄をつっかけて外に飛び出し、それっきり、いくら待っても家へ帰って来なかった。
私は直治の好きだった焼きリンゴと、卵の料理などをこしらえて、食堂の電球も明るいものに取りかえて、ずいぶん待った。そのうちに、お咲さんが、台所口からひょいと顔を出し、
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私は直治の好きだった焼き林檎と、それから、卵のお料理などこしらえて、食堂の電球も明るいのと取りかえ、ずいぶん待って、そのうちに、お咲さんが、お勝手口からひょいと顔を出し、
「もし、もし。大丈夫でしょうか。焼酎を飲んでいらっしゃるのですけど」
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「もし、もし。大丈夫でしょうか。焼酎を召し上っているのですけど」
と、いつものコイの目のようなまんまるい目を、さらに強く見開いて、一大事のように、低い声で言うのである。
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と、れいの鯉の眼のようなまんまるい眼を、さらに強く見はって、一大事のように、低い声で言うのである。
「焼酎って。あの、メチル?」
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「焼酎って。あの、メチル?」
「いいえ、メチルじゃありませんけど」
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「いいえ、メチルじゃありませんけど」
「飲んでも、病気にならないのでしょう?」
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「飲んでも、病気にならないのでしょう?」
「ええ、でも、……」
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「ええ、でも、……」
「飲ませてやって下さい」
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「飲ませてやって下さい」
お咲さんは、つばを飲み込むようにしてうなずいて帰っていった。
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お咲さんは、つばきを飲み込むようにしてうなずいて帰って行った。
私はお母さまのところに行って、
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私はお母さまのところに行って、
「お咲さんのところで、飲んでいるんですって」
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「お咲さんのところで、飲んでいるんですって」
と言ったら、お母さまは、少し口を曲げて笑って、
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と申し上げたら、お母さまは、少しお口を曲げてお笑いになって、
「そう。阿片のほうは、やめたのかしら。あなたは、ごはんをすませなさい。それから今夜は、三人でこの部屋でお休み。直治のふとんを、まんなかにして」
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「そう。阿片のほうは、よしたのかしら。あなたは、ごはんをすませなさい。それから今夜は、三人でこの部屋におやすみ。直治のお蒲団を、まんなかにして」
私は泣きたいような気持になった。
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私は泣きたいような気持になった。
夜ふけて、直治は、荒い足音をさせて帰ってきた。
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夜ふけて、直治は、荒い足音をさせて帰って来た。
私たちは、座敷に三人、一つの蚊帳に入って寝た。
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私たちは、お座敷に三人、一つの蚊帳にはいって寝た。
「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら?」
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「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら?」
と私が寝ながら言うと、
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と私が寝ながら言うと、
「何もない。何もない。忘れてしまった。日本に着いて汽車に乗って、汽車の窓から、水田がすばらしくきれいに見えた。それだけだ。電気を消せよ。眠れやしねえ」
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「何も無い。何も無い。忘れてしまった。日本に着いて汽車に乗って、汽車の窓から、水田が、すばらしく綺麗に見えた。それだけだ。電気を消せよ。眠られやしねえ」
私は電灯を消した。
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私は電燈を消した。
夏の月の光が、洪水のように蚊帳の中にあふれた。
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夏の月光が洪水のように蚊帳の中に満ちあふれた。
あくる朝、直治は寝床にうつぶせになって、たばこを吸いながら、遠く海のほうをながめて、
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あくる朝、直治は寝床に腹這いになって、煙草を吸いながら、遠く海のほうを眺めて、
「舌が痛いんですって?」
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「舌が痛いんですって?」
と、はじめてお母さまの具合が悪いのに気がついたみたいな口ぶりで言った。
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と、はじめてお母さまのお加減の悪いのに気がついたみたいなふうの口のきき方をした。
お母さまは、ただかすかに笑った。
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お母さまは、ただ幽かにお笑いになった。
「そいつは、きっと、心の問題なんだ。夜、口をあけて寝てるんでしょう。だらしがない。マスクをしなよ。ガーゼに消毒液でもひたして、それをマスクの中に入れておくといい」
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「そいつあ、きっと、心理的なものなんだ。夜、口をあいておやすみになるんでしょう。だらしがない。マスクをなさい。ガーゼにリバノール液でもひたして、それをマスクの中にいれて置くといい」
私はそれを聞いて噴き出し、
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私はそれを聞いて噴き出し、
「それは、何療法っていうの?」
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「それは、何療法っていうの?」
「美学療法っていうんだ」
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「美学療法っていうんだ」
「でも、お母さまは、マスクなんか、きっとおきらいよ」
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「でも、お母さまは、マスクなんか、きっとおきらいよ」
お母さまは、マスクに限らず、眼帯でも、眼鏡でも、顔にそんなものをつけるのは大きらいだったはずである。
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お母さまは、マスクに限らず、眼帯でも、眼鏡でも、お顔にそんなものを附ける事は大きらいだった筈である。
「ねえ、お母さま。マスクをなさる?」
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「ねえ、お母さま。マスクをなさる?」
と私がたずねたら、
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と私がおたずねしたら、
「致します」
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「致します」
とまじめに低く答えたので、私は、はっとした。
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とまじめに低くお答えになったので、私は、はっとした。
直治の言うことなら、なんでも信じて従おうと思っているらしい。
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直治の言う事なら、なんでも信じて従おうと思っていらっしゃるらしい。
私が朝食のあとに、さっき直治が言ったとおりに、ガーゼに消毒液をひたすなどして、マスクを作り、お母さまのところに持っていったら、お母さまは、黙って受け取り、横になったままで、マスクのひもを両方の耳に素直にかけた。その様子が、本当にもう幼い女の子のようで、私には悲しく思われた。
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私が朝食の後に、さっき直治が言ったとおりに、ガーゼにリバノール液をひたしなどして、マスクを作り、お母さまのところに持って行ったら、お母さまは、黙って受け取り、おやすみになったままで、マスクの紐を両方のお耳に素直におかけになり、そのさまが、本当にもう幼い童女のようで、私には悲しく思われた。
お昼過ぎに、直治は、東京の友達や、文学のほうの師匠などに会わなければならないと言って背広に着替え、お母さまから、二千円もらって東京へ出かけていってしまった。
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お昼すぎに、直治は、東京のお友達や、文学のほうの師匠さんなどに逢わなければならぬと言って背広に着換え、お母さまから、二千円もらって東京へ出かけて行ってしまった。
それっきり、もう十日近くになるのだけれど、直治は、帰ってこないのだ。
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それっきり、もう十日ちかくなるのだけれども、直治は、帰って来ないのだ。
そうして、お母さまは、毎日マスクをして、直治を待っている。
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そうして、お母さまは、毎日マスクをなさって、直治を待っていらっしゃる。
「あの消毒液って、いい薬なのね。このマスクをかけていると、舌の痛みが消えてしまうのですよ」
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「リバノールって、いい薬なのね。このマスクをかけていると、舌の痛みが消えてしまうのですよ」
と、笑いながら言ったけれど、私には、お母さまがうそをついているように思われてならないのだ。
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と、笑いながらおっしゃったけれども、私には、お母さまが嘘をついていらっしゃるように思われてならないのだ。
もう大丈夫、と言って、いまは起きているけれど、食欲はやっぱりあまりない様子だし、口数もめっきり少なく、とても私は気がかりで、直治はいったい、東京で何をしているのだろう、あの小説家の上原さんなんかと一緒に東京中を遊び回って、東京の狂ったような騒ぎに巻き込まれているに違いない、と思えば思うほど、苦しくつらくなり、お母さまに、だしぬけにバラのことなど報告して、そうして、『子どもがいないからよ』なんて自分でも思いがけなかった変なことを口走って、いよいよ、どうしようもなくなるばかりで、
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もう大丈夫、とおっしゃって、いまは起きていらっしゃるけれども、食慾はやっぱりあまり無い御様子だし、口数もめっきり少く、とても私は気がかりで、直治はまあ、東京で何をしているのだろう、あの小説家の上原さんなんかと一緒に東京中を遊びまわって、東京の狂気の渦に巻き込まれているのにちがいない、と思えば思うほど、苦しくつらくなり、お母さまに、だしぬけに薔薇の事など報告して、そうして、子供が無いからよ、なんて自分にも思いがけなかったへんな事を口走って、いよいよ、いけなくなるばかりで、
「あ」
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「あ」
と言って立ち上がり、さて、どこへも行くところがなく、体を持てあまして、ふらふら階段をのぼっていって、二階の洋間に入ってみた。
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と言って立ち上り、さて、どこへも行くところが無く、身一つをもてあまして、ふらふら階段をのぼって行って、二階の洋間にはいってみた。
ここは、こんど直治の部屋になるはずで、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんに手伝いを頼み、直治の洋服だんすや机や本箱、それに蔵書やノートなどいっぱい詰まった木の箱五つ六つ、とにかく昔、西片町の家の直治の部屋にあったもの全部を、ここに運び込んだ。もうすぐ直治が東京から帰ってきたら、直治の好きな場所に、たんすや本箱などをそれぞれ置くことにして、それまではただ雑然とここに置きっぱなしにしておいたほうがよさそうに思われたので、もう足の踏み場もないくらいに、部屋いっぱい散らかしたままだった。私は、何気なく足もとの木の箱から、直治のノートを一冊取り上げて見たら、そのノートの表紙には、
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ここは、こんど直治の部屋になる筈で、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんにお手伝いをたのみ、直治の洋服箪笥や机や本箱、また、蔵書やノートブックなど一ぱいつまった木の箱五つ六つ、とにかく昔、西片町のお家の直治のお部屋にあったもの全部を、ここに持ち運び、いまに直治が東京から帰って来たら、直治の好きな位置に、箪笥本箱などそれぞれ据える事にして、それまではただ雑然とここに置き放しにしていたほうがよさそうに思われたので、もう、足の踏み場も無いくらいに、部屋一ぱい散らかしたままで、私は、何気なく足もとの木の箱から、直治のノートブックを一冊取りあげて見たら、そのノートブックの表紙には、
夕顔日誌
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夕顔日誌
と書かれていて、その中には、次のようなことがいっぱい書き散らされていたのだった。
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と書きしるされ、その中には、次のような事が一ぱい書き散らされていたのである。
直治が、あの麻薬中毒で苦しんでいたころの手記のようだった。
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直治が、あの、麻薬中毒で苦しんでいた頃の手記のようであった。
焼け死ぬような思い。
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焼け死ぬる思い。
苦しくても、苦しいと一言、たった半分の言葉さえ叫ぶことができない。昔からいちどもなかった、人間の世界が始まって以来、前例もない、底知れない地獄のような気配を、ごまかすんじゃない。
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苦しくとも、苦しと一言、半句、叫び得ぬ、古来、未曾有、人の世はじまって以来、前例も無き、底知れぬ地獄の気配を、ごまかしなさんな。
思想?
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思想?
うそだ。
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ウソだ。
主義?
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主義?
うそだ。
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ウソだ。
理想?
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理想?
うそだ。
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ウソだ。
秩序?
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秩序?
うそだ。
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ウソだ。
誠実?
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誠実?
真理?
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真理?
純粋?
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純粋?
みな、うそだ。
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みなウソだ。
牛島の藤は、樹齢千年、能の『熊野(ゆや)』に出てくる藤は数百年と言われ、その花の房も、前者で最長九尺(約二メートル七十センチ)、後者で五尺余り(約一メートル五十センチ)と聞いて、ただその花の房にだけ、心がおどる。
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牛島の藤は、樹齢千年、熊野の藤は、数百年と称えられ、その花穂の如きも、前者で最長九尺、後者で五尺余と聞いて、ただその花穂にのみ、心がおどる。
あれも人の子。
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アレモ人ノ子。
生きている。
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生キテイル。
論理は、しょせん、論理そのものへの愛である。
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論理は、所謂、論理への愛である。
生きている人間への愛では無い。
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生きている人間への愛では無い。
金と女。
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金と女。
論理は、はずかしがって、そそくさと歩き去っていく。
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論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。
歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの若い女性のほほえみのほうが尊い、という『ファウスト』の博士の勇ましい証明。
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歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証。
学問とは、見栄の別の名前である。
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学問とは、虚栄の別名である。
人間が人間でなくなろうとする努力である。
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人間が人間でなくなろうとする努力である。
ゲーテにだって誓って言える。
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ゲエテにだって誓って言える。
僕は、どんなにでもうまく書けます。
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僕は、どんなにでも巧く書けます。
一つの作品の組み立てを間違えず、ちょうどいい笑いどころ、読む人の目の奥を焼くような悲しみ、あるいは、いかにも、いわゆる姿勢を正させるような、完璧な小説。声に出して読めば、これはまるで映画の説明みたいで、はずかしくて、そんなもの書けるかっていうんだ。
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一篇の構成あやまたず、適度の滑稽、読者の眼のうらを焼く悲哀、若しくは、粛然、所謂襟を正さしめ、完璧のお小説、朗々音読すれば、これすなわち、スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ。
そもそもそんな、『傑作を書こう』という意識が、けちくさいというんだ。
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どだいそんな、傑作意識が、ケチくさいというんだ。
小説を読んで姿勢を正すなんて、気が狂った人のすることだ。
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小説を読んで襟を正すなんて、狂人の所作である。
それなら、いっそ、羽織はかまでも着て読まなきゃいけないだろう。
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そんなら、いっそ、羽織袴でせにゃなるまい。
よい作品ほど、すましていないように見えるのだけどなあ。
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よい作品ほど、取り澄ましていないように見えるのだがなあ。
僕は友人の心から楽しそうな笑顔が見たいばかりに、一つの小説を、わざと失敗させて、下手くそに書いて、しりもちをついて頭をかきかき逃げていく。
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僕は友人の心からたのしそうな笑顔を見たいばかりに、一篇の小説、わざとしくじって、下手くそに書いて、尻餅ついて頭かきかき逃げて行く。
ああ、そのときの、友人のうれしそうな顔といったら!
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ああ、その時の、友人のうれしそうな顔ったら!
文章も未熟、人間も未熟な様子で、おもちゃのラッパを吹いて聞かせてあげる。ここに日本一のばかがいます、あなたはまだいいほうですよ、元気でいて下さい!
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文いたらず、人いたらぬ風情、おもちゃのラッパを吹いてお聞かせ申し、ここに日本一の馬鹿がいます、あなたはまだいいほうですよ、健在なれ!
と願うこの愛情は、これはいったい何なのでしょう。
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と願う愛情は、これはいったい何でしょう。
友人は、したり顔で、あれがあいつの悪いくせだ、惜しいものだ、と述べる。
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友人、したり顔にて、あれがあいつの悪い癖、惜しいものだ、と御述懐。
愛されていることを、わかっていない。
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愛されている事を、ご存じ無い。
不良でない人間なんて、いるのだろうか。
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不良でない人間があるだろうか。
味気ない思い。
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味気ない思い。
金が欲しい。
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金が欲しい。
そうでなければ、
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さもなくば、
眠りながらの自然な死!
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眠りながらの自然死!
薬屋に千円近い借金がある。
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薬屋に千円ちかき借金あり。
きょう、質屋の番頭をこっそり家に連れてきて、僕の部屋に通して、『この部屋に何か質に入れられそうな物があるか、あるなら持っていけ、急いで金がいるんだ』と言ったら、番頭はろくに部屋の中を見もせず、『およしなさい、あなたの物でもないのに』とぬかした。
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きょう、質屋の番頭をこっそり家へ連れて来て、僕の部屋へとおして、何かこの部屋に目ぼしい質草ありや、あるなら持って行け、火急に金が要る、と申せしに、番頭ろくに部屋の中を見もせず、およしなさい、あなたのお道具でもないのに、とぬかした。
よろしい、それなら、僕がいままで自分のお小遣いで買った物だけ持っていけ、と威勢よく言って、かき集めたガラクタは、質に入れられるような物は一つもない。
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よろしい、それならば、僕がいままで、僕のお小遣い銭で買った品物だけ持って行け、と威勢よく言って、かき集めたガラクタ、質草の資格あるしろもの一つも無し。
まず、片手の石こうの像。
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まず、片手の石膏像。
これは、ビーナスの右手。
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これは、ヴィナスの右手。
ダリアの花にも似た片手、まっしろい片手、それがただ台の上に載っているのだ。
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ダリヤの花にも似た片手、まっしろい片手、それがただ台上に載っているのだ。
けれども、これをよく見ると、これは、ビーナスが裸のからだを男に見られて、あっと驚き、含羞旋風(がんしゅうせんぷう・かず子が使う言葉で「恥ずかしさが吹きつける風」のような感じ)に包まれ、裸のからだが残らず薄い赤色に染まり、かっかとほてって、からだをよじったこの手つき。そのようなビーナスの、息もとまるほどの、裸のはじらいが、指先に指紋もなく、手のひらに一本の筋もない、真っ白でほっそりしたこの右手だけで、こちらの胸まで苦しくなるくらい切なく表現されているのが、わかるはずだ。
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けれども、これをよく見ると、これはヴィナスが、その全裸を、男に見られて、あなやの驚き、含羞旋風、裸身むざん、薄くれない、残りくまなき、かッかッのほてり、からだをよじってこの手つき、そのようなヴィナスの息もとまるほどの裸身のはじらいが、指先に指紋も無く、掌に一本の手筋もない純白のこのきゃしゃな右手に依って、こちらの胸も苦しくなるくらいに哀れに表情せられているのが、わかる筈だ。
けれども、これは、いわゆる、使い道のないガラクタ。
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けれども、これは、所謂、非実用のガラクタ。
番頭は、五十銭と値段をつけた。
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番頭、五十銭と値踏みせり。
そのほか、パリ近郊の大きな地図、直径一尺(約三十センチ)近いセルロイドのこま、糸よりも細い字が書ける特製のペン先、どれも掘り出し物のつもりで買った品物ばかりなのだが、番頭は笑って、『もうおいとまいたします』と言う。
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その他、パリ近郊の大地図、直径一尺にちかきセルロイドの独楽、糸よりも細く字の書ける特製のペン先、いずれも掘出物のつもりで買った品物ばかりなのだが、番頭笑って、もうおいとま致します、と言う。
待て、と止めて、結局また、本を山ほど番頭に背負わせて、五円だけ受け取った。
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待て、と制止して、結局また、本を山ほど番頭に背負わせて、金五円也を受け取る。
僕の本棚の本は、ほとんど安い文庫本ばかりで、しかも古本屋から仕入れたものだから、質の値段も自然と、このように安いのである。
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僕の本棚の本は、ほとんど廉価の文庫本のみにして、しかも古本屋から仕入れしものなるに依って、質の値もおのずから、このように安いのである。
千円の借金を解決しようとして、たった五円。
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千円の借銭を解決せんとして、五円也。
世の中における、僕の実力、だいたいこんなものだ。
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世の中に於ける、僕の実力、おおよそかくの如し。
笑いごとではない。
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笑いごとではない。
退廃的(デカダン)?
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デカダン?
しかし、こうでもしなければ生きていられないんだよ。
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しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。
そんなことを言って僕を非難する人よりは、『死ね!』
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そんな事を言って、僕を非難する人よりは、死ね!
と言ってくれる人のほうがありがたい。
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と言ってくれる人のほうがありがたい。
さっぱりする。
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さっぱりする。
けれども人は、めったに、『死ね!』
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けれども人は、めったに、死ね!
とは言わないものだ。
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とは言わないものだ。
けちくさく、用心深い偽善者どもよ。
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ケチくさく、用心深い偽善者どもよ。
正義?
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正義?
いわゆる階級闘争の本質は、そんなところにはない。
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所謂階級闘争の本質は、そんなところにありはせぬ。
人道?
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人道?
冗談じゃない。
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冗談じゃない。
僕は知っているよ。
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僕は知っているよ。
自分たちの幸福のために、相手を倒すことだ。
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自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。
殺すことだ。
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殺す事だ。
死ね!
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死ね!
という宣告でなかったら、何だ。
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という宣告でなかったら、何だ。
ごまかしちゃいけねえ。
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ごまかしちゃいけねえ。
しかし、僕たちの階級にも、ろくなやつがいない。
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しかし、僕たちの階級にも、ろくな奴がいない。
頭の弱い者、幽霊、けちん坊、狂った犬、ほら吹き、『ゴザイマスル』、雲の上から小便。
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白痴、幽霊、守銭奴、狂犬、ほら吹き、ゴザイマスル、雲の上から小便。
死ね!
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死ね!
という言葉をあげるのさえ、もったいない。
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という言葉を与えるのさえ、もったいない。
戦争。
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戦争。
日本の戦争は、やけくそだ。
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日本の戦争は、ヤケクソだ。
やけくそに巻き込まれて死ぬのは、いやだ。
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ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。
いっそ、ひとりで死にたいわい。
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いっそ、ひとりで死にたいわい。
人間は、うそをつくときには、必ずまじめな顔をしているものである。
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人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。
このごろの、指導者たちの、あのまじめさ。
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この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。
ぷ!
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ぷ!
人から尊敬されようとは思わない人たちと遊びたい。
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人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。
けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。
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けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。
僕が大人びたふりをして見せたら、人々は僕を、大人びていると噂した。
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僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。
僕が、なまけもののふりをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。
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僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。
僕が小説を書けないふりをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。
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僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。
僕がうそつきのふりをしたら、人々は僕を、うそつきだと噂した。
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僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。
僕が金持ちのふりをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。
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僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。
僕が冷たいふりをして見せたら、人々は僕を、冷たいやつだと噂した。
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僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。
けれども、僕が本当に苦しくて、思わずうめいたとき、人々は僕を、苦しいふりをしていると噂した。
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けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。
どうも、くいちがう。
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どうも、くいちがう。
結局、自殺するよりほか、仕方がないのではないか。
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結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。
このように苦しんでも、ただ自殺で終わるだけなのだ、と思ったら、声を出して泣いてしまった。
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このように苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった。
春の朝、二、三輪の花が咲きほころんだ梅の枝に朝日が当たって、その枝にハイデルベルクという町の若い学生が、ほっそりと首をつって死んでいたという。
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春の朝、二三輪の花の咲きほころびた梅の枝に朝日が当って、その枝にハイデルベルヒの若い学生が、ほっそりと縊れて死んでいたという。
「ママ! 僕を叱って下さい!」
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「ママ! 僕を叱って下さい!」
「どんなふうに?」
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「どういう工合いに?」
「弱虫! って」
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「弱虫! って」
「そう? 弱虫。……もう、いいでしょう?」
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「そう? 弱虫。……もう、いいでしょう?」
ママには、ほかに比べようのないよさがある。
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ママには無類のよさがある。
ママを思うと、泣きたくなる。
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ママを思うと、泣きたくなる。
ママへおわびのためにも、死ぬんだ。
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ママへおわびのためにも、死ぬんだ。
お許し下さい。
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オユルシ下サイ。
いま、一度だけ、お許し下さい。
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イマ、イチドダケ、オユルシ下サイ。
年ごとに
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年々や
目の見えぬまま
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めしいのままに
鶴のひなは
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鶴のひな
育っていくらしい
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育ちゆくらし
ああ、太っていくのも (元旦の試作)
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あわれ 太るも (元旦試作)
モルヒネ アトロモール ナルコポン パントポン パビナアル パンオピン アトロピン
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モルヒネ アトロモール ナルコポン パントポン パビナアル パンオピン アトロピン
プライドとは何だ、プライドとは。
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プライドとは何だ、プライドとは。
人間は、いや、男は、『おれはすぐれている』『おれにはいいところがあるんだ』などと思わずに、生きていくことができないものか。
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人間は、いや、男は、(おれはすぐれている)(おれにはいいところがあるんだ)などと思わずに、生きて行く事が出来ぬものか。
人をきらい、人にきらわれる。
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人をきらい、人にきらわれる。
知恵くらべ。
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ちえくらべ。
まじめさ=ばかばかしさ
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厳粛=阿呆感
とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。
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とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。
ある、お金を借りたいと頼む手紙。
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或る借銭申込みの手紙。
「お返事を。
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「御返事を。
お返事を下さい。
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御返事を下さい。
そうして、それが必ずいい知らせであるように。
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そうして、それが必ず快報であるように。
僕はいろいろな恥ずかしい思いを覚悟して、ひとりでうめいています。
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僕はさまざまの屈辱を思い設けて、ひとりで呻いています。
芝居をしているのではありません。
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芝居をしているのではありません。
絶対にそうではありません。
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絶対にそうではありません。
お願いいたします。
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お願いいたします。
僕は恥ずかしさのために死にそうです。
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僕は恥ずかしさのために死にそうです。
誇張ではないのです。
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誇張ではないのです。
毎日毎日、お返事を待って、夜も昼もがたがたふるえているのです。
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毎日毎日、御返事を待って、夜も昼もがたがたふるえているのです。
僕に、つらい思いをさせないで。
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僕に、砂を噛ませないで。
壁から忍び笑いの声が聞こえてきて、深夜、ふとんの中で寝返りばかり打っているのです。
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壁から忍び笑いの声が聞えて来て、深夜、床の中で輾転しているのです。
僕を恥ずかしい目に合わせないで。
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僕を恥ずかしい目に逢わせないで。
姉さん!」
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姉さん!」
そこまで読んで私は、その『夕顔日誌』を閉じ、木の箱に戻して、それから窓のほうに歩いていき、窓をいっぱいに開いて、白い雨にけむっている庭を見下ろしながら、あのころのことを考えた。
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そこまで読んで私は、その夕顔日誌を閉じ、木の箱にかえして、それから窓のほうに歩いて行き、窓を一ぱいにひらいて、白い雨に煙っているお庭を見下しながら、あの頃の事を考えた。
もう、あれから、六年になる。
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もう、あれから、六年になる。
直治の、この麻薬中毒が、私の離婚の原因になった。いいえ、そう言ってはいけない。私の離婚は、直治の麻薬中毒がなくても、別の何かのきっかけで、いつかは起きていたように、そんなふうに、私が生まれたときから決まっていたことのような気もする。
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直治の、この麻薬中毒が、私の離婚の原因になった、いいえ、そう言ってはいけない、私の離婚は、直治の麻薬中毒がなくっても、べつな何かのきっかけで、いつかは行われているように、そのように、私の生れた時から、さだまっていた事みたいな気もする。
直治は、薬屋への支払いに困って、しばしば私にお金をねだった。
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直治は、薬屋への支払いに困って、しばしば私にお金をねだった。
私は山木家に嫁いだばかりで、お金などそんなに自由になるわけはなく、また、嫁ぎ先のお金を、実家の弟にこっそり融通してやるなど、とても具合の悪いことのようにも思われたので、実家から私についてきた乳母のお関さんと相談して、私の腕輪や、首飾りや、ドレスを売った。
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私は山木へ嫁いだばかりで、お金などそんなに自由になるわけは無し、また、嫁ぎ先のお金を、里の弟へこっそり融通してやるなど、たいへん工合いの悪い事のようにも思われたので、里から私に附き添って来たばあやのお関さんと相談して、私の腕輪や、頸飾りや、ドレスを売った。
弟は私に、『お金を下さい』という手紙をよこして、そして、『いまは苦しくて恥ずかしくて、姉上と顔を合わせることも、電話で話すことさえ、とてもできませんから、お金は、お関に言いつけて、京橋の×町×丁目のカヤノアパートに住んでいる、姉上も名前だけはご存じのはずの、小説家上原二郎さんのところに届けさせて下さい。上原さんは、悪い人のように世の中でうわさされていますが、決してそんな人ではありませんから、安心してお金を上原さんのところに届けてやって下さい。そうすると、上原さんがすぐに僕に電話で知らせることになっていますから、必ずそのようにお願いします。僕は、こんどの中毒を、ママにだけは気づかれたくないのです。ママ
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弟は私に、お金を下さい、という手紙を寄こして、そうして、いまは苦しくて恥ずかしくて、姉上と顔を合せる事も、また電話で話する事さえ、とても出来ませんから、お金は、お関に言いつけて、京橋の×町×丁目のカヤノアパートに住んでいる、姉上も名前だけはご存じの筈の、小説家上原二郎さんのところにとどけさせるよう、上原さんは、悪徳のひとのように世の中から評判されているが、決してそんな人ではないから、安心してお金を上原さんのところへとどけてやって下さい、そうすると、上原さんがすぐに僕に電話で知らせる事になっているのですから、必ずそのようにお願いします、僕はこんどの中毒を、ママにだけは気附かれたくないのです、ママ
が知らないうちに、なんとかしてこの中毒を治してしまうつもりなのです。僕は、こんど姉上からお金をもらったら、それで薬屋への借りを全部払って、それから塩原の別荘にでも行って、健康な体になって帰ってくるつもりなのです。本当です。薬屋の借りを全部払ったら、もう僕は、その日から麻薬を使うことはきっぱりやめるつもりです。神さまに誓います。信じて下さい。ママには内緒に、お関を使ってカヤノアパートの上原さんに、頼みます』というようなことが、その手紙に書かれていて、私はその指示どおりに、お関さんにお金を持たせて、こっそり上原さんのアパートに届けさせたものだが、弟の手紙の誓いは、いつもうそで、塩原の
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の知らぬうちに、なんとかしてこの中毒をなおしてしまうつもりなのです、僕は、こんど姉上からお金をもらったら、それでもって薬屋への借りを全部支払って、それから塩原の別荘へでも行って、健康なからだになって帰って来るつもりなのです、本当です、薬屋の借りを全部すましたら、もう僕は、その日から麻薬を用いる事はぴったりよすつもりです、神さまに誓います、信じて下さい、ママには内緒に、お関をつかってカヤノアパートの上原さんに、たのみます、というような事が、その手紙に書かれていて、私はその指図どおりに、お関さんにお金を持たせて、こっそり上原さんのアパートにとどけさせたものだが、弟の手紙の誓いは、いつも嘘で、塩原の
別荘にも行かず、薬物中毒はいよいよひどくなるばかりの様子で、お金をねだる手紙の文章も、悲鳴に近い苦しげな調子で、こんどこそ薬をやめると、目をそむけたくなるくらい切ない誓いをするので、また、うそかもしれないと思いながらも、ついまた、ブローチなどをお関さんに売らせて、そのお金を上原さんのアパートに届けさせるのだった。
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別荘にも行かず、薬品中毒はいよいよひどくなるばかりの様子で、お金をねだる手紙の文章も、悲鳴に近い苦しげな調子で、こんどこそ薬をやめると、顔をそむけたいくらいの哀切な誓いをするので、また嘘かも知れぬと思いながらも、ついまた、ブローチなどお関さんに売らせて、そのお金を上原さんのアパートにとどけさせるのだった。
「上原さんって、どんな方?」
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「上原さんって、どんな方?」
「小柄で顔色の悪い、無愛想な人でございます」
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「小柄で顔色の悪い、ぶあいそな人でございます」
と、お関さんは答える。
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と、お関さんは答える。
「でも、アパートにいらっしゃることは、めったにございませぬです。たいてい、奥さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらっしゃるだけでございます。この奥さんは、そんなにおきれいでもございませぬけれど、おやさしくて、よくできたお方のようでございます。あの奥さんになら、安心してお金を預けることができます」
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「でも、アパートにいらっしゃる事は、めったにございませぬです。たいてい、奥さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらっしゃるだけでございます。この奥さんは、そんなにお綺麗でもございませぬけれども、お優しくて、よく出来たお方のようでございます。あの奥さんになら、安心してお金をあずける事が出来ます」
そのころの私は、いまの私に比べて、いいえ、比べものにもならないくらい、まるで違う人みたいに、ぼんやりしたのんき者ではあったが、それでもさすがに、次々と続いて、しかも次第に多い金額をねだられて、たまらなく心配になり、ある日、お能からの帰り、車を銀座で帰らせて、それからひとりで歩いて京橋のカヤノアパートを訪ねた。
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その頃の私は、いまの私に較べて、いいえ、較べものにも何もならぬくらい、まるで違った人みたいに、ぼんやりの、のんき者ではあったが、それでも流石に、つぎつぎと続いてしかも次第に多額のお金をねだられて、たまらなく心配になり、一日、お能からの帰り、自動車を銀座でかえして、それからひとりで歩いて京橋のカヤノアパートを訪ねた。
上原さんは、部屋でひとり、新聞を読んでいた。
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上原さんは、お部屋でひとり、新聞を読んでいらした。
しま模様の着物に、紺色のかすり模様の羽織を着ていて、お年寄りのような、若いような、いままで見たこともない不思議な生き物のような、変な第一印象を私は受けた。
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縞の袷に、紺絣のお羽織を召していらして、お年寄りのような、お若いような、いままで見た事もない奇獣のような、へんな初印象を私は受取った。
「女房はいま、子どもと一緒に、配給の物を取りに」
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「女房はいま、子供と、一緒に、配給物を取りに」
少し鼻声で、とぎれとぎれにそう言った。
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すこし鼻声で、とぎれとぎれにそうおっしゃる。
私を、奥さんの友達とでも勘違いしたらしかった。
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私を、奥さんのお友達とでも思いちがいしたらしかった。
私が、直治の姉だということを言ったら、上原さんは、ふん、と笑った。
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私が、直治の姉だと言う事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑った。
私は、なぜだか、ひやりとした。
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私は、なぜだか、ひやりとした。
「出ましょうか」
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「出ましょうか」
そう言って、もうとんびコートを羽織り、下駄箱から新しい下駄を取り出してはき、さっさとアパートの廊下を先に立って歩いていった。
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そう言って、もう二重廻しをひっかけ、下駄箱から新しい下駄を取り出しておはきになり、さっさとアパートの廊下を先に立って歩かれた。
外は、初冬の夕暮。
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外は、初冬の夕暮。
風が、つめたかった。
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風が、つめたかった。
隅田川(すみだがわ)から吹いてくる川風のような感じだった。
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隅田川から吹いて来る川風のような感じであった。
上原さんは、その川風にさからうように、少し右肩を上げて築地のほうへ黙って歩いていく。
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上原さんは、その川風にさからうように、すこし右肩をあげて築地のほうに黙って歩いて行かれる。
私は小走りに走りながら、そのあとを追った。
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私は小走りに走りながら、その後を追った。
東京劇場の裏手のビルの地下室にはいった。
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東京劇場の裏手のビルの地下室にはいった。
四、五組の客が、二十畳くらいの細長い部屋で、それぞれテーブルをはさんで、ひっそりお酒を飲んでいた。
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四、五組の客が、二十畳くらいの細長いお部屋で、それぞれ卓をはさんで、ひっそりお酒を飲んでいた。
上原さんは、コップでお酒を飲んだ。
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上原さんは、コップでお酒をお飲みになった。
そうして、私にも別のコップを取り寄せて、お酒をすすめた。
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そうして、私にも別なコップを取り寄せて下さって、お酒をすすめた。
私は、そのコップで二杯飲んだけれども、なんともなかった。
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私は、そのコップで二杯飲んだけれども、なんともなかった。
上原さんは、お酒を飲み、たばこを吸い、そうしていつまでも黙っていた。
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上原さんは、お酒を飲み、煙草を吸い、そうしていつまでも黙っていた。
私も、黙っていた。
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私も、黙っていた。
私はこんなところへ来たのは、生まれてはじめてのことだったけれど、とても落ち着いて、気分がよかった。
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私はこんなところへ来たのは、生まれてはじめての事であったけれども、とても落ちつき、気分がよかった。
「お酒でも飲むといいんだけど」
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「お酒でも飲むといいんだけど」
「え?」
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「え?」
「いいえ、弟さんのことです。お酒のほうに切りかえるといいんですよ。僕も昔、麻薬中毒になったことがあってね、あれは人が気味悪がってね。お酒だって同じようなものなんだが、お酒のほうは、人は案外許すんだ。弟さんを、酒飲みにしちゃいましょう。いいでしょう?」
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「いいえ、弟さん。アルコールのほうに転換するといいんですよ。僕も昔、麻薬中毒になった事があってね、あれは人が薄気味わるがってね、アルコールだって同じ様なものなんだが、アルコールのほうは、人は案外ゆるすんだ。弟さんを、酒飲みにしちゃいましょう。いいでしょう?」
「私、いちど、お酒飲みを見たことがありますわ。お正月に、私が出かけようとしたとき、うちの運転手の知り合いの人が、車の助手席で、鬼のような真っ赤な顔をして、ぐうぐう大いびきで眠っていましたの。私が驚いて叫んだら、運転手が、『これはお酒飲みで、仕方がないんです』と言って、車からおろして肩にかついでどこかへ連れていきましたの。骨がないみたいにぐったりして、それでも何だかぶつぶつ言っていて、私あのとき、はじめてお酒飲みというものを見たのですけれど、面白かったわ」
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「私、いちど、お酒飲みを見た事がありますわ。新年に、私が出掛けようとした時、うちの運転手の知合いの者が、自動車の助手席で、鬼のような真赤な顔をして、ぐうぐう大いびきで眠っていましたの。私がおどろいて叫んだら、運転手が、これはお酒飲みで、仕様が無いんです、と言って、自動車からおろして肩にかついでどこかへ連れて行きましたの。骨が無いみたいにぐったりして、何だかそれでも、ぶつぶつ言っていて、私あの時、はじめてお酒飲みってものを見たのですけど、面白かったわ」
「僕だって、酒飲みです」
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「僕だって、酒飲みです」
「あら、だって、違うんでしょう?」
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「あら、だって、違うんでしょう?」
「あなただって、酒飲みです」
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「あなただって、酒飲みです」
「そんなことは、ありませんわ。私は、お酒飲みを見たことがあるんですもの。まるで、違いますわ」
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「そんな事は、ありませんわ。私は、お酒飲みを見た事があるんですもの。まるで、違いますわ」
上原さんは、はじめて楽しそうに笑って、
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上原さんは、はじめて楽しそうにお笑いになって、
「それでは、弟さんも、酒飲みにはなれないかもしれませんが、とにかく、酒を飲む人になったほうがいい。帰りましょう。遅くなると、困るんでしょう?」
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「それでは、弟さんも、酒飲みにはなれないかも知れませんが、とにかく、酒を飲む人になったほうがいい。帰りましょう。おそくなると、困るんでしょう?」
「いいえ、かまわないんですの」
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「いいえ、かまわないんですの」
「いや、実は、こっちが窮屈でいけねえんだ。ねえさん! お会計!」
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「いや、実は、こっちが窮屈でいけねえんだ。ねえさん! 会計!」
「うんと高いのでしょうか。少しなら、私、持っているんですけど」
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「うんと高いのでしょうか。少しなら、私、持っているんですけど」
「そう。そんなら、お会計は、あなただ」
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「そう。そんなら、会計は、あなただ」
「足りないかもしれませんわ」
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「足りないかも知れませんわ」
私は、バッグの中を見て、お金がいくらあるかを上原さんに教えた。
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私は、バッグの中を見て、お金がいくらあるかを上原さんに教えた。
「それだけあれば、もう二、三軒飲める。ばかにしてやがる」
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「それだけあれば、もう二、三軒飲める。馬鹿にしてやがる」
上原さんは顔をしかめて言って、それから笑った。
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上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。
「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか?」
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「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか?」
と、たずねたら、まじめに首を振って、
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と、おたずねしたら、まじめに首を振って、
「いや、もうたくさん。タクシーを拾ってあげますから、お帰りなさい」
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「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい」
私たちは、地下室の暗い階段をのぼっていった。
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私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。
一歩先にのぼっていく上原さんが、階段の途中で、くるりとこちらを向いて、素早く私にキスをした。
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一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。
私はくちびるを固く閉じたまま、それを受けた。
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私は唇を固く閉じたまま、それを受けた。
特に何も、上原さんを好きだったわけではなかったのに、それでも、そのときから私に、あの『ひめごと』
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べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」
が出来てしまったのだ。
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が出来てしまったのだ。
かたかたかたと、上原さんは走って階段をのぼっていき、私は不思議な、透きとおった気分で、ゆっくりのぼって、外へ出たら、川風がほおにとても気持ちよかった。
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かたかたかたと、上原さんは走って階段を上って行って、私は不思議な透明な気分で、ゆっくり上って、外へ出たら、川風が頬にとても気持よかった。
上原さんに、タクシーを拾ってもらい、私たちは黙って別れた。
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上原さんに、タキシーを拾っていただいて、私たちは黙ってわかれた。
車にゆられながら、私は世の中が急に海のように広くなったような気がした。
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車にゆられながら、私は世間が急に海のようにひろくなったような気持がした。
「私には、恋人があるの」
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「私には、恋人があるの」
ある日、私は、夫からお小言を言われてさびしくなって、ふっとそう言った。
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或る日、私は、夫からおこごとをいただいて淋しくなって、ふっとそう言った。
「知っています。細田でしょう? どうしても、あきらめることができないのですか?」
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「知っています。細田でしょう? どうしても、思い切る事が出来ないのですか?」
私は黙っていた。
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私は黙っていた。
その問題が、何か気まずいことが起こるたびに、私たち夫婦のあいだに持ち出されるようになった。
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その問題が、何か気まずい事の起る度毎に、私たち夫婦の間に持ち出されるようになった。
もうこれは、だめなんだ、と私は思った。
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もうこれは、だめなんだ、と私は思った。
ドレスの生地を切り間違えたときみたいに、もうその生地は縫い合わせることもできず、全部捨てて、また別の新しい生地の裁断に取りかからなければならない。
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ドレスの生地を間違って裁断した時みたいに、もうその生地は縫い合せる事も出来ず、全部捨てて、また別の新しい生地の裁断にとりかからなければならぬ。
「まさか、その、おなかの子は」
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「まさか、その、おなかの子は」
とある夜、夫に言われたときには、私はあまりに恐ろしくて、がたがた震えた。
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と或る夜、夫に言われた時には、私はあまりおそろしくて、がたがた震えた。
いま思うと、私も夫も、若かったのだ。
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いま思うと、私も夫も、若かったのだ。
私は、恋も知らなかった。
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私は、恋も知らなかった。
愛、さえ、わからなかった。
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愛、さえ、わからなかった。
私は、細田さまの描く絵に夢中になって、『あんな方の奥さまになったら、どんなに、まあ、美しい日常生活を送ることができるでしょう』『あんな趣味のいい方と結婚するのでなければ、結婚なんて意味がないわ』と、私は誰にでも言いふらしていた。そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、恋も愛もわからず、平気で細田さまを好きだということを言いふらし、取り消そうともしなかったので、へんにこじれて、そのころ私のおなかで眠っていた小さい赤ちゃんまで、夫の疑いの目を向けられたりして、誰ひとり離婚をはっきり言い出した人もいなかったのに、いつのまにか周りがよそよそしくなっていった。私は付き添いのお関さんと一緒に実家のお母さ
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私は、細田さまのおかきになる絵に夢中になって、あんなお方の奥さまになったら、どんなに、まあ、美しい日常生活を営むことが出来るでしょう、あんなよい趣味のお方と結婚するのでなければ、結婚なんて無意味だわ、と私は誰にでも言いふらしていたので、そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、恋も愛もわからず、平気で細田さまを好きだという事を公言し、取消そうともしなかったので、へんにもつれて、その頃、私のおなかで眠っていた小さい赤ちゃんまで、夫の疑惑の的になったりして、誰ひとり離婚などあらわに言い出したお方もいなかったのに、いつのまにやら周囲が白々しくなっていって、私は附き添いのお関さんと一緒に里のお母さ
まのところに帰り、それから、赤ちゃんが死んで生まれて、私は病気になって寝込んで、もう、山木家との縁は、それっきりになってしまったのだ。
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まのところに帰って、それから、赤ちゃんが死んで生れて、私は病気になって寝込んで、もう、山木との間は、それっきりになってしまったのだ。
直治は、私が離婚になったことに、何か責任のようなものを感じたのか、『僕は死ぬよ』と言って、わあわあ声を上げて、顔がくずれてしまうくらいに泣いた。
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直治は、私が離婚になったという事に、何か責任みたいなものを感じたのか、僕は死ぬよ、と言って、わあわあ声を挙げて、顔が腐ってしまうくらいに泣いた。
私は弟に、薬屋の借りがいくらになっているのかたずねてみたら、それは恐ろしいほどの金額だった。
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私は弟に、薬屋の借りがいくらになっているのかたずねてみたら、それはおそろしいほどの金額であった。
しかも、それは弟が本当の金額を言えなくて、うそをついていたのが、あとでわかった。
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しかも、それは弟が実際の金額を言えなくて、嘘をついていたのがあとでわかった。
あとでわかった本当の合計金額は、そのとき弟が私に教えた金額の約三倍近くあったのである。
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あとで判明した実際の総額は、その時に弟が私に教えた金額の約三倍ちかくあったのである。
「私、上原さんに会ったわ。いい方ね。これから、上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう? お酒って、とても安いものじゃないの。お酒のお金くらいだったら、私いつでもあなたにあげるわ。薬屋の支払いのことも、心配しないで。どうにか、なるわよ」
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「私、上原さんに逢ったわ。いいお方ね。これから、上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう? お酒って、とても安いものじゃないの。お酒のお金くらいだったら、私いつでもあなたにあげるわ。薬屋の払いの事も、心配しないで。どうにか、なるわよ」
私が上原さんに会って、そうして上原さんをいい方だと言ったのが、弟を何だかひどく喜ばせたようで、弟は、その夜、私からお金をもらって早速、上原さんのところに遊びに行った。
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私が上原さんと逢って、そうして上原さんをいいお方だと言ったのが、弟を何だかひどく喜ばせたようで、弟は、その夜、私からお金をもらって早速、上原さんのところに遊びに行った。
中毒というのは、それこそ、心の病気なのかもしれない。
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中毒は、それこそ、精神の病気なのかも知れない。
私が上原さんをほめて、そうして弟から上原さんの本を借りて読んで、『えらい方ねえ』などと言うと、弟は、『姉さんなんかにわかるもんか』と言いながらも、とてもうれしそうに、『じゃあこれを読んでごらん』とまた別の上原さんの本を私に読ませた。そのうちに私も上原さんの小説を本気で読むようになって、二人であれこれ上原さんのうわさなどをして、弟は毎晩のように上原さんのところに大威張りで遊びに行き、だんだん上原さんの計画どおりにお酒のほうへ切りかわっていったようだった。
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私が上原さんをほめて、そうして弟から上原さんの著書を借りて読んで、偉いお方ねえ、などと言うと、弟は、姉さんなんかにはわかるもんか、と言って、それでも、とてもうれしそうに、じゃあこれを読んでごらん、とまた別の上原さんの著書を私に読ませ、そのうちに私も上原さんの小説を本気に読むようになって、二人であれこれ上原さんの噂などして、弟は毎晩のように上原さんのところに大威張りで遊びに行き、だんだん上原さんの御計画どおりにアルコールのほうへ転換していったようであった。
薬屋の支払いについて、私がお母さまにこっそり相談したら、お母さまは、片手で顔をおおって、しばらくじっとしていたが、やがて顔を上げてさびしそうに笑い、『考えたって仕方がないわね、何年かかるかわからないけど、毎月少しずつでも返していきましょうよ』と言った。
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薬屋の支払いに就いて、私がお母さまにこっそり相談したら、お母さまは、片手でお顔を覆いなさって、しばらくじっとしていらっしゃったが、やがてお顔を挙げて淋しそうにお笑いになり、考えたって仕様が無いわね、何年かかるかわからないけど、毎月すこしずつでもかえして行きましょうよ、とおっしゃった。
あれから、もう、六年になる。
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あれから、もう、六年になる。
夕顔。
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夕顔。
ああ、弟も苦しいのだろう。
原文を見る
ああ、弟も苦しいのだろう。
しかも、道がふさがって、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかっていないのだろう。
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しかも、途がふさがって、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかっていないのだろう。
ただ、毎日、死ぬ気でお酒を飲んでいるのだろう。
原文を見る
ただ、毎日、死ぬ気でお酒を飲んでいるのだろう。
いっそ思い切って、本物の不良になってしまったらどうだろう。
原文を見る
いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう。
そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。
原文を見る
そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。
不良でない人間があるだろうか、とあのノートに書かれていたけれど、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われてくる。
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不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。
不良とは、やさしさのことではないかしら。
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不良とは、優しさの事ではないかしら。
四
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四
お手紙、書こうか、どうしようか、ずいぶん迷っていました。
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お手紙、書こうか、どうしようか、ずいぶん迷っていました。
けれども、けさ、『鳩のようにすなおに、蛇のようにかしこくありなさい』というイエスさまの言葉をふと思い出し、不思議と元気が出て、お手紙を差し上げることにしました。
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けれども、けさ、鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ、というイエスの言葉をふと思い出し、奇妙に元気が出て、お手紙を差し上げる事にしました。
直治の姉でございます。
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直治の姉でございます。
お忘れかしら。
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お忘れかしら。
お忘れだったら、思い出して下さい。
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お忘れだったら、思い出して下さい。
直治が、このあいだまたお邪魔にあがって、ずいぶんご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません。
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直治が、こないだまたお邪魔にあがって、ずいぶんごやっかいを、おかけしたようで、相すみません。
(でも、本当は、直治のことは、直治の勝手なのだから、私が出しゃばっておわびをするのも、意味のないことのような気もするのです。)
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(でも、本当は、直治の事は、それは直治の勝手で、私が差し出ておわびをするなど、ナンセンスみたいな気もするのです。)
きょうは、直治の事でなく、私の事で、お願いがあるのです。
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きょうは、直治の事でなく、私の事で、お願いがあるのです。
京橋のアパートで戦争の被害にあわれて、それから今のご住所にお移りになったことを直治から聞きまして、よっぽど東京の郊外のそのお宅にお伺いしようかと思ったのですが、お母さまがこのあいだからまた少し具合が悪く、お母さまをほうっておいて東京に行くことは、どうしてもできませぬので、それで、お手紙で申し上げることにいたしました。
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京橋のアパートで罹災なさって、それから今の御住所にお移りになった事を直治から聞きまして、よっぽど東京の郊外のそのお宅にお伺いしようかと思ったのですが、お母さまがこないだからまた少しお加減が悪く、お母さまをほっといて上京する事は、どうしても出来ませぬので、それで、お手紙で申し上げる事に致しました。
あなたに、御相談してみたい事があるのです。
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あなたに、御相談してみたい事があるのです。
私のこの相談は、これまでの『女大学』
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私のこの相談は、これまでの「女大学」
(女の生き方の古い教えの本)の立場から見ると、とてもずるくて、けがらわしくて、悪質な罪でさえあるかもしれませんが、けれども私は、いいえ、私たちは、いまのままでは、とても生きていけそうもありませんので、弟の直治がこの世で一番尊敬しているらしいあなたに、私の偽らない気持ちを聞いていただき、お考えをうかがうつもりなのです。
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の立場から見ると、非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪でさえあるかも知れませんが、けれども私は、いいえ、私たちは、いまのままでは、とても生きて行けそうもありませんので、弟の直治がこの世で一ばん尊敬しているらしいあなたに、私のいつわらぬ気持を聞いていただき、お指図をお願いするつもりなのです。
私には、いまの生活が、たまらないのです。
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私には、いまの生活が、たまらないのです。
好き、きらいどころではなく、とても、このままでは私たち親子三人、生きていけそうもないのです。
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すき、きらいどころではなく、とても、このままでは私たち親子三人、生きて行けそうもないのです。
昨日も、苦しくて、体も熱っぽく、息苦しくて、自分をもてあましていましたら、お昼少し過ぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負って持ってきました。
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昨日も、くるしくて、からだも熱っぽく、息ぐるしくて、自分をもてあましていましたら、お昼すこしすぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負って持って来ました。
そうして私のほうから、約束どおりの衣類を差し上げました。
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そうして私のほうから、約束どおりの衣類を差し上げました。
娘さんは、食堂で私と向かい合って腰かけてお茶を飲みながら、とても現実的な口調で、
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娘さんは、食堂で私と向い合って腰かけてお茶を飲みながら、じつに、リアルな口調で、
「あなた、物を売って、これから先、どのくらい暮らしていけるの?」
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「あなた、ものを売って、これから先、どのくらい生活して行けるの?」
と言いました。
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と言いました。
「半年か、一年くらい」
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「半歳か、一年くらい」
と私は答えました。
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と私は答えました。
そうして、右手で半分ばかり顔をかくして、
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そうして、右手で半分ばかり顔をかくして、
「眠いの。眠くて、仕方がないの」
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「眠いの。眠くて、仕方がないの」
と言いました。
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と言いました。
「疲れているのよ。眠くなる神経衰弱でしょう」
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「疲れているのよ。眠くなる神経衰弱でしょう」
「そうでしょうね」
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「そうでしょうね」
涙が出そうで、ふと私の胸の中に、リアリズム(現実主義)という言葉と、ロマンチシズム(理想主義)という言葉が浮かんできました。
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涙が出そうで、ふと私の胸の中に、リアリズムという言葉と、ロマンチシズムという言葉が浮んで来ました。
私に、現実を見る力は、ありません。
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私に、リアリズムは、ありません。
こんな調子で、生きていけるのかしら、と思ったら、全身に寒気を感じました。
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こんな具合いで、生きて行けるのかしら、と思ったら、全身に寒気を感じました。
お母さまは、半分病人のようで、寝たり起きたりですし、弟は、ご存じのように心の大病人で、こちらにいるときは、焼酎を飲みに、この近所の宿屋と料理屋を兼ねた家へ毎日出かけていて、三日に一度は、私たちの衣類を売ったお金を持って東京のほうへ出かけています。
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お母さまは、半分御病人のようで、寝たり起きたりですし、弟は、ご存じのように心の大病人で、こちらにいる時は、焼酎を飲みに、この近所の宿屋と料理屋とをかねた家へ御精勤で、三日にいちどは、私たちの衣類を売ったお金を持って東京方面へ御出張です。
でも、苦しいのは、こんなことではありません。
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でも、くるしいのは、こんな事ではありません。
私はただ、私自身の命が、こんな毎日の暮らしの中で、バショウの葉が散らないで腐っていくように、立ちつくしたまま自然と腐っていくのを、はっきりと感じてしまうのが、恐ろしいのです。
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私はただ、私自身の生命が、こんな日常生活の中で、芭蕉の葉が散らないで腐って行くように、立ちつくしたままおのずから腐って行くのをありありと予感せられるのが、おそろしいのです。
とても、たまらないのです。
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とても、たまらないのです。
だから私は、『女大学』
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だから私は、「女大学」
にそむいても、いまの生活から逃げ出したいのです。
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にそむいても、いまの生活からのがれ出たいのです。
それで、私、あなたに、相談いたします。
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それで、私、あなたに、相談いたします。
私は、いま、お母さまや弟に、はっきり宣言したいのです。
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私は、いま、お母さまや弟に、はっきり宣言したいのです。
私が前から、ある方に恋をしていて、私は将来、その方の愛人として暮らすつもりだということを、はっきり言ってしまいたいのです。
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私が前から、或るお方に恋をしていて、私は将来、そのお方の愛人として暮らすつもりだという事を、はっきり言ってしまいたいのです。
その方は、あなたもたしかご存じのはずです。
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そのお方は、あなたもたしかご存じの筈です。
その方の名前のイニシャルは、M・Cでございます。
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そのお方のお名前のイニシャルは、M・Cでございます。
私は前から、何か苦しいことが起こると、そのM・Cのところに飛んでいきたくて、恋いこがれて死にそうな思いをしてきたのです。
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私は前から、何か苦しい事が起ると、そのM・Cのところに飛んで行きたくて、こがれ死にをするような思いをして来たのです。
M・Cには、あなたと同じように、奥さまもお子さまもございます。
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M・Cには、あなたと同じ様に、奥さまもお子さまもございます。
また、私より、もっときれいで若い、女の友達もあるようです。
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また、私より、もっと綺麗で若い、女のお友達もあるようです。
けれども私は、M・Cのところへ行くよりほかに、私の生きる道がない気持ちなのです。
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けれども私は、M・Cのところへ行くより他に、私の生きる途が無い気持なのです。
M・Cの奥さまとは、私はまだ会ったことがありませんけれど、とてもやさしくてよい方のようでございます。
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M・Cの奥さまとは、私はまだ逢った事がありませんけれども、とても優しくてよいお方のようでございます。
私は、その奥さまのことを考えると、自分を恐ろしい女だと思います。
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私は、その奥さまの事を考えると、自分をおそろしい女だと思います。
けれども、私のいまの生活は、それ以上に恐ろしいもののような気がして、M・Cにたよることをやめられないのです。
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けれども、私のいまの生活は、それ以上におそろしいもののような気がして、M・Cにたよる事を止せないのです。
鳩のようにすなおに、蛇のようにかしこく、私は、私の恋をなしとげたいと思います。
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鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧く、私は、私の恋をしとげたいと思います。
でも、きっと、お母さまも、弟も、また世間の人たちも、誰ひとり私に賛成して下さらないでしょう。
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でも、きっと、お母さまも、弟も、また世間の人たちも、誰ひとり私に賛成して下さらないでしょう。
あなたは、いかがでしょう。
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あなたは、いかがです。
私は結局、ひとりで考えて、ひとりで行動するよりほかはないのだ、と思うと、涙が出てきます。
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私は結局、ひとりで考えて、ひとりで行動するより他は無いのだ、と思うと、涙が出て来ます。
生まれてはじめてのことなのですから。
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生れて初めての、ことなのですから。
この、むずかしいことを、まわりのみんなから祝福されてやりとげる方法はないものかしら、と、ひどくややこしい数学の問題の答えを考えるように、じっと考えこんで、どこか一箇所、ぱらぱらときれいに解けていく糸口があるような気がしてきて、急に元気になったりしているのです。
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この、むずかしいことを、周囲のみんなから祝福されてしとげる法はないものかしら、とひどくややこしい代数の因数分解か何かの答案を考えるように、思いをこらして、どこかに一箇所、ぱらぱらと綺麗に解きほぐれる糸口があるような気持がして来て、急に陽気になったりなんかしているのです。
けれども、かんじんのM・Cのほうで、私をどう思っているのか。
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けれども、かんじんのM・Cのほうで、私をどう思っていらっしゃるのか。
それを考えると、しょげてしまいます。
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それを考えると、しょげてしまいます。
いわば、私は、押しかけ、………なんと言えばいいのかしら、押しかけ女房と言ってもおかしいし、押しかけ愛人、とでも言おうかしら、そんなものなのですから、M・Cのほうでどうしても、いやだと言ったら、それっきりです。
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謂わば、私は、押しかけ、………なんというのかしら、押しかけ女房といってもいけないし、押しかけ愛人、とでもいおうかしら、そんなものなのですから、M・Cのほうでどうしても、いやだといったら、それっきり。
だから、あなたにお願いします。
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だから、あなたにお願いします。
どうか、あの方に、あなたから聞いてみて下さい。
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どうか、あのお方に、あなたからきいてみて下さい。
六年前のある日、私の胸にかすかな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれど、年月がたつほど、その虹はあざやかに色の濃さを増してきて、私はいままで一度も、それを見失ったことはございませんでした。
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六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。
夕立が晴れた空にかかる虹は、やがてはかなく消えてしまいますけれど、人の胸にかかった虹は、消えないもののようでございます。
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夕立の晴れた空にかかる虹は、やがてはかなく消えてしまいますけど、ひとの胸にかかった虹は、消えないようでございます。
どうぞ、あの方に、聞いてみて下さい。
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どうぞ、あのお方に、きいてみて下さい。
あの方は、本当に、私を、どう思っていたのでしょう。
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あのお方は、ほんとに、私を、どう思っていらっしゃったのでしょう。
それこそ、雨上がりの空の虹みたいに、思っていたのでしょうか。
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それこそ、雨後の空の虹みたいに、思っていらっしゃったのでしょうか。
そうして、とっくに消えてしまったものだと?
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そうして、とっくに消えてしまったものと?
それなら、私も、私の虹を消してしまわなければなりません。
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それなら、私も、私の虹を消してしまわなければなりません。
けれども、私の命を先に消さなければ、私の胸の虹は消えそうもございません。
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けれども、私の生命をさきに消さなければ、私の胸の虹は消えそうもございません。
お返事を、お待ちしています。
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御返事を、祈っています。
上原二郎様(私のチェーホフ。
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上原二郎様(私のチェホフ。
マイ・チェーホフ。
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マイ、チェホフ。
M・C)
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M・C)
私は、このごろ、少しずつ、太って行きます。
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私は、このごろ、少しずつ、太って行きます。
動物みたいな女になっていくというよりは、人間らしくなったのだと思っています。
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動物的な女になってゆくというよりは、ひとらしくなったのだと思っています。
この夏は、ロレンスという作家の小説を、一つだけ読みました。
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この夏は、ロレンスの小説を、一つだけ読みました。
お返事がないので、もういちどお手紙を差し上げます。
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御返事が無いので、もういちどお手紙を差し上げます。
このあいだ差し上げた手紙は、とてもずるい、蛇のような悪いたくらみに満ちていたのを、いちいち見破っておしまいになったのでしょう。
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こないだ差し上げた手紙は、とても、ずるい、蛇のような奸策に満ち満ちていたのを、いちいち見破っておしまいになったのでしょう。
本当に、私はあの手紙の一行一行に、ずるい知恵の限りを尽くしてみたのです。
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本当に、私はあの手紙の一行々々に狡智の限りを尽してみたのです。
結局、私はあなたに、『私の生活を助けてほしい、お金が欲しい』という意図だけの手紙だと思われたことでしょう。
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結局、私はあなたに、私の生活をたすけていただきたい、お金がほしいという意図だけ、それだけの手紙だとお思いになった事でしょう。
そうして、私もそれを否定いたしませぬけれど、しかし、ただ私が自分のお金を出してくれる人が欲しいだけなら、失礼ながら、特にあなたを選んでお願いいたしませぬ。
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そうして、私もそれを否定いたしませぬけれども、しかし、ただ私が自身のパトロンが欲しいのなら、失礼ながら、特にあなたを選んでお願い申しませぬ。
ほかにたくさん、私をかわいがって下さるお金持ちの年配の方などいるような気がします。
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他にたくさん、私を可愛がって下さる老人のお金持などあるような気がします。
現に、このあいだも、妙な縁談みたいなものがあったのです。
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げんにこないだも、妙な縁談みたいなものがあったのです。
その方の名前は、あなたもご存じかもしれませんが、六十過ぎの独身のおじいさんで、芸術院とかいうところの会員だとか何だとか、そういう有名な先生が、私をもらいにこの山荘にやってきました。
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そのお方のお名前は、あなたもご存じかも知れませんが、六十すぎた独身のおじいさんで、芸術院とかの会員だとか何だとか、そういう大師匠のひとが、私をもらいにこの山荘にやって来ました。
この先生は、私どもの西片町の家の近所に住んでいたので、私たちも隣近所のよしみで、時々会うことがありました。
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この師匠さんは、私どもの西片町のお家の近所に住んでいましたので、私たちも隣組のよしみで、時たま逢う事がありました。
いつか、あれは秋の夕暮れだったと覚えていますが、私とお母さまと二人で、車でその先生の家の前を通り過ぎたとき、その方がおひとりでぼんやりお宅の門のそばに立っていて、お母さまが車の窓からちょっと先生に会釈をしたら、その先生の気むずかしそうな青黒い顔が、ぱっと紅葉よりも赤くなりました。
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いつか、あれは秋の夕暮だったと覚えていますが、私とお母さまと二人で、自動車でその師匠さんのお家の前を通り過ぎた時、そのお方がおひとりでぼんやりお宅の門の傍に立っていらして、お母さまが自動車の窓からちょっと師匠さんにお会釈なさったら、その師匠さんの気むずかしそうな蒼黒いお顔が、ぱっと紅葉よりも赤くなりました。
「こいかしら」
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「こいかしら」
私は、はしゃいで言いました。
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私は、はしゃいで言いました。
「お母さまを、すきなのね」
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「お母さまを、すきなのね」
けれども、お母さまは落ち着いて、
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けれども、お母さまは落ちついて、
「いいえ、えらい方」
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「いいえ、偉いお方」
とひとりごとのように言いました。
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とひとりごとのように、おっしゃいました。
芸術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のようでございます。
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芸術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のようでございます。
その先生が、先年奥さまを亡くされたとかで、和田の叔父さまと謡曲(能の謡の芸)の仲間だという、ある宮家の方を通して、お母さまに申し入れをなさって、お母さまは、『かず子から思ったとおりのお返事を先生に直接差し上げたら?』
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その師匠さんが、先年奥さまをなくなさったとかで、和田の叔父さまと謡曲のお天狗仲間の或る宮家のお方を介し、お母さまに申し入れをなさって、お母さまは、かず子から思ったとおりの御返事を師匠さんに直接さしあげたら?
と言うので、私は深く考えるまでもなく、いやだったので、『私にはいま結婚するつもりはございません』ということを、何でもなくすらすらと書けました。
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とおっしゃるし、私は深く考えるまでもなく、いやなので、私にはいま結婚の意志がございません、という事を何でもなくスラスラと書けました。
「お断りしてもいいのでしょう?」
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「お断りしてもいいのでしょう?」
「そりゃもう。……私も、無理な話だと思っていたわ」
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「そりゃもう。……私も、無理な話だと思っていたわ」
そのころ、先生は軽井沢の別荘のほうにいたので、その別荘へお断りの返事を差し上げたら、それから、二日目に、その手紙と行き違いに、先生ご自身、伊豆の温泉へ仕事に来た途中でちょっと立ち寄らせていただきましたと言って、私の返事のことは何もご存じなく、出し抜けに、この山荘にお見えになったのです。
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その頃、師匠さんは軽井沢の別荘のほうにいらしたので、そのお別荘へお断りの御返事をさし上げたら、それから、二日目に、その手紙と行きちがいに、師匠さんご自身、伊豆の温泉へ仕事に来た途中でちょっと立ち寄らせていただきましたとおっしゃって、私の返事の事は何もご存じでなく、出し抜けに、この山荘にお見えになったのです。
芸術家というものは、おいくつになっても、こんな子どもみたいな気ままなことをなさるものらしいのね。
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芸術家というものは、おいくつになっても、こんな子供みたいな気ままな事をなさるものらしいのね。
お母さまは、具合が悪いので、私がお相手をして、中国間でお茶を差し上げ、
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お母さまは、お加減がわるいので、私が御相手に出て、支那間でお茶を差し上げ、
「あの、お断りの手紙、いまごろ軽井沢のほうに着いていることと存じます。私、よく考えましたのですけど」
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「あの、お断りの手紙、いまごろ軽井沢のほうに着いている事と存じます。私、よく考えましたのですけど」
と言いました。
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と申し上げました。
「そうですか」
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「そうですか」
とせかせかした調子で言って、汗をふき、
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とせかせかした調子でおっしゃって、汗をお拭きになり、
「でも、それは、もう一度、よくお考えになってみて下さい。私は、あなたを、何と言ったらいいか、いわば精神的には幸福を与えることができないかもしれないが、その代わり、物質的にはどんなにでも幸福にしてあげることができる。これだけは、はっきり言えます。まあ、率直な話ですが」
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「でも、それは、もう一度、よくお考えになってみて下さい。私は、あなたを、何と言ったらいいか、謂わば精神的には幸福を与える事が出来ないかも知れないが、その代り、物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出来る。これだけは、はっきり言えます。まあ、ざっくばらんの話ですが」
「お言葉の、その、幸福というのが、私にはよくわかりません。生意気を申し上げるようですけど、ごめんなさい。チェーホフが妻への手紙に、子どもを生んでおくれ、私たちの子どもを生んでおくれ、って書いてございましたわね。ニーチェという人のエッセイの中にも、子どもを生ませたいと思う女、という言葉がございましたわ。私、子どもがほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだっていいのですの。お金もほしいけど、子どもを育てていけるだけのお金があったら、それでたくさんですわ」
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「お言葉の、その、幸福というのが、私にはよくわかりません。生意気を申し上げるようですけど、ごめんなさい。チェホフの妻への手紙に、子供を生んでおくれ、私たちの子供を生んでおくれ、って書いてございましたわね。ニイチェだかのエッセイの中にも、子供を生ませたいと思う女、という言葉がございましたわ。私、子供がほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだっていいのですの。お金もほしいけど、子供を育てて行けるだけのお金があったら、それでたくさんですわ」
先生は、変な笑い方をして、
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師匠さんは、へんな笑い方をなさって、
「あなたは、珍しい方ですね。誰にでも、思ったとおりを言える方だ。あなたのような方と一緒にいると、私の仕事にも新しいひらめきが舞い下りてくるかもしれない」
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「あなたは、珍らしい方ですね。誰にでも、思ったとおりを言える方だ。あなたのような方と一緒にいると、私の仕事にも新しい霊感が舞い下りて来るかも知れない」
と、年に似合わず、ちょっとかっこうつけたようなことを言いました。
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と、おとしに似合わず、ちょっと気障みたいな事を言いました。
こんなえらい芸術家の仕事を、もし本当に私の力で若返らせることができたら、それも生きがいのあることに違いない、とも思いましたが、けれども、私は、その先生に抱かれる自分の姿を、どうしても想像することができなかったのです。
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こんな偉い芸術家のお仕事を、もし本当に私の力で若返らせる事が出来たら、それも生き甲斐のある事に違いない、とも思いましたが、けれども、私は、その師匠さんに抱かれる自分の姿を、どうしても考えることが出来なかったのです。
「私に、恋の心がなくてもいいのでしょうか?」
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「私に、恋のこころが無くてもいいのでしょうか?」
と私は少し笑ってたずねたら、先生はまじめに、
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と私は少し笑っておたずねしたら、師匠さんはまじめに、
「女の方は、それでいいんです。女の人は、ぼんやりしていて、いいんですよ」
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「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしていて、いいんですよ」
と言います。
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とおっしゃいます。
「でも、私みたいな女は、やっぱり、恋の心がなくては、結婚を考えられないのです。私、もう、大人なんですもの。来年は、もう、三十」
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「でも、私みたいな女は、やっぱり、恋のこころが無くては、結婚を考えられないのです。私、もう、大人なんですもの。来年は、もう、三十」
と言って、思わず口をおおいたいような気がしました。
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と言って、思わず口を覆いたいような気持がしました。
三十。
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三十。
女には、二十九までは若い娘の香りが残っている。
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女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。
しかし、三十の女の体には、もう、どこにも、若い娘の香りがない、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれないさびしさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。
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しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。
あの小説を読んだときには、そりゃそうだろうと軽く受け入れて、澄ましていた。
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あの小説を読んだ時には、そりゃそうだろうと軽く肯定して澄ましていた。
三十歳までで、女の生活は終わりになると平気でそう思っていたあのころが、なつかしい。
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三十歳までで、女の生活は、おしまいになると平気でそう思っていたあの頃がなつかしい。
腕輪、首飾り、ドレス、帯、ひとつひとつ私の体のまわりから消えてなくなっていくにつれて、私の体の若い娘の香りも次第に薄れていったのでしょう。
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腕輪、頸飾り、ドレス、帯、ひとつひとつ私のからだの周囲から消えて無くなって行くに従って、私のからだの乙女の匂いも次第に淡くうすれて行ったのでしょう。
まずしい、中年の女。
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まずしい、中年の女。
おお、いやだ。
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おお、いやだ。
でも、中年の女の生活にも、女の生活が、やっぱり、あるんですのね。
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でも、中年の女の生活にも、女の生活が、やっぱり、あるんですのね。
このごろ、それがわかってきました。
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このごろ、それがわかって来ました。
イギリス人の女の先生が、イギリスにお帰りのとき、十九の私にこう言ったのを覚えています。
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英人の女教師が、イギリスにお帰りの時、十九の私にこうおっしゃったのを覚えています。
「あなたは、恋をなさっては、いけません。あなたは、恋をしたら、不幸になります。恋を、なさるなら、もっと、大きくなってからになさい。三十になってからになさい」
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「あなたは、恋をなさっては、いけません。あなたは、恋をしたら、不幸になります。恋を、なさるなら、もっと、大きくなってからになさい。三十になってからになさい」
けれども、そう言われても私は、きょとんとしていました。
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けれども、そう言われても私は、きょとんとしていました。
三十になってからのことなど、そのころの私には、想像も何もできないことでした。
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三十になってからの事など、その頃の私には、想像も何も出来ないことでした。
「この別荘を、お売りになるとかいううわさを聞きましたが」
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「このお別荘を、お売りになるとかいう噂を聞きましたが」
先生は、意地悪そうな表情で、ふいとそう言いました。
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師匠さんは、意地わるそうな表情で、ふいとそうおっしゃいました。
私は笑いました。
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私は笑いました。
「ごめんなさい。『桜の園』を思い出したのです。あなたが、お買いになって下さるのでしょう?」
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「ごめんなさい。桜の園を思い出したのです。あなたが、お買いになって下さるのでしょう?」
先生は、さすがに敏感に察したようで、怒ったように口をゆがめて黙りました。
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師匠さんは、さすがに敏感にお察しになったようで、怒ったように口をゆがめて黙しました。
ある宮様の住まいとして、新円五十万円でこの家をどうこうという話があったのも事実ですが、それは立ち消えになり、そのうわさでも先生は聞き込んだのでしょう。
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或る宮様のお住居として、新円五十万円でこの家を、どうこうという話があったのも事実ですが、それは立ち消えになり、その噂でも師匠さんは聞き込んだのでしょう。
でも、『桜の園』のロパーヒンみたいに私どもに思われているのではたまらないと、すっかり機嫌を悪くした様子で、そのあと、世間話を少ししてお帰りになってしまいました。
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でも、桜の園のロパーヒンみたいに私どもに思われているのではたまらないと、すっかりお機嫌を悪くした様子で、あと、世間話を少ししてお帰りになってしまいました。
私がいま、あなたに求めているものは、ロパーヒンではございません。
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私がいま、あなたに求めているものは、ロパーヒンではございません。
それは、はっきり言えるんです。
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それは、はっきり言えるんです。
ただ、中年の女の押しかけを、引き受けて下さい。
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ただ、中年の女の押しかけを、引受けて下さい。
私がはじめて、あなたとお会いしたのは、もう六年くらい昔のことでした。
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私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。
あのときには、私はあなたという人について何も知りませんでした。
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あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。
ただ、弟の先生、それもいくぶん悪い先生、そう思っていただけでした。
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ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。
そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いいたずらをなさったでしょう。
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そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。
けれども、私は平気でした。
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けれども、私は平気でした。
ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。
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ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。
あなたを、好きでもきらいでも、なんでもなかったのです。
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あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。
そのうちに、弟のご機嫌をとるために、あなたの本を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつのころからか、あなたのことが霧のように私の胸にしみこんでいたのです。
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そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に滲み込んでいたのです。
あの夜、地下室の階段で、私たちのしたことも、急にいきいきとあざやかに思い出されてきて、なんだかあれは、私の運命を決めるほどの大事なことだったような気がして、あなたが恋しくて、これが、恋かもしれないと思ったら、とても心細くたよりなく、ひとりでめそめそ泣きました。
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あの夜、地下室の階段で、私たちのした事も、急にいきいきとあざやかに思い出されて来て、なんだかあれは、私の運命を決定するほどの重大なことだったような気がして、あなたがしたわしくて、これが、恋かも知れぬと思ったら、とても心細くたよりなく、ひとりでめそめそ泣きました。
あなたは、他の男の人と、まるで全然違っています。
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あなたは、他の男のひとと、まるで全然ちがっています。
私は、『かもめ』
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私は、「かもめ」
のニーナのように、作家に恋しているのではありません。
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のニーナのように、作家に恋しているのではありません。
私は、小説家などにあこがれてはいないのです。
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私は、小説家などにあこがれてはいないのです。
文学少女、などとお思いになったら、こちらも、まごつきます。
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文学少女、などとお思いになったら、こちらも、まごつきます。
私は、あなたの赤ちゃんがほしいのです。
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私は、あなたの赤ちゃんがほしいのです。
もっとずっと前に、あなたがまだおひとりのときに、そして私もまだ山木に行かないときにお会いして、二人が結婚していたら、私もいまみたいに苦しまずにすんだのかもしれませんが、私はもうあなたとの結婚はできないものとあきらめています。
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もっとずっと前に、あなたがまだおひとりの時、そうして私もまだ山木へ行かない時に、お逢いして、二人が結婚していたら、私もいまみたいに苦しまずにすんだのかも知れませんが、私はもうあなたとの結婚は出来ないものとあきらめています。
あなたの奥さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんです。
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あなたの奥さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんです。
私は、おめかけ、(この言葉、言いたくなくてたまらないのですけど、でも、愛人、と言ってみたところで、俗に言えば、おめかけに違いないのですから、はっきり、言うわ)それだって、かまわないんです。
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私は、おメカケ、(この言葉、言いたくなくて、たまらないのですけど、でも、愛人、と言ってみたところで、俗に言えば、おメカケに違いないのですから、はっきり、言うわ)それだって、かまわないんです。
でも、世間普通のおめかけの生活って、むずかしいものらしいのね。
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でも、世間普通のお妾の生活って、むずかしいものらしいのね。
人の話では、おめかけは普通、用がなくなると、捨てられるものですって。
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人の話では、お妾は普通、用が無くなると、捨てられるものですって。
六十近くなると、どんな男の方でも、みんな、本妻のところへお戻りになるんですって。
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六十ちかくなると、どんな男のかたでも、みんな、本妻の所へお戻りになるんですって。
ですから、おめかけにだけはなるものじゃないって、西片町のじいやと乳母が話し合っているのを、聞いたことがあるんです。
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ですから、お妾にだけはなるものじゃないって、西片町のじいやと乳母が話合っているのを、聞いた事があるんです。
でも、それは、世間普通のおめかけのことで、私たちの場合は、違うような気がします。
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でも、それは、世間普通のお妾のことで、私たちの場合は、ちがうような気がします。
あなたにとって、一番、大事なのは、やはり、あなたのお仕事だと思います。
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あなたにとって、一番、大事なのは、やはり、あなたのお仕事だと思います。
そうして、あなたが、私を好きだったら、二人が仲よくすることが、お仕事のためにもいいでしょう。
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そうして、あなたが、私をおすきだったら、二人が仲よくする事が、お仕事のためにもいいでしょう。
すると、あなたの奥さまも、私たちのことを納得して下さいます。
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すると、あなたの奥さまも、私たちの事を納得して下さいます。
へんな、こじつけの理屈みたいだけど、でも、私の考えは、どこも間違っていないと思うわ。
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へんな、こじつけの理窟みたいだけど、でも、私の考えは、どこも間違っていないと思うわ。
問題は、あなたのお返事だけです。
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問題は、あなたの御返事だけです。
私を、好きなのか、きらいなのか、それとも、なんともないのか、そのお返事、とても恐ろしいのだけれど、でも、うかがわなければなりません。
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私を、すきなのか、きらいなのか、それとも、なんともないのか、その御返事、とてもおそろしいのだけれども、でも、伺わなければなりません。
このあいだの手紙にも、私、押しかけ愛人、と書き、また、この手紙にも、中年の女の押しかけ、などと書きましたが、いまよく考えてみましたら、あなたからのお返事がなければ、私、押しかけようにも、何も、手がかりがなく、ひとりでぼんやりやせていくだけでしょう。
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こないだの手紙にも、私、押しかけ愛人、と書き、また、この手紙にも、中年の女の押しかけ、などと書きましたが、いまよく考えてみましたら、あなたからの御返事が無ければ、私、押しかけようにも、何も、手がかりが無く、ひとりでぼんやり痩せて行くだけでしょう。
やはりあなたの何か言葉がなければ、だめだったんです。
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やはりあなたの何かお言葉が無ければ、ダメだったんです。
いまふっと思ったことでございますが、あなたは、小説ではずいぶん恋の冒険みたいなことをお書きになり、世間からもひどい悪者のようにうわさをされていながら、本当は、常識家なんでしょう。
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いまふっと思った事でございますが、あなたは、小説ではずいぶん恋の冒険みたいな事をお書きになり、世間からもひどい悪漢のように噂をされていながら、本当は、常識家なんでしょう。
私には、常識ということが、わからないんです。
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私には、常識という事が、わからないんです。
好きなことができさえすれば、それはいい生活だと思います。
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すきな事が出来さえすれば、それはいい生活だと思います。
私は、あなたの赤ちゃんを生みたいのです。
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私は、あなたの赤ちゃんを生みたいのです。
他の人の赤ちゃんは、どんなことがあっても、生みたくないんです。
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他のひとの赤ちゃんは、どんな事があっても、生みたくないんです。
それで、私は、あなたに相談をしているのです。
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それで、私は、あなたに相談をしているのです。
おわかりになりましたら、お返事を下さい。
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おわかりになりましたら、御返事を下さい。
あなたのお気持ちを、はっきり、お知らせ下さい。
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あなたのお気持を、はっきり、お知らせ下さい。
雨があがって、風が吹き出しました。
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雨があがって、風が吹き出しました。
いま午後三時です。
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いま午後三時です。
これから、一級酒(六合)の配給をもらいに行きます。
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これから、一級酒(六合)の配給を貰いに行きます。
ラム酒の瓶を二本、袋に入れて、胸のポケットに、この手紙を入れて、もう十分ばかりしたら、下の村に出かけます。
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ラム酒の瓶を二本、袋にいれて、胸のポケットに、この手紙をいれて、もう十分ばかりしたら、下の村に出かけます。
このお酒は、弟に飲ませません。
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このお酒は、弟に飲ませません。
かず子が飲みます。
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かず子が飲みます。
毎晩、コップで一杯ずついただきます。
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毎晩、コップで一ぱいずついただきます。
お酒は、本当は、コップで飲むものですわね。
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お酒は、本当は、コップで飲むものですわね。
こちらに、いらっしゃいません?
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こちらに、いらっしゃいません?
M・C様
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M・C様
きょうも雨降りになりました。
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きょうも雨降りになりました。
目に見えないような霧雨が降っているのです。
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目に見えないような霧雨が降っているのです。
毎日毎日、外出もしないでお返事をお待ちしているのに、とうとうきょうまでおたよりがございませんでした。
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毎日々々、外出もしないで御返事をお待ちしているのに、とうとうきょうまでおたよりがございませんでした。
いったいあなたは、何をお考えになっているのでしょう。
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いったいあなたは、何をお考えになっているのでしょう。
このあいだの手紙で、あの有名な先生のことなど書いたのが、いけなかったのかしら。
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こないだの手紙で、あの大師匠さんの事など書いたのが、いけなかったのかしら。
こんな縁談なんかを書いて、競争心をかき立てようとしていやがる、とでもお思いになったのでしょうか。
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こんな縁談なんかを書いて、競争心をかき立てようとしていやがる、とでもお思いになったのでしょうか。
でも、あの縁談は、もうあれっきりだったのです。
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でも、あの縁談は、もうあれっきりだったのです。
さっきも、お母さまと、その話をして笑いました。
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さっきも、お母さまと、その話をして笑いました。
お母さまは、このあいだ舌の先が痛いと言って、直治にすすめられて、美学療法をして、その療法によって、舌の痛みもとれて、このごろはちょっと元気なのです。
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お母さまは、こないだ舌の先が痛いとおっしゃって、直治にすすめられて、美学療法をして、その療法に依って、舌の痛みもとれて、この頃はちょっとお元気なのです。
さっき私が縁側に立って、渦を巻きながら吹かれていく霧雨をながめながら、あなたのお気持ちのことを考えていましたら、
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さっき私がお縁側に立って、渦を巻きつつ吹かれて行く霧雨を眺めながら、あなたのお気持の事を考えていましたら、
「ミルクをわかしたから、いらっしゃい」
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「ミルクを沸したから、いらっしゃい」
とお母さまが食堂のほうから呼びました。
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とお母さまが食堂のほうからお呼びになりました。
「寒いから、うんと熱くしてみたの」
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「寒いから、うんと熱くしてみたの」
私たちは、食堂で湯気の立っている熱いミルクをいただきながら、先日の先生のことを話し合いました。
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私たちは、食堂で湯気の立っている熱いミルクをいただきながら、先日の師匠さんの事を話合いました。
「あの方と、私とは、そもそも何も似合いませんでしょう?」
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「あの方と、私とは、どだい何も似合いませんでしょう?」
お母さまは平気で、
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お母さまは平気で、
「似合わない」
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「似合わない」
と言いました。
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とおっしゃいました。
「私、こんなにわがままだし、それに芸術家というものがきらいじゃないし、おまけに、あの方にはたくさんの収入があるらしいし、あんな方と結婚したら、そりゃいいと思うわ。だけど、だめなの」
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「私、こんなにわがままだし、それに芸術家というものをきらいじゃないし、おまけに、あの方にはたくさんの収入があるらしいし、あんな方と結婚したら、そりゃいいと思うわ。だけど、ダメなの」
お母さまは、笑って、
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お母さまは、お笑いになって、
「かず子は、いけない子ね。そんなに、だめでいながら、このあいだあの方と、ゆっくり何やら楽しそうにお話をしていたでしょう。あなたの気持ちが、わからない」
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「かず子は、いけない子ね。そんなに、ダメでいながら、こないだあの方と、ゆっくり何かとたのしそうにお話をしていたでしょう。あなたの気持が、わからない」
「あら、だって、面白かったんですもの。もっと、いろいろ話をしてみたかったわ。私、たしなみがないのね」
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「あら、だって、面白かったんですもの。もっと、いろいろ話をしてみたかったわ。私、たしなみが無いのね」
「いいえ、べったりしているのよ。かず子べったり」
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「いいえ、べったりしているのよ。かず子べったり」
お母さまは、きょうは、とても元気。
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お母さまは、きょうは、とてもお元気。
そうして、きのうはじめてアップにした私の髪を見て、
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そうして、きのうはじめてアップにした私の髪をごらんになって、
「アップはね、髪の毛の少ない人がするといいのよ。あなたのアップは立派すぎて、金の小さい冠でも載せてみたいくらい。失敗ね」
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「アップはね、髪の毛の少いひとがするといいのよ。あなたのアップは立派すぎて、金の小さい冠でも載せてみたいくらい。失敗ね」
「かず子がっかり。だって、お母さまはいつだったか、かず子は首すじが白くてきれいだから、なるべく首すじを隠さないように、って言ったじゃないの」
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「かず子がっかり。だって、お母さまはいつだったか、かず子は頸すじが白くて綺麗だから、なるべく頸すじを隠さないように、っておっしゃったじゃないの」
「そんなことだけは、覚えているのね」
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「そんな事だけは、覚えているのね」
「少しでもほめられたことは、一生忘れません。覚えていたほうが、楽しいもの」
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「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」
「このあいだ、あの方からも、何かとほめられたのでしょう」
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「こないだ、あの方からも、何かとほめられたのでしょう」
「そうよ。それで、べったりになっちゃったの。私と一緒にいるとひらめきが、ああ、たまらない。私、芸術家はきらいじゃないんですけど、あんな、人格者みたいに、もったいぶってる人は、とても、だめなの」
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「そうよ。それで、べったりになっちゃったの。私と一緒にいると霊感が、ああ、たまらない。私、芸術家はきらいじゃないんですけど、あんな、人格者みたいに、もったいぶってるひとは、とても、ダメなの」
「直治の先生は、どんな人なの?」
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「直治の師匠さんは、どんなひとなの?」
私は、ひやりとしました。
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私は、ひやりとしました。
「よくわからないけど、どうせ直治の先生ですもの、札つきの不良らしいわ」
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「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしいわ」
「札つき?」
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「札つき?」
と、お母さまは、楽しそうな目つきをしてつぶやき、
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と、お母さまは、楽しそうな眼つきをなさって呟き、
「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている子猫みたいでかわいらしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」
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「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている子猫みたいで可愛らしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」
「そうかしら」
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「そうかしら」
うれしくて、うれしくて、すうっと体が煙になって空に吸われていくような気持ちでした。
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うれしくて、うれしくて、すうっとからだが煙になって空に吸われて行くような気持でした。
おわかりになります?
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おわかりになります?
なぜ、私が、うれしかったか。
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なぜ、私が、うれしかったか。
おわかりにならなかったら、……殴るわよ。
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おわかりにならなかったら、……殴るわよ。
いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません?
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いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません?
私から直治に、あなたをお連れしてくるように、って言いつけるのも、何だか不自然で、変ですから、あなたご自身の物好きから、ふっとここへ立ち寄ったという形にして、直治の案内でおいでになってもいいけれど、でも、なるべくならおひとりで、そうして直治が東京に出かけている留守においでになって下さい。
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私から直治に、あなたをお連れして来るように、って言いつけるのも、何だか不自然で、へんですから、あなたご自身の酔興から、ふっとここへ立寄ったという形にして、直治の案内でおいでになってもいいけれども、でも、なるべくならおひとりで、そうして直治が東京に出張した留守においでになって下さい。
直治がいると、あなたを直治にとられてしまって、きっとあなたたちは、お咲さんのところへ焼酎なんかを飲みに出かけていって、それっきりになるにきまっていますから。
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直治がいると、あなたを直治にとられてしまって、きっとあなたたちは、お咲さんのところへ焼酎なんかを飲みに出かけて行って、それっきりになるにきまっていますから。
私の家では、先祖代々、芸術家を好きだったようです。
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私の家では、先祖代々、芸術家を好きだったようです。
光琳(こうりん)という画家も、むかし私どもの京都の家に長く滞在して、ふすまにきれいな絵をかいて下さったのです。
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光琳という画家も、むかし私どもの京都のお家に永く滞在して、襖に綺麗な絵をかいて下さったのです。
だから、お母さまも、あなたのご来訪を、きっと喜んで下さると思います。
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だから、お母さまも、あなたの御来訪を、きっと喜んで下さると思います。
あなたは、たぶん、二階の洋間でお休みということになるでしょう。
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あなたは、たぶん、二階の洋間におやすみという事になるでしょう。
お忘れなく電灯を消しておいて下さい。
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お忘れなく電燈を消して置いて下さい。
私は小さいろうそくを片手に持って、暗い階段をのぼっていって、それは、だめ?
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私は小さい蝋燭を片手に持って、暗い階段をのぼって行って、それは、だめ?
早すぎるわね。
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早すぎるわね。
私、不良が好きなの。
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私、不良が好きなの。
それも、札つきの不良が、好きなの。
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それも、札つきの不良が、すきなの。
そうして私も、札つきの不良になりたいの。
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そうして私も、札つきの不良になりたいの。
そうするよりほかに、私の生き方が、ないような気がするの。
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そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。
あなたは、日本で一番の、札つきの不良でしょう。
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あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。
そうして、このごろはまた、たくさんの人が、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。
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そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。
あなたのことですから、きっといろいろな女の人をお持ちでしょうけれど、いまにだんだん私ひとりを好きにおなりでしょう。
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あなたの事ですから、きっといろいろのアミをお持ちでしょうけれども、いまにだんだん私ひとりをすきにおなりでしょう。
なぜだか、私には、そう思われて仕方がないんです。
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なぜだか、私には、そう思われて仕方が無いんです。
そうして、あなたは私と一緒に暮らして、毎日、楽しくお仕事ができるでしょう。
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そうして、あなたは私と一緒に暮して、毎日、たのしくお仕事が出来るでしょう。
小さいときから私は、よく人から、『あなたと一緒にいると苦労を忘れる』
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小さい時から私は、よく人から、「あなたと一緒にいると苦労を忘れる」
と言われてきました。
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と言われて来ました。
私はいままで、人からきらわれた経験がないんです。
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私はいままで、人からきらわれた経験が無いんです。
みんなが私を、いい子だと言ってくれました。
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みんなが私を、いい子だと言って下さいました。
だから、あなたも、私をおきらいのはずは、けっしてないと思うのです。
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だから、あなたも、私をおきらいの筈は、けっしてないと思うのです。
会えばいいのです。
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逢えばいいのです。
もう、いまはお返事も何もいりません。
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もう、いまは御返事も何も要りません。
お会いしとうございます。
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お逢いしとうございます。
私のほうから、東京のあなたのお宅へお伺いすれば一番簡単にお目にかかれるのでしょうけれど、お母さまが、何せ半病人のようで、私は付きっきりの看護婦兼お手伝いさんなのですから、どうしてもそれができません。
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私のほうから、東京のあなたのお宅へお伺いすれば一ばん簡単におめにかかれるのでしょうけれど、お母さまが、何せ半病人のようで、私は附きっきりの看護婦兼お女中さんなのですから、どうしてもそれが出来ません。
お願いでございます。
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おねがいでございます。
どうか、こちらへいらして下さい。
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どうか、こちらへいらして下さい。
ひと目お会いしたいのです。
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ひとめお逢いしたいのです。
そうして、すべては、お会いすれば、わかること。
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そうして、すべては、お逢いすれば、わかること。
私の口の両側にできたかすかなしわを見て下さい。
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私の口の両側に出来た幽かな皺を見て下さい。
時代の悲しみのしわを見て下さい。
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世紀の悲しみの皺を見て下さい。
私のどんな言葉より、私の顔が、私の胸の思いをはっきりあなたにお知らせするはずでございます。
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私のどんな言葉より、私の顔が、私の胸の思いをはっきりあなたにお知らせする筈でございます。
最初に差し上げた手紙に、私の胸にかかっている虹のことを書きましたが、その虹はホタルの光みたいな、またはお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいものではないのです。
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さいしょに差し上げた手紙に、私の胸にかかっている虹の事を書きましたが、その虹は螢の光みたいな、またはお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいものではないのです。
そんな淡い遠い思いだったら、私はこんなに苦しまず、次第にあなたを忘れていくことができたでしょう。
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そんな淡い遠い思いだったら、私はこんなに苦しまず、次第にあなたを忘れて行く事が出来たでしょう。
私の胸の虹は、炎の橋です。
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私の胸の虹は、炎の橋です。
胸が焼けこげるほどの思いなのです。
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胸が焼きこげるほどの思いなのです。
麻薬中毒の人が、麻薬が切れて薬を求めるときの気持ちだって、これほどつらくはないでしょう。
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麻薬中毒者が、麻薬が切れて薬を求める時の気持だって、これほどつらくはないでしょう。
間違ってはいない、よこしまではないと思いながらも、ふっと、私、たいへんな、大ばかなことをしようとしているのではないかしら、と思って、ぞっとすることもあるんです。
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間違ってはいない、よこしまではないと思いながらも、ふっと、私、たいへんな、大馬鹿の事をしようとしているのではないかしら、と思って、ぞっとする事もあるんです。
気が変になっているのではないかしらと反省する、そんな気持ちも、たくさんあるんです。
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発狂しているのではないかしらと反省する、そんな気持も、たくさんあるんです。
でも、私だって、冷静に考えていることもあるんです。
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でも、私だって、冷静に計画している事もあるんです。
本当に、こちらへいちどいらして下さい。
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本当に、こちらへいちどいらして下さい。
いつ、いらして下さっても大丈夫。
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いつ、いらして下さっても大丈夫。
私はどこへも行かずに、いつもお待ちしています。
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私はどこへも行かずに、いつもお待ちしています。
私を信じて下さい。
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私を信じて下さい。
もう一度お会いして、そのとき、いやならはっきり言って下さい。
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もう一度お逢いして、その時、いやならハッキリ言って下さい。
私のこの胸の炎は、あなたが火をつけたのですから、あなたが消していって下さい。
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私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから、あなたが消して行って下さい。
私ひとりの力では、とても消すことができないのです。
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私ひとりの力では、とても消す事が出来ないのです。
とにかく会ったら、会ったら、私が助かります。
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とにかく逢ったら、逢ったら、私が助かります。
万葉集や源氏物語のころだったら、私の申し上げているようなこと、何でもないことでしたのに。
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万葉や源氏物語の頃だったら、私の申し上げているようなこと、何でもない事でしたのに。
私の望み。
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私の望み。
あなたの愛人になって、あなたの子どもの母になること。
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あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になる事。
このような手紙を、もしあざ笑う人があったら、その人は女の生きていく努力をあざ笑う人です。
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このような手紙を、もし嘲笑するひとがあったら、そのひとは女の生きて行く努力を嘲笑するひとです。
女の命をあざ笑う人です。
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女のいのちを嘲笑するひとです。
私は港の息づまるような、よどんだ空気に耐えきれなくて、港の外は嵐であっても、帆をあげたいのです。
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私は港の息づまるような澱んだ空気に堪え切れなくて、港の外は嵐であっても、帆をあげたいのです。
休んでいる帆は、例外なく汚い。
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憩える帆は、例外なく汚い。
私をあざ笑う人たちは、きっとみな、休んでいる帆です。
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私を嘲笑する人たちは、きっとみな、憩える帆です。
何もできやしないんです。
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何も出来やしないんです。
困った女。
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困った女。
しかし、この問題で一番苦しんでいるのは私なのです。
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しかし、この問題で一ばん苦しんでいるのは私なのです。
この問題について、何も、ちっとも苦しんでいない見物人が、帆をみにくくだらりと休ませながら、この問題を批判するのは、意味のないことです。
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この問題に就いて、何も、ちっとも苦しんでいない傍観者が、帆を醜くだらりと休ませながら、この問題を批判するのは、ナンセンスです。
私を、いい加減に何々思想なんて言ってもらいたくないんです。
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私を、いい加減に何々思想なんて言ってもらいたくないんです。
私は無思想です。
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私は無思想です。
私は思想や哲学なんてもので行動したことは、いちどだってないんです。
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私は思想や哲学なんてもので行動した事は、いちどだってないんです。
世間でよいと言われ、尊敬されている人たちは、みんなうそつきで、にせものなのを、私は知っているんです。
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世間でよいと言われ、尊敬されているひとたちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知っているんです。
私は、世間を信用していないんです。
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私は、世間を信用していないんです。
札つきの不良だけが、私の味方なんです。
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札つきの不良だけが、私の味方なんです。
札つきの不良。
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札つきの不良。
私は、その十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。
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私は、その十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。
みんなに非難されても、それでも、私は言い返してやれるんです。
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万人に非難せられても、それでも、私は言いかえしてやれるんです。
お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。
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お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。
おわかりになりまして?
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おわかりになりまして?
恋に理由はございません。
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こいに理由はございません。
少し理屈みたいなことを言いすぎました。
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すこし理窟みたいな事を言いすぎました。
弟の口まねに過ぎなかったような気もします。
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弟の口真似に過ぎなかったような気もします。
おいでをお待ちしているだけなのです。
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おいでをお待ちしているだけなのです。
もう一度お目にかかりたいのです。
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もう一度おめにかかりたいのです。
それだけなのです。
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それだけなのです。
待つ。
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待つ。
ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろな感情があるけれど、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。
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ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。
幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと胸がつぶれる思いで待って、からっぽ。
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幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。
ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。
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ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。
生まれてこないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。
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生れて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。
そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。
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そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。
みじめすぎます。
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みじめすぎます。
生まれてきてよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。
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生れて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。
はばむ道徳を、押しのけられませんか?
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はばむ道徳を、押しのけられませんか?
M・C(マイ・チェーホフのイニシャルではないんです。
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M・C(マイ、チェホフのイニシャルではないんです。
私は、作家に恋しているのではございません。
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私は、作家にこいしているのではございません。
マイ・チャイルド)
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マイ、チャイルド)
五
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五
私は、ことしの夏、ある男の人に、三つの手紙を差し上げたが、お返事はなかった。
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私は、ことしの夏、或る男のひとに、三つの手紙を差し上げたが、ご返事は無かった。
どう考えても、私には、それよりほかに生き方がないと思われて、三つの手紙に、私のその胸のうちを書きしるし、岬の先端から荒れ狂う波に向かって飛び下りる気持ちで、ポストに入れたのに、いくら待っても、お返事がなかった。
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どう考えても、私には、それより他に生き方が無いと思われて、三つの手紙に、私のその胸のうちを書きしたため、岬の尖端から怒濤めがけて飛び下りる気持で、投函したのに、いくら待っても、ご返事が無かった。
弟の直治に、それとなくその人の様子を聞いても、その人は何の変わったところもなく、毎晩お酒を飲み歩き、いよいよ道徳から外れた作品ばかり書いて、世間の大人たちに、ひんしゅくを買い、憎まれているらしく、直治に出版の仕事を始めるようすすめて、直治は大乗り気で、あの人のほかにも二、三人、小説家の方に相談役になってもらい、資本を出してくれる人もあるとかどうとか、直治の話を聞いていると、私が恋しているその人の身のまわりの雰囲気に、私の存在がみじんも入りこんでいないらしく、私は恥ずかしいという思いよりも、この世の中というものが、私の考えている世の中とはまるで違った、別の奇妙な生き物みたいな気がしてきて、自分ひと
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弟の直治に、それとなくそのひとの御様子を聞いても、そのひとは何の変るところもなく、毎晩お酒を飲み歩き、いよいよ不道徳の作品ばかり書いて、世間のおとなたちに、ひんしゅくせられ、憎まれているらしく、直治に出版業をはじめよ、などとすすめて、直治は大乗気で、あのひとの他にも二、三、小説家のかたに顧問になってもらい、資本を出してくれるひともあるとかどうとか、直治の話を聞いていると、私の恋しているひとの身のまわりの雰囲気に、私の匂いがみじんも滲み込んでいないらしく、私は恥ずかしいという思いよりも、この世の中というものが、私の考えている世の中とは、まるでちがった別な奇妙な生き物みたいな気がして来て、自分ひと
りだけ置き去りにされ、呼んでも叫んでも、何の手ごたえもない、たそがれの秋の広い野原に立たされているような、これまで味わったことのない、痛ましくすさまじい思いに襲われた。
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りだけ置き去りにされ、呼んでも叫んでも、何の手応えの無いたそがれの秋の曠野に立たされているような、これまで味わった事のない悽愴の思いに襲われた。
これが、失恋というものだろうか。
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これが、失恋というものであろうか。
広い野原にこうして、ただ立ちつくしているうちに、日がとっぷり暮れて、夜露に凍えて死ぬよりほかはないのだろうかと思うと、涙の出ないほど激しい嘆きで、両肩と胸が激しく波打ち、息もできない気持ちになるのだ。
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曠野にこうして、ただ立ちつくしているうちに、日がとっぷり暮れて、夜露にこごえて死ぬより他は無いのだろうかと思えば、涙の出ない慟哭で、両肩と胸が烈しく浪打ち、息も出来ない気持になるのだ。
もうこの上は、何としても私が東京に行って、上原さんにお目にかかろう、私の帆はすでに上げられて、港の外に出てしまったのだもの、立ちつくしているわけにいかない、行くところまで行かなければならない、とひそかに東京へ行く心の準備を始めたとたんに、お母さまの様子が、おかしくなったのである。
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もうこの上は、何としても私が上京して、上原さんにお目にかかろう、私の帆は既に挙げられて、港の外に出てしまったのだもの、立ちつくしているわけにゆかない、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとたんに、お母さまの御様子が、おかしくなったのである。
ある夜、ひどいせきが出て、熱を計ってみたら、三十九度あった。
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一夜、ひどいお咳が出て、お熱を計ってみたら、三十九度あった。
「きょう、寒かったからでしょう。あすになれば、なおります」
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「きょう、寒かったからでしょう。あすになれば、なおります」
とお母さまは、せき込みながら小声で言ったが、私には、どうも、ただのせきではないように思われて、あすはとにかく下の村のお医者に来てもらおうと心に決めた。
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とお母さまは、咳き込みながら小声でおっしゃったが、私には、どうも、ただのお咳ではないように思われて、あすはとにかく下の村のお医者に来てもらおうと心にきめた。
翌朝、熱は三十七度に下がり、せきもあまり出なくなっていたが、それでも私は、村の先生のところへ行って、お母さまが、このごろにわかに弱ってきたこと、ゆうべからまた熱が出て、せきも、ただの風邪のせきと違うような気がすることなどを言って、診察をお願いした。
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翌る朝、お熱は三十七度にさがり、お咳もあまり出なくなっていたが、それでも私は、村の先生のところへ行って、お母さまが、この頃にわかにお弱りになったこと、ゆうべからまた熱が出て、お咳も、ただの風邪のお咳と違うような気がすること等を申し上げて、御診察をお願いした。
先生は、では、のちほど伺いましょう、これはいただきものでございますが、と言って、応接間のすみの戸棚から梨を三つ取り出して私にくれた。
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先生は、ではのちほど伺いましょう、これは到来物でございますが、とおっしゃって応接間の隅の戸棚から梨を三つ取り出して私に下さった。
そうして、お昼少し過ぎ、白いかすり模様の着物に夏用の羽織を着て診察にきた。
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そうして、お昼すこし過ぎ、白絣に夏羽織をお召しになって診察にいらした。
いつものように、ていねいに長いこと、聴診や打診をして、それから私のほうに真正面に向き直り、
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れいの如く、ていねいに永い事、聴診や打診をなさって、それから私のほうに真正面に向き直り、
「ご心配はございません。おくすりを飲めば、なおります」
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「御心配はございません。おくすりを、お飲みになれば、なおります」
と言う。
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とおっしゃる。
私は妙におかしく、笑いをこらえて、
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私は妙に可笑しく、笑いをこらえて、
「お注射は、いかがでしょうか」
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「お注射は、いかがでしょうか」
とたずねると、まじめに、
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とおたずねすると、まじめに、
「その必要はございませんでしょう。おかぜでございますから、静かにしていらっしゃると、間もなくおかぜが抜けますでしょう」
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「その必要は、ございませんでしょう。おかぜでございますから、しずかにしていらっしゃると、間もなくおかぜが抜けますでしょう」
と言った。
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とおっしゃった。
けれども、お母さまの熱は、それから一週間たっても下がらなかった。
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けれども、お母さまのお熱は、それから一週間経っても下らなかった。
せきはおさまったけれど、熱のほうは、朝は三十七度七分くらいで、夕方になると三十九度になった。
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咳はおさまったけれども、お熱のほうは、朝は七度七分くらいで、夕方になると九度になった。
お医者は、あの翌日からおなかをこわしたとかで休んでいて、私がくすりをもらいに行って、お母さまの容態がよくないことを看護婦さんに伝えて、先生に伝えてもらっても、普通の風邪で心配はありません、という返事で、水薬と粉薬をくれる。
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お医者は、あの翌日から、おなかをこわしたとかで休んでいらして、私がおくすりを頂きに行って、お母さまのご容態の思わしくない事を看護婦さんに告げて、先生に伝えていただいても、普通のお風邪で心配はありません、という御返事で、水薬と散薬をくださる。
直治は相変わらずの東京行きで、もう十日あまり帰らない。
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直治は相変らずの東京出張で、もう十日あまり帰らない。
私ひとりで、心細さのあまり和田の叔父さまへ、お母さまの様子が変わったことをはがきに書いて知らせてやった。
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私ひとりで、心細さのあまり和田の叔父さまへ、お母さまの御様子の変った事を葉書にしたためて知らせてやった。
熱が出てからだいたい十日目に、村の先生が、やっとおなかの具合がよくなりましたと言って、診察にきた。
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発熱してかれこれ十日目に、村の先生が、やっと腹工合いがよろしくなりましたと言って、診察しにいらした。
先生は、お母さまの胸を注意深そうな表情で打診しながら、
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先生は、お母さまのお胸を注意深そうな表情で打診なさりながら、
「わかりました、わかりました」
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「わかりました、わかりました」
と声を上げ、それから、また私のほうに真正面に向き直って、
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とお叫びになり、それから、また私のほうに真正面に向き直られて、
「熱の原因が、わかりましてございます。左肺に炎症を起こしています。でも、ご心配はいりません。熱は、しばらく続くでしょうけれど、静かにしていらっしゃったら、ご心配はございません」
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「お熱の原因が、わかりましてございます。左肺に浸潤を起しています。でも、ご心配は要りません。お熱は、当分つづくでしょうけれども、おしずかにしていらっしゃったら、ご心配はございません」
と言う。
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とおっしゃっる。
そうかしら?
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そうかしら?
と思いながらも、おぼれる者がわらにでもすがる気持ちもあって、村の先生のその診断に、私は少しほっとしたところもあった。
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と思いながらも、溺れる者の藁にすがる気持もあって、村の先生のその診断に、私は少しほっとしたところもあった。
お医者が帰ってから、
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お医者がお帰りになってから、
「よかったわね、お母さま。ほんの少しの炎症なんて、たいていの人にあるものよ。気持ちを丈夫に持っていさえしたら、わけなくなおってしまいますわ。ことしの夏の天気の悪さがいけなかったのよ。夏はきらい。かず子は、夏の花も、きらい」
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「よかったわね、お母さま。ほんの少しの浸潤なんて、たいていのひとにあるものよ。お気持を丈夫にお持ちになっていさえしたら、わけなくなおってしまいますわ。ことしの夏の季候不順がいけなかったのよ。夏はきらい。かず子は、夏の花も、きらい」
お母さまは目をつぶりながら笑い、
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お母さまはお眼をつぶりながらお笑いになり、
「夏の花の好きな人は、夏に死ぬっていうから、私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら、直治が帰ってきたので、秋まで生きてしまった」
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「夏の花の好きなひとは、夏に死ぬっていうから、私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら、直治が帰って来たので、秋まで生きてしまった」
あんな直治でも、やはりお母さまの生きる支えになっているのか、と思ったら、つらかった。
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あんな直治でも、やはりお母さまの生きるたのみの柱になっているのか、と思ったら、つらかった。
「それでも、もう夏が過ぎてしまったのですから、お母さまの危ない時期も峠を越したってわけなのね。お母さま、庭の萩が咲いていますわ。それから、女郎花、われもこう、桔梗(ききょう)、かるかや、すすき。庭がすっかり秋の庭になりましたわ。十月になったら、きっと熱も下がるでしょう」
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「それでも、もう夏がすぎてしまったのですから、お母さまの危険期も峠を越したってわけなのね。お母さま、お庭の萩が咲いていますわ。それから、女郎花、われもこう、桔梗、かるかや、芒。お庭がすっかり秋のお庭になりましたわ。十月になったら、きっとお熱も下るでしょう」
私は、それを祈っていた。
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私は、それを祈っていた。
早くこの九月の、蒸し暑い、いわば残暑の季節が過ぎるといい。
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早くこの九月の、蒸暑い、謂わば残暑の季節が過ぎるといい。
そうして、菊が咲いて、うららかな小春日和が続くようになると、きっとお母さまの熱も下がって元気になり、私もあの人と会えるようになって、私の計画も大輪の菊の花のように見事に咲き誇ることができるかもしれないのだ。
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そうして、菊が咲いて、うららかな小春日和がつづくようになると、きっとお母さまのお熱も下ってお丈夫になり、私もあのひとと逢えるようになって、私の計画も大輪の菊の花のように見事に咲き誇る事が出来るかも知れないのだ。
ああ、早く十月になって、お母さまの熱が下がるとよい。
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ああ、早く十月になって、そうしてお母さまのお熱が下るとよい。
和田の叔父さまにはがきを差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さまの取り計らいで、以前天皇の主治医などしていた三宅(みやけ)さまという年配の先生が、看護婦さんを連れて東京から診察にきてくれた。
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和田の叔父さまにお葉書を差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さまのお取計いで、以前侍医などしていらした三宅さまの老先生が看護婦さんを連れて東京から御診察にいらして下さった。
年配の先生は私どもの亡くなったお父上とも付き合いのあった方なので、お母さまは、たいへん喜んでいる様子だった。
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老先生は私どもの亡くなったお父上とも御交際のあった方なので、お母さまは、たいへんお喜びの御様子だった。
それに、年配の先生は昔から行儀が悪く、言葉づかいもぞんざいで、それがまたお母さまの気に入っているらしく、その日は診察など、そっちのけで何かとお二人で打ち解けた世間話に興じていた。
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それに、老先生は昔からお行儀が悪く、言葉遣いもぞんざいで、それがまたお母さまのお気に召しているらしく、その日は御診察など、そっちのけで何かとお二人で打ち解けた世間話に興じていらっしゃった。
私が台所で、プリンを作って、それを座敷に持っていったら、もうそのあいだに診察も終わった様子で、年配の先生は聴診器をだらしなく首飾りみたいに肩にひっかけたまま、座敷の廊下の籐いすに腰をかけ、
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私がお勝手で、プリンをこしらえて、それをお座敷に持って行ったら、もうその間に御診察もおすみの様子で、老先生は聴診器をだらしなく頸飾りみたいに肩にひっかけたまま、お座敷の廊下の籐椅子に腰をかけ、
「僕などもね、屋台に入って、うどんの立ち食いでさ。うまいも、まずいもありゃしません」
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「僕などもね、屋台にはいって、うどんの立食いでさ。うまいも、まずいもありゃしません」
と、のんきそうに世間話を続けていた。
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と、のんきそうに世間話をつづけていらっしゃる。
お母さまも、何気ない表情で天井を見ながら、その話を聞いていた。
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お母さまも、何気ない表情で天井を見ながら、そのお話を聞いていらっしゃる。
なんでもなかったんだ、と私は、ほっとした。
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なんでも無かったんだ、と私は、ほっとした。
「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のほうに炎症があるとかおっしゃっていましたけど?」
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「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のほうに浸潤があるとかおっしゃっていましたけど?」
と私も急に元気が出て、三宅さまにたずねたら、年配の先生は、何でもないように、
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と私も急に元気が出て、三宅さまにおたずねしたら、老先生は、事もなげに、
「なに、大丈夫だ」
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「なに、大丈夫だ」
と軽く言う。
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と軽くおっしゃる。
「まあ、よかったわね、お母さま」
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「まあ、よかったわね、お母さま」
と私は心からほほえんで、お母さまに呼びかけ、
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と私は心から微笑して、お母さまに呼びかけ、
「大丈夫なんですって」
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「大丈夫なんですって」
そのとき、三宅さまは籐いすから、すっと立ち上がって中国間のほうへ行った。
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その時、三宅さまは籐椅子から、つと立ち上って支那間のほうへいらっしゃった。
何か私に用事がありそうに見えたので、私はそっとそのあとを追った。
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何か私に用事がありげに見えたので、私はそっとその後を追った。
年配の先生は中国間の壁掛けのかげに行って立ち止まって、
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老先生は支那間の壁掛の蔭に行って立ちどまって、
「バリバリ音が聞こえているぞ」
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「バリバリ音が聞えているぞ」
と言った。
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とおっしゃった。
「炎症では、ございませんの?」
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「浸潤では、ございませんの?」
「違う」
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「違う」
「気管支炎では?」
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「気管支カタルでは?」
私は、もう涙ぐんでたずねた。
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私は、もはや涙ぐんでおたずねした。
「違う」
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「違う」
結核(テーベ)!
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結核!
私はそれだと思いたくなかった。
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私はそれだと思いたくなかった。
肺炎や炎症や気管支炎だったら、必ず私の力でなおしてあげる。
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肺炎や浸潤や気管支カタルだったら、必ず私の力でなおしてあげる。
けれども、結核だったら、ああ、もうだめかもしれない。
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けれども、結核だったら、ああ、もうだめかも知れない。
私は足もとが、崩れていくような思いをした。
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私は足もとが、崩れて行くような思いをした。
「音、とても悪いの? バリバリ聞こえてるの?」
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「音、とても悪いの? バリバリ聞えてるの?」
心細さに、私はすすり泣きになった。
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心細さに、私はすすり泣きになった。
「右も左も全部だ」
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「右も左も全部だ」
「だって、お母さまは、まだ元気なのよ。ごはんだって、おいしいおいしいって言って、……」
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「だって、お母さまは、まだお元気なのよ。ごはんだって、おいしいおいしいとおっしゃって、……」
「仕方がない」
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「仕方がない」
「うそだわ。ね、そんなことないんでしょう? バターや卵や、牛乳をたくさん食べたら、なおるんでしょう? 体に抵抗力さえついたら、熱だって下がるんでしょう?」
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「うそだわ。ね、そんな事ないんでしょう? バタやお卵や、牛乳をたくさん召し上ったら、なおるんでしょう? おからだに抵抗力さえついたら、熱だって下るんでしょう?」
「うん、なんでも、たくさん食べることだ」
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「うん、なんでも、たくさん食べる事だ」
「ね? そうでしょう? トマトも毎日、五つくらいは食べているのよ」
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「ね? そうでしょう? トマトも毎日、五つくらいは召し上っているのよ」
「うん、トマトはいい」
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「うん、トマトはいい」
「じゃあ、大丈夫ね? なおるわね?」
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「じゃあ、大丈夫ね? なおるわね?」
「しかし、こんどの病気は命取りになるかもしれない。そのつもりでいたほうがいい」
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「しかし、こんどの病気は命取りになるかも知れない。そのつもりでいたほうがいい」
人の力で、どうしてもできないことが、この世の中にたくさんあるのだという絶望の壁の存在を、生まれてはじめて知ったような気がした。
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人の力で、どうしても出来ない事が、この世の中にたくさんあるのだという絶望の壁の存在を、生れてはじめて知ったような気がした。
「二年? 三年?」
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「二年? 三年?」
私は震えながら小声でたずねた。
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私は震えながら小声でたずねた。
「わからない。とにかくもう、手のつけようがない」
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「わからない。とにかくもう、手のつけようが無い」
そうして、三宅さまは、その日は伊豆の長岡温泉に宿を予約しているとかで、看護婦さんと一緒に帰っていった。
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そうして、三宅さまは、その日は伊豆の長岡温泉に宿を予約していらっしゃるとかで、看護婦さんと一緒にお帰りになった。
門の外まで見送って、それから、夢中で引き返して座敷のお母さまのまくらもとに座り、何ごともなかったように笑いかけると、お母さまは、
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門の外までお見送りして、それから、夢中で引返してお座敷のお母さまの枕もとに坐り、何事も無かったように笑いかけると、お母さまは、
「先生は、なんと言っていたの?」
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「先生は、なんとおっしゃっていたの?」
とたずねた。
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とおたずねになった。
「熱さえ下がればいいんですって」
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「熱さえ下ればいいんですって」
「胸のほうは?」
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「胸のほうは?」
「たいしたことないらしいわ。ほら、いつかの病気のときみたいなのよ、きっと。いまに涼しくなったら、どんどん元気になりますわ」
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「たいした事もないらしいわ。ほら、いつかのご病気の時みたいなのよ、きっと。いまに涼しくなったら、どんどんお丈夫になりますわ」
私は自分のうそを信じようと思った。
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私は自分の嘘を信じようと思った。
命取りなどという恐ろしい言葉は、忘れようと思った。
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命取りなどというおそろしい言葉は、忘れようと思った。
私には、このお母さまが亡くなるということは、それは私の体も一緒に消えてしまうような感じで、とても本当のこととして考えられないことだった。
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私には、このお母さまが、亡くなるという事は、それは私の肉体も共に消失してしまうような感じで、とても事実として考えられないことだった。
これからは何も忘れて、このお母さまに、たくさんたくさんごちそうを作って差し上げよう。
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これからは何も忘れて、このお母さまに、たくさんたくさんご馳走をこしらえて差し上げよう。
おさかな。
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おさかな。
スープ。
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スウプ。
缶詰。
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罐詰。
レバー。
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レバ。
肉汁。
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肉汁。
トマト。
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トマト。
卵。
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卵。
牛乳。
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牛乳。
おすまし汁。
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おすまし。
お豆腐があればいいのに。
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お豆腐があればいいのに。
お豆腐のみそ汁。
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お豆腐のお味噌汁。
白いごはん。
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白い御飯。
お餅。
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お餅。
おいしそうなものは何でも、私の持ち物を全部売って、お母さまにごちそうしてあげよう。
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おいしそうなものは何でも、私の持物を皆売って、そうしてお母さまにご馳走してあげよう。
私は立って、中国間へ行った。
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私は立って、支那間へ行った。
そうして、中国間の寝いすを座敷の縁側近くに移して、お母さまの顔が見えるように腰かけた。
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そうして、支那間の寝椅子をお座敷の縁側ちかくに移して、お母さまのお顔が見えるように腰かけた。
休んでいるお母さまの顔は、ちっとも病人らしくなかった。
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やすんでいらっしゃるお母さまのお顔は、ちっとも病人らしくなかった。
目は美しく澄んでいるし、顔色も生き生きしている。
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眼は美しく澄んでいるし、お顔色も生き生きしていらっしゃる。
毎朝、規則正しく起きて洗面所へ行き、それからお風呂場の三畳で自分で髪を結い、身支度をきちんとして、それから床に戻って、床に座ったまま食事をすませ、それから床に寝たり起きたり、午前中はずっと新聞や本を読んでいて、熱が出るのは午後だけである。
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毎朝、規則正しく起床なさって洗面所へいらして、それからお風呂場の三畳でご自分で髪を結って、身じまいをきちんとなさって、それからお床に帰って、お床にお坐りのままお食事をすまし、それからお床に寝たり起きたり、午前中はずっと新聞やご本を読んでいらして、熱の出るのは午後だけである。
「ああ、お母さまは、元気なのだ。きっと、大丈夫なのだ」
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「ああ、お母さまは、お元気なのだ。きっと、大丈夫なのだ」
と私は、心の中で三宅さまの診断を強く打ち消した。
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と私は、心の中で三宅さまのご診断を強く打ち消した。
十月になって、菊の花が咲くころになれば、などと考えているうちに私は、うとうとと、うたた寝を始めた。
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十月になって、そうして菊の花の咲く頃になれば、など考えているうちに私は、うとうとと、うたた寝をはじめた。
現実には、私はいちども見たことのない風景なのに、それでも夢では時々その風景を見て、ああ、またここへ来たと思う、見なれた森の中の湖のほとりに私は出た。
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現実には、私はいちども見た事の無い風景なのに、それでも夢では時々その風景を見て、ああ、またここへ来たと思うなじみの森の中の湖のほとりに私は出た。
私は、和服の青年と足音もなく一緒に歩いていた。
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私は、和服の青年と足音も無く一緒に歩いていた。
景色全体が、緑色の霧がかかっているような感じだった。
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風景全体が、みどり色の霧のかかっているような感じであった。
そうして、湖の底に白いほっそりした橋が沈んでいた。
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そうして、湖の底に白いきゃしゃな橋が沈んでいた。
「ああ、橋が沈んでいる。きょうは、どこへも行けない。ここのホテルで休みましょう。たしか、空いた部屋があったはずだ」
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「ああ、橋が沈んでいる。きょうは、どこへも行けない。ここのホテルでやすみましょう。たしか、空いた部屋があった筈だ」
湖のほとりに、石のホテルがあった。
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湖のほとりに、石のホテルがあった。
そのホテルの石は、緑色の霧でしっとりぬれていた。
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そのホテルの石は、みどり色の霧でしっとり濡れていた。
石の門の上に、金文字で細く、HOTEL SWITZERLAND と彫り込まれていた。
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石の門の上に、金文字でほそく、HOTEL SWITZERLAND と彫り込まれていた。
SWI と読んでいるうちに、不意に、お母さまのことを思い出した。
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SWI と読んでいるうちに、不意に、お母さまの事を思い出した。
お母さまは、どうなさるのだろう。
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お母さまは、どうなさるのだろう。
お母さまも、このホテルへいらっしゃるのかしら?
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お母さまも、このホテルへいらっしゃるのかしら?
と不思議に思った。
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と不審になった。
そうして、青年と一緒に石の門をくぐり、前庭へ入った。
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そうして、青年と一緒に石の門をくぐり、前庭へはいった。
霧の庭に、アジサイに似た赤い大きい花が、燃えるように咲いていた。
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霧の庭に、アジサイに似た赤い大きい花が燃えるように咲いていた。
子どものころ、ふとんの模様に、真っ赤なアジサイの花が散らしてあるのを見て、へんに悲しかったが、やっぱり赤いアジサイの花って本当にあるものなんだと思った。
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子供の頃、お蒲団の模様に、真赤なアジサイの花が散らされてあるのを見て、へんに悲しかったが、やっぱり赤いアジサイの花って本当にあるものなんだと思った。
「寒くない?」
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「寒くない?」
「ええ、少し。霧で耳がぬれて、耳の裏が冷たい」
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「ええ、少し。霧でお耳が濡れて、お耳の裏が冷たい」
と言って笑いながら、
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と言って笑いながら、
「お母さまは、どうなさるのかしら」
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「お母さまは、どうなさるのかしら」
とたずねた。
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とたずねた。
すると、青年は、とても悲しく、いつくしみ深くほほえんで、
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すると、青年は、とても悲しく慈愛深く微笑んで、
「あの方は、お墓の下です」
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「あのお方は、お墓の下です」
と答えた。
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と答えた。
「あ」
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「あ」
と私は小さく叫んだ。
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と私は小さく叫んだ。
そうだったのだ。
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そうだったのだ。
お母さまは、もういらっしゃらなかったのだ。
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お母さまは、もういらっしゃらなかったのだ。
お母さまのお葬式も、とっくにすませていたのじゃないか。
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お母さまのお葬いも、とっくに済ましていたのじゃないか。
ああ、お母さまは、もう亡くなったのだと気づいたら、言い知れないさびしさに身震いして、目がさめた。
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ああ、お母さまは、もうお亡くなりになったのだと意識したら、言い知れぬ凄しさに身震いして、眼がさめた。
ベランダは、もう夕暮れだった。
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ヴェランダは、すでに黄昏だった。
雨が降っていた。
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雨が降っていた。
緑色のさびしさは、夢のまま、あたり一面にただよっていた。
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みどり色のさびしさは、夢のまま、あたり一面にただよっていた。
「お母さま」
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「お母さま」
と私は呼んだ。
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と私は呼んだ。
静かな声で、
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静かなお声で、
「何してるの?」
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「何してるの?」
という返事があった。
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というご返事があった。
私はうれしさに飛び上がって、座敷へ行き、
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私はうれしさに飛び上って、お座敷へ行き、
「いまね、私、眠っていたのよ」
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「いまね、私、眠っていたのよ」
「そう。何をしているのかしら、と思っていたの。長いおひる寝ね」
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「そう。何をしているのかしら、と思っていたの。永いおひる寝ね」
とおもしろそうに笑った。
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と面白そうにお笑いになった。
私はお母さまがこうして優雅に息づいて生きていることが、あまりにうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまった。
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私はお母さまのこうして優雅に息づいて生きていらっしゃる事が、あまりうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまった。
「夕ごはんの献立は? ご希望がございます?」
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「御夕飯のお献立は? ご希望がございます?」
私は、少しはしゃいだ口調でそう言った。
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私は、少しはしゃいだ口調でそう言った。
「いいの。なんにもいらない。きょうは、三十九度五分に上がったの」
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「いいの。なんにも要らない。きょうは、九度五分にあがったの」
急に私は、ぺしゃんこにしょげた。
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にわかに私は、ぺしゃんこにしょげた。
そうして、途方に暮れて薄暗い部屋の中をぼんやり見回し、ふと、死にたくなった。
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そうして、途方にくれて薄暗い部屋の中をぼんやり見廻し、ふと、死にたくなった。
「どうしたんでしょう。三十九度五分なんて」
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「どうしたんでしょう。九度五分なんて」
「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちょっと痛くなって、寒気がして、それから熱が出るの」
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「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちょっと痛くなって、寒気がして、それから熱が出るの」
外は、もう、暗くなっていて、雨はやんだようだが、風が吹き出していた。
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外は、もう、暗くなっていて、雨はやんだようだが、風が吹き出していた。
明かりをつけて、食堂へ行こうとすると、お母さまが、
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灯をつけて、食堂へ行こうとすると、お母さまが、
「まぶしいから、つけないで」
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「まぶしいから、つけないで」
と言った。
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とおっしゃった。
「暗いところで、じっと寝ているの、いやでしょう」
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「暗いところで、じっと寝ていらっしゃるの、おいやでしょう」
と立ったまま、たずねると、
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と立ったまま、おたずねすると、
「目をつぶって寝ているのだから、同じことよ。ちっとも、さびしくない。かえって、まぶしいのが、いやなの。これから、ずっと、座敷の明かりはつけないでね」
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「眼をつぶって寝ているのだから、同じことよ。ちっとも、さびしくない。かえって、まぶしいのが、いやなの。これから、ずっと、お座敷の灯はつけないでね」
と言った。
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とおっしゃった。
私には、それもまた不吉な感じで、黙って座敷の明かりを消して、隣りの部屋へ行き、隣りの部屋のスタンドに明かりをつけ、たまらなくわびしくなって、急いで食堂へ行き、缶詰のサケを冷たいごはんにのせて食べたら、ぽろぽろと涙が出た。
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私には、それもまた不吉な感じで、黙ってお座敷の灯を消して、隣りの間へ行き、隣りの間のスタンドに灯をつけ、たまらなく侘びしくなって、いそいで食堂へ行き、罐詰の鮭を冷たいごはんにのせて食べたら、ぽろぽろと涙が出た。
風は夜になっていよいよ強く吹き、九時ごろから雨も混じり、本当の嵐になった。
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風は夜になっていよいよ強く吹き、九時頃から雨もまじり、本当の嵐になった。
二、三日前に巻き上げた縁側のすだれが、ばたんばたんと音を立て、私は座敷の隣りの部屋で、ローザ・ルクセンブルクの『経済学入門』
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二、三日前に巻き上げた縁先の簾が、ばたんばたんと音をたてて、私はお座敷の隣りの間で、ローザルクセンブルグの「経済学入門」
を、不思議な興奮を覚えながら読んでいた。
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を奇妙な興奮を覚えながら読んでいた。
これは私が、このあいだ二階の直治の部屋から持ってきたものだが、そのとき、これと一緒に、レーニン選集、それからカウツキーという人の『社会革命』
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これは私が、こないだお二階の直治の部屋から持って来たものだが、その時、これと一緒に、レニン選集、それからカウツキイの「社会革命」
なども無断で借りてきて、隣りの部屋の私の机の上に置いておいたら、お母さまが、朝顔を洗いに行った帰りに、私の机のそばを通り、ふとその三冊の本に目をとめ、一冊ずつ手にとって、ながめて、それから小さなためいきをついて、そっとまた机の上に置き、さびしい顔で私のほうをちらと見た。
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なども無断で拝借して来て、隣りの間の私の机の上にのせて置いたら、お母さまが、朝お顔を洗いにいらした帰りに、私の机の傍を通り、ふとその三冊の本に目をとどめ、いちいちお手にとって、眺めて、それから小さい溜息をついて、そっとまた机の上に置き、淋しいお顔で私のほうをちらと見た。
けれども、その目つきは、深い悲しみに満ちていながら、決して拒んだりいやがったりするものではなかった。
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けれども、その眼つきは、深い悲しみに満ちていながら、決して拒否や嫌悪のそれではなかった。
お母さまが読む本は、ユゴー、デュマ父子、ミュッセ、ドーデなどであるが、私はそのような甘い物語の本にだって、革命のにおいがあるのを知っている。
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お母さまのお読みになる本は、ユーゴー、デゥマ父子、ミュッセ、ドオデエなどであるが、私はそのような甘美な物語の本にだって、革命のにおいがあるのを知っている。
お母さまのように、生まれつきの教養、という言い方も変だが、そういうものをお持ちの方は、案外なんでもなく、当たり前のこととして革命を迎えることができるのかもしれない。
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お母さまのように、天性の教養、という言葉もへんだが、そんなものをお持ちのお方は、案外なんでもなく、当然の事として革命を迎える事が出来るのかも知れない。
私だって、こうして、ローザ・ルクセンブルクの本など読んで、自分がかっこうつけているみたいに思われることもないではないが、けれどもやはり、私は私なりに深い興味を覚えるのだ。
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私だって、こうして、ローザルクセンブルグの本など読んで、自分がキザったらしく思われる事もないではないが、けれどもまた、やはり私は私なりに深い興味を覚えるのだ。
ここに書かれているのは、経済学ということになっているのだが、経済学として読むと、まことにつまらない。
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ここに書かれてあるのは、経済学という事になっているのだが、経済学として読むと、まことにつまらない。
実に単純でわかりきったことばかりだ。
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実に単純でわかり切った事ばかりだ。
いや、あるいは、私には経済学というものがまったく理解できないのかもしれない。
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いや、或いは、私には経済学というものがまったく理解できないのかも知れない。
とにかく、私には、少しもおもしろくない。
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とにかく、私には、すこしも面白くない。
人間というものは、けちなもので、そうして、永遠にけちなものだという前提がないと全く成り立たない学問で、けちでない人にとっては、分配の問題でも何でも、まるで興味のないことだ。
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人間というものは、ケチなもので、そうして、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問で、ケチでない人にとっては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。
それでも私はこの本を読み、別なところで、不思議な興奮を覚えるのだ。
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それでも私はこの本を読み、べつなところで、奇妙な興奮を覚えるのだ。
それは、この本の著者が、何のためらいもなく、片っぱしから昔からの思想を壊していく、がむしゃらな勇気である。
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それは、この本の著者が、何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。
どのように道徳に反しても、恋する人のところへ涼しい顔でさっさと走り寄る人妻の姿さえ思い浮かぶ。
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どのように道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさっさと走り寄る人妻の姿さえ思い浮ぶ。
破壊思想。
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破壊思想。
破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。
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破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。
壊して、建て直して、完成させようという夢。
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破壊して、建て直して、完成しようという夢。
そうして、いったん壊してしまえば、永遠に完成の日が来ないかもしれないのに、それでも、恋しく思う気持ちゆえに、壊さなければならないのだ。
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そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。
革命を起こさなければならないのだ。
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革命を起さなければならぬのだ。
ローザはマルクス主義に、悲しくひたむきな恋をしている。
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ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしている。
あれは、十二年前の冬だった。
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あれは、十二年前の冬だった。
「あなたは、更級(さらしな)日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方がない」
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「あなたは、更級日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方が無い」
そう言って、私から離れていった友達。
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そう言って、私から離れて行ったお友達。
あの友達に、あのとき、私はレーニンの本を読まないで返したのだ。
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あのお友達に、あの時、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
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「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
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「ごめんね。読まなかったの」
ニコライ堂の見える橋の上だった。
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ニコライ堂の見える橋の上だった。
「なぜ? どうして?」
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「なぜ? どうして?」
その友達は、私よりさらに一寸くらい背が高くて、語学がとてもよくできて、赤いベレー帽がよく似合って、顔もモナリザみたいだという評判の、美しい人だった。
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そのお友達は、私よりさらに一寸くらい背が高くて、語学がとてもよく出来て、赤いベレー帽がよく似合って、お顔もジョコンダみたいだという評判の、美しいひとだった。
「表紙の色が、いやだったの」
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「表紙の色が、いやだったの」
「へんな人。そうじゃないんでしょう? 本当は、私がこわくなったのでしょう?」
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「へんなひと。そうじゃないんでしょう? 本当は、私をこわくなったのでしょう?」
「こわくないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
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「こわかないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
「そう」
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「そう」
とさびしそうに言い、それから、私を更級日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、と決めてしまった。
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と淋しそうに言い、それから、私を更級日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、ときめてしまった。
私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下ろしていた。
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私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下していた。
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」
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「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」
と言い、それから、そのバイロンという詩人の詩を原文で早口に暗唱して、私の体を軽く抱いた。
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と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを軽く抱いた。
私は恥ずかしく、
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私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
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「ごめんなさいね」
と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、その友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
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と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
それっきり、その友達と会わない。
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それっきり、そのお友達と逢わない。
同じ外国人の先生の家に通っていたのだけれど、学校が違っていたのである。
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同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、学校がちがっていたのである。
あれから十二年たったけれど、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。
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あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。
いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。
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いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。
革命に、あこがれたこともなかったし、恋さえ、知らなかった。
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革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。
いままで世間の大人たちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、戦争に負けたあと、私たちは世間の大人を信頼しなくなって、何でもあの人たちの言うことの反対のほうに本当の生きる道があるような気がしてきて、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしいことで、あまりいいことだから、大人の人たちは意地悪く私たちに『すっぱいブドウ』だとうそをついて教えていたに違いないと思うようになったのだ。
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いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。
私は確信したい。
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私は確信したい。
人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。
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人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
すっとふすまが開いて、お母さまが笑いながら顔を出して、
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すっと襖があいて、お母さまが笑いながら顔をお出しになって、
「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
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「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
と言った。
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とおっしゃった。
机の上の時計を見たら、十二時だった。
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机の上の時計を見たら、十二時だった。
「ええ、ちっとも眠くないの。社会主義の本を読んでいたら、興奮しちゃいましたわ」
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「ええ、ちっとも眠くないの。社会主義のご本を読んでいたら、興奮しちゃいましたわ」
「そう。お酒ないの? そんなときには、お酒を飲んで休むと、よく眠れるんですけどね」
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「そう。お酒ないの? そんな時には、お酒を飲んでやすむと、よく眠れるんですけどね」
とからかうような口調で言ったが、その様子には、どこか気だるくあやしい魅力があった。
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とからかうような口調でおっしゃったが、その態度には、どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさがあった。
やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨のような、じめじめして蒸し暑い日が続いた。
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やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時のような、じめじめして蒸し暑い日が続いた。
そうして、お母さまの熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と三十九度のあいだを上下した。
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そうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と九度のあいだを上下した。
そうしてある朝、恐ろしいものを私は見た。
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そうして或る朝、おそろしいものを私は見た。
お母さまの手が、むくんでいるのだ。
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お母さまのお手が、むくんでいるのだ。
朝ごはんが一番おいしいと言っていたお母さまも、このごろは、床に座って、ほんの少し、おかゆを軽く一杯、おかずも匂いの強いものはだめで、その日は、マツタケのおすまし汁を差し上げたのに、やっぱり、マツタケの香りさえいやになっている様子で、おわんを口元まで持っていって、それきりまたそっとお膳の上に戻した。そのとき、私は、お母さまの手を見て、びっくりした。
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朝ごはんが一ばんおいしいと言っていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐って、ほんの少し、おかゆを軽く一碗、おかずも匂いの強いものは駄目で、その日は、松茸のお清汁をさし上げたのに、やっぱり、松茸の香さえおいやになっていらっしゃる様子で、お椀をお口元まで持って行って、それきりまたそっとお膳の上におかえしになって、その時、私は、お母さまの手を見て、びっくりした。
右の手がふくらんで、まあるくなっていたのだ。
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右の手がふくらんで、まあるくなっていたのだ。
「お母さま! 手、なんともないの?」
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「お母さま! 手、なんともないの?」
顔さえ少し青く、むくんでいるように見えた。
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お顔さえ少し蒼く、むくんでいるように見えた。
「なんでもないの。これくらい、なんでもないの」
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「なんでもないの。これくらい、なんでもないの」
「いつから、腫れたの?」
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「いつから、腫れたの?」
お母さまは、まぶしそうな顔をして、黙っていた。
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お母さまは、まぶしそうなお顔をなさって、黙っていらした。
私は、声を上げて泣きたくなった。
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私は、声を挙げて泣きたくなった。
こんな手は、お母さまの手じゃない。
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こんな手は、お母さまの手じゃない。
よそのおばさんの手だ。
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よそのおばさんの手だ。
私のお母さまの手は、もっとほそくて小さい手だ。
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私のお母さまのお手は、もっとほそくて小さいお手だ。
私のよく知っている手。
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私のよく知っている手。
やさしい手。
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優しい手。
かわいい手。
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可愛い手。
あの手は、永遠に、消えてしまったのだろうか。
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あの手は、永遠に、消えてしまったのだろうか。
左の手は、まだそんなに腫れていなかったけれど、とにかく痛々しくて、見ていることができず、私は目をそらし、床の間の花かごをにらんでいた。
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左の手は、まだそんなに腫れていなかったけれども、とにかく傷ましく、見ている事が出来なくて、私は眼をそらし、床の間の花籠をにらんでいた。
涙が出そうで、たまらなくなって、すっと立って食堂へ行ったら、直治がひとりで、半熟卵を食べていた。
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涙が出そうで、たまらなくなって、つと立って食堂へ行ったら、直治がひとりで、半熟卵をたべていた。
たまに伊豆のこの家にいることがあっても、夜はきまってお咲さんのところへ行って焼酎を飲み、朝は不機嫌な顔で、ごはんは食べずに半熟の卵を四つか五つ食べるだけで、それからまた二階へ行って、寝たり起きたりなのである。
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たまに伊豆のこの家にいる事があっても、夜はきまってお咲さんのところへ行って焼酎を飲み、朝は不機嫌な顔で、ごはんは食べずに半熟の卵を四つか五つ食べるだけで、それからまた二階へ行って、寝たり起きたりなのである。
「お母さまの手が腫れて」
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「お母さまの手が腫れて」
と直治に話しかけ、うつむいた。
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と直治に話しかけ、うつむいた。
言葉を続けることができず、私は、うつむいたまま、肩で泣いた。
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言葉をつづける事が出来ず、私は、うつむいたまま、肩で泣いた。
直治は黙っていた。
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直治は黙っていた。
私は顔を上げて、
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私は顔を挙げて、
「もう、だめなの。あなた、気がつかなかった? あんなに腫れたら、もう、だめなの」
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「もう、だめなの。あなた、気が附かなかった? あんなに腫れたら、もう、駄目なの」
と、テーブルの端をつかんで言った。
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と、テーブルの端を掴んで言った。
直治も、暗い顔になって、
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直治も、暗い顔になって、
「近いぞ、そりゃ。ちぇっ、つまらねえことになりやがった」
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「近いぞ、そりゃ。ちぇっ、つまらねえ事になりやがった」
「私、もう一度、なおしたいの。どうかして、なおしたいの」
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「私、もう一度、なおしたいの。どうかして、なおしたいの」
と右手で左手をしぼりながら言ったら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、
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と右手で左手をしぼりながら言ったら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、
「なんにも、いいことがねえじゃねえか。僕たちには、なんにもいいことがねえじゃねえか」
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「なんにも、いい事が無えじゃねえか。僕たちには、なんにもいい事が無えじゃねえか」
と言いながら、めちゃくちゃにこぶしで目をこすった。
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と言いながら、滅茶苦茶にこぶしで眼をこすった。
その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、これからのことの指示を受けに東京へ行き、私はお母さまのそばにいないあいだ、朝から晩まで、ほとんど泣いていた。
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その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の事の指図を受けに上京し、私はお母さまのお傍にいない間、朝から晩まで、ほとんど泣いていた。
朝霧の中を牛乳をとりに行くときも、鏡に向かって髪をなでつけながらも、口紅を塗りながらも、いつも私は泣いていた。
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朝霧の中を牛乳をとりに行く時も、鏡に向って髪を撫でつけながらも、口紅を塗りながらも、いつも私は泣いていた。
お母さまと過ごした幸せな日の、あのことこのことが、絵のように浮かんできて、いくらでも泣けて仕方がなかった。
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お母さまと過した仕合せの日の、あの事この事が、絵のように浮んで来て、いくらでも泣けて仕様が無かった。
夕方、暗くなってから、中国間のベランダへ出て、長いことすすり泣いた。
原文を見る
夕方、暗くなってから、支那間のヴェランダへ出て、永いことすすり泣いた。
秋の空に星が光っていて、足もとに、よその猫がうずくまって、動かなかった。
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秋の空に星が光っていて、足許に、よその猫がうずくまって、動かなかった。
翌日、手の腫れは、昨日よりも、また一段とひどくなっていた。
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翌日、手の腫れは、昨日よりも、また一そうひどくなっていた。
食事は、何も食べなかった。
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お食事は、何も召し上らなかった。
みかんのジュースも、口が荒れて、しみて、飲めないと言った。
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お蜜柑のジュースも、口が荒れて、しみて、飲めないとおっしゃった。
「お母さま、また、直治のあのマスクを、なさったら?」
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「お母さま、また、直治のあのマスクを、なさったら?」
と笑いながら言うつもりだったが、言っているうちに、つらくなって、わっと声を上げて泣いてしまった。
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と笑いながら言うつもりであったが、言っているうちに、つらくなって、わっと声を挙げて泣いてしまった。
「毎日忙しくて、疲れるでしょう。看護婦さんを、やとって頂戴」
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「毎日いそがしくて、疲れるでしょう。看護婦さんを、やとって頂戴」
と静かに言ったが、自分の体よりも、かず子の身を心配していることがよくわかって、なおのこと悲しく、立って、走って、お風呂場の三畳に行って、思いのたけ泣いた。
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と静かにおっしゃったが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配していらっしゃる事がよくわかって、なおの事かなしく、立って、走って、お風呂場の三畳に行って、思いのたけ泣いた。
お昼少し過ぎ、直治が三宅さまという年配の先生と、それから看護婦さん二人を、連れてきた。
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お昼すこし過ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護婦さん二人を、お連れして来た。
いつも冗談ばかり言う年配の先生も、そのときは、怒っているような素振りで、どしどし病室に入ってきて、すぐに診察を始めた。
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いつも冗談ばかりおっしゃる老先生も、その時は、お怒りになっていらっしゃるような素振りで、どしどし病室へはいって来られて、すぐにご診察を、おはじめになった。
そうして、誰に言うともなく、
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そうして、誰に言うともなく、
「弱りましたね」
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「お弱りになりましたね」
と一言低く言って、強心剤を注射してくれた。
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と一こと低くおっしゃって、カンフルを注射して下さった。
「先生のお宿は?」
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「先生のお宿は?」
とお母さまは、うわ言のように言う。
原文を見る
とお母さまは、うわ言のようにおっしゃる。
「また長岡です。予約してありますから、ご心配無用。この病人は、人のことなど心配なさらず、もっとわがままに、食べたいものは何でも、たくさん食べるようにしなければいけませんね。栄養をとったら、よくなります。明日また、まいります。看護婦をひとり置いていきますから、使ってみて下さい」
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「また長岡です。予約してありますから、ご心配無用。このご病人は、ひとの事など心配なさらず、もっとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上るようにしなければいけませんね。栄養をとったら、よくなります。明日また、まいります。看護婦をひとり置いて行きますから、使ってみて下さい」
と年配の先生は、病床のお母さまに向かって大きな声で言い、それから直治に目くばせして立ち上がった。
原文を見る
と老先生は、病床のお母さまに向って大きな声で言い、それから直治に眼くばせして立ち上った。
直治ひとり、先生と付き添いの看護婦さんを送っていって、やがて帰ってきた直治の顔を見ると、それは泣きたいのをこらえている顔だった。
原文を見る
直治ひとり、先生とお供の看護婦さんを送って行って、やがて帰って来た直治の顔を見ると、それは泣きたいのを怺えている顔だった。
私たちは、そっと病室から出て、食堂へ行った。
原文を見る
私たちは、そっと病室から出て、食堂へ行った。
「だめなの? そうでしょう?」
原文を見る
「だめなの? そうでしょう?」
「つまらねえ」
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「つまらねえ」
と直治は口をゆがめて笑って、
原文を見る
と直治は口をゆがめて笑って、
「弱りが、ばかに急激にやってきたらしいんだ。今日か明日か、それもわからねえと言っていやがった」
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「衰弱が、ばかに急激にやって来たらしいんだ。今、明日も、わからねえと言っていやがった」
と言っているうちに直治の目から涙があふれて出た。
原文を見る
と言っているうちに直治の眼から涙があふれて出た。
「あちこちへ、電報を打たなくてもいいかしら」
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「ほうぼうへ、電報を打たなくてもいいかしら」
私はかえって、しんと落ち着いて言った。
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私はかえって、しんと落ちついて言った。
「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんなふうに人を集められる時代ではないと言っていた。来てもらっても、こんな狭い家では、かえって失礼だし、この近くには、ろくな宿もないし、長岡の温泉にだって、二部屋も三部屋も予約はできない。つまり、僕たちはもう貧乏で、そんな偉い人たちを呼び寄せる力がねえってわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで来るはずだが、でも、あいつは、昔からけちで、頼りにも何もなりゃしねえ。ゆうべだってもう、ママの病気はそっちのけで、僕にさんざんの説教だ。けちなやつから説教されて、目がさめたなんて者は、昔から今までどこにも一人もいたためしがねえんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで、天と地ほどの違いなんだからなあ、いやになるよ」
原文を見る
「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出来る時代では無いと言っていた。来ていただいても、こんな狭い家では、かえって失礼だし、この近くには、ろくな宿もないし、長岡の温泉にだって、二部屋も三部屋も予約は出来ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお偉らがたを呼び寄せる力が無えってわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで来る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、頼みにも何もなりゃしねえ。ゆうべだってもう、ママの病気はそっちのけで、僕にさんざんのお説教だ。ケチなやつからお説教されて、眼がさめたなんて者は、古今東西にわたって一人もあった例が無えんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで、雲泥のちがいなんだからなあ、いやになるよ」
「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔父さまにたよらなければ、……」
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「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔父さまにたよらなければ、……」
「まっぴらだ。いっそ乞食(こじき)になったほうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ」
原文を見る
「まっぴらだ。いっそ乞食になったほうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ」
「私には、……」
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「私には、……」
涙が出た。
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涙が出た。
「私には、行くところがあるの」
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「私には、行くところがあるの」
「縁談? 決まってるの?」
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「縁談? きまってるの?」
「いいえ」
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「いいえ」
「自分で働くのか? 働く女。よせ、よせ」
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「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ」
「自分で働くのでもないの。私ね、革命家になるの」
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「自活でもないの。私ね、革命家になるの」
「へえ?」
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「へえ?」
直治は、変な顔をして私を見た。
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直治は、へんな顔をして私を見た。
そのとき、三宅先生の連れてきた付き添いの看護婦さんが、私を呼びに来た。
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その時、三宅先生の連れていらした附添いの看護婦さんが、私を呼びに来た。
「奥さまが、何かご用のようでございます」
原文を見る
「奥さまが、何かご用のようでございます」
急いで病室に行って、ふとんのそばに座り、
原文を見る
いそいで病室に行って、お蒲団の傍に坐り、
「何?」
原文を見る
「何?」
と顔を寄せてたずねた。
原文を見る
と顔を寄せてたずねた。
けれども、お母さまは、何か言いたそうにして、黙っていた。
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けれども、お母さまは、何か言いたげにして、黙っていらっしゃる。
「お水?」
原文を見る
「お水?」
とたずねた。
原文を見る
とたずねた。
かすかに首を振る。
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幽かに首を振る。
お水でもないらしかった。
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お水でも無いらしかった。
しばらくして、小さな声で、
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しばらくして、小さいお声で、
「夢を見たの」
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「夢を見たの」
と言った。
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とおっしゃった。
「そう? どんな夢?」
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「そう? どんな夢?」
「蛇の夢」
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「蛇の夢」
私は、ぎょっとした。
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私は、ぎょっとした。
「縁側の沓脱石(くつぬぎいし・靴を脱いで置く石)の上に、赤いしまのある女の蛇が、いるでしょう。見てごらん」
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「お縁側の沓脱石の上に、赤い縞のある女の蛇が、いるでしょう。見てごらん」
私は体の寒くなるような気持ちで、すっと立って縁側に出て、ガラス戸ごしに見ると、沓脱石の上に蛇が、秋の日を浴びて長くのびていた。
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私はからだの寒くなるような気持で、つと立ってお縁側に出て、ガラス戸越しに、見ると、沓脱石の上に蛇が、秋の陽を浴びて長くのびていた。
私は、くらくらと目まいがした。
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私は、くらくらと目まいした。
私はお前を知っている。
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私はお前を知っている。
お前はあのときから見ると、少し大きくなって年をとっているけど、でも、私のために卵を焼かれたあの女の蛇なのね。
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お前はあの時から見ると、すこし大きくなって老けているけど、でも、私のために卵を焼かれたあの女蛇なのね。
お前の仕返しは、もう私よく思い知ったから、あちらへお行き。
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お前の復讐は、もう私よく思い知ったから、あちらへお行き。
さっさと、向こうへ行っておくれ。
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さっさと、向うへ行ってお呉れ。
と心の中で念じて、その蛇を見つめていたが、どうしても蛇は、動こうとしなかった。
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と心の中で念じて、その蛇を見つめていたが、いっかな蛇は、動こうとしなかった。
私はなぜだか、看護婦さんに、その蛇を見られたくなかった。
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私はなぜだか、看護婦さんに、その蛇を見られたくなかった。
トンと強く足踏みして、
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トンと強く足踏みして、
「いませんわ、お母さま。夢なんて、あてになりませんわよ」
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「いませんわ、お母さま。夢なんて、あてになりませんわよ」
とわざと必要以上の大声で言って、ちらと沓脱石のほうを見ると、蛇は、やっと、体を動かし、だらだらと石から垂れ落ちていった。
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とわざと必要以上の大声で言って、ちらと沓脱石のほうを見ると、蛇は、やっと、からだを動かし、だらだらと石から垂れ落ちて行った。
もうだめだ。
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もうだめだ。
だめなのだと、その蛇を見て、あきらめが、はじめて私の心の底に湧いて出た。
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だめなのだと、その蛇を見て、あきらめが、はじめて私の心の底に湧いて出た。
お父上が亡くなるときにも、まくらもとに黒い小さな蛇がいたというし、またあのとき、庭の木という木に蛇がからみついていたのを、私は見た。
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お父上のお亡くなりになる時にも、枕もとに黒い小さい蛇がいたというし、またあの時に、お庭の木という木に蛇がからみついていたのを、私は見た。
お母さまは床の上に起き直る元気もなくなったようで、いつもうつらうつらしていて、もう体をすっかり付き添いの看護婦さんにまかせて、そうして、食事は、もうほとんどのどを通らない様子だった。
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お母さまはお床の上に起き直るお元気もなくなったようで、いつもうつらうつらしていらして、もうおからだをすっかり附添いの看護婦さんにまかせて、そうして、お食事は、もうほとんど喉をとおらない様子であった。
蛇を見てから、私は、悲しみの底を突き抜けた心の平安、とでも言ったらいいのかしら、そのような幸福感にも似た心のゆとりが出てきて、もうこの上は、できるだけ、ただお母さまのそばにいようと思った。
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蛇を見てから、私は、悲しみの底を突き抜けた心の平安、とでも言ったらいいのかしら、そのような幸福感にも似た心のゆとりが出て来て、もうこの上は、出来るだけ、ただお母さまのお傍にいようと思った。
そうしてその翌日から、お母さまのまくらもとにぴったり寄り添って座って編み物などをした。
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そうしてその翌る日から、お母さまの枕元にぴったり寄り添って坐って編物などをした。
私は、編み物でも針仕事でも、人よりずっと早いけれど、しかし、下手だった。
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私は、編物でもお針でも、人よりずっと早いけれども、しかし、下手だった。
それで、いつもお母さまは、その下手なところを、いちいち手を取って教えてくれたものである。
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それで、いつもお母さまは、その下手なところを、いちいち手を取って教えて下さったものである。
その日も私は、特に編みたい気持ちもなかったのだが、お母さまのそばにべったりくっついていても不自然でないように、格好をつけるために、毛糸の箱を持ち出して、何も考えていないふうに編み物を始めたのだ。
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その日も私は、別に編みたい気持も無かったのだが、お母さまの傍にべったりくっついていても不自然でないように、恰好をつけるために、毛糸の箱を持ち出して余念無げに編物をはじめたのだ。
お母さまは私の手もとをじっと見つめて、
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お母さまは私の手もとをじっと見つめて、
「あなたの靴下を編んでるんでしょう? それなら、もう、八目増やさなければ、はくとき窮屈よ」
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「あなたの靴下をあむんでしょう? それなら、もう、八つふやさなければ、はくとき窮屈よ」
と言った。
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とおっしゃった。
私は子どものころ、いくら教えてもらっても、どうもうまく編めなかったが、そのときのようにまごつき、そうして、恥ずかしく、なつかしく、ああもう、こうしてお母さまに教えてもらうことも、これでおしまいと思うと、つい涙で編み目が見えなくなった。
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私は子供の頃、いくら教えて頂いても、どうもうまく編めなかったが、その時のようにまごつき、そうして、恥ずかしく、なつかしく、ああもう、こうしてお母さまに教えていただく事も、これでおしまいと思うと、つい涙で編目が見えなくなった。
お母さまは、こうして寝ていると、ちっとも苦しそうでなかった。
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お母さまは、こうして寝ていらっしゃると、ちっともお苦しそうでなかった。
食事は、もう、けさから全然通らず、ガーゼにお茶をひたして時々口をしめしてあげるだけなのだが、しかし意識は、はっきりしていて、時々私におだやかに話しかける。
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お食事は、もう、けさから全然とおらず、ガーゼにお茶をひたして時々お口をしめしてあげるだけなのだが、しかし意識は、はっきりしていて、時々私におだやかに話しかける。
「新聞に天皇陛下のお写真が出ていたようだけど、もういちど見せて」
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「新聞に陛下のお写真が出ていたようだけど、もういちど見せて」
私は新聞のその箇所をお母さまの顔の上にかざしてあげた。
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私は新聞のその箇所をお母さまのお顔の上にかざしてあげた。
「お年をとられた」
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「お老けになった」
「いいえ、これは写真が悪いのよ。このあいだの写真なんか、とても若くて、はしゃいでいらしたわ。かえってこんな時代を、お喜びになっているんでしょう」
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「いいえ、これは写真がわるいのよ。こないだのお写真なんか、とてもお若くて、はしゃいでいらしたわ。かえってこんな時代を、お喜びになっていらっしゃるんでしょう」
「なぜ?」
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「なぜ?」
「だって、陛下もこんど自由になったんですもの」
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「だって、陛下もこんど解放されたんですもの」
お母さまは、さびしそうに笑った。
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お母さまは、淋しそうにお笑いになった。
それから、しばらくして、
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それから、しばらくして、
「泣きたくても、もう、涙が出なくなったのよ」
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「泣きたくても、もう、涙が出なくなったのよ」
と言った。
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とおっしゃった。
私は、お母さまはいま幸せなのではないかしら、とふと思った。
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私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。
幸福感というものは、悲しみの川の底に沈んで、かすかに光っている砂金のようなものではないだろうか。
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幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。
悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明かりのような気持ち、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。
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悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。
静かな、秋の午前。
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静かな、秋の午前。
日差しの柔らかな、秋の庭。
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日ざしの柔らかな、秋の庭。
私は、編み物をやめて、胸の高さに光っている海を眺め、
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私は、編物をやめて、胸の高さに光っている海を眺め、
「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
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「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
と言い、それから、もっと言いたいことがあったけれど、座敷のすみで静脈注射の準備などしている看護婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。
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と言い、それから、もっと言いたい事があったけれども、お座敷の隅で静脈注射の支度などしている看護婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。
「いままでって、……」
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「いままでって、……」
とお母さまは、薄く笑って聞きとがめて、
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とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、
「それでは、いまは世間を知っているの?」
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「それでは、いまは世間を知っているの?」
私は、なぜだか顔が真っ赤になった。
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私は、なぜだか顔が真赤になった。
「世間は、わからない」
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「世間は、わからない」
とお母さまは顔を向こうに向けて、ひとりごとのように小さな声で言う。
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とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい声でおっしゃる。
「私には、わからない。わかっている人なんか、いないんじゃないの? いつまでたっても、みんな子どもです。なんにも、わかってやしないのです」
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「私には、わからない。わかっているひとなんか、無いんじゃないの? いつまで経っても、みんな子供です。なんにも、わかってやしないのです」
けれども、私は生きていかなければならないのだ。
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けれども、私は生きて行かなければならないのだ。
子どもかもしれないけれど、しかし、甘えてばかりもいられなくなった。
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子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。
私はこれから世間と争っていかなければならないのだ。
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私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。
ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく一生を終えることのできる人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在できないのではないだろうか。
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ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。
死んでいく人は美しい。
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死んで行くひとは美しい。
生きるということ。
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生きるという事。
生き残るということ。
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生き残るという事。
それは、たいへん醜くて、血のにおいのする、きたならしいことのような気もする。
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それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。
私は、身ごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。
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私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。
けれども、私には、あきらめきれないものがあるのだ。
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けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。
あさましくてもよい、私は生き残って、思うことをなしとげるために世間と争っていこう。
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あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。
お母さまがいよいよ亡くなるということが決まると、私のロマンチックな気持ちや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならない悪賢い生き物に変わっていくような気分になった。
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お母さまのいよいよ亡くなるという事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。
その日のお昼過ぎ、私がお母さまのそばで、口をうるおしてあげていると、門の前に車が止まった。
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その日のお昼すぎ、私がお母さまの傍で、お口をうるおしてあげていると、門の前に自動車がとまった。
和田の叔父さまが、叔母さまと一緒に東京から車で駆けつけてきてくれたのだ。
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和田の叔父さまが、叔母さまと一緒に東京から自動車で馳せつけて来て下さったのだ。
叔父さまが、病室に入ってきて、お母さまのまくらもとに黙って座ると、お母さまは、ハンカチで自分の顔の下半分をかくし、叔父さまの顔を見つめたまま、泣いた。
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叔父さまが、病室にはいっていらして、お母さまの枕元に黙ってお坐りになったら、お母さまは、ハンケチでご自分のお顔の下半分をかくし、叔父さまのお顔を見つめたまま、お泣きになった。
けれども、泣き顔になっただけで、涙は出なかった。
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けれども、泣き顔になっただけで、涙は出なかった。
人形のような感じだった。
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お人形のような感じだった。
「直治は、どこ?」
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「直治は、どこ?」
と、しばらくしてお母さまは、私のほうを見て言った。
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と、しばらくしてお母さまは、私のほうを見ておっしゃった。
私は二階へ行って、洋間のソファに寝そべって新しい雑誌を読んでいる直治に、
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私は二階へ行って、洋間のソファに寝そべって新刊の雑誌を読んでいる直治に、
「お母さまが、お呼びですよ」
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「お母さまが、お呼びですよ」
というと、
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というと、
「わあ、また悲しい場面か。お前たちは、よく我慢してあそこに頑張っていられるね。神経が太いんだね。薄情なんだね。僕たちは、なんとも苦しくて、本当に心は熱くても体がついていかず、とてもママのそばにいる気力はない」
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「わあ、また愁歎場か。汝等は、よく我慢してあそこに頑張っておれるね。神経が太いんだね。薄情なんだね。我等は、何とも苦しくて、実に心は熱すれども肉体よわく、とてもママの傍にいる気力は無い」
などと言いながら上着を着て、私と一緒に二階から降りてきた。
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などと言いながら上衣を着て、私と一緒に二階から降りて来た。
二人並んでお母さまのまくらもとに座ると、お母さまは、急にふとんの下から手を出して、そうして、黙って直治のほうを指さし、それから私を指さし、それから叔父さまのほうへ顔を向けて、両方の手のひらをぴたりと合わせた。
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二人ならんでお母さまの枕もとに坐ると、お母さまは、急にお蒲団の下から手をお出しになって、そうして、黙って直治のほうを指差し、それから私を指差し、それから叔父さまのほうへお顔をお向けになって、両方の掌をひたとお合せになった。
叔父さまは、大きくうなずいて、
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叔父さまは、大きくうなずいて、
「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ」
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「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ」
と言った。
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とおっしゃった。
お母さまは、安心したように、目を軽くつぶって、手をふとんの中へそっと入れた。
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お母さまは、ご安心なさったように、眼を軽くつぶって、手をお蒲団の中へそっとおいれになった。
私も泣き、直治もうつむいて声をつまらせて泣いた。
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私も泣き、直治もうつむいて嗚咽した。
そこへ、三宅さまという年配の先生が、長岡から来て、とりあえず注射した。
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そこへ、三宅さまの老先生が、長岡からいらして、取り敢えず注射した。
お母さまも、叔父さまに会えて、もう、心残りがないと思ったのか、
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お母さまも、叔父さまに逢えて、もう、心残りが無いとお思いになったか、
「先生、早く、楽にして下さいな」
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「先生、早く、楽にして下さいな」
と言った。
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とおっしゃった。
年配の先生と叔父さまは、顔を見合わせて、黙って、そうして二人の目に涙がきらりと光った。
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老先生と叔父さまは、顔を見合せて、黙って、そうしてお二人の眼に涙がきらと光った。
私は立って食堂へ行き、叔父さまの好きなキツネうどんを作って、先生と直治と叔母さまと四人分、中国間へ持っていき、それから叔父さまのお土産の丸の内ホテルのサンドイッチを、お母さまに見せて、お母さまのまくらもとに置くと、
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私は立って食堂へ行き、叔父さまのお好きなキツネうどんをこしらえて、先生と直治と叔母さまと四人分、支那間へ持って行き、それから叔父さまのお土産の丸ノ内ホテルのサンドウィッチを、お母さまにお見せして、お母さまの枕元に置くと、
「忙しいでしょう」
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「忙しいでしょう」
とお母さまは、小声で言った。
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とお母さまは、小声でおっしゃった。
中国間で皆さんがしばらく雑談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても今夜、東京へ帰らなければならない用事があるとかで、私に見舞いのお金の包みを手渡し、三宅さまも看護婦さんと一緒に帰ることになり、付き添いの看護婦さんに、いろいろ手当ての仕方を言いつけ、とにかくまだ意識はしっかりしているし、心臓のほうもそんなに弱っていないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だろうということで、その日いったん皆さんが車で東京へ引き上げたのである。
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支那間で皆さんがしばらく雑談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても今夜、東京へ帰らなければならぬ用事があるとかで、私に見舞いのお金包を手渡し、三宅さまも看護婦さんと一緒にお帰りになる事になり、附添いの看護婦さんに、いろいろ手当の仕方を言いつけ、とにかくまだ意識はしっかりしているし、心臓のほうもそんなにまいっていないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だろうという事で、その日いったん皆さんが自動車で東京へ引き上げたのである。
皆さんを見送って、座敷へ行くと、お母さまが、私にだけ笑う親しげな笑い方をして、
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皆さんをお送りして、お座敷へ行くと、お母さまが、私にだけ笑う親しげな笑いかたをなさって、
「忙しかったでしょう」
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「忙しかったでしょう」
と、またささやくような小さな声で言った。
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と、また、囁くような小さいお声でおっしゃった。
その顔は、生き生きとして、むしろ輝いているように見えた。
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そのお顔は、活き活きとして、むしろ輝いているように見えた。
叔父さまに会えてうれしかったのだろう、と私は思った。
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叔父さまにお逢い出来てうれしかったのだろう、と私は思った。
「いいえ」
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「いいえ」
私も少し浮き浮きした気分になって、にっこり笑った。
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私もすこし浮き浮きした気分になって、にっこり笑った。
そうして、これが、お母さまとの最後の会話だった。
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そうして、これが、お母さまとの最後のお話であった。
それから、三時間ばかりして、お母さまは亡くなったのだ。
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それから、三時間ばかりして、お母さまは亡くなったのだ。
秋の静かな夕暮れ、看護婦さんに脈をとられて、直治と私と、たった二人の身内に見守られて、日本で最後の貴婦人だった美しいお母さまが。
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秋のしずかな黄昏、看護婦さんに脈をとられて、直治と私と、たった二人の肉親に見守られて、日本で最後の貴婦人だった美しいお母さまが。
死に顔は、ほとんど、変わらなかった。
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お死顔は、殆んど、変らなかった。
お父上のときは、さっと、顔の色が変わったけれど、お母さまの顔の色は、ちっとも変わらずに、呼吸だけが絶えた。
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お父上の時は、さっと、お顔の色が変ったけれども、お母さまのお顔の色は、ちっとも変らずに、呼吸だけが絶えた。
その呼吸が絶えたのも、いつだったのか、はっきりわからないくらいだった。
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その呼吸の絶えたのも、いつと、はっきりわからぬ位であった。
顔のむくみも、前日あたりからとれていて、ほおがろうのようにすべすべして、薄いくちびるがかすかにゆがんでほほえみを含んでいるようにも見えて、生きているお母さまより、あでやかだった。
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お顔のむくみも、前日あたりからとれていて、頬が蝋のようにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含んでいるようにも見えて、生きているお母さまより、なまめかしかった。
私は、悲しみに沈む聖母マリアの絵に似ていると思った。
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私は、ピエタのマリヤに似ていると思った。
六
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六
戦い、開始。
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戦闘、開始。
いつまでも、悲しみに沈んでもいられなかった。
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いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。
私には、ぜひとも、戦って手に入れなければならないものがあった。
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私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。
新しい倫理。
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新しい倫理。
いいえ、そう言っても偽善めく。
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いいえ、そう言っても偽善めく。
恋。
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恋。
それだけだ。
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それだけだ。
ローザ・ルクセンブルクが新しい経済学にたよらなければ生きていられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ、生きていけないのだ。
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ローザが新しい経済学にたよらなければ生きておられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。
イエスが、この世の宗教家、道徳家、学者、権威者の偽善をあばき、神の本当の愛情というものを少しもためらうことなくありのままに人々に語ろうとして、十二人の弟子たちを各地に送り出そうとしたときに、弟子たちに教えて聞かせた言葉は、私のこの場合にもまったく関係のないことではないように思われた。
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イエスが、この世の宗教家、道徳家、学者、権威者の偽善をあばき、神の真の愛情というものを少しも躊躇するところなくありのままに人々に告げあらわさんがために、その十二弟子をも諸方に派遣なさろうとするに当って、弟子たちに教え聞かせたお言葉は、私のこの場合にも全然、無関係でないように思われた。
「腰の帯の中に、金や銀やお金を持っていってはいけない。旅の袋も、着替えも、はきものも、杖も持っていってはいけない。よく聞きなさい、わたしがあなたたちを送り出すのは、羊を狼の群れの中に送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のようにすなおでありなさい。人々に気をつけなさい。彼らはあなたたちを裁判所に引き渡し、集会所でむちで打つだろう。また、あなたたちはわたしのために、役人や王たちの前に引っ張り出されるだろう。彼らがあなたたちを引き渡しても、何を言おうかと心配することはない。言うべきことは、そのときに与えられる。それを言うのはあなたたちではなく、あなたたちの中にいて語る、あなたたちの父の霊である。また、あなたたちはわたしの名のために、すべての人に憎まれるだろう。けれども、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。この町で迫害されたら、次の町へ逃げなさい。本当のことを言うが、あなたたちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに、人の子は来るだろう。
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「帯のなかに金・銀または銭を持つな。旅の嚢も、二枚の下衣も、鞋も、杖も持つな。視よ、我なんじらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付し、会堂にて鞭たん。また汝等わが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。かれら汝らを付さば、如何なにを言わんと思い煩うな、言うべき事は、その時さずけられるべし。これ言うものは汝等にあらず、其の中にありて言いたまう汝らの父の霊なり。又なんじら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐え忍ぶものは救わるべし。この町にて、責めらるる時は、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ、なんじらイスラエルの町々を巡り尽さぬうちに人の子は来るべし。
体を殺しても、たましいを殺すことができない者たちを恐れるな。体とたましいの両方を地獄で滅ぼすことができる者を恐れなさい。
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身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。
わたしが地上に平和をもたらすために来たと思ってはいけない。平和ではなく、むしろ剣をもたらすために来たのだ。
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われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜん為に来れり。
わたしが来たのは、人をその父から、娘をその母から、嫁をそのしゅうとめから引き離すためである。
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それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜より分たん為なり。
人の敵は、その家族になるだろう。
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人の仇は、その家の者なるべし。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
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我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。
わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
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我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず。
また、自分の十字架を背負ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
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又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に相応しからず。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得るだろう」
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生命を得る者は、これを失い、我がために生命を失う者は、これを得べし」
戦い、開始。
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戦闘、開始。
もし、私が恋のために、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守ることを誓ったら、イエスさまは叱るかしら。
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もし、私が恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守ることを誓ったら、イエスさまはお叱りになるかしら。
なぜ、「恋」
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なぜ、「恋」
が悪くて、「愛」
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がわるくて、「愛」
がいいのか、私にはわからない。
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がいいのか、私にはわからない。
同じもののような気がしてならない。
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同じもののような気がしてならない。
何だかわからない愛のために、恋のために、その悲しさのために、体とたましいを地獄で滅ぼすことができる者、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。
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何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。
叔父さまたちの世話で、お母さまの内輪の葬式を伊豆で行い、本葬式は東京ですませて、それからまた直治と私は、伊豆の山荘で、お互い顔を合わせても口をきかないような、理由のわからない気まずい生活をしていた。直治は出版の仕事の資本金だと言って、お母さまの宝石類を全部持ち出し、東京で飲み疲れると、伊豆の山荘へ大病人のような真っ青な顔をしてふらふら帰ってきては、寝て、あるとき、若いダンサーふうの人を連れてきて、さすがに直治も少し気まずそうにしているので、
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叔父さまたちのお世話で、お母さまの密葬を伊豆で行い、本葬は東京ですまして、それからまた直治と私は、伊豆の山荘で、お互い顔を合せても口をきかぬような、理由のわからぬ気まずい生活をして、直治は出版業の資本金と称して、お母さまの宝石類を全部持ち出し、東京で飲み疲れると、伊豆の山荘へ大病人のような真蒼な顔をしてふらふら帰って来て、寝て、或る時、若いダンサアふうのひとを連れて来て、さすがに直治も少し間が悪そうにしているので、
「きょう、私、東京へ行ってもいい? 友達のところへ、久しぶりで遊びに行ってみたいの。二晩か、三晩、泊まってきますから、あなた留守番してね。お料理は、あの方に、頼むといいわ」
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「きょう、私、東京へ行ってもいい? お友だちのところへ、久し振りで遊びに行ってみたいの。二晩か、三晩、泊って来ますから、あなた留守番してね。お炊事は、あのかたに、たのむといいわ」
直治の弱みにすかさずつけこみ、いわば蛇のように賢く、私はバッグに化粧品やパンなど詰め込んで、きわめて自然に、あの人に会いに東京へ行くことができた。
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直治の弱味にすかさず附け込み、謂わば蛇のごとく慧く、私はバッグにお化粧品やパンなど詰め込んで、きわめて自然に、あのひとと逢いに上京する事が出来た。
東京郊外、省線荻窪(おぎくぼ)駅の北口で降りると、そこから二十分くらいで、あの人の戦後の新しい住まいにたどり着けるらしいということは、直治から前にそれとなく聞いていたのである。
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東京郊外、省線荻窪駅の北口に下車すると、そこから二十分くらいで、あのひとの大戦後の新しいお住居に行き着けるらしいという事は、直治から前にそれとなく聞いていたのである。
木枯らしの強く吹いている日だった。
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こがらしの強く吹いている日だった。
荻窪駅に降りたころには、もうあたりが薄暗く、私は道を通る人をつかまえては、あの人のところの番地を告げて、その方角を教えてもらい、一時間近く暗い郊外の路地をうろついて、あまりに心細くて、涙が出て、そのうちに砂利道の石につまずいて下駄の鼻緒がぷつんと切れた。どうしようかと立ちすくんで、ふと右手の二軒長屋のうちの一軒の家の表札が、夜目にも白くぼんやり浮かんで、それに上原と書かれているような気がして、片足は足袋はだしのまま、その家の玄関に走り寄って、なおよく表札を見ると、たしかに上原二郎と書かれていたが、家の中は暗かった。
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荻窪駅に降りた頃には、もうあたりが薄暗く、私は往来のひとをつかまえては、あのひとのところ番地を告げて、その方角を教えてもらって、一時間ちかく暗い郊外の路地をうろついて、あまり心細くて、涙が出て、そのうちに砂利道の石につまずいて下駄の鼻緒がぷつんと切れて、どうしようかと立ちすくんで、ふと右手の二軒長屋のうちの一軒の家の表札が、夜目にも白くぼんやり浮んで、それに上原と書かれているような気がして、片足は足袋はだしのまま、その家の玄関に走り寄って、なおよく表札を見ると、たしかに上原二郎としたためられていたが、家の中は暗かった。
どうしようか、とまた一瞬立ちすくみ、それから、身を投げる気持ちで、玄関の格子戸に倒れかかるようにぴたりと寄り添い、
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どうしようか、とまた瞬時立ちすくみ、それから、身を投げる気持で、玄関の格子戸に倒れかかるようにひたと寄り添い、
「ごめん下さいまし」
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「ごめん下さいまし」
と言い、両手の指先で格子をなでながら、
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と言い、両手の指先で格子を撫でながら、
「上原さん」
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「上原さん」
と小声でささやいてみた。
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と小声で囁いてみた。
返事は、あった。
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返事は、有った。
しかし、それは、女の人の声だった。
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しかし、それは、女のひとの声であった。
玄関の戸が内から開いて、細おもての古風な感じのする、私より三つ四つ年上のような女の人が、玄関の暗やみの中でちらと笑い、
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玄関の戸が内からあいて、細おもての古風な匂いのする、私より三つ四つ年上のような女のひとが、玄関の暗闇の中でちらと笑い、
「どちらさまでしょうか」
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「どちらさまでしょうか」
とたずねるその言葉の調子には、なんの悪意も警戒もなかった。
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とたずねるその言葉の調子には、なんの悪意も警戒も無かった。
「いいえ、あのう」
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「いいえ、あのう」
けれども私は、自分の名前を言いそびれてしまった。
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けれども私は、自分の名を言いそびれてしまった。
この人にだけは、私の恋も、不思議とうしろめたく思われた。
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このひとにだけは、私の恋も、奇妙にうしろめたく思われた。
おどおどと、ほとんど卑屈に、
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おどおどと、ほとんど卑屈に、
「先生は? いらっしゃいません?」
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「先生は? いらっしゃいません?」
「はあ」
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「はあ」
と答えて、気の毒そうに私の顔を見て、
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と答えて、気の毒そうに私の顔を見て、
「でも、行き先は、たいてい、……」
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「でも、行く先は、たいてい、……」
「遠くへ?」
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「遠くへ?」
「いいえ」
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「いいえ」
と、おかしそうに片手を口に当てて、
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と、可笑しそうに片手をお口に当てられて、
「荻窪ですの。駅の前の、白石というおでん屋さんへ行かれれば、たいてい、行き先がおわかりかと思います」
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「荻窪ですの。駅の前の、白石というおでんやさんへおいでになれば、たいてい、行く先がおわかりかと思います」
私は飛び立つ思いで、
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私は飛び立つ思いで、
「あ、そうですか」
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「あ、そうですか」
「あら、おはきものが」
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「あら、おはきものが」
すすめられて私は、玄関の内へ入り、上がりかまちに座らせてもらい、奥さまから、簡単に直せる鼻緒とでもいうのかしら、鼻緒が切れたときに手軽に直せる革のひもをもらって、下駄を直した。そのあいだ奥さまは、ろうそくをともして玄関に持ってきてくれたりしながら、
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すすめられて私は、玄関の内へはいり、式台に坐らせてもらい、奥さまから、軽便鼻緒とでもいうのかしら、鼻緒の切れた時に手軽に繕うことの出来る革の仕掛紐をいただいて、下駄を直して、そのあいだに奥さまは、蝋燭をともして玄関に持って来て下さったりしながら、
「あいにく、電球が二つとも切れてしまいまして、このごろの電球はばか高い上に切れやすくていけませんわね、主人がいると買ってもらえるんですけど、ゆうべも、おとといの晩も帰ってまいりませんので、私どもは、これで三晩、無一文の早寝ですのよ」
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「あいにく、電球が二つとも切れてしまいまして、このごろの電球は馬鹿高い上に切れ易くていけませんわね、主人がいると買ってもらえるんですけど、ゆうべも、おとといの晩も帰ってまいりませんので、私どもは、これで三晩、無一文の早寝ですのよ」
などと、心からのんきそうに笑って言う。
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などと、しんからのんきそうに笑っておっしゃる。
奥さまのうしろには、十二、三歳の目の大きな、めったに人になつかないような感じのほっそりした女の子が立っている。
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奥さまのうしろには、十二、三歳の眼の大きな、めったに人になつかないような感じのほっそりした女のお子さんが立っている。
敵。
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敵。
私はそう思わないけれど、しかし、この奥さまと子どもは、いつかは私を敵と思って憎むことがあるに違いないのだ。
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私はそう思わないけれども、しかし、この奥さまとお子さんは、いつかは私を敵と思って憎む事があるに違いないのだ。
それを考えたら、私の恋も、いっぺんに冷めてしまったような気持ちになって、下駄の鼻緒をすげかえ、立ってはたはたと手を打ち合わせて両手のよごれを払い落としながら、わびしさが猛然と身のまわりに押し寄せてくる気配に耐えかねて、座敷に駆け上って、まっくらやみの中で奥さまの手をつかんで泣こうかしらと、ぐらぐら激しく心が揺れたけれど、ふと、そのあとの自分のしらじらしい何とも形のつかない味気ない姿を想像し、いやになり、
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それを考えたら、私の恋も、一時にさめ果てたような気持になって、下駄の鼻緒をすげかえ、立ってはたはたと手を打ち合せて両手のよごれを払い落しながら、わびしさが猛然と身のまわりに押し寄せて来る気配に堪えかね、お座敷に駈け上って、まっくら闇の中で奥さまのお手を掴んで泣こうかしらと、ぐらぐら烈しく動揺したけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何とも形のつかぬ味気無い姿を考え、いやになり、
「ありがとうございました」
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「ありがとうございました」
と、ばかていねいなお辞儀をして、外へ出て、木枯らしに吹かれ、戦い、開始、恋する、好き、こがれる、本当に恋する、本当に好き、本当にこがれる、恋しいのだから仕方がない、好きなのだから仕方がない、こがれているのだから仕方がない、あの奥さまはたしかに珍しくいい人、あのお嬢さんもきれいだ、けれども私は、神の裁きの前に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わない、人間は、恋と革命のために生まれてきたのだ、神も罰するはずがない、私はみじんも悪くない、本当に好きなのだから大威張り、あの人にひと目会うまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
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と、ばか叮嚀なお辞儀をして、外へ出て、こがらしに吹かれ、戦闘、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い、あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方、あのお嬢さんもお綺麗だ、けれども私は、神の審判の台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ、人間は、恋と革命のために生れて来たのだ、神も罰し給う筈が無い、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
駅前の白石というおでん屋は、すぐに見つかった。
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駅前の白石というおでんやは、すぐに見つかった。
けれども、あの人はいない。
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けれども、あのひとはいらっしゃらない。
「阿佐ヶ谷ですよ、きっと。阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐ行って、そうですね、一丁半くらいかな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へ入って、半丁くらいかな? 柳やという小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大の仲良しで、入りびたりだ、かなわねえ」
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「阿佐ヶ谷ですよ、きっと。阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐにいらして、そうですね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはいって、半丁かな? 柳やという小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大あつあつで、いりびたりだ、かなわねえ」
駅へ行き、切符を買い、東京行きの省線に乗り、阿佐ヶ谷で降りて、北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲って半丁、柳やは、ひっそりしていた。
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駅へ行き、切符を買い、東京行きの省線に乗り、阿佐ヶ谷で降りて、北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲って半丁、柳やは、ひっそりしていた。
「たったいまお帰りになりましたが、大勢で、これから西荻(にしおぎ)のチドリのおばさんのところへ行って夜通し飲むんだ、とか言っていましたよ」
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「たったいまお帰りになりましたが、大勢さんで、これから西荻のチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだ、とかおっしゃっていましたよ」
私よりも年が若くて、落ち着いて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいう、あの人と大の仲良しという人なのかしら。
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私よりも年が若くて、落ちついて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいうあのひとと大あつあつの人なのかしら。
「チドリ? 西荻のどのへん?」
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「チドリ? 西荻のどのへん?」
心細くて、涙が出そうになった。
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心細くて、涙が出そうになった。
自分がいま、気が変になっているのではないかしら、とふと思った。
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自分がいま、気が狂っているのではないかしら、とふと思った。
「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左に入ったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、一軒ではおさまらない人で、チドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかもしれませんですよ」
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「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左にはいったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、一軒ではおさまらないひとで、チドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ」
「チドリへ行ってみます。さようなら」
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「チドリへ行ってみます。さようなら」
また、逆戻り。
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また、逆もどり。
阿佐ヶ谷から省線で立川行きに乗り、荻窪、西荻窪、駅の南口で降りて、木枯らしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたずねて、それから、教えられたとおりの夜道を走るようにして行って、チドリの青いちょうちんを見つけて、ためらわず格子戸を開けた。
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阿佐ヶ谷から省線で立川行きに乗り、荻窪、西荻窪、駅の南口で降りて、こがらしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたずねて、それから、教えられたとおりの夜道を走るようにして行って、チドリの青い燈籠を見つけて、ためらわず格子戸をあけた。
土間があって、それからすぐ六畳間くらいの部屋があって、たばこの煙でもうもうとして、十人ばかりの人間が、部屋の大きなテーブルを囲んで、わあっわあっとひどく騒がしい酒盛りをしていた。
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土間があって、それからすぐ六畳間くらいの部屋があって、たばこの煙で濛々として、十人ばかりの人間が、部屋の大きな卓をかこんで、わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛りをしていた。
私より若いくらいのお嬢さんも三人混じって、たばこを吸い、お酒を飲んでいた。
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私より若いくらいのお嬢さんも三人まじって、たばこを吸い、お酒を飲んでいた。
私は土間に立って、見渡し、見つけた。
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私は土間に立って、見渡し、見つけた。
そうして、夢を見るような気持ちになった。
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そうして、夢見るような気持ちになった。
違うのだ。
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ちがうのだ。
六年。
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六年。
まるっきり、もう、違う人になっているのだ。
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まるっきり、もう、違ったひとになっているのだ。
これが、あの、私の虹、M・C、私の生きがいの、あの人だろうか。
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これが、あの、私の虹、M・C、私の生き甲斐の、あのひとであろうか。
六年。
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六年。
ぼさぼさの髪は昔のままだけれど、哀れなくらい赤茶けて薄くなっており、顔は黄色くむくんで、目のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の年老いたサルが背中を丸くして部屋のすみに座っている感じだった。
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蓬髪は昔のままだけれども哀れに赤茶けて薄くなっており、顔は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅に坐っている感じであった。
お嬢さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私が来ていることを知らせた。
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お嬢さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の来ている事を知らせた。
あの人は座ったまま細長い首をのばして私のほうを見て、何の表情もなく、あごで、あがれ、という合図をした。
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あのひとは坐ったまま細長い首をのばして私のほうを見て、何の表情も無く、顎であがれという合図をした。
一座は、私に何の関心もなさそうに、わいわいの大騒ぎを続け、それでも少しずつ席を詰めて、上原さんのすぐ右隣りに私の席を作ってくれた。
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一座は、私に何の関心も無さそうに、わいわいの大騒ぎをつづけ、それでも少しずつ席を詰めて、上原さんのすぐ右隣りに私の席をつくってくれた。
私は黙って座った。
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私は黙って坐った。
上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといっぱい注いでくれて、それから自分のコップにもお酒を注ぎ足して、
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上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといっぱい注いでくれて、それからご自分のコップにもお酒を注ぎ足して、
「乾杯」
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「乾杯」
としゃがれた声で低く言った。
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としゃがれた声で低く言った。
二つのコップが、力弱く触れ合って、カチと悲しい音がした。
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二つのコップが、力弱く触れ合って、カチと悲しい音がした。
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と誰かが言って、それに応じてまたひとりが、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と言い、カチンと音高くコップを打ち合わせてぐいと飲む。
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ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と誰かが言って、それに応じてまたひとりが、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と言い、カチンと音高くコップを打ち合せてぐいと飲む。
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、とあちこちから、そのでたらめみたいな歌が起こって、さかんにコップを打ち合わせて乾杯をしている。
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ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、とあちこちから、その出鱈目みたいな歌が起って、さかんにコップを打ち合せて乾杯をしている。
そんなふざけきったリズムで勢いをつけて、無理にお酒をのどに流し込んでいる様子だった。
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そんなふざけ切ったリズムでもってはずみをつけて、無理にお酒を喉に流し込んでいる様子であった。
「じゃ、失敬」
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「じゃ、失敬」
と言って、よろめきながら帰る人がいるかと思うと、また、新しい客がのっそり入ってきて、上原さんにちょっと会釈しただけで、一座に割り込む。
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と言って、よろめきながら帰るひとがあるかと思うと、また、新客がのっそりはいって来て、上原さんにちょっと会釈しただけで、一座に割り込む。
「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんなふうに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
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「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな工合いに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
と乗り出してたずねている人は、たしかに私もその舞台顔に見覚えのある新劇俳優の藤田だった。
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と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もその舞台顔に見覚えのある新劇俳優の藤田である。
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような具合だね」
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「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅だね」
と上原さん。
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と上原さん。
「お金のことばっかり」
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「お金の事ばっかり」
とお嬢さん。
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とお嬢さん。
「二羽のスズメは一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」
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「二羽の雀は一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」
と若い紳士。
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と若い紳士。
「一円も残さず払わなければ、という言葉もあるし、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントなんて、ひどくややこしいたとえ話もあるし、キリストも勘定はなかなか細かいんだ」
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「一厘も残りなく償わずば、という言葉もあるし、或者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話もあるし、キリストも勘定はなかなかこまかいんだ」
と別の紳士。
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と別の紳士。
「それに、あいつあ酒飲みだったよ。妙に聖書には酒のたとえ話が多いと思っていたら、案の定だ、『見よ、酒を好む人』、と非難されたと聖書に書いてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、一升飲みかね」
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「それに、あいつあ酒飲みだったよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら、果せるかなだ、視よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録されてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、一升飲みかね」
ともうひとりの紳士。
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ともうひとりの紳士。
「よせ、よせ。ああ、あ、お前たちは道徳におびえて、イエスをだしに使おうとしている。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
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「よせ、よせ。ああ、あ、汝らは道徳におびえて、イエスをダシに使わんとす。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
と上原さん、一番若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合わせて、ぐっと飲んで、お酒が口の端からしたたり落ちて、あごがぬれて、それをやけくそみたいに乱暴に手のひらでぬぐって、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてした。
原文を見る
と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡れて、それをやけくそみたいに乱暴に掌で拭って、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてなさった。
私はそっと立って、隣りの部屋へ行き、病気がちらしく青白くやせたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋を通ると、さっきの一番きれいで若い、チエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたような格好で立っていて、
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私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白く痩せたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋をとおると、さっきの一ばんきれいで若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたような恰好で立っていて、
「おなかが、おすきになりません?」
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「おなかが、おすきになりません?」
と親しそうに笑いながら、尋ねた。
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と親しそうに笑いながら、尋ねた。
「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから」
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「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから」
「何もございませんけど」
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「何もございませんけど」
と病気がちらしいおかみさんは、だるそうに横座りに座って長火鉢に寄りかかったままで言う。
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と病身らしいおかみさんは、だるそうに横坐りに坐って長火鉢に寄りかかったままで言う。
「この部屋で、お食事をなさいまし。あんな飲んべえさんたちの相手をしていたら、一晩中なにも食べられやしません。お座りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に」
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「この部屋で、お食事をなさいまし。あんな呑んべえさんたちの相手をしていたら、一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に」
「おうい、キヌちゃん、お酒がない」
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「おうい、キヌちゃん、お酒が無い」
と隣りで紳士が叫ぶ。
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とお隣りで紳士が叫ぶ。
「はい、はい」
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「はい、はい」
と返事して、そのキヌちゃんという三十歳前後の粋なしま模様の着物を着た女中さんが、とっくりをお盆に十本ばかり載せて、台所から現れる。
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と返辞して、そのキヌちゃんという三十歳前後の粋な縞の着物を着た女中さんが、お銚子をお盆に十本ばかり載せて、お勝手からあらわれる。
「ちょっと」
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「ちょっと」
とおかみさんは呼び止めて、
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とおかみさんは呼びとめて、
「ここへも二本」
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「ここへも二本」
と笑いながら言い、
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と笑いながら言い、
「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大急ぎでね」
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「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大いそぎでね」
私とチエちゃんは長火鉢のそばに並んで座って、手をあぶっていた。
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私とチエちゃんは長火鉢の傍にならんで坐って、手をあぶっていた。
「ふとんをおあてなさい。寒くなりましたね。お飲みになりませんか」
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「お蒲団をおあてなさい。寒くなりましたね。お飲みになりませんか」
おかみさんは、自分のお茶の茶碗にとっくりのお酒をついで、それから別の二つの茶碗にもお酒を注いだ。
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おかみさんは、ご自分のお茶のお茶碗にお銚子のお酒をついで、それから別の二つのお茶碗にもお酒を注いだ。
そうして私たち三人は黙って飲んだ。
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そうして私たち三人は黙って飲んだ。
「みなさん、お強いのね」
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「みなさん、お強いのね」
とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。
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とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。
がらがらと表の戸の開く音が聞こえて、
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がらがらと表の戸のあく音が聞えて、
「先生、持ってまいりました」
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「先生、持ってまいりました」
という若い男の声がして、
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という若い男の声がして、
「何せ、うちの社長ったら、しっかりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円」
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「何せ、うちの社長ったら、がっちりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円」
「小切手か?」
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「小切手か?」
と上原さんのしゃがれた声。
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と上原さんのしゃがれた声。
「いいえ、現金ですが。すみません」
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「いいえ、現なまですが。すみません」
「まあ、いいや、受け取りを書こう」
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「まあ、いいや、受取りを書こう」
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座においてとぎれることなく続いている。
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ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座に於いて絶える事無くつづいている。
「直さんは?」
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「直さんは?」
と、おかみさんはまじめな顔をしてチエちゃんに尋ねる。
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と、おかみさんは真面目な顔をしてチエちゃんに尋ねる。
私は、どきりとした。
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私は、どきりとした。
「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし」
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「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし」
と、チエちゃんは、うろたえて、顔をかわいらしく赤くした。
原文を見る
と、チエちゃんは、うろたえて、顔を可憐に赤くなさった。
「このごろ、何か上原さんと、まずいことでもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに」
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「この頃、何か上原さんと、まずい事でもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに」
とおかみさんは、落ち着いて言う。
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とおかみさんは、落ちついて言う。
「ダンスのほうが、好きになったんですって。ダンサーの恋人でもできたんでしょうよ」
原文を見る
「ダンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ」
「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね」
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「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね」
「先生の仕込みですもの」
原文を見る
「先生のお仕込みですもの」
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなお坊ちゃんくずれは、……」
原文を見る
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなお坊ちゃんくずれは、……」
「あの」
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「あの」
私はほほえんで口をはさんだ。
原文を見る
私は微笑んで口をはさんだ。
黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
原文を見る
黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
「私、直治の姉なんですの」
原文を見る
「私、直治の姉なんですの」
おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
原文を見る
おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところに立っていらしたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと」
原文を見る
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと」
「左様でございますか」
原文を見る
「左様でございますか」
とおかみさんは口調を改めて、
原文を見る
とおかみさんは語調を改めて、
「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」
原文を見る
「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」
「ええ、六年前にお会いして、……」
原文を見る
「ええ、六年前にお逢いして、……」
言いよどみ、うつむき、涙が出そうになった。
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言い澱み、うつむき、涙が出そうになった。
「お待ちどおさま」
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「お待ちどおさま」
女中さんが、うどんを持ってきた。
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女中さんが、おうどんを持って来た。
「召し上がれ。熱いうちに」
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「召し上れ。熱いうちに」
とおかみさんはすすめる。
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とおかみさんはすすめる。
「いただきます」
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「いただきます」
うどんの湯気に顔をつっこみ、するするとうどんをすすって、私は、いまこそ生きていることのわびしさの、極限を味わっているような気がした。
原文を見る
おうどんの湯気に顔をつっ込み、するするとおうどんを啜って、私は、いまこそ生きている事の侘びしさの、極限を味わっているような気がした。
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋に入ってきて、私のそばにどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。
原文を見る
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。
「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ」
原文を見る
「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ」
おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引き出しにしまいこんで笑いながら言う。
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おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞い込んで笑いながら言う。
「持ってくるよ。あとの支払いは、来年だ」
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「持って来るよ。あとの支払いは、来年だ」
「あんなことを」
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「あんな事を」
一万円。
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一万円。
それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。
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それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。
私だって、それだけあれば、一年らくに暮らせるのだ。
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私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。
ああ、何かこの人たちは、間違っている。
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ああ、何かこの人たちは、間違っている。
しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じように、こうでもしなければ、生きていかれないのかもしれない。
原文を見る
しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。
人はこの世の中に生まれてきた以上は、どうしても生ききらなければいけないものならば、この人たちのこの生ききるための姿も、憎むべきではないのかもしれない。
原文を見る
人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。
生きていること。
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生きている事。
生きていること。
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生きている事。
ああ、それは、何というやりきれない、息もたえだえの大事業なのだろうか。
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ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
「とにかくね」
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「とにかくね」
と隣室の紳士が言う。
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と隣室の紳士がおっしゃる。
「これから東京で暮らしていくにはだね、『こんちわぁ』という軽薄きわまるあいさつが平気でできるようでなければ、とてもだめだね。いまの僕たちに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首をくくっている人の足を引っぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きていけやしねえじゃないか。もしもだね、こんちわぁを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしかないんだ、一つは田舎で農業をやること、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ」
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「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワァ、という軽薄きわまる挨拶が平気で出来るようでなければ、とても駄目だね。いまのわれらに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引っぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえじゃないか。もしもだね、コンチワァを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ、一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ」
「その一つもできやしないかわいそうな野郎には、せめて最後の唯一の手段」
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「その一つも出来やしねえ可哀想な野郎には、せめて最後の唯一の手段」
と別な紳士が、
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と別な紳士が、
「上原二郎にたかって、痛飲」
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「上原二郎にたかって、痛飲」
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
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ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
「泊まるところが、ねえんだろ」
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「泊るところが、ねえんだろ」
と、上原さんは、低い声でひとりごとのように言った。
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と、上原さんは、低い声でひとりごとのようにおっしゃった。
「私?」
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「私?」
私は自分の中に、鎌首をもたげた蛇を感じた。
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私は自身に鎌首をもたげた蛇を意識した。
敵意。
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敵意。
それに近い感情で、私は自分の体を固くしたのである。
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それにちかい感情で、私は自分のからだを固くしたのである。
「雑魚寝ができるか。寒いぜ」
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「ざこ寝が出来るか。寒いぜ」
上原さんは、私の怒りにおかまいなくつぶやく。
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上原さんは、私の怒りに頓着なく呟く。
「無理でしょう」
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「無理でしょう」
とおかみさんは、口をはさみ、
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とおかみさんは、口をはさみ、
「おかわいそうよ」
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「お可哀そうよ」
ちぇっ、と上原さんは舌打ちして、
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ちぇっ、と上原さんは舌打ちして、
「そんなら、こんなところへ来なけりゃいいんだ」
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「そんなら、こんなところへ来なけれあいいんだ」
私は黙っていた。
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私は黙っていた。
この人は、たしかに、私のあの手紙を読んだ。
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このひとは、たしかに、私のあの手紙を読んだ。
そうして、誰よりも私を愛している、と、私はその人の言葉の雰囲気から素早く察した。
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そうして、誰よりも私を愛している、と、私はそのひとの言葉の雰囲気から素早く察した。
「仕方がねえな。福井さんのとこへでも、頼んでみようかな。チエちゃん、連れていってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、この人のはきものを、こっそり台所のほうに回しておいてくれ。僕が送り届けてくるから」
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「仕様がねえな。福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こっそりお勝手のほうに廻して置いてくれ。僕が送りとどけて来るから」
外は深夜の気配だった。
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外は深夜の気配だった。
風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。
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風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。
私たちは、並んで歩きながら、
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私たちは、ならんで歩きながら、
「私、雑魚寝でも何でも、できますのに」
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「私、ざこ寝でも何でも、出来ますのに」
上原さんは、眠そうな声で、
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上原さんは、眠そうな声で、
「うん」
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「うん」
とだけ言った。
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とだけ言った。
「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう」
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「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう」
私がそう言って笑ったら、上原さんは、
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私がそう言って笑ったら、上原さんは、
「これだから、いやさ」
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「これだから、いやさ」
と口をゆがめて、苦笑いした。
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と口をまげて、にが笑いなさった。
私は自分がとてもかわいがられていることを、身にしみて感じた。
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私は自分がとても可愛がられている事を、身にしみて意識した。
「ずいぶん、お酒を召し上がりますのね。毎晩ですの?」
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「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
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「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
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「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
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「まずいよ」
そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。
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そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。
「お仕事は?」
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「お仕事は?」
「だめです。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕方がないんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、かっこうつけすぎだね」
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「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね」
「ユトリロ」
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「ユトリロ」
私は、ほとんど無意識にそれを言った。
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私は、ほとんど無意識にそれを言った。
「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールの亡者。死骸だね。最近十年間のあいつの絵は、へんに俗っぽくて、みんなだめ」
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「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールの亡者。死骸だね。最近十年間のあいつの絵は、へんに俗っぽくて、みな駄目」
「ユトリロだけじゃないんでしょう? ほかの巨匠たちも全部、……」
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「ユトリロだけじゃないんでしょう? 他のマイスターたちも全部、……」
「そう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱しているのです。霜。フロスト。世界中に季節外れの霜が降りたみたいなのです」
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「そう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱しているのです。霜。フロスト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです」
上原さんは私の肩を軽く抱いて、私の体は上原さんのコートのそでで包まれたような形になったが、私は拒まず、かえってぴったり寄りそってゆっくり歩いた。
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上原さんは私の肩を軽く抱いて、私のからだは上原さんの二重廻しの袖で包まれたような形になったが、私は拒否せず、かえってぴったり寄りそってゆっくり歩いた。
道ばたの木の枝。
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路傍の樹木の枝。
葉の一枚もついていない枝、ほそく鋭く夜空を突き刺していて、
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葉の一枚も附いていない枝、ほそく鋭く夜空を突き刺していて、
「木の枝って、美しいものですわねえ」
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「木の枝って、美しいものですわねえ」
と思わずひとりごとのように言ったら、
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と思わずひとりごとのように言ったら、
「うん、花と真っ黒い枝の調和が」
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「うん、花と真黒い枝の調和が」
と少しうろたえたようにして言った。
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と少しうろたえたようにしておっしゃった。
「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝が好き。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。枯れ枝とちがいますわ」
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「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。枯枝とちがいますわ」
「自然だけは、衰弱せずか」
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「自然だけは、衰弱せずか」
そう言って、また激しいくしゃみをいくつもいくつも続けてした。
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そう言って、また烈しいくしゃみをいくつもいくつも続けてなさった。
「お風邪じゃございませんの?」
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「お風邪じゃございませんの?」
「いや、いや、そうじゃない。実はね、これは僕のくせでね、お酒の酔いが限界に達すると、たちまちこんな具合にくしゃみが出るんです。酔いのバロメーターみたいなものだね」
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「いや、いや、さにあらず。実はね、これは僕の奇癖でね、お酒の酔いが飽和点に達すると、たちまちこんな工合のくしゃみが出るんです。酔いのバロメーターみたいなものだね」
「恋は?」
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「恋は?」
「え?」
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「え?」
「どなたかございますの? 限界くらいまで進んでいる方が」
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「どなたかございますの? 飽和点くらいにすすんでいるお方が」
「なんだ、からかっちゃいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、実は、ひとり、いや、半人くらいある」
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「なんだ、ひやかしちゃいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、実は、ひとり、いや、半人くらいある」
「私の手紙、ご覧になって?」
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「私の手紙、ごらんになって?」
「見た」
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「見た」
「お返事は?」
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「ご返事は?」
「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大したものなんだが、時々、ふっと、とても付き合いきれない生意気なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川のそばを通ると必ず、子どものころ、故郷の小川でフナを釣ったことやメダカをすくったことを思い出してたまらない気持ちになる」
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「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なんだが、時々、ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍をとおると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒を釣った事や、めだかを掬った事を思い出してたまらない気持になる」
暗やみの底でかすかに音を立てて流れている小川に沿った道を、私たちは歩いていた。
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暗闇の底で幽かに音立てて流れている小川に、沿った路を私たちは歩いていた。
「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑している」
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「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑している。」
「ツルゲーネフは?」
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「ツルゲーネフは?」
「あいつは貴族だ。だからいやなんだ」
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「あいつは貴族だ。だからいやなんだ」
「でも、『猟人日記』、……」
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「でも、猟人日記、……」
「うん、あれだけは、ちょっとうまいね」
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「うん、あれだけは、ちょっとうまいね」
「あれは、農村生活の感傷、……」
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「あれは、農村生活の感傷、……」
「あの野郎は田舎貴族、というところで妥協しようか」
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「あの野郎は田舎貴族、というところで妥協しようか」
「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の貧乏人」
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「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の貧乏人」
「今でも、僕を好きなのかい」
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「今でも、僕をすきなのかい」
乱暴な口調だった。
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乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
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「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
私は答えなかった。
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私は答えなかった。
岩が落ちてくるような勢いでその人の顔が近づき、無理やり私はキスされた。
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岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二私はキスされた。
性欲のにおいのするキスだった。
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性慾のにおいのするキスだった。
私はそれを受けながら、涙を流した。
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私はそれを受けながら、涙を流した。
屈辱の、くやし涙に似ている苦い涙だった。
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屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。
涙はいくらでも目からあふれ出て、流れた。
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涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
また、二人並んで歩きながら、
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また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。ほれちゃった」
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「しくじった。惚れちゃった」
とその人は言って、笑った。
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とそのひとは言って、笑った。
けれども、私は笑うことができなかった。
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けれども、私は笑う事が出来なかった。
まゆをひそめて、口をすぼめた。
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眉をひそめて、口をすぼめた。
仕方がない。
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仕方が無い。
言葉で言い表すなら、そんな感じのものだった。
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言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。
私は自分が下駄を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
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私は自分が下駄を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
「しくじった」
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「しくじった」
とその男は、また言った。
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とその男は、また言った。
「行くところまで行くか」
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「行くところまで行くか」
「かっこうつけすぎですわ」
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「キザですわ」
「この野郎」
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「この野郎」
上原さんは私の肩をとんとこぶしでたたいて、また大きいくしゃみをした。
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上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩いて、また大きいくしゃみをなさった。
福井さんとかいう方の家では、みんながもう寝ている様子だった。
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福井さんとかいうお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになっていらっしゃる様子であった。
「電報、電報。福井さん、電報ですよ」
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「電報、電報。福井さん、電報ですよ」
と大声で言って、上原さんは玄関の戸をたたいた。
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と大声で言って、上原さんは玄関の戸をたたいた。
「上原か?」
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「上原か?」
と家の中で男の人の声がした。
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と家の中で男のひとの声がした。
「そのとおり。王子と王女が一夜の宿を頼みに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋の道行きも喜劇になってしまう」
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「そのとおり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋の道行もコメディになってしまう」
玄関の戸が内から開かれた。
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玄関の戸が内からひらかれた。
もうかなりの、五十歳を越したくらいの、頭のはげた小柄なおじさんが、派手なパジャマを着て、へんな、はにかむような笑顔で私たちを迎えた。
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もうかなりの、五十歳を越したくらいの、頭の禿げた小柄なおじさんが、派手なパジャマを着て、へんな、はにかむような笑顔で私たちを迎えた。
「頼む」
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「たのむ」
と上原さんは一言言って、マントも脱がずにさっさと家の中へ入って、
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と上原さんは一こと言って、マントも脱がずにさっさと家の中へはいって、
「アトリエは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで」
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「アトリエは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで」
私の手をとって、廊下を通り突き当りの階段をのぼって、暗い座敷に入り、部屋のすみのスイッチをパチとひねった。
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私の手をとって、廊下をとおり突き当りの階段をのぼって、暗いお座敷にはいり、部屋の隅のスイッチをパチとひねった。
「料理屋のお部屋みたいね」
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「お料理屋のお部屋みたいね」
「うん、成金趣味さ。でも、あんな下手な絵描きにはもったいない。悪運が強くて、戦争の被害にも遭いやがらねえ。利用しないわけにはいかねえのさ。さあ、寝よう、寝よう」
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「うん、成金趣味さ。でも、あんなヘボ画かきにはもったいない。悪運が強くて罹災も、しやがらねえ。利用せざるべからずさ。さあ、寝よう、寝よう」
自分の家みたいに、勝手に押入れを開けてふとんを出して敷いて、
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ご自分のお家みたいに、勝手に押入れをあけてお蒲団を出して敷いて、
「ここへ寝なさい。僕は帰る。あしたの朝、迎えに来ます。便所は、階段を降りて、すぐ右だ」
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「ここへ寝給え。僕は帰る。あしたの朝、迎えに来ます。便所は、階段を降りて、すぐ右だ」
だだだだと階段からころげ落ちるように騒々しく下へ降りていって、それっきり、しんとなった。
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だだだだと階段からころげ落ちるように騒々しく下へ降りて行って、それっきり、しんとなった。
私はまたスイッチをひねって、電灯を消し、お父上の外国土産の生地で作ったビロードのコートを脱ぎ、帯だけほどいて着物のままで床へ入った。
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私はまたスイッチをひねって、電燈を消し、お父上の外国土産の生地で作ったビロードのコートを脱ぎ、帯だけほどいて着物のままでお床へはいった。
疲れている上に、お酒を飲んだせいか、体がだるく、すぐにうとうととまどろんだ。
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疲れている上に、お酒を飲んだせいか、からだがだるく、すぐにうとうととまどろんだ。
いつのまにか、あの人が私のそばに寝ていて、……私は一時間近く、必死の無言の抵抗をした。
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いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の抵抗をした。
ふとかわいそうになって、あきらめた。
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ふと可哀そうになって、放棄した。
「こうしなければ、ご安心ができないのでしょう?」
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「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」
「まあ、そんなところだ」
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「まあ、そんなところだ」
「あなた、体を悪くしていらっしゃるんじゃない? 血を吐いたでしょう」
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「あなた、おからだを悪くしていらっしゃるんじゃない? 喀血なさったでしょう」
「どうしてわかるの? 実はこないだ、かなりひどいのをやったのだけど、誰にも知らせていないんだ」
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「どうしてわかるの? 実はこないだ、かなりひどいのをやったのだけど、誰にも知らせていないんだ」
「お母さまの亡くなる前と、おんなじにおいがするんですもの」
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「お母さまのお亡くなりになる前と、おんなじ匂いがするんですもの」
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕方がないんだよ。わびしさだの、さびしさだの、そんな余裕のあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きのためいきが四方の壁から聞こえているとき、自分たちだけの幸福なんてあるはずはないじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決してないとわかったとき、人は、どんな気持ちになるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢えた野獣のえじきになるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。かっこうつけすぎかね」
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「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね」
「いいえ」
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「いいえ」
「恋だけだね。おめえの手紙の説のとおりだよ」
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「恋だけだね。おめえの手紙のお説のとおりだよ」
「そう」
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「そう」
私のその恋は、消えていた。
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私のその恋は、消えていた。
夜が明けた。
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夜が明けた。
部屋が薄明るくなって、私は、そばで眠っているその人の寝顔をつくづく眺めた。
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部屋が薄明るくなって、私は、傍で眠っているそのひとの寝顔をつくづく眺めた。
もうすぐ死ぬ人のような顔をしていた。
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ちかく死ぬひとのような顔をしていた。
疲れはてている顔だった。
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疲れはてているお顔だった。
犠牲者の顔。
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犠牲者の顔。
貴い犠牲者。
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貴い犠牲者。
私の人。
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私のひと。
私の虹。
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私の虹。
マイ・チャイルド。
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マイ、チャイルド。
にくい人。
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にくいひと。
ずるい人。
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ずるいひと。
この世にまたとないくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえってきたようで胸がときめき、その人の髪をなでながら、私のほうからキスをした。
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この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫でながら、私のほうからキスをした。
悲しい、悲しい恋のなしとげ。
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かなしい、かなしい恋の成就。
上原さんは、目をつぶりながら私を抱いて、
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上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、
「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから」
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「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから」
もうこの人から離れまい。
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もうこのひとから離れまい。
「私、いま幸せよ。四方の壁から嘆きの声が聞こえてきても、私のいまの幸福感は、限界よ。くしゃみが出るくらい幸せだわ」
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「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」
上原さんは、ふふ、と笑って、
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上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。夕暮れだ」
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「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」
「朝ですわ」
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「朝ですわ」
弟の直治は、その朝に自殺していた。
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弟の直治は、その朝に自殺していた。
七
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七
直治の遺書。
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直治の遺書。
姉さん。
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姉さん。
だめだ。
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だめだ。
先に行くよ。
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さきに行くよ。
僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
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僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
生きていたい人だけは、生きるがよい。
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生きていたい人だけは、生きるがよい。
人間には生きる権利があるのと同じように、死ぬ権利もあるはずです。
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人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。
僕のこんな考え方は、少しも新しいものでも何でもなく、こんな当たり前の、それこそ根本的なことを、人はへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけなんです。
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僕のこんな考え方は、少しも新しいものでも何でも無く、こんな当り前の、それこそプリミチヴな事を、ひとはへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけなんです。
生きていきたい人は、どんなことをしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で、人間の栄冠とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって、罪ではないと思うんです。
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生きて行きたいひとは、どんな事をしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で、人間の栄冠とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって、罪では無いと思うんです。
僕は、僕という草は、この世の空気と日の光の中に、生きにくいんです。
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僕は、僕という草は、この世の空気と陽の中に、生きにくいんです。
生きていくのに、どこか一つ欠けているんです。
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生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。
足りないんです。
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足りないんです。
いままで、生きてきたのも、これでも、精一杯だったのです。
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いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。
僕は高等学校に入って、僕が育ってきた階級と全く違う階級に育ってきた強くたくましい草のような友人と、はじめて付き合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を使い、半狂乱になって抵抗しました。
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僕は高等学校へはいって、僕の育って来た階級と全くちがう階級に育って来た強くたくましい草の友人と、はじめて附き合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。
それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片を使いました。
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それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片を用いました。
姉さんには僕のこんな気持ち、わからねえだろうな。
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姉さんには僕のこんな気持、わからねえだろうな。
僕は下品になりたかった。
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僕は下品になりたかった。
強く、いや乱暴になりたかった。
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強く、いや強暴になりたかった。
そうして、それが、いわゆる民衆の友になれる唯一の道だと思ったのです。
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そうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。
お酒くらいでは、とてもだめだったんです。
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お酒くらいでは、とても駄目だったんです。
いつも、くらくらと目まいをしていなければならなかったんです。
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いつも、くらくら目まいをしていなければならなかったんです。
そのためには、麻薬以外になかったのです。
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そのためには、麻薬以外になかったのです。
僕は、家を忘れなければならない。
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僕は、家を忘れなければならない。
父の血に反抗しなければならない。
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父の血に反抗しなければならない。
母のやさしさを、拒まなければならない。
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母の優しさを、拒否しなければならない。
姉に冷たくしなければならない。
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姉に冷たくしなければならない。
そうでなければ、あの民衆の部屋に入る入場券が得られないと思っていたんです。
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そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。
僕は下品になりました。
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僕は下品になりました。
下品な言葉づかいをするようになりました。
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下品な言葉づかいをするようになりました。
けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな見せかけでした。
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けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。
へたな小細工でした。
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へたな小細工でした。
民衆にとって、僕はやはり、かっこうつけていて、すましていて、気づまりな男でした。
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民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙にすました気づまりの男でした。
彼らは僕と、心から打ち解けて遊んでくれはしないのです。
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彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。
しかし、また、いまさら捨てた上流社会に帰ることもできません。
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しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。
いまでは僕の下品は、たとえ六十パーセントは作り物の見せかけでも、しかし、あとの四十パーセントは、本物の下品になっているのです。
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いまでは僕の下品は、たとい六十パーセントは人工の附け焼刃でも、しかし、あとの四十パーセントは、ほんものの下品になっているのです。
僕はあの、いわゆる上流社会の鼻持ちならない上品さには、吐き気がしそうで、一刻も我慢できなくなっていますし、また、あの偉い人たちとか、名士たちとか呼ばれている人たちも、僕の行儀の悪さにあきれてすぐさま追い出すでしょう。
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僕はあの、所謂上流サロンの鼻持ちならないお上品さには、ゲロが出そうで、一刻も我慢できなくなっていますし、また、あのおえらがたとか、お歴々とか称せられている人たちも、僕のお行儀の悪さに呆れてすぐさま放逐するでしょう。
捨てた世界に帰ることもできず、民衆からは悪意に満ちた、いやに丁寧なだけの傍聴席を与えられているだけなんです。
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捨てた世界に帰ることも出来ず、民衆からは悪意に満ちたクソていねいの傍聴席を与えられているだけなんです。
いつの世でも、僕のような、いわば生きる力が弱くて、欠陥のある草は、思想も何もなく、ただ自然に消えていくだけの運命のものなのかもしれませんが、しかし、僕にも、少しは言い分があるのです。
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いつの世でも、僕のような謂わば生活力が弱くて、欠陥のある草は、思想もクソも無いただおのずから消滅するだけの運命のものなのかも知れませんが、しかし、僕にも、少しは言いぶんがあるのです。
とても僕には生きにくい、事情があるのです。
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とても僕には生きにくい、事情を感じているんです。
人間は、みな、同じものだ。
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人間は、みな、同じものだ。
これは、いったい、思想でしょうか。
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これは、いったい、思想でしょうか。
僕はこの不思議な言葉を発明した人は、宗教家でも哲学者でも芸術家でもないように思います。
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僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。
民衆の酒場からわいて出た言葉です。
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民衆の酒場からわいて出た言葉です。
うじがわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもくと湧いて出て、全世界をおおい、世界を気まずいものにしました。
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蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。
この不思議な言葉は、民主主義とも、またマルクス主義とも、全然関係のないものなのです。
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この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。
それは、必ず、酒場でぶさいくな男が美男子に向かって投げつけた言葉です。
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それは、かならず、酒場に於いて醜男が美男子に向って投げつけた言葉です。
ただの、いらだちです。
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ただの、イライラです。
嫉妬です。
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嫉妬です。
思想でも何でも、ありゃしないんです。
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思想でも何でも、ありゃしないんです。
けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを歩きまわり、民主主義ともマルクス主義とも全然、関係のない言葉のはずなのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、不思議と下品な感じにしてしまったのです。
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けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主々義ともマルキシズムとも全然、無関係の言葉の筈なのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまったのです。
悪魔だって、こんな無茶な放言を、思想とすりかえるなんて芸当は、さすがに良心が痛んで、ためらったかもしれません。
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メフィストだって、こんな無茶な放言を、思想とすりかえるなんて芸当は、さすがに良心に恥じて、躊躇したかも知れません。
人間は、みな、同じものだ。
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人間は、みな、同じものだ。
なんという卑屈な言葉だろう。
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なんという卑屈な言葉であろう。
人をおとしめると同時に、自分自身をもおとしめ、何のほこりもなく、あらゆる努力をあきらめさせるような言葉。
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人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。
マルクス主義は、働く者が優れていると主張する。
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マルキシズムは、働く者の優位を主張する。
同じものだ、などとは言わない。
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同じものだ、などとは言わぬ。
民主主義は、個人の尊さを主張する。
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民主々義は、個人の尊厳を主張する。
同じものだ、などとは言わない。
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同じものだ、などとは言わぬ。
ただ、女郎屋の客引きだけがそれを言う。
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ただ、牛太郎だけがそれを言う。
「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
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「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
なぜ、同じだと言うのか。
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なぜ、同じだと言うのか。
優れている、と言えないのか。
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優れている、と言えないのか。
奴隷根性の仕返し。
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奴隷根性の復讐。
けれども、この言葉は、実にみだらで、不気味で、人は互いにおびえ、あらゆる思想が汚され、努力はあざ笑われ、幸福は否定され、美しさは傷つけられ、栄光は引きずりおろされ、いわゆる「世紀の不安」
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けれども、この言葉は、実に猥せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、栄光は引きずりおろされ、所謂「世紀の不安」
は、この不思議な一言から始まっていると僕は思っているんです。
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は、この不思議な一語からはっしていると僕は思っているんです。
いやな言葉だと思いながら、僕もやはりこの言葉におびやかされ、おびえて震えて、何をしようとしても照れくさく、絶えず不安で、ドキドキして身の置きどころがなく、いっそ酒や麻薬の目まいによって、つかのまの落ち着きを得たくて、そうして、めちゃくちゃになりました。
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イヤな言葉だと思いながら、僕もやはりこの言葉に脅迫せられ、おびえて震えて、何を仕様としてもてれくさく、絶えず不安で、ドキドキして身の置きどころが無く、いっそ酒や麻薬の目まいに依って、つかのまの落ちつきを得たくて、そうして、めちゃくちゃになりました。
弱いのでしょう。
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弱いのでしょう。
どこか一つ大事な欠陥のある草なのでしょう。
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どこか一つ重大な欠陥のある草なのでしょう。
また、何かとそんな小理屈を並べたって、なあに、もともと遊びが好きなのさ、なまけ者の、すけべの、身勝手な快楽好きなのさ、といつもの女郎屋の客引きがせせら笑って言うかもしれません。
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また、何かとそんな小理窟を並べたって、なあに、もともと遊びが好きなのさ、なまけ者の、助平の、身勝手な快楽児なのさ、とれいの牛太郎がせせら笑って言うかも知れません。
そうして、僕はそう言われても、いままでは、ただ照れて、あいまいにうなずいていましたが、しかし、僕も死ぬにあたって、一言、抗議めいたことを言っておきたい。
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そうして、僕はそう言われても、いままでは、ただてれて、あいまいに首肯していましたが、しかし、僕も死ぬに当って、一言、抗議めいた事を言って置きたい。
姉さん。
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姉さん。
信じて下さい。
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信じて下さい。
僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです。
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僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです。
快楽を感じられない体質なのかもしれません。
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快楽のイムポテンツなのかも知れません。
僕はただ、貴族という自分自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒れていました。
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僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。
姉さん。
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姉さん。
いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。
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いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。
貴族に生まれたのは、僕たちの罪でしょうか。
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貴族に生れたのは、僕たちの罪でしょうか。
ただ、その家に生まれただけなのに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていなければならない。
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ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていなければならない。
僕は、もっと早く死ぬべきだった。
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僕は、もっと早く死ぬべきだった。
しかし、たった一つ、ママの愛情。
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しかし、たった一つ、ママの愛情。
それを思うと、死ねなかった。
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それを思うと、死ねなかった。
人間は、自由に生きる権利を持っていると同時に、いつでも自分の意志で死ねる権利も持っているのだけれど、しかし、「母」
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人間は、自由に生きる権利を持っていると同時に、いつでも勝手に死ねる権利も持っているのだけれども、しかし、「母」
が生きているあいだは、その死ぬ権利は取っておかなければならないと僕は考えているんです。
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の生きているあいだは、その死の権利は留保されなければならないと僕は考えているんです。
それは同時に、「母」
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それは同時に、「母」
をも殺してしまうことになるのですから。
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をも殺してしまう事になるのですから。
いまはもう、僕が死んでも、体を悪くするほど悲しむ人もいないし、いいえ、姉さん、僕は知っているんです、僕を失ったあなたたちの悲しみはどの程度のものだか、いいえ、見せかけの感傷はよしましょう、あなたたちは、僕の死を知ったら、きっと泣くでしょうが、しかし、僕の生きている苦しみと、そうしてそのいやな人生から完全に解放される僕のよろこびを思ってくれたら、あなたたちのその悲しみは、次第に打ち消されていくことと思います。
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いまはもう、僕が死んでも、からだを悪くするほど悲しむひともいないし、いいえ、姉さん、僕は知っているんです、僕を失ったあなたたちの悲しみはどの程度のものだか、いいえ、虚飾の感傷はよしましょう、あなたたちは、僕の死を知ったら、きっとお泣きになるでしょうが、しかし、僕の生きている苦しみと、そうしてそのイヤな生から完全に解放される僕のよろこびを思ってみて下さったら、あなたたちのその悲しみは、次第に打ち消されて行く事と存じます。
僕の自殺を非難し、あくまでも生き延びるべきだった、と僕に何の助けも与えず口先だけで、したり顔に批判する人は、天皇陛下に果物屋を開くよう平気ですすめられるほどの大偉人に違いございません。
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僕の自殺を非難し、あくまでも生き伸びるべきであった、と僕になんの助力も与えず口先だけで、したり顔に批判するひとは、陛下に菓物屋をおひらきなさるよう平気でおすすめ出来るほどの大偉人にちがいございませぬ。
姉さん。
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姉さん。
僕は、死んだほうがいいんです。
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僕は、死んだほうがいいんです。
僕には、いわゆる、生きていく力がないんです。
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僕には、所謂、生活能力が無いんです。
お金のことで、人と争う力がないんです。
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お金の事で、人と争う力が無いんです。
僕は、人にたかることさえできないんです。
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僕は、人にたかる事さえ出来ないんです。
上原さんと遊んでも、僕のぶんの勘定は、いつも僕が払ってきました。
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上原さんと遊んでも、僕のぶんのお勘定は、いつも僕が払って来ました。
上原さんは、それを貴族のけちくさいプライドだと言って、とてもいやがっていましたが、しかし、僕は、プライドで払うのではなくて、上原さんのお仕事で得たお金で、僕がつまらなく飲み食いして、女を抱くなど、恐ろしくて、とてもできないのです。
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上原さんは、それを貴族のケチくさいプライドだと言って、とてもいやがっていましたが、しかし、僕は、プライドで支払うのではなくて、上原さんのお仕事で得たお金で、僕がつまらなく飲み食いして、女を抱くなど、おそろしくて、とても出来ないのです。
上原さんのお仕事を尊敬しているから、と簡単に言い切ってしまっても、うそで、僕にも本当は、はっきりわかっていないんです。
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上原さんのお仕事を尊敬しているから、と簡単に言い切ってしまっても、ウソで、僕にも本当は、はっきりわかっていないんです。
ただ、人のごちそうになるのが、なんとなく恐ろしいんです。
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ただ、ひとのごちそうになるのが、そらおそろしいんです。
特にも、その人自身の腕一本で得たお金で、ごちそうになるのは、つらくて、心苦しくて、たまらないんです。
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殊にも、そのひとご自身の腕一本で得たお金で、ごちそうになるのは、つらくて、心苦しくて、たまらないんです。
そうしてただもう、自分の家からお金や品物を持ち出して、ママやあなたを悲しませ、僕自身も、少しも楽しくなく、出版の仕事など計画したのも、ただ、照れ隠しの体裁で、実はちっとも本気ではなかったのです。
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そうしてただもう、自分の家からお金や品物を持ち出して、ママやあなたを悲しませ、僕自身も、少しも楽しくなく、出版業など計画したのも、ただ、てれかくしのお体裁で、実はちっとも本気で無かったのです。
本気でやってみたところで、人のごちそうにさえなれないような男が、お金もうけなんて、とてもとてもできやしないのは、いくら僕が愚かでも、それくらいのことには気づいています。
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本気でやってみたところで、ひとのごちそうにさえなれないような男が、金もうけなんて、とてもとても出来やしないのは、いくら僕が愚かでも、それくらいの事には気附いています。
姉さん。
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姉さん。
僕たちは、貧乏になってしまいました。
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僕たちは、貧乏になってしまいました。
生きているうちは、人にごちそうしたいと思っていたのに、もう、人のごちそうにならなければ生きていけなくなりました。
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生きて在るうちは、ひとにごちそうしたいと思っていたのに、もう、ひとのごちそうにならなければ生きて行けなくなりました。
姉さん。
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姉さん。
この上、僕は、なぜ生きていなければならねえのかね?
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この上、僕は、なぜ生きていなければならねえのかね?
もう、だめなんだ。
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もう、だめなんだ。
僕は、死にます。
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僕は、死にます。
らくに死ねる薬があるんです。
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らくに死ねる薬があるんです。
兵隊のときに、手に入れておいたのです。
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兵隊の時に、手にいれて置いたのです。
姉さんは美しく、(僕は美しい母と姉をほこりに思っていました)そうして、賢いから、僕は姉さんのことについては、なんにも心配していません。
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姉さんは美しく、(僕は美しい母と姉を誇りにしていました)そうして、賢明だから、僕は姉さんの事に就いては、なんにも心配していませぬ。
心配などする資格さえ僕にはありません。
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心配などする資格さえ僕には有りません。
どろぼうが被害者の身の上を思いやるみたいなもので、赤面するばかりです。
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どろぼうが被害者の身の上を思いやるみたいなもので、赤面するばかりです。
きっと姉さんは、結婚して、子どもができて、夫にたよって生き抜いていくのではないかと僕は、思っているんです。
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きっと姉さんは、結婚なさって、子供が出来て、夫にたよって生き抜いて行くのではないかと僕は、思っているんです。
姉さん。
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姉さん。
僕に、一つ、秘密があるんです。
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僕に、一つ、秘密があるんです。
長いこと、秘めに秘めて、戦地にいても、その人のことを思いつめて、その人の夢を見て、目がさめて、泣きべそをかいたことも何度あったかわかりません。
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永いこと、秘めに秘めて、戦地にいても、そのひとの事を思いつめて、そのひとの夢を見て、目がさめて、泣きべそをかいた事も幾度あったか知れません。
その人の名前は、とても誰にも、口がくさっても言えないんです。
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そのひとの名は、とても誰にも、口がくさっても言われないんです。
僕は、いま死ぬのだから、せめて、姉さんにだけでも、はっきり言っておこうか、と思いましたが、やっぱり、どうにも恐ろしくて、その名前を言うことができません。
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僕は、いま死ぬのだから、せめて、姉さんにだけでも、はっきり言って置こうか、と思いましたが、やっぱり、どうにもおそろしくて、その名を言うことが出来ません。
でも、僕は、その秘密を、絶対秘密のまま、とうとうこの世で誰にも打ち明けず、胸の奥にしまって死んだならば、僕の体が火葬にされても、胸の裏だけが生ぐさく焼け残るような気がして、不安でたまらないので、姉さんにだけ、遠回しに、ぼんやり、作り話みたいにして教えておきます。
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でも、僕は、その秘密を、絶対秘密のまま、とうとうこの世で誰にも打ち明けず、胸の奥に蔵して死んだならば、僕のからだが火葬にされても、胸の裏だけが生臭く焼け残るような気がして、不安でたまらないので、姉さんにだけ、遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいにして教えて置きます。
作り話、といっても、しかし、姉さんは、きっとすぐその相手の人は誰だか、気づくはずです。
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フィクション、といっても、しかし、姉さんは、きっとすぐその相手のひとは誰だか、お気附きになる筈です。
作り話というよりは、ただ、仮の名前を使う程度のごまかしなのですから。
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フィクションというよりは、ただ、仮名を用いる程度のごまかしなのですから。
姉さんは、ご存じかな?
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姉さんは、ご存じかな?
姉さんはその人をご存じのはずですが、しかし、おそらく、会ったことはないでしょう。
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姉さんはそのひとをご存じの筈ですが、しかし、おそらく、逢った事は無いでしょう。
その人は、姉さんよりも、少し年上です。
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そのひとは、姉さんよりも、少し年上です。
一重まぶたで、目じりがつり上がって、髪にパーマネントなどかけたことがなく、いつも強く、後ろでひとつにまとめた髪、とでもいうのかしら、そんな地味な髪形で、そうして、とても貧しい服装で、けれどもだらしない格好ではなくて、いつもきちんと着つけて、清潔です。
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一重瞼で、目尻が吊り上って、髪にパーマネントなどかけた事が無く、いつも強く、ひっつめ髪、とでもいうのかしら、そんな地味な髪形で、そうして、とても貧しい服装で、けれどもだらしない恰好ではなくて、いつもきちんと着附けて、清潔です。
その人は、戦後新しい画風の絵を次々と発表して急に有名になったある中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴で荒れたものなのに、その奥さんは平気を装って、いつもやさしくほほえんで暮らしているのです。
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そのひとは、戦後あたらしいタッチの画をつぎつぎと発表して急に有名になった或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑んで暮しているのです。
僕は立ち上がって、
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僕は立ち上って、
「それでは、おいとまいたします」
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「それでは、おいとま致します」
その人も立ち上がって、何の警戒もなく、僕のそばに歩み寄って、僕の顔を見上げ、
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そのひとも立ち上って、何の警戒も無く、僕の傍に歩み寄って、僕の顔を見上げ、
「なぜ?」
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「なぜ?」
と普通の声で言い、本当に不思議そうに少し首をかしげて、しばらく僕の目を見つづけていました。
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と普通の音声で言い、本当に不審のように少し小首をかしげて、しばらく僕の眼を見つづけていました。
そうして、その人の目に、何のよこしまな心も見せかけもなく、僕は女の人と視線が合うと、うろたえて視線をはずしてしまうたちなのですが、そのときだけは、みじんも恥ずかしさを感じないで、二人の顔が三十センチくらいの間隔で、六十秒もそれ以上もとてもいい気持ちで、その人のひとみを見つめて、それからつい、ほほえんでしまって、
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そうして、そのひとの眼に、何の邪心も虚飾も無く、僕は女のひとと視線が合えば、うろたえて視線をはずしてしまうたちなのですが、その時だけは、みじんも含羞を感じないで、二人の顔が一尺くらいの間隔で、六十秒もそれ以上もとてもいい気持で、そのひとの瞳を見つめて、それからつい微笑んでしまって、
「でも、……」
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「でも、……」
「すぐ帰りますわよ」
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「すぐ帰りますわよ」
と、やはり、まじめな顔をして言います。
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と、やはり、まじめな顔をして言います。
正直、とは、こんな感じの表情を言うのではないかしら、とふと思いました。
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正直、とは、こんな感じの表情を言うのではないかしら、とふと思いました。
それは修身の教科書くさい、いかめしい徳ではなくて、正直という言葉で表現される本来の徳は、こんなかわいらしいものではなかったのかしら、と考えました。
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それは修身教科書くさい、いかめしい徳ではなくて、正直という言葉で表現せられた本来の徳は、こんな可愛らしいものではなかったのかしら、と考えました。
「またまいります」
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「またまいります」
「そう」
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「そう」
はじめから終わりまで、すべてみな何でもない会話です。
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はじめから終りまで、すべてみな何でもない会話です。
僕が、ある夏の日の午後、その洋画家のアパートをたずねていって、洋画家は不在で、けれどもすぐ帰るはずですから、上がってお待ちになったら?
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僕が、或る夏の日の午後、その洋画家のアパートをたずねて行って、洋画家は不在で、けれどもすぐ帰る筈ですから、おあがりになってお待ちになったら?
という奥さんの言葉に従って、部屋に上がって、三十分ばかり雑誌など読んで、帰ってきそうもなかったから、立ち上がって、おいとました、それだけのことだったのですが、僕は、その日のそのときの、その人のひとみに、苦しい恋をしちゃったのです。
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という奥さんの言葉に従って、部屋にあがって、三十分ばかり雑誌など読んで、帰って来そうも無かったから、立ち上って、おいとました、それだけの事だったのですが、僕は、その日のその時の、そのひとの瞳に、くるしい恋をしちゃったのです。
気高い、とでも言ったらいいのかしら。
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高貴、とでも言ったらいいのかしら。
僕のまわりの貴族の中には、ママはとにかく、あんな無警戒な「正直」
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僕の周囲の貴族の中には、ママはとにかく、あんな無警戒な「正直」
な目の表情のできる人は、ひとりもいなかったことだけは断言できます。
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な眼の表情の出来る人は、ひとりもいなかった事だけは断言できます。
それから僕は、ある冬の夕方、その人の横顔に心を打たれたことがあります。
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それから僕は、或る冬の夕方、そのひとのプロフィルに打たれた事があります。
やはり、その洋画家のアパートで、洋画家の相手をさせられて、こたつに入って朝から酒を飲み、洋画家と一緒に、日本のいわゆる文化人たちをこきおろして笑いころげ、やがて洋画家は倒れて大いびきをかいて眠り、僕も横になってうとうとしていたら、ふわりと毛布がかかり、僕は薄目をあけて見たら、東京の冬の夕空は水色に澄んで、奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓のふちに、何ごともなさそうにして腰をかけていた。奥さんの整った横顔が、水色の遠い夕空を背景にして、あのルネッサンス時代の横顔の絵のようにあざやかに輪郭が区切られて浮かび、僕にそっと毛布をかけてくれた親切は、それは何の色気でもなく、欲でもなく、ああ、人間らしさ
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やはり、その洋画家のアパートで、洋画家の相手をさせられて、炬燵にはいって朝から酒を飲み、洋画家と共に、日本の所謂文化人たちをクソミソに言い合って笑いころげ、やがて洋画家は倒れて大鼾をかいて眠り、僕も横になってうとうとしていたら、ふわと毛布がかかり、僕は薄目をあけて見たら、東京の冬の夕空は水色に澄んで、奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事も無さそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックにして、あのルネッサンスの頃のプロフィルの画のようにあざやかに輪郭が区切られ浮んで、僕にそっと毛布をかけて下さった親切は、それは何の色気でも無く、慾でも無く、ああ、ヒュウマニテ
という言葉はこんなときにこそ使われてよみがえる言葉なのではないだろうか、人としての当然のわびしい思いやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののように、絵とそっくりの静かな気配で、遠くをながめていたのだった。
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ィという言葉はこんな時にこそ使用されて蘇生する言葉なのではなかろうか、ひとの当然の侘びしい思いやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののように、絵とそっくりの静かな気配で、遠くを眺めていらっしゃった。
僕は目をつぶって、恋しく、こがれて狂うような気持ちになり、まぶたの裏から涙があふれ出て、毛布を頭からかぶってしまいました。
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僕は眼をつぶって、こいしく、こがれて狂うような気持ちになり、瞼の裏から涙があふれ出て、毛布を頭から引かぶってしまいました。
姉さん。
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姉さん。
僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、最初はその洋画家の作品の変わった画風と、その底に秘められた激しい情熱に、酔わされたせいでしたが、しかし、付き合いが深くなるにつれて、その人の教養のなさ、いい加減さ、きたならしさに興ざめして、そうして、それと反対に、その人の奥さんの心の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情を持つ人が恋しくて、思い慕わしくて、奥さんの姿をひと目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。
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僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の作品の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。
あの洋画家の作品に、多少でも、芸術の気高いにおい、とでもいったようなものが現れているとすれば、それは、奥さんのやさしい心の反映ではないだろうかとさえ、僕はいまでは考えているんです。
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あの洋画家の作品に、多少でも、芸術の高貴なにおい、とでもいったようなものが現れているとすれば、それは、奥さんの優しい心の反映ではなかろうかとさえ、僕はいまでは考えているんです。
その洋画家は、僕はいまこそ、感じたままをはっきり言いますが、ただ大酒飲みで遊び好きの、うまい商売人なのです。
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その洋画家は、僕はいまこそ、感じたままをはっきり言いますが、ただ大酒飲みで遊び好きの、巧妙な商人なのです。
遊ぶお金がほしさに、ただでたらめにキャンバスに絵の具をぬたくって、流行の勢いに乗り、もったいぶって高く売っているのです。
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遊ぶ金がほしさに、ただ出鱈目にカンヴァスに絵具をぬたくって、流行の勢いに乗り、もったい振って高く売っているのです。
あの人が持っているのは、田舎者の図々しさ、ばかな自信、ずるい商売の才能、それだけなんです。
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あのひとの持っているのは、田舎者の図々しさ、馬鹿な自信、ずるい商才、それだけなんです。
おそらくあの人は、他の人の絵は、外国人の絵でも日本人の絵でも、なんにもわかっていないでしょう。
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おそらくあのひとは、他のひとの絵は、外国人の絵でも日本人の絵でも、なんにもわかっていないでしょう。
おまけに、自分の描いている絵も、何のことやら自分でわかっていないでしょう。
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おまけに、自分の画いている絵も、何の事やらご自身わかっていないでしょう。
ただ遊びのためのお金がほしさに、無我夢中で絵の具をキャンバスにぬたくっているだけなんです。
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ただ遊興のための金がほしさに、無我夢中で絵具をカンヴァスにぬたくっているだけなんです。
そうして、さらに驚くべきことは、あの人は自分のそんないい加減さに、何の疑いも、恥じらいも、恐れも、持っていないらしいということです。
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そうして、さらに驚くべき事は、あのひとはご自身のそんな出鱈目に、何の疑いも、羞恥も、恐怖も、お持ちになっていないらしいという事です。
ただもう、得意なんです。
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ただもう、お得意なんです。
何せ、自分で描いた絵が自分でわからないという人なのですから、他人の仕事のよさなどわかるはずがなく、もう、けなすこと、けなすこと。
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何せ、自分で画いた絵が自分でわからぬというひとなのですから、他人の仕事のよさなどわかる筈が無く、いやもう、けなす事、けなす事。
つまり、あの人の退廃した生活は、口では何のかのと苦しそうなことを言っていますが、実は、ばかな田舎者が、かねてあこがれの都に出て、自分でも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。
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つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。
いつか僕が、
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いつか僕が、
「友人がみな怠けて遊んでいるとき、自分ひとりだけ勉強するのは、照れくさくて、恐ろしくて、とてもだめだから、ちっとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ」
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「友人がみな怠けて遊んでいる時、自分ひとりだけ勉強するのは、てれくさくて、おそろしくて、とてもだめだから、ちっとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ」
と言ったら、その中年の洋画家は、
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と言ったら、その中年の洋画家は、
「へえ? それが貴族気質というものかね、いやらしい。僕は、人が遊んでいるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思って大いに遊ぶね」
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「へえ? それが貴族気質というものかね、いやらしい。僕は、ひとが遊んでいるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思って大いに遊ぶね」
と答えて平然としたものでしたが、僕はそのとき、その洋画家を、心から軽蔑しました。
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と答えて平然たるものでしたが、僕はその時、その洋画家を、しんから軽蔑しました。
この人の乱れた生活には苦悩がない。
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このひとの放埒には苦悩が無い。
むしろ、ばか遊びを自慢にしている。
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むしろ、馬鹿遊びを自慢にしている。
本物のばかな快楽好き。
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ほんものの阿呆の快楽児。
けれども、この洋画家の悪口を、この上さまざま述べ立てても、姉さんには関係のないことですし、また僕もいま死ぬにあたって、やはりあの人との長い付き合いを思い、なつかしく、もう一度会って遊びたい衝動をこそ感じますが、憎い気持ちはちっともないのですし、あの人だってさびしがりの、とてもいいところをたくさん持っている人なのですから、もう何も言いません。
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けれども、この洋画家の悪口を、この上さまざまに述べ立てても、姉さんには関係の無い事ですし、また僕もいま死ぬるに当って、やはりあのひととの永いつき合いを思い、なつかしく、もう一度逢って遊びたい衝動をこそ感じますが、憎い気はちっとも無いのですし、あのひとだって淋しがりの、とてもいいところをたくさん持っているひとなのですから、もう何も言いません。
ただ、僕は姉さんに、僕がその人の奥さんにこがれて、うろうろして、つらかったということだけを知ってもらえたらいいのです。
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ただ、僕は姉さんに、僕がそのひとの奥さんにこがれて、うろうろして、つらかったという事だけを知っていただいたらいいのです。
だから、姉さんはそれを知っても、特に、誰かにそのことを訴え、弟の生前の思いをとげさせてやるとか何とか、そんなかっこうつけたおせっかいなどする必要は絶対にないのですし、姉さんおひとりだけが知って、そうして、こっそり、ああ、そうか、と思ってくれたらそれでいいんです。
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だから、姉さんはそれを知っても、別段、誰かにその事を訴え、弟の生前の思いをとげさせてやるとか何とか、そんなキザなおせっかいなどなさる必要は絶対に無いのですし、姉さんおひとりだけが知って、そうして、こっそり、ああ、そうか、と思って下さったらそれでいいんです。
なおまた欲を言えば、こんな僕の恥ずかしい告白によって、せめて姉さんだけでも、僕のこれまでの命の苦しさを、さらに深くわかってくれたら、とても僕は、うれしく思います。
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なおまた慾を言えば、こんな僕の恥ずかしい告白に依って、せめて姉さんだけでも、僕のこれまでの生命の苦しさを、さらに深くわかって下さったら、とても僕は、うれしく思います。
僕はいつか、奥さんと、手を握り合った夢を見ました。
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僕はいつか、奥さんと、手を握り合った夢を見ました。
そうして奥さんも、やはりずっと以前から僕を好きだったのだということを知り、夢からさめても、僕の手のひらに奥さんの指のあたたかさが残っていて、僕はもう、これだけで満足して、あきらめなければなるまいと思いました。
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そうして奥さんも、やはりずっと以前から僕を好きだったのだという事を知り、夢から醒めても、僕の手のひらに奥さんの指のあたたかさが残っていて、僕はもう、これだけで満足して、あきらめなければなるまいと思いました。
道徳が恐ろしかったのではなく、僕にはあの半分気が変になったような、いや、ほとんど狂人と言ってもいいあの洋画家が、恐ろしくてならないのでした。
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道徳がおそろしかったのではなく、僕にはあの半気違いの、いや、ほとんど狂人と言ってもいいあの洋画家が、おそろしくてならないのでした。
あきらめようと思い、胸の火をほかへ向けようとして、手当たり次第、さすがのあの洋画家もある夜しかめっつらをしたくらいひどく、めちゃくちゃにいろんな女と遊び狂いました。
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あきらめようと思い、胸の火をほかへ向けようとして、手当り次第、さすがのあの洋画家も或る夜しかめつらをしたくらいひどく、滅茶苦茶にいろんな女と遊び狂いました。
何とかして、奥さんの幻から離れ、忘れ、なんでもなくなりたかったんです。
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何とかして、奥さんの幻から離れ、忘れ、なんでもなくなりたかったんです。
けれども、だめ。
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けれども、だめ。
僕は、結局、ひとりの女にしか、恋のできないたちの男なんです。
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僕は、結局、ひとりの女にしか、恋の出来ないたちの男なんです。
僕は、はっきり言えます。
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僕は、はっきり言えます。
僕は、奥さんのほかの女友達を、いちどでも、美しいとか、いじらしいとか感じたことがないんです。
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僕は、奥さんの他の女友達を、いちどでも、美しいとか、いじらしいとか感じた事が無いんです。
姉さん。
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姉さん。
死ぬ前に、たった一度だけ書かせて下さい。
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死ぬ前に、たった一度だけ書かせて下さい。
……スガちゃん。
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……スガちゃん。
その奥さんの名前です。
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その奥さんの名前です。
僕がきのう、ちっとも好きでもないダンサー(この女には、根本的にばかなところがあります)それを連れて、山荘へ来たのは、けれども、まさかけさ死のうと思って、やってきたのではなかったのです。
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僕がきのう、ちっとも好きでもないダンサア(この女には、本質的な馬鹿なところがあります)それを連れて、山荘へ来たのは、けれども、まさかけさ死のうと思って、やって来たのではなかったのです。
いつか、近いうちに必ず死ぬ気でいたのですが、でも、きのう、女を連れて山荘へ来たのは、女に旅行をせがまれ、僕も東京で遊ぶのに疲れて、このばかな女と二、三日、山荘で休むのも悪くないと考え、姉さんには少し具合が悪かったけれど、とにかくここへ一緒にやってきてみたら、姉さんは東京の友達のところへ出かけていて、そのときふと、僕は死ぬなら今だ、と思ったのです。
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いつか、近いうちに必ず死ぬ気でいたのですが、でも、きのう、女を連れて山荘へ来たのは、女に旅行をせがまれ、僕も東京で遊ぶのに疲れて、この馬鹿な女と二、三日、山荘で休むのもわるくないと考え、姉さんには少し工合いが悪かったけど、とにかくここへ一緒にやって来てみたら、姉さんは東京のお友達のところへ出掛け、その時ふと、僕は死ぬなら今だ、と思ったのです。
僕は昔から、西片町のあの家の奥の座敷で死にたいと思っていました。
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僕は昔から、西片町のあの家の奥の座敷で死にたいと思っていました。
街路や原っぱで死んで、野次馬たちに死体をいじくりまわされるのは、何としても、いやだったんです。
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街路や原っぱで死んで、弥次馬たちに死骸をいじくり廻されるのは、何としても、いやだったんです。
けれども、西片町のあの家は人手に渡り、いまではやはりこの山荘で死ぬよりほかはなかろうと思っていたのですが、でも、僕の自殺を最初に発見するのは姉さんで、そうして姉さんは、そのときどんなに驚き恐怖するだろうと思うと、姉さんと二人きりの夜に自殺するのは気が重くて、とてもできそうもなかったのです。
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けれども、西片町のあの家は人手に渡り、いまではやはりこの山荘で死ぬよりほかは無かろうと思っていたのですが、でも、僕の自殺をさいしょに発見するのは姉さんで、そうして姉さんは、その時どんなに驚愕し恐怖するだろうと思えば、姉さんと二人きりの夜に自殺するのは気が重くて、とても出来そうも無かったのです。
それが、まあ、何というチャンス。
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それが、まあ、何というチャンス。
姉さんがいなくて、そのかわり、かなりぼんやりしたダンサーが、僕の自殺の発見者になってくれる。
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姉さんがいなくて、そのかわり、頗る鈍物のダンサアが、僕の自殺の発見者になってくれる。
昨夜、ふたりでお酒を飲み、女の人を二階の洋間に寝かせ、僕ひとりママの亡くなった下の座敷にふとんを敷いて、そうして、このみじめな手記に取りかかりました。
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昨夜、ふたりでお酒を飲み、女のひとを二階の洋間に寝かせ、僕ひとりママの亡くなった下のお座敷に蒲団をひいて、そうして、このみじめな手記にとりかかりました。
姉さん。
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姉さん。
僕には、希望の足場がないんです。
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僕には、希望の地盤が無いんです。
さようなら。
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さようなら。
結局、僕の死は、自然死です。
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結局、僕の死は、自然死です。
人は、思想だけでは、死ねるものではないんですから。
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人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。
それから、一つ、とても照れくさいお願いがあります。
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それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。
ママの形見の麻の着物。
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ママのかたみの麻の着物。
あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直してくれたでしょう。
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あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでしょう。
あの着物を、僕の棺に入れて下さい。
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あの着物を、僕の棺にいれて下さい。
僕、着たかったんです。
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僕、着たかったんです。
夜が明けてきました。
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夜が明けて来ました。
長いこと苦労をおかけしました。
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永いこと苦労をおかけしました。
さようなら。
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さようなら。
ゆうべのお酒の酔いは、すっかりさめています。
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ゆうべのお酒の酔いは、すっかり醒めています。
僕は、しらふで死ぬんです。
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僕は、素面で死ぬんです。
もういちど、さようなら。
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もういちど、さようなら。
姉さん。
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姉さん。
僕は、貴族です。
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僕は、貴族です。
八
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八
夢。
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ゆめ。
みんなが、私から離れていく。
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皆が、私から離れて行く。
直治の死の後始末をして、それから一か月間、私は冬の山荘にひとりで住んでいた。
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直治の死のあと始末をして、それから一箇月間、私は冬の山荘にひとりで住んでいた。
そうして私は、あの人に、おそらくこれが最後の手紙を、水のような気持ちで、書いて差し上げた。
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そうして私は、あのひとに、おそらくはこれが最後の手紙を、水のような気持で、書いて差し上げた。
どうやら、あなたも、私を捨てたようでございます。
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どうやら、あなたも、私をお捨てになったようでございます。
いいえ、だんだん忘れていかれるらしゅうございます。
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いいえ、だんだんお忘れになるらしゅうございます。
けれども、私は、幸せなんですの。
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けれども、私は、幸福なんですの。
私の望みどおりに、赤ちゃんができたようでございますの。
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私の望みどおりに、赤ちゃんが出来たようでございますの。
私は、いま、すべてを失ったような気がしていますけれど、でも、おなかの小さな命が、私のひとりぼっちの笑顔のもとになっています。
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私は、いま、いっさいを失ったような気がしていますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになっています。
けがらわしい間違いなどとは、どうしても私には思われません。
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けがらわしい失策などとは、どうしても私には思われません。
この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかってきました。
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この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。
あなたは、ご存じないでしょう。
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あなたは、ご存じないでしょう。
だから、いつまでも不幸なのですわ。
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だから、いつまでも不幸なのですわ。
それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。
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それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。
私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持ちはありませんでした。
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私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持はありませんでした。
私のひとすじの恋の冒険をなしとげることだけが問題でした。
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私のひとすじの恋の冒険の成就だけが問題でした。
そうして、私のその思いがかなえられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中の沼のように静かでございます。
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そうして、私のその思いが完成せられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中の沼のように静かでございます。
私は、勝ったと思っています。
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私は、勝ったと思っています。
マリアが、たとえ夫の子でない子を生んでも、マリアに輝くほこりがあったら、それは聖母子になるのでございます。
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マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます。
私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。
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私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。
あなたは、その後もやはり、ギロチンギロチンと言って、紳士やお嬢さんたちとお酒を飲んで、退廃した生活とやらを続けていらっしゃるのでしょう。
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あなたは、その後もやはり、ギロチンギロチンと言って、紳士やお嬢さんたちとお酒を飲んで、デカダン生活とやらをお続けになっていらっしゃるのでしょう。
でも、私は、それをやめよ、とは申しませぬ。
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でも、私は、それをやめよ、とは申しませぬ。
それもまた、あなたの最後の戦いの形なのでしょうから。
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それもまた、あなたの最後の闘争の形式なのでしょうから。
お酒をやめて、ご病気をなおして、長生きをなさって立派なお仕事を、などそんな白々しい形だけのことは、もう私は言いたくないのでございます。
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お酒をやめて、ご病気をなおして、永生きをなさって立派なお仕事を、などそんな白々しいおざなりみたいなことは、もう私は言いたくないのでございます。
「立派なお仕事」
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「立派なお仕事」
などよりも、命を捨てる覚悟で、いわゆる悪い生活をしとおすことのほうが、のちの世の人たちからかえってお礼を言われるようになるかもしれません。
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などよりも、いのちを捨てる気で、所謂悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえって御礼を言われるようになるかも知れません。
犠牲者。
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犠牲者。
道徳が移り変わる時代の犠牲者。
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道徳の過渡期の犠牲者。
あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
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あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。
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革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。
少なくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。
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すくなくとも、私たちの身のまわりに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。
海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、身じろぎもせず、寝たふりをして寝そべっているんですもの。
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海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。
けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけられたと思っています。
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けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。
そうして、こんどは、生まれる子どもと一緒に、第二回戦、第三回戦を戦うつもりでいるのです。
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そうして、こんどは、生れる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
恋しい人の子を生み、育てることが、私の道徳革命の完成なのでございます。
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こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。
あなたが私を忘れても、また、あなたが、お酒で命をなくしても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きていけそうです。
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あなたが私をお忘れになっても、また、あなたが、お酒でいのちをお無くしになっても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けそうです。
あなたの人格のくだらなさを、私はこないだもある人から、いろいろうかがいましたが、でも、私にこんな強さを与えて下さったのは、あなたです。
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あなたの人格のくだらなさを、私はこないだも或るひとから、さまざま承りましたが、でも、私にこんな強さを与えて下さったのは、あなたです。
私の胸に、革命の虹をかけて下さったのはあなたです。
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私の胸に、革命の虹をかけて下さったのはあなたです。
生きる目標を与えて下さったのは、あなたです。
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生きる目標を与えて下さったのは、あなたです。
私はあなたをほこりに思っていますし、また、生まれる子どもにも、あなたをほこりに思わせようと思っています。
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私はあなたを誇りにしていますし、また、生れる子供にも、あなたを誇りにさせようと思っています。
私生児と、その母。
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私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
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けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
どうか、あなたも、あなたの戦いを戦い続けて下さいまし。
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どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。
革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。
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革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。
もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
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もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
いまの世の中で、一番美しいのは犠牲者です。
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いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
小さい犠牲者が、もうひとりいました。
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小さい犠牲者が、もうひとりいました。
上原さん。
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上原さん。
私はもうあなたに、何もお頼みする気はございませんが、けれども、その小さい犠牲者のために、一つだけ、お許しをお願いしたいことがあるのです。
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私はもうあなたに、何もおたのみする気はございませんが、けれども、その小さい犠牲者のために、一つだけ、おゆるしをお願いしたい事があるのです。
それは、私の生まれた子を、たったいちどでよろしゅうございますから、あなたの奥さまに抱いていただきたいのです。
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それは、私の生れた子を、たったいちどでよろしゅうございますから、あなたの奥さまに抱かせていただきたいのです。
そうして、そのとき、私にこう言わせていただきます。
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そうして、その時、私にこう言わせていただきます。
「これは、直治が、ある女の人に内緒に生ませた子ですの」
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「これは、直治が、或る女のひとに内緒に生ませた子ですの」
なぜ、そうするのか、それだけはどなたにも申し上げられません。
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なぜ、そうするのか、それだけはどなたにも申し上げられません。
いいえ、私自身にも、なぜそうさせていただきたいのか、よくわかっていないのです。
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いいえ、私自身にも、なぜそうさせていただきたいのか、よくわかっていないのです。
でも、私は、どうしても、そうさせていただかなければならないのです。
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でも、私は、どうしても、そうさせていただかなければならないのです。
直治というあの小さい犠牲者のために、どうしても、そうさせていただかなければならないのです。
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直治というあの小さい犠牲者のために、どうしても、そうさせていただかなければならないのです。
ご不快でしょうか。
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ご不快でしょうか。
ご不快でも、しのんでいただきます。
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ご不快でも、しのんでいただきます。
これが捨てられ、忘れかけられた女のただ一つのかすかな意地悪と思っていただき、ぜひお聞き入れのほど願います。
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これが捨てられ、忘れかけられた女の唯一の幽かないやがらせと思召し、ぜひお聞きいれのほど願います。
M・C マイ・コメディアン。
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M・C マイ、コメデアン。
昭和二十二年二月七日。
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昭和二十二年二月七日。