田舎教師 小学生向け
田山花袋(たやまかたい)・1966年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-30)
一
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一
十六キロの道は長かった。
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四里の道は長かった。
その途中に、青縞(あおじま。あい色のしまのぬの)の市が立つ羽生の町があった。
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その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。
田んぼにはれんげが咲き、大きな家のかきねからは八重桜が散りこぼれていた。
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田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。
赤い蹴出し(けだし。着物の下にはく赤いぬの)をのぞかせた田舎の娘が、ときどき通り過ぎた。
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赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。
羽生からは人力車(じんりきしゃ。人が引く車)に乗った。
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羽生からは車に乗った。
母親がてつ夜でぬってくれた木綿の三つ紋(みつもん。もようの入った正式な着物)の羽織に、新しく作ったメリンス(うすい毛のぬの)の兵児帯(へこおび)。車夫(しゃふ。人力車を引く人)は色のあせた毛布をはかまの上にかけて、かじぼうを上げた。
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母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色のあせた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。
なんとなく胸がおどった。
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なんとなく胸がおどった。
清三の前には、新しい生活がひろがっていた。
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清三の前には、新しい生活がひろげられていた。
どんな生活でも、新しい生活には意味があり、希望があるように思われる。
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どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。
五年間の中学校生活も、行田から熊谷まで十二キロの道を朝早く小倉服(こくらふく。学生の制服)を着て通ったことも、もう過去になった。
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五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。
卒業式、卒業のお祝いの会。初めて席に出た芸者(げいしゃ。宴会でおどりや歌をする女の人)の色っぽいしぐさにもふれた。ふだんはむずかしい顔をしている先生が、太い声を張り上げて調子はずれの歌をうたうのも聞いた。
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卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。
一か月、二か月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と、実際の人生とは、どことなくちがっているような気がだんだんしてきた。
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一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。
まず第一に、父と母からしてすでにそうである。
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第一に、父母からしてすでにそうである。
それに、まわりの人たちが自分に使う言葉のなかにも、それが見える。
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それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。
いつも行き来している友だちの空気も、それぞれに変わった。
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つねに往来している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。
ふと思い出した。
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ふと思い出した。
十日ほど前、親友の加藤郁治と熊谷から歩いて帰ってくるとちゅうで、文学のことや将来のことや恋のことを話した。
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十日ほど前、親友の加藤郁治と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のことやらを話した。
二人はまず、ある少女に対する一人の友だちの関係について語った。
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二人は一少女に対するある友人の関係についてまず語った。
「そうしてみると、あいつはなかなか熱心なんだねえ」
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「そうしてみると、先生なかなかご執心なんだねえ」
「熱心以上さ!」
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「ご執心以上さ!」
と郁治は笑った。
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と郁治は笑った。
「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ。じっさいこの間も『すっかりあきらめた』と言うから、恋のために将来の希望をすててはつまらないと思ってやめたのかと思ったら、正反対だったんだね」
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「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対だッたんだね」
「そうさ」
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「そうさ」
「不思議だねえ」
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「不思議だねえ」
「この間、手紙をよこして、『ぼくも君たちがぼくの恋のために力を貸してくれたことに感謝する。ぼくは初めて恋のせつなさを知った。そして今はこの恋がますます進むことを願っている、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」
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「この間、手紙をよこして、『余も卿等の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」
この Physical なしに、という言葉は、清三にある種のしげきをあたえた。
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この Physical なしにという言葉は、清三に一種の刺戟を与えた。
郁治もだまって歩いた。
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郁治も黙って歩いた。
郁治はとつぜん、
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郁治は突然、
「ぼくにはね、大きなひみつがあるんだがね」
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「僕には君、大秘密があるんだがね」
その調子が軽かったので、
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その調子が軽かったので、
「ぼくにもあるさ!」
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「僕にもあるさ!」
と清三が笑って合わせた。
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と清三が笑って合わせた。
調子がぬけてしまって、二人はまただまって歩いた。
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調子抜けがして、二人はまた黙って歩いた。
しばらくして、
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しばらくして、
「君はあの『尾花』を知っているね」
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「君はあの『尾花』を知ってるね」
郁治はこうたずねた。
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郁治はこうたずねた。
「知っているさ」
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「知ってるさ」
「君はあの人に恋ができるかね」
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「君は先生にラヴができるかね」
「いや」
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「いや」
と清三は笑って、「恋ができるかどうかは知らないが、ただ見た目が美しいと思って見ていることは見ているさ」
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と清三は笑って、「ラヴはできるかどうかしらんが、単に外形美として見てることは見てるさ」
「Aのほうは?」
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「Aのほうは?」
「そんな考えはない」
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「そんな考えはない」
郁治はためらいながら、「じゃ Art は?」
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郁治は躊躇しながら、「じゃ Art は?」
清三の胸は少しおどった。
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清三の胸は少しくおどった。
「そうだね、きっかけがあればどうなるかわからないけれど……今のところは、まだそんなことを考えていないね」
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「そうさね、機会が来ればどうなるかわからんけれど……今のところでは、まだそんなことを考えていないね」
こう言いかけて、急にはしゃいだ調子で、
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こう言いかけて急にはしゃいだ調子で、
「もし君が Art に行くなら……そうだな、ぼくはちょうど小畑と Miss N との関係に対するのと同じ気持ちで、君と Art に対することになると思うね」
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「もし君が Art に行けば、……そうさな、僕はちょうど小畑と Miss N とに対する関係のような考えで、君と Art に対するようになると思うね」
「じゃ、ぼくはその方面に進むぞ」
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「じゃ僕はその方面に進むぞ」
郁治は一歩を進めた。
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郁治は一歩を進めた。
清三は今、人力車の上でその時のことを思い出した。
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清三は今、車の上でその時のことを思い出した。
心臓のこどうがふつうでなかったことも思い出した。
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心臓の鼓動の尋常でなかったことをも思い出した。
そしてその夜、日記帳に「あの友に幸あれ、どうか幸多くあれ。ああ神よ、神よ、あの友の清らかな恋、美しくむじゃきな恋に、どうか幸多くあらせてください。なみだの多いあなたの手で、どうか幸多くあらせてください。神よ、願います、親しい友のために願います」
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そしてその夜日記帳に、「かれ、幸多かれ、願はくば幸多かれ、オヽ神よ、神よ、かの友の清きラヴ、美しき無邪気なるラヴに願はくば幸多からしめよ、涙多き汝の手をもって願はくば幸多からしめよ、神よ、願ふ、親しき、友のために願ふ」
と書いて、机の上につっぷしたことを思い出した。
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と書いて、机の上に打っ伏したことを思い出した。
それから十日ほどたって、二人はその女の家を出て、士族屋敷(しぞくやしき。むかしの武士が住んでいたあたり)のさびしく暗い夜道を通った。
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それから十日ほどたって、二人はその女の家を出て、士族屋敷のさびしい暗い夜道を通った。
その日は女はいなかった。
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その日は女はいなかった。
女は浦和に、師範学校(しはんがっこう。先生になるための学校)の入学試験を受けに行っていた。
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女は浦和に師範学校の入学試験を受けに行っていた。
「どんなことでも力をつくせばできないことはないとは思うけれど……ぼくは生まれつきそういう資格がないんだからねえ」
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「どんなことでも人の力をつくせば、できないことはないとは思うけれど……僕は先天的にそういう資格がないんだからねえ」
「そんなことはないさ」
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「そんなことはないさ」
「でもねえ……」
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「でもねえ……」
「弱いことを言うもんじゃないよ」
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「弱いことを言うもんじゃないよ」
「君のようだといいけれど……」
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「君のようだといいけれど……」
「ぼくがどうしたっていうんだ?」
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「僕がどうしたッていうんだ?」
「ぼくは君なんかとちがって、恋のできるタイプじゃないからな」
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「僕は君などと違ってラヴなどのできる柄じゃないからな」
清三は郁治をいろいろになぐさめた。
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清三は郁治をいろいろに慰めた。
清三は友をあわれみ、また自分をあわれんだ。
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清三は友を憫みまた己を憫んだ。
いろいろな顔と出来事とが、目にうかんでは消え、うかんでは消えた。
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いろいろな顔と事件とが眼にうつっては消えうつっては消えた。
道には、はんの木のまばらな並木や、庚申塚(こうしんづか。道ばたの石のとう)や、畑や、農家が、車の進むままに現れては去っていった。
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路には榛のまばらな並木やら、庚申塚やら、畠やら、百姓家やらが車の進むままに送り迎えた。
馬車が一台あとから来て、砂けむりを立てて追いこして行った。
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馬車が一台、あとから来て、砂煙を立てて追い越して行った。
郁治の父親は、郡の視学(しがく。学校を見回る役人)であった。
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郁治の父親は郡視学であった。
郁治には妹が二人いて、雪子は十七、しげ子は十五であった。
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郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。
清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はいつもにこにこしてむかえた。
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清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。
繁子はまだほんの子どもだったが、「少年世界」
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繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」
などをよく読んでいた。
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などをよく読んでいた。
家が貧しく、とても東京へ勉強に行くことなどできないことが清三にもだんだんわかってきた。それで、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでもつとめたほうがいいという話になった。
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家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。
今度、月給十一円でいよいよ羽生の近くの弥勒の小学校につとめることになったのは、まったく郁治の父親が力をつくしてくれたおかげである。
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今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。
道のわきに小さな門があると思うと、井泉村役場という札が目にとまった。清三は車を降りて門にはいった。
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路のかたわらに小さな門があったと思うと、井泉村役場という札が眼にとまった、清三は車をおりて門にはいった。
「ごめんください」
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「頼む」
と声をたてると、おくから小使(こづかい。役場の雑用をする人)らしい五十くらいの男が出て来た。
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と声をたてると、奥から小使らしい五十男が出て来た。
「助役(じょやく。村長の次の役の人)さんは出ていらっしゃいますか」
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「助役さんは出ていらっしゃいますか」
「岸野さんかね」
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「岸野さんかな」
と小使は目をしょぼしょぼさせて聞き返した。
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と小使は眼をしょぼしょぼさせて反問した。
「ああ、そうです」
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「ああ、そうです」
小使は名刺と視学からの手紙とを受け取って引っこんだが、やがて清三は応接室に案内された。
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小使は名刺と視学からの手紙とを受け取って引っ込んだが、やがて清三は応接室に導かれた。
応接室といっても、テーブルやいすがあるわけではない。がらんとしたふつうの六畳で、そまつな瀬戸物の火ばちが真ん中に置かれていた。
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応接室といっても、卓や椅子があるわけではなく、がらんとした普通の六畳で、粗末な瀬戸火鉢がまんなかに置かれてあった。
助役は太った背の低い男で、しまの羽織を着ていた。
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助役は肥った背の低い男で、縞の羽織を着ていた。
視学からの手紙を見て、「そうですか。あなたが林さんですか。加藤さんからこの間その話がありました。しょうかい状を一つ書いてあげましょう」
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視学からの手紙を見て、「そうですか。貴郎が林さんですか。加藤さんからこの間その話がありました。紹介状を一つ書いてあげましょう」
こう言って、きたない硯箱(すずりばこ。すみをする道具の箱)を引きよせた。そして何かしきりに考えながら長くだまったまま、一通の手紙を書き、上に三田ヶ谷村村長石野栄造様というあて名を書いた。
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こう言って、汚ない硯箱をとり寄せて、何かしきりに考えながら、長く黙って、一通の手紙を書いて、上に三田ヶ谷村村長石野栄造様という宛名を書いた。
「それじゃ、これを弥勒の役場に持っていらっしゃい」
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「それじゃこれを弥勒の役場に持っていらっしゃい」
二
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二
弥勒までは、そこからまだ一キロほどある。
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弥勒まではそこからまだ十町ほどある。
三田ヶ谷村といっても、一か所に家がかたまっているわけではなかった。
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三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。
そこに一けん、あちらに一けん、杉の森のかげに三、四けん、野の畑の向こうに一けんというふうだった。町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかとうたがいたくなった。
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そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠の向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。
けれど少し行くと、家が両側に並び出して、きたない理髪店、酌婦でもいそうな料理店、子どもの集まった駄菓子屋などが目にとまった。
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けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。
ふと見ると平屋の小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。
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ふと見ると平家造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。
授業中で、児童の音読の声にまじって、ときどき先生のかん高い声が聞こえる。
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授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。
ほこりによごれたガラス窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいる様子や、黒板やテーブルや洋服姿などが、かすかにすかして見える。
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埃に汚れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。
出入りの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場では白ぶちの犬がのそのそとえさをあさっていた。
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出はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。
オルガンの音が、講堂と思われるあたりからかすかに聞こえて来る。
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オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。
学校の門の前を、車は通りぬけた。
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学校の門前を車は通り抜けた。
そこにかさ屋があった。
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そこに傘屋があった。
家じゅうを油紙やしぶの皿や糸や道具などでちらかして、その真ん中で五十くらいのおやじがせっせとかさを張っていた。
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家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺がせっせと傘を張っていた。
家のまわりには、油を引いたかさのまだかわかないものが、何本となく干し並べてある。
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家のまわりには油を布いた傘のまだ乾かないのが幾本となく干しつらねてある。
清三は車をとめて、役場のある場所をこのおやじにたずねた。
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清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。
役場は、その街道にそった一かたまりの家のなかにはなかった。
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役場はその街道に沿った一かたまりの人家のうちにはなかった。
家がとぎれると、むかしの城あとでもあったかと思われるような土手と濠(ほり)があった。土手にはささや草が一面にしげり、濠にはきたなくさびた色の水が、かしやしいの大木のかげをうつして、いっそう暗く寒々とした色をしていた。
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人家がつきると、昔の城址でもあったかと思われるような土手と濠とがあって、土手には笹や草が一面に繁り、濠には汚ない錆びた水が樫や椎の大木の影をおびて、さらに暗い寒い色をしていた。
その濠にそって曲がり、百メートルほど行った所が役場だと、清三は教えられた。
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その濠に沿って曲がって一町ほど行った所が役場だと清三は教えられた。
彼はここで車代を二十銭はらって、車を降りた。
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かれはここで車代を二十銭払って、車を捨てた。
ささやぶのかたわらに、かやぶきの家が一けんあった。古びた障子に、お料理そば切りうどん小川屋と書いてあるのが、ふと目にとまった。
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笹藪のかたわらに、茅葺の家が一軒、古びた大和障子にお料理そば切うどん小川屋と書いてあるのがふと眼にとまった。
家のまわりは畑で、麦の青い上ではひばりがいい声で低くさえずっていた。
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家のまわりは畑で、麦の青い上には雲雀がいい声で低くさえずっていた。
弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の先生が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということを、前から聞いていた。
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弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。
当分はその料理屋で食事の用意もしてくれるし、ふとんも貸してくれるとも聞いた。
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当分はその料理屋で賄いもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。
そこには、お種というきれいで評判の娘もいるという。
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そこにはお種というきれいな評判な娘もいるという。
清三はあたりに人がいないのをさいわいに、通りがかりの足をとめて、低いかきねから庭をのぞいてみた。
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清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。
庭には松が二、三本、葉ばかりになった桜が一、二本あって、障子が黒ずんでいるのがとくにきわだって目についた。
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庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。
かきねのすみでは、つばきと珊瑚樹(さんごじゅ。庭にうえる木)の厚い緑の葉が日を受けていた。
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垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていた。
つばきには花がまだ二つ三つ、葉のかげに残って見える。
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椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。
このあたりの名物だという赤城おろし(あかぎおろし。赤城山からふく強い風)も、四月にはいるとまったくやんだ。今は野も緑と黄と赤とで美しく色づいていた。
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このへんの名物だという赤城おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。
麦の畑をつらぬく細い道は、向こうに見えるひょろ長いはんの木の並木に通じていた。その間から役場らしいわらぶき屋根が、水彩画のように見わたせる。
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麦の畑を貫いた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根が水彩画のように見渡される。
応接室は、井泉村役場の応接室よりもきれいであった。
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応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。
そこからは、役場の人が仕事をしている部屋がガラス窓をとおしてはっきりと見えた。
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そこからは吏員の事務をとっている室が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。
テーブルの上には戸籍台帳や税金の帳面、願書や届けを一まとめにした書類などがきちんと置かれていた。髪を分けたやせた二十四、五の男と、五十くらいの頭のはげた老人とが、何かせっせと書いていた。
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卓の上には戸籍台帳やら、収税帳やら、願届けを一まとめにした書類やらが秩序よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺とが何かせっせと書いていた。
助役らしいひげの生えた中年の男と、土地の有力者らしい太った百姓とが、しきりに何か笑いながら話していたが、ときどききせるをトントンとたたく。
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助役らしい鬚の生えた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管をトントンとたたく。
村長は四十五くらいで、あばたのある顔で、頭はなかば白かった。
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村長は四十五ぐらいで、痘痕面で、頭はなかば白かった。
このあたりでよく見るタイプで、言葉にはときどき武州(ぶしゅう。今の埼玉県あたり)のなまりがまじる。
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ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛が交る。
井泉村の助役の手紙を読み、巻きもどして、「私は視学からも助役からも、そういう話は聞かなかったが……」
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井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」
と首をかたむけた時は、清三は不思議な思いに打たれた。
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と頭を傾けた時は、清三は不思議な思いにうたれた。
なんだかきつねにつままれたような気がした。
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なんだか狐につままれたような気がした。
視学も岸野も、あまりに無責任すぎるとも思った。
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視学も岸野もあまり無責任に過ぎるとも思った。
村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃ、もう内々に転任の話が決まったのかもしれない。今いる平田という先生は評判が悪いので、変えるという話はちょっと聞いたことがあるから」
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村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」
と言って、
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と言って、
「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」
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「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」
えらそうな口のききかたが、まず若い彼のプライドをきずつけた。
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横柄な口のききかたがまずわかいかれの矜持を傷つけた。
何もできない百姓のくせに、金があるからといって生意気なやつだと思った。
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何もできもしない百姓の分際で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。
初めての先生、初めての世の中への旅立ち。それがこんな冷たい始まりになろうとは、彼は思ってもみなかった。
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初めての教員、初めての世間への首途、それがこうした冷淡な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。
一時間後、彼は学校に行って校長に会った。
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一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。
授業中なので、三十分ほど職員室で待った。
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授業中なので、三十分ほど教員室で待った。
職員室には掛図(かけず。かべにかける大きな図)や大きなそろばんや本や植物標本など、いろいろなものが散らばって乱れていた。
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教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。
女の先生が一人すみのほうで何かせっせと調べ物をしていたが、初めにちょっとあいさつしただけで、言葉もかけてくれなかった。
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女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。
やがてベルが鳴る。長いろうかを生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」の礼
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やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」
をやるとそのまま、くもの子を散らしたように広場に散った。
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をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。
それまでの静けさとは打って変わって、足音、号令の声、散らばった生徒のさわぐ音が学校じゅうに満ちわたった。
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今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。
校長の背広には、白いチョークがついていた。
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校長の背広には白いチョークがついていた。
顔の長い、背の高い、どちらかといえばやせたほうの体つきで、師範学校を出た人にありがちな一種の「気取り」
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顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取り」
が、その態度にはっきり見えた。
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がその態度にありありと見えた。
知らないふりをしたのか、それともほんとうに知らないのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。
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知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。
校長は、こんなことを言った。
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校長はこんなことを言った。
「まったく知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれ何か命令があるでしょう。少し待っていていただきたいのですが……」
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「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」
場合によってはすぐにも使いを出してよく聞いてみてもいいから、今夜一晩は不自由だろうが役場にとまってくれ、ということであった。
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時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿ってくれとのことであった。
職員室には、先生が出たりはいったりしていた。
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教員室には、教員が出たりはいったりしていた。
五十くらいの平田という年とった先生と、若い背広の関という准教員(じゅんきょういん。正式ではない先生)とが、ろうかの柱の所に立って長い間何かを話していた。
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五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。
二人はときどきこちらを見た。
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二人は時々こっちを見た。
ベルがまた鳴った。
原文を見る
ベルがまた鳴った。
校長も先生もみな出て行った。
原文を見る
校長も教員もみな出て行った。
生徒はぞろぞろと、しおのように集まってはいって来た。
原文を見る
生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。
女の先生は職員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。
原文を見る
女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。
唱歌の時間らしく、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。
原文を見る
唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。
三
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三
村役場の一夜は、さびしかった。
原文を見る
村役場の一夜はさびしかった。
小使の部屋に、彼はねることになった。
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小使の室にかれは寝ることになった。
日の暮れがた、勝手口から井戸のそばに出た。平野をとりまく遠い山々が暗くなっていくのをながめていると、体まで引きこまれるようなさびしさが、それとなく心をおそって来る。
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日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁がそれとなく心をおそって来る。
父と母のことがひしひしと思い出された。
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父母のことがひしひしと思い出された。
小さいころは、きょうだいも多かった。
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幼いころは兄弟も多かった。
そのころ父は、足利で呉服屋をしていた。
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そのころ父は足利で呉服屋をしていた。
財産もかなり豊かであった。
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財産もかなり豊かであった。
七歳の時に家がおちぶれて熊谷に来た時のことを、彼はぼんやりと覚えている。
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七歳の時没落して熊谷に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。
母親が泣いたのを不思議に思ったことも覚えている。
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母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。
今は――兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家のことについても、ほかの学校友だちのように自由なことは言っていられない。
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今は――兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。
人のいい父親と、弱々しく情の深い母親とを持ったこの身は、生まれた時からすでに不運な運命を背負って来たのである。
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人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。
そう思うと、いつもの悲しくなりやすい気持ちが激しく胸にせまってきて、なみだが押し出されるように出る。
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こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激しく胸に迫ってきて、涙がおのずと押すように出る。
近くの森や道や畑はすっかり暮れても、遠い山々の頂はまだ明るかった。
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近い森や道や畠は名残りなく暮れても、遠い山々の頂はまだ明るかった。
浅間の煙がはけではいたように夕焼けの空になびいて、そのはしがぼかしたように広くひろがりわたった。
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浅間の煙が刷毛ではいたように夕焼けの空になびいて、その末がぼかしたように広くひろがり渡った。
かえるの声が、そこにもここにも聞こえ出した。
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蛙の声がそこにもここにも聞こえ出した。
ところどころの農家に灯がともって、歌をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。
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ところどころの農家に灯がとぼって、唄をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。
彼はじっと立ちつくしていた。
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かれはじっと立ちつくしていた。
ふと前のはんの木の並木のあたりに人の来る気配がしたと思うと、はなやかに笑う声がして、足音がばたばたと聞こえる。
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ふと前の榛の並木のあたりに、人の来る気勢がしたと思うと、華やかに笑う声がして、足音がばたばたと聞こえる。
小川屋に弁当とふとんを取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕やみの中から大きなふとんをかぶった黒いかげがうかび出すように動いて来て、そのあとに女らしいかげがちょこちょことついて来た。
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小川屋に弁当と夜具を取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕闇の中から大きな夜具を被いた黒い影が浮き出すように動いて来て、そのあとに女らしい影がちょこちょこついて来た。
小使は部屋の中にドサリとふとんを置き、いかにも重かったというように息をついた。そして昼間そうじしておいた小さなランプに火をともした。
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小使は室のうちにドサリと夜具を置いて、さも重かったというように呼吸をついたが、昼間掃除しておいた三分心の洋燈に火をとぼした。
あたりは、急に明るくなった。
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あたりは急に明るくなった。
「ご苦労さま」
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「ご苦労でした」
こう言って、清三が家の中にはいって来た。
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こう言って、清三が戸内にはいって来た。
このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。
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このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。
娘は持って来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった部屋をまぶしそうに見わたした。
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娘は携えて来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった一室をまぶしそうに見渡した。
「お種ちゃん、遊んでいくといいや」
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「お種坊、遊んでいくが好いや」
小使は、こんなことを言った。
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小使はこんなことを言った。
娘はにこにこと笑ってみせた。
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娘はにこにこと笑ってみせた。
評判になるほどの美しさというわけでもないが、まゆのあたりに人に好かれるような感じがあって、ふっくらした肉づきがほおにもうでにもはっきり見えた。
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評判な美しさというほどでもないが、眉のところに人に好かれるように艶なところがあって、豊かな肉づきが頬にも腕にもあらわに見えた。
「お母さん、具合が悪いって聞いたが、どうだい。もういいのかな」
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「お母、加減が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな」
「ああ」
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「ああ」
「かぜだろう」
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「風邪だんべい」
「寒い思いをしてはいけない、いけないって言っても、そのままねてしまったりするものだから……かぜを引いちゃったのさ……」
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「寒い思いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝なぞしているもんだから……風邪を引いちゃったんさ……」
「お母さんは気楽だからなあ」
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「お母、いい気だからなア」
「ほんとうに困るよ」
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「ほんとうに困るよ」
「でも、お種ちゃんはかせぎ手だから、お母さんも楽ができるよな」
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「でも、お種坊はかせぎものだから、お母、楽ができらアな」
娘はだまって笑った。
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娘は黙って笑った。
しばらくして、
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しばらくして、
「お客様の弁当は、明日も持って来るのかね」
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「お客様の弁当は、明日も持って来るんだんべいか」
「そうよ」
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「そうよ」
「それじゃ、お休み」
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「それじゃ、お休み」
と娘が帰りかけると、
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と娘は帰りかけると、
「まあ、いいじゃないか、遊んでいけよ」
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「まア、いいじゃねえか、遊んでいけやな」
「遊んでなんかいられない、これから後かたづけをしなきゃならないんだから……それじゃお休み」
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「遊んでなんかいられねえ、これから跡仕舞いしねきゃなんねえ……それだらお休み」
と出て行ってしまう。
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と出て行ってしまう。
弁当には、たまご焼きとつけ物とが入れられていた。
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弁当には玉子焼きと漬け物とが入れられてあった。
小使は、出がらしのぬるいお茶をついでくれた。
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小使は出流れの温い茶をついでくれた。
やがて老人はわきに行って、内職のわらを打ち始めた。
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やがて爺はわきに行って、内職の藁を打ち始めた。
夜は、しんとしている。
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夜はしんとしている。
かえるの声に、家も体もうめられるように感じた。
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蛙の声に家も身も埋めらるるように感じた。
彼はあれこれ想像するのにもつかれ、そうかといって読む雑誌も持って来なかった。それで包みの中から紙を横にとじた手帳を出して、えん筆で日記をつけ出した。
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かれは想像にもつかれ、さりとて読むべき雑誌も持って来なかったので、包みの中から洋紙を横綴にした手帳を出して、鉛筆で日記をつけ出した。
四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思いついてえん筆をさかさに持ち、消しゴムでゴシゴシ消した。
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四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思いついて鉛筆を倒にして、ゴムでゴシゴシ消した。
今日は少なくとも、一生のうちで新しい生活にはいる記念の第一日である。
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今日は少なくとも一生のうちで新しい生活にはいる記念の第一日である。
小説ならば、章が変わるところである。
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小説ならば、編が改まるところである。
そこで彼はページのうらを半分白いままにしておいて、次のページから新しく書き始めた。
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で、かれは頁の裏を半分白いままにしておいて、次の頁から新たに書き始めた。
四月二十五日、(弥勒にて)……
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四月二十五日、(弥勒にて)……
一ページほど簡単に書き終わって、ついでに今日使ったお金を数えてみた。
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一頁ほど簡単に書き終わって、ついでに今日の費用を数えてみた。
新郷で買った天狗煙草が十銭、とちゅうの車代が三十銭、清心丹(せいしんたん。くすりの名前)が五銭、学校で取った弁当が四銭五厘、合計四十九銭五厘。持って来た一円二十銭から引いて、七十銭五厘がまだがま口の中に残っていた。
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新郷で買った天狗煙草が十銭、途中の車代が三十銭、清心丹が五銭、学校で取った弁当が四銭五厘、合計四十九銭五厘、持って来た一円二十銭のうちから差引き七十銭五厘がまだ蝦蟇口の中に残っていた。
続いて、今度ここに来るためにかかったお金を計算してみた。
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続いて今度ここに来るについての費用を計算してみた。
二十五銭…………………………みとめ印
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25.0…………………………認印
二十二銭…………………………名刺
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22.0…………………………名刺
三銭五厘…………………………歯みがきとようじ
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3.5…………………………歯磨および楊子
八銭五厘…………………………ふで二本
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8.5…………………………筆二本
十四銭…………………………すずり
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14.0…………………………硯
一円十五銭…………………………ぼうし
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1,15.0…………………………帽子
一円七十五銭…………………………羽織
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1,75.0…………………………羽織
三十銭…………………………兵児帯
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30.0…………………………へこ帯
十四銭五厘…………………………げた
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14.5…………………………下駄
――
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――
四円七銭五厘
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4,07.5
これに前の七十銭五厘を足して合計四円七十八銭と書いた。そして、このお金を用意するために父と母が苦労したことを思い出した。
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これに前の七十銭五厘を加えて総計四円七十八銭也と書いて、そしてこの金をつくるについて、父母の苦心したことを思い出した。
たった一円のお金さえ簡単には作れない家のあわれさを、つくづくやりきれなく思った。
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わずか一円の金すら容易にできない家庭の憐むべきをつくづく味気なく思った。
ふとんのえりは、よごれていた。
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夜着の襟は汚れていた。
旅のゆるやかな悲しみが、あまいなみだをさそった。
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旅のゆるやかな悲哀がスウイトな涙を誘った。
彼はいつのまにか、かすかにいびきをたてていた。
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かれはいつかかすかに鼾をたてていた。
翌日は学校の予算表を書きうつすのを頼まれて、役場で一日を過ごした。
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翌日は学校の予算表の筆記を頼まれて、役場で一日を暮らした。
それがすんでから、父と母に手紙を書いて出した。
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それがすんでから、父母に手紙を書いて出した。
夕暮れに、校長の家から使いが来た。
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夕暮れに校長の家から使いがある。
校長の家は、遠くはなかった。
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校長の家は遠くはなかった。
麦の青い畑のところどころに、黄色い菜の花のうねがまじっている。
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麦の青い畑のところどころに黄いろい菜の花の一畦が交った。
かやぶき屋根の一けん家ではあるが、造りはすべて農家のかっこうだった。広い入り口、六畳と八畳の続いた部屋の前に小さな庭があるだけで、おくさんのだらしのない姿も、子どもの泣き顔も、茶の間の長火ばちも、たたみがよごれて破れているのも、表から来る人の目にみな見えた。
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茅葺屋根の一軒立ちではあるが、つくりはすべて百姓家の構えで、広い入り口、六畳と八畳と続いた室の前に小さな庭があるばかりで、細君のだらしのない姿も、子供の泣き顔も、茶の間の長火鉢も畳の汚れて破れたのも、表から来る人の眼にみなうつった。
校長の部屋には、学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。
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校長の室には学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。
「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手はずだけで、おおやけにしていなかったものですからねえ……」
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「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手筈だけで、表向きにしなかったものだからねえ……」
と言って、おくさんが運んで来たお茶を一ぱいついで出した。「君もご存じかもしれないが、平田というあの年をとった先生、あれがもう年で役に立たないから転校か免職にさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があると岸野君が言うものだから、それでお願いしようということになったのでした。ところが少しあなたのおいでが早かったものだから……」
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と言って、細君の運んで来た茶を一杯ついで出して、「君もご存じかもしれないが、平田というあの年の老った教員、あれがもう老朽でしかたがないから、転校か免職かさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があるッて岸野君が言うもんだから、それでお頼みしようッていうことにしたのでした。ところが少し貴君のおいでが早かったものだから……」
と言いかけて笑った。
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言いかけて笑った。
「そうでしたか、まったく知らなかったものですから……」
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「そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……」
「それはそうですとも、あなたが知るはずはない。岸野さんがもう少し気をつけてくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも気にしない人ですからな」
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「それはそうですとも、貴君は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着ですからな」
「それじゃ、その先生がまだいたんですね?」
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「それじゃその教員がいたんですね?」
「ええ」
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「ええ」
「それじゃ、まだ知らないでいたのですか」
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「それじゃまだ知らずにおりましたのですか」
「うちうちには知っているでしょうけれど……おおやけにはまだ発表していないんです。二、三日のうちにはすっかり村会で決めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」
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「内々は知ってるでしょうけれど……表向きはまだ発表してないんです。二三日のうちにはすっかり村会で決めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」
こう言って、少しとぎれて、
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こう言って、少しとぎれて、
「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、何事もすべてうまくいっていますから、初めて来た方にもつとめやすいです。あなたも一つ、大いにがんばっていただきたい。給料もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」
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「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、万事すべて円くいっていますから、始めて来た方にも勤めいいです。貴下も一つ大いに奮発していただきたい。俸給もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」
たばこを一服すってトンとたたいて、
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煙草を一服吸ってトンとたたいて、
「あなたはまだ正教員の免状(めんじょう。しかくの証明書)は持っていないんですね?」
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「貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?」
「ええ」
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「ええ」
「じゃ一つ、取っておくほうが何かと都合がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありませんから……教え方の本は少しは読みましたか」
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「じゃ一つ、取っておくほうが、万事都合がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか」
「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくて困るんです」
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「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです」
「どうも教え方も、実際にやってみなくてはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるものですがな」
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「どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな」
学校の教え方に興味を持つ人間と、詩や歌にあこがれている青年とが、こうして長い間向かい合ってすわった。
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学校教授法の実験に興味を持つ人間と、詩や歌にあくがれている青年とがこうして長く相対してすわった。
お茶うけには、大きい塩せんべいが五、六枚、盆にのせて出された。
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点心には大きい塩煎餅が五六枚盆にのせて出された。
校長のおくさんはあいさつをしながら、顔の青白い、鼻の高い、まゆとまゆの間の広い客の姿を見て、弱々しい人だと思った。
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校長の細君は挨拶をしながら、顔の蒼白い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い客の姿を見て、弱々しい人だと思った。
となりの部屋では、話をしている間ずっと今年生まれた子が泣きつづけていたが、それでも主人はそれをうるさいとも言わなかった。
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次の間では話をしている間、今年生まれた子がしっきりなしに泣いたが、しかし主はそれをやかましいとも言わなかった。
おむつがあたりに散らばって、火ばちの鉄びんはカラカラと煮え立っていた。
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襁褓があたりに散らばって、火鉢の鉄瓶はカラカラ煮え立っていた。
中学の話が出る。
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中学の話が出る。
師範学校の話が出る。
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師範校の話が出る。
授業についての経験の話が出る。
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教授上の経験談が出る。
同僚(どうりょう。同じ職場ではたらく人)になる人たちのうわさが出る。
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同僚になる人々の噂が出る。
清三は思わず気分がのって、理想のようなことや、家のために自分をぎせいにするということや、そのほかいろいろなことを打ち明けて語った。そして、一生小学校の先生をする気はないというようなことまでほのめかした。
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清三は思わず興に乗って、理想めいたことやら、家庭のための犠牲ということやらその他いろいろのことを打ち明けて語って、一生小学校の教員をする気はないというようなことまでほのめかした。
清三は昨日学校で会った時とちがって、この校長に思いのほか性質のよさそうなところがあるのを見つけた。
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清三は昨日学校で会った時に似ず、この校長の存外性質のよさそうなところのあるのを発見した。
校長の話によると、この三田ヶ谷という土地は村長や生徒の親の力が強いところで、そのかじを取っていくのがなかなかむずかしいそうである。
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校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。
それに評判もあまりよいほうではない。発戸、上村君、下村君などという利根川に近い村では、青縞の賃織り(ちんおり。たのまれてぬのを織る仕事)が盛んで、若い男や女が出入りするので、ふるまいもどうも悪い。
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それに人気もあまりよいほうではない、発戸、上村君、下村君などいう利根川寄りの村落では、青縞の賃機が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。
七、八歳の子どもが、とても下品な歌などを覚えて来て、それを平気で学校でうたっている。
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七八歳の子供が卑猥きわまる唄などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。
「私がここに来てからもう三年になりますが、そのころは生徒の行いはそれはずいぶんひどいものでしたよ。初めは私も、こんなところにはとてもつとまらないと思ったくらいでしたよ。今では、それでもだいぶよくなったがな」
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「私がここに来てから、もう三年になりますが、その時分は生徒の風儀はそれはずいぶんひどかったものですよ。初めは私もこんなところにはとてもつとまらないと思ったくらいでしたよ。今では、それでもだいぶよくなったがな」
と校長は語った。
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と校長は語った。
帰る時に、
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帰る時に、
「明日は土曜日ですから、日曜にかけて一度行田に帰って来たいと思いますが、さしつかえはないでしょうか?」
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「明日は土曜日ですから、日曜にかけて一度行田に帰って来たいと思いますが、おさしつかえはないでしょうか?」
彼はこうたずねた。
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かれはこうたずねた。
「けっこうですとも……それでは来週からつとめていただくように……」
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「ようござんすとも……それでは来週から勤めていただくように……」
その夜も、やはり役場の小使部屋にねた。
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その夜はやはり役場の小使室に寝た。
四
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四
朝起きると、春の雨がしとしとと降っていた。
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朝起きると春雨がしとしとと降っていた。
ぬれた麦の緑と菜の花の黄色とが、いつもよりきわだって美しく野を色づけた。
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ぬれた麦の緑と菜の花の黄いろとはいつもよりはきわだって美しく野をいろどった。
村の道を、蛇の目傘(じゃのめがさ。まるいもようのかさ)が一つ通って行った。
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村の道を蛇の目傘が一つ通って行った。
清三は八時過ぎに、番傘(ばんがさ。じょうぶな紙のかさ)を借りて雨の中へ出た。
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清三は八時過ぎに、番傘を借りて雨をついて出た。
そのかさには、三田ヶ谷村役場と黒々と大きく書きつけてあった。
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それには三田ヶ谷村役場と黒々と大きく書きつけてあった。
小川屋のわきの川べりのしげみからは、雨だれがはらはらとかさの上に乱れ落ちた。
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小川屋のかたわらの川縁の繁みからは、雨滴れがはらはらと傘の上に乱れ落ちた。
さびた色の黒い水には、いもりが赤い腹を見せている。
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錆びた黒い水には蠑螈が赤い腹を見せている。
ふと街道の入り口の家から、小川屋のお種という色白の娘が、白い手ぬぐいで髪をおおったままかさもささずに、大きな雨だれの落ちる木かげを急いでこちらへやって来た。そして二、三歩手前で清三と顔を合わせ、ちょっと会しゃくして笑顔を見せて通り過ぎた。
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ふと街道の取つきの家から、小川屋のお種という色白娘が、白い手拭いで髪をおおったまま、傘もささずに、大きな雨滴れの落ちる木陰を急いで此方にやって来たが、二三歩前で、清三と顔見合わせて、ちょっと会釈して笑顔を見せて通り過ぎた。
学校はまだ授業が始まらないので、門から下駄箱の見えるあたりには、生徒のかさがぞろぞろと続いていた。
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学校はまだ授業が始まらぬので、門から下駄箱の見えるほとりには、生徒の傘がぞろぞろと続いた。
男の生徒も女の生徒も、多くは包みを腰のところに背負って、着物のすそをたくし上げて歩いて来る。
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男生徒も女生徒も多くは包みを腰のところにしょって尻をからげて歩いて来る。
雨の降る中をぬれながら、かさを車の輪のように地面で回して来るいたずらな子もいる。かさの柄を首のところで押さえて、あみ棒と毛糸を動かしながら歩いて来る十二、三の娘もあった。
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雨の降る中をぬれそぼちながら、傘を車の輪のように地上に回して来る頑童もあれば、傘の柄を頸のところで押さえて、編棒と毛糸とを動かして歩いて来る十二三の娘もあった。
この生徒たちを来週からは自分が教えるのだと思って、清三はその前を通った。
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この生徒らを来週からは自分が教えるのだと思って、清三はその前を通った。
明けがたから降り出した雨なので、道はまだそれほど悪くはなかった。
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明方から降り出した雨なので、路はまだそうたいして悪くなかった。
車や馬の通ったところはぐしゃぐしゃしているが、えらんで歩けばぬかるみにならない場所がいくらもある。
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車や馬の通ったところはグシャグシャしているが、拾えば泥濘にならぬところがいくらもある。
道のはしのかわいた土には、雨がまだわずかにしみこんだだけであった。
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路の縁の乾いた土には雨がまだわずかにしみ込んだばかりであった。
井泉村の役場に助役をたずねてみたが、まだ出勤していなかった。
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井泉村の役場に助役を訪ねてみたが、まだ出勤していなかった。
道にそった長くきたないみぞには、も、い草、あしの新芽、おもだかがごたごたと生えて、雨にぬれた竹のやぶがその上におおいかぶさっていた。
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路に沿った長い汚ない溝には、藻や藺や葦の新芽や沢瀉がごたごたと生えて、淡竹の雨をおびた藪がその上におおいかぶさった。
雨だれが、ばらばらと落ちた。
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雨滴れがばらばら落ちた。
道のわきに軒のかたむいた小さな農家があって、かべにはすきなどの農具や、古いみのなどがかけてある。
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路のほとりに軒の傾むいた小さな百姓家があって、壁には鋤や犁や古い蓑などがかけてある。
髪の乱れた太ったおかみさんが柱によりかかって、今年生まれた赤ちゃんに乳を飲ませている。ていしゅらしいひげ面の四十くらいの男は、雨で仕事ができないのを退くつそうに、手をのばして大きなあくびをしていた。
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髪の乱れた肥った嚊が柱によりかかって、今年生まれた赤児に乳を飲ませていると、亭主らしい鬚面の四十男は、雨に仕事のできぬのを退屈そうに、手を伸ばして大きなあくびをしていた。
鎮守(ちんじゅ。その土地の守り神)の八幡宮のかやぶきの古いお社は、街道から見えるところにあった。
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鎮守の八幡宮の茅葺の古い社殿は街道から見えるところにあった。
鳥居のかたわらには、お社をなおすために寄付をした人の名前と金額とが、古いのも新しいのも並べて書いてある。
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華表のかたわらには社殿修繕の寄付金の姓名と額とが古く新しく並べて書いてある。
まわりのけやきの大木には、もう新芽が出はじめた。
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周囲の欅の大木にはもう新芽がきざし始めた。
さいせん箱の前では、前髪を手ぬぐいで巻いた子守が二人、子守歌を調子よくうたっていた。
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賽銭箱の前には、額髪を手拭いで巻いた子傅が二人、子守歌を調子よくうたっていた。
昨日の売れ残りの蒸かしたさつまいもが、まずそうに並べてある店もあった。
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昨日の売れ残りのふかし甘薯がまずそうに並べてある店もあった。
雨は糸のように細く、その低い軒をかすめて降った。
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雨は細く糸のようにその低き軒をかすめた。
畑にはようやく芽を出しかけた桑、目もさめるように黄色い菜の花、れんげやすみれや草の生えたあぜ。遠くには杉やかしの森に囲まれた大きな農家の白いかべも見える。
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畑にはようやく芽を出しかけた桑、眼もさめるように黄いろい菜の花、げんげや菫や草の生えている畔、遠くに杉や樫の森にかこまれた豪農の白壁も見える。
青縞を織る音が、ところどころに聞こえる。
原文を見る
青縞を織る音がところどころに聞こえる。
チャンカラチャンカラといそがしそうな音が、たえずひびいて来る。
原文を見る
チャンカラチャンカラと忙しそうな調子がたえず響いて来る。
時にはあたりにそれらしい家も見えないのに、どこで織っているのだろうと思わせることもある。
原文を見る
時にはあたりにそれらしい人家も見えないのに、どこで織ってるのだろうと思わせることもある。
歌が若々しい調子で聞こえて来ることもある。
原文を見る
唄が若々しい調子で聞こえて来ることもある。
発戸河岸のほうへ分かれる道の角には、ここらで評判だといううどん屋があった。
原文を見る
発戸河岸のほうにわかれる路の角には、ここらで評判だという饂飩屋があった。
朝から大きなかまに湯がわいて、主人らしい男が大きな板にうどん粉をこすりつけて、せっせと玉をのばしていた。
原文を見る
朝から大釜には湯がたぎって、主らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、せっせと玉を伸ばしていた。
赤いたすきをかけた若い女中が、なじみらしいお百姓と笑って話をしていた。
原文を見る
赤い襷をかけた若い女中が馴染らしい百姓と笑って話をしていた。
道の曲がったところに、古い石が立ててある。
原文を見る
路の曲がったところに、古い石が立ててある。
明治になる前からあるさかいの石で、「これより羽生領」
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維新前からある境界石で、「これより羽生領」
と刻んである。
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としてある。
ひょろ長いはんの木の片側だけの並木が、田んぼの間にしばらく長く続く。
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ひょろ長い榛の片側並木が田圃の間に一しきり長く続く。
それにそって細い川が流れ、芽を出した水草のかげを小魚がちょろちょろ泳いでいる。
原文を見る
それに沿って細い川が流れて萌え出した水草のかげを小魚がちょろちょろ泳いでいる。
羽生から大越に通う乗合馬車が、どろを飛ばして通って行った。
原文を見る
羽生から大越に通う乗合馬車が泥濘を飛ばして通って行った。
来る時には、道ばたのうすい板でふいたきたない居酒屋の二階の屋根に、えりあかのついたふとんが昼のうららかな日ざしに干されていた。下では青白い顔をした女がせっせと洗いはりをしていた。けれど今日は障子がぴったり閉められて、日当たりの悪いところに青いこけが生えているのがきたならしく目についた。
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来る時には、路傍のこけら葺の汚ないだるま屋の二階の屋根に、襟垢のついた蒲団が昼の日ののどかな光に干されて、下では蒼白い顔をした女がせっせと張り物をしていたが、今日は障子がびっしゃりと閉じられて、日当たりの悪いところには青ごけの生えたのが汚なく眼についた。
だんだん道が悪くなって来た。
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だんだん道が悪くなって来た。
えらんで歩いてもぴしゃぴしゃしないようなところは、もうなくなった。
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拾って歩いてもピシャピシャしないようなところはもうなくなった。
かかとを地面からはなさないようにして歩いても、すり減ったげたからはたえずどろがはねあがった。
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足の踵を離さないようにして歩いても、すりへらした駒下駄からはたえずハネがあがった。
風が出て雨も横なぐりになり、そでもぬれてしまった。
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風が出て雨も横しぶきになって袖もぬれてしまった。
羽生の町は、さびしかった。
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羽生の町はさびしかった。
ときどき番傘や蛇の目傘が通るばかりで、ひさしの長く出た広い通りはしんとしている。
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時々番傘や蛇の目傘が通るばかり、庇の長く出た広い通りは森閑としている。
郵便局の前には為替(かわせ。お金を送るしくみ)を受け取りに来た若い女が立っている。呉服屋の店では番頭と小僧とが集まって話をしている。足袋屋の店では青縞とじょうぶな布とが積み重ねられたなかで、職人がせっせと足袋をぬっていた。
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郵便局の前には為替を受け取りに来た若い女が立っているし、呉服屋の店には番頭と小僧とがかたまって話をしているし、足袋屋の店には青縞と雲斎織りとが積み重ねられたなかで、職人がせっせと足袋を縫っていた。
新しくガラス戸の店を造った外国の品を売る店の前には、自転車が一台、半分は軒の雨だれにぬれながら置かれてある。
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新式に硝子戸の店を造った唐物屋の前には、自転車が一個、なかばは軒の雨滴れにぬれながら置かれてある。
町の四つ角には、半鐘台(はんしょうだい。火事を知らせるかねのやぐら)が高く立っていた。
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町の四辻には半鐘台が高く立った。
そこから、行田へ行く道が分かれている。
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そこから行田道はわかれている。
たばこ屋、うどん屋、医者の大きな玄関、へいの上にそびえる形のおもしろい松、井戸がきれいな水をふき出している大きな家。その前を通って向こうへ出ると、草の生えたみぞがあって、白いペンキのはげた門に羽生分署(ぶんしょ。警察の出張所)という札がかかっている。
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煙草屋、うどん屋、医師の大きな玄関、塀の上にそびえている形のおもしろい松、吹井が清い水をふいている豪家の前を向こうに出ると、草の生えた溝があって、白いペンキのはげた門に、羽生分署という札がかかっている。
おまわりさんが一人、サーベル(西洋の刀)を鳴らして、雨の降りしきる中を出て来た。
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巡査が一人、剣をじゃらつかせて、雨の降りしきる中を出て来た。
それからまた、うら通りの家並みが続いた。
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それからまた裏町の人家が続いた。
多くはうすい板でふいた、古く貧しい家並みである。
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多くはこけら葺の古い貧しい家並みである。
馬車屋の前に乗合馬車が一台あって、もう出るらしく、客が二、三人乗りこんでいた。
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馬車屋の前に、乗合馬車が一台あって、もう出るとみえて、客が二三人乗り込んでいた。
清三は立ちどまって聞いてみたが、あいにく満員で乗せてもらう場所がなかった。
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清三は立ちどまって聞いたが、あいにくいっぱいで乗せてもらう余地がなかった。
清三の姿はなおしばらくそのうら町の古い家並みの間に見えていたが、ふと、ある小さな家の障子をあけてはいって行った。
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清三の姿はなおしばらくその裏町の古い家並みの間に見えていたが、ふと、とある小さな家の大和障子をあけてはいって行った。
中には、中年のおかみさんがいた。
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中には中年のかみさんがいた。
「げたを一つ貸していただきたいんですが……弥勒から雨に降られて、まいってしまいました」
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「下駄を一つ貸していただきたいんですが……、弥勒から雨に降られてへいこうしてしまいました」
「お安いご用ですとも」
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「お安いご用ですとも」
おかみさんは、歯の高いげたを出してくれた。
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かみさんは足駄を出してくれた。
そのげたの歯はすり減って曲がっていて、歩きにくいことは並たいていではなかった。
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足駄の歯はすれて曲がって、歩きにくいこと一通りでなかった。
低いげたよりはいいが、どろのはねはやはり少しずつあがった。
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駒下駄よりはいいが、ハネはやっぱり少しずつあがった。
彼はとうとう、新郷から十五銭で車に乗った。
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かれはついに新郷から十五銭で車に乗った。
五
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五
家は行田町の大通りから、むかしの城あとのほうへ行く横町にあった。
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家は行田町の大通りから、昔の城址のほうに行く横町にあった。
角に柳の湯というふろ屋があって、それと向かい合って、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。
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角に柳の湯という湯屋があって、それと対して、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。
一つの建物を細く仕切ったような軒の低い家で、風や雨にさらされて黒くなった障子に、糸のような細い雨がななめに降りかかっていた。
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棟割長屋を一軒仕切ったというような軒の低い家で、風雨にさらされて黒くなった大和障子に糸のような細い雨がはすに降りかかった。
となりには蚕の仲買いをする人が住んでいた。その季節になるとせまい座敷から台所、茶の間、入り口まで白いまゆでいっぱいになり、朝から晩までごたごたと人が出入りするのがいつものことだ。けれど今は建てつけの悪い障子がぴったり閉まって、あたりはしんとしていた。
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隣には蚕の仲買いをする人が住んでいて、その時節になると、狭い座敷から台所、茶の間、入り口まで、白い繭でいっぱいになって、朝から晩までごたごたと人が出はいりするのが例であるが、今は建てつけの悪い障子がびっしゃりと閉って、あたりがしんとしていた。
清三は障子をがらりとあけて、中にはいった。
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清三は大和障子をがらりとあけて中にはいった。
年のころ四十くらいの、品のいい丸まげに結った母親が、着物を切るための板を前にしてまわりにはさみや糸巻き、はり箱などを散らかし、せっせと仕事をしていた。障子があいて息子の顔がそこに現れると、
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年のころ四十ぐらいの品のいい丸髷に結った母親が、裁物板を前に、あたりに鋏、糸巻き、針箱などを散らかして、せっせと賃仕事をしていたが、障子があいて、子息の顔がそこにあらわれると、
「まあ、清三かい」
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「まア、清三かい」
と呼んで立って来た。
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と呼んで立って来た。
「まあ、雨が降ってたいへんだったねえ!」
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「まア、雨が降ってたいへんだったねえ!」
ぬれたそでや、どろのはねあがったはかまなどをすぐ見てとったが、言葉を続けて、
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ぬれそぼちた袖やら、はねのあがった袴などをすぐ見てとったが、言葉をついで、
「あいにくだったねえ、お前。昨日の様子ではこんな天気になろうとは思わなかったのに……ずっと歩いて来たのかい」
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「あいにくだッたねえ、お前。昨日の工合いでは、こんな天気になろうとは思わなかったのに……ずっと歩いて来たのかえ」
「歩いて来ようと思ったけれど、新郷に安い帰り車があったから乗って来た」
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「歩いて来ようと思ったけれど、新郷に安いかえり車があったから乗って来た」
見なれない高いげたをはいているのを見て、
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見なれぬ足駄をはいているのを見て、
「どこから借りて来たの、そのげたは?」
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「どこから借りて来たえ、足駄を?」
「峰田で」
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「峰田で」
「そうかい、峰田で借りて来たのかい……。ほんとうにたいへんだったねえ」
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「そうかえ、峰田で借りて来たのかえ……。ほんとうにたいへんだったねえ」
こう言って、ぞうきんを台所から持って来ようとすると、
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こう言って、雑巾を勝手から持って来ようとすると、
「ぞうきんではだめだよ、母さん。バケツに水をくんでくださいな」
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「雑巾ではだめだよ。母さん。バケツに水を汲んでくださいな」
「そんなによごれているのかい」
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「そんなに汚れているかえ」
と言いながら、台所からバケツに水を半分ほどくんで来る。
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と言いながら勝手からバケツに水を半分ほど汲んで来る。
かわいた手ぬぐいも、そこに出した。
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乾いた手拭いをもそこに出した。
清三はきれいに足を洗い、手ぬぐいでふいて家にあがった。
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清三はきれいに足を洗って、手拭いで拭いて上にあがった。
母親はその間に、綿入れと、自分の着物をぬい直した羽織とをそろえてそこに出し、ぬいだ羽織とはかまとを手ばやく着物かけにかける。
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母親はその間に、結城縞の綿入れと、自分の紬の衣服を縫い直した羽織とをそろえてそこに出して、脱いだ羽織と袴とを手ばしこく衣紋竹にかける。
二人はやがて、長火ばちの前にすわった。
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二人はやがて長火鉢の前にすわった。
「どうだったの?」
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「どうだったえ?」
母親は鉄びんの下の火をかき起こしながら、気にかかっているその様子をきく。
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母親は鉄瓶の下に火をあらけながら、心にかかるその様子をきく。
かいつまんで清三が話すと、
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かいつまんで清三が話すと、
「そうだってねえ、手紙が今朝着いたよ。どうしてそんな行きちがいになっていたんだろうねえ」
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「そうだってねえ、手紙が今朝着いたよ。どうしてそんな不都合なことになっていたんだろうねえ」
「なんでもない、少し早く行き過ぎたのさ」
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「なあに、少し早く行き過ぎたのさ」
「それで、話はどう決まったの?」
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「それで、話はどうきまったえ?」
「来週から出ることになった」
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「来週から出ることになった」
「それはよかったねえ」
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「それはよかったねえ」
喜びの色が、母親の顔にうかんだ。
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喜びの色が母親の顔にのぼった。
それからそれへと、話は続いた。
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それからそれへと話は続いた。
校長さんはどういう人か、やさしそうな人かどうか、弥勒という所はどんなところか、下宿するのによいところがあったか、と、母親はいろいろなことを持ち出して聞いた。
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校長さんはどういう人だの、やさしそうな人かどうかの、弥勒という所はどんなところかの、下宿するよいところがあったかのと、いろいろなことを持ち出して母親は聞いた。
清三はいちいち、それを話して聞かせた。
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清三はいちいちそれを話して聞かせた。
「お父さんは?」
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「お父さんは?」
しばらくして、清三がこう聞いた。
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しばらくして、清三がこうきいた。
「ちょっと下忍まで行って来るって出かけて行ったよ。どうしても少しお金を作って来なくてはってね……。雨が降るから明日にしたらいいだろうと言ったんだけれど……」
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「ちょっと下忍まで行ッて来るッて出かけて行ったよ。どうしても少しお銭をこしらえて来なくってはッてね……。雨が降るから、明日にしたらいいだろうと言ったんだけれど……」
清三はだまってしまった。
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清三は黙ってしまった。
貧しい自分の家のことが、いまさらまた頭の中でくり返される。
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貧しい自分の家のことがいまさらに頭脳にくり返される。
父親にかせぐ力のないことが歯がゆくも思われる。その一方で、お人よしで、善良で、人にだまされやすい弱く鈍い性質を持っていながら、にせものの書や絵を人に売りつけることを仕事にしているということには、ひどくいやな気持ちを感じた。
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父親の働きのないことがはがゆいようにも思われるが、いっぽうにはまた、好人物で、善人で、人にだまされやすい弱い鈍い性質を持っていながら、贋物の書画を人にはめることを職業にしているということにはなはだしく不快を感じた。
正直な彼の心には、父親の仕事は人間のするまともな仕事ではないように、いつも思われているのである。
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正直なかれの心には、父親の職業は人間のすべき正業ではないようにつねに考えられているのである。
だまされさえしなければ、今でもそれなりの呉服屋の店を持っていられたのである。
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だまされさえしなければ、今でも相応な呉服屋の店を持っていられたのである。
そう思うと、何も知らない母親をかわいそうに思うと同時に、まともな仕事ではないとはいっても、こんな雨の降る日にたった五十銭か一円のお金のために四キロもあるところへ出かけて行く年老いた父親を、気の毒に思った。
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こう思うと、何も知らぬ母親に対する同情とともに、正業でない職業とはいいながら、こうした雨の降る日に、わずか五十銭か一円の銭で、一里もあるところに出かけて行く老いた父親を気の毒に思った。
やがて鉄びんが、チンチンと音を立て始めた。
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やがて鉄瓶がチンチン音を立て始めた。
母親は古い茶だんすから、お茶のはいったかんときゅうすとを取った。
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母親は古い茶箪笥から茶のはいった罐と急須とを取った。
お茶は、もう粉になっていた。
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茶はもう粉になっていた。
火ばちの引き出しの紙ぶくろには、塩せんべいが二枚しか残っていなかった。
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火鉢の抽斗しの紙袋には塩煎餅が二枚しか残っていなかった。
清三は夕暮れ近くまで、母親がぬい物をしているそばの暗い窓の下で、熊谷にいる同級だった友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。
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清三は夕暮れ近くまで、母親の裁縫するかたわらの暗い窓の下で、熊谷にいる同窓の友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。
友への手紙には、恋のことや詩のことや明星派の歌のことなど、自分でも若々しいと思うようなことを、線の引いた紙に二枚も三枚も書いた。
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友の手紙には恋のことやら詩のことやら明星派の歌のことやら我ながら若々しいと思うようなことを罫紙に二枚も三枚も書いた。
四時ごろから、雨は上がった。
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四時ごろから雨ははれた。
道は、まだぐしゃぐしゃしている。
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路はまだグシャグシャしている。
父親が失敗して帰って来たので、家の空気がなんとなく重苦しかった。親子三人がだまって夕飯を食べていると、「ごめんなさい」
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父親が不成功で帰って来たので、家庭の空気がなんとなく重々しく、親子三人黙って夕飯を食っていると、「ご免なさい」
という声を先に立てて、建てつけの悪い障子をあけようとする人がある。
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という声を先にたてて、建てつけの悪い大和障子をあけようとする人がある。
母親が立って行って、
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母親が立って行って、
「まあ……さあ、どうぞ」
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「まア……さあ、どうぞ」
「いいえ、ちょっとおふろに参りましたのですが、帰りにねえ、お宅へ寄って、今日は土曜日だから清三さんがお帰りになったかどうか、うかがって来いと郁治が申しますものですから……いつもごぶさたばかりいたしておりましてねえ、まあほんとうに」
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「いいえ、ちょっと、湯に参りましたのですが、帰りにねえ、貴女、お宅へあがって、今日は土曜日だから、清三さんがお帰りになったかどうか郁治がうかがって来いと申しますものですから……いつもご無沙汰ばかりいたしておりましてねえ、まアほんとうに」
「まあ、どうぞおかけくださいまし……おや、雪さんもごいっしょに……さあ、雪さん、こっちにおはいりなさいましよ」
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「まア、どうぞおかけくださいまし……、おや雪さんもごいっしょに、……さア、雪さん、こっちにおはいりなさいましよ」
と、女の人どうしはしきりにしゃべりたてる。
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と女同士はしきりにしゃべりたてる。
郁治の妹の雪子はやせてすらりとした、田舎にはめずらしいいい娘だった。ふろ上がりに薄く化しょうした白い顔を、暗くなりかけた夕暮れの空気にくっきりとうかび出すように見せて、ぬれ手ぬぐいにせっけん箱を包んだのを持って立っていた。
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郁治の妹の雪子はやせぎすなすらりとした田舎にはめずらしいいい娘だが、湯上がりの薄く化粧した白い顔を夕暮れの暗くなりかけた空気にくっきりと浮き出すように見せて、ぬれ手拭いに石鹸箱を包んだのを持って立っていた。
「さあ、こんなところですけど……」
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「さア、こんなところですけど……」
「いいえ、もうそうはいたしておりませんから」
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「いいえ、もうそうはいたしてはおりませんから」
「それでもまあ、ちょっとおかけなさいましな」
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「それでもまア、ちょっとおかけなさいましな」
この会話でそれと気づいた清三は、はしを置いて立って、そこへ出て来た。
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この会話にそれと知った清三は、箸を捨てて立ってそこに出て来た。
母親たちがあいさつし合っているその向こうに雪子が立っているのをちょっと見て、すぐ目をそらした。
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母親どもの挨拶し合っている向こうに雪子の立っているのをちょっと見て、すぐ眼をそらした。
郁治の母親は清三の顔を見て、
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郁治の母親は清三の顔を見て、
「お帰りになりましたね。郁治が待っておりますから……」
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「お帰りになりましたね、郁治が待っておりますから……」
「今夜うかがおうと思っていました」
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「今夜あがろうと思っていました」
「それじゃ、どうぞお遊びにおいでくださいまし。毎日行ったり来たりしていた方が急においでにならなくなると、あれもさびしくてしかたがないらしくてね……それに、ほかに仲のいいお友だちもないものですから……」
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「それじゃ、どうぞお遊びにおいでくださいまし、毎日行ったり来たりしていた方が急においでにならなくなると、あれも淋しくってしかたがないとみえましてね……それに、ほかに仲のいいお友だちもないものですから……」
郁治の母親は、やがて帰って行く。
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郁治の母親はやがて帰って行く。
清三も母親も、また食卓に向かった。
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清三も母親もふたたび茶湯台に向かった。
親子はやはり、だまって夕飯を食べた。
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親子はやはり黙って夕飯を食った。
湯を飲む時、母親は急に、
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湯を飲む時、母親は急に、
「雪さん、たいへんきれいになられたねえ!」
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「雪さん、たいへんきれいになんなすったな!」
と、だれに向かって言うともなく言った。
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とだれに向かって言うともなく言った。
けれど、だれもそれに調子を合わせる人はなかった。
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けれどだれもそれに調子を合わせるものもなかった。
父親が茶づけをかきこむ音が、さらさらと聞こえた。
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父親の茶漬けをかき込む音がさらさらと聞こえた。
清三はたくあんを、ガリガリと食べた。
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清三は沢庵をガリガリ食った。
日は暮れかかる。
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日は暮れかかる。
雨は、また降り出した。
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雨はまた降り出した。
六
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六
加藤の家は、五百メートルとはなれていなかった。
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加藤の家は五町と隔たっておらなかった。
公園道のとちゅうから左に折れてうら町の間を少し行くと、やがて片側は麦畑、片側はかきねになる。夏には紅と白のむくげが咲いたり、きゅうりやかぼちゃが実ったりした。
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公園道のなかばから左に折れて、裏町の間を少し行くと、やがていっぽう麦畑いっぽう垣根になって、夏は紅と白の木槿が咲いたり、胡瓜や南瓜が生ったりした。
木かげの重なった夕やみにほたるが飛ぶのを雪子やしげ子と追い回したこともある。寒い冬の月夜をかるたで夜ふかしして、からころと足音高く帰って来たこともあった。
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緑陰の重なった夕闇に螢の飛ぶのを、雪子やしげ子と追い回したこともあれば、寒い冬の月夜を歌留多にふかして、からころと跫音高く帰って来たこともあった。
細い小道の杉のかきねの奥にある門と、かわら屋根。それは彼にとって、たくさんの思い出のある場所である。
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細い巷路の杉垣の奥の門と瓦屋根、それはかれにとってまことに少なからぬ追憶がある。
今日は桜の葉をとおしてランプの光が、雨にぬれてキラキラ光っていた。
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今日は桜の葉をとおして洋燈の光がキラキラと雨にぬれて光っていた。
雪子の色の白いすました顔や、繁子があどけなくにこにこ笑ってむかえる様子や、晩ごはんの酒によって機げんよく話しかける父親の様子などが、まだたずねないうちからはっきり目に見えるような気がする。
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雪子の色の白いとりすました顔や、繁子のあどけなくにこにこと笑って迎えるさまや、晩酌に酔って機嫌よく話しかける父親の様子などがまだ訪問せぬうちからはっきりと目に見えるような気がする。
笑い声のいつも絶えない平和な友の家庭を、うらやましく思ったことも一度や二度ではなかった。
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笑い声がいつも絶えぬ平和な友の家庭をうらやましく思ったことも一度や二度ではなかった。
郡の視学といえば、田舎ではずいぶんこわがられるほうだ。むずかしくて、りくつっぽくて、近よりにくい人が多い。けれど郁治の父親は物わかりが早く、やさしく、親切で、そして話しぶりにもかなり重みがあると人から思われていた。
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郡視学といえば、田舎ではずいぶんこわ持てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味があると人から思われていた。
ひげはなかば白く、髪にもちらちら白いものがまじっているが、気持ちはどちらかといえば若いほうだった。青年を相手に教育の話などをあきずに語って聞かせることもあった。
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鬚はなかば白く、髪にもチラチラ交っているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。
清三と郁治が話している部屋に来ては、二人を相手にいろいろなことを語った。
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清三と郁治と話している室に来ては、二人を相手にいろいろなことを語った。
門をあけると、ベルがチリチリンと鳴った。
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門をあけると、ベルがチリチリンと鳴った。
ふみ石をたどって入り口の格子戸の前に立つと、ランプを持ってむかえに出たしげ子の笑顔が、やみの中にいる清三の目にうかび出すように映った。
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踏み石をつたって、入り口の格子戸の前に立つと、洋燈を持って迎えに出たしげ子の笑顔が浮き出すように闇の中にいる清三の眼にうつった。
「林さん?」
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「林さん?」
と、のぞくようにして見て、
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と、のぞくようにして見て、
「兄さん、林さんよ」
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「兄さん、林さん」
と、高いむじゃきな声をたてる。
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と高い無邪気な声をたてる。
父親は今日熊谷に行って、留守であった。
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父親は今日熊谷に行って不在であった。
子どもがいないので、部屋がきれいに片づいている。
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子供がいないので、室がきれいに片づいている。
そうじも行きとどいて、茶の間のランプも明るかった。
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掃除も行き届いて、茶の間の洋燈も明るかった。
母親は長火ばちの前に、晴れやかな顔をしてすわっていた。
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母親は長火鉢の前に、晴れやかな顔をしてすわっていた。
雪子は台所で後かたづけをしていたが、ちょうどそれが終わったので、白い前かけで手をふきながら茶の間に来た。
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雪子は勝手で跡仕舞いをしていたが、ちょうどそれが終わったので、白い前掛けで手を拭き拭き茶の間に来た。
あいさつをしていると、郁治が奥から出て来て、清三をそのまま自分の書斎に連れて行った。
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挨拶をしていると、郁治は奥から出て来て、清三をそのまま自分の書斎につれて行った。
書斎は、四畳半であった。
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書斎は四畳半であった。
きりの古い本箱が積み重ねられ、綱鑑易知録、史記、五経、唐宋八家文などと書いた白い紙がそこに張られてあった。小さな床の間に草雲という人のらんの絵の掛け軸がかかっているのが、ランプの遠い光にぼんやり見える。
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桐の古い本箱が積み重ねられて、綱鑑易知録、史記、五経、唐宋八家文などと書いた白い紙がそこに張られてあった、三尺の半床の草雲の蘭の幅のかかっているのが洋燈の遠い光におぼろげに見える。
ランプをのせたほおの木の大きな机の上には、明星、文芸倶楽部、万葉集、一葉全集などが、らんざつに散らばって置かれてある。
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洋燈の載った朴の大きな机の上には、明星、文芸倶楽部、万葉集、一葉全集などが乱雑に散らばって置かれてある。
一年も会わなかったかのように、二人は熱心に話した。
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一年も会わなかったようにして、二人は熱心に話した。
いろいろな話が、たえまなく二人の口から出る。
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いろいろな話が絶え間なく二人の口から出る。
「君はどう決まった?」
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「君はどう決まった?」
しばらくして、清三がたずねた。
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しばらくして清三がたずねた。
「来年の春、高等師範を受けてみることにした。それまではただ家にいてもしかたがないから、ここの学校に先生として出ていて、そして勉強しようと思う……」
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「来年の春、高等師範を受けてみることにした。それまでは、ただおってもしかたがないからここの学校に教員に出ていて、そして勉強しようとおもう……」
「熊谷の小畑からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるって」
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「熊谷の小畑からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるッて」
「そう、君のところにも言って来たかい。ぼくのところにも言って来たよ」
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「そう、君のところにも言って来たかえ、僕のところにも言って来たよ」
「小島や杉谷はもう東京に行ったんだってねえ」
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「小島や杉谷はもう東京に行ったッてねえ」
「そう書いてあったね」
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「そう書いてあったね」
「どこにはいるつもりだろう?」
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「どこにはいるつもりだろう?」
「小島は第一高等学校を受けるらしい」
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「小島は第一を志願するらしい」
「杉谷は?」
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「杉谷は?」
「あいつはどうするんだか……どうせ学費になんか困らないんだから、どうでも好きにできるだろう」
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「先生はどうするんだか……どうせ、先生は学費になんか困らんのだから、どうでも好きにできるだろう」
「この町からも東京に行く人はいるかね?」
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「この町からも東京に行くものはあるかね?」
「そうだな」
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「そう」
と郁治は考えて、「佐藤は行くようなことを言っていたよ」
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と郁治は考えて「佐藤は行くようなことを言っていたよ」
「どういう方面に?」
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「どういう方面に?」
「工業学校にはいるつもりらしい」
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「工業学校にはいるつもりらしい」
同級生についての話が、つきずに出た。
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同窓に関する話がつきずに出た。
清三の身にしてみれば、将来の進む道を決めてそれぞれ出たい方面に出て行く友だちが、このうえもなくうらやましかった。
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清三の身にしては、将来の方針を定めて、てんでに出たい方面に出て行く友だちがこのうえもなくうらやましかった。
中学校にいるうちから卒業後の身の上を想像しないでもなかったが、その時はその時で、思わぬ運が思わぬところから向いて来ないとも限らないと、無理に心を落ち着かせていた。
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中学校にいるうちから、卒業してあとの境遇をあらかじめ想像せぬでもなかったが、その時はまたその時で、思わぬ運が思わぬところから向いて来ないとも限らないと、しいて心を安んじていた。
けれど、それは空想であった。
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けれどそれは空想であった。
家の貧しさは、日に日に彼の身を現実の生活に近づけて行った。
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家庭の餓は日に日にその身を実際生活に近づけて行った。
彼はまた、母親からやさしく温かい血を受けついでいた。
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かれはまた母親から優しい温かい血をうけついでいた。
小さい時から小波のおじさんのお話を読み、小説や歌や俳句に若い思いをわかせていた。
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幼い時から小波のおじさんのお伽噺を読み、小説や歌や俳句に若い思いをわかしていた。
体が育つにつれて、心は燃えたり冷えたりした。
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体の発達するにつれて、心は燃えたり冷えたりした。
町の若い娘たちの目の色も、読めるようになった。
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町の若い娘たちの眼色をも読み得るようにもなった。
恋の味も、いつのまにか覚えた。
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恋の味もいつか覚えた。
あるつよい思いにおされて、人知れずはずかしいことをすることもあった。
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あるデザイアに促されて、人知れず汚ない業をすることもあった。
世の中は自分の前におもしろく楽しいぶたいをひろげていると思うこともあれば、きたなくみにくい、近づいてはならない姿を見せていると思うこともある。
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世間は自分の前におもしろい楽しい舞台をひろげていると思うこともあれば、汚ない醜い近づくべからざる現象を示していると思うこともある。
満たされない自分の望みと、美しい花のような世界と、どうなっていくかわからない自分の将来とを考える時は、いつも暗くわびしく、たえられない気持ちになった。
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自己の満しがたい欲望と美しい花のような世界といかになり行くかを知らぬ自己の将来とを考える時は、いつも暗いわびしいたえがたい心になった。
熊谷にいる友人の恋の話から、Art の君の話が出る。
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熊谷にいる友人の恋の話から Art の君の話が出る。
「ぼくは苦しくてしかたがない」
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「僕は苦しくってしかたがない」
「どうかする方法がありそうなものだねえ」
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「どうかする方法がありそうなもんだねえ」
二人は、こんなことを言った。
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二人はこんなことを言った。
「昨日公園で会ったんだ。ちょっと浦和から帰って来たんだって。あの人、むだに太っているという格好だったよ」
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「昨日公園で会ったんさ。ちょっと浦和から帰って来たんだッて、先生、いたずらに肥えてるッていう形だッた」
郁治はこう言って笑った。
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郁治はこう言って笑った。
「むだに太っているとは、いいねえ」
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「いたずらに肥えてるはいいねえ」
清三も笑った。
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清三も笑った。
「君の妹さんが友だちだし、あの人のお兄さんもいるんだし、どうにか方法がありそうなものだねえ」
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「君のシスタアが友だちだし、先生のエルダアブラザアもいるんだし、どうにか方法がありそうなもんだねえ」
「まあ、放っておいてくれ。考えると苦しくなる」
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「まア、放っておいてくれ、考えると苦しくなる」
胸にひそかに恋をかかえた青年の苦しさ、というような顔を郁治はして見せた。
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胸にひそかに恋を包める青年の苦しさというような顔を郁治はして見せた。
前に自分でも言ったように、郁治は美男ではなかった。
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前にみずからも言ったように、郁治は好男子ではなかった。
男らしくきっぱりしたところはあるが、体が大きく、かたが張って、目がするどく、ほお骨が出ているところなど、女に好かれるような点はなかった。
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男らしいきっぱりとしたところはあるが、体格の大きい、肩の怒った、眼の鋭い、頬骨の出たところなど、女に好かれるような点はなかった。
若い者が苦しむような悩みは、彼の胸にもあった。
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若い者の苦しむような煩悶はかれの胸にもあった。
清三にくらべれば、めぐまれてもいた。
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清三にくらべては、境遇もよかった。
家庭もよかった。
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家庭もよかった。
高等師範にはいれないとしても、東京に行って一、二年は勉強するだけの学費は出してやる気が父親にもある。
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高等師範にはいれぬまでも、東京に行って一二年は修業するほどの学費は出してやる気が父親にもある。
それに体つきがいいだけに考え方も健全で、清三のようにすぐ悲しくなるところはない。
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それに体格がいいだけに、思想も健全で、清三のようにセンチメンタルのところはない。
清三が今度の弥勒行きを、このうえもない絶望のように――田舎にうもれて出られなくなる第一歩であるかのように言った。それに対して、「だって、そんなことはありゃしないよ。人間がまわりに左右されるということは、それはいくらかはあるにちがいないが、どんな場所からでも出ようと思えば出て来られる」
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清三が今度の弥勒行きを、このうえもない絶望のように――田舎に埋れて出られなくなる第一歩であるかのように言ったのを、「だッて、そんなことはありゃしないよ、君、人間は境遇に支配されるということは、それはいくらかはあるには違いないが、どんな境遇からでも出ようと思えば、出て来られる」
と言ったことでも、郁治の性格の一面はわかる。
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と言ったのでも、郁治の性格の一部はわかる。
その時、清三は、
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その時、清三は、
「君はそう言うけれど、それはまわりにしばられる恐ろしさを君が知らないからだよ。つまり君の家庭の幸福から出た言葉だよ」
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「君はそういうけれど、それは境遇の束縛の恐ろしいことを君が知らないからだよ、つまり君の家庭の幸福から出た言葉だよ」
「そんなことはないよ」
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「そんなことはないよ」
「いや、ぼくはそう思うねえ。ぼくはこれっきりうもれてしまうような気がしてならないよ」
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「いや、僕はそう思うねえ、僕はこれっきり埋れてしまうような気がしてならないよ」
「ぼくはまた、かりに一歩ゆずって人間がそういう種類の動物だとしても、そんな後ろ向きの考えには従っていられないねえ」
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「僕はまた、かりに一歩譲って、人間がそういう種類の動物であると仮定しても、そういう消極的な考えには服従していられないねえ」
「じゃ、どんな場所からでも、その人の考え一つでぬけ出ることができるというんだねえ」
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「じゃ、どんな境遇からでも、その人の考え一つで抜け出ることができるというんだねえ」
「そうさ」
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「そうさ」
「つまりそうすると、人間は何でもできるという話だね。どんなことでもできないことはないという議論だね」
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「つまりそうすると、人間万能論だね、どんなことでもできないことはないという議論だね」
「君はすぐそう極たんに言うけれど、それはそこに例外もあるがね」
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「君はじきそう極端に言うけれど、それはそこに取り除けもあるがね」
その時、いつもの単純な理想の話が出る。
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その時いつもの単純な理想論が出る。
前向きな考えと後ろ向きな考えとがごたごたに入りまじって、まとまらないまま終わりになった。
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積極的な考えと消極的な考えとがごたごたと混合して要領を得ずにおしまいになった。
彼らの仲間は学校にいるころから、文学の議論や人生の議論などをよくした。
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かれらの群れは学校にいるころから、文学上の議論や人生上の議論などをよくした。
新しい形の和歌や俳句や、気持ちを書いた文章などを作って、たがいに見せ合ったこともある。
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新派の和歌や俳句や抒情文などを作って、互いに見せ合ったこともある。
一人が仙骨という号(ごう。ペンネーム)をつけると、みんな骨という字を使った号をつけようじゃないかという話が出た。破骨だの、洒骨だの、露骨だの、天骨だの、古骨だのというおもしろい号ができて、しばらくの間は手紙を出すにも、話をするにも、みんなその骨の字の号を使った。
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一人が仙骨という号をつけると、みな骨という字を用いた号をつけようじゃないかという動議が出て、破骨だの、洒骨だの、露骨だの、天骨だの、古骨だのというおもしろい号ができて、しばらくの間は手紙をやるにも、話をするにも、みんなその骨の字の号を使った。
古骨というのは、やはり郁治や清三と同じく十二キロの道を朝早く熊谷に通った仲間の一人だ。本当の号は機山といって、町でも指おりの青縞の商人の息子で、ふだんは角帯などをしめて、いつも色の白い顔に銀ぶちの近眼めがねをかけていた。
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古骨というのは、やはり郁治や清三と同じく三里の道を朝早く熊谷に通った連中の一人だが、そのほんとうの号は機山といって、町でも屈指の青縞商の息子で、平生は角帯などをしめて、つねに色の白い顔に銀縁の近眼鏡をかけていた。
田舎の青年に多い、とても熱心な文学好きだった。雑誌という雑誌はたいてい取り、初めはいろいろな投書をして自分の号が活字になるのを喜んでいたが、近ごろはもう投書でもあるまいという気になって、毎月の雑誌に出る小説や詩や歌の批評を、思うぞんぶん仲間に聞かせるようになった。
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田舎の青年に多く見るような非常に熱心な文学好きで、雑誌という雑誌はたいてい取って、初めはいろいろな投書をして、自分の号の活字になるのを喜んでいたが、近ごろではもう投書でもあるまいという気になって、毎月の雑誌に出る小説や詩や歌の批評を縦横にそのなかまにして聞かせるようになった。
それに投書する人どうしの付き合いをすることが好きで、地方の小さな雑誌の編集長といつも手紙をやり取りするので、地方文だんの知らせには、武州行田には石川機山ありなどと、よく書かれていた。
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それに、投書家交際をすることが好きで、地方文壇の小さな雑誌の主筆とつねに手紙の往復をするので、地方文壇消息には、武州行田には石川機山ありなどとよく書かれてあった。
当時の文学の世界で名のある作家も、二、三人は知っていた。
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時の文壇に名のある作家も二三人は知っていた。
やはり骨の字の号をつけた一人がいた。これは文学などはあまりわかるほうではなく、同じ仲間に付き合いで入れてもらった組だ。けれど彼の兄が行田町に一つしかない印刷の仕事をやっていて、その前を通ると、ガラス戸の入り口に行田印刷所と書いたインクによごれた大きな看板がかかっている。古い形の手刷り機が一台、例の大きな羽根を巻き返し巻き返し動かしているのが見える。
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やはり骨の字の号をつけた一人で――これは文学などはあまりわかるほうではなく、同じなかまにおつき合いにつけてもらった組であるが、かれの兄が行田町に一つしかない印刷業をやっていて、その前を通ると、硝子戸の入り口に、行田印刷所と書いたインキに汚れた大きい招牌がかかっていて、旧式な手刷りが一台、例の大きなハネを巻き返し繰り返し動いているのが見える。
広告のちらしや名刺がおもな仕事で、時には郡役所や警察署の簡単な報告などをたのまれてすることもあるが、それはごくまれであった。たなに並べた箱の活字も少なかった。
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広告の引き札や名刺が主で、時には郡役所警察署の簡単な報告などを頼まれて刷ることもあるが、それはきわめてまれであった、棚に並べたケースの活字も少なかった。
活字ひろいも組み版も印刷も、主人がみな一人でやった。
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文選も植字も印刷も主がみな一人でやった。
日曜日などには、その弟がよごれた筒そでを着て手刷り台の前に立ち、刷れた紙をめくっているのを、いつも見かけた。
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日曜日などにはその弟が汚れた筒袖を着て、手刷り台の前に立って、刷れた紙を翻しているのをつねに見かけた。
金持ちの息子と見て、そのこづかいをあてにしてそそのかしたというわけでもあるまい。けれどこの四月の初めに機山がこの印刷所に遊びに来て、長い間その主人兄弟と話して行った。帰る時、「それじゃ、毎月七、八円ずつ損するつもりなら大丈夫だねえ。原稿料は出さなくても書き手はたくさんいるし、それに二、三十部は売れるよな」
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金持ちの息子と見て、その小遣いを見込んで、それでそそのかしたというわけでもあるまいが、この四月の月の初めに、機山がこの印刷所に遊びに来て、長い間その主人兄弟と話して行ったが、帰る時、「それじゃ毎月七八円ずつ損するつもりなら大丈夫だねえ。原稿料は出さなくったって書き手はたくさんあるし、それに二三十部は売れるアね」
と言った顔は、新しい計画への喜びに輝いていた。
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と言った顔は、新しい計画に対する喜びに輝いていた。
「行田文学」
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「行田文学」
という小さな雑誌を始めることについての相談が、その仲間の間に持ち上がったのは、これからである。
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という小雑誌を起こすことについての相談がその連中の間に持ち上がったのはこれからである。
機山がその相談の席で、
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機山がその相談の席で、
「それから、羽生の成願寺に山形古城がいるよな。あの人はあれでなかなか文学の世界では名の知れた人で、新しい形の詩では有名な人だから、まず第一にあの人に応えん者になってもらうんだね。あの人からたのんでもらえば、原杏花の原稿ももらえるよ」
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「それから、羽生の成願寺に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家で、新体詩じゃ有名な人だから、まず第一にあの人に賛成員になってもらうんだね。あの人から頼んでもらえば、原杏花の原稿ももらえるよ」
「あの古城っていう人は、ここの士族だっていうじゃないか」
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「あの古城ッていう人はここの士族だッていうじゃないか」
「そうだって……。だから、応えん者にするのはわけはないさ」
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「そうだッて……。だから、賛成員にするのはわけはないさ」
ちょうど清三が弥勒につとめることになった時なので、彼がまずその寺をたずねる役目を仲間からまかされた。
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ちょうど清三が弥勒に出るようになった時なので、かれがまずその寺を訪問する責任を仲間から負わせられた。
その夜、「行田文学」
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その夜、「行田文学」
の話が出ると、郁治が、
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の話が出ると、郁治が、
「寄ってみたかい?」
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「寄ってみたかね?」
「あいにく、雨に降られてしまったものだから」
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「あいにく、雨に会っちゃッたものだから」
「そうだったね」
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「そうだったね」
「今度行ったら、一つ寄ってみよう」
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「今度行ったら一つ寄ってみよう」
「そういえば、今日荻生君が羽生に行ったが、会わなかったかねえ」
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「そういえば、今日荻生君が羽生に行ったが会わなかったかねえ」
「荻生君が?」
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「荻生君が?」
と清三は、めずらしがる。
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と清三は珍しがる。
荻生君というのは、やはりその仲間で、熊谷の郵便局につとめている、同じ町の料理店の息子さんである。
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荻生君というのは、やはりその仲間で、熊谷の郵便局に出ている同じ町の料理店の子息さんである。
今度羽生の局につとめることになって、これから車で行くというところを、郁治は町の角で会ったのだった。
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今度羽生局に勤めることになって、今車で行くというところを郁治は町の角で会った。
「これからずっと長くつとめているのかしら」
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「これからずッと長く勤めているのかしら」
「もちろんそうだろう。羽生の局をやっているのは荻生君の親せきだから」
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「むろんそうだろう。羽生の局をやっているのは荻生君の親類だから」
「それはいいな」
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「それはいいな」
「君の話し相手ができていいと、ぼくも思ったよ」
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「君の話相手ができて、いいと僕も思ったよ」
「でも、そんなに親しくはないけれど……」
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「でも、そんなに親しくはないけれど……」
「すぐ親しくなるよ、ああいうやさしい人だもの……」
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「じき親しくなるよ、ああいうやさしい人だもの……」
そこにしげ子が、「昼間作ったものですから、まずくなりましたけれど……」
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そこにしげ子が「昼間こしらえたのですから、まずくなりましたけれど……」
とおはぎを運んで来て、お茶をついだ。
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とお萩餅を運んで、茶をさして来た。
そのまま兄のそばにすわってむじゃきな口ぶりで二言三言話していたが、今度は姉の雪子が背の高い姿をそこに現して、「兄さん、石川さんよ」
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そのまま兄のそばにすわって、無邪気な口ぶりで二言三言話していたが、今度は姉の雪子が丈の高い姿をそこにあらわして、「兄さん、石川さんが」
と言う。
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という。
やがて、石川がはいって来た。
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やがて石川がはいって来た。
席に清三がいるのを見て、
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座に清三がいるのを見て、
「君のところに今寄って来たよ」
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「君のところに今寄って来たよ」
「そうか」
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「そうか」
「こっちに来たってお母さんが言ったから」
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「こっちに来たッてマザアが言ったから」
こう言って石川はすわり、「先生はうまくつとまりましたかね?」
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こう言って石川はすわって、「先生がうまくつとまりましたかね?」
清三は笑っている。
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清三は笑っている。
郁治は、「まだできるかできないか、やってみていないんだとさ」
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郁治は、「まだできるかできないか、やってみないんだとさ」
と、そばから言う。
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とそばから言う。
雪子もしげ子も、石川の顔を見るとあいさつしてすぐ引っこんで行ってしまった。
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雪子もしげ子も石川の顔を見ると、挨拶してすぐ引っ込んで行ってしまった。
郁治と清三が話している間は話に気がねがないので、よく長くそばにすわっている。けれど、ほかの人がまじるとすましてしまうのがいつものことである。
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郁治と清三と話している間は、話に気がおけないので、よく長くそばにすわっているが、他人が交るとすましてしまうのがつねである。
それほど、清三と郁治とは仲がよかった。
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それほど清三と郁治とは交情がよかった。
それほど、清三とこの家庭とは親しかった。
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それほど清三とこの家庭とは親しかった。
郁治と清三の話しぶりも、石川が来るとまるで変わった。
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郁治と清三との話しぶりも石川が来るとまるで変わった。
「いよいよ来月の十五日から一号を出そうと思うんだがね」
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「いよいよ来月の十五日から一号を出そうと思うんだがね」
「もうすっかり決まったのかい」
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「もうすっかり決まったかえ」
「東京からも、有名な人では麗水と天随とが書いてくれるはずだ……。それに地方からもだいぶ原稿が来るから、大丈夫だろうと思うよ」
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「東京からも大家では麗水と天随とが書いてくれるはずだ……。それに地方からもだいぶ原稿が来るからだいじょうぶだろうと思うよ」
こう言って、地方の小さな雑誌や東京の文学雑誌などを五、六種類出した。そして岡山地方で出している二十四ページの「小文学」
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こう言って、地方の小雑誌やら東京の文学雑誌やらを五六種出したが、岡山地方で発行する菊版二十四頁の「小文学」
というのをとくに抜き出して、
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というのをとくに抜き出して、
「だいたいこういうふうにしようと思うんだ。沢田(印刷所)にも相談してみたが、それがいいだろうと言うんだけれど、どうも中の見た目はあまり感心しないから、組み方なんかは別にしようと思うんだがね」
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「たいていこういうふうにしようと思うんだ。沢田(印刷所)にも相談してみたが、それがいいだろうと言うんだけれど、どうも中の体裁はあまり感心しないから、組み方なんかは別にしようと思うんだがね」
「そうだねえ、中はあまりきれいじゃないねえ」
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「そうねえ、中はあまりきれいじゃないねえ」
と二人は「小文学」
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と二人は「小文学」
を見ている。
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を見ている。
「これはどうだろう」
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「これはどうだろう」
と、二段十八行二十四字づめのものを石川は見せた。
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と二段十八行二十四字詰めのを石川は見せた。
「そうだねえ」
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「そうねえ」
三人は、何種類かの雑誌をめくってみた。
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三人は数種の雑誌をひるがえしてみた。
郁治の持っている雑誌も、そこに参考として出した。
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郁治の持っている雑誌もそこに参考に出した。
ランプは、ひたいを寄せ合った三人の青年と、そこにらんざつに散らかった雑誌とをくっきり照らした。
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洋燈は額を集めた三人の青年とそこに乱雑に散らかった雑誌とをくっきり照らした。
やがて、その中の一つにだいたい決まる。
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やがてその中の一つにあらかた定まる。
石川が持って来た雑誌の中に、「明星」
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石川の持って来た雑誌の中に、「明星」
の四月号があった。
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の四月号があった。
清三はそれを手に取って、初めは藤島武二や中沢弘光の木はん画のあざやかなのを見ていたが、やがて晶子の歌に熱心に見入った。
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清三はそれを手に取って、初めは藤島武二や中沢弘光の木版画のあざやかなのを見ていたが、やがて、晶子の歌に熱心に見入った。
新しい「明星派」
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新しい「明星派」
のやり方が、清三のかわいた胸にはまるでわき水のように感じられた。
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の傾向が清三のかわいた胸にはさながら泉のように感じられた。
石川はそれを見て笑って、
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石川はそれを見て笑って、
「もう見てる。ちがうものだね、ファンは!」
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「もう見てる。違ったもんだね、崇拝者は!」
「だって、じっさいいいんだもの」
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「だって実際いいんだもの」
「何がいいんだか。言葉はばらばら、考えは新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になっているつもりなんだから、明星派の人たちにはまいるよ」
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「何がいいんだか、国語は支離滅裂、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ」
いつかもやった明星派がいいか悪いかの議論、それを三人はまたくり返して論じた。
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いつかもやった明星派是非論、それを三人はまたくり返して論じた。
七
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七
夜は、もう十二時を過ぎた。
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夜はもう十二時を過ぎた。
雨だれの音は、まだしている。
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雨滴れの音はまだしている。
ときどきザッと降って行く気配も聞き取れる。
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時々ザッと降って行く気勢も聞き取られる。
城あとのぬまのあたりで、かいつぶりという鳥の鳴く声がさびしく聞こえた。
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城址の沼のあたりで、むぐりの鳴く声が寂しく聞こえた。
一つの部屋に、ふとんが三つしいてあった。
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一室には三つ床が敷いてあった。
小さい丸まげとはげた頭とがふとんを並べて、そこにねていた。
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小さい丸髷とはげた頭とが床を並べてそこに寝ていた。
母親はつい先ほどまで目を覚ましていて、「明日ねむいから早くおやすみよ」
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母親はつい先ほどまで眼を覚ましていて、「明日眠いから早くおやすみよ」
と、何度となく言った。
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といく度となく言った。
「ランプをまくら元につけたまま、つい寝こんでしまうとあぶないから」
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「ランプを枕元につけておいて、つい寝込んでしまうと危いから」
とも注意した。
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とも忠告した。
その母親もねてしまって、父親のいびきにまじって、かすかな息づかいがスースーと聞こえる。
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その母親も寝てしまって、父親の鼾に交って、かすかな呼吸がスウスウ聞こえる。
ただでさえ紙のかさが古いのに、先ほど芯が出過ぎたのに気づかずにいた。それでガラスのつつが半分ほど黒くなって、光がいやに赤く暗い。
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さらぬだに紙の笠が古いのに、先ほど心が出過ぎたのを知らずにいたので、ホヤが半分ほど黒くなって、光線がいやに赤く暗い。
清三は借りて来た「明星」
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清三は借りて来た「明星」
を、ほとんど我をわすれるほど熱心に読みふけった。
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をほとんどわれを忘れるほど熱心に読み耽った。
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問わぬ色桃に見る
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椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
わたしの罪を問わない色を桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見る、とうたった心が、しみじみと胸にしみた。
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わが罪問はぬ色桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見ると歌った心がしみじみと胸にしみた。
不思議なようでもあるし、しぜんでないようにも思われた。
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不思議なようでもあるし、不自然のようにも考えられた。
またこの不思議でしぜんでないところに、新しいわき水がこんこんとわいているようにも思われた。
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またこの不思議な不自然なところに新しい泉がこんこんとしてわいているようにも思われた。
色桃に見る、と四句目と五句目を分けたところに、言葉にできないような美しさがあるようにも思われた。
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色桃に見ると四の句と五の句を分けたところに言うに言われぬ匂いがあるようにも思われた。
彼は一首ごとに、一ページごとに本をふせて、わいて来る思いを味わわずにはいられなかった。
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かれは一首ごとに一頁ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。
このしゅんかんには、昨夜役場にねたわびしさも、弥勒から羽生まで雨にぬれて来たつらさも、まったくわすれていた。
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この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒から羽生まで雨にそぼぬれて来た辛さもまったく忘れていた。
ふと、石川と今夜議論をしたことを思い出した。
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ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。
あんなあらい感じ方で文学などをやる気持ちがわからないと思った。
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あんな粗い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。
それにひきかえ、自分の心がこれほどあざやかに新しい考え方にふれられるのを、自分でありがたく思った。
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それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。
渋谷のさびしい奥に住んでいる詩人ふうふの、まずしいくらしのことなども想像してみた。
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渋谷の淋しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗び住居のことなどをも想像してみた。
なんだか悲しいようでもあり、うらやましいようでもある。
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なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。
彼は歌を読むのをやめて、見た目から組み方から表紙の絵から、すべて新しい感じに満たされたその雑誌に、すっかりあこがれきった。
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かれは歌を読むのをやめて、体裁から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。
時計が二時を打っても、彼はまだふとんの中で目を大きくあけていた。
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時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。
ねずみが天じょうを渡る音が、さわがしく聞こえた。
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鼠の天井を渡る音が騒がしく聞こえた。
雨は降ったり上がったりしていた。
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雨は降ったりはれたりしていた。
人の心を別の世界にさそうようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨だれの音が軒のといをつたって落ちた。
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人の心を他界に誘うようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨滴れの音が軒の樋をつたって落ちた。
いつまであこがれていても、しかたがない。
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いつまであこがれていたッてしかたがない。
「もうねよう」
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「もう寝よう」
と思って起き上がり、暗いランプを手にして、父と母のねているふとんのすそのところを通って便所に行った。
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と思って、起き上がって、暗い洋燈を手にして、父母の寝ている夜着のすそのところを通って、厠に行った。
手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、えん側に置いたランプがくっきりとやみを照らして、ぬれた南天の葉に雨が降りかかるのが光って見えた。
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手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、縁側に置いた洋燈がくっきりと闇を照らして、ぬれた南天の葉に雨の降りかかるのが光って見えた。
障子を閉める音に母親が目を覚まして、
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障子を閉てる音に母親が眼を覚まして、
「清三かい?」
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「清三かえ?」
「ああ」
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「ああ」
「まだねずにいるのかい」
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「まだ寝ずにいるのかえ」
「今、ねるところなんだ」
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「今、寝るところなんだ」
「早くおねなさい……明日がねむいよ」
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「早くお寝よ……明日が眠いよ」
と言って、ねがえりをして、
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と言って、寝返りをして、
「もう何時だい」
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「もう何時だえ」
「二時が今鳴った」
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「二時が今鳴った」
「二時……もう夜が明けてしまうじゃないか、おねなさい」
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「二時……もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ」
「ああ」
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「ああ」
それでふとんの中にはいって、ランプをフッとふき消した。
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で、蒲団の中にはいって、洋燈をフッと吹き消した。
八
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八
翌日の午後一時ごろ、白いしまのはかまをつけて借りて来た高いげたを手に下げた清三と、なかばはげた頭で古ぼけたしまの羽織を着た父親とが、行田の町はずれを連れ立って歩いて行った。
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翌日、午後一時ごろ、白縞の袴を着けて、借りて来た足駄を下げた清三と、なかばはげた、新紬の古ぼけた縞の羽織を着た父親とは、行田の町はずれをつれ立って歩いて行った。
雨あがりの空はやや曇って、ときどき思い出したように薄い日ざしがさした。
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雨あがりの空はやや曇って、時々思い出したように薄い日影がさした。
町と村とのさかいを区切る川には、あしやい草やはこやなぎがもう青々と芽を出していた。あひるが五、六羽ギャアギャア鳴き、番傘と蛇の目傘とがその岸に並べて干されてあった。
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町と村との境をかぎった川には、葦や藺や白楊がもう青々と芽を出していたが、家鴨が五六羽ギャアギャア鳴いて、番傘と蛇の目傘とがその岸に並べて干されてあった。
町に買い物に来た近所のお百姓が、こしをかけてしきりにうどんを食べていた。
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町に買い物に来た近所の百姓は腰をかけてしきりに饂飩を食っていた。
並んで歩く親子の後ろ姿は、低いひさしやかわらでふいた屋根や、おむつを干し並べた軒や、石屋の作業場や、かじ屋や、娘が青縞を織っている家や、子どもの集まっている駄菓子屋などが両側に並ぶ間を、静かに動いて行った。
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並んで歩く親子の後ろ姿は、低い庇や地焼の瓦でふいた家根や、襁褓を干しつらねた軒や石屋の工作場や、鍛冶屋や、娘の青縞を織っている家や、子供の集まっている駄菓子屋などの両側に連なった間を静かに動いて行った。
と、向こうから頭に台をのせて、上に小さな旗をたくさんヒラヒラさせたあめ屋が、太こをおもしろくたたきながらやって来る。
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と、向こうから頭に番台を載せて、上に小旗を無数にヒラヒラさしたあめ屋が太鼓をおもしろくたたきながらやって来る。
父親は近くの新郷というところの大きな家に、二、三日前、書や絵の掛け軸を五、六点あずけて置いて来た。
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父親は近在の新郷というところの豪家に二三日前書画の幅を五六品預けて置いて来た。
今日行っていくらかのお金にして来なければならないと思って、午後から弥勒に行く清三といっしょに出かけて来たのである。
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今日行っていくらかにして来なければならないと思って、午後から弥勒に行く清三といっしょに出かけて来たのである。
ここまで来る間に、父親は町の親しい人に二人会った。
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ここまで来る間に、父親は町の懇意な人に二人会った。
一人は気のおけない仲間で、「どこへ行くんだい? そうかい、新郷へ行くのかい。あそこはどうもな、けちな人間ばかりで、まるで話にならんな」
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一人は気のおけないなかまの者で、「どこへ行くけえ? そうけえ、新郷へ行くけえ、あそこはどうもな、吝嗇な人間ばかりで、ねっかららちがあかんな」
と言って、その中年の男は声高く笑った。
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と言って声高くその中年の男は笑った。
もう一人は町の大きな家の、書や絵が大好きな主人だった。それが向こうから来ると、父親はていねいにあいさつをして立ちどまった。
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一人は町の豪家の書画道楽の主人で、それが向こうから来ると、父親はていねいに挨拶をして立ちどまった。
「この間のはどうも悪いようだねえ、どうもあやしい」
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「この間のは、どうも悪いようだねえ、どうもあやしい」
と向こうから言うと、「いや、そんなことはございません。出どころがしっかりしていますから、たしかなものですから」
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と向こうから言うと、「いや、そんなことはございません。出所がしっかりしていますから、折り紙つきですから」
と、父親はしきりに言いわけをした。
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と父親はしきりに弁解した。
清三が十メートルほど先からふり返って見ると、父親はしきりに腰を低くして頭を下げている。
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清三は五六間先からふり返って見ると、父親がしきりに腰を低くして、頭を下げている。
そのはげたひたいを、薄い日ざしがテラテラと照らした。
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そのはげた額を、薄い日影がテラテラ照らした。
加須に行く街道と館林に行く街道とが、町のはずれで二つに分かれる。
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加須に行く街道と館林に行く街道とが町のはずれで二つにわかれる。
それから向こうは、広々とした野になっている。
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それから向こうはひろびろした野になっている。
野のところどころにこんもりとした森があって、その間に白いかべの土蔵などが見えている。
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野のところどころにはこんもりとした森があって、その間に白堊の土蔵などが見えている。
まだ耕していない田には、れんげが赤いしき物をしいたようにきれいに咲いていた。
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まだ犁を入れぬ田には、げんげが赤い毛氈を敷いたようにきれいに咲いた。
店の若だんならしい男が、平らな街道をなめらかに自転車を走らせて来た。
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商家の若旦那らしい男が平坦な街道に滑らかに自転車をきしらして来た。
道は野から村にはいったり、村から野に出たりした。
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路は野から村にはいったり村から野に出たりした。
かしの高い生けがきで家をかこんだ大きな家もあれば、青いこけがきたならしく生えたみぞを前にした、あらかべのくずれかけた家もあった。
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樫の高い生垣で家を囲んだ豪家もあれば、青苔が汚なく生えた溝を前にした荒壁の崩れかけた家もあった。
にわとりの声が、ところどころにのどかに聞こえる。
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鶏の声がところどころにのどかに聞こえる。
街道でおろしの菓子屋が荷を下ろしていると、髪をぼうぼうにした村の駄菓子屋のおかみさんが帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言いながら、いる分だけ置かせている。
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街道におろし菓子屋が荷を下していると、髪をぼうぼうさせた村の駄菓子屋のかみさんが、帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言って入用だけ置かせている。
新郷への分かれ道が近くなったころ、親子はこんな話をした。
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新郷へのわかれ路が近くなったころ、親子はこういう話をした。
「今度はいつ来るんだ、お前」
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「今度はいつ来るな、お前」
「この次の土曜日には帰る」
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「この次の土曜日には帰る」
「それまでに少しはどうかならんか」
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「それまでに少しはどうかならんか」
「どうだかわからないけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」
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「どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」
「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」
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「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」
清三は、返事をしなかった。
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清三は返事をしなかった。
やがて、別れる場所に来た。
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やがて別れるところに来た。
新郷へは、ここから田んぼ一つこせば行ける。
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新郷へはこれから一田圃越せば行ける。
「それじゃ、気をつけてな」
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「それじゃ気をつけてな」
「ああ」
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「ああ」
そこには、庚申塚が立っていた。
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そこには庚申塚が立っていた。
はげ頭の父親がねこ背になって歩いて行く姿と、茶色のぼうしに白いしまのはかまをつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。
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禿頭の父親が猫背になって歩いて行くのと、茶色の帽子に白縞の袴をつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。
九
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九
その夜は、役場にとまった。
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その夜は役場にとまった。
校長をたずねたが、留守であった。
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校長を訪ねたが不在であった。
彼は日記帳に、「ああ、ぼくはついにたえられるだろうか。ああ、ぼくはついに田舎の一先生としてうもれてしまうのか。明日! 明日はすべてが決まるはずだ。村会の夜の集まり! ああ! この一言を後の日に残しておく」
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かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪へんや、あゝわれつひに田舎の一教師に埋れんとするか。明日! 明日は万事定まるべし。村会の夜の集合! 噫! 一語以て後日に寄す」
と書いた。
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と書いた。
もっとくわしくその気持ちを書こうと思ったが、とても十分に書き表せそうにも思えないので、心にとどめておくことにした。
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なおくわしくその心持ちを書こうと思ったが、とうてい十分に書き現わし得ようとも思えぬので、記憶にとどめておくことにした。
翌日、朝九時に学校に行ってみた。
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翌日、朝九時に学校に行ってみた。
けれど、あの平田というのがまだいたので、いったん役場に引き返した。
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けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。
一時間ばかりして、また出かけた。
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一時間ばかりしてまた出かけた。
今度はもう、その先生はいなかった。
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今度はもうその教員はいなかった。
授業は、すでに始まっていた。
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授業はすでに始まっていた。
生徒を教える先生の声が、それぞれの教室からはっきりと聞こえて来る。
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生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。
女の先生のさえた声も聞こえた。
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女教員のさえた声も聞こえた。
清三の胸は、なんとなくおどった。
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清三の胸はなんとなくおどった。
職員室にはいると、校長は机に向かって何か書類を調べていたが、
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教員室にはいると、校長は卓に向かって、何か書類の調物をしていたが、
「さあ、はいりたまえ」
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「さアはいりたまえ」
と言って、清三がはいって来るのを待って、そばにあるいすをすすめた。
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と言って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子をすすめた。
「お気の毒でした。ようやくすっかり決まりました。なかなかめんどうでしてな……昨夜の相談でもいろいろな話が出ましてな」
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「お気の毒でした。ようやくすっかり決まりました。なかなかめんどうでしてな……昨夜の相談でもいろいろの話が出ましてな」
こう言って笑い、「どうも村が小さくて、それでうるさい学務委員がいるから困りますよ」
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こう言って笑って、「どうも村が小さくって、それでやかましい学務委員がいるから困りますよ」
校長は言葉を続けて、
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校長は言葉をついで、
「それで、住むところはどうするつもりです? 毎日行田から通うというわけにもいくまい。まあ、当分は学校にとまっていてもいいけれど……考えがありますか」
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「それで家のほうはどうするつもりです? 毎日行田から通うというわけにもいくまい。まア、当分は学校に泊まっていてもいいけれど……考えがありますか」
「どこか下宿するのによいところはございませんでしょうか」
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「どこか寄宿するよいところがございますまいか」
と、これをきっかけに清三が聞いた。
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とこれをきっかけに清三が問うた。
「どうも田舎だから、ちょうどいいところがなくて……」
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「どうも田舎だから、格好なところがなくって……」
「ここでなくても、少しは遠くてもいいんですけれど……」
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「ここでなくっても、少しは遠くってもいいんですけれど……」
「そうですな……一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません」
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「そうですな……一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません」
二時間目が終わったところで、清三は同僚になる人たちにしょうかいされた。
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二時間すんだところで、清三は同僚になるべき人々に紹介された。
関という準教員は、にこにこと気のおけないようなところがあった。
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関という準教員は、にこにこと気がおけぬようなところがあった。
大島という校長の次の役の人は四十五、六くらいの年ごろで、頭はもうだいぶ白かった。ちょっと見るとかたくるしそうな人だが、笑うと顔にやさしい表情が出て、小さい子を教えるのにはいかにも慣れているように見えた。
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大島という校長次席は四十五六ぐらいの年かっこうで、頭はもうだいぶ白く、ちょっと見ると窮屈そうな人であるが、笑うと、顔にやさしい表情が出て、初等教育にはさもさも熟達しているように見えた。
「はあ、この方が林さん。私は大島と申します。何分よろしく」
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「はあ、この方が林さん、私は大島と申します。何分よろしく」
と言った言葉の調子にも、世の中に慣れたところがあった。
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と言った言葉の調子にも世なれたところがあった。
次に、狩野という顔にいぼのある先生と、杉田という太った師範学校出の先生とがしょうかいされた。
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次に狩野という顔に疣のある訓導と杉田という肥った師範校出とが紹介された。
師範学校出の先生は、なんだかそっけないあいさつをした。女の先生は下を向いてにこにこしていた。
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師範校出はなんだかそッ気ないような挨拶をした、女教員は下を向いてにこにこしていた。
次の時間の授業が始まる前に、校長は生徒を第一教室に集めた。
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次の時間の授業の始まる前に、校長は生徒を第一教室に集めた。
彼は教だんのところに立って、新しい先生を生徒にしょうかいした。
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かれは卓のところに立って、新しい教員を生徒に紹介した。
「今度、林先生とおっしゃる新しい先生がおいでになって、皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田の方で、中学のほうを勉強していらして、よくおできになる先生ですから、皆さんもよく言うことを聞いて勉強するようにしなければなりません」
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「今度、林先生とおっしゃる新しい先生がおいでになりまして、皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田のお方で、中学のほうを勉強していらしって、よくおできになる先生でございますから、皆さんもよく言うことを聞いて勉強するようにしなければなりません」
校長のわきに立って少しうつむきぎみに顔を赤くしている新しい先生は、なんとなく困ったような、はずかしそうな様子に生徒には見えた。
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校長のわきに立って、少しうつむきかげんに、顔を赤くしている新しい先生は、なんとなく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた。
生徒はだまって、校長の言葉を聞いた。
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生徒は黙って校長の言葉を聞いた。
次の時間には、その新しい先生の姿が第三教室の教だんの前に現れた。
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次の時間には、その新しい先生の姿は、第三教室の卓の前にあらわれた。
そこには高等一年生の十二、三歳の子どもがずらりと前に並んで、何かしきりにがやがや言っていたが、先生がはいって来ると、みんな目をそのほうに向けてだまってしまった。
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そこには高等一年生の十二三歳の児童がずらりと前に並んで、何かしきりにがやがや言っていたが、先生がはいって来ると、いずれも眼をそのほうに向けて黙ってしまった。
新しい先生は教だんの前に来ていすに腰をかけたが、その顔は赤かった。
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新しい教師は卓の前に来て椅子に腰を掛けたが、その顔は赤かった。
読本を一さつ持って来たが、机の上に顔を下げたまま、しばらくの間はその教科書のページをめくって見ていた。
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読本を一冊持って来たが、卓の上に顔をたれたまま、しばしの間は、その教科書の頁をひるがえして見ていた。
後ろのほうでささやく声が、ときどきした。
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後ろのほうでささやく声がおりおりした。
教室のガラス戸はほこりにまみれて灰色によごれているが、そこにはちょうど日ざしが黄色くさして、外では雀がしきりにさえずっている。
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教室の硝子戸は埃にまみれて灰色に汚なくよごれているが、そこはちょうど日影が黄いろくさして、戸外では雀が百囀をしている。
通りを荷車がきしる音が、ガタガタと聞こえた。
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通りを荷車のきしる音がガタガタ聞こえた。
となりの教室からは、女の先生の細くとがった声が聞こえ出した。
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隣の教室からは、女教員の細くとがった声が聞こえ出した。
しばらくして、思い切ったというように新しい先生は顔をあげた。
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しばらくして思い切ったというように、新しい教師は顔をあげた。
髪ののびた、ひたいの広い、まゆのこいその顔には、一種の力みが見えた。
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髪の延びた、額の広い眉のこいその顔には一種の努力が見えた。
「第何課からですか」
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「第何課からですか」
こう言った声は、広い教室にひろがって聞こえた。
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こう言った声は広い教室にひろがって聞こえた。
「第何課からですか」
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「第何課からですか」
とくり返して言って、「どこまで教わりましたか」
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とくり返して言って、「どこまで教わりましたか」
こう言った時には、もう赤かった顔の色がさめていた。
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こう言った時には、もう赤かった顔の色がさめていた。
答えが、あちこちからばらばらに起こった。
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答えがあっちこっちから雑然として起こった。
清三は、生徒が示した読本のページをひろげた。
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清三は生徒の示した読本の頁をひろげた。
もうこの時は、初めて教室に立った苦しさがだいぶうすらいでいた。
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もうこの時は初めて教場に立った苦痛がよほど薄らいでいた。
どうせ、教えずにはすまされない身である。
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どうせ教えずにはすまされぬ身である。
どうせ、自分のできる限りをつくすよりほかにしかたがないのである。
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どうせ自分のベストをつくすよりほかにしかたがないのである。
人が何と言おうが、どう思おうが、そんなことにかまっていられる場合ではない。
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人がなんと言おうが、どう思おうが、そんなことに頓着していられる場合でない。
そう思うと、彼の心は軽くなった。
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こう思ったかれの心は軽くなった。
「それでは始めますから」
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「それでは始めますから」
新しい先生は、第六課を読み始めた。
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新しい教師は第六課を読み始めた。
生徒は、早いけれどもなめらかな流れるような声を聞いた。
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生徒は早いしかしなめらかな流るるような声を聞いた。
前の年をとった先生の、低い蜂のうなるような元気のない声にくらべれば、たいへんなちがいである。
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前の老朽教師の低い蜂のうなるような活気のない声にくらべては、たいへんな違いである。
しかしその声はとにかく早すぎて、生徒の耳にとまらないところが多かった。
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しかしその声はとかく早過ぎて生徒の耳にとまらぬところが多かった。
生徒は本よりも、先生の顔ばかり見ていた。
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生徒は本よりも先生の顔ばかり見ていた。
「どうです、これでわかりますか」
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「どうです、これでわかりますか」
「もう少しゆっくり読んでください」
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「いま少しゆっくり読んでください」
いろいろな声が、あちこちから起こった。
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いろいろな声があっちこっちから起こった。
二度目には、努めてゆっくりした調子で読んだ。
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二度目には、つとめてゆっくりした調子で読んだ。
「どうです、このくらいならわかりますか」
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「どうです、このくらいならわかりますか」
にこにこと笑顔を見せて、彼は親しそうに言った。
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にこにこと笑顔を見せて、なれなれしげにかれは言った。
「先生、あとのはよくわかりました」
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「先生、あとのはよくわかりました」
「もう少し早くてもいいです」
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「いま少し早くってもようございます」
などと、生徒は言った。
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などと生徒は言った。
「今までは先生に何度読んでもらいましたか。二度ですか。三度ですか?」
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「今までは先生にいく度読んでもらいました。二度ですか。三度ですか?」
「二度」
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「二度」
「二度です」
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「二度です」
という声が、そこにもここにも起こった。
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という声がそこにもここにも起こった。
「それじゃ、これでいいですな」
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「それじゃこれでいいですな」
と清三は生徒の思いのほかむじゃきな調子に元気づいて、「でも、初めのが早すぎましたから、もう一度読んであげましょう。よく聞いていなさい」
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と清三は生徒の存外無邪気な調子に元気づいて、「でも、初めのが早過ぎましたからいま一度読んであげましょう、よく聞いておいでなさい」
今度の読み方は、いっそうはっきりしていた。
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今度のはいっそうはっきりしていた。
早くも、おそくもなかった。
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早くもおそくもなかった。
読める人に手を上げさせて、前の列にいる色の白いかわいい子に読ませてみたりした。
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読める人に手を上げさせて、前の列にいる色の白い可愛い子に読ませてみたり何かした。
読める子もいれば、読めない子もいた。
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読めるのもあれば読めぬのもあった。
清三は文章の中からむずかしい字をひろい、それを黒板に書いて、順々に覚えさせていくようにした。
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清三は文章の中からむずかしい文字を拾って、それを黒板に書いて、順々に覚えさせていくようにした。
とくにむずかしい字にはしるしをつけて、そのそばにカタカナでふりがなをふってみせた。
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ことにむずかしい字には圏点をつけてそのそばに片仮名でルビをふってみせた。
教だんの前に初めて立った時の苦しさは、いつのまにかぬぐうように消えた。そして、自分でもやりさえすればやれるものだという気持ちよさが胸にあふれた。
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卓の前に初めて立った時の苦痛はいつかぬぐうがごとく消えて、自分ながらやりさえすればやれるものだという快感が胸にあふれた。
やがて時間が来て、ベルが鳴った。
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やがて時間が来てベルが鳴った。
昼ごはんは、小川屋から運んで来てくれた。
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昼飯は小川屋から運んで来てくれた。
昼の休みに、生徒たちはみんな運動場に出て遊んだ。
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正午の休みに生徒らはみんな運動場に出て遊んだ。
ぶらんこに乗る子もいれば、鬼ごっこをする子もいる。
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ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事をするものもある。
女の生徒は男の生徒とはしぜんに別のグループを作って、あやとりをしたり、お手玉で遊んだりしている。
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女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくって、綾を取ったり、お手玉をもてあそんだりしている。
運動場をふちどって、はこやなぎの緑の葉がまばらに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。
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運動場をふちどって、白楊の緑葉がまばらに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。
清三はろうかの柱によりかかって、むじゃきに遊ぶ生徒たちに見とれていた。
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清三は廊下の柱によりかかって、無心に戯れ遊ぶ生徒らにみとれていた。
そこにやって来たのは、関という先生であった。
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そこにやって来たのは、関という教員であった。
やさしい目の色と、にこにこしたおだやかな顔とは、初めて会った時から、人のよさそうな人だという感じを清三の胸に起こさせていた。
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やさしい眼色と、にこにこした円満な顔には、初めて会った時から、人のよさそうなという感を清三の胸に起こさせた。
この人には、えんりょなく話ができるという気もした。
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この人には隔てをおかずに話ができるという気もした。
「どうでした、一時間おすみになりましたか」
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「どうでした、一時間おすみになりましたか」
「ええ……」
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「え……」
「どうも初めてというものは具合の悪いものでしてな……私なども、つい三か月ほど前にここに来たのですが、初めは弱りましたよ」
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「どうも初めてというものは、工合いの悪いものでしてな……私などもつい三月ほど前にここに来たのですが、始めは弱りましたよ」
「どうも慣れないものですから」
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「どうもなれないものですから」
この思いやりを、清三もうれしく思った。
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この同情を清三もうれしく思った。
「私の前につとめていた方は、どういう方でした」
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「私の前に勤めていた方はどういう方でした」
「あの方はもう年を取ったからやめさせるといううわさが、前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから先生をやっているんだそうですが……やはり若い者がずんずん出て来るものだから……それに、先生をやめても困るという人ではありませんから」
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「あの方はもう年を取ったからやめさせるという噂が前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから教員はやっているんだそうですが……やはり若いものがずんずん出て来るものだから……それに教員をやめても困るッていう人ではありませんから」
「家に財産があるんですか」
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「家には財産があるんですか」
「財産というほどのこともありますまいが、息子が荒物屋の店をやっておりますから」
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「財産ということもありますまいが、子息が荒物屋の店をしておりますから」
「そうですか」
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「そうですか」
こんなありふれた会話も、この若い二人を近づけるきっかけになった。
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こんな普通な会話もこの若い二人を近づける動機とはなった。
二人はベルが鳴るまで、そこに立って話した。
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二人はベルの鳴るまでそこに立って話した。
午後には、理科と習字とを教えた。
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午後には理科と習字とを教えた。
夜は、宿直室にとまった。
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夜は宿直室に泊まった。
宿直室は六畳で、そのとなりに小使部屋があった。
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宿直室は六畳で、その隣に小使室があった。
小使部屋には大きないろりに火がかっかっと起こっていて、上につるした鉄びんはいつも煮えくり返っていた。
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小使室には大きな囲爐裏に火がかっかっと起こって、自在鍵につるした鉄瓶はつねに煮えくりかえっていた。
その向こうは流しで、手おけのそばに茶わんやはしが置いてあった。
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その向こうは流し元で、手桶のそばに茶碗や箸が置いてあった。
たなには、おけとすりばちがふせてあった。
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棚には桶と摺り鉢が伏せてあった。
その夜は大島先生の宿直で、いろいろ打ち解けて話をした。
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その夜は大島訓導の宿直で、いろいろ打ち解けて話をした。
彼は栃木県の人で、長く宇都宮で教えていたが、おととし埼玉県に来ることになった。少し浦和にいて、それからここに来たという。
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かれは栃木県のもので、久しく宇都宮に教鞭をとっていたが、一昨年埼玉県に来るようになって、ちょっと浦和にいて、それからここに赴任したという。
家は大越の近くで、十五歳になる娘と九歳になる男の子がある。
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家は大越在で、十五歳になる娘と九歳になる男の児がある。
初めて会った時と、打ち解けて話し合った時とでは、感じがまるでちがっていた。
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初めて会った時と打ち解けて話し合った時と感じはまるで違っていた。
大島先生は一合の晩酌に真っ赤になって、教えることについての経験や、若い者のためになるような話を、得意になって語って聞かせた。
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大島先生は一合の晩酌に真赤になって、教育上の経験やら若い者のためになるような話やらを得意になってして聞かせた。
ふろ屋が、通りにあった。
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湯屋が通りにあった。
細いえんとつから、けむりが青く黒く上がっているのを見たことがある。
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細い煙筒から煙が青く黒くあがっているのを見たことがある。
格子戸が男湯と女湯とに分かれて、はいるとそこに番台があった。
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格子戸が男湯と女湯とにわかれて、はいるとそこに番台があった。
湯気が白くいっぱいにこもった中に、箱に入ったランプがぼんやりと暗くついていた。水を引くといから落ちるあがり湯の音が高く聞こえた。
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湯気の白くいっぱいにこもった中に、箱洋燈がボンヤリと暗くついていて、筧から落ちる上がり水の音が高く聞こえた。
湯どのはそうじが行きとどかないので、気味悪くヌラヌラとすべる。
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湯殿は掃除が行き届かぬので、気味悪くヌラヌラと滑る。
清三は湯につかりながら、自分の新しい生活を思いうかべた。
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清三は湯につかりながら、自分の新しい生活を思い浮かべた。
十
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十
ある朝、授業を始める前に、清三は教だんの前に立って、まじめな調子で生徒に言った。
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ある朝、授業を始める前に、清三は卓の前に立って、まじめな調子で生徒に言った。
「今日は皆さんに、おめでたいことを一つお知らせいたします。皇太子妃の節子姫さまが、去る二十九日、新しく親王さまを無事にお産みになりました。これは皆さんも新聞で、またお父さんやお母さんからすでにお聞きになったことと思います。皇室が栄えられることは、私たち国民にとってまことに喜びにたえないことです。皆さんが毎日お歌いになる君が代の歌にも、さざれ石の巌となりて苔のむすまでと申してあるとおりです。そして一昨日、その親王さまのお名前を決める式があって、迪宮殿下裕仁親王とお名づけになるということが発表になりました」
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「今日は皆さんにおめでたいことを一つお知らせ致します。皇太子妃殿下節子姫には去る二十九日、新たに親王殿下をやすやすとご分娩あそばされました。これは皆さんも新聞紙上でお父様やお母様からすでにお聞きなされたことと存じます。皇室の御栄えあらせらるることは、われわれ国民にとってまことに喜びにたえませんことで、千秋万歳、皆さんの毎日お歌いになる君が代の唱歌にもさざれ石の巌となりて苔のむすまでと申してございます通りであります。しかるに、一昨日その親王殿下のご命名式がございまして、迪宮殿下裕仁親王と名告らせらるるということがご発表になりました」
こう言って彼は後ろ向きになり、チョークを取って、黒板に迪宮裕仁親王という六字を大きく書いてみせた。
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こう言って、かれは後ろ向きになって、チョオクを取って、黒板に迪宮裕仁親王という六字を大きく書いてみせた。
十一
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十一
「どうぞ一つ、名前だけの応えん者になっていただきたいと存じます……。それに、何か原稿を。どんなに短いものでもけっこうですから」
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「どうぞ一つ名誉賛成員になっていただきたいと存じます……。それに、何か原稿を。どんなに短いものでも結構ですから」
清三はこう言って、前にすわっている成願寺の住職さんの顔を見た。
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清三はこう言って、前にすわっている成願寺の方丈さんの顔を見た。
前から聞いていたよりも見た目の立派でない人だと、彼は思った。
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かねて聞いていたよりも風采のあがらぬ人だとかれは思った。
新しい形の詩、小説。その名は東京の文学の世界にもかなり知られている。
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新体詩、小説、その名は東京の文壇にもかなり聞こえている。
清三は前に、その詩集を愛読したこともある。
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清三はかつてその詩集を愛読したこともある。
雑誌にのった小説を読んだこともある。
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雑誌にのった小説を読んだこともある。
おととしここの住職になったのも、しかたのない先代からのつながりがあったからだ。羽生町で指おりの有名な寺とはいっても、こうした田舎の寺にはおしいということもうわさに聞いていた。
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一昨年ここの住職になるについても、やむを得ぬ先住からの縁故があったからで、羽生町で屈指な名刹とはいいながら、こうした田舎寺には惜しいということもうわさにも聞いていた。
それが、こんな背の低い小がらで弱々しそうな人だとは、夢にも思わなかった。
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それが、こうした背の低い小づくりな弱々しそうな人だとは夢にも思いがけなかった。
彼は土曜日に家へ帰るとちゅう、羽生の郵便局に荻生秀之助をたずねた。すると秀之助がちょうど成願寺の山形古城を知っていると言うので、それで連れ立ってたずねた。
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かれは土曜日の家への帰りがけに、羽生の郵便局に荻生秀之助を訪ねたが、秀之助がちょうど成願寺の山形古城を知っていると言うので、それでつれだって訪問した。
「それはおもしろいですな……それはおもしろいですな」
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「それはおもしろいですな……それはおもしろいですな」
こうくり返して、住職は言った。
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こうくり返して主僧は言った。
「行田文学」
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「行田文学」
についての話が、三人の間で語られた。
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についての話が三人の間に語られた。
「もちろん、力をつくしましょうとも……何か、まあ、初めには詩でもさしあげましょう。東京の原にもそう言ってやりましょう……」
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「むろん、ご尽力しましょうとも……何か、まア、初めには詩でもあげましょう。東京の原にもそう言ってやりましょう……」
住職はこう言って、軽くあいさつした。
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主僧はこう言って軽く挨拶した。
「どうぞ、なにぶん……」
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「どうぞなにぶん……」
清三はたのんだ。
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清三は頼んだ。
「荻生君もお仲間ですか」
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「荻生君もお仲間ですか」
「いいえ、私には……文学などわかりませんから」
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「いいえ、私には……文学などわかりゃしませんから」
と、荻生さんはどこか町の店の息子といった感じで笑って頭をかいた。
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と荻生さんはどこか町家の子息といったようなふうで笑って頭をかいた。
中学にいるころから、石川や加藤や清三などとちがって、文学だの宗教だのということにはあまりかかわらなかった。
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中学にいるころから、石川や加藤や清三などとは違って、文学だの宗教だのということにはあまりたずさわらなかった。
だから、空想にふけるところはなかった。
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したがって空想的なところはなかった。
中学を出るとすぐ、前から手伝っていた郵便局につとめて、不平も不満もなく世の中に出て行った。
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中学を出るとすぐ、前から手伝っていた郵便局に勤めて、不平も不満足もなく世の中に出て行った。
住職の部屋は十畳の一間で、天じょうは高かった。
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主僧の室は十畳の一間で、天井は高かった。
前にはきゃらぼくや松やつつじやもくせいなどを植えた庭がひろがっていて、それに続いて、本堂に通じるろうかが長く続いた。
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前には伽羅や松や躑躅や木犀などの点綴された庭がひろげられてあって、それに接して、本堂に通ずる廊下が長く続いた。
かわら屋根と、本堂のはなれの六畳の障子が黒くなっているのが見えた。
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瓦屋根と本堂の離れの六畳の障子の黒くなったのが見えた。
本箱には、外国の本がいっぱい入れられてある。
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書箱には洋書がいっぱい入れられてある。
住職は、めずらしく調子づいて話した。
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主僧はめずらしく調子づいて話した。
今の文学の世界の不まじめさと、なかまうちで争うことの悪さを説いて、「とても東京にいても勉強などはできない。いなかで暮らそうという声が聞こえるのも、もっともなことです」
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今の文壇のふまじめと党閥の弊とを説いて、「とても東京にいても勉強などはできない。田園生活などという声の聞こえるのももっともなことです」
などと言った。
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などと言った。
見た目は立派でないが、言葉に一種の熱があって、若い人たちの胸をそそった。
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風采はあがらぬが、言葉に一種の熱があって、若い人たちの胸をそそった。
詩の話から小説の話、げき本の話。それが簡単につきようとはしなかった。
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詩の話から小説の話、戯曲の話、それが容易につきようとはしなかった。
明星派の詩や歌の話も出た。
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明星派の詩歌の話も出た。
住職もやはり、晶子の歌をほめていた。
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主僧もやはり晶子の歌を賞揚していた。
「そうですとも。言葉などをあまりうるさく言う必要はないです。新しい考えを入れるには、やはり新しい文字の並べ方も必要ですとも……」
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「そうですとも、言葉などをあまりやかましく言う必要はないです、新しい思想を盛るにはやはり新しい文字の排列も必要ですとも……」
こう言って、林の考えに賛成した。
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こう言って林の説に同意した。
ふと理想ということが話題にのぼったが、これが出ると住職の顔はにわかに生き生きした色を帯びてきた。
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ふと理想ということが話題にのぼったが、これが出ると主僧の顔はにわかに生々した色をつけてきた。
住職が早稲田に通って勉強した時代は、紅葉や露伴が活やくした時代であった。
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主僧の早稲田に通って勉強した時代は紅葉露伴の時代であった。
いわゆる「文学界」
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いわゆる「文学界」
の、気持ちを大切にする人々とも行き来した。
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の感情派の人々とも往来した。
ハイネの詩を愛読する大学生とも、親しかった。
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ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。
麻布の曹洞宗の学校から早稲田の自由な文学の世界にはいった彼には、冬がれの山から緑の葉のしげる野に出たような気がした。
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麻布の曹洞宗の大学林から早稲田の自由な文学社会にはいったかれには、冬枯れの山から緑葉の野に出たような気がした。
今ではそれがこうした生活に逆もどりしたほどだから、よほど落ち着いてはいる。それでもどうかすると、昔の熱い思いがふき出した。
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今ではそれがこうした生活に逆戻りしたくらいであるから、よほど鎮静はしているが、それでもどうかすると昔の熱情がほとばしった。
「人間は理想がなくてはだめです。宗教のほうでもこの理想を非常に重く見ている。相手と同じになってしまう、おぼれてしまうということは、理想がないからです。美しい恋を望む心、それもやはり理想ですからな……ふつうの人間のように、愛情のままに流されたくないというところに力がある。仏さまも如是一心と言って、心と体が一つになることは説いていますし、どうせ自然の力には従わなければならないのはわかっていますが――そこに理想があって、何かにあこがれるところがあるのが、人間として意味がある」
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「人間は理想がなくってはだめです。宗教のほうでもこの理想を非常に重く見ている。同化する、惑溺するということは理想がないからです。美しい恋を望む心、それはやはり理想ですからな、……普通の人間のように愛情に盲従したくないというところに力がある。それは仏も如是一心と言って霊肉の一致は説いていますが、どうせ自然の力には従わなければならないのはわかっていますが――そこに理想があって物にあこがれるところがあるのが人間として意味がある」
持ち前のねこ背をいよいよねこ背にして、青い顔にやや赤みをさした熱心な住職の態度と言葉とに、清三はそのまま引き入れられるような気がした。
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持ち前の猫背をいよいよ猫背にして、蒼い顔にやや紅を潮した熱心な主僧の態度と言葉とに清三はそのまま引き入れられるような気がした。
その言葉は、ひしひしと胸にこたえた。
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その言葉はヒシヒシと胸にこたえた。
かつて本で読み、詩で読んだ考えとあこがれ。それはまだ空想であった。
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かつて書籍で読み詩で読んだ思想と憧憬、それはまだ空想であった。
自分のまわりを見回しても、そんなことを口にする人は一人もなかった。
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自己のまわりを見回しても、そんなことを口にするものは一人もなかった。
養蚕の話でなければ金もうけの話、月給が多いか少ないかという話。世の中の人は多く、食べるための話で生きている。
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養蚕の話でなければ金もうけの話、月給の多いすくないという話、世間の人は多くパンの話で生きている。
理想などということを言い出すと、まだ世の中を知らない子どもあつかいされて、一言で言い消されてしまう。
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理想などということを言い出すと、まだ世間を知らぬ乳臭児のように一言のもとに言い消される。
住職の言葉の中には、「成功するかしないかは、その人の値打ちとはなんの関係もない。人は多くそういう物差しで値打ちをつけるが、私はそういう物差しよりも、理想や好みの物差しで値打ちをつけるのが本当だと思う。こじきにも立派な人がらがあるかもしれない」
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主僧の言葉の中に、「成功不成功は人格の上になんの価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのがほんとうだと思う。乞食にも立派な人格があるかもしれぬ」
という意味があった。
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という意味があった。
清三には、自分のさびしい生活に対してとても力強くなぐさめてくれる人を得たように思われた。
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清三には自己の寂しい生活に対して非常に有力な慰藉者を得たように思われた。
主人と客の間には、やきものの手あぶりが二つ置かれ、菓子入れにはこんぺいとうが入れられてあった。
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主客の間には陶器の手爐りが二つ置かれて、菓子器には金米糖が入れられてあった。
住職とは正反対に体つきのがっしりした色の黒いおくさんがついで行ったお茶は、冷たくなったまま黄色くにごっていた。
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主僧とは正反対に体格のがっしりした色の黒い細君が注いで行った茶は冷たくなったまま黄いろくにごっていた。
一時間の後には、二人の友だちは本堂から山門に通じる長い石だたみの道を歩いていた。
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一時間ののちには、二人の友だちは本堂から山門に通ずる長い舗石道を歩いていた。
かねつき堂のそばに、とびらを閉め切った不動堂があった。その高いえん側では、前髪を手ぬぐいで巻いた子守が二、三人遊んでいる。
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鐘楼のそばに扉を閉め切った不動堂があって、その高い縁では、額髪を手拭いでまいた子守りが二三人遊んでいる。
大きな銀杏の木が五、六本あって、その幹と幹との間にこれから織る青縞のたて糸をかけ、二十五、六の女がしきりにその糸を整えていた。
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大きい銀杏の木が五六本、その幹と幹との間にこれから織ろうとする青縞のはたをかけて、二十五六の櫛巻きの細君が、しきりにそれを綜ていた。
「おもしろい人だねえ」
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「おもしろい人だねえ」
清三は友をふり返って言った。
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清三は友をかえりみて言った。
「あれでなかなかいい人ですよ」
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「あれでなかなかいい人ですよ」
「ぼくはこんな田舎にあんな人がいようとは思わなかった。田舎の寺にはおしいという話は聞いていたが、ほんとうにそうだねえ……」
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「僕はこんな田舎にあんな人がいようとは思わなかった。田舎寺には惜しいッていう話は聞いていたが、ほんとうにそうだねえ。……」
「話し相手がなくて困るって言っていましたねえ」
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「話対手がなくって困るッて言っていましたねえ」
「それはそうだろうねえ、田舎にはお百姓や町の人しかいないんだから」
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「それはそうだろうねえ君、田舎には百姓や町人しかいやしないから」
二人は山門を過ぎて、はんの木の並んだ道を街道へ出た。
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二人は山門を過ぎて、榛の木の並んだ道を街道に出た。
街道の片側にはきたないみぞがあって、歩くとかえるが何びきとなく草むらから水の中に飛びこんだ。
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街道の片側には汚ない溝があって、歩くと蛙がいく疋となくくさむらから水の中に飛び込んだ。
水には、黒や青のこけやもがういていた。
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水には黒い青い苔やら藻やらが浮いていた。
障子をなかばあけて、色の白い娘が横顔を見せ、青縞をチャンカラチャンカラと織っていた。
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大和障子をなかばあけて、色の白い娘が横顔を見せて、青縞をチャンカラチャンカラ織っていた。
その前を通る時、
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その前を通る時、
「あのお寺の本堂に、部屋がないだろうか?」
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「あのお寺の本堂に室がないだろうか?」
と清三は聞いた。
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こう清三はきいた。
「ありますよ。六畳が」
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「ありますよ。六畳が」
と友はふり返った。
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と友はふり返った。
「どうだろうねえ。あそこで置いてくれないかしら」
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「どうだろうねえ、君。あそこでおいてくれないかしらん」
「置いてくれるでしょう……この間までおまわりさんが借りて自分でごはんを作っていましたよ」
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「おいてくれるでしょう……この間まで巡査が借りて自炊をしていましたよ」
「もうそのおまわりさんはいないのかねえ」
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「もうその巡査はいないのかねえ」
「この間、岩瀬へ移って行ったと聞きました」
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「この間岩瀬へ転任になって行ったッて聞きました」
「一つ、君は親しいんだからたのんでみてくれませんか。自分でごはんを作るでも何でもして、食事のほうは世話をかけずに、部屋さえ貸してもらえればいいんだが……」
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「一つ、君は懇意だから、頼んでみてくれませんか、自炊でもなんでもして、食事のほうは世話をかけずに、室さえ貸してもらえばいいが……」
「それはいい考えですねえ」
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「それはいい考えですねえ」
と、荻生君も賛成した。
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と荻生君も賛成した。
「ここからなら弥勒にも八キロたらずだし……土曜日に行田へ帰るにもあまり遠くないし……」
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「ここからなら弥勒にも二里に近いし……土曜日に行田へ帰るにもあまり遠くないし……」
「それに、いろいろ教えてももらえるしね。弥勒あたりのつまらないところに下宿するより、いくらいいかしれない」
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「それにいろいろ教えてももらえるしねえ、君。弥勒あたりのくだらんところに下宿するよりいくらいいかしれない」
「ほんとうですねえ、私も話し相手ができていい」
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「ほんとうですねえ、私も話相手ができていい」
荻生さんが来週の月曜日までに聞いておいてやるということに決まって、二人の友だちは分署の角で別れた。
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荻生さんが来週の月曜日までに聞いておいてやるということに決まって、二人の友だちは分署の角で別れた。
十二
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十二
昨日の午後、月給が半月分わたされた。
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昨日の午後、月給が半月分渡った。
清三の財布は、銀貨や銅貨でガチャガチャしていた。
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清三の財布は銀貨や銅貨でガチャガチャしていた。
古くてとじの切れた、よごれた財布!
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古いとじの切れたよごれた財布!
今までこの財布に、こんなにたくさんお金がはいったことはなかった。
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今までこの財布にこんなに多く金のはいったことはなかった。
それに、とにかく自分で働いて初めて受け取ったのだと思うと、なんとなくちがった意味がある。
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それに、とにかく自分で働いて初めて取ったのだと思うと、なんとなく違った意味がある。
母親が台所に立とうとするのを呼びとめて、ふところから財布を出し、彼はそこにお札と銀貨を三円八十銭並べた。
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母親が勝手に立とうとするのを呼びとめて、懐から財布を出して、かれはそこに紙幣と銀貨とを三円八十銭並べた。
母親はいかにも喜びをおさえきれないように息子の顔を見ていたが、「お前がこうして働いて取ってくれるようになったかと思うと、ほんとうにうれしい」
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母親はさもさも喜ばしさにたえぬように息子の顔を見ていたが、「お前がこうして働いて取ってくれるようになったかと思うとほんとうにうれしい」
と、心から言った。
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としんから言った。
息子は残りの半分はあと四、五日たつと出るはずだということを話して、「どうも田舎はそれだから困るよ。何でも三度、四度くらいに分けて出ることもあるんだって……けちけちしているから」
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息子は残りの半分はいま四五日たつとおりるはずであるということを語って、「どうも田舎はそれだから困るよ。なんでも三度四度ぐらいにおりることもあるんだッて……けちけちしてるから」
母親はそのお金をいかにもとうといもののようにおしいただくまねをして、立って神だなにそなえた。
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母親はその金をさも尊そうに押しいただくまねをして、立って神棚に供えた。
神だなには、つつじと山吹とが小さい花びんに生けてそなえてあった。
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神棚には躑躅と山吹とが小さい花瓶に生けて上げられてあった。
清三は後ろ向きになった母親の小さい丸まげに、このごろ白髪の多くなったのを見た。そのやさしい心がどれほど暮らしの苦しさに吹きさらされているかを考えて、かわいそうに思った。
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清三は後ろ向きになった母親の小さい丸髷にこのごろ白髪の多くなったのを見て、そのやさしい心のいかに生活の嵐に吹きすさまれているかを考えて同情した。
これだけのお金にさえ、こうして喜ぶのが親の心である。
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こればかりの金にすらこうして喜ぶのが親の心である。
彼は、中学からすぐ東京に出て行く友だちのうわさを聞くたびに感じたうらやましさと、こんな貧しい生活をしている親の愛に向き合う子としての自分の立場とを、考えずにはいられなかった。
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かれは中学からすぐ東京に出て行く友だちの噂を聞くたびにもやした羨望の情と、こうした貧しい生活をしている親の慈愛に対する子の境遇とを考えずにはいられなかった。
その土曜日は、楽しく過ぎた。
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その土曜日は愉快に過ぎた。
母親は自分で出かけて、清三の好きな田舎まんじゅうを買ってきてお茶をいれてくれた。
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母親は自分で出かけて清三の好きな田舎饅頭を買ってきて茶を煎れてくれた。
母親の小じわの多いにこにこした顔と、息子の青白く弱々しくさびしい笑顔とが、長い間長火ばちをはさんで向かい合ってすわった。
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母親の小皺の多いにこにこした顔と息子の青白い弱々しい淋しい笑顔とは久しく長火鉢に相対してすわった。
清三は、来週から先方のつごうさえよければ羽生の成願寺に下宿したいという話を持ち出して、若く学問のある住職さんのことや、やさしい荻生君のことなどを話して聞かせた。
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清三は来週から先方のつごうさえよければ羽生の成願寺に下宿したいという話を持ち出して、若い学問のある方丈さんのことや、やさしい荻生君のことなどを話して聞かした。
母親は、それまでにはふとんや着物を洗たくしてやりたい、それに合わせの着物を一枚作りたいなどと言った。
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母親はそれまでには夜具や着物を洗濯してやりたい、それに袷を一枚こしらえたいなどと言った。
父親の商売がうまくいっていないことも、続けて語った。
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父親の商売の不景気なことも続いて語った。
清三の小さいころの、豊かだった家の話も出た。
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清三のおさないころの富裕な家庭の話も出た。
夜は、菓子を買って郁治の家に行った。
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夜は菓子を買って郁治の家に行った。
雪子が、にこにこと笑ってむかえた。
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雪子がにこにこと笑って迎えた。
書斎での話は、簡単につきようともしなかった。
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書斎での話は容易につきようともしなかった。
同じことをくり返して語っても、それが同じこととは思えないほど二人は親しかった。
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同じことをくり返して語っても、それが同じこととは思えぬほど二人は親しかった。
向かい合ってたがいに顔を見合わせているということが、二人にとってこのうえもない喜びである。
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相対して互いに顔を見合わせているということが二人にとってこのうえもない愉快である。
「行田文学」
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「行田文学」
の話も出れば、山形古城の話も出る。
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の話も出れば山形古城の話も出る。
そこに郁治の父親が、ちょうどよく昨日帰ってきていたので出てきて、「林さん、どうです……学校のほうはうまくいきますか」
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そこに郁治の父親がおりよく昨日帰ってきていたとて出てきて、「林さん、どうです、……学校のほうはうまくいきますか」
などと言った。
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などと言った。
「あそこの学校はもめごとがなくていいでしょう。校長は二十七年の卒業生だが、わりあいにあれで話がわかっている男でしてな……村の評判もいいです」
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「あそこの学校は軋轢がなくっていいでしょう。校長は二十七年の卒業生だが、わりあいにあれで話がわかっている男でしてな……村の受けもいいです」
郡の視学は、こんなことを語って聞かせた。
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郡視学はこんなことを語って聞かせた。
雪子がお茶をつぎに来た時、たもとから絵はがきを出して、「浦和の美穂子さんから今、私のところにこんな手紙が来てよ」
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雪子が茶をさしにきた時、袂から絵葉書を出して、「浦和の美穂子さんから今、私のところにこんな手紙が来てよ」
と二人に見せた。
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と二人に示した。
美穂子は、あの Art の君である。
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美穂子はかの Art の君である。
雪子はまだ、兄の心のひみつを知らなかった。
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雪子はまだ兄の心の秘密を知らなかった。
絵はがきは女学世界という雑誌についていた「初夏」
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絵葉書は女学世界についていた「初夏」
という題のもので、新緑のかげに西洋ふうの女の人が細い流行の日がさを持って立っていた。
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という題で、新緑の陰にハイカラの女が細い流行の小傘をたずさえて立っていた。
文には、とくに変わったこともなかった。
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文句はべつに変わったこともなかった。
――雪子さん、お変わりございませんか。
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――雪子さんお変わりございませんか。
ここに参ってから、もう二か月になりました。
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ここに参ってからもう二月になりました。
寄宿舎の生活――それはほかの人には想像もできないくらいでございます。この春ごいっしょに楽しく遊んだことなどを、ときどき考えることがございますよ。
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寄宿の生活――それはほかからは想像ができないくらいでございます、この春、ごいっしょに楽しく遊んだことなどをおりおり考えることが、ございますよ。
ごぶさたのおわびまでに……美穂子
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ご無沙汰のおわびまでに……美穂子
清三はそのはがきをたたみの上に置いて、
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清三はその葉書を畳の上において、
「今度はあなたも浦和にいらっしゃるんでしょう?」
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「今度は貴嬢も浦和にいらっしゃるんでしょう?」
「私なんてだめ」
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「私などだめ」
と雪子は笑った。
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と雪子は笑った。
その笑顔を、清三は帰り道のやみの中で思い出した。
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その笑顔を清三は帰路の闇の中に思い出した。
向かい合っていたのは、わずかの間であった。
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相対していたのはわずかの間であった。
その横顔を、ランプが照らした。
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その横顔を洋燈が照らした。
いつもとちがって、美しいと思った。
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つねに似ず美しいと思った。
ツンとすましたようなところがあるのをいつもいやに思っていたが、今夜はそれがかえって上品に見えた。
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ツンとすましたようなところがあるのをいつも不愉快に思っていたが、今宵はそれがかえって品があるかのように見えた。
美穂子の顔が続いて、目の前を通る。
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美穂子の顔が続いて眼前を通る。
雪子の顔と美穂子の顔が重なって、一つになる……。
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雪子の顔と美穂子の顔が重なって一つになる……。
田のあぜでかえるの声がして、町の病院の二階の灯が窓からもれていた。
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田の畦に蛙の声がして、町の病院の二階の灯が窓からもれた。
* * * * *
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* * * * *
町のうらに、小さな寺があった。
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町の裏に小さな寺があった。
門をはいると、住職の住まいのわらぶき屋根と、風や雨にさらされた黒い窓の障子が見えた。
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門をはいると、庫裡の藁葺屋根と風雨にさらされた黒い窓障子が見えた。
本堂の如来様は黒く光って、木魚が赤いメリンスのしき物の上にのせてある。
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本堂の如来様は黒く光って、木魚が赤いメリンスの敷き物の上にのせてある。
そのうらにある墓地では、竹やぶがとなりの土地を区切っていた。墓石には、なめくじのはったあとがありありと残っていた。
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その裏にある墓地には、竹藪が隣の地面を仕切って、墓石にはなめくじのはったあとがありありと残っていた。
そのたくさんの墓石の中に、清三の弟の墓があった。
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その多い墓石の中に清三の弟の墓があった。
弟はおととしの春、十五歳で死んだ。
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弟は一昨年の春十五歳で死んだ。
その病気は、長かった。
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その病は長かった。
だんだんやせおとろえて、顔は日に日に青白くなった。
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しだいにやせ衰えて顔は日に日に蒼白くなった。
医者は診断書に肺結核と書いたが、父と母はそんな病気が家の血すじにあるわけがないと言って、その医者の診断書を信じなかった。
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医師は診断書に肺結核と書いたが、父母はそんな病気が家の血統にあるわけがないと言って、その医師の診断書を信じなかった。
清三はときどき、その小さかった弟のことを思い起こすことがある。
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清三は時々その幼い弟のことを思い起こすことがある。
死んだ時の悲しさ――それよりも、今生きていてくれたなら話し相手になって、どんなにうれしかったろうと思う。
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死んだ時の悲哀――それよりも、今生きていてくれたなら、話相手になって、どんなにうれしかったろうと思う。
そのたびに、彼は花を持って墓参りをした。
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そのたびごとにかれは花をたずさえて墓参りをした。
日曜日の朝、彼はしきみと山吹とを持って出かけた。
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日曜日の朝、かれは樒と山吹とを持って出かけた。
住職の住まいで手おけを借りて水をくみ、自分の手で下げてうらへ回った。
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庫裡で手桶を借りて、水をくんで、手ずから下げて裏へ回った。
墓石はまだ建てておらず、風や雨にさらされて黒くなった木のふだが、土をもった墓の上にさびしく立っている。
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墓石はまだ建ててなく、風雨にさらされて黒くなった墓標が土饅頭の上にさびしく立っている。
父も母も長い間お参りをしていないらしく、花立ては割れていた。
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父母も久しくお参りをせぬとみえて、花立ては割れていた。
水を入れても、むだであった。
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水を入れてもかいがなかった。
清三の姿は、長い間その前に立っていた。
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清三の姿は久しくその前に立っていた。
もう五月の新緑があたりをあざやかにして、うぐいすの声が竹やぶの中に聞こえた。
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もう五月の新緑があたりをあざやかにして、老鶯の声が竹藪の中に聞こえた。
午後からは印刷所に行ったり、石川をたずねたりした。
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午後からは、印刷所に行ったり石川を訪問したりした。
今日弥勒に帰らないと、明日は少なくとも朝の四時に家を出なければ授業に間に合わないと知ってはいる。けれどどうも帰るのがいやで――親しい友人と語り合う楽しみを捨てて、ろくに話す人もないところへ帰って行くのがいやで、知らないうちに時間を過ごしてしまった。
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今日、弥勒に帰らぬと、明日は少なくも朝の四時に家を出なければ授業時間に間に合わぬと知ってはいるが、どうも帰るのがいやで――親しい友人と物語る楽しみを捨ててろくろく話す人もないところに帰って行くのがいやで、われしらず時間を過ごしてしまった。
夕ごはんを食べてからふろに出かけたが、帰りにまた郁治をたずねて、明るい夕暮れの野を散歩した。
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夕飯を食ってから、湯に出かけたが、帰りにふたたび郁治を訪ねて、あきらかな夕暮れの野を散歩した。
城あとはちょっと見ただけではそれとわからないくらい、むかしの姿を失っていた。
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城址はちょっと見てはそれと思えぬくらい昔のさまを失っていた。
牛乳屋の小さいまきばには牛が五、六頭モーモーと声を立てて鳴いていた。それに続いた青縞をつくる会社の細長い建物からは、はたを織る音にまじって女工のうたう声がはっきり聞こえる。
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牛乳屋の小さい牧場には牛が五六頭モーモーと声を立てて鳴いていて、それに接した青縞機業会社の細長い建物からは、機を織る音にまじって女工のうたう声がはっきり聞こえる。
夕日は、むかし大きな門があったというあたりから、年々田に埋め立てられて小川のように細くなったぬまに、絵のようにはっきりと照りわたった。
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夕日は昔大手の門のあったというあたりから、年々田に埋め立てられて、里川のように細くなった沼に画のようにあきらかに照りわたった。
新しく芽を出したあしやおぎ、かややがま、それにさびた色の水がいっぱいに満ちて、あるところは暗く、あるところは明るかった。
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新たに芽を出した蘆荻や茅や蒲や、それにさびた水がいっぱいに満ちて、あるところは暗くあるところは明るかった。
ぬまにかかった板の橋をわたると、細い田んぼ道がうねうねと野に通じていた。車をひいて来るお百姓の顔は、夕日に赤く色づいて見えた。
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沼にかかった板橋を渡ると、細い田圃路がうねうねと野に通じて、車をひいて来る百姓の顔は夕日に赤くいろどられて見えた。
麦畑と桑畑、その間をぬうようにして二人は歩いた。
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麦畑と桑畠、その間を縫うようにして二人は歩いた。
話は次から次へと続いて、簡単につきようとしなかった。
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話は話と続いて容易につきようとしなかった。
道はいつのまにか、士族屋敷のあたりに出た。
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路はいつか士族屋敷のあたりに出た。
家は、ところどころにあった。
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家はところどころにあった。
今日までふみとどまっている士族は、少なかった。
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今日まで踏みとどまっている士族は少なかった。
むかしは家から家へと続いていたものだが、今は明けの星のように、畑と畑の間に一けん二けんと残っている。
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昔は家から家へと続いたものであるが、今は晨の星のように畠と畠の間に一軒二軒と残っている。
むかしふうの黒い板ばりや白いかべ、大きな栗の木や柿の木、井の字の形をした井戸のわく、まばらな生けがき。そこからは、古いえん側に低いひさし、絵をはったふすまなども、はっきり見すかされた。
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昔ふうの黒いシタミや白い壁や大きい栗の木や柿の木や井字形の井戸側やまばらな生垣からは古い縁側に低い廂、文人画を張った襖などもあきらかに見すかされた。
夏の日などそこを通ると、かきねに目のさめるような赤いばらが咲いていることもある。新しい青いすだれがえん側にかけてあって、風りんがすずしげに鳴っていることもある。
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夏の日などそこを通ると、垣に目の覚めるようなあかい薔薇が咲いていることもあれば、新しい青簾が縁側にかけてあって、風鈴が涼しげに鳴っていることもある。
秋のきりの深い朝には、水をくむしかけがギイと鳴る音がして、にがうりの黄色くなったのがかきねから口を開いている。
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秋の霧の深い朝には、桔橰のギイと鳴る音がして茘子の黄いろいのが垣から口を開いている。
琴の音なども、ときどき聞こえた。
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琴の音などもおりおり聞こえた。
この士族屋敷には、やはりもとの士族が世の中におくれて住んでいた。
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この士族屋敷にはやはりもとの士族が世におくれて住んでいた。
役場につとめている人もいれば、小学校の先生をしている人もある。
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役場に出ているものもあれば、小学校の先生をしているものもある。
財産があって何もせずに日を送っている人もいれば、小さな養蚕などをして暮らしている人もある。
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財産があって無為に月日を送っているものもあれば、小規模の養蚕などをやって暮らしているものもある。
お金を貸すことをしている人もあった。
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金貸しなどをしているものもあった。
士族屋敷の中で金持ちの家が一けん、道のかたわらにあった。
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士族屋敷の中での金持ちの家が一軒路のほとりにあった。
珊瑚樹のかきねがしげって中ははっきり見えないが、それでも白いかべの土蔵と、むねの高い家とはわかった。
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珊瑚樹の垣は茂って、はっきりと中は見えないが、それでも白壁の土蔵と棟の高い家屋とはわかった。
門から中を見ると、りっぱな玄関があって、小屋のそばでにわとりがえさをひろっている。
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門から中を見ると、りっぱな玄関があって、小屋のそばに鶏が餌をひろっている。
二人は、そのかきねにそって歩いた。
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二人はその垣に添って歩いた。
かきねが終わると、水の満ちたはばのせまい川が気持ちよく流れている。
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垣がつきると、水のみちた幅のせまい川が気持ちよく流れている。
岸ではやなぎがその葉を水面にひたして、さざなみを作っている。
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岸には楊がその葉を水面にひたして漣をつくっている。
細い板の橋が、川の折れ曲がったところにかかっている。
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細い板橋が川の折れ曲がったところにかかっている。
美穂子の家は、そこから近かった。
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美穂子の家はそこから近かった。
「行ってみようか。北川は今日はいるだろう」
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「行ってみようか。北川は今日はいるだろう」
清三はこう言って、友をさそった。
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清三はこう言って友を誘った。
その家は大きな田舎道をへだてて、広い野に向いていた。
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その家は大きな田舎道をへだててひろい野に向かっていた。
古びた黒い門があった。
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古びた黒い門があった。
やはりひさしの低いわらぶきの家で、土台がいくらか曲がっている。
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やっぱり廂の低い藁葺の家で、土台がいくらか曲がっている。
庭には、松やひのきやつばきなどがしげっていた。
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庭には松だの、檜だの、椿だのが茂っていた。
今年の一月から三月にかけて、若い人たちはよくこの家にかるたを取りに来たものである。
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今年の一月から三月にかけて、若い人々はよくこの家に歌留多牌をとりにきたものである。
美穂子の姉の伊与子、妹の貞子、それに国府という人の妹に友子といって美しい人がいた。
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美穂子の姉の伊与子、妹の貞子、それに国府という人の妹に友子といって美しい人がいた。
その少女たちと、郁治や清三や石川や沢田や美穂子の兄の北川などの若い人たちが八畳の間にいっぱいになった。竹のつつの台にのせたランプの光の下に頭を並べ、夢中になってかるたを取る。そばには白いものがまじった髪の、品のいい、桑名なまりのある美穂子の母親が眼鏡をかけて、高く通る声で若い人たちのためにあきずにかるたを読んでくれた。
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それらの少女連と、郁治や清三や石川や沢田や美穂子の兄の北川などの若い人々が八畳の間にいっぱいになって、竹筒台の五分心の洋燈の光の下に頭を並べて、夢中になって歌留多牌を取ると、そばには半白の、品のいい、桑名訛のある美穂子の母親が眼鏡をかけて、高くとおった声で若い人々のためにあきずに歌留多牌を読んでくれた。
お茶の時には、みかんと五目ごはんにそえたしょうがとが、一同の目をあざやかにした。
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茶の時には蜜柑と五目飯の生薑とが一座の眼をあざやかにした。
帰りは、いつも十一時を過ぎていた。
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帰りはいつも十一時を過ぎていた。
さびしい士族屋敷の竹やぶのかげの道を、若い男と女とは笑いさざめきながら帰った。
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さびしい士族屋敷の竹藪の陰の道を若い男と女とは笑いさざめいて帰った。
北川はふろに行って、留守であった。
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北川は湯に行ってるすであった。
「まあ、よくいらっしゃいましたな……今、もうじき帰って参りますから……」
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「まア、よくいらっしゃいましたな……今、もうじき帰って参りますから……」
母親はこう言って、にこにこして二人をむかえた。
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母親はこう言って、にこにこして二人を迎えた。
郁治はその笑顔に、美穂子の笑顔を思い出した。
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郁治はその笑顔に美穂子の笑顔を思い出した。
声も、よく似ている。
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声もよく似ている。
二人は、庭に面した北川の書斎に通された。
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二人は庭に面した北川の書斎に通された。
父親はどこに行ったのか、姿は見えなかった。
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父親はどこに行ったか姿は見えなかった。
母親はしばらく、二人の相手をした。
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母親はしばし二人の相手をした。
「林さんは弥勒のほうにおつとめになったんですってな。まあ、けっこうでしたな……お母さんもさぞお喜びだったでしょうな」
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「林さんは弥勒のほうにお出になりましたッてな、まア結構でしたな……母さん、さぞおよろこびでしたろうな」
こんなことを言った。
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こんなことを言った。
浦和にいる美穂子のうわさも出た。
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浦和にいる美穂子のうわさも出た。
「女がそんなことをしたってしかたがないと父親は言いますけれどもな……本人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできないのはわかっていますけど……」
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「女がそんなことをしたッてしかたがないッて父親は言いますけれどもな……当人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできんのは知れてるですけど……」
「でも、お変わりはないでしょう」
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「でもお変わりはないでしょう」
清三がこう聞くと、
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清三がこうきくと、
「ええ、もう……おてんばばかりしているそうでな」
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「え、もう……お転婆ばかりしているそうでな」
と母親は笑った。
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と母親は笑った。
すぐ言葉を続けて、今度は郁治に、
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すぐ言葉をついで、今度は郁治に、
「雪さんはどうしていらっしゃるな」
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「雪さんどうしてござるな」
「相変わらずぶらぶらしています」
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「相変わらずぶらぶらしています」
「ちょっと、遊びにおよこしなさい。貞も退くつしておりますで……」
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「ちと、遊びにおつかわし。貞も退屈しておりますで……」
そうこうするうちに、北川はふろから帰って来た。
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それこれするうちに、北川は湯から帰って来た。
背の高いほお骨の出た男で、手織りの木綿の着物にかすりの羽織を着ていた。
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背の高い頬骨の出た男で、手織りの綿衣に絣の羽織を着ていた。
話のさいちゅうに、けたたましく声をたてて笑うくせがある。
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話のさなかにけたたましく声をたてて笑う癖がある。
石川や清三などとちがって、文学に対してはあまり興味を持っていない。
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石川や清三などとは違って、文学に対してはあまり興味をもっていない。
学校にいたころは有名なスポーツ選手で、野球などにかけてはクラスの中で彼にかなう者はなかった。
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学校にいたころは、有名な運動家でベースボールなどにかけては級の中でかれに匹敵するものはなかった。
軍人になりたくて、卒業するとすぐ熱心に勉強し、この四月の士官学校の試験を受けてみたが、数学と英語とで失敗した。
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軍人志願で、卒業するとすぐ熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じてみたが、数学と英語とで失敗した。
けれど、あまりがっかりもしていなかった。
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けれどあまり失望もしておらなかった。
九月の学期には東京に出て、ちょうどよい学校にはいって十分な準備をすると言っている。
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九月の学期には、東京に出て、しかるべき学校にはいって、十分な準備をすると言っている。
三人は、心を開いて語り合った。
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三人は胸襟を開いて語り合った。
けれど、ここで語る話と、清三と郁治が話す話とは大いにちがっていた。
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けれどここで語る話と清三と郁治と話す話とは、大いに異なっていた。
同じ親しさでも、ただの学校友だちとしての親しさであった。
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同じ親しさでも単に学友としての親しさであった。
打ち解けて語るといっても、心の底をたがいに打ち明けるようなことはなかった。
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打ち解けて語ると言っても心の底を互いに披瀝するようなことはなかった。
ここでは学校の話と、将来の希望と、受験の準備の話などが多く出た。
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ここでは、学校の話と将来の希望と受験の準備の話などが多く出た。
北川は東京で受けた士官学校の入学試験の話を、二人にして聞かせた。
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北川は東京で受けた士官学校入学試験の話を二人にして聞かせた。
「どうも試験に余ゆうがなくて困った。英語の書き取りなど一度しか読んでくれないんだから困るよ。それに試験の場所が大きく広すぎて、声が散ってよく聞き取れないんだから、あわててしまったよ。おまけに代数がばかにむずかしかった」
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「どうも試験に余裕がなくって困った。英語の書き取りなど一度しか読んでくれないんだから困るよ。それに試験の場所が大きく広すぎて、声が散ってよく聞きとれないんだから、ドマドマしてしまったよ。おまけに代数がばかにむずかしかった」
代数の二次方程式の問題を、彼は手帳に書きつけてきた。
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代数の二次方程式の問題をかれは手帳に書きつけてきた。
それを机の引き出しや押入れの中や文庫の中やと、あちこちさがし回って、ようやくさがし出して二人に見せる。
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それを机の抽斗しやら押入れの中やら文庫の中やらあっちこっちとさがし回って、ようやくさがし出して二人に見せる。
なるほど、問題はむずかしかった。
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なるほど問題はむずかしかった。
数学の得意な郁治にも、できなかった。
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数学に長じた郁治にもできなかった。
北川は、漢学は得意だった。
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北川は漢学には長じていた。
父親は藩でも指おりの漢学者で、漢詩などをよく作った。
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父親は藩でも屈指の漢学者で、漢詩などをよく作った。
今は町の役場につとめるようになったのでやめたが、三年前までは町や屋敷の子どもたちに四書五経という中国の古い本の読み方を教えたものである。
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今は町の役場に出るようになったのでよしたが、三年前までは、町や屋敷の子弟に四書五経の素読を教えたものである。
午後三時ごろから日がしずむ前までの間、蜂のうなるような声がいつもこの家のかきねからもれた。
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午後三時ごろから日没前までの間、蜂のうなるような声はつねにこの家の垣からもれた。
そのころ美穂子は赤いメリンスの帯をしめ、髪をお下げに結って、門の前で近所の友だちと遊んだ。
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そのころ美穂子は赤いメリンスの帯をしめて、髪をお下げに結って、門の前で近所の友だちと遊んだ。
清三はそのころから、美穂子の目が美しいのを知っていた。
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清三はその時分から美穂子の眼の美しいのを知っていた。
郁治と清三が帰るあいさつをしたのは、夜の九時過ぎであった。
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郁治と清三が暇をつげたのは夜の九時過ぎであった。
若い人たちは、話がないといっても話がある。
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若い人々は話がないといっても話がある。
二人はそこを出て、しばらくの間だまって歩いた。
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二人はそこを出てしばしの間黙って歩いた。
竹やぶのガサガサするかげの道は、暗かった。
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竹藪のガサガサする陰の道は暗かった。
郁治の胸にも清三の胸にも、この時、浦和の学校にいる美穂子のことがうかんだ。
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郁治の胸にも清三の胸にもこの際浦和の学校にいる美穂子のことがうかんだ。
「あの時――郁治がそれと打ち明けた時、なぜ自分も恋しているということを思い切って言わなかったのだろう」
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「あの時――郁治がそれと打ち明けた時、なぜ自分もラヴしているということを思いきって言わなかったろう」
と清三は思った。
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と清三は思った。
けれど、友の恋はまだ美穂子には伝わっていない。
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けれど友の恋はまだ美穂子に通じてあるわけではない。
恋された人が知らないうちに、恋した人の心を自分はその人から打ち明けられた。
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恋された人の知らぬ前に恋した人の心を自分はその人から打ち明けられた。
それだけ、彼は苦しかった。
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それだけかれは苦しかった。
またそれだけ、彼はその問題を深く考えずにいた。
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またそれだけかれはその問題につきつめていなかった。
時には「まだ決まったというわけではない。ぶつかってみて、どうなることかわからない……希望がすっかりやぶれてしまったというわけでもない……」
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時には「まだ決まったというわけではない、ぶつかってみて、どうなることかわからない。……希望がすっかり破れてしまったというわけでもない……」
などと思うこともある。
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などと思うこともある。
友のために自分をぎせいにするという気は、もちろんある。
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友のために犠牲になるという気はむろんある。
友の恋がうまくいくようにと願う気持ちもある。
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友の恋の成らんことを望む念もある。
彼の性質からいっても、家の事情からいっても、今の恋のようすからいっても、激しく燃え上がるにはまだだいぶへだたりもあり、余ゆうもあった。
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かれの性質からいっても、家庭の事情からいっても、現在の恋の状態からいっても、はげしく熱するにはまだだいぶ距離もあり余裕もあった。
しかしその夜は、二人とも不思議に胸がおどっていた。
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しかしその夜は二人とも不思議に胸がおどっていた。
だまって歩いていても、その心はいろいろなことを語っていた。
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黙って歩いていても、その心はいろいろなことを語っていた。
野に出ようとすると、昨日の雨で道の悪くなっているところがあった。
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野に出ようとすると、昨日の雨に路の悪くなっているところがあった。
低いげたは、ズブズブとはいった。
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低い駒下駄はズブズブはいった。
「悪い道だね」
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「悪い路だね」
二人はたがいに、こう言い合った。
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二人は互いにこう言いあった。
しかし心では、二人とも美穂子のことを考えていた。
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しかし心では二人とも美穂子のことを考えていた。
郁治のほうは、女の人についての悩みを残らずこの友に語りたいと思った。
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郁治にしては、女に対する煩悶、それを残すところなくこの友に語りたいと思った。
打ち明けて話したなら、いくらかこの胸が静まるだろうとも思った。
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打ち明けて話したならいくらかこの胸が静まるだろうとも思った。
しかし、なぜかそれを打ち明けて語る気にはならなかった。
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しかしなぜかそれを打ち明けて語る気にはならなかった。
二人はやはり、だまって歩いた。
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二人はやっぱり黙って歩いた。
城あとの森が、黒く見える。
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城址の森が黒く見える。
ぬまがところどころ、やみの夜の星に光った。
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沼がところどころ闇の夜の星に光った。
あしやがまが、ガサガサと夜風に動く。
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蘆や蒲がガサガサと夜風に動く。
町の灯が、そこにもここにも見える。
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町の灯がそこにもここにも見える。
公園から、町にはいった。
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公園から町にはいった。
もうそのころには、二人はだまっていなかった。
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もうそのころは二人は黙っていなかった。
郁治は低い声で、得意の詩吟を始めた。
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郁治は低い声で、得意の詩吟を始めた。
心の高ぶりのなごりが、それにも残って聞き取れる。
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心の感激の余波がそれにも残って聞かれる。
別れの道の角に来ても、彼らはなんだかこのまま別れるのが物足りなかった。
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別れの道の角に来ても、かれらはなんだかこのまま別れるのが物足らなかった。
「ぼくの家に寄って、お茶でも飲んで行かないか」
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「僕の家に寄って茶でものんで行かんか」
清三がこうさそうと、郁治はついて来た。
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清三がこう誘うと、郁治はついて来た。
清三の母親は着物を切る板に向かって、まだせっせと仕事をしていた。
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清三の母親は裁物板に向かってまだせっせっと賃仕事をしていた。
お茶をいれてもらって、また一時間ぐらい話した。
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茶を入れてもらってまた一時間ぐらい話した。
語っても語ってもつきないのが、若い人たちの思いであった。
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語っても語ってもつきないのは若い人々の思いであった。
十二時が鳴って、郁治が思い切って帰って行くのを、清三はまたふろ屋の角まで送る。
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十二時が鳴って、郁治が思いきって帰って行くのを清三はまた湯屋の角まで送る。
町の大通りは、もうしんとしていた。
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町の大通りはもうしんとしていた。
翌日は、母も清三もねすごしてしまった。
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翌日は母も清三も寝過ごしてしまった。
時計は、七時を過ぎていた。
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時計は七時を過ぎていた。
清三はあわてて茶づけをかきこんで出かけた。
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清三はあわてて茶漬をかっ込んで出かけた。
いくら急いでも十六キロの長い長い道、弥勒に着いたころはもう十時をだいぶ過ぎていた。
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いくら急いでも四里の長い長い路、弥勒に着いたころはもう十時をよほど過ぎた。
学校のガラス窓には朝日がすでに高くさして、校長が修身を教える声が高くはっきりとあたりに聞こえる。
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学校の硝子窓には朝日がすでに長けて、校長の修身を教える声が高くあきらかにあたりに聞こえる。
急いで行ってみると、受け持ちの組では生徒がガヤガヤとさわいでいた。
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急いで行ってみると、受持ちの組では生徒がガヤガヤと騒いでいた。
十三
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十三
熊谷町にも、彼の同級だった友はかなりいる。
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熊谷町にもかれの同窓の友はかなりにある。
小畑というのと、桜井というのと、小島というのと――とくに小畑とは、彼も郁治も人並み以上に仲がよかった。
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小畑というのと、桜井というのと、小島というのと――ことに小畑とはかれも郁治も人並みすぐれて交情がよかった。
卒業して会えなくなってからは毎日のようにたがいに手紙をやり取りして、じょうだんを言ったり議論をしたりした。
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卒業して会われなくなってからは毎日のように互いに手紙の往復をして、戯談を言ったり議論をしたりした。
月に一、二度は、清三はきっと出かけた。
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月に一二度は清三はきっと出かけた。
行田町から熊谷町まで十キロ、その道はきれいで水の多い用水のふちにそって走っていた。
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行田町から熊谷町まで二里半、その路はきれいな豊富な水で満たされた用水の縁に沿ってはしった。
田んぼ一つごとに村があり、村一つごとに田んぼがひらける。夏の日には家の前の広場で麦を打っている農家や、かぼちゃがみごとに実っている畑や、大きな農家の白いかべの土蔵などが続いた。
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一田圃ごとに村があり、一村ごとに田圃が開けるというふうで、夏の日には家の前の広場で麦を打っている百姓家や、南瓜のみごとに熟している畑や、豪農の白壁の土蔵などが続いた。
秋の晴れた日には、田んぼから村へ稲をたくさん積んだ車がきしって行った。黄色く実った田では、ほおかぶりをした田舎の娘がかまの手をとめて、街道を通って行く旅人の群れをながめた。
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秋の晴れた日には、田圃から村に稲を満載した車がきしって、黄いろく熟した田には、頬かむりをした田舎娘が、鎌の手をとめて街道を通って行く旅人の群れをながめた。
その街道には、いろいろなものが通る。
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その街道にはいろいろなものが通る。
熊谷と行田の間の乗合馬車、青縞屋が織物を集めて回る荷車、そのころはやった金持ちの旦那の自転車。それに人力車には、さまざまな人が乗って通った。
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熊谷行田間の乗合馬車、青縞屋の機回りの荷車、そのころ流行った豪家の旦那の自転車、それに俥にはさまざまの人が乗って通った。
よぼよぼの年とった車夫が、町に買い物に行った田舎のおばあさんを二人乗せて重そうにひいて行くのもある。黒ぬりのりっぱな車に町の医者らしいひげの紳士が、いきおいよく乗って走らせて行くのもある。
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よぼよぼの老いた車夫が町に買い物に行った田舎の婆さんを二人乗りに乗せて重そうにひいて行くのもあれば、黒鴨仕立のりっぱな車に町の医者らしい鬚の紳士が威勢よく乗って走らせて行くのもある。
田植えのころには雨がしょぼしょぼと降って、こねかえした田のぬかるみの中にうつむいたまるいかさが、いくつとなく並んで見える。
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田植時分には、雨がしょぼしょぼと降って、こねかえした田の泥濘の中にうつむいた饅頭笠がいくつとなく並んで見える。
いい声でうたう田植え歌も、聞こえる。
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いい声でうたう田植唄も聞こえる。
植え終わった田の緑は、美しかった。
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植え終わった田の緑は美しかった。
田のあぜや街道の両側の草の上には、ときどき植え残った苗のたばなどが捨ててあった。
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田の畔、街道の両側の草の上には、おりおり植え残った苗の束などが捨ててあった。
五月の晴れた日には、白いまゆが村の家の軒下や屋根の上などに干してあるのを、いつも見かけた。
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五月晴れには白い繭が村の人家の軒下や屋根の上などに干してあるのをつねに見かけた。
用水のそばに一けん、すずしそうな休み茶屋があった。
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用水のそばに一軒涼しそうな休み茶屋があった。
にれの大きな木がまるでかぶさるようにしげって、店にはその土地でできるまくわうりが手おけの水の中につけられてある。
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楡の大きな木がまるでかぶさるように繁って、店には土地でできる甜瓜が手桶の水の中につけられてある。
平たい浅いたらいには、ところてんも入れられてあった。
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平たい半切に心太も入れられてあった。
暑くて木かげのない道を歩いてきて、ここで汗になった詰め襟の夏服をぬぎ、うりを食べた時のうまかったことを、清三は覚えている。
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暑い木陰のない路を歩いてきて、ここで汗になった詰襟の小倉の夏服をぬいで、瓜を食った時のうまかったことを清三は覚えている。
その店のおばあさんに娘が一人あって、東京の赤坂にはたらきに出ていることも知っている。
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その店の婆さんに娘が一人あって東京の赤坂に奉公に出ていることも知っている。
関東平野を輪のようにめぐる山々のながめ――そのながめの美しさも、忘れられない思い出の一つであった。
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関東平野を環のようにめぐった山々のながめ――そのながめの美しいのも、忘れられぬ印象の一つであった。
秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春のかすみが薄いベールのようにかかる二、三月のころまでの山々の美しさは、特別であった。
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秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春の霞の薄く被衣のようにかかる二三月のころまでの山々の美しさは特別であった。
雪に光る日光の山なみ、羊の毛のように白くなびく浅間山のけむり、赤城は近く、榛名は遠く、足利あたりの山なみの入り組んだひだには、夕日が絵のように美しく光をあふれさせた。
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雪に光る日光の連山、羊の毛のように白く靡く浅間ヶ嶽の煙、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。
行田から熊谷に通う中学生の群れは、この間を笑ったりふざけたり走ったりして帰ってきた。
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行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってきた。
熊谷の町はやがて、そのかわら屋根やえんとつや白いかべの家などを、広い野の果てに現してくる。
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熊谷の町はやがてその瓦屋根や煙突や白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。
熊谷は行田とはくらべものにならないほど、にぎやかな町であった。
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熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。
家並みもそろっているし、金持ちも多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれていた。
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家並みもそろっているし、富豪も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。
汽車が駅に着くたびに、行田地方と妻沼地方に行く乗合馬車がそれぞれ客を待ちうけて、町の広い大通りにラッパの音をけたたましくひびかせながらガラガラと通って行った。
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汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。
夜は店に電気がついて、小間物屋、洋品店、呉服屋の店も晴れやかで、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。
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夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。
この町は清三にとって、第二のふるさとである。
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町は清三にとって第二の故郷である。
八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小道の奥に、一家はそのおちぶれた身を落ち着けた。
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八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小路の奥に一家はその落魄の身を落ちつけた。
その小道は、彼にとっていろいろな思い出がある。
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その小路はかれにとっていろいろな追憶がある。
そこには郵便局の小使や、使い走りをする人や、たのまれて日やといではたらく人などが住んでいた。
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そこには郵便局の小使や走り使いに人に頼まれる日傭取りなどが住んでいた。
山形あたりに生まれて、あちこち流れ歩いてきてもふるさとの言葉がぬけないという、元気なおばあさんもあった。
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山形あたりに生まれてそこここと流れ渡ってきても故郷の言葉が失せないという元気なお婆さんもあった。
八歳から十七歳まで――小学校から中学の二年まで、彼は六畳、八畳、三畳のその小さい家に住んでいた。
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八歳から十七歳まで――小学校から中学の二年まで、かれは六畳、八畳、三畳のその小さい家に住んでいた。
小学校は、町のうら通りにあった。
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小学校は町の裏通りにあった。
明神の鳥居から右にはいって、みぞのふたをふみ鳴らす細い小道を通り、駄菓子屋の角を左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階建ての建物と、ぶらんこや木馬のある運動場が見えた。
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明神の華表から右にはいって、溝板を踏み鳴らす細い小路を通って、駄菓子屋の角を左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階造りの建物と鞦韆や木馬のある運動場が見えた。
生徒のさわぐ音が、ガヤガヤと聞こえた。
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生徒の騒ぐ音がガヤガヤと聞こえた。
校長の太った顔、次の役の先生のむずかしい顔、体操の先生のにこにこした顔などが、今もありありと目に見える。
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校長の肥った顔、校長次席のむずかしい顔、体操の先生のにこにこした顔などが今もありありと眼に見える。
卒業式に晴れ着を着かざってくる女の生徒の中にも、彼の好きな少女が三、四人いた。
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卒業式に晴衣を着飾ってくる女生徒の群れの中にもかれの好きな少女が三四人あった。
むらさきの矢がすりの着物に、えび茶のはかまをはいてくる子が、中でも一番目に残っている。
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紫の矢絣の衣服に海老茶の袴をはいてくる子が中でも一番眼に残っている。
その子は、町はずれの町から来ていた。
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その子は町はずれの町から来た。
農学校の校長の娘だということを、聞いたことがある。
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農学校の校長の娘だということを聞いたことがある。
清三が中学の一年にいる時、その一家は長野のほうに引っこして行ってしまった。それであのすんだ目を町のどこにも見つけることができなくなったが、それでも今もときどき思い出すことがある。
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清三が中学の一年にいる時一家は長野のほうに移転して行ってしまったので、そのあきらかな眸を町のいずこにも見いだすことができなくなったが、それでも今も時々思い出すことがある。
もう一人は芸者屋の娘で、今は小滝といって、おととし一人前の芸者になり、町でも人気の芸者の一人に数えられている。
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一人は芸者屋の娘で、今は小滝といって、一昨年一本になって、町でも流行妓のうちに数えられてある。
通りできれいに着かざった姿に出くわすことなどがあると、「失礼よ、林さん」
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通りで盛装した座敷姿にでっくわすことなどあると、「失礼よ、林さん」
などとあざやかに笑ってあいさつして通って行く。
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などとあざやかに笑って挨拶して通って行く。
中学卒業のお祝いの会にもやって来て、いい声で歌をうたったり、三味線をひいたりした。
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中学卒業の祝いの宴会にもやって来て、いい声で歌をうたったり、三絃をひいたりした。
小畑がそばにすわって、「小滝はぼくらの芸者だ。なあ小滝」
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小畑がそばにすわって「小滝は僕らの芸者だ。ナア小滝」
などと言って、よった顔をその前に押しつけるようにすると、「いやよ、小畑さん、あなたは昔から私をいじめるのねえ。覚えていてよ」
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などと言って、酔った顔をその前に押しつけるようにすると、「いやよ、小畑さん、貴郎は昔から私をいじめるのねえ、覚えていてよ」
と打つまねをした。
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と打つ真似をした。
そのとき、「お前は同級生の中でだれが一番好きだ」
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そのとき、「貴様は同級生の中で、誰が一番好きだ」
という問題が、ふいに出た。
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という問題がゆくりなく出た。
小学校のころの同級生が、だいぶそのまわりに集まっていた。
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小学校時分の同級生がだいぶそのまわりにたかっていた。
すると小滝は少しもためらう様子を見せずに、「それはだれだってそうですわねえ……もちろん林さん!」
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と、小滝は少しも躊躇の色を示さずに、「それア誰だッてそうですわねえ、……むろん林さん!」
と言った。
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と言った。
小滝も、よっていた。
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小滝も酔っていた。
ほめる声が、嵐のように起こった。
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喝采の声が嵐のように起こった。
それからは、小畑や桜井や小島などに会うと、小滝の話がよく出る。
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それからは、小畑や桜井や小島などに会うと、小滝の話がよく出る。
しまいには「小滝君はどうした。元気かね」
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しまいには「小滝君どうした。健在かね」
などと書いたはがきを送ってよこした。
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などと書いた端書を送ってよこした。
「小滝」
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「小滝」
というあだ名をつけられてしまったのである。
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という渾名をつけられてしまったのである。
清三もまたおもしろ半分に、小滝を「しら滝」
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清三もまたおもしろ半分に、小滝を「しら滝」
に変えて、それを別のペンネームにして、日記の表紙に書いたり手紙に名前として書いたりした。
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に改めて、それを別号にして、日記の上表紙に書いたり手紙に署したりした。
「歌をうたうしら滝の歌」
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「歌妓しら滝の歌」
という五七調四行五節の新しい形の詩を作って、わざと小畑のところに書いてやったりした。
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という五七調四行五節の新体詩を作って、わざと小畑のところに書いてやったりした。
時には清三も、まじめに芸者というものを考えてみることがある。
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時には清三もまじめに芸者というものを考えてみることもある。
その時にはきっと、自分と小滝とを引き合わせて考えてみる。
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その時にはきっと自分と小滝とを引きつけて考えてみる。
ロマンチックな場面などを思いえがいてみることもあった。
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ロマンチックな一幕などを描いてみることもあった。
時にはまた、自分の身も心も自分で守ることのできない芸者の不幸な生活を想像して、かわいそうでなみだを流すことなどもあった。
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時にはまた節操も肉体もみずから守ることのできない芸者の薄命な生活を想像して同情の涙を流すことなどもあった。
清三には、芸者などのことはまだわからなかった。
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清三には芸者などのことはまだわからなかった。
彼はまた、熊谷から行田に引っこした時のことをはっきり覚えている。
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かれはまた熊谷から行田に移転した時のことをあきらかに記憶している。
父親がよそから帰って来て、とつぜん今夜引っこしをするという。
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父親がよそから帰って来て、突然今夜引っ越しをするという。
明日になさったらいいではありませんかと母親が言ったが、しかし昼間おおっぴらに引っこして行けない事情があった。
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明日になすったらいいではありませんかと母親が言ったが、しかし昼間公然と移転して行かれぬわけがあった。
熊谷での八年の生活は、少なくない借金を彼の家に残しただけであった。
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熊谷における八年の生活は、すくなからざる借金をかれの家に残したばかりであった。
父親が財布のお金――やっと荷車二、三台をたのむだけのお金をちゃらちゃらと鳴らしながら出て行った。そのあとで母親と清三とは、近所に知られないように二人だけで荷造りをした。
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父親は財布の銭――わずかに荷車二三台を頼む銭をちゃらちゃらと音させながら出て行くと、そのあとで母親と清三とは、近所に知れぬように二人きりで荷造りをした。
長い行田街道には、冬の月が照っていた。
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長い行田街道には冬の月が照った。
二台の車のかげと親子四人のかげとが、さびしく黒く地面に映った。
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二台の車の影と親子四人の影とが淋しく黒く地上に印した。
これが一家のおちぶれた姿なのかと思うと、清三はたまらなく悲しかった。
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これが一家の零落した縮図かと思うと、清三はたまらなく悲しかった。
その夜、行田の新しい家にたどり着いたのは、もうかれこれ十二時近くであった。
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その夜行田の新居にたどり着いたのは、もうかれこれ十二時に近かった。
明かりもない暗い障子の前に立った時には、なみだがホロホロと彼のほおをつたって流れた。
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燈光もない暗い大和障子の前に立った時には、涙がホロホロとかれの頬をつたって流れた。
けれど、どうにかして暮らしていける世の中である。
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けれどいかようにしても暮らして行かるる世の中である。
それから、もう四年が過ぎた。
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それからもう四年は経過した。
そのせまい行田の家も、住みなれてはそれほどきゅうくつにも思わなくなった。
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そのせまい行田の家も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。
彼はときどき、行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思い出してみることがある。
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かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある。
熊谷の家は、今もある。
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熊谷の家は今もある。
年をとった夫婦が住んでいる。
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老いた夫婦者が住まっている。
よく行った松の湯は新しく建て直して、見ちがえるようにりっぱになった。
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よく行った松の湯は新しく普請をして見違えるようにりっぱになった。
通りの荒物屋には、やはり愛想のいいおかみさんがすわって客の相手をしている。
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通りの荒物屋にはやはり愛嬌者のかみさんがすわって客に接している。
種屋の娘はひさし髪などに結って、ツンとすまして歩いて行く。
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種物屋の娘は廂髪などに結ってツンとすまして歩いて行く。
薬屋の隠居は相変わらずはげ頭をふりたてて、息子や小僧をしかっている。
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薬種屋の隠居は相変わらず禿頭をふりたてて忰や小僧を叱っている。
郵便局の為替の受け付け口には、黒いしゅすとメリンスを合わせた帯をしめた女がお金の受け取りを待ちかねて、土間をげたでコトコトいわせている。
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郵便局の為替受け口には、黒繻子とメリンスの腹合せの帯をしめた女が為替の下渡しを待ちかねて、たたきを下駄でコトコトいわせている。
そのそばで、おなじみの白い犬が頭を地につけて目を閉じてねむっている。
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そのそばにおなじみの白犬が頭を地につけて眼を閉じて眠っている。
郵便を配る人が、ズックのふくろをかついではいって来る。
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郵便集配人がズックの行嚢をかついではいって来る。
小畑は郡役所につとめている役人の息子、小島は町で有名な大きな呉服屋の息子、桜井は行田の武士で明治のはじめにこの地に土地を買って移って来た金持ちの息子。そのほか、酒を作る家、米屋、紙屋、裁判所の判事などの息子たちに、同級だった友がいくらもいた。
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小畑は郡役所に勤めている官吏の子息、小島は町で有名な大きな呉服屋の子息、桜井は行田の藩士で明治の初年にこの地に地所を買って移って来た金持ちの子息、そのほか造酒屋、米屋、紙屋、裁判所の判事などの子息たちに同窓の友がいくらもあった。
そしてそれがたいてい小学校からのなじみなので、行田の友だちよりもいっそう親しいところがある。
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そしてそれがたいていは小学校からのなじみなので、行田の友だちの群れよりもいっそうしたしいところがある。
小畑の家は駅のとなりにあって、そこからは有名な熊谷堤の花が見える。
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小畑の家は停車場の敷地に隣っていて、そこからは有名な熊谷堤の花が見える。
桜井の家は蓮正寺の近所で、お参りの人が鳴らすかねの音が一日中聞こえる。
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桜井の家は蓮正寺の近所で、お詣りの鰐口の音が終日聞こえる。
清三は熊谷に行くと、きっとこの二人をたずねた。
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清三は熊谷に行くと、きっとこの二人を訪問した。
どちらの家でも家の人たちとも親しくなって、わがままも言えば、気のおけない言葉も使う。
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どちらの家でも家の人々とも懇意になって、わがままも言えば気のおけない言葉もつかう。
食事のころにはだまっていてもごはんを出してくれるし、夜おそくなれば友だちといっしょに一つのふとんにくるまってねた。
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食事時分には黙っていても膳を出してくれるし、夜遅くなれば友だちといっしょに一つ蒲団にくるまって寝た。
「どうした、いやにしょげているじゃないか」
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「どうした、いやにしょげてるじゃないか」
「どうかしたか」
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「どうかしたか」
「まだふけこむには早いぜ!」
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「まだ老い込むには早いぜ!」
「少しは何か勉強したか」
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「少しは何か調べたか」
「なんだか顔色が悪いぜ!」
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「なんだか顔色が悪いぜ!」
熊谷に来ると、こんな元気のいい言葉をあちこちから浴びせかけられる。
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熊谷にくると、こうした活気ある言葉をあっちこっちから浴びせかけられる。
生き生きした友だちの顔には中学校時代のおもかげがまだ残っていて、ガラス窓の下や運動場や水飲み場などで話し合った合い言葉や言い回しが、たえず出る。
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いきいきした友だちの顔色には中学校時代の面影がまだ残っていて、硝子窓の下や運動場や湯呑場などで話し合った符牃や言葉がたえず出る。
また、次のような話もした。
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また次のような話もした。
「Lはどうした」
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「Lはどうした」
「まだいる! そうか、まだいるか」
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「まだいる! そうかまだいるか」
「仙骨はあの人に夢中だが、実におかしくて話にならん」
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「仙骨は先生に熱中しているが、実におかしくって話にならん」
「あいつ、このごろひげなど生やして、ステッキなどついて歩いているな」
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「先生、このごろ、鬚など生やして、ステッキなどついて歩いているナ」
「杉はすっかり色男になったねえ」
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「杉はすっかり色男になったねえ、君」
そばで聞いてはちょっとわからないような話し方で、それでどんどん話が通じていく。
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かたわらで聞いてはちょっとわからぬような話のしかたで、それでぐんぐん話はわかっていく。
熊谷の町が行田や羽生にくらべてにぎやかで、商売もさかんであるのと同じように、ここには同級だった友で小学校の先生などになる者はまれであった。
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熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、ここには同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった。
角帯をしめて古い店の若だんなになってしまう者のほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備にいそがしかった。
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角帯をしめて、老舗の若旦那になってしまうもののほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備に忙しかった。
元気が、若い人たちの上に満ちていた。
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活気は若い人々の上に満ちていた。
これにくらべて、清三は自分の意気地のなさをいつも感じた。
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これに引きくらべて、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。
熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん元気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながら、その長い街道を歩いた。
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熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん活気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながらその長い街道を歩いた。
それに、人の種類も顔つきも語り合う話も、みなちがった。
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それに人の種類も顔色も語り合う話もみな違った。
同じ金もうけの話にしても、弥勒あたりでは田舎の人らしいけちくさいことを言っている。
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同じ金儲けの話にしても、弥勒あたりでは田舎者の吝嗇くさいことを言っている。
小学校の校長さんといえば、よほど出世したように思っている。
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小学校の校長さんといえば、よほど立身したように思っている。
また校長自身も鼻を高くして、その立場に満足している。
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また校長みずからも鼻を高くしてその地位に満足している。
清三は熊谷で会う友だちと、行田で語る人たちと、弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみないわけにはいかなかった。
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清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみぬわけにはいかなかった。
彼は今の身の上を考えて、理想が現実にふれてだんだんくずれていく一種のさびしさとわびしさとを、強く感じた。
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かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいに崩れていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。
ある日曜日の午前に、彼は小畑と桜井とつれ立って、中学校に行ってみた。
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ある日曜日の午前に、かれは小畑と桜井とつれだって、中学校に行ってみた。
中学校は、町のはずれにあった。
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中学校は町のはずれにあった。
二階建ての大きな建物で、木馬と鉄ぼうとぶらんことがあった。
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二階造りの大きな建物で、木馬と金棒と鞦韆とがあった。
運動場には詰め襟の洋服を着た寄宿舎の生徒が、ところどころにちらほら歩いているばかりで、どの教室もしんとしていた。
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運動場には小倉の詰襟の洋服を着た寄宿舎にいる生徒がところどころにちらほら歩いているばかり、どの教室もしんとしていた。
水飲み場には例のむずかしい顔をした、彼らが「はんにゃ」
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湯呑所には例のむずかしい顔をした、かれらが「般若」
というあだ名をつけた小使がいた。
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という綽名を奉った小使がいた。
寄宿舎の監とくのネイ将軍もいた。
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舎監のネイ将軍もいた。
当番に当たった数学の先生もいた。
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当直番に当たった数学の教師もいた。
二階の階だん、長いろうか、教室の黒板、ガラス窓からこずえだけ見えるあおぎり。一つとして思い出のないものはなかった。
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二階の階段、長い廊下、教室の黒板、硝子窓から梢だけ見える梧桐、一つとして追懐の伴わないものはなかった。
彼らはそのころのことを語りながら、あちこちと歩いた。
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かれらはその時分のことを語りながらあっちこっちと歩いた。
当番の部屋で、一時間ほど話した。
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当直室で一時間ほど話した。
同級生のことを聞かれるままに、わかっている限りを三人は話した。
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同級生のことを聞かれるままその知れる限りを三人は話した。
東京に出た者が十人、ふるさとに残っている者が十五人、小学校の先生になった者が八人、ほかの五人はわからなかった。
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東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。
三人は講堂に行ってオルガンを鳴らしたり、運動場に出てボールを投げてみたりした。
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三人は講堂に行ってオルガンを鳴らしたり、運動場に出てボールを投げてみたりした。
別れる前に、三人は町の蕎麦屋にはいった。
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別れる前に、三人は町の蕎麦屋にはいった。
いつもよく行く青柳庵という店である。
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いつもよく行く青柳庵という家である。
奥の一間はこざっぱりした小さな庭に向かっていて、かえでの若葉は人の顔を青く見せた。
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奥の一間はこざっぱりした小庭に向かって、楓の若葉は人の顔を青く見せた。
ざる蕎麦に生たまご、お酒を一本つけさせて、三人はいかにも楽しそうに飲み食いした。
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ざるに生玉子、銚子を一本つけさせて、三人はさも楽しそうに飲食した。
「この間、小滝に会ったぜ!」
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「この間、小滝に会ったぜ!」
小畑は清三の顔を見て、「あいつ、このごろなかなか売れているんだそうだ。この土地の者では一番売れているんだろうよ。ふろ屋の路地を通ると、今から座敷に出るところか何かで、にこにこしてやって来たっけ」
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小畑は清三の顔を見て、「先生、このごろなかなか流行るんだそうだ。土地の者では一番売れるんだろうよ。湯屋の路地を通ると、今、座敷に出るところかなんかで、にこにこしてやって来たッけ」
「林さんは? って聞かなかったか?」
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「林さんは? ッて聞かなかったか?」
そばから桜井が笑いながら言った。
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かたわらから桜井が笑いながら言った。
清三も笑った。
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清三も笑った。
「Yはどうしたねえ」
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「Yはどうしたねえ」
清三は続いて聞いた。
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清三は続いて聞いた。
「相変わらずご熱心さ」
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「相変わらずご熱心さ」
「もう約束ができたのか」
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「もうエンゲージができたのか」
「本人どうしはできているんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ」
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「当人同士はできてるんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ」
「おもしろいことになったものだねえ」
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「おもしろいことになったものだねえ」
と清三は考えて、「Yはもともとは V の恋人だったんだろう。それがそういうふうになるとは、じっさい運命というものはわからないねえ」
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と清三は考えて、「YはいったいVのラヴァだったんだろう。それがそういうふうになるとは実際運命というものはわからんねえ」
「Vはどうしたんだい」
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「Vはどうしたえ」
と桜井が小畑に聞く。
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と桜井が小畑に聞く。
「あいつは足利に行った」
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「先生、足利に行った」
「会社にでもつとめたのか」
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「会社にでも出たのか」
「なんでも織物の会社とか何とかいうところにつとめるようになったんだそうだ」
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「なんでも機業会社とかなんとかいうところに出るようになったんだそうだ」
三人は、追加の天ぷら蕎麦を注文した。
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三人はお代わりの天ぷら蕎麦を命じた。
「Art の君はどうした?」
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「Art の君はどうした?」
小畑が聞いた。
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小畑がきいた。
「浦和にいるよ」
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「浦和にいるよ」
「それは知ってるさ。どうしたって言うのは、そういう意味じゃないんだ」
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「それは知ってるさ。どうしたッて言うのはそういう意味じゃないんだ」
「うむ、そうか――」
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「うむ、そうか――」
と清三はうなずいて、「まだ、もとのとおりさ」
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と清三はうなずいて、「まだ、もとの通りさ」
「加藤もおくびょう者だからなあ」
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「加藤も臆病者だからなア」
と小畑も笑った。
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と小畑も笑った。
一本のお酒で、三人の顔は赤くなった。
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一本の酒で、三人の顔は赤くなった。
勘定は、がま口から銀貨や銅貨をじゃらじゃら鳴らしながら小畑がした。
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勘定は蟇口から銀貨や銅貨をじゃらつかせながら小畑がした。
かわいい娘が、つりせんと蕎麦湯とようじとを持って来た。
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可愛い娘の子が釣銭と蕎麦湯と楊枝とを持って来た。
その日の午後四時過ぎには、清三は行田と羽生の間の田舎道を弥勒へと歩いていた。
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その日の午後四時過ぎには、清三は行田と羽生の間の田舎道を弥勒へと歩いていた。
野は日に輝いて、向こうの村の若葉は美しくあざやかに光った。
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野は日に輝いて、向こうの村の若葉は美しくあざやかに光った。
けれど、心はさびしく暗かった。
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けれど心は寂しく暗かった。
彼は希望に満たされて通った熊谷街道と、さびしい心をだいて帰って行く弥勒街道とをくらべてみた。
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かれは希望に充されて通った熊谷街道と、さびしい心を抱いて帰って行く弥勒街道とをくらべてみた。
若く元気のいい友だちが、うらやましかった。
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若い元気のいい友だちがうらやましかった。
十四
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十四
六月一日、今日成願寺に移る。
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六月一日、今日成願寺に移る。
こう日記に、彼は書いた。
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こう日記にかれは書いた。
荻生君が住職といろいろ打ち合わせをしてくれたので、話は簡単にまとまった。
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荻生君が主僧といろいろ打ち合わせをしてくれたので、話は容易にまとまった。
人手が足りなくて食事の世話まではしてあげられないが、家にあるもので必要なものは何でもお使いなさい。
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無人で食事の世話まではしてあげることはできないが、家にあるもので入り用なものはなんでもおつかいなさい。
こう言って、住職は机、火ばち、ざぶとん、茶わんなどを貸してくれた。
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こう言って、主僧は机、火鉢、座蒲団、茶器などを貸してくれた。
本堂の右と左に、六畳の間があった。
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本堂の右と左に六畳の間があった。
右の部屋は日が当たって冬はいいが、夏は暑くてしかたがない。
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右の室は日が当たって冬はいいが、夏は暑くってしかたがない。
そこで、左の間を借りることにする。
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で、左の間を借りることにする。
和尚さんは寸法の合う障子をあちこちからはずして来て、はめてくれる。
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和尚さんは障子の合うのをあっちこっちからはずしてきてはめてくれる。
おくさんはバケツをろうかに持ち出して、たたみをふいてくれる。
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かみさんはバケツを廊下に持ち出して畳を拭いてくれる。
机を真ん中にすえ、持って来た本箱をわきに置き、四角い火ばちに茶わんをそろえると、それでりっぱないごこちのよい書斎ができた。
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机を真中にすえて、持ってきた書箱をわきに置いて、角火鉢に茶器を揃えると、それでりっぱな心地のよい書斎ができた。
荻生君はちょうど郵便局がひまなので、同僚にあとをたのんでやって来て、庭に生えた草などをむしった。
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荻生君はちょうど郵便局が閑なので、同僚にあとを頼んでやってきて、庭に生えた草などをむしった。
清三が学校から帰って来た時には、もうあたりはきれいになっていた。住職と荻生君とが茶わんを真ん中に置いて、いかにも部屋が明るくなったのを楽しむというふうに笑って話をしていた。
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清三が学校から退けて帰って来た時には、もうあたりはきれいになって、主僧と荻生君とは茶器をまんなかに、さも室の明るくなったのを楽しむというふうに笑って話をしていた。
「これはきれいになりましたな。まるで別の部屋のようになりましたな」
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「これはきれいになりましたな、まるで別の室のようになりましたな」
こう言って、清三はにこにこした。
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こう言って清三はにこにこした。
「荻生さんが草を取ってくれたんですよ」
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「荻生さんが草を取ってくれたんですよ」
住職が笑いながら言うと、
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主僧が笑いながら言うと、
「荻生君が? それは気の毒でしたねえ」
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「荻生君が? それは気の毒でしたねえ」
「いや、草を取って庭をきれいにするということは、味わいのあるものですよ」
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「いや、草を取って、庭をきれいにするということは趣味があるものですよ」
と荻生君は言った。
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と荻生君は言った。
そこに餅菓子が、竹の皮にはいったまま出してあった。
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そこに餅菓子が竹の皮にはいったまま出してあった。
これも、荻生君のおみやげである。
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これも荻生君のお土産である。
清三は、「これはごちそうですな」
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清三は、「これはご馳走ですな」
と言いながら、一つ、二つ、三つまでつまんで、むしゃむしゃと食べた。
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と言いながら、一つ、二つ、三つまでつまんで、むしゃむしゃと食った。
弁当だけの腹で長い道を歩いて来たので、かなりおなかがすいていたのである。
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弁当腹で、長い路を歩いて来たので、少なからず飢を覚えていたのである。
その日の夕ごはんは、寺で作ってくれた。
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その日の晩餐は寺で調理してくれた。
里芋とたけのこの煮つけ、しるには育ちすぎたうどが入れられてあった。
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里芋と筍の煮付け、汁には、たけたウドが入れられてあった。
住職は自分の分もここに持って来させて、ビールを二本おごって、三人でくつろいで食べた。
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主僧は自分の分もここに持って来させて、ビールを二本奢って、三人して団欒して食った。
文学の話、人生の話、近所の話、小学校の話、住職の得意な禅の話も出た。
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文学の話、人生問題の話、近所の話、小学校の話、主僧のお得意の禅の話も出た。
庭に近い柱によりかかった住職の顔が、夕暮れの空気に白く見えた。
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庭に近く柱によった主僧の顔が白く夕暮れの空気に見えた。
長いろうかを小僧が急ぎ足でこちらにやって来るのが見えたが、やがてはいって来て、一通の電報を住職にわたした。
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長い廊下に小僧が急ぎ足でこっちにやってくるのが見えたが、やがてはいって来て、一通の電報を主僧に渡した。
急いで封を切って読み終わった住職の顔色は、変わった。
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急いで封を切って読み終わった主僧の顔色は変わった。
「大島孤月が死んだ!」
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「大島孤月が死んだ!」
「孤月さんが――」
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「孤月さんが――」
二人も、おどろいて目をみはった。
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二人もおどろきの目をみはった。
大島孤月といえば、文学好きの人はたいてい知っていた。
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大島孤月といえば、文学好きの人はたいてい知っていた。
ある出版社の娘のむこで、作家としてよりも出版社の責任者としての力の大きな人であった。
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某書肆の女婿で、創作家としてよりも書肆の支配人としての勢力の大きな人であった。
昨年の秋にヨーロッパやアメリカへ旅に出かけて、一か月ほど前に帰国した。
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昨年の秋泰西漫遊に出かけて、一月ほど前に帰朝した。
送る会とむかえる会、その記事はいつも新聞をにぎわした。
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送別会と歓迎会、その記事はいつも新聞紙上をにぎわした。
雑誌にも、いろいろなことが書いてあった。
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雑誌にもいろいろなことが書いてあった。
ここの住職がまだ東京にいるころは、とくにこの人の世話になって、原稿を買ってもらったり、その家に置いてもらったりした。
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ここの主僧がまだ東京にいるころは、ことにこの人の世話になって、原稿を買ってもらったり、その家に置いてもらったりした。
「もう今日は行かれませんな」
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「もう今日は行かれませんな」
「そう、馬車はありませんしな、車ではたいへんですし……それに汽車に乗っても、向こうへ着いてから困るでしょう」
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「そう、馬車はありませんしな、車じゃたいへんですし……それに汽車に乗っても、あっちへ着いてから困るでしょう」
住職は考えて、
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主僧は考えて、
「明日にしましょうかな」
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「明日にしましょうかな」
「明日でいいなら――明日の朝の馬車で久喜まで行って、奥羽線の二番に乗るほうがいいですな」
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「明日でいいなら――明日朝の馬車で久喜まで行って、奥羽線の二番に乗るほうがいいですな」
「行田から吹上のほうが便利じゃないでしょうか」
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「行田から吹上のほうが便利じゃないでしょうか」
「いや、久喜のほうが便利です」
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「いや、久喜のほうが便利です」
と荻生君は言った。
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と荻生君は言った。
住職はそう心を決めたらしく、やがて、「人間というものはいつ死ぬかわかりませんな」
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主僧はそれと心を定めたらしく、やがて、「人間というものはいつ死ぬかわかりませんな」
となげいて、
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と慨嘆して、
「ちょっと病気で病院にはいっているということは聞きましたけれど、死ぬなどとは夢にも思わなかったですよ。あの人は幸せでもあるし、思いどおりにもいっていたし、これからますます自分の思いえがいていたことを実行していかれる身なんですから」
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「ちょっと病気で病院にはいってるということは聞きましたけれど、死ぬなどとは夢にも思わなかったですよ。先生など幸福ではあるし、得意でもあるし、これからますます自分の懐抱を実行していかれる身なんですから」
こう言って、自分が田舎の寺にかくれたきっかけを思い返して、住職は暗い顔になった。
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こう言って、自分の田舎寺に隠れた心の動機を考えて、主僧は黯然とした。
「世の中はかたつむりの角の上の争い――私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の弱いところを利用したり、なかまを作って人をおとしいれたり、一歩でも人の先に出よう出ようとばかりあくせくしている。実にあさましく感じたですよ。世の中はいいものがいいのじゃない、悪いものが悪いのじゃない、幸せが幸せじゃない。どんな人でもやはり人間は人間で、それなりの安らぎと幸せとはある。それに値打ちもある。何も名誉を追って一生をあくせく暮らすことはない。それよりも、人間としての理想の生活を送るほうが、どれほど人間として立派かしれない。どんなにおちぶれて死んでも、そのほうが意味がありますからなあ」
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「世の中は蝸牛角上の争闘――私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の弱点を利用したり、朋党を作って人をおとしいれたり、一歩でも人の先に出よう出ようとのみあくせくしている。実にあさましく感じたですよ。世の中は好いが好いじゃない、悪いが悪いじゃない、幸福が幸福じゃない。どんな人でもやっぱり人間は人間で、それ相応の安慰と幸福とはある。それに価値もある。何も名誉をおって、一生をあくせく暮らすには当たらない。それよりも、人間としての理想のライフを送るほうがどれほど人間としてえらいかしれない。どんなに零落して死んでもそのほうが意味がありますからなア」
「ほんとうにそうですとも」
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「ほんとうにそうですとも」
清三は、住職の言葉に引きこまれるような気がした。
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清三は主僧の言葉に引き込まれるような気がした。
「不幸な人だった!」
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「不幸福な人だった!」
と住職は思わず感動して、ひとり言のように言った。
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と主僧は思わず感激して独り言のように言った。
思いどおりにいっていた地位を知っているだけ、それだけその裏側が悲しかった。
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得意なる地位を知ってるだけそれだけ、その背景が悲しかった。
ふだんはじょうだんばかり言う男で、軽い皮肉をいつも人に浴びせかけた。
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平生戯談ばかり言う男で、軽い皮肉をつねに人に浴びせかけた。
まだ三十四、五であったが、世の中の苦しみをなめつくしてとげとげしさがなくなり、気持ちは四十近い人のようであった。
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まだ三十四五であったが、世の中の辛酸をなめつくして、その圭角がなくなって、心持ちは四十近い人のようであった。
養子としてのさびしい心の悩みも、思いやった。
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養子としての淋しい心の煩悶をも思いやった。
「何のかのと言っても、だれもみな死んでしまうんですな……それを考えると、ほんとうにつまらない」
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「なんのかのと言って、誰もみな死んでしまうんですな……それを考えると、ほんとうにつまらない」
住職は、深く心を動かされたような調子で言った。
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主僧は深く動かされたような調子で言った。
こんなことで、その夜は部屋の空気がなんとなく低い悲しみに包まれた。
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こんなことでその夜は一室の空気がなんとなく低い悲哀につつまれた。
やがて住職は住まいに引き上げたが、清三と荻生君との話もりくつっぽくなってしまって、いつものように明るく語ることができなかった。
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やがて主僧は庫裡に引き上げたが、清三と荻生君との話も理に落ちてしまって、いつものように快活に語ることができなかった。
二人は暗いランプに向かって、長い間だまっていた。
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二人は暗い洋燈に対して久しく黙した。
翌日、住職は早く出かけた。
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翌日主僧は早く出かけた。
清三は大島孤月の病死とお葬式についての記事を、それから毎日毎日新聞で見た。
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清三は大島孤月の病死と葬儀とについての記事をそれから毎日々々新聞紙上で見た。
彼はそのたびに、いろいろな思いに打たれた。
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かれはその度ごとにいろいろな思いにうたれた。
その人の作品には感心していないが、出版する人としての力が文学の世界におよぼす関係などを想像してみたり、自分が尊敬している明星一派のめぐまれなさをそれにくらべて考えてみたりした。
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その人の作には感心してはおらぬが、出版者としての勢力が文壇に及ぼす関係などを想像してみたり、自分の崇拝している明星一派の不遇などをそれにくらべて考えてみたりした。
時には、「とにかく不幸だといっても、死んでこうして新聞に書かれれば名誉である」
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時には、「とにかく不幸福といっても死んでこうして新聞に書かれれば光栄である」
などと考えて、音もかおりもなく生まれて生きて死んでいく、ごくふつうの多くの人たちの身の上も思いやった。
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などと考えて、音も香もなく生まれて活きて死んでいく普通の多数の人々の上をも思いやった。
その間に、雨が降ったり風がふいたりした。
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その間に雨が降ったり風が吹いたりした。
雨の降る日には本堂の四方の新緑がとくにあざやかに見えて、住まいの高い屋根にかけたトタンのといからビショビショと雨だれが落ちるのを見た。
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雨の降る日には本堂の四面の新緑がことにあざやかに見えて、庫裡の高い屋根にかけたトタンの樋からビショビショ雨滴れの落ちるのを見た。
風のふく日には裏の林がざわざわ鳴って、なんだか海の近くにでも住んでいるように思われた。
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風の吹く日には、裏の林がざわざわ鳴って、なんだか海近くにでも住んでいるように思われた。
弁当は朝と晩に、馬車の乗りかえ所のそばの米ずしという小さな飲食店から、赤いメリンスの帯をしめた十三、四の娘が運んで来た。
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弁当は朝に晩に、馬車継立所のそばの米ずしという小さな飲食店から赤いメリンスの帯をしめた十三四の娘が運んで来た。
行田の家からも、やがてふとんや机や本箱などを届けてよこした。
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行田の家からもやがて夜具や机や書箱などをとどけてよこした。
彼は寺から町の大通りにまっすぐ出て、うどんひもかわと障子に書いたきたない飲食店の角をうら通りにはいる。細いえんとつから白い薄いけむりのあがる養蚕所や、あやしげな軒の灯が出ている料理屋の前などを通って、それから用水の橋のたもとへと、いつも出る。
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かれは寺から町の大通りに真直に出て、うどんひもかわと障子に書いた汚ない飲食店の角を裏通りにはいって、細い煙筒に白い薄い煙のあがる碓氷社分工場の養蚕所や、怪しげな軒燈の出ている料理屋の前などを通って、それから用水の橋のたもとへといつも出る。
時には大越に通う馬車がちょうどそこにいて、安くしてもらって乗せてもらって行くことなどもあった。
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時には大越に通う馬車がおりよくそこにいて、安くまけて乗せてもらって行くことなどもあった。
五、六日して、住職は東京から帰って来た。
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五六日して主僧は東京から帰って来た。
お葬式の様子は新聞で見て知っていたが、くわしく聞いて、さらにあざやかにその様子を目の前に見るような気がした。
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葬儀の模様は新聞で見て知っていたが、くわしく聞いて、さらにあざやかにそのさまを眼の前に見るような気がした。
文学の世界の大先生も小さな作家も、ことごとく雨の中をついてそのお葬式について行ったという。
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文壇の大家小家はことごとく雨をついてその葬式について行ったという。
雨がザンザン降って、新緑の中に造花や生花のさまざまな色が、まるで絵のような組み合わせになったという。
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雨がザンザン降って、新緑の中に造花生花のさまざまの色彩がさながら絵のような対照をなしたという。
とくに寺の本堂がせまかったので、中にはいれなかった人たちは、蛇の目傘や絹ばりのかさを、雨だれのビショビショ落ちるひさしのところにさしかけて立っていた。
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ことに、寺の本堂が狭かったので、中にはいれなかった人々は、蛇の目傘や絹張りの蝙蝠傘を雨滴れのビショビショ落ちる庇のところにさしかけて立っていた。
お経は、長かった。
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読経は長かった。
それがすむと形どおりの焼香があって、やがてひつぎはうらの墓地へと運ばれる。
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それがすむと形のごとき焼香があって、やがて棺は裏の墓地へと運ばれる。
墓地への道には新しいむしろがしきつめられて、そこを白い着物や羽織はかまが雨にぬれながら行ったり来たりする。
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墓地への路には新しい筵が敷きつめられて、そこを白無垢や羽織袴が雨にぬれて往ったり来たりする。
小説のある大先生は柱によりかかって、悲しそうな顔をしている。
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小説の某大家は柱によって、悲しそうな顔をしている。
生きている時いちばん親しかったある画家は、羽織を雨でめちゃめちゃにして、あちこちと世話をして歩いている。
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生前最も親しかった某画家は羽織を雨にめちゃめちゃにして、あっちこっちと周旋して歩いている。
「じっさい、心を打たれましたよ。苦労をしぬいて、ようやく思いどおりの身の上になって、これから多少志もとげようという時に当たって、何が来たかと思うと、死!」
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「君、実際、感に打たれましたよ。苦労をしぬいて、ようやく得意の境遇になって、これから多少志もとげようという時に当たって何が来たかと思うと、死!」
こう、若い和尚さんは話した。
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こう若い和尚さんは話した。
「名誉を追って都会のちりにまみれたって、しかたがありませんな……どんなに思いどおりになったって、死が一度来れば、人々から一てきのなみだを注がれるばかりじゃありませんか。死んでからいくらなみだを注がれたって、しかたがない!」
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「名誉をおって、都会の塵にまみれたって、しかたがありませんな……どんなに得意になったって、死が一度来れば、人々から一滴の涙をそそがれるばかりじゃありませんか。死んでからいくら涙をそそがれたってしかたがない!」
住職のまゆは、あがっていた。
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主僧の眉はあがっていた。
その夜はおそくまで、清三はいろいろなことを考えた。
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その夜は遅くまで、清三はいろいろなことを考えた。
「名誉」
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「名誉」
「思いどおりの身の上」
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「得意の境遇」
それを彼は、目の前に見上げている。
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それをかれは眼の前に仰いでいる。
若い心は、ただそれだけにあこがれている。
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若い心はただそれのみにあこがれている。
けれど今夜は、なんだかその希望と野心の上に一つの新しい答えを得たように思われる。
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けれど今宵はなんだかその希望と野心の上に一つの新しい解決を得たように思われる。
彼はとじの切れた藤村の「若菜集」
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かれは綴の切れた藤村の「若菜集」
を出して、読みふけった。
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を出して読みふけった。
本堂では、如来様が静まり返っていた。
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本堂には如来様が寂然としていた。
十五
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十五
うらの林の中にあしの生えたしめった土地があって、もとは池だった水のなごりが黒くさびて光っている。
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裏の林の中に葦の生えた湿地があって、もと池であった水の名残りが黒く錆びて光っている。
六月の末には、よしきりという鳥がどこからともなくそこへ来て鳴いた。
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六月の末には、剖葦がどこからともなくそこへ来て鳴いた。
寺では、楽しみに蚕を飼った。
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寺では慰みに蚕を飼った。
住まいの八畳の一間はたなやむしろでいっぱいになって、温度をはかる寒暖計が柱にかけられてあった。
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庫裡の八畳の一間は棚や、筵でいっぱいになって、温度を計るための寒暖計が柱にかけられてあった。
おくさんが白い手ぬぐいをかぶって、朝と夕にうらの畑に桑をつみに行く。
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かみさんが白い手拭いをかぶって、朝に夕に裏の畑に桑を摘みに行く。
雨の降る日には、その晴れ間を待って和尚さんもいっしょになって桑つみの手伝いをしてやる。
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雨の降る日には、その晴れ間を待って和尚さんもいっしょになって桑摘みの手伝いをしてやる。
ぬれた緑の葉は、台所の広い板の間に山のように積まれる。
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ぬれた緑の葉は勝手の広い板の間に山のように積まれる。
それを小僧が一枚一枚ふいていると、和尚さんはそばで桑切り包丁でていねいに細くきざむ。
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それを小僧が一枚々々拭いていると、和尚さんはそばで桑切り庖丁で丹念に細く刻む。
蚕がまゆを作るところに上がりかけるころになると、町はにわかに活気を帯びてくる。
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蚕の上簇りかけるころになると、町はにわかに活気を帯びてくる。
ふだんは火の消えたように静かなうら通りにも、まゆ買い入れ所などというヒラヒラした紙が張られて、近くから売りに来る人たちが多く集まった。
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平生は火の消えたように静かな裏通りにも、繭買い入れ所などというヒラヒラした紙が張られて、近在から売りに来る人々が多く集まった。
ほおひげの生えた角帯の仲買いの四十くらいの男がはかりではかって、それからむしろへと、その白く美しいまゆを移した。
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頬鬚の生えた角帯の仲買いの四十男が秤ではかって、それから筵へと、その白い美しい繭をあけた。
ねだんは、日ごとに変わった。
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相場は日ごとに変わった。
銅貨や銀貨をじゃらじゃらと鳴らして、いきおいよくお金をはらってやった。
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銅貨や銀貨をじゃらじゃらと音させて、景気よく金を払ってやった。
料理店では、三味線の音が昼から聞こえた。
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料理店では三味線の音が昼から聞こえた。
ある日曜日であった。
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ある日曜日であった。
郁治が、土曜日の晩から来てとまっていた。
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郁治が土曜日の晩から来て泊まっていた。
「行田文学」
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「行田文学」
の第一号ができて持って来たので、昨夜から文学の話がさかんに出た。
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の初号ができて持ってきたので、昨夜から文学の話が盛んにでた。
ところが、ちょうど十時過ぎ、山門の石だたみの道にガラガラと車の音がした。
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ところが、ちょうど十時過ぎ、山門の鋪石道にガラガラと車の音がした。
今まで車がはいって来たことなどはないので、不思議に思って清三が本堂の障子をあけてみた。すると、白いらしゃの背広にイタリアンストローの夏ぼうしをかぶった太った男と、白っぽい夏のコートをはおった背の高い男とが、住まいの入り口に車をつけて、今まさに降りようとするところであった。
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ついぞ今まで車のはいって来たことなどはないので、不思議に思って、清三が本堂の障子をあけてみると、白い羅紗の背広にイタリアンストロウの夏帽子をかぶった肥った男と白がかった夏外套をはおった背の高い男とが庫裡の入り口に車をつけて、今しもおりようとするところであった。
やがて小僧が取り次ぐと、和尚さんの姿がそこに出て来た。
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やがて小僧がとり次ぐと、和尚さんの姿がそこに出て来た。
久しぶりの友にたずねられた喜びが、声にも言葉にも態度にも表れて見えた。
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久濶の友に訪われた喜びが、声やら言葉やら態度やらにあらわれて見えた。
やがて、その客は東京から来た名の知れた文学者で、一人は原杏花、一人は相原健二という有名な「太陽」
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やがてその客は東京から来た知名の文学者で、一人は原杏花、一人は相原健二という有名な「太陽」
という雑誌の記者だということがわかった。
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の記者だということがわかった。
どちらも、住職が東京にいたころの友だちである。
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いずれも主僧が東京にいたころの友だちである。
清三の部屋は中庭の庭木をへだてて住まいの座敷に向かい合っていたので、客と住職とが話をしている様子がはっきり見えた。
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清三の室は中庭の庭樹を隔てて、庫裡の座敷に対していたので、客と主僧との談話しているさまがあきらかに見えた。
緑の葉の間に白いらしゃの夏服がちらちらしたり、ときどき声高く明るく笑う声がしたりする。
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緑の葉の間に白い羅紗の夏服がちらちらしたり、おりおり声高く快活に笑う声がしたりする。
その洋服や笑い声は、若い青年にとってこのうえもなくうらやましいものであった。
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その洋服や笑い声は若い青年にとってこの上もない羨望の種であった。
「原っていう人はあんな太った人かねえ。あれであんなやさしいものを書くとは思わなかった」
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「原っていう人はあんな肥った人かねえ。あれであんなやさしいことを書くとは思わなかった」
郁治はこう言って笑った。
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郁治はこう言って笑った。
台所へ行ってみると、おくさんと小僧とがごちそうのしたくにいそがしそうにしていた。
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勝手へ行ってみると、かみさんと小僧とはご馳走の支度に忙しそうにしていた。
和尚さんもときどき出て来て、いろいろさしずをする。
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和尚さんも時々出て来ていろいろ指揮をする。
米ずしの若い人が、おかもちに鯉のあらいを持って来る。
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米ずしの若い衆は岡持に鯉のあらいを持って来る。
通りの酒屋は、大きなとっくりを下げて来る。
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通りの酒屋は貧乏徳利を下げて来る。
小僧はかまどの下と、すえ風呂のかまとに火をつける。
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小僧は竈の下と据風呂の釜とに火を燃しつける。
活気がめずらしく、がらんとした台所に満ちわたった。
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活気はめずらしくがらんとした台所に満ちわたった。
お酒は、やがて始まった。
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酒はやがて始まった。
だんだん、話し声が高くなってきた。
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だんだん話し声が高くなってきた。
和尚さんもいつもとちがって元気な声を出し、楽しそうに笑った。
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和尚さんもいつもに似ぬ元気な声を出して愉快そうに笑った。
正午近くになるとだいぶよったらしく、笑う声がたえず聞こえた。
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正午近くになるとだいぶ酔ったらしく、笑う声がたえず聞こえた。
えん側から便所へ行く客の顔は、火のように赤かった。
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縁側から厠へ行く客の顔は火のように赤かった。
やがて和尚さんのへたな詩吟が出たかと思うと、今度は琵琶歌かとも思われるようなほがらかな歌声が聞こえた。
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やがて和尚さんのまずい詩吟が出たかと思うと、今度は琵琶歌かとも思われるような一種の朗らかな吟声が聞こえた。
若い人たちは、つれ立って町に出かけた。
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若い人たちはつれだって町に出かけた。
ふところにお金はないが、月末にまとめてはらう米ずしに行けば、お酒の一、二本はいつも飲むことができた。
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懐に金はないが、月末勘定の米ずしに行けば、酒の一二本はいつも飲むことはできた。
その町はずれの飲食店の奥の六畳には、着物や子どものおむつなどがいっぱいに散らかしてあったが、それをおかみさんが急いで片づけてくれた。
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その場末の飲食店の奥の六畳には、衣服やら小児の襁褓やらがいっぱいに散らかされてあったが、それをかみさんが急いで片づけてくれた。
古いたんすや行李などのあるそばで、ねこのひたいのようなせまい庭に向かって、なまり節の固い煮つけで彼らはお酒を飲んだりごはんを食べたりした。
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古箪笥や行李などのあるそばで狭い猫の額のような庭に対して、なまりぶしの堅い煮付けでかれらは酒を飲んだり飯を食ったりした。
帰りに荻生君を郵便局にたずねてみるということになったが、こんな赤い顔で町の大通りは歩けないというので、桑のしげった、麦がなかば刈られたうら通りの田んぼを行った。
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帰りに、荻生君を郵便局に訪ねてみるということになったが、こんなに赤い顔で、町の大通りは歩けないというので、桑のしげった麦のなかば刈られた裏通りの田圃を行った。
荻生君は熊谷に行っていて、いなかった。
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荻生君は熊谷に行っていなかった。
二人は引き返して、野を歩いた。
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二人は引きかえして野を歩いた。
小川には青いもがういて、小さな雑魚がスイスイ泳いでいた。
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小川には青い藻が浮いて、小さな雑魚がスイスイ泳いでいた。
寺に帰ると、座敷ではまだお酒を飲んでいた。
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寺に帰ると、座敷ではまだ酒を飲んでいた。
さわぐ声が、嵐のように聞こえる。
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騒ぐ声が嵐のように聞こえる。
背の高いほうが和尚さんの手を引っ張って、どこかへ連れて行こうとする。
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丈の高いほうが和尚さんの手を引っ張って、どこへかつれて行こうとする。
洋服の原が、あとから押す。
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洋服の原があとから押す。
和尚さんは、いつのまにかおぼうさんの服を着せられている。
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和尚さんはいつか僧衣を着せられている。
「まあ、いいよ、いいよ。君らがそんなに望むなら、お経くらい読むさ。その代わり、君らが木魚をたたかなくてはいかんぜ!」
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「まア、いいよ、いいよ、君らがそんなに望むなら、お経ぐらい読むさ、その代わり君らが木魚をたたかなくってはいかんぜ!」
和尚さんも、かなりよっていた。
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和尚さんも少なからず酔っていた。
「よし、よし、木魚はおれがたたく」
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「よし、よし、木魚はおれがたたく」
と、雑誌記者は言った。
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と雑誌記者は言った。
三人はもたれ合いながら、足もとも危なく、長いろうかを本堂へとやって来る。
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三人はよりつよられつして、足もと危く、長い廊下を本堂へとやって来る。
住まいのほうからはおくさんと小僧とが顔を出して、笑ってそのよいっぷりを見ている。
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庫裡からはかみさんと小僧とが顔を出して笑ってその酔態を見ている。
三人はろうかから本堂にはいろうとしたが、階だんのところでつまずいて、しょうぎだおしにころころと折り重なってたおれた。
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三人は廊下から本堂にはいろうとしたが、階段のところでつまずいて、将棋倒しにころころと折りかさなって倒れた。
笑う声が、さかんに起こった。
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笑う声が盛んにした。
雑誌記者はばちを取って、木魚をたたいた。
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雑誌記者は槌をとって木魚をたたいた。
ポクポクポクポク、なかなかその調子がいい。
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ポクポクポクポク、なかなかその調子がいい。
和尚さんも原という文学者もそれを見て、「これはうまい。たたいたことがあるとみえるな」
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和尚さんも原という文学者もそれを見て、「これはうまい、たたいたことがあるとみえるな」
と笑った。
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と笑った。
雑誌記者は木魚をたたきながら、「それはそうとも、これで寺の小僧を三年やったんだから」
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雑誌記者は木魚をたたきながら、「それはそうとも、これで寺の小僧を三年したんだから」
こう言って、トラヤアヤアヤアヤアとお経を読むまねをした。
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こう言って、トラヤアヤアヤアヤアとお経を読む真似をした。
「和尚――お経を読まなくちゃいかんじゃないか」
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「和尚――お経を読まなくっちゃいかんじゃないか」
こんなことを言って、なおしきりに木魚をたたいた。
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こんなことを言ってなおしきりに木魚をたたいた。
住職と原とは如来様の前に立ったり、古い位はいの前に立ちどまったりして、いろいろな話をした。
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主僧と原とは如来様の前に立ったり、古い位牌の前にたたずんだりして、いろいろな話をした。
代々の寺のおぼうさんの大きな位はいの真ん中に、むずかしい顔をしたこの寺を立て直したおぼうさんの木の像がすえてあった。
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歴代の寺僧の大きな位牌のまんなかに、むずかしい顔をした本寺中興の僧の木像がすえてあった。
それは、おそろしく目をむき出すような顔をしていた。
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それは恐ろしくむき出すような眼をしていた。
和尚さんは、そのおぼうさんのことについて語った。
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和尚さんはその僧のことについて語った。
本堂を建て直したことや、その本堂が先代の時に焼けてしまったことや、この人の弟子に越前の永平寺へ行った人があったことなどを話した。
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本堂を再建したことや、その本堂が先代の時に焼けてしまったことや、この人の弟子に越前の永平寺へ行った人があったことなどを話した。
メリンスのしき物の上にかねがのせられていて、そのそばに頭のはげたびんずる尊者という像があった。
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メリンスの敷き物の上に鐘がのせられてあって、そのそばに、頭のはげた賓頭顱尊者があった。
原は、かねをカンカンと鳴らしてみた。
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原は鐘をカンカンと鳴らしてみた。
雑誌記者からお経をせがまれるので、和尚さんはすきをみて住まいのほうへにげて行ってしまった。
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雑誌記者から読経をしいられるので、和尚さんは隙をみて庫裡のほうへ逃げて行ってしまった。
よった二人は、木魚とかねとをやけにたたいて笑った。
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酔った二人は木魚と鐘とをやけにたたいて笑った。
ドタドタとけたたましい音をさせて、やがて二人はろうかから住まいのほうへ行ってしまった。
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ドタドタとけたたましい音をさせて、やがて二人は廊下から庫裡へ行ってしまった。
あとで、六畳にいる若い友だちは笑った。
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あとで、六畳にいる若い友だちは笑った。
「文学者なんていうものは、思いのほかのんきでむじゃきなものだねえ」
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「文学者なんていうものは存外のんきな無邪気なものだねえ」
清三がこう言うと、
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清三はこういうと、
「想像していたのとはまるでちがうね」
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「想像していたのとはまるで違うね」
若い人たちには、前々からその名を聞いて想像していた文学者や雑誌記者が、こんな子どもらしいまねをしようとは思いもしなかった。
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若い人々には、かねがねその名を聞いて想像していた文学者や雑誌記者がこうした子供らしい真似をしようとは思いもかけなかった。
しかし、こうしたことをする気持ちや生活は、彼らには十分にはわからないながらも、うらやましかった。
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しかしこうしたことをする心持ちや生活は、かれらには十分にはわからぬながらもうらやましかった。
東京の客は一夜とまって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で久喜に向かって出発した。
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東京の客は一夜泊まって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で久喜に向かって立った。
はかまをぬらして清三が学校から帰って来て、火をもらおうと住まいのほうにはいってみると、住職はさびしそうにぽつんと一人で机にすわって本を見ていた。
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袴をぬらして清三が学校から帰って来て、火種をもらおうと庫裡にはいってみると、主僧はさびしそうにぽつねんとひとり机にすわって書を見ていた。
よしきりは、しきりに鳴いた。
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剖葦はしきりに鳴いた。
つゆの間にもときどき晴れた日があって、あざやかな青い空がねずみ色の雲の間から見えることもある。
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梅雨の中にも、時々晴れた日があって、あざやかな碧の空が鼠色の雲のうちから見えることもある。
美しい光があふれるようにうらの林にさしわたると、緑の葉が生き返ったように新しい色をあたりに見せる。
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美しい光線がみなぎるように裏の林にさしわたると、緑葉が蘇えったように新しい色彩をあたりに見せる。
ばしょうの広い葉は風にふるえ、山門のかべのところではとかげが日に光ってちょろちょろしている。
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芭蕉の広葉は風にふるえて、山門の壁のところには蜥蜴が日に光ってちょろちょろしている。
前の細長い長屋では、かきねからかきねへ物干しざおをわたして、きたないぼろを並べて干した。
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前の棟割長屋では、垣から垣へ物干竿をつらねて、汚ない襤褸をならべて干した。
栗の花は多くが地に落ちて、どろにまみれてきたならしく人にふまれている。
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栗の花は多く地に落ちて、泥にまみれて、汚なく人に踏まれている。
かはもう夕暮れには軒で音を立てるほど集まって来て、夜は蚊やり火のけむりが家々からなびいた。
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蚊はもう夕暮れには軒に音を立てるほど集まって来て、夜は蚊遣り火の煙が家々からなびいた。
清三は一円五十銭で一人用の綿のかやを買って来て、机をその中に入れ、ランプを台の上にのせて外に出し、その中で毎夜おそくまで本を読んだ。
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清三は一円五十銭で、一人寝の綿蚊帳を買って来て、机をその中に入れて、ランプを台の上にのせて外に出して、その中で毎夜遅くまで書を読んだ。
自分のまわりでは――日ごとによせられる友だちの手紙には、一つとして将来の勉強の準備について言って来ないものはない。
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自分のまわりには――日ごとによせられる友だちの手紙には、一つとして将来の学問の準備について言って来ないものはない。
高等師範をめざす者は親友の郁治をはじめとして三、四人はいる。小島は高等学校の入学試験を受けるのでこのごろはいそがしく暮らしていると言って来るし、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っている。だれ一人、遊んでいる者はなかった。
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高等師範に志しているものは親友の郁治を始めとして、三四人はあるし、小島は高等学校の入学試験をうけるのでこのごろは忙しく暮らしていると言って来るし、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っているし、誰とて遊んでいるものはなかった。
清三もこれにはげまされて、いろいろな本を読んだ。
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清三もこれに励まされて、いろいろな書を読んだ。
住職にたのんで英語を教えてもらったり、その書庫の中から論理学や哲学の歴史などを借りたりした。
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主僧に頼んで、英語を教えてもらったり、その書庫の中から論理学や哲学史などを借りたりした。
机のまわりには文芸倶楽部や明星や太陽があるかと思うと、学校の教え方の本や心理学や新しい地理の本や、代数や幾何の本などが置かれてある。
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机のまわりには、文芸倶楽部や明星や太陽があるかと思うと、学校教授法や通俗心理学や新地理学や、代数幾何の書などが置かれてある。
住職が早稲田に通うころ読んだというシェークスピアのロメオやテニソンのエノック・アーデンなども、その中にまじっていた。
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主僧が早稲田に通うころ読んだというシェークスピアのロメオやテニソンのエノックアーデンなどもその中に交っていた。
若いあこがれの心は、果てしがなかった。
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若いあこがれ心は果てしがなかった。
しゅんかんごとに、よく変わった。
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瞬間ごとによく変わった。
明星を読むと渋谷の詩人のくらしを思い、文芸倶楽部を読むと長い小説を巻頭にのせる大先生を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき国立の学校への入学の計画を立ててみたくなる。
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明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。
時には、住職にプラトンの「イデア」
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時には、主僧にプラトンの「アイデア」
について質問して、体をこえた清らかな愛などということを考えてみることもあった。
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を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。
「行田文学」
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「行田文学」
に出す新しい形の詩も、そのせまくて暑苦しいかやの中で、外のランプの光が青いかげをすかしてチラチラする机の上で書いた。
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にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳の中で、外のランプの光が蒼い影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
学校の校長は、しかくの試験を受けることをいつもすすめた。
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学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。
「しかくさえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけはないから、やっておきなさい!」
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「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」
と言った。
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と言った。
このごろでは、二週間ぐらい行田に帰らずにいることがある。
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このごろでは二週間ぐらい行田に帰らずにいることがある。
母が待っているだろうとは思う。けれど、ふところが寒かったり、十キロを歩いて行くのがめんどうだったり、それよりも少しでも勉強しようと思ったりして、たいてい寺の本堂の一間で土曜日曜を過ごした。
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母が待っているだろうとは思うが、懐が冷やかであったり、二里半を歩いて行くのがたいぎであったり、それよりも少しでも勉強しようと思ったりして、つねに寺の本堂の一間に土曜日曜を過ごした。
しかし、これといって勉強らしい勉強もしなかった。
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しかしこれといって、勉強らしい勉強をもしなかった。
土曜日には、小畑が熊谷から来てとまって行った。
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土曜日には小畑が熊谷からきて泊まって行った。
郁治が三日ぐらい続けてとまって行くこともあった。
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郁治が三日ぐらい続けて泊まって行くこともあった。
それに、荻生君は毎日のようにやって来た。
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それに、荻生君は毎日のようにやって来た。
学校から帰ってみると、あちこちを開け放して顔の上にうちわをのせ、いい気持ちで昼ねをしていることもある。
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学校から帰ってみると、あっちこっちを明けっ放して顔の上に団扇をのせて、いい心地をして昼寝をしていることもある。
彼は郵便局のひまな時をねらって同僚にあとをたのみ、何かというとよく寺に遊びに来た。
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かれは郵便局の閑な時をねらって、同僚にあとを頼んで、なんぞといっては、よく寺に遊びに来た。
若い二人はよく菓子を買って来て、お茶をいれて飲んだ。
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若い二人はよく菓子を買って来て、茶をいれて飲んだ。
くず餅、あんころ、すあまなどが好物で、月給が出た時には清三はきっと郵便局に寄って荻生君をさそい、角の菓子屋で餅菓子を買って来る。
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くず餅、あんころ、すあまなどが好物で、月給のおりた時には、清三はきっと郵便局に寄って、荻生君を誘って、角の菓子屋で餅菓子を買って来る。
三度に一度は、「和尚さん、菓子はいかがですか」
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三度に一度は、「和尚さん、菓子はいかが」
と、住まいのほうに住職を呼びに来る。
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と庫裡に主僧を呼びに来る。
清三の財布にお金のない時には、荻生君が出す。
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清三の財布に金のない時には荻生君が出す。
荻生君にもない時には、「和尚さん、たいへんすみませんが、二、三日のうちにお返ししますから、五十銭ほど貸してください」
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荻生君にもない時には、「和尚さんはなはだすみませんが、二三日のうちにおかえししますから、五十銭ほど貸してください」
などと言って、清三が借りる。
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などと言って清三が借りる。
留守のうちに住職がその部屋に行ってみると、竹の皮に食べ残しの餅菓子が二つ三つ残って、それにいっぱいにありがたかっていることなどもあった。
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不在に主僧がその室に行ってみると、竹の皮に食い余しの餅菓子が二つ三つ残って、それにいっぱいに蟻がたかっていることなどもあった。
つゆの間は、八キロのぬかるみの道がつらかった。
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梅雨の間は二里の泥濘の路が辛かった。
風のある日は吹きさらしの平野のいつものことで、糸のような雨が下から上に降って、新しく作った夏の羽織もはかまもぐしょぐしょにぬれた。
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風のある日には吹きさらしの平野のならい、糸のような雨が下から上に降って、新調の夏羽織も袴もしどろにぬれた。
のちにはたいてい時間を見はからって行き、十銭に負けてもらって乗合馬車に乗った。
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のちにはたいてい時間を計って行って、十銭に負けてもらって乗合馬車に乗った。
ある日、その女も同じ馬車に乗って、発戸河岸の角まで行った。
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ある日、その女も同じ馬車に乗って発戸河岸の角まで行った。
その女というのは、一か月ほど前から町のはずれの四つ角でよく出会った女で、やはり小学校につとめる女の先生らしかった。
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その女というのは、一月ほど前から、町の出はずれの四辻でよく出会った女で、やはり小学校に勤める女教員らしかった。
ひさし髪に、すみれ色のはかまをはいて、えび茶のメリンスの風呂敷包みをかかえていた。
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廂髪に菫色の袴をはいて海老茶のメリンスの風呂敷包みをかかえていた。
その四つ角には、庚申塚が立っていた。
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その四辻には庚申塚が立っていた。
この間、郁治といっしょに弥勒に行く時にも、いつものようにその女に会った。
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この間郁治といっしょに弥勒に行く時にも例のごとくその女に会った。
「どうしてああいうそぶりをするのか、ぼくにはわからないねえ」
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「どうしてああいう素振りをするのか僕にはわからんねえ」
と清三が笑いながら言うと、「しっかりしなくちゃいかんよ」
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と清三が笑いながら言うと、「しっかりしなくっちゃいかんよ、君」
と郁治は声をあげて笑った。
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と郁治は声をあげて笑った。
その時、どこにつとめるのだろうとうわさをしたが、馬車にいっしょに乗り合わせて、発戸にある井泉村の小学校につとめる人だということがわかった。
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その時、どこに勤めるのだろうという評判をしたが、馬車にいっしょに乗り合わせて、発戸にある井泉村の小学校に勤める人だということがわかった。
色の白い、鼻の高い十九くらいの女であった。
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色の白い鼻のたかい十九ぐらいの女であった。
雨がひどく降る時には、学校の宿直室にとまることもあった。
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雨の盛んに降る時には、学校の宿直室に泊まることもあった。
学校につとめ出してからもう三か月にもなるので、だいぶ先生らしくなった。郡の視学に授業を見られても赤い顔をするような初々しさもとれ、年上の生徒にばかにされるようなこともなくなった。
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学校に出てから、もう三月にもなるのでだいぶ教師なれがして、郡視学に参観されても赤い顔をするような初心なところもとれ、年長の生徒にばかにされるようなこともなくなった。
行田や熊谷の小学校には校長と先生との間にずいぶん激しい対立があると前から聞いていたが、弥勒のような田舎の学校には、そうしたむずかしいこともなかった。
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行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞いていたが、弥勒のような田舎の学校には、そうしたむずかしいこともなかった。
師範学校出の杉田というのがいやにいばるのがしゃくにさわる。けれど自分はあいつらのように校長になるのをただ一つの目的にして一生小学校につとめる人間とは種類がちがうのだと思うと、べつにやきもきする必要もなかった。
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師範出の杉田というのがいやにいばるのが癪にさわるが、自分は彼奴等のように校長になるのを唯一の目的に一生小学校に勤めている人間とは種類が違うのだと思うと、べつにヤキモキする必要もなかった。
校長もどちらかといえば気が小さく、細かいことを気にしすぎるのがいやだが、しかし全体としてはおだやかな人で、悪気というようなところは少しもなかった。
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校長もどっちかといえば、気が小さく神経過敏に過ぎるのがいやだが、しかしがいして温良な君子で、わる気というようなところは少しもなかった。
関さんはいつものとおりのお人よし、大島さんは話し好きで気の合う相手――清三にとって、この小学校はあまりいごこちの悪いほうではなかった。
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関さんは例の通りの好人物、大島さんは話し好きの合い口――清三にとってこの小学校はあまりいごこちの悪いほうではなかった。
清三は一人で、よくオルガンをひいた。
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清三は一人でよくオルガンをひいた。
型の小さい安いオルガンで、音もそれほどよくはなかったが、自分で勝手に歌などを作って、あやふやな音楽の知識で楽ふを合わせてみたりする。
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型の小さい安いオルガンで、音もそうたいしてよくはなかったが、みずから好奇に歌などを作って、覚束ない音楽の知識で、譜を合わせてみたりなんかする。
藤村詩集にある「海辺の曲」
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藤村詩集にある「海辺の曲」
という楽ふのついた歌は、よく調子に乗った。
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という譜のついた歌はよく調子に乗った。
それから若菜集の中の好きな句をえらんで、楽ふをつけてひいてもみた。
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それから若菜集の中の好きな句を選んで譜をつけてひいてもみた。
つゆの降りしきる夕暮れの田舎道、小さくしんとした学校の窓から、そうしたさまざまな歌がたえず聞こえたが、しかし耳をかたむけて行く旅人もなかった。
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梅雨の降りしきる夕暮れの田舎道、小さなしんとした学校の窓から、そうしたさまざまの歌がたえず聞こえたが、しかし耳を傾けて行く旅客もなかった。
清三の教える部屋の窓からは、羽生から大越に通う街道が見えた。
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清三の教える室の窓からは、羽生から大越に通う街道が見えた。
雨にぬれたきたないぬのを四方に垂らした乗合馬車が、ときどきラッパを鳴らしてガラガラと通る。
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雨にぬれて汚ない布を四面に垂れた乗合馬車がおりおり喇叭を鳴らしてガラガラと通る。
田舎の娘が赤い蹴出しをのぞかせ、メリンスの帯の後ろ姿を見せて、番傘をさして通って行く。
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田舎娘が赤い蹴出しを出して、メリンスの帯の後ろ姿を見せて番傘をさして通って行く。
晴れた日には、台を頭の上にのせて太こをたたいて行くあめ屋、ふうふで編みがさをかぶりきゃはんをつけて歩いて行く歌うたい、七色のゴム風船を飛ばして売って歩く老人。時には美しく着かざった近所の大きな家の娘なども通った。
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晴れた日には、番台を頭の上にのせて太鼓をたたいて行くあめ屋、夫婦づれで編笠をかぶって脚絆をつけて歩いて行くホウカイ節、七色の護謨風船を飛ばして売って歩く爺、時には美しく着飾った近所の豪家の娘なども通った。
県庁の役人が車を五、六台並べて通って行った時には、先生も生徒もみんな授業をよそにして、そのいきおいのよさに見とれていた。
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県庁の役人が車を五六台並べて通って行った時には、先生も生徒もみんな授業をよそにして、その威勢のいいのにみとれていた。
清三の父親は、どうかすると商売のつごうでこの近所まで来ることがある。
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清三の父親は、どうかすると、商売のつごうで、この近所まで来ることがある。
しまのひとえに古びた薄い夏の羽織を着て、なかばはげた頭にはぼうしもかぶらず、小使部屋からこっそりはいって来て、「清三はいましたか」
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縞の単衣に古びた透綾の夏羽織を着て、なかばはげた頭には帽子もかむらず、小使部屋からこっそりはいってきて、「清三はいましたか」
と聞いた。
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と聞いた。
初めはさすがに、こんな父親を同僚に見られるのをはずかしく思ったが、のちには慣れて、それほどいやとも思わなくなった。
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初めはさすがにこうした父親を同僚に見られるのを恥ずかしく思ったが、のちにはなれて、それほどいやとも思わなくなった。
近所に用事が残っているというので、清三は寺に帰るのをやめて、親子いっしょにうすいふとんにくるまって宿直室にねることなどもあった。
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近所に用事が残っているというので、清三は寺に帰るのをやめて、親子いっしょに煎餅蒲団にくるまって宿直室に寝ることなどもあった。
その時はきっと、二人で手ぬぐいを下げて前のふろ屋に行く。
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その時はきっと二人して手拭いを下げて前の洗湯に行く。
小川屋から、例の娘が弁当を作って持って来る。
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小川屋から例の娘が弁当をこしらえて持って来る。
食事がすむと、親子は友だちのように仲よく話した。
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食事がすむと、親子は友だちのように睦まじく話した。
家が困っている話なども出た。
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家の困る話なども出た。
ありもしない財布から五十銭借りられて行くことなどもある。
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ありもせぬ財布から五十銭借りられて行くことなどもある。
七月にはいっても、雨は続いて降った。
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七月にはいっても雨は続いて降った。
晴れ間には日がかっと照って、ねずみ色の雲のとぎれから青い空が見える。
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晴れ間には日がかっと照って、鼠色の雲の絶え間から碧の空が見える。
畑には里芋の葉が大きくなり、とうもろこしの広い葉がガサガサと風になびいた。
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畑には里芋の葉が大きくなり、玉蜀黍の広葉がガサガサと風になびいた。
熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、ときどき絵はがきで様子を知らせた。
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熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を報じた。
英語がむずかしかったことなども知らせて来た。
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英語がむずかしかったことなどをも知らせて来た。
郵便配達は毎日雨にぬれて、山門から本堂にやって来る。
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郵便脚夫は毎日雨にぬれて山門から本堂にやって来る。
若い心にはどんなことでもおもしろい話の種になるので、あちこちからはがきや手紙が三、四通は必ず届いた。
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若い心にはどのようなことでもおもしろい種になるので、あっちこっちから葉書や手紙が三四通は必ず届いた。
喝!――
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喝!――
と一字書いたはがきがあるかと思うと、蕎麦屋でお酒を飲んでその席で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。
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と一字書いた端書があるかと思うと、蕎麦屋で酒を飲んで席上で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。
石川からは相変わらずの明星への攻げきで、文壇照魔鏡という、渋谷の詩人ふうふの私生活をあばいた小さな本をわざと送り届けてよこした。
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石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇照魔鏡という渋谷の詩人夫妻の私行をあばいた冊子をわざと送り届けてよこした。
中でも、郁治から来たのが一番多かった。
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中にも郁治から来たのが一番多かった。
恋の悩みは、少しの間も彼の心を静かにさせておかなかった。
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恋の悩みは片時もかれをして心を静かならしめることができなかった。
郁治はある時は希望に輝き、ある時は絶望にもだえ、ある時は自分の心のかげを追って、こうも思いああも思った。
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郁治はある時は希望に輝き、ある時は絶望にもだえ、ある時は自己の心の影を追って、こうも思いああも思った。
清三の心も、それにつれてゆれ動かずにはいられなかった。
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清三の心もそれにつれて動揺せざるを得なかった。
自分の失恋の苦しさをかくすためには、友の恋に対する思いやりの言葉がしぜんと大げさにならざるを得なかった。――
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自己の失恋の苦痛を包むためには、友の恋に対する同情の文句がおのずから誇大的にならざるを得なかった。――
ひとりもだえる悲しみは美しいものだ、君の思いに泣かないことはあるまい――わざと古い文の調子で書いて、末に「この子もと罪のきずなのわなは知らず迷うて来しをとらわれの鳩」
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独りもだゆるの悲哀は美しきかな、君が思ひに泣かぬことはあらじ――わざと和文調に書いて、末に、「この子もと罪のきづなのわなは知らず迷うて来しを捕はれの鳩」
という歌を書きなどした。
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という歌を書きなどした。
浦和の学校にいる美穂子の写真が、机の引き出しの奥にしまってあった。
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浦和の学校にいる美穂子の写真が机の抽斗しの奥にしまってあった。
雪子と、もう一人きよ子という学校友だちと三人でとった小さな写真で、美穂子は腰かけて花を持っていた。
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雪子といま一人きよ子という学校友だちと三人して撮した手札形で、美穂子は腰かけて花を持っていた。
それを雪子のアルバムからもらおうとした時、雪子は「それはいけませんよ。変なふうに写っているんですもの」
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それを雪子のアルバムからもらおうとした時、雪子は、「それはいけませんよ。変なふうに写っているんですもの」
と言って、なかなかそれをくれると言わなかった。
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と言って容易にそれをくれると言わなかった。
雪子は上着を着て、物におどろいたようなとんきょうな顔をしていた。
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雪子は被皮を着て、物に驚いたような頓狂な顔をしていた。
それにひきかえ、美穂子は明るい目とまゆとをはっきり見せて、感じのいい笑みを口元にうかべていた。
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それに引きかえて、美穂子は明るい眼と眉とをはっきりと見せて、愛嬌のある微笑を口元にたたえていた。
清三は本を読みつかれた時など、ときどきそれを出して見る。
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清三は読書につかれた時など、おりおりそれを出して見る。
雪子と美穂子とをくらべてみることもある。
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雪子と美穂子とをくらべてみることもある。
このごろでは、雪子のことを考えることも多くなった。
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このごろでは雪子のことを考えることも多くなった。
その時はきっと、「なぜあんなにそらぞらしい、とりすましたふうをしているんだろう。もう少し打ち解けてみせてもよさそうなものだ」
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その時はきっと「なぜああしらじらしい、とりすましたふうをしているんだろう。いま少し打ち解けてみせてもよさそうなものだ」
と思う。
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と思う。
郁治の手紙は、小さい文箱にしまっておいた。
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郁治の手紙は小さい文箱にしまっておいた。
前の土曜日には、久しぶりで行田に帰った。
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前の土曜日には、久しぶりで行田に帰った。
小畑が熊谷からやって来るという知らせがあったが、運悪く日曜が激しいふきぶりなので、郁治と二人、といから雨だれが滝のように落ちる暗い窓の下で過ごした。
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小畑が熊谷からやって来るという便があったが、運わるく日曜が激しい吹き降りなので、郁治と二人樋から雨滴れが滝のように落ちる暗い窓の下で暮らした。
次の土曜日には、羽生の小学校で朝から講習会があった。
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次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。
校長と大島と関と清三と、四人で出かけることになる。
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校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。
大きな講堂には近くの小学校の校長や先生が大勢集まった。浦和の師範学校から来た太った赤いネクタイの教授が、子どもの心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生に実際に授業をしてみせたりした。
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大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。
先生たちは何列にも並んで、音を立てずにつつしんで聞いている。
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教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴している。
志多見という所の校長は県の教育の世界でも有名な年とった先生だが、銀のような白いひげをなでながら、かたくるしい調子で、義務とでも思っているような質問をした。
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志多見という所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯をなでながら、切口上で、義務とでも思っているような質問をした。
太った教授は顔に笑みをうかべて、一つ一つていねいにその質問に答える。
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肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。
十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や、水谷というむずかしいので評判の郡視学が、教え方についての意見や、先生の心がまえについての演説をした。
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十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。
つゆは二、三日前から上がって、暑い日ざしがキラキラと校庭に照りつけた。
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梅雨は二三日前からあがって、暑い日影はキラキラと校庭に照りつけた。
おうぎの音がパタパタと、そこにもここにも聞こえる。
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扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。
女の先生の白地の着物とすみれ色のはかまが目にとまり、ひたいにはあせが見えた。
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女教員の白地に菫色の袴が眼にたって、額には汗が見えた。
成願寺の森の中のあしやおぎはもう人のかたがかくれるほど高くなって、よしきりがわが世の春という顔でうるさく鳴く。
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成願寺の森の中の蘆荻はもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦が時を得顔にかしましく鳴く。
講習会が終わったのは、もう十二時近くであった。
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講習会の終わったのはもう十二時に近かった。
詰め襟の服をつけた人、白いしまのはかまに薄い羽織を着た人、さまざまな先生たちが校庭から門のほうへぞろぞろ出て行く。
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詰襟の服を着けた、白縞の袴に透綾の羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。
校庭には寄付された標本用の木や草花が、その名と寄付した人の名を書いた札をつけられてまばらに植えられてある。
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校庭には有志の寄付した標本用の樹木や草花がその名と寄付者の名とを記した札をつけられて疎らに植えられてある。
ざくろの花が火の燃えるように赤く咲いているのが、だれの目にもついた。
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石榴の花が火の燃えるように赤く咲いているのが誰の眼にもついた。
木にはつげ、しい、ひのき、花にはせきちく、朝顔、パンジー、萩、おみなえしなどがあった。
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木には黄楊、椎、檜、花には石竹、朝顔、遊蝶花、萩、女郎花などがあった。
寺の林では、せみが鳴いた。
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寺の林には蝉が鳴いた。
「ふろ屋で一日遊べるようなところができたって言うじゃありませんか。林さん、行ってみましたか」
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「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」
校門を出る時、校長はこう言った。
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校門を出る時、校長はこう言った。
「そうですねえ、広告があちこちに張ってありましたねえ。何か浪花節があるって言うじゃありませんか」
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「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節があるって言うじゃありませんか」
大島さんも言った。
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大島さんも言った。
上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを、清三も聞いて知っていた。
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上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた。
夏の間、二階を開け放して、一日湯にはいったり昼ねでもしたりして遊んで行けるようにしてある。
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夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。
氷も菓子もビールもうどんも売る。
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氷も菓子も麦酒も饂飩も売る。
ちょっとした昼ごはんくらいは食べさせる用意もできている。
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ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備もできている。
浪花節も昼一度、夜一度あるという。
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浪花節も昼一度夜一度あるという。
この二、三日つゆが上がって暑くなったので、とても客が多いと聞いた。
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この二三日梅雨があがって暑くなったので非常に客があると聞いた。
住職は昨日出かけて半日遊んで来て、
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主僧は昨日出かけて半日遊んで来て、
「どうせ田舎のことだから、ろくなことはできはしないけれど、ちょっと遊びに行くにはいい。貞公、うまい金もうけを考えたものだ」
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「どうせ、田舎のことだから、ろくなことはできはしないけれど、ちょっと遊びに行くにはいい。貞公、うまい金儲けを考えたもんだ」
と、前の地主に話していた。
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と前の地主に話していた。
「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼どきで、おなかもすいている……」
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「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空いている……」
校長はこう言って、同僚をさそった。
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校長はこう言って同僚を誘った。
みんな、賛成した。
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みんな賛成した。
上町の鶴の湯は、にぎやかであった。
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上町の鶴の湯はにぎやかであった。
赤いメリンスの帯をしめた田舎の娘が、出たりはいったりした。
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赤いメリンスの帯をしめた田舎娘が出たりはいったりした。
あちこちからおくられたはり紙がいっぱいに下げてあって、貞さんへという大きな字がそこにもここにも見えた。
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あっちこっちから贈ったビラがいっぱいに下げてあって、貞さんへという大きな字がそこにもここにも見えた。
氷屋の店には客が七、八人もいて、この家のおかみさんがたすきをかけ、あせをだらだら流してせっせと氷をかいている。
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氷見世には客が七八人もいて、この家のかみさんが襷をかけて、汗をだらだら流して、せっせと氷をかいている。
先生たちは、二階に通された。
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先生たちは二階に通った。
さいわいに、客はまだ多くなかった。
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幸いにして客はまだ多くなかった。
近くのおばあさん連れが一組、温泉にでも来たつもりで、うすい下着一まいになって別の部屋にごろごろしていた。
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近在の婆さんづれが一組、温泉にでも来たつもりで、ゆもじ一つになって、別の室にごろごろしていた。
八畳の広間には真ん中に浪花節を語るぶたいができていて、そこにも紙やぬののはり紙がヒラヒラなびいた。
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八畳の広間には、まんなかに浪花節を語る高座ができていて、そこにも紙や布のビラがヒラヒラなびいた。
部屋は、風通しがよかった。
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室は風通しがよかった。
奥の四畳半のたたみはきたないが、青い田が見わたせるので、四人はそこに場所を取った。
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奥の四畳半の畳は汚ないが、青田が見通しになっているので、四人はそこに陣取った。
ひとふろはいってあせを流して来るころには、昼ごはんのしたくがもうできていた。
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一風呂はいって、汗を流して来るころには、午飯の支度がもうできていた。
赤いたすきをかけた家の娘が、食卓を運んで来た。
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赤い襷をかけた家の娘が茶湯台を運んで来た。
おかずはなまり節の固い煮つけと、きゅうりもみと、たまごと、ささげのしるとであった。
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肴はナマリブシの固い煮付けと胡瓜もみと鶏卵にささげの汁とであった。
しかし人々にとっては、これでもけっこうなごちそうであった。
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しかし人々にとっては、これでも結構なご馳走であった。
校長は洋服の上着もチョッキもネクタイもすっかり取って、よごれの見える下着一まいになり、いかにも気持ちのよさそうな様子であぐらをかいていたが、
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校長は洋服の上衣もチョッキもネクタイもすっかり取って汚れ目の見える肌襦袢一つになって、さも心地のよさそうな様子であぐらをかいていたが、
「みんな楽に、あぐらをかきたまえ。関君、どうです、服できゅうくつにしていてはしかたがない」
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「みんな平らに、あぐらをかきたまえ。関君、どうです、服で窮屈にしていてはしかたがない」
こう言って笑い、「私が一つビールをおごりましょう。たまには楽しく話すのもいいですから」
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こう言って笑って、「私が一つビールを奢りましょう。たまには愉快に話すのもようござんすから」
やがて、ビールが注文される。
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やがてビールが命ぜられる。
「お姉さん、氷を細かくくだいて持って来てくださいな」
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「姐さん、氷をブッカキにして持って来てくださいな」
娘は、かしこまって下りて行く。
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娘はかしこまって下りて行く。
校長が関さんのコップについでやろうとすると、彼は手でコップの口をふさいだ。
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校長が関さんのコップにつごうとすると、かれは手でコップの蓋をした。
「一ぱい飲みたまえ。一ぱいくらい飲んだって、どうにもなりはしないから」
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「一杯飲みたまえ、一杯ぐらい飲んだってどうもなりやしないから」
「いいえ、もうほんとうにけっこうです。お酒を飲むと、あとが苦しくて……」
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「いいえ。もうほんとうにたくさんです。酒を飲むと、あとが苦しくって……」
と、コップをわきにやる。
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とコップをわきにやる。
「関君はほんとうにだめですよ」
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「関君はほんとうにだめですよ」
と言って、大島さんはなみなみとついだ自分のビールを一息に飲む。
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と、言って、大島さんはなみなみとついだ自分の麦酒を一呼吸に飲む。
「弱い兵は困りますな」
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「弱卒は困りますな」
こう言って、校長は自分のコップになみなみとついだ。
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こう言って校長は自分のになみなみと注いだ。
あわが山になってあふれかけるので、あわてて口をつけて吸った。
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泡が山をなして溢れかけるので、あわてて口をつけて吸った。
娘がそこへ、くだいた氷をどんぶりに入れて持って来た。
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娘がそこにブッカキを丼に入れて持って来た。
みんなが一つずつ手でつまんで、ビールの中に入れる。
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みんなが一つずつ手でつまんで麦酒の中に入れる。
お酒を飲まない関さんも大きいのを一つ取って、口の中にほおばる。
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酒を飲まぬ関さんも大きいのを一つ取って、口の中にほおばる。
やがて校長の顔も大島さんの顔も、みごとに赤くなる。
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やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
「講習会なんてだめなものですな」
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「講習会なんてだめなものですな」
校長の勢いが、そろそろ出始めた。
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校長の気焔がそろそろ出始めた。
大島さんが、これに調子を合わせた。
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大島さんがこれに相槌をうった。
それぞれの小学校の評判や、長くつとめた人へのお金の話などが出る。
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各小学校の評判や年功加俸の話などが出る。
郡視学のゆうずうのきかない失敗の話が、みんなを笑わせた。
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郡視学の融通のきかない失策談が一座を笑わせた。
けれど清三にとっては、これらの話は耳にも心にも遠かった。
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けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。
年がちがうからとはいえ、こんな身の上にこうして満足している人たちの気持ちがわからなかった。
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年齢が違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。
彼は、将来の希望にだけ生きている明るい友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きなみぞを考えてみた。
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かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。
「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
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「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
この考えは、すでに何度となく彼の頭を悩ませた。
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この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。
これを考えると、いつも胸が痛くなる。
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これを考えると、いつも胸が痛くなる。
いてもたってもいられないような気がする。
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いてもたってもいられないような気がする。
小さい家のしがらみなどのために、この若く燃える心をぎせいにするにはたえられないと思う。
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小さい家庭の係累などのためにこの若い燃ゆる心を犠牲にするには忍びないと思う。
この間も、郁治と論じ合った。
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この間も郁治と論じた。
「えらい人はえらくなるがいい。世の中にはお百姓もいれば、郵便配達もいる。おまわりさんもいればげたを直す職人もいる。えらくならないから生きていられないということはない。人生はわれわれが考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に、おだやかに渡って行けるものだ。うそだと思うなら世の中を見たまえ。世の中を……」
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「えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入れ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……」
こう言って、清三は友の出世したい気持ちに反対した。
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こう言って清三は友の巧名心を駁した。
けれどその言葉のかげには、まるでこれと正反対の心がかくれていた。
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けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。
それだけ、彼は高ぶっていた。
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それだけかれは激していた。
彼は、泣きたかった。
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かれは泣きたかった。
それを、今思い出した。
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それを今思い出した。
「自分も世の中の多くの人のように、のんきなことを言って暮らして行くようになるのか」
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「自分も世の中の多くの人のように、暢気なことを言って暮らして行くようになるのか」
と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。
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と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。
つい、ビールを五、六はいあおった。
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つい麦酒を五六杯あおった。
青い田の中を、かさをさした人が通る。それは町のうら通りで、そこには道にそって小川が流れ、川やなぎがこんもりしげっている。
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青い田の中を蝙蝠傘をさした人が通る、それは町の裏通りで、そこには路にそって里川が流れ、川楊がこんもり茂っている。
森には、せみの鳴き声がうるさく聞こえた。
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森には蝉の鳴き声が喧しく聞こえた。
一時間たつと、三人はみんなたおれてしまった。
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一時間たつと、三人はみんな倒れてしまった。
校長はひじまくらをして足をちぢめていびきをかいているし、大島さんは仰向けに胸をはだけて足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭をたたみにつけていた。
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校長は肱枕をして足を縮めて鼾をかいているし、大島さんは仰向けに胸を露わに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。
一人、関さんだけが退くつそうに次の広間に行って、はり紙などを見た。
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独り関さんは退屈そうに、次の広間に行ってビラなどを見た。
三時過ぎに清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通しのよい本堂の板の間で気持ちよさそうに昼ねをしている。
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三時過ぎに、清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通しのよい本堂の板敷きに心地よさそうに昼寝をしている。
午後の日ざしの中で、よしきりがしきりに鳴いた。
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午後の日影に剖葦がしきりに鳴いた。
十六
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十六
暑いある日の午後、白いかすりにはかまという清三の学校帰りの姿が、羽生のひさしの長い町に見えた。
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暑いある日の午後、白絣に袴という清三の学校帰りの姿が羽生の庇の長い町に見えた。
今日、月給が全部出て、ふところの財布が重かった。
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今日月給が全部おりて、懐の財布が重かった。
少し前に郵便局に寄って、荻生君に借りた五十銭を返し、とちゅうで買って来たくず餅を出して、二人でお茶を飲みながら楽しそうに食べた。
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いま少し前、郵便局に寄って、荻生君に借りた五十銭を返し、途中で買って来たくず餅を出して、二人で茶を飲み飲み楽しそうに食った。
「どうも、これも長々ありがとう」
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「どうも、これも長々ありがとう」
と言って、二か月ほど前から借りていた鳥打ちぼうしを取って返した。
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と言って、二月ほど前から借りていた鳥打ち帽を取って返した。
「まだいいよ」
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「まだいいよ、君」
「でも、今日夏ぼうしを買うから」
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「でも、今日夏帽子を買うから」
「買うまでかぶっていたまえ。おかしいよ」
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「買うまでかぶっていたまえ、おかしいよ」
「なに、すぐそこで買うから」
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「なアに、すぐそこで買うから」
「足元を見られて高く売りつけられるよ」
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「足元を見られて高く売りつけられるよ」
「なに、大丈夫だ」
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「なアに大丈夫だ」
それで、日がカンカン照りつける町の通りを、清三はぼうしもかぶらずに歩いた。
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で、日のカンカン照りつける町の通りを清三は帽子もかぶらずに歩いた。
通りにガラス戸を開け放した西洋の品を売る店があって、毛糸や麦わらぼうしが並べてある。
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通りに硝子戸をあけ放した西洋雑貨商があって、毛糸や麦稈帽子が並べてある。
清三は麦わらぼうしをいくつか出させて、見せてもらった。
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清三は麦稈帽子をいくつか出させて見せてもらった。
十六というのが、ちょうど彼の頭に合った。
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十六というのがちょうどかれの頭に合った。
一円九十銭というのを、六十銭に負けさせて買った。
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一円九十銭というのを六十銭に負けさせて買った。
町の通りに、新しい麦わらぼうしがきわだって日に輝いた。
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町の通りに新しい麦稈帽子がきわだって日にかがやいた。
十七
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十七
美穂子は、夏休みで帰って来た。
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美穂子は暑中休暇で帰って来た。
その家へ行く道には、夏草が深くしげっていた。
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その家へ行く路には夏草が深く茂っていた。
小川の水は、青く満ちて流れている。
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里川の水は碧くみなぎって流れている。
あしの緑の葉に、日がさした。
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蘆の緑葉に日影がさした。
家の入り口には、下着や腰巻やゆかたが物干しざおに干し並べてある。
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家の入り口には、肌襦袢や腰巻や浴衣が物干竿に干しつらねてある。
郁治は、清三とつれ立って行った。
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郁治は清三とつれだって行った。
美穂子は、白いかすりを着ていた。
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美穂子は白絣を着ていた。
帯は白茶と、うぐいす色の茶とを合わせたものにしていた。
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帯は白茶と鶯茶の腹合わせをしていた。
顔は少し太って、ほおのあたりがふっくりと肉づいた。
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顔は少し肥えて、頬のあたりがふっくりと肉づいた。
髪は例のひさし髪に結って、白いリボンがよく似合った。
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髪は例の庇髪に結って、白いリボンがよく似合った。
ビールのあきびんに入れた麦茶が、古い井の字形の井戸に細い綱でつるして冷やされてあった。
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ビールの空罎に入れられた麦湯が古い井字形の井戸に細い綱でつるして冷やされてあった。
井戸のわくには、大きな葉の草がゴチャゴチャ生えている。
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井戸側には大きな葉の草がゴチャゴチャ生えている。
流しにはしょうぶやかやなどが一面にしげって、つるべの水をこぼすたびにしぶきがそれにかかる。
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流しには菖蒲、萱などが一面にしげって、釣瓶の水をこぼすたびにしぶきがそれにかかる。
二、三日前までは年とった母が毎夕そこに出て、米を洗うおけの白い水を流すのがいつものことだった。けれど娘が帰って来てからは、その色白の顔がいつもはっきりと夕暮れの空気の中に見えるようになった。
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二三日前までは老母が夕べごとにそこに出て、米かし桶の白い水を流すのがつねであったが、娘が帰って来てからは、その色白の顔がいつもはっきりと薄暮の空気に見えるようになった。
そのころには、奥で父親のうたう声がいつも聞こえた。
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そのころには奥で父親の謡がいつも聞こえた。
美穂子は、細い綱をスルスルとたぐった。
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美穂子は細い綱をスルスルとたぐった。
ビールのびんが、やがて手に来る。
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ビールの罎がやがて手に来る。
結んだ綱をとき、それを台所へ持って来て土びんに移し、コップ三つと砂糖を入れたガラスの入れ物とを盆にのせて、兄の話している座敷へ持って行く。
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結わえた綱を解いて、それを勝手へ持って来て、土瓶に移して、コップ三つと、砂糖を入れた硝子器とを盆にのせて、兄の話している座敷へ持って行く。
「なんにも、ごちそうはございませんけど……これは一日井戸につけておいたんですから、お砂糖でも入れて召し上がって……」
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「なんにも、ご馳走はございませんけど、……これは一日井戸につけておいたんですから、お砂糖でも入れて召し上がって……」
麦茶は、氷のように冷えていた。
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麦湯は氷のように冷えていた。
郁治も清三も、二、三ばいおかわりをして飲んだ。
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郁治も清三も二三杯お代わりをして飲んだ。
美穂子は兄のそばにすわって、えんりょなくいろいろな話をした。
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美穂子は兄のそばにすわって、遠慮なしにいろいろな話をした。
「寄宿舎の生活はずいぶんたいへんでしょう」
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「寄宿生活はずいぶんたいへんでしょう」
清三がこう聞くと、
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清三はこうきくと、
「ええ、ええ、ずいぶんにぎやかですよ。ほかの女学校などとちがって決まりがきびしいのですけど、それでもやっぱり……」
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「えゝえゝ、ずいぶんにぎやかですよ。ほかの女学校などと違って、監督がむずかしいのですけど、それでもやっぱり……」
「女学校の寄宿舎なんて、それはたいへんなものさ。話で聞いてもずいぶんあきれるよ」
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「女学校の寄宿舎なんて、それはたいへんなものさ。話で聞いてもずいぶん愛想がつきるよ」
と北川は笑って、「やっぱり男の寄宿舎と、それほどちがいはないんだね」
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と北川は笑って、「やっぱり、男の寄宿とそうたいして違いはないんだね」
「まさか、兄さん」
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「まさか兄さん」
と美穂子は笑った。
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と美穂子は笑った。
その部屋には、西日がさした。
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その室には西日がさした。
松のかげが、庭からえん側に移った。
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松の影が庭から縁側に移った。
かきねの外を、荷車が通る音がする。
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垣の外を荷車の通る音がする。
この春と同じように、二人の友だちは家への帰り道をだまって歩いた。
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この春と同じように、二人の友だちは家への帰途を黙って歩いた。
言いたいことは、郁治の胸にも清三の胸にも山ほどある。
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言いたいことは郁治の胸にも清三の胸にも山ほどある。
しかし二人とも、それにふれようとしなかった。
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しかし二人ともそれに触れようとしなかった。
城あとのさびた色のぬまに赤い夕日がさして、やんまがあしのこずえに一ぴき、二ひき、三びきまでとまっている。
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城址の錆びた沼に赤い夕日がさして、ヤンマが蘆の梢に一疋、二疋、三疋までとまっている。
子どもが長いもちざおを持って、田の中に腰までつかりながら、くっついているとんぼをとらえていた。
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子児が長いもち竿を持って、田の中に腰までつかって、おつるみの蜻蛉をさしていた。
石橋の近くに来た時、
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石橋近くに来た時、
「今年は夏休みをどうする……どこかへ行くかね?」
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「今年は夏休みをどうする……どこかへ行くかね?」
郁治は、とつぜんこうたずねた。
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郁治は突然こうたずねた。
「まだ考えていないけれど、ことによると日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」
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「まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」
「ぼくはそんな余ゆうはない。この夏は英語をもう少し勉強しなくちゃならんから」
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「僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから」
美穂子がこの夏の休みをここで過ごすということが、なんの理由もなしに清三の胸にうかんで、ねたましいようなつらい気持ちがした。
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美穂子がこの夏休暇をここに過ごすということがなんの理由もなしに清三の胸に浮かんで、妬ましいような辛い心地がした。
今夜は父と母の家にねて、翌朝早く帰ろうと思った。
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今夜は父母の家に寝て、翌朝早く帰ろうと思った。
じっさい、郁治にもそう言った。
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現に、郁治にもそう言った。
けれど道の角で郁治と別れると、急にここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥が飛び立つように母親をおどろかせて帰り道についた。
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けれど路の角で郁治と別れると、急に、ここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥の立つように母親を驚かして帰途についた。
明日の朝、郁治がやって来ておどろくだろうという一種の仕返しの気持ちよさと、しばられている力からのがれられたという思いと、たとえようのないさびしく心細い感じとをだいて、彼はその長い夕暮れの街道をたどった。
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明朝郁治がやって来て驚くであろうという一種復仇の快感と、束縛せられている力からまぬがれ得たという念と、たとえがたいさびしい心細い感とを抱いて、かれはその長い夕暮れの街道をたどった。
寺に帰った時は、日が暮れてからもう一時間ぐらいたっていた。
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寺に帰った時は日が暮れてからもう一時間ぐらいたった。
和尚さんは住まいの六畳の長火ばちのあるところでお酒を飲んでいたが、いつもとちがって元気で、「まあ一ぱいおやりなさい」
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和尚さんは庫裡の六畳の長火鉢のあるところで酒を飲んでいたが、つねに似ず元気で、「まア一杯おやんなさい」
とさかずきをさして、ひややっこを別の皿に分けて取ってくれた。
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と盃をさして、冷やっこをべつに皿に分けて取ってくれた。
今まで聞かなかった住職の小さいころの話が出る。
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今まで聞かなかった主僧の幼いころの話が出る。
九歳の時にこの寺の小僧にやられて、それから七、八年のしんぼう。その苦労は並たいていではなかった。
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九歳の時、この寺の小僧によこされて、それから七八年の辛抱、その艱難は一通りでなかった。
玄関のそばの二畳にいて、この成願寺の住職になることをこのうえもない望みのように思っていた。
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玄関のそばの二畳にいて、この成願寺の住職になることをこのうえもない希望のように思っていた。
今でも成願寺住職実円と書いた落書きが、よく見ると残っている。
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今でも成願寺住職実円と書いた落書きがよく見ると残っている。
住職はよって、「衆寮の壁」
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主僧は酔って「衆寮の壁」
というつい最近作った新しい形の詩を歌って聞かせた。
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というついこのごろ作った新体詩を歌って聞かせた。
「どうです、君も何か一つ書いてみませんか」
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「どうです、君も何か一つ書いてみませんか」
こう言って、和尚さんはすすめた。
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こう言って和尚さんは勧めた。
清三の胸は、こうした言葉にも動かされるほど今夜は高ぶっていた。
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清三の胸はこうした言葉にも動かされるほど今宵は感激していた。
何か一つ書いてみよう。
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何か一つ書いてみよう。
彼は、ウェルテルという小説を書いて実際の苦しみをわすれたゲーテのことなどを思い出した。
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かれはエルテルを書いてその実際の苦痛を忘れたゲエテのことなどを思い出した。
自分には、才能という才能もない。
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自分には才能という才能もない。
学問という学問もない。
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学問という学問もない。
友だちのように順序正しく勉強をしていける立場にもいない。
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友だちのように順序正しく修業をする境遇にもいない。
人並みにしていては、とてもだめである。
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人なみにしていては、とてもだめである。
彼は、気持ちを書き出す詩人としてよりほかに光を見いだせるものはないと思った。
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かれは感情を披瀝する詩人としてよりほかに光明を認め得るものはないと思った。
「一つ運だめしをやろう。この夏休みに全力をあげてみよう。自分の才能をためしてみよう」
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「一つ運だめしをやろう。この暑中休暇に全力をあげてみよう。自分の才能を試みてみよう」
彼は和尚さんから、いろいろな詩集や小説を借りることにした。
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かれは和尚さんから、種々の詩集や小説を借りることにした。
翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文学の世界に顔を出していたころ集めた本をあれこれ持って来て貸してくれた。
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翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文壇に顔を出しているころ集めた本をなにかと持って来て貸してくれた。
国民小説という赤い表紙の本の中には、「地震」
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国民小説という赤い表紙の四六版の本の中には、「地震」
と「うき世の波」
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と「うき世の波」
と「悪因縁」
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と「悪因縁」
という三編がある。
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という三編がある。
それがおもしろいから読めと、和尚さんは言った。
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それがおもしろいから読めと和尚さんは言った。
「むさし野」
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「むさし野」
という本も、そのうちにあった。
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という本もそのうちにあった。
彼は「むさし野」
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かれは「むさし野」
を読みふけった。
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に読みふけった。
七月は、しだいに終わりに近づいた。
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七月はしだいに終わりに近づいた。
暑さは、日に日に強くなった。
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暑さは日に日に加わった。
長く会わなかった発戸の小学校の女の先生に、例の庚申塚の角でまた二、三度出会った。
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久しく会わなかった発戸の小学校の女教員に例の庚申塚の角でまた二三度邂逅した。
白地のひとえに白のリボン、すずしそうな身なりで、笑みを向けて通って行った。
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白地の単衣に白のリボン、涼しそうな装をして、微笑を傾けて通って行った。
その笑みの意味が、清三にはどうしてもわからなかった。
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その微笑の意味が清三にはどうしてもわからなかった。
学校では、夏休みをだれもみんな待ち望んでいる。
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学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。
暑い夏をぶどうだなの下にねて暮らそうという人もある。
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暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。
浦和にある講習会へ出かけて、しかくを取ろうとしている人もある。
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浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。
旅に出ようとしている人もある。
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旅に出ようとしているものもある。
東京に用事をしに行こうと計画している人もある。月の初めから正午までの授業になっていたが、前期の成績を調べるので、先生たちは一時間、二時間を教室に残った。
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東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。
それに、用のない人も昼から帰るととちゅうが暑いので、日かげができるころまで、オルガンを鳴らしたり雑談にふけったり、宿直室へ行って昼ねをしたりした。
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それに用のないものも、午から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。
清三は成績調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」
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清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」
を出し、新しい味わいに飢えた人のように熱心に読んだ。
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を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。
「忘れ得ぬ人々」
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「忘れ得ぬ人々」
に書かれた作者の思い、武蔵野の郊外をザッと降って通る林のしぐれ、水車が月に光る橋のほとりに下宿した若い先生。それらはすべて、自分の感じによく似ていた。
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に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨、水車の月に光る橋のほとりに下宿した若い教員、それらはすべて自分の感じによく似ていた。
彼はときどき本をふせて、頭に流れて来る思いにふけらずにはいられなかった。
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かれはおりおり本を伏せて、頭脳を流れて来る感興にふけらざるを得なかった。
三十日の授業は、一時間で終わった。
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三十日の学課は一時間で終わった。
生徒を集めた教だんの前で、
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生徒を集めた卓の前で、
「皆さんは夏休みを役に立つように使わなければなりません。あまり遊びすぎると、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは本を出して復習をなさい。それから、お父さんお母さんに世話をやかせてはいけません。桃や梨や西瓜などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来てそういうものをたくさん食べますと、おなかをこわすばかりではありません。おそろしい病気にかかって、夏休みがすんで学校に来たくても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく努めよ。本にもそう書いてあるでしょう。九月の初めにここで先生といっしょになる時には、だれが一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」
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「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」
こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。
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こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。
お下げに結った女の生徒と鼻をたらした男の生徒とが、ぞろぞろと下駄箱のほうへ先を争って出て行った。どの教室でも、同じような言葉がくり返される。
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お下げに結った女生徒と鼻を垂らした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。
女の先生はすみれ色のはかまをはっきりとろうかに見せて、一二、一二と声をかけながらそこまで来て解散した。
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女教員は菫色の袴をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。
校庭には、九連草の赤いのが日に照らされて咲いていた。
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校庭には九連草の赤いのが日に照らされて咲いていた。
あじさいの花もあった。
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紫陽花の花もあった。
十八
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十八
夏休みは、むだに過ぎた。
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暑中休暇はいたずらに過ぎた。
自分の才能をためす新しいこころみも、みごとに失敗した。
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自己の才能に対する新しい試みもみごとに失敗した。
思いは燃えても、筆はこれについて行かなかった。
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思いは燃えても筆はこれに伴わなかった。
五日の後には、彼はあきらめて筆を捨てた。
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五日ののちにはかれは断念して筆を捨てた。
寺にいても、おもしろくない。
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寺にいてもおもしろくない。
行田に帰っても、せまい家は暑く、いやな気分である。
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行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。
それに、美穂子が帰っているだけ、それだけそこにいるのが苦しかった。
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それに、美穂子が帰っているだけそれだけ、そこにいるのが苦痛であった。
彼は一人で、赤城から妙義に遊んだ。
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かれは一人で赤城から妙義に遊んだ。
旅から帰って来たのは、八月の末であった。
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旅から帰って来たのは八月の末であった。
その時、美穂子はすでに浦和の寄宿舎に帰っていた。
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その時、美穂子は、すでに浦和の寄宿舎に帰っていた。
行田から羽生、羽生から弥勒という平凡な生活が、また始まった。
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行田から羽生、羽生から弥勒という平凡な生活はまた始まった。
十九
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十九
学校には、新しいオルガンが一台買われてあった。
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学校には新しいオルガンが一台購ってあった。
初めの日はちょうど日曜日で、校長も大島さんも来なかった。
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初めての日はちょうど日曜日で、校長も大島さんも来なかった。
その夜は、宿直室にさびしくねた。
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その夜は宿直室にさびしく寝た。
お盆を過ぎたあとの夜は美しく晴れて、天の川がはっきりと空に横たわっている。
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盂蘭盆を過ぎたあとの夜は美しく晴れて、天の川があきらかに空に横たわっている。
かきねではスイッチョという虫が鳴いて、村の子どもたちがそれをさがすちょうちんが、そこにもここにも見える。
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垣にはスイッチョが鳴いて、村の子供らのそれをさがす提灯がそこにもここにも見える。
日中は暑いが、夜はつゆが草の葉におりて、人の話し声がどこからともなく聞こえた。
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日中は暑いが、夜は露が草の葉に置いて、人の話声がどこからともなく聞こえた。
初めの十日間は授業は八時から十時、次の十日間は十二時まで、それからまもなく午後二時の下校となる。
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初めの十日間は授業は八時から十時、次の十日間は十二時まで、それから間もなく午後二時の退校となる。
もうそのころは秋の気配があたりに満ちて、雨の降る日などひとえ一まいでは冷たく感じられた。
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もうそのころは秋の気はあたりに満ちて、雨の降る日など単衣一枚では冷やかに感じられた。
物思いにふける彼の身に、月日は早くたった。
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物思うかれの身に月日は早くたった。
高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四高等学校に合格して、月の初めに金沢へ行ったといううわさを聞いた。やがて、得意の言葉を並べた絵はがきがそこから届いた。
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高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。
その土地にある兼六公園の写真は、彼の心をひくのに十分であった。
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その地にある兼六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。
友の成功を祝う手紙を書く時、彼は机につっぷして自分の不運に泣かずにはいられなかった。
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友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。
本堂の机の上には、乱れ髪、落梅集、むさし野、それに和尚さんが早稲田に通うころ読んだというエノック・アーデンの薄い本がのせられてあった。
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本堂の机の上には乱れ髪、落梅集、むさし野、和尚さんが早稲田に通うころよんだというエノックアーデンの薄い本がのせられてあった。
彼は、「響りんりん」
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かれは、「響りんりん」
というふるさとを去る歌を、いつも好んで口ずさんだ。
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という故郷を去るの歌をつねに好んで吟誦した。
その調子には、言葉にできない悲しみがこもった。
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その調子には言うに言われぬ悲哀がこもった。
住まいの玄関の前に、春は芍薬の咲く小さい花だんがあったが、そこにそのころ秋海棠が、絵のようにかすかに紅を見せている。
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庫裡の玄関の前に、春は芍薬の咲く小さい花壇があったが、そこにそのころ秋海棠の絵のようにかすかに紅を見せている。
中庭の萩は、今をさかりに咲き乱れた。
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中庭の萩は今を盛りに咲き乱れた。
夜ごとの月は、しだいに明るくなった。
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夜ごとの月はしだいにあきらかになった。
墓地と畑とをふちどるはんの木の並木が黒く空に見えて、大きな芋の葉にはキラキラとつゆが光った。
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墓地と畠とを縁取った榛の並木が黒く空に見えて、大きな芋の葉にはキラキラと露が光った。
夕ごはんのあとに、清三は墓地を歩いてみることなどもあった。
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夕飯のあとに、清三は墓地を歩いてみることなどもあった。
新しい墓のかきねに紅白のむくげが咲いて、赤い小さいとんぼがたくさん集まって飛んでいる。
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新墓の垣に紅白の木槿が咲いて、あかい小さい蜻蛉がたくさん集まって飛んでいる。
新しい卒塔婆に、和尚さんが例のちびた筆で書いたのが、あちこちに立っている。
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卒塔婆の新しいのに、和尚さんが例の禿筆をとったのがあちこちに立っている。
土をもった墓の上に茶わんが水を満たして置いてあって、線香がともったあとの白い灰がありありと残って見えた。
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土饅頭の上に茶碗が水を満たして置いてあって、線香のともったあとの白い灰がありありと残って見えた。
花立てには、みそ萩やおみなえしなどがそなえられてある。
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花立てにはみそ萩や女郎花などが供えられてある。
古い墓も、お参りする人のない墓も、かなり多かった。
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古い墓も無縁の墓もかなり多かった。
すみのほうには、行きだおれやこじきの死んだ人をうめたところもあった。
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一隅には行き倒れや乞食の死んだのを埋葬したところもあった。
清三は時には、知りたい気持ちから石ぶみの文などを読んでみることがある。
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清三は時には好奇に碑の文などを読んでみることがある。
仙台で生まれて、明治のはじめの世の中が変わる時には国のためにかけ回り、明治になってからここに来て病院を建て、土地の人からやさしい父のように思われたという人の石ぶみもあった。
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仙台で生まれて、維新の時には国事に奔走して、明治になってからここに来て、病院を建てて、土地の者に慈父のように思われたという人の石碑もあった。
糸を作る工場の最初の経営者の墓は花こう岩のりっぱなもので、寄付をした人の名前が金文字で高い墓石にきざみつけられてあった。
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製糸工場の最初の経営者の墓は、花崗石の立派なもので、寄付金をした有志の姓名は、金文字で、高い墓石に刻りつけられてあった。
それから、日清戦争にこの近くの村から出征して、旅順で戦死した兵士の墓もあった。
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それから日清の役にこの近在の村から出征して、旅順で戦死した一等卒の墓もあった。
この墓地とはまったくはなれて、うらの林の奥に丸い墓石が数多く並んでいる。
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この墓地とはまったく離れて、裏の林の奥に、丸い墓石が数多く並んでいる。
これは、代々の寺の住職の墓である。
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これは歴代の寺の住職の墓である。
杉の古い木のかげにささや楢がしげって、土はいつもじめじめとしていた。
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杉の古樹の陰に笹やら楢やらが茂って、土はつねにじめじめとしていた。
晴れた日には夕方の光がななめに林にさしとおって、向こうに広い野の空がそれとのぞかれた。
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晴れた日には、夕方の光線が斜めに林にさし透って、向こうに広い野の空がそれとのぞかれた。
雨の日にはこずえから雨だれがボタボタ落ちて、こけの生えたぼうずの頭のような墓石が、泣いているように見えた。
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雨の日には、梢から雨滴れがボタボタ落ちて、苔蘚の生えた坊主の頭顱のような墓石は泣くように見られた。
ここの和尚さんもやがてはこの中にはいるのだ、などと清三は考えた。
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ここの和尚さんもやがてはこの中にはいるのだなどと清三は考えた。
太って背の高いおくさんと、田舎の寺にうめておくのはおしいような学問のある和尚さんとが、こんなさびしい平凡な生活を送っているのも、考えると不思議なような気がする。
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肥った背の高いかみさんと田舎の寺に埋めておくのは惜しいような学問のある和尚さんとが、こうした淋しい平凡な生活を送っているのも、考えると不思議なような気がする。
ふと二、三日前のことを思い出して、彼はほほえんだ。
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ふと、二三日前のことを思い出して、かれは微笑した。
彼は日記に軽い調子で、
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かれは日記に軽い調子で、
「夕方、知らずに、和尚さんがおくさんといっしょに小さいふろに仲よく(?)はいっているのを見て、とつぜんのことに気の毒でもあり、またびっくりしてしまった」
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「夕方知らずして、主の坊が Wife とともに湯の小さきに親しみて(?)入れるを見て、突然のことに気の毒にもまた面喰はされつ」
と書いたのを思い出した。
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と書いたのを思い出した。
湯どのは、住まいの入り口からはいれるようになっていた。
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湯殿は庫裡の入り口からはいられるようになっていた。
和尚さんは二か月ばかり前に、お葬式に使うぼうや板などが本堂にたくさんあったのを使って大工をやとって来て、そこにちょうどよい湯どのを作り、丸いふろをすえて湯をわかした。
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和尚さんは二月ばかり前に、葬儀に用いる棒や板などのたくさん本堂にあったのを利用して大工を雇って来て、そこに格好の湯殿を作って、丸い風呂を据えて湯を立てた。
けむりが、台所から住まいのほうまでなびいた。
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煙が勝手から庫裡までなびいた。
その日は火をもらおうと思って茶の間へ行ってみると、そこにはだれもいなくて、笑い声が湯どののほうから聞こえた。
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その日は火をもらおうと思って、茶の間へ行ってみると、そこには誰もいないで、笑い声が湯殿のほうから聞こえた。
何気なく行ってのぞいてみると、ふうふは小さいすえ風呂にぎゅうぎゅうづめのようにしてはいっている。
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何気なしに行ってのぞいてみると、夫妻は小さい据風呂に目白の推し合いのようにしてはいっている。
住職は平気で笑って、「これはえらいところを見られましたな」
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主僧は平気で笑って、「これはえらいところを見られましたな」
と言った。
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と言った。
清三には、このおかしな出来事がただおかしいだけではなく、それを通して住職の生活のようすとふうふの間がらとがいっそうはっきり見えたような気がした。
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清三にはこの滑稽な事実が、単に滑稽な事実ではなくって、それを通して主僧の生活の状態と夫妻の間柄とがいっそうあきらかに見えたような気がした。
こうして意味もなく――若い時の希望も何もかも捨ててしまって、ただ目の前の運命に従って、そうして年を過ごして、代々の住職の墓の中に!
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こうして無意味に――若い時の希望も何もかも捨ててしまって、ただ目の前の運命に服従して、さて年を過ごして、歴代の住職の墓の中に!
清三は、自分の運命に引きくらべてみた。
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清三は自分の運命に引きくらべてみた。
時には一葉舟の詩人にならって、「雲」
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時には一葉舟の詩人を学んで、「雲」
の研究をしてみようなどと思い立つこともあった。
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の研究をしてみようなどと思いたつこともあった。
信濃の高原に見るような入り組んだ雲の変化を見ることはできなかったが、広い関東平野をふちどる山々から起こる雲の色には、すぐれたものが多かった。
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信濃の高原に見るような複雑した雲の変化を見ることはできなかったが、ひろい関東平野を縁取った山々から起こる雲の色彩にはすぐれたものが多かった。
うらに出ると浅間のけむりが正面に見えて、その左に妙義がちょっと頭を出していて、それから荒船の山なみ、北甘楽の山なみ、秩父の山なみが波のように連なりわたった。
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裏に出ると、浅間の煙が正面に見えて、その左に妙義がちょっと頭を出していて、それから荒船の連山、北甘楽の連山、秩父の連山が波濤のように連なりわたった。
両神山の古い城あとのような形をしたかたのところに夕日は落ちて、いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。
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両神山の古城址のような形をした肩のところに夕日は落ちて、いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。
右には、赤城から日光の山なみが輪をなして続いた。
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右には赤城から日光連山が環をなして続いた。
秩父の雲に明るい色が多いのにひきかえ、日光の雲は暗い色が多かった。彼は青い田を越えて、向こうのはんの木の並木のあたりまで行った。
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秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、日光の雲は暗色が多かった、かれは青田を越えて、向こうの榛の並木のあたりまで行った。
野の仕事を終わって帰るお百姓は、いつも白地のひとえを着て髪を長くした成願寺の先生が手帳を持ちながらぶらぶら歩いて行くのに出会って、あいさつをした。
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野良の仕事を終わって帰る百姓は、いつも白地の単衣を着て頭の髪を長くした成願寺の教員さんが手帳を持ちながらぶらぶら歩いて行くのに邂逅して挨拶をした。
時には田のあぜに立ちどまって、何かしきりに手帳に書きつけているのを見たこともあった。
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時には田の畔にたたずんで何かしきりに手帳に書きつけているのを見たこともあった。
清三の手帳には、日付と時こくと、その時々に起こったさまざまな雲のようすと色と、時につれて変化して行く夕暮れの雲のようすとが、だんだんくわしく書かれた。
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清三の手帳には日付と時刻とその時々に起こったさまざまの雲の状態と色彩と、時につれて変化して行く暮雲のさまとがだんだんくわしく記された。
「平原の雲の研究」
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「平原の雲の研究」
という文を、彼は書き始めた。
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という文をかれは書き始めた。
彼岸の中日には、その原稿がもうたいていできかかっていた。
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彼岸の中日には、その原稿がもうたいていできかかっていた。
その日は本堂の如来様にめずらしくろうそくがともされて、和尚さんが朝のうち一時間ほど、むらさきの衣に美しい織物のけさをかけてお経を読んだ。
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その日は本堂の如来様にはめずらしく蝋燭がともされて、和尚さんが朝のうち一時間ほど、紫の衣に錦襴の袈裟をかけて読経をした。
庭の金木犀は、風につれてなつかしいかおりを古びた寺の部屋に送る。
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庭の金木犀は風につれてなつかしい匂いを古びた寺の室に送る。
お参りの人は朝からやって来て、げたの音がカラコロと長い石だたみの道に聞こえた。
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参詣者は朝からやってきて、駒下駄の音がカラコロと長い鋪石道に聞こえた。
墓に参る人たちは、まず本堂に上がって如来様をおがみ、住まいのほうに回ってそこに出してある火ばちで線香に火をつけ、草のしげった井戸から水をくんで、手おけを下げて墓へ行った。
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墓に詣ずる人々は、まず本堂に上がって如来様を拝み、庫裡に回って、そこに出してある火鉢で線香に火をつけ、草の茂った井戸から水を汲んで、手桶を下げて墓へ行った。
寺では二、三日前から日やといの人を入れてそうじをしておいたので、墓地はきれいになっていて、いつものようにしきみのかれ葉や犬のふんなどが散らかっていなかった。
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寺では二三日前から日傭取りを入れて掃除をしておいたので、墓地はきれいになっていて、いつものように樒の枯葉や犬の糞などが散らかっていなかった。
お参りする人のうちには、町の大きな家の美しい少女もいれば、島田に結っておしろいがなかばはげた田舎の娘もあった。
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参詣するもののうちには、町の豪家の美しい少女もいれば、島田に結った白粉のなかばはげた田舎娘もあった。
清三はおくさんからもらった萩の餅でおなかをふくらませ、すずしい風にふかれながら昼ねをした。
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清三はかみさんからもらった萩の餅に腹をふくらし、涼しい風に吹かれながら午睡をした。
夢うつつの中にも、かねの音、げたの音、人の語り合う声などがたえず聞こえた。
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夢うつつの中にも鐘の音、駒下駄の音、人の語り合う声などがたえず聞こえた。
彼岸の最後の日から、雨がしとしとと降った。
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結願の日から雨がしとしとと降った。
さびしい今年の秋が来た。
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さびしい今年の秋が来た。
彼のこのごろの日記には、こんなことが書いてある。
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かれのこのごろの日記には、こんなことが書いてある。
十月一日。
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十月一日。
先月二十八日から届かなかった新聞が、今日一度に来る。
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去月二十八日より不着の新聞今日一度に来る。
夜、善綱氏(小僧)に算術を教える。
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夜、善綱氏(小僧)に算術教ふ。
エノック・アーデン二十ページのところまで進む。
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エノックアーデン二十頁のところまで進む。
このごろは日が西にしずみやすく、四時過ぎに学校を出て五時半に羽生に着けば、日はまったく暮れる。
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このごろ日脚西に入り易く、四時過ぎに学校を出で、五時半に羽生に着けば日まったく暮る。
夜九時、ふろに行く。
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夜、九時、湯に行く。
秋の夜のお堂に、友のなみだは冷たい。
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秋の夜の御堂に友の涙冷やかなり。
二日。
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二日。
晴。
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晴。
なじんだ木犀のかおりもようやく弱まり、うらの栗林でもずが鳴きしきる。
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馴れし木犀の香やうやく衰へ、裏の栗林に百舌鳥なきしきる。
今日から九時始業。米ずしから夜の油を買う。
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今日より九時始業、米ずしより夜油を買ふ。
三日。
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三日。
とうもろこし畑の夕日に群れて飛ぶとんぼが赤い。熊谷の小畑に手紙を出す、夕方の波の絵を書きそえて。
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モロコシ畑の夕日に群れて飛ぶあきつ赤し、熊谷の小畑に手紙出す、夕波の絵かきそへて。
四日。
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四日。
晴。
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晴。
長く晴れていた空は、夜になって雨となった。
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久しく晴れたる空は夜に入りて雨となりぬ。
うらの林に、秋の雨が木の葉を打つ音が静かだ。
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裏の林に、秋雨の木の葉うつ音しづか。
ふるさとの夢を見る。
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故郷の夢見る。
五日。
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五日。
土曜日。
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土曜日。
雨をついて行田に帰る。
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雨をつきて行田に帰る。
六日。
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六日。
一日を、楽しい家で暮らす。
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一日を楽しき家庭に暮らす。
小畑と小島に手紙を出す。
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小畑と小島に手紙出す。
夜、細かい雨が静かだ。
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夜、細雨静かなり。
七日。
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七日。
朝早く行く。
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朝早く行く。
稲は黄色く色づき、野の朝の雨がななめに降る。
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稲、黄いろく色づき、野の朝の雨斜なり。
夜は学校にとまる。
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夜は学校にとまる。
八日。
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八日。
雨が激しく、井戸ばたのやなぎの糸のような枝が乱れる。
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雨はげしく井戸端の柳の糸乱る。
今夜も学校にとまる。
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今宵も学校にとまる。
九日。
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九日。
早く帰る。
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早く帰る。
秋の雨がようやく晴れて、夕方の雲が風に動くのが早く、夕日の金色の光は弱い。
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秋雨やうやく晴れて、夕方の雲風に動くこと早く夕日金色の色弱し。
弱くなった木犀のかおりが、かすかににおう。
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木犀の衰へたる香かすかに匂ふ。
夜、新聞を見、行田への荷物を包む。
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夜、新聞を見、行田への荷物包む。
星がかくれて、銀杏の実がしきりに落ちる。
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星かくれて、銀杏の実落つること繁し。
栗の林に秋風が立って、住まいの奥庭に葉が一まい散るのもさびしく、風の音にこおろぎの声が寒い。
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栗の林に野分たちて、庫裡の奥庭に一葉ちるもさびしく、風の音にコホロギの声寒し。
十日。
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十日。
朝、行田にかやを送り、夕方着物を受け取る。
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朝、行田に蚊帳を送り、夕方着物を受け取る。
小畑から久しぶりに、思いやりのこもった手紙をもらった。
原文を見る
小畑より久しぶりにて同情の手紙を得たり。
いわく「この秋の君の心! 思えばいろいろなことが思い出される。『去年の冬、今年の春!』という君の言葉にもはかり知れない思いがわき出て、心は遠く成願寺のあたりに」
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曰く「この秋の君の心! 思へばありしことども思ひ偲ばる。『去年冬の、今年の春!』といふ君が言葉にも千万無量の感湧き出でて、心は遠く成願寺のあたり」
などとある。
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云々。
夜、星が清くすんで、南に低く飛ぶものが二つ。小畑に返事を書く。
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夜、星清くすんで南に低く飛ぶもの二つ、小畑に返事を書く。
いわく「ぐちはもうやめた。言うまい、語るまい、一人で泣き、一人でもだえよう」
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曰く、「愚痴はもうやめた。言ふまい、語るまい、一人にて泣き、一人にてもだえん。」
清三は、このごろの日記を去年の冬、今年の春のものとくらべて、どれほどその調子が変わったかを考えざるを得なかった。
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清三はこのごろの日記の去年の冬、今年の春にくらべて、いかにその調子が変わったかを考えざるを得なかった。
去年の冬は、まだ世の中はこうしたものだとは知らなかった。
原文を見る
去年の冬はまだ世の中はこうしたものだとは知らなかった。
美しくはなやかな希望も、行く手に輝いていた。
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美しいはでやかな希望も前途に輝いていた。
かるたを取っても、ボールを投げてもおもしろかった。
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歌留多を取っても、ボールを投げてもおもしろかった。
親しい友だちの胸に、自分のことだけを考えるさびしいかげを見て取るほど、目も心もさめてはいなかった。
原文を見る
親しい友だちの胸に利己のさびしい影を認めるほど眼も心もさめておらなかった。
卒業の喜び、初めて世に出る希望――そのはなやかなかげはたちまち消えて、秋は来た、さびしい秋は来た。
原文を見る
卒業の喜び、初めて世に出ずる希望――その花やかな影はたちまち消えて、秋は来た、さびしい秋は来た。
うらの林に実って割れた栗のいがが見えて、晴れた夜は秋風がそこからさびしく立った。
原文を見る
裏の林に熟み割れた栗のいがが見えて、晴れた夜は野分がそこからさびしく立った。
長いろうかのふちは足のうらに冷たく、本堂のそばの高いあおぎりからは雨だれが泣くように落ちた。
原文を見る
長い廊下の縁は足の裏に冷やかに、本堂のそばの高い梧桐からは雨滴れが泣くように落ちた。
二十
原文を見る
二十
男の生徒女の生徒入りまじって三十名ばかり、田の間の細い道をぞろぞろと通る。
原文を見る
男生徒女生徒打ち混ぜて三十名ばかり、田の間の細い路をぞろぞろと通る。
学校を出る時は「亀よ亀さんよ」
原文を見る
学校を出る時は、「亀よ亀さんよ」
をいっせいにうたって来たが、それにもあきて、今はめいめい勝手なことをして歩いた。
原文を見る
をいっせいにうたってきたが、それにもあきて、今ではてんでに勝手な真似をして歩いた。
何かべちゃべちゃしゃべっている女の生徒もいれば、後ろをふり返ってあかんべえをしてみせる男の生徒もいる。
原文を見る
何かべちゃべちゃしゃべっている女生徒もあれば、後ろをふり返って赤目をしてみせている男生徒もある。
赤いマンマという花をつまんで列におくれる子もいれば、とんぼを追いかけて畑の中にはいって行く子もいる。
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赤いマンマという花をつまんで列におくれるものもあれば、蜻蛉を追いかけて畑の中にはいって行くものもある。
尋常二年と三年、九歳から十歳までのいたずらざかり。全体にむじゃきに甘えるようなふるまいを、清三は自分の物思いのなぐさめとしていつもかわいがったので、「先生――林先生」
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尋常二年級と三年級、九歳から十歳までのいたずら盛り、総じて無邪気に甘えるような挙動を、清三は自己の物思いの慰藉としてつねにかわいがったので、「先生――林先生」
と生徒は顔を見ては、よくそのあとを追った。
原文を見る
と生徒は顔を見てよくそのあとを追った。
学校から村をぬけて、発戸に出る。
原文を見る
学校から村を抜けて、発戸に出る。
青縞を織るはたの音が、そこにもここにも聞こえる。
原文を見る
青縞を織る機の音がそこにもここにも聞こえる。
色の白い若い先生を、わざわざ窓から首を出して見る機織りの女もいる。
原文を見る
色の白い若い先生をわざわざ窓から首を出して見る機織女もある。
清三ははかまをつけて麦わらぼうしをかぶって先に立ち、関さんは例の詰め襟のよごれた白い夏服を着て生徒にまじって歩いた。
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清三は袴を着けて麦稈帽子をかぶって先に立つと、関さんは例の詰襟の汚れた白い夏服を着て生徒に交って歩いた。
女の先生もその後ろから、ハンカチであせをふきふきついて来た。
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女教師もその後ろからハンケチで汗を拭き拭きついてきた。
秋はなかばを過ぎても、まだ暑かった。
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秋はなかば過ぎてもまだ暑かった。
発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出して、そのうらの土手にかけのぼった。
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発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出してその裏の土手にはせのぼった。
先に登った子は、手をあげて高くさけんだ。
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先に登ったものは、手をあげて高く叫んだ。
ぞろぞろとついて登って行って手をあげている様子が、秋の晴れた日の空気を通してまばらな松の間から見えた。
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ぞろぞろとついて登って行って手をあげているさまが、秋の晴れた日の空気をとおしてまばらな松の間から見えた。
その松原からは、利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見わたされた。
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その松原からは利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見渡された。
弥勒の先生たちは、よく生徒を運動にここへ連れて来た。
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弥勒の先生たちはよく生徒を運動にここへつれて来た。
生徒が砂地の上で相撲をとったり、草むらの中でばったを追ったり、水ぎわへ行って浅せでぼちゃぼちゃしたりしている間、先生たちはすずしい松原のかげで気のおけない話をしたり、新しい雑誌を読んだり、仰向けに草原の中にねころんだりした。
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生徒が砂地の上で相撲をとったり、叢の中で阜斯を追ったり、汀へ行って浅瀬でぼちゃぼちゃしたりしている間を、先生たちは涼しい松原の陰で、気のおけない話をしたり、新刊の雑誌を読んだり、仰向けに草原の中に寝ころんだりした。
平凡な利根川の長い土手、その中でここ一キロばかりの間は松原があって、景色が目のさめるほど美しかった。
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平凡なる利根川の長い土手、その中でここ十町ばかりの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。
ひょろ長い松もあれば、小さい松もある。
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ひょろ松もあれば小松もある。
松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高いおかとおかとの間には、青い草を下草にした絵のような松のかげがあった。
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松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高い丘と丘との間には、青い草を下草にした絵のような松の影があった。
夏はそこに、色のこいなでしこが咲いた。
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夏はそこに色のこいなでしこが咲いた。
白いほが、そのすぐ前を通って行った。
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白い帆がそのすぐ前を通って行った。
清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。
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清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。
鬼ごっこの群れにまじって、女の生徒につかまえられて前かけで目かくしをさせられることもある。
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鬼事の群れに交って、女の生徒につかまえられて、前掛けで眼かくしをさせられることもある。
また生徒を集めて、いっしょになって歌をうたうことなどもあった。
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また生徒を集めていっしょになって唱歌をうたうことなどもあった。
こうしている間は、彼には不平も不安もなかった。
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こうしている間はかれには不平も不安もなかった。
自分の不運をなげくという心も、起こらなかった。
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自己の不運を嘆くという心も起こらなかった。
むじゃきな子どもと同じ心になって遊ぶのが、いつものことである。
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無邪気な子供と同じ心になって遊ぶのがつねである。
しかし今日は、どうしてかそういう明るい心になれなかった。
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しかし今日はどうしてかそうした快活な心になれなかった。
むじゃきに遊び回る子どもを見ても、心がしずんだ。
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無邪気に遊び回る子供を見ても心が沈んだ。
こうして小さい生徒にはかないなぐさめを求めている自分が、情けない。
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こうして幼い生徒にはかなき慰藉を求めている自分が情けない。
彼は松のかげに腰をかけて、ゆったりと流れ去る大きな川に見入った。
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かれは松の陰に腰をかけてようようとして流れ去る大河に眺めいった。
ある日、学校の帰りを一人さびしく歩いた。
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一日、学校の帰りを一人さびしく歩いた。
空は晴れて夕暮れの空気の中にかげがこく、野にはすすきの白いほが風になびいた。
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空は晴れて、夕暮れの空気の影濃かに、野には薄の白い穂が風になびいた。
ふと道の角に来ると、大きな包みを背負い、古びた紺のきゃはんに、ほこりで白くなったわらじをはいて、いかにもつかれはてたという様子の旅人がひょっこり向こうの道から出て来て、「羽生の町へはまだだいぶありますか」
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ふと、路の角に来ると、大きな包みを背負って、古びた紺の脚絆に、埃で白くなった草鞋をはいて、さもつかれはてたというふうの旅人が、ひょっくり向こうの路から出て来て、「羽生の町へはまだよほどありますか」
と聞いた。
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と問うた。
「もう、すぐです。向こうに見える森がそうです」
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「もう、じきです、向こうに見える森がそうです」
旅人は彼と並んで歩きながら、なおいろいろなことを聞いた。
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旅人はかれと並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。
これから川越を通って、八王子のほうへ行くのだという。
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これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。
どうやら遠いところから、商売をしながらやって来た人らしい。
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なんでも遠いところから商売をしながらやって来たものらしい。
その言葉には、東北地方のなまりがあった。
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そのことばには東北地方の訛があった。
「この近所に森という村がありますか」
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「この近所に森という在郷がありますか」
「知りませんな」
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「知りませんな」
「では、高木というところは」
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「では高木というところは」
「聞いたようですけど……」
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「聞いたようですけど……」
やはり、よくは知らなかった。
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やはりよくは知らなかった。
旅人は今夜は羽生の町の梅沢という旅館にとまるという。
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旅人は今夜は羽生の町の梅沢という旅店にとまるという。
清三は町にはいるところで旅館へ行く道を教えてやり、田んぼの横道を右に別れた。
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清三は町にはいるところで、旅店へ行く路を教えてやって、田圃の横路を右に別れた。
見ていると、旅人はまるでつかれた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。
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見ていると、旅人はさながら疲れた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。
なぜともなく、よその土地にいるという思いが激しく胸をついて起こった。
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何故ともなく他郷という感が激しく胸をついて起こった。
彼も旅人、自分も同じくよその土地の人!
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かれも旅人、われも同じく他郷の人!
そう思うと、なみだがホロホロとほおをつたって落ちた。
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こう思うと、涙がホロホロと頬をつたって落ちた。
二十一
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二十一
秋は、日に日に深くなった。
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秋は日に日に深くなった。
寺のさかいにひょろ長いはんの木の林があって、その向こうの野の黄色く実った稲には、夕日がひとしきり明るくさした。
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寺の境にひょろ長い榛の林があって、その向こうの野の黄いろく熟した稲には、夕日が一しきり明るくさした。
鴻の巣に通う県道には、夕暮れ近くに、からの車が通る音がガラガラといつも高く聞こえる。
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鴻の巣に通う県道には、薄暮に近く、空車の通る音がガラガラといつも高く聞こえる。
そのころ、演習にやって来た歩兵の群れや大ほうの列や馬に乗った兵の列が、ぞろぞろと通った。
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そのころ機動演習にやって来た歩兵の群れや砲車の列や騎馬の列がぞろぞろと通った。
林の角に歩兵が横に広がって並んでいると思うと、バリバリと鉄ぽうの音がすさまじく聞こえる。
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林の角に歩兵が散兵線を布いていると思うと、バリバリと小銃の音が凄まじく聞こえる。
寺でも、住まいと本堂に兵士が七、八人も来てとまった。
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寺でも、庫裡と本堂に兵士が七八人も来て泊まった。
うらの林には馬が二、三十頭もつながれて、それに飲ませる水を入れた大きなおけが、いくつとなく本堂の前の庭に並べられる。
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裏の林には馬が二三十頭もつながれて、それに飲ませる水を入れた四斗桶がいくつとなく本堂の前の庭に並べられる。
サーベルの音、くつの音、馬のいななく声。にわかにあたりはそうぞうしくなった。
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サアベルの音、靴の音、馬のいななく声、にわかにあたりは騒々しくなった。
夜は町の大きな家の門に何中隊本部と書いた白いぬのがやみに見えて、士官や曹長が剣を鳴らして出たりはいったりした。
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夜は町の豪家の門に何中隊本部と書いた寒冷紗の布が白く闇に見えて、士官や曹長が剣を鳴らして出たりはいったりした。
それが一日二日で通り過ぎてしまうと、町はしんとしてもとの静けさにかえった。
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それが一日二日で通過してしまうと、町はしんとしてもとの静謐にかえった。
清三は二、三日前の土曜日にいつものように行田に行ったが、帰って来て日記に、「母は努めて言わないが、父上がせめて何とか働いてくださるなら、わが家は平和であろうものを。この思いは、いつも帰る時に思いうかばないことがない」
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清三は二三日前の土曜日に例のごとく行田に行ったが、帰って来て、日記に、「母はつとめて言はねど、父君のさてはなんとか働きたまはば、わが一家は平和ならましを。この思ひ、いつも帰行の時に思ひ浮かばざることなし」
と書いた。
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と書いた。
なまけがちに日を送って母親にばかり苦労をかける父親が、彼には歯がゆくてしかたがなかった。
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怠けがちに日を送って、母親にのみ苦労をかける父親がかれにははがゆくってしかたがなかった。
彼は、体の弱い、そして思いやりの深い母親をかわいそうに思った。
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かれは病身でそして思いやりの深い母親に同情した。
こめかみにこうやくをはって夜おそくまで仕事にはげむ母親のぐちを聞くと、どんな苦しみにもたえなければならないと、いつも思う。
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顳顬に即効紙をはって、夜更けまで賃仕事にいそしむ母親の繰り言を聞くと、いかなる犠牲も堪えなければならぬといつも思う。
時には父親に内しょで、財布の底をはたいてこづかいを置いて来ることなどもある。
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時には、父親に内所で、財布の底をはたいて小遣いを置いて来ることなどもある。
それを父親は、母親から引き出して使った。
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それを父親は母親から引き出してつかった。
二、三日前に帰った時にも、あちこちに一円二円と細かい借りができて困っているという話を、母親から聞いた。
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二三日前に帰った時にも、あっちこっちに一円二円と細かい不義理ができて困っているという話を母親から聞いた。
「行田文学」
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「行田文学」
は四号でやめるという話があった。石川は、せっかく始めたことだから一、二年は続けたいが、どうも費用がかさんで印刷所に借金ができるようでも困るから、という。
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は四号で廃刊するという話があった、石川はせっかく始めたことゆえ、一二年は続けたいが、どうも費用がかさんで、印刷所に借金ができるようでも困るからという。
郁治は、どうせそんな小さなものを出したってつまりは道楽にすぎないのだから、やめてしまうほうが結局いいやり方だと賛成する。
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郁治はどうせそんな片々たるものを出したって、要するに道楽に過ぎんのだからやめてしまうほうが結局いいしかただと賛成する。
清三はせっかく四号まで出したのだから、もう少し熱心に会員を集めたり寄付をしてもらったりしたなら続ける計画が立つだろうと言ってみたが、だめだった。
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清三はせっかく四号までだしたのだから、いま少し熱心に会員を募ったり寄付をしてもらったりしたならば、続刊の計画がたつだろうと言ってみたがだめだった。
日曜日には、荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。
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日曜日には荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。
荻生さんは心配のなさそうな顔をして、おもしろい話をしながら歩いた。
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荻生さんは心配のなさそうな顔をしておもしろい話をしながら歩いた。
とちゅうで、手で鼻をかんで見せた。
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途中で、テバナをかんで見せた。
それがいかにも上手なので、清三は体をくずして笑った。
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それがいかにも巧みなので、清三は体をくずして笑った。
清三は、荻生さんのむじゃきでのんきなのがうらやましかった。
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清三は荻生さんの無邪気でのんきなのがうらやましかった。
朝ぎりの深い朝もあった。
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朝霧の深い朝もあった。
野は秋がようやく去ろうとして、また暑いこと一、二日、柿は赤く、みかんは青いと、日記に書いた日もあった。
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野は秋ようやく逝かんとしてまた暑きこと一二日、柿赤く、蜜柑青しと、日記に書いた日もあった。
秋の雨はしだいに冷たく、うるしが赤く色づいたのがうらの林に見えて、前の銀杏の実は葉とともにしきりに落ちた。
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秋雨はしだいに冷やかに、漆のあかく色づいたのが裏の林に見えて、前の銀杏の実は葉とともにしきりに落ちた。
はいてもはいても、黄色い銀杏の葉は散って積もる。
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掃いても掃いても黄いろい銀杏の葉は散って積もる。
清三は小さいころふるさとの寺で、遊び仲間の子どもたちといっしょに、風のふいた朝を待ちかねて銀杏の実をひろったことを思い出した。
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清三は幼いころ故郷の寺で、遊び仲間の子供たちといっしょに、風の吹いた朝を待ちつけて、銀杏の実を拾ったことを思い出した。
それが、まだ昨日のことのように思われる。
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それがまだ昨日のように思われる。
今そこにいる子どもの群れの中に、自分もいっしょになって銀杏をひろっているような気もする。
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そこに現に子供の群れの中に自分もいっしょになって銀杏を拾っているような気もする。
月日がいつのまにかたって、こうして昔のことを考える身となったことが、不思議にさえ思われた。
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月日がいつの間にかたって、こうして昔のことを考える身となったことが不思議にさえ思われた。
このごろは学校でオルガンに新しい曲を合わせてみることに興味を持って、琴の六段や長唄の賤機などをやってみることがある。
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このごろは学校でオルガンに新曲を合わせてみることに興味をもって、琴の六段や長唄の賤機などをやってみることがある。
鉄幹の「残照」
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鉄幹の「残照」
は変ロ調の四分の四びょうしで、よく調子に合った。
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は変ロ調の4/4でよく調子に合った。
おそくまでかかって、熱心に歌の楽ふを書き写した。
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遅くまでかかって熱心に唱歌の楽譜を浄写した。
月の初めに給料の一部をさいてまくら時計を買ったので、このごろは朝はきまって七時には目がさめる。
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月の初めに、俸給の一部をさいて、枕時計を買ったので、このごろは朝はきまって七時には眼がさめる。
それに、時をきざむ秒しんの音がたえず聞こえて、なんだかそれが連れのように思われる。
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それに、時を刻むセコンドの音がたえず聞こえて、なんだかそれが伴侶のように思われる。
一人で帰って来ても、時計が待っている。
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一人で帰って来ても、時計が待っている。
夜ふけに目がさめても、チクタクやっている。
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夜更けに目がさめてもチクタクやっている。
物思う心のリズムにも、調子を合わせてくれるような気がする。
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物を思う心のリズムにも調子を合わせてくれるような気がする。
彼は小畑に出すはがきにまくら時計の絵をかいて、「この時計をわが友とも、わが妻とも思いながら、この秋を寺にこもって過ごすさびしい友を思ってくれ」
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かれは小畑にやる端書に枕時計の絵をかいて、「この時計をわが友ともわが妻とも思ひなしつつ、この秋を寺籠りするさびしの友を思へ」
と言ってやった。
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と言ってやった。
学校からの帰り道には、道ばたのすすきに夕日が力弱くさして、たでの花の白い小川に色のついた雲がうつった。
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学校からの帰途には、路傍の尾花に夕日が力弱くさして、蓼の花の白い小川に色ある雲がうつった。
彼は独歩の「むさし野」
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かれは独歩の「むさし野」
の感じを、さらに新しく胸に感じずにはいられなかった。
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の印象をさらに新しく胸に感ぜざるを得なかった。
寺の前の不動堂の高いえん側には、子守のおばあさんがいつも三、四人集まって、手びょうしをとって子守歌を歌っている。
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寺の前の不動堂の高い縁側には子傅の老婆がいつも三四人集って、手拍子をとって子守唄を歌っている。
そのころうらの林は夕日に輝いて、その最後の照り返しが山門のうらの白いかべにはっきりと照った。
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そのころ裏の林は夕日にかがやいて、その最後の余照は山門の裏の白壁の塀にあきらかに照った。
荻生さんは、いつもやって来た。
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荻生さんはいつもやって来た。
いっしょに町に出て、しるこを食べることなどもあった。
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いっしょに町に出て、しるこを食うことなどもあった。
「それはぼくだって、のんきにばかりしているわけではありませんさ。けれど、いくら考えたってしかたがないですもの。成るようにしかならないんですもの」
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「それは僕だってのんきにばかりしているわけではありませんさ。けれどいくら考えたってしかたがないですもの、成るようにしきゃならないんですもの」
荻生さんは清三がいつもしずみがちなのを見て、こんなことを言った。
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荻生さんは清三のつねに沈みがちなのを見て、こんなことを言った。
荻生さんは、清三がいつも悲しそうな顔をしているのを心配した。
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荻生さんは清三のつねに悲しそうな顔をしているのを心配した。
あとの月は、明るかった。
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後の月は明るかった。
うらの林を秋風がわたるのを聞きながら、住まいの八畳のえん側で和尚さんとお酒を飲んだ。
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裏の林に野分の渡るのを聞きながら、庫裡の八畳の縁側に、和尚さんと酒を飲んだ。
夜は、もう寒かった。
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夜はもう寒かった。
くつわむしの声もとぎれがちに、寒そうにこおろぎが鳴いていた。
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轡虫の声もかれがれに、寒そうにコオロギが鳴いていた。
秋は、日に日に寒くなった。
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秋は日に日に寒くなった。
行田からは、合わせの着物と足袋とを届けて来る。
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行田からは袷と足袋とを届けて来る。
二十二
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二十二
小畑から来た手紙、その一。
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小畑から来た手紙の一。
今日ある人(あえて名前は書かない)から聞いたところでは、君と加藤の妹との間には何かあるとのことだが、それは本当かどうか、知らせてほしい。
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今日、ある人(しひて名を除く)から聞けば、君と加藤の妹との間には多少の意義があるとのことに候ふが、それはほんたうか如何、お知らせくだされたく候。
先日、加藤に会った時にそれとなく聞いてみたが、そんなことは知らないと言っていた。
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先日、加藤に会ひし時、それとなく聞きしに、そんなことは知らぬと申し候。
けれど、これは兄が知らないからといって、まったくないとは言いきれない、などと笑ったよ。
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けれどこれは兄が知らぬからとて、事実無根とは断言出来難しなど笑ひ申し候。
君にも似合わないことだな。
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君にも似合はぬ仕事かな。
あるならあるでよし、ないならないでよい。
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ある事はありてよし、なきことはなくてよし。
少しは力を貸さないでもないのだから、なんとか返事がほしい。
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一臂の力を借さぬでもないのに、なんとか返事ありたく候。
加藤の浮かれようは話にもならない。手紙が浦和から来たといってはその一部を写してみてくれという始末で、思いのほか熱くなっているようだ。
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加藤の浮かれ加減はお話にもならず、手紙が浦和から来たとて、その一節を写してみてくれろといふ始末、存外熱くなりておれることと存じ候。
秋は寒い。近ごろはどうだ。
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秋寒し、近況如何。
手紙、その二。
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手紙の二。
返事をありがとう。
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お返事難有う。
そんなことをしていられるかどうか考えてみろ、という聞き返しの手きびしさ。
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そんなことをしていられるかどうか考えてみよとのご反問の手厳しさ。
君の心は、よくわかった。
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君の心はよくわかった。
けれど、「あんな気取り屋はきらいだ」
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けれど、「あんなおしゃらくは嫌ひだ」
は、少しひどすぎると思う。
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は少しひどすぎたりと思ふ。
あの背の高い後ろ姿のいいところが気に入る人もいるよ。
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あの背の高い後ろ姿のいいところが気に入る人もあるよ。
また、あの背の高い、君のきらいな人が、君でなくてはならないと思っていたらどうする。
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またあの背の高いお嫌ひな人が君でなくってはならなかったらどうする。
「きらいだ」
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「嫌ひだ」
と言ったからといって、そうか、本当にきらいだったのかと新しい事実を見つけたように思うようなぼくではない。
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と言うたからとて、さうかほんたうに嫌ひだったのかと新事実を発見したほどに思ふやうな僕にては無之候。
こう言うとまた誤解だと言うかもしれないが、簡単に誤解だと言えないだけの事実があるのをぼくは確かな人から聞いたのだから、だめだ。
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かう申せばまた誤解呼はりをするかもしれねど、簡単に誤解呼はりをする以上の事実があるのを僕は確かな人から聞いたの故だめに候。
この次の日曜には、行田からもう一息、車を飛ばしてやって来たまえ。
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この次の日曜には、行田からいま一息車を飛ばしてやって来たまへ。
この間、白滝の君に会ったら、「林さん、お変わりなくて?」
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この間、白滝の君に会ったら、「林さん、お変りなくって?」
と聞いていた。
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と聞いていた。
また例の蕎麦屋でビールでも飲んで語ろうじゃないか。
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また例の蕎麦屋でビールでも飲んで語らうぢゃないか。
小島から、この間便りがあった。
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小島からこの間便りがあった。
近いうちに杉山がまた東京の早稲田に出て行くそうだ。
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このごろに杉山がまた東京の早稲田に出て行くさうだ。
歌をありがとう。
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歌を難有う。
思わんやさはいへそぞろ武蔵野に七里を北へ下野の山――七里を北といえば足利ではないか。
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思はんやさはいへそぞろむさし野に七里を北へ下野の山、七里を北といへば足利ではないか。
君のふるさとじゃないか。
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君の故郷ぢゃないか。
いつか聞いた、君の初恋の思い出ではないか。
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いつか聞いた君のフアストラヴの追憶ではないか。
手紙、その三。
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手紙の三。
君の胸には、何かがあるようだ。
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君の胸には何かがあるやうだ。
少なくとも、この間の返事でぼくはそう受け取った。
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少なくともこの間の返事で僕はさう解釈した。
そう受け取ったのが悪いと言われても、これもしかたがないと思う。
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解釈したのが悪いと言はれてもこれもしかたがなしと存じ候。
加藤はこのごろ、別のペンネームを作ったと言っている。
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加藤このごろ別号をつくりたりと申し居り候。
未央生というペンネームを書いて、まだ君のあたりをおどろかせていないか。
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未央生の号を書きていまだ君のあたりを驚かさず候ふや。
未央といえば、もうわかるだろう。
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未央と申せば、すでにご存じならん。
未央が美穂に通じるのは、言うまでもないことだ。
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未央は美穂に通ずるは言ふまでもなきことに候。
「ぼくが加藤の二人の妹のどちらを取るかといえば、むしろしげ子を。おとなしくて情のあついしげ子を」
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「予にして加藤の二妹のいづれを取らんやといへば、むしろしげ子を。温順にして情に富めるしげ子を」
小さい教え子を恋人にする小学校の先生のことなどを思い出して、ほほえんだよ。
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をさなき教へ子を恋人にする小学教師のことなど思ひ出して微笑み申し候。
また、君の相変わらぬ小さなプライドも思い出した。
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また君の相変らぬ小さき矜持をも思ひ出し候。
手紙、その四。
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手紙の四。
久しぶりで一日気持ちよく語り合い、去年の冬ごろのことを思い出した。
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久しぶりで快談一日、昨年の冬ごろのことを思ひ出し候。
あの日は、おそくなったことと思う。
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あの日は遅くなりしことと存じ候。
君の心のなかばは、ぼくが理解したと言ってもいいだろうと思う。
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君の心のなかばをばわれ解したりと言ひてもよかるべしと存じ候。
恋――それだけが人生ではない。
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恋――それのみがライフにあらず。
まことにそのとおり、まことにそのとおりだ。君の苦しい胸のうちは、察するにあまりある。
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真に然り、真に然り、君の苦衷察するにあまりあり。
君のような志をだいて世に出た最初の秋を、こんなにさびしく暮らすのを思えば、われわれは不平など言ってはいられないはずだ。
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君のごとき志を抱いて、世に出でし最初の秋をかくさびしく暮らすを思へば、われらは不平など言ひてはをられぬはずに候。
手紙、その五。
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手紙の五。
(はがき)
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(はがき)
運命は、一度は君を負かした。
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運命一たび君を屈せしむ。
どうして君が、いつまでも負けたままでいることがあろう。
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なんぞ君の永久に屈することあらん。
君が必ずふるい立って立ち上がる時が来ることを、信じて疑わない。
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君の必ずふるって立つの時あるを信じて疑はず。
意気の子の一人さびしの夜の秋木犀の香りしめりがちなる
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意気の子の一人さびしの夜の秋木犀の香りしめりがちなる
これらの手紙をそろえて、机の上に置いた。
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これらの手紙をそろえて机の上においた。
そして清三は考えた。
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そして清三は考えた。
自分が書いてやった返事と、その返事が友の心に起こしたこととを、細かく引きくらべて考えてみた。
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自分の書いてやった返事と、その返事の友の心にひき起こしたこととを細かに引きくらべて考えてみた。
さらに、自分の本当の心と、その手紙の上に表れた様子とがどれほどはなれているかを思った。
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さらに自己のまことの心とその手紙の上にあらわれた状態とのいかに離れているかを思った。
美穂子のことから続いて、雪子やしげ子のことを頭にうかべた。
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美穂子のことからひいて雪子しげ子のことを頭に浮かべた。
表に出たことだけで、世の中は簡単に決めつけられていく。
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表面にあらわれたことだけで世の中は簡単に解釈されていく。
打ち明けて心の底を語らなければ――いや、心の底をくわしく語っても、ほかの人はその本当のところを簡単には理解しない。
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打ち明けて心の底を語らなければ、――いや心の底をくわしく語っても、他人はその真相を容易に解さない。
親しい友だちでも、そうである。
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親しい友だちでもそうである。
彼は、身にしみて孤独を感じた。
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かれは痛切に孤独を感じた。
だれも知ってくれる人のない心のさびしさを、ひしと覚えた。
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誰も知ってくれるもののない心の寂しさをひしと覚えた。
木がらしが、うらの林をドッと鳴らした。
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凩が裏の林をドッと鳴らした。
二十三
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二十三
天長節(てんちょうせつ。天皇の誕生日)には、学校で式があった。
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天長節には学校で式があった。
学務委員や村長や土地の有力者や生徒の親が、ぞろぞろ来た。
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学務委員やら村長やら土地の有志者やら生徒の父兄やらがぞろぞろ来た。
天皇のお言葉の箱を机の上にかざり、菊の花の白いのと黄色いのとをびんにさしてそのそばに置いた。
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勅語の箱を卓の上に飾って、菊の花の白いのと黄いろいのとを瓶にさしてそのそばに置いた。
女の生徒の中には、メリンスの新しい晴れ着を着てえび茶色のはかまをはいたのも、ちらほら見えた。
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女生徒の中にはメリンスの新しい晴れ衣を着て、海老茶色の袴をはいたのもちらほら見えた。
紋つきを着た男の生徒もあった。
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紋付きを着た男の生徒もあった。
オルガンの音につれて、「君が代」
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オルガンの音につれて、「君が代」
と「今日のよき日」
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と「今日のよき日」
をうたう声が、講堂の破れたガラスをもれて聞こえた。
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をうたう声が講堂の破れた硝子をもれて聞こえた。
それがすむと、先生たちが出口に立って、紙に包んだ菓子を生徒に一人一人分けてやる。
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それがすむと、先生たちが出口に立って紙に包んだ菓子を生徒に一人一人わけてやる。
生徒はにこにこして、おじぎをしてそれを受け取った。
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生徒はにこにこして、お時儀をしてそれを受け取った。
ていねいにふところにしまう子もいれば、紙をあけて見る子もいる。
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ていねいに懐にしまうものもあれば、紙をあけて見るものもある。
中には門のところでもうむしゃむしゃ食べている、行儀の悪い子もあった。
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中には門のところでもうむしゃむしゃ食っている行儀のわるい子もあった。
あとで先生たちは村長や学務委員といっしょに広い講堂にテーブルを集め、役場から持って来た白いぬのをその上にしいて、人数だけのいすをそのまわりに寄せた。
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あとで教員連は村長や学務委員といっしょに広い講堂にテーブルを集めて、役場から持って来た白の晒布をその上に敷いて、人数だけの椅子をそのまわりに寄せた。
餅菓子とせんべいとが、菊の花びんの間に並べられる。
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餅菓子と煎餅とが菊の花瓶の間に並べられる。
小使は大きなやかんにお茶を入れて持って来て、めいめいに配った茶わんについで回った。
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小使は大きな薬罐に茶を入れて持って来て、めいめいに配った茶碗についで回った。
天皇のめでたい誕生日は、お茶の会だけでは終わらなかった。
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大君のめでたい誕生日は、茶話会では収まらなかった。
小川屋に行ってビールでも飲もうという話が、だれからともなく出た。
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小川屋に行って、ビールでも飲もうという話は誰からともなく出た。
やがて先生たちは、ぞろぞろと田んぼの中の料理屋に出かける。
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やがて教員たちはぞろぞろと田圃の中の料理屋に出かける。
一番あとから、校長が行った。
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一番あとから校長が行った。
小川屋の娘はきれいに髪を結って、見ちがえるように美しい顔をして、有り合わせのたまご焼きか何かでお膳を運んだ。
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小川屋の娘はきれいに髪を結って、見違えるように美しい顔をして、有り合わせの玉子焼きか何かでお膳を運んだ。
一人前五十銭の会費に、有力者からの寄付が五、六円あった。
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一人前五十銭の会費に、有志からの寄付が五六円あった。
それで、ビールはいきおいよく開けられる。
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それでビールは景気よく抜かれる。
村長と校長とが楽しそうに今年の豊作などを話していると、若い者は若い者で、しかくの試験や講習会の話などをした。
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村長と校長とは愉快そうに今年の豊作などを話していると、若い連中は若い連中で検定試験や講習会の話などをした。
大島さんがコップにビールをつごうとすると、女の先生は手でふたをしてコップをわきにやった。
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大島さんがコップにビールをつごうとすると、女教員は手で蓋をしてコップをわきにやった。
「一ぱいくらい、女だって飲めなくては不自由ですな」
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「一杯ぐらい、女だって飲めなくては不自由ですな」
と大島さんは元気に笑った。
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と大島さんは元気に笑った。
西日が暖かにえん側にさして、せまい庭には大きな菊が白く黄色く咲いていた。
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西日が暖かに縁側にさして、狭い庭には大輪の菊が白く黄いろく咲いていた。
畑も田ももうたいてい取り入れがすんで、向こうのまばらな森のかげからは、かれ草を燃やすけむりがところどころにあがった。
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畑も田ももうたいてい収穫がすんで、向こうのまばらな森の陰からは枯草を燃やす煙がところどころにあがった。
そばの街道をラッパの音がして、例の大越通いの乗合馬車が通った。
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そばの街道を喇叭の音がして、例の大越がよいの乗合馬車が通った。
その夜は、学校にとまった。
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その夜は学校にとまった。
翌日は、午後から雨になった。
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翌日は午後から雨になった。
黄色く色づき始めた野の楢林から、雨だれがぽたぽた落ちる。
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黄いろく色づき始めた野の楢林から雨滴れがぽたぽた落ちる。
寺に帰ってみると、障子がすっかりはりかえられて、部屋が明るくなっている。
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寺に帰ってみると、障子がすっかりはりかえられて、室が明るくなっている。
荻生さんが天長節の午後から来て、半日かかってせっせとはって行ったという。
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荻生さんが天長節の午後から来て、半日かかってせっせとはって行ったという。
その友情に感動して、その後会った時にお礼を言うと、「あまり黒くなっていたから……」
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その友情に感激して、その後会った時に礼を言うと、「あまり黒くなっていたから……」
と、荻生さんはべつになんとも思っていない。
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と荻生さんはべつになんとも思っていない。
「君はぼくの留守にそうじはしてくれる、ごちそうは買っておいてくれる、障子ははりかえてくれる。まるでぼくの奥さんのようだね」
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「君は僕の留守に掃除はしてくれる、ご馳走は買っておいてくれる、障子ははりかえてくれる。まるで僕の細君みたようだね」
と清三は笑った。
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と清三は笑った。
和尚さんも、「荻生君はほんとうにこまめで親切でやさしい。女だったら、それはいい奥さんになるんだが、おしいことをしました」
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和尚さんも、「荻生君はほんとうにこまめで親切でやさしい。女だと、それはいい細君になるんだッたが惜しいことをしました」
こう言って、やはり笑った。
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こういってやっぱり笑った。
晴れた日には、農家の広場でもみをより分ける道具がいそがしく回った。
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晴れた日には、農家の広場に唐箕が忙わしく回った。
野からは、刈った稲をたくさん積んだ車が何台となくやって来る。
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野からは刈り稲を満載した車がいく台となくやって来る。
寒くならないうちにおそい稲の取り入れをすませてしまいたい、蕎麦も取ってしまいたい、麦もまいてしまいたい。
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寒くならないうちに晩稲の収穫をすましてしまいたい、蕎麦も取ってしまいたい、麦も蒔いてしまいたい。
お百姓はこう思って、みな一生けんめいに働いた。
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百姓はこう思ってみな一生懸命に働いた。
十月の末から十一月の初めにかけては、もう関東平野らしい木がらしがそろそろ立ち始めた。
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十月の末から十一月の初めにかけては、もう関東平野に特色の木枯がそろそろたち始めた。
朝ごとの霜は、わらぶきの屋根を白くした。
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朝ごとの霜は藁葺の屋根を白くした。
寺の住まいの入り口の広場にも、小作の米がだんだん持ちこまれる。
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寺の庫裡の入り口の広場にも小作米がだんだん持ち込まれる。
豊作の年でも何とか理屈をつけて量を負けてもらおうと苦心するのが、小作人のいつものやり方であった。
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豊年でもなんとか理屈をつけてはかりを負けてもらう算段に腐心するのが小作人の習いであった。
それも、いつも夕暮れのいそがしいころを選んで、馬に積んだり車にのせたりして運んで来た。
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それにいつも夕暮れの忙わしい時分を選んで馬に積んだり車に載せたりして運んで来た。
和尚さんは入り口に出てあいさつし、まず細い棒でたわらから米をぬき取って、それを明るい外に出して調べてみる。
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和尚さんは入り口に出て挨拶して、まずさしで、俵から米を抜いて、それを明るい戸外に出して調べてみる。
どうもこんな米ではしかたがないとか、あそこはこんな悪い米ができるはずがないがとか、いろいろな文句を持ち出す。すると小作人は小作人でそれなりの言いわけをして、どうやらこうやら押しつけて帰って行く。
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どうもこんな米ではしかたがないとか、あそこはこんな悪い米ができるはずがないがとかいろいろな苦情を持ち出すと、小作人は小作人で、それ相応な申しわけをして、どうやらこうやら押しつけて帰って行く。
豆を作った人は、豆を持って来る。
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豆を作ったものは豆を持って来る。
蕎麦を作った人は、蕎麦粉を納めに来る。
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蕎麦をつくったものは蕎麦粉を納めに来る。
「来年は一つりっぱに作ってみますから、どうか今年はこれで勘弁していただきたい」
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「来年は一つりっぱにつくってみますから、どうか今年はこれで勘弁していただきたい。」
だれもみんな、そんなことを言った。
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誰もみんなそんなことを言った。
「どうも小作人などというものは、しかたがないものですな」
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「どうも小作人などというものはしかたがないものですな」
と和尚さんは清三に言った。
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と和尚さんは清三に言った。
取り入れがすむと、町も村もなんとなくにぎやかに豊かになった。
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収穫がすむと、町も村もなんとなくにぎやかに豊かになった。
料理屋に三味線の音が夜ふけまで聞こえ、市の日には呉服屋や外国の品を売る店の店先に、赤い蹴出しの娘を連れたお百姓なども見えた。
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料理屋に三味線の音が夜更けまで聞こえ、市日には呉服屋唐物屋の店に赤い蹴出しの娘をつれた百姓なども見えた。
学校の宿直室に先生がとまっているのを知って、あんころ餅を重箱にいっぱい持って来てくれる人もあれば、にわとりを一羽料理して持って来てくれる人もある。
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学校の宿直室に先生のとまっているのを知って、あんころ餅を重箱にいっぱい持って来てくれるのもあれば、鶏を一羽料理して持って来てくれるものもある。
寺ではえびす講に、新しい蕎麦をおくさんが自分で打って、お酒を一本つけてくれた。
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寺では夷講に新蕎麦をかみさんが手ずから打って、酒を一本つけてくれた。
木がらしのふき荒れた夜の朝は、楢や栗の葉が本堂の前のそこここにふきためられている。
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木枯の吹き荒れた夜の朝は、楢や栗の葉が本堂の前のそこここに吹きためられている。
銀杏の葉はすっかり落ちつくして、かねつき堂のかげがなんとなくさびしく見える。
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銀杏の葉はすっかり落ちつくして、鐘楼の影がなんとなくさびしく見える。
十一月の末には、手を洗うはちに薄い氷が張った。
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十一月の末には手水鉢に薄氷が張った。
行田の友だちも少なからず変わったのを、清三はこのごろ見つけた。
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行田の友だちも少なからず変わったのを清三はこのごろ発見した。
石川は雑誌をやめてから文学からだんだん遠ざかって、たずねても病気で会えないこともある。
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石川は雑誌をやめてから、文学にだんだん遠ざかって、訪問しても病気で会われないこともある。
うわさでは、近ごろは料理屋に行って女を相手にお酒を飲むという。
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噂では近ごろは料理屋に行って、女を相手に酒を飲むという。
この前の土曜日に、清三は郁治と石川と沢田とにさそわれて、このごろやっている東京の役者の出る芝居に行った。けれど友の調子も目立ってくだけて、春あたりはあえて言わなかったじょうだんなどを人の前で平気で言うようになった。
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この前の土曜日に、清三は郁治と石川と沢田とに誘われて、このごろ興行している東京の役者の出る芝居に行ったが、友の調子もいちじるしくさばけて、春あたりはあえて言わなかった戯談などをも人の前で平気で言うようになった。
郁治の調子も、なんとなくくだけて見えた。
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郁治の調子もなんとなくくだけて見えた。
清三ははしゃぐ友だちの中で、さびしい心でだまってぶたいを見守った。
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清三ははしゃぐ友だちの群れの中で、さびしい心で黙って舞台を見守った。
二幕目が終わると、
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二幕目が終わると、
「ぼくは帰るよ」
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「僕は帰るよ」
こう言って、彼は立ち上がった。
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こう言ってかれは立ち上った。
「帰る?」
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「帰る?」
みんなはおどろいて、清三の顔を見た。
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みんなは驚いて清三の顔を見た。
じょうだんかと思ったが、その顔には笑いのかげは見えなかった。
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戯談かと思ったが、その顔には笑いの影は認められなかった。
「どうかしたのか」
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「どうかしたのか」
郁治は、こうたずねた。
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郁治はこうたずねた。
「うん、少し気分が悪いから」
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「うむ、少し気分が悪いから」
友だちは、そそくさと帰って行く清三の後ろ姿を不思議そうに見送った。
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友だちはそこそこに帰って行く清三の後ろ姿を怪訝そうに見送った。
後ろで、石川の笑う声がした。
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後ろで石川の笑う声がした。
清三は、いやな気がした。
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清三は不愉快な気がした。
外に出ると、ほっとした。
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戸外に出るとほっとした。
それでも郁治とは行き来したが、もう以前のようではなかった。
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それでも郁治とは往来したが、もう以前のようではなかった。
ある夜、清三は石川に手紙を書いた。
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一夜、清三は石川に手紙を書いた。
初めはまじめに書いてみたが、あまり気持ちに余ゆうがないのを自分で感じて、わざと詩の形に書き直してみた。
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初めはまじめに書いてみたが、あまり余裕がないのを自分で感じて、わざと律語に書き直してみた。
意気を、血を、さけぶ声はまず消えて、
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意気を血を、叫ぶ声先づ消えて、
さてはまた、野に霜がおりてかれるように、
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さてはまた、野に霜結んで枯るるごと、
君らの声はもう立たない。
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卿等の声はまた立たず。
なんということだ、一人の女へのおろかさによって、
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何んぞや一婦の痴に酔ひて、
俗なにおいの立ちこめる町に狂う。
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俗の香巷に狂ふ。
ああ、やめてしまうのか、もう以前の意気はないのか。
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あゝ止みなんか、また前日の意気なきや。
ついにやめてしまうのか、君らのおろかなありさま!
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終に止みなんか、卿等の痴態!
そして最後に咄!
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さて最後に咄!
という字を一字書いて封筒に入れてみたが、これでは友に注意するのに、なんだかとても不まじめになるような気がする。
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という字を、一字書いて、封筒に入れてみたが、これでは友に警告するのになんだかはなはだふまじめになるような気がする。
いろいろ考えたすえ、「こんなことはつまらない、言ってやったってしかたがない」
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いろいろ考えたすえ、「こんなことはつまらぬ、言ってやったってしかたがない」
と思って、破って捨てた。
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と思って破って捨てた。
初冬の暖かい日はしだいに少なくなって、野には寒い寒い西風がふき立った。
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初冬の暖かい日はしだいに少なくなって、野には寒い寒い西風が吹き立った。
日の当たる学校のガラスに、この間まではえがぶんぶん飛んでいたが、それももう見えなくなった。
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日向の学校の硝子にこの間まで蠅がぶんぶん飛んでいたが、それももう見えなくなった。
田の刈ったあとの氷が、午後まで残っていることもある。
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田の刈ったあとの氷が午後まで残っていることもある。
黄色く紅く色づいた楢やはんの木や栗の林も、毎日の西風にその葉がガラガラと散る。里の子どもが野の中でそれを集めてたき火などをしているのを、よく見かける。
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黄いろく紅く色づいた楢や榛や栗の林も連日の西風にその葉ががらがらと散って、里の子供が野の中で、それを集めて焚火などをしているのをよく見かける。
大越街道を羽生の町へはいろうとするあたりからは、日光の山々を中心にした野州の山なみがとくにはっきりと手にとるように見える。彼はいつもそこに来ると足をとめて立ちつくした。
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大越街道を羽生の町へはいろうとするあたりからは、日光の山々を盟主にした野州の連山がことにはっきりと手にとるように見えるが、かれはいつもそこに来ると足をたたずめて立ちつくした。
彼のふるさとである足利町は、その波のように起伏したしわの多い山のふもとにあった。
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かれの故郷なる足利町は、その波濤のように起伏した皺の多い山の麓にあった。
ある日、彼はそのふるさとの山にすでに雪が白く来ているのを見た。
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一日、かれはその故郷の山にすでに雪の白く来たのを見た。
和尚さんも長い夜を退くつして、よく本堂にやって来て話した。
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和尚さんも長い夜を退屈がって、よく本堂にやって来て話した。
夜など、お茶をいれましたからと小僧をむかえによこすこともある。
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夜など茶をいれましたからと小僧を迎えによこすこともある。
住まいの奥の六畳、その部屋には長火ばちに鉄びんが煮えたって、明るいランプのもとでおくさんがぬい物をひろげている。和尚さんは小さい机をそのそばに持って来て、新しい雑誌などを見ている。
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庫裡の奥の六畳、その間には、長火鉢に鉄瓶が煮えたって、明るい竹筒台の五分心の洋燈のもとに、かみさんが裁縫をひろげていると、和尚さんは小さい机をそのそばに持って来て、新刊の雑誌などを見ている。
さびしい寺とは思えないほど、その一間は明るかった。
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さびしい寺とは思えぬほどその一間は明るかった。
お茶うけは塩せんべいか法事でもらったアンビ餅で、文学の世界のことやそのころの作家の性格や雑誌記者の話などがいつもきまって出た。けれどある夜、ふと話が旅行のことに移って行った。
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茶請は塩煎餅か法事でもらったアンビ餅で、文壇のことやそのころの作者気質や雑誌記者の話などがいつもきまって出たが、ある夜、ふと話が旅行のことに移って行った。
和尚さんは、かつて行っていた伊勢の話を得意になって話し出した。
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和尚さんはかつて行っていた伊勢の話を得意になって話し出した。
住職は早稲田を出てから半年ばかりして、伊勢の一身田の専修寺の中学校に英語と国語の先生としてやとわれて、二年ほどいた。
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主僧は早稲田を出てから半歳ばかりして、伊勢の一身田の専修寺の中学校に英語国語の教師として雇われて二年ほどいた。
伊勢神宮から二見の浦、宇治橋の下で橋の上からお参りの人が投げるお金を網で受ける話や、あいの山で昔女がへらでお金を受けとめた話などをして聞かせた。
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伊勢の大廟から二見の浦、宇治橋の下で橋の上から参詣人の投げる銭を網で受ける話や、あいの山で昔女がへらで銭を受けとめた話などをして聞かせた。
朝熊山のながめ、とくに谷じゅうが梅で白いという月ヶ瀬の話などが、清三のあこがれやすい心をひいた。
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朝熊山の眺望、ことに全渓みな梅で白いという月ヶ瀬の話などが清三のあくがれやすい心をひいた。
それから京都や奈良の話も、その心をひき寄せるのに十分であった。
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それから京都奈良の話もその心をひき寄せるに十分であった。
和尚さんが行った時はちょうど四月の休みのころで、祇園や嵐山の桜はさかりであった。
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和尚さんの行った時は、ちょうど四月の休暇のころで、祇園嵐山の桜は盛りであった。
「行違ふ舞子の顔やおぼろ月」
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「行違ふ舞子の顔やおぼろ月」
という紅葉山人の句を引いて、新京極から三条の橋の上の夜のにぎわいをおもしろく語った。
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という紅葉山人の句を引いて、新京極から三条の橋の上の夜のにぎわいをおもしろく語った。
その時は和尚さんも浮かれた気持ちになってせったを買い、チャラチャラ音をさせて明るくにぎやかな春の町を歩いたという。
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その時は和尚さんもうかれ心になって雪駄を買って、チャラチャラ音をさせて、明るいにぎやかな春の町を歩いたという。
奈良では大仏、若草山、世界にめずらしい銅の仏像、二千年昔のお寺などというのをくまなく見た。
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奈良では大仏、若草山、世界にめずらしいブロンズの仏像、二千年昔の寺院などいうのをくまなく見た。
清三の孤独でさびしい心はこれを聞いて、まだ見ぬところ、まだ見ぬ山や川、まだ見ぬ人々のくらしにあこがれずにはいられなかった。
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清三の孤独なさびしい心はこれを聞いて、まだ見ぬところまだ見ぬ山水まだ見ぬ風俗にあくがれざるを得なかった。
「一生のうち一度は行ってみたい」
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「一生のうち一度は行ってみたい」
こう思って、彼は自分の心もとない行く先を見た。
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こう思ってかれは自己のおぼつかない前途を見た。
年の暮れは、しだいに近づいて来た。
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年の暮れはしだいに近寄って来た。
行田の母からは、今年の暮れはあちこちの借金が多いから、どうか今から心がけてお金をむやみに使わないようにと言ってよこした。
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行田の母からは、今年の暮れはあっちこっちの借銭が多いから、どうか今から心がけて、金をむやみに使ってくれぬようにと言ってよこした。
ふとんが薄いので、えびのようにかがめてねる足は一晩中暖まらない。
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蒲団が薄いので、蝦のようにかがめて寝る足は終夜暖まらない。
家に言ってやったところでだめなのはわかっているし、できあいを買う余ゆうもない。それでどうにかして今年の冬はこれで間に合わせるつもりで足のほうに着物や羽織やはかまをかけたが、日ごとにつのる夜の寒さをしのぐことができなかった。
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宅に言ってやったところでだめなのは知れているし、でき合いを買う余裕もないので、どうかして今年の冬はこれで間に合わせるつもりで、足のほうに着物や羽織や袴をかけたが、日ごとにつのる夜寒をしのぐことができなかった。
やむなく彼は、米ずしから大きめのふとんを一枚借りることにした。
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やむなくかれは米ずしから四布蒲団を一枚借りることにした。
その日の日記に、彼は「今夜からようやく暖かくねることができた」
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その日の日記に、かれは「今夜よりやうやく暖かに寝ることを得」
と書いた。
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と書いた。
行田から羽生に通う道は、ふきさらしの平野のいつものことで、顔も向けられないほど西風が激しくふきすさんだ。
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行田から羽生に通う路は、吹きさらしの平野のならい、顔も向けられないほど西風が激しく吹きすさんだ。
日曜日の日の暮れがたに行田から帰って来ると、秩父の山なみの上に富士がうすずみ色にはっきりと出ていて、夕日が寒々と平野に照っていた。
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日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が淡墨色にはっきりと出ていて、夕日が寒く平野に照っていた。
とちゅうで日がまったく暮れて、さびしい田んぼ道を一人てくてくと歩いて来ると、ふとすれちがった人が、
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途中で日がまったく暮れて、さびしい田圃道を一人てくてくと歩いて来ると、ふとすれ違った人が、
「赤城山なあ、山火事だんべい」
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「赤城山なア、山火事だんべい」
と言って通った。
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と言って通った。
ふり返ると、暗いやみを通して、そのあたりと思われるところに、はたして火の光があざやかに照って見えた。
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ふり返ると、暗い闇を通して、そこあたりと覚しきところにはたして火光があざやかに照って見えた。
山火事!
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山火事!
赤城の山火事!
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赤城の山火事!
関東平野に寒い寒い冬が来たというしるしであった。
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関東平野に寒い寒い冬が来たという徴であった。
今年の冬ごもりのさびしさを思いながら、清三は歩いた。
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今年の冬籠りのさびしさを思いながら清三は歩いた。
二十四
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二十四
「林さん……あなたはうちの兄と美穂子さんのこと、知ってて?」
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「林さん、……貴郎は家の兄と美穂子さんのこと知ってて?」
雪子は笑いながら、こう聞いた。
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雪子は笑いながらこうきいた。
「少しは知っています」
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「少しは知っています」
清三はやや顔を赤くして、雪子の顔を見た。
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清三はやや顔を赤くして、雪子の顔を見た。
「このごろのこともご存じ?」
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「このごろのこともご存じ?」
「このごろって……この冬休みになってからですか」
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「このごろッて……この冬休みになってからですか」
「ええ」
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「ええ」
雪子は、笑ってみせた。
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雪子は笑ってみせた。
「知りません」
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「知りません」
「そう……」
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「そう……」
と、また笑って口をつぐんでしまった。
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とまた笑って口をつぐんでしまった。
昨日、冬休みになったので、清三は新しい年をむかえるために羽生から行田の家に来た。
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昨日、冬期休暇になったので、清三は新しい年を迎えるべく羽生から行田の家に来た。
美穂子が三、四日前に浦和から帰って来ているということも聞いた。
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美穂子が三四日前に、浦和から帰って来ているということをも聞いた。
今朝、加藤の家をたずねたが、郁治は出ていなかった。
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今朝加藤の家を訪問したが、郁治は出ていなかった。
すぐ帰りかけたのを、母親と雪子が「もう帰るでしょうから」
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すぐ帰りかけたのを母親と雪子が、「もう帰るでしょうから」
と言って、しきりに引きとめた。
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とてたってとめた。
清三はくわしく聞きたかったが、しかしその勇気はなかった。
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清三は、くわしく聞きたかったが、しかしその勇気はなかった。
胸が、ただおどった。
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胸がただおどった。
雪子が笑っているので、
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雪子が笑っているので、
「いったいどうしたんです?」
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「いったいどうしたんです?」
「どうしたっていうこともないんですけど……」
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「どうしたっていうこともないんですけど……」
やはり、笑っていた。
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やっぱり笑っていた。
やがて、
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やがて、
「変なことをおうかがいするようですけど……あなたは兄と北川さんとのことで、何か思っていらっしゃることはなくって?」
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「変なことおうかがいするようですけど……貴郎は兄と北川さんとのことで、何か思っていらっしゃることはなくって?」
「いいえ」
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「いいえ」
「じゃ、あなたが二人の間にはいってどうかしたっていうようなことはなくって」
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「じゃ、貴郎、二人の中にはいってどうかしたッていうようなことはなくって」
「知りません」
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「知りません」
「そう」
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「そう」
雪子は、また黙ってしまった。
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雪子はまた黙ってしまった。
しばらくしてから、
原文を見る
しばらくしてから、
「私、小畑さんから変なことを言われたから……」
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「私、小畑さんから変なこと言われたから、……」
「変なことって? どんなことです」
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「変なことッて? どんなことです」
「なんでもありませんけどもね」
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「なんでもありませんけどもね」
話がなぞのようで、まったく意味がわからなかった。
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話が謎のようでいっさい要領を得なかった。
午後、とにかく北川に行ってみようと思ってぬまのふちを通っていると、向こうから郁治がやって来た。
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午後、とにかく北川に行ってみようと思って沼の縁を通っていると、向こうから郁治がやって来た。
「やあ!」
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「やあ!」
「どこに行った?」
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「どこに行った?」
「北川へちょっと」
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「北川へちょっと」
「ぼくも今行こうと思っていた」
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「僕も今行こうと思っていた」
と清三はわざと明るく、「Art 先生は帰っているっていうじゃないか」
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と清三はわざと快活に、「Art 先生帰っているッていうじゃないか」
「うん」
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「うむ」
二人は、しばらくだまって歩いた。
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二人はしばし黙って歩いた。
「いったいどうしたんだ?」
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「いったいどうしたんだ?」
しばらくして、清三が聞いた。
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しばらくして清三がきいた。
「何が?」
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「何が?」
「しらばっくれているねえ、君は。ぼくはちゃんと聞いて知ってるよ」
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「しらばっくれてるねえ、君は? 僕はちゃんと聞いて知ってるよ」
「何を?」
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「何を?」
「大いに進んだっていうじゃないか」
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「大いに発展したッていうじゃないか」
「だれが話した?」
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「誰が話した?」
「ちゃんと知ってるさ!」
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「ちゃんと知ってるさ!」
「だれも知っている者はいないはずだがな」
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「誰も知ってるものはないはずだがな」
と言って考えて、「ほんとうにだれが話した?」
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と言って考えて、「ほんとうに誰が話した?」
「ちゃんと証こは上がってるさ」
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「ちゃんと材料は上がってるさ」
「だれだろうな!」
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「誰だろうな!」
「あててみたまえ」
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「あててみたまえ」
少し考えて、
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少し考えて、
「わからん」
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「わからん」
「小畑が君の妹さんに何か言ったことがあるかい? ぼくのことで」
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「小畑が君、君のシスタアに何か言ったことがあるかえ? 僕のことで」
「ああ、妹がしゃべったんだな。あいつ、ばかな奴だな!」
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「ああ、妹がしゃべッたんだな、彼奴、ばかな奴だな!」
「まあ、そんなことはいいから、ぼくの言うことに返事したまえ」
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「まア、そんなことはいいから、僕のいうことを返事しまたえ」
「何を」
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「何を」
「小畑が君の妹さんに何か言ったか、っていうことだよ」
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「小畑が君のシスタアに何か言ったかッていうことだよ」
「知らんよ」
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「知らんよ」
「知らんことはないよ。ぼくが君と Art の関係について、間にはいっているとかどうとか言ったことがあるそうだね」
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「知らんことはないよ、僕が君と Art の関係について、中にはいってるとかどうしたとか言ったことがあるそうだね」
「うん、そういえばある」
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「うむ、そういえばある」
と郁治は思い出したという様子で、「君が北川によく行くのはどうかしたんじゃないか、なんて言ったことがある」
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と郁治は思い出したというふうで、「君が北川によく行くのはどうかしたんじゃないかなんて言ったことがある」
「君の妹さんについても、あいつは何か言いはしなかったか」
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「君のシスタアについても何か先生言いやしなかったか」
「じょうだんは言ったかもしれんが、くわしくはよく知らん」
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「戯談は言ったかもしらんが、くわしくはよく知らん」
二人は、だまって歩いた。
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二人は黙って歩いた。
二十五
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二十五
郁治と美穂子との「新しい進み方」
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郁治と美穂子との「新しき発展」
について、清三はいろいろとくわしく聞いた。
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について、清三はいろいろとくわしく聞いた。
雪子が美穂子に出す手紙の中に郁治が長い手紙を入れてやったのは、一か月ほど前であった。
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雪子から美穂子にやる手紙の中に郁治が長い手紙を入れてやったのは一月ほど前であった。
やがて、郁治あてに長い返事が来た。
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やがて郁治にあてて長い返事が来た。
その返事を、彼はその夜、ある料理屋でお酒を飲みながら清三に見せた。
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その返事をかれはその夜とある料理屋で酒を飲みながら清三に示した。
その手紙には、あまい恋の言葉がところどころにあった。
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その手紙には甘い恋の言葉がところどころにあった。
郁治の手紙を寄宿舎の暗いランプの光のもとでくり返しくり返し読んだことなどが書いてある。
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郁治の手紙を寄宿舎の暗い洋燈の光のもとでくり返しくり返し読んだことなどが書いてある。
おたがいにまだ勉強中だから、おっしゃるとおり世の中で成功するまで、かたい付き合いを続けたいということも書いてある。
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お互いにまだ修業中であるから、おっしゃるとおり、社会に成功するまで、かたい交際を続けたいということも書いてある。
これで見ると、郁治もそんなことを言ってやったものらしい。
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これで見ると、郁治もそんなことを言ってやったものとみえる。
清三には、その長い手紙を細かく読むほどの気持ちの余ゆうはなかった。
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清三はその長い手紙を細かく読むほどの余裕はなかった。
彼は飛び飛びにそれを見たが、ところどころのあまいみつのような言葉は、彼のさびしい孤独な目の前に、まるでさまざまな色でできた花の輪のようにちらついて見えた。
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かれは飛び飛びにそれを見たが、ところどころの甘い蜜のような言葉はかれの淋しい孤独の眼の前にさながらさまざまの色彩でできた花環のようにちらついて見えた。
お酒によって得意になり、友のさびしい心も知らずに平気でのろけを言う郁治の態度が、にくくもあり、腹立たしくもあり、気の毒にもなった。
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酒に酔って得意になって、友のさびしい心をも知らずに、平気におのろけを言う郁治の態度が、憎くもあり腹立しくもあり気の毒にもなった。
清三は、ただフンフンと言って聞いた。
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清三はただフンフンと言って聞いた。
「その代わりぼくは、ぼくのできる限り君のために力をつくすさ!」
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「その代わり僕は僕のできる限りにおいて、君のために尽力するさ!」
こんなことを、郁治は何度も言った。
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こんなことを郁治はいく度も言った。
「小畑もそんなことを言っていたよ。ぼくだって、君の気持ちくらいは知っているさ」
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「小畑もそんなことを言っていたよ。僕だッて、君の心地ぐらいは知っているさ」
こんなことも言った。
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こんなことをも言った。
郁治はまた、石川がこのごろ夢中になっている加須の芸者の話をした。
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郁治はまた石川のこのごろ溺れている加須の芸者の話をした。
「あいつ、このごろはとても熱心だよ。君も知っているだろうが、自転車を買ってね、遠乗りをするんだとか何とか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た小蝶とかいう女で、写真を大事に持っていたよ。金持ちの息子なんていうものの心は、まるでわれわれとはちがうねえ。勉強なんかしなくても、りっぱに一人前になっていけるんだからねえ」
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「先生、このごろは非常に熱心だよ。君も知ってるだろうが、自転車を買ってね、遠乗りをするんだとかなんとか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た小蝶とかいう女で、写真を大事にして持っていたよ。金持ちの息子なんていうものの心はまるでわれわれとは違うねえ君。勉強なんぞしないでも、りっぱに一人前になっていかれるんだからねえ」
できるだけの力をつくすと言った言葉、その言葉のかげに雪子がいることを、清三ははっきり知っていた。
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できるだけの力をつくすと言った言葉、その言葉の陰に雪子がいることを清三はあきらかに知っていた。
けれど、それが清三にはあまりうれしくは思われなかった。
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けれどそれが清三にはあまりうれしくは思われなかった。
つんとすました雪子の姿が目の前を通って、そして消えた。
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つんとすました雪子の姿が眼の前を通ってそして消えた。
彼は今さらのように、美穂子の姿のほうがいっそう強いかげを心にきざんでいるのを、思いのほかに感じた。
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かれはいまさらに美穂子の姿のいっそう強い影をその心に印しているのを予想外に思った。
こういう成り行きになるのは、彼も前々からよく知っていたことである。
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こういう道行きになるのはかれもかねてよく知っていたことである。
ある時は、そうなるのを友のためにいのったことすらある。
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ある時はそうなるのを友のために祈ったことすらある。
けれど、想像していた時と本当にそうなった時との感じは、ひどくちがった。
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けれど想像していた時と事実となった時との感ははなはだしく違った。
清三の心は、さびしかった。
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清三の心はさびしかった。
自分の身の上が実際の生活の上からも、恋の上からも、勉強という上からも、ますます後ろ向きにかたむいてきて、たとえば柱と柱との間に小さく押しつけられてしまったような気がした。
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自己の境遇が実際生活の上からも、恋愛の上からも、学問修業という上からも、ますます消極的に傾いてきて、たとえば柱と柱との間に小さく押しつけられてしまったような気がした。
初めはどうしてもよわなかったお酒が、あとになるとその反動で激しくきいてきて、帰るころには歌をうたったり詩をうなったりして郁治をおどろかせた。
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初めはどうしても酔わなかった酒が、あとになるとその反動で激しく発して来て、帰るころには、歌をうたったり詩を吟じたりして郁治を驚かした。
しかし、一区切りついたというような気がしないでもなかった。
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しかし一段落を告げたというような気がないでもなかった。
恋を失ったのはつらいが、恋に自由をうばわれなかったのはうれしいような気もする。
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恋を失ったのはつらいが、恋に自由を奪われなかったのはうれしいような気もする。
今までの友だちに対する気持ちも少しはなれて、かえって自分をはっきりと目の前に見るように思った。
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今までの友だちに対しての心持ちも少しく離れて、かえって自己をあきらかに眼の前に見るように思った。
彼はふところに、お金を七円持っていた。
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かれは懐に金を七円持っていた。
そのうちいくらかを父と母の助けに出すつもりであったが、旅行をする気がないでもないので、わざとそれをしまっておいた。
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その中のいく分を父母の補助に出すつもりであったが、旅行をする気がないでもないので、わざとそれをしまっておいた。
年の暮れも、もう近づいて来た。
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年の暮れももう近寄って来た。
西風が毎日のように、関東平野の小さな町にふき荒れた。
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西風が毎日のように関東平野の小さな町に吹きあれた。
乾物屋の店には数の子が山のように積まれ、魚屋には鮭が板の台の上にいくつとなく並べられた。
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乾物屋の店には数の子が山のように積まれ、肴屋には鮭が板台の上にいくつとなく並べられた。
古いこよみで正月をするのがこのあたりの習わしなので、町はいつもと変わらずしんとして、赤い腰巻をした田舎の娘も見えなかった。
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旧暦で正月をするのがこの近在の習慣なので、町はいつもに変わらずしんとして、赤い腰巻をした田舎娘も見えなかった。
郡役所と警察署と小学校、それにおもだった金持ちの家のしめかざりだけが目立った。
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郡役所と警察署と小学校とそれにおもだった富豪などの注連飾りがただ目に立った。
六畳には、こたつがしてあった。
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六畳には炬燵がしてあった。
清三は多く、そこで日を暮らした。
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清三は多くそこに日を暮らした。
雑誌を読んだり、小説を読んだり、時には心理学の本を開いてみることなどもあった。
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雑誌を読んだり、小説を読んだり、時には心理学をひもといてみることなどもあった。
そばでは母親が仕事の合間を見て、清三の綿入れをぬっていた。
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そばでは母親が賃仕事のあい間を見て清三の綿衣を縫っていた。
午後にはどうかすると町へ行って、餅菓子を買って来てお茶をいれてくれることなどもある。
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午後にはどうかすると町へ行って餅菓子を買って来て茶をいれてくれることなどもある。
ある夜、木がらしがふき荒れて、雨にまじってみぞれが降った。
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一夜凩が吹き荒れて、雨に交って霙が降った。
父と母と清三とはこたつを取り巻いて、外に荒れるすさまじい冬の音を聞いていた。こうした時に始まった家のお金の話がぐちっぽい母親の口から出て、借金の多いことが何度となくくり返された。
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父と母と清三とは炬燵を取りまいて戸外に荒るるすさまじい冬の音を聞いていたが、こうした時に起こりかけた一家の財政の話が愚痴っぽい母親の口から出て、借金の多いことがいく度となくくり返された。
「どうも困るなあ」
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「どうも困るなア」
清三は、大きなため息をついた。
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清三は長大息を吐いた。
「もう少し商売がうまく行くといいんだが、どうも景気が悪くてなあ。何をやったって、うまいことはありはしない」
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「いま少し商売がうまく行くといいんだが、どうも不景気でなア。何をやったッてうまいことはありやしない」
父親は、こう言った。
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父親はこう言った。
「ほんとうにお前には気の毒だけれど、毎月もう少し手伝ってもらわなくては――」
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「ほんとうにお前には気の毒だけれど毎月いま少し手伝ってもらわなくっては――」
母親は、息子の顔を見た。
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母親は息子の顔を見た。
「それは私は倹約をしているんですよ、これで……」
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「それは私は倹約をしているんですよ、これで……」
と清三は言って、「たばこもろくにすわないくらいにしているんですけれど……」
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と清三は言って、「煙草もろくろく吸わないぐらいにしているんですけれど……」
「お前にはほんとうに気の毒だけれど……」
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「お前にはほんとうに気の毒だけれど……」
「父さんにも、もう少しかせいでもらわなくちゃ――」
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「父さんにもいま少しかせいでもらわなくっちゃ――」
清三は、父に向かって言った。
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清三は父に向かって言った。
父は、だまっていた。
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父は黙っていた。
家のお金のことを持ち出して、母親がくどくどとなお語った。
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財政の内容を持ち出して、母親がくどくどとなお語った。
清三は、母親をかわいそうに思わずにはいられなかった。
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清三は母親に同情せざるを得なかった。
彼は熱心に借金がいかに損かを説いて、貧しければ貧しいように生活しなければならないことを言った。
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かれは熱心に借金の不得策なのを説いて、貧しければ貧しいように生活しなければならぬことを言った。
最後に彼は、しまっておいたお金を三円出してわたした。
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最後にかれはしまっておいた金を三円出して渡した。
友だちをたずねても、もう以前のようにおもしろくなかった。
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友だちを訪問しても、もう以前のようにおもしろくなかった。
郁治はたえずやって来るが、こちらからはめったに出かけて行かない。
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郁治はたえずやって来るが、こっちからはめったに出かけて行かない。
会うと必ず、美穂子の話が出る。
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会うとかならず美穂子の話が出る。
それを聞くのが、清三にはこのうえなくつらかった。
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それを聞くのが清三にはこの上なくつらかった。
北川にも行ってみようとはときどき思うが、なんだか女々しいような気がしてやめた。
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北川にも行ってみようとは時々思うが、なんだか女々しいような気がしてよした。
散歩もこのごろは野が寒く、それにあたりに見るものもなかった。
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散歩もこのごろは野が寒く、それにあたりに見るものもなかった。
彼は退くつすると一けんおいてとなりの家に出かけて行き、日当たりのいいえん側で七歳八歳くらいの女の子を相手に、貝ではじく遊びなどをした。
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かれは退屈すると一軒おいて隣の家に出かけて行って、日当たりのいい縁側に七歳八歳ぐらいの娘の児を相手に、キシャゴ弾きなどをして遊んだ。
髪の長い、まゆの美しい子がその中にあった。
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髪の長い眉の美しい児がその中にあった。
警察に移って来た警部とかの娘で、まだ小学校にもあがらないのに、いろはも数もよく覚えていた。
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警察に転任して来た警部とかの娘で、まだ小学校へもあがらぬのに、いろはも数学もよく覚えていた。
百人一首もとびとびに暗記して、恋の歌などを意味もわからないかわいい声で歌って聞かせた。
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百人一首もとびとびに諳誦して、恋歌などを無意味なかわいい声で歌って聞かせた。
清三は一から十六までの数を足したり引いたりしてためしてみたが、たいていはまちがいなくすらすらと答えた。
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清三は一から十六までの数を加減して試みてみたが、たいていはまちがいなくすらすらと答えた。
彼は悲しくなりやすい気持ちで、この女の子がやがて育っていく行く先を想像してみないわけにはいかなかった。
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かれはセンチメンタルな心の調子で、この娘の児のやがて生いたたん行く末を想像してみぬわけにはいかなかった。
「幸あれよ。やさしい恋を得よ」
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「幸あれよ。やさしき恋を得よ」
こう思った彼の胸には、限りないさびしさが満ちわたった。
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こう思ったかれの胸には限りなき哀愁がみなぎりわたった。
熊谷に出かけた日は三十日で、西風が強くふいた。
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熊谷に出かけた日は三十日で、西風が強く吹いた。
小島も桜井も、東京から帰っていた。
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小島も桜井も東京から帰っていた。
小畑はとくに熱心に、彼をむかえた。
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小畑はことに熱心にかれを迎えた。
けれど、彼の心は昔のように明るくはなれなかった。
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けれどかれの心は昔のように快活にはなれなかった。
古い友はみな、清三の青い顔としずんだ調子と後ろ向きな言葉とをあやしんで見た。
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旧友はみな清三の蒼い顔に沈んだ調子と消極的な言葉とをあやしみ見た。
清三はまた、いっそう明るくなった友だちに対して、なんだかかたみがせまいような気がした。
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清三はまたいっそう快活になった友だちに対してなんだか肩身が狭いような気がした。
熊谷の町は、にぎやかであった。
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熊谷の町はにぎやかであった。
ここではしめかざりが町の家の軒ごとに立てられて、通りの角には年の暮れの市が立った。
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ここでは注連飾りが町家の軒ごとに立てられて、通りの角には年の暮れの市が立った。
だいだい、しめかざり、昆布、えびなどが、行き交う人々の目にあざやかに見える。
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橙、注連、昆布、鰕などが行き通う人々の眼にあざやかに見える。
どの店でもちょうちんをつけて、魚屋には鮭、ごまめ、数の子、外国の品を売る店には毛糸、シャツ、ズボン下などが山のように並べられてある。
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どの店でも弓張り提灯をつけて、肴屋には鮭、ごまめ、数の子、唐物屋には毛糸、シャツ、ズボン下などが山のように並べられてある。
夜は、人がぞろぞろと通りをひやかして通った。
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夜は人がぞろぞろと通りをひやかして通った。
大みそかの朝、清三はさびしい心をだいて、西風にふかれながら例の長い街道をてくてくと行田に帰った。
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大晦日の朝、清三はさびしい心を抱いて、西風に吹かれながら、例の長い街道をてくてくと行田に帰った。
今さらのように感じられるのは、身の上につれて変わっていく人々の気持ちであった。
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いまさらに感ぜられるのは、境遇につれて変わり行く人々の感情であった。
昨年の今ごろ、こんなことがあろうとは夢にも思っていなかった。
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昨年の今ごろ、こうしたことがあろうとは夢にも思っておらなかった。
親しい友だちの間がらが、こんなふうにはなればなれになろうとは知らなかった。
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親しい友だちの間柄がこういうふうに離れ離れになろうとは知らなかった。
人はまわりに左右される動物であるという言葉を、彼はこのごろある本で読んだことがある。
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人は境遇の動物であるという言葉をかれはこのごろある本で読んだことがある。
その時は、そんなことがあるものかとよそごとに思って捨てた。
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その時は、そんなことがあるものかとよそごとに思ってすてた。
けれど、それは事実であった。
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けれどそれは事実であった。
家に帰ってみると、借金を取りに来る人があちこちから来ていた。
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家に帰ってみると、借金取りはあっちこっちから来ていた。
母親がいちいち頭を下げてそれに応対している様子は、見ていられない。
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母親がいちいち頭を下げて、それに応対しているさまは見るにしのびない。
父親は勘定が取れないので、日の暮れるころ、しょぼしょぼとしおれた姿で帰って来る。
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父親は勘定が取れぬので、日の暮れるころ、しょぼしょぼとしおたれた姿で帰って来る。
「ああ、ああ、しかたがねえ!」
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「あゝあゝ、しかたがねえ!」
と大きなため息をついて、予定の半分ほどもない財布を母にわたした。
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と長大息をついて、予算の半分ほどもない財布を母に渡した。
清三は見かねて、お金をまた二円出した。
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清三は見かねて、金をまた二円出した。
夜になってから、母親はきんちゃくの残りの銭をじゃらじゃら鳴らしながら、形ばかりの年こしをするために町へ買い物に行った。
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夜になってから、母親は巾着の残りの銭をじゃらじゃら音をさせながら、形ばかりの年越しをするために町に買い物に行った。
のし餅を三枚、ごまめを一ふくろ、鮭を五切れ、それに明日の煮しめにする里芋を五合ほど風呂敷に包んで、重い重いと言ってやがて帰って来た。
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のし餅を三枚、ゴマメを一袋、鮭を五切れ、それに明日の煮染にする里芋を五合ほど風呂敷に包んで、重い重いと言ってやがて帰って来た。
その間に父親は明かりを神だなと台所と便所とにつけ、火ばちには火をかっかっと起こしておいた。
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その間に父親は燈明を神棚と台所と便所とにつけて、火鉢には火をかっかっと起こしておいた。
やがて、年こしのお膳ができる。
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やがて年越しの膳はできる。
父親ははげた頭を下げてしきりに神だなをおがんでいたが、やがてお膳に向かって、「でも、まあ、こうして親子三人で年こしのお膳に向かうのはめでたい」
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父親ははげた頭を下げて、しきりに神棚を拝んでいたが、やがて膳に向かって、「でも、まあ、こうして親子三人年越しのお膳に向かうのはめでたい」
と言って、はしを取った。
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と言って、箸を取った。
豆腐のしるに鮭、ごまめは生で二ひきずつお膳につけた。
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豆腐汁に鮭、ゴマメは生で二疋ずつお膳につけた。
部屋は、明るかった。
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一室は明るかった。
母親は今夜中に仕上げてしまわなければならないぬい物があるので、おそくまでせっせと針を動かしていた。
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母親は今夜中に仕立ててしまわねばならぬ裁縫物があるので、遅くまでせっせと針を動かしていた。
清三はそのそばで年賀状を十五枚ほど書いたが、最後に毎日つける日記帳を出して、ペンで書き出した。
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清三はそのそばで年賀状を十五枚ほど書いたが、最後に毎日つける日記帳を出して、ペンで書き出した。
三十一日。
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三十一日。
今年もまた、暮れて行く。
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今歳もまた暮れ行く。
思いに思い乱れて、この三十四年も暮れて行こうとしている。
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思ひに思ひ乱れてこの三十四年も暮れ行かんとす。
思うまいとしても思われるのが、この年の暮れである。
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思ふまじとすれど思はるるは、この年の暮れなり。
こうして、最後の決心はできた。
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かくて最後の決心はなりぬ。
無言、ちんもく、実行。
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無言、沈黙、実行。
自分は、運命に従う人間でなければならない。
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われは運命に順ふの人ならざるべからず。
とても、とても、こうしてこんな世の中なのだから、自分もこれ以上多くは言うまい。
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とても、とても、かくてかかる世なれば、われはた多くは言はじ。
明星、新声が来る。
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明星、新声来る。
ああ、ついに、ついに三十四年は過ぎ去った。
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ああ終に終に三十四年は過ぎ去りぬ。
自分の一生において、忘れることのできないことの多い年であったな。
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わが一生において多く忘るべからざる年なりしかな。
言うまい、言うまい。ただ思い当たったことが一つある。いわく、こういう世の中なのだ、一人で言わずに、一人で思おう。
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言はじ、言はじ、ただ思ひいたりし一つはこれよ、曰く、かかる世なり、一人言はで、一人思はむ。
ああ。
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ああ。
彼は日記帳を閉じてわきにやり、新しく届いた明星を読み出した。
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かれは日記帳を閉じてそばにやって新着の明星を読み出した。
二十六
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二十六
一月一日。
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一月一日。
(三十五年)
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(三十五年)
これは三年前に小畑と、優なる歌記さんと考えてつづったものだが、白いままで今日まで捨てられていたのを取り出して、今年の日記を書いていく。
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これは三年の前、小畑と優なる歌記さんと企てて綴りたるが、その白きままにて今日まで捨てられたるを取り出でて、今年の日記書きて行く。
□去年、それもまだ昨日のこと。ついに世の中とはこうしたものだと思い定めては、またも胸が乱れて、口やかましく、気持ちを説くやり方も知らない。
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□去年、それもまだ昨日、終に世のかくてかかるよと思ひ定めては、またも胸の乱れて口やかましく情とくすべも知らず。
草深い里に一人住み、一人自分を高く保つのが一番よい。
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草深き里に一人住み、一人自から高うせんに如かじ。
こうしていては意気地がないと友は笑うかもしれない。けれど、どうせこうでなければならない自分の運命だ。それにさからう勇気がまったくないわけではないけれど、二十年あまりめぐみ深い母のなげきを思えば、ままよ、二年三年はこうしていてもくやしくはあるまいと思えばこそだ。
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かくては意気なしと友の笑はんも知らねど、とてもかからねばならぬわが世の運命、それに逆はん勇なきにはさらさらあらねど、二十余年めぐみ深き母の歎きに、ままよ二年三年はかくてありともくやしからじと思へばこそよ。
さて、こう進んでいこうとする今年の日記よ、言うまい、ただ世に賢くあれ、ただおだやかであれ。
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さてかく行かんとする今年の日記よ、言はじ、ただ世にかしこかれよ、ただ平和なれよ。
ついに、ただ何も言うな。
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終にただ無言なれよ。
□恋はついに苦しいもの。自分は今またこれを捨ててもくやしくはない。
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□恋は遂に苦しきもの、われ今またこれを捨つるもくやしからじ。
加藤のあれ、彼の心のうち、ふところに刀をかくしているのを知らないわけではない。けれど、争うのはさすがに後ろめたい。それならばあの人もまたそういう人だと思って捨ててしまうのが、世の中では賢いのだろう。
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加藤のそれ、かれの心事、懐に剣をかくすを知らぬにあらねど、争はんはさすがにうしろめたく、さらばとてかれもまたかかる人とは思ひ捨てんこそ世にかしこかるべし。
□今日、初めて熊谷の小畑に手紙を出す。
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□今日始めて熊谷の小畑に手紙出す。
二日。
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二日。
昨夜、鈴木のところで一夜、小さいころの昔を語り明かす。
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昨夜鈴木にて一夜幼き昔を語りあかす。
□ああ、自分に少年少女を愛させてくれ。
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□ああわれをして少年少女を愛せしめよ。
またもこうした世の中に、神は幸せを小さい者にだけ下さった。ああ、自分に小さい者を愛させてくれ。
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またもかくての世に神は幸を幼きものにのみ下したまへり、ああわれをして幼きものを愛せしめよ。
□ Art !
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□ Art !
それはいったい何なのだ。どうせあさましい恋に争おうというのではないと思えば、時に言うような落ち着きも乱れるかもしれない。ああ、どうして好ましくない思いがつきまとうのか。はかないことだな。
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それやなんなるぞ、とてもあさましき恋に争はんとにはあらじと思へば、時にいふがごとき冷静も乱れんも知れじを、ああなどて好ましからぬ思ひの添ふぞ、はかなきことなるかな。
ああ、ついに、ついにこうしてこうなのだ。
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ああ終に終にかくてかかるなり。
□夕方、西に紅の細い雲がたなびき、上に行くほど薄むらさきからついにうすずみに変わる。下には秩父の山が黒々と美しいけれど、それは光があり力があるそれではない。冬の雲は寒くさびしい。たとえるなら、恋にやぶれ、世に捨てられて、ついに冷えきったある人の心のようなものか。
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□夕方西に紅の細き雲棚引き、上るほど、うす紫より終に淡墨に、下に秩父の山黒々とうつくしけれど、そは光あり力あるそれにはあらで、冬の雲は寒く寂しき、例へんに恋にやぶれ、世に捨てられて終に冷えたるある者の心のごときか。
三日。
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三日。
昼から風が出て、こずえが鳴ることしきりだ。冬の野は寒いな、荒れる嵐のすさまじさよ。
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昼より風出でて梢鳴ることしきりなり、冬の野は寒きかな、荒む嵐のすさまじきかな。
人の世を寒いと見て野に立てば、さてどこへ行こう。
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人の世を寒しと見て野に立てば、さてはいづれに行かん。
夕暮れのまよいに、またも神に「救え」
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夕べの迷ひにまたも神に「救へ」
と呼びたい願いがないでもない。
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と呼ばんの願ひなきにあらず。
四日。
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四日。
夕方、沢田が来る。
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夕方、沢田来る。
加藤が我々をさそって、北川にかるた取りに行く。
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加藤われらを勧めて北川にかるた取りに行く。
彼は何の友情も知らない者、友を売って自分の得を取ろうとする者か。
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かれやなんらの友情も知らぬもの、友を売りてわが利を得んとするものか。
また例の「君の望むことで、ぼくの力でできる限りのことを言え」
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また例の「君の望むことにてわが力にてでき得べき限りにおいて言へ」
を言う。
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を言ふ。
自分は言った、「ない」
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われ曰く「なし」
と。
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と。
この言葉は、はたして彼の心からの言葉か。
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この言はたして、かれの心よりの言葉か。
五日。
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五日。
たまたま学友会の大会にまねかれて行く。
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たま/\学友会の大会に招かれて行く。
そこで立って、「集まりでは時間の約束を守るべきこと」
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すなはち立ちて、「集会において時間の約を守るべきこと」
について述べる。
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につきて述ぶ。
こうした集まりでだんの上に立ったのは初めてなので、心に少しためらいがないでもなかったが、思ったより落ち着いて終わった。
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かくのごとき会合において演壇に立ちしは初めてなれば心少しくためらひなきにあらざりしが、思ひしより冷静をもってをはりたり。
余興として、小燕林の講談があった。
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余興として小燕林の講談あり。
六日。
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六日。
加藤と雪子と鈴木君の妹さんとで、かるたを取る。
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加藤と雪子と鈴木君の妹の君とかるた取る。
□夜、戸の外に西風が寒くふく。
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□夜、戸の外に西風寒く吹く。
ああ、自分はこの力の弱いうででさえ自分を高いところに進ませることが容易でないのに、なお一人の母と一人の父とのために走らなければならないのか。ままよ、冷たい運命の道に荒れる嵐は、そのまま荒れさせておけ。
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ああわれはこの力弱き腕を自己を、高きに進ますすら容易ならざるに、なほも一人の母と一人の父とのために走らざるべからざるか、さもあらばあれ、冷酷なる運命の道にすさむ嵐をしてそのままに荒しめよ。
自分には思うところがある。どうしてむやみにお前のうずの中に落ちこもうか。
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われに思ふ所あり、なんぞ妄りに汝の渦中に落ち入らんや。
松は男の立ち姿
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松は男の立ち姿
意地にゃまけまい、ふけふけ嵐、
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意地にゃまけまい、ふけふけ嵐、
枝は折れよと根は折れぬ(正直正太夫)
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枝は折れよと根は折れぬ(正直正太夫)
□このごろの木がらしに、南の森かげにある弟の弱いなきがらはどうしているだろう。
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□このごろの凩に、さては南の森陰に、弟の弱きむくろはいかにあるらん。
心で思うばかりで、今日もたずねなかった。
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心のみにて今日も訪はず。
こうして明日は、東へ行く身である。
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かくて明日は東に行く身なり。
七日。
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七日。
羽生の寺に帰る。
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羽生の寺に帰る。
心にはこうと思い定めたけれど、さすがに冬がれの野はさびしいな。
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心にはかくと思ひ定めたれど、さすがに冬枯れの野は淋しきかな。
□○子よ、あなたは今、どうしておいでか。
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□○子よ、御身は今はたいかにおはすや。
おかしなことに、自分はまだあなたを恋している。
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笑止やわれはなほ御身を恋へり。
それにしても、ああそれにしても、どうせこうした世の中ならば、自分はただ一人恋うて一人泣くべきなのに、どうしてあなたをわずらわせてよいものか。
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さはれ、ああさはれとてもかかる世ならばわれはただ一人恋うて一人泣くべきに、何とて御身を煩はすべきぞ。
住職ととろろを食べて、親しく語る。
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主の僧ととろろ食うて親しく語る。
夜は寒い。
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夜、寒し。
九日。
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九日。
今朝、この冬、この年の初雪を見る。
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今朝、この冬、この年の初雪を見る。
夜、荻生君が来て、自分のために炭と菓子とを持って来てくれる。
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夜、荻生君来たり、わがために炭と菓子とをもたらす。
冷たい人の世に、友の心の温かさよ。
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冷やかなる人の世に友の心の温かさよ。
願わくは、自分を友に対して誠実であらせてくれ。
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願はくばわれをして友に誠ならしめよ。
(夜十時半記す)
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(夜十時半記)
□十日から二十日まで
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□十日より二十日まで
この間十日あまりの一日一日、思いは乱れて寺へも帰らなかった。
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この間十日余り一日、思ひは乱れて寺へも帰らず。
こうして年を取ろうという願いではない。さすがに人並みに賢くさとったものを、そうでなくてもなお、ああしようかこうしようかというまよい。はては神にすがる力もなくて、人とも多くは言うまい、語るまいと思えば、ひどく気が重い。日ごろ親しい友に手紙を書くのもいや、行田へ行くのもいやではないがまた気が重く、こうして絵もかけず詩も出ず、この十日は一人で過ぎた。
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かくて老いんの願ひにはあらねど、さすが人並賢く悟りたるものを、さらでも尚とやせんかくやすらんのまどひ、はては神にすがらん力もなくて、人とも多くは言はじな、語らじなと思へば、いとものうくて、日ごろ親しき友に文書かんも厭や、行田へ行かんも厭ふにはあらねどまたものうく、かくて絵もかけず詩も出でず、この十日は一人過ぎぬ。
□土曜日に荻生君が来て、一夜を語る。
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□土曜日に荻生君来たり一夜を語る。
情が深く、心の小さい友!
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情深く心小さき友!
□加藤は恋によい、小畑は自分から好んで俗な世界に入る。
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□加藤は恋に酔ひ、小畑はみずから好んで俗に入る。
この間、彼の手紙にいわく「好んで詩人となるな、好んで俗な人となるな」
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この間、かれの手紙に曰く「好んで詩人となるなかれ、好んで俗物となるなかれ」
と。
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と。
ああ、それにしても、好んでしかも詩人にはなれず、それならばと俗な人にもなれない。
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ああさても好んでしかも詩人となり得ず、さらばとて俗物となり得ず。
はてはまよいのあれこれで、熱い思いがふと消えていくように覚えて、失意からちんもくへ、ちんもくから落ち着きへ、こうして苦笑いにとどまろうという願い。いつまでもとは言うまい、しばらくの間はと思えば悲しくもない。
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はては惑ひのとやかくと、熱き情のふと消え行くらんやう覚えて、失意より沈黙へ、沈黙より冷静に、かくて苦笑に止まらん願ひ、とはにと言はじ、かくてしばしよと思へば悲しくもあらじ。
それにしても木がらしのふきすさぶ夜中、幸せの多い友の多くを思っては、またもこの里のさすがにさびしいことよ。ままよ、万事こうであるだけだ。ふるい立って一度飛び出そうかという思いがないでもないが、また静かに自分の運命を思えば……。ああ、しばらくはこうしていよう。
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さはれ木枯吹きすさむ夜半、幸多き友の多くを思ひては、またもこの里のさすがにさびしきかな、ままよ万事かからんのみ、奮励一番飛び出でんかの思ひなきにあらねど、また静かにわが身の運命を思へば……、ああしばしはかくてありなん。
乱れる心を静めるのは、小さい者と絵と詩と音楽と。
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乱るる心を静むるのは幼き者と絵と詩と音楽と。
近ごろ数日、だまって多くは語らず、一人思いに思う。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
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近き数日、黙々として多く語らず、一人思ひ思ふ。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
こういうふうに、彼の日記は続いた。
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こういうふうにかれの日記は続いた。
昨年の春ごろにくらべて、心の調子、筆の調子が目立って後ろ向きになったのを、彼も気がつかずにはいられなかった。
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昨年の春ごろにくらべて、心の調子、筆の調子がいちじるしく消極的になったのをかれも気がつかずにはいられなかった。
時には昨年の日記帳を開いて読んでみることなどもあるが、そこにはこっけいもあればしゃれもある。
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時には昨年の日記帳をひもといて読んでみることなどもあるが、そこには諧謔もあれば洒落もある。
笑いのかげが、いたるところに見て取れる。
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笑いの影がいたるところに認められる。
今とくらべて、世の中の本当のところを知らないだけ、それだけのんきであった。
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今とくらべて、世の中の実際を知らぬだけそれだけのんきであった。
後ろ向きにすべてから――恋から、世の中から、友情から、家庭からまったくはなれてしまおうと思うほど、その心は傷ついていた。
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消極的にすべてから――恋から、世から、友情から、家庭からまったく離れてしまおうと思うほどその心は傷ついていた。
寺の本堂の一間は、彼にはあまりにさびしかった。
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寺の本堂の一間はかれにはあまりに寂しかった。
それに、八キロ足らずの道を朝に夕べに通うのはめんどうくさい。
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それに二里足らずの路を朝に夕べに通うのはめんどうくさい。
彼はさすらう人のように、宿直室にねたり、村の酒屋に行ってとまったり、時には寺に帰ってねたりした。
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かれは放浪する人々のように、宿直室に寝たり、村の酒屋に行って泊まったり、時には寺に帰って寝たりした。
自分でごはんを作るのがおっくうなので、弁当をそこここで取って食べた。
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自炊がものういので、弁当をそこここで取って食った。
駄菓子などで昼ごはんをすませておくことなどもある。
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駄菓子などで午餐をすましておくことなどもある。
本堂の一間に荻生さんが行ってみると、主はたいてい留守で、机の上にはちりが積もったまま、古い新声と明星とがあたりに散らばったままになっている。
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本堂の一間に荻生さんが行ってみると、主はたいてい留守で、机の上には塵が積もったまま、古い新声と明星とがあたりに散らばったままになっている。
和尚さんは、「林君はどうしたんですか、あまり長く帰って来ませんが……学校に何かいそがしいことでもあるんですかねえ」
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和尚さんは、「林君、どうしたんですか、あまり久しく帰って来ませんが……学校に何か忙しいことでもあるんですかねえ」
と言った。
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と言った。
荻生さんが心配して、いそがしい郵便の仕事の合間を見てわざわざ弥勒まで出かけて行くと、清三はべつに変わった様子もなく、いつもむとんちゃくにしている髪もきれいに刈りこんで、にこにこして出て来た。
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荻生さんが心配して忙しい郵便事務の閑をみて、わざわざ弥勒まで出かけて行くと、清三はべつに変わったようなところもなく、いつも無性にしている髪もきれいに刈り込んで、にこにこして出て来た。
「どうもこの寒いのに、朝早く起きて通うのがつらいものだからねえ。ここで小使といっしょにねていれば、子どもがぞろぞろやって来るころまでゆっくりねていられるものだから」
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「どうもこの寒いのに、朝早く起きて通うのが辛いものだからねえ、君、ここで小使といっしょに寝ていれば、小供がぞろぞろやってくる時分までゆっくりと寝ていられるものだから」
などと言った。
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などと言った。
八畳の一間で、かべの上のくぎには古いはかまだの帯だのがかけてある。
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八畳の一間で、長押の釘には古袴だの三尺帯だのがかけてある。
机には、生徒の作文を赤で直しかけたのと、彼がこのごろ始めた水彩画の写生をしかけたのとが置いてあった。
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机には生徒の作文の朱で直しかけたのと、かれがこのごろ始めた水彩画の写生しかけたのとが置いてあった。
授業が終わって校長や同僚が帰ってから、清三は自分で出かけて菓子を買って来て、二人で食べた。
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教授が終わって校長や同僚が帰ってから、清三は自分で出かけて菓子を買って来て二人で食った。
彼はお茶を飲みながら、二、三枚写生したへたな水彩画を出して友に見せた。
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かれは茶を飲みながら二三枚写生したまずい水彩画を出して友に示した。
学校の門と、かきねに夕日がさし残ったところと、夕もやの中に富士が薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。
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学校の門と、垣で夕日のさし残ったところと、暮靄の中に富士の薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。
荻生さんは手に取ってじっと見入り、「君もなかなか器用ですねえ」
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荻生さんは手に取って、ジッと見入って、「君もなかなか器用ですねえ」
と感心した。
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と感心した。
清三はこのごろ集めた楽ふのついた新しい歌を、オルガンに合わせてひいてみせた。
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清三はこのごろ集めた譜のついた新しい歌曲をオルガンに合わせてひいてみせた。
冬は、いよいよ寒くなった。
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冬はいよいよ寒くなった。
昼の雨は夜のみぞれとなって、明ければ校庭は一面の雪。早く来た生徒は雪だるまを作ったり雪合戦をしたりしてさわいでいる。
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昼の雨は夜の霙となって、あくれば校庭は一面の雪、早く来た生徒は雪達磨をこしらえたり雪合戦をしたりしてさわいでいる。
美しく晴れた軒では、雀がやかましくしきりにさえずっている。
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美しく晴れた軒には雀がやかましく百囀をしている。
雪のあとの道はぬかるみが毎日かわかず、歯の高いげたもどうかするとうまって取られてしまうことなどもある。
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雪の来たあとの道路は泥濘が連日乾かず、高い足駄もどうかすると埋まって取られてしまうことなどもある。
乗合馬車は、屋根のおおいまでどろはねを上げて通った。
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乗合馬車は屋根の被いまではねを上げて通った。
机の前の障子にさし残る冬の日ざしは、少なくとも清三の心を静めさせた。
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机の前の障子にさし残る冬の日影は少なくとも清三の心を沈静させた。
成るようにしかならないという気持ちから、やがて「自分のできる限りをつくして、いさぎよく運命に従おう」
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なるようにしかならんという状態から、やがて「自己のつくすだけをつくしていさぎよく運命に従おう」
という気持ちになった。
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という心の状態になった。
なげきとなみだとのあとに、静かでさびしい、しかしあまい安らぎが来た。
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嘆息と涙とのあとに、静かなさびしいしかし甘い安静が来た。
みぞれの降る夜中に、「夜は寒みあられたばしる音しきりさゆる寝覚めを(母はいかがだろう)」
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霙の降る夜半に、「夜は寒みあられたばしる音しきりさゆる寝覚めを(母いかならん)」
と歌って家の母の気持ちを思ったり、「寒くさびしい夜中のふとんも、それでも心が静かならば、さすがに苦しくはあるまい」
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と歌って家の母の情を思ったり、「さむきさびしき夜半の床も、さはれ心静かなれば、さすがに苦しからじ」
と日記に書いて、自分で一人なぐさめたりした。
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と日記に書いてみずから独り慰めたりした。
またある時は、「思うことなく暮らしたいものだ。自分のこれまでの日々は、幸せがなかったのでもなく、幸せがあったのでもない」
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またある時は、「思うことなくて暮らさばや、わが世の昨日は幸なきにもあらず、幸ありしにもあらず」
と書いた。
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と書いた。
またある日の日記には、「昨夜、一ぴきの年老いたねずみがわなにかかった。あわれな者よ。お前も運命のむちをのがれられない不運な者か。ひそかに助けてやれるものなら助けてもやりたいが、自分もお前をこうしなければならない立場の人間なのだから。あわれな者よ、むしろお前は夜ごとのえさにまようよりは、こうしてこのままこのわなで終われ。あわれな者よ」
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またある日の日記には、「昨夜、一個の老鼠、係蹄にかかる。哀れなる者よ。汝も運命のしもとを免がれ得ぬ不運児か。ひそかに救け得させべくば救けも得さすべきを、われも汝をかくすべき縁持つ人間なればぞ、哀れなるものよ、むしろ汝は夜ごとの餌に迷ふよりは、かくてこのままこの係蹄に終われ。哀れなるものよ」
と書いてあった。
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と書いてあった。
日曜日を羽生の寺にも行田の家にも行かず、「今日は日曜日。またしても一日をこうしてここで過ごそうと、一人朝はおそくまでねていた」
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日曜日を羽生の寺にも行田の家にも行かず、「今日は日曜日、またしても一日をかくてここに過ごさんと一人朝は遅くまでいねたり」
と書いて、宿直室で過ごした。
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と書いて宿直室に過ごした。
郁治も桜井も小畑も、高等師範の入学試験を受けるために浦和に行ったという知らせがあった。
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郁治も桜井も小畑も高等師範の入学試験を受けるために浦和に行ったという知らせがあった。
孝明天皇祭の日に久しぶりで行田に帰ってみると、話し相手になるような友だちはもう一人もいなかった。
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孝明天皇祭の日を久しぶりで行田に帰ってみると、話相手になるような友だちはもう一人もいなかった。
雪子は例のそらぞらしい態度で、彼をむかえた。
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雪子は例のしらじらしい態度でかれを迎えた。
彼はむしろ、明るくむじゃきなしげ子をなつかしく思うようになった。
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かれはむしろ快活な無邪気なしげ子をなつかしく思うようになった。
帰る時、母親は昨日から心をこめて煮ておいた鮒の甘露煮を折り箱に入れて持たせてよこした。
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帰る時、母親は昨日からたんせいして煮てあった鮒のかんろ煮を折りに入れて持たせてよこした。
このごろは、まったく世の中からはなれて一人で暮らした。
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このごろはまったく世に離れて一人暮らした。
新聞も、めったに手にしたことはない。
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新聞もめったには手にしたことはない。
第五師団の分どり問題、青森第三連隊の雪の中の行軍で兵がこごえ死んだ問題、鉱毒事件。大きな見出しの活字が、一面と二面に毎日見える。
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第五師団の分捕問題、青森第三連隊の雪中行軍凍死問題、鉱毒事件、二号活字は一面と二面とに毎日見える。
ふだんなら新聞をきちんと注意して見る彼のことだから、いろいろと話の種にしたり日記につけておいたりするのだが、このごろはそんなことはどうでもよかった。
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平生ならば、新聞を忠実に注意して見るかれのこととて、いろいろと話の種にしたり日記をつけておいたりするのであるが、このごろはそんなことはどうでもよかった。
人が話して聞かせても、「そうですか」
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人が話して聞かせても、「そうですか」
と言って、相手にもならなかった。
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と言って相手にもならなかった。
愛読していた涙香の「巌窟王」
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愛読していた涙香の「巌窟王」
も、とちゅうでやめてしまった。
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も中途でよしてしまった。
学校の庭の後ろには竹やぶが五十坪ほどあって、夕日がいつもその葉をこして宿直室にさしこんで来る。ある夜、その向こうの農家から「福は内、鬼は外」
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学校の庭の後ろには、竹藪が五十坪ほどあって、夕日がいつもその葉をこして宿直室にさしこんで来るが、ある夜、その向こうの百姓家から「福は内、鬼は外」
とさけぶ老人の声がもれて聞こえた。
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と叫ぶ爺の声がもれて聞こえた。
「ああ、今日は節分だったかな」
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「あ、今日は節分かしらん」
と思って、清三は新聞の正月の付録の絵日記を出してみた。
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と思って、清三は新聞の正月の絵付録日記を出してみた。
それほど彼は、世の中のことにうとく暮らした。
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それほどかれは世事にうとく暮らした。
毎日四時過ぎになると、前の銭湯の板を打つ音が、静かで寒い、わらぶき屋根の多い田舎の街道にひびいた。
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毎日四時過ぎになると、前の銭湯の板木の音が、静かな寒い茅葺屋根の多い田舎の街道に響いた。
羽生の和尚さんとお酒を飲んで、
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羽生の和尚さんと酒を飲んで、
「どうです、一つ世の中をあっと言わせるようなことをやろうじゃありませんか。なんでもいいですから」
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「どうです、一つ社会を風靡するようなことをやろうじゃありませんか。なんでもいいですから」
こんなことを言うかと思うと、「自分はどんな仕事をするにしても、世の中をよくすることでも人の考えを救うことでも、それは何をするにしても、人間として生きている以上は生きられるだけのものは手に入れなければならない。そしてそれは、なるべく自分が世の中につくした仕事のお礼として受けたいと自分は思う。それには自分は小学校の先生からだんだん進んで中学くらいの先生になろうか。それとも自分は、この高く美しい小学校の先生の一生で満足しようか」
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こんなことを言うかと思うと、「自分はどんな事業をするにしても、社会の改良でも思想界の救済でも、それは何をするにしても、人間として生きている上は生きられるだけの物質は得なければならない。そしてそれはなるべく自分が社会につくした仕事の報酬として受けたいと自分は思う。それには自分は小学校の教員からだんだん進んで中学程度の教員になろうか。それとも自分はこの高き美しき小学教員の生涯を以て満足しようか」
などと考えることもある。
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などと考えることもある。
一方では多くの友だちのようにはなばなしく世の中に出て行きたいとは思う。けれどまた一方では、小学校の先生をとうとく神聖なものとして、少年少女のむじゃきな仲間として一生を送るほうが理想の生活だとも思った。
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一方には多くの友だちのようにはなばなしく世の中に出て行きたいとは思うが、また一方では小学教員を尊い神聖なものにして、少年少女の無邪気な伴侶として一生を送るほうが理想的な生活だとも思った。
友からはなれ、恋からはなれ、世の中からはなれて、わざとこの孤独な生活に生きようというような反こう的な考えも起こった。
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友に離れ、恋に離れ、社会に離れて、わざとこの孤独な生活に生きようというような反抗的な考えも起こった。
ある日、校長が言った。
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ある日校長が言うた。
「どうです。そうして毎日宿直室にとまっているくらいなら、寺から荷物を持って来て、ここで自分でごはんを作るなりなんなりしているようにしたら……。そうすれば、私のほうでもわざわざ宿直を置かないですむし、君にも部屋代が出なくて得になる。第一、八キロの道を通うという手間がはぶける」
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「どうです。そうして毎日宿直室に泊まっているくらいなら、寺から荷物を持って来て、ここに自炊なりなんなりしているようにしたら……。そうすれば、私のほうでもわざわざ宿直を置かないでいいし、君にも間代が出なくって経済になる。第一、二里の道を通うという労力がはぶける」
羽生の和尚さんもこの間行った時、「いったいどうなさるんです、こう空けていらしては部屋代をいただくのもお気の毒だし……それに、冬は通うのがずいぶんたいへんですからなあ」
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羽生の和尚さんもこの間行った時、「いったいどうなさるんです、こうあけていらしっては間代を頂戴するのもお気の毒だし……それに、冬は通うのにずいぶん大変ですからなア」
と言った。
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と言った。
清三は、寺に下宿したころの気持ちと今の気持ちとが目立ってちがってきたことを、考えずにはいられなかった。
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清三は寺に寄宿するころの心地と今の心地といちじるしく違ってきたことを考えずにはいられなかった。
そのころとくらべると、希望も目的も気持ちもまったくちがってきた。
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そのころからくらべると、希望も目的も感情もまったく違ってきた。
「行田文学」
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「行田文学」
も、なくなった。
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も廃刊した。
文学に集まった友の仲間も、散り散りになった。
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文学に集まった友の群れも離散した。
彼自身にしても、文学の本を読むよりも、絵の写生をしたり、音楽の楽ふの本を集めてオルガンを鳴らしてみたりすることが多くなった。
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かれ自身にしても、文学書類を読むよりも、絵画の写生をしたり、音楽の譜の本を集めてオルガンを鳴らしてみたりすることが多くなった。
それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。
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それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。
彼は月のなかごろに、ふとんと本箱とを羽生の寺から運んで来た。
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かれは月の中ごろに蒲団と本箱とを羽生の寺から運んで来た。
二十七
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二十七
「喜平さんな、とんでもねえこったってなあ」
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「喜平さんな、とんでもねえこんだッてなア」
「ほんにさあ、今朝行く時、おれあでっくわしただあよ。網を持って行くから、この寒いのに魚を取りに行くのけえ、ご苦労なこっちゃなあってあいさつしただあよ。わからねえもんだよなあ」
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「ほんにさア、今朝行く時、己アでっくわしただアよ、網イ持って行くから、この寒いのに日振りに行くけえ、ご苦労なこっちゃなアッて挨拶しただアよ。わからねえもんただよなア」
「どうしてまあ、そんなことになったんだんべい?」
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「どうしてまアそんなことになったんだんべい?」
「ほんにさ、あすこは掘り割りで、なんでもねえところだがなあ」
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「ほんにさ、あすこは掘切で、なんでもねえところだがなア」
「いったいどこだね」
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「いったいどこだな」
「そら、あの西の勘三さんの田ん中の掘り割りで死んでいたんだってよ。どろの深い中に体が半分つきささったまま、首をこう垂れて冷たくなっていたんだってよ」
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「そら、あの西の勘三さんの田ン中の掘切で死ねていたんだッてよ。泥深い中に体が半分突っささったまま、首イこうたれてつめたくなったんだッてよ」
「あっけねえこったなあ」
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「あっけねえこんだなア」
「今日はまあ、御賽日だってのに。これもまあ、そういう運を持って生まれて来たんだんべい」
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「今日ははア、御賽日だッてに。これもはア、そういう縁を持って生まれて来たんだんべい」
「おれたちもまあ、この春は魚取りなんぞはよそうよ」
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「わしらもはア、この春ア、日振りなんぞはよすべいよ」
湯気のこもったせまい銭湯の中で、村の人たちはこんなうわさをした。
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湯気の籠った狭い銭湯の中で、村の人々はこうした噂をした。
喜平というのは、村はずれの小屋に住んでいる五十ばかりの老人で、雑魚やどじょうを取っては、それを売ってその日その日を食べていた。
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喜平というのは、村はずれの小屋に住んでいる、五十ばかりの爺で、雑魚や鰌を捕えては、それを売って、その日その日の口をぬらしていた。
毎日のようにきたない身なりをして、古いつくろった網をかついで、川や掘り割りに出かけて行った。
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毎日のように汚ないふうをして、古いつくろった網をかついで、川やら掘切やらに出かけて行った。
とちゅうで学校の先生や村役場の人などに出くわすと、いつもていねいにおじぎをした。
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途中で学校の先生や村役場の人などにでっくわすと、いつもていねいに辞儀をした。
それが今日、掘り割りの中でこごえて死んでいたという。
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それが今日掘切の中でこごえて死んでいたという。
清三は湯につかりながら、村の人たちがさまざまにうわさし合うのを聞いていた。
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清三は湯につかりながら、村の人々のさまざまに噂し合うのを聞いていた。
こうして生まれて生きて死んで行く人と、こうしてうわさし合っている村の人たちのこととを、考えずにはいられなかった。
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こうして生まれて生きて死んで行く人をこうして噂し合っている村の人々のことを考えずにはいられなかった。
古い網を張ったまま、どろの中にこごえた体を立てて死んでいた老人の姿も想像した。
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古網を張ったまま、泥の中にこごえた体を立てて死んでいた爺のさまをも想像した。
ぼうっとした湯気の中に、水そうに落ちる水の音が聞こえた。
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茫とした湯気の中に水槽に落ちる水の音が聞こえた。
二十八
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二十八
授業もすみ、同僚もおおかた帰って、校長と二人で宿直室で話していると、そこに雑魚売りがやって来た。
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授業もすみ、同僚もおおかた帰って、校長と二人で宿直室で話していると、そこに、雑魚売りがやって来た。
「旦那、鮒を安く買わんかね」
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「旦那、鮒をやすく買わんけい」
障子をあけると、にこにこした老人が魚を入れるかごをそこに置いて立っていた。
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障子をあけると、にこにこした爺が、笭箵をそこに置いて立っていた。
「鮒はいらんなあ」
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「鮒はいらんなア」
「安く負けておくで、買ってくんなせえ」
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「やすく負けておくで、買ってくんなせい」
校長さんは清三をふり返って、「君はいりませんか。安ければ少し買って甘露煮にしておくといいがね」
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校長さんは清三を顧みて、「君はいりませんか、やすけりゃ少し買って甘露煮にしておくといいがね」
と言った。
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と言った。
それで、二人はえん側に出てみた。
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で、二人は縁側に出てみた。
二つのかごには、十五センチくらいから十センチくらいの鮒が、金色の腹を光らせてゴチャゴチャしている。
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二つの笭箵には、五寸ぐらいから三寸ぐらいの鮒が金色の腹を光らせてゴチャゴチャしている。
「少し小さいな」
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「少し小さいな」
と校長さんは言った。
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と校長さんは言った。
「小さいどころか、甘露煮にするにはこのくらいが一番だあな。それに板倉で取れたんだで、骨は柔らけえ」
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「小さいどころか、甘露煮にするにはこのくらいがごくだアな。それに、板倉で取れたんだで、骨は柔らけい」
種類としては質のいい鮒なのを、校長はすぐ見てとった。
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種類としては質のいい鮒なのを校長はすぐ見てとった。
利根川をわたって四キロ、そこに板倉沼というのがある。
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利根川を渡って一里、そこに板倉沼というのがある。
ぬまのほとりに、雷電をまつった神社がある。
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沼のほとりに雷電を祭った神社がある。
そこらあたりは利根川の川底よりも低いしめった土地で、小さいぬまが一面にあった。
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そこらあたりは利根川の河床よりも低い卑湿地で、小さい沼が一面にあった。
上州から来る鮒や雑魚のうまいのは、ここらでも評判だ。
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上州から来る鮒や雑魚のうまいのは、ここらでも評判だ。
「いくらだね?」
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「幾がけだね?」
「七なら高くはねえと思うんだが」
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「七なら高くはねえと思うんだが」
「七は高い!」
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「七は高い!」
「目方をよくしておくで、七で買ってくんなせえ」
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「目方をよくしておくだで七で買ってくんなせい」
「五ぐらいならいいが」
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「五ぐらいならいいが」
「五なんて、そんな値はねえだ。じゃあ、いま半分引くべい」
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「五なんてそんな値はねえだ。じゃいま半分引くべい」
清三は、校長さんが物を買うのが上手なのを笑って見ていた。
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清三は校長さんの物を買うのに上手なのを笑って見ていた。
六がけで話が決まって、小使がそこにおけとすりばちとを運んで来た。
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六がけで話が決まって、小使がそこに桶と摺り鉢とを運んで来た。
ぴんとするほど量をおまけした鮒は、ヒクヒクとえらを動かしている。
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ピンとするほどはかりをまけた鮒はヒクヒクと鰓を動かしている。
老人はやがて銭を受け取って、軽くなったかごをかついで帰って行く。
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爺はやがて銭を受け取って軽くなった笭箵をかついで帰って行く。
「安い、安い。これを煮ておけば、十日ももちますよ」
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「やすい、やすい。これを煮ておきゃ、君、十日もありますよ」
こう言って校長さんは、鮒の中でも大きいのを一ぴきつかんで、「どうも、上州の鮒はいい。うろこがまるでこっちで取れたのとはちがうんですからな」
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こう言って校長さんは、鮒の中でも大きいのを一尾つかんで、「どうも、上州の鮒はいい、コケがまるでこっちで取れたのとは違うんですからな」
と言って、清三に見せた。
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と言って清三に示した。
半分に分けて小さいおけに入れ、小使が校長さんの家に持って行った。
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半分に分けて、小桶に入れて、小使が校長さんの家に持って行った。
その日は、鮒の料理で暮れた。
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その日は鮒の料理に暮れた。
まな板の上でうろこを取り、金ぐしにそれをさして、いろりに火を起こして焼いた。
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爼板の上でコケを取って、金串にそれをさして、囲爐裏に火を起こして焼いた。
小使はそのそばで、せっせとわらじを作っている。
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小使はそのそばでせっせと草鞋を造っている。
一ぴきで金ぐしがすっかりふさがってしまうような大きなものも、二つ三つはあった。
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一疋で金串がまったく占められるような大きなのも二つ三つはあった。
薄くこげるくらいに焼いて、それをわらにさした。
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薄くこげるくらいに焼いて、それを藁にさした。
「ずいぶんあるものだね」
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「ずいぶんあるもんだね」
と数えてみて、「十九ぐしある」
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と数えてみて、「十九串ある」
「安かっただ。校長さんは負けさせる名人だ。これくらいの鮒で六なんていう値があるもんかね」
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「やすかっただ、校長さん負けさせる名人だ。これくらいの鮒で六っていう値があるもんかな」
小使は、そばから言った。
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小使はそばから言った。
ためしに煮てみようというので、五ぐしばかり小なべに入れてこんろにかけた。
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試みに煮てみようと言うので、五串ばかり小鍋に入れて、焜爐にかけた。
ねる時に味わってみたが、骨はまだ固かった。
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寝る時味わってみたが骨はまだ固かった。
自分でごはんを作る生活は清三にとって、結局気楽でもあり、お金もかからなかった。
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自炊生活は清三にとって、けっきょく気楽でもあり経済でもあった。
多くは豆腐と油あげと塩鮭とで日を送った。
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多くは豆腐と油揚げと乾鮭とで日を送った。
鮒の甘露煮は、二度目に煮た時からうまくいった。
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鮒の甘露煮は二度目に煮た時から成功した。
砂糖をあまり使いすぎたので、分けてやった小使は「林さんの甘露煮は菓子を食うようだあ」
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砂糖をあまり使い過ぎたので、分けてやった小使は「林さんの甘露煮は菓子を食うようだア」
と言った。
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と言った。
生徒はときどき、萩の餅やアンビ餅などを持って来てくれる。
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生徒は時々萩の餅やアンビ餅などを持って来てくれる。
とうもろこしともち米の粉で作ったというあん餅なども持って来てくれる。
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もろこしと糯米の粉で製したという餡餅などをも持って来てくれる。
どうにかして、勉強したい。
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どうかして勉強したい。
田舎にいて勉強するのも東京に出て勉強するのも、気持ち一つで同じことだ。
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田舎にいて勉強するのも東京に出て勉強するのも心持ち一つで同じことだ。
学費を親から出してもらう友だちにも負けないように学問したいと思って、心理学や倫理学などをせっせと読んだ。けれど、断りきれないたのみで高等科の生徒に英語を教えてやったのが始まりだった。だんだんナショナルという英語の本の一や二を持って教わりに来る者が多くなり、のちにはこう時間をつぶされてはならないと思いながら、夜はたいてい宿直室に生徒が集まるようになった。
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学費を親から出してもらう友だちにも負けぬように学問したいと思って、心理学や倫理学などをせっせと読んだが、余儀なき依頼で、高等の生徒に英語を教えてやったのが始まりで、だんだんナショナルの一や二を持って教わりに来るものが多くなって、のちには、こう閑をつぶされてはならないと思いながら、夜はたいてい宿直室に生徒が集まるようになった。
二月の末には、梅が咲き始めた。
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二月の末には梅が咲き初めた。
障子をあけると竹やぶの中に花が見えて、風につれていいにおいがする。
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障子をあけると、竹藪の中に花が見えて、風につれていい匂いがする。
ある日、彼は机に向かって、
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一日、かれは机に向かって、
田舎はさびしいこの里に
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鄙はさびしきこの里に
咲いて出た白梅や、
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さきて出でにし白梅や、
一枝いだいて、ただ一人
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一枝いだきてただ一人
低くかなでる春の歌、
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低くしらぶる春の歌、
と歌って、それを手帳に書いた。
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と歌って、それを手帳に書いた。
さびしい思いが、次々と胸にのぼった。
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淋しい思いが脈々として胸に上った。
ふとそばに、古い中学世界の付録で梅の絵に田舎の少女をえがいた絵はがきがあるのを見つけた。
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ふとそばに古い中学世界に梅の絵に鄙少女を描いた絵葉書のあるのを発見した。
彼はそれを手に取ってその歌を書き、「都を知らぬ田舎の少女」
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かれはそれを手に取ってその歌を書いて、「都を知らぬ鄙少女」
と名前を書いて、さてそれを浦和の美穂子のもとに送ろうと思った。
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と署して、さてそれを浦和の美穂子のもとに送ろうと思った。
けれど、決まりのきびしい寄宿舎のことを思ってやめた。
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けれど監督の厳重な寄宿舎のことを思ってよした。
ふと美穂子の姉にいく子というのがあって、音楽が好きで、自分も二、三度手紙をやり取りしたことがあるのを思い出し、楽ふをつけてそこに送ることにした。
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ふと美穂子の姉にいく子というのがあって、音楽が好きで、その身も二三度手紙をやり取りしたことがあるのを思い出して、譜をつけてそこにやることにした。
彼は夕暮れなど校庭を歩きながら、この自作の歌を低い声で歌った。「低くかなでる春の歌」
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かれは夕暮れなど校庭を歩きながら、この自作の歌を低い声で歌った、「低くしらぶる春の歌」
と歌うと、つくづく自分のさびしくはかない身の上が目の前にうかび出すような気がして、なみだが流れた。
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と歌うと、つくづく自分のさびしいはかない境遇が眼の前に浮かび出すような気がして涙が流れた。
このごろ、友だちから手紙の来るのも少なくなった。
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このごろ、友だちから手紙の来るのも少なくなった。
熊谷の小畑とも、この間行った時に生き方についての意見が合わなくて議論をしたが、それからだいぶ遠ざかって暮らした。
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熊谷の小畑にも、この間行った時、処世上の意見が合わないので、議論をしたが、それからだいぶうとうとしく暮らした。
郁治から来る手紙には美穂子のことがきっと書いてあるので、返事を書く気にもならなかった。
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郁治から来る手紙には美穂子のことがきっと書いてあるので、返事を書く気にもならなかった。
それにひきかえ、弥勒の人たちとはだいぶ親しくなった。
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それに引きかえて、弥勒の人々にはだいぶ懇意になった。
このごろでは、どこの家に行っても先生先生と立ててくれないところはない。
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このころでは、どこの家に行っても、先生先生と立てられぬところはない。
それに同僚の中でも、師範学校出のきざで意地の悪い先生が加須に行ってしまったので、気のおける人がなくなって、学校の空気がしっくり自分に合ってきた。
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それに、同僚の中でも、師範校出のきざな意地の悪い教員が加須に行ってしまったので、気のおける人がなくなって、学校の空気がしっくり自分に合って来た。
祝日の休みにも日曜日にも、たいてい宿直室で暮らした。
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物日の休みにも、日曜日にも、たいてい宿直室でくらした。
利根川をこえて四キロばかり、高取というところに天満宮があって、三月初めの大祭には近くから、境内に立つ場所もないほど人々がお参りした。
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利根川を越えて一里ばかり、高取というところに天満宮があって、三月初旬の大祭には、近在から境内に立錐の地もないほど人々が参詣した。
清三も昔、一度行ってみたことがある。
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清三も昔一度行ってみたことがある。
見世物、露店――お参りの人が鳴らすかねの音がたえず聞こえた。
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見世物、露店――鰐口の音がたえず聞こえた。
とくに、習字が上手になるようにと親がよく子どもを連れて行くので、その日は毎年学校が休みになる。
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ことに、手習いが上手になるようにと親がよく子供をつれて行くので、その日は毎年学校が休みになる。
午後、清三が宿直室で手紙を書いていると、お参りに行った生徒が二組三組と寄って行った。
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午後清三が宿直室で手紙を書いていると、参詣に行った生徒が二組三組寄って行った。
二十九
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二十九
発戸には、機屋がたくさんあった。
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発戸には機屋がたくさんあった。
市のたびに百反以上を町に持って出る家が、少なくとも七、八けんはある。
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市ごとに百反以上町に持って出る家がすくなくとも七八軒はある。
もちろん機屋といっても、軒を連ねて一つのまとまりを作っているわけではない。
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もちろん機屋といっても軒をつらねて部落をなしているわけではない。
ちょっと見ると、ふつうの農家とはあまりちがっていない。
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ちょっと見ると、普通の農家とはあまり違っていない。
そら豆やさやえんどうの畑がまわりを取り巻いていて、夏は茄子やきゅうりがそこら一面にできる。
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蠶豆、莢豌豆の畑がまわりを取り巻いていて、夏は茄子や胡瓜がそこら一面にできる。
とうもろこしの広い葉も、ガサガサと風になびく。
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玉蜀黍の広葉もガサガサと風になびく。
けれど家の中にはいると、様子がだいぶちがう。あいをとかしたかめがいくつとなく入り口の向こうにあって、そこで染め職人がせっせと糸を染めている。
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けれど家の中にはいると、様子がだいぶ違う、藍瓶が幾つとなく入り口の向こうにあって、そこに染工職人がせっせと糸を染めている。
白い糸が山のように積んであると、そのそばでやとわれた人がしきりにそれをより分けている。
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白い糸が山のように積んであると、そのそばで雇い人がしきりにそれを選り分けている。
ぬのを入れる大きな戸だなも見える。
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反物を入れる大きな戸棚も見える。
前の広い庭には高い物干しざおが何列も順序よく並んでいて、朝から紺の糸がずらりとそこに干し並べられる。
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前の広庭には高い物干し竿が幾列びにも順序よく並んでいて、朝から紺糸がずらりとそこに干しつらねられる。
糸をつむぐ道具の音が、にわか雨のようにあちこちからにぎやかに聞こえる。
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糸を繰る座繰りの音が驟雨のようにあっちこっちからにぎやかに聞こえる。
機屋のまわりでは、たのまれて織るはたの音がさかんにした。
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機屋のまわりには、賃機を織る音が盛んにした。
あたりの村がしんとしているのにひきかえ、ここには活気が満ちていた。
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あたりの村落のしんとしているのに引きかえて、ここには活気が充ちていた。
金持ちも、多かった。
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金持ちも多かった。
よその土地からはいって来た若い男女も、ずいぶんあった。
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他郷からはいって来た若い男女もずいぶんあった。
発戸は行いの悪い村だと、近所から言われている。
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発戸は風儀の悪い村と近所から言われている。
埼玉新報の事件の記事にも、きっとこの村のことが毎月一つや二つは出る。
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埼玉新報の三面種にもきっとこの村のことが毎月一つや二つは出る。
機屋のていしゅが女工に片っぱしから手を出して牢屋に入れられた話もあれば、利根川に面したがけから越後の女と上州の男とが心中したことなどもある。
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機屋の亭主が女工を片端から姦して牢屋に入れられた話もあれば、利根川に臨んだ崖から、越後の女と上州の男とが情死をしたことなどもある。
街道に面して、酒場も二、三けんはあった。
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街道に接して、だるま屋も二三軒はあった。
八月が来ると、さかんな盆おどりが毎晩そこで開かれた。
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八月が来ると、盛んな盆踊りが毎晩そこで開かれた。
学校に宿直していると、そのおどる音が手にとるように講堂のガラスにひびいて、はっきり聞こえる。
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学校に宿直していると、その踊る音が手にとるように講堂の硝子にひびいてはっきりと聞こえる。
十一時を過ぎても、なかなかやみそうな気配もない。
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十一時を過ぎても容易にやみそうな気勢もない。
昨年の九月、清三が宿直に当たった時はちょうど月のさえた夜で、かきねには虫の声が雨のように聞こえていた。
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昨年の九月、清三が宿直に当たった時は、ちょうど月のさえた夜で、垣には虫の声が雨のように聞こえていた。
「発戸の盆おどりはそれはさかんですが、林さん、まだ行ってみたことがないんですか。それではぜひ一度出かけてみなくてはいけませんな……けれど、林さんのような色男はよほど注意しないといけませんぜ。そでくらいちぎられてしまいますからな」
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「発戸の盆踊りはそれは盛んですが、林さん、まだ行ってみたことがないんですか。それじゃぜひ一度出かけてみなくってはいけませんな……けれど、林さんのような色男はよほど注意しないといけませんぜ、袖ぐらいちぎられてしまいますからな」
と、先生の杉田が笑いながら言った。
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と訓導の杉田が笑いながら言った。
しかし清三は、行ってみようとも思わなかった。
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しかし清三は行ってみようとも思わなかった。
ただ、そのおもしろそうな音が夜ふけまで聞こえるのを耳にしただけであった。
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ただそのおもしろそうな音が夜ふけまで聞こえるのを耳にしたばかりであった。
そのほかにも、発戸のことについて清三が聞いたことはいくらもあった。
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そのほかにも、発戸のことについて、清三の聞いたことはいくらもあった。
一、二年前まではここに男ぶりのいい先生などが宿直をしていると、発戸の女が群れをなしてずかずかと庭からはいって来て、ずうずうしく話をしていくことなどもあったという。
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一二年前まではここに男ぶりのいい教員などが宿直をしていると、発戸の女は群れをなして、ずかずかと庭からはいって来て、ずうずうしく話をしていくことなどもあったという。
それから、生徒を見ても発戸の行いの悪さはわかった。
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それから生徒を見ても、発戸の風儀の悪いのはわかった。
同じ行儀の悪いのでも、そこから来る生徒はほかとはちがっていた。
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同じ行儀の悪いのでもそこから来る生徒は他とは違っていた。
下品な歌を口ぐせに教室で歌って、水を満たした茶わんを持って立たされる子などもあった。
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野卑な歌を口ぐせに教場で歌って水を満たした茶碗を持って立たせられる子などもあった。
春になって野にすみれが咲くころになると、清三は散歩を始めた。
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春になって、野に菫が咲くころになると、清三は散歩を始めた。
古ぼけた茶色のぼうしをかぶった、背のすらりとしたやせた姿が、そこにもここにも見えた。
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古ぼけた茶色の帽子をかぶった背のすらりとしたやせぎすな姿はそこにもここにも見えた。
お百姓は、学校の若い先生が野川の橋の上に立ってぼんやりと夕焼けの雲を見ているのを見たこともあるし、朝早く役場の向こうの道を歩いているのに出会うこともあった。
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百姓は学校の若い先生が野川の橋の上に立って、ぼんやりと夕焼けの雲を見ているのを見たこともあるし、朝早く役場の向こうの道を歩いているのに出会うこともあった。
役場の小使と立ち話をしていることもあれば、畑にいる人たちとあいさつしていることもある。
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役場の小使と立ち話をしていることもあれば、畠にいる人々と挨拶していることもある。
時には、学校の女の生徒を二、三人連れて、林の中で花をつませて花たばを作らせたりしていることなどもある。
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時には、学校の女生徒を、二三人つれて、林の中で花を摘ませて花束を作らせたりなんかしていることなどもある。
弥勒野の林の角で夕暮れの空を写生していると、
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弥勒野の林の角で、夕暮れの空を写生していると、
「やあ、先生だ、先生だ!」
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「やア、先生だ、先生だ!」
「先生が何か書いてらあ」
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「先生が何か書いてらア」
「やあ、絵をかいてるんだ!」
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「やア画を描いてるんだ!」
「あの雲をかいてるんだぜ」
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「あの雲を描いてるんだぜ」
などと、近所の生徒がぞろぞろとそのまわりに集まって来る。
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などと近所の生徒がぞろぞろとそのまわりに集まって来る。
「うまいなあ、先生は」
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「うまいなア、先生は」
「それは当たり前よ、先生じゃねえか」
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「それは当たり前よ、先生じゃねえか」
「ああ、あれがあの雲だ」
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「あああれがあの雲だ」
「その下のがあの家だ」
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「その下のがあの家だ」
だまって筆を動かしていると、勝手なことを言ってしゃべっている。
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黙って筆を運ばせていると、勝手なことを言ってしゃべっている。
どうしてあんなにうまくかけるのかと不思議がるように、じっと先生の顔をのぞきこむ子などもあった。
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どうしてあんなうまく書けるのかと疑うかのように、じっと先生の顔をのぞきこむ子などもあった。
翌日学校に行くと、その生徒たちはめずらしいものを見て知っているというふうに、それをほかの生徒に言いふらした。
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翌日学校に行くと、その生徒たちはめずらしいことを見て知っているというふうにそれを他の生徒に吹聴した。
「先生、昨日かいていた絵を見せてください!」
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「先生、昨日書いてた絵を見せてください!」
などと言った。
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などと言った。
清三はだんだん、近所のことにくわしくなった。
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清三はだんだん近所のことにくわしくなった。
林の奥に、思いもかけない一けん家があることも知った。
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林の奥に思いもかけぬ一軒家があることも知った。
大きな農家のかしのかきねの向こうにやなぎの生えた小川があって、そこに高等二年生で一番よくできる女の生徒の家があることも知った。
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豪農の家の樫の垣の向こうに楊の生えた小川があって、そこに高等二年生で一番できる女生徒の家があることをも知った。
その家には草のしげった井戸があって、水をくむしかけがかかっていた。
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その家には草の茂った井戸があって桔橰がかかっていた。
ちょうどその時、その娘はそこに出ていた。
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ちょうどその時その娘はそこに出ていた。
「お前の家はここだね」
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「お前の家はここだね」
と言って通りぬけようとすると、「おっかさん、先生が通るよ!」
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と言って通り抜けようとすると、「おっかさん、先生が通るよ!」
と言った。
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と言った。
母親は小川で後ろ向きになって、せっせと何か物を洗っていた。
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母親は小川で後ろ向きになってせっせと何か物を洗っていた。
加須に通う街道には、畑があったり森があったり、はんの木の並木があったりした。
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加須に通う街道には畠があったり森があったり榛の並木があったりした。
ある時、楢の林の中に色のこいすみれが咲いていたのを見つけて、それを根ごと取って来てはちに植え、机の上に置いた。
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ある時楢の林の中に色のこい菫が咲いていたのを発見して、それを根ごしにして取って来て鉢に植えて机の上に置いた。
村をはずれると街道は平らな田んぼの中に通じて、白いほこりがかすかな風にまい上がるのが見えた。
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村をはずれると、街道は平坦な田圃の中に通じて、白い塵埃がかすかな風にあがるのが見えた。
織物を集めて回る車や、つかれた旅人などがときどき通った。
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機回りの車やつかれた旅客などがおりおり通った。
ある夜、学校の前の火事を知らせるかねが激しく鳴った。
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ある夜、学校の前の半鐘が激しく鳴った。
竹やぶの向こうに出て見ると、空がぼんやり赤くなっている。
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竹藪の向こうに出て見ると、空がぼんやり赤くなっている。
やがて、その火事は手古林であったことがわかった。
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やがてその火事は手古林であったことがわかった。
翌々日の散歩で、ふと気がつくと、清三はその焼けた家の前に立っている自分に気づいた。
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翌々日の散歩に、ふと気がつくと、清三はその焼けた家屋の前に立っているのを発見した。
この間焼けたのはこの家だな、と彼は思った。
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この間焼けたのはこの家だなとかれは思った。
それは村の道に面した一けん家で、わらで囲った仮の小屋がもうそのすみにできていた。
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それは村道に接した一軒家で、藁でかこった小屋掛けがもうその隅にできていた。
焼けあとには灰や焼け残りの柱などが散らばっていて、井戸のわくの半分焼けた流し場では、たすきをした女がしきりにお膳やおわんを洗っている。
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焼けあとには灰や焼け残りの柱などが散らばっていて、井戸側の半分焼けた流しもとでは、襷をした女がしきりに膳椀を洗っている。
仮の小屋の中からは、村の人が出たりはいったりしている。
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小屋掛けの中からは村の人が出たりはいったりしている。
彼は、平和な田舎にとつぜん起こった出来事を考えながら歩いた。
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かれは平和な田舎に忽然として起こった事件を考えながら歩いた。
一夜の思いがけない出来事のために、一家の運命に大きなつまずきが生まれるだろうことなども、思いやらないわけにはいかなかった。
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一夜の不意のできごとのために、一家の運命に大きな頓座を来たすべきことなどをも思いやらぬわけにはいかなかった。
お金の大事な田舎では、新しく一けんの家を建てるためにも、ある人の一生を激しい労働についやさなければならないのである。
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金銭のとうとい田舎では新たに一軒の家屋を建てるためにもある個人の一生を激しい労働についやさねばならぬのである。
彼は、ただただ出世に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちを、こうしたきびしい生活を送る人たちとくらべて考えてみた。
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かれはただただ功名に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちをこうしたハードライフを送る人々にくらべて考えてみた。
続いて、日ごとに新聞に出るえらい人たちの暮らしも思いえがいてみた。
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続いて日ごとに新聞紙上にあらわれる豪い人々のライフをも描いてみた。
えらい人にはそれはなりたい、りっぱな生活を送りたい。
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豪い人にはそれはなりたい、りっぱな生活を送りたい。
しかし、平凡に生活している人もいくらもある。
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しかし平凡に生活している人もいくらもある。
一家の幸せ――弱い母の幸せをぎせいにしてまで、出世に走らなければならないこともない。
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一家の幸福――弱い母の幸福を犠牲にしてまでも、功名におもむかなくってはならぬこともない。
むしろ自分は、平凡な生活で満足する。
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むしろ自分は平凡なる生活に甘んずる。
こう考えながら、彼は歩いた。
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こう考えながらかれは歩いた。
寒い日に体をどろの中につきさしてこごえ死んだ老人の掘り割りにも、行ってみたことがある。
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寒い日に体を泥の中につきさしてこごえ死んだ爺の掘切にも行ってみたことがある。
そこにはあしとかやとが新芽を出して、かえるが音を立てて水に飛びこんだ。
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そこには葦と萱とが新芽を出して、蛙が音を立てて水に飛び込んだ。
森の中には荒れはてたお社があったり、林の角からは富士がよく見えたり、田にれんげがしいたようにみごとに咲いていたりした。
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森の中には荒れはてた社があったり、林の角からは富士がよく見えたり、田に蓮華草が敷いたようにみごとに咲いていたりした。
それに、こうして住んでみると、聞くともなしに村のいろいろな話が耳にはいる。
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それにこうして住んでみると、聞くともなしに村のいろいろな話が耳にはいる。
家のことを苦にして用水に身を投げた女の話、旅人にだまされて林の中に引っ張りこまれてらんぼうされた村の子守の話、三人組の強盗が刀をぬいて上村の大きな農家にはいって主人とおくさんとをしばり上げお金をうばって行った話、まゆの仲買いの男と酌婦が心中した話など。聞けば聞くほど、平和だと思った村にもつらく悲しい暮らしがあるのを知った。
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家事を苦にして用水に身を投げた女の話、旅人にだまされて林の中に引っ張り込まれて強姦された村の子守りの話、三人組の強盗が抜刀で上村の豪農の家にはいって、主人と細君とをしばり上げて金を奪って行った話、繭の仲買いの男と酌婦と情死した話など、聞けば聞くほど平和だと思った村にも辛い悲しいライフがあるのを発見した。
地主と小作人との関係、富める者と貧しい者とのひどいへだたり。清らかで理想の生活をして自然のおだやかなふところにだかれていると思った田舎も、やはり争いの場、欲の世であるということが、だんだんわかってきた。
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地主と小作人との関係、富者と貧者のはなはだしい懸隔、清い理想的の生活をして自然のおだやかな懐に抱かれていると思った田舎もやっぱり争闘の巷利欲の世であるということがだんだんわかってきた。
それに、田舎は思いのほかみだらで、いやらしく、不潔であるということもわかってきた。
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それに、田舎は存外猥褻で淫靡で不潔であるということもわかってきた。
人々のうわさ話にも、そんなことが多い。
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人々の噂話にもそんなことが多い。
やれ、どこの娘がどうしたとか、どこのおかみさんがどこのだれと悪いことをしているとか、だれはどこにこっそり女をかこっているとか、女のことでふうふげんかが絶えないとか、そういうことがたえず耳を打つ。
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やれ、どこの娘はどうしたとか、どこのかみさんはどこの誰と不義をしているとか、誰はどこにこっそり妾をかこっておくとか、女のことで夫婦喧嘩が絶えないとか、そういうことがたえず耳を打つ。
それに、そうしたうわさがまんざらうそでないという証こも、時には目に映った。
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それに、そうした噂がまんざら虚偽でないという証拠も時には眼にもうつった。
彼はある日、また利根川のほとりに生徒を連れて行ったが、その夜、次のような新しい形の詩を作って日記に書いた。
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かれは一日、また利根川のほとりに生徒をつれて行ったが、その夜、次のような新体詩を作って日記に書いた。
松原遠く日は暮れて
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松原遠く日は暮れて
利根の流れのゆるやかに
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利根のながれのゆるやかに
ながめさびしき村里の
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ながめ淋しき村里の
ここに一年、かりの家
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ここに一年かりの庵
はかない恋も世も捨てて
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はかなき恋も世も捨てて
願いもなくて、ただ一人
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願ひもなくてただ一人
さびしく歌うわが歌を
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さびしく歌ふわがうたを
あわれと聞いてくれる人もがな
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あはれと聞かんすべもがな
彼はときどきこうした悲しい気持ちになったが、しかしこれがその心のすべてではなかった。
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かれは時々こうしたセンチメンタルな心になったが、しかしこれはその心の状態のすべてではなかった。
村の若い者が夜おそくなってから、栗橋の川向こうの十六キロもある中田まで女を買いに行く話などもおもしろがって聞いた。
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村の若い者が夜遅くなってから、栗橋の川向こうの四里もある中田まで、女郎買いに行く話などをもおもしろがって聞いた。
大越から通う年とった先生は、お酒でも飲むと軽い口ぶりで、そこから近いその遊びの町の話をして聞かせることがある。
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大越から通う老訓導は、酒でものむと洒脱な口ぶりで、そこから近いその遊廓の話をして聞かせることがある。
群馬と埼玉の二県はかつて遊女をやめさせようという声のさかんだった土地なので、そのうちには酒場ばかり発達して、遊びの町がない。
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群馬埼玉の二県はかつて廃娼論の盛んであった土地なので、その管内にはだるまばかり発達して、遊廓がない。
足利の福井は遠いし、佐野のあら町は不便だし、ここらから若者が出かけるには、茨城県の古河か中田かに行くよりほかしかたがない。
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足利の福井は遠いし、佐野のあら町は不便だし、ここらから若者が出かけるには、茨城県の古河か中田かに行くよりほかしかたがない。
中田には、大越まで乗合馬車の便がある。
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中田には大越まで乗合馬車の便がある。
大越から土手の上を八キロほど行って、利根の渡しをわたれば中田はすぐである。
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大越から土手の上を二里ほど行って、利根の渡しをわたれば中田はすぐである。
「店があれでも五、六けんはありますかなあ。昔、奥州街道が栄えたころには、あれでもなかなかにぎやかなものでしたが、今ではだめですよ。私など、若い時にはそれはよく出かけたものですなあ。利根川の渡しをいつも夕方にわたって行くんだが、夕焼けの雲が水にうつって、それはおもしろかったのですよ」
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「店があれでも五六軒はありますかなア。昔、奥州街道が栄えた時分には、あれでもなかなかにぎやかなものでしたが、今ではだめですよ。私など、若い時にはそれはよく出かけたものですなア。利根川の渡しをいつも夕方に渡って行くんだが、夕焼けの雲が水にうつって、それはおもしろかったのですよ」
と、年とった先生は笑って語った。
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と老訓導は笑って語った。
時には、
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時には、
「今の若い者はどうも堅すぎる。学問をするから、どうしてもそんなことはばかばかしくてする気になれないのかもしれん。けれど、女学生などと関係をつけると、あとでのっぴきならないことが起こって身のはめつになることもある。それに、一人で本ばかり読んでいるのは若い者にはよしあしですよ。神経がまいったり、華厳の滝に飛びこんだりするのはそのためだと言うじゃありませんか。青い顔をしている青年ばかり作っては、学問ができて考えが立派になったって何の役にも立たん。少し若い者は、のびのびした元気がなくてはいけませんなあ」
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「今の若い者はどうもかた過ぎる。学問をするから、どうしてもそんなことはばかばかしくってする気になれんのかしれんが、海老茶とか庇髪とかに関係をつけると、あとではのっぴきならんことが起こって、身の破滅になることもある。それに、一人で書ばかり読んでいるのは、若い者には好し悪しですよ、神経衰弱になったり、華厳に飛び込んだりするのはそのためだと言うじゃありませんか。青瓢箪のような顔をしている青年ばかりこしらえちゃ、学問ができて思想が高尚になったって、なんの役にもたたん、ちと若い者は浩然の気を養うぐらいの元気がなくっちゃいけませんなア」
などと言う。
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などという。
清三が本ばかり見て青い顔をして、一人さびしそうに宿直室にいると、「あんまり勉強すると肺の病気が出ますぜ。少し遊ぶほうがいい。学校の先生だって、同じ人間だ。そう道徳や決まりでしばられては命がつづかん」
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清三が書籍ばかり見て、蒼い顔をして、一人さびしそうにして宿直室にいると、「あんまり勉強すると、肺病が出ますぜ、少し遊ぶほうがいい。学校の先生だッて、同じ人間だ。そう道徳倫理で束縛されては生命がつづかん」
こう言って笑った。
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こう言って笑った。
校長が師範学校を出たばかりのころ、まだ今のおくさんがいないころに、川越でひどい酌婦にひっかかってそれがばれそうになり転校した話や、つい先ごろまでいた師範学校出の先生が小川屋の娘に気があって毎晩通いつめた話などをして聞かせたのも、やはりこの年とった先生であった。
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校長が師範学校から出た当座、まだ今の細君ができない時分、川越でひどい酌婦にかかって、それがばれそうになって転校した話や、ついこの間までいた師範出の教員が小川屋の娘に気があって、毎晩張りに行った話などをして聞かせたのもやはり、この老訓導であった。
宿直室に来てから、清三はいろいろな現実を見せられたり聞かされたりした。
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宿直室に来てから、清三はいろいろな実際を見せられたり聞かせられたりした。
中学校の教室や親の家や友だちの仲間うちや、世の中からはなれた寺の本堂などでは知ることのできないことを、だんだん知った。
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中学校の学窓や親の家や友だちのサアクルや世離れた寺の本堂などで知ることのできないことをだんだん知った。
発戸のほうに散歩をし出したのは、田植え歌が野に聞こえるころからであった。
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発戸のほうに散歩をしだしたのは、田植え唄が野に聞こえるころからであった。
花が散って、やがて若葉が新しい色を村に満ちあふれさせた。
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花が散ってやがて若葉が新しい色彩を村にみなぎらした。
道の角ではたを織っている女の前に立って村の若者が何かしゃべっていると、女は知らん顔でせっせと糸を通す道具を動かしている。
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路の角で機を織っている女の前に立って村の若者が何かしゃべっていると、女は知らん顔でせっせと梭を運んでいる。
機屋の前には織物を集めて回る車が一、二台置いてあって、物干しに並べてかけた紺の糸が初夏の美しい日に照らされている。
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機屋の前には機回りの車が一二台置いてあって、物干しに並べてかけた紺糸が初夏の美しい日に照らされている。
あいのにおいが、どこからともなくプンとして来る。
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藍の匂いがどこからともなくプンとして来る。
竹やぶのかげから、やさしい歌がかすかに聞こえる。
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竹藪の陰からやさしい唄がかすかに聞こえる。
加須街道のほうとは、まったくちがった感じを彼にあたえた。
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加須街道方面とはまったく違った感じをかれに与えた。
向こうは、しんとしている。
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むこうはしんとしている。
人の気配が、少ない。
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人気にとぼしい。
娘などもあまり通らない。
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娘などもあまり通らない。
全体に元気がないが、こちらはどの家にもこの家にも、糸をつむぐ音とはたを織る音とがひっきりなしに聞こえる。
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がいして活気にとぼしいが、こちらはどの家にもこの家にも糸を繰る音と機を織る音とがひっきりなしに聞こえる。
村からはなれて田んぼの中に飲食店が一けんあって、夕方など通ると、若い者が二、三人きっとお酒を飲んでいる。
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村から離れて、田圃の中に、飲食店が一軒あって夕方など通ると、若い者が二三人きっと酒を飲んでいる。
ていしゅはだらしない身なりで、それを相手にむだ話をしている。
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亭主はだらしないふうで、それを相手にむだ話をしている。
おかみさんは、きたない鼻たらしの子どもをしかっている。
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嚊は汚ない鼻たらしの子供を叱っている。
発戸の右に下村君、堤、名村などという小さな地名があった。わらぶき屋根が明けの星のように散らばっているが、ここでは利根川が少し北に寄って流れているので、土手に行くまでにかなりある。
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発戸の右に下村君、堤、名村などという小字があった、藁葺屋根が晨の星のように散らばっているが、ここでは利根川は少し北にかたよって流れているので、土手に行くまでにかなりある。
土手にはやはり発戸河岸のように、ところどころに赤松が生えていた。
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土手にはやはり発戸河岸のようにところどころに赤松が生えていた。
細い竹も、しげっていた。
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しの竹も茂っていた。
朝つゆのびっしょりおりた草原の中に、あざみやなでしこが咲いた。
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朝露のしとどに置いた草原の中に薊やら撫子やらが咲いた。
土手の上をのんきそうに散歩している彼の姿を、あたりの人たちはいつも見た。
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土手の上をのんきそうに散歩しているかれの姿をあたりの人々はつねに見た。
松原の中にはいって草をしき、ぼんやりした人のように、前を白いほが静かに動いて行くのを見ていることもある。
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松原の中にはいって、草をしいて、喪心した人のように、前に白帆のしずかに動いて行くのを見ていることもある。
「学校の先生さん、いやに青い顔してるだあ。女が欲しくなったんだんべい」
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「学校の先生さん、いやに蒼い顔しているだア。女さア欲しくなったんだんべい」
と、土手下の元気なおばあさんが言った。
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と土手下の元気な婆が言った。
機織りの女の中にも、清三の男ぶりのよさに大さわぎをして、その通るのを待ち受けて出て見る人もある。
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機織り女の中にも、清三の男ぶりのいいのに大騒ぎをして、その通るのを待ち受けて出て見るものもある。
下村君の集落にはいろうとするところに、障子を半分あけて、せっせと一日中はたを織っている女がいる。
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下村君の村落にはいろうとするところに、大和障子を半分あけて、せっせと終日機を織っている女がある。
丸顔の、目のぱっちりした、まゆの形のいい十八、九の娘であった。
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丸顔の、眼のぱっちりした、眉の切れのいい十八九の娘であった。
清三はわざわざ回り道をして、いつもそこを通った。
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清三はわざわざ回り道していつもそこを通った。
ふり返る清三の顔を、娘もふり返した。
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見かえる清三の顔を娘も見かえした。
ある時、こういうことがあった。
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ある時こういうことがあった。
土手の松原から発戸のほうに下りようとすると、向こうから機織りの女が三人ほどやって来た。
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土手の松原から発戸のほうに下りようとすると、向こうから機織り女が三人ほどやって来た。
清三が何の気もなしに近寄って行くと、女たちはげたげた笑っている。
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清三はなんの気もなしに近寄って行くと、女どもはげたげた笑っている。
一人の女がもう一人をつつくと、その一人がまた別の一人をつついた。
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一人の女が他の一人を突つくと、一人はまた他の一人を突っついた。
清三は不思議なことをしていると思っただけで、同じ調子でステッキを振りながら歩いて行った。
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清三は不思議なことをしていると思ったばかりで、同じ調子で、ステッキを振りながら歩いて行った。
坂には両側からしげった楢の若葉が、美しく夕日に光ってチラチラした。
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坂には両側からしげった楢の若葉が美しく夕日に光ってチラチラした。
通りすぎる時、女たちは道をよけて、笑いたいのを無理におさえたというような顔をして男を見ている。からかう気だなということが初めてわかったが、しかしべつだん悪い気もしなかった。
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通りすがる時、女どもは路をよけて、笑いたいのをしいて押さえたというような顔をして、男を見ている、からかう気だなということが始めてわかったが、しかしべつだん悪い気もしなかった。
ばかにされたとも、きまりが悪いとも思わなかった。
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侮辱されたとも気まりが悪いとも思わなかった。
むしろこちらからも相手になってからかってやろうかと思うくらい、心の調子が軽かった。
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むしろこっちからも相手になってからかってやろうかと思うくらいに心の調子が軽かった。
通り過ぎて二、三メートル行ったと思うと、女たちはげたげた笑った。
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通り過ぎて一二間行ったと思うと、女どもはげたげた笑った。
清三がふり返ると、一番年上の女がおいでおいでをして笑っている。
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清三がふり返ると一番年かさの女がお出でお出でをして笑っている。
こちらでも笑って見せると、ずうずうしく二歩三歩近寄って来て、
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こっちでも笑って見せると、ずうずうしく二歩三歩近寄って来て、
「学校の先生さん!」
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「学校の先生さん!」
一人が言うと、
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一人が言うと、
「林さん!」
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「林さん!」
「いい男の林さん!」
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「いい男の林さん!」
と続けて言った。
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と続いて言った。
名前まで知っているのに、清三はおどろいた。
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名まで知っているのを清三は驚いた。
「いい男の林さん」
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「いい男の林さん」
も、彼にはひどく思いがけなかった。
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もかれには、いちじるしく意外であった。
曲がり角でふり返って見ると、女たちは坂の上の道にかたまって、こちらを見ていた。
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曲がり角でふり返って見ると、女どもは坂の上の路にかたまって、こちらを見ていた。
川向こうの上州の赤岩あたりでは、女の行いの悪さはたいへんなもので、学校の先生は独身ではつとまらないという話を思い出した。
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川向こうの上州の赤岩付近では、女の風儀の悪いのは非常で、学校の教員は独身ではつとまらないという話を思い出した。
なんでもそこでは、先生が独身で下宿などをしていると、夏の夜など五人も六人も押しかけて行って、無理やり連れ出してしまうという。
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なんでもそこでは、先生が独身で下宿などをしてると、夏の夜など五人も六人も押しかけて行って、無理やりにつれ出してしまうという。
しかたがないから、夜はかぎをかけておく。
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しかたがないから、夜は鍵をかけておく。
そこにつとめていた人が、そう話した。
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こうそこにつとめていた人が話した。
彼は心の中でほほえみながら歩いた。
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かれは心にほほえみながら歩いた。
酒場も、そこに一、二けんはあった。
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だるまやもそこに一二軒はあった。
昼間はいやに青い顔をした女がだらしのない身なりで店に出ているが、夜になるとそれがみんな化しょうをして、見ちがえるようにきれいな女になって、客を相手にキャッキャッとさわいでいる。
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昼間はいやに蒼い顔をした女がだらしのないふうをして店に出ているが、夜になると、それがみんなおつくりをして、見違ったようにきれいな女になって、客を対手にキャッキャッと騒いでいる。
だんだん夏が来て、その店の前のたなの下にはえん台が置かれ、夕顔の花が夕やみの中にはっきりときわだって見える。
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だんだん夏が来て、その店の前の棚の下には縁台が置かれて、夕顔の花が薄暮の中にはっきりときわだって見える。
「あなた、どうしたんですよ、このごろは」
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「貴郎、どうしたんですよ、このごろは」
「だって、しかたがない、いそがしいからなあ」
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「だッてしかたがない、忙しいからナア」
「ちゃんと証こは上がってるよ、そんなこと言ったって」
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「ちゃんと種は上がってるよ、そんなこと言ったッて」
「証こがあるなら見せるさ」
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「種があるなら上げるさ」
「にくらしい、ほんとうに浮気者!」
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「憎らしい、ほんとうに浮気者!」
ピシャリと、女が男のかたを打った。
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ピシャリと女が男の肩を打った。
「痛い! ばかめ」
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「痛い! ばかめ」
と男が打ち返そうとする。
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と男が打ちかえそうとする。
女は、打たれまいとする。
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女は打たれまいとする。
男の手と女のうでとが、たがいにからみ合う。
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男の手と女の腕とが互いにからみあう。
女が体をななめにして足をえん台の外にのばすと、赤い蹴出しと白いももとが見えた。
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女は体を斜めにして、足を縁台の外に伸ばすと、赤い蹴出しと白い腿のあたりとが見えた。
清三は、そういうそばを見ないようにして通った。
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清三はそうしたそばを見ぬようにして通った。
夜は、とくにおどろかされた。
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夜はことに驚かれた。
道のかたわらに、若い男女が何組となく立ち話をしている。
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路のほとりに若い男女がいく組みとなく立ち話をしている。
やみには、白地のゆかたがそこにもここにも見える。
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闇には、白地の浴衣がそこにもここにも見える。
笑う声が、あちこちでした。
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笑う声があっちこっちにした。
今年の夏休みが、やがて来た。
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今年の夏休みがやがて来た。
小畑と郁治とは高等師範の入学試験に合格して、この九月からは東京に行くことに決まった。
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小畑と郁治とは高等師範の入学試験に合格して、この九月からは東京に行くことにきまった。
桜井は、浅草の工業学校に入学した。
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桜井は浅草の工業学校に入学した。
その合格の知らせが来たのは五月ごろであったが、彼は心の悩みをなるべく表に出さないようにして、落ち着いた平凡なふつうのお祝いの手紙を三人に出しておいた。
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その合格の知らせが来たのは五月ごろであったが、かれは心の煩悶をなるたけ表面に出さぬようにして、落ち着いた平凡なふつうの祝い状を三人に出しておいた。
六月に行田に行った時にちょっと郁治に会ったが、もう以前のような親しみはなかった。
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六月に、行田に行った時に、ちょっと郁治に会ったが、もう以前のような親しみはなかった。
会えばさすがに君ぼくとかくすところなく話すが、はなれていれば思い出すことが少なく、それでたずねることもめったになかった。
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会えば、さすがに君僕で隠すところなく話すが、別れていれば思い出すことがすくなく、したがって、訪問もめったにしなかった。
美穂子にも、一度会った。
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美穂子にも一度会った。
ほおのあたりが肉づいて、目にはやさしい表情があった。
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頬のあたりが肥えて、眼にはやさしい表情があった。
けれど清三の心は、もうそれで動かされるほどそのかげがこくうつってはいなかった。
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けれど清三の心はもうそれがために動かされるほどその影がこくうつっておらなかった。
ただ、顔見知りの女のようにあいさつして通った。
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ただ、見知り越しの女のように挨拶して通った。
やがて八月のなかごろになって、郁治は東京に行った。
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やがて八月の中ごろになって郁治は東京に行った。
石川もこのごろは、病気で鎌倉に行っている。
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石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。
熊谷の友だちで残っている人は、学校にいるころもそう親しくしていなかった人たちばかりだ。
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熊谷の友だちで残っているものは、学校にいるころもそう懇意にしていなかった人々ばかりだ。
清三もつまらないから、どこか旅でもしてみようかと思った。
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清三もつまらぬから、どこか旅でもしてみようかと思った。
けれど母親の苦しいくらしを見かねて五円わたしてしまったので、財布にはもういくらも残っていない。
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けれど母親の苦しい家計を見かねて五円渡してしまったので、財布にはもういくらも残っていない。
近くの山にも、行けそうにない。
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近所の山にも行かれそうにもない。
それで、月の二十日には、どうせせまくて暑い家にねているよりは学校の風通しのよい宿直室のほうがいいと思って、弥勒へと帰って来た。
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で、月の二十日には、どうせ狭い暑い家に寝てるよりは学校の風通しのよい宿直室のほうがいいと思って、弥勒へと帰って来た。
とちゅうで久しぶりに成願寺に寄ってみると、和尚さんは昼ねをしていた。
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途中で、久しぶりで成願寺に寄ってみると、和尚さんは昼寝をしていた。
風通しのよい十畳で話した。
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風通しのよい十畳で話した。
和尚さんはビールなどを出して、もてなしてくれた。
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和尚さんはビールなどを出してチヤホヤした。
ふと、そこにひさし髪に結って、むらさき色の矢がすりを着て白足袋をはいた、十六くらいの美しい色の白い娘が出て来た。
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ふと、そこに廂髪に結って、紫色の銘仙の矢絣を着て、白足袋をはいた十六ぐらいの美しい色の白い娘が出て来た。
帰りに荻生さんに会って聞くと、
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帰りに荻生さんに会って聞くと、
「あれはね、和尚さんのめいだよ。夏休みに東京から来ているんだよ。どうも、田舎の土くさい中で育った娘とはちがうねえ。どこか都会ふうなところがあるねえ」
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「あれは、君、和尚さんの姪だよ。夏休みに東京から来てるんだよ。どうも、田舎の土臭い中に育った娘とは違うねえ。どこかハイカラのところがあるねえ」
こう言って笑った。
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こう言って笑った。
荻生さんは相変わらずもとの荻生さんで、町の菓子屋から餅菓子を買って来てごちそうしてくれた。
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荻生さんはいぜんとしてもとの荻生さんで、町の菓子屋から餅菓子を買って来てご馳走した。
郵便の仕事の暑くいそがしい中で、夏休みもなしに、不平も言わずに生活している。
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郵便事務の暑い忙しい中で、暑中休暇もなしに、不平も言わずに、生活している。
友だちがずんずん世に出て行くのを、うらやもうともしない。
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友だちのズンズン出て行くのをうらやもうともしない。
清三の気持ちでは、荻生さんのようなあきらめのよい、運命に素直な人にはかなわないとは思うが、しかしなんとなく物足りないような気がする。
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清三の心持ちでは、荻生さんのようなあきらめのよい運命に従順な人は及びがたいとは思うが、しかしなんとなくあきたらないような気がする。
楽しみもなく道楽もなく、よくああして生きていられると思う。
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楽しみもなく道楽もなくよくああして生きていられると思う。
その日、「どうです、あまりつまらない。一つ料理屋へでも行って、女でも相手にしてお酒でも飲もうじゃありませんか」
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その日、「どうです、あまりつまらない。一つ料理屋へでも行って、女でも相手にして酒でも飲もうじゃありませんか」
と言うと、「お酒を飲んだってつまらない」
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と言うと、「酒を飲んだッてつまらない」
と言って、賛成しなかった。
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と言って賛成しなかった。
清三は、暑く木かげのないほこり道を、満たされない気持ちをだいて学校に帰って来た。
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清三は暑い木陰のないほこり道を不満足な心持ちを抱いて学校に帰って来た。
三十
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三十
盆おどりが、にぎやかであった。
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盆踊りがにぎやかであった。
空は晴れて、水のような月夜が幾夜か続いた。
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空は晴れて水のような月夜が幾夜か続いた。
たるをたたく音が歌につれて、手にとるように聞こえる。
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樽拍子が唄につれて手にとるように聞こえる。
そのにぎやかな気配を、さびしい宿直室で一人じっとして聞いてはいられなかった。
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そのにぎやかな気勢をさびしい宿直室で一人じっとして聞いてはいられなかった。
清三はさそわれて、すぐ出かけた。
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清三は誘われてすぐ出かけた。
盆おどりのあるところは、村の真ん中の広場であった。
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盆踊りのあるところは村のまん中の広場であった。
人が遠くからも近くからも、ぞろぞろと集まって来る。
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人が遠近からぞろぞろと集まって来る。
たるをたたく音がそろうと、白い手ぬぐいをかぶった男と女とが手をつないで輪を作り、調子よくおどり始める。
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樽拍子の音がそろうと、白い手拭いをかむった男と女とが手をつないで輪をつくって調子よく踊り始める。
上手な音頭取りにつれて、だれも彼も熱心におどった。
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上手な音頭取りにつれて、誰も彼も熱心に踊った。
九時過ぎからは、人がますます多く集まった。
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九時過ぎからは、人がますます多く集まった。
おどりつかれると、あとからもあとからも新しいおどり手が加わって来る。
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踊りつかれると、あとからもあとからも新しい踊り手が加わって来る。
輪は、だんだん大きくなる。
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輪はだんだん大きくなる。
たるをたたく音は、ますますさえて来る。
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樽拍子はますますさえて来る。
もうよほど高くなった月は向こうの広々とした田から一面に広場を照らし、木のかげが黒く地に映った間を、おどり子がおどって行く姿がちらちらと動いて行く。
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もうよほど高くなった月は向こうのひろびろした田から一面に広場を照らして、木の影の黒く地に印した間に、踊り子の踊って行くさまがちらちらと動いて行く。
村には、ぞろぞろと人が通った。
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村にはぞろぞろと人が通った。
万葉集の歌垣(うたがき。男女が集まって歌をかけ合った昔の行事)の庭のことが、それとなく清三の胸を通った。
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万葉集のかがいの庭のことがそれとなく清三の胸を通った。
男はみな一人ずつ相手を連れて歩いている。
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男はみな一人ずつ相手をつれて歩いている。
みだらなことを、平気で話している。
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猥褻なことを平気で話している。
世のしがらみを忘れて、この一夜を自由に遊ぶという気分が、あたりに満ちわたった。
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世の覊絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちがあたりにみちわたった。
かきねの中からは明かりがさして、笑い声がした。
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垣の中からは燈光がさして笑い声がした。
向こうから女連れが三、四人来たと思うと、とつぜん清三はそでをつかまえられた。
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向こうから女づれが三四人来たと思うと、突然清三は袖をとらえられた。
「学校の先生!」
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「学校の先生!」
「林さん!」
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「林さん!」
「いい男!」
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「いい男!」
「林先生!」
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「林先生!」
嵐のように声を浴びせかけられたと思ったのも、一しゅんであった。
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嵐のように声を浴びせかけられたと思ったのも瞬間であった。
両手を取られたり、後ろから押されたり、組んだ白い手の中にかかえこまれたりして、はねのけようとする間に、四、五メートルたじたじと連れて行かれた。
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両手を取られたり後ろから押されたり組んだ白い手の中にかかえ込まれたりして、争おうとする間に二三間たじたじとつれて行かれた。
「何をするんだ、ばか!」
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「何をするんだ、ばか!」
と言ったが、だめだった。
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と言ったがだめだった。
月は、たがいに争うこの一群をはっきりと照らした。
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月は互いに争うこの一群をあきらかに照らした。
女のキャッキャッとさわぐ声が、あたりにひびいて聞こえた。
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女のキャッキャッと騒ぐ声があたりにひびいて聞こえた。
「やあ、学校の先生が娘っ子にいじめられている!」
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「ヤア、学校の先生があまっちょにいじめられている!」
と言って、笑って通って行く人もあった。
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と言って笑って通って行くものもあった。
たるをたたく音が歌につれて、ますますいきおいづいて来た。
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樽拍子の音が唄につれて、ますます景気づいて来た。
三十一
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三十一
秋季皇霊祭の翌日は日曜で、休みが二日続いた。
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秋季皇霊祭の翌日は日曜で、休暇が二日続いた。
大祭の日は、朝から天気がよかった。
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大祭の日は朝から天気がよかった。
清三はその日、大越の年とった先生の家に遊びに行って、ビールをごちそうになった。
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清三はその日大越の老訓導の家に遊びに行って、ビールのご馳走になった。
帰り道についたのは、もう四時を過ぎていた。
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帰途についたのはもう四時を過ぎておった。
古くきたない、ひさしの低い、弥勒ともいくらもちがわないような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を浴びて、今着いたばかりの客を降ろしていた。
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古い汚ない廂の低い弥勒ともいくらも違わぬような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を帯びて今着いたばかりの客をおろしていた。
ラムネを並べたきたない休み茶屋のとなりには、馬の道具やすきなどを売る古い大きな家があった。
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ラムネを並べた汚ない休み茶屋の隣には馬具や鋤などを売る古い大きな家があった。
野に出ると、赤とんぼが群れをなして飛んでいた。
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野に出ると赤蜻蛉が群れをなして飛んでいた。
利根川の土手は、ここからもうすぐである。
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利根川の土手はここからもうすぐである。
二、三百メートルくらいしかはなれていない。
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二三町ぐらいしか離れていない。
清三はふとあることを思いついて、細い道を右に折れ、土手のほうに向かった。
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清三はふとあることを思いついて、細い道を右に折れて、土手のほうに向かった。
明日は、日曜である。
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明日は日曜である。
行田に行く用事がないでもないが、行かなければならないというほどのこともない。
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行田に行く用事がないでもないが、行かなくってはならないというほどのこともない。
年とった先生にも校長にも、今日と明日は留守になると言っておいた。
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老訓導にも校長にも今日と明日は留守になるということを言っておいた。
ふところには、昨日出たばかりの半月分の月給がはいっている。
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懐には昨日おりたばかりの半月の月給がはいっている。
いい機会だ!
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いい機会だ!
と思った心は、ある新しい望みに向かってわけもなくふるえた。
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と思った心は、ある新しい希望に向かってそぞろにふるえた。
土手にのぼると、利根川は美しく夕日にはえていた。
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土手にのぼると、利根川は美しく夕日にはえていた。
その心が、ある望みのために動いているためであろう。
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その心がある希望のために動いているためであろう。
なんだかその波のきらめきも、色の調子も、空気のこいかげも、すべて自分のおどりがちな心としっくり合っているように感じられた。
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なんだかその波の閃めきも色の調子も空気のこい影もすべて自分のおどりがちな心としっくり相合っているように感じられた。
なかばふくらんだほが夕日を受けてゆるやかにゆるやかに下って行く。ゆったりとした大きな川の趣をなした川の上には、初秋でなければ見られないような白い大きな雲がうかんで、川向こうの家や白いかべの土蔵や森や土手が、こい空気の中にうくように見える。
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なかばはらんだ帆が夕日を受けてゆるやかにゆるやかに下って行くと、ようようとした大河の趣をなした川の上には初秋でなければ見られぬような白い大きな雲が浮かんで、川向こうの人家や白壁の土蔵や森や土手がこい空気の中に浮くように見える。
土手の草むらの中には、キリギリスが鳴いていた。
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土手の草むらの中にはキリギリスが鳴いていた。
土手にはところどころ松原があったり、渡し船の小屋があったり、楢林があったり、わらぶきの農家が見えたりした。
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土手にはところどころ松原があったり渡船小屋があったり楢林があったり藁葺の百姓家が見えたりした。
渡し船には、ここらでよく見る織物を集めて回る車が二台、自転車が一台、かさが二本。商人らしい四十くらいの男は、まぶしそうに夕日に手をかざしていた。
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渡し船にはここらによく見る機回りの車が二台、自転車が一個、蝙蝠傘が二個、商人らしい四十ぐらいの男はまぶしそうに夕日に手をかざしていた。
船の通る少し下流に一か所浅せがあって、キラキラと美しくきらめきわたった。
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船の通る少し下流に一ところ浅瀬があって、キラキラと美しくきらめきわたった。
道は、長かった。
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路は長かった。
川の上に群がる雲の姿が変わるたびに、水の流れがゆるやかに曲がるたびに、川の感じがたえず変わった。
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川の上にむらがる雲の姿の変わるたびに、水脈のゆるやかに曲がるたびに、川の感じがつねに変わった。
夕日はしだいに低く、水の色はだんだんくすんだ青になり、空気は身にしみわたるようにこく深いかげを帯びてきた。
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夕日はしだいに低く、水の色はだんだん納戸色になり、空気は身にしみわたるようにこい深い影を帯びてきた。
清三は自分のかげが長く草の上に引くのを見ながら、ときどき自分をふり返ったり、自分をせめたりした。
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清三は自己の影の長く草の上にひくのを見ながら時々みずからかえりみたり、みずからののしったりした。
立ちどまって、だらしなくなった自分の心をしかってもみた。
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立ちどまって堕落した心の状態を叱してもみた。
行田の家のこと、東京の友のことを考えた。
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行田の家のこと、東京の友のことを考えた。
そうかと思うと、ふところからあせによごれた財布を出して、半月分の月給がはいっているのを確かめてにっこりした。
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そうかと思うと、懐から汗によごれた財布を出して、半月分の月給がはいっているのを確かめてにっこりした。
二円あればたくさんだということは、前から少し聞いて知っている。
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二円あればたくさんだということはかねてから小耳にはさんで聞いている。
青陽楼というのが、中田では一番大きな家だ。
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青陽楼というのが中田では一番大きな家だ。
そこにはきれいな女がいるということも知っていた。
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そこにはきれいな女がいるということも知っていた。
足をとどめさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力のほうがいっそう強かった。
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足をとどめさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力のほうがいっそう強かった。
心と心とが戦い、気持ちと意志とが争い、理想と欲とがからみ合う間にも、体はある大きな力に引きずられるように先へ先へと進んだ。
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心と心とが戦い、情と意とが争い、理想と欲望とがからみ合う間にも、体はある大きな力に引きずられるように先へ先へと進んだ。
渡良瀬川が利根川に合わさるあたりは広々として、まことに坂東太郎の名にはずかしくないほど大きな川の趣をなしていた。
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渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに阪東太郎の名にそむかぬほど大河のおもむきをなしていた。
夕日はもうまったくしずんで、向こう岸の土手にかすかにそのなごりの光が残っているばかり。先ほどの雲のなごりと見えるちぎれ雲は、ふちを赤く染めてその上に頼りなげにういていた。
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夕日はもうまったく沈んで、対岸の土手にかすかにその余光が残っているばかり、先ほどの雲の名残りと見えるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上におぼつかなく浮いていた。
白いほが、ものうそうに深い青の上をすべって行く。
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白帆がものうそうに深い碧の上を滑って行く。
薄い羽織に白地のかすりを着て、安い麦わらのぼうしをかぶった清三の姿は、キリギリスが鳴いたり鈴虫がいい声をたてたりばったが飛び立ったりする土手の草の道を、急いで歩いて行った。
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透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子をかぶった清三の姿は、キリギリスが鳴いたり鈴虫がいい声をたてたり阜斯が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。
人通りのない夕暮れ近い空気に、広くゆったりとした大きな川を前にして、そのやせた姿はうき出すように見える。
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人通りのない夕暮れ近い空気に、広いようようとした大河を前景にして、そのやせぎすな姿は浮き出すように見える。
土手と川との間の、いつも水をかぶる平地には、小豆や豆やとうもろこしが豊かにしげった。
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土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。
ふとある種のひびきが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を、汽車が白いけむりを立てて通って行くのが見えた。
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ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い煙を立てて通って行くのが見えた。
土手を下りて旗井という集落にはいったころには、もうとっぷりと日が暮れて、灯がついていた。
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土手を下りて旗井という村落にはいったころには、もうとっぷりと日が暮れて、灯がついていた。
ある農家では、かきねのところに行水のたらいを持ち出して、「今日は久しぶりでまた夏になったような気がした」
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ある百姓家では、垣のところに行水盥を持ち出して、「今日は久しぶりでまた夏になったような気がした」
などと言いながら、若いおかみさんが白い体を夕やみの中に見せてボチャボチャやっていた。
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などと言いながら若いかみさんが肥えた白い乳を夕闇の中に見せてボチャボチャやっていた。
鉄道のふみきりを通る時、番人が白い旗を出していたが、それを通ってしまうと、上りの汽車がゴーと音を立てて過ぎて行った。
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鉄道の踏切を通る時、番人が白い旗を出していたが、それを通ってしまうと、上り汽車がゴーと音を立てて過ぎて行った。
彼は二、三度、道で中田への渡し場のありかをたずねた。
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かれは二三度路で中田への渡し場のありかをたずねた。
夜が来てから、彼は大たんになった。
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夜が来てからかれは大胆になった。
もう、後かいの気持ちなどはなくなってしまった。
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もう後悔の念などはなくなってしまった。
ふと道ばたにきたない飲食店があるのを見つけて、ビールを一本かたむけ、うどんを三ばい食べた。
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ふと路傍に汚ない飲食店があるのを発見して、ビールを一本傾けて、饂飩の盛りを三杯食った。
ここではおかみさんがわざわざ通りに出て、渡し場に行く道を教えてくれた。
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ここではかみさんがわざわざ通りに出て渡船場に行く路を教えてくれた。
十日ばかりの月が向こう岸の森の上に出て、渡し場の船べりにキラキラと美しくくだけていた。
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十日ばかりの月が向こう岸の森の上に出て、渡船場の船縁にキラキラと美しく砕けていた。
はだに冷たい風がときどきふいて通り、やわらかなろの音がギーギーと聞こえる。
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肌に冷やかな風がおりおり吹いて通って、やわらかな櫓の音がギーギー聞こえる。
岸に並んだ二階家の屋根が、くっきりと黒く月の光の中に出ている。
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岸に並べた二階家の屋根がくっきりと黒く月の光の中に出ている。
水をこえてひびいて来る三味線と歌の音が、清三の胸をわけもなく波立たせた。
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水を越して響いて来る絃歌の音が清三の胸をそぞろに波だたせた。
乗り合いの人の顔は、みな月に白く見えた。
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乗り合いの人の顔はみな月に白く見えた。
船頭はくわえたきせるの火をぽつりと赤く見せながら、腰を落としてろを押した。
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船頭はくわえ煙管の火をぽっつり紅く見せながら、小腰に櫓を押した。
十分の後には、清三の姿は店先にごてごてとおしろいをつけ、赤いものずくめの着物でかざり立てた女が並ぶ格子の前に立っていた。
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十分のちには、清三の姿は張り見世にごてごてと白粉をつけて、赤いものずくめの衣服で飾りたてた女の格子の前に立っていた。
こちらの軒から、あちらの軒へと歩いて行った。
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こちらの軒からあちらの軒に歩いて行った。
細い格子の中にはいって、あやうく羽織のそでを破られそうになった。
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細い格子の中にはいって、あやうく羽織の袖を破られようとした。
こうして夜ごとに客をむかえる不幸な女に引きくらべて、こうして心の飢え、体のかわきをいやしに来た自分のあさましさを思って、かたをそびやかした。
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こうして夜ごとに客を迎うる不幸福な女に引きくらべて、こうして心の餓え、肉の渇きをいやしに来た自分のあさましさを思って肩をそびやかした。
その町の通りを、ぞろぞろとひやかしの人たちが通る。
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廓の通りをぞろぞろとひやかしの人々が通る。
なじみの客を見かけて、「ちょいと、あなた!」
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なじみ客を見かけて、「ちょいと貴郎!」
などという声がする。
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なぞという声がする。
格子に寄り合って、何かなんなんと話している人もある。
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格子に寄り合うて何かなんなんと話しているものもある。
いきおいよくはいって、トントンと階だんを上がって行く人もある。
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威勢よくはいってトントン階段を上がって行くものもある。
二階からは、三味線やつづみの音がにぎやかに聞こえた。
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二階からは三絃や鼓の音がにぎやかに聞こえた。
五、六けんしかない店は、やがてつきた。
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五六軒しかない貸座敷はやがてつきた。
一番最後の、少し奥に引っこんだ、石菖のはちを格子のそばに置いてある家には、いかにも田舎の娘らしい丸く太った女が、おしろいをごてごてと不器用にぬりつけて二、三人並んでいた。
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一番最後の少し奥に引っ込んだ石菖の鉢の格子のそばに置いてある家には、いかにも土百姓の娘らしい丸く肥った女が白粉をごてごてと不器用にぬりつけて二三人並んでいた。
その家から五、六けん、わらぶきのひさしの低い家が続いて、やがて暗い畑になる。
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その家から五六軒藁葺の庇の低い人家が続いて、やがて暗い畠になる。
清三は、そこまで行って引き返した。
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清三はそこまで行って引き返した。
見て通ったいろいろな女が目にうかんで、上がるならあの女かあの女だと思う。
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見て通ったいろいろな女が眼に浮かんで、上がるならあの女かあの女だと思う。
けれど一方では、どうしても上がれるような気がしない。
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けれど一方ではどうしても上がられるような気がしない。
なれていない彼には、何度決心しても、何度自分のおくびょうさをせめてみても、どうも思いきって上がれない。
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初心なかれにはいくたび決心しても、いくたび自分の臆病なのをののしってみてもどうも思いきって上がられない。
それで今度は、通りの真ん中を、自分はひやかしに来た客ではないというようにわざと大またに歩いて通った。
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で、今度は通りのまん中を自分はひやかしに来た客ではないというようにわざと大跨に歩いて通った。
そのくせ、気に入った女のいる店の前は注意した。
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そのくせ、気にいった女のいる張り見世の前は注意した。
川岸の渡し場のところに来て、彼はしばらく立っていた。
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河岸の渡し場のところに来て、かれはしばらく立っていた。
月が美しく岸にくだけて、今着いた船からぞろぞろと人が上がった。
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月が美しく埠頭にくだけて、今着いた船からぞろぞろと人が上がった。
いっそ渡しをわたって帰ろうかとも思ってみた。
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いっそ渡しを渡って帰ろうかとも思ってみた。
けれどこのまま帰るのは――目的をはたさずに帰るのは、なさけないようにも思われる。
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けれどこのまま帰るのは――目的をはたさずに帰るのは腑甲斐ないようにも思われる。
せっかくあの長く暑い八キロの土手を歩いて来て、意味もなく帰って行くのもばかばかしい。
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せっかくあの長い暑い二里の土手を歩いて来て、無意味に帰って行くのもばかばかしい。
それに、ただ帰るのもおしいような気がする。
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それにただ帰るのも惜しいような気がする。
渡し船が行って帰って来る間、彼はそこに立ったりしゃがんだりしていた。
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渡し船の行って帰って来る間、かれはそこに立ったりしゃがんだりしていた。
思いきって、立ち上がった。
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思いきって立ち上がった。
その家には、店に客をよぶ人が二人出ていた。
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その家には店に妓夫が二人出ていた。
大きなランプが、まぶしく彼の姿を照らした。
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大きい洋燈がまぶしくかれの姿を照らした。
店先の女たちの目が、みんなこちらに注がれた。
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張り見世の女郎の眼がみんなこっちに注がれた。
中からむかえる声も何もかも、彼には夢中であった。
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内から迎える声も何もかもかれには夢中であった。
やがてがらんとした部屋に通されて、「お名ざし」
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やがてがらんとした室に通されて、「お名ざし」
を聞かれる。
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を聞かれる。
右から二番目と、かろうじて彼は言った。
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右から二番目とかろうじてかれは言った。
右から二番目の女は、静枝と呼ばれた。
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右から二番目の女は静枝と呼ばれた。
どちらかといえば小がらで、色が白く、髪のふさふさした、この家でも人気のある女であった。
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どちらかといえば小づくりで、色の白い、髪の房々した、この家でも売れる女であった。
まゆとまゆとの間が広いのが、どことなく美穂子を思わせるところがある。
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眉と眉との遠いのが、どことなく美穂子をしのばせるようなところがある。
清三には、こうした世界のすべてがみな新しくめずらしく見えた。
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清三にはこうした社会のすべてがみな新らしくめずらしく見えた。
初めに客を通すやり方もおもしろいし、女がずっとはいって来て客のすぐとなりにすわるということも不思議だし、台の物とかいって大きな皿に少しばかり鮨を入れて持って来るのも変わって感じられた。
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引き付けということもおもしろいし、女がずっとはいって来て客のすぐ隣にすわるということも不思議だし、台の物とかいって大きな皿に少しばかり鮨を入れて持って来るのも異様に感じられた。
彼は自分がなれていないのを女に見破られまいとして、心にもないしゃれを言ったり、こうしたところには通じているというふうを見せたりした。けれど、世話をする中年の女には、なれていない人だということがすぐ知れた。
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かれは自分の初心なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落を言ったり、こうしたところには通人だというふうを見せたりしたが、二階回しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた。
彼は、ただお酒を飲んだ。
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かれはただ酒を飲んだ。
便所は、階だんを下りたところにあった。
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厠は階段を下りたところにあった。
やはり石菖のはちが置いてあったり、つりしのぶがかけてあったりした。
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やはり石菖の鉢が置いてあったり、釣り荵が掛けてあったりした。
ガラスの箱の中にランプが明るくついて、鼻緒の赤い草履がぬれているのではないが、なんとなくしめっていた。
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硝子の箱の中に五分心の洋燈が明るくついて、鼻緒の赤い草履がぬれているのではないがなんとなくしめっていた。
便所には、大きなりっぱな青いもようの出た瀬戸焼きの便器がすえてある。
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便所には大きなりっぱな青い模様の出た瀬戸焼きの便器が据えてある。
消毒のにおいにまじって、くさいにおいが鼻と目とを打った。
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アルボースの臭に交って臭い臭気が鼻と目とをうった。
女の部屋は六畳で、うら二階の奥にある。
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女の室は六畳で、裏二階の奥にある。
古いたんすが、置いてあった。
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古い箪笥が置いてあった。
長火ばちの灰受けはブリキで、近くでできた安い鉄びんがかかっている。
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長火鉢の落としはブリキで、近在でできたやすい鉄瓶がかかっている。
そばに一さつ女学世界が置いてあるのを清三が手に取って見ると、去年の六月に出たものであった。
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そばに一冊女学世界が置いてあるのを清三が手に取って見ると、去年の六月に発行したものであった。
「こんなものを読むのかい、感心だねえ」
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「こんなものを読むのかえ、感心だねえ」
と言うと、女はにっと笑ってみせた。
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と言うと、女はにッと笑ってみせた。
その笑顔を美しいと、清三は思った。
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その笑顔を美しいと清三は思った。
部屋のうらは物干しになっていて、そこには月がややかたむきかげんになってさしていた。
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室の裏は物干しになっていて、そこには月がやや傾きかげんとなってさしていた。
となりでは、太こと三味線の音がにぎやかに聞こえた。
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隣では太鼓と三絃の音がにぎやかに聞こえた。
三十二
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三十二
翌日は、昼過ぎまでいた。
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翌日は昼過ぎまでいた。
出る時、女が送って出て、「ぜひ近いうちにね、きっとですよ」
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出る時、女が送って出て、「ぜひ近いうちにね、きっとですよ」
と、ささやくように言った。
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と私語くように言った。
昨夜、ふとんの中で聞いた不幸な女の話が、流れるように胸に満ちた。
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昨夜、床の中で聞いた不幸な女の話が流るるように胸にみなぎった。
渡しをわたって栗橋に出て、昨日の道を帰るのはなんだか不安なような気がした。
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渡しをわたって栗橋に出て昨日の路を帰るのはなんだか不安なような気がした。
土手で知っている人に会わないとも限らない。
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土手で知ってる人に会わんものでもない。
行田に行ったという者が方角ちがいのほうを歩いていては、人にあやしまれる。
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行田に行ったというものが方角違いの方面を歩いていては人に怪しまれる。
それで彼は、昨夜聞いておいた鳥喰のほうの道をえらんで歩き出した。
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で、かれは昨夜聞いておいた鳥喰のほうの路を選んで歩き出した。
初めて会ったのにも似合わず、女はしんみりとした調子で、その父と母が古河の少し手前の村にいることを打ち明けて語った。
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初会にも似合わず、女はしんみりとした調子で、その父母の古河の少し手前の在にいることを打ち明けて語った。
その村に行くには、やはり鳥喰を通って行くのだそうだ。
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その在郷に行くにはやはり鳥喰を通って行くのだそうだ。
鳥喰の川岸には上州の本郷にわたる渡良瀬川の渡し場があって、それから大高島まで八キロ、栗橋に出て行くよりもかえって近いかもしれなかった。
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鳥喰の河岸には上州の本郷に渡る渡良瀬川のわたし場があって、それから大高島まで二里、栗橋に出て行くよりもかえって近いかもしれなかった。
清三の麦わらぼうしは、毎年こう水につかる木かげのない低い土地の間の、葉がなかば赤くなった桑畑に見えかくれして動いて行った。
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清三の麦稈帽子は毎年出水につかる木影のない低地の間の葉のなかば赤くなった桑畑に見え隠れして動いて行った。
行く先には田があったり、畑があったりした。
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行く先には田があったり畠があったりした。
川原の草やぶの中には、やはりキリギリスが鳴いた。
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川原の草藪の中にはやはりキリギリスが鳴いた。
川岸の渡し場では、赤い雲が静かに川にうつっていた。
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河岸の渡し場では赤い雲が静かに川にうつっていた。
向こう岸の土手では、木綿の着物を着て紺のきゃはんを白いほこりにまみれさせた旅の商人らしい男が、大きな荷物を背負って、いかにもつかれたような様子で歩いて行った。
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向こう岸の土手では糸経を着て紺の脚絆を白い埃にまみらせた旅商人らしい男が大きな荷物をしょって、さもさも疲れたようなふうをして歩いて行った。
そこからは、利根と渡良瀬の二つの大きな川が合わさる様子が手に取るように見える。
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そこからは利根渡良瀬の二つの大きな河が合流するさまが手に取るように見える。
栗橋の鉄橋の向こうに、中田の遊びの町の屋根もそれと見える。
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栗橋の鉄橋の向こうに中田の遊廓の屋根もそれと見える。
彼はしばらく立ちどまって、別れて来た女のことを思った。
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かれはしばし立ちどまって、別れて来た女のことを思った。
本郷の集落を通って、道はまた土手の上にのぼった。
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本郷の村落を通って、路はまた土手の上にのぼった。
昨日向こう岸から見て下った川を、今日はこの岸からさかのぼって行くのである。
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昨日向こう岸から見て下った川を今日はこの岸からさかのぼって行くのである。
昨日の気持ちと今日の気持ちとを、清三はくらべて考えずにはいられなかった。
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昨日の心地と今日の心地とを清三はくらべて考えずにはいられなかった。
うきうきしたさえた心と、落ち着いたつかれた心!
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おどりがちなさえた心と落ちついたつかれた心!
わずかに一日、川は同じ色に同じ姿で流れているが、その間には今まで経験しない深いみぞができたように思われる。
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わずかに一日、川は同じ色に同じ姿に流れているが、その間には今まで経験しない深い溝が築かれたように思われる。
もう自分はだめになったというようなくやしさもあった。
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もう自分は堕落したというような悔いもあった。
麦倉の川岸には、すずしそうな茶店があった。
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麦倉河岸には涼しそうな茶店があった。
大きな栃の木がかげを作って、冷たそうな水にラムネがつけてあった。
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大きな栃の木が陰をつくって、冷めたそうな水にラムネがつけてあった。
彼はラムネを飲み、梨を二個ほど自分で皮をむいて食べ、そして花ござのしいてある木かげのえん台を借りて仰向けにねた。
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かれはラムネに梨子を二個ほど手ずから皮をむいて食って、さて花茣蓙の敷いてある木の陰の縁台を借りてあおむけに寝た。
昨夜ほとんどねむれなかったつかれが出て、頭がぐらぐらした。
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昨夜ほとんど眠られなかった疲労が出て、頭がぐらぐらした。
すずしく気持ちのいい風が川から来て、青い空が葉の間からチラチラ見える。
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涼しい心地のいい風が川から来て、青い空が葉の間からチラチラ見える。
それを見ながら、彼はいつのまにかねむりこんだ。
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それを見ながらかれはいつか寝入った。
彼がねている間、渡し場にはいろいろなことがあった。
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かれが寝ている間、渡し場にはいろいろなことがあった。
にわとりのひよこを猫がねらって飛びつこうとするところを、茶店のおばあさんがあわてて追うと、猫は桑畑の中にはいってニャアニャア鳴いた。
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鶏のひよっ子を猫がねらって飛びつこうとするところを茶店の婆さんはあわてておうと、猫が桑畑の中に入ってニャアニャア鳴いた。
渡し船は着くたびにいろいろな人を降ろしては、またいろいろな人を乗せて行った。
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渡し舟は着くたびにいろいろな人を下ろしてはまたいろいろな人を載せて行った。
自転車を走らせて来た町の旦那衆もいれば、ぬのをたくさん積んだ車をひいて来た人足もいる。
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自転車を走らせて来た町の旦那衆もあれば、反物を満載した車をひいて来た人足もある。
上流の赤岩にれんがを積んで行く船が二そうも三そうもさおを弓のように張って流れをさかのぼって行くと、そのかたわらをほを張った舟がギーとろの音をさせて、いくつも通った。
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上流の赤岩に煉瓦を積んで行く船が二艘も三艘も竿を弓のように張って流れにさかのぼって行くと、そのかたわらを帆を張った舟がギーと楫の音をさせて、いくつも通った。
一時間ほどたっておばあさんがうらにごみを捨てに行った時には、えん台の上の客は足をだらりと地に下ろし、顔を仰向けに口を少しあけて気持ちよさそうにねていた。けれど魚つりに行った村の若者がかごを下げて帰る時には、足を二本ともえん台の上に曲げて、ひじをまくらにして高いいびきをかいていた。
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一時間ほどたって婆さんが裏に塵埃を捨てに行った時には、縁台の上の客は足をだらりと地に下げて、顔を仰向けに口を少しあいて、心地よさそうに寝ていたが、魚釣りに行った村の若者が笭箵を下げて帰る時には、足を二本とも縁台の上に曲げて、肱を枕にして高い鼾をかいていた。
その横顔を、夕日が暑そうに照らした。
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その横顔を夕日が暑そうに照らした。
ひたいにはあせがにじみ、はだけた胸からは財布が見えた。
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額には汗がにじみ、はだけた胸からは財布が見えた。
彼が目をさましたころは、もう五時を過ぎていた。
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かれが眼をさましたころは、もう五時を過ぎていた。
水の色も、やや夕暮れ近いかげを帯びていた。
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水の色もやや夕暮れ近い影を帯びていた。
清三は銀のふたの時計を出して見て、思いのほか長くねこんだのにおどろいた。そして、落ちかけていた財布をふと開けてみて、お金の勘定をした。
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清三は銀側の時計を出して見て、思いのほか長く寝込んだのにびっくりしたが、落ちかけていた財布をふと開けてみて銭の勘定をした。
六円あったお金が、二円五十銭になっている。
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六円あった金が二円五十銭になっている。
彼はちょっと考えるような様子をしたが、その中から二十銭銀貨を一つ出して、ラムネ二本の代七銭と梨二個の代三銭とのつりせんをおばあさんからもらい、白い硬貨を一つお茶代に置いた。
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かれはちょっと考えるようなふうをしたが、その中から二十銭銀貨を一つ出して、ラムネ二本の代七銭と、梨子二個の代三銭との釣り銭を婆さんからもらって、白銅を一つ茶代に置いた。
大高島の渡しをわたるころには、もう日がよほど低かった。
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大高島の渡しを渡るころには、もう日がよほど低かった。
彼は大越の本道には出ずに、田の中の細い道をあちらにたどりこちらにたどりして、なるべく人目にかからないようにして弥勒の学校に帰って来た。
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かれは大越の本道には出ずに、田の中の細い道をあちらにたどりこちらにたどりして、なるたけ人目にかからぬようにして弥勒の学校に帰って来た。
彼の顔を見ると、小使が、
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かれの顔を見ると、小使が、
「荻生さんが来なさったが、会ったんべいか」
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「荻生さんなア来さしゃったが、会ったんべいか」
「いや――」
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「いや――」
「行田に行ったんなら、ぜひ羽生に寄るはずだがって言って、不思議がっていなさったが、帰りにも会わなかったかね」
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「行田に行ったんなら、ぜひ羽生に寄るはずだがッて言って、不思議がっていさっしゃったが、帰りにも会わなかったかな」
「会わない――」
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「会わない――」
「待っていなさったが、羽生で待ってるかもしんねえって、三時ごろ帰って行きなさった……」
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「待っていさッしゃったが、羽生で待ってるかもしんねえッて三時ごろ帰って行かしった……」
「そうか――羽生には寄らなかったものだから」
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「そうか――羽生には寄らなかったもんだから」
こう言って、彼は羽織をぬいだ。
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こう言ってかれは羽織をぬいだ。
三十三
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三十三
次の土曜日にも、出かけた。
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次の土曜日にも出かけた。
その日も荻生さんはたずねて来たが、やはり留守だった。
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その日も荻生さんはたずねて来たがやっぱり不在だった。
行田の母親からも、用事があるから来いとたびたび言って来る。
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行田の母親からも用事があるから来いとたびたび言って来る。
けれど顔を見せないので、父親は加須まで来たついでにわざわざ寄ってみた。
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けれど顔を見せぬので、父親は加須まで来たついでにわざわざ寄ってみた。
べつだん、変わったところもなかった。
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べつだん変わったところもなかった。
このごろは成績調べでいそがしいと言った。
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このごろは日課点の調べで忙しいと言った。
先月は少し本を買ったので送るものを送れなかったという言いわけをして、机の上にある本を出して父親に見せた。
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先月は少し書籍を買ったものだから送るものを送られなかったという申しわけをして、机の上にある書籍を出して父親に見せた。
父親はある出入り先から売ってくれとたのまれたという文晁の山水の絵をかべにかけて、「どうも少しあやしいところがあるんじゃが……まあまあこのくらいならとにかく通る品物だから」
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父親はさる出入り先から売却を頼まれたという文晁筆の山水を長押にかけて、「どうも少し怪しいところがあるんじゃが……まアまアこのくらいならとにかく納まる品物だから」
などと、のんきにながめていた。
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などとのんきに眺めていた。
母親の手紙ではくらしがとても困っているような様子であったが、父親にはそんなふうも見えなかった。
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母親の手紙では、家計が非常に困っているような様子であったが、父親にはそんなふうも見えなかった。
帰りに五十銭貸せと言ったが、清三の財布には六十銭しかなかった。
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帰りに、五十銭貸せと言ったが、清三の財布には六十銭しかなかった。
月末までふろ代くらいなくては困ると言うので、二十銭だけ残してあとをすっかり持たせてやった。
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月末まで湯銭くらいなくては困ると言うので、二十銭だけ残して、あとをすっかり持たせてやった。
父親は包みを背負って、なかばはげた頭を夕日に照らされながら、学校の門を出て行った。
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父親は包みを背負って、なかばはげた頭を夕日に照らされながら、学校の門を出て行った。
お金のない何日かの生活はつらかったが、しかし心はさびしくなかった。
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金のない幾日間の生活は辛かったが、しかし心はさびしくなかった。
朝に晩に夜に、彼はその女の赤い着物姿と、まゆの間の広い色白の顔とを思い出した。
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朝に晩に夜にかれはその女の赤い襠裲姿と、眉の間の遠い色白の顔とを思い出した。
そのたびに、やさしい言葉や表情が流れるように胸に満ちわたった。
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そのたびごとにやさしい言葉やら表情やらが流るるようにみなぎりわたった。
その女は初めて会った時から、清三の人並みすぐれた男ぶりとやさしくおとなしい様子とに並々ならぬ気持ちを見せたのだが、それが一度行き二度行くうちに、だんだん強くなって来た。
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その女は初会から清三の人並みすぐれた男ぶりとやさしいおとなしい様子とになみなみならぬ情を見せたのであるが、それが一度行き二度行くうちにだんだんとつのって来た。
清三は、月末が来るのを待ちかねた。
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清三は月末の来るのを待ちかねた。
菓子を満足に食べられないのが、中でも一番つらかった。
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菓子を満足に食えぬのが中でも一番辛かった。
机の引き出しの中には餅菓子とかビスケットとか羊かんとか、いつもきっと入れられてあったが、このごろではただそのなごりの赤い青い粉ばかりが残っていた。
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机の抽斗しの中には、餅菓子とかビスケットとか羊羮とかいつもきっと入れられてあったが、このごろではただその名残りの赤い青い粉ばかりが残っていた。
やむなく彼はピーナッツを一銭二銭と買って食べたり、近所の同僚のところをたずねて菓子をごちそうになったりした。
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やむなくかれは南京豆を一銭二銭と買ってくったり、近所の同僚のところを訪問して菓子のご馳走になったりした。
のちには菓子屋のおばあさんを説きつけて、月末はらいで借りて来た。
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のちには菓子屋の婆を説きつけて、月末払いにして借りて来た。
音楽は、やはり熱心にやっていた。
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音楽はやはり熱心にやっていた。
楽ふを集めたものが、だいぶたまった。
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譜を集めたものがだいぶたまった。
授業では歌の科目が彼にとって一番おもしろく楽しい時間だった。新しい歌に楽ふを合わせたものを生徒に歌わせ、自分はいかにも一人前の音楽家であるかのようにオルガンの前に立ってびょうしを取った。
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授業中唱歌の課目がかれにとって一番おもしろい楽しい時間で、新しい歌に譜を合わせたものを生徒に歌わせて、自分はさもひとかどの音楽家であるかのようにオルガンの前に立って拍子を取った。
一人で部屋にいる時も、口ぐせに歌の節が出た。
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一人で室にいる時も口癖に唱歌の譜が出た。
この間、女の部屋でお酒によって「響りんりん」
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この間、女の室で酒に酔って、「響りんりん」
を歌ったことが思い出された。
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を歌ったことが思い出された。
女はだまって、しみじみと聞いていた。
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女は黙ってしみじみと聞いていた。
やがて「琵琶歌ですか、それは」
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やがて「琵琶歌ですか、それは」
と言った。
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と言った。
信濃の詩人が若々しい悲しみを歌った詩は、青年たちの集まった席で歌われたり、さびしい一人の散歩の野で歌われたり、むじゃきな子どもたちの前でオルガンに合わせて歌われたり、そういう女のいるせまい一室で歌われたりした。
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信濃の詩人が若々しい悲哀を歌った詩は、青年の群れの集まった席で歌われたり、さびしい一人の散歩の野に歌われたり、無邪気な子供らの前でオルガンに合わせて歌われたり、そうした女のいる狭い一室で歌われたりした。
清三はその時、女にその詩の意味を説いて聞かせ、ふたたび声を低くして口ずさんだ。
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清三はその時女にその詩の意味を解いて聞かせて、ふたたび声を低くして誦した。
二人の間に、それがかすかな、しかし力のある愛情を起こすきっかけとなったことを、清三は思い起こした。
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二人の間にそれがあるかすかなしかし力ある愛情を起こす動機となったことを清三は思い起こした。
弥勒野に、ふたたび秋が来た。
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弥勒野にふたたび秋が来た。
前の竹やぶを通して、さびしい日ざしがさした。
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前の竹藪を通して淋しい日影がさした。
職員室のガラス窓を小使が一日かかってそうじすると、いっそう空気が新しくすんだような気がした。
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教員室の硝子窓を小使が終日かかって掃除すると、いっそう空気が新しくこまやかになったような気がした。
刈った稲を積んだ車が、晴れた野の道を音を立てて通った。
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刈り稲を積んだ車が晴れた野の道に音を立てて通った。
東京に行った友だちからは、それでも月に五、六度は便りがあった。
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東京に行った友だちからは、それでも月に五六たび音信があった。
学校の窓からふるさとの秋をなつかしむ歌なども来た。
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学窓から故山の秋を慕った歌なども来た。
夕暮れには赤い夕焼けの雲をながめて、弥勒の野で静かに小さい子を友としているさびしい友の心を思う、と書いてあった。
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夕暮れには、赤い夕焼けの雲を望んで、弥勒の野に静かに幼な児を伴侶としているさびしき、友の心を思うと書いてあった。
弥勒野から都をのぞむ心は、いっそう強かった。
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弥勒野から都を望む心はいっそう切であった。
学校の窓から見た夕焼けの雲と、町に連なる明るい夜の灯のほうがいっそう恋しい、と彼は返事をしてやった。
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学窓から見た夕焼けの雲と町に連なるあきらかな夜の灯がいっそう恋しいとかれは返事をしてやった。
羽生の野や行田への街道や、熊谷の町の新しい蕎麦に昨年の秋を送った彼は、今年は弥勒野から利根川の川岸の道に秋の静けさを味わった。
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羽生の野や、行田への街道や、熊谷の町の新蕎麦に昨年の秋を送ったかれは、今年は弥勒野から利根川の河岸の路に秋のしずかさを味わった。
羽生の寺の本堂のうらから見た秩父の山なみや、浅間山のけむりや、赤城榛名の緑からはまったく遠ざかって、利根川の土手の上から見える日光を中心にした山なみに夕日の当たる様子を見て暮らした。
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羽生の寺の本堂の裏から見た秩父連山や、浅間嶽の噴煙や赤城榛名の翠色にはまったく遠ざかって、利根川の土手の上から見える日光を盟主とした両毛の連山に夕日の当たるさまを見て暮らした。
ある日、荻生さんが来た。
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ある日、荻生さんが来た。
明日が、土曜日であった。
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明日が土曜日であった。
「君、少しお金を持っていないだろうか」
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「君、少し金を持っていないだろうか」
荻生さんは、三円ばかり持っていた。
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荻生さんは三円ばかり持っていた。
「気の毒だけど、家のほうに少しいることがあって、明日行くのにぜひ持って行かなければならないんだが……月給はまだ当分出ないし、困っているんだが、どうだろう、少しつごうしてもらうわけにはいかないだろうか。月給が出たらすぐ返すけれど」
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「気の毒だけども、家のほうに少しいることがあって、翌日行くのにぜひ持って行かなけりゃならないんだが……月給はまだ当分おりまいし、困ってるんだが、どうだろう、少しつごうしてもらうわけにはいかないだろうか。月給がおりると、すぐ返すけれど」
荻生さんはちょっと困ったが、
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荻生さんはちょっと困ったが、
「いくらいるんです?」
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「いくらいるんです?」
「三円ばかり」
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「三円ばかり」
「ぼくはちょうどここに三円しか持っていないんですが、少しいることもあるんだが……」
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「僕はちょうどここに三円しか持っていないんですが、少しいることもあるんだが……」
「それじゃ、二円でもいい」
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「それじゃ二円でもいい」
荻生さんはやむを得ず、一円五十銭だけ貸した。
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荻生さんはやむを得ず一円五十銭だけ貸した。
翌朝、それと同じ調子で、清三は年とった先生に一円五十銭貸してくれと言った。
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翌朝、それと同じ調子で、清三は老訓導に一円五十銭貸してくれと言った。
年とった先生は「ぼくもこのとおり」
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老訓導は「僕もこの通り」
と笑って、銅貨ばかりの財布を振って見せた。
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と、笑って銅貨ばかりの財布を振って見せた。
関さんも、やはり持っていなかった。
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関さんもやっぱり持っていなかった。
何度かためらったが、思い切って最後に校長に話した。
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いく度か躊躇したが、思い切って最後に校長に話した。
校長は、貸してくれた。
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校長は貸してくれた。
昨日の朝、行田から送って来る新聞にまじって、見なれない男の字で中田の消印の押してある一通の手紙がはいっていたのを、だれも知らなかった。
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昨日の朝、行田から送って来る新聞の中に交って、見なれぬ男の筆跡で、中田の消印のおしてある一通の封書のはいっていたのを誰も知らなかった。
午後から行田の家に行くと言って出かけた彼は、今泉にはいる前の道から右に折れて、森から田んぼの中を歩いて行った。
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午後から行田の家に行くとて出かけたかれは、今泉にはいる前の路から右に折れて、森から田圃の中を歩いて行った。
しばらくして、利根川の土手にあがる松原の中に、その古い中折れぼうしが見えた。
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しばらくして利根川の土手にあがる松原の中にその古い中折の帽子が見えた。
大高島にわたる渡し船の中に、彼はいた。
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大高島に渡る渡船の中にかれはいた。
三十四
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三十四
渡良瀬川の渡しを、彼は少なくとも月に二回はわたった。
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渡良瀬川の渡しをかれはすくなくとも月に二回は渡った。
秋はしだいに深まって、楢の林の葉はバラバラと散った。
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秋はしだいにたけて、楢の林の葉はバラバラと散った。
虫の鳴いたあし原もかれて、白いすすきのほが銀のように日に光る。
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虫の鳴いた蘆原も枯れて、白の薄の穂が銀のように日影に光る。
すが現れた川原には白いさぎが下りて、くすんだ青になった水には寒い風がふきわたった。
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洲のあらわれた河原には白い鷺がおりて、納戸色になった水には寒い風が吹きわたった。
麦倉のおばあさんの茶店にも、もうえん台は出ていなかった。
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麦倉の婆の茶店にももう縁台は出ておらなかった。
栃の黄ばんだ葉は、小屋の屋根をうめるほどに散り積もった。
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栃の黄ばんだ葉は小屋の屋根を埋めるばかりに散り積もった。
農家の庭にいそがしかったもみをより分ける音が絶えるころには、土手をわたる風はもう寒かった。
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農家の庭に忙しかった唐箕の音の絶えるころには、土手を渡る風はもう寒かった。
その長い道を歩く回数は、女に対する気持ちが複雑になっていく回数であった。
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その長い路を歩く度数は、女に対する愛情の複雑してくる度数であった。
思い出がだんだん多くなってきた。帰りに雨に降られて、本郷の集落の入り口の農家でその晴れ間を待ったこともある。
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追憶がだんだんと多くなってきた、帰りを雨に降られて本郷の村落のとっつきの百姓家にその晴れ間を待ったこともある。
夜おそく栗橋に出て、大越の土手を一晩中歩いて帰って来たこともある。
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夜遅く栗橋に出て大越の土手を終夜歩いて帰って来たこともある。
女の心がわかりにくいのに悩んだことも、一度や二度ではなかった。
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女の心の解しがたいのに懊悩したことも一度や二度ではなかった。
こういう店に上がる者が初めて感じるやきもち、女がほかの客のところへ行く時のいやな気持ちにも、やがて出くわした。
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遊廓にあがるものの初めて感ずる嫉妬、女が回しを取る時の不愉快にもやがてでっくわした。
待っても待っても、女はやって来ない。
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待っても待っても、女はやって来ない。
自分の好きな女を、ほかの人が自由にしている。
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自己の愛する女を他人が自由にしている。
心も体も自分にささげていると女は言いながら、それがはたしてそうであるかどうかわからないうたがい――男が女に対していだくすべてのうたがいを、だんだん感じてきた。
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全身を自己に捧げていると女は称しながら、それがはたしてそうであるか否かのわからない疑惑――男が女に対するすべての疑惑をだんだん意識してきた。
女はまた女で、その男のうたがいにつれて、ときどき簡単には見せない深い気持ちを見せて、男の心を巧みにうばった。
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女はまた女で、その男の疑惑につれて、時々容易に示さない深い情を見せて、男の心をたくみに奪った。
「もうこれっきり行かない。あいつらは男の機げんをとるのを商売にしているんだ。あいつらの心は何とおりにも働くことができるようにできている。自分に対するのと同じようなあまえと笑いと気持ちとを、すぐとなりの部屋でほかの男にあたえているのだ。忘れても行かない。忘れても行かない。今まで使ったお金がおしい」
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「もうこれっきり行かん。あれらは男の機嫌をとるのを商売にしているんだ。あれらの心は幾様にも働くことができるようにできている。自分に対すると同じような媚と笑いと情とをすぐ隣の室で他の男に与えているのだ。忘れても行かん。忘れても行かん。今まで使った金が惜しい」
などとおこって帰って来ることもあったが、しかしそれは複雑な心のようすを簡単に一時のりくつで決めつけたもので、女の心にはもっとまじめでおもしろいところがあることが、だんだんわかった。
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などと、憤慨して帰って来ることもあったが、しかしそれは複雑した心の状態を簡単に一時の理屈で解釈したもので、女の心にはもっとまじめなおもしろいところがあることがだんだんわかった。
おこったり泣いたり笑ったりしている間に、二人の間がらにはいろいろな色合いや思い出が加わった。
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怒ったり泣いたり笑ったりしている間に、二人の間柄には、いろいろな色彩やら追憶が加わった。
女のもとにせっせと通って来る中に、清三の知っている客が少なくとも三人はあった。
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女のもとにせっせと通って来るなかに、清三の知っている客がすくなくとも三人はあった。
一人は栗橋の船宿の息子で、家にはそれなりに財産があるらしく、角帯に眼鏡をかけ、鳥打ちぼうしなどをかぶってよく来た。
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一人は栗橋の船宿の息子で、家には相応に財産があるらしく、角帯に眼鏡をかけて鳥打ち帽などをかぶってよく来た。
色の白い、背のすらりとした美男であった。
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色の白い丈のすらりとした好男子であった。
一人は古河の裁判所の書記で、年はもう三十四、五。家には女房も子どももあるのだが、もともと遊び好きのお酒好きで、三日と間をおかずにやって来る。
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一人は古河の裁判所の書記で、年はもう三十四五、家には女房も子供もあるのだが、根が道楽の酒好きで三日とかかずにやって来る。
女はそのしつこさに困りぬいて、「お客で来るのだからしかたがないけれど、ああいう人に相手をしなければならないと思うと、つくづくいやになってしまうよ。あなた、早くこういうところから出してくださいな」
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女はそのしつこいのに困りぬいて、「お客で来るのだからしかたがないけれど、ああいう人に勤めなけりゃならないと思うと、つくづくいやになってしまうよ。貴郎、早くこういうところから出してくださいな」
などと言って甘えた。そういう時には、「栗橋のあの人にそう言って、出してもらってやろうか」
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などと言って甘えた、そういう時には、「栗橋のにそう言って出してもらってやろうか」
などと、柄にもない口を清三はきいた。
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などと柄にもない口を清三はきいた。
すると女はきまって、男のひざをぴしゃりと手のひらで打って、これほど思って苦労しているのに、という型どおりの顔をしてみせた。
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と、女はきまって、男の膝をぴしゃりと平手で打って、これほど思って苦労しているのにという紋切り形の表情をしてみせた。
それからもう一人、塚崎の金持ちのお百姓の息子が通って来た。
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それからいま一人塚崎の金持ちの百姓の息子が通って来た。
田舎の店のことで部屋の造りも完全ではないので、行き合わせるとその様子がよくわかる。
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田舎の女郎屋のこととて、室のつくりも完全していないので、落ち合うとその様子がよくわかる。
その息子は丸顔の、坊ちゃん坊ちゃんしたかわいい顔をしていた。
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その息子は丸顔の坊ちゃん坊ちゃんした可愛い顔をしていた。
「かわいい、おとなしい人よ。なんだか弟のような気がしてしかたがない」
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「可愛いおとなしい人よ。なんだか弟のような気がしてしかたがない」
と、女はのろけた。
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と女はのろけた。
そのほかにもまだいるらしかったが、よくわからなかった。
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そのほかにもまだあるらしかったが、よくわからなかった。
ひげの生えた中年の男も、来るようであった。
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鬚の生えた中年の男も来るようであった。
清三は、女の胸にだれが一番深くきざまれているかをさぐってみたが、どうもわからなかった。
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清三は女の胸に誰が一番深く影を印しているかをさぐってみたが、どうもわからなかった。
自分が一番深いようにも思われることもあれば、結局うまくまるめこまれているのだと思うこともある。
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自分の影が一番深いようにも思われることもあれば、要するにうまくまるめられているのだと思うこともある。
あの時、女はしみじみと泣いて、そのかわいそうな身の上を語った。
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あの時、女はしみじみと泣いてそのあわれむべき境遇を語った。
黒目がちな目からは、なみだがほろほろとこぼれた。
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黒目がちな眼からは、涙がほろほろとこぼれた。
清三はその時、自分の身の上と、女に対する自分の関係とをまじめに考えた。
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清三はその時自己の境遇と女に対する自己の関係とをまじめに考えた。
自分は、小学校の先生である。
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自分は小学校教員である。
そういうことがちょっとでも知れれば、つとめていることはできない身の上である。
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そういうことがちょっとでも知れれば勤めていることはできぬ身の上である。
それに家は、かろうじて生活していく貧しい暮らしである。
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それに、家はかろうじて生活していく貧しい生活である。
この女といっしょになることができないのは、初めからわかりきったことである。
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この女といっしょになることができないのは初めからわかりきったことである。
この女がある人にお金で引き取られるなり、決められた年数が明けてふるさとに帰ることができるなりするのを、むしろ女のために願っている。
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この女がある人に身請けされるなり、年季が満ちて故郷に帰ることができるなりするのをむしろ女のために祝している。
清三は、思いがけない縁でこうした関係になっていく二人のようすを、不思議にも意味深くも感じた。
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清三はゆくりなき縁で、こうした関係となっていく二人の状態を不思議にも意味深くも感じた。
清三はまた一歩を進めて、今の生活の手立ても捨て、貧しい父と母――とくに自分をただ一つの頼りとする母をも捨てて、この女といっしょになる場合を想像してみた。
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清三はまた一歩を進めて、今の生活のたつきをも捨てて、貧しい父母――ことに自分を唯一の力と頼む母をも捨てて、この女といっしょになる場合を想像してみた。
出世のために、高い志を果たすために母を捨てることができなかったように、やはり彼にはどうしてもそういう気にはなれなかった。
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功名のために、青雲の志を得んがために、母を捨てることができなかったように、やっぱりかれにはどうしてもそうした気にはなれなかった。
帰りは、ときどき通り雨が来たり日がさしたりするという日の午後であった。
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帰りは、時々時雨が来たり日影がさしたりするという日の午後であった。
いつもわたる渡良瀬川の渡しをわたって土手の上に来ると、ちょうど目の前を白いペンキぬりのよごれた通運丸という船が、えんとつからは黒いけむりを出し、スクリューからは水を切る白い波を立てて川を下って行くのが、手にとるように見えた。
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いつもわたる渡良瀬川の渡しを渡って土手の上に来ると、ちょうど眼の前を、白いペンキ塗りの汚れた通運丸が、煙筒からは煤煙をみなぎらし、推進器からは水を切る白い波を立てて川をくだって行くのが手にとるように見えた。
かんぱんの上には、よごれた白い服を着たボーイが二、三人仕事をしているのが小さく見えた。
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甲板の上には汚れた白い服を着たボーイが二三人仕事をしているのが小さく見えた。
清三は立ちどまって、じっとそれを見つめた。
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清三は立ちどまってじっとそれを見つめた。
白いけむりが細くズッと立つと思うと、汽笛のとがったひびきが灰色に曇った水の上にけたたましくひびきわたった。
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白い煙が細くズッと立つと思うと、汽笛のとがった響きが灰色に曇った水の上にけたたましく響きわたった。
利根川はゆったりと流れ下る。過ぎ去るものはこのようなものだ、という思いが清三の胸をおそってきた。
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利根川はようようとして流れて下る、逝く者かくのごとしという感が清三の胸をおそってきた。
三十五
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三十五
清三の中田通いはだれにも知られないまま、冬が来てその年も暮れた。
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清三の中田通いは誰にも知られずに冬が来てその年も暮れた。
その間にも、危ないと思ったことは二、三度ある。
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その間にも危険に思ったことは二三度はある。
一度は村の顔見知りの若者の横顔を、店の前でちらりと見た。
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一度は村の見知り越しの若者の横顔を張り見世の前でちらと見た。
一度は大高島の渡し船の中で、村の学務委員といっしょになった。
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一度は大高島の渡船の中で村の学務委員といっしょになった。
もう一度は大越の土手を歩いていると、ひょっこり同僚の関さんに出くわした。
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いま一度は大越の土手を歩いているとひょっくり同僚の関さんにでっくわした。
その時はこれはてっきり見破られたと胸をドキつかせたが、清三のいつもの散歩ぐせを知っている関さんは、べつにうたがうような口ぶりも見せなかった。
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その時はこれはてっきり看破されたと胸をドキつかせたが、清三のいつもの散歩癖を知っている関さんは、べつに疑うような口吻をももらさなかった。
けれど、菓子屋、酒屋、小川屋、米屋などに借金がだんだんたまった。
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けれど菓子屋、酒屋、小川屋、米屋などに借金がだんだんたまった。
「林さん、どうしたんだろう。このごろははらいがたまって困るがなあ」
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「林さん、どうしたんだろう。このごろは払いがたまって困るがなア」
と、小川屋のおかみさんは娘に言った。
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と小川屋の主婦は娘に言った。
菓子屋のおばあさんは「今月は少しは入れてもらわねえと――よく言ってくんなれ」
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菓子屋の婆は「今月は少しゃ入れてもらわねえじゃ――よく言ってくんなれ」
と、学校の小使にたのんだ。
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と学校の小使に頼んだ。
小使は小使で「どうしたんだんべい。林さんはもとはお金を持っていたほうだが、このごろはまるでおかずも買いやしねえ。いつもつけ物でお茶をかけてごはんをすましてしまうし、肉など何日も煮て食ったためしがねえ」
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小使は小使で「どうしたんだんべい。林さんもとは金持っていたほうだが、このごろじゃねっからお菜も買いやしねえ。いつも漬け物で茶をかけて飯をすましてしまうし、肉など何日にも煮て食ったためしがねえ」
などと、このごろはあまりおかずの残りのごちそうにあずからないので、ぶつぶつと不平そうにひとり言を言った。
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などとこのごろはあまり菜の残りのご馳走にあずからないで、ぶつぶつと不平そうに独り言を言った。
同僚の関さんや羽生の荻生さんなどがたずねて来ても、以前のようにビールも出さなかった。
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同僚の関さんや羽生の荻生さんなどが訪ねて来ても、以前のようにビールも出さなかった。
様子の変なのを一番先に気づいたのは、やはり行田の母親であった。
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様子の変なのを一番先きに気づいたのは、やはり行田の母親であった。
わざわざ十二キロの道をやって来ても、そわそわといつも落ち着いていないばかりではない。
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わざわざ三里の路をやって来ても、そわそわといつも落ち着いていないばかりではない。
友だちが東京から帰って来ていてもたずねようともせず、昔のように相談をしかけてもフムフムと聞いているだけで、相手にもなってくれない。
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友だちが東京から帰って来ていても訪問しようでもなく、昔のように相談をしかけてもフムフムと聞いているだけで相手にもなってくれない。
それに、何のかのと言って、毎月のものを置いて行かない。
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それに、なんのかのと言って、毎月のものをおいて行かない。
あれほど好きだった雑誌もろくに買わず、いつもの町の本屋にもつけをこしらえない。
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あれほど好きであった雑誌をろくろく買わず、常得意の町の本屋にもカケをこしらえない。
母親は息子がこのごろどうかしているのをそれとなく感じて、ときどき心を読もうとするような目つきで、じっと清三の顔を見つめることがある。
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母親は息子のこのごろどうかしているのをそれとなく感じて時々心を読もうとするような眼色をして、ジッと清三の顔を見つめることがある。
ある時、こんなことを言った。
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ある時こんなことを言った。
「この間ね、いいお嫁があるって、世話しようって言う人があるんだがね……お前ももう身の振り方も決まったことだし、どうだ、もらう気はないかい?」
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「この間ね、いい嫁があるッて、世話しようッて言う人があるんだがね……お前ももう身もきまったことだし、どうだ、もらう気はないかえ?」
清三は母の顔をじっと見て、
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清三は母の顔をじっと見て、
「だって、自分が食べることさえたいへんなんだから」
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「だッて、自分が食べることさえたいていじゃないんだから」
「それはそうだろうけれど、お前ぐらいの月給で妻や子をやしなっている人はいくらもいるよ。いっしょになって学校の近くに引っこして、倹約して暮らすようにすれば、人並みにはやっていけないことはないよ」
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「それはそうだろうけれど、お前ぐらいの月給で、女房子を養っている人はいくらもあるよ。いっしょになって、学校の近くに引っ越して、倹約して暮らすようにすれば、人並みにはやっていけないことはないよ」
「でも、まだ早いから」
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「でもまだ早いから」
「でも、こうしてはなれていては、お前がどんなことをしているかわからないし」
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「でも、こうして離れていては、お前がどんなことをしているかわからないし」
と笑ってみせて、
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と笑ってみせて、
「それに、お前だって不自由な思いをして、いつまで学校にいたってしかたがないじゃないか」
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「それに、お前だッて不自由な思いをして、いつまで学校にいたッてしかたがないじゃないか」
「お母さん、そんなことを言うけれど、ぼくはまだこれで望みもあるんです。もう少し勉強して中学の先生のしかくくらいは取りたいと思っているんだから……今から妻などを持ったってしかたがありはしない」
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「お母さん、そんなこと言うけれど、僕はまだこれで望みもあるんです。いま少し勉強して中学の教員の免状ぐらいは取りたいと思っているんだから……今から女房などを持ったッてしかたがありゃしない」
「そんな大きな望みを出したって、しかたがないじゃないかねえ」
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「そんな大きな望みを出したッてしかたがないじゃないかねえ」
「だって、ぼく一人田舎にうもれてしまうのはいやですもの。一、二年はまあしかたがないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少しやっているから、来年あたり試験を受けてみようと思っているんです。今から妻など持っては、わざわざ田舎にうもれてしまうようなものだ」
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「だって、僕一人田舎に埋もれてしまうのはいやですもの。一二年はまアしかたがないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少しやってるから、来年あたり試験を受けてみようと思っているんです。今から女房など持っちゃわざわざ田舎に埋れてしまうようなもんだ」
「だって、はいれたところで学費はどうするのさねえ?」
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「だッて、はいれたところで学費はどうするんのさねえ?」
「音楽学校は国からお金が出るから」
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「音楽学校は官費があるから」
「そうして、家はどうするのだい?」
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「そうして家はどうするのだえ?」
「その時は父さんと母さんとで暮らしてもらうのさ。三年ぐらい、どうにでもしてもらわなくちゃ」
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「その時は父さんと母さんで暮らしてもらうのさ。三年ぐらいどうにでもしてもらわなくっちゃ」
「それはできないことはないだろうけれど、父さんはああいうふうだし、私ばかり苦労しなくちゃならないから」
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「それはできないことはないだろうけれど、父さんはああいうふうだし、私ばかり苦労しなくっちゃならないから」
清三は、だまってしまった。
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清三は黙ってしまった。
またある時は、次のような会話をした。
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またある時は次のような会話をした。
「お前、加藤の雪さんをもらう気はない?」
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「お前、加藤の雪さんをもらう気はない?」
「雪さん? なぜ?」
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「雪さん? なぜ?」
「くれてもいいような、あちらのお母さんの口ぶりだったからさ」
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「くれてもいいような母さんの口ぶりだッたからさ」
「どうして?」
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「どうして?」
「それとはっきり言ったわけじゃないけれど、強く望めばくれるような様子だったから」
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「それとはっきり言ったわけじゃないけれど、たって望めばくれるような様子だッたから」
「いやなことだ。あんなそらぞらしい気取り屋は!」
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「いやなこった。あんな白々しい、おしゃらくは!」
「だって、郁治さんとお前は兄弟のようだし、くれさえすれば望んでもほしいくらいの娘じゃないかね」
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「だッて、郁治さんとはお前は兄弟のようだし、くれさえすりゃ望んでも欲しいくらいな娘じゃないかね」
「いやなことだ」
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「いやなこった」
「このごろはどうかしたのかい? 加藤にもめったに行かないじゃないか?」
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「このごろはどうかしたのかえ? 加藤にもめったに行かんじゃないか?」
「たがいに得をやり取りするなんて、いやなことだ!」
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「利益交換なぞいやなこった!」
こう言って、清三はぷいと立ってしまった。
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こう言って、清三はぷいと立ってしまった。
母親には、その意味がわからなかった。
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母親にはその意味がわからなかった。
一月には、郁治も美穂子も帰っていた。
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一月には郁治も美穂子も帰っていた。
郁治にも二、三度会って話をした。
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郁治にも二三度会って話をした。
美穂子についての話は、もうしなかった。
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美穂子についての話はもうしなかつた。
郁治はむしろ後ろ向きに、恋の意味のなさを語った。
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郁治はむしろ消極的に恋愛の無意味を語った。
「なぜあんなに熱心になったか自分でもわからない。ちょうど、夢中になっていただけのようなものだったんだね」
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「なぜあんなに熱心になったか自分でもわからない。ちょうどさかりがついたもののようなものだったんだね」
と言って笑った。
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と言って笑った。
そのくせ、郁治と美穂子とはよく連れ立って散歩した。
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そのくせ郁治と美穂子とはよく相携えて散歩した。
男は高等師範の制帽をかぶり、女は新しい形のひさし髪に結って、はでな幅の広いリボンをかけていた。
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男は高師の制帽をかぶり、女は新式の庇髪に結って、はでな幅の広いリボンをかけた。
小畑の手紙によると、二人はもう恋以上の付き合いを続けているらしかった。
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小畑の手紙によると二人はもう恋愛以上の交際を続けているらしかった。
清三は、いやな気がした。
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清三はいやな気がした。
ちょうどそのころ、熊谷の小滝の話が新聞に出ていた。
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ちょうどそのころ熊谷の小滝の話が新聞に出ていた。
「小滝、お金で引き取られる」
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「小滝の落籍」
という見出しで、伊勢崎の大商人にお金で引き取られる話が、ひやかし半分に書いてある。
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という見出しで、伊勢崎の豪商に根曳きされる話がひやかし半分に書いてある。
小滝には、深谷の金持ちの息子で今年大学に入学した恋人があった。
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小滝には深谷の金持ちの息子で、今年大学に入学した情人があった。
その男に小滝は並々ならぬ気持ちを見せたが、その家には結婚の約束をした、これも東京の跡見女学校にはいっている娘がいた。とても望みをかなえることができないので、泣きのなみだで今度いよいよ引き取られることになったと書いてある。
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その男に小滝は並々ならぬ情を見せたが、その家には許婚のこれも東京の跡見女学校にはいっている娘があって、とうてい望みを達することができぬので、泣きの涙で、今度いよいよ落籍されることになったと書いてある。
その大商人は年が四十五、六で、妻も子もある。
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その豪商は年は四十五六で、女房も子もある。
「どうせ一、二年つらいつとめをすると、また舞いもどって二度目のおつとめ、今晩は――と例のあでやかな声が聞かれるだろうから、今からなじみの方々はその時を待っているそうだ」
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「どうせ一二年辛い年貢を納めると、また舞いもどって二度のお勤め、今晩は――と例のあでやかな声が聞かれるだろうから、今からおなじみの方々はその時を待っているそうだ」
などと、ひやかしてあった。
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などとひやかしてあった。
本当の事情は知らないが、清三はそうした世界に育った女の身の上を思わないわけにはいかなかった。
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ほんとうの事情は知らぬが、清三はそうした社会に生い立った女の身の上を思わぬわけにはいかなかった。
思いのままにならない世の中に、さらに思いのままにならない身の上に置かれて、うき草のようにうき沈みしていくその人たちの身の上が、しみじみと思いやられる。
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思いのままにならぬ世の中に、さらに思いのままにならぬ境遇に身をおいて、うき草のように浮き沈みしていくその人々の身の上がしみじみと思いやられる。
小滝のいる間は――その美しい姿とあでやかな声のする間は、友人が散り散りになっても、小さいころの思い出が薄くなっても、熊谷の町はまだ彼にとってなつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であった。けれど今はそれさえよその土地となってしまった。
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小滝のある間は――その美しい姿と艶なる声とのする間は、友人が離散し去っても、幼いころの追憶が薄くなっても、熊谷の町はまだかれのためになつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であったが、今はそれさえ他郷の人となってしまった。
あかりのあでやかな細い小道をいくら歩いても、にこにこといつも元気のいい顔を見せて小さいころの同級のよしみを忘れない「われらの小滝」
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神燈の影艶かしい細い小路をいくら歩いても、にこにこといつも元気のいい顔を見せて、幼いころの同窓のよしみを忘れない「われらの小滝」
を見ることはできなくなったのである。
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を見ることはできなくなったのである。
清三は三が日をすますと、母親のとめるのをふり切って、今までにないさびしい心をだいて、西風のふき荒れる十二キロの街道を弥勒へと帰って来た。
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清三は三が日をすますと、母親のとめるのをふりはなって、今までにかつてないさびしい心を抱いて、西風の吹き荒れる三里の街道を弥勒へと帰って来た。
それでもふところには、中田に行くためのお金が三円残してあった。
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それでも懐には中田に行くための金が三円残してあった。
三十六
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三十六
三月の、ある寒い日であった。
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三月のある寒い日であった。
渡良瀬川の渡し場から中田に来る間の夕暮れの風は、ヒュウヒュウとはだをさすように寒くふいた。
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渡良瀬川の渡し場から中田に来る間の夕暮れの風はヒュウヒュウと肌を刺すように寒く吹いた。
灰色の雲は空をおおって、ときどき通るほのかげも暗かった。
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灰色の雲は空をおおって、おりおり通る帆の影も暗かった。
灯のつくころ中田に来て、いつものとおり階だんを上がったが、なじみでない若い女が来て、まじめな顔をして二階の別の部屋に通した。
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灯のつくころ、中田に来て、いつもの通り階段を上がったが、なじみでない新造が来て、まじめな顔をして、二階の別の室に通した。
いつも――客がいる時でも、行くとすぐ顔を見せた女がやって来ない。
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いつも――客がいる時でも、行くとすぐ顔を見せた女がやって来ない。
不思議に思っていると、やがてなじみの若い女が上がって来て、
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不思議にしていると、やがてなじみの新造が上って来て、
「おいらんもね、おめでたいことで――この十五日にお金で引き取られましたでな」
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「おいらんもな、おめでたいことで――この十五日に身ぬけができましたでな」
清三は、金づちか何かでガンと頭を打たれたような気がした。
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清三は金槌か何かでガンと頭を打たれたような気がした。
「あなたさんにもね、ぜひ行く前に一度お目にかかりたいって言っていましたけれど――あなたはちょうどお見えにならないし、急なことだで手紙をさし上げるひまもなし、おいらんも残念がっていましたけれど、しかたがなしに、あなたが来たらよく言ってくれって――それに、これをわたしてくれって置いて行きましたから」
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「貴郎さんにもな、ぜひゆく前に一度お目にかかりたいッて言っていましたけれど――貴郎はちょうどお見えにならんし、急なものだで、手紙を上げてる暇もなし、おいらんも残念がっていましたけれど、しかたがなしに、貴郎が来たらよく言ってくれッてな――それにこれを渡してくれッておいて行きましたから」
と、風呂敷包みをわたした。
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と風呂敷包みを渡した。
中には一通の手紙と、半紙に包んだ四角なものがはいっていた。
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中には一通の手紙と半紙に包んだ四角なものがはいっていた。
手紙には金くぎのような字で、たどたどしく別れの型どおりの言葉が書いてあった。
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手紙には金釘のような字で、おぼつかなく別れの紋切り形の言葉が書いてあった。
残念、残念、残念、残念という字が、いくつとなく目にはいった。
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残念々々残念々々という字がいくつとなく眼にはいった。
しかし、引き取られて行った先は書いてなかった。
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しかし身請けされて行ったところは書いてなかった。
半紙に包んだのは、写真であった。
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半紙に包んだのは写真であった。
おばさんは手に取って、
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おばさんは手に取って、
「おいらんも罪なことをする人だよ」
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「おいらんも罪なことをする人だよ」
と笑った。
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と笑った。
引き取られて行った先は、話さなかった。
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身請けされて行った先は話さなかった。
相手には、前から知っている静枝の妹分の女が来た。
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相方はかねて知っている静枝の妹女郎が来た。
顔の丸い、太った女だった。
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顔の丸い肥った女だッた。
清三は、だまってお酒を飲んだ。
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清三は黙って酒を飲んだ。
だまって、その妹分の女とねた。
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黙ってその妹女郎と寝た。
妹分の女は、行った人の話をいろいろとして聞かせた。
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妹女郎は行った人の話をいろいろとして聞かした。
清三は、だまって聞いた。
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清三は黙って聞いた。
翌日は、早く帰り道についた。
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翌日は早く帰途についた。
思いのほか、心は落ち着いていた。
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存外心は平静であった。
「どうせこうなる運命だったんだ」
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「どうせこうなる運命だッたんだ」
と、自分で口に出して言ってみた。
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とみずから口に出して言ってみた。
「なんでもない、当たり前のことだ」
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「なんでもない、あたり前のことだ」
と言ってみた。
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と言ってみた。
けれど、落ち着いているだけそれだけ、彼は深いしょうげきを受けていた。
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けれど平静であるだけそれだけかれは深い打撃を受けていた。
土手に上がる時、
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土手に上がる時、
「にくい奴だ、仕返しをしてやらなければならん、仕返し! 仕返し!」
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「憎い奴だ、復讐をしてやらなけりゃならん、復讐! 復讐!」
とさけんだ。
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と叫んだ。
しかし、心はそれほど高ぶってはいなかった。
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しかし心はそんなに激してはおらなかった。
麦倉の茶店では、お茶を飲みながら、
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麦倉の茶店では、茶をのみながら、
「もうここで休むのも、これきりだ」
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「もうここに休むこともこれぎりだ」
大高島の渡しをわたって、いつものようにわき道を行こうとしたが、これも思い返して、
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大高島の渡しを渡って、いつものように間道を行こうとしたが、これも思い返して、
「なに、もうわかったってかまうものか」
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「なアに、もうわかったッてかまうもんか」
それで大越に出て、わざと年とった先生の家をたずねた。
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で、大越に出て、わざと老訓導の家を訪うた。
年とった先生は、清三がいつもとちがってきわだってはしゃいでいるのを不思議に思った。
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老訓導は清三のつねに似ずきわだってはしゃいでいるのを不思議に思った。
清三は出してくれたビールを、グングンとあおって飲んだ。
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清三は出してくれたビールをグングンとあおって飲んだ。
「何か一つ大きなことでもしたいものですなあ――なんでもいいから、世の中をびっくりさせるようなことを」
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「何か一つ大きなことでもしたいもんですなア――なんでもいいから、世の中をびっくりさせるようなことを」
こんなことを言った。
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こんなことを言った。
そして、これと同じことを昨年羽生の寺で和尚さんに言ったことを思い出した。
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そしてこれと同じことを昨年羽生の寺で和尚さんに言ったことを思い出した。
たまらなく、さびしい気がした。
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たまらなくさびしい気がした。
三十七
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三十七
その年の九月、午後の残る暑さの日ざしを受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人たちがぞろぞろと出て来た。
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その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群れがぞろぞろと出て来た。
羽織はかまもあれば、洋服もある。
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羽織袴もあれば洋服もある。
ひさし髪にすみれ色のはかまをはいた女学生もある。
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廂髪に董色の袴をはいた女学生もある。
校内からは、ピアノの音がゆるやかに聞こえた。
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校内からは、ピアノの音がゆるやかに聞こえた。
その中に、詰め襟の背広を着て古い麦わらぼうしをかぶり、一人てくてくとへいぎわに寄って歩いて行く男があった。
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その群れの中に詰襟の背広を着て、古い麦稈帽子をかむって、一人てくてくと塀ぎわに寄って歩いて行く男があった。
くつはほこりにまみれて白く、かさは色があせて茶色っぽくなっていた。
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靴は埃にまみれて白く、毛繻子の蝙蝠傘はさめて羊羮色になっていた。
それは、田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。
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それは田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。
はいっただけで心がふるえるような天じょうの高い部屋、ひげの生えた太ったりっぱな体つきの試験の係。大きなピアノには、中年のはかまをはいた女が後ろ向きになって、しきりに妙な音を立てていた。
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はいっただけでも心がふるえるような天井の高い室、鬚の生えた肥ったりっぱな体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴をはいた女が後ろ向きになってしきりに妙な音を立てていた。
清三は、田舎の小学校の小さなオルガンで学んだことが何の役にも立たなかったことを、やがて知った。
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清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、なんの役にもたたなかったことをやがて知った。
一生けんめい集めた歌の楽ふも、まったくむだであったのである。
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一生懸命で集めた歌曲の譜もまったく徒労に属したのである。
彼は初歩の試験で、まず失敗した。
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かれは初歩の試験にまず失敗した。
顔を真っ赤にした自分の小さくあわれな姿が、むなしく試験の係の笑いをかったのが、まだ目の前にちらついて見えるようであった。
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顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿がいたずらに試験官の笑いをかったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。
「だめ! だめ!」
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「だめ! だめ!」
と一人で言って、彼は頭を振った。
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と独りで言ってかれは頭を振った。
公園のベンチは、木のかげですずしかった。
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公園のロハ台は木の影で涼しかった。
風がときどき、心地よくふいて通った。
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風がおりおり心地よく吹いて通った。
彼は心を静めるために、そこに横になった。
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かれは心を静めるためにそこに横になった。
向こうには、えん台に赤い毛布をしいたのがいくつとなく並んで、赤いたすきをかけた若い女のメリンスの帯が見える。
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向こうには縁台に赤い毛布を敷いたのがいくつとなく並んで、赤い襷であやどった若い女のメリンスの帯が見える。
中年の女の姿も、くっきりと見える。
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中年増の姿もくっきりと見える。
赤い地に氷という字を白くぬいた旗が、チラチラする。
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赤い地に氷という字を白く抜いた旗がチラチラする。
動物園の前には、一台の馬車が待っていた。
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動物園の前には一輌の馬車が待っていた。
白いはっぴを着た御者はぶらぶらしていた。切符売り場では、田舎の人らしい二人連れが大きな財布から銭を出して切符を買っていた。
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白いハッピを着た御者はブラブラしていた、出札所には田舎者らしい二人づれが大きな財布から銭を出して札を買っていた。
東京に出たのは、初めてである。
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東京に出たのは初めてである。
試験をすませたら動物園も見よう、博物館にもはいろう、ひととおり町の見物もしよう、お茶の水の寄宿舎に小畑や郁治もたずねよう。こういろいろ心の中で計画してやって来た。
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試験をすましたら、動物園も見よう、博物館にもはいろう、ひととおり市中の見物もしよう、お茶の水の寄宿舎に小畑や郁治をも訪ねよう、こういろいろ心の中に計画してやって来た。
田舎の空気によごれた今までの生活をのがれて、新しい都会の生活をこれから開くのだと思うと、中学を出たころの若々しい気分にもなれた。
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田舎の空気によごれた今までの生活をのがれて、新しい都会の生活をこれから開くのだと思うと、中学を出たころの若々しい気分にもなれた。
昨日、吹上の駅を出る時には、久しぶりでさまざまな希望が胸に満ちたのである。
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昨日吹上の停車場をたつ時には、久しぶりで、さまざまの希望の念が胸にみなぎったのである。
彼はベンチに横たわりながら、その希望と今の失望との間にはさまった場面を、また思いうかべた。
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かれはロハ台に横たわりながら、その希望と今の失望との間にはさまった一場の光景をまた思い浮かべた。
ベンチから起き上がる気になるまでには、少なくとも一時間はたった。
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ロハ台から起き上がる気分になるまでには、少なくとも一時間はたった。
馬車は、もういなかった。
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馬車はもういなかった。
どこかの子爵夫人とでもいいそうなりっぱなご婦人が、かわいらしい洋服姿の子どもを三、四人連れてそこから出て来て、うれしそうに馬車に乗ると、御者はむちを一つあてて、あとに白いほこりを立ててガラガラときしって行った。
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なにがし子爵夫人ともいいそうなりっぱな貴婦人が、可愛らしい洋服姿の子供を三四人つれてそこから出て来て、嬉々として馬車に乗ると、御者は鞭を一当あてて、あとに白い埃を立てて、ガラガラときしって行った。
その白いほこりを見つめたのを、彼は覚えている。
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その白い埃を見つめたのをかれは覚えている。
「せめて動物園でも見て行こう」
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「せめて動物園でも見て行こう」
と思って、彼は身を起こした。
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と思ってかれは身を起こした。
丹頂の鶴、たえず鼻を巻く大きな象、遠い国から来たカンガルー、らくだやろばや鹿や羊が、べつだんめずらしくもなく歩いて行く彼の目に映った。
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丹頂の鶴、たえず鼻を巻く大きな象、遠い国から来たカンガルウ、駱駝だの驢馬だの鹿だの羊だのがべつだん珍らしくもなく歩いて行くかれの眼にうつった。
ライオンの前では、それでも長く立ちどまって見ていた。
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ライオンの前ではそれでも久しく立ちどまって見ていた。
魚を飼う部屋の暗いトンネルの中では、水の中に明るい光がさし通って、金魚や鯛などが泳いでいるのがあざやかに見えた。
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養魚室の暗い隧道の中では、水の中にあきらかな光線がさしとおって、金魚や鯛などが泳いでいるのがあざやかに見えた。
水のあわが、そこからもここからも上がった。
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水珠がそこからもここからもあがった。
かもめやおしどり、そのほかさまざまな水鳥のいる前のベンチに、彼はまた腰をおろした。
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鴎や鴛鴦やそのほかさまざまの水鳥のいる前のロハ台にかれはまた腰をおろした。
あたりを、さまざまな人がいろいろなことを言ってぞろぞろ通る。
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あたりをさまざまな人がいろいろなことを言ってぞろぞろ通る。
子どもは鳥がにぎやかに飛んだり鳴いたりするのをおもしろがって、さくにつかまって見とれている。
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子供は鳥のにぎやかに飛んだり鳴いたりするのをおもしろがって、柵につかまって見とれている。
しばらくして、彼はまた歩き出した。
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しばらくしてかれはまた歩き出した。
たかやきつねやたぬきのいるところを通り、さるが歯をむいたり赤いしりを振り立てたりしているところをぬけて、北極ぐまや北海道の大きなくまのいるところを通った。
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鷹だの狐だの狸だのいるところを通って、猿が歯をむいたり赤い尻を振り立てているところを抜けて、北極熊や北海道の大きな熊のいるところを通った。
くじゃくのみごとな羽も、それほど興味をひかなかった。
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孔雀のみごとな羽もさして興味をひかなかった。
彼は、はいった時と同じようにして出て行った。
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かれははいった時と同じようにして出て行った。
東照宮の前では、女学生がはでなかさをさして歩いていた。
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東照宮の前では、女学生がはでな蝙蝠傘をさして歩いていた。
パノラマには古ぼけた日清戦争の絵か何かがかかっていて、切符を切る人が退くつそうにあくびをしていた。
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パノラマには、古ぼけた日清戦争の画かなんかがかかっていて、札番が退屈そうに欠をしていた。
竹の台に来て、彼はまた三度目のベンチに腰をかけた。
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竹の台に来て、かれはまた三たびロハ台に腰をかけた。
目の下に横たわる大きな都会。かわら屋根がかわら屋根に続いて、えんとつからは黒いすさまじいけむりが上がっているのが見える。
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眼下に横たわっている大都会、甍が甍に続いて、煙突からは黒いすさまじい煙があがっているのが見える。
あちこちから起こる物音が一つになって、なんだかそれが大きな都会のすさまじいさけびのように思われる。
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あちこちから起こる物音が一つになって、なんだかそれが大都会のすさまじい叫びのように思われる。
ここには悪いこともあれば、大きな仕事もある。
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ここに罪悪もあれば事業もある。
名誉もあれば、富もある。
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功名もあれば富貴もある。
飢えもあれば、絶望もある。
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飢餓もあれば絶望もある。
新聞に毎日のように出る事件のことなども、胸にのぼった。
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新聞紙上に毎日のようにあらわれて来る三面事故のことなども胸にのぼった。
竹の台から下りると、前に広小路の人ごみがひろがった。
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竹の台からおりると、前に広小路の雑踏がひろげられた。
馬車鉄道が、あとからあとから何台となく続いて行く。
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馬車鉄道があとからあとからいく台となく続いて行く。
水をまく人が、その中を平気で水をまいて行く。
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水撒夫がその中を平気で水をまいて行く。
人力車が、かけ声をあげて走って行く。
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人力車が懸け声ではしって行く。
しばらくして、清三の姿はその通りの小さい蕎麦屋に見られた。
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しばらくして、清三の姿は、その通りの小さい蕎麦屋に見られた。
「いらっしゃい!」
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「いらっしゃい!」
と、若い女中の高い声がした。
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と若い婢の黄いろい声がした。
「ざる一つ!」
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「ざる一つ!」
という声が、続いてした。
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という声がつづいてした。
清三は夕日のさしこんで来る座敷のすみで、注文の来る間、大きな男が大きなかまのふたを取ったり閉めたりするのを見ていた。
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清三は夕日のさし込んで来る座敷の一隅で、誂えの来る間を、大きな男が大釜の蓋を取ったり閉てたりするのを見ていた。
かまのふたを取ると、湯気が白くぱっと上がった。
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釜の蓋を取ると、湯気が白くぱッとあがった。
長い竹のはしでかき回し、ザブザブと水で洗って、それをざるに手でもった。
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長い竹の箸でかき回して、ザブザブと水で洗って、それをざるに手で盛った。
「お待ち遠さま」
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「お待ち遠さま」
と、女中はそれをお膳にのせて運んで来た。
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と婢はそれを膳に載せて運んで来た。
足のうらが、黒かった。
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足の裏が黒かった。
清三はざるを二はい、天ぷらを一ぱい食べて、ビールを一本飲んだ。
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清三はざるを二杯、天ぷらを一杯食って、ビールを一本飲んだ。
よいが回って来ると、少し元気がついた。
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酔いが回って来ると、少し元気がついた。
「帰ろう。小畑や加藤をたずねたってしかたがない」
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「帰ろう。小畑や加藤を訪問したッてしかたがない」
ふところから財布を出して、勘定をした。
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懐から財布を出して勘定をした。
やがて、人ごみの中を駅へ急いで行く彼の姿が見られた。
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やがて雑踏の中を停車場に急いで行くかれの姿が見られた。
三十八
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三十八
荻生さんが和尚さんをたずねて、次のような話をした。
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荻生さんが和尚さんを訪ねて次のような話をした。
「どうも困りますんですがな」
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「どうも困りますんですがな」
と荻生さんが例の人のいい調子で、いかにも心配だという顔をすると、
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と荻生さんが例の人のいい調子で、さも心配だという顔をすると、
「それは困りますな」
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「それは困りますな」
と和尚さんも言った。
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と和尚さんも言った。
「どうも思うようにいかないものですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……」
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「どうも思うようにいかんもんですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……」
「校長からお聞きですか」
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「校長からお聞きですか」
「いいえ、校長から直接聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだって言いますからねえ」
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「いいえ、校長からじかに聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだッて言いますからねえ」
「いったい、あそこは行いの悪いところですからなあ」
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「いったい、あそこは風儀が悪いところですからなア」
「ずいぶんおもしろいんですって……清三君が一人でいると、学校のうらのかきねのところから声をかけたり、わざと土のかたまりを放りこんだりするんですって。そうしてだれもいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです」
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「ずいぶんおもしろいんですッて……清三君一人でいると、学校の裏の垣根のところから、声をかけたり、わざと土塊をほうり込んだりするんですッて。そうして誰もいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです」
「それで、その中にだれか相手ができているんですか」
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「そして、その中に誰か相手ができてるんですか」
「よくわかりませんけれど、できているんだそうです」
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「よくわかりませんけれど、できてるんだそうです」
「どうせ、機織りか何かなんでしょう?」
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「どうせ、機織かなんかなんでしょう?」
「ええ」
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「え」
「困りますな。そういう女と関係を持っては」
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「困るですな。そういう女に関係をつけては」
と、和尚さんもなげいた。
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と和尚さんも嘆じた。
しばらくしてから、
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しばらくしてから、
「早く奥さんを持たせたら、どうでしょう」
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「早くかみさんを持たせたら、どうでしょう」
「この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お母さんもそう言っていました」
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「この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お袋さんもそう言っていました」
「加藤君の妹さんはもらえないのですか」
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「加藤君のシスターはもらえないのですか」
「本人がいやだって言うんです……」
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「先生がいやだッて言うんです……」
「だって、前は好きだったんじゃないですか」
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「だッて、前にラブしていたんじゃないですか」
「どうですか、清三君はよく話さないんですけれど、加藤君と何か仲たがいか何かしたらしいですな」
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「どうですか、清三君、よく話さんですけれど、加藤君と何か仲たがいかなんかしたらしいですな」
「そんなことはないでしょう」
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「そんなことはないでしょう」
「いや、あるらしいです」
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「いや、あるらしいです」
と荻生さんはちょっととぎれて、「この間も言っていましたよ、ぼくはこういう運命ならしかたがない、一生独身で子どもを相手にして暮らしても心残りはないって言っていましたよ」
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と荻生さんはちょっととぎれて、「この間も言ってましたよ、僕はこういう運命ならしかたがない。一生独身で子供を相手にして暮らしても遺憾がないッて言ってましたよ」
「独身もいいが――そんなことをしてはしかたがない」
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「独身もいいが――そんなことをしてはしかたがない」
「ほんとうですとも」
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「ほんとうですとも」
と荻生さんは友だち思いの心配そうな調子で、「校長がかわいがってくれているからいいですけれど、郡の視学の耳にでもはいるとたいへんですからな。それにせまい田舎ですから、すぐぱっと広まってしまいますから……今度来たら、それとなく言っていただきたいものですが……」
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と荻生さんは友だち思いの心配そうに、「校長が可愛がってくれてるからいいですけれど、郡視学の耳にでもはいるとたいへんですからな。それに狭い田舎ですから、すぐぱッとしてしまいますから……今度来たら、それとなく言っていただきたいものですが……」
「それは言いましょう」
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「それは言いましょう」
と和尚さんは言った。
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と和尚さんは言った。
「それに、清三君は体が弱いですからな……」
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「それに、清三君は体が弱いですからな……」
と、荻生さんはやがて言葉を続けた。
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と荻生さんはやがて言葉をついだ。
「やはり胃の病気ですか」
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「やっぱり胃病ですか」
「ええ、相変わらず甘いものばかり食べているんですから。甘いものと音楽と絵の写生と、この三つがぼくのさびしい生活のなぐさめだなどと前から言っていましたが、このごろは――この夏の試験に失敗してからは、集めた楽ふは押し入れの奥に入れてしまって、歌の時間のほかはオルガンも鳴らさなくなりましたから」
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「え、相変わらず甘いものばかり食っているんですから。甘いものと、音楽と、絵の写生とこの三つが僕のさびしい生活の慰藉だなどと前から言っていましたが、このごろじゃ――この夏の試験を失敗してからは、集めた譜は押し入れの奥に入れてしまって、唱歌の時間きりオルガンも鳴らさなくなりましたから」
「よほどがっかりしたんですね」
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「よほど失望したんですね」
「ええ……それは熱心でしたから。試験前の二か月ばかりというものは、そのことばかり言っていましたから」
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「え……それは熱心でしたから、試験前の二月ばかりというものは、そのことばかり言ってましたから」
「つまり今度のことなども、それから来ているんですな」
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「つまり今度のことなどもそれから来てるんですな」
と和尚さんは考えて、「ほんとうに気の毒ですな。ずいぶんさびしい生活ですものなあ。それにまじめな性格なだけ、いっそうつらいでしょうから」
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と和尚さんは考えて、「ほんとうに気の毒ですな。ずいぶんさびしい生活ですものなア。それにまじめな性分だけ、いっそうつらいでしょうから」
「私みたいにのんきだといいんですけれど……」
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「私みたいにのんきだといいんですけれど……」
「ほんとうに、君とはちがいますね」
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「ほんとうに、君とは違いますね」
と、和尚さんは笑った。
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と和尚さんは笑った。
三十九
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三十九
清三の借金は、なかなか多かった。
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清三の借金はなかなか多かった。
この二か月ばかり自分でごはんを作る元気もなく、三度三度小川屋から弁当を運ばせたので、その勘定は七、八円にまでのぼった。
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この二月ばかり、自炊をする元気もなく、三度々々小川屋から弁当を運ばせたので、その勘定は七八円までにのぼった。
酒屋に三円、菓子屋に三円、荒物屋に五円、前からそのままにしてある米屋に三円、そのほか同僚から一円二円と借りたものも少なくなかった。
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酒屋に三円、菓子屋に三円、荒物屋に五円、前からそのままにしてある米屋に三円、そのほか同僚から一円二円と借りたものもすくなくなかった。
荻生さんにも、四円ほど借りたままになっていた。
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荻生さんにも四円ほど借りたままになっていた。
中田に通うころに和尚さんに貸してもらった二円も、返さなかった。
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中田に通うころに和尚さんに融通してもらった二円も返さなかった。
お金の値打ちの重い田舎では、何よりも先に、これから信用がくずれて行った。
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金の価値の貴い田舎では、何よりも先にこれから信用がくずれて行った。
四十
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四十
ところが、どうしたきっかけか、清三は急にまじめになった。
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ところがどうした動機か、清三は急にまじめになった。
もちろん、校長からよくよく言い聞かされたこともあった。
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もちろん校長からこんこんと説かれたこともあった。
和尚さんからも、それとなく注意された。
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和尚さんからもそれとなく忠告された。
けれども、そのためばかりではなかった。
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けれどもそのためばかりではなかった。
頭が急に、新しくなったような気がした。
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頭が急に新しくなったような気がした。
自分が不まじめであったのが、今さらのように感じられてきた。
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自己のふまじめであったのがいまさらのように感じられてきた。
落ちて行く深い谷から、一刻も早くうかび上がらなければならないと思った。
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落ちて行く深い谷から一刻も早く浮かびあがらなければならぬと思った。
失望とむなしさとさびしい生活とから起こった体の不摂生。このごろでは何をする元気もなく、散歩にも出ず、雑誌も読まず、同僚との話もせず、毎日の授業も仕事だからしかたなしにやるというふうで、青白い不健康な顔ばかりしていた。
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失望と空虚とさびしい生活とから起こった身体の不摂生、このごろでは何をする元気もなく、散歩にも出ず、雑誌も読まず、同僚との話もせず、毎日の授業もお勤めだからしかたがなしにやるというふうに、蒼白い不健康な顔ばかりしていた。
どことなく体がだるく、ときどき熱があるのではないかと思われることなどもあった。
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どことなく体がけだるく、時々熱があるのではないかと思われることなどもあった。
持病の胃はますますひどくなり、口の中はいつもかわいた。――
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持病の胃はますますつのって、口の中はつねにかわいた。――
不まじめな生活が、この不健康な体を通してつらい後かいを連れて来た。
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ふまじめな生活がこの不健康な肉体を通じて痛切なる悔恨をともなって来た。
弱かったが、しかし清らかだった一、二年前の生活が目の前にうかんで通った。
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弱かったがしかし清かった一二年前の生活が眼の前に浮かんで通った。
「絶望と悲しみとさびしさとにたえられるような、まことの生活を送れ」
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「絶望と悲哀と寂㝠とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ」
「絶望と悲しみとさびしさとにたえられるような強い人であれ」
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「絶望と悲哀と寂㝠とに堪へ得らるるごとき勇者たれ」
「運命に従う者を、強い人という」
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「運命に従ふものを勇者といふ」
「弱かったな、不まじめだったな、幼かったな、空想家だったな。今日から自分は強い人になろう。今日から自分は、以前の生活に帰ろう」
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「弱かりしかな、ふまじめなりしかな、幼稚なりしかな、空想児なりしかな、今日よりぞわれ勇者たらん、今日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん」
「第一、体を大事にしなければならない」
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「第一、体を重んぜざるべからず」
「第二、責任を重んじなければならない」
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「第二、責任を重んぜざるべからず」
「第三、自分には母がある」
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「第三、われに母あり」
彼は「自分には母がある」
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かれは「われに母あり」
と書いて、筆を持ったまま顔をあげた。
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と書いて、筆を持ったまま顔をあげた。
胸がせまってきて、青白いほおになみだがほろほろと流れた。
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胸が迫ってきて、蒼白い頬に涙がほろほろと流れた。
彼は中田に通い始めるころから、日記をつけるのをやめていた。
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かれは中田に通い始めるころから、日記をつけることを廃した。
うっかりしたことを書いておいて、万一ほかの人に見られる恐れがないでもないと思ったからである。
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めったなことを書いておいて、万一他人に見らるる恐れがないではないと思ったからである。
彼はやなぎの行李をあけて、そのころの日記を出して見た。
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かれは柳行李をあけて、そのころの日記を出して見た。
九月二十四日――秋季皇霊祭。
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九月二十四日――秋季皇霊祭。
その文字に、赤でしるしが打ってあった。
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その文字に朱で圏点が打ってあった。
その次の土曜日のところに、大高島から向こう岸の土手にわたる記事が書いてあった。
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その次の土曜日の条に、大高島から向こう岸の土手に渡る記事が書いてあった。
日記はとぎれとぎれながらも、その年の十月の末ころまで続いていた。
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日記はたえだえながらも、その年の十月の末ころまでつづいていた。
利根川のおそい秋の様子や落ち葉や木がらしのことも書いてある。
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利根川の暮秋のさまや落葉や木枯のことも書いてある。
十月二十三日のところに「この日、雨寒し――」
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十月の二十三日の条に「この日、雨寒し――」
と書いてあった。あとは白紙になっている。
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と書いてあった、あとは白紙になっている。
その時、「日記なんてつまらないものだ。やはりほかの人に見せたいという気持ちがあるんだ。自分のやったことや気持ちが十分に書けないくらいならやめたほうがいい。自分の心の大部分をしめている女のことを一行も書くことのできないような日記なら、きっぱりやめてしまうほうがいい」
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その時、「日記なんてつまらんものだ。やはり他人に見せるという色気があるんだ。自分のやったことや心持ちが十分に書けぬくらいならよすほうがいい。自分の心の大部分を占めてる女のことを一行も書くことのできぬような日記ならだんぜんよしてしまうほうがいい」
こう思って筆をやめたのを覚えている。
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こう思って筆をたったのを覚えている。
その間の一年と二、三か月の月日のことを、清三は考えずにはいられなかった。
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その間の一年と二三か月の月日のことを清三は考えずにはおられなかった。
その間は彼にとって暗い時代でもあり、また複雑な世の中の姿にふれた時代でもあった。
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その間はかれにとっては暗黒な時代でもあり、また複雑した世相にふれた時代でもあった。
出来事や気持ちを十分に書けないような日記ならやめたほうがいいと言った。けれどそれと反対に、日記に書けないようなことはしないというところに、日記を書くということの本当の意味があるのではないかと彼は考えた。
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事件や心持ちを十分に書けぬような日記ならよすほうがいいと言ったが、それと反対に日記に書けぬようなことはせぬというところに、日記を書くということのまことの意味があるのではないかとかれは考えた。
彼はふたたび日記を書くために線の引いた紙を五、六十枚ほど自分でとじて、その第一ページに前の三か条を大きくかかげた。
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かれはふたたび日記を書くべく罫紙を五六十枚ほど手ずから綴じて、その第一頁に、前の三か条をれいれいしく掲げた。
明治三十六年十一月十五日
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明治三十六年十一月十五日
彼は、こう書き出した。
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かれはこう書き出した。
四十一
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四十一
「過去は死んだ過去として、ほうむらせよ」
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「過去は死したる過去として葬らしめよ」
「自分に、日々の生活の友である少年と少女とを愛させてくれ」
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「われをしてわが日々のライフの友たる少年と少女とを愛せしめよ」
「生活のもとでには、健康とお金とが必要である」
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「生活の資本は健康と金銭とを要す」
「自分に、清らかな生活をいとなませてくれ」
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「われをして清き生活をいとなましめよ」
こういう短い言葉は、日記の中にたえず書かれた。
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こういう短い句は日記の中にたえず書かれた。
またある日は、こういうことを書いた。
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またある日はこういうことを書いた。
「野心を捨てて、おだやかに両親の老後をやしなうことができれば、これが自分の成功ではないか。母は自分といっしょに住むことを心待ちにしている」
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「野心を捨てて平和に両親の老後を養い得ればこれ余の成功にあらずや、母はわれとともに住まんことを予想しつつあり」
またある時は、次のようなことを書いた。
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またある時は次のようなことを書いた。
「親しかった昔の友を自分のほうから捨て去ったのはおろかだった。情が薄かった。自分に、ふたたびあの暖かい昔の友情をよみがえらせてくれ。しょせん、置かれた場所は置かれた場所であり、運命は運命である。彼らをうらやんで捨て去った自分の小ささよ。喜ぶべきかな、友情のよみがえり! 一昨日、小畑から打ち解けた手紙があった。今日はまた加藤から情のこもった便りがあった。小畑は自分の読み古した植物の本を近いうちに送ろうという。うれしい」
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「親しかりし昔の友、われより捨て去りしは愚かなりき。情薄かりき。われをしてふたたびその暖かき昔の友情を復活せしめよ。しょせん、境遇は境遇なり、運命は運命なり、かれらをうらやみて捨て去りしわれの小なりしことよ。喜ぶべきかな友情の復活! 一昨日小畑より打ち解けたる手紙あり。今日また加藤より情に満たされたる便りあり。小畑は自分の読み古したる植物の書籍近きに送らんといふ。うれし」
校長も同僚も、清三の態度がにわかに変わったのを見た。
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校長も同僚も清三の態度のにわかに変わったのを見た。
清三は、おととしあたり熱心に集めた動物や植物の標本の整理に取りかかった。
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清三は一昨年あたり熱心に集めた動植物の標本の整理に取りかかった。
野から採って来て紙に張ったままにしてあったのを、一つ一つだれにもわかるように分けてみた。
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野から採って来て紙に張ったままそのままにしてあったのを一つ一つ誰にもわかるように分類してみた。
今年の夏休みに三日ほど秩父の三峰に関さんと遊びに行った時、採って来たものの中にはめずらしいものがあった。
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今年の夏休暇に三日ほど秩父の三峰に関さんと遊びに行った時採集して来たものの中にはめずらしいものがあった。
関さんは文部省の中学の先生のしかく試験を受ける準備として、しきりに動物や植物を研究していた。
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関さんは文部の中学教員検定試験を受ける準備として、しきりに動植物を研究していた。
その旅でも、実物を見せながら関さんはしきりに清三にそのおもしろさを説いた。
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その旅でも実際について関さんはしきりに清三にその趣味を鼓吹した。
小畑から、やがてその教科書が届いた。
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小畑からやがてその教科書類が到着した。
この秋まで音楽に熱心であった心は、だんだんそのほうに移っていった。
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この秋まで音楽に熱心であった心はだんだんその方面に移っていった。
わからないところは、関さんに聞いた。
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わからぬところは関さんに聞いた。
村のお百姓たちは、ふたたび若い学校の先生の散歩姿を野道に見るようになった。
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村の百姓たちはふたたび若い学校の先生の散歩姿を野道に見るようになった。
写生しているそのまわりに、子どもたちが輪を作っていることもある。
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写生しているそのまわりに子供たちが圏をかいていることもある。
彼は弥勒野の初冬の林や野を絵はがきにして、小畑や加藤に送った。
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かれは弥勒野の初冬の林や野を絵はがきにして、小畑や加藤に送った。
三度目の、このさびしい田舎に寒い西風のふき荒れる年の暮れが来た。
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三たびこのさびしい田舎に寒い西風の吹き荒れる年の暮れが来た。
前の竹やぶには薄い夕日がさして、あおじやつぐみの鳴き声がかきねの近くに聞こえる。
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前の竹藪には薄い夕日がさして、あおじやつぐみの鳴き声が垣に近く聞こえる。
二十二日ごろから、成績調べがいそがしかった。
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二十二日ごろから、日課点の調べが忙しかった。
古いこよみの正月に羽生で行われる作品の展覧会に出す準備も、それなりに整えておかなければならなかった。
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旧の正月に羽生で挙行せられる成績品展覧会に出品する準備もそれそうおうに整頓しておかなければならなかった。
図画、手本の写し、考えて作った絵、写生画、もようの絵、それに作文、昆虫の標本、植物の標本などもあった。
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図画、臨本模写、考案画、写生画、模様画、それに綴り方に作文、昆虫標本、植物標本などもあった。
それを生徒の多くの作品の中からえらぶのは、並たいていの手間ではなかった。
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それを生徒の多くの作品の中から選ぶのはひととおりの労力ではなかった。
どうか来年はよい成績をとりたいものだと、校長は言った。
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どうか来年は好成績を博したいものだと校長は言った。
それに、どうしてかこのごろはよくかぜをひいた。
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それにどうしてか、このごろはよく風邪をひいた。
散歩をすればせきが出たり、ふろにはいれば熱が出たりした。
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散歩したとては、咳嗽が出たり、湯にはいったとては熱が出たりした。
たばこをすうと、どうも頭の具合が悪い。
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煙草を飲むと、どうも頭の工合いが悪い。
今までに覚えたことのない、軽い一種のめまいを感じる。
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今までに覚えたことのない軽い一種の眩惑を感じる。
「君、どうかしたんじゃありませんか。医者に見てもらうほうがいいですぜ」
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「君、どうかしたんじゃありませんか、医師に見てもらうほうがいいですぜ」
と関さんは、二十四日の授業を終えて別れようとする時に言った。
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と関さんは二十四日の授業を終わって別れようとする時に言った。
荻生さんを羽生にたずねた時には、それほどたいして苦しくもなかった。
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荻生さんを羽生に訪問した時には、そう大して苦しくもなかった。
けれど成願寺に行って久しぶりに和尚さんに会って話そうと思った望みは、警察署の前まで来てやむなく中止せざるを得なかった。
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けれど成願寺に行って久しぶりで和尚さんに会って話そうと思った希望は警察署の前まで来て中止すべく余儀なくされた。
熱も、少なくとも三十八度五分ぐらいはある。
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熱も少なくとも三十八度五分ぐらいはある。
それに、せきが出る。
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それに咳嗽が出る。
ちょうどそこに行田への帰りの車がうろうろしていたので、安く代金をねぎって乗った。
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ちょうどそこに行田に戻り車がうろうろしていたので、やすく賃銭をねぎって乗った。
寒い道を、日の暮れがたにようやく家に着いた。
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寒い路を日の暮れ暮れにようやく家に着いた。
年の暮れを、一部屋にこもってねて過ごした。
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年の暮れを一室に籠って寝て送った。
母親は心配して、いろいろなぐさめてくれた。
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母親は心配して、いろいろ慰めてくれた。
さいわいに、熱は下がった。
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幸いにして熱は除れた。
大みそかには、ちょうど昨日帰ったという加藤の家をたずねることができた。
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大晦日にはちょうど昨日帰ったという加藤の家を音信るることができた。
郁治は、清三のやせた顔と青白いはだとを見た。
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郁治は清三のやせた顔と蒼白い皮膚とを見た。
話しぶりも、どことなく後ろ向きになったのを感じた。
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話しぶりもどことなく消極的になったのを感じた。
何かというとすぐぶつかって議論をしたり、大みそかの夜を高ぶって明けがたの三時まで町中や公園を話しながら歩いたりした三年前とくらべると、こうも変わるものかと思われた。
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なんぞと言うとすぐ衝突して議論をしたり、大晦日の夜を感激して暁の三時まで町中や公園を話し歩いたりした三年前にくらべると、こうも変わるものかと思われた。
二人は、このごろ東京の新聞ではやる宝さがしや、玄米一升の米つぶ調べの話などをした。
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二人はこのごろ東京の新聞ではやる宝探しや玄米一升の米粒調べの話などをした。
万朝報の宝を小石川の久世山に予科の学生がほりに行ってさがし当てたことを、おもしろく話した。
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万朝報の宝を小石川の久世山に予科の学生が掘りに行ってさがし当てたことをおもしろく話した。
続いて、日本とロシアの話し合いがむずかしいということが話題にのぼった。
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続いて、日露談判の交渉がむずかしいということが話題にのぼった。
「どうも東京では近ごろよほどぴりぴりしている。新聞の調子を見てもわかるが、どこかいつもとちがってまじめなところがある。いよいよ戦いが始まるかもしれない」
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「どうも、東京では近来よほど殺気立っている。新聞の調子を見てもわかるが、どこかこういつもに違ってまじめなところがある。いよいよ戦端が開けるかもしれない」
と郁治は言った。
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と郁治は言った。
清三もこのごろでは新聞で、この国の大問題を熱心に見ていた。
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清三もこのごろでは新聞紙上で、この国家の大問題を熱心に見ていた。
「そんな大きな戦争を始めてどうするんだろう」
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「そんな大きな戦争を始めてどうするんだろう」
と、いつも思っていた。
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といつも思っていた。
二人は、その問題についていろいろ話した。
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二人はその問題についていろいろ話した。
陸軍では勝てる見こみがあるが、海軍では船の大きさがロシアのほうがまさっていて、それに戦艦が多いなどと郁治は話した。
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陸軍では勝算があるが、海軍では噸数がロシアのほうがまさっていて、それに戦闘艦が多いなどと郁治は話した。
元日の朝、床の間の花びんに彼はめずらしく花を生けた。
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元日の朝、床の間の花瓶にかれはめずらしく花を生けた。
早く咲いたつばきはわずかに赤く花を見せただけで、厚くこい緑の葉は、黄色い寒菊の小さいのと味わいのある組み合わせになった。
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早咲きの椿はわずかに赤く花を見せたばかりで、厚いこい緑の葉は、黄いろい寒菊の小さいのと趣に富んだ対照をなした。
べつにつるうめもどきの赤い実がすずなりになったのを生けていると、母親は「私、この梅もどきっていう花が大好きさ。この花を見るとお正月が来たような気がする」
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べつに蔓うめもどきの赤い実の鈴生りになったのを揷していると、母親は「私、この梅もどきッていう花大好きさ、この花を見るとお正月が来たような気がする」
こう言って通った。
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こう言って通った。
父親は今朝、ねこのひたいのような畑の角で霜どけの土をザクザクふみながら、白い手をどろだらけにしてしきりに何かしていた。やがてようやく芽を出し始めた福寿草をはちに植えて、床の間にかざった。
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父親は今朝猫の額のような畠の角で、霜解けの土をザクザク踏みながら、白い手を泥だらけにして、しきりに何かしていたが、やがてようやく芽を出し始めた福寿草を鉢に植えて床の間に飾った。
朝日の光が、薄く障子にさした。
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朝日の影が薄く障子にさした。
親子は三人、楽しそうに並んでおぞうにを祝った。
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親子は三人楽しそうに並んで雑煮を祝った。
清三の日記は、次のように書かれた。
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清三の日記は次のごとく書かれた。
明治三十七年
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明治三十七年
一月一日――新しい命と新しさとをあたえるために、新しく苦しみと成功と喜びと悲しみとをもたらすために、新年は来た。
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一月一日――新しき生命と革新とを与ふべく、新しく苦心と成功と喜びと悲しみとをくだすべく新年は来たれり。
若い新年は、よくなるためのよい機会である。
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若き新年は向上の好機なり。
願わくは、清く楽しい生活をいとなませてくれ。
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願はくば清く楽しき生活をいとなましめよ。
△「新年を床の青磁の花瓶に母が好みの蔓梅もどき」
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△「新年を床の青磁の花瓶に母が好みの蔓梅もどき」
△小畑に手紙を出す。これから勉強して二年三年ののちにしかくの試験を受けようと思う、科目は植物をめざすと言ってやる。
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△小畑に手紙出す、これより勉強して二年三年ののち、検定試験を受けんとす、科目は植物に志す由言ひやる。
△かぜぎみもようやくよくなったので、明日あたりは野外で写生しようと画板などを直す。
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△風邪心地やうやくすぐれたれば、明日あたりは野外写生せんとて画板など繕ふ。
二日――「たたずの門」
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二日――「たたずの門」
のあたりに写生すべき所があったが、風がふいて一日中寒いのでやめる。
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のあたりに写生すべき所ありたれど、風吹きて終日寒ければやむ。
△きく子が数えた玄米一合のつぶの数、七二五六。
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△きく子が数へし玄米一合の粒数七二五六。
三日――昨夜おふろにはいったため、かぜがふたたびもとにもどる。
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三日――昨夜入浴せしため感冒ふたたびもとにもどる。
△休みの間に野外で写生する望みが絶える。
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△休暇中に野外写生の望み絶ゆ。
四日――万朝報の米調べ発表。
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四日――万朝報の米調べ発表。
玄米一升、七三二五〇つぶ。
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玄米一升七三二五〇粒。
△今年は倹約しようと思う。
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△今年は倹約せんと思ふ。
財布がいつも空なのは、心を温めてくれることではない。
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財嚢のつねに虚なるは心を温めしむる現象にあらず。
しょせん、生活に必要なだけのお金は必要である。
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しょせん生活に必要なるだけの金は必要なり。
五日――年賀のあいさつ回りは、今年はしない。
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五日――年賀の礼今年は欠く。
六日――牧野雪子(雪子は昨年の暮れ、前橋の判事と結婚した)から、美しい絵はがきの年賀状が来る。
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六日――牧野雪子(雪子は昨年の暮れ前橋の判事と結婚せり)より美しき絵葉書の年賀状来たる。
△できものが、また出る。
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△腫物再発す。
七日――病気のあとの養生とできもののため、学校にもどるのをのばす。
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七日――病後療養と腫物のため帰校をのばす。
△紅葉秋濤の書いた「寒牡丹」
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△紅葉秋濤著「寒牡丹」
を読みかけてやめる。
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読みかけてやめる。
悪いことが、話の始まりである。
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罪悪が発端なり。
△中学世界を買って来て読む。
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△中学世界買って来てよむ。
△加藤、東京へ帰る。
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△加藤帰京す。
八日――健康になりたい、健康になりたい、健康になりたい。
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八日――健康を得たし、健康を得たし、健康を得たし。
九日――「寒牡丹」
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九日――「寒牡丹」
を読んで、夜にはいって読み終える。
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読みて夜にはいって読了す。
悪いことに伴う悲劇の中の苦しみ、女主人公ルイザの熱い思い。四百ページの終わりは、恋の成功に終わる。
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罪悪に伴なふ悲劇中の苦悶、女主人公ルイザの熱誠なる執着、四百頁の大団円はラブの成功に終はる。
△たばこはかぜのえいきょうでにわかにその量が減り、あればすい、なければすわないというようになった。
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△煙草は感冒の影響にて、にわかにその量を減じ、あらば吸ひ、なくば吸はぬといふやうになりたり。
長くこのやり方が習慣になればよいが、どうだろうか。
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長くこの方法が惰性となればよけれどいかにや。
明日はまた、利根川のほとりの人となるだろう。
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明日はまた利根河畔の人となるべし。
△日本とロシアの危機、話し合いから戦いの段階に移ろうとしていると、新聞がしきりに言う。
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△日露の危機、外交より戦期にうつらんとすと新聞紙しきりに言ふ。
我々のもっとも好まない戦争は、ついにさけられないのか。
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吾人の最も好まぬ戦争は遂にさくべからざるか。
さびしく寒い宿直室の生活が、やがてまた始まった。
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さびしい寒い宿直室の生活はやがてまた始まった。
昨年の十一月から節約に節約を加えて借金を返すよう心がけたので、財布はいつもいつも寒かった。
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昨年の十一月から節約に節約を加えて、借金の返却を心がけたので、財嚢はつねにつねに冷やかであった。
胃が悪く気分がすぐれないので、努めて運動をしようと思い、生徒を相手に校庭でよくテニスをやった。
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胃が悪く気分がすぐれぬので、つとめて運動をしようと思って、生徒を相手に校庭でよくテニスをやった。
彼の青白い、髪ののびた、すらりとやせた姿は、いつも夕暮れの空気の中にあざやかに見えた。
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かれの蒼白い髪の生えたすらりとやせた姿はいつも夕暮れの空気の中にあざやかに見えた。
彼は土曜日の日記の中に、「平日の授業を正直にすませ、きちんと事務を取り、温かい夕ごはんのあとにその日の新聞を読み終わって、さて一日をふり返って何も悩むことなく、休める明日の日曜を思えば、テニスの運動のえいきょうで右手の筋肉が筆を取るのにふるえるほかは、まったくおだやかでないことはない」
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かれは土曜日の日記の中に、「平日の課業を正直にすませ、満足に事務を取り、温かき晩餐ののち、その日の新聞をよみ終はりて、さて一日の反省になんらもだゆることなく、安息すべき明日の日曜を思へば、テニスの運動の影響とて、右手の筋肉の筆とるにふるへるのほかたえて平和ならざるなし」
と書いた。
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と書いた。
また「Mのつごうがあるので家に帰りたかったが思いとどまる。節約の結果、三銭のきざみたばこが四日もつ」
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また「Mの都合あれば帰宅したけれど思いとまる。節約の結果三銭の刻み煙草四日を保つ」
と書いた。
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と書いた。
しかし彼は、夜ねむれなくて困った。
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しかしかれは夜眠られなくって困った。
ねむったと思うと、すぐ夢におそわれる。
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眠ったと思うとすぐ夢におそわれる。
たいていはおそろしい人に追いかけられるとか刀で切られるとかいう夢で、目がさめるとぐっしょりねあせをかいている。
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たいていは恐ろしい人に追いかけられるとか刀で斬られるとかする夢で、眼がさめると、ぐっしょり寝汗をかいている。
気持ちの悪いことは、たとえようがなかった。
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心持ちの悪いことはたとえようがなかった。
中学校の卒業生の会の会報が、年に二回来た。
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中学校々友会の会報が年二季に来た。
同級だった友の様子が、ぼんやりながらこれによって知られる。
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同窓の友の消息がおぼろ気ながらこれによって知られる。
アメリカに行った人もあれば、北海道に行った人もある。
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アメリカに行ったものもあれば、北海道に行ったものもある。
今回の会報には、寄宿舎の生徒松本なにがしが自分で命を絶ったいきさつが書いてあった。
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今季の会報には寄宿舎生徒松本なにがしがみずから棄てて自殺した顛末が書いてあった。
真夜中、ピストルの音がして人々がおどろいてかけつけたことが、くわしく書いてあった。
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深夜、ピストルの音がして人々が驚いてはせ寄ったことがくわしく記してあった。
彼は今まで思ったことのない「死」
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かれは今まで思ったことのない「死」
について考えた。
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について考えた。
夜は、その夢を見た。
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夜はその夢を見た。
寄宿舎の窓に灯が明るくついて、人がガヤガヤしている。
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寄宿舎の窓に灯が明るくついて、人がガヤガヤしている。
ピストルが、続けざまに鳴った。
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ピストルが続けざまに鳴った。
自分で命を絶った男が、窓から飛んで来た。
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自殺した男が窓から飛んで来た。
朝ごとの霜は、白かった。
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朝ごとの霜は白かった。
夜中のみぞれで、竹の葉が真っ白になっていることもあった。
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夜半の霙で竹の葉が真白になっていることもあった。
ラケットをさばいて校庭に立っている彼のやせた姿を、人々はいつも見た。
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ラッケットをさばいて校庭に立っているかれのやせぎすな姿を人々はつねに見た。
とけきらない小川の氷の上にはあおじが飛び、葉の落ちた桑畑にはつぐみが鳴き、はんの木の根元のかれ草からはくいなが羽音高くおどろいて飛び立った。
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解けやらぬ小川の氷の上にはあおじが飛び、空しい枝の桑畠にはつぐみが鳴き、榛の根の枯草からは水鶏が羽音高く驚き立った。
楢や栗の葉はまったく落ちつくして、草のかれた利根川の土手は、ただ一面に赤茶色にぬられて見えた。
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楢や栗の葉はまったく落ちつくして、草の枯れた利根川の土手はただ一帯に代赭色に塗られて見えた。
田には、大根の葉がべたりと捨てられてあった。
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田には大根の葉がひたと捨てられてあった。
月のなかごろに、母親から来た小包には、毛糸のシャツがはいっていた。
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月の中ごろに、母親から来た小荷物には、毛糸のシャツがはいっていた。
手紙には「寒さが激しくございますので、あまり寒い時はおふろを休み、かぜをひかないようご用心ください。朝夕、よいことも悪いことにつけても、お前一人が頼りでございますから、お体を大切にお守りくださいますよう」
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手紙には「寒さ激しく御座候間あまり寒き時は湯をやすみ、風ひかぬやう御用心くだされたく候、朝夕よきこと悪しきことにつけお前一人便りに御座候間御身大切に御守り被下度候」
と書いてあった。
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と書いてあった。
このごろは母を思う気持ちがいっそう強くなって、土曜日に帰る道でも、小さい子を背負った親子三人連れのおちぶれた姿などを見てはなみだをこぼした。
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このごろは母を思うの情がいっそう切になって、土曜日に帰る途でも、稚児を背に負った親子三人づれの零落した姿などを見ては涙をこぼした。
母親もこのごろ清三がきわだってやさしくなったのを喜んだが、しかしまた心配にならないでもなかった。
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母親もこのごろ清三のきわだってやさしくなったのを喜んだが、しかしまた心配にならぬでもなかった。
にわかに気が弱くなったのは、病気のためではないかと思った。
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にわかに気の弱くなったのは病気のためではないかと思った。
清三が行くと、仕事を午後から休んで、白玉のしるこなどを作ってもてなした。
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清三が行くと、賃仕事を午後から休んで、白玉のしる粉などをこしらえてもてなした。
ねあせが出るということを聞いて、「お前、ほんとうにお医者にかかって見てもらわなくていいのかい」
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寝汗が出るということを聞いて、「お前、ほんとうにお医者にかかって見てもらわなくっていいのかね」
と、顔に心配の色を見せて言った。
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と顔に心配の色を見せて言った。
時には荻生さんを羽生からさそって来て、宿直室に一夜とまらせることなどもあった。
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時には荻生さんを羽生から誘って来て、宿直室に一夜泊まらせることなどもあった。
荻生さんはこのごろ話のある養子の口のことを語って、「その家はね、それなりに財産があるんですって。いまにりっぱな旦那になったら、たんとごちそうをしますよ。君くらい一人置いてあげてもいい」
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荻生さんはこのごろ話のある養子の口のことを語って、「その家は君、相応に財産があるんですって、いまに、りっぱな旦那になったら、たんとご馳走をしますよ。君ぐらい一人置いてあげてもいい」
などとじょうだんを言って、明るく笑った。
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などと戯談を言って快活に笑った。
荻生さんはふとんにはいるとすぐいびきをたてて、安らかにぐっすりねむった。
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荻生さんは床にはいると、すぐ鼾をたてて安らかに熟睡した。
こうして安らかに世を送れる人を、清三はうらやましく思った。
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こうして安らかに世を送り得る人を清三はうらやましく思った。
関さんは、すいかずらやじゃのひげや大黄などをかれ草の中に見つけて教えてくれた。
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関さんはすいかずらやじゃのひげや大黄などを枯れ草の中に見いだして教えてくれた。
寒い冬の中にも、きわだって暖かい春のような日があった。
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寒い冬の中にもきわだって暖かい春のような日があった。
野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも気持ちよく刈り取られて、はんの木のひょろ長いはだかの幹が青い空を押すように見られた。
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野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも心地よく刈り取られて、榛のひょろ長い空しい幹が青い空におすように見られた。
彼は午前七時には必ず起きて、燃えるような朝日の光が霜のけむりの上にのぼるのを見ながら、いつも深呼吸を四、五十回やるのを習慣にしていた。
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かれは午前七時にはかならず起きて、燃ゆるような朝日の影の霜けぶりの上に昇るのを見ながら、いつも深呼吸を四五十度やるのを例にしていた。
「どうして、こう気分がすぐれないんだろう。どうかしなくてはしかたがない」
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「どうして、こう気分がすぐれないんだろう。どうかしなくってはしかたがない」
などと、時には自分をはげました。
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などと時にはみずから励ました。
しかし、やはり胃や腸の具合はよくなかった。
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しかしやっぱり胃腸の工合いはよくなかった。
ねあせも出た。
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寝汗も出た。
四十二
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四十二
ある暖かい日曜に、関さんとつれ立って、羽生の原という医者のところに診てもらいに出かけた。
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ある暖かい日曜に、関さんとつれだって、羽生の原という医師のもとに診てもらいに出かけた。
町の横町に黒い門があって、庭の松がこい緑を見せていた。
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町の横町に、黒い冠木の門があって、庭の松がこい緑を見せた。
白いシーツをかけたベッドがしんさつ室にあった。そのとなりの薬局には、午前十時ごろの暖かい冬の日ざしの通ったガラスの向こうに、いろいろな薬を入れた小さい大きいびんがたなの上に並べてあるのが見えた。
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白い敷布をかけた寝台が診察室にあって、それにとなった薬局には、午前十時ごろの暖かい冬の日影のとおった硝子の向こうに、いろいろの薬剤を盛った小さい大きい瓶が棚の上に並べてあるのが見えた。
医者は三十七、八の髪を長くした、ていねいで腰の低い人で、聴診器を耳に当てて、まず胸から腹のあたりを診た。
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医師は三十七八の髪を長くしたていねいな腰の低い人で、聴診器を耳に当てて、まず胸から腹のあたりを見た。
次にはだをぬがせて背中のあたりを診て、コツコツと軽くたたいた。
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次に、肌をぬがせて背中のあたりを見て、コツコツと軽くたたいた。
「やはり、胃や腸が悪いんでしょうな」
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「やはり、胃腸が悪いんでしょうな」
こう言って、型どおりの薬を医者はくれた。
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こう言って型のごとき薬を医師はくれた。
春のような日であった。
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春のような日であった。
毎日のよい天気に霜どけの道もおおかたかわいて、街道にはところどころ白いほこりも見えた。
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連日の好晴に、霜解けの路もおおかた乾いて、街道にはところどころ白い埃も見えた。
かすみに包まれて頂の雪がぼんやり見える両毛の山々を後ろにして、二人は話しながらゆるやかに歩いた。
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霞につつまれて、頂の雪がおぼろげに見える両毛の山々を後ろにして、二人は話しながらゆるやかに歩いた。
野の角で背を丸めて日なたぼっこをしながら、ブンブンと糸をつむぐ道具を回しているねこ背のおばあさんもあった。
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野の角に背を後ろに日和ぼっこをして、ブンブン糸繰り車をくっている猫背の婆さんもあった。
有名な角のうどん屋には二、三人客が腰をかけて、そばの大きなかまからは湯気が白く立っていた。
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名代の角の饂飩屋には二三人客が腰をかけて、そばの大釜からは湯気が白く立っていた。
野には、日当たりのいい所にはもう草が芽を出して、なずななどが青々としている。
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野には、日当たりのいい所には草がすでにもえて、なず菜など青々としている。
関さんはところどころで足をとめて、そろそろ芽を出し始めた草を取った。
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関さんはところどころで、足をとめて、そろそろ芽を出し始めた草をとった。
そして、それを清三に見せた。
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そしてそれを清三に見せた。
風呂敷にも包まずに持っている清三の水薬のびんには、野の暖かい日ざしがさし通った。
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風呂敷にも包まずに持っている清三の水薬の瓶には、野の暖かい日影がさしとおった。
四十三
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四十三
「先生」
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「先生」
と、やさしい声がした。
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とやさしい声がした。
障子をあけると、ひさし髪に結って、ちょっと見ない間にとても大人びた女の生徒の田原ひでが、にこにこと笑って立っていた。
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障子をあけると、廂髪に結って、ちょっと見ぬ間に非常に大人びた女生徒の田原ひでがにこにこと笑って立っていた。
昨年の卒業生で、よくできると評判だったが、卒業するとすぐ浦和の師範学校に行った。
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昨年の卒業生で、できのいいので評判であったが、卒業すると、すぐ浦和の師範学校に行った。
高等二年生の時から清三が受け持って教えたので、とくに彼をなつかしがっている。
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高等二年生の時から清三が手がけて教えたので、ことにかれをなつかしがっている。
高等四年のころには、新しい形の詩などを作ったり文章を書いたりして清三に見せた。
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高等四年のころに、新体詩などを作ったり和文を書いたりして清三に見せた。
家はちょっとした農家で、散歩のときに清三が寄ってみたこともあった。
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家はちょっとした農家で、散歩の折りに清三が寄ってみたこともあった。
あまりかわいがるので、「林先生は田原さんばかりひいきにしている」
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あまり可愛がるので、「林先生は田原さんばかり贔屓にしている」
などと生徒から言われたこともあった。
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などと生徒から言われたこともあった。
丸顔の色の白い、田舎にはめずらしい都会ふうの子で、音楽が好きで、清三の教えた新しい形の詩をオルガンに合わせてよく歌った。
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丸顔の色の白い田舎にはめずらしいハイカラな子で、音楽が好きで、清三の教えた新体詩をオルガンに合わせてよく歌った。
師範学校の寄宿舎からも、いつも自然のとか運命のとか熱い思いのとか書いた手紙をよこした。
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師範学校の寄宿舎からも、つねに自然の、運命の、熱情のと手紙をよこした。
教え子の一人より、なつかしい先生へ、と書いて来たこともあった。
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教え子の一人よりなつかしき先生へと書いて来たこともあった。
時には、詩をくださいなどと言って来ることもあった。
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時には、詩をくださいなどと言って来ることもあった。
「田原さん!」
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「田原さん!」
清三は立ち上がった。
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清三は立ち上がった。
「どうしたんです?」
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「どうしたんです?」
と、続いてたずねた。
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続いてたずねた。
「今日用事があって家に参りましたから、ちょっとおうかがいしましたの」
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「今日用事があって、家に参りましたから、ちょっとおうかがいしましたの」
言葉から様子から、こうも変わるものかと思うほど大人びて都会ふうになったのを、清三は見た。
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言葉から様子からこうも変わるものかと思うほど大人びてハイカラになったのを清三は見た。
「先生、ご病気だって聞きましたから」
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「先生、ご病気だって聞きましたから」
「だれに?」
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「誰に?」
「関先生に――」
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「関先生に――」
「関さんにどこで会ったんです?」
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「関さんにどこで会ったんです?」
「村の角でちょっと――」
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「村の角でちょっと――」
「なに、たいしたことはないんですよ」
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「なアにたいしたことはないんですよ」
と笑って、「例の胃と腸です――あまり甘いものを食べすぎるものだから」
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と笑って、「例の胃腸です――あまり甘いものを食い過ぎるものだから」
ひで子は笑った。
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ひで子は笑った。
先生と生徒とは、日曜日の午後の明るい部屋で向かい合ってしばらく語った。
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先生と生徒とは日曜日の午後の明るい室に相対してしばし語った。
寄宿舎の話などが出た。
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寄宿舎の話などが出た。
今年卒業するはずの行田の美穂子の話も出た。
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今年卒業するはずの行田の美穂子の話も出た。
相変わらず昔の親しみは残っている。けれど女には娘になったへだたりがどことなく出ているし、男には生徒としてよりも娘という感じがして、いつもの気のおけない会話をさまたげた。
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いぜんとして昔の親しみは残っているが、女には娘になったへだてがどことなく出ているし、男には生徒としてよりも娘という感じがいつものへだてのない会話をさまたげた。
机の上には、半分ほど飲んだ水薬のびんが夕日に明るく見えていた。
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机の上には半分ほど飲んだ水薬の瓶が夕日に明るく見えていた。
清三は今朝友から送って来た「音楽の友」
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清三は今朝友から送って来た「音楽の友」
という雑誌をひろげて、ひで子に見せた。
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という雑誌をひろげてひで子に見せた。
口絵には、紀元二百年ごろの音楽の聖人セント・セシリアの像が出ていた。
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口絵には紀元二百年ごろの楽聖セント、セリシアの像が出ていた。
オルガンの美しい音から生まれた花と天使のまぼろしを、その聖人はじっと見ている。
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オルガンの妙音から出た花と天使の幻影とを楽聖はじっと見ている。
清三は、この人はローマの貴族に生まれ、熱心なエホバの信者で、オルガンを作り出した人であるということを話して聞かせた。
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清三はこの人はローマの貴族に生まれて、熱心なるエホバの信者で、オルガンの創造者であるということを話して聞かせた。
その美しさは花のようであったということも語った。
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美容花のごとくであったということをも語った。
オルガンの音が、やがて聞こえ出した。
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オルガンの音がやがて聞こえ出した。
小使が行ってみると、若い先生が指を動かしてしきりに音を立てているかたわらに、えび茶のはかまをつけたひで子が笑顔をうかべて立っていた。
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小使が行ってみると、若い先生が指を動かしてしきりに音を立てているかたわらに、海老茶の袴を着けたひで子は笑顔をふくんで立った。
校庭は、静かであった。
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校庭は静かであった。
午後の日ざしに、雀がチャチャと鳴きしきった。
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午後の日影に雀がチャチャと鳴きしきった。
テニスコートの線がはっきりと残っていて、宿直室の長いえん側のすみにラケットやボールや網が置いてあるのが見える。
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テニスコートの線があきらかに残っていて、宿直室の長い縁側の隅にラケットやボールや網が置いてあるのが見える。
庭のすみには、授業用の草木が植えられてあった。
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庭の一隅には教授用の草木が植えられてあった。
ひで子を送って、清三はそこに出て来た。
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ひで子を送って清三はそこに出て来た。
ばらの新芽が出ているのが、目についた。
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薔薇の新芽が出ているのが目についた。
清三はこれをひで子に示して、
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清三はこれをひで子に示して、
「もう芽が出ましたね。早いものだ、もうじき春ですな」
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「もう芽が出ましたね、早いもんだ、もうじき春ですな」
「ほんとうに早いこと!」
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「ほんとうに早いこと!」
と、ひで子はその葉を一まいつまみ取った。
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とひで子はその一葉をつまみ取った。
やがて学校の外の道を急いで帰って行く、えび茶のはかまの姿が見えた。
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やがて校外の路を急いで帰って行く海老茶袴の姿が見えた。
四十四
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四十四
日本とロシアの戦争が始まった。八日の旅順と九日の仁川とは、とつぜんのかみなりのように人々の耳をおどろかせた。
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日露開戦、八日の旅順と九日の仁川とは急雷のように人々の耳を驚かした。
紀元節の日には校門に日の丸が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。
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紀元節の日には校門には日章旗が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。
東京のさわぎは、日ごとの新聞に見えるように思われた。
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東京の騒ぎは日ごとの新聞紙上に見えるように思われた。
一か月前から政治の世界の動きが早いのは、田舎で見ていても気がもめた。
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一月以前から政治界の雲行きのすみやかなのは、田舎で見ていても気がもめた。
軍隊に集まれという命令は、すでに出た。
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召集令はすでにくだった。
村役場の係が夜も昼もなくその命令を各家に伝えると、二十四時間で決められた場所に集まらなければならない若者たちは、父母や妻や子に別れを告げるひまもなかった。ある者は夕暮れの田舎道に、ある者は駅までの乗合馬車に、ある者は楢林の間の野の道に、一包みの荷物をかかえて急いで国のために向かう姿がぞくぞくと見られた。
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村役場の兵事係りが夜に日をついで、その命令を各戸に伝達すると、二十四時間にその管下に集まらなければならない壮丁たちは、父母妻子に別れを告げる暇もなく、あるは夕暮れの田舎道に、あるは停車場までの乗合馬車に、あるは楢林の間の野の路に、一包みの荷物をかかえて急いで国事におもむく姿がぞくぞくとして見られた。
南埼玉の一つの郡から集められた者が三百人あまり。そのころはまだ東武線ができていないころなので、信越線の吹上駅、鴻巣駅、桶川駅、奥羽線の栗橋駅、蓮田駅、久喜駅などが、その集まるおもな駅であった。
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南埼玉の一郡から徴集されたものが三百余名、そのころはまだ東武線ができぬころなので、信越線の吹上駅、鴻巣駅、桶川駅、奥羽線の栗橋駅、蓮田駅、久喜駅などがその集まるおもなる停車場であった。
交通の中心になる町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。
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交通の衝に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。
駅のさくの内には町長や係の人や学校の生徒や親せき友だちが集まって、汽車が出るたびに万歳をさけんでその出発をはげました。
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停車場の柵内には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼してその行をさかんにした。
清三は行田から弥勒に帰るとちゅう、そうした若者に何人も出くわした。
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清三は行田から弥勒に帰る途中、そうした壮丁に幾人もでっくわした。
旅順や仁川の海の戦いがあってから、静かな田舎でもその話がいたるところでくり返された。
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旅順仁川の海戦があってから、静かな田舎でもその話がいたるところでくり返された。
町から町へ、村から村へ配る新聞屋の鈴の音が、いそがしげに聞こえた。
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町から町へ、村から村へ配達する新聞屋の鈴の音は忙しげに聞こえた。
新聞には大きな活字の見出しが大々的にかかげられて、いろいろな計画やうわさが書かれてある。
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新聞紙上には二号活字がれいれいしくかかげられて、いろいろの計画やら、風説やらが記されてある。
十二日は朝から曇った寒い日であったが、思ったとおり、敵のウラジオストク艦隊が津軽海峡におそって来て商船奈古浦丸をしずめたという知らせが来た。
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十二日は朝から曇った寒い日であったが、予想のごとく、敵の浦塩艦隊が津軽海峡に襲来して、商船奈古浦丸を轟沈したという知らせが来た。
その津軽海峡の艫作崎というのがどこに当たるか、それを確かめるため、校長は授業用の大きな大日本地図を職員室にかけた。
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その津軽海峡の艫作崎というのはどこに当たるか、それをたしかめるため、校長は教授用の大きな大日本地図を教員室にかけた。
年とった先生も関さんも女の先生も、みなそこに集まった。
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老訓導も関さんも女教師もみなそこに集まった。
「ははあ、こんなところですかな」
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「ははア、こんなところですかな」
と、年とった先生は言った。
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と老訓導は言った。
清三はウラジオストクから一直線にやって来た敵の艦隊と、しずめられたわが商船とを想像して、長い間その地図の前に立っていた。
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清三は浦塩から一直線にやって来た敵の艦隊と轟沈されたわが商船とを想像して、久しくその掛け図の前に立っていた。
ふろ屋でも理髪店でも、戦争の話の出ないところはなかった。
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湯屋でも、理髪舗でも、戦争の話の出ぬところはなかった。
にくいロシアだ、こらしめてやれという老人もあれば、そんな大きな国を敵にしてはたして勝てるかどうかと心配する老人もあった。
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憎いロシアだ、こらしてやれという爺もあれば、そうした大国を敵としてはたして勝利を得らるるかどうかと心配する老人もあった。
子どもたちは旗を作って、戦争のまねをした。
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子供らは旗をこしらえて戦争の真似をした。
けれど全体として田舎はおだやかで、夜はいつものように竹やぶの外にわらの家の灯の光がもれた。
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けれどがいして田舎は平和で、夜はいつものごとく竹藪の外に藁屋の灯の光がもれた。
ちょうど古いこよみの正月なので、街道の家々からはお酒によって笑う声や歌う声もした。
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ちょうど旧暦の正月なので、街道の家々からは、酒に酔って笑う声や歌う声もした。
このごろ彼は、朝は六時半に起き、夜は九時にねた。
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このごろかれは朝は六時半に起床し、夜は九時に寝た。
正月の餅とうどんとで胃や腸をこわすのをおそれたが、しかしたいしたこともなくすぎた。
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正月の餅と饂飩とに胃腸をこわすのを恐れたが、しかしたいしたこともなくてすぎた。
節約に節約を加えたやりくりはだんだんうまくいって借金も少なくなり、校長の世話で始めたお金を積み立てる集まりにも毎月五十銭を出せるようになった。
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節約に節約を加えた経済法はだんだん成功して負債もすくなくなり、校長の斡旋で始めた頼母講にも毎月五十銭をかけることもできるようになった。
午後の二時ごろには、いつも新聞が来た。
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午後の二時ごろにはいつも新聞が来た。
戦争が始まってから、たがいにちがう新聞を一つずつ取って交かんして見ようという約束ができた。
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戦争の始まってから、互いにかわった新聞を一つずつ取って交換して見ようという約束ができた。
国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪店から報知を持って来た。
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国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗から報知を持って来た。
この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節約をすることと、かぜをひかないように努めることと、たばこをやめることと、土曜日に家に帰るのを待つことと、それくらいがこのごろの仕事で、ほかにこれといって変わったこともなかった。
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この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節倹をすることと、風を引かぬようにつとむることと、煙草をやめることと、土曜日の帰宅を待つことと、それくらいがこのごろの仕事で、ほかにこれといって変わったこともなかった。
しかし、たばこと菓子とをやめるのは簡単ではなかった。
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しかし煙草と菓子とをやめるは容易ではなかった。
気分がよかったり胃の調子がよかったりすると、机のまわりに餅菓子の空の竹の皮や、たばこのふくろなどがころがった。
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気分がよかったり胃がよかったりすると、机のまわりに餅菓子のからの竹皮や、日の出の袋などがころがった。
写生には、だいぶ夢中になった。
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写生にはだいぶ熱中した。
天気のよい暖かい日には、画板と絵の具とを持ってよく野に出かけた。
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天気のよい暖かい日には、画板と絵の具とをたずさえてよく野に出かけた。
稲をかける木、はんの木の林、掘り割りのかれたあし、それに雪の野をかいたものもあった。
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稲木、榛の林、掘切の枯葦、それに雪の野を描いたのもあった。
ある日、学校の近くの紅梅をかいてみたが、色がへたなので花が桃か何かのように見えた。よめな、よもぎ、なずななどの緑も写した。
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ある日学校の付近の紅梅をえがいてみたが、色彩がまずいので、花が桃かなんぞのように見えた、嫁菜、蓬、なずななどの緑をも写した。
月の末に、小畑から手紙が届いた。
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月の末に、小畑から手紙が届いた。
少し病気をして、この春休みをふるさとで送ることに決めた。
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少しく病をえて、この春休みを故郷に送るべく決心した。
久しぶりで一度会いたい。
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久しぶりで一度会いたい。
こちらから出かけて行くから日取りを知らせてよこせ、とのことであった。
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こちらから出かけて行くから、日取りを知らせてよこせとのことであった。
旅順での第一回の港をふさぐ作戦の記事が、新聞にのっている日であった。
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旅順における第一回の閉塞の記事が新聞紙上に載せられてある日であった。
清三は喜んで、返事を出した。
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清三は喜んで返事を出した。
金曜日には行くという返事が、折り返して来る。
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金曜日には行くという返事が折りかえして来る。
清三は荻生さんにも、遊びに来るようさそった。
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清三は荻生さんにも来遊をうながした。
その前の夜は、月が明るかった。
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その前夜は月が明るかった。
彼はそれに向かって、久しぶりで友のことを思った。
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かれはそれに対して、久しぶりで友のことを思った。
四十五
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四十五
小畑は昔にくらべて、目立って太っていた。
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小畑は昔にくらべていちじるしく肥えていた。
薄いひげなど生やして、頭をきれいに分けている。
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薄い鬚などを生やして頭をきれいに分けた。
高等師範の制服が、よく似合って見える。
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高等師範の制服がよく似合って見える。
以前の明るい調子で、「こういう生活もおもしろいなあ」
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以前の快活な調子で「こういう生活もおもしろいなア」
などと言った。
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などと言った。
荻生さんは、清三と小畑と先生たちとがボールを取って校庭に立ったのを、えん側から下りる低い階だんの上に腰かけて見ていた。
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荻生さんは清三と小畑と教員たちとが、ボールを取って校庭に立ったのを縁側からおりる低い階段の上に腰かけて見ていた。
小畑の球は、よく飛んだ。
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小畑の球はよく飛んだ。
ひきかえて、清三の球には力がなかった。
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引きかえて、清三の球には力がなかった。
二、三度、勝負があった。
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二三度勝負があった。
清三のひたいには、あせが流れた。
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清三の額には汗が流れた。
心臓のこどうも、高かった。
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心臓の鼓動も高かった。
苦しそうに息をつくのを見て、
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苦しそうに呼吸をつくのを見て、
「君はどうかしたのか」
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「君はどうかしたのか」
こう言って、小畑は清三の顔色の悪い顔を見た。
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こう言って、小畑は清三の血色の悪い顔を見た。
「体が少し悪いものだから」
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「体が少し悪いもんだから」
「どうしたんだ?」
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「どうしたんだ?」
「持病の胃と腸さ。たいしたことはないんだけれど……」
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「持病の胃腸さ、たいしたことはないんだけれど……」
「大事にしないといかんよ」
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「大事にしないといかんよ」
小畑は、ふたたび友の顔を見た。
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小畑はふたたび友の顔を見た。
三人は、明るく話した。
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三人は快活に話した。
清三が出して見せる写生を、一枚ごとに手に取って感想を言った。
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清三が出して見せる写生を一枚ごとに手に取って批評した。
荻生さんの軽いしゃれも、ときどきまじった。
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荻生さんの軽い駄洒落もおりおりは交った。
そこに関さんがやって来て、昆虫を集める話や植物を集める話が出る。
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そこに関さんがやって来て、昆虫採集の話や植物採集の話が出る。
三峰で集めたものなどを出して見せる。
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三峰で採集したものなどを出して見せる。
小畑は学校にあるめずらしい標本や、昨年の秋に集めに出かけた時のことなどを話して聞かせる。にぎやかな声が、いつもはしんとした宿直室に満ちわたった。
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小畑は学校にあるめずらしい標本や昨年の秋に採集に出かけた時のことなどを話して聞かせる、にぎやかな声がいつもはしんとした宿直室に満ちわたった。
夕ごはんは、小川屋に行って食べた。
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夕飯は小川屋に行って食った。
雨のにおいのする夕日がぱっと障子を明るく照らして、お酒を飲まない荻生さんの顔も赤い。
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雨気を帯びた夕日がぱッと障子を明るく照らして、酒を飲まぬ荻生さんの顔も赤い。
小畑は、美穂子や雪子のことはなるべく口に出さないようにした。
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小畑は美穂子や雪子のことはなるたけ口にのぼさぬようにした。
彼は笑って話す間にも、清三の元気が目立ってなくなったのを見て取った。
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かれは談笑の間にもいちじるしく清三の活気がなくなったのを見た。
荻生さんは清三のいない時に、
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荻生さんは清三のいない時に、
「あれでも去年はなかなかさかんだったんですからな」
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「あれでも去年はなかなか盛んだったんですからな」
こう言って、女が学校にやって来たことなどを小畑に話して聞かせた。
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こう言って、女が学校にやって来たことなどを小畑に話して聞かせた。
小畑は、少なからずおどろかされた。
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小畑は少なからず驚かされた。
夜は小川屋から、一組のふとんを運んで来た。
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夜は小川屋から一組の蒲団を運んで来た。
まだ寒いので、荻生さんは小使部屋に行ってはよく火を火ばちに入れて持って来た。
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まだ寒いので、荻生さんは小使部屋に行ってはよく火を火鉢に入れて持って来た。
菓子もつき、お茶もつき、話もつきてようやくねようとしたのは、十一時過ぎであった。
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菓子もつき、湯茶もつき、話もつきてようやく寝ようとしたのは十一時過ぎであった。
便所に出て行った小畑は帰って来て、「雨が降っているねえ」
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便所に出て行った小畑は帰って来て、「雨が降ってるねえ」
と、声低く言った。
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と声低く言った。
「雨!」
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「雨!」
と、明日の朝早く帰るはずの荻生さんは困ったような声を立てた。
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と明日朝早く帰るはずの荻生さんは困ったような声を立てた。
「明日は土曜、あさっては日曜だ。行田には今週は帰らないつもりだから、雨は降ったってかまいはしない。君も明日一日遊んで行くさ。めったに三人こうしていっしょになることはありはしない」
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「明日は土曜、明後日は日曜だ。行田には今週は帰らんつもりだから、雨は降ったッてかまいやしない。君も、明日一日遊んで行くサ。めったに三人こうしていっしょになることはありゃしない」
と清三は荻生さんにこう言ったが、外にようやく音を立て始めた雨だれを聞いて、「愉快だなあ! こうしたわれわれの集まりの背景が雨になったのは実に愉快だ。今夜はしんみりと昔を語れと、天が雨を降らしてくれたようなものだ!」
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と清三はこう荻生さんに言ったが、戸外にようやく音を立て始めた点滴を聞いて、「愉快だなア! こうしたわれわれの会合の背景が雨になったのはじつに愉快だ。今夜はしめやかに昔を語れッて、天が雨を降らしてくれたようなものだ!」
と、大いに気分が乗って来たという様子である。
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興が大いに起こって来たというふうである。
小畑の胸にも彼の胸にも、中学校時代のことがむらむらと思い出された。
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小畑の胸にもかれの胸にも中学校時代のことがむらむらと思い出された。
清三は帰りがおそくなるといつもこうして一枚のふとんの中にはいって、熊谷の小畑の書斎にとまるのがいつものことであった。
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清三は帰りがおそくなるといつもこうして一枚の蒲団の中にはいって、熊谷の小畑の書斎に泊まるのがつねであった。
顔と顔とを合わせて、ねむくなってどちらか一方が「うんうん」
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顔と顔とを合わせて、眠くなってどっちか一方「うんうん」
と聞くだけになるまで話をするのが、いつものことであった。
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と受け身になるまで話をするのが例であった。
「あのころが思い出されるねえ」
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「あのころが思い出されるねえ」
と、小畑はねながら言った。
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と小畑は寝ながら言った。
荻生さんが、一番先にいびきをたてた。
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荻生さんが一番先に鼾声をたてた。
「もうねちゃった! 早いなあ」
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「もう、寝ちゃった! 早いなア」
と、小畑が言った。
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と小畑が言った。
その小畑も、やがてつかれてぐっすりねむってしまった。
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その小畑もやがて疲れて熟睡してしまった。
清三は目がさめて、どうしてもねむれない。
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清三は眼がさめて、どうしても眠られない。
外には、サッと降って通る雨の音が聞こえる。
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戸外にはサッと降って通る雨の音が聞こえる。
いろいろな思いがあとからあとから胸をついてきて、胸がいっぱいになる。
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いろいろな感があとからあとから胸をついてきて、胸がいっぱいになる。
こんなやさしい友もある世の中に長く生きたいという思いが満ちわたったが、それとともに、なみだがその青白いほおをほろほろと伝って流れた。
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こうしたやさしい友もある世の中に長く生きたいという思いがみなぎりわたったが、それとともに、涙がその蒼白い頬をほろほろと伝って流れた。
中田の女のことも、続いて思い出された。
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中田の女のことも続いて思い出された。
長い土手を夕日を浴びてたどって行く自分の姿が、まるでほかの人であるかのようにあざやかに見えた。
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長い土手を夕日を帯びてたどって行く自分の姿がまるでほかの人であるかのようにあざやかに見えた。
なみだが、ねまきのそででふいてもふいても出た。
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涙が寝衣の袖で拭いても拭いても出た。
翌朝、小畑は言った。
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翌朝、小畑は言った。
「昨夜、君はあれからまた起きたね」
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「昨夜、君はあれからまた起きたね」
「どうもねむれなくてしかたがないから、起きて新聞を読んだ」
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「どうも眠られなくってしかたがないから、起きて新聞を読んだ」
「何かごそごそ音がするから目をあけてみると、君はランプのそばで起きている。君の顔が白くはっきりときわだっていたのが、今でも見える」
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「何かごそごそ音がするから、目をあいてみると、君はランプのそばで起きている。君の顔が白くはっきりときわだっていたのが今でも見える」
こう言って清三の顔を見て、「夜、ねられないのかい?」
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こう言って清三の顔を見て、「夜、寝られないかえ?」
「どうもねられなくて困る」
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「どうも寝られんで困る」
「やはり神経がまいっているんだねえ」
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「やはり神経衰弱だねえ」
土曜日は、半日授業があった。
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土曜日は半日授業があった。
荻生さんは朝早く、雨をついて帰った。
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荻生さんは朝早く雨をついて帰った。
小畑は校長や清三の授業ぶりを見学したり、職員室で関さんの集めた標本を見たり、時間ごとに先生に連れられてぞろぞろと教室から出て来る生徒の群れを見たりしていた。
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小畑は校長や清三の授業ぶりを参観したり、教員室で関さんの集めた標本を見たり、時間ごとに教員につれられてぞろぞろと教場から出て来る生徒の群れを見たりしていた。
女の先生は、かん高い声を立てて生徒をしかった。
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女教員は黄いろい声を立てて生徒を叱った。
竹やぶの中にはつばきが紅く咲いて、そのふちにあるさかりをすぎた梅の花は、雨にぬれて泣くように見えた。
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竹藪の中には椿が紅く咲いて、その縁にある盛りをすぎた梅の花は雨にぬれて泣くように見えた。
清三ははかまをはいて、やせはてた体と青白い顔とを教室の教だんの前にうき出すように見せて、高等二年生に地理を教えていた。
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清三は袴をはいて、やせはてた体と蒼白い顔とを教室の卓の前に浮き出すように見せて、高等二年生に地理を教えていた。
午後からは、二人はまた宿直室で話した。
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午後からは、二人はまた宿直室で話した。
三時には馬車がラッパを鳴らして羽生から来たが、御者は今朝荻生さんにたのんでやった豚肉の新聞包みを、小使部屋に放りこむようにして置いて行った。
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三時には馬車が喇叭を鳴らして羽生から来たが、御者は今朝荻生さんに頼んでやった豚肉の新聞包みを小使部屋にほうり込むようにして置いて行った。
包みの中には、ねぎと手紙とがそえてあった。
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包みの中には葱と手紙とが添えてあった。
手紙には、明日午後から羽生に来い。
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手紙には明日午後から羽生に来い。
待っている!
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待っている!
と書いてあった。
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と書いてあった。
雨は、一日中やまなかった。
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雨は終日やまなかった。
固い田舎の豚肉も、二人を軽くよわせるには十分であった。
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硬い田舎の豚肉も二人を淡く酔わせるには十分であった。
二人は高等師範のことや、古い友のことや、戦争のことをあきずに語った。
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二人は高等師範のことやら、旧友のことやら、戦争のことやらをあかず語った。
「今年はだめだが、来年は一つぜひしかくの試験を受けてみたいんだが」
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「今年はだめだが、来年は一つぜひ検定を受けてみたいんだが」
と、清三は言った。
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と清三は言った。
日曜日には、馬車に乗って羽生に出かけた。
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日曜日には馬車に乗って羽生に出かけた。
旅順が落ちたという評判が、さかんであった。
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旅順が陥落したという評判が盛んであった。
まだそんなに早く落ちるはずがないという人たちもあった。
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まだそんなに早く取れるはずがないという人々もあった。
街道を鈴を鳴らして走って行く号外売りもあった。
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街道を鈴を鳴らして走って行く号外売りもあった。
荻生さんは銀行の二階を借りて、二人をむかえた。
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荻生さんは、銀行の二階を借りて二人を迎えた。
ごちそうには、いり鳥と鶏肉のしると豚なべと鹿の子餅。
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ご馳走にはいり鳥と鶏肉の汁と豚鍋と鹿子餅。
「今日はなんだか、ごはんのほうがおかずのようだね」
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「今日はなんだか飯のほうが副食物のようだね」
と、清三は笑った。
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と清三は笑った。
清三のいないところで、小畑は荻生さんに、
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清三のいないところで、小畑は荻生さんに、
「林君はどうかしていますね。体がどうも本当じゃないようですね?」
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「林君、どうかしてますね、体がどうもほんとうじゃないようですね?」
「ぼくも実は心配しているんですがね」
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「僕もじつは心配してるんですがね」
「何か悪い病気じゃないだろうか」
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「何か悪い病気じゃないだろうか」
「さあ――」
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「さア――」
「今のうちにすすめて、しっかり治りょうさせるほうがいいですぜ。手おくれになってはしかたがないから」
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「今のうちにすすめて根本から療治させるほうがいいですぜ。手おくれになってはしかたがないから」
「ほんとうですよ」
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「ほんとうですよ」
「持病の胃が悪いんだなんて言っているけれど――ほんとうにそうかしら」
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「持病の胃が悪いんだなんて言ってるけれど――ほんとうにそうかしらん」
「町の医者は腸が悪いんだって言うんですけれど」
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「町の医師は腸が悪いんだッて言うんですけれど」
「しっかりした医者に見せたほうがいいと思うね」
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「しっかりした医師に見せたほうがいいと思うね」
「ほんとうですよ」
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「ほんとうですよ」
翌日の朝、銀行の二階で三人は別れた。
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翌日の朝、銀行の二階で三人はわかれた。
小畑は清三に言った。
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小畑は清三に言った。
「ほんとうに体を大切にしたまえ」
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「ほんとうに身体をたいせつにしたまえ」
四十六
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四十六
戦争は、だんだん進んで来た。
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戦争はだんだん歩を進めて来た。
定州での騎兵のぶつかり合い、戦争のための国のお金集めが順調なこと、わが艦隊のウラジオストク攻げき、旅順の外での激しい戦い、臨時の議会の開会、二度目の港をふさぐ作戦、広瀬中佐の勇ましい戦死、第一軍の出発につれて第二軍の組み立て。国民は今、まじめに戦争の意味と結果とを考え始めた。
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定州の騎兵の衝突、軍事公債応募者の好況、わが艦隊の浦塩攻撃、旅順口外の激戦、臨時議会の開院、第二回閉塞運動、広瀬中佐の壮烈なる戦死、第一軍の出発につれて第二軍の編制、国民は今はまじめに戦争の意味と結果とを自覚し始めた。
野はだんだん暖かくなって、菜の花が咲き、すみれが咲き、たんぽぽが咲き、桃の花が咲き、桜が咲いた。
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野はだんだん暖かくなって、菜の花が咲き、菫が咲き、蒲公英が咲き、桃の花が咲き、桜が咲いた。
号外が来るたびに田舎町の軒には日の丸が立てられ、駅では万歳が唱えられ、畑の中のわらの家の近くからも、手作りの小さい国旗を振って子どもが戦争ごっこをしているのが見えた。
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号外の来るたびに、田舎町の軒には日章旗が立てられ、停車場には万歳が唱えられ、畠の中の藁屋の付近からも、手製の小さい国旗を振って子供の戦争ごっこしているのが見えた。
学校では学年末の成績つけにいそがしく、続いて簡単な試験が始まり、それがすむと卒業式が行われた。
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学校では学年末の日課採点に忙わしく、続いて簡易な試験が始まり、それがすむと、卒業証書授与式が行なわれた。
郡長は教だんの前に立って卒業生のためにお祝いの言葉を述べたが、その中では戦争で国が大変な時であることが細かく説かれた。
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郡長は卓の前に立って、卒業生のために祝辞を述べたが、その中には軍国多事のことが縷々として説かれた。
「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業されたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業されたということを忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として、十分な覚ごをしなければなりません」
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「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業せられたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業せられたということは忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として十分なる覚悟をしなければなりません」
平凡な郡長の言葉にも、時代が言わせる一種の強さとあこがれとが表れて、聞く人の心を動かした。
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平凡なる郡長の言葉にも、時世の言わせる一種の強味と憧憬とがあらわれて、聴く人の心を動かした。
写生帳には、びんの梅の花、水仙、学校の門、大越の桜などがあった。
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写生帳には瓶の梅花、水仙、学校の門、大越の桜などがあった。
沈丁花の花はやや上手にできたが、葉のかげにはいつも失敗した。
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沈丁花の花はやや巧みにできたが、葉の陰影にはいつも失敗した。
それから、緋縅蝶、紋白蝶なども集めた。
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それから緋縅蝶、紋白蝶なども採集した。
小畑が送ってくれた丘博士訳の進化論講話が机の上に置かれて、その中ほどにすみれの花がしおりの代わりにはさまれてあった。
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小畑が送ってくれた丘博士訳の進化論講話が机の上に置かれて、その中ごろに菫の花が枝折りの代わりにはさまれてあった。
菓子は好物のうぐいす餅、おかずはうどにみつばにくわい、つけ物は京菜の新づけ。
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菓子は好物のうぐいす餅、菜は独活にみつばにくわい、漬け物は京菜の新漬け。
生徒は、草餅やぼた餅をよく持って来てくれた。
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生徒は草餅や牡丹餅をよく持って来てくれた。
利根川の土手には、さまざまな花があった。
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利根川の土手にはさまざまの花があった。
ある日、清三は関さんと大越から発戸までの間を歩いた。
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ある日清三は関さんと大越から発戸までの間を歩いた。
清三は一つ一つ花の名を手帳につけた。――
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清三は一々花の名を手帳につけた。――
みつまた、たびらこ、じごくのかまのふた、ほとけのざ、すずめのえんどう、からすのえんどう、のみのふすま、すみれ、たちつぼすみれ、さんしきすみれ、げんげ、たんぽぽ、いぬがらし、こけりんどう、はこべ、あかじくはこべ、かきどうし、さぎごけ、ふき、なずな、ながばぐさ、しゃくなげ、つばき、こごめざくら、もも、ひぼけ、ひなぎく、へびいちご、おにたびらこ、ははこ、きつねのぼたん、そらまめ。
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みつまた、たびらこ、じごくのかまのふた、ほとけのざ、すずめのえんどう、からすのえんどう、のみのふすま、すみれ、たちつぼすみれ、さんしきすみれ、げんげ、たんぽぽ、いぬがらし、こけりんどう、はこべ、あかじくはこべ、かきどうし、さぎごげ、ふき、なずな、ながばぐさ、しゃくなげ、つばき、こごめざくら、もも、ひぼけ、ひなぎく、へびいちご、おにたびらこ、ははこ、きつねのぼたん、そらまめ。
四十七
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四十七
新しく作った学校の花だんにも、いろいろな草花が集められた。
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新たにつくった学校の花壇にもいろいろの草花が集められた。
農家のかきねには梨の花と八重桜、畑にはえんどうとそら豆。麦ぶえを鳴らす音がときどき聞こえて、つばめが街道をななめに突っ切るように飛びかった。
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農家の垣には梨の花と八重桜、畠には豌豆と蚕豆、麦笛を鳴らす音が時々聞こえて、燕が街道を斜めに突っ切るように飛びちがった。
あり、はち、あぶらむし。夜は名の知れない虫がしきりにズイズイと鳴き、かえるの声はわくようにした。
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蟻、蜂、油虫、夜は名の知れぬ虫がしきりにズイズイと鳴き、蛙の声はわくようにした。
あけび、ぐみ、さぎごけ、きんぽうげ、じゅうにひとえ、たけにぐさ、きじむしろ、なんてんはぎなどを野から取って来て、花だんに移した。
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あけび、ぐみ、さぎごけ、きんぽうげ、じゅうにひとえ、たけにぐさ、きじむしろ、なんてんはぎなどを野からとって来て花壇に移した。
やがて山吹が散ると、芍薬、牡丹、つつじなどが咲き始めた。
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やがて山吹が散ると、芍薬、牡丹、つつじなどが咲き始めた。
この春を、彼はまったく花に夢中になって暮らした。
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この春をかれはまったく花に熱中して暮らした。
新緑を通した日の光が、こう水のように部屋いっぱいに満ちわたった。
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新緑をとおした日の光が洪水のように一室にみなぎりわたった。
彼はそこで田原秀子に出す手紙を書き、めずらしいいろいろな花を入れて送ってやった。
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かれはそこで田原秀子にやる手紙を書き、めずらしいいろいろの花を封じ込めてやった。
ひで子からも、少なくとも一週に一度は必ず返事が来た。
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ひで子からも少なくとも一週に一度はかならず返事が来た。
歌が書いてあったり、新しい形の詩が書いてあったりした。
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歌が書いてあったり、新体詩が書いてあったりした。
わが愛するなつかしい教え子へ、とこちらから書いてやると、あちらからは、恋しくなつかしい先生へ、と書いてよこした。
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わが愛するなつかしの教え子とこっちから書いてやると、あっちからは、恋しきなつかしき先生まいると書いてよこした。
四十八
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四十八
このごろ、引っこしの問題が親子の間でくり返された。
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このごろ移転問題が親子の間にくり返された。
学校で自分でごはんを作っていては、不自由でもあり、お金もかかる。
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学校に自炊していては不自由でもあり不経済でもある。
家のつごうからいっても、べつに行田に住んでいなければならない理由もない。
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家のつごうからいってもべつに行田に住んでいなければならぬという理由もない。
父の商売のお客も、このごろでは熊谷や妻沼のほうより、むしろ加須、大越、古河に多くなった。
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父の商売の得意先もこのごろでは熊谷妻沼方面よりむしろ加須、大越、古河に多くなった。
はなれていて、土曜日に来るのを待つのもつらい。
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離れていて、土曜日に来るのを待つのもつらい。
「それにお前も、もう年ごろだから、ちょうどいい人があったら一人お嫁をもらって、私にも安心させておくれよ」
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「それにお前も、もう年ごろだから、相応なのがあったら一人嫁をもらって、私にも安心させておくれよ」
母はこう言って笑った。
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母はこう言って笑った。
清三は、以前のように反対しようともしなかった。
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清三は以前のように反対しようともしなかった。
昨年とくらべると、心もよほど弱くなってきた。
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昨年からくらべると、心もよほど折れてきた。
たえず胸をゆさぶった「東京へ」
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たえず動揺した「東京へ」
の思いも、だいぶ薄らいだ。
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もだいぶ薄らいだ。
ある時、小畑に出す手紙に「あのころのしら滝も、知らず知らずのうちについに母を守る子になろうとしております」
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ある時小畑へやる手紙に、「当年のしら滝は知らずしらずの間に終に母を護るの子たらんといたし居り候」
と書いたこともある。
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と書いたこともある。
「羽生がいいよ……あまり田舎でもしかたがないし、羽生なら知っている人も二、三人はいるからね」
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「羽生がいいよ……あまり田舎でもしかたがないし、羽生なら知ってる人も二三人はあるからね」
母がこう言うと、
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母がこう言うと、
「そうだ、引っこすなら羽生がいい。お客のところにもちょうどつごうがいい」
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「そうだ、引っ越すなら、羽生がいい。得意先にもちょうどつごうがいい」
父も、同じ考えである。
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父も同意する。
そこには和尚さんもいれば、荻生さんもいる。
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そこには和尚さんもいれば、荻生さんもいる。
学校にも六キロぐらいしかないから、通うのにもそう苦しくはない。
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学校にも一里半ぐらいしかないから、通うのにもそう難儀ではない。
清三も、こう思った。
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清三もこう思った。
荻生さんにも、たのんだ。
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荻生さんにも頼んだ。
ある日曜日、父親といっしょに羽生に出かけて行ってみたこともあった。
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ある日曜日を父親といっしょに羽生に出かけて行ってみたこともあった。
その日は第二軍が遼東半島に上陸したという知らせの来た日で、一週間ほど前の九連城の勝利とともに、人々の心はまったくそれにうばわれてしまった。
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その日は第二軍が遼東半島に上陸した公報の来た日で、一週間ほど前の九連城戦捷とともに人々の心はまったくそれに奪われてしまった。
街道にも町にも、国旗が軒ごとにたえず続いた。
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街道にも町にも国旗が軒ごとにたえず続いた。
「万歳、万歳!」
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「万歳、万歳!」
とつぜん、町の横町から小おどりして飛び出して来る人もあった。
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突然町の横町からこおどりして飛んで出て来るものもあった。
どこの家でもその話ばかりで持ちきりで、貸家などを教えてくれる人もなかった。
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どこの家でもその話ばかりで持ち切って、借家などを教えてくれるものもなかった。
ねぎ、しゅろ、ひるがお、ままこのしりぬぐいなどが咲き、梨、桃、梅の実は小指の頭ぐらいの大きさになる。
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ねぎ、しゅろ、ひるがお、ままこのしりぬぐいなどが咲き、梨、桃、梅の実は小指の頭ぐらいの大きさになる。
ところどころに茶つみをする女の赤いたすきと白い手ぬぐいとが見え、はだかで茶をもんでいる職人の歌が通りに聞こえた。志多見原には、いちやくそう、たかとうだいなどの花があった。
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ところどころに茶摘みをする女の赤い襷と白い手拭いとが見え、裸で茶を製している茶師の唄が通りに聞こえた、志多見原にはいちやくそう、たかとうだいなどの花があった。
やがて麦の根元は黄ばみ、菖蒲のつぼみは出て、かしの花は散り、にわやなぎの花は咲いた。
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やがて麦の根元は黄ばみ、菖蒲の蕾は出で、樫の花は散り、にわやなぎの花は咲いた。
蚕は、すでに三度目のねむりを過ぎた。
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蚕はすでに三眠を過ぎた。
続いて、しらん、ぎしぎし、たちあおい、かわほね、のいばら、つきみそう、てっせん、かなめ、せきちくなどが咲き、うらの畑の桐の花は高くかおった。
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続いてしらん、ぎしぎし、たちあおい、かわほね、のいばら、つきみそう、てっせん、かなめ、せきちくなどが咲き、裏の畑の桐の花は高く薫った。
かや、あし、まこも、すげなどの葉もしげって、よしきりがしきりに鳴く。
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かや、あし、まこも、すげなどの葉も茂って、剖葦はしきりに鳴く。
金州の戦い、大連湾の占領――第三軍の組み立て、旅順のうしろからの攻げき。
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金州の戦い、大連湾の占領――第三軍の編制、旅順の背面攻撃。
「敵も旅順は強くふんばるつもりらしいですな。どうも海軍だけではだめのようですな」
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「敵も旅順は頑強にやるつもりらしいですな。どうも海軍だけではだめのようですな」
などと、校長が言った。
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などと校長が言った。
旅順が落ちる日が、同僚の間で予想される。
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旅順の陥落についての日が同僚の間に予想される。
ある人は六月のなかごろと言い、ある人は七月の初めと言い、ある人は八月にはどんなにおくれても落ちるだろうと言った。
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あるいは六月の中ごろといい、あるいは七月の初めといい、あるいは八月にはどんなにおくれても取れるだろうと言った。
やがて、にわとり一羽とたまご十五個のかけをしようということになる。
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やがて鶏一羽と鶏卵十五個の賭をしようということになる。
そして落ちたという知らせが届いた日には、休日であろうが何であろうが、職員みんなで学校に集まって大きなお祝いの会を開こうと決めた。
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そして陥落の公報が達した日には、休日であろうがなんであろうが、職員一統学校に集まって大々的祝宴会を開こうと決議した。
六月にはいると麦は黄色く実って刈り取られ、きゅうりの短いくきに花がつき、水草のあるところにはほたるがやみをぬって飛んだ。
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六月にはいると、麦は黄熟して刈り取られ、胡瓜の茎短きに花をもち、水草のあるところには螢が闇を縫って飛んだ。
ほそい、ゆきのした、のびる、どくだみ、かもじぐさ、なわしろいちご、つゆくさなどが咲いた。
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ほそい、ゆきのした、のびる、どくだみ、かもじぐさ、なわしろいちご、つゆぐさなどが咲いた。
雨は降っては晴れ、晴れてはまた降った。
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雨は降っては晴れ、晴れてはまた降った。
ある日、美穂子の兄からめずらしくはがきが届いた。
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ある日、美穂子の兄からめずらしくはがきが届いた。
彼は士官学校を受けたが不合格で、今では一年志願兵になって麻布の留守師団にいた。
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かれは士官学校を志願したが、不合格で、今では一年志願兵になって、麻布の留守師団にいた。
「十のうち八か九は戦地に行く見こみあり、よかったと祝ってくれ」
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「十中八九は戦地におもむく望みあり、幸いに祝せよ」
と、得意そうに書いてあった。
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と得意そうに書いてあった。
それに限らず彼は、野から畑から町から、すきを捨て、そろばんを捨て、筆を捨てて国のために向かう人々を見て、心を動かさずにはいられなかった。
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それに限らず、かれは野から畠から町から鋤犁を捨て算盤を捨て筆を捨てて国事におもむく人々を見て、心を動かさざるを得なかった。
海の外では、同じ国の人が汗を流し血を流して国のために戦っている。
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海の外には同胞が汗を流し血を流して国のために戦っている。
そこには、新しい意味と新しい努力がある。
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そこには新しい意味と新しい努力がある。
ふだんは政治の考えがちがう政治家も心を一つにして国につくし、お金を守ることばかり考える金持ちも喜んで戦争のためのお金を出し、国じゅうが一つになって、めったにない大きなことが着々と行われている。
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平生政見を異にした政治家も志を一にして公に奉じ、金を守るにもっぱらなる資本家も喜んで軍事公債に応じ、挙国一致、千載一遇の壮挙は着々として実行されている。
新聞には日ごとに勇ましい最期をとげた士官や、勇かんな手がらを立てた兵士の記事が満ちあふれ、それに続いて各地方の団体の熱心な国を思う気持ちの様子が、目に見えるように書かれてある。
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新聞紙上には日ごとに壮烈なる最後をとげた士官や、勇敢なる偉勲を奏した兵士の記事をもって満たされ、それにつづいて各地方の団隊の熱心なる忠君愛国の状態が見るように記されてある。
「自分も体が丈夫なら――三年前の検査で兵に向かないというあわれな判定でなかったなら、満州の野で同じ国の人とともに銃を取り剣をふるって、わずかながらも国のためにつくすことができただろうに」
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「自分も体が丈夫ならば――三年前の検査に戊種などという憐むべき資格でなかったならば、満洲の野に、わが同胞とともに、銃を取り剣をふるって、わずかながらも国家のためにつくすことができたであろうに」
などと思うことも、一度や二度ではなかった。
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などと思うことも一度や二度ではなかった。
彼はまた、第二軍の写真班の一人として戦地に行った原杏花の記録が、このごろ「日露戦争実記」
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かれはまた第二軍の写真班の一員として従軍した原杏花の従軍記のこのごろ「日露戦争実記」
に出始めたのを喜んで読んだ。
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に出始めたのを喜んで読んだ。
恋を書き、少女をえがき、空想を命とした作家が、ある時は大ほうのけむりの立ちこめる野に、ある時は死体の横たわるざんごうに、ある時は機関ほうがすさまじく鳴るおかの上に、そのさまざまな気持ちと場面を書いた文章は、少なくとも彼の想像をそこに連れて行くのに十分であった。
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恋愛を書き、少女を描き、空想を生命とした作者が、あるいは砲煙のみなぎる野に、あるいは死屍の横たわれる塹壕に、あるいは機関砲のすさまじく鳴る丘の上に、そのさまざまの感情と情景を叙した筆は、少なくともかれの想像をそこにつれて行くのに十分であった。
三年前にしゃれた麦わらぼうしをかぶって羽生の寺の山門からはいって来たその人――よって詩をうなり、はては本堂の木魚やかねをたたいたその人が、第二軍の司令部について、その混乱した戦争のうずの中にはいっているかと思うと、いっそうその記事がはっきりと目に映るような気がする。
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三年前にイタリヤンストロウの意気な帽子をかぶって、羽生の寺の山門からはいって来たその人――酔って詩を吟じて、はては本堂の木魚や鐘をたたいたその人が、第二軍の司令部に従属して、その混乱した戦争の巴渦の中にはいっているかと思うと、いっそうその記事がはっきりと眼にうつるような気がする。
急いで進む大ほうの車、軍の司令官が戦場に向かう朝の行進、大ほうの音を前にした茶色のはげたおか。そのあわただしさの中を、水とうをかたからかけ、ピストルを腰に巻いて、手帳とえん筆とを手にして飛び回っている一人の文学者の姿を、彼はうらやましく思った。
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急行軍の砲車、軍司令官の戦場におもむく朝の行進、砲声を前景にした茶褐色のはげた丘、その急忙の中を、水筒を肩からかけ、ピストルを腰に巻いて、手帳と鉛筆とを手にして飛んで歩いている一文学者の姿をかれはうらやましく思った。
ある日、和尚さんに、
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ある日和尚さんに、
「原さんからもお便りがありますか」
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「原さんからもお便りがありますか」
と聞くと、
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と聞くと、
「ええ、この間金州から絵はがきが来ました」
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「え、この間金州から絵葉書が来ました」
と和尚さんは机の上から、軍事郵便と赤い判の押してある一枚の絵はがきを取って見せた。
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と和尚さんは机の上から軍事郵便と赤い判の押してある一枚の絵ハガキを取って示した。
それには、同じく戦地に行った名の知れた画家が、死体のそばに菖蒲がむらさきに咲いているところをえがいていた。
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それには同じく従軍した知名な画家が死屍のそばに菖蒲が紫に咲いているところを描いていた。
「いい記念ですな」
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「いい記念ですな」
「ええ、こういう花がたくさん戦場に咲いているとみえますな」
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「え、こういう花がたくさん戦場に咲いてるとみえますな」
「戦いの記録にも書いてありましたよ」
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「戦記にも書いてありましたよ」
と、清三は言った。
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と清三は言った。
四十九
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四十九
つゆの中に、一日カッと晴れた日があった。
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梅雨の中に一日カッと晴れた日があった。
薄い灰色の中からあざやかな青い空が見えて、光があふれるように青葉に照った。
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薄い灰色の中からあざやかな青い空が見えて、光線がみなぎるように青葉に照った。
行田からの帰り道、長野の常行寺の前まで来ると、何かあるらしく、山門の前には人が多く集まってがやがやと話している。
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行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。
小学校の生徒の列も見えた。
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小学校の生徒の列も見えた。
青葉の中から、白い旗がなびいた。
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青葉の中から白い旗がなびいた。
戦死した人のお葬式があるのだということが、やがてわかった。
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戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。
清三は、山門の中にはいってみた。
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清三は山門の中にはいってみた。
白い旗には、近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。
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白い旗には近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。
五月十日の戦いで、靉河の右岸で戦死したのだという。
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五月十日の戦いに、靉河の右岸で戦死したのだという。
えん尾服を着た知事の代わりの人や、制服をつけた警部長や、羽織はかまの村長などがみなお葬式に出た。
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フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴の村長などがみな会葬した。
村の世話役が、あちこちにいそがしそうにそこらを歩いている。
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村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。
遺骨をおさめたひつぎは、白いぬので巻かれて本堂にすえられてあった。
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遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。
ちょうど住職のお経がすんで、知事の代わりの人がお別れの文を読むところであった。
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ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文を読むところであった。
その太くさびた声が、ひとしきり広い本堂にひびきわたった。
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その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。
やがてそれに続いて小学校の校長のお別れの文がすむと、今度は戦死した人の親友であったという先生が、りっぱな紙に書いたお別れの文を高くささげて、ふるえるような声で読み始めた。
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やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。
その声は、ときどきとぎれてはまた続いた。
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その声は時々絶えてまた続いた。
むせび泣く声が、あちこちから起こった。
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嗚咽する声があっちこっちから起こった。
ひつぎが墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、きちんとこれを見送った。
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柩が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。
それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。
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それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。
軍の司令部といっしょに原杏花が出発する時、小学校の生徒が両側に整列して万歳を唱えた。
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軍司令部といっしょに原杏花が出発する時、小学校の生徒が両側に整列して、万歳を唱えた。
その時彼は「お前たち、幼い次の時代の国民よ。国の将来はかかってお前たちのかたにあるのだ。すこやかであれ、お前たち幼い次の時代の国民よ」
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その時かれは「爾、幼き第二の国民よ、国家の将来はかかって汝らの双肩にあるのである。健在なれ、汝ら幼き第二の国民よ」
と心の中でさけんだ、と書いてある。
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と心中に絶叫したと書いてある。
その時ほど熱いなみだが胸にせまったことはなかった、と書いてある。
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その時ほど熱い涙が胸に迫ったことはなかったと書いてある。
清三も今、そうした思いに胸がいっぱいになった。
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清三も今そうした思いに胸がいっぱいになった。
幼い次の時代の国民にひつぎを送られる、一人の戦死した人のたましい――
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幼い第二の国民に柩を送られる一戦死者の霊――
大ほうのけむりの立ちこめた野で最後の苦しみを味わって冷たく横たわった一人の兵の姿と、こうしたつゆ晴れのあざやかなふるさとの日ざしのもとで悲しく行われるお葬式の様子とがいっしょになって、清三の目の前を通った。
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砲煙のみなぎった野に最後の苦痛をあじわって冷たく横たわった一兵卒の姿と、こうした梅雨晴れのあざやかな故郷の日光のもとに悲しく営まれる葬式のさまとがいっしょになって清三の眼の前を通った。
「どうせ人は一度は死ぬんだ」
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「どうせ人は一度は死ぬんだ」
こう思った彼のほおには、なみだがこぼれた。
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こう思ったかれの頬には涙がこぼれた。
彼はいつのまにか寺を出て、例の街道を歩いていた。
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かれはいつか寺を出て、例の街道を歩いていた。
光は、キラキラした。
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光線はキラキラした。
青葉と青空の雲のかげとが、野の上にあった。
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青葉と青空の雲の影とが野の上にあった。
二、三日前からしきりに知らされる壱岐沖の常陸丸のそうなんと、得利寺での陸軍の勝利とが、くり返しくり返し思い出される。
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二三日前からしきりに報ぜられる壱岐沖の常陸丸遭難と得利寺における陸軍の戦捷とがくり返しくり返し思い出される。
初瀬、吉野、宮古がしずんだことなども考えて、「はたして最後の勝利を得ることができるだろうか」
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初瀬吉野宮古の沈没などをも考えて、「はたして最後の勝利を占めることができるだろうか」
という不安な思いも起こった。
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という不安の念も起こった。
野にとうご草があるのを見て、それを取った。
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野にとうご草があるのを見て、それをとった。
そばにある名を知らない赤い草花は学校の花だんに植えようと思って、根からほって紙に包み、よごれた手をみそはぎのしげる小川で洗った。
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そばにある名を知らぬ赤い草花は学校の花壇に植えようと思って、根から掘って紙に包み、汚れた手をみそはぎの茂る小川で洗った。
ふとおととい浦和のひで子から来た手紙を思い出して、考えはそれに移る。
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ふと一昨日浦和のひで子から来た手紙を思い出して、考えはそれに移る。
羽生に引っこしてからの新しい家に、あの明るい笑顔を得られたなら、どんなに幸せだろうと思った。
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羽生に移転してからの新家庭に、そのあきらかな笑顔を得たならば、いかに幸福であろうと思った。
彼はこのごろ、ひで子を自分の家に引きつけて考えることが多くなった。
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かれはこのごろひで子を自分の家庭にひきつけて考えることが多くなった。
羽生町の入り口では東武鉄道の工事の人がしきりに開通の工事にいそがしくしていたが、そのそばのわらぶきの家には、色のさめた国旗がヒラヒラと日に光った。
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羽生町の入り口では、東武鉄道の線路人夫がしきりに開通工事に忙しがっていたが、そのそばの藁葺家には、色のさめた国旗がヒラヒラと日に光った。
五十
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五十
羽生に引っこす前の日の日記に、彼はこう書いた。
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羽生に移転する前日の日記に、かれはこう書いた。
「二十六年にふるさとを出て、熊谷の桜の近くに住むこと数年、三十三年にはここ忍沼のほとりに移り、それからまた数年たたないうちに、かたつむりのように、また重くもないからを背負って、利根川のほとり羽生に移ろうとしている。不思議なのは運命というもの、おもしろいのは人生というもの。ふり返ってみて、笑って昔の古びた城下の緑を出て去るだけだ。歴史のページは、このように、またこのようにして改められていくのだろう」
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「二十六年故山を出でて、熊谷の桜に近く住むこと数年、三十三年にはここ忍沼のほとりに移りてより、また数年を出でずして蝸牛のそれのごとく、またも重からぬ殻を負ひて、利根河畔羽生に移らんとす。奇しきは運命のそれよ、おもしろきは人生のそれよ、回顧一番、笑って昔古びたる城下の緑を出でて去らんのみ。歴史の章はかくのごとく、またかくのごとくして改められん」
羽生の大通りをちょっとうらにはいったところに、その貸家があった。
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羽生の大通りをちょっと裏にはいったところにその貸屋があった。
さがしてくれたのは荻生さんで、持ち主は二、三年前まで通りで商売をしていた五十ばかりの、気のよさそうな人であった。
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探してくれたのは荻生さんで、持主は二三年前まで、通りで商売をしていた五十ばかりの気のよさそうな人であった。
下が六畳に四畳半、二階が六畳、前に小さな庭があって、そこに背の低い柿の木がしげっていた。
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下が六畳に四畳半、二階が六畳、前に小さな庭があって、そこに丈の低い柿の木が繁っていた。
家賃が二円五十銭、しききんが三か月分あるのだが、荻生さんのお友だちならそれはなくてもよいという。
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家賃が二円五十銭、敷金が三月分あるのだが、荻生さんのお友だちならそれはなくってもよいという。
父親もお客回りのついでに寄ってみて、「まあ、あれならいい!」
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父親も得意回りのついでに寄ってみて、「まア、あれならいい!」
と賛成した。
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と賛成した。
一週間の農作業のための休みを使って、いよいよ引っこすことになった。
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一週間の農繁休暇を利用して、いよいよ移転することになった。
ふだん親しくした友だちは多くが散り散りになって、その時町にいる人は活版屋をしている沢田君ぐらいのものであった。
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平生親しくした友だちは多くは離散して、その時町にいるものは、活版屋をしている沢田君ぐらいのものであった。
清三は、行き来した友の家々に別れのあいさつをして歩いた。
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清三はその往来した友の家々を暇乞いをして歩いた。
北川の家には、母親が一人いた。
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北川の家には母親が一人いた。
入り口ですまそうとするのを、「まあまあ、ほんとうにお久しぶりでしたね」
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入り口ですまそうとするのを、「まアまアほんとうにお久しぶりでしたね」
と、無理に奥の座敷へ通された。
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と無理に奥の座敷へと請された。
美穂子については、「あれも今年は卒業するのですけれど、しっかりしていなくて、学校がつとまりますかどうですか」
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美穂子については、「あれも今年は卒業するのですけれど、意気地がなくって、学校が勤まりますかどうですか」
などと言った。
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などと言った。
引っこしのことを聞いては「まあまあ、お名残りおしい……けれどまあ、あなたの身の振り方も決まってお引っこしなさるんですから、けっこうですねえ。お母さんもさぞお喜びでしょう。薫がいればお手伝いぐらいいたすんですけれど、あれもこの七月には戦地に参るそうですから……」
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移転のことを聞いては「まアまアお名残り惜しい、……けれどまア貴君の身体がおきまりになって、お引っ越しなさるんですから、結構ですねえ、お母さんもさぞお喜びでしょう。薫がおれば、お手伝いぐらいいたすんですけれど、あれもこの七月には戦地に参るそうですから……」
それからそれと、戦争の話や町の話が続いた。
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それからそれと、戦争の話やら町の話やらが続いた。
母親の目には、青白い顔をした、目のにごった、体のやせた清三の姿が映った。
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母親の眼には、蒼白い顔をした眼の濁った体のやせた清三の姿がうつった。
忍沼のさびた色の水には、みぞかくしの花がところどころに白く見えた。
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忍沼のさびた水にはみぞかくしの花がところどころに白く見えた。
加藤の家には母親も繁子も留守で、めずらしく父親がいた。
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加藤の家には母親も繁子も留守で、めずらしく父親がいた。
上がって、教育についての話などを一時間ばかりもした。
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上がって教育上の話などを一時間ばかりもした。
羽生からもう少し近いところにいい口があったら移らせてもらいたいということも、たのんだ。
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羽生からいますこし近いところにいい口があったら、転任させてもらいたいということをも頼んだ。
石川の店では、小僧がいそがしそうに客の相手をしていた。
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石川の店では、小僧が忙しそうに客に応対していた。
そこへ番頭が向こうから自転車をきしらせて帰って来て、ひらりと飛び下りた。
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そこへ番頭が向こうから自転車をきしらして帰って来て、ひらりと飛び下りた。
沢田さんは真っ黒になって働きながら、「こっちのほうに来た時にはぜひ寄ってください」
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沢田さんは真黒になって働きながら、「こっちのほうに来た時にはぜひ寄ってください」
と言った。
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と言った。
清三は最後に、弟の墓をたずねた。
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清三は最後に弟の墓を訪うた。
祖父の墓は、足利にある。
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祖父の墓は足利にある。
祖母の墓は、熊谷にある。
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祖母の墓は熊谷にある。
こうしてところどころに墓を残して行く一家のさすらいの暮らしを、彼は考えて暗い気持ちになった。
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こうして、ところどころに墓を残して行く一家族の漂泊的生活をかれは考えて黯然とした。
一人よその土地に残される弟はさびしいだろう、などとも思った。
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一人他郷に残される弟はさびしかろうなどとも思った。
あじさいの花が、墓を明るくした。
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あじさいの花は墓を明るくした。
道具らしい道具もない一家の引っこしの準備は、簡単であった。
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道具とてもない一家の移転の準備は簡単であった。
たんすと戸だなとをこもでしばり、ふとんを大きな風呂敷で包んだ。
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箪笥と戸棚とを薦でからげ、夜具を大きなさいみの風呂敷で包んだ。
やきものはすべてこわれないように、たんすの着物の中やふとんの中などに入れた。
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陶器はすべて壊れぬように、箪笥の衣類の中や蒲団の中などに入れた。
最後につばきや南天や草花などをほって、根をこもで包んで庭のすみに置いた。
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最後に椿や南天の草花などを掘って、根を薦包みにして庭の一隅に置いた。
降るかと思った空は、午前のうちに晴れた。
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降るかと思った空は午前のうちに晴れた。
荷物をたくさん積んだ三台の引っこし車が、ガラガラと町の大通りをきしって行く。
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荷物を満載した三台の引っ越し車はガラガラと町の大通りをきしって行く。
ところどころで、母親と清三とが知り合いに出くわしてあいさつしている様子がうき出すように見える。
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ところどころで、母親と清三とが知人にでっくわして挨拶しているさまが浮き出すように見える。
車の一番上に積まれた紙くずかごにつめたランプのガラスが、キラキラ光る。
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車の一番上に積まれた紙屑籠につめたランプのホヤがキラキラ光る。
長野の手前で、額が落ちかかりそうになったのを清三は直した。
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長野の手前で、額が落ちかかりそうになったのを清三は直した。
母親はにこにことうれしそうな顔で、いろいろな話をしながら歩いて行く。
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母親はにこにことうれしそうな顔色で、いろいろな話をしながら歩いて行く。
熊谷から行田に引っこした時の話も出る。
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熊谷から行田に移転した時の話も出る。
「こうしてたいしためいわくを人にもかけずに、昼間引っこして行けるのは、みんなお前のおかげだよ」
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「こうして、たいした迷惑を人にもかけずに、昼間引っ越して行かれるのは、みんなお前のおかげだよ」
などと言った。
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などと言った。
長野をはずれようとするところで、向こうから号外売りがいきおいよく鈴を鳴らして走って来た。
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長野をはずれようとするところで、向こうから号外売りが景気よく鈴を鳴らして走って来た。
清三は呼びとめて、一枚買った。
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清三は呼びとめて一枚買った。
竹敷を出た上村艦隊が暴風雨のために敵をのがして帰って来たということが書いてある。
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竹敷を出た上村艦隊が暴雨のために敵を逸して帰着したということが書いてある。
車引きは「残念ですなあ。敵をのがしてしまって……常陸丸ではこの近くで死んだ人がいくらもいるですぜ。佐間では三人まであるですぜ」
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車力は「残念ですなア。敵をにがしてしまって……常陸丸ではこの近辺で死んだ人がいくらもあるですぜ。佐間では三人まであるですぜ」
などと話し合った。
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などと話し合った。
ある大きな農家のへいの前では、ふだん引っこし車などを見なれないので犬がほえた。
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ある豪農の塀の前では、平生引っ越し車などに見なれないので犬がほえた。
はんの木の並木にそった小川では、子どもがどろだらけになって網で雑魚をすくっている。
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榛の並木に沿った小川では、子供が泥だらけになって、さで網で雑魚をすくっている。
まゆ売りの車が、ぞろぞろ通った。
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繭売りの車がぞろぞろ通った。
新しい家では、今朝早く来た父親と、局を休んで手伝いに来てくれた荻生さんとが、バタバタとたたみをたたいたり、ぞうきんがけをしたり、破れた障子をつくろったりしていた。
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新しい家では、今朝早く来た父親と、局を休んで手伝いに来てくれた荻生さんとが、バタバタ畳をたたいたり、雑巾がけをしたり、破れた障子をつくろったりしていた。
大家さんは火ばちとお茶の道具とを運んで来て、にこにこ笑いながら「何かいるものがありましたら、えんりょなくおっしゃい」
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大家さんは火鉢と茶道具とを運んで来て、にこにこ笑いながら、「何かいるものがありましたなら遠慮なくおっしゃい」
と言って、はげ頭にほおかぶりをして着物のすそをまくった父親の姿を立って見ていた。
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と言って、禿頭に頬冠をして尻をまくった父親の姿を立って見ていた。
それも十二時ごろにはたいてい片づいて、蕎麦屋からは蕎麦を持って来る。
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それも十二時ごろにはたいてい片づいて、蕎麦屋からは蕎麦を持って来る。
荻生さんは、買って来た大福餅を竹の皮包みから出してほおばる。
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荻生さんは買って来た大福餅を竹の皮包みから出してほおばる。
そこの小道にガタガタと車のはいる音がして、清三と母親の顔が見えた。
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そこの小路にガタガタと車のはいる音がして、清三と母親の顔が見えた。
車引きはなわをといて、荷物を庭口からえん側へと運び入れる。
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車力は繩をといて、荷物を庭口から縁側へと運び入れる。
父親と荻生さんが先に立って、たんすや行李や戸だなやふとんを部屋に運ぶ。
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父親と荻生さんが先に立って箪笥や行李や戸棚や夜具を室内に運ぶ。
長火ばちやたんすの置き場所を、あれのこれのと考える。
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長火鉢、箪笥の置き場所を、あれのこれのと考える。
母親はたすきがけになって台所の道具を片づけていたが、そこに清三が外から来て、息を切らして水を飲んだ。
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母親は襷がけになって、勝手道具を片づけていたが、そこに清三が外から来て、呼吸をきらして水を飲んだ。
母親は手をとめて、じっと見て、
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母親は手をとどめて、じっと見て、
「どうしたの?」
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「どうしたの?」
「少し手伝ったら、息が切れてしかたがない」
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「少し手伝ったら、呼吸がきれてしかたがない」
「お前は無理をしてはいけないよ。父さんがするから、あまり働かずにおいで」
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「お前は無理をしてはいけないよ。父さんがするから、あまり働かずにおおきよ」
このごろ、とくに弱くなった清三が、母親にはこのうえない心配の種であった。
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このごろ、ことに弱くなった清三が、母親にはこのうえない心配の種であった。
やがて、どうやらこうやらあたりが片づく。
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やがてどうやらこうやらあたりが片づく。
「こうしてみると、なかなか住み心地がいい」
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「こうしてみると、なかなか住心地がいい」
と、父親は長火ばちの前でお茶を飲みながら言った。
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と父親は長火鉢の前で茶を飲みながら言った。
車引きは庭のえん側に並んで、ふるまわれた蕎麦をズルズルすすった。
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車力は庭の縁側に並んで、振舞われた蕎麦をズルズルすすった。
清三と荻生さんは、二階に上がって話した。
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清三と荻生さんは二階に上がって話した。
南と西北とがあいているので、風通しがいい。
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南と西北とがあいているので風通しがいい。
それにうらの大家の庭には、栗や柿やもくせいやさるすべりがしげっている。
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それに裏の大家の庭には、栗だの、柿だの、木犀だの、百日紅だのが繁っている。
青空にういた白い雲が日の光を帯びて、緑とともに光る。
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青空に浮いた白い雲が日の光を帯びて、緑とともに光る。
二人が足を投げ出してのんきに話をしていると、そこに母親がお茶をいれて持って来てくれる。
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二人は足を投げ出して、のんきに話をしていると、そこに母親が茶をいれて持って来てくれる。
大福餅を、二人で食べた。
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大福餅を二人して食った。
夜、清三は二階にねた。
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夜は清三は二階に寝た。
久しぶりで、家族そろって楽しく過ごす気持ちを味わったような気がする。
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久しぶりで家庭の団欒の楽しさを味わったような気がする。
雨戸を一枚あけたところから緑を通したすずしい夜風がはいって、かやの青いかげがかすかに動いた。
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雨戸を一枚あけたところから、緑をこしたすずしい夜風がはいって、蚊帳の青い影がかすかに動いた。
彼は真ん中に広くふとんをしいて、やみの空にチラチラする星のかげを見ながらねた。
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かれはまんなかに広く蒲団を敷いて、闇の空にチラチラする星の影を見ながら寝た。
母親が階だんを上がって来て、あけ放した雨戸をそっと閉めて行ったのは、もう知らなかった。
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母親が階段を上って来て、あけ放した雨戸をそッとしめて行ったのはもう知らなかった。
翌日は弥勒に出かけて、人をたのんで本や寝具などを運んで来た。
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翌日は弥勒に出かけて、人夫を頼んで、書籍寝具などを運んで来た。
二階の六畳を書斎に決めて、机は北向きに、本箱はかべにつけて並べておき、小さな床の間には古い掛け軸をかけた。
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二階の六畳を書斎にきめて、机は北向きに、書箱は壁につけて並べておいて、三尺の床は古い幅物をかけた。
荻生さんが持って来てくれた菖蒲の花に千鳥草をまぜて、相馬焼きの花びんにさした。
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荻生さんが持って来てくれた菖蒲の花に千鳥草を交ぜて相馬焼きの花瓶にさした。
「こうしてみると、学校の宿直室よりはいくらいいかしれないね」
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「こうしてみると、学校の宿直室よりは、いくらいいかしれんね」
と、荻生さんはあたりを見回して言った。
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と荻生さんはあたりを見回して言った。
親しい友だちが同じ町に引っこして来たので、なんとなくうれしそうににこにこしている。
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親しい友だちが同じ町に移転して来たので、なんとなくうれしそうににこにこしている。
寺の本堂に下宿しているころは、清三は荻生さんをただ情の厚い人、親切な友人と思っただけで、自分の志や学問を語る相手としてはいつも物足りなく思っていた。
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寺の本堂に寄宿しているころは、清三は荻生さんをただ情に篤い人、親切な友人と思っただけで、自分の志や学問を語る相手としてはつねに物足らなく思っていた。
どうしてああ、上を目指す気持ちがないのだろう。
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どうしてああ野心がないだろう。
どうしてああ、ふつうの平凡な世の中に安心していられるのだろうと思っていた。
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どうしてああ普通の平凡な世の中に安心していられるだろうと思っていた。
時には、自分とは人間の種類がちがうのだとさえ思ったことがある。
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時には自分とは人間の種類が違うのだとさえ思ったことがある。
それが今では、まるで変わった。
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それが今ではまるで変わった。
彼は日記に「荻生君は自分の心の友である。損得や道理でこの間をこわすことはできない」
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かれは日記に「荻生君はわが情の友なり、利害、道義もってこの間を犯し破るべからず」
と書いた。
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と書いた。
また「かつてこの友を平凡だと見たのは、自分の目が育っていなかったためにすぎない。荻生君にくらべれば、自分はまったく世の中を知らず、人の情がわからない。小畑や加藤もこの友にくらべれば同じだ。今にして初めて、平凡なことの偉大さを知る」
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また「かつてこの友を平凡に見しは、わが眼の発達せざりしためのみ。荻生君に比すれば、われははなはだ世間を知らず、人情を解せず、小畑加藤をこの友に比す、今にして初めて平凡の偉大なるを知る」
と書いた。
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と書いた。
前の足袋屋からは天ぷら、大家からは川魚の塩焼きを、引っこしのお祝いとして重箱に入れてもらった。
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前の足袋屋から天ぷら、大家から川魚の塩焼きを引っ越しの祝いとして重箱に入れてもらった。
どちらも「あいそ」
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いずれも「あいそ」
という、うろこのあらい、腹の側が紅い色をした魚で、今が利根川で取れる季節だという。
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という鱗のあらい腹の側の紅い色をした魚で、今が利根川でとれる節だという。
米屋、炭屋、まき屋なども通い帳を持って来た。
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米屋、炭屋、薪屋なども通いを持って来た。
父親は、となり近所の組合を一けん一けん回って歩いた。
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父親は隣近所の組合を一軒一軒回って歩いた。
清三は午後から二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに引っこしのはがきを書いた。
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清三は午後から二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書を書いた。
寺にも出かけて行ったが、ちょうどお葬式で和尚さんはいそがしくしていたので、引っこしのことを知らせておいて帰って来た。
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寺にも出かけて行ったが、ちょうど葬式で、和尚さんは忙しがっていたので、転居のことを知らせておいて帰って来た。
大家の主人は、おもしろい話好きの人であった。
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大家の主人はおもしろい話好きの人であった。
店は息子にゆずって、自分は貸家を五けんほど持ち、年とった妻と二人で暮らしているというのんきな身分。つりと植木が大好きで、朝早く大きな麦わらぼうしをかぶり、かごを下げ、つりざおを持って、きりの深い中にむくげが赤く白く見えるかきねの間の道を、てくてくと出かけて行く。
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店は息子に譲って、自分は家作を五軒ほど持って、老妻と二人で暮らしているというのんきな身分、釣と植木が大好きで、朝早く大きな麦稈帽子をかぶって、笭箵を下げて、釣竿を持って、霧の深い間から木槿の赤く白く見える垣の間の道を、てくてくと出かけて行く。
そして日の暮れるころには、かごの中に金色をした鮒や鯉をゴチャゴチャ入れて帰って来る。
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そして日の暮れるころには、笭箵の中に金色をした鮒や鯉をゴチャゴチャ入れて帰って来る。
借りて住んでいる人は、ときどきすりばちにみごとな鮒を入れてもらうことなどもある。
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店子はおりおり擂り鉢にみごとな鮒を入れてもらうことなどもある。
つりに行かない時は、たいてい腰を曲げて盆栽や草花などをていねいにいじっている。
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釣に行かぬ時は、たいてい腰を曲げて盆栽や草花などを丹念にいじくっている。
そうかといって、べつにたいしたものがあるわけでもない。
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そうかといってべつにたいしたものがあるのでもない。
かえでにけやきにひのきに蘇鉄ぐらいのものだが、それを内に入れたり出したりして、楽しそうにながめている。
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楓に、欅に、檜に、蘇鉄ぐらいなものだが、それを内に入れたり出したりして、楽しみそうに眺めている。
花だんにはいろいろ西洋の種もまいて、ダリアや遊蝶草などが咲いている。
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花壇にはいろいろ西洋種もまいて、天竺牡丹や遊蝶草などが咲いている。
コスモスも、だいぶ大きくなった。
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コスモスもだいぶ大きくなった。
またときどきは、はだしになってかきねのすみの畑を一生けんめいに耕していることなどもあった。
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また時には、はだしになって垣の隅の畠を一生懸命に耕していることなどもあった。
農作業のための休みは、なおしばらく続いた。
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農繁休暇はなおしばし続いた。
一週間で授業を始めてみたが、麦刈りや養蚕や田植えなどがまだすっかり終わらないので、出席する生徒の数は三分の一にも満たなかった。
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一週間で授業を始めてみたが、麦刈り養蚕田植えなどがまだすっかり終わらぬので、出席生徒の数は三分の一にも満たなかった。
それで、もう一週間休みを続けることにする。
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で、いま一週間休暇をつづけることにする。
清三は午後は、二階の風通しのいいところでよく昼ねをした。
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清三は午後は二階の風通しのいいところでよく昼寝をした。
あまり長くねこんで西日に照らされ、あせをぐっしょりかいていることなどもあった。
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あまり長く寝込んで西日に照らされて、汗をぐっしょりかいていることなどもあった。
町も町の外もしばらくの間はめずらしく、雨の降らない日にはたいてい画板をかついで写生に出かけた。
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町も郊外もしばしの間はめずらしく、雨の降らぬ日には、たいてい画架をかついで写生に出かけた。
警察のそばの道にそったきたないみぞには白い小さい花がポチポチ咲いて、さびた色の水に夢見るような赤いねむの花がかすかにうつった。
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警察のそばの道に沿った汚ない溝には白い小さい花がポチポチ咲いて、さびた水に夢見るような赤いねむの花がかすかにうつった。
寺の門、町はずれから見た日光の山々、桑畑のにわとり、道ばたのふき出る井戸、うどんひもかわと書いた障子などの写生が、だんだんできた。
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寺の門、町はずれから見たる日光群山、桑畑の鶏、路傍の吹き井、うどんひもかわと書いた大和障子などの写生がだんだんできた。
夜は、大家の中庭のえん側に行って話した。
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夜は大家の中庭の縁側に行って話した。
戦争の話が、いつも出る。
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戦争の話がいつも出る。
二、三日前に荻生さんから借りた戦争画報を二、三さつまた貸してやったが、それについていろいろな質問が出る。
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二三日前荻生さんから借りた戦争画報を二三冊また借してやったが、それについてのいろいろの質問が出る。
「どうも、もう旅順が落ちそうなものですがなあ」
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「どうももう旅順が取れそうなものですがなア」
といかにももどかしそうに主人は言って、「それにもう、陸軍のほうもよほど進んだんでしょう。第一軍は九連城を取ってから、まるで進まないじゃありませんか。第二軍は蓋平からもうよほど進んだんですか」
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とさももどかしそうに主人は言って、「それにもう、陸軍のほうもよほど行ったんでしょう。第一軍は九連城を取ってから、ねっから進まんじゃありませんか。第二軍は蓋平からもうよほど行ったんですか」
清三は新聞や雑誌で得た知識で、第一軍と第二軍が近いうちに連絡して遼陽のクロパトキン将軍の本部にせまる話をして聞かせた。
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清三は新聞や雑誌で、得た知識で、第一軍第二軍が近いうちに連絡して遼陽のクロパトキン将軍の本営に迫る話をして聞かした。
旅順のほうについては、海と陸からひしひしと押し寄せて敵はもうふくろのねずみになってしまったから、こちらのほうは遼陽より早く片づくはずである。
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旅順の方面については、海陸ともにひしひしと押し寄せて、敵はもう袋の鼠になってしまったから、こっちのほうは遼陽よりも早く片づくはずである。
「来月の十五日ぐらいまでにはきっと落ちるって校長なども言うんです。私はもう少しおそくなるかもしれないと思いますけれど、なにしろもうじきですな」
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「来月の十五日ぐらいまでにはきっと取れるッて校長なども言うんです。私はいま少し遅くなるかもしれないと思いますけれど、なにしろもうじきですな」
などと、清三は言って聞かせた。
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などと清三は言って聞かせた。
「なにしろ、日本は小さいけれども国じゅうが一つになっていますから、かないませんやな。どんなお百姓でも、字を知らない人でも、戦争といえば一生けんめいですからな……天子様も国民の後押しがあって、さぞお心強くていらっしゃるでしょう」
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「なにしろ、日本は小さいけれども、挙国一致ですからかないませんやな。どんな百姓でも、無知な人間でも、戦争ッていえば一生懸命ですからな……天子様も国民の後援があって、さぞ御心丈夫でいらっしゃるでしょう」
と感心したような調子で言って、「日本は昔からお武士でできた国ですからなあ!」
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と感嘆したような調子で言って、「日本は昔からお武士でできた国ですからなア!」
大家はまた、つりの話をして聞かせることがあった。
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大家はまた釣の話をして聞かせることがあった。
清三が胃や腸で悩んでいるとかいうのを聞いて、「どうです、一ついっしょに出かけてみませんか。そういう病気には、気が落ち着いてごくいいですがな」
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清三が胃腸を悩んでいるとかいうのを聞いて、「どうです、一ついっしょに出かけてみませんか。そういう病気には、気が落ち着いてごくいいですがな」
こんなことを言ってさそった。
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こんなことを言って誘った。
その場所はここから四キロぐらい行ったところで、田のところどころに掘り割りがある。
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その場所はここから一里ぐらい行ったところで、田のところどころに掘切がある。
そこにはあしやおぎが人をかくすくらいに深く生いしげっている。
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そこには葦荻が人をかくすぐらいに深く生い茂っている。
鮒や鯉やたなごなどのたくさんいるところと、いないところとがある。
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鮒や鯉やたなごなどのたくさんいるのといないのとがある。
そのいるところを、大家さんはよく知っていた。
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そのいるところを大家さんはよく知っていた。
二人が話しているえん側の上に、中年の品のいい奥さんは岐阜ちょうちんをつるしてくれた。
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二人で話している縁側の上に、中老の品のいい細君は、岐阜提灯をつるしてくれた。
時には、母親と荻生さんと三人つれ立って町を歩くこともあった。
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時には母親と荻生さんと三人つれだって町を歩くこともあった。
今年は「から梅雨」
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今年は「から梅雨」
で、雨が少なかった。
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で、雨が少なかった。
六月のなかごろに、すでに寒暖計が八十九度まで上がったことがあった。
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六月の中ごろにすでに寒暖計が八十九度まであがったことがあった。
七月にはいってからにわかに暑さが激しくなり、田舎町の夜にはえん台を店先に出して、白地のゆかたをくっきりとやみに見せ、うちわをバタバタさせている人たちが、そこにもここにも見えた。
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七月にはいってから、にわかに暑さが激しく、田舎町の夜には、縁台を店先に出して、白地の浴衣をくっきりと闇に見せて、団扇をバタバタさせている群れがそこにもここにも見えた。
母親は買い物をする町の店に慣れていないので、そうした夜の散歩には、荻生さんがここが乾物屋、ここが荒物屋、呉服屋ではこの家が一番しっかりしている、などと教えてくれた。
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母親は買い物をする町の店に熟していないので、そうした夜の散歩には、荻生さんがここが乾物屋、ここが荒物屋、呉服屋ではこの家が一番かたいなどと教えてくれた。
げた屋の店には、中年のおかみさんがげたの鼻緒の並んだ中に白い顔を見せてすわっていた。
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下駄屋の店には、中年のかみさんが下駄の鼻緒の並んだ中に白い顔を見せてすわっていた。
かじ屋にはランプが薄暗くついて、奥では話し声が聞こえていた。
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鍛冶屋にはランプが薄暗くついて、奥では話し声が聞こえていた。
水のような月が白い雲にかくれたり現れたりして、そのたびにもつれ合った三つのかげが街道に映ったり消えたりする。
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水のような月が白い雲に隠れたりあらわれたりして、そのたびごとにもつれた三つの影が街道にうつったり消えたりする。
用水の橋の上は、すずしかった。
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用水の橋の上は涼しかった。
すずみに出た人々が、ぞろぞろ通る。
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納涼に出た人々がぞろぞろ通る。
冬や春は川底にみそこしのこわれや、捨てたバケツや、やきもののかけらなどがきたならしく見えているのだが、このごろは水がいっぱいに満ちて流れる。それに月の光や、橋のそばに店を出している氷屋のちょうちんの光がチラチラとうつり、流れる水のかげが淡く暗く見える。
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冬や春は川底に味噌漉のこわれや、バケツの捨てたのや、陶器の欠片などが汚なく殺風景に見えているのだが、このごろは水がいっぱいにみなぎり流れて、それに月の光や、橋のそばに店を出している氷屋の提灯の灯影がチラチラとうつる、流れる水の影が淡く暗く見える。
向こうの料理店から、三味線の音が聞こえた。
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向こうの料理店から、三絃の音が聞こえた。
三人は、氷屋に休んで行くこともある。
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三人は氷店に休んで行くこともある。
母親は帰りに八百屋に寄って、茄子や白うりなどを買う。
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母親は帰りに、八百屋に寄って、茄子や白瓜などを買う。
局の前で清三は母親を先に帰して、荻生さんの部屋で十時過ぎまで話して行くことなどもあった。
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局の前で、清三は母親を先に帰して、荻生さんの室で十時過ぎまで話して行くことなどもあった。
五十一
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五十一
七月十五日の日記に、彼はこう書いた。
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七月十五日の日記にかれはこう書いた。
「杜国がほろびて、クルーゲルが今また亡くなった。スイスの山の中で肺の病気にたおれた彼の遺体は、ふるさとの彼の妻のそばにほうむられるだろう。英雄の最期――言葉はありふれているが、事実はいつも新しい。英雄クルーゲル、元トランスヴァール共和国大統領ポール・クルーゲル、亡くなる。歴史はいつもこのようである」
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「杜国亡びてクルーゲル今また歿す。瑞西の山中に肺に斃れたるかれの遺体は、故郷のかれが妻の側に葬らるべし。英雄の末路、言は陳腐なれど、事実はつねに新たなり。英雄クルーゲル元トランスヴァール共和国大統領ホウル・クルーゲル歿す。歴史はつねにかくのごとし」
五十二
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五十二
医者は、やはり胃と腸だと言った。
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医師はやっぱり胃腸だと言った。
けれど、薬はまるで効かなかった。
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けれど薬はねっから効がなかった。
せきが、たえず出た。
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咳がたえず出た。
体がだるくて、しかたがなかった。
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体がだるくってしかたがなかった。
とくに、熱がときどき出るのに一番困った。
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ことに、熱が時々出るのにいちばん困った。
朝は病気が治ったと思うほどいつも気持ちがいいが、午後からはきっと熱が出る。
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朝は病気が直ったと思うほどいつも気持ちがいいが、午後からはきっと熱が出る。
やむなくあせを出す薬を飲むとあせがびっしょりと出て、その気持ちの悪いことは並たいていではない。
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やむなく発汗剤をのむと、汗がびっしょりと出て、その心持ちの悪いことひととおりでない。
顔には血の気がなくなって、はだがいやに黄ばんで見える。
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顔には血の気がなくなって、肌がいやに黄ばんで見える。
彼は何度も、青白い手を返して見た。
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かれはいく度も蒼白い手を返して見た。
「お前、ほんとうにどうかしたのじゃないかね。しっかりした医者にかかってみるほうがいいんじゃないかね」
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「お前ほんとうにどうかしたのじゃないかね。しっかりした医師にかかってみるほうがいいんじゃないかね」
母親は心配そうに、彼の顔を見た。
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母親は心配そうにかれの顔を見た。
学校は、やがて始まった。
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学校はやがて始まった。
夏休みまでは、まだ半月ほどある。
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暑中休暇まではまだ半月ほどある。
それに七時に授業が始まるので、朝がいそがしかった。
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それに七時の授業始めなので、朝が忙しかった。
母親は四時にはおそくも起きて、かまどの下に火をつけた。
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母親は四時には遅くも起きて竃の下を焼きつけた。
清三は薬のびんと弁当とをかかえて、例の道をてくてくと歩いて通った。
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清三は薬瓶と弁当とをかかえて、例の道をてくてくと歩いて通った。
六キロの通いなれた道――それにも彼は目立ってつかれを覚えるほど、その体は弱くなっていた。
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一里半の通いなれた路――それにもかれはいちじるしい疲労を覚えるほどその体は弱くなっていた。
それに、このごろは栄養のあるものをなるべく多く取る必要があるので、毎日牛乳二合、たまごを五個、そのほか肉なども食べた。
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それに、このごろでは滋養品をなるたけ多く取る必要があるので、毎日牛乳二合、鶏卵を五個、その他肉類をも食った。
引っこしの借金をまだ返していないのに、毎日こうして少なくないお金がかかるので、彼の財布はいつも空であった。
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移転の借金をまだ返さぬのに、毎日こうして少なからざる金がかかるので、かれの財布はつねにからであった。
馬車に乗りたくても、そんな余ゆうはなかった。
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馬車に乗りたくも、そんな余裕はなかった。
五十三
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五十三
八阪神社のお祭りは、にぎやかであった。
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八阪神社の祭礼はにぎやかであった。
今年は景気が悪くもあり、国が大変な時でもあるので山車も屋台も出なかった。それでも近くから人が出て、紅い半えりや浅黄のそで口やメリンスの帯などがぞろぞろと町を通った。
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当年は不景気でもあり、国家多事の際でもあるので、山車も屋台もできなかったが、それでも近在から人が出て、紅い半襟や浅黄の袖口やメリンスの帯などがぞろぞろと町を通った。
こういう人たちは氷屋に寄ったり、うり屋の前で包丁で皮をむいてもらって立ち食いをしたり、はんぱなぬのの集まった呉服屋の前に長い間立ってあれのこれのといじり回したりした。
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こういう人たちは、氷店に寄ったり、瓜店の前で庖丁で皮をむいてもらって立ち食いをしたり、よせ切れの集まった呉服屋の前に長い間立ってあれのこれのといじくり回したりした。
大きな朱ぬりのしし頭は町の若者にかつがれて、家から家へと悪いものをはらって、さわがしく練り歩いた。
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大きな朱塗の獅子は町の若者にかつがれて、家から家へと悪魔をはらって騒がしくねり歩いた。
清三が火ばちのそばにいると、そばの小道にわいしょわいしょというさわがしいかけ声がして、とつぜんしし頭がはいって来た。
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清三が火鉢のそばにいると、そばの小路に、わいしょわいしょという騒がしい懸け声がして、突然獅子がはいって来た。
わらじをはいた若者は何のあいさつもなく、そのままずかずかとたたみの上にあがって、
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草鞋をはいた若者は、なんの会釈もなく、そのままずかずかと畳の上にあがって、
「やあ!」
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「やあ!」
と大きなししの口をあけて、そのまま台所のほうへ出て行った。
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と大きな獅子の口をあけて、そのまま勝手もとに出て行った。
母親は、紙に包んだお金をししの口に入れた。
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母親は紙に包んだおひねりを獅子の口に入れた。
一人息子のために、悪いものをはらってください!
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一人息子のために、悪魔を払いたまえ!
と心にいのりながら……。
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と心に念じながら……。
五十四
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五十四
母親は二階の床の間に、燃えるようななでしこと薄むらさきのあざみと真っ白なおかとらのお、黄色いこがねおぐるまとをまぜて生けた。
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母親は二階の床の間に、燃ゆるような撫子と薄紫のあざみとまっ白なおかとらのおと黄いろいこがねおぐるまとを交ぜて生けた。
時には窓のところにじっと立って、夕暮れの雲の色を見ていることもあった。
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時には窓のところにじっと立って、夕暮れの雲の色を見ていることもあった。
そのやせた後ろ姿を、清三は悲しいようなさびしいような気持ちでじっと見守った。
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そのやせた後ろ姿を清三は悲しいようなさびしいような心地でじっと見守った。
父親は、二階の格子を取りはずしてくれた。
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父親は二階の格子を取りはずしてくれた。
光は流れるように、部屋いっぱいに満ちわたった。
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光線は流るるように一室にみなぎりわたった。
窓の下では、あしながばちが巣を作ってブンブン飛んでいた。
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窓の下には足長蜂が巣を醸してブンブン飛んでいた。
大家の庭木のかげには一本の若い竹がのびて、それに朝風や夕風がやわらかに当たって通った。
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大家の庭樹のかげには一本の若竹が伸びて、それに朝風夕風がたおやかに当たって通った。
五十五
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五十五
五月六日には体重が約四十七キロ。このごろ郵便局ではかってみると、ひとえのままで約四十キロ、荻生さんは約五十キロ。
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五月六日には体量十二貫五百目、このごろ郵便局でかかってみると、単衣のままで十貫六百目、荻生さんは十三貫三百目。
ある日、田原ひで子が学校に来て、手紙を小使にたのんで置いて行った。
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ある日、田原ひで子が学校に来て手紙を小使に頼んでおいて行った。
手紙の中には、自分の手で折った黄色い野菊の花が入れてあった。
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手紙の中には、手ずから折った黄いろい野菊の花が封じ込んであった。
「野の菊はわたくしの愛する花です。先生、先生、この花を美しいとお思いになりませんか」
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「野の菊は妾の愛する花、師の君よ、師の君よ、この花をうつくしと思ひたまはずや」
と書いてあった。
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と書いてあった。
夏休み前の一、二日の出勤は、彼にとってとくにつらかった。
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暑中休暇前一二日の出勤は、かれにとってことにつらかった。
その初めの日は帰り道でにわか雨にあい、あとの一日は朝から雨が横なぐりに降った。
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その初めの日は帰途に驟雨に会い、あとの一日は朝から雨が横さまに降った。
彼は授業時間の合間ごとに宿直室で休まなければならないほど、つかれきっていた。
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かれは授業時間の間々を宿直室に休息せねばならぬほど困憊していた。
それに今月の月給だけでは薬代や牛乳代などがはらえないので、校長に無理にたのんで三円だけつごうしてもらった。
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それに今月の月給だけでは、薬代、牛乳代などが払えぬので、校長に無理に頼んで三円だけつごうしてもらった。
旅順が落ちるというかけに負けたからと言って校長はたまごを十五個くれたが、それは実は病気見まいのつもりであったらしい。
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旅順陥落の賭に負けたからとて、校長は鶏卵を十五個くれたが、それは実は病気見舞いのつもりであったらしい。
先生たちは、「もう何のかのと言っても旅順はじきに落ちるにちがいないから、その時には休みの間でもぜひ学校に集まって万歳を唱えることにしよう」
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教員たちは、「もうなんのかのと言っても旅順はじきに相違ないから、その時には休暇中でも、ぜひ学校に集まって、万歳を唱えることにしよう」
などと言っていた。
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などと言っていた。
清三は八月の月給を月の二十一日にもらいたいということをあらかじめ校長にたのんで、馬車に乗ってかろうじて帰って来た。
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清三は八月の月給を月の二十一日にもらいたいということをあらかじめ校長に頼んで、馬車に乗ってかろうじて帰って来た。
夏休みの間にどうしても治したいという考えで、清三は医者を変えてみる気になった。
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暑中休暇中には、どうしても快復させたいという考えで、清三は医師を変えてみる気になった。
今度の医者は、親切だと評判の人であった。
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こんどの医師は親切で評判な人であった。
しんさつの結果ではどうもよくわからないが、十二指腸虫かもしれないから、一週間ばかりたって大便の検査をしてみようと言った。
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診察の結果では、どうもよくわからぬが、十二指腸かもしれないから、一週間ばかりたって大便の試験をしてみようと言った。
肺の病気ではないかと聞くと、そういうしるしは今のところでは見えませんと言った。
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肺病ではないかときくと、そういう兆候は今のところでは見えませんと言った。
今のところ、という言葉を清三は気にした。
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今のところという言葉を清三は気にした。
五十六
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五十六
栄養のあるものを取らなければならないので、お金もないのにいろいろなものを買って食べた。
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滋養物を取らなければならぬので、銭もないのに、いろいろなものを買って食った。
鯉、鮒、うなぎ、牛肉、鶏肉――ある時はごいさぎという鳥を売りに来たのを十五銭に負けさせて買った。
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鯉、鮒、鰻、牛肉、鶏肉――ある時はごいさぎを売りに来たのを十五銭に負けさせて買った。
くちばしは薄い緑色、羽は暗い茶色に薄い茶色の点、長い足は美しい薄緑色をしていた。
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嘴は浅緑色、羽は暗褐色に淡褐色の斑点、長い足は美しい浅緑色をしていた。
それをあらくつぶして、骨をトントンと音をさせてたたいた。
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それをあらくつぶして、骨をトントンと音させてたたいた。
それにさえ、彼はつかれを覚えた。
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それにすらかれは疲労を覚えた。
どじょうも三百七十グラムぐらいずつ買って、猫にやられないようにおけに重石をして、ゴチャゴチャ入れておいた。
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泥鰌も百匁ぐらいずつ買って、猫にかかられぬように桶に重石をしてゴチャゴチャ入れておいた。
十ぴきぐらいずつを自分でさばいて、たまごを落として煮て食べた。
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十尾ぐらいずつを自分でさいて、鶏卵を引いて煮て食った。
寺の後ろにはこの十月から開通する東武鉄道の駅ができて、大工がしきりにかんななどの音を立てている。清三は気分のいい夕方などにはてくてく出かけて行って、ぽつんと立ってそれを見ていることがある。
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寺の後ろにはこの十月から開通する東武鉄道の停車場ができて、大工がしきりに鉋や手斧の音を立てているが、清三は気分のいい夕方などには、てくてく出かけて行って、ぽつねんとして立ってそれを見ていることがある。
時には向こうの野まで行って、花をさがして来ることもある。
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時には向こうの野まで行って花をさがして来ることもある。
えのころ、おひしば、ひよどりそう、おとぎりそう、こまつなぎ、なでしこなどがあった。
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えのころ、おひしば、ひよどりそう、おとぎりそう、こまつなぎ、なでしこなどがあった。
新聞にはそのころ、大石橋の戦いのくわしい報告がのっていた。
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新聞にはそのころ大石橋の戦闘詳報が載っていた。
遼陽!
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遼陽!
遼陽!
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遼陽!
という文字が、いたるところに見えた。
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という文字が至るところに見えた。
ある日、母親は急に胃の病気にかかって、ぬい物を休んでねていた。
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ある日、母親は急性の胃に侵されて、裁縫を休んで寝ていた。
物を食べると、すぐもどした。
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物を食うとすぐもどした。
そして、しゃっくりも激しく出た。
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そして吃逆も激しく出た。
土用の明けた日で、秋風が立ったのがどことなく木の葉のそよぎに見える。
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土用のあけた日で、秋風の立ったのがどことなく木の葉のそよぎに見える。
座敷にさしこむ日の光から考えて、太陽も少しは南に回ったようだ、などと清三は思った。
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座敷にさし入る日光から考えて、太陽も少しは南に回ったようだなどと清三は思った。
そこに郁治が、ひょっこり高等師範の制帽をかぶった姿を見せた。
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そこに郁治がひょっくり高等師範の制帽をかぶった姿を見せた。
この間からふるさとに帰っていて、いずれ近いうちに新しい家をたずねたいなどというはがきをよこしたが、今日は加須まで用事があってやって来たので、ふと来る気になってたずねたという。
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この間うちから帰省していて、いずれ近いうちに新居を訪問したいなどという端書をよこしたが、今日は加須まで用事があってやって来たから、ふと来る気になって訪ねたという。
郁治は、清三のやせおとろえた姿に少なからずおどろかされた。
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郁治は清三のやせ衰えた姿に少なからず驚かされた。
それに、顔色の悪いのがとくに目立った。
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それに顔色の悪いのがことに目立った。
親しかった二人は、夕日の光のさしこんだ二階の一間に向かい合ってすわった。
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親しかった二人は、夕日の光線のさしこんだ二階の一間に相対してすわった。
相変わらず親しげな調子であるが、言葉は簡単には深くふれようとしなかった。
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相変わらず親しげな調子であるが、言葉は容易に深く触れようとはしなかった。
ときどき話がとぎれて、だまっていることなどもあった。
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時々話がとだえて黙っていることなどもあった。
「小畑はこの間、日光に植物を集めに出かけて行ったよ」
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「小畑はこの間日光に植物採集に出かけて行ったよ」
こんなことを言って、郁治はとぎれがちな話を続けた。
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こんなことを言って、郁治はとだえがちなる話をつづけた。
清三は、「君、帰ったらお父さんに一つたのんでみてくれたまえな。どうもこう体が弱っては六キロの通勤はずいぶんつらいから、この町か近くのどこかに移れる口はないだろうかって……。弥勒ももうずいぶん長いから居心地は悪くはないけれど、どうにも遠いからね」
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清三は、「君、帰ったら、ファザーに一つ頼んでみてくれたまえな。どうもこう体が弱っては、一里半の通勤はずいぶんつらいから、この町か、近在かにどこか転任の口はないだろうかッて……。弥勒ももうずいぶん古参だから、居心地は悪くはないけれど、いかにしても遠いからね、君」
こう言って、移れるように動いてくれとたのんだ。
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こう言って転任運動を頼んだ。
夕ごはんには、昨夜猫に取られたどじょうの残りを清三が自分でさばいてごちそうした。
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夕餐には昨夜猫に取られた泥鰌の残りを清三が自分でさいてご馳走した。
母親がねているので、父親が水をくんだり米をたいたりつけ物を出したりした。
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母親が寝ているので、父親が水を汲んだり米をたいたり漬け物を出したりした。
郁治は見かねてよほど帰ろうとしたが、あちこち歩いてつかれているので、一夜とめてもらって行くことにした。
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郁治は見かねてよほど帰ろうとしたが、あっちこっちを歩いて疲れているので、一夜泊めてもらって行くことにした。
「郁さんがせっかくおいでくださったのに、あいにく私がこんなふうで何もごちそうもできなくて、ほんとうに申しわけがない」
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「郁さんがせっかくおいでくだすったのに、あいにく私がこんなふうで、何もご馳走もできなくって、ほんとうに申しわけがない」
母親はしげしげと郁治の顔を見て、
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しげしげと母親は郁治の顔を見て、
「郁さんのように、うちのも丈夫だといいのだけれど……どうも弱くてしかたがないんですよ。……それに郁さんなどは学校を卒業さえすれば、どんなにもりっぱになれるんだから、お母さんももう安心なものだけれど……」
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「郁さんのように、家のも丈夫だといいのだけれど……どうも弱くってしかたがないんですよ。……それに郁さんなぞは。学校を卒業さえすれば、どんなにもりっぱになれるんだから、母さんももう安心なものだけれど……」
と、しみじみとした調子で言った。
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しみじみとした調子で言った。
美穂子の話が出たのは、二人がかやの中にはいってねてからであった。
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美穂子の話が出たのは、二人が蚊帳の中にはいって寝てからであった。
学校を出るまではおたがいに結婚はしないが、親と親との口約束はもうすんだということを、郁治は話した。
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学校を出るまではお互いに結婚はしないが、親と親との口約束はもうすんだということを郁治は話した。
「それはおめでたい」
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「それはおめでたい」
と清三がまじめに言うと、
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と清三がまじめに言うと、
「約束を決めておくなんて、つまらないことだよ」
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「約束をきめておくなんて、君、つまらぬことだよ」
「どうして?」
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「どうして?」
「だって、おたがいに弱いところが見えたりなんかして、とちゅうでいやになることがないとも限らないからね」
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「だッて、お互いに弱点が見えたりなんかして、中途でいやになることがないとも限らないからね」
「そんなことはいかんよ」
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「そんなことはいかんよ、君」
「だってしかたがないさ、そういう気にならないとも限らないから」
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「だッてしかたがないさ、そういう気にならんとも限らんから」
「そんな不まじめなことを言ってはいかんよ。君たちのように前から気心も知れて、おたがいの理想も知っているのだから、もめごとの起こりようはありはしないよ。ぼくなども同じ仲間だから、君らの幸せを心からいのるよ。美穂子さんにも長く会わないけれど、ぼくがそう言ったって言ってくれたまえ」
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「そんなふまじめなことを言ってはいかんよ、君たちのように前から気心も知れば、お互いの理想も知っているのだから、苦情の起こりっこはありゃしないよ。僕なども同じ仲間だから、君らの幸福なのを心から祈るよ、美穂子さんにも久しく会わないけれど、僕がそう言ったッて言ってくれたまえ」
いつもの軽い言葉とは思えないほどまじめなので、
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いつもの軽い言葉とは聞かれぬほどまじめなので、
「うん、そう言うよ」
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「うむ、そう言うよ」
と郁治も言った。
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と郁治も言った。
かやの外のランプに照らされた清三の顔は、青白かった。
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蚊帳の外のランプに照らされた清三の顔は蒼白かった。
せきが、たえず出た。
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咳がたえず出た。
熱が少し出てきたと言って、まくらもとに持って来ておいた水で薬を飲んだ。
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熱が少し出てきたと言って、枕もとに持って来ておいた水で頓服剤を飲んだ。
二人の胸には中学校時代、「行田文学」
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二人の胸には、中学校時代、「行田文学」
時代のことが思い出されたが、しかも二人とも何も語らなかった。
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時代のことが思い出されたが、しかも二人とも何ごとをも語らなかった。
郁治の胸には、はなやかな将来がうかんだ。
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郁治の胸にははなやかな将来が浮かんだ。
「不幸な友!」
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「不幸な友!」
という思いやりの心も起こった。
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という同情の心も起こった。
あまりせきが出るので、背をたたいてやりながら、
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あまり咳が出るので、背をたたいてやりながら、
「どうもいけないね」
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「どうもいかんね」
「うん、治らなくて困る」
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「うむ、治らなくって困る」
あせが、ねまきを通した。
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汗が寝衣をとおした。
「石川はどうした?」
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「石川はどうした?」
と、しばらくしてから清三が聞いた。
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と、しばらくしてから、清三がきいた。
「つい、この間東京から帰って来た」
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「つい、この間、東京から帰って来た」
と郁治は言って、「あまり遊びまわるものだから家でも困って、今度落ち着かせるために、いよいよお嫁さんが来るそうだ」
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と郁治は言って、「あまり道楽をするものだから、家でも困って、今度足どめに、いよいよ嫁さんが来るそうだ」
「どこから?」
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「どこから?」
「なんでも川越のお金持ちで、跡見女学校にいた女だそうだ。きれいな人がいいという条件でさがしたんだから、きっと美人にちがいないよ」
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「なんでも川越の財産家で跡見女学校にいた女だそうだ。容色望みという条件でさがしたんだから、きっと別嬪さんに違いないよ」
「あいつも変わったね?」
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「先生も変わったね?」
「ほんとうに変わった。雑誌をやっていたころとはまるでちがう」
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「ほんとうに変わった。雑誌をやってる時分とはまるで違う」
それから、同級だった友だちの話がいろいろ出た。
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それから同窓の友だちの話がいろいろ出た。
窓からは、すずしい風がはいる……。
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窓からは涼しい風がはいる……。
翌朝、郁治が目をさましたころには、清三は下で父親を手伝って台所の仕事をしていた。
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翌朝、郁治が眼をさましたころには、清三は階下で父親を手伝って勝手もとをしていた。
今さらながら、友の弱りようを郁治は見た。
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いまさらながら、友の衰弱したのを郁治は見た。
小畑に聞いてはいたが、これほどとは思わなかった。
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小畑に聞いたが、これほどとは思わなかった。
朝のお膳には、みそしるにたまごが落としてあった。
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朝の膳には味噌汁に鶏卵が落としてあった。
清三は牛乳一合にパンを少し食べた。
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清三は牛乳一合にパンを少し食った。
二人は二階にまたすわってみたが、もうこれといって話もなかった。
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二人は二階にまたすわってみたが、もうこれといって話もなかった。
郁治が帰る時に、
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郁治が帰る時に、
「それじゃ学校の話、一つ動いてみてくれたまえ」
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「それじゃ学校の話、一つ運動してみてくれたまえ」
と、清三はくり返してたのんだ。
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清三はくり返して頼んだ。
母親の病気は、よくならなかった。
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母親の病気ははかばかしくなかった。
三度三度、食べ物も満足にのどを通らなかった。
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三度々々食物も満足に咽喉に通らなかった。
父親が商売に出たあとでは、清三がおかゆを作ったり、好きなものを通りに出て買って来てやったりする。
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父親が商売に出たあとでは、清三がお粥をこしらえたり、好きなものを通りに出て買って来てやったりする。
また父親とえん側で、東京から仕入れたうりを二つ三つおけにうかせて、皮を厚くむいて二人でうまそうに食べていることもある。
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また父親と縁側に東京仕入れの瓜を二つ三つ桶に浮かせて、皮を厚くむいて二人してうまそうに食っていることもある。
そういう時には清三は皿にうりを切ったのを二切れ三切れ入れて、食べる食べないにかかわらず、まず母親のねているまくらもとに置いた。
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そういう時には清三は皿に瓜のさいたのを二片三片入れて、食う食わぬにかかわらず、まず母親の寝ている枕もとに置いた。
母と子の情は、病んでからいっそう厚くなったように思われた。
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母子の情合いは病んでからいっそう厚くなったように思われた。
どうかすると、清三の顔をじっと見て母親がなみだをこぼしていることもあった。
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どうかすると、清三の顔をじっと見て、母親が涙をこぼしていることもあった。
清三はまた清三で、めったにねこんだことのない母親の長い病気を気にして医者にかかることをうるさくすすめると、「お前の薬代さえたいへんなのに、私までかかっては、それこそしかたがない。私のはもう治るよ、明日は起きるよ」
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清三はまた清三で、めったに床についたことのない母親の長い病気を気にして医師にかかることをうるさく勧めると、「お前の薬代さえたいへんなのに、私までかかっては、それこそしかたがない。私のはもう治るよ、明日は起きるよ」
と母親は言った。
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と母親は言った。
二階の一間は新聞が飛ぶほど風がふき通すこともあれば、うらの木の上に夕方の月が美しくかかって見えることもあった。
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二階の一間は新聞が飛ぶほど風が吹き通すこともあれば、裏の木の上に夕月が美しくかかって見えることもあった。
けれど東がふさがっているので、朝日にはいつも縁のうすいまま清三は暮らした。
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けれど東がふさがっているので、朝日にはつねに縁遠く清三は暮らした。
朝のながめとしては、早起きをした時に北の窓の雲に朝日が燃えるように照りはえるのを見るくらいのものであった。
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朝の眺めとしては、早起きをした時北窓の雲に朝日が燃えるようにてりはえるのを見るくらいなものであった。
弥勒野は、このごろは草花がいつもさかりであった。
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弥勒野はこのごろは草花がいつも盛りであった。
清三は、関さんに手紙を書いた。
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清三は関さんに手紙を書いた。
「このごろは座敷での運動ばかりで野から遠ざかっておりますので、草花のさかりも見られず、残念です。弥勒野、才塚野、あなたの採集にはさぞめずらしい花が加わったことでしょう。秋海棠は今年は花が少なく、朝顔も変わった種がなく、さびしく暮らしております」
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「このごろは座敷の運動のみにて、野に遠ざかり居り候へば、草花の盛りも見ず、遺憾に候。弥勒野、才塚野、君の採集にはさぞめづらしき花を加へたまひしならん。秋海棠今歳は花少なく、朝顔もかはり種なく、さびしく暮らし居り候」
毎日二、三回ずつの下痢。胃はいつも激しいかわきを覚えた。
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毎日二三回ずつの下痢、胃はつねに激しき渇きを覚えた。
動かずにじっとしていれば健康な人といくらも変わらないほど気分がいいが、体を使えばすぐつかれて力がなくなる。
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動かずにじっとしていれば、健康の人といくらも変わらぬほどに気分がよいが、労働すれば、すぐ疲れて力がなくなる。
医者は一週間目に大便の検査をしたが、十二指腸虫は一ぴきもおらず、ベン虫のたまごが一つあっただけであった。
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医師は一週間目に大便の試験をしたが、十二指腸虫は一疋もいず、ベン虫の卵が一つあったばかりであった。
けれどこれは体に住みつく虫ではないから、害はない。
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けれどこれは寄生虫でないから害はない。
ふつうの健康な体にもよくいる虫だと、医者はのんきなことを言った。
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ふつう健康体にもよくいる虫だと医師はのんきなことを言った。
母親の病気は、まだすっかりは治らなかった。
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母親の病気はまだすっかり治らなかった。
もう、かれこれ十一、二日目になる。
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もうかれこれ十一二日目になる。
あんまをたのんでもんでみたり、おいのりを近所の人がやって来てあげてくれたりした。
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按摩を頼んでもませてみたり、ご祈祷を近所の人がやって来て上げてくれたりした。
ついでに、清三もこのおいのりをあげてもらった。
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ついでに清三もこのご祈祷を上げてもらった。
清三はこのころから、夜ねむれなくて困った。
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清三はこのころから夜が眠られなくて困った。
いよいよねむれないという軽くない病気の様子が迫ってきたことに、医者はようやく気がつき始めた。
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いよいよ不眠性の容易ならざる病状が迫ってきたことを医師はようやく気がつき始めた。
旅順の海の戦い――敵と味方の勝ち負けが決まった、忘れられない十日の海の戦いのくわしい知らせがしきりに出るころであった。
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旅順の海戦――彼我の勝敗の決した記憶すべき十日の海戦の詳報のしきりに出るころであった。
東郷大将の勇ましい名が、世界の新聞や雑誌にのせられるころであった。
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アドミラル、トオゴーの勇ましい名が、世界の新聞雑誌に記載せらるるころであった。
医者はある日やって来て、あわてて言った。
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医師はある日やって来て、あわてて言った。
「どうも、長く続く弱りですからなあ」
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「どうも永久的衰弱ですからなア」
こう言ってすぐ言葉を続けて、「あまり無理をしてはいけません。第一、少しよくなっても六キロも学校に通ってはいけません。一年ぐらい海岸にでも行っているといいですがな」
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こう言ってすぐ言葉を続けて、「あまり無理をしてはいけません。第一、少しよくなっても、一里半も学校に通ってはいけません。一年ぐらい海岸にでも行っているといいですがな」
それから、ぶどう酒を飲むことをすすめた。
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それから葡萄酒を飲用することを勧めた。
五十七
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五十七
医者の言葉を書いて、ぜひ九月の学期までに近い所に移りたいが、君に任せてよいか、自分で動くべきかと郁治のところに書いてやると、折り返して返事が来た。視学に直接手紙を出せ、羽生の校長にも聞いてみろ、自分もそのうち出かけて動いてやると書いてあった。
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医師の言葉を書いて、ぜひ九月の学期までに近い所に転任したいが、君に一任してよきや、みずから運動すべきやと郁治のもとに書いてやると、折りかえして返事が来て、視学に直接に手紙をやれ、羽生の校長にも聞いてみろ、自分もそのうち出かけて運動してやると書いてあった。
だんだん、秋風が立ち始めた。
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だんだん秋風が立ち始めた。
大家で飼っていたくさひばりという虫が、夕暮れになるといつもいい声を立てて鳴いた。
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大家で飼っておいたくさひばりが夕暮れになるといつもいい声を立てて鳴いた。
床柱のばらの一輪ざし、それよりも、すだれ戸をすかして見える朝顔の花が友禅染めのように美しかった。
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床柱の薔薇の一輪揷し、それよりも簀戸をすかして見える朝顔の花が友禅染めのように美しかった。
ある日、午後四時ごろの暑い日ざしを受けて、例の街道を弥勒に行く車があった。
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一日、午後四時ごろの暑い日影を受けて、例の街道を弥勒に行く車があった。
それには、清三が乗っていた。
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それには清三が乗っていた。
月の給料を受け取るために、わざわざ出かけて来たのであった。
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月の俸給を受け取るためにわざわざ出かけて来たのであった。
学校はがらんとして、小使もいなかった。
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学校はがらんとして、小使もいなかった。
関さんも、昨日浦和に行ったとかで留守であった。
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関さんも、昨日浦和に行ったとて不在であった。
宿直室には、なかば夕日がさし通った。
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宿直室にはなかば夕日がさしとおった。
テニスをやる人もないらしく、網もラケットもえん側のすみにむなしくたばねられてある。
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テニスをやるものもないとみえて、網もラッケットも縁側の隅にいたずらに束ねられてある。
事務室のすずり箱のふたにはほこりが白く、いすは机の上にのせて片づけられたままになっている。
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事務室の硯箱の蓋には塵埃が白く、椅子は卓の上に載せて片づけられたままになっている。
かげを長く校庭に引いた清三のやせはてた姿は、静かにろうかをたどって行った。
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影を長く校庭にひいた清三のやせはてた姿は、しずかに廊下をたどって行った。
教室にはいってみた。
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教室にはいってみた。
黒板には、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。
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ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。
12+15=27と書いてある。
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12+15=27と書いてある。
チョークも、その時置いたままになっている。
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チョークもその時置いたままになっている。
ここで生徒を相手に笑ったりおこったり、いやな気持ちになったりしたことを清三は思い出した。
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ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。
東京に行く友だちをうらやみ、人知れぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるでほかの人でもあるかのようにはっきりと見える。
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東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。
色の白い、肉づきのいい、赤い長じゅばんを着た女も思い出された。
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色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢を着た女も思い出された。
オルガンが、講堂のすみにほこりで白くなって置かれてあった。
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オルガンが講堂の一隅に塵埃に白くなって置かれてあった。
何か久しぶりで鳴らしてみようと思ったが、ただ思っただけで、手を出す気にはなれなかった。
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何か久しぶりで鳴らしてみようと思ったが、ただ思っただけで、手をくだす気になれなかった。
やがて、小使が帰って来た。
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やがて小使が帰って来た。
彼もちょっと見ない間に清三がひどく弱ったのに、びっくりした。
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かれもちょっと見ぬ間に、清三のいたく衰弱したのにびっくりした。
じろじろと不気味そうに見て、
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じろじろと不気味そうに見て、
「どうも病気がよくねえかね?」
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「どうも病気がよくねえかね?」
「どうもいけないから、近いところに移りたいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間なじみになったが、どうもしかたがない……」
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「どうもいかんから、近いところに転任したいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間、おなじみになったが、どうもしかたがない……」
「それまでには治るべいかな」
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「それまでには治るべいかな」
「どうもむずかしい――」
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「どうもむずかしい――」
清三は、ため息をついた。
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清三は嘆息をした。
小川屋には、もう娘はいなかった。
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小川屋にはもう娘はいなかった。
この春、加須の荒物屋にお嫁に行った。
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この春、加須の荒物屋に嫁いて行った。
おばあさんが、お茶を運んで来た。
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おばあさんが茶を運んで来た。
すぐ目をとめて、
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すぐ目につけて、
「林さん、どうかしたかね」
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「林さんなア、どうかしたかね」
「どうも病気が治らなくて困る」
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「どうも病気が治らなくって困る」
「そりゃあ困るだね」
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「それア困るだね」
と、しみじみ思いやるような言葉で言った。
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しみじみと同情したような言葉で言った。
夕ごはんはおかゆにしてもらって、久しぶりで魚の煮つけを取って食べた。
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夕飯は粥にしてもらって、久しぶりでさいの煮つけを取って食った。
庭には、けいとうが夕日に赤かった。
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庭には鶏頭が夕日に赤かった。
彼は柱によりかかりながら、野を過ぎて行く色のついた夕方の雲を見た。
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かれは柱によりかかりながら野を過ぎて行く色ある夕べの雲を見た。
五十八
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五十八
移ることについては、郁治も来て動いてくれた。
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転任については、郁治も来て運動してくれた。
町の高等科も尋常科も聞いてみたが、あきがなかった。
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町の高等も尋常も聞いてみたが、欠員がなかった。
弥勒の校長からは、「本当は残念だが、病気ならしかたがない、いいようにしてあげるから安心したまえ」
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弥勒の校長からは、「不本意ではあるが、病気なればしかたがない、いいように取り計らうから安心したまえ」
と言って来た。
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と言って来た。
けれど、はたから見ればもう先生がつとまるような体ではなかった。
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けれど他から見ては、もう教員ができるような体ではなかった。
ある日、荻生さんが母親に、
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ある日、荻生さんが、母親に、
「どうも今度の病気は用心しないといけないって医者が言いましたよ。どうも肺というしるしはないようだが、ただの胃や腸ともちがうようなところがあると言っていました。なんにしても、足がむくんで来たのはよくないですな……医者の見立てがちがっているのかもしれませんから、行田の原田に連れて行って見せたらどうです? 先生は学士ですし、評判がいいほうですから」
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「どうも今度の病気は用心しないといけないって医師が言いましたよ。どうも肺という徴候はないようだが、ただの胃腸とも違うようなところがあると言ってました。なんにしても足に腫気がきたのはよくないですな……医師の見立てが違っているのかもしれませんから、行田の原田につれて行って見せたらどうです? 先生は学士ですし、評判がいいほうですから」
そして、そのつもりがあるなら、自分が一日局を休んで連れて行ってやってもいいと言った。
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そして、そういうつもりがあるなら、自分が一日局を休んでつれて行ってやってもいいと言った。
「どうも、ご親切に……お礼の申し上げようもない」
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「どうも、ご親切に……お礼の申し上げようもない」
母親の声は、なみだに曇った。
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母親の声は涙に曇った。
弥勒に給料を取りに行った翌日あたりから、足からももあたりにかけて、ひどくむくみが出た。
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弥勒に俸給を取りに行った翌日あたりから、脚部大腿部にかけておびただしく腫気が出た。
足も、今までの足とは思えないほど甲がふくれた。
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足も今までの足とは思えぬほどに甲がふくれた。
それに下腹のあたりもそのえいきょうを受けて、立ったりすわったりにもだんだん不自由を感じてくる。医者はしっぷ薬と支えるための帯とをくれた。
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それに、陰嚢もその影響を受けて、起ち居にもだんだん不自由を感じて来る、医師は罨法剤と睾丸帯とを与えた。
蘇鉄の実を煎じて飲ませたり、おいのりをまくらもとであげてもらったり、不動岡の不動様のお札をいただかせたり、少しでも効き目があると人が教えてくれたものはどんなことでもしてみたが、効かなかった。
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蘇鉄の実を煎じて飲ませたり、ご祈祷を枕もとであげてもらったり、不動岡の不動様の御符をいただかせたり、いやしくも効験があると人の教えてくれたものは、どんなことでもしてみたが、効がなかった。
秋風が立つにつれて、具合の悪いのが目立った。
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秋風が立つにつれて、容体の悪いのが目に立った。
やがて、お盆が来た。
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やがて盂蘭盆がきた。
町の大通りにはお盆の市が立って、おがらやい草のむしろやみそ萩や草花が並べられ、近くの村から出て来たお百姓の娘たちがぞろぞろ通った。
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町の大通りには草市が立って、苧殻や藺蓆やみそ萩や草花が並べられて、在郷から出て来た百姓の娘たちがぞろぞろ通った。
寺の和尚さんはむらさきの衣を着て小僧を連れ、いそがしそうに町を歩いて行った。
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寺の和尚さんは紫の衣を着て、小僧をつれて、忙しそうに町を歩いて行った。
茄子や白うりやきゅうりで作った牛や馬。そのしっぽには、畑から取って来たとうもろこしの赤い毛を使った。
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茄子や白瓜や胡瓜でこしらえた牛や馬、その尻尾には畠から取って来た玉蜀黍の赤い毛を使った。
どこの家でもおがらで杉の葉を編んで仏だんをかざり、代々の位はいをそうじして、萩の餅や団子や新しい里芋やとうもろこしや梨などをそなえた。
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どこの家でも績殻で杉の葉を編んで、仏壇を飾って、代々の位牌を掃除して、萩の餅やら団子やら新里芋やら玉蜀黍やら梨やらを供えた。
女の子は新しい着物を着て、いそいそとあちこちで遊んでいた。
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女の児は新しい衣を着て、いそいそとしてあっちこっちに遊んでいた。
十三日の夜には、家々でむかえ火がたかれる。
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十三日の夜には迎え火が家々でたかれる。
通りは警察がうるさいので、昔のように大がかりなたき火をする人もないが、少しうら町にはいるとまきを高く積んで火を燃やしている家などもあった。
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通りは警察がやかましいので、昔のように大仕掛けな焚火をするものもないが、少し裏町にはいると、薪を高く積んで火を燃している家などもあった。
まわりに集まった子どもたちは、おもしろがってそれを飛んだりまたいだりする。
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まわりに集まった子供らはおもしろがってそれを飛んだりまたいだりする。
清三の家では、その日父親が古河に行ってまだ帰って来なかったので、母親は一人でさびしそうに入り口にうずくまり、おがらを集めて形ばかりのむかえ火をした。
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清三の家では、その日父親が古河に行ってまだ帰って来なかったので、母親は一人でさびしそうに入り口にうずくまって、績がらを集めて形ばかりの迎え火をした。
大家の入り口には、少し前にたいた火の残りが赤くやみに見える。
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大家の入り口にはいま少し前焚いた火の残りが赤く闇に見える。
軒には、昨年の盆に清三が自分でかいた菊の絵の灯ろうがさげてある。
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軒には昨年の盆に清三が手ずから書いた菊の絵の燈籠がさげてある。
清三は便所に通うのに不便なので、四、五日前からふとんを下の六畳に移した。
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清三は便所に通うのに不便なので、四五日前から、床を下の六畳に移した。
風にゆれる盆灯ろうを、彼はじっと見ていた。
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風にゆらぐ盆燈籠をかれはじっと見ていた。
大家の軒の風りんの鳴る音が、かすかに聞こえる。
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大家の軒の風鈴の鳴る音がかすかに聞こえる。
仏だんには灯がついていて、蓮の葉の上にそなえた団子や、茄子や白うりで作った牛や馬や、真ちゅうの花立てにさしたみそ萩などが、額に入れた絵のように見える。
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仏壇には灯がついていて、蓮の葉の上に供えた団子だの、茄子や白瓜でつくった牛馬だの、真鍮の花立てにさしたみそ萩などが額縁に入れた絵のように見える。
明るい仏だんの中は、なんだか別の世界ででもあるかのように清三には思われた。
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明るい仏壇の中はなんだか別の世界でもあるかのように清三には思われた。
母親がそこへはいって来て、
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母親がそこへはいって来て、
「病気でなければ、政一(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花もあげてくれる人がいないってさびしがっているだろう」
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「病気でないと、政一(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花も上げてくれる人もないッてさびしがっているだろう」
「ほんとうにね……」
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「ほんとうにさ……」
「父さんのつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……」
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「父さんがつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……」
「ほんとうに、遠くなってさびしがっているだろう」
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「ほんとうに、遠くなって淋しがっているだろう」
清三は、亡くなった弟をしみじみと思った。
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清三は亡くなった弟をしみじみ思った。
「明日あたり、私がお参りに行こうかと思っているけれど……」
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「明日あたり私がお参りに行こうかと思っているけれど……」
「なに、治ってから行くからいいさ」
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「ナアに、治ってから行くからいいさ」
しばらく、だまった。
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しばらく黙った。
母と子の胸には、今月のはらいのことがつかえている。
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母子の胸には今月の払いのことがつかえている。
薬代、牛乳――それだけでも、かなり多い。
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薬代、牛乳――それだけでもかなり多い。
今月は父親のかせぎがまるでだめだった上に、母親も病気で毎月ほどにはぬい物をしなかった。
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今月は父親のかせぎがねっからだめだった上に、母親も病気で毎月ほど裁縫をしなかった。
先ほど、医者から勘定書きを書生が持って来たのを、母親は申しわけなさそうに断っていた。
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先ほど、医師から勘定書きを書生が持って来たのを母親は申しわけなさそうにことわっていた。
「なに、父さんが帰って来ればどうにかなるから、心配せずにおいでよ」
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「なアに、父さんが帰って来れば、どうにかなるから、心配せずにおいでよ」
と、母親はその時言った。
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と母親はその時言った。
父親が帰って来てもだめなことを、清三は知っている。
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父親が帰って来てもだめなことを清三は知っている。
「病気さえしなければなあ!」
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「病気さえしなけりゃなア!」
と、清三はとつぜん言った。
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と清三は突然言った。
やがて言葉を続けて、「こんな病気にかかりさえしなければ、今年は少しは母さんにも楽をさせられたのになあ!」
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やがて言葉をついで、「こんな病気にかかりさえしなけりゃ、今年はちっとは母さんにも楽をさせられたのになア!」
母親はおろおろして、
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母親はオドオドして、
「そんなことを思わないほうがいいよ。それより体を治して!」
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「そんなことを思わないほうがいいよ。それより養生して!」
「なに、こんな病気に負けてはいないから、母さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありはしない」
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「ナアに、こんな病気に負けておりゃせんから、母さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありゃしない」
「ほんとうともねえ、お前」
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「ほんとうともねえ、お前」
「世の中というものは、思いのままにならないものだ!」
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「世の中というものは思いのままにならないもんだ!」
言葉は強かったが、一種のさびしさが、仏だんの灯だけが明るい部屋に満ちわたった。
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言葉は強かったが、一種の哀愁は仏壇の灯のみ明るい一室に充ちわたった。
* * * * *
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* * * * *
となり近所では、病人が日ごとに悪くなるのを知った。
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隣近所では病人が日増しに悪くなるのを知った。
医者が毎日、かばんを下げてやって来る。
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医師が毎日鞄を下げてやって来る。
荻生さんが心配そうな顔をして、ちょいちょいうらからはいって来る。
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荻生さんが心配そうな顔をしてちょいちょい裏からはいって来る。
一週間前までは、青白くやせはてた顔をして髪をぼうぼうにさせ、そこらをぶらぶらしている病人の姿を人々はよく見かけた。けれどこのごろではもうすっかりねついて、まくらを高くし、やせこけてきりぎりすのようになった手をふとんの外に投げ出すようにしてねているのが、かきねの間から見える。
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一週間前までは、蒼白にやせはてた顔をして、頭髪をぼうぼうさせて、そこらをぶらぶらしている病人の姿を人々はよく見かけたが、このごろでは、もうどっと床について、枕を高く、やせこけて、螽斯のようになった手を蒲団の外になげだすようにして寝ているのが垣の間から見える。
井戸ばたなどで母親に具合を聞くと、「どうも少しでもいいほうに向かってくれるといいのですけれど……」
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井戸端などで母親に容体を聞くと、「どうも少しでもいいほうに向かってくれるといいのですけれど……」
と言って、いかにも心配にたえないような顔をした。
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と言って、さもさも心配にたえぬような顔をした。
肺の病気だろうということは、だれもみな前から思っていた。
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肺病だろうということは誰も皆前から想像していた。
「どうも、せきの出るのが変だと思っていました」
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「どうも咳嗽の出るのが変だと思ってました」
と、となりの足袋屋の奥さんが言った。
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と隣りの足袋屋の細君が言った。
「どうも肺の病気だってな。あの若いのに気の毒だなあ。話好きなおもしろい人なのに……」
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「どうも肺病だッてな、あの若いのに気の毒だなア。話好きなおもしろい人だのに……」
と、大家の主人も年老いた妻に言った。
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と大家の主人も老妻に言った。
「一人息子をあれまで育てて、これからというところでそんな悪い病気に取りつかれては……」
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「一人息子をあれまで育てて、これからかかろうという矢先にそんな悪い病気に取っつかれては……」
と、年老いた妻はしみじみと思いやった。
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と老妻はしみじみと同情した。
あちこちから見まいを持って行く人なども、だんだん多くなる。
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あっちこっちから見舞いを持って行くものなどもだんだん多くなる。
大家の主人がある日、一日つって来た鮒をすりばちに入れて持って行ってやると、めずらしがって病人はわざわざ起きて来て見た。
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大家の主人がある日一日釣って来た鮒を摺り鉢に入れて持って行ってやると、めずらしがッて、病人はわざわざ起きて来て見た。
それから、梨を持って来る人もあれば林檎を持って来る人もある。
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それから梨を持って来るものもあれば林檎を持って来るものもある。
中には、五十銭銀貨を一つ包んで来る人もあった。
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中には五十銭銀貨を一つ包んで来るものもあった。
移るのがむずかしいこと、たとえ移れてもこの体では毎日の出勤はむずかしいということが、しだいに病人にもわかってきた。
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転任のむずかしいこと、たとえ転任ができても、この体では毎日の出勤はおぼつかないということがしだいに病人にもわかってきた。
彼は郁治にあてて、病気で休んでいれば何か月間給料が出るかということを父の郡視学に聞いてもらうよう、手紙を書いた。
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かれは郁治にあてて、病気で休んでいれば何か月間俸給がおりるかということを父の郡視学に聞いてもらうように手紙を書いた。
やがてその返事が来て、埼玉県の決まりの十号の十三条に、六十日の病気での休みは全額(願書と診断書付き)、そのあと二か月は半額としてあることを知らせて来た。
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やがてその返事が来て埼玉県令十号の十三条に六十日の病気欠席は全俸(願書診断書付き)その以後二か月半俸としてあることを報じて来た。
五十九
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五十九
行田の町のなかほどに、西洋ふうのペンキぬりの、きわだって目につく家があった。
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行田の町の中ほどに西洋造りのペンキ塗りのきわだって目につく家があった。
やきものの表札には医学士原田龍太郎とあざやかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。
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陶器の標札には医学士原田龍太郎とあざやかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。
午前十時ごろの晴れた日ざしが、ガラスを通してしんさつ室の白いカーテンを明るく照らした。
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午前十時ごろの晴れた日影は硝子をとおした診察室の白いカアテンを明るく照らした。
しんさつが終わって、そこから父親と荻生さんとに助けられて出て来たのは、二、三日でますます弱った清三であった。
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診察が終わって、そこから父親と荻生さんとにたすけられて出て来たのは、二三日来ますます衰弱した清三であった。
荻生さんが万一を期待して、やいやい言って連れて来た親切は、むだに終わった。
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荻生さんが万一を期して、ヤイヤイ言ってつれて来た親切は徒労に帰した。
医者は父親と友とに、もうだめだと言ったようなものであった。
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医師は父親と友とに絶望的宣告を与えたようなものであった。
荻生さんが親しいので別の部屋で聞くと、
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荻生さんが懇意なので、別室できくと、
「もう少し早ければ、どうにかできそうなものだった」
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「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」
と、医者はこう言った。
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医師はこう言った。
「やはり、肺でしょうか」
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「やっぱり、肺でしょうか」
「肺ですな……もう両方とも悪くなっている!」
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「肺ですな……もう両方とも悪くなっている!」
荻生さんは、どうすることもできなかった。
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荻生さんはどうすることもできなかった。
めまいがしてそこに立っていられない病人を、ほとんどかかえるようにして車に乗せた。
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眼眩がしてそこに立っていられぬ病人をほとんどかかえるようにして車に乗せた。
「車に乗せて連れて来るのは、少しひどかったね」
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「車に乗せてつれて来るのはちとひどかったね」
と言った医者の言葉を思い出して、「医者を呼んでは車代がたいへんだから……五円ではすまないから、私が車に乗せて連れて行ってあげる」
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と言った医師の言葉を思い出して、「医師をよんでは車代がたいへんだから……五円ではあがらないから、私が車に乗せてつれて行ってあげる」
と言ったことを後かいした。
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と言ったことを悔いた。
その八キロの街道には、やはり旅の商人が通ったり、織物を集めて回る車が通ったり、自転車が走ったりしていた。
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その二里の街道には、やはり旅商人が通ったり、機回りの車が通ったり、自転車が走ったりしていた。
すそをまくって赤い腰巻を出して歩いて行く田舎の娘もあった。
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尻をまくって赤い腰巻を出して歩いて行く田舎娘もあった。
もう秋風が野に立って、背景をつくった森やわらぶき屋根や遠い秩父の山々があざやかにはっきり見える。
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もう秋風が野に立って、背景をつくった森や藁葺屋根や遠い秩父の山々があざやかにはっきり見える。
よく実った稲は、すずしい風になびきわたった。
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豊熟した稲は涼しい風になびきわたった。
ほろをかけた車は、静かに街道をきしって行った。
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幌をかけた車はしずかに街道をきしって行った。
七色の風船玉を売って歩く老人のまわりには、村の子どもが集まっていた。
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七色の風船玉を売って歩く老爺のまわりには、村の子供がたかっていた。
六十
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六十
寺の和尚さんが、たまごの折り箱を持って見まいに来た。
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寺の和尚さんが鶏卵の折りを持って見舞いに来た。
和尚さんも、しばらく会わない間にこうも弱ったかとびっくりした。
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和尚さんもしばらく会わぬ間に、こうも衰弱したかとびっくりした。
わざと戦争の話などをする。
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わざと戦争の話などをする。
「旅順がどうも落ちないですな」
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「旅順がどうも取れないですな」
「どうしてこう長びくんでしょう」
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「どうしてこう長びくんでしょう」
「ステッセルも一生けんめいだとみえますな。まだ兵の力が足りなくて、第八師団も今度旅順に向かって出発するといううわさですな」
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「ステッセルも一生懸命だとみえますな。まだ兵力が足りなくって第八師団も今度旅順に向かって発つという噂ですな」
「第九に第十二に、第一に……それじゃ、これで四個師団……」
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「第九に第十二に、第一に……、それじゃこれで四個師団……」
「どうも、あそこを早く取ってしまわないではしかたがないんでしょう」
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「どうもあそこを早く取ってしまわないんではしかたがないんでしょう」
「なかなか強いな!」
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「なかなか頑強だ!」
と言って、病人はせきをした。
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と言って、病人は咳嗽をした。
やがて、
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やがて、
「遼陽のほうは?」
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「遼陽のほうは?」
「あちらのほうが早いかもしれないということですよ。第一軍はもう楡樹林子を取って遼陽から四十キロのところに行っていますし、第二軍は海城を取って、それからもっと先に出ているようですし……」
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「あっちのほうが早いかもしれないッていうことですよ。第一軍はもう楡樹林子を占領して遼陽から十里のところに行ってますし、第二軍は海城を占領して、それからもっと先に出ているようですし……」
「ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなあ」
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「ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなア」
と清三はなげいて、「国のために勇ましく血を流している人もあるし、めったにない、国が生きるか死ぬかの時に出くわして、政府の中心に立って世の中とともに心配している政治家もあるのに……こうしてろくに何もできず病気でねているのは実に情けない。和尚さん、人間もさまざまですな」
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と清三は慨嘆して、「国家のために勇ましい血を流している人もあるし、千載の一遇、国家存亡の時にでっくわして、廟堂の上に立って天下とともに憂いている政治家もあるのに……こうしてろくろくとして病気で寝てるのはじつに情ない。和尚さん、人間もさまざまですな」
「ほんとうですな」
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「ほんとうですな」
和尚さんも、笑ってみせた。
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和尚さんも笑ってみせた。
しばらくして、
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しばらくして、
「原さんから便りがありますか?」
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「原さんから便りがありますか?」
「ええ、もう帰って来ます。あの人も海城で病気にかかって、病院に一か月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです」
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「え、もう帰って来ます。先生も海城で病気にかかって、病院に一月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです」
「それじゃ、遼陽は見ずに……」
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「それじゃ遼陽は見ずに……」
「ええ」
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「え」
弱っている割には、長く話した。
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衰弱した割合いには長く話した。
寺にいたころの話なども出た。
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寺にいる時分の話なども出た。
その翌日は、弥勒の校長さんが見まいにやって来た。
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その翌日は弥勒の校長さんが見舞いにやって来た。
「こんなになってしまいました」
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「こんなになってしまいました」
と、細い手を出して見せた。
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と細い手を出して見せた。
「学校のほうはいいようにしておきますから、心配せずにいなさい。休みの届けさえ出しておけば、二か月は給料が出るんですから」
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「学校のほうはいいようにしておきますから、心配せずにおいでなさい、欠席届けさえ出しておくと、二月は俸給がおりるんですから」
校長さんは、こう言った。
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校長さんはこう言った。
戦争の話が出ると、
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戦争の話が出ると、
「おそくとも休みの間には旅順が落ちると思ったんですけれどなあ。よほどむずかしいとみえますな。このごろは、簡単には落ちないなんて暗い見方が多いじゃないですか。常陸丸にいろいろ必要な材料が積んであったそうですな」
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「おそくも、休暇中には旅順が取れると思ったですけれどなア。よほどむずかしいとみえますな。このごろじゃ容易に取れないなんて、悲観説が多いじゃないですか。常陸丸にいろいろ必要な材料が積んであったそうですな」
こんなことを言った。
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こんなことを言った。
二、三日して、今度は関さんが来た。
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二三日して、今度は関さんが来た。
おみなえしとすすきとを持って来てくれた。
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女郎花と薄とを持って来てくれた。
弥勒の野から取ったのだと言った。
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弥勒の野からとったのであると言った。
母親は金だらいに水を入れて、とりあえずそれを病人のまくらもとに置いた。
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母親は金盥に水を入れて、とりあえずそれを病人の枕もとに置いた。
清三は、うれしそうな顔をしてそれを見た。
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清三はうれしそうな顔をしてそれを見た。
関さんはやがて風呂敷包みから、紙に包んだ二つの見まいのお金を出した。
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関さんはやがて風呂敷包みから、紙に包んだ二つの見舞いの金を出した。
一つには金七円、生徒一同より、としてあった。
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一つには金七円、生徒一同よりとしてあった。
一つは金五円、下に先生たちの名前がずらりと並べて書いてあった。
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一つは金五円、下に教員連の名前がずらりと並べて書いてあった。
六十一
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六十一
遼陽の戦いが、やがて始まった。
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遼陽の戦争はやがて始まった。
国民の心はすべて、満州の野に向かって注がれた。
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国民の心はすべて満州の野に向かって注がれた。
深いちんもくの中に、かえって限りない期待と限りない不安とが感じられる。
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深い沈黙の中にかえって無限の期待と無限の不安とが認められる。
神経がぴりぴりした人々の心は、ちょっとした号外売りの鈴の音にもすぐおどろかされるほど高ぶっていた。
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神経質になった人々の心はちょっとした号外売りの鈴の音にもすぐ驚かされるほどたかぶっていた。
そうしている間にも、一日は一日とたつ。
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そうしている間にも一日は一日とたつ。
鞍山站からひと押しと思った首山堡が、なかなか落ちない。
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鞍山站から一押しと思った首山堡が容易に取れない。
第一軍も、思ったように出ることができない。
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第一軍も思ったように出ることができない。
どうなるかわからないうちに、また一日二日と過ぎた。――
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雨になるか風になるかわからぬうちに、また一日二日と過ぎた。――
その不安な思いが九月一日の首山堡を取ったという大見出しでたちまち解けたと思うと、今度はたまっていた喜びの声が、遼陽を取ったといううれしい知らせとともにすさまじいいきおいで日本全国に満ちわたった。
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その不安の情が九月一日の首山堡占領の二号活字でたちまちにしてとかれたと思うと、今度は欝積した歓呼の声が遼陽占領の喜ばしい報につれて、すさまじい勢いで日本全国にみなぎりわたった。
遼陽占領!
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遼陽占領!
遼陽占領!
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遼陽占領!
その声は、どんなに暗くきたない小道にも、どんな深い山奥のあばら家にも、どんな荒れた海の中の一つの島にも聞こえた。
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その声はどんなに暗い汚ない巷路にも、どんな深い山奥のあばら家にも、どんなあら海の中の一孤島にも聞こえた。
号外売りの鈴の音は、一時間とかからずに全国に新しくくわしい知らせをもたらして行く。
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号外売りの鈴の音は一時間といわずに全国に新しいくわしい報をもたらして行く。
どこの家でもその話がくり返される。その激しかった戦いの様子が、いろいろに色をつけて語り合われる。
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どこの家でもその話がくり返される、その激しかった戦いのさまがいろいろに色彩をつけて語り合わされる。
太子河の橋を焼いて引き上げた敵の将軍クロパトキンは、第一軍に追われてまったく囲まれてしまったというまちがった知らせさえ、一時は信じられた。
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太子河の軍橋を焼いて退却した敵将クロパトキンは、第一軍の追撃に会ってまったく包囲されてしまったという虚報さえ一時は信用された。
首都全体が国旗でうまるという記事があった。
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全都国旗をもって埋まるという記事があった。
人々の万歳の声が皇居の奥まで聞こえたということが書いてあった。
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人民の万歳の声が宮城の奥まで聞こえたということが書いてあった。
夜はちょうちん行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門あたりや馬場先門あたりはほとんど人でうまるくらいであったという。
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夜は提灯行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門付近馬場先門付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。
京橋、日本橋の大通りにはたくさんの電灯が昼のように輝きわたって、かざりつけた電車が通るたびに万歳の声が一晩中聞こえたという。
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京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって、花電車が通るたびに万歳の声が終夜聞こえたという。
清三は、もう十分に起き上がることができなかった。
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清三はもう十分に起き上がることができなかった。
具合は、日一日と悪くなった。
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容体は日一日に悪くなった。
昨日は便所からはうようにして、かろうじてふとんにはいった。
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昨日は便所からはうようにしてかろうじて床にはいった。
それでもそのまくらもとには国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨のういた手がときどきそれを取り上げて見る。
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でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを取り上げて見る。
遼陽を取ったことが初めてわかった時、彼は限りない喜びを顔にうかべて、
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遼陽の占領が始めて知れた時、かれは限りない喜びを顔にたたえて、
「母さん! 遼陽が取れた!」
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「母さん! 遼陽が取れた!」
と、いかにもうれしそうに言った。
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とさもさもうれしそうに言った。
それからいろいろな話を、母親にして聞かせた。
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それからいろいろな話を母親にしてきかせた。
二千何人という死んだりけがをしたりした人の話もして聞かせた。
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二千何人という死傷者の話をもしてきかせた。
戦争の話をする時は、病気などは忘れたようであった。
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戦争の話をする時は、病気などは忘れたようであった。
青白くやせた顔にも、ほのかに血がのぼった。
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蒼白いやせた顔にもほのかに血が上った。
医者が来て、新聞などは読まないほうがいいと言った。
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医師が来て、新聞などは読まないほうがいいと言った。
病人自身にしても、細かい字をたどるのはずいぶんつらかった。
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病人自身にしても、細かい活字をたどるのはずいぶん難儀であった。
手に取っても、五分と持っていられない。
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手に取っても五分と持っていられない。
つかれて、すぐそばに置いてしまった。
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疲れてじきそばに置いてしまった。
時には半分読みかけたページを、ひげの生えたやせた顔の上に落として、しばらくじっとしていることなどもある。
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時には半分読みかけた頁を、鬚の生えたやせた顔の上に落として、しばらくじっとしていることなどもある。
日本が初めてヨーロッパの強い国を相手にした今までにない戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争――そのはなやかな時代の国民の一人として生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、そのわずかでも国に返すこともできず、その喜びを人並みに万歳の声に表すことすらもできずに、こうした不運な病気のとこに横たわって国民の喜びの声をよそに聞いていると思った時、清三の目にはなみだがあふれた。
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日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古の戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争――そのはなばなしい国民の一員と生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、その万分の一を国に報いることもできず、その喜びの情を人並みに万歳の声にあらわすことすらもできずに、こうした不運な病いの床に横たわって、国民の歓呼の声をよそに聞いていると思った時、清三の眼には涙があふれた。
なきがらとなって野に横たわる苦しみ、その身になったら名誉でも何でもないだろう。
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屍となって野に横たわる苦痛、その身になったら、名誉でもなんでもないだろう。
父と母が恋しいだろう。
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父母が恋しいだろう。
国が恋しいだろう。
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祖国が恋しいだろう。
ふるさとが恋しいだろう。
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故郷が恋しいだろう。
しかしその人たちも自分よりは幸せだ――こうして希望もなしに病気のとこに横たわっているよりは……。
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しかしそれらの人たちも私よりは幸福だ――こうして希望もなしに病の床に横たわっているよりは……。
こう思って、清三ははるか満州のさびしい平野に横たわった同じ国の人を思った。
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こう思って、清三ははるかに満州のさびしい平野に横たわった同胞を思った。
六十二
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六十二
まくらもとにすわった医者の姿が、くっきりと見えた。
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枕もとにすわった医師の姿がくっきりと見えた。
父親は、それに向かってだまりこくっていた。
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父親はそれに向かって黙然としていた。
母親は顔をおおって、たえずすすり泣いた。
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母親は顔をおおって、たえずすすりあげた。
部屋の真ん中につったランプは、芯が出過ぎてガラスがなかば黒くなっていた。
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室のまんなかにつったランプは、心が出過ぎてホヤがなかば黒くなっていた。
部屋には暗い空気が満ちわたって、あたりがしんとした。
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室には陰深の気が充ちわたって、あたりがしんとした。
ひげが長くのび、ほお骨が立って、目をなかば開いた清三の死に顔は、薄暗いランプの光の中にぼんやり見えた。
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鬚を長く、頬骨が立って、眼をなかば開いた清三の死に顔は、薄暗いランプの光の中におぼろげに見えた。
医者の注射は、もう効かなかった。
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医師の注射はもう効がなかった。
母親のすすり泣く声が、しきりに聞こえる。
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母親のすすりあげる声がしきりに聞こえる。
そこに戸口でけたたましい足音がして、白地のかすりを着た荻生さんの姿があわただしくはいって来たが、ずかずかと医者と父親との間に割りこんですわって、
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そこに、戸口にけたたましい足音がして、白地の絣を着た荻生さんの姿があわただしくはいって来たが、ずかずかと医師と父親との間に割り込んですわって、
「林君! ……林君! もう、とうとうだめでしたか!」
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「林君! ……林君! もう、とうとうだめでしたか!」
こう言った荻生さんのほおを、なみだはホロホロと伝った。
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こう言った荻生さんの頬を涙はホロホロと伝った。
母親は、またすすり泣いた。
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母親はまたすすりあげた。
遼陽を取ったお祝いで、町では先ほどからちょうちん行列が何度となくにぎやかに通った。
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遼陽占領の祭りで、町では先ほどから提灯行列がいくたびとなくにぎやかに通った。
どこの家の軒にも神社のちょうちんが並んでつけてあって、国旗がやみにもそれと見える。
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どこの家の軒にも鎮守の提灯が並んでつけてあって、国旗が闇にもそれと見える。
二、三日前から今日お祝いをするという広告をあちこちに張り出したので、近くからもちょうちん行列の群れが何組となくやって来た。
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二三日前から今日占領の祭りをするという広告をあっちこっちに張り出したので、近在からも提灯行列の群れがいく組となくやって来た。
荻生さんはあぶないという知らせを受けて、その国旗とちょうちんと人ごみの中を、人を突きのけるようにして飛んで来た。
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荻生さんは危篤の報を得て、その国旗と提灯と雑踏の中を、人を突き退けるようにして飛んで来た。
一時間ほど前には、清三はその行列の万歳の声を聞いて、「今日は遼陽を取ったお祝いだね」
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一時間ほど前には清三はその行列の万歳の声を聞いて、「今日は遼陽占領の祭りだね」
と言って、そのにぎやかな声に耳をかたむけていた……。
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と言って、そのにぎやかな声に耳を傾けていた……。
今、またその行列が通る。
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今、またその行列が通る。
万歳を唱える声が、にぎやかに聞こえる。
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万歳を唱える声がにぎやかに聞こえる。
やがて帰ると告げた医者は、ちょうどそこに、ほおずきのちょうちんを細い竹の先につけた一群れの行列が子どもや若者に取り巻かれてわいわい通って行くのに出会った。
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やがて暇を告げた医師は、ちょうどそこに酸漿提灯を篠竹の先につけた一群れの行列が、子供や若者に取り巻かれてわいわい通って行くのに会った。
「万歳! 日本帝国万歳」
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「万歳! 日本帝国万歳」
六十三
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六十三
昼間ではお葬式の費用がかかるというので、その翌日、夜の十一時にこっそり成願寺にほうむることにした。
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昼間では葬式の費用がかかるというので、その翌日、夜の十一時にこっそり成願寺に葬ることにした。
荻生さんは父親を助けて、あれこれと走り回った。
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荻生さんは父親をたすけてなにかれと奔走した。
町役場にも行けば、おけ屋に行ってひつぎを注文もした。
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町役場にも行けば、桶屋に行って棺をあつらえてもやった。
和尚さんは戦地から原杏花が帰るのをむかえに東京に行ってあいにく留守なので、清三が本堂に下宿していたころよく数学を教えてやった小僧さんがお経を読むことになった。
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和尚さんは戦地から原杏花が帰るのを迎えに東京に行ってあいにく不在なので、清三が本堂に寄宿しているころ、よく数学を教えてやった小僧さんがお経を読むこととなった。
近所の同じ宗派の寺からりっぱなおぼうさんをたのむほどのお布施が出せなかったのである。
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近所の法類からしかるべき導師を頼むほどの御布施が出せなかったのである。
夜は、星がさえざえと輝いていた。
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夜は星が聰しげにかがやいていた。
かきねには、虫の声が雨のように聞こえる。
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垣には虫の声が雨のように聞こえる。
つばきの葉にはつゆが置いて、大家の高い窓からもれたランプの光がキラキラ光った。
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椿の葉には露がおいて、大家の高窓からもれたランプの光線がキラキラ光った。
木の黒いかげと家の黒いかげとが、重なり合った。
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木の黒い影と家屋の黒い影とが重なり合った。
ひつぎが小道を出るころには、町ではもう起きている家はなかった。
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棺が小路を出るころには、町ではもう起きている家はなかった。
組合の人が三人、大家の主人、それに父親と荻生さんとがあとについた。
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組合のものが三人、大家のあるじ、それに父親に荻生さんとがあとについた。
ちょうちんが一つ、造花も生花もない列をさびしげに照らして、警察の角から例のみぞにそった道を寺へと進んだ。
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提灯が一つ造り花も生花もない列をさびしげに照らして、警察の角から、例の溝に沿った道を寺へと進んだ。
みぞのさびた色の水が、動いて行くちょうちんの光にかすかに見えた。
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溝のさびた水が動いて行く提灯の光にかすかに見えた。
おおいかぶさった木の葉のうらが、明るく照らされたり消えたりした。
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おおいかぶさった木の葉裏が明るく照らされたり消えたりした。
道ばたの草にも、畑にも、やぶにも、虫の音がたえず聞こえる。
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路傍の草にも、畠にも、藪にも虫の音はたえず聞こえる。
一行は歩くにつれて、バタバタと足音を立てる。
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一行は歩むにつれてバタバタと足音を立てる。
だれも口をきく人はなかった。
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誰も口をきくものはなかった。
寺の本堂は開け放されて、如来様の前にそなえられたろうそくが夜風にチラチラするのが遠くから見えた。
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寺の本堂は明け放されて、如来様の前に供えられた裸蝋燭の夜風にチラチラするのが遠くから見えた。
やがてひつぎはかつぎ上げられて、お経が始まった。
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やがて棺はかつき上げられて、読経が始まった。
背の低い小僧は、それでもおぼうさんの服を着てほっすを持った。
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丈の低い小僧はそれでも僧衣を着て、払子を持った。
一行が持って来たちょうちんは、灯をつけたまま人々の並んだ後ろの障子のさんに引っかけてある。
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一行の携えて来た提灯は灯をつけられたまま、人々の並んだ後ろの障子の桟に引っかけられてある。
広い本堂は、ろうそくが立ててあるのに、なんとなく薄暗かった。
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広い本堂は蝋燭の立てられてあるにかかわらずなんとなく薄暗かった。
父親のはげ頭と荻生さんの白地のひとえが、かすかにその中にすかして見える。
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父親の禿頭と荻生さんの白地の単衣がかすかにその中にすかされて見える。
お経の声には、重々しいところがなかった。
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読経の声には重々しいところがなかった。
いやにさえた、走るような調子であった。
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いやにさえ走ったような調子であった。
かねが、けたたましい音を立てて鳴る。
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鉦がけたたましい音を立てて鳴る。
「ここでこうして林君のとむらいをしようとは、夢にも思わなかった」
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「ここでこうして林君のおとむらいをしようとは夢にも思いがけなかった」
荻生さんは、菓子の竹の皮包みをふところに入れてよく昼ねにここへ来たころのことを思い出して、こう心の中で言った。
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荻生さんは菓子の竹皮包みを懐に入れてよく昼寝にここに来たころのことを思い出して、こう心の中に言った。
式がすんで階だんから父親が下りると、そこに寺の奥さんが立っていて、
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式がすんで、階段から父親がおりると、そこに寺のかみさんが立っていて、
「このたびはまあ……とんでもないことで……それに、お悔やみにもまだ上がりもいたしませんで……あいにく主人が留守なものですから」
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「このたびはまア……とんでもないことで……それにお悔みにもまだ上がりもいたしませんで……あいにく宿で留守なものですから」
と、とぎれとぎれのあいさつをした。
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と、きれぎれの挨拶をした。
夜は、もう薄ら寒かった。
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夜はもう薄ら寒かった。
ひとえ一枚では、はだがなんとなくヒヤヒヤする。
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単衣一枚では肌がなんとなくヒヤヒヤする。
ひつぎはやがて人足にかつがれて、墓地へと運ばれて行く。
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棺はやがて人足にかつがれて、墓地へと運ばれて行く。
えらばれたのは、畑と寺とを区切るはんの木に近いところであった。
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選ばれたのは、畠と寺とを劃った榛の木に近いところであった。
ひょろ長い並木のかげが、夜のやみの中にかすかにそれと指させる。
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ひょろ長い並木の影が夜の闇の中にかすかにそれと指さされる。
かきねの外にむやみにのびた桑の広い葉が、ガサガサと夜風になびく。
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垣の外にいたずらにのびた桑の広葉がガサガサと夜風になびく。
穴は、型どおりにほってあった。
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穴は型のごとく掘ってあった。
赤土と水が出て、あたりはふみこめないほど道が悪かった。
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赤土と水が出て、あたりは踏み立てられぬほど路がわるかった。
組合の男はいち早く草履をふみこんで、買いたての白足袋をさんざんにしたと言っている。
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組合の男はいち早く草履を踏み込んで、買いたての白足袋を散々にしたと言っている。
穴をほる男は髪まで赤土だらけにしながら、「どうも水が多くて、かい出してもかい出しても出て来るので、困ったちゃねえだ!」
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穴掘り男は頭髪まで赤土だらけにしながら、「どうも水が多くって、かい出してもかい出しても出て来るので、困ったちゃねえだ!」
などと言った。
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などと言った。
父親はちょうちんをふりかざして、穴をのぞいてみた。
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父親は提灯を振りかざして、穴をのぞいてみた。
穴の底の赤くにごった水が、ちょうちんにチラチラうつった。
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穴の底の赤く濁った水が提灯にチラチラうつった。
荻生さんも、のぞいてみた。
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荻生さんものぞいてみた。
やがて、ひつぎが穴に下ろされる。
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やがて棺が穴に下ろされる。
土のかたまりがバタバタとひつぎに当たる音がする。
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土塊のバタバタと棺に当たる音がする。
またたく間に墓は作られて、小僧のおぼうさん姿が黒くその前に立ったと思うと、例の調子はずれのお経が始まった。
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時の間に墓は築かれて小僧の僧衣姿が黒くその前に立ったと思うと、例の調子はずれの読経が始まった。
暗いやみの中のちょうちんは、むくげのかきねを背にして立った荻生さんの青白い顔と、父親のはげ頭と、そのほかの人たちが丸く並んでいるのを、かすかに照らした。
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暗い闇の中の提灯は、木槿垣を背にして立った荻生さんの蒼白い顔と父親の禿頭とそのほかの群れのまるく並んでいるのをかすかに照らした。
六十四
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六十四
一年ほどして、そこに自然の石の石碑が建てられた。
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一年ほどして、そこに自然石の石碑が建てられた。
表には林清三君之墓、下に辱知有志と刻んであった。
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表には林清三君之墓、下に辱知有志と刻んであった。
荻生さんと郁治とが走り回って建てたので、その寄付をした人の中には美穂子も雪子もしげ子もあった。
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荻生さんと郁治とが奔走して建てたので、その醵金者の中には美穂子も雪子もしげ子もあった。
一人息子を失った母親は、一時はほとんど生きるはりもないようにまで思ったが、しかしそう後かいしてなげいてばかりもいられなかった。
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一人息子を失った母親は一時はほとんど生きがいもないようにまで思ったが、しかしそう悔んで嘆いてばかりもいられなかった。
彼らは年をとってもなお、自分たちで働いて食べなければならなかった。
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かれらは老いてもなお独り働いて食わなければならなかった。
母親は、息子の死んだ六畳でせっせとぬい物の針を動かした。
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母親は息子の死んだ六畳でせっせと裁縫の針を動かした。
父親のはげ頭は、やはりその街道にときどき見られた。
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父親の禿頭はやはりその街道におりおり見られた。
墓には、たえず花がそなえられた。
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墓にはたえず花が手向けられた。
花好きの母親は、その季節ごとに花を持って来ては、いつもその前にそなえた。
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花好きの母親はその節ごとに花を携えて来てはつねにその前に供えた。
荻生さんも、羽生の局につとめている間はよく墓参りをした。
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荻生さんも羽生の局に勤めている間はよく墓参りをした。
ある秋の日、和尚さんは、ひさし髪に結って矢がすりの着物にえび茶のはかまをはいた女学生ふうの娘が、野菊や山菊などを一たばにしたのを持って寺の住まいに手おけを借りに来て、自分の手で前の水草のしげった井戸から水をくみ、林さんの墓のありかを聞いて、その前で人目も忘れて長く泣いていたということを奥さんから聞いた。
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ある秋の日、和尚さんは、廂髪に結って、矢絣の紬に海老茶の袴をはいた女学生ふうの娘が、野菊や山菊など一束にしたのを持って、寺の庫裡に手桶を借りに来て、手ずから前の水草の茂った井戸で水を汲んで、林さんの墓のありかを聞いて、その前で人目も忘れて久しく泣いていたということをかみさんから聞いた。
「どこの娘だか」
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「どこの娘だか」
などと、その時奥さんが言った。
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などとその時かみさんが言った。
ところがそれから二年ほどして、その墓参りをした娘が羽生の小学校の女の先生をしているという話を聞いた。
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ところがそれから二年ほどして、その墓参りをした娘が羽生の小学校の女教員をしているという話を聞いた。
「あの娘は、林さんが弥勒で教えた生徒だとさ」
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「あの娘は林さんが弥勒で教えた生徒だとサ」
と、奥さんはどこかで聞いて来て和尚さんに話した。
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とかみさんはどこかで聞いて来て和尚さんに話した。
秋の末になると、いつも赤城おろしがふきわたって、寺のうらの森はしおのように鳴った。
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秋の末になると、いつも赤城おろしが吹きわたって、寺の裏の森は潮のように鳴った。
その森のそばを、足利までつながった東武鉄道の汽車が、朝に夕方にすさまじいひびきを立てて通った。
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その森のそばを足利まで連絡した東武鉄道の汽車が朝に夕べにすさまじい響きを立てて通った。