李陵 小学生向け
中島敦(なかじまあつし)・1968年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
一
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一
漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年、秋九月のことだった。騎都尉(きとい・騎兵を率いる役人)の李陵(りりょう)は歩兵五千人を率い、国境のとりで辺塞遮虜鄣(へんさいしゃりょしょう)を出発して北へ向かった。
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漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。
アルタイ山脈の東南のはしが、ゴビ砂漠に消えていくあたりの、岩だらけで荒れた低い山地を通りぬけながら、北へ三十日間進んだ。
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阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。
北からの冷たい風が兵士たちの服を吹きぬけ、とても寒い。はるか遠くまで、たった一つの軍だけでやって来たのだという思いが、いっそう深く感じられた。
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朔風は戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。
漠北(ばくほく・ゴビ砂漠の北側の地域)にある浚稽山(しゅんけいざん)のふもとまで来て、軍はようやく足を止め、陣を張った。
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漠北・浚稽山の麓に至って軍はようやく止営した。
すでに敵である匈奴(きょうど・北方の遊牧民族)の勢力範囲の奥深くまで、入りこんでいた。
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すでに敵匈奴の勢力圏に深く進み入っているのである。
秋とはいっても北の土地のことなので、うまごやし(草の一種)もすでに枯れ、にれや、かわやなぎの葉も、もうすっかり落ちてしまっていた。
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秋とはいっても北地のこととて、苜蓿も枯れ、楡や檉柳の葉ももはや落ちつくしている。
木の葉どころか、木そのものさえ、陣を張った場所の近く以外では、めったに見つからない。ただ砂と岩と、石だらけの河原(かわら)と、水のない川底が広がる、さびしい景色だった。
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木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧と、水のない河床との荒涼たる風景であった。
どこまで見わたしても、人の暮らす気配はない。たまに現れるものといえば、広い荒れ野に水を探しに来るかもしか(羚羊)くらいのものだった。
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極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野に水を求める羚羊ぐらいのものである。
ごつごつとした形で秋空を区切る遠くの山々の上を、雁(かり)の群れが列を作って高く南へ急ぐのが見える。それを見ても、将軍も兵士たちも、誰ひとり故郷をなつかしむ気持ちになるゆとりはなかった。
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突兀と秋空を劃る遠山の上を高く雁の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰一人として甘い懐郷の情などに唆られるものはない。
それほどまでに、彼らのいる場所は、とても危険だったのだ。
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それほどに、彼らの位置は危険極まるものだったのである。
騎兵を主力とする匈奴に立ち向かうのに、騎馬隊を一部隊も連れず、ほとんど歩兵だけ(馬に乗っているのは、李陵と数人の幕僚(ばくりょう・参謀の役人)だけだった)で、敵の奥深くまで攻めこむのだから、無謀(むぼう・あまりに危険な計画)としか言いようがなかった。
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騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨がる者は、陵とその幕僚数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極みというほかはない。
その歩兵もわずか五千人で、助けに来てくれる味方はまったくいない。しかもこの浚稽山は、いちばん近い漢の国境のとりでである居延(きょえん)からでも、千五百里(当時の中国のものさしで測った距離)以上も離れていた。
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その歩兵も僅か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山は、最も近い漢塞の居延からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。
率いる李陵への絶対的な信頼と、心からの服従がなければ、とても続けられるような行軍ではなかった。
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統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
毎年、秋の風が吹き始めると決まって、漢の北の国境には、馬にむちを打って走らせる、荒々しくすばやい侵略者の大部隊が現れた。
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毎年秋風が立ちはじめると決って漢の北辺には、胡馬に鞭うった剽悍な侵略者の大部隊が現われる。
国境を守る役人が殺され、人々の物が奪われ、家畜が略奪(りゃくだつ・力ずくで奪い取ること)された。
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辺吏が殺され、人民が掠められ、家畜が奪略される。
五原(ごげん)・朔方(さくほう)・雲中(うんちゅう)・上谷(じょうこく)・雁門(がんもん)などが、毎年決まって被害を受ける土地だった。
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五原・朔方・雲中・上谷・雁門などが、その例年の被害地である。
大将軍(たいしょうぐん)の衛青(えいせい)と、嫖騎(ひょうき)将軍の霍去病(かくきょへい)の見事な軍略によって、一時期は「漠南(ばくなん・ゴビ砂漠の南側)に匈奴の王の陣地なし」とまで言われた元狩(げんしゅ)から元鼎(げんてい)にかけての数年間を除いて、この三十年間、こうした北の国境の災いは絶えることなく続いていた。
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大将軍衛青・嫖騎将軍霍去病の武略によって一時漠南に王庭なしといわれた元狩以後元鼎へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。
霍去病が死んでから十八年、衛青が亡くなってから七年がたっていた。
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霍去病が死んでから十八年、衛青が歿してから七年。
浞野侯(さくやこう)の趙破奴(ちょうはど)は、全軍を率いたまま敵に降伏(こうふく)してしまった。光禄勲(こうろくくん・役人の位)の徐自為(じょじい)が朔北(さくほく・北の砂漠地帯)に築いたとりでも、すぐに壊されてしまった。
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浞野侯趙破奴は全軍を率いて虜に降り、光禄勲徐自為の朔北に築いた城障もたちまち破壊される。
全軍から信頼される将軍(しょうぐん)といえば、少し前に大宛(だいえん)という国へ遠征して名を上げた弐師(じし)将軍の李広利(りこうり)くらいしか、いなかった。
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全軍の信頼を繋ぐに足る将帥としては、わずかに先年大宛を遠征して武名を挙げた弐師将軍李広利があるにすぎない。
その年、つまり天漢二年の夏、五月のことだ。匈奴の侵略に先立って、弐師将軍は三万の騎兵を率いて、酒泉(しゅせん)という土地を出発した。
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その年――天漢二年夏五月、――匈奴の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉を出た。
さかんに西の国境をねらっていた匈奴の右賢王(うけんおう・匈奴の王族の一人)を、天山(てんざん)というところで討とうとしたのである。
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しきりに西辺を窺う匈奴の右賢王を天山に撃とうというのである。
武帝は李陵に命じて、この軍隊の輜重(しちょう・食料や道具を運ぶ仕事)の担当をさせようとした。
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武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重のことに当たらせようとした。
未央宮(びおうきゅう)の武台殿(ぶだいでん)という御殿に呼ばれた李陵は、しかし、その役目を何とか免除してもらえるよう、必死に頼んだ。
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未央宮の武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。
李陵は、「飛将軍(ひしょうぐん)」と呼ばれた名将、李広(りこう)の孫である。
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陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広の孫。
早くから、祖父に似た才能があると言われた、馬に乗ったまま矢を射る「騎射(きしゃ)」の名手で、数年前から騎都尉として、西の国境にある酒泉や張掖(ちょうえき)で、兵士に弓を教え、鍛えていたのだった。
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つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉・張掖に在って射を教え兵を練っていたのである。
年齢もそろそろ四十に近く、いちばん血気盛んなころだったから、輜重係というのは、あまりにも物足りなかったにちがいない。
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年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重の役はあまりに情けなかったに違いない。
李陵は、「わたしが国境で鍛えている兵は、荊楚(けいそ・中国南部の地方)出身の、一人で千人に匹敵するほど強い勇者ばかりです。どうか彼らを率いて出撃させてください。匈奴の軍を横からおびやかしてみせます。」と願い出た。武帝もこれにはうなずくところがあった。
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臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出で、側面から匈奴の軍を牽制したいという陵の嘆願には、武帝も頷くところがあった。
しかし、あちこちへ次々と兵を送っていたため、あいにく、李陵の軍に分けてやれるだけの馬の余裕がなかった。
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しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割くべき騎馬の余力がないのである。
李陵は、それでもかまわないと言った。
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李陵はそれでも構わぬといった。
たしかに無理のある話だとは思われたが、輜重係にされるくらいなら、むしろ自分のために命を惜しまない部下五千人とともに、危険をおかすほうを選びたかったのだ。
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確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒すほうを選びたかったのである。
「どうか、少ない兵で多くの敵を打ち破らせてください」という李陵の言葉を、派手なことが好きな武帝は大いに喜び、その願いを聞き入れた。
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臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手好きな武帝は大いに欣んで、その願いを容れた。
李陵は西の張掖に戻って部下の兵をまとめ上げると、すぐに北へ向けて出発した。
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李陵は西、張掖に戻って部下の兵を勒するとすぐに北へ向けて進発した。
当時、居延にとどまっていた彊弩都尉(きょうどとい・弓兵をまとめる役人)の路博徳(ろはくとく)が、皇帝の命令を受けて、李陵の軍を途中まで迎えに出た。
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当時居延に屯していた彊弩都尉路博徳が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。
そこまでは良かったのだが、そこから先が、とてもまずいことになっていった。
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そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙いことになってきた。
もともとこの路博徳という男は、昔から霍去病の部下として軍に従い、邳離侯(ふりこう)という位まで与えられた人物だった。特に十二年前には、伏波(ふくは)将軍として十万の兵を率い、南越(なんえつ)という国を滅ぼした、経験豊かな老将軍でもあった。
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元来この路博徳という男は古くから霍去病の部下として軍に従い、邳離侯にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波将軍として十万の兵を率いて南越を滅ぼした老将である。
その後、罪に問われて侯の位を失い、今の地位に落とされて、西の国境を守っていた。
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その後、法に坐して侯を失い現在の地位に堕されて西辺を守っている。
年齢から言っても、李陵とはまるで親子ほども違っていた。
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年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。
かつては侯の位まで得ていたその老将にとって、今さら若い李陵などの後についていく(後塵を拝する=人の後について従う)ことが、どうしても不愉快でならなかったのだ。
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かつては封侯をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。
路博徳は、李陵の軍を出迎えると同時に、都へ使いを送り、皇帝に報告させた。
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彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。
今はちょうど秋で、匈奴の馬はよく太っている。少ない兵(寡兵・かへい)では、騎馬戦を得意とする彼らの激しい攻撃(鋭鋒・えいほう)には、なかなか立ち向かいにくい、という内容だった。
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今まさに秋とて匈奴の馬は肥え、寡兵をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒には些か当たりがたい。
だから、李陵とともにここで年を越し、春になるのを待ってから、酒泉と張掖の騎兵をそれぞれ五千ずつ合わせて出撃したほうが良い作戦だと信じる、という上奏文(じょうそうぶん・皇帝への報告書)だった。
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それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉・張掖の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。
もちろん、李陵はこのことを知らない。
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もちろん、李陵はこのことをしらない。
武帝はこれを見ると、ひどく怒った。
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武帝はこれを見ると酷く怒った。
李陵が路博徳と相談したうえで出した報告書だと考えたのである。
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李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。
わたしの前ではあれほど大きなことを言っておきながら、今さら辺境に行って急に怖気づく(おじけづく)とは何事か、というのだ。
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わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気づくとは何事ぞという。
すぐさま、都から路博徳と李陵のところへ使いが飛んだ。
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たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。
「李陵は、少ない兵で多くの敵を打ち破ると、わたしの前で大きなことを言った。だから、お前がこれと協力する必要はない。」
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李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝はこれと協力する必要はない。
「今、匈奴が西河(せいが)というところに攻め入ったというなら、お前はすぐに李陵を残して西河へ駆けつけ、敵の進路をふさげ。」というのが、路博徳への皇帝の命令だった。
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今匈奴が西河に侵入したとあれば、汝はさっそく陵を残して西河に馳せつけ敵の道を遮れ、というのが博徳への詔である。
李陵への命令には、こうあった。すぐに漠北に至り、東は浚稽山から南は竜勒水(りょうろくすい)のあたりまでを見て回り、もし変わったことがなければ、浞野侯が以前通った道に従って受降城(じゅこうじょう)まで行き、そこで兵士たちを休ませよ、と。
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李陵への詔には、ただちに漠北に至り東は浚稽山から南は竜勒水の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、浞野侯の故道に従って受降城に至って士を休めよとある。
路博徳と相談して出したあの報告書は、いったいどういうことか、という激しい問いただし(詰問・きつもん)があったことは、言うまでもない。
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博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈しい詰問のあったことは言うまでもない。
少ない兵で敵地をうろつくことの危険は別としても、この命じられた数千里もの道のりは、馬を持たない軍隊にとって、とても難しいものだった。
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寡兵をもって敵地に徘徊することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。
歩くだけの行軍の速さと、人の力で車を引く力と、冬に向かう匈奴の土地の気候を考えれば、これは誰の目にも明らかなことだった。
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徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引力と、冬へかけての胡地の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。
武帝はけっして凡庸な王(庸王・ようおう=平凡でつまらない王)ではなかったが、同じく凡庸な王ではなかった隋(ずい)の煬帝(ようだい)や、始皇帝(しこうてい)などと、似たような長所と短所を持っていた。
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武帝はけっして庸王ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋の煬帝や始皇帝などと共通した長所と短所とを有っていた。
誰よりも武帝に愛されていた李夫人(りふじん)の兄である弐師将軍でさえ、兵力が足りないために、一度は大宛から引き上げようとして武帝の激しい怒り(逆鱗にふれる=目上の人をひどく怒らせる)を買い、玉門関(ぎょくもんかん)という関所を閉じられてしまったほどだった。
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愛寵比なき李夫人の兄たる弐師将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛から引揚げようとして帝の逆鱗にふれ、玉門関をとじられてしまった。
その大宛への遠征も、そもそもは、ただ良い馬がほしいというだけの理由で思い立たれたものだった。
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その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。
皇帝が一度言い出したことは、どんなわがままでも、絶対に通さなければならなかった。
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帝が一度言出したら、どんな我儘でも絶対に通されねばならぬ。
まして、李陵の場合は、もともと自分から願い出た役目でさえあった。
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まして、李陵の場合は、もともと自ら乞うた役割でさえある。
(ただ、季節や距離にかなり無理な注文があるだけで、)ためらう理由はどこにもなかった。
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(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇すべき理由はどこにもない。
こうして李陵は、「騎兵を連れない北への遠征」
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彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」
に出発したのだった。
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に出たのであった。
浚稽山の山あいには、十日あまりとどまった。
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浚稽山の山間には十日余留まった。
その間、毎日、偵察の兵(斥候・せっこう)を遠くまで送り出して敵のようすを探るのはもちろん、近くの山や川の地形を、もれなく地図に写し取って都へ報告しなければならなかった。
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その間、日ごとに斥候を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。
報告書は、配下(麾下・きか)の陳歩楽(ちんほらく)という者が身につけて、たった一人で都へ駆けていくのだった。
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報告書は麾下の陳歩楽という者が身に帯びて、単身都へ馳せるのである。
選ばれた使者は、李陵に軽く頭を下げてから、十頭に満たない少ない馬の一頭にまたがると、一むちあてて丘を駆け下りていった。
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選ばれた使者は、李陵に一揖してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨ると、一鞭あてて丘を駈下りた。
灰色に乾いた、見わたす限り広がる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、軍の将軍も兵士たちも、何とも心細い気持ちで見送った。
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灰色に乾いた漠々たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
十日の間、浚稽山の東西三十里の範囲では、匈奴の兵(胡兵・こへい)を一人も見かけなかった。
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十日の間、浚稽山の東西三十里の中には一人の胡兵をも見なかった。
彼らより先に、夏のうちに天山へ出撃していた弐師将軍は、いったんは右賢王を打ち破ったものの、その帰り道で、別の匈奴の大軍に囲まれ、大敗してしまっていた。
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彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師将軍はいったん右賢王を破りながら、その帰途別の匈奴の大軍に囲まれて惨敗した。
漢の兵は十人のうち六、七人が討たれ、将軍自身の命さえ危なかったという。
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漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。
そのうわさは、李陵たちの耳にも届いていた。
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その噂は彼らの耳にも届いている。
李広利を打ち破ったその敵の主力は、今どのあたりにいるのだろうか。
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李広利を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか?
今、因杅(いんう)将軍の公孫敖(こうそんごう)が、西河・朔方のあたりで防いでいる(李陵と別れた路博徳は、その応援に駆けつけて行ったのだが)という敵の軍は、距離と時間を考えてみると、どうも本当の敵の主力ではなさそうに思われた。
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今、因杅将軍公孫敖が西河・朔方の辺で禦いでいる(陵と手を分かった路博徳はその応援に馳せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。
天山から、そんなに早く、東の方、四千里も離れた河南(オルドス)の地まで行けるはずがないからだ。
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天山から、そんなに早く、東方四千里の河南(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。
どうしても、匈奴の主力は今、李陵の軍の陣地から北の郅居水(しっきょすい)までの間のどこかに、とどまっていなければならない計算になる。
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どうしても匈奴の主力は現在、陵の軍の止営地から北方郅居水までの間あたりに屯していなければならない勘定になる。
李陵自身、毎日、前の山の頂に立って四方を見わたすのだが、東から南にかけては、ただ見わたす限り砂地(平沙・へいさ)が広がるだけ。西から北にかけては、木の少ない低い山々が連なっているだけだった。秋の雲の間に、時々、鷹(たか)か隼(はやぶさ)と思われる鳥の姿を見ることはあっても、地上には匈奴の兵を一人も見かけなかった。
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李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々たる一面の平沙、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹か隼かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵をも見ないのである。
山あいの、まばらな林のはずれに、兵士を運ぶ車を並べて囲いを作り、その中にいくつもの天幕(帷幕・いばく)を張った陣営だった。
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山峡の疎林の外れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕を連ねた陣営である。
夜になると、気温が急に下がった。
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夜になると、気温が急に下がった。
兵士たちは、少ない木々を折り取って火をたき、暖をとった。
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士卒は乏しい木々を折取って焚いては暖をとった。
十日ほどとどまっているうちに、月が見えなくなった。
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十日もいるうちに月はなくなった。
空気が乾いているせいか、星がとても美しかった。
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空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。
真っ黒な山の影とすれすれのところで、夜ごとに、狼星(ろうせい・シリウスという星)が、青白い光の尾を斜めに引いて輝いていた。
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黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星が、青白い光芒を斜めに曳いて輝いていた。
十数日、何事もなく過ごしたあと、明日はいよいよここを引き払って、決められた進路にしたがい東南へ向かおうと決めた、その晩のことだった。
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十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。
見張りの兵(歩哨・ほしょう)の一人が、何気なくこのきらきらと輝く狼星を見上げていると、突然、その星のすぐ下に、とても大きな赤黄色い星が現れた。
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一人の歩哨が見るともなくこの爛々たる狼星を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。
おや、と思っているうちに、その見慣れない大きな星が、赤く太い尾を引いて動いた。
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オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨きな星が赤く太い尾を引いて動いた。
続いて、二つ、三つ、四つ、五つと、同じような光がその周りに現れて、動いた。
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と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。
思わず見張りが声を上げようとしたとき、それらの遠くの光は、フッと一度に消えてしまった。
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思わず歩哨が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯はフッと一時に消えた。
まるで、今見たことがすべて夢だったかのように。
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まるで今見たことが夢だったかのように。
見張りの報告を受けた李陵は、全軍に命じて、明日の朝、夜が明けたらすぐに戦えるよう、準備を整えさせた。
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歩哨の報告に接した李陵は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。
外に出て、ひととおり各部隊の配置を確かめ終えると、ふたたび天幕の中に入り、雷のようないびきをかいて、ぐっすり眠った。
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外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷のごとき鼾声を立てて熟睡した。
翌朝、李陵が目を覚まして外に出てみると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形(じんけい・戦うための隊列)をとり、静かに敵を待ち構えていた。
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翌朝李陵が目を醒まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。
全員が、兵車を並べた外側に出て、戟(ほこ・長い柄の武器)と盾を持った者が前の列に、弓や弩(ど・弓の一種)を手にした者が後ろの列に、それぞれ配置されていた。
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全部が、兵車を並べた外側に出、戟と盾とを持った者が前列に、弓弩を手にした者が後列にと配置されているのである。
この谷をはさんだ二つの山は、まだ夜明け前の暗さ(暁暗・ぎょうあん)の中でひっそりとしていたが、あちこちの岩かげに、何かがひそんでいるらしい気配が、なんとなく感じられた。
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この谷を挾んだ二つの山はまだ暁暗の中に森閑とはしているが、そこここの巌蔭に何かのひそんでいるらしい気配がなんとなく感じられる。
朝日の光が谷間にさしこんでくると同時に、(匈奴は、単于(ぜんう・匈奴の王)がまず朝日を拝んでからでなければ、事を始めないのだろう。)
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朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴は、単于がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)
今まで何一つ見えなかった両側の山の頂から斜面にかけて、無数の人の姿が、いっせいに湧き出てきた。
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今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧いた。
天地を揺るがすようなときの声(喊声・かんせい)とともに、匈奴の兵は山のふもとへとなだれ込んできた。
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天地を撼がす喊声とともに胡兵は山下に殺到した。
匈奴の先頭の兵が二十歩の距離に迫ったとき、それまで静まりかえっていた漢の陣営から、はじめて太鼓の音(鼓声・こせい)が響いた。
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胡兵の先登が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声が響く。
たちまち千本もの弩(ど)がいっせいに放たれ、弦の音とともに、数百人の匈奴の兵がいっせいに倒れた。
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たちまち千弩ともに発し、弦に応じて数百の胡兵はいっせいに倒れた。
間をおかず、浮き足立った残りの匈奴の兵に向かって、漢の軍の前列にいた、戟を持つ兵士たち(持戟者・じげきしゃ)が襲いかかった。
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間髪を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者らが襲いかかる。
匈奴の軍はすっかり崩れ、山の上へと逃げ上っていった。
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匈奴の軍は完全に潰えて、山上へ逃げ上った。
漢の軍はこれを追いかけ、討ち取った敵の首は数千にもなった。
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漢軍これを追撃して虜首を挙げること数千。
見事な勝ちっぷりではあったが、しつこい敵が、このまま引き下がるはずはなかった。
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鮮やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。
今日の敵の軍だけでも、ゆうに三万人はいただろう。
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今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。
それに、山の上でなびいていた旗じるしから見ても、まぎれもなく単于を守る親衛軍だった。
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それに、山上に靡いていた旗印から見れば、紛れもなく単于の親衛軍である。
単于がその場にいるとすれば、八万や十万もの後続の援軍が、当然送り出されるものと覚悟しなければならなかった。
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単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。
李陵はすぐさま、この地から兵を引き上げて、南へ移ることにした。
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李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。
それも、ここから東南二千里にある受降城へ向かうという前日までの予定を変えて、半月前に通ってきたのと同じ道を南へたどり、一日でも早く、もとの居延塞(きょえんさい)(そこでさえ千数百里は離れているが)にたどりつこうとしたのだった。
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それもここから東南二千里の受降城へという前日までの予定を変えて、半月前に辿って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
南へ進んで三日目の昼、漢の軍のはるか後方、北の地平線に、雲のように黄色い砂ぼこり(黄塵・こうじん)が上がるのが見えた。
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南行三日めの午、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵の揚がるのが見られた。
匈奴の騎兵が追いかけてきたのだった。
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匈奴騎兵の追撃である。
翌日には、すでに八万の匈奴の兵が、馬の速さを生かして、漢の軍の前後左右を、すきまなく取り囲んでしまっていた。
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翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙もなく取囲んでしまっていた。
ただし、前日の失敗にこりたらしく、すぐ近くまでは寄ってこなかった。
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ただし、前日の失敗に懲りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。
南へ行進していく漢の軍を遠くから取り巻きながら、馬の上から遠くへ矢を射かけてくるのだった。
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南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。
李陵が全軍を止めて、戦うための隊形をとらせると、敵は馬を走らせて遠くへ退き、直接の戦い(搏戦・はくせん)を避けるのだった。
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李陵が全軍を停めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦を避ける。
ふたたび行軍を始めると、また近づいてきて矢を射かけてくる。
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ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。
行進の速さが目に見えて落ちるのはもちろん、死んだり傷ついたりする者も、一日ごとに確実に増えていった。
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行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖えていくのである。
飢えて疲れた旅人の後をつける、荒れ野の狼(おおかみ)のように、匈奴の兵は、この戦い方を続けながら、しつこく追ってきた。
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飢え疲れた旅人の後をつける曠野の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。
少しずつ傷つけていったすえに、いつか最後のとどめを刺そうと、その機会をうかがっているのだった。
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少しずつ傷つけていった揚句、いつかは最後の止めを刺そうとその機会を窺っているのである。
戦いながら、また退きながら、南へ進むことさらに数日。ある山あいの谷で、漢の軍は一日の休養をとった。
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かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。
負傷者は、すでにかなりの数にのぼっていた。
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負傷者もすでにかなりの数に上っている。
李陵は全員を集めて点呼し、けがのようすを調べたうえで、次のように決めた。傷が一か所だけの者は、いつもどおり武器を持って戦わせる。傷が二か所ある者は、それでも兵車を押して手伝わせる。傷が三か所になって、はじめて輦(れん・人が運ぶ乗り物)に乗せて、助けて運ぶことにしたのである。
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李陵は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執って闘わしめ、両創を蒙る者にもなお兵車を助け推さしめ、三創にしてはじめて輦に乗せて扶け運ぶことに決めた。
運ぶ力が足りないため、死体(屍体・したい)はすべて、荒れ野に置き去りにするほかなかった。
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輸送力の欠乏から屍体はすべて曠野に遺棄するほかはなかったのである。
この夜、陣地を見回っていたとき、李陵はたまたま、ある輜重車(しちょうしゃ)の中に、男の服を着た女がいるのを見つけた。
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この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車中に男の服を纏うた女を発見した。
全軍の車を一台一台調べたところ、同じようにして隠れていた十数人の女が見つかった。
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全軍の車輛について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。
以前、関東(山や関所より東の地方)の盗賊の集団が、まとめて殺された(戮に遇う・りくにあう)とき、その妻や子どもたちは、追われて西の国境地帯に移り住んだ。
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往年関東の群盗が一時に戮に遇ったとき、その妻子等が逐われて西辺に遷り住んだ。
その未亡人(寡婦・かふ)たちのうち、食べる物や着る物にも困り果てた末に、国境を守る兵士の妻になったり、その兵士たちを客(華客・とくい=お得意さん)とする娼婦(しょうふ)に身を落としたりした者が、少なくなかった。
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それら寡婦のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客とする娼婦となり果てた者が少なくない。
兵車の中に隠れて、はるばる漠北まで付いてきたのは、そういう女たちだった。
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兵車中に隠れてはるばる漠北まで従い来たったのは、そういう連中である。
李陵は、部下の役人に、その女たちを斬るよう、かんたんに命じた。
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李陵は軍吏に女らを斬るべくカンタンに命じた。
彼女たちを連れてきた兵士については、一言もふれなかった。
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彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。
谷あいのくぼ地に引き出された女たちの、かん高い泣き声がしばらく続いたあと、それが突然、夜の静けさに飲みこまれたかのように、フッと消えていった。天幕の中にいた将軍や兵士たちは、みな身の引き締まる思い(粛然・しゅくぜん)で、それを聞いていた。
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澗間の凹地に引出された女どもの疳高い号泣がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりに間近まで攻め寄せてきた敵を迎えて、漢の全軍は思う存分、見事に戦った。
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翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。
敵が置き去りにした死体は、三千を超えた。
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敵の遺棄屍体三千余。
連日しつこく続くゲリラ戦法に、長らくいらだち、くじけかけていた士気が、急に奮い立った形だった。
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連日の執拗なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄かに奮い立った形である。
次の日からまた、もとの竜城(りゅうじょう)へと向かう道にしたがって、南への撤退が始まった。
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次の日からまた、もとの竜城の道に循って、南方への退行が始まる。
匈奴はまたしても、もとの遠巻きにする戦法に戻った。
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匈奴はまたしても、元の遠巻き戦術に還った。
五日目、漢の軍は、砂地の中に時おり見つかる、沼地の一つに踏み入った。
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五日め、漢軍は、平沙の中にときに見出される沼沢地の一つに踏入った。
水は半分凍っていて、ぬかるみ(泥濘・でいねい)も、すねが埋まるほどの深さだった。行っても行っても、果てしなく枯れたあし原が続いた。
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水は半ば凍り、泥濘も脛を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原が続く。
風上に回りこんだ匈奴の一隊が、火を放った。
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風上に廻った匈奴の一隊が火を放った。
北からの風が炎をあおり立て、真昼の空の下で白っぽく色を失った火が、すさまじい速さで漢の軍に迫ってきた。
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朔風は焔を煽り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。
李陵はすぐに、近くのあしに迎え火を放たせて、かろうじてこれを防いだ。
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李陵はすぐに附近の葦に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。
火は防げたが、ぬかるんだ湿地(沮洳地・そじょち)を車で進む苦しさは、とても言葉では言い表せないほどだった。
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火は防いだが、沮洳地の車行の困難は言語に絶した。
休む場所もないまま、一晩中ぬかるみの中を歩き通したあと、翌朝ようやく丘陵地にたどりついたとたん、先回りして待ち伏せていた敵の主力の襲撃を受けた。
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休息の地のないままに一夜泥濘の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿りついたとたんに、先廻りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭った。
人と馬が入り乱れての、直接ぶつかり合う戦い(搏兵戦・はくへいせん)だった。
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人馬入乱れての搏兵戦である。
騎馬隊の激しい突撃を避けるため、李陵は車を捨てて、山のふもとにある、まばらな林の中へ、戦いの場所を移した。
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騎馬隊の烈しい突撃を避けるため、李陵は車を棄てて、山麓の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。
林の中からの激しい弓矢の攻撃は、大きな効果をあげた。
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林間からの猛射はすこぶる効を奏した。
ちょうどそのとき、単于(ぜんう・匈奴の王)と親衛隊が、陣の前に姿を現した。漢軍がいっせいに連弩(れんど・一度にたくさんの矢を放てる弓)を放つと、単于の乗った白い馬は前足を高く上げて棒立ちになった。青い上着を着た匈奴の王は、たちまち地面にほうり出された。
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たまたま陣頭に姿を現わした単于とその親衛隊とに向かって、一時に連弩を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍をまとった胡主はたちまち地上に投出された。
親衛隊の二人が馬から下りることもせず、左右からさっと単于をすくい上げた。そして親衛隊全員が単于を取り囲み、素早く退いていった。
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親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。
何時間も入り乱れて戦ったすえ、ようやくしつこい敵を追い返すことができた。だが、これまでにないほどの苦しい戦いだった。
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乱闘数刻ののちようやく執拗な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。
残された敵の死体は、また数千にのぼった。だが漢軍も、千人近い戦死者を出していた。
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遺された敵の屍体はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
この日つかまえた匈奴の捕虜の話から、敵軍の様子の一部を知ることができた。
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この日捕えた胡虜の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。
それによると、単于は漢の兵士の強さに驚いていた。自分より二十倍も大きな軍を持ちながら、それを恐れもせず、日に日に南へ引き寄せてくるように見える。もしかしたら近くに伏兵(ふくへい・隠れて待ち構えている兵)がいて、それを頼りにしているのではないかと、単于は疑っているらしい。
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それによれば、単于は漢兵の手強さに驚嘆し、己に二十倍する大軍をも怯れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃んでいるのではないかと疑っているらしい。
前の晩、単于はその疑いを幹部の将軍たちに話して相談した。結局、こういう意見が勝った。『そういう疑いもたしかにありうる。しかし、単于みずから数万の騎兵を率いていながら、これだけ少ない漢の軍を滅ぼせないというのでは、我々の面目が立たない。』ここから南へ四、五十里は山や谷が続く。その間は力いっぱい攻め立てる。それでも平地に出て一戦して破れなければ、そのときはじめて兵を北へ引き返そう、ということに決まったという。
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前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還そうということに決まったという。
これを聞いて、校尉(こうい・軍の役職)の韓延年(かんえんねん)をはじめ、漢軍の幕僚(ばくりょう・作戦を考える将校たち)たちの心には、もしかしたら助かるかもしれないという、かすかな希望が湧いてきた。
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これを聞いて、校尉韓延年以下漢軍の幕僚たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微かに湧いた。
翌日からの匈奴軍の攻撃は、猛烈を極めた。
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翌日からの胡軍の攻撃は猛烈を極めた。
捕虜が話していた『最後の猛攻撃』というのを、始めたのだろう。
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捕虜の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。
襲撃は一日に十数回も繰り返された。
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襲撃は一日に十数回繰返された。
漢軍は厳しく反撃をしながら、少しずつ南へ移動していった。
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手厳しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。
三日たつと、平地に出た。
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三日経つと平地に出た。
平地での戦いになると、騎馬隊の力は何倍にも強くなる。匈奴たちはその力にものを言わせ、なりふりかまわず漢軍を押しつぶそうとした。しかし結局、また二千の死体を残して退いていった。
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平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴らは遮二無二漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体を遺して退いた。
捕虜の話がうそでなければ、これで匈奴の軍は追撃をやめるはずだった。
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捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。
たった一人の兵士が言ったことなので、そこまで信じられるとは思わなかった。それでも、幕僚たちが少しほっとしたことはたしかだった。
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たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚一同些かホッとしたことは争えなかった。
その晩、漢の軍侯(ぐんこう・部隊を指揮する役職)である管敢(かんかん)という者が、陣を抜け出して匈奴の軍に逃げ、降参した。
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その晩、漢の軍侯、管敢という者が陣を脱して匈奴の軍に亡げ降った。
管敢はもともと長安(ちょうあん・漢の都)の不良少年だった。前の晩、見張りの仕事で失敗したことを、校尉である成安侯(せいあんこう)韓延年に、みんなの前でどなりつけられ、むちで打たれていた。
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かつて長安都下の悪少年だった男だが、前夜斥候上の手抜かりについて校尉・成安侯韓延年のために衆人の前で面罵され、笞打たれた。
それを恨みに思って、この行動に出たのだった。
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それを含んでこの挙に出たのである。
先日、谷間で斬られてしまった女たちの一人が、彼の妻だったとも言われている。
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先日渓間で斬に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。
管敢は、匈奴の捕虜が話していた内容を知っていた。
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管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。
そのため、匈奴の陣に逃げこみ単于の前に引き出されると、伏兵を恐れて兵を引き上げる必要などないと、強く言い立てた。
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それゆえ、胡陣に亡げて単于の前に引出されるや、伏兵を懼れて引上げる必要のないことを力説した。
彼は言った。漢軍には後ろ盾になる援軍がありません。
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言う、漢軍には後援がない。
矢もほとんど尽きかけています。
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矢もほとんど尽きようとしている。
けが人も次々に出て、行軍はひどく苦しい状態です。
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負傷者も続出して行軍は難渋を極めている。
漢軍の中心となっているのは、李陵将軍と成安侯韓延年が率いる部隊だった。それぞれ八百人ずつで、黄色と白の幟(し・のぼり旗)を目印にしている。明日、匈奴の精鋭の騎兵をそこに集中させて攻撃すれば、破ることができる。そうすれば、残りの兵はたやすく全滅させられるだろう。管敢はそう告げた。
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漢軍の中心をなすものは、李将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟をもって印としているゆえ、明日胡騎の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅するであろう、云々。
単于は大いに喜んで管敢を手厚くもてなし、すぐに北へ引き上げる命令を取り消した。
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単于は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
翌日、匈奴の中でもっとも強い部隊が、『李陵、韓延年、早く降参しろ』と叫びながら、黄色と白の幟をめざして襲いかかってきた。
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翌日、李陵韓延年速かに降れと疾呼しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟を目ざして襲いかかった。
その勢いに押されて、漢軍はしだいに平地から西の山地へと追いやられていった。
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その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。
とうとう、本来の道からはるかに離れた山と谷の間に追い込まれてしまった。
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ついに本道から遙かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。
四方の山の上から、敵は雨のように矢を降らせた。
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四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注いだ。
それに応戦しようにも、漢軍の矢はもう完全に尽きてしまっていた。
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それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。
遮虜鄣(しゃりょしょう・国境のとりで)を出発するとき、一人あたり百本ずつ持っていた、合わせて五十万本の矢が、すべて射尽くされてしまったのだ。
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遮虜鄣を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。
矢だけではない。
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矢ばかりではない。
全軍が持っていた刀や槍などの武器も、半分は折れたり欠けたりしてしまっていた。
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全軍の刀槍矛戟の類も半ばは折れ欠けてしまった。
まさに、刀は折れ、矢は尽きてしまったのだ。
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文字どおり刀折れ矢尽きたのである。
それでも、戟(ほこ・槍のような武器)を失った者は、車の車輪の棒を切り取って武器にした。軍吏(ぐんり・部隊を率いる役人)は小さな刀を手にして防戦した。
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それでも、戟を失ったものは車輻を斬ってこれを持ち、軍吏は尺刀を手にして防戦した。
谷は奥へ進むにつれて、ますます狭くなっていった。
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谷は奥へ進むに従っていよいよ狭くなる。
匈奴の兵士たちは、あちこちの崖の上から大きな石を投げ落とし始めた。
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胡卒は諸所の崖の上から大石を投下しはじめた。
矢よりもこちらのほうが、確実に漢軍の死傷者を増やしていった。
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矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。
死体と積み重なった石とで、もう前へ進むこともできなくなった。
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死屍と纍石とでもはや前進も不可能になった。
その夜、李陵は動きやすい普段着に着替え、誰もついてくるなと言いつけて、一人で陣の外に出た。
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その夜、李陵は小袖短衣の便衣を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。
月が山あいから顔を出し、谷間に積み重なった死体を照らした。
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月が山の峡から覗いて谷間に堆い屍を照らした。
浚稽山の陣を引き払ったときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなり始めていた。
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浚稽山の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。
月の光と、あたり一面の霜とで、片岡の斜面は水に濡れたように見えた。
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月光と満地の霜とで片岡の斜面は水に濡れたように見えた。
陣に残った将兵たちは、李陵の服装を見て、彼が一人で敵の陣を探り、うまくいけば単于と刺し違えるつもりに違いないと察した。
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幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。
李陵はなかなか戻って来なかった。
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李陵はなかなか戻って来なかった。
彼らは息をひそめて、しばらく外の様子をうかがった。
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彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺った。
遠く山の上にある敵のとりでから、胡笳(こか・匈奴の笛)の音が響いてきた。
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遠く山上の敵塁から胡笳の声が響く。
かなり時間がたってから、李陵が音もなく幕を持ち上げて、中に入ってきた。
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かなり久しくたってから、音もなく帷をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。
だめだ。
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だめだ。
とひとこと、吐き出すように言うと、腰かけに腰を下ろした。
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と一言吐き出すように言うと、踞牀に腰を下した。
『全軍、斬られて死ぬよりほかに、道はないようだな』としばらくして、誰に向かうでもなくつぶやいた。
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全軍斬死のほか、途はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。
その場にいた誰も、口を開く者はいなかった。
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満座口を開く者はない。
しばらくして、軍吏の一人が口を開いた。以前、浞野侯趙破奴が匈奴の軍に生け捕りにされ、数年後に漢に逃げ帰ったときも、武帝はこれを罰さなかったと話した。
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ややあって軍吏の一人が口を切り、先年浞野侯趙破奴が胡軍のために生擒られ、数年後に漢に亡げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。
この例から考えても、李陵は少ない兵でこれほど匈奴を震え上がらせた人物だ。たとえ都へ逃げ帰っても、天子はきっとふさわしい扱い方をご存じだろう、と言うのだ。
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この例から考えても、寡兵をもって、かくまで匈奴を震駭させた李陵であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途を知りたもうであろうというのである。
李陵はそれをさえぎって言った。
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李陵はそれを遮って言う。
『わたし一人のことはしばらく置いておこう。とにかく、今矢が数十本でもあれば、なんとか囲みを脱出することもできるだろう。しかし、矢が一本もないこの状態では、明日の夜明けには全軍がただ座って捕らえられるのを待つばかりだ。』
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陵一個のことはしばらく措け、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様では、明日の天明には全軍が坐して縛を受けるばかり。
『ただ、今夜のうちに囲みを突き破って外に出て、鳥やけものが散らばるように、それぞれ別々に走ったなら、その中には国境のとりでにたどり着いて、天子に戦の様子を報告できる者がいるかもしれない。』
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ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞に辿りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。
『考えるに、今いる場所は鞮汗山(ていかんざん)の北にある山地に違いない。居延まではまだ数日かかる道のりだから、うまくいくかどうかは分からない。だが今となっては、それ以外に残された道はないではないか。』
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案ずるに現在の地点は鞮汗山北方の山地に違いなく、居延まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途はないではないか。
将校たちも、これにうなずいた。
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諸将僚もこれに頷いた。
全軍の将兵一人一人に、二升の糒(ほしいい・干した保存食の米)と一つの氷のかけらが配られた。そして、なりふりかまわず遮虜鄣に向かって走るようにと言い聞かされた。
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全軍の将卒に各二升の糒と一個の冰片とが頒たれ、遮二無二、遮虜鄣に向かって走るべき旨がふくめられた。
そして一方で、漢の陣にある旗をすべて倒し、切り刻んで地面に埋めた。敵に利用されそうな武器や戦車なども、すべて壊してしまった。
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さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗を倒しこれを斬って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧れのあるものも皆打毀した。
夜中に、太鼓を打って兵を起こした。
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夜半、鼓して兵を起こした。
太鼓の音さえ、もの悲しく響くばかりで、力強くは響かなかった。
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軍鼓の音も惨として響かぬ。
李陵は韓校尉とともに馬にまたがり、勇敢な兵士十数人を従えて、先頭に立った。
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李陵は韓校尉とともに馬に跨がり壮士十余人を従えて先登に立った。
この日追い込まれた谷の東側の出口を突き破って平地に出て、そこから南へ向かって走ろうというのだった。
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この日追い込まれた峡谷の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早くも月はすでに沈んでいた。
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早い月はすでに落ちた。
匈奴の不意をついて、なんとか全軍の三分の二は、予定どおり谷の裏口を突破した。
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胡虜の不意を衝いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。
しかしすぐに、敵の騎馬兵に追撃された。
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しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。
歩いていた兵の多くは討たれるか捕まったようだった。しかし、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その馬に鞭を打って南へ走った。
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徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬に鞭うって南方へ走った。
敵の追撃を振り切り、夜の中でもぼんやり白く見える砂地の上を逃げ延びた部下の数を数えてみると、たしかに百人以上いることが確かめられた。それを見届けると、李陵はまた谷の入口の激しい戦場へと引き返した。
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敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵はまた峡谷の入口の修羅場にとって返した。
体にはいくつもの傷を負い、自分の血と敵の返り血とで、戎衣(じゅうい・よろい)は重く濡れていた。
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身には数創を帯び、自らの血と返り血とで、戎衣は重く濡れていた。
彼のそばにいた韓延年は、すでに討たれて戦死していた。
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彼と並んでいた韓延年はすでに討たれて戦死していた。
部下を失い、全軍を失った今、もう天子にお会いできる顔はない。
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麾下を失い全軍を失って、もはや天子に見ゆべき面目はない。
李陵は戟を握り直すと、ふたたび入り乱れた戦いの中へ駆け込んでいった。
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彼は戟を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入った。
暗闇の中、敵か味方かも分からないほどの乱闘の中で、李陵の乗った馬が、飛んできた矢に当たったらしく、がくりと前にのめった。
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暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢に当たったとみえてガックリ前にのめった。
それとほぼ同時に、目の前の敵を突こうと戈を引いた李陵は、突然、背後から重い一撃を後頭部に受けて気を失った。
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それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰って失神した。
馬から転げ落ちた李陵の上に、生け捕りにしようと構えていた匈奴の兵士たちが、幾重にも折り重なって飛びかかった。
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馬から顛落した彼の上に、生擒ろうと構えた胡兵どもが十重二十重とおり重なって、とびかかった。
二
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二
九月に北へ出発した五千人の漢軍は、十一月に入るころには、疲れ果て傷つき、将軍も失って、四百人にも満たない敗残兵となって、国境のとりでにたどり着いた。
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九月に北へ立った五千の漢軍は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞に辿りついた。
戦いに敗れた知らせは、すぐに早馬で長安の都に届けられた。
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敗報はただちに駅伝をもって長安の都に達した。
武帝は、思ったほど怒らなかった。
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武帝は思いのほか腹を立てなかった。
なぜなら、本隊である李広利の大軍でさえ大敗しているのだから、一部隊にすぎない李陵の少ない兵に、それほどの期待をかけられるはずがなかったからだ。
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本軍たる李広利の大軍さえ惨敗しているのに、一支隊たる李陵の寡軍にたいした期待のもてよう道理がなかったから。
それに武帝は、李陵はきっと戦死しているに違いないとも思っていた。
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それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。
ただ、少し前に李陵の使者として漠北(ばくほく・北の砂漠地帯)から『戦線に異状なし、兵士たちの士気はとても高い』
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ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北から「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛」
という知らせを持ってきた陳歩楽だけは、成り行き上どうしても自殺しなければならなかった。彼はよい知らせを届けた使者としてほめられ、郎(ろう・宮廷に仕える役人)になってそのまま都に留まっていたのだ。
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の報をもたらした陳歩楽だけは(彼は吉報の使者として嘉せられ郎となってそのまま都に留まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。
かわいそうではあったが、これはどうしようもないことだった。
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哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌年、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではなかった。
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翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。
捕らえられて匈奴に降参したのだという、確かな知らせが届いた。
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捕えられて虜に降ったのだという確報が届いた。
武帝は、このときはじめて激しく怒った。
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武帝ははじめて嚇怒した。
即位してから四十年あまり。
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即位後四十余年。
帝はもう六十に近い年齢だったが、その気性の激しさは、若いころよりもさらに強くなっていた。
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帝はすでに六十に近かったが、気象の烈しさは壮時に超えている。
仙人になる術や不老不死の話を好み、方士(ほうし・仙術を使うと言われる人)や巫女(みこ)のような人々を信じていた武帝は、それまで、自分が絶対に信じきっていた方士たちに、何度もだまされてきていた。
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神仙の説を好み方士巫覡の類を信じた彼は、それまでに己の絶対に尊信する方士どもに幾度か欺かれていた。
漢の国の勢いが頂点にあったこの時代、五十年あまりも君臨してきたこの大皇帝は、中年を過ぎてからずっと、あの世や魂の世界への不安な関心に、しつこくつきまとわれていた。
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漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗につきまとわれていた。
それだけに、その方面で裏切られることは、武帝にとって大きな打撃となった。
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それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。
こうした打撃は、もともとおおらかだった武帝の心に、年を追うごとに、家来たちへの暗い疑い(猜疑・さいぎ)を植えつけていった。
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こうした打撃は、生来闊達だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑を植えつけていった。
李蔡(りさい)、青霍(せいかく)、趙周(ちょうしゅう)と、丞相(じょうしょう・国の政治をとりまとめる最高の役人)を務めた者たちが、次々に死罪にされていった。
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李蔡・青霍・趙周と、丞相たる者は相ついで死罪に行なわれた。
今の丞相である公孫賀(こうそんが)などは、その役目を命じられたとき、自分の運命を恐れて、帝の前で大声で泣き出したほどだった。
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現在の丞相たる公孫賀のごとき、命を拝したときに己が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。
意志の強い硬骨漢(こうこつかん・信念を曲げない人)の汲黯(きゅうあん)が朝廷を去ったあとは、帝の周りにいるのは、こびへつらう家来(佞臣・ねいしん)か、情け容赦のない役人(酷吏・こくり)ばかりになっていた。
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硬骨漢汲黯が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣にあらずんば酷吏であった。
さて、武帝は重臣たちを呼び集め、李陵の処分について話し合った。
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さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。
李陵自身は都にいないが、その罪がどう決まるかによって、彼の妻子や親族(眷属・けんぞく)、財産などの処分が行われることになる。
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李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属家財などの処分が行なわれるのである。
情け容赦のない役人として知られていた、ある廷尉(ていい・裁判を担当する役人)は、いつも帝の顔色をうかがっていた。表向きは法律を守っているように見せかけながら、実は帝の望みどおりに法を曲げることが得意だった。
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酷吏として聞こえた一廷尉が常に帝の顔色を窺い合法的に法を枉げて帝の意を迎えることに巧みであった。
ある人が『法とは絶対のものだ』と説いてこの廷尉を責めたところ、彼はこう答えた。
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ある人が法の権威を説いてこれを詰ったところ、これに答えていう。
『前の君主が正しいとしたことが決まり(律)になり、今の君主が正しいとすることが新しい決まり(令)になる。』
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前主の是とするところこれが律となり、後主の是とするところこれが令となる。
『そのときの君主の考え以外に、いったいどんな法があるというのか。』
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当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。
家来たちは、みなこの廷尉と同じような者ばかりだった。
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群臣皆この廷尉の類であった。
丞相の公孫賀、御史大夫(ぎょしたいふ・役人を監督する役職)の杜周(としゅう)、太常(たいじょう・祭祀を司る役職)の趙弟(ちょうてい)をはじめ、誰一人として、帝の激しい怒りを恐れずに李陵のために弁護しようとする者はいなかった。
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丞相公孫賀、御史大夫杜周、太常、趙弟以下、誰一人として、帝の震怒を犯してまで陵のために弁じようとする者はない。
彼らは口をきわめて、李陵が国を裏切ったことをののしった。
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口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵る。
李陵のような節操を裏切った男と肩を並べて朝廷に仕えていたのかと思うと、今さらながら恥ずかしいと言い出す者もいた。
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陵のごとき変節漢と肩を比べて朝に仕えていたことを思うといまさらながら愧ずかしいと言出した。
普段の李陵の行動の一つ一つが、すべて怪しかったのだという意見で、皆の考えは一致した。
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平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。
李陵のいとこにあたる李敢(りかん)が、皇太子に気に入られていることを頼みに、わがまま勝手にふるまっていることまでもが、李陵への悪口の材料にされた。
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陵の従弟に当たる李敢が太子の寵を頼んで驕恣であることまでが、陵への誹謗の種子になった。
口を閉ざして意見を言わない者が、結局は李陵に一番好意を持っている者だったが、それも数えるほどしかいなかった。
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口を緘して意見を洩らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有つものだったが、それも数えるほどしかいない。
ただ一人、苦々しい顔でこの様子を見守っている男がいた。
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ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。
今、口をきわめて李陵を悪く言いふらしているのは、数か月前、李陵が都を出発するときに盃をあげて、その門出を盛大に祝った者たちではなかったか。
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今口を極めて李陵を讒誣しているのは、数か月前李陵が都を辞するときに盃をあげて、その行を壮んにした連中ではなかったか。
漠北からの使者が来て李陵の軍が無事だと伝えたとき、『さすがは名将李広(りこう)の孫だ』と、たった一人で奮闘する李陵をほめたたえたのも、また同じ者たちではないか。
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漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃えたのもまた同じ連中ではないのか。
平気な顔で、以前のことを忘れたふりのできる高い身分の役人(顕官・けんかん)たち。そして、彼らのこびへつらい(諂諛・てんゆ)を見抜くだけの賢さを持ちながら、それでも本当のことに耳を傾けようとしない君主。この男には、それが不思議に思われた。
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恬として既往を忘れたふりのできる顕官連や、彼らの諂諛を見破るほどに聡明ではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌う君主が、この男には不思議に思われた。
いや、不思議ではない。
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いや、不思議ではない。
人間とはそういうものだと、昔からいやというほど知ってはいる。それでも、その不愉快さに変わりはなかった。
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人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。
下大夫(かたいふ・朝廷に仕える役人の位)の一人として朝廷に列していたため、この男もまた、帝から意見を求められた。
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下大夫の一人として朝につらなっていたために彼もまた下問を受けた。
そのとき、この男ははっきりと李陵をほめたたえた。
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そのとき、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。
彼は言った。
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言う。
『李陵の普段の行いを見ると、親には孝行を尽くし、仲間の武士たちとは信頼で結ばれ、いつも自分の身をかえりみずに勇んで国家の危機に立ち向かってきました。まさに国士(こくし・国を代表するほど立派な人物)と呼ぶにふさわしい人です。今回は不幸にして戦いに一度敗れましたが、自分の身と妻子を守ることだけを願っている、帝のおそばにいるこびへつらう家来(佞人・ねいじん)たちが、この一度の失敗を取り上げ、大げさにゆがめて伝え、帝の聡明さを曇らせようとしているのは、まことに残念でなりません。』
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陵の平生を見るに、親に事えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠に国士のふうありというべく、今不幸にして事一度破れたが、身を全うし妻子を保んずることをのみただ念願とする君側の佞人ばらが、この陵の一失を取上げてこれを誇大歪曲しもって上の聡明を蔽おうとしているのは、遺憾この上もない。
『そもそも今回の李陵の軍は、五千にも満たない歩兵を率いて敵地の奥深くまで入り、数万にもおよぶ匈奴の軍を、あちこち走り回らせて疲れさせました。千里も戦い続け、矢が尽きて行き場がなくなっても、なお全軍が空になった弓を構え、敵の白刃(はくじん・むき出しの刀)に立ち向かって、必死に戦い続けています。』
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そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮まるに至るもなお全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。
『部下の心をつかみ、これほどまでに死力を尽くさせるということは、昔の名将であっても、これ以上のことはできなかったでしょう。』
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部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古の名将といえどもこれには過ぎまい。
『たとえ戦いに敗れたとはいえ、その懸命な戦いぶりは、天下に堂々と示すべきものです。』
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軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。
『思うに、彼が死なずに捕虜になって降参したというのも、ひそかにあの地にとどまって、いつか何か漢のために働こうと考えてのことではないでしょうか。……』
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思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
並みいる家来たちは驚いた。
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並いる群臣は驚いた。
こんなことを言える男が世の中にいるとは、思ってもいなかったからである。
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こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。
彼らは、こめかみを震わせている武帝の顔を、恐る恐る見上げた。
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彼らはこめかみを顫わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。
それから、自分たちのことをあえて『全躯保妻子(くをまっとうしさいしをたもつ)の臣』——つまり、自分の身と妻子を守ることしか考えない家来——と呼んだこの男を、これから何が待ち受けているかを考えて、ニヤリとするのだった。
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それから、自分らをあえて全躯保妻子の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
向こう見ずなこの男――太史令(たいしれい・記録や暦を司る役人)の司馬遷(しばせん)が帝の前から退くと、すぐに、『全躯保妻子の臣』
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向こう見ずなその男――太史令・司馬遷が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子の臣」
と呼ばれた家来の一人が、司馬遷と李陵が親しい間柄であることを、武帝の耳に入れた。
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の一人が、遷と李陵との親しい関係について武帝の耳に入れた。
太史令は、ある事情から弐師将軍と仲が悪かった。司馬遷が李陵をほめるのは、それによって、李陵より先に出陣しながら手柄をあげられなかった弐師将軍をおとしいれるためだ、と言い出す者まで出てきた。
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太史令は故あって弐師将軍と隙あり、遷が陵を褒めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞して功のなかった弐師将軍を陥れんがためであると言う者も出てきた。
とにかく、星や暦、占いごと(星暦卜祀・せいれきぼくし)を司るだけの太史令の身分でありながら、あまりにも生意気な態度だというのが、その場にいた全員の一致した意見だった。
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ともかくも、たかが星暦卜祀を司るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜な態度だというのが、一同の一致した意見である。
おかしなことに、李陵の家族よりも先に、司馬遷のほうが罪に問われることになった。
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おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。
翌日、司馬遷は廷尉に引き渡された。
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翌日、彼は廷尉に下された。
刑罰は、宮刑(きゅうけい)と決まった。
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刑は宮と決まった。
中国で昔から行われてきた、体を傷つける刑罰(肉刑・にくけい)には、主なものとして四つあった。黥(げい・入れ墨を入れる刑)、劓(ぎ・鼻を切る刑)、剕(ひ・足を切る刑)、宮(きゅう)の四つである。
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支那で昔から行なわれた肉刑の主なるものとして、黥、劓(はなきる)、剕(あしきる)、宮、の四つがある。
武帝の祖父にあたる文帝(ぶんてい)の時代に、この四つのうち三つまでは廃止されたが、宮刑だけはそのまま残されていた。
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武帝の祖父・文帝のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑のみはそのまま残された。
宮刑とはもちろん、男を男でなくしてしまう、恐ろしい刑罰である。
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宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。
これを腐刑(ふけい)とも呼ぶのは、その傷が腐ったにおいを放つからだとも言われ、また、実をつけなくなった腐った木のような男になってしまうからだとも言われている。
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これを一に腐刑ともいうのは、その創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。
この刑を受けた者を閹人(えんじん)と呼び、宮廷に仕える宦官(かんがん・去勢された男の役人)の多くがこれにあたることは、言うまでもない。
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この刑を受けた者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。
よりによって、司馬遷がこの刑を受けることになったのである。
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人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。
しかし、後の時代を生きるわたしたちは、司馬遷のことを、『史記(しき)』という歴史書を書いた立派な人として知っている。だが、当時の司馬遷は、太史令(たいしれい・記録や暦を担当する役人)という、目立たない一人の役人にすぎなかった。
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しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない。
頭の良さはたしかだったが、自分の頭脳に自信を持ちすぎていて、人づき合いが苦手な男だった。議論では絶対に人に負けない男だったが、まわりからは、意地っぱりでかたくなな変わり者(へんくつじん・つむじ曲がりな人)としか思われていなかった。
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頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった。
彼が腐刑(ふけい・男性としての機能を失わせる刑罰)を受けたと聞いても、特に驚く者はいなかった。
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彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない。
司馬(しば)家は、もともと周(しゅう)という国で、記録係をつとめる一族だった。
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司馬氏は元周の史官であった。
その後、晋(しん)という国に移り、秦(しん)に仕え、やがて漢の時代になった。四代目の司馬談(しばたん)は、武帝に仕え、建元(けんげん)という年号の時代に太史令をつとめた。
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後、晋に入り、秦に仕え、漢の代となってから四代目の司馬談が武帝に仕えて建元年間に太史令をつとめた。
この司馬談が、司馬遷の父である。
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この談が遷の父である。
司馬談は、専門の律(りつ・音律の学問)、暦(れき・こよみの学問)、易(えき・占いの学問)のほかに、道家(どうか・老子や荘子の教え)にくわしく、儒(じゅ)・墨(ぼく)・法(ほう)・名(めい)といった諸家(しょか・いろいろな学派)の考えにも広く通じていた。しかし、それらをただ知っているだけでなく、自分なりの考え方でまとめ上げ、自分のものにしていた。
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専門たる律・暦・易のほかに道家の教えに精しくまた博く儒、墨、法、名、諸家の説にも通じていたが、それらをすべて一家の見をもって綜べて自己のものとしていた。
自分の頭脳や精神力への強い自信は、そのまま息子の遷(せん)に受け継がれた。
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己の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子の遷に受嗣がれたところのものである。
司馬談が息子にほどこした一番大きな教育は、いろいろな学問を教え終えたあとで、国じゅうを回る大きな旅をさせたことだった。
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彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内の大旅行をさせたことであった。
当時としては変わった教育のやり方だったが、これがのちに歴史家となる司馬遷にとって、とても役立ったことは言うまでもない。
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当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
元封(げんぽう)元年、武帝が東の泰山(たいざん)という山に登り、天をまつる儀式を行った。ちょうどそのとき、熱血漢(ねっけつかん・情熱的な性格の人)の司馬談は、周南(しゅうなん)という土地で病気で寝込んでいた。皇帝が初めて漢の国の大切な儀式を行うめでたいときに、自分一人だけお供できないことを、司馬談はひどく嘆いた。そして、そのくやしさのあまり、病気が重くなって死んでしまった。
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元封元年に武帝が東、泰山に登って天を祭ったとき、たまたま周南で病床にあった熱血漢司馬談は、天子始めて漢家の封を建つるめでたきときに、己一人従ってゆくことのできぬのを慨き、憤を発してそのために死んだ。
昔から今までを一つにつなげた歴史書を書き上げることこそ、司馬談が一生かけて願っていたことだった。しかし、それは資料を集めるだけで終わってしまった。
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古今を一貫せる通史の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集のみで終わってしまったのである。
その死にぎわの様子は、息子である遷の手によって、『史記』の最後の章にくわしく書かれている。
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その臨終の光景は息子・遷の筆によって詳しく史記の最後の章に描かれている。
それによると、司馬談はもう自分が起き上がれないと知ったとき、遷を呼び、その手をにぎった。そして、歴史を書き残すことの大切さを、心をこめて語った。自分は太史(たいし・記録を残す役人)でありながら、この仕事に手をつけられなかった。すぐれた王や忠実な家来たちの功績を、むだに土の中に埋もれさせてしまう。そのふがいなさを嘆いて、司馬談は泣いた。
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それによると司馬談は己のまた起ちがたきを知るや遷を呼びその手を執って、懇ろに修史の必要を説き、己太史となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟を空しく地下に埋もれしめる不甲斐なさを慨いて泣いた。
「わたしが死んだら、お前は必ず太史になるだろう。太史になったら、わたしが書き残そうとしていたことを、決して忘れないでくれ。」
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「予死せば汝必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」
司馬談はそう言い、これこそ自分への最大の親孝行だと言って、『お前、よく心にとめておけ』と何度も繰り返した。遷は頭を下げ、涙を流しながら、その言いつけに背かないと誓った。
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といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾それ念えやと繰返したとき、遷は俯首流涕してその命に背かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年後、司馬遷は本当に太史令の職を受け継いだ。
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父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷は太史令の職を継いだ。
父が集めた資料と、宮廷に保管されている秘密の書物を使って、すぐにでも親から子へ受け継がれたこの天職に取りかかりたかった。しかし、役人になった彼にまず命じられたのは、暦を作り直すという仕事だった。
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父の蒐集した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。
この仕事に打ち込むこと、ちょうど四年。
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この仕事に没頭することちょうど満四年。
太初(たいしょ)元年、ようやく暦を完成させると、すぐに彼は『史記』を書く作業に取りかかった。
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太初元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記の編纂に着手した。
このとき、遷は四十二歳だった。
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遷、ときに年四十二。
どういう本にするかという構想は、とっくにできあがっていた。
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腹案はとうにでき上がっていた。
その構想による歴史書の形は、今までのどの歴史書とも似ていなかった。
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その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。
彼は、正しいか正しくないかを判断する基準を示す本としては、『春秋(しゅんじゅう)』という書物をすぐれていると思っていた。しかし、事実を伝える歴史書としては、どうしても物足りなかった。
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彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。
もっと事実が欲しい。
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もっと事実が欲しい。
教訓よりも、事実が欲しかった。
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教訓よりも事実が。
『左伝(さでん)』や『国語(こくご)』という書物になると、なるほど事実は書かれている。
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左伝や国語になると、なるほど事実はある。
左伝の、出来事を語る巧みさには、ただただ感心するしかない。
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左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。
しかし、その出来事を作り出した一人ひとりの人間について、深く調べていない。
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しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。
事件のなかでの人々の姿は生き生きと描かれていても、その人がそんなことをするまでに至った、一人ひとりの生まれや育ちについての調べが足りない。それが司馬遷には不満だった。
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事件の中における彼らの姿の描出は鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許調べの欠けているのが、司馬遷には不服だった。
それに、今までの歴史書はすべて、今の時代の人に昔のことを知らせるという目的が中心だった。未来の人に今の時代のことを知らせるための工夫が、あまりにも足りないように思われた。
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それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。
つまり、司馬遷が求めているものは、今までの歴史書には見つからなかった。
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要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。
今までの歴史書のどこが物足りないのか、それは自分が求めているものを実際に書き上げてみて、はじめてはっきりすることのように思われた。
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どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底のものと思われた。
彼の胸の中にモヤモヤとたまっていたものを書き表したいという気持ちのほうが、今までの歴史書への批判より先に立っていた。
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彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。
いや、彼の批判は、自分で新しいものを作り出すという形でしか、あらわれないのだ。
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いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現われないのである。
自分が長い間、頭の中で思い描いてきた構想が、本当に「歴史書」と呼べるものかどうか、彼には自信がなかった。
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自分が長い間頭の中で画いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。
しかし、歴史書と呼べても呼べなくても、とにかくそういうものこそ、一番書かれなければならないものだ、と信じていた。世の中の人にとっても、後の時代の人にとっても、そして何より自分自身にとっても、そうだと確信していた。
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しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。
彼も孔子(こうし)にならって、自分の考えを付け加えずに、ありのままを伝える方針をとった。しかし、これは孔子の言う「述而不作(じゅつじふさく・伝えるだけで自分では作らない)」とは、だいぶ中身が違っていた。司馬遷にとって、ただ年代順に出来事を並べるだけでは、まだ「述べる」
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彼も孔子に倣って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異にした述而不作である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」
ことにはならなかった。また、後の世の人が事実そのものを知るのをじゃまするような、あまりにも道徳的な決めつけの言葉は、むしろ「作る」
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の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」
の部類に入るように思われた。
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の部類にはいるように思われた。
漢が天下を治めてから、すでに五代、百年がたっていた。始皇帝の反文化政策によって焼かれたり隠されたりしていた書物が、ようやく世の中に出回りはじめていた。文化が盛んになろうとする勢いが、あちこちで感じられる時代だった。
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漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝の反文化政策によって湮滅しあるいは隠匿されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文の興らんとする気運が鬱勃として感じられた。
漢の朝廷だけでなく、時代そのものが、すぐれた歴史書の出現を求めているときだった。
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漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史の出現を要求しているときであった。
司馬遷個人としては、父の言い残した言葉への強い思いが、豊かな学問の知識、するどい観察力、確かな文章力とともに、ようやく一つのまとまった作品を生み出そうとしていた。
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司馬遷個人としては、父の遺嘱による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然たるものを生み出すべく醗酵しかけてきていた。
彼の仕事は、実に気持ちよく進んでいった。
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彼の仕事は実に気持よく進んだ。
むしろ、順調すぎて困るくらいだった。
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むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。
というのも、最初の五帝本紀(ごていほんぎ)から夏(か)・殷(いん)・周・秦の本紀あたりまでは、彼はただ、資料を整理して正確に書くことだけを考える、いわば職人のような書き手にすぎなかった。ところが、始皇帝の時代を過ぎて、項羽本紀(こううほんぎ)に入るころから、その職人らしい冷静さがあやしくなってきたのだ。
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というのは、初めの五帝本紀から夏殷周秦本紀あたりまでは、彼も、材料を按排して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。
ともすると、項羽(こうう)が彼に乗り移るのか、それとも彼が項羽に乗り移るのか、わからなくなりそうだった。
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ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王(こうおう・項羽のこと)はその夜、起き上がり、テントの中で酒を飲んだ。
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項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。
そばには、美しい女性がいた。
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美人有リ。
名は虞(ぐ)といった。
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名ハ虞。
いつも項王にかわいがられ、そばに付き従っていた。
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常ニ幸セラレテ従フ。
項王の乗る名馬は騅(すい)といい、いつもこれに乗っていた。
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駿馬名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。
そこで項王は、悲しい思いを歌にして、自分で詩を作った。『わたしの力は山を引き抜くほど強く、わたしの意気ごみは世界をおおうほどだった。だが時の流れがわたしに味方せず、愛馬の騅はもう走ろうとしない。騅が走らないなら、どうすればいいのか。虞よ、虞よ、お前をどうしてやればいいのか。』
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是ニ於テ項王乃チ悲歌慷慨シ自ラ詩ヲ為リテ曰ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ、時利アラズ騅逝カズ、騅逝カズ奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ若ヲ奈何ニセン」
と歌った。
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ト。
何度もくり返し歌ううちに、虞もその歌に合わせて歌った。
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歌フコト数闋、美人之ニ和ス。
項王の目からは、涙が幾筋も流れ落ちた。
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項王泣数行下ル。
まわりの家来たちもみな泣き、だれも顔を上げて項王を見ることができなかった……。
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左右皆泣キ、能ク仰ギ視ルモノ莫シ……。
これでいいのだろうか?
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これでいいのか?
と司馬遷は自分に問いかけた。
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と司馬遷は疑う。
こんな、熱に浮かされたような書き方をしていいのだろうか?
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こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか?
彼は「作る」
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彼は「作ル」
ということを、極度に警戒していた。
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ことを極度に警戒した。
自分の仕事は「述べる」
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自分の仕事は「述ベル」
ことに尽きるはずだった。
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ことに尽きる。
実際、彼はただ事実を述べただけだった。
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事実、彼は述べただけであった。
しかし、なんと生き生きとした述べ方だったことか。
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しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか?
ふつうではない、すぐれた想像力の目を持った者でなければ、とてもできない書き方だった。
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異常な想像的視覚を有った者でなければとうてい不能な記述であった。
彼はときどき、「作る」
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彼は、ときに「作ル」
ということを恐れるあまり、すでに書いた部分を読み返してみて、そのせいで歴史上の人物が本物の人間のように生き生きと動いて見える言葉を、削ってしまうことがあった。
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ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。
すると確かに、その人物は生き生きとした息づかいを止めてしまう。
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すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。
これで、「作る」
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これで、「作ル」
ということになる心配はなくなるわけだ。
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ことになる心配はないわけである。
しかし、(と司馬遷は思う)これでは項羽が項羽でなくなってしまうではないか。
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しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽が項羽でなくなるではないか。
項羽も、始皇帝も、楚(そ)の荘王(そうおう)も、みんな同じような人間になってしまう。
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項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。
違う人間を同じ人間として書くことの、どこが「述べる」
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違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」
ということなのか?
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だ?
「述べる」
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「述べる」
とは、違う人間を違う人間として伝えることではないだろうか。
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とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。
そう考えると、やはり彼は、一度削った言葉をもう一度生かさないわけにはいかなかった。
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そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。
元どおりに書き直して、読み返してみると、彼はやっと落ちついた気持ちになるのだった。
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元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。
いや、彼だけではない。
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いや、彼ばかりではない。
そこに書かれた歴史上の人物たち、項羽や樊噲(はんかい)、范増(はんぞう)たちも、みんなようやく安心して、それぞれの場所に落ちつくように思われた。
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そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊噲や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
機嫌のよいときの武帝は、実に心が広く、学問や文化を大切にする理解あるパトロンだった。それに、太史令という役職は地味で特別な技能が必要だったので、役人の世界につきものの、仲間を作って争ったり、人をおとしいれたり悪口を言ったりすることから来る、地位や命の不安定さからも、司馬遷はまぬがれることができていた。
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調子のよいときの武帝は誠に高邁闊達な・理解ある文教の保護者だったし、太史令という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周の擠陥讒誣による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
数年の間、司馬遷は充実した、幸福と言っていい日々を送った。
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数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。
(当時の人が考える幸福というのは、今の時代の人の考える幸福とは、だいぶ中身が違っていた。しかし、それを求める気持ちには変わりがなかった。)
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(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)
妥協することはなかったが、どこまでも明るい性格で、よく議論し、よく怒り、よく笑った。とりわけ、議論の相手を徹底的に言い負かすことを、一番の得意としていた。
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妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚なきまでに説破することを最も得意としていた。
さて、そうした数年ののち、突然、この災難が司馬遷に降りかかったのである。
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さて、そうした数年ののち、突然、この禍が降ったのである。
薄暗い蚕室(さんしつ)の中で――腐刑の手術を受けたあとしばらくの間は、風に当たることを避けなければならない。そのため、中に火をたいて暖かく保った、外の空気が入らない暗い部屋を作り、そこに手術を受けた者を数日間入れて、体を休ませ回復させるのである。
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薄暗い蚕室の中で――腐刑施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。
暖かくて暗いその部屋が、蚕(かいこ)を育てる部屋に似ているというので、それを蚕室と名づけたのだった。――
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暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――
言葉にできないほどの混乱のあまり、彼はぼんやりと壁によりかかった。
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言語を絶した混乱のあまり彼は茫然と壁によりかかった。
怒りよりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。
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憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。
打ち首になること、死を命じられることについてなら、彼はもともと日ごろから覚悟ができていた。
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斬に遭うこと、死を賜うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。
刑罰で死ぬ自分の姿なら、想像してみることもできた。武帝の機嫌に逆らって李陵をほめたとき、へたをすれば死を命じられるかもしれないという心配も、自分の中にはあったのである。
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刑死する己の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵を褒め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念は自分にもあったのである。
ところが、たくさんある刑罰の中で、よりによって、最もみにくいとされる宮刑(きゅうけい・腐刑と同じ刑罰)を受けることになろうとは!
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ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋な宮刑にあおうとは!
うかつと言えばうかつだった。(死刑を覚悟するくらいなら、当然、他のあらゆる刑罰も覚悟しておかなければならないはずだからである。)彼は、自分の運命の中に思いがけない死が待っているかもしれないとは考えていた。しかし、このようなみにくい刑罰が突然やってこようとは、まったく頭の中で考えたこともなかったのだ。
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迂闊といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。
常々、司馬遷は、人にはそれぞれ、その人にふさわしい出来事しか起こらないものだ、という一種の確信のようなものを持っていた。
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常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有っていた。
これは、長い間、歴史の事実を扱っているうちに、自然と身についた考えだった。
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これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。
同じ不運にあっても、志の強い人には激しく痛烈な苦しみが訪れ、気の弱い人にはじわじわとしたじめじめしたみにくい苦しみが訪れる、というふうに。
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同じ逆境にしても、慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。
たとえ最初は、その人にふさわしくない出来事のように見えても、その後どう向き合うかによって、その運命がその人にふさわしいものだったとわかってくるものだ、と司馬遷は考えていた。
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たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判ってくるのだと。
司馬遷は、自分のことを一人前の男だと信じていた。
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司馬遷は自分を男だと信じていた。
文章を書く役人ではあっても、この時代のどんな武人よりも男らしいということを、確信していた。
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文筆の吏ではあっても当代のいかなる武人よりも男であることを確信していた。
それは、自分だけがそう思っていたのではない。
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自分でばかりではない。
このことだけは、彼に好意を持っていない者でも、認めないわけにはいかなかったようである。
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このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。
だからこそ、彼は自分の考えに従って、車裂(くるまざき)の刑ならば、自分の行く末として思い描くことができたのだった。
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それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂の刑なら自分の行く手に思い画くことができたのである。
それなのに、五十歳に近い年になって、こんな辱め(はずかしめ)を受けようとは!
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それが齢五十に近い身で、この辱しめにあおうとは!
彼は、今自分が蚕室の中にいるということが、夢のような気がした。
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彼は、今自分が蚕室の中にいるということが夢のような気がした。
夢であってほしいと思った。
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夢だと思いたかった。
しかし、壁によりかかって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない、魂まで抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横になったりすわったりしているのが目に入った。
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しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。
あの姿が、つまり今の自分なのだと思ったとき、すすり泣きとも怒鳴り声ともつかない叫びが、彼ののどからほとばしり出た。
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あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽とも怒号ともつかない叫びが彼の咽喉を破った。
激しい怒りと悩みに苦しむ数日の間には、ときどき、学者としての習慣からくる冷静な考え――反省が頭をよぎった。
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痛憤と煩悶との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。
いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが悪かったのか、という考えである。
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いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。
日本の主君と家来の考え方とは根本から違う中国のことなので、当然、彼はまず武帝を恨んだ。
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日本の君臣道とは根柢から異なった彼の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨んだ。
一時は、その恨みつらみだけで頭がいっぱいになり、他のことを考える余裕はまったくなかったというのが実際のところだった。
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一時はその怨懣だけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。
しかし、しばらくの間の激しく取り乱した時期が過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目を覚ましてきた。
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しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。
儒者(じゅしゃ・儒学を学ぶ人たち)とは違って、昔の王の値打ちにも、歴史家らしく割り引いて考えることを知っていた彼は、今の王である武帝についての評価も、自分の恨みのために狂わせることはなかった。
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儒者と違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨のために狂いを来たさせることはなかった。
なんといっても、武帝は偉大な君主である。
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なんといっても武帝は大君主である。
そのあらゆる欠点にもかかわらず、この王がいるかぎり、漢の天下はびくともしない。
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そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。
高祖はひとまず別として、仁君(じんくん・情け深い名君)とうたわれた文帝も、名君と言われた景帝(けいてい)も、この武帝と比べれば、やはり小さく見える。
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高祖はしばらく措くとするも、仁君文帝も名君景帝も、この君に比べれば、やはり小さい。
ただ、大きい人物は、その欠点までも大きく映って見えてしまう。これは仕方のないことだった。
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ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。
司馬遷は、激しい怒りと恨みの中にあっても、このことを忘れてはいなかった。
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司馬遷は極度の憤怨のうちにあってもこのことを忘れてはいない。
今度のことは、結局、天が起こした激しい嵐や雷にでも見舞われたのだと思うほかはない――そんな考えが、彼をいっそう絶望的な怒りへと駆り立てた。しかし一方で、その考えは逆に、あきらめの気持ちへと彼を向かわせようともした。
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今度のことは要するに天の作せる疾風暴雨霹靂に見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な憤りへと駆ったが、また一方、逆に諦観へも向かわせようとする。
恨みの気持ちを、いつまでも君主に向け続けることはできない。そうなると、勢いは、王のそばにいる悪い家来たちへと向けられる。
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怨恨が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣に向けられる。
彼らが悪いのだ。
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彼らが悪い。
たしかにそうだ。
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たしかにそうだ。
しかし、この悪さは、あくまで二次的な悪さにすぎない。
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しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。
それに、プライドの高い司馬遷にとって、彼ら小者たちは、恨みの対象としてさえ物足りない気がした。
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それに、自矜心の高い彼にとって、彼ら小人輩は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。
彼は、今度ほど「お人よし」というものへの腹立ちを感じたことはなかった。
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彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。
これは、悪だくみをする家来や、むごい役人よりも、始末に負えない。
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これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。
少なくとも、そばで見ていて腹が立つ。
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少なくとも側から見ていて腹が立つ。
自分では良心的なつもりで安っぽく安心していて、しかもそれで他人まで安心させてしまうのが、いっそうけしからぬのだ。
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良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪しからぬのだ。
弁護もしなければ、反論もしない。
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弁護もしなければ反駁もせぬ。
心の中に、反省もなければ、自分を責める気持ちもない。
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心中、反省もなければ自責もない。
丞相(じょうしょう・大臣)の公孫賀などは、その代表のような人物だ。
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丞相公孫賀のごとき、その代表的なものだ。
同じようにこびへつらってばかりいても、杜周(最近、この男は前任者の王卿(おうけい)をおとしいれ、まんまと御史大夫(ぎょしたいふ・大臣クラスの役職)の地位を手に入れた)のような男なら、自分でもそれをわかっているに違いない。ところが、このお人よしの丞相ときたら、その自覚さえないのだ。
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同じ阿諛迎合を事としても、杜周(最近この男は前任者王卿を陥れてまんまと御史大夫となりおおせた)のような奴は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。
自分のことを「自分の身と妻子を守るだけの家来だ」と言われても、こういう手合いは腹も立てないのだろう。
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自分に全躯保妻子の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。
こんな連中は、恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
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こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
司馬遷は最後に、腹立たしい気持ちの持って行き場を、自分自身に求めようとした。
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司馬遷は最後に忿懣の持って行きどころを自分に求めようとする。
実際、何かに対して腹を立てなければならないとすれば、結局それは自分自身に対してのほかなかったのである。
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実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。
だが、自分のどこが悪かったのか?
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だが、自分のどこが悪かったのか?
李陵のために弁護したこと、これはどう考えても、まちがっていたとは思えない。
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李陵のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。
やり方についても、特別まずかったとは思わない。
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方法的にも格別拙かったとは考えぬ。
こびへつらいに落ちぶれることをよしとしないかぎり、あれはあれで仕方のないことだった。
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阿諛に堕するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。
それならば、自分をふり返ってやましいところがなければ、そのやましくない行いがどんな結果をもたらそうとも、志のある者はそれを受け入れなければならないはずだ。
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それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。
なるほど、それはひとまずそのとおりに違いない。
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なるほどそれは一応そうに違いない。
だから、たとえ自分の体を切り刻む肢解(しかい)や、体を真っ二つにする腰斬(ようざん)にされたとしても、そういう刑罰なら受け入れるつもりだった。
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だから自分も肢解されようと腰斬にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。
しかし、この宮刑(きゅうけい・男性への身体刑)は違う。その結果、自分の体がこんな姿になってしまったことだけは、別の話だった。
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しかし、この宮刑は――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。
同じ体の障害でも、足を切られたり鼻を切られたりするのとは、まったく違う種類のものだ。
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同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。
武士としての誇りを持つ者に、加えられるべき刑ではない。
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士たる者の加えられるべき刑ではない。
これだけは、どんな角度から見ても、完全に悪いことだった。
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こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。
きれいごとでごまかす余地は、まったくない。
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飾言の余地はない。
心の傷だけなら、時間がたてば癒えることもあるだろう。しかし、自分の体のこのみにくい現実は、死ぬまでずっと続くのだ。
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そうして、心の傷だけならば時とともに癒えることもあろうが、己が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。
どんな理由があったにせよ、こんな結果を招いてしまった以上、結局は「自分が悪かった」
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動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」
と言うしかない。
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といわなければならぬ。
しかし、どこが悪かったのだろう?
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しかし、どこが悪かった?
自分の、どこが悪かったのか?
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己のどこが?
どこも悪くなかった。
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どこも悪くなかった。
自分は、正しいことしかしていない。
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己は正しいことしかしなかった。
強いて言うなら、ただ「自分がこの世に存在している」
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強いていえば、ただ、「我あり」
ということだけが、悪かったのだ。
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という事実だけが悪かったのである。
ぼんやりと力の抜けたようすで座っていたかと思うと、急に立ち上がり、傷ついた獣のようにうめきながら、暗くむし暑い部屋の中を歩き回る。
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茫然とした虚脱の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻る。
そんな動きを無意識に繰り返しながら、彼の考えもまた、いつも同じところをぐるぐる回るだけで、答えにたどり着かなかった。
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そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
我を忘れて壁に頭を打ちつけ、血を流したことが何度かあったが、それを除けば、彼は自分の命を絶とうとはしなかった。
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我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。
死にたかった。
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死にたかった。
死ねたら、どんなによいだろうと思った。
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死ねたらどんなによかろう。
死よりも何倍も恐ろしい恥(はじ)が、いつも自分を追い立てていた。だから、死を恐れる気持ちなど、まったくなかった。
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それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。
それなのに、なぜ死ねなかったのだろう?
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なぜ死ねなかったのか?
牢屋の中に、自殺の道具がなかったせいもあるだろう。
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獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。
しかし、それだけではない何かが、自分の内側から彼を止めていた。
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しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。
はじめのうち、彼はそれが何なのか気づかなかった。
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はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。
狂ったような怒りと悔しさの中で、何度も発作のように死にたい気持ちにおそわれた。それでも、自分の気持ちを自殺のほうへ向けさせまいとする何かがあることを、ぼんやりと感じていた。
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ただ狂乱と憤懣との中で、たえず発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然と感じていた。
何を忘れたのかははっきりしないのに、何か忘れ物をしたような気がすることがある。
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何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。
それと、ちょうど同じような感じだった。
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ちょうどそんなぐあいであった。
許されて自宅に帰り、そこで謹慎(きんしん・外出を控えて反省すること)するようになって、彼はやっと気がついた。この一か月、怒りと悲しみに我を忘れて、自分の一生をかけた仕事である修史(しゅうし・歴史を書きまとめること)のことをすっかり忘れていたこと。それなのに、心の奥ではその仕事のことを忘れておらず、その無意識の関心が、自分を自殺から遠ざけていたのだということに。
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許されて自宅に帰り、そこで謹慎するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一月狂乱にとり紛れて己が畢生の事業たる修史のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻む役目を隠々のうちにつとめていたことに気がついた。
十年前、死の床で自分の手を取り、泣きながら言い残した父の言葉は、今も心に強く残っていた。
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十年前臨終の床で自分の手をとり泣いて遺命した父の惻々たる言葉は、今なお耳底にある。
しかし、今、深く傷つき苦しみ切った彼の心の中で、修史の仕事をあきらめさせないものは、父の言葉だけではなかった。
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しかし、今疾痛惨怛を極めた彼の心の中に在ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。
何よりも、仕事そのものが、彼を支えていたのだ。
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それは何よりも、その仕事そのものであった。
仕事の魅力とか、仕事への情熱とかいった、心地よいものではなかった。
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仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡しい態のものではない。
修史という使命を自覚してはいたが、それは胸を張って自分を誇るような気持ちとも違った。
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修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然として自らを恃する自覚ではない。
彼はもともと、ひどく自我の強い男だった。しかし今回のことで、自分がいかに取るに足らない存在だったかを、しみじみと思い知らされた。
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恐ろしく我の強い男だったが、今度のことで、己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。
理想だ、志だと胸を張ってみたところで、結局、自分は牛に踏みつぶされる道端の虫けらのようなものにすぎなかった。
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理想の抱負のと威張ってみたところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。
「自分」
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「我」
は、みじめに踏みつぶされた。それでも、修史という仕事の意味だけは、疑いようがなかった。
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はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。
こんなに惨めな体になり果て、自信も自分を頼る気持ちもすっかり失ったあとで、それでもなお生き続けてこの仕事を続けるということは、どう考えても喜ばしいことではなかった。
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このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡しいわけはなかった。
それはむしろ、どんなに嫌でも最後まで縁を切ることが許されない、人と人との宿命のようなものに近いと、彼自身は感じていた。
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それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。
とにかく、この仕事があるために自分は自殺することができないのだ、ということだけははっきりしてきた。それも義務感からではなく、もっと体の芯でつながっているような、この仕事との結びつきによるものだった。
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とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
それまでの、わけもわからず獣のようにうめき苦しむ状態に代わって、もっとはっきりと自分でわかる、人間らしい苦しみが始まった。
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当座の盲目的な獣の呻き苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。
困ったことに、自殺できないとわかるにつれて、自殺以外に、この苦しみと恥から逃れる道がないこともますますはっきりしてきた。
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困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途のないことがますます明らかになってきた。
ひとりの立派な男であった太史令(たいしれい・歴史記録を担当する役人の長)司馬遷は、天漢三年の春に死んだ。
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一個の丈夫たる太史令司馬遷は天漢三年の春に死んだ。
そしてそれから後、彼が書き残した歴史を書き継ぐ者は、感覚も意識もない一台の書き写す機械にすぎない――そう自分に思い込ませる以外に、道はなかった。
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そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途はなかった。
無理にでも、彼はそう思い込もうとした。
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無理でも、彼はそう思おうとした。
修史の仕事は、必ず続けなければならない。
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修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。
これは、彼にとって絶対に譲れないことだった。
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これは彼にとって絶対であった。
修史の仕事を続けるためには、どんなに耐えがたくても、生き続けなければならない。
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修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。
生き続けるためには、どうしても、自分という人間は完全に死んでしまったのだと思い込む必要があったのだ。
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生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡きものと思い込む必要があったのである。
五か月後、司馬遷はふたたび筆をとった。
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五月ののち、司馬遷はふたたび筆を執った。
喜びも興奮もなかった。ただ、仕事を完成させるという意志だけにむちを打たれ、傷ついた脚を引きずりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと原稿を書き継いでいった。
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歓びも昂奮もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打たれて、傷ついた脚を引摺りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。
もう太史令の役職は解かれていた。
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もはや太史令の役は免ぜられていた。
少し後悔した武帝(ぶてい・漢の皇帝)が、しばらくして彼を中書令(ちゅうしょれい・皇帝のそばで文書を扱う役職)に取り立てたが、役職が上がろうと下がろうと、彼にとってはもう何の意味もなかった。
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些か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令に取立てたが、官職の黜陟のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。
以前は議論好きで知られた司馬遷だったが、いっさい口をきかなくなった。
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以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。
笑うことも、怒ることもない。
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笑うことも怒ることもない。
しかし、けっして元気をなくした情けない姿ではなかった。
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しかし、けっして悄然たる姿ではなかった。
むしろ、何か悪霊にでも取りつかれているような凄まじさを、人々は口を閉ざした彼の顔つきの中に見て取った。
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むしろ、何か悪霊にでも取り憑かれているようなすさまじさを、人々は緘黙せる彼の風貌の中に見て取った。
夜、眠る時間さえ惜しんで、彼は仕事を続けた。
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夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。
一刻も早く仕事を完成させ、そのうえで早く自殺する自由を手に入れたいとあせっているように、家の者たちには見えた。
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一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
凄まじい努力を一年ほど続けたのち、彼はようやく気がついた。生きる喜びをすっかり失ってしまったあとでも、何かを書き表す喜びだけは残るのだということに。
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凄惨な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。
しかし、そのころになっても、彼の完全な沈黙は破られなかったし、顔つきの中の凄まじさも、まったく和らがなかった。
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しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌の中のすさまじさも全然和らげられはしない。
原稿を書き進めるうちに、宦者(かんじゃ・去勢された役人)や閹奴(えんど・去勢された男を指す言葉)といった文字を書かなければならない場面に来ると、彼は思わずうめき声を上げた。
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稿をつづけていくうちに、宦者とか閹奴とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻き声を発した。
ひとり部屋にいるときでも、夜、寝床に横になっているときでも、ふとこの屈辱の思いがわいてくると、たちまちカッと、焼けた鉄をあてられたような熱くうずくものが全身を駆けめぐった。
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独り居室にいるときでも、夜、牀上に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌してくると、たちまちカーッと、焼鏝をあてられるような熱い疼くものが全身を駈けめぐる。
彼は思わず飛び起き、変な声を上げ、うめきながらあたりを歩き回った。そして、しばらくしてから、歯を食いしばって自分を落ち着かせようとするのだった。
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彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己を落ちつけようと努めるのである。
三
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三
戦いの混乱の中で気を失った李陵が、獣の脂であかりをともし、獣の糞を焚いた単于(ぜんう・匈奴の王)の帳房(ちょうぼう・遊牧民のテント)の中で目を覚ましたとき、彼はとっさに心を決めた。
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乱軍の中に気を失った李陵が獣脂を灯し獣糞を焚いた単于の帳房の中で目を覚ましたとき、咄嗟に彼は心を決めた。
自分で自分の首をはねて辱めから逃れるか、それとも今はいったん敵に従っておいて、そのうちに機会を見て逃げ出すか。逃げ出すときは、負けた責任を償えるだけの手柄を土産に持って帰る。この二つしか道はなかった。李陵は、後のほうを選ぶことに心を決めた。
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自ら首刎ねて辱しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償うに足る手柄を土産として――か、この二つのほかに途はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
単于は自分の手で、李陵の縄を解いた。
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単于は手ずから李陵の縄を解いた。
その後の扱いも、この上なく丁寧だった。
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その後の待遇も鄭重を極めた。
且鞮侯(そていこう)単于は、先代の呴犁湖(くりこ)単于の弟にあたる。骨太でたくましく、目が大きく赤いひげをたくわえた、中年のりっぱな体格の男だった。
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且鞮侯単于とて先代の呴犁湖単于の弟だが、骨骼の逞しい巨眼赭髯の中年の偉丈夫である。
何代もの単于に仕えて漢と戦ってきたが、まだ李陵ほど手強い敵に出会ったことはないと正直に語った。そして、陵の祖父である李広の名前を引き合いに出して、陵の見事な戦いぶりをほめた。
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数代の単于に従って漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広の名を引合いに出して陵の善戦を讃めた。
虎を素手で打ち殺したり、岩に矢を突き立てたりしたという飛将軍(ひしょうぐん・「飛ぶ将軍」と呼ばれた勇ましい将軍)李広の勇名は、今もなお胡地(こち・北方の異民族の土地)にまで語り伝えられていた。
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虎を格殺したり岩に矢を立てたりした飛将軍李広の驍名は今もなお胡地にまで語り伝えられている。
陵が手厚くもてなされたのは、彼が強い者の子孫であり、彼自身も強かったからだ。
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陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。
食べ物を分けるときも、体の強い者がおいしい部分を取り、年老いた者や弱い者には残り物を与えるのが、匈奴(きょうど・北方の遊牧民族)の習わしだった。
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食を頒けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴のふうであった。
ここでは、強い者が辱められることは決してない。
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ここでは、強き者が辱しめられることはけっしてない。
降伏した将軍である李陵は、一つの穹盧(きゅうろ・遊牧民の使うテント)と数十人の従者を与えられ、大切な客としてもてなされた。
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降将李陵は一つの穹盧と数十人の侍者とを与えられ賓客の礼をもって遇せられた。
李陵にとって、見慣れない生活が始まった。
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李陵にとって奇異な生活が始まった。
住まいは毛の敷物を敷いたテント、食べ物は獣の肉、飲み物は乳を発酵させた飲み物や獣の乳、乳から作った酒だった。
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家は絨帳穹盧、食物は羶肉、飲物は酪漿と獣乳と乳醋酒。
着物は、狼や羊や熊の皮をつづり合わせて作った毛皮の上着だった。
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着物は狼や羊や熊の皮を綴り合わせた旃裘。
家畜を育てることと、狩りをすることと、他の土地を襲って奪うこと。彼らの生活には、それ以外なかった。
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牧畜と狩猟と寇掠と、このほかに彼らの生活はない。
見渡す限り果てのない高原にも、川や湖や山々による境界はあった。単于が直接治める土地のほかは、左賢王(さけんおう)・右賢王・左谷蠡王(さろくりおう)・右谷蠡王など、位の高い王たちの領地に分けられていた。遊牧民たちが移動できる範囲も、それぞれの境界の中に限られていた。
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一望際涯のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于直轄地のほかは左賢王右賢王左谷蠡王右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。
城壁も田畑もない国だった。
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城郭もなければ田畑もない国。
村はあっても、季節にあわせて水や草を求めて、土地を移していく。
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村落はあっても、それが季節に従い水草を逐って土地を変える。
李陵には、決まった土地は与えられなかった。
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李陵には土地は与えられない。
単于の麾下(きか・配下の家来たち)の将軍たちとともに、いつも単于に付き従っていた。
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単于麾下の諸将とともにいつも単于に従っていた。
隙があれば単于の首を取ってやろうと、李陵はねらっていたが、なかなか機会は来なかった。
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隙があったら単于の首でも、と李陵は狙っていたが、容易に機会が来ない。
たとえ単于を討ち取れたとしても、その首を持って逃げ出すのは、よほどの幸運に恵まれない限り、まず不可能だった。
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たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。
北方の異民族の土地の中で単于と刺し違えて死んでも、匈奴は自分たちの不名誉をうやむやに葬ってしまうに決まっている。だから、おそらくその話は漢には伝わらないだろう。
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胡地にあって単于と刺違えたのでは、匈奴は己の不名誉を有耶無耶のうちに葬ってしまうこと必定ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。
李陵は辛抱強く、その、ほとんど不可能とも思えるような機会が来るのを待った。
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李陵は辛抱強く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
単于のもとには、李陵のほかにも、漢から降伏してきた者が何人かいた。
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単于の幕下には、李陵のほかにも漢の降人が幾人かいた。
その中の一人、衛律(えいりつ)という男は、軍人ではなかったが、丁霊王(ていれいおう)という位をもらい、単于にもっとも重く用いられていた。
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その中の一人、衛律という男は軍人ではなかったが、丁霊王の位を貰って最も重く単于に用いられている。
衛律の父は胡人(こじん・北方の異民族の人)だったが、事情があって衛律自身は漢の都で生まれ育った。
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その父は胡人だが、故あって衛律は漢の都で生まれ成長した。
衛律は武帝に仕えていたが、数年前、協律都尉(きょうりつとい・音楽を担当する役職)の李延年(りえんねん)の事件に巻き込まれるのを恐れて、逃げて匈奴に身を寄せたのだった。
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武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉李延年の事に坐するのを懼れて、亡げて匈奴に帰したのである。
血筋が血筋だけに、胡風(こふう・北方民族の風習)になじむのも早く、なかなかの才能の持ち主でもあった。いつも且鞮侯単于の作戦会議に加わり、あらゆる計画にかかわっていた。
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血が血だけに胡風になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且鞮侯単于の帷幄に参じてすべての画策に与かっていた。
李陵は、この衛律をはじめ、漢から降伏して匈奴の中にいる者たちとは、ほとんど口をきかなかった。
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李陵はこの衛律を始め、漢人の降って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。
自分の頭の中にある計画をともにできるような人物は、いないと思われたからだ。
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彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。
そういえば、ほかの漢人同士の間でも、お互いに妙に気まずいものを感じているらしく、親しく付き合うことはないようだった。
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そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
一度、単于が李陵を呼び、軍の作戦について教えを求めたことがあった。
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一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞うたことがある。
それは東胡(とうこ・匈奴の東にいた別の遊牧民族)に対する戦いについてだったので、陵は快く自分の意見を述べた。
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それは東胡に対しての戦いだったので、陵は快く己が意見を述べた。
次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢の軍に対する作戦についてだった。
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次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。
李陵は、はっきりと嫌そうな顔をしたまま、口を開こうとしなかった。
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李陵はハッキリと嫌な表情をしたまま口を開こうとしなかった。
単于も、無理に答えを求めようとはしなかった。
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単于も強いて返答を求めようとしなかった。
それからだいぶ経ったころ、代・上郡という土地を襲う軍隊の将軍のひとりとして、南へ向かうことを求められた。
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それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠する軍隊の一将として南行することを求められた。
このときは、漢との戦いには出られないと、はっきり断った。
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このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。
それ以後、単于は陵にこうした頼みごとをしなくなった。
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爾後、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。
それでも、待遇はそれまでと変わらなかった。
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待遇は依然として変わらない。
何か利用するための下心があるわけではなく、ただ立派な武士だから丁寧に扱っているのだとしか思えなかった。
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他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。
とにかく、この単于はまことの男だと、李陵は感じた。
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とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。
単于の長男である左賢王が、妙に李陵に好意を示すようになった。
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単于の長子・左賢王が妙に李陵に好意を示しはじめた。
好意というより、尊敬に近いものだった。
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好意というより尊敬といったほうが近い。
二十歳を過ぎたばかりの、荒っぽくはあるが勇気のある、まじめな青年だった。
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二十歳を越したばかりの・粗野ではあるが勇気のある真面目な青年である。
強い者への憧れが、本当に純粋で強烈だった。
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強き者への讃美が、実に純粋で強烈なのだ。
はじめ、彼は李陵のところへ来て、騎射(きしゃ・馬に乗ったまま弓を射ること)を教えてほしいと言った。
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初め李陵のところへ来て騎射を教えてくれという。
騎射といっても、馬に乗るほうは陵に劣らないほど上手だった。
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騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧い。
特に、鞍をつけない裸馬を乗りこなす技術では、はるかに陵をしのいでいた。そこで李陵は、弓の技術だけを教えることにした。
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ことに、裸馬を駆る技術に至っては遙かに陵を凌いでいるので、李陵はただ射だけを教えることにした。
左賢王は、熱心な弟子になった。
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左賢王は、熱心な弟子となった。
陵の祖父・李広の、神業のような弓の腕前について語ると、この異民族の青年は目を輝かせて熱心に聞き入るのだった。
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陵の祖父李広の射における入神の技などを語るとき、蕃族の青年は眸をかがやかせて熱心に聞入るのである。
二人はよく連れ立って狩りに出かけた。
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よく二人して狩猟に出かけた。
ほんのわずかな供の者を連れただけで、二人は広い野原を思う存分駆け回り、狐や狼、羚羊(かもしか)、大きな鳥、雉子(きじ)などを弓で射た。
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ほんの僅かの供廻りを連れただけで二人は縦横に曠野を疾駆しては狐や狼や羚羊や鵰や雉子などを射た。
あるとき、夕暮れが近づき矢も尽きかけたころ、二人は――馬が供の者たちをはるか後ろに置き去りにしていたので――一群の狼に囲まれたことがあった。
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あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙かに駈抜いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。
馬に鞭を打ち、全速力で狼の群れの中を駆け抜けて逃げたが、そのとき、李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を、後ろを走っていた若い左賢王が彎刀(わんとう・反り返った形の刀)で見事に真っ二つに斬った。
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馬に鞭うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀をもって見事に胴斬りにした。
あとで調べると、二人の馬は狼に噛み裂かれて血だらけになっていた。
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あとで調べると二人の馬は狼どもに噛み裂かれて血だらけになっていた。
そんな一日のあと、夜、テントの中で、その日の獲物を羹(あつもの・具だくさんの熱いスープ)に放りこみ、フウフウ吹きながらすすっているとき、李陵は、火に照らされて顔を赤くしたこの若い蕃王(ばんおう・異民族の王)の息子に、ふと友情のようなものを感じることがあった。
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そういう一日ののち、夜、天幕の中で今日の獲物を羹の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜るとき、李陵は火影に顔を火照らせた若い蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
天漢三年の秋、匈奴がまたもや雁門に攻め入った。
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天漢三年の秋に匈奴がまたもや雁門を犯した。
この仕返しとして、翌天漢四年、漢は弐師将軍(じししょうぐん)李広利に、騎兵六万・歩兵七万という大軍を与えて朔方から出撃させ、歩兵一万を率いる強弩都尉(きょうどとい・強い弓を持つ部隊の長官)路博徳にこれを助けさせた。
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これに酬いるとて、翌四年、漢は弐師将軍李広利に騎六万歩七万の大軍を授けて朔方を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉路博徳にこれを援けしめた。
さらに、因杅将軍(いんうしょうぐん)公孫敖は騎兵一万・歩兵三万を率いて雁門から、游撃将軍(ゆうげきしょうぐん)韓説(かんせつ)は歩兵三万を率いて五原から、それぞれ出発した。
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ひいて因杅将軍公孫敖は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃将軍韓説は歩三万をもって五原を、それぞれ進発する。
近ごろにない、大規模な北への遠征だった。
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近来にない大北伐である。
単于はこの知らせを聞くと、すぐに女性や老人・子ども、家畜の群れ、財産の類をすべて余吾水(しょごすい、ケルレン河)の北の土地に移した。そして自らは十万のえりすぐりの騎兵を率い、李広利・路博徳の軍を、川の南の大草原で迎え撃った。
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単于はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水(ケルレン河)北方の地に移し、自ら十万の精騎を率いて李広利・路博徳の軍を水南の大草原に邀え撃った。
戦いは十日あまり続いた。
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連戦十余日。
漢の軍は、とうとう退くしかなくなった。
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漢軍はついに退くのやむなきに至った。
李陵を師と仰ぐ若い左賢王は、別の部隊を率いて東へ向かい、因杅将軍の軍を迎え撃ち、さんざんに打ち破った。
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李陵に師事する若き左賢王は、別に一隊を率いて東方に向かい因杅将軍を迎えてさんざんにこれを破った。
漢軍の左翼を担っていた韓説の軍も、何も得るものがないまま兵を引いた。
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漢軍の左翼たる韓説の軍もまた得るところなくして兵を引いた。
北への遠征は、完全な失敗に終わった。
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北征は完全な失敗である。
李陵は例によって漢との戦いには自分から出ず、川の北に下がっていた。しかし、左賢王の戦いぶりをひそかに気にかけている自分に気づいて、はっとした。
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李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己を発見して愕然とした。
もちろん、全体としては漢の軍が勝ち、匈奴が負けることを望んでいたはずだった。それでも、左賢王だけはなぜか負けさせたくないと感じていたらしい。
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もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。
李陵はそのことに気づいて、激しく自分を責めた。
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李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
その左賢王に打ち破られた公孫敖は、都に帰ると、兵を多く失いながら手柄もなかったという理由で牢に入れられた。そのとき、彼は妙な言い訳をした。
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その左賢王に打破られた公孫敖が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉で牢に繋がれたとき、妙な弁解をした。
捕虜にした敵の兵が、匈奴の軍が強いのは、漢から降伏した李将軍がいつも兵を鍛え、作戦を授けて漢の軍に備えさせているからだと言った、というのだ。
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敵の捕虜が、匈奴軍の強いのは、漢から降った李将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。
しかし、それでは自分の軍が負けたことの言い訳にはならない。だから、もちろん因杅将軍の罪は許されなかった。しかし、これを聞いた武帝が、李陵に対して激しく怒ったことは言うまでもない。
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だからといって自軍が敗けたことの弁解にはならないから、もちろん、因杅将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。
一度は許されて家に戻っていた陵の一族は、ふたたび牢に入れられた。そして今度は、陵の年老いた母から、妻、子ども、弟に至るまで、みな殺されてしまった。
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一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。
軽々しい世の人の常として、当時、隴西(ろうせい・李陵の家はこの土地の出身である)の士大夫(したいふ・役人や学者などの上流階級の人々)たちは、みな、李家の出身者を出したことを恥じたと記録されている。
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軽薄なる世人の常とて、当時隴西(李陵の家は隴西の出である)の士大夫ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李陵の耳に入ったのは、半年ほど後のことだった。国境で捕らえられて連れてこられた、一人の漢の兵士の口からだった。
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この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致された一漢卒の口からである。
それを聞いたとき、李陵は立ち上がってその男の胸ぐらをつかみ、荒々しく揺さぶりながら、それが本当かどうかを、もう一度確かめた。
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それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。
それがまちがいないと分かると、李陵は歯を食いしばり、思わず両手に力を込めた。
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たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛り、思わず力を両手にこめた。
男は身をよじって、苦しそうなうめき声を漏らした。
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男は身をもがいて、苦悶の呻きを洩らした。
李陵の手は、知らないうちにその男の喉(のど)を締め付けていたのだ。
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陵の手が無意識のうちにその男の咽喉を扼していたのである。
李陵が手を離すと、男はばったりと地面に倒れた。
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陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。
その姿を見もせずに、李陵は帳房(ちょうぼう・匈奴のテント式の建物)の外へ飛び出した。
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その姿に目もやらず、陵は帳房の外へ飛出した。
李陵はあてもなく荒れ野を歩き回った。
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めちゃくちゃに彼は野を歩いた。
激しい怒りが頭の中で渦を巻いていた。
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激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。
年老いた母や幼い子どものことを考えると、心が焼けるように痛んだ。だが、涙は一滴も出なかった。
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老母や幼児のことを考えると心は灼けるようであったが、涙は一滴も出ない。
あまりに強い怒りは、涙をかれさせてしまうものなのだろう。
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あまりに強い怒りは涙を涸渇させてしまうのであろう。
今度のことだけではない。
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今度の場合には限らぬ。
そもそも自分の一族は、これまで漢からどんな扱いを受けてきただろうか。
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今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか?
李陵は、祖父の李広の最期を思い出した。
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彼は祖父の李広の最期を思った。
(李陵の父、当戸(とうこ)は、李陵が生まれる数か月前に亡くなっていた。
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(陵の父、当戸は、彼が生まれる数か月前に死んだ。
李陵は、いわゆる父の死後に生まれた子どもだった。
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陵はいわゆる、遺腹の児である。
だから、少年時代の李陵を育て鍛えたのは、この有名な祖父だったのだ。)
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だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)
名将だった李広は、北方への遠征で何度も大きな手柄を立てた。だが、皇帝のそばにいるよこしまな家来たちにじゃまされて、ほうびを一つも受けられなかった。
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名将李広は数次の北征に大功を樹てながら、君側の姦佞に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。
部下の将軍たちが次々に位や領地をもらっていくのに、廉潔(れんけつ・清く正しくて、私利私欲がないこと)な李広だけは、領地どころか、ずっと貧しい暮らしに甘んじなければならなかった。
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部下の諸将がつぎつぎに爵位封侯を得て行くのに、廉潔な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧に甘んじなければならなかった。
最後に李広は、大将軍の衛青と対立した。
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最後に彼は大将軍衛青と衝突した。
さすがに衛青には、この老いた将軍をいたわる気持ちはあった。しかし、衛青の部下の一人の役人が、衛青の力を笠に着て李広に恥をかかせた。
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さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下の一軍吏が虎の威を借りて李広を辱しめた。
怒りに燃えたこの老将は、その場で――陣営の中で自ら首をはねて命を絶った。
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憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自ら首刎ねたのである。
祖父の死を聞いて、声をあげて泣いた少年の日の自分を、李陵はいまだにはっきりと覚えている。……
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祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶えている。……
では、李陵のおじ(李広の次男)である李敢の最後はどうだったか。
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陵の叔父(李広の次男)李敢の最後はどうか。
李敢は、父である将軍のみじめな死について衛青を恨み、自分から大将軍の屋敷に出向いて衛青に恥をかかせた。
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彼は父将軍の惨めな死について衛青を怨み、自ら大将軍の邸に赴いてこれを辱しめた。
大将軍の甥にあたる嫖騎将軍(ひょうきしょうぐん・将軍の位の一つ)霍去病はこれに怒り、甘泉宮(かんせんきゅう)での狩りのときに、李敢を弓で射殺した。
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大将軍の甥にあたる嫖騎将軍霍去病がそれを憤って、甘泉宮の猟のときに李敢を射殺した。
武帝(ぶてい・漢の皇帝)はその事実を知っていながら、嫖騎将軍をかばうために、李敢は鹿の角に触れて死んだのだと発表させた。……
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武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。……
。
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。
司馬遷の場合と違って、李陵の考えは単純だった。
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司馬遷の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。
怒りがすべてだった。
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憤怒がすべてであった。
(無理をしてでも、もっと早く前からの計画――単于(ぜんう・匈奴の王)の首を持って匈奴の地から逃げ出すという計画――を実行すればよかったという後悔はあった。だが、)それをどうやって表すかだけが問題だった。
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(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于の首でも持って胡地を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。
李陵は、さっきの男が言っていた言葉、「匈奴の地で李将軍が兵を鍛えて、漢に備えていると聞いて、陛下が激しく怒られた……」ということを
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彼は先刻の男の言葉「胡地にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々」
思い出した。
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を思出した。
ようやく思い当たったのだ。
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ようやく思い当たったのである。
もちろん、李陵自身にはそんな覚えはなかった。しかし、同じように漢から降伏した将軍に、李緒(りしょ)という者がいた。
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もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒という者がある。
李緒はもと塞外都尉(さいがいとい・国境を守る役人)として奚侯城(けいこうじょう)を守っていた男だった。この男が匈奴(きょうど・北方の遊牧民族)に降伏してから、いつも匈奴の軍に作戦を教え、兵を鍛えていたのだ。
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元、塞外都尉として奚侯城を守っていた男だが、これが匈奴に降ってから常に胡軍に軍略を授け兵を練っている。
実際、半年前の戦いにも単于に従って参加し、(問題になった公孫敖の軍とではないが)漢の軍と戦っていた。
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現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖の軍とではないが)漢軍と戦っている。
これだ、と李陵は思った。
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これだと李陵は思った。
同じ李将軍だから、自分は李緒とまちがえられたに違いない。
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同じ李将軍で、李緒とまちがえられたに違いないのである。
その晩、李陵はたった一人で、李緒の帳幕(ちょうばく・テント)へと向かった。
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その晩、彼は単身、李緒の帳幕へと赴いた。
一言も言わず、相手にも一言も言わせなかった。
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一言も言わぬ、一言も言わせぬ。
ただの一突きで、李緒は倒れて死んだ。
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ただの一刺しで李緒は斃れた。
翌朝、李陵は単于の前に出て、事情を打ち明けた。
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翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。
心配は要らないと単于は言った。
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心配は要らぬと単于は言う。
ただ、母である大閼氏(たいえんし・単于の母を指す称号)が少しうるさいから、と言う。というのも、かなりの年齢でありながら、単于の母は李緒とよくない関係にあったらしいのだ。
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だが母の大閼氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。
単于はそのことを知っていた。
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単于はそれを承知していたのである。
匈奴の風習では、父が死ぬと、長男が亡くなった父の妻やめかけをそのまま引き継いで自分の妻やめかけにする。しかし、さすがに生みの母だけはこれに含まれなかった。
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匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾のすべてをそのまま引きついで己が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。
男を尊び女を軽んじる考えが極端な匈奴でも、生みの母に対する尊敬の気持ちだけは持っていたのだ。単于は、「もうしばらく北のほうに隠れていてほしい。ほとぼりが冷めたころに迎えをやるから」とつけ加えた。
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生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣るから、とつけ加えた。
その言葉に従い、李陵はしばらくの間、従者たちを連れて、西北にある兜銜山(とうかんざん・別名、額林達班嶺(がくりんたっぱんれい))のふもとに身を隠した。
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その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山(額林達班嶺)の麓に身を避けた。
まもなく、問題の大閼氏が病気で亡くなり、李陵は単于の本拠地(庭(てい)と呼ばれる場所)に呼び戻された。そのとき、李陵は人が変わったように見えた。
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まもなく問題の大閼氏が病死し、単于の庭に呼戻されたとき、李陵は人間が変わったように見えた。
というのも、それまで漢に対する作戦にだけは絶対に関わろうとしなかった李陵が、自分から進んでその相談に乗ろうと言い出したからだ。
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というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与らなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。
単于はこの変化を見て、大いに喜んだ。
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単于はこの変化を見て大いに喜んだ。
単于は李陵を右校王(うこうおう・匈奴の位の一つ)に任命し、自分の娘の一人を妻として与えた。
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彼は陵を右校王に任じ、己が娘の一人をめあわせた。
娘を妻にという話は以前にもあったが、李陵はこれまでずっと断り続けてきていた。
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娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。
それを今度は、ためらうことなく妻としたのだ。
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それを今度は躊躇なく妻としたのである。
ちょうど、酒泉・張掖のあたりに攻め入るために南へ出撃する軍があった。李陵は自分から願い出て、その軍に加わった。
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ちょうど酒泉張掖の辺を寇掠すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。
しかし、西南への進路がたまたま浚稽山のふもとを通ったとき、さすがに李陵の心は暗くなった。
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しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山の麓を過ったとき、さすがに陵の心は曇った。
かつてこの地で自分に従い、命がけで戦った部下たちのことを思い出したのだ。彼らの骨が埋まり、血が染み込んだその砂の上を歩きながら、今の自分の身の上を思うと、李陵はもう南へ進んで漢の兵と戦う勇気を失ってしまった。
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かつてこの地で己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。
病気だと言って、李陵は一人で北へ馬を引き返した。
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病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
翌年の太始(たいし)元年、且鞮侯単于(そていこうぜんう)が亡くなり、李陵と親しかった左賢王が後を継いだ。
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翌、太始元年、且鞮侯単于が死んで、陵と親しかった左賢王が後を嗣いだ。
これが狐鹿姑単于(ころくこぜんう)である。
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狐鹿姑単于というのがこれである。
匈奴の右校王となった李陵の心は、いまだにはっきりしなかった。
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匈奴の右校王たる李陵の心はいまだにハッキリしない。
母や妻や子を一族もろとも殺された恨みは骨の髄まで染みついている。それでも、自分から兵を率いて漢と戦うことができないのは、この前の経験ではっきりしていた。
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母妻子を族滅された怨みは骨髄に徹しているものの、自ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。
二度と漢の地は踏むまいと誓ってはいた。しかし、この匈奴の風習に染まって一生安心して暮らしていけるかどうかは、新しい単于への友情をもってしても、まだ自信がなかった。
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ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。
ものを考えるのが嫌いな李陵は、いらいらしてくると、いつも一人で駿馬(しゅんめ・足の速いすぐれた馬)に乗って、広い荒れ野に飛び出した。
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考えることの嫌いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬を駆って曠野に飛び出す。
秋の空が一面に青く澄みわたる下、かっかっと蹄(ひづめ)の音を響かせながら、草原だろうと丘だろうとかまわず、気が狂ったように馬を走らせる。
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秋天一碧の下、嘎々と蹄の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。
何十里も走ったあと、馬も自分もようやく疲れてくると、高原の中の小川を探してそのほとりに降り、馬に水を飲ませる。
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何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸に下り、馬に飲かう。
それから自分は草の上にあお向けに寝転がり、心地よい疲れを感じながら、うっとりと空を見上げる。その空の清らかさ、高さ、広さ。
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それから己は草の上に仰向けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落の潔さ、高さ、広さ。
ああ、自分も、この天と地の間のたった一粒の存在にすぎない。漢だ匈奴だと分ける必要がどこにあるのか――ふと、そんな気がすることもあった。
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ああ我もと天地間の一粒子のみ、なんぞまた漢と胡とあらんやとふとそんな気のすることもある。
ひとしきり休むと、また馬にまたがり、がむしゃらに駆け出す。
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一しきり休むとまた馬に跨がり、がむしゃらに駈け出す。
一日中乗り回して疲れ果て、黄色い雲が夕日に赤く染まるころになって、ようやく李陵は宿営地に戻る。
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終日乗り疲れ黄雲が落暉に曛ずるころになってようやく彼は幕営に戻る。
疲れることだけが、李陵にとって唯一の救いだった。
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疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
司馬遷が李陵をかばって発言し、そのために罪を受けたことを伝える者がいた。
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司馬遷が陵のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。
李陵は、それを特にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。
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李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。
司馬遷とはお互いに顔を知っていて挨拶をしたことはあったが、特に親しい付き合いをしていたというほどの間柄ではなかった。
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司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。
むしろ、やたらと議論ばかりするうるさいやつだ、というくらいにしか感じていなかった。
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むしろ、厭に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。
それに今の李陵は、自分自身の苦しみと戦うのに精いっぱいで、他人の不幸を実感するどころではなかった。
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それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。
よけいなお世話だとまでは感じなかったが、特に申し訳ないとも感じなかったのは事実だ。
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よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
初めはただ下品でこっけいなものとしか見えなかった匈奴の地の風習が、しかし、その土地の実際の気候や風土を考えに入れてみると、決して下品でも道理に合わないものでもないことが、しだいに李陵にも分かってきた。
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初め一概に野卑滑稽としか映らなかった胡地の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。
厚い皮の胡服(こふく・匈奴の人々の服)でなければ、北の果ての冬は乗り切れない。肉を食べなければ、匈奴の地の寒さに耐えるだけの体力を蓄えることもできない。
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厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪えるだけの精力を貯えることができない。
決まった家を建てないのも、彼らの暮らし方から来た自然な結果であって、頭ごなしに程度が低いと決めつけるのは間違っている。
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固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない。
漢人のやり方をどこまでも守ろうとするなら、匈奴の地の自然の中での暮らしは、一日たりとも続けられないのだ。
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漢人のふうをあくまで保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
かつて先代の且鞮侯単于が言った言葉を、李陵は覚えている。
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かつて先代の且鞮侯単于の言った言葉を李陵は憶えている。
漢の人間が何かというと自分の国を礼儀の国だと言い、匈奴の行いを獣に近いものだと見なすことについて、単于は非難してこう言った。
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漢の人間が二言めには、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行ないをもって禽獣に近いと看做すことを難じて、単于は言った。
漢人の言う礼儀とは、いったい何なのか。
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漢人のいう礼儀とは何ぞ?
醜いことを表面だけ美しく飾り立てる、うわべだけの飾りのことではないのか。
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醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。
利益を好み、人をねたむこと。漢人と匈奴の人と、どちらがひどいだろうか。
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利を好み人を嫉むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき?
色事におぼれ、財産をむさぼること。これもまた、どちらがひどいだろうか。
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色に耽り財を貪ること、またいずれかはなはだしき?
うわべを取り去ってしまえば、結局のところ何の違いもないはずだ。
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表べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。
ただ、漢人はこれをごまかして飾ることを知っているが、われわれはそれを知らないだけなのだ、と。
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ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。
漢が始まって以来の、身内どうしで殺し合う内乱や、手柄を立てた家来たちが互いに追い落とし合ってきた歴史を例に挙げてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉がなかった。
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漢初以来の骨肉相喰む内乱や功臣連の排斥擠陥の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。
実際、武人である李陵は、これまでにも、めんどうな礼儀のための礼儀に疑問を感じたことが何度もあったからだ。
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実際、武人たる彼は今までにも、煩瑣な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。
たしかに、匈奴の風習の、粗っぽくても正直なところのほうが、美しい名目の陰に隠れた漢人の陰険さより、はるかに好ましい場合がしばしばあると思った。
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たしかに、胡俗の粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙かに好ましい場合がしばしばあると思った。
漢民族の風習を正しいもの、匈奴の風習を卑しいものと、頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人らしい偏見ではないか。しだいに李陵はそんな気がしてきた。
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諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。
たとえば、今まで人には名前のほかに字(あざな・名前とは別に呼ばれる呼び名)がなければならないものだと、理由もなく信じきっていた。しかし、考えてみれば、字が絶対に必要だという理由はどこにもなかった。
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たとえば今まで人間には名のほかに字がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
李陵の妻は、とてもおとなしい女だった。
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彼の妻はすこぶる大人しい女だった。
いまだに夫の前に出ると、おずおずしてろくに口もきけない。
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いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利けない。
しかし、二人の間に生まれた男の子は、少しも父親を怖がらず、よちよちと李陵のひざにはい上がってくる。
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しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝に匍上がって来る。
その子の顔をじっと見つめながら、数年前に長安(ちょうあん)に残してきた――そして結局、母や祖母とともに殺されてしまった――子どもの面影をふと思い浮かべ、李陵は知らず知らずのうちに、がっかりした気持ちになるのだった。
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その児の顔に見入りながら、数年前長安に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然とするのであった。
李陵が匈奴に降伏するより早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将(ちゅうろうしょう・皇帝のそばに仕える役人)である蘇武(そぶ)が匈奴の地に引き留められていた。
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陵が匈奴に降るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将蘇武が胡地に引留められていた。
もともと蘇武は、平和の使節として、捕虜の交換のために送られてきたのだった。
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元来蘇武は平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。
ところが、その副使のある者が、たまたま匈奴の内輪もめに関係してしまったため、使節団全員が捕らえられることになってしまった。
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ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚えられることになってしまった。
単于は彼らを殺そうとはせず、死をちらつかせておどし、降伏させようとした。
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単于は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅かしてこれを降らしめた。
しかし、蘇武一人だけは降伏を承知しないばかりか、恥をかかされるのを避けようと、自分で剣を取って自分の胸を突いた。
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ただ蘇武一人は降服を肯んじないばかりか、辱しめを避けようと自ら剣を取って己が胸を貫いた。
気を失って倒れた蘇武に対する、匈奴の医者の手当ては、とても変わったものだった。
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昏倒した蘇武に対する胡毉の手当てというのがすこぶる変わっていた。
地面を掘って穴をつくり、そこにくすぶる火を入れ、その上にけがをした蘇武を寝かせて、背中を踏んで血を出させたと、漢書(かんじょ・漢の歴史を記した書物)には記されている。
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地を掘って坎をつくり熅火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈んで血を出させたと漢書には誌されている。
この荒っぽい治療のおかげで、蘇武にとっては不運なことに、半日気を失ったあと、また息を吹き返した。
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この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶したのちにまた息を吹返した。
且鞮侯単于は、すっかり蘇武に惚れ込んだ。
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且鞮侯単于はすっかり彼に惚れ込んだ。
数十日たって、ようやく蘇武の体が回復すると、単于は例の側近である衛律を送って、また熱心に降伏を勧めさせた。
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数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復すると、例の近臣衛律をやってまた熱心に降をすすめさせた。
衛律は、蘇武から激しい罵声を浴びせられ、すっかり恥をかいて引き下がった。
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衛律は蘇武が鉄火の罵詈に遭い、すっかり恥をかいて手を引いた。
その後、蘇武が地下の穴ぐらに閉じ込められたとき、フェルトの毛を雪に混ぜて食べて飢えをしのいだ話や、最後には北海(ほっかい・バイカル湖)のほとりの、誰もいない場所に移されて、「オスの羊が乳を出したら帰ることを許そう」と言われた話は、十九年間にわたって漢の使者としての印を持ち続けた彼の名とともに、あまりにも有名なので、ここでは述べない。
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その後蘇武が窖の中に幽閉されたとき旃毛を雪に和して喰いもって飢えを凌いだ話や、ついに北海(バイカル湖)のほとり人なき所に徙されて牡羊が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。
とにかく、李陵が、もだえ苦しむ残りの人生を匈奴の地で終えようと、ようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武はすでに長い間、北海のほとりで一人、羊の世話をしていたのだった。
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とにかく、李陵が悶々の余生を胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵にとって、蘇武は二十年来の友人だった。
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李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。
かつて同じ時期に、侍中(じちゅう・皇帝のそば近くに仕える役人)を務めていたこともある。
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かつて時を同じゅうして侍中を勤めていたこともある。
頑固でものわかりの悪いところはあるにせよ、確かにめったにいないほど意志の強い人物であることは間違いないと、李陵は思っていた。
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片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。
天漢元年に蘇武が北へ旅立ってからまもなく、蘇武の年老いた母が病気で亡くなったときも、李陵は陽陵(ようりょう)まで、その葬式に付き添った。
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天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵までその葬を送った。
蘇武の妻が、夫が再び帰ってくる見込みはないと知って、家を去り、他の家に嫁いだといううわさを聞いたのは、李陵が北への遠征に出発する直前のことだった。
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蘇武の妻が良人のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁した噂を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。
そのとき、李陵は友のために、その妻の軽々しさをひどく怒った。
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そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
しかし、思いがけず自分自身が匈奴に降伏するようになってからは、もう蘇武に会いたいとは思わなくなっていた。
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しかし、はからずも自分が匈奴に降るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。
蘇武がはるか北方に移されていて、顔を合わせずに済むことを、むしろありがたいとさえ感じていた。
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武が遙か北方に遷されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。
特に、自分の家族が皆殺しにされて、二度と漢に戻る気持ちを失ってからは、いっそうこの「漢の使者の印を持ち続ける羊飼い」
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ことに、己の家族が戮せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」
に会うことを避けたかった。
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との面接を避けたかった。
狐鹿姑単于が父のあとを継いでから数年後、一時、蘇武の生死が分からないといううわさが伝わった。
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狐鹿姑単于が父の後を嗣いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂が伝わった。
父の単于が最後まで降伏させることのできなかった、この屈しない漢の使者のことを思い出した狐鹿姑単于は、蘇武の無事を確かめるとともに、もし生きているならもう一度降伏を勧めるように、李陵に頼んだ。
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父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。
単于は、李陵が蘇武の友人であることを聞いていたのだ。
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陵が武の友人であることを聞いていたのである。
やむを得ず、李陵は北へ向かった。
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やむを得ず陵は北へ向かった。
姑且水(こじょすい)を北にさかのぼり、郅居水との合流点から、さらに西北へ森林地帯を突っ切っていく。
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姑且水を北に溯り郅居水との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。
まだ所々に雪の残る川岸を数日進み、ようやく北海の青い水が森と野原の向こうに見え始めたころ、この地方に住む丁霊族(ていれいぞく)の案内人が、李陵の一行を、一軒のみすぼらしい丸太小屋へと案内した。
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まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海の碧い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎へと導いた。
小屋の住人は、珍しい人の声に驚いて、弓矢を手に外へ出てきた。頭から毛皮をかぶり、ひげぼうぼうの、熊のような山男のその顔の中に、李陵はかつての移中厩監(いちゅうきゅうかん・皇帝の馬を管理する役人)蘇子卿(そしけい・蘇武の別の呼び名)の面影を見つけた。しかし、相手のほうが、この胡服を着た身分の高い役人を、かつての騎都尉(きとい・騎兵をまとめる役人)李少卿(りしょうけい・李陵の別の呼び名)だと気づくまでには、なおしばらくの時間が必要だった。
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小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被った鬚ぼうぼうの熊のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監蘇子卿の俤を見出してからも、先方がこの胡服の大官を前の騎都尉李少卿と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。
蘇武のほうでは、李陵が匈奴に仕えていることさえ、まったく聞いていなかったのだ。
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蘇武のほうでは陵が匈奴に事えていることも全然聞いていなかったのである。
こみ上げる感動が、これまで李陵の中にあって蘇武との対面を避けさせていた何かを、一瞬で押し流してしまった。
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感動が、陵の内に在って今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。
二人とも、初めはほとんど言葉が出なかった。
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二人とも初めほとんどものが言えなかった。
李陵の供の者たちの穹廬(きゅうろ・移動式のテント)がいくつも、あたりに組み立てられ、誰もいなかったこの場所が急ににぎやかになった。
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陵の供廻りどもの穹廬がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑やかになった。
用意してきた酒や食べ物が、さっそく小屋に運び込まれ、夜には、めったに聞かれない笑い声が、森の鳥や獣を驚かせた。
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用意してきた酒食がさっそく小舎に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。
滞在は数日にわたった。
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滞在は数日に亙った。
自分が胡服をまとうことになった事情を話すのは、さすがにつらかった。
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己が胡服を纏うに至った事情を話すことは、さすがに辛かった。
しかし、李陵は少しも言い訳がましい調子を交えずに、事実だけを語った。
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しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。
蘇武がさりげなく語る、その数年間の生活は、まったく悲惨なものだったらしい。
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蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺たるものであったらしい。
何年か前に、匈奴の於靬王(おけんおう)が狩りをするためにたまたまここを通りかかり、蘇武に同情して、三年間続けて衣服や食糧などを与えてくれた。しかし、その於靬王が死んでからは、凍りついた大地から野ねずみを掘り出して、飢えをしのがなければならない有様だと言う。
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何年か以前に匈奴の於靬王が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於靬王の死後は、凍てついた大地から野鼠を掘出して、飢えを凌がなければならない始末だと言う。
蘇武の生死が分からないといううわさは、彼が飼っていた家畜の群れが、盗賊たちに一匹残らず奪われてしまったことが、まちがって伝わったものらしい。
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彼の生死不明の噂は彼の養っていた畜群が剽盗どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝らしい。
李陵は、蘇武の母が亡くなったことだけは伝えたが、妻が子どもを捨てて他の家へ行ったことは、さすがに言えなかった。
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陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男はいったい何を頼りに生きているのだろうかと、李陵は不思議に思った。
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この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。
いまだに、漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。
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いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。
蘇武の話しぶりから察すると、今さらそんな期待は少しも持っていないようだった。
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蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。
それでは、いったい何のために、こんな悲惨な日々を耐え忍んでいるのだろうか。
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それではなんのためにこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか?
単于に降伏を申し出れば、重く用いられることは間違いない。しかし、それをするような蘇武でないことは、初めから分かりきっていた。
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単于に降服を申出れば重く用いられることは請合いだが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。
李陵が不思議に思っていたのは、蘇武がなぜもっと早く自分から命を絶たなかったのか、ということだった。
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陵の怪しむのは、なぜ早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。
李陵自身が、望みのない生活に自分で終止符を打てないのには理由があった。いつのまにか、この地にたくさんの情や義理ができてしまっていたからだ。それに、今さら死んでも、漢のために特別なことをしたことにはならないと思っていた。
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李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。
けれど、蘇武の場合は違う。
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蘇武の場合は違う。
蘇武には、この地に係累(けいるい・家族などのつながり)もない。
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彼にはこの地での係累もない。
漢の国への忠義という点だけで考えれば、いつまでも節旄(せつぼう・皇帝の使者だという印の飾りのついた杖)を持ったまま荒れ野で飢え続けるのと、すぐにその節旄を燃やして自分の首をはねてしまうのとで、大きな違いはないようにも思える。
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漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄を持して曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。
捕まったばかりのころ、いきなり自分の胸を刺した蘇武が、今になって急に死を恐れる気持ちを持つようになったとは考えられない。
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はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌したとは考えられない。
李陵は、若いころの蘇武の頑固さを思い出した。おかしいくらい強情な痩我慢(やせがまん・無理をしてでも意地を張ること)だった。
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李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽なくらい強情な痩我慢を思出した。
単于は、ぜいたくな暮らしをえさにして、ひどく困っている蘇武を釣ろうとしている。
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単于は栄華を餌に極度の困窮の中から蘇武を釣ろうと試みる。
そのえさに釣られるのはもちろん、苦しみに耐えきれずに自分で命を絶つことも、単于に――あるいは単于が表している運命に――負けることになる。
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餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。
蘇武はそう考えているのではないだろうか。
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蘇武はそう考えているのではなかろうか。
運命と意地を張り合っているような蘇武の姿は、しかし李陵の目にはおかしくも笑止(しょうし・ばかばかしいこと)にも見えなかった。
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運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。
想像もできないほどの苦しみや不足、厳しい寒さ、孤独を――それも死ぬまでの長い間、平気な顔で笑い飛ばしていく力のもとが意地だとすれば、その意地はまさにものすごく、そして立派なものだと言うしかない。
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想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。
昔は少し大人げなく見えた蘇武の痩我慢が、これほど大きな我慢にまで育っているのを見て、李陵は驚き、感心した。
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昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。
しかもこの男は、自分のしていることが漢の国にまで伝わるとは思っていない。
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しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。
自分がもう一度漢に迎えられることはもちろん、この誰もいない土地で苦しみと戦っていることを、漢はもちろん匈奴の単于にさえ伝えてくれる人が現れることも、期待していなかった。
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自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。
誰にも看取られず、一人で死んでいくに違いないその最後の日に、自分を振り返って、最後まで運命を笑い飛ばせたことに満足して死んでいこうというのだ。
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誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。
誰一人、自分の事蹟(じせき・した事の記録)を知ってくれなくてもかまわないというのだ。
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誰一人己が事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。
李陵は、以前、先代の単于の首を狙ったことがあった。しかし、たとえその目的を果たしても、自分がそれを持って匈土の地から脱出できなければ、せっかくの行動が無駄になり、漢にまで伝わらないだろうと恐れて、とうとう実行するときを見つけられなかった。
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李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。
人に知られないことを気にしない蘇武を前にして、李陵はひそかに冷や汗が出る思いだった。
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人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
最初の感動が過ぎて、二日三日とたつうちに、李陵の心の中に、やはりある種のわだかまりができてくるのを、どうすることもできなかった。
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最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。
何を話していても、自分の過去と蘇武の過去とを比べてしまい、そのたびに心にひっかかった。
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何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。
蘇武は正しい人で、自分は売国奴(ばいこくど・国を裏切った者)だと、それほどはっきり考えているわけではない。けれど、森と野原と水の静けさの中で長い年月鍛えられた蘇武の厳しさを前にすると、自分の行いに対する言い訳として今まで抱えてきた苦しみなど、あっという間に押しつぶされてしまうように感じずにはいられなかった。
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蘇武は義人、自分は売国奴と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。
それに、気のせいだろうか、日がたつにつれて、蘇武が自分に対する態度の中に、何か金持ちが貧しい人に対するときのような――自分の方が優れていると分かった上で、相手にやさしくしようとする人の態度を感じはじめた。
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それに、気のせいか、日にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。
どこがそうだとはっきりとは言えないが、何かのはずみに、ふとそういうものを感じることがあった。
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どことハッキリはいえないが、どうかした拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。
繿縷(ぼろ・ぼろぼろの服)をまとった蘇武の目の中に、ときどき浮かぶかすかな憐愍(れんびん・あわれみ)の色を、豪奢(ごうしゃ・とても贅沢なこと)な貂裘(ちょうきゅう・貂(てん)の毛皮の上着)をまとった右校王(うこうおう・匈奴での李陵の位)李陵は、何よりも恐れた。
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繿縷をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍の色を、豪奢な貂裘をまとうた右校王李陵はなによりも恐れた。
十日ほど滞在したあと、李陵は旧友と別れ、悄然(しょうぜん・元気なく寂しそうな様子)として南へ去った。
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十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然と南へ去った。
食べ物や服の類は、森の丸太小屋にたっぷり残してきた。
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食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎に残してきた。
李陵は、単于から頼まれていた、蘇武に降伏をすすめるという役目については、とうとう口に出さなかった。
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李陵は単于からの依嘱たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。
蘇武の答えは聞くまでもなく分かりきっていた。今さらそんな勧めをして、蘇武のことも自分のことも辱める必要はないと思ったからだ。
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蘇武の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱めるには当たらないと思ったからである。
南に帰ってからも、蘇武のことは一日も李陵の頭から離れなかった。
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南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。
離れて考えると、蘇武の姿はかえって、いっそう厳しく自分の前にそびえ立っているように思われた。
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離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳えているように思われる。
李陵自身、匈奴に降伏したという自分の行いをよいことだと思っているわけではない。しかし、自分が祖国のために尽くしてきたことと、それに対して祖国が自分にしてくれたことを考えれば、どんなに情け容赦のない人でも、それは「仕方がなかった」
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李陵自身、匈奴への降服という己の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」
ということを認めてくれるはずだと、李陵は信じていた。
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ことを認めるだろうとは信じていた。
ところが、ここに一人の男がいた。その男は、どんなに「仕方がない」
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ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」
と思えるような事情を前にしても、決して、自分に対して「それは仕方がないことなのだ」
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と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」
という考え方を許そうとしないのだった。
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という考えかたを許そうとしないのである。
飢えも、厳しい寒さの苦しみも、孤独の苦しみも、祖国の冷たさも、自分がここまで守り通してきた節義がとうとう何人(なんぴと・誰)にも知られないだろうというほとんど確実な事実も――この男にとっては、いつもの節義を変えなければならないほどの、仕方のない事情ではないのだ。
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飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
蘇武の存在は、李陵にとって、気高い訓誡(くんかい・戒めの教え)でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。
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蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。
ときどき李陵は人を送って蘇武の無事を確かめさせ、食べ物や牛、羊、絨氈(じゅうせん・厚い毛の敷物)を贈った。
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ときどき彼は人を遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈を贈った。
蘇武に会いたい気持ちと、会うのを避けたい気持ちが、李陵の中でいつも戦っていた。
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蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。
数年後、李陵はもう一度、北海(ほっかい)のほとりにある丸太小屋を訪ねた。
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数年後、今一度李陵は北海のほとりの丸木小舎を訪ねた。
その途中、雲中の北のほうを守る兵士たちに出会った。彼らから、最近、漢の国境地帯では太守(たいしゅ・地方の長官)をはじめ役人も庶民もみな白い服を着ているという話を聞いた。
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そのとき途中で雲中の北方を戍る衛兵らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守以下吏民が皆白服をつけていることを聞いた。
人々がみな白い服を着ているとすれば、それは天子(皇帝)が亡くなって喪に服しているに違いない。
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人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪に相違ない。
李陵は、武帝が亡くなったことを知った。
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李陵は武帝の崩じたのを知った。
北海のほとりに着いてこのことを告げると、蘇武は南に向かって号哭(ごうこく・大声をあげて泣くこと)した。
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北海の滸に到ってこのことを告げたとき、蘇武は南に向かって号哭した。
何日も慟哭(どうこく・激しく泣き悲しむこと)し続け、とうとう血を吐くまでになった。
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慟哭数日、ついに血を嘔くに至った。
その様子を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持ちになっていった。
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その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。
李陵はもちろん、蘇武の慟哭が本気であることを疑っているわけではない。
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彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯さを疑うものではない。
その純粋で激しい悲しみには、心を動かされずにはいられなかった。
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その純粋な烈しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。
けれど、自分の目には、今、一滴の涙も浮かんでこないのだ。
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だが、自分には今一滴の涙も泛んでこないのである。
蘇武は、李陵のように一族を皆殺しにされたわけではない。けれど、蘇武の兄は、天子の行列のときにちょっとした事故を起こしたために、また、弟はある犯罪者を捕まえられなかったために、それぞれ責任を取らされて自殺させられていた。
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蘇武は、李陵のように一族を戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。
どう考えても、蘇武の一族が漢の朝廷から手厚く扱われていたとは言いがたい。
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どう考えても漢の朝から厚遇されていたとは称しがたいのである。
それを知った上で、今、目の前で蘇武が純粋に痛哭(つうこく・激しく泣くこと)する姿を見ているうちに、李陵はあることに気づいた。以前はただ蘇武の強い意地だとしか見えなかったものの奥に、実は、たとえようもなく清らかで澄みきった、漢の国そのものへの愛情がたたえられていたのだ。それは、義や節義といった外から押しつけられたものではなく、抑えようとしても抑えられない、こんこんと湧き出てくる、もっとも自然で身近な愛情だった。李陵は、そのことをはじめて発見した。
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それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出る最も親身な自然な愛情)が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した。
李陵は、自分と友を隔てる根本的なものにぶつかり、いやでも自分自身に対する暗い疑いへと追いやられずにはいられなかった。
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李陵は己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。
蘇武のところから南へ帰ってくると、ちょうど漢からの使者が到着したところだった。
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蘇武の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。
武帝が亡くなったことと、昭帝(しょうてい)が即位したことを知らせるとともに、しばらくの友好関係を結ぶための平和の使者だった。もっとも、その友好関係は、いつも一年と続いたためしがなかったが。
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武帝の死と昭帝の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。
その使者としてやって来たのは、思いがけないことに、李陵の昔からの友人である隴西(ろうせい)出身の任立政(じんりっせい)ら三人だった。
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その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵の故人・隴西の任立政ら三人であった。
その年の二月、武帝が亡くなり、まだ八歳だった太子の弗陵(ふつりょう)が位を継いだ。武帝の遺詔(いじょう・亡くなる前に残した言葉)によって、侍中奉車都尉(じちゅうほうしゃとい・皇帝の側近の役職)の霍光(かくこう)が、大司馬(だいしば・最高位の武官)大将軍として政治を助けることになった。
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その年の二月武帝が崩じて、僅か八歳の太子弗陵が位を嗣ぐや、遺詔によって侍中奉車都尉霍光が大司馬大将軍として政を輔けることになった。
霍光は、もともと李陵と親しかった。そして左将軍になった上官桀(じょうかんけつ)もまた、李陵の昔からの友人だった。
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霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀もまた陵の故人であった。
この二人の間で、李陵を呼び戻そうという相談がまとまった。
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この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。
今回の使者に、わざわざ李陵の昔の友人が選ばれたのは、そのためだった。
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今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
単于の前で使者の表向きの用件が済むと、盛大な酒宴が開かれた。
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単于の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。
いつもはこうした場合の接待役を衛律が引き受けていたが、今回は李陵の友人が来たということで、李陵も引っ張り出されて宴に加わった。
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いつもは衛律がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。
任立政は李陵の姿を見たが、匈奴の高官たちが並んでいる前で、漢に帰れとは言えなかった。
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任立政は陵を見たが、匈奴の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。
席を離れたところから李陵を見ては目配せをし、何度も自分の刀環(とうかん・刀の柄についた輪。「還る」と同じ発音にかけている)を撫でて、それとなく思いを伝えようとした。
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席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己の刀環を撫でて暗にその意を伝えようとした。
李陵はそれを見た。
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陵はそれを見た。
相手が伝えようとしていることも、だいたい分かった。
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先方の伝えんとするところもほぼ察した。
しかし、どんなしぐさで応えればよいのか分からなかった。
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しかし、いかなるしぐさをもって応えるべきかを知らない。
公式の宴が終わったあと、李陵や衛律たちだけが残り、牛肉や酒、博戯(ばくぎ・賭け事の遊び)で漢の使者をもてなした。
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公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯とをもって漢使をもてなした。
そのとき、任立政が李陵に向かって言った。「
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そのとき任立政が陵に向かって言う。
漢ではいま大赦令(たいしゃれい・罪を許すという命令)が出て、人々はみな平和な仁政(じんせい・思いやりのある政治)を楽しんでいます。
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漢ではいまや大赦令が降り万民は太平の仁政を楽しんでいる。
新しい帝はまだ幼いので、あなたの古くからの友人である霍子孟(かくしもう)と上官少叔(じょうかんしょうしゅく)が、帝を助けて天下のことを取り仕切ることになりました。」
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新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟・上官少叔が主上を輔けて天下の事を用いることとなったと。
任立政は、衛律のことを完全に胡人(こじん・北方の異民族の人)になりきったものと見なしていた。実際その通りだったのだが、衛律の前で、あからさまに李陵を説得するのはためらわれた。
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立政は、衛律をもって完全に胡人になり切ったものと見做して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚った。
それで、霍光と上官桀の名前を挙げるだけにとどめて、李陵の心を引こうとしたのだった。
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ただ霍光と上官桀との名を挙げて陵の心を惹こうとしたのである。
李陵は黙ったまま答えなかった。
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陵は黙して答えない。
しばらく任立政をじっと見つめてから、自分の髪をなでた。
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しばらく立政を熟視してから、己が髪を撫でた。
その髪も、椎結(ついけい・匈奴風の、槌のような形に結った髪型)になっていて、もう中国風ではなかった。
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その髪も椎結とてすでに中国のふうではない。
しばらくして、衛律が服を着替えるために席を立った。
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ややあって衛律が服を更えるために座を退いた。
そこで初めて、任立政は遠慮のない調子で、李陵の字(あざな・本名以外に呼ばれる呼び名)を呼んだ。
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初めて隔てのない調子で立政が陵の字を呼んだ。
「少卿(しょうけい)よ、長年の苦しみはどれほどだっただろうか。」
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少卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。
霍子孟と上官少叔があなたによろしくと言っていました。」
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霍子孟と上官少叔からよろしくとのことであったと。
李陵が、その二人の様子をよそよそしい言葉で聞き返すと、それにかぶせるように、任立政がふたたび言った。
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その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。
「少卿よ、帰ってきてくれ。
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少卿よ、帰ってくれ。
富貴(ふうき・お金や地位)などどうでもいいではないか。
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富貴などは言うに足りぬではないか。
どうか、何も言わずに帰ってきてくれ。」
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どうか何もいわずに帰ってくれ。
蘇武のところから戻ったばかりだったので、李陵も友の切実な言葉に心を動かされないわけではなかった。
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蘇武の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。
しかし、考えるまでもなく、それはもうどうにもならないことだった。
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しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。
「帰るのは簡単だ。しかし、また辱めを受けるだけではないか。どうだろうか。」
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「帰るのは易い。だが、また辱しめを見るだけのことではないか? 如何?」
話の途中で、衛律が席に戻ってきた。
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言葉半ばにして衛律が座に還ってきた。
二人は口をつぐんだ。
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二人は口を噤んだ。
宴が終わって別れるとき、任立政はさりげなく李陵のそばに寄り、小さな声で、本当に帰る気はないのかともう一度尋ねた。
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会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。
李陵は首を横にふった。
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陵は頭を横にふった。
「男たるもの、二度も辱めを受けるわけにはいかない」と答えた。
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丈夫ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。
その言葉にひどく元気がなかったのは、衛律に聞こえることを恐れたからではなかった。
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その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧れたためではない。
それから五年後、昭帝の始元(しげん)六年の夏のことだった。このまま誰にも知られず北の地で窮死(きゅうし・貧しく苦しみながら死ぬこと)すると思われていた蘇武が、思いがけず漢に帰れることになった。
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後五年、昭帝の始元六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。
漢の天子が上林苑(じょうりんえん・皇帝の狩り場の庭園)で捕まえた雁の足に、蘇武が書いた帛書(はくしょ・絹に書いた手紙)が結びつけられていた、という有名な話がある。これはもちろん、蘇武はすでに死んだと言い張る単于を言い負かすための作り話だった。
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漢の天子が上林苑中で得た雁の足に蘇武の帛書がついていた云々というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于を説破するためのでたらめである。
十九年前、蘇武について胡地(こち・匈奴の土地)にやって来た常恵(じょうけい)という人物が、漢の使者に会って蘇武が生きていることを知らせた。そして、このうそを使って蘇武を助け出すようにと教えたのだった。
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十九年前蘇武に従って胡地に来た常恵という者が漢使に遭って蘇武の生存を知らせ、この嘘をもって武を救出すように教えたのであった。
さっそく北海に使者が飛び、蘇武は単于の庭(てい・御殿の広場)へ連れ出された。
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さっそく北海の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭につれ出された。
李陵の心も、さすがに動揺した。
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李陵の心はさすがに動揺した。
もう一度漢に戻れようと戻れまいと、蘇武の偉大さに変わりはない。だから、それが李陵の心を打つ笞(しもと・むちのような戒め)であることにも変わりはないはずだ。けれど、「天はやはり見ていたのだ」という思いが、李陵の心を強く打った。
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ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。
見ていないようでいて、やはり天は見ているのだ。
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見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。
李陵は粛然(しゅくぜん・厳かに身が引き締まる様子)として恐れた。
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彼は粛然として懼れた。
今でも、自分の過去を間違っていたとは決して思っていない。けれど、ここに蘇武という男がいて、無理もなかったはずの自分の過去までも恥ずかしく思わせるようなことを堂々とやってのけた。しかも、その行いが今や天下に顕彰(けんしょう・世の中に広く知られてほめたたえられること)されることになった。この事実は、どうしても李陵の心にこたえた。
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今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。
胸をかきむしられるような、この情けない気持ちが、羨望(せんぼう・うらやましく思う気持ち)なのではないかと、李陵はひどく恐れた。
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胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧れた。
別れに際して、李陵は友のために宴を開いた。
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別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。
言いたいことは山ほどあった。
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いいたいことは山ほどあった。
しかし結局それは、匈奴に降伏したときの自分の本当の思いがどこにあったかということと、
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しかし結局それは、胡に降ったときの己の志が那辺にあったかということ。
その思いを実行する前に、故郷の一族が皆殺しにされてしまい、もう帰るすべがなくなってしまった事情、この二つに尽きた。
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その志を行なう前に故国の一族が戮せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。
それを言葉にすれば、愚痴になってしまう。
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それを言えば愚痴になってしまう。
李陵は、そのことについて一言も言わなかった。
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彼は一言もそれについてはいわなかった。
ただ、宴もたけなわになったころ、こらえきれずに立ち上がり、舞いながら歌った。
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ただ、宴酣にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。
万里の彼方まで行き、砂漠を渡った。
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径万里兮度沙幕
あなた(皇帝)のために将軍となり、匈奴と戦った。
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為君将兮奮匈奴
道は行き止まりになり、矢も刀も使い果たしてしまった。
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路窮絶兮矢刃摧
兵士たちはみな滅び、わたしの名誉もすでに地に落ちた。
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士衆滅兮名已隤
年老いた母はもう亡くなってしまった。恩に報いようと思っても、いったいどこに帰ればいいのだろう。
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老母已死雖欲報恩将安帰
歌っているうちに、声が震え、涙が頬を伝った。
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歌っているうちに、声が顫え涙が頬を伝わった。
情けないぞと自分を叱りながらも、どうしようもなかった。
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女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった。
蘇武は、十九年ぶりに祖国へ帰っていった。
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蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
司馬遷は、その後も孜々(しし・こつこつと努力を続けるさま)として書き続けた。
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司馬遷はその後も孜々として書き続けた。
現実の世界で生きることをやめてしまった司馬遷は、書物の中の人物としてだけ生きていた。
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この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活きていた。
現実の生活では二度と開かれることのなくなった司馬遷の口は、魯仲連(ろちゅうれん・中国戦国時代の弁論家)の言葉を借りることで、はじめて激しく燃え上がるのだった。
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現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである。
あるときは伍子胥(ごししょ・呉の忠臣)となって自分の目をえぐらせ、あるときは藺相如(りんしょうじょ・趙の家臣)となって秦の王を叱りつけ、あるときは太子丹(たいしたん・燕の皇太子)となって泣きながら荊軻(けいか・刺客)を送り出した。
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あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、あるいは藺相如となって秦王を叱し、あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った。
楚の屈原(くつげん・楚の詩人)の憂いと怒りを書き記し、屈原がまさに汨羅(べきら・川の名前)に身を投げようとして作った懐沙之賦(かいさのふ・屈原が最期に作った詩)を長々と引用したとき、司馬遷には、その詩がどうしても自分自身の作品のように思えてならなかった。
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楚の屈原の憂憤を叙して、そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
書き始めてから十四年、腐刑(ふけい・体を傷つけられる刑罰)を受けてから八年がたっていた。
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稿を起こしてから十四年、腐刑の禍に遭ってから八年。
都で巫蠱(ふこ・呪いをかけたという疑いの事件)の獄が起こり、戻太子(れいたいし)の悲劇が起きていたころ、父から子へと受け継がれてきたこの著作は、だいたい最初の構想どおりの通史(つうし・時代を通して書かれた歴史)として、ひととおり出来上がった。
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都では巫蠱の獄が起こり戻太子の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史がひととおりでき上がった。
これに書き足したり、改刪(かいさん・書き直したり削ったりすること)や推敲(すいこう・文章を練り直すこと)を重ねているうちに、さらに数年がたった。
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これに増補改刪推敲を加えているうちにまた数年がたった。
史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、もう武帝の崩御(ほうぎょ・天子が亡くなること)が近いころだった。
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史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝の崩御に近いころであった。
列伝(れつでん)第七十、太史公(たいしこう・司馬遷自身の呼び名)自序の最後の一筆を置いたとき、司馬遷は机に寄りかかったまま、惘然(ぼうぜん・ぼんやりとした様子)とした。
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列伝第七十太史公自序の最後の筆を擱いたとき、司馬遷は几に凭ったまま惘然とした。
深いため息が、腹の底から出た。
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深い溜息が腹の底から出た。
目は庭先の槐樹(えんじゅ・木の名前)の茂みのほうを向いていたが、実は何も見ていなかった。
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目は庭前の槐樹の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。
うつろな耳で、それでも司馬遷は、庭のどこかから聞こえてくる一匹の蝉の声に耳をすましているように見えた。
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うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉の声に耳をすましているようにみえた。
喜びがあるはずなのに、気の抜けたような、ぼんやりとした寂しさと不安のほうが先にやってきた。
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歓びがあるはずなのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
完成した著作を役所に納め、父の墓の前でそのことを報告するまでは、それでもまだ気が張っていた。しかし、それらが終わると、急にひどい虚脱状態がやってきた。
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完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷い虚脱の状態が来た。
憑依(ひょうい・神や霊が乗り移ること)の去った巫者(ふしゃ・神につかえる者)のように、身も心もぐったりとくずおれた。まだ六十を過ぎたばかりの司馬遷は、急に十年も年をとったようにふけこんでしまった。
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憑依の去った巫者のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄けた。
武帝の崩御も、昭帝の即位も、かつて太史令(たいしれい・歴史や暦を記録する役職)だった司馬遷の、抜け殻のようになった今の姿にとっては、もう何の意味も持たないように見えた。
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武帝の崩御も昭帝の即位もかつてのさきの太史令司馬遷の脱殻にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
前に述べた任立政たちが、胡地に李陵を訪ねてふたたび都に戻ってきたころには、司馬遷はすでにこの世を去っていた。
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前に述べた任立政らが胡地に李陵を訪ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡かった。
蘇武と別れたあとの李陵については、正確な記録は何一つ残されていない。
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蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。
元平(げんぺい)元年に、胡地で死んだということのほかは。
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元平元年に胡地で死んだということのほかは。
すでにその前に、李陵と親しかった狐鹿姑単于は亡くなり、その子である壺衍鞮単于(こえんていぜんう)の代になっていた。その即位をめぐって、左賢王と右谷蠡王(うろくりおう)の間で内紛が起こった。李陵も、閼氏(えんし・単于の妃)や衛律たちと対立しながら、心ならずもその争いに巻き込まれたであろうことは、想像に難くない。
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すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑単于は死に、その子壺衍鞮単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王、右谷蠡王の内紛があり、閼氏や衛律らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難くない。
漢書(かんじょ・漢の歴史をまとめた書物)の匈奴伝(きょうどでん)には、その後、李陵が胡地でもうけた子が、烏籍都尉(うせきとい)という人物を立てて単于にしようとし、呼韓邪単于(こかんやぜんう)に対抗したものの、結局失敗したことが記されている。
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漢書の匈奴伝には、その後、李陵の胡地で儲けた子が烏籍都尉を立てて単于とし、呼韓邪単于に対抗してついに失敗した旨が記されている。
宣帝(せんてい)の五鳳(ごほう)二年のことなので、李陵が死んでからちょうど十八年目にあたる。
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宣帝の五鳳二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。
李陵の子とだけ書かれていて、名前は記されていない。
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李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。