AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
原文: 拝啓。
拝啓。
原文: 一つだけ教えて下さい。
一つだけ教えてください。
原文: 困っているのです。
困っているんです。
原文: 私はことし二十六歳です。
私は今年二十六歳です。
原文: 生れたところは、青森市の寺町です。
生まれたのは、青森市の寺町です。
原文: たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。
ご存知ないかと思いますが、寺町の清華寺の隣に、トモヤという小さな花屋がありました。
原文: わたしはそのトモヤの次男として生れたのです。
私はそのトモヤの次男として生まれたんです。
原文: 青森の中学校を出て、それから横浜の或る軍需工場の事務員になって、三年勤め、それから軍隊で四年間暮し、無条件降伏と同時に、生れた土地へ帰って来ましたが、既に家は焼かれ、父と兄と嫂と三人、その焼跡にあわれな小屋を建てて暮していました。
青森の中学を出て、横浜のある軍需工場の事務員になって三年働き、それから軍隊で四年間過ごし、無条件降伏と同時に故郷へ戻りましたが、家はすでに焼かれていて、父と兄と義姉の三人が、その焼け跡に粗末な小屋を建てて暮らしていました。
原文: 母は、私の中学四年の時に死んだのです。
母は、私が中学四年のときに亡くなっていました。
原文: さすがに私は、その焼跡の小さい住宅にもぐり込むのは、父にも兄夫婦にも気の毒で、父や兄とも相談の上、このAという青森市から二里ほど離れた海岸の部落の三等郵便局に勤める事になったのです。
さすがに焼け跡の小さな住まいに転がり込むのは、父にも兄夫婦にも申し訳なく、父や兄とも相談したうえで、青森市から二里ほど離れた海岸の集落にある三等郵便局に勤めることになったんです。
原文: この郵便局は、死んだ母の実家で、局長さんは母の兄に当っているのです。
この郵便局は、亡くなった母の実家で、局長さんは母の兄にあたる人です。
原文: ここに勤めてから、もうかれこれ一箇年以上になりますが、日ましに自分がくだらないものになって行くような気がして、実に困っているのです。
ここに勤めてからもうかれこれ一年以上になりますが、日に日に自分がつまらない人間になっていくような気がして、本当に困っているんです。
原文: 私があなたの小説を読みはじめたのは、横浜の軍需工場で事務員をしていた時でした。
あなたの小説を読み始めたのは、横浜の軍需工場で事務員をしていたときでした。
原文: 「文体」
「文体」
原文: という雑誌に載っていたあなたの短い小説を読んでから、それから、あなたの作品を捜して読む癖がついて、いろいろ読んでいるうちに、あなたが私の中学校の先輩であり、またあなたは中学時代に青森の寺町の豊田さんのお宅にいらしたのだと言う事を知り、胸のつぶれる思いをしました。
という雑誌に載っていたあなたの短い小説を読んでから、あなたの作品を探して読む癖がつき、いろいろ読んでいるうちに、あなたが私の中学の先輩で、中学時代に青森の寺町の豊田さんのお宅にいたことがあると知り、胸が締め付けられる思いがしました。
原文: 呉服屋の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、私はよく知っているのです。
呉服屋の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、よく知っています。
原文: 先代の太左衛門さんは、ふとっていらっしゃいましたから、太左衛門というお名前もよく似合っていましたが、当代の太左衛門さんは、痩せてそうしてイキでいらっしゃるから、羽左衛門さんとでもお呼びしたいようでした。
先代の太左衛門さんは太っていらしたので太左衛門というお名前がよく似合っていましたが、今の太左衛門さんは痩せていてイキな方だから、羽左衛門さんとでも呼びたいくらいでした。
原文: でも、皆さんがいいお方のようですね。
でも、みなさん良い方のようですね。
原文: こんどの空襲で豊田さんも全焼し、それに土蔵まで焼け落ちたようで、お気の毒です。
今度の空襲で豊田さんも全焼して、土蔵まで焼け落ちたようで、お気の毒です。
原文: 私はあなたが、あの豊田さんのお家にいらした事があるのだという事を知り、よっぽど当代の太左衛門さんにお願いして紹介状を書いていただき、あなたをおたずねしようかと思いましたが、小心者ですから、ただそれを空想してみるばかりで、実行の勇気はありませんでした。
あなたが豊田さんのお宅にいたことがあると知って、今の太左衛門さんにお願いして紹介状を書いてもらい、あなたを訪ねようかとも思いましたが、気が小さいので、ただそれを空想するだけで、実行する勇気はありませんでした。
原文: そのうちに私は兵隊になって、千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日々々、穴掘りばかりやらされていましたが、それでもたまに半日でも休暇があると町へ出て、あなたの作品を捜して読みました。
そのうちに私は兵隊になって、千葉県の海岸の防備に回され、終戦まで毎日毎日ただ穴掘りばかりさせられていましたが、それでも半日でも休みがあると町に出て、あなたの作品を探して読みました。
原文: そうして、あなたに手紙を差上げたくて、ペンを執ってみた事が何度あったか知れません。
そしてあなたに手紙を出したくて、何度ペンを持ったか分かりません。
原文: けれども、拝啓、と書いて、それから、何と書いていいのやら、別段用事は無いのだし、それに私はあなたにとってはまるで赤の他人なのだし、ペンを持ったままひとりで当惑するばかりなのです。
けれど、拝啓と書いて、それから何を書けばいいのか、別に用事があるわけでもなく、あなたにとって私はまったくの見知らぬ他人なわけで、ペンを持ったまま一人で途方に暮れるだけでした。
原文: やがて、日本は無条件降伏という事になり、私も故郷にかえり、Aの郵便局に勤めましたが、こないだ青森へ行ったついでに、青森の本屋をのぞき、あなたの作品を捜して、そうしてあなたも罹災して生れた土地の金木町に来ているという事を、あなたの作品に依って知り、再び胸のつぶれる思いが致しました。
やがて日本は無条件降伏することになり、私も故郷に帰ってAの郵便局に勤めましたが、先日青森に行ったついでに本屋に寄ってあなたの作品を探し、あなたも被災して生まれた土地の金木町に来ているということをあなたの作品から知り、また胸が締め付けられる思いがしました。
原文: それでも私は、あなたの御生家に突然たずねて行く勇気は無く、いろいろ考えた末、とにかく手紙を、書きしたためる事にしたのです。
それでも私には、あなたのご生家に突然訪ねていく勇気はなく、いろいろ考えた末、とにかく手紙を書くことにしたんです。
原文: こんどは私も、拝啓、と書いただけで途方にくれるような事はないのです。
今度は私も、拝啓と書いただけで途方に暮れるようなことはありません。
原文: なぜなら、これは用事の手紙ですから。
なぜなら、これは用件のある手紙だからです。
原文: しかも火急の用事です。
しかも急いでいます。
原文: 教えていただきたい事があるのです。
教えていただきたいことがあるんです。
原文: 本当に、困っているのです。
本当に、困っているんです。
原文: しかもこれは、私ひとりの問題でなく、他にもこれと似たような思いで悩んでいるひとがあるような気がしますから、私たちのために教えて下さい。
しかもこれは私一人の問題ではなく、他にも同じような気持ちで悩んでいる人がいると思いますから、私たちのために教えてください。
原文: 横浜の工場にいた時も、また軍隊にいた時も、あなたに手紙を出したい出したいと思い続け、いまやっとあなたに手紙を差上げる、その最初の手紙が、このようなよろこびの少い内容のものになろうとは、まったく、思いも寄らない事でありました。
横浜の工場にいたときも、軍隊にいたときも、ずっとあなたに手紙を出したいと思い続けていて、やっとあなたに手紙を差し上げることができた、その最初の手紙が、こんなに喜びの少ない内容になろうとは、まったく思いもよらないことでした。
原文: 昭和二十年八月十五日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、そうして陛下みずからの御放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ、そうして、それから、若い中尉がつかつかと壇上に駈けあがって、
昭和二十年八月十五日の正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、陛下ご自身のお言葉だというほとんど雑音に消されて何一つ聞き取れなかったラジオを聴かされ、それから若い中尉が壇上に駆け上がって、
原文: 「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄も抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」
「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受け入れ、降参したのだ。しかし、それは政治上のことだ。われわれ軍人は飽くまでも抗戦を続け、最後には一人残らず自決して、大君にお詫び申し上げる。自分はもちろんそのつもりでいるから、みんなもその覚悟でいろ。いいか。よし。解散」
原文: そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。
そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡を外し、歩きながらぽたぽたと涙をこぼしました。
原文: 厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。
厳粛というのは、あのような感じのことを言うのでしょうか。
原文: 私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くように感じました。
私は立ったまま、あたりがぼんやりと暗くなり、どこからともなく冷たい風が吹いてきて、自分の体が自然と地の底へ沈んでいくように感じました。
原文: 死のうと思いました。
死のうと思いました。
原文: 死ぬのが本当だ、と思いました。
死ぬのが当然だ、と思いました。
原文: 前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。
前方の森がやけに静まり返り、漆黒に見えて、その頂上から一群れの小鳥が、ひとつまみのごま粒を空に投げたように、音もなく飛び立ちました。
原文: ああ、その時です。
ああ、そのときです。
原文: 背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。
背後の兵舎のほうから、誰かがハンマーで釘を打つ音が、かすかに、トカトントンと聞こえました。
原文: それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。
それを聞いた途端に、目から鱗が落ちるとはああいうときの感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑き物が落ちたようにきょとんとして、なんとも白々しい気持ちで夏の真昼の砂原を眺め渡し、どんな感慨も何も一つも持てませんでした。
原文: そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、ぼんやり故郷に帰還しました。
そして私は、リュックサックにたくさんのものを詰め込んで、ぼんやりと故郷に帰りました。
原文: あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、不思議なくらい綺麗に私からミリタリズムの幻影を剥ぎとってくれて、もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい悪夢に酔わされるなんて事は絶対に無くなったようですが、しかしその小さい音は、私の脳髄の金的を射貫いてしまったものか、それ以後げんざいまで続いて、私は実に異様な、いまわしい癲癇持ちみたいな男になりました。
あの遠くから聞こえてきたかすかなハンマーの音が、不思議なくらいきれいに私からミリタリズムの幻影を剥ぎ取ってくれて、もう二度とあの悲壮ぶった厳粛ぶった悪夢に酔わされることはなくなったようですが、しかしその小さな音は私の脳の急所を射貫いてしまったのか、それ以降今日まで続いていて、私はとても異様で不快な、てんかん持ちのような人間になってしまいました。
原文: と言っても決して、兇暴な発作などを起すというわけではありません。
といっても、乱暴な発作を起こすというわけではありません。
原文: その反対です。
その逆です。
原文: 何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。
何か物事に感激して、奮い立とうとすると、どこからともなくかすかにトカトントンとあのハンマーの音が聞こえてきて、途端に私はきょとんとなり、目の前の風景がまるっきり変わってしまって、映写がぷっつり切れてあとにはただ真白いスクリーンだけが残り、それをぼんやり眺めているような、なんともはかなくてばかばかしい気持ちになるんです。
原文: さいしょ、私は、この郵便局に来て、さあこれからは、何でも自由に好きな勉強ができるのだ、まず一つ小説でも書いて、そうしてあなたのところへ送って読んでいただこうと思い、郵便局の仕事のひまひまに、軍隊生活の追憶を書いてみたのですが、大いに努力して百枚ちかく書きすすめて、いよいよ今明日のうちに完成だという秋の夕暮、局の仕事もすんで、銭湯へ行き、お湯にあたたまりながら、今夜これから最後の章を書くにあたり、オネーギンの終章のような、あんなふうの華やかな悲しみの結び方にしようか、それともゴーゴリの「喧嘩噺」
最初、私はこの郵便局に来て、さあこれからは何でも自由に好きな勉強ができる、まず小説でも書いて、あなたのところへ送って読んでもらおうと思い、郵便局の仕事の合間に軍隊生活の思い出を書いてみましたが、一生懸命書いて百枚近く書き進めて、いよいよ今日明日のうちに完成だという秋の夕暮れ、局の仕事も終えて銭湯へ行き、お湯に温まりながら、今夜これから最後の章を書くにあたって、オネーギンの終章のような華やかな悲しみの締めくくりにしようか、それともゴーゴリの「喧嘩話」
原文: 式の絶望の終局にしようか、などひどい興奮でわくわくしながら、銭湯の高い天井からぶらさがっている裸電球の光を見上げた時、トカトントン、と遠くからあの金槌の音が聞えたのです。
式の絶望的な結末にしようか、などとひどく興奮してわくわくしながら、銭湯の高い天井からぶら下がっている裸電球の光を見上げたとき、トカトントンと、遠くからあのハンマーの音が聞こえてきたんです。
原文: とたんに、さっと浪がひいて、私はただ薄暗い湯槽の隅で、じゃぼじゃぼお湯を掻きまわして動いている一個の裸形の男に過ぎなくなりました。
途端に、さっと波が引いて、私はただ薄暗い浴槽の隅で、じゃぼじゃぼお湯をかき回しながら動いている一人の裸の男にすぎなくなりました。
原文: まことにつまらない思いで、湯槽から這い上って、足の裏の垢など、落して銭湯の他の客たちの配給の話などに耳を傾けていました。
まったくつまらない気持ちで、浴槽から上がって、足の裏の垢などを落として、銭湯の他のお客たちの配給の話などに耳を傾けていました。
原文: プウシキンもゴーゴリも、それはまるで外国製の歯ブラシの名前みたいな、味気ないものに思われました。
プーシキンもゴーゴリも、まるで外国製の歯ブラシの名前みたいな、味気ないものに思われました。
原文: 銭湯を出て、橋を渡り、家へ帰って黙々とめしを食い、それから自分の部屋に引き上げて、机の上の百枚ちかくの原稿をぱらぱらとめくって見て、あまりのばかばかしさに呆れ、うんざりして、破る気力も無く、それ以後の毎日の鼻紙に致しました。
銭湯を出て、橋を渡り、家に帰って黙々と飯を食い、それから自分の部屋に引き上げて、机の上の百枚近い原稿をぱらぱらとめくってみて、あまりのばかばかしさに呆れ、うんざりして、破る気力もなく、それ以後の毎日の鼻紙にしました。
原文: それ以来、私はきょうまで、小説らしいものは一行も書きません。
それ以来、今日まで、小説らしいものは一行も書いていません。
原文: 伯父のところに、わずかながら蔵書がありますので、時たま明治大正の傑作小説集など借りて読み、感心したり、感心しなかったり、甚だふまじめな態度で吹雪の夜は早寝という事になり、まったく「精神的」
叔父のところに少しばかり蔵書がありますので、ときどき明治大正の傑作小説集などを借りて読み、感心したりしなかったり、はなはだ不まじめな態度で吹雪の夜は早寝するようになり、まったく「精神的」
原文: でない生活をして、そのうちに、世界美術全集などを見て、以前あんなに好きだったフランスの印象派の画には、さほど感心せず、このたびは日本の元禄時代の尾形光琳と尾形乾山と二人の仕事に一ばん眼をみはりました。
でない生活をして、そのうち世界美術全集などを見て、以前あんなに好きだったフランスの印象派の絵にはさほど感心しなくなり、今回は日本の元禄時代の尾形光琳と尾形乾山の二人の仕事に一番目を見張りました。
原文: 光琳の躑躅などは、セザンヌ、モネー、ゴーギャン、誰の画よりも、すぐれていると思われました。
光琳のつつじなどは、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、誰の絵よりも優れていると思いました。
原文: こうしてまた、だんだん私の所謂精神生活が、息を吹きかえして来たようで、けれどもさすがに自分が光琳、乾山のような名家になろうなどという大それた野心を起す事はなく、まあ片田舎のディレッタント、そうして自分に出来る精一ぱいの仕事は、朝から晩まで郵便局の窓口に坐って、他人の紙幣をかぞえている事、せいぜいそれくらいのところだが、私のような無能無学の人間には、そんな生活だって、あながち堕落の生活ではあるまい。
こうしてまた、だんだん私のいわゆる精神生活が息を吹き返してきたようでしたが、さすがに自分が光琳・乾山のような名人になろうなどという大それた野心を持つことはなく、まあ田舎のアマチュア愛好家として、自分にできる精いっぱいの仕事は朝から晩まで郵便局の窓口に座って他人のお金を数えること、せいぜいそれくらいだが、私のような無能で無学な人間には、そんな生活だって、必ずしも堕落した生活ではないだろう。
原文: 謙譲の王冠というものも、有るかも知れぬ。
謙虚さの王冠というものも、あるかもしれない。
原文: 平凡な日々の業務に精励するという事こそ最も高尚な精神生活かも知れない。
平凡な日々の仕事に精を出すことこそ、最も高尚な精神生活かもしれない。
原文: などと少しずつ自分の日々の暮しにプライドを持ちはじめて、その頃ちょうど円貨の切り換えがあり、こんな片田舎の三等郵便局でも、いやいや、小さい郵便局ほど人手不足でかえって、てんてこ舞いのいそがしさだったようで、あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受附けだの、旧円の証紙張りだの、へとへとになっても休む事が出来ず、殊にも私は、伯父の居候の身分ですから御恩返しはこの時とばかりに、両手がまるで鉄の手袋でもはめているように重くて、少しも自分の手の感じがしなくなったほどに働きました。
などと少しずつ自分の日々の暮らしにプライドを持ち始めたころ、ちょうど円の切り替えがあって、こんな田舎の三等郵便局でも、いや、小さな郵便局ほど人手不足でかえってんてこ舞いの忙しさで、あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受け付けだの、旧円の証紙貼りだのと、へとへとになっても休めず、特に私は叔父の家に居候している身ですからご恩返しはこのときとばかりに、両手がまるで鉄の手袋でもはめているように重くなって、少しも自分の手の感触がしなくなるほど働きました。
原文: そんなに働いて、死んだように眠って、そうして翌る朝は枕元の目ざまし時計の鳴ると同時にはね起き、すぐ局へ出て大掃除をはじめます。
そんなに働いて、死んだように眠り、翌朝は枕元の目覚まし時計が鳴ると同時に飛び起き、すぐに局へ行って大掃除を始めます。
原文: 掃除などは、女の局員がする事になっていたのですが、その円貨切り換えの大騒ぎがはじまって以来、私の働き振りに異様なハズミがついて、何でもかでも滅茶苦茶に働きたくなって、きのうよりは今日、きょうよりは明日と物凄い加速度を以て、ほとんど半狂乱みたいな獅子奮迅をつづけ、いよいよ切り換えの騒ぎも、きょうでおしまいという日に、私はやはり薄暗いうちから起きて局の掃除を大車輪でやって、全部きちんとすましてから私の受持の窓口のところに腰かけて、ちょうど朝日が私の顔にまっすぐにさして来て、私は寝不足の眼を細くして、それでも何だかひどく得意な満足の気持で、労働は神聖なり、という言葉などを思い出し、ほっと溜息をついた
掃除は女性の局員がすることになっていましたが、円の切り替えの大騒ぎが始まってから私の働き方に異様な勢いがついて、何でもかんでも滅茶苦茶に働きたくなり、昨日より今日、今日より明日とすごい加速度で、ほとんど半狂乱のような勢いで動き続け、いよいよ切り替えの騒ぎも今日でおしまいという日に、私はやはり薄暗いうちから起きて局の掃除を大急ぎでやって、全部きちんと済ませてから自分の受け持ちの窓口に腰かけ、ちょうど朝日が私の顔にまっすぐに差し込んできて、私は寝不足の目を細くして、それでも何だかひどく誇らしい満足感で、労働は神聖なり、という言葉などを思い出し、ほっとため息をついた
原文: 時に、トカトントンとあの音が遠くから幽かに聞えたような気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくなり、私は立って自分の部屋に行き、蒲団をかぶって寝てしまいました。
ときに、トカトントンとあの音が遠くからかすかに聞こえた気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちにばかばかしくなり、私は立って自分の部屋に行き、布団をかぶって寝てしまいました。
原文: ごはんの知らせが来ても、私は、からだ工合が悪いから、きょうは起きない、とぶっきらぼうに言い、その日は局でも一ばんいそがしかったようで、最も優秀な働き手の私に寝込まれて実にみんな困った様子でしたが、私は終日うつらうつら眠っていました。
ご飯の知らせが来ても、体の具合が悪いから今日は起きない、とぶっきらぼうに言い、その日は局でも一番忙しかったようで、最も優秀な働き手の私が寝込んでしまって本当にみんな困っていたようでしたが、私は一日中うとうとと眠っていました。
原文: 伯父への御恩返しも、こんな私の我儘のために、かえってマイナスになったようでしたが、もはや、私には精魂こめて働く気などは少しもなく、その翌る日には、ひどく朝寝坊をして、そうしてぼんやり私の受持の窓口に坐り、あくびばかりして、たいていの仕事は、隣りの女の局員にまかせきりにしていました。
叔父へのご恩返しも、こんな私の我がままでかえってマイナスになったようでしたが、もはや私には精魂こめて働く気などは少しもなく、翌日にはひどく朝寝坊をして、ぼんやり自分の受け持ちの窓口に座り、あくびばかりして、たいていの仕事は隣の女性局員に任せっぱなしにしていました。
原文: そうしてその翌日も、翌々日も、私は甚だ気力の無いのろのろしていて不機嫌な、つまり普通の、あの窓口局員になりました。
そして翌日も、その次の日も、私はひどく気力のなくのろのろして不機嫌な、つまり普通の、あの窓口局員になりました。
原文: 「まだお前は、どこか、からだ工合がわるいのか」
「まだお前はどこか体の具合が悪いのか」
原文: と伯父の局長に聞かれても薄笑いして、
と叔父の局長に聞かれても薄笑いして、
原文: 「どこも悪くない。神経衰弱かも知れん」
「どこも悪くない。神経衰弱かもしれん」
原文: と答えます。
と答えます。
原文: 「そうだ、そうだ」
「そうだ、そうだ」
原文: と伯父は得意そうに、「俺もそうにらんでいた。お前は頭が悪いくせに、むずかしい本を読むからそうなる。俺やお前のように、頭の悪い男は、むずかしい事を考えないようにするのがいいのだ」
と叔父は得意そうに、「俺もそうにらんでいた。お前は頭が悪いくせに難しい本を読むからそうなる。俺やお前のように頭の悪い男は、難しいことを考えないようにするのがいいのだ」
原文: と言って笑い、私も苦笑しました。
と言って笑い、私も苦笑しました。
原文: この伯父は専門学校を出た筈の男ですが、さっぱりどこにもインテリらしい面影が無いんです。
この叔父は専門学校を出たはずの男ですが、どこにもインテリらしいところがないんです。
原文: そうしてそれから、(私の文章には、ずいぶん、そうしてそれからが多いでしょう?
そしてそれから、(私の文章には、ずいぶん「そうしてそれから」が多いでしょう?
原文: これもやはり頭の悪い男の文章の特色でしょうかしら。
これもやはり頭の悪い男の文章の特徴でしょうか。
原文: 自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、泣寝入りです)そうしてそれから、私は、コイをはじめたのです。
自分でも気になっているんですが、でもつい自然に出てしまうので、仕方がありません)そしてそれから、私は恋をしはじめたんです。
原文: お笑いになってはいけません。
笑わないでください。
原文: いや、笑われたって、どう仕様も無いんです。
いや、笑われてもどうしようもないんです。
原文: 金魚鉢のメダカが、鉢の底から二寸くらいの個所にうかんで、じっと静止して、そうしておのずから身ごもっているように、私も、ぼんやり暮しながら、いつとはなしに、どうやら、羞ずかしい恋をはじめていたのでした。
金魚鉢のメダカが、鉢の底から二センチほどのところに浮かんでじっと静止して、そして自然に妊んでいるように、私もぼんやり暮らしながら、いつの間にか、どうやら恥ずかしい恋をしていたんです。
原文: 恋をはじめると、とても音楽が身にしみて来ますね。
恋をしはじめると、音楽がとても心に沁みてきますね。
原文: あれがコイのヤマイの一ばんたしかな兆候だと思います。
あれが恋の病の一番確かなしるしだと思います。
原文: 片恋なんです。
片想いなんです。
原文: でも私は、その女のひとを好きで好きで仕方が無いんです。
でも私は、その女の人のことが好きで好きでたまらないんです。
原文: そのひとは、この海岸の部落にたった一軒しかない小さい旅館の、女中さんなのです。
その人は、この海岸の集落にたった一軒しかない小さな旅館の、女中さんなんです。
原文: まだ、はたち前のようです。
まだ二十歳前のようです。
原文: 伯父の局長は酒飲みですから、何か部落の宴会が、その旅館の奥座敷でひらかれたりするたびごとに、きっと欠かさず出かけますので、伯父とその女中さんとはお互い心易い様子で、女中さんが貯金だの保険だのの用事で郵便局の窓口の向う側にあらわれると、伯父はかならず、可笑しくもない陳腐な冗談を言ってその女中さんをからかうのです。
叔父の局長は酒飲みですから、集落の宴会がその旅館の奥座敷で開かれるたびに必ず出かけますので、叔父とその女中さんとはお互いに気心が知れている様子で、女中さんが貯金だの保険だのの用事で郵便局の窓口に現れると、叔父は必ず面白くもない陳腐な冗談を言ってその女中さんをからかうんです。
原文: 「このごろはお前も景気がいいと見えて、なかなか貯金にも精が出るのう。感心かんしん。いい旦那でも、ついたかな?」
「最近はお前も景気がいいと見えて、なかなか貯金にも精が出るのう。感心感心。いい旦那でも、ついたかな?」
原文: 「つまらない」
「つまらない」
原文: と言います。
と言います。
原文: そうして、じっさい、つまらなそうな顔をして言います。
そして実際、つまらなそうな顔をして言います。
原文: ヴァン・ダイクの画の、女の顔でなく、貴公子の顔に似た顔をしています。
ヴァン・ダイクの絵の、女の顔ではなく、貴公子の顔に似た顔をしています。
原文: 時田花江という名前です。
時田花江という名前です。
原文: 貯金帳にそう書いてあるんです。
貯金帳にそう書いてあるんです。
原文: 以前は、宮城県にいたようで、貯金帳の住所欄には、以前のその宮城県の住所も書かれていて、そうして赤線で消されて、その傍にここの新しい住所が書き込まれています。
以前は宮城県にいたようで、貯金帳の住所欄には以前の宮城県の住所も書かれていて、赤線で消されて、その隣にここの新しい住所が書き込まれています。
原文: 女の局員たちの噂では、なんでも、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏直前に、この部落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、そうして身持ちがよろしくないようで、まだ子供のくせに、なかなかの凄腕だとかいう事でしたが、疎開して来たひとで、その土地の者たちの評判のいいひとなんて、ひとりもありません。
女性局員たちの噂では、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏の直前にこの集落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、身持ちがよくないようで、子供のくせになかなかの手練れだとかいうことでしたが、疎開してきた人で、その土地の人たちからの評判がいい人なんて一人もいません。
原文: 私はそんな、凄腕などという事は少しも信じませんでしたが、しかし、花江さんの貯金も決して乏しいものではありませんでした。
私はそんな手練れだなんてこと少しも信じませんでしたが、しかし花江さんの貯金も決して少ないものではありませんでした。
原文: 郵便局の局員が、こんな事を公表してはいけない事になっているのですけど、とにかく花江さんは、局長にからかわれながらも、一週間にいちどくらいは二百円か三百円の新円を貯金しに来て、総額がぐんぐん殖えているんです。
郵便局員がこんなことを公表してはいけないことになっているんですが、とにかく花江さんは、局長にからかわれながらも、一週間に一度くらいは二百円か三百円の新円を貯金しに来て、総額がぐんぐん増えているんです。
原文: まさか、いい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に弐百円とか参百円とかのハンコを押すたんびに、なんだか胸がどきどきして顔があからむのです。
まさかいい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に二百円とか三百円とかのハンコを押すたびに、なんだか胸がどきどきして顔が赤らむんです。
原文: そうして次第に私は苦しくなりました。
そして次第に私は苦しくなりました。
原文: 花江さんは決して凄腕なんかじゃないんだけれども、しかし、この部落の人たちはみんな花江さんをねらって、お金なんかをやって、そうして、花江さんをダメにしてしまうのではなかろうか。
花江さんは決して手練れなんかじゃないんだけれど、この集落の人たちがみんな花江さんを狙ってお金なんかを渡して、花江さんをだめにしてしまうんじゃないだろうか。
原文: きっとそうだ、と思うと、ぎょっとして夜中に床からむっくり起き上った事さえありました。
きっとそうだ、と思うと、ぎょっとして夜中に床からがばっと起き上がったことさえありました。
原文: けれども花江さんは、やっぱり一週間にいちどくらいの割で、平気でお金を持って来ます。
けれど花江さんは、やっぱり一週間に一度くらいの割合で、平気でお金を持ってきます。
原文: いまはもう、胸がどきどきして顔が赤らむどころか、あんまり苦しくて顔が蒼くなり額に油汗のにじみ出るような気持で、花江さんの取り澄まして差出す証紙を貼った汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、矢庭に全部ひき裂いてしまいたい発作に襲われた事が何度あったか知れません。
今はもう、胸がどきどきして顔が赤らむどころか、あまりの苦しさに顔が青くなり額に脂汗がにじむような気持ちで、花江さんが澄まして差し出す証紙を貼った汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、いきなり全部引き裂いてしまいたい衝動に何度も襲われました。
原文: そうして私は、花江さんに一こと言ってやりたかった。
そして私は、花江さんに一言言ってやりたかった。
原文: あの、れいの鏡花の小説に出て来る有名な、せりふ、「死んでも、ひとのおもちゃになるな!」
あの、泉鏡花の小説に出てくる有名なセリフ、「死んでも、人のおもちゃになるな!」
原文: と、キザもキザ、それに私のような野暮な田舎者には、とても言い出し得ない台詞ですが、でも私は大まじめに、その一言を言ってやりたくて仕方が無かったんです。
と、ひどくキザで、しかも私のような野暮な田舎者にはとても言い出せないセリフですが、でも私は大真面目に、その一言を言ってやりたくてたまらなかったんです。
原文: 死んでも、ひとのおもちゃになるな、物質がなんだ、金銭がなんだ、と。
死んでも人のおもちゃになるな、物がなんだ、お金がなんだ、と。
原文: 思えば思われるという事は、やっぱり有るものでしょうか。
思えば思われるということは、やっぱりあるものでしょうか。
原文: あれは五月の、なかば過ぎの頃でした。
あれは五月の半ば過ぎのことでした。
原文: 花江さんは、れいの如く、澄まして局の窓口の向う側にあらわれ、どうぞと言ってお金と通帳を私に差出します。
花江さんはいつものように澄ました顔で局の窓口に現れ、「どうぞ」と言ってお金と通帳を私に差し出します。
原文: 私は溜息をついてそれを受取り、悲しい気持で汚い紙幣を一枚二枚とかぞえます。
私はため息をついてそれを受け取り、悲しい気持ちで汚い紙幣を一枚二枚と数えます。
原文: そうして通帳に金額を記入して、黙って花江さんに返してやります。
そして通帳に金額を記入して、黙って花江さんに返してやります。
原文: 「五時頃、おひまですか?」
「五時ごろ、お暇ですか?」
原文: 私は、自分の耳を疑いました。
私は、自分の耳を疑いました。
原文: 春の風にたぶらかされているのではないかと思いました。
春の風にでも惑わされているのではないかと思いました。
原文: それほど低く素早い言葉でした。
それほど低くて素早い言葉でした。
原文: 「おひまでしたら、橋にいらして」
「お暇でしたら、橋に来てください」
原文: そう言って、かすかに笑い、すぐにまた澄まして花江さんは立ち去りました。
そう言って、かすかに笑い、すぐにまた澄ました顔で花江さんは立ち去りました。
原文: 私は時計を見ました。
私は時計を見ました。
原文: 二時すこし過ぎでした。
二時少し過ぎでした。
原文: それから五時まで、だらしない話ですが、私は何をしていたか、いまどうしても思い出す事が出来ないのです。
それから五時まで、情けない話ですが、私は何をしていたか、今どうしても思い出せないんです。
原文: きっと、何やら深刻な顔をして、うろうろして、突然となりの女の局員に、きょうはいいお天気だ、なんて曇っている日なのに、大声で言って、相手がおどろくと、ぎょろりと睨んでやって、立ち上って便所へ行ったり、まるで阿呆みたいになっていたのでしょう。
きっと、何やら深刻な顔をしてうろうろして、突然隣の女性局員に、今日はいい天気だ、なんて曇っている日なのに大声で言って、相手が驚くとぎょろりと睨みつけてやって、立ち上がってトイレに行ったり、まるで阿呆みたいになっていたんでしょう。
原文: 五時、七、八分まえに私は、家を出ました。
五時の七、八分前に、私は家を出ました。
原文: 途中、自分の両手の指の爪がのびているのを発見して、それがなぜだか、実に泣きたいくらい気になったのを、いまでも覚えています。
途中、自分の両手の指の爪が伸びているのを発見して、それがなぜだか本当に泣きたいくらい気になったのを、今でも覚えています。
原文: 橋のたもとに、花江さんが立っていました。
橋のたもとに、花江さんが立っていました。
原文: スカートが短かすぎるように思われました。
スカートが短すぎるように思われました。
原文: 長いはだかの脚をちらと見て、私は眼を伏せました。
長い素足をちらと見て、私は目を伏せました。
原文: 「海のほうへ行きましょう」
「海のほうへ行きましょう」
原文: 花江さんは、落ちついてそう言いました。
花江さんは落ち着いてそう言いました。
原文: 花江さんがさきに、それから五、六歩はなれて私が、ゆっくり海のほうへ歩いて行きました。
花江さんが先に、それから五、六歩離れて私が、ゆっくり海のほうへ歩いて行きました。
原文: そうして、それくらい離れて歩いているのに、二人の歩調が、いつのまにか、ぴったり合ってしまって、困りました。
そして、それくらい離れて歩いているのに、二人の歩調がいつの間にかぴったり合ってしまって、困りました。
原文: 曇天で、風が少しあって、海岸には砂ほこりが立っていました。
曇り空で、風が少しあって、海岸には砂埃が立っていました。
原文: 「ここが、いいわ」
「ここが、いいわ」
原文: 岸にあがっている大きい漁船と漁船のあいだに花江さんは、はいって行って、そうして砂地に腰をおろしました。
岸に上がっている大きな漁船と漁船の間に花江さんは入っていって、砂地に腰を下ろしました。
原文: 「いらっしゃい。坐ると風が当らなくて、あたたかいわ」
「いらっしゃい。座ると風が当たらなくて、温かいわ」
原文: 私は花江さんが両脚を前に投げ出して坐っている個所から、二メートルくらい離れたところに腰をおろしました。
私は花江さんが両足を前に投げ出して座っている場所から、二メートルほど離れたところに腰を下ろしました。
原文: 「呼び出したりして、ごめんなさいね。でも、あたし、あなたに一こと言わずには居られないのよ。あたしの貯金の事、ね、へんに思っていらっしゃるんでしょう?」
「呼び出したりして、ごめんなさい。でも、あたし、あなたに一言言わずにいられないのよ。あたしの貯金のこと、ね、変に思ってらっしゃるんでしょう?」
原文: 私も、ここだと思い、しゃがれた声で答えました。
私もここだと思い、しゃがれた声で答えました。
原文: 「へんに、思っています。」
「変に、思っています。」
原文: 「そう思うのが当然ね」
「そう思うのは当然ね」
原文: と言って花江さんは、うつむき、はだかの脚に砂を掬って振りかけながら、「あれはね、あたしのお金じゃないのよ。あたしのお金だったら、貯金なんかしやしないわ。いちいち貯金なんて、めんどうくさい」
と言って花江さんはうつむき、素足に砂をすくって振りかけながら、「あれはね、あたしのお金じゃないのよ。あたしのお金だったら、貯金なんかしないわ。いちいち貯金なんて、めんどうくさい」
原文: 成る程と思い、私は黙ってうなずきました。
なるほどと思い、私は黙ってうなずきました。
原文: 「そうでしょう? あの通帳はね、おかみさんのものなのよ。でも、それは絶対に秘密よ。あなた、誰にも言っちゃだめよ。おかみさんが、なぜそんな事をするのか、あたしには、ぼんやりわかっているんだけど、でも、それはとても複雑している事なんですから、言いたくないわ。つらいのよ、あたしは。信じて下さる?」
「そうでしょう? あの通帳はね、おかみさんのものなのよ。でも、それは絶対に秘密よ。あなた、誰にも言っちゃだめよ。おかみさんがなぜそんなことをするのか、あたしにはぼんやりわかっているんだけど、でも、それはとても複雑なことだから、言いたくないわ。つらいのよ、あたしは。信じてくれる?」
原文: すこし笑って花江さんの眼が妙に光って来たと思ったら、それは涙でした。
少し笑って花江さんの目が妙に光ってきたと思ったら、それは涙でした。
原文: 私は花江さんにキスしてやりたくて、仕様がありませんでした。
私は花江さんにキスしてやりたくて仕方がありませんでした。
原文: 花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。
花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。
原文: 「この辺のひとたちは、みんな駄目ねえ。あたし、あなたに、誤解されてやしないかと思って、あなたに一こと言いたくって、それできょうね、思い切って」
「この辺の人たちはみんな駄目ねえ。あたし、あなたに誤解されてやしないかと思って、あなたに一言言いたくて、それで今日ね、思い切って」
原文: その時、実際ちかくの小屋から、トカトントンという釘打つ音が聞えたのです。
そのとき、実際に近くの小屋からトカトントンという釘打つ音が聞こえたんです。
原文: この時の音は、私の幻聴ではなかったのです。
このときの音は、私の幻聴ではなかったんです。
原文: 海岸の佐々木さんの納屋で、事実、音高く釘を打ちはじめたのです。
海岸の佐々木さんの納屋で、本当に、大きな音で釘を打ち始めたんです。
原文: トカトントン、トントントカトン、とさかんに打ちます。
トカトントン、トントントカトン、とさかんに打ちます。
原文: 私は、身ぶるいして立ち上りました。
私は身震いして立ち上がりました。
原文: 「わかりました。誰にも言いません。」
「わかりました。誰にも言いません。」
原文: 花江さんのすぐうしろに、かなり多量の犬の糞があるのをそのとき見つけて、よっぽどそれを花江さんに注意してやろうかと思いました。
花江さんのすぐ後ろに、かなり大量の犬の糞があるのをそのとき発見して、それを花江さんに教えてやろうかとも思いました。
原文: 波は、だるそうにうねって、きたない帆をかけた船が、岸のすぐ近くをよろよろと、とおって行きます。
波はだるそうにうねって、汚い帆をかけた船が岸のすぐ近くをよろよろと通って行きます。
原文: 「それじゃ、失敬」
「それじゃ、失礼」
原文: 空々漠々たるものでした。
何もかも空っぽな気分でした。
原文: 貯金がどうだって、俺の知った事か。
貯金がどうだって、俺の知ったことか。
原文: もともと他人なんだ。
もともと他人なんだ。
原文: ひとのおもちゃになったって、どうなったって、ちっともそれは俺に関係した事じゃない。
人のおもちゃになったって、どうなったって、それは俺には全然関係ないことだ。
原文: ばかばかしい。
ばかばかしい。
原文: 腹がへった。
腹が減った。
原文: それからも、花江さんは相変らず、一週間か十日目くらいに、お金を持って来て貯金して、もういまでは何千円かの額になっていますが、私には少しも興味がありません。
それからも花江さんは相変わらず一週間か十日おきくらいにお金を持ってきて貯金して、今ではもう何千円かの額になっていますが、私にはまったく興味がありません。
原文: 花江さんの言ったように、それはおかみさんのお金なのか、または、やっぱり花江さんのお金なのか、どっちにしたって、それは全く私には関係の無い事ですもの。
花江さんが言ったようにそれはおかみさんのお金なのか、あるいはやっぱり花江さんのお金なのか、どちらにしたってそれは私にはまったく関係のないことですもの。
原文: そうして、いったいこれは、どちらが失恋したという事になるのかと言えば、私には、どうしても、失恋したのは私のほうだというような気がしているのですけれども、しかし、失恋して別段かなしい気も致しませんから、これはよっぽど変った失恋の仕方だと思っています。
そして、いったいこれはどちらが失恋したということになるのかと言えば、私にはどうしても失恋したのは私のほうだという気がしているんですが、しかし失恋して別段悲しい気もしませんから、これはよほど変わった失恋のしかただと思っています。
原文: そうして私は、またもや、ぼんやりした普通の局員になったのです。
そして私は、またもや、ぼんやりした普通の局員になったんです。
原文: 六月にはいってから、私は用事があって青森へ行き、偶然、労働者のデモを見ました。
六月に入ってから、私は用事があって青森へ行き、偶然、労働者のデモを見ました。
原文: それまでの私は社会運動または政治運動というようなものには、あまり興味が無い、というよりは、絶望に似たものを感じていたのです。
それまでの私は社会運動とか政治運動というものには、あまり興味がない、というより、絶望に近いものを感じていたんです。
原文: 誰がやったって、同じ様なものなんだ。
誰がやったって、似たようなものだ。
原文: また自分が、どのような運動に参加したって、所詮はその指導者たちの、名誉慾か権勢慾の乗りかかった船の、犠牲になるだけの事だ。
自分がどんな運動に参加したって、結局はその指導者たちの名誉欲か権力欲に便乗した船の犠牲になるだけだ。
原文: 何の疑うところも無く堂々と所信を述べ、わが言に従えば必ずや汝自身ならびに汝の家庭、汝の村、汝の国、否全世界が救われるであろうと、大見得を切って、救われないのは汝等がわが言に従わないからだとうそぶき、そうして一人のおいらんに、振られて振られて振られとおして、やけになって公娼廃止を叫び、憤然として美男の同志を殴り、あばれて、うるさがられて、たまたま勲章をもらい、沖天の意気を以てわが家に駈け込み、かあちゃんこれだ、と得意満面、その勲章の小箱をそっとあけて女房に見せると、女房は冷たく、あら、勲五等じゃないの、せめて勲二等くらいでなくちゃねえ、と言い、亭主がっかり、などという何が何やらまるで半気狂いのよ
何の迷いもなく堂々と持論を述べ、俺の言う通りにすれば必ずやお前自身もお前の家庭も村も国も、いや全世界が救われると大見得を切って、救われないのはお前たちが俺の言う通りにしないからだと言い訳し、一人の女に振られ続けて、やけになって公娼廃止を叫び、憤然として男前の同志を殴り、暴れて、うるさがられて、たまたま勲章をもらって、意気揚々と家に駆け込み、かあちゃんこれだと得意満面でその勲章の小箱をそっと開けて女房に見せると、女房は冷たく、あら、勲五等じゃないの、せめて勲二等くらいでなくちゃねえ、と言い、亭主はがっかり、などというわけのわからない半狂人のよう
原文: うな男が、その政治運動だの社会運動だのに没頭しているものとばかり思い込んでいたのです。
な男が、その政治運動とか社会運動とかに没頭しているものとばかり思い込んでいたんです。
原文: それですから、ことしの四月の総選挙も、民主主義とか何とか言って騒ぎ立てても、私には一向にその人たちを信用する気が起らず、自由党、進歩党は相変らずの古くさい人たちばかりのようでまるで問題にならず、また社会党、共産党は、いやに調子づいてはしゃいでいるけれども、これはまた敗戦便乗とでもいうのでしょうか、無条件降伏の屍にわいた蛆虫のような不潔な印象を消す事が出来ず、四月十日の投票日にも私は、伯父の局長から自由党の加藤さんに入れるようにと言われていたのですが、はいはいと言って家を出て海岸を散歩して、それだけで帰宅しました。
ですから、今年の四月の総選挙も、民主主義とかなんとか言って騒ぎ立てても、私にはその人たちをまったく信用する気が起きず、自由党・進歩党は相変わらずの古くさい人たちばかりのようでまるで問題にならず、また社会党・共産党はいやに調子づいてはしゃいでいるけれど、これはまた敗戦に便乗というのでしょうか、無条件降伏の屍に湧いたウジ虫のような不潔な印象を消すことができず、四月十日の投票日にも私は叔父の局長から自由党の加藤さんに入れるように言われていましたが、はいはいと言って家を出て海岸を散歩して、それだけで帰宅しました。
原文: 社会問題や政治問題に就いてどれだけ言い立てても、私たちの日々の暮しの憂鬱は解決されるものではないと思っていたのですが、しかし、私はあの日、青森で偶然、労働者のデモを見て、私の今までの考えは全部間違っていた事に気がつきました。
社会問題や政治問題についていくら言い立てても、私たちの日々の暮らしの憂鬱は解決されるものではないと思っていましたが、しかし私はあの日、青森で偶然、労働者のデモを見て、私の今までの考えが全部間違っていたことに気がつきました。
原文: 生々溌剌、とでも言ったらいいのでしょうか。
生き生きとして活気あふれる、とでも言えばいいんでしょうか。
原文: なんとまあ、楽しそうな行進なのでしょう。
なんと楽しそうな行進なんでしょう。
原文: 憂鬱の影も卑屈の皺も、私は一つも見出す事が出来ませんでした。
憂鬱の影も卑屈なしわも、私は一つも見つけることができませんでした。
原文: 伸びて行く活力だけです。
伸びていく活力だけです。
原文: 若い女のひとたちも、手に旗を持って労働歌を歌い、私は胸が一ぱいになり、涙が出ました。
若い女の人たちも、手に旗を持って労働歌を歌い、私は胸がいっぱいになり、涙が出ました。
原文: ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだと思いました。
ああ、日本が戦争に負けて、よかったと思いました。
原文: 生れてはじめて、真の自由というものの姿を見た、と思いました。
生まれて初めて、本当の自由というものの姿を見た、と思いました。
原文: もしこれが、政治運動や社会運動から生れた子だとしたなら、人間はまず政治思想、社会思想をこそ第一に学ぶべきだと思いました。
もしこれが、政治運動や社会運動から生まれたものだとしたなら、人間はまず政治思想・社会思想こそを第一に学ぶべきだと思いました。
原文: なおも行進を見ているうちに、自分の行くべき一条の光りの路がいよいよ間違い無しに触知せられたような大歓喜の気分になり、涙が気持よく頬を流れて、そうして水にもぐって眼をひらいてみた時のように、あたりの風景がぼんやり緑色に烟って、そうしてその薄明の漾々と動いている中を、真紅の旗が燃えている有様を、ああその色を、私はめそめそ泣きながら、死んでも忘れまいと思ったら、トカトントンと遠く幽かに聞えて、もうそれっきりになりました。
なおも行進を見ているうちに、自分が進むべき一筋の光の道がますます間違いなくはっきりと感じられるような大きな喜びの気分になり、涙が気持ちよく頬を流れ、そして水に潜って目を開けてみたときのように、あたりの風景がぼんやりと緑色に煙って、その薄明の中をゆらゆらと動く真っ赤な旗が燃えている様子を、ああその色を、私はめそめそ泣きながら、死んでも忘れまいと思ったら、トカトントンと遠くかすかに聞こえて、もうそれっきりになりました。
原文: いったい、あの音はなんでしょう。
いったい、あの音はなんなんでしょう。
原文: 虚無などと簡単に片づけられそうもないんです。
ニヒルなどと簡単に片づけられそうもないんです。
原文: あのトカトントンの幻聴は、虚無をさえ打ちこわしてしまうのです。
あのトカトントンの幻聴は、ニヒルさえも打ち壊してしまうんです。
原文: 夏になると、この地方の青年たちの間で、にわかにスポーツ熱がさかんになりました。
夏になると、この地方の若者たちの間で急にスポーツ熱が盛んになりました。
原文: 私には多少、年寄りくさい実利主義的な傾向もあるのでしょうか、何の意味も無くまっぱだかになって角力をとり、投げられて大怪我をしたり、顔つきをかえて走って誰よりも誰が早いとか、どうせ百メートル二十秒の組でどんぐりの背ならべなのに、ばかばかしい、というような気がして、青年たちのそんなスポーツに参加しようと思った事はいちども無かったのです。
私には多少、年寄りくさい実利主義的な面もあるんでしょうか、何の意味もなく全裸同然になって相撲をとり、投げられて大けがをしたり、顔色を変えて走ってどっちが早いとか、どうせ百メートル二十秒の組でどんぐりの背比べなのに、ばかばかしい、というような気がして、若者たちのそんなスポーツに参加しようと思ったことは一度もなかったんです。
原文: けれども、ことしの八月に、この海岸線の各部落を縫って走破する駅伝競走というものがあって、この郡の青年たちが大勢参加し、このAの郵便局も、その競争の中継所という事になり、青森を出発した選手が、ここで次の選手と交代になるのだそうで、午前十時少し過ぎ、そろそろ青森を出発した選手たちがここへ到着する頃だというので、局の者たちは皆、外へ見物に出て、私と局長だけ局に残って簡易保険の整理をしていましたが、やがて、来た、来た、というどよめきが聞え、私は立って窓から見ていましたら、それがすなわちラストヘビーというもののつもりなのでしょう、両手の指の股を蛙の手のようにひろげ、空気を掻き分けて進むというような奇妙な
けれども今年の八月に、この海岸線の各集落を縫って走破する駅伝競走があって、この郡の若者たちが大勢参加し、このAの郵便局もその競走の中継所ということになり、青森を出発した選手がここで次の選手と交代になるそうで、午前十時少し過ぎ、そろそろ青森を出発した選手たちがここへ到着するころだというので、局の者たちは皆外へ見物に出て、私と局長だけ局に残って簡易保険の整理をしていましたが、やがて「来た来た」というどよめきが聞こえ、私は立って窓から見ていましたら、それがいわゆるラストスパートのつもりなんでしょう、両手の指の股をカエルの手のように広げ、空気をかき分けて進むというような奇妙な
原文: 腕の振り工合で、そうしてまっぱだかにパンツ一つ、もちろん裸足で、大きい胸を高く突き上げ、苦悶の表情よろしく首をそらして左右にうごかし、よたよたよたと走って局の前まで来て、ううんと一声唸って倒れ、
腕の振り方で、そしてパンツ一丁でもちろん裸足で、大きな胸を高く突き上げ、苦しそうな表情で首をそらして左右に動かし、よたよたよたと走って局の前まで来て、うっと一声うなって倒れ、
原文: 「ようし! 頑張ったぞ!」
「よし! 頑張ったぞ!」
原文: と附添の者が叫んで、それを抱き上げ、私の見ている窓の下に連れて来て、用意の手桶の水を、ざぶりとその選手にぶっかけ、選手はほとんど半死半生の危険な状態のようにも見え、顔は真蒼でぐたりとなって寝ている、その姿を眺めて私は、実に異様な感激に襲われたのです。
と付き添いの者が叫んで、それを抱き上げ、私が見ている窓の下に連れてきて、用意した手桶の水をざぶりとその選手にかけ、選手はほとんど半死半生の危険な状態のようにも見え、顔は真っ青でぐったりと寝ている、その姿を眺めて私は、実に異様な感激に襲われたんです。
原文: 可憐、などと二十六歳の私が言うのも思い上っているようですが、いじらしさ、と言えばいいか、とにかく、力の浪費もここまで来ると、見事なものだと思いました。
かわいらしい、などと二十六歳の私が言うのも思い上がっているようですが、いじらしい、と言えばいいか、とにかく、力の使い方がここまで来ると、見事なものだと思いました。
原文: このひとたちが、一等をとったって二等をとったって、世間はそれにほとんど興味を感じないのに、それでも生命懸けで、ラストヘビーなんかやっているのです。
この人たちが一位を取ろうと二位を取ろうと、世間はそれにほとんど興味を感じないのに、それでも命がけで、ラストスパートなんかやっているんです。
原文: 別に、この駅伝競争に依って、所謂文化国家を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何も無いのに、それでも、おていさいから、そんな理想を口にして走って、以て世間の人たちにほめられようなどとも思っていないでしょう。
別に、この駅伝競走によって文化国家を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何もないのに、それでも体裁から、そんな理想を口にして走って、世間の人たちに褒めてもらおうなどとも思っていないでしょう。
原文: また、将来大マラソン家になろうという野心も無く、どうせ田舎の駈けっくらで、タイムも何も問題にならん事は、よく知っているでしょうし、家へ帰っても、その家族の者たちに手柄話などする気もなく、かえってお父さんに叱られはせぬかと心配して、けれども、それでも走りたいのです。
また、将来大マラソン選手になろうという野心もなく、どうせ田舎の駆けっこでタイムも何も問題にならないことはよく知っているでしょうし、家に帰ってもその家族に自慢話などする気もなく、かえってお父さんに叱られやしないかと心配して、けれどもそれでも走りたいんです。
原文: いのちがけで、やってみたいのです。
命がけで、やってみたいんです。
原文: 誰にほめられなくてもいいんです。
誰に褒めてもらわなくてもいいんです。
原文: ただ、走ってみたいのです。
ただ、走ってみたいんです。
原文: 無報酬の行為です。
見返りのない行為です。
原文: 幼児の危い木登りには、まだ柿の実を取って食おうという慾がありましたが、このいのちがけのマラソンには、それさえありません。
幼い子が危なっかしく木登りをするのには、まだ柿の実を取って食べたいという欲がありましたが、この命がけのマラソンには、それさえありません。
原文: ほとんど虚無の情熱だと思いました。
ほとんど虚無の情熱だと思いました。
原文: それが、その時の私の空虚な気分にぴったり合ってしまったのです。
それが、そのときの私の空虚な気分にぴったり合ってしまったんです。
原文: 私は局員たちを相手にキャッチボールをはじめました。
私は局員たちを相手にキャッチボールを始めました。
原文: へとへとになるまで続けると、何か脱皮に似た爽やかさが感ぜられ、これだと思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞えるのです。
へとへとになるまで続けると、何か脱皮するような爽やかさが感じられ、これだと思った途端に、やはりあのトカトントンが聞こえるんです。
原文: あのトカトントンの音は、虚無の情熱をさえ打ち倒します。
あのトカトントンの音は、虚無の情熱さえも打ち倒します。
原文: もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。
もうこのごろでは、あのトカトントンがいよいよ頻繁に聞こえ、新聞を広げて新憲法を一条一条じっくり読もうとすると、トカトントン、局の人事について叔父から相談を受け、いい案がふっと浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、先日この集落で火事があって起きて火事場に駆けつけようとして、トカトントン、叔父の晩酌の相手をして、もう少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているんじゃないかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。
原文: 「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」
「人生というのは、一言で言えば、なんですか」
原文: と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。
と私は昨夜、叔父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で聞いてみました。
原文: 「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」
「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と欲だ」
原文: 案外の名答だと思いました。
案外の名答だと思いました。
原文: そうして、ふっと私は、闇屋になろうかしらと思いました。
そしてふっと私は、闇屋になろうかしらと思いました。
原文: しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました、
しかし闇屋になって一万円もうけたときのことを考えたら、すぐトカトントンが聞こえてきました。
原文: 教えて下さい。
教えてください。
原文: この音は、なんでしょう。
この音は、なんなんでしょう。
原文: そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。
そして、この音から逃れるには、どうすればいいんでしょう。
原文: 私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。
私は今、本当に、この音のために身動きが取れなくなっています。
原文: どうか、ご返事を下さい。
どうか、返事をください。
原文: なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞えて来ていたのです。
なお最後にもう一言付け加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かないうちに、もう、トカトントンが盛んに聞こえてきていたんです。
原文: こんな手紙を書く、つまらなさ。
こんな手紙を書く、つまらなさ。
原文: それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。
それでも、我慢してとにかくこれだけ書きました。
原文: そうして、あんまりつまらないから、やけになって、ウソばっかり書いたような気がします。
そして、あまりにつまらないから、やけになって、嘘ばかり書いてしまったような気がします。
原文: 花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじゃないんです。
花江さんなんて女もいないし、デモも見てないんです。
原文: その他の事も、たいがいウソのようです。
その他のことも、だいたいが嘘のようです。
原文: しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。
しかし、トカトントンだけは、嘘でないようです。
原文: 読みかえさず、このままお送り致します。
読み返さず、このままお送りします。
原文: 敬具。
敬具。
原文: この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。
この奇妙な手紙を受け取ったある作家は、残念ながら無学で無思想な男であったが、次のような返答を返した。
原文: 拝復。
拝復。
原文: 気取った苦悩ですね。
気取った苦悩ですね。
原文: 僕は、あまり同情してはいないんですよ。
私は、あまり同情していないんですよ。
原文: 十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。
十本の指が指さし、十の目が見ているところで、どんな言い訳も通らないような醜態を、君はまだ避けているようですね。
原文: 真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。
本当の思想は、賢さよりも勇気を必要とするものです。
原文: マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」
マタイ十章二十八節、「体を殺しても魂を殺すことができない者どもを恐れるな、体と魂をゲヘナで滅することができる者を恐れよ」
原文: この場合の「懼る」
この場合の「恐れる」
原文: は、「畏敬」
は、「畏敬する」
原文: の意にちかいようです。
という意味に近いようです。
原文: このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。
このイエスの言葉に、雷のような衝撃を感じることができたなら、君の幻聴は止まるはずです。
原文: 不尽。
草々。