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トカトントン 小学生向け

太宰治だざいおさむ)・1950

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

拝啓(はいけい)。

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拝啓。

一つだけ教えてください。

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一つだけ教えて下さい。

困っているのです。

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困っているのです。

私は今年で二十六歳です。

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私はことし二十六歳です。

生まれたのは、青森市(あおもりし)の寺町(てらまち)というところです。

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生れたところは、青森市の寺町です。

たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺(せいかじ)の隣に、トモヤという小さい花屋がありました。

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たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。

私はそのトモヤの次男(じなん)として生まれたのです。

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わたしはそのトモヤの次男として生れたのです。

青森の中学校を卒業して、横浜のある軍の工場で事務員として三年働き、その後軍隊で四年間くらし、日本が無条件降伏(むじょうけんふく)したと同時に故郷へ帰ってきましたが、すでに家は焼けてしまっており、父と兄とお兄さんのお嫁さんの三人が、その焼け跡にかわいそうな小屋を建てて暮らしていました。

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青森の中学校を出て、それから横浜の或る軍需工場の事務員になって、三年勤め、それから軍隊で四年間暮し、無条件降伏と同時に、生れた土地へ帰って来ましたが、既に家は焼かれ、父と兄とあによめと三人、その焼跡にあわれな小屋を建てて暮していました。

母は、私が中学四年生のときに亡くなりました。

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母は、私の中学四年の時に死んだのです。

さすがに私は、その焼け跡の小さな家に入り込むのは父にも兄夫婦(あにふうふ)にも申し訳なくて、父や兄とも相談した上で、青森市から二里(やく八キロ)ほど離れた海岸の村にある小さな郵便局で働くことになったのです。

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さすがに私は、その焼跡の小さい住宅にもぐり込むのは、父にも兄夫婦にも気の毒で、父や兄とも相談の上、このAという青森市から二里ほど離れた海岸の部落の三等郵便局に勤める事になったのです。

この郵便局は、亡くなった母の実家で、局長さんは母の兄にあたる人です。

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この郵便局は、死んだ母の実家で、局長さんは母の兄に当っているのです。

ここで働いてから、もうかれこれ一年以上になりますが、日に日に自分がつまらない人間になっていくような気がして、本当に困っているのです。

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ここに勤めてから、もうかれこれ一箇年以上になりますが、日ましに自分がくだらないものになって行くような気がして、実に困っているのです。

私があなたの小説を読み始めたのは、横浜の工場で事務員をしていた時でした。

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私があなたの小説を読みはじめたのは、横浜の軍需工場で事務員をしていた時でした。

「文体(ぶんたい)」

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「文体」

という雑誌に載っていたあなたの短い小説を読んでから、あなたの作品を探して読む癖がついて、いろいろ読んでいるうちに、あなたが私の中学校の先輩で、また中学時代に青森の寺町の豊田(とよだ)さんのお宅にいらしたということを知り、胸がいっぱいになりました。

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という雑誌に載っていたあなたの短い小説を読んでから、それから、あなたの作品を捜して読む癖がついて、いろいろ読んでいるうちに、あなたが私の中学校の先輩であり、またあなたは中学時代に青森の寺町の豊田さんのお宅にいらしたのだと言う事を知り、胸のつぶれる思いをしました。

呉服屋(ごふくや)の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、よく知っているのです。

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呉服屋の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、私はよく知っているのです。

先代の太左衛門(たざえもん)さんはふっくりしていらしたので、太左衛門というお名前もよく似合っていましたが、今の太左衛門さんはやせていてかっこうよくいらっしゃるので、羽左衛門(はざえもん)さんとでもお呼びしたいくらいでした。

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先代の太左衛門さんは、ふとっていらっしゃいましたから、太左衛門というお名前もよく似合っていましたが、当代の太左衛門さんは、せてそうしてイキでいらっしゃるから、羽左衛門さんとでもお呼びしたいようでした。

でも、皆さんよい方のようですね。

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でも、皆さんがいいお方のようですね。

今度の空襲(くうしゅう)で豊田さんのお宅も全部焼けてしまい、土蔵(どぞう)まで焼け落ちたようで、お気の毒です。

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こんどの空襲で豊田さんも全焼し、それに土蔵まで焼け落ちたようで、お気の毒です。

私はあなたが豊田さんのお家にいらしたことがあると知り、ずいぶん今の太左衛門さんにお願いして紹介状を書いていただき、あなたを訪ねようかと思いましたが、気が小さいので、ただそれを空想してみるだけで、実行する勇気はありませんでした。

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私はあなたが、あの豊田さんのお家にいらした事があるのだという事を知り、よっぽど当代の太左衛門さんにお願いして紹介状を書いていただき、あなたをおたずねしようかと思いましたが、小心者ですから、ただそれを空想してみるばかりで、実行の勇気はありませんでした。

そのうちに私は兵隊になって、千葉県(ちばけん)の海岸の守りにまわされ、終戦まで毎日毎日、穴掘りばかりやらされていましたが、それでもたまに半日でも休みがあると町へ出て、あなたの作品を探して読みました。

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そのうちに私は兵隊になって、千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日々々、穴掘りばかりやらされていましたが、それでもたまに半日でも休暇があると町へ出て、あなたの作品を捜して読みました。

そして、あなたに手紙を書こうとして、ペンを手にしたことが何度あったかわかりません。

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そうして、あなたに手紙を差上げたくて、ペンを執ってみた事が何度あったか知れません。

けれども、「拝啓(はいけい)」と書いて、そこから何と書けばいいのかわからなくて、特に用事があるわけでもないし、私はあなたにとってはまったく知らない他人だし、ペンを持ったまま一人で困るばかりなのです。

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けれども、拝啓、と書いて、それから、何と書いていいのやら、別段用事は無いのだし、それに私はあなたにとってはまるで赤の他人なのだし、ペンを持ったままひとりで当惑するばかりなのです。

やがて日本は無条件降伏ということになり、私も故郷に帰り、Aという郵便局で働きましたが、このあいだ青森へ行ったついでに本屋をのぞき、あなたの作品を探して、あなたも被災(ひさい)して生まれた土地の金木町(かなぎまち)に来ているということを作品を通じて知り、再びうれしさと切なさが交じった気持ちになりました。

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やがて、日本は無条件降伏という事になり、私も故郷にかえり、Aの郵便局に勤めましたが、こないだ青森へ行ったついでに、青森の本屋をのぞき、あなたの作品を捜して、そうしてあなたも罹災りさいして生れた土地の金木町に来ているという事を、あなたの作品に依って知り、再び胸のつぶれる思いが致しました。

それでも私は、あなたのご実家に突然訪ねて行く勇気はなく、いろいろ考えた末、とにかく手紙を書くことにしたのです。

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それでも私は、あなたの御生家に突然たずねて行く勇気は無く、いろいろ考えた末、とにかく手紙を、書きしたためる事にしたのです。

今度は私も、「拝啓」と書いただけで途方に暮れるようなことはないのです。

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こんどは私も、拝啓、と書いただけで途方にくれるような事はないのです。

なぜなら、これは用事のある手紙ですから。

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なぜなら、これは用事の手紙ですから。

しかも急ぎの用事です。

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しかも火急の用事です。

教えていただきたいことがあるのです。

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教えていただきたい事があるのです。

本当に、困っているのです。

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本当に、困っているのです。

しかもこれは私一人の問題ではなく、ほかにも同じような思いで悩んでいる人がいると思いますので、私たちのために教えてください。

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しかもこれは、私ひとりの問題でなく、他にもこれと似たような思いで悩んでいるひとがあるような気がしますから、私たちのために教えて下さい。

横浜の工場にいた時も、軍隊にいた時も、あなたに手紙を出したい出したいと思い続け、今やっとあなたに手紙を差し上げる、その最初の手紙が、このようなうれしさの少ない内容のものになろうとは、まったく思いもよらないことでした。

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横浜の工場にいた時も、また軍隊にいた時も、あなたに手紙を出したい出したいと思い続け、いまやっとあなたに手紙を差上げる、その最初の手紙が、このようなよろこびの少い内容のものになろうとは、まったく、思いも寄らない事でありました。

昭和二十年(一九四五年)八月十五日の正午に、私たちは兵舎(へいしゃ)の前の広場に並ばされて、天皇陛下(てんのうへいか)自らの放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞き取れなかったラジオを聞かされ、そして、それから、若い中尉(ちゅうい)が足早に壇上(だんじょう)に駆け上がって、

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昭和二十年八月十五日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、そうして陛下みずからの御放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ、そうして、それから、若い中尉がつかつかと壇上に駈けあがって、

「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受け入れて、降参したのだ。しかし、それは政治上のことだ。われわれ軍人は、あくまでも戦い続け、最後には皆ひとり残らず自ら命を絶って、天皇陛下にお詫びを申し上げる。自分はもちろんそのつもりでいるから、皆もその覚悟をしていなさい。いいか。よし。解散」

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「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あくまでも抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」

そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡(めがね)をはずし、歩きながらぽたぽたと涙をこぼしました。

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そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。

「厳粛(げんしゅく)」という言葉は、あのような感じをいうのでしょうか。

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厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。

私はじっと立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく冷たい風が吹いてきて、私のからだが自然に地の底へ沈んでいくように感じました。

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私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くように感じました。

死のうと思いました。

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死のうと思いました。

死ぬのが当然だ、と思いました。

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死ぬのが本当だ、と思いました。

前方の森がひどく静まりかえって、真っ黒に見えて、その頂上から一群(ひとむれ)の小鳥が一つまみのごま粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。

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前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒ごまつぶを空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。

ああ、その時です。

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ああ、その時です。

後ろの兵舎のほうから、誰かがかなづちで釘(くぎ)を打つ音が、かすかに、トカトントンと聞こえました。

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背後の兵舎のほうから、誰やら金槌かなづちくぎを打つ音が、かすかに、トカトントンと聞えました。

それを聞いたとたんに、まるで目からうろこが落ちるというか、悲壮(ひそう)な気分も厳粛な気分も一瞬のうちに消えて、私はおかしなものが憑(つ)いていたのが離れたように、きょとんとなり、なんとも白々しい気持ちで、夏の真昼の砂原(すなはら)を眺めわたし、私にはどんな感動も、何も一つもありませんでした。

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それを聞いたとたんに、眼からうろこが落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私はきものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何いかなる感慨も、何も一つも有りませんでした。

そして私は、リュックサックにたくさんのものを詰め込んで、ぼんやりと故郷に帰りました。

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そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、ぼんやり故郷に帰還しました。

遠くから聞こえてきたかすかなかなづちの音が、不思議なくらいきれいに私から戦争礼賛(らいさん)の幻(まぼろし)を取り去ってくれて、もう二度と、あの悲壮らしい厳粛らしい悪い夢に酔わされることは絶対になくなったようですが、しかしその小さい音は、私の頭のど真ん中を射抜いてしまったのか、それ以後ずっと今まで続いて、私は本当に変な、いやな、てんかん患者のような男になりました。

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あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、不思議なくらい綺麗きれいに私からミリタリズムの幻影をぎとってくれて、もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい悪夢に酔わされるなんて事は絶対に無くなったようですが、しかしその小さい音は、私の脳髄の金的きんてきを射貫いてしまったものか、それ以後げんざいまで続いて、私は実に異様な、いまわしい癲癇てんかん持ちみたいな男になりました。

といっても決して、乱暴な発作を起こすというわけではありません。

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と言っても決して、兇暴きょうぼうな発作などを起すというわけではありません。

その反対です。

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その反対です。

何かに感動して奮い立とうとすると、どこからともなく、かすかに、トカトントンとあのかなづちの音が聞こえてきて、とたんに私はきょとんとなり、目の前の風景がまるっきり変わってしまって、映画がふっと止まってあとにはただ真っ白なスクリーンだけが残り、それをぼんやり眺めているような、なんともはかない、ばからしい気持ちになるのです。

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何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。

最初、私はこの郵便局に来て、さあこれからは何でも自由に好きな勉強ができるのだ、まず小説でも書いて、あなたのところへ送って読んでいただこうと思い、郵便局の仕事のすき間に、軍隊生活の思い出を書いてみたのですが、大いに努力して百枚近く書き進めて、いよいよ今日か明日のうちに完成だという秋の夕暮れ、局の仕事も終わって、銭湯(せんとう)へ行き、お湯であたたまりながら、今夜これから最後の章を書くにあたり、オネーギン(ロシアの小説の主人公)の終わりの章のような華やかな悲しみの終わり方にしようか、それともゴーゴリ(ロシアの作家)の「喧嘩噺(けんかばなし)」

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さいしょ、私は、この郵便局に来て、さあこれからは、何でも自由に好きな勉強ができるのだ、まず一つ小説でも書いて、そうしてあなたのところへ送って読んでいただこうと思い、郵便局の仕事のひまひまに、軍隊生活の追憶を書いてみたのですが、大いに努力して百枚ちかく書きすすめて、いよいよ今明日のうちに完成だという秋の夕暮、局の仕事もすんで、銭湯へ行き、お湯にあたたまりながら、今夜これから最後の章を書くにあたり、オネーギンの終章のような、あんなふうの華やかな悲しみの結び方にしようか、それともゴーゴリの「喧嘩噺けんかばなし

式の絶望の終わりにしようか、などとひどい興奮でわくわくしながら、銭湯の高い天井からぶら下がっている裸電球の光を見上げた時、トカトントン、と遠くからあのかなづちの音が聞こえたのです。

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式の絶望の終局にしようか、などひどい興奮でわくわくしながら、銭湯の高い天井からぶらさがっている裸電球の光を見上げた時、トカトントン、と遠くからあの金槌の音が聞えたのです。

とたんに、さっと波がひいて、私はただ薄暗い湯船(ゆぶね)の隅で、じゃぶじゃぶお湯をかき回して動いている一人の裸の男にすぎなくなりました。

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とたんに、さっと浪がひいて、私はただ薄暗い湯槽ゆぶねの隅で、じゃぼじゃぼお湯をきまわして動いている一個の裸形の男に過ぎなくなりました。

まったくつまらない気持ちで、湯船から上がり、足の裏の垢(あか)などを落として、銭湯のほかのお客たちの配給の話などに耳を傾けていました。

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まことにつまらない思いで、湯槽からい上って、足の裏のあかなど、落して銭湯の他の客たちの配給の話などに耳を傾けていました。

プーシキンもゴーゴリも(どちらもロシアの有名な作家の名前)、それはまるで外国製の歯ブラシの名前みたいな、味気ないものに思われました。

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プウシキンもゴーゴリも、それはまるで外国製の歯ブラシの名前みたいな、味気ないものに思われました。

銭湯を出て、橋を渡り、家へ帰って黙々とご飯を食い、それから自分の部屋に引き上げて、机の上の百枚近くの原稿をぱらぱらとめくってみて、あまりのばかばかしさにあきれ、うんざりして、破る気力もなく、それ以後の毎日の鼻紙(はながみ)にしてしまいました。

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銭湯を出て、橋を渡り、家へ帰って黙々とめしを食い、それから自分の部屋に引き上げて、机の上の百枚ちかくの原稿をぱらぱらとめくって見て、あまりのばかばかしさにあきれ、うんざりして、破る気力も無く、それ以後の毎日の鼻紙に致しました。

それ以来、私は今日まで、小説らしいものは一行も書きません。

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それ以来、私はきょうまで、小説らしいものは一行も書きません。

おじさんのところに、少しながら蔵書(ぞうしょ)がありますので、ときたま明治・大正の傑作小説集などを借りて読み、感心したりしなかったり、とても不まじめな態度で、吹雪(ふぶき)の夜は早寝というようになり、まったく「精神的(せいしんてき)」

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伯父のところに、わずかながら蔵書がありますので、時たま明治大正の傑作小説集など借りて読み、感心したり、感心しなかったり、甚だふまじめな態度で吹雪の夜は早寝という事になり、まったく「精神的」

でない生活をして、そのうちに、世界美術全集などを見て、以前あんなに好きだったフランスの印象派(いんしょうは)の絵にはさほど感心せず、今回は日本の元禄(げんろく)時代の尾形光琳(おがたこうりん)と尾形乾山(おがたけんざん)という二人の仕事に一番目を見張りました。

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でない生活をして、そのうちに、世界美術全集などを見て、以前あんなに好きだったフランスの印象派の画には、さほど感心せず、このたびは日本の元禄時代の尾形光琳こうりんと尾形乾山けんざんと二人の仕事に一ばん眼をみはりました。

光琳のツツジなどは、セザンヌ、モネ、ゴーギャン(どれも有名な西洋の画家)、誰の絵よりも、すぐれていると思われました。

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光琳の躑躅つつじなどは、セザンヌ、モネー、ゴーギャン、誰の画よりも、すぐれていると思われました。

こうしてまた、だんだん私のいわゆる精神的な生活が、息を吹き返してきたようで、けれどもさすがに自分が光琳・乾山のような有名な芸術家になろうなどという大それた野心を起こすことはなく、まあ田舎のちょっとした芸術好き、そして自分にできる精一杯の仕事は、朝から晩まで郵便局の窓口に座って、他人のお金を数えていること、せいぜいそれくらいのところだが、私のような能力も学もない人間には、そんな生活だって、決して堕落(だらく)の生活ではあるまい。

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こうしてまた、だんだん私の所謂いわゆる精神生活が、息を吹きかえして来たようで、けれどもさすがに自分が光琳、乾山のような名家になろうなどという大それた野心を起す事はなく、まあ片田舎のディレッタント、そうして自分に出来る精一ぱいの仕事は、朝から晩まで郵便局の窓口に坐って、他人の紙幣をかぞえている事、せいぜいそれくらいのところだが、私のような無能無学の人間には、そんな生活だって、あながち堕落の生活ではあるまい。

謙虚(けんきょ)であることに誇りを持つ、ということもあるかもしれない。

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謙譲の王冠というものも、有るかも知れぬ。

平凡な毎日の仕事に一生懸命取り組むことこそ、最も高い精神生活かもしれない。

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平凡な日々の業務に精励するという事こそ最も高尚な精神生活かも知れない。

などと少しずつ自分の日々の暮らしに誇りを持ち始めて、その頃ちょうどお金の切り替えがあり、こんな田舎の小さな郵便局でも、いや、小さい郵便局ほど人手が足りなくてかえってとても忙しかったようで、あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受付だの、旧円の証紙(しょうし)貼りだの、へとへとになっても休むことができず、特に私は、おじさんの家にやっかいになっている身分ですからご恩返しはこの時とばかりに、両手がまるで鉄の手袋でもはめているように重くて、少しも自分の手の感じがしなくなったほどに働きました。

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などと少しずつ自分の日々の暮しにプライドを持ちはじめて、その頃ちょうど円貨の切り換えがあり、こんな片田舎の三等郵便局でも、いやいや、小さい郵便局ほど人手不足でかえって、てんてこ舞いのいそがしさだったようで、あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受附けだの、旧円の証紙張りだの、へとへとになっても休む事が出来ず、殊にも私は、伯父の居候の身分ですから御恩返しはこの時とばかりに、両手がまるで鉄の手袋でもはめているように重くて、少しも自分の手の感じがしなくなったほどに働きました。

そんなに働いて、死んだように眠って、そして翌朝は枕元(まくらもと)の目覚まし時計が鳴ると同時に跳ね起き、すぐ局へ出て大掃除を始めます。

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そんなに働いて、死んだように眠って、そうしてあくる朝は枕元の目ざまし時計の鳴ると同時にはね起き、すぐ局へ出て大掃除をはじめます。

掃除などは、女性の局員がすることになっていたのですが、その円の切り替えの大騒ぎが始まって以来、私の働きぶりに異様な勢いがついて、何でもかでもめちゃくちゃに働きたくなって、昨日より今日、今日より明日とすさまじい速さで、ほとんど半分狂ったように猛烈(もうれつ)に働き続け、いよいよ切り替えの騒ぎも今日でおしまいというその日に、私はやはり薄暗いうちから起きて局の掃除を全力でやって、全部きちんとすませてから私の担当の窓口のところに腰かけて、ちょうど朝日が私の顔にまっすぐにさしてきて、私は寝不足の目を細くして、それでも何だかひどく得意な満足の気持ちで、「労働は神聖なり」という言葉などを思い出し、ほっとため息をついた

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掃除などは、女の局員がする事になっていたのですが、その円貨切り換えの大騒ぎがはじまって以来、私の働き振りに異様なハズミがついて、何でもかでも滅茶苦茶に働きたくなって、きのうよりは今日、きょうよりは明日と物凄ものすごい加速度を以て、ほとんど半狂乱みたいな獅子奮迅ししふんじんをつづけ、いよいよ切り換えの騒ぎも、きょうでおしまいという日に、私はやはり薄暗いうちから起きて局の掃除を大車輪でやって、全部きちんとすましてから私の受持の窓口のところに腰かけて、ちょうど朝日が私の顔にまっすぐにさして来て、私は寝不足の眼を細くして、それでも何だかひどく得意な満足の気持で、労働は神聖なり、という言葉などを思い出し、ほっと溜息ためいきをついた

時に、トカトントンとあの音が遠くからかすかに聞こえたような気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちにばかばかしくなり、私は立って自分の部屋に行き、布団(ふとん)をかぶって寝てしまいました。

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時に、トカトントンとあの音が遠くから幽かに聞えたような気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくなり、私は立って自分の部屋に行き、蒲団ふとんをかぶって寝てしまいました。

ご飯のお知らせが来ても、私は「からだの具合が悪いから、今日は起きない」とぶっきらぼうに言い、その日は局でも一番忙しかったようで、最も優秀な働き手の私に寝込まれて皆は本当に困った様子でしたが、私は一日中うとうと眠っていました。

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ごはんの知らせが来ても、私は、からだ工合が悪いから、きょうは起きない、とぶっきらぼうに言い、その日は局でも一ばんいそがしかったようで、最も優秀な働き手の私に寝込まれて実にみんな困った様子でしたが、私は終日うつらうつら眠っていました。

おじさんへのご恩返しも、こんな私のわがままのために、かえってマイナスになったようでしたが、もはや私には精魂(せいこん)こめて働く気などは少しもなく、翌日には、ひどく朝寝坊をして、そしてぼんやり私の担当の窓口に座り、あくびばかりして、たいていの仕事は隣の女性の局員に任せっきりにしていました。

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伯父への御恩返しも、こんな私の我儘わがままのために、かえってマイナスになったようでしたが、もはや、私には精魂こめて働く気などは少しもなく、その翌る日には、ひどく朝寝坊をして、そうしてぼんやり私の受持の窓口に坐り、あくびばかりして、たいていの仕事は、隣りの女の局員にまかせきりにしていました。

そしてその翌日も、翌々日も、私はとても気力がなく、のろのろしていて不機嫌な、つまり普通の、あの窓口局員になりました。

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そうしてその翌日も、翌々日も、私は甚だ気力の無いのろのろしていて不機嫌な、つまり普通の、あの窓口局員になりました。

「まだお前は、どこかからだの具合が悪いのか」

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「まだお前は、どこか、からだ工合がわるいのか」

とおじさんの局長に聞かれても薄笑いして、

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と伯父の局長に聞かれても薄笑いして、

「どこも悪くない。神経衰弱(しんけいすいじゃく)かもしれん」

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「どこも悪くない。神経衰弱かも知れん」

と答えます。

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と答えます。

「そうだ、そうだ」

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「そうだ、そうだ」

とおじさんは得意そうに、「俺もそう思っていた。お前は頭が悪いくせに、難しい本を読むからそうなる。俺やお前のように、頭の悪い男は、難しいことを考えないようにするのがいいのだ」

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と伯父は得意そうに、「俺もそうにらんでいた。お前は頭が悪いくせに、むずかしい本を読むからそうなる。俺やお前のように、頭の悪い男は、むずかしい事を考えないようにするのがいいのだ」

と言って笑い、私も苦笑(くしょう)しました。

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と言って笑い、私も苦笑しました。

このおじさんは専門学校を出たはずの男ですが、まったくどこにも知識人らしいところがないのです。

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この伯父は専門学校を出たはずの男ですが、さっぱりどこにもインテリらしい面影が無いんです。

そしてそれから、(私の文章には、ずいぶん、「そうしてそれから」が多いでしょう?

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そうしてそれから、(私の文章には、ずいぶん、そうしてそれからが多いでしょう?

 これもやはり頭の悪い男の文章の特徴でしょうか。

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 これもやはり頭の悪い男の文章の特色でしょうかしら。

自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、しかたがありません)そうしてそれから、私は、恋をしはじめたのです。

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自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、泣寝入りです)そうしてそれから、私は、コイをはじめたのです。

笑わないでください。

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お笑いになってはいけません。

いや、笑われたって、どうしようもないんです。

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いや、笑われたって、どう仕様も無いんです。

金魚鉢(きんぎょばち)のメダカが、鉢の底から少し上のところにうかんで、じっと静止して、そしておのずと大きくなっていくように、私も、ぼんやり暮らしながら、いつとはなしに、どうやら、はずかしい恋をしはじめていたのでした。

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金魚鉢のメダカが、鉢の底から二寸くらいの個所にうかんで、じっと静止して、そうしておのずから身ごもっているように、私も、ぼんやり暮しながら、いつとはなしに、どうやら、ずかしい恋をはじめていたのでした。

恋をしはじめると、とても音楽が心にしみてきますね。

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恋をはじめると、とても音楽が身にしみて来ますね。

あれが恋のやまいの一番たしかなしるしだと思います。

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あれがコイのヤマイの一ばんたしかな兆候だと思います。

片思いなんです。

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片恋なんです。

でも私は、その女の人が好きで好きでたまらないんです。

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でも私は、その女のひとを好きで好きで仕方が無いんです。

その人は、この海岸の村にたった一軒しかない小さい旅館の、女中(じょちゅう)さんなのです。

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そのひとは、この海岸の部落にたった一軒しかない小さい旅館の、女中さんなのです。

まだ、二十歳(はたち)にならないようです。

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まだ、はたち前のようです。

おじさんの局長は酒飲みですから、何か村の宴会(えんかい)が、その旅館の奥の部屋で開かれたりするたびごとに、きっと欠かさず出かけますので、おじさんとその女中さんとはお互いに気さくな様子で、女中さんが貯金だの保険だのの用事で郵便局の窓口に現れると、おじさんは必ず、おかしくもないつまらない冗談(じょうだん)を言ってその女中さんをからかうのです。

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伯父の局長は酒飲みですから、何か部落の宴会が、その旅館の奥座敷でひらかれたりするたびごとに、きっと欠かさず出かけますので、伯父とその女中さんとはお互い心易い様子で、女中さんが貯金だの保険だのの用事で郵便局の窓口の向う側にあらわれると、伯父はかならず、可笑おかしくもない陳腐な冗談を言ってその女中さんをからかうのです。

「このごろはお前も景気がいいと見えて、なかなか貯金にも精が出るのう。感心感心。いい旦那(だんな)でもついたかな?」

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「このごろはお前も景気がいいと見えて、なかなか貯金にも精が出るのう。感心かんしん。いい旦那でも、ついたかな?」

「つまらない」

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「つまらない」

と言います。

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と言います。

そして、じっさい、つまらなそうな顔をして言います。

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そうして、じっさい、つまらなそうな顔をして言います。

ヴァン・ダイク(ヨーロッパの有名な画家)の絵の、女性の顔ではなく、貴公子(きこうし)の顔に似た顔をしています。

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ヴァン・ダイクの画の、女の顔でなく、貴公子の顔に似た顔をしています。

時田花江(ときたはなえ)という名前です。

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時田花江という名前です。

貯金帳にそう書いてあるんです。

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貯金帳にそう書いてあるんです。

以前は、宮城県(みやぎけん)にいたようで、貯金帳の住所欄には、以前の宮城県の住所も書かれていて、赤線で消されて、その隣にここの新しい住所が書き込まれています。

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以前は、宮城県にいたようで、貯金帳の住所欄には、以前のその宮城県の住所も書かれていて、そうして赤線で消されて、その傍にここの新しい住所が書き込まれています。

女性の局員たちのうわさでは、なんでも、宮城県のほうで戦争の被害(ひがい)に遭って、終戦直前に、この村へひょっこりやってきた女性で、あの旅館のおかみさんの遠い親戚だとか、そして行いがよくないようで、まだ若いのに、なかなかのやり手(できる人)だとかいうことでしたが、疎開(そかい)してきた人で、その土地の者たちの評判のいい人なんて、一人もいません。

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女の局員たちのうわさでは、なんでも、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏直前に、この部落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、そうして身持ちがよろしくないようで、まだ子供のくせに、なかなかの凄腕すごうでだとかいう事でしたが、疎開して来たひとで、その土地の者たちの評判のいいひとなんて、ひとりもありません。

私はそんな、やり手などということは少しも信じませんでしたが、しかし、花江さんの貯金も決して少ないものではありませんでした。

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私はそんな、凄腕などという事は少しも信じませんでしたが、しかし、花江さんの貯金も決して乏しいものではありませんでした。

郵便局の局員が、こんなことを公表してはいけないことになっているのですけど、とにかく花江さんは、局長にからかわれながらも、一週間に一度くらいは二百円か三百円の新しいお金を貯金しに来て、合計がどんどん増えているんです。

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郵便局の局員が、こんな事を公表してはいけない事になっているのですけど、とにかく花江さんは、局長にからかわれながらも、一週間にいちどくらいは二百円か三百円の新円を貯金しに来て、総額がぐんぐん殖えているんです。

まさか、いい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に二百円とか三百円とかのスタンプを押すたびに、なんだか胸がどきどきして顔が赤くなるのです。

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まさか、いい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に弐百円とか参百円とかのハンコを押すたんびに、なんだか胸がどきどきして顔があからむのです。

そして次第に私は苦しくなりました。

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そうして次第に私は苦しくなりました。

花江さんは決してやり手なんかじゃないんだけれども、しかし、この村の人たちはみんな花江さんを狙って、お金なんかをやって、そして花江さんをだめにしてしまうのではないだろうか。

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花江さんは決して凄腕なんかじゃないんだけれども、しかし、この部落の人たちはみんな花江さんをねらって、お金なんかをやって、そうして、花江さんをダメにしてしまうのではなかろうか。

きっとそうだ、と思うと、ぎょっとして夜中に布団からむっくり起き上がったことさえありました。

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きっとそうだ、と思うと、ぎょっとして夜中に床からむっくり起き上った事さえありました。

けれども花江さんは、やっぱり一週間に一度くらいの割で、平気でお金を持ってきます。

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けれども花江さんは、やっぱり一週間にいちどくらいの割で、平気でお金を持って来ます。

いまはもう、胸がどきどきして顔が赤くなるどころか、あんまり苦しくて顔が青くなり額に脂汗(あぶらあせ)のにじみ出るような気持ちで、花江さんがすまして差し出す証紙(しょうし)を貼った汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、突然全部引き裂いてしまいたい衝動(しょうどう)に襲われたことが何度あったかわかりません。

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いまはもう、胸がどきどきして顔が赤らむどころか、あんまり苦しくて顔があおくなり額に油汗のにじみ出るような気持で、花江さんの取り澄まして差出す証紙をった汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、矢庭に全部ひき裂いてしまいたい発作に襲われた事が何度あったか知れません。

そして私は、花江さんに一言(ひとこと)言ってやりたかった。

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そうして私は、花江さんに一こと言ってやりたかった。

あの、泉鏡花(いずみきょうか)の小説に出てくる有名なせりふ、「死んでも、ひとのおもちゃになるな!」

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あの、れいの鏡花の小説に出て来る有名な、せりふ、「死んでも、ひとのおもちゃになるな!」

と、気取りも気取り、それに私のような不器用(ぶきよう)な田舎者には、とても言い出せないせりふですが、でも私は大まじめに、その一言を言ってやりたくてたまらなかったんです。

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と、キザもキザ、それに私のような野暮な田舎者には、とても言い出し得ない台詞せりふですが、でも私は大まじめに、その一言を言ってやりたくて仕方が無かったんです。

死んでも、ひとのおもちゃになるな、物があなんだ、お金がなんだ、と。

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死んでも、ひとのおもちゃになるな、物質がなんだ、金銭がなんだ、と。

思えば思われるということは、やっぱりあるものでしょうか。

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思えば思われるという事は、やっぱり有るものでしょうか。

あれは五月の、中ごろ過ぎの頃でした。

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あれは五月の、なかば過ぎの頃でした。

花江さんは、いつものように、すまして局の窓口の向こう側に現れ、「どうぞ」と言ってお金と通帳を私に差し出します。

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花江さんは、れいの如く、澄まして局の窓口の向う側にあらわれ、どうぞと言ってお金と通帳を私に差出します。

私はため息をついてそれを受け取り、悲しい気持ちで汚い紙幣を一枚二枚と数えます。

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私は溜息をついてそれを受取り、悲しい気持で汚い紙幣を一枚二枚とかぞえます。

そして通帳に金額を書き入れて、黙って花江さんに返してやります。

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そうして通帳に金額を記入して、黙って花江さんに返してやります。

「五時ごろ、おひまですか?」

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「五時頃、おひまですか?」

私は、自分の耳を疑いました。

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私は、自分の耳を疑いました。

春の風に気のせいを起こしているのではないかと思いました。

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春の風にたぶらかされているのではないかと思いました。

それほど低くて素早い言葉でした。

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それほど低く素早い言葉でした。

「おひまでしたら、橋にいらして」

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「おひまでしたら、橋にいらして」

そう言って、かすかに笑い、すぐにまたすまして花江さんは立ち去りました。

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そう言って、かすかに笑い、すぐにまた澄まして花江さんは立ち去りました。

私は時計を見ました。

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私は時計を見ました。

二時少し過ぎでした。

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二時すこし過ぎでした。

それから五時まで、だらしない話ですが、私は何をしていたか、今どうしても思い出すことができないのです。

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それから五時まで、だらしない話ですが、私は何をしていたか、いまどうしても思い出す事が出来ないのです。

きっと、何やら深刻な顔をして、うろうろして、突然となりの女性の局員に、「今日はいいお天気だ」なんて曇っている日なのに大声で言って、相手が驚くと、ぎろりとにらんでやって、立ち上がってトイレに行ったり、まるでばかみたいになっていたのでしょう。

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きっと、何やら深刻な顔をして、うろうろして、突然となりの女の局員に、きょうはいいお天気だ、なんて曇っている日なのに、大声で言って、相手がおどろくと、ぎょろりとにらんでやって、立ち上って便所へ行ったり、まるで阿呆みたいになっていたのでしょう。

五時の七、八分前に私は、家を出ました。

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五時、七、八分まえに私は、家を出ました。

途中、自分の両手の指の爪(つめ)が伸びているのを発見して、それがなぜだか、実に泣きたいくらい気になったのを、今でも覚えています。

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途中、自分の両手の指の爪がのびているのを発見して、それがなぜだか、実に泣きたいくらい気になったのを、いまでも覚えています。

橋のたもとに、花江さんが立っていました。

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橋のたもとに、花江さんが立っていました。

スカートが短すぎるように思われました。

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スカートが短かすぎるように思われました。

長い素足(すあし)をちらと見て、私は目を伏せました。

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長いはだかの脚をちらと見て、私は眼を伏せました。

「海のほうへ行きましょう」

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「海のほうへ行きましょう」

花江さんは、落ち着いてそう言いました。

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花江さんは、落ちついてそう言いました。

花江さんが先に、それから五、六歩離れて私が、ゆっくり海のほうへ歩いて行きました。

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花江さんがさきに、それから五、六歩はなれて私が、ゆっくり海のほうへ歩いて行きました。

そして、それくらい離れて歩いているのに、二人の歩調(ほちょう)が、いつのまにか、ぴったり合ってしまって、困りました。

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そうして、それくらい離れて歩いているのに、二人の歩調が、いつのまにか、ぴったり合ってしまって、困りました。

曇り空で、少し風があって、海岸には砂ぼこりが立っていました。

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曇天で、風が少しあって、海岸には砂ほこりが立っていました。

「ここが、いいわ」

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「ここが、いいわ」

岸に上がっている大きい漁船(ぎょせん)と漁船のあいだに花江さんははいって行って、そして砂地に腰をおろしました。

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岸にあがっている大きい漁船と漁船のあいだに花江さんは、はいって行って、そうして砂地に腰をおろしました。

「いらっしゃい。座ると風が当たらなくて、あたたかいわ」

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「いらっしゃい。坐ると風が当らなくて、あたたかいわ」

私は花江さんが両足を前に投げ出して座っているところから、二メートルくらい離れたところに腰をおろしました。

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私は花江さんが両脚を前に投げ出して坐っている個所から、二メートルくらい離れたところに腰をおろしました。

「呼び出したりして、ごめんなさいね。でも、あたし、あなたに一言言わずにはいられないのよ。あたしの貯金のこと、ね、変に思っていらっしゃるんでしょう?」

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「呼び出したりして、ごめんなさいね。でも、あたし、あなたに一こと言わずには居られないのよ。あたしの貯金の事、ね、へんに思っていらっしゃるんでしょう?」

私も、ここだと思い、しゃがれた声で答えました。

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私も、ここだと思い、しゃがれた声で答えました。

「変に、思っています。」

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「へんに、思っています。」

「そう思うのが当然ね」

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「そう思うのが当然ね」

と言って花江さんは、うつむき、素足に砂をすくって振りかけながら、「あれはね、あたしのお金じゃないのよ。あたしのお金だったら、貯金なんかしやしないわ。いちいち貯金なんて、めんどうくさい」

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と言って花江さんは、うつむき、はだかの脚に砂をすくって振りかけながら、「あれはね、あたしのお金じゃないのよ。あたしのお金だったら、貯金なんかしやしないわ。いちいち貯金なんて、めんどうくさい」

なるほどと思い、私は黙ってうなずきました。

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成る程と思い、私は黙ってうなずきました。

「そうでしょう? あの通帳はね、おかみさんのものなのよ。でも、それは絶対に秘密よ。あなた、誰にも言っちゃだめよ。おかみさんがなぜそんなことをするのか、あたしには、ぼんやりわかっているんだけど、でも、それはとても複雑したことなんですから、言いたくないわ。つらいのよ、あたしは。信じてくださる?」

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「そうでしょう? あの通帳はね、おかみさんのものなのよ。でも、それは絶対に秘密よ。あなた、誰にも言っちゃだめよ。おかみさんが、なぜそんな事をするのか、あたしには、ぼんやりわかっているんだけど、でも、それはとても複雑している事なんですから、言いたくないわ。つらいのよ、あたしは。信じて下さる?」

少し笑って花江さんの目が妙に光ってきたと思ったら、それは涙でした。

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すこし笑って花江さんの眼が妙に光って来たと思ったら、それは涙でした。

私は花江さんにキスしてあげたくて、たまりませんでした。

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私は花江さんにキスしてやりたくて、仕様がありませんでした。

花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。

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花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。

「この辺の人たちは、みんな駄目ねえ。あたし、あなたに、誤解されてやしないかと思って、あなたに一言言いたくって、それで今日ね、思い切って」

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「この辺のひとたちは、みんな駄目ねえ。あたし、あなたに、誤解されてやしないかと思って、あなたに一こと言いたくって、それできょうね、思い切って」

その時、実際、近くの小屋から、トカトントンという釘を打つ音が聞こえたのです。

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その時、実際ちかくの小屋から、トカトントンという釘打つ音が聞えたのです。

この時の音は、私の幻聴(げんちょう・実際には聞こえていない音が聞こえること)ではなかったのです。

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この時の音は、私の幻聴ではなかったのです。

海岸の佐々木(ささき)さんの納屋(なや・物置小屋)で、実際に音高く釘を打ちはじめたのです。

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海岸の佐々木さんの納屋なやで、事実、音高く釘を打ちはじめたのです。

トカトントン、トントントカトン、とさかんに打ちます。

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トカトントン、トントントカトン、とさかんに打ちます。

私は、身震い(みぶるい)して立ち上がりました。

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私は、身ぶるいして立ち上りました。

「わかりました。誰にも言いません。」

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「わかりました。誰にも言いません。」

花江さんのすぐ後ろに、かなりたくさんの犬のふんがあるのをその時見つけて、よっぽどそれを花江さんに注意してやろうかと思いました。

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花江さんのすぐうしろに、かなり多量の犬のふんがあるのをそのとき見つけて、よっぽどそれを花江さんに注意してやろうかと思いました。

波は、だるそうにうねって、汚い帆(ほ)をかけた船が、岸のすぐ近くをよろよろと通っていきます。

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波は、だるそうにうねって、きたない帆をかけた船が、岸のすぐ近くをよろよろと、とおって行きます。

「それじゃ、失礼」

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「それじゃ、失敬」

からっぽで、何もない気分でした。

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空々漠々たるものでした。

貯金がどうだって、俺の知ったことか。

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貯金がどうだって、俺の知った事か。

もともと他人なんだ。

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もともと他人なんだ。

ひとのおもちゃになったって、どうなったって、少しも俺には関係したことじゃない。

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ひとのおもちゃになったって、どうなったって、ちっともそれは俺に関係した事じゃない。

ばかばかしい。

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ばかばかしい。

腹がへった。

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腹がへった。

それからも、花江さんは相変わらず、一週間か十日おきくらいに、お金を持ってきて貯金して、今ではもう何千円かの額になっていますが、私には少しも興味がありません。

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それからも、花江さんは相変らず、一週間か十日目くらいに、お金を持って来て貯金して、もういまでは何千円かの額になっていますが、私には少しも興味がありません。

花江さんの言ったように、それはおかみさんのお金なのか、それとも、やっぱり花江さんのお金なのか、どちらにしたって、それは全く私には関係のないことですもの。

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花江さんの言ったように、それはおかみさんのお金なのか、または、やっぱり花江さんのお金なのか、どっちにしたって、それは全く私には関係の無い事ですもの。

そして、いったいこれは、どちらが失恋(しつれん)したということになるのかといえば、私には、どうしても、失恋したのは私のほうだという気がしているのですけれども、しかし、失恋して別段悲しい気もしませんから、これはよほど変わった失恋の仕方だと思っています。

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そうして、いったいこれは、どちらが失恋したという事になるのかと言えば、私には、どうしても、失恋したのは私のほうだというような気がしているのですけれども、しかし、失恋して別段かなしい気も致しませんから、これはよっぽど変った失恋の仕方だと思っています。

そして私は、またもや、ぼんやりした普通の局員になったのです。

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そうして私は、またもや、ぼんやりした普通の局員になったのです。

六月に入ってから、私は用事があって青森へ行き、偶然、労働者のデモ(抗議の行進)を見ました。

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六月にはいってから、私は用事があって青森へ行き、偶然、労働者のデモを見ました。

それまでの私は、社会運動や政治運動というようなものには、あまり興味がない、というよりは、絶望に似たものを感じていたのです。

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それまでの私は社会運動または政治運動というようなものには、あまり興味が無い、というよりは、絶望に似たものを感じていたのです。

誰がやったって、同じようなものなんだ。

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誰がやったって、同じ様なものなんだ。

また自分が、どのような運動に参加したって、結局はその指導者たちの、名誉欲(めいよよく)か権力欲(けんりょくよく)に乗っかった船の、犠牲(ぎせい)になるだけのことだ。

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また自分が、どのような運動に参加したって、所詮しょせんはその指導者たちの、名誉慾か権勢慾の乗りかかった船の、犠牲になるだけの事だ。

何の疑いもなく堂々と自分の意見を述べ、「俺の言うことに従えば必ずやお前自身もお前の家庭も、お前の村も、お前の国も、いや全世界が救われるだろう」と大見得(おおみえ)を切って、救われないのはお前たちが俺の言うことに従わないからだとうそぶき、そしてある花街(はなまち)の女性に振られ続けて、やけになって公の場での売春廃止(ばいしゅんはいし)を叫び、怒って仲間の男を殴り、暴れて、煙たがられて、たまたま勲章(くんしょう)をもらい、得意満面で自分の家に駆け込み、「かあちゃん、これだ」と勲章の小箱をそっと開けて女房に見せると、女房は冷たく、「あら、勲五等(くんごとう)じゃないの、せめて勲二等くらいでなくてはね」と言い、亭主がっかり、などという何が何やらまるで半分おかしい

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何の疑うところも無く堂々と所信を述べ、わが言に従えば必ずやなんじ自身ならびに汝の家庭、汝の村、汝の国、否全世界が救われるであろうと、大見得を切って、救われないのは汝等がわが言に従わないからだとうそぶき、そうして一人のおいらんに、振られて振られて振られとおして、やけになって公娼こうしょう廃止を叫び、憤然として美男の同志を殴り、あばれて、うるさがられて、たまたま勲章をもらい、沖天ちゅうてんの意気を以てわが家に駈け込み、かあちゃんこれだ、と得意満面、その勲章の小箱をそっとあけて女房に見せると、女房は冷たく、あら、勲五等じゃないの、せめて勲二等くらいでなくちゃねえ、と言い、亭主がっかり、などという何が何やらまるで半気狂きちがいのよ

ような男が、その政治運動だの社会運動だのに夢中になっているものとばかり思い込んでいたのです。

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うな男が、その政治運動だの社会運動だのに没頭しているものとばかり思い込んでいたのです。

それですから、今年の四月の選挙も、民主主義とか何とか言って騒ぎ立てても、私には一向にその人たちを信用する気が起らず、自由党、進歩党は相変わらずの古くさい人たちばかりのようでまるで問題にならず、また社会党、共産党は、やたら調子づいて騒いでいるけれども、これはまた敗戦(はいせん)に乗じているとでもいうのでしょうか、無条件降伏のあとにわいたばい菌(きん)のような汚い印象を消すことができず、四月十日の投票日にも私は、おじさんの局長から自由党の加藤さんに入れるようにと言われていたのですが、「はいはい」と言って家を出て海岸を散歩して、それだけで帰宅しました。

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それですから、ことしの四月の総選挙も、民主主義とか何とか言って騒ぎ立てても、私には一向にその人たちを信用する気が起らず、自由党、進歩党は相変らずの古くさい人たちばかりのようでまるで問題にならず、また社会党、共産党は、いやに調子づいてはしゃいでいるけれども、これはまた敗戦便乗とでもいうのでしょうか、無条件降伏のしかばねにわいた蛆虫うじむしのような不潔な印象を消す事が出来ず、四月十日の投票日にも私は、伯父の局長から自由党の加藤さんに入れるようにと言われていたのですが、はいはいと言って家を出て海岸を散歩して、それだけで帰宅しました。

社会問題や政治問題についてどれだけ言い立てても、私たちの日々の暮らしの憂鬱(ゆううつ)は解決されるものではないと思っていたのですが、しかし、私はあの日、青森で偶然、労働者のデモを見て、私の今までの考えは全部間違っていたことに気がつきました。

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社会問題や政治問題に就いてどれだけ言い立てても、私たちの日々の暮しの憂鬱は解決されるものではないと思っていたのですが、しかし、私はあの日、青森で偶然、労働者のデモを見て、私の今までの考えは全部間違っていた事に気がつきました。

「生き生きとして元気いっぱい」とでも言ったらいいのでしょうか。

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生々溌剌せいせいはつらつ、とでも言ったらいいのでしょうか。

なんとまあ、楽しそうな行進なのでしょう。

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なんとまあ、楽しそうな行進なのでしょう。

憂鬱の影も、ひくつな感じも、私は一つも見出すことができませんでした。

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憂鬱の影も卑屈のしわも、私は一つも見出す事が出来ませんでした。

伸びていく活力(かつりょく)だけです。

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伸びて行く活力だけです。

若い女性たちも、手に旗を持って労働歌(ろうどうか)を歌い、私は胸がいっぱいになり、涙が出ました。

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若い女のひとたちも、手に旗を持って労働歌を歌い、私は胸が一ぱいになり、涙が出ました。

ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだと思いました。

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ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだと思いました。

生まれてはじめて、本当の自由というものの姿を見た、と思いました。

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生れてはじめて、真の自由というものの姿を見た、と思いました。

もしこれが、政治運動や社会運動から生まれた子だとしたなら、人間はまず政治についての考え方、社会についての考え方こそ第一に学ぶべきだと思いました。

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もしこれが、政治運動や社会運動から生れた子だとしたなら、人間はまず政治思想、社会思想をこそ第一に学ぶべきだと思いました。

なおも行進を見ているうちに、自分の進むべき一筋の光の道がいよいよ間違いなくはっきりわかったような大きな喜びの気分になり、涙が気持ちよく頬(ほお)を流れて、そして水にもぐって目をひらいてみた時のように、あたりの風景がぼんやり緑色にかすんで、そしてその薄明かりの中をゆらゆら動いている中に、真っ赤な旗が燃えている様子を、ああその色を、私はめそめそ泣きながら、死んでも忘れまいと思ったら、トカトントンと遠くかすかに聞こえて、もうそれっきりになりました。

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なおも行進を見ているうちに、自分の行くべき一条の光りの路がいよいよ間違い無しに触知せられたような大歓喜の気分になり、涙が気持よく頬を流れて、そうして水にもぐって眼をひらいてみた時のように、あたりの風景がぼんやり緑色にけむって、そうしてその薄明の漾々ようようと動いている中を、真紅の旗が燃えている有様を、ああその色を、私はめそめそ泣きながら、死んでも忘れまいと思ったら、トカトントンと遠く幽かに聞えて、もうそれっきりになりました。

いったい、あの音はなんでしょう。

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いったい、あの音はなんでしょう。

「虚無(きょむ・何もない、むなしい気持ち)」などと簡単に片づけられそうもないんです。

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虚無ニヒルなどと簡単に片づけられそうもないんです。

あのトカトントンの幻聴は、虚無(むなしさ)をさえ打ち壊してしまうのです。

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あのトカトントンの幻聴は、虚無ニヒルをさえ打ちこわしてしまうのです。

夏になると、この地方の若者たちの間で、急にスポーツ熱が盛んになりました。

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夏になると、この地方の青年たちの間で、にわかにスポーツ熱がさかんになりました。

私には少し、年寄りっぽい実利(じつり)を重んじる傾向(けいこう)もあるのでしょうか、何の意味もなく裸になって相撲(すもう)をとり、投げられて大けがをしたり、顔つきを変えて走って誰よりも誰が早いとか、どうせ百メートル二十秒ほどのレベルでどんぐりの背比べなのに、ばかばかしい、というような気がして、若者たちのそんなスポーツに参加しようと思ったことは一度もなかったのです。

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私には多少、年寄りくさい実利主義的な傾向もあるのでしょうか、何の意味も無くまっぱだかになって角力すもうをとり、投げられて大怪我をしたり、顔つきをかえて走って誰よりも誰が早いとか、どうせ百メートル二十秒の組でどんぐりの背ならべなのに、ばかばかしい、というような気がして、青年たちのそんなスポーツに参加しようと思った事はいちども無かったのです。

けれども、今年の八月に、この海岸線の各村を縫って走り切る駅伝(えきでん)競走というものがあって、この郡(ぐん)の若者たちが大勢参加し、このAの郵便局も、その競争の中継所ということになり、青森を出発した選手が、ここで次の選手と交代になるのだそうで、午前十時少し過ぎ、そろそろ青森を出発した選手たちがここへ到着する頃だというので、局の者たちは皆、外へ見物に出て、私と局長だけ局に残って簡易保険(かんいほけん)の整理をしていましたが、やがて、「来た、来た」というどよめきが聞こえ、私は立って窓から見ていましたら、それがいわゆるラストスパートというものなのでしょう、両手の指の間をカエルの手のように広げ、空気を掻き分けて進むというような奇妙な

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けれども、ことしの八月に、この海岸線の各部落を縫って走破する駅伝競走というものがあって、この郡の青年たちが大勢参加し、このAの郵便局も、その競争の中継所という事になり、青森を出発した選手が、ここで次の選手と交代になるのだそうで、午前十時少し過ぎ、そろそろ青森を出発した選手たちがここへ到着する頃だというので、局の者たちは皆、外へ見物に出て、私と局長だけ局に残って簡易保険の整理をしていましたが、やがて、来た、来た、というどよめきが聞え、私は立って窓から見ていましたら、それがすなわちラストヘビーというもののつもりなのでしょう、両手の指のまたかえるの手のようにひろげ、空気を掻き分けて進むというような奇妙な

腕の振り方で、そしてほぼ裸でパンツ一つ、もちろん裸足(はだし)で、大きい胸を高く突き上げ、苦しそうな表情で首をそらして左右に動かし、よたよたと走って局の前まで来て、「ううん」と一声うなって倒れ、

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腕の振り工合で、そうしてまっぱだかにパンツ一つ、もちろん裸足はだしで、大きい胸を高く突き上げ、苦悶くもんの表情よろしく首をそらして左右にうごかし、よたよたよたと走って局の前まで来て、ううんと一声うなって倒れ、

「よし! 頑張ったぞ!」

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「ようし! 頑張ったぞ!」

と付き添いの者が叫んで、それを抱き上げ、私が見ている窓の下に連れてきて、用意の手桶(ておけ)の水を、ざぶりとその選手にぶっかけ、選手はほとんど半死半生の危険な状態のようにも見え、顔は真っ青でぐったりとなって寝ている、その姿を眺めて私は、実に異様な感動に襲われたのです。

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と附添の者が叫んで、それを抱き上げ、私の見ている窓の下に連れて来て、用意の手桶ておけの水を、ざぶりとその選手にぶっかけ、選手はほとんど半死半生の危険な状態のようにも見え、顔は真蒼まっさおでぐたりとなって寝ている、その姿を眺めて私は、実に異様な感激に襲われたのです。

「いじらしい」などと二十六歳の私が言うのも思い上っているようですが、「かわいそうなくらい一生懸命だ」と言えばいいか、とにかく、力を使い果たすことがここまでくると、見事なものだと思いました。

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可憐かれん、などと二十六歳の私が言うのも思い上っているようですが、いじらしさ、と言えばいいか、とにかく、力の浪費もここまで来ると、見事なものだと思いました。

この人たちが一等をとっても二等をとっても、世間はそれにほとんど興味を感じないのに、それでも命がけで、ラストスパートなんかやっているのです。

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このひとたちが、一等をとったって二等をとったって、世間はそれにほとんど興味を感じないのに、それでも生命いのち懸けで、ラストヘビーなんかやっているのです。

別に、この駅伝競走によって、いわゆる文化的な国を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何もないのに、それでも見栄(みえ)から、そんな理想を口にして走って、世間の人たちにほめられようなどとも思っていないでしょう。

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別に、この駅伝競争に依って、所謂文化国家を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何も無いのに、それでも、おていさいから、そんな理想を口にして走って、以て世間の人たちにほめられようなどとも思っていないでしょう。

また、将来大マラソン選手になろうという野心(やしん)もなく、どうせ田舎の駆けっこで、タイムも何も問題にならないことはよく知っているでしょうし、家へ帰っても、その家族の者たちに自慢話などする気もなく、かえってお父さんに叱られはしないかと心配して、けれども、それでも走りたいのです。

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また、将来大マラソン家になろうという野心も無く、どうせ田舎の駈けっくらで、タイムも何も問題にならん事は、よく知っているでしょうし、家へ帰っても、その家族の者たちに手柄話などする気もなく、かえってお父さんに叱られはせぬかと心配して、けれども、それでも走りたいのです。

命がけで、やってみたいのです。

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いのちがけで、やってみたいのです。

誰にほめられなくてもいいんです。

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誰にほめられなくてもいいんです。

ただ、走ってみたいのです。

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ただ、走ってみたいのです。

見返りのない行いです。

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無報酬の行為です。

小さな子どもの危ない木登りには、まだ柿の実を取って食べようという欲がありましたが、この命がけのマラソンには、それさえありません。

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幼児の危い木登りには、まだ柿の実を取って食おうという慾がありましたが、このいのちがけのマラソンには、それさえありません。

ほとんど、何も求めない情熱(じょうねつ)だと思いました。

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ほとんど虚無の情熱だと思いました。

それが、その時の私の空っぽな気分にぴったり合ってしまったのです。

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それが、その時の私の空虚な気分にぴったり合ってしまったのです。

私は局員たちを相手にキャッチボールを始めました。

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私は局員たちを相手にキャッチボールをはじめました。

へとへとになるまで続けると、何か生まれ変わったような、さわやかさが感じられ、「これだ」と思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞こえるのです。

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へとへとになるまで続けると、何か脱皮に似たさわやかさが感ぜられ、これだと思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞えるのです。

あのトカトントンの音は、何も求めない情熱をさえ打ち倒します。

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あのトカトントンの音は、虚無の情熱をさえ打ち倒します。

もう、この頃では、あのトカトントンが、ますます頻繁(ひんぱん)に聞こえ、新聞を広げて、新しい憲法(けんぽう)を一条ずつ丁寧に読もうとすると、トカトントン、局の人事についておじさんから相談を持ちかけられ、いい案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、この間この村に火事があって起きて火事場に駆けつけようとして、トカトントン、おじさんの相手で、晩ご飯の時にお酒を飲んで、もう少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気がおかしくなってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺(じさつ)を考え、トカトントン。

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もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。

「人生(じんせい)というのは、一言で言ったら、なんですか」

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「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」

と私は昨夜、おじさんの晩酌(ばんしゃく)の相手をしながら、冗談めかした口調でたずねてみました。

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と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。

「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と欲(いろとよく)さ」

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「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」

案外の名答(めいとう)だと思いました。

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案外の名答だと思いました。

そして、ふっと私は、闇屋(やみや・闇市でものを売る人)になろうかしらと思いました。

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そうして、ふっと私は、闇屋やみやになろうかしらと思いました。

しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞こえてきました。

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しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました、

教えてください。

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教えて下さい。

この音は、なんでしょう。

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この音は、なんでしょう。

そして、この音から逃れるには、どうしたらいいのでしょう。

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そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。

私はいま、実際、この音のために身動きができなくなっています。

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私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。

どうか、お返事をください。

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どうか、ご返事を下さい。

なお最後にもう一言付け加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かないうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞こえてきていたのです。

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なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞えて来ていたのです。

こんな手紙を書く、つまらなさ。

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こんな手紙を書く、つまらなさ。

それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。

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それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。

そして、あんまりつまらないから、やけになって、うそばっかり書いたような気がします。

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そうして、あんまりつまらないから、やけになって、ウソばっかり書いたような気がします。

花江さんなんて女性もいないし、デモを見たのじゃないんです。

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花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじゃないんです。

その他のことも、たいがいうそのようです。

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その他の事も、たいがいウソのようです。

しかし、トカトントンだけは、うそでないようです。

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しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。

読み返さず、このままお送りします。

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読みかえさず、このままお送り致します。

敬具(けいぐ)。

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敬具。

この不思議な手紙を受け取ったある作家は、残念ながら学も思想もない男であったが、次のような返事を与えた。

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この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。

拝復(はいふく)。

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拝復。

気取った苦悩(くのう)ですね。

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気取った苦悩ですね。

僕は、あまり同情(どうじょう)してはいないんですよ。

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僕は、あまり同情してはいないんですよ。

十人が十人みんな指さすような、どんな言い訳も通じない恥ずかしい姿を、君はまだ避けているようですね。

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十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。

本当の思想(しそう)は、賢さよりも勇気(ゆうき)を必要とするものです。

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真の思想は、叡智えいちよりも勇気を必要とするものです。

マタイによる福音書(ふくいんしょ)十章二十八節、「からだを殺しても、たましいを殺せない者どもを恐れるな。からだもたましいも、地獄(じごく)で滅ぼすことができるお方を恐れよ」

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マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂たましいをころし得ぬ者どもをおそるな、身と霊魂たましいとをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」

この場合の「恐れる(おそれる)」

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この場合の「懼る」

は、「敬い畏(うやまいおそ)れる」

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は、「畏敬いけい

という意味に近いようです。

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の意にちかいようです。

このイエスの言葉に、雷(かみなり)のような強い衝撃(しょうげき)を感じることができたら、君の幻聴は止まるはずです。

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このイエスの言に、霹靂へきれきを感ずる事が出来たら、君の幻聴は止むはずです。

不尽(ふじん・書きたいことはたくさんありますが、ここで筆をおきます)。

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不尽ふじん