悟浄出世 小学生向け
中島敦(なかじまあつし)・1968年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
セミが鳴き、大きな火の星が西へ流れる秋のはじめのこと、三蔵(さんぞう)法師は二人の弟子に連れられ、険しい道を急いで進んでいた。すると、目の前に一本の大きな川が現れた。
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寒蝉敗柳に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵は二人の弟子にいざなわれ嶮難を凌ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。
大波がどんどんわき上がり、川の広さはどこまでも続いていて、果てが見えなかった。
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大波湧返りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。
岸に上がって見渡すと、そばに一つの石のはしらが立っていた。
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岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。
上には「流沙河(りゅうさが)」の三文字が彫り込まれ、表には四行の小さな文字があった。
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上に流沙河の三字を篆字にて彫付け、表に四行の小楷字あり。
八百里の流沙(りゅうさ)の世界
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八百流沙界
三千丈の弱水(じゃくすい)は深い
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三千弱水深
ガチョウの羽も浮かばず
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鵞毛飄不起
葦の花びらも底に沈む
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蘆花定底沈
――西遊記(さいゆうき)――
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――西遊記――
一
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一
そのころ、流沙河の川底に住んでいた化け物は全部で約一万三千体いたが、そのなかで、彼ほど気の弱いものはいなかった。
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そのころ流沙河の河底に栖んでおった妖怪の総数およそ一万三千、なかで、渠ばかり心弱きはなかった。
彼の話によると、自分はこれまでに九人のお坊さんを食べてしまったせいで、その九人のしゃれこうべ(骸顱)が自分の首のまわりについて離れないというのだが、他の化け物たちには誰にもそんなしゃれこうべは見えなかった。
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渠に言わせると、自分は今までに九人の僧侶を啖った罰で、それら九人の骸顱が自分の頸の周囲について離れないのだそうだが、他の妖怪らには誰にもそんな骸顱は見えなかった。
「見えないよ。それはお前の気のせいだ」
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「見えない。それは儞の気の迷いだ」
と言われると、彼は信じられないような目でみんなを見返し、それからどうして自分はこんなにみんなと違うんだろうという、悲しそうな顔になってしまうのだった。
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と言うと、渠は信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。
他の化け物たちはお互いに言い合った。
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他の妖怪らは互いに言合うた。
「あいつは、お坊さんどころか、ろくに人間さえ食べたことがないだろう。誰もそれを見た者がいないんだから。鮒(ふな)や小魚を取って食べているのなら見たこともあるけど」
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「渠は、僧侶どころか、ろくに人間さえ咋ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。鮒やざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」
と。
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と。
また彼らは彼にあだ名をつけて、「独言悟浄(どくげんごじょう)」と呼んだ。
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また彼らは渠に綽名して、独言悟浄と呼んだ。
彼がいつも自分のことが不安で、自分を責めるような後悔にさいなまれ、心の中でくり返し考えるその悲しい自己責めが、つい独り言となってもれてしまうからである。
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渠が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己苛責が、つい独り言となって洩れるがゆえである。
遠くから見ると小さなあわが彼の口から出ているだけのように見えるときでも、実は彼がかすかな声でつぶやいているのだった。
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遠方から見ると小さな泡が渠の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微かな声で呟いているのである。
「俺はばかだ」
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「俺はばかだ」
とか、「どうして俺はこうなんだろう」
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とか、「どうして俺はこうなんだろう」
とか、「もうだめだ。俺は」
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とか、「もうだめだ。俺は」
とか、ときどき「俺は天から落ちた天使(堕天使)だ」
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とか、ときとして「俺は堕天使だ」
とか。
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とか。
当時は、化け物に限らず、あらゆる生き物はすべて何かの生まれ変わりだと信じられていた。
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当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。
悟浄がかつて天上の世界で「捲簾大将(けんれんたいしょう)」という高い役職についていたということは、この川底では誰もが知っていた。
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悟浄がかつて天上界で霊霄殿の捲簾大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。
そのためかなり疑い深い悟浄自身も、結局はそれを信じているふりをしなければならなかった。
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それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。
しかし本当のことを言うと、すべての化け物の中で彼一人だけは、心の中で、生まれ変わりという考えに疑いを持っていた。
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が、実をいえば、すべての妖怪の中で渠一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。
天上の世界で五百年前に捲簾大将をしていた者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだと言っていいのだろうか?
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天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか?
第一、俺は昔の天上の世界のことを何一つ覚えていない。
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第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。
その記憶がない以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。
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その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。
体が同じなのだろうか?
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身体が同じなのだろうか?
それとも魂(たましい)が、だろうか?
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それとも魂が、だろうか?
ところで、いったい、魂とはなんだ?
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ところで、いったい、魂とはなんだ?
こうした疑問を彼がもらすと、化け物どもは「また、始まった」
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こうした疑問を渠が洩らすと、妖怪どもは「また、始まった」
と笑うのだった。
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といって嗤うのである。
あるものはからかうように、あるものは気の毒そうな顔で「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」
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あるものは嘲弄するように、あるものは憐愍の面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」
と言った。
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と言うた。
実際、彼は病気だった。
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事実、渠は病気だった。
いつから、また、何がもとでこんな病気になったのか、悟浄はそのどちらも知らなかった。
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いつのころから、また、何が因でこんな病気になったか、悟浄はそのどちらをも知らぬ。
ただ、気がついたときにはもう、このような重苦しいものが周りをぐるっと包んでいた。
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ただ、気がついたらそのときはもう、このような厭わしいものが、周囲に重々しく立罩めておった。
彼は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて気持ちを沈ませ、何事につけても自分がいやで、自分を信じられなくなってしまっていた。
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渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分が厭わしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。
何日も何日も洞穴(ほらあな)にこもって、食べ物も取らず、ギョロリと目だけ光らせて、彼は物思いに沈んだ。
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何日も何日も洞穴に籠って、食を摂らず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。
突然立ち上がってそのへんを歩き回り、何かブツブツ独り言を言いまた急に座る。
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不意に立上がってその辺を歩き廻り、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。
その一つ一つの動きを、自分では意識していないのだった。
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その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。
どんな点がはっきりすれば、自分の不安がなくなるのか。
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どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。
それさえ彼には分からなかった。
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それさえ渠には解らなんだ。
ただ、今まで当たり前だと思ってきたすべてのことが、不思議で疑わしいものに見えてきた。
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ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。
今までまとまった一つのことだと思われていたものが、バラバラに分かれた形で感じられ、その部分部分について考えているうちに、全体の意味が分からなくなってくるという感じだった。
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今まで纏まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
医者でもあり、占い師でもあり、お祈りをする者でもある、一人の年老いた魚の化け物が、あるとき悟浄を見てこう言った。
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医者でもあり・占星師でもあり・祈祷者でもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。
「やれ、かわいそうに。つらい病にかかったものじゃ。この病にかかったら最後、百人のうち九十九人までは惨めな一生を送らねばならぬぞ。もともと、われわれの中にはなかった病気じゃが、われわれが人間を食べるようになってから、われわれの間にもごくまれに、この病にかかる者が出てきたのじゃ。この病にかかった者はな、すべてのことを素直に受け取ることができぬ。何を見ても、何に出会っても『なぜ?』とすぐ考える。究極の、本物の、神様だけがご存知の『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思っては生き物は生きていけないものじゃ。そんなことは考えないというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。特に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いを持つことじゃ。なぜ俺は俺を俺と思うのか? 他の者を俺と思ってもかまわないだろうに。俺とはいったい何だ? こう考え始めるのが、この病のいちばん悪い症状じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどいい機会に恵まれない限り、まず、あんたの顔色が晴れる時はありますまいて。」
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「やれ、いたわしや。因果な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を咋うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ俺は俺を俺と思うのか? 他の者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」
二
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二
文字の発明はとっくに人間の世界から伝わって、彼らの世界にも知られていたが、総じて彼らの間には文字を軽く見る習慣があった。
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文字の発明は疾くに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑する習慣があった。
生きている知恵が、そんな文字などという死んだものに書き留められるはずがない。
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生きておる智慧が、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。
(絵になら、まだ書けるかもしれないが。)
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(絵になら、まだしも画けようが。)
それは、煙をその形のまま手でつかもうとするのに似た愚かさだと、一般に信じられていた。
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それは、煙をその形のままに手で執らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。
したがって、文字を読めることは、かえって生命力が弱った証拠として退けられた。
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したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候として斥けられた。
悟浄が日ごろ憂鬱(ゆううつ)なのも、結局、彼が文字を読めるせいに違いないと、化け物どもの間では思われていた。
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悟浄が日ごろ憂鬱なのも、畢竟、渠が文字を解するために違いないと、妖怪どもの間では思われておった。
文字は尊ばれなかったが、しかし、考えること自体が軽んじられていたわけではない。
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文字は尚ばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。
一万三千の怪物の中には哲学者(てつがくしゃ)も少なくはなかった。
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一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。
ただ、彼らの使える言葉はたいへん少なかったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられていた。
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ただ、彼らの語彙ははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。
彼らは流沙河の川底にそれぞれ「考える店」を張り、そのため、この川底には一種の哲学的な暗い気持が漂っていたほどである。
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彼らは流沙河の河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。
ある賢い老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠に悔いのない幸福について静かに考え続けていた。
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ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想しておった。
ある高貴な魚の一族は、美しい縞模様のある鮮やかな緑の藻(も)の陰で、竪琴(たてごと)をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的な調和をたたえていた。
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ある高貴な魚族は、美しい縞のある鮮緑の藻の蔭で、竪琴をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃えておった。
醜く、のろまで、馬鹿正直で、しかも自分の愚かな苦しみを隠そうともしない悟浄は、こうした知的な化け物どもの間で、格好のからかいものになった。
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醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄は、こうした知的な妖怪どもの間で、いい嬲りものになった。
一人の賢そうな怪物が、悟浄に向かい、まじめくさって言った。
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一人の聡明そうな怪物が、悟浄に向かい、真面目くさって言うた。
「真理とは何ぞや?」
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「真理とはなんぞや?」
そして彼の返事も待たずに、嘲笑(ちょうしょう)を口元に浮かべて大股(おおまた)に歩み去った。
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そして渠の返辞をも待たず、嘲笑を口辺に浮かべて大胯に歩み去った。
また、一人の妖怪――これはふぐの精(せい)だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざたずねて来た。
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また、一人の妖怪――これは鮐魚の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ訪ねて来た。
悟浄の病の原因が「死への恐怖」
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悟浄の病因が「死への恐怖」
にあると察して、これを笑ってやろうと来たのである。
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にあると察して、これを哂おうがためにやって来たのである。
「生きている間は死なし。死が来たときには、もう自分はいない。また何を恐れることがあろう。」
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「生ある間は死なし。死到れば、すでに我なし。また、何をか懼れん。」
というのがこの男の考え方だった。
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というのがこの男の論法であった。
悟浄はこの考えの正しさを素直に認めた。
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悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。
というのは、彼自身けっして死を恐れていたのではなかったし、彼の病の原因もそこにはなかったのだから。
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というのは、渠自身けっして死を怖れていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。
笑ってやろうとやって来たふぐの精は失望して帰って行った。
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哂おうとしてやって来た鮐魚の精は失望して帰って行った。
化け物の世界では、体と心とが、人間の世界ほどはっきりと分かれていなかったので、心の病はすぐに激しい体の苦しみとなって悟浄を責めた。
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妖怪の世界にあっては、身体と心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちに烈しい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。
たえられなくなった彼は、ついに決心した。
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堪えがたくなった渠は、ついに意を決した。
「このうえは、どんなに骨が折れようと、また行く先々でばかにされ笑われようと、とにかく一度、この川の底に住むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占い師に直接会って、自分が納得できるまで教えを乞おう」
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「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で愚弄され哂われようと、とにかく一応、この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいくまで、教えを乞おう」
と。
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と。
彼は粗末な着物を身にまとって、出発した。
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渠は粗末な直綴を纏うて、出発した。
なぜ、化け物は化け物であって、人間でないのか?
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なぜ、妖怪は妖怪であって、人間でないか?
彼らは、自分の特徴の一つだけを、極度に、他とのバランスを無視して、醜いまでに、人間らしさを失うまでに、発達させた不完全な存在だからである。
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彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。
あるものは極度に食いしん坊で、したがって口と腹がやたらに大きく、あるものは極度に欲深く、したがってそれに使われる体の部分が著しく発達し、あるものは極度に純粋で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。
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あるものは極度に貪食で、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩で、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。
彼らはどれも自分の考え方や世界の見方に絶対にこだわっていて、他と話し合った結果、より高い結論に達するということを知らなかった。
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彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に固執していて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。
他人の考えの筋道をたどるには、あまりにも自分の特徴が著しく伸び過ぎていたからである。
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他人の考えの筋道を辿るにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。
それゆえ、流沙河の水底では、何百かの世界観や形而上学(物の本質を考える学問)が、決して他と混じり合うことなく、あるものは穏やかな絶望の喜びをもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは望みはあれど希望なきため息をもって、揺れ動く無数の水草のようにゆらゆらとただよっていた。
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それゆえ、流沙河の水底では、何百かの世界観や形而上学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願望はあれど希望なき溜息をもって、揺動く無数の藻草のようにゆらゆらとたゆとうておった。
三
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三
最初に悟浄が訪ねたのは、黒卵道人(こくらんどうじん)といって、そのころ最も名高い不思議な術(幻術)の大家(たいか)だった。
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最初に悟浄が訪ねたのは、黒卵道人とて、そのころ最も高名な幻術の大家であった。
あまり深くない川底に岩石を積み重ねて洞窟(どうくつ)を作り、入口には「斜月三星洞(しゃげつさんせいどう)」という額が掛かっていた。
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あまり深くない水底に累々と岩石を積重ねて洞窟を作り、入口には斜月三星洞の額が掛かっておった。
洞窟の主は魚の顔を持つ人の体で、不思議な術が得意で、いなくなったり現れたり自由自在、冬に雷を起こし、夏に氷を作り、空飛ぶものを走らせ、走るものを飛ばすという噂だった。
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庵主は、魚面人身、よく幻術を行のうて、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、飛者を走らしめ、走者を飛ばしめるという噂である。
悟浄はこの道人に三ヶ月仕えた。
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悟浄はこの道人に三月仕えた。
不思議な術などどうでもいいのだが、術が得意なくらいなら本物の賢者(真人)だろうし、真の賢者なら宇宙の大きな道を会得(えとく)していて、彼の病を治すべき知恵も知っているだろうと思ったからだ。
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幻術などどうでもいいのだが、幻術を能くするくらいなら真人であろうし、真人なら宇宙の大道を会得していて、渠の病を癒すべき智慧をも知っていようと思われたからだ。
しかし、悟浄はがっかりしないわけにはいかなかった。
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しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。
洞窟の奥で大きなすっぽんの背に座った黒卵道人も、それを取り囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて不思議な法術のことばかり。
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洞の奥で巨鼇の背に座った黒卵道人も、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて神変不可思議の法術のことばかり。
また、その術を使って敵をだまそうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。
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また、その術を用いて敵を欺こうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。
悟浄の求めるような役に立たない深い考えの相手をしてくれるものは誰一人としていなかった。
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悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。
結局、ばかにされ笑いものになった末に、悟浄は三星洞を追い出された。
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結局、ばかにされ哂いものになった揚句、悟浄は三星洞を追出された。
次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士(しゃこういんし)のところだった。
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次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士のところだった。
これは、年を経たエビの精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば川底の砂に埋もれて生きていた。
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これは、年を経た蝦の精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。
悟浄はまた、三ヶ月の間、この老いた隠者(隠士)に仕えて、身の回りの世話をしながら、その深い哲学に触れることができた。
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悟浄はまた、三月の間、この老隠士に侍して、身の廻りの世話を焼きながら、その深奥な哲学に触れることができた。
年老いたエビの精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言った。
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老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はすべて空しい。この世に何か一つでもいいことがあるか。もしあるとすれば、それはこの世の終わりがいつかは来るだろうということだけじゃ。別にむずかしい理屈を考えるまでもない。われわれの身の回りを見るがよい。絶え間ない変化、不安、苦しみ、恐怖、幻滅(げんめつ)、争い、飽き。まさにごちゃごちゃとして落ち着く先が分からない。われわれは現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその足元の現在は、すぐに消えて過去になる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の坂に立つ旅人の足元が一歩ごとに崩れ去るようだ。われわれはどこに安心していたらよいのだ。止まろうとすれば倒れるしかないゆえ、やむを得ず走り下り続けているのがわれわれの人生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。はかない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
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「世はなべて空しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理窟を考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、懊悩、恐怖、幻滅、闘争、倦怠。まさに昏々昧々紛々若々として帰するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。停まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢ない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
悟浄の不安そうな顔を見て、これを慰めるように隠士は付け加えた。
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悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように隠士は付加えた。
「だが、若い者よ。そう恐れることはない。波にさらわれる者は溺れるが、波に乗る者はこれを越えることができる。この絶え間ない変化を乗り越えて、壊れることなく動じない境地に至ることもできないわけではない。昔の真の賢者は、善悪をも超え、自分を忘れ物事を忘れ、死も生もない域に達していたのじゃ。が、昔から言われているように、そういう境地が楽しいものだと思ったら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生き物の持つ楽しみもない。無味、無色。まこと味気(あじけ)ないことろうのようで砂のようなものじゃ。」
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「だが、若い者よ。そう懼れることはない。浪にさらわれる者は溺れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変をのり超えて不壊不動の境地に到ることもできぬではない。古の真人は、能く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生の域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有つ楽しみもない。無味、無色。誠に味気ないこと蝋のごとく砂のごとしじゃ。」
悟浄は遠慮がちに口をはさんだ。
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悟浄は控えめに口を挾んだ。
自分が聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、心の平静の確立とかいうことではなくて、自分、および世界の究極の意味についてである、と。
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自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。
隠士は目やにのたまった目をしょぼつかせながら答えた。
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隠士は目脂の溜った眼をしょぼつかせながら答えた。
「自分だと? 世界だと? 自分を除いて客観的な世界など、あると思うのか。世界とはな、自分が時間と空間との間に投影した幻(まぼろし)じゃ。自分が死ねば世界は消えてしまいますわい。自分が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい思い違いじゃ。世界が消えても、正体の分からないこの不思議な自分というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
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「自己だと? 世界だと? 自己を外にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見じゃ。世界が消えても、正体の判らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
悟浄が仕えてちょうど九十日目の朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢ののちに、この年老いた隠者は、ついに倒れて死んだ。
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悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢ののちに、この老隠者は、ついに斃れた。
このような醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観的な世界を、自分の死によって消し去ることができることを喜びながら……。
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かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって抹殺できることを喜びながら……。
悟浄は心を込めてその後をとむらい、涙とともに、また、新しい旅に出た。
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悟浄は懇ろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。
噂によれば、坐忘(ざぼう)先生は常に坐禅(ざぜん)を組んだまま眠り続け、五十日に一度だけ目を覚まされるというのだった。
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噂によれば、坐忘先生は常に坐禅を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚まされるだけだという。
そして、眠っている間の夢の世界を現実だと信じ、たまに目覚めているときは、それを夢だと思っておられるそうな。
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そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。
悟浄がこの先生をはるばる訪ねて来たとき、やはり先生は眠っておられた。
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悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は睡っておられた。
なにしろ流沙河でもっとも深い谷底で、上からの光もほとんど差し込まない場所だったので、悟浄も目が慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に足を組んだまま眠っている僧侶(そうりょ)の姿がぼんやり目の前に浮かび上がってきた。
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なにしろ流沙河で最も深い谷底で、上からの光もほとんど射して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に結跏趺坐したまま睡っている僧形がぼんやり目前に浮かび上がってきた。
外からの音も聞こえず、魚類もほとんど来ない場所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に座って目をつぶってみたら、何かじーんと耳が遠くなりそうな感じだった。
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外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に坐って眼を瞑ってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
悟浄が来てから四日目に先生は目を開いた。
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悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。
すぐ目の前で悟浄があわてて立ち上がり、おじぎをするのを、見るでもなく見ないでもなく、ただ二、三度まばたきをした。
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すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝をするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度瞬きをした。
しばらく黙って向き合ったのち、悟浄は恐る恐る口をきいた。
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しばらく無言の対坐を続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。
「先生。さっそくで失礼ですが、一つお伺いいたします。いったい『私』とはなんでございましょうか?」
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「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」
「なんじゃ! 昔のたわいない話をするな!」
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「咄! 秦時の𨍏轢鑚!」
という激しい声とともに、悟浄の頭はたちまち棒で一撃された。
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という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を喰った。
彼はよろめいたが、また座り直し、しばらくして、今度は十分に気をつけながら、さっきの質問をくり返した。
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渠はよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。
今度は棒が降りて来なかった。
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今度は棒が下りて来なかった。
厚い唇を開き、顔も体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。
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厚い唇を開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。
「長い間食べ物を得ないときに空腹を感じるものがお前じゃ。冬になって寒さを感じるものがお前じゃ。」
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「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが儞じゃ。冬になって寒さを感ずるものが儞じゃ。」
さて、それで厚い唇を閉じ、しばらく悟浄のほうを見ていたが、やがて目を閉じた。
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さて、それで厚い唇を閉じ、しばらく悟浄のほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。
そうして、五十日間それを開かなかった。
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そうして、五十日間それを開かなかった。
悟浄は辛抱強く待った。
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悟浄は辛抱強く待った。
五十日目に再び目を覚ました坐忘先生は前に座っている悟浄を見て言った。
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五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に坐っている悟浄を見て言った。
「まだいたのか?」
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「まだいたのか?」
悟浄は謹んで五十日待った旨を答えた。
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悟浄は謹しんで五十日待った旨を答えた。
「五十日?」
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「五十日?」
と先生は、例の夢を見るようなうつろとした目を悟浄に向けたが、じっとそのまましばらく黙っていた。
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と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。
やがて重い唇が開かれた。
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やがて重い唇が開かれた。
「時間の長さをはかる物差しが、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らない者は愚かじゃ。人間の世界には、時間の長さをはかる機械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種をまくことじゃろう。大きな木の長い寿命も、朝だけで死ぬきのこの短い命も、長さに変わりはないのじゃ。時間とはな、われわれの頭の中の一つの仕掛けじゃわい」
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「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿の寿も、朝菌の夭も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置じゃわい」
そう言い終わると、先生はまた目を閉じた。
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そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。
五十日後でなければ、それが再び開かれることがないだろうと知っていた悟浄は、眠れる先生に向かって恭しく頭を下げてから、立ち去った。
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五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって恭々しく頭を下げてから、立去った。
「恐れよ。おののけ。そして、神を信ぜよ。」
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「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
と、流沙河のもっとも賑やかな四つ辻に立って、一人の若者が叫んでいた。
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と、流沙河の最も繁華な四つ辻に立って、一人の若者が叫んでいた。
「われわれの短い一生が、その前とあとに続く無限の長い時間の中に消えてしまうことを思え。われわれの住む狭い空間が、われわれの知らない、またわれわれを知らない無限の広大な宇宙の中に投げ込まれていることを思え。誰か、自分がいかに小さな存在かに、おののかずにいられるか。われわれはみんな鎖につながれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の何人かずつがわれわれの目の前で殺されていく。われわれはなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自分をごまかすことと酔っぱらうことに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を自分の惨めな理性(りせい)を頼って自惚れているつもりか? 傲慢(ごうまん)な分際(ぶんざい)を知れ! くしゃみ一つ、お前の貧しい理性と意志とをもってしては、どうにもできないではないか。」
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「我々の短い生涯が、その前とあととに続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤の中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酩酊とに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を汝の惨めな理性を恃んで自惚れ返っているつもりか? 傲慢な身の程知らずめ! 噴嚏一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
白い肌の青年はほおを真っ赤にして、声をかれらせて叱りつけた。
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白皙の青年は頬を紅潮させ、声を嗄らして叱咤した。
その女性的な高貴な外見のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。
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その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。
悟浄は驚きながら、その燃えるように美しい瞳に見入った。
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悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳に見入った。
彼は青年の言葉から、火のような清らかな矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
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渠は青年の言葉から火のような聖い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「われわれにできるのは、ただ神を愛し自分を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと思い上がってはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自分を生きよ。神と一つになるものは一つの霊となるのだ」
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「我々の為しうるのは、ただ神を愛し己を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
確かにこれは清く優れた魂の声だ、と悟浄は思った。しかし、それにもかかわらず、自分が今求めているものが、このような神の声ではないことをも、また、感じずにはいられなかった。
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確かにこれは聖く優れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今饑えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。
教えは薬のようなもので、マラリアを病む者の前に腫れ物の薬をすすめられてもしかたがない、とそのようなことも思った。
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訓言は薬のようなもので、痎瘧を病む者の前に瘇腫の薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。
その四つ辻から程遠くない道ばたで、悟浄は醜いこじきを見た。
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その四つ辻から程遠からぬ路傍で、悟浄は醜い乞食を見た。
恐ろしいせむし(背骨が曲がった体)で、高く盛り上がった背骨に引っ張られて内臓はすべて上に上がってしまい、頭の頂上は肩よりずっと低く落ち込んで、あごはへそを隠すほどだった。
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恐ろしい佝僂で、高く盛上がった背骨に吊られて五臓はすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、頤は臍を隠すばかり。
おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛れた(ただれた)腫れ物が崩れている様子に、悟浄は思わず足を止めてため息をもらした。
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おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛れた腫物が崩れている有様に、悟浄は思わず足を停めて溜息を洩らした。
すると、うずくまっているそのこじきは、首が自由にならないまま、赤く濁った目玉をじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。
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すると、蹲っているその乞食は、頸が自由にならぬままに、赤く濁った眼玉をじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。
それから、上に吊り上がった腕をブラブラさせ、悟浄の足元までよろめいて来ると、彼を見上げて言った。
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それから、上に吊上がった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、渠を見上げて言った。
「出しゃばりじゃな、わしを哀れむとは。若いかたよ。わしを可哀想なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような体にしたからとて、造り主(神)をわしが恨んでいるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造り主をほめているくらいですわい、このような珍しい体にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい体になるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左ひじが鶏になったら、時を告げさせようし、右ひじが弓になったら、それでふくろうでもとって焼き肉をこしらえようし、わしのお尻が車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗り物で、重宝じゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、子輿(しよ)といってな、子祀(しし)、子犁(しれい)、子来(しらい)という三人の親しい友がありますじゃ。みんな女偊(じょう)氏の弟子でな、物の形を超えて死も生もない境地に入ったれば、水にも濡れず火にも焼けず、寝て夢見ず、覚めて憂いなきものじゃ。この間も、四人で笑って話したことがある。わしらは、無をもって頭とし、生をもって背とし、死をもって尻としているわけじゃとな。アハハハ……。」
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「僭越じゃな、わしを憐れみなさるとは。若いかたよ。わしを可哀想なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を讃めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左臂が鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が弾き弓になったら、それで鴞でもとって炙り肉をこしらえようし、わしの尻が車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、重宝じゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、子輿というてな、子祀、子犁、子来という三人の莫逆の友がありますじゃ。みんな女偊氏の弟子での、ものの形を超えて不生不死の境に入ったれば、水にも濡れず火にも焼けず、寝て夢見ず、覚めて憂いなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって首とし、生をもって背とし、死をもって尻としとるわけじゃとな。アハハハ……。」
気味の悪い笑い声にぎょっとしながらも、悟浄は、このこじきこそあるいは真の賢者(真人)というものかもしれんと思った。
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気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは真人というものかもしれんと思うた。
この言葉が本物だとすればたいしたものだ。
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この言葉が本物だとすればたいしたものだ。
しかし、この男の言葉や態度の中にどこか見せびらかすようなものが感じられ、それが苦痛をこらえてむりに大げさに言っているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿(うみ)の臭さとが悟浄に生理的な嫌悪感を与えた。
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しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿の臭さとが悟浄に生理的な反撥を与えた。
彼はだいぶ心を引かれながらも、ここでこじきに仕えることだけは思いとどまった。
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渠はだいぶ心を惹かれながらも、ここで乞食に仕えることだけは思い止まった。
ただ、さっきの話の中にあった女偊(じょう)氏とやらについて教えを乞いたく思ったので、そのことを話した。
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ただ先刻の話の中にあった女偊氏とやらについて教えを乞いたく思うたので、そのことを洩らした。
「ああ、師父(しふ)か。師父はな、これより北の方、二千八百里、この流沙河が赤水(せきすい)・墨水(ぼくすい)と合流するあたりに、庵(いおり)を結んでおられる。お前さんの修行の心さえ堅固なら、ずいぶんと教えも与えてくださろう。せっかく修行なさるがよい。わしからもよろしくと申し上げてくだされい。」
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「ああ、師父か。師父はな、これより北の方、二千八百里、この流沙河が赤水・墨水と落合うあたりに、庵を結んでおられる。お前さんの道心さえ堅固なら、ずいぶんと、教訓も垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」
と、みじめなせむしは、尖った肩を精一杯いからせて横柄(おうへい)に言った。
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と、みじめな佝僂は、尖った肩を精一杯いからせて横柄に言うた。
四
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四
流沙河と墨水と赤水との合流するところを目指して、悟浄は北へ旅をした。
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流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、悟浄は北へ旅をした。
夜は葦(あし)の間に仮眠の夢を結び、朝になれば、また、果てしない川底の砂原を北へ向かって歩み続けた。
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夜は葦間に仮寝の夢を結び、朝になれば、また、果知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。
楽しげに銀色のうろこをひるがえす魚の群れを見ては、なぜ自分一人こうも心が楽しまないのだろうと思い悩みながら、彼は毎日歩いた。
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楽しげに銀鱗を翻えす魚族どもを見ては、何故に我一人かくは心怡しまぬぞと思い侘びつつ、渠は毎日歩いた。
途中でも、目についた修行者や賢者の類は、一人残らずその門をたたくことにしていた。
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途中でも、目ぼしい道人修験者の類は、剰さずその門を叩くことにしていた。
大食(たいしょく)いと力強さで知られる虯髯鮎子(きゅうぜんねんし)を訪ねたとき、色がひどく黒く、たくましいこのナマズの化け物は、長いひげをさすりながら「遠くのことばかり考えると、必ず身近な心配ごとが起きる。本当に物事を分かった人は大局ばかり見ているものではないのじゃ。」
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貪食と強力とをもって聞こえる虯髯鮎子を訪ねたとき、色あくまで黒く、逞しげな、この鯰の妖怪は、長髯をしごきながら「遠き慮のみすれば、必ず近き憂いあり。達人は大観せぬものじゃ。」
と教えた。
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と教えた。
「たとえばこの魚じゃ。」
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「たとえばこの魚じゃ。」
と、鮎子は目の前を泳ぎ過ぎる一尾のコイをつかみ取ったかと思うと、それをむしゃむしゃかじりながら、説くのである。
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と、鮎子は眼前を泳ぎ過ぎる一尾の鯉を掴み取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。
「このコイだが、このコイがなぜわしの目の前を通り、しかしてわしのえさとならねばならぬ運命を持っているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも賢者にふさわしい振る舞いじゃが、コイを捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げていくばかりじゃ。まずすばやくコイを捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅くはない。コイはなぜコイなのか、コイとフナとの違いについての哲学的な考察、等々の、馬鹿げて高尚(こうしょう)な問題にひっかかって、いつもコイを捕えそこなう男じゃろう、お前は。お前の物憂げな目の光が、それをはっきり告げているぞ。どうじゃ。」
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「この魚だが、この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わしの餌とならねばならぬ因縁をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲にふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は何故に鯉なりや、鯉と鮒との相異についての形而上学的考察、等々の、ばかばかしく高尚な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前は。おまえの物憂げな眼の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」
確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。
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確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。
妖怪はそのときすでにコイを食べ終えてしまい、なお貪欲(どんよく)そうな目つきを悟浄のうなだれた首筋に注いでいたが、急に、その目が光り、のどがゴクリと鳴った。
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妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお貪婪そうな眼つきを悟浄のうなだれた頸筋に注いでおったが、急に、その眼が光り、咽喉がゴクリと鳴った。
ふと首を上げた悟浄は、とっさに、危険なものを感じて身を引いた。
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ふと首を上げた悟浄は、咄嗟に、危険なものを感じて身を引いた。
妖怪の刃のような鋭い爪が、恐ろしい速さで悟浄ののどをかすめた。
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妖怪の刃のような鋭い爪が、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。
最初の一撃に失敗した妖怪の怒りに燃えた食欲的な顔が大きく迫ってきた。
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最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた貪食的な顔が大きく迫ってきた。
悟浄は強く水を蹴って、泥煙を立てるとともに、あわてて洞穴から逃れ出た。
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悟浄は強く水を蹴って、泥煙を立てるとともに、愴惶と洞穴を逃れ出た。
厳しい現実の精神をかの獰猛(どうもう)な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は震えながら考えた。
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苛刻な現実精神をかの獰猛な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は顫えながら考えた。
隣人愛の教えで有名な無腸公子(むちょうこうし)の講義に出席したときは、説教の途中でこの聖僧が突然空腹に駆られて、自分の実の子(もっとも彼はカニの精ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ食べてしまったのを見て、腰を抜かすほど驚いた。
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隣人愛の教説者として有名な無腸公子の講筵に列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然饑えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は蟹の妖精ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ喰べてしまったのを見て、仰天した。
慈悲と忍耐を説く聖者が、今、みんなが見ている前で自分の子を捕まえて食った。
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慈悲忍辱を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。
そして、食い終わってから、その事実も忘れてしまったかのように、ふたたび慈悲の教えを述べはじめた。
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そして、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。
忘れたのではなくて、先ほどの空腹を満たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに違いない。
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忘れたのではなくて、先刻の飢えを充たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。
ここにこそ俺の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、悟浄は妙な理屈をつけて考えた。
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ここにこそ俺の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、悟浄はへんな理窟をつけて考えた。
俺の生活のどこに、ああした本能的な、自分を忘れた瞬間があるか。
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俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。
彼は、尊い教えを得たと思い、ひざまずいて拝んだ。
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渠は、貴き訓を得たと思い、跪いて拝んだ。
いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気が済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、彼は、もう一度思い直した。
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いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。
教訓を、缶詰にしないで生のままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一度、拝をしてから、うやうやしく立ち去った。
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教訓を、罐詰にしないで生のままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、拝をしてから、うやうやしく立去った。
蒲衣子(ほいし)の道場は、変わった道場である。
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蒲衣子の庵室は、変わった道場である。
わずか四、五人しか弟子はいないが、彼らはどれも師の歩みを手本として、自然の秘密を探究する者どもだった。
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僅か四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに倣うて、自然の秘鑰を探究する者どもであった。
探究者というより、自然に酔いしれている者と言ったほうがいいかもしれない。
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探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。
彼らの勤めるのは、ただ、自然を見て、しみじみとその美しい調和の中に溶け込むことである。
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彼らの勤めるのは、ただ、自然を観て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く磨くことです。自然の美しさを直接感じることから離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」
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「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗煉することです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」
と弟子の一人が言った。
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と弟子の一人が言った。
「心を深く落ち着かせて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、薄青い氷、赤い藻の揺れ、夜の水中でこまかくきらめく藻類の光、オウムガイの渦巻き、紫水晶の結晶、ざくろ石の紅、蛍石(ほたるいし)の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」
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「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧い氷、紅藻の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻類の光、鸚鵡貝の螺旋、紫水晶の結晶、柘榴石の紅、螢石の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」
彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
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彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
「それなのに、自然の謎の文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消え去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」
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「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」
と、また、別の弟子が続けた。
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と、また、別の弟子が続けた。
「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬(たんれん)が足りないからであり、心が深く落ち着いていないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『見ることが愛することであり、愛することが創ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
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「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが創造ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
その間も、師の蒲衣子は一言も口をきかず、鮮やかな緑の孔雀石(くじゃくいし)を一つ手のひらにのせて、深い喜びをたたえた穏やかな目差しで、じっとそれを見つめていた。
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その間も、師の蒲衣子は一言も口をきかず、鮮緑の孔雀石を一つ掌にのせて、深い歓びを湛えた穏やかな眼差で、じっとそれを見つめていた。
悟浄は、この道場に一ヶ月ばかり滞在した。
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悟浄は、この庵室に一月ばかり滞在した。
その間、彼も彼らとともに自然の詩人となって宇宙の調和をたたえ、その最も深い命に同化することを願った。
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その間、渠も彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を讃え、その最奥の生命に同化することを願うた。
自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に引かれたためである。
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自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に惹かれたためである。
弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。
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弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。
肌は白魚のように透き通り、黒い瞳は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる巻き毛はハトの胸毛のように柔らかだった。
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肌は白魚のように透きとおり、黒瞳は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる捲毛は鳩の胸毛のように柔らかであった。
心に少しの憂いがあるときは、月の前を横切る薄雲ほどのかすかな影が美しい顔にかかり、喜びのあるときは静かに澄んだ瞳の奥が夜の宝石のように輝いた。
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心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの微かな陰翳が美しい顔にかかり、歓びのあるときは静かに澄んだ瞳の奥が夜の宝石のように輝いた。
師も仲間もこの少年を愛した。
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師も朋輩もこの少年を愛した。
素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。
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素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。
ただあまりに美しく、あまりにか細く、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。
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ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。
少年は、ひまさえあれば、白い石の上に薄い飴色の蜂蜜(はちみつ)を垂らして、それでひるがおの花を描いていた。
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少年は、ひまさえあれば、白い石の上に淡飴色の蜂蜜を垂らして、それでひるがおの花を画いていた。
悟浄がこの道場を去る四、五日前のこと、少年は朝、道場を出たっきりでもどって来なかった。
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悟浄がこの庵室を去る四、五日前のこと、少年は朝、庵を出たっきりでもどって来なかった。
彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。
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彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。
自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。
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自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。
他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子はまじめにそれを認めた。
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他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子はまじめにそれをうべなった。
そうかもしれぬ、あの子ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
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そうかもしれぬ、あの児ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
悟浄は、自分を食べようとしたナマズの化け物のたくましさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。
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悟浄は、自分を取って喰おうとした鯰の妖怪の逞しさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。
蒲衣子の次に、彼は斑衣鱖婆(はんいけつば)の所へ行った。
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蒲衣子の次に、渠は斑衣鱖婆の所へ行った。
すでに五百年余りを経ている女の怪物だったが、肌のしなやかさは少しも若い娘と変わるところがなく、なよやかなその姿は、鉄のような心をも溶かすといわれていた。
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すでに五百余歳を経ている女怪だったが、肌のしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、婀娜たるその姿態は能く鉄石の心をも蕩かすといわれていた。
肉体の楽しみを極めることをもって唯一の生活信条としていたこの年老いた女の怪物は、奥の部屋を何十も並べ、姿のよい若者を集めてその中に満たし、その楽しみにふけるにあたっては、身内(みうち)をも遠ざけ、交際もも絶ち、奥の部屋に隠れて昼夜問わず、三ヶ月に一度しか外に顔を出さないのである。
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肉の楽しみを極めることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿端正な若者を集めて、この中に盈たし、その楽しみに耽けるにあたっては、親昵をも屏け、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、三月に一度しか外に顔を出さないのである。
悟浄の訪ねたのはちょうどこの三ヶ月に一度のときに当たったので、幸いに老いた女の怪物を見ることができた。
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悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。
道を求める者と聞いて、鱖婆(けつば)は悟浄に説き聞かせた。
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道を求める者と聞いて、鱖婆は悟浄に説き聞かせた。
物憂い疲れの翳を、なよやかな姿のどこかに見せながら。
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ものうい憊れの翳を、嬋娟たる容姿のどこかに見せながら。
「この道ですよ。この道ですよ。聖人の教えも賢者の修行も、つまりはこうした最高の喜びの瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を受けるということは、実に、何兆何京年という無限の時間の中でも本当に出会いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死はあきれるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。出会いがたい生をもって、すぐ来る死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あのしびれるような喜び! 常に新しいあの陶酔(とうすい)!」
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「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙哲の修業も、つまりはこうした無上法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河沙劫無限の時間の中でも誠に遇いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの痺れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」
と女の怪物は酔ったように艶やかで淫らな目を細くして叫んだ。
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と女怪は酔ったように豔妖淫靡な眼を細くして叫んだ。
「あなたはお気の毒ながらたいへん醜いお方ゆえ、私のところに留まっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の奥の部屋では毎年百人ずつの若い男が疲れのために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを恨んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
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「貴方はお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに留まっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が困憊のために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを怨んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
悟浄の醜さを気の毒そうな目つきをしながら、最後に鱖婆はこうつけ加えた。
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悟浄の醜さを憐れむような眼つきをしながら、最後に鱖婆はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことができる能力のことですよ。」
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「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。
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醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。
賢者たちの説くところはあまりにも様々で、彼はまったく何を信じていいやら分からなかった。
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賢人たちの説くところはあまりにもまちまちで、渠はまったく何を信じていいやら解らなかった。
「自分とは何ですか?」
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「我とはなんですか?」
という彼の問いに対して、一人の賢者はこういった。
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という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。
「まず鳴いてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようならガチョウじゃ」
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「まず吼えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵝鳥じゃ」
と。
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と。
他の賢者はこう教えた。
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他の賢者はこう教えた。
「自己とは何ぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的難しくはない」
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「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」
と。
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と。
また、ある者いわく「目は一切を見るが、みずからを見ることができない。自分とは結局、自分が知ることのできないものだ」
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また、曰く「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮、我の知る能わざるものだ」
と。
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と。
別の賢者は説いた、「自分はいつも自分だ。自分の現在の意識が生まれる前の無限の時を通じて自分といっていたものがあった。(それを誰も今は覚えていないが)それがつまり今の自分になったのだ。現在の自分の意識が亡びたのちの無限の時を通じて、また、自分というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の自分の意識のことを全然忘れているに違いないが」
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別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が亡びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」
と。
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と。
次のように言った男もあった。
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次のように言った男もあった。
「一つの続いた自分とは何だ? それは記憶という影の積み重ねだよ」
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「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積だよ」
と。
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と。
この男はまた悟浄にこう教えてくれた。
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この男はまた悟浄にこう教えてくれた。
「記憶を失うということが、俺たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れてしまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れてしまっているんだ。それらの、ほんのわずか一部の、おぼろげな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在という瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」
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「記憶の喪失ということが、俺たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの僅か一部の、朧げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」
と。
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と。
さて、五年近い旅の間、同じ症状に違った処方をする多くの医者たちの間を行ったり来たりするような愚かさをくり返したのち、悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。
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さて、五年に近い遍歴の間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。
賢くなるどころか、なにかしら自分がふわふわした(自分でないような)わけの分からないものになり果てたような気がした。
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賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。
昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど体の感覚で、とにかく自分の重さを持っていたように思う。
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昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を有っていたように思う。
それが今は、まるで重さのない、吹けば飛ぶようなものになってしまった。
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それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。
外からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中身がまるでないものに。
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外からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。
こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。
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こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。
思索(しさく)による意味の探索以外に、もっと直接的な答えがあるのではないか、という予感もした。
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思索による意味の探索以外に、もっと直接的な解答があるのではないか、という予感もした。
こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした自分の愚かさ。
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こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした己の愚かさ。
そういうことに気がつきはじめたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、彼は目指す女偊(じょう)氏のもとに着いた。
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そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、渠は目指す女偊氏のもとに着いた。
女偊氏は一見きわめて普通の仙人(せんにん)で、むしろぼんやりとさえ見えた。
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女偊氏は一見きわめて平凡な仙人で、むしろ迂愚とさえ見えた。
悟浄が来ても別に彼を使うでもなく、教えるでもなかった。
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悟浄が来ても別に渠を使うでもなく、教えるでもなかった。
堅くこわばったものは死の仲間、柔らかいものは生の仲間なれば、「学ぼう。学ぼう」
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堅彊は死の徒、柔弱は生の徒なれば、「学ぼう。学ぼう」
というガチガチの態度を嫌われたもののようである。
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というコチコチの態度を忌まれたもののようである。
ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何かつぶやいておられることがある。
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ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何か呟いておられることがある。
そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞き取れない。
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そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。
三ヶ月の間、彼はついになんの教えも聞くことができなかった。
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三月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。
「賢者が他人について知るよりも、愚か者が自分について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」
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「賢者が他人について知るよりも、愚者が己について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」
というのが、女偊氏から聞くことができた唯一の言葉だった。
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というのが、女偊氏から聞きえた唯一の言葉だった。
三ヶ月目の終わりに、悟浄はもはやあきらめて、いとまごいに師のもとへ行った。
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三月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、暇乞いに師のもとへ行った。
するとそのとき、珍しくも女偊氏はこまごまと悟浄に教えを垂れた。
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するとそのとき、珍しくも女偊氏は縷々として悟浄に教えを垂れた。
「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」
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「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」
「爪や髪の伸びることをも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」
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「爪や髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」
「酔っている者は車から落ちても傷つかないことについて」
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「酔うている者は車から墜ちても傷つかないことについて」
「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
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「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
女偊氏は、自分がかつて知っていた、ある不思議な力を持つ魔物のことを話した。
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女偊氏は、自分のかつて識っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。
その魔物は、上は星の動きから、下は微生物の生死に至るまで、何一つ知らないことなく、深く微妙な計算によって、過去のあらゆる出来事をさかのぼって知りえるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推し知ることができるのだった。
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その魔物は、上は星辰の運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、深甚微妙な計算によって、既往のあらゆる出来事を溯って知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。
ところが、この魔物はたいへん不幸だった。
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ところが、この魔物はたいへん不幸だった。
というのは、この魔物があるとき、ふと「自分がすべて予見しうる全世界の出来事が、なぜ(どのようにしてという経過的な話ではなく、根本的ななぜに)そのように起こらなければならないのか」
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というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故に(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」
ということに思い至り、その究極の理由が、彼の深く微妙な大計算をもってしてもついに探し出せないことを見いだしたからである。
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ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに探し出せないことを見いだしたからである。
なぜヒマワリは黄色いのか。
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何故向日葵は黄色いか。
なぜ草は緑なのか。
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何故草は緑か。
なぜすべてがこのように存在するのか。
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何故すべてがかく在るか。
この疑問が、この不思議な力の広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨めな死にまで導いたのだった。
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この疑問が、この神通力広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨めな死にまで導いたのであった。
女偊氏はまた、別の妖精のことを話した。
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女偊氏はまた、別の妖精のことを話した。
これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。
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これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。
その光るものとはどんなものか、誰にも分からなかったが、とにかく、小さな妖精は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。
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その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、小妖精は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。
そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小さな妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女偊氏は語った。
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そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女偊氏は語った。
このように語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。
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かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。
ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
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ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気(きょうき)を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを捨てることによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は不幸じゃ。彼は、みずからを捨てもしなければ生かしもしないことによって、徐々に滅びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な考え方であると知れ。何事も意識という毒の中に浸さずにはいられない哀れな悟浄よ。われわれの運命を決める大きな変化は、みんなわれわれの意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
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「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
悟浄は謹しんで師に答えた。
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悟浄は謹しんで師に答えた。
師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。
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師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。
実は、自分も長年の旅の間に、考えるだけではますます泥沼(どろぬま)にはまるばかりだと感じてきたのだが、今の自分を突き破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。
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実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼に陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。
それを聞いて女偊氏は言った。
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それを聞いて女偊氏は言った。
「渓流(けいりゅう)が流れてきて崖(がけ)の近くまで来ると、一度渦巻きをまき、さて、それから滝となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻きの一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻きにまき込まれてしまえば、底までは一息。その途中に考えたり反省したりもたもたするひまはない。臆病(おくびょう)な悟浄よ。お前は渦巻きながら落ちていく者どもを恐れと哀れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛び込もうか、どうしようかとためらっているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちなければならぬとは十分に知っているくせに。渦巻きにまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも知っているくせに。それでもまだお前は、傍観者(ぼうかんしゃ)の立場に未練を持って離れられないのか。物凄い生の渦巻きの中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも疑い深い傍観者より何倍も幸せだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
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「渓流が流れて来て断崖の近くまで来ると、一度渦巻をまき、さて、それから瀑布となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
師の教えのありがたさは骨の髄(ずい)まで感じられたが、それでもなおどこかすっきりしないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
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師の教えのありがたさは骨髄に徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
もはや誰にも道を聞くまいぞと、彼は思った。
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もはや誰にも道を聞くまいぞと、渠は思うた。
「誰も彼も、偉そうに見えたって、実は何一つ分かってやしないんだな」
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「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」
と悟浄は独り言を言いながら帰途についた。
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と悟浄は独言を言いながら帰途についた。
「『お互いに分かっているふりをしようぜ。分かってやしないんだってことは、お互いに分かり切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでにあるのだとすれば、それをいまさら、分からない分からないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の利かない困りものだろう。まったく。」
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「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の利かない困りものだろう。まったく。」
五
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五
のろまでぐずの悟浄のことゆえ、ある日突然ぱっと悟るとか、そんな鮮やかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えない変化が彼の上に働いてきたようである。
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のろまで愚図の悟浄のことゆえ、翻然大悟とか、大活現前とかいった鮮やかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化が渠の上に働いてきたようである。
はじめ、それは賭け(かけ)をするような気持だった。
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はじめ、それは賭けをするような気持であった。
一つの選択が許される場合、一つの道が永遠のぬかるみであり、他の道が険しくはあってもあるいは救われるかもしれないのだとすれば、誰しもあとの道を選ぶにきまっている。
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一つの選択が許される場合、一つの途が永遠の泥濘であり、他の途が険しくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。
それなのになぜためらっていたのか。
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それだのになぜ躊躇していたのか。
そこで彼ははじめて、自分の考え方の中にあった卑しい功利的(こうりてき)なものに気づいた。
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そこで渠ははじめて、自分の考え方の中にあった卑しい功利的なものに気づいた。
険しい道を選んで苦しみ抜いた末に、さて結局救われないとなったら取り返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の決断できなさに作用していたのだ。
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嶮しい途を選んで苦しみ抜いた揚句に、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。
骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損失へしか導かない道に留まろうというのが、怠け者で愚かで卑しい俺の気持だったのだ。
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骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精で愚かで卑しい俺の気持だったのだ。
女偊氏のもとに滞在している間に、しかし、彼の気持も、しだいに一つの方向へ追い詰められてきた。
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女偊氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。
初めは追い詰められたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。
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初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最もしつこく自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に分かりかけてきた。
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自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に解りかけてきた。
自分は、そんな世界の意味をあれこれ言うほどたいした生き物でないことを、彼は、自分を卑下(ひげ)する感じでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。
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自分は、そんな世界の意味を云々するほどたいした生きものでないことを、渠は、卑下感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。
そして、そんな生意気を言う前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自分を試し展開してみようという勇気が出てきた。
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そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。
ためらう前に試みよう。
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躊躇する前に試みよう。
結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。
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結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。
決定的な失敗に終わったっていいのだ。
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決定的な失敗に帰したっていいのだ。
今まで常に、失敗への恐れから努力を投げ捨てていた彼が、骨折り損を厭(いと)わないところにまで高まってきたのである。
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今までいつも、失敗への危惧から努力を抛棄していた渠が、骨折り損を厭わないところにまで昇華されてきたのである。
六
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六
悟浄の体はもはや疲れ切っていた。
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悟浄の肉体はもはや疲れ切っていた。
ある日、彼は、とある道ばたにばったり倒れ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。
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ある日、渠は、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深い睡りに落ちてしまった。
まったく、何もかも忘れ果てた深い眠りだった。
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まったく、何もかも忘れ果てた昏睡であった。
彼はぐっすりと何日か眠り続けた。
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渠は昏々として幾日か睡り続けた。
空腹も忘れ、夢も見なかった。
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空腹も忘れ、夢も見なかった。
ふと、目を覚ましたとき、何か周りが青白く明るいことに気がついた。
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ふと、眼を覚ましたとき、何か四辺が、青白く明るいことに気がついた。
夜だった。
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夜であった。
明るい月夜だった。
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明るい月夜であった。
大きな丸い春の満月が水の上から差し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。
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大きな円い春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。
悟浄は、ぐっすり眠ったあとのさっぱりした気持で起き上がった。
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悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。
とたんに空腹に気づいた。
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とたんに空腹に気づいた。
彼はそのへんを泳いでいた魚を五、六尾手づかみにしてむしゃむしゃ頬張り、さて、腰にさげた瓢箪(ひょうたん)の酒をラッパ飲みにした。
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渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾手掴みにしてむしゃむしゃ頬張り、さて、腰に提げた瓢の酒を喇叭飲みにした。
うまかった。
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旨かった。
ゴクリゴクリと彼は音を立てて飲んだ。
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ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。
瓢箪の底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
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瓢の底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
底の細かい砂の一粒一粒がはっきり見分けられるほど明るかった。
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底の真砂の一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。
水草に沿って、絶えず小さな水の泡の列が水銀球のように光り、揺れながら昇っていく。
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水草に沿うて、絶えず小さな水泡の列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。
ときどき彼の姿を見て逃げ出す小魚どもの腹が白く光っては緑の藻(も)の影に消える。
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ときどき渠の姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては青水藻の影に消える。
悟浄はしだいにうっとりしてきた。
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悟浄はしだいに陶然としてきた。
柄にもなく歌が歌いたくなり、もう少しで声を張り上げるところだった。
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柄にもなく歌が唱いたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。
そのとき、ごく遠くの方で誰かが歌っているらしい声が耳にはいってきた。
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そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。
彼は立ち止まって耳をすました。
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渠は立停まって耳をすました。
その声は水の外から来るようでもあり、川底のどこか遠くから来るようでもある。
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その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。
低いけれどもすみ通った声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、
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低いけれども澄透った声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、
江の国の春風は吹いても波を立てられず
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江国春風吹不起
やまどりは鳴いて深い花の中にいる
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鷓鴣啼在深花裏
三段の高波を経て魚が竜になる
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三級浪高魚化竜
愚かな人はなおも夜の池の水をくむ
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痴人猶𡰷夜塘水
どうやら、そんな文句のようでもある。
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どうやら、そんな文句のようでもある。
悟浄はその場に腰を下ろして、なおもじっと聴き入った。
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悟浄はその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。
青白い月の光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛(つのぶえ)の音のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
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青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の音のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
眠ったのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。
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寐たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。
悟浄は、魂が甘くうずくような気持で、ぼんやりと永い間そこにうずくまっていた。
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悟浄は、魂が甘く疼くような気持で茫然と永い間そこに蹲っていた。
そのうちに、彼は不思議な、夢とも幻ともつかない世界に入って行った。
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そのうちに、渠は奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。
水草も魚の影も突然彼の視界から消え去り、急に、えもいわれぬ蘭やじゃ香のような香りが漂ってきた。
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水草も魚の影も卒然と渠の視界から消え去り、急に、得もいわれぬ蘭麝の匂いが漂うてきた。
と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを彼は見た。
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と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
前の者は手に錫杖(しゃくじょう、旅のお坊さんが持つ杖)をついた、ひと癖ありそうな堂々とした男。
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前なるは手に錫杖をついた一癖ありげな偉丈夫。
後ろの者は、頭に宝石の飾りをまとい、頂に肉の盛り上がりがあり、おごそかで端正な姿に、ほのかに後光が輝いておられるのは、明らかに普通の人ではないと見えた。
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後ろなるは、頭に宝珠瓔珞を纏い、頂に肉髻あり、妙相端厳、仄かに円光を負うておられるは、何さま尋常人ならずと見えた。
さて前の者が近づいて言った。
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さて前なるが近づいて言った。
「我は托塔天王(たくとうてんおう)の二番目の息子、木叉恵岸(もくしゃえがん)。これにいますはすなわち、わが師、南海の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)さまじゃ。天竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)から、阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)・人・人でない者に至るまで等しく慈悲をかけてくださるわが師には、このたび、お前、悟浄の苦しみをご覧になって、特にここにお降りになって救ってくださるのじゃ。ありがたく承るがよい。」
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「我は托塔天王の二太子、木叉恵岸。これにいますはすなわち、わが師父、南海の観世音菩薩摩訶薩じゃ。天竜・夜叉・乾闥婆より、阿脩羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・非人に至るまで等しく憫れみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、爾、悟浄が苦悩をみそなわして、特にここに降って得度したもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
思わず頭を垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙なる音(みょうおん)というか、清らかな声(梵音・ぼんおん)というか、海の波の音(海潮音・かいちょうおん)というか――が響いてきた。
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覚えず頭を垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙音というか、梵音というか、海潮音というか、――が響いてきた。
「悟浄よ、しっかりと、わが言葉を聴いて、よくこれを心に思え。身の程知らずの悟浄よ。まだ得ていないのに得たと言い、まだ証明していないのに証明したと言うのさえ、世尊(せそん)はこれを増上慢(ぞうじょうまん、思い上がり)として非難された。さすれば、証明できるはずのないことを証明しようと求めたお前のごときは、これを極みの増上慢といわずしてなんといおうぞ。お前の求めるところは、阿羅漢(あらかん)も辟支仏(びゃくしぶつ)もまだ求めることができず、また求めようともしないところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにしてお前の魂はかくもあさましい迷路に入ったぞ。正しい見方を得れば清らかな成果(浄業・じょうごう)はすぐに成るべきに、お前、心が弱くよこしまな見方に陥り、今この多くの苦悩に遭う。思うに、お前は観想(かんそう)によって救われるべくもないゆえ、これよりのちは、すべての思念を捨て、ただただ体を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の働きのことじゃ。世界は、大まかに見れば無意味のようなれども、その細かい部分に直接働きかけるときはじめて無限の意味を持つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打ち込め。身の程知らぬ『なぜ』は、今後いっさい捨てることじゃ。これをよそにして、お前の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方の金蝉(きんせん)長老の生まれ変わり、玄奘法師(げんじょうほうし)と、その二人の弟子どもじゃ。唐(とう)の太宗皇帝(たいそうこうてい)の命令を受け、天竺国(てんじくこく、今のインド)の大雷音寺(だいらいおんじ)に大乗仏教の真の教え(真経・しんぎょう)を取りに行くものじゃ。悟浄よ、お前も玄奘に従って西方に向かえ。これがお前にふさわしき場所であり、また、お前にふさわしき勤めじゃ。道は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空(ごくう)なるものがある。知識は少なく、ただ、信じて疑わないものじゃ。お前は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
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「悟浄よ、諦かに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の程知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ証せざるを証せりと言うのをさえ、世尊はこれを増上慢とて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた爾のごときは、これを至極の増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢も辟支仏もいまだ求むる能わず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣にして邪観に陥り、今この三途無量の苦悩に遭う。惟うに、爾は観想によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉長老の転生、玄奘法師と、その二人の弟子どもじゃ。唐の太宗皇帝の綸命を受け、天竺国大雷音寺に大乗三蔵の真経をとらんとて赴くものじゃ。悟浄よ、爾も玄奘に従うて西方に赴け。これ爾にふさわしき位置にして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。途は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空なるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
悟浄が再び頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。
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悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。
彼はぼんやりと川底の月明かりの中に立ちつくした。
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渠は茫然と水底の月明の中に立ちつくした。
妙な気持である。
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妙な気持である。
ぼんやりした頭の隅で、彼は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
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ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の俺だったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩(ぼさつ)の言葉だって、考えてみりゃ、女偊氏や虯髯鮎子の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救いになるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧(とうそう)とやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
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「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の俺だったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩の言葉だって、考えてみりゃ、女偊氏や虯髯鮎子の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救済になるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧とやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
彼はそう思って久しぶりに微笑(ほほえ)んだ。
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渠はそう思って久しぶりに微笑した。
七
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七
その年の秋、悟浄は、はたして、大唐(だいとう)の玄奘法師に出会い奉り、その力で、水から出て人間に生まれ変わることができた。
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その年の秋、悟浄は、はたして、大唐の玄奘法師に値遇し奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。
そうして、勇敢で天真爛漫(てんしんらんまん)な聖天大聖(せいてんたいせい)孫悟空(そんごくう)や、怠け者の楽天家、天蓬元帥(てんぽうげんすい)猪悟能(ちょごのう)とともに、新しい旅の道に上ることとなった。
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そうして、勇敢にして天真爛漫な聖天大聖孫悟空や、怠惰な楽天家、天蓬元帥猪悟能とともに、新しい遍歴の途に上ることとなった。
しかし、その旅の途中でも、まだすっかりは昔の病の抜け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖をやめなかった。
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しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病の脱け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖を止めなかった。
彼はつぶやいた。
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渠は呟いた。
「どうも変だな。どうも腑(ふ)に落ちない。分からないことをむりに尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも曖昧(あいまい)だな! あまりみごとな脱皮(だっぴ)ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得(なっとく)がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
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「どうもへんだな。どうも腑に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも曖昧だな! あまりみごとな脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
――「わが西遊記」
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――「わが西遊記」
の中――
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