悟浄出世 現代語訳
中島敦(なかじまあつし)・1968年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
秋の初め、セミは枯れた柳で鳴き、天の川は西へと流れていくころ、三蔵は二人の弟子に連れられ、心細い思いで険しい道を急いでいた。すると突然、行く手に一本の大きな川が現れた。
原文を見る
寒蝉敗柳に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵は二人の弟子にいざなわれ嶮難を凌ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。
大波が激しくうねり、川幅は果てしなく広かった。
原文を見る
大波湧返りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。
岸に上がって見渡すと、そばに一本の石碑があった。
原文を見る
岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。
碑の上部には「流沙河」の三文字が篆書体で彫られ、表面には四行の小さな楷書が刻まれていた。
原文を見る
上に流沙河の三字を篆字にて彫付け、表に四行の小楷字あり。
流沙の世界は八百里に及ぶ
原文を見る
八百流沙界
弱水の深さは三千丈
原文を見る
三千弱水深
鵞鳥の羽毛でも浮かばず漂うことができない
原文を見る
鵞毛飄不起
葦の花も底に沈んで動かない
原文を見る
蘆花定底沈
――西遊記――
原文を見る
――西遊記――
一
原文を見る
一
そのころ、流沙河の川底には約一万三千もの妖怪が住んでいたが、その中で彼ほど気の弱いものはいなかった。
原文を見る
そのころ流沙河の河底に栖んでおった妖怪の総数およそ一万三千、なかで、渠ばかり心弱きはなかった。
彼によると、自分はこれまでに九人の僧侶を食った罰で、その九人のしゃれこうべが自分の首にまとわりついて離れないのだというが、ほかの妖怪たちにはそんなしゃれこうべは誰にも見えなかった。
原文を見る
渠に言わせると、自分は今までに九人の僧侶を啖った罰で、それら九人の骸顱が自分の頸の周囲について離れないのだそうだが、他の妖怪らには誰にもそんな骸顱は見えなかった。
「見えない。それはお前の気のせいだ」
原文を見る
「見えない。それは儞の気の迷いだ」
と言うと、彼は信じられないような目で皆を見回し、それからなぜ自分はみんなと違うのだろう、というような悲しそうな表情に沈むのだった。
原文を見る
と言うと、渠は信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。
ほかの妖怪たちはお互いに言い合った。
原文を見る
他の妖怪らは互いに言合うた。
「あいつは、僧侶どころか、まともに人間さえ食ったことはないだろう。誰もそれを見たことがないのだから。フナや小魚を捕って食っているのなら見たこともあるがな」
原文を見る
「渠は、僧侶どころか、ろくに人間さえ咋ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。鮒やざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」
と。
原文を見る
と。
また彼らは彼にあだ名をつけて、「独言悟浄」と呼んだ。
原文を見る
また彼らは渠に綽名して、独言悟浄と呼んだ。
彼が常に自分自身に不安を感じ、身を切り刻むような後悔に苦しめられ、心の中で繰り返されるその悲しい自己責めが、ついひとりごとになって漏れ出るからである。
原文を見る
渠が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己苛責が、つい独り言となって洩れるがゆえである。
遠くから見ると小さな泡が彼の口から出ているだけのように見えるときでも、実は彼がかすかな声でつぶやいているのだった。
原文を見る
遠方から見ると小さな泡が渠の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微かな声で呟いているのである。
「俺はばかだ」
原文を見る
「俺はばかだ」
とか、「どうして俺はこうなんだろう」
原文を見る
とか、「どうして俺はこうなんだろう」
とか、「もうだめだ。俺は」
原文を見る
とか、「もうだめだ。俺は」
とか、ときとして「俺は堕天使だ」
原文を見る
とか、ときとして「俺は堕天使だ」
とか。
原文を見る
とか。
当時は、妖怪に限らず、あらゆる生き物はすべて何かの生まれ変わりだと信じられていた。
原文を見る
当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。
悟浄がかつて天上界の霊霄殿で捲簾大将を務めていたことは、この川底では誰もが知っていた。
原文を見る
悟浄がかつて天上界で霊霄殿の捲簾大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。
それゆえかなり懐疑的な悟浄自身も、結局それを信じているふりをしなければならなかった。
原文を見る
それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。
しかし実を言えば、すべての妖怪の中で彼ひとりだけが、ひそかに生まれ変わりの説に疑いを持っていた。
原文を見る
が、実をいえば、すべての妖怪の中で渠一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。
五百年前に天上界で捲簾大将をしていた者が今の俺になったのだとして、はたしてその昔の捲簾大将と今の俺とが同じものだと言えるのだろうか?
原文を見る
天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか?
まず第一に、俺は昔の天上界のことを何ひとつ覚えていない。
原文を見る
第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。
その記憶もない昔の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。
原文を見る
その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。
体が同じなのだろうか?
原文を見る
身体が同じなのだろうか?
それとも魂が、だろうか?
原文を見る
それとも魂が、だろうか?
ところで、そもそも魂とはなんだ?
原文を見る
ところで、いったい、魂とはなんだ?
こうした疑問を彼が漏らすと、妖怪どもは「また始まった」
原文を見る
こうした疑問を渠が洩らすと、妖怪どもは「また、始まった」
と言って笑うのだった。
原文を見る
といって嗤うのである。
あるものは馬鹿にするように、あるものは気の毒そうな顔で「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」
原文を見る
あるものは嘲弄するように、あるものは憐愍の面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」
と言った。
原文を見る
と言うた。
実際、彼は病気だった。
原文を見る
事実、渠は病気だった。
いつごろから、また何がもとでこんな病気になったのか、悟浄はそのどちらも知らなかった。
原文を見る
いつのころから、また、何が因でこんな病気になったか、悟浄はそのどちらをも知らぬ。
ただ、気がついたときにはもう、このようなうっとうしいものが周囲に重々しく立ち込めていた。
原文を見る
ただ、気がついたらそのときはもう、このような厭わしいものが、周囲に重々しく立罩めておった。
彼は何をするのも嫌になり、見るもの聞くものがすべて気持ちを沈ませ、何事につけても自分が嫌になり、自分を信用できなくなってしまった。
原文を見る
渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分が厭わしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。
何日も何日も洞穴に閉じこもり、食事もとらず、ギョロリと目だけ光らせて、彼は物思いに沈んだ。
原文を見る
何日も何日も洞穴に籠って、食を摂らず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。
不意に立ち上がってあたりを歩き回り、何かブツブツひとりごとを言ってはまた突然座り込む。
原文を見る
不意に立上がってその辺を歩き廻り、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。
その動作ひとつひとつを自分では意識していないのだった。
原文を見る
その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。
どんな点がはっきりすれば、自分の不安が消えるのか。
原文を見る
どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。
それさえ彼にはわからなかった。
原文を見る
それさえ渠には解らなんだ。
ただ、今まで当たり前として受け取ってきたことすべてが、不可解で疑わしいものに見えてきた。
原文を見る
ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。
今まで一つのまとまったことだと思っていたものが、バラバラに分解された姿で受け取られ、その一つひとつの部分について考えているうちに、全体の意味がわからなくなってくるというありさまだった。
原文を見る
今まで纏まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
医者でもあり、占星師でもあり、祈祷者でもある一人の年老いた魚の怪物が、あるとき悟浄を見てこう言った。
原文を見る
医者でもあり・占星師でもあり・祈祷者でもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。
「やれ、かわいそうに。難儀な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人はみじめな一生を送らなければなりませぬぞ。もともと我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を食うようになってから、我々の間にもごくまれにこれに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべてのことを素直に受け取ることができぬ。何を見ても何に出会っても『なぜ?』とすぐに考える。究極の、正真正銘の、神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。とりわけ始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いを持つことじゃ。なぜ俺は俺を俺と思うのか? ほかの者を俺と思ってもかまわないだろうに。俺とはいったいなんだ? こう考え始めるのが、この病のいちばん悪い兆候じゃ。どうじゃ。当たっておりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には薬もなければ医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどのきっかけに恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色が晴れる時はありますまいて。」
原文を見る
「やれ、いたわしや。因果な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を咋うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ俺は俺を俺と思うのか? 他の者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」
二
原文を見る
二
文字の発明はとっくに人間の世界から伝わって彼らの世界にも知られていたが、総じて彼らの間には文字を軽蔑する習慣があった。
原文を見る
文字の発明は疾くに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑する習慣があった。
生きた知恵が、そんな文字などという死んだものに書き留められるわけがない。
原文を見る
生きておる智慧が、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。
(絵なら、まだしも描けようが。)
原文を見る
(絵になら、まだしも画けようが。)
それは、煙をその形のままに手でつかもうとするのに似た愚かさだと、一般に信じられていた。
原文を見る
それは、煙をその形のままに手で執らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。
したがって、文字が読めることは、かえって生命力が衰えている証拠として退けられた。
原文を見る
したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候として斥けられた。
悟浄が日ごろ憂鬱なのも、つまるところ彼が文字を読めるせいに違いないと、妖怪どもの間では思われていた。
原文を見る
悟浄が日ごろ憂鬱なのも、畢竟、渠が文字を解するために違いないと、妖怪どもの間では思われておった。
文字は尊ばれなかったが、しかし、思想が軽んじられていたわけではない。
原文を見る
文字は尚ばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。
一万三千の怪物の中には哲学者も少なくなかった。
原文を見る
一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。
ただ、彼らの語彙はひどく乏しかったので、最も難しい大問題が、最も無邪気な言葉で考えられていた。
原文を見る
ただ、彼らの語彙ははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。
彼らは流沙河の川底にそれぞれ「考える店」を張っていたため、この川底には一脈の哲学的な憂鬱が漂っていたほどである。
原文を見る
彼らは流沙河の河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。
ある賢明な老魚は、美しい庭を手に入れ、明るい窓の下で、永遠に悔いのない幸福について瞑想していた。
原文を見る
ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想しておった。
ある高貴な魚族は、美しい縞のある鮮やかな緑の藻の陰で、竪琴をかき鳴らしながら宇宙の音楽的な調和を讃えていた。
原文を見る
ある高貴な魚族は、美しい縞のある鮮緑の藻の蔭で、竪琴をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃えておった。
醜く、のろく、ばか正直で、それでいて自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄は、こうした知的な妖怪どもの間で、いいなぶりものになった。
原文を見る
醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄は、こうした知的な妖怪どもの間で、いい嬲りものになった。
一人の賢そうな怪物が、悟浄に向かい、真面目くさって言った。
原文を見る
一人の聡明そうな怪物が、悟浄に向かい、真面目くさって言うた。
「真理とはなんぞや?」
原文を見る
「真理とはなんぞや?」
そして彼の返事も待たず、嘲りの笑いを口元に浮かべて大股で歩み去った。
原文を見る
そして渠の返辞をも待たず、嘲笑を口辺に浮かべて大胯に歩み去った。
また、一人の妖怪――これはフグの精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ訪ねてきた。
原文を見る
また、一人の妖怪――これは鮐魚の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ訪ねて来た。
悟浄の病因が「死への恐怖」
原文を見る
悟浄の病因が「死への恐怖」
にあると察して、これを笑いに来たのである。
原文を見る
にあると察して、これを哂おうがためにやって来たのである。
「生きている間は死はない。死が来れば、すでに自分はいない。また、何を恐れることがあろう。」
原文を見る
「生ある間は死なし。死到れば、すでに我なし。また、何をか懼れん。」
というのがこの男の論法だった。
原文を見る
というのがこの男の論法であった。
悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。
原文を見る
悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。
というのも、彼自身は決して死を恐れていなかったし、彼の病因もそこにはなかったのだから。
原文を見る
というのは、渠自身けっして死を怖れていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。
笑いにやってきたフグの精は失望して帰っていった。
原文を見る
哂おうとしてやって来た鮐魚の精は失望して帰って行った。
妖怪の世界では、体と心とが人間の世界ほどはっきりと分かれていなかったので、心の病はただちに激しい肉体の苦しみとなって悟浄を責め苛んだ。
原文を見る
妖怪の世界にあっては、身体と心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちに烈しい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。
耐えられなくなった彼は、ついに意を決した。
原文を見る
堪えがたくなった渠は、ついに意を決した。
「これ以上は、どれほど骨が折れようと、また行く先々で馬鹿にされ笑われようと、とにかく一度、この川底に住むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に直接会って、自分が納得のいくまで教えを乞おう」
原文を見る
「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で愚弄され哂われようと、とにかく一応、この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいくまで、教えを乞おう」
と。
原文を見る
と。
彼は粗末な直綴をまとって、旅に出た。
原文を見る
渠は粗末な直綴を纏うて、出発した。
なぜ、妖怪は妖怪であって人間でないのか?
原文を見る
なぜ、妖怪は妖怪であって、人間でないか?
彼らは、自己の属性の一つだけを極度に、他とのバランスをはるかに超えて、醜いまでに、非人間的なまでに発達させた不具者だからである。
原文を見る
彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。
あるものは極度に食いしん坊で、そのため口と腹がやたらに大きく、あるものは極度に好色で、そのためにそれに使われる器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、そのため頭部を除くすべての部分がすっかり退化してしまっていた。
原文を見る
あるものは極度に貪食で、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩で、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。
彼らはいずれも自分の性向や世界観に絶対に固執していて、他者との議論の結果、より高い結論に達するということを知らなかった。
原文を見る
彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に固執していて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。
他人の考えの筋道をたどるには、自分の特徴があまりに著しく伸び切っていたからである。
原文を見る
他人の考えの筋道を辿るにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。
それゆえ、流沙河の水底では、何百もの世界観や形而上学が、決して他と融合することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願いはあれど希望のないため息をもって、揺れ動く無数の藻草のようにゆらゆらとたゆたっていた。
原文を見る
それゆえ、流沙河の水底では、何百かの世界観や形而上学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願望はあれど希望なき溜息をもって、揺動く無数の藻草のようにゆらゆらとたゆとうておった。
三
原文を見る
三
悟浄が最初に訪ねたのは、黒卵道人といって、そのころ最も名高い幻術の大家だった。
原文を見る
最初に悟浄が訪ねたのは、黒卵道人とて、そのころ最も高名な幻術の大家であった。
あまり深くない川底に岩石を重ねて積み上げた洞窟を作り、入口には「斜月三星洞」という額が掛かっていた。
原文を見る
あまり深くない水底に累々と岩石を積重ねて洞窟を作り、入口には斜月三星洞の額が掛かっておった。
この庵主は、魚の顔に人の体で、幻術を巧みに使い、いるとも消えるとも自由自在、冬に雷を起こし夏に氷を作り、鳥を走らせ獣を飛ばすという評判だった。
原文を見る
庵主は、魚面人身、よく幻術を行のうて、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、飛者を走らしめ、走者を飛ばしめるという噂である。
悟浄はこの道人に三か月仕えた。
原文を見る
悟浄はこの道人に三月仕えた。
幻術などはどうでもよかったが、幻術を使いこなせるほどなら真の人物に違いなく、そういう人物なら宇宙の大きな道理を会得しているはずで、自分の病を癒す知恵も持っているだろうと思ったからだ。
原文を見る
幻術などどうでもいいのだが、幻術を能くするくらいなら真人であろうし、真人なら宇宙の大道を会得していて、渠の病を癒すべき智慧をも知っていようと思われたからだ。
しかし、悟浄は失望せざるを得なかった。
原文を見る
しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。
洞窟の奥で大きな海亀の背に座った黒卵道人も、それを取り囲む数十の弟子たちも、口にすることといえばすべて、不思議な法術のことばかり。
原文を見る
洞の奥で巨鼇の背に座った黒卵道人も、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて神変不可思議の法術のことばかり。
また、その術を使って敵をだますとか、どこそこの宝を手に入れるとかいった実用的な話ばかり。
原文を見る
また、その術を用いて敵を欺こうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。
悟浄が求めるような役に立たない思索の相手をしてくれる者は誰一人いなかった。
原文を見る
悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。
結局、馬鹿にされ笑い者になったあげく、悟浄は三星洞を追い出された。
原文を見る
結局、ばかにされ哂いものになった揚句、悟浄は三星洞を追出された。
次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士のところだった。
原文を見る
次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士のところだった。
これは年を経たエビの精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば川底の砂に埋もれて生きていた。
原文を見る
これは、年を経た蝦の精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。
悟浄はまた三か月の間、この老隠士のそばに仕えて、身の回りの世話をしながら、その深い哲学に触れることができた。
原文を見る
悟浄はまた、三月の間、この老隠士に侍して、身の廻りの世話を焼きながら、その深奥な哲学に触れることができた。
年老いたエビの精は曲がった腰を悟浄に揉ませながら、深刻な顔つきで次のように言った。
原文を見る
老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はすべて空虚だ。この世に何か一つでも良いことがあるか。あるとすれば、それはいつかこの世の終わりが来るだろうということだけじゃ。難しい理屈を考えるまでもない。我々の身の回りを見るがいい。絶え間ない変転、不安、苦悩、恐怖、幻滅、争い、飽き。まさに混沌として落ち着くところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその足下の現在は、すぐに消えて過去になる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一歩ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのか。止まろうとすれば倒れるほかないゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生というものじゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、決して、ある現実的な状態を言うものではない。はかない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
原文を見る
「世はなべて空しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理窟を考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、懊悩、恐怖、幻滅、闘争、倦怠。まさに昏々昧々紛々若々として帰するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。停まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢ない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
悟浄の不安そうな顔を見て、慰めるように隠士は付け加えた。
原文を見る
悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように隠士は付加えた。
「だが、若い者よ。そう恐れることはない。波にさらわれる者は溺れるが、波に乗る者はこれを越えることができる。この移り変わりを乗り超えて壊れず動かぬ境地に到ることもできぬではない。昔の真人は、よく善悪を超え是非を超え、自分を忘れ物を忘れ、死なず生まれずの域に達しておったのじゃ。しかし、昔から言われているように、そういう境地が楽しいものだと思ったら大間違い。苦しみもない代わりに、普通の生き物が持つ楽しみもない。無味、無色。まことに味気なきこと、ろうそくのよう、砂のごとしじゃ。」
原文を見る
「だが、若い者よ。そう懼れることはない。浪にさらわれる者は溺れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変をのり超えて不壊不動の境地に到ることもできぬではない。古の真人は、能く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生の域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有つ楽しみもない。無味、無色。誠に味気ないこと蝋のごとく砂のごとしじゃ。」
悟浄は控えめに口を挟んだ。
原文を見る
悟浄は控えめに口を挾んだ。
自分が聞きたいのは、個人の幸福とか、動じない心の確立とかいうことではなく、自己および世界の究極の意味についてだ、と。
原文を見る
自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。
隠士は目やにのたまった目をしょぼしょぼさせながら答えた。
原文を見る
隠士は目脂の溜った眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を置いて客観世界などというものが存在すると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間の間に投射した幻じゃ。自己が死ねば世界は消えますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、ひどい思い違いじゃ。世界が消えても、正体のわからないこの不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
原文を見る
「自己だと? 世界だと? 自己を外にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見じゃ。世界が消えても、正体の判らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
悟浄が仕えてちょうど九十日めの朝、数日間続いた激しい腹痛と下痢の末に、この老隠者は倒れて死んだ。
原文を見る
悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢ののちに、この老隠者は、ついに斃れた。
このような醜い下痢と苦しい腹痛を自分に与えるような客観世界を、自分の死によって消し去れることを喜びながら……。
原文を見る
かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって抹殺できることを喜びながら……。
悟浄は丁寧に後を弔い、涙とともに、また新たな旅に出た。
原文を見る
悟浄は懇ろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。
噂によれば、坐忘先生は常に坐禅を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚ますだけだという。
原文を見る
噂によれば、坐忘先生は常に坐禅を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚まされるだけだという。
そして眠っている間の夢の世界を現実だと信じ、たまに目覚めているときはそれを夢だと思っているそうな。
原文を見る
そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。
悟浄がこの先生をはるばる訪ねてきたとき、やはり先生は眠っておられた。
原文を見る
悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は睡っておられた。
なにしろ流沙河で最も深い谷底で、上からの光もほとんど差してこない有様だったので、悟浄も目が慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に座禅を組んだまま眠っている僧の姿がぼんやりと目の前に浮かび上がってきた。
原文を見る
なにしろ流沙河で最も深い谷底で、上からの光もほとんど射して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に結跏趺坐したまま睡っている僧形がぼんやり目前に浮かび上がってきた。
外からの音も聞こえず、魚類もほとんど来ないその場所で、悟浄もしかたなしに坐忘先生の前に座って目を閉じてみると、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じがした。
原文を見る
外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に坐って眼を瞑ってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
悟浄が来てから四日めに先生は目を開いた。
原文を見る
悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。
目の前で悟浄があわてて立ち上がり礼拝するのを、見るでもなく見ないでもなく、ただ二、三度まばたきをした。
原文を見る
すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝をするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度瞬きをした。
しばらく無言で向かい合って座った後、悟浄は恐る恐る口をきいた。
原文を見る
しばらく無言の対坐を続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。
「先生。さっそくで失礼ですが、一つお伺いします。いったい『我』とはなんでしょうか?」
原文を見る
「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」
「咄! 秦の時代のたくらくさん!」
原文を見る
「咄! 秦時の𨍏轢鑚!」
という激しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒をくらった。
原文を見る
という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を喰った。
彼はよろめいたが、また元の場所に座り直し、しばらくして今度は十分に警戒しながら、さっきの問いを繰り返した。
原文を見る
渠はよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。
今度は棒が下りてこなかった。
原文を見る
今度は棒が下りて来なかった。
厚い唇を開き、顔も体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が夢の中にいるような言葉で答えた。
原文を見る
厚い唇を開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。
「長く食べ物を得ないときに空腹を感じるものがお前じゃ。冬になって寒さを感じるものがお前じゃ。」
原文を見る
「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが儞じゃ。冬になって寒さを感ずるものが儞じゃ。」
さて、そう言って厚い唇を閉じ、しばらく悟浄のほうを見ていたが、やがて目を閉じた。
原文を見る
さて、それで厚い唇を閉じ、しばらく悟浄のほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。
そのまま、五十日間、目を開かなかった。
原文を見る
そうして、五十日間それを開かなかった。
悟浄は根気強く待った。
原文を見る
悟浄は辛抱強く待った。
五十日めに再び目を覚ました坐忘先生は、前に座っている悟浄を見て言った。
原文を見る
五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に坐っている悟浄を見て言った。
「まだいたのか?」
原文を見る
「まだいたのか?」
悟浄は謹んで五十日待った旨を答えた。
原文を見る
悟浄は謹しんで五十日待った旨を答えた。
「五十日?」
原文を見る
「五十日?」
と先生は、例の夢を見るようなとろんとした目を悟浄に向けたが、じっとそのまましばらく黙っていた。
原文を見る
と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。
やがて重い唇が開かれた。
原文を見る
やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る基準が、それを感じる者の実際の感覚以外にないことを知らない者は愚かじゃ。人間の世界には時の長さを計る機械ができたそうじゃが、後々大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿の長寿も朝菌の短命も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つのしかけじゃわい」
原文を見る
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿の寿も、朝菌の夭も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置じゃわい」
そう言い終わると、先生はまた目を閉じた。
原文を見る
そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。
五十日後でなければ再び目が開かれないことを知っていた悟浄は、眠っている先生に向かってうやうやしく頭を下げてから、立ち去った。
原文を見る
五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって恭々しく頭を下げてから、立去った。
「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
原文を見る
「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
と、流沙河の最もにぎやかな四つ辻に立って、一人の若者が叫んでいた。
原文を見る
と、流沙河の最も繁華な四つ辻に立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い生涯が、その前と後に続く無限の大永劫の中に消えていることを思え。我々の住む狭い空間が、我々を知らず我々にも知られない無限の大空間の中に投げ込まれていることを思え。誰か、自分の姿の小ささに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄の鎖につながれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の目の前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酔いしれることに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を、お前の惨めな理性を頼りに自惚れているつもりか? 傲慢な身の程知らずめ! くしゃみ一つ、お前の貧しい理性と意志をもってしては、どうすることもできないではないか。」
原文を見る
「我々の短い生涯が、その前とあととに続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤の中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酩酊とに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を汝の惨めな理性を恃んで自惚れ返っているつもりか? 傲慢な身の程知らずめ! 噴嚏一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
色白の青年は頬を紅潮させ、声を嗄らして叱りつけた。
原文を見る
白皙の青年は頬を紅潮させ、声を嗄らして叱咤した。
その女性的な高貴な風貌のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。
原文を見る
その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。
悟浄は驚きながら、その燃えるように美しい瞳を見つめた。
原文を見る
悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳に見入った。
彼は青年の言葉から、炎のような聖い矢が自分の魂に向けて放たれるのを感じた。
原文を見る
渠は青年の言葉から火のような聖い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々にできることは、ただ神を愛し自己を憎むことだけだ。部分は、みずからを独立した本体だと自惚れてはならぬ。あくまで全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
原文を見る
「我々の為しうるのは、ただ神を愛し己を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
確かにこれは清く優れた魂の声だと悟浄は思い、しかしそれにもかかわらず、自分が今求めているものがこのような神の声ではないことも、また感じずにはいられなかった。
原文を見る
確かにこれは聖く優れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今饑えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。
教えは薬のようなもので、おこりを病む者の前に腫れ物の薬を勧めてもしかたがない、とそのようなことも思った。
原文を見る
訓言は薬のようなもので、痎瘧を病む者の前に瘇腫の薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。
その四つ辻からほど近い道ばたで、悟浄は醜いこじきを見た。
原文を見る
その四つ辻から程遠からぬ路傍で、悟浄は醜い乞食を見た。
恐ろしいせむしで、高く盛り上がった背骨に引っ張られて五臓はすべて上に昇ってしまい、頭のてっぺんは肩よりずっと低く落ち込んで、あごはへそを隠すほどだった。
原文を見る
恐ろしい佝僂で、高く盛上がった背骨に吊られて五臓はすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、頤は臍を隠すばかり。
おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛れた腫れ物が崩れているありさまに、悟浄は思わず足を止めてため息をついた。
原文を見る
おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛れた腫物が崩れている有様に、悟浄は思わず足を停めて溜息を洩らした。
すると、うずくまっているそのこじきは、首が自由にならないまま、赤く濁った目玉をじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。
原文を見る
すると、蹲っているその乞食は、頸が自由にならぬままに、赤く濁った眼玉をじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。
それから、上に吊り上がった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、彼を見上げて言った。
原文を見る
それから、上に吊上がった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、渠を見上げて言った。
「出しゃばりじゃな、わしを憐れみなさるとは。若いかたよ。わしをかわいそうなやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほどかわいそうに思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが恨んでいるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を褒めているくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんな面白い恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左肘が鶏になったら、時を告げさせようし、右肘が弓になったら、それでふくろうでもとって炙り肉をこしらえようし、わしの尻が車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえない乗り物で、重宝じゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、子輿といってな、子祀、子犁、子来という三人の親友がありますじゃ。みんな女偊氏の弟子でな、物の形を超えて不生不死の境地に入ったれば、水にも濡れず火にも焼けず、寝て夢見ず、覚めて憂いなきものじゃ。この間も、四人で笑って話したことがある。わしらは、無をもって頭とし、生をもって背とし、死をもって尻としているわけじゃとな。アハハハ……。」
原文を見る
「僭越じゃな、わしを憐れみなさるとは。若いかたよ。わしを可哀想なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を讃めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左臂が鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が弾き弓になったら、それで鴞でもとって炙り肉をこしらえようし、わしの尻が車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、重宝じゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、子輿というてな、子祀、子犁、子来という三人の莫逆の友がありますじゃ。みんな女偊氏の弟子での、ものの形を超えて不生不死の境に入ったれば、水にも濡れず火にも焼けず、寝て夢見ず、覚めて憂いなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって首とし、生をもって背とし、死をもって尻としとるわけじゃとな。アハハハ……。」
気味の悪い笑い声にぎょっとしながらも、悟浄はこのこじきこそあるいは真人というものかもしれないと思った。
原文を見る
気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは真人というものかもしれんと思うた。
この言葉が本物だとすれば、たいしたものだ。
原文を見る
この言葉が本物だとすればたいしたものだ。
しかし、この男の言葉や態度のどこかに誇示的なものが感じられ、それが苦痛を我慢して無理に強がっているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿の臭さとが悟浄に生理的な反発を起こさせた。
原文を見る
しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿の臭さとが悟浄に生理的な反撥を与えた。
彼はかなり心を引かれながらも、ここでこじきに仕えることだけは思いとどまった。
原文を見る
渠はだいぶ心を惹かれながらも、ここで乞食に仕えることだけは思い止まった。
ただ、さっきの話の中にあった女偊氏とやらについて教えを乞いたいと思ったので、そのことを漏らした。
原文を見る
ただ先刻の話の中にあった女偊氏とやらについて教えを乞いたく思うたので、そのことを洩らした。
「ああ、師父か。師父はな、これより北の方、二千八百里、この流沙河が赤水・墨水と合流するあたりに、庵を結んでおられる。お前さんの志さえ堅固なら、ずいぶんと教えも授けてくださろう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申し上げてくだされい。」
原文を見る
「ああ、師父か。師父はな、これより北の方、二千八百里、この流沙河が赤水・墨水と落合うあたりに、庵を結んでおられる。お前さんの道心さえ堅固なら、ずいぶんと、教訓も垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」
と、みじめなせむしは、とがった肩を精一杯いからせて横柄に言った。
原文を見る
と、みじめな佝僂は、尖った肩を精一杯いからせて横柄に言うた。
四
原文を見る
四
流沙河と墨水と赤水の合流点を目指して、悟浄は北へと旅をした。
原文を見る
流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、悟浄は北へ旅をした。
夜は葦の間で仮眠をとり、朝になればまた、果てしない川底の砂原を北へ向かって歩き続けた。
原文を見る
夜は葦間に仮寝の夢を結び、朝になれば、また、果知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。
楽しそうに銀の鱗を翻す魚どもを見ては、なぜ自分一人はこんなにも心が楽しまないのかと思い悩みながら、彼は毎日歩いた。
原文を見る
楽しげに銀鱗を翻えす魚族どもを見ては、何故に我一人かくは心怡しまぬぞと思い侘びつつ、渠は毎日歩いた。
途中でも、目ぼしい道人や修験者の類は、残らずその門を叩くことにしていた。
原文を見る
途中でも、目ぼしい道人修験者の類は、剰さずその門を叩くことにしていた。
大食らいと怪力で知られる虯髯鮎子を訪ねたとき、色が真っ黒で逞しいこのナマズの妖怪は、長いひげをなでながら「遠くのことばかり考えていると、必ず手近の憂いが生まれる。知恵のある者は大局を見ようとはせぬものじゃ。」
原文を見る
貪食と強力とをもって聞こえる虯髯鮎子を訪ねたとき、色あくまで黒く、逞しげな、この鯰の妖怪は、長髯をしごきながら「遠き慮のみすれば、必ず近き憂いあり。達人は大観せぬものじゃ。」
と教えた。
原文を見る
と教えた。
「たとえばこの魚じゃ。」
原文を見る
「たとえばこの魚じゃ。」
と、鮎子は目の前を泳ぎ過ぎる一尾のコイをつかみ取ったかと思うと、それをむしゃむしゃかじりながら、説くのである。
原文を見る
と、鮎子は眼前を泳ぎ過ぎる一尾の鯉を掴み取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。
「この魚だが、この魚がなぜわしの目の前を通り、しかしてわしの餌とならなければならない因縁を持っているか、をつくづく考えることは、いかにも仙人らしい振る舞いじゃが、コイを捕える前にそんなことをくどくどと考えていたら、獲物は逃げていくばかりじゃ。まずすばやくコイを捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅くはない。コイはなぜコイなのか、コイとフナとの違いについての形而上学的考察、等々の、ばかばかしく高尚な問題にひっかかって、いつもコイを捕えそこなう男じゃろう、お前は。お前のものうげな目の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」
原文を見る
「この魚だが、この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わしの餌とならねばならぬ因縁をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲にふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は何故に鯉なりや、鯉と鮒との相異についての形而上学的考察、等々の、ばかばかしく高尚な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前は。おまえの物憂げな眼の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」
確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。
原文を見る
確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。
妖怪はそのときすでにコイを平らげてしまい、なお貪欲そうな目つきを悟浄のうなだれた首筋に注いでいたが、急に、その目が光り、のどがゴクリと鳴った。
原文を見る
妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお貪婪そうな眼つきを悟浄のうなだれた頸筋に注いでおったが、急に、その眼が光り、咽喉がゴクリと鳴った。
ふと首を上げた悟浄は、とっさに危険なものを感じて身を引いた。
原文を見る
ふと首を上げた悟浄は、咄嗟に、危険なものを感じて身を引いた。
妖怪の刃のように鋭い爪が、恐ろしい速さで悟浄ののどをかすめた。
原文を見る
妖怪の刃のような鋭い爪が、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。
最初の一撃を失敗した妖怪の怒りに燃えた貪欲な顔が大きく迫ってきた。
原文を見る
最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた貪食的な顔が大きく迫ってきた。
悟浄は強く水を蹴って泥煙を立てるとともに、あわてて洞穴から逃れ出た。
原文を見る
悟浄は強く水を蹴って、泥煙を立てるとともに、愴惶と洞穴を逃れ出た。
厳しい現実精神をあの獰猛な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と悟浄は震えながら考えた。
原文を見る
苛刻な現実精神をかの獰猛な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は顫えながら考えた。
隣人愛の説き手として有名な無腸公子の講義に列したときは、説教の半ばにしてこの聖僧が突然空腹に駆られて、自分の実の子(もっとも彼はカニの精ゆえ、一度に無数の子供を卵から孵すのだが)を二、三人むしゃむしゃ食べてしまったのを見て、仰天した。
原文を見る
隣人愛の教説者として有名な無腸公子の講筵に列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然饑えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は蟹の妖精ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ喰べてしまったのを見て、仰天した。
慈悲と忍辱を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。
原文を見る
慈悲忍辱を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。
そして食い終わってから、その事実も忘れたかのように、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。
原文を見る
そして、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。
忘れたのではなく、さっきの空腹を満たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに違いない。
原文を見る
忘れたのではなくて、先刻の飢えを充たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。
ここにこそ俺の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と悟浄は妙な理屈をつけて考えた。
原文を見る
ここにこそ俺の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、悟浄はへんな理窟をつけて考えた。
俺の生活のどこに、あのような本能的で我を忘れた瞬間があるか。
原文を見る
俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。
彼は貴い教えを得たと思い、ひざまずいて拝んだ。
原文を見る
渠は、貴き訓を得たと思い、跪いて拝んだ。
いや、こんなふうにしていちいち概念的な解釈をつけてみなければ気が済まないところに、俺の弱点があるのだ、と彼はもう一度思い直した。
原文を見る
いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。
教訓を缶詰にしないで生のまま身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄はもう一度お辞儀をしてから、うやうやしく立ち去った。
原文を見る
教訓を、罐詰にしないで生のままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、拝をしてから、うやうやしく立去った。
蒲衣子の庵は、変わった道場である。
原文を見る
蒲衣子の庵室は、変わった道場である。
わずか四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みにならって、自然の秘密を探究する者たちだった。
原文を見る
僅か四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに倣うて、自然の秘鑰を探究する者どもであった。
探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。
原文を見る
探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。
彼らが務めるのは、ただ自然を見て、しみじみとその美しい調和の中に溶け込んでいくことだった。
原文を見る
彼らの勤めるのは、ただ、自然を観て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く磨き上げることです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」
原文を見る
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗煉することです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」
と弟子の一人が言った。
原文を見る
と弟子の一人が言った。
「心を深く沈めて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、薄青い氷、紅藻の揺れ、夜の水中で細かくきらめく珪藻類の光、オウムガイの螺旋、紫水晶の結晶、ざくろ石の紅、蛍石の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」
原文を見る
「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧い氷、紅藻の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻類の光、鸚鵡貝の螺旋、紫水晶の結晶、柘榴石の紅、螢石の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」
彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
原文を見る
彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
「それなのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消え去り、私どもはまたしても、美しいけれど冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」
原文を見る
「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」
と、また別の弟子が続けた。
原文を見る
と、また、別の弟子が続けた。
「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く沈んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『見ることが愛することであり、愛することが創ることである』ような瞬間を持つことができるでしょうから。」
原文を見る
「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが創造ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
その間も、師の蒲衣子は一言も口をきかず、鮮やかな緑の孔雀石を一つ手のひらにのせて、深い喜びをたたえた穏やかな眼差しで、じっとそれを見つめていた。
原文を見る
その間も、師の蒲衣子は一言も口をきかず、鮮緑の孔雀石を一つ掌にのせて、深い歓びを湛えた穏やかな眼差で、じっとそれを見つめていた。
悟浄は、この庵に一か月ほど滞在した。
原文を見る
悟浄は、この庵室に一月ばかり滞在した。
その間、彼も彼らとともに自然の詩人となって宇宙の調和を讃え、その最も深い生命に同化することを願った。
原文を見る
その間、渠も彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を讃え、その最奥の生命に同化することを願うた。
自分にとって場違いだとは感じながらも、彼らの静かな幸福に引かれたからである。
原文を見る
自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に惹かれたためである。
弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。
原文を見る
弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。
肌は白魚のように透き通り、黒い瞳は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる巻き毛はハトの胸毛のように柔らかだった。
原文を見る
肌は白魚のように透きとおり、黒瞳は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる捲毛は鳩の胸毛のように柔らかであった。
心に少しの憂いがあるときは、月の前を横切る薄雲ほどのかすかな翳りが美しい顔にかかり、喜びのあるときは静かに澄んだ瞳の奥が夜の宝石のように輝いた。
原文を見る
心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの微かな陰翳が美しい顔にかかり、歓びのあるときは静かに澄んだ瞳の奥が夜の宝石のように輝いた。
師も仲間もこの少年を愛した。
原文を見る
師も朋輩もこの少年を愛した。
素直で純粋で、この少年の心は疑うことを知らなかった。
原文を見る
素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。
ただあまりに美しく、あまりにか細く、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。
原文を見る
ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。
少年は、暇さえあれば、白い石の上に薄い飴色の蜂蜜を垂らして、それでひるがおの花を描いていた。
原文を見る
少年は、ひまさえあれば、白い石の上に淡飴色の蜂蜜を垂らして、それでひるがおの花を画いていた。
悟浄がこの庵を去る四、五日前のこと、少年は朝、庵を出たっきりで戻ってこなかった。
原文を見る
悟浄がこの庵室を去る四、五日前のこと、少年は朝、庵を出たっきりでもどって来なかった。
彼と一緒に出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。
原文を見る
彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。
自分が油断しているすきに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。
原文を見る
自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。
ほかの弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子はまじめにそれを認めた。
原文を見る
他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子はまじめにそれをうべなった。
そうかもしれぬ、あの子ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
原文を見る
そうかもしれぬ、あの児ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
悟浄は、自分を食おうとしたナマズの妖怪の逞しさと、水に溶け去った少年の美しさとを並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。
原文を見る
悟浄は、自分を取って喰おうとした鯰の妖怪の逞しさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。
蒲衣子の次に、彼は斑衣鱖婆のところへ行った。
原文を見る
蒲衣子の次に、渠は斑衣鱖婆の所へ行った。
すでに五百余歳を経ている女の怪物だったが、肌のしなやかさは少しも処女と変わらず、その艶めかしい姿は鉄のような心をも溶かすと言われていた。
原文を見る
すでに五百余歳を経ている女怪だったが、肌のしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、婀娜たるその姿態は能く鉄石の心をも蕩かすといわれていた。
肉の快楽を極めることを唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に部屋を何十とつらね、容姿の整った若者を集めてそこに満たし、その楽しみに耽るにあたっては、身内も締め出し、交際も絶ち、後庭に隠れて、昼を夜に継いで、三か月に一度しか外に顔を出さないのだった。
原文を見る
肉の楽しみを極めることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿端正な若者を集めて、この中に盈たし、その楽しみに耽けるにあたっては、親昵をも屏け、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、三月に一度しか外に顔を出さないのである。
悟浄が訪ねたのはちょうどその三か月に一度のときに当たったので、幸いにも老女怪に会うことができた。
原文を見る
悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。
道を求める者と聞いて、鱖婆は悟浄に説き聞かせた。
原文を見る
道を求める者と聞いて、鱖婆は悟浄に説き聞かせた。
ものうい疲れの影を、あでやかな姿のどこかに見せながら。
原文を見る
ものうい憊れの翳を、嬋娟たる容姿のどこかに見せながら。
「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙人の修業も、つまりはこうした最上の法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を受けるということは、実に、無限の時間の中でも出会いがたく、ありがたいことです。しかも一方、死はあきれるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。出会いがたい生をもって、来やすい死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あのしびれるような歓喜! いつも新しいあの陶酔!」
原文を見る
「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙哲の修業も、つまりはこうした無上法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河沙劫無限の時間の中でも誠に遇いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの痺れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」
と女怪は酔ったように色っぽい目を細くして叫んだ。
原文を見る
と女怪は酔ったように豔妖淫靡な眼を細くして叫んだ。
「あなたはお気の毒ながらたいへん醜いかたゆえ、私のところに留まっていただこうとは思いませぬから、本当のことを申しますが、実は、私の後の部屋では毎年百人ずつの若い男が疲れのために死んでいきます。しかしね、断っておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを恨んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
原文を見る
「貴方はお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに留まっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が困憊のために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを怨んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
悟浄の醜さを哀れむような目つきをしながら、最後に鱖婆はこうつけ加えた。
原文を見る
悟浄の醜さを憐れむような眼つきをしながら、最後に鱖婆はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
原文を見る
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しながら、悟浄はなおも旅を続けた。
原文を見る
醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。
賢人たちの説くことはあまりにもまちまちで、彼はまったく何を信じていいやらわからなかった。
原文を見る
賢人たちの説くところはあまりにもまちまちで、渠はまったく何を信じていいやら解らなかった。
「我とはなんですか?」
原文を見る
「我とはなんですか?」
という彼の問いに対して、一人の賢者はこう言った。
原文を見る
という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。
「まず吠えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようならガチョウじゃ」
原文を見る
「まず吼えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵝鳥じゃ」
と。
原文を見る
と。
別の賢者はこう教えた。
原文を見る
他の賢者はこう教えた。
「自己とはなんぞやと無理に言い表そうとさえしなければ、自己を知るのは比較的難しくない」
原文を見る
「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」
と。
原文を見る
と。
また、言うには「目は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とはつまるところ、我が知ることのできないものだ」
原文を見る
また、曰く「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮、我の知る能わざるものだ」
と。
原文を見る
と。
別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。今の意識が生まれる以前の、無限の時を通じて我と呼ばれていたものがあった。(それを誰も今は覚えていないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が滅びた後の無限の時を通じて、また我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことをすっかり忘れているに違いないが」
原文を見る
別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が亡びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」
と。
原文を見る
と。
次のように言った男もあった。
原文を見る
次のように言った男もあった。
「一つながりの我とはなんだ? それは記憶の影が積み重なったものだよ」
原文を見る
「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積だよ」
と。
原文を見る
と。
この男はまた悟浄にこう教えてくれた。
原文を見る
この男はまた悟浄にこう教えてくれた。
「記憶を失うということが、俺たちが毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているから、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れてしまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの感覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れてしまっているんだ。それらの、ほんのわずか一部の、おぼろげな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間というやつは、なんと、たいしたものじゃないか」
原文を見る
「記憶の喪失ということが、俺たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの僅か一部の、朧げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」
と。
原文を見る
と。
さて、五年近い遍歴の間、同じ症状に違った処方をする多くの医者たちの間を行き来するような愚かさを繰り返した後、悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。
原文を見る
さて、五年に近い遍歴の間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。
賢くなるどころか、なにかしら自分がふわふわした(自分でないような)わけのわからないものに成り果てたような気がした。
原文を見る
賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。
昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりはしっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重みを持っていたように思う。
原文を見る
昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を有っていたように思う。
それが今は、まるで重さのない、吹けば飛ぶようなものになってしまった。
原文を見る
それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。
外からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中身のまるでないものに。
原文を見る
外からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。
こいつはいけないぞ、と悟浄は思った。
原文を見る
こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。
思索による意味の探索以外に、もっと直接的な答えがあるのではないかという予感もした。
原文を見る
思索による意味の探索以外に、もっと直接的な解答があるのではないか、という予感もした。
こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした自分の愚かさ。
原文を見る
こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした己の愚かさ。
そういうことに気がつき始めたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、彼は目指す女偊氏のもとに着いた。
原文を見る
そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、渠は目指す女偊氏のもとに着いた。
女偊氏は一見きわめて平凡な仙人で、むしろ鈍くさくさえ見えた。
原文を見る
女偊氏は一見きわめて平凡な仙人で、むしろ迂愚とさえ見えた。
悟浄が来ても別に彼を使うでもなく、教えるでもなかった。
原文を見る
悟浄が来ても別に渠を使うでもなく、教えるでもなかった。
堅く強ばったものは死の仲間、柔らかくしなやかなものは生の仲間なれば、「学ぼう。学ぼう」
原文を見る
堅彊は死の徒、柔弱は生の徒なれば、「学ぼう。学ぼう」
というガチガチの態度を嫌われたもののようである。
原文を見る
というコチコチの態度を忌まれたもののようである。
ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何かつぶやいておられることがある。
原文を見る
ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何か呟いておられることがある。
そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞き取れない。
原文を見る
そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。
三か月の間、彼はついになんの教えも聞くことができなかった。
原文を見る
三月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。
「賢者が他人について知るよりも、愚者が己について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」
原文を見る
「賢者が他人について知るよりも、愚者が己について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」
というのが、女偊氏から聞けた唯一の言葉だった。
原文を見る
というのが、女偊氏から聞きえた唯一の言葉だった。
三か月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、別れを告げに師のもとへ行った。
原文を見る
三月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、暇乞いに師のもとへ行った。
するとそのとき、珍しいことに女偊氏はくどくどと悟浄に教えを語り始めた。
原文を見る
するとそのとき、珍しくも女偊氏は縷々として悟浄に教えを垂れた。
「目が三つないからといって悲しむことの愚かさについて」
原文を見る
「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」
「爪や髪の伸びをも自分の意志でコントロールしようとしなければ気が済まない者の不幸について」
原文を見る
「爪や髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」
「酔っている者は車から落ちても傷つかないことについて」
原文を見る
「酔うている者は車から墜ちても傷つかないことについて」
「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は船酔いを知らない豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
原文を見る
「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
女偊氏は、自分がかつて知っていた、ある神通力を持つ魔物のことを話した。
原文を見る
女偊氏は、自分のかつて識っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。
その魔物は、上は星の運行から下は微生物の生死に至るまで、何一つ知らないことなく、深く微妙な計算によって、過去のあらゆる出来事をさかのぼって知るとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推し知ることができたのだった。
原文を見る
その魔物は、上は星辰の運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、深甚微妙な計算によって、既往のあらゆる出来事を溯って知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。
ところが、この魔物はひどく不幸だった。
原文を見る
ところが、この魔物はたいへん不幸だった。
というのは、この魔物があるときふと、「自分がすべて予見できる全世界の出来事が、なぜ(経緯としての『いかにして』ではなく、根本的な『なぜ』として)そのように起こらなければならないのか」
原文を見る
というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故に(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」
ということを思い至り、その究極の理由が、彼の深く微妙な大計算をもってしてもついに探し出せないことを見いだしたからである。
原文を見る
ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに探し出せないことを見いだしたからである。
なぜひまわりは黄色いのか。
原文を見る
何故向日葵は黄色いか。
なぜ草は緑なのか。
原文を見る
何故草は緑か。
なぜすべてがこのようにあるのか。
原文を見る
何故すべてがかく在るか。
この疑問が、この神通力広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついにみじめな死にまで導いたのだった。
原文を見る
この疑問が、この神通力広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨めな死にまで導いたのであった。
女偊氏はまた、別の妖精のことを話した。
原文を見る
女偊氏はまた、別の妖精のことを話した。
これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。
原文を見る
これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。
その光るものとはどんなものか誰にもわからなかったが、とにかく、小妖精は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。
原文を見る
その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、小妖精は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。
そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女偊氏は語った。
原文を見る
そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女偊氏は語った。
かく語りながら、しかし、これらの話の持つ意味については、なんの説明もなかった。
原文を見る
かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。
ただ最後に、師は次のようなことを言った。
原文を見る
ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らない者は不幸じゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に滅びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解の仕方。行なうとは、より明確な思索の仕方であると知れ。何事も意識の毒の中に浸さずにはいられない哀れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
原文を見る
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
悟浄は謹んで師に答えた。
原文を見る
悟浄は謹しんで師に答えた。
師の教えは、今こそ身にしみてよく理解される。
原文を見る
師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。
実は、自分も長い遍歴の間に、思索だけではますます泥沼に陥るばかりだと感じてきたのだが、今の自分を突き破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのだ、と。
原文を見る
実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼に陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。
それを聞いて女偊氏は言った。
原文を見る
それを聞いて女偊氏は言った。
「渓流が流れてきて断崖の近くまで来ると、一度渦を巻き、さてそれから滝となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦に巻き込まれてしまえば、奈落までは一息。その途中に思索や反省や立ち止まって考えるひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きながら落ちていく者どもを恐れと哀れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛び込もうか、どうしようかとためらっているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちなければならないとは十分に承知しているくせに。渦に巻き込まれないからとて、決して幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の立場に未練たらしくしがみついているのか。物凄い生の渦巻きの中であえいでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍も幸せだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
原文を見る
「渓流が流れて来て断崖の近くまで来ると、一度渦巻をまき、さて、それから瀑布となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
師の教えのありがたさは骨の髄まで感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は師のもとを辞した。
原文を見る
師の教えのありがたさは骨髄に徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
もはや誰にも道を聞くまいぞと、彼は思った。
原文を見る
もはや誰にも道を聞くまいぞと、渠は思うた。
「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つわかってやしないんだな」
原文を見る
「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」
と悟浄はひとりごとを言いながら帰り道についた。
原文を見る
と悟浄は独言を言いながら帰途についた。
「『お互いにわかってるふりをしようぜ。わかってやしないんだってことは、お互いにわかり切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでにあるのだとすれば、それをいまさら、わからないわからないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという空気の読めない困りものだろう。まったく。」
原文を見る
「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の利かない困りものだろう。まったく。」
五
原文を見る
五
のろまでぐずの悟浄のことゆえ、はっと悟りを開くとか、大きな変革が一気に訪れるとかいったあざやかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えない変化が彼の上に働いてきたようである。
原文を見る
のろまで愚図の悟浄のことゆえ、翻然大悟とか、大活現前とかいった鮮やかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化が渠の上に働いてきたようである。
はじめ、それは賭けをするような気持ちだった。
原文を見る
はじめ、それは賭けをするような気持であった。
一つの選択が許される場合、一つの道が永遠のぬかるみであり、他の道が険しくはあっても、もしかすると救われるかもしれないのだとすれば、誰しも後の道を選ぶに決まっている。
原文を見る
一つの選択が許される場合、一つの途が永遠の泥濘であり、他の途が険しくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。
それなのになぜためらっていたのか。
原文を見る
それだのになぜ躊躇していたのか。
そこで彼は初めて、自分の考え方の中にあった卑しい打算的なものに気づいた。
原文を見る
そこで渠ははじめて、自分の考え方の中にあった卑しい功利的なものに気づいた。
険しい道を選んで苦しみ抜いたあげくに、結局救われないとなったら取り返しのつかない損だ、という気持ちが知らず知らずのうちに、自分の優柔不断に作用していたのだ。
原文を見る
嶮しい途を選んで苦しみ抜いた揚句に、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。
骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損失へしか導かない道に留まろうというのが、怠惰で愚かで卑しい俺の気持ちだったのだ。
原文を見る
骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精で愚かで卑しい俺の気持だったのだ。
女偊氏のもとに滞在している間に、しかし、彼の気持ちも、しだいに一つの方向へと追い詰められてきた。
原文を見る
女偊氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。
最初は追い詰められたものが、やがてみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。
原文を見る
初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういった変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄にわかりかけてきた。
原文を見る
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に解りかけてきた。
自分は、そんな世界の意味をどうこう言えるほどたいした生き物でないことを、彼は卑下感ではなく、穏やかな満足感をもって感じるようになった。
原文を見る
自分は、そんな世界の意味を云々するほどたいした生きものでないことを、渠は、卑下感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。
そして、そんな生意気を言う前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み、展開してみようという勇気が出てきた。
原文を見る
そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。
ためらう前に試みよう。
原文を見る
躊躇する前に試みよう。
結果の成否は考えずに、ただ試みるために全力を尽くして試みよう。
原文を見る
結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。
決定的な失敗に終わってもいいのだ。
原文を見る
決定的な失敗に帰したっていいのだ。
今までいつも失敗を恐れて努力を投げ出していた彼が、骨折り損を厭わないところにまで高まってきたのである。
原文を見る
今までいつも、失敗への危惧から努力を抛棄していた渠が、骨折り損を厭わないところにまで昇華されてきたのである。
六
原文を見る
六
悟浄の体はもはや疲れ果てていた。
原文を見る
悟浄の肉体はもはや疲れ切っていた。
ある日、彼は道ばたにバタリと倒れ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。
原文を見る
ある日、渠は、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深い睡りに落ちてしまった。
まったく、何もかも忘れ果てた深い眠りだった。
原文を見る
まったく、何もかも忘れ果てた昏睡であった。
彼は何日かぐっすりと眠り続けた。
原文を見る
渠は昏々として幾日か睡り続けた。
空腹も忘れ、夢も見なかった。
原文を見る
空腹も忘れ、夢も見なかった。
ふと目を覚ましたとき、何かあたりが、青白く明るいことに気がついた。
原文を見る
ふと、眼を覚ましたとき、何か四辺が、青白く明るいことに気がついた。
夜だった。
原文を見る
夜であった。
明るい月夜だった。
原文を見る
明るい月夜であった。
大きな丸い春の満月が水の上から差し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしていた。
原文を見る
大きな円い春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。
悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持ちで起き上がった。
原文を見る
悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。
とたんに空腹に気づいた。
原文を見る
とたんに空腹に気づいた。
彼はそのへんを泳いでいた魚を五、六尾手づかみにしてむしゃむしゃ頬張り、さて腰にぶら下げた瓢箪の酒をラッパ飲みにした。
原文を見る
渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾手掴みにしてむしゃむしゃ頬張り、さて、腰に提げた瓢の酒を喇叭飲みにした。
うまかった。
原文を見る
旨かった。
ゴクリゴクリと彼は音を立てて飲んだ。
原文を見る
ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。
瓢箪の底まで飲み干してしまうと、いい気持ちで歩き出した。
原文を見る
瓢の底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
底の砂の一粒一粒がはっきり見分けられるほど明るかった。
原文を見る
底の真砂の一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。
水草に沿って、絶えず小さな水泡の列が水銀球のように光り、揺れながら昇っていく。
原文を見る
水草に沿うて、絶えず小さな水泡の列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。
ときどき彼の姿を見て逃げ出す小魚どもの腹が白く光っては、青い水藻の影に消える。
原文を見る
ときどき渠の姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては青水藻の影に消える。
悟浄はしだいにうっとりしてきた。
原文を見る
悟浄はしだいに陶然としてきた。
柄にもなく歌が歌いたくなり、もう少しで声を張り上げるところだった。
原文を見る
柄にもなく歌が唱いたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。
そのとき、ごく遠くの方で誰かが歌っているらしい声が耳に入ってきた。
原文を見る
そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。
彼は立ち止まって耳をすました。
原文を見る
渠は立停まって耳をすました。
その声は水の外から来るようでもあり、川底のどこか遠くから来るようでもある。
原文を見る
その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。
低いけれども澄み通った声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、
原文を見る
低いけれども澄透った声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、
江の国に春風は吹き立たず
原文を見る
江国春風吹不起
しゃこは深い花の中で鳴いている
原文を見る
鷓鴣啼在深花裏
三段の波高く魚は竜に変わる
原文を見る
三級浪高魚化竜
愚かな者はなおも夜の池の水をすくっている
原文を見る
痴人猶𡰷夜塘水
どうやら、そんな文句のようでもある。
原文を見る
どうやら、そんな文句のようでもある。
悟浄はその場に腰を下ろして、なおもじっと聴き入った。
原文を見る
悟浄はその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。
青白い月の光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の音のように、ほそぼそといつまでも響いていた。
原文を見る
青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の音のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
眠ったのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。
原文を見る
寐たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。
悟浄は、魂が甘くうずくような気持ちでぼんやりと長い間そこにうずくまっていた。
原文を見る
悟浄は、魂が甘く疼くような気持で茫然と永い間そこに蹲っていた。
そのうちに、彼は奇妙な、夢とも幻ともつかない世界に入っていった。
原文を見る
そのうちに、渠は奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。
水草も魚の影もさっと彼の視界から消え去り、急に、なんとも言えない蘭や麝香の香りが漂ってきた。
原文を見る
水草も魚の影も卒然と渠の視界から消え去り、急に、得もいわれぬ蘭麝の匂いが漂うてきた。
と思うと、見慣れない二人の人物がこちらへ進んでくるのを彼は見た。
原文を見る
と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
前の者は手に錫杖をついた、一癖ありそうな堂々とした男。
原文を見る
前なるは手に錫杖をついた一癖ありげな偉丈夫。
後ろの者は、頭に宝飾をまとい、頂に肉髻があり、美しく厳かな相で、ほのかに光輪を負っておられるは、どう見ても普通の人ではなかった。
原文を見る
後ろなるは、頭に宝珠瓔珞を纏い、頂に肉髻あり、妙相端厳、仄かに円光を負うておられるは、何さま尋常人ならずと見えた。
さて、前の者が近づいて言った。
原文を見る
さて前なるが近づいて言った。
「我は托塔天王の二太子、木叉恵岸。これにいますはすなわち、わが師父、南海の観世音菩薩摩訶薩じゃ。天竜・夜叉・乾闥婆より、阿脩羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・非人に至るまで等しく憐れみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、お前、悟浄が苦しみをご覧になって、特にここに降ってお救いくださるのじゃ。ありがたく承るがよい。」
原文を見る
「我は托塔天王の二太子、木叉恵岸。これにいますはすなわち、わが師父、南海の観世音菩薩摩訶薩じゃ。天竜・夜叉・乾闥婆より、阿脩羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・非人に至るまで等しく憫れみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、爾、悟浄が苦悩をみそなわして、特にここに降って得度したもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
思わず頭を垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙音というか、梵音というか、海の潮音というか――が響いてきた。
原文を見る
覚えず頭を垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙音というか、梵音というか、海潮音というか、――が響いてきた。
「悟浄よ、明らかに、わが言葉を聴いて、よくこれを心に思え。身の程知らずの悟浄よ。まだ得ていないものを得たと言い、まだ証明されていないことを証明したと言うことでさえ、世尊はこれを慢心だと咎められた。ならば、証明すべからざることを証明しようとしたお前のごときは、これを究極の慢心と言わずしてなんと言おうぞ。お前の求めるところは、阿羅漢も辟支仏もいまだ求めることができず、また求めようともしないところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにしてお前の魂はかくもあさましき迷路に入ったのか。正しい見方を得れば清らかな行いはたちどころに成るべきに、お前は心が弱く邪な見方に陥り、今この無量の苦悩に遭っている。思うに、お前は観想によって救われるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を捨て、ただただ体を動かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の働きのことじゃ。世界は、大きく眺めるときは無意味のように見えども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を持つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき務めに身を打ち込め。身の程知らずの『なぜ』は、これより一切投げ捨てることじゃ。これをよそにして、お前の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉長老の生まれ変わり、玄奘法師と、その二人の弟子どもじゃ。唐の太宗皇帝の命を受け、天竺国大雷音寺に大乗三蔵の真経をとりに赴くものじゃ。悟浄よ、お前も玄奘に従って西方に赴け。これがお前にふさわしき場所であり、また、お前にふさわしき務めじゃ。道は苦しかろうが、よく疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空なるものがある。知識も何もなく、ただ信じて疑わないものじゃ。お前は特にこの者から学ぶところが多かろうぞ。」
原文を見る
「悟浄よ、諦かに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の程知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ証せざるを証せりと言うのをさえ、世尊はこれを増上慢とて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた爾のごときは、これを至極の増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢も辟支仏もいまだ求むる能わず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣にして邪観に陥り、今この三途無量の苦悩に遭う。惟うに、爾は観想によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉長老の転生、玄奘法師と、その二人の弟子どもじゃ。唐の太宗皇帝の綸命を受け、天竺国大雷音寺に大乗三蔵の真経をとらんとて赴くものじゃ。悟浄よ、爾も玄奘に従うて西方に赴け。これ爾にふさわしき位置にして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。途は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空なるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
悟浄が再び頭を上げたとき、そこには何も見えなかった。
原文を見る
悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。
彼は茫然と川底の月明かりの中に立ちつくした。
原文を見る
渠は茫然と水底の月明の中に立ちつくした。
妙な気持ちである。
原文を見る
妙な気持である。
ぼんやりした頭の片隅で、彼は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
原文を見る
ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の俺だったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩の言葉だって、考えてみりゃ、女偊氏や虯髯鮎子の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救いになるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐の僧とやらが、本当にここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
原文を見る
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の俺だったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩の言葉だって、考えてみりゃ、女偊氏や虯髯鮎子の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救済になるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧とやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
彼はそう思って久しぶりに微笑した。
原文を見る
渠はそう思って久しぶりに微笑した。
七
原文を見る
七
その年の秋、悟浄は、はたして、唐の玄奘法師にめぐり会い奉り、その力で、水から出て人間に生まれ変わることができた。
原文を見る
その年の秋、悟浄は、はたして、大唐の玄奘法師に値遇し奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。
そうして、勇敢で天真爛漫な聖天大聖孫悟空や、怠惰な楽天家、天蓬元帥猪悟能とともに、新たな遍歴の道に上ることとなった。
原文を見る
そうして、勇敢にして天真爛漫な聖天大聖孫悟空や、怠惰な楽天家、天蓬元帥猪悟能とともに、新しい遍歴の途に上ることとなった。
しかし、その旅の途上でも、まだすっかりは昔の病が抜け切っていない悟浄は、依然としてひとりごとの癖を止めなかった。
原文を見る
しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病の脱け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖を止めなかった。
彼はつぶやいた。
原文を見る
渠は呟いた。
「どうも変だな。どうも腑に落ちない。わからないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、わかったということなのか? どうも曖昧だな! あまりみごとな脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
原文を見る
「どうもへんだな。どうも腑に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも曖昧だな! あまりみごとな脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
――「わが西遊記」
原文を見る
――「わが西遊記」
の中――
原文を見る
の中――