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風立ちぬ 小学生向け

堀辰雄ほりたつお)・1988

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

〔Le vent se lève, il faut tenter de vivre.〕(「風が立った。さあ、生きようとしなければならない」という意味のフランスの詩の一節)

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〔Le vent se le`ve, il faut tenter de vivre.〕

〔PAUL VALÉRY〕(ポール・ヴァレリー)

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〔PAUL VALE'RY〕

序曲

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序曲

それらの夏の日々のことだった。一面にすすきが生い茂った草原の中で、お前は立ったまま熱心に絵を描いていた。私はいつも、その横の一本の白樺(しらかば)の木の陰に体を横たえていたものだった。

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それらの夏の日々、一面にすすきの生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。

そして夕方になると、お前は絵の仕事を終えて、私のそばに来た。それからしばらく、私たちは肩に手をかけ合ったまま、遠くの地平線の方を眺めていたものだった。地平線のふちは、あかね色を帯びた入道雲のかたまりにおおわれていた。

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そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色あかねいろを帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。

暮れかけているその地平線から、反対に何かが生まれてくるかのようだった……

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ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

そんな日のある午後のことだった(もう秋の近い日だった)。私たちは、お前の描きかけの絵を画架(がか・絵を立てかける台)に立てかけたまま、白樺の木の陰に寝そべって果物をかじっていた。

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そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物をじっていた。

砂のような雲が、さらさらと空を流れていた。

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砂のような雲が空をさらさらと流れていた。

そのとき、どこからともなく、ふいに風が立った。

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そのとき不意に、何処からともなく風が立った。

私たちの頭の上では、木の葉のあいだからちらっと見える藍色(あいいろ)の空が、伸びたり縮んだりした。

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私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。

それとほとんど同時に、草むらの中で何かがばったりと倒れる音を、私たちは耳にした。

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それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。

それは、私たちが置きっぱなしにしていた絵が、画架ごと倒れた音らしかった。

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それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。

お前はすぐに立ち上がって見に行こうとした。でも私は、いまの一瞬を何も失いたくないというように、無理にお前を引き留めて、そばから離さなかった。

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すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。

お前は、私のするままにさせていた。

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お前は私のするがままにさせていた。

風立ちぬ、いざ生きめやも。(「風が立った。さあ、生きようとしなければならない」という古い言い方)

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風立ちぬ、いざ生きめやも。

ふと口をついて出てきたその詩の言葉を、私は、私にもたれているお前の肩に手をかけながら、口の中でくり返していた。

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ふと口をいて出て来たそんな詩句を、私は私にもたれているお前の肩に手をかけながら、口のうちで繰り返していた。

それから、お前はやっと私の手をふりほどいて立ち上がって行った。

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それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。

まだよく乾いていなかったカンヴァスには、そのあいだに、草の葉が一面にくっついてしまっていた。

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まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。

お前はそれをもう一度画架に立て直した。そしてパレットナイフで草の葉を取ろうとしたが、なかなかうまく取れずにいた。

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それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉をりにくそうにしながら、

「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」

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「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」

お前は私の方をふり向いて、なんだかあいまいな笑顔を見せた。

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お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧あいまいな微笑をした。

「もう二、三日したらお父様がいらっしゃるわ」

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「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」

ある朝のことだった。私たちが森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。

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或る朝のこと、私達が森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。

私はなんだか不満そうに黙っていた。

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私はなんだか不満そうに黙っていた。

するとお前は、そんな私の方を見ながら、少ししわがれたような声でまた口をきいた。

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するとお前は、そういう私の方を見ながら、すこししゃがれたような声で再び口をきいた。

「そうしたら、もうこんな散歩もできなくなるわね」

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「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」

「どんな散歩だって、しようと思えばできるさ」

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「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」

私はまだ不満そうな顔をしていた。お前が気づかわしそうな目で私を見ているのを感じながらも、それよりも、頭の上の梢(こずえ・木の枝の先)が何となくざわめいているほうに気を取られているようなふりをしていた。

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私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私達の頭上の梢が何んとはなしにざわめいているのに気をられているような様子をしていた。

「お父様がなかなか私を離してくださらないの」

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「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」

私はとうとう、じれったいというような目つきで、お前の方を見返した。

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私はとうとうれったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。

「じゃあ、僕たちはもうこれでお別れだと言うのかい?」

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「じゃあ、僕達はもうこれでお別れだと云うのかい?」

「だって仕方がないじゃないの」

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「だって仕方がないじゃないの」

そう言って、お前はいかにもあきらめきったように、私に向かって無理にほほえんで見せようとした。

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そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑ほほえんで見せようとした。

ああ、そのときのお前の顔色、そして唇の色まで、なんと青ざめていたことだろう!

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ああ、そのときのお前の顔色の、そしてそのくちびるの色までも、何んと蒼ざめていたことったら!

「どうしてこんなに変わってしまったんだろう。あんなに私に何もかも任せきっていたように見えたのに……」

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「どうしてこんなに変っちゃったんだろうなあ。あんなに私に何もかも任せ切っていたように見えたのに……」

私はそう、考えあぐねたような様子で、だんだん木の根がごろごろし始めた狭い山道を、お前を少し先に行かせながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。

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と私は考えあぐねたような恰好かっこうで、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径やまみちを、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。

そのあたりはもうだいぶ木立が深いらしく、空気はひえびえとしていた。

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そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。

ところどころに、小さな谷川が入りこんでいたりした。

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ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。

突然、私の頭の中にこんな考えがひらめいた。

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突然、私の頭の中にこんな考えがひらめいた。

お前はこの夏、たまたま出会った私のような者にも、あんなに素直に従っていた。いや、それよりももっと、お前の父や、その父さえも支配しているものに、素直に身をまかせきっているのではないだろうか?

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お前はこの夏、偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だったように、いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、素直に身を任せ切っているのではないだろうか?

……「節子(せつこ)! お前がそういう人なら、私はお前のことがもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかり生活の見通しをつけられるようになったら、きっとお前をもらいに行く。それまでは、お父さんのもとで、今のままのお前でいるといい……」

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 ……「節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんのもとに今のままのお前でいるがいい……」

そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせていた。でも、お前の同意を求めるかのように、いきなりお前の手をとった。

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そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。

お前は、その手を私にとられるままにさせていた。

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お前はその手を私にとられるがままにさせていた。

それから私たちは、そうして手を組んだまま、一つの谷川の前に立ち止まった。押し黙ったまま、私たちは足もとに深く入りこんでいる小さな谷川のずっと底を見つめていた。羊歯(しだ)などの下草の上まで、日の光は数えきれないほどの枝の間をぬって差しこんでいた。それは低い灌木(かんぼく・低い木)の隙間をようやく潜り抜けて、まだらに落ちていた。そんな木もれ日は、そこまで届くうちにほとんど風のように弱くなり、ちらちらと揺れ動いていた。私たちは、それを何か切ないような気持ちで見つめていた。

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それから私達はそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私達の足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生したばえ羊歯しだなどの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木かんぼくの隙間をようやくのことで潜り抜けながら、まだらに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆んどあるかないか位になっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。

それから二、三日たったある夕方、私は食堂で、お前を迎えに来た父と一緒に食事をしているお前を見つけた。

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それから二三日した或る夕方、私は食堂で、お前がお前を迎えに来た父と食事を共にしているのを見出した。

お前は私の方に、ぎこちなさそうに背中を向けていた。

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お前は私の方にぎごちなさそうに背中を向けていた。

父のそばにいることで、お前はほとんど無意識のうちに、いつもとちがう様子や動作をしているようだった。それは私に、今まで見たこともないような若い娘のように感じさせた。

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父の側にいることがお前に殆んど無意識的に取らせているにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。

「たとい私がその名を呼んだにしても……」

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「たとい私がその名を呼んだにしたって……」

と私は一人でつぶやいた。

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と私は一人でつぶやいた。

「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでもう、私が呼んだ名前ではないかのように……」

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「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでもう私の呼んだものではないかのように……」

その晩、私は一人でつまらなそうに散歩に出かけた。帰ってきてからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしていた。

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その晩、私は一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえって来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしていた。

山百合(やまゆり)の花のにおいがしていた。

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山百合が匂っていた。

私はホテルの窓に、まだ二つ三つあかりがついているのを、ぼんやりと見つめていた。

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私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしているのをぼんやりと見つめていた。

そのうち、少し霧がかかってきたようだった。

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そのうちすこし霧がかかって来たようだった。

それを恐れるかのように、窓のあかりは一つ、また一つと消えていった。

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それを恐れでもするかのように、窓のあかりは一つびとつ消えて行った。

そしてとうとうホテル中がすっかり真っ暗になったかと思うと、軽いきしむ音がして、ゆっくりと一つの窓が開いた。

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そしてとうとうホテル中がすっかり真っ暗になったかと思うと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。

そして、ばら色の寝間着らしいものを着た一人の若い娘が、窓のふちにじっともたれかかった。

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そして薔薇色ばらいろ寝衣ねまきらしいものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にじっとりかかり出した。

それはお前だった。……

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それはお前だった。……

お前たちが去っていったあと、日ごとに私の胸をしめつけていた、あの悲しみに似た幸福な気持ちを、私はいまでもはっきりと思い出すことができる。

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お前達が発って行ったのち、日ごと日ごとずっと私の胸をしめつけていた、あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだにはっきりとよみがえらせることが出来る。

私は一日じゅう、ホテルに閉じこもっていた。

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私は終日、ホテルにこもっていた。

そして、長い間お前のためにほうっておいた自分の仕事に取りかかり始めた。

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そうして長い間お前のために打棄うっちゃって置いた自分の仕事に取りかかり出した。

私は自分でも思いがけないほど、静かにその仕事に打ち込むことができた。

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私は自分にも思いがけない位、静かにその仕事に没頭することが出来た。

そのうちに、すべてが次の季節へと移っていった。

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そのうちにすべてが他の季節に移って行った。

そしていよいよ私も出発しようとする前の日、私はひさしぶりにホテルから散歩に出かけた。

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そしていよいよ私も出発しようとする前日、私はひさしぶりでホテルから散歩に出かけて行った。

秋は、林の中を見ちがえるほど乱れさせていた。

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秋は林の中を見ちがえるばかりに乱雑にしていた。

葉がだいぶ少なくなった木々の間から、人けの絶えた別荘のテラスが、ずっと前の方まで見えていた。

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葉のだいぶ少くなった木々は、その間から、人けの絶えた別荘のテラスをずっと前方にのり出させていた。

きのこの湿った匂いが、落ち葉の匂いと入り混じっていた。

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菌類の湿っぽい匂いが落葉の匂いに入りまじっていた。

そんな思いがけないほどの季節の移り変わりが――お前と別れてから、私の知らないうちにこんなにも経ってしまった時間というものが――私には不思議に感じられた。

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そういう思いがけない位の季節の推移が、――お前と別れてから私の知らぬ間にこんなにも立ってしまった時間というものが、私には異様に感じられた。

私の心の中のどこかに、お前から引き離されているのはただ一時的なものだという確信のようなものがあった。そのために、こうした時間の移り変わりまでが、私にとって今までとはまったくちがう意味を持ち始めたのだろうか?

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私の心のうちの何処かしらに、お前から引き離されているのはただ一時的だと云った確信のようなものがあって、そのためこうした時間の推移までが、私には今までとは全然異った意味を持つようになり出したのであろうか?

……そんなことを、私はすぐあとではっきり気づくまで、何となくぼんやりと感じ始めていた。

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 ……そんなようなことを、私はすぐあとではっきりと確かめるまで、何やらぼんやりと感じ出していた。

それから十数分後、私は一つの林が尽きたところに出た。そこから急にひらけて、遠い地平線まで見わたせる、一面にすすきの生い茂った草原の中に、足を踏み入れていた。

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私はそれから十数分後、一つの林の尽きたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯に眺められる、一面にすすきの生い茂った草原の中に、足を踏み入れていた。

そして私は、その横の、もう葉が黄色くなりかけた一本の白樺の木の陰に身を横たえた。

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そして私はその傍らの、既に葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を横たえた。

そこは、あの夏の日々、お前が絵を描いているのを眺めながら、私がいつも今のように身を横たえていた場所だった。

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其処は、その夏の日々、お前が絵を描いているのを眺めながら、私がいつも今のように身を横たえていたところだった。

あのころはほとんどいつも入道雲にさえぎられていた地平線のあたりに、今は、どこか知らない遠くの山脈までが見えていた。真っ白な穂先をなびかせたすすきの上に、その輪郭(りんかく)を一つ一つくっきりと見せていた。

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あの時には殆んどいつも入道雲に遮られていた地平線のあたりには、今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真っ白な穂先をなびかせた薄の上を分けながら、その輪廓りんかくを一つ一つくっきりと見せていた。

私は、それらの遠い山脈の姿をすべて覚えてしまうくらい、じっと目に力を入れて見入っていた。そうしているうちに、いままで自分の中に隠れていたもの――自然が自分のためにあらかじめ用意しておいてくれたもの――を、今こそやっと見つけたという確信が、だんだんはっきりと自分の意識にのぼり始めていた。……

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私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまう位、じっと目に力を入れて見入っているうちに、いままで自分の裡に潜んでいた、自然が自分のために極めて置いてくれたものを今こそっと見出したと云う確信を、だんだんはっきりと自分の意識に上らせはじめていた。……

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三月になった。

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三月になった。

ある午後、私がいつものようにぶらっと散歩のついでに立ち寄ったというふうに節子の家を訪れた。すると、門を入ったすぐ横の植え込みの中に、労働者がかぶるような大きな麦わら帽子をかぶった父が、片手にはさみを持って、そのあたりの木の手入れをしていた。

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或る午後、私がいつものようにぶらっと散歩のついでにちょっと立寄ったとでも云った風に節子の家を訪れると、門をはいったすぐ横の植込みの中に、労働者のかぶるような大きな麦稈帽むぎわらぼうをかぶった父が、片手にはさみをもちながら、そこいらの木の手入れをしていた。

私はその姿に気づくと、まるで子どものように木の枝をかき分けながら、そばに近づいていった。二言三言あいさつを交わしたあと、そのまま父のすることを物珍しそうに見ていた。――

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私はそういう姿を認めると、まるで子供のように木の枝を掻き分けながら、その傍に近づいていって、二言三言挨拶の言葉を交わしたのち、そのまま父のすることを物珍らしそうに見ていた。――

そうやって植え込みの中にすっぽりと身を入れていると、あちらこちらの小さな枝の上に、ときどき何か白いものが光ったりした。

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そうやって植込みの中にすっぽりと身を入れていると、あちらこちらの小さな枝の上にときどき何かしら白いものが光ったりした。

それはみんなつぼみらしかった。……

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それはみんなつぼみらしかった。……

「あれもこのごろはだいぶ元気になってきたようだが」

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「あれもこの頃はだいぶ元気になって来たようだが」

父は突然そう言って私の方へ顔を上げた。そのころ私と婚約したばかりの節子のことだった。

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父は突然そんな私の方へ顔をもち上げてその頃私と婚約したばかりの節子のことを言い出した。

「もう少しいい陽気になったら、転地(てんち・空気のいい土地に移って療養すること)でもさせてみたらどうだろうね?」

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「もう少し好い陽気になったら、転地でもさせて見たらどうだろうね?」

「それはいいでしょうけれど……」

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「それはいいでしょうけれど……」

私は口ごもりながら、さっきから目の前できらきら光っている一つのつぼみが、なんだか気になって仕方がないというようなふりをしていた。

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と私は口ごもりながら、さっきから目の前にきらきら光っている一つの莟がなんだか気になってならないと云った風をしていた。

「どこかいいところはないかと、この間からさがしているのだがね――」

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「何処ぞいいところはないかとこの間うちから物色しとるのだがね――」

父は、そんな私にはかまわずに言いつづけた。

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と父はそんな私には構わずに言いつづけた。

「節子はFのサナトリウム(結核などを療養する施設)なんぞどうかしらと言うのだが、あなたはあそこの院長さんを知っているそうだね?」

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「節子はFのサナトリウムなんぞどうか知らんと言うのじゃが、あなたはあそこの院長さんを知っておいでだそうだね?」

「ええ」

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「ええ」

私は少し上の空のように返事をしながら、やっとさっき見つけた白いつぼみを手もとに引き寄せた。

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と私はすこし上の空でのように返事をしながら、やっとさっき見つけた白い莟を手もとにたぐりよせた。

「だが、あそこなんぞ、あれ一人で行っていられるだろうか?」

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「だが、あそこなんぞは、あれ一人で行って居られるだろうか?」

「みんな一人で行っているようですよ」

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「みんな一人で行っているようですよ」

「だが、あれにはなかなか行っていられないだろうね?」

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「だが、あれにはなかなか行って居られまいね?」

父はなんだか困ったような顔つきをした。でも私の方は見ずに、目の前にある木の枝の一本へ、いきなりはさみを入れた。

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父はなんだか困ったような顔つきをしたまま、しかし私の方を見ずに、自分の目の前にある木の枝の一つへいきなり鋏を入れた。

それを見ると、私はとうとう我慢できなくなった。父が私に言い出させようとしているとしか思えない言葉を、そのまま口に出した。

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それを見ると、私はとうとう我慢がしきれなくなって、それを私が言い出すのを父が待っているとしか思われない言葉を、ついと口に出した。

「なんでしたら僕も一緒に行ってもいいんです。いましかけている仕事の方も、ちょうどそれまでには片がつきそうですから……」

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「なんでしたら僕も一緒に行ってもいいんです。いま、しかけている仕事の方も、丁度それまでには片がつきそうですから……」

私はそう言いながら、やっと手に入れたばかりのつぼみのついた枝を、また、そっと手放した。

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私はそう言いながら、やっと手の中に入れたばかりの莟のついた枝を再びそっと手離した。

それと同時に、父の顔が急に明るくなったのが分かった。

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それと同時に父の顔が急に明るくなったのを私は認めた。

「そうしていただけたら、いちばんいいのだが――しかし、あなたにはえろう(たいへん)すまんな……」

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「そうしていただけたら、一番いいのだが、――しかしあなたにはえろう済まんな……」

「いいえ、僕なんかにはかえって、そういう山の中の方が仕事ができるかもしれません……」

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「いいえ、僕なんぞにはかえってそう云った山の中の方が仕事ができるかも知れません……」

それから私たちは、そのサナトリウムのある山の地方のことなどを話し合っていた。

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それから私達はそのサナトリウムのある山岳地方のことなど話し合っていた。

でも、いつのまにか私たちの話は、父がいま手入れをしている植木のことに移っていった。

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が、いつのまにか私達の会話は、父のいま手入れをしている植木の上に落ちていった。

二人がいまお互いに感じ合っている、ある種の思いやりのようなものが、そんなとりとめのない話にまで、活気を与えているように見えた。……

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二人のいまお互に感じ合っている一種の同情のようなものが、そんなとりとめのない話をまで活気づけるように見えた。……

「節子さんはお起きになっているのかしら?」

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「節子さんはお起きになっているのかしら?」

しばらくしてから、私は何気ないふうを装って聞いてみた。

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しばらくしてから私は何気なさそうにいてみた。

「さあ、起きているでしょう。……どうぞ、かまわないから、そこからあちらへ……」

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「さあ、起きとるでしょう。……どうぞ、構わんから、其処からあちらへ……」

父は、はさみを持った手で、庭の木戸の方を示した。

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と父は鋏をもった手で、庭木戸の方を示した。

私はやっと植え込みの中を抜け出ると、つたがからみついて少し開けにくくなったその木戸をこじ開けた。そのまま庭から、この間までアトリエに使われていた、離れのような病室の方へ近づいていった。

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私はやっと植込みの中を潜り抜けると、つたがからみついて少し開きにくい位になったその木戸をこじあけて、そのまま庭から、この間まではアトリエに使われていた、離れのようになった病室の方へ近づいていった。

節子は、私が来ていることはもうとうに知っていたらしい。でも、私がそんな庭から入ってこようとは思わなかったらしく、寝間着の上に明るい色の羽織をひっかけたまま、長いすの上に横になっていた。そして細いリボンのついた、見たことのない婦人帽を手でもてあそんでいた。

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節子は、私の来ていることはもうとうに知っていたらしいが、私がそんな庭からはいって来ようとは思わなかったらしく、寝間着の上に明るい色の羽織をひっかけたまま、長椅子の上に横になりながら、細いリボンのついた、見かけたことのない婦人帽を手でおもちゃにしていた。

私がフレンチ扉(フレンチドア)ごしにそんな彼女を目に入れながら近づいていくと、彼女の方でも私に気づいたらしかった。

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私がフレンチドアごしにそういう彼女を目に入れながら近づいて行くと、彼女の方でも私を認めたらしかった。

彼女は無意識に立ち上がろうとするような身動きをした。

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彼女は無意識に立ち上ろうとするような身動きをした。

でも、彼女はそのまま横になったまま、顔だけ私の方へ向けて、少し気まり悪そうな笑顔で私を見つめた。

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が、彼女はそのまま横になり、顔を私の方へ向けたまま、すこし気まり悪そうな微笑で私を見つめた。

「起きていたの?」

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「起きていたの?」

私は扉のところで、いくぶん乱暴に靴を脱ぎながら、声をかけた。

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私は扉のところで、いくぶん乱暴に靴を脱ぎながら、声をかけた。

「ちょっと起きてみたんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」

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「ちょっと起きて見たんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」

そう言いながら、彼女はいかにも疲れたような、力のない手つきで、何ということもなしにもてあそんでいたらしいその帽子を、すぐ横にある鏡台の上へ無造作に投げた。

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そう言いながら、彼女はいかにも疲れを帯びたような、力なげな手つきで、ただ何んということもなしに手でもてあそんでいたらしいその帽子を、すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げた。

でも、それはそこまで届かず、床の上に落ちた。

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が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。

私はそれに近づいて、ほとんど私の顔が彼女の足の先にくっつきそうになるくらいかがみこんだ。そしてその帽子を拾い上げると、今度は自分の手で、さっき彼女がそうしていたように、それをもてあそび始めていた。

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私はそれに近寄って、殆ど私の顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるようにかがんで、その帽子を拾い上げると、今度は自分の手で、さっき彼女がそうしていたように、それをおもちゃにし出していた。

それから私はやっと聞いてみた。

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それから私はやっといた。

「こんな帽子なんか取り出して、何をしていたんだい?」

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「こんな帽子なんぞ取り出して、何をしていたんだい?」

「そんなもの、いつになったらかぶれるようになるんだか分かりゃしないのに、お父様ったら、きのう買ってきてくださったのよ。……おかしなお父様でしょう?」

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「そんなもの、いつになったらかぶれるようになるんだか知れやしないのに、お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。……おかしなお父様でしょう?」

「これ、お父様が選んでくださったの? ほんとうにいいお父様じゃないか。……どれ、この帽子、ちょっとかぶってごらん」

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「これ、お父様のお見立てなの? 本当に好いお父様じゃないか。……どおれ、この帽子、ちょっとかぶって御覧」

私が彼女の頭に、それを冗談半分かぶせるようなまねをしかけると、

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と私が彼女の頭にそれを冗談半分かぶせるような真似をしかけると、

「いやよ、そんなこと……」

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いや、そんなこと……」

彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けるように、半分だけ体を起こした。

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彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けでもするように、半ば身を起した。

そして言い訳のように弱々しくほほえんで見せながら、ふと思い出したように、いくぶんやせの目立つ手で、少しもつれた髪を直し始めた。

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そうしてわけのように弱々しい微笑をして見せながら、ふいと思い出したように、いくぶんせの目立つ手で、すこしもつれた髪を直しはじめた。

その何気なくしている、それでいていかにも自然に若い女らしい手つきは、まるで私をそっとなでているかのように感じられた。息が詰まるほど胸をどきどきさせる魅力があった。

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その何気なしにしている、それでいていかにも自然に若い女らしい手つきは、それがまるで私を愛撫でもし出したかのような、呼吸いきづまるほどセンシュアルな魅力を私に感じさせた。

そしてそれは、思わず私がそれから目をそらさずにはいられないほどだった……

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そうしてそれは、思わずそれから私が目をそらさずにはいられないほどだった……

やがて私は、それまで手でもてあそんでいた彼女の帽子を、そっと横の鏡台の上に置いた。そしてふと何か考えごとをするように黙りこみ、なおも彼女から目をそらし続けていた。

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やがて私はそれまで手でもてあそんでいた彼女の帽子を、そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したように黙りこんで、なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。

「お怒りになったの?」

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「おおこりになったの?」

彼女は突然私を見上げながら、心配そうに聞いた。

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と彼女は突然私を見上げながら、気づかわしそうに問うた。

「そうじゃないんだ」

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「そうじゃないんだ」

私はやっと彼女の方に目をやった。それから話の続きでもなんでもなく、いきなりこう言い出した。

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と私はやっと彼女の方へ目をやりながら、それから話の続きでもなんでもなしに、出し抜けにこう言い出した。

「さっきお父様がそう言っていらしたが、お前、ほんとうにサナトリウムに行く気かい?」

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「さっきお父様がそう言っていらしったが、お前、ほんとうにサナトリウムに行く気かい?」

「ええ、こうしていても、いつよくなるのか分からないんですもの。早くよくなれるんなら、どこへでも行くわ。でも……」

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「ええ、こうしていても、いつ良くなるのだか分らないのですもの。早く良くなれるんなら、何処へでも行っているわ。でも……」

「どうしたのさ? 何て言うつもりだったんだい?」

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「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」

「なんでもないの」

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「なんでもないの」

「なんでもなくてもいいから言ってごらん。……どうしても言わないね、じゃあ僕が言ってやろうか? お前、僕にも一緒に行けというのだろう?」

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「なんでもなくってもいいから言って御覧。……どうしても言わないね、じゃ僕が言ってやろうか? お前、僕にも一緒に行けというのだろう?」

「そんなことじゃないわ」

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「そんなことじゃないわ」

彼女は急に私を止めようとした。

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と彼女は急に私を遮ろうとした。

でも私はそれにはかまわずに、最初の調子とはちがって、だんだんまじめになってきた、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。

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しかし私はそれには構わずに、最初の調子とは異って、だんだん真面目になりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。

「……いや、お前が来なくてもいいと言ったって、僕はもちろん一緒に行くとも。だけど、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなんだ。……僕はこうしてお前と一緒になる前から、どこか寂しい山の中へ、お前みたいなかわいい娘と二人きりで暮らしに行くことを夢見ていたことがあったんだ。お前にもずっと前に、そんな私の夢を打ち明けたことがあったんじゃないかな? ほら、あの山小屋の話さ。そんな山の中に私たちは住めるのかしらと言って、あのときお前は無邪気に笑っていただろう? ……実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そんなことが知らず知らずのうちにお前の心を動かしているんじゃないかと思ったんだ。……そうじゃないのかい?」

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「……いや、お前が来なくともいいと言ったって、そりあ僕は一緒に行くとも。だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなのだ。……僕はこうしてお前と一緒にならない前から、何処かの淋しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ。お前にもずっと前にそんな私の夢を打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋の話さ、そんな山の中に私達は住めるのかしらと云って、あのときはお前は無邪気そうに笑っていたろう? ……実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そんなことがらずらずのうちにお前の心を動かしているのじゃないかと思ったのだ。……そうじゃないのかい?」

彼女はつとめてほほえみながら、黙ってそれを聞いていた。

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彼女はつとめて微笑ほほえみながら、黙ってそれを聞いていたが、

「そんなこと、もう覚えてなんかいないわ」

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「そんなこともう覚えてなんかいないわ」

彼女はきっぱりと言った。

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と彼女はきっぱりと言った。

それから、むしろ私をいたわるような目つきでしげしげと見ながら、「あなたはときどき、とんでもないことを考え出すのね……」

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それからむしろ私の方をいたわるような目つきでしげしげと見ながら、「あなたはときどき飛んでもないことを考え出すのね……」

それから数分後、私たちは、まるで私たちの間には何事もなかったような顔をしていた。フレンチ扉の向こうに、芝生がもうだいぶ青くなり、あちらにもこちらにも陽炎(かげろう)らしいものが立っているのを、一緒になって珍しそうに眺めていた。

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それから数分後、私達は、まるで私達の間には何事もなかったような顔つきをして、フレンチドアの向うに、芝生がもう大ぶ青くなって、あちらにもこちらにも陽炎かげろうらしいものの立っているのを、一緒になって珍らしそうに眺め出していた。

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四月になってから、節子の病気は少しずつ回復期に近づいてきているように見えた。

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四月になってから、節子の病気はいくらかずつ恢復期かいふくきに近づき出しているように見えた。

そしてそれがいかにもゆっくりであればあるほど、その回復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確かなもののように思われた。私たちには、それが言いようもなく頼もしくさえあった。

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そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その恢復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確実なもののように思われ、私達には云い知れず頼もしくさえあった。

そんなある日の午後のこと、私が行くと、ちょうど父は出かけていて、節子は一人で病室にいた。

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そんな或る日の午後のこと、私が行くと、丁度父は外出していて、節子は一人で病室にいた。

その日はとても気分もよさそうで、いつもほとんど着たきりの寝間着を、めずらしく青いブラウスに着替えていた。

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その日は大へん気分もよさそうで、いつも殆ど着たきりの寝間着を、めずらしく青いブラウスに着換えていた。

私はそういう姿を見ると、どうしても彼女を庭へ連れ出したくなった。

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私はそういう姿を見ると、どうしても彼女を庭へ引っぱり出そうとした。

少しばかり風が吹いていたが、それでさえ気持ちがいいくらい柔らかな風だった。

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すこしばかり風が吹いていたが、それすら気持のいいくらい軟らかだった。

彼女はちょっと自信なさそうに笑いながら、それでも私にやっと同意した。

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彼女はちょっと自信なさそうに笑いながら、それでも私にやっと同意した。

そして私の肩に手をかけて、フレンチ扉から、何だか危なっかしそうな足取りで、おずおずと芝生の上へ出て行った。

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そうして私の肩に手をかけて、フレンチドアから、何んだか危かしそうな足つきをしながら、おずおずと芝生の上へ出て行った。

生け垣に沿って、いろいろな外国の種類も混じり、どれがどれだか見分けられないくらい枝と枝を交わしながら、ごちゃごちゃに茂っている植え込みの方へ近づいていった。その茂みの上には、あちらにもこちらにも白や黄色やうす紫の小さなつぼみが、もう今にも咲き出しそうになっていた。

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生墻いけがきに沿うて、いろんな外国種のも混じって、どれがどれだか見分けられないくらいに枝と枝を交わしながら、ごちゃごちゃに茂っている植込みの方へ近づいてゆくと、それらの茂みの上には、あちらにもこちらにも白や黄や淡紫の小さなつぼみがもう今にも咲き出しそうになっていた。

私はそんな茂みの一つの前に立ち止まった。去年の秋だったか、それがそうだと彼女に教えられたのをふと思い出して、

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私はそんな茂みの一つの前に立ち止まると、去年の秋だったか、それがそうだと彼女に教えられたのをひょっくり思い出して、

「これはライラックだったね?」

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「これはライラックだったね?」

私は彼女の方をふり向きながら、半ば聞くように言った。

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と彼女の方をふり向きながら、半ば訊くように言った。

「それがどうもライラックじゃないかもしれないわ」

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「それがどうもライラックじゃないかも知れないわ」

彼女は私の肩に軽く手をかけたまま、少し気の毒そうに答えた。

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と私の肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。

「ふん……じゃあ、いままで嘘を教えていたんだね?」

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「ふん……じゃ、いままで嘘を教えていたんだね?」

「嘘なんかついてないけれど、そう言って人からいただいたの。……だけど、あんまりいい花じゃないんですもの」

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「嘘なんかきやしないけれど、そういって人から頂戴したの。……だけど、あんまり好い花じゃないんですもの」

「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」

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「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」

私はその隣にある茂みの方を指さしながら、「あいつは何ていったっけなあ?」

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私はその隣りにある茂みの方を指さしながら、「あいつは何んていったっけなあ?」

「金雀児(えにしだ)?」

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金雀児えにしだ?」

彼女はそう言葉を引き取った。

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と彼女はそれを引き取った。

私たちは今度はそっちの茂みの前に移っていった。

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私達は今度はそっちの茂みの前に移っていった。

「この金雀児は本物よ。ほら、黄色いのと白いのと、つぼみが二種類あるでしょう? こっちの白いの、それは珍しいんですって……お父様の自慢よ……」

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「この金雀児は本物よ。ほら、黄いろいのと白いのと、莟が二種類あるでしょう? こっちの白いの、それあ珍らしいのですって……お父様の御自慢よ……」

そんな他愛のないことを言い合っているあいだじゅう、節子は私の肩から手をはずさなかった。でも疲れたというよりは、うっとりしたようになって、私にもたれかかっていた。

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そんな他愛のないことを言い合いながら、その間じゅう節子は私の肩から手をはずさずに、しかし疲れたというよりも、うっとりとしたようになって、私にもたれかかっていた。

それから私たちは、しばらくそのまま黙り合っていた。

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それから私達はしばらくそのまま黙り合っていた。

そうすることで、この花が咲きにおうような人生を、そのまま少しでも引き留めておけるかのように。

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そうすることがこういう花咲き匂うような人生をそのまま少しでも引き留めて置くことが出来でもするかのように。

ときおり柔らかな風が、向こうの生け垣の間から、おさえつけられていた息のように押し出されてきた。それは私たちの前にある茂みにまで届き、その葉をわずかに持ち上げた。そしてそこにいる私たちだけをそっくりそのまま残して、通り過ぎていった。

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ときおり軟らかな風が向うの生墻の間から抑えつけられていた呼吸かなんぞのように押し出されて、私達の前にしている茂みにまで達し、その葉を僅かに持ち上げながら、それから其処にそういう私達だけをそっくり完全に残したまんま通り過ぎていった。

突然、彼女は私の肩にかけていた自分の手の中に、その顔をうずめた。

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突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。

私は、彼女の心臓がいつもより高く打っているのに気づいた。

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私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。

「疲れたの?」

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「疲れたの?」

私はやさしく彼女に聞いた。

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私はやさしく彼女に訊いた。

「いいえ」

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「いいえ」

彼女は小声で答えた。でも私は、ますます私の肩に彼女のゆるやかな重みがかかってくるのを感じた。

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と彼女は小声に答えたが、私はますます私の肩に彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感じた。

「私がこんなに弱くて、あなたに何だかお気の毒で……」

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「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」

彼女がそうささやいたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がしたくらいのものだった。

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彼女はそうささやいたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。

「お前のそういう弱々しいところが、そうでないよりも私にはもっとお前をいとしく思わせるのだということが、どうして分からないのだろうなあ……」

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「お前のそういう脆弱ひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」

私はもどかしそうに心の中で彼女に呼びかけていた。でも表面はわざと何も聞き取れなかったような様子をして、そのままじっと身動きもしないでいた。すると彼女は急に、私からその話をそらすように顔を上げた。だんだん私の肩から手さえも離しながら、

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と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、

「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? 少し前は、どんなに病気がひどいときでも、何とも思わなかったのに……」

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「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」

と、ごく低い声で、独り言のように口ごもった。

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と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。

沈黙が、その言葉を気づかわしげに引き延ばしていた。

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沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。

そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめた。そしてまた顔を伏せながら、いくらか上ずったような声で言った。

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そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。

「私、なんだか急に生きたくなったのね……」

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「私、なんだか急に生きたくなったのね……」

それから彼女は、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で言い足した。

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それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。

「あなたのおかげで……」

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「あなたのお蔭で……」

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それは、私たちが初めて出会った、もう二年前になる夏のころのことだった。ふいに私の口をついて出て、それから私が何ということもなく口ずさむのを好んでいた、

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それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口をいて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、

風立ちぬ、いざ生きめやも。

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風立ちぬ、いざ生きめやも。

という詩の言葉が、そのままずっと忘れていたのに、またふと私たちによみがえってきた。そんな――言うなれば人生に先立つような、人生そのものよりももっと生き生きとして、もっと切ないほど楽しい日々だった。

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という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達によみがえってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでにたのしい日々であった。

私たちはその月の終わりに、八ヶ岳(やつがたけ)のふもとのサナトリウムに行くための準備を始めていた。

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私達はその月末に八ヶ岳山麓さんろくのサナトリウムに行くための準備をし出していた。

私は、少し知り合いになっていた、そのサナトリウムの院長がときどき東京に来る機会をとらえて、出発するまでに一度、節子の病状を診てもらうことにした。

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私は、一寸した識合しりあいになっている、そのサナトリウムの院長がときどき上京する機会を捉えて、其処へ出かけるまでに一度節子の病状を診て貰うことにした。

ある日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来てもらい、最初の診察を受けた。院長は「なあに、大したことはないでしょう。まあ、一、二年山へ来て辛抱なさるんですなあ」

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或る日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来て貰って、最初の診察を受けた後、「なあに大したことはないでしょう。まあ、一二年山へ来て辛抱なさるんですなあ」

と病人たちに言い残して、忙しそうに帰っていく院長を、私は駅まで見送っていった。

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と病人達に言い残して忙しそうに帰ってゆく院長を、私は駅まで見送って行った。

私は院長から、自分にだけでも、もっと正確な彼女の病状を聞いておいてもらいたかった。

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私は彼から自分にだけでも、もっと正確な彼女の病態を聞かしておいて貰いたかったのだった。

「しかし、こんなことは病人には言わないようにしたまえ。お父さんにはそのうち僕からもよく話そうと思うがね」

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「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。父親ファタアにはそのうち僕からもよく話そうと思うがね」

院長はそう前置きしながら、少し気むずかしい顔つきで、節子の容態をかなり細かく私に説明してくれた。

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院長はそんな前置きをしながら、少し気むずかしい顔つきをして節子の容態をかなり細かに私に説明して呉れた。

それを黙って聞いていた私の方をじっと見て、「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の体も診ておいてやるんだったな」

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それからそれを黙って聞いていた私の方をじっと見て、「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の身体も診ておいてやるんだったな」

と私を気の毒がるように言った。

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と私を気の毒がるように言った。

駅から私が帰って、また病室に入っていくと、父はそのまま寝ている病人のそばに残っていた。サナトリウムへ出かける日取りなどの打ち合わせを、節子とし始めていた。

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駅から私が帰って、再び病室にはいってゆくと、父はそのまま寝ている病人の傍に居残って、サナトリウムへ出かける日取などの打ち合わせを彼女とし出していた。

なんだか浮かない顔をしたまま、私もその相談に加わった。

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なんだか浮かない顔をしたまま、私もその相談に加わり出した。

「だが……」

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「だが……」

父はやがて何か用事でも思い出したように立ち上がった。「もうこれくらいよくなっているのだから、夏のあいだだけでも行っていたら、ちょうどよさそうなものだがね」

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父はやがて何か用事でも思いついたように、立ち上がりながら、「もうこの位に良くなっているのだから、夏中だけでも行っていたら、よかりそうなものだがね」

といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。

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といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。

二人きりになると、私たちはどちらからともなく、ふっと黙り合った。

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二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。

それはいかにも春らしい夕暮れだった。

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それはいかにも春らしい夕暮であった。

私はさっきから何だか頭痛がしてきたような気がしていた。それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たないように立ち上がり、ガラス扉の方に近づいた。片方の扉を半分開け放って、それにもたれかかった。

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私はさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子ガラス扉の方に近づいて、その一方の扉を半ば開け放ちながら、それにもたれれかかった。

そしてしばらくそのまま、自分が何を考えているのかも分からないくらいぼんやりしていた。一面にうっすらともやの立ちこめている向こうの植え込みのあたりへ、「いい匂いがするなあ、何の花のにおいだろう――」

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そうしてしばらくそのまま私は、自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、一面にうっすらともやの立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう――」

と思いながら、ぼんやりとした目を向けていた。

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と思いながら、空虚な目をやっていた。

「何をしていらっしゃるの?」

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「何をしていらっしゃるの?」

私の背後で、病人の少ししわがれた声がした。

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私の背後で、病人のすこししゃがれた声がした。

それが不意に私を、そんなしびれたような状態から目覚めさせた。

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それが不意に私をそんな一種の麻痺まひしたような状態から覚醒かくせいさせた。

私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で言った。

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私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、

「お前のことだの、山のことだの、それから、そこで僕たちの暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」

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「お前のことだの、山のことだの、それからそこで僕達の暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」

と、とぎれとぎれに言い出した。

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と途切れ途切れに言い出した。

でも、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんなことを、今しがたまで考えていたような気がしてきた。

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が、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんな事を今しがたまで考えていたような気がしてきた。

そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――

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そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――

「向こうへ行ったら、本当にいろいろなことが起こるだろうなあ。……でも人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せきっておいた方がいいのだ。……そうすればきっと、私たちがそれを望もうとは思いもよらなかったようなものまで、私たちに与えられるかもしれないのだ。……」

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「向うへいったら、本当にいろいろな事が起るだろうなあ。……しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれをねがおうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」

そんなことまで心の中で考えながら、それには少しも自分では気づかずに、私はかえって何でもないように見える小さな印象の方に、すっかり気を取られていた。……

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そんなことまで心のうちで考えながら、それには少しも自分では気がつかずに、私はかえって何んでもないように見える些細ささいな印象の方にすっかり気をとられていたのだ。……

そんな庭の面はまだほのかに明るかった。でも気がついてみると、部屋の中はもうすっかり薄暗くなっていた。

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そんな庭面にわもはまだほの明るかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。

「明かりをつけようか?」

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「明りをつけようか?」

私は急に気を取り直しながら言った。

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私は急に気をとりなおしながら言った。

「まだつけないでおいてちょうだい……」

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「まだつけないでおいて頂戴……」

そう答えた彼女の声は、さっきよりもしわがれていた。

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そう答えた彼女の声は前よりも嗄れていた。

しばらく私たちは、言葉もなくいた。

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しばらく私達は言葉もなくていた。

「私、少し息苦しいの。草のにおいが強くて……」

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「私、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」

「じゃ、ここも閉めておこうね」

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「じゃ、ここも締めて置こうね」

私は、ほとんど悲しげな調子でそう答えながら、扉の取っ手に手をかけて、それを引きかけた。

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私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。

「あなた……」

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「あなた……」

彼女の声は今度は、ほとんど男とも女ともつかないくらいに聞こえた。

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彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。

「いま、泣いていらしたんでしょう?」

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「いま、泣いていらしったんでしょう?」

私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。

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私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。

「泣いてなんかいるものか。……僕を見てごらん」

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「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」

彼女は寝台の中から、私の方へその顔を向けようともしなかった。

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彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。

もう薄暗くて、はっきりとは分からないくらいだったが、彼女は何かをじっと見つめているらしかった。

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もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。

でも私が心配になって自分の目で追ってみると、彼女はただ何もない空を見つめているだけだった。

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しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただくうを見つめているきりだった。

「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしたのが……」

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「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」

私はすぐ何か答えたかったが、何の言葉も口から出てこなかった。

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私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。

私はただ音を立てないようにそっと扉を閉めながら、また夕暮れかけた庭の方を見つめ始めた。

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私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面を見入り出した。

やがて私は、背後で深いため息のようなものを聞いた。

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やがて私は、私の背後に深い溜息ためいきのようなものを聞いた。

「ごめんなさい」

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「御免なさい」

彼女はとうとう口をきいた。

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彼女はとうとう口をきいた。

その声はまだ少し震えを帯びていたが、さっきよりずっと落ち着いていた。

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その声はまだ少しふるえを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。

「こんなこと気になさらないでね……。私たち、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」

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「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」

私はふり向きながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそのままじっと置いているのに気づいた。

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私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。

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四月下旬のある薄曇った朝、駅まで父に見送られて、私たちは、まるで新婚旅行にでも出かけるかのように、父の前ではいかにも楽しそうに、山岳地方へ向かう汽車の二等車に乗り込んだ。

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四月下旬の或る薄曇った朝、停車場まで父に見送られて、私達はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように、父の前はさも愉しそうに、山岳地方へ向う汽車の二等室に乗り込んだ。

汽車は静かにプラットフォームを離れ始めた。

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汽車はしずかにプラットフォームを離れ出した。

そのあとに、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前かがみにして、急に年をとったような様子で立っている父だけを一人残して。――

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その跡に、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前屈まえかがみにして、急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。――

すっかりプラットフォームを離れると、私たちは窓を閉めた。急に寂しくなったような顔つきをして、空いている二等車の一隅に腰を下ろした。

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すっかりプラットフォームを離れると、私達は窓を締めて、急に淋しくなったような顔つきをして、空いている二等室の一隅に腰を下ろした。

そうやってお互いの心と心を温め合おうとするように、ひざとひざをぴったりとくっつけながら……

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そうやってお互の心と心を温め合おうとでもするように、膝と膝とをぴったりとくっつけながら……

風立ちぬ

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風立ちぬ

私たちの乗った汽車は、何度も山を登ったり、深い谷に沿って走ったり、また急にひらけたぶどう畑の多い台地を、長い時間かけて横切ったりした。そのあと、ようやく山岳地帯へと、果てしのないようなしつこい登りをつづけ始めたころには、空は一段と低くなっていた。それまではただ一面をふさいでいるように見えた真っ黒な雲が、いつのまにかばらばらになって動き出し、私たちの目の上にまでのしかかってくるようだった。

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私達の乗った汽車が、何度となく山をじのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、又それから急にひらけた葡萄畑ぶどうばたけの多い台地を長いことかかって横切ったりしたのち、っと山岳地帯へと果てしのないような、執拗しつよう登攀とうはんをつづけ出した頃には、空は一層低くなり、いままではただ一面にざしているように見えた真っ黒な雲が、いつの間にか離れ離れになって動き出し、それらが私達の目の上にまでしかぶさるようであった。

空気も何だか底冷えがしてきた。

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空気もなんだか底冷えがしだした。

上着のえりを立てた私は、ひざ掛けにすっかり体をうずめるようにして目をつぶっている節子を、不安そうに見守っていた。彼女は疲れたというよりも、少し興奮しているような顔をしていた。

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上衣の襟を立てた私は、肩掛にすっかり体を埋めるようにして目をつぶっている節子の、疲れたと云うよりも、すこし興奮しているらしい顔を不安そうに見守っていた。

彼女はときどき、ぼんやりと目を開けて私の方を見た。

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彼女はときどきぼんやりと目をひらいて私の方を見た。

はじめのうちは、二人はそのたびに目と目でほほえみ合った。でも、しまいにはただ不安そうにお互いを見合うだけで、すぐ二人とも目をそらした。

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はじめのうちは二人はその度毎に目と目で微笑ほほえみあったが、しまいにはただ不安そうに互を見合ったきり、すぐ二人とも目をそらせた。

そして彼女はまた目を閉じた。

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そうして彼女はまた目を閉じた。

「なんだか冷えてきたね。雪でも降るのかな」

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「なんだか冷えてきたね。雪でも降るのかな」

「こんな四月になっても雪なんか降るの?」

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「こんな四月になっても雪なんか降るの?」

「うん、この辺りは降らないとも限らないんだ」

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「うん、この辺は降らないともかぎらないのだ」

まだ三時ごろだというのに、もうすっかり薄暗くなった窓の外へ目を向けた。

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まだ三時頃だというのにもうすっかり薄暗くなった窓の外へ目を注いだ。

ところどころに真っ黒なもみの木をまじえながら、葉のないからまつが無数に並び始めているのに気づいた。それで、すでに私たちは八ヶ岳のふもとを通っていることが分かった。でも、間近に見えるはずの山らしいものは、影も形も見えなかった。……

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ところどころに真っ黒なもみをまじえながら、葉のない落葉松からまつが無数に並び出しているのに、すでに私達は八ヶ岳の裾を通っていることに気がついたが、まのあたり見える筈の山らしいものは影も形も見えなかった。……

汽車は、いかにも山のふもとらしい、物置小屋とたいして変わらない小さな駅に停車した。

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汽車は、いかにも山麓さんろくらしい、物置小屋と大してかわらない小さな駅に停車した。

駅には、高原療養所の印のついた法被(はっぴ・しるしの入った作業着)を着た、年をとった小使が一人、私たちを迎えに来ていた。

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駅には、高原療養所の印のついた法被はっぴを着た、年とった、小使が一人、私達を迎えに来ていた。

駅前に待たせてあった、古くて小さな自動車のところまで、私は節子を腕で支えるようにして歩いた。

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駅の前に待たせてあった、古い、小さな自動車のところまで、私は節子を腕で支えるようにして行った。

私の腕の中で、彼女が少しよろめくのを感じたが、私はそれに気づかないふりをした。

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私の腕の中で、彼女がすこしよろめくようになったのを感じたが、私はそれには気づかないようなふりをした。

「疲れたろうね?」

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「疲れたろうね?」

「そんなでもないわ」

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「そんなでもないわ」

私たちと一緒に降りた、土地の人らしい数人が、私たちのまわりで何やらささやき合っていた。でも私たちが自動車に乗り込んでいるうちに、いつのまにかその人たちは他の村人たちに混じって見分けにくくなり、村の中に消えていった。

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私達と一緒に下りた数人の土地の者らしい人々が、そういう私達のまわりで何やらささやっていたようだったが、私達が自動車に乗り込んでいるうちに、いつのまにかその人々は他の村人たちに混って見分けにくくなりながら、村のなかに消えていた。

私たちの自動車は、みすぼらしい小さな家が一列に続く村を通り抜けた。そのあと、見えない八ヶ岳の尾根まで、そのまま果てしなく広がっているかと思えるでこぼこの多い傾斜地にさしかかった。すると、背後に雑木林を背負いながら、赤い屋根をした、いくつもの側の建物のある大きな建物が、行く手に見えてきた。

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私達の自動車が、みすぼらしい小家の一列に続いている村を通り抜けた後、それが見えない八ヶ岳の尾根までそのまま果てしなく拡がっているかと思える凸凹の多い傾斜地へさしかかったと思うと、背後に雑木林を背負いながら、赤い屋根をした、いくつもの側翼のある、大きな建物が、行く手に見え出した。

「あれだな」

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「あれだな」

私は車体の傾きを体に感じながら、つぶやいた。

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と、私は車台の傾きを身体に感じ出しながら、つぶやいた。

節子はちょっと顔を上げ、いくぶん心配そうな目つきで、それをぼんやりと見ただけだった。

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節子はちょっと顔を上げ、いくぶん心配そうな目つきで、それをぼんやりと見ただけだった。

サナトリウムに着くと、私たちは、その一番奥の方、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。

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サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。

簡単な診察のあと、節子はすぐベッドに寝ているように言われた。

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簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。

リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと机とイス、――それから他には、たったいま小使が届けてくれたばかりの数個のトランクがあるだけだった。

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リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と、――それからその他には、いましがた小使が届けてくれたばかりの数箇のトランクがあるきりだった。

二人きりになると、私はしばらく落ち着かなかった。付き添いの人のためにあてられた狭苦しい小部屋にも入ろうとせず、そんなむき出しな感じのする部屋の中をぼんやり見回したり、何度も窓に近づいては、空の様子ばかり気にしていた。

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二人きりになると、私はしばらく落着かずに、附添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見廻したり、又、何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。

風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。

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風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。

そしてときおり、裏の雑木林から鋭い音がもぎ取られたようにひびいた。

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そしてときおり裏の雑木林から鋭い音をいだりした。

私は一度、寒そうな様子でバルコニーに出て行った。

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私は一度寒そうな恰好かっこうをしてバルコンに出て行った。

バルコニーは、何の仕切りもなくずっと向こうの病室まで続いていた。

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バルコンは何んの仕切もなしにずっと向うの病室まで続いていた。

その上にはまったく人けがなかった。それで私はかまわずに歩き出し、病室を一つ一つのぞいていった。すると、ちょうど四番目の病室の中に、一人の患者が寝ているのが半分開いた窓から見えたので、私はいそいでそのまま引き返してきた。

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その上には全く人けが絶えていたので、私は構わずに歩き出しながら、病室を一つ一つ覗いて行って見ると、丁度四番目の病室のなかに、一人の患者の寝ているのが半開きになった窓から見えたので、私はいそいでそのまま引っ返して来た。

やっとランプがついた。

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やっとランプがいた。

それから私たちは、看護婦が運んできてくれた食事に向かい合った。

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それから私達は看護婦の運んで来てくれた食事に向い合った。

それは、私たちが二人きりで最初に共にする食事にしては、少しわびしかった。

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それは私達が二人きりで最初に共にする食事にしては、すこしびしかった。

食事のあいだ、外はもう真っ暗だったので何も気づかなかった。ただ何だか急にあたりが静かになったと思っていたら、いつのまにか雪になり始めていたらしかった。

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食事中、外がもう真っ暗なので何も気がつかずに、唯何んだかあたりが急に静かになったと思っていたら、いつのまにか雪になり出したらしかった。

私は立ち上がって、半分開けてあった窓をもう少し細めに閉じた。そしてそのガラスに顔をくっつけて、自分の息で曇るくらいじっと、雪の降るのを見つめていた。

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私は立ち上って、半開きにしてあった窓をもう少し細目にしながら、その硝子ガラスに顔をくっつけて、それが私の息で曇りだしたほど、じっと雪のふるのを見つめていた。

それからやっとそこを離れ、節子の方をふり向いて、「ねえ、お前、何だってこんな……」

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それからやっと其処を離れながら、節子の方を振り向いて、「ねえ、お前、何んだってこんな……」

と言い出しかけた。

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と言い出しかけた。

彼女はベッドに寝たまま、訴えるように私の顔を見上げた。それを私に言わせまいとするように、口へ指をあてた。

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彼女はベッドに寝たまま、私の顔を訴えるように見上げて、それを私に言わせまいとするように、口へ指をあてた。

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八ヶ岳の大きくのびのびとした、赤茶色の裾野がようやく傾きをゆるめようとするあたりに、サナトリウムは、いくつかの側の建物を並べながら、南を向いて立っていた。

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八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色たいしゃいろの裾野が漸くその勾配をゆるめようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。

その裾野の傾斜はさらに延びていって、二、三の小さな山村を村ごと傾けながら、最後には無数の黒い松にすっかり包まれ、見えない谷間の中に尽きていた。

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その裾野の傾斜は更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない谿間たにまのなかに尽きていた。

サナトリウムの南に開いたバルコニーからは、そういう傾いた村々とその赤茶けた耕作地が、一帯に見わたせた。さらにそれらを取り囲みながら果てしなく並び立つ松林の上には、よく晴れた日なら、南から西にかけて、南アルプスとその二、三の支脈が、いつも自分自身で湧き上らせた雲の中に見え隠れしていた。

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サナトリウムの南に開いたバルコンからは、それらの傾いた村とそのあかちゃけた耕作地が一帯に見渡され、更にそれらを取り囲みながら果てしなく並み立っている松林の上に、よく晴れている日だったならば、南から西にかけて、南アルプスとその二三の支脈とが、いつも自分自身で湧き上らせた雲のなかに見え隠れしていた。

サナトリウムに着いた翌朝、自分の小部屋で私が目を覚ますと、小さな窓の枠の中に、青く晴れきった空と、いくつもの真っ白なとさかのような山々の頂が見えた。それはまるで大気からひょっこり生まれ出たような思いがけなさで、ほとんど真正面に見えた。

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サナトリウムに着いた翌朝、自分の側室で私が目をますと、小さな窓枠の中に、藍青色らんせいしょくに晴れ切った空と、それからいくつもの真っ白い鶏冠のような山巓さんてんが、そこにまるで大気からひょっくり生れでもしたような思いがけなさで、殆んどながいに見られた。

そして、寝たままでは見えないバルコニーや屋根の上に積もった雪からは、急に春めいた日の光を浴びて、絶えず水蒸気が立っているらしかった。

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そして寝たままでは見られないバルコンや屋根の上に積った雪からは、急に春めいた日の光を浴びながら、絶えず水蒸気がたっているらしかった。

少し寝すごしたくらいの私は、いそいで飛び起きて、隣りの病室へ入っていった。

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すこし寝過したくらいの私は、いそいで飛び起きて、隣りの病室へはいって行った。

節子は、すでに目を覚ましていて、毛布にくるまりながら、ほてったような顔をしていた。

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節子は、すでに目を醒ましていて、毛布にくるまりながら、ほてったような顔をしていた。

「おはよう」

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「お早う」

私も同じように、顔がほてってくるのを感じながら、気軽そうに言った。

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私も同じように、顔がほてり出すのを感じながら、気軽そうに言った。

「よく眠れた?」

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「よく寝られた?」

「ええ」

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「ええ」

彼女は私にうなずいて見せた。

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彼女は私にうなずいて見せた。

「ゆうべ睡眠薬を飲んだの。なんだか頭が少し痛いわ」

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「ゆうべ睡眠剤くすりを飲んだの。なんだか頭がすこし痛いわ」

私はそんなことにかまってなんかいられないというふうに、元気よく窓も、バルコニーに通じるガラス扉も、すっかり開け放した。

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私はそんなことになんか構っていられないと云った風に、元気よく窓も、それからバルコンに通じる硝子ガラス扉も、すっかり開け放した。

まぶしくて、一時は何も見えないくらいだった。でも、そのうち目がだんだん慣れてくると、雪に埋もれたバルコニーからも、屋根からも、野原からも、木からさえも、軽い水蒸気が立っているのが見えてきた。

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まぶしくって、一時は何も見られない位だったが、そのうちそれに目がだんだん馴れてくると、雪に埋れたバルコンからも、屋根からも、野原からも、木からさえも、軽い水蒸気の立っているのが見え出した。

「それに、とてもおかしな夢を見たの。あのね……」

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「それにとても可笑おかしな夢を見たの。あのね……」

彼女が私の背後で言いかけた。

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彼女が私の背後で言い出しかけた。

私はすぐ、彼女が何か打ち明けにくいことを、無理に言い出そうとしているらしいのに気づいた。

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私はすぐ、彼女が何か打ち明けにくいようなことを無理に言い出そうとしているらしいのをさとった。

そんなときいつもそうであるように、彼女のいまの声も、少ししわがれていた。

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そんな場合のいつものように、彼女のいまの声もすこししゃがれていた。

今度は私が、彼女の方をふり向きながら、それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。……

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今度は私が、彼女の方を振り向きながら、それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。……

やがて看護婦長が、せかせかした親切そうな様子で入ってきた。

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やがて看護婦長がせかせかした親切そうな様子をしてはいって来た。

こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと患者たちを一人一人見舞うのである。

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こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと患者達を一人一人見舞うのである。

「ゆうべはよくお休みになれましたか?」

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「ゆうべはよくお休みになれましたか?」

看護婦長は明るい声で尋ねた。

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看護婦長は快活そうな声で尋ねた。

病人は何も言わずに、素直にうなずいた。

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病人は何も言わないで、素直にうなずいた。

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こういう山のサナトリウムでの暮らしは、ふつうの人々が「もう行き止まりだ」と思うところから始まる。だから、自然と特別な人間らしさを帯びてくるものだ。――

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こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。――

私が自分の中に、そういう見知らないような人間らしさをぼんやりと感じ始めたのは、入院してまもなく、私が院長に診察室に呼ばれ、節子のレントゲンで撮った病気の部分の写真を見せられたときからだった。

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私が自分のうちにそういう見知らないような人間性をぼんやりと意識しはじめたのは、入院後間もなく私が院長に診察室に呼ばれて行って、節子のレントゲンで撮られた疾患部の写真を見せられた時からだった。

院長は私を窓ぎわに連れて行った。私にも見やすいように、その写真を日の光にすかしながら、一つ一つ説明を加えていった。

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院長は私を窓ぎわに連れて行って、私にも見よいように、その写真の原板を日に透かせながら、一々それに説明を加えて行った。

右の胸には数本の白い肋骨(ろっこつ)がくっきりと見えた。でも左の胸には、それらがほとんど何も見えないくらい、大きな、まるで暗い不思議な花のような病巣(びょうそう・病気のかたまり)ができていた。

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右の胸には数本の白々とした肋骨ろっこつがくっきりと認められたが、左の胸にはそれらが殆んど何も見えない位、大きな、まるで暗い不思議な花のような、病竈びょうそうができていた。

「思ったより病巣が広がっているなあ。……こんなにひどくなっているとは思わなかったね。……これじゃ、いま、病院の中でも二番目くらいに重い症状かもしれんよ……」

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「思ったよりも病竈が拡がっているなあ。……こんなにひどくなってしまって居るとは思わなかったね。……これじゃ、いま、病院中でも二番目ぐらいに重症かも知れんよ……」

そんな院長の言葉が自分の耳の中でがあがあと鳴っているような気がした。私はなんだか考える力を失ってしまった者のように、さっき見てきたあの暗い不思議な花のような映像を、それらの言葉とはまったく関係のないもののように、それだけ鮮やかに頭に残しながら、診察室から帰ってきた。

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そんな院長の言葉が自分の耳の中でがあがあするような気がしながら、私はなんだか思考力を失ってしまった者みたいに、いましがた見て来たあの暗い不思議な花のような影像イマアジュをそれらの言葉とは少しも関係がないもののように、それだけを鮮かに意識のしきみに上らせながら、診察室から帰って来た。

自分とすれちがう白い服の看護婦や、もうあちこちのバルコニーで日光浴をし始めている裸の患者たち、病棟のざわめき、それから小鳥のさえずり――そういうものが、そんな私の前を何のつながりもなく過ぎていった。

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自分とすれちがう白衣の看護婦だの、もうあちこちのバルコンで日光浴をしだしている裸体の患者達だの、病棟のざわめきだの、それから小鳥のさえずりだのが、そういう私の前を何んの連絡もなしに過ぎた。

私はとうとう一番はずれの病棟に入り、私たちの病室のある二階へ通じる階段を上ろうとして、機械的に足をゆるめた。その瞬間、階段の一つ手前にある病室の中から、これまで聞いたこともないような気味の悪いから咳(せき)が、続けざまに聞こえてきた。

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私はとうとう一番はずれの病棟にはいり、私達の病室のある二階へ通じる階段を昇ろうとして機械的に足をゆるめた瞬間、その階段の一つ手前にある病室の中から、異様な、ついぞそんなのはまだ聞いたこともないような気味のわるい空咳が続けさまに洩れて来るのを耳にした。

「おや、こんなところにも患者がいたのかなあ」

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「おや、こんなところにも患者がいたのかなあ」

そう思いながら、私はそのドアについている「No.17」という数字を、ただぼんやりと見つめた。

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と思いながら、私はそのドアについている No.17 という数字を、ただぼんやりと見つめた。

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こうして私たちの、少し風変わりな愛の暮らしが始まった。

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こうして私達のすこし風変りな愛の生活が始まった。

節子は入院以来、安静にするように言われて、ずっと寝たきりだった。

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節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたきりだった。

そのために、気分のよいときはつとめて起きるようにしていた入院前の彼女と比べると、かえって病人らしく見えた。でも、病気そのものが悪くなったとは思えなかった。

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そのために、気分の好いときはつとめて起きるようにしていた入院前の彼女に比べると、かえって病人らしく見えたが、別に病気そのものは悪化したとも思えなかった。

医者たちも、彼女を「もうすぐよくなる患者」としていつも扱っているように見えた。

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医者達もまた直ぐ快癒する患者として彼女をいつも取り扱っているように見えた。

「こうして病気を生け捕りにしてしまうのだ」

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「こうして病気を生捕りにしてしまうのだ」

院長などは、冗談のようにそんなことを言ったりした。

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と院長などは冗談でも言うように言ったりした。

そのあいだに季節は、今まで少し遅れがちだったのを取り戻すように、急に進み始めていた。

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季節はその間に、いままで少し遅れ気味だったのを取り戻すように、急速に進み出していた。

春と夏が、ほとんど同時に押し寄せてきたかのようだった。

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春と夏とが殆んど同時に押し寄せて来たかのようだった。

毎朝のように、うぐいすやかっこうの鳴き声が私たちを目覚めさせた。

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毎朝のように、鶯や閑古鳥の囀りが私達を眼ざませた。

そしてほとんど一日じゅう、周りの林の新しい緑がサナトリウムを四方から包みこみ、病室の中まですっかりさわやかに色づかせていた。

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そして殆んど一日中、周囲の林の新緑がサナトリウムを四方から襲いかかって、病室の中まですっかりさわやかに色づかせていた。

そのころは、朝のうちに山々から湧いて出ていった白い雲までも、夕方にはまた元の山々へ戻ってくるように見えた。

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それらの日々、朝のうちに山々から湧いて出て行った白い雲までも、夕方には再び元の山々へ立ち戻って来るかと見えた。

私たちが共にした最初の日々、私が節子の枕もとにほとんどつきっきりで過ごしたあの日々のことを思い出そうとすると、それらの日々があまりに似ているため、その魅力とも言える単純さのために、どれが後でどれが先だったか、ほとんど見分けがつかなくなる気がする。

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私は、私達が共にした最初の日々、私が節子の枕もとに殆んど附ききりで過したそれらの日々のことを思い浮べようとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、殆んどどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。

というよりも、私たちはそんな似たような日々を繰り返しているうちに、いつのまにか時間というものから完全に抜け出してしまっていたような気さえする。

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と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。

そして、そんな時間から抜け出したような日々では、私たちの日常のどんな小さなものでも、その一つ一つがそれまでとはまったくちがう魅力を持ち始めるのだ。

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そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細ささいなものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。

私のそばにあるこの、ほんのり温かくてよいにおいのする存在。その少し早い呼吸。私の手を握っているしなやかな手。その笑顔。それから、ときどき交わす何でもない会話。――そういうものを取り除いてしまったら、あとには何も残らないくらい単純な日々だった。でも、私たちの人生というものは、もとをたどれば実はこれだけなのだ。そして、こんなささやかなものだけで私たちがこれほど満足していられるのは、ただ私がそれをこの人と一緒に過ごしているからなのだと、私は確信していられた。

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私の身近にあるこの微温なまぬるい、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、――そう云ったものをし取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、――我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信して居られた。

そのころの唯一の出来事といえば、彼女がときおり熱を出すことくらいだった。

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それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこと位だった。

それは、彼女の体をじりじりと弱らせていくものにちがいなかった。

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それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。

でも私たちは、そんな日はいつもと少しも変わらない毎日の魅力を、もっと注意深く、もっとゆっくりと、まるで禁じられた果物の味をこっそり盗み食いするように味わおうとした。だから、私たちのいくぶん死の味のする生きる幸福は、そのときはいっそう完全に保たれたほどだった。

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が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそりぬすみでもするように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれた程だった。

そんなある夕暮れ、私はバルコニーから、節子はベッドの上から、同じように向こうの山の稜線に沈んだばかりの夕日を見ていた。そのあたりの山や丘、松林や畑が、半ば鮮やかなあかね色を帯びながら、半ばまだはっきりしない灰色に、少しずつ染まっていくのを、うっとりと眺めていた。

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そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色あかねいろを帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色ねずみいろに徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。

ときどき思い出したように、その森の上へ小鳥たちが弧を描いて飛び上がった。――

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ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たちが抛物線ほうぶつせんを描いて飛び上った。――

私は、こういう初夏の夕暮れがほんの一瞬つくり出す景色――どれもいつも見慣れた光景ばかりなのに――おそらくこの今をおいては、これほどあふれるような幸福を感じながら見ることは、私たち自身にすらできないだろうと考えていた。

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私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今をいてはこれほどのあふれるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。

そしてずっとあとになって、いつかこの美しい夕暮れが私の心によみがえることがあったら、私はそこに、私たちの幸福そのものの完全な絵を見つけるだろうと夢見ていた。

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そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が私の心によみがえって来るようなことがあったら、私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。

「何をそんなに考えているの?」

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「何をそんなに考えているの?」

私の背後から、節子がとうとう口を開いた。

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私の背後から節子がとうとう口を切った。

「僕たちがずっとあとになって、今の僕たちの暮らしを思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」

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「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」

「本当にそうかもしれないわね」

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「本当にそうかも知れないわね」

彼女はそう、私に同意するのがいかにも楽しいというように答えた。

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彼女はそう私に同意するのがさもたのしいかのように応じた。

それからまた私たちは、しばらく黙ったまま、同じ景色に見入っていた。

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それからまた私達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入っていた。

でも、そのうち私は不意に、こうしてうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、変にぼんやりとした、つかみどころのない、何となく苦しいような気持ちさえしてきた。

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が、そのうちに私は不意になんだか、こうやってうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、変に茫漠ぼうばくとした、取りとめのない、そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえして来た。

そのとき私は、自分の背後で深い息のようなものを聞いた気がした。

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そのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたような気がした。

でも、それは自分の息だったような気もした。

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が、それがまた自分のだったような気もされた。

私はそれを確かめるように、彼女の方をふり向いた。

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私はそれを確かめでもするように、彼女の方を振り向いた。

「そんなにいまの……」

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「そんなにいまの……」

そんな私をじっと見返しながら、彼女は少ししわがれた声で言いかけた。

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そういう私をじっと見返しながら、彼女はすこししゃがれた声で言いかけた。

でも、それを言いかけたまま、少しためらっていたようだった。それから急に、それまでとはちがう投げやりな調子で、「そんなにいつまでも生きていられたらいいわね」

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が、それを言いかけたなり、すこし躊躇ためらっていたようだったが、それから急にいままでとは異った打棄うっちゃるような調子で、「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」

と言い足した。

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と言い足した。

「また、そんなことを!」

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「又、そんなことを!」

私はいかにもじれったそうに、小さく叫んだ。

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私はいかにもれったいように小さく叫んだ。

「ごめんなさい」

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「御免なさい」

彼女はそう短く答えて、私から顔をそむけた。

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彼女はそう短く答えながら私から顔をそむけた。

それまでの、自分でもわけの分からないような気持ちが、私の中で、だんだん一種のいら立ちに変わっていくようだった。

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いましがたまでの何か自分にもわけの分らないような気分が私にはだんだん一種のたしさに変り出したように見えた。

私はそれから、もう一度山の方へ目をやった。でもそのときには、もうその景色にほんの一瞬あった不思議な美しさは、消えてしまっていた。

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私はそれからもう一度山の方へ目をやったが、その時は既にもうその風景の上に一瞬間生じていた異様な美しさは消え失せていた。

その晩、私が隣りの小部屋へ寝に行こうとしたとき、彼女は私を呼び止めた。

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その晩、私が隣りの側室へ寝に行こうとした時、彼女は私を呼び止めた。

「さっきはごめんなさいね」

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「さっきは御免なさいね」

「もういいんだよ」

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「もういいんだよ」

「私ね、あのとき、他のことを言おうとしていたんだけれど……つい、あんなことを言ってしまったの」

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「私ね、あのとき他のことを言おうとしていたんだけれど……つい、あんなことを言ってしまったの」

「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」

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「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」

「……あなたはいつか、自然が本当に美しいと思えるのは、死んでいこうとする人の目にだけだとおっしゃったことがあるでしょう。……私、あのとき、それを思い出したの。何だか、あのときの美しさが、そんなふうに思えて」

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「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだとおっしゃったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」

そう言いながら、彼女は何かを訴えるように、私の顔を見つめた。

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そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。

その言葉に胸をつかれたように、私は思わず目を伏せた。

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その言葉に胸をかれでもしたように、私は思わず目を伏せた。

そのとき、突然、私の頭の中を一つの考えがよぎった。

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そのとき、突然、私の頭の中を一つの思想がよぎった。

そしてさっきから私をいらいらさせていた、あの何か不確かな気持ちが、ようやく私の中ではっきりとしたものになってきた。……

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そしてさっきから私を苛ら苛らさせていた、何か不確かなような気分が、ようやく私のうちではっきりとしたものになり出した。……

「そうだ、おれはどうしてそれに気づかなかったのだろう? あのとき、自然をあんなに美しいと思ったのはおれじゃないんだ。それはおれたちだったんだ。言ってみれば、節子の魂が、おれの目を通して、ただおれのやり方で夢を見ていただけなんだ。……それなのに、節子は自分の最後の瞬間のことを夢見ているとも知らずに、おれはおれで、勝手におれたちが長生きしたときのことなんかを考えていたなんて……」

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「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう? あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれ達だったのだ。まあ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通して、そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。……それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みているとも知らないで、おれはおれで、勝手におれ達の長生きした時のことなんぞ考えていたなんて……」

いつのまにか、そんな考えをあれこれめぐらしていた私が、ようやく目を上げるまで、彼女はさっきと同じように、私をじっと見つめていた。

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いつしかそんな考えをとつおいつし出していた私が、っと目を上げるまで、彼女はさっきと同じように私をじっと見つめていた。

私はその目を避けるようにしながら、彼女の上にかがみこんで、その額にそっと口づけをした。

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私はその目を避けるような恰好かっこうをしながら、彼女の上にかがみかけて、その額にそっと接吻した。

私は心から恥ずかしかった。……

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私は心からはずかしかった。……

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とうとう真夏になった。

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とうとう真夏になった。

それは、平地よりも、もっと激しいほどだった。

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それは平地でよりも、もっと猛烈な位であった。

裏の雑木林では、何かが燃え出したかのように、せみが一日じゅう鳴きやまなかった。

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裏の雑木林では、何かが燃え出しでもしたかのように、蝉がひねもすまなかった。

木のやにのにおいさえ、開け放した窓から漂ってきた。

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樹脂のにおいさえ、開け放した窓から漂って来た。

夕方になると、外で少しでも楽に息をするために、バルコニーまでベッドを引き出させる患者が多かった。

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夕方になると、戸外で少しでも楽な呼吸をするために、バルコンまでベッドを引き出させる患者達が多かった。

そういう患者たちを見て、私たちは初めて、この頃急にサナトリウムの患者が増えていることに気づいた。

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それらの患者達を見て、私達ははじめて、この頃にわかにサナトリウムの患者達の増え出したことを知った。

でも、私たちはあいかわらず、誰にもかまわず二人だけの暮らしを続けていた。

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しかし、私達は相かわらず誰にも構わずに二人だけの生活を続けていた。

この頃、節子は暑さのためにすっかり食欲をなくし、夜もよく眠れないことが多いらしかった。

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この頃、節子は暑さのためにすっかり食慾を失い、夜などもよく寝られないことが多いらしかった。

私は、彼女の昼寝を守るために、前よりもいっそう、廊下の足音や、窓から飛びこんでくるハチやアブなどに気を配るようになった。

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私は、彼女の昼寝を守るために、前よりも一層、廊下の足音や、窓から飛びこんでくる蜂やあぶなどに気を配り出した。

そして暑さのために思わず大きくなる、自分自身の呼吸にも気をもんだりした。

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そして暑さのために思わず大きくなる私自身の呼吸にも気をもんだりした。

そうやって病人の枕もとで、息をつめながら彼女の眠っているのを見守っているのは、私にとっても、眠りに近いものだった。

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そのように病人の枕元で、息をつめながら、彼女の眠っているのを見守っているのは、私にとっても一つの眠りに近いものだった。

私は、彼女が眠りながら呼吸を速くしたりゆるめたりする変化を、苦しいほどはっきりと感じるのだった。

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私は彼女が眠りながら呼吸を速くしたりゆるくしたりする変化を苦しいほどはっきりと感じるのだった。

私は、彼女と心臓の鼓動さえ共にしていた。

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私は彼女と心臓の鼓動をさえ共にした。

ときどき、軽い呼吸困難が彼女を襲うらしかった。

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ときどき軽い呼吸困難が彼女を襲うらしかった。

そんなとき、彼女は手を少しけいれんさせながらのどのところまで持っていき、それを抑えるような手つきをする。――夢にうなされているのではないかと思い、私が起こしてやろうかどうか迷っているうちに、そんな苦しそうな状態はやがて過ぎ、あとに力のぬけたような状態がやって来る。

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そんな時、手をすこし痙攣けいれんさせながらのどのところまで持って行ってそれを抑えるような手つきをする、――夢におそわれてでもいるのではないかと思って、私が起してやったものかどうかと躊躇っているうち、そんな苦しげな状態はやがて過ぎ、あとに弛緩状態しかんじょうたいがやって来る。

すると、私も思わずほっとする。そのとき彼女の息づいている静かな呼吸に、自分まで一種の心地よさを覚えるのだった。――

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そうすると、私も思わずほっとしながら、いま彼女の息づいている静かな呼吸に自分までが一種の快感さえ覚える。――

そして彼女が目を覚ますと、私はそっと彼女の髪に口づけをする。

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そうして彼女が目をますと、私はそっと彼女の髪に接吻をしてやる。

彼女はまだけだるそうな目つきで、私を見るのだった。

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彼女はまだるそうな目つきで、私を見るのだった。

「あなた、そこにいたの?」

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「あなた、そこにいたの?」

「ああ、僕もここで少しうとうとしていたんだ」

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「ああ、僕もここで少しうつらうつらしていたんだ」

そんな晩など、自分もいつまでも寝つかれずにいることがあると、私はそれが癖にでもなったように、自分でも気づかずに、手をのどに近づけて、それを抑えるような手つきをまねたりしている。

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そんな晩など、自分もいつまでも寝つかれずにいるようなことがあると、私はそれが癖にでもなったように、自分でも知らずに、手を咽に近づけながらそれを抑えるような手つきを真似たりしている。

そしてそれに気づいたあとで、そこからやっと本当の呼吸困難を感じたりする。

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そしてそれに気がついたあとで、それからやっと私は本当の呼吸困難を感じたりする。

でもそれは、私にはむしろ心地よいものでさえあった。

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が、それは私にはむしろ快いものでさえあった。

「この頃、なんだかお顔色が悪いようよ」

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「この頃なんだかお顔色が悪いようよ」

ある日、彼女はいつもよりしげしげと私を見ながら言うのだった。

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或る日、彼女はいつもよりしげしげと見ながら言うのだった。

「どうかなさったのじゃない?」

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「どうかなすったのじゃない?」

「なんでもないよ」

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「なんでもないよ」

そう言われるのは、私の気に入った。

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そう言われるのは私の気に入った。

「僕はいつだってこうじゃないか?」

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「僕はいつだってこうじゃないか?」

「あんまり病人のそばにばかりいないで、少しは散歩くらいなさらない?」

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「あんまり病人の側にばかり居ないで、少しは散歩くらいなすっていらっしゃらない?」

「この暑いのに、散歩なんかできるもんか。……夜は夜で、真っ暗だしさ。……それに、毎日、病院の中をずいぶん行ったり来たりしているんだからなあ」

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「この暑いのに、散歩なんか出来るもんか。……夜は夜で、真っ暗だしさ。……それに毎日、病院の中をずいぶん往ったり来たりしているんだからなあ」

私はそんな話をこれ以上進めないために、毎日廊下などで出会う、他の患者たちの話を持ち出すのだった。

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私はそんな会話をそれ以上にすすめないために、毎日廊下などで出逢ったりする、他の患者達の話を持ち出すのだった。

よくバルコニーの端に集まって、空を競馬場に、動いている雲をいろいろな動物に見立て合っている年下の患者たちのことや、いつも付き添いの看護婦の腕にすがって、あてもなく廊下を行き来している、ひどい神経衰弱の、不気味なくらい背の高い患者のことなどを話して聞かせたりした。

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よくバルコンの縁に一塊りになりながら、空を競馬場に、動いている雲をいろいろそれに似た動物に見立て合ったりしている年少の患者達のことや、いつも附添看護婦の腕にすがって、あてもなしに廊下を往復している、ひどい神経衰弱の、無気味なくらい背の高い患者のことなどを話して聞かせたりした。

でも、私はまだ一度もその顔を見たことがない。いつもその部屋の前を通るたびに、気味の悪い、何だかぞっとするような咳が聞こえてくる、あの第十七号室の患者のことだけは、なるべく避けるようにしていた。

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しかし、私はまだ一度もその顔は見たことがないが、いつもその部屋の前を通る度ごとに、気味のわるい、なんだかぞっとするような咳を耳にする例の第十七号室の患者のことだけは、つとめて避けるようにしていた。

おそらく、それがこのサナトリウムの中で、一番重い症状の患者なのだろうと思いながら。……

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恐らくそれがこのサナトリウム中で、一番重症の患者なのだろうと思いながら。……

八月もようやく終わりに近づいたのに、まだずっと寝苦しい晩が続いていた。

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八月も漸く末近くなったのに、まだずっと寝苦しいような晩が続いていた。

そんなある晩、私たちがなかなか寝つけずにいると(もうとっくに就寝時間の九時は過ぎていた……)

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そんな或る晩、私達がなかなか寝つかれずにいると、(もうとっくに就寝時間の九時は過ぎていた。……)

ずっと向こうの下の病棟が、何となく騒がしくなり始めた。

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ずっと向うの下の病棟が何んとなく騒々しくなり出した。

それに、ときどき廊下を小走りに行くような足音や、押し殺したような看護婦の小さな叫び、器具の鋭くぶつかる音がまじった。

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それにときどき廊下を小走りにして行くような足音や、抑えつけたような看護婦の小さな叫びや、器具の鋭くぶつかる音がまじった。

私はしばらく、不安そうに耳をすませていた。

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私はしばらく不安そうに耳を傾けていた。

それがやっと静まったかと思うと、それとそっくりな静かなざわめきが、ほとんど同時に、あちらの病棟にもこちらの病棟にも起こり始めた。そして、しまいには私たちのすぐ下の方からも聞こえてきた。

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それがやっと鎮まったかと思うと、それとそっくりな沈黙のざわめきが、殆ど同時に、あっちの病棟にもこっちの病棟にも起り出した、そしてしまいには私達のすぐ下の方からも聞えて来た。

私は、今、サナトリウムの中を嵐のように暴れ回っているものが何であるかくらいは知っていた。

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私は、今、サナトリウムの中を嵐のように暴れ廻っているものの何んであるかぐらいは知っていた。

私はそのあいだ何度も耳をそば立てては、さっきから明かりは消してあるものの、まだ同じように寝つけずにいるらしい隣室の病人の様子をうかがった。

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私はその間に何度も耳をそば立てては、さっきからあかりは消してあるものの、まだ同じように寝つかれずにいるらしい隣室の病人の様子をうかがった。

病人は寝返りさえ打たずに、じっとしているらしかった。

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病人は寝返りさえ打たずに、じっとしているらしかった。

私も息苦しいほどじっとしながら、そんな嵐がひとりでにおさまってくるのを待ち続けていた。

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私も息苦しいほどじっとしながら、そんな嵐がひとりでに衰えて来るのを待ち続けていた。

真夜中になってから、やっとそれがおさまり始めたように見えたので、私は思わずほっとして、少しまどろみかけた。でも突然、隣室で病人が、それまで無理に抑えつけていたような神経質な咳を二つ三つ強くしたので、ふいと目を覚ました。

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真夜中になってからやっとそれが衰え出すように見えたので、私は思わずほっとしながら少し微睡まどろみかけたが、突然、隣室で病人がそれまで無理に抑えつけていたような神経的な咳を二つ三つ強くしたので、ふいと目を覚ました。

そのまますぐその咳はやんだようだったが、私はどうも気になってならなかったので、そっと隣室に入っていった。

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そのまますぐその咳は止まったようだったが、私はどうも気になってならなかったので、そっと隣室にはいって行った。

真っ暗な中で、病人は一人でおびえてでもいたように、大きく目を見開きながら、私の方を見ていた。

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真っ暗な中に、病人は一人でおびえてでもいたように、大きく目を見ひらきながら、私の方を見ていた。

私は何も言わずに、その横に近づいた。

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私は何も言わずに、その側に近づいた。

「まだ大丈夫よ」

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「まだ大丈夫よ」

彼女はつとめてほほえみながら、私に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で言った。

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彼女はつとめて微笑をしながら、私に聞えるか聞えない位の低声こごえで言った。

私は黙ったまま、ベッドの端に腰をかけた。

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私は黙ったまま、ベッドの縁に腰をかけた。

「そこにいてちょうだい」

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「そこにいて頂戴」

病人はいつもとちがって、心細そうに、私にそう言った。

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病人はいつもに似ず、気弱そうに、私にそう言った。

私たちは、そのまま一睡もせずにその夜を明かした。

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私達はそうしたまままんじりともしないでその夜を明かした。

そんなことがあってから二、三日すると、急に夏が弱まり始めた。

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そんなことがあってから、二三日すると、急に夏が衰え出した。

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九月になると、少し荒れ模様の雨が何度も降ったりやんだりしていた。でもそのうち、ほとんど絶え間なく降り続くようになった。

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九月になると、すこし荒れ模様の雨が何度となく降ったり止んだりしていたが、そのうちにそれは殆んど小止みなしに降り続き出した。

それは木の葉を黄色くするよりも先に、腐らせてしまうかのように見えた。

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それは木の葉を黄ばませるより先きに、それを腐らせるかと見えた。

さすがのサナトリウムの部屋部屋も、毎日窓を閉め切って薄暗いほどだった。

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さしものサナトリウムの部屋部屋も、毎日窓を閉め切って薄暗いほどだった。

風がときどき戸をばたつかせた。

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風がときどき戸をばたつかせた。

そして裏の雑木林から、単調で重苦しい音を引きちぎるように立てた。

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そして裏の雑木林から、単調な、重くるしい音を引きもぎった。

風のない日は、私たちは一日じゅう、雨が屋根づたいにバルコニーの上に落ちる音を聞いていた。

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風のない日は、私達は終日、雨が屋根づたいにバルコンの上に落ちるのを聞いていた。

そんな雨がやっと霧に似てきたある早朝、私は窓から、バルコニーに面した細長い中庭が少し明るくなってきたのを、ぼんやりと見おろしていた。

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そんな雨がっと霧に似だした或る早朝、私は窓から、バルコンの面している細長い中庭がいくぶん薄明くなって来たようなのをぼんやりと見おろしていた。

そのとき、中庭の向こうの方から、一人の看護婦が、そんな霧のような雨の中、あちこちに咲き乱れている野菊やコスモスを手あたりしだいに摘みながら、こちらへ近づいてくるのが見えた。

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その時、中庭の向うの方から、一人の看護婦が、そんな霧のような雨の中をそこここに咲き乱れている野菊やコスモスを手あたり次第に採りながら、こっちへ向って近づいて来るのが見えた。

私は、それがあの第十七号室の付き添い看護婦であることに気づいた。

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私はそれがあの第十七号室の附添看護婦であることを認めた。

「ああ、あのいつも不快な咳ばかり聞かせていた患者が死んだのかもしれないなあ」

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「ああ、あのいつも不快な咳ばかり聞いていた患者が死んだのかも知れないなあ」

ふとそんなことを思いながら、雨に濡れたまま、なんだか興奮したようにまだ花を摘んでいるその看護婦の姿を見つめているうちに、私は急に、心臓がしめつけられるような気がしてきた。

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ふとそんなことを思いながら、雨に濡れたまま何んだか興奮したようになってまだ花を採っているその看護婦の姿を見つめているうちに、私は急に心臓がしめつけられるような気がしだした。

「やっぱり、ここで一番症状が重かったのはあいつだったのかな? でも、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こんどは? ……ああ、あんなことを院長が言わなければよかったのに……」

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「やっぱり此処で一番重かったのはあいつだったのかな? が、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こんどは? ……ああ、あんなことを院長が言ってくれなければよかったんだに……」

私は、その看護婦が大きな花束を抱えたままバルコニーの陰に隠れてしまってからも、ぼんやりと窓ガラスに顔をくっつけていた。

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私はその看護婦が大きな花束を抱えたままバルコンの蔭に隠れてしまってからも、うつけたように窓硝子まどガラスに顔をくっつけていた。

「何をそんなに見ていらっしゃるの?」

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「何をそんなに見ていらっしゃるの?」

ベッドから病人が私に聞いた。

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ベッドから病人が私に問うた。

「こんな雨の中で、さっきから花を摘んでいる看護婦がいるんだけれど、あれは誰だろうかしら?」

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「こんな雨の中で、さっきから花を採っている看護婦が居るんだけれど、あれは誰だろうかしら?」

私はそう独り言のようにつぶやきながら、やっとその窓から離れた。

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私はそう独り言のようにつぶやきながら、やっとその窓から離れた。

でも、その日はとうとう一日じゅう、私はなんだか病人の顔をまともに見られずにいた。

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しかし、その日はとうとう一日中、私はなんだか病人の顔をまともに見られずに居た。

何もかも見抜いていながら、わざと知らないふりをして、ときどき私の方をじっと病人が見ているような気さえした。それが、私をいっそう苦しめた。

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何もかも見抜いていながら、わざと知らぬような様子をして、ときどき私の方をじっと病人が見ているような気さえされて、それが私を一層苦しめた。

こんなふうに、お互いに分かち合えない不安や恐怖を抱き始め、二人が二人で少しずつ別々にものを考えるなんてよくないと思い返しては、私は早くこんな出来事は忘れようと努めた。でも、また、いつのまにかそのことばかりを頭に浮かべていた。

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こんな風にお互に分たれない不安や恐怖を抱きはじめ、二人が二人で少しずつ別々にものを考え出すなんと云うことは、いけないことだと思い返しては、私は早くこんな出来事は忘れてしまおうと努めながら、又いつのまにやらその事ばかりを頭に浮べていた。

そしてしまいには、私たちがこのサナトリウムに初めて着いた雪の降る晩に、病人が見たという夢のことまで、思い浮かべたりしていた。はじめはそれを聞くまいとしていたが、とうとう根負けして病人からそれを聞き出してしまった、あの不吉な夢のことを、いままでずっと忘れていたのに、ふと思い出したのだった。――

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そしてしまいには、私達がこのサナトリウムに初めて着いた雪のふる晩に病人が見たという夢、はじめはそれを聞くまいとしながら遂に打ち負けて病人からそれを聞き出してしまったあの不吉な夢のことまで、いままでずっと忘れていたのに、ひょっくり思い浮べたりしていた。――

その不思議な夢の中で、病人は死体になって、棺の中に横たわっていた。

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その不思議な夢の中で、病人は死骸になって棺の中に臥ていた。

人々はその棺をかついで、どこだか分からない野原を横切ったり、森の中へ入ったりした。

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人々はその棺を担いながら、何処だか知らない野原を横切ったり、森の中へはいったりした。

もう死んでいる彼女は、それでも棺の中から、すっかり冬枯れた野原や、黒いもみの木などを、はっきりと見たり、その上をさびしく吹いて過ぎる風の音を耳にしたりしていた。……その夢から覚めたあとも、彼女は自分の耳がとても冷たくて、もみの木のざわめきがまだそこに満ちているのを、まざまざと感じていた。……

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もう死んでいる彼女はしかし、棺の中から、すっかり冬枯れた野面や、黒いもみの木などをありありと見たり、その上をさびしく吹いて過ぎる風の音を耳に聞いたりしていた、……その夢からめてからも、彼女は自分の耳がとても冷たくて、樅のざわめきがまだそれを充たしているのをまざまざと感じていた。……

そんな霧のような雨がなお数日降り続いているうちに、もう次の季節になっていた。

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そんな霧のような雨がなお数日降り続いているうちに、すでにもう他の季節になっていた。

サナトリウムの中も、気がついてみると、あれほど多かった患者たちが一人去り二人去りしていった。そのあとには、この冬をここで越さなければならないような重症の患者ばかりが残された。そしてまた、夏の前のような寂しさに変わっていった。

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サナトリウムの中も、気がついて見ると、あれだけ多数になっていた患者達も一人去り二人去りして、そのあとにはこの冬をこちらで越さなければならないような重い患者達ばかりが取り残され、又、夏の前のような寂しさに変り出していた。

第十七号室の患者の死が、それを急に目立たせた。

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第十七号室の患者の死がそれを急に目立たせた。

九月の末のある朝、私が廊下の北側の窓から何気なく裏の雑木林の方へ目をやると、その霧深い林の中を、いつになく人が出たり入ったりしているのが、異様に感じられた。

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九月の末の或る朝、私が廊下の北側の窓から何気なしに裏の雑木林の方へ目をやって見ると、その霧ぶかい林の中にいつになく人が出たり入ったりしているのが異様に感じられた。

看護婦たちに聞いてみても、何も知らないような様子をしていた。

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看護婦達にいて見ても何も知らないような様子をしていた。

それきり私もつい忘れていたが、翌日もまた、早朝から二、三人の人夫が来て、その丘のふちにある栗の木らしいものを切り倒し始めているのが、霧の中に見えたり隠れたりしていた。

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それっきり私もつい忘れていたが、翌日もまた、早朝から二三人の人夫が来て、その丘の縁にある栗の木らしいものをり倒しはじめているのが霧の中に見えたり隠れたりしていた。

その日、私は、患者たちがまだ誰も知らずにいるらしいその前日の出来事を、ふとしたことから聞き知った。

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その日、私は患者達がまだ誰も知らずにいるらしいその前日の出来事を、ふとしたことから聞き知った。

それは何でも、あの気味の悪い神経衰弱の患者が、その林の中で首をつって死んでいたという話だった。

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それはなんでも、例の気味のわるい神経衰弱の患者がその林の中で縊死いししていたと云う話だった。

そういえば、日に何度も見かけた、あの付き添い看護婦の腕にすがって廊下を行ったり来たりしていた大きな男が、昨日から急に姿を消していることに気づいた。

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そう云えば、どうかすると日に何度も見かけた、あの附添看護婦の腕にすがって廊下を往ったり来たりしていた大きな男が、昨日から急に姿を消してしまっていることに気がついた。

「あの男の番だったのか……」

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「あの男の番だったのか……」

第十七号室の患者が死んでからというもの、すっかり神経質になっていた私は、それからまだ一週間もたたないうちに続けて起こった、その思いがけない死のために、思わずほっとしたような気持ちになった。

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第十七号室の患者が死んでからというものすっかり神経質になっていた私は、それからまだ一週間と立たないうちに引き続いて起ったそんな思いがけない死のために、思わずほっとしたような気持になった。

そしてそれは、そんな痛ましい死から当然感じるはずの気味悪さすら、私にはそのためにほとんど感じられずにすんだと言えるほどだった。

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そしてそれは、そんな陰惨な死から当然私が受けたにちがいない気味悪さすら、私にはそのために殆んど感ぜられずにしまったと云っていいほどであった。

「こないだ死んだやつの次くらいに重いと言われていたって、必ず死ぬと決まっているわけじゃないんだからなあ」

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「こないだ死んだ奴の次ぎ位に悪いと言われていたって、何も死ぬと決まっているわけのものじゃないんだからなあ」

私はそう気軽そうに、自分に言い聞かせたりした。

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私はそう気軽そうに自分に向って言って聞かせたりした。

裏の林の中の栗の木が二、三本切り取られて、何だか間の抜けたようになってしまったあとは、今度はその丘のふちを、引き続き人夫たちが切り崩していった。そこから少し急な傾斜で下がっている病棟の北側の少しばかりの空き地に、その土を運んで、そのあたり一帯をゆるやかな斜面にし始めていた。

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裏の林の中の栗の木が二三本ばかり伐り取られて、何んだか間の抜けたようになってしまった跡は、今度はその丘の縁を、引きつづき人夫達が切り崩し出し、そこからすこし急な傾斜で下がっている病棟の北側に沿った少しばかりの空地にその土を運んでは、そこいら一帯を緩やかななぞえにしはじめていた。

人々はそこを花壇に変える作業に取りかかっているのだった。

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人はそこを花壇に変える仕事に取りかかっているのだ。

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「お父さんからお手紙だよ」

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「お父さんからお手紙だよ」

私は看護婦から渡された一束の手紙の中から、その一通を節子に渡した。

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私は看護婦から渡された一束の手紙の中から、その一つを節子に渡した。

彼女はベッドに寝たままそれを受け取ると、急に少女らしく目を輝かせながら、それを読み始めた。

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彼女はベッドに寝たままそれを受取ると、急に少女らしく目をかがやかせながら、それを読み出した。

「あら、お父様がいらっしゃるんですって」

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「あら、お父様がいらっしゃるんですって」

旅行中の父は、その帰り道を利用して、近いうちにサナトリウムへ立ち寄るということを書いて送ってきたのだった。

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旅行中の父は、その帰途を利用して近いうちにサナトリウムへ立ち寄るということを書いて寄こしたのだった。

それは、ある十月のよく晴れた、でも風が少し強い日だった。

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それは或る十月のよく晴れた、しかし風のすこし強い日だった。

近ごろ、寝たきりだったので食欲が落ち、少しやせが目立つようになった節子は、その日からつとめて食事をとり、ときどきベッドの上に起き上がったり、腰かけたりし始めた。

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近頃、寝たきりだったので食慾が衰え、ややせの目立つようになった節子は、その日からつとめて食事をし、ときどきベッドの上に起きて居たり、腰かけたりしだした。

彼女はまた、ときどき思い出し笑いのようなものを顔に浮かべた。

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彼女はまたときどき思い出し笑いのようなものを顔の上に漂わせた。

私はそこに、彼女がいつも父の前でだけ見せる、少女らしいほほえみの下書きのようなものを見た。

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私はそれに彼女がいつも父の前でのみ浮べる少女らしい微笑の下描きのようなものを認めた。

私は、そんな彼女のするままにさせていた。

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私はそういう彼女のするがままにさせていた。

それから数日たったある午後、彼女の父がやって来た。

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それから数日立った或る午後、彼女の父はやって来た。

彼はいくぶん、前より顔にも年をとった様子が見えたが、それよりももっと目立つほど、背中を丸めるようにしていた。

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彼はいくぶん前よりか顔にもおいを見せていたが、それよりももっと目立つほど背中をかがめるようにしていた。

それが何となく、病院の空気を彼が恐れているような様子に見せた。

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それが何んとはなしに病院の空気を彼が恐れでもしているような様子に見せた。

そうして病室に入るなり、彼はいつも私が座っている病人の枕もとに腰を下ろした。

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そうして病室へはいるなり、彼はいつも私の坐りつけている病人の枕元に腰を下ろした。

ここ数日、少し体を動かしすぎたせいか、昨日の夕方いくらか熱を出した。医者の言いつけで、彼女はその期待もむなしく、朝からずっと安静にするように言われていた。

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ここ数日、すこし身体を動かし過ぎたせいか、昨日の夕方いくらか熱を出し、医者の云いつけで、彼女はその期待も空しく、朝からずっと安静を命じられていた。

ほとんどもう病人は治りかけているものと思いこんでいたらしいのに、まだそうして寝たきりでいるのを見て、父は少し不安そうな様子だった。

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殆んどもう病人はなおりかけているものと思い込んでいたらしいのに、まだそうして寝たきりで居るのを見て、父はすこし不安そうな様子だった。

そしてその原因を調べでもするかのように、病室の中を細かく見回したり、看護婦たちの一つ一つの動作を見守ったり、バルコニーにまで出てみたりしていた。でも、それらはどれも彼を安心させたらしかった。

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そしてその原因を調べでもするかのように、病室の中を仔細しさいに見廻したり、看護婦達の一々の動作を見守ったり、それからバルコンにまで出て行って見たりしていたが、それらはいずれも彼を満足させたらしかった。

そのうちに病人が、興奮というよりも熱のせいで、頬をばら色にさせ始めたのを見て、「しかし顔色はとてもいい」

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そのうちに病人がだんだん興奮よりも熱のせいで頬を薔薇色ばらいろにさせ出したのを見ると、「しかし顔色はとてもいい」

と、娘がどこかよくなっていることを、自分自身に納得させたいかのように、それだけを繰り返していた。

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と、娘が何処か良くなっていることを自分自身に納得させたいかのように、そればかり繰り返していた。

私はそれから用事を口実にして病室を出て行き、二人きりにさせておいた。

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私はそれから用事を口実にして病室を出て行き、彼等を二人きりにさせて置いた。

やがてしばらくしてから、また入っていくと、病人はベッドの上に起き直っていた。

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やがてしばらくしてから、再びはいって行って見ると、病人はベッドの上に起き直っていた。

そして布団の上に、父の持ってきたお菓子の箱や他の紙包みを、いっぱいに広げていた。

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そして掛布の上に、父のもってきた菓子函かしばこや他の紙包を一ぱいに拡げていた。

それは、少女時代の彼女が好きだった、そして今でも好きだと父が思っているようなものばかりらしかった。

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それは少女時代彼女の好きだった、そして今でも好きだと父の思っているようなものばかりらしかった。

私を見ると、彼女はまるでいたずらを見つけられた少女のように、顔を赤くしながらそれを片づけ、すぐ横になった。

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私を見ると、彼女はまるで悪戯いたずらを見つけられた少女のように、顔をあかくしながら、それを片づけ、すぐ横になった。

私はいくぶん気づまりになりながら、二人から少し離れて、窓ぎわのイスに腰かけた。

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私はいくぶん気づまりになりながら、二人からすこし離れて、窓ぎわの椅子に腰かけた。

二人は、私のために中断されたらしい話の続きを、さっきよりも小声で、また始めた。

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二人は、私のために中断されたらしい話の続きを、さっきよりも低声こごえで、続け出した。

それは、私の知らない、なじみの人々や事柄についてのものが多かった。

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それは私の知らない馴染みの人々や事柄に関するものが多かった。

その中のあるものは、彼女に、私には分からないような小さな感動さえ与えているらしかった。

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そのうちの或る物は、彼女に、私の知り得ないような小さな感動をさえ与えているらしかった。

私は、二人のいかにも楽しげな会話を、まるで一枚の絵でも見るように、見比べていた。

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私は二人のさもたのしげな対話を何かそういう絵でも見ているかのように、見較べていた。

そしてそんな会話のあいだ、父に見せる彼女の表情や声の調子の中に、何か少女らしい輝きがよみがえるのを、私は感じた。

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そしてそんな会話の間に父に示す彼女の表情や抑揚のうちに、何か非常に少女らしい輝きがよみがえるのを私は認めた。

そしてそんな彼女の子どもらしい幸福な様子が、私に、私の知らない彼女の少女時代のことを夢見させていた。……

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そしてそんな彼女の子供らしい幸福の様子が、私に、私の知らない彼女の少女時代のことを夢みさせていた。……

ちょっとの間、私たちが二人きりになったとき、私は彼女に近づいて、からかうように耳打ちした。

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ちょっとの間、私達が二人きりになった時、私は彼女に近づいて、揶揄からかうように耳打ちした。

「お前は今日は、なんだか見たことのないばら色の少女みたいだよ」

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「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ」

「知らないわ」

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「知らないわ」

彼女はまるで小さな女の子のように、顔を両手で隠した。

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彼女はまるで小娘のように顔を両手で隠した。

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父は二日滞在していった。

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父は二日滞在して行った。

出発の前、父は私を案内役にして、サナトリウムのまわりを歩いた。

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出発する前、父は私を案内役にして、サナトリウムのまわりを歩いた。

でも、それは私と二人きりで話すのが目的だった。

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が、それは私と二人きりで話すのが目的だった。

空には雲一つないくらいに晴れきった日だった。

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空には雲ひとつない位に晴れ切った日だった。

いつになくくっきりと赤茶けた山肌を見せている八ヶ岳などを私が指さして示しても、父はそれにはちょっと目を上げるだけで、熱心に話を続けていた。

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いつになくくっきりとあかちゃけた山肌を見せている八ヶ岳などを私が指して示しても、父はそれにはちょっと目を上げるきりで、熱心に話をつづけていた。

「ここは、どうもあの子の体には合わないのではないだろうか? もう半年以上にもなるのだから、もう少しよくなっていそうなものだが……」

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「ここはどうもあれの身体には向かないのではないだろうか? もう半年以上にもなるのだから、もうすこし良くなって居そうなものだが……」

「さあ、今年の夏はどこも気候が悪かったのではないでしょうか? それに、こういう山の療養所は冬がいいのだと言いますが……」

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「さあ、今年の夏は何処も気候が悪かったのではないでしょうか? それにこういう山の療養所なんぞは冬がいいのだと云いますが……」

「それは冬まで辛抱していられればいいのかもしれないが……しかし、あの子には冬まで我慢できまい……」

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「それは冬まで辛抱して居られればいいのかも知れんが……しかしあれには冬まで我慢できまい……」

「でも、本人は冬もここにいるつもりのようですよ」

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「しかし自分では冬も居る気でいるようですよ」

私は、こういう山の孤独が、私たちの幸福をどれほど育ててくれているかを、どうしたら父に分かってもらえるだろうともどかしく思った。でも、そういう私たちのために父が払っている犠牲のことを思うと、なかなかそれを言い出せず、私たちのかみ合わない会話を続けていた。

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私はこういう山の孤独がどんなに私達の幸福をはぐくんでいて呉れるかと云うことを、どうしたら父に理解させられるだろうかともどかしがりながら、しかしそういう私達のために父の払っている犠牲のことを思えば何んともそれを言い出しかねて、私達のちぐはぐな対話を続けていた。

「まあ、せっかく山へ来たのですから、いられるだけいてみるようになさいませんか?」

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「まあ、折角山へ来たのですから、居られるだけ居て見るようになさいませんか?」

「……だが、あなたも冬まで一緒にいてくださるのか?」

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「……だが、あなたも冬迄一緒に居て下されるのか?」

「ええ、もちろんいますとも」

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「ええ、勿論居ますとも」

「それは、あなたには本当にすまんな。……だが、あなたは、いま仕事はしているのか?」

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「それはあなたには本当にすまんな。……だが、あなたは、いま仕事はして居られるのか?」

「いいえ……」

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「いいえ……」

「しかし、あなたも病人にばかりかまっていないで、仕事も少しはしなければいけないね」

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「しかし、あなたも病人にばかり構って居らずに、仕事も少しはなさらなければいけないね」

「ええ、これから少し……」

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「ええ、これから少し……」

私は口ごもるように言った。

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と私は口籠くちごもるように言った。

――「そうだ、おれはずいぶん長いこと、自分の仕事をほうっておいたなあ。何とかして、今のうちに仕事もし始めなければいけない」

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――「そうだ、おれは随分長いことおれの仕事を打棄うっちゃらかしていたなあ。なんとかして今のうちに仕事もし出さなけれあいけない」

……そんなことまで考え始めながら、何だか私は胸がいっぱいになってきた。

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……そんなことまで考え出しながら、何かしら私は気持が一ぱいになって来た。

それから私たちは、しばらく黙ったまま丘の上にたたずみ、いつのまにか西の方から空いっぱいにどんどん広がってきた、無数のうろこのような雲をじっと見上げていた。

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それから私達はしばらく無言のまま、丘の上にたたずみながら、いつのまにか西の方から中空にずんずん拡がり出した無数のうろこのような雲をじっと見上げていた。

やがて私たちは、もうすっかり木の葉の黄ばんだ雑木林の中を通り抜け、裏手から病院へ帰っていった。

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やがて私達はもうすっかり木の葉の黄ばんだ雑木林の中を通り抜けて、裏手から病院へ帰って行った。

その日も、人夫が二、三人で、あの丘を切り崩していた。

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その日も、人夫が二三人で、例の丘を切り崩していた。

そのそばを通り過ぎながら、私は「何でも、ここへ花壇をつくるんだそうですよ」

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その傍を通り過ぎながら、私は「何んでもここへ花壇をこしらえるんだそうですよ」

と、いかにも何気なさそうに言っただけだった。

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といかにも何気なさそうに言ったきりだった。

夕方、駅まで父を見送りに行って、私が帰ってくると、病人はベッドの中で体を横向きにしながら、激しい咳にむせっていた。

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夕方停車場まで父を見送りに行って、私が帰って来て見ると、病人はベッドの中で身体を横向きにしながら、激しい咳にむせっていた。

こんなに激しい咳は、これまで一度もしたことがないくらいだった。

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こんなに激しい咳はこれまで一度もしたことはないくらいだつた。

その発作が少しおさまるのを待ちながら、私が、

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その発作がすこし鎮まるのを待ちながら、私が、

「どうしたんだい?」

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「どうしたんだい?」

と尋ねると、

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と訊ねると、

「なんでもないの。……じき止まるわ」

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「なんでもないの。……じき止まるわ」

病人はそれだけやっと答えた。

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病人はそれだけやっと答えた。

「その水をちょうだい」

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「その水を頂戴」

私はフラスコからコップに水を少し注いで、それを彼女の口に持っていってやった。

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私はフラスコからコップに水をすこし注いで、それを彼女の口に持って行ってやった。

彼女はそれを一口飲むと、しばらく落ち着いていた。でもそんな様子は少しのあいだで終わり、また、さっきよりも激しいくらいの発作が彼女を襲った。

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彼女はそれを一口飲むと、しばらく平静にしていたが、そんな状態は短い間に過ぎ、又も、さっきよりも激しい位の発作が彼女を襲った。

私は、ほとんどベッドの端まで身を乗り出して身もだえしている彼女をどうすることもできず、ただこう聞くばかりだった。

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私は殆んどベッドの端までのり出して身もだえしている彼女をどうしようもなく、ただこういたばかりだった。

「看護婦を呼ぼうか?」

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「看護婦を呼ぼうか?」

「…………」

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「…………」

彼女はその発作がおさまっても、いつまでも苦しそうに体をねじらせたまま、両手で顔をおおいながら、ただうなずいて見せた。

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彼女はその発作が鎮まっても、いつまでも苦しそうに身体をねじらせたまま、両手で顔をおおいながら、ただうなずいて見せた。

私は看護婦を呼びに行った。

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私は看護婦を呼びに行った。

そして私にはかまわず先に走っていった看護婦の、少しあとから病室に入っていくと、病人はその看護婦に両手で支えられるようにしながら、いくぶん楽そうな姿勢に戻っていた。

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そして私に構わず先きに走っていった看護婦のすこし後から病室へはいって行くと、病人はその看護婦に両手で支えられるようにしながら、いくぶん楽そうな姿勢に返っていた。

でも彼女は、ぼんやりと目を見開いているだけだった。

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が、彼女はうつけたようにぼんやりと目を見ひらいているきりだった。

咳の発作は、いったんおさまったらしかった。

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咳の発作は一時止まったらしかった。

看護婦は彼女を支えていた手を少しずつ離しながら、

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看護婦は彼女を支えていた手を少しずつ放しながら、

「もう止まったわね。……しばらく、そのままじっとしていらっしゃいね」

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「もう止まったわね。……すこうし、そのままじっとしていらっしゃいね」

と言って、乱れた毛布などを直し始めた。

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と言って、乱れた毛布などを直したりしはじめた。

「いま注射を頼んできてあげるわ」

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「いま注射を頼んで来て上げるわ」

看護婦は部屋を出て行きながら、どこにいたらいいか分からなくなってドアのところに立ちすくんでいた私に、ちょっと耳打ちした。

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看護婦は部屋を出て行きながら、何処に居ていいか分らなくなってドアのところに棒立ちに立っていた私に、ちょっと耳打ちした。

「少し血の混じったたんを出したのよ」

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「すこし血痰を出してよ」

私はやっと彼女の枕もとに近づいていった。

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私はやっと彼女の枕元に近づいて行った。

彼女はぼんやりと目を見開いていたが、なんだか眠っているとしか思えなかった。

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彼女はぼんやりと目は見ひらいていたが、なんだか眠っているとしか思えなかった。

私はその青ざめた額にほつれてかかった小さな髪の房をかき上げてやりながら、その冷たく汗ばんだ額を私の手でそっとなでた。

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私はその蒼ざめた額にほつれた小さな渦を巻いている髪を掻き上げてやりながら、その冷たく汗ばんだ額を私の手でそっと撫でた。

彼女はやっと私の温かい手を感じたかのように、ちらっと謎めいたほほえみを唇に浮かべた。

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彼女はやっと私の温かい存在をそれに感じでもしたかのように、ちらっと謎のような微笑をくちびるに漂わせた。

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絶対安静の日々が続いた。

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絶対安静の日々が続いた。

病室の窓はすっかり黄色い日よけが下ろされ、中は薄暗くされていた。

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病室の窓はすっかり黄色い日覆をおろされ、中は薄暗くされていた。

看護婦たちも足音を立てないように歩いた。

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看護婦達も足を爪立てて歩いた。

私はほとんど病人の枕もとにつきっきりでいた。

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私は殆んど病人の枕元に附きっきりでいた。

夜の付き添いも、一人で引き受けていた。

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夜伽よとぎも一人で引き受けていた。

ときどき病人は私の方を見て、何か言い出しそうにした。

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ときどき病人は私の方を見て何か言い出しそうにした。

私はそれを言わせないように、すぐ指を自分の口にあてた。

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私はそれを言わせないように、すぐ指を私の口にあてた。

そんな沈黙が、私たちをそれぞれ自分の考えの中に引きこませていた。

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そのような沈黙が、私達をそれぞれ各自の考えの裡に引っ込ませていた。

でも私たちは、相手が何を考えているのかを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。

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が、私達はただ相手が何を考えているのかを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。

そして私が、今度の出来事を、まるで自分のために病人が犠牲にしてくれていたものが、ただ目に見える形に変わっただけであるかのように思いつめているあいだ、病人はまた病人で、これまで二人してあれほど大切に育て上げてきたものを、自分の軽はずみで一瞬にこわしてしまったかのように悔いているらしいのが、はっきりと私に感じられた。

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そして私が、今度の出来事をあたかも自分のために病人が犠牲にしていて呉れたものが、ただ目に見えるものに変っただけかのように思いつめている間、病人はまた病人で、これまで二人してあんなにも細心に細心にと育て上げてきたものを自分の軽はずみから一瞬に打ち壊してしまいでもしたように悔いているらしいのが、はっきりと私に感じられた。

そしてそういう自分の犠牲を犠牲とも思わず、自分の軽はずみばかりを責めているように見える病人のいじらしい気持ちが、私の心をしめつけていた。

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そしてそういう自分の犠牲を犠牲ともしないで、自分の軽はずみなことばかりを責めているように見える病人のいじらしい気持が、私の心をしめつけていた。

そういう犠牲まで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ死の床になるかもしれないベッドで、こうして病人と一緒に楽しむように味わっている生きる喜び――それこそ私たちを、この上なく幸福にしてくれるものだと私たちが信じているもの、――それは本当に私たちを満足させ切れるものなのだろうか?

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そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人と共にたのしむようにして味わっている生の快楽――それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、――それは果して私達を本当に満足させおおせるものだろうか?

私たちがいま幸福だと思っているものは、私たちが信じているよりも、もっとつかの間のもの、もっと気まぐれに近いものではないだろうか?

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 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?

……

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 ……

夜の付き添いに疲れた私は、病人がまどろんでいるそばで、そんな考えをあれこれめぐらしながら、この頃ともすれば私たちの幸福が何かに脅かされがちなのを、不安に感じていた。

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夜伽に疲れた私は、病人の微睡まどろんでいる傍で、そんな考えをとつおいつしながら、この頃ともすれば私達の幸福が何物かに脅かされがちなのを、不安そうに感じていた。

その不安は、でも、一週間ほどで消え去った。

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その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。

ある朝、看護婦がやっと病室から日よけを取り除け、窓の一部を開け放していった。

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或る朝、看護婦がやっと病室から日覆を取り除けて、窓の一部を開け放して行った。

窓から差しこんでくる秋らしい日の光をまぶしそうにしながら、

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窓から射し込んで来る秋らしい日光をまぶしそうにしながら、

「気持ちがいいわ」

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「気持がいいわ」

と病人はベッドの中から、生き返ったように言った。

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と病人はベッドの中からよみがえったように言った。

彼女の枕もとで新聞を広げていた私は、人間に大きな衝撃を与える出来事というものは、それが過ぎ去ったあとは、かえって何だかまるで他人事のように見えるものだなあと思った。そしてそんな彼女の方をちらりと見やり、思わずからかうような調子で言った。

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彼女の枕元で新聞を拡げていた私は、人間に大きな衝動を与える出来事なんぞと云うものはかえってそれが過ぎ去った跡は何んだかまるで他所よその事のように見えるものだなあと思いながら、そういう彼女の方をちらりと見やって、思わず揶揄やゆするような調子で言った。

「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいいよ」

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「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいいよ」

彼女は少し顔を赤らめながら、そんな私のからかいを素直に受け入れた。

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彼女は顔を心持ちあからめながら、そんな私の揶揄を素直に受け入れた。

「今度はお父様がいらしたって、知らん顔をしていてやるわ」

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「こんどはお父様がいらっしたって知らん顔をして居てやるわ」

「それがお前にできるんならねえ……」

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「それがお前に出来るんならねえ……」

そんなふうに冗談を言い合うように、私たちはお互いに相手の気持ちをいたわり合った。そして一緒になって子どものように、すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりした。

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そんな風に冗談でも言い合うように、私達はお互に相手の気持をいたわり合うようにしながら、一緒になって子供らしく、すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりした。

そうして私たちは、少しも無理をした感じもなく、この一週間の出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、気軽な気分になった。それまで私たちを、体だけでなく心にも襲いかかっているように見えたあの危機を、事もなげに切り抜けていた。

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そうして私達は少しもわざとらしくなく、この一週間の出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、気軽な気分になりながら、いましがたまで私達を肉体的ばかりでなく、精神的にも襲いかかっているように見えた危機を、事もなげに切り抜け出していた。

少なくとも私たちにはそう見えた。……

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少くとも私達にはそう見えた。……

ある晩、私は彼女のそばで本を読んでいるうち、突然それを閉じ、窓のところに行って、しばらく考え深そうにたたずんでいた。

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或る晩、私は彼女の側で本を読んでいるうち、突然、それを閉じて、窓のところに行き、しばらく考え深そうにたたずんでいた。

それからまた、彼女のそばに戻った。

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それから又、彼女の傍に帰った。

私は再び本を手に取って、それを読み始めた。

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私は再び本を取り上げて、それを読み出した。

「どうしたの?」

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「どうしたの?」

彼女は顔を上げながら私に聞いた。

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彼女は顔を上げながら私に問うた。

「何でもない」

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「何んでもない」

私はさりげなくそう答えて、数秒本の方に気を取られているような様子をしていた。でも、とうとう私は口を開いた。

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私は無造作にそう答えて、数秒時本の方に気をとられているような様子をしていたが、とうとう私は口を切った。

「こっちへ来てから、あんまり何もせずにいたから、僕はこれから仕事でもしようかと考えているのさ」

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「こっちへ来てあんまり何もせずにしまったから、僕はこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」

「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様もそれを心配なさっていたわ」

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「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様もそれを心配なさっていたわ」

彼女はまじめな顔つきで答えた。

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彼女は真面目な顔つきをして返事をした。

「私のことばかり考えていないで……」

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「私なんかのことばかり考えていないで……」

「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ……」

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「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ……」

私はそのとき、とっさに頭に浮かんできたある小説のぼんやりとした構想を、その場ですぐ追いかけながら、独り言のように言い続けた。

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私はそのとき咄嗟とっさに頭に浮んで来た或る小説の漠としたイデエをすぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言い続けた。

「おれはお前のことを小説に書こうと思うんだよ。それ以外のことは、いまのおれには考えられそうもないんだ。おれたちがこうしてお互いに与え合っているこの幸福――みんながもう行き止まりだと思っているところから始まっているような、この生きることの楽しさ――そういう誰も知らないような、おれたちだけのものを、おれはもっと確かなもの、もう少し形をなしたものに変えたいんだ。分かるだろう?」

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「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」

「分かるわ」

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「分るわ」

彼女は、自分自身の考えでも追うかのように私の考えを追っていたらしく、すぐにそれに答えた。

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彼女は自分自身の考えでもうかのように私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。

でも、それから口を少しゆがめるように笑いながら、

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が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、

「私のことなら、どうでもお好きなように書いてくださいな」

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「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」

と、私を軽くあしらうように言い足した。

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と私を軽くあしらうように言い足した。

私は、しかし、その言葉を素直に受け取った。

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私はしかし、その言葉を率直に受取った。

「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。……だが、今度のやつには、お前にもたくさん力を貸してもらわなければならないんだよ」

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「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。……が、今度の奴はお前にもたんと助力して貰わなければならないのだよ」

「私にもできることなの?」

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「私にも出来ることなの?」

「ああ、お前にはね、おれが仕事をしているあいだ、頭からつま先まで幸福でいてもらいたいんだ。そうでないと……」

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「ああ、お前にはね、おれの仕事の間、頭から足のさきまで幸福になっていて貰いたいんだ。そうでないと……」

一人でぼんやりと考えているよりも、こうして二人で一緒に考え合っているような方が、自分の頭がずっと活発に働くのを不思議に感じながら、私はあとからあとから湧いてくる考えに押されるように、いつのまにか病室の中を行ったり来たりし始めていた。

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一人でぼんやりと考え事をしているのよりも、こうやって二人で一緒に考え合っているみたいな方が、余計自分の頭が活溌に働くのを異様に感じながら、私はあとからあとからと湧いてくる思想に押されでもするかのように、病室の中をいつか往ったり来たりし出していた。

「あんまり病人のそばにばかりいるから、元気がなくなるのよ。……少しは散歩でもしていらっしゃらない?」

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「あんまり病人の側にばかりいるから、元気がなくなるのよ。……すこしは散歩でもしていらっしゃらない?」

「うん、おれも仕事をするとなったら」

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「うん、おれも仕事をするとなりあ」

私は目を輝かせながら、元気よく答えた。

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と私は目をかがやかせながら、元気よく答えた。

「うんと散歩もするよ」

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「うんと散歩もするよ」

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私はその森を出た。

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私はその森を出た。

大きな谷をへだてて、向こうの森を越えたところに、八ヶ岳のふもと一帯が私の目の前に果てしなく広がっていた。でも、そのずっと前方、ほとんどその森とすれすれくらいのところに、一つの狭い村とその傾いた耕作地が横たわり、その一部にいくつもの赤い屋根を翼のように広げたサナトリウムの建物が、ごく小さな姿ながらはっきりと見えた。

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大きな沢を隔てながら、向うの森を越して、八ヶ岳の山麓さんろく一帯が私の目の前に果てしなく展開していたが、そのずっと前方、殆んどその森とすれすれぐらいのところに、一つの狭い村とその傾いた耕作地とが横たわり、そして、その一部にいくつもの赤い屋根をつばさのように拡げたサナトリウムの建物が、ごく小さな姿になりながらしかし明瞭めいりょうに認められた。

私は早朝から、どこをどう歩いているのかも分からないまま、足の向くままに、自分の考えにすっかり身をまかせたようになって、森から森へとさまよい続けていた。でも、いま、そんなふうに私の目の前に、秋の澄んだ空気の中に思いがけず近づいて見えたサナトリウムの小さな姿が、ふと視野に入った瞬間、私は急に何か自分に取りついていたものから覚めたような気持ちになった。そしてその建物の中で、大勢の病人たちに囲まれながら、毎日毎日を何気なさそうに過ごしている私たちの暮らしの異様さを、初めてそこから離れて考え始めた。

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私は早朝から、何処をどう歩いて居るのかも知らずに、足の向くまま、自分の考えにすっかり身を任せ切ったようになって、森から森へとさ迷いつづけていたのだったが、いま、そんな風に私の目のあたりに、秋の澄んだ空気が思いがけずに近よせているサナトリウムの小さな姿を、不意に視野に入れた刹那せつな、私は急に何か自分にいていたものからめたような気持で、その建物の中で多数の病人達に取り囲まれながら、毎日毎日を何気なさそうに過している私達の生活の異様さを、はじめてそれから引き離して考え出した。

そうしてさっきから自分の中に湧き立っている、書きたいという気持ちに次々と押されながら、私はそんな私たちの奇妙な毎日を、一つのひどく胸を打つ、それでいて静かな物語に置き換えていった。……

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そうしてさっきから自分のうちに湧き立っている制作慾にそれからそれへと促されながら、私はそんな私達の奇妙な日ごと日ごとを一つの異常にパセティックな、しかも物静かな物語に置き換え出した。……

「節子よ、これまで二人の人間がこんなふうに愛し合ったことがあるとは思えない。いままでお前というものはいなかったのだから。それから私というものも……」

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「節子よ、これまで二人のものがこんな風に愛し合ったことがあろうとは思えない。いままでお前というものは居なかったのだもの。それから私というものも……」

私の空想は、私たちの身に起こったさまざまな出来事の上を、あるときは速く過ぎ、あるときはじっと一か所にとどまって、いつまでもためらっているように見えた。

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私の夢想は、私達の上に起ったさまざまな事物の上を、或る時は迅速に過ぎ、或る時はじっと一ところに停滞し、いつまでもいつまでも躊躇ためらっているように見えた。

私は節子から遠く離れていたが、そのあいだも絶えず彼女に話しかけ、彼女が答えるのを聞いていた。

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私は節子から遠くに離れてはいたが、その間絶えず彼女に話しかけ、そして彼女の答えるのを聞いた。

そんな私たちについての物語は、命そのもののように、果てしがないように思われた。

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そういう私達についての物語は、生そのもののように、果てしがないように思われた。

そうしてその物語は、いつのまにかそれ自身の力で動き始め、私にはかまわず勝手に進んでいった。ともすれば一か所にとどまりがちな私をそこに置き去りにしたまま、その物語自身がまるでそういう結末を望んでいるかのように、病気の女主人公のもの悲しい死を作り上げていった。――

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そうしてその物語はいつのまにかそれ自身の力でもって生きはじめ、私に構わず勝手に展開し出しながら、ともすれば一ところに停滞しがちな私を其処に取り残したまま、その物語自身があたかもそういう結果を欲しでもするかのように、病める女主人公の物悲しい死を作為しだしていた。――

自分の命の終わりを予感しながら、その衰えかかっていく力を尽くして、つとめて明るく、つとめて気高く生きようとしていた娘。――恋人の腕に抱かれながら、ただあとに残される者の悲しみだけを悲しみ、自分はいかにも幸福そうに死んでいった娘。――そんな娘の姿が、まるで空に描いたようにはっきりと浮かんでくる。……

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身の終りを予覚しながら、その衰えかかっている力を尽して、つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘、――恋人の腕に抱かれながら、ただその残される者の悲しみを悲しみながら、自分はさも幸福そうに死んで行った娘、――そんな娘の影像がくうに描いたようにはっきりと浮んでくる。……

「男は、自分たちの愛をいっそう純粋なものにしようとして、病気の娘を誘うようにして山のサナトリウムに入っていく。でも死が二人を脅かすようになると、男は、こうして自分たちが得ようとしている幸福が、たとえ完全に得られたとしても、自分たちを本当に満足させるものかどうか、しだいに疑うようになる。――でも娘は、死にゆく苦しみの中でも、最後まで自分を誠実に看病してくれたことを男に感謝しながら、いかにも満足そうに死んでいく。そして男は、そんな気高い死者に助けられながら、やっと自分たちのささやかな幸福を信じられるようになる……」

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「男は自分達の愛を一層純粋なものにしようと試みて、病身の娘を誘うようにして山のサナトリウムにはいって行くが、死が彼等を脅かすようになると、男はこうして彼等が得ようとしている幸福は、果してそれが完全に得られたにしても彼等自身を満足させ得るものかどうかを、次第に疑うようになる。――が、娘はその死苦のうちに最後まで自分を誠実に介抱して呉れたことを男に感謝しながら、さも満足そうに死んで行く。そして男はそういう気高い死者に助けられながら、やっと自分達のささやかな幸福を信ずることが出来るようになる……」

そんな物語の結末が、まるでそこで私を待ち伏せていたかのように見えた。

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そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでも居たかのように見えた。

そして突然、そんな死にゆく娘の姿が、思いがけない激しさで私を打った。

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そして突然、そんな死にひんした娘の影像が思いがけない烈しさで私を打った。

私はまるで夢から覚めたかのように、何とも言いようのない恐怖と恥ずかしさに襲われた。

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私はあたかも夢から覚めたかのように何んともかとも言いようのない恐怖と羞恥とに襲われた。

そしてそんな空想を自分から振り払おうとするように、私は腰かけていたぶなの木の根から荒々しく立ち上がった。

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そしてそういう夢想を自分から振り払おうとでもするように、私は腰かけていたぶなの裸根から荒々しく立ち上った。

太陽はすでに高く昇っていた。

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太陽はすでに高く昇っていた。

山や森や村や畑――そんなすべてのものが、秋の穏やかな日ざしの中に、いかにも落ち着いて浮かんでいた。

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山や森や村や畑、――そうしたすべてのものは秋の穏かな日の中にいかにも安定したように浮んでいた。

遠くに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、すべてのものが毎日の習慣をまた繰り返しているにちがいなかった。

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かなたに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、すべてのものは毎日の習慣を再び取り出しているのに違いなかった。

そのうち不意に、その見知らぬ人々の間で、いつもの習慣から取り残されたまま、一人でしょんぼりと私を待っている節子の寂しそうな姿が頭に浮かんだ。すると私は急にそれが気になってたまらなくなり、急いで山道を下り始めた。

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そのうち不意に、それらの見知らぬ人々の間で、いつもの習慣から取残されたまま、一人でしょんぼりと私を待っている節子の寂しそうな姿を頭に浮べると、私は急にそれが気になってたまらないように、急いで山径やまみちを下りはじめた。

私は裏の林を抜けて、サナトリウムに帰った。

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私は裏の林を抜けてサナトリウムに帰った。

そしてバルコニーを回りながら、一番はずれの病室に近づいていった。

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そしてバルコンを迂回うかいしながら、一番はずれの病室に近づいて行った。

私にはまったく気づかずに、節子は、ベッドの上で、いつものように髪の先を手でいじりながら、いくぶん悲しげな目つきで、何もない空を見つめていた。

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私には少しも気がつかずに、節子は、ベッドの上で、いつもしているように髪の先きを手でいじりながら、いくぶん悲しげな目つきでくうを見つめていた。

私は窓ガラスを指でたたこうとしたのをふと思いとどまり、そんな彼女の姿をじっと見入った。

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私は窓硝子まどガラスを指で叩こうとしたのをふと思い止まりながら、そういう彼女の姿をじっと見入った。

彼女は、何かに脅かされているのをやっとこらえているような様子だった。それでいて、そんな様子をしていること自体、おそらく彼女自身も気づいていないだろうと思えるくらい、ぼんやりしているらしかった。……

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彼女は何かに脅かされているのをっとこらているとでも云った様子で、それでいてそんな様子をしていることなどは恐らく彼女自身も気がついていないのだろうと思える位、ぼんやりしているらしかった。……

私は心臓をしめつけられるような気がしながら、そんな見知らない彼女の姿を見つめていた。……

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私は心臓をしめつけられるような気がしながら、そんな見知らない彼女の姿を見つめていた。……

と突然、彼女の顔が明るくなったようだった。

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と突然、彼女の顔が明るくなったようだった。

彼女は顔を上げて、ほほえみさえ浮かべた。

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彼女は顔をもたげて、微笑さえしだした。

私に気づいたのだった。

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彼女は私を認めたのだった。

私はバルコニーから中に入り、彼女のそばに近づいていった。

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私はバルコンからはいりながら、彼女の側に近づいて行った。

「何を考えていたの?」

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「何を考えていたの?」

「なんにも……」

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「なんにも……」

彼女は、なんだか自分の声ではないような声で返事をした。

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彼女はなんだか自分のでないような声で返事をした。

私がそのまま何も言わず、少し気が沈んだように黙っていると、彼女はようやくいつもの自分に戻ったような、親しげな声で、「どこへ行っていらしたの? ずいぶん長かったのね」

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私がそのまま何も言い出さずに、すこし気がふさいだように黙っていると、彼女は漸っといつもの自分に返ったような、親密な声で、「何処へ行っていらしったの? 随分長かったのね」

と私に聞いた。

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と私にいた。

「向こうの方だ」

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「向うの方だ」

私は何気なく、バルコニーの真正面に見える遠い森の方を指さした。

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私は無雑作にバルコンの真正面に見える遠い森の方を指した。

「まあ、あんなところまで行ったの? ……お仕事はできそう?」

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「まあ、あんなところまで行ったの? ……お仕事は出来そう?」

「うん、まあ……」

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「うん、まあ……」

私はひどくそっけなく答えたきり、しばらくまた元のように黙っていた。でも、それからいきなり私は、

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私はひどく無愛想に答えたきり、しばらくまた元のような無言に返っていたが、それから出し抜けに私は、

「お前、いまのような暮らしに満足しているかい?」

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「お前、いまのような生活に満足しているかい?」

と、少し上ずったような声で聞いた。

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といくらか上ずったような声で訊いた。

彼女は、そんな突拍子もない質問に一瞬たじろいだ様子をしていた。でも、それから私をじっと見つめ返し、いかにもそれを確信しているようにうなずきながら、

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彼女はそんな突拍子もない質問にちょっとたじろいだ様子をしていたが、それから私をじっと見つめ返して、いかにもそれを確信しているようにうなずきながら、

「どうしてそんなことをお聞きになるの?」

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「どうしてそんなことをお訊きになるの?」

と、いぶかしそうに聞き返した。

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不審いぶかしそうに問い返した。

「おれは何だか、いまのような暮らしがおれの気まぐれなんじゃないかと思ったんだ。そんなものをいかにも大事なことのように、こうやってお前にも……」

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「おれは何んだかいまのような生活がおれの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。そんなものをいかにも大事なもののようにこうやってお前にも……」

「そんなこと言っちゃいや」

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「そんなこと言っちゃいや

彼女は急に私をさえぎった。

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彼女は急に私を遮った。

「そんなことをおっしゃるのが、あなたの気まぐれなの」

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「そんなことをおっしゃるのがあなたの気まぐれなの」

でも私は、そんな言葉にはまだ満足しないような様子を見せていた。

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けれども私はそんな言葉にはまだ満足しないような様子を見せていた。

彼女は、そんな私の沈んだ様子をしばらくもじもじしながら見守っていたが、とうとうこらえきれなくなったというように言い出した。

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彼女はそういう私の沈んだ様子をしばらくは唯もじもじしながら見守っていたが、とうとう怺え切れなくなったとでも言うように言い出した。

「私がここで、こんなに満足しているのが、あなたにはお分かりにならないの? どんなに体の悪いときでも、私は一度だって家に帰りたいなんて思ったことはないわ。もしあなたが私のそばにいてくださらなかったら、私は本当にどうなっていたでしょう? ……さっきだって、あなたがお留守のあいだ、最初のうちは、それでもあなたのお帰りが遅ければ遅いほど、お帰りになったときの喜びが大きくなるばかりだと思って、やせ我慢していたんだけれど――あなたがもうお帰りになるだろうと私が思っていた時間をずっと過ぎてもお帰りにならないので、しまいにはとても不安になってきたの。そうしたら、いつもあなたと一緒にいるこの部屋までが、何だか見知らない部屋のような気がしてきて、こわくなって部屋の中から飛び出したくなったくらいだったわ。……でも、それからようやく、あなたがいつかおっしゃったお言葉を思い出したら、少し気持ちが落ち着いてきたの。あなたはいつか私にこうおっしゃったでしょう――私たちのいまの暮らしを、ずっとあとになって思い出したら、どんなに美しいだろうって……」

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「私が此処でもって、こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの? どんなに体の悪いときでも、私は一度だって家へ帰りたいなんぞと思ったことはないわ。しあなたが私の側に居て下さらなかったら、私は本当にどうなっていたでしょう? ……さっきだって、あなたがお留守の間、最初のうちはそれでもあなたのお帰りが遅ければ遅いほど、お帰りになったときのよろこびが余計になるばかりだと思って、痩我慢やせがまんしていたんだけれど、――あなたがもうお帰りになると私の思い込んでいた時間をずうっと過ぎてもお帰りにならないので、しまいにはとても不安になって来たの。そうしたら、いつもあなたと一緒にいるこの部屋までがなんだか見知らない部屋のような気がしてきて、こわくなって部屋の中から飛び出したくなった位だったわ。……でも、それからっとあなたのいつかおっしゃったお言葉を考え出したら、すこうし気が落着いて来たの。あなたはいつか私にこう仰しゃったでしょう、――私達のいまの生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……」

彼女は、だんだんしわがれたような声になりながらそれを言い終えると、笑顔ともつかないような表情で口もとをゆがめ、私をじっと見つめた。

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彼女はだんだんしゃがれたような声になりながらそれをえると、一種の微笑ともつかないようなもので口元を歪めながら、私をじっと見つめた。

彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらないほど胸がいっぱいになってきた私は、でも、そんな自分の感動した様子を彼女に見られるのを恐れるように、そっとバルコニーに出て行った。

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彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコンに出て行った。

そしてそこから、かつて私たちの幸福をそのまま描き出したかとも思えた、あの初夏の夕暮れに似た――でもそれとはまったくちがう、秋の午前の光、もっと冷たく、もっと深みのある光を帯びたあたり一帯の景色を、私はしみじみと見つめていた。

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そしてその上から、かつて私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た――しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。

あのときの幸福に似た、でももっともっと胸をしめつけられるような、見知らない感動で自分がいっぱいになっているのを感じながら……

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あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながら……

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一九三五年十月二十日

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一九三五年十月二十日

午後、いつものように病人を残して、私はサナトリウムを出た。収穫に忙しい農夫たちが働いている田畑のあいだを抜け、雑木林を越えて、その山のくぼみにある人けの絶えた狭い村に下りた。それから小さな谷川にかかったつり橋を渡って、その村の向こう岸にある栗の木の多い低い山へ登り、その上の斜面に腰を下ろした。

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午後、いつものように病人を残して、私はサナトリウムを離れると、収穫に忙しい農夫等の立ち働いている田畑の間を抜けながら、雑木林を越えて、その山の窪みにある人けの絶えた狭い村に下りた後、小さな谿流けいりゅうにかかった吊橋を渡って、その村の対岸にある栗の木の多い低い山へじのぼり、その上方の斜面に腰を下ろした。

そこで私は何時間も、明るい静かな気分で、これから手をつけようとしている物語の構想にふけっていた。

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そこで私は何時間も、明るい、静かな気分で、これから手を着けようとしている物語の構想にふけっていた。

ときおり、足もとの方で、思い出したように子どもたちが栗の木をゆすって、いちどきに栗の実を落とす、その谷じゅうに響きわたるような大きな音に驚かされながら……

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ときおり私の足もとの方で、思い出したように、子供等が栗の木をゆすぶって一どきに栗の実を落す、その谿たにじゅうに響きわたるような大きな音におどろかされながら……

そんなふうに自分のまわりで見たり聞いたりするすべてのものが、私たちの命の果実もすでに熟していることを告げ、それを早く取り入れるようにと自分をせかしているかのように感じるのが、私は好きだった。

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そういう自分のまわりに見聞きされるすべてのものが、私達の生の果実もすでに熟していることを告げ、そしてそれを早く取り入れるようにと自分を促しでもしているかのように感ずるのが、私は好きであった。

ようやく日が傾いて、早くもその谷の村が向こうの雑木山の影の中にすっかり入ってしまうのに気づくと、私は静かに立ち上がり、山を下りて、また、つり橋を渡った。あちこちで水車がごとごとと音を立てながら絶えず回っている狭い村の中を何となく一回りしたあと、八ヶ岳のふもと一帯に広がるからまつ林のふちを、もうそろそろ病人がじれったそうに自分の帰りを待っているだろうと思いながら、少し足を早めて、サナトリウムに戻るのだった。

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ようやく日が傾いて、早くもその谿の村が向うの雑木山の影の中にすっかりはいってしまうのを認めると、私はしずかに立ち上って、山を下り、再び吊橋をわたって、あちらこちらに水車がごとごとと音を立てながら絶えず廻っている狭い村の中を何んということはなしに一まわりした後、八ヶ岳の山麓さんろく一帯に拡がっている落葉松林からまつばやしへりを、もうそろそろ病人がもじもじしながら自分の帰りを待っているだろうと考えながら、心もち足を早めてサナトリウムに戻るのだった。

十月二十三日

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十月二十三日

明け方近く、私は自分のすぐそばでしたような気がする、異様な物音に驚いて目を覚ました。

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明け方近く、私は自分のすぐ身近でしたような気のする異様な物音に驚いて目を覚ました。

そしてしばらく耳をすませていたが、サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。

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そうしてしばらく耳をそば立てていたが、サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。

それから何だか目が冴えて、私はもう寝つけなくなった。

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それからなんだか目が冴えて、私はもう寝つかれなくなった。

小さなガの張りついている窓ガラスをとおして、私はぼんやりと、明け方の星がまだ二つ三つ、かすかに光っているのを見つめていた。

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小さな蛾のこびりついている窓硝子まどガラスをとおして、私はぼんやりと暁の星がまだ二つ三つかすかに光っているのを見つめていた。

でも、そのうちに私は、そんな明け方が何とも言えず寂しいような気がしてきて、そっと起き上がった。何をしようとしているのか自分でも分からないまま、まだ暗い隣りの病室へ、素足のまま入っていった。

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が、そのうちに私はそういう朝明けが何んとも云えずに寂しいような気がして来て、そっと起き上ると、何をしようとしているのか自分でも分らないように、まだ暗い隣りの病室へ素足のままではいって行った。

そしてベッドに近づきながら、節子の寝顔をのぞきこむようにして見た。

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そうしてベッドに近づきながら、節子の寝顔をかがむようにして見た。

すると彼女は思いがけず、ぱっちりと目を開けて、そんな私の方を見上げながら、

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すると彼女は思いがけず、ぱっちりと目を見ひらいて、そんな私の方を見上げながら、

「どうなさったの?」

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「どうなすったの?」

と、いぶかしそうに聞いた。

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いぶかしそうにいた。

私は何でもないというように目くばせをして、そのままゆっくりと彼女の上に身をかがめ、いかにもこらえきれなくなったように、その顔へぴったりと自分の顔を押しつけた。

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私は何んでもないと云った目くばせをしながら、そのまま徐かに彼女の上に身を屈めて、いかにもこられなくなったようにその顔へぴったりと自分の顔を押しつけた。

「まあ、冷たいこと」

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「まあ、冷たいこと」

彼女は目を閉じたまま、頭を少し動かした。

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彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。

髪の毛がかすかに匂った。

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髪の毛がかすかに匂った。

そのまま私たちは、お互いのつく息を感じ合いながら、いつまでもそうしてじっと頬ずりをしていた。

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そのまま私達はお互のつく息を感じ合いながら、いつまでもそうしてじっと頬ずりをしていた。

「あら、また、栗が落ちた……」

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「あら、又、栗が落ちた……」

彼女は目を細く開けて私を見ながら、そうささやいた。

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彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そうささやいた。

「ああ、あれは栗だったのか。……あいつのおかげで、おれはさっき目を覚ましてしまったんだ」

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「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」

私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女から手を離すと、いつのまにかだんだん明るくなってきた窓の方へ歩み寄っていった。

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私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。

そしてその窓によりかかって、さっきどちらの目からにじみ出たのかも分からない熱いものが、頬を伝うがままにさせながら、向こうの山の稜線にいくつか雲が動かずにいるあたりが、赤く濁ったような色を帯び始めているのを見つめていた。

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そしてその窓にりかかって、いましがたどちらの目からにじたのかも分らない熱いものが私の頬を伝うがままにさせながら、向うの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような色あいを帯び出しているのを見入っていた。

畑の方からは、ようやく物音が聞こえ始めた。……

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畑の方からはやっと物音が聞え出した。……

「そんなことをしていらっしゃると、風邪をひくわ」

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「そんな事をしていらっしゃるとお風を引くわ」

ベッドから彼女が小さな声で言った。

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ベッドから彼女が小さな声で言った。

私は何か気軽な調子で返事をしようと思いながら、彼女の方をふり向いた。

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私は何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、彼女の方をふり向いた。

でも、大きく目を見開いて心配そうに私を見つめている彼女の目と目が合うと、そんな言葉は出てこなかった。

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が、大きくみはって気づかわしそうに私を見つめている彼女の目と見合わせると、そんな言葉は出されなかった。

そうして黙ったまま窓を離れ、自分の部屋へ戻っていった。

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そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋に戻って行った。

それから数分たつと、病人は明け方にいつもする、こらえきれないような激しい咳をした。

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それから数分立つと、病人は明け方にいつもする、抑えかねたようなはげしい咳を出した。

また寝床にもぐりこみながら、私は何とも言えない不安な気持ちでそれを聞いていた。

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再び寝床に潜りこみながら、私は何んともかとも云われないような不安な気持でそれを聞いていた。

十月二十七日

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十月二十七日

私は今日もまた、山や森で午後を過ごした。

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私はきょうもまた山や森で午後を過した。

一つの主題が、一日じゅう、私の考えから離れない。

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一つの主題が、終日、私の考えを離れない。

本当の婚約という主題――二人の人間が、あまりにも短い一生のあいだに、どれだけお互いを幸福にし合えるか?

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真の婚約の主題――二人の人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互に幸福にさせ合えるか?

抗いがたい運命の前に静かに頭をうなだれたまま、お互いに心と心、体と体を温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿――そんな一組としての、寂しそうな、それでいてどこか楽しくないこともない私たちの姿が、はっきりと私の目の前に浮かんでくる。

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 あらがいがたい運命の前にしずかに頭を項低うなだれたまま、互に心と心と、身と身とを温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿、――そんな一組としての、寂しそうな、それでいて何処かたのしくないこともない私達の姿が、はっきりと私の目の前に見えて来る。

それをおいて、いまの私に何が描けるだろうか?

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それをいて、いまの私に何が描けるだろうか?

……

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 ……

果てしのない山のふもとをすっかり黄色く染めながら傾く、からまつ林のふちを、夕方、私がいつものように足早に帰ってくると、ちょうどサナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、斜めに差す日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている一人の背の高い若い女が、遠くに見えた。

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果てしのないような山麓をすっかり黄ばませながら傾いている落葉松林の縁を、夕方、私がいつものように足早に帰って来ると、丁度サナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、斜めになった日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている一人の背の高い若い女が遠く認められた。

私はちょっと立ち止まった。

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私はちょっと立ち止まった。

どうも、それは節子らしかった。

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どうもそれは節子らしかった。

でも、そんな場所に一人きりでいるように見えたので、本当に彼女かどうか分からず、私はただ、それまでより少し足を早めただけだった。

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しかしそんな場所に一人きりのようなのを見て、果して彼女かどうか分らなかったので、私はただ前よりも少し足を早めただけだった。

でも、だんだん近づいてみると、それはやはり節子だった。

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が、だんだん近づいて見ると、それはやはり節子であった。

「どうしたんだい?」

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「どうしたんだい?」

私は彼女のそばに駆け寄って、息をはずませながら聞いた。

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私は彼女の側に駈けつけて、息をはずませながら訊いた。

「ここであなたをお待ちしていたの」

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「此処であなたをお待ちしていたの」

彼女は少し顔を赤くして笑いながら答えた。

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彼女は顔を少しあかくして笑いながら答えた。

「そんな無茶なことをしてもいいのかなあ」

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「そんな乱暴な事をしても好いのかなあ」

私は彼女の顔を横から見た。

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私は彼女の顔を横から見た。

「一回くらいなら平気よ。……それに今日はとても気分がいいんですもの」

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「一遍くらいなら構わないわ。……それにきょうはとても気分が好いのですもの」

つとめて明るい声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっと、私が帰ってきた山のふもとの方を見ていた。

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つとめて快活な声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっと私の帰って来た山麓さんろくの方を見ていた。

「あなたがいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」

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「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」

私は何も言わずに、彼女のそばに並んで、同じ方角を見つめた。

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私は何も言わずに、彼女の側に並んで、同じ方角を見つめた。

彼女がまた明るい声で言った。

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彼女が再び快活そうに言った。

「ここまで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」

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「此処まで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」

「うん」

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「うん」

私は気のない返事をしただけだった。でも、そのまま彼女と肩を並べて、その山を見つめているうちに、ふいと何だか不思議に頭が混乱してきた。

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と私は気のなさそうな返事をしたきりだったが、そのままそうやって彼女と肩を並べてその山を見つめているうちに、ふいと何んだか不思議に混んがらかったような気がして来た。

「こうやってお前とあの山を見るのは、今日が初めてだったね。だけど、おれにはどうも、これまでに何度もこうやってあれを見たことがあるような気がするんだよ」

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「こうやってお前とあの山を見ているのはきょうが始めてだったね。だが、おれにはどうもこれまでに何遍もこうやってあれを見ていた事があるような気がするんだよ」

「そんなはずはないじゃないの?」

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「そんな筈はないじゃあないの?」

「いや、そうだ……おれはいま、やっと気づいた……おれたちはね、ずっと前に、この山を、ちょうど向こう側からこうやって一緒に見ていたことがあるんだ。いや、お前とそれを見ていた夏のころは、いつも雲にじゃまされて、ほとんど何も見えなかったのさ。……でも秋になってから、一人でおれがあそこへ行ってみたら、ずっと向こうの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたんだ。あの遠くに見えて、どこの山だかまったく知らずにいたのが、たしかにこれらしい。ちょうどそんな方角になりそうだ。……お前、あのすすきがたくさん生い茂っていた原っぱを覚えているだろう?」

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「いや、そうだ……おれはいまっと気がついた……おれ達はね、ずっと前にこの山を丁度向う側から、こうやって一しょに見ていたことがあるのだ。いや、お前とそれを見ていた夏の時分はいつも雲に妨げられて殆ど何も見えやしなかったのさ。……しかし秋になってから、一人でおれが其処へ行って見たら、ずっと向うの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたのだ。あの遠くに見えた、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、確かにこれらしい。丁度そんな方角になりそうだ。……お前、あのすすきがたんと生い茂っていた原を覚えているだろう?」

「ええ」

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「ええ」

「だけど、実に不思議だなあ。いま、あの山のふもとにこうして、これまで何にも気づかずにお前と暮らしていたなんて……」

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「だが実に妙だなあ。いま、あの山のふもとにこうしてこれまで何も気がつかずにお前と暮らしていたなんて……」

ちょうど二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂ったすすきの間から初めて地平線の上にくっきりと見つけたこの山々を、遠くから眺めながら、ほとんど悲しいくらいの幸福な気持ちで、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、いかにも懐かしく、私の目にはっきりと浮かんできた。

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丁度二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線の上にくっきりと見出したこの山々を遠くから眺めながら、殆ど悲しいくらいの幸福な感じをもって、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、いかにも懐かしく、私の目に鮮かに浮んで来た。

私たちは黙りこんだ。

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私達は沈黙に落ちた。

その上空を、渡り鳥の群れらしいものが音もなくすっと横切っていく。その重なり合った山々を眺めながら、私たちは、あの最初の日々のような懐かしい気持ちで、肩を寄せ合ったまま立ち続けていた。

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その上空を渡り鳥の群れらしいのが音もなくすうっと横切って行く、その並み重った山々を眺めながら、私達はそんな最初の日々のような慕わしい気持で、肩を押しつけ合ったまま、たたずんでいた。

そうして私たちの影が、だんだん長くなりながら草の上を這うのに任せていた。

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そうして私達の影がだんだん長くなりながら草の上を這うがままにさせていた。

やがて風が少し出てきたのか、私たちの背後の雑木林が急にざわめき始めた。

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やがて風が少し出たと見えて、私達の背後の雑木林が急にざわめき立った。

私は「もうそろそろ帰ろう」

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私は「もうそろそろ帰ろう」

と、ふと思い出したように彼女に言った。

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と不意と思い出したように彼女に言った。

私たちは、絶えず落ち葉の落ちている雑木林の中へ入っていった。

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私達は絶えず落葉のしている雑木林の中へはいって行った。

私はときどき立ち止まって、彼女を少し先に歩かせた。

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私はときどき立ち止まって、彼女を少し先きに歩かせた。

二年前の夏、ただ彼女をよく見ていたいばかりに、わざと私の二、三歩先に彼女を歩かせながら森の中などを散歩したころの、さまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられるくらい、私の中にあふれてきた。

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二年前の夏、ただ彼女をよく見たいばかりに、わざと私の二三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩した頃のさまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられる位に、私のうちに一ぱいにあふれて来た。

十一月二日

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十一月二日

夜、一つの明かりが私たちを近づけ合っている。

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夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。

その明かりの下で、言葉を交わさないことにも慣れて、私がせっせと、私たちの命の幸福を主題にした物語を書き続けていると、その笠の陰になった薄暗いベッドの中に、節子は、そこにいるのかいないのか分からないほど、静かに寝ている。

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その明りの下で、ものを言い合わないことにも馴れて、私がせっせと私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、その笠の陰になった、薄暗いベッドの中に、節子は其処にいるのだかいないのだか分らないほど、物静かに寝ている。

ときどき私がそちらへ顔を上げると、さっきからずっと私を見つめ続けていたかのように、私を見つめていることがある。

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ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私を見つめつづけていたかのように私を見つめていることがある。

「こうやってあなたのそばにいさえすれば、私はそれでいいの」

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「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそれで好いの」

と、私にいかにも言いたくてたまらないような、愛情のこもった目つきである。

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と私にさも言いたくってたまらないでいるような、愛情をめた目つきである。

ああ、それがどれほど今の私に、自分たちの持っている幸福を信じさせてくれることか。そしてこうやってそれにはっきりした形を与えようと努力している私を、どれほど助けてくれていることか!

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ああ、それがどんなに今の私に自分達の所有している幸福を信じさせ、そしてこうやってそれにはっきりした形を与えることに努力している私を助けていて呉れることか!

十一月十日

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十一月十日

冬になる。

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冬になる。

空は広がり、山々はいよいよ近くなる。

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空は拡がり、山々はいよいよ近くなる。

その山々の上の方だけ、雪雲らしいものが、いつまでも動かずにじっとしていることがある。

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その山々の上方だけ、雪雲らしいのがいつまでも動かずにじっとしているようなことがある。

そんな朝には、山から雪に追われてくるのか、バルコニーの上までが、いつもはあまり見かけない小鳥でいっぱいになる。

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そんな朝には山から雪に追われて来るのか、バルコンの上までがいつもはあんまり見かけたことのない小鳥で一ぱいになる。

そんな雪雲が消え去ったあとは、一日くらい、その山々の上の方だけが薄白くなっていることがある。

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そんな雪雲の消え去ったあとは、一日ぐらいその山々の上方だけが薄白くなっていることがある。

そしてこの頃は、そんな山の頂きに、そういう雪がそのまま目立つほど残るようになった。

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そしてこの頃はそんないくつかの山の頂きにはそういう雪がそのまま目立つほど残っているようになった。

私は数年前、たびたび、こういう冬の寂しい山岳地方で、かわいい娘と二人きりで、世間からすっかり離れ、お互いが切なく思うほど愛し合いながら暮らすことを夢見ていたころのことを思い出す。

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私は数年前、屡々しばしば、こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、お互がせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすことを好んで夢みていた頃のことを思い出す。

私は、自分が小さいときから持ち続けている、甘くかぎりない人生への夢を、そういう人が恐れるような厳しい自然の中に、そっくりそのまま少しも傷つけずに生かしてみたかったのだ。

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私は自分の小さい時から失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、そういう人のこわがるような苛酷かこくなくらいの自然の中に、それをそっくりそのまま少しもそこなわずに生かして見たかったのだ。

そしてそのためには、どうしてもこういう本当の冬、寂しい山岳地方の冬でなければいけなかったのだ……

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そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、淋しい山岳地方のそれでなければいけなかったのだ……

――夜が明けかかるころ、私はまだ、その少し体の弱い娘が眠っているあいだに、そっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出していく。

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――夜の明けかかる頃、私はまだその少し病身な娘の眠っている間にそっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。

あたりの山々は、明け方の光を浴びて、ばら色に輝いている。

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あたりの山々は、あけぼのの光を浴びながら、薔薇色ばらいろかがやいている。

私は隣りの農家から、しぼりたてのやぎの乳をもらって、すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。

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私は隣りの農家からしぼり立ての山羊の乳を貰って、すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。

それから自分で暖炉にたきぎをくべる。

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それから自分で煖炉だんろ焚木たきぎをくべる。

やがてそれが、ぱちぱちと元気な音を立てて燃え出し、その音でようやくその娘が目を覚ますころには、もう私はかじかんだ手をしながら、それでもいかにも楽しそうに、いま自分たちがそうやって暮らしている山の生活を、そっくりそのまま書きとめている……

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やがてそれがぱちぱちと活溌な音を立てて燃え出し、その音で漸っとその娘が目を覚ます時分には、もう私はかじかんだ手をして、しかし、さもたのしそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活をそっくりそのまま書き取っている……

今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、そんなどこにもなさそうな版画のような冬景色を目の前に思い浮かべながら、その丸太造りの小屋の中のさまざまな家具の置き場所を変えたり、それについて自分自身と相談し合ったりしていた。

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今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、そんな何処にだってありそうもない版画じみた冬景色を目のあたりに浮べながら、その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置を換えたり、それに就いて私自身と相談し合ったりしていた。

それから、とうとうそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えていった。そして、その夢からそれだけが現実にはみ出したかのように、私の目の前には、ほんの少しばかり雪の積もった山々と、葉の落ちた木立と、冷たい空気だけが残っていた。……

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それから遂にそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えて行きながら、ただ私の目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、ほんの少しばかり雪の積った山々と、裸になった木立と、冷たい空気とだけが残っていた。……

一人で先に食事をすませてしまってから、窓ぎわにイスを寄せて、そんな思い出にふけっていた私は、そのとき急に、ちょうど食事を終え、そのままベッドの上に起き上がって、何となく疲れたようなぼんやりした目つきで山の方を見つめている節子の方をふり向いた。そして髪の毛が少しほつれた、やつれたような顔を、いつになく痛々しく見つめ始めた。

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一人で先きに食事をすませてしまってから、窓ぎわに椅子をずらしてそんな思い出にふけっていた私は、そのとき急に、いまやっと食事をえ、そのままベッドの上に起きながら、なんとなく疲れを帯びたようなぼんやりした目つきで山の方を見つめている節子の方をふり向いて、その髪の毛の少しほつれているやつれたような顔をいつになく痛々しげに見つめ出した。

「このおれの夢が、こんなところまでお前を連れてきたようなものなのだろうか?」

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「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」

私は、何か後悔に近いような気持ちでいっぱいになりながら、口には出さずに、病人に向かって話しかけた。

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と私は何か悔いに近いような気持で一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。

「それなのに、この頃のおれは、自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんなふうにお前のそばにいるときだって、おれは今のお前のことなんかちっとも考えてやりはしないんだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お前にも、それから自分自身にも言い聞かせている。そうしておれはいつのまにかいい気になって、お前のことよりも、おれのつまらない夢なんかにこんなに時間を費やしているんだ……」

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「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お前にも、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間をつぶし出しているのだ……」

そんな私の、何か言いたげな目つきに気づいたのか、病人はベッドの上から、にこりともせず、まじめに私の方を見返していた。

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そんな私のもの言いたげな目つきに気がついたのか、病人はベッドの上から、にっこりともしないで、真面目に私の方を見かえしていた。

この頃、いつのまにか、そんなふうに、それまでよりもずっと長いあいだ、もっともっとお互いを強く見つめ合うように目と目を合わせているのが、私たちの習慣になっていた。

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この頃いつのまにか、そんな具合に、前よりかずっと長い間、もっともっとお互を締めつけ合うように目と目を見合わせているのが、私達の習慣になっていた。

十一月十七日

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十一月十七日

私は、あと二、三日すれば、私のノートを書き終えられるだろう。

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私はもう二三日すれば私のノオトを書きえられるだろう。

それは、私たち自身のこうした暮らしについて書いていれば、きりがないだろう。

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それは私達自身のこうした生活に就いて書いていれば切りがあるまい。

それをともかく一応書き終えるためには、私は何か結末をつけなければならないだろう。でも、今もなおこうして続いている私たちの暮らしに、どんな結末もつけたくはない。

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それをともかくも一応書き了えるためには、私は何か結末を与えなければならないのだろうが、今もなおこうして私達の生き続けている生活にはどんな結末だって与えたくはない。

いや、つけられはしないだろう。

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いや、与えられはしないだろう。

むしろ、私たちのこうした今のありのままの姿で、それを終わらせるのが一番いいだろう。

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むしろ、私達のこうした現在のあるがままの姿でそれを終らせるのが一番好いだろう。

今のありのままの姿?

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現在のあるがままの姿?

……私はいま、何かの物語で読んだ「幸福の思い出ほど、幸福をさまたげるものはない」

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 ……私はいま何かの物語で読んだ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」

という言葉を思い出している。

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という言葉を思い出している。

今、私たちがお互いに与え合っているものは、かつて私たちがお互いに与え合っていた幸福とは、まあ何と違ったものになってきているだろう!

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現在、私達の互に与え合っているものは、かつて私達の互に与え合っていた幸福とはまあ何んと異ったものになって来ているだろう!

それはそんな幸福に似た、でもそれとはかなり違う、もっともっと胸がしめつけられるように切ないものだ。

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 それはそう云った幸福に似た、しかしそれとはかなり異った、もっともっと胸がしめつけられるように切ないものだ。

こういう本当の姿が、まだ私たちの暮らしの表面にも完全に現れてきていないものを、このまま私はすぐ追いつめていって、はたして私たちの幸福の物語にふさわしいような結末を見つけられるだろうか?

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こういう本当の姿がまだ私達の生の表面にも完全に現われて来ていないものを、このまま私はすぐ追いつめて行って、果してそれに私達の幸福の物語に相応ふさわしいような結末を見出せるであろうか?

なぜだか分からないけれど、私がまだはっきりさせることのできずにいる私たちの暮らしの裏側には、何となく私たちのそんな幸福に敵意を持っているようなものが、潜んでいるような気もしてならない。……

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 なぜだか分らないけれど、私がまだはっきりさせることの出来ずにいる私達の生の側面には、何んとなく私達のそんな幸福に敵意をもっているようなものが潜んでいるような気もしてならない。……

そんなことを、私は何か落ち着かない気持ちで考えながら、明かりを消し、もう寝入っている病人のそばを通り抜けようとした。でも、ふと立ち止まり、暗がりの中にそれだけがほの白く浮かんでいる彼女の寝顔を、じっと見守った。

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そんなことを私は何か落着かない気持で考えながら、明りを消して、もう寝入っている病人の側を通り抜けようとして、ふと立ち止まって暗がりの中にそれだけがほの白く浮いている彼女の寝顔をじっと見守った。

その少しくぼんだ目のまわりが、ときどきぴくぴくとひきつるようだった。でも私には、それが何かに脅かされているように見えてならなかった。

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その少し落ち窪んだ目のまわりがときどきぴくぴくと痙攣ひっつれるようだったが、私にはそれが何物かに脅かされてでもいるように見えてならなかった。

私自身の言いようもない不安が、それをただそんなふうに感じさせているだけなのだろうか?

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私自身の云いようもない不安がそれを唯そんな風に感じさせるに過ぎないであろうか?

十一月二十日

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十一月二十日

私は、これまで書いてきたノートをすっかり読み返してみた。

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私はこれまで書いて来たノオトをすっかり読みかえして見た。

私が意図したところは、これならまあどうにか自分を満足させる程度には書けているように思えた。

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私の意図したところは、これならまあどうやら自分を満足させる程度には書けているように思えた。

でも、それとは別に、私はそれを読み続けている自分自身の中に、その物語の主題である私たち自身の「幸福」

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が、それとは別に、私はそれを読み続けている自分自身のうちに、その物語の主題をなしている私達自身の「幸福」

を、もう完全には味わえそうもなくなっている、本当に思いがけない、不安そうな私の姿を見つけ始めていた。

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をもう完全には味わえそうもなくなっている、本当に思いがけない不安そうな私の姿を見出しはじめていた。

そうして私の考えは、いつかその物語そのものから離れていった。

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そうして私の考えはいつかその物語そのものを離れ出していた。

「この物語の中のおれたちは、おれたちに許されるだけのささやかな喜びを味わいながら、それだけで独自にお互いを幸福にし合えると信じていられた。少なくとも、それだけでおれは自分の心をつなぎとめていられると思っていた。――でも、おれたちは、あまりに高いところを狙いすぎていたのだろうか? そうして、おれは自分の生きる欲求を少しばかり見くびりすぎていたのだろうか? そのために今、おれの心のつなぎ目がこんなにも引きちぎられそうになっているのだろうか?……」

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「この物語の中のおれ達はおれ達に許されるだけのささやかな生のたのしみを味わいながら、それだけで独自ユニイクにお互を幸福にさせ合えると信じていられた。少くともそれだけで、おれはおれの心を縛りつけていられるものと思っていた。――が、おれ達はあんまり高く狙い過ぎていたのであろうか? そうして、おれはおれの生の欲求を少しばかり見くびり過ぎていたのであろうか? そのために今、おれの心の縛がこんなにも引きちぎられそうになっているのだろうか?……」

「かわいそうな節子……」

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「可哀そうな節子……」

私は、机に放り出したノートをそのまま片づけようともせず、考え続けていた。

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と私は机にほうり出したノオトをそのまま片づけようともしないで、考え続けていた。

「こいつは、おれ自身が気づかないふりをしていたその生きる欲求を、黙ったまま見抜いて、それに同情を寄せているように見えてならない。そしてそれがまた、こうしておれを苦しめているのだ。……おれはどうして、こんなおれの姿をこいつに隠しきることができなかったのだろう? 何ておれは弱いのだろうなあ……」

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「こいつはおれ自身が、気づかぬようなふりをしていたそんなおれの生の欲求を沈黙の中に見抜いて、それに同情を寄せているように見えてならない。そしてそれが又こうしておれを苦しめ出しているのだ。……おれはどうしてこんなおれの姿をこいつに隠しおおせることが出来なかったのだろう? 何んておれは弱いのだろうなあ……」

私は、明かりの陰になったベッドで、さっきから目を半分閉じている病人に目を移すと、ほとんど息が詰まるような気がした。

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私は、明りの蔭になったベッドにさっきから目を半ばつぶっている病人に目を移すと、殆ど息づまるような気がした。

私は明かりのそばを離れて、静かにバルコニーの方へ近づいていった。

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私は明りの側を離れて、しずかにバルコンの方へ近づいて行った。

小さな月の出ている晩だった。

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小さな月のある晩だった。

それは、雲のかかった山や丘、森などの輪郭を、かすかに見分けさせているだけだった。

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それは雲のかかった山だの、丘だの、森などの輪廓りんかくをかすかにそれと見分けさせているきりだった。

そしてそれ以外の部分は、ほとんどすべて、にぶい青みを帯びた闇の中に溶けこんでいた。

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そしてその他の部分は殆どすべて鈍い青味を帯びた闇の中に溶け入っていた。

でも私が見ていたのは、そういうものではなかった。

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しかし私の見ていたものはそれ等のものではなかった。

私は、いつかの初夏の夕暮れに、二人で切ないほどの思いをこめて、そのまま自分たちの幸福を最後まで持っていけそうな気がしながら眺め合っていた、まだその何一つ消え失せていない思い出の中の、あの山や丘や森などを、まざまざと心によみがえらせていたのだった。

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私は、いつかの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、そのまま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺め合っていた、まだその何物も消え失せていない思い出の中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心によみがえらせていたのだった。

そして、私たち自身までがその一部になりきってしまっていたような、そんなひとときの景色を、こんなふうにこれまでも何度もよみがえらせたので、それらのものもいつのまにか私たちの一部になっていた。そのため、季節とともに変わっていくそれらのものの今の姿が、ときには私たちにはほとんど見えないものになってしまうほどだった。……

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そして私達自身までがその一部になり切ってしまっていたようなそういう一瞬時の風景を、こんな具合にこれまでも何遍となく蘇らせたので、それ等のものもいつのまにか私達の存在の一部分になり、そしてもはや季節と共に変化してゆくそれ等のものの、現在の姿が時とすると私達には殆ど見えないものになってしまう位であった。……

「あんな幸福な瞬間をおれたちが持てたということは、それだけでもう、おれたちがこうして共に生きるだけの意味があったということなのだろうか?」

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「あのような幸福な瞬間をおれ達が持てたということは、それだけでももうおれ達がこうして共に生きるのに値したのであろうか?」

私は自分自身に問いかけていた。

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と私は自分自身に問いかけていた。

私の背後で、ふと軽い足音がした。

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私の背後にふと軽い足音がした。

それは節子にちがいなかった。

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それは節子にちがいなかった。

でも私はふり向こうともせず、そのままじっとしていた。

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が、私はふり向こうともせずに、そのままじっとしていた。

彼女もまた何も言わずに、私から少し離れたまま立っていた。

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彼女もまた何も言わずに、私から少し離れたまま立っていた。

でも私は、その息づかいが感じられるほど、彼女を近くに感じていた。

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しかし、私はその息づかいが感ぜられるほど彼女を近ぢかと感じていた。

ときおり冷たい風が、バルコニーの上を、何の音も立てずにかすめ過ぎた。

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ときおり冷たい風がバルコンの上をなんの音も立てずにかすめ過ぎた。

どこか遠くの方で、枯れ木が音を引きちぎられるようだった。

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何処か遠くの方で枯木が音を引きむしられていた。

「何を考えているの?」

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「何を考えているの?」

とうとう彼女が口を開いた。

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とうとう彼女が口を切った。

私はそれにすぐ返事をしなかった。

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私はそれにはすぐ返事をしないでいた。

それから急に彼女の方をふり向いて、あいまいに笑いながら、

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それから急に彼女の方へふり向いて、不確かなように笑いながら、

「お前には分かっているだろう?」

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「お前には分っているだろう?」

と、聞き返した。

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と問い返した。

彼女は、何かわなでも恐れるかのように、用心深く私を見た。

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彼女は何かわなでも恐れるかのように注意深く私を見た。

それを見て、私は、

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それを見て、私は、

「おれの仕事のことを考えているんじゃないか」

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「おれの仕事のことを考えているのじゃないか」

と、ゆっくり言い出した。

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とゆっくり言い出した。

「おれには、どうしてもいい結末が思い浮かばないんだ。おれは、おれたちが無駄に生きていたようには、それを終わらせたくないんだ。どうだ、一つお前も、それをおれと一緒に考えてくれないか?」

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「おれにはどうしても好い結末が思い浮ばないのだ。おれはおれ達が無駄に生きていたようにはそれを終らせたくはないのだ。どうだ、一つお前もそれをおれと一しょに考えて呉れないか?」

彼女は私にほほえんで見せた。

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彼女は私に微笑ほほえんで見せた。

でも、そのほほえみは、どこかまだ不安そうだった。

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しかし、その微笑みはどこかまだ不安そうであった。

「だって、どんなことをお書きになったのかも知らないじゃないの」

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「だってどんな事をお書きになったんだかも知らないじゃないの」

彼女はやっと小声で言った。

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彼女はっと小声で言った。

「そうだっけなあ」

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「そうだっけなあ」

私はもう一度あいまいに笑いながら言った。

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と私はもう一度不確かなように笑いながら言った。

「それじゃあ、そのうち一つお前にも読んで聞かせるかな。でも、まだ最初の方だって、人に読んで聞かせるほどまとまっちゃいないんだからね」

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「それじゃあ、そのうちに一つお前にも読んで聞かせるかな。しかしまだ、最初の方だって人に読んで聞かせるほどまとまっちゃいないんだからね」

私たちは部屋の中へ戻った。

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私達は部屋の中へ戻った。

私が再び明かりのそばに腰を下ろして、そこに放り出してあるノートをもう一度手に取って見ていると、彼女はそんな私の背後に立ったまま、私の肩にそっと手をかけながら、それを肩越しにのぞきこむようにしていた。

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私が再び明りの側に腰を下ろして、其処にほうり出してあるノオトをもう一度手に取り上げて見ていると、彼女はそんな私の背後に立ったまま、私の肩にそっと手をかけながら、それを肩越しに覗き込むようにしていた。

私はいきなりふり向いて、

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私はいきなりふり向いて、

「お前はもう寝た方がいいぜ」

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「お前はもう寝た方がいいぜ」

と、そっけない声で言った。

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と乾いた声で言った。

「ええ」

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「ええ」

彼女は素直に返事をして、私の肩から手を少しためらいながら離すと、ベッドに戻っていった。

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彼女は素直に返事をして、私の肩から手を少しためらいながら放すと、ベッドに戻って行った。

「なんだか眠れそうもないわ」

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「なんだか寝られそうもないわ」

二、三分すると、彼女がベッドの中で独り言のように言った。

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二三分すると彼女がベッドの中で独り言のように言った。

「じゃ、明かりを消してやろうか?……おれはもういいんだ」

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「じゃ、明りを消してやろうか?……おれはもういいのだ」

そう言いながら、私は明かりを消して立ち上がり、彼女の枕もとに近づいた。

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そう言いながら、私は明りを消して立ち上ると、彼女の枕もとに近づいた。

そしてベッドの端に腰をかけながら、彼女の手を取った。

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そうしてベッドの縁に腰をかけながら、彼女の手を取った。

私たちはしばらくそのまま、暗闇の中で黙り合っていた。

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私達はしばらくそうしたまま、やみの中に黙り合っていた。

さっきより風がだいぶ強くなったようだった。

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さっきより風がだいぶ強くなったと見える。

それはあちこちの森から絶えず音を引きちぎっていた。

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それはあちこちの森から絶えず音を引きいでいた。

そしてときどきそれをサナトリウムの建物にぶつけ、どこかの窓をばたばたと鳴らしながら、最後に私たちの部屋の窓を少しきしらせた。

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そしてときどきそれをサナトリウムの建物にぶっつけ、どこかの窓をばたばた鳴らしながら、一番最後に私達の部屋の窓を少しきしらせた。

それにおびえてでもいるかのように、彼女はいつまでも私の手を離さなかった。

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それにおびえでもしているかのように、彼女はいつまでも私の手をはなさないでいた。

そうして目を閉じたまま、自分の中の何かの働きに、一心になろうとしているように見えた。

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そうして目をつぶったまま、自分のうちの何かの作用はたらきに一心になろうとしているように見えた。

そのうちに、その手が少しゆるんできた。

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そのうちにその手が少し緩んできた。

彼女は眠ったふりをし始めたらしかった。

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彼女は寝入ったふりをし出したらしかった。

「さあ、今度はおれの番か……」

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「さあ、今度はおれの番か……」

そんなことをつぶやきながら、私も彼女と同じように眠れそうもない自分を眠らせようと、自分の真っ暗な部屋の中へ入っていった。

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そんなことを呟きながら、私も彼女と同じように寝られそうもない自分を寝つかせに、自分の真っ暗な部屋の中へはいって行った。

十一月二十六日

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十一月二十六日

この頃、私はよく夜が明けかかるころに目を覚ます。

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この頃、私はよく夜の明けかかる時分に目を覚ます。

そんなとき、私はよくそっと起き上がって、病人の寝顔をしげしげと見つめている。

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そんなときは、私は屡々しばしばそっと起き上って、病人の寝顔をしげしげと見つめている。

ベッドの端やびんなどはだんだん黄ばみかけてきているのに、彼女の顔だけがいつまでも青白い。

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ベッドの縁やびんなどはだんだん黄ばみかけて来ているのに、彼女の顔だけがいつまでも蒼白い。

「かわいそうなやつだなあ」

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「可哀そうな奴だなあ」

それが私の口癖にでもなったかのように、自分でも気づかずにそう言っていることもある。

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それが私の口癖にでもなったかのように自分でも知らずにそう言っているようなこともある。

今朝も明け方近くに目を覚ました私は、長いあいだそんな病人の寝顔を見つめてから、つま先立って部屋を抜け出し、サナトリウムの裏の、裸すぎるほど枯れきった林の中へ入っていった。

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けさも明け方近くに目を覚ました私は、長い間そんな病人の寝顔を見つめてから、爪先き立って部屋を抜け出し、サナトリウムの裏の、裸過ぎる位に枯れ切った林の中へはいって行った。

もうどの木にも死んだ葉が二つ三つ残っているだけで、それが風に逆らっていた。

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もうどの木にも死んだ葉が二つ三つ残って、それが風にあらがっているきりだった。

私がその何もない林を出はずれたころには、八ヶ岳の山頂を離れたばかりの日が、南から西にかけて並び立つ山々の上に低く垂れたまま動こうとしない雲のかたまりを、見る間に赤く輝かせ始めていた。

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私がその空虚な林を出はずれた頃には、八ヶ岳の山頂を離れたばかりの日が、南から西にかけて立ち並んでいる山々の上に低く垂れたまま動こうともしないでいる雲の塊りを、見るまに赤あかとかがやかせはじめていた。

でも、そんな明け方の光も、地上にはまだなかなか届きそうになかった。

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が、そういうあけぼのの光も地上にはまだなかなか届きそうになかった。

それらの山々のあいだにはさまれた冬枯れの森や畑、荒れ地は、今、すべてのものからすっかり見捨てられたような様子を見せていた。

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それらの山々の間に挟まれている冬枯れた森や畑や荒地は、今、すべてのものから全く打ち棄てられてでもいるような様子を見せていた。

私はその枯れ木林のはずれで、ときどき立ち止まっては寒さに思わず足踏みしながら、そのあたりを歩き回っていた。

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私はその枯木林のはずれに、ときどき立ち止まっては寒さに思わず足踏みしながら、そこいらを歩き廻っていた。

そうして、何を考えていたのか自分でも思い出せないような考えをあれこれめぐらしていた私は、そのうち不意に頭を上げて、空がいつのまにか輝きを失った暗い雲にすっかりおおわれているのに気づいた。

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そうして何を考えていたのだか自分でも思い出せないような考えをとつおいつしていた私は、そのうち不意に頭を上げて、空がいつのまにか赫きを失った暗い雲にすっかりとざされているのを認めた。

私はそれに気づくと、ついさっきまであんなにも美しく空を染めていた明け方の光が地上に届くのを、まるでそれまで心待ちにしていたかのように、急に何だかつまらなそうな顔になり、足早にサナトリウムへ引き返していった。

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私はそれに気がつくと、ついさっきまでそれをあんなにも美しく焼いていた曙の光が地上に届くのをそれまで心待ちにしてでもいたかのように、急になんだか詰まらなそうな恰好かっこうをして、足早にサナトリウムに引返して行った。

節子はもう目を覚ましていた。

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節子はもう目を覚ましていた。

でも、戻ってきた私に気づいても、私の方へはものうげにちらっと目を上げただけだった。

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しかし立ち戻った私を認めても、私の方へは物憂げにちらっと目を上げたきりだった。

そして、さっき寝ていたときよりも、もっと青ざめた顔色をしていた。

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そしてさっき寝ていたときよりも一層蒼いような顔色をしていた。

私が枕もとに近づいて、髪をいじりながら額に口づけしようとすると、彼女は弱々しく首を振った。

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私が枕もとに近づいて、髪をいじりながら額に接吻しようとすると、彼女は弱々しく首を振った。

私はなにも聞かずに、悲しそうに彼女を見ていた。

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私はなんにもかずに、悲しそうに彼女を見ていた。

でも彼女は、そんな私をというよりも、むしろそんな私の悲しみを見まいとするかのように、ぼんやりした目つきで、何もない空を見つめていた。

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が、彼女はそんな私をと云うよりも、むしろ、そんな私の悲しみを見まいとするかのように、ぼんやりした目つきでくうを見入っていた。

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何も知らずにいたのは、私だけだったのだ。

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何も知らずにいたのは私だけだったのだ。

午前の診察が終わったあと、私は看護婦長に廊下へ呼び出された。

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午前の診察の済んだ後で、私は看護婦長に廊下へ呼び出された。

そして私は初めて、節子が今朝、私の知らないあいだに、少し血を吐いたことを聞かされた。

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そして私ははじめて節子がけさ私の知らない間に少量の喀血かっけつをしたことを聞かされた。

彼女は私にはそれを黙っていたのだ。

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彼女は私にはそれを黙っていたのだ。

血を吐いたのは危険というほどではないが、用心のためにしばらく付き添いの看護婦をつけておくようにと、院長が言いつけていったということだった。――

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喀血は危険と云う程度ではないが、用心のためにしばらく附添看護婦をつけて置くようにと、院長が言い付けて行ったというのだ。――

私は、それに従うほかなかった。

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私はそれに同意するほかはなかった。

私はちょうど空いている隣りの病室に、そのあいだだけ移ることにした。

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私は丁度空いている隣りの病室に、その間だけ引き移っていることにした。

私はいま、二人で住んでいた部屋にどこもかしこも似ていて、それでいてまったく見知らないような感じのする部屋の中で、一人ぼっちで、この日記をつけている。

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私はいま、二人で住んでいた部屋に何処から何処まで似た、それでいて全然見知らないような感じのする部屋の中に、一人ぼっちで、この日記をつけている。

こうして私が数時間前から座っているのに、どうもまだこの部屋は空っぽのようだ。

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こうして私が数時間前から坐っているのに、どうもまだこの部屋は空虚のようだ。

ここにはまるで誰もいないかのように、明かりさえも冷たく光っている。

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此処にはまるで誰もいないかのように、明りさえも冷たく光っている。

十一月二十八日

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十一月二十八日

私は、ほとんど出来上がっている仕事のノートを、机の上に、少しも手をつけようとせずに、放り出したままにしてある。

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私は殆ど出来上っている仕事のノオトを、机の上に、少しも手をつけようとはせずに、ほうり出したままにして置いてある。

それを仕上げるためにも、しばらく別々に暮らした方がいいのだと、病人には言い含めておいたのだ。

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それを仕上げるためにも、しばらく別々に暮らした方がいいのだと云うことを病人には云い含めて置いたのだ。

でも、どうして、あの物語に描いたような、私たちのあんなに幸福そうだった状態に、今のようなこんな不安な気持ちのまま、私一人で入っていくことができるだろうか?

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が、どうしてそれに描いたような私達のあんなに幸福そうだった状態に、今のようなこんな不安な気持のまま、私一人ではいって行くことが出来ようか?

私は毎日、二、三時間おきくらいに隣りの病室に行き、病人の枕もとにしばらく座っている。

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私は毎日、二三時間きぐらいに、隣りの病室に行き、病人の枕もとにしばらく坐っている。

でも、病人にしゃべらせるのは一番よくないので、ほとんどものを言わずにいることが多い。

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しかし病人に喋舌しゃべらせることは一番好くないので、殆んどものを言わずにいることが多い。

看護婦のいないときも、二人で黙って手を取り合って、お互いになるべく目も合わせないようにしている。

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看護婦のいない時にも、二人で黙って手を取り合って、お互になるたけ目も合わせないようにしている。

でも、どうかして私たちがふいと目を見合わせるようなことがあると、彼女はまるで私たちの最初の日々に見せたような、少し気まり悪そうなほほえみ方を、私に見せる。

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が、どうかして私達がふいと目を見合わせるようなことがあると、彼女はまるで私達の最初の日々に見せたような、一寸気まりの悪そうな微笑ほほえみ方を私にして見せる。

でも、すぐ目をそらして、何もない空を見ながら、そんな状態に置かれていることに少しも不満を見せず、落ち着いて寝ている。

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が、すぐ目を反らせて、くうを見ながら、そんな状態に置かれていることに少しも不平を見せずに、落着いて寝ている。

彼女は一度、私に仕事ははかどっているのかと聞いた。

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彼女は一度私に仕事ははかどっているのかと訊いた。

私は首を振った。

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私は首を振った。

そのとき、彼女は私を気の毒がるような目で見た。

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そのとき彼女は私を気の毒がるような見方をして見た。

でも、それきりもう、私にそんなことは聞かなくなった。

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が、それきりもう私にそんなことは訊かなくなった。

そして一日は、他の日と同じように、まるで何事もないかのように静かに過ぎていく。

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そして一日は、他の日に似て、まるで何事もないかのように物静かに過ぎる。

そして彼女は、私が代わりに彼女の父に手紙を出すことさえ、断っている。

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そして彼女は私が代って彼女の父に手紙を出すことさえ拒んでいる。

夜、私は遅くまで何もせず机に向かったまま、バルコニーの上に落ちている明かりの光が、窓を離れるにつれてだんだんかすかになりながら、闇に四方から包まれていくのを、まるで自分の心の中さながらのような気がしながら、ぼんやりと見つめている。

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夜、私は遅くまで何もしないで机に向ったまま、バルコンの上に落ちている明りの影が窓を離れるにつれてだんだんかすかになりながら、やみに四方から包まれているのを、あたかも自分の心の裡さながらのような気がしながら、ぼんやりと見入っている。

もしかしたら病人もまだ眠れずに、私のことを考えているかもしれないと思いながら……

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ひょっとしたら病人もまだ寝つかれずに、私のことを考えているかも知れないと思いながら……

十二月一日

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十二月一日

この頃になって、どうしたのか、私の明かりを慕ってくるガがまた増えてきたようだ。

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この頃になって、どうしたのか、私の明りを慕ってくる蛾がまた殖え出したようだ。

夜、そんなガがどこからともなく飛んできて、閉め切った窓ガラスに激しくぶつかり、その衝撃で自分を傷つけながら、なおも生きようとして、命がけで窓ガラスに穴をあけようとしている。

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夜、そんな蛾がどこからともなく飛んで来て、閉め切った窓硝子まどガラスにはげしくぶつかり、その打撃で自ら傷つきながら、なおも生を求めてやまないように、死に身になって硝子にあなをあけようと試みている。

私がそれをうるさがって、明かりを消してベッドに入ってしまっても、まだしばらくは狂ったように羽ばたいている。でも、次第にそれが弱まり、ついにどこかにしがみついたきりになる。

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私がそれをうるさがって、明りを消してベッドにはいってしまっても、まだしばらく物狂わしい羽搏はばたきをしているが、次第にそれが衰え、ついに何処かにしがみついたきりになる。

そんな翌朝、私は必ずその窓の下に、一枚の枯れ葉のようになったガの死骸を見つける。

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そんな翌朝、私はかならずその窓の下に、一枚の朽ち葉みたいになった蛾の死骸を見つける。

今夜もそんなガが一匹、とうとう部屋の中へ飛びこんできて、私が向かっている明かりのまわりを、さっきから狂ったようにくるくる回っている。

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今夜もそんな蛾が一匹、とうとう部屋の中へ飛び込んで来て、私の向っている明りのまわりをさっきから物狂わしくくるくると廻っている。

やがてばさりと音を立てて、私の紙の上に落ちる。

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やがてばさりと音を立てて私の紙の上に落ちる。

そしていつまでもそのまま動かずにいる。

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そしていつまでもそのまま動かずにいる。

それからまた、自分が生きていることをやっと思い出したように、急に飛び立つ。

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それからまた自分の生きていることをっと思い出したように、急に飛び立つ。

自分でも、もう何をしているのか分からずにいるとしか見えない。

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自分でももう何をしているのだか分らずにいるのだとしか見えない。

やがてまた、私の紙の上にばさりと音を立てて落ちる。

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やがてまた、私の紙の上にばさりと音を立てて落ちる。

私は、何か不思議な恐れから、そのガを追い払おうとせず、かえっていかにも無関心そうに、自分の紙の上でそれが死ぬままにさせておく。

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私は異様な怖れからその蛾をいのけようともしないで、かえってさも無関心そうに、自分の紙の上でそれが死ぬままにさせて置く。

十二月五日

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十二月五日

夕方、私たちは二人きりでいた。

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夕方、私達は二人きりでいた。

付き添いの看護婦は、たったいま食事に行った。

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附添看護婦はいましがた食事に行った。

冬の日は、もう西の山の稜線に沈みかけていた。

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冬の日は既に西方の山の背にはいりかけていた。

そしてその傾いた日ざしが、だんだん底冷えのしてきた部屋の中を、急に明るくさせていた。

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そしてその傾いた日ざしが、だんだん底冷えのしだした部屋の中を急に明るくさせ出した。

私は病人の枕もとで、ヒーターに足をのせながら、手にした本の上に身をかがめていた。

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私は病人の枕もとで、ヒイタアに足を載せながら、手にした本の上に身をかがめていた。

そのとき病人が不意に、

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そのとき病人が不意に、

「あら、お父様」

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「あら、お父様」

とかすかに叫んだ。

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とかすかに叫んだ。

私は思わずぎくりとしながら、彼女の方へ顔を上げた。

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私は思わずぎくりとしながら彼女の方へ顔を上げた。

私は、彼女の目がいつになく輝いているのに気づいた。――

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私は彼女の目がいつになくかがやいているのを認めた。――

でも私は、さりげなく、今の小さな叫びが耳に入らなかったふりをして、

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しかし私はさりげなさそうに、今の小さな叫びが耳にはいらなかったらしい様子をしながら、

「いま何か言ったかい?」

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「いま何か言ったかい?」

と聞いてみた。

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いて見た。

彼女はしばらく返事をしなかった。

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彼女はしばらく返事をしないでいた。

でも、その目はいっそう輝いてくるように見えた。

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が、その目は一層赫き出しそうに見えた。

「あの低い山の左の端に、少し日のあたっているところがあるでしょう?」

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「あの低い山の左の端に、すこうし日のあたった所があるでしょう?」

彼女はやっと思い切ったようにベッドから手でその方をちょっと指した。それから何だか言いにくそうな言葉を、無理にそこから引き出すかのように、その指先を今度は自分の口へあてがいながら、「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、この時間になるといつもできるのよ。……ほら、ちょうど今できているのが分からない?」

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彼女はやっと思い切ったようにベッドから手でその方をちょっと指して、それから何んだか言いにくそうな言葉を無理にそこから引出しでもするように、その指先きを今度は自分の口へあてがいながら、「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、いま時分になると、いつも出来るのよ。……ほら、丁度いま出来ているのが分らない?」

その低い山が彼女の言っている山らしいことは、その指先をたどって私にもすぐ分かった。でも、そのあたりには、斜めに差す日の光がくっきりと浮き立たせている山のひだしか、私には見えなかった。

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その低い山が彼女の言っている山であるらしいのは、その指先きを辿たどりながら私にもすぐ分ったが、唯そこいらへんには斜めな日の光がくっきりと浮き立たせている山襞やまひだしか私には認められなかった。

「もう消えていくわ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」

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「もう消えて行くわ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」

そのとき、ようやく私も、その父の額らしい山のひだを見つけることができた。

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そのときっと私はその父の額らしい山襞を認めることが出来た。

それは私に、父のがっしりとした額を思い出させた。

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それは父のがっしりとした額を私にも思い出させた。

「こんな影にまで、こいつは心の中で父を求めていたのだろうか? ああ、こいつはまだ全身で父を感じている、父を呼んでいる……」

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「こんな影にまで、こいつは心のうちで父を求めていたのだろうか? ああ、こいつはまだ全身で父を感じている、父を呼んでいる……」

でも、一瞬あとには、闇がその低い山をすっかり満たしてしまった。

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が、一瞬間の後には、やみがその低い山をすっかり満たしてしまった。

そしてすべての影は消えてしまった。

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そしてすべての影は消えてしまった。

「お前、家へ帰りたいのだろう?」

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「お前、家へ帰りたいのだろう?」

私は、ふと心に浮かんだ最初の言葉を、思わず口に出した。

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私はついと心に浮んだ最初の言葉を思わずも口に出した。

そのあとすぐ、私は不安そうに節子の目を求めた。

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そのあとですぐ私は不安そうに節子の目を求めた。

彼女は、ほとんどそっけないような目つきで私を見つめ返していた。でも、急にその目をそらしながら、

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彼女は殆どすげないような目つきで私を見つめ返していたが、急にその目を反らせながら、

「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」

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「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」

と、聞こえるか聞こえないかくらいの、かすれた声で言った。

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と聞えるか聞えない位な、かすれた声で言った。

私は唇をかんだまま、目立たないようにベッドのそばを離れ、窓ぎわの方へ歩み寄った。

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私はくちびるを噛んだまま、目立たないようにベッドの側を離れて、窓ぎわの方へ歩み寄った。

私の背後で、彼女が少し震える声で言った。

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私の背後で彼女が少し顫声ふるえごえで言った。

「ごめんなさいね。……でも、いまほんの少しのあいだだけだわ。……こんな気持ち、すぐに直るわ……」

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「御免なさいね。……だけど、いま一寸の間だけだわ。……こんな気持、じきに直るわ……」

私は窓のところに両手を組んだまま、言葉もなく立っていた。

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私は窓のところに両手を組んだまま、言葉もなく立っていた。

山々のふもとには、もう闇がたまっていた。

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山々のふもとにはもうやみが塊まっていた。

でも、山の頂きには、まだかすかに光が漂っていた。

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しかし山頂にはまだかすかに光が漂っていた。

突然、のどをしめつけられるような恐怖が、私を襲ってきた。

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突然のどをしめつけられるような恐怖が私を襲ってきた。

私はいきなり病人の方をふり向いた。

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私はいきなり病人の方をふり向いた。

彼女は両手で顔を押さえていた。

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彼女は両手で顔を押さえていた。

急に何もかもが自分たちから失われていってしまいそうな、不安な気持ちでいっぱいになりながら、私はベッドに駆け寄って、その手を彼女の顔から無理に離させた。

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急に何もかもが自分達から失われて行ってしまいそうな、不安な気持で一ぱいになりながら、私はベッドに駈けよって、その手を彼女の顔から無理に除けた。

彼女は私に逆らおうとしなかった。

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彼女は私にあらがおうとしなかった。

高い額、もう静かな光さえたたえている目、引きしまった口もと――どれ一つ、いつもと変わってはいなかった。それでいて、いつもよりもっともっと、近づきがたいもののように私には思われた。……

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高いほどな額、もう静かな光さえ見せている目、引きしまった口もと、――何一ついつもと少しも変っていず、いつもよりかもっともっと犯し難いように私には思われた。……

そうして私は、何でもないのにそんなにおびえきっている自分自身を、かえって子どものように感じずにはいられなかった。

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そうして私は何んでもないのにそんなにおびえ切っている私自身を反って子供のように感ぜずにはいられなかった。

私はそれから急に力が抜けたようになって、がっくりとひざをつき、ベッドの端に顔をうずめた。

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私はそれから急に力が抜けてしまったようになって、がっくりと膝を突いて、ベッドの縁に顔を埋めた。

そうしてそのまま、いつまでもぴったりとそれに顔を押しつけていた。

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そうしてそのままいつまでもぴったりとそれに顔を押しつけていた。

病人の手が、私の髪の毛を軽くなでているのを感じながら……

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病人の手が私の髪の毛を軽く撫でているのを感じ出しながら……

部屋の中まで、もう薄暗くなっていた。

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部屋の中までもう薄暗くなっていた。

死のかげの谷

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死のかげの谷

一九三六年十二月一日 K・・村にて

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一九三六年十二月一日 K・・村にて

ほとんど三年半ぶりに見るこの村は、もうすっかり雪に埋まっていた。

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殆ど三年半ぶりで見るこの村は、もうすっかり雪に埋まっていた。

一週間ほど前から雪が降り続いていて、今朝やっとそれがやんだのだそうだ。

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一週間ばかりも前から雪がふりつづいていて、けさっとそれがんだのだそうだ。

炊事の世話を頼んだ村の若い娘と、その弟が、男の子用らしい小さなそりに私の荷物をのせて、これからこの冬をそこで過ごそうとしている山小屋まで、引き上げていってくれた。

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炊事の世話を頼んだ村の若い娘とその弟が、その男の子のらしい小さなそりに私の荷物を載せて、これからこの冬を其処で私の過ごそうという山小屋まで、引き上げて行ってくれた。

そのそりのあとについていきながら、途中で何度も私は滑りそうになった。

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その橇のあとに附いてゆきながら、途中で何度も私は滑りそうになった。

それほどもう、谷かげの雪はかちかちに凍りついていた。……

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それほどもう谷かげの雪はこちこちにみついてしまっていた。……

私が借りた小屋は、その村から少し北に入った、ある小さな谷にあった。そのあたりにも、昔から外国人たちの別荘があちこちに立っていて――どうやら、それらの別荘の一番はずれにあたるらしかった。

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私の借りた小屋は、その村からすこし北へはいった、或小さな谷にあって、そこいらにも古くから外人たちの別荘があちこちに立っている、――なんでもそれらの別荘の一番はずれになっている筈だった。

そこへ夏を過ごしに来る外国人たちは、この谷を「幸福の谷」と呼んでいるとか。

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其処に夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか。

こんな人けの絶えた、寂しい谷の、いったいどこが「幸福の谷」なのだろう。私は今はどれもこれも雪に埋もれたまま見捨てられているそんな別荘を、一つ一つ見過ごしながら、その谷を二人のあとから遅れがちに登っていくうちに、ふと、それとは正反対の谷の名前が、思わず自分の口をつきそうになった。

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こんな人けの絶えた、淋しい谷の、一体どこが幸福の谷なのだろう、と私は今はどれもこれも雪に埋もれたまんま見棄てられているそう云う別荘を一つ一つ見過ごしながら、その谷を二人のあとから遅れがちに登って行くうちに、ふいとそれとは正反対の谷の名前さえ自分の口をいて出そうになった。

私はそれを何かためらうように、ちょっと引っこめかけたが、また気を変えて、とうとう口に出した。

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私はそれを何かためらいでもするようにちょっと引っ込めかけたが、再び気を変えてとうとう口に出した。

「死のかげの谷」。……

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死のかげの谷。……

そう、よっぽどそう言った方が、この谷には似合いそうだな。少なくとも、こんな冬の真っ最中、こんなところで寂しい独り暮らしをしようとしているおれにとっては。――

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そう、よっぽどそう云った方がこの谷には似合いそうだな、少くともこんな冬のさなか、こういうところで寂しい鰥暮やもめぐらしをしようとしているおれにとっては。――

そんなことを考えながら、ようやく私が借りる一番奥の小屋の前までたどり着いてみると、申しわけ程度に小さなベランダのついた、その木の皮ぶきの小屋のまわりには、それを取り囲んだ雪の上に、何だか見慣れない足跡がいっぱい残っていた。

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と、そんな事を考え考え、漸っと私の借りる一番最後の小屋の前まで辿り着いてみると、申しわけのように小さなヴェランダの附いた、その木皮葺きはだぶきの小屋のまわりには、それを取囲んだ雪の上になんだか得体の知れない足跡が一ぱい残っている。

姉娘が、閉め切られたその小屋の中へ先に入って雨戸を開けているあいだ、私は小さな弟から、「これはうさぎ」「これはりす」「それからこれはきじ」と、それらの見慣れない足跡を一つ一つ教えてもらっていた。

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姉娘がその締め切られた小屋の中へ先きにはいって雨戸などを明けている間、私はその小さな弟からこれは兎これは栗鼠りす、それからこれは雉子きじと、それらの異様な足跡を一々教えて貰っていた。

それから私は、半分雪に埋もれたベランダに立って、周りを眺め回した。

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それから私は、半ば雪に埋もれたヴェランダに立って、周囲を眺めまわした。

私たちがいま登ってきた谷あいは、そこから見下ろすと、いかにも整った小ぢんまりとした谷の一部になっている。

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私達がいま上って来た谷陰は、そこから見下ろすと、いかにも恰好かっこうのよい小ぢんまりとした谷の一部分になっている。

ああ、たったいま、あのそりに乗って一人だけ先に帰っていったあの小さな弟の姿が、裸になった木々のあいだに見え隠れしている。

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ああ、いましがた例の橇に乗って一人だけ先きに帰っていった、あの小さな弟の姿が、裸の木と木との間から見え隠れしている。

そのかわいらしい姿がとうとう下の枯れ木林の中に消えるまで見送りながら、その谷間をひととおり見終えたころ、どうやら小屋の中も片づいたらしかったので、私は初めてその中に入っていった。

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その可哀らしい姿がとうとう下方の枯木林の中に消えてしまうまで見送りながら、一わたりその谷間を見畢みおわった時分、どうやら小屋の中も片づいたらしいので、私ははじめてその中にはいって行った。

壁まですっかり杉の皮が張りつめてあって、天井もないような、思ったより粗末な作りだったが、悪い感じではなかった。

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壁まですっかり杉皮が張りつめられてあって、天井も何もない程の、思ったよりも粗末な作りだが、悪い感じではなかった。

すぐ二階にも上ってみたが、寝台からイスまで、何もかも二人分あった。

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すぐ二階にも上って見たが、寝台から椅子と何から何まで二人分ある。

ちょうど、お前と私のためのように。――

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丁度お前と私とのためのように。――

そういえば、本当にこういう山小屋で、お前と二人きりの寂しさで暮らすことを、昔の私はどんなに夢見ていたことだろう!……

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そう云えば、本当にこう云ったような山小屋で、お前と差し向いの寂しさで暮らすことを、昔の私はどんなに夢見ていたことか!……

夕方、食事の支度ができると、私はそのまますぐ村の娘を帰らせた。

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夕方、食事の支度が出来ると、私はそのまますぐ村の娘を帰らせた。

それから私は一人で、暖炉のそばに大きな机を引き寄せて、その上で、書き物から食事まですべてをすませることにした。

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それから私は一人で煖炉だんろの傍に大きな卓子を引き寄せて、その上で書きものから食事一切をすることに極めた。

そのとき、ふと頭の上にかかっているカレンダーが、まだ九月のままになっているのに気づいた。それを立ち上がって外し、今日の日付のところに印をつけておいてから、さて、私は実に一年ぶりでこの手帳を開いた。

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その時ひょいと頭の上に掛かっている暦がいまだに九月のままになっているのに気がついて、それを立ち上がってがすと、きょうの日附のところに印をつけて置いてから、さて、私は実に一年ぶりでこの手帳を開いた。

十二月二日

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十二月二日

どこか北の方の山が、しきりに吹雪いているらしい。

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どこか北の方の山がしきりに吹雪いているらしい。

昨日は手に取るように見えていた浅間山も、今日はすっかり雪雲におおわれ、その奥でさかんに荒れているらしく、この山のふもとの村までその巻き添えを食い、ときどき日が明るく差しながら、ちらちらと絶えず雪が舞っている。

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きのうなどは手に取るように見えていた浅間山も、きょうはすっかり雪雲におおわれ、その奥でさかんに荒れていると見え、この山麓さんろくの村までその巻添えを食らって、ときどき日が明るく射しながら、ちらちらと絶えず雪が舞っている。

ふとしたはずみでそんな雪の端が谷の上にかかると、その谷をへだてて、ずっと南に連なる山々のあたりにはくっきりと青空が見えるのに、谷全体は暗くなり、しばらく激しく吹雪く。

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どうかして不意にそんな雪の端が谷の上にかかりでもすると、その谷を隔てて、ずっと南に連った山々のあたりにはくっきりと青空が見えながら、谷全体がかげって、ひとしきり猛烈に吹雪く。

かと思うと、またぱあっと日があたっている。……

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と思うと、又ぱあっと日があたっている。……

そんな谷の絶えず変わる景色を、窓のところへ行ってちょっと眺めては、またすぐ暖炉のそばに戻ってきたりした。そのせいか、私は何となく落ち着かない気持ちで一日じゅうを過ごした。

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そんな谷の絶えず変化する光景を窓のところに行ってちょっと眺めやっては、又すぐ煖炉だんろの傍に戻って来たりして、そのせいでか、私はなんとなく落着かない気持で一日じゅうを過ごした。

昼ごろ、風呂敷包みを背負った村の娘が、足袋はだしで雪の中をやって来てくれた。

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昼頃、風呂敷包を背負った村の娘が足袋跣たびはだしで雪の中をやって来てくれた。

手から顔まで、しもやけをしているような娘だったが、素直そうで、無口なのが何よりも私には都合がよかった。

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手から顔まで霜焼けのしているような娘だが、素直そうで、それに無口なのが何よりも私には工合が好い。

また昨日と同じように食事の用意だけさせておいて、すぐに帰らせた。

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又きのうのように食事の用意だけさせて置いて、すぐに帰らせた。

それから私は、もう一日が終わってしまったかのように、暖炉のそばから離れず、何もせずぼんやりと、たきぎがひとりでに起きる風にあおられながら、ぱちぱちと音を立てて燃えるのを見守っていた。

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それから私はもう一日が終ってしまったかのように、煖炉の傍から離れないで、何もせずにぼんやりと、焚木たきぎがひとりでに起る風にあおられつつぱちぱちと音を立てながら燃えるのを見守っていた。

そのまま夜になった。

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そのまま夜になった。

一人で冷たい食事をすませてしまうと、私の気持ちもいくぶん落ち着いてきた。

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一人で冷めたい食事をすませてしまうと、私の気持もいくぶん落着いてきた。

雪は大したことにならずにやんだようだったが、そのかわり風が出始めていた。

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雪は大した事にならずに止んだようだが、そのかわり風が出はじめていた。

火が少しでも弱まって音を静めると、その合間に、谷の外側でそんな風が枯れ木林から音を引きちぎっているらしいのが、急に近く聞こえてきたりした。

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火が少しでも衰えて音をしずめると、その隙々に、谷の外側でそんな風が枯木林から音を引きいでいるらしいのが急に近ぢかと聞えて来たりした。

それから一時間ほどあと、私はなれない火に少しのぼせたようになって、外の空気にあたりに小屋を出た。

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それから一時間ばかり後、私は馴れない火にすこし逆上のぼせたようになって、外気にあたりに小屋を出た。

そうしてしばらく真っ暗な外を歩き回っていたが、やっと顔が冷えてきたので、また小屋に入ろうとしかけた。そのとき初めて、中から漏れてくる明かりで、いまもなお絶えず細かい雪が舞っているのに気づいた。

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そうしてしばらく真っ暗な戸外を歩き廻っていたが、やっと顔が冷え冷えとしてきたので、再び小屋にはいろうとしかけながら、その時はじめて中から洩れてくる明りで、いまもなお絶えず細かい雪が舞っているのに気がついた。

私は小屋に入ると、少し濡れた体を乾かしに、また火のそばに寄っていった。

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私は小屋にはいると、すこし濡れた体を乾かしに、再び火の傍に寄って行った。

でも、そうやってまた火にあたっているうちに、いつのまにか体を乾かしていることも忘れたようにぼんやりとなり、自分の中にある思い出をよみがえらせていた。

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が、そうやって又火にあたっているうちに、いつしか体を乾かしている事も忘れたようにぼんやりとして、自分のうちに或る追憶をよみがえらせていた。

それは、去年の今ごろ、私たちがいた山のサナトリウムのまわりに、ちょうど今夜のような雪の舞う夜ふけのことだった。

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それは去年のいま頃、私達のいた山のサナトリウムのまわりに、丁度今夜のような雪の舞っている夜ふけのことだった。

私は何度もそのサナトリウムの入口に立っては、電報で呼び寄せたお前の父の来るのを待ちきれないでいた。

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私は何度もそのサナトリウムの入口に立っては、電報で呼び寄せたお前の父の来るのを待ち切れなさそうにしていた。

やっと真夜中近くになって、父は着いた。

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やっと真夜中近くになって父は着いた。

でもお前は、そんな父をちらりと見ながら、唇のまわりにふと、笑顔ともつかないようなものを浮かべただけだった。

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しかしお前はそういう父をちらりと見ながら、くちびるのまわりにふと微笑ともつかないようなものを漂わせたきりだった。

父は何も言わずに、そんなお前の、すっかりやつれきった顔をじっと見守っていた。

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父は何も云わずにそんなお前の憔悴しょうすいし切った顔をじっと見守っていた。

そしてときおり、私の方へいかにも不安そうな目を向けた。

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そうしてはときおり私の方へいかにも不安そうな目を向けた。

でも私は、それには気づかないふりをして、ただ、お前の方ばかりを見るともなく見やっていた。

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が、私はそれには気がつかないようなふりをして、唯、お前の方ばかりを見るともなしに見やっていた。

そのうち突然、お前が何か口ごもったような気がしたので、私がお前のそばに寄っていくと、ほとんど聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、「あなたの髪に雪がついているの……」

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そのうちに突然お前が何か口ごもったような気がしたので、私がお前の傍に寄ってゆくと、殆ど聞えるか聞えない位の小さな声で、「あなたの髪に雪がついているの……」

とお前は私に向かって言った。――

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とお前は私に向って云った。――

いま、こうして一人きりで火のそばにうずくまりながら、ふとよみがえったそんな思い出に誘われるようにして、私が何気なく自分の手を髪に持っていってみると、それはまだ濡れるともなく濡れていて、冷たかった。

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いま、こうやって一人きりで火の傍にうずくまりながら、ふいと蘇ったそんな思い出に誘われるようにして、私が何んの気なしに自分の手を頭髪に持っていって見ると、それはまだ濡れるともなく濡れていて、冷めたかった。

私はそうやって見るまで、それにはまったく気づかずにいた。……

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私はそうやって見るまで、それには少しも気がつかずにいた。……

十二月五日

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十二月五日

この数日、言いようもないほどよい天気だ。

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この数日、云いようもないほどよい天気だ。

朝のうちは、ベランダいっぱいに日が差しこんでいて、風もなく、とても暖かい。

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朝のうちはヴェランダ一ぱいに日が射し込んでいて、風もなく、とても温かだ。

今朝などは、とうとうそのベランダに小さな机とイスを持ち出して、まだ一面に雪に埋もれた谷を前にしながら、朝食を始めたほどだ。

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けさなどはとうとうそのヴェランダに小さな卓や椅子を持ち出して、まだ一面に雪に埋もれた谷を前にしながら、朝食をはじめた位だ。

本当にこうして一人きりでいるのは、何だかもったいないようだと思いながら朝食に向かっているうち、ふとすぐ目の前の枯れた低木の根もとへ目をやると、いつのまにかきじが来ている。

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本当にこうして一人っきりでいるのはなんだか勿体もったいないようだ、と思いながら朝食に向っているうち、ひょいとすぐ目の前の枯れた灌木かんぼくの根もとへ目をやると、いつのまにか雉子きじが来ている。

それも二羽、雪の中で餌をあさりながら、ごそごそと歩き回っている……

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それも二羽、雪の中に餌をあさりながら、ごそごそと歩きまわっている……

「おい、来てごらん、きじが来ているぞ」

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「おい、来て御覧、雉子が来ているぞ」

私は、まるでお前が小屋の中にいるかのように思い浮かべ、声を低めてそう独り言を言いながら、じっと息をつめてそのきじを見守っていた。

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私はあたかもお前が小屋の中に居でもするかのように想像して、声を低めてそう一人ごちながら、じっと息をつめてその雉子を見守っていた。

お前がうっかり足音でも立てはしまいかと、それまで気にかけながら……

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お前がうっかり足音でも立てはしまいかと、それまで気づかいながら……

その途端、どこかの小屋で、屋根の雪が谷じゅうに響きわたるようなどっという音を立てながら雪崩れ落ちた。

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その途端、どこかの小屋で、屋根の雪がどおっと谷じゅうに響きわたるような音を立てながら雪崩なだれ落ちた。

私は思わずどきりとしながら、まるで自分の足もとからのように二羽のきじが飛び立っていくのを、あっけにとられて見ていた。

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私は思わずどきりとしながら、まるで自分の足もとからのように二羽の雉子が飛び立ってゆくのを呆気にとられて見ていた。

そのとき、ほとんど同時に、私は自分のすぐそばに立ったまま、お前がそういうときの癖で、何も言わずに、ただ大きく目を見開いて私をじっと見つめているのを、苦しいほどまざまざと感じた。

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そのとき殆ど同時に、私は自分のすぐ傍に立ったまま、お前がそういう時の癖で、何も言わずに、ただ大きく目をみはりながら私をじっと見つめているのを、苦しいほどまざまざと感じた。

午後、私は初めて谷の小屋を下りて、雪に埋もれた村を一回りした。

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午後、私ははじめて谷の小屋を下りて、雪の中に埋まった村を一周りした。

夏から秋にかけてしかこの村を知らない私には、いま一面に雪をかぶっている森や道、釘づけになった小屋が、どれもこれも見覚えがありそうでいて、どうしてもその前の姿を思い出せなかった。

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夏から秋にかけてしかこの村を知っていない私には、いま一様に雪をかぶっている森だの、道だの、釘づけになった小屋だのが、どれもこれも見覚えがありそうでいて、どうしてもその以前の姿を思い出されなかった。

昔、私が好んで歩き回っていた「水車の道」に沿って、いつのまにか私の知らないあいだに、小さなカトリック教会さえできていた。

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昔、私が好んで歩きまわった水車の道に沿って、いつか私の知らない間に、小さなカトリック教会さえ出来ていた。

しかも、その美しい白木造りの教会は、雪をかぶったとがった屋根の下から、もう黒ずみかけた壁板まで見せていた。

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しかもその美しい素木造しらきづくりの教会は、その雪をかぶったとがった屋根の下から、すでにもう黒ずみかけた壁板すらも見せていた。

それが、いっそうそのあたり一帯を、私に何か見知らないもののように思わせた。

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それが一層そのあたり一帯を私に何か見知らないように思わせ出した。

それから私は、よくお前と一緒に歩いたことのある森の中へも、まだかなり深い雪をかき分けながら入っていってみた。

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それから私はよくお前と連れ立って歩いたことのある森の中へも、まだかなり深い雪を分けながらはいって行って見た。

やがて私は、どうやら見覚えのあるような気がする一本のもみの木に気づいた。

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やがて私は、どうやら見覚えのあるような気のする一本のもみの木を認め出した。

でも、ようやくそれに近づいてみると、そのもみの木の中から、ギャッと鋭い鳥の鳴き声がした。

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が、っとそれに近づいて見たら、その樅の中からギャッと鋭い鳥のごえがした。

私がその前に立ち止まると、一羽の、これまで見たこともないような、青みを帯びた鳥がちょっと驚いたように羽ばたいて飛び立った。でも、すぐ別の枝に移ると、かえって私に挑むように、また、ギャッ、ギャッと鳴き立てた。

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私がその前に立ち止まると、一羽の、ついぞ見かけたこともないような、青味を帯びた鳥がちょっとおどろいたように羽摶はばたいて飛び立ったが、すぐ他の枝に移ったままかえって私に挑みでもするように、再びギャッ、ギャッと啼き立てた。

私はそのもみの木からさえ、心ならずも立ち去った。

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私はその樅の木からさえ、心ならずも立ち去った。

十二月七日

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十二月七日

集会所のそばの、冬枯れした林の中で、私は突然、二声ほどかっこうが鳴き続けたのを聞いたような気がした。

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集会堂の傍らの、冬枯れた林の中で、私は突然二声ばかり郭公かっこうの啼きつづけたのを聞いたような気がした。

その鳴き声は、ひどく遠くでしたようにも、ひどく近くでしたようにも思えた。それで私は、そのあたりの枯れた藪や枯れ木の上、空の方まで見回した。でも、それきりその鳴き声は聞こえなかった。

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その啼き声はひどく遠くでしたようにも、又ひどく近くでしたようにも思われて、それが私をそこいらの枯藪かれやぶの中だの、枯木の上だの、空ざまを見まわせさせたが、それっきりその啼き声は聞えなかった。

それは、やはり自分の聞き違いだったようにも思えてきた。

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それは矢張りどうも自分の聞き違えだったように私にも思われて来た。

でも、それよりも先に、そのあたりの枯れ藪や枯れ木、空は、すっかり夏の懐かしい姿に立ち返って、私の中にはっきりとよみがえってきた。……

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が、それよりも先きに、そのあたりの枯藪だの、枯木だの、空だのは、すっかり夏の懐しい姿に立ち返って、私のうちに鮮かに蘇えり出した。……

けれども、そんな三年前の夏、この村で私が持っていたすべてのものが、もう失われていて、今の自分には何一つ残っていないことを、私が本当に知ったのも、それと同時だった。

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けれども、そんな三年前の夏の、この村で私の持っていたすべての物が既に失われて、いまの自分に何一つ残ってはいない事を、私が本当に知ったのもそれと一しょだった。

十二月十日

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十二月十日

この数日、どういうわけか、お前がちっとも生き生きと、私の中によみがえってこない。

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この数日、どういうものか、お前がちっとも生き生きと私によみがえって来ない。

そしてときどき、こうして一人でいることが、私にはほとんどたまらなく思われる。

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そうしてときどきこうして孤独でいるのが私には殆どたまらないように思われる。

朝など、暖炉に一度組み立てたまきがなかなか燃えつかず、しまいに私はいらいらして、それを乱暴にかき回そうとする。

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朝なんぞ、煖炉だんろに一度組み立てた薪がなかなか燃えつかず、しまいに私はれったくなって、それを荒あらしく引っ掻きまわそうとする。

そんなときだけ、ふと自分のそばに、心配そうにしているお前を感じる。――

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そんなときだけ、ふいと自分の傍らに気づかわしそうにしているお前を感じる。――

私はそれから、ようやく気を取り直して、そのまきを新しく組み直す。

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私はそれからっと気を取りなおして、その薪をあらたに組み変える。

また午後など、少し村でも歩いてこようと思って、谷を下りていくと、この頃は雪解けが進んでいるので、道がとても悪く、すぐ靴が泥で重くなり、歩きにくくてたまらない。そのため、たいてい途中から引き返してきてしまう。

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又午後など、すこし村でも歩いて来ようと思って、谷を下りてゆくと、この頃は雪解けがしている故、道がとても悪く、すぐ靴が泥で重くなり、歩きにくくてしようがないので、大抵途中から引っ返して来てしまう。

そうしてまだ雪の凍りついている谷までさしかかると、思わずほっとする。でも、今度はここから自分の小屋まで、ずっと息の切れるような上り道になる。

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そうしてまだ雪のみついている、谷までさしかかると、思わずほっとしながら、しかしこん度はこれから自分の小屋までずっと息の切れるような上り道になる。

そこで私は、ともすれば沈みそうになる自分の心を奮い立たせようと、「たとえ死の影の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださるから……」

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そこで私はともすれば滅入りそうな自分の心を引き立てようとして、「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも禍害わざはひをおそれじ、なんぢ我とともにいませばなり……」

と、そんなうろ覚えの詩篇(しへん・聖書の詩の書)の言葉まで思い出して、自分自身に言い聞かせてみた。でも、そんな言葉も、私にはただむなしく感じられるばかりだった。

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と、そんなうろ覚えに覚えている詩篇の文句なんぞまで思い出して自分自身に云ってきかせるが、そんな文句も私にはただ空虚に感ぜられるばかりだった。

十二月十二日

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十二月十二日

夕方、「水車の道」に沿った、あの小さな教会の前を私が通りかかると、そこの小使いらしい男が、雪どけの泥の上に、ていねいに石炭がらをまいていた。

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夕方、水車の道に沿った例の小さな教会の前を私が通りかかると、そこの小使らしい男が雪泥の上に丹念に石炭殻をいていた。

私はその男のそばに行って、冬でもずっとこの教会は開いているのですか、と何気なく聞いてみた。

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私はその男の傍に行って、冬でもずっとこの教会は開いているのですか、と何んという事もなしにいて見た。

「今年はもう二、三日のうちに閉めますそうで――」

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「今年はもう二三日うちに締めますそうで――」

とその小使いは、ちょっと石炭がらをまく手を休めながら答えた。

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とその小使はちょっと石炭殻を撒く手を休めながら答えた。

「去年はずっと冬じゅう開いておりましたが、今年は神父様が松本の方へお出かけになりますので……」

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「去年はずっと冬じゅう開いて居りましたが、今年は神父様が松本の方へおいでになりますので……」

「そんな冬でも、この村に信者はいるんですか?」

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「そんな冬でもこの村に信者はあるんですか?」

私は無遠慮に聞いた。

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と私は無躾ぶしつけに訊いた。

「ほとんどいらっしゃいませんが。……たいてい、神父様お一人で毎日のミサをなさいます」

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「殆ど入らっしゃいませんが。……大抵、神父様お一人で毎日のお弥撒ミサをなさいます」

私たちがそんな立ち話をしているところへ、ちょうど外出先から、そのドイツ人だという神父が帰ってきた。

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私達がそんな立ち話をし出しているところへ、丁度外出先からその独逸人ドイツじんだとかいう神父が帰って来た。

今度は私が、その日本語をまだ十分理解していない、でも人なつこそうな神父につかまり、あれこれと聞かれる番になった。

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こん度は私がその日本語をまだ充分理解しない、しかし人なつこそうな神父につかまって、何かと訊かれる番になった。

そうしてしまいには、何か聞き違えでもしたらしく、「明日の日曜のミサには必ず来なさい」と、私はしきりに勧められた。

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そうしてしまいには何か聞き違えでもしたらしく、明日の日曜の弥撒には是非来い、と私はしきりに勧められた。

十二月十三日、日曜日

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十二月十三日、日曜日

朝の九時ごろ、私は何を求めるでもなく、その教会へ行った。

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朝の九時頃、私は何を求めるでもなしにその教会へ行った。

小さなろうそくの火のともった祭壇の前で、もう神父が一人の助祭とともにミサを始めていた。

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小さな蝋燭ろうそくの火のともった祭壇の前で、もう神父が一人の助祭と共に弥撒をはじめていた。

信者でも何でもない私は、どうしたらいいか分からず、ただ、音を立てないようにして、一番後ろの方にあったわら製のイスに、そっと腰を下ろした。

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信者でもなんでもない私は、どうして好いか分からず、唯、音を立てないようにして、一番後ろの方にあったわらで出来た椅子にそのままそっと腰を下ろした。

でも、やっと中の薄暗さに目が慣れてくると、それまで誰もいないとばかり思っていた信者席の、一番前列の、柱の陰に、一人、黒ずくめの服装をした中年の婦人がうずくまっているのが目に入ってきた。

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が、やっと内のうす暗さに目が馴れてくると、それまで誰もいないものとばかり思っていた信者席の、一番前列の、柱のかげに一人黒ずくめのなりをした中年の婦人がうずくまっているのが目に入ってきた。

そして、その婦人がさっきからずっとひざまずき続けているらしいのに気づくと、私は急に、その教会の中がいかに寒々としているかを、身にしみて感じた。……

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そうしてその婦人がさっきからずっとひざまずき続けているらしいのに気がつくと、私は急にその会堂のなかのいかにも寒々としているのを身にしみて感じた。……

それからも、小一時間ほどミサは続いていた。

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それからも小一時間ばかり弥撒は続いていた。

その終わりかけたころ、その婦人がふとハンカチを取り出して、顔にあてたのに、私は気づいた。

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その終りかける頃、その婦人がふいと半巾ハンカチを取りだして顔にあてがったのを私は認めた。

でも、それが何のためかは、私には分からなかった。

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しかしそれは何んのためだか、私には分からなかった。

そのうちに、ようやくミサが終わったらしく、神父は信者席の方へはふり向かずに、そのままわきにあった小部屋の中へ一度引っこんでいった。

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そのうちに漸っと弥撒が済んだらしく、神父は信者席の方へは振り向かずに、そのまま脇にあった小室の中へ一度引っ込んで行った。

その婦人は、なおもまだじっと身動きもせずにいた。

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その婦人はなおもまだじっと身動きもせずにいた。

でも、そのあいだに、私だけはそっと教会から抜け出した。

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が、その間に、私だけはそっと教会から抜け出した。

それは、うす曇りの日だった。

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それはうす曇った日だった。

私はそれから雪解けのした村の中を、いつまでも何か満たされないような気持ちで、あてもなくさまよっていた。

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私はそれから雪解けのした村の中を、いつまでも何か充たされないような気持で、あてもなくさ迷っていた。

昔、お前とよく絵を描きに行った、真ん中に一本の白樺のくっきり立った原っぱにも行ってみた。まだ根もとだけ雪の残っている白樺の木に、懐かしそうに手をかけながら、その指先が凍えそうになるまで立っていた。

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昔、お前とよく絵を描きにいった、真ん中に一本の白樺のくっきりと立った原へも行って見て、まだその根もとだけ雪の残っている白樺の木に懐しそうに手をかけながら、その指先きがこごえそうになるまで、立っていた。

でも、私には、そのころのお前の姿さえ、ほとんどよみがえってこなかった。……

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しかし、私にはその頃のお前の姿さえ殆ど蘇って来なかった。……

とうとう私はそこも立ち去った。何とも言えない寂しい気持ちで、枯れ木のあいだを抜けながら、一気に谷を上って、小屋に戻ってきた。

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とうとう私は其処も立ち去って、何んともいうにいわれぬ寂しい思いで、枯木の間を抜けながら、一気に谷を昇って、小屋に戻って来た。

そうして、はあはあと息を切らしながら、思わずベランダの床板に腰を下ろしていると、そのとき不意に、そんなむしゃくしゃした私に寄り添ってくるお前が感じられた。

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そうしてはあはあと息を切らしながら、思わずヴェランダの床板に腰を下ろしていると、そのとき不意とそんなむしゃくしゃした私に寄り添ってくるお前が感じられた。

でも私は、それにも知らん顔をして、ぼんやりとほおづえをついていた。

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が、私はそれにも知らん顔をして、ぼんやりと頬杖をついていた。

それでいて、そんなお前を、これまでになく生き生きと――まるでお前の手が私の肩にさわっているのではないかと思えるくらい生き生きと、感じながら……

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その癖、そういうお前をこれまでになく生き生きと――まるでお前の手が私の肩にさわっていはしまいかと思われる位、生き生きと感じながら……

「もうお食事の支度ができておりますが――」

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「もうお食事の支度が出来て居りますが――」

小屋の中から、もうさっきから私の帰りを待っていたらしい村の娘が、そう私を食事に呼んだ。

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小屋の中から、もうさっきから私の帰りを待っていたらしい村の娘が、そう私を食事に呼んだ。

私はふと我に返った。このままもう少しそっとしておいてくれたらよかったのにと、いつになく浮かない顔をして、小屋の中に入っていった。

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私はふっとうつつに返りながら、このままもう少しそっとして置いて呉れたら好かりそうなものを、といつになく浮かない顔つきをして小屋の中にはいって行った。

そうして娘には一言も口をきかずに、いつものような一人きりの食事に向かった。

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そうして娘には一言も口をきかずに、いつものような一人きりの食事に向った。

夕方近く、私はなんだかまだいらいらしたような気分のまま、その娘を帰してしまった。でも、それからしばらくすると、そのことを少し後悔しながら、また何ということもなくベランダに出ていった。

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夕方近く、私はなんだかまだらしたような気分のままその娘を帰してしまったが、それから暫らくするとその事をいくぶん後悔し出しながら、再びなんと云う事もなしにヴェランダに出て行った。

そうして、またさっきのように(でも今度はお前なしに……)ぼんやりと、まだだいぶ雪の残っている谷間を見下ろしていると、ゆっくり枯れ木のあいだを抜けながら、誰かがその谷じゅうをあちこち見回しながら、だんだんこちらの方へ登ってくるのが見えた。

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そうしてまたさっきのように(しかしこん度はお前なしに……)ぼんやりとまだ大ぶ雪の残っている谷間を見下ろしていると、ゆっくり枯木の間を抜け抜け誰だかその谷じゅうをと見こう見しながら、だんだんこっちの方へ登って来るのが認められた。

どこへ来たのだろうと思いながら見続けていると、それは私の小屋を探しているらしい神父だった。

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何処へ来たのだろうと思いながら見続けていると、それは私の小屋を捜しているらしい神父だった。

十二月十四日

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十二月十四日

昨日の夕方、神父と約束をしたので、私は教会へ訪ねていった。

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きのう夕方、神父と約束をしたので、私は教会へ訪ねて行った。

明日教会を閉めて、すぐ松本へ発つとかいうことで、神父は私と話をしながらも、ときどき荷造りをしている小使いのところへ何か言いつけに立っていったりした。

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あす教会をとざして、すぐ松本へ立つとか云う事で、神父は私と話をしながらも、ときどき荷拵えをしている小使のところへ何か云いつけに立って行ったりした。

そしてこの村で一人の信者を得ようとしているのに、いまここを去るのはいかにも残念だと、繰り返し言っていた。

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そうしてこの村で一人の信者を得ようとしているのに、いま此処を立ち去るのはいかにも残念だと繰り返し言っていた。

私はすぐに、昨日教会で見かけた、やはりドイツ人らしい中年の婦人を思い浮かべた。

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私はすぐにきのう教会で見かけた、やはり独逸人らしい中年の婦人を思い浮べた。

そしてその婦人のことを神父に聞こうとしかけながら、そのときふと、これはまた神父が何か思い違えて、私自身のことを言っているのではないかという気もしてきた。……

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そうしてその婦人のことを神父に訊こうとしかけながら、その時ひょっくりこれはまた神父が何か思い違えて、私自身のことを言っているのではあるまいかと云う気もされ出した。……

そんなふうに、妙にかみ合わなくなった私たちの会話は、それからますます途切れがちだった。

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そう妙にちぐはぐになった私達の会話は、それからはますます途絶えがちだった。

そうして私たちは、いつのまにか黙り合ったまま、熱すぎるくらいの暖炉のそばで、窓ガラス越しに、小さな雲がちぎれちぎれになって飛ぶように過ぎていく、風の強そうな、でも冬らしく明るい空を眺めていた。

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そうして私達はいつか黙り合ったまま、熱過ぎるくらいの煖炉の傍で、窓硝子まどガラスごしに、小さな雲がちぎれちぎれになって飛ぶように過ぎる、風の強そうなしかし冬らしく明るい空を眺めていた。

「こんな美しい空は、こういう風のある寒い日でなければ見られませんですね」

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「こんな美しい空は、こういう風のある寒い日でなければ見られませんですね」

神父がいかにも何気なく口を開いた。

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神父がいかにも何気なさそうに口をきいた。

「本当に、こういう風のある、寒い日でなければ……」

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「本当に、こういう風のある、寒い日でなければ……」

私はおうむ返しに答えながら、神父が何気なく言ったその言葉だけは、妙に私の心にも触れてくるのを感じていた……

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と私は鸚鵡おうむがえしに返事をしながら、神父のいま何気なく言ったその言葉だけは妙に私の心にも触れてくるのを感じていた……

一時間ほどそうやって神父のところにいてから、私が小屋に帰ってみると、小さな小包が届いていた。

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一時間ばかりそうやって神父のところに居てから、私が小屋に帰って見ると、小さな小包が届いていた。

ずっと前から注文していたリルケの「鎮魂歌(レクイエム)」

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ずっと前から註文してあったリルケの「鎮魂歌レクヰエム

が、二、三冊の本と一緒に、いろいろな付箋(ふせん)がつけられ、あちこちへ回されながら、やっとのことでいま私のもとに届いたのだった。

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が二三冊の本と一しょに、いろんな附箋ふせんがつけられて、方々へ廻送されながら、やっとの事でいま私のもとに届いたのだった。

夜、すっかりもう寝る支度をしてから、私は暖炉のそばで、風の音をときどき気にしながら、リルケの「レクイエム」

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夜、すっかりもう寝るばかりに支度をして置いてから、私は煖炉だんろの傍で、風の音をときどき気にしながら、リルケの「レクヰエム」

を読み始めた。

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を読み始めた。

十二月十七日

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十二月十七日

また雪になった。

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又雪になった。

今朝からほとんど絶え間なく降り続いている。

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けさから殆ど小止みもなしに降りつづいている。

そうして、私が見ているあいだに、目の前の谷はまた真っ白になった。

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そうして私の見ている間に目の前の谷は再び真っ白になった。

こうして、いよいよ冬も深くなっていく。

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こうやっていよいよ冬も深くなるのだ。

今日も一日じゅう、私は暖炉のそばで過ごしながら、ときどき思い出したように窓ぎわに行って、雪の谷をぼんやりと見やっては、またすぐ暖炉に戻ってきて、リルケの「レクイエム」

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きょうも一日中、私は煖炉の傍らで暮らしながら、ときどき思い出したように窓ぎわに行って雪の谷をうつけたように見やっては、又すぐに煖炉に戻って来て、リルケの「レクヰエム」

に向かっていた。

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に向っていた。

いまだにお前を静かに死なせておこうとせず、お前を求めてやまなかった、自分のめめしい心に、何か後悔に似たものを激しく感じながら……

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未だにお前を静かに死なせておこうとはせずに、お前を求めてやまなかった、自分の女々しい心に何か後悔に似たものをはげしく感じながら……

私は死者たちを持っている。そして彼らを立ち去るがままにさせているが、

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私は死者達を持つてゐる、そして彼等を立ち去るが儘にさせてあるが、

彼らはうわさとは似つかず、とても確信に満ちていて、

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彼等が噂とは似つかず、非常に確信的で、

死んでいることにもすぐ慣れ、ひどく明るいらしいのに

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死んでゐる事にもすぐ慣れ、すこぶる快活であるらしいのに

驚いているくらいだ。

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驚いている位だ。

ただお前――お前だけは帰って

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只お前――お前だけは帰つて

来た。

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来た。

お前は私をかすめ、まわりをさまよい、何かに

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お前は私を掠め、まはりをさ迷ひ、何物かに

ぶつかる。そしてそれが、お前のために音を立てて、

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き当る、そしてそれがお前のために音を立てて、

お前を裏切るのだ。

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お前を裏切るのだ。

おお、私が手間をかけて学び得たものを

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おお、私が手間をかけて学んで得た物を

私から取り除かないでくれ。

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私から取除けて呉れるな。

正しいのは私で、お前が間違っているのだ、

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正しいのは私で、お前が間違つてゐるのだ、

もしお前が、誰かのものに郷愁を感じているのだとしたら。

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もしかお前が誰かの事物に郷愁を催してゐるのだったら。

私たちはその物を目の前にしていても、

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我々はその事物を目の前にしてゐても、

それはここにあるのではない。

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それは此処に在るのではない。

私たちがそれを感じ取るのと同時に、

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我々がそれを知覚すると同時に

その物を、私たち自身の心に映し出しているだけなのだ。

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その事物を我々の存在から反映させてゐるきりなのだ。

十二月十八日

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十二月十八日

ようやく雪がやんだので、私はこういうときだとばかり、まだ行ったことのない裏の林を、奥へ奥へと入っていってみた。

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ようやく雪がんだので、私はこういう時だとばかり、まだ行ったことのない裏の林を、奥へ奥へとはいって行って見た。

ときどき、どこかの木からどおっと音を立ててひとりでに崩れ落ちる雪しぶきを浴びながら、私はいかにも楽しそうに、林から林へと抜けていった。

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ときどき何処かの木からどおっと音を立ててひとりでに崩れる雪の飛沫を浴びながら、私はさも面白そうに林から林へと抜けて行った。

もちろん、まだ誰も歩いた跡などはなく、ただ、ところどころにうさぎがそのあたりを跳ね回ったらしい跡が、一面についているだけだった。

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勿論、誰もまだ歩いた跡なんぞはなく、唯、ところどころに兎がそこいら中を跳ねまわったらしい跡が一めんに附いているきりだった。

また、ときどききじの足跡のようなものが、すっと道を横切っていた……

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又、どうかすると雉子きじの足跡のようなものがすうっと道を横切っていた……

でも、どこまで行ってもその林は尽きなかった。それに、雪雲らしいものがその林の上に広がってきたので、私はそれ以上奥へ入るのをあきらめ、途中から引き返してきた。

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しかし何処まで行っても、その林は尽きず、それにまた雪雲らしいものがその林の上に拡がり出してきたので、私はそれ以上奥へはいることを断念して途中から引っ返して来た。

でも、どうも道を間違えたらしく、いつのまにか私は自分自身の足跡さえ見失っていた。

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が、どうも道を間違えたらしく、いつのまにか私は自分自身の足跡をも見失っていた。

私はなんだか急に心細くなりながら雪をかき分けた。それでもかまわず、どんどん自分の小屋のありそうな方へ林を突っ切っていった。でも、そのうちいつからともなく、私は自分の背後に、確かに自分のではない、もう一つの足音がするような気がし始めていた。

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私はなんだか急に心細そうに雪を分けながら、それでも構わずにずんずん自分の小屋のありそうな方へ林を突切って来たが、そのうちにいつからともなく私は自分の背後に確かに自分のではない、もう一つの足音がするような気がし出していた。

それは、しかし、ほとんどあるかないかくらいの足音だった……

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それはしかし殆どあるかないか位の足音だった……

私はそれを一度もふり向こうとはせず、どんどん林を下りていった。

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私はそれを一度も振り向こうとはしないで、ずんずん林を下りて行った。

そうして私は、何か胸をしめつけられるような気持ちになりながら、昨日読み終えたリルケの「レクイエム」

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そうして私は何か胸をしめつけられるような気持になりながら、きのうえたリルケの「レクヰエム」

の最後の数行が、自分の口をついて出るがままに任せていた。

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の最後の数行が自分の口を衝いて出るがままに任せていた。

帰ってこないでくれ。

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帰つて入らつしやるな。

そしてもしお前に我慢できるなら、

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さうしてもしお前に我慢できたら、

死者たちのあいだで死んでいておくれ。

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死者達の間に死んでおいで

死者にも、たくさん仕事はある。

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死者にもたんと仕事はある。

けれども、私を助けてほしい。お前の気を散らさない程度で、

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けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、

たびたび、遠くにあるものが私を助けてくれるように――私の中で。

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屡々遠くのものが私に助力をしてくれるやうに――私の裡で。

十二月二十四日

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十二月二十四日

夜、村の娘の家に招かれて行き、寂しいクリスマスを過ごした。

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夜、村の娘の家にばれて行って、寂しいクリスマスを送った。

こんな冬は人けの絶えた山あいの村だけれど、夏には外国人がたくさん入りこんでくるような土地柄だからか、ふつうの村人の家でも、そんなまねごとをして楽しむものらしい。

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こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達が沢山はいり込んでくるような土地柄ゆえ、普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。

九時ごろ、私はその村から、雪明かりのした谷あいをひとりで帰ってきた。

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九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。

そうして最後の枯れ木林にさしかかりながら、私はふと、その道ばたで雪をかぶって一かたまりになっている枯れ藪の上に、どこからともなく、小さな光がかすかにぽつんと落ちているのに気づいた。

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そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪かれやぶの上に、何処からともなく、小さな光がかすかにぽつんと落ちているのに気がついた。

こんなところにこんな光が、どうして差しているのだろうといぶかりながら、そのどこか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見回してみると、明かりがついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上の方に見えるだけだった。……

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こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうといぶかりながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……

「おれはまあ、あんな谷の上に、一人きりで住んでいるのだなあ」

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「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」

私はそう思いながら、その谷をゆっくりと登り始めた。

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と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。

「そしてこれまでは、おれの小屋の明かりが、こんな下の方の林の中にまで差しこんでいるとは、ちっとも気づかずにいた。見てごらん……」

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「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」

私は自分自身に向かって言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、ほとんどこの谷じゅうをおおうように、雪の上に点々と小さな光が散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明かりなのだからな。……」

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と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうをおおうように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……」

ようやくその小屋まで登りつめると、私はそのままベランダに立ち、いったいこの小屋の明かりは谷のどのくらいを照らしているのか、もう一度見てみようとした。

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っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。

でも、そうやって見ると、その明かりは、小屋のまわりにほんのわずかな光を投げているだけだった。

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が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。

そしてそのわずかな光も、小屋を離れるにつれてだんだんかすかになりながら、谷間の雪明かりと一つになっていた。

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そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。

「なあんだ、あれほどたくさんに見えていた光が、ここで見ると、たったこれだけなのか」

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「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」

私はなんだか気が抜けたように独り言を言いながら、それでもまだぼんやりとその明かりの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮かんできた。

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と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。

「――でも、この明かりの影のぐあいなんて、まるでおれの人生にそっくりじゃないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんて、たったこれっぽっちだと思っている。でも本当は、このおれの小屋の明かりと同じように、おれの思っているよりも、もっともっとたくさんあるのだ。そうしてそれらが、おれの気づかないところで、こうして何気なくおれを生かしてくれているのかもしれない……」

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「――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっばかりだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」

そんな思いがけない考えが、私をいつまでも、その雪明かりのしている寒いベランダの上に立たせていた。

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そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。

十二月三十日

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十二月三十日

本当に静かな晩だ。

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本当に静かな晩だ。

私は今夜も、こんな考えがひとりでに心に浮かんでくるままにさせていた。

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私は今夜もこんなかんがえがひとりでに心に浮んで来るがままにさせていた。

「おれは、人並み以上に幸福でもなければ、また不幸でもないようだ。そんな幸福とか何とかいうことは、かつてはあれほどおれたちをやきもきさせていたけれど、もう今では、忘れようと思えばすっかり忘れていられるくらいだ。むしろ、そんなこの頃のおれの方が、よほど幸福な状態に近いのかもしれない。まあ、どちらかといえば、この頃のおれの心は、それに似ていて、それよりは少し悲しいだけ――そうかといって、まんざら楽しくないこともない。……こんなふうにおれが、いかにも何気なさそうに生きていられるのも、こうやってなるべく世間とは交わらずに、たった一人で暮らしているせいかもしれない。けれど、そんなことがこの意気地なしのおれにできているのは、本当にみんなお前のおかげだ。それなのに、節子、おれはこれまで一度も、自分がこうして一人で生きているのを、お前のためだなんて思ったことがない。それはどのみち、自分一人のために好き勝手なことをしているのだとしか、自分には思えない。ひょっとしたら、それもやはりお前のためにしているのだが、それがそのままで自分一人のためにしているように思われるほど、おれは自分にはもったいないほどのお前の愛に、慣れきってしまっているのだろうか? それほどまでに、お前はおれに何も求めずに、おれを愛してくれていたのだろうか? ……」

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「おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないようだ。そんな幸福だとか何んだとか云うような事は、つてはあれ程おれ達をやきもきさせていたっけが、もう今じゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。反ってそんなこの頃のおれの方が余っ程幸福の状態に近いのかも知れない。まあ、どっちかと云えば、この頃のおれの心は、それに似てそれよりは少し悲しそうなだけ、――そうかと云ってまんざらたのしげでないこともない。……こんな風におれがいかにも何気なさそうに生きていられるのも、それはおれがこうやって、なるたけ世間なんぞとは交じわらずに、たった一人で暮らしている所為せいかも知れないけれど、そんなことがこの意気地なしのおれに出来ていられるのは、本当にみんなお前のお蔭だ。それだのに、節子、おれはこれまで一度だっても、自分がこうして孤独で生きているのを、お前のためだなんぞとは思った事がない。それはどのみち自分一人のために好き勝手な事をしているのだとしか自分には思えない。或はひょっとしたら、それも矢っ張お前のためにはしているのだが、それがそのままでもって自分一人のためにしているように自分に思われる程、おれはおれには勿体もったいないほどのお前の愛に慣れ切ってしまっているのだろうか? それ程、お前はおれには何んにも求めずに、おれを愛していて呉れたのだろうか? ……」

そんなことを考え続けているうちに、私はふと何か思い立ったように立ち上がり、小屋の外へ出ていった。

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そんな事を考え続けているうちに、私はふと何か思い立ったように立ち上りながら、小屋のそとへ出て行った。

そしていつものようにベランダに立つと、ちょうどこの谷と背中合わせになっているかと思われるあたりで、風がしきりにざわめいているのが、ずいぶん遠くからのように聞こえてくる。

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そうしていつものようにヴェランダに立つと、丁度この谷と背中合せになっているかと思われるようなあたりでもって、風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように聞えて来る。

それから私はそのままベランダに、まるでその遠くの風の音をわざわざ聞きにきたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。

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それから私はそのままヴェランダに、あたかもそんな遠くでしている風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。

私の前に横たわっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明かりにうっすらと明るんだまま、一かたまりにしか見えなかった。でも、そうやってしばらく見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れてきたのか、それとも私が知らず知らず自分の記憶でそれを補っていたのか、いつのまにか一つ一つの線や形が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

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私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れて来たのか、それとも私がらずらずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形をおもむろに浮き上がらせていた。

それほど、私にはその何もかもが親しいものになっている、この人々の言う「幸福の谷」――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だって人々と一緒になってそう呼んでもいいような気さえする。……でも、ここだけは、谷の向こう側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かなことだ。

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それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々のうところの幸福の谷――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。

まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で、何かが小さな音をきしませているようだけれど、あれはおそらく、その遠くからやっと届いた風のために、枯れきった木の枝と枝が触れ合っているのだろう。

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まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で何かが小さな音をしらせているようだけれど、あれは恐らくそんな遠くからやっと届いた風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。

また、ときどきそんな風の名残らしいものが、私の足もとでも、二つ三つの落ち葉を他の落ち葉の上に、さらさらと弱い音を立てながら動かしている……。

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又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。