美しい村 小学生向け
堀辰雄(ほりたつお)・1951年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
空(そら)を包むうすい明かりに、やさしくあいさつをしようとして、
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天の灝気の薄明に優しく会釈をしようとして、
命(いのち)の脈(みゃく)が、また新しく元気に打っている。
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命の脈が又新しく活溌に打っている。
こら。
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こら。
下界(げかい)よ。
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下界。
お前は、ゆうべも自分の仕事をなまけなかった。
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お前はゆうべも職を曠うしなかった。
そして今朝(けさ)、つかれが治って、おれの足もとで息をしている。
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そしてけさ疲が直って、己の足の下で息をしている。
もう、よろこびがおれを取り巻きはじめる。
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もう快楽を以て己を取り巻きはじめる。
たえず、いちばん高いものを目指して、
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断えず最高の存在へと志ざして、
力強い決心(けっしん)を働かせているのだなあ。
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力強い決心を働かせているなあ。
ファウスト第二部
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ファウスト第二部
序曲
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序曲
六月十日 K…村にて
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六月十日 K…村にて
ごぶさたしております。
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御無沙汰をいたしました。
今月(こんげつ)の初めから、僕(ぼく)はこの土地(とち)に滞在(たいざい)しています。
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今月の初めから僕は当地に滞在しております。
僕は前から、こんな初夏(しょか)に一度、この高原(こうげん)の村に来てみたいと言っていました。やっと今度、その願いがかなったのです。
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前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣です。
まだ誰も来ていないので、たしかに淋しい(さびしい)ことは淋しいです。けれど毎日、気持ちのよい朝と夕方を過ごしています。
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まだ誰も来ていないので、淋しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。
しかし、淋しいと言っても、三年前でしたか、僕が病気になって、十月ごろまでずっとひとりでここに滞在していたことがありましたね。あの時のような、山の中の秋の初めの淋しさとは、まるで違うように思えます。
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しかし淋しいとは言っても、三年前でしたか、僕が病気をして十月ごろまでずっと一人で滞在していたことがありましたね、あの時のような山の中の秋ぐちの淋しさとはまるで違うように思えます。
あのときは、籐(とう)のつえにすがるようにして、宿屋の裏の山道などへ散歩に行きました。一日ごとに、そこらを埋めている落ち葉の量が増えていきました。その落ち葉の間から、ときどき気味の悪い色をしたきのこがちらりと見えたり、あるいはその上を赤腹(あかはら・人をばかにしたような感じの小鳥です)が、いかにもなまけ者らしく飛びまわっているだけで、ほとんど人の気配はありませんでした。それでいて、何だかそこら中に、人々が立ち去ったあとにいつまでもただよっている、ある種のにおいのようなもの――とくにその年の夏がひときわ華やかで美しかっただけ、それだけ、季節が過ぎたあとの何とも言えないさびしさのようなもの、いわば凋落(ちょうらく・おとろえてしぼんでいくこと)の感じのようなものが、僕自身が病み上がりだった
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あのときは籐のステッキにすがるようにして、宿屋の裏の山径などへ散歩に行くと、一日毎に、そこいらを埋めている落葉の量が増える一方で、それらの落葉の間からはときどき無気味な色をした茸がちらりと覗いていたり、或はその上を赤腹(あのなんだか人を莫迦にしたような小鳥です)なんぞがいかにも横着そうに飛びまわっているきりで、ほとんど人気は無いのですが、それでいて何だかそこら中に、人々の立去った跡にいつまでも漂っている一種のにおいのようなもの、――ことにその年の夏が一きわ花やかで美しかっただけ、それだけその季節の過ぎてからの何とも言えぬ佗びしさのようなものが、いわば凋落の感じのようなものが、僕自身が病後だった
せいか、いっそう強く感じられてなりませんでした。(もっとも、西洋人はまだかなり残っていたようです。
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せいか、一層ひしひしと感じられてならなかったのですが、(――もっとも西洋人はまだかなり残っていたようです。
ごくまれに、そんな山道で行き会うと、病み上がりの僕を、なんだかあやしむように見て通り過ぎました。それは僕に人なつかしい思いをさせるよりも、かえって変なさびしさを強めました……)――そんなさびしさが、この六月の高原にはまるで無いことが、何よりも僕は好きです。
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ごく稀にそんな山径で行き逢いますと、なんだか病み上がりの僕の方を胡散くさそうに見て通り過ぎましたが、それは僕に人なつかしい思いをさせるよりも、かえってへんな佗びしさをつのらせました……)――そんな侘びしさがこの六月の高原にはまるで無いことが何よりも僕は好きです。
どんなに人のいない山道を歩いていても、草も木もみな生き生きとしています。もうすっかり夏の用意ができていて、その季節が来るのを待っているだけだという感じが、あたり一面にあふれています。
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どんな人気のない山径を歩いていても、一草一木ことごとく生き生きとして、もうすっかり夏の用意ができ、その季節の来るのを待っているばかりだと言った感じがみなぎっています。
山うぐいすや、閑古鳥(かんこどり・かっこうのこと)が、元気よくさえずることといったら!
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山鶯だの、閑古鳥だのの元気よく囀ることといったら!
すこし僕は考えごとがあるんだから、黙っていてくれないかなあ、と癇癪(かんしゃく)を起こしたくなるくらいです。
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すこし僕は考えごとがあるんだから黙っていてくれないかなあ、と癇癪を起したくなる位です。
西洋人はもう、ぽつぽつと来ているようです。けれど別荘(べっそう)などは、たいてい閉じられたままです。
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西洋人はもうぽつぽつと来ているようですが、まだ別荘などは大概閉されています。
閉じられているのをいいことに、それに山の上の方だと誰も通らないので、僕は気に入った感じの別荘を見つけると、かまわずその庭に入っていきます。そしてヴェランダに腰を下ろし、たばこなどをふかしながら、ぼんやり二、三時間考えごとをしたりします。
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その閉されているのをいいことにして、それにすこし山の上の方だと誰ひとりそこいらを通りすぎるものもないので、僕は気に入った恰好の別荘があるのを見つけると、構わずその庭園の中へはいって行って、そこのヴェランダに腰を下ろし、煙草などをふかしながら、ぼんやり二三時間考えごとをしたりします。
たとえば、木の皮でふいた屋根のバンガロー、雑草の生い茂った庭、藤棚(ふじだな・その花がいまちょうど見事に咲いています)のあるヴェランダ、そこから見下ろせる樅(もみ)や落葉松(からまつ)の林、その林の向こうに見えるアルプスの山々。そういったものを背景にして、一つの小説を考えたりしているんです。
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たとえば、木の皮葺きのバンガロオ、雑草の生い茂った庭、藤棚(その花がいま丁度見事に咲いています)のあるヴェランダ、そこから一帯に見下ろせる樅や落葉松の林、その林の向うに見えるアルプスの山々、そういったものを背景にして、一篇の小説を構想したりなんかしているんです。
なかなかいい気持ちです。
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なかなか好い気持です。
ただ、すこしぼんやりしていると、生まれたての小さなブヨが僕の足をおそったり、毛虫が僕の帽子に落ちてきたりして、まいってしまいます。
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ただ、すこしぼんやりしていると、まだ生れたての小さな蚋が僕の足を襲ったり、毛虫が僕の帽子に落ちて来たりするので閉口です。
しかし、そういうものも、自然が僕に敵意(てきい)を持っているからだとは思えません。
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しかし、そういうものも僕には自然の僕に対する敵意のようなものとしては考えられません。
むしろ、自然が僕に対して、うるさいくらいの好意(こうい)を持っているような気さえします。
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むしろ自然が僕に対してうるさいほどの好意を持っているような気さえします。
僕の足もとには、よく小さな葉っぱが、のり巻きのように巻かれたまま落ちています。その中に芋虫(いもむし)の幼虫(ようちゅう)が包まれているんだと思うと、ちょっとぞっとします。
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僕の足もとになど、よく小さな葉っぱが海苔巻のように巻かれたまま落ちていますが、そのなかには芋虫の幼虫が包まれているんだと思うと、ちょっとぞっとします。
けれども、こんなのり巻きのようなものが、夏になると、あの透明(とうめい)なはねをしたガになるのかと想像すると、なんだかかわいらしい気もします。
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けれども、こんな海苔巻のようなものが夏になると、あの透明な翅をした蛾になるのかと想像すると、なんだか可愛らしい気もしないことはありません。
どこへ行っても、野ばらがまだ小さくて硬い、白いつぼみをつけています。
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どこへ行っても野薔薇がまだ小さな硬い白い蕾をつけています。
それが咲くのが待ち遠しくてなりません。
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それの咲くのが待ち遠しくてなりません。
これがこれから咲き乱れて、いいにおいをさせます。それが散るころになって、やっと避暑客(ひしょきゃく・夏の暑さをさけに来る人たち)が入り込んでくるのでしょう。
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これがこれから咲き乱れて、いいにおいをさせて、それからそれが散るころ、やっと避暑客たちが入り込んでくることでしょう。
こういう、夏の間だけ人が集まってくる高原では、その季節が来る前に花が咲き、その美しい花は誰にも見られずに散っていきます。これから咲こうとしている野ばらも、どこでも今さかりに咲いているつつじも、そうです。そういう人になれていない、いかにも野生らしい花を、これから僕ひとりで思う存分楽しもうという気持ちは――村の人たちは今、夏の用意で忙しくて、そんな花を見てはいられないからです――何とも言えずさわやかで幸せです。
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こういう夏場だけ人の集まってくる高原の、その季節に先立って花をさかせ、そしてその美しい花を誰にも見られずに散って行ってしまうさまざまな花(たとえばこれから咲こうとする野薔薇もそうだし、どこへ行っても今を盛りに咲いている躑躅もそうですが)――そういう人馴れない、いかにも野生の花らしい花を、これから僕ひとりきりで思う存分に愛玩しようという気持は(何故なら村の人々はいま夏場の用意に忙しくて、そんな花なぞを見てはいられませんから)何ともいえずに爽やかで幸福です。
どうぞ、都会にいられなくなって、こんな田舎(いなか)暮らしをすることになった僕を、不幸だとばかり思わないでください。
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どうぞ、都会にいたたまれないでこんな田舎暮らしをするようなことになっている僕を不幸だとばかりお考えなさらないで下さい。
あなた方は、いつごろこちらへいらっしゃいますか。
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あなた方は何時頃こちらへいらっしゃいますか?
僕はほとんど毎日のように、あなたの別荘の前を通ります。
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僕はほとんど毎日のようにあなたの別荘の前を通ります。
通りすがりに、ちょっとお庭に入って、あちこち歩きまわることもあります。
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通りすがりにちょっとお庭へはいってあちらこちらを歩きまわることもあります。
昔はあんなに草がぼうぼうだったのに、すっかり見ちがえるくらい、きれいな芝生になってしまいましたね。
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昔はあんなに草深かったのに、すっかり見ちがえる位、綺麗な芝生になってしまいましたね。
それに、白い柵などもお作りになって……
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それに白い柵などをおつくりになったりして。……
何だか、あなたの別荘のお庭に入っても、まるで他の別荘の庭に入っているような気がします。
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何んだかあなたの別荘のお庭へはいっても、まるで他の別荘の庭へはいっているような気がします。
人に見つかりはしないかと、心臓がどきどきしてなりません。
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人に見つけられはしないかと、心臓がどきどきして来てなりません。
どうしてこんなふうに変えてしまわれたのか、本当にうらめしく思います。
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どうしてこんな風にお変えになってしまったのか、本当におうらめしく思います。
ただ、あなたとそこでよくお話ししたヴェランダだけは、そっくり昔のままですけれど……
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ただ、あなたと其処でよくお話したことのあるヴェランダだけは、そっくり昔のままですけれど……
ああ、また、僕はなんだか悲しそうな様子をしてしまいました。
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ああ、また、僕はなんだか悲しそうな様子をしてしまった。
しかし、僕は本当は、そんなに悲しくはないのですよ。
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しかし、僕は本当はそんなに悲しくはないんですよ。
だって僕は、あなた方さえ知らないような愉悦(ゆえつ・生きる喜び)を、こんな山の中でひとり味わっているのですから。
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だって僕は、あなた方さえ知らないような生の愉悦を、こんな山の中で人知れず味っているんですもの。
でもいったい、いつごろあなた方はこちらへいらっしゃるのでしょうか。
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でも一体、何時ごろあなた方はこちらへいらっしゃるのかしら?
あなた方とはじめて知り合ったこの土地で、あなた方と見知らぬ人どうしのように顔を合わせるのは、とてもつらいことです。だから僕は、あなた方がいらっしゃる前に、この村を出発しようかと思います。
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あなた方とはじめて知り合いになったこの土地で、あなた方ともう見知らない人同志のように顔を合せたりするのは、大へんつらいから、僕はあなた方のいらっしゃる前に、この村を出発しようかと思います。
どうぞ、その日が来るまで、僕にもここにいることをお許しください。そして、ときどき誰も見ていないときに、あなたの別荘のお庭をぶらつくことも、お許しください。
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どうぞその日の来るまで僕にも此処にいることを、そしてときどき誰も見ていないとき、あなたの別荘のお庭をぶらつくことをお許し下さい。
またしても、なんと悲しそうな様子をするんだ!
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またしても、何と悲しそうな様子をするんだ!
もう、やめにします。
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もう、止します。
しかし、もうすこし書かせてください。
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しかし、もうすこし書かせて下さい。
でも、何を書いたらいいでしょうか。
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でも、何を書いたものかしら?
僕がいま暮らしているのは、この宿屋の奥にある離れ(はなれ)です。
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僕のいま起居しているのはこの宿屋の奥の離れです。
ご存じでしょう?
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御存知でしょう?
あそこをひとりで独り占め(ひとりじめ)しています。
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あそこを一人で占領しています。
縁側(えんがわ)から見上げると、ちょうど、母屋(おもや)の藤棚が真正面に見えます。
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縁側から見上げると、丁度、母屋の藤棚が真向うに見えます。
さっきも言ったように、その花がいま満開なのです。
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さっきもいったように、その花がいま咲き切っているんです。
けれど、もう盛りも過ぎたと見えて、今日あたりは、風もないのにぽたぽたと散りこぼれています。
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が、もう盛りもすぎたと見え、今日あたりは、風もないのにぽたぽたと散りこぼれています。
その花に群がるミツバチといったら、たいへんな数です。
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その花に群がる蜜蜂といったら大したものです。
ぶんぶんぶんぶんとうなっています。
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ぶんぶんぶんぶん唸っています。
この手紙を書きながら、ちょっと筆を休めて、何を書こうかなと考えます。その藤の花を見上げながらぼんやりしていると、なんだか自分の頭の中の混乱と、そのミツバチのうなりとがごっちゃになってきます。そのぶんぶんという音が、自分の頭の中で鳴っているのではないかしら、とそんな気さえしてくるほどです。
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この手紙を書きながら、ちょっと筆を休めて、何を書こうかなと思って、その藤の花を見上げながらぼんやりしていると、なんだか自分の頭の中の混乱と、その蜜蜂のうなりとが、ごっちゃになって、そのぶんぶんいっているのが自分の頭の中ではないかしら、とそんな気がしてくる位です。
僕の机の上には、マダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ公爵(こうしゃく)夫人」
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僕の机の上には、マダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ公爵夫人」
が、読みかけのままページを開いています。
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が読みかけのまんま頁をひらいています。
はじめて、このフランスの古い小説をしみじみ読んでいます。そのおかげで、僕もこのごろの自分の変に切羽つまった気持ちから、だいぶ救われているような気がしています。
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はじめてこのフランスの古い小説をしみじみ読んでいますが、そのお蔭でだいぶ僕も今日このごろの自分の妙に切迫した気持から救われているような気がしています。
この小説については、あなたに一番、読んだ感想を書きたい気持ちがあります。でも、黙っていたい気持ちもあります。
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この小説についてはあなたに一番その読後感をお書きしたいし、また黙ってもいたい。
二、三年前、あなたに無理やり読ませた、ラジイゲの「舞踏会(ぶとうかい)」
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二三年前、あなたに無理矢理にお読ませした、ラジイゲの「舞踏会」
は、この小説をお手本にしたと言われているくらいですから、まあ、あれによく似ています。
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は、この小説をお手本にしたと言われている位ですから、まあ、あれに大へん似ています。
しかし「舞踏会」
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しかし「舞踏会」
のときは、まだあんなに気にせずに、その本をお貸しすることができました。それをお読みになっても、あなたは何もおっしゃらなかったし、僕もそれについて何もお聞きしませんでした。それでも、ある気持ちはお互いに通じ合っていたようでした。でも、いま僕は、あの時のように気にせずに、この小説の感想をあなたに書くことができるでしょうか。
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のときは、まだあんなにこだわらずに、その本をお貸しが出来たけれど、そしてそれをお読みになってもあなたは何もおっしゃらなかったし、僕もそれについては何もお訊きしなかったが、それでも或る気持はお互いに通じ合っていたようでしたけれど、いま僕は、あの時のようにこだわらずに、この小説の読後感をあなたにお書きできるかしら?
だいいち、この手紙にしても、書きながら、はたしてあなたに出せるものか、出せそうもないものか、心の中でためらっているのです。
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第一、この手紙にしたって、筆をとりながら、果してあなたに出せるものやら、出せそうもないものやら、心の中では躊躇っているのです。
たぶん、出さずにしまうかもしれません。……
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恐らく出さずにしまうかも知れません。……
こんなことを考え出したら、もうこの手紙を書き続ける気がしなくなりました。
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こんなことを考え出したら、もうこの手紙を書き続ける気がしなくなりました。
もう筆を置きます。
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もう筆を置きます。
出すか出さないかわかりませんが、ともかく、さようなら。
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出すか出さないか分りませんけれど、ともかくも左様なら。
美しい村
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美しい村
或(ある)いは 小遁走曲(フーグ)
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或は 小遁走曲
ある小高い丘の頂きにある、お天狗(てんぐ)様のところまで登ってみようと思いました。私は、去年の落ち葉ですっかり地面が見えないほど埋まっている、やや急な山道を、ガサガサと音をさせながら登っていきました。だんだんその落ち葉の量が増えていき、私の靴がその中に気味悪いほど深く入るようになりました。くさった葉の湿り気が、靴の中までしみ込んできそうに思えたので、私はもうそのまま引き返そうかと思いました。ちょうどその時、雑木林(ぞうきばやし)の中から、その見捨てられた家が、不意に私の目の前に現れたのでした。
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或る小高い丘の頂きにあるお天狗様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり地肌の見えないほど埋まっているやや急な山径をガサガサと音させながら上って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私の靴がその中に気味悪いくらい深く入るようになり、腐った葉の湿り気がその靴のなかまで滲み込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、雑木林の中からその見棄てられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。
その窓はすっかり釘づけになっていました。庭もすっかり荒れ果て、いまにも壊れそうな木戸が、半分開いたままになっています。それを見ると、私は子どものような好奇心(こうきしん)でいっぱいになり、その庭の中へずかずかと入っていきました。
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そうしてその窓がすっかり釘づけになっていて、その庭なんぞもすっかり荒れ果て、いまにも壊れそうな木戸が半ば開かれたままになっているのを認めると、私は子供らしい好奇心で一ぱいになりながらその庭の中へずかずかと這入って行った。
一面に生い茂った雑草を踏み分けて行くうちに、この家のこうしたようすは、数年前、最後に見た時と少しも変わっていないような気がしました。
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そうして一めんに生い茂った雑草を踏み分けて行くうちに、この家のこうした光景は、数年前、最後にこれを見た時とそれが少しも変っていないような気がした。
けれど、それが私の奇妙な錯覚(さっかく)であることを、やがて私の中によみがえってきた、その頃の記憶がはっきりさせました。
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が、それが私の奇妙な錯覚であることを、やがて私のうちに蘇って来たその頃の記憶が明瞭にさせた。
今はこんなにも雑草が生い茂り、まわりの雑木林とほとんど区別がつかないほどになっているこの庭も、その頃は、もっと庭らしく、こぎれいになっていたことを、ようやく私は思い出したのでした。
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今はこんなにも雑草が生い茂って殆んど周囲の雑木林と区別がつかない位にまでなってしまっているこの庭も、その頃は、もっと庭らしく小綺麗になっていたことを、漸く私は思い出したのである。
つい今しがたの私の奇妙な錯覚は、こういうことだったのでしょう。その時からすでに過ぎてしまった数年の間、もしそのまま放っておかれたなら、きっとこんな具合になっているだろう……という私の感じの方が、その当時の記憶がよみがえるよりも先に、私の中に浮かんだからにちがいありません。
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そうしてつい今しがたの私の奇妙な錯覚は、その時から既に経過してしまった数年の間、若しそれがそのままに打棄られてあったならば、恐らくはこんな具合にもなっているであろうに……という私の感じの方が、その当時の記憶が私に蘇るよりも先きに、私に到着したからにちがいなかった。
しかし、私のそんなせっかちな印象が、まったくの見当ちがいではなかったことを、まるでそれ自身が証明でもするかのように、私のまわりでは、この庭を一面におおって、草木が生い茂るがままに生い茂っていました。
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しかし、私のそういう性急な印象が必ずしも贋ではなかったことを、まるでそれ自身裏書きでもするかのように、私のまわりには、この庭を一面に掩うて草木が生い茂るがままに生い茂っているのであった。
そこのヴェランダにはじめて立った私は、入り組んだ樅(もみ)の枝のすきまから、すぐ自分の足もとに、高原全体が大きな円をえがきながら、あちこちに赤い屋根や草屋根を散らばらせながら広がっているのを、見下ろすことができました。
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そこのヴェランダにはじめて立った私は、錯雑した樅の枝を透して、すぐ自分の眼下に、高原全帯が大きな円を描きながら、そしてここかしこに赤い屋根だの草屋根だのを散らばらせながら、横わっているのを見下ろすことが出来た。
そしてその高原が尽きるあたりから、また、いくつもの丘が私と向かい合うように、ゆるやかに起伏していました。
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そうしてその高原の尽きるあたりから、又、他のいくつもの丘が私に直面しながら緩やかに起伏していた。
それらの丘のさらに向こうには、遠くの中央アルプスらしい山脈が、青空にかすかに、つめでつけたような線を引いていました。
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それらの丘のさらに向うには、遠くの中央アルプスらしい山脈が青空に幽かに爪でつけたような線を引いていた。
そして、それが私の見る、ぎざぎざした地平線(ちへいせん)になっていました。
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そしてそれが私のきざきざな地平線をなしているのだった。
夏ごとにこの高原に来ていた数年前のこと、これとほとんどそっくりな眺め(ながめ)を楽しむために、私は何度も、ここからもう少し上にあるお天狗様まで登りに来ていました。そのたびに、この最後の家の前を通り過ぎながら、そこに毎年夏のように、いつも同じ二人のおばあさんが住んでいるのを、なんとなく気にかけながら見やっていました。その二人暮らしに、私はひそかに心をひかれたものでした。――
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夏毎にこの高原に来ていた数年前のこと、これと殆どそっくりな眺望を楽しむために、私は屡、ここからもう少し上方にあるお天狗様まで登りに来たのだけれど、その度毎に、この最後の家の前を通り過ぎながら、そこに毎夏のようにいつも同じ二人の老嬢が住まっているのを何んとなく気づかわしげに見やっては、その二人暮らしに私はひそかに心をそそられたものだった。――
だが、あれはもしかすると、私自身の悲しみを通してばかり見ていたせいかもしれないぞ。
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だが、あれはひょっとすると私自身の悲しみを通してばかり見ていたせいかも知れないぞ?
(と、私は考えるのでした。)
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(と私は考えるのだった。)
なぜなら、私がこの丘へ登りに来る時は、いつも私に何か悲しいことがあって、それを体のつかれと取りかえたかったからだ。
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何故って、私がこの丘へ登りに来た時は、いつも私に何か悲しいことがあって、それを肉体の疲労と取り換えたいためだったからな。
真っ白な名札が立っていて、それには「MISS(ミス)」のついた名字が二つ書いてありました。……
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真白な名札が立って、それには MISS のついた苗字が二つ書いてあったっけ。……
そう、その一人が確か「MISS SEYMORE(ミス・シーモア)」という名前だったのを、私は今でも覚えています。
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そう、その一方が確か MISS SEYMORE という名前だったのを私は今でも覚えている。
けれど、もう一人の名前は忘れてしまいました。
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が、もう一方のは忘れた。
そして、そのおばあさんたち自身も、片方だけは――あの銀色の髪(かみ)をして、なんとなく子どもっぽい顔をしていた方だけは――今でも私の目にはっきりと浮かんできます。けれど、もう一人の方はどうしても思い出せません。
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そうしてその老嬢たちそのものも、その一方だけは、あの銀色の毛髪をして、何となく子供子供した顔をしていた方だけは、今でも私の眼にはっきりと浮んでくるけれど、もう一方のはどうしても思い出せない。
昔から、自分の気に入った型の人物にしか興味を持とうとしない、自分のくせがあります。(このごろでは、それが自分の作家としての大きな才能の欠点(けってん)のように思えてなりません。)このおばあさんたちに対しても、知らず知らずのうちに、そのくせが働いていたようです。
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昔から自分の気に入った型の人物にしか関心しようとしない自分の習癖が、(この頃ではどうもそれが自分の作家としての大きな才能の欠陥のように思われてならないのだけれど、)この老嬢たちにも知らず識らずの裡に働いていたものと見える。
……この数年間、この高原――私の少年時代の幸せな思い出といえば、ほとんど全部がここに結びついているような、この高原――から、私を引き離していたものがありました。ひとりぼっちの病院生活、その間に起こったさまざまな出来事、忘れがたい人々との、思ってもいなかった別れ、そしてその間、私は何も手につかず、ただ過ぎていく日々を送っていました。……
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……この数年間というもの、この高原、この私の少年時の幸福な思い出と言えばその殆んど全部が此処に結びつけられているような高原から、私を引き離していた私の孤独な病院生活、その間に起ったさまざまな出来事、忘れがたい人々との心にもない別離、その間の私の完全な無為。……
そして、長い間放り出していた自分の仕事を、また始めるために、ひとりきりになりたいと思いました。そうかといって、あまり知らない田舎などへ行ったら、さびしくてしかたないだろうとも思いました。そんな、いつまでも決められない私の性分(しょうぶん)から、この土地なら、そのすべてが私にさまざまな思い出を語ってくれるだろうし、今ごろならまだ、知っている人には誰にも会わないだろうと考えました。そこで、こんな季節はずれの六月を選んで、この高原へわざわざやって来たのでした。
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そして、その長い間放擲していた私の仕事を再び取り上げるために、一人きりにはなりたいし、そうかと言ってあんまり知らない田舎へなぞ行ったら淋しくてしようがあるまいからと言った、例の私の不決断な性分から、この土地ならそのすべてのものが私にさまざまな思い出を語ってくれるだろうし、そして今時分ならまだ誰にも知った人には会わないだろうしと思って、こんな季節はずれの六月の月を選んで、この高原へわざわざ私はやって来たのであった。
けれど、数日前にこの土地に着いてから、私が見たり聞いたりするのは、まるで私がそれだけ長く留守にしていたことを、そのまま形にして見せるような、この高原でのさまざまな思いがけない変化ばかりでした。それにつけても、今さらのようによみがえってくるのは、この土地ではじめて知り合った、ある女友達との、最近の悲しい別れでした。……
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が、数日前にこの土地へ到着してから私の見聞きする、あたかも私のそういう長い不在を具象するような、この高原に於けるさまざまな思いがけない変化、それにつけても今更のように蘇って来る、この土地ではじめて知り合いになった或る女友達との最近の悲しい別離。……
そんな物思いにふけりながら、私はぼんやりたばこをふかしたまま、ほとんど真正面の丘の上にそびえている、西洋人が「巨人(きょじん)のいす」
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そんな物思いに耽りながら、私はぼんやり煙草を吹かしたまま、ほとんど私の真正面の丘の上に聳えている、西洋人が「巨人の椅子」
というあだ名をつけている大きな岩を、いつまでも見つめていました。それだけが、あらゆる風化(ふうか)からのがれて、昔からそっくりそのまま残っているように見える、どっしりと落ち着いた岩でした。
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という綽名をつけているところの大きな岩、それだけがあらゆる風化作用から逃れて昔からそっくりそのままに残っているかに見える、どっしりと落着いた岩を、いつまでも見まもっていた。
私はやがて、また枯れ葉をガサガサと鳴らしながら、山道を村の方へ下りていきました。
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私はやがて再び枯葉をガサガサと音させながら、山径を村の方へと下りて行った。
その山道に沿って、落葉松(からまつ)などの間にちらほら見えるいくつかのバンガローも、たいてい同じような赤茶色の板を、釘づけにされたままでした。
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その山径に沿うて、落葉松などの間にちらほらと見える幾つかのバンガロオも大概はまだ同じような紅殻板を釘づけにされたままだった。
ときおり、作業をする人たちが、その庭の中で草むしりをしていました。
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ときおり人夫等がその庭の中で草むしりをしていた。
彼らの中には、くまでを動かしていた手を休めて、私の方をあやしむように見送る者もいました。
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彼等の中には熊手を動かしていた手を休めて私の方を胡散臭そうに見送る者もあった。
私は、その気づまりな視線からのがれるために、何度も道のないようなところへ踏み込みました。
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私はそういう気づまりな視線から逃れるために何度も道もないようなところへ踏み込んだ。
けれどそれでも、昔私が大好きだった水車場のあたりを目指して進む、私の方向を、なんとか間違えさせないでいてくれました。
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しかしそれは昔私の大好きだった水車場のほとりを目ざして進んでいた私の方向をどうにかこうにか誤らせないでいた。
そこまで出ることはできましたが、数年前まで、そこでごとごとと音を立てながら回っていた古い水車は、もう跡形(あとかた)もなくなっていました。
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しかし其処まで出ることは出られたが、数年前まで其処にごとごとと音立てながら廻っていた古い水車はもう跡方もなくなっていた。
それよりもっと悲しい気持ちになって、私が見つけたのは、その水車場の近く、落葉松を背にして建つ一つの別荘(ヴィラ)でした。
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それよりももっと悲しい気持になって私の見出したのは、その水車場近くの落葉松を背にした一つのヴィラだった。
私が何度も訪れたそのヴィラは、数年前に最後に見た時とは、すっかり様子が変わっていました。
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私の屡しば訪れたところのそのヴィラは、数年前に最後に私の見た時とはすっかり打って変っていた。
以前は、ただ小さな低い木の茂みで、無造作(むぞうさ)に縁取られていたその庭は、今は白い柵で、きちんと区切られていました。
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以前はただ小さな灌木の茂みで無雑作に縁どられていたその庭園は、今は白い柵できちんと区限られていた。
私はふと、なぜだかわからずに、そのなめらかそうな柵をいじろうとして手をのばしましたが、ちょっと触れただけでした。
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私はふと何故だか分らずにその滑らかそうな柵をいじくろうとして手をさし伸べたが、それにはちょっと触れただけであった。
その時、私の帽子の上に、なんだか雨のしずくのようなものが、ぽたりと落ちてきたからです。
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そのとき私の帽子の上になんだか雨滴のようなものがぽたりと落ちて来たから。
そこで、その宙に浮いた手を、私はそのまま帽子の上に持っていきました。
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そこでその宙に浮いた手を私はそのまま帽子の上に持って行った。
それは小さな桜の実でした。
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それは小さな桜の実であった。
私がひょいと頭を持ち上げたとたん、そこには、ちょうど私の頭の上に枝を大きく広げた、古い桜の木が見えました。あまりに高いところにあったので、かえって気づかずにいたのです。それだけが、私にとって昔なじみの桜の老木(ろうぼく)でした。
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私がひょいと頭を持ち上げた途端に、そこには、丁度私の頭上に枝を大きく拡げながら、それがあんまり高いので却って私に気づかれずにいた、それだけが私にとっては昔馴染の桜の老樹が見上げられた。
やがて、向こうの低い木の茂みの中から、背の高い若い外国の女の人が、乳母車(うばぐるま)を押しながら、私の方へ近づいてくるのが見えました。
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やがて向うの灌木の中から背の高い若い外国婦人が乳母車を押しながら私の方へ近づいて来るのを私は認めた。
私は、その人にまったく見覚えがないように思いました。
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私はちっともその人に見覚えがないように思った。
私が、道ばたの大きな桜の木に身を寄せて道をあけていると、乳母車の中から、亜麻色(あまいろ・うすい茶色)の髪をした女の子が、私の顔を見てにっこりしました。
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私がその道ばたの大きな桜の木に身を寄せて道をあけていると、乳母車の中から亜麻色の毛髪をした女の児が私の顔を見てにっこりとした。
私もつい、つられて、にっこりしました。
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私もつい釣り込まれて、にっこりとした。
けれど、乳母車を押していたその若い母親は、私の方を見向きもせずに、私の前を通り過ぎていきました。
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が、乳母車を押していたその若い母は私の方へは見向きもしないで、私の前を通り過ぎて行った。
それを見送っているうちに、ふと、その鋭い横顔から、なんだか自分も見たことがあるらしい、その女の人の若い娘だった頃の面影(おもかげ)が、すかし絵のように浮かんできそうになりました。
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それを見送っているうち、ふとその鋭い横顔から何んだか自分も見たことがあるらしいその女の若い娘だった頃の面影が透かしのように浮んで来そうになった。
私は、その白い柵のあるヴィラを離れました。
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私はその白い柵のあるヴィラを離れた。
私の帽子の上に、不意に落ちてきた桜の実がきっかけで、私の心の中に、悲しい気持ちの波紋(はもん)が広がりかけていました。それを、今しがたの気づまりな出会いが、すっかりかき乱してしまいました。それをいい機会にして。
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私の帽子の上に不意に落ちて来た桜の実が私のうちに形づくり、拡げかけていた悲しい感情の波紋を、今しがたの気づまりな出会がすっかり掻き乱してしまったのを好い機会にして。
私は、村はずれの宿屋に帰ってきました。
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私は村はずれの宿屋に帰って来た。
私がその宿屋に滞在するたびに、いつも私にあてがわれる離れの一部屋。
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私がその宿屋に滞在する度にいつも私にあてがわれる離れの一室。
同じように黒ずんだ壁、同じような窓わく、その古い額縁(がくぶち)のような窓に入ってくる、同じような庭、同じような植え込み……。ただ、それらの植え込みに、私の知っている花や、私の知らない花が群がって咲いているのだけは、私には見なれないものでした。
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同じように黒ずんだ壁、同じような窓枠、その古い額縁の中にはいって来る同じような庭、同じような植込み、……ただそれらの植込みに私の知っている花や私の知らない花が簇がり咲いているのが私には見馴れなかった。
それはそれで、また私をさびしい気持ちにさせました。
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それはそれでまた私を侘びしがらせた。
母屋の藤棚から、風が吹くたびに、私のところまでその花のにおいがしてきました。
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母屋の藤棚から、風の吹くごとに私のところまでその花の匂がして来た。
その藤棚の下では、村の子どもたちが輪になって遊んでいました。
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その藤棚の下では村の子供たちが輪になって遊んでいた。
私は、その子どもたちの中に、昔よく遊んでやったことのある、宿屋の子どもがいるのに気づきました。
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私はその子供たちの中に昔よく遊んでやったことのある宿屋の子供がいるのを認めた。
そのうちに、他の子どもたちは去っていきました。
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そのうちに他の子供たちは去った。
そして、その子どもだけが、まだ地面にしゃがみこんだまま、ひとりで何かして遊んでいました。
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そしてその子供だけがまだ地面に跼んだまま一人で何かして遊んでいた。
私はその子の名前を呼びました。
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私はその子の名前を呼んだ。
けれど、その子は私の方を振り向こうともしませんでした。
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その子はしかし私の方を振り向こうともしなかった。
それほど、自分の遊びに夢中になっているように見えました。
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それほど自分の遊びに夢中になっているように見えた。
私がもう一度その名前を呼ぶと、やっとその子は、うす汚れた顔を上げて、私に言いました。
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私がもう一度その名前を呼ぶと、やっとその子はうす汚れた顔を上げながら私に言った。
「太郎ちゃんは、どこにいるか知らないよ」
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「太郎ちゃんは何処にいるか知らないよ」
――私はその時はじめて、この小さな子どもが、私が呼んだ男の子の弟であることに気がついたのでした。
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――私はその時初めてその小さな子供は私の呼んだ男の子の弟であるのに気がついたのだ。
しかし、なんとよく似た顔、よく似た目つき、よく似た声でしょう。……
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しかし何という同じような顔、同じような眼差、同じような声。……
しばらくしてから「次郎! 次郎!」
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暫らくしてから「次郎! 次郎!」
と呼びながら、ひとりの、ずっと年上の、見知らない男の子が、庭に入ってくるのを私は見ました。
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と呼びながら、一人の、ずっと大きな、見知らない男の子が庭へ這入って来るのを私は見た。
ようやく私になついて、私の方へ近づいてきそうになった、その小さな弟は、それを聞くと、急いでそちらへ駆けていってしまいました。
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ようやく私になついて私の方へ近づいて来そうになったその小さな弟は、それを聞くと急いでその方へ駈けて行ってしまった。
私の方では、その年上の見知らないような男の子が、昔、私と遊んだことのある子どもであることに、ようやく気づき始めていました。
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私の方では、その大きな見知らないような男の子が昔私と遊んだことのある子供であるのを漸っと認め出していた。
しかし、その生意気(なまいき)ざかりの男の子は、小さな弟を連れ去りながら、私の方を振り向こうともしませんでした。
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しかし、その生意気ざかりの男の子は小さな弟を連れ去りながら、私の方をば振り向こうともしなかった。
⁂
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⁂
私は毎日のように、村のあちらこちらへ散歩に出かけました。その村なら、どんな隅々まで(すみずみ)もよく知っているはずでした。
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私は毎日のように、そのどんな隅々までもよく知っている筈だった村のさまざまな方へ散歩をしに行った。
しかし、どこへ行っても、何かがつけ加えられ、何かが欠けているように、私には見えました。
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しかし何処へ行っても、何物かが附加えられ、何物かが欠けているように私には見えた。
それでいて、どの道の上でも、私の見たことのない新しい別荘のかげに、ひとかたまりの低い木々が、私が忘れていた少年時代の一部分のように、私を待ちぶせしていました。
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その癖、どの道の上でも、私の見たことのない新しい別荘の蔭に、一むれの灌木が、私の忘れていた少年時の一部分のように、私を待ち伏せていた。
そして、それらのひとかたまりの木々のように、こんがらかったまま、少年時代の楽しい思い出も、悲しい思い出も、私の中によみがえってくるのでした。
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そうしてそれらの一むれの灌木そっくりにこんがらかったまま、それらの少年時の愉しい思い出も、悲しい思い出も私に蘇って来るのだった。
私は、それらの思い出に、あるときは胸をしめつけられ、あるときは胸をふくらませながら、歩いていました。
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私はそれらの思い出に、或は胸をしめつけられたり、或は胸をふくらませたりしながら歩いていた。
私は、突然立ち止まります。
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私は突然立ち止まる。
自分が、あまりに村の遠くまで来すぎてしまっていることに気づいて。――
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自分があんまり村の遠くまで来すぎてしまっているのに気がついて。――
そんな道すがら私が出会うのは、ごくまれには散歩中の西洋人たちもいましたが、たいていは、枯れ枝を背負ってくるお年寄りや、わらびとりの帰りらしい、かごを腕にぶら下げた娘たちばかりでした。
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そんなみちみち私の出遇うのは、ごく稀には散歩中の西洋人たちもいたが、大概、枯枝を背負ってくる老人だとか蕨とりの帰りらしい籃を腕にぶらさげた娘たちばかりだった。
けれど、それらの人たちは、私にとっては、村の風景の中にすっかりとけこんで見えるので、少しも私のそういう思い出のじゃまをしませんでした。
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それ等のものはしかし、私にとってはその村の風景のなかに完全に雑り込んで見えるので、少しも私のそういう思い出を邪魔しなかった。
もっとも、時には、私があまりにも子どもっぽい思い出し笑いをしているのを見て、すれちがいざまに、いきなり声をかけられて驚かされたこともありました。また、ある時は、向こうから私にほほえみかけようとして、私の悲しそうな顔を見て、それを途中でやめてしまうようなこともありましたが……。
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もっとも時たま、或る時は私があんまり子供らしい思い出し笑いをしているのを見て、すれちがいざまいきなり私に声をかけて私を愕かせたり、又或る時は向うから私に微笑みかけようとして私の悲しげな顔を見てそれを途中で止めてしまうようなこともあるにはあったが……。
そんなふうに、思い出に導かれるまま、村のそんな遠くまで、知らず知らず歩いてきてしまった私は、今さらのように、自分も元気になったものだなあ、と思いました。
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そんな風に思い出に導かれるままに、村をそんな遠くの方まで知らず識らず歩いて来てしまった私は、今更のように自分も健康になったものだなあ、と思った。
私は、そういう長い散歩によって、いっそう生き生きと呼吸している自分自身に気づきました。
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私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。
それに、この土地に滞在してから、まだ一週間かそこらにしかなりません。けれど、この高原の初夏の気候が、はやくも私の体にも心にも、ある影響(えいきょう)をあたえ始めていることは、否定(ひてい)できませんでした。
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それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響を与え出していることは否めなかった。
夏は、もうどこにでも見つけられます。それでいて、まだどこと言って行く先もないような自然の中を、こうしてさまよっていました。あちこちの低い木の枝に、注意さえすれば、数えきれないほどのつぼみが見つかります。それらはやがて咲き出すでしょう。しかし、それらは真夏の季節が来る前に散ってしまうような種類の花ばかりです。それらが咲きそろうのを楽しむのは、自分ひとりだけだろう、と想像していると、それはなんとも言えず、人知れない喜び(悦楽・えつらく)のように思えてくるのでした。こんなさびしい田舎暮らしという、高い犠牲(ぎせい)をはらうだけの価値は、十分にあると言えるほどでした。
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夏はもう何処にでも見つけられるが、それでいてまだ何処という的もないでいると言ったような自然の中を、こうしてさ迷いながら、あちこちの灌木の枝には注意さえすれば無数の莟が認められ、それ等はやがて咲き出すだろうが、しかしそれ等は真夏の季節の来ない前に散ってしまうような種類の花ばかりなので、それ等の咲き揃うのを楽しむのは私一人だけであろうと言う想像なんかをしていると、それはこんな淋しい田舎暮しのような高価な犠牲を払うだけの値は十分にあると言っていいほどな、人知れぬ悦楽のように思われてくるのだった。
そして私はいつしか「田園交響曲(でんえんこうきょうきょく)」
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そうして私はいつしか「田園交響曲」
の第一楽章が人々にあたえる、心地よい感動に似たもので、心をいっぱいにさせていました。
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の第一楽章が人々に与える快い感動に似たもので心を一ぱいにさせていた。
そして、都会にいた頃の私は、自分のばくぜんとした不幸を、あまりに大げさに考えすぎていたのではないかと、疑い始めたほどでした。
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そうして都会にいた頃の私はあんまり自分のぼんやりした不幸を誇張し過ぎて考えていたのではないかと疑い出したほどだった。
こんなことなら、何もあんなにまで苦しまなくてもよかったのだ、と私は思ったりもしました。
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こんなことなら何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだと私は思いもした。
そして、最近私を苦しめていた恋愛(れんあい)のできごとを、そっくりそのまま書いてみたらどうだろうと考えました。その苦しみ自体も気に入るだろうし、私にはまだよくわからずにいる相手の気持ちも、いくらかはっきりするのではないか、と思いました。むしろ、そういう自分自身の不幸をあてにして、仕事をしに来た私は、そのために困ってしまったほどでした。
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そうして最近私を苦しめていた恋愛事件をそっくりそのままに書いてみたら、その苦しみそのものにも気に入るだろうし、私にはまだよく解らずにいる相手の気持もいくらか明瞭しはしないかと思って、却ってそういう私自身の不幸をあてにして仕事をしに来た私は、ために困惑したほどであった。
私は、もうまったく、そんなものを書いてみようという気持ちすら、なくなってしまったのです。
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私はてんでもうそんなものを取り上げてみようという気持すらなくなってしまったのだ。
それで私は、仕事の方はそのままほうっておいて、毎日のように散歩ばかりしていました。
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で、私は仕事の方はそのまま打棄らかして、毎日のように散歩ばかりしていた。
そして私は、散歩をする範囲を、日ごとに広げていきました。
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そうして私は私の散歩区域を日毎に拡げて行った。
ある日、私がそんな散歩から帰ってくると、庭掃除をしていた宿のじいや(爺や・年配の男の使用人)に呼び止められました。
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或る日私がそんな散歩から帰って来ると、庭掃除をしていた宿の爺やに呼び止められた。
「細木さんは、いつごろこちらへいらっしゃいますか?」
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「細木さんはいつ頃こちらへお見えになります?」
「さあ、僕、知らないけれど……」
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「さあ、僕、知らないけれど……」
それは、私が、いつごろこの土地を出発するのかを聞いているのと、同じことでした。けれど、じいやには、そのことに気づきようがなかったのです。
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それは私が何日頃この地を出発するかを聞いたのと同じことであるのに爺やは気づきようがなかったのだ。
「去年、お帰りになるとき」
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「去年お帰りになるとき」
と、じいやは思い出したように言いました。
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と爺やは思い出したように言った。
「庭にシダを植えておくようにと言われたのですが、どこへ植えろとおっしゃったのか、すっかり忘れてしまいましたもので……」
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「庭へ羊歯を植えて置くようにと言われたんですが、何処へ植えろとおっしゃったんだか、すっかり忘れてしまいましたもんで……」
「シダをね」
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「羊歯をね」
私は、おうむ返しに言いました。
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私は鸚鵡がえしに言った。
それから私は、あの白い柵に取り囲まれたヴィラを思い浮かべながら、「あの白い柵はいつできたの?」
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それから私は例の白い柵に取り囲まれたヴィラを頭に浮べながら、「あの白い柵はいつ出来たの?」
と聞きました。
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と訊いた。
「あれですか……あれは一昨年(おととし)でした」
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「あれですか……あれは一昨年でした」
「一昨年ね……」
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「一昨年ね……」
私はそれっきり、黙っていました。
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私はそれっきり黙っていた。
じいやがいじっている植木のひとつに、目をやりながら。
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爺やのいじくっている植木の一つへ目をやりながら。
それから、やっとそこに白い花らしいものが咲いているのに気づいて、聞きました。
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それからやっとそれに白い花らしいものの咲いているのに気がつきながら訊いた。
「それは何の花だい?」
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「それは何の花だい?」
「これはシャクナゲです」
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「これはシャクナゲです」
「シャクナゲ? ふうん、そう言えば、じいやさん、このへんの野ばらは、いつごろ咲くの?」
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「シャクナゲ? ふうん、そう言えば、じいやさん、このへんの野薔薇はいつごろ咲くの?」
「今月の終わりから、まあ、来月の初めにかけてでしょうな」
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「今月の末から、まあ、来月の初めにかけてでしょうな」
「そうかい、まだだいぶ先だね。――いったい、どのへんに多いんだい?」
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「そうかい、まだ大ぶあるんだね。――一体、どのへんが多いんだい?」
「さあ……あのレエノルズさんの病院の向こうなんか……」
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「さあ……あのレエノルズさんの病院の向うなんか……」
「ああ、じゃ、あそこかな、あの絵はがきにあったのは。……」
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「ああ、じゃ、あそこかな、あの絵葉書にあった奴は。……」
その翌朝は、霧(きり)がひどく立ちこめていました。
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その翌朝は、霧がひどく巻いていた。
私はレインコートをひっかけて、まだ釘づけにされている教会の前を通り、その裏のとちの林の中を横切っていきました。
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私はレエンコートをひっかけて、まだ釘づけにされている教会の前を通り、その裏の橡の林の中を横切って行った。
その林を突き抜けると、道は大きく曲がりながら、ひとつの小さな流れに沿っていきました。
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その林を突き抜けると、道は大きく曲りながら一つの小さな流れに沿うて行った。
しかし、その朝は、その流れは、霧のために少しも見えませんでした。
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しかしその朝はその流れは霧のためにちっとも見えなかった。
そして、ただせせらぎの音だけが、絶えず聞こえていました。
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そしてただ、せせらぎの音ばかりが絶えず聞えていた。
私はやがて、小さな木の橋を渡りました。
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私はやがて小さな木橋を渡った。
それから、その土手道(どてみち)は、今度は今までとは反対側を、その流れに沿って続いていました。
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それからその土手道は、こんどは今までとは反対の側を、その流れに沿うて行くのであった。
さて、その土手道にさしかかろうとしたとたん、私はふと立ち止まりました。
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さて、その土手道へ差しかかろうとした途端、私はふと立ち止まった。
行く手に、何者かが変な格好でうずくまっているのが、ぼんやり見えたからです。
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私の行く手に何者かが異様な恰好でうずくまっているのが仄見えたので。
その怪しいものは、霧の中で、私自身から光の輪のように発しているように見える、私を中心にえがかれた丸いうす明かりの、ちょうどその外側の線の上に、うずくまっていました。
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その異様なものは、霧のなかで私自身から円光のように発しているかに見える、私を中心にして描いた円状の薄明りの、丁度その円周の上にうずくまっているのだった。
けれど、霧は絶えず流れているので、あるときはいっそう濃い霧が来て、その人かげをほとんど見えなくさせます。けれど、やがてそれがうすらいでいくにつれて、その人かげも、しだいにはっきりしてきました。
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しかし霧は絶えず流れているので、或る時は一層濃いのが来てその人影をほとんど見えなくさせるが、やがてそれが薄らいで行くにつれてその人影も次第にはっきりしてくる。
ようやく、それがこうもり傘(蝙蝠傘)の下で、小さな低い木の上に、心配そうに身をかがめている、西洋人らしいことが、私にはわかってきました。
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漸っとそれが蝙蝠傘の下で、或る小さな灌木の上に気づかわしげに身を跼めている、西洋人らしいことが私には分かり出した。
もっと霧がうすらいだとき、その人が見つめているのが、私が見たいと思っていた野ばらの木らしいことまで、わかりました。
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もっと霧が薄らいだとき、私はその人の見まもっているのが私の見たいと思っていた野薔薇の木らしいことまで分かった。
向こうは、私のことに気づいていないようでした。
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向うでは私のことに気づかないらしかった。
誰にも見られていないと思いながら、何かに夢中になっている時、人はよく、あとで思い出そうとしても思い出せないような、変にむずかしい姿勢をしていることがあるものです。私の行く手をふさいでいるその人も、きっとそんな時の姿勢をしているにちがいありませんでした。……
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そのため、誰にも見られていないと信じながら何かに夢中になっている時、ややもすると、あとでそれを思い出そうとしても思い出せないような変にむつかしい姿勢をしていることがあるものだが、私の行く手を塞いでいるその人も恐らくそんな時の姿勢をしているのにちがいなかった。……
気がつくと、私のすぐそばにも野ばらの木がありました。それは、私が見たいと思っている野ばらの木の、ほんの下絵(デッサン)でしかないように見えて、私はそのまま、じっとたたずんでいました。――
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気がついて見ると私のすぐ傍らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと佇んでいた。――
やっと、その人かげは身を起こし、こうもり傘をちょっと持ちかえてから、歩き出しました。
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やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。
そして、どんどん霧の中にぼやけていきました。
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そうしてずんずん霧のなかに暈けて行った。
私も歩き出しながら、やっと、その野ばらの小さな茂みの前にたどりつきました。
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私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな茂みの前に達した。
そして、今しがたその人がしていたような、むずかしい姿勢をまねしながら、その上に身をかがめてみました。
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そうして今しがたその人のしていたような難しい姿勢を真似ながら、その上に身を跼めてみた。
そうすれば、その人の心の中まで見えてくるかのように。
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そうすればその人の心の状態までが見透かされでもするかのように。
その小さな茂みは、まだ硬い小さなつぼみをいっぱいにつけたまま、何か私にうったえたいような目つきで、私を見上げました。
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その小さな茂みはまだ硬い小さな莟を一ぱいにつけながら、何か私に訴えでもしたいような眼つきで私を見上げた。
私は、知らず知らずのうちに、それらのつぼみを、根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている、自分自身に気づきました。
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私は知らず識らずの裡にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。
ふと、さっきの人がしていた、あの変わった手つきが、ありありとよみがえりました。
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ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと蘇った。
そして、その小さな茂みが、マイ・ミクスチュア(たばこの一種)らしい香りをただよわせているのに気づいたのも、それとほとんど同時でした。
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そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい香りを漂わせているのに気がついたのもそれと殆んど同時だった。
しめった空気のために、いつまでも、そのこんがらがった枝にからみついて消えずにいる、その香りは、まるでその小さな茂みそのものから、発せられているかのように思われました。――
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湿った空気のために何時までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。――
私は、いつもパイプを口から離したことのない、レエノルズさんのことを思い出しました。
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私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。
そして、今の人かげは、その年配の医師にちがいないと思いました。
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そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。
そう言えば、さっきから向こうの方に、霧のために見えたり隠れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウム(療養所)の建物らしいのでした。
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そう言えば、さっきから向うの方に霧のために見えたり隠れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウムの建物らしかった。
私はふたたび、霧の中の道を歩き続けました。神々しいようなうす明かりに包まれながら、いくら歩いても、少しも自分の体が進まないような、もどかしさを感じながら、あてもなく歩き続けていました。
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私は再び霧のなかの道を、神々しいような薄光りに包まれながら、いくら歩いてもちっとも自分の体が進まないようなもどかしさを感じながら、あてもなく歩き続けていた。
私の心は、さっき霧の中から、うったえるような目つきで私を見上げた野ばらのことで、いっぱいになっていました。
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私の心はさっき霧の中から私を訴えるような眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。
私は、それらの白い小さな花を、自分の詩のためにさんざん使っておきながら、今日まで、その本物をろくに見てもいませんでした。けれど、今度こそ、それらの花に対して、自分のありったけの誠実さを示すことができる機会が来つつあることを、心から喜んでいました。
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私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽ見もしなかったけれど、今度こそ、私もそれらの花に対して私のありったけの誠実を示すことの出来る機会の来つつあることを心から喜んでいた。
そして、そのための私のうれしさといったら――昔の詩人たちが野ばらのために歌った詩の言葉を、ただ口ずさむというのではなく、知っているだけ残らず、大きな声でどなり散らしたいような衝動(しょうどう)にまで、私を駆り立てるほどでした。
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そしてそのための私の歓ばしさと言ったら、昔の詩人等が野薔薇のために歌った詩句を、口ずさむなんと言うのではなく、それを知っているだけ残らず大きな声で呶鳴り散らしたいような衝動にまで、私を駈り立てるのであった。
⁂
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⁂
私が書こうとしていた小説の主題は、ようやくその日その日を楽しめるようになった、こんな田舎暮らしの中では、いよいよ意味のないものに思われてきました。
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私の書こうとしていた小説の主題は、漸くその日その日を楽しむことが出来るようになったこんな田舎暮しの中では、いよいよ無意味なものに思われて来た。
それに、そんなものを書くことは、自分で自分を、もっとどうしようもない状況に追い込むようなことだと、気づいたのでした。
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それに、そんなものを書くことは、自分で自分を一層どうしようもない破目に陥し入れるようなものであることにも気がついたのだ。
「アドルフ」
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「アドルフ」
の例が思い浮かびました。
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の例が考えられた。
ああいうものにまで、私は自分の小さなできごとを引き上げたかったのです。
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ああいうものにまで私は自分の小さな出来事を引き揚げたかったのだ。
気は弱いのに、自我(じが・自分の考え)は強い。そのために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にした、アドルフの運命は、まるで私自身の運命のように思えたからです。
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弱気でしかも自我の強いために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にさせたところのアドルフの運命は又、私の運命さながらに思えたからだ。
しかし、「アドルフ」
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しかし、「アドルフ」
の作者ほど、そういう弱々しい性格――おそらくそれは、作者自身の性格だったのでしょう――に対する激しい憎しみ(憎悪・ぞうお)を、私は持っていません。むしろ、そういう自分自身を甘やかすことしかできそうもない私が、そんな小説の真似(まね)などしようものなら、それによって、さらにもう一段、自分自身をも、また他人をも不幸にするだけであることが、いやというほど私にはわかってきたのです。……
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の作者ほど、そういう弱々しい性格(恐らくそれは彼自身のであろうけれど)に対するはげしい憎悪も持っていない、むしろそういう自分自身を甘やかすことしか出来そうもない私がそんな小説の真似なんかしようものなら、それによって更にもう一層自分自身をも、又他人をも不幸にするばかりであることが、わかり過ぎるくらい私にはわかって来たのだ。……
こういう考え方は、私の中の暗い部分には、すこし気に入らないようでした。けれど、このごろのこんな田舎暮らしのおかげで、その暗い部分は、もう一方の明るい部分に、少しずつ打ち負かされつつあったのです。
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こういうような考え方は、私の暗い半身にはすこし気に入らないようだったけれども、この頃のこんな田舎暮しのお蔭で、そう言った私の暗い半身は、もう一方の私の明るい半身に徐々に打負かされて行きつつあったのだ。
それなら、今の私が書いてみたいと思うものは、たとえどんなに平凡なものでもかまいません。これから私が暮らそうとしている、こんな季節はずれの田舎の、人っ子ひとりいない、けれど花だらけの額縁の中に、すっぽりとはまり込むような、古い絵のような物語でした。
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そうして今の私がそれならば書いてもみたいと思うものは、たとえどんなに平凡なものでもいいから、これから私の暮らそうとしているようなこんな季節はずれの田舎の、人っ子ひとりいない、しかし花だらけの額縁の中へすっぽりと嵌まり込むような、古い絵のような物語であった。
私は、何とかして、そんな、言わば牧歌的(ぼっかてき・のどかで素朴な田舎らしい)なものが書きたかったのです。
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私は何とかしてそんな言わば牧歌的なものが書きたかった。
私はこれまでも、他人が書いたそういう作品が、ずいぶん好きでした。そういうできごとに出会ったということで、その人をうらやましくも思ってきました。けれど、自分自身でそういうものを書いてみようとも、また、書けそうにも思えませんでした。
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私はこれまでも他人の書いたそういう作品を随分好きでもあり、そういう出来事に出遇ったということでその人を羨ましくも思って来たが、私自身でそう言うものを書いてみようとも、又、書けそうにも思えなかった。
けれど、それだけいっそう、今の私は、そういう牧歌的なものを書いてみたいと、思い立ったのでした。――
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が、それだけ一層、今の私はそういう牧歌的なものを書いてみたいと思い立ったのである。――
しかし私は、それを書くためには、いま自分が暮らしているこの村を、背景にするよりほかありませんでした。とは言っても、一月や二月ぐらいの滞在中に、そんなできごとが、はたして自分の身に起こるものかどうか、あやしいものでした。
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私はしかし、それを書くためには、いま自分の暮らしつつあるこの村を背景にするよりほかはなく、と言って一月や二月ぐらいの滞在中にそういう出来事が果して私の身辺に起り得るものかどうか疑わしかった。
ばかばかしいことですが、私は何度も、林の中の空き地で、むだに待ちぶせしたものでした。
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莫迦莫迦しいことだが、私は何度も林の中の空地で無駄に待ち伏せたものだった。
男の子のように美しい田舎の娘が、その林の中からひょっこり、私の前に飛び出してこないかと。……
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男の子のように美しい田舎の娘がその林の中からひょっこり私の前に飛び出して来はしないかと。……
そんなむなしい努力のあと、やっと私の頭に浮かんだのは、あのお天狗様のいる丘の、頂上近くにある、あの見捨てられた古いヴィラでした。
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そんな空しい努力の後、やっと私の頭に浮んだのは、あのお天狗様のいる丘のほとんど頂近くにある、あの見棄てられた、古いヴィラであった。
あのヴィラを背景にして、そこで毎年夏を暮らしていた、二人のおばあさんの、いかにも心細そうな存在を、自分の空想で補いながら書いていく――それなら、なんだか自分にも、ちょっと書けそうな気がしました。
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あのヴィラを背景にして、そこに毎夏を暮らしていた二人の老嬢のいかにも心もとなげな存在を自分の空想で補いながら書いて行く――それなら何んだか自分にもちょっと書けそうな気がした。
この間、その家の荒れ果てた庭に入り込んで、そこから一時間ほど眺めていた、高原の美しい鳥瞰図(ちょうかんず・上から見下ろした景色)や、一人前のニーチェ主義者だった学生時代から、うろ覚えに覚えていた「zweisam(ツヴァイザーム・二人一緒にの意味)」という、いかにもそのおばあさんたちに似合いそうなドイツ語などを、ふと思い浮かべながら……。
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この間その家の荒廃した庭のなかへ這入り込んで其処から一時間ばかり眺めていた高原の美しい鳥瞰図だの、一かどのニイチェアンだった学生の時分からうろおぼえに覚えていた zweisam という、いかにもその老嬢たちに似つかわしいドイツ語だのを、ひょっくりと思い浮べながら……。
ある夕方、私はふたたび、そのヴィラまで、枯れ葉に埋まった山道を登っていきました。
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或る夕方、私は再びそのヴィラまで枯葉に埋まった山径を上って行った。
庭の木戸は、私がそうしておいたままに、半分開いていました。
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庭の木戸は私がそうして置いたままに半ば開かれていた。
私が捨てたたばこの吸いがらが、ヴェランダの床に、しみのように落ちていました。
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私の捨てた煙草の吸殻がヴェランダの床に汚点のように落ちていた。
私は日が暮れるまで、そこから林や、赤い屋根や、丘、それから真正面にそびえている「巨人のいす」
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私は日の暮れるまで、其処から林だの、赤い屋根だの、丘だの、それから真正面に聳えている「巨人の椅子」
などを、一つ一つ暗記してしまうほど、熱心に見つめていました。……
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だのを、一々暗記してしまうほど熱心に見つめていた。……
ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうち、私がよく覚えている方の、神々しいような白髪の老婦人が、このヴェランダの――そう、ちょうど私が座っているこの場所に――腰を下ろしたまま、とうに死んでしまった友人と話し合ってでもいるような、うつろな目つきをしているのが、ありありとよみがえってきます。……と思うと、一瞬、それがきらきらと少女の目つきのように輝きます。……家の中からは、夕食のしたくをしている、もう一人の婦人が立てる皿の音が聞こえてきます。……彼女はふと、十字を切ろうとするように手を動かしかけますが、それはほんの少し動くだけで終わってしまいます。……彼女にだけは、何か言葉を持っていそうな気のする「巨人のいす」
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ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうちの私のよく覚えている方の神々しいような白髪の老婦人が、このヴェランダの、そう、丁度私の坐っているこの場所に腰を下ろしたまま、彼女のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、空虚な眼ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一瞬間それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは夕餉の支度をしている、もう一方の婦人の立てる皿の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの下描きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」
……そんなふうに、片方のおばあさんのさまざまな姿だけは、私が実際にそれを見て、無意識のうちに覚えていたのではないかと思えるくらい、ありありとよみがえってきます。けれど――もう一人のおばあさんの方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、なかなか私の物語の中には登場してこようとしません。
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……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の裡にそれらを記憶していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、――もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。
私は、どうしても彼女の面影をよみがえらせることができないのです。……
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私はどうしても彼女の俤を蘇らすことが出来ないのである。……
そんなある午後、あてもなくさまよっていた私の目が、急に注意深くなって、ちょうど私の足もとにある、夕日のあたっている赤い屋根の上に、とまりました。
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そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度足許にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。
何か黒い小さなものが、屋根の頂上からころころと転がってきては、ひさしのところから、急に小石のように落ちていくのでした。
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何か黒い小さなものがその屋根の頂きからころころと転がって来ては、庇のところから急に小石のように墜落して行くのだった。
しばらく間をおいては、また同じことをくり返していました。
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しばらく間を置いては又それをやっている。
私は、何だろうと思って、目を細くしながら見つめていました。
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私は何だろうと思って、眼を細くしながら見まもっていた。
そして、それが二羽の小鳥であることに気づきました。
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そうしてそれ等が二羽の小鳥であるのを認めた。
その二羽は、つがいになりながら、ひさしのところまで一緒に転がってきては、そこから落ちると同時に、さっと二つに分かれて飛んでいくのでした。
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それ等が交尾をしながら、庇のところまで一緒に転がって来ては、そこから墜落すると同時に、さあと二叉に飛びわかれているのだった。
同じ小鳥たちなのか、他の小鳥たちなのかわかりませんが、それが何度もくり返されていました。――
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同じ小鳥たちなのか、他の小鳥たちなのか分らないが、それが何回となく繰り返されている。――
これは私の物語の中に取り入れてもいいぞ、と思いながら、私はそれをあきずに見つめていました。――
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これは私の物語の中にとり入れてもいいぞ、と思いながら私はそれを飽かずに見まもっている。――
こんなふうにして、自分が見ているものが、自分が考えている物語の中へ、そのままエピソード(出来事)として溶け込んできます。そして、ともすると自分から逃げていってしまいそうになる物語の主題を、少しずつ発展させているように見えるのです。……
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こんな風にして、自分の見つつあるものが自分の構想しつつある物語の中へそのままエピソオドとして溶け込んで来ながら、自分からともすると逃げて行ってしまいそうになる物語の主題を少しずつ発展させているように見える……。
アカシアの花が、私の物語の中に入ってきたのも、そんなふうでした。
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アカシアの花が私の物語の中にはいって来たのもそんな風であった。
その花が咲き出す頃には、ちょうど私の田舎暮らしも、そのクライマックス(山場)に達するのではないか――そんな予感がしていました。そして、例の野ばらのつぼみの大きさや数を調べながら、あのサナトリウムの裏の生け垣の前を、何度も行ったり来たりしていました。けれど、そちらにばかり気を取られていた私は、そこから先の、生け垣の代わりに川べりの道を縁どっている、アカシアの並木には、まったく注意を払ったことがありませんでした。
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それの咲き出す頃が丁度私の田舎暮しもそのクライマックスに達するのではないかというような予覚のする、例の野薔薇の莟の大きさや数を調べながら、あのサナトリウムの裏の生墻の前は何遍も行ったり来たりしたけれど、その方にばかり気を奪られていた私は、其処から先きの、その生墻に代ってその川べりの道を縁どりだしているアカシアの並木には、ついぞ注意をしたことがなかった。
ところが、ある日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、行く手の小道が、いつもとひどく違っているように見えました。
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ところが或る日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、私の行く手の小径がひどく何時もと変っているように見えた。
私はしばらくの間、そこから受けた不思議な印象に、とまどいました。
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私はちょっとの間、それから受けた異様な印象に戸惑いした。
私は、それまでアカシアが花をつけているところを見たことがなかったので、それが、私の知らないうちに、そんなにたくさんの花を一度に咲かせているからだとは、すぐには信じられなかったのです。
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私はそれまでアカシアの花をつけているところを見たことがなかったので、それが私の知らないうちにそんなにも沢山の花を一どに咲かしているからだとは容易に信じられなかったのであった。
あの、か弱そうな枝ぶりや、繊細な楕円形(だえんけい)のやわらかい葉などから、私が無意識のうちに想像していた花と、それらがまったく似ていなかったからかもしれません。
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あのかよわそうな枝ぶりや、繊細な楕円形の軟かな葉などからして私の無意識の裡に想像していた花と、それらが似てもつかない花だったからであったかも知れない。
そして、それらの花を見たばかりの時は、誰かがいたずらをして、その枝々に、おびただしい数の小さな真っ白なちょうちんのようなものをぶらさげたのではないか――そんな、いかにも突然な印象を受けたのでした。
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そしてそれらの花を見たばかりの時は、誰かが悪戯をして、その枝々に夥しい小さな真っ白な提灯のようなものをぶらさげたのではないかと言うような、いかにも唐突な印象を受けたのだった。
やっと、それらがアカシアの花であることを知った私は、その日は、その小道をずっと先の方まで行ってみることにしました。
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やっとそれらがアカシアの花であることを知った私は、その日はその小径をずっと先きの方まで行ってみることにした。
アカシアの木立の多くは、時には花の先が私の帽子とすれすれになるくらい低く、ぷんぷんと匂わせながら花を垂らしていました。けれど、中には、まだその木がやっと私の背丈くらいしかなくて、ほとんど折れそうなくらいしなりながら、自分の花を支えているものもありました。その横を通り過ぎる時は、私はなんだか切ないような気持ちにさえなりました。
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アカシアの木立の多くは、どうかするとその花の穂先が私の帽子とすれすれになる位にまで低くそれらの花をぷんぷん匂わせながら垂らしていたが、中にはまだその木立が私の背ぐらいしかなくって、それが殆ど折れそうなくらいに撓いながら自分の花を持ち耐えている傍などを通り過ぎる時は、私は何んだか切ないような気持にすらなった。
アカシアの並木は、どこまで行っても、尽きないように見えました。
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アカシアの並木は何処まで行っても尽きないように見えた。
私はとうとう、ある大きなアカシアを選んで、その前に立ち止まりました。
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私はとうとう或る大きなアカシアを撰んでその前に立ち止まった。
私は、何とかして、これらのアカシアの花が私にあたえた、さっきの突然な印象を、自分自身の言葉に翻訳(ほんやく)しておきたいと思ったのです。
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私は何とかしてこれらのアカシアの花が私に与えたさっきの唐突な印象を私自身の言葉に翻訳して置きたいと思ったのだ。
それらの花のまわりには、数えきれないほどのミツバチが群がり、ぶんぶんとうなり声をたてていました。
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それらの花のまわりには無数の蜜蜂がむらがり、ぶんぶん唸り声を立てていた。
けれど、そのミツバチたちが、空気の中のどこでうなっているのかは、はっきりしませんでした。それに私は、さっきから自分の印象をまとめようとして、そればかりに夢中になっていたので、そのうなり声に、ふと気づくたびに、なんだか自分自身の頭が、ひどい混乱のあまり、そんなふうにうなり出しているのではないか――そんな気さえしたのでした。……
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しかしそれらの蜜蜂は空気のなかで何処で唸っているともつかなかったし、それに私はさっきから自分の印象をまとめようとしてそれにばかり夢中になっていたので、そんな唸り声にふと気づく度毎に、何んだか私自身の頭脳がひどい混乱のあまりそんな具合に唸り出しているのではないかと言うような気もされた。……
⁂
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⁂
その村の東北に、一つの峠(とうげ)がありました。
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その村の東北に一つの峠があった。
その古い道には、樅(もみ)やぶななどが、暗くなるほど、うっそうと茂っていました。
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その旧道には樅や山毛欅などが暗いほど鬱蒼と茂っていた。
そして、それらの古い幹には、藤や山ぶどう、あけびなどのつる草が、ずいぶんややこしい絡まり方をしながら、はびこっていました。
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そうしてそれらの古い幹には藤だの、山葡萄だの、通草だのの蔓草が実にややこしい方法で絡まりながら蔓延していた。
私が最初、そんなつる草に気づいたのは、藤の花が、思いがけない樅の枝からぶら下がっているのにびっくりして、それから、やっとその樅にからみついている藤づるに気づいてからでした。
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私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が思いがけない樅の枝からぶらさがっているのにびっくりして、それからやっとその樅に絡みついている藤づるを認めてからであった。
そう言えば、そんな藤づるの多いことといったら!
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そう言えば、そんなような藤づるの多いことったら!
それらの藤づるに絡みつかれている樅の木が、前よりも大きくなったので、そのしつこいつるがすっかり木の肌にめり込んでいました。それが、いかにも苦しそうに身もだえしているように見えて、それを見つめていると、私は気味悪くなってくるほどでした。――
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それらの藤づるに絡みつかれている樅の木が前よりも大きくなったので、その執拗な蔓がすっかり木肌にめり込んで、いかにもそれを苦しそうに身もだえさせているのなどを見つめていると、私は無気味になって来てならない位だった。――
ある朝、私はいつもの気まぐれから、峠まで登った帰り道、その峠の上にある小さな集落の子ども二人と、道づれになって降りてきたことがありました。
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或る朝、私は例の気まぐれから峠まで登った帰り途、その峠の上にある小さな部落の子供等二人と道づれになって降りて来たことがあった。
その時、その子どもたちは、いろいろな木にからまっている、他の山ぶどうやあけびなども、私に教えてくれました。
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その折のこと、その子供たちはいろいろな木に絡まっている、もっと他の山葡萄だの、通草だのをも私に教えてくれたのだった。
子どもたちは、秋になるとそれらの実を採りに来るので、それらのある場所を、ほとんど暗記していました。
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子供たちは秋になるとそれ等の実を採りに来るので、それ等のある場所を殆んど暗記していた。
それから、また、小鳥の巣のある場所も、私に教えてくれました。
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それからまた小鳥の巣のある場所を私に教えてくれたりした。
彼らは、峠で力餅(ちからもち)などを売っている家の子どもたちでした。
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彼等は峠で力餅などを売っている家の子供たちであった。
大きい方の子は十一、二歳で、小さい方の子は七歳くらいでした。
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大きい方の子は十一二で、小さい方の子は七つぐらいだった。
三人兄弟だそうですが、その真ん中の子が、村の小学校からまだ帰らないので、峠の下まで迎えに行くのだと言っていました。
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三人兄弟なのだが、その真ん中の子が村の小学校からまだ帰らぬので峠の下まで迎えに行くのだと言っていた。
子どもたちは、何を見つけたのか、急に私からはなれて、林の中へ、下草をかき分けながら駆けこんでいきました。
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子供たちは何を見つけたのか急に私を離れて、林のなかへ、下生えを掻き分けながら駈けこんでいった。
そして、一本のやや大きな低い木の下に立ち止まると、手をのばして、その枝から赤い実をもぎとっては、口いっぱいにほおばっていました。
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そうして一本のやや大きな灌木の下に立ち止まると、手を伸ばしてその枝から赤い実を揉ぎとっては頬張っていた。
それは何の実だと聞いたら、「グミだ」
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それは何の実だと訊いたら、「茱萸だ」
と彼らは答えました。
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と彼等は返事をした。
そして、彼らはときどき私の方をふり向いて手招きをしましたが、私が下草にじゃまされて、なかなかそこまで行けずにいると、大きい方の子が、その実を少しだけ、私のために持ってきてくれました。
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そうして彼等はときどき私の方をふり向いて手招きをしたが、私が下生えに邪魔をされてなかなか其処まで行くことが出来ずにいると、大きい方の子がその実を少しばかり私のために持って来てくれた。
私は、子どもたちのまねをして、それを一つずつ、こわごわ口に入れてみました。
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私は子供たちの真似をしてそれを一つずつこわごわ口に入れてみた。
なんだか酸っぱいものでした。
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なんだか酸っぱかった。
しかし私は、それを全部がまんして飲み込みました。
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私はしかしそれをみんな我慢をして嚥み込んだ。
そして、子どもたちが、低い枝にあった実をすっかり食べつくしてしまうと、今度は、高くてなかなか手の届きそうもない枝を、しきりに引き寄せようとしては失敗していました。私はそれを、根気よく、むしろ面白いものでも見ているように、見入っていました。
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そうして子供たちが低い枝にあった実をすっかり食べつくしてしまうと、今度は高くて容易に手の届きそうもない枝をしきりに手ぐろうとしては失敗しているのを、私は根気よく、むしろ面白いものでも見ているように見入っていた。
子どもたちは、また、林の中のいろいろな抜け道を、私に教えてくれようとしました。
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子供たちはまた林の中のいろいろな抜け道を私に教えてくれようとした。
そして、急な草深い斜面を、どんどん駆け下りていきました。
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そうして急な草深い斜面をずんずん駈け下りて行った。
私は、その後から、あぶなっかしい足取りでついていきました。
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私はそのあとから危かしそうな足つきでついて行った。
ほとんどどこからも日が差し込んでこないくらい、木立が密生して、枝と枝とが入り混じっているところもありました。
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ほとんど何処からも日の射し込んで来ないくらい、木立が密生して枝と枝との入りまじっているところもあった。
かと思うと、急に目の前が開けて、少しの間、何も見えなくなるくらい明るい、林の中の空き地があったりしました。
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かと思うと急に私たちの目の前が展けて、ちょっとの間何も見えなくなるくらい明るい林のなかの空地があったりした。
私たちが、そういう林の中の空き地の一つにたどりついた時、突然、一つの小石が、どこからともなく飛んできて、私たちの足もとに落ちました。
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私たちがそういう林の中の空地の一つへ辿り着いた時、突然、一つの小石が何処からともなく飛んで来て私たちの足許に落ちた。
小石が飛んできたらしい方を、私たちがまぶしそうにふり向いたとたん、数本のぶなを背にした、ほとんど垂直なくらい急な傾き(勾配・こうばい)のわら屋根を持った、窓も何もないような、変わった小屋のかげに、小さな黒い人かげが隠れるのを、私たちは見ました。
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その飛んで来たらしい方を私たちがまぶしそうに振り向いた途端、数本の山毛欅を背にしながら、ほとんど垂直なほど急な勾配の藁屋根をもった、窓もなんにもないような異様な小屋の蔭へ、小さな黒い人影が隠れるのを私たちは認めた。
それを知っても、しかし、私の小さな連れの子たちは、何もののしろうとはしませんでした。むしろ、私に向かって何か言いわけでもしたいような、そしてそれを言い出していいものかどうかとためらっているような、複雑な表情で、私の方を見上げていました。それで私は、いぶかしそうに、
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それを知っても、しかし、私の小さな同伴者たちは何も罵ろうとせず、却って私に向って何かその言訣でもしたいような、そしてそれを私に言い出したものかどうかと躊躇っているような、複雑な表情をして私の方を見上げているので、私は不審そうに、
「あの子は、頭がおかしいのかい?」
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「あの子は白痴なのかい?」
と聞きました。
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と訊いた。
子どもたちは、顔を見合わせていました。
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子供たちは顔を見合わせていた。
それから、大きい方の子が、小さな声で私に答えました。
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それから大きい方の子が低声で私に答えた。
「そうじゃないよ。――あれは気がふれた娘さんなんだ」
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「そうじゃないよ。――あれあ気ちがいの娘だ」
「ふん、それであんな変な家にいるんだね?」
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「ふん、それであんな変な家にいるんだね?」
「あれは氷倉(こおりぐら・氷を保存しておく小屋)だよ。――あの向こうの家なんだ」
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「あれあ氷倉だ。――あの向うの家だ」
しかし、その氷倉だという、変わった格好のわら小屋にさえぎられて、家らしいものの一部分さえ見えないところを見ると、おそらく、小さな掘っ立て小屋か何かにちがいありませんでした。
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しかしその氷倉だという異様な恰好をした藁小屋に遮ぎられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを見ると、恐らく小さな掘立小屋かなんかに違いなかった。
「気がふれたのは、お父さんがかい?」
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「気ちがいっておとっつぁんがかい?」
「……」
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「……」
兄も弟も、同時に首を横に振りました。
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兄も弟も同時に頭を振った。
「じゃ、お母さんの方なんだね?」
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「じゃ、おっかさんの方だね?」
「うん……」
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「うん……」
そう答えてから、兄は弟の方をちらちら見ながら、誰に言うともなく言いました。
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そう答えてから、兄は弟の方を見い見い誰に言うともなく言った。
「ときどき川の中で、どなっているなあ」
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「ときどき川んなかで呶鳴っているなあ」
「おれも一度、向こうの川で見たよ」
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「おれも一度向うの川で見た」
弟の返事でした。
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弟の返事である。
「向こうって、どこだ?」
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「向うって何処だ?」
「向こうの方だよ」
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「向うの方だ」
弟は、なんだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、ぼんやりと、ある方向を私に指して見せました。
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弟は何んだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、漠然と或る方向を私に指して見せた。
「そうか」
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「そうか」
私は、わかったようなふりをしました。
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私はわかったような振りをした。
「……お父さんは、何をしているんだ?」
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「……おとっつあんは何をしているんだ?」
「木こりだなあ」
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「木樵りだなあ」
と、今度はまた、兄が弟の方をちらちら見ながら言いました。
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とこんどはまた兄が弟の方を見い見い言った。
「変なお父さんだ」
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「変なとっつあんだ」
弟は、顔をしかめながら、それに答えました。
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弟は顔をしかめながらそれに答えた。
氷倉のかげから、ふたたびちらりと、小さな女の子らしい顔が出たようでした。けれど、私たちの方からは、ちょうど逆光(ぎゃっこう)だったので、よく見分けないうちに、その顔はすぐに引っ込んでしまいました。
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氷倉の蔭から、再びちらりと小娘らしい顔が出たようだったけれど、私たちの方からは丁度逆光線だったので、よくもそれを見分けないうちに、その顔はすぐ引っ込んでしまった。
それっきり、その女の子は顔を出しませんでした。
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それっきりその小娘は顔を出さなかった。
ただ、私たちはそれから間もなく、変な叫び声を耳にしました。
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ただ私たちはそれから間もなく異様な叫びを耳にした。
それは、その女の子が私たちをののしったのか、それとも、私たちには見えない小屋の中から、その女の子に向かって叫ばれたのか、それとも、その裏の林の中で、山ばとでも鳴いたのでしょうか。
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それはその小娘が私たちを罵ったのか、それとも私たちには見えぬ小屋の中からその小娘に向ってそれが叫ばれたのか、それとも又、その裏の林のなかで山鳩でも啼いたのだろうか?
ともかく、その得体の知れない声の調子だけが、妙に私の耳にこびりつきました。――
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ともかくも、その得体の知れぬアクセントだけが妙に私の耳にこびりついた。――
けれど、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空き地を横切っていきました。
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が、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空地を横切って行った。
私たちは、それから、ふたたび林の中へ入りました。
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私たちはそれから再び林の中へ這入った。
その中へ入ると、急に薄暗くなったようでした。けれど、私たちの目の奥には、さっきの空き地の明るさがこびりついているせいか、しばらくの間、私たちのまわりには、なんだか変わったうす明かりが漂っているように見えました。
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その中へ這入ると急に薄暗くなったようだけれど、私たちの眼底にはいまの空地の明るさがこびりついているせいか、暫らく私たちの周りには一種異様な薄明りが漂っているように見えた。
そんな林の中を、どんどん先になって駆け下りていく子どもたちの後についていきながら、彼らが、まだなんとなく興奮しているらしいのを、私はぼんやり感じていました。
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そんな林の中をずんずん先きになって駈け下りて行く子供たちの跡について行きながら、彼等がいまだに何となく昂奮しているらしいのを、私は漠然と感じていた。
そして、こんなふうに彼らと一緒に峠を下りていく私は、いったい、彼らにはどんな人間に見えているのだろう。
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そうして、こんな風に彼等と一緒に峠を下りて行く私は一体彼等にはどんな人間に見えているのだろう?
と、そんな今の自分自身にも、興味を持ったりしました。
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とそういう現在の私自身にも興味を持ったりした。
峠を下りきったところにかかっている白い橋の上に、小さな男の子がひとり、かばんを背負ったまま、しょんぼりと立っていました。
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峠を下り切ったところに架っている白い橋の上に、小さな男の子が一人、鞄を背負ったまま、しょんぼりと立っていた。
私と一緒にいる子どもたちが、その男の子に、同時に声をかけました。
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私の連れ立っている子供たちがその男の子に同時に声をかけた。
彼らを見ると、その男の子は、にっこりとほほえみました。
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彼等を見るとその男の子はにっこりと微笑した。
けれど、私にも気づくと、人見知りでもするように、橋の下の谷川の方へ、その小さな顔をそむけました。
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が、私にも気がつくと、人見知りでもするかのように、橋の下の渓流の方へその小さな顔をそむけた。
私も私で、しばらくその谷川を、ぼんやり見下ろしていました。
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私も私で、しばらくその渓流をぼんやり見下ろしていた。
さっき、林の中の空き地で、子どものひとりがぼんやりと指した、そのずっと上流にあたる方角を、心の中に思いえがきながら。
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さっき林のなかの空地で子供の一人が漠然と指したそのずっと上流にあたる方を心のうちに描きながら。
それから私は、三人の子どもたちに、小銭を少しあげて、彼らと別れました。
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それから私は三人の子供たちに小銭をすこし与えて、彼等と別れた。
⁂
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⁂
雨が降り出しました。
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雨が降り出した。
そして、それは降り続きました。
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そうしてそれは降り続いた。
とうとう、梅雨(つゆ)の季節に入ったのでした。
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とうとう梅雨期に入ったのだった。
そんな雨が、ちょっと小やみになり、峠の方がうす明るくなって、そのまま晴れ上がるかと思うと――峠の向こう側から、やっとはい上ってきたように見える濃い霧(濃霧・のうむ)が、峠の上一面におおいかぶさります。やがて、その霧が、さあっと一気に駆け下りてきて、たちまち村じゅうに広がるのでした。
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そんな雨がちょっと小止みになり、峠の方が薄明るくなって、そのまま晴れ上るかと思うと、峠の向側からやっと匍い上って来たように見える濃霧が、峠の上方一面にかぶさり、やがてその霧がさあと一気に駈け下りて来て、忽ち村全帯の上に拡がるのであった。
時には、そういう霧がどんどんうすらいでいって、雲の切れ目から、すみれ色の空がちらりと見えることもありました。けれど、それはほんの一瞬だけで、霧はまた、しだいに濃くなり、いつの間にか小雨に変わってしまっていました。
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どうかすると、そういう霧がずんずん薄らいで行って、雲の割れ目から菫色の空がちらりと見えるようなこともあったが、それはほんの一瞬間きりで、霧はまた次第に濃くなって、それが何時の間にか小雨に変ってしまっていた。
私は、その暗い雲の切れ目からちらりと見える、何とも言えずきれいな、そのすみれ色が、たまらなく好きでした。
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私はその暗い雲の割れ目からちらりと見える、何とも言えずに綺麗な、その菫色がたまらなく好きであった。
そして、ほとんど毎日の日課のようにしていた、あの長い散歩が、雨のためにできなくなっている私にとって、たとえ一瞬でもそれが見られたら、それだけで、その日の退屈さ(無聊・ぶりょう)が、うめあわされたようにさえ思えるほどでした。――
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そうしてそれは、殆んど日課のようにしていた長い散歩が雨のために出来なくなっている私にとっては、たとえ一瞬間にもしろそれが見られたら、それだけでもその日の無聊が償われたようにさえ思われた程であった。――
「おまえのかわいい目のすみれ、か……」
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「おまえの可愛いい眼の菫、か……」
そんな、うろ覚えのハイネの詩の一節が、ふと私の口をついて出ます。
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そんなうろおぼえのハイネの詩の切れっぱしが私の口をふと衝いて出る。
「ふん、あいつの目が、こんなすみれ色じゃなくて、幸せというものだ。そうでなかったら、おれもハイネのように、こうつぶやきながら、嘆いてばかりいなきゃならないだろう。――おまえの目のすみれは、いつもきれいに咲くけれど、ああ、おまえの心だけは枯れ果てた……」
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「ふん、あいつの眼が、こんな菫色じゃなくって仕合せというものだ。そうでなかった日にや、おれもハイネのようにこう呟やきながら嘆いてばかりいなきゃなるまい。――おまえの眼の菫はいつも綺麗に咲くけれど、ああ、おまえの心ばかりは枯れ果てた……」
そんな、うっとうしいような日々でも、相変わらず、私の小説の主題は、私からともすると逃げていきそうになります。けれど、私はそれを、辛抱づよく追いかけまわしていました。
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そんな鬱陶しいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば辛抱づよく追いまわしている。
私が最初に考えていた、自分自身を主人公にした物語を書くことは、とっくにあきらめていました。けれど、その代わり、物語の主人公には、いったいどんな人物を選んだらいいのか、そこからもう迷っていたのです。……
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私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……
どうにか、片方のおばあさんは、私の物語の中に登場させることができても、もう一方は、台所で皿の音ばかりさせているだけで、いつまでたっても、ヴェランダに出てこようとしない――そんな二人のおばあさんの話。冬になると、すっかり雪に埋まってしまう、こんな寒い村で、ひとりの看護婦を相手に暮らしている、年配の医師と、その美しい野ばらの話。ときどき気が狂って、谷川の中へ飛びこんでは、ののしりわめいているという、木こりの妻と、その娘の話。――そういう人たちの、とりとめもない面影(幻像・イマアジュ)ばかりが、私の心に、ふと浮かんでは、ふと消えていきます……
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どうにか一方の老嬢は私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所で皿の音ばかりさせているきりで、何時まで経ってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪に埋まってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手に暮らしている老医師とその美しい野薔薇の話、ときどき気が狂って渓流のなかへ飛び込んでは罵りわめいているという木樵の妻とその小娘の話、――そういうような人達のとりとめもない幻像ばかりが私の心にふと浮んではふと消えてゆく……
ある午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外国人たちが入りだした、別荘の並ぶ水車道のあたりを、私が散歩していました。すると、チェコスロバキア公使館の別荘の中から、誰かがピアノを練習しているらしい音が聞こえてきました。
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或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た。
私は、その隣の、まだ空いている別荘の庭に入りこんで、しばらくそれに耳をかたむけていました。
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私はその隣りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾けていた。
バッハのト短調のフーグ(遁走曲)らしいものでした。
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バッハのト短調の遁走曲らしかった。
あの一つの旋律(せんりつ・メロディー)が、くり返しくり返しされているうちに、曲が少しずつ展開していきます。それが、さらに練習のために、三、四回ずつ同じところをくり返されているので、いっそう、ゆらゆらと定まらないものになっていました。……
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あの一つの旋律が繰り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……
それを聴いているうちに、私は、まるで何かにとりつかれたような、気味の悪い笑いを浮かべ始めていました。
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それを聴いているうちに、私はまるで魔にでも憑かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。
そのピアノの音の、ゆらゆらと定まらない感じが――このごろ、私が小説を考えて悩んでいて、そのうちに、それがどうやら少しずつ発展してきているような気もする、そんな私のもどかしい気持ちに、そっくりだったからです。
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そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃の私の小説を考え悩んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。
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ある朝、「また雨らしいな……」
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或る朝、「また雨らしいな……」
と、ためいきをつきながら、私が雨戸をあけようとしたとたん、その節穴(ふしあな)から明るい外の光がもれてきていました。それが、障子の上に、くっきりとした小さな楕円形の額縁をつくり、その中に、数本の落葉松の小さな絵(微細画・びさいが)を、逆さまにえがいていました。それに気づくと、私は急に胸をはずませて、できるだけ早くと思ったせいで、かえって手間取りながら、雨戸を開けました。
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と溜息をつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その節穴から明るい外光が洩れて来ながら、障子の上にくっきりした小さな楕円形の額縁をつくり、そのなかに数本の落葉松の微細画を逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのため反って手間どりながら雨戸を開けた。
私が、寝床の中で雨の音だと思っていたのは、それらの落葉松の細かい葉に、たまっていた雨のしずくが、絶えず屋根の上に落ちる音だったのです。
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私が寝床のなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉に溜っていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。
私は、さて、まぶしそうな目つきで、青空を見上げました。
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私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。
私は、寝間着のまま、一度庭の中へ出てみましたが、それからもう一度部屋に戻り、フランネルの散歩着に着替えて、早朝の外へと出ていきました。
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私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に着換えながら、早朝の戸外へと出て行った。
私は、教会の前を曲がって、その裏手のとちの林を突き抜けていきました。
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私は教会の前を曲って、その裏手の橡の林を突き抜けて行った。
私は、ときどき青空を見上げました。
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私はときどき青空を見上げた。
いかにもまぶしそうに、顔をしかめながら。
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いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。
私が、小さな美しい流れに沿って歩き出すと、その道にずっと笹(ささ)の縁どりをつけている野いちごにも、ちょっと人目につかないような花が、いっぱい咲いていました。それが、まるで、何かすばらしいものの、ほんの小さな前ぶれ(前奏曲・プレリュード)だと言うように、私を迎えました。
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私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その径にずっと笹縁をつけている野苺にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴らしいもののほんの小さな前奏曲だと言ったように、私を迎えた。
私は、あの木の橋の上まで来ると、どういうつもりか自分でもわからないまま、二、三度、その上を行ったり来たりしました。
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私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。
それから、ようやく、まるで足が地面につかないような足取りで、サナトリウムの裏手の生け垣に沿って歩いていきました。
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それから、漸っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の生墻に沿うて行った。
私は、最初のいくつかの野ばらの茂みを、ある種のとまどいの中で、うっかり見過ごしてしまったことに気づきました。
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私は最初のいくつかの野薔薇の茂みを一種の困惑の中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。
それに気づいた時には、すでに私は、それらの花が発している――そして、雨上がりのしめった空気のために、一か所にただよったまま散らばらずにいる――異常な香りの中に、すっかり包まれてしまっていました。
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それに気がついた時は、既に私は彼等の発散している、そして雨上りの湿った空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常な香りの中に包まれてしまっていた。
私は、それらの白い小さな花を見るよりも先に、その香りの方を、最初に知ってしまったのです。
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私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。
しかし私は、立ち止まろうとはせず、なおも歩き続けながら、今すれちがいつつある一つの野ばらの上に、おずおずとした、最初の視線を投げかけました。
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しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。
私は、私の胸のあたりから、何かをうったえでもしたいような目つきで、私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初は、二つ三つほどの、白い小さな花しか、見つけられませんでした。
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私は、私の胸のあたりから何かを訴えでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めたきりだった。
けれど、その次の瞬間には、私は、その同じ茂みの中に、ほとんど二、三十もの花と、それとほとんど同じ数の、半分開きかかったつぼみとを、数えることができました。
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が、その次の瞬間には、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかった莟とを数えることが出来た。
それは、ほんのわずかな間でしたが、そんなふうに、自分の視線の中に自分自身を集中させてしまってからというもの、あんなに群がっていたその花が、もう、さっきのようには、いい匂いがしなくなっていることに、私は驚きました。
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それはごく僅かの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにも簇がっているそれ等の花がもう先刻のように好い匂がしなくなってしまっていることに私は愕いた。
そして、改めてそれをかごうとすると、そうすればするほど、それはますます匂わなくなっていくように見えました。――
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そうして改めてそれを嗅ごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。――
私は、注意深く歩き続けながら、次々といくつかの野ばらの木とすれちがっていきましたが、とうとう、いつかレエノルズ博士が身をかがめていた、あの茂みの前まで来ました。
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私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身を跼めていた一つの茂みの前まで来た。
私は思わず、そこに足を止めました。――
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私は思わずそこに足を停めた。――
そして私は、その野ばらの前で、ただぼんやりと立ちつくし、あとで思い出そうとしても思い出せないようなことばかり、考えていました。
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そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然として、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。
どれよりも多くの花を咲かせているように見える、その野ばらと、そっくり同じものを、どこかで一度見たことがあるように思えて、それを、しきりに思い出そうとしていたようでもありました。――
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どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを何処かで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。――
それは、すこし長くぼんやりしたあとに、しばしば私にやってくる、ある独特の錯覚でした。
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それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の錯覚であった。
あまりにぼんやりしすぎて、今この瞬間の感じがなくなってしまい、私は、その今この瞬間そのものを、しきりに思い出そうとして、あせっているのかもしれませんでした。――
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放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとして焦っているのかも知れなかった。――
それから私は、ふたたび我に返って、歩き出しました。
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それから私は再び我に返って歩き出した。
私が沿って歩く生け垣には、それらの野ばらが、同じくらいの高さの、他の低い木々の間に混じりながら、少しずつ間をあけて並んでいました。
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私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の灌木の間に雑りながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。
まるで、それらが、何か秘密の法則にしたがって、そう並べられているかのように。
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あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。
そして、その微妙な間かく(間歇・かんけつ)が、ほとんど足が地面につかないような足取りで歩いている私の中に、いつの間にか、ほとんど音楽のようなリズムの効果を生み出していました。……
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そうしてその微妙な間歇が、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……
そして、それに似たある思い出を、今度はさっきとちがって、はっきりと私の中によみがえらせるのでした。……
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そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、鮮明に私のうちに蘇らせるのであった。……
十年ぐらい前の、ある夏休みのこと。私が初めてこの村へ来た時、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人だけ通れるかどうかという、狭くて小さな坂道を、上っていこうとしていました。その途中で、坂の上の方から、数人の少女たちが、笑いさざめきながら、駆け下りてくるのに出会いました。
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十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人だけ通れるか通れない位の、狭い、小さな坂道を上って行こうとした途中で、私はその坂の上の方から数人の少女たちが笑いさざめきながら駈け下りるようにして来るのに出遇った。
私は、それに気づくと――そういう少女たちとの出会いは、いつも夢見ていたことだったのに――途中から引き返してしまおうかと、本気で思いました。
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私はそれを認めると、そういう少女たちとの出会は私の始終夢みていたものであったにも拘らず、私はよっぽど途中から引っ返してしまおうかと思った。
私は、ためらっていました。
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私は躊躇していた。
そんな私を見ると、少女たちは、いっそう笑い声を高くしながら、私の方へどんどん駆け下りてきました。
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そういう私を見ると、少女たちは一層笑い声を高くしながら私の方へずんずん駈け下りて来た。
そんなところで引き返したりしたら、よけいに自分が彼女たちに、こっけいに見えるのではないか――私は、そんなことを考え出していました。
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そんなところで引っ返したりすると余計自分が彼女たちに滑稽に見えはしまいかと私は考え出していた。
そこで私は、思い切って、がむしゃらにその坂を上っていきました。
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そこで私は思い切って、がむしゃらにその坂を上って行った。
すると、今度は少女たちの方が、急に黙ってしまいました。
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するとこんどは少女たちの方で急に黙ってしまった。
そして、やっと笑うのをがまんしているとでも言うような、意地悪そうな目つきをして、道ばたの、ちょうど彼女たちの背丈くらいある低い木の茂みの間に、ひとりひとり半分体を入れながら、私が通り過ぎるのを待っていました。
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そうしてやっと笑うのを我慢しているとでも言ったような意地悪そうな眼つきをして、道ばたの丁度彼女たちのせいぐらいある灌木の茂みの間に一人一人半身を入れながら、私の通り過ぎるのを待っていた。
私は、彼女たちの前を、できるだけ早く通ろうとしました。けれど、それがかえって長い時間かかることになり、心臓をどきどきさせながら、通り過ぎていきました。……
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私は彼女たちの前を出来るだけ早く通ろうとして、そのため反って長い時間かかって、心臓をどきどきさせながら通り過ぎて行った。……
その瞬間、私は、自分のまわりに、さっきからふたたびただよいだしている異常な香りに気づいて、驚きました。
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その瞬間私は、自分のまわりにさっきから再び漂いだしている異常な香りに気がついて愕いた。
私が、そんなふうに、自分の視線を自分自身の内側に向けて、ひょいと野ばらのことを忘れていたら、そんな気まぐれな私をとがめるかのように、その花たちが、さっきの香りを、私に返してくれたのでした。
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私がそんな風に私の視線を自分自身の内側に向け出して、ひょいと野薔薇のことを忘れていたら、そういう気まぐれな私を責め訴えるかのように、その花々が私にさっきの香りを返してくれたのだった。
そう、あの少女たちが作っていた生け垣は、ちょうどお前たちにそっくりだったのだ!
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そう、それ等の少女たちの形づくった生墻はちょうどお前たちにそっくりだったのだ!
……
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……
私はその朝、どうしたわけか、クレゾール(消毒薬)の匂いがぷんぷんする、サナトリウムの手前で引き返しました。
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私はその朝はどうしたのかクレゾオルの匂のぷんぷんするサナトリウムの手前から引返した。
その向こうには、思いがけない美しさで、しばらく私の心をうばっていたアカシアの花が、一週間近くの雨のために、すっかり散っていました。それが、川べりの道の上に、ところどころ、ひとかたまりになって落ちているのが、ずっと先の方まで見わたせました。
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その向うには、その思いがけない美しさでひととき私の心を奪っていたアカシアの花が、一週間近い雨のためにすっかり散って、それが川べりの道の上にところどころ一塊りになりながら落ちているのがずっと先きの先きの方まで見透されていた。
それから数日間、今度は、お天気のいい日ばかりが続いていました。
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それから数日間、こんどはお天気のいい日ばかりが続いていた。
毎朝、私は起きるとすぐ、その辺りまで散歩に行きました。
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毎朝私は起きるとすぐその辺まで散歩に行った。
しかし私は、その花をつけた生け垣の前に、あまり長く立ちどまっていないで、そのまま沿って通り過ぎてしまうことの方が多かったのです。
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しかし私はその花をつけた生墻の前にあんまり長いこと立ちもとおっていないで、それに沿うて素通りして来るきりの方が多かった。
私は、言わば、ただ、その生け垣に、とびとびに群がりながら花をつけている野ばらが与えてくれる、音楽のような効果を楽しみさえすればよかったのですから。
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私は言わば、唯、その生墻に間歇的に簇がりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。
だから、ある時などは、それだけを楽しむために、私はわざと、よそを見ながら歩いたりしました。
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だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は故意とよそっぽを見ながら歩いたりした。
ある朝、私はそんなふうにサナトリウムの前まで行って、すぐそのまま引き返してくると、向こうの小さな木橋を渡って、ちょうど、その生け垣にさしかかったばかりの、レエノルズ博士の姿を見かけました。
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或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。
すぐ近くの自宅から、病院へ出勤してくる途中らしいのでした。
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すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。
片手に太いステッキを持ち、もう一方の手でパイプをにぎったまま、少し猫背になって、生け垣の上へ、心配そうな目を向けながら、私の方へ近づいてきました。
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片手に太いステッキを持ち、他の手でパイプを握ったまま、少し猫背になって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。
けれど、私に気づくと、急にそこから目をそらして、自分の前ばかりを見ながら歩き出しました。
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が、私を認めると、急にそれから目を離して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。
そんな気がしました。
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そんな気がした。
私も私で、そんな野ばらなど目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いていきました。
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私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。
そして私は、すれちがいざま、その老人の、焦点の合わないようなうつろな目つきの中に、おかしいほどのうろたえと、私を気づまりにさせずにはおかない、不機嫌さとを、見抜きました。
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そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点を失ったような空虚な眼差しのうちに、彼の可笑しいほどな狼狽と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌とを見抜いた。
それから数日後の、ある朝のことでした。
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それから数日後の或る朝だった。
だんだん夏らしい色を帯びてきた、美しい空が、私にだけ、突然、もの悲しく閉じられてしまったように見えました。
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だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しく閉されてしまったように見えた。
毎朝のようにその横を歩きながら、でも、よく注意して見ようとはしていなかった、野ばらの白い小さな花。それが、いつの間にか、ほとんど全部が虫に食われて、黄色っぽい茶色の、きたない斑点がたくさんできてしまっていることに、その朝、私は初めて気づいたのでした。
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毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部蝕ばまれて、それに黄褐色のきたならしい斑点がどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。
⁂
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……数年前までは、半分こわれかかった水車が、ごとごとと音を立てながら回っていた、小さな流れのほとりには、たいてい三、四十年前に外国人が建てたと言われる、古いバンガローが、雑木林の間に立ち並んでいました。けれど、そのあたりの小道は、行き止まりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと見分けがつかないほど、ややこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの頃は、ひとりで散歩をする時など、私は本当にまごついてしまうのでした。
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……数年前までは半分壊れかかった水車がごとごと音を立てながら廻っていた小さな流れのほとりには、その大抵が三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが雑木林の間に立ちならんでいたが、そこいらの小径はそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。
確かに抜け道らしいのですが、その小道は、突然、外国人たちがお茶などを飲んでいるヴェランダの、すぐ横を通ったりするのでした。
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確かに抜け道らしいんだが、その小径は突然外人たちのお茶などを飲んでいるヴェランダのすぐ横を通ったりするのだった。
そんな、私道なのか抜け道なのかわからないような、ある小道に、またしても足を踏み入れてしまった私は――私の背丈くらいある低い木の茂みの間から、不意に目の前が開けました。そこの突き当たりにヴェランダがあり、籐(とう)の寝いすに、ひとりの、うすい青色のハーフコートを着た少女が、ふさふさと髪を肩に垂らしたまま、けだるそうにもたれかかっているのが見えました。それだけでなく、その少女が、私の足音を聞きつけて、ひょいと私の方をふり向いたらしいのに気づいたとたん、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見もせずに、あわててそこから引き返してしまいました。――
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そういう私道なのか、抜け道なのか分からないような或る小径に又しても踏み込んでしまった私は、私の背ぐらいある灌木の茂みの間から不意に私の目の前が展けて、そこの突きあたりにヴェランダがあり、籐の寝椅子に一人の淡青色のハアフ・コオトを着て、ふっさりと髪を肩へ垂らした少女が物憂げに靠れかかっているのを認め、のみならず、その少女が私の足音を聞きつけてひょいと私の方を振り向いたらしいのを認めるが早いか、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見ずに慌てて其処から引っ返してしまった。――
その時、もし私が、その少女をもっとよく見ていたら――数日前、宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった、あの数人の少女たちのひとりであることに気づいて、私のうろたえは、もっと大きかったでしょう。……
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その時若し私がその少女をもっとよく見たら、それが数日前に私が宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった数人の少女たちの中の一人であることに気がついて、私の狼狽はもっと大きかっただろうに。……
このごろ刈ったばかりらしい、青々とした芝生が――あの時、少女が座っていたヴェランダを、こちらから見えなくさせていた、一面の低い木の茂みに代わっていました。そして、いま私がぼんやり立っているこの小道から、その芝生を、真っ白い柵がくっきりと区切っていました。……
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この頃刈ったばかりらしい青々とした芝生が、その時にはその少女の坐っていたヴェランダをこっちからは見えなくさせていた一面の灌木の茂みに代えられて、そうしていま私のぼんやり立っているこの小径からその芝生を真白い柵が鮮やかに区限って。……
そんなふうに、すべてが変わっていました。
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そのように、すべてが変っていた。
いま私にありありとよみがえってくる、最初に彼女に会った頃の、あのういういしい面影。そして、数か月前、最後に会った時の――その時から今も、私の目の前にちらついて離れない、彼女の冷たい面影。この二つは、なんと違って見えることでしょう!
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いま私にまざまざと蘇って来たところの、そう言うような、最初に私が彼女に会った当時の彼女のういういしい面影と、数カ月前、最後に会った時の、そしてその時から今だに私の眼先にちらついてならない彼女の冷やかな面影と、何と異って見えることか!
彼女の顔立ちそのものが、そんなに変わったのか、それとも、私の中でその面影が変わったのか、私にはわかりません。
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彼女の容貌そのものがそんなにも変ったのか、それとも私の中にその幻像が変ったのか、私は知らない。
しかし、何もかも――おそらく、私自身も、変わってしまったのです。……
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しかし何もかも、恐らく私自身も変ってしまったのだ。……
私はその時、向こうの方から、何か重そうなものをかついで、私の方へ近づいてくる人がいるのに気づきました。
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私はそのとき向うの方から何かを重そうに担いながら私の方に近づいてくる者があるのを認めた。
それは、シダを背負っている、宿のじいやでした。
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それは羊歯を背負っている宿の爺やであった。
私は、いつか彼が話していた、シダのことを思い出しました。
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私はいつか彼の話していた羊歯のことを思い出した。
私は、じいやの言うままに、彼について、その庭の中へおずおずと入っていきました。
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私は爺やの言うがままに、彼についてその庭の中へおずおずと這入って行った。
そして、じいやが庭の片すみに、そのシダを植えつけている間、私は黙って、ヴェランダの床板に腰かけていました。
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そうして爺やが庭の一隅にその羊歯を植えつけている間、私は黙ってヴェランダの床板に腰かけていた。
じいやは、ときどき、シダを植える場所について、私に意見を求めました。
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爺やはときどき羊歯を植えつける場所について私に助言を求めた。
そのたびに、私の胸は、しめつけられました。
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その度毎に、私の胸はしめつけられた。
ひととおり、みんな植えつけてしまうと、じいやは私のそばに腰を下ろしました。
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一通りみんな植えつけてしまうと、爺やは私のそばに腰を下ろした。
私があげた紙巻きたばこを、彼は耳にはさんだまま、それを吸おうとはせず、自分の腰から、なたまめ形のきせるを抜き出しました。
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私の与えた巻煙草を彼は耳にはさんだきり、それを吸おうとはせずに、自分の腰から鉈豆の煙管を抜いた。
私は、いつもの無口な習慣から抜け出そうと努力しながら、これもまた人当たりのよさそうなじいやを相手に、世間話をし始めました。
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私はふだんの無口な習慣から抜け出ようと努力しながら、これもまた機嫌買いらしい爺やを相手に世間話をし出した。
「じいやさん、峠の途中に、気がふれた女の人がいるそうだけれど、それは本当なのかい?」
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「爺やさん、峠の途中に気ちがいの女がいるそうだけれど、それあ本当なのかい?」
「へえ、かわいそうに、すこし頭が変なんでございますよ。――前は、うちでもちょいちょい何かあげたりしたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採ってきてくれたりしましたっけが……。ただ、その亭主というのが、たいへんな男でしてね。こっちからわざわざ何か持って行ってやったりすると、いつも酔っぱらっていて、『くれるっていうものなら、もらっとけばいいじゃねえか』と、女房が気の毒がるのを、しかりつけるような調子なんですから。……それで、こっちも、だんだん情がわかなくなってきて、このごろじゃ、もう、まったく構わないんです」
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「へえ、可哀そうにすこし気が変なんでございますよ、――先にはうちでもちょいちょい何かくれてやりましたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採って来てくれたりしましたっけが。……ただ、そいつの亭主というのが大へんな奴でしてね、こっちからわざわざ何か持って行ってやったりしますと、いつも酔払っていちゃあ、『くれるというものなら貰っといたらいいじゃねえか』と、嬶の気の毒がるのを叱りつけようてった調子なんですからね。……それで、こっちでもだんだん情が通わなくなって来て、この頃じゃ、もう、ちっとも構いませんです」
「何だってね、――その気がふれた人、ときどき川の中に飛び込むんだってね?」
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「何だってね、――その気ちがいって、ときどき川のなかへ飛び込むんだってね?」
「へえ、そんな人騒がせなこともときどきやりますが、あれはどうも、すこし芝居(狂言)らしいんで……」
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「へえ、そんな人騒がせなこともときどきやりますが、あれあどうも少し狂言らしいんで……」
「そうなのかい? ――どうして、また、そんな……」
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「そうなのかい? ――どうしてまたそんな……」
私は、ふと言葉につまりながら、あの林の中の空き地にあった、変わった格好の氷倉や、その裏の方で聞いた、得体の知れない叫び声を、思い浮かべました。
原文を見る
私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な恰好をした氷倉だの、その裏の方でした得体の知れない叫び声だのを思い浮べた。
そして、それらのものを、今もこんなにも普通ではないと私に感じさせている、峠の子どもたちの不思議な世界(領分)について、思いました。――
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そうしてそれ等のものを今だにこんなにも異常に私に感じさせている、峠の子供たちの不思議な領分の上を思った。――
子どもたちよ、たとえ大人たちには、その気の狂ったふるまいが、うそに見えようとも――お前たちは、そんな大人たちには閉ざされている、お前たちだけのその世界の中で、遊べるだけ遊んでいるがいい。
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子供たちよ、よし大人たちにはそういう狂行が贋ものに見えようとも、お前たちは、そんな大人たちには鎖されている、お前たちだけのその領分の中で遊べるだけ遊んでいるがいい。
じいやとの話は、私が展開させようと悩んでいた物語の、もうひとりの人物の上にも、思いがけない光を投げかけました。
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爺やとの話は、私の展開さすべく悩んでいた物語のもう一人の人物の上にも思いがけない光を投げた。
それは、あの、四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が、村じゅうの人たちから、ずっと憎まれ続けている、ということでした。
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それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。
ある年の冬、その年配の医師の自宅が、留守中に火事を起こしたこと。けれど、村の人たちは、誰ひとり、それを消し止めようとはしなかったこと。そのために、その医師が、二十数年もかかって研究して書いていた論文が、すっかり灰になってしまったこと――そんな話を、じいやはしました。じいやの話しぶりからすると、どうも、村の人が火をつけたようにも見えます。
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或る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。
(なぜ、そんなにその年配の医師が、村の人たちから憎まれるようになったのかは、じいやの話だけでは、よくわかりませんでした。けれど、私もまた、それをしつこく聞こうとはしませんでした。)――
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(何故そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗に尋ねようとはしなかった。)――
それ以来、その医師は、妻と子どもだけをスイスに帰してしまい、そして今もなお、どういうつもりなのか、頑固にひとりきりで、看護婦を相手に暮らしているのでした。……
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それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……
私は、そんな話をしているじいやの、表情のない顔の中に――かつて彼自身も、その年配の外国人に対して、ある種の敵意を持っていたらしいことが、ひとつの傷のように残っているのを、見てとりました。
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私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。
それは、村の人たちの愚かさの印なのでしょうか。それとも、その年配の外国人の、かたくなな気質のためなのでしょうか。
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それは村の者の愚かしさの印しであろうか、それともその老外人の頑な気質のためであろうか?
……そんな話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛していた、彼の病院の裏側の、野ばらの生け垣のことを、なんだか切ないような気持ちで思い出していました。
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……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇の生墻のことを何か切ないような気持になって思い出していた。
私は、ヴェランダの床板に腰かけたまま、じいやがまた、どこからかシダを運んでくるまで、さまざまな物思いにふけりながら、待っていました。
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私はヴェランダの床板に腰かけたきり、爺やがまた何処からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。
それから、また、じいやがシダを植えつけるのを、しばらく見守っていました。
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それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。
しかし、今度は、黙ったままで。
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しかし今度は黙ったままで。
そして私は、その老人が動かしている、なんだか気味悪いほど骨ばった手の甲を、目で追っているうちに、ふいと「巨人のいす」
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そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の甲を目で追っているうちに、ふいと「巨人の椅子」
のことを思い浮かべました。――
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のことを思い浮べた。――
私は、じいやがシダをすっかり植え終わるのを待とうとはせず、じいやと別れました。
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私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
それから数分後、私は、その大きな岩を目の前に見ることができる、あの見捨てられたヴィラの庭の中に、自分自身がいることに気づきました。
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それから数分後に、私はその巨きな岩を目のあたりに見ることのできる、例の見棄てられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出した。
そのヴィラに昔住んでいた、二人のおばあさんのことについては、じいやも、私に何も教えてくれませんでした。
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そのヴィラに昔住んでいた二人の老嬢のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。
「ああ、セイモアさんですか」
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「ああ、セエモオルさんですか」
と言ったきりでした。
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と言ったきりだった。
何か知っていそうでしたが、もう忘れてしまったようでした。
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何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。
そして、ただ不機嫌そうに黙っていました。
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そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。
「そうすると、それを知っているのは、お前だけだがなあ……」
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「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」
と、私は、いま私の下に広がっている高原一帯をへだてて、私と向かい合っている、はるか向こうの「巨人のいす」
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と私は、いま私の下方に横わっている高原一帯を隔てて、私と向い合っている、遥か彼方の「巨人の椅子」
を、まるで、そのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような目つきで、じっと見つめていました。
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を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
だんだん、日が暮れ始めました。
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だんだんに日が暮れだした。
私のすぐ足もとの、いつか赤い屋根で、つがいの小鳥を見つけたあのヴィラは、もう人が住んでいるらしく、窓がすっかり開け放たれて、だいだい色のカーテンが、ゆれているのが見えました。
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私のすぐ足許の、いつかその赤い屋根に交尾している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色のカアテンの揺らいでいるのが見えた。
ときおり、御用聞き(ごようきき・注文をとりに来る人)が、その家のところまで、自転車を重そうに押し上げてくるらしい音が、私のところまで聞こえてきました。
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ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに押し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。
もうそろそろ、これまでのように、この空き家の庭で、ぼんやりしていられそうもないな、と思いました。
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もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。
そんな気がし出すと、なんだかもう、これが最後の時ででもあるかのように、私は、自分のすべての注意を、半分はこの荒れ果てたヴィラそのものに、半分は、この高いところから見下ろせる、一帯の美しい村、その森、花の咲く野原、その別荘、それから、もうかすんでよく見えなくなってきた丘々のひだ、それだけがまだ黒々と残っている「巨人のいす」
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そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花咲ける野、その別荘、それからもう霞みながらよく見えなくなり出した丘々の襞、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」
などに、向け始めていました。
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などに傾け出していた。
それにもかかわらず、私は、ときどき、ともすると、それらのものすべてを見失って、まったくぼんやりした状態になっている自分自身に気づき、思わずどきっとするのでした。
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それにも拘わらず、私はときどきややもするとそれ等のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
突然、ちょうど私の頭上にある、そのまわりだけもうすっかり薄暗くなっている、大きな樅の、ほとんど水平に伸びた枝のひとつに、ばたばたと、びっくりするような羽音を立てながら、一羽の山ばとが飛んできて止まりました。
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突然、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗くなっている大きな樅の、ほとんど水平に伸びた枝の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩が飛んできて止まった。
そして、そんなところに私がいることに、向こうも驚いたように、すぐにまたその枝から、薄暗いためにいっそう大きく見えながら、飛び去っていきました。
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そうしてそんなところに私のいることに向うでも愕いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。
まるで、私自身の考え(思惟・イデエ)そのものであるかのように、重々しく羽ばたきながら、その翼を、気味悪いほど青く光らせながら……。
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あたかも私自身の思惟そのものであるかのごとく重々しく羽搏きながら、そしてその翼を無気味に青く光らせながら……。
夏
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夏
突然、私の窓が面している中庭の、もうとっくに花を失っているつつじの茂みの向こう、別館の窓ぎわに――一輪のひまわりでも咲いたかのように、何か思いがけないものが、まぶしいほど、日の光にきらきらと輝きだしたように思えました。
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突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅の茂みの向うの、別館の窓ぎわに、一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。
私はやっと、そこに、黄色い麦わら帽子をかぶった、背の高い、やせ形の、ひとりの少女が立っているのだということに、気づくことができました。……
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私はやっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。……
誰かを待っているらしい、その少女は、さっきから、中庭のあちらこちらに、注意深そうな視線をさまよわせていました。けれど、最後には、その視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に、とめました。
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誰かを待っているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらに注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に置いた。
そんな最初の出会いの時には、たいていの少女たちは、自分が見つめられていると思う相手から、わざとそっぽを向いて、自分はその人にまったく興味がないというふりをしたがるものです。けれど、そんな、恥ずかしさと高慢さの入り混じった視線とはちがって、私の上に注がれている、その少女のまっすぐな、好奇心でいっぱいなような視線は、私にはまぶしすぎて、それから目をそらさずにはいられないほどに感じられました。だから私は、その時の彼女――最初に私の目の前に現れた時の彼女については、やや目深にかぶった黄色い帽子と、そのつばのかげにきらきらと光っていた、特徴のある目つきとのほかには、ほとんど何も覚えていないくらいでした。……
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そんな最初の出会の時には、大概の少女たちは、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽを向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることを示したがるものだが、そんな羞恥と高慢さとの入り混った視線とは異って、私の上に置かれているその少女の率直な、好奇心でいっぱいなような視線は、私にはまぶしくってそれから目をそらさずにはいられないほどに感じられたので、私はそのときの彼女――最初に私の目の前に現れたときの彼女に就いては、そのやや真深かにかぶった黄いろい帽子と、その鍔のかげにきらきらと光っていた特徴のある眼ざしとよりほかには、殆んど何も見覚えのない位であった。……
やがて、別館から、彼女の父親らしい人が姿を現しました。
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やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現した。
そして、その二人連れは、私の窓の前を斜めに横切っていきましたが、見ると、彼女は、その父親よりも、背が高いくらいでした。
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そしてその二人づれは私の窓の前を斜めに横切って行ったが、見ると、彼女はその父よりも背が高いくらいであった。
そして、その父親らしい人が、彼女にしきりに話しかけているのに、彼女は、いかにも気のなさそうな返事をしながら、いつまでも私の方へ、つつじの茂み越しに、あの特徴のある目つきを、そそぎ続けていました。……
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そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけるのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、いつまでも私の方へ躑躅の茂みごしにその特徴のある眼ざしをそそぎつづけていた。……
その二人が中庭を立ち去ってしまったあとも、私はしばらく、今しがたまで、その少女がひまわりのように立っていた窓ぎわの方へ、すこしうつろになった目を向けていました。けれど、ふと気づくと、そのあたりの感じが、それまでとは、なんだかすっかり変わってしまっているのです。
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その二人が中庭を立ち去ってしまった跡も、私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚になった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。
私の知らないうちに、そのあたり一面には、夏らしい匂いが、ただよい始めていたのでした。……
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私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった。……
その日の夕方の、別館への私の引っ越し――(今まで私がひとりで暮らしていた、古い離れが、修理され始めることになったので――)。その次の日の、少女の父親の出発。それから、他にはまだひとりも滞在客のいない、その別館での、少女と二人きりの、背中合わせの暮らし……。
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その日の夕方の、別館の方への私の引越し、(今まで私の一人で暮らしていた、古い離れが修繕され始めるので――)その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから他にはまだ一人も滞在客のないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。
けれど私は、毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったまま、自分の仕事に没頭していました。
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しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に没頭していた。
その、私が書きつつある「美しい村」
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その私の書きつつある「美しい村」
という物語は、六月ごろからこの村に滞在している私が、まだ季節はずれの、がらんとした高原で出会ったことを、次から次へと書いていったものでした。
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という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。
そして私は、ちょうどいま、こんなところを書き終えたばかりでした。それまで私は、昔の恋人に対する、ある種の遠慮から、その物語の裏側にだけ――そして、ただそれによって、そのあっさりとした物語に、もの悲しい陰影(かげ)を与えるだけで満足しようとしていました。この村での、数年前の彼女たちとの、はなやかな交際の思い出、ことに、この村での彼女たちとの最初の楽しい出会い。それを、ある日、道ばたに咲きそろっている野ばらの花が、まざまざと私の中によみがえらせました。そして、それがついに、思いがけない出口を見つけた地下水のように、その物語のしずかな表面に、こんこんと湧き上がってくる――そんなところを、書き終えたばかりだったのです。
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そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の恋人に対する一種の顧慮から、その物語の裏側から、そして唯、それによってその淡々とした物語に或る物悲しい陰影を与えるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初の歓ばしい出会いを、とある日、道ばたに咲き揃っている野薔薇の花がまざまざと私のうちに蘇らせ、それが遂に思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に滾々と湧きあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。
そして、そんな昔のさまざまな楽しい出会いの思い出にひたる間もなく――すでに私のもとから巣立っていった、あの少女たち、ことに、そのうちのひとりとの気まずい再会をおそれて、季節を先取りしてこの村を去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、物語の終わりとして、私はこれから書こうとしているところでした。
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そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの追憶に耽っている暇もなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。
私の新しい部屋は、別館の二階の奥まったところにあり、南向きの窓がありました。そして、その窓からは、数本の大きな桜の幹越しに、向こうの小高い水車道に面している、いくつかのヴィラの裏側が、ちらちらと見えていました。
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私の新しい部屋は、別館の二階の奥まったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。
そして、その窓のすぐ下を、私が、あの少女たちと初めて出会った、あの抜け道が、小さな坂になりながら、低い木々の中に、細々と通っていたのでした。……
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そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、灌木のなかに細々と通っているのだった。……
私は、自分がやりかけている仕事から気持ちをそらすまいとして、私とたったふたりきりで、その別館の中に暮らし始めている、その見知らぬ少女とは、わざと背中を向け合ってばかりいました。
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私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。
それでいて、私は、自分の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、決まった時刻に、絵の具箱をぶら下げながら、その少女が水車道の方へ登っていくのを、見逃したことはありませんでした。
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その癖、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、一定の時刻に、絵具箱をぶらさげながら、その少女が水車の道の方へと昇ってゆくのを見逃したことはなかった。
ちょうど、午前中のその時刻の光の具合で、木もれ日が、まるで地面をヒョウの皮のように美しくしている、その小さな坂を、ともすれば滑りそうな足取りで登っていく、その背の高い、やせ形の後ろ姿を見送りながら――その上の水車道に出て、さて、それから彼女は、どの小道をどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろう、と考えました。そのあたりの林の中の小道は、本当にややこしく、私自身も、初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまったほどでした。それに、また、そんなことから、ひとりの少女と私との、不思議な近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所をさがしながら、そんな見知らぬ小道をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気にかけて思っ
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丁度、午前中のその時刻の光線の具合で、木洩れ日がまるで地肌を豹の皮のように美しくしている、その小さな坂を、ややもすると滑りそうな足つきで昇ってゆくその背の高い、痩せぎすな後姿を見送りながら、その上の水車の道に出て、さて、それから彼女はどの小径をどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろうかと、そこいらの林のなかの小径が実にややこしく、私自身も初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまった位ではあったし、それにまたそんなことからして一人の少女と私との奇妙な近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所を捜しながらそんな見知らぬ小径をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気づかわしく思っ
ていました。
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ていた。
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けれど私は、最初のうちは、その少女を、ただそんなふうに、自分の窓からや、あるいは廊下などで、ひょっこりすれちがいざまに、目と目を合わせないようにして、こっそりぬすみ見ていただけでした。
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しかし私は最初のうちはその少女を、唯、そんな風に私の窓からだの、或いは廊下などでひょっくり擦れちがいざま、目と目とを合わせないようにして、そっと偸み見ていたきりであった。
そんなふうだったので、私は彼女の顔を、まだ一度も、まともに見たことがありませんでした。それに、私が見た時は、いつも動いていて、しかもそのたびに違う角度から光を受けていたせいか、見るたびに、その顔は変わっていました。
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そんな具合で、私は彼女の顔を、まだ一度も、まともに眺めたことがなく、それに私の見たときは、いつも静止していないで、しかもそれぞれに異った角度から光線を受けていたせいか、見る度毎に、その顔は変化していた。
ある時は、やや目深にかぶった黄色い麦わら帽子の下、そのうす暗い影の中から、そこだけが顔の他の部分と一緒にとけこもうとせずに、大きく見開かれた目が、きらきらと輝いていました。
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或る時は、そのやや真深かにかぶった黄いろい麦藁帽子の下から、その半陰影のなかにそれだけが顔の他の部分と一しょに溶け込もうとしないで、大きく見ひらかれた眼が、きらきらと輝いていた。
また、そんな帽子をかぶらずに、庭の中などで、顔いっぱいに強い光を浴びながら、まぶしそうにその目を半分閉じているせいで、いつもの特徴を半分失いながら、その代わりに、その瞬間までまったく目立たなかったくちびるだけが、イチゴのように鮮やかに光り、ほとんど前とは別の顔に変わってしまうこともありました。
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またそんな帽子をかぶらずに、庭園の中などで顔いっぱいに強い光線を浴びながら、まぶしそうにその眼を半分閉ざしているおかげで、平生の特徴を半分失いながら、そしてその代りにその瞬間までちっとも目立たないでいた脣だけが苺のように鮮かに光りながら、ほとんど前のとは別の顔に変ってしまうこともあった。
そのうちに、私たちは、やっと短い会話を交わすようになりました。それと同時に、私は、しばしば彼女の顔を正面から見るようになりました。それなのに、彼女の顔が、なおも絶えず変わり続けているのに、私は驚きました。
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そのうちに私たちがやっと短い会話を取り交わすようになり、それと共に、屡しば、私は彼女の顔をまともから眺めるようになったのにも拘らず、彼女の顔がなおも絶えず変化しているのに愕いた。
ある時は、その顔はあまりに血色がよく、すべすべしているので、私のためらいがちな視線は、何度もその上で、すべって行き場をなくしそうになりました。
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或る時は、その顔はあんまり血色がよく、すべすべしているので、私のためらいがちな視線はいくどもその上で空滑りをしそうになった。
また、他の時には、すこし疲れを帯びたように沈んで、透き通っておらず、その肌の奥の方には、なんだかすみれ色のようなものが漂っているように見えました。
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また他の時はすこし疲れを帯びたように沈んで、不透明で、その皮膚の底の方にはなんだか菫色のようなものが漂っているように見えた。
そうかと思うと、その肌がすっかり透き通り、ぽうっと内側からばら色を帯びているようなこともありました。
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そうかと思うと、その皮膚がすっかり透明になり、ぽうっと内側から薔薇色を帯びているようなこともあった。
ときどき、以前に見たのと、どこか似たような顔をしていることもありました。
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ときどき以前に見たのと何処か似たような顔をしていることもあった。
けれど、その顔は、決して二度と同じものではありませんでした。
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が、その顔は決して二度と同じものであることはなかった。
ある日のこと、私は自分の「美しい村」
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或る日のこと、私は自分の「美しい村」
のノート代わりに、いたずら半分に色鉛筆でていねいに描いた、その村の手作りの地図を、彼女の前に広げました。そして、その地図の上に万年筆で、まるでスイスあたりの田舎にでもありそうな、小さな橋や、ヴィラや、落葉松の林などを、しるしをつけながら、彼女のために、自分の知っている限りの、絵になりそうな場所を教えました。
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のノオトとして悪戯半分に色鉛筆でもって丹念に描いた、その村の手製の地図を、彼女の前に拡げながら、その地図の上に万年筆で、まるで瑞西あたりの田舎にでもありそうな、小さな橋だの、ヴィラだの、落葉松の林だのを印しつけながら、彼女のために、私の知っているだけの、絵になりそうな場所を教えた。
その時、私のそんな、あやしげな地図を、熱心にのぞき込んでいる彼女の横顔を、じっと見つめながら、私は、ひとつのほくろが、耳のつけ根のあたりに浮かんでいるのに気づきました。
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その時、私のそんな怪しげな地図の上に熱心に覗き込んでいる彼女の横顔をしげしげと見ながら、私は一つの黒子がその耳のつけ根のあたりに浮んでいるのを認めた。
その時まで、まったくそれに気づいていなかった私には、なんだかそれが、いま知らないうちに、自分の万年筆からはねたインクのしみか何かのように思えて、ふいたらすぐとれてしまいそうに感じられたほどでした。
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その時までちっともそれに気がつかないでいた私には、何んだかそれはいま知らぬ間に私の万年筆からはねたインクの汚点かなんかで、拭いたらすぐとれてしまいそうに思えたほどだった。
翌日、私は、彼女が私の貸した地図を手にして、さっそく、私が教えたさまざまな村の道を、一通り見て歩いてきたらしいことを知りました。
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翌日、私は彼女が私の貸した地図を手にして、早速私の教えたさまざまな村の道を一とおり見歩いて来たらしいことを知った。
それほど、私の助言を素直に受け入れてくれたことは、私に、何とも言えない喜びをあたえました。
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それほど私の助言を素直に受入れてくれたことは、私に何んとも言いようのない喜びを与えた。
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そんな村の地図を手にして、彼女がひとりで散歩をしながら見つけてきた、あるささやかな谷川のほとりの、こうもり傘のように枝を広げた、一本の樅の木の下に、彼女が画架(がか・絵をたてかける台)を据えている間、私は、その画架のそばから、数本のアカシアの枝越しに、くっきりと見えている、それほど遠くない、真っ白な小さな橋を、初めて見るかのように見入っていました。
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そんな村の地図を手にして、彼女がひとりで散歩がてら見つけて来た、或るささやかな渓流のほとりの、蝙蝠傘のように枝を拡げた、一本の樅の木の下に、彼女が画架を据えている間、私はその画架の傍から、数本のアカシアの枝を透しながらくっきりと見えている、程遠くの、真っ白な、小さな橋をはじめて見でもするように見入っていた。
それは、六月の半ばごろ、私が峠から一緒に下りてきた、二人の子どもたちと別れた、あの印象深い小さな橋でした。――
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それは六月の半ば頃、私が峠から一緒に下りてきた二人の子供たちと別れた、あの印象の深い小さな橋であった。――
私は、彼女がしゃがみながら、パレットに絵の具をなすりつけ始めるのを見ると、彼女の仕事のじゃまをすることを恐れて、そこに彼女をひとり残したまま、その谷川に沿った小道を、ぶらぶらと上流の方へ歩いていきました。
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私は、彼女がしゃがみながら、パレットへ絵具をなすりつけ出すのを見ると、彼女の仕事を妨げることを恐れて、其処に彼女をひとり残したまま、その渓流に沿うた小径をぶらぶら上流の方へと歩いて行った。
しかし私は、絶えず、背後に残してきた彼女にばかり気を取られていました。そのため、行く手の小道の曲がり角の向こうに、ひとつの小さな低い木が、まるで私を待ち伏せていたかのように隠れているのに、少しも気づきませんでした。その曲がり角を、何気なく曲がろうとした瞬間、私は、その木の枝に自分のジャケツをひっかけて、思わずそこに足を止めました。
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しかし私は絶えず私の背後に残してきた彼女にばかり気をとられていたので、私の行く手の小径の曲り角の向うに、一つの小さな灌木が、まるで私を待ち伏せてでもいたように隠れていたのに少しも気づかずに、その曲り角を無雑作に曲ろうとした瞬間、私はその灌木の枝に私のジャケツを引っかけて、思わずそこに足を止めた。
見ると、それは、花を失った一本の野ばらでした。
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見ると、それは一本の花を失った野薔薇だった。
私は、やっとのことで、そのするどいとげから、自分のジャケツをはずしながら、あらためて、その花のない野ばらを見つめ始めました。
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私はやっとのことで、その鋭い棘から私のジャケツをはずしながら、私はあらためてその花のない野薔薇を眺めだした。
それが白い小さな花をいっぱいつけていた頃には、あんなにも私がそれを楽しんでいたくせに、その花がひとつ残らず、どこかへ立ち去ってしまった今は、そんな低い木があることにさえ、まったく気づこうとしなかった私に対して――それが精いっぱいの仕返し(復讐)をしようとして、そんなふうに私のジャケツをかみ破ったかのように、私には思えました。……
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それが白い小さな花を一ぱいつけていた頃には、あんなにも私がそれで楽しんでいた癖に、それらの花がひとつ残らず何処かに立ち去ってしまった今は、そんな灌木のあることにすら全然気づこうとしなかった私に対して、それが精一杯の復讐をしようとして、そんな風に私のジャケツを噛み破ったかのようにさえ私には思えた。……
そんな、花のすっかりなくなった野ばらを、しばらく前にしながら、私は、いつのまにか知らず知らずに、それらの白い小さな花のように、どこへともなく私から去っていった少女たちのことを、思い出していました。……
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そういう花のすっかり無くなった野薔薇をしばらく前にしながら、私はいつか知らず識らずに、それらの白い小さな花のように何処へともなく私から去っていった少女たちのことを思い出していた。……
このごろ、ともすると、ひとりの新しい少女のせいで、そんな昔の少女たちのことを忘れがちでした。けれど、そう言えば、彼女たちが、この村にだんだんとやって来る時期も、もう間近に迫っているのです。
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この頃、ともすると、一人の新しい少女のために、そんな昔の少女たちのことを忘れがちであったが、そう言えば、彼女たちがこの村においおいとやって来る時期ももう間ぢかに迫っているのだ。
彼女たちが来ないうちに、私は、この村をさっと立ち去ってしまった方がいい。
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彼女たちが来ないうちに私はこの村をさっと立ち去ってしまった方がいい。
そうしなくてはいけない。――
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そうしなくっちゃいけない。――
そう、自分で自分に言い聞かせるようにしながら、その一方では、このごろやっと、自分の手に入りかけている新しい幸福を、そんなにあっさりと見捨てていけるだろうかと、疑っていました。
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そう自分で自分に言って聞かせるようにしながら、その一方ではまた、この頃やっと自分の手に這入りかけている新しい幸福を、そうあっさりと見棄てて行けるだろうかどうかと疑っていた。
そして私は、自分の気持ちを、そのどちらにも決めることができないまま、自分で自分を持てあましながら、かれこれ一時間近くも、その山道をさまよっていました。
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そうして私は自分の気持をそのどちらにも片づけることが出来ずに、自分で自分を持て余しながら、かれこれ一時間近くもその山径をさまよっていた。
そして、そのあげく、私がやっと気づいた時には――そんなふうに歩きながら、自分でも知らないうちに、何度も指で引っぱっていたらしく――私のねずみ色のジャケツの肩にできた、あの小さなほころびは、もう目立つくらいに大きくなっていました。――
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そうしてその挙句、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の鼠色のジャケツの肩のところに出来たその小さな綻びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。――
私は、とうとうきびすを返して、ふたたび谷川づたいに、その山道を下りてきました。
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私はとうとう踵を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。
そして、自分の行く手に、真っ白な小さな橋と、一本の大きなこうもり傘のような樅の木が見え始めると、私は、すこし歩みをゆるめながら、わざと目をつぶりました。
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そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩めながら、わざと目をつぶった。
その木かげになって見えずにいるものを、自分のすぐ近くに、不意に、思いがけないものとして、見つけたかったのです。……
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その木蔭になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出したかったのだ。……
とうとう私は、がまんしきれずに、目を開けてみました。
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とうとう私は我慢し切れずに私の目を開けてみた。
けれど、彼女は、私からまだ十数歩先のところにいました。
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しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。
そして、その木かげにしゃがみながら、それまでパレットをけずっていたらしい彼女が、その時、ふと立ち上がりました。私にはまったく気づかない様子で、描きかけのカンバスを画架からはずすと、それを道ばたの草の上へ、いかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところでした。
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そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを削っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。
ほうり出された大きなカンバスは、けれど、ひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ倒れていきました。
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ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ倒れて行った。
それを見ると、私は、彼女のそばへ駆けつけました。
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それを見ると、私は彼女のそばへ駈けつけた。
「僕が持っていてあげよう」
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「僕が持っていて上げよう」
「いいわ……いつもひとりでするんですから」
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「いいわ……いつもひとりでするんですから」
「意地悪!」
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「意地わる!」
「意地悪でしょう」
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「意地わるでしょう」
私は、彼女とそんなふうに、子どもっぽく言い合いながら、無理やりカンバスをひったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と並んで、村の街道を宿屋の方へと歩いていきました。
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私は彼女とそんな風に子供らしく言い合いながら、無理にカンバスを引ったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と並んで村の街道を宿屋の方へと歩いて行った。
ときおり、私たちは、散歩をしている西洋人や、村の子どもたちとすれちがいました。
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ときおり私たちは散歩をしている西洋人や村の子供たちとすれちがった。
彼らの、めずらしそうな視線は、私たちを――ことに、まだこの村に慣れていない彼女を、気づまりにさせているようでした。
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彼等のもの珍らしそうな視線は私たちを――殊にまだこの村に慣れない彼女を気づまりにさせているらしかった。
私は私で、そんな彼女を、できるだけ気軽にさせようと思って、空いている方の手を、自分の肩の上へやりながら、
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私は私で、そういう彼女をつとめて気軽にさせようと思って、私の空いている方の手を自分の肩の上へやりながら、
「ほら、こんな穴があいちゃった……さっき、ひとりで散歩しているとき、野ばらにひっかかったのさ」
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「ほら、こんな穴が出来ちゃった……さっき一人で散歩しているとき野薔薇にひっかかったのさ」
そう言って、その肩の穴が、もっと大きくなるのもかまわずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引っぱって見せたりしました。
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そう言って、その肩の穴がもっと大きくなるのも構わずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引張って見せたりした。
そして私は、こんなにも私と打ち解け始めている、この少女を振り捨てて、自分ひとりでこの村を立ち去るなんてことは、とてもできそうもない、と考え始めていました。
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そうして私はこんなにまで私と打ち解け合いだしているこの少女を振り棄てて、自分ひとりこの村を立ち去るなんぞということは、到底出来そうもないと考え出していた。
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私の「美しい村」
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私の「美しい村」
は、予定よりだいぶ遅れて、ある日、ようやく書き終わりました(脱稿・だっこう)。
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は予定よりだいぶ遅れて、或る日のこと、漸っと脱稿した。
すでに七月も、半ばを過ぎていました。
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すでに七月も半ばを過ぎていた。
私は、それを書き上げしだい、この村を出発するつもりでした。それなのに、私は、なおも、そのひとりの少女のために、一日一日と出発を延ばしていました。そうしているうちに、私が物語の背景に使った、季節前の、気味悪いほどひっそりした高原の村が、しだいに夏の季節に入り、それと同時に、この村にも、ぽつぽつと避暑客たちが入り込んでくるのを、私は、なんだか胸をしめつけられるような気持ちで、目の前に迎えていました。
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そうして私はそれを書き上げ次第、この村から出発するつもりであったのに、私はなおも、そういう一人の少女のために、一日一日と私の出発を延ばしながら、私がその物語の背景に使った、季節前の、気味悪いくらいにひっそりした高原の村が、次第次第に夏の季節にはいり、それと同時にこの村にもぽつぽつと避暑客たちが這入り込んでくるのを、私は何んだか胸をしめつけられるような気持で、目のあたりに迎えていた。
私は、しばしば、その少女と連れ立って、夕食後などに、宿の裏の、西洋人の別荘の多い水車道のあたりを散歩するようになっていました。
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私はしばしばその少女と連れ立って、夕食後など、宿の裏の、西洋人の別荘の多い水車の道のあたりを散歩するようになっていた。
そんな散歩の途中、ときおり、一か月前までは、私と一緒に遊んだりしたことさえある、村の子どもたちに出会うこともありました。けれど、彼らは、私たちのそばを、何も知らないような顔をして、通り抜けていきました。
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そんな散歩中、ときおり、一月前までは私と一しょに遊び戯れたりしたことさえある村の子供たちと出会うようなこともあったが、彼等は私たちの傍を素知らぬ顔をして通り抜けていった。
もう、私のことを覚えていないのでしょうか。それとも、私が、そんな見知らぬ少女と二人連れなのを、変に思って、そうするのでしょうか。
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もう私を覚えていないのだろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれなのを異様に思ってそうするのだろうか?
……けれど、それらの子どもたちも、そのうち、だんだんに、あの林の中で最初のうちはよく見かけた、さまざまな小鳥などと同じように、その姿をほとんど見せなくなっていきました。
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……しかしそれらの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまな小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになった。
そして、その代わりに、私たちとすれちがいながら、興味しんしんな目つきを投げていく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などが、だんだんに増えてきました。
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そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちに好奇的な眼ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などがだんだんに増えて来た。
それらの中には、私と顔見知りの人たちなども、混じっていました。
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それらの中には私と顔見知りの人たちなども雑っていた。
私は、いつか、こんなところで、ひょっこり昔の女友達にでも出会うのではないかと、ひとりで気をもんでいました。ときどき、そんな散歩の途中で、ふと向こうからやってくる人々の中に、遠くから見て、どこかそれらに似たような人がいたりすると、私はあわてて、その人たちを避けるために、道もないような草の茂みの中へ彼女を引っぱりこんで、何も知らない彼女を、驚かせてしまうようなこともありました。
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私はいつかこんなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしないかと一人で気を揉んでいたが、ときどき、そんな散歩の途中に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこかそれらに似たような人があったりすると、私は慌てて、その人たちを避けるために、道もないような草の茂みのなかへ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を駭かせるようなこともあった。
そんなふうに、私は、彼女と一緒に、夕方近い林の中を歩きながら――まだ彼女を知らなかった頃、ひとりであてもなく散歩をしていた時は、あんなにも愛していたスイス式のバンガローや、美しい低い木々や、シダなどを、彼女に指さして見せていました。それをしながら、私は、なんだか不思議な気がしました。
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そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きながら、まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた瑞西式のバンガロオだの、美しい灌木だの、羊歯だのを、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気がした。
それらのものが、今ではもう、私には、魅力(みりょく)も何もなくなってしまっていたからです。
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それ等のものが今ではもう私には魅力もなんにも無くなってしまっていたからだ。
そして私は、彼女の手前、それらのものを、今でも愛しているように見せかけるために、ある種の努力さえ、しなければなりませんでした。
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そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力をさえしなければならなかった。
それほど、私自身は、そばにいる彼女のことで、いっぱいになってしまっていたのです。……
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それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった。……
そして、そんな薄暗い道ばたなどで、私の方に体をもたせかけて、それらのものをよく見ようとしている彼女の、しなやかな肩に、じっと目を向けながら――そっとその肩に、自分の手をかけても、彼女は、それを決して拒まないだろう、と思いました。
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そうしてそんな薄ぐらい道ばたなどで、私は私の方に身を靠せかけてそれ等のものをよく見ようとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎながら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して拒みはしないだろうと思った。
そして私は、ある時などは、その肩へ、さりげなく手をかけようとして、彼女の方へ、自分の上半身をかたむけかけました。
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そして私は或る時などは、その肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女の方へ私の上半身を傾けかけた。
私の心臓は、急にどきどきしはじめました。
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私の心臓は急にどきどきしだした。
けれど、それよりも、もっと激しく彼女の心臓が鼓動(こどう)しているのを、その瞬間、私は耳にしました。
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が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓動しているのを、その瞬間、私は耳にした。
そして、それが私に、そういう愛撫(あいぶ・そっとふれること)を、ほんの下絵(デッサン)だけで終わらせました。……
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そしてそれが私に、そういう愛撫を、ほんのそのデッサンだけで終らせた。……
私は、まだ、その本物を知らないけれど、それが与えてくれるものと、少しも変わらないような、特別な心地よさを、その下絵だけで、もう十分に味わったように思いながら。
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私はまだその本物を知らないのだけれど、それが与えるのとちっとも異わないような特異な快さを、そのデッサンだけでもう充分に味ったように思いながら。
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いったい、「水車道」
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一体、「水車の道」
というのは、郵便局や、いろいろな食料品店などのある本通りの南側を、それとほとんど平行しながら通っている道でした。そして、それら二つの平行な道を、ななめに切っている、いくつかの狭い横町がありました。
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というのは、郵便局やいろんな食料品店などのある本通りの南側を、それと殆んど平行しながら通っているのだが、それらの二つの平行線を斜かいに切っている、いくつかの狭い横町があった。
そんな横町のひとつに、その村で有名な、二軒の花屋がありました。
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そんな横町の一つに、その村で有名な二軒の花屋があった。
二軒とも、わら屋根の小さな家でしたが、どちらも、その家の五、六倍くらいはありそうな、大きな立派な花畑に取り囲まれていました。
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二軒とも藁屋根の小さな家だったが、共に、その家の五六倍ぐらいはあるような、大きな立派な花畑に取り囲まれていた。
そして、その二つの花畑を区切って、いつも気持ちのよいせせらぎの音を立てながら流れているのは、数年前まで、ずっと上流のところで、ごとごとと古い水車を回転させていた、あの小さな流れでした。
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そしてその二つの花畑を区切って、いつも気持のよいせせらぎの音を立てながら流れているのは、数年前まで、そのずっと上流のところでごとごとと古い水車を廻転させていたところの、あの小さな流れであった。
そして、片方の花畑などは、水車道を越えて、さらに、その道の向こうまで、あふれ広がっていました。……
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そしてその一方の花畑などは、水車の道を越して、更らにその道の向うまで氾濫していた。……
つい先ごろまでは、あんなに、どこもかしこも花だらけだったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ、人々から忘れられていたくらいでした。けれど、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散り、それと入れ代わって、今度は、これらの畑で人の手によって育てられた、さまざまなめずらしい花が、いちどきにどっと咲き出しました。そのため、その横町を通り抜ける人は、誰でも、その美しい花畑に目を見張らずにはいられないほどでした。
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つい先頃までは、あんなに何処もかしこも花だらけであったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ人々から忘れられていた位であったが、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散って、それと入れ代りに今度は、これらの畑で人工的に育て上げられた、さまざまな珍らしい花が、一どにどっと咲き出したものだから、その横町を通り抜ける者は誰しもその美しい花畑に眸をみはらないものは無いくらいであった。
けれど、その二軒並んだ花屋の前を、通りすがりに注意して、それらの店の奥に座っている主人たちに目をとめた人は、いっそう驚いて、目をもっと大きく見開かずにはいられなかったでしょう。
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だが、その二軒並んだ花屋の前を通りすがりに、注意をしてそれらの店の奥に坐っている花屋の主人たちに目を止めた者は、一層の愕きのためにその眸をもっと大きくせずにはいられなかったであろう。
というのも、片方の店の奥に、ぼんやりと座っている、白いチェック柄(碁盤縞・ごばんじま)のシャツを着た、小柄なお年寄りに気づいたあと、次の花屋の前にさしかかると――なんと、その奥にも、つい今しがた、もう片方の奥で見かけたばかりの人と、まったく同じような、小柄なお年寄りが、やはり同じような白いチェック柄のシャツを着て、ぼんやりと腰かけ、通りの方を眺めているのに気づくからです。
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と言うのは、その一方の店の奥にきょとんと坐っている白い碁盤縞のシャツを着た小柄な老人を認めたのち、次の花屋の前にさしかかると、何んとその奥にも、つい今しがたもう一方の奥に見かけたばかりのと寸分も異わない、小柄な老人が、やはり同じような白い碁盤縞のシャツを着て、きょとんと腰をかけ、往来の方を眺めているのに気づくだろうからだ。
ただ違うのは、その二人のそばに座っているのが――片方は、いつも髪の毛をくしゃくしゃにさせた、太った奥さんであり、もう片方は、それと好対照なくらい、やせっぽちの、すこし目つきのおかしい奥さんであることでした。
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ただ異うのは、そんな二人のそばに坐っているのが、一方はいつも髪の毛をくしゃくしゃにさせた、肥っちょの女房であったし、もう一方はそれと好対照をしている位に痩せっぽちの、すこし藪睨みらしい女房であることだ。
つまり、その二軒の花屋の年をとった主人たちは、ほとんどうり二つと言っていいほどの、兄弟だったのです。
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つまり、その二軒の花屋の老いたる主人たちは、ほとんど瓜二つと云っていいほどの、兄弟なのであった。
その上、おかしなことには、この花屋の兄弟は、とても仲が悪く、夏の間だけは、お互いに仲よさそうに話をしながら商売をしていました。けれど、夏が過ぎてしまうと、すぐに、こりずにけんかをし始め、冬の間などは、お互いに一言も口をきかずに過ごすことさえある、ということでした。――
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その上、可笑しいことには、この花屋の兄弟はとても仲が悪くて、夏場だけはお互に仲好さそうに口を利き合いながら商売をしているが、さて夏場が過ぎてしまうと、すぐに性懲りもなく喧嘩をし始め、冬の間などは、お互に一言も口を利かずに過ごすようなことさえあると言うことだった。――
そんな風変わりな、二軒の花屋のある横町には、道ばたに、数本の小さな樅(もみ)とかえでが植えられていました。その一番手前の小さなかえでの木に、つい先日のこと、「売り物 モミ二本、カエデ三本」
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そんな風変りな二軒の花屋のある横町には、道ばたに数本の小さな樅と楓とが植えられてあったが、その一番手前の小さな楓の木に、ついこの間のこと、「売物モミ二本、カエデ三本」
という、真新しい木の札がぶら下げられました。
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という真新しい木札がぶらさげられた。
そして、今では、その横町の両側の花畑には、ひまわりや、ダリアや、その他さまざまなめずらしい花が、真っ盛りでした。……
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そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。……
私は、そんな二軒の花屋の話を彼女に聞かせながら、自分の大好きなその横町へ、彼女の注意を向けさせました。
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私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。
水車道の上に、大きな枝を広げている、一本の古い桜の木の根元から見ると、その道から一段低くなっている花畑の向こうに、店の名前をローマ字で、真っ白にくりぬいた、空色の看板が見えます。さまざまな紅や黄色の花と、すれすれの高さにありながら、それでいて、そこだけくっきりと浮かんで見えていました。――
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水車の道の上へ大きな枝を拡げている、一本の古い桜の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮いて見えている。――
そんな角度から見た、一軒の花屋の屋根と、その花畑を、彼女は、ある日から、五十号の大きなカンバスに描き始めました……。
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そんな角度から見た一軒の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに描き出した……。
けれど、その水車道は、そのあたりの別荘の人たちが、わりあいよく行き来するので、彼女のまわりには、すぐ人だかりができて、困っているようでした。けれど、私は、一度も、その絵を描いている場所に近づこうとはしませんでした。
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しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に往き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一遍もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。
そんな、人目につきやすい場所で、私が彼女と親しそうにしているのを、自分の顔見知りの人たちに見られたくなかったからです。
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そんな人目につき易い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。
それで、私は、自分の部屋に閉じこもったまま、このごろやっと書き上げたばかりの原稿に、最後の手入れをし続けていました。
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で、私は自分の部屋に閉じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。
(けれど、その間、いちばん多く私が考えていたのは、やはり彼女のことでした。)――
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(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)――
けれど私は、その花屋を描いているところを、遠くからでも、一度見ておきたいと思って、ある朝、宿屋の裏の坂を上りながら、水車道まで出ていってみました。
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が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。
そして私は、その道の向こうの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と――それから、彼女の横から、そのカンバスをのぞきこみながら、ひとりのベレー帽をかぶった若い男が、何か彼女に話しかけているのを見つけました。
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そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗き込みながら、一人のベレ帽をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。
私は、その男が、早く彼女のそばから立ち去ってくれればいいのに、と、すこしやきもきしながら、待っていました。――
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私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。――
「誰? いまの人……」
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「誰れ? いまの人……」
やっと、その男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいていきながら、いかにも何気ない様子で聞きました。
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やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気なさそうに訊いた。
「画家さんなんですって……なんだか、あんまりいつまでも見ていらっしゃるんで、私、いやになっちゃった……」
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「画家さんなんですって……何んだか、あんまり何時までも見ていらっしゃるんで、私、厭になっちゃった……」
彼女は、わざとらしく顔をしかめて見せました。
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彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。
それから、すこし怖いような目つきをして、花畑の一部を見つめ始めました。
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それからすこし恐いような眼つきをして花畑の一部を見つめだした。
熱心に絵を描こうとしている時の彼女が、こんな男のような、きびしい目つきになることを、私はよく知っていたので、私は、それっきり黙っていました……。
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熱心に絵を描こうとしているときの彼女が、こんな男のような、きびしい眼つきになるのを私はよく知っていたものだから、私はそれっきり黙っていた……。
そんなふうに、私が、ちょっとでも彼女から離れている間に――私なしで、彼女がこの村で、ひとりきりで知り始めている、すべてのものが、私に、ぼんやりとした不安を与えるのでした。
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そんな風に、私がちょっとでも彼女から離れている間に、私なしに、彼女がこの村で一人きりで知り出しているすべてのものが、私に漠として不安を与えるのだった。
ある日、彼女は、昔そこに水車場があったと私が教えた場所のほとりで、しばしば、背中から花かごを下ろして、松葉づえにもたれたまま、汗をふいている、足の不自由な花売りを見かける、と私に話しました。
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或る日、彼女は、昔は其処に水車場があったと私の教えた場所のほとりで、屡しば、背中から花籠を下ろして、松葉杖に靠れたまま汗を拭いている、跛の花売りを見かけることを私に話した。
彼女が話すようなものを、まったく見かけたことのない私には、そんな足の不自由な花売りのようなものに、彼女がしばしば出会うことさえも、自分でもおかしいくらい、気になってなりませんでした。
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彼女の話すようなものをついぞ見かけたことのない私には、そんな跛の花売りのようなものと彼女が屡しば出会うことすら、自分でも可笑しいくらい、気になってならなかった。
⁂
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⁂
ある朝、私は、自分の窓から、彼女が絵の具箱をぶら下げて、裏の坂を登っていくのを見送ったあと、そのままぼんやり窓にもたれていました。すると、しばらくしてから、その同じ坂を、花かごを背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと跳ねるような格好で、登っていくのが見えました。
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或る朝、私は私の窓から彼女が絵具箱をぶらさげて、裏の坂を昇ってゆくのを見送った後、そのまんまぼんやり窓にもたれていると、しばらくしてからその同じ坂を、花籠を背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと跳ねるような恰好をして昇ってゆくのが認められた。
よく見ると、その男は、松葉づえをついているのでした。
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よく見ると、その男は松葉杖をついているのだ。
ああ、こいつだな。彼女がモデルにして描きたいと言っていた、足の不自由な花売りというのは!
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ああ、こいつだな、彼女がモデルにして描きたいと言っていた跛の花売りというのは!
……そんな後ろ姿だけでは、よくわかりませんでしたが、その男は、この村の花売りたちが、たいていよぼよぼのお年寄りばかりなのに、まだ若い男のようでした。
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……そういう後姿だけではよくわからなかったが、その男は、この村の花売り共が大概よぼよぼの老人ばかりなのに、まだうら若い男らしかった。
それだけに、体が不自由なせいで、そんな花売りなんかをしていることが、いっそう、もの悲しく感じられました。――
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それが一層片輪の故にそんな花売りなんかしていることを物哀れに感じさせた。――
そして、その悲しそうな、足の不自由な花売りを、私が自分の目で見て知ったとたん――彼女が、その姿を絵に描いてみたいと言っていただけのことで、その花売りに対して自分が抱いていた、軽いやきもち(嫉妬・しっと)のようなものは、あとかたもなく消え去りました。……
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そうして、その悲しげな跛の花売りを、私は自分自身の眼で見知るや否や、彼女がその姿を絵に描いてみたいと言っていただけでもって、その跛の花売りに私の抱いていた、軽い嫉妬のようなものは、跡方もなく消え去った。……
けれど、数日前、水車道で彼女に親しげに話しかけていたのを、私が目撃した、あの画家だという、ベレー帽をかぶっていた青年は――その顔などは、はっきり覚えていませんでした。けれど、それだけいっそう、その男の、ぼんやりとした存在は、何かしら私を不安にさせずにはいませんでした。
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しかし、数日前水車の道で彼女に親しげに話しかけていたところを私の目撃した、あの画家だという、ベレ帽をかぶっていた青年は、その顔なんか明瞭には覚えていなかったが、それだけ一層、その男の漠とした存在は、何かしら私を不安にさせずにはおかなかった。
彼女は、その画家のことは、それっきり何も私に話しませんでした。けれど、もしかしたら彼女は、それまでに何度もその画家に出会っていて、私の知らない間に、お互いに親しくなり始めているのではないか――そんな心配(懸念・けねん)さえ、私は持ち始めていました。
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彼女はその画家のことはそれっきり何んにも私に話さなかったが、ひょっとしたら彼女はそれまでに何遍もその画家に出会っており、そして私の知らない間に互に親しくなりだしているのではないかと云うような懸念さえ私は持ちはじめていた。
そして、ある日のこと、そんな私の心配を、いっそう強めずにはおかないような出会いを、私たちは、その画家とすることになったのでした。――
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そうして或る日のこと、そういう私の懸念を一そう増させずにはおかないような出会いを私たちはその画家としたのだった。――
やっと彼女が、花屋の絵を描き上げたので、次に絵を描く場所を探すために、ある晴れた朝、私は彼女と一緒に、すこし遠いけれど、サナトリウムの方へ、久しぶりに出かけてみることにしました。
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やっと彼女が花屋の絵を描き上げたので、次の絵を描く場所を捜すために、或る晴れた朝、私は彼女と一緒に、すこし遠いけれど、サナトリウムの方へひさしぶりで出かけてみることにした。
私たちが、小さな集まりがあるらしい、少人数の西洋人の姿が窓越しにちらちら見える、教会の前を通り抜けて、その裏の、いつも人気のないとちの林の中へ入ろうとしたとたん――私たちの行く手の、その林の中の小道を、ひとりの男が、帽子もかぶらずに、スケッチブックらしいものを手にしながら、ぶらぶらしているのを、私たちは見つけました。
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私たちが、小さな集りのあるらしい、少人数の西洋人の姿が窓ごしにちらちら見える、教会の前を通りぬけて、その裏の、いつも人気のない橡の林の中へはいろうとした途端、私たちの行く手の、その林のなかの小径をば、一人の男が、帽子もかぶらずに、スケッチ・ブックらしいものを手にしながら、ぶらぶらしているのを私たちは認めた。
「いつかの画家さんよ……また、お会いしたわ」
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「いつかの画家さんよ……又、お会いしたわ」
――彼女に、そう教えられるまでは、私は、その男が、このごろ何の理由もなく自分を苦しめ始めている、あのベレー帽の画家と、同じ男であることには、気づかなかったくらいでした。
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――彼女にそう注意をされるまでは、私はその男が、この頃何の理由もなく私を苦しめ出している、そのベレ帽の画家と同じ男であることには気づかなかった位であった。
それほど私は、その画家については、何も見覚えがなかったのです。
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それほど私はその画家については何んにも見覚えがなかったのだ。
私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくる、その男から、努めて視線をそらしながら、急に早口で、とりとめもないことを彼女に話し出しました。
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私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくるその男からは、つとめて私の視線をはずしながら、急に早口にとりとめもないことを彼女に話し出した。
私は、彼女が私の話に気を取られて、その男の方へは、あまり注意を向けないようにと、仕組んだのです。
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私は彼女が私の話に気をとられてその男の方へはあんまり注意しないようにと仕掛けたのだ。
しかし、彼女は、私の言うことには、なんだか気のなさそうな返事をするだけでした。
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しかし彼女は私の言うことには何んだか気がなさそうに応えるだけであった。
そして彼女は、私がそばにいるせいで、ひどくあいまいにされたような、好意にあふれた目つきで、その男の方を見つめていました。
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そして彼女は、私がそばにいるのでひどく曖昧にされたような好意に充ちた眼ざしで、その男の方を見つめていた。
少なくとも、私には、そんな気がしました。
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少くとも私にはそんな気がした。
すると、その男の方でも、私の知らない、この前の出会いの時に、彼女と交わした親しげな視線の続きとでも言うような、意味ありげな視線を、彼女の方へ投げかけました。そして、思い出し笑いのようなものを、ふいに浮かべながら、軽くおじぎをして、私たちのそばを通り抜けていきました。
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すると、その男の方でも、私の知らないこの前の出会いの際に、彼女と交換した親しげな視線の続きとでも言ったような意味ありげな視線を彼女の方へ投げかけながら、そして思い出し笑いのようなものをふいと浮べながら、軽く会釈をして、私たちのそばを通り抜けて行った。
私は、なんだか急に、考えごとでも始めたかのように、黙りこみました。
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私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。
私たちは、そのとちの林を通り抜けて、いつのまにか、小さな美しい流れに沿って歩いていました。
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私たちはその橡の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに沿い出していた。
しかし私は、いま自分が感じていることが、どこまで本当なのか、そんなことは全部、根拠のないことなんじゃないか、と疑ったりしながら、むずかしい顔で黙ったまま、自分の足もとばかり見て歩いていました。
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しかし私はいま自分の感じていることが何処まで真実であるのか、そんなことはみんな根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、気むずかしそうに沈黙したまま、自分の足許ばかり見て歩いていた。
そして私は、そんな自分の疑いに対する、はっきりした答えを恐れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしませんでした。
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そうして私は、そんな自分の疑いに対するはっきりした答えを恐れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしないでいた。
けれど、とうとう私は、がまんしきれなくなって、その沈黙の中から、そっと彼女の横顔を見上げました。
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が、とうとう私は我慢し切れなくなってそんな沈黙の中からそっと彼女の横顔を見上げた。
そして私は、思っていたよりも、もっと彼女が、その沈黙に苦しんでいるらしいのを、見抜きました。
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そして私は思ったよりももっと彼女がその沈黙に苦しんでいるらしいのを見抜いた。
そんな、しょんぼりとした彼女の様子は、私には、たまらないほどいじらしく見えました。
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そういう彼女の打ち萎れたような様子は私にはたまらないほどいじらしく見えた。
突然、後悔(こうかい)のようなもので、私の胸はいっぱいになりました。……
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突然、後悔のようなもので私の胸は一ぱいになった。……
私が、ほとんど夢中で、彼女の腕をつかんだのは、そんな、こんがらがった気持ちの中でのことでした。
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私がほとんど夢中で彼女の腕をつかまえたのは、そんなこんがらがった気持の中でだった。
彼女は、ちょっと私に抵抗しかけましたが、とうとう、その腕を、私の腕の中に、切なそうに任せました。……
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彼女はちょっと私に抵抗しかけたが、とうとうその腕を私の腕のなかに切なそうに任せた。……
それから数分たって、やっと初めて、自分の腕の中に彼女がいることに気づいたかのように、私は、何とも言えない喜ばしさを感じ始めました。
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それから数分経ってから初めて、私はやっと自分の腕の中に彼女がいることに気がついたように、何んともかんとも言えない歓ばしさを感じ出した。
私たちは、すこしぎこちなく腕を組んだまま、あの小さな木の橋を渡りました。
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私たちは、少しぎごちなさそうに腕を組んだまま、例の小さな木橋を渡った。
それから、その流れの反対側に沿って、サナトリウムへの道に入っていきました。
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それからその流れの反対の側に沿って、サナトリウムへの道に這入って行った。
その途中にずっと続いている、野ばらの生け垣は、すでに、その白い小さな花を、全部失ったあとでした。
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その途中にずっと続いている野薔薇の生墻は、既にその白い小さな花をことごとく失った跡だった。
そんな、葉ばかりになってしまった野ばらの茂みは、花をいっぱいつけていた頃のことを、ほとんど無理やり、私に思い出させました。けれど、私は、それがどんな様子になっていようとも、もう、それには少しも感動できなくなっていました。
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そんな葉ばかりになってしまっている野薔薇の茂みは、それらが花を一ぱいつけていた頃のことを、殆んど強制的に私に思い出させはしたけれど、私はそれがどんなになっていようとも、もうそれには少しも感動できなくなっていた。
それほど、あの頃から、すべてが変わっていました。
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それほどあの頃からすべてが変っていた。
そして、それが何もかも自分の責任のような気がして、私は、ふっと気がふさぎました。……
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そしてそれが何もかも自分の責任のような気がされて、私はふっと気が鬱いだ。……
けれど、それらの生け垣の間から、サナトリウムの赤い建物が見え始めると、私は気を取り直しました。そして、黄色いフランスギクが、今を盛りに咲き乱れている中庭の、ずっと向こうにある、あの日光室(サンルーム)を、彼女に指さして見せました。
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が、それらの生墻の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室を彼女に指して見せた。
ちょうど、その日光室の中には、回復期(快癒期・かいゆき)の患者らしい外国人がひとり、籐(とう)のいすにもたれていました。それが、ひょいと上半身を起こして、私たちの方を、けだるそうな目つきで眺め始めました。――
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丁度、その日光室の中には快癒期の患者らしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺め出した。――
それから私たちは、なおもその流れに沿って、そのあたりから、しだいにアカシアの木立に縁どられ始める川沿いの道を、どこまでもまっすぐに進んでいきました。
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それから私たちは、なおもその流れに沿って、そこいらへんから次第にアカシアの木立に縁どられだす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。
それらのアカシアが花盛りだった頃は、その道は、あんなにも足ざわりがやわらかく、新鮮な感じがしていました。それなのに、今はもう、あちこちにでこぼこができて、きたなくなり、なんだかいやな匂いさえしていました。
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それらのアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも足触りが軟かで、新鮮な感じがしていたのに、今はもう、あちこちに凸凹ができ、汚らしくなり、何んだかいやな臭いさえしていた。
その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、激しい日ざしから私たちを十分に守ってくれず、その川沿いの道は、それまでの道よりも、いっそう暑いように思えました。
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その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、はげしい日光から私たちを充分に庇うことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道よりも一層暑いように思えた。
私たちは、途中から、それらのアカシアの間をくぐり抜けて、ちょうどサナトリウムの裏手にあたる、一面に葦(あし)がはっている、いくぶん荒れ果てた感じのする、大きな空き地へ出ました。
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私たちは途中からそれらのアカシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあたる、一面に葦の這っている、いくぶん荒涼とした感じのする大きな空地へ出た。
そこからは、村の峠が、そのまわりのいくつかの小山に囲まれながら、私たちのほとんど真正面に、そびえていました。
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其処からは、村の峠が、そのまわりの数箇の小山に囲繞されながら、私たちの殆んど真向うに聳えていた。
――梅雨の頃には、その時の私自身の心の状態のせいだったかもしれませんが、その奥には、何かしら神秘的なものがあるように思えてなりませんでした。
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――梅雨期には、その頃の私自身の心の状態のせいだったかも知れないが、その奥には何かしら神秘的なものがあるように思えてならなかった。
その峠も、今では、何もかもを焼きつくさずにはおかないような、夏の日ざしを全身に浴びながら、なんだか炎のようにゆらめいているような感じで、私たちに迫っていました。……
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その峠も、いまは何物をも燃やさずにはおかないような夏の光線を全身に浴びながら、何んだか炎のようにゆらめいているような感じで、私たちに迫っていた。……
彼女は、その燃えるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を手前に置きながら、描いてみたい、と言いました。
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彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。
そして、それをちょうどよい角度から描くために、そんな激しい日ざしが直接あたるのも気にしない様子で、その空き地のやや小高いところを選びました。そこに三脚を据えて、その上に腰かけ、斜めにかぶった運動帽の下から、ときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、下絵を取り出しました。……
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そしてそれを適当な角度から描くために、そんなはげしい光線の直射するのにも無頓著のように、その空地のやや小高いところを選ぶと、三脚台を据えて、その上へ腰かけ、斜めにかぶった運動帽の下からときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、その下図をとりだした。……
私は、彼女の仕事のじゃまにならないように、いつものように彼女をそこにひとり残して、ふたたびさっきの土手に出ました。そして、やや大きなアカシアの木かげを選んで、そこに腰を下ろしていました。
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私は彼女の仕事の邪魔にならないように、いつものように彼女を其処に一人きり残しながら、再びさっきの土手に出て、やや大きなアカシアの木蔭を選んで、そこに腰を下ろしていた。
そして、私の前の小さな流れのふちを、一羽のセキレイが、さびしそうにあちこち飛び歩いているのを、ぼんやり見つめていました。すると突然、私の後ろの、サナトリウムの方から、その土手を、うんうん言いながら、重たそうに荷車を引いてくる人がいたので、私は道をあけようとして立ち上がりました。
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そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の鶺鴒が寂しそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然、私の背後のサナトリウムの方からその土手をうんうん言いながら重たそうに荷車を引いてくる者があるので、私は道をあけようとして立ち上った。
見ると、それは、一台のごみ収集車でした。
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見ると、それは一台の塵芥車だった。
私は、とんでもないものが、こんなところを通るんだなあ、と思いながら、道ばたの低い木の中に、すっぽりと体を入れて、よそを向いていました。
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私は、とんでもないものがこんなところを通るんだなあと思いながら、道ばたの灌木の中へすっぽりと身体を入れながら、よそっぽを向いていた。
けれど、そのごみ収集車が、やっと私の後ろを通り過ぎたらしいので、何気なく、ちらりとそちらに目をやると――その箱型の車の中には、缶詰の缶や、とうもろこしの皮や、黄ばんだ英字新聞や、枯れた草花などが、ある種の、きたないながらも美しい様子で、ぎっしりと詰まっていました。
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が、その塵芥車がやっと私の背後を通り過ぎたらしいので何気なくちらりとそれへ目をやると、その箱車のなかには、鑵詰の鑵やら、唐もろこしの皮やら、英字新聞の黄ばんだのやら、草花の枯れたのやらが、一種汚らしい美しさで、ぎっしりと詰まっていた。
そして、その車が通ったあとには、いつまでも、腐った果物に似た匂いが漂っていました。……
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そしてその車の通った跡には、いつまでも腐った果物に似た匂いが漂っていた。……
私は、こんなごみ収集車のようなものにさえ、いかにも、この外国人の多い村らしい、独特の美しさがあるのを面白がりました。それをちょっと見送ったあと、ふたたび、さっきのアカシアの木かげに、ぼんやり腰を下ろしていました。すると、ほんの数分もたたないうちに、私はまたしても、後ろから近づいてくる車の音のせいで、立ち上がらなければなりませんでした。
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私はこんな塵芥車のようなものにも、いかにもこの外国人の多い村らしい独得な美しさのあるのを面白がって、それをちょっと見送った後、再びさっきのアカシアの木蔭へぼんやり腰を下ろしていると、ものの数分と経たないうちに、私はまたしても私の背後へ近づいてくる車の音でもって、立ち上らなければならなかった。
それもまた、前のとそっくり同じような、ごみ収集車でした。
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それもまた、前のとそっくり同じような、塵芥車だった。
そして、それから小一時間ほどの間に、私は、この土手を通り過ぎる、同じようなごみ収集車を、ほとんど十台ぐらい数えることができました。
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そしてそれから小一時間ばかりの間に、私はこの土手を通りすぎる同じような塵芥車を、ほとんど十台ぐらい数えることが出来た。
――どこか、この先の方に、きっとこの村のごみ捨て場があるんだな、と、それに初めて気づくと同時に、私は、やっとのことで、このサナトリウムの土手が、こんなにでこぼこになり、きたなくなっている原因にも、気づき始めました。
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――何処かこの先きの方にでも、きっとこの村の芥棄て場があるんだなと、それにはじめて気がつくや否や、私は漸っとのことで、このサナトリウムの土手がこんなに凸凹になり、汚らしくなっている原因にも気がつきだした。
そして、それとほとんど同時に、もうこんなに、この村にはたくさんの外国人が入り込んでいるのかなあ、と思いながら、私は、すこしあっけにとられたように、いましがた私の後ろを通り過ぎたばかりの、その最後のごみ収集車を、いつまでも見送っていました。……
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そうしてそれとほとんど一緒に、もうこんなにこの村には沢山の外国人がはいり込んでいるのかなあと思いながら、私はすこし呆気にとられたように、いましがた私の背後を通り過ぎて行ったばかりの、その最後の塵芥車をいつまでも見送っていた。……
暗い道
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暗い道
「どっちへ向かって行くんだか、私には、ちっともわからないわ」
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「どっちへ向いて行くんだか、私にはちっとも分らないわ」
彼女は、いくらか上ずったような声で言いました。
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彼女はいくらか上ずったような声で言った。
「実は、僕にも、わからなくなっちゃったのさ……」
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「実は僕にも分らなくなっちゃったのさ……」
私は、そう返事をしながら、彼女の方を見ましたが、その白い顔の輪廓(りんかく)が、もうほとんど見分けられないくらいの暗さになり始めていました。
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私はそう返事をしながら、彼女の方を見やったが、その白い顔の輪廓がもうほとんど見分けられないくらいの暗さになりだしていた。
実際、私自身にも、こんなふうに、私たちが歩いている山道の見当が、ちょっとつきかねていました。けれど、私はわざと、それを冗談のように言いまぎらわせていたのでした。
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実際私自身にもこんな風に私たちの歩いている山径の見当がちょっと付きかねていたのだけれど、私はわざとそれを冗談のように言い紛らわせていたのだった。
――その日、私が、自分の「美しい村」
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――その日、私が私の「美しい村」
の物語の中に描いた、二人のおばあさんたちが昔住んでいた、あの見捨てられた古いヴィラの話を、彼女に聞かせると、彼女はしきりにそれを見たがりました。私自身は、もうそんなものは見たくもなかったのですが、あの荒れ果てたヴェランダからの夕暮れの眺めが、いかにも美しかったのを思い出して、夕食後、ともかく、そのヴィラまで登っていってみることにしました。
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の物語の中に描いた、二人の老嬢たちのもと住まっていた、あの見棄てられた、古いヴィラの話を彼女にして聞かせると、それをしきりに見たがったので、私自身はもうそんなものは見たくもなかったのだけれど、その荒れ果てたヴェランダから夕暮れの眺めがいかにも美しかったのを思い出して、夕食後、ともかくもそのヴィラまで登って行ってみることにした。
おそらく、あの家は、まだあのままになっているだろう、と思いながら。……
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恐らくあの家はまだあのまんまになっているだろうと予想しながら。……
けれど、だんだん、そのヴィラが近づいてくるにつれ、私は、なんだか急に、そんな自分の夢の残がい(残骸・ざんがい)のようなものを見に行くのが、いやな気がし始めました。それで、そろそろ日が暮れかけてきたのをいい口実にして、まだ山道がこれから、なかなか大変だから、と言って、私たちは、その途中から引き返すことにしました。――
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が、だんだんそのヴィラが近づいてくるにつれ、私は何んだか急にそんな自分の夢の残骸のようなものを見に行くのが厭な気がし出したので、そろそろ日が暮れかけて来たのをいい口実に、まだ山径がこれからなかなか大へんだからと言って、私たちはその途中から引っ返すことにした。――
その帰り道、私は、その代わりに、まだ彼女が知らないという、ベルヴェデーレの丘の方へ、彼女を案内しようと思いました。そのため、いましがた登ってきたのとは違う山道を選んでいるうちに、どう道を間違えたのか、そのあたりから、もう下り道になってもよさそうな頃なのに、いつまでも上り坂になっていて、私たちは、村の中心から、ますます反対の方へ向かいつつあるような気がしてきました。
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その帰り途、私はその代りに、まだ彼女が知らないというベルヴェデエルの丘の方へ彼女を案内するため、いましがた登ってきたのとは異った山径を選んでいるうちに、どう道を間違えたのか、そのへんからもう下り道になってもよさそうな時分だのに、いつまでもそれが爪先き上りになっていて、私たちはその村の中心からはますます反対の方へ向いつつあるような気がしてきた。
まだこの村に、こんな自分の知らない部分があることに、心の中では驚きながら――しかし私は、そのあたりを、いかにもよく知っているように装いながら、さっさと彼女を先導していきました。
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まだこの村にこんな私の知らない部分があることを心のうちでは驚きながら、しかし私はそのへんをいかにも知り抜いているように装いながら、さっさと彼女を導いて行った。
けれど、私たちは、ともすると、無言になるのでした。……
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が、私たちはともすると無言になるのだった。……
いつのまにか、もうすっかり日が暮れていました。
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いつのまにやらもうすっかり日が暮れていた。
私たちが歩いている道の両側の落葉松などが伸びきって、すこし立て込んでいたりすると、私は、ほとんど彼女の着ているワンピースのばら色さえ、見きわめがたいくらいでした。
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私たちの歩いている道の両側の落葉松などが伸び切って、すこし立て込んでいたりすると、私はほとんど彼女の着ているワンピイスの薔薇色さえ見さだめがたい位であった。
ただ、ときどき、彼女の肩が私の肩にぶつかるので、自分のそばに彼女を近く感じながら、歩いていました。
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ただときどき彼女の肩が私の肩にぶつかるので、自分の傍に彼女を近ぢかと感じながら歩いていた。
そうかと思うと、木立の間から、だしぬけに、その奥にあるヴィラの明かりが、下の枝越しに、私たちの肩に落ちてきて、知らず知らずに身を寄せ合っていた私たちを、思わず離れさせました。
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そうかと思うと、木立の間からだしぬけにその奥にあるヴィラの灯りが下枝ごしに私たちの肩に落ちて来て、知らず識らずに身をすり寄せていた私たちを思わず離れさせた。
――そんなヴィラの数が、だんだん増えてきたらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていました。……
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――そんなヴィラの数がだんだん増え出して来たらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていた。……
突然、私は、心臓をしめつけられたように、立ち止まりました。
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突然、私は心臓をしめつけられたように立ち止まった。
私は、それらのヴィラに見覚えが出てくるのと同時に――このまま行けば、このごろ努めて近寄らないようにしていた、私の昔の女友達の別荘の前を、通らなければならないことに気づいたのです。
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私はそれらのヴィラに見覚えがあり出すのと同時に、これをこのまま行けば、私がこの日頃そこに近寄るのを努めて避けるようにしていた、私の昔の女友達の別荘の前を通らなければならないことを認めたのだ。
そして私は、その一家の者が、二、三日前から、この村に来ていることを、宿のじいやから聞いて、知っていたのです。
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そして私は、その一家のものが二三日前からこの村に来ていることを宿の爺やから聞いて知っていたのだ。
しかし、もうさんざん彼女を引っぱり回したあとでしたし、私もかなり歩き疲れていたので、これ以上、回り道をする気にはなれず、私は、心ならずも、その別荘の前を通り抜けていくことにしました。……
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しかしもうさんざん彼女を引っ張りまわした挙句だったし、私もかなり歩き疲れていたので、この上廻り道をする気にはなれずに、私は心ならずもその別荘の前を通り抜けて行くことにした。……
だんだん、その別荘が近づいてくるにつれ、私は、ますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えました。けれど、さて、いよいよ、その別荘の真っ白な柵が、私たちの前に現れた瞬間――柵の中の、明かりがいっぱいに落ちている芝生の向こうに、すっかり開け放した窓わくの中から、私の見覚えのある古い丸テーブルの一部が見えました。その上には、人々が食事から立ち去ってから、まだ間もないというように、丸められたナプキンや、果物の皮が残っている皿や、コーヒーカップなどが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらいランプの光を浴びて、きらきら光っているのを、私は、自分でも意外なくらいの冷静さで、見てとることができました。
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だんだんその別荘が近づいて来るにつれ、私はますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えたが、さて、いよいよその別荘の真白な柵が私たちの前に現われた瞬間には、その柵の中の灯りの一ぱいに落ちている芝生の向うに、すっかり開け放した窓枠の中から、私の見覚えのある古い円卓子の一部が見え、その上には、人々が食事から立ち去ってからまだ間もないと言ったように、丸められたナプキンだの、果物の皮の残っている皿だの、珈琲茶碗だのが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらい洋燈の光りを浴びてきらきらと光っているのを、私は自分でも意外なくらいな冷静さをもって認めることが出来た。
都合よく、そこには誰もいなかったせいでしょうか。それとも、その瞬間までに、私の中の不安が、すでにピークを通り越してしまっていたせいだったのでしょうか。
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いい具合に其処には誰も居合わさなかったせいか、それともまたそれは、その瞬間までに、私のなかの不安が、既にその絶頂を通り越してしまっていたせいであったろうか?
ともかく、私は、かなり平静に近い気持ちで、ただちょっと足を早めただけで、その白い柵の前を通り過ぎることができました。……
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ともかくも、私はかなり平静に近い気持で、ただちょっと足を早めたきりで、その白い柵の前を通り過ぎることが出来た。……
そんな、私の心の中の動揺(どうよう)に気づくはずもなく、彼女は、急に早足になった私のあとから、なんだか、いぶかしそうについてきながら、
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そんな私の心のなかの動揺には気づこう筈がなく、彼女は急に早足になった私のあとから、何んだか怪訝そうについて来ながら、
「まだ、なかなかなの?」
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「まだ、なかなか?」
と、すこし不安そうに、私に声をかけました。
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とすこし不安らしく私に声をかけた。
「うん……ますます見当がつかないんだ」
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「うん……ますます見当がつかないんだ」
「そんなことばっかり言って……」
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「そんなことばかし言って……」
彼女は、そんな、私の本気とも冗談ともつかないような態度に、とうとう腹を立てたように見えました。
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彼女はそんな私の本気とも冗談ともつかないような態度にとうとう腹を立てたように見える。
そして、そんな、私を非難するような口ぶりで、
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そうしてそんな私を非難するような口吻で、
「早く帰らない?」
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「早く帰らない?」
と言いました。
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と言った。
「じゃ、ひとりでお帰りなさい」
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「じゃ、一人でお帰りなさい」
と、私は、今ではもう、ほほえみらしいものさえ浮かべながら、返事をしました。
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と私はいまはもう微笑らしいものさえ浮べながら返事をした。
「意地悪!」
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「意地わる!」
「だって、ほら、そこ、知っているでしょう?」
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「だって、ほら、其処知っているでしょう?」
と、私は、私たちの行く手の暗がりの中に、小さなせせらぎが音を立てているのを指さしながら、「水車道じゃないの?」
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と私は、私たちの行く手の暗がりの中に小さなせせらぎが音立てているのを指しながら、「水車の道じゃないの?」
と、元気よく言いました。
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と快活そうに言った。
「まあ、本当に……」
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「まあ、本当に……」
と、彼女は、まだなんだか、それが信じられないというように、自分のまわりを見回していました。
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と彼女はまだ何んだかそれが信じられないと言った風に自分の周囲を見廻わしていた。
私たちは、すでに、林の中を抜け出して、昔、水車場があった跡に、たたずんでいたのでした。――
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私たちはすでに、林のなかを抜け出して、昔、水車場のあった跡に佇ずんでいたのだった。――
そこで、道が二股に分かれていて、片方は「水車道」
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そこで道が二股に分かれて、一方は「水車の道」
、もう片方は「本通り」
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、もう一方は「本通り」
へと通じていました。
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へと通じていた。
どちらからでも、もうすぐそこの宿屋へは帰れるのですが、水車道の方からだと、あのかなり険しい坂道を下りなければなりません。そこで私たちは、本通りの方から帰ることにしました。
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どっちからでも、もうすぐ其処の宿屋へは帰れるのだが、水車の道の方からだと例のかなり嶮しい坂道を下りなければならなかったので、私たちは本通りの方から帰ることにした。
それで、その本通りの道を選んで、突き当たりから本通りの方へ曲がろうとしたとたん、私は、その本通りの入り口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっとうす明るくなりだしている輪の中に、五、六人、ひとかたまりになった人影が、こちらを向いて歩いてくるのに気づきました。
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で、その後者の道をとって、その突きあたりから本通りの方へ曲ろうとした途端に、私は、その本通りの入口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっと薄明るくなりだしている圏の中に、五六人、一かたまりになった人影がこちらを向いて歩いてくるのを認めた。
私は、どきっとして、立ち止まりました。
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私はどきっとして立ち止まった。
どうやら、それが、私の昔の女友達たちらしく見えたからです。……
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どうやらそれが私の昔の女友達どもらしく見えたからだ。……
私は急に、そばにいる彼女の腕をとって、「向こうから、ちょっと苦手な人が来るらしいから、つかまると面倒だから」と、早口に言いわけしながら、たった今来たばかりの水車場の方へ、引き返していきました。
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私は急に、私のそばにいる彼女の腕をとって、向うから苦手の人が来るらしいので捕まると面倒くさいからと早口に言訣しながら、いま来たばかりの水車場の方へ引っ返していった。
そして、ふたたび、さっきの小川のふちに並んで立ちながら、その人たちが、そのまま本通りの方から来るのか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるのか、どちらから来るだろうと、両方の道に注意を配っていました。……
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そうして再びさっきの小川の縁に並んで立ちながら、その人達がそのまま本通りの方から来るか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるか、どっちから来るだろうと、両方の道へ注意を配っていた。……
そして、そちらにばかり注意をとられていたので、私たちは、自分たちの後ろの、たった今そこから出てきたばかりの林の中から、数人が懐中電灯を照らしながら出てくるのには、まったく気づいていませんでした。
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そしてそっちにばかり注意を奪われていたので、私たちは、私たちの背後の、いましがた其処から私たちの出てきたばかりの林の中から、数人のものが懐中電気を照らしながら、出てくるのには全然気がつかずにいた。
突然、私たちは、その懐中電灯のまぶしい光を浴びせられました。
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突然私たちはその懐中電気のまぶしい光りを浴びせられた。
私たちは、びっくりして、その小川のふちを離れました。……
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私たちはびっくりしてその小川の縁を離れた。……
けれど、懐中電灯を手にしていた男の方でも、そんなところに、思いがけず私たちが突っ立っていたのに、面食らったようでした。けれど、その中のひとりが、私だと気づくと、
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しかし懐中電気を手にしていた男の方でも、そんなところに思いがけず私たちが突っ立っていたのに、面喰ったらしかったが、その一人が私だと気がつくと、
「××君じゃない?」
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「××君じゃない?」
と、私の名前を、ためらいがちに言いました。
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と私の名前をためらいがちに言った。
そう言われて、私は、いっそう驚きました。まぶしそうに顔をしかめながらふり向いてみると、それは、私の学生時代からの友人でした。
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そう言われて、私が一層驚いて、まぶしそうに顔をしかめながら振り向いて見ると、それは私の学生時代からの友人であった。
それと同時に、私は、その友人の後ろに、若い女性が二、三人、まだいぶかしそうに、暗やみを見すかしながら、こちらを見つめているのに気づきました。
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それと同時に、私はその友人の背後に、若い女たちが二三人、まだ不審そうに闇を透かしながらこちらを見つめているのに気がついた。
それは、その友人の若い奥さんや、妹たちでした。
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それはその友人の若い妻君や妹たちであった。
私は、彼女たちに、ちょっとおじぎをして、それから、きまり悪そうにほほえみながら、
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私は彼女たちにちょいと会釈をして、それから気まり悪そうに微笑しながら、
「なあんだ、君たちか! ――いつ、こっちへ来たの?」
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「なあんだ、君たちか! ――何時、こっちへ来たの?」
「昨日来たんだ。さっき君のところへ寄ったら、留守だって言うから、それから細木さんのところへ行ってみたんだ。あそこの家も、みんな出払っているんだよ……」
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「昨日来た。さっき君んところへ寄ったら留守だと言うんで、それから細木さんのところへ行って見たんだ。あそこの家もみんな出払っているんだ……」
私は、その友人の言葉を聞き終わるか終わらないうちに、本通りの方の曲がり角から、ひとかたまりの人影が、こちらへ曲がってくるのに気づきました。
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私はその友人の言葉を聞き終えるか終えないうちに、本通りの方の曲り角から一かたまりの人影がこっちへ曲って来だしたのを認めた。
「じゃあ、かまわないから、僕のところへ寄っていけよ」
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「じゃあ、構わないから、僕んところへ寄って行けよ」
そう言い捨てて、私は、さっさとひとりで水車道の方へ歩き出しました。
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そう言い棄てて、私はさっさと一人で水車の道の方へ歩き出した。
そして私は、二、三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先の、真っ暗だけれど、自分にはよく知っている、草深い坂道を、どんどんひとりで先に降りていきました。
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そうして私は二三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先きの、真っ暗だけれど、私には勝手の知れた、草ぶかい坂道をずんずん一人先きに降りていった。
やがて、他のみんなも、そんな私のあとから、ひとかたまりになって、ひとつの懐中電灯を頼りにしながら、きゃっきゃっと言いながら降りてきました。……
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やがて他の連中も、そんな私の後から一塊りになって、一箇の懐中電気を頼りにしながら、きゃっきゃっと言って降りて来た。……
「まあ、こんな道があるの、私、ちっとも知らなかったわ」
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「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」
坂の途中で、友人の若い奥さんが、誰にともなく、そんなことを言ったらしいのが――もうその時には、その小さな坂を降りきっていた私のところまで、はっきりと聞こえてきました。
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坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなく言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて来た。
私は、ちょうど、その友人の奥さんも、確か数年前に、その坂道で私が出会った少女たちの中に混じっていたことを、思い出すともなく、思い出していたところでした。――
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私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道で私の出会った少女たちの中に雑っていたことを思い出すともなく思い出していたところだった。――
あの出会いは、私にはあんなにも印象深いのに――かつて、その少女たちのひとりだった彼女の方では(おそらく他の少女たちも同じように)、そんな私との出会いのことなど、少しも気に留めていなくて、すっかり忘れてしまっているのかなあ、と思いました。
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その出会いは私にはあんなにも印象深いのに、嘗つてのその少女たちの一人であった彼女の方では、(恐らく他の少女たちも同様に)そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていないで、すっかり忘れてしまっているのかなあと思った。
けれど、一方では、また、なんだか、そんなことを言って、彼女が私をからかっているのではないかしら、と、そんな気もしました。
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が、一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をからかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。
ひょいと、彼女の口をついて出たらしい、そんな言葉を、私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて、みんなが降りてくるのを待っていました。すると突然、その中の誰かが足をすべらせて、「あっ!」
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ひょいと彼女の口を衝いて出たらしいそんな言葉を私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りてくるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑らして、「あっ!」
と小さく叫んで、坂の途中に、どさりと倒れたらしい気配がしました。
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と小さく叫んで、坂の中途にどさりと倒れたらしい気配がした。
見上げると、その坂の途中に、まだ転がっているらしいものが、まるで花盛りの低い木のように見えました。
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見上げると、その坂の中途にまだ転がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木のように見えた。
そして、他のみんなが立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして眺めながら、その場から一歩も動こうとせず、突っ立っていました。
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そして他のものがみんな立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして眺めながら、その場を一歩も動こうとしないで突っ立っていた。
そして私は、毎朝のようにこの坂を上り下りしている、あの足の不自由な花売りのことを、ふと思い浮かべました。あいつは、いったいなぜ、こんな危なっかしい坂道を、わざわざ選んで通るのだろうか――そんな、今の場合とはまったく関係のないようなことを、考え始めていました。……
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そうして私は毎朝のようにこの坂を昇り降りしているあの跛の花売りのことをひょっくり思い浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道をわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合とは何んの関係もないようなことを考え出していた。……