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桜の森の満開の下 小学生向け

坂口安吾さかぐちあんご)・1990

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

桜の花がさくと、人々はお酒を持って出かけたり団子(だんご)を食べたりして、花の下を歩きながら「すばらしいながめだ」「春だなあ」と浮かれて楽しそうにしますが、これはうそです。

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桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子だんごをたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。

なぜうそかというと、桜の花の下に人が集まって酔っぱらってゲロをはいてけんかして――こういうのは江戸時代からの話で、もっと昔は桜の花の下はこわいものだと思っていて、すばらしいながめだなどとは誰も思っていませんでした。

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なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩けんかして、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。

今どきは桜の花の下といえば人が集まってお酒を飲んでけんかしているので、にぎやかで楽しいものだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取りのぞくと、おそろしい景色になります。能(のう・昔からの日本の劇)にも、ある母親が大事な子どもを人さらいにさらわれて、子どもをさがすうちに気が変になり、桜の花が満開の林の下まで来て、見わたすかぎりの花びらのかげに子どもの幻を思いえがいて、狂って死んで花びらにうもれてしまう(ここは筆者のつけたし)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ、ただこわいだけです。

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近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足だそく)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。

昔、鈴鹿峠(すずかとうげ)にも、旅人が桜の森の花の下を通らなければならない道がありました。

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昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。

花のさかない時期はよいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気がおかしくなりました。

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花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。

できるだけ早く花の下からにげようと思って、青々とした木や枯れ木のあるほうへ一目散に走りだしたものです。

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できるだけ早く花の下から逃げようと思って、青い木や枯れ木のある方へ一目散に走りだしたものです。

一人ならまだよいのです。なぜなら、花の下を一目散ににげて、ふつうの木の下まで来るとホッとして「やれやれ」ですむからですが、二人連れだとぐあいが悪いのです。

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一人だとまだよいので、なぜかというと、花の下を一目散に逃げて、あたりまえの木の下へくるとホッとしてヤレヤレと思って、すむからですが、二人連は都合が悪い。

というのも、人間の足の速さは人それぞれで、一人が遅れると「おい、待ってくれ」と後ろから必死に叫んでも、みんな気がおかしくなっているので、友だちを見すてて走ります。

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なぜなら人間の足の早さは各人各様で、一人が遅れますから、オイ待ってくれ、後から必死に叫んでも、みんな気違いで、友達をすてて走ります。

それで鈴鹿峠の桜の森の花の下を通りぬけたとたん、今まで仲のよかった旅人どうしが仲が悪くなり、相手の友情を信用しなくなります。

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それで鈴鹿峠の桜の森の花の下を通過したとたんに今迄仲のよかった旅人が仲が悪くなり、相手の友情を信用しなくなります。

そんなことから、旅人も自然と桜の森の下を通らなくなり、わざわざ遠回りの別の山道を歩くようになりました。やがて桜の森は街道を外れて、人っ子ひとり通らない山の静けさの中に取り残されてしまいました。

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そんなことから旅人も自然に桜の森の下を通らないで、わざわざ遠まわりの別の山道を歩くようになり、やがて桜の森は街道をはずれて人の子一人通らない山の静寂へとり残されてしまいました。

そうなってから何年かたって、この山に一人の山賊(さんぞく)が住みはじめましたが、この山賊はずいぶんむごい男で、街道に出て容赦なく人の着物をはぎとり、人の命もうばいましたが、こんな男でも桜の森の花の下へ来るとやっぱりこわくなって気がおかしくなりました。

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そうなって何年かあとに、この山に一人の山賊が住みはじめましたが、この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖しくなって気が変になりました。

そこで山賊はそれ以来、花がきらいで、「花というものはおそろしいものだな、なんだかいやなものだ」と、心の中でつぶやいていました。

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そこで山賊はそれ以来花がきらいで、花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中ではつぶやいていました。

花の下では、風がないのにゴウゴウと風が鳴っているような気がしました。

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花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。

それなのに、風はまったくなく、物音ひとつありません。

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そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。

自分の姿と足音だけが、ひっそりと冷たく、動かない風の中に包まれていました。

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自分の姿と跫音あしおとばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。

花びらがぽろぽろと散るように、魂が散って、いのちがだんだん弱っていくように思われます。

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花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。

それで目をつぶって何か叫んでにげたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので、目をつぶるわけにもいかず、いっそう気がおかしくなるのでした。

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それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。

けれども山賊は落ち着いた男で、後悔ということを知らない男でしたから、「これはおかしい」と考えたのです。

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けれども山賊は落付いた男で、後悔ということを知らない男ですから、これはおかしいと考えたのです。

「ひとつ、来年、考えてやろう」

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ひとつ、来年、考えてやろう。

そう思いました。

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そう思いました。

今年は考える気がしなかったのです。

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今年は考える気がしなかったのです。

そして、来年花がさいたら、そのときじっくり考えようと思いました。

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そして、来年、花がさいたら、そのときじっくり考えようと思いました。

毎年そう考えて、もう十何年もたち、今年もまた「来年になったら考えてやろう」と思って、また年が暮れてしまいました。

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毎年そう考えて、もう十何年もたち、今年もまた、来年になったら考えてやろうと思って、又、年が暮れてしまいました。

そう考えているうちに、はじめは一人だった女房がもう七人にもなり、八人目の女房をまた街道から、女の亭主(ていしゅ)の着物と一緒にさらってきました。

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そう考えているうちに、始めは一人だった女房がもう七人にもなり、八人目の女房を又街道から女の亭主の着物と一緒にさらってきました。

女の亭主は殺してきました。

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女の亭主は殺してきました。

山賊は女の亭主を殺すときから、どうも変だと思っていました。

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山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。

いつもと勝手がちがうのです。

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いつもと勝手が違うのです。

どこがどうとはっきり言えないけれど、変な感じがしました。けれども彼の心は物事にこだわることに慣れていないので、そのときも特に深く気にとめませんでした。

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どこということは分らぬけれども、変てこで、けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心にとめませんでした。

山賊ははじめ、男を殺すつもりはなく、着物をぜんぶ脱がせて、いつものように「とっとと消えうせろ」とけとばしてやるつもりでしたが、女があまりに美しかったので、思わず男を斬りすててしまいました。

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山賊は始めは男を殺す気はなかったので、身ぐるみ脱がせて、いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました。

それは彼自身にとっても思いがけない出来事でしたが、女にとっても思いがけない出来事だったしるしに、山賊がふり向くと、女は腰をぬかして彼の顔をぼんやり見つめていました。

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彼自身に思いがけない出来事であったばかりでなく、女にとっても思いがけない出来事だったしるしに、山賊がふりむくと女は腰をぬかして彼の顔をぼんやり見つめました。

「今日からお前は俺の女房だ」と言うと、女はうなずきました。

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今日からお前は俺の女房だと言うと、女はうなずきました。

手を取って女を引き起こすと、女は「歩けないからおぶっておくれ」と言います。

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手をとって女を引き起すと、女は歩けないからオブっておくれと言います。

山賊は「よしよし」と女を軽々と背負って歩きましたが、けわしい登り坂まで来て、「ここは危ないから降りて歩いてくれ」と言っても、女はしがみついて「いや、いやよ」と言って降りません。

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山賊は承知承知と女を軽々と背負って歩きましたが、けわしい登り坂へきて、ここは危いから降りて歩いて貰おうと言っても、女はしがみついて厭々、厭ヨ、と言って降りません。

「お前のような山男が苦しがるほどの坂道を、どうして私が歩けるものか、考えてごらんよ」

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「お前のような山男が苦しがるほどの坂道をどうして私が歩けるものか、考えてごらんよ」

「そうか、そうか、よしよし」

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「そうか、そうか、よしよし」

と男は疲れて苦しくてもごきげんでした。

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と男は疲れて苦しくても好機嫌でした。

「でも、一度だけ降りておくれ。私は強いから、苦しくて一休みしたいというわけじゃないぞ。目玉が頭の後ろについているわけじゃないから、さっきからお前をおぶっていても、なんとなくもどかしくて仕方がないんだよ。一度だけ下に降りて、かわいい顔を見せてもらいたいものだ」

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「でも、一度だけ降りておくれ。私は強いのだから、苦しくて、一休みしたいというわけじゃないぜ。眼の玉が頭の後側にあるというわけのものじゃないから、さっきからお前さんをオブっていてもなんとなくもどかしくて仕方がないのだよ。一度だけ下へ降りてかわいい顔を拝ましてもらいたいものだ」

「いやよ、いやよ」

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「厭よ、厭よ」

と、また女はやけに首にしがみつきました。

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と、又、女はやけに首っ玉にしがみつきました。

「私はこんなさびしいところに一時もじっとしていられないよ。お前の家のあるところまで一時も休まず急いでおくれ。さもないと、私はお前の女房になってやらないよ。私にこんなさびしい思いをさせるなら、私は舌をかんで死んでしまうから」

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「私はこんな淋しいところに一っときもジッとしていられないヨ。お前のうちのあるところまで一っときも休まず急いでおくれ。さもないと、私はお前の女房になってやらないよ。私にこんな淋しい思いをさせるなら、私は舌を噛んで死んでしまうから」

「よしよし。分かった。お前のたのみはなんでも聞いてやろう」

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「よしよし。分った。お前のたのみはなんでもきいてやろう」

山賊はこの美しい女房を相手にこれからの楽しみを考えて、とろけるような幸せを感じました。

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山賊はこの美しい女房を相手に未来のたのしみを考えて、とけるような幸福を感じました。

彼は威張って肩をはり、前の山、後ろの山、右の山、左の山と、ぐるりと一回転して女に見せて、

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彼は威張りかえって肩を張って、前の山、後の山、右の山、左の山、ぐるりと一廻転して女に見せて、

「これだけの山という山が、みんな俺のものなんだぜ」

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「これだけの山という山がみんな俺のものなんだぜ」

と言いましたが、女はそんなことにはまるで取り合いません。

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と言いましたが、女はそんなことにはてんで取りあいません。

彼は意外にもまた残念で、

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彼は意外に又残念で、

「いいかい。お前の目に見える山という山、木という木、谷という谷、その谷からわく雲まで、みんな俺のものなんだぜ」

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「いいかい。お前の目に見える山という山、木という木、谷という谷、その谷からわく雲まで、みんな俺のものなんだぜ」

「早く歩いておくれ。私はこんな岩だらけの崖の下にいたくないんだから」

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「早く歩いておくれ。私はこんな岩コブだらけの崖の下にいたくないのだから」

「よし、よし。今にうちに着いたら、とびきりのごちそうをこしらえてやるよ」

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「よし、よし。今にうちにつくと飛びきりの御馳走をこしらえてやるよ」

「お前はもっと急げないのかえ。走っておくれ」

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「お前はもっと急げないのかえ。走っておくれ」

「なかなかこの坂道は、俺が一人でもそうは駆けられない難所だよ」

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「なかなかこの坂道は俺が一人でもそうは駈けられない難所だよ」

「お前も見かけによらない意気地なしだねえ。私としたことが、とんだ甲斐性(かいしょう・たよりになる力)なしの女房になってしまった。ああ、ああ。これから何をたよりに暮らしたらいいのだろう」

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「お前も見かけによらない意気地なしだねえ。私としたことが、とんだ甲斐性かいしょなしの女房になってしまった。ああ、ああ。これから何をたよりに暮したらいいのだろう」

「なにを馬鹿な。これぐらいの坂道が」

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「なにを馬鹿な。これぐらいの坂道が」

「ああ、もどかしいねえ。お前はもう疲れたのかえ」

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「アア、もどかしいねえ。お前はもう疲れたのかえ」

「馬鹿なことを。この坂道を抜けたら、鹿もかなわないくらい走ってみせるから」

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「馬鹿なことを。この坂道をつきぬけると、鹿もかなわぬように走ってみせるから」

「でもお前の息は苦しそうだよ。顔色が青いじゃないか」

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「でもお前の息は苦しそうだよ。顔色が青いじゃないか」

「なんでも物事のはじめのうちはそういうものさ。今に勢いのはずみがつけば、お前が背中で目を回すぐらい速く走るよ」

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「なんでも物事の始めのうちはそういうものさ。今に勢いのはずみがつけば、お前が背中で目を廻すぐらい速く走るよ」

けれども山賊は、体が節々からバラバラに分かれてしまったように疲れていました。

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けれども山賊は身体が節々からバラバラに分かれてしまったように疲れていました。

そしてわが家の前にたどり着いたときには、目もくらみ耳も鳴り、かすれ声のひとかけらをふりしぼる力もありません。

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そしてわが家の前へ辿たどりついたときには目もくらみ耳もなりしわがれ声のひときれをふりしぼる力もありません。

家の中から七人の女房が迎えに出てきましたが、山賊は石のようにこわばった体をほぐして、背中の女を降ろすだけで力いっぱいでした。

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家の中から七人の女房が迎えに出てきましたが、山賊は石のようにこわばった身体をほぐして背中の女を下すだけで勢一杯でした。

七人の女房は今まで見たこともない女の美しさに打たれましたが、女は七人の女房のきたなさにおどろきました。

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七人の女房は今迄に見かけたこともない女の美しさに打たれましたが、女は七人の女房の汚さに驚きました。

七人の女房の中には昔はかなりきれいな女もいたのですが、今は見る影もありません。

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七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。

女は気味悪がって男の背中へしりぞいて、

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女は薄気味悪がって男の背へしりぞいて、

「この山女は何なのよ」

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「この山女は何なのよ」

「これは俺の昔の女房なんだよ」

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「これは俺の昔の女房なんだよ」

と男は困って「昔の」

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と男は困って「昔の」

という言葉を考えついて付け足したのは、とっさの返事にしてはよくできていましたが、女は容赦がありません。

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という文句を考えついて加えたのはとっさの返事にしては良く出来ていましたが、女は容赦がありません。

「まあ、これがお前の女房かえ」

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「まア、これがお前の女房かえ」

「それは、お前、俺はお前のようなかわいい女がいようとは知らなかったのだからね」

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「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」

「あの女を斬り殺しておくれ」

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「あの女を斬り殺しておくれ」

女はいちばん顔立ちのととのった一人を指して叫びました。

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女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。

「だって、お前、殺さなくとも、女中だと思えばいいじゃないか」

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「だって、お前、殺さなくっとも、女中だと思えばいいじゃないか」

「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」

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「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」

男の結ばれた口からうめきがもれました。

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男の結ばれた口からうめきがもれました。

男はとびあがるように一つ跳ねて、指された女を斬り倒していました。

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男はとびあがるように一躍りして指された女を斬り倒していました。

しかし、息をつくひまもありません。

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然し、息つくひまもありません。

「この女よ。今度は、それ、この女よ」

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「この女よ。今度は、それ、この女よ」

男はためらいましたが、すぐズカズカ歩いていって、女の首へザクリとダンビラ(大きな刀)を斬りこみました。

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男はためらいましたが、すぐズカズカ歩いて行って、女のくびへザクリとダンビラを斬りこみました。

首がまだコロコロと転がりとまらないうちに、女のふっくらつやのある透きとおる声は、次の女を指して美しく響いていました。

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首がまだコロコロととまらぬうちに、女のふっくらツヤのある透きとおる声は次の女を指して美しく響いていました。

「この女よ。今度は」

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「この女よ。今度は」

指さされた女は両手で顔をかくして「キャー」という叫び声をあげました。

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指さされた女は両手に顔をかくしてキャーという叫び声をはりあげました。

その叫びにふりかぶって、ダンビラは空を光って走りました。

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その叫びにふりかぶって、ダンビラは宙を閃いて走りました。

残る女たちはにわかに一斉に立ち上がって、四方に散りました。

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残る女たちはにわかに一時に立上って四方に散りました。

「一人でも逃したら承知しないよ。やぶのかげにも一人いるよ。上のほうへ一人逃げていくよ」

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「一人でも逃したら承知しないよ。やぶの陰にも一人いるよ。上手へ一人逃げて行くよ」

男は血刀をふりあげて山の林を駆けまわりました。

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男は血刀をふりあげて山の林を駈け狂いました。

たった一人、逃げおくれて腰をぬかした女がいました。

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たった一人逃げおくれて腰をぬかした女がいました。

それはいちばん醜くて、びっこの女でしたが、男が逃げた女を一人残らず斬りすてて戻ってきて、無造作にダンビラをふりあげますと、

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それはいちばん醜くて、ビッコの女でしたが、男が逃げた女を一人あまさず斬りすてて戻ってきて、無造作にダンビラをふりあげますと、

「いいのよ。この女だけは。これは私が女中に使うから」

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「いいのよ。この女だけは。これは私が女中に使うから」

「ついでだから、やってしまうよ」

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「ついでだから、やってしまうよ」

「馬鹿だね。私が殺さないでおくれと言っているのだよ」

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「バカだね。私が殺さないでおくれと言うのだよ」

「ああ、そうか。ほんとだ」

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「アア、そうか。ほんとだ」

男は血刀を投げすてて、しりもちをつきました。

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男は血刀を投げすてて尻もちをつきました。

疲れがどっとこみあげて目がくらみ、土から生えた尻のように重みが分かってきました。

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疲れがどッとこみあげて目がくらみ、土から生えた尻のように重みが分ってきました。

ふと静けさに気がつきました。

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ふと静寂に気がつきました。

とびたつようなおそろしさがこみあげ、ぎょっとしてふり向くと、女はそこにいくらかやりきれない様子でたたずんでいます。

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とびたつような怖ろしさがこみあげ、ぎょッとして振向くと、女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。

男は悪夢からさめたような気がしました。

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男は悪夢からさめたような気がしました。

そして、目も心も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。

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そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。

けれども男は不安でした。

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けれども男は不安でした。

どういう不安だか、なぜ不安だか、何が不安だか、彼には分からないのです。

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どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分らぬのです。

女が美しすぎて、彼の心がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちを特に気にせずにいられただけです。

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女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。

「なんだか、似ているようだな」と彼は思いました。

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なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。

「似たことが、いつか、あった、それは」と彼は考えました。

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似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。

「ああ、そうだ、あれだ」

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アア、そうだ、あれだ。

気がつくと彼はびっくりしました。

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気がつくと彼はびっくりしました。

桜の森の満開の下です。

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桜の森の満開の下です。

あの下を通るときに似ていました。

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あの下を通る時に似ていました。

どこが、何が、どんなふうに似ているのか分かりません。

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どこが、何が、どんな風に似ているのだか分りません。

けれども、何か似ていることは、たしかでした。

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けれども、何か、似ていることは、たしかでした。

彼にはいつもそれくらいのことしか分からず、それから先は分からなくても気にならないたちの男でした。

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彼にはいつもそれぐらいのことしか分らず、それから先は分らなくても気にならぬたちの男でした。

山の長い冬が終わり、山のてっぺんのほうや谷のくぼみ、木のかげに雪がポツポツ残っていましたが、やがて花の季節が訪れようとして、春のきざしが空いちめんにかがやいていました。

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山の長い冬が終り、山のてっぺんの方や谷のくぼみに樹の陰に雪はポツポツ残っていましたが、やがて花の季節が訪れようとして春のきざしが空いちめんにかがやいていました。

「今年、桜の花がさいたら」と、彼は考えました。

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今年、桜の花が咲いたら、と、彼は考えました。

花の下にさしかかるときは、まだそれほどでもありません。

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花の下にさしかかる時はまだそれほどではありません。

それで思いきって花の下へ歩きこみます。

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それで思いきって花の下へ歩きこみます。

だんだん歩くうちに気がおかしくなり、前も後ろも右も左も、どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森の真ん中に近づくと、こわさにわけもわからずたまらなくなるのでした。

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だんだん歩くうちに気が変になり、前も後も右も左も、どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森のまんなかに近づくと怖しさに盲滅法たまらなくなるのでした。

「今年はひとつ、あの花ざかりの林の真ん中で、じっと動かずに――いや、思いきって地べたに座ってやろう」と彼は考えました。

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今年はひとつ、あの花ざかりの林のまんなかで、ジッと動かずに、いや、思いきって地べたに坐ってやろう、と彼は考えました。

そのとき、「この女もつれていこうか」と彼はふと考えて、女の顔をチラと見ると、胸さわぎがしてあわてて目をそらしました。

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そのとき、この女もつれて行こうか、彼はふと考えて、女の顔をチラと見ると、胸さわぎがして慌てて目をそらしました。

自分の腹(はら・考え)が女に知られては大変だという気持ちが、なぜだか胸に焼きついて残りました。

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自分のはらが女に知れては大変だという気持が、なぜだか胸に焼け残りました。

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女はたいへんなわがまま者でした。

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女は大変なわがまま者でした。

どんなに心をこめたごちそうをこしらえてやっても、必ず不満を言いました。

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どんなに心をこめた御馳走をこしらえてやっても、必ず不服を言いました。

彼は小鳥や鹿をとりに山を走りました。

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彼は小鳥や鹿をとりに山を走りました。

いのししも熊もとりました。

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いのししも熊もとりました。

びっこの女は木の芽や草の根をさがして、一日じゅう林の中をさまよいました。

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ビッコの女は木の芽や草の根をさがしてひねもす林間をさまよいました。

しかし女は満足したことがありません。

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然し女は満足を示したことはありません。

「毎日こんなものを私に食えというのかえ」

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「毎日こんなものを私に食えというのかえ」

「だって、とびきりのごちそうなんだぜ。お前がここへ来るまでは、十日に一度くらいしかこれだけのものは食わなかったものだ」

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「だって、飛び切りの御馳走なんだぜ。お前がここへくるまでは、十日に一度ぐらいしかこれだけのものは食わなかったものだ」

「お前は山男だからそれでいいのだろうさ。私ののどは通らないよ。こんなさびしい山奥で、夜長に聞こえるものといえばふくろうの声ばかり、せめて食べる物だけでも都に劣らないおいしい物が食べられないものかねえ。都の風がどんなものか。その都の風をせきとめられた私の思いのつらさがどんなものか、お前には察することもできないのだね。お前は私から都の風をもぎとって、その代わりにお前がくれた物といえば、からすやふくろうの鳴く声ばかり。お前はそれを恥ずかしいとも、むごいとも思わないのだよ」

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「お前は山男だからそれでいいのだろうさ。私ののどは通らないよ。こんなさびしい山奥で、夜の夜長にきくものと云えばふくろうの声ばかり、せめて食べる物でも都に劣らぬおいしい物が食べられないものかねえ。都の風がどんなものか。その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなものか、お前には察しることも出来ないのだね。お前は私から都の風をもぎとって、その代りにお前のれた物といえばからすや梟の鳴く声ばかり。お前はそれをはずかしいとも、むごたらしいとも思わないのだよ」

女の恨みごとの言葉の道理が、男には理解できなかったのです。

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女の怨じる言葉の道理が男には呑みこめなかったのです。

なぜなら男は都の風がどんなものだか知りません。

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なぜなら男は都の風がどんなものだか知りません。

見当もつかないのです。

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見当もつかないのです。

この暮らし、この幸せに足りないものがあるという事実について、思い当たることがない。

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この生活、この幸福に足りないものがあるという事実について思い当るものがない。

彼はただ女の恨みごとの様子のつらさに困りはて、それをどう処理してよいか目当てについて何の知識もないので、もどかしさに苦しみました。

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彼はただ女の怨じる風情の切なさに当惑し、それをどのように処置してよいか目当に就て何の事実も知らないので、もどかしさに苦しみました。

今まで都からの旅人を何人殺したか分かりません。

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今迄には都からの旅人を何人殺したか知れません。

都からの旅人は金持ちで持ち物も豪華なので、都は彼にとって都合のよい相手でした。せっかく持ち物を奪ってみても中身がつまらなかったりすると「チェッ、この田舎者め」とか「土百姓め」とかののしったもので、つまり彼は都についてはそれだけが知識のすべてで、豪華な持ち物を持つ人たちのいるところであり、彼はそれを奪い取るという考え以外に関心はありませんでした。

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都からの旅人は金持で所持品も豪華ですから、都は彼のよいかもで、せっかく所持品を奪ってみても中身がつまらなかったりするとチェッこの田舎者め、とか土百姓めとかののしったもので、つまり彼は都に就てはそれだけが知識の全部で、豪華な所持品をもつ人達のいるところであり、彼はそれをまきあげるという考え以外に余念はありませんでした。

都の空がどっちの方角だということすら、考えてみる必要がなかったのです。

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都の空がどっちの方角だということすらも、考えてみる必要がなかったのです。

女はくしだのこうがい(髪を留める道具)だのかんざしだの紅だのを大事にしました。

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女はくしだのこうがいだのかんざしだのべにだのを大事にしました。

彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でわずかに着物にふれただけでも、女は彼を叱りました。

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彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。

まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれを守ることが自分のつとめであるように、身の回りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。

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まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれをまもることが自分のつとめであるように、身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。

その着物は一枚の小袖(こそで・着物)と細ひもだけでは足りず、何枚もの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形に結ばれ、不必要に垂れ流されて、いろいろの飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されていくのでした。

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その着物は一枚の小袖こそで細紐ほそひもだけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。

男は目を見はりました。

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男は目を見はりました。

そして感心のため息をもらしました。

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そして嘆声をもらしました。

彼は納得させられたのです。

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彼は納得させられたのです。

こうして一つの美しさが成り立ち、その美しさに彼が満たされている、それは疑う余地がない。一つ一つでは意味を持たない不完全で分かりにくい断片が集まることによって一つの物を完成させる、その物を分解すれば意味のない断片に戻る、それを彼は彼らしく一つの不思議な魔法として納得させられたのでした。

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かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する、その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。

男は山の木を切り出して、女の命じるものを作ります。

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男は山の木を切りだして女の命じるものを作ります。

何が、そして何のために作られるのか、彼自身それを作っている間は知ることができないのでした。

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何物が、そして何用につくられるのか、彼自身それを作りつつあるうちは知ることが出来ないのでした。

それは椅子(いす)と肘掛(ひじかけ・腕を置く台)でした。

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それは胡床こしょう肱掛ひじかけでした。

胡床(こしょう)というのは、つまり椅子です。

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胡床はつまり椅子です。

お天気のよい日、女はこれを外へ出させて、日なたに、また木かげに腰かけて目をつぶります。

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お天気の日、女はこれを外へ出させて、日向ひなたに、又、木陰に、腰かけて目をつぶります。

部屋の中では肘掛にもたれて物思いにふけるような姿で、それは、それを見る男の目には、すべてが不思議で、なまめかしく、心をかき乱すような姿にほかならないのでした。

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部屋の中では肱掛にもたれて物思いにふけるような、そしてそれは、それを見る男の目にはすべてが異様な、なまめかしく、なやましい姿に外ならぬのでした。

魔法は実際に行われており、彼自身がその魔法の助手でありながら、その行われる魔法の結果にいつもいぶかしく思い、そして感心するのでした。

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魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常にいぶかりそして嘆賞するのでした。

びっこの女は毎朝、女の長い黒髪をくしけずります。

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ビッコの女は朝毎に女の長い黒髪をくしけずります。

そのために使う水を、男は谷川の特に遠い清水からくみとり、そのように特別気をつかう自分の苦労をなつかしく思いました。

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そのために用いる水を、男は谷川の特に遠い清水からくみとり、そして特別そのように注意を払う自分の労苦をなつかしみました。

自分自身が魔法の一つの力になりたいということが、男の願いになっていました。

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自分自身が魔術の一つの力になりたいということが男の願いになっていました。

そして彼自身、くしけずられる黒髪に自分の手を加えてみたいものだと思います。

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そして彼自身くしけずられる黒髪にわが手を加えてみたいものだと思います。

「いやよ、そんな手は」と女は男をはらいのけて叱ります。

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いやよ、そんな手は、と女は男を払いのけて叱ります。

男は子どものように手を引っこめて、照れながら、黒髪につやが立ち、結ばれ、そして顔が現れ、一つの美しさが描かれて生まれてくることを、見はてぬ夢のように思うのでした。

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男は子供のように手をひっこめて、てれながら、黒髪にツヤが立ち、結ばれ、そして顔があらわれ、一つの美が描かれ生まれてくることを見果てぬ夢に思うのでした。

「こんなものがなあ」

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「こんなものがなア」

彼は模様のあるくしや飾りのあるこうがいをいじり回しました。

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彼は模様のある櫛や飾のある笄をいじり廻しました。

それは彼が今まで意味も値打ちも認めることができなかったものでしたが、今もなお、物と物との調和や関係、飾りという意味の判断はできません。

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それは彼が今迄は意味も値打もみとめることのできなかったものでしたが、今もなお、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。

けれども魔力は分かります。

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けれども魔力が分ります。

魔力は物のいのちでした。

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魔力は物のいのちでした。

物の中にもいのちがあります。

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物の中にもいのちがあります。

「お前がいじってはいけないよ。なぜ毎日きまったように手を出すのだろうね」

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「お前がいじってはいけないよ。なぜ毎日きまったように手をだすのだろうね」

「不思議なものだなあ」

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「不思議なものだなア」

「何が不思議なのさ」

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「何が不思議なのさ」

「何がってこともないけどさ」

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「何がってこともないけどさ」

と男は照れました。

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と男はてれました。

彼には驚きがありましたが、その対象は分からないのです。

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彼には驚きがありましたが、その対象は分らぬのです。

そして男に都を恐れる心が生まれていました。

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そして男に都を怖れる心が生れていました。

その恐れは恐怖ではなく、知らないということに対する恥ずかしさと不安で、物知りが未知のことに抱く不安と恥ずかしさに似ていました。

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その怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。

女が「都」

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女が「都」

というたびに、彼の心はおびえてふるえました。

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というたびに彼の心はおびおののきました。

けれども彼は目に見える何物も恐れたことがなかったので、恐れの心になじみがなく、恥じる心にも慣れていません。

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けれども彼は目に見える何物も怖れたことがなかったので、怖れの心になじみがなく、羞じる心にも馴れていません。

そして彼は都に対して敵意だけを持ちました。

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そして彼は都に対して敵意だけをもちました。

何百何千の都からの旅人を襲ったが、かなう者がいなかったのだから、と彼は満足して考えました。

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何百何千の都からの旅人を襲ったが手に立つ者がなかったのだから、と彼は満足して考えました。

どんな過去を思い出しても、裏切られ傷つけられる不安がありません。

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どんな過去を思いだしても、裏切られ傷けられる不安がありません。

それに気づくと、彼はいつも愉快で、また誇らしい気持ちでした。

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それに気附くと、彼は常に愉快で又誇りやかでした。

彼は女の美しさに対して自分の強さを比べてみました。

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彼は女の美に対して自分の強さを対比しました。

そして強さを自覚したうえで、多少手ごわいと見られるものはいのししだけでした。

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そして強さの自覚の上で多少の苦手と見られるものは猪だけでした。

そのいのししも実際はさして恐れるべき敵でもないので、彼には余裕がありました。

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その猪も実際はさして怖るべき敵でもないので、彼はゆとりがありました。

「都には牙のある人間がいるかい」

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「都には牙のある人間がいるかい」

「弓を持ったサムライがいるよ」

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「弓をもったサムライがいるよ」

「ハッハッハ。弓なら俺は谷の向こうの雀の子でも落とすのだからな。都には刀が折れてしまうような皮の堅い人間はいないだろう」

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「ハッハッハ。弓なら俺は谷の向うの雀の子でも落すのだからな。都には刀が折れてしまうような皮の堅い人間はいないだろう」

「よろいを着たサムライがいるよ」

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よろいをきたサムライがいるよ」

「よろいは刀が折れるのか」

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「鎧は刀が折れるのか」

「折れるよ」

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「折れるよ」

「俺は熊もいのししも組み伏せてしまうのだからな」

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「俺は熊も猪も組み伏せてしまうのだからな」

「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ。お前の力で、私の欲しい物、都のいちばんいい物を私の身の回りに飾っておくれ。そして私に心から楽しい思いを与えてくれることができるなら、お前は本当に強い男なのさ」

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「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ。お前の力で、私の欲しい物、都の粋を私の身の廻りへ飾っておくれ。そして私にシンから楽しい思いを授けてくれることができるなら、お前は本当に強い男なのさ」

「わけのないことだ」

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「わけのないことだ」

男は都へ行くことに心を決めました。

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男は都へ行くことに心をきめました。

彼は都にありとあらゆるくしやこうがいやかんざしや着物や鏡や紅を、三日三晩とたたないうちに女の周りへ積み上げてみせるつもりでした。

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彼は都にありとある櫛や笄や簪や着物や鏡や紅を三日三晩とたたないうちに女の廻りへ積みあげてみせるつもりでした。

何の気がかりもありません。

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何の気がかりもありません。

一つだけ気にかかることは、まったく都に関係のない別なことでした。

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一つだけ気にかかることは、まったく都に関係のない別なことでした。

それは桜の森でした。

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それは桜の森でした。

二日か三日の後に、森の満開が訪れようとしていました。

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二日か三日の後に森の満開が訪れようとしていました。

今年こそ、彼は決意していました。

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今年こそ、彼は決意していました。

桜の森の花ざかりの真ん中で、身動きもせずじっと座っていてみせる。

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桜の森の花ざかりのまんなかで、身動きもせずジッと坐っていてみせる。

彼は毎日ひそかに桜の森へ出かけて、つぼみのふくらみをはかっていました。

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彼は毎日ひそかに桜の森へでかけてつぼみのふくらみをはかっていました。

「あと三日」彼は出発を急ぐ女に言いました。

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あと三日、彼は出発を急ぐ女に言いました。

「お前に支度の面倒があるものかね」

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「お前に支度の面倒があるものかね」

と女は眉をよせました。

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と女は眉をよせました。

「じらさないでおくれ。都が私を呼んでいるのだよ」

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「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」

「それでも約束があるからね」

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「それでも約束があるからね」

「お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ」

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「お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ」

「それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ」

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「それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ」

「それはまあ珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくて誰と約束するのだえ」

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「それはマア珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくって誰と約束するのだえ」

男はうそがつけなくなりました。

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男は嘘がつけなくなりました。

「桜の花が咲くのだよ」

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「桜の花が咲くのだよ」

「桜の花と約束したのかえ」

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「桜の花と約束したのかえ」

「桜の花が咲くから、それを見てから出かけなければならないのだよ」

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「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」

「どういうわけで」

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「どういうわけで」

「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」

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「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」

「だから、なぜ行ってみなければならないのよ」

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「だから、なぜ行って見なければならないのよ」

「花が咲くからだよ」

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「花が咲くからだよ」

「花が咲くから、なぜさ」

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「花が咲くから、なぜさ」

「花の下は冷たい風がはりつめているからだよ」

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「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」

「花の下にかえ」

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「花の下にかえ」

「花の下は果て(はて・終わり)がないからだよ」

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「花の下ははてがないからだよ」

「花の下がかえ」

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「花の下がかえ」

男は分からなくなってイライラしました。

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男は分らなくなってクシャクシャしました。

「私も花の下へ連れて行っておくれ」

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「私も花の下へ連れて行っておくれ」

「それは、だめだ」

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「それは、だめだ」

男はきっぱり言いました。

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男はキッパリ言いました。

「一人でなくちゃ、だめなんだ」

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「一人でなくちゃ、だめなんだ」

女は苦笑しました。

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女は苦笑しました。

男は苦笑というものを初めて見ました。

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男は苦笑というものを始めて見ました。

そんな意地の悪い笑いを、彼は今まで知らなかったのでした。

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そんな意地の悪い笑いを彼は今まで知らなかったのでした。

そしてそれを彼は「意地の悪い」

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そしてそれを彼は「意地の悪い」

というふうには判断せず、刀で斬っても斬れないもの、と判断しました。

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という風には判断せずに、刀で斬っても斬れないように、と判断しました。

その証拠に、苦笑は彼の頭にハンコを押したように刻みつけられてしまったからです。

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その証拠には、苦笑は彼の頭にハンをしたように刻みつけられてしまったからです。

それは刀の刃のように、思い出すたびにチクチクと頭を切りました。

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それは刀の刃のように思いだすたびにチクチク頭をきりました。

そして彼にはそれを斬ることができないのでした。

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そして彼がそれを斬ることはできないのでした。

三日目が来ました。

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三日目がきました。

彼はひそかに出かけました。

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彼はひそかに出かけました。

桜の森は満開でした。

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桜の森は満開でした。

一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思い出しました。

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一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。

それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。

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それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。

それだけでもう彼は混乱していました。

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それだけでもう彼は混乱していました。

花の下の冷たさは、果てのない四方からどっと押し寄せてきました。

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花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。

彼の体はたちまちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。

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彼の身体はたちまちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。

彼の声だけが叫びました。

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彼の声のみが叫びました。

彼は走りました。

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彼は走りました。

何という何もない空間でしょう。

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何という虚空でしょう。

彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。

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彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。

そして、花の下をぬけだしたことが分かったとき、夢の中から我にかえったのと同じ気持ちになりました。

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そして、花の下をぬけだしたことが分ったとき、夢の中から我にかえった同じ気持を見出しました。

夢とちがっていることは、本当に息も絶え絶えになっている体のつらさでした。

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夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。

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男と女とびっこの女は都に住みはじめました。

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男と女とビッコの女は都に住みはじめました。

男は毎晩、女の命じる屋敷へ忍びこみました。

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男は夜毎に女の命じる邸宅へ忍び入りました。

着物や宝石や飾り物も持ち出しましたが、それだけが女の心を満たす物ではありませんでした。

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着物や宝石や装身具も持ちだしましたが、それのみが女の心を充たす物ではありませんでした。

女が何より欲しがるものは、その家に住む人の首でした。

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女の何より欲しがるものは、その家に住む人の首でした。

彼らの家にはすでに何十もの屋敷の首が集められていました。

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彼等の家にはすでに何十の邸宅の首が集められていました。

部屋の四方についたて(しきりの家具)で仕切られて首は並べられ、ある首はつるされ、男には首の数が多すぎてどれがどれやら分からなくても、女は一つ一つ覚えており、すでに毛がぬけ、肉がくさり、白骨になっても、どこの誰ということを覚えていました。

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部屋の四方の衝立ついたてに仕切られて首は並べられ、ある首はつるされ、男には首の数が多すぎてどれがどれやら分らなくとも、女は一々覚えており、すでに毛がぬけ、肉がくさり、白骨になっても、どこのたれということを覚えていました。

男やびっこの女が首の場所を変えると怒り、「ここはどこの家族、ここは誰の家族」とやかましく言いました。

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男やビッコの女が首の場所を変えると怒り、ここはどこの家族、ここは誰の家族とやかましく言いました。

女は毎日、首遊びをしました。

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女は毎日首遊びをしました。

首は家来をつれて散歩に出ます。

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首は家来をつれて散歩にでます。

首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。

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首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。

首が恋をします。

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首が恋をします。

女の首が男の首をふり、また、男の首が女の首を捨てて女の首を泣かせることもありました。

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女の首が男の首をふり、又、男の首が女の首をすてて女の首を泣かせることもありました。

姫君の首は大納言(だいなごん・身分の高い役人)の首にだまされました。

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姫君の首は大納言の首にだまされました。

大納言の首は月のない夜、姫君の首の恋する人の首のふりをして忍んでいき、契り(ちぎり・夫婦のような約束)を結びます。

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大納言の首は月のない夜、姫君の首の恋する人の首のふりをして忍んで行ってちぎりを結びます。

契りのあとで姫君の首が気づきます。

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契りの後に姫君の首が気がつきます。

姫君の首は大納言の首を憎むことができず、わが身の運命の悲しさに泣いて、尼(あま)になるのでした。

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姫君の首は大納言の首を憎むことができず我が身のさだめの悲しさに泣いて、尼になるのでした。

すると大納言の首は尼寺へ行って、尼になった姫君の首をおかします。

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すると大納言の首は尼寺へ行って、尼になった姫君の首を犯します。

姫君の首は死のうとしますが、大納言のささやきに負けて尼寺をにげ、山科(やましな)の里へかくれて、大納言の首のかこわれ者となって髪の毛を生やします。

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姫君の首は死のうとしますが大納言のささやきに負けて尼寺を逃げて山科やましなの里へかくれて大納言の首のかこい者となって髪の毛を生やします。

姫君の首も大納言の首も、もはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき、骨がのぞいていました。

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姫君の首も大納言の首ももはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき骨がのぞけていました。

二人の首は酒盛りをして恋にたわむれ、歯の骨と歯の骨とがかみ合ってカチカチ鳴り、くさった肉がペチャペチャくっつき合い、鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていました。

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二人の首は酒もりをして恋にたわぶれ、歯の骨と歯の骨と噛み合ってカチカチ鳴り、くさった肉がペチャペチャくっつき合い鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていました。

ペチャペチャとくっつき、二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、けたたましく笑いさざめきました。

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ペチャペチャとくッつき二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、けたたましく笑いさざめきました。

「ほれ、ほっぺたを食べてやりなさい。ああおいしい。姫君ののども食べてやりましょう。はい、目の玉もかじりましょう。すすってやりましょうね。はい、ペロペロ。あら、おいしいね。もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、うんとかじりついてやれ」

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「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。姫君の喉もたべてやりましょう。ハイ、目の玉もかじりましょう。すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、ウンとかじりついてやれ」

女はカラカラ笑います。

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女はカラカラ笑います。

きれいな澄んだ笑い声です。

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綺麗きれいな澄んだ笑い声です。

薄い陶器が鳴るようなさわやかな声でした。

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薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。

坊主の首もありました。

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坊主の首もありました。

坊主の首は女に憎まれていました。

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坊主の首は女に憎がられていました。

いつも悪い役をふられ、憎まれて、いじめ殺されたり、役人に処刑されたりしました。

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いつも悪い役をふられ、憎まれて、なぶり殺しにされたり、役人に処刑されたりしました。

坊主の首は首になったあとで、かえって毛が生え、やがてその毛もぬけてくさりはて、白骨になりました。

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坊主の首は首になって後にかえって毛が生え、やがてその毛もぬけてくさりはて、白骨になりました。

白骨になると、女は別の坊主の首を持ってくるように命じました。

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白骨になると、女は別の坊主の首を持ってくるように命じました。

新しい坊主の首は、まだ若く水々しい、寺で修行する少年のような美しさが残っていました。

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新しい坊主の首はまだうら若い水々しい稚子ちごの美しさが残っていました。

女は喜んで机にのせ、酒をふくませ、頬ずりして、なめたりくすぐったりしましたが、すぐにあきました。

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女はよろこんで机にのせ酒をふくませ頬ずりしてめたりくすぐったりしましたが、じきあきました。

「もっと太った憎たらしい首よ」

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「もっと太った憎たらしい首よ」

女は命じました。

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女は命じました。

男は面倒になって五つほどぶらさげて来ました。

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男は面倒になって五ツほどブラさげて来ました。

よぼよぼの老いた僧の首も、眉の太い頬っぺたの厚い、かえるがしがみついているような鼻の形の顔もありました。

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ヨボヨボの老僧の首も、眉の太い頬っぺたの厚い、かえるがしがみついているような鼻の形の顔もありました。

耳のとがった馬のような坊主の首も、ひどくおとなしそうな首の坊主もあります。

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耳のとがった馬のような坊主の首も、ひどく神妙な首の坊主もあります。

けれども女の気に入ったのは一つでした。

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けれども女の気に入ったのは一つでした。

それは五十くらいの大坊主の首で、ぶ男で目じりがたれ、頬がたるみ、唇が厚くて、その重さで口が開いているようなだらしのない首でした。

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それは五十ぐらいの大坊主の首で、ブ男で目尻がたれ、頬がたるみ、唇が厚くて、その重さで口があいているようなだらしのない首でした。

女はたれた目じりの両はしを両手の指の先で押さえて、クリクリと吊りあげて回したり、獅子鼻(ししばな・大きく丸い鼻)の穴へ二本の棒をさしこんだり、逆さに立てて転がしたり、だきしめて自分のお乳を厚い唇の間へ押しこんでしゃぶらせたりして大笑いしました。

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女はたれた目尻の両端を両手の指の先で押えて、クリクリと吊りあげて廻したり、獅子鼻ししばなの孔へ二本の棒をさしこんだり、逆さに立ててころがしたり、だきしめて自分のお乳を厚い唇の間へ押しこんでシャブらせたりして大笑いしました。

けれどもすぐにあきました。

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けれどもじきにあきました。

美しい娘の首がありました。

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美しい娘の首がありました。

清らかな静かな気品のある首でした。

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清らかな静かな高貴な首でした。

子どもっぽくて、そのくせ死んだ顔ですから妙に大人びたもの憂いがあり、閉じられたまぶたの奥に、楽しい思いも悲しい思いも大人びた思いも一度にごっちゃに隠されているようでした。

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子供っぽくて、そのくせ死んだ顔ですから妙に大人びた憂いがあり、閉じられたマブタの奥に楽しい思いも悲しい思いもマセた思いも一度にゴッちゃに隠されているようでした。

女はその首を自分の娘か妹のようにかわいがりました。

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女はその首を自分の娘か妹のように可愛がりました。

黒い髪の毛をすいてやり、顔にお化粧してやりました。

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黒い髪の毛をすいてやり、顔にお化粧してやりました。

ああでもない、こうでもないと念を入れて、花の香りが立ちのぼるようなやさしい顔が浮かびあがりました。

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ああでもない、こうでもないと念を入れて、花の香りのむらだつようなやさしい顔が浮きあがりました。

娘の首のために、一人の若い貴公子(きこうし・身分の高い若い男)の首が必要でした。

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娘の首のために、一人の若い貴公子の首が必要でした。

貴公子の首もていねいにお化粧され、二人の若者の首は激しく燃えるような恋遊びに夢中になります。

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貴公子の首も念入りにお化粧され、二人の若者の首は燃え狂うような恋の遊びにふけります。

すねたり、怒ったり、憎んだり、うそをついたり、だましたり、悲しい顔をしてみせたり、けれども二人の情熱が一度に燃えあがるときは、一人の火がそれぞれもう一人を焼きこがして、どちらも焼かれて舞いあがる炎になって燃えまじりました。

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すねたり、怒ったり、憎んだり、嘘をついたり、だましたり、悲しい顔をしてみせたり、けれども二人の情熱が一度に燃えあがるときは一人の火がめいめい他の一人を焼きこがしてどっちも焼かれて舞いあがる火焔になって燃えまじりました。

けれどもまもなく、悪い侍だの女好きの大人だの悪い僧だの、汚い首が邪魔に出てきて、貴公子の首は蹴られて打たれたあげくに殺されて、右から左から前から後ろから汚い首がごちゃごちゃ娘に挑みかかって、娘の首には汚い首の腐った肉がへばりつき、牙のような歯にかみつかれ、鼻の先が欠けたり、毛がむしられたりします。

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けれども間もなく悪侍だの色好みの大人だの悪僧だの汚い首が邪魔にでて、貴公子の首は蹴られて打たれたあげくに殺されて、右から左から前から後から汚い首がゴチャゴチャ娘に挑みかかって、娘の首には汚い首の腐った肉がへばりつき、牙のような歯に食いつかれ、鼻の先が欠けたり、毛がむしられたりします。

すると女は娘の首を針でつついて穴をあけ、小刀で切ったりえぐったりして、誰の首よりも汚らしい、見るにたえない首にして投げ出すのでした。

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すると女は娘の首を針でつついて穴をあけ、小刀で切ったり、えぐったり、誰の首よりも汚らしい目も当てられない首にして投げだすのでした。

男は都をきらいました。

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男は都を嫌いました。

都の珍しさも慣れてしまうと、なじめない気持ちばかりが残りました。

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都の珍らしさも馴れてしまうと、なじめない気持ばかりが残りました。

彼も都では人並みに水干(すいかん・当時の男性の服)を着ても、すねを出して歩いていました。

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彼も都では人並に水干すいかんを着てもすねをだして歩いていました。

真っ昼間は刀をさすこともできません。

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白昼は刀をさすことも出来ません。

市(いち)へ買い物に行かなければなりませんし、白首(しろくび・遊女)のいる居酒屋で酒を飲んでもお金を払わねばなりません。

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市へ買物に行かなければなりませんし、白首のいる居酒屋で酒をのんでも金を払わねばなりません。

市の商人は彼をからかいました。

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市の商人は彼をなぶりました。

野菜をつんで売りに来る田舎の女も、子どもまで彼をからかいました。

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野菜をつんで売りにくる田舎女も子供までなぶりました。

白首も彼を笑いました。

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白首も彼を笑いました。

都では貴族は牛車(ぎっしゃ・牛が引く車)で道の真ん中を通ります。

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都では貴族は牛車で道のまんなかを通ります。

水干を着たはだしの家来は、たいてい振る舞い酒に顔を赤くして威張りちらして歩いていきました。

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水干をきた跣足はだしの家来はたいがいふるまい酒に顔を赤くして威張りちらして歩いて行きました。

彼は「まぬけ」だの「ばか」だの「のろま」だのと、市でも路上でもお寺の庭でも怒鳴られました。

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彼はマヌケだのバカだのノロマだのと市でも路上でもお寺の庭でも怒鳴られました。

それでも、もうそれくらいのことには腹が立たなくなっていました。

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それでもうそれぐらいのことには腹が立たなくなっていました。

男は何よりも退屈に苦しみました。

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男は何よりも退屈に苦しみました。

人間というものは退屈なものだ、と彼はつくづく思いました。

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人間共というものは退屈なものだ、と彼はつくづく思いました。

彼はつまり人間がうるさいのでした。

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彼はつまり人間がうるさいのでした。

大きな犬が歩いていると、小さな犬がほえます。

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大きな犬が歩いていると、小さな犬が吠えます。

男はほえられる犬のようなものでした。

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男は吠えられる犬のようなものでした。

彼はひがんだりねたんだりすねたり考えたりすることがきらいでした。

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彼はひがんだりねたんだりすねたり考えたりすることが嫌いでした。

山の獣や木や川や鳥はうるさくはなかったがな、と彼は思いました。

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山の獣や樹や川や鳥はうるさくはなかったがな、と彼は思いました。

「都は退屈なところだなあ」

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「都は退屈なところだなア」

と彼はびっこの女に言いました。

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と彼はビッコの女に言いました。

「お前は山へ帰りたいと思わないか」

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「お前は山へ帰りたいと思わないか」

「私は都は退屈ではないからね」

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「私は都は退屈ではないからね」

とびっこの女は答えました。

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とビッコの女は答えました。

びっこの女は一日中料理をこしらえ、洗濯し、近所の人たちとおしゃべりしていました。

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ビッコの女は一日中料理をこしらえ洗濯し近所の人達とおしゃべりしていました。

「都ではおしゃべりができるから退屈しないよ。私は山は退屈できらいさ」

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「都ではお喋りができるから退屈しないよ。私は山は退屈で嫌いさ」

「お前はおしゃべりが退屈でないのか」

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「お前はお喋りが退屈でないのか」

「あたりまえさ。誰だってしゃべっていれば退屈しないものだよ」

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「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」

「俺はしゃべればしゃべるほど退屈するのになあ」

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「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」

「お前はしゃべらないから退屈なのさ」

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「お前は喋らないから退屈なのさ」

「そんなことがあるものか。しゃべると退屈するからしゃべらないのだ」

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「そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ」

「でもしゃべってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」

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「でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」

「何を」

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「何を」

「何でもしゃべりたいことをさ」

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「何でも喋りたいことをさ」

「しゃべりたいことなんかあるものか」

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「喋りたいことなんかあるものか」

男はいまいましがってあくびをしました。

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男はいまいましがってアクビをしました。

都にも山がありました。

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都にも山がありました。

しかし、山の上には寺があったり庵(いおり・小さな住まい)があったりして、そこにはかえって多くの人の行き来がありました。

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然し、山の上には寺があったり庵があったり、そして、そこにはかえって多くの人の往来がありました。

山から都が一目に見えます。

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山から都が一目に見えます。

何というたくさんの家だろう。

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なんというたくさんの家だろう。

そして、何という汚い眺めだろう、と思いました。

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そして、なんという汚い眺めだろう、と思いました。

彼は毎晩人を殺していることを、昼はほとんど忘れていました。

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彼は毎晩人を殺していることを昼は殆ど忘れていました。

なぜなら彼は人を殺すことにも退屈していたからでした。

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なぜなら彼は人を殺すことにも退屈しているからでした。

何も興味はありません。

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何も興味はありません。

刀でたたくと首がポロリと落ちているだけでした。

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刀で叩くと首がポロリと落ちているだけでした。

首はやわらかいものでした。

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首はやわらかいものでした。

骨の手ごたえはまったく感じることがなく、大根を切るのと同じようなものでした。

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骨の手応えはまったく感じることがないもので、大根を斬るのと同じようなものでした。

その首の重さのほうが彼にはよほど意外でした。

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その首の重さの方が彼には余程意外でした。

彼には女の気持ちが分かるような気がしました。

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彼には女の気持が分るような気がしました。

鐘つき堂では一人の坊主がやけになって鐘をついています。

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鐘つき堂では一人の坊主がヤケになって鐘をついています。

何というばかげたことをやるのだろうと彼は思いました。

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何というバカげたことをやるのだろうと彼は思いました。

何をやり出すか分かりません。

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何をやりだすか分りません。

「こういう奴らと顔を見合って暮らすとしたら、俺でも奴らを首にして一緒に暮らすことを選ぶだろうさ」と思うのでした。

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こういう奴等と顔を見合って暮すとしたら、俺でも奴等を首にして一緒に暮すことを選ぶだろうさ、と思うのでした。

けれども彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。

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けれども彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。

女の欲望は、いわばいつもキリもなく空を一直線に飛びつづけている鳥のようなものでした。

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女の欲望は、いわば常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥のようなものでした。

休むひまなく、いつも一直線に飛びつづけているのです。

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休むひまなく常に直線に飛びつづけているのです。

その鳥は疲れません。

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その鳥は疲れません。

いつもさわやかに風を切り、スイスイと気持ちよく無限に飛びつづけているのでした。

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常に爽快に風をきり、スイスイと小気味よく無限に飛びつづけているのでした。

けれども彼はただの鳥でした。

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けれども彼はただの鳥でした。

枝から枝を飛び回り、たまに谷をわたるくらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしているふくろうにも似ていました。

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枝から枝を飛び廻り、たまに谷をわたるぐらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしている梟にも似ていました。

彼はすばやい鳥でした。

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彼は敏捷びんしょうでした。

全身がよく動き、よく歩き、動きは生き生きしていました。

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全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。

彼の心は、しかし尻の重たい鳥なのでした。

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彼の心は然し尻の重たい鳥なのでした。

彼は無限に一直線に飛ぶことなど、思いもよらないのです。

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彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。

男は山の上から都の空を眺めています。

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男は山の上から都の空を眺めています。

その空を一羽の鳥が一直線に飛んでいきます。

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その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。

空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明るさと暗さがくりかえし続きます。

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空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。

その果てに何もなく、いつまでたってもただ無限の明るさと暗さがあるだけ、男は無限を実際にはっきりと理解することができません。

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その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。

その先の日、その先の日、そのまた先の日、明るさと暗さの無限のくりかえしを考えます。

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その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。

彼の頭は割れそうになりました。

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彼の頭は割れそうになりました。

それは考えることに疲れたのではなく、考えることの苦しさのためでした。

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それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。

家へ帰ると、女はいつものように首遊びに夢中になっていました。

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家へ帰ると、女はいつものように首遊びにふけっていました。

彼の姿を見ると、女は待ちかまえていたのでした。

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彼の姿を見ると、女は待ち構えていたのでした。

「今夜は白拍子(しらびょうし・舞をまう女性)の首を持ってきておくれ。とびきり美しい白拍子の首だよ。舞をまわせるのだから。私が今様(いまよう・当時はやった歌)を歌ってきかせてあげるよ」

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「今夜は白拍子しらびょうしの首を持ってきておくれ。とびきり美しい白拍子の首だよ。舞いを舞わせるのだから。私が今様いまようを唄ってきかせてあげるよ」

男はさっき山の上から見つめていた無限の明るさと暗さを思い出そうとしました。

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男はさっき山の上から見つめていた無限の明暗を思いだそうとしました。

この部屋があの、いつまでも果てのない無限の明暗のくりかえしの空のはずですが、それはもう思い出すことができません。

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この部屋があのいつまでも涯のない無限の明暗のくりかえしの空の筈ですが、それはもう思いだすことができません。

そして女は鳥ではなく、やっぱり美しいいつもの女でありました。

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そして女は鳥ではなしに、やっぱり美しいいつもの女でありました。

けれども彼は答えました。

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けれども彼は答えました。

「俺はいやだよ」

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「俺は厭だよ」

女はびっくりしました。

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女はびっくりしました。

そのあげくに笑いだしました。

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そのあげくに笑いだしました。

「おやおや。お前も臆病風に吹かれたの。お前もただの弱虫ね」

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「おやおや。お前も臆病風に吹かれたの。お前もただの弱虫ね」

「そんな弱虫じゃないのだ」

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「そんな弱虫じゃないのだ」

「じゃ、何さ」

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「じゃ、何さ」

「キリがないからいやになったのさ」

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「キリがないから厭になったのさ」

「あら、おかしいね。なんでもキリがないものよ。毎日毎日ごはんを食べて、キリがないじゃないか。毎日毎日ねむって、キリがないじゃないか」

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「あら、おかしいね。なんでもキリがないものよ。毎日毎日ごはんを食べて、キリがないじゃないか。毎日毎日ねむって、キリがないじゃないか」

「それとちがうのだ」

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「それと違うのだ」

「どんなふうにちがうのよ」

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「どんな風に違うのよ」

男は返事につまりました。

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男は返事につまりました。

けれどもちがうと思いました。

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けれども違うと思いました。

それで言いくるめられる苦しさをのがれて外へ出ました。

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それで言いくるめられる苦しさを逃れて外へ出ました。

「白拍子の首をもっておいで」

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「白拍子の首をもっておいで」

女の声が後ろから呼びかけましたが、彼は答えませんでした。

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女の声が後から呼びかけましたが、彼は答えませんでした。

彼はなぜ、どんなふうにちがうのだろうと考えましたが分かりません。

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彼はなぜ、どんな風に違うのだろうと考えましたが分りません。

だんだん夜になりました。

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だんだん夜になりました。

彼はまた山の上へ登りました。

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彼は又山の上へ登りました。

もう空も見えなくなっていました。

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もう空も見えなくなっていました。

彼は気がつくと、空が落ちてくることを考えていました。

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彼は気がつくと、空が落ちてくることを考えていました。

空が落ちてきます。

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空が落ちてきます。

彼は首をしめつけられるように苦しんでいました。

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彼は首をしめつけられるように苦しんでいました。

それは女を殺すことでした。

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それは女を殺すことでした。

空の無限の明暗を走り続けることは、女を殺すことによって、止めることができます。

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空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、とめることができます。

そして、空は落ちてきます。

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そして、空は落ちてきます。

彼はホッとすることができます。

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彼はホッとすることができます。

しかし、彼の心臓には穴があいているのでした。

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然し、彼の心臓には孔があいているのでした。

彼の胸から鳥の姿が飛び去り、かき消えているのでした。

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彼の胸から鳥の姿が飛び去り、掻き消えているのでした。

あの女が俺なんだろうか?

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あの女が俺なんだろうか?

そして空を無限に一直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか?

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 そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか?

と彼は疑いました。

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 と彼は疑りました。

女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。

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女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。

俺は何を考えているのだろう?

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俺は何を考えているのだろう?

なぜ空を落とさねばならないのだか、それも分からなくなっていました。

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なぜ空を落さねばならないのだか、それも分らなくなっていました。

あらゆる考えがとらえがたいものでありました。

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あらゆる想念が捉えがたいものでありました。

そして考えが引いたあとに残るものは苦しみだけでした。

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そして想念のひいたあとに残るものは苦痛のみでした。

夜が明けました。

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夜が明けました。

彼は女のいる家へ戻る勇気が失われていました。

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彼は女のいる家へ戻る勇気が失われていました。

そして数日、山の中をさまよいました。

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そして数日、山中をさまよいました。

ある朝、目が覚めると、彼は桜の花の下にねていました。

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ある朝、目がさめると、彼は桜の花の下にねていました。

その桜の木は一本でした。

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その桜の木は一本でした。

桜の木は満開でした。

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桜の木は満開でした。

彼は驚いて飛び起きましたが、それは逃げ出すためではありません。

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彼は驚いて飛び起きましたが、それは逃げだすためではありません。

なぜなら、たった一本の桜の木でしたから。

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なぜなら、たった一本の桜の木でしたから。

彼は鈴鹿の山の桜の森のことを突然思い出していたのでした。

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彼は鈴鹿の山の桜の森のことを突然思いだしていたのでした。

あの山の桜の森も花盛りにちがいありません。

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あの山の桜の森も花盛りにちがいありません。

彼はなつかしさに我を忘れ、深い物思いに沈みました。

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彼はなつかしさに吾を忘れ、深い物思いに沈みました。

山へ帰ろう。

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山へ帰ろう。

山へ帰るのだ。

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山へ帰るのだ。

なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?

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なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?

そして、なぜ空を落とすことなどを考えつづけていたのだろう?

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 そして、なぜ空を落すことなどを考え耽っていたのだろう?

彼は悪夢がさめた思いがしました。

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 彼は悪夢のさめた思いがしました。

救われた思いがしました。

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救われた思いがしました。

今までその感覚さえ失っていた山の早春のにおいが、身にせまって強く冷たく分かるのでした。

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今までその知覚まで失っていた山の早春の匂いが身にせまって強く冷めたく分るのでした。

男は家へ帰りました。

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男は家へ帰りました。

女はうれしそうに彼を迎えました。

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女は嬉しげに彼を迎えました。

「どこへ行っていたのさ。無理なことを言ってお前を苦しめてすまなかったわね。でも、お前がいなくなってからの私のさびしさを察しておくれな」

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「どこへ行っていたのさ。無理なことを言ってお前を苦しめてすまなかったわね。でも、お前がいなくなってからの私の淋しさを察しておくれな」

女がこんなにやさしいことは、今までにないことでした。

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女がこんなにやさしいことは今までにないことでした。

男の胸は痛みました。

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男の胸は痛みました。

もう少しで彼の決意はとけて消えてしまいそうです。

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もうすこしで彼の決意はとけて消えてしまいそうです。

けれども彼は思い決めました。

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けれども彼は思い決しました。

「俺は山へ帰ることにしたよ」

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「俺は山へ帰ることにしたよ」

「私を残してかえ。そんなむごいことがどうしてお前の心に住むようになったのだろう」

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「私を残してかえ。そんなむごたらしいことがどうしてお前の心にむようになったのだろう」

女の目は怒りに燃えました。

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女の眼は怒りに燃えました。

その顔は裏切られたくやしさでいっぱいでした。

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その顔は裏切られた口惜しさで一ぱいでした。

「お前はいつからそんな薄情者になったのよ」

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「お前はいつからそんな薄情者になったのよ」

「だからさ。俺は都がきらいなんだ」

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「だからさ。俺は都がきらいなんだ」

「私という者がいてもかえ」

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「私という者がいてもかえ」

「俺は都に住んでいたくないだけなんだ」

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「俺は都に住んでいたくないだけなんだ」

「でも、私がいるじゃないか。お前は私がきらいになったのかえ。私はお前のいない留守は、お前のことばかり考えていたのだよ」

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「でも、私がいるじゃないか。お前は私が嫌いになったのかえ。私はお前のいない留守はお前のことばかり考えていたのだよ」

女の目に涙のしずくが宿りました。

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女の目に涙のしずくが宿りました。

女の目に涙の宿ったのは初めてのことでした。

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女の目に涙の宿ったのは始めてのことでした。

女の顔にはもはや怒りは消えていました。

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女の顔にはもはや怒りは消えていました。

つれなさをうらむつらさだけがあふれていました。

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つれなさをうらむ切なさのみがあふれていました。

「だってお前は都でなきゃ住むことができないのだろう。俺は山でなきゃ住んでいられないのだ」

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「だってお前は都でなきゃ住むことができないのだろう。俺は山でなきゃ住んでいられないのだ」

「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。私の思いがお前には分からないのかねえ」

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「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。私の思いがお前には分らないのかねえ」

「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」

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「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」

「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」

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「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」

女の目は涙にぬれていました。

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女の目は涙にぬれていました。

男の胸に顔を押しあてて、熱い涙を流しました。

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男の胸に顔を押しあてて熱い涙をながしました。

涙の熱さは男の胸にしみました。

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涙の熱さは男の胸にしみました。

たしかに、女は男なしでは生きられなくなっていました。

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たしかに、女は男なしでは生きられなくなっていました。

新しい首は女のいのちでした。

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新しい首は女のいのちでした。

そしてその首を女のためにもたらす者は、彼のほかにはなかったからです。

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そしてその首を女のためにもたらす者は彼の外にはなかったからです。

彼は女の一部でした。

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彼は女の一部でした。

女はそれを手放すわけにいきません。

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女はそれを放すわけにいきません。

男のふるさとを恋しく思う気持ちが満たされたとき、再び都へ連れ戻す自信が女にはあるのでした。

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男のノスタルジイがみたされたとき、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。

「でもお前は山で暮らせるかえ」

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「でもお前は山で暮せるかえ」

「お前と一緒ならどこででも暮らすことができるよ」

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「お前と一緒ならどこででも暮すことができるよ」

「山にはお前の欲しがるような首がないのだぜ」

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「山にはお前の欲しがるような首がないのだぜ」

「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」

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「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」

夢ではないかと男は疑いました。

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夢ではないかと男は疑りました。

あまりうれしすぎて信じられないからでした。

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あまり嬉しすぎて信じられないからでした。

夢の中でさえ、こんな願ってもないことは考えることができなかったのでした。

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夢にすらこんな願ってもないことは考えることが出来なかったのでした。

彼の胸は新しい希望でいっぱいでした。

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彼の胸は新な希望でいっぱいでした。

その訪れは急で乱暴で、今のさっきまでの苦しい思いが、もはやとらえがたい遠くへ隔てられていました。

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その訪れは唐突で乱暴で、今のさっき迄の苦しい思いが、もはや捉えがたい彼方かなたへだてられていました。

彼はこんなにやさしくはなかった昨日までの女のことも忘れました。

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彼はこんなにやさしくはなかった昨日までの女のことも忘れました。

今と明日があるだけでした。

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今と明日があるだけでした。

二人はすぐに出発しました。

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二人は直ちに出発しました。

びっこの女は残すことにしました。

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ビッコの女は残すことにしました。

そして出発のとき、女はびっこの女に向かって、じき帰ってくるから待っておいで、とひそかに言い残しました。

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そして出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、とひそかに言い残しました。

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目の前に昔の山々の姿が現れました。

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目の前に昔の山々の姿が現れました。

呼べば答えるようでした。

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呼べば答えるようでした。

古い道をとることにしました。

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旧道をとることにしました。

その道はもう歩く人がなく、道の姿は消えうせて、ただの林、ただの山坂になっていました。

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その道はもう踏む人がなく、道の姿は消え失せて、ただの林、ただの山坂になっていました。

その道を行くと、桜の森の下を通ることになるのでした。

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その道を行くと、桜の森の下を通ることになるのでした。

「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」

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「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」

「ああ、いいとも」

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「ああ、いいとも」

男は軽々と女を背負いました。

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男は軽々と女を背負いました。

男は初めて女を得た日のことを思い出しました。

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男は始めて女を得た日のことを思いだしました。

その日も彼は女を背負って峠の向こう側の山道を登ったのでした。

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その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山径やまみちを登ったのでした。

その日も幸せでいっぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。

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その日も幸せで一ぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。

「初めてお前に会った日もおんぶしてもらったわね」

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「はじめてお前に会った日もオンブして貰ったわね」

と、女も思い出して、言いました。

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と、女も思いだして、言いました。

「俺もそれを思い出していたのだぜ」

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「俺もそれを思いだしていたのだぜ」

男はうれしそうに笑いました。

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男は嬉しそうに笑いました。

「ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。走ってみたくなるじゃないか。都ではそんなことはなかったからな」

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「ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。走ってみたくなるじゃないか。都ではそんなことはなかったからな」

「初めての日はおんぶしてお前を走らせたものだったわね」

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「始めての日はオンブしてお前を走らせたものだったわね」

「ほんとだ。ずいぶん疲れて、目が回ったものさ」

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「ほんとだ。ずいぶん疲れて、目がまわったものさ」

男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。

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男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。

しかし、この幸せな日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。

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然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。

彼は恐れていませんでした。

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彼は怖れていませんでした。

そして桜の森が彼の目の前に現れてきました。

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そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。

まさしく一面の満開でした。

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まさしく一面の満開でした。

風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。

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風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。

土の肌の上には一面に花びらがしかれていました。

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土肌の上は一面に花びらがしかれていました。

この花びらはどこから落ちてきたのだろう?

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この花びらはどこから落ちてきたのだろう?

なぜなら、花びらの一枚が落ちたとも思えない満開の花のふさが、見わたすかぎり頭上に広がっているからでした。

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 なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。

男は満開の花の下へ歩きこみました。

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男は満開の花の下へ歩きこみました。

あたりはひっそりと、だんだん冷たくなるようでした。

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あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。

彼はふと女の手が冷たくなっているのに気がつきました。

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彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。

急に不安になりました。

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にわかに不安になりました。

とっさに彼は分かりました。

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とっさに彼は分りました。

女が鬼であることを。

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女が鬼であることを。

突然どっという冷たい風が、花の下の四方の果てから吹き寄せていました。

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突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。

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男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。

その口は耳までさけ、ちぢれた髪の毛は緑でした。

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その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。

男は走りました。

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男は走りました。

ふり落とそうとしました。

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振り落そうとしました。

鬼の手に力がこもり、彼の喉に食いこみました。

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鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。

彼の目は見えなくなろうとしました。

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彼の目は見えなくなろうとしました。

彼は夢中でした。

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彼は夢中でした。

全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。

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全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。

その手のすきまから首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。

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その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。

今度は彼が鬼に組みつく番でした。

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今度は彼が鬼に組みつく番でした。

鬼の首をしめました。

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鬼の首をしめました。

そして彼がふと気づいたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。

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そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。

彼の目はかすんでいました。

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彼の目はかすんでいました。

彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視力が戻ってきたように感じることができませんでした。

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彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。

なぜなら、彼がしめ殺したのはさっきと変わらずやはり女で、同じ女の死体がそこにあるだけだったからでありました。

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なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変らず矢張り女で、同じ女の屍体したいがそこに在るばかりだからでありました。

彼の呼吸は止まりました。

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彼の呼吸はとまりました。

彼の力も、彼の心も、すべてが同時に止まりました。

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彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。

女の死体の上には、すでにいくつかの桜の花びらが落ちてきました。

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女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。

彼は女をゆさぶりました。

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彼は女をゆさぶりました。

呼びました。

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呼びました。

抱きました。

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抱きました。

むだでした。

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徒労でした。

彼はわっと泣きふしました。

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彼はワッと泣きふしました。

たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。

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たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。

そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらが積もっていました。

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そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。

そこは桜の森のちょうど真ん中のあたりでした。

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そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。

四方の果ては花にかくれて奥が見えませんでした。

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四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。

いつものような恐れや不安は消えていました。

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日頃のような怖れや不安は消えていました。

花の果てから吹き寄せる冷たい風もありません。

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花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。

ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。

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ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。

彼は初めて桜の森の満開の下に座っていました。

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彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。

いつまでもそこに座っていることができます。

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いつまでもそこに坐っていることができます。

彼はもう帰るところがないのですから。

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彼はもう帰るところがないのですから。

桜の森の満開の下の秘密は、誰にも今も分かりません。

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桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。

あるいは「孤独」

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あるいは「孤独」

というものであったかもしれません。

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というものであったかも知れません。

なぜなら、男はもはや孤独を恐れる必要がなかったのです。

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なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。

彼自身が孤独そのものでありました。

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彼自らが孤独自体でありました。

彼は初めて四方を見回しました。

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彼は始めて四方を見廻しました。

頭上に花がありました。

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頭上に花がありました。

その下にひっそりと無限の何もない空間が満ちていました。

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その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。

ひそひそと花が降ります。

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ひそひそと花が降ります。

それだけのことです。

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それだけのことです。

ほかには何の秘密もないのでした。

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外には何の秘密もないのでした。

しばらくして彼は、ただ一つのなまあたたかな何かを感じました。

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ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。

そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。

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そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。

花と何もない空間の冴えた冷たさに包まれて、ほのあたたかいふくらみが、少しずつ分かりかけてくるのでした。

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花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。

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彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。

彼の手が女の顔にとどこうとしたときに、何か変わったことが起こったように思われました。

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彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。

すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿はかき消えて、ただいくつかの花びらになっていました。

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すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。

そして、その花びらをかき分けようとした彼の手も彼の体も、伸ばしたときにはもはや消えていました。

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そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。

あとに花びらと、冷たい何もない空間がはりつめているばかりでした。

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あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。