杜子春 現代語訳
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1968年
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一
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一
ある春の夕暮れどきのことです。
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或春の日暮です。
唐の都、洛陽の西の門の下に、ぼんやりと空を見上げている若者が一人いました。
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唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
その若者の名は杜子春といって、もとはお金持ちの息子でしたが、今は財産を使い果たして、その日の暮らしにも困るほど、みじめな身の上になっていたのです。
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若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になっているのです。
なにしろ当時の洛陽といえば、天下に並ぶものがないほど栄えた都ですから、通りにはひっきりなしに人や車が行き来していました。
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何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。
門いっぱいに差し込む油のような夕日の光の中に、老人がかぶった薄絹の帽子や、トルコの女の金のイヤリングや、白馬に飾った色糸の手綱が、絶え間なく流れていく様子は、まるで絵のような美しさでした。
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門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。
しかし杜子春は相変わらず、門の壁に身を寄せて、ぼんやり空ばかり眺めていました。
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しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばかり眺めていました。
空には、もう細い月が、うっすらとたなびいた霞の中に、まるで爪の跡かと思うほど、かすかに白く浮かんでいました。
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空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、おまけにもうどこへ行っても泊めてくれる場所はなさそうだし――こんな思いをして生きているくらいなら、いっそ川にでも身を投げて死んでしまったほうがましかもしれない」
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「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」
杜子春はひとりでさっきからずっと、そんな取りとめもないことを考えていたのです。
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杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
するとどこからやって来たのか、突然彼の前に足を止めた、片目の斜視の老人が現れました。
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するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。
その老人が夕日を浴びて大きな影を門に落とし、じっと杜子春の顔を見ながら、
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それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考えているのだ」
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「お前は何を考えているのだ」
と、偉そうに声をかけました。
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と、横柄に声をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る場所もないので、どうしたものかと考えていたのです」
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「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
老人の問いかけ方が急だったので、杜子春はさすがに目を伏せて、思わず正直に答えました。
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老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。
「そうか。それはかわいそうに」
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「そうか。それは可哀そうだな」
老人はしばらく何か考えているようでしたが、やがて、通りに差し込んでいる夕日の光を指さしながら、
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老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、
「では、おれがいいことをひとつ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地面に映ったら、その頭に当たる場所を夜中に掘ってみるといい。きっと車いっぱいの黄金が埋まっているはずだから」
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「ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」
「ほんとうですか」
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「ほんとうですか」
杜子春は驚いて、伏せていた目を上げました。
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杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。
ところがさらに不思議なことに、あの老人はどこへ行ったのか、もうあたりにはそれらしい影も形も見当たりません。
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ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。
その代わり空の月はさっきよりもさらに白くなって、絶え間ない通りの人の流れの上には、もう気の早いコウモリが二、三匹ひらひら飛び回っていました。
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その代り空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。
二
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二
杜子春は一日のうちに、洛陽の都でただ一人といえるほどの大金持ちになりました。
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杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。
あの老人の言葉どおり、夕日に影を映してみて、その頭に当たる場所を夜中にこっそり掘ってみたら、大きな車にも余るほどの黄金がひと山出てきたのです。
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あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。
大金持ちになった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けないくらい贅沢な暮らしを始めました。
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大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。
蘭陵の酒を買わせるやら、桂州のリュウガンをとりよせるやら、一日に四度色の変わる牡丹を庭に植えさせるやら、白クジャクを何羽も放し飼いにするやら、宝石を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木で車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一つひとつ書いていたらいつになってもこの話が終わらないほどです。
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蘭陵の酒を買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。
するとそういう噂を聞きつけて、今まで道で会っても挨拶さえしなかった友人たちが、朝夕遊びにやって来るようになりました。
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するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。
それも日ごとに数が増えて、半年ほど経つうちには、洛陽の都で名の知られた才人や美人がたくさんいる中で、杜子春の家に来ないものは一人もいないくらいになってしまったのです。
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それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。
杜子春はこのお客たちを相手に、毎日宴会を開きました。
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杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。
その宴会のにぎやかさは、とても言葉では言い尽くせません。
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その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。
ごくかいつまんでお話ししても、杜子春が金の盃に西洋から来たワインを注いで、インドから来た魔法使いが刀を飲んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、それぞれ髪に飾りながら、笛や琴を心地よく奏でているという光景でした。
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極かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏しているという景色なのです。
しかしいくら大金持ちでも、お金には限りがありますから、さすがの贅沢家の杜子春も、一年二年と経つうちには、だんだん貧乏になり始めました。
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しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。
すると人間は薄情なもので、昨日まで毎日来ていた友人たちも、今日は門の前を通っても挨拶ひとつしていきません。
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そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。
しまいにはとうとう三年目の春、また杜子春が以前と同じ一文無しになってみると、広い洛陽の都の中に、彼に宿を貸そうという家は一軒もなくなってしまいました。
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ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。
いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水さえ、恵んでくれる者はいないのです。
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いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
そこで彼はある日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、どうしてよいかわからずに立っていました。
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そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。
するとやはり昔と同じように、片目の斜視の老人が、どこからか姿を現して、
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するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考えているのだ」
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「お前は何を考えているのだ」
と、声をかけるではありませんか。
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と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥ずかしそうに下を向いたまま、しばらくは返事もしませんでした。
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杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。
しかし老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰り返しますから、こちらも前と同じように、
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が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、
「私は今夜寝る場所もないので、どうしたものかと考えているのです」
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「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
と、おそるおそる答えました。
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と、恐る恐る返事をしました。
「そうか。それはかわいそうに。ではおれがいいことをひとつ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地面に映ったら、その胸に当たる場所を夜中に掘ってみるといい。きっと車いっぱいの黄金が埋まっているはずだから」
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「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」
老人がこう言ったかと思うと、今度もまた人ごみの中へ、かき消すように隠れてしまいました。
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老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。
杜子春はその翌日から、またたく間に天下第一の大金持ちに戻りました。
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杜子春はその翌日から、忽ち天下第一の大金持に返りました。
そして相変わらず、したい放題の贅沢を始めました。
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と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。
庭に咲いている牡丹の花、その中で眠っている白クジャク、それから刀を飲んで見せるインドから来た魔法使い――すべてが昔と同じでした。
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庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。
ですから車いっぱいあった、あれほど膨大な黄金も、また三年ほど経つうちに、すっかりなくなってしまいました。
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ですから車に一ぱいにあった、あの夥しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。
三
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三
「お前は何を考えているのだ」
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「お前は何を考えているのだ」
片目の斜視の老人は、三度目に杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。
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片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。
もちろん彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやりと立っていたのです。
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勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。
「私ですか。私は今夜寝る場所もないので、どうしようかと思っているのです」
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「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」
「そうか。それはかわいそうに。ではおれがいいことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地面に映ったら、その腹に当たる場所を夜中に掘ってみるといい。きっと車いっぱいの――」
原文を見る
「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」
老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。
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老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。
「いや、お金はもういらないのです」
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「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするのにとうとう飽き飽きしたと見えるな」
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「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」
老人は不思議そうな目つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
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老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「いいえ、贅沢に飽きたのではありません。人間というものに愛想が尽きたのです」
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「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです」
杜子春は不満そうな顔をしながら、ぶっきらぼうにそう言いました。
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杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪にこう言いました。
「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想が尽きたのだ?」
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「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持ちのときには、お世辞もおべっかも言いますけれど、いったん貧乏になってみてください。優しい顔さえも見せません。そんなことを考えると、たとえもう一度大金持ちになったとしても、何にもならない気がするのです」
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「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
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老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若者らしくなく、感心なほど物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、穏やかに暮らしていくつもりか」
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「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」
杜子春はちょっとためらいました。
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杜子春はちょいとためらいました。
しかしすぐに思い切った目を上げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
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が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私にはできません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修行をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜のうちに私を天下第一の大金持ちにすることはできないはずです。どうか私の師匠になって、不思議な仙術を教えてください」
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「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」
老人は眉をひそめたまま、しばらく黙って何か考えているようでしたが、やがてまたにっこり笑いながら、
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老人は眉をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、
「確かにおれは峨眉山に住んでいる、鉄冠子という仙人だ。最初お前の顔を見た時、どこか物わかりがよさそうだったから、二度も大金持ちにしてやったのだが、それほど仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」
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「いかにもおれは峨眉山に棲んでいる、鉄冠子という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」
と、快く願いを聞き入れてくれました。
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と、快く願を容れてくれました。
杜子春は大喜びしました。
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杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。
老人の言葉がまだ終わらないうちに、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子にお辞儀をしました。
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老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜をしました。
「いや、そうお礼などは言ってもらうまい。いくらおれの弟子にしたところで、立派な仙人になれるかどうかは、お前次第で決まることだからな。――でも、ともかくまずおれと一緒に、峨眉山の奥へ来てみるといい。おお、ちょうどよかった、ここに竹の杖が一本落ちている。では早速これに乗って、ひとっ飛びで空を渡るとしよう」
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「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、幸、ここに竹杖が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」
鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中で呪文を唱えながら、杜子春と一緒にその竹に、馬にでも乗るようにまたがりました。
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鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中に咒文を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように跨りました。
すると不思議ではありませんか。
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すると不思議ではありませんか。
竹の杖はたちまち竜のように、勢いよく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んでいきました。
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竹杖は忽ち竜のように、勢よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は肝を冷やしながら、おそるおそる下を見下ろしました。
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杜子春は胆をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。
しかし下にはただ青い山々が夕明かりの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れてしまったのでしょう)どこを探しても見当たりません。
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が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう)どこを探しても見当りません。
そのうちに鉄冠子は、白いもみあげの毛を風に吹かせて、高らかに歌い始めました。
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その内に鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱い出しました。
朝は北の海に遊び、暮れには蒼梧へ。
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朝に北海に遊び、暮には蒼梧。
袖の中の青い蛇、その気概は荒々しい。
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袖裏の青蛇、胆気粗なり。
三たび岳陽に入れども、人は気づかず。
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三たび岳陽に入れども、人識らず。
朗々と吟じながら、洞庭湖を飛び越えていく。
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朗吟して、飛過す洞庭湖。
四
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四
二人を乗せた青竹は、やがて峨眉山へ舞い降りました。
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二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下りました。
そこは深い谷に面した、幅の広い一枚岩の上でしたが、相当高い場所と見えて、空中に垂れた北斗七星が、茶碗ほどの大きさに光っていました。
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そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。
もとより人の踏み入らない山ですから、あたりはしんと静まり返って、かろうじて耳に入るのは、背後の絶壁に生えている曲がりくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
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元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後の絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に座らせて、
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二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行って、西王母にお目にかかって来るから、お前はその間ここに座って、おれの帰るのを待っているといい。多分おれがいなくなると、いろいろな魔物が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たとえどんなことが起きても、決して声を出してはならないぞ。もしひと言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものと覚悟しろ。いいか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」
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「おれはこれから天上へ行って、西王母に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているが好い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」
と言いました。
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と言いました。
「大丈夫です。決して声など出しません。命がなくなっても、黙っています」
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「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
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「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
老人は杜子春に別れを告げると、またあの竹の杖にまたがって、夜目にも削ったような山々の空へ、一直線に消えてしまいました。
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老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
杜子春はたった一人、岩の上に座ったまま、静かに星を眺めていました。
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杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静に星を眺めていました。
するとおよそ一時間ほど経って、深山の夜の冷気が薄い着物に染み込んでくる頃、突然空中から声がして、
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するとかれこれ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」
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「そこにいるのは何者だ」
と、叱りつけるではありませんか。
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と、叱りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教えどおり、何も返事をしずにいました。
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しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。
ところがまたしばらくすると、やはり同じ声が響いて、
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ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと、今すぐ命はないものと覚悟しろ」
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「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」
と、激しく脅しつけるのです。
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と、いかめしく嚇しつけるのです。
杜子春はもちろん黙っていました。
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杜子春は勿論黙っていました。
すると、どこから登って来たのか、爛々と目を光らせた虎が一匹、突然岩の上に躍り上がって、杜子春の姿を睨みながら、一声高く吠えました。
原文を見る
と、どこから登って来たか、爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮りました。
しかもそれと同時に、頭上の松の枝が激しくざわざわと揺れたと思うと、背後の絶壁の頂からは、四斗樽ほどの白い大蛇が一匹、炎のような舌を出して、見る見るうちに近くへ降りてくるのです。
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のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛ひとつ動かさずに座っていました。
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杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐っていました。
虎と蛇は、一つの獲物を狙って互いに隙を窺うのか、しばらくは睨み合いの様子でしたが、やがてどちらが先ともなく、同時に杜子春に飛びかかりました。
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虎と蛇とは、一つ餌食を狙って、互に隙でも窺うのか、暫くは睨合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。
虎の牙に噛まれるか、蛇の口に飲み込まれるか、杜子春の命はまたたく間になくなってしまうと思ったその時、虎と蛇は霧のように、夜風と共に消え去って、後にはただ絶壁の松が、さっきと同じようにこうこうと枝を鳴らしているばかりでした。
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が虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。
杜子春はほっと息をつきながら、今度はどんなことが起きるかと、心待ちに待っていました。
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杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。
すると一陣の風が吹き起こって、墨のような黒雲が一面にあたりを覆うや否や、薄紫の稲妻がいきなり闇を真っ二つに裂いて、凄まじく雷が鳴り出しました。
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すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄じく雷が鳴り出しました。
いや、雷ばかりではありません。
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いや、雷ばかりではありません。
それと一緒に滝のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。
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それと一しょに瀑のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。
杜子春はこの嵐の中に、恐れる様子もなく座っていました。
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杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐っていました。
風の音、雨の飛沫、それから絶え間ない稲妻の光――しばらくはさすがの峨眉山も、ひっくり返るかと思うほどでしたが、そのうちに耳がちぎれそうなほど大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、真っ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかってきました。
原文を見る
風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上にひれ伏しました。
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杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。
しかしすぐに目を開けてみると、空は以前と同じく晴れ渡って、向こうにそびえた山々の上にも、茶碗ほどの北斗七星が、やはりきらきら輝いています。
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が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。
してみれば今の大嵐も、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をねらった魔物のいたずらに違いありません。
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して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯に違いありません。
杜子春はようやく安心して、額の冷や汗を拭いながら、また岩の上に座り直しました。
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杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭いながら、又岩の上に坐り直しました。
しかし、そのため息がまだ消えないうちに、今度は彼が座っている前に、金の鎧を身に着けた、身の丈が三丈もあろうという、威厳のある神将が現れました。
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が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の鎧を着下した、身の丈三丈もあろうという、厳かな神将が現れました。
神将は手に三又の戟を持っていましたが、いきなりその戟の切っ先を杜子春の胸元へ向けながら、目を怒らせて叱りつける言葉を聞けば、
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神将は手に三叉の戟を持っていましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、お前は一体何者だ。この峨眉山という山は、天地が始まった太古の昔から、おれが住んでいる場所だぞ。それもはばからずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや普通の人間ではあるまい。さあ命が惜しければ、今すぐ返答しろ」
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「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」
と言うのです。
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と言うのです。
しかし杜子春は老人の言葉どおり、黙って口を閉ざしていました。
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しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。
「返事をしないか。――しないな。よし。しなければしないで勝手にしろ。その代わりおれの部下たちが、お前をずたずたに斬ってしまうぞ」
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「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ」
神将は戟を高く挙げて、向こうの山の空に向かって招きました。
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神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。
その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲のように空に充満して、皆が槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一気に攻め寄せようとしているのです。
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その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
この光景を見た杜子春は、思わず「あっ」と叫びそうになりましたが、すぐにまた鉄冠子の言葉を思い出して、必死で黙っていました。
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この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。
神将は彼が恐れないのを見ると、大いに怒りました。
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神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。
「この頑固者め。どうしても返事をしなければ、約束どおり命をとってやるぞ」
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「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
神将がこう叫ぶや否や、三又の戟をひらめかせて、一突きに杜子春を突き殺しました。
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神将はこう喚くが早いか、三叉の戟を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。
そして峨眉山も響くほど、からからと高く笑いながら、どこへともなく消えてしまいました。
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そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。
もちろんこの時にはもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一緒に、夢のように消え去った後でした。
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勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。
北斗七星はまた寒々と、一枚岩の上を照らし始めました。
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北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。
絶壁の松も前と変わらず、こうこうと枝を鳴らしています。
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絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。
しかし杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。
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が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。
五
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五
杜子春の体は岩の上に仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜け出して、地獄の底へ降りていきました。
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杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
この世と地獄との間には、闇穴道という道があって、そこは年中暗い空に、氷のように冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒んでいるのです。
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この世と地獄との間には、闇穴道という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒んでいるのです。
杜子春はその風に吹かれながら、しばらくはただ木の葉のように空を漂っていきましたが、やがて「森羅殿」という額のかかった立派な御殿の前に出ました。
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杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿という額の懸った立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り囲んで、階段の前へ引き据えました。
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御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲いて、階の前へ引き据えました。
階段の上には一人の王様が、真っ黒な衣に金の冠をかぶって、威圧するようにあたりを睨んでいます。
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階の上には一人の王様が、まっ黒な袍に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。
これはかねて噂に聞いた閻魔大王に違いありません。
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これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王に違いありません。
杜子春はどうなることかと思いながら、おそるおそるそこにひざまずいていました。
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杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪いていました。
「こら、お前は何のために峨眉山の上に座っていた?」
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「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐っていた?」
閻魔大王の声は雷のように、階段の上から響きました。
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閻魔大王の声は雷のように、階の上から響きました。
杜子春はすぐにその問いに答えようとしましたが、ふとまた思い出したのは、「決して口を利くな」
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杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を利くな」
という鉄冠子の戒めの言葉です。
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という鉄冠子の戒めの言葉です。
そこでただ頭を垂れたまま、口のきけない人のように黙っていました。
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そこで唯頭を垂れたまま、唖のように黙っていました。
すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏を挙げて、顔中のひげを逆立てながら、
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すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏を挙げて、顔中の鬚を逆立てながら、
「お前はここをどこだと思っているのか。すぐに返答すればよし、さもなければ時を移さず地獄の責め苦に遭わせてやるぞ」
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「その方はここをどこだと思う? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」
と、威圧するように怒鳴りました。
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と、威丈高に罵りました。
しかし杜子春は相変わらず唇一つ動かしません。
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が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。
それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一斉にかしこまって、たちまち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
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それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏って、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
地獄には誰でも知っているように、剣の山や血の池のほかにも、焦熱地獄という炎の谷や極寒地獄という氷の海が、真っ暗な空の下に並んでいます。
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地獄には誰でも知っている通り、剣の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔の谷や極寒地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。
鬼どもはそういう地獄の中へ、代わる代わる杜子春を放り込みました。
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鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛りこみました。
ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、炎に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵で打たれるやら、油の鍋で煮られるやら、毒蛇に脳みそを吸われるやら、熊鷹に目を食われるやら――その苦しみを数え上げていたら到底きりがないほど、あらゆる責め苦に遭わされたのです。
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ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸われるやら、熊鷹に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦に遇わされたのです。
それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、ひと言も口を利きませんでした。
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それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、あきれ返ってしまったのでしょう。
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これにはさすがの鬼どもも、呆れ返ってしまったのでしょう。
もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰ってくると、さっきのように杜子春を階段の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
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もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気配がございません」
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「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません」
と、声をそろえて申し上げました。
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と、口を揃えて言上しました。
閻魔大王は眉をひそめて、しばらく考え込んでいましたが、やがて何か思いついたようで、
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閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母は、畜生道に落ちているはずだから、早速ここへ連れてこい」
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「この男の父母は、畜生道に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」
と、一匹の鬼に言いつけました。
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と、一匹の鬼に言いつけました。
鬼はたちまち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。
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鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。
と思うと、また星が流れるように、二匹の獣を追い立てながら、さっと森羅殿の前へ降りてきました。
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と思うと、又星が流れるように、二匹の獣を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。
その獣を見た杜子春は、ひどく驚きました。
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その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。
なぜかといえば、その二匹はどちらも、見た目はみすぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の顔だったからです。
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なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、お前は何のために峨眉山の上に座っていたか、正直に白状しなければ、今度はお前の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
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「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
杜子春はこう脅されても、やはり返事をしずにいました。
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杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。
「この親不孝者め。お前は父母が苦しんでも、自分さえよければそれでいいと思っているのだな」
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「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」
閻魔大王は森羅殿が崩れるほど、凄まじい声で怒鳴りました。
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閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
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「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
鬼どもは一斉に「はっ」
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鬼どもは一斉に「はっ」
と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上がると、四方八方から二匹の馬を容赦なく打ちのめしました。
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と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。
鞭はりゅうりゅうと風を切って、構わず雨のように、馬の体を打ち破るのです。
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鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。
馬は――畜生になった父母は――苦しそうに体を悶えさせて、目には血の涙を浮かべたまま、見ていられないほど嘶き立てました。
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馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶き立てました。
「どうだ。まだお前は白状しないか」
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「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の返答を促しました。
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閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。
もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階段の前へ倒れ伏していたのです。
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もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、固く目をつぶっていました。
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杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。
するとその時彼の耳には、声ともいえないほどかすかな声が伝わってきました。
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するとその時彼の耳には、殆声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配しないでおくれ。私たちがどうなっても、お前さえ幸せになれるなら、それ以上嬉しいことはないのだから。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
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「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で」
それは確かに懐かしい、母親の声に違いありません。
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それは確に懐しい、母親の声に違いありません。
杜子春は思わず目を開けました。
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杜子春は思わず、眼をあきました。
そして馬の一匹が、力なく地面に倒れたまま、悲しそうに彼の顔をじっと見つめているのを見ました。
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そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。
母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭で打たれたことを恨む様子さえ見せないのです。
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母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。
大金持ちになれば世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちと比べると、なんという有難い気持ちでしょう。
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大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。
なんという健気な覚悟でしょう。
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何という健気な決心でしょう。
杜子春は老人の戒めも忘れて、転げるようにその側へ走り寄ると、両手で半死の馬の首を抱いて、はらはらと涙を落としながら、「お母さん」
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杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん」
と一声叫びました。…………
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と一声を叫びました。…………
六
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六
その声に気がついてみると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやりと立っていました。
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その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。
霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の流れ――すべてがまだ峨眉山へ行く前と同じでした。
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霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になったところで、とても仙人にはなれはしないだろう」
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「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」
片目の斜視の老人は、微笑を浮かべながら言いました。
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片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことを、むしろ嬉しく思っています」
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「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです」
杜子春はまだ目に涙を浮かべたまま、思わず老人の手を握りました。
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杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたとしても、私はあの地獄の森羅殿の前で鞭を受けている父母を見て、黙っているわけにはいきません」
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「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」
「もしお前が黙っていたら――」
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「もしお前が黙っていたら――」
と鉄冠子は急に厳しい顔になって、じっと杜子春を見つめました。
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と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれはその場でお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持ちになることは、元より愛想が尽きているはずだ。ではお前はこれから先、何になればいいと思うか」
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「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」
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「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には、今までにない晴れ晴れとした響きがこもっていました。
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杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には会わないから」
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「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」
鉄冠子はこう言ううちに、もう歩き出していましたが、急にまた足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
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鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、ちょうどよかった、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住むといい。今頃はちょうど家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」
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「おお、幸、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」
と、いかにも嬉しそうに付け加えました。
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と、さも愉快そうにつけ加えました。