たけくらべ 現代語訳
樋口一葉(ひぐちいちよう)・1949年
AI生成この訳はAI(claude-opus-4-8)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
一
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一
大門をぐるりと回るあたりの見返り柳はずいぶん立派だが、お歯黒どぶに灯りが映る三階建ての妓楼の騒ぎも、すぐそこに手に取るように聞こえてくる。昼も夜も絶え間なく行き交う人力車の数を見れば、この町がどれほど栄えているか、はかりしれない。大音寺前という名前は仏くさいけれど、実際はにぎやかで陽気な町だと、住んでいる人は言っていた。三嶋神社の角を曲がると、これといった立派な家もなく、傾いた軒先の十軒長屋や二十軒長屋が並び、商売はさっぱりはやらない土地なので、半分だけ閉めた雨戸の外に、へんな形に切った紙を貼り、胡粉を塗りたくって彩色をほどこし、まるで田楽を見るよう。裏に貼った串の様子もおかしい。一軒どころか二軒三軒、朝は日に干して夕方はしまう手間も大げさで、家じゅうがこの仕事にかかりっきり。それは何かと聞けば、知らないのか、霜月の酉の日にあの神社で欲深様がかつぐという、あの熊手の下ごしらえ
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廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ処とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日にしまふ手当ことごとしく、一家内これにかかりてそれは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深様のかつぎ給ふこれぞ熊手の下ごしら
だという。正月に門松を片づけたときから始まって、一年じゅう通してこれをやるのが本業の商売人。片手間にやる人も、夏から手足を色に染めて、正月着の用意もこれで賄うのだ。ああ大鳥大明神さま、買う人にまで大きな福をお与えになるのだから、作るもとの自分たちにはその何倍もの利益があるはずだと、みんな口をそろえて言うが、これが思いのほかそうでもない。このあたりで大金持ちだという噂は聞いたことがない。住んでいる人の多くは廓で働く者たちで、亭主は小格子見世の何とやら、下足札をそろえてがらんがらんと鳴らす音もいそがしく、夕暮れから羽織を引っかけて出かけていく。その後ろで切り火を打ちかける女房の顔も、これが見納めかもしれない。十人斬りの巻き添え、無理心中のしそこない、恨みはこんな身の果てにつきものだ。あぶない、と声がかかればすぐ命がけになる勤めなのに、まるで遊びに行くように見えるのがおかしい。娘は大見世の下新造
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へといふ、正月門松とりすつるよりかかりて、一年うち通しのそれは誠の商買人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着の支度もこれをば当てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等万倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、このあたりに大長者のうわさも聞かざりき、住む人の多くは廓者にて良人は小格子の何とやら、下足札そろへてがらんがらんの音もいそがしや夕暮より羽織引かけて立出れば、うしろに切火打かくる女房の顔もこれが見納めか十人ぎりの側杖無理情死のしそこね、恨みはかかる身のはて危ふく、すはと言はば命がけの勤めに遊山らしく見ゆるもをかし、娘は大籬の下新造と
とやら、七軒町の何とか屋の客回しとやら、看板をぶら下げてちょこちょこ走り回る修業。それを卒業して何になるというのか。それでも一人前の晴れ舞台とばかりに気取っているのがおかしいではないか。あか抜けた三十過ぎの年増が、こざっぱりした唐桟ぞろいに紺足袋をはいて、雪駄をちゃらちゃら鳴らしていそがしそうに、横抱きに小包を抱えている。それが何かは聞くまでもない。茶屋の桟橋がどうこうと話して、遠回りだからここから届けます、と言う。あつらえ物の仕立て屋さんと、このあたりでは呼ぶのだ。だいたい風俗がよそとは違って、後ろ帯をきちんと結んだ女は少なく、派手な柄を好んで幅広の巻き帯を締める。年増ならまだいいが、十五、六の生意気な娘がほおずきを口にふくんでこの格好では、と目をふさぐ人もいるだろう。ところ柄、仕方のないことだ。昨日は河岸見世で何とか紫という源氏名が耳に残っていたのに、今日は地回りの吉と、慣れない手つきで焼き鳥
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やら、七軒の何屋が客廻しとやら、提燈さげてちよこちよこ走りの修業、卒業して何にかなる、とかくは檜舞台と見たつるもをかしからずや、垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐桟ぞろひに紺足袋はきて、雪駄ちやらちやら忙がしげに横抱きの小包はとはでもしるし、茶屋が桟橋とんと沙汰して、廻り遠や此処からあげまする、誂へ物の仕事やさんとこのあたりには言ふぞかし、一体の風俗よそと変りて、女子の後帯きちんとせし人少なく、がらを好みて巾広の巻帯、年増はまだよし、十五六の小癪なるが酸漿ふくんでこの姿はと目をふさぐ人もあるべし、所がら是非もなや、昨日河岸店に何紫の源氏名耳に残れど、けふは地廻りの吉と手馴れぬ焼鳥
の夜店を出して、身代をたたきつぶして骨になれば、また古巣に戻っておかみさん暮らし。どこか素人よりは見栄えよく思えて、この土地に染まらない子供などいない。秋の九月、俄祭りの頃の大通りを見てごらん。まあ何とうまく覚えたものか、露八の物真似、栄喜の身ぶり、孟子の母もびっくりするほどの上達の速さ。うまいと褒められて今夜ももう一回りと、生意気なことは七つ八つから募って、やがて肩に手ぬぐいを置いて鼻歌のそそり節。十五の少年がませているのは恐ろしい。学校の唱歌にも「ぎっちょんちょん」と拍子を取り、運動会では木遣り音頭でもやりかねない調子。ただでさえ教育は難しいのに、教師の苦労もさぞかしと思われる。入谷の近くに育英舎という学校があって、私立だが生徒の数は千人近く、狭い校舎に目白押しの窮屈さも、教師の人望がいよいよ
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の夜店を出して、身代たたき骨になれば再び古巣への内儀姿、どこやら素人よりは見よげに覚えて、これに染まらぬ子供もなし、秋は九月仁和賀の頃の大路を見給へ、さりとは宜くも学びし露八が物真似、栄喜が処作、孟子の母やおどろかん上達の速やかさ、うまいと褒められて今宵も一廻りと生意気は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌のそそり節、十五の少年がませかた恐ろし、学校の唱歌にもぎつちよんちよんと拍子を取りて、運動会に木やり音頭もなしかねまじき風情、さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はるる入谷ぢかくに育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押の窮屈さも教師が人望いよいよ
厚いことのあらわれで、ただ「学校」と一言いえば、このあたりでは通じるほどになっている。通ってくる子供のなかには、火消しの鳶職の子もいて、うちの父ちゃんは刎橋の番屋にいるよと、習わなくても知っているその道の知恵の早さ。梯子乗りの真似をして、あれ、忍び返しを折っちゃったと訴えるあれこれ。三百代言(うさんくさい弁護士)の子もいるだろう。お前の父ちゃんは馬(人力車引き)だねえと言われて、名乗るのもつらい子供心にも顔を赤らめる、そのけなげさ。出入りする貸座敷の秘蔵息子は、別宅住まいで華族さまを気取って、房飾りのついた帽子にゆたかな顔つき、軽やかな洋服で花々しい。それを坊ちゃん坊ちゃんと、まわりの子がへつらうのもおかしい。大勢のなかに龍華寺の信如という子がいて、いま何本もの黒髪がつやめく盛りだが、やがては墨染めの衣に変えなければならない身の上。出家を思い立ったのは腹のなかから
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あらはれて、唯学校と一ト口にてこのあたりには呑込みのつくほど成るがあり、通ふ子供の数々に或は火消鳶人足、おとつさんは刎橋の番屋に居るよと習はずして知るその道のかしこさ、梯子のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前の父さんは馬だねへと言はれて、名のりや愁らき子心にも顔あからめるしほらしさ、出入りの貸座敷の秘蔵息子寮住居に華族さまを気取りて、ふさ付き帽子面もちゆたかに洋服かるがると花々しきを、坊ちやん坊ちやんとてこの子の追従するもをかし、多くの中に龍華寺の信如とて、千筋となづる黒髪も今いく歳のさかりにか、やがては墨染にかへぬべき袖の色、発心は腹か
なのか、この子は親ゆずりの勉強家である。生まれつきおとなしいのを友達がうっとうしく思って、いろいろな悪戯をしかけ、猫の死骸を縄でくくって、お役目でしょうから引導を渡してくださいと投げつけたこともあったが、それは昔のこと。今では校内一の人物として、たとえ冗談でも見くびってふざけるような真似はされなくなった。年は十五、並みの背丈で、いが栗頭も気のせいか俗人とは違って見える。藤本信如と訓読みですませているが、どこか「釈」の字をつけて呼びたくなるような気配がある。
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らか、坊は親ゆづりの勉強ものあり、性来をとなしきを友達いぶせく思ひて、さまざまの悪戯をしかけ、猫の死骸を縄にくくりてお役目なれば引導をたのみますと投げつけし事も有りしが、それは昔、今は校内一の人とて仮にも侮りての処業はなかりき、歳は十五、並背にていが栗の頭髪も思ひなしか俗とは変りて、藤本信如と訓にてすませど、何処やら釈といひたげの素振なり。
二
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二
八月二十日は千束神社のお祭りで、山車や屋台に町ごとの見栄を張り、土手を上って廓のなかまで繰り込もうという勢い。若者たちの意気込みは想像がつくだろう。聞きかじりでも子供だからと油断できないこのあたりのこと、そろいの浴衣は言うまでもなく、めいめい申し合わせて生意気の限りを尽くす。聞けば肝もつぶれそうだ。横町組と自任する乱暴者の子供大将に、頭の長というのがいる。年は十六。俄祭りの金棒引きで父親の代理をつとめてからいっそう気位が高くなり、帯は腰の先にひっかけ、返事は鼻先でするものと決めている。憎らしい態度で、あれが頭の子でなければ、と鳶職の女房の陰口も聞こえてくる。思うぞんぶんわがままを通し、身の丈に合わない幅もきかせてきたが、表町には田中屋の正太郎という子がいて、年は自分より三つ下だが、家に金があり
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八月二十日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて土手をのぼりて廓内までも入込まんづ勢ひ、若者が気組み思ひやるべし、聞かぢりに子供とて由断のなりがたきこのあたりのなれば、そろひの裕衣は言はでものこと、銘々に申合せて生意気のありたけ、聞かば胆もつぶれぬべし、横町組と自らゆるしたる乱暴の子供大将に頭の長とて歳も十六、仁和賀の金棒に親父の代理をつとめしより気位ゑらく成りて、帯は腰の先に、返事は鼻の先にていふ物と定め、にくらしき風俗、あれが頭の子でなくばと鳶人足が女房の蔭口に聞えぬ、心一ぱいに我がままを徹して身に合はぬ巾をも広げしが、表町に田中屋の正太郎とて歳は我れに三つ劣れど、家に金あり
本人に愛嬌もあるので誰にも憎まれない、うってつけの敵がいる。こちらは私立の学校へ通っているのに、あちらは公立だからと、同じ唱歌でも本家のような顔をしやがる。去年も一昨年も、あちらには大人の取り巻きがついて、祭りの趣向もこちらより華やかにやってのけ、喧嘩に手出しできない仕組みまであった。今年もまた負けるようなら、俺を誰だと思っている、横町の長吉だぞと、いつもの威勢のいい強がりもからいばりだと馬鹿にされて、弁天堀の水泳ぎのときも自分の組につく者は少ないだろう。力でいえばこちらが強いのに、田中屋のおとなしそうな様子にごまかされ、一つには学問ができるのを恐れて、うちの横町組の太郎吉や三五郎までも、内々はあちら側についてしまったのがくやしい。祭りはあさって。いよいよこちらが負け色だと見えたら、破れかぶれになって暴れて
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身に愛敬あれば人も憎くまぬ当の敵あり、我れは私立の学校へ通ひしを、先方は公立なりとて同じ唱歌も本家のやうな顔をしおる、去年も一昨年も先方には大人の末社がつきて、まつりの趣向も我れよりは花を咲かせ、喧嘩に手出しのなりがたき仕組みも有りき、今年又もや負けにならば、誰れだと思ふ横町の長吉だぞと平常の力だては空いばりとけなされて、弁天ぼりに水およぎの折も我が組に成る人は多かるまじ、力を言はば我が方がつよけれど、田中屋が柔和ぶりにごまかされて、一つは学問が出来おるを恐れ、我が横町組の太郎吉、三五郎など、内々は彼方がたに成たるも口惜し、まつりは明後日、いよいよ我が方が負け色と見えたらば、破れかぶれに暴れて
暴れて、正太郎の顔に傷の一つでもつけてやろう。こっちは片眼も片足もない、なくなってもいい身だと思えばやりやすい。加勢は車屋の丑に元結よりの文、玩具屋の弥助あたりがいれば引けはとるまい。ああそれよりもあの人のこと、あの人のことだ。藤本ならいい知恵も貸してくれるだろうと、十八日の暮れ近く、何か言おうとすれば目や口にうるさくまとわりつく蚊を払いながら、竹の茂った龍華寺の庭先から、信如の部屋へのそりのそりと入り、信さんいるかい、と顔を出した。
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暴れて、正太郎が面に疷一つ、我れも片眼片足なきものと思へば為やすし、加担人は車屋の丑に元結よりの文、手遊屋の弥助などあらば引けは取るまじ、おおそれよりはあの人の事あの人の事、藤本のならば宜き智恵も貸してくれんと、十八日の暮れちかく、物いへば眼口にうるさき蚊を払ひて竹村しげき龍華寺の庭先から信如が部屋へのそりのそりと、信さん居るかと顔を出しぬ。
俺のやることは乱暴だとみんな言う。乱暴かもしれないが、くやしいものはくやしいんだ。なあ聞いてくれよ信さん。去年も、うちの末弟の奴と、正太郎組のちびの野郎が万灯のたたき合いから始まって、そうしたら奴の仲間がばらばらと飛び出してきやがって、どうだろう、小さい子の万灯をぶちこわしちまって、胴上げにしやがって、見やがれ横町のざまを、と一人が言うと、間抜けに背の高い大人みたいな顔をした団子屋のとんまが、頭なんてあるものか、尻尾だ尻尾だ、豚の尻尾だ、なんて悪口を言ったんだとさ。俺はその時、千束さまへ繰り込んでいたから、あとで聞いたときにすぐ仕返しに行こうと言ったら、親父に頭から小言を食らって、その時も泣き寝入り。一昨年はほら、お前も知
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己れの為る事は乱暴だと人がいふ、乱暴かも知れないが口惜しい事は口惜しいや、なあ聞いとくれ信さん、去年も己れが処の末弟の奴と正太郎組の短小野郎と万燈のたたき合ひから始まつて、それといふと奴の中間がばらばらと飛出しやあがつて、どうだらう小さな者の万燈を打こわしちまつて、胴揚にしやがつて、見やがれ横町のざまをと一人がいふと、間抜に背のたかい大人のやうな面をしてゐる団子屋の頓馬が、頭もあるものか尻尾だ尻尾だ、豚の尻尾だなんて悪口を言つたとさ、己らあその時千束様へねり込んでゐたもんだから、あとで聞いた時に直様仕かへしに行かうと言つたら、親父さんに頭から小言を喰つてその時も泣寐入、一昨年はそらね、お前も知
っての通り、筆屋の店へ表町の若い衆が集まって茶番か何かやっただろう。あの時、俺が見に行ったら、横町は横町の趣向があるでしょう、なんて生意気なことを言いやがって、正太ばかりを客にしたのも腹に据えかねる。いくら金があるからって、質屋くずれの高利貸しが何さまだ。あんな奴を生かしておくより、たたき殺す方が世間のためだ。俺は今度の祭りでは、どうしても乱暴に仕掛けて仕返しをつけようと思う。だから信さん、友達がいだと思って、それはお前が嫌がるのはわかってるけれど、どうか俺の肩を持って、横町組の恥をすすいでくれ。なあ、おい。本家本元の唱歌だなんていばってる正太郎をとっちめてくれないか。俺が私立の寝ぼけ生徒と言われれば、お前のことも同じだから
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つてる通り筆屋の店へ表町の若衆が寄合て茶番か何かやつたらう、あの時己れが見に行つたら、横町は横町の趣向がありませうなんて、おつな事を言ひやがつて、正太ばかり客にしたのも胸にあるわな、いくら金が有るとつて質屋のくづれの高利貸が何たら様だ、あんな奴を生して置くより擲きころす方が世間のためだ、己らあ今度のまつりにはどうしても乱暴に仕掛て取かへしを付けようと思ふよ、だから信さん友達がひに、それはお前が嫌やだといふのも知れてるけれども何卒我れの肩を持つて、横町組の耻をすすぐのだから、ね、おい、本家本元の唱歌だなんて威張りおる正太郎を取ちめてくれないか、我れが私立の寐ぼけ生徒といはれればお前の事も同然だか
後生だ、どうか、助けると思って大万灯を振り回してくれ、と、俺は心の底からくやしくてたまらない、今度負けたら長吉の面目は丸つぶれだ、と無茶苦茶にくやしがって、大きな肩を揺すった。
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ら、後生だ、どうぞ、助けると思つて大万燈を振廻しておくれ、己れは心から底から口惜しくつて、今度負けたら長吉の立端は無いと無茶にくやしがつて大幅の肩をゆすりぬ。
だって僕は弱いもの。
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だつて僕は弱いもの。
弱くてもいいよ。
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弱くても宜いよ。
万灯は振り回せないよ。
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万燈は振廻せないよ。
振り回さなくてもいいよ。
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振廻さなくても宜いよ。
僕が入ると負けるけど、それでもいいのかい。
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僕が這入ると負けるが宜いかへ。
負けてもいいのさ。それは仕方がないとあきらめるから。お前は何もしなくていい。ただ横町の組だという名で、いばっていてくれさえすれば、それでうんと人気がつくからね。俺はこんな学のない奴なのに、お前は学問ができるからね。向こうの奴らが漢語か何かで冷やかしでも言ってきたら、こっちも漢語で仕返しをしておくれ。ああ、いい気持ちだ、さっぱりした。お前が承知してくれれば、もう千人力だ。信さんありがとう、と、いつにない優しい言葉も出てくるのだった。
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負けても宜いのさ、それは仕方が無いと諦めるから、お前は何も為ないで宜いから唯横町の組だといふ名で、威張つてさへくれると豪気に人気がつくからね、己れはこんな無学漢だのにお前は学が出来るからね、向ふの奴が漢語か何かで冷語でも言つたら、此方も漢語で仕かへしておくれ、ああ好い心持ださつぱりしたお前が承知をしてくれればもう千人力だ、信さん有がたうと常に無い優しき言葉も出るものなり。
一人は三尺帯につっかけ草履の職人の息子、もう一人は皮色の金巾の羽織に紫の兵児帯という坊さん仕立て。二人の思いは正反対で、話はいつも食い違いがちだが、長吉は龍華寺の門前で産声をあげた子だから、大和尚夫婦のひいきもあり、同じ学校へ通えば私立私立とけなされるのも気に入らない。もともと愛嬌のない長吉なので、心から味方になってくれる者もいない哀れさ。相手は町内の若い衆までが後押しをして、ひがみではなく、長吉が負けるのには田中屋側にも少なからず責任がある。見込まれて頼まれた義理からしても嫌とは言いかねて、信如は、それではお前の組になろう。なると言ったら嘘はない。だがなるべく喧嘩はしない方が勝ちだよ。いよいよ向こうがけしかけてきたら仕方がない。なあに、いざとなれば田中の正太郎
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一人は三尺帯に突かけ草履の仕事師の息子、一人はかわ色金巾の羽織に紫の兵子帯といふ坊様仕立、思ふ事はうらはらに、話しは常に喰ひ違ひがちなれど、長吉は我が門前に産声を揚げしものと大和尚夫婦が贔負もあり、同じ学校へかよへば私立私立とけなされるも心わるきに、元来愛敬のなき長吉なれば心から味方につく者もなき憐れさ、先方は町内の若衆どもまで尻押をして、ひがみでは無し長吉が負けを取る事罪は田中屋がたに少なからず、見かけて頼まれし義理としても嫌やとは言ひかねて信如、それではお前の組に成るさ、成るといつたら嘘は無いが、なるべく喧嘩は為ぬ方が勝だよ、いよいよ先方が売りに出たら仕方が無い、何いざと言へば田中の正太郎
なんか小指の先ほどのものさ、と自分に力のないのは忘れて言った。信如は机の引き出しから、京都みやげにもらった小鍛冶の小刀を取り出して見せると、長吉は、よく切れそうだねえ、とのぞき込む。あぶない。こんなものを振り回してなるものか。
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位小指の先さと、我が力の無いは忘れて、信如は机の引出しから京都みやげに貰ひたる、小鍛冶の小刀を取出して見すれば、よく利れそうだねへと覗き込む長吉が顔、あぶなし此物を振廻してなる事か。
三
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三
解けば足まで届きそうな髪を、根もとで固くつめて前髪を大きく取り、まげは重たげに結った。赭熊という名は恐ろしげだけれど、このまげがこの頃の流行りで、良家のお嬢さんも結っておいでになる。色白で鼻筋が通り、口もとは小さくはないが引き締まっているので醜くはない。一つ一つ取り立てて見れば美人の見本には遠いが、話す声が細くて涼やかで、人を見る目に愛嬌があふれ、身のこなしが生き生きしているのは気持ちのいいものだ。柿色に蝶や鳥を染めた大柄の浴衣を着て、黒繻子と染め分け絞りの昼夜帯を胸高に締め、足には塗りの木履、このあたりでもめったに見かけない高いのをはいて、朝湯の帰りに首筋を白々と見せ、手ぬぐいをさげた立ち姿。あと三年たったこの子を見たいものだ、と廓帰りの若者は言っていた。大黒屋の美登利といって、生まれは紀州、言葉が少しなまっている
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解かば足にもとどくべき毛髪を、根あがりに堅くつめて前髪大きく髷おもたげの、赭熊といふ名は恐ろしけれど、此髷をこの頃の流行とて良家の令嬢も遊ばさるるぞかし、色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、一つ一つに取たてては美人の鑑に遠けれど、物いふ声の細く清しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したるは快き物なり、柿色に蝶鳥を染めたる大形の裕衣きて、黒襦子と染分絞りの昼夜帯胸だかに、足にはぬり木履ここらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて、朝湯の帰りに首筋白々と手拭さげたる立姿を、今三年の後に見たしと廓がへりの若者は申き、大黒屋の美登利とて生国は紀州、言葉のいささか訛れ
のもかわいらしく、何より思い切りのいいさっぱりした気性を、みんなが喜んでいる。子供にしては銀貨入れが重いのももっともで、姉が全盛だった名残から、ひいては遣手や新造が姉へのお世辞に、美いちゃん人形をお買いなさい、これはほんの手鞠代です、と恩着せがましくもなくくれるので、もらう身も気が楽だ。まあまあ、同級の女生徒二十人にそろいのゴム鞠をやったくらいはたいしたことでもない。なじみの筆屋で店ざらしの玩具を買い占めて、店の者を喜ばせたこともある。それにしても、毎日毎晩のこの散財、この年、この身分でできることではない。この先どうなる身なのだろう。両親がいながら大目に見て、荒い言葉をかけることもなく、楼の主人が大切にする様子も不思議なほど。聞けば養女でもなく、親戚でももちろんなく、姉が身売りするとき、目利きに来た
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るも可愛く、第一は切れ離れよき気象を喜ばぬ人なし、子供に似合ぬ銀貨入れの重きも道理、姉なる人が全盛の余波、延いては遣手新造が姉への世辞にも、美いちやん人形をお買ひなされ、これはほんの手鞠代と、くれるに恩を着せねば貰ふ身の有がたくも覚えず、まくはまくは、同級の女生徒二十人に揃ひのごむ鞠を与へしはおろかの事、馴染の筆やに店ざらしの手遊を買しめて喜ばせし事もあり、さりとは日々夜々の散財この歳この身分にて叶ふべきにあらず、末は何となる身ぞ、両親ありながら大目に見てあらき詞をかけたる事も無く、楼の主が大切がる様子も怪しきに、聞けば養女にもあらず親戚にてはもとより無く、姉なる人が身売りの当時、鑑定に来たり
楼の主人の誘いにまかせ、この土地で暮らしを立てようと、親子三人が旅衣で出てきたのがその訳。それから先の事情は何なのか。今は別宅の留守番をして、母は遊女の仕立て物、父は小格子見世の書記になった。この子は遊芸や手芸の学校にも通わせてもらい、そのほかは思いのまま。半日は姉の部屋で、半日は町で遊び、見聞きするのは三味線や太鼓の音、そして明るく派手な身なりばかり。はじめ、藤色絞りの半襟を袷にかけて着て歩いていたら、田舎者だと町内の娘たちに笑われたのをくやしがって、三日三晩泣き続けたこともあったが、今では逆に自分から人々をあざけって、野暮な格好だと遠慮なく憎まれ口をきくのに、言い返せる者もいなくなった。
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し楼の主が誘ひにまかせ、この地に活計もとむとて親子三人が旅衣、たち出しはこの訳、それより奥は何なれや、今は寮のあづかりをして母は遊女の仕立物、父は小格子の書記に成りぬ、この身は遊芸手芸学校にも通はせられて、そのほかは心のまま、半日は姉の部屋、半日は町に遊んで見聞くは三味に太鼓にあけ紫のなり形、はじめ藤色絞りの半襟を袷にかけて着て歩るきしに、田舎者いなか者と町内の娘どもに笑はれしを口惜しがりて、三日三夜泣きつづけし事も有しが、今は我れより人々を嘲りて、野暮な姿と打つけの悪まれ口を、言ひ返すものも無く成りぬ。
二十日はお祭りだから、思いきり面白いことをして、と友達がせがむと、趣向は何でもいい、めいめい工夫して、大勢が楽しめるのが一番いいじゃないの。いくらでも出すから、と例によって勘定なしで引き受ける。子供仲間の女王さまとまたとない気前のよさは、大人よりも利き目が早い。茶番にしよう、どこかの店を借りて往来から見えるようにして、と一人が言えば、馬鹿を言え、それより神輿をこしらえてくれよ、蒲田屋の奥に飾ってあるような本物のを、重くたってかまわない、わっしょいわっしょいで簡単さ、とねじり鉢巻きをする男の子のそばから、それじゃあ私たちがつまらない、みんなが騒ぐのを見ているだけでは美登利さんだって面白くないでしょう、何でもお前の好きなものにしなよ、と女の子の一群は
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二十日はお祭りなれば心一ぱい面白い事をしてと友達のせがむに、趣向は何なりと各自に工夫して大勢の好い事が好いでは無いか、幾金でもいい私が出すからとて例の通り勘定なしの引受けに、子供中間の女王様又とあるまじき恵みは大人よりも利きが早く、茶番にしよう、何処のか店を借りて徃来から見えるやうにしてと一人が言へば、馬鹿を言へ、それよりはお神輿をこしらへておくれな、蒲田屋の奥に飾つてあるやうな本当のを、重くても搆はしない、やつちよいやつちよい訳なしだと捩ぢ鉢巻をする男子のそばから、それでは私たちがつまらない、皆が騒ぐを見るばかりでは美登利さんだとて面白くはあるまい、何でもお前の好い物におしよと、女の一むれは
祭りは抜きにして常盤座(芝居)にしよう、と言いたげな口ぶりがおかしい。田中の正太はかわいらしい目をぐるぐる動かして、幻灯にしないか、幻灯に。俺のところにも少しあるし、足りないのを美登利さんに買ってもらって、筆屋の店でやろうじゃないか。俺が映し手で、横町の三五郎に口上を言わせよう。美登利さん、それにしないか、と言うと、ああ、それは面白そうだ、三ちゃんの口上なら誰でも笑わずにはいられまい、ついでにあの顔が映るともっとおもしろい、と相談がまとまった。足りない品を正太が買いに行く役で、汗だくになって飛び回るのもおかしく、いよいよ明日という頃には、横町までもその話が聞こえていた。
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祭りを抜きに常盤座をと、言ひたげの口振をかし、田中の正太は可愛らしい眼をぐるぐると動かして、幻燈にしないか、幻燈に、己れの処にも少しは有るし、足りないのを美登利さんに買つて貰つて、筆やの店で行らうでは無いか、己れが映し人で横町の三五郎に口上を言はせよう、美登利さんそれにしないかと言へば、ああそれは面白からう、三ちやんの口上ならば誰れも笑はずにはゐられまい、序にあの顔がうつると猶おもしろいと相談はととのひて、不足の品を正太が買物役、汗に成りて飛び廻るもをかしく、いよいよ明日と成りては横町までもその沙汰聞えぬ。
四
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四
鼓を打ち、三味線の音色に事欠かない場所であっても、祭りは別物。酉の市を除けば、一年に一度のにぎわいなのだ。三嶋さま、小野照さま、隣同士どちらの神社も負けまいと競い合う心がおかしい。横町も表町もそろいは同じ真岡木綿に町名をくずして染め抜き、去年よりよくない柄だとつぶやく者もいた。くちなし染めの麻だすきは、なるほど太いのを好んで、十四、五から下の子は、達磨、みみずく、犬張り子と、いろいろな玩具を多いほど見栄に垂らして、七つも九つも十一もつけている子もいる。大鈴小鈴を背中にがらがら鳴らして駆け出す足袋はだしの姿が勇ましくおかしい。群れを離れて田中の正太が、赤筋入りのしるし半纏に、色白の首筋へ紺の腹掛け、見慣れない出で立ちだと思ったら、しごいて締めた帯の水浅葱も、見ろよ縮緬の上等な染め、襟のしるし
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打つや鼓のしらべ、三味の音色に事かかぬ場処も、祭りは別物、酉の市を除けては一年一度の賑ひぞかし、三嶋さま小野照さま、お隣社づから負けまじの競ひ心をかしく、横町も表も揃ひは同じ真岡木綿に町名くづしを、去歳よりは好からぬ形とつぶやくも有りし、口なし染の麻だすきなるほど太きを好みて、十四五より以下なるは、達磨、木兎、犬はり子、さまざまの手遊を数多きほど見得にして、七つ九つ十一つくるもあり、大鈴小鈴背中にがらつかせて、駆け出す足袋はだしの勇ましく可笑し、群れを離れて田中の正太が赤筋入りの印半天、色白の首筋に紺の腹がけ、さりとは見なれぬ扮粧とおもふに、しごいて締めし帯の水浅黄も、見よや縮緬の上染、襟の印
の染め上がりも際立って、うしろ鉢巻きに山車の花を一枝さし、革緒の雪駄の音だけはさせるが、馬鹿囃子の仲間には入らなかった。宵宮は何事もなく過ぎて、今日一日の日も夕暮れ。筆屋の店に集まったのは十二人、一人足りない美登利が夕化粧に手間取っているので、まだかまだかと正太は門を出たり入ったりして、呼んで来い三五郎、お前はまだ大黒屋の別宅へ行ったことがないだろう、庭先から美登利さんと言えば聞こえるはずだ、早く早く、と言うと、それなら俺が呼んで来る、万灯はここへ預けて行けば誰も蝋燭を盗むまい、正太さん番を頼む、と言うと、けちな奴め、その手間で早く行け、と自分より年下に叱られて、おっと来たさの次郎左衛門、今のうちにと駆け出す。韋駄天とはこのことか、あれ、あの飛び
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のあがりも際立て、うしろ鉢巻きに山車の花一枝、革緒の雪駄おとのみはすれど、馬鹿ばやしの中間には入らざりき、夜宮は事なく過ぎて今日一日の日も夕ぐれ、筆やが店に寄合しは十二人、一人かけたる美登利が夕化粧の長さに、未だか未だかと正太は門へ出つ入りつして、呼んで来い三五郎、お前はまだ大黒屋の寮へ行つた事があるまい、庭先から美登利さんと言へば聞える筈、早く、早くと言ふに、それならば己れが呼んで来る、万燈は此処へあづけて行けば誰れも蝋燭ぬすむまい、正太さん番をたのむとあるに、吝嗇な奴め、その手間で早く行けと我が年したに叱かられて、おつと来たさの次郎左衛門、今の間とかけ出して韋駄天とはこれをや、あれあの飛び
ようがおかしいと見送って笑う女の子たちも無理はない。横に太って背が低く、頭の形は才槌で首が短く、振り向いた顔を見れば出っ額の獅子鼻、反っ歯の三五郎という綽名の由来も察しがつく。色は言うまでもなく黒いが、感心なのは目つきがどこまでもおどけていて、両の頬に笑くぼの愛嬌、目隠しの福笑いに見るような眉のつき方も、まったくおかしくて罪のない子である。貧乏だからか阿波縮みの筒袖を着て、俺はそろいが間に合わなかったんだと、知らない友達には言う。自分を頭に六人の子供を養う親も、人力車の梶棒にすがる身。五十軒町によいお得意先を持っていても、自前の車は商売もの以外なので甲斐がなく、十三になれば片腕にと、一昨年から並木の活版所へも通ったが、怠け者なので十日の辛抱も続かず
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やうが可笑しいとて見送りし女子どもの笑ふも無理ならず、横ぶとりして背ひくく、頭の形は才槌とて首みぢかく、振むけての面を見れば出額の獅子鼻、反歯の三五郎といふ仇名おもふべし、色は論なく黒きに感心なは目つき何処までもおどけて両の頬に笑くぼの愛敬、目かくしの福笑ひに見るやうな眉のつき方も、さりとはをかしく罪の無き子なり、貧なれや阿波ちぢみの筒袖、己れは揃ひが間に合はなんだと知らぬ友には言ふぞかし、我れを頭に六人の子供を、養ふ親も轅棒にすがる身なり、五十軒によき得意場は持たりとも、内証の車は商買ものの外なれば詮なく、十三になれば片腕と一昨年より並木の活判処へも通ひしが、怠惰ものなれば十日の辛棒つづかず
一月と同じ仕事につくこともなく、霜月から春にかけては突き羽根の内職、夏は検査場の氷屋を手伝って、おかしな呼び声で客を引くのが上手なので、人には重宝がられる。去年は俄祭りの台引きに出てから、友達に卑しまれて万年町という綽名が今も残っているが、三五郎といえばおどけ者だとみんな承知していて、憎む者がいないのも一つの得だ。田中屋は自分たち親子の命の綱、こうむる恩は少なくない。日歩とかいって利子の安くない借金だけれど、これがなくては困る金主さまをおろそかに思えるものか。三公、俺の町へ遊びに来い、と呼ばれて嫌とは言えない義理がある。とはいえ自分は横町に生まれて横町に育った身、住む土地は龍華寺のもので、家主は長吉の親だから、表向きはあちら(長吉側)に背けない。だから内々にこちら(正太側)の用を
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、一ト月と同じ職も無くて霜月より春へかけては突羽根の内職、夏は検査場の氷屋が手伝ひして、呼声をかしく客を引くに上手なれば、人には調法がられぬ、去年は仁和賀の台引きに出しより、友達いやしがりて万年町の呼名今に残れども、三五郎といへば滑稽者と承知して憎くむ者の無きも一徳なりし、田中屋は我が命の綱、親子が蒙むる御恩すくなからず、日歩とかや言ひて利金安からぬ借りなれど、これなくてはの金主様あだには思ふべしや、三公己れが町へ遊びに来いと呼ばれて嫌やとは言はれぬ義理あり、されども我れは横町に生れて横町に育ちたる身、住む地処は龍華寺のもの、家主は長吉が親なれば、表むき彼方に背く事かなはず、内々に此方の用をた
足しては、にらまれるときのその役回りがつらい。
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して、にらまるる時の役廻りつらし。
正太は筆屋の店に腰かけて、待つ間のつれづれに「忍ぶ恋路」を小声で歌うと、あれ、油断がならないねえ、とおかみさんに笑われて、わけもなく耳の付け根が赤くなり、照れ隠しの大声で、みんなも来い、と呼び連れて表へ駆け出す。ちょうどそこへ来合わせた祖母が、正太、夕飯をなぜ食べないんだい、遊びにうつつを抜かしてさっきから呼んでいるのも知らないのか、と言う。正太は、みなさんも、また後で遊んでくださいな、これはお世話さまでした、と筆屋の妻にも挨拶して、祖母がわざわざ迎えに来たとあっては嫌とも言えず、そのまま連れて帰られた。そのあとは急にさびしくなって、人数はさほど変わらないのに、あの子が見えないと大人までさびしい。馬鹿騒ぎもしないし冗談も三ちゃんのようにはいかない。人好きがするのは、金持ちの息子さんには珍しい愛嬌だ。ところで、あの田中屋の後家さまのいやらしさをどう思う、あれ
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正太は筆やの店へ腰をかけて、待つ間のつれづれに忍ぶ恋路を小声にうたへば、あれ由断がならぬと内儀さまに笑はれて、何がなしに耳の根あかく、まぢくないの高声に皆も来いと呼つれて表へ駆け出す出合頭、正太は夕飯なぜ喰べぬ、遊びに耄けて先刻にから呼ぶをも知らぬか、誰様も又のちほど遊ばせて下され、これは御世話と筆やの妻にも挨拶して、祖母が自からの迎ひに正太いやが言はれず、そのまま連れて帰らるるあとは俄かに淋しく、人数はさのみ変らねどあの子が見えねば大人までも寂しい、馬鹿さわぎもせねば串談も三ちやんの様では無けれど、人好きのするは金持の息子さんに珎らしい愛敬、何と御覧じたか田中屋の後家さまがいやらしさを、あれ
で年は六十四。白粉をつけないのがせめてもの救いだが、丸まげの大きさときたら。猫なで声を出して、人が死んでもかまわず、大方おしまいは金と心中でもなさるやら。それでもこっちが頭が上がらないのは、あの金の御威光。ああ欲しいものだ。廓の大きい楼にもだいぶ金を貸しているらしいと聞きましたよ、と、大通りに立って二、三人の女房がよその財産を数えているのだった。
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で年は六十四、白粉をつけぬがめつけ物なれど丸髷の大きさ、猫なで声して人の死ぬをも搆はず、大方臨終は金と情死なさるやら、それでも此方どもの頭の上らぬはあの物の御威光、さりとは欲しや、廓内の大きい楼にも大分の貸付があるらしう聞きましたと、大路に立ちて二三人の女房よその財産を数へぬ。
五
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五
待つ身にはつらい夜半の置き炬燵、それは恋というもの。吹く風が涼しい夏の夕暮れ、昼の暑さを風呂で流して、身じまいを姿見に映す。母親が手ずからほつれ髪をつくろって、我が子ながら美しいと、立って見、座って見て、首筋が薄かったねえ、となおも言う。単衣は水色友禅で涼しげに、白茶に金襴の丸帯の少し幅の狭いのを結ばせて、庭石に下駄をそろえて出るまでに、ずいぶん時が経った。
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待つ身につらき夜半の置炬燵、それは恋ぞかし、吹風すずしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまいの姿見、母親が手づからそそけ髪つくろひて、我が子ながら美くしきを立ちて見、居て見、首筋が薄かつたと猶ぞいひける、単衣は水色友仙の涼しげに、白茶金らんの丸帯少し幅の狭いを結ばせて、庭石に下駄直すまで時は移りぬ。
まだかまだかと塀のまわりを七度も回り、あくびも出尽くして、払っても払ってもこの土地名物の蚊に首筋や額ぎわをさんざん刺され、三五郎が弱りきった頃、美登利が出てきて、さあ行こう、と言う。三五郎はものも言わずに袖をつかんで駆け出すので、息が弾む、胸が痛い、そんなに急ぐなら私は知らない、お前一人でお行き、と怒られて、別れ別れの到着。筆屋の店へ来たときは、ちょうど正太が夕飯の真っ最中だと思われた。
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まだかまだかと塀の廻りを七度び廻り、欠伸の数も尽きて、払ふとすれど名物の蚊に首筋額ぎわしたたか螫れ、三五郎弱りきる時、美登利立出でていざと言ふに、此方は言葉もなく袖を捉へて駆け出せば、息がはづむ、胸が痛い、そんなに急ぐならば此方は知らぬ、お前一人でお出と怒られて、別れ別れの到着、筆やの店へ来し時は正太が夕飯の最中とおぼえし。
ああ面白くない、面白くない、あの人が来なければ幻灯を始めるのも嫌。伯母さん、この店に智恵の板は売っていませんか、十六武蔵でも何でもいい、手が暇で困る、と美登利がさびしがると、それそれ、とすぐに鋏を借りて、女の子たちは切り抜きにかかる。男の子は三五郎を真ん中に俄祭りのおさらい。「北廓の全盛を見渡せば、軒は提灯電気灯、いつもにぎわう五丁町」と、みんなでおかしく囃し立てると、記憶がいいので去年一昨年とさかのぼって、手ぶりも手拍子も一つも変わらない。浮かれ立った十人あまりの騒ぎだから、何事かと門に立って人垣を作ったなかから、三五郎はいるか、ちょっと来てくれ、大急ぎだ、と文次という元結よりの職人が呼ぶので、何の用意もなく、おいしょ、よし来た、と身軽に敷居を飛び越
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ああ面白くない、おもしろくない、あの人が来なければ幻燈をはじめるのも嫌、伯母さん此処の家に智恵の板は売りませぬか、十六武蔵でも何でもよい、手が暇で困ると美登利の淋しがれば、それよと即坐に鋏を借りて女子づれは切抜きにかかる、男は三五郎を中に仁和賀のさらひ、北廓全盛見わたせば、軒は提燈電気燈、いつも賑ふ五丁町、と諸声をかしくはやし立つるに、記憶のよければ去年一昨年とさかのぼりて、手振手拍子ひとつも変る事なし、うかれ立たる十人あまりの騒ぎなれば何事と門に立ちて人垣をつくりし中より、三五郎は居るか、一寸来てくれ大急ぎだと、文次といふ元結よりの呼ぶに、何の用意もなくおいしよ、よし来たと身がるに敷居を飛こ
えようとした、その時。この二股野郎、覚悟をしろ、横町の面汚しめ、ただじゃおかねえ、誰だと思う、長吉だ、生意気な真似をして後悔するな、と頬骨を一撃。あっと魂消て逃げ込む襟がみをつかんで引き出す横町の一団。それ、三五郎をたたき殺せ、正太を引きずり出してしまえ、弱虫、逃げるな、団子屋のとんまもただじゃおかない、と潮のように沸き返る騒ぎ。筆屋の軒の掛け提灯はやすやすとたたき落とされ、吊りランプもあぶない、店先で喧嘩はやめてください、とおかみさんが喚くのも聞こえない。人数はおよそ十四、五人、ねじり鉢巻きに大万灯を振り立てて、手当たりしだいの乱暴狼藉、土足で踏み込む傍若無人ぶり。目指す敵の正太が見えないので、どこへ隠した、どこへ逃げた、さあ言え、言わないか、言わせずにおくものか、と三五郎を
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ゆる時、この二タ股野郎覚悟をしろ、横町の面よごしめ唯は置かぬ、誰れだと思ふ長吉だ生ふざけた真似をして後悔するなと頬骨一撃、あつと魂消て逃入る襟がみを、つかんで引出す横町の一むれ、それ三五郎をたたき殺せ、正太を引出してやつてしまへ、弱虫にげるな、団子屋の頓馬も唯は置かぬと潮のやうに沸かへる騒ぎ、筆屋が軒の掛提燈は苦もなくたたき落されて、釣りらんぷ危なし店先の喧嘩なりませぬと女房が喚きも聞かばこそ、人数は大凡十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈ふりたてて、当るがままの乱暴狼藉、土足に踏み込む傍若無人、目ざす敵の正太が見えねば、何処へ隠くした、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物かと三五郎を
取り囲んで殴るやら蹴るやら。美登利はくやしくて、止める人をかきのけて、ちょっとあんたたち、三ちゃんに何の罪があるの。正太さんと喧嘩がしたいなら正太さんとすればいい。逃げも隠れもしない、正太さんはここにいないじゃないの。ここは私の遊び場。あんたたちに指一本ささせやしない。ええ憎らしい長吉め、三ちゃんをなぜぶつ、あれ、また引き倒した。恨みがあるなら私をぶちなさい、相手には私がなる。伯母さん止めないでください、と身もだえして罵ると、何を女郎め、生意気な口をたたく、姉の跡継ぎの乞食め、お前の相手にはこれで十分だ、と大勢の後ろから長吉が泥草履をつかんで投げつけた。狙いは外れず、美登利の額ぎわに汚いものがべったり。血相を変えて立ち上がるのを、怪我でもしてはと抱き
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取こめて撃つやら蹴るやら、美登利くやしく止める人を掻きのけて、これお前がたは三ちやんに何の咎がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜い、逃げもせねば隠くしもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもささしはせぬ、ゑゑ憎くらしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃ち、相手には私がなる、伯母さん止めずに下されと身もだへして罵れば、何を女郎め頬桁たたく、姉の跡つぎの乞食め、手前の相手にはこれが相応だと多人数のうしろより長吉、泥草履つかんで投つければ、ねらひ違はず美登利が額際にむさき物したたか、血相かへて立あがるを、怪我でもしてはと抱き
とめるおかみさん。ざまを見ろ、こっちには龍華寺の藤本がついているぞ、仕返しにはいつでも来い、間抜けの薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの意気地なしめ、帰りには待ち伏せしてやる、横町の暗がりに気をつけろ、と、三五郎を土間に投げ出したところへ、折よく靴音がして、誰かが交番へ通報したのだと今になってわかる。それ、と長吉が声をかけると、丑松、文次、その他十人あまりが、方角を変えてばらばらと逃げ足も早く、抜け裏の路地にかがむ者もいるだろう。くやしい、くやしい、くやしい、くやしい、長吉め、文次め、丑松め、なぜ俺を殺さない、殺さないか、俺だって三五郎だ、ただ死ぬものか、幽霊になっても取り殺すぞ、覚えていろ長吉め、と、湯玉のような涙をはらはらこぼし、ついには大声でわっと泣き出す。体じゅう痛いだろう、筒袖のあちこちが引き裂かれて、背中も腰も砂まみ
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とむる女房、ざまを見ろ、此方には龍華寺の藤本がついてゐるぞ、仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰ぬけの活地なしめ、帰りには待伏せする、横町の闇に気をつけろと三五郎を土間に投出せば、折から靴音たれやらが交番への注進今ぞしる、それと長吉声をかくれば丑松文次その余の十余人、方角をかへてばらばらと逃足はやく、抜け裏の露路にかがむも有るべし、口惜しいくやしい口惜しい口惜しい、長吉め文次め丑松め、なぜ己れを殺さぬ、殺さぬか、己れも三五郎だ唯死ぬものか、幽灵になつても取殺すぞ、覚えてゐろ長吉めと湯玉のやうな涙はらはら、はては大声にわつと泣き出す、身内や痛からん筒袖の処々引さかれて背中も腰も砂ま
れ。止めようにも止められず、その勢いのすさまじさに、みんなただおどおどと気をのまれていた。筆屋のおかみさんが走り寄って抱き起こし、背中をなでて砂を払い、堪忍おし、堪忍おし、どう思っても向こうは大勢、こっちはみんな弱い者ばかり、大人でさえ手が出しかねたのだから、かなわないのはわかりきっている、それでも怪我がないのは幸せ、この上は途中の待ち伏せがあぶない、幸い巡査さまに家まで送っていただけば私たちも安心、こういう事情なのでございます、と、いきさつをかいつまんで、ちょうど来合わせた巡査に話した。すると、それが職務だから送ってやろう、と手を取られるが、いえいえ送ってくださらなくても帰れます、一人で帰ります、と小さくなる。これ、怖いことはない、お前の家まで送るだけのことだ、心配するな、とほほえみながら頭をなでられて、いよいよ縮こまり、喧
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ぶれ、止めるにも止めかねて勢ひの悽まじさに唯おどおどと気を呑まれし、筆やの女房走り寄りて抱きおこし、背中をなで砂を払ひ、堪忍をし、堪忍をし、何と思つても先方は大勢、此方は皆よわい者ばかり、大人でさへ手が出しかねたに叶はぬは知れてゐる、それでも怪我のないは仕合、この上は途中の待ぶせが危ない、幸ひの巡査さまに家まで見て頂かば我々も安心、この通りの子細で御座ります故と筋をあらあら折からの巡査に語れば、職掌がらいざ送らんと手を取らるるに、いゑいゑ送つて下さらずとも帰ります、一人で帰りますと小さく成るに、こりや怕い事は無い、其方の家まで送る分の事、心配するなと微笑を含んで頭を撫でらるるに弥々ちぢみて、喧
嘩をしたと言うと父ちゃんに叱られます、頭の家は大家さんでございますから、としおれるのをなだめて、それなら門口まで送ってやる、叱られるようなことはさせないよ、と連れられていくのを、近所の人たちは胸をなでおろして遠くから見送った。ところがどうしたわけか、横町の角まで来ると三五郎は巡査の手を振りはなして、一目散に逃げてしまった。
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嘩をしたと言ふと親父さんに叱かられます、頭の家は大屋さんで御座りますからとて凋れるをすかして、さらば門口まで送つて遣る、叱からるるやうの事は為ぬわとて連れらるるに四隣の人胸を撫でてはるかに見送れば、何とかしけん横町の角にて巡査の手をば振はなして一目散に逃げぬ。
六
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六
珍しいこと、この炎天下に雪でも降るんじゃないか。美登利が学校を嫌がるとは、よほどの不機嫌。朝ごはんが進まないなら、後で鮨でも取ろうか。風邪にしては熱もないし、大方きのうの疲れだろう。太郎さまへの朝参りは母さんが代わりに行くから、今日はやめておおき、と言うと、いえいえ、姉さんが繁昌するようにと私が願をかけたのだから、参らなければ気が済まない、お賽銭をください、行ってきます、と家を駆け出して、中田圃の稲荷で鰐口を鳴らして手を合わせた。願いは何なのか、行きも帰りもうなだれて畦道づたいに帰ってくる美登利の姿。それと見て遠くから声をかけ、正太が駆け寄って袂を押さえ、美登利さん、ゆうべはごめんよ、と、いきなりあやまると、何もお前にあやまってもらうことはない。
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めづらしい事、この炎天に雪が降りはせぬか、美登利が学校を嫌やがるはよくよくの不機嫌、朝飯がすすまずば後刻に鮨でも誂へようか、風邪にしては熱も無ければ大方きのふの疲れと見える、太郎様への朝参りは母さんが代理してやれば御免こふむれとありしに、いゑいゑ姉さんの繁昌するやうにと私が願をかけたのなれば、参らねば気が済まぬ、お賽銭下され行つて来ますと家を駆け出して、中田圃の稲荷に鰐口ならして手を合せ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて畦道づたひ帰り来る美登利が姿、それと見て遠くより声をかけ、正太はかけ寄りて袂を押へ、美登利さん昨夕は御免よと突然にあやまれば、何もお前に謝罪られる事は無い。
それでも俺が憎まれて、俺が喧嘩の相手なんだもの。お祖母さんが呼びに来さえしなければ帰りはしなかった。あんなにむやみに三五郎を殴らせはしなかったのに。今朝、三五郎のところへ見に行ったら、あいつも泣いてくやしがっていた。俺は聞いただけでもくやしい。お前の顔へ長吉め草履を投げたって言うじゃないか。あの野郎、乱暴にもほどがある。だけど美登利さん堪忍しておくれよ。俺は知っていて逃げていたんじゃないんだ。飯をかき込んで表へ出ようとしたら、お祖母さんが湯に行くと言う。留守番をしているうちの騒ぎだったんだろう、本当に知らなかったんだからね、と、自分の罪のように平あやまりにあやまって、痛くはないか、と額ぎわを見上げると、美登利はにっこり笑って、何、怪我をするほど
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それでも己れが憎くまれて、己れが喧嘩の相手だもの、お祖母さんが呼びにさへ来なければ帰りはしない、そんなに無暗に三五郎をも撃たしはしなかつた物を、今朝三五郎の処へ見に行つたら、彼奴も泣いて口惜しがつた、己れは聞いてさへ口惜しい、お前の顔へ長吉め草履を投げたと言ふでは無いか、あの野郎乱暴にもほどがある、だけれど美登利さん堪忍しておくれよ、己れは知りながら逃げてゐたのでは無い、飯を掻込んで表へ出やうとするとお祖母さんが湯に行くといふ、留守居をしてゐるうちの騒ぎだらう、本当に知らなかつたのだからねと、我が罪のやうに平あやまりに謝罪て、痛みはせぬかと額際を見あげれば、美登利につこり笑ひて何負傷をするほど
じゃない。それより正さん、誰が聞いても、私が長吉に草履を投げられたなんて言っちゃいけないよ。もし万一お母さんが聞きでもすると、私が叱られるから。親でさえ頭に手はあげないのに、長吉ふぜいに草履の泥を額に塗られたのでは、踏まれたのと同じだから、と、そむける顔がいじらしい。本当に堪忍しておくれ、みんな俺が悪い、だからあやまる、機嫌を直してくれないか、お前に怒られると俺が困るんだ、と話しながら来て、いつしか我が家の裏近くまで来ると、寄っていかないか美登利さん、誰もいやしない、お祖母さんも日掛けの集金に出ただろうし、俺一人でさびしくてたまらない、いつか話した錦絵を見せるから寄っておいで、いろいろあるから、と袖をつかんで離さないので、美登利は無言に
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では無い、それだが正さん誰れが聞いても私が長吉に草履を投げられたと言つてはいけないよ、もし万一お母さんが聞きでもすると私が叱かられるから、親でさへ頭に手はあげぬものを、長吉づれが草履の泥を額にぬられては踏まれたも同じだからとて、背ける顔のいとをしく、本当に堪忍しておくれ、みんな己れが悪るい、だから謝る、機嫌を直してくれないか、お前に怒られると己れが困るものをと話しつれて、いつしか我家の裏近く来れば、寄らないか美登利さん、誰れも居はしない、祖母さんも日がけを集めに出たらうし、己ればかりで淋しくてならない、いつか話した錦絵を見せるからお寄りな、種々のがあるからと袖を捉らへて離れぬに、美登利は無言に
うなずいて、わびしげな折り戸の庭口から入ると、広くはないが鉢植えが趣きよく並び、軒には吊り忍。これは正太が午の日に買ったものと見える。わけを知らない人は小首をかしげるだろう、町内一の金持ちだというのに、家族は祖母とこの子の二人きり。あらゆる鍵を握って気苦労が絶えず、留守は見渡すかぎりの総長屋。それでも錠前を壊す者もいなかった。正太は先に上がって、風通しのいい場所を見つくろって、ここへ来ないか、と団扇で気をつかう、その様子は、十三の子供にしてはませすぎておかしい。
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うなづいて、佗びた折戸の庭口より入れば、広からねども鉢ものをかしく並びて、軒につり忍艸、これは正太が午の日の買物と見えぬ、理由しらぬ人は小首やかたぶけん町内一の財産家といふに、家内は祖母と此子二人、万の鍵に下腹冷えて留守は見渡しの総長屋、さすがに錠前くだくもあらざりき、正太は先へあがりて風入りのよき場処を見たてて、此処へ来ぬかと団扇の気あつかひ、十三の子供にはませ過ぎてをかし。
昔から伝わる錦絵を数々取り出して、褒められるのを嬉しがり、美登利さん、昔の羽子板を見せよう、これは俺の母さんがお屋敷に奉公していた頃にいただいたものだとさ、おかしいじゃないか、この大きいこと、人の顔も今のとは違うね、ああ、この母さんが生きているといいんだけど、俺が三つのとき死んで、父さんはいるけれど田舎の実家へ帰ってしまったから、今は祖母さんばかりさ、お前はうらやましいね、と、ふと親のことを言い出すと、それ、絵が濡れる、男が泣くものじゃない、と美登利に言われて、俺は気が弱いのかしら、時々いろいろなことを思い出すよ、まだ今頃はいいけれど、冬の月夜なんかに田町あたりを集金に回ると、土手まで来て何度も泣いたことがある、何、寒いくらいで泣きは
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古くより持つたへし錦絵かずかず取出し、褒めらるるを嬉しく美登利さん昔しの羽子板を見せよう、これは己れの母さんがお邸に奉公してゐる頃いただいたのだとさ、をかしいでは無いかこの大きい事、人の顔も今のとは違ふね、ああこの母さんが生きてゐると宜いが、己れが三つの歳死んで、お父さんは在るけれど田舎の実家へ帰つてしまつたから今は祖母さんばかりさ、お前は浦山しいねと無端に親の事を言ひ出せば、それ絵がぬれる、男が泣く物では無いと美登利に言はれて、己れは気が弱いのかしら、時々種々の事を思ひ出すよ、まだ今時分は宜いけれど、冬の月夜なにかに田町あたりを集めに廻ると土手まで来て幾度も泣いた事がある、何さむい位で泣きは
しない、なぜだか自分でもわからないが、いろいろなことを考えるよ。ああ、一昨年から俺も日掛けの集金に回っているのさ。祖母さんは年寄りだし、そのうちでも夜はあぶないし、目が悪いから印形を押したり何かに不自由だからね。今まで何人も男を使ったけれど、老人と子供だからと馬鹿にして、思うように働いてくれないと祖母さんが言っていたっけ。俺がもう少し大人になったら質屋を出させて、昔のとおりでなくても田中屋の看板をかけるんだと、それを楽しみにしているよ。よその人は祖母さんをけちだと言うけれど、俺のために倹約してくれるんだから、気の毒でならない。集金に行く先でも、通新町や何かにずいぶんかわいそうな人がいるから、さぞお祖母さんを悪く言うだろう。それを考えると俺
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しない、何故だか自分も知らぬが種々の事を考へるよ、ああ一昨年から己れも日がけの集めに廻るさ、祖母さんは年寄りだからそのうちにも夜るは危ないし、目が悪るいから印形を押たり何かに不自由だからね、今まで幾人も男を使つたけれど、老人に子供だから馬鹿にして思ふやうには動いてくれぬと祖母さんが言つてゐたつけ、己れがもう少し大人に成ると質屋を出さして、昔しの通りでなくとも田中屋の看板をかけると楽しみにしてゐるよ、他処の人は祖母さんを吝だと言ふけれど、己れの為に倹約してくれるのだから気の毒でならない、集金に行くうちでも通新町や何かに随分可愛想なのが有るから、さぞお祖母さんを悪るくいふだらう、それを考へると己れ
は涙がこぼれる。やっぱり気が弱いんだね。今朝も三公の家へ集金に行ったら、あいつめ、体が痛いくせに親父に知らせまいとして働いていた。それを見たら俺は口がきけなかった。男が泣くなんておかしいじゃないか、だから横町の乱暴者に馬鹿にされるんだ、と言いかけて、自分の気の弱さを恥ずかしそうな顔色。何気なく美登利と見合わせた目つきのかわいらしさ。
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は涙がこぼれる、やつぱり気が弱いのだね、今朝も三公の家へ取りに行つたら、奴め身体が痛い癖に親父に知らすまいとして働いてゐた、それを見たら己れは口が利けなかつた、男が泣くてへのは可笑しいでは無いか、だから横町の野蕃漢に馬鹿にされるのだと言ひかけて我が弱いを耻かしさうな顔色、何心なく美登利と見合す目つきの可愛さ。
お前の祭りの格好はとてもよく似合って、うらやましかった。私も男だったらあんな風がしてみたい、誰のよりもよく見えた、と褒められて、何だ、俺なんか。お前こそ美しいや。廓の大巻さんより奇麗だとみんなが言うよ。お前が姉さんだったら、俺はどんなに肩身が広いだろう。どこへ行くにもついて行って、大いばりでいばるのになあ。一人も兄弟がいないから仕方がない。ねえ美登利さん、今度いっしょに写真を撮らないか。俺は祭りのときの格好で、お前は透綾の荒縞で粋な格好をして、水道尻の加藤で撮ろう。龍華寺の奴がうらやましがるようにさ。本当だぜ、あいつはきっと怒るよ、真っ青になって怒るよ、意気地なしだからね、赤くはならない。それとも笑うかしら。笑われたってかまわない。大きく撮っ
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お前の祭の姿は大層よく似合つて浦山しかつた、私も男だとあんな風がして見たい、誰れのよりも宜く見えたと賞められて、何だ己れなんぞ、お前こそ美くしいや、廓内の大巻さんよりも奇麗だと皆がいふよ、お前が姉であつたら己れはどんなに肩身が広かろう、何処へゆくにも追従て行つて大威張りに威張るがな、一人も兄弟が無いから仕方が無い、ねへ美登利さん今度一処に写真を取らないか、我れは祭りの時の姿で、お前は透綾のあら縞で意気な形をして、水道尻の加藤でうつさう、龍華寺の奴が浦山しがるやうに、本当だぜ彼奴はきつと怒るよ、真青に成つて怒るよ、にゑ肝だからね、赤くはならない、それとも笑ふかしら、笑はれても搆はない、大きく取つ
て看板に出したらいいな。お前は嫌かい、嫌そうな顔だもの、と恨むのもおかしく、へんな顔に写るとお前に嫌われるから、と美登利は吹き出して、高笑いの美しい声に、ご機嫌がすっかり直った。
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て看板に出たら宜いな、お前は嫌やかへ、嫌やのやうな顔だものと恨めるもをかしく、変な顔にうつるとお前に嫌らはれるからとて美登利ふき出して、高笑ひの美音に御機嫌や直りし。
朝の涼しさはいつのまにか過ぎて、日ざしが暑くなってきた。正太さん、また晩においでよ、私の別宅へも遊びにおいでな、燈籠を流して、お魚を追いましょう、池の橋が直ったから怖いことはないよ、と言い捨てて出て行く美登利の姿を、正太は嬉しそうに見送って、美しいと思った。
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朝冷はいつしか過ぎて日かげの暑くなるに、正太さん又晩によ、私の寮へも遊びにお出でな、燈籠ながして、お魚追ひましよ、池の橋が直つたれば怕い事は無いと言ひ捨てに立出る美登利の姿、正太うれしげに見送つて美くしと思ひぬ。
七
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七
龍華寺の信如も、大黒屋の美登利も、二人とも学校は育英舎である。この前の四月の末頃、桜は散って青葉のかげに藤の花を見るという時分、春の大運動会というので水の谷の原でやったことがあったが、綱引き、鞠なげ、縄とびの遊びに興を添えて、長い一日が暮れるのも忘れた。その折のことだったか、信如がどうしたことか、いつもの落ち着きに似ず、池のほとりの松の根につまずいて赤土道に手をついたので、羽織の袂も泥だらけになって見苦しかったのを、居合わせた美登利が見かねて、自分の紅の絹ハンカチを取り出して、これでお拭きなさい、と介抱をした。すると友達のなかの焼きもち焼きが見つけて、藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しそうに礼を言ったのはおかしいじゃないか、大方美登利さんは藤本の女房になる
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龍華寺の信如、大黒屋の美登利、二人ながら学校は育英舎なり、去りし四月の末つかた、桜は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動会とて水の谷の原にせし事ありしが、つな引、鞠なげ、縄とびの遊びに興をそへて長き日の暮るるを忘れし、その折の事とや、信如いかにしたるか平常の沈着に似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出し、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬や見つけて、藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しさうに礼を言つたは可笑しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房になる
のだろう、お寺の女房なら大黒さまと言うんだな、などと取り沙汰した。信如はもともとこういうことを他人について聞くのも嫌いで、苦い顔をして横を向く質だから、まして自分のこととあっては我慢できるものか。それからは美登利という名を聞くたびに恐ろしく、またあのことを言い出すかと胸のなかがもやもやして、何とも言えない嫌な気持ちだった。とはいえ何もかも怒りつけるわけにもいかないので、できるだけ知らんふりをして平気をよそおい、むずかしい顔をしてやり過ごす心づもりだったが、面と向かって物を尋ねられたときの当惑ときたら。たいていは「知りません」の一言で済ませるが、苦しい汗が身のうちに流れて、心細い思いだった。美登利はそんなことも気にかけないので、はじめは藤本さん藤本さんと親しく話しかけ、
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のであらう、お寺の女房なら大黒さまと言ふのだなどと取沙汰しける、信如元来かかる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顔して横を向く質なれば、我が事として我慢のなるべきや、それよりは美登利といふ名を聞くごとに恐ろしく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭やな気持なり、さりながら事ごとに怒りつける訳にもゆかねば、なるだけは知らぬ躰をして、平気をつくりて、むづかしき顔をして遣り過ぎる心なれど、さし向ひて物などを問はれたる時の当惑さ、大方は知りませぬの一ト言にて済ませど、苦しき汗の身うちに流れて心ぼそき思ひなり、美登利はさる事も心にとまらねば、最初は藤本さん藤本さんと親しく物いひかけ、
学校がひけての帰りがけに、自分が一足早く道端で珍しい花などを見つけると、遅れてくる信如を待ち合わせて、これ、こんな美しい花が咲いているのに、枝が高くて私には折れない、信さんは背が高いからお手が届くでしょう、後生だから折ってください、と一群れのなかで年かさなのを見込んで頼む。さすがに信如も袖を振り切って行き過ぎることもできず、かといって人の思わくがいよいよつらいので、手近な枝を引き寄せ、よしあしかまわず申し訳ばかりに折って、投げつけるようにしてすたすたと行き過ぎる。それを、なんて愛嬌のない人だろうとあきれたこともあったが、度重なった末には、自然とわざと意地悪をしているように思われて、他の人にはそうでもないのに私にばかりつらい仕打ちを見せ、物を尋ねてもろくな返事をしたことがなく、そばへ
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学校退けての帰りがけに、我れは一足はやくて道端に珎らしき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、これこんなうつくしい花が咲てあるに、枝が高くて私には折れぬ、信さんは背が高ければお手が届きましよ、後生折つて下されと一むれの中にては年長なるを見かけて頼めば、さすがに信如袖ふり切りて行すぎる事もならず、さりとて人の思はくいよいよ愁らければ、手近の枝を引寄せて好悪かまはず申訳ばかりに折りて、投つけるやうにすたすたと行過ぎるを、さりとは愛敬の無き人と惘れし事も有しが、度かさなりての末には自ら故意の意地悪のやうに思はれて、人にはさもなきに我れにばかり愁らき処為をみせ、物を問へば碌な返事した事なく、傍へ
行けば逃げる、話をすれば怒る、陰気くさくて気づまりで、どうしたらいいのやら機嫌の取りようもない。あんなむずかしやは、思いのままにひねくれて、怒って意地悪がしたいのなら、友達と思わなければ口をきくのも無駄なこと、と美登利は少し癪にさわって、用がなければすれ違っても物を言ったことがなく、途中で会っても挨拶など思いもよらない。ただいつとはなしに、二人のあいだに大きな川が一つ横たわって、舟も筏もここでは御法度、それぞれの岸に沿って思い思いの道を歩いていた。
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ゆけば逃げる、はなしを為れば怒る、陰気らしい気のつまる、どうして好いやら機嫌の取りやうも無い、あのやうなむづかしやは思ひのままに捻れて怒つて意地わるが為たいならんに、友達と思はずは口を利くも入らぬ事と美登利少し疳にさはりて、用の無ければ摺れ違ふても物いふた事なく、途中に逢ひたりとて挨拶など思ひもかけず、唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏も此処には御法度、岸に添ふておもひおもひの道をあるきぬ。
祭りは昨日で過ぎて、その翌日から美登利がぷっつり学校へ通わなくなったのは、聞くまでもなく、額の泥が洗っても消えない恥辱を身にしみてくやしく思ったからだ。表町だ横町だといっても、同じ教室に机を並べれば仲間に変わりはないはずなのに、おかしな分け隔てをして日頃から意地を張り、私が女で、とてもかなわない弱味につけこんで、祭りの夜の仕打ちは何という卑怯さだろう。長吉のわからずやは誰もが知るこの上ない乱暴者だが、信如の後押しがなければ、あれほど思い切って表町を荒らせはしなかった。人前では物知りらしく素直をよそおって、陰に回ってからくりの糸を引いたのは、藤本の仕業に決まっている。よし学年は上でも、勉強はできても、龍華寺さまの若旦那でも、大黒屋の美登利は紙一枚の世
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祭りは昨日に過ぎてそのあくる日より美登利の学校へ通ふ事ふつと跡たえしは、問ふまでも無く額の泥の洗ふても消えがたき耻辱を、身にしみて口惜しければぞかし、表町とて横町とて同じ教場におし並べば朋輩に変りは無き筈を、をかしき分け隔てに常日頃意地を持ち、我れは女の、とても敵ひがたき弱味をば付目にして、まつりの夜の処為はいかなる卑怯ぞや、長吉のわからずやは誰れも知る乱暴の上なしなれど、信如の尻おし無くはあれほどに思ひ切りて表町をば暴し得じ、人前をば物識らしく温順につくりて、陰に廻りて機関の糸を引しは藤本の仕業に極まりぬ、よし級は上にせよ、学は出来るにせよ、龍華寺さまの若旦那にせよ、大黒屋の美登利紙一枚のお
話にもならないのに、あんなふうに乞食呼ばわりして、恩を受ける覚えはない。龍華寺にどれほど立派な檀家があるか知らないが、うちの姉さんは三年のなじみに銀行の川さま、兜町の米さまもあるし、議員の何とかさまが身請けして奥さまにと仰せられたのを、心意気が気に入らないからと嫌ってお受けしなかったけれど、あの方だって世に名高いお人だと遣手衆が言っていた。嘘だと思うなら聞いてみろ、大黒屋に大巻がいなければあの楼はお先真っ暗だとか。だからお店の旦那だって、父さん母さん私のことまで粗末にはなさらず、いつも大切にして、床の間に据えておいた瀬戸物の大黒さまを、私がいつだったか座敷のなかで羽根つきをして騒いだとき、並んで置いてあった花瓶を倒して、さんざんに壊してしまったのに、旦那は次の間でお酒を召し上がりながら、美
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世話にも預からぬ物を、あのやうに乞食呼はりして貰ふ恩は無し、龍華寺はどれほど立派な檀家ありと知らねど、我が姉さま三年の馴染に銀行の川様、兜町の米様もあり、議員の短小さま根曳して奥さまにと仰せられしを、心意気気に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、あの方とても世には名高きお人と遣手衆の言はれし、嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大巻の居ずはあの楼は闇とかや、さればお店の旦那とても父さん母さん我が身をも粗畧には遊ばさず、常々大切がりて床の間にお据へなされし瀬戸物の大黒様をば、我れいつぞや坐敷の中にて羽根つくとて騒ぎし時、同じく並びし花瓶を仆し、散々に破損をさせしに、旦那次の間に御酒めし上りながら、美
登利、おてんばが過ぎるよ、と言われたきり小言もなかった。他の人ならこの程度の怒りでは済むまい、と女中衆たちにあとあとまでうらやまれたのも、つまりは姉さんの威光なのだ。私は別宅住まいの留守番はしていても、姉は大黒屋の大巻、長吉ふぜいに負けをとるような身ではない、龍華寺の坊さまにいじめられるのは心外だ、と、これから学校へ通うのが面白くなくなった。わがままな本性を見くびられたのがくやしくて、石筆を折り、墨を捨て、教科書も算盤もいらないものにして、仲のいい友達とたわいもなく遊んでいた。
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登利お転婆が過ぎるのと言はれしばかり小言は無かりき、他の人ならば一通りの怒りでは有るまじと、女子衆達にあとあとまで羨まれしも必竟は姉さまの威光ぞかし、我れ寮住居に人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大巻、長吉風情に負けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、これより学校へ通ふ事おもしろからず、我ままの本性あなどられしが口惜しさに、石筆を折り墨をすて、書物も十露盤も入らぬ物にして、中よき友と埒も無く遊びぬ。
八
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八
駆けろ、飛ばせ、と急ぐ夕べに引きかえて、明け方の別れ、夢を乗せて帰っていく車のさびしさよ。帽子を目深にかぶって人目を避けるお方もあり、手ぬぐいで頬かむりし、あの女が別れに名残の一撃、その痛さが身にしみて、思い出すほど嬉しくて、うす気味悪くにたにた笑っている顔。坂本へ出ては用心なさい、千住帰りの青物車にお足元があぶない、三嶋さまの角までは気違い街道。おかおの締まりがみな緩んで、失礼ながら鼻の下がながながと見えていらっしゃるので、そこらへんに、それ、たいそうなご立派な殿方が、と、一銭の値打ちもないくせに、と辻に立って無礼を言う者もいた。
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走れ飛ばせの夕べに引かへて、明けの別れに夢をのせ行く車の淋しさよ、帽子まぶかに人目を厭ふ方様もあり、手拭とつて頬かふり、彼女が別れに名残の一撃、いたさ身にしみて思ひ出すほど嬉しく、うす気味わるやにたにたの笑ひ顔、坂本へ出ては用心し給へ千住がへりの青物車にお足元あぶなし、三嶋様の角までは気違ひ街道、御顔のしまり何れも緩るみて、はばかりながら御鼻の下ながながと見えさせ給へば、そんじよ其処らにそれ大した御男子様とて、分厘の価値も無しと、辻に立ちて御慮外を申もありけり。
楊貴妃が帝の寵愛を受けて、と長恨歌を引き合いに出すまでもなく、娘は今どこでも貴重がられる時代だが、このあたりの裏長屋から絶世の美女が生まれる例も多い。築地の何とかいう家に今は身を移して、御前さま方のお相手をつとめ、踊りの名手として雪という美人がいる。ただいまのお座敷で、お米のなる木はどこ、などとずいぶんあどけないことを言うが、もとはこの町の巻き帯連れで、花がるたの内職をしていた者だ。評判はその頃に高く、去る者は日々に忘れられるもので、その名物一人が姿を消すと、二度目の花は紺屋の末娘。今は千束町に新津田屋の御神燈をほのめかせ、小吉と呼ばれる公園の逸品も、生まれは同じこの土地育ち。あけくれの噂にも、出世するのは女に限ってのことで、男はごみ捨て場をあさる黒斑の犬の尾のように、あって用のないものとしか見えない。この界隈
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楊家の娘君寵をうけてと長恨歌を引出すまでもなく、娘の子は何処にも貴重がらるる頃なれど、このあたりの裏屋より赫奕姫の生るる事その例多し、築地の某屋に今は根を移して御前さま方の御相手、踊りに妙を得し雪といふ美形、唯今のお座敷にてお米のなります木はと至極あどけなき事は申とも、もとは此町の巻帯党にて花がるたの内職せしものなり、評判はその頃に高く去るもの日々に踈ければ、名物一つかげを消して二度目の花は紺屋の乙娘、今千束町に新つた屋の御神燈ほのめかして、小吉と呼ばるる公園の尤物も根生ひは同じ此処の土成し、あけくれの噂にも御出世といふは女に限りて、男は塵塚さがす黒斑の尾の、ありて用なき物とも見ゆべし、この界隈
に若い衆と呼ばれる町並みの息子、生意気ざかりの十七、八から、五人組七人組。腰に尺八を差す伊達ではないが、何やらいかめしい名前の親分の手下について、そろいの手ぬぐいに長提灯。賽ころを振ることを覚えないうちは、素見の格子先で思い切った冗談も言えないとか。まじめに勤める自分の家業は昼のうちばかり、一風呂浴びて日が暮れると、つっかけ下駄に七五三の着物、何屋の店の新入りを見たか、金杉の糸屋の娘に似てもう一段鼻が低い、などと頭のなかをこんなことでいっぱいにして、一軒ごとの格子で煙草を無理どりし鼻紙をねだり、打ったり打たれたりを一生の誉れと心得ているから、堅気の家の跡取り息子が地回りと改名して、大門際に喧嘩を売りに出る者もいた。見ろよ女の勢力を、と言わんばか
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に若い衆と呼ばるる町並の息子、生意気ざかりの十七八より五人組七人組、腰に尺八の伊達はなけれど、何とやら厳めしき名の親分が手下につきて、揃ひの手ぬぐひ長提燈、賽ころ振る事おぼえぬうちは素見の格子先に思ひ切つての串談も言ひがたしとや、真面目につとむる我が家業は昼のうちばかり、一風呂浴びて日の暮れゆけば突かけ下駄に七五三の着物、何屋の店の新妓を見たか、金杉の糸屋が娘に似てもう一倍鼻がひくいと、頭脳の中をこんな事にこしらへて、一軒ごとの格子に烟草の無理どり鼻紙の無心、打ちつ打たれつこれを一世の誉と心得れば、堅気の家の相続息子地廻りと改名して、大門際に喧嘩かひと出るもありけり、見よや女子の勢力と言はぬば
り、春も秋も知らない五丁町のにぎわい。送りの提灯は今流行らないが、茶屋の廻し女の雪駄の音に響き通う歌舞音曲、浮かれ浮かれて入り込む人が、何を目当てにと問えば、赤襟に赭熊、うちかけの裾を長く引き、にっと笑う口元目もと。どこがいいとも言いがたいが、花魁衆と、ここでは敬われる。この土地を離れれば知りようもない。こういうなかで朝夕を過ごせば、白い着物が紅に染まるのも無理はない。美登利の目には、男というものはさして怖くも恐ろしくもなく、女郎という者もそう卑しい勤めとも思わないので、昔ふるさとを出発したときに泣いて姉を送ったことも夢のように思われて、今日この頃の全盛ぶりに、父母への孝行がうらやましく、お職を張る姉の身の、つらいの苦しいの数も知らないので、客を待ちわびる
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かり、春秋しらぬ五丁町の賑ひ、送りの提燈いま流行らねど、茶屋が廻女の雪駄のおとに響き通へる歌舞音曲、うかれうかれて入込む人の何を目当と言問はば、赤ゑり赭熊に裲襠の裾ながく、につと笑ふ口元目もと、何処が美いとも申がたけれど華魁衆とて此処にての敬ひ、立はなれては知るによしなし、かかる中にて朝夕を過ごせば、衣の白地の紅に染む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怕からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤しき勤めとも思はねば、過ぎし故郷を出立の当時ないて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日この頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お職を徹す姉が身の、憂いの愁らいの数も知らねば、まち人恋ふる
鼠なきの格子のまじない、別れの背中に手加減する秘密のしぐさまで、ただ面白く聞き覚えて、廓ことばを町なかで使うほど、それをまるで恥ずかしいとも思わないのが哀れである。年はようやく数えの十四、人形を抱いて頬ずりする心は御華族のお姫さまと変わらないけれど、修身の講義も家政学のあれこれも、学んだのは学校でだけ。本当にあけくれ耳に入るのは、好いた好かないの客の噂、仕着せや夜具の茶屋への行き渡り方、派手は見事に、かなわないのはみすぼらしく、といったこと。人のこと自分のこと、分別を言うにはまだ早い。幼い心に目の前の花ばかりが鮮やかで、生まれつきの負けん気は勝手に馳せめぐって、雲のような形の夢をこしらえた。気違い街道、寝ぼけ道。朝帰りの殿方が一通り済んで、朝寝の町も門口の箒目が青海波を描き、打ち水もほどよく
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鼠なき格子の咒文、別れの背中に手加減の秘密まで、唯おもしろく聞なされて、廓ことばを町にいふまで去りとは耻かしからず思へるも哀なり、年はやうやう数への十四、人形抱いて頬ずりする心は御華族のお姫様とて変りなけれど、修身の講義、家政学のいくたても学びしは学校にてばかり、誠あけくれ耳に入りしは好いた好かぬの客の風説、仕着せ積み夜具茶屋への行わたり、派手は美事に、かなはぬは見すぼらしく、人事我事分別をいふはまだ早し、幼な心に目の前の花のみはしるく、持まへの負けじ気性は勝手に馳せ廻りて雲のやうな形をこしらへぬ、気違ひ街道、寐ぼれ道、朝がへりの殿がた一順すみて朝寐の町も門の箒目青海波をゑがき、打水よきほどに
済んだ表町の通りを見渡せば、来るわ来るわ。万年町、山伏町、新谷町あたりをねぐらにして、一芸一術これも芸人の名を免れない者たち。よかよか飴屋に軽業師、人形使いに大神楽、住吉踊りに角兵衛獅子、思い思いの出で立ちをして、縮緬透綾の伊達もあれば、薩摩がすりの洗い着に黒繻子の幅狭帯、いい女もいれば男もいる。五人七人十人一組の大集団もあれば、一人さびしくやせた老人が破れ三味線を抱えて行くのもある。六つ五つの女の子に赤だすきをさせて、あれは紀の国踊りをさせるのも見える。お得意は廓に居続けの客の慰み、女郎の憂さ晴らし、あそこに入る身にとって、生涯やめられない儲けがあると知れて、来るわ来るわ、この町での細かい貰いは気に止めない。裾に海草がからみつく、みっともない
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済みし表町の通りを見渡せば、来るは来るは、万年町山伏町、新谷町あたりを塒にして、一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴や軽業師、人形つかひ大神楽、住吉をどりに角兵衛獅子、おもひおもひの扮粧して、縮緬透綾の伊達もあれば、薩摩がすりの洗ひ着に黒襦子の幅狭帯、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき痩せ老爺の破れ三味線かかへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷させて、あれは紀の国おどらするも見ゆ、お顧客は廓内に居つづけ客のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし、彼処に入る身の生涯やめられぬ得分ありと知られて、来るも来るも此処らの町に細かしき貰ひを心に止めず、裾に海草のいかがは
乞食さえ、門には立たずに通り過ぎるのだ。器量のいい女太夫が笠に隠れきれない奥ゆかしい頬を見せながら通ると、喉自慢、腕自慢、あれ、あの声をこの町に聞かせないのが憎らしい、と筆屋の女房が舌打ちして言うと、店先に腰かけて往来を眺めていた湯帰りの美登利が、はらりと下がる前髪の毛を黄楊の鬢櫛でちゃっとかき上げて、伯母さん、あの太夫さんを呼んでこようか、とはたはた駆け寄って袂にすがり、何かを投げ入れたのを誰にも笑って言わなかったが、好みの「明烏」をさらりと歌わせ、さらに「またご贔負を」の色っぽい声、これはそうそう買えるものではない。あれが子供の仕業かと、寄り集まった人が舌を巻いて、太夫よりも美登利の顔を眺めた。伊達に通り過ぎるだけの芸人をここに引き止めて、三味線の音、笛の音、太鼓の音、歌わ
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しき乞食さへ門には立たず行過るぞかし、容貌よき女太夫の笠にかくれぬ床しの頬を見せながら、喉自慢、腕自慢、あれあの声をこの町には聞かせぬが憎くしと筆やの女房舌うちして言へば、店先に腰をかけて徃来を眺めし湯がへりの美登利、はらりと下る前髪の毛を黄楊の鬂櫛にちやつと掻きあげて、伯母さんあの太夫さん呼んで来ませうとて、はたはた駆けよつて袂にすがり、投げ入れし一品を誰れにも笑つて告げざりしが好みの明烏さらりと唄はせて、又御贔負をの嬌音これたやすくは買ひがたし、あれが子供の処業かと寄集りし人舌を巻いて太夫よりは美登利の顔を眺めぬ、伊達には通るほどの芸人を此処にせき止めて、三味の音、笛の音、太鼓の音、うたは
せて舞わせて、人のしないことをしてみたい、と時々正太にささやいて聞かせると、正太は驚いてあきれて、俺は嫌だな。
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せて舞はせて人の為ぬ事して見たいと折ふし正太に咡いて聞かせれば、驚いて呆れて己らは嫌やだな。
九
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九
「如是我聞、仏説阿弥陀経」——読経の声は松風に和して、心の塵も吹き払われそうなお寺の庫裏から、生魚を焼く煙がなびいて、卵塔場(墓地)には赤ん坊のおしめが干してある。宗旨によってはかまわないことだが、坊主を木石のように思っている目からは、なんとなく生ぐさく感じられる。龍華寺の大和尚は、財産とともに肥え太った腹の持ち主で、いかにも見事に、色つやのいいことといったら、どんな褒め言葉を捧げたらいいだろう。桜色でもなく、緋桃の花でもなく、剃りたての頭から顔、首筋にいたるまで銅色の照りに一点の濁りもない。白髪もまじる太い眉をあげて、思うぞんぶん大笑いなさるときは、本堂の如来さまが驚いて台座から転げ落ちるのではと危ぶまれるほど。御新造(住職の妻)はまだ四十をいくらも過ぎ
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如是我聞、仏説阿弥陀経、声は松風に和して心のちりも吹払はるべき御寺様の庫裏より生魚あぶる烟なびきて、卵塔場に嬰子の襁褓ほしたるなど、お宗旨によりて搆ひなき事なれども、法師を木のはしと心得たる目よりは、そぞろに腥く覚ゆるぞかし、龍華寺の大和尚身代と共に肥へ太りたる腹なり如何にも美事に、色つやの好きこと如何なる賞め言葉を参らせたらばよかるべき、桜色にもあらず、緋桃の花でもなし、剃りたてたる頭より顔より首筋にいたるまで銅色の照りに一点のにごりも無く、白髪もまじる太き眉をあげて心まかせの大笑ひなさるる時は、本堂の如来さま驚きて台座より転び落給はんかと危ぶまるるやうなり、御新造はいまだ四十の上を幾らも越
ていない年頃で、色白で髪の毛は薄く、丸まげも小さく結って見苦しくない程度の人柄。参詣人にも愛想がよく、門前の花屋の口の悪いおかみさんもとやかく陰口を言わないのを見ると、着古しの浴衣や総菜の残り物など、自然とおこぼれの恩恵にあずかっているのだろう。もとは檀家の一人だったが、早くに夫を失って寄る辺のない身の上、しばらくここでお針の雇い人同然に、口さえ濡らさせてくださるならと、洗い物をはじめ、おかずの支度はもちろんのこと、墓場の掃除に男衆の手助けまで働くので、和尚さまが損得勘定から割り出したご不憫にひっかかった。年は二十も違って、みっともないことは女もわきまえているが、行き場のない身なので、結局はよい死に場所と思って、人目を恥じないようになった。にがにがしいことだが、女の心根が悪くないので、檀家の
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さで、色白に髪の毛薄く、丸髷も小さく結ひて見ぐるしからぬまでの人がら、参詣人へも愛想よく門前の花屋が口悪る嚊もとかくの蔭口を言はぬを見れば、着ふるしの裕衣、総菜のお残りなどおのづからの御恩も蒙るなるべし、もとは檀家の一人成しが早くに良人を失なひて寄る辺なき身の暫時ここにお針やとひ同様、口さへ濡らさせて下さらばとて洗ひ濯ぎよりはじめてお菜ごしらへは素よりの事、墓場の掃除に男衆の手を助くるまで働けば、和尚さま経済より割出しての御不憫かかり、年は二十から違うて見ともなき事は女も心得ながら、行き処なき身なれば結句よき死場処と人目を耻ぢぬやうに成りけり、にがにがしき事なれども女の心だて悪るからねば檀家の
者もさほど咎めなかった。総領の花という子を身ごもった頃、檀家のなかでも世話好きで名の知れた坂本の油屋のご隠居さまが、仲人というのもおかしな話だが、勧めたてて表向きの夫婦にした。信如もこの人の腹から生まれて、男女二人のきょうだい。一人(信如)はまったくの偏屈者で、一日じゅう部屋のなかでじっとしている陰気な生まれつきだが、姉のお花は皮膚の薄い二重あごのかわいらしくできた子で、美人というほどではないが年頃といい人の評判もよく、素人にして捨てておくのは惜しいものに入れられた。とはいえお寺の娘に廓奉公させるのは、お釈迦さまが三味線をひく世でもあるまいし、世間体が少しはばかられて、田町の通りに葉茶屋の店を奇麗にしつらえ、帳場格子のうちにこの娘を据えて愛嬌を売らせると、秤の目はともかく、勘定知ら
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者もさのみは咎めず、総領の花といふを懐胎し頃、檀家の中にも世話好きの名ある坂本の油屋が隠居さま仲人といふも異な物なれど進めたてて表向きのものにしける、信如もこの人の腹より生れて男女二人の同胞、一人は如法の変屈ものにて一日部屋の中にまぢまぢと陰気らしき生れなれど、姉のお花は皮薄の二重腮かわゆらしく出来たる子なれば、美人といふにはあらねども年頃といひ人の評判もよく、素人にして捨てて置くは惜しい物の中に加へぬ、さりとてお寺の娘に左り褄、お釈迦が三味ひく世は知らず人の聞え少しは憚かられて、田町の通りに葉茶屋の店を奇麗にしつらへ、帳場格子のうちにこの娘を据へて愛敬を売らすれば、秤りの目はとにかく勘定しら
ずの若い者などが、何となく寄ってきて、大方毎晩十二時を聞くまで店に客の絶えることがない。いそがしいのは大和尚で、貸金の取り立て、店への見回り、法事のあれこれ、月に何日かは説教日の定めもあり、帳面をつけるやら経を読むやら、これでは体が続かないと、夕暮れの縁先に花むしろを敷かせ、片肌ぬぎで団扇を使いながら、大盃に泡盛をなみなみと注がせて、肴には好物の蒲焼を、表町のむさし屋へ「あらいところを」と注文する。それを承って行く使い番が信如の役なのだが、その嫌なこと骨身にしみて、道を歩くにも上を見たことがなく、筋向かいの筆屋で子供づれの声が聞こえると、自分のことを悪く言われるかと情けなく、素知らぬ顔で鰻屋の門を過ぎては、あたりに人目の隙をうかがい、立ち戻って駆け込むときの
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ずの若い者など、何がなしに寄つて大方毎夜十二時を聞くまで店に客のかげ絶えたる事なし、いそがしきは大和尚、貸金の取たて、店への見廻り、法用のあれこれ、月の幾日は説教日の定めもあり帳面くるやら経よむやらかくては身躰のつづき難しと夕暮れの椽先に花むしろを敷かせ、片肌ぬぎに団扇づかひしながら大盃に泡盛をなみなみと注がせて、さかなは好物の蒲焼を表町のむさし屋へあらい処をとの誂へ、承りてゆく使ひ番は信如の役なるに、その嫌やなること骨にしみて、路を歩くにも上を見し事なく、筋向ふの筆やに子供づれの声を聞けば我が事を誹らるるかと情なく、そしらぬ顔に鰻屋の門を過ぎては四辺に人目の隙をうかがひ、立戻つて駈け入る時の
気持ちといったら。自分だけは生ぐさいものは食べまいと思うのだった。
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心地、我身限つて腥きものは食べまじと思ひぬ。
父親の和尚はどこまでもさばけた人で、少しは欲深の評判もたつが、人の噂に耳を傾けるような小心者ではなく、手が空けば熊手の内職もしてみようという気風なので、霜月の酉の市にはもちろん門前の空き地に簪の店を開き、御新造に手ぬぐいをかぶらせて、縁起のいいのをどうぞと呼び売りさせる趣向。はじめは恥ずかしいことに思っていたが、軒を並べる素人の手仕事で莫大な儲けだと聞くと、この雑踏のなかだし、誰も思い寄らないことだから日暮れからなら目立つまいと思案して、昼間は花屋の女房に手伝わせ、夜になると自分で立って呼び立てるうち、欲のなせるわざか、いつしか恥ずかしさも消えて、思わず声高に、負けましょ負けましょ、と客を追うように言うようになった。人波にもまれて買い手も目がくらんだ折なの
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父親和尚は何処までもさばけたる人にて、少しは欲深の名にたてども人の風説に耳をかたぶけるやうな小胆にては無く、手の暇あらば熊手の内職もして見やうといふ気風なれば、霜月の酉には論なく門前の明地に簪の店を開き、御新造に手拭ひかぶらせて縁喜の宜いのをと呼ばせる趣向、はじめは耻かしき事に思ひけれど、軒ならび素人の手業にて莫大の儲けと聞くに、この雑踏の中といひ誰れも思ひ寄らぬ事なれば日暮れよりは目にも立つまじと思案して、昼間は花屋の女房に手伝はせ、夜に入りては自身をり立て呼たつるに、欲なれやいつしか耻かしさも失せて、思はず声だかに負ましよ負ましよと跡を追ふやうに成りぬ、人波にもまれて買手も眼の眩みし折なれ
で、来世の願かけに一昨日来た門前だということも忘れて、簪三本七十五銭と吹っかければ、五本ついたのを三銭ならばと値切って行く。世は真っ暗闇、この闇に乗じた儲けはこのほかにもあるだろう。信如はこういうことがいかにも心苦しく、たとえ檀家の耳には入らなくても、近所の人々の思わく、子供仲間の噂にも、龍華寺では簪の店を出して、信さんの母さんが気違いのような顔をして売っていた、などと言われもするかと恥ずかしく、そんなことはおやめになった方がよろしゅうございましょう、と止めたこともあったが、大和尚は大笑いに笑い捨てて、黙っていろ、黙っていろ、貴様などが知らんことだ、とまるで相手にしてくれない。朝は念仏、夕は勘定、算盤を手ににこにこしていらっしゃる顔つきは、我が親ながら浅ましくて、なぜあ
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ば、現在後世ねがひに一昨日来たりし門前も忘れて、簪三本七十五銭と懸直すれば、五本ついたを三銭ならばと直切つて行く、世はぬば玉の闇の儲はこのほかにも有るべし、信如はかかる事どもいかにも心ぐるしく、よし檀家の耳には入らずとも近辺の人々が思わく、子供仲間の噂にも龍華寺では簪の店を出して、信さんが母さんの狂気面して売つてゐたなどと言はれもするやと耻かしく、そんな事はよしにしたが宜う御坐りませうと止めし事もありしが、大和尚大笑ひに笑ひすてて、黙つてゐろ、黙つてゐろ、貴様などが知らぬ事だわとて丸々相手にしてはくれず、朝念仏に夕勘定、そろばん手にしてにこにこと遊ばさるる顔つきは我親ながら浅ましくして、何故そ
の頭を丸めなさったのか、と恨めしくもなった。
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の頭をまろめ給ひしぞと恨めしくもなりぬ。
もともと同じ腹から生まれた者ばかりの、他人をまじえない穏やかな家のなかなので、特にこの子を陰気者に仕立てあげる原因はないのだが、生まれつきおとなしいうえに、自分の言うことが聞き入れられないので、何かにつけて物事が面白くなく、父の仕事も母の所作も姉の育て方も、ことごとく間違っているように思われるけれど、言っても聞いてもらえないものだとあきらめると、うら悲しくやるせなく情けない。友達仲間は偏屈者の意地悪と目の敵にするが、自然と沈んでいる心の底の弱さ。自分の陰口をほんの少しでも言う者がいると聞けば、出て行って喧嘩や口論をする勇気もなく、部屋に閉じこもって人に顔を合わせられない、この上ない臆病な身なのだ。それを、学校での成績といい、身分の卑しくないのとで、そんな弱虫とは知る者もなく、龍華寺の藤本は生煮えの餅のように、芯
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もとより一腹一対の中に育ちて他人交ぜずの穏かなる家の内なれば、さしてこの児を陰気ものに仕立あげる種は無けれども、性来おとなしき上に我が言ふ事の用ひられねばとかくに物のおもしろからず、父が仕業も母の所作も姉の教育も、悉皆あやまりのやうに思はるれど言ふて聞かれぬものぞと諦めればうら悲しきやうに情なく、友朋輩は変屈者の意地わると目ざせども自ら沈みゐる心の底の弱き事、我が蔭口を露ばかりもいふ者ありと聞けば、立出でて喧嘩口論の勇気もなく、部屋にとぢ籠つて人に面の合はされぬ臆病至極の身なりけるを、学校にての出来ぶりといひ身分がらの卑しからぬにつけて然る弱虫とは知る者なく、龍華寺の藤本は生煮えの餅のやうに真
があって気になる奴だと憎む者もいたらしい。
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があつて気になる奴と憎がるものも有けらし。
十
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十
祭りの夜は田町の姉のもとへ使いを言いつけられ、夜更けまで我が家へ帰らなかったので、筆屋の騒ぎは夢にも知らず、翌日になって丑松や文次その他の口から、これこれだったと伝えられて、今さらながら長吉の乱暴に驚いたが、済んだことだから咎めだてしても仕方がなく、自分の名を借りられただけで、つくづく迷惑に思われた。自分のしたことでもないのに、人々への申し訳なさを自分一人が背負ったような思いだった。長吉も少しは自分のやりそこないを恥ずかしく思ったのか、信如に会ったら小言でも言われるかと、その三、四日は姿も見せず、ようやくほとぼりが冷めた頃、信さん、お前は腹を立てるかもしれないけれど、時のはずみだから堪忍しておいてくんな。誰もお前、正太が留守だとは知らなかったじゃないか。何も女郎の一
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祭りの夜は田町の姉のもとへ使を吩附られて、更くるまで我家へ帰らざりければ、筆やの騒ぎは夢にも知らず、翌日になりて丑松文次その外の口よりこれこれであつたと伝へらるるに、今更ながら長吉の乱暴に驚けども済みたる事なれば咎めだてするも詮なく、我が名を仮りられしばかりつくづく迷惑に思われて、我が為したる事ならねど人々への気の毒を身一つに脊負たるやうの思ひありき長吉も少しは我が遣りそこねを耻かしう思ふかして、信如に逢はば小言や聞かんとその三四日は姿も見せず、やや余炎のさめたる頃に信さんお前は腹を立つか知らないけれど時の拍子だから堪忍して置いてくんな、誰れもお前正太が明巣とは知るまいでは無いか、何も女郎の一
匹くらいを相手にして三五郎を殴りたかったわけでもないけれど、万灯を振り込んで見りゃあ、ただでは帰れない。ほんの景気づけにつまらないことをやってのけた。そりゃあ俺がどこまでも悪いさ。お前の言いつけを聞かなかったのは悪かろうけれど、今怒られては立つ瀬がない。お前という後ろだてがあるので、俺は大船に乗ったような気でいるのに、見捨てられちゃあ困るじゃないか。嫌だと言ってもこの組の大将でいてくんねえ。そうそう無茶ばかりはしないから、と面目なさそうにあやまられると、それでも私は嫌だとも言いかねて、仕方がない、やるところまでやるさ、弱い者いじめはこっちの恥になるから三五郎や美登利を相手にしても仕方がない、正太に取り巻きがついたらその時のこと、決して
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疋位相手にして三五郎を擲りたい事も無かつたけれど、万燈を振込んで見りやあ唯も帰れない、ほんの附景気につまらない事をしてのけた、そりやあ己れが何処までも悪るいさ、お前の命令を聞かなかつたは悪るからうけれど、今怒られては法なしだ、お前といふ後だてが有るので己らあ大舟に乗つたやうだに、見すてられちまつては困るだらうじや無いか、嫌やだとつてもこの組の大将で居てくんねへ、さうどちばかりは組まないからとて面目なささうに謝罪られて見ればそれでも私は嫌やだとも言ひがたく、仕方が無い遣る処までやるさ、弱い者いぢめは此方の耻になるから三五郎や美登利を相手にしても仕方が無い、正太に末社がついたらその時のこと、決して
こっちから手出しをしてはならない、と釘をさして、そう長吉を叱り飛ばしはしなかったが、二度と喧嘩のないようにと祈った。
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此方から手出しをしてはならないと留めて、さのみは長吉をも叱り飛ばさねど再び喧嘩のなきやうにと祈られぬ。
罪のない子は横町の三五郎である。思うぞんぶん殴られ蹴られて、その二、三日は立ったり座ったりも苦しく、夕暮れごとに父親が空車を五十軒町の茶屋の軒まで運ぶのにさえ、三公はどうかしたのか、ひどく弱っているようだな、と見知りの台屋に咎められたほどだったが、父親は「お辞儀の鉄」といって、目上の人に頭をあげたことがなく、廓の旦那は言うまでもなく、大家さま地主さま、どんな無理も「ごもっとも」と受ける質なので、長吉と喧嘩してこれこれの乱暴に遭いました、と訴えたとて、それはどうも仕方がない、大家さんの息子さんじゃないか、こっちに理があろうが向こうが悪かろうが、喧嘩の相手になるということはならん、あやまって来い、あやまって来い、とんでもない奴だ、と我が子を叱りつけて、長吉のもとへあやまりに行かせ
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罪のない子は横町の三五郎なり、思ふさまに擲かれて蹴られてその二三日は立居も苦しく、夕ぐれ毎に父親が空車を五十軒の茶屋が軒まで運ぶにさへ、三公はどうかしたか、ひどく弱つているやうだなと見知りの台屋に咎められしほど成しが、父親はお辞義の鉄とて目上の人に頭をあげた事なく廓内の旦那は言はずともの事、大屋様地主様いづれの御無理も御尤と受ける質なれば、長吉と喧嘩してこれこれの乱暴に逢ひましたと訴へればとて、それはどうも仕方が無い大屋さんの息子さんでは無いか、此方に理が有らうが先方が悪るからうが喧嘩の相手に成るといふ事は無い、謝罪て来い謝罪て来い途方も無い奴だと我子を叱りつけて、長吉がもとへあやまりに遣られ
るに決まっているので、三五郎はくやしさを噛みつぶして七日十日と過ごすうち、痛みの場所が治るとともに、そのうらめしさもいつしか忘れて、頭の家の赤ん坊の子守りをして二銭の駄賃をうれしがり、ねんねんよ、おころりよ、と背負って歩く様子。年はと問えば生意気ざかりの十六にもなりながら、その大きな体を恥ずかしがりもせず、表町へものこのこ出かけるので、いつも美登利と正太のなぶりものになって、お前は性根をどこへ置いてきたんだ、とからかわれながらも、遊び仲間から外れることはなかった。
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る事必定なれば、三五郎は口惜しさを噛みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場処の愈ると共にそのうらめしさも何時しか忘れて、頭の家の赤ん坊が守りをして二銭が駄賃をうれしがり、ねんねんよ、おころりよ、と背負ひあるくさま、年はと問へば生意気ざかりの十六にも成りながらその大躰を耻かしげにもなく、表町へものこのこと出かけるに、何時も美登利と正太が嬲りものに成つて、お前は性根を何処へ置いて来たとからかはれながらも遊びの中間は外れざりき。
春は桜のにぎわいから始まって、亡き玉菊の燈籠の頃、続いて秋の新俄祭りには、十分間に飛ぶ車の数が七十五輌と数えられたのも、二の替わりの狂言さえいつしか過ぎ、赤とんぼが田んぼに乱れ飛べば横堀に鶉の鳴く頃も近づいた。朝夕の秋風が身にしみ渡って、上清の店の蚊やり香は懐炉灰に席をゆずり、石橋の田村屋が粉をひく臼の音もさびしく、角海老楼の時計の響きもそぞろに哀れな音を伝えるようになると、四季絶え間ない日暮里の火の光りも、あれが人を焼く煙かとうら悲しく、茶屋の裏を行く土手下の細道に落ちかかるような三味線の音を仰いで聞けば、仲之町の芸者の冴えた腕に「君が情の仮寝の床に」と、何ということもない一節も哀れが深い。この時節から通いはじめるのは、浮かれ遊ぶ客ではなく、身に
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春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事この通りのみにて七十五輛と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうに成れば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、この時節より通ひ初るは浮かれ浮かるる遊客ならで、身に
しみじみと真心のあるお方だそうだ、と、遊女あがりのある女が言っていた。この頃のこと、書くのもくだくだしいが、大音寺前で珍しいことといえば、盲目の按摩の二十ばかりの娘が、かなわぬ恋に不自由な身を恨んで、水の谷の池に身投げしたのを新しい出来事として伝えるくらいのもの。八百屋の吉五郎に大工の太吉が、さっぱり姿を見せないがどうしたのかと問えば、この一件で(性病で)鼻がやられました、と顔の真ん中を指さして言う、それも何のこだわりもなく取り立てて噂する者もいない。大通りを見渡せば、罪のない子供が三、五人手を引きつれて、「開いた開いた、何の花開いた」と、無心の遊びも自然と静かで、廓に通う車の音だけがいつもと変わらず勇ましく聞こえた。
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しみじみと実のあるお方のよし、遊女あがりの去る女が申き、このほどの事かかんもくだくだしや大音寺前にて珎らしき事は盲目按摩の二十ばかりなる娘、かなはぬ恋に不自由なる身を恨みて水の谷の池に入水したるを新らしい事とて伝へる位なもの、八百屋の吉五郎に大工の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせしと問ふにこの一件であげられましたと、顔の真中へ指をさして、何の子細なく取立てて噂をする者もなし、大路を見渡せば罪なき子供の三五人手を引つれて開いらいた開らいた何の花ひらいたと、無心の遊びも自然と静かにて、廓に通ふ車の音のみ何時に変らず勇ましく聞えぬ。
秋雨がしとしと降るかと思えば、さっと音を立てて運んでくるようなさびしい夜。通りすがりの客を待つ店ではないので、筆屋の妻は宵のうちから表の戸を閉めて、なかに集まったのは例の美登利に正太郎、そのほかは小さい子供が二、三人寄って、細螺はじきという幼い遊びをしていた。すると美登利がふと耳を立てて、あれ、誰か買い物に来たんじゃないの、どぶ板を踏む足音がする、と言うと、おや、そうか、俺はちっとも聞かなかった、と正太も「ちゅうちゅうたこかいな」の手を止めて、誰か仲間が来たんじゃないかと嬉しがるが、門の人はこの店の前まで来た足音が聞こえただけで、それきりぷっつり途絶えて、音も沙汰もない。
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秋雨しとしとと降るかと思へばさつと音して運びくる様なる淋しき夜、通りすがりの客をば待たぬ店なれば、筆やの妻は宵のほどより表の戸をたてて、中に集まりしは例の美登利に正太郎、その外には小さき子供の二三人寄りて細螺はじきの幼なげな事して遊ぶほどに、美登利ふと耳を立てて、あれ誰れか買物に来たのでは無いか溝板を踏む足音がするといへば、おやさうか、己いらは少つとも聞かなかつたと正太もちうちうたこかいの手を止めて、誰れか中間が来たのでは無いかと嬉しがるに、門なる人はこの店の前まで来たりける足音の聞えしばかりそれよりはふつと絶えて、音も沙汰もなし。
十一
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十一
正太がくぐり戸を開けて、ばあ、と言いながら顔を出すと、その人は二、三軒先の軒下をたどって、ぽつぽつと歩いていく後ろ姿。誰だ誰だ、おい、お入りよ、と声をかけて、美登利の足駄をつっかけばきに、降る雨もかまわず駆け出そうとしたが、ああ、あいつだ、と一言、振り返って、美登利さん、呼んだって来やしないよ、例の一件(信如)だもの、と、自分の頭を丸めて(坊主のまねをして)見せた。
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正太は潜りを明けて、ばあと言ひながら顔を出すに、人は二三軒先の軒下をたどりて、ぽつぽつと行く後影、誰れだ誰れだ、おいお這入よと声をかけて、美登利が足駄を突かけばきに、降る雨を厭はず駆け出さんとせしが、ああ彼奴だと一ト言、振かへつて、美登利さん呼んだつても来はしないよ、一件だもの、と自分の頭を丸めて見せぬ。
信さんかい、と受けて、嫌な坊主ったらありゃしない、きっと筆か何かを買いに来たんだけれど、私たちがいるものだから立ち聞きして帰ったんだろう。意地悪の、根性まがりの、ひねくれた、どもりの、歯抜けの、嫌な奴め。入ってきたらさんざんいじめてやるものを、帰ったのは惜しいことをした。どれ、下駄をお貸し、ちょっと見てやる、と正太に代わって顔を出すと、軒の雨だれが前髪に落ちて、おお、気味が悪い、と首を縮めながら、四、五軒先のガス灯の下を、大黒傘を肩にして少しうつむいているらしく、とぼとぼと歩む信如の後ろ姿を、いつまでも、いつまでも、いつまでも見送るので、美登利さん、どうしたの、と正太は怪しんで背中をつついた。
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信さんかへ、と受けて、嫌やな坊主つたら無い、きつと筆か何か買ひに来たのだけれど、私たちが居るものだから立聞きをして帰つたのであらう、意地悪るの、根性まがりの、ひねつこびれの、吃りの、歯かけの、嫌やな奴め、這入つて来たら散々と窘めてやる物を、帰つたは惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸見てやる、とて正太に代つて顔を出せば軒の雨だれ前髪に落ちて、おお気味が悪るいと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいてゐるらしくとぼとぼと歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さんどうしたの、と正太は怪しがりて背中をつつきぬ。
どうもしない、と気のない返事をして、上へ上がって細螺を数えながら、本当に嫌な小僧ったらありゃしない、表立って威張った喧嘩はできもしないで、おとなしそうな顔ばかりして、根性がくすくす(陰にこもって)しているんだもの、憎らしいじゃないか。うちの母さんが言っていたっけ、がらがら(明けっぴろげ)している者は心がいいんだ、って。だからくすくすしている信さん、何か心が悪いに違いない。ねえ正太さん、そうだろう、と口を極めて信如の悪口を言うと、それでも龍華寺はまだ物がわかっているよ、長吉ときたらあれははや、と生意気に大人の口を真似るので、およしよ正太さん、子供のくせにませたようでおかしい、お前はよっぽどひょうきん者だね、と美登利は正太の頬をつついて、
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どうもしない、と気の無い返事をして、上へあがつて細螺を数へながら、本当に嫌やな小僧とつては無い、表向きに威張つた喧嘩は出来もしないで、温順しさうな顔ばかりして、根性がくすくすしてゐるのだもの憎くらしからうでは無いか、家の母さんが言ふてゐたつけ、瓦落々々してゐる者は心が好いのだと、それだからくすくすしている信さん何かは心が悪るいに相違ない、ねへ正太さんさうであらう、と口を極めて信如の事を悪く言へば、それでも龍華寺はまだ物が解つてゐるよ、長吉と来たらあれははやと、生意気に大人の口を真似れば、お廃しよ正太さん、子供の癖にませた様でをかしい、お前は余つぽど剽軽ものだね、とて美登利は正太の頬をつついて、
その真面目な顔つきにけらけら笑いこけると、俺だってもう少したてば大人になるんだ、蒲田屋の旦那のように角袖外套か何か着てね、祖母さんがしまっておく金時計をもらって、そして指輪もこしらえて、巻き煙草を吸って、履くものは何がいいかな、俺は下駄より雪駄が好きだから、三枚裏にして繻珍の鼻緒っていうのを履くよ、似合うだろうか、と言うと、美登利はくすくす笑いながら、背の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあどんなにおかしいことか、目薬の瓶が歩くようだろう、とけなすので、馬鹿を言ってらあ、それまでには俺だって大きくなるさ、こんなちっぽけではいないよ、と威張ると、それではまだいつのことだかわかりゃしない、天井の鼠がほら、御覧、と指をさすので、
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その真面目がほはと笑ひこけるに、己らだつても最少し経ては大人になるのだ、蒲田屋の旦那のやうに角袖外套か何か着てね、祖母さんがしまつて置く金時計を貰つて、そして指輪もこしらへて、巻烟草を吸つて、履く物は何が宜からうな、己らは下駄より雪駄が好きだから、三枚裏にして襦珎の鼻緒といふのを履くよ、似合ふだらうかと言へば、美登利はくすくす笑ひながら、背の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあどんなにか可笑しからう、目薬の瓶が歩くやうであらうと誹すに、馬鹿を言つていらあ、それまでには己らだつて大きく成るさ、こんな小つぽけでは居ないと威張るに、それではまだ何時の事だか知れはしない、天井の鼠があれ御覧、と指をさすに、
筆屋の女房をはじめ、その場にいる者がみな笑い転げた。
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筆やの女房を始めとして座にある者みな笑ひころげぬ。
正太は一人まじめになって、例の目の玉をぐるぐるさせながら、美登利さんは冗談にしているんだね、誰だって大人にならない者はいないのに、俺の言うことがなぜおかしいんだろう、奇麗な嫁さんをもらって連れて歩くようになるんだがなあ、俺は何でも奇麗なのが好きだから、煎餅屋のお福のようなあばた面や、薪屋のお出額(でこ)のようなのが万一来ようものなら、すぐさま追い出して家へは入れてやらないや、俺はあばたと湿疹かきは大嫌い、と力を入れると、店の主人の女は吹き出して、それでも正さん、よく私の店へ来てくださるの、伯母さんのあばたは見えないのかえ、と笑うと、それでもお前は年寄りだもの、俺の言うのは嫁さんのことさ、年寄りはどうでもいいんだ、と言うので、それは大失敗だね、と筆屋の女
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正太は一人真面目に成りて、例の目の玉ぐるぐるとさせながら、美登利さんは冗談にしてゐるのだね、誰れだつて大人に成らぬ者は無いに、己らの言ふが何故をかしからう、奇麗な嫁さんを貰つて連れて歩くやうに成るのだがなあ、己らは何でも奇麗のが好きだから、煎餅やのお福のやうな痘痕づらや、薪やのお出額のやうなが万一来ようなら、直さま追出して家へは入れて遣らないや、己らは痘痕と湿つかきは大嫌ひと力を入れるに、主人の女は吹出して、それでも正さん宜く私が店へ来て下さるの、伯母さんの痘痕は見えぬかえと笑ふに、それでもお前は年寄りだもの、己らの言ふのは嫁さんの事さ、年寄りはどうでも宜いとあるに、それは大失敗だねと筆やの女
房は面白がってご機嫌を取った。
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房おもしろづくに御機嫌を取りぬ。
町内で顔のいいのは花屋のお六さんに、水菓子屋の喜いさん、それよりも、それよりもずっといいのはお前の隣に座っておいでの人だけれど、正太さんはまあ誰にしようと決めているの、お六さんの眼つきか、喜いさんの清元か、まあどれを、と問われて、正太は顔を赤くして、何だお六づらや、喜い公、どこがいいものか、と吊りランプの下を少しずれて、壁際の方へと尻込みすると、それでは美登利さんがいいんだろう、そう決めていらっしゃるの、と図星をさされて、そんなことを知るものか、何だそんなこと、とくるり後ろを向いて、壁の腰張りを指でたたきながら、回れ回れ水車、と小声で歌い出す。美登利はみんなの細螺を集めて、さあもう一度はじめから、と、こちらは顔を
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町内で顔の好いのは花屋のお六さんに、水菓子やの喜いさん、それよりも、それよりもずんと好いはお前の隣に据つてお出なさるのなれど、正太さんはまあ誰れにしようと極めてあるえ、お六さんの眼つきか、喜いさんの清元か、まあどれをえ、と問はれて、正太顔を赤くして、何だお六づらや、喜い公、何処が好い者かと釣りらんぷの下を少し居退きて、壁際の方へと尻込みをすれば、それでは美登利さんが好いのであらう、さう極めて御座んすの、と図星をさされて、そんな事を知る物か、何だそんな事、とくるり後を向いて壁の腰ばりを指でたたきながら、廻れ廻れ水車を小音に唱ひ出す、美登利は衆人の細螺を集めて、さあもう一度はじめからと、これは顔を
赤らめもしなかった。
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も赤らめざりき。
十二
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十二
信如がいつも田町へ通うとき、そこを通らなくても済むのだが、いわば近道になる土手の手前に、ちょっとした格子門があって、のぞけば鞍馬の石燈籠に萩の袖垣がしおらしく見え、縁先に巻いた簾の様子もなつかしく、中ガラスの障子のうちには、今様の按察使の後室(未亡人の貴婦人)が数珠をまさぐって、おかっぱの若紫(幼い姫君)でも出てきそうに思われる、その一構えが大黒屋の別宅なのだ。
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信如が何時も田町へ通ふ時、通らでも事は済めども言はば近道の土手々前に、仮初の格子門、のぞけば鞍馬の石燈籠に萩の袖垣しをらしう見えて、椽先に巻きたる簾のさまもなつかしう、中がらすの障子のうちには今様の按察の後室が珠数をつまぐつて、冠つ切りの若紫も立出るやと思はるる、その一ト搆へが大黒屋の寮なり。
昨日も今日も時雨模様の空。田町の姉から頼まれた長胴着が出来上がったので、少しでも早く重ね着させたい親心から、御苦労だけれど学校前のちょっとの間に持って行ってくれないか、きっと花(姉)も待っているだろうから、と母親から言いつけられて、何も嫌とは言い切れないおとなしさで、ただはいはいと小包を抱え、鼠小倉の緒がすがった朴木歯の下駄をひたひたと鳴らし、信如は雨傘を差しかざして出た。
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昨日も今日も時雨の空に、田町の姉より頼みの長胴着が出来たれば、暫時も早う重ねさせたき親心、御苦労でも学校まへの一寸の間に持つて行つてくれまいか、定めて花も待つてゐようほどに、と母親よりの言ひつけを、何も嫌やとは言ひ切られぬ温順しさに、唯はいはいと小包みを抱へて、鼠小倉の緒のすがりし朴木歯の下駄ひたひたと、信如は雨傘さしかざして出ぬ。
お歯黒どぶの角から曲がって、いつも行く細道をたどると、運悪く大黒屋の前まで来たとき、さっと吹く風が大黒傘の上をつかんで、宙へ引きあげるのかと疑うほど激しく吹いたので、これはたまらぬと踏ん張った途端、大して気にしていなかった前鼻緒がずるずると抜けて、傘よりもこれこそ一大事になった。
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お歯ぐろ溝の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風大黒傘の上を抓みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずるずると抜けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。
信如は困って舌打ちするが、今さらどうしようもないので、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇でよけながら鼻緒をつくろう。しかし、いつもこんなことに慣れないお坊さまのこと、これはどうしたことか、気ばかり焦るが、どうしてもうまくすげることができないくやしさ。じれて、じれて、袂のなかから記事文の下書きをしておいた大半紙をつまみ出し、ずんずんと裂いてこよりをよっていると、意地悪の嵐がまたもや吹き落ちてきて、立てかけた傘がころころと転がり出す。いまいましい奴め、と腹立たしげに言って、取り止めようと手を伸ばすと、膝に乗せておいた小包がだらしなく落ちて、風呂敷は泥に、自分の着ているものの袂までを汚してしまった。
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信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に厭ふて鼻緒をつくろふに、常々仕馴れぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりは急れども、何としても甘くはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして置いた大半紙を抓み出し、ずんずんと裂きて紙縷をよるに、意地わるの嵐またもや落し来て、立かけし傘のころころと転り出るを、いまいましい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乗せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。
見ていて気の毒なのは、雨のなかで傘がないこと、途中で鼻緒を踏み切ったことだけではない。美登利が障子のなかからガラスごしに遠く眺めて、あれ、誰か鼻緒を切った人がいる、母さん、切れ端をあげてもいいでしょう、と尋ねて、針箱の引き出しから友禅縮緬の切れ端をつかみ出し、庭下駄をはくのももどかしいように駆け出して、縁先の洋傘をさすより早く、庭石の上を伝って急ぎ足で来た。
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見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍かしきやうに、馳せ出でて椽先の洋傘さすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。
それと見るなり、美登利の顔は赤くなって、どんな大事にでも遭ったように胸の動悸が早く打つのを、人が見はしないかと後ろを振り返り、恐る恐る門のそばへ寄る。信如もふと振り返って、これも無言のまま脇を流れる冷や汗、はだしになって逃げ出したい思いだった。
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それと見るより美登利の顔は赤う成りて、どのやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後の見られて、恐る恐る門の傍へ寄れば、信如もふつと振返りて、これも無言に脇を流るる冷汗、跣足に成りて逃げ出したき思ひなり。
いつもの美登利なら、信如が難儀している様子を指さして、あれあれ、あの意気地なし、と笑って笑って笑い抜いて、言いたいだけの憎まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇をしようと、私たちの遊びの邪魔をさせ、罪もない三ちゃんをたたかせて、お前は高みの見物で采配を振っていらしたね、さあ、あやまるのかい、どうなんだい、私のことを女郎女郎と長吉ふぜいに言わせるのもお前の指図。女郎でもいいじゃないか、塵一本お前さんの世話にはならない。私には父さんもいて母さんもいて、大黒屋の旦那も姉さんもいる。お前のような生ぐさ坊主の世話にはならないから、余計な女郎呼ばわりはやめてもらいましょう。言うことがあるなら陰でくすくす言わずに、ここで言いなさい。相手にはいつで
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平常の美登利ならば信如が難義の体を指さして、あれあれあの意久地なしと笑ふて笑ふて笑ひ抜いて、言ひたいままの悪まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲かせて、お前は高見で采配を振つてお出なされたの、さあ謝罪なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指図、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父さんもあり母さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥のお世話には能うならぬほどに、余計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくすくすならで此処でお言ひなされ、お相手には何時で
もなってみせる、さあどうなんだい、と袂をつかんでまくしたてる勢いになるはずのところ。それが物も言わず格子のかげに半ば隠れて、かといって立ち去るでもなく、ただうじうじと胸をとどろかせるのは、いつもの美登利の様子ではなかった。
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も成つて見せまする、さあ何とで御座んす、と袂を捉らへて捲しかくる勢ひ、さこそは当り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隠れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とどろかすは平常の美登利のさまにては無かりき。
十三
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十三
ここは大黒屋の前だと思ったときから、信如は何もかも恐ろしく、左右を見ずにまっすぐ歩こうとしたのだが、あいにくの雨、あいにくの風、鼻緒まで踏み切って、どうしようもなく門下でこよりをよる気持ち、つらいことがさまざまで、どうにも堪えられない思いでいたところへ、飛び石を踏む足音は、背に冷水を浴びせられるように感じられ、振り返らなくてもその人だとわかると、わなわなと震えて顔の色も変わりそうで、後ろ向きになって、なおも鼻緒に気をとられているふりを見せながら、半ば夢中で、この下駄がいつまでかかっても履けるようにはなりそうもなかった。
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此処は大黒屋のと思ふ時より信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直あゆみに為しなれども、生憎の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮なき門下に紙縷を縷る心地、憂き事さまざまにどうも堪へられぬ思ひの有しに、飛石の足音は背より冷水をかけられるが如く、顧みねどもその人と思ふに、わなわなと慄へて顔の色も変るべく、後向きに成りて猶も鼻緒に心を尽すと見せながら、半は夢中にこの下駄いつまで懸りても履ける様には成らんともせざりき。
庭にいる美登利はのぞき込んで、ええ、不器用な、あんな手つきでどうなるものか、こよりはばばより(下手なより方)、藁しべなんかを前壺に抱かせたって長持ちするものじゃない、それそれ、羽織の裾が地について泥になるのを知らないの、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけておけばいいのに、と、一つ一つもどかしく歯がゆく思うけれど、ここに切れ端がございます、これですげなさい、と呼びかけることもせず、これもじっと立ち尽くして、降る雨に袖のわびしいのもかまわず、こっそり隠れてうかがっていた。ところが、そうとも知らない母親がはるかに声をかけて、火のしの火が熾りましたよ、この美登利さんは何を遊んでいるの、雨の降るのに表へ出て悪戯をしてはいけません、またこの間のように風邪を引きますよ、と呼び立てるので、はい、今行きます、と大きく言
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庭なる美登利はさしのぞいて、ゑゑ不器用なあんな手つきしてどうなる物ぞ、紙縷は婆々縷、藁しべなんぞ前壺に抱かせたとて長もちのする事では無い、それそれ羽織の裾が地について泥に成るは御存じ無いか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好いにと一々鈍かしう歯がゆくは思へども、此処に裂れが御座んす、此裂でおすげなされと呼かくる事もせず、これも立尽して降雨袖に侘しきを、厭ひもあへず小隠れて覗ひしが、さりとも知らぬ母の親はるかに声を懸けて、火のしの火が熾りましたぞえ、この美登利さんは何を遊んでゐる、雨の降るに表へ出ての悪戯は成りませぬ、又この間のやうに風引かうぞと呼立てられるに、はい今行ますと大きく言
って、その声が信如に聞こえたのが恥ずかしく、胸はわくわくとのぼせて、どうしても開けられない門のきわに、そうとはいえ見過ごしがたい難儀を、さまざまに思案を尽くした末、格子の間から手に持った切れ端を、物も言わずに投げ出すと、見ないふりで見て、信如は知らん顔をつくる。ええ、いつもの通りの心根、とやるせない思いを目に集めて、少し涙ぐんだ恨み顔。何を憎んでそんなにつれない素振りを見せるのか、言いたいことはこちらにあるのに、あんまりな人だ、とこみ上げるほど思いに迫るけれど、母親の呼び声がしきりなのがわびしくて、どうしようもなく一足二足、ええ、何て未練くさい、思われるのが恥ずかしい、と身をひるがえして、かたかたと飛び石を伝って行く。信如は今こそさびしく振り返れば、紅入りの友禅が雨に濡れて、紅葉の形の美しいのが自分の足
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ひて、その声信如に聞えしを耻かしく、胸はわくわくと上気して、どうでも明けられぬ門の際にさりとも見過しがたき難義をさまざまの思案尽して、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、ゑゑ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔、何を憎んでそのやうに無情そぶりは見せらるる、言ひたい事は此方にあるを、余りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ゑゑ何ぞいの未練くさい、思はく耻かしと身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かへれば紅入り友仙の雨にぬれて紅葉の形のうるはしきが我が足
近くに散り敷いている。何とはなしに心引かれる思いはあるけれど、手に取り上げることもせず、むなしく眺めて憂い思いにひたった。
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ちかく散ぼひたる、そぞろに床しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり。
自分の不器用をあきらめて、羽織の紐の長いのを外し、下駄に結わえつけてくるくると、見苦しい間に合わせをして、これならばと踏み試すと、歩きにくいことこの上ない。この下駄で田町まで行くのかと今さら難儀に思うが、仕方なく立ち上がる信如。小包を横に抱えて二足ばかりこの門を離れるにも、友禅の紅葉が目に残って、捨てて過ぎるにしのびがたく、心残りして振り返ると、信さん、どうした、鼻緒を切ったのか、その格好はどうだ、みっともないな、と不意に声をかける者がいた。
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我が不器用をあきらめて、羽織の紐の長きをはづし、結ひつけにくるくると見とむなき間に合せをして、これならばと踏試るに、歩きにくき事言ふばかりなく、この下駄で田町まで行く事かと今さら難義は思へども詮方なくて立上る信如、小包みを横に二タ足ばかりこの門をはなるるにも、友仙の紅葉目に残りて、捨てて過ぐるにしのび難く心残りして見返れば、信さんどうした鼻緒を切つたのか、その姿はどうだ、見ッとも無いなと不意に声を懸くる者のあり。
驚いて振り返ると、暴れ者の長吉。いま廓から帰るところと見えて、浴衣を重ねた唐桟の着物に柿色の三尺をいつもの通り腰の先にひっかけ、黒八の襟のかかった新しい半纏、しるしの傘を差しかざし、高足駄の爪皮も今朝おろしたばかりとはっきりわかる漆の色。きわだって見えて、誇らしげである。
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驚いて見かへるに暴れ者の長吉、いま廓内よりの帰りと覚しく、裕衣を重ねし唐桟の着物に柿色の三尺を例の通り腰の先にして、黒八の襟のかかつた新らしい半天、印の傘をさしかざし高足駄の爪皮も今朝よりとはしるき漆の色、きわぎわしう見えて誇らし気なり。
僕は鼻緒を切ってしまって、どうしようかと思っている、本当に弱っているんだ、と信如が意気地のないことを言うと、そうだろう、お前に鼻緒がすげられるわけがない、いいや、俺の下駄を履いて行きな、この鼻緒は大丈夫だよ、と言うので、それでもお前が困るだろう。
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僕は鼻緒を切つてしまつてどう為ようかと思つてゐる、本当に弱つてゐるのだ、と信如の意久地なき事を言へば、そうだらうお前に鼻緒の立ッこは無い、好いや己れの下駄を履て行ねへ、この鼻緒は大丈夫だよといふに、それでもお前が困るだらう。
何、俺は慣れたものだ、こうやってこうすると言いながら、あわただしく着物の裾を七分三分に尻端折りして、そんな結わえつけなんかより、これがさっぱりする、と下駄を脱ぐので、お前はだしになるのか、それでは気の毒だ、と信如が困りきると、いいよ、俺は慣れたことだ、信さんなんかは足の裏がやわらかいから、はだしで石ころ道は歩けない、さあこれを履いてお行き、とそろえて出す親切さ。人には疫病神のように嫌われながらも、毛虫のような太い眉を動かして優しい言葉のもれ出るのがおかしい。
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何己れは馴れた物だ、かうやつてかうすると言ひながら急遽しう七分三分に尻端折て、そんな結ひつけなんぞよりこれが爽快だと下駄を脱ぐに、お前跣足に成るのかそれでは気の毒だと信如困り切るに、好いよ、己れは馴れた事だ信さんなんぞは足の裏が柔らかいから跣足で石ごろ道は歩けない、さあこれを履いてお出で、と揃へて出す親切さ、人には疫病神のやうに厭はれながらも毛虫眉毛を動かして優しき詞のもれ出るぞをかしき。
信さんの下駄は俺が提げて行こう、台所へ放り込んでおけば問題あるまい、さあ履き替えてそれをお出し、と世話をやき、切れた鼻緒の下駄を片手に提げて、それなら信さん、行っておいで、後で学校で会おうぜ、と約束する。信如は田町の姉のもとへ、長吉は自分の家の方へと行き別れると、思いのとどまる紅入りの友禅は、いじらしい姿をむなしく格子門の外にとどめていた。
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信さんの下駄は己れが提げて行かう、台処へ抛り込んで置たら子細はあるまい、さあ履き替へてそれをお出しと世話をやき、鼻緒の切れしを片手に提げて、それなら信さん行てお出、後刻に学校で逢はうぜの約束、信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方へと行別れるに思ひの止まる紅入の友仙は可憐しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ。
十四
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十四
この年は三の酉まであって、間の一日はつぶれたが、前後の上天気で大鳥神社のにぎわいはすさまじく、これにかこつけて検査場の門から乱れ入る若者たちの勢いといったら、天の柱がくだけ地の綱が切れるかと思われる笑い声のどよめき。中之町の通りは急に方角が変わったように思われて、角町、京町、あちこちの跳ね橋から、さっさ押せ押せと猪牙舟がかったべらんめえ口調で人波を分ける群れもある。河岸の小見世のさえずるような声から、優にうず高い大見世の楼上まで、三味線と歌声のさまざまに沸き立ってくるような面白さは、大方の人が思い出して忘れられないものと思うだろう。
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この年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき、中之町の通りは俄に方角の替りしやうに思はれて、角町京町処々のはね橋より、さつさ押せ押せと猪牙がかつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀づりより、優にうづ高き大籬の楼上まで、絃歌の声のさまざまに沸き来るやうな面白さは大方の人おもひ出でて忘れぬ物に思すも有るべし。
正太はこの日、日掛けの集金を休ませてもらって、三五郎が頭領の店を見舞うやら、団子屋の背高がやっている愛想気のない汁粉屋を訪ねて、どうだ、儲けがあるかえ、と言うと、正さん、お前いいところへ来た、俺は餡この種がなくなって、もう今から何を売ろう、すぐに煮かけてはおいたけれど、途中でお客は断れない、どうしよう、と相談を持ちかけられて、知恵なしの奴め、大鍋のぐるりにそれっくらい残りがついているじゃないか、それへ湯を回して砂糖さえ甘くすれば、十人前や二十人分は浮いてくるだろう、どこでもみんなそうするんだ、お前の店ばかりじゃない、何、この騒ぎのなかで味のよしあしを言う者がいるものか、お売りお売り、と言いながら先に立って砂糖の壺を引き寄せると、目の悪い母親が驚いた顔をして
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正太はこの日日がけの集めを休ませ貰ひて、三五郎が大頭の店を見舞ふやら、団子屋の背高が愛想気のない汁粉やを音づれて、どうだ儲けがあるかえと言へば、正さんお前好い処へ来た、我れが餡この種なしに成つてもう今からは何を売らう、直様煮かけては置いたけれど中途お客は断れない、どうしような、と相談を懸けられて、智恵無しの奴め大鍋の四辺にそれッ位無駄がついてゐるでは無いか、それへ湯を廻して砂糖さへ甘くすれば十人前や二十人は浮いて来よう、何処でも皆なそうするのだお前の店ばかりではない、何この騒ぎの中で好悪を言ふ物が有らうか、お売りお売りと言ひながら先に立つて砂糖の壺を引寄すれば、目ッかちの母親おどろいた顔をして
お前さんは本当に商人にできていなさる、恐ろしい知恵者だ、と褒めるので、何だ、こんなことが知恵者なものか、いま横町の潮吹きのところで餡が足りないってこうやったのを見てきたので、俺の発明じゃない、と言い捨てて、お前は知らないか、美登利さんのいるところを、俺は今朝から探しているけれど、どこへ行ったか筆屋へも来ない、と言う。廓のなかだろうかな、と問うと、うむ、美登利さんはな、今の先、俺の家の前を通って揚屋町の跳ね橋から入って行った、本当に正さん大変だぜ、今日はね、髪をこういう風にこんな島田に結って、と、へんてこな手つきをして、奇麗だねあの子は、と鼻をふきながら言うと、大巻さんよりもっといいや、だけどあの子も花魁になるのではかわいそうだ、と下を向いて正太が答
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、お前さんは本当に商人に出来てゐなさる、恐ろしい智恵者だと賞めるに、何だこんな事が智恵者な物か、今横町の潮吹きの処で餡が足りないッてこうやつたを見て来たので己れの発明では無い、と言ひ捨てて、お前は知らないか美登利さんの居る処を、己れは今朝から探してゐるけれど何処へ行たか筆やへも来ないと言ふ、廓内だらうかなと問へば、むむ美登利さんはな今の先己れの家の前を通つて揚屋町の刎橋から這入つて行た、本当に正さん大変だぜ、今日はね、髪をかういふ風にこんな嶋田に結つてと、変てこな手つきして、奇麗だねあの娘はと鼻を拭つつ言へば、大巻さんより猶美いや、だけれどあの子も華魁に成るのでは可憐さうだと下を向ひて正太の答
えると、いいじゃないか花魁になれば、俺は来年から際物屋になって金をこしらえるがね、それを持って買いに行くんだ、ととんまぶりをあらわすと、洒落くさいことを言ってらあ、そうすればお前はきっと振られるよ。
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ふるに、好いじやあ無いか華魁になれば、己れは来年から際物屋に成つてお金をこしらへるがね、それを持つて買ひに行くのだと頓馬を現はすに、洒落くさい事を言つてゐらあそうすればお前はきつと振られるよ。
なぜ、なぜ。
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何故何故。
なぜでも振られるわけがあるんだもの、と顔を少し染めて笑いながら、それじゃあ俺も一回りしてこようや、また後で来るよ、と捨てぜりふを残して門を出て、「十六、七の頃までは蝶よ花よと育てられ」と、あやしい震え声で、この頃ここで流行りの節を口ずさみ、「今では勤めが身にしみて」と口のうちでくり返し、例の雪駄の音高く、浮き立つ人のなかにまじって、小さな体はたちまち見えなくなった。
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何故でも振られる理由が有るのだもの、と顔を少し染めて笑ひながら、それじやあ己れも一廻りして来ようや、又後に来るよと捨て台辞して門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪しきふるへ声にこの頃此処の流行ぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内にくり返し、例の雪駄の音たかく浮きたつ人の中に交りて小さき身体は忽ちに隠れつ。
人にもまれて出てきた廓の角、向こうから番頭新造のお妻と連れ立って話しながら来るのを見れば、まぎれもなく大黒屋の美登利だが、本当にとんまが言ったとおり、初々しい大島田を結い、綿のように絞りっぱなしのがふさふさとかかって、鼈甲の差し込み、房つきの花簪をひらめかせ、いつもより極彩色で、まるで京人形を見るように思われて、正太はあっとも言わず立ち止まったまま、いつものように抱きつきもせずに見守っていると、あちらは、正太さんかい、と走り寄り、お妻どん、お前買い物があるなら、もうここでお別れにしましょう、私はこの人といっしょに帰ります、さようなら、と頭を下げると、あれ、美いちゃんの現金な、もうお送りはいりませんとかえ、そんなら私は京町で買い物しましょう、と、ちょこちょこ走りに長
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揉まれて出し廓の角、向ふより番頭新造のお妻と連れ立ちて話しながら来るを見れば、まがひも無き大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く、初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、総つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のただ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止まりしまま例の如くは抱きつきもせで打守るに、彼方は正太さんかとて走り寄り、お妻どんお前買ひ物が有らばもう此処でお別れにしましよ、私はこの人と一処に帰ります、左様ならとて頭を下げるに、あれ美いちやんの現金な、もうお送りは入りませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましよ、とちよこちよこ走りに長
屋の細道へ駆け込むと、正太ははじめて美登利の袖を引いて、よく似合うね、いつ結ったの、今朝かい昨日かい、なぜ早く見せてくれなかったの、と恨めしげに甘えると、美登利はしょんぼりして口が重く、姉さんの部屋で今朝結ってもらったの、私は嫌でしょうがない、とうつむいて、往来の人目を恥じた。
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屋の細道へ駆け込むに、正太はじめて美登利の袖を引いて好く似合ふね、いつ結つたの今朝かへ昨日かへ何故はやく見せてはくれなかつた、と恨めしげに甘ゆれば、美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭やでしようが無い、とさし俯向きて往来を耻ぢぬ。
十五
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十五
つらく恥ずかしく、慎ましい気持ちが身にあると、人が褒めるのもあざけりに聞こえて、島田のまげのなつかしさに振り返って見る人たちを、自分を見下す目つきだと受け取って、正太さん、私は家へ帰るよ、と言うと、なぜ今日は遊ばないんだろう、お前何か小言を言われたのか、大巻さんと喧嘩でもしたんじゃないか、と子供らしいことを問われて、答えは何も、顔が赤くなるばかり。連れ立って団子屋の前を過ぎると、とんまが店から声をかけて、お腹の具合がよろしゅうございますか、と大げさな言葉をかけるのを聞くなり、美登利は泣きたいような顔つきをして、正太さん、いっしょに来ては嫌だよ、と、置きざりにして一人足を早めた。
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憂く耻かしく、つつましき事身にあれば人の褒めるは嘲りと聞なされて、嶋田の髷のなつかしさに振かへり見る人たちをば我れを蔑む眼つきと察られて、正太さん私は自宅へ帰るよと言ふに、何故今日は遊ばないのだらう、お前何か小言を言はれたのか、大巻さんと喧嘩でもしたのでは無いか、と子供らしい事を問はれて答へは何と顔の赤むばかり、連れ立ちて団子屋の前を過ぎるに頓馬は店より声をかけてお中が宜しう御座いますと仰山な言葉を聞くより美登利は泣きたいやうな顔つきして、正太さん一処に来ては嫌やだよと、置きざりに一人足を早めぬ。
お酉さまへいっしょに、と言っていたのを、道を違えて我が家の方へと美登利が急ぐので、お前いっしょに来てくれないのか、なぜそっちへ帰ってしまう、あんまりだぜ、と例のごとく甘えてかかるのを、振り切るように物も言わず行くので、何のわけとも知らないが、正太はあきれて追いすがり、袖を止めては不思議がると、美登利は顔ばかり真っ赤にして、何でもない、と言う声にわけありげである。
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お酉さまへ諸共にと言ひしを道引違へて我が家の方へと美登利の急ぐに、お前一処には来てくれないのか、何故其方へ帰つてしまふ、余りだぜと例の如く甘へてかかるを振切るやうに物言はず行けば、何の故とも知らねども正太は呆れて追ひすがり袖を止めては怪しがるに、美登利顔のみ打赤めて、何でも無い、と言ふ声理由あり。
別宅の門をくぐって入ると、正太は前々から遊びに来慣れて、さほど遠慮のいる家でもないので、後から続いて縁先からそっと上がると、母親が見るなり、おお正太さん、よく来てくださった、今朝から美登利の機嫌が悪くて、みんな手を焼いて困っています、遊んでやってください、と言うので、正太は大人らしくかしこまって、加減が悪いのですか、とまじめに問うのを、いいえ、と母親は不思議な笑顔をして、少したてば直りましょう、いつもきまりのわがまま娘、さぞお友達とも喧嘩したでしょうな、本当にやり切れないお嬢さまですよ、と振り返る。美登利はいつのまにか小座敷に布団と掻巻を持ち出して、帯と上着を脱ぎ捨てたきり、うつ伏せに寝て物も言わない。
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寮の門をばくぐり入るに正太かねても遊びに来馴れてさのみ遠慮の家にもあらねば、跡より続いて椽先からそつと上るを、母親見るより、おお正太さん宜く来て下さつた、今朝から美登利の機嫌が悪くて皆なあぐねて困つてゐます、遊んでやつて下されと言ふに、正太は大人らしう惶りて加減が悪るいのですかと真面目に問ふを、いいゑ、と母親怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、いつでも極りの我まま様、さぞお友達とも喧嘩しませうな、真実やり切れぬ嬢さまではあるとて見かへるに、美登利はいつか小座敷に蒲団抱巻持出でて、帯と上着を脱ぎ捨てしばかり、うつ伏し臥して物をも言はず。
正太は恐る恐る枕もとへ寄って、美登利さん、どうしたの、病気なのか、気分が悪いのか、いったいどうしたの、と、さほどにじり寄りもせず、膝に手を置いて心ばかりを痛める。美登利は一向に答えもなく、押さえる袖に忍び泣きの涙、まだ結い込めていない前髪の毛が濡れて見えるのにも、わけありとはわかるけれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出ず、ただひたすら困りきるばかり。いったい何がどうしたんだろう、俺はお前に怒られることは何もしていないのに、何がそんなに腹が立つの、とのぞき込んで途方にくれると、美登利は目を拭いて、正太さん、私は怒っているのではありません。
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正太は恐る恐る枕もとへ寄つて、美登利さんどうしたの病気なのか心持が悪いのか全体どうしたの、とさのみは摺寄らず膝に手を置いて心ばかりを悩ますに、美登利は更に答へも無く押ゆる袖にしのび音の涙、まだ結ひこめぬ前髪の毛の濡れて見ゆるも子細ありとはしるけれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出ず唯ひたすらに困り入るばかり、全体何がどうしたのだらう、己れはお前に怒られる事はしもしないに、何がそんなに腹が立つの、と覗き込んで途方にくるれば、美登利は眼を拭ふて正太さん私は怒つてゐるのでは有りません。
それならどうして、と問われても、つらいことがさまざまで、これはどうしても話せない包み隠しごとなので、誰に打ち明けられる筋のものでもなく、物を言わずにおのずと頬が赤くなり、これといって何とは言えないが、次第次第に心細い思い。すべて昨日までの美登利の身に覚えのなかった思いが芽ばえて、物の恥ずかしさは言いようもない。できることなら、薄暗い部屋のなかで誰にも言葉をかけられず、自分の顔を眺める者もなく、一人気ままに朝夕を過ごしたい。そうすればこんなつらいことがあっても、人目を気にせずにすんで、こんなにまで思い悩むことはあるまい。いつまでもいつまでも人形と紙雛さまを相手にして、ままごとばかりしていられたら、さぞかし嬉しいことだろうに。ええ嫌だ嫌だ、大人になるのは嫌なこと、なぜこんなに年を取る、もう
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それならどうしてと問はれれば憂き事さまざまこれはどうでも話しのほかの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬の赤うなり、さして何とは言はれねども次第次第に心細き思ひ、すべて昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひをまうけて物の耻かしさ言ふばかりなく、成事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顔ながむる者なしに一人気ままの朝夕を経たや、さらばこの様の憂き事ありとも人目つつましからずはかくまで物は思ふまじ、何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事ばかりしてゐたらばさぞかし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、もう
七月、十月、一年も以前に帰りたい、と老人じみた考えをして、正太がここにいるのも思いにかけず、話しかければことごとくはねつけて、帰っておくれ正太さん、後生だから帰っておくれ、お前がいると私は死んでしまうだろう、物を言われると頭痛がする、口をきくと目がまわる、誰も彼も私のところへ来ては嫌なんだから、お前もどうか帰って、と、いつもに似合わぬ愛想づかし。正太はなぜとも解しかねて、煙のなかにいるようで、お前はどうしても変てこだよ、そんなことを言うはずはないのに、おかしな人だね、と、これは少しくやしい思いに落ち着いて言いながらも、目には気弱の涙が浮かぶのを、どうしてそれに気をとめるものか、帰っておくれ、帰っておくれ、いつまでもここにいてくれれ
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七月十月、一年も以前へ帰りたいにと老人じみた考へをして、正太の此処にあるをも思はれず、物いひかければ悉く蹴ちらして、帰つておくれ正太さん、後生だから帰つておくれ、お前が居ると私は死んでしまふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利くと目がまわる、誰れも誰れも私の処へ来ては厭やなれば、お前も何卒帰つてと例に似合ぬ愛想づかし、正太は何故とも得ぞ解きがたく、烟のうちにあるやうにてお前はどうしても変てこだよ、そんな事を言ふ筈は無いに、可怪しい人だね、とこれはいささか口惜しき思ひに、落ついて言ひながら目には気弱の涙のうかぶを、何とてそれに心を置くべき帰つておくれ、帰つておくれ、何時まで此処に居てくれれ
ば、もうお友達でも何でもない、嫌な正太さんだ、と憎らしげに言われて、それならば帰るよ、お邪魔さまでございました、と、風呂場で湯加減を見る母親には挨拶もせず、ふいと立って、正太は庭先から駆け出した。
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ばもうお友達でも何でも無い、厭やな正太さんだと憎くらしげに言はれて、それならば帰るよ、お邪魔さまで御座いましたとて、風呂場に加減見る母親には挨拶もせず、ふいと立つて正太は庭先よりかけ出しぬ。
十六
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十六
真一文字に駆けて、人ごみを抜けたりくぐったりして、筆屋の店へ躍り込むと、三五郎はいつのまにか店を売り尽くして、腹掛けのかくしへいくらかの金をじゃらつかせ、弟妹を引きつれて、好きなものを何でも買っておやりの大兄さん、大満悦の真っ最中へ、正太が飛び込んできたので、やあ正さん、今お前を探していたんだ、俺は今日は大分の儲けがある、何かおごってあげようか、と言うと、馬鹿を言え、手前におごってもらう俺じゃないわ、黙っていろ、生意気を吐くな、と、いつになく荒いことを言って、それどころではない、とふさぎ込むので、何だ何だ、喧嘩か、と食べかけの餡パンをふところにねじ込んで、相手は誰だ、龍華寺か長吉か、どこで始まった、廓のなかか鳥居前か、お祭りの時とは違うぜ、不意打ちでさえなければ負けはしない、俺
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真一文字に駆けて人中を抜けつ潜りつ、筆屋の店へをどり込めば、三五郎は何時か店をば売しまふて、腹掛のかくしへ若干金かをぢやらつかせ、弟妹引つれつつ好きな物をば何でも買への大兄様、大愉快の最中へ正太の飛込み来しなるに、やあ正さん今お前をば探してゐたのだ、己れは今日は大分の儲けがある、何か奢つて上やうかと言へば、馬鹿をいへ手前に奢つて貰ふ己れでは無いわ、黙つてゐろ生意気は吐くなと何時になく荒らい事を言つて、それどころでは無いとて鬱ぐに、何だ何だ喧嘩かと喰べかけの餡ぱんを懐中に捻ぢ込んで、相手は誰れだ、龍華寺か長吉か、何処で始まつた廓内か鳥居前か、お祭りの時とは違ふぜ、不意でさへ無くは負けはしない、己
が承知だ、先棒はかつぐ、正さん肝っ玉をしっかりして懸かりねえ、と勢い込むので、ええ、気の早い奴め、喧嘩ではない、と、さすがに言いかねて口をつぐむと、でもお前が大げさに飛び込んだから、俺はてっきり喧嘩かと思った、だけど正さん、今夜始まらなければ、もうこれから喧嘩の起こりっこはないね、長吉の野郎、片腕がなくなるんだ、と言うので、なぜ、どうして片腕がなくなるんだ。
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れが承知だ先棒は振らあ、正さん胆ッ玉をしつかりして懸りねへ、と競ひかかるに、ゑゑ気の早い奴め、喧嘩では無い、とてさすがに言ひかねて口を噤めば、でもお前が大層らしく飛込んだから己れは一途に喧嘩かと思つた、だけれど正さん今夜はじまらなければもうこれから喧嘩の起りッこは無いね、長吉の野郎片腕がなくなる物と言ふに、何故どうして片腕がなくなるのだ。
お前知らないのか、俺もたった今、うちの父さんが龍華寺の御新造と話していたのを聞いたんだが、信さんはもう近々どこかの坊さん学校へ入るんだとさ、衣を着てしまえば手が出せないや、まるっきり、あんな袖のぺらぺらした、恐ろしく長いものを、まくり上げるんだからね、そうなれば来年から横町も表も残らずお前の手下だよ、とけしかけると、よしてくれ、二銭もらえば長吉の組になるだろう、お前みたいなのが百人仲間にいたって、ちっとも嬉しいことはない、つきたい方へどこへでもつきな、俺は人は頼まない、本当の腕っこで一度龍華寺とやりたかったのに、よそへ行かれては仕方がない、藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、どうしてそんなに早くなったんだろう、しょうのない野郎だ、と
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お前知らずか己れも唯今うちの父さんが龍華寺の御新造と話してゐたを聞いたのだが、信さんはもう近々何処かの坊さん学校へ這入るのだとさ、衣を着てしまへば手が出ねへや、空つきりあんな袖のぺらぺらした、恐ろしい長い物を捲り上るのだからね、さうなれば来年から横町も表も残らずお前の手下だよと煽すに、廃してくれ二銭貰ふと長吉の組に成るだらう、お前みたやうのが百人中間に有たとて少とも嬉しい事は無い、着きたい方へ何方へでも着きねへ、己れは人は頼まない真の腕ッこで一度龍華寺とやりたかつたに、他処へ行かれては仕方が無い、藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、どうしてそんなに早く成つたらう、為様のない野郎だと
舌打ちしながら、それは少しも心に止まらないが、美登利の素振りがくり返し思い出されて、正太は例の歌も出ず、大通りの往来の人だかりの多さも心さびしいので、にぎやかだとも思われず、日ともし頃から筆屋の店に転がって、今日の酉の市はめちゃくちゃに、ここもかしこも不思議なことになったのだった。
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舌打しながら、それは少しも心に止まらねども美登利が素振のくり返されて正太は例の歌も出ず、大路の徃来の夥ただしきさへ心淋しければ賑やかなりとも思はれず、火ともし頃より筆やが店に転がりて、今日の酉の市目茶々々に此処も彼処も怪しき事成りき。
美登利はあの日を境にして、生まれ変わったような身の振る舞い。用があるときは廓の姉のもとへは通うが、決して町で遊ぶことをせず、友達がさびしがって誘いに行けば、今に今にと空約束が果てしなく、あれほど仲がよかったのに、正太とさえ親しまず、いつも恥ずかしげに顔ばかり赤めて、筆屋の店での手踊りの活発さは、二度と見られなくなった。人は不思議がって病気のせいかと危ぶむ者もいるが、母親一人はほほ笑んで、今にお転婆の本性はあらわれます、これは中休みですよ、とわけありげに言うので、知らない者には何のことかわからず、女らしくおとなしくなったと褒める者もいれば、せっかくの面白い子を種なしにした(つまらなくした)とけなす者もいる。表町は急に火が消えたようにさびしくなって、正太の美しい歌声も聞くことがまれになり、ただ夜な夜な
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美登利はかの日を始めにして生れかはりし様の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束はてし無く、さしもに中よし成けれど正太とさへに親しまず、いつも耻かし気に顔のみ赤めて筆やの店に手踊の活溌さは再び見るに難く成ける、人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむも有れども母親一人ほほ笑みては、今にお侠の本性は現れまする、これは中休みと子細ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順しう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり、表町は俄に火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な夜な
の弓張提灯、あれは日掛けの集金だとはっきりわかる影が土手を行くさま、そぞろに寒々しく、折々供をする三五郎の声だけが、いつもと変わらずおどけて聞こえた。
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の弓張提燈、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そぞろ寒げに、折ふし供する三五郎の声のみ何時に変らず滑稽ては聞えぬ。
龍華寺の信如が我が宗派の修業の道へ立つという噂を、美登利はまったく聞かずにいた。もともとの意地はそのまま封じ込めて、この頃しばらくの不思議な様子に、自分を自分とも思われず、ただ何事も恥ずかしくばかり思っていたが、ある霜の朝、水仙の造花を格子門の外からさし入れておいた者がいた。誰の仕業とも知りようがないけれど、美登利は何となくなつかしい思いで、違い棚の一輪ざしにさして、そのさびしく清らかな姿を愛でていた。ところが、聞くともなしに伝え聞くと、その翌日は、信如が何とかいう学林で墨染めの袖に着替える(正式に出家する)当日だったということである。
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龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をばそのままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思はれず、唯何事も耻かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。