AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
原文: 一
一
原文: 蕗屋清一郎が、何故これから記す様な恐ろしい悪事を思立ったか、その動機については詳しいことは分らぬ。
蕗屋清一郎が、なぜこれから記すような恐ろしい悪事を思い立ったのか、その動機については詳しいことは分からない。
原文: 又仮令分ったとしてもこのお話には大して関係がないのだ。
また、たとえ分かったとしても、この話には大して関係がない。
原文: 彼がなかば苦学見たいなことをして、ある大学に通っていた所を見ると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。
彼が半ば苦学のようなことをしながらある大学に通っていたところを見ると、学費の必要に迫られたのかとも考えられる。
原文: 彼は稀に見る秀才で、而も非常な勉強家だったから、学資を得る為に、つまらぬ内職に時を取られて、好きな読書や思索が十分出来ないのを残念に思っていたのは確かだ。
彼は稀に見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学費を得るためにつまらない内職に時間を取られ、好きな読書や思索が十分にできないのを残念に思っていたのは確かだ。
原文: だが、その位の理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。
だが、その程度の理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。
原文: 恐らく彼は先天的の悪人だったのかも知れない。
おそらく彼は生まれつきの悪人だったのかもしれない。
原文: そして、学資ばかりでなく他の様々な慾望を抑え兼ねたのかも知れない。
そして、学費ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望を抑えきれなかったのかもしれない。
原文: それは兎も角、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。
それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。
原文: その間、彼は迷いに迷い、考えに考えた揚句、結局やッつけることに決心したのだ。
その間、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やってしまうことに決心したのだ。
原文: ある時、彼はふとしたことから、同級生の斎藤勇と親しくなった。
あるとき、彼はふとしたことから、同級生の斎藤勇と親しくなった。
原文: それが事の起りだった。
それが事の起こりだった。
原文: 初めは無論何の成心があった訳ではなかった。
初めはもちろん何の下心があったわけでもなかった。
原文: 併し中途から、彼はあるおぼろげな目的を抱いて斎藤に接近して行った。
しかし途中から、彼はあるおぼろげな目的を抱いて斎藤に近づいていった。
原文: そして、接近して行くに随って、そのおぼろげな目的が段々はっきりして来た。
そして、近づいていくにつれて、そのおぼろげな目的が次第にはっきりしてきた。
原文: 斎藤は、一年ばかり前から、山の手のある淋しい屋敷町の素人屋に部屋を借りていた。
斎藤は、一年ほど前から、山の手のある寂しい屋敷町の、素人が営む下宿に部屋を借りていた。
原文: その家の主は、官吏の未亡人で、といっても、もう六十に近い老婆だったが、亡夫の遺して行った数軒の借家から上る利益で、十分生活が出来るにも拘らず、子供を恵まれなかった彼女は、「ただもうお金がたよりだ」
その家の主は、役人の未亡人で、といっても、もう六十近い老婆だったが、亡くなった夫が遺した数軒の貸家から上がる収入で十分生活ができるにもかかわらず、子供に恵まれなかった彼女は、「ただもうお金だけが頼りだ」
原文: といって、確実な知合いに小金を貸したりして、少しずつ貯金を殖して行くのを此上もない楽しみにしていた。
と言って、確かな知り合いに小金を貸したりして、少しずつ貯金を増やしていくのをこの上ない楽しみにしていた。
原文: 斎藤に部屋を貸したのも、一つは女ばかりの暮しでは不用心だからという理由もあっただろうが、一方では部屋代丈けでも、毎月の貯金額が殖えることを勘定に入れていたに相違ない。
斎藤に部屋を貸したのも、一つには女ばかりの暮らしでは物騒だからという理由もあっただろうが、一方では部屋代の分だけでも毎月の貯金額が増えることを計算に入れていたに違いない。
原文: そして彼女は、今時余り聞かぬ話だけれども、守銭奴の心理は、古今東西を通じて同じものと見える、表面的な銀行預金の外に、莫大な現金を自宅のある秘密な場所へ隠しているという噂だった。
そして彼女は、今どきあまり聞かない話だけれども、守銭奴の心理は古今東西を通じて同じものと見えて、表向きの銀行預金のほかに、莫大な現金を自宅のある秘密の場所へ隠しているという噂だった。
原文: 蕗屋はこの金に誘惑を感じたのだ。
蕗屋はこの金に誘惑を感じたのだ。
原文: あのおいぼれが、そんな大金を持っているということに何の価値がある。
あの老いぼれが、そんな大金を持っていることに何の価値がある。
原文: それを俺の様な未来のある青年の学資に使用するのは、極めて合理的なことではないか。
それを俺のような未来のある青年の学費に使うほうが、きわめて合理的なことではないか。
原文: 簡単に云えば、これが彼の理論だった。
簡単に言えば、これが彼の理屈だった。
原文: そこで彼は、斎藤を通じて出来る丈け老婆についての智識を得ようとした。
そこで彼は、斎藤を通じてできるだけ老婆についての知識を得ようとした。
原文: その大金の秘密な隠し場所を探ろうとした。
その大金の秘密の隠し場所を探ろうとした。
原文: 併し彼は、ある時斎藤が、偶然その隠し場所を発見したということを聞くまでは、別に確定的な考を持っていた訳でもなかった。
しかし彼は、あるとき斎藤が偶然その隠し場所を発見したという話を聞くまでは、別に確定的な考えを持っていたわけでもなかった。
原文: 「君、あの婆さんにしては感心な思いつきだよ、大抵、縁の下とか、天井裏とか、金の隠し場所なんて極っているものだが、婆さんのは一寸意外な所なのだよ。あの奥座敷の床の間に、大きな紅葉の植木鉢が置いてあるだろう。あの植木鉢の底なんだよ。その隠し場所がさ。どんな泥坊だって、まさか植木鉢に金が隠してあろうとは気づくまいからね。婆さんは、まあ云って見れば、守銭奴の天才なんだね」
「君、あの婆さんにしては感心な思いつきだよ。たいてい、縁の下とか天井裏とか、金の隠し場所なんて決まっているものだが、婆さんのはちょっと意外な所なんだ。あの奥座敷の床の間に、大きな紅葉の植木鉢が置いてあるだろう。あの植木鉢の底なんだよ、その隠し場所がさ。どんな泥棒だって、まさか植木鉢に金が隠してあろうとは気づくまいからね。婆さんは、まあ言ってみれば、守銭奴の天才なんだね」
原文: その時、斎藤はこう云って面白そうに笑った。
そのとき、斎藤はこう言って面白そうに笑った。
原文: それ以来、蕗屋の考は少しずつ具体的になって行った。
それ以来、蕗屋の考えは少しずつ具体的になっていった。
原文: 老婆の金を自分の学資に振替える径路の一つ一つについて、あらゆる可能性を勘定に入れた上、最も安全な方法を考え出そうとした。
老婆の金を自分の学費に振り替える道筋の一つ一つについて、あらゆる可能性を計算に入れたうえで、最も安全な方法を考え出そうとした。
原文: それは予想以上に困難な仕事だった。
それは予想以上に困難な仕事だった。
原文: これに比べれば、どんな複雑な数学の問題だって、なんでもなかった。
これに比べれば、どんな複雑な数学の問題だって何でもなかった。
原文: 彼は先にも云った様に、その考を纏める丈けの為に半年を費したのだ。
彼は先にも言ったように、その考えをまとめるためだけに半年を費やしたのだ。
原文: 難点は、云うまでもなく、如何にして刑罰を免れるかということにあった。
難点は、言うまでもなく、どうやって刑罰を免れるかということにあった。
原文: 倫理上の障礙、即ち良心の呵責という様なことは、彼にはさして問題ではなかった。
倫理上の障害、つまり良心の呵責といったことは、彼にはさして問題ではなかった。
原文: 彼はナポレオンの大掛りな殺人を罪悪とは考えないで、寧ろ讃美すると同じ様に、才能のある青年が、その才能を育てる為に、棺桶に片足をふみ込んだおいぼれを犠牲に供することを、当然だと思った。
彼はナポレオンの大がかりな殺人を罪悪とは考えず、むしろ賛美するのと同じように、才能のある青年がその才能を育てるために、棺桶に片足を突っ込んだ老いぼれを犠牲にすることを、当然だと思った。
原文: 老婆は滅多に外出しなかった。
老婆はめったに外出しなかった。
原文: 終日黙々として奥の座敷に丸くなっていた。
一日じゅう黙々と奥の座敷に丸くなっていた。
原文: たまに外出することがあっても、留守中は、田舎者の女中が彼女の命を受けて正直に見張番を勤めた。
たまに外出することがあっても、留守中は田舎出の女中が彼女の言いつけを受けて正直に見張り番を務めた。
原文: 蕗屋のあらゆる苦心にも拘らず、老婆の用心には少しの隙もなかった。
蕗屋のあらゆる苦心にもかかわらず、老婆の用心には少しの隙もなかった。
原文: 老婆と斎藤のいない時を見はからって、この女中を騙して使に出すか何かして、その隙に例の金を植木鉢から盗み出したら、蕗屋は最初そんな風に考えて見た。
老婆と斎藤のいない時を見はからって、この女中をだまして使いに出すか何かして、その隙に例の金を植木鉢から盗み出したら——蕗屋は最初そんなふうに考えてみた。
原文: 併しそれは甚だ無分別な考だった。
しかしそれは、はなはだ思慮の足りない考えだった。
原文: 仮令少しの間でも、あの家にただ一人でいたことが分っては、もうそれ丈けで十分嫌疑をかけられるではないか。
たとえ短い間でも、あの家にただ一人でいたことが分かっては、もうそれだけで十分に疑いをかけられるではないか。
原文: 彼はこの種の様々な愚かな方法を、考えては打消し、考えては打消すのに、たっぷり一ヶ月を費した。
彼はこの種のさまざまな愚かな方法を、考えては打ち消し、考えては打ち消すのに、たっぷり一か月を費やした。
原文: それは例えば、斎藤か女中か又は普通の泥坊が盗んだと見せかけるトリックだとか、女中一人の時に少しも音を立てないで忍込んで、彼女の目にふれない様に盗み出す方法だとか、夜中、老婆の眠っている間に仕事をする方法だとか、其他考え得るあらゆる場合を、彼は考えた。
それはたとえば、斎藤か女中か、あるいは普通の泥棒が盗んだと見せかけるトリックだとか、女中一人のときに少しも音を立てずに忍び込み、彼女の目に触れないように盗み出す方法だとか、夜中、老婆が眠っている間に仕事をする方法だとか、そのほか考えうるあらゆる場合を、彼は考えた。
原文: 併し、どれにもこれにも、発覚の可能性が多分に含まれていた。
しかし、どれにもこれにも、発覚の可能性が多分に含まれていた。
原文: どうしても老婆をやっつける外はない。
どうしても老婆を始末するほかはない。
原文: 彼は遂にこの恐ろしい結論に達した。
彼はついにこの恐ろしい結論に達した。
原文: 老婆の金がどれ程あるかよく分らぬけれど、色々の点から考えて、殺人の危険を犯してまで執着する程大した金額だとは思われぬ。
老婆の金がどれほどあるのかよく分からないけれど、いろいろな点から考えて、殺人の危険を冒してまで執着するほど大した金額だとは思われない。
原文: たかの知れた金の為に何の罪もない一人の人間を殺して了うというのは、余りに残酷過ぎはしないか。
たかの知れた金のために、何の罪もない一人の人間を殺してしまうというのは、あまりに残酷すぎはしないか。
原文: 併し、仮令それが世間の標準から見ては大した金額でなくとも、貧乏な蕗屋には十分満足出来るのだ。
しかし、たとえそれが世間の基準から見て大した金額でなくとも、貧乏な蕗屋には十分満足できるのだ。
原文: のみならず、彼の考によれば、問題は金額の多少ではなくて、ただ犯罪の発覚を絶対に不可能ならしめることだった。
のみならず、彼の考えによれば、問題は金額の多少ではなく、ただ犯罪の発覚を絶対に不可能にすることだった。
原文: その為には、どんな大きな犠牲を払っても、少しも差支ないのだ。
そのためには、どんなに大きな犠牲を払っても、少しも差し支えないのだ。
原文: 殺人は、一見、単なる窃盗よりは幾層倍も危険な仕事の様に見える。
殺人は、一見、単なる窃盗よりも何倍も危険な仕事のように見える。
原文: だが、それは一種の錯覚に過ぎないのだ。
だが、それは一種の錯覚にすぎないのだ。
原文: 成程、発覚することを予想してやる仕事なれば殺人はあらゆる犯罪の中で最も危険に相違ない。
なるほど、発覚することを前提にしてやる仕事なら、殺人はあらゆる犯罪の中で最も危険に違いない。
原文: 併し、若し犯罪の軽重よりも、発覚の難易を目安にして考えたならば、場合によっては(例えば蕗屋の場合の如きは)寧ろ窃盗の方が危い仕事なのだ。
しかし、もし犯罪の軽重よりも、発覚のしやすさを目安にして考えたなら、場合によっては(たとえば蕗屋の場合のように)むしろ窃盗のほうが危ない仕事なのだ。
原文: これに反して、悪事の発見者をバラして了う方法は、残酷な代りに心配がない。
これに対して、悪事の発見者を消してしまう方法は、残酷な代わりに心配がない。
原文: 昔から、偉い悪人は、平気でズバリズバリと人殺しをやっている。
昔から、大物の悪人は平気でずばずばと人殺しをやっている。
原文: 彼等が却々つかまらぬのは、却ってこの大胆な殺人のお蔭なのではなかろうか。
彼らがなかなか捕まらないのは、かえってこの大胆な殺人のおかげなのではないだろうか。
原文: では、老婆をやっつけるとして、それには果して危険がないか。
では、老婆を始末するとして、それに果たして危険はないか。
原文: この問題にぶッつかってから、蕗屋は数ヶ月の間考え通した。
この問題にぶつかってから、蕗屋は数か月の間考え通した。
原文: その長い間に、彼がどんな風に考を育てて行ったか。
その長い間に、彼がどんなふうに考えを育てていったか。
原文: それは物語が進むに随って、読者に分ることだから、ここに省くが、兎も角、彼は、到底普通人の考え及ぶことも出来ない程、微に入り細を穿った分析並に綜合の結果、塵一筋の手抜かりもない、絶対に安全な方法を考え出したのだ。
それは物語が進むにつれて読者に分かることだからここでは省くが、ともかく彼は、とうてい普通の人間の考えの及ばないほど微に入り細をうがった分析と総合の結果、塵一つの手抜かりもない、絶対に安全な方法を考え出したのだ。
原文: 今はただ、時機の来るのを待つばかりだった。
今はただ、時機の来るのを待つばかりだった。
原文: が、それは案外早く来た。
が、それは案外早く来た。
原文: ある日、斎藤は学校関係のことで、女中は使に出されて、二人共夕方まで決して帰宅しないことが確められた。
ある日、斎藤は学校関係の用事で、女中は使いに出されて、二人とも夕方までは決して帰宅しないことが確かめられた。
原文: それは丁度蕗屋が最後の準備行為を終った日から二日目だった。
それはちょうど、蕗屋が最後の準備行為を終えた日から二日目だった。
原文: その最後の準備行為というのは(これ丈けは前以て説明して置く必要がある)嘗つて斎藤に例の隠し場所を聞いてから、もう半年も経過した今日、それがまだ当時のままであるかどうかを確める為の或る行為だった。
その最後の準備行為というのは(これだけは前もって説明しておく必要がある)、かつて斎藤から例の隠し場所を聞いてからもう半年も経った今日、それがまだ当時のままかどうかを確かめるためのある行為だった。
原文: 彼はその日(即ち老婆殺しの二日前)斎藤を訪ねた序に、初めて老婆の部屋である奥座敷に入って、彼女と色々世間話を取交した。
彼はその日(つまり老婆殺しの二日前)、斎藤を訪ねたついでに、初めて老婆の部屋である奥座敷に入り、彼女といろいろ世間話を交わした。
原文: 彼はその世間話を徐々に一つの方向へ落して行った。
彼はその世間話を、徐々に一つの方向へ持っていった。
原文: そして、屡々老婆の財産のこと、それを彼女がどこかへ隠しているという噂のあることなぞ口にした。
そして、たびたび老婆の財産のことや、それを彼女がどこかへ隠しているという噂があることなどを口にした。
原文: 彼は「隠す」
彼は「隠す」
原文: という言葉の出る毎に、それとなく老婆の眼を注意した。
という言葉が出るたびに、それとなく老婆の目に注意を払った。
原文: すると、彼女の眼は、彼の予期した通り、その都度、床の間の植木鉢(もうその時は紅葉ではなく、松に植えかえてあったけれど)にそっと注がれるのだ。
すると、彼女の目は、彼の予想したとおり、そのたびに床の間の植木鉢(もうその頃は紅葉ではなく、松に植え替えてあったけれど)へそっと注がれるのだ。
原文: 蕗屋はそれを数回繰返して、最早や少しも疑う余地のないことを確めることが出来た。
蕗屋はそれを数回繰り返して、もはや少しも疑う余地のないことを確かめることができた。
原文: 二
二
原文: さて、愈々当日である。
さて、いよいよ当日である。
原文: 彼は大学の正服正帽の上に学生マントを着用し、ありふれた手袋をはめて目的の場所に向った。
彼は大学の制服と制帽の上に学生マントを着て、ありふれた手袋をはめ、目的の場所へ向かった。
原文: 彼は考えに考えた上、結局変装しないことに極めたのだ。
彼は考えに考えたうえ、結局変装しないことに決めたのだ。
原文: 若し変装をするとすれば、材料の買入れ、着換えの場所、其他様々の点で、犯罪発覚の手掛りを残すことになる。
もし変装をするとすれば、材料の買い入れ、着替えの場所、そのほかさまざまな点で、犯罪発覚の手がかりを残すことになる。
原文: それはただ物事を複雑にするばかりで、少しも効果がないのだ。
それはただ物事を複雑にするばかりで、少しも効果がないのだ。
原文: 犯罪の方法は、発覚の虞れのない範囲に於ては、出来る限り単純に且つあからさまにすべきだと云うのが、彼の一種の哲学だった。
犯罪の方法は、発覚の恐れがない範囲においては、できる限り単純かつ堂々とすべきだというのが、彼の一種の哲学だった。
原文: 要は、目的の家に入る所を見られさえしなければいいのだ。
要は、目的の家に入るところを見られさえしなければいいのだ。
原文: 仮令その家の前を通ったことが分っても、それは少しも差支ない。
たとえその家の前を通ったことが分かっても、それは少しも差し支えない。
原文: 彼はよく其辺を散歩することがあるのだから、当日も散歩をしたばかりだと云い抜けることが出来る。
彼はよくその辺りを散歩することがあるのだから、当日も散歩をしただけだと言い逃れることができる。
原文: と同時に一方に於て、彼が目的の家に行く途中で、知合いの人に見られた場合(これはどうしても勘定に入れて置かねばならぬ)妙な変装をしている方がいいか、ふだんの通り正服正帽でいる方がいいか、考えて見るまでもないことだ。
それと同時に、一方では、彼が目的の家へ行く途中で知り合いに見られた場合(これはどうしても計算に入れておかねばならない)、妙な変装をしているほうがいいか、ふだんどおり制服制帽でいるほうがいいか、考えてみるまでもないことだ。
原文: 犯罪の時間についても待ちさえすれば都合よい夜が――斎藤も女中も不在の夜があることは分っているのに、何故彼は危険な昼間を選んだか。
犯行の時間についても、待ちさえすれば都合のよい夜が——斎藤も女中も不在の夜があることは分かっているのに、なぜ彼は危険な昼間を選んだのか。
原文: これも服装の場合と同じく、犯罪から不必要な秘密性を除く為だった。
これも服装の場合と同じく、犯罪から不必要な秘密めいた要素を取り除くためだった。
原文: 併し目的の家の前に立った時だけは、流石の彼も、普通の泥棒の通りに、いや恐らく彼等以上に、ビクビクして前後左右を見廻した。
しかし目的の家の前に立ったときだけは、さすがの彼も、普通の泥棒と同じように、いやおそらく彼ら以上に、びくびくして前後左右を見回した。
原文: 老婆の家は、両隣とは生垣で境した一軒建ちで、向側には、ある富豪の邸宅の高いコンクリート塀が、ずっと一町も続いていた。
老婆の家は、両隣とは生垣で仕切られた一軒家で、向かい側にはある富豪の邸宅の高いコンクリート塀が、ずっと百メートルほども続いていた。
原文: 淋しい屋敷町だから、昼間でも時々はまるで人通りのないことがある。
寂しい屋敷町だから、昼間でも時々はまったく人通りのないことがある。
原文: 蕗屋がそこへ辿りついた時も、いい鹽梅に、通りには犬の子一匹見当らなかった。
蕗屋がそこへたどり着いたときも、うまい具合に、通りには犬の子一匹見当たらなかった。
原文: 彼は、普通に開けば馬鹿にひどい金属性の音のする格子戸を、ソロリソロリと少しも音を立てない様に開閉した。
彼は、普通に開ければばかにひどい金属音のする格子戸を、そろりそろりと少しも音を立てないように開け閉めした。
原文: そして、玄関の土間から、極く低い声で(これらは隣家への用心だ)案内を乞うた。
そして、玄関の土間から、ごく低い声で(これらはすべて隣家への用心だ)案内を請うた。
原文: 老婆が出て来ると、彼は、斎藤のことについて少し内密に話し度いことがあるという口実で、奥の間に通った。
老婆が出て来ると、彼は、斎藤のことについて少し内密に話したいことがあるという口実で、奥の間へ通った。
原文: 座が定まると間もなく、「あいにく女中が居りませんので」
座が落ち着いて間もなく、「あいにく女中がおりませんので」
原文: と断りながら、老婆はお茶を汲みに立った。
と断りながら、老婆はお茶を汲みに立った。
原文: 蕗屋はそれを、今か今かと待構えていたのだ。
蕗屋はそれを、今か今かと待ち構えていたのだ。
原文: 彼は、老婆が襖を開ける為に少し身を屈めた時、やにわに後から抱きついて、両腕を使って(手袋ははめていたけれども、なるべく指の痕はつけまいとしてだ)力まかせに首を絞めた。
彼は、老婆が襖を開けるために少し身をかがめたとき、いきなり後ろから抱きつき、両腕を使って(手袋ははめていたが、なるべく指の跡はつけまいとしてだ)力まかせに首を絞めた。
原文: 老婆は咽の所でグッという様な音を出したばかりで、大して藻掻きもしなかった。
老婆は喉のところでグッというような音を出しただけで、大して抵抗もしなかった。
原文: ただ、苦しまぎれに空を掴んだ指先が、そこに立ててあった屏風に触れて、少しばかり傷を拵えた。
ただ、苦しまぎれに空をつかんだ指先が、そこに立ててあった屏風に触れて、少しばかり傷をつけた。
原文: それは二枚折の時代のついた金屏風で、極彩色の六歌仙が描かれていたが、その丁度小野の小町の顔の所が、無惨にも一寸許り破れたのだ。
それは二枚折りの古びた金屏風で、極彩色の六歌仙が描かれていたが、そのちょうど小野小町の顔のところが、無残にも三センチほど破れたのだ。
原文: 老婆の息が絶えたのを見定めると、彼は死骸をそこへ横にして、一寸気になる様子で、その屏風の破れを眺めた。
老婆の息が絶えたのを見届けると、彼は死体をそこへ横たえ、少し気になる様子で、その屏風の破れを眺めた。
原文: 併しよく考えて見れば、少しも心配することはない。
しかしよく考えてみれば、少しも心配することはない。
原文: こんなものが何の証拠になる筈もないのだ。
こんなものが何の証拠になるはずもないのだ。
原文: そこで、彼は目的の床の間へ行って、例の松の木の根元を持って、土もろともスッポリと植木鉢から引抜いた。
そこで、彼は目当ての床の間へ行き、例の松の木の根元を持って、土もろともすっぽりと植木鉢から引き抜いた。
原文: 予期した通り、その底には油紙で包んだものが入れてあった。
予想したとおり、その底には油紙で包んだものが入れてあった。
原文: 彼は落ちつきはらって、その包みを解いて、右のポケットから一つの新しい大型の財布を取出し、紙幣を半分ばかり(十分五千円はあった)その中に入れると、財布を元のポケットに納め、残った紙幣は油紙に包んで前の通りに植木鉢の底へ隠した。
彼は落ち着きはらってその包みを解き、右のポケットから一つの新しい大型の財布を取り出すと、紙幣を半分ほど(十分に五千円はあった)その中に入れ、財布を元のポケットに納め、残った紙幣は油紙に包んで元どおり植木鉢の底へ隠した。
原文: 無論、これは金を盗んだという証跡を晦ます為だ。
もちろん、これは金を盗んだという痕跡をくらますためだ。
原文: 老婆の貯金の高は、老婆自身が知っていたばかりだから、それが半分になったとて、誰も疑う筈はないのだ。
老婆の貯金の額は老婆自身しか知らなかったのだから、それが半分になったところで、誰も疑うはずはないのだ。
原文: それから、彼はそこにあった座蒲団を丸めて老婆の胸にあてがい(これは血潮の飛ばぬ用心だ)左のポケットから一挺のジャックナイフを取出して歯を開くと、心臓をめがけてグサッと突差し、グイと一つ抉って置いて引抜いた。
それから、彼はそこにあった座布団を丸めて老婆の胸にあてがい(これは血が飛ばないための用心だ)、左のポケットから一挺のジャックナイフを取り出して刃を開くと、心臓をめがけてぐさりと突き刺し、ぐいと一つえぐっておいて引き抜いた。
原文: そして、同じ座蒲団の布でナイフの血のりを綺麗に拭き取り、元のポケットへ納めた。
そして、同じ座布団の布でナイフの血のりをきれいに拭き取り、元のポケットへ納めた。
原文: 彼は、絞め殺しただけでは、蘇生の虞れがあると思ったのだ。
彼は、絞め殺しただけでは生き返る恐れがあると思ったのだ。
原文: つまり昔のとどめを刺すという奴だ。
つまり、昔でいう「とどめを刺す」というやつだ。
原文: では、何故最初から刃物を使用しなかったかというと、そうしてはひょっとして自分の着物に血潮がかかるかも知れないことを虞れたのだ。
では、なぜ最初から刃物を使わなかったかというと、そうすればひょっとして自分の着物に血がかかるかもしれないことを恐れたのだ。
原文: ここで一寸、彼が紙幣を入れた財布と今のジャックナイフについて説明して置かねばならぬ。
ここで少し、彼が紙幣を入れた財布と、今のジャックナイフについて説明しておかねばならない。
原文: 彼は、それらを、この目的丈けに使う為に、ある縁日の露店で買求めたのだ。
彼はそれらを、この目的のためだけに使うつもりで、ある縁日の露店で買い求めたのだ。
原文: 彼はその縁日の最も賑う時分を見計らって、最も客の込んでいる店を選び、正札通りの小銭を投出して、品物を取ると、商人は勿論、沢山の客達も、彼の顔を記憶する暇がなかった程、非常に素早く姿を晦ました。
彼はその縁日の最もにぎわう時分を見計らい、最も客の混んでいる店を選んで、正札どおりの小銭を投げ出し、品物を取ると、店の者はもちろん、大勢の客たちも彼の顔を覚える暇がなかったほど、非常に素早く姿をくらました。
原文: そして、この品物は両方とも、極くありふれた何の目印もあり得ない様なものだった。
そして、この品物は両方とも、ごくありふれた、何の目印もありようがないものだった。
原文: さて、蕗屋は、十分注意して少しも手掛りが残っていないのを確めた後、襖のしまりも忘れないでゆっくりと玄関へ出て来た。
さて、蕗屋は、十分注意して少しも手がかりが残っていないことを確かめたあと、襖を閉めるのも忘れずに、ゆっくりと玄関へ出て来た。
原文: 彼はそこで靴の紐を締めながら、足跡のことを考えて見た。
彼はそこで靴の紐を締めながら、足跡のことを考えてみた。
原文: だが、その点は更らに心配がなかった。
だが、その点はさらに心配がなかった。
原文: 玄関の土間は堅い漆喰だし、表の通りは天気続きでカラカラに乾いていた。
玄関の土間は硬い漆喰だし、表の通りは晴天続きでからからに乾いていた。
原文: あとには、もう格子戸を開けて表へ出ることが残っているばかりだ。
あとは、もう格子戸を開けて表へ出ることが残っているばかりだ。
原文: だが、ここでしくじる様なことがあっては、凡ての苦心が水の泡だ。
だが、ここでしくじるようなことがあっては、すべての苦心が水の泡だ。
原文: 彼はじっと耳を澄して、辛抱強く表通りの跫音を聞こうとした。……
彼はじっと耳を澄まし、辛抱強く表通りの足音を聞き取ろうとした……。
原文: しんとして何の気はいもない。
しんとして何の気配もない。
原文: どこかの内で琴を弾じる音がコロリンシャンと至極のどかに聞えているばかりだ。
どこかの家で琴を弾く音がコロリンシャンと、いたってのどかに聞こえているばかりだ。
原文: 彼は思切って、静かに格子戸を開けた。
彼は思いきって、静かに格子戸を開けた。
原文: そして、何気なく、今暇をつげたお客様だという様な顔をして、往来へ出た。
そして、何気なく、今いとまを告げてきた客だとでもいうような顔をして、往来へ出た。
原文: 案の定そこには人影もなかった。
案の定、そこには人影もなかった。
原文: その一劃はどの通りも淋しい屋敷町だった。
その一帯はどの通りも寂しい屋敷町だった。
原文: 老婆の家から四五町隔った所に、何かの社の古い石垣が、往来に面してずっと続いていた。
老婆の家から五百メートルほど離れた所に、何かの神社の古い石垣が、往来に面してずっと続いていた。
原文: 蕗屋は、誰も見ていないのを確めた上、そこの石垣の隙間から兇器のジャックナイフと血のついた手袋とを落し込んだ。
蕗屋は、誰も見ていないのを確かめたうえで、その石垣の隙間から凶器のジャックナイフと血のついた手袋を落とし込んだ。
原文: そして、いつも散歩の時には立寄ることにしていた、附近の小さい公園を目ざしてブラブラと歩いて行った。
そして、いつも散歩のときには立ち寄ることにしていた、近くの小さな公園を目指してぶらぶらと歩いていった。
原文: 彼は公園のベンチに腰をかけ、子供達がブランコに乗って遊んでいるのを、如何にも長閑な顔をして眺めながら、長い時間を過した。
彼は公園のベンチに腰かけ、子供たちがブランコに乗って遊んでいるのを、いかにものどかな顔で眺めながら、長い時間を過ごした。
原文: 帰りがけに、彼は警察署へ立寄った。
帰りがけに、彼は警察署へ立ち寄った。
原文: そして、
そして、
原文: 「今し方、この財布を拾ったのです。大分沢山入っている様ですから、お届けします」
「今しがた、この財布を拾ったのです。ずいぶんたくさん入っているようですから、お届けします」
原文: と云い乍ら、例の財布をさし出した。
と言いながら、例の財布を差し出した。
原文: 彼は巡査の質問に答えて、拾った場所と時間と(勿論それは可能性のある出鱈目なのだ)自分の住所姓名と(これはほんとうの)を答えた。
彼は巡査の質問に答えて、拾った場所と時間(もちろんそれはありそうな作り話だ)、そして自分の住所と姓名(これは本当のもの)を答えた。
原文: そして、印刷した紙に彼の姓名や金額などを書き入れた受取証見たいなものを貰った。
そして、印刷された紙に彼の姓名や金額などを書き入れた、受取証のようなものをもらった。
原文: なる程、これは非常に迂遠な方法には相違ない。
なるほど、これは非常に回りくどい方法には違いない。
原文: 併し安全という点では最上だ。
しかし安全という点では最上だ。
原文: 老婆の金は(半分になったことは誰も知らない)ちゃんと元の場所にあるのだから、この財布の遺失主は絶対に出る筈がない。
老婆の金は(半分になったことは誰も知らない)ちゃんと元の場所にあるのだから、この財布の落とし主は絶対に出るはずがない。
原文: 一年の後には間違なく蕗屋の手に落ちるのだ。
一年後には間違いなく蕗屋の手に落ちるのだ。
原文: そして、誰憚らず大びらに使えるのだ。
そして、誰にはばかることなく大っぴらに使えるのだ。
原文: 彼は考え抜いた揚句この手段を採った。
彼は考え抜いたあげく、この手段を採った。
原文: 若しこれをどこかへ隠して置くとするか、どうした偶然から他人に横取りされまいものでもない。
もしこれをどこかへ隠しておくとすれば、どんな偶然から他人に横取りされないともかぎらない。
原文: 自分で持っているか、それはもう考えるまでもなく危険なことだ。
自分で持っているのは、もう考えるまでもなく危険なことだ。
原文: のみならず、この方法によれば、万一老婆が紙幣の番号を控えていたとしても少しも心配がないのだ。
のみならず、この方法によれば、万一老婆が紙幣の番号を控えていたとしても少しも心配がないのだ。
原文: (尤もこの点は出来る丈け探って、大体安心はしていたけれど)
(もっともこの点はできるだけ探ってあって、だいたい安心はしていたけれど)
原文: 「まさか、自分の盗んだ品物を警察へ届ける奴があろうとは、ほんとうにお釈迦様でも御存じあるまいよ」
「まさか、自分の盗んだ品物を警察へ届ける奴があろうとは、本当にお釈迦様でもご存じあるまいよ」
原文: 彼は笑いをかみ殺しながら、心の中で呟いた。
彼は笑いをかみ殺しながら、心の中でつぶやいた。
原文: 翌日、蕗屋は、下宿の一室で、常と変らぬ安眠から目覚めると、欠伸をしながら、枕許に配達されていた新聞を拡げて、社会面を見渡した。
翌日、蕗屋は、下宿の一室で、いつもと変わらぬ安眠から目覚めると、あくびをしながら、枕元に配達されていた新聞を広げて、社会面を見渡した。
原文: 彼はそこに意外な事実を発見して一寸驚いた。
彼はそこに意外な事実を見つけて少し驚いた。
原文: だが、それは、決して心配する様な事柄ではなく、却って彼の為には予期しない仕合せだった。
だが、それは決して心配するような事柄ではなく、かえって彼にとっては思いがけない幸運だった。
原文: というのは、友人の斎藤が嫌疑者として挙げられたのだ。
というのは、友人の斎藤が容疑者として検挙されたのだ。
原文: 嫌疑を受けた理由は、彼が身分不相応の大金を所持していたからだと記してある。
疑いを受けた理由は、彼が身分不相応の大金を所持していたからだと記してある。
原文: 「俺は斎藤の最も親しい友達なのだから、ここで警察へ出頭して、色々問い訊すのが自然だな」
「俺は斎藤の最も親しい友達なのだから、ここで警察へ出頭して、いろいろ問いただすのが自然だな」
原文: 蕗屋は早速着物を着換えると、遽てて警察署へ出掛けた。
蕗屋は早速着替えると、慌てて警察署へ出かけた。
原文: それは彼が昨日財布を届けたのと同じ役所だ。
それは彼が昨日財布を届けたのと同じ役所だ。
原文: 何故財布を届けるのを管轄の違う警察にしなかったか。
なぜ財布を届けるのを管轄の違う警察にしなかったのか。
原文: いや、それとても亦、彼一流の無技巧主義で態としたことなのだ。
いや、それもまた、彼一流の小細工を弄さない主義で、わざとそうしたことなのだ。
原文: 彼は、過不足のない程度に心配相な顔をして、斎藤に逢わせて呉れと頼んだ。
彼は、過不足のない程度に心配そうな顔をして、斎藤に会わせてくれと頼んだ。
原文: 併し、それは予期した通り許されなかった。
しかし、それは予想したとおり許されなかった。
原文: そこで、彼は、斎藤が嫌疑を受けた訳を色々と問い訊して、ある程度まで事情を明かにすることが出来た。
そこで彼は、斎藤が疑いを受けた事情をいろいろと問いただして、ある程度まで事情を明らかにすることができた。
原文: 蕗屋は次の様に想像した。
蕗屋は次のように想像した。
原文: 昨日、斎藤は女中よりも先に家に帰った。
昨日、斎藤は女中よりも先に家に帰った。
原文: それは蕗屋が目的を果して立去ると間もなくだった。
それは蕗屋が目的を果たして立ち去ってから間もなくだった。
原文: そして、当然老婆の死骸を発見した。
そして、当然ながら老婆の死体を発見した。
原文: 併し、直ちに警察に届ける前に、彼はあることを思いついたに相違ない。
しかし、すぐに警察へ届ける前に、彼はあることを思いついたに違いない。
原文: というのは、例の植木鉢だ。
というのは、例の植木鉢だ。
原文: 若しこれが盗賊の仕業なれば、或はあの中の金がなくなってはいはしないか。
もしこれが盗賊の仕業なら、ひょっとしてあの中の金がなくなってはいないだろうか。
原文: 多分それは一寸した好奇心からだったろう。
たぶんそれは、ちょっとした好奇心からだったろう。
原文: 彼はそこを検べて見た。
彼はそこを調べてみた。
原文: ところが、案外にも金の包がちゃんとあったのだ。
ところが、意外にも金の包みがちゃんとあったのだ。
原文: それを見て斎藤が悪心を起したのは、実に浅はかな考えではあるが無理もないことだ。
それを見て斎藤が出来心を起こしたのは、実に浅はかな考えではあるが、無理もないことだ。
原文: その隠し場所は誰れも知らないこと、老婆を殺した犯人が盗んだという解釈が下されるに違いないこと。
その隠し場所は誰も知らないこと、老婆を殺した犯人が盗んだという解釈が下されるに違いないこと。
原文: こうした事情は、誰にしても避け難い強い誘惑に相違ない。
こうした事情は、誰にとっても避けがたい強い誘惑に違いない。
原文: それから彼はどうしたか、警官の話では、何食わぬ顔をして人殺しのあったことを警察へ届け出たということだ。
それから彼はどうしたか。警官の話では、何食わぬ顔で人殺しがあったことを警察へ届け出たということだ。
原文: ところが、何という無分別な男だ。
ところが、なんという思慮の足りない男だ。
原文: 彼は盗んだ金を腹巻の間へ入れたまま、平気でいたのだ。
彼は盗んだ金を腹巻の間に入れたまま、平気でいたのだ。
原文: まさか其場で身体検査をされようとは想像しなかったと見えて。
まさかその場で身体検査をされようとは想像しなかったと見えて。
原文: 「だが待てよ。斎藤は一体どういう風に弁解するだろう。次第によっては危険なことになりはしないかな」
「だが待てよ。斎藤はいったいどんなふうに弁解するだろう。次第によっては危険なことになりはしないかな」
原文: 蕗屋はそれを色々と考えて見た。
蕗屋はそれをいろいろと考えてみた。
原文: 彼は金を見つけられた時、「自分のだ」
彼は金を見つけられたとき、「自分のものだ」
原文: と答えたかも知れない。
と答えたかもしれない。
原文: なる程老婆の財産の多寡や隠し場所は誰も知らないのだから、一応はその弁明も成立つであろう。
なるほど老婆の財産の額や隠し場所は誰も知らないのだから、一応はその弁明も成り立つだろう。
原文: 併し、金額が余り多すぎるではないか。
しかし、金額があまりに多すぎるではないか。
原文: で、結局彼は事実を申立てることになるだろう。
それで、結局彼は事実を申し立てることになるだろう。
原文: でも、裁判所がそれを承認するかな。
でも、裁判所がそれを認めるだろうか。
原文: 外に嫌疑者が出れば兎も角、それまでは彼を無罪にすることは先ずあるまい。
ほかに容疑者が出ればともかく、それまでは彼を無罪にすることはまずあるまい。
原文: うまく行けば、彼が殺人罪に問われるかも知れたものではない。
うまくいけば、彼が殺人罪に問われないともかぎらない。
原文: そうなればしめたものだが、……ところで、裁判官が彼を問詰めて行く内に、色々な事実が分って来るだろうな。
そうなればしめたものだが……。ところで、裁判官が彼を問い詰めていくうちに、いろいろな事実が分かってくるだろうな。
原文: 例えば、彼が金の隠し場所を発見した時に俺に話したことだとか、兇行の二日前に俺が老婆の部屋に入って話込んだことだとか、さては、俺が貧乏で学資にも困っていることだとか。
たとえば、彼が金の隠し場所を見つけたときに俺に話したことだとか、犯行の二日前に俺が老婆の部屋に入って話し込んだことだとか、さらには、俺が貧乏で学費にも困っていることだとか。
原文: 併し、これらは皆、蕗屋がこの計画を立てる前に予め勘定に入れて置いたことばかりだった。
しかし、これらはみな、蕗屋がこの計画を立てる前にあらかじめ計算に入れておいたことばかりだった。
原文: そして、どんなに考えても、斎藤の口からそれ以上彼にとって不利な事実が引出されようとは考えられなかった。
そして、どんなに考えても、斎藤の口からそれ以上に彼にとって不利な事実が引き出されようとは考えられなかった。
原文: 蕗屋は警察から帰ると、遅れた朝食を認めて(その時食事を運んで来た女中に事件について話して聞かせたりした)いつもの通り学校へ出た。
蕗屋は警察から帰ると、遅い朝食をとって(そのとき食事を運んで来た女中に事件について話して聞かせたりした)、いつもどおり学校へ出た。
原文: 学校では斎藤の噂で持切りだった。
学校では斎藤の噂で持ちきりだった。
原文: 彼はなかば得意気にその噂話の中心になって喋った。
彼は半ば得意げに、その噂話の中心になって喋った。
原文: 三
三
原文: さて読者諸君、探偵小説というものの性質に通暁せらるる諸君は、お話は決してこれ切りで終らぬことを百も御承知であろう。
さて読者諸君、探偵小説というものの性質をよくご存じの諸君は、話が決してこれきりで終わらないことを百も承知だろう。
原文: 如何にもその通りである。
まさにそのとおりである。
原文: 実を云えばここまでは、この物語の前提に過ぎないので、作者が是非、諸君に読んで貰い度いと思うのは、これから後なのである。
実を言えばここまでは、この物語の前置きにすぎないので、作者がぜひ諸君に読んでもらいたいと思うのは、これから後なのである。
原文: つまり、かくも企らんだ蕗屋の犯罪が如何にして発覚したかというそのいきさつについてである。
つまり、これほど周到に企てられた蕗屋の犯罪が、どうやって発覚したかという、そのいきさつについてである。
原文: この事件を担当した予審判事は、有名な笠森氏であった。
この事件を担当した予審判事は、有名な笠森氏であった。
原文: 彼は普通の意味で名判事だったばかりでなく、ある多少風変りな趣味を持っているので一層有名だった。
彼は普通の意味で名判事だったばかりでなく、少々風変わりな趣味を持っていることでも、いっそう有名だった。
原文: それは、彼が一種の素人心理学者だったことで、彼は普通のやり方ではどうにも判断の下し様がない事件に対しては、最後に、その豊富な心理学上の智識を利用して、屡々奏効した。
それは、彼が一種の素人心理学者だったことで、彼は普通のやり方ではどうにも判断の下しようがない事件に対しては、最後に、その豊富な心理学の知識を使って、しばしば成果を上げた。
原文: 彼は経歴こそ浅く、年こそ若かったけれど、地方裁判所の一予審判事としては、勿体ない程の俊才だった。
彼は経歴こそ浅く、年こそ若かったけれど、地方裁判所の一予審判事としてはもったいないほどの俊才だった。
原文: 今度の老婆殺し事件も、笠森判事の手にかかれば、もう訳なく解決することと、誰しも考えていた。
今度の老婆殺し事件も、笠森判事の手にかかればもう訳なく解決するだろうと、誰もが考えていた。
原文: 当の笠森氏自身も同じ様に考えた。
当の笠森氏自身も同じように考えた。
原文: いつもの様に、この事件も、予審廷ですっかり調べ上げて、公判の場合にはいささかの面倒も残っていぬ様に処理してやろうと思っていた。
いつものように、この事件も予審廷ですっかり調べ上げて、公判の際にはいささかの面倒も残らないよう処理してやろうと思っていた。
原文: ところが、取調を進めるに随って、事件の困難なことが段々分って来た。
ところが、取り調べを進めるにつれて、事件が難しいことが次第に分かってきた。
原文: 警察署等は単純に斎藤勇の有罪を主張した。
警察署などは単純に斎藤勇の有罪を主張した。
原文: 笠森判事とても、その主張に一理あることを認めないではなかった。
笠森判事とても、その主張に一理あることを認めないではなかった。
原文: というのは生前老婆の家に出入りした形跡のある者は、彼女の債務者であろうが、借家人であろうが、単なる知合であろうが、残らず召喚して綿密に取調べたにも拘らず、一人として疑わしい者はないのだ。
というのは、生前の老婆の家に出入りした形跡のある者は、彼女の債務者だろうが、借家人だろうが、単なる知り合いだろうが、残らず呼び出して綿密に取り調べたにもかかわらず、一人として疑わしい者がいないのだ。
原文: 蕗屋清一郎も勿論その内の一人だった。
蕗屋清一郎ももちろんそのうちの一人だった。
原文: 外に嫌疑者が現れぬ以上、さしずめ最も疑うべき斎藤勇を犯人と判断する外はない。
ほかに容疑者が現れない以上、さしあたり最も疑うべき斎藤勇を犯人と判断するほかはない。
原文: のみならず、斎藤にとって最も不利だったのは、彼が生来気の弱い質で、一も二もなく法廷の空気に恐れをなして了って、訊問に対してもハキハキ答弁の出来なかったことだ。
のみならず、斎藤にとって最も不利だったのは、彼が生まれつき気の弱い性質で、頭から法廷の空気に恐れをなしてしまい、尋問に対してもはきはきと答弁ができなかったことだ。
原文: のぼせ上った彼は、屡々以前の陳述を取消したり、当然知っている筈の事を忘れて了ったり、云わずともの不利な申立をしたり、あせればあせる程、益々嫌疑を深くする計りだった。
のぼせ上がった彼は、たびたび以前の陳述を取り消したり、当然知っているはずのことを忘れてしまったり、言わなくてもいい不利な申し立てをしたりで、焦れば焦るほど、ますます疑いを深くするばかりだった。
原文: それというのも、彼には老婆の金を盗んだという弱味があったからで、それさえなければ、相当頭のいい斎藤のことだから如何に気が弱いといって、あの様なへまな真似はしなかっただろうに、彼の立場は実際同情すべきものだった。
それというのも、彼には老婆の金を盗んだという弱みがあったからで、それさえなければ、相当に頭のいい斎藤のことだから、いくら気が弱いといっても、あんなへまはしなかっただろうに、彼の立場は実際同情すべきものだった。
原文: 併し、それでは斎藤を殺人犯と認めるかというと、笠森氏にはどうもその自信がなかった。
しかし、それでは斎藤を殺人犯と認めるかというと、笠森氏にはどうもその自信がなかった。
原文: そこにはただ疑いがあるばかりなのだ。
そこにはただ疑いがあるばかりなのだ。
原文: 本人は勿論自白せず、外にこれという確証もなかった。
本人はもちろん自白せず、ほかにこれという確証もなかった。
原文: こうして、事件から一ヶ月が経過した。
こうして、事件から一か月が経過した。
原文: 予審はまだ終結しない。
予審はまだ終結しない。
原文: 判事は少しあせり出していた。
判事は少し焦り出していた。
原文: 丁度その時、老婆殺しの管轄の警察署長から、彼の所へ一つの耳よりな報告が齎らされた。
ちょうどそのとき、老婆殺しを管轄する警察署長から、彼のもとへ一つの耳寄りな報告がもたらされた。
原文: それは事件の当日五千二百何十円在中の一個の財布が、老婆の家から程遠からぬ――町に於て拾得されたが、その届主が、嫌疑者の斎藤の親友である蕗屋清一郎という学生だったことを、係りの者の疎漏から今日まで気附かずにいた。
それは、事件の当日、五千二百何十円の入った財布一個が、老婆の家からさほど遠くない――町で拾われたが、その届け出人が容疑者の斎藤の親友である蕗屋清一郎という学生だったことを、係の者の手落ちから今日まで気づかずにいた、というものだった。
原文: が、その大金の遺失者が一ヶ月たっても現れぬ所を見ると、そこに何か意味がありはしないか。
が、その大金の落とし主が一か月経っても現れないところを見ると、そこに何か意味がありはしないか。
原文: 念の為に御報告するということだった。
念のためにご報告する、ということだった。
原文: 困り抜いていた笠森判事は、この報告を受取って、一道の光明を認めた様に思った。
困り抜いていた笠森判事は、この報告を受け取って、一筋の光明を見出したように思った。
原文: 早速蕗屋清一郎召喚の手続が取り運ばれた。
早速、蕗屋清一郎を召喚する手続きが進められた。
原文: ところが、蕗屋を訊問した結果は、判事の意気込みにも拘らず、大して得る所もない様に見えた。
ところが、蕗屋を尋問した結果は、判事の意気込みにもかかわらず、大して得るところもないように見えた。
原文: 何故、事件の当時取調べた際、その大金拾得の事実を申立てなかったかという訊問に対して、彼は、それが殺人事件に関係があるとは思わなかったからだと答えた。
なぜ、事件当時に取り調べた際、その大金を拾った事実を申し立てなかったのかという尋問に対して、彼は、それが殺人事件に関係があるとは思わなかったからだと答えた。
原文: この答弁には十分理由があった。
この答弁には十分な理由があった。
原文: 老婆の財産は斎藤の腹巻の中から発見されたのだから、それ以外の金が、殊に往来に遺失されていた金が、老婆の財産の一部だと誰れが想像しよう。
老婆の財産は斎藤の腹巻の中から発見されたのだから、それ以外の金が、しかも往来に落ちていた金が、老婆の財産の一部だなどと誰が想像しよう。
原文: 併し、これが偶然であろうか。
しかし、これが偶然だろうか。
原文: 事件の当日、現場から余り遠くない所で、しかも第一の嫌疑者の親友である男が(斎藤の申立によれば彼は植木鉢の隠し場所をも知っていたのだ)この大金を拾得したというのが、これが果して偶然であろうか。
事件の当日、現場からさほど遠くない所で、しかも第一の容疑者の親友である男が(斎藤の申し立てによれば、彼は植木鉢の隠し場所も知っていたのだ)この大金を拾ったというのが、果たして偶然だろうか。
原文: 判事はそこに何かの意味を発見しようとして悶えた。
判事はそこに何かの意味を見つけ出そうとしてもがいた。
原文: 判事の最も残念に思ったのは、老婆が紙幣の番号を控えて置かなかったことだ。
判事が最も残念に思ったのは、老婆が紙幣の番号を控えておかなかったことだ。
原文: それさえあれば、この疑わしい金が、事件に関係があるかないかも、直ちに判明するのだが。
それさえあれば、この疑わしい金が事件に関係あるかないかも、ただちに判明するのだが。
原文: 「どんな小さなことでも、何か一つ確かな手掛りを掴みさえすればなあ」
「どんな小さなことでもいい、何か一つ確かな手がかりをつかみさえすればなあ」
原文: 判事は全才能を傾けて考えた。
判事は全能力を傾けて考えた。
原文: 現場の取調べも幾度となく繰返された。
現場の取り調べも幾度となく繰り返された。
原文: 老婆の親族関係も十分調査した。
老婆の親族関係も十分に調査した。
原文: 併し何の得る所もない。
しかし何の得るところもない。
原文: そうして又半月ばかり徒らに経過した。
そうしてまた半月ばかりが無駄に過ぎた。
原文: たった一つの可能性は、と判事が考えた。
たった一つの可能性は、と判事は考えた。
原文: 蕗屋が老婆の貯金を半分盗んで、残りを元通りに隠して置き、盗んだ金を財布に入れて、往来で拾った様に見せかけたと推定することだ。
蕗屋が老婆の貯金を半分盗み、残りを元どおりに隠しておいて、盗んだ金を財布に入れ、往来で拾ったように見せかけた、と推定することだ。
原文: だが、そんな馬鹿なことがあり得るだろうか。
だが、そんな馬鹿なことがありうるだろうか。
原文: その財布も無論検べて見たけれど、これという手掛りもない。
その財布ももちろん調べてみたけれど、これという手がかりもない。
原文: それに、蕗屋は平気で、当日散歩のみちすがら、老婆の家の前を通ったと申立てているではないか。
それに、蕗屋は平気で、当日は散歩の道すがら老婆の家の前を通ったと申し立てているではないか。
原文: 犯人にこんな大胆なことが云えるものだろうか。
犯人にこんな大胆なことが言えるものだろうか。
原文: 第一、最も大切な兇器の行方が分らぬ。
第一、最も大切な凶器の行方が分からない。
原文: 蕗屋の下宿の家宅捜索の結果は、何物をも齎らさなかったのだ。
蕗屋の下宿を家宅捜索した結果は、何ももたらさなかったのだ。
原文: 併し、兇器のことをいえば、斎藤とても同じではないか。
しかし、凶器のことを言うなら、斎藤とても同じではないか。
原文: では一体誰れを疑ったらいいのだ。
では、いったい誰を疑ったらいいのだ。
原文: そこには確証というものが一つもなかった。
そこには確証というものが一つもなかった。
原文: 署長等の云う様に、斎藤を疑えば斎藤らしくもある。
署長たちの言うように、斎藤を疑えば斎藤らしくもある。
原文: だが又、蕗屋とても疑って疑えぬことはない。
だがまた、蕗屋とても疑おうと思えば疑えないことはない。
原文: ただ、分っているのは、この一ヶ月半のあらゆる捜索の結果、彼等二人を除いては、一人の嫌疑者も存在しないということだった。
ただ分かっているのは、この一か月半のあらゆる捜索の結果、彼ら二人を除いては、一人の容疑者も存在しないということだった。
原文: 万策尽きた笠森判事は愈々奥の手を出す時だと思った。
万策尽きた笠森判事は、いよいよ奥の手を出すときだと思った。
原文: 彼は二人の嫌疑者に対して、彼の従来屡々成功した心理試験を施そうと決心した。
彼は二人の容疑者に対して、これまでたびたび成功してきた心理試験を行おうと決心した。
原文: 四
四
原文: 蕗屋清一郎は、事件の二三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名な素人心理学者の笠森氏だということを知った。
蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、担当の予審判事が有名な素人心理学者の笠森氏だということを知った。
原文: そして、当時已にこの最後の場合を予想して少なからず狼狽した。
そして、そのときすでにこの最後の場面を予想して、少なからず狼狽した。
原文: 流石の彼も、日本に仮令一個人の道楽気からとは云え、心理試験などというものが行われていようとは想像していなかった。
さすがの彼も、日本で、たとえ一個人の道楽からとはいえ、心理試験などというものが行われていようとは想像していなかった。
原文: 彼は、種々の書物によって、心理試験の何物であるかを、知り過ぎる程知っていたのだ。
彼は、さまざまな書物によって、心理試験がどういうものかを知りすぎるほど知っていたのだ。
原文: この大打撃に、最早や平気を装って通学を続ける余裕を失った彼は、病気と称して下宿の一室にとじ籠った。
この大打撃に、もはや平気を装って通学を続ける余裕を失った彼は、病気と称して下宿の一室に閉じこもった。
原文: そして、ただ、如何にしてこの難関を切抜けるべきかを考えた。
そして、ただ、どうやってこの難関を切り抜けるべきかを考えた。
原文: 丁度、殺人を実行する以前にやったと同じ、或はそれ以上の、綿密と熱心を以て考え続けた。
ちょうど、殺人を実行する前にやったのと同じ、いやそれ以上の綿密さと熱心さで考え続けた。
原文: 笠森判事は果してどの様な心理試験を行うであろうか。
笠森判事は果たしてどのような心理試験を行うだろうか。
原文: それは到底予知することが出来ない。
それはとうてい予知することができない。
原文: で、蕗屋は知っている限りの方法を思出して、その一つ一つについて、何とか対策がないものかと考えて見た。
そこで蕗屋は、知っているかぎりの方法を思い出して、その一つ一つについて、何とか対策がないものかと考えてみた。
原文: 併し、元来心理試験というものが、虚偽の申立をあばく為に出来ているのだから、それを更らに偽るということは、理論上不可能らしくもあった。
しかし、そもそも心理試験というものが偽りの申し立てを暴くためにできているのだから、それをさらに偽るということは、理論上不可能のようにも思えた。
原文: 蕗屋の考によれば、心理試験はその性質によって二つに大別することが出来た。
蕗屋の考えによれば、心理試験はその性質によって二つに大きく分けることができた。
原文: 一つは純然たる生理上の反応によるもの、今一つは言葉を通じて行われるものだ。
一つは純然たる生理上の反応によるもの、もう一つは言葉を通じて行われるものだ。
原文: 前者は、試験者が犯罪に関聯した様々の質問を発して、被験者の身体上の微細な反応を、適当な装置によって記録し、普通の訊問によっては、到底知ることの出来ない真実を掴もうとする方法だ。
前者は、試験する側が犯罪に関連したさまざまな質問を発し、被験者の身体に現れるごく細かな反応を適当な装置で記録して、普通の尋問ではとうてい知ることのできない真実をつかもうとする方法だ。
原文: それは、人間は、仮令言葉の上で、又は顔面表情の上で嘘をついても、神経そのものの興奮は隠すことが出来ず、それが微細な肉体上の徴候として現われるものだという理論に基くので、その方法としては、例えば、Automatograph 等の力を借りて、手の微細な動きを発見する方法。
それは、人間はたとえ言葉の上や顔の表情の上で嘘をついても、神経そのものの興奮は隠すことができず、それが微細な肉体上の徴候として現れるものだ、という理論に基づくもので、その方法としては、たとえば Automatograph などの力を借りて手の細かな動きを見つける方法。
原文: ある手段によって眼球の動き方を確める方法。
ある手段によって眼球の動き方を確かめる方法。
原文: Pneumograph によって呼吸の深浅遅速を計る方法。
Pneumograph によって呼吸の深さや速さを計る方法。
原文: Sphygmograph によって脈搏の高低遅速を計る方法。
Sphygmograph によって脈拍の高低や速さを計る方法。
原文: Plethysmograph によって四肢の血量を計る方法。
Plethysmograph によって手足の血量を計る方法。
原文: Galvanometer によって掌の微細なる発汗を発見する方法。
Galvanometer によって手のひらのごくわずかな発汗を見つける方法。
原文: 膝の関節を軽く打って生ずる筋肉の収縮の多少を見る方法、其他これらに類した種々様々の方法がある。
膝の関節を軽く打って生じる筋肉の収縮の大小を見る方法、そのほかこれらに類したさまざまな方法がある。
原文: 例えば、不意に「お前は老婆を殺した本人であろう」
たとえば、不意に「お前が老婆を殺した本人だろう」
原文: と問われた場合、彼は平気な顔で「何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」
と問われた場合、彼は平気な顔で「何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」
原文: と云い返す丈けの自信はある。
と言い返すだけの自信はある。
原文: だが、その時不自然に脈搏が高まったり、呼吸が早くなる様なことはないだろうか。
だが、そのとき不自然に脈拍が速まったり、呼吸が早くなったりすることはないだろうか。
原文: それを防ぐことは絶対に不可能なのではあるまいか。
それを防ぐことは絶対に不可能なのではあるまいか。
原文: 彼は色々な場合を仮定して、心の内で実験して見た。
彼はいろいろな場合を仮定して、心の中で実験してみた。
原文: ところが、不思議なことには、自分自身で発した訊問は、それがどんなにきわどい、不意の思付きであっても、肉体上に変化を及ぼす様には考えられなかった。
ところが、不思議なことに、自分自身で発した質問は、それがどんなにきわどい、不意の思いつきであっても、肉体に変化を及ぼすようには思えなかった。
原文: 無論微細な変化を計る道具がある訳ではないから、確かなことは云えぬけれど、神経の興奮そのものが感じられない以上は、その結果である肉体上の変化も起らぬ筈だった。
もちろん微細な変化を計る道具があるわけではないから確かなことは言えないけれど、神経の興奮そのものが感じられない以上は、その結果である肉体上の変化も起こらないはずだった。
原文: そうして、色々と実験や推量を続けている内に、蕗屋はふとある考にぶッつかった。
そうしていろいろと実験や推測を続けているうちに、蕗屋はふとある考えに行き当たった。
原文: それは、練習というものが心理試験の効果を妨げはしないか、云い換えれば、同じ質問に対しても、一回目よりは二回目が、二回目よりは三回目が、神経の反応が微弱になりはしないかということだった。
それは、練習というものが心理試験の効果を妨げはしないか、言い換えれば、同じ質問に対しても、一回目よりは二回目、二回目よりは三回目のほうが、神経の反応が弱くなりはしないか、ということだった。
原文: つまり、慣れるということだ。
つまり、慣れるということだ。
原文: これは他の色々の場合を考えて見ても分る通り、随分可能性がある。
これはほかのいろいろな場合を考えてみても分かるとおり、ずいぶん可能性がある。
原文: 自分自身の訊問に対して反応がないというのも、結局はこれと同じ理窟で、訊問が発せられる以前に、已に予期がある為に相違ない。
自分自身の質問に対して反応がないというのも、結局はこれと同じ理屈で、質問が発せられる以前にすでに予期があるために違いない。
原文: そこで、彼は「辞林」
そこで彼は「辞林」
原文: の中の何万という単語を一つも残らず調べて見て、少しでも訊問され相な言葉をすっかり書き抜いた。
の中の何万という単語を一つも残らず調べてみて、少しでも質問に使われそうな言葉をすっかり書き抜いた。
原文: そして、一週間もかかって、それに対する神経の「練習」
そして、一週間もかけて、それに対する神経の「練習」
原文: をやった。
をやった。
原文: さて次には、言葉を通じて試験する方法だ。
さて次には、言葉を通じて試験する方法だ。
原文: これとても恐れることはない。
これとても恐れることはない。
原文: いや寧ろ、それが言葉である丈けごまかし易いというものだ。
いやむしろ、それが言葉であるだけごまかしやすいというものだ。
原文: これには色々な方法があるけれど、最もよく行われるのは、あの精神分析家が病人を見る時に用いるのと同じ方法で、聯想診断という奴だ。
これにはいろいろな方法があるけれど、最もよく行われるのは、あの精神分析家が患者を診るときに使うのと同じ方法で、連想診断というやつだ。
原文: 「障子」
「障子」
原文: だとか「机」
だとか「机」
原文: だとか「インキ」
だとか「インク」
原文: だとか「ペン」
だとか「ペン」
原文: だとか、なんでもない単語をいくつも順次に読み聞かせて、出来る丈け早く、少しも考えないで、それらの単語について聯想した言葉を喋らせるのだ。
だとか、何でもない単語をいくつも順に読み聞かせて、できるだけ早く、少しも考えないで、それらの単語から連想した言葉を言わせるのだ。
原文: 例えば、「障子」
たとえば、「障子」
原文: に対しては「窓」
に対しては「窓」
原文: とか「敷居」
とか「敷居」
原文: とか「紙」
とか「紙」
原文: とか「戸」
とか「戸」
原文: とか色々の聯想があるだろうが、どれでも構わない、その時ふと浮んだ言葉を云わせる。
とか、いろいろな連想があるだろうが、どれでも構わない、そのときふと浮かんだ言葉を言わせる。
原文: そして、それらの意味のない単語の間へ、「ナイフ」
そして、それらの意味のない単語の間に、「ナイフ」
原文: だとか「血」
だとか「血」
原文: だとか「金」
だとか「金」
原文: だとか「財布」
だとか「財布」
原文: だとか、犯罪に関係のある単語を、気づかれぬ様に混ぜて置いて、それに対する聯想を検べるのだ。
だとか、犯罪に関係のある単語を気づかれないように混ぜておいて、それに対する連想を調べるのだ。
原文: 先ず第一に、最も思慮の浅い者は、この老婆殺しの事件で云えば「植木鉢」
まず第一に、最も思慮の浅い者は、この老婆殺しの事件で言えば「植木鉢」
原文: という単語に対して、うっかり「金」
という単語に対して、うっかり「金」
原文: と答えるかも知れない。
と答えるかもしれない。
原文: 即ち「植木鉢」
つまり「植木鉢」
原文: の底から「金」
の底から「金」
原文: を盗んだことが最も深く印象されているからだ。
を盗んだことが最も深く印象に残っているからだ。
原文: そこで彼は罪状を自白したことになる。
そうなれば、彼は罪状を自白したことになる。
原文: だが、少し考え深い者だったら、仮令「金」
だが、少し考えの深い者だったら、たとえ「金」
原文: という言葉が浮んでも、それを押し殺して、例えば「瀬戸物」
という言葉が浮かんでも、それを押し殺して、たとえば「瀬戸物」
原文: と答えるだろう。
と答えるだろう。
原文: 斯様な偽りに対して二つの方法がある。
このような偽りに対しては二つの方法がある。
原文: 一つは、一巡試験した単語を、少し時間を置いて、もう一度繰返すのだ。
一つは、ひととおり試験した単語を、少し時間を置いてもう一度繰り返すのだ。
原文: すると、自然に出た答は多くの場合前後相違がないのに、故意に作った答は、十中八九は最初の時と違って来る。
すると、自然に出た答えは多くの場合前後で食い違わないのに、故意に作った答えは、十中八九、最初のときと違ってくる。
原文: 例えば「植木鉢」
たとえば「植木鉢」
原文: に対しては最初は「瀬戸物」
に対して最初は「瀬戸物」
原文: と答え、二度目は「土」
と答え、二度目は「土」
原文: と答える様なものだ。
と答えるようなものだ。
原文: もう一つの方法は、問を発してから答を得るまでの時間を、ある装置によって精確に記録し、その遅速によって、例えば「障子」
もう一つの方法は、問いを発してから答えを得るまでの時間をある装置で正確に記録し、その速い遅いによって判断するもので、たとえば「障子」
原文: に対して「戸」
に対して「戸」
原文: と答えた時間が一秒間であったにも拘らず、「植木鉢」
と答えた時間が一秒だったにもかかわらず、「植木鉢」
原文: に対して「瀬戸物」
に対して「瀬戸物」
原文: と答えた時間が三秒間もかかったとすれば(実際はこんな単純なものではないけれど)それは「植木鉢」
と答えた時間が三秒もかかったとすれば(実際はこんな単純なものではないけれど)、それは「植木鉢」
原文: について最初に現れた聯想を押し殺す為に時間を取ったので、その被験者は怪しいということになるのだ。
について最初に浮かんだ連想を押し殺すために時間を取ったのであって、その被験者は怪しいということになるのだ。
原文: この時間の遅延は、当面の単語に現れないで、その次の意味のない単語に現れることもある。
この時間の遅れは、当の単語には現れず、その次の意味のない単語に現れることもある。
原文: 又、犯罪当時の状況を詳しく話して聞かせて、それを復誦させる方法もある。
また、犯行当時の状況を詳しく話して聞かせ、それを復唱させる方法もある。
原文: 真実の犯人であったら、復誦する場合に、微細な点で、思わず話して聞かされたことと違った真実を口走って了うものなのだ。
本当の犯人であれば、復唱するときに、細かな点で、思わず話して聞かされた内容とは違う真実を口走ってしまうものなのだ。
原文: (心理試験について知っている読者に、余りにも煩瑣な叙述をお詫びせねばならぬ。
(心理試験について知っている読者には、あまりに煩わしい説明をお詫びしなければならない。
原文: が、若しこれを略する時は、外の読者には、物語全体が曖昧になって了うのだから、実に止むを得なかったのである)
が、もしこれを省いてしまうと、ほかの読者には物語全体が曖昧になってしまうのだから、実にやむを得なかったのである)
原文: この種の試験に対しては、前の場合と同じく「練習」
この種の試験に対しては、前の場合と同じく「練習」
原文: が必要なのは云うまでもないが、それよりももっと大切なのは、蕗屋に云わせると、無邪気なことだ。
が必要なのは言うまでもないが、それよりもっと大切なのは、蕗屋に言わせると、無邪気であることだ。
原文: つまらない技巧を弄しないことだ。
つまらない小細工を弄さないことだ。
原文: 「植木鉢」
「植木鉢」
原文: に対しては、寧ろあからさまに「金」
に対しては、むしろあからさまに「金」
原文: 又は「松」
または「松」
原文: と答えるのが、一番安全な方法なのだ。
と答えるのが、いちばん安全な方法なのだ。
原文: というのは蕗屋は仮令彼が犯人でなかったとしても、判事の取調べその他によって、犯罪事実をある程度まで知悉しているのが当然だから。
というのは、蕗屋はたとえ彼が犯人でなかったとしても、判事の取り調べなどによって、犯罪事実をある程度まで知り尽くしているのが当然だからだ。
原文: そして、植木鉢の底に金があったという事実は、最近の且つ最も深刻な印象に相違ないのだから、聯想作用がそんな風に働くのは至極あたり前ではないか。
そして、植木鉢の底に金があったという事実は、最近の、しかも最も強烈な印象に違いないのだから、連想がそんなふうに働くのは至極当たり前ではないか。
原文: (又、この手段によれば、現場の有様を復誦させられた場合にも安全なのだ)唯、問題は時間の点だ。
(また、この手なら、現場の様子を復唱させられた場合にも安全なのだ)ただ、問題は時間の点だ。
原文: これには矢張り「練習」
これにはやはり「練習」
原文: が必要である。
が必要である。
原文: 「植木鉢」
「植木鉢」
原文: と来たら、少しもまごつかないで、「金」
と来たら、少しもまごつかずに「金」
原文: 又は「松」
または「松」
原文: と答え得る様に練習して置く必要がある。
と答えられるように練習しておく必要がある。
原文: 彼は更らにこの「練習」
彼はさらにこの「練習」
原文: の為に数日を費した。
のために数日を費やした。
原文: 斯様にして、準備は全く整った。
こうして、準備はすっかり整った。
原文: 彼は又、一方に於て、ある一つの有利な事情を勘定に入れていた。
彼はまた、一方で、ある一つの有利な事情を計算に入れていた。
原文: それを考えると、仮令、予期しない訊問に接しても、更らに一歩を進めて、予期した訊問に対して不利な反応を示しても毫も恐れることはないのだった。
それを考えると、たとえ予期しない質問に出くわしても、さらに一歩進んで、予期した質問に対して不利な反応を示したとしても、少しも恐れることはないのだった。
原文: というのは、試験されるのは、蕗屋一人ではないからだ。
というのは、試験されるのは蕗屋一人ではないからだ。
原文: あの神経過敏な斎藤勇がいくら身に覚えがないといって、様々の訊問に対して、果して虚心平気でいることが出来るだろうか。
あの神経過敏な斎藤勇が、いくら身に覚えがないといっても、さまざまな質問に対して、果たして平静でいられるだろうか。
原文: 恐らく、彼とても、少くとも蕗屋と同様位の反応を示すのが自然ではあるまいか。
おそらく彼とても、少なくとも蕗屋と同じ程度の反応を示すのが自然ではあるまいか。
原文: 蕗屋は考えるに随って、段々安心して来た。
蕗屋は考えるにつれて、だんだん安心してきた。
原文: 何だか鼻唄でも歌い出したい様な気持になって来た。
なんだか鼻歌でも歌い出したいような気持ちになってきた。
原文: 彼は今は却って、笠森判事の呼出しを待構える様にさえなった。
彼は今ではかえって、笠森判事の呼び出しを待ち構えるようにさえなった。
原文: 五
五
原文: 笠森判事の心理試験が如何様に行われたか。
笠森判事の心理試験がどのように行われたか。
原文: それに対して、神経家の斎藤がどんな反応を示したか。
それに対して、神経質な斎藤がどんな反応を示したか。
原文: 蕗屋が、如何に落ちつきはらって試験に応じたか。
蕗屋が、いかに落ち着きはらって試験に応じたか。
原文: ここにそれらの管々しい叙述を並べ立てることを避けて、直ちにその結果に話を進めることにする。
ここではそれらのくどくどしい記述を並べ立てるのを避けて、ただちにその結果へ話を進めることにする。
原文: それは心理試験が行われた翌日のことである。
それは心理試験が行われた翌日のことである。
原文: 笠森判事が、自宅の書斎で、試験の結果を書きとめた書類を前にして、小首を傾けている所へ、明智小五郎の名刺が通じられた。
笠森判事が自宅の書斎で、試験の結果を書きとめた書類を前に小首をかしげているところへ、明智小五郎の名刺が取り次がれた。
原文: 「D坂の殺人事件」
「D坂の殺人事件」
原文: を読んだ人は、この明智小五郎がどんな男だかということを、幾分御存じであろう。
を読んだ人は、この明智小五郎がどんな男かということを、いくらかご存じだろう。
原文: 彼はその後、屡々困難な犯罪事件に関係して、その珍らしい才能を現し、専門家達は勿論一般の世間からも、もう立派に認められていた。
彼はその後、たびたび難しい犯罪事件に関わってその珍しい才能を発揮し、専門家たちはもちろん、一般の世間からももう立派に認められていた。
原文: 笠森氏ともある事件から心易くなったのだ。
笠森氏ともある事件がきっかけで親しくなったのだ。
原文: 女中の案内につれて、判事の書斎に、明智のニコニコした顔が現れた。
女中に案内されて、判事の書斎に明智のにこにこした顔が現れた。
原文: このお話は「D坂の殺人事件」
この話は「D坂の殺人事件」
原文: から数年後のことで、彼ももう昔の書生ではなくなっていた。
から数年後のことで、彼ももう昔の書生ではなくなっていた。
原文: 「却々、御精が出ますね」
「なかなか、精が出ますね」
原文: 明智は判事の机の上を覗きながら云った。
明智は判事の机の上をのぞきながら言った。
原文: 「イヤ、どうも、今度はまったく弱りましたよ」
「いや、どうも、今度はまったく参りましたよ」
原文: 判事が、来客の方に身体の向きを換えながら応じた。
判事が、来客のほうへ体の向きを変えながら応じた。
原文: 「例の老婆殺しの事件ですね。どうでした、心理試験の結果は」
「例の老婆殺しの事件ですね。どうでした、心理試験の結果は」
原文: 明智は、事件以来、度々笠森判事に逢って詳しい事情を聞いていたのだ。
明智は、事件以来たびたび笠森判事に会って詳しい事情を聞いていたのだ。
原文: 「イヤ、結果は明白ですがね」
「いや、結果ははっきりしているのですがね」
原文: と判事「それがどうも、僕には何だか得心出来ないのですよ。昨日は脈搏の試験と聯想診断をやって見たのですが、蕗屋の方は殆ど反応がないのです。尤も脈搏では、大分疑わしい所もありましたが、併し、斎藤に比べれば、問題にもならぬ位僅かなんです。これを御覧なさい。ここに質問事項と、脈搏の記録がありますよ。斎藤の方は実に著しい反応を示しているでしょう。聯想試験でも同じことです。この『植木鉢』という刺戟語に対する反応時間を見ても分りますよ。蕗屋の方は外の無意味な言葉よりも却って短い時間で答えているのに斎藤の方は、どうです、六秒もかかっているじゃありませんか」
と判事は言った。「それがどうも、私には何だか納得できないのですよ。昨日は脈拍の試験と連想診断をやってみたのですが、蕗屋のほうはほとんど反応がないのです。もっとも脈拍では、だいぶ疑わしいところもありましたが、しかし斎藤に比べれば問題にもならないほどわずかなんです。これをご覧なさい。ここに質問事項と脈拍の記録がありますよ。斎藤のほうは実に著しい反応を示しているでしょう。連想試験でも同じことです。この『植木鉢』という刺激語に対する反応時間を見ても分かりますよ。蕗屋のほうはほかの無意味な言葉よりもかえって短い時間で答えているのに、斎藤のほうはどうです、六秒もかかっているじゃありませんか」
原文: 判事が示した聯想診断の記録は左の様に記されていた。
判事が示した連想診断の記録は、次のように記されていた。
原文: ○印は犯罪に関係ある単語。
○印は犯罪に関係のある単語。
原文: 実際は百位使われるし、更にそれを二組も三組も用意して、次々と試験するのだが、右の表は解り易くする為めに簡単にしたものである。
実際は百語ほど使われるし、さらにそれを二組も三組も用意して次々に試験するのだが、右の表は分かりやすくするために簡単にしたものである。
原文: 「ね、非常に明瞭でしょう」
「ね、非常にはっきりしているでしょう」
原文: 判事は明智が記録に目を通すのを待って続けた「これで見ると、斎藤は色々故意の細工をやっている。一番よく分るのは反応時間の遅いことですが、それが問題の単語ばかりでなくその直ぐあとのや、二つ目のにまで影響しているのです。それから又、『金』に対して『鉄』と云ったり、『盗む』に対して『馬』といったり、可也無理な聯想をやってますよ、『植木鉢』に一番長くかかったのは、恐らく『金』と『松』という二つの聯想を押えつける為に手間取ったのでしょう。それに反して、蕗屋の方はごく自然です。『植木鉢』に『松』だとか、『油紙』に『隠す』だとか、『犯罪』に『人殺し』だとか、若し犯人だったら是非隠さなければならない様な聯想を平気で、而も短い時間に答えています。彼が人殺しの本人でいて、こんな反応を示したとすれば、余程の低能児に違いありません。ところが、実際は彼は――大学の学生で、それに却々秀才なのですからね」
判事は明智が記録に目を通すのを待って続けた。「これで見ると、斎藤はいろいろ故意の細工をやっている。いちばんよく分かるのは反応時間が遅いことですが、それが問題の単語だけでなく、そのすぐあとのものや、二つ目のものにまで影響しているのです。それからまた、『金』に対して『鉄』と言ったり、『盗む』に対して『馬』と言ったり、かなり無理な連想をやってますよ。『植木鉢』にいちばん長くかかったのは、おそらく『金』と『松』という二つの連想を押さえつけるために手間取ったのでしょう。それに対して、蕗屋のほうはごく自然です。『植木鉢』に『松』だとか、『油紙』に『隠す』だとか、『犯罪』に『人殺し』だとか、もし犯人だったらぜひとも隠さなければならないような連想を平気で、しかも短い時間で答えています。彼が人殺しの本人でいてこんな反応を示したとすれば、よほどの低能に違いありません。ところが実際は、彼は――大学の学生で、それもなかなかの秀才なのですからね」
原文: 「そんな風にも取れますね」
「そんなふうにも取れますね」
原文: 明智は何か考え考え云った。
明智は何か考え考え言った。
原文: 併し判事は彼の意味あり気な表情には、少しも気附かないで、話を進めた。
しかし判事は、彼の意味ありげな表情には少しも気づかずに話を進めた。
原文: 「ところがですね。これで、もう蕗屋の方は疑う所はないのだが、斎藤が果して犯人かどうかという点になると、試験の結果はこんなにハッキリしているのに、どうも僕は確信が出来ないのですよ。何も予審で有罪にしたとて、それが最後の決定になる訳ではなし、まあこの位でいいのですが、御承知の様に僕は例のまけぬ気でね。公判で僕の考をひっくり返されるのが癪なんですよ。そんな訳で実はまだ迷っている始末です」
「ところがですね。これで蕗屋のほうはもう疑うところがないのだが、斎藤が果たして犯人かどうかという点になると、試験の結果はこんなにはっきりしているのに、どうも私には確信が持てないのですよ。何も予審で有罪にしたところで、それが最終決定になるわけではなし、まあこの程度でいいのですが、ご承知のように私は例の負けん気でね。公判で自分の考えをひっくり返されるのが癪なんですよ。そんなわけで、実はまだ迷っている始末です」
原文: 「これを見ると、実に面白いですね」
「これを見ると、実に面白いですね」
原文: 明智が記録を手にして始めた。
明智が記録を手にして切り出した。
原文: 「蕗屋も斎藤も中々勉強家だって云いますが、『本』という単語に対して、両人共『丸善』と答えた所などは、よく性質が現れていますね。もっと面白いのは、蕗屋の答は、皆どことなく物質的で、理智的なのに反して、斎藤のは如何にもやさしい所があるじゃありませんか。叙情的ですね。例えば『女』だとか『着物』だとか『花』だとか『人形』だとか『景色』だとか『妹』だとかいう答は、どちらかと云えば、センチメンタルな弱々しい男を思わせますね。それから、斎藤はきっと病身ですよ。『嫌い』に『病気』と答え『病気』に『肺病』と答えてるじゃありませんか。平生から肺病になりはしないかと恐れてる証拠ですよ」
「蕗屋も斎藤もなかなかの勉強家だと言いますが、『本』という単語に対して二人とも『丸善』と答えたあたりは、よく性質が出ていますね。もっと面白いのは、蕗屋の答えがどれもどことなく物質的で理知的なのに対して、斎藤のほうはいかにも優しいところがあるじゃありませんか。叙情的ですね。たとえば『女』だとか『着物』だとか『花』だとか『人形』だとか『景色』だとか『妹』だとかいう答えは、どちらかといえばセンチメンタルで弱々しい男を思わせますね。それから、斎藤はきっと体が弱いですよ。『嫌い』に『病気』と答え、『病気』に『肺病』と答えているじゃありませんか。ふだんから肺病になりはしないかと恐れている証拠ですよ」
原文: 「そういう見方もありますね。聯想診断て奴は、考えれば考える丈け、色々面白い判断が出て来るものですよ」
「そういう見方もありますね。連想診断というやつは、考えれば考えるだけ、いろいろ面白い判断が出てくるものですよ」
原文: 「ところで」
「ところで」
原文: 明智は少し口調を換えて云った。
明智は少し口調を変えて言った。
原文: 「あなたは、心理試験というものの弱点について考えられたことがありますかしら。デ・キロスは心理試験の提唱者ミュンスターベルヒの考を批評して、この方法は拷問に代るべく考案されたものだけれど、その結果は、やはり拷問と同じ様に、無辜のものを罪に陥れ、有罪者を逸することがあるといっていますね。ミュンスターベルヒ自身も、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所とか、人とか、物について知っているかどうかを見出す場合に限って確定的だけれど、その他の場合には幾分危険だという様なことを、どっかで書いていました。あなたにこんな事を御話するのは釈迦に説法かも知れませんね。でも、これは確かに大切な点だと思いますが、どうでしょう」
「あなたは、心理試験というものの弱点について考えられたことがありますかね。デ・キロスは心理試験の提唱者ミュンスターベルヒの考えを批評して、この方法は拷問に代わるものとして考案されたけれど、その結果はやはり拷問と同じように、罪のない者を罪に陥れ、真犯人を取り逃がすことがある、と言っていますね。ミュンスターベルヒ自身も、心理試験の本当の効き目は、容疑者がある場所とか人とか物について知っているかどうかを見出す場合に限って確定的で、それ以外の場合にはいくらか危険だというようなことを、どこかで書いていました。あなたにこんな話をするのは釈迦に説法かもしれませんね。でも、これは確かに大切な点だと思いますが、どうでしょう」
原文: 「それは悪い場合を考えれば、そうでしょうがね。無論僕もそれは知ってますよ」
「それは悪い場合を考えれば、そうでしょうがね。もちろん私もそれは知っていますよ」
原文: 判事は少しいやな顔をして答えた。
判事は少し嫌な顔をして答えた。
原文: 「併し、その悪い場合が、存外手近かにないとも限りませんからね。こういうことは云えないでしょうか。例えば、非常に神経過敏な、無辜の男が、ある犯罪の嫌疑を受けたと仮定しますね。その男は犯罪の現場を捕えられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、彼は果して心理試験に対して平気でいることが出来るでしょうか。『ア、これは俺を試すのだな、どう答えたら疑われないだろう』などという風に亢奮するのが当然ではないでしょうか。ですから、そういう事情の下に行われた心理試験はデ・キロスの所謂『無辜のものを罪に陥れる』ことになりはしないでしょうか」
「しかし、その悪い場合が案外すぐ手近にないともかぎりませんからね。こういうことは言えないでしょうか。たとえば、非常に神経過敏な、罪のない男がある犯罪の疑いを受けたと仮定します。その男は犯罪の現場を押さえられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、彼は果たして心理試験に対して平気でいられるでしょうか。『ああ、これは俺を試しているのだな、どう答えたら疑われないだろう』というふうに興奮するのが当然ではないでしょうか。ですから、そういう事情のもとで行われた心理試験は、デ・キロスのいわゆる『罪のない者を罪に陥れる』ことになりはしないでしょうか」
原文: 「君は斎藤勇のことを云っているのですね。イヤ、それは、僕も何となくそう感じたものだから、今も云った様に、まだ迷っているのじゃありませんか」
「君は斎藤勇のことを言っているのですね。いや、それは私も何となくそう感じたものだから、今も言ったように、まだ迷っているのじゃありませんか」
原文: 判事は益々苦い顔をした。
判事はますます苦い顔をした。
原文: 「では、そういう風に、斎藤が無罪だとすれば(尤も金を盗んだ罪は免れませんけれど)一体誰が老婆を殺したのでしょう……」
「では、そんなふうに斎藤が無罪だとすれば(もっとも金を盗んだ罪は免れませんけれど)、いったい誰が老婆を殺したのでしょう……」
原文: 判事はこの明智の言葉を中途から引取って、荒々しく尋ねた。
判事はこの明智の言葉を途中で引き取って、荒々しく尋ねた。
原文: 「そんなら、君は、外に犯人の目当でもあるのですか」
「それなら、君はほかに犯人の見当でもついているのですか」
原文: 「あります」
「ついています」
原文: 明智がニコニコしながら答えた。
明智がにこにこしながら答えた。
原文: 「僕はこの聯想試験の結果から見て蕗屋が犯人だと思うのですよ。併しまだ確実にそうだとは云えませんけれど、あの男はもう帰宅したでしょうね。どうでしょう。それとなく彼をここへ呼ぶ訳には行きませんかしら、そうすれば、僕はきっと真相をつき止めて御目にかけますがね」
「私はこの連想試験の結果から見て、蕗屋が犯人だと思うのですよ。しかしまだ確実にそうだとは言えませんけれど、あの男はもう帰宅したでしょうね。どうでしょう、それとなく彼をここへ呼ぶわけにはいきませんかね。そうすれば、私はきっと真相を突き止めてお目にかけますが」
原文: 「なんですって。それには何か確かな証拠でもあるのですか」
「なんですって。それには何か確かな証拠でもあるのですか」
原文: 判事が少なからず驚いて尋ねた。
判事が少なからず驚いて尋ねた。
原文: 明智は別に得意らしい色もなく、詳しく彼の考を述べた。
明智は別に得意そうな様子もなく、詳しく自分の考えを述べた。
原文: そして、それが判事をすっかり感心させて了った。
そして、それが判事をすっかり感心させてしまった。
原文: 明智の希望が容れられて、蕗屋の下宿へ使が走った。
明智の希望が容れられて、蕗屋の下宿へ使いが走った。
原文: 「御友人の斎藤氏は愈々有罪と決した。それについて御話したいこともあるから、私の私宅まで御足労を煩し度い」
「ご友人の斎藤氏はいよいよ有罪と決まった。それについてお話ししたいこともあるので、私の自宅までご足労願いたい」
原文: これが呼出しの口上だった。
これが呼び出しの口上だった。
原文: 蕗屋は丁度学校から帰った所で、それを聞くと早速やって来た。
蕗屋はちょうど学校から帰ったところで、それを聞くと早速やって来た。
原文: 流石の彼もこの吉報には少なからず興奮していた。
さすがの彼も、この吉報には少なからず興奮していた。
原文: 嬉しさの余り、そこに恐ろしい罠のあることを、まるで気附かなかった。
嬉しさのあまり、そこに恐ろしい罠があることに、まるで気づかなかった。
原文: 六
六
原文: 笠森判事は、一通り斎藤を有罪と決定した理由を説明したあとで、こう附加えた。
笠森判事は、ひととおり斎藤を有罪と決めた理由を説明したあとで、こう付け加えた。
原文: 「君を疑ったりして、全く相済まんと思っているのです。今日は、実はそのお詫び旁々、事情をよくお話しようと思って、来て頂いた訳ですよ」
「君を疑ったりして、まったく申し訳なく思っているのです。今日は、実はそのお詫びかたがた、事情をよくお話ししようと思って、来ていただいたわけですよ」
原文: そして、蕗屋の為には紅茶を命じたりして極く打ちくつろいだ様子で雑談を始めた。
そして、蕗屋のために紅茶を言いつけたりして、ごくくつろいだ様子で雑談を始めた。
原文: 明智も話に加わった。
明智も話に加わった。
原文: 判事は、彼を知合の弁護士で、死んだ老婆の遺産相続者から、貸金の取立て等を依頼されている男だといって紹介した。
判事は、彼を知り合いの弁護士で、死んだ老婆の遺産相続人から貸金の取り立てなどを頼まれている男だと言って紹介した。
原文: 無論半分は嘘だけれども親族会議の結果、老婆の甥が田舎から出て来て、遺産を相続することになったのは事実だった。
もちろん半分は嘘だけれども、親族会議の結果、老婆の甥が田舎から出て来て遺産を相続することになったのは事実だった。
原文: 三人の間には、斎藤の噂を始めとして、色々の話題が話された。
三人の間では、斎藤の噂を始めとして、いろいろな話題が交わされた。
原文: すっかり安心した蕗屋は、中でも一番雄弁な話手だった。
すっかり安心した蕗屋は、中でもいちばん雄弁な話し手だった。
原文: そうしている内に、いつの間にか時間が経って、窓の外に夕暗が迫って来た。
そうしているうちに、いつの間にか時間が経って、窓の外に夕闇が迫ってきた。
原文: 蕗屋はふとそれに気附くと、帰り支度を始めながら云った。
蕗屋はふとそれに気づくと、帰り支度を始めながら言った。
原文: 「では、もう失礼しますが、別に御用はないでしょうか」
「では、もう失礼しますが、ほかにご用はないでしょうか」
原文: 「オオ、すっかり忘れて了うところだった」
「ああ、すっかり忘れてしまうところだった」
原文: 明智が快活に云った。
明智が快活に言った。
原文: 「なあに、どうでもいい様なことですがね。丁度序だから、……御承知かどうですか、あの殺人のあった部屋に、二枚折りの金屏風が立ててあったのですが、それに一寸傷がついていたと云って問題になっているのですよ。というのは、その屏風は婆さんのものではなく、貸金の抵当に預ってあった品で、持主の方では、殺人の際についた傷に相違ないから弁償しろというし、婆さんの甥は、これが又婆さんに似たけちん坊でね、元からあった傷かも知れないといって、却々応じないのです。実際つまらない問題で、閉口してるんです。尤もその屏風は可也値うちのある品物らしいのですけれど。ところで、あなたはよくあの家へ出入りされたのですから、その屏風も多分御存じでしょうが、以前に傷があったかどうか、ひょっと御記憶じゃないでしょうか。どうでしょう。屏風なんか別に注意しなかったでしょうね。実は斎藤にも聞いて見たんですが、先生亢奮し切っていて、よく分らないのです、それに、女中は国へ帰って了って、手紙で聞合せても要領を得ないし、一寸困っているのですが……」
「なあに、どうでもいいようなことですがね。ちょうどついでだから……。ご存じかどうか、あの殺人のあった部屋に二枚折りの金屏風が立ててあったのですが、それにちょっと傷がついていたといって問題になっているのですよ。というのはね、その屏風は婆さんのものではなく、貸金の担保として預かっていた品で、持ち主のほうでは殺人のときについた傷に違いないから弁償しろと言うし、婆さんの甥は、これがまた婆さんに似たけちん坊でね、元からあった傷かもしれないと言って、なかなか応じないのです。実につまらない問題で、閉口しているんです。もっともその屏風は、かなり値打ちのある品物らしいのですけれど。ところで、あなたはよくあの家へ出入りされたのですから、その屏風もたぶんご存じでしょうが、以前に傷があったかどうか、ひょっとして覚えていらっしゃらないでしょうか。どうでしょう。屏風なんか別に気に留めなかったでしょうね。実は斎藤にも聞いてみたんですが、先生すっかり興奮していて、よく分からないのです。それに、女中は国へ帰ってしまって、手紙で問い合わせても要領を得ないし、ちょっと困っているのですが……」
原文: 屏風が抵当物だったことはほんとうだが、その外の点は無論作り話に過ぎなかった。
屏風が担保物だったことは本当だが、それ以外の点はもちろん作り話にすぎなかった。
原文: 蕗屋は屏風という言葉に思わずヒヤッとした。
蕗屋は屏風という言葉に思わずひやりとした。
原文: 併しよく聞いて見ると何でもないことなので、すっかり安心した。
しかしよく聞いてみると何でもないことなので、すっかり安心した。
原文: 「何をビクビクしているのだ。事件はもう落着して了ったのじゃないか」
「何をびくびくしているのだ。事件はもう落着してしまったのじゃないか」
原文: 彼はどんな風に答えてやろうかと、一寸思案したが、例によってありのままにやるのが一番いい方法の様に考えられた。
彼はどんなふうに答えてやろうかと少し思案したが、いつものとおりありのままにやるのがいちばんいい方法のように思われた。
原文: 「判事さんはよく御承知ですが、僕はあの部屋へ入ったのはたった一度切りなんです。それも、事件の二日前にね」
「判事さんはよくご存じですが、僕があの部屋へ入ったのはたった一度きりなんです。それも、事件の二日前にね」
原文: 彼はニヤニヤ笑いながら云った。
彼はにやにや笑いながら言った。
原文: こうした云い方をするのが愉快でたまらないのだ。
こうした言い方をするのが愉快でたまらないのだ。
原文: 「併し、その屏風なら覚えてますよ。僕の見た時には確か傷なんかありませんでした」
「しかし、その屏風なら覚えていますよ。僕が見たときには、確か傷なんかありませんでした」
原文: 「そうですか。間違いないでしょうね。あの小野の小町の顔の所に、ほんの一寸した傷がある丈けなんですが」
「そうですか。間違いないでしょうね。あの小野小町の顔のところに、ほんのちょっとした傷があるだけなんですが」
原文: 「そうそう、思出しましたよ」
「そうそう、思い出しましたよ」
原文: 蕗屋は如何にも今思出した風を装って云った。
蕗屋はいかにも今思い出したふうを装って言った。
原文: 「あれは六歌仙の絵でしたね。小野の小町も覚えてますよ。併し、もしその時傷がついていたとすれば、見落した筈がありません。だって、極彩色の小町の顔に傷があれば、一目で分りますからね」
「あれは六歌仙の絵でしたね。小野小町も覚えていますよ。しかし、もしそのとき傷がついていたとすれば、見落とすはずがありません。だって、極彩色の小町の顔に傷があれば、一目で分かりますからね」
原文: 「じゃ御迷惑でも、証言をして頂く訳には行きませんかしら、屏風の持主というのが、実に慾の深い奴で始末にいけないのですよ」
「では、ご迷惑でも証言していただくわけにはいきませんかね。屏風の持ち主というのが実に欲の深い奴で、始末に負えないのですよ」
原文: 「エエ、よござんすとも、いつでも御都合のいい時に」
「ええ、いいですとも、いつでもご都合のいいときに」
原文: 蕗屋はいささか得意になって、弁護士と信ずる男の頼みを承諾した。
蕗屋はいささか得意になって、弁護士と信じている男の頼みを承諾した。
原文: 「ありがとう」
「ありがとう」
原文: 明智はモジャモジャに延ばした頭を指でかき廻しながら、嬉し相に云った。
明智はもじゃもじゃに伸ばした頭を指でかき回しながら、嬉しそうに言った。
原文: これは、彼が多少亢奮した際にやる一種の癖なのだ。
これは、彼が少し興奮したときに出る一種の癖なのだ。
原文: 「実は、僕は最初から、あなたが屏風のことを知って居られるに相違ないと思ったのですよ。というのはね、この昨日の心理試験の記録の中で『絵』という問に対して、あなたは『屏風』という特別の答え方をしていますね。これですよ。下宿屋にはあんまり屏風なんて備えてありませんし、あなたは斎藤の外には別段親しいお友達もない様ですから、これはさしずめ老婆の座敷の屏風が、何かの理由で特別に深い印象になって残っていたのだろうと想像したのですよ」
「実は、私は最初から、あなたが屏風のことをご存じに違いないと思ったのですよ。というのはね、この昨日の心理試験の記録の中で、『絵』という問いに対して、あなたは『屏風』という特別な答え方をしていますね。これですよ。下宿屋にはあまり屏風なんて置いてありませんし、あなたは斎藤のほかには特に親しいお友達もないようですから、これはさしずめ老婆の座敷の屏風が、何かの理由で特別に深い印象として残っていたのだろうと想像したのですよ」
原文: 蕗屋は一寸驚いた。
蕗屋は少し驚いた。
原文: それは確かにこの弁護士のいう通りに相違なかった。
それは確かにこの弁護士の言うとおりに違いなかった。
原文: でも、彼は昨日どうして屏風なんてことを口走ったのだろう。
それにしても、彼は昨日どうして屏風などと口走ったのだろう。
原文: そして、不思議にも今までまるでそれに気附かないとは、これは危険じゃないかな。
そして、不思議なことに今までまるでそれに気づかなかったとは、これは危険じゃないかな。
原文: 併し、どういう点が危険なのだろう。
しかし、どういう点が危険なのだろう。
原文: あの時彼は、その傷跡をよく検べて、何の手掛りにもならぬことを確めて置いたではないか。
あのとき彼は、その傷跡をよく調べて、何の手がかりにもならないことを確かめておいたではないか。
原文: なあに、平気だ平気だ。
なあに、平気だ、平気だ。
原文: 彼は一応考えて見てやっと安心した。
彼はひととおり考えてみて、やっと安心した。
原文: ところが、ほんとうは、彼は明白すぎる程明白な大間違をやっていたことを少しも気がつかなかったのだ。
ところが本当は、彼は明白すぎるほど明白な大間違いをやっていたことに、少しも気づかなかったのだ。
原文: 「なる程、僕はちっとも気附きませんでしたけれど、確かにおっしゃる通りですよ。却々鋭い御観察ですね」
「なるほど、僕はちっとも気づきませんでしたけれど、確かにおっしゃるとおりですよ。なかなか鋭いご観察ですね」
原文: 蕗屋は、あくまで無技巧主義を忘れないで平然として答えた。
蕗屋は、あくまで小細工を弄さない主義を忘れず、平然として答えた。
原文: 「なあに、偶然気附いたのですよ」
「なあに、偶然気づいたのですよ」
原文: 弁護士を装った明智が謙遜した。
弁護士を装った明智が謙遜した。
原文: 「だが、気附いたと云えば実はもう一つあるのですが、イヤ、イヤ、決して御心配なさる様なことじゃありません。昨日の聯想試験の中には八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなたはそれを実に完全にパスしましたね。実際完全すぎた程ですよ。少しでも後暗い所があれば、こうは行きませんからね。その八つの単語というのは、ここに丸が打ってあるでしょう。これですよ」
「だが、気づいたと言えば、実はもう一つあるのですが、いや、いや、決してご心配なさるようなことじゃありません。昨日の連想試験の中には八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなたはそれを実に完全にパスしましたね。実際、完全すぎたほどですよ。少しでも後ろ暗いところがあれば、こうはいきませんからね。その八つの単語というのは、ここに丸が打ってあるでしょう。これですよ」
原文: といって明智は記録の紙片を示した。
と言って明智は記録の紙片を示した。
原文: 「ところが、あなたのこれらに対する反応時間は、外の無意味な言葉よりも、皆、ほんの僅かずつではありますけれど、早くなってますね。例えば、『植木鉢』に対して『松』と答えるのに、たった〇・六秒しかかかってない。これは珍らしい無邪気さですよ。この三十箇の単語の内で、一番聯想し易いのは先ず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ〇・七秒かかってますからね」
「ところが、あなたのこれらに対する反応時間は、ほかの無意味な言葉よりも、どれもほんのわずかずつではありますけれど、早くなっていますね。たとえば、『植木鉢』に対して『松』と答えるのに、たった〇・六秒しかかかっていない。これは珍しい無邪気さですよ。この三十個の単語のうちでいちばん連想しやすいのは、まず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ〇・七秒かかっていますからね」
原文: 蕗屋は非常な不安を感じ始めた。
蕗屋はひどい不安を感じ始めた。
原文: この弁護士は、一体何の為にこんな饒舌を弄しているのだろう。
この弁護士は、いったい何のためにこんなに喋り立てているのだろう。
原文: 好意でかそれとも悪意でか。
好意からか、それとも悪意からか。
原文: 何か深い下心があるのじゃないかしら。
何か深い下心があるのではないかしら。
原文: 彼は全力を傾けて、その意味を悟ろうとした。
彼は全力を傾けて、その意味を悟ろうとした。
原文: 「『植木鉢』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、その外、問題の八つの単語は、皆、決して『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものよりも聯想し易いとは考えられません。それにも拘らず、あなたは、その難しい聯想の方を却って早く答えているのです。これはどういう意味でしょう。僕が気づいた点というのはここですよ。一つ、あなたの心持を当てて見ましょうか、エ、どうです。何も一興ですからね。併し若し間違っていたら御免下さいよ」
「『植木鉢』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、そのほか問題の八つの単語は、どれも決して『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものより連想しやすいとは考えられません。それにもかかわらず、あなたはその難しいほうの連想をかえって早く答えているのです。これはどういう意味でしょう。私が気づいた点というのは、ここですよ。一つ、あなたの心持ちを当ててみましょうか。え、どうです。何も一興ですからね。しかし、もし間違っていたらご勘弁くださいよ」
原文: 蕗屋はブルッと身震いした。
蕗屋はぶるっと身震いした。
原文: 併し、何がそうさせたかは彼自身にも分らなかった。
しかし、何がそうさせたのかは彼自身にも分からなかった。
原文: 「あなたは、心理試験の危険なことをよく知っていて、予め準備していたのでしょう。犯罪に関係のある言葉について、ああ云えばこうと、ちゃんと腹案が出来ていたんでしょう。イヤ、僕は決して、あなたのやり方を非難するのではありませんよ。実際、心理試験という奴は、場合によっては非常に危険なものですからね。有罪者を逸して無辜のものを罪に陥れることがないとは断言出来ないのですからね。ところが、準備があまり行届き過ぎていて、勿論、別に早く答える積りはなかったのでしょうけれど、その言葉丈けが早くなって了ったのです。これは確かに大変な失敗でしたね。あなたは、ただもう遅れることばかり心配して、それが早過ぎるのも同じ様に危険だということを少しも気づかなかったのです。尤も、その時間の差は非常に僅かずつですから、余程注意深い観察者でないとうっかり見逃して了いますがね。兎に角、拵え事というものは、どっかに破綻があるものですよ」
「あなたは、心理試験の危険なことをよく知っていて、あらかじめ準備していたのでしょう。犯罪に関係のある言葉について、ああ言われればこう、とちゃんと腹案ができていたんでしょう。いや、私は決してあなたのやり方を非難するのではありませんよ。実際、心理試験というやつは、場合によっては非常に危険なものですからね。真犯人を取り逃がして罪のない者を罪に陥れることがないとは断言できないのですからね。ところが、準備があまりに行き届きすぎていて、もちろん、別に早く答えるつもりはなかったのでしょうけれど、その言葉だけが早くなってしまったのです。これは確かに大変な失敗でしたね。あなたはただもう遅れることばかり心配して、それが早すぎるのも同じように危険だということに、少しも気づかなかったのです。もっとも、その時間の差はごくわずかずつですから、よほど注意深い観察者でないと、うっかり見逃してしまいますがね。ともかく、作り事というものは、どこかに破綻があるものですよ」
原文: 明智の蕗屋を疑った論拠は、ただこの一点にあったのだ。
明智が蕗屋を疑った論拠は、ただこの一点にあったのだ。
原文: 「併し、あなたはなぜ、『金』だとか『人殺し』だとか『隠す』だとか、嫌疑を受け易い言葉を選んで答えたのでしょう。云うまでもない。そこがそれ、あなたの無邪気な所ですよ。若しあなたが犯人だったら、決して『油紙』と問われて『隠す』などとは答えませんからね。そんな危険な言葉を平気で答え得るのは何等やましい所のない証拠ですよ。ね、そうでしょう。僕のいう通りでしょう」
「しかし、あなたはなぜ、『金』だとか『人殺し』だとか『隠す』だとか、疑いを受けやすい言葉を選んで答えたのでしょう。言うまでもない。そこがそれ、あなたの無邪気なところですよ。もしあなたが犯人だったら、決して『油紙』と問われて『隠す』などとは答えませんからね。そんな危険な言葉を平気で答えられるのは、何らやましいところのない証拠ですよ。ね、そうでしょう。私の言うとおりでしょう」
原文: 蕗屋は話手の目をじっと見詰めていた。
蕗屋は話し手の目をじっと見つめていた。
原文: どういう訳か、そらすことが出来ないのだ。
どういうわけか、そらすことができないのだ。
原文: そして、鼻から口の辺にかけて筋肉が硬直して、笑うことも、泣くことも、驚くことも、一切の表情が不可能になった様な気がした。
そして、鼻から口のあたりにかけて筋肉が硬直して、笑うことも、泣くことも、驚くことも、一切の表情が不可能になったような気がした。
原文: 無論口は利けなかった。
もちろん口はきけなかった。
原文: もし無理に口を利こうとすれば、それは直ちに恐怖の叫声になったに相違ない。
もし無理に口をきこうとすれば、それはたちまち恐怖の叫び声になったに違いない。
原文: 「この無邪気なこと、つまり小細工を弄しないということが、あなたの著しい特徴ですよ。僕はそれを知ったものだから、あの様な質問をしたのです。エ、お分りになりませんか。例の屏風のことです。僕は、あなたが無論無邪気にありのままにお答え下さることを信じて疑わなかったのですよ。実際その通りでしたがね。ところで、笠森さんに伺いますが、問題の六歌仙の屏風は、いつあの老婆の家に持込まれたのですかしら」
「この無邪気なこと、つまり小細工を弄さないということが、あなたの著しい特徴ですよ。私はそれを知ったものだから、あのような質問をしたのです。え、お分かりになりませんか。例の屏風のことです。私は、あなたがもちろん無邪気にありのままにお答えくださることを信じて疑わなかったのですよ。実際そのとおりでしたがね。ところで、笠森さんに伺いますが、問題の六歌仙の屏風は、いつあの老婆の家に持ち込まれたのですかね」
原文: 明智はとぼけた顔をして、判事に聞いた。
明智はとぼけた顔をして、判事に聞いた。
原文: 「犯罪事件の前日ですよ。つまり先月の四日です」
「事件の前日ですよ。つまり先月の四日です」
原文: 「エ、前日ですって、それは本当ですか。妙じゃありませんか、今蕗屋君は、事件の前々日即ち三日に、それをあの部屋で見たと、ハッキリ云っているじゃありませんか。どうも不合理ですね。あなた方のどちらかが間違っていないとしたら」
「え、前日ですって。それは本当ですか。妙じゃありませんか。今、蕗屋君は、事件の前々日、つまり三日に、それをあの部屋で見たとはっきり言っているじゃありませんか。どうも辻褄が合いませんね。あなた方のどちらかが間違っているのでなければ」
原文: 「蕗屋君は何か思違いをしているのでしょう」
「蕗屋君は何か思い違いをしているのでしょう」
原文: 判事がニヤニヤ笑いながら云った。
判事がにやにや笑いながら言った。
原文: 「四日の夕方まではあの屏風は、そのほんとうの持主の所にあったことが、明白に判っているのです」
「四日の夕方まではあの屏風が本当の持ち主のところにあったことは、はっきり分かっているのです」
原文: 明智は深い興味を以て、蕗屋の表情を観察した。
明智は深い興味をもって、蕗屋の表情を観察した。
原文: それは、今にも泣き出そうとする小娘の顔の様に変な風にくずれかけていた。
それは、今にも泣き出そうとする小娘の顔のように、妙な具合に崩れかけていた。
原文: これが明智の最初から計画した罠だった。
これが明智の最初から仕組んだ罠だった。
原文: 彼は事件の二日前には、老婆の家に屏風のなかったことを、判事から聞いて知っていたのだ。
彼は事件の二日前には老婆の家に屏風がなかったことを、判事から聞いて知っていたのだ。
原文: 「どうも困ったことになりましたね」
「どうも困ったことになりましたね」
原文: 明智はさも困った様な声音で云った「これはもう取返しのつかぬ大失策ですよ。なぜあなたは見もしないものを見たなどと云うのです。あなたは事件の二日前から一度もあの家へ行っていない筈じゃありませんか。殊に六歌仙の絵を覚えていたのは、致命傷ですよ。恐らくあなたは、ほんとうのことを云おう、ほんとうのことを云おうとして、つい嘘をついて了ったのでしょう。ね、そうでしょう。あなたは事件の二日前にあの座敷へ入った時、そこに屏風があるかないかという様なことを注意したでしょうか。無論注意しなかったでしょう。実際それは、あなたの計画には何の関係もなかったのですし、若し屏風があったとしても、あれは御承知の通り時代のついたくすんだ色合で、他の色々な道具類の中で殊更ら目立っていた訳でもありませんからね。で、あなたが今、事件の当日そこで見た屏風が、二日前にも同じ様にそこにあっただろうと考えたのは、ごく自然ですよ。それに僕はそう思わせる様な方法で問いかけたのですものね。これは一種の錯覚見たいなものですが、よく考えて見ると、我々には日常ザラにあることです。併し、もし普通の犯罪者だったら決してあなたの様には答えなかったでしょう。彼等は、何でもかんでも、隠しさえすればいいと思っているのですからね。ところが、僕にとって好都合だったのは、あなたが世間並みの裁判官や犯罪者より、十倍も二十倍も進んだ頭を持っていられたことです。つまり、急所にふれない限りは、出来る丈けあからさまに喋って了う方が、却って安全だという信念を持っていられたことです。裏の裏を行くやり方ですね。そこで僕は更らにその裏を行って見たのですよ。まさか、あなたはこの事件に何の関係もない弁護士が、あなたを白状させる為に、罠を作っていようとは想像しなかったでしょうね。ハハハハハ」
明智はいかにも困ったような声で言った。「これはもう取り返しのつかない大失策ですよ。なぜあなたは見もしないものを見たなどと言うのです。あなたは事件の二日前から一度もあの家へ行っていないはずじゃありませんか。とりわけ六歌仙の絵を覚えていたのは致命傷ですよ。おそらくあなたは、本当のことを言おう、本当のことを言おうとして、つい嘘をついてしまったのでしょう。ね、そうでしょう。あなたは事件の二日前にあの座敷へ入ったとき、そこに屏風があるかないかなどということに注意したでしょうか。もちろん注意しなかったでしょう。実際それはあなたの計画には何の関係もなかったのですし、もし屏風があったとしても、あれはご承知のとおり時代のついたくすんだ色合いで、ほかのいろいろな道具類の中でことさら目立っていたわけでもありませんからね。ですから、あなたが今、事件当日そこで見た屏風が二日前にも同じようにそこにあっただろうと考えたのは、ごく自然ですよ。それに私は、そう思わせるような聞き方をしたのですものね。これは一種の錯覚のようなものですが、よく考えてみれば、我々には日常ざらにあることです。しかし、もし普通の犯罪者だったら、決してあなたのようには答えなかったでしょう。彼らは何でもかんでも隠しさえすればいいと思っているのですからね。ところが、私にとって好都合だったのは、あなたが世間並みの裁判官や犯罪者より十倍も二十倍も進んだ頭を持っていらしたことです。つまり、急所に触れないかぎりは、できるだけあからさまに喋ってしまうほうがかえって安全だという信念を持っていらしたことです。裏の裏を行くやり方ですね。そこで私は、さらにその裏を行ってみたのですよ。まさか、この事件に何の関係もない弁護士が、あなたを白状させるために罠を仕掛けていようとは想像しなかったでしょうね。ハハハハハ」
原文: 蕗屋は、真青になった顔の、額の所にビッショリ汗を浮かせて、じっと黙り込んでいた。
蕗屋は、真っ青になった顔の額のあたりにびっしょり汗を浮かせて、じっと黙り込んでいた。
原文: 彼はもうこうなったら、弁明すればする丈け、ボロを出す許りだと思った。
彼は、もうこうなったら、弁明すればするだけぼろを出すばかりだと思った。
原文: 彼は、頭がいい丈けに、自分の失言がどんなに雄弁な自白だったかということを、よく弁えていた。
彼は頭がいいだけに、自分の失言がどんなに雄弁な自白だったかということを、よくわきまえていた。
原文: 彼の頭の中には、妙なことだが、子供の時分からの様々の出来事が、走馬燈の様に、めまぐるしく現れては消えた。
彼の頭の中には、妙なことだが、子供の頃からのさまざまな出来事が、走馬灯のように、めまぐるしく現れては消えた。
原文: 長い沈黙が続いた。
長い沈黙が続いた。
原文: 「聞えますか」
「聞こえますか」
原文: 明智が暫くしてから云った。
明智がしばらくしてから言った。
原文: 「そら、サラサラ、サラサラという音がしているでしょう。あれはね。最前から、隣の部屋で、僕達の問答を書きとめているのですよ。……君、もうよござんすから、それをここへ持って来て呉れませんか」
「ほら、サラサラ、サラサラという音がしているでしょう。あれはね、さっきから隣の部屋で、私たちのやりとりを書きとめているのですよ。……君、もういいですから、それをここへ持って来てくれませんか」
原文: すると、襖が開いて、一人の書生体の男が手に洋紙の束を持って出て来た。
すると、襖が開いて、一人の書生風の男が手に洋紙の束を持って出て来た。
原文: 「それを一度読み上げて下さい」
「それを一度読み上げてください」
原文: 明智の命令に随って、その男は最初から朗読した。
明智の指示に従って、その男は最初から朗読した。
原文: 「では、蕗屋君、これに署名して、拇印で結構ですから捺して呉れませんか。君はまさかいやだとは云いますまいね。だって、さっき、屏風のことはいつでも証言してやると約束したばかりじゃありませんか。尤も、こんな風な証言だろうとは想像しなかったかも知れないけれど」
「では、蕗屋君、これに署名して、拇印で結構ですから押してくれませんか。君はまさか嫌だとは言いますまいね。だって、さっき、屏風のことはいつでも証言してやると約束したばかりじゃありませんか。もっとも、こんな証言になろうとは想像しなかったかもしれないけれど」
原文: 蕗屋は、ここで署名を拒んだところで、何の甲斐もないことを、十分知っていた。
蕗屋は、ここで署名を拒んだところで何の甲斐もないことを、十分に知っていた。
原文: 彼は明智の驚くべき推理をも、併せて承認する意味で、署名捺印した。
彼は明智の驚くべき推理をも併せて認めるという意味で、署名し捺印した。
原文: そして、今はもうすっかりあきらめ果てた人の様にうなだれていた。
そして、今はもうすっかりあきらめ果てた人のようにうなだれていた。
原文: 「先にも申上げた通り」
「先にも申し上げたとおり」
原文: 明智は最後に説明した。
明智は最後に説明した。
原文: 「ミュンスターベルヒは、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所、人又は物について知っているかどうかを試す場合に限って確定的だといっています。今度の事件で云えば、蕗屋君が屏風を見たかどうかという点が、それなんです。この点を外にしては、百の心理試験も恐らく無駄でしょう。何しろ、相手が蕗屋君の様な、何もかも予想して、綿密な準備をしている男なのですからね。それからもう一つ申上げ度いのは、心理試験というものは、必ずしも、書物に書いてある通り一定の刺戟語を使い、一定の機械を用意しなければ出来ないものではなくて、今僕が実験してお目にかけた通り、極く日常的な会話によってでも、十分やれるということです。昔からの名判官は、例えば大岡越前守という様な人は、皆自分でも気づかないで、最近の心理学が発明した方法を、ちゃんと応用しているのですよ」
「ミュンスターベルヒは、心理試験の本当の効き目は、容疑者がある場所、人、または物について知っているかどうかを試す場合に限って確定的だと言っています。今度の事件で言えば、蕗屋君が屏風を見たかどうかという点が、それなんです。この点を外しては、百の心理試験もおそらく無駄でしょう。何しろ、相手が蕗屋君のような、何もかも予想して綿密な準備をしている男なのですからね。それからもう一つ申し上げたいのは、心理試験というものは、必ずしも書物に書いてあるとおりの決まった刺激語を使い、決まった機械を用意しなければできないものではなくて、今私が実験してお目にかけたとおり、ごく日常的な会話によっても十分できるということです。昔からの名判官、たとえば大岡越前守のような人は、みな自分でも気づかないうちに、最近の心理学が発明した方法をちゃんと応用しているのですよ」