羅生門 現代語訳
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1915年
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ある日の夕方のことだ。
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ある日の暮方の事である。
一人の下人が、羅生門の下で雨がやむのを待っていた。
原文を見る
一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。
原文を見る
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。
ただ、あちこち赤い塗りがはげた大きな丸柱に、コオロギが一匹とまっているだけだ。
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ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
羅生門は朱雀大路にあるのだから、この男のほかにも、雨宿りをしている市女笠や揉烏帽子の人が二、三人いてもよさそうなものだ。
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羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。
それなのに、この男のほかには誰もいない。
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それが、この男のほかには誰もいない。
なぜかというと、ここ二、三年、京都では地震や辻風、火事、飢饉といった災いが続いて起きていた。
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何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。
そのせいで、都の荒れ方はひどいものだった。
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そこで洛中のさびれ方は一通りではない。
古い記録によれば、仏像や仏具を打ち砕いて、赤い塗料や金銀の箔がついた木を道ばたに積み上げ、薪として売っていたという。
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旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。
都がそんなありさまだから、羅生門の修理など、もとから誰も気にかける者がなかった。
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洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。
するとその荒れ放題の門をいいことに、狐やタヌキが棲みついた。
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するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。
盗人が棲みついた。
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盗人が棲む。
しまいには引き取り手のない死人をここへ運んで捨てていく習慣まで生まれた。
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とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。
だから、日が暮れると、誰もが気味悪がって、この門の近くには近づかなくなっていたのだ。
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そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
その代わり、カラスがどこからともなくたくさん集まってきた。
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その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。
昼間見ると、カラスが何羽も輪を描きながら、高い屋根の飾りのまわりを鳴いて飛び回っている。
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昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。
特に門の上の空が夕焼けで赤くなる時には、ゴマをまいたようにはっきり見えた。
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ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。
カラスは言うまでもなく、門の上にある死人の肉をついばみに来るのだ。——
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鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――
もっとも今日は時刻が遅いせいか、一羽も見えない。
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もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。
ただ、あちこち崩れかかって、崩れ目に長い草の生えた石段の上に、カラスのふんが点々と白くこびりついているのが見える。
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ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いさらした紺の着物のすそを敷いて腰をおろし、右の頬にできた大きなにきびを気にしながら、ぼんやりと雨が降るのを眺めていた。
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下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」
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作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」
と書いた。
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と書いた。
しかし下人は、雨がやんでもとりたてて行くあてがない。
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しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。
ふだんなら、もちろん主人の家に帰るはずだ。
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ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。
ところがその主人から、四、五日前に暇を出されていた。
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所がその主人からは、四五日前に暇を出された。
前にも書いたように、当時の京都は普通ではないほど衰えていた。
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前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。
今この下人が、長年仕えてきた主人から暇を出されたのも、実はこの衰えの小さなしわ寄せにすぎない。
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今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨やみを待っていた」
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だから「下人が雨やみを待っていた」
というよりも「雨に降り込められた下人が、行き場もなくて途方に暮れていた」
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と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」
という方が正確だ。
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と云う方が、適当である。
その上、今日の空模様も、この平安時代の下人の感傷にかなりの影響を与えていた。
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その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。
午後三時ごろから降り出した雨は、いまだにやむ気配がない。
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申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。
そこで下人は、何よりもまず明日の暮らしをどうにかしようとして——つまりどうにもならないことをどうにかしようとして——とりとめのない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞くともなく聞いていたのだった。
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そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
雨は羅生門をつつんで、遠くからざあっという音を集めてくる。
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雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。
日が沈むにつれて空はどんどん暗くなり、見上げると、門の屋根が、斜めに突き出した瓦の先に、重たく薄暗い雲を支えていた。
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夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならないことをどうにかするためには、手段を選んでいる余裕はない。
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どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。
選んでいれば、塀の下か道ばたの地面の上で飢え死にするだけだ。
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選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。
そしてこの門の上へ運ばれて、犬のように捨てられるだけだ。
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そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。
選ばないとすれば——下人の考えは、何度も同じところをぐるぐる回ったあげく、やっとこの一点にたどり着いた。
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選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。
しかしこの「とすれば」
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しかしこの「すれば」
は、いつまでたっても結局「とすれば」
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は、いつまでたっても、結局「すれば」
のままだった。
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であった。
下人は、手段を選ばないことは認めながらも、この「とすれば」
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下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」
の決着をつけるために、当然その次に来るはずの「盗人になるしかない」
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のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」
という結論を、積極的に受け入れるだけの勇気が出ずにいたのだ。
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と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
下人は大きなくしゃみをして、それからだるそうに立ち上がった。
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下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。
夕方に冷える京都は、もう火桶が欲しいくらいの寒さだ。
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夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。
風は門の柱と柱の間を、夕闇と一緒に遠慮なく吹き抜けていく。
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風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。
赤い塗りの柱にとまっていたコオロギも、もうどこかへ行ってしまった。
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丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。
下人は首をすくめながら、山吹色の薄着に重ねた紺の着物の肩をいからせて、門のまわりを見回した。
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下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。
雨風の心配がなく、人目にもつかず、一晩楽に眠れそうな場所があれば、そこでとにかく夜を明かそうと思ったからだ。
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雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。
すると幸い、門の上の楼へ上る幅の広い、これも赤く塗られたはしごが目についた。
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すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。
上に人がいたとしても、どうせ死人だけだ。
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上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。
下人はそこで、腰にさげた太刀が鞘から抜けないよう気をつけながら、わら草履をはいた足をそのはしごの一番下の段に踏みかけた。
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下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、しばらく後のことだ。
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それから、何分かの後である。
羅生門の楼の上へ出る幅の広いはしごの中段に、一人の男が猫のように体をちぢめ、息を殺しながら、上の様子をうかがっていた。
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羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。
楼の上からさす火の光が、かすかにその男の右の頬を照らしている。
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楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。
短いひげの中に、赤く膿を持ったにきびのある頬だ。
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短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。
下人は最初から、上にいるのは死人だけだと決め込んでいた。
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下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。
それがはしごを二、三段上ってみると、上では誰かが火をつけ、しかもその火をあちこちと動かしているらしい。
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それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。
それは、濁った黄色い光が、隅々に蜘蛛の巣を張った天井裏に揺れながら映っていたのですぐにわかった。
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これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。
この雨の夜に、この羅生門の上で火をつけているとなれば、どうせただ者ではない。
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この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
下人は、ヤモリのように足音を消して、やっと急なはしごを一番上の段まで這うようにして上り切った。
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下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。
そして体をできるだけ平らにしながら、首をできるだけ前へ出して、恐る恐る楼の中をのぞいてみた。
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そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。
見ると、楼の中には、噂に聞いた通り、いくつかの死骸が無造作に捨ててある。火の光が届く範囲が思ったより狭いので、数はよくわからない。
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見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。
ただ、ぼんやりとわかるのは、裸の死骸と着物を着た死骸が混じっているということだ。
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ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。
もちろん女も男もいるらしい。
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勿論、中には女も男もまじっているらしい。
そしてそれらの死骸はみな、かつて生きていた人間だったという事実さえ疑わしいほど、粘土をこねて作った人形のように、口を開けたり手を伸ばしたりして、ごろごろと床の上に転がっていた。
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そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏ねて造った人形のように、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。
しかも、肩や胸のような高くなった部分にぼんやりした火の光を受けて、低くなった部分の影をさらに暗くしながら、もう二度と口をきかない者のようにずっと黙り続けていた。
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しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の如く黙っていた。
下人は、死骸の腐った臭いに思わず鼻をおさえた。
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下人は、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った。
しかしその手は、次の瞬間にはもう鼻をおさえることを忘れていた。
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しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。
ある強い感情が、この男の嗅覚をほとんど完全に奪ってしまったからだ。
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ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
下人の目は、その時、はじめて死骸の中にうずくまっている人間を見た。
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下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲っている人間を見た。
ひわだ色の着物を着た、背が低く、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆だ。
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檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。
その老婆は右の手に火のついた松の木切れを持って、死骸の一つの顔をのぞきこむように眺めていた。
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その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。
髪の毛が長いところを見ると、たぶん女の死骸だろう。
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髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
下人は、六割の恐怖と四割の好奇心に動かされて、しばらくは息をするのも忘れていた。
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下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。
古い記録の言葉を借りれば、「全身の毛が逆立つ」
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旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」
ような感じだった。
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ように感じたのである。
すると老婆は、松の木切れを床板の隙間に挿して、それから今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、ちょうど猿の親が猿の子のシラミを取るように、その長い髪の毛を一本ずつ抜き始めた。
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すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。
髪はするすると抜けていくようだった。
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髪は手に従って抜けるらしい。
その髪の毛が一本ずつ抜けるにつれて、下人の心から恐怖が少しずつ消えていった。
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その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。
そしてそれと同時に、この老婆に対する激しい憎しみが少しずつ湧いてきた。——
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そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――
いや、この老婆に対してというのは正確ではないかもしれない。
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いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。
むしろ、あらゆる悪に対する反感が、じわじわと強くなってきたのだ。
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むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた「飢え死にするか盗人になるか」という問題を改めて持ち出したとしたら、おそらく下人は何の未練もなく飢え死にを選んだことだろう。
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この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
それほど、この男の悪を憎む心は、老婆が床に挿した松の木切れのように、勢いよく燃え上がっていたのだ。
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それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。
下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くのかわからなかった。
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下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。
だからそれを善いことか悪いことかどちらに決めてよいかも知らなかった。
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従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。
しかし下人にとっては、この雨の夜にこの羅生門の上で死人の髪の毛を抜くという行為が、それだけで既に許せない悪だった。
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しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。
もちろん下人は、さっきまで自分が盗人になるつもりでいたことなど、とっくに忘れていた。
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勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
そこで下人は両足に力を入れて、いきなりはしごから上へ飛び上がった。
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そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。
そして太刀の柄に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩み寄った。
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そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。
老婆が驚いたのは言うまでもない。
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老婆が驚いたのは云うまでもない。
老婆は、一目下人を見るや、まるでバネで弾かれたように飛び上がった。
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老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。
「こら、どこへ行く。」
原文を見る
「おのれ、どこへ行く。」
下人は、老婆が死骸につまずきながら慌てふためいて逃げようとする行く手をふさいで、こう怒鳴った。
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下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。
老婆は、それでも下人を押しのけて行こうとする。
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老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。
下人はまたそれを行かすまいとして押し戻す。
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下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。
二人は死骸の中で、しばらく無言のまま、つかみ合った。
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二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。
しかし勝負は最初からわかっていた。
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しかし勝敗は、はじめからわかっている。
下人はとうとう老婆の腕をつかんで、無理矢理そこへねじ倒した。
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下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ扭じ倒した。
ちょうど鶏の脚のような、骨と皮だけの腕だった。
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丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。言え。言わなければ、これだぞ。」
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「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
下人は老婆を突き放すと、いきなり太刀の鞘を払って、白い刃の色をその目の前につきつけた。
原文を見る
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。
しかし老婆は黙っている。
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けれども、老婆は黙っている。
両手をわなわな震わせて、肩で息をしながら、眼球が飛び出しそうなほど目を見開いて、口のきけない者のようにしつこく黙っている。
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両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が眶の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。
これを見ると、下人は初めて、この老婆の生き死にが完全に自分の意志によって決まるということをはっきりと意識した。
原文を見る
これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。
そしてその意識が、今まで激しく燃えていた憎しみの心を、いつの間にか冷ましてしまった。
原文を見る
そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。
後に残ったのは、ただ、ある仕事をやり遂げた時のような、静かな満足感だけだった。
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後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。
そこで下人は、老婆を見下ろしながら、少し声を柔らかくしてこう言った。
原文を見る
そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「俺は検非違使の役人なんかじゃない。さっきこの門の下を通りかかった旅人だ。だからお前を縛ってどうこうしようという気はない。ただ、こんな時間にこの門の上で何をしていたのか、それを俺に話してくれればいい。」
原文を見る
「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
すると老婆は、見開いていた目をさらに大きくして、じっとその下人の顔を見つめた。
原文を見る
すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。
まぶたが赤く、肉食の鳥のような鋭い目で見たのだ。
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眶の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。
それから、しわでほとんど鼻と一つになった唇を、何かを噛んでいるように動かした。
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それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。
細い喉で、とがったのどぼとけが動いているのが見える。
原文を見る
細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。
その時、その喉から、カラスが鳴くような声が、はあはあと息を切らしながら、下人の耳に届いた。
原文を見る
その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、かつらにしようと思ったんじゃよ。」
原文を見る
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」
下人は、老婆の答えが思いのほか平凡だったことに失望した。
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下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。
そして失望すると同時に、また前の憎しみが、冷ややかな軽蔑と一緒に心の中へ入ってきた。
原文を見る
そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。
するとその様子が相手にも伝わったのだろう。
原文を見る
すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。
老婆は、片手にまだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったまま、ヒキガエルのつぶやくような声で、口ごもりながらこんなことを言った。
原文を見る
老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「なるほどな、死人の髪の毛を抜くというのは、どれだけ悪いことかもしれん。じゃがな、ここにいる死人どもは、みんなそのくらいのことをされても当然の人間ばかりじゃよ。現にわしが今、髪を抜いたこの女はな、蛇を四寸ほどに切って干したものを、干し魚だと言って、太刀帯の兵士の陣営へ売りに行ったんじゃ。疫病で死ななかったら、今でも売りに行っていただろうよ。それにな、この女の売る干し魚は味がいいと言って、太刀帯の者どもが欠かさず食べ物として買っていたそうな。わしは、この女のしたことが悪いとは思っておらん。そうしなければ飢え死にするんじゃから、仕方なくしたことじゃろ。だから、今またわしのしていたことも、悪いこととは思わんぞよ。
原文を見る
「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。
これだってやはりそうしなければ飢え死にするんじゃから、仕方なくすることじゃわいな。
原文を見る
これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。
だから、その仕方ないことをよく知っていたこの女は、たぶんわしのすることも大目に見てくれるじゃろ。」
原文を見る
じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は、だいたいこんなことを言った。
原文を見る
老婆は、大体こんな意味の事を云った。
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左手でおさえながら、冷ややかにこの話を聞いていた。
原文を見る
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。
もちろん右の手では、頬に膿を持った大きなにきびを気にしながら聞いているのだ。
原文を見る
勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。
しかしこれを聞くうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
原文を見る
しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。
それはさっき門の下でこの男に欠けていた勇気だ。
原文を見る
それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。
そしてまた、さっきこの門の上へ上って老婆を捕まえた時の勇気とは、まったく反対の方向に動こうとする勇気だった。
原文を見る
そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。
下人はもう、飢え死にするか盗人になるかで迷わなかった。
原文を見る
下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。
それどころか、その時の気持ちからすれば、飢え死にという考えはほとんど頭の外へ追い出されていた。
原文を見る
その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
原文を見る
「きっと、そうか。」
老婆の話が終わると、下人はあざけるような声で念を押した。
原文を見る
老婆の話が完ると、下人は嘲るような声で念を押した。
そして一歩前に出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟首をつかみながら、噛みつくようにこう言った。
原文を見る
そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、俺が着物をはぎ取っても恨むなよ。俺だってそうしなければ、飢え死にする身なんだ。」
原文を見る
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
下人は素早く、老婆の着物をはぎ取った。
原文を見る
下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。
それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴り倒した。
原文を見る
それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。
はしごの口までは、わずか五歩ほどだ。
原文を見る
梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。
下人は、はぎ取ったひわだ色の着物をわきに抱えて、またたく間に急なはしごを夜の底へ駆け下りた。
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下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
しばらく死んだように倒れていた老婆が、死骸の中からその裸の体を起こしたのは、それからすぐ後のことだ。
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しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。
老婆はつぶやくような、うめくような声を出しながら、まだ燃えている火の光を頼りに、はしごの口まで這っていった。
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老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。
そして、そこから短い白髪を逆さにして、門の下をのぞきこんだ。
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そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。
外には、ただ真っ暗な夜があるだけだった。
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外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方は、誰も知らない。
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下人の行方は、誰も知らない。