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山月記

中島敦なかじまあつし)・1942

詩人の名を残そうと官を退いた李徴が、自尊心ゆえに虎へと姿を変える中国故事に材を取った短編。「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の一節で知られる。

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

原文: 隴西ろうさい李徴りちょうは博学才穎さいえい、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性、狷介けんかいみずかたのむところすこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるをいさぎよしとしなかった。
隴西の李徴は博学で才気にあふれ、天宝の末年、若くして科挙の合格者名簿に名を連ね、そのまま江南尉という地方官職に就いた。だが生まれつき気性が激しく、自分の能力に強い自信を持っていたので、下級の役人として働き続けることに我慢できなかった。
原文: いくばくもなく官を退いた後は、故山こざん虢略かくりゃく帰臥きがし、人とまじわりを絶って、ひたすら詩作にふけった。
まもなく官職を辞して故郷の虢略に引きこもり、人づきあいを断ち、ひたすら詩を作ることに熱中した。
原文: 下吏となって長くひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年にのこそうとしたのである。
下っ端の役人として、いつまでも品のない上官の前に頭を下げ続けるよりも、詩人として死後百年にわたって名を残したかったのだ。
原文: しかし、文名は容易に揚らず、生活は日をうて苦しくなる。
しかし名声はなかなか上がらず、生活は日に日に苦しくなっていった。
原文: 李徴はようや焦躁しょうそうに駆られて来た。
李徴はしだいに焦りを感じるようになった。
原文: このころからその容貌ようぼう峭刻しょうこくとなり、肉落ち骨ひいで、眼光のみいたずらに炯々けいけいとして、かつて進士に登第とうだいした頃の豊頬ほうきょうの美少年のおもかげは、何処どこに求めようもない。
この頃から顔つきも鋭くとがってきて、肉が落ち骨が浮き出し、目だけがやたらと鋭く光って、かつて科挙に合格した頃のふくよかな美少年の面影は、どこにも見つけられないほどだった。
原文: 数年の後、貧窮にえず、妻子の衣食のためについに節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。
数年後、貧しさに耐えられなくなり、妻子の食べ物や衣服のために、とうとう意地を捨てて、再び東へと赴き、地方官吏の仕事に就くことになった。
原文: 一方、これは、おのれの詩業に半ば絶望したためでもある。
一方で、これは自分の詩業にほとんど絶望したせいでもあった。
原文: 曾ての同輩は既にはるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙しがにもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才しゅんさい李徴の自尊心を如何いかきずつけたかは、想像にかたくない。
かつての同期はすでにはるか高い地位に出世していて、昔の李徴が鈍い連中だと相手にもしなかったその人たちの命令を受けなければならなくなった。それが往年の俊才・李徴の自尊心をどれほど傷つけたか、想像に難くない。
原文: 彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑えがたくなった。
彼は不満をかかえたまま楽しめず、荒れた気性はますます抑えられなくなっていった。
原文: 一年の後、公用で旅に出、汝水じょすいのほとりに宿った時、遂に発狂した。
一年後、公用で旅に出て汝水のほとりに泊まったある夜、ついに発狂した。
原文: ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、やみの中へ駈出かけだした。
真夜中、急に顔色を変えて寝床から飛び起きると、何か意味不明なことを叫びながらそのまま外へ飛び出し、闇の中へと駆け去った。
原文: 彼は二度ともどって来なかった。
彼は二度と戻らなかった。
原文: 附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。
近くの山野を捜索しても、手がかりは何もなかった。
原文: その後李徴がどうなったかを知る者は、だれもなかった。
その後、李徴がどうなったかを知る者は誰もいなかった。
原文: 翌年、監察御史かんさつぎょし陳郡ちんぐん袁傪えんさんという者、勅命を奉じて嶺南れいなん使つかいし、みち商於しょうおの地に宿った。
翌年、監察御史の陳郡出身の袁傪という人物が、勅命を受けて嶺南へ使いに赴き、途中、商於という地に宿を取った。
原文: 次の朝だ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎ひとくいどらが出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。
翌朝まだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅の役人がこう言った。この先の道には人食い虎が出るので、旅人は明るい昼間でなければ通れない。
原文: 今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。
今はまだ早すぎるから、もう少し待った方がいいですよ、と。
原文: 袁傪は、しかし、供廻ともまわりの多勢なのを恃み、駅吏の言葉をしりぞけて、出発した。
しかし袁傪は、供回りの人数が多いのを頼みにして、役人の言葉を無視して出発した。
原文: 残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎もうこくさむらの中から躍り出た。
三日月の光を頼りに林の中の草地を進んでいくと、果たして一匹の猛虎が草むらの中から飛び出してきた。
原文: 虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、たちまち身をひるがえして、元の叢に隠れた。
虎は今にも袁傪に飛びかかろうとしたが、突然身をひるがえして元の草むらに隠れた。
原文: 叢の中から人間の声で「あぶないところだった」
草むらの中から人間の声で「あぶないところだった」
原文: と繰返しつぶやくのが聞えた。
と何度もつぶやくのが聞こえた。
原文: その声に袁傪は聞きおぼえがあった。
その声に袁傪は聞き覚えがあった。
原文: 驚懼きょうくの中にも、彼は咄嗟とっさに思いあたって、叫んだ。
驚き恐れながらも、彼はとっさに思い当たって、叫んだ。
原文: 「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
「その声は、我が友・李徴ではないか?」
原文: 袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。
袁傪は李徴と同じ年に科挙に合格し、友人の少なかった李徴にとって、最も親しい友だった。
原文: 温和な袁傪の性格が、峻峭しゅんしょうな李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
温厚な袁傪の性格が、激しい李徴の気質とぶつからなかったからだろう。
原文: 叢の中からは、しばらく返辞が無かった。
草むらの中からは、しばらく返事がなかった。
原文: しのび泣きかと思われるかすかな声が時々れるばかりである。
しのび泣きのような、かすかな声が時々漏れてくるだけだった。
原文: ややあって、低い声が答えた。
しばらくして、低い声が答えた。
原文: 「如何にも自分は隴西の李徴である」
「たしかに、自分は隴西の李徴だ」
原文: と。
と。
原文: 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、なつかしげに久闊きゅうかつを叙した。
袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて草むらに近づき、なつかしそうに久しぶりの再会を喜んだ。
原文: そして、何故なぜ叢から出て来ないのかと問うた。
そして、なぜ草むらから出てこないのかと聞いた。
原文: 李徴の声が答えて言う。
李徴の声が答えて言う。
原文: 自分は今や異類の身となっている。
自分は今や人間以外の身になっている。
原文: どうして、おめおめと故人ともの前にあさましい姿をさらせようか。
どうして、みっともない姿を旧友の前にさらすことができようか。
原文: かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭いふけんえんの情を起させるに決っているからだ。
それに、自分が姿を現せば、必ず君に恐怖と嫌悪の気持ちを起こさせることになるからだ。
原文: しかし、今、図らずも故人にうことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懐かしい。
でも今、思いがけず旧友に会えて、恥ずかしいという気持ちも忘れてしまうほどなつかしい。
原文: どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形をいとわず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
どうかほんのわずかな時間でいいから、自分の醜い今の姿を嫌わずに、かつて君の友人だったこの自分と話をしてくれないだろうか。
原文: 後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。
後で考えれば不思議なことだったが、その時袁傪は、この超自然の出来事をごく自然に受け入れて、少しも不思議がろうとしなかった。
原文: 彼は部下に命じて行列の進行をめ、自分は叢のかたわらに立って、見えざる声と対談した。
彼は部下に命じて行列を止め、自分は草むらのそばに立って、見えない声と話をした。
原文: 都のうわさ、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。
都の話、旧友たちの近況、袁傪の現在の地位、それに対する李徴のお祝いの言葉。
原文: 青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかをたずねた。
若い頃に親しかった者同士の、あの気取りのない語り口でそれらが話された後、袁傪は李徴がどうしてこうなったのかを尋ねた。
原文: 草中の声は次のように語った。
草の中の声は次のように語った。
原文: 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふとを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。
今からおよそ一年前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、しばらく眠ってからふと目が覚めると、戸の外で誰かが自分の名前を呼んでいる。
原文: 声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。
声に応えて外に出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招いている。
原文: 覚えず、自分は声を追うて走り出した。
気づかないうちに、自分は声を追って走り出していた。
原文: 無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。
無我夢中で駆けていくうち、いつの間にか道は山の中に入り、しかも知らぬ間に自分は両手で地面をつかんで走っていた。
原文: 何か身体からだ中に力がち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。
体中に力がみなぎるような感じで、軽々と岩を跳び越えて進んだ。
原文: 気が付くと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。
気がつくと、手や肘のあたりに毛が生えてきているようだった。
原文: 少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。
少し明るくなってから、谷川の水面に姿を映してみると、すでに虎になっていた。
原文: 自分は初め眼を信じなかった。
最初は自分の目を信じなかった。
原文: 次に、これは夢に違いないと考えた。
次に、これは夢に違いないと思った。
原文: 夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。
夢の中で「これは夢だ」とわかっているような夢を、それまでに見たことがあったから。
原文: どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。
どうしても夢ではないと悟らなければならなかった時、自分はぼう然とした。
原文: そうしておそれた。
そして恐ろしくなった。
原文: 全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。
本当に、どんなことでも起こりうるのだと思い、深く恐れた。
原文: しかし、何故こんな事になったのだろう。
しかし、なぜこうなったのだろう。
原文: 分らぬ。
わからない。
原文: 全く何事も我々にはわからぬ。
私たちには何も本当のことはわからない。
原文: 理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
理由もわからずに押しつけられたものを大人しく受け取って、理由もわからずに生きていくのが、私たち生き物の定めだ。
原文: 自分はぐに死をおもうた。
自分はすぐに死を考えた。
原文: しかし、その時、眼の前を一匹のうさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。
しかし、その時、目の前を一匹のウサギが駆け過ぎるのを見た瞬間に、自分の中の人間はたちまち姿を消した。
原文: 再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。
再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口はウサギの血まみれで、あたりにはウサギの毛が散らばっていた。
原文: これが虎としての最初の経験であった。
これが虎としての最初の経験だった。
原文: それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。
それ以来今まで、どんなことをし続けてきたか、それはとても話す気になれない。
原文: ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心がかえって来る。
ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が戻ってくる。
原文: そういう時には、曾ての日と同じく、人語もあやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句をそらんずることも出来る。
そういう時には、かつての日と同じように、人の言葉も使えるし、複雑なことを考えることもできる。経書の一節をそらで唱えることもできる。
原文: その人間の心で、虎としてのおのれ残虐ざんぎゃくおこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、いきどおろしい。
その人間の心で、虎としての自分の残虐な行いのあとを見て、自分の運命を振り返る時が、一番みじめで恐ろしく、腹が立つ。
原文: しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。
しかしその、人間に戻る数時間も、日が経つにつれてだんだん短くなっていく。
原文: 今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。
今までは、どうして虎なんかになったんだろうと不思議に思っていたのに、この間ふと気づいたら、自分はどうして以前、人間だったのかと考えていた。
原文: これは恐しいことだ。
これは恐ろしいことだ。
原文: 今少してば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかりうもれて消えてしまうだろう。
もう少し経てば、自分の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。
原文: ちょうど、古い宮殿のいしずえが次第に土砂に埋没するように。
ちょうど古い宮殿の礎石がだんだん土砂に埋まっていくように。
原文: そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂きくろうて何の悔も感じないだろう。
そうなれば、いずれ自分は過去のことをすっかり忘れ、一匹の虎として荒れ回り、今日のように道で君と出会っても旧友と気づかず、君を引き裂いて食っても何の後悔も感じないだろう。
原文: 一体、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。
そもそも、獣でも人間でも、もともとは何か別のものだったんだろう。
原文: 初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?
最初はそれを覚えているが、だんだん忘れてしまい、最初から今の姿だったと思い込んでいるんじゃないだろうか?
原文:  いや、そんな事はどうでもいい。
いや、そんなことはどうでもいい。
原文: 己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。
自分の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、たぶんその方が自分は幸せになれるだろう。
原文: だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。
なのに、自分の中の人間は、そのことをこの上なく恐ろしく感じているのだ。
原文: ああ、全く、どんなに、恐しく、かなしく、切なく思っているだろう!
ああ、本当に、どれほど恐ろしく、悲しく、つらく思っていることか!
原文:  己が人間だった記憶のなくなることを。
自分が人間だった記憶がなくなることを。
原文: この気持は誰にも分らない。
この気持ちは誰にもわからない。
原文: 誰にも分らない。
誰にもわからない。
原文: 己と同じ身の上に成った者でなければ。
自分と同じ境遇になった者でなければ。
原文: ところで、そうだ。
ところで、そうだ。
原文: 己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。
自分がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つお願いしておきたいことがある。
原文: 袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中そうちゅうの声の語る不思議に聞入っていた。
袁傪をはじめ一行は、息をのんで、草むらの中の声が語る不思議な話に聞き入っていた。
原文: 声は続けて言う。
声は続けて言う。
原文: 他でもない。
他でもない。
原文: 自分は元来詩人として名を成す積りでいた。
自分はもともと詩人として名を成すつもりでいた。
原文: しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立至った。
しかし、まだその夢が叶わないうちにこの運命になってしまった。
原文: 曾て作るところの詩数百ぺんもとより、まだ世に行われておらぬ。
これまでに作った詩が数百篇あるが、もちろんまだ世に出ていない。
原文: 遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。
遺稿がどこにあるかももうわからなくなっているだろう。
原文: ところで、その中、今もなお記誦きしょうせるものが数十ある。
ところが、その中で今もまだ覚えているものが数十篇ある。
原文: これを我がために伝録していただきたいのだ。
これを自分のために書き留めてもらいたいのだ。
原文: 何も、これにって一人前の詩人づらをしたいのではない。
それで一人前の詩人を気取りたいわけじゃない。
原文: 作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
出来のよしあしはともかく、家産を使い果たし心まで壊してまで生涯をかけて執着したものを、一部なりとも後の世に残さないでは、死んでも死にきれないのだ。
原文: 袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声にしたがって書きとらせた。
袁傪は部下に命じ、筆を持って草むらの声に従って書き取らせた。
原文: 李徴の声は叢の中から朗々と響いた。
李徴の声は草むらの中から朗々と響いた。
原文: 長短およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。
長短合わせておよそ三十篇、格調が高く味わいに優れていて、一読すれば作者の才能の並々でないことが伝わる作品ばかりだった。
原文: しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。
しかし袁傪は感嘆しながらも、心の中でぼんやりとこう感じていた。
原文: 成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。
なるほど、作者にトップクラスの素質があるのは間違いない。
原文: しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。
ただ、このままでは第一流の作品になるには、ほんのわずかなところで(非常に微妙な点において)欠けているのではないか、と。
原文: 旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らをあざけるかごとくに言った。
詩を吟じ終えた李徴の声は、突然調子を変え、自分を嘲るように言った。
原文: はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、おれは、己の詩集が長安ちょうあん風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。
恥ずかしいことだが、今でも、こんなみじめな身になり果てた今でも、自分は詩集が長安の風流人の机の上に置かれている様子を夢に見ることがある。
原文: 岩窟がんくつの中に横たわって見る夢にだよ。
岩穴の中で横になりながら見る夢にだよ。
原文: わらってくれ。
笑ってくれ。
原文: 詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
詩人になれずに虎になった哀れな男を。
原文: (袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖じちょうへきを思出しながら、哀しく聞いていた。)
(袁傪は昔の青年・李徴の自嘲癖を思い出しながら、悲しく聞いていた。)
原文: そうだ。
そうだ。
原文: お笑い草ついでに、今のおもいを即席の詩に述べて見ようか。
笑い話のついでに、今の気持ちを即興の詩にしてみようか。
原文: この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。
この虎の中に、まだかつての李徴が生きているしるしに。
原文: 袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。
袁傪は再び部下に命じてこれを書き取らせた。
原文: その詩に言う。
その詩はこうだ。
原文: 偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
ふとしたことで正気を失い、人の身から外れてしまった。不幸は重なり、もう逃げ場もない。
原文: 今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
この爪と牙を恐れて、今は誰も近づこうとしない。かつては声も名声もともに高かったのに。
原文: 我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
私は得体の知れない獣として茂みに身を潜め、君はもう馬車に乗って意気揚々と先へ進んでいく。
原文: 此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷
今夜この谷間で明月と向き合いながら、詩人のように高らかに吟ずることもできず、ただ獣の声で吠えるしかない。
原文: 時に、残月、光ひややかに、白露は地にしげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
その時、三日月の光は冷ややかに降り注ぎ、白い露が地面に重く降りて、木の間を渡る冷たい風はもう夜明けが近いことを告げていた。
原文: 人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。
人々はもはや出来事の不思議さを忘れ、静まりかえって、この詩人の不運を嘆いた。
原文: 李徴の声は再び続ける。
李徴の声は再び続ける。
原文: 何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようにれば、思い当ることが全然ないでもない。
なぜこんな運命になったかわからないと、さっきは言ったが、しかし考えようによっては、思い当たることがまったくないわけでもない。
原文: 人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。
人間だった頃、自分は努めて人との交わりを避けていた。
原文: 人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。
人々は自分を傲慢だ、尊大だと言った。
原文: 実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。
実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
原文: 勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。
もちろん、かつて郷里で鬼才と言われた自分に、自尊心がなかったとは言わない。
原文: しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。
しかし、それは臆病な自尊心とでも言うべきものだった。
原文: 己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。
自分は詩によって名を成そうと思いながら、自ら師に就いたり、詩の仲間と交わって腕を磨き合ったりすることをしなかった。
原文: かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。
かといって、俗物たちの中に入っていくこともよしとしなかった。
原文: 共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。
どちらも、自分の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいだ。
原文: おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。
自分が本物の珠でないかもしれないと恐れるあまり、あえて苦労して磨こうともしなかった。かといって、自分が珠であるかもしれないと半ば信じているから、つまらない瓦礫の仲間に入ることもできなかった。
原文: おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
自分はだんだん世間から離れ、人から遠ざかり、ふさぎと怒りによってますます自分の中の臆病な自尊心を太らせる結果になった。
原文: 人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、それぞれの性格だという。
原文: おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
自分の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
原文: 虎だったのだ。
虎だったのだ。
原文: これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
それが自分を傷つけ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては自分の外見をこのように、内心にふさわしいものに変えてしまった。
原文: 今思えば、全く、己は、己のっていたわずかばかりの才能を空費して了った訳だ。
今思えば、本当に、自分は自分の持っていたわずかばかりの才能を無駄にしてしまったわけだ。
原文: 人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐと、刻苦をいとう怠惰とが己のすべてだったのだ。
人生は何もしないには長すぎるが、何かをするには短すぎる、などと口先だけの格言をもてあそびながら、実際は、才能のなさがばれるかもしれないという卑怯な恐れと、苦労を嫌がる怠けだけが自分のすべてだったのだ。
原文: 己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。
自分よりはるかに才能が足りないのに、それを一心に磨いたことで、立派な詩人になった者がいくらでもいる。
原文: 虎と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。
虎になり果てた今、自分はようやくそれに気づいた。
原文: それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。
それを思うと、今でも胸が焼けるような後悔を感じる。
原文: 己には最早人間としての生活は出来ない。
自分にはもう人間としての生活はできない。
原文: たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。
たとえ今、自分の頭の中でどれほど優れた詩を作ったとしても、どんな手段で発表できよう。
原文: まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。
しかも、自分の頭は日ごとに虎に近づいていく。
原文: どうすればいいのだ。
どうすればいいのだ。
原文: 己の空費された過去は?
自分の無駄にされた過去は?
原文:  己はたまらなくなる。
自分は耐えられなくなる。
原文: そういう時、己は、向うの山の頂のいわに上り、空谷くうこくに向ってえる。
そういう時、自分はあの山の頂の岩に登り、谷に向かって吼える。
原文: この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。
この胸の焼けつく悲しみを誰かに訴えたいのだ。
原文: 己は昨夕も、彼処あそこで月に向ってえた。
自分は昨夕もあそこで月に向かって吠えた。
原文: 誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。
誰かにこの苦しみをわかってもらえないかと。
原文: しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただおそれ、ひれ伏すばかり。
しかし、獣たちは自分の声を聞いて、ただ怖がってひれ伏すだけだ。
原文: 山もも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない。
山も木も月も露も、一匹の虎が怒り狂って吠えていると思うだけだ。
原文: 天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。
のたうって嘆いても、誰一人自分の気持ちをわかってくれる者はいない。
原文: ちょうど、人間だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。
ちょうど、人間だった頃、自分の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。
原文: 己の毛皮のれたのは、夜露のためばかりではない。
自分の毛皮が濡れているのは、夜露のせいだけじゃない。
原文: 漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。
ようやく辺りの暗さが薄らいできた。
原文: 木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。
木の間を伝って、どこからか夜明けを告げる角笛の音が悲しげに響き始めた。
原文: 最早、別れを告げねばならぬ。
もう別れを告げなければならない。
原文: 酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。
虎に戻らなければならない時が(酔わねばならぬ時が)近づいてきたから、と李徴の声が言った。
原文: だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。
でも、お別れする前にもう一つお願いがある。
原文: それは我が妻子のことだ。
それは妻子のことだ。
原文: 彼等かれら虢略かくりゃくにいる。
彼らはまだ虢略にいる。
原文: 固より、己の運命に就いては知るはずがない。
もちろん、自分の運命については知るはずがない。
原文: 君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。
君が南から帰ってきたら、自分はもう死んだと彼らに伝えてもらえないだろうか。
原文: 決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
今日のことだけは絶対に明かさないでほしい。
原文: 厚かましいお願だが、彼等の孤弱をあわれんで、今後とも道塗どうと飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるはい。
厚かましいお願いだけど、彼らが弱い立場であることを哀れんで、これからも道端で飢えたり凍えたりすることのないように取り計らってもらえるならば、自分にとって、これ以上の恩はない。
原文: 言終って、叢中から慟哭どうこくの声が聞えた。
言い終わると、草むらの中から激しく泣く声が聞こえた。
原文: 袁もまた涙をうかべ、よろこんで李徴の意にいたいむねを答えた。
袁傪も涙を浮かべ、喜んで李徴の気持ちに応えたいと答えた。
原文: 李徴の声はしかしたちまち又先刻の自嘲的な調子にもどって、言った。
しかし李徴の声はすぐにまた先ほどの自嘲的な調子に戻って、言った。
原文: 本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。
本当は、もし自分が人間だったなら、まずこちらのことを先にお願いすべきだったのだ。
原文: 飢え凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ。
飢えて凍えようとしている妻子よりも、自分の乏しい詩の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を落とすのだ。
原文: そうして、附加つけくわえて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこのみちを通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。
そして付け加えて言うには、袁傪が嶺南から帰る途中は、決してこの道を通らないでほしい。その時には自分が虎に戻っていて、旧友とも気づかずに襲いかかるかもしれないから。
原文: 又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方こちらを振りかえって見て貰いたい。
また、今お別れしたら、前方百歩の所にある丘に上ったら、こちらを振り返って見てほしい。
原文: 自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。
自分は今の姿をもう一度見せよう。
原文: 勇に誇ろうとしてではない。
勇を誇りたいわけではない。
原文: 我が醜悪な姿を示して、もって、再び此処ここを過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
自分の醜い姿を見せることで、二度とここを通って自分に会おうという気持ちを君に起こさせないためだ、と。
原文: 袁傪は叢に向って、ねんごろに別れの言葉を述べ、馬に上った。
袁傪は草むらに向かって、心を込めて別れの言葉を述べ、馬に乗った。
原文: 叢の中からは、又、え得ざるが如き悲泣ひきゅうの声がれた。
草むらの中からは、また、堪えられないような泣き声が漏れた。
原文: 袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
袁傪も何度も草むらを振り返りながら、涙の中を出発した。
原文: 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地をながめた。
一行が丘の上に着いた時、彼らは言われた通りに振り返り、先ほどの林の中の草地を眺めた。
原文: 忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
するとたちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出るのを見た。
原文: 虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声吠えたかと思うと、また元の草むらへと跳び込んで、二度とその姿を見せなかった。