山月記 小学生向け
中島敦(なかじまあつし)・1942年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
ろうさいという土地の李徴(りちょう)は、学問が深くて頭の切れる人だった。唐の天宝年間、若くして科挙の試験に合格し、地方の役人に任命された。しかし生まれつきのプライドの高さから、身分の低い役人として働き続けることに、どうしても我慢できなかった。
原文を見る
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
ほどなく役人の仕事をやめると、故郷の虢略(かくりゃく)に帰って引きこもり、人との付き合いをすべて断ち、ひたすら詩を作ることに没頭した。
原文を見る
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。
つまらない大官のもとで膝を折って働くよりも、詩人として名を百年後の世に残そうと思ったのだ。
原文を見る
下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
しかし名声はなかなか上がらず、生活は日ごとに苦しくなっていく。
原文を見る
しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。
李徴はだんだん焦りに駆られるようになった。
原文を見る
李徴は漸く焦躁に駆られて来た。
そのころから顔つきも険しくなり、肉が落ちて骨が浮き出し、目だけがやたらと鋭く光るようになった。かつて試験に合格したころの、ふっくらとした頬をした美少年の面影は、どこにも見つけられなかった。
原文を見る
この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。
数年後、貧乏に耐えられなくなり、妻子に食べさせるために、ついにプライドを曲げて再び東へ向かい、地方の役人の仕事に就くことにした。
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数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。
一方、これは自分の詩への夢を半ばあきらめたためでもあった。
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一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。
かつての仲間はすでにはるか高い地位に上っており、昔は李徴が「ぱっとしないやつ」とばかにしていたその人たちの命令に従わなければならない。かつての天才、李徴の自尊心がどれほど傷ついたか、想像するのは難しくない。
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曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。
李徴はふさぎ込んでちっとも楽しめず、激しく乱れやすい性格がますます抑えられなくなった。
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彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は愈々抑え難くなった。
一年後、公用で旅に出て汝水(じょすい)のほとりに泊まった時、ついに気が狂ってしまった。
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一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。
ある夜中、急に顔色を変えて寝床から跳び起きると、わけのわからないことを叫びながらそのまま外へ飛び出し、闇の中へ駆けていった。
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或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。
彼は二度と戻らなかった。
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彼は二度と戻って来なかった。
近くの山や野を探しても、何の手がかりもなかった。
原文を見る
附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。
その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もいなかった。
原文を見る
その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
翌年、監察御史(かんさつぎょし)という役職の袁傪(えんさん)という人が、天子の命を受けて嶺南(れいなん)へ使いに行き、途中、商於(しょうお)という土地に宿をとった。
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翌年、監察御史、陳郡の袁傪という者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿った。
次の朝、まだ暗いうちに出発しようとすると、宿の役人が言った。この先の道には人食い虎が出ます。旅人は昼間でなければ通れません。
原文を見る
次の朝未だ暗い中に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。
今はまだ朝が早いので、もう少しお待ちになった方がよいでしょう、と。
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今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。
袁傪は、しかし供の人数が多いのを頼りに、その言葉を退けて出発した。
原文を見る
袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。
残月の光を頼りに林の中の草地を進んでいくと、果たして一匹の猛虎が茂みの中から躍り出た。
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残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。
虎はあわや袁傪に飛びかかるかと見えたが、たちまち身をひるがえして元の茂みに隠れた。
原文を見る
虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。
茂みの中から人間の声で「あぶないところだった」
原文を見る
叢の中から人間の声で「あぶないところだった」
と繰り返しつぶやくのが聞こえた。
原文を見る
と繰返し呟くのが聞えた。
その声に袁傪は聞き覚えがあった。
原文を見る
その声に袁傪は聞き憶えがあった。
驚きと恐怖の中にも、袁傪はとっさに思い当たって叫んだ。
原文を見る
驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。
「その声は、わが友、李徴ではないか?」
原文を見る
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
袁傪は李徴と同じ年に試験に合格しており、友人の少なかった李徴にとっては最も親しい友だった。
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袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。
温和な袁傪の性格が、気性の激しい李徴と衝突しなかったためだろう。
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温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
茂みの中からは、しばらく返事がなかった。
原文を見る
叢の中からは、暫く返辞が無かった。
しのび泣きかと思われる、かすかな声が時々漏れてくるばかりだった。
原文を見る
しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩れるばかりである。
やがて低い声が答えた。
原文を見る
ややあって、低い声が答えた。
「確かに、自分は隴西の李徴だ」
原文を見る
「如何にも自分は隴西の李徴である」
と。
原文を見る
と。
袁傪は恐怖を忘れ、馬から降りて茂みに近づき、なつかしそうに久しぶりの再会を喜んだ。
原文を見る
袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。
そして、なぜ茂みから出て来ないのかと尋ねた。
原文を見る
そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。
李徴の声が答えて言う。
原文を見る
李徴の声が答えて言う。
自分は今や人間とは違う体になっている。
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自分は今や異類の身となっている。
どうして友人の前に恥ずかしい姿をさらせようか。
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どうして、おめおめと故人の前にあさましい姿をさらせようか。
また、自分が姿を現せば、必ずあなたに恐怖と嫌悪の気持ちを起こさせるに決まっているからだ。
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かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決っているからだ。
しかし、今思いがけなく友人に会えて、恥ずかしい気持ちも忘れるほどなつかしい。
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しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、愧赧の念をも忘れる程に懐かしい。
どうか、ほんの少しの間でいいから、自分の醜い今の姿を嫌わずに、かつてあなたの友、李徴であったこの自分と話してくれないだろうか。
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どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
後で思えば不思議だったが、その時、袁傪はこの世を超えた不思議な出来事を、ごく素直に受け入れて、まったく疑おうとしなかった。
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後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。
彼は部下に命じて行列を止め、自分は茂みのそばに立って、見えない声と話し合った。
原文を見る
彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立って、見えざる声と対談した。
都の噂、旧友のようす、袁傪の今の地位、それに対する李徴の祝いの言葉。
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都の噂、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。
若いころ親しかった者同士の、遠慮のない話し方で、それらが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の姿になったかを尋ねた。
原文を見る
青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。
草の中の声は次のように語った。
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草中の声は次のように語った。
今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、少し眠ってからふと目を覚ますと、戸の外で誰かが自分の名を呼んでいる。
原文を見る
今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。
声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。
原文を見る
声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自分を招く。
気がつかないうちに、自分は声を追って走り出していた。
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覚えず、自分は声を追うて走り出した。
夢中で駆けていくうち、いつの間にか道は山の中に入り、しかも知らぬ間に自分は両手で地面をつかんで走っていた。
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無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。
全身に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩を跳び越えていった。
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何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。
気がつくと、手や肘のあたりに毛が生えているようだ。
原文を見る
気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。
少し明るくなってから、谷川に近づいて水面に映してみると、すでに虎になっていた。
原文を見る
少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。
最初は自分の目を信じなかった。
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自分は初め眼を信じなかった。
次に、これは夢に違いないと考えた。
原文を見る
次に、これは夢に違いないと考えた。
夢の中で「これは夢だ」と気づいているような夢を、以前に見たことがあったから。
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夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。
どうしても夢ではないと悟らなければならなかった時、自分はぼうぜんとした。
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どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。
そして恐ろしくなった。
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そうして懼れた。
本当に、どんなことでも起こり得るのだと思って、深く恐れた。
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全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。
しかし、なぜこんなことになったのだろう。
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しかし、何故こんな事になったのだろう。
わからない。
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分らぬ。
まったく何事も私たちにはわからない。
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全く何事も我々には判らぬ。
理由もわからないまま押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからないまま生きていくのが、私たち生き物の定めだ。
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理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
自分はすぐに死のうと思った。
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自分は直ぐに死を想うた。
しかしその時、目の前を一匹のウサギが走り過ぎるのを見た途端、自分の中の人間はたちまち姿を消した。
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しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。
再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口はウサギの血にまみれており、あたりにはウサギの毛が散らばっていた。
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再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。
これが虎としての最初の体験だった。
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これが虎としての最初の経験であった。
それ以来今まで、どんなひどいことをし続けてきたか、それはとても口に出して話せない。
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それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。
ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が戻ってくる。
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ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。
そういう時には、かつての日と同じように、人間の言葉も使えるし、複雑なことを考えることもできるし、昔学んだ書物の言葉を口ずさむこともできる。
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そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。
その人間の心で、虎としての自分が行ってきた残酷なことの跡を見て、自分の運命を振り返る時が、最も情けなく、恐ろしく、怒りでいっぱいになる時だ。
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その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。
しかし、その人間に戻る数時間も、日が経つにつれて次第に短くなっていく。
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しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。
以前は「どうして虎などになったのだろう」と不思議に思っていたのに、この間ふと気がついてみると「どうして昔、人間だったのだろう」と考えていた。
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今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。
これは恐ろしいことだ。
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これは恐しいことだ。
もう少し時間が経てば、自分の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。
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今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。
ちょうど古い宮殿の土台が次第に土砂に埋まっていくように。
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ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。
そうなれば、やがて自分は過去をすっかり忘れ果て、一匹の虎として荒れ狂い、今日のように道で君に出会っても友人と気づかず、君を引き裂いて食べても何の後悔も感じないだろう。
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そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだろう。
そもそも、獣も人間も、もとはほかの何かだったのだろう。
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一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。
はじめはそれを覚えているが、だんだん忘れてしまって、最初から今の姿のものだったと思い込んでいるのではないか?
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初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?
いや、そんなことはどうでもいい。
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いや、そんな事はどうでもいい。
自分の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、たぶん、その方が自分は幸せになれるだろう。
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己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。
それなのに、自分の中の人間は、そのことを、これ以上なく恐ろしく感じているのだ。
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だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。
ああ、なんと恐ろしく、悲しく、切なく思っていることだろう!
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ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう!
自分が人間だった記憶がなくなることを。
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己が人間だった記憶のなくなることを。
この気持ちは誰にもわからない。
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この気持は誰にも分らない。
誰にもわからない。
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誰にも分らない。
自分と同じ身の上になった者でなければ。
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己と同じ身の上に成った者でなければ。
ところで、そうだ。
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ところで、そうだ。
自分がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
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己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。
袁傪をはじめ一行は、息をのんで、茂みの中の声が語る不思議に聞き入っていた。
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袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞入っていた。
声は続けて言う。
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声は続けて言う。
ほかでもない。
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他でもない。
自分はもともと詩人として名を残すつもりでいた。
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自分は元来詩人として名を成す積りでいた。
しかし、まだ夢を果たせないうちに、この運命になってしまった。
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しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。
かつて作った詩が数百篇あるが、もちろん、まだ世に出ていない。
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曾て作るところの詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。
原稿がどこにあるかも、もはやわからなくなっているだろう。
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遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。
しかし、その中でまだ頭の中に残っているものが数十篇ある。
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ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。
これを私の代わりに書き留めていただきたいのだ。
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これを我が為に伝録して戴きたいのだ。
何も、これで一人前の詩人として名を売りたいのではない。
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何も、これに仍って一人前の詩人面をしたいのではない。
出来がいいか悪いかはわからないが、とにかく財産を使い果たし、心を狂わせてまで自分が一生しがみついてきたものを、一部なりとも後の世に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
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作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
袁傪は部下に命じ、筆を執って茂みの中の声に従って書き取らせた。
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袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随って書きとらせた。
李徴の声は茂みの中から朗々と響いた。
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李徴の声は叢の中から朗々と響いた。
長短合わせておよそ三十篇、格調が高く、気品があり、優れた考えにあふれ、一度読めば作者が並外れた才能の持ち主だとわかるものばかりだった。
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長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。
しかし袁傪は感嘆しながらも、ぼんやりと次のように感じていた。
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しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。
なるほど、作者が一流の才能を持つ人であることは疑いない。
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成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。
しかし、このままでは第一流の作品になるには、どこか(非常に微妙な点において)足りないところがあるのではないか、と。
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しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。
昔の詩を語り終えた李徴の声は、急に調子を変え、自分を嘲るように言った。
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旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るか如くに言った。
恥ずかしいことだが、今でも、こんな情けない身になり果てた今でも、自分は、自分の詩集が長安(ちょうあん)の洒落た人たちの机の上に置かれている様子を、夢に見ることがあるのだ。
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羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。
岩穴の中に横たわって見る夢にだよ。
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岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。
笑ってくれ。
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嗤ってくれ。
詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。
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詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
(袁傪は昔の青年李徴の自分を笑う癖を思い出しながら、悲しく聞いていた。)
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(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた。)
そうだ。
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そうだ。
笑い話のついでに、今の気持ちを即席の詩に述べてみようか。
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お笑い草ついでに、今の懐を即席の詩に述べて見ようか。
この虎の中に、まだかつての李徴が生きているしるしに。
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この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。
袁傪はまた下役に命じてこれを書き取らせた。
原文を見る
袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。
その詩に言う。
原文を見る
その詩に言う。
たまたま気の病により、普通とは異なる姿となってしまった。災いは重なり、逃れることはできない。
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偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今となっては爪と牙を誰が敵にしようか。かつては詩名と高い評判、ともに並び称えられた。
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今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
自分は草むらの下で異形の身となり、あなたはすでに立派な馬車に乗り、勢い盛んだ。
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我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
この夕べ、谷と山とで明月に向かい、詩を吟じることもできず、ただ吠えるばかり。
原文を見る
此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷
その時、残月の光は冷たく、白い露は地面に多く降りており、木々の間を吹き抜ける冷たい風は、もうすぐ夜明けが近いことを告げていた。
原文を見る
時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
人々はもはや出来事の不思議さも忘れ、厳かな気持ちで、この詩人の不幸な運命を嘆いた。
原文を見る
人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。
李徴の声は再び続ける。
原文を見る
李徴の声は再び続ける。
なぜこんな運命になったかわからないと、先ほどは言ったが、しかし、考えようによっては、思い当たることがまったくないわけでもない。
原文を見る
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。
人間だった時、自分は努めて人との付き合いを避けた。
原文を見る
人間であった時、己は努めて人との交を避けた。
人々は自分を傲慢だ、尊大だといった。
原文を見る
人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それがほとんど恥ずかしさに近いものであることを、人々は知らなかった。
原文を見る
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
もちろん、かつて郷里で天才と言われた自分に、プライドがなかったとは言わない。
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勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでも言うべきものだった。
原文を見る
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
自分は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師のもとに行ったり、詩の仲間を求めてお互いに切磋琢磨しようとしたりすることはしなかった。
原文を見る
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、つまらない人たちの仲間に入ることも、いさぎよしとしなかった。
原文を見る
かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
どちらも、自分の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいである。
原文を見る
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
自分が宝石ではないかもしれないと恐れるから、あえて苦労して磨こうともせず、また、自分がもしかすると宝石かもしれないと半分信じているから、つまらない瓦と同じになることもできなかった。
原文を見る
己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
自分はだんだん世の中から離れ、人と遠ざかり、怒りと悔しさによってますます自分の中の臆病な自尊心を太らせる結果になった。
原文を見る
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、それぞれの人の性質だという。
原文を見る
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
自分の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
原文を見る
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。
原文を見る
虎だったのだ。
これが自分を傷つけ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては自分の外の姿をこのように、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
原文を見る
これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
今思えば、まったく、自分は持っていたわずかな才能を無駄にしてしまったわけだ。
原文を見る
今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。
「人生は何もしないには長すぎるが、何かをするには短すぎる」などと口先だけのうまい言葉を言いながら、実は才能の不足がばれるかもしれないというひきょうな恐れと、苦労を嫌う怠け心とが、自分のすべてだったのだ。
原文を見る
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
自分よりはるかに才能が乏しくても、それを一途に磨いたために、立派な詩人になった者がいくらでもいるのだ。
原文を見る
己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。
虎になり果てた今、自分はやっとそれに気がついた。
原文を見る
虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。
それを思うと、今も胸が焼けるような後悔を感じる。
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それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。
自分にはもはや人間としての生活はできない。
原文を見る
己には最早人間としての生活は出来ない。
たとえ今、自分の頭の中でどんなに優れた詩を作ったとしても、どんな手段で発表できよう。
原文を見る
たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。
しかも、自分の頭は日ごとに虎に近づいていく。
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まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。
どうすればいいのだ。
原文を見る
どうすればいいのだ。
自分の無駄にした過去は?
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己の空費された過去は?
自分はたまらなくなる。
原文を見る
己は堪らなくなる。
そういう時、自分は向こうの山の頂の岩に上り、谷に向かって吠える。
原文を見る
そういう時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。
この胸を焼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。
原文を見る
この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。
昨夕も、あそこで月に向かって吠えた。
原文を見る
己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。
誰かにこの苦しみをわかってもらえないかと。
原文を見る
誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。
しかし、獣たちは自分の声を聞いて、ただ恐れ、ひれ伏すばかり。
原文を見る
しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。
山も木も月も露も、一匹の虎が怒り狂って吠えているとしか思わない。
原文を見る
山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。
天に跳び地に伏して嘆いても、誰一人自分の気持ちをわかってくれる者はいない。
原文を見る
天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。
ちょうど、人間だったころ、自分の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。
原文を見る
ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。
自分の毛皮が濡れているのは、夜露のためばかりではない。
原文を見る
己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。
やっとあたりの暗さが薄らいできた。
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漸く四辺の暗さが薄らいで来た。
木々の間を伝って、どこからか、夜明けを告げる角笛が悲しげに響き始めた。
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木の間を伝って、何処からか、暁角が哀しげに響き始めた。
もはや別れを告げなければならない。
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最早、別れを告げねばならぬ。
酔わなければならない時が(虎に戻らなければならない時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。
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酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。
しかし、別れる前にもう一つお願いがある。
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だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。
それは自分の妻子のことだ。
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それは我が妻子のことだ。
彼らはまだ虢略にいる。
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彼等は未だ虢略にいる。
もちろん、自分の運命については知るはずがない。
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固より、己の運命に就いては知る筈がない。
君が南から帰ったら、自分はすでに死んだと彼らに伝えてもらえないだろうか。
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君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。
今日のことだけは決して明かさないでほしい。
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決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
厚かましいお願いだが、彼らが弱い身で道端で飢えたり凍えたりすることのないように取り計らっていただけるならば、自分にとってこれ以上のありがたいことはない。
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厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖、これに過ぎたるは莫い。
言い終わって、茂みの中からわっと泣きくずれる声が聞こえた。
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言終って、叢中から慟哭の声が聞えた。
袁傪も涙を浮かべ、喜んで李徴の望みに応えたいと答えた。
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袁もまた涙を泛べ、欣んで李徴の意に副いたい旨を答えた。
李徴の声はしかしたちまちまた先ほどの自分を笑うような調子に戻って、言った。
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李徴の声はしかし忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
本当は、まず、このことを先にお願いすべきだったのだ、自分が人間だったなら。
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本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。
飢えて凍えようとする妻子のことよりも、自分のつまらない詩のことを気にかけているような男だから、こんな獣に身を落とすのだ。
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飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
そして付け加えて言うことには、袁傪が嶺南からの帰りにはどうかこの道を通らないでほしい、その時には自分が我を忘れて友人と気づかずに襲いかかるかもしれないから。
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そうして、附加えて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこの途を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかも知れないから。
また、今別れてから、前方百歩のところにある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てほしい。
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又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。
自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。
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自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。
勇ましさを自慢したいのではない。
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勇に誇ろうとしてではない。
自分の醜い姿を見せることで、再びここを通って自分に会おうという気持ちを君に起こさせないためだ、と。
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我が醜悪な姿を示して、以て、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
袁傪は茂みに向かって、心を込めて別れの言葉を述べ、馬に乗った。
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袁傪は叢に向って、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。
茂みの中からはまた、堪えきれないような悲しい泣き声が漏れた。
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叢の中からは、又、堪え得ざるが如き悲泣の声が洩れた。
袁傪も何度か茂みを振り返りながら、涙の中に出発した。
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袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
一行が丘の上についた時、彼らは言われた通りに振り返って、先ほどの林の中の草地を眺めた。
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一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。
たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。
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忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
虎は、もはや白く光を失った月を仰いで、二声三声と吠えたかと思うと、また元の茂みに飛び入って、再びその姿を見せなかった。
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虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。