瘠我慢の説 小学生向け
福沢諭吉(ふくざわゆきち)・1901年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
国を作るのは、人々の気持ちや都合から生まれたものであって、最初から決まっていたものではない。
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立国は私なり、公に非ざるなり。
地球上にはたくさんの人が住んでいて、その数は何億にもなるが、山や海が自然の境界になって、あちこちに人の集まりができ、それぞれが分かれて暮らすのはしかたがない。それぞれの土地に食べ物や暮らしのもととなる豊かさがあれば、それで生きていける。
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地球面の人類、その数億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各処に群を成し各処に相分るるは止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源あれば、これによりて生活を遂ぐべし。
また、土地によって余っているものや足りないものがあれば、お互いに交易(ものの売り買い)をすればよい。
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また或は各地の固有に有余不足あらんには互にこれを交易するも可なり。
これは自然がくれた恵みであって、田畑を耕して食べ、ものを作って使い、交易して便利に暮らす。
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すなわち天与の恩恵にして、耕して食い、製造して用い、交易して便利を達す。
人が望むことはこれ以外にはないはずだ。
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人生の所望この外にあるべからず。
それなのに、なぜわざわざ人の手で国の境界を決めなければならないのか。
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なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須いんや。
まして、その国を分けて隣の国と境界を争うなどということは、いったいどういうことなのか。
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いわんやその国を分て隣国と境界を争うにおいてをや。
まして、隣の国が苦しんでいるのを気にもとめず、自分だけ得をしようとするのはどういうことか。
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いわんや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするにおいてをや。
さらには、その国に一人のリーダー(君主)を立てて、その人を主君として仰ぎ仕え、その君主のために大勢の人の命や財産を無駄にするなどということは、いったいどういうことなのか。
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いわんやその国に一個の首領を立て、これを君として仰ぎこれを主として事え、その君主のために衆人の生命財産を空うするがごときにおいてをや。
さらに、一つの国の中をいくつもの小さな区域に分けて、それぞれの区域の人々が一人のリーダーに従うだけでなく、いつも隣の区域と争って利益を奪い合うなどということは、いったいどういうことなのか。
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いわんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴てこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害を殊にするにおいてをや。
これらはすべて、人間の私的な感情から生まれたものであって、自然の道理ではない。しかし、世界が始まって今日まで世界中のようすを見ると、さまざまな人々がそれぞれのまとまりを作り、その中で同じ言葉を使い、同じ文字を使い、同じ歴史や言い伝えを持ち、結婚し合い、交際し合い、食べ物や着物の好みまで似てきて、苦しいときも楽しいときも一緒に過ごしていると、もはやバラバラになることができなくなる。
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すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同うして、自から苦楽を共にするときは、復た離散すること能わず。
これが国を作り、政府を置く理由である。いったん国という形ができると、人々はますますその国に深く結びついて自分たちと他の国の違いをはっきりさせ、他の国や他の政府に対しては、まるで自分には関係のないことのように感じるだけでなく、表でも裏でも自分の国の利益と名誉を主張するようになり、その主張が強ければ強いほど「君主に忠義を尽くし国を愛する」などという名前がつけられて、国民の最高の美徳とたたえられるのは不思議なことだ。
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すなわち国を立てまた政府を設る所以にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。
だから「君主への忠義と国を愛する心」という考えは、哲学(物事の根本を深く考える学問)の立場から見れば純粋に人間の私的な感情にすぎないが、今日までの世界の事情では、これを美徳と呼ばざるをえない。
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故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。
つまり哲学でいう私的な感情が、国を立てるための公の道となっている。この公の道・公の徳が認められるのは一つの国の中だけでなく、その国の中にいくつかの小さな区域があるときは、各区域が必ずその区域独自の利害に縛られ、外に対しての「私(わたくし)」の気持ちが内向きの公の道として認められないことはない。
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すなわち哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。
たとえば、西洋のそれぞれの国が向き合い、日本と中国・朝鮮が隣り合っていてお互いに利害が違うのはもちろんのこと、日本国内でも江戸時代に幕府を中心に置いて三百もの藩に分かれていたとき、各藩がお互いに自分の藩の利益と名誉を大切にして、少しも他の藩に譲らず、競争の果てに他の藩を傷つけてでも自分の藩が得をしようとした事実を見ても、それはよくわかる。
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たとえば西洋各国相対し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本国中において封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害栄辱を重んじ一毫の微も他に譲らずして、その競争の極は他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実を見てもこれを証すべし。
さて、国を作り政府を置くという公の道を実行しようとするとき、普段は特に大きな苦労もないが、時代の流れとともに国が栄えたり衰えたりすることはさけられない。
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さて、この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時に在ては差したる艱難もなしといえども、時勢の変遷に従て国の盛衰なきを得ず。
国が衰えてきたとき、もはや自分たちの立場を守ることができず、滅びることがはっきりしていても、それでも万に一つの幸運を期待して屈せず、実際に力が尽き果ててはじめて倒れるというのも、人間の気持ちとしては自然なことだ。たとえて言えば、父や母が重い病にかかって回復の見込みがないとわかっていながら、実際に息を引き取るまで薬や手当てを怠らないのと同じようなものだ。
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その衰勢に及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明なりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。
これも哲学的に考えると、どうせ死ぬ病人なら、見込みのない回復を望んで無駄に苦しみを長引かせるよりも、モルヒネ(痛みを和らげる薬)でも与えて最期を楽にしてあげるほうが賢いとも言えるが、子どもの立場から考えれば、百万に一つの可能性があるとしても、わざわざ父や母の死を早めるようなことは、情として我慢できることではない。
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これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望なき回復を謀るがためいたずらに病苦を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるがごとくなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすがごときは、情において忍びざるところなり。
だから、自分の国が衰えて敵と戦っても勝ち目がない場合でも、あらゆる苦労をして持てる力を全部出し切り、いよいよ勝敗が決したときに初めて和平を申し込むか、それとも死を覚悟するというのが、国を立てる公の道であり、国民が国に対して果たすべき義務と言えるものだ。
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左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。
これが俗に言う「瘠我慢(やせがまん)」だが、強い者と弱い者が向き合ったとき、弱い者がかろうじてその立場を保てるのは、ひとえにこの瘠我慢によるものだ。
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すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし。
戦争の勝ち負けだけでなく、普段の国同士のつき合いにおいても、この瘠我慢という考えは決して忘れてはならない。
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啻に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。
ヨーロッパでオランダやベルギーのような小さな国が、フランスとドイツという大国の間に挟まれて小さな政府を続けるよりも、大国に合併したほうが楽なはずなのに、それでも独立を守って動じないのは小国の瘠我慢であって、その我慢こそが国の名誉を守ると言えるだろう。
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欧州にて和蘭、白耳義のごとき小国が、仏独の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併するこそ安楽なるべけれども、なおその独立を張て動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢能く国の栄誉を保つものというべし。
日本の江戸時代、百万石の大きな藩の隣に一万石の小さな大名家があっても、大名はあくまで大名として少しも引かなかったのは、畢竟(つまるところ)、瘠我慢のなせるわざだ。また少し話は違うが、天下の政治の権力が武士の家に移って、天皇の家(帝室)はあってもないようなものと同然になってしまったこと何百年、このとき臨機応変な対応をとっていれば、公武合体(朝廷と武家の連合)などのいろいろな便利な方法もあったかもしれないが、帝室はよくその地位を守り、数多くの苦難の中でも「天皇は侵すことのできないお方」という一点を貫き、たとえばあの有名な中山大納言(なかやまだいなごん)が東国へ下ったとき、将軍家を「東の代官(地方役人)」と言い放ったと伝えられるように、当時の事情から見れば瘠我慢に違いなかったが、その瘠我慢こそが帝室の重みを作り上げた理由なのだ。
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我封建の時代、百万石の大藩に隣して一万石の大名あるも、大名はすなわち大名にして毫も譲るところなかりしも、畢竟瘠我慢の然らしむるところにして、また事柄は異なれども、天下の政権武門に帰し、帝室は有れども無きがごとくなりしこと何百年、この時に当りて臨時の処分を謀りたらば、公武合体等種々の便利法もありしならんといえども、帝室にして能くその地位を守り幾艱難のその間にも至尊犯すべからざるの一義を貫き、たとえば彼の有名なる中山大納言が東下したるとき、将軍家を目して吾妻の代官と放言したりというがごとき、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違なしといえども、その瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。
また昔からの武士の気風(気概ある生き方)の美しさと言えば、三河武士(みかわぶし:徳川家康の出身地・三河の武士たち)の右に出る者はいないだろう。その人々を評価すると、学問でも武芸でも知恵でも勇気でも、それぞれ得意なところは違うが、戦国時代に徳川家の旗下(部下)に属して、よく自分と他との立場をわきまえて迷うことなく、道理があろうとなかろうとただ徳川家の主君あるのみと知って他を見ず、どんな不運に遭って苦しみを味わっても決して落ち込むことなく、家のため主君のためとなれば必ず負け必ず死ぬとわかっていても進んでいくという点が、三河武士全体の特色であり、徳川家の家風のようなものだ。
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また古来士風の美をいえば三河武士の右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところを殊にすれども、戦国割拠の時に当りて徳川の旗下に属し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるを知て他を見ず、いかなる非運に際して辛苦を嘗るもかつて落胆することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死を眼前に見てなお勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。
これこそが、祖先の徳川家康公が小さな身分から立ち上がって四方に力を広げ、ついに天下の大権を手に入れた理由であり、その家の繁栄は瘠我慢のたまものと言えるだろう。
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これすなわち宗祖家康公が小身より起りて四方を経営しついに天下の大権を掌握したる所以にして、その家の開運は瘠我慢の賜なりというべし。
このように、瘠我慢という考え方はもともと人間の私的な感情から出るものであって、冷静な計算から論ずればほとんど子どもっぽいと言われてしまうかもしれないが、世界の古今(昔と今)の実際において、国家というものを目指してこれを守ろうとする者は、この考えによらないものはいない。
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左れば瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといわるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし。
日本の江戸時代に各藩がお互いに競争して武士の気風を養ったのもこの考えによるものであり、江戸時代が終わって一つの大日本帝国となり、さらに広い目で文明の世界に独立した国として立ち向かおうとするのも、この考えによらなければならない。
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我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気を養うたるもこの主義に由り、封建すでに廃して一統の大日本帝国と為り、さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由らざるべからず。
だから、人間社会の物事が今日の姿である限り、表面の形がどれほど変わっても、百年千年の先においても、一片の瘠我慢は国を作る大切な根本として重んじ、ますます育てて、その力が伸びるのを助けることが大切だ。
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故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の変遷こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片の瘠我慢は立国の大本としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし。
これこそが国の風と教えの尊い理由であって、たとえば昔、南宋(なんそう)のとき、政府の会議が「主戦(戦うべき)」と「講和(敵と和平すべき)」の二派に分かれて、主戦を主張した人たちはほとんど排除され、中には命を落とした者もいたが、後の世の評価は、講和を選んだ者の不義を憎んで、主戦を主張した者の孤独な忠義を哀れに思わない者はいない。
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すなわち国家風教の貴き所以にして、たとえば南宋の時に廟議、主戦と講和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯けられて或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。
実際のことを言えば、弱い宋の大勢はすでに決まっており、百戦百敗はもとより疑いのないことで、むしろ恥を忍んで一日でも宋の王家(趙氏)の祭りを続けたほうが得策なように見えるが、後世に国を治める者が国の経営を大切にして武士の気風を育てようとするには、講和を主張した者の場当たり的なやり方を退けて、主戦を主張した者の瘠我慢を取るしかない。
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事の実際をいえば弱宋の大事すでに去り、百戦必敗は固より疑うべきにあらず、むしろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治る者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。
これこそが、今に至るまで二つの立場の者が、汚名と美名の違う評価を受けている理由であろう。
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これすなわち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。
ところが、ここで残念なのは、日本においてこれより二十余年前、明治維新(王政維新)が起こったとき、そのなかで不幸にもこの大切な瘠我慢の大義を傷つけることがあった。
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然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。
つまり徳川家が終わりに近づいたとき、家臣の一部が早々に大勢の決したことに気づき、敵に向かってまったく抵抗しようとせず、ひたすら和平を申し込んで自ら政府を解散したことは、日本の損害を一時的には抑えたかもしれないが、何百年もかけて育ててきた日本の武士の気風を傷つけたという損失は決して小さくない。
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すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。
得たものでは失ったものを補えないと言えるだろう。
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得を以て損を償うに足らざるものというべし。
そもそも維新の事はたしかに帝室(天皇の家)の名のもとに行われたが、その実態は二、三の強い藩が徳川に敵対したにすぎない。
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そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。
このとき徳川家の一族に三河武士の昔からの気風があったとすれば、伏見(ふしみ)での敗戦の後、江戸に帰ってもさらに幕府を支持する諸藩に命じて再び立ち上がり、二度三度と試みてどうしてもだめならば退いて江戸城を守り、たとえ一日でも家の命脈を延ばして万に一つの幸運を期し、いよいよ策が尽きたとき城とともに討ち死にするのみ。
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この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。
これも先に言ったとおり、父や母が重病のとき一日でも長く生きることを願うのと変わらない。
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すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。
こうあってこそ瘠我慢の考えも全うされると言えるはずだ。
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かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
ところが、あの和平を主張した勝安房(かつあわ:勝海舟)氏たちは、幕府の武士は使い物にならないと言い、薩長(さっちょう:薩摩・長州)の軍の勢いには対抗できないと言い、社会の安全を損なうことはできないと言い、主君の身が危ないと言い、あるいは大げさに言って「仲間どうしで争うのは外交上の策ではない」などと、あれこれと奔走するだけでなく、時には自分の身が危なくなることも恐れずに和平を説き、ついに江戸城を明け渡すこととなり、徳川家は七十万石の新しい土地を与えられて、無事に話が収まった。
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然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵の鋒敵すべからずといい、社会の安寧害すべからずといい、主公の身の上危しといい、或は言を大にして墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるもこれを憚らずして和議を説き、ついに江戸解城と為り、徳川七十万石の新封と為りて無事に局を結びたり。
これは本当に不思議千万な出来事で、当時あるヨーロッパ人の評に、だいたい生き物は死にそうになれば抵抗を試みるものだ、ちっぽけな虫でも百貫目(約375キログラム)の重いハンマーで打たれるとき、それでも足を張って抵抗する様子を見せるのが普通なのに、二百七十年も続いた大きな政府が二、三の強い藩の軍の力に対してまったく抵抗しようとせず、ただひたすら和平を求め哀れみを乞い続けるとは、古今世界中に未だその例を見ないと言って、こっそり冷笑したのも、あながち理由のないことではない。
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実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、竊に冷笑したるも謂れなきにあらず。
思うに、勝氏たちの考えは、内乱の戦争を最大の害・無駄な出費と考え、味方に勝算がない限りは早く和平を結んで早く事を収めるのが一番という計算を信じたものにすぎない。
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蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。
その口で説くのは主君の安危や外交の利害などとは言っても、心の底を突いて突き詰めると、あの哲学的な一種の考え方であって、人の事にも国の事にも瘠我慢は無益だとして、昔から日本の上流社会が最も重んじてきた大切な考えを、あいまいなまま誤魔化した者だと評して、これに言い返す言葉はないはずだ。
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その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいうといえども、その心術の底を叩てこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答うる辞はなかるべし。
一時の豪気は弱虫を驚かすには足り、その場の巧みな言い方は若者の心を引きつけるには足りても、見る目と確かな考えを持つ君子は、終わりまで欺くことも惑わせることもできないのだ。
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一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。
だから当時の弱った幕府に勝算がないことは、私も勝氏と同様に知っていた。しかし、武士の気風を守るという観点から論ずれば、国家の存亡という大事な時に、勝ち目があるかどうかを言っていられる場合ではない。
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左れば当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。
まして必ず勝てると計算して負けることも、必ず負けると思って勝つことも、歴史上の例は少なくない。
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いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。
それなのに勝氏はあらかじめ必ず負けると決めて、まだ実際に負けてもいないのに自ら政権を投げ捨て、ひたすら平和を買おうと努めた者だから、戦争によって人を殺し財産を失うという災いは軽くしたかもしれないが、国を作る大切な要素である瘠我慢の武士の気風を傷つけた責めは免れることができない。
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然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。
人が死に財産が失われるのは一時の災いであり、武士の気風を守ることは永遠に大切なことだ。
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殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。
一方で得られたものと他方で失われたものと、その功と罪が釣り合うかどうか、簡単に結論を出せる問題ではない。
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これを典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。
あるいはこう言う人もいる。明治維新の成り行きは国内のことで、いわば兄弟・友人間の争いだけのことであり、当時は東と西が敵として向き合っていたが、その実、敵であって敵でない関係であり、とにかく幕府が最後まで力を出し切らずに自ら解散したのは時勢に合ったよい判断だと、うまく言い訳をする人もいるが、それはその場しのぎの言い訳にすぎない。
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或はいう、王政維新の成敗は内国の事にして、いわば兄弟朋友間の争いのみ、当時東西相敵したりといえどもその実は敵にして敵にあらず、兎に角に幕府が最後の死力を張らずしてその政府を解きたるは時勢に応じて好き手際なりとて、妙に説を作すものあれども、一場の遁辞口実たるに過ぎず。
国内のことであっても友人間のことであっても、いったん争いが始まれば敵はやはり敵だ。
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内国の事にても朋友間の事にても、既に事端を発するときは敵はすなわち敵なり。
それなのに、敵に対抗するのは無益だ、無謀だ、国家の損になると言って、ひたすら平和・無事に誘導した人たちを率いて、いざ外国からの危険が迫ったとき、よくその武士の気力を奮い起こして極限の苦しみに耐えさせることができるだろうか。
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然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、国家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したるその士人を率いて、一朝敵国外患の至るに当り、能くその士気を振うて極端の苦辛に堪えしむるの術あるべきや。
内に瘠我慢のない者は外に対してもまた同じなのだ。
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内に瘠我慢なきものは外に対してもまた然らざるを得ず。
書くのも縁起が悪いことながら、万に一つにも、わが日本国民が外国の敵と向き合ったとき、時勢をうまく見計らって、手際よく自ら解散するようなことがあれば、これをいったいどう言えばよいのか。
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これを筆にするも不祥ながら、億万一にも我日本国民が外敵に逢うて、時勢を見計らい手際好く自から解散するがごときあらば、これを何とか言わん。
しかしながら、幕府が解散した成り行きは国内のことに違いないが、自ずと一つの前例を作ったことにはなると言わなければならない。
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然り而して幕府解散の始末は内国の事に相違なしといえども、自から一例を作りたるものというべし。
とはいえ、勝氏もまた優れた人物だ。当時、幕府内部のさまざまな反対意見を押しのけて、旗下の武士たちの激しい気持ちを静め、自分の身を犠牲にして政府を解散し、それによって明治維新の成功を容易にして、そのために人の命を救い財産を安全にした功績は少なくないと言えるだろう。
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然りといえども勝氏も亦人傑なり、当時幕府内部の物論を排して旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、これが為めに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずというべし。
この点については、私も氏の仕事を軽く見るものではないが、ただ一つ不思議に思うのは、氏が維新後、かつての敵国の人々と並んで得意げに名誉と地位に収まっているという一事だ(世に言う大義名分から論ずれば、日本人はすべて天皇の臣民であって、同じ臣民の間に敵も味方もあるべきではないと言えるが、実際の話は決してそうではない。
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この点に就ては我輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、独り怪しむべきは、氏が維新の朝に曩きの敵国の士人と並立て得々名利の地位に居るの一事なり(世に所謂大義名分より論ずるときは、日本国人はすべて帝室の臣民にして、その同胞臣民の間に敵も味方もあるべからずといえども、事の実際は決して然らず。
幕府の末期に、強い藩の人々が事を起こして中央政府に敵対し、その際に天皇家の名目を奉じ、幕府の政治の仕組みを改めて昔の天皇が直接治める政治に戻したその動きを「王政維新」と呼ぶことになったのだから、天皇家は政治の外の高いところに仰ぎ奉りながら同様にその恩徳を受けていても、下の世界で争う者がいるときには敵と味方の区別がないとは言えない。
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幕府の末年に強藩の士人等が事を挙げて中央政府に敵し、其これに敵するの際に帝室の名義を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古に復したるその挙を名けて王政維新と称することなれば、帝室をば政治社外の高処に仰ぎ奉りて一様にその恩徳に浴しながら、下界に居て相争う者あるときは敵味方の区別なきを得ず。
これは事実として覆い隠せないことだからだ。
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事実に掩うべからざるところのものなればなり。
だから本文中で「敵国」という言葉が不穏当だと言い訳する人もいるかもしれないが、当時の実際から論ずれば「敵」という字を使わないわけにはいかない)。
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故に本文敵国の語、或は不穏なりとて説を作すものもあらんなれども、当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。
東洋の昔からの書き方(歴史の書き方)に従えば、勝氏のような人は、最終的に無事に生き続けられる人ではないはずだ。
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東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底終を全うすべき人にあらず。
中国の漢の高祖(こうそ:劉邦)が丁公(ていこう:敵に仕えながら助けてくれた人物)を殺し、清の康煕(こうき)帝が明の末期の旧臣を退け、日本では織田信長が武田勝頼の裏切り臣下、つまり主君を織田に売ろうとした小山田義国(おやまだよしくに)らを誅殺し、豊臣秀吉が織田信孝の裏切り臣下・桑田彦右衛門の行いを喜ばず、「不忠不義者、世の見せしめにせよ」と言ってこれを信孝の墓前に磔(はりつけ)にしたような事例は、数え切れないほどある。
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漢の高祖が丁公を戮し、清の康煕帝が明末の遺臣を擯斥し、日本にては織田信長が武田勝頼の奸臣、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国の輩を誅し、豊臣秀吉が織田信孝の賊臣桑田彦右衛門の挙動を悦ばず、不忠不義者、世の見懲しにせよとて、これを信考の墓前に磔にしたるがごとき、是等の事例は実に枚挙に遑あらず。
乱れた時代に敵と味方が向き合い、その敵の中に和平を唱える参謀がいて、たとえ二心がなくても味方に役立つところがあれば、そのときは珍しい幸運として、こっそりその人を厚遇するが、戦いが終わって勝利した指導者が社会の秩序を大切にし、新政府の基礎を固めて百年の計をなすに当たっては、国の公の道のために私情を捨て、かつて幸運な駒として重んじたその敵側の人物を「臣下としての忠義がない者」と呼んで退け近づけないだけでなく、時には殺してしまうことさえ少なくなかった。
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騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱え、たとい弐心を抱かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨として私にその人を厚遇すれども、干戈すでに収まりて戦勝の主領が社会の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵国の人物を目して不臣不忠と唱え、これを擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさえ少なからず。
まことに残酷なことではあるが、自ずと世を治める一つの方法として、心を鬼にしてこれを断行することになるわけだ。
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誠に無慙なる次第なれども、自から経世の一法として忍んでこれを断行することなるべし。
これは東洋の専制(君主が一人で強く支配する政治)の国々の習慣的なやり方であって、勝氏のような立場の人物も、そのような専制の時代にいたなら、あるいは同様の災難に遭って新政府の臣下たちへの戒めの材料にされていたこともあっただろう。しかし幸いなことに、明治政府には専制の君主がなく、政権は維新の功臣の手にあって、その主義とするところはすべて文明国のやり方にならい、あらゆることで寛大を旨として、この敵方の人物を退けないだけでなく、一時的な都合のよい駒が永続する正真正銘の人材へと変わり、旧幕府の古い風をぬけ出て新政府の新しい高い地位の人となり、楽しく世を渡っているとは、古今未曾有の不思議な姿と言えるだろう。
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すなわち東洋諸国専制流の慣手段にして、勝氏のごときも斯る専制治風の時代に在らば、或は同様の奇禍に罹りて新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰に傚い、一切万事寛大を主として、この敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に変化し、旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕と為り、愉快に世を渡りて、かつて怪しむ者なきこそ古来未曾有の奇相なれ。
私はこの点に至って、勝氏のことを個人的にはとても気の毒に思うけれども、少し注文を申し上げないわけにはいかない。
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我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為めには甚だ気の毒なる次第なれども、聊か所望の筋なきを得ず。
その次第は先に述べたとおり、氏の尽力によって穏やかに旧政府を解散させ、それによって人が死に財産が失われるという災いを免れたその功績は、珍しくも大きなものと言えるが、一方から見れば、敵と味方が向き合ってまだ戦いもしないうちに、早々と自分に勝算がないと悟って謹慎するようなものであって、表向きは官軍(新政府の軍)に向けてのいろいろな言い訳があるが、その内情は徳川政府がその部下であった二、三の強い藩に対して戦う勇気がなく、勝ち負けも確かめずに降伏したものだから、三河武士の精神に背くのみならず、わが日本国民に固有の瘠我慢の大切な考えを破り、国を作る根本である武士の気風をゆるめた罪は逃れられない。
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その次第は前にいえるごとく、氏の尽力を以て穏に旧政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたるその功は奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対して未だ兵を交えず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向て云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。
一時の戦禍を免れたことと、永遠に続く武士の気風を傷つけたこと、その功と罪は釣り合うのだろうか。
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一時の兵禍を免かれしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。
後の世できっと正しい判断が下されるだろうから、氏のためを思えば、たとえ今日の文明に従って維新後に幸いに無事に生きてこられたとしても、自ら省みて国のために最も大切な上流武士の気風を傷つけた罪を認め、維新の前後の自分の行動は一時の便宜的な手段であり、仮に和平を講じて円滑に事を収めたのは、ただそのときの戦禍が怖くて人民を苦しみから救うためだけであったが、本来、国を作る要は瘠我慢の一点にある、まして今後も外国からの危険がないとは言えないのに、
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天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、ただその時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、いわんや今後敵国外患の変なきを期すべからざるにおいてをや。
このような大切な場面に臨んでは戦禍を恐れることはない、天下後世に国を立てて外国と向き合おうとする者は、決してわが維新の行いを見習って便宜的なやり方に就いてはならない、俗に言う「武士の風上にも置けない」とはすなわち自分自身のことであり、後世子孫はこれを繰り返すなと示して、きっぱりと政府の厚遇を断り、官職と爵位を捨て、俸禄(給与)を投げ捨て、ひとりで去ってその跡を隠してしまうことがあれば、世間の人も初めてその誠意のありかを知ってその清潔な節操に頭を下げ、旧政府解散の成り行きも本当に氏の功名と認められるとともに、世の教えを万分の一でも守ることができるはずだ。
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かかる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努〻吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。
これが私の望みだが、今、そうなっていないで、まるで国家の功臣として得意げに自ら収まっているかのようなのは、なにも厳しい三河武士の基準で弾劾するまでもなく、世界が国を作る際の普通の感覚から訴えて恥じないとは言えない。
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すなわち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るがごとき、必ずしも窮屈なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須たず、世界立国の常情に訴えて愧るなきを得ず。
単に氏個人のためだけでなく、武士社会の風と教えのために深く悲しむべきことだ。
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啻に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲しむべきところのものなり。
また勝氏と同じ時代に、榎本武揚(えのもとたけあき)という人がいる。
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また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。
これもついでながら一言言わないわけにはいかない。
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これまた序ながら一言せざるを得ず。
この人は幕府の末期に勝氏と意見が異なり、あくまでも徳川の政府を守ろうとして力を尽くし、政府の軍艦数隻を率いて函館(はこだて)へと脱走し、西軍(新政府軍)に対して奮戦したが、ついに追い詰められて降伏した人物だ。
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この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり。
このとき、徳川政府は伏見での一敗の後、もう戦う気もなくひたすら哀れみを乞うばかりで人心はすでにバラバラになっており、勝算がないことは明らかだったが、榎本氏の行動はいわば武士の意地、すなわち瘠我慢であって、その胸の中では密かに必ず負けると覚悟しながらも、武士道のためにあえて一戦を挑んだのだから、幕臣および各藩で幕府を支持する人々は氏を総大将として頼り、氏のために苦戦して氏の命令に従って進退を共にした。北の海での戦い、函館での籠城戦、その命がけの激しい戦いの忠義と勇気は見事なものであって、日本人の精神という観点から論じて、これを勝氏の結末と比べれば同じ土俵で語ることなどできない。
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この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なるところなれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中には竊に必敗を期しながらも、武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従て進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城、その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。
しかし脱走した軍はいつも不利で勢いがだんだん追い詰められ、もうどうにもならなくなって、総大将を始め一部の人々はもはやこれまでと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕らえられて東京に護送されたのは運の悪いことではあったが、勝敗は兵家の常であってもとより責めるべきことではない。新政府においてもその罪を憎んでその人物を憎まず、死刑を一等減じて放免したのは文明の寛大な措置と言えるだろう。
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然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは文明の寛典というべし。
氏の行動も政府の処置もともに世の美談として文句のつけようがないが、氏が放免された後さらに出世の志を起こし、新政府の朝廷に仕えるという一点に至っては、私には感心することができないところのものだ。
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氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。
敵に降伏してその敵に仕えるという例は昔から珍しくない。
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敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。
とくに政府が新旧交代するとき、旧政府の人々が自立の手段を失い、口を糊するため(食べていくため)に新政府に職を奉じるようなことは、世界の古今を通じてよくあることで、少しも不思議に思うことはなく、またその人を責めるべきでもないが、榎本氏の場合はこのような普通の例で覆うことのできない事情があるようだ。
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殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩うべからざるの事故あるがごとし。
その事情とは日本の武士の人情というものだ。
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すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。
氏は新政府に出て口を糊するだけでなく、次々と昇進して特命公使に任じられ、ついには大臣にまで出世し、出世の志を果たして目出度いとも言えるが、振り返って往事(過去のこと)を思うとき、情として堪えられないものを感じざるをえない。
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氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。
当時、命がけの士を集めて北の大地の片隅で激戦を戦い、北風に負けず頑張ってついに降伏したのはやむをえない次第だったが、脱走した人々は最初から氏を首領として頼り、氏のために苦戦し氏のために戦死したのに、首領が降伏となれば、同意した者はともかく、同意しなかった者はまるで見捨てられた姿であって、その落胆と失望は言うまでもなく、まして、すでに戦死した者においてはどうだろう。
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当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、その落胆失望はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。
死んだ者にもし霊があれば、きっと地の底で大きな不満を訴えることだろう。
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死者若し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。
伝え聞くところによると、函館の五稜郭(ごりょうかく:星形の要塞)を開城するとき、総大将の榎本氏は部下に内々に意向を伝えて、一緒に降伏するよう勧めたが、一部の人々はこれを聞いて大いに怒り、「そもそも今回の行動は勝利を期したものではない。ただ武士の習いとして一死をもって二百五十年のご恩に報いるのみ。総大将が生きたければ出て降伏せよ。我々は我々の武士道のもとに倒れるのみ」と言って激しく戦い続け、その中には父と子ともども切り死にした人もいたという。
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伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、その中には父子諸共に切死したる人もありしという。
「烏江は水浅くして騅よく逝くも、一片の義心、東すべからず」とは、昔の漢と楚の戦いにおいて、楚軍が振るわず項羽(こうう:楚の英雄)が走って烏江(うこう)のほとりに至ったとき、ある人はまだ川を渡って再び立ち上がる望みがないわけではないと言って、その死を引き留めようとしたが、項羽はこれを聞かなかった。初め江東の若者八千人を率いて西に向かい、幾度の激しい戦いで戦死者が続いて今は一人も残っていない。このような失敗の後に、どんな面目があって再び江東に帰って死んだ者の父や兄を見られようかと言って、自ら命を断ったそのときの心情を詩に表したものだ。
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烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、往古漢楚の戦に、楚軍振わず項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙の望なきにあらずとてその死を留めたりしかども、羽はこれを聴かず、初め江東の子弟八千を率いて西し、幾回の苦戦に戦没して今は一人の残る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。
漢と楚の昔と明治の今日とでは世の様子はもとより同じではない。
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漢楚軍談のむかしと明治の今日とは世態固より同じからず。
三千年前の項羽をもって今日の榎本氏を責めるのはほとんど見当違いのようにも見えるが、万古不変(永遠に変わらない)なのは人の心の情であって、氏が維新後に出世の志を遂げて富貴(富と高い地位)に得意げであっても、時に振り返って函館の昔を思い、当時ともに行った部下の人々が戦死し負傷した惨状から、それ以来家に残った父母兄弟が死者の死を悲しみながら、自分の行く先も迷って道に彷徨するという事実を想像し聞き知るとき、鉄のような男の腸(こころ)もこのためにズタズタにならずにはいられない。
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三千年前の項羽を以て今日の榎本氏を責るはほとんど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事実を想像し聞見するときは、男子の鉄腸もこれが為めに寸断せざるを得ず。
秋の雨の夜が寒くて眠れず、残りの灯りが明滅する中でひとり思うとき、あるいは無数の死者の霊や生き霊が暗い幻として目の前に現れることもあるだろう。
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夜雨秋寒うして眠就らず残燈明滅独り思うの時には、或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもあるべし。
思うに、氏の本心は今日に至るまでこのような脱走した人々を見捨てたわけではなく、その行いを美しいと思い、その死を哀れに思っていないわけでもない。
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蓋し氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐まざるに非ず。
もう一つの証拠を示せば、静岡の清見寺(せいけんじ)の境内に石碑がある。この碑は、かつて幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が清水港で砲撃されたとき、戦死した春山弁造(はるやまべんぞう)以下、脱走した武士のために建てたもので、碑の裏面に「人の食を食む者は、人の事に死す(主君の禄を受けた者は、主君のために命を捧げるべき)」という九文字を大書して「榎本武揚」と記し、人々の目に公開してはばかるところがないのを見れば、その心の大体はうかがい知ることができるだろう。
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今一証を示さんに、駿州清見寺内に石碑あり、この碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸が、清水港に撃たれたるときに戦没したる春山弁造以下脱走士の為めに建てたるものにして、碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚るところなきを見れば、その心事の大概は窺知るに足るべし。
つまり氏はかつて徳川家の禄を食んだ(給与をもらった)者であって、不幸にも自分は徳川家の事に死ぬ機会を失ったが、他の人がそのために死んでいるのを見れば、深く心を打たれ悲しみをこらえることができず、深く敬う余り、ついにその言葉を石に刻んだということだろう。
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すなわち氏はかつて徳川家の食を食む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人のこれに死するものあるを見れば慷慨惆悵自から禁ずる能わず、欽慕の余り遂に右の文字をも石に刻したることならん。
すでに他人の忠義と勇気を称えるとき、同時に自ら省みてやや不愉快を感じるのもまた、人の気持ちとしてさけることのできないところだから、その心の内を推察すると、時に目前の富と地位に安んじて楽しく豪奢に過ごしているときも、またときに昔の惨状を思って恥ずかしさを感じ、一喜一憂、悲しみや楽しみが入れ替わって常ではなく、死ぬまで心から安らかな平和はないことだろう。
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すでに他人の忠勇を嘉みするときは、同時に自から省みて聊か不愉快を感ずるもまた人生の至情に免かるべからざるところなれば、その心事を推察するに、時としては目下の富貴に安んじて安楽豪奢余念なき折柄、また時としては旧時の惨状を懐うて慙愧の念を催おし、一喜一憂一哀一楽、来往常ならずして身を終るまで円満の安心快楽はあるべからざることならん。
だから私が氏のことを思えば、主君の禄を食んだという理由によって必ずしもその主君のために死ねと勧めるわけではないが、人の情という一点からして、他に対して常に遠慮せずにはいられない。
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されば我輩を以て氏の為めに謀るに、人の食を食むの故を以て必ずしもその人の事に死すべしと勧告するにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮するところなきを得ず。
昔からの習慣によれば、こういった立場の人は世を捨てて出家して(お坊さんになって)死んだ者の冥福を祈る例もあるが、今の世の中の風では出家するのも似合わないとすれば、ただその身を世間の目に触れない場所に隠して暮らしを質素にし、すべてのことについて控えめにして世間の注目を浴びないようにする覚悟こそが、本来あるべき姿だ。
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古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。
まとめると、維新のとき、脱走の一大行動に失敗したのは、氏にとっての政治的な死であって、たとえ肉体が死なないとしても、もはや政治的に再びよみがえることはできないと覚悟して、ただ自分の身を慎み、一つには行動をともにして戦死した者たちの霊を弔って、またその遺族の人々の不幸や不満を慰め、もう一つには、どんなことであれ大きなことを起こしてその首領の地位にある者は、成功しても失敗しても責任を負って決してそこから逃げてはならない、成功すればその名誉を独り占めにして失敗すればその苦難を引き受けるという考えを明らかにすることが、武士社会の風と教えにとって大切なことのはずだ。
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これを要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔してまたその遺族の人々の不幸不平を慰め、また一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決してこれを遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。
これが私が榎本氏の身の処し方について望む一点であって、ただ氏一人のためだけでなく、国家百年の計において武士の気風が増すか減るかのためにも、軽く見過ごすことのできないところのものだ。
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すなわちこれ我輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀において士風消長の為めに軽々看過すべからざるところのものなり。
以上の述べたことは、私が勝氏・榎本氏の二人に向かって攻撃を試みたものではない。
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以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるにあらず。
筆の勢いを穏やかにして厳しい言葉を使わず、その人の名誉を守るのみか、実際においてもその知謀と忠義・勇気の功名は最後まで認めるものだが、おおよそ人生の道においては富と地位を取れば功名を失い、功名を全うしようとするときは富と地位を捨てなければならない場合がある。
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謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、以てその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざるべからざるの場合あり。
二人のような場合はまさにこれにあたる者であって、勝氏が和平を主張して幕府を解散したのは誠に手際よい知謀の功名であったが、これを解散させて主家(徳川家)が滅んだ、その滅んだことが、たまたま一人の旧臣のために富と地位を得させる手立てとなってしまった姿では、たとえその富と地位は自分から求めたわけではなく天から与えられたものとはいっても、三河武士の末裔である徳川一族の身として考えれば、せっかくの功名手柄も世間の見るところで光を失わずにはいられない。
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二氏のごときは正しくこの局に当る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
榎本氏が主戦の考えをとって脱走し、ついに力尽きて降伏するまでは、幕臣としての本分に背かず、忠義と勇気の功名は美しいと言えるが、降伏して放免された後さらに出世の志を起こして新政府の朝廷で富と地位を得たことは、かつてその忠勇をともにした戦死者・負傷者から、それ以来の流浪者・貧しい者に至るまで、すべて同じ行動をともにした人々に対して、いくらかの恥ずかしさを感じないわけにはいかない。
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榎本氏が主戦論をとりて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名美なりといえども、降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して聊か慙愧の情なきを得ず。
これもまたその功名の価値を傷つけるものであって、要するに二人の富と地位こそがその身の功名を空しくする仲立ちなのだから、今からでも遅くはない、二人ともきっぱりと世を遁れて維新以来の過ちを改め、すでに得た功名を全うすることを願うばかりだ。
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これまたその功名の価を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空うするの媒介なれば、今なお晩からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。
天下後世にその名を美しく残すか、汚名として残すかは、心の決断いかんにかかっており、努めないわけにはいかないのだ。
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天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。
しかしながら人の心の弱さから、あるいは私の言うとおりにすることができない事情もあるかもしれない。
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然りといえども人心の微弱、或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。
それもやむをえない次第ではあるが、ともかく明治の年代にこの文字を記して二人を論評した者があったということで、また後の世の武士の風を守ることにもなるだろうか。下手な筆も無駄ではないだろう。
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これまた止むを得ざる次第なれども、兎に角に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆また徒労にあらざるなり。