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或阿呆の一生 小学生向け

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1968

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

この原稿を世の中に出すかどうかも、出す時や出し先も、すべて君にまかせたいと思っている。

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僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。

この原稿に出てくる人たちのほとんどを、君は知っているだろう。

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君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。

しかし、もし発表するとしても、名前の一覧(インデックス)はつけないでほしいと思っている。

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しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

僕は今、いちばん不幸せな幸せの中で暮らしている。

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僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。

しかし不思議なことに、後悔はしていない。

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しかし不思議にも後悔してゐない。

ただ、僕のような悪い夫、悪い子、悪い親を持ってしまった人たちを、心から気の毒に思っている。

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唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何いかにも気の毒に感じてゐる。

では、さようなら。

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ではさやうなら。

僕はこの原稿の中で、少なくともわざと自分をかばうようなことは書かなかったつもりだ。

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僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。

この原稿を最後に君にたくすのは、たぶん誰よりも君が僕のことをわかってくれていると思うからだ。

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最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。

(都会人という僕の皮を一枚めくってみれば)どうかこの原稿の中で、僕の阿呆(あほう)ぶりを笑ってほしい。

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(都会人と云ふ僕の皮をぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

昭和二年六月二十日

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昭和二年六月二十日

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)

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芥川龍之介

久米正雄(くめまさお)君へ

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久米正雄君

一 時代

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一 時代

それはある本屋の二階だった。

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それは或本屋の二階だつた。

二十歳の彼は、本棚にかけられた西洋風のはしごに登り、新しい本を探していた。

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二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子はしごに登り、新らしい本を探してゐた。

モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

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モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

そのうちに、日が暮れかけてきた。

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そのうちに日の暮は迫り出した。

しかし彼は熱心に、本の背表紙の文字を読みつづけた。

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しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。

そこに並んでいるのは、本というよりも、世紀末(せいきまつ・時代が終わっていくときの暗い空気)そのものだった。

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そこに並んでゐるのは本といふよりもむしろ世紀末それ自身だつた。

ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

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ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

彼はうす暗さと戦いながら、その名前を一つずつ数えていった。

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彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。

しかし本は、いつのまにか、もの悲しい影の中に沈みはじめた。

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が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。

彼はとうとう根気が尽きて、西洋風のはしごを下りようとした。

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彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。

すると、かさのない電灯が一つ、ちょうど彼の頭の上で、突然ぽかりと明かりをつけた。

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すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。

彼ははしごの上に立ったまま、本の間を動いている店員や客を見下ろした。

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彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。

彼らは、なぜか妙に小さく見えた。

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彼等は妙に小さかつた。

それだけでなく、いかにもみすぼらしく見えた。

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のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は、ボオドレエルの詩のたった一行にも及ばない。」

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「人生は一行いちぎやうのボオドレエルにもかない。」

彼はしばらく、はしごの上からそんな人たちを見わたしていた。……

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彼はしばらく梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

二 母

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二  母

心の病気の人たちは、みな同じようにねずみ色の着物を着せられていた。

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狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。

広い部屋は、そのせいでいっそう暗い感じに見えるようだった。

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広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。

その中の一人はオルガンに向かって、熱心に讃美歌(さんびか・神をたたえる歌)をひきつづけていた。

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彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌をきつづけてゐた。

同時にもう一人は、部屋のまん中に立って、踊るというよりは飛びはねまわっていた。

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同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりもねまはつてゐた。

彼は顔色のよい医者と一緒に、こういう景色をながめていた。

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彼は血色のい医者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。

彼の母も、十年前には、この人たちと少しも変わらなかった。

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彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかつた。

少しも、――彼は本当に、この人たちのにおいの中に、母のにおいを感じた。

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少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。

「じゃあ、行こうか?」

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「ぢや行かうか?」

医者は彼の先に立って、廊下を通ってある部屋へ向かった。

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医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。

その部屋のすみには、アルコールを満たした大きなガラスのつぼがあり、その中にいくつもの脳(のう)がつかっていた。

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その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい硝子ガラスの壺の中に脳髄が幾つもつかつてゐた。

彼は、ある脳の上に、かすかに白いものを見つけた。

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彼は或脳髄の上にかすかに白いものを発見した。

それはちょうど、卵の白身を少したらしたようなものだった。

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それは丁度卵の白味をちよつとらしたのに近いものだつた。

彼は医者と立ち話をしながら、もう一度母のことを思い出した。

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彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

「この脳を持っていた男は、××電灯会社の技師(ぎし・技術者)だったんだがね。いつも自分のことを、黒く光る大きなダイナモ(発電機)だと思っていたよ。」

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「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

彼は医者の目を見ないように、ガラス窓の外をながめていた。

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彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。

そこには、空きびんのかけらを埋めこんだレンガべいのほかは、何もなかった。

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そこにはびんの破片を植ゑた煉瓦塀れんぐわべいの外に何もなかつた。

しかしそのレンガべいは、うすい苔(こけ)をまだらにつけて、ぼんやりと白く見せていた。

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しかしそれは薄いこけをまだらにぼんやりとらませてゐた。

三 家

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三 家

彼はある郊外の家の二階の部屋で、寝起きしていた。

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彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。

それは地盤(じばん・土台の地面)がゆるいせいで、妙にかたむいた二階だった。

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それは地盤のゆるい為に妙に傾いた二階だつた。

彼のおばは、この二階でたびたび彼とけんかをした。

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彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。

そのけんかは、彼の育ての両親(養父母)に仲直りさせてもらうこともあった。

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それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。

しかし彼は、そのおばに、誰よりも愛情を感じていた。

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しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。

一生けっこんしなかった彼のおばは、彼が二十歳のころには、もう六十に近い年よりだった。

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一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

彼はその郊外の二階の部屋で、何度も、「愛し合う者どうしは、なぜお互いを苦しめてしまうのだろう」と考えたりした。

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彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。

その間も、何か気味の悪い二階のかたむきを感じながら。

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その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

四 東京

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四 東京

隅田川(すみだがわ)は、どんよりとくもっていた。

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隅田川はどんより曇つてゐた。

彼は、走っている小さな蒸気船の窓から、向島(むこうじま)の桜をながめていた。

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彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。

花をいっぱいにつけた桜は、彼の目には、一列に並んだぼろ布のように、暗く映った。

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花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸ぼろのやうに憂欝だつた。

しかし彼は、その桜に、――江戸の時代から続く向島の桜に、いつのまにか自分自身の姿を見つけていた。

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が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。

五 我(が)

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五 我

彼は先輩といっしょに、あるカフェのテーブルに向かい、たえずタバコをふかしていた。

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彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子テエブルに向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。

彼はあまり口をきかなかった。

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彼は余り口をきかなかつた。

しかし、先輩の話には熱心に耳をかたむけていた。

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が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。

「今日は半日、自動車に乗っていたよ。」

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「けふは半日自動車に乗つてゐた。」

「何か用事があったんですか?」

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「何か用があつたのですか?」

先輩はほおづえをついたまま、まったく気軽に答えた。

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彼の先輩は頬杖ほほづゑをしたまま、極めて無造作に返事をした。

「いや、ただ乗っていたかったからさ。」

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「何、唯乗つてゐたかつたから。」

その言葉は、彼の知らない世界へ、――神々に近い「我(が)」

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その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「

の世界へ、彼自身を解き放った。

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の世界へ彼自身を解放した。

彼は何か痛みを感じた。

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彼は何か痛みを感じた。

しかし同時に、喜びも感じた。

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が、同時に又よろこびも感じた。

そのカフェは、とても小さかった。

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そのカツフエはごく小さかつた。

しかし、牧神パン(羊飼いや自然を守るギリシャの神様)の顔の絵の下には、赤い植木鉢に植えられたゴムの木が一本あり、厚い葉をだらりと垂らしていた。

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しかしパンの神のがくの下にはあかい鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。

六 病(やまい)

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六 病

彼は、たえず吹いてくる潮風の中で、大きな英語の辞書を広げ、指先で言葉を探していた。

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彼は絶え間ない潮風の中に大きい英吉利イギリス語の辞書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。

Talaria つばさの生えたくつ、またはサンダル。

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Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。

Tale 話。

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Tale 話。

Talipot 東インドでとれるヤシの木。

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Talipot 東印度に産する椰子やし

幹(みき)は五十フィートから百フィートの高さになり、葉はかさ、扇(おうぎ)、帽子などに使われる。

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幹は五十フイートより百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等に用ひらる。

七十年に一度、花をひらく。……

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七十年に一度花を開く。……

彼の想像は、このヤシの花をはっきりと思いえがいた。

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彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。

すると彼はのどもとに、今まで感じたことのないかゆさを感じ、思わず辞書の上にたんを落とした。

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すると彼はのどもとに今までに知らないかゆさを感じ、思はず辞書の上へたんを落した。

たんを?――

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啖を?――

しかしそれは、たんではなかった。

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しかしそれは啖ではなかつた。

彼は自分の命が短いことを思い、もう一度このヤシの花を想像した。

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彼は短い命を思ひ、もう一度この椰子の花を想像した。

この遠い海の向こうに、高くそびえているヤシの花を。

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この遠い海の向うに高だかとそびえてゐる椰子の花を。

七 絵

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七 画

彼は突然、――それは本当に突然だった。

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彼は突然、――それは実際突然だつた。

彼はある本屋の店先に立ち、ゴッホの画集を見ているうちに、突然「絵」というものがわかった。

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彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見てゐるうちに突然画と云ふものを了解した。

もちろん、そのゴッホの画集は、写真で印刷されたものにすぎなかった。

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勿論そのゴオグの画集は写真版だつたのに違ひなかつた。

しかし彼は、その写真の中にも、あざやかに浮かびあがる自然を感じた。

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が、彼は写真版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。

この絵への強い思いは、彼のものの見方を新しくした。

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この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。

彼はいつのまにか、木の枝の曲がり方や、女の人のほおのふくらみに、たえず注意をむけるようになった。

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彼はいつか木の枝のうねりや女の頬のふくらみに絶え間ない注意を配り出した。

ある雨もようの秋の夕暮れ、彼はある郊外の、線路の下の道(ガード)を通りかかった。

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或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。

ガードの向こうの土手の下には、荷馬車が一台止まっていた。

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ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。

彼はそこを通りながら、前にも誰かがこの道を通ったことがあるように感じた。

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彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。

誰が?――

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誰か?――

それは今さら、自分に問いかけるまでもなかった。

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それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。

二十三歳の彼の心の中には、耳を切った一人のオランダ人(画家ゴッホのこと)が、長いパイプをくわえたまま、この暗い風景画の上に、じっと鋭い目を注いでいた。……

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二十三歳の彼の心の中には耳を切つた和蘭オランダ人が一人、長いパイプをくはへたまま、この憂欝な風景画の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……

八 火花

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八 火花

彼は雨にぬれたまま、アスファルトの上を歩いていった。

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彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。

雨はかなり激しかった。

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雨は可也かなり烈しかつた。

彼は雨のしぶきの中で、ゴム引きの外とう(コート)のにおいを感じた。

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彼は水沫しぶきの満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。

すると、目の前の電線(架空線)が一本、紫色の火花を出していた。

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すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。

彼は妙に心を動かされた。

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彼は妙に感動した。

彼の上着のポケットには、仲間の雑誌(同人雑誌)に発表するための原稿が、そっと入っていた。

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彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。

彼は雨の中を歩きながら、もう一度、後ろの電線を見上げた。

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彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

電線はあいかわらず、鋭い火花を放っていた。

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架空線は不相変あひかはらず鋭い火花を放つてゐた。

彼は自分の人生を見わたしても、これといって特にほしいものはなかった。

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彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。

しかし、この紫色の火花だけは、――空中で激しく光るこの火花だけは、命と引きかえにしてでもつかまえたいと思った。

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が、この紫色の火花だけは、――すさまじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

九 死体

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九 死体

死体はみな、親指に針金のついた札(ふだ)をぶら下げていた。

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死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。

その札には、名前や年齢などが書かれていた。

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その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。

彼の友だちは腰をかがめ、器用にメス(外科用の小さな刃物)を動かしながら、ある死体の顔の皮をはぎはじめた。

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彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮をぎはじめた。

皮の下に広がっていたのは、美しい黄色の脂肪(しぼう)だった。

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皮の下に広がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。

彼はその死体をながめていた。

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彼はその死体を眺めてゐた。

それは彼にとって、ある短編小説を、――むかしの王朝時代を舞台にしたある短編小説を仕上げるために、必要なことだったに違いなかった。

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それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。

しかし、くさりかけたアンズのにおいに近い死体のにおいは、いやなものだった。

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が、腐敗したあんずの匂に近い死体の臭気は不快だつた。

彼の友だちはまゆをしかめて、静かにメスを動かしつづけた。

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彼の友だちは眉間みけんをひそめ、静かにメスを動かして行つた。

「この頃は、死体も足りなくてね。」

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「この頃は死体も不足してね。」

彼の友だちは、こう言っていた。

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彼の友だちはかう言つてゐた。

すると彼は、いつのまにか自分の答えを用意していた。――

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すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――

「おれなら、死体が足りなければ、何の悪気もなしに人を殺すけどな。」

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おれは死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」

しかし、もちろんその答えは、心の中にあっただけだった。

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しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

十 先生

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十 先生

彼は大きなかしの木の下で、先生の書いた本を読んでいた。

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彼は大きいかしの木の下に先生の本を読んでゐた。

かしの木は、秋の日の光の中で、葉を一枚も動かさなかった。

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檞の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。

どこか遠い空の中で、ガラスのお皿をつるした天びんが一つ、ちょうどつり合いを保っている。――

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どこか遠い空中に硝子の皿を垂れたはかりが一つ、丁度平衡を保つてゐる。――

彼は先生の本を読みながら、そういう景色を感じていた。……

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彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……

十一 夜明け

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十一 夜明け

夜は少しずつ明けていった。

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夜は次第に明けて行つた。

彼はいつのまにか、ある町角で、広い市場を見わたしていた。

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彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。

市場に集まった人々や車は、どれもばら色に染まりはじめた。

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市場にむらがつた人々や車はいづれも薔薇ばら色に染まり出した。

彼は一本のタバコに火をつけ、静かに市場の中へ進んでいった。

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彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。

すると、やせて細い黒い犬が一匹、いきなり彼にほえかかった。

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するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。

しかし彼はおどろかなかった。

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が、彼は驚かなかつた。

それどころか、その犬さえも愛おしく思った。

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のみならずその犬さへ愛してゐた。

市場のまん中には、すずかけの木が一本、四方に枝を広げていた。

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市場のまん中には篠懸すずかけが一本、四方へ枝をひろげてゐた。

彼はその根もとに立ち、枝の間から高い空を見上げた。

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彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。

空には、ちょうど彼の真上に、星が一つ輝いていた。

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空には丁度彼の真上に星が一つ輝いてゐた。

それは彼が二十五歳の年、――先生に出会ってから三か月目のことだった。

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それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。

十二 軍港

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十二 軍港

潜水艦(潜航艇)の中は、うす暗かった。

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潜航艇の内部は薄暗かつた。

彼は前後左右を機械にかこまれた中で腰をかがめ、小さいのぞきめがねをのぞいていた。

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彼は前後左右をおほつた機械の中に腰をかがめ、小さい目金めがねのぞいてゐた。

そののぞきめがねに映っていたのは、明るい軍港の景色だった。

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その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。

「あそこに『金剛(こんごう)』(軍艦の名前)も見えるでしょう。」

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「あすこに『金剛』も見えるでせう。」

ある海軍の将校が、彼にこう話しかけたりした。

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或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。

彼は四角いレンズの上に小さく見える軍艦をながめながら、なぜかふと、パセリ(阿蘭陀芹)を思い出した。

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彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと阿蘭陀芹オランダぜりを思ひ出した。

一人前三十銭のビーフステーキの上にも、かすかに香っているパセリを。

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一人前三十銭のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂つてゐる阿蘭陀芹を。

十三 先生の死

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十三 先生の死

彼は雨上がりの風の中、ある新しい駅のプラットホームを歩いていた。

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彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。

空はまだうす暗かった。

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空はまだ薄暗かつた。

プラットホームの向こうでは、線路の工事をする人が三、四人、いっせいにつるはしを上下させながら、何か高い声で歌っていた。

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プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に鶴嘴つるはしを上下させながら、何か高い声にうたつてゐた。

雨上がりの風は、その人たちの歌声も、彼の心の中の思いも、ふきちぎっていった。

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雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。

彼はタバコに火もつけずに、喜びに近い苦しみを感じていた。

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彼は巻煙草に火もつけずによろこびに近い苦しみを感じてゐた。

「センセイキトク」(先生危篤・先生が危ないという電報)

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「センセイキトク」

その電報を外とうのポケットに押しこんだまま。……

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の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……

そこへ、向こうの松の生えた山のかげから、午前六時の上り列車が一台、うすい煙をなびかせながら、うねるようにこちらへ近づいてきた。

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そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙をなびかせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

十四 結婚

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十四 結婚

彼は結婚した次の日に、「結婚したばかりで無駄づかいをされては困る」

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彼は結婚した翌日に「匇々そうそう無駄費ひをしては困る」

と、妻に小言を言った。

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と彼の妻に小言を言つた。

しかしそれは、彼自身の小言というよりも、おばの「言え」

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しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」

という命令にしたがって言った小言だった。

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と云ふ小言だつた。

彼の妻は、彼自身にはもちろん、彼のおばにも、あやまっていた。

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彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にもびを言つてゐた。

彼のために買ってきた黄色いスイセンの鉢を前に置いたまま。……

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彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……

十五 彼ら

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十五 彼等

彼らは、おだやかに暮らしていた。

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彼等は平和に生活した。

大きなバショウの葉が広がる、そのかげで。――

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大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――

彼らの家は、東京から汽車でたっぷり一時間かかる、ある海岸の町にあったから。

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彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。

十六 まくら

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十六 枕

彼はばらの葉のかおりがする懐疑主義(かいぎしゅぎ・物事を簡単には信じない考え方)をまくらにしながら、アナトール・フランスの本を読んでいた。

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彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。

しかし、そのまくらの中にも、いつか半身半馬神(はんしんはんばしん・上半身が人間で下半身が馬の神様)がいることには気づかなかった。

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が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。

十七 ちょう

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十七 蝶

海藻(もの)のにおいがただよう風の中で、一羽のちょうがひらひらと舞っていた。

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藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。

彼はほんの一しゅん、かわいた自分のくちびるの上に、このちょうのはねが触れるのを感じた。

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彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶のつばさの触れるのを感じた。

しかし、そのとき彼のくちびるにこすりつけられていったはねの粉だけは、数年たった後も、まだきらめいていた。

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が、彼の唇の上へいつかなすつて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。

十八 月

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十八 月

彼はあるホテルの階段のとちゅうで、偶然彼女と出会った。

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彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。

彼女の顔は、こんな昼間でも、まるで月の光の中にいるようだった。

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彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。

彼は彼女を見送りながら、(二人はそれまで、まったく知り合いではなかった。)

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彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)

今まで知らなかったさびしさを感じた。……

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今まで知らなかつた寂しさを感じた。……

十九 人工のつばさ

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十九 人工の翼

彼はアナトール・フランスから、十八世紀の哲学者たちの本へと読むものを移していった。

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彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。

しかしルソーには近づかなかった。

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が、ルツソオには近づかなかつた。

それはもしかすると、彼自身の中にある一面、――情熱にかられやすい一面が、ルソーに似ていたからかもしれなかった。

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それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。

彼は、自分のもう一つの面、――冷たいほどに理性に富んだ面に近い『カンディード』

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彼は彼自身の他の一面、――ひややかな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」

を書いた哲学者(ヴォルテール)に近づいていった。

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の哲学者に近づいて行つた。

人生は、二十九歳の彼にとって、もう少しも明るいものではなかった。

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人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。

しかしヴォルテールは、そんな彼に、人工のつばさをあたえてくれた。

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が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

彼はこの人工のつばさを広げ、やすやすと空へ舞い上がった。

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彼はこの人工の翼をひろげ、やすやすと空へ舞ひ上つた。

同時に、理性の光を浴びた人生の喜びや悲しみは、彼の目の下へと沈んでいった。

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同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。

彼は、みすぼらしい町々の上に皮肉やほほえみを落としながら、さえぎるもののない空を、まっすぐ太陽に向かって登っていった。

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彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、さへぎるもののない空中をまつすぐに太陽へ登つて行つた。

ちょうど、こういう人工のつばさを太陽の光に焼かれ、とうとう海に落ちて死んだ、むかしのギリシャ人(イカロス)のことも忘れてしまったかのように。……

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丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘ギリシヤ人も忘れたやうに。……

二十 かせ(自由をしばるもの)

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二十 かせ

彼ら夫婦は、彼の育ての両親(養父母)と、同じ家に住むことになった。

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彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。

それは、彼がある新聞社に入社することになったからだった。

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それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。

彼は、黄色い紙に書かれた一枚の契約書を、たよりにしていた。

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彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。

しかし、その契約書は、あとになって読み返してみると、新聞社の方は何の義務も負わず、彼だけが義務を負うようなものだった。

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が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

二十一 心の病気の人の娘

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二十一 狂人の娘

二台の人力車は、人けのない、くもった空の下の田舎道を走っていった。

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二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。

その道が海に向かっていることは、潮風がふいてくることからも、はっきりとわかった。

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その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。

後ろの人力車に乗っていた彼は、この待ち合わせ(ランデブー)に自分が少しも興味を感じていないことを不思議に思いながら、いったい何が自分をここへ導いたのかを考えていた。

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後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。

それはけっして恋愛ではなかった。

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それは決して恋愛ではなかつた。

もし恋愛でないとすれば、――彼はその答えをさけるために、「とにかく自分たちは対等なのだ」

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し恋愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける為に「かく我等は対等だ」

と、そう考えないわけにはいかなかった。

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と考へないわけには行かなかつた。

前の人力車に乗っているのは、ある心の病気の人の娘だった。

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前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。

しかもその娘の妹は、しっと(ねたむ気持ち)のために自殺していた。

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のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。

「もう、どうにも仕方がない。」

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「もうどうにも仕かたはない。」

彼はもう、この娘に、――動物のような本能ばかりが強い彼女に、ある憎しみを感じていた。

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彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。

二台の人力車は、その間に、海のにおいがする墓地のわきを通りかかった。

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二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。

牡蠣(かき)の殻がついた小枝の垣根の中には、石でできた墓が、いくつも黒ずんでいた。

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蠣殻かきがらのついた粗朶垣そだがきの中には石塔が幾つもくろずんでゐた。

彼はそれらの墓の向こうに、かすかに輝いている海をながめながら、急に、彼女の夫を、――彼女の心をつかんでいない、その夫を、軽蔑(けいべつ)しはじめた。……

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彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……

二十二 ある画家

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二十二 或画家

それは、ある雑誌のさし絵だった。

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それは或雑誌のだつた。

しかし、その一羽のおんどりを描いた墨絵(すみえ)は、はっきりとした個性を見せていた。

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が、一羽の雄鶏の墨画すみゑは著しい個性を示してゐた。

彼はある友だちに、この画家のことをたずねたりした。

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彼は或友だちにこの画家のことを尋ねたりした。

一週間ほどたった後、この画家は彼をたずねてきた。

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一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。

それは、彼の一生の中でも特に大きな出来事だった。

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それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。

彼はこの画家の中に、誰も知らない詩を見つけた。

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彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。

それだけでなく、彼自身さえ知らなかった、自分の魂も見つけた。

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のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。

ある少し寒い秋の夕暮れ、彼は一本のトウモロコシ(唐黍)を見て、たちまちこの画家を思い出した。

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或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍からきびたちまちこの画家を思ひ出した。

背の高いトウモロコシは、あらあらしい葉をまとったまま、盛り上がった土の上に、まるで神経のように細い根をむき出しにしていた。

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丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神経のやうに細ぼそと根をあらはしてゐた。

それはもちろん、傷つきやすい彼自身のすがた、いわば自画像でもあるにちがいなかった。

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それは又勿論きずつき易い彼の自画像にも違ひなかつた。

しかし、こういう発見は、彼を暗い気持ちにさせるだけだった。

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しかしかう云ふ発見は彼を憂欝にするだけだつた。

「もう遅い。しかし、いざというときには……」

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「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」

二十三 彼女

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二十三 彼女

ある広場のあたりは、日が暮れかかっていた。

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或広場の前は暮れかかつてゐた。

彼は少し熱のある体で、この広場を歩いていった。

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彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。

大きなビルが何棟も、かすかに銀色にすんだ空の下で、窓という窓に電灯をきらめかせていた。

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大きいビルデイングは幾むねもかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。

彼は道ばたで足を止め、彼女が来るのを待つことにした。

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彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。

五分ほどたった後、彼女は何かつかれたようすで、彼の方へ歩みよってきた。

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五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。

しかし彼の顔を見ると、「つかれたわ」

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が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」

と言って、ほほえんだりした。

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と言つて頬笑んだりした。

彼らは肩を並べながら、うす明るい広場を歩いていった。

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彼等は肩を並べながら、薄明うすあかるい広場を歩いて行つた。

それは、二人にとって初めてのことだった。

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それは彼等には始めてだつた。

彼は、彼女と一緒にいられるならば、何を捨ててもいいという気持ちだった。

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彼は彼女と一しよにゐる為には何を捨ててもい気もちだつた。

自動車に乗った後、彼女はじっと彼の顔を見つめ、「あなたは、後悔なさらない?」

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彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」

と言った。

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と言つた。

彼はきっぱり「後悔しない」

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彼はきつぱり「後悔しない」

と答えた。

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と答へた。

彼女は彼の手をおさえて、「あたしは後悔しないけれど」

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彼女は彼の手をおさへ、「あたしは後悔しないけれども」

と言った。

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と言つた。

彼女の顔は、こんなときも月の光の中にいるように見えた。

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彼女の顔はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

二十四 出産

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二十四 出産

彼は、ふすまのそばに立ったまま、白い手術着を着た産婆(さんば・赤ちゃんを取り上げる人)が一人、赤ん坊を洗うのを見下ろしていた。

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彼は襖側ふすまぎはたたずんだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。

赤ん坊は、せっけんが目にしみるたびに、かわいそうな顔をしかめた。

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赤児は石鹸の目にしみる度にいぢらしいしかがほを繰り返した。

そのうえ、大きな声で泣きつづけた。

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のみならず高い声にきつづけた。

彼は、赤ん坊からネズミの子どものようなにおいを感じながら、しみじみとこう思わずにはいられなかった。――

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彼は何か鼠のに近い赤児の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――

「何のためにこいつも生まれて来たのだろう? この娑婆苦(しゃばく・この世の苦しみ)でいっぱいの世界へ。――何のためにまたこいつも、おれのようなものを父にする運命を背負ったのだろう?」

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「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦しやばくの充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつもおれのやうなものを父にする運命をになつたのだらう?」

しかも、それは彼の妻が最初に産んだ男の子だった。

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しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

二十五 ストリンドベリイ

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二十五 ストリントベリイ

彼は部屋の戸口に立ち、ざくろの花がさいた月明かりの中で、うす汚い中国人が何人か、麻雀(マージャン)をしているのをながめていた。

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彼は部屋の戸口に立ち、柘榴ざくろの花のさいた月明りの中に薄汚い支那人が何人か、麻雀戯マアチアンをしてゐるのを眺めてゐた。

それから部屋の中へ引き返すと、背の低いランプの下で「痴人の告白」

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それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴人の告白」

を読みはじめた。

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を読みはじめた。

しかし、二ページも読まないうちに、いつのまにか苦笑を浮かべていた。――

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が、二ペエジも読まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐた。――

ストリンドベリイもまた、恋人だった伯爵夫人へ送る手紙の中に、彼と大差のないうそを書いている。……

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ストリントベリイも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のないうそを書いてゐる。……

二十六 古代

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二十六 古代

彩色(さいしき・色をぬること)がはげた仏たちや天人や馬や蓮(はす)の花は、ほとんど彼を圧倒した。

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彩色のげた仏たちや天人や馬や蓮のはなは殆ど彼を圧倒した。

彼はそれらを見上げたまま、あらゆることを忘れていた。

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彼はそれ等を見上げたまま、あらゆることを忘れてゐた。

狂人の娘の手をのがれた、彼自身の幸運さえも。……

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狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さへ。……

二十七 スパルタ式訓練

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二十七 スパルタ式訓練

彼は彼の友だちと、ある裏町を歩いていた。

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彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。

そこへ幌(ほろ)をかけた人力車が一台、まっすぐに向こうから近づいて来た。

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そこへほろをかけた人力車が一台、まつすぐに向うから近づいて来た。

しかも、その上に乗っているのは、意外にも昨夜のあの彼女だった。

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しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。

彼女の顔は、こんな昼間でも月の光の中にいるように見えた。

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彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。

彼らは彼の友だちの手前、もちろんあいさつさえ交わさなかった。

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彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。

「美人ですね。」

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「美人ですね。」

彼の友だちはこんなことを言った。

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彼の友だちはこんなことを言つた。

彼は、通りの突き当たりにある春の山をながめたまま、少しもためらわずに返事をした。

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彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。

「ええ、なかなか美人ですね。」

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「ええ、中々美人ですね。」

二十八 殺人

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二十八 殺人

田舎道は、日の光の中に牛のふんのにおいをただよわせていた。

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田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。

彼は汗をふきながら、つま先上りの坂道を登って行った。

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彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。

道の両側で熟した麦は、香ばしいにおいを放っていた。

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道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。

「殺せ、殺せ。……」

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「殺せ、殺せ。……」

彼はいつのまにか、口の中でこう言葉を繰り返していた。

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彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。

誰を?――

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誰を?――

それは彼にははっきりわかっていた。

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それは彼には明らかだつた。

彼は、いかにも卑屈そうな五分刈りの男を思い出していた。

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彼は如何いかにも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。

すると、黄ばんだ麦の向こうに、ローマカトリック教の伽藍(がらん・大きな寺院の建物)が一つ、いつのまにか丸屋根を現していた。……

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すると黄ばんだ麦の向うに羅馬ロオマカトリツク教の伽藍がらん一宇いちう、いつの間にか円屋根まるやねを現し出した。……

二十九 形

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二十九 形

それは鉄の銚子(ちょうし・酒を入れる器)だった。

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それは鉄の銚子だつた。

彼はこの糸目のついた銚子に、いつのまにか「形」

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彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」

の美しさを教えられていた。

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の美を教へられてゐた。

三十 雨

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三十 雨

彼は大きなベッドの上で、彼女といろいろな話をしていた。

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彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。

寝室の窓の外は雨降りだった。

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寝室の窓の外は雨ふりだつた。

浜木綿(はまゆう)の花は、この雨の中でいつのまにか腐っていくらしかった。

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浜木棉はまゆふの花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。

彼女の顔は、あいかわらず月の光の中にいるように見えた。

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彼女の顔は不相変あひかはらず月の光の中にゐるやうだつた。

しかし、彼女と話していることは、彼には退屈でないこともなかった。

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が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。

彼は腹ばいになったまま、静かに一本の巻きたばこに火をつけ、彼女と一緒に日を過ごすのも七年になることを思い出した。

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彼は腹這はらばひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。

「おれはこの女を愛しているだろうか?」

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「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」

彼は自分自身にこう質問した。

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彼は彼自身にかう質問した。

この答えは、自分自身を見つめていた彼自身にも意外だった。

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この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。

「おれはいまだに愛している。」

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「おれはいまだに愛してゐる。」

三十一 大地震

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三十一 大地震

それはどこか、熟しきった杏(あんず)のにおいに近いものだった。

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それはどこか熟し切つたあんずの匂に近いものだつた。

彼は、焼けあとを歩きながら、かすかにこのにおいを感じ、真夏の日ざしの中で腐った死体のにおいも、案外悪くないと思ったりした。

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彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。

しかし、死体が重なり合った池の前に立ってみると、「酸鼻(さんび・むごたらしくて心が痛むこと)」

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が、死骸の重なりかさなつた池の前に立つて見ると、「酸鼻さんび

という言葉も、感覚として決して大げさではないことに気づいた。

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と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。

とくに彼の心を動かしたのは、十二、三歳くらいの子どもの死体だった。

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殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。

彼はこの死体をながめ、何かうらやましさに近いものを感じた。

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彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。

「神々に愛される者は夭折(ようせつ・若くして死ぬこと)する」

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「神々に愛せらるるものは夭折えうせつす」

――こういう言葉なども思い出した。

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――かう云ふ言葉なども思ひ出した。

彼の姉や異母(いぼ・父か母だけが同じ)弟は、どちらも家を焼かれていた。

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彼の姉や異母弟はいづれも家を焼かれてゐた。

しかし、彼の姉の夫は、うその証言をした罪(偽証罪・ぎしょうざい)で、執行猶予(しっこうゆうよ・刑がしばらく猶予されること)中の身だった。……

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しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯した為に執行猶予中の体だつた。……

「だれもかれも、死んでしまえばいい。」

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「誰も彼も死んでしまへばい。」

彼は焼けあとに立ちつくしたまま、しみじみとこう思わずにはいられなかった。

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彼は焼け跡にたたずんだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。

三十二 喧嘩

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三十二 喧嘩

彼は異母弟と取っ組み合いのけんかをした。

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彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。

彼の弟は、彼のせいで、まわりから圧迫を受けやすいのはまちがいなかった。

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彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。

同時に彼もまた、弟のせいで自由を失っているのもまちがいなかった。

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同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。

彼の親戚は、弟に「彼を見習え」

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彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣みならへ」

と言いつづけていた。

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と言ひつづけてゐた。

しかし、それは彼自身にとって、手足をしばられるのと同じことだった。

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しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。

二人は取っ組み合ったまま、とうとう縁側の先まで転げて行った。

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彼等は取り組み合つたまま、とうとう縁先へころげて行つた。

縁側の先の庭には、百日紅(さるすべり)の木が一本、――彼は今でも覚えている。――

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縁先の庭には百日紅さるすべりが一本、――彼は未だに覚えてゐる。――

雨をふくんだ空の下で、赤く光る花を盛り上げるように咲かせていた。

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雨を持つた空の下に赤光りに花を盛り上げてゐた。

三十三 英雄

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三十三 英雄

彼は、ヴォルテールの家の窓から、いつのまにか高い山を見上げていた。

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彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。

氷河(ひょうが)のかかった山の上には、はげたかの影さえ見えなかった。

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氷河の懸つた山の上には禿鷹はげたかの影さへ見えなかつた。

しかし、背の低いロシア人が一人、しつこく山道を登りつづけていた。

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が、背の低い露西亜ロシア人が一人、執拗しつえうに山道を登りつづけてゐた。

ヴォルテールの家も夜になったあと、彼は明るいランプの下で、こんな傾向詩(けいこうし・考えを訴える詩)を書いたりした。

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ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。

あの山道を登って行ったロシア人の姿を思い出しながら。……

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あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……

――誰よりも十戒(じっかい・守るべき十のおきて)を守った君は

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――誰よりも十戒を守つた君は

誰よりも十戒を破った君だ。

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誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は

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誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

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誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上がった君は

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誰よりも理想に燃え上つた君は

誰よりも現実を知っていた君だ。

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誰よりも現実を知つてゐた君だ。

君は、僕たちの東洋が生んだ

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君は僕等の東洋が生んだ

草花のにおいがする電気機関車だ。――

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草花の匂のする電気機関車だ。――

三十四 色彩

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三十四 色彩

三十歳の彼は、いつのまにか、ある空き地を愛するようになっていた。

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三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。

そこにはただ、苔(こけ)の生えた地面の上に、れんがや瓦(かわら)のかけらがいくつも散らかっているだけだった。

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そこには唯こけの生えた上に煉瓦や瓦の欠片かけらなどが幾つも散らかつてゐるだけだつた。

しかし、それは彼の目には、セザンヌの風景画と変わりはなかった。

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が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変りはなかつた。

彼はふと、七、八年前の自分の情熱を思い出した。

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彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。

同時に、七、八年前の自分は色彩を知らなかったことに気づいた。

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同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを発見した。

三十五 道化人形

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三十五 道化人形

彼は、いつ死んでも悔いのないように、はげしい生活をするつもりだった。

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彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。

しかし、あいかわらず養父母やおばに遠慮がちな生活をつづけていた。

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が、不相変あひかわらず養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。

それは彼の生活に、明るい面と暗い面の両方を作り出した。

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それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。

彼はある洋服屋の店先に道化人形が立っているのを見て、自分もどれくらいこの道化人形に近いだろうかと考えたりした。

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彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。

しかし、意識の外にいる彼自身は、――いわば第二の彼自身は、とっくにこういう気持ちを、ある短編小説の中にもりこんでいた。

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が、意識の外の彼自身は、――言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた。

三十六 倦怠

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三十六 倦怠

彼は、ある大学生とすすき原の中を歩いていた。

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彼は或大学生と芒原すすきはらの中を歩いてゐた。

「君たちはまだ、生きようとする欲(生活欲)を盛んに持っているだろうね?」

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「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」

「ええ、――だってあなたでも……」

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「ええ、――だつてあなたでも……」

「ところが僕は持っていないんだよ。作品を作りたいという欲(制作欲)だけは持っているけれど。」

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「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」

それは彼の本当の気持ちだった。

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それは彼の真情だつた。

彼は実際、いつのまにか生活そのものに興味を失っていた。

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彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。

「制作欲だって、やっぱり生活欲でしょう。」

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「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」

彼は何とも答えなかった。

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彼は何とも答へなかつた。

すすき原は、いつのまにか赤い穂の向こうに、はっきりと噴火山の姿を現していた。

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芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山をあらはし出した。

彼はこの噴火山に、何かうらやましさに近いものを感じた。

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彼はこの噴火山に何か羨望せんばうに近いものを感じた。

しかし、それがなぜなのか、彼自身にもわからなかった。……

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しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。……

三十七 越し人

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三十七 越し人

彼は、知恵や才能の力でも互角に張り合える女性に出会った。

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彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。

しかし、「越し人」

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が、「越し人」

などの抒情詩(じょじょうし・気持ちをうたった詩)を作り、かろうじてこの危機からのがれた。

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等の抒情詩を作り、わづかにこの危機を脱出した。

それは、木の幹に凍りついた輝くような雪を落とすような、切ない気持ちのするものだった。

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それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

風に舞い上がったすげ笠が

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風に舞ひたるすげ笠の

どうして道に落ちずにいられよう

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何かは道に落ちざらん

わたしの名などどうして惜しもう

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わが名はいかで惜しむべき

惜しむのはあなたの名ばかりなのだ。

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惜しむは君が名のみとよ。

三十八 復讐

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三十八 復讐

それは、木の芽に囲まれたあるホテルのテラスだった。

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それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。

彼はそこで絵を描きながら、一人の少年を遊ばせていた。

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彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。

七年前に縁を切った狂人の娘の一人息子と。

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七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。

狂人の娘は巻きたばこに火をつけ、彼らが遊ぶのをながめていた。

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狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。

彼は重苦しい気持ちのまま、汽車や飛行機を描きつづけた。

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彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。

少年は幸いにも、彼の子ではなかった。

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少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。

しかし、彼を「おじさん」

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が、彼を「をぢさん」

と呼ぶのは、彼には何よりも苦しかった。

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と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。

少年がどこかへ行ったあと、狂人の娘は巻きたばこを吸いながら、こびるように彼に話しかけた。

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少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、びるやうに彼に話しかけた。

「あの子はあなたに似ていやしない?」

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「あの子はあなたに似てゐやしない?」

「似ていません。第一……」

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「似てゐません。第一……」

「だって胎教(たいきょう・おなかの赤ちゃんに与える影響)ということもあるでしょう。」

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「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」

彼は黙って目をそらした。

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彼は黙つて目をらした。

しかし、彼の心の底には、こんな彼女をしめ殺したいという、残虐(ざんぎゃく・むごい)な欲望さえないわけではなかった。……

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が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへないわけではなかつた。……

三十九 鏡

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三十九 鏡

彼は、あるカフェのすみで友だちと話していた。

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彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。

彼の友だちは焼きリンゴを食べ、この頃の寒さの話などをした。

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彼の友だちは焼林檎やきりんごを食ひ、この頃の寒さの話などをした。

彼はこういう話の中に、急に矛盾(むじゅん)を感じはじめた。

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彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。

「君はまだ独身だったね。」

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「君はまだ独身だつたね。」

「いや、もう来月結婚する。」

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「いや、もう来月結婚する。」

彼は思わず黙ってしまった。

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彼は思はず黙つてしまつた。

カフェの壁にはめこんだ鏡は、無数の彼自身を映していた。

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カツフエの壁にめこんだ鏡は無数の彼自身を映してゐた。

冷えびえと、何かおどすように。……

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冷えびえと、何かおびやかすやうに。……

四十 問答

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四十 問答

なぜお前は現代の社会制度を攻撃するのか?

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なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?

資本主義が生んだ悪を見ているから。

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資本主義の生んだ悪を見てゐるから。

悪を?

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悪を?

おれは、お前が善悪の差を認めていないと思っていた。

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 おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。

ではお前の生活は?

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ではお前の生活は?

――彼はこう天使と問答した。

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――彼はかう天使と問答した。

しかも、誰にも恥じるところのないシルクハットをかぶった天使と。……

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もつとも誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……

四十一 病

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四十一 病

彼は不眠症におそわれはじめた。

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彼は不眠症に襲はれ出した。

そのうえ、体力も衰えはじめた。

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のみならず体力も衰へはじめた。

何人かの医者は、彼の病気にそれぞれ二、三の診断を下した。――

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何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――

胃酸過多(いさんかた・胃酸が多すぎること)、胃アトニー(胃が弱ること)、乾性肋膜炎(かんせいろくまくえん)、神経衰弱(しんけいすいじゃく)、慢性結膜炎(まんせいけつまくえん)、脳疲労、……

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胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎ろくまくえん、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……

しかし彼自身は、自分の病気の本当の原因を知っていた。

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しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。

それは、彼自身を恥じる気持ちと、彼らを恐れる気持ちだった。

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それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。

彼らを、――彼が軽蔑していた社会を!

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彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!

雪もようの曇ったある午後、彼はあるカフェのすみで火のついた葉巻をくわえたまま、向こうの蓄音機から流れてくる音楽に耳をかたむけていた。

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或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻をくはへたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。

それは、彼の気持ちに妙にしみわたる音楽だった。

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それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。

彼はその音楽が終わるのを待ち、蓄音機の前へ歩みよってレコードの貼り札を調べることにした。

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彼はその音楽のをはるのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄つてレコオドの貼り札をしらべることにした。

Magic Flute――Mozart

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Magic Flute――Mozart

彼はとっさに理解した。

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彼は咄嗟とつさに了解した。

十戒を破ったモーツァルトも、やはり苦しんだにちがいなかった。

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十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。

しかし、まさか彼のようには、……彼は頭を垂れたまま、静かに自分のテーブルへ帰っていった。

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しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子テエブルへ帰つて行つた。

四十二 神々の笑い声

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四十二 神々の笑ひ声

三十五歳の彼は、春の日の当たった松林の中を歩いていた。

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三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。

二、三年前に彼自身が書いた「神々は不幸にも我々のように自殺できない」

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二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」

という言葉を思い出しながら。……

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と云ふ言葉を思ひ出しながら。……

四十三 夜

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四十三 夜

夜が、もう一度せまってきた。

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夜はもう一度迫り出した。

荒れた海は、うす明かりの中でひっきりなしにしぶきを打ち上げていた。

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荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず水沫しぶきを打ち上げてゐた。

彼は、こういう空の下で、妻ともう一度結婚をした。

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彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。

それは、彼らにとってよろこびだった。

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それは彼等にはよろこびだつた。

しかし、同時にまた苦しみでもあった。

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が、同時に又苦しみだつた。

三人の子どもたちは、彼らといっしょに沖の稲妻をながめていた。

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三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻を眺めてゐた。

彼の妻は一人の子をだきながら、涙をこらえているらしかった。

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彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。

「あそこに船が一つ見えるね?」

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「あすこに船が一つ見えるね?」

「ええ。」

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「ええ。」

「帆柱(ほばしら)が二つに折れた船が。」

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ほばしらの二つに折れた船が。」

四十四 死

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四十四 死

彼は一人で寝ているのをさいわいに、窓の格子に帯をかけて首をつって死のう(縊死・いし)とした。

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彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死いししようとした。

しかし、帯に首を入れてみると、急に死ぬのがこわくなった。

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が、帯にくびを入れて見ると、にはかに死を恐れ出した。

それは、死ぬしゅん間(刹那・せつな)の苦しみがこわかったのではなかった。

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それは何も死ぬ刹那せつなの苦しみの為に恐れたのではなかつた。

彼は二度目には、ふところ時計を持って、ためしに首をつってみることにした。

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彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。

すると、少し苦しかったあと、何もかもぼんやりとしはじめた。

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するとちよつと苦しかつた後、何ももぼんやりなりはじめた。

そこを一度通りすぎさえすれば、きっと死んでしまうにちがいなかった。

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そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。

彼は時計の針をしらべ、苦しいと感じていたのは一分二十何秒かだったことに気づいた。

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彼は時計の針をしらべ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。

窓の格子の外は、まっ暗だった。

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窓格子の外はまつ暗だつた。

しかしそのやみの中で、荒々しいにわとりの声もしていた。

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しかしそのやみの中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。

四十五 Divan

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四十五 Divan

Divan(ディヴァン・ゲーテという詩人が書いた詩集)は、もう一度彼の心に新しい力をあたえようとした。

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Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。

それは、彼が知らなかった「東洋的なゲーテ」

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それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」

だった。

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だつた。

彼は、あらゆる善悪の向こう側に、ゆったりと立っているゲーテを見て、絶望に近いうらやましさを感じた。

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彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。

詩人ゲーテは、彼の目には詩人クリスト(キリストのこと)よりも偉大だった。

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詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。

この詩人の心には、アクロポリス(ギリシャの神殿)やゴルゴタ(キリストが十字架にかけられた丘)のほかに、アラビアのばらまで花をひらいていた。

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この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。

もしこの詩人の足あとをたどるだけの力を少しでも持っていたら、――彼はデイヴァンを読み終え、おそろしい感動がしずまったあと、しみじみと、暮らしの上では宦官(かんがん・力のない者のたとえ)に生まれついた自分自身を軽蔑せずにはいられなかった。

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若しこの詩人の足あとを辿たどる多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを読みをはり、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦官くわんぐわんに生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。

四十六 嘘

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四十六 譃

彼の姉の夫が自殺したことは、彼を急に打ちのめした。

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彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。

彼は今度は、姉の一家の面倒も見なければならなくなった。

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彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。

彼の将来は、少なくとも彼にとっては、夕暮れのようにうす暗かった。

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彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。

彼は、自分の心が破産したことに、冷笑に近いものを感じながら、(彼は自分の悪いところや弱いところを、一つ残らずわかっていた。)

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彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)

あいかわらず、いろいろな本を読みつづけた。

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不相変いろいろの本を読みつづけた。

しかし、ルソー(フランスの思想家)の「懺悔録(ざんげろく)」でさえ、ヒーローらしく見せるための嘘に満ちていた。

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しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的なうそに充ち満ちてゐた。

とくに「新生」

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殊に「新生」

については、――彼は「新生」

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に至つては、――彼は「新生」

の主人公ほど、ずる賢い(老獪・ろうかい)偽善者に出会ったことはなかった。

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の主人公ほど老獪らうくわいな偽善者に出会つたことはなかつた。

しかし、フランソワ・ヴィヨン(フランスの詩人)だけは、彼の心にしみとおった。

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が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみとほつた。

彼は、いくつかの詩の中に「美しい雄(おす)」

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彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」

を見つけた。

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を発見した。

絞首刑(こうしゅけい・首をしめて殺す刑ばつ)を待っているヴィヨンの姿は、彼の夢の中にも現れたりした。

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絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。

彼は何度も、ヴィヨンのように人生のどん底に落ちようとした。

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彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。

しかし、彼の置かれた立場や体の力は、そんなことを許すはずがなかった。

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が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許すわけはなかつた。

彼は、だんだん衰えていった。

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彼はだんだん衰へて行つた。

ちょうど昔、スウィフト(アイルランドの作家)が見た、こずえ(木の枝の先)から枯れてくる木のように。……

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丁度昔スウイフトの見た、木末こずゑから枯れて来る立ち木のやうに。……

四十七 火あそび

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四十七 火あそび

彼女は、かがやくような顔をしていた。

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彼女はかがやかしい顔をしてゐた。

それはちょうど、朝日の光がうすい氷(薄氷・うすらい)にさしているようだった。

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それは丁度朝日の光の薄氷うすらひにさしてゐるやうだつた。

彼は、彼女に好意を持っていた。

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彼は彼女に好意を持つてゐた。

しかし、恋愛は感じていなかった。

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しかし恋愛は感じてゐなかつた。

それどころか、彼女の体には指一本ふれずにいたのだった。

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のみならず彼女の体には指一つさはらずにゐたのだつた。

「死にたがっていらっしゃるのですってね。」

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「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

「ええ。――いえ、死にたがっているというより、生きることにあきているのです。」

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「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることにきてゐるのです。」

彼らは、こんなやり取りから、いっしょに死ぬことを約束した。

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彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

「プラトニック・スイサイド(心だけの、体をともなわない心中)ですね。」

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「プラトニツク・スウイサイドですね。」

「ダブル・プラトニック・スイサイド。」

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「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

彼は、自分が落ち着いていることを、不思議に思わずにはいられなかった。

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彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

四十八 死

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四十八 死

彼は、彼女とは死ななかった。

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彼は彼女とは死ななかつた。

ただ、いまだに彼女の体に指一本ふれていないことは、彼には何か満足なことだった。

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唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。

彼女は、何ごともなかったかのように、時々彼と話したりした。

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彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。

それどころか、彼女は自分の持っていた青酸カリ(せいさんカリ・毒薬の一種)を一びん彼にわたし、「これさえあれば、お互いに心強いでしょう」

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のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎ひとびん渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」

とも言ったりした。

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とも言つたりした。

それは実際、彼の心を強くしたにちがいなかった。

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それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。

彼はひとり籐(とう)いすにすわり、しいの若葉をながめながら、死が自分にあたえてくれる平和のことを、たびたび考えずにはいられなかった。

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彼はひとり籐椅子に坐り、しひの若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。

四十九 はく製(はくせい・動物の形をそのまま残した標本)の白鳥

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四十九 剥製の白鳥

彼は最後の力をつくして、自分の自叙伝を書いてみようとした。

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彼は最後の力をつくし、彼の自叙伝を書いて見ようとした。

しかし、それは彼自身にとって、思ったよりも簡単にはできなかった。

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が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。

それは、彼の中に、自尊心(じそんしん・プライド)や、何でも疑ってかかる心や、損得の計算が、まだ残っていたからだった。

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それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。

彼は、そんな自分自身を軽蔑せずにはいられなかった。

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彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。

しかしまた一方では、「だれでも一枚皮をむいてみれば、同じことだ」

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しかし又一面には「誰でも一皮いて見れば同じことだ」

とも思わずにはいられなかった。

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とも思はずにはゐられなかつた。

「詩と真実と」

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「詩と真実と」

という本の名前は、彼には、あらゆる自叙伝の名前であるようにも思えてしかたなかった。

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と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。

それに、文学作品にだれもがかならず心を動かされるわけではないことも、彼にははっきりわかっていた。

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のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。

自分の作品が心にうったえるのは、自分に近い人生を送った、自分に近い人たちだけのはずだ。――

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彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――

こんな気持ちも、彼の中にはたらいていた。

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かう云ふ気も彼には働いてゐた。

彼はそのために、手短かに自分の「詩と真実と」

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彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」

を書いてみることにした。

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を書いて見ることにした。

彼は「或阿呆の一生」

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彼は「或阿呆の一生」

を書き上げたあと、たまたまある古道具屋の店で、はく製の白鳥があるのを見つけた。

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を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製はくせいの白鳥のあるのを見つけた。

それは首を持ち上げて立ってはいたが、黄ばんだ羽根さえ虫に食われていた。

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それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。

彼は自分の一生を思い、涙や冷笑がこみ上げてくるのを感じた。

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彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。

彼の前にあるものは、ただ気が狂うか、自殺するかだけだった。

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彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。

彼は、日暮れの通りをたった一人で歩きながら、ゆっくりと自分をほろぼしにやって来る運命を待つことに決心した。

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彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、おもむろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

五十 とりこ(とらわれの身)

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五十 とりこ

彼の友だちの一人は、気が狂った。

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彼の友だちの一人は発狂した。

彼は、この友だちにいつも、ある親しみを感じていた。

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彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。

それは、彼にはこの友だちの孤独――軽やかな仮面の下にある孤独が、人一倍身にしみてわかったからだった。

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それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。

彼は、この友だちが気が狂ったあと、二、三度この友だちをたずねた。

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彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。

「君や僕は、悪い鬼にとりつかれているんだね。世紀末の悪鬼というやつにねえ。」

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「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」

この友だちは、声をひそめながらこんなことを彼に話したりしたが、それから二、三日後には、ある温泉宿へ出かける途中、ばらの花まで食べていたということだった。

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この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇ばらの花さへ食つてゐたと云ふことだつた。

彼は、この友だちが入院したあと、いつか自分がこの友だちに贈ったテラコッタ(素焼きの土でできた像)の半身像を思い出した。

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彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。

それは、この友だちが愛した「検察官」

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それはこの友だちの愛した「検察官」

の作者の半身像だった。

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の作者の半身像だつた。

彼は、ゴーゴリ(ロシアの作家)も気が狂って死んだことを思い、何か自分たちを支配している力を感じずにはいられなかった。

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彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。

彼はすっかり疲れ切ったあげく、ふとラディゲ(フランスの作家)の臨終(りんじゅう・死にぎわ)の言葉を読み、もう一度神々の笑い声を感じた。

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彼はすつかり疲れ切つた揚句あげく、ふとラデイゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑ひ声を感じた。

それは「神の兵隊たちが、おれをつかまえに来る」

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それは「神の兵卒たちはおれをつかまへに来る」

という言葉だった。

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と云ふ言葉だつた。

彼は、自分の迷信や、自分のセンチメンタルな気持ち(感傷主義)と闘おうとした。

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彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘はうとした。

しかし、どんな闘いも、体の面では彼には不可能だった。

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しかしどう云ふ闘ひも肉体的に彼には不可能だつた。

「世紀末の悪鬼」

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「世紀末の悪鬼」

は、実際に彼を苦しめているにちがいなかった。

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は実際彼をさいなんでゐるのに違ひなかつた。

彼は、神を心の支えにしていた中世の人々に、うらやましさを感じた。

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彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。

しかし、神を信じることは――神の愛を信じることは、彼にはどうしてもできなかった。

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しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出来なかつた。

あのコクトー(フランスの作家)でさえ信じた神を!

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あのコクトオさへ信じた神を!

五十一 敗北

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五十一 敗北

彼は、ペンを持つ手さえふるえ出した。

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彼はペンをる手も震へ出した。

それだけでなく、よだれまで流れ出した。

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のみならずよだれさへ流れ出した。

彼の頭は、〇・八のヴェロナール(睡眠薬の一種)を使って目覚めたあとのほかは、一度もはっきりしたことはなかった。

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彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。

しかも、はっきりしているのは、やっと半時間か一時間だった。

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しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。

彼はただ、うす暗い中で、その日暮らしの生活をしていた。

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彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。

いわば、刃がこぼれてしまった細い剣を、杖にしながら。

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言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。

(昭和二年六月、遺稿(いこう・死んだ後に残された原稿))

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(昭和二年六月、遺稿)