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或阿呆の一生 現代語訳

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1968

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

僕はこの原稿を発表するかどうかはもちろん、発表する時期や発表先も君に任せたいと思っている。

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僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。

君はこの原稿に出てくる人物のほとんどを知っているだろう。

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君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。

しかし僕は、発表するとしても索引はつけずにいてほしいと思っている。

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しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

僕は今、最も不幸な幸福の中に暮らしている。

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僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。

しかし不思議にも後悔はしていない。

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しかし不思議にも後悔してゐない。

ただ、僕のような悪い夫、悪い息子、悪い親を持った人たちを、いかにも気の毒に感じている。

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唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何いかにも気の毒に感じてゐる。

ではさようなら。

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ではさやうなら。

僕はこの原稿の中では、少なくとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。

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僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。

最後に、僕がこの原稿を特に君に託すのは、君がおそらく誰よりも僕を知っていると思うからだ。

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最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。

(都会人という僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中の僕の阿呆さ加減を笑ってくれ。

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(都会人と云ふ僕の皮をぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

昭和二年六月二十日

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昭和二年六月二十日

芥川龍之介

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芥川龍之介

久米正雄君

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久米正雄君

一 時代

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一 時代

それはある本屋の二階だった。

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それは或本屋の二階だつた。

二十歳の彼は書棚に立てかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。

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二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子はしごに登り、新らしい本を探してゐた。

モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、ショウ、トルストイ、……

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モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

そのうちに日暮れが迫ってきた。

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そのうちに日の暮は迫り出した。

しかし彼は熱心に本の背文字を読み続けた。

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しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。

そこに並んでいるのは本というよりも、むしろ世紀末そのものだった。

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そこに並んでゐるのは本といふよりもむしろ世紀末それ自身だつた。

ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

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ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

彼は薄暗がりと戦いながら、彼らの名前を数えていった。

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彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。

が、本はひとりでにもの憂い影の中へ沈みはじめた。

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が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。

彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。

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彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。

すると笠のない電灯が一つ、ちょうど彼の頭の上で突然ぽかりと火をともした。

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すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。

彼は梯子の上に立ったまま、本の間を動いている店員や客を見下ろした。

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彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。

彼らは妙に小さかった。

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彼等は妙に小さかつた。

そのうえ、いかにも見すぼらしかった。

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のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行のボオドレエルにも及ばない。」

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「人生は一行いちぎやうのボオドレエルにもかない。」

彼はしばらく梯子の上からこういう彼らを見渡していた。……

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彼はしばらく梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

二  母

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二  母

狂人たちはみな同じように鼠色の着物を着せられていた。

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狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。

広い部屋はそのために一層憂鬱に見えるらしかった。

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広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。

彼らの一人はオルガンに向かい、熱心に讃美歌を弾き続けていた。

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彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌をきつづけてゐた。

同時にまた彼らの一人は、ちょうど部屋の真ん中に立ち、踊るというよりも跳ねまわっていた。

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同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりもねまはつてゐた。

彼は血色のいい医者と一緒にこういう光景を眺めていた。

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彼は血色のい医者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。

彼の母も十年前には少しも彼らと変わらなかった。

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彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかつた。

少しも、――彼は実際、彼らの臭気に彼の母の臭気を感じた。

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少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。

「じゃ、行こうか?」

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「ぢや行かうか?」

医者は彼の先に立って、廊下伝いにある部屋へ行った。

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医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。

その部屋の隅には、アルコールを満たした大きなガラスの壺の中に脳髄がいくつも漬かっていた。

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その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい硝子ガラスの壺の中に脳髄が幾つもつかつてゐた。

彼はある脳髄の上にかすかに白いものを見つけた。

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彼は或脳髄の上にかすかに白いものを発見した。

それはちょうど卵の白身をちょっと垂らしたのに近いものだった。

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それは丁度卵の白味をちよつとらしたのに近いものだつた。

彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思い出した。

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彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

「この脳髄を持っていた男は××電灯会社の技師だったがね。いつも自分は黒光りのする大きなダイナモだと思っていたよ。」

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「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

彼は医者の目を避けるためにガラス窓の外を眺めていた。

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彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。

そこには空き瓶の破片を植えた煉瓦塀の外に何もなかった。

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そこにはびんの破片を植ゑた煉瓦塀れんぐわべいの外に何もなかつた。

しかしその塀は、薄い苔をまだらにつけてぼんやりと白んでいた。

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しかしそれは薄いこけをまだらにぼんやりとらませてゐた。

三 家

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三 家

彼はある郊外の二階の部屋に寝起きしていた。

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彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。

それは地盤がゆるいために妙に傾いた二階だった。

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それは地盤のゆるい為に妙に傾いた二階だつた。

彼の伯母はこの二階でたびたび彼と喧嘩をした。

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彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。

彼の養父母の仲裁を受けることもないわけではなかった。

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それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。

しかし彼は伯母に誰よりも愛情を感じていた。

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しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。

一生独身だった彼の伯母は、彼が二十歳の時にはもう六十に近い年寄りだった。

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一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

彼はある郊外の二階で、何度も、互いに愛し合うものはなぜ苦しめ合うのかを考えたりした。

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彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。

その間もずっと、何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

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その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

四 東京

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四 東京

隅田川はどんよりと曇っていた。

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隅田川はどんより曇つてゐた。

彼は走っている小蒸気船の窓から向島の桜を眺めていた。

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彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。

花を満開にした桜は、彼の目には一列のぼろのように憂鬱だった。

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花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸ぼろのやうに憂欝だつた。

が、彼はその桜に、――江戸以来の向島の桜に、いつのまにか彼自身を見出していた。

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が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。

五 我

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五 我

彼は先輩と一緒にあるカフェのテーブルに向かい、絶えず巻煙草をふかしていた。

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彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子テエブルに向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。

彼はあまり口をきかなかった。

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彼は余り口をきかなかつた。

が、先輩の言葉には熱心に耳を傾けていた。

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が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。

「今日は半日自動車に乗っていた。」

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「けふは半日自動車に乗つてゐた。」

「何か用があったのですか?」

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「何か用があつたのですか?」

彼の先輩は頬杖をついたまま、ごく無造作に返事をした。

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彼の先輩は頬杖ほほづゑをしたまま、極めて無造作に返事をした。

「何、ただ乗っていたかったから。」

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「何、唯乗つてゐたかつたから。」

その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」

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その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「

の世界へ彼自身を解放した。

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の世界へ彼自身を解放した。

彼は何か痛みを感じた。

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彼は何か痛みを感じた。

が、同時に喜びも感じた。

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が、同時に又よろこびも感じた。

そのカフェはごく小さかった。

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そのカツフエはごく小さかつた。

しかしパンの神の額の下には、赤い鉢に植えたゴムの木が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしていた。

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しかしパンの神のがくの下にはあかい鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。

六 病

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六 病

彼は絶え間ない潮風の中で大きな英語の辞書を開き、指先で言葉を探していた。

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彼は絶え間ない潮風の中に大きい英吉利イギリス語の辞書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。

Talaria 翼の生えた靴、あるいはサンダル。

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Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。

Tale 話。

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Tale 話。

Talipot 東インドに産する椰子。

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Talipot 東印度に産する椰子やし

幹は五十フィートから百フィートの高さに達し、葉は傘、扇、帽子などに用いられる。

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幹は五十フイートより百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等に用ひらる。

七十年に一度花を開く。……

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七十年に一度花を開く。……

彼の想像ははっきりとこの椰子の花を描き出した。

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彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。

すると彼は喉もとに今まで知らなかったかゆみを感じ、思わず辞書の上に痰を落とした。

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すると彼はのどもとに今までに知らないかゆさを感じ、思はず辞書の上へたんを落した。

痰を?――

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啖を?――

しかしそれは痰ではなかった。

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しかしそれは啖ではなかつた。

彼は自分の短い命を思い、もう一度この椰子の花を想像した。

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彼は短い命を思ひ、もう一度この椰子の花を想像した。

この遠い海の向こうに高々とそびえている椰子の花を。

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この遠い海の向うに高だかとそびえてゐる椰子の花を。

七 画

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七 画

彼は突然、――それは実際突然だった。

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彼は突然、――それは実際突然だつた。

彼はある本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見ているうちに、突然、絵というものを理解した。

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彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見てゐるうちに突然画と云ふものを了解した。

もちろんそのゴオグの画集は写真版だったに違いなかった。

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勿論そのゴオグの画集は写真版だつたのに違ひなかつた。

が、彼は写真版の中にも鮮やかに浮かび上がる自然を感じた。

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が、彼は写真版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。

この絵に対する情熱は彼の視野を新しくした。

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この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。

彼はいつのまにか木の枝のうねりや女の頬のふくらみに絶え間ない注意を向けはじめた。

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彼はいつか木の枝のうねりや女の頬のふくらみに絶え間ない注意を配り出した。

雨を含んだある秋の日の夕暮れ、彼はある郊外のガードの下を通りかかった。

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或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。

ガードの向こうの土手の下には荷馬車が一台止まっていた。

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ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。

彼はそこを通りながら、誰かが前にこの道を通ったことがあるのを感じはじめた。

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彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。

誰か?――

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誰か?――

それは今さら彼自身に問いかける必要もなかった。

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それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。

二十三歳の彼の心の中には、耳を切ったオランダ人が一人、長いパイプをくわえたまま、この憂鬱な風景画の上にじっと鋭い目を注いでいた。……

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二十三歳の彼の心の中には耳を切つた和蘭オランダ人が一人、長いパイプをくはへたまま、この憂欝な風景画の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……

八 火花

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八 火花

彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んでいった。

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彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。

雨はかなり激しかった。

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雨は可也かなり烈しかつた。

彼はしぶきの満ちた中でゴム引きの外套の匂いを感じた。

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彼は水沫しぶきの満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。

すると目の前の架空線が一本、紫色の火花を発していた。

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すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。

彼は妙に感動した。

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彼は妙に感動した。

彼の上着のポケットには、仲間たちの同人雑誌へ発表する彼の原稿が隠してあった。

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彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。

彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

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彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

架空線は相変わらず鋭い火花を放っていた。

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架空線は不相変あひかはらず鋭い火花を放つてゐた。

彼は人生を見渡しても、特に欲しいものは何もなかった。

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彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。

が、この紫色の火花だけは、――すさまじい空中の火花だけは、命と引き換えにしてもつかまえたかった。

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が、この紫色の火花だけは、――すさまじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

九 死体

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九 死体

死体はどれも親指に針金のついた札をぶら下げていた。

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死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。

その札には名前や年齢などが記されていた。

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その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。

彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、ある死体の顔の皮を剥ぎはじめた。

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彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮をぎはじめた。

皮の下に広がっているのは美しい黄色の脂肪だった。

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皮の下に広がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。

彼はその死体を眺めていた。

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彼はその死体を眺めてゐた。

それは彼にはある短篇を、――王朝時代に背景を求めたある短篇を仕上げるために必要だったに違いなかった。

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それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。

が、腐った杏の匂いに近い死体の臭気は不快だった。

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が、腐敗したあんずの匂に近い死体の臭気は不快だつた。

彼の友だちは眉間をひそめ、静かにメスを動かしていった。

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彼の友だちは眉間みけんをひそめ、静かにメスを動かして行つた。

「この頃は死体も足りなくてね。」

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「この頃は死体も不足してね。」

彼の友だちはこう言っていた。

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彼の友だちはかう言つてゐた。

すると彼はいつのまにか自分の答えを用意していた。――

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すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――

「おれは死体が足りなくなれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」

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おれは死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」

しかしもちろん彼の答えは心の中にあっただけだった。

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しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

十 先生

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十 先生

彼は大きい樫の木の下で先生の本を読んでいた。

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彼は大きいかしの木の下に先生の本を読んでゐた。

樫の木は秋の日の光の中で一枚の葉さえ動かさなかった。

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檞の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。

どこか遠い空中に、ガラスの皿を垂らした秤が一つ、ちょうど平衡を保っている。――

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どこか遠い空中に硝子の皿を垂れたはかりが一つ、丁度平衡を保つてゐる。――

彼は先生の本を読みながら、こういう光景を感じていた。……

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彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……

十一 夜明け

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十一 夜明け

夜は次第に明けていった。

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夜は次第に明けて行つた。

彼はいつのまにか、ある町の角で広い市場を見渡していた。

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彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。

市場に群がった人々や車は、どれも薔薇色に染まりはじめた。

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市場にむらがつた人々や車はいづれも薔薇ばら色に染まり出した。

彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んでいった。

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彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。

するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかった。

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するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。

が、彼は驚かなかった。

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が、彼は驚かなかつた。

そのうえ、その犬さえ愛していた。

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のみならずその犬さへ愛してゐた。

市場の真ん中にはすずかけの木が一本、四方へ枝を広げていた。

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市場のまん中には篠懸すずかけが一本、四方へ枝をひろげてゐた。

彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。

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彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。

空にはちょうど彼の真上に星が一つ輝いていた。

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空には丁度彼の真上に星が一つ輝いてゐた。

それは彼の二十五の年、――先生に会って三か月目だった。

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それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。

十二 軍港

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十二 軍港

潜航艇の内部は薄暗かった。

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潜航艇の内部は薄暗かつた。

彼は前後左右を覆った機械の中で腰をかがめ、小さなレンズをのぞいていた。

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彼は前後左右をおほつた機械の中に腰をかがめ、小さい目金めがねのぞいてゐた。

そのレンズに映っているのは明るい軍港の風景だった。

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その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。

「あそこに『金剛』も見えるでしょう。」

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「あすこに『金剛』も見えるでせう。」

ある海軍将校はこう彼に話しかけたりした。

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或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。

彼は四角いレンズの上に小さな軍艦を眺めながら、なぜかふとパセリを思い出した。

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彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと阿蘭陀芹オランダぜりを思ひ出した。

一人前三十銭のビーフステーキの上にもかすかに匂っているパセリを。

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一人前三十銭のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂つてゐる阿蘭陀芹を。

十三 先生の死

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十三 先生の死

彼は雨上がりの風の中で、ある新しい停車場のプラットフォームを歩いていた。

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彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。

空はまだ薄暗かった。

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空はまだ薄暗かつた。

プラットフォームの向こうでは鉄道工夫が三、四人、一斉につるはしを上下させながら、何か高い声で歌っていた。

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プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に鶴嘴つるはしを上下させながら、何か高い声にうたつてゐた。

雨上がりの風は工夫の歌や彼の感情を吹きちぎった。

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雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。

彼は巻煙草に火もつけずに、喜びに近い苦しみを感じていた。

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彼は巻煙草に火もつけずによろこびに近い苦しみを感じてゐた。

「センセイキトク」

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「センセイキトク」

の電報を外套のポケットへ押しこんだまま。……

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の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……

そこへ向こうの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙をなびかせながら、うねるようにこちらへ近づきはじめた。

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そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙をなびかせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

十四 結婚

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十四 結婚

彼は結婚した翌日に「来て早々、無駄遣いをしては困る」

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彼は結婚した翌日に「匇々そうそう無駄費ひをしては困る」

と彼の妻に小言を言った。

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と彼の妻に小言を言つた。

しかしそれは彼の小言よりも、彼の伯母の「言え」

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しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」

という小言だった。

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と云ふ小言だつた。

彼の妻は彼自身にはもちろん、彼の伯母にも詫びを言っていた。

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彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にもびを言つてゐた。

彼のために買ってきた黄水仙の鉢を前にしたまま。……

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彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……

十五 彼等

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十五 彼等

彼らは平和に生活した。

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彼等は平和に生活した。

大きい芭蕉の葉が広がったかげで。――

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大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――

彼らの家は東京から汽車でもたっぷり一時間かかる、ある海岸の町にあったから。

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彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。

十六 枕

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十六 枕

彼は薔薇の葉の匂いのする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでいた。

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彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。

が、いつのまにかその枕の中にも半身半馬の神がいることには気づかなかった。

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が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。

十七 蝶

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十七 蝶

藻の匂いが満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいていた。

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藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。

彼はほんの一瞬、乾いた彼の唇の上にこの蝶の翅が触れるのを感じた。

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彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶のつばさの触れるのを感じた。

が、彼の唇の上にいつのまにかなすっていった翅の粉だけは、数年後にもまだきらめいていた。

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が、彼の唇の上へいつかなすつて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。

十八 月

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十八 月

彼はあるホテルの階段の途中で偶然彼女に出会った。

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彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。

彼女の顔は、こういう昼間でも月の光の中にいるようだった。

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彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。

彼は彼女を見送りながら、(彼らは一面識もない間柄だった。)

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彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)

今まで知らなかった寂しさを感じた。……

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今まで知らなかつた寂しさを感じた。……

十九 人工の翼

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十九 人工の翼

彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちへ移っていった。

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彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。

が、ルッソオには近づかなかった。

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が、ルツソオには近づかなかつた。

それは、あるいは彼自身の一面、――情熱に駆られやすい一面がルッソオに近いためだったかも知れなかった。

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それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。

彼は彼自身のもう一つの一面、――冷ややかな理知に富んだ一面に近い「カンデイイド」

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彼は彼自身の他の一面、――ひややかな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」

の哲学者に近づいていった。

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の哲学者に近づいて行つた。

人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかった。

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人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。

が、ヴォルテエルはこういう彼に人工の翼を提供した。

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が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

彼はこの人工の翼をひろげ、やすやすと空へ舞い上がった。

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彼はこの人工の翼をひろげ、やすやすと空へ舞ひ上つた。

同時にまた、理知の光を浴びた人生の喜びや悲しみは彼の目の下へ沈んでいった。

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同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。

彼は見すぼらしい町々の上へ皮肉や微笑を落としながら、遮るもののない空中をまっすぐに太陽へ登っていった。

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彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、さへぎるもののない空中をまつすぐに太陽へ登つて行つた。

ちょうど、こういう人工の翼を太陽の光に焼かれたためにとうとう海へ落ちて死んだ、昔のギリシャ人も忘れたように。……

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丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘ギリシヤ人も忘れたやうに。……

二十 械

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二十 かせ

彼ら夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになった。

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彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。

それは彼がある新聞社に入社することになったためだった。

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それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。

彼は黄色い紙に書いた一枚の契約書を力にしていた。

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彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。

が、その契約書は後になって見ると、新聞社は何の義務も負わずに彼ばかりが義務を負うものだった。

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が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

二十一 狂人の娘

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二十一 狂人の娘

二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走っていった。

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二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。

その道が海に向かっていることは、潮風が来るのでも明らかだった。

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その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。

後の人力車に乗っていた彼は、少しもこのランデブーに興味がないことを不思議に思いながら、彼自身をここへ導いたものが何であるかを考えていた。

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後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。

それは決して恋愛ではなかった。

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それは決して恋愛ではなかつた。

もし恋愛でないとすれば、――彼はこの答えを避けるために「とにかく我々は対等だ」

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し恋愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける為に「かく我等は対等だ」

と考えないわけにはいかなかった。

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と考へないわけには行かなかつた。

前の人力車に乗っているのは、ある狂人の娘だった。

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前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。

そのうえ彼女の妹は嫉妬のために自殺していた。

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のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。

「もうどうにも仕方はない。」

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「もうどうにも仕かたはない。」

彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に、ある憎悪を感じていた。

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彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。

二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外を通りかかった。

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二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。

牡蠣殻のついた柴垣の中には石塔がいくつも黒ずんでいた。

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蠣殻かきがらのついた粗朶垣そだがきの中には石塔が幾つもくろずんでゐた。

彼はそれらの石塔の向こうにかすかに輝いた海を眺め、なぜか急に彼女の夫を――彼女の心を捉えていない彼女の夫を軽蔑しはじめた。……

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彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……

二十二 ある画家

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二十二 或画家

それはある雑誌の挿し絵だった。

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それは或雑誌のだつた。

が、一羽の雄鶏の墨絵は著しい個性を示していた。

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が、一羽の雄鶏の墨画すみゑは著しい個性を示してゐた。

彼はある友だちにこの画家のことを尋ねたりした。

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彼は或友だちにこの画家のことを尋ねたりした。

一週間ばかりたった後、この画家は彼を訪問した。

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一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。

それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だった。

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それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。

彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。

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彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。

そのうえ、彼自身も知らずにいた彼の魂を発見した。

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のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。

ある薄ら寒い秋の日の夕暮れ、彼は一本のとうもろこしに、たちまちこの画家を思い出した。

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或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍からきびたちまちこの画家を思ひ出した。

丈の高いとうもろこしは荒々しい葉をまとったまま、盛り土の上に神経のように細ぼそと根をあらわにしていた。

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丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神経のやうに細ぼそと根をあらはしてゐた。

それはまたもちろん、傷つきやすい彼の自画像にも違いなかった。

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それは又勿論きずつき易い彼の自画像にも違ひなかつた。

しかしこういう発見は彼を憂鬱にするだけだった。

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しかしかう云ふ発見は彼を憂欝にするだけだつた。

「もう遅い。しかしいざとなった時には……」

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「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」

二十三 彼女

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二十三 彼女

ある広場の前は暮れかかっていた。

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或広場の前は暮れかかつてゐた。

彼はやや熱のある体でこの広場を歩いていった。

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彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。

大きいビルディングは幾棟も、かすかに銀色に澄んだ空に窓々の電灯をきらめかせていた。

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大きいビルデイングは幾むねもかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。

彼は道ばたで足を止め、彼女が来るのを待つことにした。

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彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。

五分ばかりたった後、彼女はどこかやつれたように彼の方へ歩み寄った。

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五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。

が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」

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が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」

と言って微笑んだりした。

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と言つて頬笑んだりした。

彼らは肩を並べながら、薄明るい広場を歩いていった。

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彼等は肩を並べながら、薄明うすあかるい広場を歩いて行つた。

それは彼らには初めてのことだった。

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それは彼等には始めてだつた。

彼は彼女と一緒にいるためには何を捨ててもいい気持ちだった。

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彼は彼女と一しよにゐる為には何を捨ててもい気もちだつた。

彼らが自動車に乗った後、彼女はじっと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」

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彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」

と言った。

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と言つた。

彼はきっぱり「後悔しない」

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彼はきつぱり「後悔しない」

と答えた。

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と答へた。

彼女は彼の手を押さえ、「あたしは後悔しないけれども」

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彼女は彼の手をおさへ、「あたしは後悔しないけれども」

と言った。

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と言つた。

彼女の顔はこういう時にも月の光の中にいるようだった。

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彼女の顔はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

二十四 出産

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二十四 出産

彼は襖のそばに立ったまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤ん坊を洗うのを見下ろしていた。

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彼は襖側ふすまぎはたたずんだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。

赤ん坊は石鹸が目にしみるたびに、いじらしいしかめ顔を繰り返した。

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赤児は石鹸の目にしみる度にいぢらしいしかがほを繰り返した。

そのうえ高い声で泣き続けた。

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のみならず高い声にきつづけた。

彼は何か鼠の子に近い赤ん坊の匂いを感じながら、しみじみこう思わずにはいられなかった。――

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彼は何か鼠のに近い赤児の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――

「何のためにこいつも生まれてきたのだろう? この世の苦しみが満ち満ちた世界へ。――何のためにまた、こいつもおれのようなものを父にする運命を負わされたのだろう?」

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「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦しやばくの充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつもおれのやうなものを父にする運命をになつたのだらう?」

しかもそれは彼の妻が最初に産んだ男の子だった。

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しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

二十五 ストリントベリイ

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二十五 ストリントベリイ

彼は部屋の戸口に立ち、柘榴の花が咲いた月明かりの中で、薄汚い中国人が何人か麻雀をしているのを眺めていた。

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彼は部屋の戸口に立ち、柘榴ざくろの花のさいた月明りの中に薄汚い支那人が何人か、麻雀戯マアチアンをしてゐるのを眺めてゐた。

それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下で「痴人の告白」

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それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴人の告白」

を読みはじめた。

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を読みはじめた。

が、二ページも読まないうちに、いつのまにか苦笑を漏らしていた。――

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が、二ペエジも読まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐた。――

ストリントベリイもまた、恋人だった伯爵夫人へ送る手紙の中に、彼と大差のない嘘を書いている。……

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ストリントベリイも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のないうそを書いてゐる。……

二十六 古代

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二十六 古代

彩色の剥げた仏たちや天人や馬や蓮の花は、ほとんど彼を圧倒した。

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彩色のげた仏たちや天人や馬や蓮のはなは殆ど彼を圧倒した。

彼はそれらを見上げたまま、あらゆることを忘れていた。

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彼はそれ等を見上げたまま、あらゆることを忘れてゐた。

狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さえ。……

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狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さへ。……

二十七 スパルタ式訓練

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二十七 スパルタ式訓練

彼は友だちとある裏町を歩いていた。

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彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。

そこへ幌をかけた人力車が一台、まっすぐに向こうから近づいてきた。

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そこへほろをかけた人力車が一台、まつすぐに向うから近づいて来た。

しかもその上に乗っているのは、意外にも昨夜の彼女だった。

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しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。

彼女の顔はこういう昼間でも月の光の中にいるようだった。

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彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。

彼らは彼の友だちの手前、もちろん挨拶さえ交わさなかった。

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彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。

「美人ですね。」

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「美人ですね。」

彼の友だちはこんなことを言った。

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彼の友だちはこんなことを言つた。

彼は往来の突き当たりにある春の山を眺めたまま、少しもためらわずに返事をした。

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彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。

「ええ、なかなか美人ですね。」

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「ええ、中々美人ですね。」

二十八 殺人

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二十八 殺人

田舎道は日の光の中に牛の糞の臭気を漂わせていた。

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田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。

彼は汗を拭きながら、爪先上がりの道を登っていった。

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彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。

道の両側に熟した麦は香ばしい匂いを放っていた。

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道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。

「殺せ、殺せ。……」

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「殺せ、殺せ。……」

彼はいつのまにか口の中でこういう言葉を繰り返していた。

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彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。

誰を?――

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誰を?――

それは彼には明らかだった。

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それは彼には明らかだつた。

彼はいかにも卑屈らしい五分刈りの男を思い出していた。

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彼は如何いかにも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。

すると黄ばんだ麦の向こうに、ローマカトリック教の伽藍が一つ、いつのまにか丸屋根を現しはじめた。……

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すると黄ばんだ麦の向うに羅馬ロオマカトリツク教の伽藍がらん一宇いちう、いつの間にか円屋根まるやねを現し出した。……

二十九 形

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二十九 形

それは鉄の銚子だった。

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それは鉄の銚子だつた。

彼はこの糸目のついた銚子に、いつか「形」

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彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」

の美を教えられていた。

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の美を教へられてゐた。

三十 雨

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三十 雨

彼は大きいベッドの上で彼女といろいろの話をしていた。

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彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。

寝室の窓の外は雨降りだった。

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寝室の窓の外は雨ふりだつた。

浜木綿の花はこの雨の中でいつか腐っていくらしかった。

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浜木棉はまゆふの花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。

彼女の顔は相変わらず月の光の中にいるようだった。

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彼女の顔は不相変あひかはらず月の光の中にゐるやうだつた。

が、彼女と話していることは、彼には退屈でないこともなかった。

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が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。

彼は腹ばいになったまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一緒に日を過ごすのも七年になっていることを思い出した。

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彼は腹這はらばひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。

「おれはこの女を愛しているだろうか?」

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「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」

彼は彼自身にこう質問した。

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彼は彼自身にかう質問した。

この答えは、彼自身を見守り続けてきた彼自身にも意外だった。

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この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。

「おれはいまだに愛している。」

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「おれはいまだに愛してゐる。」

三十一 大地震

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三十一 大地震

それはどこか熟し切った杏の匂いに近いものだった。

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それはどこか熟し切つたあんずの匂に近いものだつた。

彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂いを感じ、炎天に腐った死骸の匂いも案外悪くないと思ったりした。

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彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。

が、死骸が重なり合った池の前に立ってみると、「酸鼻」

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が、死骸の重なりかさなつた池の前に立つて見ると、「酸鼻さんび

という言葉も感覚的に決して誇張ではないことを発見した。

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と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。

特に彼を動かしたのは十二、三歳の子供の死骸だった。

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殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。

彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。

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彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。

「神々に愛されるものは若くして死ぬ」

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「神々に愛せらるるものは夭折えうせつす」

――こういう言葉なども思い出した。

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――かう云ふ言葉なども思ひ出した。

彼の姉や異母弟はどちらも家を焼かれていた。

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彼の姉や異母弟はいづれも家を焼かれてゐた。

しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯したために執行猶予中の身だった。……

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しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯した為に執行猶予中の体だつた。……

「誰も彼も死んでしまえばいい。」

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「誰も彼も死んでしまへばい。」

彼は焼け跡に立ったまま、しみじみこう思わずにはいられなかった。

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彼は焼け跡にたたずんだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。

三十二 喧嘩

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三十二 喧嘩

彼は異母弟と取っ組み合いの喧嘩をした。

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彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。

彼の弟は彼のために圧迫を受けやすいのに違いなかった。

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彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。

同時にまた、彼も弟のために自由を失っているのに違いなかった。

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同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。

彼の親戚は彼の弟に「彼を見習え」

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彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣みならへ」

と言い続けていた。

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と言ひつづけてゐた。

しかしそれは彼自身には手足を縛られるのと同じことだった。

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しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。

彼らは取っ組み合ったまま、とうとう縁側の先へ転がっていった。

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彼等は取り組み合つたまま、とうとう縁先へころげて行つた。

縁先の庭にはさるすべりが一本、――彼はいまだに覚えている。――

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縁先の庭には百日紅さるすべりが一本、――彼は未だに覚えてゐる。――

雨を含んだ空の下に、赤く光る花を盛り上げていた。

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雨を持つた空の下に赤光りに花を盛り上げてゐた。

三十三 英雄

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三十三 英雄

彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げていた。

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彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。

氷河のかかった山の上には禿鷹の影さえ見えなかった。

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氷河の懸つた山の上には禿鷹はげたかの影さへ見えなかつた。

が、背の低いロシア人が一人、執拗に山道を登り続けていた。

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が、背の低い露西亜ロシア人が一人、執拗しつえうに山道を登りつづけてゐた。

ヴォルテエルの家も夜になった後、彼は明るいランプの下でこういう傾向詩を書いたりした。

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ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。

あの山道を登っていったロシア人の姿を思い出しながら。……

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あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……

――誰よりも十戒を守った君は

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――誰よりも十戒を守つた君は

誰よりも十戒を破った君だ。

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誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は

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誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

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誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上がった君は

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誰よりも理想に燃え上つた君は

誰よりも現実を知っていた君だ。

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誰よりも現実を知つてゐた君だ。

君は僕らの東洋が生んだ

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君は僕等の東洋が生んだ

草花の匂いのする電気機関車だ。――

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草花の匂のする電気機関車だ。――

三十四 色彩

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三十四 色彩

三十歳の彼はいつのまにかある空き地を愛していた。

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三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。

そこにはただ苔の生えた上に煉瓦や瓦の欠片などがいくつも散らかっているだけだった。

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そこには唯こけの生えた上に煉瓦や瓦の欠片かけらなどが幾つも散らかつてゐるだけだつた。

が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変わりはなかった。

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が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変りはなかつた。

彼はふと七、八年前の彼の情熱を思い出した。

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彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。

同時にまた、七、八年前の彼は色彩を知らなかったことを発見した。

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同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを発見した。

三十五 道化人形

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三十五 道化人形

彼はいつ死んでも悔いないように激しい生活をするつもりだった。

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彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。

が、相変わらず養父母や伯母に遠慮しがちな生活を続けていた。

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が、不相変あひかわらず養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。

それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。

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それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。

彼はある洋服屋の店に道化人形が立っているのを見て、どのくらい彼も道化人形に近いかということを考えたりした。

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彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。

が、意識の外の彼自身は、――言わば第二の彼自身は、とうにこういう気持ちをある短篇の中に盛りこんでいた。

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が、意識の外の彼自身は、――言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた。

三十六 倦怠

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三十六 倦怠

彼はある大学生とすすき原の中を歩いていた。

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彼は或大学生と芒原すすきはらの中を歩いてゐた。

「君たちはまだ生活欲を盛んに持っているだろうね?」

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「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」

「ええ、――だってあなたでも……」

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「ええ、――だつてあなたでも……」

「ところが僕は持っていないんだよ。制作欲だけは持っているけれども。」

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「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」

それは彼の本心だった。

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それは彼の真情だつた。

彼は実際いつのまにか生活に興味を失っていた。

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彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。

「制作欲もやっぱり生活欲でしょう。」

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「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」

彼は何とも答えなかった。

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彼は何とも答へなかつた。

すすき原はいつか赤い穂の上にはっきりと噴火山を現しはじめた。

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芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山をあらはし出した。

彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。

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彼はこの噴火山に何か羨望せんばうに近いものを感じた。

しかしそれは彼自身にも、なぜなのかわからなかった。……

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しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。……

三十七 越し人

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三十七 越し人

彼は、才能の上でも彼と格闘できる女に出会った。

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彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。

が、「越し人」

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が、「越し人」

などの抒情詩を作り、わずかにこの危機を脱出した。

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等の抒情詩を作り、わづかにこの危機を脱出した。

それは何か、木の幹に凍りついた輝かしい雪を落とすような、切ない気持ちのするものだった。

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それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

風に舞い上がったすげ笠が

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風に舞ひたるすげ笠の

どうして道に落ちずにいられよう

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何かは道に落ちざらん

わたしの名などどうして惜しもう

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わが名はいかで惜しむべき

惜しむのはあなたの名ばかりなのだ。

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惜しむは君が名のみとよ。

三十八 復讐

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三十八 復讐

それは木の芽に囲まれたあるホテルのテラスだった。

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それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。

彼はそこで絵を描きながら、一人の少年を遊ばせていた。

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彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。

七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。

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七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。

狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼らが遊ぶのを眺めていた。

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狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。

彼は重苦しい気持ちの中で汽車や飛行機を描き続けた。

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彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。

少年は幸いにも彼の子ではなかった。

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少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。

が、彼を「おじさん」

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が、彼を「をぢさん」

と呼ぶのは、彼には何よりも苦しかった。

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と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。

少年がどこかへ行った後、狂人の娘は巻煙草を吸いながら、媚びるように彼に話しかけた。

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少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、びるやうに彼に話しかけた。

「あの子はあなたに似ていやしない?」

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「あの子はあなたに似てゐやしない?」

「似ていません。第一……」

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「似てゐません。第一……」

「だって胎教ということもあるでしょう。」

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「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」

彼は黙って目をそらした。

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彼は黙つて目をらした。

が、彼の心の底には、こういう彼女を絞め殺したいという残虐な欲望さえないわけではなかった。……

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が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへないわけではなかつた。……

三十九 鏡

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三十九 鏡

彼はあるカフェの隅で彼の友だちと話していた。

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彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。

彼の友だちは焼き林檎を食べ、この頃の寒さの話などをした。

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彼の友だちは焼林檎やきりんごを食ひ、この頃の寒さの話などをした。

彼はこういう話の中に急に矛盾を感じはじめた。

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彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。

「君はまだ独身だったね。」

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「君はまだ独身だつたね。」

「いや、もう来月結婚する。」

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「いや、もう来月結婚する。」

彼は思わず黙ってしまった。

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彼は思はず黙つてしまつた。

カフェの壁に嵌めこんだ鏡は無数の彼自身を映していた。

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カツフエの壁にめこんだ鏡は無数の彼自身を映してゐた。

冷えびえと、何か脅かすように。……

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冷えびえと、何かおびやかすやうに。……

四十 問答

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四十 問答

なぜお前は現代の社会制度を攻撃するのか?

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なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?

資本主義の生んだ悪を見ているから。

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資本主義の生んだ悪を見てゐるから。

悪を?

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悪を?

おれはお前が善悪の差を認めていないと思っていた。

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 おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。

ではお前の生活は?

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ではお前の生活は?

――彼はこう天使と問答した。

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――彼はかう天使と問答した。

もっとも、誰にも恥じるところのないシルクハットをかぶった天使と。……

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もつとも誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……

四十一 病

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四十一 病

彼は不眠症に襲われはじめた。

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彼は不眠症に襲はれ出した。

そのうえ体力も衰えはじめた。

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のみならず体力も衰へはじめた。

何人かの医者は彼の病気にそれぞれ二、三の診断を下した。――

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何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――

胃酸過多、胃アトニー、乾性肋膜炎、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……

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胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎ろくまくえん、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……

しかし彼自身は彼の病気の源を承知していた。

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しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。

それは彼自身を恥じるとともに、彼らを恐れる気持ちだった。

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それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。

彼らを、――彼が軽蔑していた社会を!

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彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!

雪曇りに曇ったある午後、彼はあるカフェの隅で火のついた葉巻をくわえたまま、向こうの蓄音機から流れてくる音楽に耳を傾けていた。

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或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻をくはへたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。

それは彼の気持ちに妙にしみ渡る音楽だった。

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それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。

彼はその音楽が終わるのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄ってレコードの貼り札を調べることにした。

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彼はその音楽のをはるのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄つてレコオドの貼り札をしらべることにした。

Magic Flute――Mozart

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Magic Flute――Mozart

彼はとっさに了解した。

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彼は咄嗟とつさに了解した。

十戒を破ったモッツアルトも、やはり苦しんだのに違いなかった。

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十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。

しかしまさか彼のように、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼のテーブルへ帰っていった。

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しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子テエブルへ帰つて行つた。

四十二 神々の笑い声

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四十二 神々の笑ひ声

三十五歳の彼は春の日の当たった松林の中を歩いていた。

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三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。

二、三年前に彼自身が書いた「神々は不幸にも我々のように自殺できない」

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二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」

という言葉を思い出しながら。……

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と云ふ言葉を思ひ出しながら。……

四十三 夜

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四十三 夜

夜はもう一度迫ってきた。

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夜はもう一度迫り出した。

荒れ模様の海は薄明かりの中で絶えずしぶきを打ち上げていた。

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荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず水沫しぶきを打ち上げてゐた。

彼はこういう空の下で彼の妻と二度目の結婚をした。

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彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。

それは彼らには喜びだった。

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それは彼等にはよろこびだつた。

が、同時にまた苦しみだった。

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が、同時に又苦しみだつた。

三人の子は彼らと一緒に沖の稲妻を眺めていた。

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三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻を眺めてゐた。

彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらえているらしかった。

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彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。

「あそこに船が一つ見えるね?」

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「あすこに船が一つ見えるね?」

「ええ。」

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「ええ。」

「帆柱の二つに折れた船が。」

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ほばしらの二つに折れた船が。」

四十四 死

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四十四 死

彼はひとりで寝ているのを幸いに、窓格子に帯をかけて首を吊ろうとした。

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彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死いししようとした。

が、帯に首を入れてみると、にわかに死を恐れはじめた。

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が、帯にくびを入れて見ると、にはかに死を恐れ出した。

それは何も、死ぬ瞬間の苦しみのために恐れたのではなかった。

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それは何も死ぬ刹那せつなの苦しみの為に恐れたのではなかつた。

彼は二度目には懐中時計を持ち、試しに首を吊る時間を計ってみることにした。

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彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。

するとちょっと苦しかった後、何もかもぼんやりしはじめた。

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するとちよつと苦しかつた後、何ももぼんやりなりはじめた。

そこを一度通り越しさえすれば、死に入ってしまうのに違いなかった。

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そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。

彼は時計の針を調べ、彼が苦しみを感じたのは一分二十何秒かだったことを発見した。

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彼は時計の針をしらべ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。

窓格子の外は真っ暗だった。

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窓格子の外はまつ暗だつた。

しかしその闇の中に荒々しい鶏の声もしていた。

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しかしそのやみの中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。

四十五 Divan

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四十五 Divan

Divan はもう一度彼の心に新しい力を与えようとした。

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Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。

それは彼の知らずにいた「東洋的なゲエテ」

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それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」

だった。

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だつた。

彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立っているゲエテを見て、絶望に近い羨ましさを感じた。

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彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。

詩人ゲエテは彼の目には詩人キリストよりも偉大だった。

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詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。

この詩人の心には、アクロポリスやゴルゴタのほかにアラビアの薔薇さえ花を開いていた。

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この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。

もしこの詩人の足あとをたどる多少の力を持っていたら、――彼はディヴァンを読み終わり、恐ろしい感動が静まった後、しみじみと、生活的な宦官に生まれついた彼自身を軽蔑せずにはいられなかった。

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若しこの詩人の足あとを辿たどる多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを読みをはり、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦官くわんぐわんに生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。

四十六 嘘

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四十六 譃

彼の姉の夫の自殺は、にわかに彼を打ちのめした。

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彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。

彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかった。

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彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。

彼の将来は、少なくとも彼には日暮れのように薄暗かった。

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彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。

彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかっていた。)

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彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)

相変わらずいろいろの本を読み続けた。

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不相変いろいろの本を読みつづけた。

しかしルッソオの懺悔録さえ英雄的な嘘に満ち満ちていた。

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しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的なうそに充ち満ちてゐた。

特に「新生」

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殊に「新生」

に至っては、――彼は「新生」

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に至つては、――彼は「新生」

の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。

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の主人公ほど老獪らうくわいな偽善者に出会つたことはなかつた。

が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透った。

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が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみとほつた。

彼はいくつかの詩の中に「美しい牡」

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彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」

を発見した。

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を発見した。

絞首刑を待っているヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。

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絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。

彼は何度もヴィヨンのように人生のどん底に落ちようとした。

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彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。

が、彼の境遇や肉体的エネルギーがこういうことを許すはずはなかった。

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が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許すわけはなかつた。

彼はだんだん衰えていった。

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彼はだんだん衰へて行つた。

ちょうど昔スウィフトが見た、梢から枯れてくる立ち木のように。……

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丁度昔スウイフトの見た、木末こずゑから枯れて来る立ち木のやうに。……

四十七 火あそび

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四十七 火あそび

彼女は輝かしい顔をしていた。

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彼女はかがやかしい顔をしてゐた。

それはちょうど朝日の光が薄氷に差しているようだった。

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それは丁度朝日の光の薄氷うすらひにさしてゐるやうだつた。

彼は彼女に好意を持っていた。

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彼は彼女に好意を持つてゐた。

しかし恋愛は感じていなかった。

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しかし恋愛は感じてゐなかつた。

そのうえ、彼女の体には指一つ触れずにいたのだった。

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のみならず彼女の体には指一つさはらずにゐたのだつた。

「死にたがっていらっしゃるんですってね。」

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「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

「ええ。――いえ、死にたがっているよりも、生きることに飽きているのです。」

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「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることにきてゐるのです。」

彼らはこういう問答から一緒に死ぬことを約束した。

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彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

「プラトニック・スウイサイドですね。」

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「プラトニツク・スウイサイドですね。」

「ダブル・プラトニック・スウイサイド。」

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「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

彼は彼自身が落ち着いているのを不思議に思わずにはいられなかった。

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彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

四十八 死

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四十八 死

彼は彼女とは死ななかった。

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彼は彼女とは死ななかつた。

ただ、いまだに彼女の体に指一つ触れていないことは、彼には何か満足だった。

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唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。

彼女は何ごともなかったように時々彼と話したりした。

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彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。

そのうえ、彼に彼女の持っていた青酸カリを一瓶渡し、「これさえあればお互いに心強いでしょう」

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のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎ひとびん渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」

とも言ったりした。

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とも言つたりした。

それは実際彼の心を丈夫にしたのに違いなかった。

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それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。

彼はひとり籐椅子に座り、椎の若葉を眺めながら、たびたび、死が彼に与える平和を考えずにはいられなかった。

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彼はひとり籐椅子に坐り、しひの若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。

四十九 剥製の白鳥

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四十九 剥製の白鳥

彼は最後の力を尽くし、彼の自叙伝を書いてみようとした。

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彼は最後の力をつくし、彼の自叙伝を書いて見ようとした。

が、それは彼自身には案外容易にはできなかった。

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が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。

それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算がいまだに残っているためだった。

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それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。

彼はこういう彼自身を軽蔑せずにはいられなかった。

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彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。

しかしまた一面には「誰でも一皮剥いてみれば同じことだ」

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しかし又一面には「誰でも一皮いて見れば同じことだ」

とも思わずにはいられなかった。

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とも思はずにはゐられなかつた。

「詩と真実と」

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「詩と真実と」

という本の名前は、彼にはあらゆる自叙伝の名前のようにも考えられがちだった。

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と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。

そのうえ、文芸上の作品に必ずしも誰もが動かされるわけではないのは、彼にははっきりわかっていた。

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のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。

彼の作品が訴えるものは、彼に近い生涯を送った彼に近い人々のほかにあるはずはない。――

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彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――

こういう気持ちも彼には働いていた。

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かう云ふ気も彼には働いてゐた。

彼はそのために手短かに彼の「詩と真実と」

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彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」

を書いてみることにした。

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を書いて見ることにした。

彼は「或阿呆の一生」

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彼は「或阿呆の一生」

を書き上げた後、偶然ある古道具屋の店に剥製の白鳥があるのを見つけた。

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を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製はくせいの白鳥のあるのを見つけた。

それは首を上げて立っていたものの、黄ばんだ羽根さえ虫に食われていた。

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それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。

彼は彼の一生を思い、涙や冷笑がこみ上げるのを感じた。

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彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。

彼の前にあるものは、ただ発狂か自殺かだけだった。

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彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。

彼は日暮れの往来をたった一人歩きながら、ゆっくりと彼を滅ぼしに来る運命を待つことに決心した。

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彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、おもむろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

五十 とりこ

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五十 とりこ

彼の友だちの一人は発狂した。

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彼の友だちの一人は発狂した。

彼はこの友だちにいつもある親しみを感じていた。

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彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。

それは彼には、この友だちの孤独が、――軽快な仮面の下にある孤独が、人一倍身にしみてわかるためだった。

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それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。

彼はこの友だちが発狂した後、二、三度この友だちを訪問した。

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彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。

「君や僕は悪鬼に憑かれているんだね。世紀末の悪鬼というやつにねえ。」

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「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」

この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二、三日後にはある温泉宿へ出かける途中、薔薇の花さえ食っていたということだった。

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この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇ばらの花さへ食つてゐたと云ふことだつた。

彼はこの友だちが入院した後、いつか彼がこの友だちに贈ったテラコッタの半身像を思い出した。

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彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。

それはこの友だちの愛した「検察官」

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それはこの友だちの愛した「検察官」

の作者の半身像だった。

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の作者の半身像だつた。

彼はゴオゴリイも狂死したのを思い、何か彼らを支配している力を感じずにはいられなかった。

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彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。

彼はすっかり疲れ切ったあげく、ふとラディゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑い声を感じた。

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彼はすつかり疲れ切つた揚句あげく、ふとラデイゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑ひ声を感じた。

それは「神の兵卒たちはおれをつかまえに来る」

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それは「神の兵卒たちはおれをつかまへに来る」

という言葉だった。

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と云ふ言葉だつた。

彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘おうとした。

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彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘はうとした。

しかしどういう闘いも、肉体的に彼には不可能だった。

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しかしどう云ふ闘ひも肉体的に彼には不可能だつた。

「世紀末の悪鬼」

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「世紀末の悪鬼」

は実際彼を苛んでいるのに違いなかった。

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は実際彼をさいなんでゐるのに違ひなかつた。

彼は神を力にした中世の人々に羨ましさを感じた。

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彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。

しかし神を信じることは――神の愛を信じることは、到底彼にはできなかった。

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しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出来なかつた。

あのコクトオさえ信じた神を!

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あのコクトオさへ信じた神を!

五十一 敗北

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五十一 敗北

彼はペンを執る手も震えはじめた。

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彼はペンをる手も震へ出した。

そのうえ、よだれさえ流れ出した。

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のみならずよだれさへ流れ出した。

彼の頭は〇・八のヴェロナールを使って目が覚めた後のほかは、一度もはっきりしたことはなかった。

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彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。

しかもはっきりしているのは、やっと半時間か一時間だった。

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しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。

彼はただ薄暗い中にその日暮らしの生活をしていた。

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彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。

言わば、刃のこぼれてしまった細い剣を杖にしながら。

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言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。

(昭和二年六月、遺稿)

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(昭和二年六月、遺稿)