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芋粥

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1968

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

原文: 元慶ぐわんぎやうの末か、仁和にんなの始にあつた話であらう。
元慶の末か、仁和のはじめ頃の話だろう。
原文: どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。
どちらにしても、時代はこの話においてそれほど重要な役割を果たしていない。
原文: 読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――
読者はただ、平安朝という遠い昔が舞台になっているということさえ知っていてくれれば、それでいい。――
原文: その頃、摂政せつしやう藤原基経もとつねに仕へてゐるさむらひの中に、なにがしと云ふ五位があつた。
その頃、摂政・藤原基経に仕えている侍の中に、某(なにがし)という五位の者がいた。
原文: これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎あいにく旧記には、それが伝はつてゐない。
某と書かずに、きちんと姓名を明らかにしたいところだが、あいにく古い記録にはそれが伝わっていない。
原文: 恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。
おそらく実際のところ、伝わる値打ちもないほど平凡な男だったのだろう。
原文: 一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。
そもそも古い記録を書いた人たちというのは、平凡な人間や話にはあまり興味を持たなかったらしい。
原文: この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。
この点で、彼らと日本の自然主義の作家たちとは、かなり違う。
原文: 王朝時代の小説家は、存外、閑人ひまじんでない。――
王朝時代の小説家は、意外と暇人ではない。――
原文: 兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
とにかく、摂政・藤原基経に仕えている侍の中に、某という五位がいた。
原文: これが、この話の主人公である。
これがこの話の主人公である。
原文: 五位は、風采のはなはだあがらない男であつた。
五位は、見た目がひどく冴えない男だった。
原文: 第一背が低い。
まず背が低い。
原文: それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。
それから赤鼻で、目尻が下がっている。
原文: 口髭は勿論薄い。
口髭はもちろん薄い。
原文: 頬が、こけてゐるから、あごが、人並はづれて、細く見える。
頬がこけているので、あごが人並み外れて細く見える。
原文: 唇は――一々、数へ立ててゐれば、際限はない。
唇は――一つ一つ数え上げていればきりがない。
原文: 我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。
我らが五位の外見は、それほど並外れてだらしなく出来上がっていたのだ。
原文: この男が、何時いつ、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。
この男がいつ、どうして基経に仕えるようになったのか、それは誰も知らない。
原文: が、余程以前から、同じやうな色のめた水干すゐかんに、同じやうな萎々なえなえした烏帽子ゑぼしをかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。
ただ、かなり前から、同じように色あせた水干に、同じようなくたびれた烏帽子をかぶって、同じような役目を飽きもせず毎日繰り返していることだけは確かだ。
原文: その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。
その結果だろうか、今では誰が見ても、この男に若い頃があったとは思えない。
原文: (五位は四十を越してゐた。)
(五位は四十を過ぎていた。)
原文: その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路すざくおほぢ衢風ちまたかぜに、吹かせてゐたと云ふ気がする。
そのかわり、生まれた時からあの寒そうな赤鼻と、形ばかりの口髭を、朱雀大路の辻の風に吹かせていたという気がする。
原文: かみは主人の基経から、しもは牛飼の童児まで、無意識ながら、ことごとくさう信じて疑ふ者がない。
上は主人の基経から、下は牛飼いの童まで、無意識のうちに誰もがそう信じて疑わない。
原文: かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。
こういう外見を持った男が周囲からどんな扱いを受けるか、おそらく書くまでもないことだろう。
原文: 侍所さぶらひどころにゐる連中は、五位に対して、殆どはへ程の注意も払はない。
侍所にいる連中は、五位に対して、ほとんどハエほどの注意も払わない。
原文: 有位うゐ無位むゐ、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。
位のある者もない者も合わせて二十人近い下役でさえ、彼の出入りには不思議なほど冷淡を極めていた。
原文: 五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。
五位が何か命じても、彼らが仲間同士の雑談をやめたことは一度もない。
原文: 彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、眼をさへぎらないのであらう。
彼らにとって、空気の存在が見えないように、五位の存在も目に入らないのだろう。
原文: 下役でさへさうだとすれば、別当とか、侍所のつかさとか云ふ上役たちが頭から彼を相手にしないのは、むしろ自然のすうである。
下役でさえそうなのだから、別当とか侍所の司とかいう上役たちが最初から彼を相手にしないのは、むしろ当然の成り行きだ。
原文: 彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。
彼らは五位に対するとき、ほとんど子供っぽくて意味のない悪意を、冷ややかな表情の裏に隠して、何を言うにも手まねだけで用を済ませた。
原文: 人間に、言語があるのは、偶然ではない。
人間に言葉があるのは、偶然ではない。
原文: 従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。
だから彼らも、手まねでは用が足りないことが時々ある。
原文: が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つてゐるらしい。
ところが彼らはそれを、完全に五位の理解力に欠陥があるせいだと思っているらしい。
原文: そこで彼等は用が足りないと、この男の歪んだもみ烏帽子の先から、切れかかつた藁草履わらざうりの尻まで、万遍なく見上げたり、見下したりして、それから、鼻でわらひながら、急に後を向いてしまふ。
そこで用が足りないと、この男の歪んだ揉み烏帽子の先から切れかけた草履の後まで、くまなく見上げたり見下したりして、それから鼻で笑いながら急に後ろを向いてしまう。
原文: それでも、五位は、腹を立てた事がない。
それでも五位は、腹を立てたことがない。
原文: 彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だつたのである。
彼はあらゆる不正を、不正として感じないほど、意気地がなく臆病な人間だったのだ。
原文: 所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄ほんろうしようとした。
ところが同僚の侍たちになると、進んで彼をもてあそぼうとした。
原文: 年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落しやれを聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂いはゆる興言利口きようげんりこうの練習をしようとしたからである。
年上の同僚が彼の冴えない外見を材料に古い冗談を聞かせようとするように、年下の同僚もそれを機会に、いわゆる軽口や洒落の練習をしようとしたからだ。
原文: 彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲ひんしつして飽きる事を知らなかつた。
彼らはこの五位の前で、その鼻と口髭と烏帽子と水干を品評して飽きることを知らなかった。
原文: そればかりではない。
それだけではない。
原文: 彼が五六年前に別れたうけくちの女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、しばしば彼等の話題になつた。
彼が五、六年前に別れた出っ唇の女房と、その女房と関係があったという酒飲みの法師のことも、しばしば彼らの話題になった。
原文: その上、どうかすると、彼等ははなはだ性質たちの悪い悪戯いたづらさへする。
おまけに、どうかすると彼らはひどくたちの悪いいたずらまでする。
原文: それを今一々、列記する事は出来ない。
それを今ここで一つ一つ列挙することはできない。
原文: が、彼の篠枝ささえの酒を飲んで、あと尿いばりを入れて置いたと云ふ事を書けば、その外はおよそ、想像される事だらうと思ふ。
ただ、彼の篠枝の酒を飲んで、後に小便を入れておいたという話を書けば、それ以外のことはだいたい想像がつくと思う。
原文: しかし、五位はこれらの揶揄やゆに対して、全然無感覚であつた。
しかし五位は、これらのからかいに対して、まったく無感覚だった。
原文: 少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。
少なくとも傍目には、無感覚であるように見えた。
原文: 彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。
彼は何を言われても、顔色一つ変えたことがない。
原文: 黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。
黙って例の薄い口髭を撫でながら、すべきことをしてすましている。
原文: 唯、同僚の悪戯が、かうじすぎて、まげに紙切れをつけたり、太刀たちさやに草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」
ただ、同僚のいたずらが度を越して、髪の結い目に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑うのか泣くのかわからないような笑顔をして、「いけませんぞ、あなたたちは。」
原文: と云ふ。
と言う。
原文: その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。
その顔を見てその声を聞いた者は、誰でも一瞬、なんともいじらしい気持ちに打たれてしまう。
原文: (彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――
(いじめられているのは、一人、この赤鼻の五位だけではない――彼らの知らない誰かが、多くの誰かが、彼の顔と声を借りて、彼らの薄情さを責めている。)――
原文: さう云ふ気が、おぼろげながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。
そんな気が、おぼろげながら彼らの心に一瞬しみ込んでくるからだ。
原文: 唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。
ただ、その時の気持ちをいつまでも持ち続ける者は、ごく少ない。
原文: その少い中の一人に、或無位の侍があつた。
その少ない一人に、ある無位の侍がいた。
原文: これは丹波たんばの国から来た男で、まだ柔かい口髭が、やつと鼻の下に、生えかかつた位の青年である。
これは丹波の国から来た男で、まだやわらかい口髭がやっと鼻の下に生えかけている程度の青年だ。
原文: 勿論、この男も始めは皆と一しよに、何の理由もなく、赤鼻の五位を軽蔑けいべつした。
もちろんこの男も最初はみんなと一緒に、何の理由もなく赤鼻の五位を軽蔑した。
原文: 所が、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」
ところが、ある日何かの折に「いけませんぞ、あなたたちは」
原文: と云ふ声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。
という声を聞いてからは、どうしてもそれが頭を離れない。
原文: それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。
それ以来、この男の目にだけは、五位がまったく別人として映るようになった。
原文: 栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」
栄養が足りず血色が悪く、間の抜けた五位の顔にも、世間の仕打ちに泣きそうになった「人間」
原文: が覗いてゐるからである。
がのぞいているからだ。
原文: この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さをあらはすやうに思はれた。
この無位の侍には、五位のことを考えるたびに、世の中のすべてが急に本来の下等さをさらけ出すように思えた。
原文: さうしてそれと同時に霜げた赤鼻と数へる程の口髭とが何となく一味いちみの慰安を自分の心に伝へてくれるやうに思はれた。……
そして同時に、しもやけのような赤鼻と、数えるほどしかない口髭とが、なんとなく一種の慰めを自分の心に伝えてくれるように思えた……
原文: しかし、それは、唯この男一人に、限つた事である。
しかしそれは、ただこの男一人に限ったことだ。
原文: かう云ふ例外を除けば、五位は、依然として周囲の軽蔑の中に、犬のやうな生活を続けて行かなければならなかつた。
こういう例外を除けば、五位は相変わらず、周囲の軽蔑の中で犬のような生活を続けていかなければならなかった。
原文: 第一彼には着物らしい着物が一つもない。
まず彼には、まともな着物が一枚もない。
原文: 青鈍あをにびの水干と、同じ色の指貫さしぬきとが一つづつあるのが、今ではそれが上白うはじろんで、あゐとも紺とも、つかないやうな色に、なつてゐる。
青鈍(あおにび)の水干と同じ色の指貫が一枚ずつあるだけで、今ではそれが色あせて、藍とも紺ともつかない色になっている。
原文: 水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴きくとぢの色が怪しくなつてゐるだけだが、指貫になると、裾のあたりのいたみ方が一通りでない。
水干はそれでも肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴の色がおかしくなっているだけだが、指貫となると裾あたりのいたみ方が普通ではない。
原文: その指貫の中から、下の袴もはかない、細い足が出てゐるのを見ると、口の悪い同僚でなくとも、痩公卿の車をいてゐる、痩牛の歩みを見るやうな、みすぼらしい心もちがする。
その指貫の中から、下の袴もはかない細い足が出ているのを見ると、口の悪い同僚でなくても、やせた公卿の車を引いているやせ牛の歩みを見るような、みすぼらしい気持ちがする。
原文: それにいてゐる太刀も、頗る覚束おぼつかない物で、つかの金具も如何いかがはしければ、黒鞘の塗も剥げかかつてゐる。
それに差している太刀もひどく頼りない代物で、柄の金具も怪しければ、黒鞘の塗りも剥げかかっている。
原文: これが例の赤鼻で、だらしなく草履をひきずりながら、唯でさへ猫背なのを、一層寒空の下に背ぐくまつて、もの欲しさうに、左右を眺め眺め、きざみ足に歩くのだから、通りがかりの物売りまで莫迦ばかにするのも、無理はない。
これが例の赤鼻で、だらしなく草履を引きずりながら、ただでさえ猫背なのをさらに寒空の下に背を丸めて、もの欲しそうに左右を眺め眺め、小刻みな歩みで歩くのだから、通りがかりの物売りにまでばかにされるのも無理はない。
原文: 現に、かう云ふ事さへあつた。……
実際、こんなことさえあった……
原文: 或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。
ある日、五位が三条坊門から神泉苑の方へ向かっていると、子供が六、七人、道ばたに集まって何かしているのを見た。
原文: 「こまつぶり」
「こまつぶり」
原文: でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処どこかから迷つて来た、尨犬むくいぬの首へ繩をつけて、打つたりたたいたりしてゐるのであつた。
でも回しているのかと思って後ろから覗いてみると、どこかから迷い込んできた毛並みの長い犬の首に縄をつけて、打ったりたたいたりしていた。
原文: 臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。
臆病な五位は、これまで何かに同情することがあっても、周りの目を気にして、一度もそれを行動に表したことがない。
原文: が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。
ただこの時だけは、相手が子供だということで、いくらか勇気が出た。
原文: そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」
そこでできるだけ笑顔を作りながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、許してやりなさい。犬も打たれれば痛いのだよ」
原文: と声をかけた。
と声をかけた。
原文: すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、さげすむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。
すると、その子供はふり返りながら、上目をつかって蔑むようにじろじろ五位の姿を見た。
原文: 云はば侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。
たとえば侍所の別当が、用が通じない時にこの男を見るような顔をして、見たのだ。
原文: 「いらぬ世話はやかれたうもない。」
「よけいなお世話は焼いてもらいたくない。」
原文: その子供は一足下りながら、高慢な唇を反らせて、かう云つた。
その子供は一歩下がりながら、高慢な唇をそらせてこう言った。
原文: 「何ぢや、この鼻赤めが。」
「何だ、この赤っぱなめが。」
原文: 五位はこのことばが自分の顔を打つたやうに感じた。
五位はこの言葉が自分の顔を打ったように感じた。
原文: が、それは悪態をつかれて、腹が立つたからでは毛頭ない。
しかしそれは、悪口を言われて腹が立ったからでは毛頭ない。
原文: 云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。
言わなくていいことを言って恥をかいた自分が、情けなくなったからだ。
原文: 彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。
彼はきまりの悪さを苦しそうな笑顔に隠しながら、黙ってまた神泉苑の方へ歩き出した。
原文: 後では、子供が、六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」
後ろでは子供が六、七人、肩を寄せて「べっかっこう」
原文: をしたり、舌を出したりしてゐる。
をしたり舌を出したりしている。
原文: 勿論彼はそんな事を知らない。
もちろん彼はそんなことを知らない。
原文: 知つてゐたにしても、それが、この意気地のない五位にとつて、何であらう。……
知っていたとしても、それがこの意気地のない五位にとって何だというのだろう……
原文: では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。
では、この話の主人公は、ただ軽蔑されるためだけに生まれてきた人間で、別に何の望みも持っていないのかというと、そうでもない。
原文: 五位は五六年前から芋粥いもがゆと云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。
五位は五、六年前から芋粥というものに、異常な執着を持っている。
原文: 芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛あまづらの汁で煮た、粥の事を云ふのである。
芋粥とは山芋を切り込んで、甘葛(あまづら)の汁で煮た粥のことだ。
原文: 当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗ばんじようの君の食膳にさへ、上せられた。
当時はこれが、この上ない美食として、上は天子のお膳にさえのぼせられた。
原文: 従つて、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。
だから、我らが五位のような人間の口に入るのは、年に一度、臨時の客の折にしかない。
原文: その時でさへ、飲めるのは僅にのどうるほすに足る程の少量である。
その時でさえ、飲めるのはわずかに喉を潤すほどの少量だ。
原文: そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。
そこで芋粥をお腹いっぱい飲んでみたいということが、ずっと以前から彼の唯一の望みになっていた。
原文: 勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。
もちろん彼は、それを誰にも話したことがない。
原文: いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる欲望だとは、明白に意識しなかつた事であらう。
いや、彼自身でさえそれが自分の一生を貫く望みだとは、はっきりと意識したことがなかっただろう。
原文: が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支さしつかへない程であつた。――
しかし事実は、それのために生きていると言っても差し支えないほどだった。――
原文: 人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。
人間はときとして、叶うかどうかわからない望みのために、一生を捧げてしまう。
原文: その愚をわらふ者は、畢竟ひつきやう、人生に対する路傍の人に過ぎない。
その愚かさを笑う者は、結局のところ、人生に対する傍観者に過ぎない。
原文: しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」
しかし五位が夢見ていた「芋粥に飽きるほど食べたい」
原文: 事は、存外容易に事実となつて現れた。
ということは、意外にも簡単に現実のものとなって現れた。
原文: その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。
その一部始終を書こうというのが、この芋粥の話の目的だ。
原文: ―――――――――――――――――
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原文: 或年の正月二日、基経のだいに、所謂いはゆる臨時の客があつた時の事である。
ある年の正月二日に、基経の邸で、いわゆる臨時の客が催された時のことだ。
原文: (臨時の客は二宮にぐう大饗だいきやうと同日に摂政関白家が、大臣以下の上達部かんだちめを招いて催す饗宴で、大饗と別に変りがない。)
(臨時の客は、二宮の大饗と同じ日に摂政関白家が大臣以下の上達部を招いて催す饗宴で、大饗と特に変わりはない。)
原文: 五位も、外の侍たちにまじつて、その残肴ざんかう相伴しやうばんをした。
五位も他の侍たちに交じって、その残り物のおこぼれに与った。
原文: 当時はまだ、取食とりばみの習慣がなくて、残肴は、その家の侍が一堂に集まつて、食ふ事になつてゐたからである。
当時はまだ、食事を持ち帰る習慣がなく、残り物はその家の侍が一堂に集まって食べることになっていたからだ。
原文: もつとも、大饗に等しいと云つても昔の事だから、品数の多い割りに碌な物はない、餅、伏菟ふと蒸鮑むしあはび干鳥ほしどり、宇治の氷魚ひを近江あふみふな、鯛の楚割すはやり、鮭の内子こごもり焼蛸やきだこ大海老おほえび大柑子おほかうじ、小柑子、橘、串柿などのたぐひである。
もっとも、大饗に等しいとはいっても昔のことだから、品数が多い割にたいしたものはなく、餅、伏菟(ふと)、蒸し鮑、干し鳥、宇治の稚魚、近江の鮒、鯛の薄切り、鮭の卵、焼きタコ、大きなエビ、大きな蜜柑、小さな蜜柑、橘、串柿などの類だ。
原文: 唯、その中に、例の芋粥があつた。
ただ、その中に例の芋粥があった。
原文: 五位は毎年、この芋粥を楽しみにしてゐる。
五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。
原文: が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。
ところがいつも人数が多いので、自分が飲めるのはわずかしかない。
原文: それが今年は、特に、少かつた。
それが今年は特に少なかった。
原文: さうして気のせゐか、何時もより、余程味が好い。
そして気のせいか、いつもより余程味がいい。
原文: そこで、彼は飲んでしまつた後の椀をしげしげと眺めながら、うすい口髭についてゐるしづくを、掌で拭いて誰に云ふともなく、「何時になつたら、これに飽ける事かのう」
そこで彼は飲み終わった椀をじっくり眺めながら、薄い口髭についている滴を手のひらで拭いて、誰に言うともなく「いつになったら、これに飽きることができるのだろうか」
原文: と、かう云つた。
とこう言った。
原文: 「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな。」
「大夫殿は、芋粥に飽きたことがないそうで。」
原文: 五位のことばをはらない中に、誰かが、嘲笑あざわらつた。
五位の言葉が終わらないうちに、誰かが嘲り笑った。
原文: さびのある、鷹揚おうやうな、武人らしい声である。
渋みのある、おおらかな、武人らしい声だ。
原文: 五位は、猫背の首を挙げて、臆病らしく、その人の方を見た。
五位は猫背の首を上げて、臆病そうにその人の方を見た。
原文: 声の主は、その頃同じ基経の恪勤かくごんになつてゐた、民部卿時長の子藤原利仁としひとである。
声の主は、その頃同じく基経の直属になっていた、民部卿時長の子・藤原利仁だ。
原文: 肩幅の広い、身長みのたけの群を抜いたたくましい大男で、これは、煠栗ゆでぐりを噛みながら、黒酒くろきさかづきを重ねてゐた。
肩幅が広く、身長が群を抜いた逞しい大男で、これはゆで栗を噛みながら黒酒の杯を重ねていた。
原文: もう大分酔がまはつてゐるらしい。
もうかなり酔いが回っているらしい。
原文: 「お気の毒な事ぢやの。」
「お気の毒なことで。」
原文: 利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫れんびんとを一つにしたやうな声で、語を継いだ。
利仁は、五位が顔を上げたのを見ると、軽蔑と憐れみを一つにしたような声で話を続けた。
原文: 「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう。」
「お望みなら、利仁がお腹いっぱい召し上がらせましょう。」
原文: 始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。
いつもいじめられている犬は、たまに肉をもらっても、なかなか近寄らない。
原文: 五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、からの椀とを等分に見比べてゐた。
五位は、笑うのか泣くのかわからないような例の笑顔をして、利仁の顔と空になった椀とを交互に見比べていた。
原文: 「おいやかな。」
「嫌でございますか。」
原文: 「……」
「……」
原文: 「どうぢや。」
「どうでしょう。」
原文: 「……」
「……」
原文: 五位は、その中に、衆人の視線が、自分の上に、集まつてゐるのを感じ出した。
五位は、そのうちに、大勢の視線が自分の上に集まっているのを感じ始めた。
原文: 答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。
返事の仕方一つで、また一同の嘲弄を受けなければならない。
原文: 或は、どう答へても、結局、莫迦ばかにされさうな気さへする。
あるいは、どう答えても結局ばかにされそうな気さえする。
原文: 彼は躊躇ちうちよした。
彼は躊躇した。
原文: もし、その時に、相手が、少し面倒臭そうな声で、「おいやなら、たつてとは申すまい」
もしその時、相手が少し面倒くさそうな声で「嫌なら、無理にとは申しません」
原文: と云はなかつたなら、五位は、何時いつまでも、椀と利仁とを、見比べてゐた事であらう。
と言わなかったなら、五位はいつまでも椀と利仁とを見比べていたことだろう。
原文: 彼は、それを聞くと、あわただしく答へた。
彼はそれを聞くと、あわてて答えた。
原文: 「いや……かたじけなうござる。」
「いや……ありがとうございます。」
原文: この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。
このやりとりを聞いていた者は、皆いっせいに失笑した。
原文: 「いや……忝うござる。」
「いや……ありがとうございます。」
原文: ――かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。
――こう言って、五位の答えを真似する者さえいる。
原文: 所謂、橙黄橘紅とうくわうきつこうを盛つた窪坏くぼつきや高坏の上に多くのもみ烏帽子やたて烏帽子が、笑声と共に一しきり、波のやうに動いた。
いわゆる橙や蜜柑を盛った窪坏(くぼつき)や高坏の上で、多くの揉み烏帽子や立て烏帽子が、笑い声と共にしばらく波のように動いた。
原文: 中でも、もつとも、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。
中でも最も大きな声で、機嫌よく笑ったのは、利仁自身だ。
原文: 「では、その中に、御誘ひ申さう。」
「では、そのうちにお誘い申しましょう。」
原文: さう云ひながら、彼は、ちよいと顔をしかめた。
そう言いながら、彼はちょっと顔をしかめた。
原文: こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。
こみ上げてくる笑いと今飲んだ酒とが、喉で一つになったからだ。
原文: 「……しかと、よろしいな。」
「……確かに、よろしいな。」
原文: 「忝うござる。」
「ありがとうございます。」
原文: 五位は赤くなつて、どもりながら、又、前の答を繰返した。
五位は赤くなって、どもりながら、また前の答えを繰り返した。
原文: 一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。
一同が今度も笑ったのは言うまでもない。
原文: それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層可笑をかしさうに広い肩をゆすつて、哄笑こうせうした。
それを言わせたくて、わざわざ念を押した当の利仁に至っては、前よりもいっそうおかしそうに広い肩を揺すって、大笑いした。
原文: この朔北さくほくの野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。
この北国育ちの荒武者は、生きる方法を二つしか知らない。
原文: 一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。
一つは酒を飲むことで、もう一つは笑うことだ。
原文: しかしさいはひに談話の中心は、程なく、この二人を離れてしまつた。
しかし幸いにして、話の中心はほどなく、この二人を離れた。
原文: これは事によると、外の連中が、たとひ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だつたからかも知れない。
これはもしかすると、他の連中が、たとえ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが不快だったからかもしれない。
原文: 兎に角、談柄だんぺいはそれからそれへと移つて、酒もさかな残少のこりずくなになつた時分には、なにがしと云ふ侍学生がくしやうが、行縢むかばきの片皮へ、両足を入れて馬に乗らうとした話が、一座の興味を集めてゐた。
とにかく話題はあちらこちらへと移って、酒も肴も残り少なくなった頃には、某という侍学生が、行縢(むかばき)の片皮に両足を入れて馬に乗ろうとした話が、一座の興味を集めていた。
原文: が、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。
しかし五位だけは、まるで他の話が聞こえていないようだ。
原文: 恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。
おそらく「芋粥」の二文字が彼のすべての思考を支配しているからだろう。
原文: 前に雉子きぎすいたのがあつても、箸をつけない。
目の前に雉子の焼き物があっても、箸をつけない。
原文: 黒酒の杯があつても、口を触れない。
黒酒の杯があっても、口をつけない。
原文: 彼は、唯、両手を膝の上に置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつたびんの辺まで、初心うぶらしく上気しながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。……
彼はただ、両手を膝の上に置いて、見合いをする娘のように、霜に染まりかけた鬢のあたりまで初々しく上気しながら、いつまでも空になった黒塗りの椀を見つめて、うっとりと微笑んでいるのだ……
原文: ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――
原文: それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口あはたぐちへ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。
それから四、五日たった日の午前、加茂川の河原に沿って粟田口へ通じる街道を、静かに馬を進めてゆく二人の男がいた。
原文: 一人は濃いはなだ狩衣かりぎぬに同じ色の袴をして、打出うちでの太刀をいた「鬚黒くびんぐきよき」
一人は濃い縹(はなだ)色の狩衣に同じ色の袴をはいて、打ち出しの太刀を差した「鬚が黒く鬢際がはっきりした」
原文: 男である。
男だ。
原文: もう一人は、みすぼらしい青鈍あをにびの水干に、薄綿のきぬを二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子ようすと云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、はなにぬれてゐる容子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事おびただしい。
もう一人は、みすぼらしい青鈍の水干に、薄い綿入れの衣を二枚ほど重ねて着た、四十がらみの侍で、帯の結び方のだらしない様子といい、赤鼻でしかも穴のあたりが鼻水で濡れている様子といい、身の周り万端みすぼらしいことこの上ない。
原文: 尤も、馬は二人とも、前のは月毛つきげ、後のは蘆毛あしげの三歳駒で、道をゆく物売りや侍も、振向いて見る程の駿足である。
もっとも、馬は二人とも、前は月毛、後は蘆毛の三歳の若駒で、道を行く物売りや侍も振り向いて見るほどの名馬だ。
原文: その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとしていて行くのは、調度掛と舎人とねりとに相違ない。――
その後ろからさらに二人、馬の歩みに遅れまいとしてついていくのは、調度掛と舎人に違いない。――
原文: これが、利仁と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であらう。
これが利仁と五位の一行であることは、わざわざここで断るまでもないことだろう。
原文: 冬とは云ひながら、物静に晴れた日で、白けた河原の石の間、潺湲せんくわんたる水のほとりに立枯れてゐるよもぎの葉を、ゆする程の風もない。
冬とはいいながら、穏やかに晴れた日で、白くなった河原の石の間、さらさらと流れる水のほとりに枯れ立っているヨモギの葉を揺らす程の風もない。
原文: 川に臨んだ背の低い柳は、葉のない枝にあめの如く滑かな日の光りをうけて、こずゑにゐる鶺鴒せきれいの尾を動かすのさへ、鮮かに、それと、影を街道に落してゐる。
川沿いの背の低い柳は、葉のない枝に飴のように滑らかな日の光を受けて、梢にいるセキレイが尾を動かすのさえ、くっきりとその影を街道に落としている。
原文: 東山の暗い緑の上に、霜に焦げた天鵞絨びろうどのやうな肩を、丸々と出してゐるのは、大方、比叡ひえいの山であらう。
東山の暗い緑の上に、霜に焦げたビロードのような丸い肩を出しているのは、おそらく比叡山だろう。
原文: 二人はその中にくら螺鈿らでんを、まばゆく日にきらめかせながら鞭をも加へず悠々と、粟田口を指して行くのである。
二人はその中で、鞍の螺鈿をまぶしく日に輝かせながら、鞭も加えず悠々と粟田口を目指して行くのだ。
原文: 「どこでござるかな、手前をつれて行つて、やらうと仰せられるのは。」
「どこでございますか、私をお連れになるのは。」
原文: 五位が馴れない手に手綱をかいくりながら、云つた。
五位が慣れない手で手綱を繰りながら、言った。
原文: 「すぐ、そこぢや。お案じになる程遠くはない。」
「すぐそこだ。心配されるほど遠くはない。」
原文: 「すると、粟田口辺でござるかな。」
「すると、粟田口あたりでございますか。」
原文: 「まづ、さう思はれたがよろしからう。」
「まあ、そう思われたらいいだろう。」
原文: 利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。
利仁は今朝五位を誘うのに、東山の近くに温泉の湧いている所があるから、そこへ行こうと言って出てきたのだ。
原文: 赤鼻の五位は、それをにうけた。
赤鼻の五位はそれを真に受けた。
原文: 久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむづがゆい。
長い間湯に入っていないので、体中がこの間から何となくかゆい。
原文: 芋粥の馳走になつた上に、入湯が出来れば、願つてもない仕合せである。
芋粥のご馳走になった上に、入浴もできるなら、これ以上ない幸せだ。
原文: かう思つて、あらかじめ利仁が牽かせて来た、蘆毛の馬にまたがつた。
そう思って、前もって利仁が引かせてきた蘆毛の馬にまたがった。
原文: 所が、くつわを並べて此処まで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。
ところが、馬を並べてここまで来てみると、どうも利仁はこの近くへ来るつもりではないらしい。
原文: 現に、さうかうしてゐる中に、粟田口は通りすぎた。
実際、そうこうしているうちに、粟田口を通り過ぎた。
原文: 「粟田口では、ござらぬのう。」
「粟田口ではないのですな。」
原文: 「いかにも、もそつと、あなたでな。」
「いかにも、もう少し先でな。」
原文: 利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。
利仁は微笑を含みながら、わざと五位の顔を見ないようにして、静かに馬を歩ませている。
原文: 両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさるからすが見えるばかり、山の陰に消残つて、雪の色もほのかに青く煙つてゐる。
両側の人家は次第に少なくなって、今は広々とした冬の田の上に、餌をあさるカラスが見えるばかり、山の陰に消え残った雪の色がかすかに青く霞んでいる。
原文: 晴れながら、とげとげしいはじの梢が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。
晴れてはいるが、とがったハゼの梢が目に刺さるように空を突いているのさえ、なんとなく肌寒い。
原文: 「では、山科やましな辺ででもござるかな。」
「では、山科あたりでございますか。」
原文: 「山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。」
「山科はここだ。もう少し先でございますよ。」
原文: 成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。
なるほど、そう言っているうちに山科も通り過ぎた。
原文: それ所ではない。
それどころではない。
原文: 何かとする中に、関山も後にして、彼是かれこれひる少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。
いつの間にか関山も後にして、あれこれするうちに昼を少し過ぎた頃には、とうとう三井寺の前まで来た。
原文: 三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。
三井寺には、利仁の親しくしている僧がいる。
原文: 二人はその僧を訪ねて、午餐ひるげの馳走になつた。
二人はその僧を訪ねて、昼食のご馳走になった。
原文: それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。
それが済むと、また馬に乗って道を急ぐ。
原文: 行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。
行く手は今まで来た道に比べると、はるかに人の気配が少ない。
原文: 殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――
特に当時は盗賊があちこちに横行している、物騒な時代だ。――
原文: 五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。
五位は猫背をいっそう低くしながら、利仁の顔を見上げるようにして尋ねた。
原文: 「まだ、さきでござるのう。」
「まだ先でございますか。」
原文: 利仁は微笑した。
利仁は微笑した。
原文: 悪戯いたづらをして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。
いたずらをして、それを見つけられそうになった子供が、年長者に対するような微笑だ。
原文: 鼻の先へよせたしわと、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。
鼻の先に寄せたしわと、目尻に溜めた筋肉の緩みとが、笑ってしまおうか、やめようかとためらっているようだ。
原文: さうして、とうとう、かう云つた。
そしてとうとう、こう言った。
原文: 「実はな、敦賀つるがまで、お連れ申さうと思うたのぢや。」
「実はな、敦賀までお連れしようと思っていたのだ。」
原文: 笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。
笑いながら、利仁は鞭を挙げて遠い空を指さした。
原文: その鞭の下には、的皪てきれきとして、午後の日を受けた近江あふみの湖が光つてゐる。
その鞭の下には、きらきらと輝いて、午後の日を受けた近江の湖が光っている。
原文: 五位は、狼狽らうばいした。
五位は、狼狽した。
原文: 「敦賀と申すと、あの越前ゑちぜんの敦賀でござるかな。あの越前の――」
「敦賀と申しますと、あの越前の敦賀でございますか。あの越前の――」
原文: 利仁が、敦賀の人、藤原有仁ありひと女婿ぢよせいになつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。
利仁が敦賀の人・藤原有仁の婿になってから、多くは敦賀に住んでいるということも、日頃から聞いていないわけではない。
原文: が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。
しかし、その敦賀まで自分を連れていく気だとは、今の今まで思わなかった。
原文: 第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人ともびとをつれただけで、どうして無事に行かれよう。
まず、いくつもの山や川を隔てた越前の国へ、この通りわずか二人の供だけを連れて、どうして無事に行かれようか。
原文: ましてこの頃は、往来ゆききの旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふうはささへ、諸方にある。――
それに近頃は、旅人が盗賊に殺されたという噂さえ各地にある。――
原文: 五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。
五位は嘆願するように、利仁の顔を見た。
原文: 「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。」
「それはまた、とんでもない、東山だと思えば山科、山科だと思えば三井寺、あげくの果てが越前の敦賀とは、一体どういうことでございます。最初からそうおっしゃっていただければ、下人どもなりと連れてきたものを。――敦賀とは、とんでもない。」
原文: 五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、つぶやいた。
五位は、ほとんど泣きそうになりながら、つぶやいた。
原文: もし「芋粥に飽かむ」
もし「芋粥に飽きたい」
原文: 事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
ということが彼の勇気を奮い立たせなかったなら、彼はおそらくそこで別れて京都へ一人で帰ってきていただろう。
原文: 「利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。」
「利仁一人いれば、千人と思ってください。道中の心配は無用でございます。」
原文: 五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉をしかめながら、嘲笑あざわらつた。
五位が狼狽するのを見ると、利仁は少し眉をひそめながら、嘲り笑った。
原文: さうして調度掛を呼寄せて、持たせて来た壺胡籙つぼやなぐひを背に負ふと、やはり、その手から、黒漆こくしつ真弓まゆみをうけ取つて、それを鞍上に横へながら、先に立つて、馬を進めた。
そして調度掛を呼び寄せて、持たせてきた壺矢箙(つぼやなぐい)を背に負うと、やはりその手から黒漆の真弓を受け取って、それを馬の鞍の上に横にしながら、先に立って馬を進めた。
原文: かうなる以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲従するより外に仕方がない。
こうなった以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲目的に従うほかに仕方がない。
原文: それで、彼は心細さうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観音経くわんおんぎやうを口の中に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるやうにして、覚束ない馬の歩みを、不相変あひかはらずとぼとぼと進めて行つた。
そこで彼は、心細そうに荒涼とした周囲の野を眺めながら、うろ覚えの観音経を口の中で唱え唱え、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるようにして、頼りない馬の歩みをいつもどおりとぼとぼと進めていった。
原文: 馬蹄の反響する野は、茫々たる黄茅くわうばうおほはれて、その所々にある行潦みづたまりも、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、何時かそれなり凍つてしまふかと疑はれる。
馬の蹄が響く野は、広々とした枯れ草に覆われて、あちこちにある水たまりも、冷たく青空を映したまま、この冬の午後をそのままいつか凍ってしまうかと思われる。
原文: そのはてには、一帯の山脈が、日に背いてゐるせゐか、かがやく可き残雪の光もなく、紫がかつた暗い色を、長々となすつてゐるが、それさへ蕭条せうでうたる幾叢いくむら枯薄かれすすきさへぎられて、二人の従者の眼には、はいらない事が多い。――
その果てには、一帯の山並みが日に背いているせいか、輝くはずの残雪の光もなく、紫がかった暗い色を長々と塗りつけているが、それさえ寂しげな枯れ薄に遮られて、二人の従者の目には入らないことが多い。――
原文: すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。
すると利仁が、突然五位の方を振り返って声をかけた。
原文: 「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」
「あそこに、よい使者が参った。敦賀への言伝を申そう。」
原文: 五位は利仁の云ふ意味が、よくわからないので、怖々こはごはながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。
五位は利仁の言う意味がよくわからないので、おそるおそるその弓で指さす方を眺めてみた。
原文: 元より人の姿が見えるやうな所ではない。
もとより人の姿が見えるような所ではない。
原文: 唯、野葡萄のぶだうか何かのつるが、灌木の一むらにからみついてゐる中を、一疋の狐が、暖かな毛の色を、傾きかけた日にさらしながら、のそりのそり歩いて行く。――
ただ、野ブドウか何かの蔓が灌木の一群に絡みついている中を、一匹の狐が、暖かな毛の色を傾きかけた日にさらしながら、のそりのそり歩いていく。――
原文: と思ふ中に、狐は、あわただしく身を跳らせて、一散に、どこともなく走り出した。
と思う間に、狐は慌ただしく身を躍らせて、一散にどこともなく走り出した。
原文: 利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。
利仁が急に鞭を鳴らして、その方へ馬を飛ばし始めたからだ。
原文: 五位も、われを忘れて、利仁の後を、つた。
五位も、われを忘れて利仁の後を追った。
原文: 従者も勿論、遅れてはゐられない。
従者ももちろん、遅れてはいられない。
原文: しばらくは、石を蹴る馬蹄の音が、戞々かつかつとして、曠野の静けさを破つてゐたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、何時、捕へたのか、もう狐の後足をつかんで、さかさまに、鞍の側へ、ぶら下げてゐる。
しばらくは石を蹴る馬の蹄の音がかつかつと、野の静けさを破っていたが、やがて利仁が馬を止めたのを見ると、いつ捕まえたのか、もう狐の後足を掴んで逆さまに鞍の側へぶら下げている。
原文: 狐が、走れなくなるまで、追ひつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであらう。
狐が走れなくなるまで追い詰めたところで、馬の下に敷いて手づかみにしたものだろう。
原文: 五位は、うすい髭にたまる汗を、慌しく拭きながら、やうやく、その傍へ馬を乗りつけた。
五位は、薄い髭にたまる汗を慌ただしく拭きながら、やっとその傍へ馬を乗りつけた。
原文: 「これ、狐、よう聞けよ。」
「こら、狐、よく聞けよ。」
原文: 利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。
利仁は狐を高く目の前へつるし上げながら、わざと大げさな声を出してこう言った。
原文: 「其方、今夜の中に、敦賀の利仁がやかたへ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今にはかに客人を具して下らうとする所ぢや。明日、巳時みのとき頃、高島の辺まで、男たちを迎ひにつかはし、それに、鞍置馬二疋、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」
「おまえ、今夜のうちに敦賀の利仁の館へ行って、こう申せ。『利仁は今すぐ急に客人を連れて下ろうとしているところだ。明日、巳の刻頃、高島あたりまで、男たちを迎えに遣わし、それに鞍置き馬を二匹引かせて参れ。』いいか、忘れるなよ。」
原文: 云ひをはると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くのくさむらの中へ、はふり出した。
言い終わると同時に、利仁はひと振り振って狐を遠くの草むらの中へ投げ出した。
原文: 「いや、走るわ。走るわ。」
「いや、走る走る。」
原文: やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手をつてはやし立てた。
やっと追いついた二人の従者は、逃げていく狐の行方を眺めながら、手を打ってはやし立てた。
原文: 落葉のやうな色をしたその獣の背は、夕日の中を、まつしぐらに、木の根石くれの嫌ひなく、何処までも、走つて行く。
枯れ葉のような色をしたその獣の背は、夕日の中をまっしぐらに、木の根も石もかまわず、どこまでも走っていく。
原文: それが一行の立つてゐる所から、手にとるやうによく見えた。
それが一行の立っているところから、手に取るようによく見えた。
原文: 狐を追つてゐる中に、何時か彼等は、曠野がゆるい斜面を作つて、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出てゐたからである。
狐を追っているうちに、いつの間にか彼らは、野が緩い斜面を作って水の涸れた川床と一つになる、ちょうどその上の所へ出ていたからだ。
原文: 広量くわうりやうの御使でござるのう。」
「豪快な使者でございますな。」
原文: 五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使いしする野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。
五位は、素直な尊敬と称賛を漏らしながら、この狐さえ使いにする野育ちの武人の顔を、改めて仰いで見た。
原文: 自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。
自分と利仁との間にどれほどの差があるか、そんなことを考える暇もない。
原文: 唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――
ただ、利仁の意志が支配する範囲が広いだけに、その意志の中に包まれた自分の意志も、それだけ自由が利くようになった気がして、心強く感じるだけだ。――
原文: 阿諛あゆは、恐らく、かう云ふ時に、もつとも自然に生れて来るものであらう。
へつらいというものは、おそらくこういう時に最も自然に生まれてくるものだろう。
原文: 読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間ほうかんのやうな何物かを見出しても、それだけでみだりにこの男の人格を、疑ふ可きではない。
読者は今後、赤鼻の五位の態度に、太鼓持ちのような何かを見出しても、それだけでむやみにこの男の人格を疑うべきではない。
原文: 抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。
投げ出された狐は、緩やかな斜面を転げるように駆け下ると、水のない川床の石の間を器用に、ひょいひょいと飛び越えて、今度は向こうの斜面へ勢いよく斜めに駆け上った。
原文: 駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。
駆け上がりながら振り返って見ると、自分を手づかみにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立っている。
原文: それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。
それが皆、指を揃えたほどに小さく見えた。
原文: 殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
特に、入り日を浴びた月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくっきりと浮き上がっている。
原文: 狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。
狐は頭をめぐらすと、また枯れ薄の中を風のように走り出した。
原文: ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――
原文: 一行は、予定通り翌日の巳時みのときばかりに、高島の辺へ来た。
一行は予定通り、翌日の巳の刻頃に高島あたりへ着いた。
原文: 此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇つた空の下に、幾戸の藁屋わらやが、まばらにちらばつてゐるばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色の漣漪さざなみをよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けてゐる。――
ここは琵琶湖に面した小さな集落で、昨日と違ってどんよりと曇った空の下に、何戸かの藁屋根の家が疎らに散らばっているばかり、岸に生えた松の木の間には、灰色の小波を寄せる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のように、寒々と広がっている。――
原文: 此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。
ここまで来ると利仁が、五位を振り返って言った。
原文: 「あれを御覧ごらうじろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」
「あれをご覧なさい。男たちが迎えに来たようですぞ。」
原文: 見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩かちのもあり、皆水干の袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。
見ると、なるほど、二匹の鞍置き馬を引いた二、三十人の男たちが、馬に乗った者もあり徒歩の者もあり、みな水干の袖を寒風になびかせて、湖の岸、松の間を一行の方へ急いでくる。
原文: やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つてゐた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に蹲踞そんきよして、いづれも恭々しく、利仁の来るのを、待ちうけた。
やがてこれが近くなったと思うと、馬に乗っていた連中は慌ただしく馬を下り、徒歩の連中は道端にしゃがんで、いずれも恭しく利仁のくるのを待ち受けた。
原文: 「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」
「やはり、あの狐が使者を務めたと見えますな。」
原文: 生得しやうとく変化へんげある獣ぢやて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ。」
「もともと、化ける力を持った獣だから、あのくらいの用を務めるのは何でもないことだ。」
原文: 五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、郎等らうどうたちの待つてゐる所へ来た。
五位と利仁がこんな話をしているうちに、一行は郎等たちの待っているところへ来た。
原文: 「大儀ぢや。」
「ご苦労だった。」
原文: と、利仁が声をかける。
と利仁が声をかける。
原文: 蹲踞してゐた連中が、忙しく立つて、二人の馬の口を取る。
しゃがんでいた連中が、急いで立って二人の馬の口を取る。
原文: 急に、すべてが陽気になつた。
急に、すべてが賑やかになった。
原文: 「夜前、稀有けうな事が、ございましてな。」
「昨夜、珍しいことがございましてな。」
原文: 二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、檜皮色ひはだいろの水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、かう云つた。
二人が馬から下りて敷き皮の上に腰を下ろすやいなや、檜皮色の水干を着た白髪の郎等が利仁の前に来て、こう言った。
原文: 「何ぢや。」
「何だ。」
原文: 利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝ささえ破籠わりごを、五位にも勧めながら、鷹揚おうやうに問ひかけた。
利仁は、郎等たちが持ってきた篠枝の酒や破籠(わりご)を五位にも勧めながら、おおらかに問いかけた。
原文: 「さればでございまする。夜前、戌時いぬのときばかりに、奥方がにはかに、人心地ひとごこちをお失ひなされましてな。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝ことづてせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有おつしやるのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意ぎよい遊ばすのでございまする。」
「それがでございます。昨夜、戌の刻頃に、奥方が急に気を失われましてな。『おれは坂本の狐だ。今日、殿から言いつかったことを伝えるから、近くに寄ってよく聞け。』と、こうおっしゃるのでございます。そこで一同がお前に参りますと、奥方のおっしゃるには、『殿は今すぐ急に客人を連れて下ろうとしているところだ。明日の巳の刻頃、高島あたりまで男どもを迎えに遣わし、それに鞍置き馬を二匹引かせて参れ。』と、こうおっしゃるのでございます。」
原文: 「それは、又、稀有けうな事でござるのう。」
「それは、また、珍しいことでございますな。」
原文: 五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌あひづちを打つた。
五位は利仁の顔と郎等の顔とを仔細らしく見比べながら、両方に満足を与えるような相槌を打った。
原文: 「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」
「それだけではございません。いかにも恐ろしそうにわなわなとお震えになりましてな、『遅れるなよ。遅れれば、おれが殿のお怒りを受けなければならぬ。』と、引っきりなしにお泣きになるのでございます。」
原文: 「して、それから、如何いかがした。」
「それから、その後はどうした。」
原文: 「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」
「それから、ぐっすりとお休みになりましてな。私どもが出てまいります時にも、まだお目覚めにはなっていないようでございました。」
原文: 「如何でござるな。」
「いかがでございますか。」
原文: 郎等の話を聞きをはると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。
郎等の話を聞き終わると、利仁は五位を見て得意そうに言った。
原文: 「利仁には、けものも使はれ申すわ。」
「利仁には、獣まで使われますわ。」
原文: 「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」
「何とも驚くほかはございませんな。」
原文: 五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。
五位は赤鼻を掻きながら、ちょっと頭を下げて、それからわざとらしく呆れたように口を開いて見せた。
原文: 口髭には、今飲んだ酒が、しづくになつて、くつついてゐる。
口髭には、今飲んだ酒が滴になってくっついている。
原文: ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――
原文: その日の夜の事である。
その日の夜のことだ。
原文: 五位は、利仁のやかた一間ひとまに、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、あかしてゐた。
五位は利仁の館の一室で、行灯の火をともなく眺めながら、寝つけない長い夜をじっと明かしていた。
原文: すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。
すると、夕方ここへ着くまでに、利仁や利仁の従者と談笑しながら越えてきた松山、小川、枯れ野、あるいは草、木の葉、石、野火の煙の匂い――そういったものが一つずつ五位の心に浮かんできた。
原文: 殊に、雀色時すずめいろどきもやの中を、やつと、この館へ辿たどりついて、長櫃ながびつに起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。
特に、夕暮れの靄の中をやっとこの館へたどり着いて、長びつに起こしてある炭火の赤い炎を見た時の、ほっとした気持ち――それも今こうして横になっていると、遠い昔にあったこととしか思えない。
原文: 五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂ひたたれの下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。
五位は綿が四、五センチも入った黄色い直垂の下に、楽々と足をのばしながら、ぼんやりと自分の寝姿を見回した。
原文: 直垂の下に利仁が貸してくれた、練色ねりいろきぬ綿厚わたあつなのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。
直垂の下に利仁が貸してくれた、練色の衣の綿の厚いものを二枚まで重ねて着込んでいる。
原文: それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。
それだけでも、どうかすると汗が出かねないほど暖かい。
原文: そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。
そこへ夕飯の時に一杯やった酒の酔いが手伝っている。
原文: 枕元のしとみ一つ隔てた向うは、霜の冴えた広庭だが、それも、かう陶然としてゐれば、少しも苦にならない。
枕元の雨戸一枚隔てた向こうは霜の冷えた広い庭だが、それもこうして心地よくなっていれば少しも気にならない。
原文: 万事が、京都の自分の曹司ざうしにゐた時と比べれば、雲泥の相違である。
何もかもが、京都の自分の部屋にいた時と比べれば雲泥の差だ。
原文: が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。
しかし、それにもかかわらず、我らが五位の心には、なんとなく釣り合いの取れない不安があった。
原文: 第一、時間のたつて行くのが、待遠い。
まず、時間の経つのが待ち遠しい。
原文: しかもそれと同時に、夜の明けると云ふ事が、――芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。
しかも同時に、夜が明けるということが――芋粥を食べる時になるということが、そう早く来てはならないような気もする。
原文: さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。
そしてまた、この矛盾した二つの気持ちが互いにせめぎ合った後には、境遇の急激な変化から来る落ち着かない気分が、今日の天気のようにほんのり寒く控えている。
原文: それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。
それが皆、邪魔になって、折角の暖かさも、なかなか眠りを誘いそうもない。
原文: すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。
すると、外の広庭で誰かが大きな声を出しているのが、耳に入った。
原文: 声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の郎等が何かれてゐるらしい。
声の調子からして、どうも今日、途中まで迎えに出た白髪の郎等が何か触れ回っているらしい。
原文: そのからびた声が、霜に響くせゐか、凛々りんりんとしてこがらしのやうに、一語づつ五位の骨に、応へるやうな気さへする。
その乾いた声が、霜に響くせいか、凛々として木枯らしのように一語ずつ五位の骨に響くような気さえする。
原文: 「この辺の下人、承はれ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、卯時うのときまでに、切口三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各おのおの、一筋づつ、持つて参る様にとある。忘れまいぞ、卯時までにぢや。」
「このあたりの下人よ、聞け。殿のご命令があるぞ。明朝、卯の刻までに、切り口三寸、長さ五尺の山の芋を、それぞれ一本ずつ持って参るようにとのことだ。忘れるなよ、卯の刻までにだぞ。」
原文: それが、二三度、繰返されたかと思ふと、やがて、人のけはひが止んで、あたりはたちまち元のやうに、静な冬の夜になつた。
それが二、三度繰り返されたかと思うと、やがて人の気配が止んで、あたりはたちまち元のように静かな冬の夜になった。
原文: その静な中に、切燈台の油が鳴る。
その静かな中に、行灯の油が鳴る。
原文: 赤い真綿のやうな火が、ゆらゆらする。
赤い真綿のような火が、ゆらゆらする。
原文: 五位は欠伸あくびを一つ、噛みつぶして、又、とりとめのない、思量にふけり出した。――
五位は欠伸を一つ噛みつぶして、また取りとめのない物思いにふけり出した。――
原文: 山の芋と云ふからには、勿論芋粥にする気で、持つて来させるのに相違ない。
山の芋というからには、もちろん芋粥にするつもりで持ってこさせるに違いない。
原文: さう思ふと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れてゐた、さつきの不安が、何時の間にか、心に帰つて来る。
そう思うと、一時、外のことに注意を集中したおかげで忘れていた、さっきの不安が、いつの間にか心に戻ってくる。
原文: 殊に、前よりも、一層強くなつたのは、あまり早く芋粥にありつきたくないと云ふ心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離れない。
特に前よりもいっそう強くなったのは、あまり早く芋粥にありつきたくないという気持ちで、それが意地悪く、物思いの中心を離れない。
原文: どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」
どうもこう簡単に「芋粥に飽きたい」
原文: 事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。
ということが現実のものとなっては、折角今まで何年となく辛抱して待っていたのが、いかにも無駄な苦労のように見えてしまう。
原文: 出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――
できることなら、突然何か障りが起きて、一旦芋粥が飲めなくなってから、またその障りがなくなって、今度はやっとこれにありつけるという、そんな段取りで万事を運ばせたい。――
原文: こんな考へが、「こまつぶり」
こんな考えが「こまつぶり」
原文: のやうに、ぐるぐる一つ所を廻つてゐる中に、何時か、五位は、旅の疲れで、ぐつすり、熟睡してしまつた。
のようにぐるぐる同じ所を回っているうちに、いつか五位は旅の疲れでぐっすりと熟睡してしまった。
原文: 翌朝、眼がさめると、すぐに、昨夜の山の芋の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋のしとみをあげて見た。
翌朝、目が覚めると、すぐに昨夜の山の芋の一件が気になるので、五位は何よりも先に部屋の雨戸を上げてみた。
原文: すると、知らない中に、寝すごして、もう卯時うのときをすぎてゐたのであらう。
すると、気づかぬうちに寝過ごして、もう卯の刻を過ぎていたのだろう。
原文: 広庭へ敷いた、四五枚の長筵ながむしろの上には、丸太のやうな物が、およそ、二三千本、斜につき出した、檜皮葺ひはだぶきの軒先へつかへる程、山のやうに、積んである。
広庭に敷いた四、五枚の長むしろの上には、丸太のような物が、およそ二、三千本、斜めに突き出した檜皮葺の軒先まで届くほど山のように積んである。
原文: 見るとそれが、悉く、切口三寸、長さ五尺の途方もなく大きい、山の芋であつた。
見るとそれが悉く、切り口三寸、長さ五尺のとてつもなく大きな山の芋だった。
原文: 五位は、寝起きの眼をこすりながら、殆ど周章に近い驚愕きやうがくに襲はれて、呆然ばうぜんと、周囲を見廻した。
五位は、寝起きの目をこすりながら、ほとんど仰天に近い驚きに襲われて、呆然と周囲を見回した。
原文: 広庭の所々には、新しく打つたらしい杭の上に五斛納釜ごくなふがまを五つ六つ、かけ連ねて、白い布のあをを着た若い下司女げすをんなが、何十人となく、そのまはりに動いてゐる。
広庭の所々には、新しく打ったらしい杭の上に五斛入りの大釜を五つ六つかけ連ねて、白い布の上着を着た若い女たちが、何十人となくそのまわりに動いている。
原文: 火を焚きつけるもの、灰を掻くもの、或は、新しい白木のをけに、「あまづらみせん」
火をたきつける者、灰を掻く者、あるいは新しい白木の桶に甘葛の汁を汲んで釜の中へ入れる者、
原文: を汲んで釜の中へ入れるもの、皆芋粥をつくる準備で、眼のまはる程忙しい。
みな芋粥を作る準備で、目が回るほど忙しい。
原文: 釜の下から上る煙と、釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残つてゐる明方の靄と一つになつて、広庭一面、はつきり物も見定められない程、灰色のものがめた中で、赤いのは、烈々と燃え上る釜の下の焔ばかり、眼に見るもの、耳に聞くもの悉く、戦場か火事場へでも行つたやうな騒ぎである。
釜の下から上がる煙と釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残っている夜明けの靄と一つになって、広庭一面、はっきり物も見定められないほど灰色のものが立ち込めた中で、赤いのは激しく燃え上がる釜の下の炎ばかり、目に見るもの耳に聞くもの悉く、まるで戦場か火事場にでも行ったような騒ぎだ。
原文: 五位は、今更のやうに、この巨大な山の芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考へた。
五位は今さらのように、この巨大な山の芋が、この巨大な大釜の中で芋粥になることを考えた。
原文: さうして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。
そして自分がその芋粥を食べるために、京都からわざわざ越前の敦賀まで旅をしてきたことを考えた。
原文: 考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。
考えれば考えるほど、何一つ情けなくならないものはない。
原文: 我五位の同情すべき食慾は、実に、此時もう、一半を減却げんきやくしてしまつたのである。
我らが五位の哀れな食欲は、実にこの時すでに、半分以上が失せてしまったのだ。
原文: それから、一時間の後、五位は利仁やしうと有仁ありひとと共に、朝飯の膳に向つた。
それから一時間後、五位は利仁と舅の有仁とともに、朝食の膳に向かった。
原文: 前にあるのは、しろがねひさげの一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。
目の前にあるのは、銀の提子(ひさげ)の一斗ほど入るものになみなみと海のようにたたえた、恐るべき芋粥だ。
原文: 五位はさつき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄刃を器用に動かしながら、片端から削るやうに、勢よく切るのを見た。
五位はさっき、あの軒まで積み上げた山の芋を、何十人かの若い男が薄い刃を器用に動かしながら、片端から削るように勢いよく切るのを見た。
原文: それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に馳せちがつて、一つのこらず、五斛納釜へすくつては入れ、すくつては入れするのを見た。
それからそれを、あの女たちが右往左往に走り回って、一つ残らず大釜へすくっては入れ、すくっては入れするのを見た。
原文: 最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛あまづらのにほひとを含んだ、幾道いくだうかの湯気の柱が、蓬々然ほうほうぜんとして、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。
最後に、その山の芋が一つも長むしろの上に見えなくなった時に、芋の匂いと甘葛の匂いとを含んだいくすじかの湯気の柱が、もうもうとして釜の中から晴れた朝の空へ舞い上がっていくのを見た。
原文: これを、のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。――
これを目の当たりに見た彼が、今、提子に入れた芋粥に向かった時、まだ口をつけないうちから、すでに満腹を感じたのは、おそらく無理のないことだろう。――
原文: 五位は、提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。
五位は提子を前にして、きまり悪そうに額の汗を拭いた。
原文: 「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」
「芋粥に飽きたことがないとのこと。どうぞ遠慮なく召し上がってください。」
原文: 舅の有仁は、童児たちに云ひつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。
舅の有仁は、童に命じてさらにいくつかの銀の提子を膳の上に並べさせた。
原文: 中にはどれも芋粥が、あふれんばかりにはいつてゐる。
中にはどれも芋粥があふれんばかりに入っている。
原文: 五位は眼をつぶつて、唯でさへ赤い鼻を、一層赤くしながら、提に半分ばかりの芋粥を大きな土器かはらけにすくつて、いやいやながら飲み干した。
五位は目をつぶって、ただでさえ赤い鼻をいっそう赤くしながら、提子に半分ほどの芋粥を大きな土器(かわらけ)にすくって、いやいやながら飲み干した。
原文: 「父も、さう申すぢやて。ひらに、遠慮は御無用ぢや。」
「父もそう申しているのだから。どうか遠慮はしないでくれ。」
原文: 利仁も側から、新な提をすすめて、意地悪く笑ひながらこんな事を云ふ。
利仁も傍から新しい提子を勧めて、意地悪く笑いながらこんなことを言う。
原文: 弱つたのは五位である。
困ったのは五位だ。
原文: 遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。
遠慮のないところを言えば、最初から芋粥は一椀も飲みたくない。
原文: それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。
それを今、我慢して、やっと提子に半分だけ平らげた。
原文: これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。
これ以上飲めば、喉を越さないうちに戻してしまう。さりとて飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも同じだ。
原文: そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。
そこで彼はまた目をつぶって、残りの半分を三分の一ほど飲み干した。
原文: もう後は一口も吸ひやうがない。
もう後は一口も吸いようがない。
原文: 「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござつた。」
「何とも、ありがとうございました。もう十分いただきました。――いやはや、何ともありがとうございました。」
原文: 五位は、しどろもどろになつて、かう云つた。
五位は、しどろもどろになってこう言った。
原文: 余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。
よほど参っているとみえて、口髭にも鼻の先にも、冬とは思えないほど汗が玉になって垂れている。
原文: 「これは又、御少食ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る。」
「これはまた、お食べが少ない。客人は遠慮をされていると見えるぞ。そこそこ、その方どもは何をしておる。」
原文: 童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、土器かはらけに汲まうとする。
童たちは、有仁の言葉につれて、新しい提子の中から芋粥を土器(かわらけ)に汲もうとする。
原文: 五位は、両手を蠅でも逐ふやうに動かして、平に、辞退の意を示した。
五位は、両手をハエでも追うように動かして、平にお断りの意を示した。
原文: 「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。」
「いや、もう十分でございます。……失礼ながら、十分でございます。」
原文: もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、「あれを御覧ごらうじろ」
もしこの時、利仁が突然向こうの家の軒を指して「あれをご覧なさい」
原文: と云はなかつたなら、有仁はなほ、五位に、芋粥をすすめて、止まなかつたかも知れない。
と言わなかったなら、有仁はなおも五位に芋粥を勧めてやまなかったかもしれない。
原文: が、幸ひにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持つて行つた。
しかし幸いにして、利仁の声が一同の注意をその軒の方へ持っていった。
原文: 檜皮葺ひはだぶきの軒には、丁度、朝日がさしてゐる。
檜皮葺の軒には、ちょうど朝日が差している。
原文: さうして、そのまばゆい光に、光沢つやのいい毛皮を洗はせながら、一疋の獣が、おとなしく、坐つてゐる。
そして、そのまぶしい光に、艶のいい毛皮を洗わせながら、一匹の獣がおとなしく座っている。
原文: 見るとそれは一昨日をととひ、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であつた。
見るとそれは、一昨日、利仁が枯れ野の道で手づかみにした、あの坂本の野狐だった。
原文: 「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。」
「狐も、芋粥が欲しくて、顔を出したそうだ。男ども、そいつにも食べさせてやれ。」
原文: 利仁の命令は、言下ごんかに行はれた。
利仁の命令は、言うが早いかすぐに行われた。
原文: 軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、あづかつたのである。
軒から飛び下りた狐は、すぐに広庭で芋粥のご馳走に与ったのだ。
原文: 五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。
五位は芋粥を食べている狐を眺めながら、ここへ来る前の自分を、なつかしく心の中で振り返った。
原文: それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。
それは、多くの侍たちにからかわれている彼だ。
原文: 京童きやうわらべにさへ「何ぢや。この鼻赤めが」
京の子供にさえ「何だ、この赤っぱなめが」
原文: と、罵られてゐる彼である。
と罵られている彼だ。
原文: 色のさめた水干に、指貫さしぬきをつけて、飼主のない尨犬むくいぬのやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。
色のあせた水干に指貫をつけて、飼い主のない毛並みの長い犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、哀れな孤独な彼だ。
原文: しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――
しかし同時にまた、芋粥に飽きたいという望みを、ただ一人大事に守っていた、幸福な彼でもある。――
原文: 彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。
彼は、これ以上芋粥を飲まずに済むという安心とともに、顔いっぱいの汗が次第に鼻の先から乾いていくのを感じた。
原文: 晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。
晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように風が寒い。
原文: 五位は慌てて、鼻をおさへると同時にしろがねの提に向つて大きなくさめをした。
五位は慌てて鼻を押さえると同時に、銀の提子に向かって大きなくしゃみをした。
原文: (大正五年八月)
(大正五年八月)